『死の家の記録』『賭博者』『貧しき人々』『分身』『スチェパンチコヴォ村とその住人』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)の電子テキスト化をすすめます。第一次作業の期間は最低15日間です。(2024年1月21日までこの記事はこのブログのトップにあります)

もし注文があればぜひともコメントしてください。

2024年1月9日、全292ページの内240ページまでいちおうの読書可能。
2024年1月10日、全292ページのいちおうの校正完了。いちおうの読書可能。

死の家の記録 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『賭博者』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『貧しき人々』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『分身』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『スチェパンチコヴォ村とその住人』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

第一次作業の方針


〇原則全文字を約10ミリ(6倍、親指大の大きさ)にする。
〇通信障害は基本的に7日、いや4日以内に解消されていると仮定。
〇被災者とその関係者約10万人のなかで、約2人のおたがいをしらないだろう読者がいると仮定して作成。
〇厳密な校正にとらわれない予定。仮設建築物みたいになると予定。
〇インターネットのみにしかできない「支援物資」として試行錯誤する予定。

はじめに 「公開投票活動中」プラス「『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)の電子化および校正作業をすすめています。」

公開投票活動中

大阪万博の正当性を徹底的に否定するための公開投票。2024年4月23日まで、この記事のコメント欄にて。
万博自体の正当性がない理由。1番から5番まで。自由記述で。
1 2025年大阪万博の正当性がない理由。1番から5番まで。自由記述で。
2 1970年大阪万博の正当性がない理由。1番から5番まで。自由記述で。
3 2025年大阪万博の事業(パビリオンなど)で、中止すべきことがら。1番から5番まで。自由記述で。


投票例
2→1番、夢洲の環境と地盤。1番、残業規制撤廃を政府がわが簡単に言い出したこと。2番(本当はこれも1番)、電気で調理できないならプロパンガスをつかえばいいという万博協会側の発言。2番、予算の膨張。
(1番の理由、直接人命にかかわる。2番、事業の正当性の一番の基礎を破壊している。)

現在、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)の電子化および校正作業をすすめています。
カラマーゾフの兄弟』全篇(「『カラマーゾフの兄弟』三回目の校正終了」のタグ)
『カラマーゾフの兄弟』三回目の校正終了 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]

第一篇 ある一家族の歴史 007
 第一 フョードル・カラマーゾフ 007
 第二 厄介ばらい 009
 第三 第二の妻とその子 012
 第四 三男アリョーシャ 017
 第五 長老 024
第二篇 無作法な会合 032
 第一 到着 032
 第二 老いたる道化 037
 第三 信心深い女の群 045
 第四 信仰薄き貴婦人 052
 第五 アーメン、アーメン 059
 第六 どうしてこんな男が生きてるんだ! 067
 第七 野心家の神学生 076
 第八 醜事件 085
第三篇 淫蕩なる人々 093
 第一 下男部屋にて 093
 第二 リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ 098
 第三 熱烈なる心の懺悔――詩 101
 第四 熱烈なる心の懺悔―思い出 110
 第五 熱烈なる心の懺悔――『真逆さま』 117
 第六 スメルジャコフ 125
 第七 論争 130
 第八 コニヤクを傾けつつ 135
 第九 淫蕩なる人々 142
 第十 二人の女 147
 第十一 ここにも亡びたる名誉 159
第四篇 破裂 167
 第一 フェラポント 167
 第二 父のもとにて 176
 第三 かかり合い 180
 第四 ホフラコーヴァの家にて 185
 第五 客間における『破裂』 191
 第六 小屋における『破裂』 203
 第七 清らかな外気の中で 212
第五篇 Pro et Contra 223
 第一 誓い 223
 第二 ギタアを持てるスメルジャコフ 234
 第三 兄弟の接近 241
 第四 叛逆 250
 第五 大審問官 261
 第六 とりとめなき憂愁 280
 第七 『賢い人とはちょっと話しても面白い』 291
第六篇 ロシヤの僧侶 299
 第一 ゾシマ長老とその客 299
 第二 故大主教ゾシマ長老の生涯 303
 第三 ゾシマ長老の説話と教訓の中より 332
第七篇 アリョーシャ 345
 第一 腐屍の香 345
 第二 こうした瞬間 356
 第三 一本の葱 362
 第四 ガリラヤのカナ 380
第八篇 ミーチャ(つづく) 385
 第一 商人サムソノフ 385
 第二 レガーヴィ 395
 第三 金鉱 402
 第四 闇の中 413
 第五 咄嗟の決心 418
第八篇 ミーチャ(つづき) 003
 第六 おれが来たんだ 003
 第七 争う余地なきもとの恋人 011
 第八 夢幻境

第九篇 予審 042
 第一 官吏ペルホーチンの出世の緒 042
 第二 警報 049
 第三 霊魂の彷徨 受難―一 054
 第四 受難―二 063
 第五 受難―三 070
 第六 袋の鼠 080
 第七 ミーチャの大秘密――一笑に付さる 087
 第八 証人の陳述『餓鬼』 099
 第九 ミーチャの護送 107
第十篇 少年の群 111
 第一 コーリャ・クラソートキン 111
 第二 幼きもの 116
 第三 生徒たち 121
 第四 ジューチカ 128 
 第五 イリューシャの寝床のそばで 136
 第六 早熟 151
 第七 イリューシャ 157
第十一篇 兄イヴァン 161
 第一 グルーシェンカの家で 161
 第二 病める足 170
 第三 悪魔の子 181
 第四 頌歌と秘密 187
 第五 あなたじゃない 201
 第六 スメルジャコフとの最初の面談 206
 第七 二度目の訪問 215
 第八 三度目の、最後の面談 224
 第九 悪魔 イヴァンの悪夢 239
 第十 『それはあいつが言ったんだ!』 255
第十二篇 誤れる裁判 261
 第一 運命の日 261
 第二 危険なる証人 267
 第三 医学鑑定 一フントの胡桃 275
 第四 幸運の微笑 280
 第五 不意の椿事 288
 第六 検事の論告 性格論 297
 第七 犯罪の径路 306
 第八 スメルジャコフ論 311
 第九 全速力の心理解剖 疾走せるトロイカ 論告の終結 319
 第十 弁護士の弁論 両刃の刀 330
 第十一 金はなかった 強奪行為もなかった 333
 第十二 それに殺人もなかった 319
 第十三 思想の姦通者 346
 第十四 百姓どもが我を通した 354
第十三篇 エピローグ 360
 第一 ミーチャ救済の計画 360
 第二 嘘が真になった瞬間 365
 第三 イリューシャの埋葬 アリョーシャの別辞 372

解説(訳者) 383
 
校正作業に関する情報は、個人の特定にかかわる情報をのぞいてすべて公開する予定です。
付記 『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)の電子化および校正作業に関する情報ほぼすべて - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]



現在、『アンナ・カレーニナ』(トルストイ作、米川正夫・訳)、『悪霊』(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)の電子化および校正作業はいちおう完了しています。
同時に、『白痴』『罪と罰』『死の家の記録』の電子化もすすめています。
校正のスピードは、1日2000文字、の予定です。
また、熟語本位英和中辞典(斎藤秀三郎作、1919年(大正8年)10月10日再訂版を底本とする)の電子化もすすめています。世界の人々の語学力に少しでも貢献するついでにわたしじしんの語学力にも貢献するためです。

 
 
『悪霊』全編(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)(すべて校正ずみ)
『悪霊』 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]

 
アンナ・カレーニナ』全編(トルストイ・作、米川正夫・訳)(すべて校正ずみ)
『アンナ・カレーニナ』 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]

 
『九通の手紙に盛られた小説』『プロハルチン氏』『ポルズンコフ』『クリスマスと結婚式』『人妻と寝台の下の夫』『正直な泥棒』『弱い心』『白夜』『ボボーク』『キリストのヨルカに召されし少年』『百姓マレイ』『百歳の老婆』『宣告』『おとなしい女』『おかしな人間の夢』(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)(すべて校正ずみ)
ドストエフスキー短編 カテゴリーの記事一覧 - 京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会
 
カラマーゾフの兄弟』(使用した底本は、1959年出版)↓
 
カラマーゾフの兄弟』全篇(「『カラマーゾフの兄弟』二回目の校正終了」のタグ)
『カラマーゾフの兄弟』二回目の校正終了 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]



 
 
 
『白痴』全編(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)(未校正)
『白痴』_400文字に1か所の誤字 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]

 
死の家の記録』(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)(未校正、途中まで)
死の家の記録 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
 
 
 

ドストエーフスキイ全集』全20巻(1969年―1971年、筑摩書房米川正夫による翻訳) 目次
 
第1巻
貧しき人々 005
分身 133
プロハルチン氏 281
九通の手紙に盛られた小説 313
主婦 327
ポルズンコフ 401
解説 419

第2巻
スチェパンチコヴォ村とその住人 003
弱い心 225
人妻と寝台の下の夫 271
正直な泥棒 317
クリスマスと結婚式 337
白夜 347
解説 403

第3巻
虐げられし人々
第一編 005
第二編 095
第三編 182
第四篇 279
エピローグ 352
解説 381

第4巻
死の家の記録
第一部 010
第二部 163
ネートチカ・ネズヴァーノヴァ 293
解説 455

第5巻
地下生活者の手記
第一 地下の世界 005
第二 べた雪の連想から 037
初恋 115
伯父様の夢 153
いやな話 297
夏象冬記 349
鰐 415
解説 451

第6巻
罪と罰
第一編 005
第二編 085
第三編 188
第四編 272
第五編 353
第六編 431
エピローグ 529
罪と罰』創作ノート 545
解説 721
 
第7巻
白痴(上)
第一編 005
第二編 188
第三編 341
 
第8巻
白痴(下)
第四編 005
『白痴』創作ノート 167
賭博者 319
解説 469
 
第9巻
悪霊(上)
第一編 007
第二編 201
スタヴローギンの告白 443
 
第10巻
悪霊(下)
第一編 005
『悪霊』創作ノート 219
永遠の夫 327
解説 438
 
第11巻
未成年
第一編 005
第二編 210
第三編 367
『未成年』創作ノート 597
偉大なる罪人の生涯 623
解説 639
 
第12巻
カラマーゾフの兄弟(上)
著者より 007
第一編 ある家族の歴史 009
第二編 ある家族の歴史 009
第三編 淫蕩なる人々 105
第四編 破裂 188
第五編 Pro et Contra 250
第六編 ロシヤの僧侶 334
第七編 アリョーシャ 386
第八編 ミーチャ 430
 
第13巻
カラマーゾフの兄弟(下)
第九編 予審 005
第十編 少年の群れ 082
第十一編 兄イヴァン 139
第十二編 謝れる裁判 251
第十三編 エピローグ 361
カラマーゾフの兄弟』創作ノート 387
解説 517

第14巻
作家の日記(上)
一八七三年 005
一八七六年
一月 169
二月 211
三月 251
四月 285
五月 321
六月 349
七月・八月 377
九月 434
十月 466
十一月 おとなしい女――空想的な物語―― 497
十二月 538
 
第15巻
作家の日記(下)
一八七七年
一月 005
二月 038
三月 071
四月 106
おかしな人間の夢――空想的な物語―― 117
五月・六月 138
七月・八月 197
九月 260
十月 293
十一月 326
十二月 361
一八八〇
八月 405
一八八一年
一月 461
解説 505
総目次 521
 
第19巻
論文・記録(上)
第一部
ロシヤ文学について 006
アポロン・グリゴリエフについて 155
シチェドリン氏、一名ニヒリストの分裂 160
政治論 181
上小景 257
ペテルブルグ年代記 276
『ズボスカール』 304
ペテルブルグの夢 310
誠心誠意の見本 332
『口笛』と『ロシヤ報知』 350
『ヴレーミャ』編集部へあてたヴァシーリエフスキイ島住人の手紙に対する注 365
『ロシヤ報知』への答え 367
文学的ヒステリー 392
『ロシヤ報知』の哀歌的感想について 401

第20巻
論文・記録(下)
第一部
理論家の二つの陣営 010
スラヴ派、モンテネグロ、西欧派。ごく最近の論戦 030
尻くすぐったい問題 036
さまざまなパン的・非パン的問題に関する必要な文学的釈明 060
新しい文学機関と新しい理論について 071
誌上短評 085
再び『若いペン』 099
ミハイル・ドストエーフスキイについて数言 116
必要かくべからざる声明 120
片をつけるために 123
実生活と文学における地口 128
三月二十八日宗教教育同好者協会の会合 140
I・F・ニーリスキイへの回答 143
ニール神父の事件 145
編集者の感想二つ 152
生活の流れから 160
編集者の感想 161
編集局から 164
詩 166
第二部
土地主義宣言 170
文集『四月一日』の序 199
名誉心の夢にふけるのはいかに危険であるか 203
ジャック・カザノヴァの終章 ヴェニスのプロンプ脱走奇譚 222
エドガー・ポーの三つの短編 223
ラスネル事件 225
ストラーホフの『シルレルについて』への付記 226
ノートル・ダム・ド・パリ 227
希望 229
一八六〇―一八六一年度の美術アカデミー展覧会 230
N・V・ウスペンスキイの短編 250
第三部
シベリヤ・ノート 262
手帖より 273
L・ミリューコヴァのアルバムに 301
O・コズローヴァのアルバムに(下書) 303
O・コズローヴァのアルバムに 304
兵学校将校課長ガルトング大尉への報告(一) 305
兵学校将校課長ガルトング大尉への報告(二) 305
シベリヤ常備軍第七大隊ベレホフ中佐への報告 306
証明書 307
声明 308
契約書の項目 309
A・N・マイコフへの委任状 311
領収書 312
出版管理局への請願(一) 313
ペテルブルグ検閲委員会への弁明書 314
誓約書 315
出版管理局への請願(二) 315
契約書 316
出版管理局への請願(三) 317
出版管理局への請願(四) 318
ハリコフ報知編集局への申し込み 318
出版管理局への請願(五) 319
出版管理局への請願(六) 319
退職少尉フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエーフスキイの請願覚え書 320
出版管理局への請願(七) 321
皇帝アレクサンドル二世に対する『スラヴ慈善協会』の上奏文 321
解説 325
補遺
『作家の日記』補遺 349
『作家の日記』総目次補遺 357
『書簡』補遺 359
『書簡』総目次補遺 381
『論文・記録』補遺
ペテルブルグ年代記 384
F・G・ザグリャーエヴァのアルバムに 391
領収書 392
『補遺』あとがき 393

ドストエーフスキー全集(1969年―1970年、河出書房新社版) 目次(書簡などを収録した17巻―23巻は記載していない) - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]

熟語本位の場合、OCRしてもタイピングの労力をへらすだけで、あまり労働時間をへらすことはできない。1P30分。

do 4p
for 9p ○
from 3p
get 5p
five 4p
good 4p
hand 3p
hold 5p
in 10p ○
knok 3p
let 3p
look 4p
make 9p ○
of 5p
off 2p
on 10p ○
out 5p
over 6p
put 4p
set 5p
stand 3p
that 3p
the 2p
time 4p
turn 4p
un- 8p ○
up 3p
way 4p



熟語本位英和中辞典(1919年(大正8年)10月10日再訂版を底本とする)
斎藤秀三郎『熟語本位英和中辞典』 page.1


前書き

熟語本位英和中辞典 その4(入力後、校正中)(go,keep ) - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
[0490]―[498] go の項目
 
熟語本位英和中辞典 その1(入力後、校正中)(前書き、have, nature,) - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
[0536]―[0543] have の項目
 
熟語本位英和中辞典 その4(入力後、校正中)(go,keep ) - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
[0667]―[0668] keep の項目
 
熟語本位英和中辞典 その1(入力後、校正中)(前書き、have, nature,) - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
[0833]―[0834] nature の項目
 
熟語本位英和中辞典 その2(入力後、校正中)(take to ) - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
[1343]―[1351] take の項目
[1400]―[1413] to の項目
 
熟語本位英和中辞典 その3(入力後、校正中)(with ) - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
[1550]―[1562] with の項目

付記 『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)の電子化および校正作業に関する情報ほぼすべて

カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー・作、米川正夫・訳)の電子化および校正作業に関する情報すべて

このページの公開、2023年08月20日

時間と費用
入力、432ページ+381ページ、24ぺージ当たり60分、つまり18×60+16×60=34×60
1回目の校正、24ページ当たり60分、(wordをつかう、3倍速)、つまり34×60
2回目の校正、1回目と同じ、34×60
3回目の校正、段落と注記、24ページ当たり20分、18×20+16×20=34×20=11×60+20
4回目の校正、1回目と同じ、34×60
付記、青空文庫の冒頭と末尾の記載事項、約40分


4回の校正で、147×60+60(分)、60分当たり2000円(危険性がないため社保なし、純粋に作業代だけ)として、29万6000円。1日8×60分労働として、19日間の作業。


個人の特定につながる情報および記録していない情報はのぞく。「ほぼ実害の無いウソ」も書く。こういう奇妙な言い方をするのは、同じ土俵に立たない読者を排除するため、2023年08月20日

現在、1回目と2回目の校正を完了、wordに電子テキストをコピーしたうえで、スクロールしていって誤字脱字をかたっぱしから直していく。この方法で意外とおおくの誤字脱字が見つかる。2023年08月20日

このブログのアクセス解析結果(『カラマーゾフの兄弟』のテキストへのアクセスだけではない)
2023年9月6日、アクセス解析結果、今日4回、今週17回、今月40回
2023年9月17日、アクセス解析結果、今日14回、今週39回、今月99回
2023年9月25日、アクセス解析結果、今日11回、今週11回、今月142回
2023年10月1日、アクセス解析結果、今日8回、今週30回、今月8回、(9月、計算結果、153回)
2023年10月1日、アクセス解析結果、今日10回、今週32回、今月40回、
2023年10月15日、アクセス解析結果、今日3回、今週30回、今月71回、
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2023年10月29日、アクセス解析結果、今日5回、今週17回、今月107回、
2023年11月5日、アクセス解析結果、今日0回、今週9回、今月5回、
2023年11月12日、アクセス解析結果、今日1回、今週4回、今月10回、
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2024年1月14日、アクセス解析結果、今日0回、今週3回、今月27回、
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2024年1月28日、アクセス解析結果、今日1回、今週2回、今月32回、
2024年2月4日、アクセス解析結果、今日0回、今週0回、今月0回、
2024年2月11日、アクセス解析結果、今日0回、今週5回、今月5回、
2024年2月18日、アクセス解析結果、今日0回、今週2回、今月8回、
2024年2月25日、アクセス解析結果、今日1回、今週5回、今月13回、
2024年3月3日、アクセス解析結果、今日1回、今週1回、今月1回、
2024年3月10日、アクセス解析結果、今日0回、今週0回、今月1回、
2024年3月17日、アクセス解析結果、今日0回、今週0回、今月6回、
2024年3月24日、アクセス解析結果、今日0回、今週3回、今月9回、
2024年3月31日、アクセス解析結果、今日1回、今週26回、今月35回、(「アクセス解析」を見るかぎり、アクセスのほとんどはブログトップで71%、つまり26×70=18.2回のアクセス、のこり30%は、『カラマーゾフの兄弟』第九章、らしい。)
2024年4月7日、アクセス解析結果、今日0回、今週0回、今月0回、
2024年4月14日、アクセス解析結果、今日1回、今週3回、今月3回、




長いテキスト、たぶん100KB以上のテキストは、3回の校正だけでは、誤字脱字が、目立つほど、残ってしまう。


4回目の校正(はやい、底本との照合なし)

一月にならし一度ずつおそって

何か何やら少しもわけはわ

このさきいろ先ないい仕事

それに。ああ言ったからって

もし人間か、ほんのこれっぱかり

わしとにかく

2行欠落

年をよらしてしもうた

ママはずす

ひろん、愛して

どぅしても

訊ねだり

こっびとくひん曲げた

フォン・ソン





またほかにもあるらしい

ママ

聞こえだ。何

聞こえた。何

開けだのかもしれない

開けたのかもしれない

さあ。今こそ教

さあ、今こそ教

お母さん。本当に

ママ

すらようになったもんですから

するようになったもんですから

滅法界大きな石の

この単語は存在する

徂って僕が入って行くのです。そして、

狙って僕が入って行くのです。そして、

自分のいない開に死な
自分のいない間に死な

う存分のことが言えるものですか。詩なんて大事なことじゃありませんよ。マリヤさん。」
「。」ママ

行きまりだね。
行きましたね。

愛もそれなりおじゃんに
ママ

にかざる
にかぎる

耳に天らない
耳に入らない

|Notre《ノートル》 Dame《ダム》 de《ド》 paris《パリ》
|Notre《ノートル》 |Dame《ダム》 |de《ド》 |paris《パリ》

青史[#「青史」はママ]
青史

|Pater《パーテル》 Seraphicus《セラフィークス》
|Pater《パーテル》 |Seraphicus《セラフィークス》

おそうなのである
おそうたのである

だしだのは
だしたのは

申を歩き廻って、今
中を歩き廻って、今

だろうか。いま一人きりでどんな
ママ

ときどきやひことも
ときどきやむことも

アリョーシャの帰って来るようやく十五分前のことであった。
ママ

女一男が、『わしより貧乏な女に
女房が、『わしより貧乏な女に

気死
ママ

僕はせんにお前
ママ

誰か罪があるとすれば、
ママ

だけだけしい
たけだけしい

秘密かある、ということ
秘密がある、ということ

なぜと言うに。
なぜと言うに、

よなよなは流れ去った
ママ   毎夜。よごと。

とにかく。[#「とにかく。」はママ]

くれる大がある、自分
くれる人がある、自分

忙相違ない。
に相違ない。

譬屍の匂い
腐屍の匂い

奥さんだちか
奥さんたちか

何か望みなのじゃ?
何が望みなのじゃ?

気をもみながら。二人は無言
気をもみながら。二人[#「ながら。二人」はママ]は無言

懸庁
懸庁[#「懸庁」はママ]

わ!だけど、わたし本当
わ! だけど、わたし本当

ようだい。わたしは意地のわるいわるい女
ちょうだい。わたしは意地のわるいわるい女


しまいた。もし彼
しまった。もし彼

こすそうに
ママ
ずるそうに

出しなばかり
出したばかり

清浄な愛を『いだいた
清浄な愛を『いだいた

泊ったことだしするから
泊ったことだしするから[#「泊ったことだしするから」はママ]

レアリスム
レアリズム(2カ所)

びっくりして。
びっくりして、

ベルホーチン
ペルホーチン

提言する!なぜ僕は自分
提言する! なぜ僕は自分

コニャク
コニヤク

せいせいと肩で息を
ママ

急に自分で 自分に
急に自分で自分に

琿いていた。それは、
輝いていた。それは、

テーブルこしに
ママ

びっこ、ちんば

[#ここから2字下げ] 娘がおれに惚れてるか
どうかと兵士は聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから2字下げ]
娘がおれに惚れてるか
どうかと兵士は聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

こと彼女は祈るよ
」と彼女は祈るよ

駈け着くと[#「駈け着くと」はママ]、
駈け着くと、

来ます……」[#「来ます……」」は底本では「来ます……」]
来ます……[#「来ます……」はママ]

つがせて下さい。
つがせて下さい[#「つがせて下さい」はママ]。

「だが、あなたは気がつかなかったですか?[#「気がつかなかったですか?」はママ]」検事

しぱしぱさせはじめた[#「しぱしぱさせはじめた」はママ]
辞書にある
しぱしぱさせはじめた

)を折るだけ損ですよ。
)骨を折るだけ損ですよ。

真面目ですと……
真面目ですとも……

挾んだと答えた。
挟んだと答えた。

断言しだ。
断言した。

巧者
ママ

乾あかって
乾あがって

子供だちから
子供たちから

おればもうおしまいだよ。お前
おれはもうおしまいだよ。お前

しながら噺いた。
しながら囁いた。

言いだしだ
言いだした

ふため[#「自分のふため」はママ]になる
ふためになる
不為

待っておいで。
待って[#「待って」はママ]おいで。

ー足はいった。
一足はいった。

志しているのであった。
ママ

旧友の問
旧友の間

「居候は c'est charmant([#割り注]おもしろいものだよ[#割り注終わり])だよ。
「居候は c'est charmant([#割り注]おもしろいもの[#割り注終わり])だよ。

勵いてやまない
動いてやまない

いなけりや出来事
いなけりゃ出来事

食人肉主義《カンニパリズム》
ママ

あざむがごとく
ママ

その界は指を上げて
ママ

考えこしたが、こ
考えましたが、こ
かざるのであります。そうです、
かぎるのであります。そうです、

[#ここから3字下げ、折り返して6字下げ]
第九 全速力の心理解剖 疾走せるトロイカ 論告の終結[#「第九 全速力の心理解剖 疾走せるトロイカ 論告の終結」は中見出し]
[#ここで字下げ終わり]

あざひいたのは、つまりこの新
あざむいたのは、つまりこの新

ペルチーチンの家や、食料品店や、
ペルチーチン[#「ペルチーチン」はママ]の家や、食料品店や、

人間にとって、むやみに怒るのです。しかし、考えてごらんなさい、そんなことが憶えていら
むやみに怒るのです。しかし、考えてごらんなさい、そんなことが憶えていら

何か強奪されたかという疑問
何が強奪されたかという疑問

ここうおっしゃるでしょう、
とこうおっしゃるでしょう、

あわでながら
あわてながら












5回目の校正(ゆっくり、底本との照合する)

擒われたる
自分でペテルブルグ
ペテルブルグで死んだ
さなくとも
かなわぬ
そくばくの財産
胸をぷすりと
『あの例のフョードルの息子だ』

上015ページまで

コンスタンチノープルなる最高僧正
ママ

笑みを含みながら、こう言ったばかりである。
笑《え》みを含みながら、こう言ったばかりである。

ー歩踏み込んだ時、
一歩踏み込んだ時、

ミウーゾフばかりでなく
ミウーソフばかりでなく

アリョ-シャ
アリョーシャ

署長《イスプラーヴニック》さん
|署長さん《イスプラーヴニック》

ナプラーヴェック
ナプラーヴニック

地主だち
地主たち

淫らな情欲
淫《みだ》らな情欲

上巻047ページまで


あれを見るとは
あれを見ることは

恐うしゅうございます。
恐ろしゅうございます。

寝みましたので
ママ

Lise《リーズ》
といあわせ

「|Lise《リーズ》」と母夫人
「|Lise《リーズ》!」と母夫人

しまず。わたくし
します。わたくし

立てちれた教会
立てられた教会


上巻065ページまで

シルハット
シルクハット

聞きましたが?」と
聞きましたか?」と

ポルフィリイ
ポルフィーリイ」と混在

[#「じゃぞ。」はママ]

誰かジュウを顧問に頼むんだそうだ。
差別表現の疑いあり

生じるの
生じたの

何かできな
何ができな

うだったり、
うたったり、

なんですのよ。
なんですよ。


上巻095ページまで

さなくばよその
ママ
辞書にある

幾フードかの
幾プードかの

母のセンス
母のセレス

何か何だか
何が何だか

それ認めてくれない
それを認めてくれない

話すのはやめようが
ママ

なれはあと
おれはあと

おりゃちょっと
ありゃちょっと

拠げ出せる
抛げ出せる

言ったら。もちろん
言ったら、もちろん

信じてくれ。本当なんだ!
信じてくれ、本当なんだ!

その力へ向くために
その方へ向くために

おればもう許嫁の
おれはもう許嫁の

上巻125ページまで

まあ、いい。まあ、いい、
まあ、いい、まあ、いい、

居間でなくては
今でなくては

気どった牛皮
気どった子牛皮

虹の模様がある
虹色の模様がある

珍しいと彼は
珍しいと見えるよ。一たいお前はどうしてあれを手なずけたんだ?」と彼は

上巻137まで

その皮をよって

そのとき思いがけない昔話をしだしたので、わしらはすっかり腹の皮をよって

何か何やら

何が何やら



追加資料
コロナ感染拡大によって生活苦においちった学生1人を支援しています(期間限定公開)(追記だらけです) - 京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

奥能登と時国家 メモ

調査報告編1より

約90分、1985年度から1991年度の部分を調査

008 一九八五年・一九八六年の調査と史料の紹介

009 一 時国家と渋沢敬三
009 一九五一年夏、渋沢敬三氏が時国復一郎家(上時国家)を訪問したことにはじまる。その経緯は、渋沢氏自身の筆で『奥能登時国家文書』第一巻(財団法人日本常民文化研究所、一九五四年)の冒頭に、
009 この提案は、九学会の賛同を得て
009 「こんな方を媒体に持てば能登研究は半ば成功と云えるであろうと胸の中で考えて居た」
010 談話は夜十二時
010 「門外不出」とされて
010 宮本常一の諸氏が班員と
010 調査の重要な一環であった」とされながら、
010 具体的な活動がほとんど記されていないのである。
010 調査を実質的に推進したのは宮本常一氏、
010 両時国家の文書の整理に当ったのは、日本常民文化研究所の月島分室だった。
012 翌一九五二年三月、宮本氏は速水融氏とともに再び奥能登に行き、時国家を訪れ、三月十七日、復一郎家から九七〇点(借用期限同年五月末日)、宏家から四八点(借用期限同年七月末日)の文書・帳簿・絵図等を借用している。
012 宮本氏は十二月、あらためて時国家を訪問、復一郎家からは断簡を含む四一五五点、宏家からは五三点の文書・帳簿等を、さらに借用したのである(借用期限五十三年十二月末日)。
012 新たに発見された約四〇〇〇点の文書の処理について
016 木箱四箱ほどの文書群を見出して、愕然とした。それらはすべて時国家文書だったのである。
020 両時国家文書の現状を採訪次に即して示しておく。
020 上時国家文書
020 第一次採訪文書(一二二八点)一九五二年十二月、宮本常一氏採訪
020 第二次採訪文書(約三七〇〇点)
コメント、この第二次の分が未返却だった分
020 第三次採訪文書 (約二〇〇〇点)
021 第四次採訪文書 (約二万点)
021 時国宏家文書
021 第一次採訪文書(六二五点)
021 第二次採訪文書(約五〇〇点)
038 一九八七年度の調査と史料の紹介
038 日本私学振興財団から三百万円の
038 援助

017 一九八五年八月四日から十日まで、
018 全く新たな段ボール三十一箱に及ぶ大量な文書・諸帳簿を発見した。
018 恐らく二万点を越す

043 虫損著しいこの文書群の一点一点を慎重に開き、読みとったうえで、年月日、表題、内容を封筒の所定欄に記入する仕事は、それ自体、相当の時間を必要とするが、これを正確に
044 『筆写のしおり』
044 毎週一回、整理・調査に携わっているものを中心に開かれている時国家文書研究会も、刊本となっている第一次採訪文書――『奥能登時国家文書』をテキストとし、その校正もかねて、一点一点を精密に読み切ることを主眼に
056 研究会の研究成果
056 現在、ようやく二一六号
124 一九九一年度の調査と史料の紹介
136 「農民の船商売に進出」

2025年大阪万博の現場、特に夢洲で働いているみなさまへ、本当に命を守るためにも、仮病の準備をおすすめします。(追記予定あり)

2025年大阪万博の現場、特に夢洲で働いているみなさまへ、本当に命を守るためにも、仮病の準備をおすすめします。(追記予定あり) - [ハンバンパク(ハンパク)!!!] 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部

『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P336-P381

らした。しかも、千五百ルーブリの金を持っていた、――一たいそれでは金をどこから持って来たのだ?』と諸君はおっしゃるでしょう。けれど、千五百ルーブリだけ見つかって、あとの半分がどうしても見つからなかったという事実は、その金がぜんぜん別の金、――封筒にも何にも入ったことのない金かもしれぬ、ということを立証するではありませんか。すでに厳密な考究によって証明されている時間から計算しても、被告が女中たちのところから、すぐ官吏ペルホーチンのところへ走って行って、自分の家へもどこへも立ち寄らなかったし、その後も、しじゅう人中に立ちまじっていたことは、予審でも認められ、かつ証明されています。してみれば、被告が町の中で三千ルーブリから半分だけ別にして、どこかへ隠すなどということはできないわけです。これがつまり起訴者をして、半分の金はモークロエ村で何かの隙間に隠したのだろう、とこう仮定せしむるにいたった原因であります。いっそ、ウドルフ城の地下室に隠してある、とでも言ったほうがいいじゃありませんか? そんな仮定はあまりに空想的、小説的ではないでしょうか? で、このただ一つの仮定、すなわちモークロエに隠してあるという仮定さえ消滅すれば、強奪の罪はたちどころに消滅してしまうのです。なぜかと言えば、その時この千五百ルーブリの金がどこへ行ったか、わからなくなるからであります。もし被告がどこへも寄らなかったことが証明されたとすれば、一たいその金はどういう奇蹟で消え失せたのでしょうか? しかも、われわれはそうした架空的想像で、一個の人間の生命を滅ぼそうとしているではありませんか! 『それにしても、彼は自分の持っていた千五百ルーブリの出所を、十分説明することができなかった。のみならず、その夜まで彼が金を持っていなかったことは、みんな誰でも知っている』と、諸君はおっしゃるかもしれません。しかし、誰がそれを知っていたか? 被告は金の出所について、きっぱりと明瞭な申し立てをしました。陪審員諸君、もし諸君が私の意見を聞きたいとおっしゃるなら申しますが、――これ以上に確かな申し立ては決してほかになかったし、またあろうはずもありません。のみならず、その申し立ては被告の性格と精神とに最もよく一致しております。しかるに、起訴者はご自作の小説のほうが、お気に召したのであります。被告は意志の薄弱な男で、許嫁が渡した三千ルーブリの金を恥を忍んで受け取るほどだから、その半分を別にして袋の中へ縫い込むようなはずはない。また、たとえ縫い込んだとしても、二日目ごとにそれを解いて、百ルーブリずつくらい引き出しながら、一カ月のうちに残らず出してしまったに相違ない、とこう言われました。しかも、この議論は、いかなる反駁をも許さないような調子で述べられたのであります。しかし、もし事件の真相が全然それに反して、つまり諸君の作られた小説とぜんぜん違って、そこにまったく別な一面が存するとしたらどうでしょう。問題は、諸君が別な一面を作り出した点に存するのであります! あるいは諸君は、『被告が兇行の一カ月前、カチェリーナ・イヴァーノヴナから受け取った三千ルーブリの金を、モークロエ村で一度に、一夜のうちに、一コペイカのこらず使いはたしたということについては、ちゃんとした証人がある。してみれば、被告が半分別にしておくはずはない』と言われるかもしれません。しかし、その証人というのはどんな人間であるか? この証人たちの確実さの程度は、すでにこの法廷で暴露されたではありませんか。のみならず、人の持っているパンは、常に大きく見えるものです。ことにこれらの証人の中で、その金をかぞえたものは誰ひとりありません。ただ自分の目分量で判断したにすぎないのであります。現に証人マクシーモフのごときは、被告が二万ルーブリも握っていたと申し立てたではありませんか。陪審員諸君、かようなわけで、心理解剖は両刀の刀のようなものでありますから、私はその反対の側を当てて、どういう結論が生ずるかを見ようと思います。
「椿事勃発の一カ月前に、被告はカチェリーナ・イヴァーノヴナから三千ルーブリの郵送を頼まれました。が、はたしてその金は、先刻いわれたような侮辱と、軽蔑の意志をもって依頼されたものでしょうか? そこが問題なのであります。その問題に関する彼女の最初の申し立ては、決してそうではありませんでした。全然それとは違っていました。二度目の申し立ての時に、われわれは初めて憎悪と復讐の叫びを聞きました。長いあいだ秘められていた嫉妬の叫びを聞いたのであります。ところで、証人が最初不確実な申し立てをしたということは、二度目の申し立てもやはり不確実なものであると、断定する権利をわれわれに与えるのであります。起訴者はこの物語にふれることを、『欲しない、あえてしない』(これは検事自身の言葉であります)と言われる。それもいいでしょう。私もそれにふれますまい。しかし、私は次の一事を認めさしてもらいたいのであります。すなわち、かの潔白な、徳義心の発達した、尊敬すべきカチェリーナ・イヴァーノヴナのごとき婦人が、明らかに被告を破滅させようという目的をもって、法廷において最初の申し立てを軽率に変更する以上、この申し立てが公平かつ冷静なものではない、ということは明らかであります。諸君、復讐の念に駆られた女が、とかく誇張しがちなものであると断定する権利を、諸君はわれわれから奪おうとなさらないでしょう? そうです、確かに彼女は金を渡すときの屈辱と侮蔑を誇張しています。事実、彼女はその金を受け取ることができる、とくに被告のような軽浮な人間にとっては容易に受け取ることができるような態度で、金を渡したに相違ありません。第一、被告はそのとき、精算上自分の所有に属すべき三千ルーブリの金を、すぐ父親から受け取ることをあてにしておりました。それはいかにも軽はずみな考えです。が、つまり被告はその軽はずみのために、父は必ず三千ルーブリの金を渡すに相違ない、その金を受け取りさえすれば、依頼されている金はいつでも郵送できるから、したがって、負債のかたもきれいにつけることができる、とこう固く信じていたのであります。しかるに、起訴者は、被告がその日に受け取った金を二分して、半分を袋の中に縫い込んだということを、いっかな承認しようとされません。『それは被告の性格に反している、被告がそんな感情をもっているはずはない』と起訴者は言われます。しかし、あなたは自分の口から、カラマーゾフの性格は広汎である、と叫ばれたではありませんか。あなたは自分の口から、カラマーゾフは二つの深淵を同時に見ることができる、と絶叫されたではありませんか。まったくカラマーゾフは二つの面を備え、両極端の間に動揺する天性をもっております。遊蕩に対して抑えがたい要求を感じている場合でも、もし他の面から何かに刺戟を受ければ、すぐ歩みを止めることのできる男であります。他の面というのは、つまり愛なのであります、――そのとき火薬のように燃えあがった新しい愛であります。ところが、この愛のためには金が必要です。恋人との遊興に必要なよりも、もっともっと必要なのであります。もし彼女が、『わたしはあなたのものです、フョードルさんなんかいやです』と言ったら、彼は女と一緒に逃げなければなりません。そうすればいろんな費用がかかる。このほうが遊興よりもっと重大な問題だったのです。これがカラマーゾフにわからないはずはないじゃありませんか? いや、彼はつまりこれがために苦悶したのです、肝胆を砕いたのであります、――彼が金を二分して、万一の場合のために半分かくしておいたということが、どうしておかしいのでしょう? ところで、時はどんどんたって行くのに、フョードルは被告に三千ルーブリを与えないばかりか、反対に彼の恋人を誘惑するために、その金を用立てようとしている、という噂さえひろまりました。
『もし親父がよこさなけりゃ、自分はカチェリーナに対して泥棒になってしまう』と彼は考えました。で、しじゅう守り袋に入れて持っている千五百ルーブリを、カチェリーナの前において、『僕は卑劣漢だが、しかし泥棒じゃない』と声明しよう、という考えが浮んできました。こういったわけで、千五百ルーブリを目の玉のように大切にして、決して袋も開けなければ、また百ルーブリずつ引き出しもしなかったという事実に対して、二重の理由が存在するのであります。諸君、諸君はどうして被告に名誉心の存在を否定なさるか? そうです、彼は名誉心をもっています。もっとも、それは方向を誤った、間違った名誉心かもしれません。が、とにかく名誉心はあります、しかも情熱の域に達するほどであります、つまり彼はこれを証拠だてたわけであります。けれど、事態が紛糾して、嫉妬の苦痛が極度に達すると、例の疑念、すなわち以前の二つの疑問がいよいよ痛切になって、被告の熱した頭脳を苦しめました。『もしこれをカチェリーナに返したら、どうしてグルーシェンカを連れ出せるだろう?』彼があの一カ月の間、あんなに無鉄砲に酒をあおって、到るところの酒場を暴れ廻ったのも、つまりその苦しみにたえ得なかったからかもしれません。結局、この二つの疑念はますます鋭さをまして行って、とうとう彼を絶望におとしいれてしまいました。彼は弟を父のところへ送って、最後にその三千ルーブリを請求させましたが、返事も待たずに自分で暴れ込んで、みなの目の前で父親を殴りつけました。こうなった以上、もう誰からも金を手に入れる望みはありません。殴られた父親がくれるはずはもとよりありません。その晩、彼は自分の胸を、――ちょうど守り袋を吊した上の辺を打って、自分は卑劣漢にならないですむ方法をもっているが、しかし結局、卑劣漢で終るに相違ない、なぜなら、その方法を用うるだけの精神力もなければ、またそうした意気地もないのを、自分でちゃんと見抜いているからだ、とこう彼は弟に誓いました。なぜ、なぜ起訴者はアレクセイの申し立てを信じられないのでしょう? 彼はあんなに潔白に、あんなに誠意をこめて、何ら小細工を弄したあともなく、正直に申し立てたではありませんか? またその反対に、なぜ起訴者は金がどこかの隙間に、――ウドルフ城の地下室に隠してあるなどということを、私に信じさせようとなさるのでしょう? その晩、弟と話をしたあとで、被告はかの宿命的な手紙を書きました。この手紙こそ被告の罪状を明らかにする、最も肝要な、最も有力な証拠となったのであります! 『みんなに頼んでみて、誰も貸してくれないようだったら、イヴァンが出発するやいなや、すぐに親父を殺して、やつの枕の下からばら色のリボンでしばった封筒を引き出してやる。』これはもう立派な人殺しのプログラムです。むろん、彼でなくてどうしましょう。『実際、書いてあるとおりに行われたのだ!』と、こう起訴者は叫ばれました。しかし、まず第一に、手紙は泥酔の上で書かれたものです。非常な興奮状態で書かれたものであります。第二に、封筒の件はやはりスメルジャコフから聞いて書いたもので、彼自身その封筒を見たことはないのであります。第三に、この手紙は被告が書いたものに相違ないが、はたして書いてあるとおりに実行されたのでしょうか、それは何で証明されましたか? 被告は実際、枕の下から封筒を取り出したのでしょうか、金を見つけたでしょうか、いや、それどころか、金ははたして存在していたでしょうか? 被告ははたして金を奪いに駈け出したのでしょうか、一つご記憶を願います! 彼は金を奪うためではなく、ただ自分を夢中にさした女の行方を突き留めるために、駈け出したのであります、――してみると、プログラムどおり、すなわち手紙に書いてあるような意味で、駈け出したのではありません。かねて考えていた強盗のためではなく、とつぜん嫉妬の念に駆られて、何心なく駈け出したものです。『それにしても、やはり駈けつけて父親を殺して、金を奪ったに違いない』と諸君はおっしゃるでしょう。しかし、彼はその上まだ殺人までしたのでしょうか、どうでしょうか? 強奪の罪は私の憤然としてしりぞけるところです。奪われたものが明示されない以上、人に強奪の罪をきせることは不可能です、それは原則であります! 一方、彼は殺人をしたのでしょうか? 強奪しないで殺人だけしたのでしょうか? それははたして証明されているでしょうか? それもやはり創作ではないでしょうか?

