『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第五章 あなたじゃない

[#3字下げ]第五 あなたじゃない[#「第五 あなたじゃない」は中見出し]

 アリョーシャはイヴァンの家へ行く途中、カチェリーナが借りている家のそばを通らなければならなかった。どの窓にも、灯火《あかり》がさしていた。彼はふと立ちどまって、訪ねてみようと決心した。一週間以上も、カチェリーナに会わなかったのである。けれど、このとき彼の頭に、あるいはいま彼女のとこにイヴァンが来ているかもしれない、ことにこういう日の前夜だから、という考えが浮んだ。彼はベルを鳴らして、シナ提灯の淡い光に照らされている階段を昇って行くと、上からおりて来る人があった。そしてすれ違いしなに、それが兄であると知った。彼はもうカチェリーナのところから出て来たものと見える。
「ああ、お前だったのか」とイヴァンはそっけなく言った。「じゃ、さようなら、お前はあのひとのところへ行くのかね?」
「そうです。」
「行かないほうがいいよ、あのひとはひどく『興奮している』から、お前が行くと、よけい気分をかき乱すだろう。」
「いいえ、いいえ!」階上の少し開かれた戸の間から、突然こういう叫び声が聞えた。「アレクセイさん、あなたあの人のとこへいらして?」
「そうです、その帰りです。」
「わたしに何か言づけでもあっていらしったの? おはいんなさい、アリョーシャ。イヴァン・フョードロヴィッチ、あなたもぜひ戻ってちょうだいな。よござんすか!」
 カーチャの声には、命令するような響きがあった。で、イヴァンはちょっとためらったが、やがて、アリョーシャと一緒に引っ返すことに決めた。
「立ち聴きしたんだ!」とイヴァンはいらだたしげに口の中で呟いたが、アリョーシャにはそれがはっきり聞えた。
「失礼ですが、僕は外套を脱ぎませんよ」と、客間へ入った時イヴァンは言った。「それに、僕は腰もかけません。ほんの一分間だけいます。」
「おかけなさい、アレクセイさん」とカチェリーナは言ったが、自分はやはり立っていた。彼女はこの間にいくらも変っていなかったが、その暗い目はもの凄く光っていた。あとで思い出したことであるが、アリョーシャの目には、この瞬間のカチェリーナがかくべつ美しく映じた。
「あの人、どんなことを言づけて?」
「たったこれだけです、」まともに彼女の顔を眺めながら、アリョーシャは言った。「どうか自分を容赦して、法廷であのことを言わないようにって(彼は少し口ごもった)。つまり、あなた方の間に起ったことです……あなた方が初めてお会いになった時分……あの町で……」
「ええ、それはあのお金のために頭を下げたことでしょう!」と彼女は苦い笑い声を上げながら言った。「一たいどうなんでしょう、あの人は自分のために恐れてるんでしょうか、それとも、わたしのためなんでしょうか、え? 容赦するって、――誰を容赦するんでしょう? あの人を、それとも、わたしを?え、どっちなんですの、アレクセイさん。」
 アリョーシャは彼女の言葉の意味を読もうとしながら、じっと相手を見つめた。
「あなたも、また兄自身も」と彼は小さな声で言った。
「そうでしょうとも」と彼女は妙に毒々しい調子で断ち切るように言い、急に顔を赤くした。
「あなたはまだわたしというものをご存じないんですよ、アレクセイさん」と彼女は威嚇するように言った。「だけど、わたしもまだ自分で自分を知らないんですの。たぶんあなたは明日の訊問のあとで、わたしを足で踏みにじろうと思ってらっしゃるんでしょう。」
「あなたは正直に陳述なさるでしょう」とアリョーシャは言った。「それだけで結構なんですよ。」
「女ってものは、とかく不正直でしてね。」彼女はきりりと歯を食いしばった。「わたしはつい一時間まえまで、あの極道者にさわるのを、毒虫にさわるように恐ろしく思っていたけれど……それは間違っていましたわ。あの人は何といっても、わたしにとって人間です! 一たい本当にあの人が殺したんでしょうか? 殺したのはあの人でしょうか!」と彼女は急にヒステリックに叫んで、突然イヴァンのほうへふり向いた。
 その瞬間、アリョーシャは自分が来るつい一分まえまで、彼女が一度や二度でなく、幾十度となくこの問いをイヴァンに持ちかけたらしいことや、結局、喧嘩別れになったことなどを見てとった。
「わたしはスメルジャコフのところへ行って来てよ……あれはあんたよ、あんたがあの人を親殺しだって言うもんだから、わたしはあんたばかりを信用してたんだわ!」やはりイヴァンのほうに向いたまま、彼女はこう言いつづけた。
 イヴァンはいかにも苦しそうに、にたりと笑った。アリョーシャはこの『あんた』という言葉を聞いて、思わず身ぶるいした。彼は二人のそうした関係を夢にも考えていなかったのである。
「だが、もうたくさんだ」とイヴァンは遮った。「僕は帰ります、明日また来ます。」こう言うなり、彼はくるりと向きを変えて、部屋を出ると、ずんずん階段のほうへ歩いて行った。
 カチェリーナはとつぜん、何か命令でもするような身振りで、アリョーシャの両手を掴んだ。
「あの人のあとをつけていらっしゃい! あの人を追っかけてらっしゃい! 一分間でもあの人を一人にしておいちゃいけません」と彼女は早口に囁いた。「あの人は気がちがったんですのよ。あなた、あの人の気がちがったこと知らないんですか? あの人は熱を病んでるんですの、神経性の熱病ですの! 医者がそう言いましたわ。行って下さい、あの人のあとから駈けてって下さい……」
 アリョーシャはつと立ちあがり、イヴァンのあとを追っかけた。彼はまだ五十歩と離れていなかった。
「お前、何の用だい?」アリョーシャが自分を追っかけて来たのを見ると、彼は急に弟のほうへ振り向いた。「僕が気ちがいだから、追っかけて行けと、カーチャが言ったんだろう。ちゃんと知ってるよ」と彼はいらだたしい調子でつけたした。
「むろん、あのひとの思い違いでしょうけれど、あなたが病気だってことは、本当ですよ」とアリョーシャは言った。「私は今あのひとのところで、兄さんの顔を見てましたが、あなたの顔はひどく病的ですよ、イヴァン、とても病的ですよ!」
 イヴァンは立ちどまらずに歩いていた。アリョーシャもそのあとからついて行った。
「だが、アレクセイ、どんなふうにして、人間が気ちがいになるか、お前それを知ってるかね?」とイヴァンは急に恐ろしく静かな、恐ろしく穏やかな声でこう訊いた。この言葉の中には、きわめて素朴な好奇心がこもっていた。
「いいえ、知りません。気ちがいといっても、いろいろ種類があるでしょうからね。」
「じゃ、自分の気ちがいになっていることが、自分でわかるだろうか?」
「そんな時には、自分をはっきり観察することなんかできないだろうと思います」とアリョーシャはびっくりして答えた。
 イヴァンはほんのいっとき黙っていた。
「もし、何か僕に言いたいことがあるのなら、どうか話題を変えてくれ」と彼はだしぬけに言った。
「では、忘れないうちに、あなたへ手紙です。」アリョーシャはおずおずこう言って、かくしからリーザの手紙を取り出し、イヴァンに渡した。二人はちょうど街灯のそばまで来ていたので、イヴァンは手蹟ですぐそれを悟った。
「ああ、これはあの悪魔の子がよこしたんだな!」と彼は毒々しく笑い、開封もせず、いきなり手紙をずたずたに引き裂くなり、風に向って投げつけた。紙ぎれは四方にぱっと飛び散った。
「たぶんまだ十六にもならないんだろう、それにもう申し込みなんかしてる!」彼はまた通りを歩きながら、軽蔑するようにこう言った。
「申し込みしてるんですって?」とアリョーシャは叫んだ。
「わかりきってるじゃないか、淫乱な女がする申し込みさ。」
「何をいうんです、イヴァン、何をいうんです?」とアリョーシャは悲しげに、熱くなって弁解した。「あれは赤ん坊なんです、あんな赤ん坊を侮辱するものじゃありません! あれは病人なんです、重い病人なんですもの。あれもやはり気がちがってるのかもしれない……僕はこの手紙を渡さないわけにゆかなかったんです……それどころか、僕はあなたから何か聞きたかったくらいです……あれを救うために……」
「お前に聞かせることは何にもないよ。よしんばあれが赤ん坊でも、僕はあれの乳母じゃないからね。アレクセイ、もう何も言うな。僕はそんなことを考えてもいないんだ。」
 二人はまたしばらく黙っていた。
「あれはあす法廷でどういう態度をとろうかと、こんや夜どおし聖母マリヤを祈り明かすことだろうよ」と彼はまたとつぜん鋭い口調で毒々しく言った。
「あなたは……あなたはカチェリーナさんのことを言ってるんですか?」
「そうさ。あれはミーチャの救い主にも、下手人にもなれるんだ! だから、あれはお祈りをして、自分の心を照らしてもらおうとしているのさ。あれはね、われながらどうしていいかわからないんだ、まだ態度を決める暇がなかったんだよ。やはり僕を乳母扱いにして、僕にお守りをさせようとしているのさ。」
「兄さん、カチェリーナさんはあなたを愛してるんですよ」とアリョーシャは悲しそうな、情のこもった調子で言った。
「あるいはそうかもしれん。だが、僕はあの女が好きじゃないんだからね。」
「あのひとは、煩悶していますよ。なぜあなたは……ときおり……思わせぶりをなさるんです?」とアリョーシャはおずおずなじるように言葉をつづけた。「あなたがあのひとに思わせぶりをなすったことを、僕は知っていますよ、こんなことを言っては失礼ですが」と彼はつけたした。
「僕はこの場合、必要な処置をとることができないんだ。あれと手を切って、正直なところをあれに言うことができないんだ!」とイヴァンはいらだたしげに言った。「人殺しに宣告が下るまで、待たなけりゃならない。もしいま僕があれと手を切れば、あれは僕に対する復讐として、あす法廷であの悪党を破滅させるに相違ない。なぜって、あれはミーチャを憎んでいるし、また憎んでいることも知ってるんだからな。今は何もかも虚偽だ、虚偽の上に虚偽を積んでるんだ! 僕があれと手を切らずにいる間、あの女はまだ僕に希望をつないで、あの極道者を殺しゃしない。僕がミーチャを災難から引き出そうとしてるのを、あれは知ってるからね。とにかく、あのいまいましい宣告が下るまでだ!」
『人殺し』とか『極道者』とかいう言葉が、痛いほどアリョーシャの心に響いた。
「でも、一たいどうしてあのひとは、ミーチャを破滅させることができるんです?」彼はイヴァンの言葉に考え込みながら、こう訊いた。「否応なしにミーチャを破滅させるようなことって、一たいどんなことを申し立てるつもりなんです?」
「お前はまだ知らないんだ。あれはちゃんと証拠を一つ握っている。それはミーチャが自分で書いたもので、あの男がフョードル・パーヴロヴィッチを殺したということを、数学的に証明してるんだ。」
「そんなはずはありません」とアリョーシャは叫んだ。
「どうしてそんなはずがないんだ? 僕は自分でちゃんと読んだんだよ。」
「そんな証拠があるはずはありません!」とアリョーシャは熱心に繰り返した。「そんなはずはありません。だって、あの人は、下手人じゃないんですもの。あの人がお父さんを殺したんじゃないんですもの、あの人じゃありません!」
 イヴァンは急に立ちどまった。
「じゃ、お前は誰を下手人と思うんだ?」と彼は一見いかにも冷淡な調子で訊いた。その問いには一種の傲慢な響きさえこもっていた。
「誰かってことは、あなた自分で知ってらっしゃるでしょう。」アリョーシャは小さな声で滲み入るようにこう言った。
「誰だい? それは、あの気ちがいの馬鹿だっていう昔噺かい? 癲癇やみのことかい? スメルジャコフのことかい?」
 アリョーシャは急に全身が慄えるような気がした。
「兄さん、自分で知ってらっしゃるくせに。」こういう力ない言葉が、彼の口から思わずもれて出た。彼は息を切らせていた。
「じゃ、誰だい、誰だい?」とイヴァンはほとんどあらあらしい調子で叫んだ。今までの押えつけたような控え目なところが、まるでなくなってしまった。
「僕はただこれだけ知っています。」アリョーシャは依然として囁くように言った。「お父さんを殺したのはあなたじゃない[#「あなたじゃない」に傍点]。」
「あなたじゃない[#「あなたじゃない」に傍点]! あなたじゃないとは何だ?」イヴァンは棒立ちになった。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃない。あなたじゃありません!」とアリョーシャはきっぱりと繰り返した。
 三十秒ばかり沈黙がつづいた。
「そうさ、僕が殺したんでないことは、自分でちゃんと知っている。お前は何の寝言を言ってるんだい?」蒼白い、ひん曲ったような薄笑いを浮べて、イヴァンはこう言った。
 彼は食い入るようにアリョーシャを見つめた。二人はまた街灯のそばに立っていた。
「いいえ、イヴァン、あなたは幾度も幾度も、下手人はおれだと自分で自分に言いました。」
「いつ僕が言った? 僕はモスクワにいたじゃないか……いつ僕が言った?」とイヴァンは茫然として囁いた。
「あなたはこの恐ろしい二カ月の間、一人きりでいる時に、幾度も自分で自分に、そうおっしゃったのです。」アリョーシャは依然として小さな声で、句ぎり句ぎり言葉をつづけた。けれど、もう今は自分の意志でなく、ある打ち克ちがたい命令によって、夢中で言っているような工合であった。「あなたは自分で自分を責めて、下手人はおれ以外に誰もないと自白したのです。けれど、殺したものはあなたじゃありません。あなたは思い違いをしています、下手人は、あなたじゃありません、僕の言葉を信じて下さい、あなたじゃありません! 神様は、このことをあなたに言うために、僕をおつかわしになったのです。」
 二人は口をつぐんだ。この沈黙はかなり長くつづいた。二人はじっと立ったまま、互いに目と目を見合せていた。二人とも真っ蒼であった。と、イヴァンは急に身慄いして、ぐいとアリョーシャの肩を掴んだ。
「お前は僕のところへ来ていたんだな!」と、彼は歯ぎしりしながら噺いた。「お前はあいつが来た夜、僕のところにいたんだな……白状しろ……お前はあいつを見たろう、見たろう?」
「あなたは誰のことを言ってるんです……ミーチャのことですか?」とアリョーシャは、いぶかしそうに訊ねた。
「あれのことじゃない、あんな極道者なんかくそ食らえだ!」とイヴァンは夢中に呶鳴った。「あいつが僕のとこへ来ることを、一たいお前は知ってるのか? どうして知ったんだ、さあ言え。」
「あいつ[#「あいつ」に傍点]とは誰です? 誰のことを言ってるのか、僕にはわからないですよ。」アリョーシャはもう慴えたようにこう囁いた。
「いや、お前は知ってる……でなけりゃ、どうしてお前が……お前が知らないはずはない……」
 けれど、突然、彼は自分を抑えるように急に言葉を切った。彼はそこに突っ立ったまま、何事か思いめぐらしているらしかった。異様な嘲笑が彼の唇を歪めた。
「兄さん」とアリョーシャは慄え声で、また言いだしだ。「僕が今ああ言ったのは、あなたが僕の言葉を信じて下さることと信じているからです。『あなたじゃない』というこの言葉を、僕は命にかけて言ったのです! ねえ、兄さん、命にかけてですよ。神様がこの言葉を僕の魂へ吹き込んで、それをあなたに言わせて下すったのです。たとえ、この瞬間から永久にあなたの怨みを受けても……」
 しかし、イヴァンは見たところ、もうすっかり落ちつきを取り返したらしかった。
「アレクセイ君、」冷やかな微笑をもらしながら、彼はこう言った。「僕はぜんたい予言者や癲癇持ちが大嫌いなんだ。ことに神の使いなんてものは、とても我慢ができない。それは君もよくご承知のはずです。今から僕は君と縁を切る。これが永久の別れになるでしょう。どうか今すぐこの四辻で僕と別れてもらいたい。この横町が君の家へ行く道筋です。ことに、きょう僕のとこへ来るのは、平にごめん蒙ります! よろしいか?」
 彼はくるりと向きを変えて、しっかりした足どりでわき見もせずに、ずんずん行ってしまった。
「兄さん」とアリョーシャは彼のあとから呼びかけた。「もし今日あなたの身の上に何かことが起ったら、まず第一に僕のことを考えて下さい!………」
 しかし、イヴァンは答えなかった。アリョーシャは、兄の姿がすっかり暗闇の中に消えてしまうまで、じっと四辻の街灯のそばに立っていた。イヴァンの姿が見えなくなると、彼は踵を転じて、横町づたいに、そろそろとわが家のほうへ歩みを運んだ。彼もイヴァンも別々に間借りしていた。二人とも荒れはてたフョードルの家に住むのをいやがったのである。アリョーシャはある商人の家に家具つきの部屋を借りていた。イヴァンは、アリョーシャからよほど離れたところに住まっていた。小金を持ったある官吏の未亡人の所有になっている立派な家の、広々としたかなり気持のいい離れを借りていたのである。しかし、この離れづきの女中はたった一人、それも大年よりの耳の遠い婆さんで、しょっちゅうレウマチに悩んでいて、夜は六時に寝、朝は六時に起きるというふうであった。イヴァンはこの二カ月の間、不思議なほど女中を使わないようになって、いつも一人でいるのを喜んだ。彼は自分ひとりで居室を取り片づけ、ほかの部屋はめったに覗きさえしなかった。
 彼は自分の家の門まで来ると、ベルの把手を掴んだまま、ふと立ちどまった。彼は依然として忿怒のために全身がふるえるのを感じたのである。彼は急にベルをはなすと、ぺっと唾を吐いて、くるりと向きを変え、またまるっきり別な方角へ急ぎ足に歩きだした。それはまったく正反対の方向にあたる町はずれで、自分の家から二露里も離れていた。彼はそこにあるごく小さな、歪んだ丸太づくりの家へと向ったのである。この家にはマリヤ・コンドラーチエヴナが住まっていた。以前フョードルの隣りにいて、フョードルの家の台所ヘスープをもらいに来ていた女である。その時分、スメルジャコフはこの女に歌をうたって聞かせたり、ギターを弾いてやったりしたものである。彼女は以前の持ち家を売り払って、今ではほとんど百姓家のようなその家に、母親と二人で住まっていた。病気で死にかかっているスメルジャコフも、フョードルの横死以来、この親子の家に同居していたのである。今イヴァンは突然、ある抑えがたい懸念に駆られて、彼のもとへ出かけたのであった。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第四章 頌歌と秘密

[#3字下げ]第四 頌歌と秘密[#「第四 頌歌と秘密」は中見出し]