[#3字下げ]第十二 それに殺人もなかった[#「第十二 それに殺人もなかった」は中見出し]

陪審員諸君、これは人間一個の生死に関することですから、慎重にご考慮あらんことを願います。起訴者は最後まで、すなわちきょう裁判が始まるまで、被告が完全に予定の計画にもとづいて兇行をあえてしたかどうか惑っていた、『酔いに乗じて』書かれたこの宿命的な手紙が、きょう法廷に出されるまで惑っていた、とこう明言せられました。それはわれわれも確かに聞いたところであります。『書いてあるとおりに実行したのだ!』と起訴者は言われます。が、私は繰り返し申します、彼が駈け出したのは、ただ女を捜すため、女のありかを捜すためにすぎませんでした。これは動かすべからざる事実であります。もし彼女が家にさえおれば、彼はどこへも駈け出さず、そのそばに残って、あの手紙で約束したことを実行しなかったに相違ありません。彼は突然、何の考えもなしに駈け出したので、『酔いに乗じて』書いた手紙のことなどは、その時すっかり忘れてしまっていたかもしれません。『だが、杵を掴んで行ったじゃないか』と言われます。しかし、起訴者はたった一つの杵を基礎として、被告がこの杵を兇器と認め、兇器として掴んで行った理由を説明する大袈裟な心理解剖をつくり出されました。ところが、この際わたしの頭には、ごく平凡な一つの考えが浮んできます。というのは、もしこの杵が目につきやすい棚の上(被告はそこから持って行ったのです)などでなく、戸棚の中にでも片づけてあったとしたら、――その時は被告の目に映らなかったに相違ないから、被告は兇器を持たずに、空手で駈け出したことでしょう。そうすれば、誰も殺さなかったかもしれないのであります。してみると、私は持兇器謀殺罪の証拠とされているこの杵を、そもそもどう判断したらいいのでしょう?『それはそうだが、しかし以前、彼は到るところの酒場で、親父を殺してやると公言していたのに、二日前の晩、酔いに乗じて手紙を書いた時には、静かにおとなしくしていて、ただ酒場で一人の番頭と喧嘩しただけではないか』と、こう起訴者は抗言されるでしょう。『なにしろカラマーゾフだから、喧嘩をせずにはいられなかったのだ』と言われました。が、私はそれに対して、もし被告が計画どおり、すなわち手紙に書いたとおりに、父を殺そうと企らんだものとすれば、彼は確かに番頭とも喧嘩をしなかったろうし、また第一、酒場などへ入らなかったろう、と答えます。なぜなら、そういうことを企らんでいる人間は、静寂と孤独を求め、人の耳目にふれないように身を隠して、『できるだけ自分を忘れさせよう』とするからであります。それは打算というより、本能的にそうするのであります。陪審員諸君、心理は両面をもっていますから、われわれもそれを理解し得るのであります。またこの一カ月間、被告が到るところの酒場で吹聴したことにいたっては、よく子供などが言うのと同じようなものです。酔っぱらった遊び人が酒場から出て来て、喧嘩しながら、お互いに『ぶち殺すぞ』などと呶鳴るのは、珍しいことじゃありません。しかし、彼らは本当に殺しはしないじゃありませんか。だから、この不祥な手紙も、やはり酒の上の激昂ではないでしょうか、酔漢が酒場から出て来て、『殺してやる、手前たちをみんな殺してやる!』と叫ぶのと同じことではないでしょうか! なぜそうでないのでしょう? なぜそうあってはならないのでしょう? なぜこの手紙は不祥なものでしょう? なぜその反対に、滑稽なものと言えないのでしょう? それはほかでもありません、父親の死骸が発見されたからであります、兇器を持って庭から逃げて行く被告の姿を、一人の証人が見たからであります。またその証人自身が、被告から危害を加えられたからであります。それゆえ、すべてが書いたとおりに実行されたということとなり、その手紙は一笑に付しがたい、不祥なものとなった次第であります。おかげでわれわれは、『庭に入った以上、彼が殺したに違いない』という見解に達しました。この『入った以上』必ず殺したに『違いない』という、この二つの言葉の中に、起訴理由のすべてがつくされているのです。『入った以上、殺したに違いない。』しかし、たとえ『入った』にしても、それが殺したに『違いない』ということにならなかったら、どうでしょう? ああ、私は事実の累積と合致が、実際かなり雄弁であることに同意します。が、しかし、その事実を一つ一つ、累積とか合致とかいうことに拘泥しないで、別々に観察してごらんなさい。
「たとえば、起訴者は、被告が父親の窓のそばから逃げ出したと言う申し立てを、なぜ信じようとなさらないのですか? とつぜん犯人の心に生じた『敬虔な』感情や、うやうやしい態度に関して、先刻起訴者が皮肉さえ弄されたことを記憶して下さい。けれど、もし実際そうした感情が、――たとえ敬意でないまでも、一種の敬虔の念があったとしたら、どうします?『そのとき、母親が私のために祈ってくれたに相違ない』と被告は審問の時に申し立てております。こうして、彼は父親の家にスヴェートロヴァがいないことを確かめると、すぐ逃げ出したのであります。『しかし、窓ごしにそんなことが確かめられるものじゃない』と起訴者は反対されるでしょう。が、なぜ確かめられないのでしょう? 実際、被告の合図のよって、窓が開けられたではありませんか。その時フョードルが何とか言って声を立てたでしょう。そこにスヴェートロヴァのいないことを、被告に確信させるような言葉を、何か叫んだに相違ありません。なぜわれわれは自分の想像するように、想像したいと望むように、すべてを仮定しなければならないのでしょうか? 現実生活においては、最も周匝緻密な小説家の観察眼さえ逸し去るような事件が、無数に発生し得るものであります。『それはそうだ。しかし、グリゴーリイは、戸の開いているところを目撃したではないか。だから、被告は家の中に入ったはずだ。したがって、彼が下手人に相違ない』と言われる。陪審員諸君、ところで、この戸ですが……この戸が開いていたと証明するものは、ただ一人しかありません。しかも、その証人たるや、その時ああいう状態にあったのですから……しかし、かまいません、戸は開いていたとしましょう。被告が強情をはって、こうした場合ありがちな自衛心のために、嘘をついたとしましょう。かまいません、被告が家の中へ入り込んだとしましょう――が、一たいなぜ家へ入れば、必ず殺したということになるのでしょうか? 彼は暴れ込んで、部屋から部屋を駈け廻ったかもしれません。父親を突きのけたかもしれません。あるいは、殴りさえしたかもわかりません。しかし、スヴェートロヴァがいないことを確かめるやいなや、彼女のいなかったことを、したがって父を殺さずにすんだことを、喜んで逃げ出したのです。だからこそ、彼は一分間後に塀から飛びおりて、憤怒のあまり危害を加えたグリゴーリイのそばへ駈け寄ったのです。だからこそ、彼は潔白な感情、――同情と憐憫の情を起すことができたのです。つまり、父を殺そうという誘惑をまぬがれて、心ひそかに、潔白な感情と、罪を犯さないですんだ喜びを覚えたからであります。
「起訴者は、モークロエ村における被告の恐るべき地位を、恐ろしいほど雄弁に述べられました。すなわち、新しい恋が彼の前に展開されて、彼を新生活へさし招いているのに、彼の背後には血みどろになった父親の死骸があり、さらにその背後に刑罰が待っているために、恋は被告にとって不可能なものとなった、という次第でありますが、それでも起訴者はやはり彼の恋をみとめて、それを得意の心理解剖で説明されました。『酔っ払った時の状態や、犯人が刑場に引いて行かれる時、刑場の遠いことを頼みにしている心理作用』云々と言われました。しかし、私はまたお訊ねしますが、起訴者はまたここでも、別な人物を創造されたのではありますまいか? もし実際、父親の血を流したものとすれば、被告はその瞬間なお恋愛や、法官に対する欺瞞などを考えるほど、粗暴かつ残忍な人間でしょうか? いや、いや、決して、決してそうじゃありません! 彼は女が自分を愛のほうへさし招き、新しい幸福を約束していることを知ると同時に、――ああ、私は誓って言います、もし彼の背後に、父の死骸が横たわっていたとすれば、彼はそのとき自殺しようという要求を、二倍も三倍も強く感じたに相違ありません。そして、立派に自殺したことでありましょう。決して、決してピストルのありかを忘れたのではありません! 私は被告をよく知っています。起訴者によって誣いられた粗野な石のような無感覚は、彼の性格に一致するものではない。彼は自殺したに相違ありません、それは確かです。彼が自殺しなかったのは、『母親が彼のために祈ってくれた』からであり、したがって父の血に対して、罪がなかったからであります。彼はその夜モークロエで、老僕グリゴーリイに危害を加えたことばかり嘆き悲しんで、老人が正気づいて立ちあがるように、自分の加えた打撃が致命傷でないように、そして自分も刑罰を受けないですかようにと、心ひそかに神に祈っていたのであります。なぜ事件のこういう解釈が許されないのでしょう? われわれは、被告が嘘をついているということについて、どんな確かな証拠をもっているのでしょうか? 父親の死骸が証拠じゃないか、とすぐまた諸君は言われるでしょう。彼が殺さないで逃げ出したとすれば、その時はそもそも誰があの老人を殺したのだ? とこうおっしゃることでしょう。
「繰り返して言いますが、そこに起訴の論理か全部ふくまれているのであります。つまり、彼が殺したのでないとすれば、ぜんたい誰が殺したのか? 彼の代りにおくべきものがないではないか、とこういうのです。陪審員諸君、実際そうなのでしょうか? はたして彼のほかには嫌疑を受くべきものがないのでしょうか? 起訴者は当夜あの家に居合せたものや、出入りしたものを残らず数えて、結局、五人のものを挙げられました。そのうち三人には、まったく罪のきせようがないということには、私も同意します。それは殺された当人と、グリゴーリイ老人と、その妻とであります。そこで、あとに残るのは被告とスメルジャコフであります。ところが、起訴者の説によると、被告がスメルジャコフを挙げたのは、ほかに誰もさすべき人がないためである、もし彼以外に誰か六人目のものがあれば、少くとも六人目のものの影でもあれば、被告はスメルジャコフに罪をきせることを恥じて、すぐさまその六人目のものを挙げただろう、と起訴者は感激をこめて叫ばれました。しかし、陪審員諸君、一たいわたしはその正反対論を論結することができないでしょうか? ここに二人の人物、すなわち被告とスメルジャコフが立っています。ところが、私の立場から見て、あなた方が被告に罪をきせられるのは、ただほかに罪をきせるものが見あたらないためである、とこう言いきることができないでしょうか? ほかに罪をきせるものが見あたらないのは、あなた方が先入見によって、スメルジャコフをぜんぜん嫌疑の埒外へ取り除いてしまわれたからです。スメルジャコフを挙げるものは当の被告と、その二人の弟と、スヴェートロヴァだけであります。しかし、なおそのほか幾人か、スメルジャコフを挙げている人があります。それは社会における漠然たる疑念と、嫌疑の醗酵であります。何か漠とした噂が市中に聞えます、ある期待が感じられます。また最後に、幾つかの事実の対立も、それを証拠だてています。むろん、それは正直なところ、まだ判然としたものではありませんが、きわめて独得な性質をおびているのであります。第一、兇行の日に起った癲癇の発作ですが、起訴者はなぜかその発作の真実性を、しきりに弁護しようと苦心しておられます。次に、公判の前日、スメルジャコフが同じようにとつぜん自殺したことであります。またさらに、被告のすぐ次の弟がきょう法廷で、前二者に劣らないほど唐突に申し立てた証言であります。彼はそれまで兄の犯罪を信じていたのに、きょうとつぜん金まで提出して、これまたスメルジャコフの名を兇行者として挙げました。ああ、むろん私とても、イヴァン・カラマーゾフは譫妄狂にかかった病人で、彼の申し立てが、死者に罪を塗って兄を救おうとする絶望的な企て、――しかも、熱に浮かされながら考えついた企てかもしれないという、裁判官ならびに検事諸君の確信を分つものであります。しかし、またしてもスメルジャコフの名が挙げられたところに、そこに何か謎めいたあるものが感じられます。陪審員諸君、どうやらそこにはまだ十分説明されない、はっきり言いつくされないあるものが潜んでいるようです。それは不日、説明される時があるかもしれません。しかし、このことについてはいま深入りしますまい、これは後まわしにしましょう。
「で、先刻、裁判長閣下は評議を継続する旨を宣告されましたが、私はそれを待つ間に、ここでちょっと死んだスメルジャコフに加えられた性格批判について、一言しておこうと思います。起訴者の試みられたスメルジャコフ性格論は、実に精細をきわめたもので、なかなか優れた議論でありました。が、私は起訴者の天才に一驚を喫すると同時に、その批判の真髄にぜんぜん同意することができません。私はスメルジャコフを訪ねて、彼と会談してみました。しかし、彼が私に与えた印象はまったく別なものでした。彼が健康を害していたことは事実です。けれど、その性格、その感情にいたっては、――どうしてどうして、彼は決して起訴者の言われたような低能ではありません。ことに私は臆病な点、――起訴者があれほど明瞭に述べられた臆病さを、発見することができませんでした。また単純率直などという点は、寸毫もありませんでした。むしろ私は、率直の仮面に隠れている恐ろしい猜疑心と、鋭い智力を発見しました。ああ! 起訴者はあまりお手軽に、彼を単純な低能児としてしまわれましたが、私は彼から非常に強い印象を受けました。私は、彼が非常な毒念をもった、底の知れない野心家で、復讐心のさかんな、嫉妬心の強い人間である、という確信をいだいて帰りました。私は二三の情報を蒐集しましたが、彼はわれとわが出生を憎みかつ恥じていました。彼は常に歯ぎしりして、『リザヴェータ悪臭女《スメルジャーシチャヤ》の子だ』と言っていました。彼は幼年の頃の恩人たる、老僕グリゴーリイ夫婦さえ尊敬していませんでした。そして、ロシヤを呪い嘲って、フランスに帰化するために、パリヘ出かけようと空想しておりました。フランスへ行きたいけれど旅費がたりないと、彼は以前からよく言っていました。彼は自分以外の何ものをも愛していない上に、しかも不思議なほど自尊心が強かったように思われます。彼は立派な着物と、清潔なシャツと、てらてら光る靴を文明と心得ていました。彼は自分をフョードルの私生児と考えていたので(これには証拠があります)、正腹の息子たちと比較して自分の境遇を憎むということは、きわめてあり得る話であります。彼らは一切を有しているのに、自分は何一つもっていない、彼らはあらゆる権利を与えられて、遺産まで相続するが、自分はただ一個の料理人にすぎない、こう彼は考えたはずであります。彼は私に向って、フョードルが金を封筒に入れる手つだいをしたと言いました。彼はもちろんこの金の用途をいまいましく思ったに違いありません。これだけの金があれば、自分の新生活を始めるのに十分だからです。のみならず、彼はつやつやしい虹色の紙幣で三千ルーブリなどという大金を、生れて初めて見たのであります(私はとくにこのことを彼にただしてみました)。ああ、嫉妬ぶかい野心のさかんな人間に、決して大金を見せるものではありません。ところが、彼は初めてそのまとまった大金を見たのであります。虹色の紙幣束の印象は、すぐ結果に現われこそしなかったけれど、彼の想像に病的な反映をあたえたに相違ありません。
「慧敏なる起訴者は、スメルジャコフに殺人罪を擬するについて、あらゆる pro et contra([#割り注]賛成論と反対論[#割り注終わり])を精細に説きつくしたうえ、彼にとって癲癇のまねをする必要がどこにあるだろう、という疑問を提起されました。そうです、彼は決してそんなまねをしなくてよかったかもしれません。発作はまったく自然に起ったのかもしれません。しかし、発作はまたきわめて自然に経過して、病人はそのうちに正気づくかもしれません。よしすっかり快癒しないまでも、正気づいて意識を回復するかもしれません。これは癲癇にえてありがちなことであります。起訴者は、いつスメルジャコフに兇行を演じる隙があったか、と反問せられますが、しかしその時刻を示すのは、きわめて容易なわざであります。つまり、グリゴーリイ老人が、塀を越えて逃げようとする被告の足を捉えて、近所合壁に聞えるような大声で『親殺し!』と叫んだ瞬間に、彼はふと正気づいて、深い眠りからさめたかもしれません(なぜかと言えば、彼はただ眠っていただけだからです、癲癇の発作のあとには、いつも熟睡がともなうものです)。静かな暗闇の中で起ったこのただならぬ叫び声は、スメルジャコフの目をさましたに相違ありません。しかも、ちょうどその時、彼の眠りはさして深くなかったはずであります。もちろん、もう一時間も前から、目がさめかかっていたに相違ありません。で、彼は起きあがると、何の考えもなくほとんど無意識に、何事が起ったのだろうと、声のしたほうへ出て行ったのです。彼の頭は依然として、発作のためにぼんやりしていて、思考力はまだ仮睡状態にありましたが、彼は庭へ出て、燈火のもれる窓のほうへ近づきました。主人はむろん、彼が来たのを喜んで、恐ろしい出来事を告げました。と、彼の頭の中には、たちまちある考えが燃えあがったのです。彼は驚きうろたえている老人から、詳しい事情を聞きました。その時、彼の混乱して病的になった頭脳には、次第にある考えが形づくられてきました、――それは恐ろしい考えではあるが、きわめて誘惑に充ちた、しかもどこまでも理論的なものでした。つまり、主人を殺して三千ルーブリの金を奪い、その罪を若主人に塗りつけてしまおうというのです。この場合、若主人以外だれにも嫌疑をかけるものがない、若主人以外だれにも罪をきせるものがない、現に彼はここへ来たのだ、立派な証拠がある、とこう考えたのであります。その点で安心するとともに、金という獲物に対する恐ろしい欲望が彼の心をとらえたのは、あり得べきことなのであります。ああ、こうした思いがけない避けがたい衝動は、機会さえあればいつでも起るものです。しかも、何より恐ろしいことには、一分間まえまで人を殺そうなどとは思いもかけなかったものの頭に、とつぜん浮んでくるのであります! で、スメルジャコフもそうした衝動に支配されて、主人の部屋へ入って行き、その計画を実行したに相違ありません。では、どういう兇器を用いたか? 何も問題にするまでもない、まず目に映った、庭の石ころでも殺せるではありませんか。だが、何のために、どういう目的で、そんなことをしたか? ほかでもない、三千ルーブリという金は、彼の新生活を始めるのに十分だからです。いや、私は自家撞着をしてはいません、金はあったかもしれません。そしてスメルジャコフだけが、そのありかを知っていたのかもしれません。すなわち、主人がその金をどこにおいているかを、彼一人だけが知っていたのであります。『だが、金の入っていた封筒は? 床の上に破り棄ててあった封筒は?』こういう問いが起るかもしれません。先刻、起訴者はこの封筒について、きわめて精緻な説を述べられました。すなわち、床の上に封筒を棄てて行くのは非常習的盗賊で、カラマーゾフのような人間のやりそうなことである。決してスメルジャコフではない、彼ならばこんな犯罪の証拠品を棄てて行きはしない、とこう言われました。陪審員諸君、先刻この説をうけたまわっている時、私はとつぜん、自分に覚えのあることを、もう一ど聞かされているような気がしました。ところが、どうでしょう、カラマーゾフのしそうな封筒の処置に関するこの議論と推測を、私はちょうど二日前にスメルジャコフ自身の口から聞いたのであります。そのうえ私を驚かしたのは、彼が、わざと無邪気を装ってさき廻りしながら、私にその考えを吹き込もうとするように思われたことであります。彼は私にこの判断を採用させようと、助言するようなあんばいでした。予審の時にも、彼はそれを暗示したのではないでしょうか? 聡明、慧敏な起訴者も、やはりその考えを吹き込まれたのではないでしょうか? では、グリゴーリイの年とった妻はどうだ、とこうおっしゃるでしょう。彼女はそばで夜どおし病人が唸っているのを聞いたと言います。なるほど、聞いたでしょう。しかし、それはきわめて曖昧な申し立てであります。かつて私はある婦人が、外で犬が吠えていたために、夜どおし眠ることができなかった、とこぼすのを聞きましたが、しかしあとで聞けば、その犬は一晩のうちに、二三ど吠えたにすぎないとのことでした。それは、きわめてありそうなことです。もし人が眠っている時に、とつぜん唸り声を聞いたとしましょう。彼は目をさまして、安眠を妨げられたのをいまいましく思いますが、またすぐ寝入ってしまいます。二時間もたった頃、また唸り声が聞えて、また目をさまし、また寝入る。と、最後にまた二時間もたってから、また唸り声に目をさまされます。こうして、一夜のうちに三ど目をさましたとしましょう。朝になると、その人は、誰か夜どおし唸っていたので、のべつ目をさまさせられた、と言ってこぼすのであります。しかし、その人は、二時間ずつ眠っていた間のことは少しも知らないで、目をさました一分間だけ覚えているから、それで夜じゅうのべつ起されたような気がするのは、当然な次第であります。しかし、起訴者は、それならなぜスメルジャコフは、遺書の中で白状しなかったか、と声を励まして訊かれました。『一方には良心の呵責を感じながら、いま一方にはそれを感じなかったのだろうか?』と言われました。けれど、失礼ですが、良心の呵責はすでに悔恨を意味していますが、自殺者が必ずしも悔恨に責められたものとは断ぜられません、ただ絶望のために自殺したにすぎません。絶望と悔恨、――この二つはまったく異ったものであります。絶望は時に憎悪に充ちていて、絶対に妥協を許さない場合があります。で、自殺者は自分で自分に手を下そうとする瞬間、一生怨んでいたものに対する憎悪を、一倍つよく感じたかもしれません。
陪審員諸君、裁判上の誤りを警戒していただきたいものです! いま私が申し述べたことに、はたして本当らしくない点があるでしょうか? どうか、私の述べた言葉の中に誤りを見いだして下さい。不可能、不合理を発見して下さい。もし私の仮定の中にほんのわずかな可能性の影、真実らしい影でもあったら、どうか宣告を見合せて下さい。が、はたしてただの影にすぎないでしょうか? 私は誓って申します、いま諸君に申し述べた殺人に関する自分の説明を、私は固く信じているのであります。ことに、私が腹立たしく遺憾に思うのは、被告の断罪の基礎となっている、山のごとく累積した多くの事実のうち、いくぶんたりとも確実で、反証を許さぬようなものは一つとしてないにもかかわらず、ただただこれらの事実が堆積したというだけの理由によって、不幸なる被告が破滅に瀕していることであります。そうです、この堆積は恐るべきものであります。この血、――指から流れ落ちるこの血、血みどろになった服、『親殺し!』という叫び声に静寂を破られたあの暗夜、頭を割られて倒れた叫び声の主、それから、また多くの言葉と身ぶりと怒号、――ああ、それらすべては非常な力をもっていて、人々の信念を買収するに十分です。しかし、陪審員諸君、それらははたしてよく諸君の信念をも買収することができましょうか? どうか記憶して下さい、諸君には無限の決定権が与えられています。しかし、権利が強大であればあるだけ、その行使はますます恐るべきものとなります! 私は自分の言ったことを一言たりとも撤回しませんが、かりに、――もしかりに一歩を譲って、不幸なる被告が父の血に手を染めたという起訴者のお説に同意するとしましょう。しかし、これはただほんの仮定にすぎないのであって、繰り返して言いますが、私は一瞬間も彼の潔白を疑いません。しかし、今かりにわが被告が親殺しの罪を犯したと仮定しましょう。けれど、私がそういう仮定を許した以上、ぜひ一こと聞いていただきたいことがあります。私は諸君にある一つのことを言わなければ心がすみません。なぜなら、私は諸君の感情と理性の中に、大なる争闘を予感するからであります……陪審員諸君。諸君の感情と理性にまで立ち入った私の言葉をおゆるし下さい。けれど、私はどこまでも誠実で正直でありたいと思います。われわれはお互いに誠意を持とうではありませんか!」
 この時かなり盛んな拍手が起って、弁護士の言葉を中断した。実際、彼はこの最後の言葉を誠意のこもった語調で言ったので、一同は、実際かれが何か言い分をもっているのかもしれない、そして今かれが言おうとしていることは、非常に重大な事柄であるかもしれない、というふうに感じたのである。しかし、裁判長はこの拍手を聞くや、もしふたたび『かような場合が』繰り返されるなら、傍聴者一同に『退廷を命じる』と声高に宣言した。あたりはたちまちしんとしてしまった。フェチュコーヴィッチは今までとはまるっきり違った、一種の新しい、感情に満ちた語調で弁じはじめた。

[#3字下げ]第十三 思想の姦通者[#「第十三 思想の姦通者」は中見出し]

「ただ山積された事実のみが、わが被告を滅ぼすものではありません、陪審員諸君」と、彼は声を高めた。「そうです、本当にわが被告を滅ぼすものは、ただ一つの事実なのであります、――それは父親なる老人の死骸であります! これが普通の殺人罪であってごらんなさい、諸君はすべての証拠を集合体としてでなく、一つ一つ取り離して吟味してみたすえ、それらが取るにたりない不完全な、空想的性質をおびているのを発見して、起訴を却下せられることでありましょう。少くとも、単なる先入見によって、一個の人間の運命を滅ぼすことを躊躇されるでしょう。まったく悲しいかな、被告はそういう先入見をいだかれても、仕方のないような人間なのであります。しかるに、これは普通の殺人でなく親殺しなのです! これは実に重大なことで、それがため、こうした取るにたらぬ不完全な証拠も、取るに足らぬ不完全なものでなくなったわけです。しかも、そのうえ、きわめて多くの先入見が、そこに存しているのであります。こういう被告を、どうして無罪にすることができよう? どうして親を殺したものが罰を受けないですもうぞ、――すべての人が心の中で、知らず識らず、本能的に感じているのであります。そうです。父親の血を流すということは、恐るべきことであります、――それは自分を生んだものの血です、自分を愛するものの血です。自分のために命を惜しまないものの血です。子供の時から自分の病気に悩み、自分の幸福のために一生苦しみ通し、ただ自分の喜びと成功のみに生きていたものの血であります! ああ、そういう父親を殺すということは、――それは考えるにたえないことであります! 陪審員諸君、父親とは何でしょう、真の父親とは何でしょう? これは何たる偉大な言葉であるか? この名称には何たる恐ろしい、大きな観念がふくまれていることか? 私はいま、真の父親とはいかなるものであり、いかなる責任を有するものか、ということをいくぶん述べました。が、この場合、――われわれがいま処理しようと頭を悩ましているこの事件において、死んだフョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフは、いま私が挙げたような父親の概念に、全然あてはまらないのであります。それは不幸です。そして、実際こうした不幸な父親も、世間にないことはないのであります。で、われわれはこの不幸をもっと接近して観察してみましょう、――陪審員諸君、眼前の決定の重大さを考えて、恐れる必要は毫もありません。さきほど慧敏なる起訴者が述べられた巧みな言葉を借りて言えば、子供や臆病な女のように、ある種の思想をとくに恐れて、それを振り払うようなことをする必要はありません。ところで、私の尊敬する反対者は、その熱烈な論告において(それは私が最初の一言を発する前のことでありました)、幾度もこう叫ばれました。『いや、自分は誰にも被告の弁護を譲らない、自分は彼を弁護する点において、ペテルブルグから来た弁護人にも負けないつもりである、――自分は起訴者であると同時に、弁護人でもある!』こう起訴者は幾度も宣言されましたが、もしこの恐ろしい被告が、まだ幼児として親の家にいる頃、ただ一人の人に愛されて一フントの胡桃をもらったために、二十三年間もその恩義を忘れずにいたとするならば、その反対にかくのごとき人間は、博愛なる医師ヘルツェンシュトゥベ氏のいわゆる『靴もはかずに、たった一つしかボタンのつかぬズボンを着けて父の裏庭を』駈け廻っていたことをも、この二十三年間わすれずにいられないはずです。それを起訴者は言い落していられるようであります。
「ああ、陪審員諸君、なぜ私はこの『不幸』を、もっと接近して観察する必要があるのでしょう? すでに誰でも知っていることを、なぜ繰り返す必要があるのでしょう? わが被告はこの父親のもとへ来て、どういうことを目撃したのでしょうか? 一たいなぜ、どういうわけで、わが被告を無感覚なエゴイスト、怪物として描きだす必要があるのか? なるほど、彼は放縦です、粗野で乱暴です。この点われわれは彼を責めなければなりません。が、彼の運命に対して責任を有するものは誰であるか? 彼が立派な心的傾向と、恩義を重んずる感情をもっているにもかかわらず、あのようなばかばかしい教育を受けたということは、そもそも誰の責任であるか? 彼は誰かに正しい道を教えてもらったか? 学問によって開発されたか? 少年の時分に誰か少しでも彼を愛したものがあるか? 私の被弁護者はただただ神の庇護の下に、すなわちまったく野獣のように成長したのであります。彼は長い別離の後、父親に会うことを渇望していたかもしれません。彼はその前に、自分の幼年時代を夢のように思い出しては、その時代に見た忌わしい幻影を払い去ろうと努め、自分の父親をいいほうに解釈して、へだてなく抱擁しようと、心の底から望んでいたかもしれません。ところが、どうでしょう? 彼を迎えたものは皮肉な嘲笑と、猜疑と、金銭問題から生じた詭計だけでした。彼は毎日、胸の悪くなるような酒の上の雑談や、卑俗な処世訓を聞き、最後に自分の息子の金で、息子の恋人を奪おうとする父親を見たのであります、――ああ、陪審員諸君、これは実に忌わしい残酷なことではありませんか! しかるに、この老人は、かえって息子の不遜と残酷を衆人に訴え、世間へ悪しざまに吹聴して、妨害、中傷を試みたばかりか、息子の借金証文を買い集めて、彼を牢獄に投じようとしたのであります。陪審員諸君、私の被弁護者のように、一見残酷で乱暴なむこう見ずの人間は、世間にその例の珍しくないように、きわめて優しい心を持っているものですが、ただそれを、外に現わさないだけなのであります。笑わないで下さい、どうか私の考えを笑わないで下さい! 慧敏な起訴者は、先刻私の被弁護者がシルレルを愛していること、『美しいもの高尚なもの』を愛していることを引き合いに出して、無慈悲に嘲笑されました。私がもし起訴者の立場にいたならば、決してそれを嘲りはしなかったでしょう。そうです、こうした性情は、――ああ、あまりに誤解されやすいこうした性情を、私はどこまでも弁護します、――こうした性情はしじゅう優しいもの、美しいもの、真実なものに餓えているのであります。いわば、自分の粗暴で、残忍な性質のコントラストとして、――そうした性情は無意識にこれらのものに餓えている、まったく餓えきっているのであります。情熱的で表面粗暴に見える彼らは、一たん何ものか、例えば女などを愛する段になると、すぐもの狂おしいほど熱中してしまいますが、しかもその愛は必ず精神的な高尚なものであります。またどうか笑わないで下さい。それはこういう性質にしばしばありがちなのであります。そうした人間はとうていその情熱を、時とするときわめて粗野な情熱を、隠すことができません、――これが人の目を聳動さすので、人はその点のみを認めて、その人間を見ないのであります。ところが、彼らの情熱はすぐ燃えきってしまうけれど、見たところいかにも粗剛に思われるこれらの人間は、高潔な美しい対象物によって自己革新を求めます。悔い改めて立派なものとなり、潔白な高貴な人間になる可能を求めるのであります、――何と嘲笑されてもかまいません、とにかく『高尚なもの』、立派なものになろうとするのであります!
「先刻、私は被告とカチェリーナとの恋物語には、あえて手をふれないと言いました! が、一ことくらい言ってもさしつかえなかろうと思います。われわれが先刻耳にしたもの、あれは申し立てではなくて、復讐心に燃えている女のもの狂おしい叫びでしかありません。彼女には、そうです、彼女には被告の変心を責める資格はありません。なぜなら、彼女はみずから変心したからであります。もし彼女が少しでも熟考する余裕をもっていたら、決してあんな申し立てをしなかったでありましょう! ああ、彼女の言葉を信じないで下さい。私の被弁護者は、彼女の言ったような『極道者』ではありません! かの磔刑に処せられた偉大なる博愛家は、十字架の死を覚悟しながら『われは善き牧者なり。善き牧者はその羊のためにおのが魂を棄つ。そは一の魂も滅びざらんがためなり』と申されました。われわれもまた一個の人間の魂をも滅ぼしてはなりません!
「私は今、父親とは何を意味するかと訊いて、それは偉大なる言葉である、貴重なる名称であると叫びました。しかし、陪審員諸君、言葉というものは公正に取り扱わなければなりません。私はあえて事物を正当な名前をもって露骨に呼ぶものです。殺されたカラマーゾフ老人のような父親は、父親と呼ばるべきものでもないし、またそう呼ばれる資格をも持っていません。父親と呼ばれる資格のない父親に対する愛は、愚かでもあり不可能でもあります。愛は無から造り得るものではありません。無から造り得るものは、ひとり神あるのみです。『父たるものよ、その子を悲しますことなかれ!』愛に燃えたつ心から、ある使徒はこう書いています。私が今この聖なる言葉を引いたのは、自分の被弁護者のためではありません。すべての父なるもののために述べたのであります。では、父なる人々を教える権利を、誰が私に授けたか? 誰から授けられたのでもありません。しかし、人間として、公民として vivos voco([#割り注]言葉よ、栄えあれ![#割り注終わり])と揚言します。われわれはこの地上にさして長くも住まないのに、多くの悪行をなし、多くの悪言を吐きます。それゆえ、われわれはみんな一堂に会した機会を利用して、互いによき言葉を吐くために、好適な瞬間を捉えようではありませんか。私とてもそうです。私はこの席で自分の機会を利用するのです。至尊の意志によって、われわれに与えられたこの演壇は、決して無意味に存在するのではありません、――全ロシヤがこの法廷におけるわれわれの声を聞いています。私は単に当法廷に集った父親たる人々のために言うのではなく、すべての父なる人々にむかって叫ぶのであります。『父たるものよ、その子を悲しますことなかれ!』と。そうです、われわれはまずキリストの言葉を実行して、しかる後はじめて、子の義務を問うことができるのであります! でなければ、われわれは父ではなくして、むしろわが子の敵であります。また子は子でなくして、われわれの敵なのであります。しかも、われわれみずから彼らを敵としたのであります!『なんじが人を量るごとくおのれも量らるべし。』――これは私の言葉ではなく、聖書の教えるところであって、つまり人を量らばおのれも人に量られるというのであります。ですから、もし子がわれわれに量られたとおりにわれわれを量ったとしたら、どうして子を責めることができましょう?
「近ごろフィンランドで起った事件ですが、ある一人の女中が、秘密に子供を生んだという嫌疑を受けて取り調べられたところ、屋根裏の片隅の煉瓦の陰から、その女中の箱が発見されました。この箱のことは誰ひとり知らずにいたのでありますが、開けてみるとその中から、彼女のために殺された、生れたばかりの嬰児の死骸が出て来ました。なおその箱の中からは、以前彼女が生んで、生れると同時に殺した(これは彼女の自白したところであります)嬰児の骸骨が二つも発見されました。陪審員諸君、これがはたしてその子供たちの母親でしょうか! そうです、彼女はその子供たちを生んだに違いない。けれども、はたして彼女はその子たちにとって母親でしょうか? 母親という神聖な名前を彼女にあたえる勇気をもったものが、われわれの中に誰かあるでしょうか? われわれは大胆になりましょう、陪審員諸君、われわれはさらに無遠慮になりましょう。むしろ今日われわれはそうすべき義務があります。『金属《メダル》』とか『硫黄《ジューペル》』とかいう言葉を恐れていたモスクワの商人の妻([#割り注]オストロフスキイ戯曲中の人物[#割り注終わり])のように、ある種の言葉や観念を恐れてはなりません。いや、むしろ近年の進歩がわれわれにもふれたことを証明するために、生んだだけのものはまだ父ではない、子供を生んで、子供に対する責任をはたしたものこそ父である、とこう直言いたしましょう。むろん、父という言葉には他の意味も、他の解釈もありまして、自分の父はたとえ極道者であっても、子供たちに対する悪漢であっても、自分を生んだ以上やはり父である、とこう主張するものもあります。しかし、これはいわば神秘的父親観とも名づくべきもので、理性では承認することができません。これは、ただ信仰によって承認し得るのみです。いや、もっと正確に言いますと、信仰を頼んで[#「信仰を頼んで」に傍点]受け容れ得るのであります。そうした例はほかにもたくさんありまして、理性で承認することはできませんが、宗教がそれを信ずるように命令します。しかし、そうしてみると、それは実際生活の範囲外に存するのです。実際生活の範囲においては、ただにそれみずから権利を有するのみならず、さらに大なる義務を課するところの実際生活の範囲においては、われわれがもし博愛家であり、進んでキリスト教徒たらんと欲するならば、われわれは理性と経験とによって是とせられ、解剖の熔炉をくぐってきた信念を、実行しなければなりません。一言にしてつくせば、理性的に行動しなければなりません。夢の中や妄想の中で盲動するようなことをしてはなりません。それはつまり、人間に害毒をもたらさないためです。人間を苦しめたり滅ぼしたりしないためです。さすれば、その時こそ初めて、本当のキリスト教徒の行動となります。神秘的ではなく、真に博愛的な理性的行為となるのであります……」
 このとき法廷のすみずみから激しい拍手が起ったが、フェチュコーヴィッチは自分の弁論を中断せずに、終りまでつづけさせてもらいたいと懇願するもののように両手を振った。と、満場はすぐにしんとしてしまった。弁護士は語りつづけた。
陪審員諸君、諸君はこれらの問題がわれわれの子供、――といっても、一かどの青年となって、すでに是非の判断をするようになった子供にとって、没交渉であり得るとお考えですか? いや、没交渉ではあり得ません。われわれは彼に不可能な謙譲をしいることはできません! 親としての価のない父の態度は、ことに自分の友達である他の子供の、親らしい親と比較する場合、知らず識らず青年の心に悩ましい疑問を呼びさまします。ところで、彼がこの疑問に対して受ける答えは、きまりきった紋切り型で、『お父さんはお前が生んだのだ。お前はお父さんの骨肉なのだ。だから、お前はお父さんを愛さなくてはならない』というのであります。『しかし、父はおれを生もうとする時に、おれを愛していたろうか?』と青年は心にもなく、かような疑念を発します。そして、彼はますます驚きながら、『一たい父がおれを生んだのはおれのためだろうか? 父親はその瞬間に、――おそらく酒にでも刺戟されて、情欲をおこしたその瞬間、おれのことなど考えてはいなかったんだ、おれが男か女かさえも知らなかったんだ。ただおれに飲酒癖を遺伝したくらいなもので、これが父のおれにあたえた恩恵の全部だ……父がおれを生んで、一生涯おれを愛さなかったからって、なぜおれは父を愛さなければならないのか?』と青年はこう思わざるを得ません。ああ、諸君はこの疑問をさだめし残酷な、無作法なものと思われることでしょう。けれど、未熟な青年に、不可能な謙譲をお求めになってはいけません。『天性を戸口から追い出せば、今度は窓から飛んでくる』とあるとおりです、――ことに、何よりもわれわれは『金属《メダル》』や『硫黄《ジューペル》』を恐れてはなりません。われわれは神秘的概念の命ずるところでなく、理性と博愛心の命にしたがって、問題を解決しましょう。では、いかに解決すべきでしょうか? それはこうするのです。息子を父親の前に立たせて、理路整然と質問させるのであります。『お父さん、どうか聞かせて下さい、なぜ私はあなたを愛さなければならないのでしょう? お父さん、どうか証明して下さい。なぜ私はあなたを愛さなければならないのでしょう?』こういうふうにして、もしその父親が息子の問いに答えて、立派に証明することができれば、これは神秘的偏見にのみ支持せられない、理性的な自意識にもとづく、厳密な意味における博愛的基礎の上に建てられた、本当の家庭であります。しかしながら、もし父親がそれを証明し得ない時は、この家庭はただちに破綻をきたします。父親は息子にとって父親ではありません。息子のほうでは将来、自分の父親を他人とし、また自分の敵とさえ見なす自由と権利とを得るのです。陪審員諸君、わが法廷は真理と健全なる思想の学校でなければなりません!」
 このとき弁護士は抑えることのできない、ほとんど狂熱的な拍手によって弁論を遮られた。むろん、傍聴者の全部ではなかったが、その半数は確かに拍手した。父親であり母親である人人も拍手した。上の方の婦人席からは、甲高い叫び声が聞えた。ハンカチを振るものもあった。裁判長はやっきとなってベルを鳴らしはじめた。彼は傍聴者の行為に激昂したらしかったが、しかしさっき嚇したように、『退廷』を命ずるとは、さすがに言い得なかった。それはうしろの特別席に腰をかけていた大官連や、燕尾服に勲章をおびた老人たちまでが、拍手したりハンカチを振ったりしたからである。それでようやく騒ぎが鎮まった時、裁判長は例の『退廷を命ず』という、以前の厳しい威嚇を繰り返したにすぎなかった。フェチュコーヴィッチは勝ちに乗じて、また興奮のていで弁論をつづけていった。
陪審員諸君、諸君は息子が塀を乗り越えて、父親の家へ闖入し、ついに自分を生んだ仇敵であり、凌辱者であるところの人間と相面して立った、あの恐るべき夜を記憶しておられるでしょう。その時のことは、今日もたびたびここで述べられたのであります。で、私は極力主張しますが、――そのとき彼が闖入したのは、決して金のためではありません。先刻も申したとおり、彼を強奪の罪に問うことは、愚もまたはなはだしいことであります。また彼が父の家へ忍び込んだのは、殺害せんがためではありません、決してそんなことはありません。もし彼が前もって、そういう企らみをもっていたとすれば、少くとも兇器だけくらい前に用意しておくはずです。銅の杵なんかは自分でも何のためとも知らず、ただ本能的に持って行っただけであります。また彼は合図で父をだましたとしましょう、父親の部屋へ闖入したとしましょう、――私はすでに、そういう伝説をこれからさきも信じないと申しましたが、しかしまあ、仕方がありません、ただ一分間だけ、そうであったと仮定しましょう! 陪審員諸君、私はすべての神聖なものに誓って言いますが、もしフョードルが被告にとって父親でなく、赤の他人の凌辱者にすぎなかったら、被告は部屋部屋を駈け廻って、この家に女のいないことを見さだめると、おのれの競争者には何の危害をも加えることなく、すぐ逃げ去ったに相違ありません。あるいはちょっとぐらい殴ったり、突き飛ばしたりしたかもしれませんが、ただそれだけのことです。なぜなら、被告はその場合、そんなものにかまっている余裕がなかったからであります、女の居どころを突き止めなければならなかったからであります。しかし、それは父親でした、しかも平生から常に父親の仮面を被った敵であり、子供の時から忌み嫌っていた凌辱者でありましたが、今はその上に奇怪きわまる競争者なのではありませんか! で、憎悪の念がわれ知らずむらむらと湧き起って、彼の分別をかき乱しました。ありとあらゆる感情が一時に込み上げてきました! これは狂気と錯乱の衝動《アフェクト》ですが、同時に永遠の法則に対して復讐しようとする、抑えがたい無意識な自然の衝動だったのであります。自然界においては、すべてがそうなのであります。しかし、兇行者はその場でもなお殺害しませんでした、――私はこれを主張します、私はこのことを絶叫します、――そうです、彼はただ忌わしい憤怒に駆られて、杵を一振り振っただけです。殺害しようという意志もなければ、また殺害したことにも気づかなかったのであります。で、もしこの恐ろしい杵さえ彼の手になかったならば、彼はただ父を殴打しただけで、殺害はしなかったでしょう。で、彼は逃走する際、自分が危害を加えた老人が、死んでいることを知らなかったのであります。こうした殺人は殺人になりません。こうした殺人は親殺しにもなりません。そうです、あんな父親を殺したことは、親殺しと名づけられるべきでありません。こうした殺人は、ただ一種の偏見によってのみ、親殺しと名づけ得るものであります! しかし、この殺人は実際あったのでしょうか、まさしく行われたのでしょうか? 私は改めて心の底から諸君に訴えます!
陪審員諸君、もしわれわれが彼を有罪として処刑したら、彼は自分自身に向って、こう言うでしょう。『この人たちはおれの運命のために、おれの教育のために、おれの開発のために何一つしてくれなかった。おれをより善くもしなければ、また一個の人間にもしてくれなかった。この人たちはおれに食わせもしなければ、飲ませもしなかった。裸一貫で牢に繋がれているおれを見舞いもしなかった。そして、とうとうおれを懲役に送ることにした。おれはこれで勘定をすましたから、もう今では彼らに少しも負うところがない、永久に何人にも負うところはない。彼らも悪人なら、おれも悪人になってやろう。彼らも残酷なら、おれも残酷になってやろう。』陪審員諸君、彼はおそらくこう言うでしょう! 私は誓って申しますが、諸君の宣告される刑罰は、ただ被告の苦しみを軽減するだけです、被告の良心を軽減するにすぎません。被告は自分の流した血を呪ったり、それを悲しんだりしないようになるでしょう。同時に、諸君は被告の内部にひそんでいる、真人間となる可能性を滅ぼしてしまわれるのであります。なぜなら、彼は邪悪な盲目な人間として、生涯を過すからであります。けれど、諸君が想像もおよばぬほど、恐ろしい刑罰を被告に下そうとされるのは、それによって彼の魂を永久に救いよみがえらせるためなのでしょうか? もしそうだとすれば、どうか偉大な慈悲をもって彼を圧倒して下さい! しからば、諸君は被告の魂がいかに慄え、おののくかをごらんになるでしょう。どうして自分はこの慈悲にたえられよう、はたして自分はこれほどの愛を受けようとしているのか、自分はこの愛に価するものであろうか、こういう被告の魂の叫びをお聞きになるでしょう! ああ、私は知っています。私はこの心を知っています。陪審員諸君、乱暴ではあるけれど、高潔なこの心を知っています。この心は諸君の慈悲の前に跪拝するでしょう。この心は偉大なる愛の働きに渇しています。この心は新しく燃え立って、永久によみがえるでしょう。世には自己の眼界の限られているところから、世間を憎んでいる魂があります。けれども、この魂に慈悲を加えてごらんなさい。愛を示してごらんなさい、たちまちこの魂はおのれの過去を呪います。なぜなら、この魂の中には多分に善良な萌芽がひそんでいるからであります。かような魂はひろがり、成長して、神の慈悲ぶかいこと、人々の善良公平なことを見知るでしょう。彼は悔悟の念と目前に現われた無数の義務とに、慄然として圧倒されるでしょう。その時こそ、もう『おれは勘定をすました』などと言わずに、『おれはすべての人々に対して罪がある。おれはいかなる人々よりも無価値なものだ』と言うでしょう。彼は燃えるような苦行者の悔恨と、感激の涙を流しながら、『世間の人はおれよりも善良だ。彼らはおれを滅ぼそうとせず、かえって救ってくれたではないか』と叫ぶでしょう。ああ、諸君は容易にこれを、この慈悲の作用を行うことができるのであります。なぜなら、いくぶんたりとも真実らしい証拠が一つとして存在しないのに、『しかり、罪あり』と宣告するのは、あまりに苦しいことだからであります。一人の罪なきものを罰するよりは、むしろ十人の罪あるものを赦せ、――前世紀の光栄あるわが国の歴史が発したこの偉大な声を、諸君は聞いておられるでしょう? いまさら不肖な私が諸君に向って、ロシヤの裁判は単なる刑罰ではなくして、滅びたる人間の救済であるなどと、告げるまでもないことであります! もし他国民に固定せる文字と刑罰とがあるとすれば、われわれには精神と意義、滅びたるものの救済と復活とがあります。もしこれが真実であるとすれば、もしロシヤとロシヤの裁判がはたしてかようなものであるとすれば、――ロシヤには洋々たる未来があります。われわれは驚きません、われわれは、すべての国民が忌み嫌って回避する、暴れ狂うトロイカにも驚きません! 暴れ狂うトロイカではなくして、偉大なるロシヤの戦車が、堂々と勇ましく目的地に進んで行くのであります。わが被弁護者の運命は諸君の掌中にあります。わがロシヤの正義の運合も諸君の掌中にあります。諸君はそれをお救いになるでしょう。諸君はそれをお守りになるでしょう。諸君は正義を守護する人の存在すること、正義が善良な人の掌中にあることを立証なさるでしょう!」

[#3字下げ]第十四 百姓どもが我を通した[#「第十四 百姓どもが我を通した」は中見出し]

 こう言ってフェチュコーヴィッチはその弁論を終った。もう今度こそは、嵐のような傍聴者の感激を押えることができなかった。制止しようなどとは思いもよらないことであった。女たちは泣いた。男子席でも泣くものが多かった。大官連さえ二人まで涙を流していた。裁判長も諦めて、ベルを鳴らすのを躊躇した。『ああした感激を阻止するのは、とりも直さず神聖な感情に冒涜を加えることですわ』とは、あとで当地の婦人たちが叫んだところである。当の弁護士は心底から感動していた。こうしたおりに、わがイッポリートはまたもや立ちあがって『反駁を試みよう』としたのである。人々は憎悪の目をもって彼を見やった。『何ですって? どうしようというんですの? あの人はまた反駁しようってんですの?』と婦人たちは囁いた。けれども、たとえ彼自身の細君をもふくんだ世界じゅうの婦人連が反対しても、この際イッポリートを止めることは不可能であった。彼は顔を真っ蒼にして、興奮のためにぶるぶる慄えていた。彼が発した最初の言葉や最初の句は、意味さえわからないほどであった。彼は息をはずませながら、しどろもどろに不明瞭な発音で弁じたが、しかし、ほどなく落ちつきを回復した。筆者《わたし》は彼の第二の論告の中から、ただ幾つかの語句をあげるにとどめておく。
「……私は小説を作ったといって非難を受けました。しかし、弁護士の弁論は、小説の上に小説を築いたものでなくて何でしょう? ただ詩の句が出て来なかったばかりです。フョードルが恋人を待っている間に封筒を破って、床の上に投げ棄てたなどと言いだしたばかりか、なおその上に、フョードルがこの驚くべき行為の間に言ったことまで引証されました。これがはたして詩ではないでしょうか? 彼が金を出したという証拠が一たいどこにあります? そのとき彼の言った言葉など、一たい誰が聞いたのです? 遅鈍な低能児のスメルジャコフは、自分が私生児であるために社会に復讐するといったような、一種のバイロン式主人公に変えられています、一たいこれがバイロン趣味の劇詩でないでしょうか? もしそれ、父の家に忍び込んだ息子が、父を殺しはしたけれど、また同時に殺したのではないというにいたっては、すでに小説でもなければ劇詩でもなく、みずから解決のできない謎を提出するスフィンクスであります。もし彼が殺したとすれば、やはり殺したのです。殺したけれども殺したのではないとは、一たい何事です、――誰にこれが理解されるでしょう? 次にわれわれは、わが法廷は真理と健全なる思想の法廷である、というようなことを聞かされました。ところが、この『健全なる思想』の法廷から、父を殺すことを親殺しと名づけるのは、一種の偏見にすぎないという荘厳な宣言が、原則として響き渡りました! けれども、もし親殺しが偏見であって、一人一人の子供が自分の父親に向って、『お父さん、なぜ私はあなたを愛さなければならないのですか?』と訊くようになったら、われわれははたしてどうなるでしょう? 社会の基礎はどうなるでしょう? 家庭はどうなってゆくことでしょう? 親殺し、これがモスクワの商人の妻の『硫黄《ジューペル》』にすぎなかったら、将来、ロシヤ法廷の最も尊貴な、最も神聖なる伝統は、単に一個の目的を達するために、すなわち赦すべからざるものを赦すために、破壊され、無視されてしまいます。ああ、被告を大慈悲によって圧倒せよ、と弁護士は絶叫されました、――が、これこそまさに犯人の必要とするところであって、明日になれば、被告がいかに圧倒されるかわかるでしょう。それに、弁護士がただ被告の無罪のみを主張されるのは、あまり謙遜すぎはしないでしょうか? なぜ子孫を初めとして新時代の人々へ、永久に親殺しの功績を残すために、親殺し補助金制度の創設を要求されないのでしょうか? 弁護士は聖書と宗教とを訂正して、それらをすべて神秘主義と見なし、健全なる思想と理知の解剖によって確証された真正のキリスト教は、ただ我らの手中にのみあると言われました。こうして、われわれの前にキリストの贋物をおこうとするのであります!『なんじ人を量るごとくおのれも量らるべし』とこう弁護士は叫びながら、それと同時に、キリストはみずから量られたるごとく人をも量るように教えた、とこう推論されました、――しかも、これが真理と健全なる思想の法廷から発せられた言葉なのであります! 今では、弁論の前日に聖書を見るのは、ただ何といってもかなり独創的なこの書物をこれくらいまで心得ているぞ、ということをひけらかすためにすぎない。この本も必要に応じて、ある効果をもたらすのに役だつ、というくらいな心持なのです! しかし、キリストはそうしないように、そういう行為を慎しむように、と命じていられます! なぜなら、それを行うのは悪の世界だからです。しかし、われわれは赦さなければなりません。いま一方の頬をもさし向けなければなりません。自分を凌辱したものがわれわれを量るごとく、彼らを量ってはなりません。神はわれわれにこう教えられましたが、子供に父親を殺すことを禁ずるのが偏見であるなどと、教えられはしなかったのであります。われわれは真理と健全なる思想の法廷において、我らの神の聖書を訂正すべきではありません。しかるに、弁護士はこの神を不遜にもただ『十字架につけられたる博愛家』と呼んでいます。それはキリストに向って、『なんじはわれらの神なり』と呼んでいる正教国ロシヤの全国民に反するものであります……」
 このとき裁判長は口を挟んで、普通こうした場合における裁判長の例にもれず、あまり誇張した言辞を弄して、職務の限界を超えた議論をしないようにと、夢中になって前後を忘れた検事をたしなめた。しかし、法廷は鎮まらなかった。傍聴者はどよめき動いて、不満の叫びさえ挙げた。フェチュコーヴィッチは、反駁というほどのこともしなかった。彼は演壇へ上って、ただ片手を胸にあてながら、腹だたしげな声で、威厳に充ちた言葉を一こと二こと述べたばかりである。彼は『小説』と『心理解剖』について軽く揶揄を弄したのち、あの個所で『ジュピタアよ、なんじは怒れり、ゆえになんじはあやまてり』という文句を挿んだ。この文句は傍聴者の間に、さも同感らしい盛んな笑声を喚び起した。それはイッポリートが、一こうにジュピタアらしくなかったからである。次にフェチュコーヴィッチは、自分が若い人々に親殺しを許容した、などというような寃罪に対しては、あえて反駁の心要を認めないと、いかにももったいらしく言った。『キリスト教の曲解』問題、および彼がキリストを神と呼ばずに、『十字架につけられたる博愛家』と名づけて、『ロシヤ正教の精神に反し、真理と健全なる思想の法廷においてあるまじきこと』を言ったという非難に関しては、――フェチュコーヴィッチは、それを『あてこすり』であると仄めかし、自分が当地へ来る時には、少くとも当地の法廷において、『市民として、および忠良なる臣民として、私の人格を傷つけるような』寃罪をきせられる危険はないと信じていた、と述べた。しかし、このとき裁判長は、彼をも同様にたしなめた。で、フェチュコーヴィッチは一揖して、その答弁を終った。すると、そのあとから、同感の意を表するような満廷の囁きが聞えはじめた。イッポリートは、当地の婦人たちの意見によると、『永久に圧倒されてしまった』のである。
 次に被告が発言を許された。ミーチャは立ちあがったが、多くを言わなかった。彼は肉体的にも精神的にもすっかり疲労しきっていた。けさ法廷へ入って来た時の、独立不羈な元気らしい様子は、ほとんどどこにも見られなかった。彼はこの日、生れて初めて、今まで理解しなかった非常に重大なあるものを啓示され、経験したように見受けられた。彼の声は弱っていた。彼はもはや、先刻のように叫ばなかった。その言葉には、何やら新しい調子が響いたが、それは諦めと、敗北と、屈服の調子であった。
陪審員諸君、このうえ私に何を言うことがありましょう――裁きの日が来たのです。私は自分の上に神の右手《めて》がおかれているのを感じています。道を踏み誤った人間の最後が来たのです! しかし、私は神の前に立っているような心持で、諸君に申します。『私は父親の血に対しては、――断じて無罪です!』なお最後に繰り返して言いますが、私が殺したのではありません! 私は道を踏み誤りましたが、善を愛していました。しじゅう正しい道に入ろうと努力しながらも、やはり野獣のような生活をしていました。私は検事に感謝します。検事は私について、自分でも知らないことをたくさん聞かしてくれました。しかし、私が親父を殺したというのは間違いです、それは検事の誤りです! 私はまた弁護士にも感謝します、あの弁論を聴きながら泣きました。が、私が親父を殺したというのは間違いです。あんなことは仮定さえする必要がありません! それから、医者の言葉も信じないで下さい。私は正気です。ただ心が悩んでいるだけなのです。もし諸君が私を赦して下さるなら、釈放して下さるなら、――私は諸君のために祈りをあげます。私は立派な人間になることを誓います、神の前で誓います。が、もし罰せられても、――私は自分の頭上で剣を折ります。剣を折って、その破片に接吻します! しかし、容赦して下さい。私の神を私から奪わないで下さい! 私は自分の性質を知っています、――私は神を怨むに相違ありません! 私の心は悩んでいます……容赦して下さい!」
 彼はほとんど倒れるように自分の席に着いた。その声は途切れがちで、最後の一句はやっとのことで言い終ったほどである。次に裁判長は問題の整理に着手して、原被両告に結論を求めた。しかし、筆者《わたし》は詳しいことを書くまい。最後に陪審員一同は立ちあがって、会議のために退廷しようとした。裁判長は非常に疲れていたので、『どうか、公平に熟議していただきたい。弁護士の雄弁にうごかされてはなりませぬぞ。しかし、とにかく慎重に考量審議して、諸君が偉大なる責任をおびていることを、お忘れのないように願います。云々』と弱々しい声で注意を与えた。陪審員が退廷した後、公判は休憩を宣せられた。傍聴者は席を立ったり、歩き廻ったり、山積した印象を話し合ったり、休憩室で食事したりすることができた。もうよほど遅くなって、ほとんど夜の一時に近かった。けれど、誰も帰ろうとするものはなかった。誰もかれも恐ろしく緊張して、帰って寝るどころではなく、胸をどきどきさせながら、待ち構えていた。とはいえ、みながみな胸を躍らせているわけではなかった。婦人たちはただもう待ち遠しさにやきもきしていたけれど、その胸は落ちついていた。『きっと無罪になる』とこう思っていたので、誰もかれも、満廷が熱狂する戯曲的な瞬間を待ち構えていた。正直なところ、男子席のほうでも、きっと無罪になるに相違ないと確信しているものが、ずいぶんたくさんあった。あるものは喜び、あるものは顔をしかめていたが、中にはただしょげ返っているものもあった。無罪にしたくなかったのである! フェチュコーヴィッチは成功を確信していた。彼は一同に取り囲まれて祝辞を受けていた。みんなしきりに彼の機嫌をとるのであった。
「弁護士と陪審員の間には、目に見えない糸が繋がっているものでしてね。」あとで聞いたところによると、フェチュコーヴィッチはあるグループでこう言ったそうである。「それはもう弁論の時に繋がれてしまうもので、ちゃんと予感することができますよ。私はそれを感じました、確かにありますよ。もうこっちのものです、ご安心なさい。」
「だが、あの百姓どもがこれから何と言うでしょうね?」一人のしかめ顔をした紳士が、ある紳士たちのグループに近づきながら、こう言った。それはでっぷり肥ったあばた面で、近郊の地主であった。
「でも、百姓だけじゃありませんよ。あの中には官吏が四人もいますからね。」
「そうです、官吏もいますよ」と郡会の議員が仲間に入りながら言った。
「だが、諸君はナザーリエフを、あのプローホル・イヴァーノヴィッチをご存じですか? あのメダルをつけた商人の陪審員ですよ。」
「それがどうしました?」
「素晴しい知恵者なんですよ。」
「でも、黙ってばかりいるじゃありませんか。」
「黙ってはいるが、あのほうがかえっていいですよ。あの男はペテルブルグに教えを乞わなくてもいいのです、自分のほうからペテルブルグ全体を教えるんですからね。あれは十二人からの子供をもっていますよ、どうです!」
「だが、どうでしょう、一たいあの連中は被告を無罪にしないでしょうかね?」また別なグループの中で、当地の若い官吏の一人がそう叫んだ。
「きっと無罪にするね」という断乎たる声が聞えた。
「無罪にしなければ恥辱ですよ、醜態ですよ!」と官吏は叫んだ。「かりに彼が殺したとしても、親父が親父ですからね! それに、被告はあんなに夢中になっていたのだから……彼は実際、杵を一ふり振っただけです。ところが、親父は倒れたんですよ。ただしこの際、下男などを引き合いに出したのはよくない。それは単に滑稽な挿話にすぎませんよ。私が弁護士の位置にいたら、殺したけれども、彼に罪はない、それだけの話だ、畜生! とこんなふうに言ってやりますがね。」
「だから、弁護士もそう言ったんですよ。ただ、『それだけの話だ、畜生!』とは言いませんでしたがね。」
「いや、ミハイル・セミョーヌイチ、ほとんど実際そう言いましたよ」と第三の声が合槌を打った。「大丈夫ですよ、諸君、当地では情夫の正妻の喉を斬った女優が、大斎期のときに無罪になりましたからね。」
「でも、斬ってしまったのじゃありませんよ。」
「同じこってすよ、同じこってすよ! どうせ斬りかけたんですからな。」
「だが、弁護士が子供のことを言ったあたりはどうです? 素晴しいものじゃありませんか!」
「素晴しいもんでしたね!」
「だが、神秘主義のことだってどうです、神秘主義のことだって、え?」
神秘主義のことなんかもうたくさんですよ」とまた誰かが叫んだ。「それよりイッポリートの身になってごらんなさい、イッポリートの今後の運命を想像してごらんなさい! 検事夫人は明日にもミーチャのことで、ご亭主の目を引っ掻きますからね。」
「細君もここへ来ていますか!」
「どうして来ているものですか? ここへ来ていたら、その場で引っ掻いてしまいますよ。歯が痛むって家におりますよ。へっ、へっ、へっ!」
「へっ、へっ、へっ!」
 もう一つのグループでは、
「だが、ミーチャは無罪になるかもしれませんよ。」
「用心していないと、明日は『都』がひっくり返るような騒ぎになって、十日くらい飲みつづけますぜ。」
「ええ、あん畜生!」
「畜生には相違ないが、畜生なしじゃすみませんよ。あの先生、あそこへ行かなくてどこへ行くもんですか。」
「諸君、それはまあ、確かに雄弁でしたろう。だが、親父の頭を桿秤《さおばかり》で打ち割るなんて、よくありませんな。そんなことを赦したら、世の中はどうなります!」
「でも、戦車はどうです、戦車は?」
トロイカを戦車に造り直しましたね。」
「だが、明日になると、戦車をまたトロイカに造り変えることでしょう、『必要に応じて』ね、『すべて必要に応じて』ね。」
「どうもすばしこい連中がふえてきましたよ。諸君、一たいわがロシヤには正義があるのでしょうか、それとも全然ないのでしょうか?」
 けれども、ベルが鳴った。陪審員はちょうどかっきり一時間、協議したのである。傍聴者がふたたび席に着いた時には、深い沈黙が法廷を支配していた。陪審員が法廷へ入って来た時の光景を筆者《わたし》は今でも記憶している。いよいよやって来た! 訊問をいちいち順を追うてあげるようなことはすまい。第一、そんなものは忘れてしまった。ただ筆者の記憶しているのは、『被告は強奪の目的をもって、予定の計画によって殺したのでしょうか?』という裁判長の主要な第一問に対する陪審員の答えだけである(もっとも、この問いも言葉どおりに憶えているわけではない)。あたりはしんと鎮まり返った。陪審員の主席は、一ばん年の若い官吏であったが、彼は死んだような法廷の静寂を破って、はっきりと声高に宣言した。
「さよう、有罪であります!」
 つづいて、他のあらゆる点に関しても、やはり同じく、有罪である、しかり、有罪である、という答えが繰り返された。しかも、それにはいささかの酌量もなかった。これは誰しも予期しないところであった。ほとんどすべてのものは、少くとも情状酌量くらいは信じていたのである。死んだような法廷の静寂は破られなかった。有罪を望むものも無罪を望むものも、いずれもまったく字義どおり化石したようになっていた。しかし、これはただ最初の間だけで、やがて恐ろしい混乱が起った。男子席のほうでは非常に満足しているものがたくさんあった。中には歓喜の情を隠そうとしないで、もみ手をしているものさえあった。不満な連中はおし潰されたように、肩をすぼめたり、囁き合ったりしたが、それでもまだ何のことやらはっきりわからない様子であった。ところで、婦人たちはどうかというと、筆者《わたし》は一揆でも起すのではなかろうかと思ったほどである。初め彼らは、自分の耳を信じないもののようであったが、やがてたちまち、『それは何ということです、一体まあ、何事です?』という絶叫が満廷に響き渡った。彼らはみな席を跳りあがった。彼らはきっと今すぐにも判決が取り消されて、もう一度やり直しになることと、信じきっていたに違いない。と、この瞬間、突然ミーチャは立ちあがって、両手を前へさし伸べながら、はらわたを断つような声でこう叫んだ。
「神とその恐るべき審判の日にかけて誓います。私は父の血に対して罪はありません! カーチャ、おれはお前を赦してやる! 兄弟よ、友よ、もう一人の女を憐れんでやって下さい!」
 彼はしまいまで言い終らないうちに、法廷一ぱいにひびくような声を立てて慟哭しはじめた。それは彼の不断の声と違った思いもよらぬ新しい声で、どうして彼に突然こんな声が出たのか、不思議なほどであった。すると、二階の一番うしろの隅から、たまぎるような女の泣き声が聞えた。それはグルーシェンカであった。彼女はさっき誰かに頼んで、弁論の始まる前に、また法廷に入れてもらったのである。ミーチャは法廷から曳き出された。判決の発表は明日まで延期された。法廷ぜんたいは上を下への大騒動になった。しかし、筆者《わたし》はもう外へ出ていたので、その騒ぎの声を聞かなかった。ただ玄関の出口へ来てから、耳についた幾つかの叫び声を記憶しているばかりである。
「二十年くらいは鉱山の臭いを嗅がなけりゃなるまいて。」
「まあ、そんなものだろう。」
「百姓どもが我を通したんだ。」
「そして、ミーチャを片づけてしまったんだ!」
[#改ページ]

[#1字下げ]第十三篇 エピローグ[#「第十三篇 エピローグ」は大見出し]



[#3字下げ]第一 ミーチャ救済の計画[#「第一 ミーチャ救済の計画」は中見出し]

 ミーチャの公判後、五日目の早朝まだ九時ごろに、アリョーシャはカチェリーナを訪れた。それは彼ら二人にとって重要な一つの事件について、最後の相談をしたうえ、ある依頼をはたすためであった。彼女は、いつぞやグルーシェンカの訪問を受けた時と同じ部屋で応接した。すぐ隣りの部屋には、譫妄狂にかかったイヴァンが、人事不省のまま横たわっていた。カチェリーナはあの公判のすぐあとで、意識を失った病めるイヴァンを、わが家へ運ばせたのである。彼女は、将来かならず起るべき世の取り沙汰や非難を、一さい無視していた。同居していた二人の親戚の婦人のうち、一人は公判が終るとすぐモスクワへ立ったが、一人のほうはまだ残っていた。しかし、たとえ二人とも立ってしまったにせよ、カチェリーナは自分の決心を変えず、病人の看護のため夜昼その枕べに侍していたことであろう。イヴァンはヴァルヴィンスキイとヘルツェンシュトゥベの治療を受けていた。モスクワの医師は、病気の結果を予言することを避けて、モスクワへ帰ってしまった。残っていた二人の医者は、カチェリーナとアリョーシャに力をつけてはいたものの、まだ確かな望みを与えることができないらしかった。アリョーシャは日に二度ずつ、兄の病床を見舞っていたが、今朝はとくべつ面倒なことがあって、やって来たのである。彼はその用事が切り出しにくいような気もしたが、しかし非常に心がせいていた。ほかにもまださし迫った用事があるので、急いでそちらへ廻らなければならなかった。二人はもう十五分くらい話をしていた。カチェリーナは蒼ざめ疲れていたが、同時にまた病的に興奮していた。今アリョーシャがとくに何の用事で訪ねて来たか、彼女はちゃんと察していたのである。
「あの人の決心のことでしたら、心配なさらなくってもよござんすわ」と彼女は語気を強めて、アリョーシャに言った。「どのみちあの人は、そうするよか仕方がないんですもの。逃げなけりゃなりませんわ! あの不幸な人は、あの名誉と良心の勇者は、――あの人じゃありません、ドミートリイ・フョードルイチじゃありません、この戸の向うに寝ている人です、兄さんのために自分を犠牲にした人ですの(とカチェリーナは目を輝かしながら、つけたした)。――あの人はもうとっくから、この逃亡の計画を、すっかりわたしに打ち明けてくれました。実はねえ、あの人はもう手を廻しておいたんだそうですの……あなたにも多少お話ししましたが……たぶんね、シベリヤへみんなと一緒に護送される時、ここから三つ目の駅で脱走させることになりましょう。ええ、それはまだだいぶさきのことですわ。イヴァン・フョードルイチはもうその三つ目の駅の駅長のとこへいらっしゃいました。ところが、護送隊の隊長はまだ誰だかわからないし、それに前から知ることができないんですの。たぶん明日になったら、くわしい計画書をお目にかけることができましょう。それは公判の前日イヴァン・フョードルイチが、まさかの時の用心に、わたしのとこへおいて行ったんですの……そうそう、あの時よ、憶えていらっしゃるでしょう、ほら、われしたちが喧嘩をしているとこを、あなたに見られましたわね。あの人が階段をおりて行こうとした時、ちょうどあなたがいらしったので、わたしあの人を呼び戻したじゃありませんか、覚えてらして? あの時、わたしたちがなぜ喧嘩していたか、あなたおわかりになって?」
「いいえ、わかりません」とアリョーシャは言った。
「あの人はむろんあの時あなたに隠していましたが、あの喧嘩はその脱走の計画から起ったことなんですの。あの人はあれから三日ほど前に、おもなことをすっかりわたしに打ち明けたので、――その時からわたしたちは喧嘩を始めましてね、それ以来、三日のあいだ喧嘩のしどおしでしたわ。なぜ喧嘩したかといいますとね、もしドミートリイさんが有罪になったら、あの売女《ばいた》と一緒に外国へ逃げるのだ、とこうあの人が言うもんですから、わたし腹を立ててしまったんですの、――なぜ腹を立てたかって、それは言えませんわ。わたし自身にもわからないんですもの……ええ、むろんわたしはその時あの女のために、あの売女のために怒ったんですわ。あの女もドミートリイさんと一緒に、外国へ逃げるっていうのが順にさわったんですの!」カチェリーナは憤りに唇を慄わしながら、だしぬけに叫んだ。「イヴァン・フョードルイチは、その時わたしが腹を立てたのを見て、すぐにわたしが嫉妬しているのだと思ったんですの。つまり、わたしがね、まだやはりドミートリイさんを愛していると思ったんですわ。それで、あの時はじめて喧嘩してしまったんですの。わたし弁解なんかしたくもなければ、また謝ることもできませんでした。イヴァン・フョードルイチのような人までが、わたしがまたもと通りドミートリイさんを愛してるように疑うなんて、本当に情けなくてたまりませんでしたわ……それも、わたしずっと以前に、ドミートリイさんを愛してはいない、ただあなた一人を愛してるきりだって、はっきりあの人に言っておいたんですものね! わたしはあの売女に対する憎しみのために、あの人に腹を立てたんですわ! その後三日たって、ちょうどあなたがいらしたあの夜、あの人はわたしのとこへ封をした手紙を持って来てね、もし自分に何事か起ったら、すぐこれを開封してくれ、って言うじゃありませんか。ええ、あの人は自分が病気になることを知ってたんですわ! あの人はね、その封筒の中に詳しい脱走の計画が入れてあるから、もし自分が死ぬか、それとも重い病気にでもなったら、わたし一人でミーチャを助けてくれ、と言うんですの。そのとき一万ルーブリばかりのお金を、わたしの手もとへおいて行きました。検事は誰かの口から、あの人がそのお金を両替えにやったのを聞きこんで、論告の時そのことを言いましたっけ。イヴァン・フョードルイチはね、まだわたしがミーチャを愛しているものと信じて、始終やきもきしているくせに、兄を救おうという考えを棄てないで、わたしに、当のわたしに向って、ドミートリイさんの救助を依頼なさるんですもの、これにはわたしもずいぶんびっくりさせられましたわ。ああ、それこそほんとうに犠牲ってもんですわ! いいえ、アレクセイさん、完全な意味の自己犠牲ってものは、とてもあなたおわかりになりゃしません! わたしは敬虔の念に打たれて、あの人の足もとに跪こうとまで思いましたが、そんなことをしては、ミーチャの助かるのを喜んでいるように思われはしないかと、ふとそう考えたものですから(あの人はきっとそう思うに違いありませんわ!)あの人がそういう間違ったことを考える可能性があると思っただけで、わたし急にいらいらしてきて、あの人の足に接吻する代りに、いやな場面を演じてしまったんですの。ああ、わたしは不幸な女ですわ! これがわたしの性質なんですもの、恐ろしい不幸な性質なんですもの! ええ、そうよ。わたしはこんなことをして、結局あの人に見棄てられてしまうに違いありません。あの人もドミートリイさんのように、もっと一緒に暮しいい女に見変えてしまいますわ、けれど、そうなったら……いいえ、そうなったら、わたしはとても我慢ができません、自殺してしまいます! ところで、あの時あなたが入ってらして、わたしがあの人を呼び戻したでしょう。その時、あの人があなたと一緒に入って来た時、さも憎々しそうな軽蔑の目つきで、ふいとわたしを見たので、わたし、急にむらむらとしてしまったんですの。だから、――憶えてらっしゃるでしょう、――ドミートリイさんが父殺しだと主張したのはあの人だ、『あの人ひとりです[#「あの人ひとりです」に傍点]』と、だしぬけにあんだに叫んだでしょう! わたしはもう一度あの人を怒らせようと思って、わざとあんなことを言ったんですわ。あの人は一度も、決して一度もミーチャが人殺しだなんて、主張したことはありません。それはかえってわたしなのよ。ええ、何もかも気ちがいじみたわたしのしたことですわ! 法廷であんな情けないことが起ったのも、みんなみんなわたしのせいですわ! あの人はね、自分は高潔な人間だ、たとえわたしがドミートリイさんを愛してても、復讐心や嫉妬のために兄弟を破滅させはしないってことを、わたしに証明しようとしたんです。だから、法廷へも出たわけですの……何もかもわたしがもとです、わたし一人が悪いんですわ!」
 はじめてカーチャの告白を聞いたアリョーシャは、いま彼女が非常な苦痛に悩まされていることを感じた。つまり、極度に傲岸な心が痛みを忍んで、その慢心を打ち砕こうとしながら、悲哀に敗れて、倒れんとしているのであった、今ミーチャが有罪になってから、彼女は一生懸命に隠そうと努めていたけれど、アリョーシャは彼女の恐ろしい苦痛の原因を、もう一つ知っていた。しかし、今もし彼女が進んで、それを打ち明けるほど屈辱に甘んじたなら、かえって彼のほうが苦痛を感ずるに違いなかった。彼女は法廷における自分の『裏切り』に苦しんでいるのであった。彼女の良心は、彼アリョーシャの前で、涙と号泣と煩悶と跪拝とともに、謝罪せよと命じている。それをアリョーシャは予感したのである。しかし、彼はその瞬間を恐れて、この苦しめる女を容赦したいと思った。したがって、自分の訪問の目的たる用件が、ますます切り出しにくくなったのである。彼はまたミーチャのことを言いだした。
「大丈夫です、大丈夫です、あの人のことは心配なさらないほうがよござんすわ!」とカーチャはまた頑固にきっぱり言った。「あの人がそんなことを言うのは、ほんの一時のこってすわ。わたしあの人の気性を知っていますもの。あの人の心をよく知っていますもの。安心して下さい。あの人は脱走に同意しますわ。それに、第一、今すぐじゃありませんから、あの人もまだゆっくり決心する暇があります。それまでには、イヴァン・フョードルイチも達者になって、自分ですっかり取り計らいをするでしょう。そうすれば、わたしはもう何もしなくたってよくなりますわ。ご心配はいりません、きっと同意しますから。それに、あの人はもう同意してらっしゃるんですよ。一たいあの女を残して行けますか? ところが、あの女が懲役へやられる気づかいはないから、あの人も逃げるよりほか仕方がないじゃありませんか。ただ、あの人はあなたを怖がっているんですの。あなたが道徳上の立場から、脱走に賛成しないのじゃあるまいかと、それを怖がってるんですよ。もしこの場合、それほどあなたのご裁可が必要なんでしたら、あなたも寛大にそれを『許し』ておあげにならなくちゃいけませんわ」と、カーチャは皮肉につけ加えた。
 彼女はちょっと口をつぐんで、薄笑いをもらした。
「あの人はあそこでね」と彼女はまた言いだした。「頌歌《ヒムン》がどうだの、自分の負わなければならない十字架がどうだの、義務がどうだのって講釈してるんですの。イヴァン・フョードルイチはあの時分、よくわたしにこの話をしましたわ。もしあなたがあの人の話しぶりをご存じでしたらねえ!」彼女は感にたえたように、にわかにそう叫んだ。「あの人は、あの不幸なミーチャのことをわたしに話しながら、どんなにかミーチャを愛していたでしょう! しかも、それと同時に、またどんなにミーチャを憎んでいたでしょう! それをあなたがご存じでしたらねえ! ところが、わたしは、ああ、わたしはそのとき傲慢にも、あの人の話やあの人の涙を、冷やかしながら聞き流したんですの! ああ、売女《ばいた》! わたしこそかえって売女ですわ! わたしがそんなふうにしたために、あの人は譫妄狂にかかったんですわ! ですが、あの人は、有罪を宣告されたほうの人は、――一たい痛苦を受ける覚悟ができてるんでしょうか」とカチェリーナはいらだたしげに言葉を結んだ。「あんな人に苦しむことができるでしょうか? あんな人間は決して苦しみゃしませんわ!」
 この言葉には一種の憎悪と、忌わしげな侮蔑の心持が響いていた。けれども、同時に、彼女自身それを裏切ったのである。『いや、ことによったら、ミーチャに対してすまないという気がするものだから、そのために、ある瞬間ミーチャを憎むのだろう』とアリョーシャは肚の中で考えた。彼はこれがどうか『ある瞬間』だけであってほしいと思った。彼はカチェリーナの最後の言葉の中に、一種の挑戦の語調を聞いたが、それには応じなかった。
「で、わたしが今日あなたを呼んだのはね、あの人を説きつけるって約束していただくためですの。あなたのお考えでは、脱走するってことは潔白でない、卑怯な……そして、何と言いますか……非キリスト教的なことでしょうか、え?」カチェリーナはさらに挑むような語調で、こうつけ加えた。
「いいえ、決してそんなことはありません。私は兄にすっかり言います……」とアリョーシャは呟いた。「兄は今日あなたに来ていただきたいと言ってましたよ。」彼はしっかりカチェリーナの目を見つめながら、とつぜん叩きつけるようにこう言った。
 彼女はぴくりと身ぶるいして、長椅子に腰かけたまま、少し体をうしろへよろめかした。
「わたしに……わたしにそんなことができて?」と彼女は顔を真っ蒼にして囁いた。
「できますとも。それに、ぜひそうしなければならないことです!」アリョーシャは声を強めて、急に満面活気を呈しながら言った。「兄はぜひ、あなたに会わなきゃならない必要があるんです。それもとくに今です。もしその必要がなければ、こんなことを言いだして、前もってあなたを苦しめはしないはずです。兄は病気なのです。まるで気ちがい同然になっています。そして始終あなたに来ていただきたいと言っているのです。兄は、仲直りのために来ていただきたいと言うのじゃありません。ただあなたがあそこへ行って、閾の上からでもちょっと顔を見せてやって下されば、それでいいのです。兄もあれ以来ずいぶん変りました。あなたに対して数えきれないほど罪があることも悟りました。あなたに赦しを乞おうというのではありません。『おれなんかとても赦してもらえる人間じゃない。』兄は自分でもそう言ってるくらいです。まあ、ただあなたが閾の上に顔を出して下さればいいのです……」
「だって、あまりふいですから……」とカチェリーナは呟いた。「わたしはこの間から、あなたがそう言いにいらっしゃるような気がしていたんですの……あの人がわたしを呼ぶってことは、もうちゃんとわかっていましたわ……でも、そりゃ駄目ですわ!」
「できないことかもしれませんが。まげてそうしていただきたいのです。ねえ、こうなんです、兄は今はじめて、あなたを侮辱したことに気がついて、びっくりしているのです。ほんとに初めて気がついたのです。今までこれほど完全に悟ったことはないのです! もしあなたが来て下さらなければ、『一生不幸でいなければならない』とこう兄は言っています。ねえ、お聞き下さい、二十年の懲役を宣告された兄が、まだ幸福でいようと思ってるんですからね、――可哀そうじゃありませんか? 考えてもごらんなさい、あなたは罪なくして滅びたものを訪問なさるのです」とアリョーシャは思わず挑むように口走った。「兄には、犯した罪がないのです、兄の手は血に染んでいません! これから忍ばねばならぬ数限りない苦痛のために、あの人を訪問してやって下さい……出かけて行って、兄を闇の中へ見送って下さい……闇の上にだけでも立って下さい……あなたにはそうする義務があります、そうする義務があります[#「義務があります」に傍点]!」アリョーシャは『義務があります』という言葉に無量の力をこめて言った。
「義務はあるでしょう……けれど……わたしには行けませんわ……」とカチェリーナは呟くように言った。「あの人はわたしを見るでしょう……わたしたまりません。」
「あなた方二人の目は、もう一ど合わなけりゃなりません。もし今その決心をなさらなければ、あなたは一生涯くるしむことになりますよ。」
「一生涯くるしんだほうがよござんすわ。」
「あなたは行く義務があります、義務があります[#「義務があります」に傍点]。」アリョーシャは命ずるように、力を入れてふたたび言った。
「でも、なぜ今日でなければならないんですの、なぜ今でなければ……わたし病人を棄てて行くことはできませんわ……」
「ちょっとの間ならいいじゃありませんか、ほんのちょっとですもの。もし、あなたが行って下さらなければ、兄は今晩、熱病になってしまいます。私は間違ったことを言やしません。可哀そうだと思って下さい!」
「わたしこそ可哀そうだと思って下さい」とカチェリーナは咎めるように言って、悲しそうに泣きだした。
「じゃ、行って下さるんですね!」アリョーシャは相手の涙を見ながらも、頑固に言いはった。「私は一足さきに行って、今あなたがいらっしゃるって、兄にそう言っておきましょう。」
「いいえ、そんなことは決して言わないで下さい!」と、カチェリーナはびっくりして叫んだ。「わたし行きますわ。だけど、前からそんなことを言うのはよして下さい。なぜって、わたし行っても、中へ入らないかもしれませんもの……どうするかまだわかりませんもの……」
 彼女の声は途切れた。彼女は呼吸が苦しそうであった。アリョーシャは出て行こうとして立ちあがった。
「でも、誰かに会やしないでしょうか?」彼女はまたもや真っ蒼になって、小声にこう言った。
「だから、今すぐ行っていただきさえすれば、あそこで誰にもお会いになる心配はありませんよ。誰も来やしません、本当ですよ。お待ちしています」とアリョーシャは念を押して、部屋を出た。