 アリョーシャが監獄の門のベルを鳴らした時は、もうだいぶ遅く(それに、十一月の日は短いから)、たそがれに近かった。けれど、アリョーシャは何の故障もなく、ミーチャのところへ通されることを知っていた。こういうことはすべてこの町でも、やはりほかの町と同じであった。予審終結後、はじめのうちは、親戚その他の人々の面会も、ある必然の形式で制限されていたが、その後だんだん寛大になった、というわけでもないが、少くとも、ミーチャのところへ来る人々のためには、いつの間にかある例外が形づくられたのである。時によると、被監禁者との面会が、その用にあてられた部屋の中で、ただ二人、――四つの目だけの間で行われることさえあった。が、そういう人はごく僅かで、ただグルーシェンカとアリョーシャとラキーチンくらいのものだった。グルーシェンカには、署長のミハイル・マカーロヴィッチが、とくに好意をもっていた。モークロエでグルーシェンカを呶鳴りつけた時のことが、いつまでもこの老人の心を咎めたのである。その後、彼はよく真相を知るとともに、彼女に対する自分の考えを一変した。不思議なことに、彼はミーチャの犯罪を固く信じていたにもかかわらず、彼が監禁されたそもそもから、『この男も善良な心の持ち主だったらしいが、あんまり酒を飲みすぎて、だらしがないものだから、とうとうスウェーデン人のようにすっかり身を破滅させてしまった』と思って、だんだんミーチャを見る目がやわらいできたのである。彼が心にいだいていた以前の恐怖は、一種の憐憫の情に変った。アリョーシャのほうはどうかというと、署長は非常に彼を愛していた。二人はもうとうから知合いの間柄なのであった。その後しきりに監獄へ出入りしはじめたラキーチンも、彼のいわゆる『署長のお嬢さん』の最も親しい知合いの一人でほとんど毎日お嬢さんのそばで暮していた。そのうえ彼は、頑固一徹の官吏ではあるが、いたって心の優しい老典獄の家で、家庭教師をしていたのである。アリョーシャもやはり典獄の旧友であった。典獄は全体に、『最高の叡知』というような問題で、アリョーシャと語り合うのを好んだ。またイヴァンのほうはどうかというと、典獄は決して彼を尊敬しているわけではないが、何よりも一ばん彼の議論を恐れていた。もっとも、典獄自身も『自分の頭で到達した』ものに相違ないが、やはりえらい哲学者なのであった。アリョーシャに対しては、彼はある抑えがたい好感をもっていた。近頃、彼はちょうど旧教福音書の研究をしていたので、絶えず自分の印象をこの若い親友に伝えた。以前はよくアリョーシャのいる僧院まで出かけて行って、彼をはじめ多くの主教たちと、幾時間も語り合ったものである。こういうわけで、アリョーシャは多少時間に遅れたところで、典獄のところへ行きさえすれば、うまく取り計らってもらうことができるのであった。それに、監獄では一ばん下っぱの番人にいたるまで、みんなアリョーシャに馴染んでいた。むろん看守も、上役から叱られさえしなければ、決して面倒なことを言わなかった。ミーチャはいつも呼び出されると、監房から下の面会所へおりて行くのを常とした。アリョーシャは部屋え[#「部屋え」はママ]入りがけに、ちょうどミーチャのところから出て来たラキーチンに、ばったり出くわした。二人は何やら大きな声で話をしていた。ミーチャはラキーチンを見送りながら、なぜかひどく笑ったが、ラキーチンは何だかぶつぶつ言っているようなふうであった。ラキーチンは近頃、とくにアリョーシャと出会うのを好まず、会ってもほとんど口もきかずに、ただわざとらしく挨拶するだけであった。今も入って来るアリョーシャを見ると、彼は妙に眉を寄せて、目をわきへそらした。その様子はいかにも、毛皮襟のついた大きな暖かい外套のボタンをかけるのに気をとられている、とでもいったようなふうであった。やがて、彼はすぐ自分の傘を捜し始めた。「自分のものは忘れないようにしなくちゃ。」彼はただ何か言うためにしいてこう呟いた。
「君、人のものも忘れないようにしろよ!」とミーチャは皮肉に言って、すぐ自分で自分の皮肉にからからと高笑いを上げた。
 ラキーチンはいきなりむっとした。
「そんなことはカラマーゾフ一統のものに言うがいい。君たちは農奴制時代の私生児だ。そんなことは、ラキーチンに言う必要はない!」憎悪のためにぶるぶると身ぶるいをしながら、彼はやにわに剣突《けんてつ》をくわした。
「何をそんなに怒るんだい? 僕はただちょっと冗談に言っただけだよ!」とミーチャは叫んだ。「ちょっ、ばかばかしい! あいつらはみんなあのとおりだ。」急いで出て行くラキーチンのうしろ姿を顎でしゃくりながら、アリョーシャに話しかけた。
「今まで坐り込んで、面白そうに笑ってたのにもう怒ってやがる! お前に目礼さえしなかったじゃないか。どうしたんだ。すっかり仲たがいでもしたのかい? どうしてお前はこんなに遅く来たんだ? おれはお前を待っていたどころじゃない、朝のうち焦れぬいてたんだ。だが、いいや! 今その埋め合せをするから。」
「あの男はどうしてあんなに兄さんのとこへ来るんです? すっかり仲よしになったんですか?」やはりラキーチンが出て行った戸口を顎でしゃくりながら、アリョーシャはこう訊いた。
「ラキーチンと仲よしになったかって言うのかい? そんなわけでもないが……いやなに、あいつは豚だよ! あいつはおれを……やくざ者だと思ってやがるんだ。それにちょっと冗談言ってもむきになる、――あいつらときたら、洒落というものがてんでわからないんだからな。それが一ばん厄介だよ。あの連中の魂は、なんて無味乾燥なんだろう。薄っぺらで乾からびてるよ。まるでおれが初めてここへ連れられて来て、監獄の壁を見た時のような心持がする。だが、なかなか利口なことは利口な男だ。しかし、アレクセイ、もういよいよおれの頭もなくなったよ!」
 彼はベンチに腰をおろし、アリョーシャをもそばにかけさせた。
「そう、明日がいよいよ公判ですね。じゃ、何ですか、兄さん、もうすっかり絶望してるんですか?」とアリョーシャはおずおずと言いだした。
「お前、それは何言ってるんだい?」ミーチャは何ともつかぬ、漠とした表情で、アリョーシャを眺めた。「ああ、お前は公判のことを言ってるんだな! ちょっ、ばかばかしい! 僕らは今までいつもつまらない話ばかり、いつもこの公判の話ばかりしていたが、一ばん大切なことは、黙っていたんだよ。そりゃ明日は公判さ。しかし、いま頭がなくなったと言ったのは、そのことじゃないよ。頭はなくなりゃしないがね、頭の中身がなくなったってことさ。どうしてお前はそんな批評をするような顔つきでおれを見るんだ!」
「ミーチャ、それは何のことなんです?」
「思想のことさ、思想のことなんだよ! つまり倫理《エチカ》だよ、一たい倫理《エチカ》って何だろう?」
「倫理《エチカ》?」アリョーシャは驚いた。
「そうだ、どんな学問だね?」
「そういう学問があるんですよ……しかし……僕は正直なところ、どんな学問かうまく説明できないんです。」
「ラキーチンは知ってるぜ。ラキーチンの野郎いろんなことを知ってやがる、畜生! やつは坊主になんかなりゃしないよ。ペテルブルグへ行こうとしてるんだ。そこで何かの評論部へ入ると言っている。ただし、高尚な傾向をもってるところだ。大いに世を裨益して、立身出世しようと言うんだ。いや、どうして、あいつらは立身出世の名人だからなあ! 倫理《エチカ》が何だろうと、そんなこたあ、どうでもいい。おれはもうおしまいだ。アレクセイ、おればもうおしまいだよ。お前は神様に愛されている人間だ! おれは誰よりも一番お前を愛してる。おれの心臓はお前を見るとふるえるんだ。カルル・ベルナールってのは、一たい何だい?
「カルル・ベルナール?」とアリョーシャはまた驚いた。
「いや、カルルじゃない、ちょっと待ってくれ、おれはでたらめを言っちゃった、クロード・ベルナール([#割り注]十九世紀フランスの生理学者[#割り注終わり])だ。クロード・ベルナールって一たい何だい? 化学者のことかい?」
「それは確か、ある学者です」とアリョーシャは答えた。「けれど、実のところ、この人のこともよく知りません。ただ学者だってことは聞いたけれど、どんな学者か知らない。」
「なに、そんなやつなんかどうでもいい、おれも知らないんだ」とミーチャは呶鳴った。「どうせ、ろくでなしのやくざ者だろう。それが一ばん本当らしい。どうせみんなやくざ者さ。だが、ラキーチンはもぐり込むよ。ちょっとした隙間でも、あいつはもぐり込むよ。あいつもやはりベルナールだ。へっ、ろくでなしのベルナールども! よくもこうむやみに殖えたものだ!」
「一たい兄さんどうしたんですか?」とアリョーシャは追及した。
「あいつはおれのことや、おれの事件のことを論文に書いて、文壇へ乗り出そうと思ってるんだ。そのためにおれのところへ来るんだよ、それは自分でもそう言ったよ。何か傾向のあるものを書きたがってるのさ。『彼は殺さざるを得なかった。何となれば、周囲の犠牲になったからである』てなことをね。おれに説明してくれたよ。社会主義の色をつけるんだそうだ。そんなこたあどうでもいいさ、社会主義の色でも何でも、そんなこたあどうでもいいや。あいつはイヴァンを嫌って憎んでいるよ。お前のこともやっぱりよく思っちゃいない。それでもおれがあいつを追い返さずにおくのは、あいつが利口者だからだ。もっとも、あいつ恐ろしくつけあがりすぎる。だから、おれは今も言ってやったのだ。『カラマーゾフ一統はやくざ者じゃない、哲学者だ。なぜって、本当のロシヤ人はみんな哲学者じゃないか。だが、お前なんかは学問こそしたけれど、哲学者じゃなくて、ごろつきだ』ってね。そしたら、あいつ何ともいえない、にくにくしそうな顔をして笑やがったよ。で、おれはやつに言ったね、de ideabus non est disputandum([#割り注]思想の相違はやむを得ない――ラテン語[#割り注終わり])少くとも、おれも古典主義の仲間入りをしたんだよ。」ミーチャは急にからからと笑った。
「どうして兄さんもう駄目なんです? いま兄さんそう言ったでしょう?」とアリョーシャは遮った。
「どうして駄目になったって? ふむ! 実はね……一言でつくせば、おれは近頃、神様が可哀そうになったんだ、だからだよ!」
「え、神様が可哀そうなんですって?」
「いいかい、こういうわけだ。それはここんとこに、頭の中に、その脳髄の中に神経があるんだ……(だが、そりゃ何でもいいや!)こんなふうな尻尾みたいなものがあるんだ。つまり、その神経に尻尾があるんだ。そこで、この尻尾がふるえるとすぐに……つまり、いいかね、おれが目で何か見るとするだろう、そうすると、そいつがふるえだすんだ、つまり、尻尾がさ……こうしてふるえると、映像が現われるんだ。すぐに現われるんじゃない、ちょっと一瞬間、一秒間すぎてからだ。すると、一種の刹那が現われる。いや、刹那じゃない、――ちょっ、いまいましい、――ある映像が、つまり、ある物体というか、事件というか、――が現われる。だが、それはどうでもいい! こういうわけで、おれは観照するし、それから、考えもするんだ。なぜって、それは尻尾がふるえるからなので、おれに霊があるからでもなければ、おれの中に神の姿があるからでもないんだ。そんなことは、みんなばかばかしい話だとさ。これはね、ラキーチンがきのうおれに話して聞かせたんだ。おれはその話を聞くと、まるで火傷でもしたような気がしたよ。アリョーシャ、これは立派な学問だ! 新しい人間がどんどん出て来る、それはおれにもわかっている……が、やはり神様が可哀そうなんだ!」
「いやあ、それも結構なことですよ」とアリョーシャは言った。
「神様が可哀そうだってことかい? だって、化学があるじゃないか、アリョーシャ、化学があるよ! どうも仕方がないさ。坊さん、少々脇のほうへ寄って下さい、化学さまのお通りですよ! ラキーチンは神様を好かない、いや、どうも恐ろしく好かない! これがあいつらみんなの急所だよ! だが、あいつらはそれを隠してるんだ。嘘をついてるんだ。感じないふりをしてるんだ。こういうこともあったよ。『どうだね、君は評論部でもそれで通すつもりかね』とおれが訊くとな、あいつは『いや、明らさまにはさせてくれまい』と言って、笑ってるじゃないか。そこで、おれは訊いた。『だが、そうすると、人間は一たいどうなるんだね? 神も来世もないとしたらさ? そうしてみると、人間は何をしてもかまわないってことになるんだね?』すると先生『じゃ、君は知らなかったんだね?』と言って笑ってるんだ。『利口な人間はどんなことでもできるよ。利口な人間は、うまく甘い汁を吸うことができるんだよ。ところが、君は人殺しをしたが、ぱったり引っかかって、監獄の中で朽ちはてるんだよ!』こうおれに面と向って言うじゃないか。まるで豚だ! おれも以前なら、そんな人間はつまみ出してしまったものだが、今は黙って聞いてるんだ。あいつは気のきいたことをいろいろと喋るし、書かせてもなかなかうまいことを書く。あいつは一週間ばかり前、おれにある論文を読んで聞かせたがね、おれはそのとき三行だけ書き抜いておいたよ。ちょっと待ってくれ、これがそうだ。」
 ミーチャは急いでチョッキのかくしから、一枚の紙きれを取り出して読んだ。
『この問題を解決するには、まず自己の人格を自己の現実と直角におくを要す。』
「わかるかい、どうだ?」
「わかりませんね」とアリョーシャは言った。彼は好奇の色を浮べて、ミーチャを見入りながら、その言うことを聞いていた。
「何もわからないんだ。曖昧ではっきりしていないからね。だが、そのかわり気がきいてるじゃないか。『みんな、今こんなふうに書いてるよ。なぜって、環境がそうなんだから』とこう言うのさ……環境が恐ろしくてたまらないんだ。そして、詩もやはり作っているのさ、くだらないやつったらないよ。ホフラコーヴァの足を詩に作ったんだとよ。はっ、はっ、はっ!」
「僕も聞きました」とアリョーシャは言った。
「聞いた? では、その詩も聞いたかい?」
「いいえ。」
「その詩はおれの手もとにあるんだ。一つ読んで聞かせよう。まだお前には話さなかったから知るまいがね、それには一つロマンスがあるんだ。ほんとにあいつ悪いやつだ! 三週間まえに、先生おれをからかおうと思ってね、『君は僅か三千ルーブリのために、ぱったり引っかかってしまったが、僕なら、十五万ルーブリくらいせしめて、あの後家さんと結婚してさ、ペテルブルグに石造の家でも買ってみせるよ』と言うんだ。そして、ホフラコーヴァにごまをすってる話をしてね、あの女は若い時からあまり利口じゃなかったが、四十になったら、すっかり馬鹿になってしまった、っておれに話したよ。『だが、おそろしくセンチな女だよ。で、我輩はそこにつけ込んで、あれをものにする。そして、ペテルブルグへ連れて行って、そこで新聞を発刊するんだ。』こんなことを言いながら、穢らわしい淫らな涎をたらしていやがるんだ、それもホフラコーヴァにじゃなくて、あの十五万ルーブリの金に涎をたらしてるんだよ。あいつ毎日おれのところへやって来て、大丈夫、大丈夫、きっと参らしてみせるって力んでるんだ。そう言って、満面笑み輝いていやがるのさ。ところが、あいつだしぬけに追っ払われたんだ。ペルホーチンの思う壺にはまったんだよ。ペルホーチンのやつなかなかえらいよ! まるで追っ払われるために、あの馬鹿女を接吻したようなもんさ! あいつがしきりにおれのところへやって来てる時分、例の詩を作ったんだ。『生れて初めて、穢らわしいことに手を染めるよ。つまり、詩を書くよ。たらしこむためなんだ、つまり、世の中のためなんだ。あの馬鹿な女から資本を引き出して、それから大いに公益につくすんだからな』と言ってたよ。やつらはどんな醜悪なことをやっても、公益のためをふりまわすんだ。『だが、とにかく、君のプーシュキンよりうまく書いたよ。なにしろ、僕は滑稽な詩の中へ巧みに公民的悲哀を加味したんだからね』と言うんだ。プーシュキンについて言ったことは、おれにもよくわかってる。もし本当に才能のある人が、ただ足のことばかり書いたとすればどうだろう。そのくせ、やっこさん自分のやくざな詩をおそろしく自慢してやがる! あいつらの自惚れときたら鼻もちがならん、えらい自惚れなんだ。『わが意中の人の病める足の全治を祈りて』こんな題をつけてやがる、――なかなかてきぱきしてるよ!

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いかなる足ぞ、この足は、
少し腫れたるこの足は!
医者を頼んで療治をすれば、
繃帯巻いて片輪にされる。
 *  *  *
足ゆえわれはなげくにあらず、
そはプーシュキンにまかすべし。
われのなげくは頭ゆえ
思想を悟らぬ頭ゆえ。
 *  *  *
やや悟りぬと思う時、
足はそれをば妨げぬ!
足を癒さぬそのうちは、
頭は悟ることあらじ。
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 豚だよ、本当に豚だよ。だが、馬鹿野郎め、なかなか面白く作りやがったよ! 実際『公民的悲哀』も加味していらあ。しかし、追っ払われた時は、どんなに怒ったろうなあ。さだめし歯ぎしりしたことだろうよ!」
「あの男はもう復讐をしましたよ」とアリョーシャは言った。「ホフラコーヴァ夫人の悪口を投書したんです。」
 アリョーシャは『風説《スルーヒイ》』紙上にのっていた通信記事のことを、かい摘んでミーチャに物語った。
「そうだ、それはあいつに違いない、あいつにきまってるさ!」とミーチャは顔をしかめて、相槌を打った。「それはあいつだよ! その投書は……おれは知ってるんだ……グルーシェンカのことでも、ずいぶん汚いことを書いて投書したよ……それから、あの女、カーチャのこともな……ふむ!」
 彼はそわそわと部屋の中を歩きはじめた。
「兄さん、僕はゆっくりしていられないんです。」しばらく黙っていたアリョーシャがこう言った。「明日はあなたにとって、実に恐ろしい重大な日なんです。あなたに対して神様の裁きが行われるんじゃありませんか……ところが、兄さんは平気でぶらぶらしながら、くだらないことばかり言ってるんですもの、僕おどろいちゃった……」
「いんや、驚くにはおよばないよ」とミーチャは熱して遮った。「あの鼻もちのならない犬のことでも話せと言うのかい、え? あの人殺しのことをかい? そのことならもう十分話し合ったじゃないか。あの鼻もちのならないスメルジャーシチャヤの息子のことなら、もう話したくない! 神様があいつを罰して下さるよ。今に見ていな、黙っていてくれ!」
 ミーチャは興奮しながら、アリョーシャに近づいて、いきなり接吻した。その目はらんらんと燃えていた。
「ラキーチンにはこれがわからないんだ。」彼は何か激しい歓喜にでも駆られている様子で、こう語りだした。「だが、お前は、お前は何でもわかってくれる。だから、おれはお前を待ちわびていたんだ。実はね、おれはもうとうからこの剥げまだらな壁の間で、お前にいろいろ話したいと思っていながら、肝腎なことを黙っていたんだ。まだまだその時が来ないような気がしてたもんだからな。今いよいよその時が来たから、お前に心の底までぶちまけるよ。アリョーシャ、おれはこの二カ月の間に、新しい人間を自分の中に感じたんだ。おれの中に新しい人間が蘇生したんだ! この人間は今までおれの中に固く閉じ籠められていたので、もし今度の打撃がなかったら、外へ現われずにしまったろう。恐ろしいことだ! おれは鉱山へ流されて、二十年間鎚を振って、黄金を掘ることなんか何でもない、――それはちっとも恐れやしない、今は別なことが恐ろしいんだ。この蘇生した人間がどこかへ行ってしまうのが恐ろしいんだ! おれは向うで、鉱山の土の下で、自分と同じような囚人や、人殺しの中にも人間の心を見つけ出して、彼らと合致することができる。なぜって、そこでも生活したり、愛したり、苦しんだりすることができるんだものな! おれはこの囚人の中に、凍えた心をよみがえらせることができるんだ。おれは幾年間でも彼らのために力をつくし、その坑《あな》の中から高貴な魂や、献身的な精神を世間へ送り出すことができるんだ。おれは天使を生み、英雄を蘇生させることができるんだ! だが、そういう人間はたくさんいる、何百人となくいる。われわれはみんな彼らのために責任を負わなけりゃならん! なぜおれはあの時、あの瞬間、『餓鬼』の夢を見たと思う? 『どうして、餓鬼はああみじめなんだろう?』この問いはあの瞬間、おれにとって予言だったんだ。おれはあの『餓鬼』のために行く。なぜなら、われわれはみな、すべての人のため、すべての『餓鬼』のために責任があるからだ。なぜなら、小さい子供もあれば、大きな子供もあるからな。みな『餓鬼』なんだ。おれはすべての人のために行く。実際、誰か一人くらい、他人のために行かなけりゃならんじゃないか。おれは、親父を殺しはしなかったが、やっぱり行かなけりゃならん。だまって受ける! おれはここで、こういうことを考えついたんだ……この剥げまだらな壁の間でな。だが、そういう人間がたくさんいる。地の下で手に鎚を持ったものが、何百人となくいる。ああ、そうだ、われわれは鎖に繋がれて、自由がなくなるんだ。しかし、その時、われわれはその大きな悲しみの中にいながら、さらに歓喜の中へとよみがえるんだ。人間この歓喜がなくちゃ、生きることができない。だから、神様はあるんだ。なぜって、神様が歓喜の分配者だからだ。歓喜は神様の偉大な特権だからだ……ああ、人間よ、祈りの中に溶けてしまえ! おれはあそこの地の底で、神様なしにどうして暮せよう? ラキーチンの言うことは、みんな嘘だよ。もし神様を地上から追っ払ったら、われわれは地下で神様に会う! 囚人は神様なしに生きて行けない。囚人でないものより一そう生きて行けないのだ。だから、われわれ地下の人間は地の底から、歓喜の所有者たる神様に、悲愴な頌歌《ヒムン》を歌おう! 神とその歓喜に栄えあれ! おれは神様を愛している。」
 ミーチャはほとんど息を切らせんばかりに、この奇怪な長物語を終った。その顔色は真っ蒼になって、唇はふるえ、目からは涙がはふり落ちていた。
「いや、生活は満ち溢れている。生活は地の下にもある!」と彼はふたたび語りだした。「アレクセイ、おれが今どんなに生を望んでいるか、この剥げまだらな壁の間で、存在と意識を欲する烈しい渇望が、おれの心のうちに生れて出たか、とてもお前にはわかるまい! ラキーチンにゃこれがわからないんだ。きゃつは家を建てて、借家人を入れさえすりゃいいんだからな。だが、おれはお前を待っていたんだ。それに、一たい苦痛とは何だ? おれはたとえ数限りない苦痛が来ても、決して、それを恐れやしない。以前は恐れていたが、今は恐れない。でね、おれは法廷でも、一さい返答をしまいと思ってるんだ……おれのなかには、今この力が非常に強くなっているので、おれはすべてを征服し、すべての苦痛を征服して、ただいかなる瞬間にも、『おれは存在する!』と自分で自分に言いたいんだ。幾千の苦しみの中にも、――おれは存在する。拷問にさいなまれながらも、――おれは存在するんだ! 磔柱の上にのせられても、おれは存在している、そして太陽を見ている。よしんば見なくっても、太陽のあることを知っている。太陽があるということを知るのは、――それがすなわち全生命なんだ。アリョーシャ、おれの天使、おれはな、種々様々な哲学で殺されていたんだ。哲学なんかくそ食らえだ! 弟のイヴァンは……」
「イヴァン兄さんがどうしたんです?」とアリョーシャは遮ったが、ミーチャはよくも聞かなかった。[#「よくも聞かなかった。」はママ]
「実はな、おれは以前こういう疑念を少しも持っていなかったが、しかし何もかも、おれの中にひそんでいたんだね。つまり、おれの内部で、自分の知らない思想が波立っていたために、おれは酔っ払ったり、喧嘩をしたり、乱暴を働いたりしたのかもしれない。おれが喧嘩をしたのは、自分の内部にあるその思想を鎮めるためだったんだ。鎮めて、抑えるためだったんだ。イヴァンはラキーチンと違って、思想を隠している。イヴァンはスフィンクスだ、黙っている、いつも黙っている。ところが、おれは神様のことで苦しんでいるのだ。ただこのことだけがおれを苦しめるんだ。もし神様がなかったらどうだろう? もしラキーチンの言うとおり、神は人類のもっている人工的観念にすぎないとしたらどうだろう? そのときは、もし神がなければ、人間は地上の、――宇宙のかしらだ。えらいもんだ! だが、人間、神様なしにどうして善行なんかできるだろう? これが問題だ! おれは始終そのことを考えるんだ。なぜって、そうなったら人間は誰を愛するんだね? 誰に感謝するんだね? また誰に向って頌歌《ヒムン》を歌うんだ? こういうと、ラキーチンは笑いだして、神がなくっても人類を愛し得る、と言うんだが、それはあの薄ぎたない菌《きのこ》野郎がそう言うだけで、おれはそんなこと理解できない。ラキーチンにとっちゃ、生きてゆくことなんか何でもないんだ。『君はまず何よりも、公民権の拡張に骨を折るがいい、でなけりゃ、牛肉の値段があがらないようにでも奔走するがいい。人類に愛を示す上において、このほうが哲学よりよほど単純で近道だ』なんて、今日もおれに言ったよ。おれはそれに対して『なに、君なんかたとえ神様がなくたって、自分のとくになることなら、きっと牛肉の値段をあげるだろう。一コペイカで一ルーブリくらい儲けるだろう』と茶化してやったんだ。すると、やつ、ひどく怒ったよ。だが、そもそも善行とは何だね! アレクセイ、教えてくれ。このおれにはたった一つの善行しかない。ところが、シナ人にはまだほかの善行があるんだ。つまり、善行というのは相対的なものなんだ。どうだね? 違うかね? 相対的なもんじゃないかな? 面倒な問題だよ? お前、笑わないで聞いてくれ。おれはこの問題のために、二晩も眠らなかったんだよ。おれはいま世間の人が平気で生きていて、ちっともこのことを考えないのに驚いてる。空なことにあくせくしてるんだ! イヴァンには神様がない。あれには思想があるんだ。とてもおれなぞの手に合わんだろうが、しかし、とにかくあれは黙っている、どうもイヴァンはマソンだと思うよ。何を訊いても黙ってるんだからな。あれの叡知の泉を一口のませてもらおうと思ったが、やはり黙ってるんだ。でも、たった一度、一こと口をきいたことがあったっけ。」
「どんなことを言いました?」アリョーシャはせきこんで声を上げた。
「おれがね、もしそうだとすれば、何もかも赦されることになるじゃないかと言うとね、あれは顔をしかめて、『われわれの親父のフョードル・パーヴロヴィッチは豚の児だったが、しかし考えは確かでしたよ』とこうやっつけたもんだ、たったこれだけしか言わなかったよ。あれはラキーチンよりもっと上手《うわて》だね。」
「そうです」とアリョーシャは悲しそうに承認した。「ですが、イヴァン兄さんはいつここへ来たんです?」
「それはあとで話すよ。今はほかの話にしよう。おれは今までイヴァンのことをお前に少しも話さなかった。いつもあと廻しにしてたんだ。このおれの問題が片づいて、宣言がすんだ時、何やかやお前に話そう、すっかり話してしまうよ。そこには一つ妙なことがあるんだ……お前はそのことについて、おれの裁判官になってくれるだろうな。だが、今はそのことを言いだしちゃいけない。今はだんまりだ、さて、お前は明日の公判のことを言ってるが、実のところ、おれはそのことについちゃ、何も知らないんだ。」
「あなたはあの弁護士と打ち合せをしましたか?」
「弁護士なんて何になるものか! おれはすっかりあいつに話したんだがね。猫をかぶった都仕込みのごろつきさ。やはりベルナールよ。毀れたびた銭ほどもおれの言うことを信じないんだ。てんからおれが殺したものときめこんでいるんだ。まあ、どうだい、――おれにはもうわかっている。『そんなら、なぜ僕の弁護に来たんです?』と訊いてやったよ。まあ、あんなやつらなんかくそ食らえだ。それに医者まで呼び寄せて、おれを気ちがいだってことにしようと思ってるんだ。そんなことをさせるものか! あのカチェリーナは、『自分の義務』を最後まではたそうと思ってるが、そりゃ無理なんだよ(ミーチャは苦々しそうに笑った)。猫だ! 冷酷な女だ! あれはね、僕があの時モークロエであれのことを、『偉大なる怒り』の女だと言ったことを知ってるんだ! 誰か喋ったんだよ。だが、証拠は浜の真砂のように殖えたね、――グリゴーリイは自説を曲げない。あの男は正直だが、馬鹿だよ。世の中には馬鹿なため正直なやつが多いて。これはラキーチンの思想なんだが、グリゴーリイはおれにとっちゃ敵だ。時にはまた友達にするよりか、敵に持ったほうがとくなものもあるて。これはカチェリーナのことを言ってるんだよ。心配だ、ああ、ほんとうに心配だ。あの女がおれから四千五百ルーブリ借りて、平身低頭したことを法廷でしゃべりはしないかと思ってさ。あの女は最後まで、最後の負債まで払わなけりゃきかんだろう。おれはあの女の犠牲なんかほしくない。あの連中は、法廷でおれに恥をかかすに違いない。実際たまらんなあ。アリョーシャ、お前あの女のところへ行って、法廷でこの一件を言わないように頼んでくれんか。それとも駄目かな? ちょっ、まあ、仕方がない、とにかく、我慢するよ! だが、おれはあれを可哀そうとは思わないよ。自分でそれを望んでいるんだからな。泥棒がつらい目をするのはあたりまえだ。アレクセイ、今おれは自分の言うべきことを言うよ(彼はまた若い薄笑いを浮べた)。ただ……ただ、グルーシャだ、グルーシャだ、ああ、あれは今なんのために、あんな苦痛を身に引き受けようとしているんだろう?」彼は急に涙ぐんでこう叫んだ。「グルーシャはおれをさいなむんだ、あの女のことを考えると、おれは死にそうだ、死にそうだ! あれはさっきおれのところへ来て……」
「あのひとは僕に話しましたよ。あのひとは今日あなたのことでとてもつらがってますよ。」
「知ってるよ。おれは一たいどういういまいましい性格なんだろう。おれはやきもちをやいたんだよ。でも、すぐ後悔して、あれが帰る時には接吻してやったよ。けれど、謝りはしなかった。」
「なぜ謝らなかったんです?」とアリョーシャは叫んだ。
 ミーチャは急に愉快そうに笑った。
「可愛いアリョーシャ、お前自分の惚れている女には、決して謝っちゃいけないよ! とりわけ惚れた女には、たとえその女に対してどんなに罪があってもな! だから、女は、――アリョーシャ、女ってものはえたいの知れないものなんだ。おれも女のことにかけちゃ、少しぐらい話がわかるよ! まあ、ためしに女の前で自分の罪を認めて、『悪かった、どうぞ赦してくれ!』とでも言ってみるがいい。それこそたちまち、霰のようにお小言が降りかかって来るよ! 決して単純率直に赦してくれやしない。かえってお前を味噌くそに悪く言って、ありもしないことまで持ち出しこそすれ、決して何一つ忘れやしない。そして、言いたい放題いったあげく、やっと赦してくれるんだ。でも、それはまだまだたちのいいほうなんだよ! 一切がっさい洗いざらいさらけ出して、何もかもみんな男のほうへぬりつけてしまうんだ、――おれはお前に言っておくがね、女にはこうした残酷性があるんだ。われわれが生きるのになくてならんあの天使のような女は、一人残らずこの残酷性をもっている! ねえ、アリョーシャ、おれは露骨に率直に言うがね、どんな立派な身分の人でも、男は必ず女の臀に敷かれなけりゃならん。それはおれの信念だ。信念じゃない、体験なんだ。男はあまくなけりゃならん。女にあまいということは、男を傷つけるもんじゃない。英雄をも傷つけやしない。シーザアをも傷つけやしないよ! だが、それにしても、謝罪だけは、決してどんなことがあってもするものじゃないぞ。この掟をよく覚えておくがいいぜ。女のために亡びた兄のミーチャが、お前にこれを伝授するんだ。いや、おれはむしろ赦されないままで、何とかグルーシャにつくしてやろう。おれはあの女を崇拝しているんだ、アレクセイ、おれはグルーシャを崇拝しているんだ! だが、あれはそいつを知らない。駄目だ、あれはどんなにしても、やはりおれの愛しようがたりないと言うんだ。あれはおれを悩ませる、愛で悩ませるんだ。以前はどうだったろう! 以前おれを悩ましたものは、ただ極悪非道の妖婦めいた肉体の曲線だったが、今じゃおれはあれの魂をすっかり自分の魂の中に受け入れて、あれのおかげで真人間になったのだ! おれたちは結婚さしてもらえるかしらん? そうしてもらえなかったら、おれは嫉妬のために死んでしまうだろう。何だか毎日そんな夢ばかり見てるよ……あれはおれのことをお前に何と言ったかね?」
 アリョーシャは、グルーシェンカがさっき言ったことを残らず繰り返した。ミーチャはくわしく聞いて、幾度も問い返したが、結局、満足らしい様子であった。
「じゃ、やくのを怒ってはいないんだな?」と彼は叫んだ。「まったく女だ!『わたし自分でも残酷な心をもっている。』ああ、おれはそういう残酷な女が好きなんだ。もっとも、あまりやかれるとたまらない、喧嘩になってしまう。だが、愛する、――限りなく愛する。おれたちに結婚させてくれるだろうか? 囚人に結婚させてくれるだろうか? 疑問だね。おれはあの女がいなけりゃ、生きてることができないんだ……」
 ミーチャは顔をしかめて、部屋の中を歩いた。部屋の中はほとんど薄暗くなっていた。彼は急にひどく心配そうな顔つきをしはじめた。
「秘密だって、あれは秘密と言ったのかい? おれたち三人があれに対して、陰謀を企らんでると言ったのかい? 『カーチカ』もそれに関係があると言ってたのかい? いや、なに、グルーシェンカ、そうじゃない。お前は邪推してるんだ。それはばかばかしい女の邪推だ! アリョーシャ、もうどうなろうとままよ、お前にわれわれの秘密を打ち明けよう!」
 彼はあたりをじろりと見まわし、急いで自分の前に立っているアリョーシャに近づき、いかにも秘密らしい様子をして囁きだした。しかし、実際は誰も二人の話を聞いていなかった。番人は片隅のベンチに腰かけて居睡りをしていたし、番兵のところまでは二人の話し声は一言も聞えなかった。
「おれはわれわれの秘密をすっかりお前に打ち明けよう!」とミーチャはせきこみながら囁いた。「実は、あとで打ち明けるつもりだったのさ。なぜって、お前と相談もしないで、おれに何か決められると思う? お前はおれの有するすべてだ。おれはイヴァンのことを、われわれより一段うえに立ってるとは言うものの、お前はおれの天使だ。お前の決定が、すべてを決するんだ。お前こそ一段うえの人間で、イヴァンじゃない。いいかい、これは良心に関することなんだ。高尚な良心に関することなんだ、――おれ一人で片づけることのできないほど重大な秘密なんだ。だから、お前の判断を煩わそうと思って、延ばしていたわけだ。だが、やっぱりいま解決する時じゃない。やはり宣告がすむまで、待たなけりゃならんな。宣告が下ったら、その時こそ、おれの運命を決めてくれ。今は決めてくれるな。おれはいまお前に話すから、よく聞いてくれ。しかし、解決はしてくれるな。じっと待って、黙っていてくれ。おれはお前に残らず打ち明けはしない、ただ骨子だけ簡単に話すから、お前は黙っているんだよ、問い返してもいけないし、身動きしてもいけないよ。いいかね? だが、ああ、おれはお前の視線をどうして避けよう? お前はたとえ黙っていても、その目が解決を下すだろう。おれはそれを恐れてるんだ。いや、本当に恐ろしい! アリョーシャ、聞いてくれ。イヴァンはおれに逃亡を勧めるんだ。くわしいことは言うまい。万事準備ができている。万事うまくゆくんだ、黙っていてくれ。解決しないでくれ。グルーシャをつれてアメリカへ行けと言うんだ。実際、おれはグルーシャなしには生きてゆけないんだ! もしおれと一緒にグルーシャをあそこへやってくれなかったらどうする? 囚人に結婚を許してくれるだろうか? イヴァンは許さないと言うんだ。だが、グルーシャなしに、どうしておれはあの坑《あな》の中で槌を握ることができよう。その槌で自分の頭を打ち割ってしまうより、ほかに仕方がない! だが、一方、良心をどうする? 苦痛を避けることになるじゃないか! 天啓があったのに、その天啓を避けることになる。浄化の路があったのに、それを避けて廻れ右をすることになる。イヴァンはアメリカでも、『いい傾向』さえ持していれば、坑の中で働くよりも、より多く人類に益をもたらすことができる、とこう言うんだ。しかし、わが地下の頌歌《ヒムン》はどこに成り立つ? アメリカが何だ、アメリカもやはり俗な娑婆世界だ! アメリカにもやっぱり譎詐が多いだろうと思う。つまり、磔をのがれるわけだ! おれがお前にこんな話をするのはな、アレクセイ、これがわかるのはお前のほかにないからだよ。ほかには誰もない。ほかのものにとっては愚の骨頂だろう。今お前に話した地下の頌歌《ヒムン》のことなんぞは、みんな譫言にすぎないだろう。人はおれのことを気が狂ったのか、それとも馬鹿だと言うだろう。だが、おれは気が狂ったんでもなけりゃ、馬鹿でもないのだ。イヴァンも頌歌《ヒムン》のことはわかっている、どうして、わかっているとも。が、それについては返事もせずに、ただ黙っているのだ。あれは、頌歌《ヒムン》を信じていない。黙っていてくれ、黙っていてくれ。お前の目が何を語っているか、おれにはよくわかってるんだ。お前はもう解決したんだ! 決めないでくれ。おれを容赦してくれ。おれはグルーシャなしには生きてゆかれないんだ。公判がすむまで待っていてくれ!」
 ミーチャは夢中でこう言い終った。彼はアリョーシャの肩を両手で掴んだまま、熱した目でじっと貪るように弟の目を見つめた。
「一たい囚人に結婚を許すだろうか?」彼は哀願するような声で三たび繰り返した。
 アリョーシャは一方ならぬ驚きをもって聞いていた。彼は心の底から揺ぶられたような気がした。
「これだけ聞かせて下さい」とアリョーシャは言った。「イヴァン兄さんは頑固にそれを主張するんですか? そして、そんなことをまっさきに考え出したのは、一たい誰なんですか?」
「あれだよ、あれが考え出したんだよ。そして、頑固に主張してるんだよ! あれはあまりおれのところへ来なかったのに、とつぜん一週間まえにやって来て、藪から棒にこんなことを言いだしたんだ。そして、恐ろしく頑固に主張してるんだよ。勧めるんじゃなくて、命令するんだ。おれはイヴァンにもお前と同じように、すっかり心の中を打ち明けて、頌歌《ヒムン》のことも話したんだがね、イヴァンはおれが自分の命令にしたがうものと信じて疑わないんだ。逃亡の手はずまで話して聞かせて、いろいろな事情を取り調べてるんだ。が、そのことはまあ、あとにしよう。とにかく、あれはヒステリイじみるほど主張しているよ。肝腎な問題は金だが、一万ルーブリをその逃亡費にあてよう。アメリカまでは二万ルーブリかかるけれども、一万ルーブリで立派にお前を逃亡させてみよう、とこう言うんだ。」
「僕には決して喋っちゃいけないと言いましたか?」とアリョーシャはさらに訊き返した。
「決して誰にも喋っちゃいけない。ことにお前には、お前にはどんなことがあっても話しちゃならない、と言うんだ! きっとお前がおれの良心になるのを恐れてるに相違ないよ。だから、おれがお前に話したことを、あれに言わないようにしてくれ。言ったら、それこそ大変だからな!」
「なるほど、兄さんの言うとおり」とアリョーシャは言った。「宣告が下るまでは決められませんね、公判がすめば、自分で決めることができますよ。その時、あなたは自分の中に新しい人間を発見しますよ。その新しい人間が解決してくれるでしょう。」
「新しい人間か、それともベルナールか、そいつがベルナール流に解決してくれるだろう! おれは、おれ自身軽蔑すべきベルナールのような気がするからな!」とミーチャは苦い微笑をもらした。
「けれども、兄さん、あなたはもう無罪になる望みをもっていないんですか!」
 ミーチャは痙攣的にぐいと両肩をすくめて、頭を横に振った。
「アリョーシャ、お前はもう帰らなけりゃいかんよ!」と彼は、突然いそぎだした。「看守が外で呶鳴ったから、今すぐここへやって来るよ。もう遅いんだ、規則違反だからな。早くおれを抱いて、接吻してくれ。おれのため十字を切ってくれ。アリョーシャ、明日の受難のために十字を切ってくれ……」
 二人は抱き合って、接吻した。
「イヴァンは」とミーチャは突然、言いだした。「逃亡を勧めながら、自分ではおれが殺したものと信じてるんだよ!」
 悲しそうな嘲笑が、彼の唇へ押し出された。
「あの人がそう信じてるかどうか、兄さんは訊いたんですか?」とアリョーシャは訊いた。
「いや、訊きゃしない。訊きたかったけれども、訊けなかったんだ。その勇気がなかったんだ。しかし、おれは目色でちゃんとわかってる。じゃ、さようなら!」
 二人はもう一度いそいで接吻した。アリョーシャが出て行こうとした時、ミーチャはまたふいに彼を呼び止めた。
「おれの前に立ってくれ、そうだ、そうだ。」
 彼はこう言って、ふたたび両手でアリョーシャの肩をぐいと掴んだ。ふいにその顔は真っ蒼になって、薄暗がりの中でも、恐ろしく鮮かに見えるほどであった。唇はぐいと歪んで、目は食い入るようにアリョーシャを見つめた。
「アリョーシャ、神様の前へ出たつもりで、まったく正直なところを聞かせてくれ、お前はおれが殺したと信じてるか、それとも信じていないかい? お前自分で信じてるかい、どうだい? まったく正直なところをさ、嘘を言っちゃいけないよ!」と彼はアリョーシャに向って、前後を忘れたように叫んだ。
 アリョーシャは何かでどしんと突かれたような気がした。彼がこれを聞いた時、何やら鋭い痛みが心の中を走ったように思われた。
「たくさんですよ、何を言うんです、兄さん……」彼は途方にくれたように囁いた。
「正直なところを言ってくれ、嘘を言っちゃいけない!」とミーチャは繰り返した。
「僕はあなたが下手人だとは、一分間も信じたことがありません!」突然アリョーシャの胸から、こういう慄え声がほとばしり出た。彼は自分の言葉の証人として、天なる神を呼びでもするように、右手を高くさし上げた。
 ミーチャの顔はたちまち一めん幸福に輝き渡った。
「有難う!」気絶したあとで、はじめてため息を吐き出す時のように、彼は言葉じりを引きながら言った。「今こそお前はおれを生き返らせてくれた……まあ、どうだ、今までおれはお前に訊くのを恐れていたんだ、このお前にだよ。お前にだよ。さあ、行ってもいい、行ってもいい! お前は明日のためにおれの心を堅めてくれた。おれはお前に神様の祝福を祈る! さあ、お帰り、そしてイヴァンを愛してやってくれ!」ミーチャの口からこういう最後の言葉がほとばしり出た。
 アリョーシャは目に一ぱい涙をたたえて、そこを出た。ミーチャがアリョーシャに対してさえ、これほどまでに疑念をいだいていた、これほどまでに弟を信じていなかったということは、不幸な兄の心中にある救いのない悲哀と絶望の深淵を、突然アリョーシャの目の前にひらいて見せた。彼は以前、それほどまでとも思わなかったのである。深い無限の同情がたちまち彼を捉え、苦しめはじめた。刺し貫かれた彼の心は悩み痛んだ。『イヴァンを愛してやってくれ!』というミーチャの今の言葉が思い出された。それに、彼はイヴァンのところへ、志しているのであった。彼はもう朝のうちから、ぜひイヴァンに会いたいと思っていた。彼はミーチャに劣らないほど、イヴァンのことで心を悩ましているのであったが、今ミーチャに会った後は、かつてないくらいイヴァンのことが心配になってきた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第三章 悪魔の子