[#3字下げ]第二 嘘が真になった瞬間[#「第二 嘘が真になった瞬間」は中見出し]

 アリョーシャは、ミーチャの寝ている病院さして急いだ。判決の翌日、ミーチャは神経性の熱病にかかって、当地の町立病院の囚人部へ送られたのである。しかし、アリョーシャやその他多くの人々(ホフラコーヴァやリーザなど)の願いによって、医師のヴァルヴィンスキイはミーチャをほかの囚人と同居させずに、特別の計らいで、以前スメルジャコフの寝ていた小部屋へ入れた。むろん、廊下の端には番兵が立って、窓は格子づくりになっていたので、ヴァルヴィンスキイもこの規則に反した寛大な処置のために、心配することはいらなかった。彼は善良な同情ぶかい青年であった。彼はミーチャのような人間にとって、とつぜん人殺しや詐欺師の仲間入りをするのが非常につらいものだということを知っていたので、まずあらかじめそれに慣れさせようと思ったのである。親みや知人などの訪問も、医者、監視人にはもちろん、署長にさえ内々ゆるされていた。けれど、近頃ミーチャを訪ねるものは、ただアリョーシャとグルーシェンカだけであった。ラキーチンも二度ばかり面会を強要したが、ミーチャはヴァルヴィンスキイに頼んで通させなかった。
 アリョーシャが入って行った時、ミーチャは病院のガウンを着て、醋酸水で濡らしたタオルを頭に巻きつけたまま、寝台の上に坐っていた。彼はとりとめのない目つきで、入って来たアリョーシャを見たが、それでも目の中には、一種の恐怖ともいうべきものがひらめいていた。
 一たい彼は裁判の当日から、ひどくふさぎ込んでしまったのである。どうかすると、三十分くらい黙り込んで、しきりに何やら思い悩みながら、眼前にいる人のことも忘れてしまうような工合であった。よし沈黙を破って、自分のほうから口をききはじめても、いつも必ずだしぬけで、本当に必要のないようなことを言うのがきまりであった。また時としては、苦しそうな顔つきをして、アリョーシャを見ることもあった。彼はアリョーシャより、グルーシェンカと一緒にいるほうが楽なようであった。もっとも、グルーシェンカとはほとんど口をきかなかったが、彼女が入って来さえすれば、彼の顔は喜びに輝くのであった。アリョーシャは、寝台に坐っているミーチャのそばへ、黙って腰をおろした。この日ミーチャは、不安な心持でアリョーシャを待っていたが、思いきって何も訊く勇気がなかった。カチェリーナが訪問を承諾しようとは、思いもかけないのであった。同時に、もし彼女が来なければ、何かとんでもないことが起るに相違ない、と感じていた。アリョーシャには兄の心持がよくわかった。
「トリーフォンがね」とミーチャはそわそわ言いはじめた。「ボリースイチがね、自分の家をすっかり荒してしまったそうだよ。床板を上げたり、羽目板を引っぺがしたり、『廊下』を残らずばらばらにしたそうだ、――検事が、あそこに例の千五百ルーブリが隠してあると言ったものだから、その金を捜し出そうとしているんだ。帰るとすぐ、そんな馬鹿なことを始めやがったんだそうだ。悪党め、いい気味だ! ここの番兵がきのうおれにそう言ったんだ。あそこから来たものだからな。」
「ねえ、兄さん」とアリョーシャは言った。「あのひとは来ますよ。けれど、いつかわからないんです。今日か、それとも二三日のうちかわかりませんがね、来ることは確かに来ますよ。」
 ミーチャは身ぶるいして、何か言おうとしたが、そのまま黙ってしまった。この報知がひどく彼にこたえたのである。彼はアリョーシャとカチェリーナとの対話を、くわしく知りたくってたまらないくせに、今それを訊くのを恐れているらしかった。もし何かカチェリーナの残酷な、軽蔑するような言葉でも聞いたら、それはこの瞬間、剣のように彼を刺すに相違ないからである。
「あのひとはいろんな話のうちに、こんなことを言いましたよ。どうかぜひ脱走のことで兄さんの良心を安めていただきたいって。もしその時までにイヴァンが全快しなかったら、あのひとが自分で引き受けて手はずするそうです。」
「それはもうお前に聞いたよ」とミーチャはもの思わしげに言った。
「じゃ、兄さんはグルーシャにこの話をしましたか」とアリョーシャは言った。
「言ったよ」とミーチャは白状した。「あれは今朝来ない」と彼はおずおず弟を見た。「晩でなけりゃ来ないんだよ。おれが昨日あれに向って、カチェリーナがいろいろ世話してくれるって言ったらね、あれは黙って唇を歪めたよ。そして、ただ『勝手にさしておくがいいわ!』と言ったきりさ。重大なことだとは合点したらしいが、おれはそのうえ探ってみる勇気がなかったんだ。あれも今ではわかってるらしいんだ、カチェリーナが愛してるのは、おれでなくってイヴァンだってことがね。」
「わかってるでしょうか?」とアリョーシャは思わず口走った。
「あるいはそうでないかもしれん。なにしろ、今朝は来ないからな」とミーチャはまた急いで念を押した。「おれはあれに頼んでおいた……ことがあるんだがなあ……おい、イヴァンは兄弟じゅうで一番えらくなるよ。あれは生きて行く必要があるが、おれたちはどうでもいいんだ。大丈夫イヴァンは全快するよ。」
「どうでしょう、カチェリーナさんもイヴァン兄さんのことを心配していますが、しかし兄さんはきっと全快すると信じていますよ」とアリョーシャは言った。
「それがつまり、死ぬものと思い込んでる証拠なんだよ。ほんとのことを思うのが恐ろしさに、全快するものと信じようとしてるんだ。」
「でも、兄さんは体質がしっかりしてるんですからね。私は全快するだろうとあてにしています」とアリョーシャは心配そうに言った。
 沈黙がつづいた。ミーチャは何か重大な問題に悩まされていた。
「アリョーシャ、おれはね、非常にグルーシャを愛しているんだ。」彼は涙に満ちたふるえ声で、突然こんなことを言いだした。
「でも、あのひとはあそこ[#「あそこ」に傍点]へやってもらえないでしょうね。」アリョーシャはすぐに兄の言葉を受けて、こう言った。
「いや、おれはまだ、お前に言いたいことがあるんだ。」とつぜん、声に妙な響きを立てはじめながら、ミーチャは語りつづけた。「もし途中か、それともあそこ[#「あそこ」に傍点]で、役人どもに撲られでもしたら、おれは承知しないだろう。おれはそいつを殺して、自分も銃殺されるだろう。なにしろ、そういうことが二十年もつづくんだからなあ! ここでも、もうおれのことを、『貴様』と言いやがる。看守たちがおれを『貴様』と言うんだ。おれは昨夜も寝てから夜っぴて考えたが、どうもまだおれは覚悟がたりない! まだ諦めきれないんだ! おれは『頌歌《ヒムン》』を歌いたいと思ったが、しかし看守どもにこづき廻されるのは、我慢がならないんだ! グルーシャのためなら何でも我慢する……何でも……しかし、撲られることだけは別だ……だが、あれはあそこ[#「あそこ」に傍点]へやってもらえないよ。」
 アリョーシャは静かに微笑した。
「ねえ、兄さん、私はそのことについて」と彼は言った。「も一度だけ、あなたに言いますが、私が嘘を言わないことはご承知でしょう。ねえ、兄さん、あなたはまだ修業がたりないんです。そんな十字架はあなたに背負いきれません。そればかりでなく、そんな偉大な苦難の十字架は、修業のたりないあなたに不必要です。もしあなたが実際お父さんを殺したのなら、あなたが十字架を逃れようとなさるのを、私も悲しむかもしれません。けれど、あなたは無罪なんです。そんな十字架はあなたにとって重すぎます。あなたは苦痛によって、自分の内部にいる第二の人間をよみがえらせようと思ったのでしょう。私の考えでは、たとえあなたがどこへ逃げていらっしゃろうとも、その第二の人間のことを忘れないようにしたら、それで兄さんはたくさんだと思います。あなたがこの十字架の苦痛を受けなかったということは、自分の内部にもっと大きな責任を感じる機縁となります。そうして、この不断の感じは、将来あなたの生涯において、新しい人間の出生を助けましょう。ことによったら、あそこ[#「あそこ」に傍点]へいらっしゃるより、もっといいかもしれません。なぜって、あそこへ行ったら、あなたは我慢しきれないで、かえって神様に不平を起し、しまいには『おれは勘定をすました』という気がしてくるに違いないからです。実際そこのところは、弁護士の言ったとおりです。誰だってみながみな、そんな重荷を背負えるものじゃありません。人によっては、金輪際不可能な場合もあります……どうしても私の考えを聴きたいとならば、まあ今いったようなものですね。もし兄さんが脱走したために、ほかの人が、例えば、護送の将校や兵卒が責任を負うようなら、私も脱走を『許しはしない』ですがね」と言ってアリョーシャは微笑した。「しかし(これは例の三つ目の駅長がイヴァン兄さんに言ったことですが)、うまくやりさえすれば、大した問題にならないで、ごく簡単な罰ですむだろうという話です。むろん、賄賂を使うのはよくないことです、こんな場合だってよくないにきまってるんですが、私はもう一さい理窟を言いません。ですから、もしイヴァン兄さんとカチェリーナさんが、あなたのために万事とり計らってくれと頼んだら、私は出かけて行って、賄賂を使うに相違ありません。これは正直にありのままを言わなければなりません。だから、私にあなたの行為を裁く資格はありません。けれど、お断わりしておきますが、私は決して兄さんを責めやしません。それに、私がこの事件であなたの裁判官になるなんて、変な話じゃありませんか? さあ、これで何もかもすっかり洗い上げたようですね。」
「だが、その代り、おれは自分で自分を責めてるんだ!」とミーチャは叫んだ。「おれは脱走するつもりだ。これはお前に相談する前から、自分でちゃんと決めていたのだ。ミーチャ・カラマーゾフが、どうして逃げずにいられよう? が、その代りおれは十分自分を責めて、あそこへ行っても永久に、罪障の消滅を祈るつもりだ! こう言うと、何だかゼスイット派の言い草のようだな……これじゃおれもお前も、どうやらゼスイットめくようだな、え?」
「そうですね」とアリョーシャは静かにほお笑んだ。
「おれはお前が、いつも本当を言って、一さい隠し立てをしないから好きだよ!」と嬉しそうに笑いながら、ミーチャは叫んだ。「つまりおれは、わがアリョーシャがゼスイットだ、という尻尾を押えたわけなんだな! こいつはお前にうんと接吻しなけりゃならない! さあ、そこで、そのあとを聞いてくれ、おれは自分の魂のあと半分も、お前にひろげて見せよう。おれの決心というのはこうなんだ。おれはたとえ金と旅行券を持って、アメリカへ逃げても、喜びを得るのでもなければ、幸福を受けるのでもなく、まったく別な懲役へ行くのだと考えて、自分で自分を励ましているんだ。まったくシベリヤよりもっと悪いかもしれないよ! ずっと悪いよ、アレクセイ、正直な話、ずっと悪いよ! おれはあのアメリカって国が、今でも厭でたまらないんだよ。よしグルーシャがおれと一緒に行くにしてもだ。第一、あれを見るがいい、一たいあれをアメリカの女と思えるかね! あれはロシヤ女だ。あれは徹頭徹尾、ロシヤ女だ。あれは母なるロシヤを慕って、懐郷病にかかるに相違ない。で、おれは二六時中、あれがおれのためにくよくよして、おれのために十字架を背負っているのを、見なけりゃならん。ところが、あれに何の罪があるんだろう? それにおれだって、どうしてアメリカの俗物どもと一緒に暮して行かれよう? やつらは一人残らず、みなおれよりいい人間かもしれないが、しかしやはり俗物なんだ。今からもうおれはアメリカが厭でたまらないんだ! たとえやつらが一人残らず、みんな立派な技師であろうと、そのほか何であろうとかまやしない、やつらは決しておれの仲間じゃない、おれの魂の友じゃない! おれはロシヤを愛してる、アレクセイ、おれ自身は悪党だが、しかしおれはロシヤの神を愛してるんだ! いや、おれはたぶんあそこでくたばるだろうと思ってるよ!」彼は急に目を輝かしてこう叫んだ。
 彼の声は涙のためにふるえた。
「それでね、アレクセイ、おれの決心はこうなんだ、まあ聞いてくれ!」と彼は心の惑乱を抑えつつ、言葉をついだ。「グルーシャと二人で向うへ着くと、――そこですぐ、どこか人里はなれた遠いところへ行って、熊を相手に百姓をするつもりなんだ。あそこにはまだどこかに、人里はなれたところがあろうじゃないか! 何でも人の話じゃ、あそこにはどこか地平線の果てのほうに、まだ赤色インド人がいるそうだ。おれたちはそこまで、最後のモヒカン族の国までも行くつもりなんだ。そして、おれもグルーシャも、すぐ文法の勉強にかかるのさ。三年間、働きながら文法を勉強する。そして、どんな英国人にくらべても負けないくらいに、英語を覚え込むんだ。英語を覚えこんだら、もうアメリカにはおさらばだ! そして、アメリカ人になりすまして、ふたたびこのロシヤヘ帰って来る。心配するにゃおよばんよ、この町へは来やしないから。北か、それとも南の、どこか遠い田舎へ隠れるんだ。それまでにはおれも変るし、あれだってやはり変るだろう。アメリカの医者に頼んで、顔に疣か何かこしらえてもらうさ。そりゃあ機械家だから、それくらい何でもないさ。でなけりゃ、片目を潰して、一アルシンも髯を伸ばすさ。白い髯をな(ロシヤこいしさに、髯も白くなるだろうよ)。――そうすりゃ、誰にもわかりゃすまい。もし見つかったら、またシベリヤへやられるまでさ、つまり運がないのだからな。とにかく、帰って来て、どこかの片田舎で百姓をするよ。そして一生涯、アメリカ人で通すよ。その代り、故郷の土に骨を埋めることができるわけだ。これがおれの計画だ。決して変改しやしない。お前、賛成するかね?」
「賛成します」とアリョーシャは言った。兄に反対するのを望まなかったのである。
 ミーチャはしばらく沈黙の後、また喋りだした。
「だが、やつらが公判で仕組んだことはどうだ? なんてやり方だろう!」
「仕組まなくたって、やっぱり有罪になったんですよ!」とアリョーシャはため息をついて言った。
「そうだよ。おれは、この町の人たちに飽きられたんだよ。まあ、勝手にしろ、もうつくづく厭になった!」とミーチャは苦しそうに呻いた。
 また二人はしばらく黙っていた。
「アリョーシャ、今すぐおれにとどめを刺してくれ!」と彼は急に叫びだした。「あれはもうすぐ来るかね、どうだね、聞かせてくれ! あれは何と言ったい? どう言ったい?」
「来るとは言いましたが、今日かどうかわかりません。あのひとも苦しいんですよ!」アリョーシャはおどおどした目つきで兄を見た。
「ふん、そりゃあたりまえだよ、苦しくなくってどうする! アリョーシャ、おれはそれを思うと気が狂いそうだ。グルーシャは始終おれを見ていて、おれの心持を悟っている。ああ、神様、私を落ちつかせて下さい。私は何を求めているのでしょう? おれはカーチャを求めているんだ! 一たいおれは正気なんだろうか? それはカラマーゾフ式の呪うべきがむしゃらのためだ! そうだ、おれは苦しむ資格のない男だ! みなが言うとおり、おれは陋劣漢なんだ! それっきりだ!」
「あ、あのひとが来ました!」とアリョーシャは叫んだ。
 この瞬間、カーチャがとつぜん閾の上に姿を現わした。と、たちまち彼女は途方にくれたような目つきで、ミーチャを見ながら立ちどまった。ミーチャはつと立ちあがった。その顔には驚愕の色が現われていた。彼はさっと蒼くなったが、すぐにおずおずした、哀願するような微笑が、唇の上に閃めいた。と思うと、彼はいきなりわれを忘れて、カーチャのほうへ両手を伸ばした。それを見ると、カーチャもさっと男のそばへ駈け寄って、男の両手をつかみ、おしつけるように寝台の上に腰をおろさせ、自分もそのそばに坐った。彼女はいつまでもその手を放さないで、しっかりと痙攣的に握りしめた。二人は幾度か何やら言いだそうとしては、またやめて、じっと黙ったまま、妙な微笑を浮べながら、吸い着けられでもしたように、互いに顔を見合せていた。こうして、二分間ばかり過ぎた。
「赦してくれたのかね、どうだね?」ミーチャはついにこう呟いた。と、同時にアリョーシャを顧みて、嬉しさのあまり顔を歪めながら叫んだ。
「お前にはわかるだろうね、おれが何を訊ねてるか! わかるだろう?」
「だから、わたしはあなたを愛したのよ、あなたはほんとに寛大な人なんですもの!」突然、カーチャはこう叫んだ。「それに、わたしがあなたを赦すことなんかありませんわ。かえってわたしこそ、あなたに赦していただかなくちゃならないんですもの。でも、赦されても赦されなくっても、――あなたって人は、わたしの心の中で、永久に傷あととして残りますわ。そして、わたしもやはりあなたの心の中にね、――そうなくちゃなりませんわ……」
 彼女は息をつぐために言葉を切った。
「わたし何のために来たんでしょう?」彼女はまた興奮して、早口に言いはじめた。「あなたの膝に縋りつくためですわ、あなたの手を握りしめるためですわ。こんなに堅く、痛いほど、――ね、憶えてらして? モスクワでも、こんなにあなたの手を握りましたわね、――そして、また、あなたがわたしの神様で、わたしの喜びだってことを、また改めて言うためですわ、わたしが気ちがいになるほどあなたを愛してるってことを、あなたに言うためなんですわ。」彼女は苦しげに、呻くようにこう言って、いきなり貪るように、男の手に唇をおしつけた。
 彼女の目からは涙がほとばしり出た。アリョーシャは無言のまま、ばつの悪そうな様子で立っていた。彼はいま目の前に見たようなことが起ろうとは、夢にも予期していなかったのである。
「ミーチャ、恋は過ぎ去りましたわ!」とまたカーチャは言いだした。「けれど、その過ぎ去った思い出が、わたしには苦しいほど大切なのよ。このことはいつまでも憶えていてちょうだい。けども、今ほんの一分間だけ、できるはずでできなかったことを、実現さしてもいいわねえ」と彼女は歪んだような微笑を見せながら囁いて、また悦ばしそうにミーチャの顔を見た。「今ではあなたもほかの女を愛してらっしゃるし、わたしもほかの男を愛していますけど、それでもわたしはやはり、永久にあなたを愛しますし、あなたもわたしを愛して下さるわね。わかって? ねえ、わたしを愛してちょうだいな、一生涯愛してちょうだいな!」何かほとんど威嚇するように声をふるわしながら、彼女はこう叫んだ。
「愛するよ、そしてね……知ってるかい、カーチャ」とミーチャは一ことごとに息をつぎながら言った。「僕は五日前のあの時も、あの晩も、お前を愛していたんだよ……お前が卒倒して連れ出されたあの時さ……一生涯! そうだとも、一生涯かわりゃしない……」
 彼ら二人はほとんど無意味な、気ちがいじみたことを囁き合った。その言葉は正直でなかったかもしれない。が、少くともその瞬間だけは真実であった。彼ら自身も自分の言葉をたあいもなく信じていた。
「カーチャ」とミーチャはふいに叫んだ。「お前は僕が殺したと信じているのかね? いま信じていないことはわかっているが、あの時……お前があの証言をした時さ……一たい、一たいあの時そう信じていたのかい?」
「あの時も信じてやしなかったわ! 一度も信じたことはないわ! あなたが憎くなったものだから、急に自分で自分にそう信じさせてしまったの、あの瞬間にね……申し立てをした時には……一生懸命そう信じようとして信じたけれど……申し立てを終ると、もうすぐ信じられなくなってしまったのよ。本当よ。ああ、忘れていた、わたしは自分を罰しようと思って、ここへ来たのに!」彼女は急に今までの恋の囁きとはうって変った、まるで新しい口調でこう言った。
「女よ、なんじの苦痛や大ならん!」とミーチャはわれ知らず口走った。
「もうわたしを帰してちょうだい」と彼女は囁いた。「また来ますわ、今は苦しくって……」
 彼女は立ちあがったが、突然あっと高く叫んで、たじたじと後へしさった。ふいにグルーシェンカが音も立てず、部屋の中へ入って来たのである。それは誰しも思いがけないことであった。カーチャはつかつかと戸口のほうへ行ったが、グルーシェンカとすれ違うとき、急に立ちどまった。そして、白墨のように真っ蒼になって、静かに囁くように言った。
「わたしを赦して下さいな!」
 こっちはじっとカーチャを見つめていたが、ちょっと間をおいて、憎悪にみちた毒々しい語調で答えた。
「お互いに悪いのよ! お前さんもわたしも二人とも意地わるだからね! 赦すたって、どっちが赦すんだろう、お前さんなの、それともわたしなの? まあ、あの人を助けてちょうだい。そうすりゃ、わたしは一生涯、お前さんのために祈ってあげるわ。」
「お前は赦したくないと言うんだな!」ミーチャは気ちがいじみた声で、グルーシェンカをなじった。
「心配しないがいいわ、わたしきっとこの人を助けてあげるから!」カーチャはこう囁くと、いきなり部屋の外へ駈け出してしまった。
「お前はあれを赦してやることができないのか。あれのほうからさきに『赦してくれ』と言ったんじゃないか」とミーチャはまた悲痛な声で叫んだ。
「ミーチャ、このひとを責めちゃいけません。あなたにはそんな権利はないのです!」とアリョーシャは熱くなって兄に言った。
「あんなことを言ったのは、高慢な女の口さきばかりなのよ、しんからじゃないわ」とグルーシェンカは忌わしそうに言った。「もしお前さんを助け出したら、――そしたらすっかり赦してやるわ……」
 彼女は心の中の何ものかを抑えつけるように、そのままおし黙ってしまった。彼女はまだ平静に返ることができなかったのである。あとでわかったことだが、彼女はこの時まったく偶然に入って来たので、ああいうことに出くわそうとは、まるっきり予想しなかったのである。
「アリョーシャ、あれのあとを追っかけてくれ!」ふいにミーチャは弟にこう言った。「そして、あれに言ってくれ……どう言ったものかなあ……とにかく、このままあれを帰さないでくれ!」
「晩までにまた来ますよ!」アリョーシャはこう言って、カーチャのあとを追って行った。
 彼は病院の塀外でカチェリーナに追いついた。彼女は急ぎ足に歩いていたが、アリョーシャが追いつくやいなや、早口に言いだした。
「いいえ、わたしあの女の前で自分を罰することなんかできません! わたしがあの女に『赦して下さい』と言ったのは、どこまでも自分を罰しようと思ったからですわ。それだのにあの女は赦してくれません……わたし、あの女のああいうところが好きですわ!」とカーチャはいびつな調子でつけ加えた。その目はなまなましい憎悪に輝いた。
「兄はこんなことになろうとは、夢にも思わなかったのです」とアリョーシャは呟いた。「兄はあのひとが来やしないと思ったので……」
「それはそうでしょう。ですが、そんな話はもうよしましょう」と彼女は遮った。「ねえ、わたしもうあの葬式へ、ご一緒に行くことができなくなりましたわ。わたしはお供えの花だけ届けておきました。お金はまだあるでしょうね。でも、もし入り用でしたら、わたしはさきざき決してあの人を捨てないって、そう言ってちょうだいね……さあ、もうお別れしましょう、さあ、どうか行って下さい。あなたももう遅くなりましたわ、午後の祈祷の鐘が鳴っています……どうか行って下さい!」

[#3字下げ]第三 イリューシャの埋葬[#「第三 イリューシャの埋葬」は中見出し]
[#6字下げ]アリョーシャの別辞[#「アリョーシャの別辞」は中見出し]

 実際もう遅かった。向うではみんな彼を待っていたが、とうとう待ちきれなくなって、花で飾られた綺麗な柩を、会堂へ運ぶことに決めていた。それは哀れな少年イリューシャの柩であった。彼はミーチャが宣告されてから、二日たって死んだのである。アリョーシャが門のそばまで行くと、イリューシャの友達の子供らは、歓呼の声をあげて出迎えた。長い間まちあぐんでいた一同は、彼が来たのを非常に喜んだのである。少年たちは十二人ばかり集っていたが、みな背嚢を負い、鞄をかけていた。『お父さんがさぞ泣くだろう。どうかお父さんのそばにいてあげてちょうだい。』イリューシャがかつてみなにこう言ったことがあるので、彼らはこの言葉をおぼえていたのである。少年たちはコーリャ・クラソートキンに引率されていた。
カラマーゾフさん、僕はあなたが来て下すったので、どんなに嬉しいかしれませんよ!」とコーリャはアリョーシャに手をさし伸べながら叫んだ。「この家は実に悲惨ですね。まったく見ていられないくらいですよ。スネギリョフも今日は酔っていませんよ、あの人がきょう少しも飲まなかったのは、僕たちもちゃんと知っているんだけど、あの人はまるで酔っ払いみたいです……僕大ていのことなら驚かないけれど、これは本当に恐ろしい。カラマーゾフさん、もしご迷惑でなかったら、一つ訊いておきたいことがあるんですよ、あなたが家へお入りになる前にね。」
「コーリャ、それは何のこと?」アリョーシャはちょっと立ちどまった。
「あなたの兄さんは罪があるんですか、それともないんですか? お父さんを殺したのは、兄さんですか? 下男ですか? 僕たちはあなたのおっしゃることを本当にします、話して下さい。僕はこのことを考えて、四晩も眠らなかったんですよ。」
「下男が殺したんです。兄に罪はありません」とアリョーシャは答えた。
「僕もそうだと思ってるんです!」スムーロフという少年が、だしぬけにこう叫んだ。
「そうしてみると、あの人は正義のために、無辜の犠牲として滅びるんですね」とコーリャは叫んだ。「でも、たとえ滅びても、あの人は幸福です! 僕はあの人を羨ましく思います!」
「君は何を言うんです? どうしてそんなことが? 何のためです?」とアリョーシャはびっくりして叫んだ。
「でも、僕はいつか正義のために、自分を犠牲にしたいと思ってるんですもの」とコーリャは狂熱的にそう言った。
「しかし、こんなことで犠牲になるのは、つまりませんよ、こんな恥さらしな、こんな恐ろしい事件なんかで!」とアリョーシャは言った。
「むろん……僕は全人類のために死ぬことを望んでるんです。でも、恥さらしなんてことは、どうだってかまいません、僕らの名なんか、どうなったってかまやしない。僕はあなたの兄さんを尊敬します!」
「僕も尊敬します!」ふいに群の中の一人がこう叫んだ。それは、かつてトロイの創建者を知っていると言った、あの少年であった。彼はこう叫ぶと同時に、やはりあの時のように、耳のつけ根まで牡丹のように赤くなった。
 アリョーシャは部屋へ入った。白い紗で飾られた空色の柩の中には、両手を組み合せ、目を閉じたイリューシャが横になっていた。その顔はやつれていたが、死ぬ前とほとんど変りがなかった。そして、不思議なことには、死骸からほとんど臭気が発しなかった。顔には厳粛な、もの思わしげな表情が浮んで、十文字に組み合された、さながら大理石で刻んだような手は、ことに美しく見えた。その手には花が持たせてあった。それに、棺の内側も外側も、きょう早朝リーザ・ホフラコーヴァが送って来た花で、一面に飾られてあった。そのほか、カーチャからも花が贈られていた。アリョーシャが戸を開けた時、二等大尉はふるえる手に花束を持って、大事な子供の死体の上にふり撒いていた。彼はアリョーシャの入って来るのさえ、ほとんど見ることができなかった。それに、彼は誰も見たくなかったのである。しくしく泣いている気ちがいの『おっ母さん』(妻)さえ見まいとした。彼女は痛む脚で立ちあがり、死んだ子供をそば近く見ようと骨折っていた。ニーノチカは椅子に腰かけたまま、少年たちにささえられて、柩のそばへ間近く寄った。彼女は腰かけたまま、死んだ弟に頭を押しつけて、やはり静かに泣いているらしかった。スネギリョフは活気づいたような顔つきを装うていたが、しかしどうやらぼんやりとして、同時にまたいらいらしているようでもあった。彼の身ぶりも、ときどき口走る言葉も、なかば気ちがいじみていた。『坊や、可愛い坊や!』彼はイリューシャを見ながら、間断なくこう叫ぶのであった。彼は、イリューシャがまだ生きている時分から、『坊や、可愛い坊や!』と言って、愛撫する慣わしだったのである。
「お父さん、わたしにも、花をちょうだい。あの子が手に持っているあの白い花を取って!」気ちがいの『おっ母さん』はすすり泣きながら叫んだ。イリューシャの手に持たせてある白い薔薇の花が、ただ無上に気に入ったのか、それとも記念のために取っておきたいと思ったものか、いずれにしても、彼女は身をもだえながら花のほうへ手を伸ばした。
「誰にもやらん、何にもやらん!」とスネギリョフはつっけんどんに叫んだ。「この花はあれのものだ、お前のものじゃない。何もかもみなあれのものだ。お前のものは一つもありゃせん!」
「お父さん、おっ母さんに花をあげてちょうだい!」ニーノチカは涙に濡れた顔を上げてそう言った。
「何にもやりゃせん。おっ母さんには、なおさらやらん! おっ母さんはあれを可愛がらなかったんだもの。あの時なんか、あれの大砲を取り上げたじゃないか。でも、あれは、素直におっ母さんにやったっけなあ。」イリューシャが、あのとき譲歩して、自分の大砲を母親に渡したことを思い出すと、二等大尉は急にすすり泣きをはじめた。憐れな狂女も両手で顔を蔽いながら、静かにさめざめと泣きだした。父親がいつまでも柩のそばを離れようとしないのに、早くも時刻が迫ったのを見ると、少年たちは柩のそばへ一塊りに集って、みんながかりでそれを持ち上げはじめた。
「わしは柵の中に葬りたくないんだ!」とスネギリョフはだしぬけに叫んだ。「石のそばに葬るんだ。わしたちの石のそばへ! イリューシャがそうしろって言ったんだ。墓場へ持って行かせやしない!」
 彼はもう三日も前から、石のそばへ葬ると言いつづけているのであった。けれど、アリョーシャや、クラソートキンや、あるじの老婆や、老婆の妹や、少年たち一同がそれに反対したのである。
「まるで首縊りのように、穢らわしい石のそばに葬ろうなんて、何という料簡だね」とあるじの老婆は威丈高になって言った。「その柵の中には、ちゃんと墓場があるじゃないか。あそこに葬られりゃ、みんなにお祈りがあげてもらえるというもんだ。会堂から讃美歌が聞えるし、助祭さんがあげて下さる有難い立派なお経も、毎日イリューシャの耳に届くから、まるであれの墓のそばで読んでもらってるようなもんじゃないかね。」
 二等大尉はとど手を振って、『じゃ、どこへなと持って行きなさい!』と言った。少年たちは柩を持ちあげたが、母親のそばを通る時に、ちょっと立ちどまって、床へおろした。それは、母親にイリューシャと告別させるためであった。この三日間、しじゅう離れたところからイリューシャを見ていた彼女は、今すぐそばで大事なイリューシャの顔を見ると、体じゅうふるわして、ヒステリックに白髪頭を振りはじめた。
「おっ母さん、イリューシャに十字を切って祝福してやってちょうだい、接吻してやってちょうだい」とニーノチカは母親に叫んだ。けれども、母親はおし黙ったまま、自動人形か何かのように、頭を前後に振りつづけていた。その顔は、烙けつくような悲しみのために、歪んで見えた。と、ふいに彼女は自分の胸を拳で叩きはじめた。柩は運び去られた。ニーノチカは柩が自分のそばを通るとき、死んだ弟の唇に最後の接吻をした。アリョーシャは部屋を出る時、あるじの老婆に向って、残っている人たちに気をつけてくれるように頼もうとしたが、婆さんはみなまで言わせなかった。
「わかってますよ、あの人たちのことは引きうけましたよ。わたしもキリスト教徒ですからね。」そう言って、老婆は泣いた。会堂まではさほど遠くなく、僅か三百歩ばかりのものであった。はればれとした静かな日で、少し凍《いて》気味であったが、大したこともなかった。式の始まりを告げる鐘の音は、まだ鳴り渡っていた。スネギリョフは喪心したようなふうで、あたふたと柩のあとについて走った。彼は古ぼけた夏着のような短い外套を着ていた。鍔広の古いソフトは、被らないで手に持っていた。彼は何やら深い思案にくれてでもいるように、急に手を伸ばして柩を持とうと、担ぎ手の邪魔をしたり、あるいは柩の側を駈け廻って、どこかに居場所を決めようとしたりした。花が一つ雪の上に落ちた。すると彼は、この花を失うことに何か大変ふかい意味でもあるかのように、駈け出してそれを拾い上げた。
「あ、パンを、パンを忘れて来た。」彼はひどくびっくりして、だしぬけにこう叫んだ。けれど、少年たちはすぐそれに応じて、パンはちゃんと自分で持って来て、かくしの中へ入れてあると教えた。彼はいきなり、それをかくしから引っ張り出して、本当に持って来たことを確かめると、やっと安心した。
「イリューシャがそう言ったんですよ、イリューシャが」と彼はさっそくアリョーシャに説明した。「ある晩、私があの子の寝台のそばに腰かけていますとな、あれは急に、『お父さん、僕の墓に土をかけるとき、墓の上にパンの粉を撒いて、雀が飛んで来るようにして下さい。雀が飛んで来たら、僕は一人ぼっちでないことがわかって嬉しいから!』って言うんですよ。」
「それは、非常にいいことです」とアリョーシャは言った。「しじゅう持って行ってやるといいですね。」
「毎日もって行きましょう、毎日!」二等大尉はすっかり活気づいて、こう呟いた。やがて、一行は会堂へ着いて、その真ん中に柩をおろした。少年たちは棺のまわりを取り巻いて、勤行の間じゅう、じっと行儀よく立っていた。それは古い、しかもかなり貧しい会堂で、聖像も多くは金銀の飾りがとれていた。けれど、こういう会堂のほうが、かえって祈りをするにふさわしいものである。祈祷式の間は、スネギリョフもいくらか静かになったが、やはりときおり、われともなしに意味のない焦躁におそわれた。柩の側に寄って、棺かけや花環を直すかと思うと、今度は、燭台から蝋燭が一本落ちたのを見ると、慌しく駈け寄って、もとのところへ立てるために、長い間こそこそしたりした。その後やがてすっかり落ちついて、鈍い不安と怪訝の色を顔に浮べながら、おとなしく死者の枕べに立っていた。使徒行伝が読み上げられた後、彼はとつぜん、自分のそばに立っているアリョーシャに向って、使徒行伝は『こんな読み方をするものではない』と囁いた。しかし、なぜかそのわけは言わなかった。小天使の聖歌が始まると、彼はそれについて一緒に歌っていたが、歌い終らぬうちに跪き、会堂の石畳に額をすりつけたまま、かなり長い間ひれ伏していた。いよいよ埋葬の祈祷が始まって、人々に蝋燭が渡されると、自失していた父親は、またあたふたしだした。悲愴な理葬の聖歌は、さらに激しい感動を彼の心に与えた。彼はにわかに体を縮めたようになって、小刻みにしくしく泣きはじめた。初めは声をひそめていたが、しまいには大きな声ですすり泣きをはじめた。最後に、一同が別れの接吻をして、棺の蓋をしようとすると、彼は亡き愛児の姿を隠させまいとでもするように、イリューシャの死骸の上に掩いかかって、抱きしめながら、その唇を貪るようにのべつ接吻した。人々はようやく彼を説き伏せて、階段からおろそうとしたが、そのとき彼は急に両手をぐいと伸ばして、棺の中から幾つかの花を掴み出した。彼はじっとその花を見ていたが、ふとある新しい想念が脳裏に宿って、そのために一とき肝腎なことを忘れたようなふうであった。彼は次第にもの思いに沈んできたらしく、人々が柩を墓場のほうへ運び出した時は、もうそれを妨げようとしなかった。
 墓は会堂のすぐそばの柵の中にあった。その高価な地代は、カチェリーナが払ったのである。型のごとく儀式がすむと、穴掘りたちが棺を穴の中へおろした。と、スネギリョフが手に花を持ったまま、低く身を屈めて、穴の中を覗き込んだので、少年たちは驚いて外套を掴んであとへ引き戻した。が、彼はもう何か何やら、一さい夢中のように見えた。人々が墓に土をかけはじめると、彼は急に気づかわしげに、落ちて行く土を指さしながら、何やら呟きはじめた。が、何を言ってるのやら、誰にもわからなかった。しかし、また急におとなしくなった。そのとき人々は彼に向って、例のパンを撒くように注意した。すると、彼はやたらにあわてながら、パンを取り出し、引きちぎっては墓の上に撒きはじめた。『さあ、小鳥よ、飛んで来い、さあ、雀よ、飛んで来い!』と彼はそわそわした調子で呟いた。子供のうちの誰かが、花を持っていてはパンをむしりにくかろうから、ちょっと誰かに持たせたらいいだろうと注意したが、彼はそれを渡すどころか、まるで誰かが取ってしまおうとでもしたように、ひどく警戒しはじめた。もう墓ができあがってしまい、パンの切れも撒かれたのを確かめると、彼は急に思いがけなく、しかもきわめて悠々と踵を転じて、家のほうへ向けて歩きだした。とはいえ、彼の歩調は一歩ごとにだんだん忙しくなって、しまいには、駈け出さないばかりに急ぎはじめた。少年たちとアリョーシャは、離れずにその跡からついて行った。
「おっ母さんに花をやろう、おっ母さんに花をやろう! さっき、あんなに恥をかかしたりして」と、彼は急に叫びだした。誰かが、帽子を被らないといけない、もう寒いからと注意したが、彼はそれを聞くと、いかにも腹立たしそうに、雪の上に帽子を投げつけて、『帽子はいらん、帽子はいらん!』と言いだした。スムーロフはその帽子を拾って、あとからついて行った。少年たちはみな一人残らず泣きだした。ことにコーリャと、トロイの創建者を知っている例の少年とが、一等はげしく泣いた。スムーロフも大尉の帽子を持ちながら、おいおい泣いていた。が、それでもほとんど駈け出さないばかりに歩きながら、ふと路傍の雪の上に赤く見えている煉瓦のかけらを拾い上げて、さっと飛びすぎた雀の群に投げつけるだけの余裕はあった……むろん、それはあたらなかった。彼は泣きながら走りづつけた。ちょうど半分道ばかり来た頃、大尉はまたふと足をとめて、ある想念に打たれたように、ちょっと佇んでいたが、急に会堂のほうへ振り返り、いま見棄てて来た墓をさして駈け出した。少年たちはすぐに追いついて、四方から彼にとり縋った。と、彼は打ち負かされた人のように、力なく雪の上へ倒れ、体をふるわせたり、叫んだり、すすり泣いたりしながら、『坊や、イリューシャ、可愛い坊や』と叫びはじめた。アリョーシャとコーリャは彼を抱き起して、慰めたり、すかしたりした。
「大尉、もうおよしなさい。男は我慢しなけりゃなりません」とコーリャは呟いた。
「花を台なしにしてしまいますよ」とアリョーシャも言った。「『おっ母さん』が花を待っていますよ。あのひとはじっと坐ったまま、――さっきイリューシャの花をもらえなかったので泣いています。家にはまだイリューシャの寝床が残っていますよ……」
「そう、そう、おっ母さんのとこへ行かなけりゃ」とスネギリョフは急にまた思い出した。「寝床を片づけられてしまう、片づけられてしまう!」彼は、もう本当に片づけられてしまうもののように、びっくりしてこう言うとともに、つと立ちあがって、家のほうへ駈け出した。
 もう家までは遠くなかった。一同は大尉と一緒に駈けつけた。大尉は大急ぎで戸を開けると、ついさっき非道に言い争った妻に叫んだ。
「おっ母さん、大事なおっ母さん、イリューシャがお前に花をよこしたよ、可哀そうに、お前は足が悪いんだからな!」彼はそう言って、たったいま雪の中に倒れた時、くちゃくちゃに折れて凍りついた花束を、彼女のほうへさし出した。
 ちょうどこの瞬間、彼は亡きわが子の寝床の側の片隅に、イリューシャの靴がきちんと行儀よく並べられてあるのを見た。それはたった今あるじの老婆が揃えたもので、赤茶けた、つぎはぎだらけの、古い破れ靴であった。それを見ると、いきなり両手を上げてそのそばへ駈け寄り、どうと膝をついて片足をとりあげ、唇を押しつけて、貪るように接吻しながら叫んだ。
「坊や、イリューシャ、可愛い坊や、お前の足はどこへ行ったのだ?」
「お前さんはあれをどこへ連れて行ったの? お前さん、どこへあれを連れて行ったの?」狂せる大尉の妻ははらわたを裂くような声でこう叫んだ。
 この時ニーノチカもとうとう泣きだした。コーリャは部屋の外へ駈けだした。それにつづいて、ほかの子供たちも外へ出た。一番あとからとうとうアリョーシャもすべり出た。
「思う存分、泣かせておくがいいんです」と彼はコーリャに言った。「もうとても慰めようはありませんよ。しばらく待ってから、部屋へはいりましょう。」
「そうです、とても駄目です。ああ、恐ろしい」とコーリャも合槌を打った。「ねえ、カラマーゾフさん。」彼は誰にも聞えないように、急に声を低めてこう言った。「僕は悲しくってたまりません。もしイリューシャを生き返らせることができれば、この世にありたけのものを投げだしても、僕惜しくないんだけど!」
「ああ、私もそう思いますよ」とアリョーシャは言った。
カラマーゾフさん、あなたのお考えはどうです。僕たちは、今晩ここへ来なくってもいいでしょうか? 大尉はまためちゃめちゃに飲みますよ?」
「どうもやりそうですね。じゃ、私たち二人だけで来ましょう。二人であの人たちのそばに、――おっ母さんやニーノチカのそばに、一時間もいてやったら、それでいいでしょう。みんなしてどやどややって来ると、またあの人たちはイリューシャを思い出しますからね」とアリョーシャは注意した。
「今あそこで家主の婆さんが、食卓の支度をしているようです、――おおかた、法事でも始まるんでしょう、坊さんも来るそうですから。カラマーゾフさん、僕たちは今あそこへ行ったものでしょうか、どうでしょう?」
「ぜひ行かなけりゃなりませんね」とアリョーシャは言った。
「だけど、妙ですね、カラマーゾフさん、こんな悲しいとき、だしぬけに薄餅《ブリン》なんか出すなんて。われわれの宗教から言っても、不自然なことじゃありませんか。」
「あそこには、鮭も出ていますよ。」トロイの創建者を知っていた少年が、だしぬけに大声でこう言った。
「僕は真面目で君に頼むがね、カルタショフ君、もうそんな馬鹿なことを言って、口を出さないでくれたまえ。ことに、誰も君に話もしかけなければ、君がこの世にいるかどうか、知ろうともしないような時には、なおさら黙っていてくれたまえ。」コーリャは腹立たしそうに彼のほうへ向いて、ずばりと断ち切るように言った。
 少年はかっと赤くなったが、何とも返事ができなかった。そうこうするうち、一同は静かに径をそぞろ歩いていた。と、ふいにスムーロフが叫び声を上げた。
「これがイリューシャの石です。この下に葬りたいと言ったんです!」
 一同は無言のまま、その大きな石のそばに立ちどまった。アリョーシャはその石を見た。と、かつてスネギリョフが物語ったイリューシャの話、――イリューシャが父親に抱きつき泣きながら、『お父さん、お父さん、あの男は本当にお父さんをひどい目にあわしたのね!』と叫んだという話をした、――その時の光景が、たちまちアリョーシャの記憶に浮んだ。何ものか彼の心の中でふるえ動いたような気がした。彼は真面目なものものしい様子をして、イリューシャの友達の愛らしい、はればれした顔を見まわしながら、だしぬけにこう言った。
「みなさん、私はここで、――この場で、みなさんにちょっと言っておきたいことがあります。」
 少年たちはアリョーシャを取り囲み、さっそく待ち構えるような表情を目に浮べながら、じっとアリョーシャを見つめた。
「みなさん、私たちは近いうちにお別れしなければなりません。私が二人の兄たちと一緒にいるのは、もうわずかの間になってしまいました。一人の兄は追放されようとしているし、も一人のほうは瀕死の病床に横たわっています。ですが、私は間もなくこの町を立って行きます。たぶん、長いこと帰って来ないだろうと思います。ですから、みなさん、私たちはもうお別れしなければならないのです。で、私たちはイリューシャの石のそばで、第一にイリューシャを、第二にお互いのことを、決して忘れないという誓いをしましょう。私たちは今後、一生涯、たとえどんなことが起っても、またたとえ二十年を会わなくっても、あの憐れな少年をここで葬ったことを、忘れないようにしましょう、――彼は以前あの橋のそばで石を投げつけられたけど(ね、憶えているでしょう)、あとではみなから愛されるようになりました。彼は立派な少年でした。善良な勇敢な少年でした。彼は自分の名誉と父親の恥辱を感じて、そのために奮然と立ったのです。で、諸君、第一に、私たちは――生涯かれを忘れないようにしましょう。私たちはたとえ重大な仕事で忙しい時にも、――名誉をかち得た時にも、あるいはまた大きな不幸におちいった時にも、とにかくいかなる時においても、かつてこの町でお互いに善良な感情に結び合されながら、あの憐れな少年を愛することによって、私たちが実際以上立派な人間になったことを、決して忘れないようにしましょう、可愛らしい小鳩、――どうか諸君を小鳩と呼ばせて下さい。なぜって、今わたしが諸君の善良な可愛い顔を見ていると、あの黒みがかった空色の鳥を思い出させられるからです、――可愛いみなさん、みなさんには私の言うことがわからないかもしれません。私はときどき大へんわかりにくいことを言うから。しかし、それでもみなさんはいつか私の言葉を思い出して、合点されることがありましょう。総じて楽しい日の思い出ほど、ことに子供の時分、親の膝もとで暮した日の思い出ほど、その後の一生涯にとって尊く力強い、健全有益なものはありません。諸君は教育ということについて、いろいろやかましい話を聞くでしょう。けれど、子供の時から保存されている、こうした美しく神聖な思い出こそ、何よりも一等よい教育なのであります。過去にそういう追憶をたくさんあつめたものは、一生すくわれるのです。もしそういうものが一つでも、私たちの心に残っておれば、その思い出はいつか私たちを救うでしょう。もしかしたら、私たちは悪人になるかもしれません。悪行を退けることができないかもしれません。人間の涙を笑うようになるかもしれません。さっきコーリャ君が、『すべての人のために苦しみたい』と叫ばれましたが、あるいはそういう人に向って、毒々しい嘲笑を浴びせかけるようになるかもしれません。むろん、そんなことがあってはならないが、もし私たちがそんな悪人になったとしても、こうしてイリューシャを葬ったことや、臨終の前に彼を愛したことや、今この石のそばでお互いに親しく語り合ったことを思い出したら、もしかりに私たちが残酷で皮肉な人間になったとしても、今のこの瞬間に私たちが善良であったということを、内心嘲笑するような勇気はないでしょう! それどころか、この一つの追憶が私たちを大なる悪から護ってくれるでしょう。そして、私たちは過去を顧みて、『おれもあの時分は善良だったのだ。大胆で潔白だったのだ』と言うことでしょう。もっとも、腹の中でくすりと笑うのはかまいません。人はえて立派ないいことを笑いたがるものです。それはただ軽薄な心の仕業です。けれども、みなさん、私は誓って言いますが、よしんば笑っても、すぐに心の中で、『いや、笑うのはよくない、これは笑うべからざることだから!』と言うに相違ありません。」
「それはまったくそうですよ、カラマーゾフさん、僕あなたのおっしゃることがわかります、カラマーゾフさん!」とコーリャは目を輝かして叫んだ。
 少年たちもがやがやと騒ぎだして、やはり何か叫ぼうとしたが、しかしやっと我慢して、感激したような目で、じっとアリョーシャを見つめていた。
「私がこんなことを言うのも、つまり、われわれが悪い人間になることを恐れるからなんです」とアリョーシャはつづけた。「けれど、われわれは何のために悪い人間になる必要がありましょう、みなさん、そうじゃありませんか? まず何より第一に、われわれは善良にならねばなりません。次に、正直にならねばなりません。次に、決しておたがい同士わすれてはなりません、私はまたこれを繰り返して言います。私は誓って言いますが、みなさん、私はみなさんを誰ひとりとして忘れやしません。今わたしを見ておられるその顔は、たとえ三十年たっても一つ一つ思い出します。さっきコーリャ君はカルタショフ君に向って、われわれは『カルタショフ君がこの世にいるかいないか』そんなことを知りたくもない、とか言われましたが、カルタショフ君がこの世におられることも、同君がトロイのことを言った時のような赤い顔をせずに、美しい善良な、そして快活な目で、今わたしを見ておられることなどが、どうして忘れられましょう? 諸君、わが愛すべき諸君、われわれはみんなイリューシャ君のように、寛大かつ勇敢になりましょう。コーリャ君のように利発で、勇敢で、寛大になりましょう(もっとも、同君は将来もっと賢くなられることでしょうが)。またカルタショフ君のように羞恥心に富むとともに、利口で愛らしくなりましょう。しかし、私はこの二人のことだけ言うのではありません! 諸君、諸君はいずれもみんな今後、私にとって愛すべき人たちなのです。私は諸君を残らず自分の心の中へ入れましょう。だから、諸君もどうぞ私をめいめいの心の中へ入れて下さい! ですが、私たちが今後一生涯わすれないし、また忘れないつもりでいるこの立派な美しい感情の中は、私たちを結び合せてくれた人は、イリューシャ君でなくて誰でしょう。同君は善良な少年でしたい可愛い少年でした。われわれにとって永久に尊い少年でした! われわれは今後、永久に同君を忘れず、同君にわれわれの心のよき記憶を捧げようではありませんか、永久に変ることなく!」
「そうです、そうです、永久に、変ることなく。」子供たちはいずれも感動の色を満面にみなぎらして、朗らかに声高く叫んだ。
「あの顔つきも、あの着物も、あの破れた靴も、あの柩も、あの罪の深い不幸な父親も、あの少年が父親のために、勇ましく一人で全級に反抗したことも、すっかり憶えていましょう!」
「憶えていましょう、憶えていましょう!」と、少年たちはまた叫んだ。「あれは勇敢な子供でした、あれはいい子供でした!」
「ああ、僕はどんなにあの子が好きだったか!」とコーリャは叫んだ。
「ああ、諸君、ああ、可愛い親友、人生を恐れてはいけません! 何でも正直ないいことをした時には、人生がなんと美しいものに思われることでしょう!」
「そうです、そうです」と少年たちは感激の声を発して合槌を打った。
カラマーゾフさん、僕たちあなたが好きです!」こらえきれなくなったように、一つの声がこう叫んだ。それはカルタショフの声らしかった。
「僕たちあなたが好きです、僕たちあなたが好きです」と一同は繰り返した。その目には涙が輝いていた。
カラマーゾフ万歳!」とコーリャは歓喜にたえぬように叫んだ。
「そして、なくなった少年を永久に記憶しましょう!」アリョーシャは情のこもった声で、こうつけ加えた。
「永久に記憶しましょう!」とさらに少年たちが引き取った。
カラマーゾフさん!」とコーリャは叫んだ。「僕たちはみんな死からよみがえって命を得て、またお互いに見ることができるって、――どんな人でも、イリューシャでも見ることができるって、宗教のほうでは教えていますが、あれは本当でしょうか?」
「きっとわれわれはよみがえります。きっとお互いにもう一ど出会って、昔のことを愉快に楽しく語り合うでしょう。」アリョーシャはなかば笑いながら、なかば感動のていで答えた。
「ああ、そうなればどんなに嬉しいだろう!」とコーリャは思わず口走った。
「さあ、もう話をやめて、イリューシャの法事に行きましょう。そして、心配しないで薄餅《ブリン》を食べましょう。昔からしきたりの旧い習慣ですからね、そこに美しいところがあるんですよ。」アリョーシャは笑った。「さあ、行きましょう! これから私たちはお互いに手を取り合って行くんですよ。」
「永久にそうしましょう、一生、手を取り合って行きましょう! カラマーゾフ万歳!」もう一度コーリャが感激したように叫ぶと、ほかの少年たちはふたたびその叫びに和した。
[#地から1字上げ](おわり)