[#3字下げ]第三 悪魔の子[#「第三 悪魔の子」は中見出し]

 アリョーシャがリーザの部屋へはいると、彼女は例の安楽椅子になかば身を横たえていた。それは、彼女がまだ歩けない時分に、押してもらっていたものである。彼女は出迎えに身を動かそうともしなかったが、ぎらぎら輝く鋭い目は、食い入るように彼を見つめた。その目はいくぶん充血したようなふうで、顔は蒼ざめて黄いろかった。彼女が三日の間に面変りして、やつれさえ見えるのに、アリョーシャは一驚を喫した。彼女は手をさし伸べようともしなかった。で、彼はこっちからそばへ寄って、着物の上にじっと横たわっている彼女の細長い指に、ちょっとさわった後、無言のままその前に腰をおろした。
「あたしはね、あなたが急いで監獄へ行こうとしてらっしゃることも」とリーザは鋭い口調で言いだした。「お母さんがあなたを二時間も引き止めて、たった今あたしやユリヤのことを、あなたにお話ししたことも知ってるのよ。」
「どうしてご存じなのです?」とアリョーシャは訊いた。
「立ち聴きしたのよ。あなた、何だってあたしをにらんでらっしゃるの? あたし、立ち聴きしたかったから、それで立ち聴きしたのよ。何にも悪いことなんか、ありゃしないわ。だからあたし、あやまらない。」
「あなたは何か気分を悪くしていらっしゃるんでしょう?」
「いいえいそれどころじゃない、嬉しくってたまんないのよ。たった今も三十ペンから繰り返し、繰り返し考えたんですけどね、あたしあなたとのお約束を破って、あなたとご婚礼などしないことになったので、どんなにいいかしれないわ。あなたは夫として不向きよ。あたしがあなたのところへお嫁に行くでしょう、そして突然あなたに手紙を渡して、あたしが結婚してから好きになった人のところへ持って行って下さいと頼んだら、あなたはきっと持っていらっしゃるに違いないわ。その上、返事までも持って来て下さるでしょうよ。あなたは四十になっても、やっぱりそういう手紙を持って歩きなさるわ。」
 彼女は急に笑いだした。
「あなたはずいぶん意地わるだけれど、それと一緒に、どこか率直なところがありますね。」アリョーシャは、彼女にほお笑みかけた。
「あなたを恥しくないから、それで率直になれるのよ。あたしね、あなたが恥しくないばかりか、恥しがろうとさえ思わなくってよ。ええ、あなたをよ、あなたに対してよ。アリョーシャ、どうしてあたしはあなたを尊敬しないんでしょう? あたしはあなたをとても愛してるけど、ちっとも尊敬していないの。もし尊敬してれば、あなたの前で恥しくもなく、こんなことを言えるはずがありませんわ、ね、そうでしょう?」
「そうです。」
「じゃ、あたしがあなたを恥しがらないってことを、あなた本当になすって?」
「いいえ、本当にしません。」
 リーザはまた神経的に笑いだした。彼女はせきこんで早口に喋った。
「あたしね、監獄にいるあなたの兄さんのドミートリイさんへ、お菓子を送ってあげたのよ。ねえ、アリョーシャ、あなたは本当にいい方ねえ! だって、あなたはこんなに早く、あなたを愛さなくてもいいって許可を、あたしに与えて下すったでしょう。だから、あたしそのために、あなたを恐ろしく愛してるのよ。」
「リーザ、あなたはきょう何用で僕を呼んだのです?」
「あなたに一つ自分の望みをお話ししたかったからよ。あたしはね、誰かに踏みにじってもらいたいの。あたしと結婚をして、それからあたしを踏みにじって、あたしをだまして出て行ってくれればいいと思うわ。あたし仕合せになんかなりたくない!」
「それじゃ、混沌が好きになったんですね?」
「ええ、あたし混沌が大好きよ。あたし家なんか焼いてしまいたいのよ。あたしはこっそり匐い寄って、そっと家に火をつけるところを想像するのよ、ぜひそっとでなくちゃいけないの。みんな消そうとするけれど、家は燃えるでしょう。ところが、あたしは知ってながら黙ってるわ。ああ、なんてばかばかしい、なんて退屈なんだろう!」
 彼女は嫌悪の色を浮べながら、片手を振った。
「裕福な暮しをしてるからですよ」とアリョーシャは静かに言った。
「じゃ、一たい貧乏で暮すほうがよくって?」
「いいです。」
「それは亡くなった坊さんがあなたに吹き込んだことよ。それは間違ってるわ。あたしが金持で、ほかのものは貧乏だってかまやしないわ。あたし一人でお菓子を食べたり、クリームを飲んだりして、誰にもやりゃしない。ああ、まあ、聞いてらっしゃいよ、聞いて(アリョーシャが口を開けようともしないのに、彼女はこう言って手を振った)。あなたは以前もよく、そんなことを言ってきかせましたね。あたしはすっかり暗記しててよ。飽き飽きするわ。もしあたしが貧乏だとしても、誰かを殺してやるわ、また、たとえ金持だとしても、やはり殺すかもしれないわ、――とてもじっとしていられやしない! あたし刈り入れがしたいのよ。裸麦を刈りたいのよ。あたしあなたのとこへお嫁に行くから、あなたは百姓に、本当の百姓になるといいわ。あたしたら仔馬を飼うわ、よくって? あなたカルガーノフさんをご存じ?」
「知っています。」
「あの人はしょっちゅう歩き廻りながら、空想してるのよ。あの人が言うのには、人はなぜまじめくさって暮してるんだ、空想しているほうがよっぽどいい。空想ならばどんな愉快なことでもできるけど、生活は退屈なものだって、だけど、あの人はもうやがて結婚するわ。あたしに恋を打ち明けたんですもの。あなた独楽を廻せて?」
「廻せます。」
「あの人はちょうど独楽みたいな人よ。廻して投げて、鞭でぴゅうぴゅう引っぱたくといいのよ。あたしはあの人のところへお嫁に行って、一生涯、独楽のようにまわしてやるわ。あなたはあたしと一緒に坐ってるのが恥しくなって?」
「いいえ。」
「あなたは、あたしが神聖な有難いことを言わないので、ひどく怒ってらっしゃるのね。でも、あたし聖人なんかなになりたくないんですもの。人は自分の犯した一等大きな罪のために、あの世でどんな目にあうでしょう? あなたはよく知ってらっしゃるはずだわ。」
「神様がお咎めになります。」アリョーシャは、じっと彼女を見つめた。
「あたしもね、そうあってほしいと思うのよ、あたしがあの世へ行くと、みんながあたしを咎めるでしょう。ところが、あたしはだしぬけに、面と向ってみんなを笑ってやるわ。アリョーシャ、あたしは家を、あたしたちの家を焼きたくってたまんないのよ。あんた、あたしの言うことを本当になさらないでしょう?」
「なぜですか? 世間にはよくこんな子供がありますよ。十二やそこいらのくせに、しじゅう何か焼きたくってたまらないので、よく火をつけたりなんかするんです。それも一種の病気ですね。」
「嘘よ、嘘よ。そんな子供もあることはあるでしょうが、あたしそんなことを言ってるんじゃなくってよ。」
「あなたは悪いことといいこととを取り違えてるんです。それは一時的な危機ですが、つまり、以前の病気のせいかもしれませんね。」
「あら、あなたはあたしを軽蔑してらっしゃるのね! あたしはただ、いいことをしたくなくなって、悪いことがしたいのよ。病気でも何でもないわ。」
「なぜ悪いことをしたいんです!」
「どこにも何一つないようにしてしまいたいからよ。ああ、何もかもなくなったらどんなに嬉しいでしょう! ねえ、アリョーシャ、あたしはね、どうかすると片っ端から、めちゃくちゃに悪いことをしてやろうと思うことがあるの。長いあいだ人が気のつかないように悪いことをしていると、やがて人が見つけて、みんなあたしを爪はじきするでしょう。ところが、その時あたしは平気な顔をして、みんなを見かえしてやるわ。これがあたし、たまらなく愉快に思えるのよ。アリョーシャ、どうしてこれがそんなに愉快なんでしょう?」
「そうですね。それは何かいいものを圧し潰したいとか、または今あなたの言われたように、火をつけたいとかいう要求なんです。そういうこともよくあるものです。」
「あたし言うだけじゃないわ。本当にしてよ。」
「そうでしょうとも。」
「ああ、あたしはね、そうでしょうともと言って下すったので、本当にあなたが好きになっちゃったわ。だって、あなたは決して、決して嘘をおっしゃらないんですもの。でも、あなたはもしかしたら、あたしがあなたをからかうために、わざとこんなことを言うんだと思ってらっしゃるかもしれないわねえ?」
「いいえ、そうは思いません……しかし、ひょっとしたら、あなたは本当にそういう心持を、少しは持ってらっしゃるかもしれませんね。」
「ええ、少しばかりもってるわ。あたし決してあなたに嘘なんか言わないから」と彼女は異様に目を光らせながら言った。
 アリョーシャが何よりも驚いたのは、彼女の生まじめさであった。以前、彼女はどんなに『まじめな』瞬間でも、快活と滑稽味を失わなかったのに、この時の彼女の顔には、滑稽や冗談の影さえ見えなかった。
「人間には時として、罪悪を愛する瞬間があるものです」とアリョーシャは考え深い調子で言った。
「そうよ、そうよ! あなたはあたしの考えてることを言って下すったわ。人はみんな罪悪を愛しています、みんなみんな愛しています。いつも愛していますわ。あたしなんか『瞬間』どころじゃないことよ。ねえ、人はこのことになると、まるで嘘をつこうと約束でもしたように、みんな嘘ばかりついてるのよ。人はみな悪いことを憎むっていうけれど、そのじつ内証で愛してるんだわ。」
「あなたはやはり今でも、悪い本を読んでるんですか?」
「読んでますわ。お母さんが読んでは枕の下に隠してるから、あたし盗んで読むのよ。」
「よくまあ、あなたはそんなに自分を台なしにして、良心が咎めませんね?」
「あたしは自分をめちゃめちゃにしてしまいたいのよ。どこかの男の子は、体の上を列車が通ってしまう間、じっとレールの間に寝ていたそうじゃなくって、仕合せな子ねえ! ねえ、あなたの兄さんはお父さんを殺したために、いま裁判されようとしてるでしょう。ところが、みんなは、兄さんがお父さんを殺したのを喜んでるのよ。」
「親父を殺したのを喜んでるって?」
「喜んでるのよ、みんな喜んでるわ! みんな恐ろしいことだと言ってるけれど、その実とても喜んでるのよ。第一あたしなんか一番に喜んでるわ。」
「みんなのことを言ったあなたの言葉には、いくらか本当なところもありますね」とアリョーシャは静かに言った[#「言った」はママ]
「ああ、あなたは何という考えをもってらっしゃるんでしょう!」リーザは感きわまって、こう叫んだ。「しかも、それが坊さんの考えることなんですもの! アリョーシャ、あなたは本当に、決して嘘をおっしゃらないわね、だから、あたしあなたを尊敬するのよ。ねえ、あたし自分の見た滑稽な夢をお話ししましょうか。あたしはね、どうかすると悪魔の夢を見ることがあるのよ。何でも、夜中にあたしが蝋燭をつけて居間にいると、だしぬけに、そこいらじゅう一ぱい悪魔が出て来るの、部屋のすみずみだのテーブルの下などにね、そして戸を開けようとするのよ。戸の陰には悪魔がうようよしていて、入って来てあたしを掴みたがってるのよ。やがてそろそろ寄って来て、今にもあたしを掴もうとするから、あたし急にさっと十字を切ると、みんな後へ引きさかって、びくびくしているのよ。けれど、すっかり帰ってしまおうともせず、戸のそばに立ったり、隅っこにしゃがんだりして待ってるの。するとね、あたしだしぬけに大きな声をあげて、神様の悪口が言いたくなったので、思いきって悪口を言いだすと、悪魔たちはすぐまたどやどやと、あたしのほうへ押し寄せて来て、大喜びであたしを捕まえようとするじゃありませんか。そこで、あたしがまた急に十字を切ると、悪魔たちはみんな後へさがってしまう。それが面白くって、面白くって息がつまりそうなくらいだったわ。」
「僕もよくそれと同じ夢を見たことがあります」とアリョーシャはふいにそう言った。
「まさか」とリーザはびっくりして叫んだ。
「ねえ、アリョーシャ、冷やしちゃいやよ、これは大へん重大なことなんですからね。だって、まるで違った二人のものが同じ夢を見るなんて、そんなことあるもんでしょうか?」
「確かにありますよ。」
「アリョーシャ、本当にこれはとても重大なことなのよ」とリーザはなぜかひどく驚いた様子で、言葉をつづけた。「重大っていうのは夢のことじゃなくって、あなたがあたしと同じ夢を見たっていう、そのことなのよ。あなたは決して、あたしに嘘なんかおっしゃらないわね。だから今も嘘ついちゃいやよ、――それは本当のことなの? あなた冷やかしてらっしゃるんじゃなくって?」
「本当のことです。」
 リーザはひどく何かに感動して、ややしばらく黙っていた。
「アリョーシャ、あたしのとこへ来て下さいね、しじゅう来てちょうだいね」と彼女は急に哀願するような声で言った。
「僕はいつも、一生涯あなたのとこへ来ますよ。」アリョーシャはきっぱりと答えた。
「あたしあなた一人だけに言うんですけどね」とリーザはまた言いはじめた。「あたしは自分一人と、それからあなただけに言うのよ。世界じゅうであなた一人だけに言うのよ。あたし自分に言うよか、あなたに言うほうがよっぽど楽だわ。あなたならちっとも恥しくないの、それこそちっとも。アリョーシャ、どうしてあなたがちっとも恥しくないんでしょう。え? ねえ、アリョーシャ、ユダヤ人は復活祭に子供を盗んで来て殺すんですってね、本当?」
「知りませんね。」
「あたしは何かの本で、ある裁判のことを読んだのよ。一人のユダヤ人が四つになる男の子を捕まえて、まず両手の指を残らず切り落して、それから釘で壁に磔《はりつけ》にしたんですって。そして、あとで調べられた時、子供はすぐ死んだ、四時間たって死んだと言ったんですって、四時間もかかったのに、すぐですとさ。子供が苦しみぬいて、唸りつづけている間じゅう、そのユダヤ人はそばに立って、見とれていたんですって。いいわね!」
「いいんですって?」
「いいわ、あたしときおりそう思うのよ、その子供を磔にしたのは、自分じゃないのかしらって。子供がぶら下って唸っていると、あたしはその前に坐って、パイナップルの砂糖煮を食べてるの。あたしパイナップルの砂糖煮が大好きなのよ。あなたお好き?」
 アリョーシャは黙って彼女を見つめていた。その蒼ざめた黄いろい顔は急に歪んで、目はきらきらと燃えだした。
「でね、あたしこのユダヤ人のことを読んだ晩、夜っぴて涙を流しながら慄えてたのよ。あたしは赤ん坊が泣いたり唸ったりするのを(子供も四つになればもうわかりますからね)想像しながら、それと一緒に、パイナップルのことがどうしても頭から離れないのよ。朝になると、あたしはある人に手紙をやって、ぜひ来て下さいと頼んだの、その人が来ると、あたしはだしぬけに男の子のことだの、パイナップルの砂糖煮のことだの話したわ。残らず[#「残らず」に傍点]話してしまったわ、残らず[#「残らず」に傍点]すっかり、そして『いいわね』って言ったの。すると、その人は急に笑いだして、それは実際いいことだと言うと、いきなりぷいと立ってすぐ帰っちまったの。みんなで五分間ばかりいたきりだったわ。その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、軽蔑したんでしょうか? ねえ、ねえ、アリョーシャ、その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、どうでしょう?」彼女はきらりと目を輝かせて、寝椅子の上でぐいと体を伸ばした。
「じゃ」とアリョーシャは興奮しながら言った。「あなたはその人を、自分でよんだんですか?」
「自分でよんだのよ。」
「その人に手紙をやったんですか?」
「手紙をやったのよ。」
「わざわざこのことを、赤ん坊のことを訊くために?」
「いいえ、まるでそんなことじゃないの。でも、その人が入って来るとすぐに、あたしそのことを訊いたわ。すると、その人は返事をして、笑って、立って行ってしまったの。」
「その人はあなたに対して、立派な態度を取りましたね」とアリョーシャは小さな声で言った。
「でも、その人はあたしを軽蔑したんじゃないでしょうか? 笑やしなかったかしら?」
「そんなことはありません。なぜって、その人自身も、パイナップルの砂糖煮を信じてるかもしれないんですもの。リーザ、その人もやはりいま病気にかかってるんですよ。」
「そうよ、あの人も信じてるのよ」とリーザは目を光らせた。
「その人は誰も軽蔑しちゃいません」とアリョーシャは語をつづけた。「ただその人は誰も信じていないだけです。信じていないから、つまり軽蔑することになるのです。」
「じゃ、あたしも? あたしも?」
「あなたも。」
「まあ、いいこと。」リーザは、歯をきりきりと鳴らした。「あの人が、笑ってぷいと出て行ったとき、軽蔑されるのもいいもんだって気がしたわ。指を切られた子供も結構だし、軽蔑されるのも結構だわ……」
 彼女はこう言いながら、妙に毒々しい興奮した声で、アリョーシャに面と向って笑いを浴びせた。
「ねえ、アリョーシャ、ねえ、あたしはね……アリョーシャ、あたしを救けてちょうだい!」ふいに彼女は寝椅子から跳ねあがりざま、彼のほうに身を投げて、ぎゅっとその両手を握った。「あたしを救けて」と彼女はほとんど呻くように言った。「いま言ったような話ができるのは、世界じゅうにあなたよりほかありません。だって、あたし本当のことを言ったんですもの、本当のことよ、本当のことよ! あたし自殺するわ。だって、何もかもみんな穢らわしいんですもの! あたし何もかも穢らわしい、何もかも穢らわしい! アリョーシャ、なぜあなた、あたしをちっとも、ちっとも愛してくれないの!」
 彼女は前後を忘れたように、こう言葉を結んだ。
「そんなことはない、愛しています!」とアリョーシャは熱して答えた。
「じゃ、あたしのために泣いてくれて、泣いてくれて?」
「泣きます。」
「あたしがあなたの奥さんになるのを、いやだと言ったためじゃなくって、ただあたしのために泣いてくれて?」
「泣きます。」
「そう、有難う! あたしあなたの涙よりほか何にもいらないのよ! ほかのやつなんか、みんなあたしを苦しめたって、みんな、みんな、一人残らず[#「一人残らず」に傍点]あたしを踏み潰したって、かまやしないわ! だって、あたしは誰を愛していないんですもの。本当に誰も愛していないのよ! それどころか、憎んでるわ! さあ、いらっしゃい、アリョーシャ、もう兄さんのとこへ行く時分よ!」彼女はふいに身を離した。
「あなたはあとでどうなさるんです?」とアリョーシャは慴えたように言った。
「兄さんのとこへいらっしゃい。監獄の門が閉まってよ。いらっしゃい。さ、帽子! ミーチャにあたしからと言って、接吻してちょうだい。さあ、いらっしゃい、いらっしゃい!」
 こう言って彼女は、ほとんど無理やりアリョーシャを、戸のほうへ突き出すようにした。アリョーシャは愁わしげな不審の表情でリーザを見ると、その瞬間、自分の右手に手紙があるのを感じた。それは小さな手紙で、かたく畳んで封印がしてあった。彼はちらりと見ると、『イヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフさま』と書いてあった。彼はすばやくリーザを見た。と、その顔はほとんど威嚇するような表情になった。
「渡して下さい、きっと渡して下さいよ!」彼女は全身をふるわせながら、夢中でこう命令した。「今日すぐ! でないと、あたし毒を呑んで死んでしまってよ! あたしがあなたを呼んだのもそのためよ!」
 彼女はこう言って、大急ぎでぱたりと戸を閉めてしまった。掛金はがちりと音をたてた。アリョーシャは手紙をかくしへ入れると、ホフラコーヴァ夫人のもとへも寄らないで、すぐ階段のほうへ行った。彼はもう夫人のことを忘れていたのである。リーザはアリョーシャが遠ざかるやいなや、すぐ掛金をはずしてこころもち細目に戸を開き、その隙間に自分の指をさし込むと、力まかせにぐっと戸を閉めて、指を押した。十秒間ばかりたってから、彼女は手を引いて、そろそろと静かに安楽椅子へ戻ると、その上に坐って、体をぐいと伸ばした。そして、黒くなった指と、爪の間から滲み出た血をじっと見つめた。唇がぶるぶると慄えた。彼女は早口にこうひとりごちた。
「あたしは恥知らずだ、恥知らずだ、恥知らずだ!」
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第二章 病める足