底本:「決定版 ドストエーフスキイ全集 第十二巻」河出書房新社
   1959(昭和34)年5月10日第2次第1刷発行
   「決定版 ドストエーフスキイ全集 第十三巻」河出書房新社
   1959(昭和34)年6月10日第2次第1刷発行
※「駆」と「駈」の混在は、底本通りです。
入力:いとうおちゃ
校正:
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『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P288-P335

「あの人がお金を取ったからって、何にも不思議はありゃしません」とグルーシェンカは軽蔑するように、毒々しくにたりと笑った。「あの人はしょっちゅうわたしのとこへ、お金をせびりに来てましたわ。一カ月に三十ルーブリくらいずつ持って行くんですもの。それも大ていおごりのためですの。わたしがお金をやらなかったら、どうしてあの人が食ったり飲んだりできるものですか。」
「どういうわけで、あなたはラキーチン君にそう寛大だったのです?」裁判長が激しく身動きするのにもかまわず、フェチュコーヴィッチはこう追及した。
「だって、あの人はわたしの従弟なんですもの。わたしのおっ母さんとあの人のおっ母さんとは、親身の姉妹なんですの。でも、あの人はいつもそれを誰にも言わないようにしてくれって、始終わたしに頼んでいました。わたしを従姉にもっているのを、ひどく恥に思っていましたからねえ。」
 これはまったく予想外の新事実であった。町ではむろんのこと修道院でも、誰ひとりそれを知っているものはなかった。ミーチャさえ知らなかった。話によると、ラキーチンは自分の席に腰かけたまま、恥しさに顔を紫いろにしたそうである。グルーシェンカはどういうわけか、法廷へはいる前に、ラキーチンがミーチャに不利な申し立てをしたと知って、腹を立てたのである。ラキーチン君の先刻の演説も、その高邁な趣旨も、農奴制度やロシヤにおける民権の不備に対する攻撃も、――このとき聴衆の心の中でことごとく抹殺され、破棄されてしまった。フェチュコーヴィッチは大満足であった。神はふたたび彼に恵んだのである。全体として、グルーシェンカはあまり多く訊問されなかった。それに、彼女はむろんとくに新しい事実を述べることができなかった。彼女は傍聴者にきわめて不快な印象を与えた。彼女が申し立てを終って、カチェリーナからかなり離れて腰かけた時、無数の軽蔑するような目が彼女にそそがれた。彼女が訊問されている間じゅう、ミーチャは化石したように目を床へ落したまま、じっと黙っていた。
 次にイヴァン・フョードロヴィッチが証人として現われた。

[#3字下げ]第五 不意の椿事[#「第五 不意の椿事」は中見出し]

 ここで断わっておくが、イヴァンはアリョーシャよりさきに呼び出されたのである。けれど、廷丁はそのとき裁判長に向って、証人がとつぜん病気、というより、むしろ一種の発作を起したため、すぐには出頭ができかねるけれど、なおり次第出廷して、陳述すると申し出た。しかし、その時は誰も気がつかないで、あとになってそれを知ったのである。彼の出廷は初めの間、ほとんど誰の注意をも惹かなかった。もはやおもな証人、ことに二人の競争者が訊問されたあとなので、傍聴者の好奇心はすでに満足されて、いくらか疲労さえ感じていたくらいである。まだ幾人かの証人の訊問が残っていたが、彼らもべつに取り立てて、新しい陳述をしそうにも見えなかった。それに、時は遠慮なく過ぎて行った。イヴァンは何だか不思議なほどのろのろと歩いて出た。そして、誰も見ないで頭を下げている様子が、何やらふさぎ込んで黙想しているように見えた。彼は非の打ちどころのない身なりをしていたが、その顔つきは、少くとも筆者《わたし》には病的な印象を与えた。何か死にかかった人のように土け色をおび、目はどんよりしていた。彼はその目を上げて、静かに法廷を見まわした。アリョーシャはだしぬけに自分の席から立ちあがって、『ああ』と唸った。筆者はそれを記憶している。しかし、これに気づいたものはきわめて少かった。
 裁判長はまず彼に向って、宣誓しなくってもいいこと、陳述してもしなくても、それは彼の随意であること、しかし陳述は良心にやましからぬようにしなければならぬこと、――などを説いて聞かせた。イヴァンはぼんやりと裁判長を眺めながら聞いていたが、やがてその顔は微笑に変ってきた。そして、びっくりしたように自分を見つめている裁判長の言葉が終るやいなや、彼はだしぬけに笑いだした。
「で、それから?」と彼は大きな声で訊いた。
 法廷の中はしんとした。みんな何やら感じたもののようであった。裁判長は心配しだした。
「あなたは……まだすっかり健康がすぐれないのかもしれませんね?」彼は廷丁のほうへ目をそそぎながらこう言った。
「閣下、ご心配にはおよびません。私はかなり達者なんですから、何やかや興味のあることを申し上げることができます」とイヴァンは急に落ちにきはらって[#「落ちにきはらって」はママ]うやうやしく答えた。
「では、何か、特別の陳述をしようとおっしゃるのですか?」と裁判長は依然、疑わしげに言葉をつづけた。
 イヴァンはうつむいてしばらく躊躇していたが、やがてまた頭を持ちあげて、吃るような口調で答えた。
「いいえ……そうじゃありません。私は何も特別に陳述することはありません。」
 訊問が始まった。彼はいやいやらしく簡単に答えた。ある内心の嫌悪がますます募ってくるのを感じるらしかったが、それでも答弁は要領を得ていた。大ていの質問は知らないといって逃げた。父とドミートリイの金銭上の問題は、ちっとも知らない、『そんなことを気にしてはいなかったです』と言った。親父を殺すと恐喝したのは、被告の口から聞いていた、封筒に入れた金のことは、スメルジャコフから聞き知っていた……
「いくら訊かれても同じことです。」彼は疲れたような様子をして、突然こう遮った。「私は公判のために、何もかくべつ陳述することはありません。」
「お見受けするところ、どうもあなたは健康でないようです。それに、あなたの感情もよくわかっています……」と裁判長は言いかけた。
 彼は両側にいる検事と弁護士に向って、もし必要があったら訊問してもらいたいと言った。と、突然イヴァンは弱々しい調子で嘆願した。
「閣下、どうか退廷させて下さい。私は非常に体の工合が悪いような気がします。」
 彼はこう言うと同時に、許可も待たずに、いきなりくるりと向きをかえて、法廷から出て行こうとした。が、四歩ばかり歩くと、とつぜん何やら考えたように立ちどまり、静かににたりと笑って、また以前の場所へ返った。
「閣下、私はちょうどあの百姓娘のようなんです……ええと、そうそう、『立ちたくなったら、立ってやるだ。立ちたくなかったら、立たねえだ。』すると、みんな上衣と袴をもって、その女のあとをつけ廻している。つまり、女を立たせるためなんです。女を縛って、結婚に連れて行くためなんです。ところが、女は『立ちたくなったら、立ってやるだ。立ちたくなかったら、立たねえだ』と言ってる……これは一種のわが国民性ですよ……」
「それは一たい何のことです?」と裁判長は厳かに訊いた。
「なに、ほかでもありません」とイヴァンは、いきなり紙幣束を取り出した。「さあ、ここに金があります……これはあの(彼は証拠物件ののっているテーブルを顎でしゃくった)封筒の中にはいっていた金です。このために親父は殺されたのです。どこへおきましょう? 廷丁さん。これを渡して下さい。」
 廷丁は紙幣束を残らず受け取って、裁判長に渡した。
「これがあの金だとすると……どうしてあなたの手に入ったのです?」と裁判長はびっくりして訊いた。
「昨日スメルジャコフから、あの人殺しから受け取ったのです……私はあいつが首を縊る前に、あいつの家へ行ったのです。親父を殺したのはあいつです、兄貴じゃありません。あいつが殺したんです。そして、私があいつを教唆したのです……誰だって、親父の死を望まないやつはありませんからね!………」
「一たいあなたは正気ですか?」と裁判長は思わず口走った。
「むろん正気ですとも……あなた方みんなのように、ここにいるすべての……化け者どものように、卑劣な正気を備えています!」彼はにわかに聴衆のほうへ振り向いた。「あいつらは親父を殺したくせに、びっくりしたようなふりをしているんです」と彼は激しい侮蔑を現わしながら、歯ぎしりした。「あいつらはお互いに芝居をしてるんです。嘘つきめ! みんな親父が死ぬのを望んでるんだ。毒虫が毒虫を食おうとしてるんだ……もし親父殺しがなかったら……やつらはみなぷりぷりしながら、家へ帰って行くだろう……なにしろ、見世物を見たがってるんだからな! 『パンと見世物!』というじゃありませんか。だが、私もあまり立派なもんじゃない! ときに、水がないでしょうか、飲ませて下さい、後生です!」彼はにわかに自分の頭を掴んだ。
 廷丁はすぐ彼に近づいた。アリョーシャは突然たちあがって、『兄さんは病気なのです。兄さんの言うことを信じないで下さい。兄さんは譫妄狂にかかっているんです』と叫んだ。カチェリーナは、つと衝動的に席から立ちあがって、恐怖のあまり身動きもせず、じっとイヴァンを見つめていた。ミーチャも立ちあがった。彼は妙にひん曲ったような、けうとい笑みを浮べて、貪るようにイヴァンを見つめながら、その言うことを聞いていた。
「ご心配にはおよびません。私は気ちがいじゃありません。私はただ人殺しです!」とまたイヴァンは言いはじめた。「人殺しから雄弁を求めるのは無理な話です……」彼はなぜか突然こうつけたして、ひん曲ったような笑い方をした。
 検事はいかにも面くらったらしく、裁判長のほうへ身をかがめた。裁判官たちはそわそわして、互いに何やら囁きあった。フェチュコーヴィッチはいよいよ耳をそばだてて聞いていた。法廷ぜんたいは何か予期するようにしんとした。裁判長は急にわれに返ったらしく、口をきった。
「証人、あなたの言うことはわけがわからない、また法廷においてあるまじき言葉です。気を落ちつけて話して下さい……もし本当に何か言うことがあったら。あなたは何をもってそういう自白の裏書にしようとおっしゃるんです……もし、あなたの言葉が譫言でないとすれば……」
「それ、そこなんです、まるで証人がないのです。スメルジャコフの犬め、あの世からあなた方に申し立てを送りはしませんからね……封筒に入れてね……あなた方は何でもかでも封筒がほしいんでしょうが、封筒は一つでたくさんです。私には証人がありません……あいつ一人のほかには」と彼は意味ありげに、にたりとした。
「あなたの証人というのは誰です?」
「閣下、その証人は尻尾をもってるんですが、それじゃ規則に反しますかね! Le diable n'existe point!([#割り注]悪魔は存在しないか![#割り注終わり])べつに気にもとめないで下さい。やくざなちっぽけな悪魔なんですよ。」彼は何か内証話でもするように、急に笑いやめて、つけたした。「やつはきっと、どこかここいらへんにいますよ。この証拠物件ののっているテーブルの下にでもね。でなくって、どこにいるもんですか? ねえ、こうなんですよ。私はやつに言ってやったんです。黙っておれないものですからね。ところが、やつは地質学上の大変動のことを言いだすんです、ばかばかしい! さあ、あの悪魔を宥してやって下さい……あれは頌歌《ヒムン》を歌いだしましたよ。つまり、気持が楽だからなんです! 酔っ払ったごろつきが、『ヴァンカはピーテルさして旅に出た』とわめくのと同じようなものですよ。だが、私は歓喜の二秒間のためには、千兆キロメートルの千兆倍も投げ出すつもりです。あなた方は私をご存じないのです! ああ、あなた方の仕事は実に馬鹿げてる! さあ、私をあれの代りに縛って下さい! 私だって何かしに来たんですからね……どうして、どうして何もかもこんなに馬鹿げてるんだろう?………」
 彼はこう言うと、またもの思わしげな顔つきをして、おもむろに法廷の中を見まわしはじめた。しかし、法廷ぜんたいはすでにどよめき渡っていた。アリョーシャは席を立って、兄のそばへ駈け寄った。が、廷丁はもうイヴァンの手を掴んでいた。
「何をするんだ?」イヴァンは、廷丁の顔をじっと見つめながら、こう叫んだと思うと、とつぜん廷丁の両肩に手をかけて、激しく床の上へ投げつけた。
 けれど、すぐ警護隊が駈けつけて彼を掴んだ。そのとき彼は恐ろしい声で喚きだした。法廷から連れ出される間も、喚きたてたり、何かとりとめのないことを口走ったりしていた。
 大混乱が始まった。一切の出来事を順序だって記憶していない。筆者《わたし》自身も興奮していたため、よく観察することができなかったのである。ただ筆者が知っているのは、あとでもうすっかり鎮まって、一同が事の真相を悟った時に、廷丁がうんと目玉を頂戴したことだけである。もっとも、廷丁は、証人が一時間まえに少し気分を悪くして、医者の診察を受けたが、しかしその時は、健康体でもあったし、法廷へ出る時までずっと、辻褄の合ったことを言ったので、こんな事態が起ろうなどとは、まったく予期せられなかったし、それに証人自身が、ぜひ申し立てをしたいと言い張ったのだと、十分根拠のある説明をした。しかし、一同がまだすっかり落ちついてわれに返らないうちに、すぐこの事件に引きつづいて、また別な事件が突発した。ほかでもない、カチェリーナがヒステリイを起したのである。彼女は大声に悲鳴を上げながら、慟哭しはじめた。が、一向に法廷を出ようとはせず、身をもがいて、外へ出さないようにと哀願し、いきなり裁判長に向って叫んだ。
「わたしはすぐ、今すぐもう一つ申し立てなければならないことがあります!………これは証拠の書面です……手紙です……手にとってすぐ読んで下さい、はやく!……これはその悪党の、それ、その男の手紙です!」と彼女はミーチャを指さした。「お父さんを殺したのは、あの男です。あなた方も今すぐおわかりになります。あの男がお父さんを殺すつもりだと、わたしに書いてよこしたのです! ですが、あちらの方は病人です、譫妄狂にかかっているのです! わたしはもうあの人が譫妄狂にかかっているのを、三日も前から知っています!」
 彼女は夢中になってこう叫んだ。廷丁は、裁判長のほうへさし出された書類を受け取った。カチェリーナは自分の椅子にどっかと腰をおろすと、顔を蔽って、痙攣的に身をふるわせ、声を忍んで泣きはじめた。彼女はしきりに身ぶるいしながらも、法廷から出されはしないかという懸念から、微かな唸り声さえ抑えていた。彼女のさし出した書類は、ミーチャが料理屋『都』から出した手紙で、イヴァンが『数学的』価値のある証拠と名づけたものである。ああ、裁判官たちも事実、この手紙に数学的価値を認めたのである。この手紙さえなければ、ミーチャは破滅しなかったかもしれない、少くとも、あんな恐ろしい破滅の仕方をしなかったかもしれない! 繰り返し言うが、筆者は詳しく観察することができなかった。今でもただ一切のことが、雑然と頭に残っているばかりである。確か裁判長はその場ですぐ、この新しい証拠品を、裁判官たちと、検事と、弁護士と、陪審員一同に提供したはずである。筆者の憶えているのは、ふたたびカチェリーナの訊問が始まったことだけである。もう落ちついたか? という裁判長の優しい問いに対して、カチェリーナはすぐさまこう叫んだ。
「わたしは大丈夫です。大丈夫です! わたしは立派にあなた方にお答えができます。」彼女は依然として、何か聞きもらされはしないかと、ひどく恐れてでもいるように、言いたした。
 裁判長は彼女に向って、一たいこれはどういう手紙で、どういう場合に受け取ったのか、詳しく説明するように、と乞うた。
「わたしがこの手紙を受け取ったのは、兇行の前の日でした。けれど、あの人がこれを書いたのは、それよりまだ一日前で、つまり、兇行の二日前に料理屋で書いたのです、――ごらん下さい、何かの勘定書の上に書いてあるじゃありませんか!」と彼女は息をはずませながら叫んだ。「その時分、あの人はわたしを憎んでいました。だって、自分で卑劣なことをして、この売女《ばいた》のところへ行ったのですもの……それにまた、あの三千ルーブリをわたしに借りていたからですわ……ええ、あの人は自分が卑劣なことをしたものだから、この三千ルーブリがいまいましくてたまらなかったんですわ! この三千ルーブリはこういうわけでございます、――お願いですから、後生ですから、わたしの言うことを逐一きいて下さいまし、――あの人はお父さんを殺す三週間まえに、ある朝わたしのところへやってまいりました。わたしはその時、あの人にお金のいることも、何のためにいるかってことも知っていました、――それはこの売女をそそのかして、駈落ちするのに必要だったのでございます。わたしはその時あの人が心変りして、わたしを棄てようとしてるのを知っていたので、わざとそのお金をあの人に突きつけました。モスクワにいる姉に送ってもらいたいと言って、出したのでございます。その時お金を渡しながら、わたしはあの人の顔をじっと見つめました。そして、『一カ月後でもかまわないから』、気の向いた時に送ってもらったらいい、と申しました。そうです、わたしはあの人に面とむかって、『あなたは、わたしをあの売女に見かえるために、お金が入り用なんでしょう。だから、このお金をお取んなさい。わたし自分でこのお金をあなたに上げます。もし、これが受け取れるほどの恥知らずなら、遠慮なくお取んなさい!』と言ったようなわけでございます。どうして、どうしてあの人にそれがわからないはずがありましょう。わたしは、あの人の化けの皮をひん剥こうと思ったのでございます。ところが、どうでしょう? あの人は受け取りました。受け取って、持って帰って、あそこで一晩のうちに、あの売女と二人で費いはたしてしまったのです……けれども、あの人は悟っていました。わたしがお金を渡したのは、あの人がそれを受け取るほどの恥知らずかどうか、試しているのだということを、その時ちゃんと悟っていたのです。そしてまた、わたしが何もかもすっかり承知していることも、あの人にはわかっていたのでございます。ほんとうですとも、わたしがあの人の目を見ると、あの人もわたしの目を見ました。そして、あの人は何もかもわかったのです、すっかりわかっていたのですとも。それでいながら、わたしの金を受け取って、持って帰ったのでございます!」
「そうだ、カーチャ!」とミーチャはとつぜん叫んだ。「おれはお前の目を見て、お前がおれに恥をかかせようとしていることを悟ったよ。だが、やはりお前の金を受け取った! みんなこの卑劣漢を軽蔑して下さい。いくら軽蔑されたって、それは当然なんです!」
「被告」と裁判長は叫んだ。「もう一こと言うと、法廷から下げてしまいますぞ。」
「そのお金があの人を苦しめたのです」と、カーチャは痙攣したようにせきこんで言葉をつづけた。
「で、あの人はわたしにお金を返そうとしました。ええ、返そうとしたのです、それは本当です。けれど、この女のために、やはりお金がいったのです。そこで、あの人はお父さんを殺したのでございます。ですが、それでもお金はわたしに返さないで、この女と一緒にあの村へ行って、とうとう捕まったのでございます。それに、お父さんを殺して取って来たお金も、あの村でつかいはたしてしまいました。ところで、お父さんを殺す前々日に、あの人はわたしにこの手紙を書いたのです。酔っ払って書いたのです。わたしはその時すぐに、この手紙は面あてに書いたのだってことがわかりました。そして、たとえお父さんを殺しても、わたしがこの手紙を誰にも見せないってことを、あの人はよく知っていたのです。確かに知っていました。でなければ、こんな手紙を書くはずがありません! あの人はわたしが復讐をしたり、あの人を破滅さしたりするのを望まないってことを、ちゃんと知っていたのでございます。けれど、読んでごらんなさい、注意して、どうか十分に注意して読んでごらん下さい。あの人がどんなふうにお父さんを殺そうかと、前もって考えていたことや、どこにお金があるかちゃんと知っていたことなど、すっかりこの手紙の中に書いてあるのがおわかりになります。ごらん下さい、見おとさないようにごらん下さい。その中に『僕はイヴァンが出発するとすぐに殺すつもりだ』という句がありますから。それは、あの人が前もって、どんなふうにお父さんを殺そうかと、よく思案していた証拠でございます。」カチェリーナは毒々しく小気味よさそうな声で、裁判官に入れ知恵した。ああ、彼女がこの宿命的な手紙を残るくまなく熟読して、一点も残さず研究したことは明らかだった。「あの人も酔っ払っていなければ、わたしにそんな手紙を書きはしなかったでしょうが、まあ、ごらんなさい、これには何もかも予告してあります。何もかも寸分たがわずそのとおりです。あとでそのとおりにお父さんを殺したのです、まるでプログラムのようです。」
 彼女は夢中になってこう叫んだ。むろん彼女はもはや自分にどんな結果が降りかかってもかまわない、と覚悟を決めていたのである。もっとも、彼女はその結果を、一カ月も前から見抜いていたかもしれない。なぜなら、彼女はその時分から憎悪にふるえながら、『これを法廷で読み上げたものかどうだろう?』と考えていたらしいからである。けれども、彼女はそのとき崖から飛び下りたようなあんばいだった。今でも憶えているが、その場ですぐ書記が、声高らかにこの手紙を読み上げて、一同に驚くべき印象を与えた。ミーチャは、この手紙を認めるかどうかと訊かれた。
「私のものです、私のものです!」とミーチャは叫んだ。「酔っ払っていなければ書かなかっただろうに!………カーチャ、二人はいろいろなことでお互いに憎み合っていたね。だが、おれは誓って言う、本当に誓って言うが、おれはお前を憎みながらも愛していた。ところが、お前はそうじゃない!」
 彼は絶望のあまり、両手をねじり合せながら、どっかと自席へ腰をおろした。検事と弁護士とはかわるがわる、彼女に訊問を提出しはじめた。それは主として、『どうしてさっきそんな証拠を隠していたのです、また、なぜその前は全然ちがった気持と調子で申し立てをしたのです?」というような意味であった。
「そうです、そうです。わたしはさっき嘘を言いました。まったく名誉と良心を捨てて、嘘ばかり言いました。けれど、わたしはあの人を助けようと思ったのです。だって、あの人はあんなにわたしを憎んで、軽蔑していたんですもの!」とカーチャは狂気のように叫んだ。「ええ、あの人はわたしを恐ろしく軽蔑していました、いつも軽蔑していました。しかも、それは、それは、――わたしが例のお金のために、あの人の足もとに倒れて、お辞儀をしたあの瞬間から、わたしを軽蔑するようになったのです。わたしにはそれがわかっています……わたしはその時すぐに、それと気がつきましたけど、長いあいだ本当にすることができませんでした。わたしは幾度となくあの人の目つきに、『何といってもお前はあの時、自分でおれのところへ来ようと決心したじゃないか』という意味を読みました。ええ、あの人にはわからなかったのです。あのとき、わたしが何のために、あの人のところへ駈けつけたかってことは、ちっともわからなかったのです。何でもかでも、下劣な心から出たように疑うよりほか、あの人には芸がないんです! あの人は自分の物差しで人を量って、誰でもみんな自分のようなものだと思っていたのです。」カーチャはもう無我夢中になり、激しく歯をかみ鳴らすのであった。「あの人がわたしと結婚しようと思ったのは、ただわたしが財産を相続したからです。そのためです、そのためです! わたしはしょっちゅう、そうだろうと疑っていました! ええ、あの人は獣です! あの人はお腹の中で、わたしがあの時お金をもらいに行ったことを恥じて、一生涯びくびくしているに違いない、だから永久にわたしを軽蔑することができる、つまり主権を握ることができる、といつも信じきっていたのです、――だから、わたしと結婚しようという気になったのです! そうです、それに違いありません! わたしは、自分の愛でこの人に打ち勝とうと試みました。あの人の変心さえ忍ぼうとしました。けれど、あの人には何にも、何にもわからなかったのです。それに、あの人がものを理解するような人でしょうか! あの人はごろつきです! わたしはこの手紙を翌日の晩うけ取りました、料理屋から届けて来たのです。ところが、わたしはついその朝、ちょうどその日の朝まで、何もかも、――心変りさえ赦そうと思っていたのですからねえ!」
 むろん、裁判長と検事は彼女を落ちつかせようとした。彼女のヒステリイを利用して、こうした申し立てを聴き取るのが、彼らでさえも恥しかったらしい。筆者《わたし》は今でも記憶しているが、『あなたがどんなに苦しいか、私たちにもよくわかっています。どうか信じて下さい、私たちだって感情をもっている人間なのです』などという彼らの言葉を耳にした。けれども、やはりこのヒステリイで夢中になった女から、必要な陳述を引き出したのである。最後に彼女は、イヴァンが自分の兄である『ごろつきの人殺し』を救おうと、この二カ月間肝胆を砕いたために、ほとんど発狂しかかっていることを、きわめて明確に陳述した。そうした明確さは、こういう緊張した精神状態の時、ほんの瞬間的ではあるが、しばしば閃光のように現われるものである。
「あの人は苦しんでいました」と彼女は叫んだ。「あの人はわたしに向って、自分も親父を愛していなかった、あるいは自分も親父の死ぬのを望んでいたかもしれない、などと告白したりして、しじゅう兄さんの罪を軽くしようと骨折っていました。ええ、あの人は深い深い良心をもった人です! それで、自分の良心に苦しめられたのです! あの人は何もかもわたしに打ち明けていました、始終わたしのとこへ来て、たった一人の親友として、毎日わたしと話をしていました。ええ、わたしはあの人にとってたった一人の親友で、またそれを名誉に思っています!」彼女は挑むように目を輝かして、だしぬけにこう叫んだ。「あの人は二度スメルジャコフのところへ行きましたが、いつでしたか、わたしの家へ来て、もし下手人が兄でなくってスメルジャコフだったら(だって、当地ではスメルジャコフが殺したのだという、ばかばかしい噂がたったからです)、自分にも罪があるかもしれない、なぜって、スメルジャコフは自分が父親を愛していないことを知っていたし、また自分が父の死を望んでいるように思っていたかもしれない、とこう言ったことがあります。その時わたしはこの手紙を出して見せました。すると、あの人はいよいよ兄さんが殺したのだと確信して、ひどく仰天してしまったのです。親身の兄が親殺しだと思うと、たまらなかったのでございます。一週間ばかり前に会った時など、そのために病気にかかっているのが、わたしにようくわかりました。近頃は、わたしの家へ来て、譫言を言うほどになったのです。わたしは、あの人が正気を失ってゆくのに気がつきました。誰でも通りで出会った人は知っていますが、あの人は歩きながら譫言を言っていました。わたしの招きでモスクワから来た医者は、一昨日あの人を診察して、譫妄狂のような病気に近いと申しました、――みんなあの男のためです、あのごろつきのためなんです! とろが[#「とろが」はママ]、ゆうべスメルジャコフが死んだことを聞くと、あの人はあんまりびっくりしたために、すっかり気が狂ってしまいました……これというのも、みんながあのごろつきのためです……ごろつきを助けたいという一心からきたんです!」
 ああ、むろん言うまでもなく、こうした言葉やこうした告白は、一生涯にたった一度いまわの際に、たとえば断頭台へのぼる瞬間ででもなければ、とうていできるものではない。けれど、カーチャはそれができるような性格でもあったし、またそういう刹那にぶっ突かったのである。それはあのとき、父を救うため若い放蕩者に自分の身を投げ出した、あの激しい気性のカーチャなのである。また先刻、この大勢の聴衆を前にして、気高い無垢な態度で、ミーチャを待ち受けている運命を少しでも軽減したいばかりに、『ミーチャの高潔な行為』を物語って、処女の羞恥を犠牲にした、あのカーチャと同一人なのである。で、今もまた彼女は自分の身を犠牲に供した。が、それはもうほかの男のためである。彼女ははじめてこの瞬間、この一人の男が今の自分にとって、いかに貴いかを感じもし、悟りもしたのであろう! 彼女は男の一身を気づかうあまり、男のためにおのれを犠牲にしたのである。とつぜん男が『下手人は兄ではない、自分だ』という申し立てで、一身を滅ぼしたと想像するとともに、男とその名誉と体面とを救うため、われとわが身を犠牲に供したのである! けれど、ここに一つ恐ろしい疑問がひらめいた。ほかでもない、彼女はミーチャとの古い関係を述べた時、嘘を言ったのではあるまいか、――しかし、これは問題である。いやいや、彼女は自分が頭を土につけて跪拝したために、ミーチャが自分を軽蔑していたと言ったが、それは決して故意に讒誣をしたのではない! 彼女はこれを信じていたのである。頭を地につけて跪拝した瞬間から、その時まだ彼女を尊敬していた単純なミーチャが、彼女を冷笑し軽蔑しはじめたものと、深く信じきったのである。で、彼女はただ自尊心のために、傷つけられた自尊心のために、ヒステリイ性の無理な愛をミーチャに捧げたのである。この愛は真の愛というより、むしろ復讐に似た点が多かった。ああ、このしいられた愛は、あるいは本当の愛に成長したかもしれない。カーチャは何よりもそれを望んでいたことだろう。しかし、ミーチャの変心は、彼女を魂の底まで侮辱したので、魂が赦すことを肯《がえ》んじなかったのである。ところが、突如として復讐の機会が降って来た。辱しめられた女の胸に、長いこと欝積していた一切の苦痛は、思いがけなく、一時に外部へほとばしり出た。彼女はミーチャを裏切ったが、同時に自分自身をも裏切ったのである。むろん、彼女は言うだけ言ってしまうと、急に心の張りがゆるんで、恥しさにたえられなくなった。またヒステリイが起った。彼女は泣いたり、叫んだりしながら、床に倒れた。こうして、法廷から連れ出されてしまった。彼女が外へ出されたその瞬間に、グルーシェンカはわっと泣きながら、誰もとめる暇のないうちに、自分の席からミーチャのそばへ駈け寄った。
「ミーチャ!」と彼女は喚いた。「毒蛇があんたの身を破滅させちまった! あの女はとうとうあなた方に本性を出して見せましたね!」彼女は憎悪のあまり身をふるわせながら、裁判官に向ってこう叫んだ。
 裁判長の合図によって、人々は彼女を掴まえて、法廷から出そうとしたが、彼女はなかなか応じないで、身をもがきながら、ミーチャにすがりつこうとした。ミーチャも叫び声を立てて、やはり彼女のほうへ飛び出そうとしたが、結局二人ともしっかり抑えられてしまった。
 実際、この光景を見た婦人たちは、さだめし満足したことと思う。実に得がたい変化に富んだ場面だったのである。ついで、モスクワの医者が現われたように憶えている。裁判長はイヴァンの手当てをさせるため、どうやらその前に廷丁をやったものらしい。医師は裁判官に向って、患者は非常に危険な譫妄狂の発作におそわれているから、すぐ病院へ連れて行かなければならない、と申し出た。それから、検事と弁護士との問いに対して、患者が自身でおととい診察を受けに来たこと、そのとき近いうちに発作が起ると予言したけれど、患者が治療を望まなかったこと、などを証言した。『患者はまったく、健全な精神状態ではなかったのです。自分で私に言ったことですが、患者はうつつに幻を見たり、とっくに死んでしまった人を通りで見たり、毎夜、悪魔の訪問を受けたりするそうです』と医師は言葉を結んだ。自分の申し立てを終えると、この有名な医師は退出した。カチェリーナが提出した手紙は、証拠物件の中に加えられた。裁判官は合議の上で審問を継続し、この二人(カチェリーナとイヴァン)の意外な申し立てを、調書に書き込むことにした。
 しかし、筆者《わたし》はもうそのあとの審問を書くまい。その他の証人の申し立ては、それぞれみんな異なった特質を持ってはいたが、しかし結局、以前の申し立てを反復し、裏書きするにすぎなかった。けれど、繰り返し言っておくが、すべての申し立ては検事の論告で一点に集中されているから、筆者はこれからその論告に移るとしよう。人々はいずれも興奮していた。みな最後の大椿事で電気に打たれたような姿で、熱心に大団円、――検事の論告と、弁護士の弁論と、裁判長の宣告を待っていた。フェチュコーヴィッチは、カチェリーナの申し立てに打撃を感じたらしかったが、その代り検事のほうは大得意であった。審問が終った時、ほとんど一時間ちかく休憩が宣せられた。やがて、いよいよ裁判長が弁論の開始を宣言して、検事イッポリートが論告を始めたのは、ちょうど夜の八時であったように思う。