[#3字下げ]第二 病める足[#「第二 病める足」は中見出し]

 用件の第一は、ホフラコーヴァ夫人の家へ行くことだった。アリョーシャは、少しでも手早くそこの用件を片づけて、遅れぬようにミーチャを訪ねようと思い、道を急いだ。ホフラコーヴァ夫人はもう三週間から病気していた。一方の足が腫れたのである。夫人は床にこそつかないけれど、それでも昼間は華美な、しかし下品でない部屋着をまとって、化粧室の寝椅子の上になかば身を構えていた。アリョーシャも一度それと気がついて、無邪気な微笑を浮べたことだが、ホフラコーヴァ夫人は病人のくせに、かえってお洒落をするようになった。いろんな室内帽子を被ったり、蝶結びのリボンを飾りにつけたり、胸の開いた上衣をきたりしはじめたのである。アリョーシャは、夫人がこんなにお洒落をするわけを悟ったが、浮いた考えとしていつも追いのけるようにした。最近二カ月間、ホフラコーヴァ夫人を訪ねて来る客の中に、かの青年ペルホーチンが交っていたのである。アリョーシャはもう四日も来なかったので、家へはいるとすぐ、急いでリーザのところへ行こうとした。彼の用事というのは、つまりリーザの用だったからである。リーザはきのう彼のもとへ女中をよこして、『非常に重大な事情が起ったから』すぐに来てもらいたいと、折り入って頼んだ。それがある理由のために、アリョーシャの興味をそそったのである。けれど、女中がリーザの部屋へ知らせに行っている間に、ホフラコーヴァ夫人はもう誰からか、アリョーシャの来たことを知って、『ほんの一分間でいいから』自分のほうへ来てくれるようにと頼んだ。アリョーシャはまず母親の乞いをいれたほうがよかろうと思った。彼がリーザのそばにいる間じゅう、夫人は絶えず使いをよこすに相違ないからである。ホフラコーヴァ夫人は、とくにけばけばしい着物を着て、寝椅子に横になっていたが、非常に神経を興奮させているらしかった。彼女は歓喜の叫びをもって、アリョーシャを迎えた。
「まあ、長いこと長いこと、本当に長いこと会いませんでしたわね! まる一週間も、本当に何という……あら、そうじゃない、あなたはたった四日前、水曜日にいらっしゃいましたっけねえ。あなたはリーザを訪ねていらしたんでしょう。あなたったら、わたしに知られないように、ぬき足さし足であれのとこへ行こうと思ってらしたんでしょう。きっとそうに違いありませんわ。ねえ、可愛いアレクセイさん、あれがどのくらいわたしに心配をかけてるか、あなたはご存じないでしょう。だけど、これはあとで言いましょう。これは一ばん大切な話なんですけど、あとにしますわ。可愛いアレクセイさん、わたしうちのリーザのことを、すっかりあなたに打ち明けます。ゾシマ長老が亡くなられてからは、――神様、どうぞあの方の魂をお鎮め下さいまし!(彼女は十字を切った)――あの方が亡くなられてからというものは、わたしあなたを聖者のように思っていますのよ、新しいフロックが本当によくお似合いになるんですけれど。あなたはどこでそんな仕立屋をお見つけなすって? でも、これは大切なことじゃありません、あとにしましょう。どうかね、わたしがときどきあなたをアリョーシャと呼ぶのを、許して下さいね。わたしはもうお婆さんですから、何を言ってもかまいませんわね」と彼女は色っぽくほお笑んだ。「けれど、これもやっぱりあとにしましょう、わたしにとって一ばん大事なのは、大事なことを忘れないことなんですの。どうぞ、わたしが少しでもよけいなことを喋りだしたら、あなたのほうから催促して下さい。『その大事なことというのは?』と訊いて下さいな。ああ、いま何が大事なことやら、どうしてわたしにわかるものですか! リーザがあなたとの約束を破ってからというものはね、アレクセイさん、あなたのとこへお嫁に行くという、あの子供らしい約束を破ってからというものは、何もかもみんな、長いあいだ車椅子に坐っていた病身な娘の、子供らしい空想の戯れであったということが、むろんあなたもよくおわかりになったでしょうね、――おかげで、あれも今ではもう歩けるようになりました。カーチャがあの不幸なお兄さんのために、モスクワから呼んだ新しいお医者さまがね……ああ、明日は……まあ、何だって明日のことなんか! わたし明日のことを考えただけでも、気が遠くなりますよ! 何よりも一ばん好奇心のためなんですの……手短かに言えば、あのお医者さまが昨日わたしのところへ来て、リーザを診察したんですの……わたし往診料に五十ルーブリ払いましたわ。ですが、これも見当ちがいですわ、また見当ちがいを言いだして。で、わたしもうすっかりまごついてしまいましたわ。わたしはあわててるもんですから。しかも、なぜあわててるんだか、自分にもわかりませんの。ほんとうに、今は何が何だかさっぱりわからなくなりました。何もかもみんなごちゃごちゃになっちまって。わたしあなたが退屈して、いきなり逃げておしまいになりゃしないかと、それが心配でたまりません。宵にちらりと見たばかりでね。あら、まあ、どうしましょう! わたしとしたことが、お喋りばかりしていて。第一、コーヒーをいれなきゃ。ユリヤ、グラフィーラ、コーヒー持っておいで!」
 アリョーシャは、たったいまコーヒーを飲んだばかりだと言って、急いで辞退した。
「どちらで?」
「アグラフェーナさんのとこで。」
「それは……それはあの女のことですの! ああ、あの女がみんなを破滅させたんですわ。もっとも、わたし知りません、人の話では、何でもあの女は、今じゃ聖者になったということじゃありませんか。少し遅まきですけど、そのまえ必要な時にそうなってくれればよかったんですけど、もう今となっては、何の役にもたちゃしませんわ。まあ、黙って聞いて下さい。アレクセイさん、黙って聞いてて下さい。わたし、うんとお話ししたいことがあるんですけど、結局、何にも言えないのがおちでしょう。ああ、この恐ろしい裁判問題……ええ、わたしきっと行きます。安楽椅子に腰かけたまま、連れて行ってもらおうと思ってますの。それに、わたし坐ってるだけなら平気ですし、誰か一緒について来てもらえば、大丈夫ですよ。ご存じでしょうが、わたしも証人の一人なんですもの。ああ、わたし何と言いましょう、何と言ったらいいでしょうね! 本当に何と言ったらいいのやらわかりませんわ、私だって、宣誓しなければならないんでしょう、ね、そうでしょう、そうでしょう?」
「そうです。けれど、あなたがお出かけになれようとは思えませんがね。」
「わたし腰かけてならいられますよ。ああ、あなたはわたしをはぐらかしてばかりいらっしゃる! ああ、あの恐ろしい裁判問題、あの野蛮な犯罪、そしてみんなシベリヤへやられるんですわ。それかと思うと、ほかの人は結婚するでしょう。しかも、それがどんどん急に変って行くんですもの。そして、結局、何のこともなくみんな年をとって、棺桶にはいって行くんですわ。まあ、それも仕方がありません、わたし疲れました。あのカーチャ―― cotte charmante personne([#割り注]あの可愛い人[#割り注終わり])、ね、あの人はわたしの希望をすっかりぶち壊してしまいました。あの人はお兄さんのあとを慕って、シベリヤへ行くでしょう。すると、もう一人のお兄さんは、またあのひとのあとを追って行って、隣りの町かなんかに住み、こうして三人が互いに苦しめ合うことでしょう。わたしそんなことを思うと気がちがいそうですわ。ですが、何より困るのは、あのやかましい世間の評判なんですの。ペテルブルグやモスクワなどの新聞にも、幾千たび書かれたかしれやしません。ああ、そう、そう、どうでしょう、わたしのことも書きましたよ、わたしがお兄さんの『情人』だったなんて。わたしそんないやらしいことを口に出せませんわ。まあ、どうでしょう、ねえ、まあ、どうでしょう!」
「そんなことがあってたまるもんですか! どこにどんなふうに書いてありました?」
「今すぐお目にかけますよ。わたしきのう受け取って、さっそく、きのう読んだんですの。ほら、このペテルブルグの『風説《スルーヒイ》』という新聞ですよ。この『風説《スルーヒイ》』は今年から発行されてるんですが、わたし大へん風説好きだもんですから、申し込んだんですの。ところが、こんど自分の頭の上へ落っこちて来たじゃありませんか。まあ、こんな風説なんですよ、そら、ここ、ここのところですの、読んでごらんなさい。」
 彼女は枕の下においてあった新聞紙を、アリョーシャにさし出した。
 彼女は取り乱しているというより、打ちのめされたようになっていた。実際、彼女の頭はごったごたに掻き廻されていたのかもしれない。新聞の記事はすこぶる注意すべきもので、むろん彼女にかなり尻くすぐったい印象を与えるべきはずのものであったが、幸いこの瞬間、彼女は一つのことにじっと注意を集注することができなかったので、一分間もたつと、新聞のことは忘れて、話をすっかりほかのほうへ移してしまった。今度の恐ろしい裁判事件の噂が、もう全ロシヤいたるところに拡がっているということは、アリョーシャもとうから知っていた。ああ、彼はこの二カ月間に、兄のこと、カラマーゾフ一家のこと、また彼自身のことなどに関して、正確な通信とともに、またどれくらい、いい加減なでたらめな通信を読んだかしれない。ある新聞などには、アリョーシャが兄の犯罪後、恐怖のあまり、出家して修道院に閉じ籠ったなどと書いていた。ある新聞はこれを駁して、反対に彼がゾシマ長老と一緒に修道院の金庫を破って、『修道院からどろんをきめた』と書いた。『風説《スルーヒイ》』紙に出た今度の記事は、『スコトプリゴーニエフスク([#割り注]家畜追込町というほどの意味[#割り注終わり])より、カラマーゾフ事件に関して』(悲しいかな、わたしたちの町はこう名づけられていた。筆者《わたし》はこの名を長いあいだ隠していたのである)という標題《みだし》であった。この記事は簡単なもので、ホフラコーヴァ夫人というようなことはべつに何も書いてなかった。それに、概して人の名は隠されていた。ただこの大評判の裁判事件の被告は休職の大尉で、ずうずうしい乱暴な懶け者で、農奴制の支持者で、色事師、ことに『空閨に悩んでいる貴婦人たち』に勢力を持っていた、と書いてあるだけであった。そのいわゆる『空閨に悩んでいる未亡人』の中で、もう大きな娘を持っているくせに、恐ろしく若づくりのある夫人などは、ひどくこの男にのぼせあがって、犯罪のつい二時間ほど前、彼に三千ルーブリの金を提供した。それは、すぐ自分と一緒にシベリヤの金鉱へでも逃げてもらうためであった。が、この悪漢は、四十過ぎた悩める姥桜と、シベリヤくんだりまで出かけるより、親父を殺して三千ルーブリ奪い取り、その上で犯跡をくらますほうが利口だ、と考えたのだそうである。ふざけた記事は、当然の結論として、親殺しの罪悪と、旧い農奴制度の悪弊について、堂々たる非難を投げていた。アリョーシャは好奇心にかられつつ読了すると、それを畳んでホフラコーヴァ夫人に返した。
「ね、わたしのことでなくて誰でしょう」と彼女はまた言いだした。「それはわたしですわ。だって、わたしはそのとおり、ついあの一時間まえに、あの人に金鉱行きを勧めたんですもの。ところが、それをだしぬけに、『四十過ぎた悩める姥桜』だなんて! わたし、そんなことのために言ったんじゃありません。これはきっとあの人がわざとしたことです! 神様、どうかあの人を赦してやって下さいまし。わたしも赦してやります。でも、これは……これは一たい誰が書いたのかおわかりになって。きっとあなたのお友達のラキーチンさんよ。」
「そうかもしれません」とアリョーシャは言った。「私は何にも聞きませんが。」
「あの人ですよ。あの人ですよ。『かもしれない』じゃありません! だって、わたしあの人を追い出したんですもの……あなたはこの話をすっかりご存じでしょう?」
「あなたがあの男に向って、今後もう訪ねて来ないようにとおっしゃったのは、私も知っています。が、どういうわけでそんなことをおっしゃったのか……それは、少くとも、あなたからは伺いませんでした。」
「じゃ、あの人からお聞きになったんですね! どうでした、あの人はわたしの悪口を言ってたでしょう? ひどく悪口を言ってたでしょう?」
「ええ、悪口を言っていました。でも、あの男は誰のことでも悪口を言うんですよ。けれど、なぜあの男の訪問を拒絶なすったかということは、あの男からも聞きませんでした。それに、私は近頃あの男とあまり会わないんです。私たちは親友じゃないんですから。」
「では、そのわけをすっかりあなたに打ち明けますわ、どうもしようがありません、わたしもいま、後悔してるんですの。だって、それについては、わたし自身にも責任がないと言いきれない点があるんですから。でも、それは小さい、小さい、ごく小さい点で、まるっきりと言ってもいいくらいなんですの。こうなのよ、あなた(ホフラコーヴァ夫人は急に何だかふざけたような顔になった。そして、口のあたりには謎のような、可愛い微笑がちらりとひらめいた)、ねえ、わたしはこんなふうに疑ってるんですの……ごめんなさい、アリョーシャ、わたしあなたに母親として……いいえ、そうじゃない、そうじゃない、それどころか、わたしは今あなたを自分の父親のように思ってお話ししますわ……だって、母親というのはこの場合ちっとも似合わないんですもの……ちょうど、ゾシマ長老に懺悔を聞いてもらうような気持なんですの、そう、それが一ばん適切です。わたしさきほどあなたを隠者だと言ったくらいですもの。でね、あの可哀そうな若い人、あなたのお友達のラキーチンがね(ああ、わたしとしたことが、あんな人に腹を立てることもできませんわ! わたし腹もたつし憎んでもいるけど、それはほんのちょっとなんですの)、一口に言うと、あの軽はずみな若い男が、まあ、どうでしょう、突然わたしに、恋をする気になったらしいんですの、わたしはずっと後になって、ふとそれに気がついたんですの。わたしたちは前からも知合いでしたけれど、つい一カ月ほど前から、あの人はしげしげと、大かた毎日のように、わたしのとこへ足を運ぶようになりました。でも、わたし何にも気がつかずにいたんですの……ところが、ふと何かに心を照らされでもしたように、わたしはそれと気がついて、びっくりしましたわ。ご存じでしょうが、わたしはもう二カ月も前から、あの謙遜で美しい立派な青年、――町の役所に出ているピョートル・イリッチ・ペルホーチンを、うちへ寄せるようになったんですの。あなたもよくあの人とお会いなすったわね。本当に立派な、真面目な方じゃありませんか。あの人が来るのは三日に一度くらいで、毎日じゃありませんが(毎日来てくれたってかまやしませんわ)、いつでも綺麗な服装をしていますの。一たいわたしはね、アリョーシャ、ちょうどあなたみたいに、才のある謙遜な若い人が好きでしてねえ。ところが、あの人はほとんど国務の処理ができるほどの才知をもっていて、その話っぷりがまたとても愛想がいいんですよ。わたしはどこまでもあの人のために運動しますわ。あの人は未来の外交家ですからね。あの恐ろしい夜、わたしのところへやって来て、ほとんど死にかかってるわたしを助けてくれたんですもの。ところがね、あなたのお友達のラキーチンときたら、いつもこんな靴を履いて来て、絨毯の上を引きずって歩くんですよ……とにかく、あの人はわたしに何か仄めかそうとしたんですの。一度など帰りしなに、わたしの手を恐ろしく堅く握りしめるじゃありませんか。あの人に手を握られてから、急にわたしの片足が痛みだしたんですよ。あの人は以前もわたしのところで、ペルホーチンさんに出会ったものですが、まあ、ひどいじゃありませんか、さんざんあの人を愚弄したあげく、呶鳴りつけるんですよ。わたしどうなるかと思って、二人を見ながら、お腹の中で笑っていましたの。ところが、いつだったか、わたし一人で坐っていますと、――いいえ、そうじゃない、その時わたしはもう寝ていたんですの。わたし一人で寝ていますとね、ラキーチンがやって来て、まあ、どうでしょう、自分の詩を見せるじゃありませんか。わたしの痛んでいる足のことを書いた短い詩ですの。つまり、わたしの痛める足のことを韻文で書いたんですのよ、ちょっと待って下さい、何と言ったっけ。

[#ここから2字下げ]
この足よ、この足よ
少しやまいにかかりしよ……
[#ここで字下げ終わり]

とか何とかいうんですが、――わたしどうしても詩が覚えられませんわ、――あそこにおいてあるんですけど、――あとでお目にかけましょう。でも、本当に立派な詩ですわ。それも、足のことだけじゃなくって、中に立派な教訓をふくんでるんですけど、忘れてしまいましたわ。まあ、一口に言えば、まったくアルバムへ入れて保存したいような気がするほどですの。むろん、大へん感謝しましたわ。それであの人もすっかり得意になっているようでしたが、わたしがまだ十分お礼を言う暇もないうちに、突然ペルホーチンさんが入って来たんですの。すると、ラキーチンさんは急にさっと顔色を曇らせてしまいました。わたしはね、ペルホーチンさんが何かあの人の邪魔をしたんだってことを、すぐに見抜いてしまいました、なぜって、ラキーチンさんは詩を読んでしまったあとで、きっとすぐ何かわたしに言おうと思ってたらしいんですもの。わたしいきなりそう直覚しましたの。ところが、そこヘペルホーチンさんが入って来たでしょう。わたしはすぐにその詩を見せました。でも、誰が作ったかってことは言わなかったんですの。あの人は今でも白を切って、誰が作者なのか、あの時察しがつかなかったと言ってますが、実はその時すぐと察してしまったに相違ありません、ええ、相違ありませんとも。あの人はわざと気がつかないふりをしたんですわ。で、ペルホーチンさんはすぐきゃっきゃっと笑いながら、批評を始めましたの。くだらない詩だ、神学生か何かが書いたに違いないなんて、しかもそれが烈しい突っかかるような調子なんですの! すると、あなたのお友達ったら、笑ってすませばいいものを、まるで気ちがいのようになってしまったんですの……ああ、わたし、二人が掴み合いするだろうと、はらはらしたくらいですわ。ラキーチンさんは、『それは僕が書いたんだ』って言うんですの。『僕が冗談半分に書いたんだ。なぜって、僕は詩を書くなんて、くだらないことだと思ってるからさ……しかし、僕の詩はなかなか立派なものだよ。プーシュキンが女の足を詩に書いたって、世間じゃ記念碑を建てるって騒いでるが、僕のは思想的傾向があるんだ。ところが、君なんか農奴制の賛成者だろう。君なんか少しも人道ということを知らない、君なんか現代の文明的な感情を少しも感じないんだ、君は時勢おくれだ、賄賂とりの役人だ!』と、こうなんですのよ。私は大きな声を出して、二人を止めました。でも、ペルホーチンさんは、ご存じのとおり沈着な方でしょう、だから急にとりすました上品な態度になってね、嘲るように相手を見ながら聞いていましたが、やがて詫びを言いだすんですの。『私はあなたのお作だってことを知らなかったのです。もしそうと知っておれば、あんなことは言わなかったでしょう。もしそうとわかっていたら、大いにほめたはずなんですよ……詩人てものは誰でも、そんなふうに怒りっぽいものですからね……』なんて、つまり大そう取りすました上品な態度で、その実冷やかしたわけなんですの。あれはみんな冷やかしてやったのだと、あとでペルホーチンさんはそう言いましたが、わたしその時、あの人が本気に謝ったのだと思いましたわ。で、わたしはちょうど今あなたの前でこうしているように、その時じっと横になったまま、ラキーチンさんがわたしの家で、わたしのお客に悪口をついたのを理由として、あの人を追い返してしまったら、それは立派な行為だろうかどうだろうか、と考えたんですの、こういう工合に横になって目を閉じて、立派か立派でないかといろいろ考えてみたけれど、どうも思案がつかないんですの。さんざん苦しんで苦しんで、呶鳴りつけてやろうかどうしようかと、心臓をどきどきさせたもんですわ。一つの声は呶鳴れと言うし、いま一つの声は、いや呶鳴ってはいけないと言うんですの。とうとういま一つの声が聞えるやいなや、わたしはだしぬけに呶鳴りだして、そのまま卒倒してしまいました。むろん、大騒動が起りましたわ。ふいにわたしは立ちあがって、あなたにこんなことを言うのはつらいんですけど、もうあなたに来ていただきたくないんです、とこうラキーチンさんに言いましたの。こうして、あの人を追い出したんですの。アリョーシャ! わたし自分ながら、馬鹿なことをしたと思います。わたしちっともあの人に腹を立ててはいなかったんですもの。ただふいと急に、それがいいような気がしたんですの。つまり、そのシーンがね……でも、そのシーンは何といっても自然でしたわ。なぜって、わたしさんざん泣いたんですもの、その後、幾日も泣きましたわ。けれど、ある日食事をすましたあとで、すぐにけろりと忘れてしまいましたの。もうあの人が来なくなってから、二週間になりますが、もう本当にあの人は来ないのかしら、というような気がするんですよ。これはつい昨日のことですの。ところが、その晩には、もうこの『風説《スルーヒイ》』が届いたじゃありませんか。わたし読んでびっくりしました。ほかに誰が書くものですか、きっとあの人が書いたに違いありません。あのとき家へ帰ると、すぐテーブルに向って書いたんですよ。そして、送るとすぐ新聞に出たんです。これは二週間まえのことよ。でも、アリョーシャ、わたし何を言ってるんでしょう。言わなけりゃならないことは、まだちっとも言っていないんですのに。だって、自然こんなことが言えるんですもの!」
「私は今日ぜひ時間内に、兄のとこへ行かなきゃならないんです」とアリョーシャはもじもじ言いだした。
「そうそう! あなたは今わたしに何もかも思い出させて下さいました。ねえ、アリョーシャ、 affect([#割り注]激情[#割り注終わり])って、一たいどういうことなんでしょう?」
「何のことです、affect って?」とアリョーシャはびっくりした。
「裁判の affect ですよ。どんなことでも赦される affect のことですよ。どんなことをしても、すぐに赦されるんですわ。」
「一たいそれは何のことなんです?」
「ほかじゃありません、あのカーチャがね……ああ、ほんとにあのひとは可愛い、可愛い娘さんですわ。ただ一たい誰を恋してるんでしょう。どうしてもわかりませんわ。つい近頃も訪ねて来たんですけど、わたしはどうしても訊き出せないんですの。それに、あのひとは近頃、わたしに大へんそらぞらしくなって、ただわたしの容体を聞くだけで、ほかのことは何にも話さないんですもの。おまけに、その話の調子があまり他人行儀だから、わたしはどうでもいい、勝手になさいと思ったほどですの……ああ、そうそう、その時この affect の話が出たんですの。ねえ、お医者さまが来たんですよ。気ちがいの鑑定ができるお医者さま。あなたお医者が来たことを知ってらしって? もっとも、あなたが知らないはずはないわね。あなたがお呼びになったんですものね。いいえ、あなたじゃない、カーチャですわ! 何もかもカーチャですわ! ねえ、かりにここに正気の人がいるとしましょう。ところが、その人が急に affect を起したんですの。意識もしっかりしてるし、自分が何をしているかってこともよく知ってるんですけど、それでもやはり affect を起してるんです。だからドミートリイさんも、やはり affect を起しているに違いありません。新しい裁判が開けてから、初めてその affect がわかってきたのよ。これは新しい裁判の恩恵ですわね、あのお医者さんはあの晩のことをわたしに訊きましたの、つまりあの金鉱のことですわ、――あの男はその時どんなふうだったかって。むろんあの時 affect を起してたのでなくってどうしましょう? 入って来るとすぐに、金だ、金だ、三千ルーブリだ、三千ルーブリ貸してくれって呶鳴って、そしてふいに出かけて殺してしまったんですもの。殺したくはない、殺したくはないと言ってながら、だしぬけに殺したんですよ。つまりこういうふうに、殺すまいと思っていながら、つい殺してしまったという点で、あの人は赦されるんですわね。」
「でも、兄さんは殺しゃしなかったじゃありませんか」とアリョーシャはやや鋭い口調で遮った。彼は次第に不安と焦躁を感じてきた。
「それはわたしも知ってます。殺したのはあのグリゴーリイ爺さんですよ……」
「え、グリゴーリイが!」とアリョーシャは叫んだ。
「あれです、あれです、グリゴーリイですよ……ドミートリイに撲りつけられて、じっとそのまま倒れていたんですが、やがてそのうちに起きあがって、戸が開いているので入って行って、フョードルさんを殺したんですよ。」
「でも、それはなぜです、なぜですか?」
「つまり affect を起したんですよ。ドミートリイさんに頭を撲られてから、こんど気がついた時 affect を起してしまったのです。そして入り込んで殺したんですわ。あれは自分で殺したのじゃないと言いはってますが、それはたぶん覚えていないからでしょうよ。けれどね、もしドミートリイさんが殺したんだとすれば、かえってそのほうがよござんすわ、よっぽどよござんすわ。わたしはグリゴーリイが殺したんだと言いましたが、本当はやっぱりドミートリイさんが殺したに違いありません。そのほうがずっとずっとようござんすわ! あら、そりゃわたしだって息子が親を殺したのをいいと言うのじゃありませんよ。わたしそんなことを賞めやしません。それどころか、子供は親を大切にしなけりゃなりませんとも。でも、やっぱりあの人のほうがいいと思うわ。なぜって、もしそうだとすれば、あなたも悲しまなくっていいからですわ。だってあの人は意識を失って、――じゃない、意識はあっても自分か何をしているかわきまえずに殺した、と言えるからですよ。きっと、きっとあの人は赦されますよ。それが人道というものですからね。そして、みんなに新裁判の恩恵を知らせてやったほうがよござんすよ。わたしは少しも知らなかったんですけれど、人の話では、それはもうとっくの昔からそうなんだそうですね。わたし、昨日そのことを聞いた時、もう本当にびっくりしちゃって、すぐにあなたのとこへ使いを出そうと思ったほどでしたよ。それからね、もしあの人が赦されたら、わたしあの人を法廷からすぐに宅の晩餐会へお招きしますわ。知合いの人たちを呼んで、みんなで新しい裁判のために乾杯しようと思うんですの、わたしあの人を危険だなんて思いません。それに、うんと大勢お客を呼びますから、あの人が何かしでかしても、すぐいつでも引きずり出すことができますわ。あの人はそのあとで、どこかほかの町の治安判事になるといいですね。だって、自分で不幸を忍んだものは、誰よりもよく人を裁きますからね。ですが、一たい今の世に affect にかかっていない人があるでしょうか。あなたでもわたしでもみなかかっているんですわ。こんな例はいくらでもありますよ。ある人は腰かけて小唄《ロマンス》を歌っているうちに、とつぜん何か気に入らないことがあったので、いきなりピストルを取って、ちょうどそばに居合せた人を撃ち殺したんですって。でも、あとでその人は赦されたそうです。わたし近頃この話を読んだのですが、お医者さんたちもみんな証明していました。今お医者さんは誰でもそう言ってますわ、誰でもみんなそう言ってますわ。困ったことには、うちのリーザもやはり affect にかかってるんですの。わたしは昨日もあれのために泣かされましたよ、一昨日も泣かされましたわ。ところが今日になって、あれはつまり、affect にかかっているのだってことに思いあたったんですの。ああ、ほんとにリーザには心配させられますよ! あの子はすっかり気がちがってるんだと思いますわ。なぜあれはあなたをお呼びしたんでしょう? あれがあなたを呼んだのですか、それとも、あなたのほうからあれのところへいらしたんでしょうか?」
「あのひとが呼んだのです。私はもうあちらへ行きましょう」とアリョーシャは思いきって立ちあがった。
「あら、ちょいとアリョーシャ、それが一ばん大切なところかもしれませんわ。」ふいにわっと声をあげて泣きだしながら、夫人はこう叫んだ。「誓って申しますが、私は心からあなたを信用して、リーザをおまかせします。あれがわたしに隠してあなたをお呼びしても、そんなことを何とも思やしません。けれど、お兄さんのイヴァン・フョードルイチには、そうたやすく自分の娘をまかせることができませんの。もっとも、わたしは今でもやはりあの人を、立派な男気のある青年と思っていますけれどね。まあ、どうでしょう、あの人はわたしの知らない間に、突然リーザに逢いに来たんですよ。」
「え? 何ですって? いつ?」アリョーシャはびっくりして訊いた。彼はもう腰をかけようともせず、立ったままで聞いていた。
「今お話しします。ことによったら、そのためにあなたをお呼びしたのかもしれません。もう何のためにお呼びしたか、わからなくなってしまったんですけど。こうなんですのよ、イヴァン・フョードルイチはモスクワから帰ってから、わたしのところへ二度ほど見えました。一度は知人として訪問して下すったのですけど、いま一度はつい近頃のことで、その時ちょうどカーチャが見えていたものですから、あの人はカーチャに逢うためにいらしたんですの。むろんわたしは、あの人がそれでなくても、非常にお忙しいことを知ってましたから、始終訪ねてもらいたいとも考えていませんの。Vous comprenez, cette affaire et la mort terrible de votre papa.([#割り注]おわかりでしょう、あの事件と、それにあなたのお父さんの恐ろしいご最後[#割り注終わり]) ところがね、あの人がまたふいに訪ねてらしったんですの、それも、わたしのほうじゃなくって、リーザなんですの。これはもう六日も前のことで、五分間ばかりいてお帰りになったそうですが、わたしはその後三日もたってから、グラフィーラから聞いたもんですから、本当にだしぬけで、びっくりしましたわ。で、すぐリーザを呼びますと、あの子は笑ってるんですの。そしてね、あの人はわたしが臥《ふせ》っていると思ったので、リーザのとこへ容態を訊ねに来たのだと、こう言うんです。それはむろんそうだったんでしょう。ですけど、一たいリーザは、リーザは、ああ、神様、あれはどんなにわたしに心配をかけることでしょう! 考えてもごらんなさい、ある晩とつぜん、――それは四日前のことで、この間あなたが来てお帰りになるとすぐでしたわ、――あれは夜中にとつぜん発作を起して、喚くやら唸るやら、それはひどいヒステリイを起したんですの! 一たいどうしてわたしは一度もヒステリイを起したことがないのでしょう。ところが、リーザはその翌日もまたその翌日も発作を起して、とうとうきのうのaffectになったんですの。だしぬけに『あたしはイヴァンさんを憎みます、お母さん、あの人を家へ入れないで下さい、家へ入るのを断わって下さい!』って喚くじゃありませんか。わたし本当に度胆を抜かれてぼっとしながら、そう言いましたの。あの立派な青年紳士の訪問をどう言って断わることができますか。あの人はあんなに学問があって、おまけにあんなに不幸な身の上なんですもの。なぜって、あんなごたごたは何といっても不幸で、決して幸福じゃありませんからね、そうじゃありませんか? ところが、あれはそれを聞いて、からからと笑うんですの。それがねえ、さもさも馬鹿にしたような笑い方なんですのよ。でも、わたしは、まあ笑わせてよかった、これで発作もなおるだろう、と思って喜びましたわ。それに、お兄さんのほうは、わたしに断わりもなくあれを訪問したり、妙なことをなさるなら、そのわけを訊いて、きっぱり出入りをお断わりするつもりでしたの。ところが、今朝リーザは目をさますと、だしぬけにユリヤに腹を立てて、まあ、どうでしょう、平手で顔を打つじゃありませんか。なんて恐ろしいことでしょう。わたしは自分の女中でも、『あなた』と呼んでるんですもの。すると一時間もたつと、あれはユリヤの足を抱いて接吻するんですの。そして、わたしのところヘユリヤをよこして、もうお母さんのとこへは行かない、今後決して行こうと思わないと、こんなことを言わせるじゃありませんか、そのくせ、わたしがあれのとこへ足を引きずって行くと、あれはわたしに飛びついて、接吻したり泣いたりする。そうして、接吻しながら、いきなり一口もものを言わないで、ぷいと出て行ってしまうもんですから、わたし何のことだか、さっぱりわけがわかりませんの。わたしの大好きなアレクセイさん、わたし今じゃあなただけを力にしています、わたしの生涯の運命は、あなたの手の中にあるんですの。あなたリーザのところへ行って、あれから何もかもすっかり聞き取って下さいません? それができるのは、ただあなた一人だけですからねえ。それから帰って来て、わたしに、――この母親に話して下さいな、なぜって、あなたも察して下さるでしょうが、もしこんなことが長くつづいたら、わたし死ぬよりほかありません。死んでしまうか、それとも家を逃げ出すばかりですわ。わたしもう我慢ができないのです。今までずいぶん我慢し抜いてきましたが、その堪忍袋の緒だって切れるかもしれません、その時……その時が怖いんですよ。ああ、ペルホーチンさんがいらしった!」ピョートル・イリッチ・ペルホーチンが入って来たのを見ると、ホコラコーヴァ夫人[#「ホコラコーヴァ夫人」はママ]は急に顔を輝かしながら、こう叫んだ。「遅かったわね、遅かったわね! さあ、どうなすって、おかけなさいな、そして早く話して聞かせて下さい、わたしの運命を決して下さい。で、いかがでした、あの弁護士は?アレクセイさん、あなたどこへいらっしゃるの?」
「リーザのとこへ。」
「そう、では、忘れないでね。今わたしのお願いしたことを忘れないでね。わたしの運命がきまるんですからね、ほんとに運命が!」
「むろん、忘れやしません、もしできさえしたら……だが、なにしろこんなに遅くなっちまったのでとアリョーシャは出て行きながら呟いた。
「いいえ、ぜひぜひ帰りに寄って下さいよ。『もしできたら』じゃ駄目。でないと、わたし死んじまうわ!」とホフラコーヴァ夫人は、アリョーシャのうしろから叫んだが、彼はもう部屋の外へ出てしまっていた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第一章 グルーシェンカの家で

[#1字下げ]第十一篇 兄イヴァン[#「第十一篇 兄イヴァン」は大見出し]



[#3字下げ]第一 グルーシェンカの家で[#「第一 グルーシェンカの家で」は中見出し]