[#3字下げ]第六 検事の論告 性格論[#「第六 検事の論告 性格論」は中見出し]

 イッポリートは論告を始めた。彼は額とこめかみに病的な冷汗をにじませ、体じゅうに悪寒と発熱をかわるがわる感じながら、神経的にぶるぶると小刻みに身ぶるいしていた。それは、彼自身のちに言ったことである。彼はこの論告を自分の 〔chef d'oe&uvre〕([#割り注]傑作[#割り注終わり])と心得ていた。自分の一生涯を通じての 〔chef d'oe&uvre〕 すなわち白鳥の歌と考えていたのである。実際、彼はそれから九カ月後、悪性の肺病にかかって死んでしまった。だから、もし彼が自分の最後を予感していたものとすれば、彼は実際、自分で自分を臨終の歌をうたう白鳥に譬える権利を、立派にもっていたのかもしれない。彼はこの論告に自分の全心をそそぎ、あらんかぎりの知識を傾けて、そのためにはからずも、彼の心中に公民としての感情や、『永遠の』疑問が(少くも、彼の内部にいれ得る範囲において)、ひそんでいることを証拠だてた。ことに、彼の論告はその真剣さで人を動かした。彼は被告の罪を本当に信じていたのである。彼は人から注文されたのでもなければ、単なる職務上の要求のためでもなく、心から被告の罪を認めて、『復讐』を主張しながら、『社会を救いたい』という希望に慄えていたのである。イッポリートに反感をいだいていた当地の婦人連でさえ、異常な感銘を受けたことを告白したほどである。彼はひびの入ったような、きれぎれなふるえ声で弁じはじめたが、やがてその声にだんだん力が入って来て、それからずっと論告の終るまで、法廷全部に朗々と響き渡った。けれど、論告を終るやいなや、彼はすんでのことに卒倒しないばかりであった。
陪審員諸君」と検事は口をきった。「この事件は全ロシヤに鳴り響いております。しかし、一見したところ、そこに何の驚くべきものがあろう? とくに何の恐るべきものがあろう? といった気がいたします。われわれにとって、とくにその感が深いのであります。われわれはかかる事件に慣れきっているはずです! しかし、われわれの恐怖は、むしろかかる暗黒な事件さえすでに人々を驚かすにたりなくなった、という点にあらねばなりません! それゆえ、われわれはおのれ自身の習慣を恐るべきであって、ある個人の罪悪に驚く必要はありません。かかる事件、すなわち好ましからぬ将来をわれわれに予言するかかる時代の特徴に対して、われわれが冷淡な微温的態度をとり得るのは、そもそもいかなる理由でありましょうか? それは吾人のシニズムにあるのでしょうか、それとも、まだ壮年期にありながら、すでに時ならずして老耄した社会の理性と、想像の萎微に存するのでしょうか? あるいはまた、わが国における道徳性の基礎の動揺にあるのでしょうか、それとも結局、わが国人がこの道徳性をぜんぜん有していないためでしょうか? 本職もこの疑問を解決することはあえてしません。まして、この疑問は非常に悩ましいものであって、すべての公民はこの疑問に苦しまずにいられないばかりか、また当然苦しむべき義務があるのであります。しかし、幼稚で臆病なわが国の新聞雑誌は、何といっても社会に対して、幾分かの貢献をしたに相違ありません。なぜかと言えば、もしこれがなかったら、放縦なる意志と道徳の廃頽が生み出す恐怖を、多少なりとも詳細に知ることができないからであります。新聞雑誌は絶えずこれらの恐怖を掲載して、ただにこの聖代の賜物たる新しい公開の法廷を訪《おとな》う人ばかりでなく、あらゆる人々に報道しているからです。われわれがほとんど毎日のように読むものは何でしょう? ああ、それは本件のごときすら光を失って、ほとんど平凡きわまるものに思われるほど、恐ろしい事件の報道なのであります。しかし、最もおもなことは、わがロシヤの国民的刑事事件の大部分が、一般的なあるもの、――すなわち、わが国民の習性と化したある一般的不幸を証明していることであります。したがって、一般的悪としてのこの不幸と戦うのは、われわれにとって非常に困難なのであります。
「ここに上流社会に属する立派な一人の青年将校がいます。彼はその生活と栄達の道を踏み出すか出さぬうちに、早くもいささかの良心の呵責も感ぜずして、卑劣にも夜陰に乗じて、おのれの恩人ともいうべき一小官吏と、その下女とを斬りました。それは自分の借用証書と一緒に、官吏の金を奪うためなのであります。その金は『社交界の快楽と、将来の経歴をつくるために役に立つだろう』というのでした。彼は主従を殺してしまうと、二人の死人に枕をさせて立ち去りました。また次に、勇敢な行為によって多くの勲章を下賜されている若い勇士は、まるで強盗のように大道で、恩を受けた将軍の母親を殺しました。しかも、自分の同僚を仲間に引き入れるために、『あの人は僕を親身の息子のように愛しているから、僕の忠告なら何でもきいて、大丈夫警戒しやしない』と言っています。この男はむろん無頼漢でしょうが、本職はいま、現代において、無頼漢はこの男だけだと言い得ないのであります。ほかの者は殺人こそしないが、内心ではこの男と同じように考えもし、感じもしているのです。心の中はこの男と同じく破廉恥なのです。彼は孤独の中で、自分の良心に面と向って相対した時、『一たい名誉とは何だろう? 血を流すことを罪だというのは偏見ではあるまいか?』と自問したことでしょう。ことによったら、人々は私に反対して、叫ぶかもしれません、――お前は病的でヒステリックな人間だ、ロシヤに向って奇怪な悪口をついているのだ、たわごとを言っているのだ、とこう言うかもしれません。勝手に何とでも言うがいい、――ああ、もし実際その人たちの言うとおりなら、私はまっさきに喜んだでしょう! ああ、私を信じないがよい、私を病人と思うがよい。けれど、私の言葉だけは記憶してもらいたいです。もし私の言葉に、十分の一でも、二十分の一でも真実があれば、――それは恐るべきことであります! ごらんなさい、諸君、ごらんなさい、わが国の青年はどしどし自殺しているではありませんか。ああ、彼らは『死んだらどうなるだろう?』などという、ハムレット式の疑問を毛筋ほども持たない。こうした疑問は影ほどもないのです。彼らはわれわれの霊魂と、来世でわれわれを待っている一切のものに関する議論を、心中とっくに抹殺し葬り去って、上から砂をかけてしまったかのようであります。最後に、わが国の放縦と無数の淫蕩漢をごらんなさい。本件の不幸なる犠牲者フョードル・パーヴロヴィッチも、彼らの中のある者に比較すれば、ほとんど何の罪もない孩兒のようなものです。しかも、われわれは彼を知っています。『彼はわれわれの間に生きていたのであります。』……そうです、いつかはわが国のみならず、ヨーロッパにおいても第一流の学者が、ロシヤの犯罪心理を研究することでしょう。この問題はそれだけの価値があります。しかし、この研究はもっと後になって暇な時、つまり、現在の悲劇的混沌が比較的背後に遠ざかった時、初めて行われるでありましょう。その時こそ、人々は私などよりはるかに理知的に、かつ公平に観察することができるに相違ありません。
「しかし、今日においてはわれわれはただ驚いているか、あるいは驚いたようなふりをしながら、実はかえってその光景に舌鼓を打ち、自分たちの遊惰になったシニカルな頽廃気分を衝動するような、とっぴな、強烈な感覚を愛するか、あるいは小さな子供のように、その恐ろしい幻影を払いのけて、もの凄い光景が消えてしまうまで、頭を枕の中に突っ込んでいて、そのあとですぐ、快楽と遊戯の中にすべてを忘れてしまうか、この三つのうちどれかであります。しかし、われわれもいつかは真面目に、考え深く生活を始めねばなりません。自己に対しても、社会に対するような視線をそそがなければなりません。われわれもわが国の社会的事件について、何らかの理解を持たねばなりません。少くとも、理解を持とうと努めなければなりません。前代の大文豪([#割り注]ゴーゴリ[#割り注終わり])の一傑作([#割り注]死せる魂[#割り注終わり])の結末において、全ロシヤをある不明な目的に向って疾走するトロイカに喩えて、『ああ、トロイカよ、小鳥のようなトロイカよ、誰がお前を考え出したのか!』と叫びながら、誇らしい歓喜をもって、このまっしぐらに駈けて行くトロイカに遇うと、諸国民がみな敬意を払って脇へよける、とこうつけ加えています。そうでしょう、諸君、敬意を払おうが払うまいが、むろんよけるのは結構です。しかし、天才ならぬ私の目から見れば、この偉大な芸術家がかような結論をしたのは、子供らしい無邪気な楽天主義に捉われたためか、それとも単に、当時の検閲を恐れたためとしか思われません。なぜかと言えば、もし彼のトロイカに彼の主人公なるソバケーヴィッチや、ノズドリョフや、チーチコフなどをつないだならば、誰を馭者に仕立ててみても、そんな馬ではろく[#「ろく」に傍点]なところへ走りつくはずがないからであります! しかも、それは昔の馬で、今日のわが国の馬にははるかにおよびません、現代のチーチコフはもっともっと上手《うわて》であります!………」
 ここで、イッポリートの演説は拍手のために中断された。ロシヤのトロイカの比喩にふくまれた、自由主義が気にいったのである。もっとも、その喝采は二つ三つもれただけなので、裁判長も聴衆に対して、『退廷を命ずる』などと嚇す必要がなかった。ただ野次のほうをきっと睨んだにすぎなかった。しかし、イッポリートはすっかり乗り気になってしまった。彼は今まで一度も喝采されたことがなかったのだ! 彼は長いあいだ傾聴されることなくして今日にいたったが、今やたちまち全ロシヤに呼号する機会を得たのである。
「実際」と彼は言葉をつづけた。「今度とつぜん、ロシヤ全国に悲しむべき名声を馳せたこのカラマーゾフ一家は、そもそもいかなるものでありましょうか? 私はあまりに誇張しすぎるかもしれませんが、わが国現代の知識階級に共通なある根本的の要素が、この家族の中に閃めいているように思われます、――もとより、すべての要素全部でないばかりか、『ただ一滴の水に映った太陽のように、』顕微鏡で見なければならぬほど小さな閃めきですが、しかしやはり、それは何事かを反映しているのです、何事かを語っているのです。この放縦で淫蕩な不幸な老人、あんな悲惨な最期を遂げたこの『一家の父』をごらんなさい。貧しい食客をもってその経歴を始め、思いがけない偶然な結婚によって、持参金から小資産を握ったこの生れながらの貴族は、最初は知的才能をもった、――それも決して少からぬ才能をもった小さな詐欺師で、かつ追従軽薄を事とする道化者で、ことに何よりも高利貸でしたが、年を経るにしたがって、すなわち資産が殖えるにしたがって、だんだん気が大きくなって、屈服と追従は影を消して行き、単に皮肉な毒々しい冷笑家、兼淫蕩漢になってしまいました。生活の渇望が猛烈になるとともに、精神的方面はきれいに抹殺されたのであります。そして、結局、肉的快楽のほか人生に何ものをも認めなくなり、自分の子供たちさえそういうふうに教導したのであります。彼は父としての義務観念など少しももっていません、むしろそんなものを冷笑していました。彼は自分の小さい子供たちを、下男まかせに邸裏で養育させ、彼らがよそへ連れて行かれた時などむしろ喜んだくらいで、すぐさま彼らのことを忘れてしまいました。この老人の精神的法則は、すべて―― 〔apre`s moi le de' lug〕([#割り注]おれさえいなくなったら、洪水が起ったってかまうことはない[#割り注終わり])彼に公民という観念に反するものの好適例でした。最も完全な、毒々しい個人主義の標本でした。『世界じゅうが焼けてしまっても、おれさえ無事ならかまわない』という流儀でした。彼はいい気持で満足しきって、まだ二十年も三十年も、こういうふうに生きたいと渇望していたのです。彼は現在自分の息子の金をごまかして、つまり母親の財産を息子に渡してやらないで、その金でもって息子の恋人を奪おうとしたのです。そうです、私はペテルブルグから来られた敏腕なるフェチュコーヴィッチ氏に、被告の弁護を譲ることを欲しません。私自身、真実を語ります。彼が息子の心に投げ込んだ数々の忿懣を、私自身よく理解しているのです。しかし、この不幸な老人のことはもうよしましょう、たくさんです。彼はその報いを受けました。ところで、われわれの思わねばならぬことは、彼が父親であったことです、現代の典型的な父親の一人であったことです。彼が現代多数の父親の代表的な一人であるということによって、私ははたして社会を欺くことになるでしょうか? もとより、現代の父親の多くは、あれほど厚顔ではありません。なぜというに、彼らはよりよき教育、よりよき教養を得ているからであります。けれど、悲しいかな、彼らもほとんどフョードルと同じような哲学をもっています。おそらく私は厭世家でしょう。それでもかまいません。私はあなた方に赦してもらえるという条件の下に、この論告を始めたのです。で、前もって約束しておきましょう、あなた方は私を信じなくなってもよろしい、ただ私に話させて下さい、私の言いたいことをすっかり言わせて下さい、そして私の言葉を多少なりとも記憶して下さい。ところで、今度はこの老人、この一家のあるじの子供たちです。その一人は現に目の前の被告席におります。彼のことは後に言いましょう。あとの二人について、ちょっと簡単に言っておきますが、この二人の兄弟のうち、兄のほうは現代青年の一人です。彼は立派な教育を受け、きわめて鞏固な知力をもっていますが、何ものも信じようとせず、多くのものを、――人生におけるきわめて多くのものを、父親と同様に否定し、抹殺しています。われわれ一同は彼の説を聴きました。彼はこの町の社交界に歓迎されています。彼は自己の意見を隠蔽しない。それどころか反対に、まったく反対に、公々然と述べていました。したがって、いま私は彼のことを評する勇気を与えられたわけであります。しかし、むろん、それは個人としてでなく、ただカラマーゾフ家の一員として論ずるのであります。さて、昨日当地の町はずれで、病いに苦しんでいる一人の白痴が自殺しました。彼はこの事件に密接な関係を有する人間であって、同家の以前の召使を勤めていましたが、あるいはフョードル・パーヴロヴィッチの私生児かもしれません。すなわちスメルジャコフであります。彼は予審の時、ヒステリイじみた涙を流しながら、この若いカラマーゾフ、すなわちイヴァン・フョードロヴィッチがその放縦な思想をもって、いかに彼を驚かしたかを物語りました。『あの人の考えによりますと、その世では何事もみんな許されているのでございます。これからは何一つ禁じられるものはない、――と、こうあの人は教えて下さいました』と言いました。この白痴は、こうした説を教えられて、そのためにすっかり発狂してしまったらしいのであります。むろん持病の癲癇と、主人の家に突発した恐ろしい騒動が、彼の精神錯乱をたすけたことは言うまでもありません。けれど、この白痴は一つきわめて興味のある言葉をもらしました。それは、より以上聡明な観察者の言としても、立派なものと言っていいくらいで、したがって、私もこのことを言いだしたのであります。ほかでもない、『三人の息子たちの中で、その性質からいって一番フョードル・パーヴロヴィッチに似ているのは、あのイヴァン・フョードロヴィッチでございます』とこう彼は私に言いました。私はこの言葉を紹介して、一たんはじめた性格論を中断することにいたします。なぜなれば、これ以上言うのは、デリカシイを欠くものと認めるからであります。ああ、私はもうこれ以上断案を下すことは望みません。この青年の未来に対して、不吉な鴉啼きをしようとは思いません。動かしがたい正義の力が、今なお彼の若い心の中に生きていて、血族的な愛の感情が、不信やシニスムに消されていないことを、われわれは今日ここで、この法廷で認めました。この不信やシニスムは、真の苦しい思索の結果というよりも、むしろ父親から遺伝したものなのであります。次には第三子ですが、彼はまた敬虔、謙譲な青年で、兄の暗黒な腐爛した人生観と正反対であります。彼はいわゆる『国民精神』、――というよりも、むしろ、わが国の思想的知識階級に属する理論家の間で、この奇妙な名称を与えられているところのもの、――に合致せんとしています。ご存じでしょうが、彼は僧院に入っておりまして、いま少しで僧侶になるところだったのです。彼の心中には、無意識ではあろうが、早くからかの臆病な絶望が現われたように思われます。今日の悲しむべきわが国の社会においては、シニスムとその腐敗的影響を恐れて、一切の罪悪をヨーロッパ文明に嫁するような誤謬におちいり、この臆病な絶望に曳かれるままに、彼らのいわゆる『生みの大地』に走るものが多いのです。つまり、幻影に嚇された子供が、母親の抱擁に身を投ずるように、彼らは生みの大地に抱かれようとしているのであります。たとえ一生惰眠を貪っても、その恐ろしい幻影さえ見なればいいというので、弱りはてた母親の萎びた乳房に取りつき、安らかに眠ろうとしているのです。私一個としては、善良にして天才的なこの青年に、ありとあらゆる幸福を望みます。私は彼の若々しく美しい魂と、国民精神に対するその憧憬が、後にいたって、世間でよくあるように、精神的方面では暗黒な神秘主義におちいらぬよう、また政治的方面では盲目的な偽愛国主義に走らぬように望みます。この二つの要素は、彼の兄を苦しめているヨーロッパ文明、――犠牲を払わずして得られ、かつ曲解されたところのヨーロッパ文明、――から生ずる早老より、さらに危険なものであります。」
 偽愛国主義神秘主義に対して、また二三の拍手が起った。イッポリートはもうすっかり熱中しきっていた。しかし、彼の演説は少々事件に不適切な上に、筋道がすこぶる漠然としていた。けれども、憎悪の念に燃えたっている肺患者の彼は、せめて一生に一度でも、思う存分言いたくてたまらなかったのである。その後、町で行われた噂によると、イッポリートはかつて一二度、衆人の面前で、イヴァンに議論でやり込められたのを忘れないで、今こそ復讐してやろうという卑しむべき動機から、イヴァンの性格論をやったに相違ない、ということであった。けれども、そういう断案が正しいかどうか、筆者《わたし》は知らない。とにかく、これはほんの序論で、やがて演説は次第に、事件の本質に接近して行った。
「しかし、もう現代式の家長であるフョードルの長子にかえりましょう」とイッポリートは言葉をつづけた。「彼はわれわれの前で被告席に坐っております。われわれは彼の生活と、業績と、行為とを眼前に有しています。ついに時期が来て、何もかも表面に暴露されてしまったのです。自分の弟たちが『ヨーロッパ主義』や『国民精神』を抱擁しているのに反して、彼は、現在あるがままのロシヤを代表しています、――ああ、しかし、ロシヤぜんたいを代表しているのではありません。もしロシヤぜんたいだったら、それこそ大へんです! しかし、そこには彼女、われわれのロッセーユシカ、母なるロシヤが感じられます。彼女の匂いがし、彼女の声がきこえます。ああ、われわれロシヤ人は端的です。われわれは善と悪との驚くべき混合です。われわれは文明とシルレルとの愛好者でありながら、しかも酒場酒場を暴れ廻ってば、酔っ払いの飲み仲間の髯を引きむしっています。ああ、われわれとても、立派な善良な人間になることがあります。しかし、それはただわれわれ自身愉快な時にかぎるのであります。そうです、われわれは高尚な理想に動かされることさえあります。ただし、その理想はひとりでに実現されねばならぬ、という条件つきであります。天から鼻のさきに落ちて来なければならん、つまり無報酬で(これが肝腎なのです)、無報酬で得られなければならんのであります。そのために一さい代価を支払う必要のないものでなければなりません。われわれは支払いをすることが大嫌いだが、その代り、もらうことは大好きです。しかも、万事につけてそうなのです。まあ、一つわれわれに与えてごらんなさい。人生において得られる限りの幸福を与えてごらんなさい(実際、得られる限りの幸福でなければいけない、それより安くは妥協しません)。そして、何事によらず、一さい、われわれのわがままを妨げずにおいてごらんなさい。その時はわれわれも、立派な咎人になり得ることを証明するでしょう。われわれは決して貪婪ではありません。が、なるべくたくさん、できるだけたくさんの金を与えてごらんなさい。そうすればわれわれが寛大無比な態度で、賤しむべき阿堵物《あとぶつ》に対する軽蔑を現わしながら、一夜のうちにむちゃくちゃにつかいはたしてしまうのを、あなた方はごらんになるでしょう。もしぜひとも必要な時に金をくれるものが誰もなければ、われわれはそれを立派に手に入れてお目にかけます。しかし、この事件はあと廻しにして、順序を追うてお話しすることにしましょう。まずわれわれの前には、投げやりにされた憐れな子供がおります。それは先刻、尊敬すべき当地の市民(もっとも残念ながら、外国の生れではありますが)の言われたとおり、『靴もはかずに裏庭で』跳ね廻っていたのです。もう一度くり返して申しますが、私も被告を弁護する点においては、決して人後に落ちるものでありません。私は告発者であると同時に、弁護者でもあるのです。そうです、私も人間です、私は幼年時代や生家などの最初の印象が、人間の性格にいかなる感化を与えるものであるかを知っています。ところが、その子供は今やすでに成長して、立派な青年であり、士官であります。彼は乱暴を働いたり、決闘をいどんだりしたために、わが豊饒なるロシヤの辺境の町へ還されて、そこでも勤務し、かつ放蕩な生活を送ります。むろん、大きな船は航海も大きいわけです。しかし、必要なのは金です、まず何よりも金です。そこで、長いこと論争したあげく、とうとう父親から最後の六千ルーブリを受け取ることに決着して、その金が届いたのであります。ここで注意しなければならんことは、彼が証文を渡したことであります。つまり、もはやこれ以上要求しない、父親との遺産争いはこの六千ルーブリでけりをつける、とこういう意味の書面が残っています。そのとき彼は初めて、高尚な性格と立派な教養をもった、一人の年若い処女に出くわしたのです。ああ、私はここで詳しく繰り返すのをやめましょう。これはあなた方がただ今お聞きになったとおり、名誉と自己犠牲の問題ですから、私はもはやあえて言いますまい。浮薄で淫蕩ではあるが、しかし真の高潔と高遠な理想の前に跪いた若者の姿は、われわれの前に非常な同情の光をもって照らし出されたのであります。ところが、そのすぐあとで突然、同じこの法廷において、メダルの裏面が現われました。私はここでもまた推察を慎しんで、なぜそうなったかというような解剖はやめにします。この婦人は、長いあいだ隠していた忿懣の涙にくれながら、彼のほうがさきに相手を軽蔑したのであると述べました。つまり彼女の不注意な、抑制のない、とはいえ寛大、高潔な突発的行為のために、軽蔑したのであります。彼は、この処女の許婿たる彼は、誰よりも第一に嘲笑的な微笑をもらしました。彼女も男がもらしたこの微笑だけは、いかにしても忍ぶことができなかったのであります。男がもはや自分にそむいたことを知りながら、――女は将来どんなことでも、男の変心さえも忍ばねばならぬものだと信じて、そむいたことを知っていながら、彼女はわざと男に三千ルーブリの金を渡しました。そして、これは許婿の変心を助けるために渡すのであるということを、はっきりと、十分はっきりと男に悟らせたのであります。『どうです、受け取りますか、それほどあなたは恥知らずなのですか?』と彼女は試すような目つきで、無言の質問をしました。彼は相手の顔を見て、その肚の中をすっかり悟りながら(さっき彼自身あなた方の前で、ちゃんと悟っていたと申し立てました)、否応なくその金を着服して、新しい恋人と一緒に、僅か二日でつかいはたしてしまったのです。
「一たいわれわれはどちらを信じたものでしょう? 最初の伝説、――善行の前に跪いて最後の生活費を投げ出した高潔な心の衝動を信ずべきでしょうか、それとも、かの厭うべきメダルの裏面を信ずべきでしょうか? 人生において両極端に遭遇した場合、その中間に真理を求むるのが普通ですが、この場合は断じてそういうわけにゆきません。最初の場合にも、彼はしんから高潔であり、第二の場合にもしんから下劣であったというのが、最も正確なところでしょう。では、なぜか? われわれロシヤ人の性格が広汎だからです。カラマーゾフ式だからです、――つまり、私はこのことを言いたかったのです、――ロシヤ人の心は極端な矛盾を両立させることができ、二つの深淵を同時に見ることができるのです。われわれの上にある天上の深淵と、われわれの下にある最も下劣な、悪臭を放つ堕落の深淵とを、見ることができるのであります。カラマーゾフの一家を親しく深刻に見てきた若い観察者、すなわちラキーチン君の先刻のべられた立派な意見を、あなた方は記憶していられるでしょう。ラキーチン君は、『放縦不羈な性格を有する彼らにとっては、低劣な堕落の実感が、高尚で高潔な実感と同様に、必要欠くべからざるものである』と言われましたが、事実そうなのであります。まったく、彼らには絶えずこの不自然な混合が必要なのです。二つの深淵、同時に二つの深淵を窺う、――それがなければ、われわれは不幸、不満なのであります、われわれの生活は充実しないのであります。われわれは広汎です。母なるロシヤと同じように広汎です。われわれはさまざまなものを内部に共存させています。種々雑多なものと一緒に暮すことができます。
陪審員諸君、ついでながら言っておきます、われわれは今この三千ルーブリの問題にふれましたが、ここでちょっと一こと先廻りさせていただきたいと思います。考えてもごらんなさい。ああした性格の所有者たる彼が、ああいう羞恥、ああいう不名誉、ああいう極端な屈辱を忍んで、あの時あの金を受け取っておきながら、考えてもごらんなさい、その日のうちに三千ルーブリの半ばを割いて、守り袋の中に縫い込み、あらゆる誘惑や極度の欠乏と戦いながら、その後、一カ月間も頸にかけていたというのです! 方々の酒場で酔っ払っている時にも、競争者たる自分の父親の誘惑から恋人を救うために、ぜひなくてはならぬ金を、誰からという当てもなく借りようとして、町を飛び出した時にも、彼はあえてこの守り袋にさわろうとしなかったのであります。あんなに嫉妬していた老人の誘惑から、恋人を救い出すためだけでも、彼はその守り袋を開かなければならんはずだったのです。そして、恋人のそばを離れずにじっと張り番していて、彼女が最後に『わたしはあなたのものです』と言って、今の恐ろしい境遇から少しでも遠いところへ、二人で逃げて行くように頼む時を、待っていなければならなかったはずです。けれども、彼はそうしなかった。彼は自分の守り袋に手もつけなかったのです。そもそもどんな理由で手をつけなかったのでしょうか? 最初の理由なるものは、前にも言ったとおり、『わたしはあなたのものです、どこへでも連れて行って下さい』と言われた時、二人の逃走費に必要だということであります。しかし、この第一の理由は、被告自身の言葉によると、第二の理由のために力を失ってしまったのであります。『自分がこの金を持っている間は』と彼は言っています。『卑劣漢ではあっても泥棒ではない。』なぜかと言えば、いつでも自分の辱しめた女のところへ行って、だまし取った金の半分を突きつけたうえ、『さあ、このとおり、僕はお前の金を半分つかいはたした。これは僕が意志の弱い不道徳な人間だという証拠なんだ、もし何なら卑劣漢と言ってもいい(私は被告の言葉どおりに言います)。けれど、たとえ卑劣漢ではあっても、僕は決して泥棒じゃない。なぜなら、もし僕が泥棒なら、この残り半分をお前のとこへ持って来ないで、最初の半分と同じように、自分の懐ろへ入れてしまったはずだから。』こういつでも言えるからです、――なんと驚くべき説明ではありませんか! この非常に乱暴であると同時に、あんな屈辱を忍んでさえ、三千ルーブリの誘惑をしりぞけ得なかった弱い人間が、突然こんな堅固な克己心を発揮して、千ルーブリ余の金に手もつけず、頸にかけていたというのです! これが今われわれの解剖している性格と、多少なりとも一致するでしょうか? いや、本当のドミートリイ・カラマーゾフならば、よしんば事実、金を袋の中へ縫い込もうと決心したにしろ、そんな場合にどんなやり方をすべきであるか、今あなた方にお話ししましょう。まず第一の誘惑が生じた時、――つまり初め半分の金を捧げた新しい恋人を、またもやどうかして慰めねばならぬようなことが起った時、彼は自分の守り袋を開いて、その中から、――初めまず百ルーブリぐらい取り出したことでしょう、――なぜなら、必ず半分、すなわち千五百ルーブリ返さなければならんというわけはない、千四百ルーブリでもたくさんだからです。まったくどっちにしても結局、同じことになります。『僕は卑劣漢だが泥棒ではない。千四百ルーブリだけでも返しに来たからね。もしこれが泥棒なら、残らず取ってしまって、一文だって返すものか』という気持なのです。が、それからしばらくすると、また袋を開いて、二度目の百ルーブリを取り出す、次に三度め四度めを出すという工合で、わずか一カ月の終り頃には、とうとう最後の百ルーブリを残したきりで、みんな取り出してしまうでしょう。そして、この百ルーブリだけでも返しに行けばそれでいい、何といっても、『卑劣漢だけれど泥棒じゃない。二千九百ルーブリは費ったが、百ルーブリだけ返したからな。泥棒ならそれさえ返しゃしない』とこう言うでしょう。ところが、いよいよ一文なしになってしまうと、今度は最後の百ルーブリに目をつけて、『百ルーブリくらい持って行ったってしようがない、――いっそのこと、これも使っちまえ!』とひとりごちたでしょう。われわれの知っている本当のドミートリイ・カラマーゾフなら、こうするはずです。この守り袋云々という伝説は、想像することもできないくらい実際と矛盾しています。何だって仮定できないことはありませんが、こればかりは仕方のない話です。しかし、この問題はまたあとで論じることにしましょう。」
 イッポリートは父子間の財産あらそいについて、すでに当局の知り得たことを、順序ただしく述べた後、さらに若干の証拠をあげ、この遺産の分配問題について、誰が善くて誰が悪いなどと決めることは、断じて不可能であるという結論を下し、それから、ミーチャの頭に固定観念のようにこびりついていた三千ルーブリ問題に関して、医学鑑定の批評に移っていった。

[#3字下げ]第七 犯罪の径路[#「第七 犯罪の径路」は中見出し]

「医師の鑑定は、被告が狂人であり偏執狂《マニヤ》であることを、われわれに証明しようと努力したようです。ところが、私は被告は確かに正気であると主張します。しかし、これがかえって何よりも悪いのであります。もし彼が狂人なら、おそらくもっと利口なやり方をしたことでしょう。被告がマニヤであるという説には、私も同意します。ただし、それはただ一つの点だけ、すなわち、父親から三千ルーブリの金を支払われなかったという、被告の見解なのであります。しかし、被告がこの三千ルーブリの問題について、常に狂憤を感じていた事実を説明するためには、彼が狂気におちいりやすい傾向をもっていたということよりも、はるかに適切な理由を発見することができると思います。私一個としては、若い医師のヴァルヴィンスキイ君の意見に、ぜんぜん賛成です。同氏が言われるには、被告は普通の完全な精神作用をもっていたし、また今でも持っている、ただ極度に憤激して、憎悪の念に駆られたのだ、とこういうことです。つまり、そこなのです。被告が常に自己を忘れるほど憤激していた理由は、三千ルーブリとか何とかいう金額にふくまれているのではありません。そこにはある特別の原因がひそんでいて、彼の憤怒をそそったのです。その原因とは、ほかでもありません、――嫉妬です!」
 ここでイッポリートは、グルーシェンカに対する被告の宿命的な情熱を、絵巻物でも展開するように描きだした。彼は被告が『若い女』のところへ出かけて、『彼女を殴り殺そうとした』――彼は被告の言葉を借りて説明した、――そもそもの初めから述べたてた。
『しかし、殴り殺す代りに、彼女の足もとにひれ伏してしまいました、これがこの恋愛の発端なのです。同時に被告の父親なる老人も、その女に色目を使っていました、――驚くべき宿命的な合致です。なぜかと言えば、二人とも前からこの女を見もし知りもしていたのに、ちょうど時を同じゅうして、とつぜん二つの心が燃えだし、抑えがたいカラマーゾフ一流の情熱に囚われたからであります。ところが、ついさきほど彼女自身『わたしは両方とも笑っていました』と自白したとおり、彼女は急に二人をからかってやりたくなったのです。最初はそうでもなかったのだが、突然そういう考えが彼女の頭に浮んだのです。で、結局、二人とも彼女の前に、敗北者としてひれ伏すことになりました。拝金宗の老人は、女が自分の住みかを訪ねてくればやると言って、すぐ三千ルーブリの金を準備しましたが、やがて、女が自分の正妻となることさえ承諾してくれれば、自分の名前も財産も、全部かの女の足もとに投げ出して、なお幸福に思うほど熱しました。これには確かな証拠のあることです。ところで、被告はどうかといえば、彼の悲劇は現にわれわれの目前にあります。しかし、それが若い女の『戯れ』だったのです。まどわしの女はこの不幸な若者に、いささかの希望すら与えなかったのであります。真の希望は、被告が自分を虐げる女の前に跪いて、競争者である父親の血に染まった両手をさし伸べた、かの最後の瞬間に、初めて与えられたのです。つまり、こういう状態で彼は捕縛されたのであります。『わたしも、わたしもあの人と一緒に懲役へやって下さい。わたしがあの人をこんなにしてしまったんです。わたしが誰よりも一ばん罪が深いんです!』被告が捕縛された瞬間、彼女は心底から悔悟してこう叫びました。この事件を叙述しようとした才能ある青年は、――すなわち、先刻すでに述べたラキーチン君は、――この女主人公の性格について、簡にして要を得た批評を下しました。『彼女は自分を誘惑して棄てた情人によって、あまりにはやい幻滅と、偽瞞と、堕落とを経験し、ついで貧困と、潔癖な家族の呪詛とを味わい、最後に、今でも彼女が恩人と崇めているある富裕な老人の保護を受けるようになった。彼女の若い心は、多くの善良なる要素をもっていたであろうが、しかし、すでに早くから憤怒をひそめていた。かようにして、資産を蓄積しようとする打算的な性格が形づくられた。かようにして、社会に対する冷笑と、復讐心とが形づくられたのである』とラキーチン君は言いました。こうした性格論を聞いてみれば、彼女が単にただいたずらのために、意地わるいいたずらのために、二人を嘲笑したことが首肯されます。それで、この一カ月間、希望のない愛に苦しみ、道徳的に堕落し、婚約の女を裏切り、名誉にかけて渡された他人の金を着服した被告は、なおそのうえ、不断の嫉妬のためにほとんど喪心し、狂乱せんばかりでした。しかも、その嫉妬の相手は誰か? ほかでもない、現在の父親なのであります! しかし何よりもたまらないのは、気ちがいじみた老人が、この三千ルーブリの金でもって、被告の情熱の対象たる女を、誘惑しようとしたことなのです。しかも、その金は被告が自分のもの、つまり、自分に譲られた母親の遺産だと思い込んで、父親を責めていた金なのであります。そうです、これは被告としてたえ得ないことです。その点には、私も同意します! こういう場合には、実際マニヤさえ起りかねません。問題は金ではない、忌わしい無恥な態度で、この金を利用し、彼の幸福を破壊しようとする点にあるのです!」
 次にイッポリートは、どうして被告が次第に親を殺そうと考えるようになったか? という問題に移り、事実によってそれを究明した。
「初め彼は、ただ到るところの酒場を吹聴して廻るばかりでした。まる一カ月のあいだ吹聴していました。ああ、彼はしじゅう大勢の人に取り巻かれて、どんなに非道な危険な考えでも一切見さかいなしに、この連中に話すのが好きなのです。他人と思想の交換をするのが好きなのであります。そして、なぜかわからないが、その連中から、すぐに十分の同感をもって、自分の言葉に答えるようにと要求します。自分の憂慮、不安に立ち入って同情し、相槌を打ち、自分の気持に逆らわないことを要求します。それでなければ、腹を立てて、酒場をぶち毀しそうなほど、乱暴を働くのです(ここで、二等大尉スネギリョフの逸話が述べられた)。この一カ月間、被告に逢って、その言うことを聞いたものは、これは単なる威嚇や怒号のみでない、こうした威嚇は、こうした無我夢中の場合、えて実行に移りがちなものだ、ということを感じたのであります(ここで検事は、僧院における家族の会合と、被告とアリョーシャの対話と、被告が食後、父親の家へ闖入して暴行を働いた時の見苦しい光景を物語った)。被告が前もって父親を殺してしまおうと、周到に計画していたなどとは、私も断言しようと思いません」と、イッポリートはつづけた。「しかし、この考えは幾度も被告の心をおそったのです。彼はこれを仔細に熟考したのであります、――それには事実もあがっています。証人もあります。彼自身の自白もあります。陪審員諸君、」こうイッポリートはつけ加えた。「実際、私は、被告があらかじめ、十分な意識をもって犯罪を計画していたものと認めることを、今日まで躊躇していました。被告はすでに前もって、たびたびあの兇行の瞬間を考察したが、それもただ考察して可能と認めただけで、まだ実行の時期も手段も決めていなかった、と私は確信していました。私は今日という今日まで、カチェリーナ・イヴァーノヴナが法廷に提出された、あの恐ろしい証拠を見るまで、迷いつづけていたのであります。諸君、あなた方もあの婦人が、『これは計画です、これは人殺しのプログラムです!』と叫んだのを、お聞きになったでしょう。彼女は、不幸な被告の悲しむべき『酔っ払い』の手紙を、こう名づけました。実際、この手紙はプログラムの意味を、予定計画の意味をもっています。この手紙は、犯罪の二昼夜まえに書かれたのです。それによって考えると、被告はその恐るべき計画を敢行する二昼夜まえに、もし父親が、翌日金をよこさなかったら、『イヴァンが立つやいなや、彼を殺して、赤いリボンで結んだ封筒の中に入っている』あの金を、枕の下から取り出そうと心に誓ったのです、それはもう今となったら、事実と認めるよりほかありません。どうです、『イヴァンが立つやいなや』というからには、もうすっかり熟考して、段取りもきまっていたわけではありませんか、――そして、結果はどうです、何もかも、書いたとおりに実行されたのであります! あらかじめ計画され、熟考されていたことは、もはや疑う余地がありません。犯罪は掠奪の目的で遂行されたに相違ありません。これは現に公言され、記録され、署名されたことなのです。被告も自分の署名を否認してはいません。あるいは、酔っ払って書いたのだ、と言う人があるかもしれません。しかし、それは毫も罪を軽減するものではありません。いな、むしろ正気で考えたことを、酔っ払って書いたのだとも言えます。正気の時に考えていなかったら、酔っ払った時に書きはしないでしょう。では、彼はなぜ自分の計画を到るところの酒場で吹聴したか? そういうことをあらかじめ計画[#「あらかじめ計画」に傍点]している人間なら、黙っておし隠しているはずだ、とこう言われるでしょう。ごもっともです。しかし、彼が吹聴したのは、まだそうした計画や予定ができていず、ただ希望や衝動だけあった時分のことです。それで、彼もあとになると、あまりそれを吹聴しないようになりました。この手紙が書かれた時、彼は料理屋の『都』でうんと酒を飲みましたが、いつもと違って口数も少く、ちょっと玉突きをしただけで、隅のほうに腰かけたまま、誰とも話をしませんでした。ただ当地のある番頭を追っ払ったくらいにすぎません。が、これとてもほとんど無意識にしたことで、例の喧嘩癖のためなのです。彼は酒場へ入ると、こういうことなしにはすまされないのであります。もっとも、最後の決心をすると同時に、被告はあまり町じゅう触れ廻りすぎたから、この計画を実行した時に、露顕と断罪のもとになりはしないかという心配が、当然念頭に浮ばなければならないはずです。けれど、もういかんとも仕方がない、吹聴した事実は取り消すわけにゆかない。まあ、前にも自分を救った僥倖が、また今度も救ってくれるだろう。諸君、彼は自分の星を頼みにしたのです! そのうえ、彼がさまざまな手段を講じて宿命的な瞬間を避けようとしたことや、血腥い結末を避けるために苦心惨憺したことは、私も認めなければなりません。『僕は明日、あらゆる人から三千ルーブリの金を借りるつもりだ』とこう彼は独得の口調で書いています。『が、もし人が貸してくれなければ、血を流すまでだ。』もう一度くり返して言いますが、彼は酔っ払って書いたとおりを、しらふで実行したのであります。」
 こう言ってイッポリートは、ミーチャが犯罪を避けるために金を手に入れようとして、いろいろ骨を折った顛末を詳しく述べた。彼はミーチャがサムソノフを訪ねたことや、レガーヴィのところへ旅行したことなど、いずれも証拠をあげて述べたてた。
「この旅行のために時計を売り払った彼は(しかし、金を千五百ルーブリも持っていたと言うのです、――怪しい、しごく怪しい!)町に残っている愛の対象が、自分の留守にフョードルのところへ行きはしないかという嫉妬の疑いに苦しめられながら、疲れ、飢え、冷笑されて、ついに町へ帰って来ました。さいわい、女はフョードルのところへは行っていなかったので、彼は自分で女をその保護者サムソノフの家へ送って行きました(不思議なことに、彼はサムソノフに対しては嫉妬をいだきません。これはこの事件中もっとも注意すべき心理的特点であります)。ついで彼は『裏庭』の見張所へ飛んで行きました。そこで彼は、スメルジャコフが癲癇を起し、も一人の召使が病気にかかっていることを知りました。邪魔はすべて取り除かれ、しかも彼は『合図』を知っているのであります、――何という誘惑! しかし、彼はなおも自分に反抗しました。彼は、当地に一時居住して、われわれ一同に尊敬されているホフラコーヴァ夫人のもとへ赴いたのであります。早くから彼の運命に同情していたこの夫人は、最も賢明な忠告を試みました。つまり、この放蕩と、醜い恋と、だらしない酒場めぐりと、こういう若い精力の浪費を棄てて、シベリヤの金鉱へ行ったほうがいい。『そこには、あなたの荒れ狂う力と、冒険に飢えているロマンチックな性格の、はけ口がありましょう』と言ったのであります。」
 イッポリートはこの会話の結末から、ひいて被告が突然グルーシェンカの偽り、すなわち彼女が全然サムソノフの家へ行かなかったことを知った瞬間を語り、彼女が自分を欺いて、今フョードルのもとへ走っていはせぬかと考えた時、神経に悩まされた嫉妬ぶかいミーチャが、不幸にもたちまち無我夢中になったことを述べて、最後にこの場合の恐るべき影響に注意しながら語を結んだ。
「もし女中が、彼に向って、恋人は『争う余地のないもとの男』と一緒にモークロエにいる、と言いさえすれば、決して何事も起らなかったでしょう。ところが、女中は恐ろしさに慌ててしまって、ただ何も知らないと誓うばかりだったのであります。その場で被告が女中を殺さなかったのは、いきなりまっしぐらに、裏切り女のあとを追って駈け出したからです。しかし、ここにご注意を煩わしたいことがあります。被告は夢中になって前後を忘れているにもかかわらず、それでもやはり、銅の杵を手に取ったのであります。なぜ銅の杵を取ったか? なぜほかの道具を取らなかったか? けれど、もし彼が一カ月間もこの計画を熟考し、その準備をしていたとすると、何かちょっとでも兇器らしいものが目に映ったら、すぐそれを兇器として掴むに相違ありません。また、この種のいかなる物件が兇器として用い得るかということは、もう一カ月以上も考え抜いたのであります。だからこそ、その銅の杵を一瞬にして否応なく兇器と認めたわけです。それゆえ、何といっても、彼がこの恐ろしい杵を取ったのは、無意識に、知らず識らずやったものとは考えられません。やがて、彼は父の家の庭に現われました、――障害ははない[#「障害ははない」はママ]、見つける者もない、夜はふけて真っ暗です。嫉妬の焙はひらひらと燃えあがりました。彼女はここにいるのだ、自分の競争者なる父に抱かれているのだ、ことによったら、いま自分を笑っているかも知れぬ、こういう疑いが起ると、もう息がつまりそうです。もはや今は疑いばかりではない、疑いどころか、だまされていたことは明白であります。彼女がそこに、その光の洩れている部屋に、あの衝立ての陰にいることは明瞭であります。その時、不幸なる被告は窓の側に忍び寄り、うやうやしく窓を覗き込み、おとなしく諦めをつけて、何か非道な恐ろしい間違いの起らないように、賢くも不幸を避けて、急いでそこを立ち去った、とこうわれわれに信じさせようとするのであります。しかし、われわれは被告の性格を知っています、この場合の彼の精神状態を理解しています。われわれはその状態を事実によって承知しています。そのうえ彼は、すぐにも戸を開けて家の中に入ることのできる合図を知っていたのではありませんか。」ここでイッポリートは、その『合図』のことから、スメルジャコフについて一言する必要を認め、彼が下手人ではないかという余興的嫌疑を十分に考究し、一挙にしてこの問題をきっぱり片づけるために、ちょっと論告を中断して、岐路に入った。これを試みた彼の態度が詳密をきわめているので、一同は彼がこの嫌疑に対して軽蔑の色を見せているにもかかわらず、やはり内心それに重大な意義を認めていることを悟った。