 アリョーシャは中央広場のほうへ赴いた。彼は、商人の妻モローソヴァの家に住んでいるグルーシェンカのもとへと志したのである。彼女は朝早く、彼のところヘフェーニャをよこして、ぜひ来てもらいたいとくれぐれも頼んだのである。アリョーシャはフェーニャの口から、彼女が昨日から何だかひどくそわそわしていることを知った。ミーチャが捕縛されて以来、二カ月間というもの、アリョーシャは自分で気が向いたり、ミーチャから頼まれたりして、たびたびモローソヴァの家へ行ったのである。ミーチャの捕縛後三日目に、グルーシェンカは激しい病気にかかって、ほとんど五週間ちかくも寝ついていた。そのうち一週間くらいは、昏睡状態におちいっていたほどである。彼女はひどく面がわりがした。外出できるようになってから、もうほとんど二週間になるが、彼女の顔はまだやつれて黄いろかった。けれど、アリョーシャの目には、そのほうがむしろ魅力があるように思われた。で、彼はグルーシェンカの部屋へ入って行く時に、彼女の与える最初の一瞥を好んだ。彼女の目つきには何かしっかりした、意味ありげなあるものが明瞭に現われていた。そこには何やら精神的変化が認められ、つつましやかではあるが、しかし堅固不抜な、頑固に思われるほどの決心の色が浮んでいた。眉と眉の間にはあまり大きくない竪皺が現われて、美しい容貌に深く思いつめたような色を添えているので、ちょっと見ると、きついようにさえ感じられた。以前の軽はずみな調子など跡かたもなかった。それからもう一つ、アリョーシャにとって不思議なのは、この哀れな女が、あれほど不幸な目にあったにもかかわらず、つまり、婚約したほとんどその瞬間に、相手の男が恐ろしい犯罪の疑いで逮捕されたり、病気にかかったり、十中八九避けることのできない裁判の判決に将来を脅やかされたりしているにもかかわらず、やはり以前のうきうきした若々しさを失わないことであった。彼女の以前の傲慢な目つきの中に、今では一種の静謐が輝いていた。もっとも……もっともこの目はやはり時おり、一種の不吉な火に燃え立つことがあった。それは依然として変らぬ一つの不安が彼女を襲って、一向に衰えようとしないばかりか、ますます彼女の心中に拡がってゆくような時であった。この不安の原因は、例のカチェリーナであった。グルーシェンカは病気の間にも、カチェリーナのことを譫言に言ったほどである。
 彼女がカチェリーナのためにミーチャを、囚人のミーチャを嫉妬していることは、アリョーシャもちゃんと知っていた。もっとも、カチェリーナは、自由に獄中のミーチャを訪ねることができたにもかかわらず、一度も面会に行ったことがないのであった。これらのことはアリョーシャにとって、かなり面倒な問題になっていた。というのは、グルーシェンカはただアリョーシャ一人にだけ自分の心を打ち明けて、絶えずいろいろな相談を持ちかけたが、時によるとアリョーシャは、彼女に何と言ったらいいか、まるでわからなくなるからであった。
 彼は心配らしい顔つきをして彼女の部屋へはいった。彼女はもう家へ帰っていた。もう三十分も前にミーチャのところから帰って来たのである。彼女がテーブルの前の安楽椅子から飛び立って、彼を迎えた時の敏速な挙動から考えて、アリョーシャは彼女がひどく待ちわびていたことを知った。テーブルの上にはカルタがおいてあって、『馬鹿』をしていた跡がある。テーブルの一方におかれた革張りの長椅子には、蒲団が伸べられて、その上にはマクシーモフが部屋着をまとい、木綿の帽子を被ったまま、横になっていた。彼は甘ったるい笑みを浮べていたが、いかにも病人らしく、弱りこんだような様子をしていた。この住むに家なき老人は、二カ月前、グルーシェンカと一緒にモークロエから帰って来て以来、ここにとまり込んで、そのまま彼女のそばを離れないのである。彼はそのとき彼女と一緒に、霙の中をぐしょ濡れになって帰って来ると、長椅子の上へ坐り込んでしまって、おずおずと哀願するような微笑を浮べながら、彼女をうちまもっていた。グルーシェンカは烈しい悲しみに打たれてもいたし、そろそろ発熱を感じてもいたし、その上さまざまな心配ごともあったので、帰ってからほとんど三十分以上、マクシーモフのことを忘れていたのであるが、ふと気がついたようにじっと彼を見つめた。マクシーモフはみじめな表情で、彼女の目を見ながら、ひひひと笑った。彼女はフェーニャを呼んで、何か食べさしてやるように言いつけた。彼はこの日一んち、ほとんど身動き一つせずに坐り込んでいた。暗くなって、鎧戸を閉めてしまうと、フェーニャは女あるじに訊ねた。
「ねえ、奥さま、あの方は泊って行くのでございますか?」
「そうだよ、長椅子の上に床を伸べておあげ」とグルーシェンカは答えた。
 グルーシェンカは根掘り葉掘り訊ねたすえ、今ではもうまったくどこへも行き場のない彼であることを知った。『わたくしの恩人のカルガーノフさんも、もうお前をおいてやらないと、きっぱりわたくしに言い渡して、お金を五ルーブリくださいました』と彼は言った。『じゃ、仕方がない。わたしのとこにいたらいいわ。』グルーシェンカは憫れむように微笑しながら、悩ましげにそう言った。老人はこの微笑を見て、思わずぎっくりし、感謝の情に唇をふるわした。こうして、その時からこの放浪者は、彼女のもとに食客として残ったのである。彼女の病中にも彼はその家を出なかった。フェーニャと、料理番をしているその祖母も、やはり彼を追っ払わないで、食べさせてやったり、長椅子の上に寝床を伸べてやったりした。グルーシェンカも、しまいには彼に慣れて、ミーチャのところへ行って来た時など(彼女はまだすっかり回復しきらないうちから、もう、ミーチャのところへ行きはじめた)、悲しみをまぎらすために、『マクシームシュカ』を相手に、いろいろ無駄話をするようになった。老人も案外なにかと面白いことを話してくれるので、今では彼女にとって、なくてかなわぬ人となった。ときどきほんのちょっと顔を覗けるアリョーシャのほか、グルーシェンカはほとんど誰もに[#「もに」はママ]会わなかった。彼女の老商人は、この頃ひどく病気が重って[#「重って」はママ]寝ついていた。町で噂していたとおり、もう『死にかかっていた』のである。事実、彼はミーチャの公判後、一週間たって死んだ。死ぬ三週間前、彼は死期の近づいたのを感じて、息子や嫁や子供たちを呼びよせ、もはや一刻もそばを離れぬようにと頼んだ。しかし、グルーシェンカは決して来させぬように、もし来たら、『どうか末長く楽しく暮して、わしのことはすっかり忘れてくれ』と伝言するように、厳しく下男たちへ言いつけた。が、グルーシェンカはほとんど毎日のように、その容態を問い合せに使いをよこした。
「とうとう来たわね!」彼女はカルタを抛り出して、アリョーシャと握手しながら、嬉しそうにこう叫んだ。「マクシームシュカったら、あんたがもう来ないなんて嚇かすのよ。ああ、本当にあんたに来てもらわないと、困ることがあるの。テーブルのそばへおかけなさいよ。ねえ、コーヒー飲みたくなくって?」
「ええ、もらってもいいです」とアリョーシャは、テーブルのそばへ腰をおろしながら言った。「すっかり腹がへっちゃった。」
「そら、ごらんなさい。フェーニャ、フェーニャ、コーヒーを!」とグルーシェンカは叫んだ。「うちじゃもうさっきから、コーヒーがぐつぐつ煮立って、あんたを待っているのよ。肉入りパイを持って来てちょうだい、熱いのをね! そうそう、ちょっとアリョーシャ、今日わたしのほうじゃね、この肉入りパイで騒動が起ったのよ。わたしね、このパイをあの人のところへ、監獄へ持って行ったの。ところが、ひどいじゃありませんか。あの人はそれをわたしに抛り返して、食べようとしないの。一つのパイなど、床へ投げつけて、踏みにじるんだもの。だから、わたし、『これを番人のところへ預けとくから、もし晩までに食べなかったら、あんたはつまり意地のわるい憎しみを食べて生きてるんだわ!』と言って、それなりさっさと帰って来たのよ。また喧嘩しちゃった。まあ、どうでしょう、いつ行っても、きっと喧嘩しちまうんですの。」グルーシェンカは興奮しながら、立てつづけにまくしたてた。マクシーモフは途端におじ気づいて、目を伏せながらにやにやしていた。
「今度はどういうわけで喧嘩をしたんです?」とアリョーシャは訊いた。
「もうそれこそ、本当にだしぬけなのよ! まあ、どうでしょう、『もとの恋人』のことをやいてね、『なぜお前はあいつを囲っておくんだ。お前はあいつを囲ってるんだろう?』なんて言うのよ。始終やいてるのよ、始終わたしをやいてるのよ! 寝ても覚めてもやいてるの。先週なんか、クジマーのことさえやいたわ。」
「だって、兄さんは『もとの人』のことを知ってるじゃありませんか!」
「そりゃ知ってますともさ。そもそもの初めから、今日のことまで知り抜いてるのよ。ところが、今日だしぬけに呶鳴りつけるじゃありませんか。あの人の言ったことったら、ほんとに気恥しくって、口に出せやしないわ。馬鹿だわね! わたしが出て来る時、すれ違いにラキートカが訪ねて行ったけれど、ことによったら、あの男が焚きつけてるのかもしれないわねえ? あんたどう思って?」と彼女はぼんやりした様子でつけ加えた。
「兄さんはあなたを愛しています。本当に、ひどく愛してるんですよ。ところが、今日はちょうど運わるくいらいらしてたんです。」
「そりゃいらいらするのもあたりまえだわ、あす公判なんですもの。わたしが行ったのも、明日のことで言いたいことがあったからよ。ほんとにねえ、アリョーシャ、明日はどうなるでしょう、わたし考えてみるのさえ怖いわ! あんたはあの人がいらいらしてるっておっしゃるけど、わたしこそどれほどいらいらしてるかしれないわ。それだのに、あの人はポーランド人のことなんか言いだしてさ! 本当に馬鹿だわね! よくこのマクシームシュカをやかないことだわ。」
「わたくしの家内もやはりずいぶんやきましたよ」とマクシーモフも言葉を挟んだ。
「へえ、お前さんを。」グルーシニンカは気のなさそうな様子で笑った。「一たい誰のことをやいたのさ?」
「女中たちのことで。」
「ええ、おだまり、マクシームシュカ、冗談どころのさわぎじゃないわ。お前さん、そんなに肉入りパイを睨んだって駄目よ、あげやしないから。お前さんには毒だものね。油酒《バルサム》もあげないよ、この人もこれでずいぶん世話がやけるのよ。まるで養老院だわ、本当に。」彼女は笑った。
「わたくしは、あなたさまのお世話を受ける値うちなどはございません。わたくしはごくつまらない人間なんで」とマクシーモフは涙声で言った。「どうか、わたくしよりかもっと役にたつ人に、お情けをかけてやって下さいまし。」
「あら、マクシームシュカ、誰だってみんな役にたつものばかりだわ、誰が誰より役にたつか、そんなことがどうして見分けられるの? せめてあのポーランド人でもいなかったらいいのに。今日はあの男までが、病気でも始めそうなふうなんだもの。わたし行ってみたのよ。だから、ミーチャへ面当てに、わざとあの人に肉入りパイをあげるつもりだわ、わたしそんな覚えもないのに、ミーチャったら、わたしがあの人にパイを持たせてやった。と言っちゃ責めるんだもの。だから、今度こそわざと持たせてやるわ。面当てにね! あら、フェーニャが手紙を持って来た、案の定またあのポーランド人からだ。またお金の無心よ!」
 実際、パン・ムッシャローヴィッチが例によって、言葉のあやをつくした恐ろしく長い手紙をよこしたのである。それには三ルーブリ貸してもらいたいというので、向う三カ月間に払うという借用証を添えてパン・ヴルブレーフスキイまで連署していた。グルーシェンカは、こういう手紙やこういう証書を『もとの人』から今までにたくさん受け取っていた。こんなことが始まったのは、全快するおよそ二週間まえあたりであった。もっとも病中にも、二人の紳士が見舞いに来てくれたことを、彼女は知っていた。彼女が受け取った最初の手紙は、大判の書翰箋に長々としたためて、大きな判まで捺してあったが、非常に曖昧なことを、くだくだしく書きたてたものであった。グルーシェンカは半分ほど読んだが、何が何だかわからなくなって、そのまま抛り出してしまった。それに、彼女はその時分、手紙どころではなかった。引きつづいてその翌日、二度目の手紙が来た。それはパン・ムッシャローヴィッチが、ほんのちょっとのあいだ二千ルーブリ用立ててほしいというのであった。グルーシェンカはこれにも返事を出さなかった。つづいてあとからあとから、日に一通ずつ来る手紙は、みんな同じようにものものしい廻りくどいものであったが、借りたいという金額は百ルーブリ、二十五ルーブリ、十ルーブリとだんだん少くなり、最後の手紙にはたった一ルーブリ借りたいといって、二人で連署した借用証を添えて来た。グルーシェンカは急に可哀そうになって、夕方自分で紳士《パン》のところへ駈けだした。そして、二人のポーランド人が恐ろしく貧乏して、ほとんど乞食同様になっているのを見いだした。食べ物もなければ薪もなく、巻煙草もなくなって、宿の内儀に無心した借金で首が廻らなくなっていた。モークロエでミーチャから捲き上げた二百ルーブリは、たちまちどこかへ消えてしまった。しかし、グルーシェンカが驚いたことには、二人のポーランド人は傲慢尊大な態度で彼女を迎え、最上級の形容詞を使って、大きなほら[#「ほら」に傍点]を吹きたてた。彼女はからからと笑っただけで、『もとの人』に十ルーブリやった。その時すぐ彼女は、このことをミーチャに話したが、ミーチャはちっとも嫉妬などしなかった。けれど、その時から、二人のポーランド人はグルーシェンカに噛りついて、毎日無心の手紙で彼女を砲撃するようになり、彼女はそのつど少しずつ送ってやった。ところが、今日になって、だしぬけにミーチャがめちゃくちゃに嫉妬を始めたのである。
「馬鹿だわね、わたしミーチャのところへ行きしなに、紳士《パン》のところへもほんのちょっと寄ってみたのよ。だって、紳士《パン》もやはり病気になったんですもの。」グルーシェンカはせかせかと、忙しそうにまた言いだした。「わたし、このことを笑いながらミーチャに話したの。そして、あのポーランド人が以前わたしに歌って聞かせた歌をギターで弾いて聞かせたが、きっとそうしたら、わたしが情にほだされて、なびきでもするかと思ったんでしょう、ってこう言ったの。ところが、ミーチャはいきなり飛びあがって、さんざん悪口をつくじゃないの……だからね、わたしかまやしない、紳士《パン》たちに肉入りパイを持たせてやるんだ! フェーニャ、どうだえ、あの娘っ子をよこしたかえ? じゃ、あれに三ルーブリもたせて、肉入りパイを十ばかり紙に包んで届けさせておくれ。だからね、アリョーシャ、わたしが紳士《パン》たちに肉入りパイを持たせてやったって、あんたぜひミーチャに話してちょうだい。」
「どんなことがあったって話しゃしません」とアリョーシャはにっこり笑った。
「あら、あんたはあの人が苦しんでいるとでも思ってるの。だって、あれはあの人がわざとやいてるのよ、だから、あの人にとっては何でもありゃしないんだわ」とグルーシェンカは悲痛な声でそう言った。
「どうして『わざと』なんです?」とアリョーシャは訊いた。
「アリョーシャ、あんたも血のめぐりの悪い人ね。あんなに利口なくせに、このことばかりはちっともわからないとみえるわ。わたしね、あの人がわたしみたいなこんな女をやいたからって、それで気を悪くしてるんじゃなくてよ。もしあの人がちっともやかなかったら、それこそかえって癪だわ。わたしはそういう女なのよ。わたし、やかれたからって、腹なんか立てやしないわ、わたし自分でも気がきついから、ずいぶんやくんですもの。ただ、わたしの癪にさわるのはね、あの人がちっともわたしを愛していないくせに、『わざと』やいて見せるってことなのよ。わたしいくらぼんやりでも盲じゃないから、ちゃんとわかってるわ。あの人は今日だしぬけに、あのカーチカのことを話して聞かせるじゃありませんか。あれはこれこれしかじかの女で、おれの公判のために、おれを助けるためにモスクワから医者を呼んでくれただの、非常に学問のある一流の弁護士を呼んでくれただのって言うのよ。わたしの目の前でほめちぎるんですもの。ミーチャはあの女を愛してるんだわ、恥知らず! あの人こそわたしにすまないことをしてるのに、かえってわたしに言いがかりをこさえて、自分よりさきにこっちを悪者にしようとしてるのよ。『お前はおれよりまえにポーランド人と関係したんだから、おれだってカーチカと関係してもかまやしない』って、わたし一人に罪を着せようとするのよ。ええ、そうですとも! わたし一人に罪を着せようとしてるんだわ。わざと言いがかりをしてるんだわ、それに違いない。だけど、わたし……」グルーシェンカは、自分が何をするつもりか言いも終らぬうちに、ハンカチを目におしあてて、烈しくすすり泣きをはじめた。
「兄さんはカチェリーナさんを愛してやしません」とアリョーシャはきっぱり言った。
「まあ、愛してるか愛してないか、それは今にわたしが自分で突きとめるわ。」グルーシェンカはハンカチを目からのけて、もの凄い調子を声に響かせながらこう言った。
 彼女の顔は急にひんまがった。優しい、しとやかな、そして快活なその顔が、にわかに陰惨な毒々しげな相に変ったのを見て、アリョーシャは情けない気持になった。
「こんな馬鹿な話はもうたくさんだわ!」彼女は急にずばりと切り棄てるように言った。「わたし、こんなことであなたを呼んだんじゃないんですもの。ねえ、アリョーシャ、明日、明日はどうなるでしょう? わたし、それが苦になってたまらないのよ! わたしが一人だけで苦労してるのよ! 誰の顔を見ても、このことを考えてくれる人はまるでないんですもの、誰もみんな知らん顔してるんですもの。せめてあんただけは、このことを考えてくれるでしょう? あす公判じゃありませんか!ねえ、公判の結果はどうなるんでしょう? 聞かしてちょうだい。あれは下男がしたことだわ、下男が殺したんだわ、下男が! ああ、神様! あの人は下男の代りに裁判されるんです。誰もあの人の弁護をしてくれるものはないんでしょうか? だって、裁判所じゃ、一度もあの下男を調べてみなかったんでしょう、え?」
「あれは厳重に訊問されたんですが」とアリョーシャは沈んだ口調で言った。「犯人じゃないときまっちゃったんです。今あれはひどい病気にかかって寝ています。あの時から病気になったんですよ、あの癲癇のとき以来ね。本当に病気なんですよ」とアリョーシャは言いたした。
「ああ、どうしよう、じゃ、あの弁護士に会って、このことをじかに話して下さらない? ペテルブルグから三千ルーブリで呼ばれたんだそうじゃなくって。」
「それは、私たち三人で三千ルーブリ出したんです。私と、イヴァン兄さんと、カチェリーナさんとね。ですが、モスクワから医者を呼んだ二千ルーブリの費用は、カチェリーナさん一人で負担したんです、弁護士のフェチュコーヴィッチはもっと請求したかもしれないんですが、この事件がロシヤじゅうの大評判になったから、したがって、自分の名が新聞や雑誌でもてはやされるというので、フェチュコーヴィッチはむしろ名誉のために承諾したんです。なにしろ、この事件はひどく有名になってしまったもんですからね。私は昨日その人に会いました。」
「そして、どうして? その人に言ってくれて?」とグルーシェンカは気ぜわしげに叫んだ。
「その人はただ聞いただけで、何にも言いませんでした。もう確とした意見ができてると言っていましたが、しかし、私の言葉も参考にしようと約束しました。」
「参考も何もあるものですか! ああ、誰も彼もみんな詐欺師だ! みんながかりで、あの人を破滅さしてしまうんだ! だけど、お医者なんか、あのひとはなぜお医者なんか呼んだのかしら?」
「鑑定人としてですよ。兄は気ちがいで、発作にかられて無我夢中でやった、――とこういうことにしようっていうんです。」アリョーシャは静かに微笑した。「ところが、兄さんはそれを承知しないんでね。」
「ええ、そうよ、もしあの人が殺したとすれば、きっとそうだったのよ!」とグルーシェンカは叫んだ。「あの時、あの人はまったく気ちがいだったわ、しかも、それはわたしの、性わるなわたしのせいなのよ! だけど、やっぱりあの人が殺したんじゃない、あの人が殺したんじゃないわ! それだのに、町じゅうの者はみんな、あの人が殺したって言ってるんだからねえ。うちのフェーニャさえ、あの人が殺したことになってしまうような申し立てをしたんだもの。それに、店の者も、あの役人も、おまけに酒場の者まで、以前そういう話を聞いたなんて言うんだもの! みんな、みんなあの人をいじめようとして、あのことをわいわい言いふらすのよ。」
「どうも証拠がやたらにふえましたからね」とアリョーシャは気むずかしそうに言った。
「それに、グリゴーリイね、グリゴーリイ・ヴァシーリッチが、戸は開いてたなんて強情をはるのよ。自分でちゃんと見たって頑固に言いはって、とても言い負かされることじゃない、わたしさっそく駈けつけて、自分で談判してみたけれど、悪態までつくじゃないの!」
「そう、それが兄さんにとって、一ばん不利な証拠かもしれませんね」とアリョーシャは言った。
「それにね、ミーチャが気ちがいだと言えば、なるほど、あの人は今ほんとうに、そんなふうなのよ」と、グルーシェンカは何かとくべつ心配らしい、秘密めかしい様子をしてささやいた。「ねえ、アリョーシャ、もうとうからあなたに言おうと思ってたんだけど、わたし毎日あの人のところへ行って、いつもびっくりさせられるの、ねえ、あんたどう思って? あの人はこのごろ何か妙なことを言いだしたのよ。何かしきりに言うんだけど、わたしにゃちっともわからないの。あの人は何か大へん高尚なことを言ってるけれど、わたしが馬鹿だからわからないんだろう、とこうも考えてみるの。でも、だしぬけに、どこかの餓鬼のことなんか言いだして、『どうして餓鬼はこうみじめなんだろう? つまり、おれはこの餓鬼のためにシベリヤへ行くんだ。おれは誰も殺しはしないが、シベリヤへ行かなけりゃならない!』なんて言うのよ、一たいどうしたことでしょうね、餓鬼ってのは何でしょう、――わたしてんでわからないの。わたしこれを聞くと、ただもう泣いてしまったわ。あの人の話があんまり立派で、それに自分でも泣くんだもの、わたしも一緒に泣いちゃったわ。そしてね、あの人はだしぬけにわたしに接吻して、片手で十字を切ったりするの。何のことでしょうね、アリョーシャ、聞かしてちょうだい、『餓鬼』って一たい何でしょう?」
「なぜかラキーチンが、しじゅう兄さんのところへ行きだしたから……」アリョーシャは微笑した。「だけど……それはラキーチンのせいじゃあない。私はきのう兄さんのところへ行かなかったから、きょうは行きます。」
「いいえ、それはラキーチンのせいじゃないわ。それは弟さんのイヴァンが、あの人の心を掻き廻すんだわ。イヴァンさんがあの人のところへ行ってるから、それで……」と言いかけて、グルーシェンカは急に言葉を切った。
 アリョーシャはびっくりしたように、グルーシェンカを見つめた。
「え、行ってるんですって? ほんとにイヴァン兄さんがあそこへ行ったんですか? だって、ミーチャはイヴァンが一度も来ないって、自分で私にそう言いましたよ。」
「まあ……まあ、わたしどうしてこうなんだろう! つい口をすべらしちまって!」グルーシェンカは急に顔を真っ赤にし、どぎまぎしながらこう叫んだ。「ちょっと待ってちょうだい、アリョーシャ、だまってちょうだい、もう仕方がない、つい口をすべらせちゃったんだから、本当のことをすっかり言ってしまうわ。イヴァンさんはね、あの人のところへ二度も行ったのよ、一度は帰ってくるとすぐなの、――あの人はすぐモスクワから駈けつけたから、わたしがまだ床につく暇もないくらいだったわ。二度目に行ったのは、つい一週間まえなの。そして、ミーチャには、自分が来たことをアリョーシャに言っちゃいけない、決して誰にも言っちゃいけない、内証で来たんだから、誰にも言わないでくれって、固く口どめしたのよ。」
 アリョーシャは深いもの思いに沈みながら、じっとしていた。そして、しきりに何やら思い合せるのであった。彼はたしかに、グルーシェンカの話に驚かされたのである。
「イヴァンはミーチャのことなんか、私に一度も話をしないんです」と彼は静かに言いだした。「それに、全体この二カ月の間というもの、兄さんは私とろくに口をきかないんです。私が尋ねてゆくと、いつでもいやな顔をしてるんです。だから、もう三週間ばかり兄さんのとこへ行きません。ふむ……もしイヴァンが一週間前にミーチャのところへ行ったとすれば……実際この一週間以来、ミーチャの様子が何だか変ってきたようですね……」
「変ったわ、変ったわ!」とグルーシェンカはすぐに相槌を打った。「あの二人の間にはきっと秘密があるのよ、前からあったのよ! ミーチャもいつか、おれには秘密があるって、自分でそう言ったわ。それはね、ミーチャがじっと落ちついていられないような秘密なのよ、だって、以前は快活な人だったでしょう、――もっとも、今だって快活だけれど。でも、ミーチャがこういう工合に頭を振ったり、部屋の中を歩き廻ったり、右の指でこう顳顯の毛を引っ張ったりする時には、わたしちゃんとわかってるわ、あの人に何か心配なことがあるのよ……わたしちゃんとわかってるわ!………でなきゃ、あんな快活な人だったし、今日だってやはり快活そうだったけど!」
「でも、さっきはそう言ったじゃありませんか、兄さんがいらいらしてたって?」
「いらいらしてもいたけど、やはり快活だったわ。あの人はいつもいらいらしてるけど、それはほんのちょっとの間で、すぐ快活になるのよ。だけど、また急にいらいらしだすわ。ねえ、アリョーシャ、わたし本当にあの人には呆れてしまうのよ。つい目の前にあんな恐ろしいことが控えてるのに、あの人ったらよく思いきってつまらないことを、面白そうにきゃっきゃっ笑ってるじゃありませんか。まるで子供だわ。」
「ミーチャがイヴァンのことを、私に言わないでくれって口どめしたのは、そりゃ本当なんですか? 言わないでくれって、ほんとにそう言いましたか?」
「ほんとにそう言ったわ、――言わないでくれって。ミーチャは何より、一等あんたを怖がってるのよ。だから、きっと何か秘密があるんだわ。自分でもそう言ったわ、――秘密だって……ねえ、アリョーシャ、あの人たちにどんな秘密があるのか、一つ探って来て、わたしに聞かせてちょうだい。」グルーシェンカは、急に騒ぎたちながら頼んだ。「可哀そうなわたしが、どんな運命に呪われているのか、知らせてちょうだいな! 今日あんたを呼んだのは、そのためだったのよ。」
「あなたは、それを何か自分のことだと思ってるんですか? そうじゃありませんよ。もしそうなら、兄さんはあなたの前でそんなことを話しゃしません。」
「そうかしら? もしかしたら、あの人はわたしに話したかったんだけど、思いきって言えなかったのかもしれないわ。それで、ただ秘密があるとほのめかしただけで、どんな秘密か言わなかったのよ。」
「で、あなたはどう考えるんです?」
「どう考えるって? わたしの最後が来たんだ、とこう思いますわ。あの人たちが三人で、わたしをどんづまりに追いこんでるのよ。なぜって、カーチカってものがいるんですもの。これはみんなカーチカがしたことなんだ、カーチカから起ったことなんだわ。ミーチャがカーチカを、『これこれしかじか』だなんて褒めそやすのは、わたしがそんなふうでないのを当てこすっているんだわ。それはね、あの人がわたしをうっちゃろうという企らみを、前触れしてるんだわ。秘密ってこのことよ! 三人でぐるになって企らんでるんだわ、――ミーチャと、カーチカと、イヴァンの三人でね。アリョーシャ、わたしとうからあんたに訊きたいと思ってたのよ。あの人は一週間ほど前、突然わたしにこんなことを打ち明けるの、ほかでもない、イヴァンはカーチカに惚れてる、だから始終あの女のところへ行くんだって。これは本当のことでしょうか。あんたどう思って? 正直にひと思いにとどめを刺してちょうだい。」
「私は正直に言います。イヴァンはカチェリーナさんに惚れてやしませんよ、私はそう思います。」
「ほら、わたしもそう思ったのよ! あの人はわたしをだましたんだ、恥知らず! あの人が今わたしをやくのは、あとでわたしに言いがかりをつけるために違いない。本当にあの人は馬鹿だね、頭かくして尻かくさずだわ。あの人はそういう正直な人なんだから……だけど、今に見てるがいい、今に見てるがいい! 本当にあの人ったら、『お前、おれが殺したものと思ってるだろう』なんて、そんなことをわたしに言うのよ、わたしにさ。それはつまり、わたしを責めたわけよ! 勝手にするがいい! まあ、待ってるがいい、わたしは裁判であのカーチャをひどい目にあわせてやるんだから、わたしあそこでたった一こと、いいことを言ってやるから……いいえ、みんな洗いざらい言ってやるんだ!」こう言って、彼女はふたたび悲しげに泣きだした。
「グルーシェンカ、私はこれだけのことを確かに言い切ります」とアリョーシャは立ちあがりながら言った。「まず第一に、兄さんはあなたを愛してるってことです。あの人は世界じゅうの誰よかも、一番あなたを愛しています。あなた一人だけを愛しています。これは私を信じてもらわなけりゃなりません。私にはわかってます。もうよくわかっています。第二に言うことは、兄さんの秘密をあばくのを望まないってことです。けれど、もし兄さんがきょう自分からそれを白状したら、私はそれをあなたに話す約束をしておいたと、正直にそう言います。そうしたら、今日すぐここへやって来て知らせます。しかし………その秘密というのは……どうも……カチェリーナさんなどとぜんぜん関係がなさそうですよ。それは何か別のことなんでしょう。きっとそうですよ。どうも……カチェリーナさんのことらしくない、私には何だかそう思われます。じゃ、ちょっと行って来ます!」
 アリョーシャは彼女の手を握った。グルーシェンカはやはり泣いていた。アリョーシャは、彼女が自分の慰めの言葉をあまり信じてはいないけれど、ただ悲しみを外へ吐き出しただけでも、だいぶ気分がよくなったらしいのを見てとった。彼はこのまま彼女と別れるのが、残り惜しかったが、しかし、まだたくさん用件を控えているので、急いでそこを出かけた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『おかしな人間の夢』