[#3字下げ]第八 スメルジャコフ論[#「第八 スメルジャコフ論」は中見出し]

「第一、いかなる理由で、こうした嫌疑が現われたのでしょうか?」とまずイッポリートはこの質問から口をきった。「最初にスメルジャコフを下手人と叫んだのは、被告自身であって、捕縛される瞬間のことでした。しかし、彼は初めてそう叫んだ時から、今日この公判の時にいたるまで、スメルジャコフの犯罪を証明するような事実を、一つとして挙げ得ませんでした。いな、事実ばかりか、単に常識判断で首肯し得るような事実の暗示さえも、全然あたえ得なかったのであります。そのほかに、スメルジャコフの犯罪を確信しているものは、たった三人だけでした。すなわち被告の弟二人と、スヴェートロヴァであります。しかし、二人の弟のうち、イヴァンは今日はじめて自分の疑いを述べたので、それも争う余地のない興奮と、狂気の発作におそわれたためであります。以前は、私たちも熟知しているとおり、兄の罪を深く信じきって、この世評に抗弁しようとさえ思わなかったほどであります。が、このことはとくにあとで述べることにします。次に、その弟のほうは先刻もわれわれに言ったとおり、スメルジャコフの犯罪を証明するような事実を、微塵も持っていないけれど、ただ被告の言葉とその『顔いろによって』、そう信じているのでありまして、この驚くべき有力な証明は、先刻二度までも彼の口から述べられました。ところで、スヴェートロヴァはさらに驚くべき申し立てをしました。『被告の言うことを信じて下さい。あの人は嘘を言うような人ではありません。』被告の運命に非常な利害を感じているこの三人が提供した、スメルジャコフ有罪論の事実的証明は、ただこれだけなのであります。しかし、それにもかかわらず、スメルジャコフに対する嫌疑は、これまで世間に噂されてもいたし、今も噂されています、――一たいこれが信じ得ることでしょうか? 想像し得ることでしょうか!」
 この際、検事イッポリートは、『興奮と狂気の発作のために自分の生命を断った』スメルジャコフの性格を、簡単に描き出す必要を認めた。検事の言うところによると、スメルジャコフは知力の鈍い人間で、漠然とした初歩の教育らしいものを受けていたが、自分の知力以上の哲学思想に惑わされ、広く一般に瀰漫している奇怪な現代の責任観念、ないし義務観念に脅かされたのである。これを実際的に教え込んだものは、ほとんど彼の主人、――あるいは父親であったかもしれない、――フョードル・パーヴロヴィッチの放埒な生活であり、理論の上では、彼を相手にいろいろ奇怪な哲学上の談話を交わした息子のイヴァンであった。おそらくイヴァンは退屈しのぎか、あるいは心中にわだかまっている皮肉のやり場が、ほかになかったためであろう、好んでスメルジャコフにそんな話をしたのである。
「彼は自分で私に向って、最近、主人の家にいた頃の精神状態を話しました」とイッポリートは説明した。「もっとも、ほかの者たち、例えば被告自身も、彼の弟も、「召使のグリゴーリイさえも、――つまり、彼に親近しているものが、ことごとく同じことを証明しています。のみならず、スメルジャコフは癲癇の発作のために健康を害して、『まるで牝鶏のように臆病』でありました。『あいつは私の足もとに倒れて、靴に接吻しました』と被告はわれわれに語りました。まだそのとき被告は、そういう陳述が自分にとっていくぶん不利なことを、意識しなかったのであります。『あいつは癲癇にかかった牝鶏です』と、彼は例の独得な口調で、スメルジャコフを評しました。そこで、被告は彼を自分の相談相手に選んで(このことは被告自身で証明しています)、さんざん彼を脅迫したものですから、とどのつまり、彼は被告のために密偵となり、間諜となることを承諾するにいたったのであります。この家庭内の密偵という職務のために、彼は自分の主人にそむいて、金の入っている封筒のありかや、主人の部屋へ侵入する合図を、被告に告げたのであります。また、どうして告げずにいられましょう。『殺しそうなんでございます。どう見てもわたくしを殺しそうなんでございます』と彼は審問の時こう言いました。もうその時は、彼を脅かし苦しめた暴君が捕縛されて、二度と復讐に来るようなおそれはなかったのですが、それでもぶるぶる身ぶるいしているのです。『あの人は始終わたくしを疑っていられましたので、わたくしは恐ろしさに慄えておりました。で、どうかしてあの人の怒りを鎮めようと思って、大急ぎで秘密という秘密を残らず打ち明けてしまいました。こうもすれば、わたくしがあの人に悪い考えを持っていないことを見抜いて、無事に赦してもらえるかと思いました。』これはスメルジャコフ自身の言葉であります。私はこの言葉を書きつけてもおいたので、ちゃんと記憶しています。『よくわたくしはあの人に呶鳴りつけられると、いきなりあの人の前に膝をついたものでございます。』生来ごく正直な若者で、主人の紛失した金を拾って返した時から、その正直を認められて、深く主人の信任を得ていたので、不幸なスメルジャコフは、恩人として愛している主人を売ったことを後悔し、ひどく煩悶したものと考えなければなりません。博識な心理学者の証明するところによると、ひどい癲癇にかかっているものは、常に病的な不断の自己譴責におちいりやすいものであります。彼らはよく何の根拠もないのに、何かにつけて、また誰かに対して、自分の『罪』を認め、良心の呵責を感じて煩悶します。彼らは常に誇大的に考えて、自分からさまざまな罪悪や犯罪を考え出すのであります。こうした種類の人間は、単なる恐怖と驚愕のために、実際、犯罪人となることさえあります。のみならず、彼は自分の眼前に行われているさまざまな事件からして、何かよからぬことが生ずるだろうと予感していました。イヴァンが兇行の直前に、モスクワへ出発しようとした時、スメルジャコフは彼に向って、どうか行かないようにと哀願したのですが、例の臆病からして、自分のいだいている危惧の念を残らず明瞭に、きっぱり打ち明けることをなし得ないで、ただ軽く暗示を与えるだけにとどめました。けれど、その暗示を悟ってもらうことができなかったのであります。ここに注意すべきことは、彼がイヴァンを自分の保護者のように見なして、この人さえ家にいれば、決して不幸は起らないと、信じきっていた点であります。ドミートリイの『酔っ払った』手紙の中にある『イヴァンが立ったらすぐ親父を殺してやる』という文句でもわかるとおり、つまり、イヴァンの存在は家内の平穏と秩序の保証のように、誰からも思われていたのであります。ところが、イヴァンは出発しました。すると、スメルジャコフは、若主人が出発してから一時間後に、癲癇の発作におそわれたのであります。しかし、それは至極もっともなことであります。なおここで言っておかなければならぬことは、さまざまな恐怖と一種の絶望に打ちひしがれていたスメルジャコフが、この二三日とくに強く、発作の襲来を感じていたことであります。それまでも、発作はいつも精神的緊張や震撼の瞬間におそってきたそうです。むろん、この発作のくる時日を予測することはできないが、どんな癲癇病者でも、発作の起りそうな徴候を前もって感じ得るのは、医学の告げるところであります。で、イヴァンが屋敷から出てしまうやいなや、スメルジャコフは自分の孤独な頼りない身の上をしみじみと感じながら、やがて家の用事で穴蔵へおもむきました。彼は穴蔵の階段を降りながら、『発作が起りはしまいか、もし起ったらどうしよう?』と考えた。すると、こうした気分、こうした想像、こうした疑問のために、いつも発作の前にやってくる喉の痙攣が起って、彼は無意識に穴蔵の底へ転げ落ちたのであります。ところが、世の中にはご苦労千万にも、この最も自然な出来事を疑って、あれはわざと[#「わざと」に傍点]病人の真似をしたのだ、とほのめかす人々があります! けれど、もしわざとしたものとすれば、すぐ『何のために?』という疑問が起ってくるわけです。いかなる打算、いかなる目的があったのでしょう? 私はもう医学のことは言いますまい、――科学は偽ることがある、誤ることがある。医者は病気の真偽を見分け得るものではない、――こう言う人があるなら、それはそのとおりとしておいてもよろしい。しかし、その前に、なぜ病人の真似をしなければならなかったか? という問いに答えてもらいたい。よし殺人をもくろんだとしても、癲癇など起したら、前もって一家の注意を自分に惹きつけることになりはしないでしょうか? 陪審員諸君、諸君もご存じでしょうが、兇行の当夜、フョードルの家には五人の人がいました。第一に、フョードル・パーヴロヴィッチ自身ですが、しかし彼は自殺したのではない、それは言うまでもありません。第二に、召使グリゴーリイですが、この男は自身でも危く殺されようとしたくらいです。第三に、グリゴーリイの妻、女中のマルファ・イグナーチエヴナですが、その女が自分の主人を殺したなどとは、考えるさえ恥しいほどです。そうすると、残るのは被告とスメルジャコフの二人きりです。しかし、被告は自分が殺したのでないと主張しますから、どうしてもスメルジャコフが殺したことになってしまいます。でなければ、ほかに下手人を見いだすことができません、ほかに犯人を挙げることができません。こういうわけで、きのう自殺した不幸な白痴に対するこの『狡猾な』、途方もない嫌疑が生じたのであります! つまり、ただほかに誰も嫌疑をかけるべき人がないからにすぎません! もし誰かほかの人に、誰か第六人目の人に、影ほどでも疑わしい点があれば、被告はスメルジャコフを挙げるのを恥じて、この六人目の人を挙げたことと信じます。なぜなら、スメルジャコフにこの殺人の罪をきせることは、絶対に不合理だからであります。
「しかし、諸君、心理解剖はよしましょう、医学上からの批評もやめましょう。いな、それどころか、論理さえ抛擲しましょう。そして、事実、ただ事実だけを考察して、事実がわれわれに何を告げるかを検分しましょう。かりにスメルジャコフが殺したものとしても、一たいどういう工合にして殺したのでしょう? 一人でしょうか、それとも被告と共謀して殺したのでしょうか? まず第一の場合、すなわちスメルジャコフ一人で殺したものと考えてみましょう。彼が殺したとすれば、むろん、何か目的を持っていなければなりません、何かためにするところがあったはずです。スメルジャコフは、被告のもっていたような憎悪、嫉妬などというような兇行の動機を、影すら持たなかったのですから、犯人を彼とすれば、疑いもなく金のためだけです。あの三千ルーブリの金のためです。主人がその金を封筒に入れるところを、現に彼は見たのであります。ところが、兇行を企らんだ彼は前もってほかの人物に、――しかも非常な利害関係を有している被告に、金のことや、合図のことや、封筒がどこにあるか、その上に何と書いてあるか、何にくるまれているか、というような事柄をすっかり教えました。ことに何より重大なのは、主人の部屋へ入る『合図』を教えた事実であります。どうして彼はこんな自分を裏切るようなまねをしたのでしょう? 同様に忍び込んで、その封筒を盗み出すおそれのある競争者を作るためだったのか? しかし、それは恐ろしさに教えたのではないか、とこう言う人があるかもしれません。が、それはどうしたわけでしょう? そういう大それた獣のような行為を考えついて、それを実行することさえ、あえて辞さないほどの覚悟をした男が、世界じゅうで自分一人だけしか知らないようなことを、――自分が黙ってさえおれば、世界じゅうで誰ひとり察しるもののないようなことを、むざむざ他人に明かすものでしょうか? いや、どんな臆病な人間でも、もしそうした犯罪を企てたからには、たとえどんなことがあろうとも、決して誰にももらすものではありません。少くとも封筒と合図のことだけは言わなかったでしょう。それを明かすということは、将来自分を裏切る結果になるからであります。もし人から情報を求められた場合には、何か都合よく言い拵えるか嘘をつくかして、肝腎なこの点については、口を開くものではありません。それどころか、繰り返して言いますが、もし彼がせめて金のことだけでも黙っていて、それから主人を殺して、金を取ったとすれば、世界じゅう誰ひとりとして、金のために人殺しをしたと言って、彼を責めることはできなかったでしょう。なぜかと言えば、彼のほかには誰もこの金を見たものもなく、第一、この金が家の中にあるということも知らなかったからです。たとえ彼が人殺しの罪をきせられても、何かほかの動機から殺したのだと思われるに相違ありません。しかし、誰も以前そんな動機を彼に認めていなかったのです。いや、むしろ彼が主人に愛され、信用されていることを、世間一同が知っていました。だから、嫌疑がかかるとしても、彼は一ばん最後にあたる人間で、まず誰よりも第一に疑われるのは、これらの動機をもっているもの、自分の口から呶鳴りたてていたもの、少しも隠そうとしないで、あからさまにさらけ出していたもの、すなわち一言で言えば、被害者の息子ドミートリイ・フョードロヴィッチであるべきはずなのです。スメルジャコフが殺して、金をとって、息子が罪をきせられる、――このほうが下手人のスメルジャコフにとって、有利じゃないでしょうか? ところが、彼は兇行を思い立っておきながら、息子のドミートリイに金や、包みや、合図のことを教えています、――いやはや、何たる論理でしょう? なんと事理明白なことでしょう ※[#感嘆符二つ、1-8-75]
「スメルジャコフが企らんだ兇行の日が来た時、彼はわざと癲癇の発作におそわれたようなふりをして、寝込んでしまいました。これは何のためでしょう? それはむろん、第一に、誰も家の番をするものがなくなったため、自分の体の療治をしようと思っていた下男のグリゴーリイに、療治をあとまわしにして番をさせることになります。第二に、誰も家の番をするものがなくなったから、息子の来襲をひどく恐れていた(それは彼も隠そうとしませんでした)主人の心配を増させ、警戒を一段と厳重にさせることになります。最後に、これは言うまでもなく、最も重大なことですが、彼スメルジャコフは普段みんなと離れて、ひとり料理場に寝起きして、出入り口もすっかり別になっていたのに、癲癇におそわれるとすぐ、離れの一方にあるグリゴーリイの部屋へ担ぎ込まれて、夫婦の寝床から三足ばかりしか離れていない、仕切り板の陰に寝かせられることになるのです。彼は発作にかかりさえすれば、主人と苦労性なマルファの取り計らいで、いつもそうされていたのであります。ところが、その仕切り板の陰に寝ておれば、彼は本当の病人らしく見せるために、むろん、どうしても唸りつづけて、グリゴーリイ夫婦を夜どおしのべつ起さなければなりません、――(これは、グリゴーリイ夫婦の証明したところであります)――一たいこういうようなことが、とつぜん起きあがって、主人を殺すために便利だと言われましょうか!
「しかし、またある人は、彼が仮病をつかったのは嫌疑を避けるためで、金のことや合図を被告に教えたのは、被告を誘惑して、彼に忍び込ませて父親を殺させるためだった、とこういう説をするかもしれません。しかし、どうでしょう、被告が殺害して、金を奪って出て行く時、必ず騒々しい物音を立てて、証人たちの目をさまさせるに違いありません。その時にどうでしょう、スメルジャコフものこのこと起きあがって、出かけるつもりだったのでしょうか? 一たい何のために出かけるのでしょう? それは、もう一ど主人を殺して、すでに奪われた金を取るつもりだったのでしょうか? 諸君、あなた方はお笑いですか? 私自身もかような仮定をするのは恥しく思います。ところが、どうでしょう、被告はこれを主張するのであります。被告は、自分がグリゴーリイを倒して、騒動を引き起し、さて家から出てしまったあとで、あいつが起きあがって出かけて行き、主人を殺害して、金を盗み取ったのだと申し立てています。興奮のあまり正気を失った息子が、ただうやうやしく窓を覗いただけで、現在合図を知っていながら、みすみす獲物を彼スメルジャコフに残して退却するということを、どうしてスメルジャコフが前もって見抜くことができたか? などというようなことについては、もう今さららしく言及しますまい! 諸君、私は真面目にお訊ねします。いつスメルジャコフはその犯罪を行ったのでしょうか? その時を示して下さい。なぜなら、それがわからなければ、彼を罪する[#「罪する」はママ]ことはできないからであります。
「しかし、あるいは、癲癇は本物であったけれど、病人はとつぜん正気に返って、叫び声を耳にして出て行ったのかもしれません、――まあ、かりにそうだとすれば、一たいどうなるでしょう? 彼はあたりを見まわして、『よし、一つ旦那を殺して来ようか?』とひとりごちたとします。しかし、彼はそれまで気絶して寝ていながら、どうしてその間に生じたことを知ったのでしょう? けれど、諸君、こうした空想はいい加減にしましょう。
「ところで、聴明な人たちはこう言うかもしれません、――だが、もし二人がぐるだったらどうする? もし二人が共謀で殺して、金を山分けにしたらどうだろう?
「そうです、これは実際、重大な疑問です。第一に、さしあたりその疑念を証拠だてる有力な証跡があります。すなわち、一方は兇行を引き受けて、ありとあらゆる苦心をしながら、一方は癲癇の真似をして、のんきに寝ていたのです、――しかも、それは前もってみなに疑念をいだかせ、主人とグリゴーリイに不安を起させるためなのであります。二人の共謀者はどういう動機から、こうした気ちがいじみた計画を思いついたのか、実に不思議のいたりです? もっとも、これはスメルジャコフのほうから積極的に持ち出した相談ではなく、いわば受身の犠牲的な黙従だったかもしれません。たぶん、スメルジャコフは脅しつけられて、ただ兇行に反対しないだけの承諾を与えたのでしょう。彼は自分が叫び声を立てず、反抗もしないで、ドミートリイに主人を殺させた、――という非難を受けるに違いないと予感したので、ドミートリイが兇行を演じている間、癲癇を装うて寝ていることを無理に許してもらった、とこう考えることもできます。『あなたは勝手に殺しなさるがいい、私は高見の見物ですよ』という気持だったかもしれません。けれど、もしそうだとしても、やはりこの発作は家のものを騒がせるから、ドミートリイもそれを見抜いて、こんな相談にのるはずはありません。しかし、私は譲歩して、彼が承知したものとしましょう。そうしたところで、やはりドミートリイが人殺しで、下手人で、張本人であって、スメルジャコフはただ受身の関係者、いや、関係者というよりむしろ、恐怖のため心ならずも黙認したにすぎないのであります。それは裁判官諸君も必ずお認めになることと思います。ところが、一たいどうでしょう? 被告は捕縛されるとすぐ、もっぱらスメルジャコフ一人に責任を嫁し、彼一人に罪を塗りつけています。共謀の罪どころか、ただ彼一人に全部の罪を嫁しています。あいつが一人でやったのです、あいつが殺して、あいつが取ったのです、あいつの仕業なのです、とこう彼は言っています! すぐさま互いに罪の塗り合いをするような共犯者が、一たい世の中にあるものでしょうか、――いや、そんなことは決してありません。それに、注意すべき点は、これはカラマーゾフにとってきわめて危険な所業なのであります。なぜなら、張本人は彼であってスメルジャコフではありません、彼はただ黙認したにすぎない。彼は仕切り板の陰に寝ていたのです。ところが、被告はその寝ていたものに罪をきせるではありませんか。そんなことをすれば、スメルジャコフはひどく憤慨して、自己防衛の念から、急いで真実を打ち明けるおそれがあります。二人とも関係はあるのですが、しかし私は殺したのじゃなくて、恐ろしさに見て見ぬふりをしただけです、と言うかもしれません。彼スメルジャコフは、『法廷はすぐ自分の罪の程度を見分けてくれるに相違ない。だから、よしんば罰を受けるにしても、何もかも自分に塗りつけたがっている張本人よりか、ずっと軽くてすむに相違ない』とこう考えたでしょう。しかし、それならば、彼はいやでも一切を白状したはずですが、そういうことはまるでありません。下手人があくまで彼に罪を嫁して、どこまでも彼をさして、唯一の下手人であると言いはっているにもかかわらず、スメルジャコフは共謀などということを、おくびにも出さなかったのみならず、われわれの審問に答えて、金の入った封筒や合図のことは彼自身被告に教えた、もし自分かいなければ被告は何も知らなかったろう、と言いました。もし実際、彼が共謀者であって、自分にも罪があるとしたならば、審問の際すぐさまやすやすとこのことを、つまり、彼が何もかも被告に教えたということを、白状するはずがないではありませんか? むしろ言を左右に託して、必ず事実を曲げて小さくしようとするはずです。にもかかわらず、彼は事実を曲げもしなければ、小さくしようともしなかった。こういうことをなし得るのは、ただ罪のないものだけです、共謀の罪をきせられるおそれのないものだけです。こうして、彼は持病の癲癇と、この大椿事にもとづく病的な憂欝の発作のために、昨夜、縊死を遂げました。彼は自殺に際して、『余は、何人にも罪を帰せないために、自分自身の意志によって、あまんじて自己の生命を断つ』とこういう独得な口調で遺言をしたためました。下手人は自分であって、カラマーゾフではない、こうちょっと一筆、遺言につけたすに何のさしつかえもないはずなのに、彼はそれをしませんでした。一方には良心の責任を感じながら、一方に対してはそれを感じなかったのでしょうか?
「ところで、どうでしょう? 先刻三千ルーブリの金がこの法廷に持ち出されました。『その金は、ほかの証拠物件と一緒にテーブルの上にのっている、あの封筒の中にはいっていた金です、私が昨日スメルジャコフから受け取ったのです』ということでした。ところが、陪審員諸君、あなた方も先刻の悲惨な光景をご記憶でしょうから、詳しく再叙することをさし控えますが、しかし、あえて二三の意見を述べさせていただきます。私はごくつまらない点を取り上げることにします、――それはつまり、つまらないがために、誰も考えつかないで、忘れてしまうおそれがあるからです。また同じことを繰り返すようですが、第一に、スメルジャコフは良心の呵責にたえかねて、きのう金を渡して、自殺を遂げました(もし良心の呵責がなければ、彼は金を渡しはしなかったはずであります)。むろん、スメルジャコフはゆうべ初めて罪を私に白状した、どこう証人は言いますが、それはそのとおりとしましょう。でなければ、彼が今まで黙っているはずはありません。こうして、スメルジャコフは自白しました。しかし、私はふたたび繰り返しますが、なぜスメルジャコフは自分の遺書に真実を書きつけておかなかったか? 罪なき被告のために、あす恐るべき裁判が開かれることは、彼も知っていたのではありませんか。金だけではまだ証拠になりません。私ばかりではなく、この法廷におられる二人の方も、すでに一週間以前、イヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフが、県庁所在地の町に五千ルーブリの五分利つき証券二枚、すなわち一万ルーブリを送って、両替させた事実をご存じのはずであります。私がこんなことを言うのは、誰でもある時期に金を持つということはあり得るわけですから、三千ルーブリの金を持って来たからといって、それが例の金だ、つまり、例の箱もしくは封筒から出した金だ、という証拠にはならないからです。最後にイヴァンは、昨日そういう重大な自白を真の下手人から聞きながら、安閑として打ち棄てておきました。なぜ彼はこのことを、すぐさま報告しなかったのか? なぜ朝まで延ばしたのか? 私はそれを推察する権利があると思います。思うに、一週間前すでに健康を害して、医者や近親のものに向って、幻を見たとか、死人に会ったとか、言っていた彼は、ほかならぬきょう今日《こんにち》、ああまで激烈に勃発した譫妄狂の一歩手前まで来ていたのであります。それが突然、スメルジャコフの死を聞いたので、『あいつはもう死んだ人間だから、あいつに罪をなすりつけて、兄を救ってやろう。さいわい自分は金を持っているから、一つ紙幣束を持ち出して、スメルジャコフが死ぬ前に渡したのだと言ってやろう』とこういう考えを起したものとみえます。あなた方は、たとえ死人であろうと、人に罪をきせるのはよくない、兄を救うためだって嘘を言うのもよくない、とおっしゃるのですか? ごもっともです。が、もし無意識に嘘を言ったとしたらどうでしょう? とつぜん下男の死を耳にして、頭がすっかり狂ってしまったために、実際そのとおりであったように想像したものとしたらどうでしょう? あなた方は先刻の光景をごらんになりましたろう。彼がどういう精神状態にあったか、ごらんになりましたろう。彼はちゃんと立って口をききましたが、しかし、その心はどこにあったとお思いになりますか?
「この狂人の申し立てにつづいて現われたのは、被告がヴェルホーフツェヴァ嬢に送った手紙であります。それは兇行の二日前に書かれたもので、兇行の詳しいプログラムであります。してみれば、われわれはもうほかにプログラムや、その編成者を捜す必要はありません。兇行はちょうどこのプログラムどおり、その編成者によって行われたのです。そうです、陪審員諸君、『書いてあるとおりに行われた』のであります! 中に自分の恋人がいるに相違ないと固く信じた被告が、父親の窓のそばからうやうやしく、臆病に逃げ出すなんて、そんなことは決してありません。どうして、そんなことはばかばかしい、あり得べからざる話です。彼は入り込んで、兇行を演じたに相違ありません。つまり、憎いと思う恋敵を一目見るやいなや、むらむらと憤怒の焔が燃えあがって、興奮の極、兇行を演じたものと察しられます。それはおそらく銅の杵をもって、一撃のもとに倒してしまったのでしょう。そのあとでよく捜したあげく、女がそこにいないことを知ったのですが、しかし手を枕の下に突っ込んで、金の入った封筒を取り出すことを忘れませんでした。その破れた封筒は今このテーブルの上に、他の証拠事件と一緒にのっています。私がこんなことを言うのは、ここで一つの事情を認めていただきたいからであります。しかも、それは私の考えによると、最も重大な意義をおびているのであります。もしこれが経験のある殺人者、すなわちただの強盗殺人犯であってごらんなさい。はたして封筒を床の上に投げ棄てておくでしょうか? ところが、実際は、死体のそばに転がっているのを発見されたのです。もしこれがスメルジャコフであって、強盗のために殺したとすれば、わざわざ被害者の死骸の上で開封するような面倒をみずとも、すぐそれを持って、逃走したに相違ありません。なぜなら、包みの中に金が入っていることを、確かに知っていたからです――金は彼の目の前で封筒へ入れられて、封印までせられたのであります、――実際、もし彼が封筒を持って逃げてごらんなさい、強盗の行為は誰にもわかりようがありません。陪審員諸君、私はあえてお訊ねします。スメルジャコフがそんなやり方をするでしょうか? 封筒を床の上に棄てて行くでしょうか? いや、こんなやり方をするものは、必ず前後の分別のない、熱狂した殺人者です。盗賊ではなくて、それまで一度も物を盗んだことのない殺人者に相違ありません。蒲団の下から金を取り出しても、それは盗むのではなく、自分のものを盗賊から取り返すのだ、というような態度だったろうと思われます。なぜならば、これがこの三千ルーブリに対するドミートリイの考えで、これがほとんどマニヤになっていたからであります。で、彼は初めて目撃した包みを手にすると、封筒を破って、中に金があるかどうかを確かめ、金をかくしに入れるやいなや、床に落ちている破れた封筒が、後日自分の罪跡を語る有力な証拠品になることを忘れて、そのまま逃走してしまったのです。これというのもみんな、下手人がスメルジャコフでなく、カラマーゾフであったればこそ、そんなことを考えもしなければ、想像もしなかったのであります。まったく、どうしてそんなことが考えていられましょう! 彼は逃げ出した、すると、ふいに自分を追いかけて来る老僕の叫び声を聞きました。老僕が彼を捉えて、引き止めようとしたので、彼は銅の杵で打ち倒しました。被告は惻隠の情に駆られて、老僕のそばへ飛びおりだとのことです。どうでしょう、被告の申し立てによると、その時、彼が飛びおりたのは憐憫と同情のためで、どうかして助けることはできないものかと、それを確かめようとしたとのことです。しかし、その時そんな同情など表していられる場合でしょうか? いや、彼が飛びおりたのは、単に犯罪の唯一の証人が生きているかどうか、それを確かめるためにすぎません。これよりほかの感情も、動機も、この際すべて不自然です! ところが、ここに注意すべきことには、彼はグリゴーリイのために骨を折って、ハンカチでしきりに頭を拭いてやりました。そして、もう死んだということを確信すると、全身血まみれになったまま、茫然自失のていで、また例のところへ、自分の恋人の家へ駈けつけました、――一たい彼はどういうわけで、自分が血まみれになっていることや、すぐ兇行を見抜かれることを考えなかったのでしょう? 被告の申し立てるところによると、自分が血まみれになっていることには、てんで注意をはらわなかったそうであります。それは是認し得ることで、いかにもそうありそうな話です。そういう瞬間、犯罪者にありがちなことです。一方では、実に戦慄すべき悪辣な深慮を示しながら、一方では、大きな手落ちを拵えるものです。彼はそのおり、女はどこにいるだろうと、そればかり考えていたのであります。一刻も早く女のありかを知りたいと思って、女の家へ駈けつけてみると、思いがけなくも、彼女は『もとの恋人』、すなわち『争う余地のない男』と一緒に、モークロエヘ行ったという、驚くべき報知に接したのであります。

[#3字下げ]第九 全速力の心理解剖 疾走せるトロイカ[#「第九 全速力の心理解剖 疾走せるトロイカ」は中見出し]
[#6字下げ]論告の終結[#「論告の終結」は中見出し]

 イッポリートは神経質な弁論家の好んで用いる、厳密な歴史的叙述法を選んだ。つまり、彼らに自分の奔放な衝動を抑えるために、わざと厳重に作られた枠を求めるのである。彼は自分の論告をここまで進めると、とくにグルーシェンカの『もとの恋人』、すなわち『争う余地のない男』に言及しながら、この問題に対して、一種独得の興味ある思想を述べた。それまでありとあらゆる男に対して、気ちがいじみるほど嫉妬を感じていたカラマーゾフが、この『争う余地のないもとの恋人』にぶっつかると、とつぜん急に意気沮喪し、萎縮してしまった。とくにおかしいのは、この予期しない競争者から起る新しい危険に、以前ほとんどいささかも留意しなかったことである。いつも彼はそれをまだ遠い将来のことと思っていた。カラマーゾフは常に現在のみに生きているからである。彼はその危険を虚構とさえ思っていたらしい。しかしながら、彼はその悩める心に、女がこの新しい競争者を隠して、現に先刻も自分をあざむいたのは、つまりこの新来の競争者が彼女にとって、決して想像でもなければ虚構でもなく、むしろ彼女のすべてであり、この世における一切の希望だからである、こういうことを突如として悟った、――突如としてこれを悟ると、彼はたちまちすべてを断念してしまった。
陪審員諸君、どうも私は、被告の心に起ったこの突然の変化を不問に付することができません。被告はどんなことがあろうとも、こうした心機一転をなし得ない人間のように思われますが、彼の心中には俄然、真実に対する要求と、女性に対する尊敬と、女心の権利に対する承認とが生じたのであります! しかも、それは、――彼女のために父親の血で手を染めた、その瞬間の出来事であります! これは流された血がこの瞬間に、復讐を叫んだものとも言えます。なぜなら、彼は自分の霊と、この世における自分の運命とを滅ぼした瞬間に、知らず識らず次のように自問したのであります、――自分は彼女にとって何であったか? 自分自身の魂以上に愛しているこの婦人にとって、この際[#「この際」に傍点]、自分はどんな意味をもっているか? この『もとの恋人』すなわちかつて見棄てた女のもとへ、ふたたび悔恨の意を表しながら帰って来て、彼女に新しい愛を捧げ、潔白な誓いを立てて幸福な生活の復活を約束しているこの『争う余地のない男』に比較して、自分ははたして何ものであるか? また自分は、不幸なる自分は、いま彼女に何を与え得るか? 何を提供し得るか? カラマーゾフはこれを会得したのです。自分の犯罪が一切の路をふさいでしまった、自分はすでに罰せらるべき罪人であって、生活を許さるべき人間でない、それを悟ったのであります! この自覚は彼を圧倒し、彼を粉砕しました。で、彼はたちまち気ちがいじみたある計画を思いつきました。それはカラマーゾフの性格からいって、恐ろしい境遇からのがれる唯一の、避けがたい解決法と思われたに違いありません。この解決法は自殺であります。彼は官吏ペルホーチンのもとへ入質したピストルを取りに駈けだしました。その途中、彼は走りながら、たったいま父親の血に手を染めて奪った金を、残らずかくしから取り出しました。ああ、この際彼は前よりもっと金が必要だったのであります。カラマーゾフが死のうとしている、カラマーゾフが自殺しようとしているのだ。これは誰でもみんな憶えていなければならない! たしかに彼は詩人でありました! だからこそ、彼は自分の命を、まるで蝋燭のように、両端から燃やしたのであります!『あれのところへ行こう、あれのところへ行こう、――そこで、ああ、そこで、おれは世界じゅうを驚かすような大酒宴をしよう。みなの記憶に残って、永く世の語り草になるような、前古未曾有の大酒宴を開こう。粗い叫び声と、もの狂おしいジプシイの歌と踊りのうちに盃を挙げて、自分の崇拝している女の新しい幸福を祝ってやろう。それから、すぐその場で女の脚下に跪いて、その目の前で頭蓋骨を粉微塵にしよう、自分の命を処刑しよう、あれもいつかは、ミーチャ・カラマーゾフを思い出し、ミーチャが自分を愛していたことを悟って、可哀そうだと思ってくれるだろう?』ここには絵のような美しさと、ロマンチックな興奮と、感傷癖と、カラマーゾフ一流の野性的な向う見ずとがあります。けれど、そこにはまだ別のものがあります。陪審員諸君、何ものかがあります。魂の中で叫び、ひっきりなく心の戸を叩き、死ぬほどに胸を苦しめる何もの[#「何もの」に傍点]かがあります、――この何ものかというのは、――ほかでもない、良心です。陪審員諸君、それは良心の裁判です、それは恐ろしい良心の呵責です! しかし、ピストルはすべてを解決するでしょう、ピストルは唯一の出口です、ほかに救いはありません。そして、あの世では、――私はその瞬間カラマーゾフが『あの世には何があるだろう?』と考えたかどうか、またカラマーゾフハムレットのように、あの世ではどうなるだろう? などと考え得るかどうかわかりません。いや、陪審員諸君、あちらにはハムレットがいますが、こちらにはまだ当分カラマーゾフがあるばかりです!」
 ここでイッポリートは、ミーチャの支度の模様や、ペルチーチン[#「ペルチーチン」はママ]の家や、食料品店や、馭者たちとの交渉や、そういう光景を詳しく展開して見せた。証人に裏書きされたさまざまな言動を引いてきた、――こうして、この絵巻は聴衆の確信に烈しい影響を与えた。とりわけ一同を動かしたのは、事実の重畳であった。この興奮し、夢中になり、おのれを護ろうともしない男の罪は、もはや否定しがたいものになった。
「もう彼は自分を護る必要がなかったのです」とイッポリートは言った。「彼はもう少しで、すっかり白状しようとしたことが、二度も三度もありました。ほとんど自分の罪を仄めかしさえしましたが、全部は最後まで言いきらなかったのです(ここに、証人の陳述があげられた)。彼は途中で馭者を掴まえて、『おい、お前は人殺しを乗せているんだぜ!』と叫んだことさえあります。が、やはり全部言ってしまうわけにはゆきませんでした。彼はまずモークロエ村へ行って、そこでその劇詩を完成しなければならなかったのです。しかし、不幸なるミーチャを待っているものは何であったか? ほかでもありません、モークロエヘ着くやいなや、『争う余地なき』競走者に、案外あらそう余地があって、女は新しい幸福に対する祝辞と祝盃とを、彼から受けることを望まない、そういうことが初めは漠然と、やがて最後にはっきりと、彼にわかったのであります。しかし、陪審員諸君、諸君は予審によってすでに事実をご存じのはずです。競争者に対するカラマーゾフの勝利は、争うべからざるものとなりました、――ここにおいて、ああ、ここにおいて彼の心中には、ぜんぜん新しい局面が開かれたのであります。それは彼の心がそれまでに経験したもの、および将来経験すべきもの一切の中で、最も恐ろしい局面なのでした。陪審員諸君、私は断言しますことイッポリートは叫んだ。「蹂躪せられたる自然性と罪ふかき心とは、地上のいかなる裁きよりも完全に彼に復讐したのであります! のみならず、地上の裁きと刑罰とは、天性の刑罰を軽減するものであって、かかる場合、魂を絶望の淵から救うものとして、犯罪者の心にとって、なくて叶わぬものであります。実際グルーシェンカが彼を愛していて、彼のために『もとの恋人』、すなわち『争う余地ない男』をしりぞけ、『ミーチャ』を新生活にいざなって、彼に幸福を約束していることを知った時、カラマーゾフがどんな恐怖と精神的苦痛を感じたか、想像することもできないくらいであります。なぜなら、それはどういう時でしたろう? それは、彼にとって一切が終りを告げ、一切が不可能となった時なのであります! ついでながら、私は当時における被告の境遇の真髄を説明する上に、最も重大な事実を述べておきます。すなわち、この女は、――彼の愛は、最後の瞬間まで、――捕縛される瞬間まで、彼にとってとうてい達し得られないもの、非常に渇望してはいながらも、捉えることのできないものであったのです。しかし、なぜ、なぜ彼はそのとき自殺しなかったのか? なぜ彼は一ど思い立った計画を放棄したのか? どうして自分のピストルのありかさえ忘れたのか? ほかでもない、愛に対するこの恐ろしい渇望と、その時すぐその場でこの渇望を満足させ得るかもしれないという希望が、彼を押し止めなのであります。彼は酒席の喧騒に逆上しながら、自分とともに祝盃を上げる恋人のそばに、ぴったり寄り添っていました。彼女は今までにないくらい美しい、魅力に充ちた女として、彼の目に映じました。彼は女のそばを離れようともせず、じっとその姿に見惚れて、女の前でとろけんばかりでした。この烈しい渇望は一瞬、捕縛の恐怖ばかりか、良心の呵責までも、圧倒し去ったのであります! しかし、それはほんの一瞬間でした!
「私は犯人のその時の精神状態を、想像することができますが、彼の心は三つの要素に圧倒されて、奴隷のようにすっかり服従していたのです。第一の要素は、泥酔と、逆上と、喧騒と、踊りの足音と、甲高い歌と、酔っぱらって顔を真っ赤にしながら、歌ったり、踊ったり、彼を見て笑ったりしている女でした! 第二は、恐ろしい大団円はまだずっとさきのことだ、少くとも近くはない、――明日の朝あたりやって来て、掴まえるくらいなことだろう。してみると、まだ幾時間かある、それだけの時間があれば十分だ、恐ろしく多すぎるくらいだ。幾時間かあれば、ゆっくり考える余裕がある、とこう彼は思っていたのであります。おそらく彼は、絞首台に連れて行かれる罪人と同じような気持でいたのでしょう。そうした罪人というものは、まだ長い長い街を通って、幾千という見物人のそばを歩き、それから角を曲って、別な通りへ出る、そしてその通りのはずれに恐ろしい広場がある、とこういうふうに考えるであります! 死刑囚は、かの恥ずべき馬車に乗って、行列を始めた時、自分の前にはまだ無限の生命がある、と思うに相違ありません。私はそう想像します。けれども、やがて家々は過ぎ去り、馬車はますます刑場に近づいて行く、――ああ、しかしそれでも彼はまだ驚かない。次の通りへ曲る角まではまだだいぶ遠い。で、彼はやはり元気よく左右を見まわし、自分を見つめている数千人の冷淡な、もの好きな群衆を眺めています。そして、いつまでも、自分だって彼らと同じ人間だ、という気がするのであります。が、とうとう次の通りへ曲る角まで行きます。ああ! それでも、まだ大丈夫、大丈夫まだ長い通りがある。いくら家が過ぎ去っても、彼はやはり『まだまだたくさん家がある』と思っているでしょう。こうして、最後まで、刑場へつくまでつづくのです。思うに、あの時カラマーゾフもそういうふうだったのでしょう。『まだ、その筋の手は廻りゃしまい。まだのがれる道はあるだろう。なあに、まだ弁解の計画を立てる余裕はある。まだ、抗弁の方法を考え出す暇はある。だが、今は、今は、――今はあれがこんなに美しいんだもの!』と思ったに違いありません。むろん、彼の心は混乱と恐怖に満ちていました。しかも、彼はその金の半分を取りのけて、どこかへ隠す余裕はありました、――でないと、たったいま父親の枕の下から取り出して来たばかりの三千ルーブリが、半分どこへ消え失せたか説明できません。彼がモークロエヘ来たのは初めてでなく、もう前にそこで二昼夜も遊んだことがありますから、この古い、大きな木造の家は、納屋から廊下の隅まで、よく知っていたのです。私の想像によれば、その金の一部分は、補縛される少し前に、どこかこの家の中の隙間か、さけ目か、床板の下か、あるいはどこかの隅か、屋根裏にでも隠したのであります、――なぜか? わかりきっています。大詰めの幕がすぐにも迫って来るかもしれないからです。むろん、彼はその大詰めをいかに迎うべきかを考えてもいなかったし、また考える余裕もなかった。それに、頭の中がずきんずきんして、心は絶えず『彼女』のほうへ引き摺られていたのであります。しかし、金は、――金はどんな境遇におちいっても必要なものです。人間は金さえ持っておれば、どこへ行っても人間あつかいされます。諸君はこうした場合、こんな打算をするのを、不自然だと思われるかもしれません? けれど、彼自身主張するところによると、彼は兇行の一カ月まえ、彼にとって最も不安なきわどい時に、三千ルーブリの中から半分だけ分けて、守り袋に縫い込んだとのことではありませんか。それはむろん事実ではありません、そのことは今にすぐ説明しますが、しかしそれにしても、カラマーゾフにとって、そういう考えは珍しくないことであります。のみならず、その後、彼は予審判事に、千五百ルーブリを袋(そんなものはかつて存在しなかったのです)の中へ入れておいたと言いましたが、それはその瞬間とつぜん霊感によって、この守り袋を考え出したのかもしれません。なぜなら、彼はその二時間まえに半分の金を、まさかのとき自分で持っていてはよくないからというので、ちょっと朝まで、モークロエのどこかへ隠しておいたからであります。
陪審員諸君、カラマーゾフは二つの深淵を見ることができる、しかも同時に見ることができる、ということを思い浮べて下さい! われわれはその家を捜索したが、金は見つからなかったのです。その金は今でもまだ、あそこにあるかもしれませんが、あるいは翌日消え失せて、いま被告の手もとにあるかもしれません。とにかく、彼は捕縛されたとき女のそばにいて、その前に跪いていました。女が寝台の上に横になっていると、彼はそのほうへ両手をさし伸べて、一瞬間なにもかもすっかり忘れつくしていたので、警官の近づいて来る物音さえ、耳に入らなかったくらいであります。彼はまだ少しも答弁を考えていませんでした。彼も、彼の知恵も、不用意のうちに捕えられたのです。
「こうして、彼は自分の運命の支配者たる、裁判官の前に立ったのであります。陪審員諸君、われわれは自分の義務を自覚しながらも、罪人の前にいるのが恐ろしくなることがあります、その人間のために恐ろしく思うことがあります! これは、罪人が動物的恐怖を直覚した瞬間であります。すなわち進退きわまったことを感じながらも、なお敵と戦い、かつこれからさきも、あくまで戦おうと思っている瞬間なのであります。あらゆる自己保存の本能が心中に勃発して、彼は自分を救おうとあせりながらも、さし透すような、不審げな、悩ましそうな目つきをして敵を見つめ、その肚の中を見抜こうとして、その顔いろや思想を研究し、敵がどっちから打ち込むか待ち構えながら、自分の動乱した心のうちに、一時に幾千となく計画を作ってみるが、やはり言い出すのが恐ろしい、うっかり口をすべらしたら大へんだ、という時に生ずる感じであります。これは、人間の心が最も卑しむべき姿をしている時で、魂の彷徨であり、自己保存の動物的渇望であって、――実に恐ろしいものであります。時によると、予審判事すら慄然たらしめ、罪人に同情を起させるほどであります。現にその時、われわれはそれを目撃しました。最初、彼は顛倒して、恐ろしさのあまり自分を裏切るようなことを、二こと三こと口走りました。『血だ! 報いがきた!』などと言いましたが、すぐ自分を抑えました。どう言ったものか、何と答えたものか、――彼には一こう準備ができていませんでした。ただ『親父の横死については罪はありません!』という、口さきばかりの否定が準備されているだけ、それが当座の防壁で、その防壁の向うに、彼はまた柵のようなものを作ろうと思ったのであります。彼はわれわれの訊問にさき廻りしながら、急いで最初の自縄自縛の叫びを揉み消そうとしました。つまり、下男グリゴーリイの死にだけは責任がある、と言うのです。『この血を流したのは、私です。だが、親父を殺したのは、誰でしょう。みなさん、誰が殺したのでしょう? もし私でなければ[#「私でなければ」に傍点]誰でしょう?』と。どうでしょう、訊問に行ったわれわれに対して、あべこべにこう反問するじゃありませんか。どうです、彼は『もし私でなければ』などと、さき廻りして口をすべらしています。これは動物的狡知です、これはカラマーゾフ一流の単純と性急です! おれが殺したのじゃない、おれが殺したなんてことは、考えるだけでも承知しないぞ。『私も殺そうとは思いました、みなさん、殺そうと思うには思いました』と急いで彼は白状しました。(彼は急いでいました、ええ、やたらに急いでいました!)『しかし、それでも私に罪はありません。私が殺したのではありません!』彼はわれわれに譲歩して、殺そうと思ったと言いました。つまり、自分はこのとおり真っ正直な人間だから、下手人でないことを信じてもらいたい、こういったような意味なのです。
「実際こういう場合、罪人はどうかするとひどく軽はずみになって、うかうかものを信じることがあるものです。そこを見込んで、裁判官はいかにも何げないていを装って、『じゃ、スメルジャコフが殺したのではないか?』と、とつぜん無邪気な質問を持ちかけました。すると、はたして予期にたがわず、われわれがさき廻りしてふいに急所を押えたので、被告はひどく腹を立てました。彼はまだ十分に準備ができていなかったし、またスメルジャコフを持ち出すのに、最も好都合な時期を掴んでもいなかったのです。彼は例のとおり、たちまち極端に走って、スメルジャコフに殺せるはずはない、あれは人を殺せるような男ではない、と一生懸命に説き始めました。けれど、それを信じてはいけない、それはただ彼の狡知にすぎないのです。彼は決して、スメルジャコフという考えを抛棄したわけじゃありません。それどころか反対に、もう一ど持ち出そうと思っていたのです。つまり、スメルジャコフのほかには、誰も引っぱり出すものがないからです。しかし、今は好機を傷つけられたから、あとでその策をめぐらそう、と考えたのであります。そこで、彼は翌日か、あるいは幾日かたった後に、いい機会を見て自分のほうから、『どうです、私はあなた方より以上にスメルジャコフを弁護したものです、それはご存じでしょう。しかし、今となって、私は彼が殺したのだと確信しました。むろん、あいつでなくてどうしましょう!』とこう叫ぶつもりだったのです。しかし、しばらくの間、彼は暗黒ないらだたしい否定の調子におちいっていましたが、その間に、激昂と憤怒に駆られて、自分は父親の家の窓を覗いたきりで、うやうやしく立ち去ったなどという、実にばかばかしい途方もない弁明をしました。要するに、彼はまだ事情を知らなかったのです。よみがえったグリゴーリイがどんな申し立てをしたか、その程度を知らなかったのであります。やがて、われわれは身体検査に着手しました。それは彼を憤慨させたけれど、また元気を与えもしました。三千ルーブリの金が全部みつからないで、やっと千五百ルーブリだけ発見されたにすぎないからです。もう疑う余地はありません、腹をたてて無言の否定をつづけている間に、彼は初めて、それこそ生れてはじめて、守り袋のことをひょっくり考えついたのであります。ひろん、彼は自分の虚構の不自然を感じて苦心しました。どうかしてもっと自然に見せかけて、もっともらしい一つの小説を組み立てようと苦心しました。この場合、われわれの最も緊急な任務は、――われわれの最も主要な仕事は、被告に答弁の準備をさせないで、稚気と不自然と矛盾に満ちたことを言わせるために、不意打ちを食わせることであります。いかにも偶然らしく突然に、何か新しい事実なり状況なりを告げて、彼に口をすべらせるのが肝腎であります。ただし、その事実は非常に重大な価値を有していて、しかも、それまで被告がまったく予想さえしなかったような、意外なものでなくてはなりません。その事実はすでに準備されていました。そうです、もうとっくから準備されていたのです。それはほかでもありません、例の戸が開いていた、そして被告はそこから逃げ出したのだという、蘇生した下男グリゴーリイの申し立てであります。被告はこの戸のことを、すっかり忘れていたのです。グリゴーリイが戸の開いているのを見ようなどとは、夢にも思わなかったのであります。したがって、その効果は驚くべきものがありました。彼は飛びあがるなり、私たちに向って、『それはスメルジャコフが殺したんです、スメルジャコフです!』と叫びました。こうして、かねて用意していた一ばん大切な奥の手を出したのですが、それは実にお話にならないほど、不合理な形をとって現われたのです。なぜなら、スメルジャコフは彼がグリゴーリイを打ち倒して逃げたあとでなければ、兇行を演じるわけに行かなかったからであります。で、私たちが被告に向って、グリゴーリイは倒れる前に戸の開いているのを見たのだし、また彼が自分の寝室から出た時にも、仕切りの陰でスメルジャコフが唸っているのを耳にしたのだ、とこう言って話して聞かせると、カラマーゾフはぐっと詰ってしまいました。私の同僚で、明敏な頭脳の所有者である、尊敬すべきニコライ・パルフェノヴィッチが、あとで私に話したことですが、彼はその瞬間、涙が出るほど被告を可哀そうに思ったとのことであります。このおり被告は事態を挽回しようと思って、例の喧しい守り袋のことを急いで持ち出しました。じゃ、仕方がない、一つこの小説をお聞き下さい、というわけです!
陪審員諸君、すでに述べましたとおり、一カ月まえに金を守り袋の中に縫い込んだというこの作り話は、単にばかばかしいのみならず、とうていあり得べからざるごまかしだと思います。この際、これ以上ほんとうらしくない説明は、鉦太鼓でも捜し出せやしません。これ以上に不合理なことは、懸賞で捜しても見つかりっこないでしょう。こんな場合、勝ち誇っているこの種の小説家を、罠にかけて取りひしいでしまうのは、まず何よりもデテールであります。実生活が常に豊富に持っているにもかかわらず、これらの意識せざる不幸な作者によって、いつも無意味な必要のない些事として軽蔑され、かつて一度も注意されることのないようなデテールであります。そうです、彼らはその瞬間、そんなデテールなど考えている暇がありません。彼らの頭はただ大きな全体を作り上げるばかりです。そこで、今こんな瑣末な事柄を訊問するとは何だ! という感じをいだくに相違ありません。しかし、そこが彼らの尻尾を押える手なのです! まず被告に向って、あなたはその袋の材料をどこから持って来ましたか、誰にその袋を縫ってもらいましたか、とこう訊きます。自分で縫いました、と被告は答えます。『では、きれはどこから持ってきたのです?』すると、被告はもう腹をたてて、そんなつまらない事柄を訊くのは、自分を侮辱するようなものだと言います。しかも、それが本気なのです、まったく本気なのです! しかし、彼らはみんなそんなふうなのであります。自分のシャツを引きちぎったのです、と被告は答えます。『なるほど、では、あなたの洗濯物のなかに、その引き裂いたシャツがあるかどうか捜してみましょう。』どうでしょう、陪審員諸君、もし実際そのシャツが捜し出せたなら(もしそのシャツが実際あるものとすれば、どうしたって被告の鞄の中か、手箱の中になければならぬはずですから)、それはすでに一つの事実です、彼の申し立てを裏書きする有力な事実であります。けれど、彼はそういうことを落ちついて考えられないのです、――私はよく覚えていませんが、たぶんシャツから取ったのじゃなくて、かみさんのナイト・キャップで縫ったかもしれません、とこう言います。――どんなナイト・キャップです? ――私がかみさんのとこから取って来たのです。かみさんのとこにごろごろしていたのです、古いぼろきれです。――では、あなたは確かにそう記憶しているのですね? ――いや、しかとは記憶していません……こう言って、むやみに怒るのです。しかし、考えてごらんなさい、そんなことが憶えていられないはずはないじゃありませんか!………人間にとって最も恐ろしい瞬間、例えば刑場へ引かれて行く時などには、かえってこうした些細な事柄を思い出すものです。何もかも忘れていたものが、途中でちらりと目に映じた緑いろの屋根とか、あるいは十宇架にとまっている臼嘴鴉とか、そういうものをむしろ思い出すのであります、実際、彼はその守り袋を縫う時、人目を避けたに相違ありません。針を手にしながら、自分の部屋へ誰か入って来はしないか、誰かに見つけられはしないかと、恐怖のためにあさましい苦心をしたことを、記憶していなければならないはずです、――ちょっと戸をたたく音がしても、すぐ飛びあがって、衝立ての陰へ駈け込んだに違いありません(彼の部屋には衝立てがありました)……
「しかし、陪審員諸君、私は何のためにこんなことを、こんなこまごましい事実を諸君に述べているのでしょう!」イッポリートは、突然こう叫んだ。「ほかでもない、被告が今にいたるまで、このばかばかしい虚構を、頑強に固守しているからであります! 彼にとって宿命的なあの夜以来、まる二カ月の間というもの、被告は何一つ闡明しようとしません。まるで夢のような以前の申し立てを説明するような現実的状況は、一つとしてつけ加えられないのであります。そんなことは些細なことです、あなた方は名誉にかけて、私の言うことを信頼なさるがいい、とこう彼は申します! ああ、それを信ずることができたら、私たちはどんなに嬉しいでしょう。まったく名誉にかけてでも信じたいと渇望しています! 実際、われわれは人間の血に渇した豺狼ではありません。どうか被告の利益になるような事実を、一つでもいいから挙げて下さい、そうしたら、われわれはどんなに喜ぶでしょう。だが、それは五官に感じ得る現実的の事実でなくては駄目です。肉身の弟の主張する被告の表情からきた結論や、また被告が闇の中で自分の胸を打ったのは、必ず守り袋をさしたに相違ない、というような申し立てでは困ります。われわれは新しい事実を喜びます。そして、何人よりもさきに自分の主張を撤回します、すぐにも撤回します。しかし、今は正義が絶叫していますから、われわれはどこまでも以前の説を主張しなければなりません、いささかなりとも撤回することはできません。」
 こう言って、イッポリートは結論に移った。彼は熱病にでもかかったように、流された血のために、――『下劣な掠奪の目的をもって』わが子に殺された父親の血のために絶叫したのである。彼はさまざまな事実の悲惨にして明白な累積を熱心に指摘した。
「諸君は、才幹あり名誉ある弁護士の口から何を聞かれようとも(イッポリートは我慢しきれなかったのである)、また、諸君の心を震撼するような感動に充ちた雄弁が、どれほど彼の口からほとばしり出ようとも、諸君はこの場合、彼が神聖なる正義の法廷にあることを記憶せられたいのであります。諸君はわれわれの正義の擁護者であり、わが神聖なるロシヤと、その基礎と、その家族制度と、その聖なるものとの擁護者であることを、深く記憶せられたいのであります! そうです、諸君は今ここに全ロシヤを代表しておられるので、諸君の判決はただにこの法廷のみならず、全ロシヤに響き渡るのであります。そして全ロシヤはおのれの擁護者、おのれの裁判官として諸君の判決を聞き、それによって励まされもすれば、また失望もするでありましょう。願わくば、ロシヤとその期待に添われんことを。わが運命のトロイカは、あるいは滅亡に向って突進しないものでもありません。すでに久しい以前から全ロシヤの人々は、双手を伸べて叫びながら、狂気のごとく傍若無人な疾走を止めようとしています。よしんば他の国民が、そのまっしぐらに走るトロイカを避けるとしても、それは詩人が望んだように敬意のためではなくして、単に恐怖のためであります、――これはとくにご注意願います。あるいは恐怖のためではなくて、嫌悪の念からかもしれません。まだ人が避けてくれる間は結構ですが、あるいは他日、ふいに避けることをやめるかもしれません。自己を救うために、開化と文明のために、狂暴に疾走する幻の前に頑強な墻壁となってそそり立ち、わが狂おしい放縦な疾走を止めるかもしれません! われわれはこの不安な声をすでにヨーロッパから聞きました。その声はすでに響き始めたのであります。諸君、願わくば、息子の実父殺しを是認するがごとき判決を下して、いやが上にその声を挑発し、ますます高まりつつあるその憎悪を受くるなからんことを!………」
 一言につくすと、イッポリートは非常に熱してはいたけれど、十分|感動的《パセチック》に論を結ぶことができた。実際、彼が聴衆に与えた印象はすばらしいものであった。彼自身はその論告を終ると、急いで法廷から出て行った。そして、前にも述べたとおり、別室で危く卒倒するところであった。法廷では誰ひとり喝采するものがなかったけれど、真面目な人たちはいずれも満足を表していた。ただ婦人たちはあまり満足もしなかったが、それでも検事の雄弁には感心していた。ことに、その論告の結果を少しも恐れないで、ただフェチュコーヴィッチにすべての期待を繋いでいたので、『いよいよあの人が弁護をはじめれば、むろんすっかり大勝利に相違ない!』と安心していたのである。人々はみなミーチャを眺めた。彼は両手を握りしめ、歯を食いしばってうつ向いたまま、検事の論告が終るまでじっと黙っていた。でも、どうかすると頭を持ちあげて、耳をそばだてることもあった。ことにグルーシェンカの名が出る時には、必ずそうするのであった。検事が彼女に関するラキーチンの意見を伝えた時、彼の顔には軽蔑と、憤怒の微笑が浮んだ。彼は十分聞えるくらいな声で、『ベルナール!』と口走った。検事がモークロエの訊問で、ミーチャを苦しめたことを述べた時、彼は頭を持ちあげて、烈しい好奇の表情を浮べながら耳をすました。論告中のある個所では、跳りあがって何か叫ぼうとさえしたが、やっと自分を抑えて、たださげすむように肩をそびやかすのみであった。あとで当地の人々はこの論告の終結、一ことに検事がモークロエで被告を訊問した時の手柄話を噂して、『あの男とうとう我慢ができないで、自分の手ぎわを自慢しやがった』とイッポリートを冷笑した。裁判長は一時休憩を宣したが、それもほんの僅か十五分か、たかだか二十分であった。傍聴者の間には、話し声や叫び声が響きだしたが、筆者は次のような対話を記憶している。
「しっかりした論告ですね!」あるグループの中で、一人の紳士が気むずかしそうにこう言った。
「だが、あまり心理解剖が盛りだくさんだったようですね」と別の声が答えた。
「しかし、何もかもあのとおりですよ、絶対に真実ですよ!」
「そう、あの人は名人ですね。」
「総じめをつけましたね。」
「われわれにも、われわれにも総じめをつけましたよ」と第三の声が割ってはいった。「論告のはじめに、われわれもみんなフョードルのようなものだと言ったじゃありませんか。」
「論告の終りもそうでしたよ。だが、あれはほらです。」
「それに、曖昧な点がだいぶありましたね。」
「ちょっこり熱しすぎましたな。」
「不公平ですよ、不公平ですよ。」
「いや、そうじゃない、とにかく巧みなものです。長いあいだ言おう言おうと思っていたことを、とうとう吐き出したのですからな、へっ、へっ!」
「弁護士は何と言うでしょうね?」
 別のグループでは、こんなことを言っていた。
「だが、ペテルブルグから来た弁護士に、あんな厭味を言ったのは感心しませんな。『心を震撼するような感動に充ちた雄弁』だなんて、覚えてますか?」
「そう、あれは少々まずかった。」
「あせりすぎたんですよ。」
「神経家ですからね。」
「われわれはこうして笑っているが、被告の気持はどんなでしょう?」
「そう、ミーチャの気持はどうでしょうなあ?」
「だが、こんど弁護士はどんなことを言いますかね?」
 第三のグループでは、こう言っていた。
「あの端に腰かけている、柄つき眼鏡をもった、でっぷりした奥さんは誰だい?」
「ある将軍の夫人で、離婚したんだよ、僕はよく知ってるんだ。」
「道理で、柄つき眼鏡なんか持ってると思った。」
「すべたさ。」
「いや、なに、ちょいと味のある女だ。」
「あの女から二人おいた隣に、ブロンドの女が腰かけてるだろう。あのほうがいいよ。」
「だが、あの時モークロエでは、うまくミーチャの尻尾を押えたもんだね、え?」
「うまいことはうまいが、またぞろあの話を持ち出すんだからな。だって、検事はあのとき何遍となく、軒別に吹聴して歩いたじゃないか。」
「今も言わずにいられなかったのさ。うぬぼれの強い男だからね。」
「なにしろ不遇な人だな、へっへっ!」
「くやしがりだよ。あの論告も修辞が多くって、句が長すぎたよ。」
「そして、嚇かすんだ、あのとおりすぐ嚇かすんだ、トロイカのくだりを覚えているかい。『あちらにはハムレットがいるが、こちらにはまだ当分カラマーゾフがいるばかりだ!』なんて、うまいことを言ったもんだな。」
自由主義にちょっと厭がらせを言ったわけなのさ。怖がっているからね!」
「それに、弁護士も怖いんだよ。」
「そう。フェチュコーヴィッチ君はどんなことを言うかね?」
「どんなことを言ったにしろ、ここの百姓の目をさますことなんかできやしないよ。」
「君はそう思うかい?」
 第四のグループでは、
「だが、トロイカのことはなかなか立派に喋ったよ。つまり、あのよその国のことを言ったところさ。」
「よその国で辛抱しちゃいまいと言った、あすこのところなんかまったくだ。」
「それはどういうことだね?」
「先週のことだったが、英国の議会で一人の議員が立って、虚無党問題でわれわれロシヤ人を野蛮国民よばわりしたうえ、やつらを開化させるために、もういい加減干渉してもいい時期ではないかと、こう政府に質問したんだ。イッポリートはその議員のことを言ったんだよ。たしかに、その議員のことを言ったんだよ。あの男は現に先週そのことを言っていたからね。」
「だが、そりゃイギリスの山鷸連にとてもできることじゃないね。」
「山鷸連て何のことだい? どうしてできないんだい?」
「だって、われわれがクロンシュタットを閉鎖して、彼らに穀物を与えなかったら、一たいやつらはどこから手に入れるんだ?」
アメリカからさ。現にアメリカから輸入してるからね。」
「馬鹿なことを。」
 けれど、この時ベルが鳴ったので、一同は自席へ飛んで行った。フェチュコーヴィッチが壇に登った。

[#3字下げ]第十 弁護士の弁論 両刃の刀[#「第十 弁護士の弁論 両刃の刀」は中見出し]

 有名な弁護士の最初の一言が鳴り響くと、あたりはしんとしてしまった。傍聴者の目は一せいに彼の顔に食い入った。彼はきわめて率直な、確信に充ちた口調で直截に弁じだしたが、少しも傲慢なところはなかった。しいて言葉を飾ろうともしなければ、悲痛や語調や、感情に訴えるような句を用いようともせず、さながら同情を持った親密な人々の間で話しているような調子であった。彼の声は美しく、張りがあって、そのうえ情味もあった。そして、声そのものの中に、すでに誠意と率直とが響いていた。けれど、間もなく、弁護士が突如として、真の感傷的《パセチック》な心境に高翔して、『何か不思議な力をもって、みなの心を打つ』ということが、すべての人に理解された。彼の喋り方はイッポリートほど整然としていなかったかもしれないが、長文句がなくって、ずっと正確であった。ただ一つ婦人たちの気にいらなかったのは、弁護士が、――ことに弁論の初めに、――妙に背中を屈めていることであった。それは、べつにお辞儀をしているわけでもないけれど、まるで聴衆のほうへまっしぐらに飛んで行こうとでもするように、その長い背を中ほどから曲げていたので、ちょうど彼の細長い背の真ん中に蝶つがいでもあって、ほとんど直角に背を曲げることさえできそうに思われた。彼は初め散漫な調子で、事実をばらばらに掴んで来ながら、いかにも無系統らしく論じていたが、それでも結局、ちゃんと立派にまとまりがつくのであった。彼の弁論は二つの部分にわけることができた。前半は批判であり、起訴理由に対する反駁であって、時として意地のわるい皮肉が出た。けれど、後半になると、急に語調も論法も一変して、たちまち悲痛な高みへ昂翔した。満廷はそれを待ちもうけていたもののように、感激のあまりどよめきはじめた。弁護士はただちに問題へ入って、まず自分の活動舞台はペテルブルグにあるのだが、被告を弁護するためにロシヤの町々を訪れたのは、あえてこれが初めてではない、自分が弁護の労をとってやる被告は、みんな罪なき人間であると確信しているか、あるいは前もってそう予感しているか、二つのうちどちらかであると述べた。
「今度の事件もそうであります」と彼は説明した。「初めて新聞の通信を読んだそもそもから、私は被告の利益となるようなあるものに、ぱっと心を打たれました。つまり、私はまず何よりも、ある法律上の事実に興味を覚えたのであります。その事実は通常、裁判事件においてしばしば繰り返されるものでありますが、しかし今度の事件ほど完全に、しかも特殊な形相をもって現われたことは、珍しいと思います。この事実は弁論の終りに公表すべきものでしょうが、私はまず初めに述べておくことにいたします。なぜかと言えば、私は効果を隠さず、印象の経済を考えず、問題の中心に直往邁進するという、一つの弱みをもっているからであります。これは、私の立場から言うと、あるいは思わざるのはなはだしいものかもしれませんが、しかしその代り誠実なのであります。私の思想、信条はこういうのであります。つまり、被告を不利におとしいれる事実は、圧倒的に累積しているけれど、またそれと同時に、その事実を一つ一つ観察してみると、批判にたえ得るものは一つとしてない、ということであります。世間の噂を聞いたり、新聞を見たりするにつけて、私はいよいよこの信念を固くしました。そこへとつぜん被告の親戚から、弁護に来てもらいたいと招聘を受けたのであります。で、さっそく当地へ来てみますと、さらに一そう自分の信念を固めました。私がこの事件の弁護を引き受けたのは、この恐るべき事実の累積を打破するためです、すなわち起訴の理由となっている事実がことごとく証拠不十分で、かつ空想的なものであるということを、立証するためなのであります。」
 弁護士はこう言って急に声を高めた。
陪審員諸君、私は当地へ新たに来た人間です。したがって、私の受けた印象には、少しも先入見がありません。粗笨にして放縦な性格を有する被告も、かつて私を侮辱したことはありません。ところが、この町の多くの人々は、以前かれから非礼を受けているので、前もって被告に反感をいだいているわけであります。むろん、当地の人々の激昂が正当であることは、私とても承知しています。被告は乱暴で放縦な人間です。もっとも、かれ被告が当地の社交界にいれられていたことは事実です。すぐれた才幹を有しておられる起訴者の家庭などでも、むしろ愛されていたくらいであります。(Nota bene 弁護士がこう言った時、聴衆の間に二三嘲笑の声が聞えだ。もっとも、その声はすぐ押し殺されたが、それでも、一同の耳にはいった。当地の人は事情を知っていたが、検事はいやいやながらミーチャを出入りさしていたのであった。それは、検事の細君がなぜか彼に興味をもっていたからで。細君はきわめて徳行の聞え高い立派な婦人であったが、空想的でわがままな性分で、ときおり、――おもに些細なことで、――よく夫に楯突くことがあった。もっとも、ミーチャはあまり彼らの家を訪問しなかった。)が、それにもかかわらず、私はあえてこう申します」と弁護士は語をつづけた。「わが論敵は独立不羈の見識を有し、公明正大な性格を備えておられるにもかかわらず、わが不幸なる被告に対して、何か誤った先入見を蔵しておられるかもしれないのであります。むろん、それはさもあるべきことです。不幸なる被告がそれだけの報いを受けるのは、きわめて当然なことであって、傷つけられた徳義心、ことに審美心は、時として一切の妥協を許さないことがあります。むろん、われわれはこの光彩陸離たる論告において、被告の性格ならびに行為に対する鋭利な解剖を聞き、事件に対する峻厳なる批判態度を見ました。ことに、事件の真相説明のために開陳された深い心理解剖にいたっては、もし尊敬すべき論敵が被告の人格に対して、少しでも悪意をおびた意識的な偏見をもっておられたとすれば、とうてい望むことのできないほど深い洞察に充ちたものでありました。しかし、この場合、事件に対する意識的な悪意をおびた態度より以上に悪い、恐るべきものがあります。それは、例えて言うと、一種の芸術的、遊戯的本能に捉えられた時などです。すなわち芸術的創作の要求、いわば小説を作ろうとする要求なのです。ことに、神から心理的洞察力を豊富に授かっている場合は、なおさらであります。私はまだペテルブルグにあって、当地へ出発する前からすでに忠告されていました。いや、私自身だれの注意を受けないでも、当地で自分の反対側に立つ人が深刻精密な心理学者であり、この点において早くよりわが若き法曹界に、一種の令名を馳せておられる方であることを知っていました。けれど、諸君、心理解剖はきわめて至難なものでありまして、かつ両刃のついた刀のようなものであります(聴衆の中に笑声が起った)。むろん、諸君はこの平凡な比喩をお許し下さることでしょう。私はあまり美しい表現をすることが得手でないほうなのですから。しかし、それはとにかくとして、いま起訴者の論告の中から、取りあえず一例を挙げてみましょう。被告は真夜中、くらい庭を走り抜けて、塀を乗り越えようとした時、自分の足に縋りついた従僕を銅の杵で殴りつけましたが、それからすぐにまた庭へ飛び降りて、五分間ばかり被害者のそばで世話をやきました。それは、彼が死んだかどうかを確かめるためでありました。ところが起訴者は、被告がグリゴーリイ老人のそばへ飛び降りたのは、憐憫の情からだという被告の申し立てを、どうしても信じまいとしておられます。『いや、そういう瞬間に、そういう感情が起り得るものであろうか? それは不自然である。彼が飛び降りたのは、自分の兇行の唯一の証人が生きているか、死んでいるかを見さだめるためであった。したがって、これはすでに被告が兇行を演じたことを立証するものである。こういう場合、何かほかの動機、ほかの衝動、ほかの感情からして庭へ飛びおりるはずはない』と、こう起訴者は言われます。なるほど、これは心理的な説明です。しかし、今その心理解剖を事実にあてはめてみましょう。ただし、別な側面からであります。するとやはり、検察官の説に劣らないほど本当らしくなってきます。兇行者が下へ飛びおりたのは、証人が生きているか死んでいるか、見さだめようという警戒心のためと仮定しましょう。けれど、起訴者の証明によると、被告は自分が手にかけて殺した父親の書斎に、この犯罪を立証する有力なる証拠品、すなわち三千ルーブリ封入と上書きした封筒を、破ったまま棄てて来たではありませんか。『もし彼がその封筒さえ持って行ったなら、もう世界じゅうに誰一人その封筒のあったことも、その中に金がはいっていたことも知らなかったに相違ない。したがって、その金が被告によって奪われたということも、ぜんぜん知られずにすんだはずである。』これは起訴者ご自身のお言葉であります。こういうわけで、一つの場合においては、被告はまるきり警戒心が欠けていて、驚愕のあまり前後を忘却して、床の上に証拠物件を取り残したまま逃走しながら、二分の後、いま一人の人間を殴打し殺傷した時には、たちまち冷酷な打算的感情を現わしたことになります。しかし、それもいいとしましょう。そうした場合、たったいま彼は、コーカサスの鷲のように残忍、鋭敏であったと思うと、次の瞬間にはすぐ、あわれな土竜《もぐらもち》のように、盲目な臆病者になったかもしれません。そこがすなわち、心理作用の微妙な点かもしれません。けれど、もし彼が兇行を演じておいて、その兇行を目撃した者の生死を見さだめに飛びおりるほど、残忍で冷酷で打算的であったとすれば、なぜこの新しい犠牲者のために五分間も費して、さらに新しい証人を作るような危険を冒したのでしょう? なぜ彼は被害者の頭の血をハンカチで拭いたりなぞして、そのハンカチが後日の証拠となるようなことをするのでしょうか? いや、もし彼がそれほど打算的で残忍であるならば、むしろ塀から飛び降りたとき、打ち倒れた下男の頭をさらに例の杵でたたき割り、その息の根を止めて目撃者を根絶し、自分の心から一切の不安を除いてしまったはずではありませんか? またさらに、彼は兇行の目撃者の死を確かめに飛びおりながら、そこの路ばたにもう一つの証拠品、すなわち例の杵を残しています。その杵は二人の女のところから持って来たのですから、彼らは後日それを自分たちのものだと申し立てて、被告がそれを自分たちのところから持って行った事実を証明するはずです。それに、杵は路ばたに忘れたのでもなければ、また茫然自失して取り落したのでもありません。いや、彼はその兇器を投げ出したのです。なぜなら、それはグリゴーリイが倒れていた場所から、十五歩も距たったところに発見されたからです。一たい何のためにそんなことをしたのだろう? こういう疑問が自然と起ってきます。それはこういうわけです。彼は一個の人間を、長年つかっていた下男を殺したことを悲しんで、呪詛の言葉とともに、その兇器を投げ棄てたのであります。でなければ、あんなに力一ぱい投げ飛ばす理由がありますまい。また、もし彼が一個の人間を殺したことに、苦悶と憐憫を感じ得たものとすれば、むろんそれは父親を殺さなかったからであります。もしすでに父親を殺したものとすれば、第二の被害者に憐憫を感じて飛びおりるはずはありません。その時はもはや別な感情が起るのが当然であります。憐憫どころではなく、むしろ自分の身を助けようという感情が起るはずであります。それはむろん、そうなければなりません。繰り返して言いますが、彼は五分間もそのために時間を費したりなぞしないで、ひと思いに被害者の頭蓋骨を打ち割ってしまったでしょう。ところで、惻隠の情や善良な感情が現われる余地があったのは、その前から良心がやましくなかったからであります。こうして、今はぜんぜん別個な心理が生じました。陪審員諸君、私がいま自分から心理解剖を試みたのは、人間の心理というものは、勝手に自由に解釈し得るものだということを、明示するためなのであります。要は、それをあつかう手腕いかんによるのであります。心理は、最も真面目な人々をさえ、えて知らず識らず小説家たらしめるおそれがあります。陪審員諸君、私は心理解剖の濫用と悪用を警告いたします。」
 ここでまた聴衆の中に同意を表するような笑声が起った。それはやっぱり検事に向けられたのである。筆者《わたし》は弁護士の弁論を巨細にわたって紹介しないで、ただその中から最も肝腎な点だけ挙げることにする。

[#3字下げ]第十一 金はなかった 強奪行為もなかった[#「第十一 金はなかった 強奪行為もなかった」は中見出し]

 弁護士の弁論中すべての人を驚かせた一点は、この不祥な三千ルーブリの金がぜんぜん存在していなかった、したがって、被告がその金を強奪するはずもない、――という説である。
陪審員諸君」と弁護士は論歩を進めた。「ほかから当地へやって来て、一切の先入見を有しない人々は、この事件の中にある一つの特質を発見して、驚異を感ずるのであります。それは、被告が金を強奪したといって責めながら、しかもそれと同時に、何が強奪されたかという疑問に対して、実際上の証拠を全然あげ得ないことであります。三千ルーブリの金が強奪されたとのことですが、その金が実際にあったかどうか、誰ひとり知るものがありません。そうじゃありませんか、第一に、どうしてわれわれは金のあったことを知りましたか、また、誰がそれを見ましたか? 現在その金を自分の目で見て、署名した封筒の中に入っていたと言うものは、下男のスメルジャコフ一人きりです。彼は事件の起る前にそのことを被告と、被告の弟イヴァン・フョードロヴィッチに告げました。それから、スヴェートロヴァもそれを聞いていました。しかし、三人とも自分でその金を見たのではありません。見たものは、やはりスメルジャコフ一人なのです。ところで、ここに一つ疑問があります。すなわち、たとえ本当にその金があって、それをスメルジャコフが見たとしても、彼がそれを最後に見たのはいつか、ということであります。もし主人がその金を蒲団の下から取り出して、スメルジャコフには知らせずに、また金庫の中へ入れたとしたら、どうでしょう? スメルジャコフの言葉によると、その金は蒲団の下に、敷蒲団の下にあったという。してみれば、被告はその金を敷蒲団の下から引き出さねばならなかったわけです。けれども、蒲団は少しも乱れていませんでした。このことはくわしく予審調書に記入してあります。どうして被告は蒲団を少しも乱さなかったのでしょう? そればかりか、その夜、とくに敷いてあった雪のように白い華奢な敷布を、被告はその血みどろの手で汚さなかったのであります。でも、床に封筒が落ちていたではないか、とこうおっしゃるでしょう、ところが、その封筒についてこそ、一言すべき価値があるのであります。私は先刻、敏腕な起訴者が自分の口から、――よろしいですか、――自分の口からこの封筒について言われたことに、いささか一驚を喫したのであります。諸君もお聞きになったことでしょうが、起訴者はその論告において、スメルジャコフが下手人であるという仮定の不条理なことを示すために、封筒を引き合いに出して、『もしこの封筒がなかったら、もしこの封筒を強奪者が持って逃げて、証拠物件として床の上に残しておかなかったら、誰一人としてこの封筒のあったことも、その中に金が入っていたことも知らなかったろうし、したがって、その金が被告に強奪されたことも知らなかったに相違ない』と言われました。で、起訴者の告白によると、ただ上書きをしたこの破れた紙きれ一つが、被告の強盗行為を証明するもので、『それさえなければ、誰一人として強盗の行われたことはもとより、金のあったことさえ知らなかった』のであります。しかし、床の上にこの紙きれが落ちていたという一事が、はたしてその封筒の中に金があったことや、その金が強奪されたことを立証するものでしょうか? 『しかし、封筒の中に金が入っていたのは、現にスメルジャコフが見たではないか』とお答えになるでしょう。しかし、彼がその金を最後に見たのはいつなのでしょう。一たいいつのことでしょう? 私はそれを訊いているのであります。私はスメルジャコフに会いましたが、彼はその金を兇行の二日前に見たと言いました! すると、私はこういう事情を仮定する権利をもっています。すなわち、フョードル老人がひとり家に閉じ籠っていて、恋人の来るのを気ちがいのように待ちあぐみながら、所在なさに封筒を取り出して破ったのではないでしょうか。彼は、『こんな封筒を見たって本当にしないかもしれん。一束になった虹模様の紙幣三十枚のほうが、たぶんきき目が多いだろう。きっと涎を流すに違いない。』こう考えて、封筒を破りすて、金を取り出したのではないでしょうか。彼はその金の持ち主であるから、大威張りで封筒を床の上に投げ棄てたわけなのです。それが何かの証拠物件になりはしないか? などと心配するはずはむろんありません。どうです、陪審員諸君、こうした仮定、こうした事実はきわめてあり得べきことではないでしょうか? これがなぜ不可能なのでしょう? もしこれに似たようなことでもあり得るとしたら、強奪の罪はおのずから消滅するわけであります。金がなければ、したがって強奪するはずもないのです。もし封筒が床の上に落ちていたことが、その中に金の入っていた証拠になるとすれば、その反対に、封筒が床の上に転がっていたのは、もうその中に金がなかったからである、すなわち、主人がその前に金を抜き取ったからである、こう証明のできないわけがどこにありましょう?『しかし、もしフョードル自身が封筒から金を出したとすれば、その金は一たいどこへおいたのだろう? あの家を捜索した時に、どうして発見されなかったのだろう?』という反駁があるかもしれませんが、第一に、彼の金庫の中から一部分の金が発見されました。第二に、彼フョードルはすでにその朝か、またはその前夜に金を取り出して、何か別な用途にあてるためにどこかへ送ったかもしれない。また最後に、自分の考えや行動や計画を根本的に変更してしまい、しかもその際そのことを前もって、全然スメルジャコフに告げる必要がないと思ったのかもしれない。もしこうした仮定を下し得るものとしたら、どうしてあれほど頑強な、あれほど決然たる態度で、被告を罪することができましょう? 彼はとつぜん強盗の目的で親を殺したとか、実際、強盗が行われたとか、そういうことがどうして言われましょう? これはもう創作の範囲に属しているのであります。もし何か盗まれたことを証拠だてようとするなら、その盗まれたものを示すか、あるいは少くとも、そのものが存在していたという確実な証拠を挙げなければなりません。だが、そのものを誰も見る人はないのです。
「近頃ペテルブルグでこういう事件がありました。やっと十八になったばかりの、まだほんの子供のような若い棒手ふりが、昼日中、斧を持って両替店に押し入り、典型的な残忍性を発揮して、亭主を惨殺したうえ、千五百ルーブリの金を奪ったのであります。五時間後に彼は捕縛されましたが、ただ十五ルーブリを消費しただけで、総額に近い残りの金を持っていました。のみならず、兇行後、店へ帰って来た番頭は、単に金を盗まれたということだけでなく、その盗まれたのがどんな金かということまで、すなわち虹色の紙幣が何枚、青いのが何枚、赤いのが何枚、金貨が何枚あったということまで、詳しく警察に届け出たのであります、はたして捕縛された犯人は、そのとおりの紙幣と貨幣を持っていました。なおそのうえ犯人は、自分が殺して金を奪ったということを、きっぱりといさぎよく申し立てました。陪審員諸君、私が証跡と名づけるのは、こういうものであります! むろん、私はその金を知ってもいたし、目撃もしたし、手でさわってさえもみたので、その金がないとか、なかったとかいうことは不可能です。ところで、今度の場合もそうでしょうか? しかも、このことたるや、人間の生死の運命にかかわる問題なのであります。
『そうかもしれないが、しかし彼はその夜、遊興で金を撒き散