   おかしな人間の夢    ――空想的な物語――

      1

 おれはおかしな人間だ。やつらはおれをいま気ちがいだといっている。もしおれが依然として旧のごとく、やつらにとっておかしな人間でなくなったとすれば、これは、位があがったというものだ。だが、もうおれは今さら怒らない、今となってみれば、おれはやつらがみんななつかしい、やつらがおれのことを嘲笑するときすらも、なぜか特別になつかしいくらいだ。おれは自分からやつらといっしょになって、笑ったかもしれない、――これもおれ自身を笑うのではない、おれにとって、彼らを見ているのが、こんなに憂鬱でないなら、彼らを愛して笑うのだ。憂鬱なのは、やつらが真理を知らないのに、おれだけ真理を知っているからだ。おお、ただ一人真理を知るというのは、なんと苦しいことか! だが、やつらにはこんなことはわかりゃしない、とうていわかりっこない。
 ところで前には、おれは自分がおかしな人間に見えるというので、ひどくくよくよしたものだ。見えたのではない、そうだったのだ。おれはいつもおかしな人間だった、そして、おれはちゃんと承知しているが、これはおそらく生まれた時からのことに違いない。どうやらおれはもう七つの時から、自分がおかしな人間だということを知っていたらしい。やがて、おれは小学校で、それから大学で勉強したが、どうだろう、おれは学問をすればするほど、自分がおかしな人間であることを、いよいよはっきり知ったのだ。だから、おれにとっては、おれの大学時代の学問は、すべてひっくるめて、それに深く没頭すればするほど、結局のところ、自分がおかしな人間であることを自分に証拠立て、説明するためのみに存在したようなものだ。生活においても、学問の場合と同じことだった。おれがあらゆる点において、おかしな人間だという相も変わらぬ意識は、一年ごとに、おれの内部で生長し、根を張っていった。おれはいつもみなに嘲笑された。が、もしもこの世の中に、おれがおかしな人間であるということを、一番よく知っているものがいるとすれば、それはおれ自身だということを、彼らはだれ一人として知りもしなければ、察しもしないのだ。これが、彼らがそれを知らないということが、おれには何よりも癇ざわりだった。しかし、それについては、おれ自身に罪があった。おれはいつも非常に傲慢だったので、どうあっても、そのことをだれにもうち明けなかった。この傲慢心は、おれの胸中で、一年ましに生長していった。で、もしおれが、自分はおかしな人間だということを、だれにもせよ、他人の前でうち明けるような真似をしたなら、おれは早速その晩、自分の頭にピストルの弾丸《たま》を撃ち込むに相違ない、と思われるほどだった。おお、おれはよく少年時代に、もしひょっと我慢しきれないで、ふいに何かの拍子で、友だちにうち明けてしまいはせぬかと、どんなに懊悩したかしれやしない! けれど、一人前の青年になってからというものは、一年ましに、いよいよ深く、自分の恐ろしい性質を知るようになってはきたが、なぜかまえよりいくぶん平気になった。まったくなぜかなのだ。というのは、おれはいまだにその理由を、はっきりさせることができないからである。おそらく、それはおれの魂の中で、おれのぜんぶよりも無限に高遠なある事情に関連して、恐ろしい煩悶がつのってきたからであろう。それはほかでもない、世の中のことはどこへ行っても、なにもかも[#「なにもかも」に傍点]要するに同じこと[#「同じこと」に傍点]だという確信が、おれの心をつかんだからである。おれはずっと前から、これを予感していたが、完全なる確信としては、最近の一年間に、何かこうとつぜんやって来たのだ。おれは忽然として世界が存在しようがしまいが、あるいはなに一つどこにもなかろうが、おれにとっては同じことだ[#「同じことだ」に傍点]と感じた。おれは自分の全実在をもって、おれの身についているものはなに一つない[#「おれの身についているものはなに一つない」に傍点]のだ、ということを直感するようになった。はじめのあいだはなんといっても、以前にはその代わり、いろいろたくさんあったような気がした。が、やがてそのうち、前にもやっぱり何もなかったのだ、ただなぜかそう思われたのだと悟った。それから、おれは次第次第に、これからさきだって何にもありゃしないのだと、確信した。そこで、急におれは人に腹を立てることをやめた。それどころか、人をほとんど眼中におかなくなった。じじつ、これはほんのささいなことにまであらわれた。例えば、おれは通りを歩いていながら、人にぶつかるようなことがちょいちょいあった。しかも、それは考え込んでいたからではない、おれに何を考えることがあろう、おれはその頃まったく考えることをやめてしまったのだ。おれにはどうでもよかった。問題の解決でもできたら、どんなによかったかしれないのだが、おお、おれは一つとして解決できなかった、そのくせ、問題は山ほどあったのだ! けれど、おれはどうでも同じこと[#「同じこと」に傍点]だったので、問題もすべて遠のいてしまった。
 こういうわけで、それから後になっておれは真理を知ったのだ。去年の十一月、はっきりいえば十一月三日に真理を知ったのだ。その時以来、おれは一つ一つの瞬間を覚えている。それは陰鬱な、この世にあり得るかぎりの陰鬱をきわめた晩であった。おれはその時、夜の十時過ぎに家に帰っているところだったが、まったくこれ以上陰鬱な時はあるまい、と思ったことを覚えている。自然現象までもそうなのだ。雨がいちんち降りつづいていたが、これがまた実に冷たいうっとうしい雨で、人間に対して明らかに敵意を持った、なんとなく威嚇的な雨でさえあった、おれはこれを覚えている。それが突如、十時過ぎにぱったりやんで、恐ろしい湿けが始まった。雨の降っている時よりも、もっと湿けて寒々とし、街上の一つ一つの石からも、横丁という横丁からも、すべてのものから、一種の蒸気が立ち昇った。遙かに通りのほうから横丁の奥をのぞき込むと、蒸気の湧いてくるのが見すかされるのであった。おれはふと、もし到るところのガスが消えたら、いくらか心が愉しくなっただろう、ガスがついていると、かえって憂鬱になってくる、なぜなら、ガスがこれらすべてのものを照らすから、といったような気がした。おれはその日ろくろく食事をしないで、夕方早くからある技師のところにねばっていた。そこにはもう二人友だちが来ていた。おれはずっと黙りこくっていたので、みんなくさくさしていたらしい。彼らは何か煽情的な話をして、とつぜん、興奮さえしたほどである。だが、その実、彼らはどうだって同じことなので、おれはそれに気がついていた、彼らはただちょっと興奮してみただけなのである。おれはだしぬけにそのことをみんなにいってやった。「諸君、そんなことなどきみがたにとって、どうでもいいんじゃないか」でも、彼らは腹を立てもせず、みんなでおれのことを笑いだした。これというのも、つまり、おれがいっこう非難の調子など響かせないで、ただおれ自身どうだってかまわないという気持ちでいったからである。彼らもおれがどうだってかまわないのを見てとって、みんな愉快になってきた。
 おれは往来でガスのことを考えた時、ふと空をふり仰いだ。空は恐ろしく暗かったが、ちぎれ雲の間々に、底のない真っ暗な斑紋をまざまざと見分けることができた。とつぜん、おれはこうした斑紋の一つに、小さな星を見つけて、じっとそれを見つめだした。というのは、この星がおれにある想念を吹き込んだからである。おれはその晩に自殺しようと決心した。このことはもうふた月前から、しっかり腹をきめていたので、ずいぶん貧乏暮らしはしていたが、素晴らしいピストルを買い込んで、その日さっそく弾丸《たま》をこめておいたのである。しかし早くも二か月経過してしまったのに、ピストルは相変わらず引出しの中にしまったままである。おれはあまりにもいっさいがどうだって同じことだったので、それほど無関心でないような一瞬を捉えようと思ったのだ。なんのためにそんなことをしたのか、おれは知らない。こういった次第で、このふた月の間というもの、おれは毎晩、家へ帰りながら、今日こそ自殺しようと考えた。そうして、たえずきっかけを待っていた。ところが、今この小さい星がおれに暗示を与えたので、今夜こそいよいよ間違いなく[#「間違いなく」に傍点]実行するのだと、きめてしまった。なぜ星が暗示を与えたのか、――おれは知らない。
 さて、おれが空を振り仰いだとき、ふいにあの女の子がおれのひじをつかまえたのだ。往来はもうがらんとして、人っ子一人いなかった。だいぶ離れたところで、辻待ち馭者が馬車の上で居眠りをしていた。女の子は年のころ八つばかり、頭をきれで包んで、着ているものは一枚きり、しかも身体じゅうぐっしょり濡れていた。が、おれはとくに濡れたぼろ靴が目についた。今でも覚えている。なんだか特別ちらちらとおれの目に映ったのだ。女の子はいきなりおれのひじを引っぱって、呼びはじめた。彼女は泣きもしないで、妙に引っちぎったような調子で、何かえたいの知れぬ言葉を吐き出すのであったが、それもはっきりとは発音ができない。悪寒におそわれて、全身を小刻みにふるわしていたからである。彼女はどうしたのか恐怖におそわれて、「おっ母ちゃん! おっ母ちゃん!」と絶望の調子で叫んでいるのだ。おれはそのほうへ顔を向けようとしたが、しかし一こともものをいわないで、そのまますたすたと歩みをつづけた。女の子は駆け出して、おれのひじを引っぱったが、その声には、ひどくおびえた子供に絶望の表示としてあらわれる一種の響きがあった。おれはその響きを知っている。彼女は、言葉を満足に発音できなかったけれども、その母親がどこかで死にかかっているのだな、とわたしは察した。親子の身の上に、何事かがもちあがったので、彼女はだれか呼ぼう、母親を助けてくれる人を見つけだそうと、そとへ駆け出したに相違ない。しかし、おれはその跡からついて行こうとしなかったばかりか、かえって、この娘を追っ払おうという考えさえ、ふいに浮かんだほどである。おれははじめ彼女に、巡査をさがし出すようにいった。けれど、彼女はとつぜん、小さな両手を合わせて、しゃくりあげたり、息をつまらせたりしながら、たえずおれの横について走りつづけ、いっかな離れようとしない。そこでおれは、威嚇するように足踏みして、どなりつけてやった。女の子はただ「旦那、旦那!………」と叫んだばかりで、急におれを棄てて、一目散に往来を横切って駆け出した。向こうにやはり同じような通行人の姿があらわれたので、彼女はそれを目がけて飛んで行ったらしい。
 おれは自分の五階の部屋へ昇って行った。おれはここで部屋を又借りして住んでいるのだ。ここは下宿屋のようになっていたのだ。おれの部屋は貧しい小さな部屋で、屋根裏式に半円形の窓が一つついている。模造皮張りの長いす、本の載ったテーブル、小いす二脚、それに古い代物ながら、ヴォルテール式の安楽いすが一つある。おれは座について、蠟燭をともし、さて考えはじめた。板で仕切ったお隣りの次の間では、相変わらず騒動がつづいていた。これはもう一昨日らいつづいているのだ。そこには退職大尉が住んでいて、来客中なのである、――六人ばかりの曖昧な連中(原語ではStriutskie、『作家の日記』一八七七年十一月、第1章1を参照)で、ウォトカを飲んだり、古いカルタでシュトスをやったりしている。昨夜は喧嘩があって、中の二人が長いこと髪のつかみ合いをしたのを、おれはちゃんと知っている。主婦は苦情を持ち込みたいと思ったけれども、大尉殿がこわくてたまらないのである。ほかの借間人といっては、小柄なやせた婦人がたった一人きりしかなかった。それは、連隊夫人(連隊の軍人に専属の形になった売春婦)らしく、小さいのを三人つれていたが、三人ともこの下宿で、さっそく病気してしまったのだ。彼女も子供も、気が遠くなるほど大尉殿をこわがって、夜っぴてがたがたふるえながら、十字を切っていたものだ。いちばん小さい子供は恐ろしさのあまりに、何かの発作を起こしたくらいである。この大尉はどうかすると、ネーフスキイ通りで通行人を引き止めては、合力を乞うている。これはおれがたしかに知っている。彼はどこにも勤め口が見つからないのだけれど、不思議なことには(つまり、これがために、おれはこんなことを細かく話すのだが)、大尉はこの下宿へ越して来てからまるひと月というもの、おれには少しもいまいましいという気持ちを起こさせなかった。近づきになることは、そもそもの初めから避けるようにしていたが、先方でも初対面の時から、おれと話すのは退屈そうであった。しかし、先生たちが、板仕切りの向こうでどんなにわめき散らしても、どれだけ大勢人が集まっても、おれはいつも同じことであった。おれは夜っぴてじっとすわっていたが、まったくのところ、彼らの声など耳に入らなかった。――それほどこっちでは、彼らのことなど忘れてしまっていたのだ。なにしろ、おれは夜の白々と明けるまで毎晩まんじりともしない。しかも、それがもうかれこれ一年からつづいているのだ。おれは夜っぴてテーブルの前の安楽いすに腰をかけたまま、なんにもしないでいる。書物を読むのは昼間だけである。じっとすわったまま考えごとさえしない。ただなんとなしに、いろいろ妄想が浮かぶけれど、おれはそいつを勝手にうっちゃらかしておくのだ。蠟燭は一夜のうちにすっかり燃えきってしまう。おれは静かにテーブルに向かって腰を下ろし、ピストルを取り出して、前においた。前においた時、おれは「これでいいのか?」とみずから問いかけ、「これでよし」とはっきりみずから答えたのを、今でも覚えている。つまり、自殺しようというのだ。おれは、いよいよ今夜こそ間違いなく自殺するのを承知しているが、それまでにまだどれくらいテーブルに向かって腰かけているつもりだったのか、そこまではわからなかった。そしてまた、もちろん自殺を遂げたに相違ないのだ、もしあの女の子さえいなかったなら。

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 実のところ、おれはどうだってかまわなかったとはいい条、例えば、痛みといったようなものは、やはり感じずにいられなかったわけだ。もしだれかおれをぶんなぐったとすれば、おれは痛みを感じたに相違ない。精神的方面からいっても同じことで、何か非常に哀れなことがおこれば、おれが人生のすべてをどうでもいいと思わなかった時代と同様に、憐憫の念を感じるはずである。そこで、おれはさきほど憐憫を感じたのだ。おれはきっと間違いなく、あの子供を助けてやるところであった。ところが、どうして助けてやらなかったのか? それはあのとき念頭に浮かんだ一つの想念のためである。女の子がおれのひじを引っぱって呼び立てた時、そのとき突如として、おれの眼前に一つの疑問が立ち塞がって、どうしても、それを解決できなかったのだ。それは呑気な疑問ではあったけれど、おれはすっかり腹を立ててしまった。もしいよいよ今夜自決すると決心したとすれば、今こそいつにもまして世の中のいっさいが、どうでもよくなるのがあたりまえではないか、という推論の結果、むかっ腹を立てたのである。なぜ急におれは無関心でなくなって、あの女の子をかわいそうに思うのだ? 今でも覚えているが、あれはまったくかわいそうでたまらなかった。なにかしら不思議な痛みを感じるほどで、おれの立場としては、実際、あるまじきことと思われるほどであった。正直なところ、おれはその時、自分の心をかすめた刹那の感触を、これ以上うまく伝えることはできないけれども、その感触は、すでに家へ帰って、テーブルに向かった時でさえつづいていた。おれはもう長いこと覚えなかったほど、無性にいらいらしていた。いろんな考えが次から次へ流れ出した。もしおれが人間であって、まだ無でないとすれば、無に化してしまわない間は生きているのであり、したがって、自分の行為に対して苦しみ、怒り、羞恥を感ずることができる。そのことがはっきりと頭に浮かんできた。それならそれでかまわない、しかし、例えば、二時間後におれが自殺するとすれば、あの女の子などおれにとって何するものぞ、またその時は羞恥にしろ、何にしろ、およそこの世のいっさいが、おれになんの用があるのだ? おれは無に帰するのだ、絶無の零になるのだ。そして、おれがいま完全に[#「完全に」に傍点]存在しなくなり、したがって何物も存在しなくなるという意識が、はたして少女に対する憐憫の情や、卑劣な行為の後に残る羞恥の情に、いささかの影響をも与えることができないのだろうか? おれが不仕合わせな女の子に、地団太を踏んで見せたり、乱暴な声でどなりつけたりしたのは、要するに、憐憫の情を感じないばかりか、不人情な陋劣な所業をさえしたところで、二時間たてば、いっさいが消滅してしまうのだからかまわない、といった気持ちがあったからである。つまり、そのためにどなりつけたのだということを、読者は信じてくれるだろうか? おれは今それをほとんど完全に確信している。生活も世界も、いわばおれ次第でどうでもなるのだということが、はっきり頭に浮かんできた。それどころか、今では世界もおれ一人のために造られたものだ、とさえもいうことができる。おれがどんと一発やったら、世界も失くなってしまう、少なくとも、おれにとってはそうなのだ。実際、おれの死んだ後は、いっさいが何人《なんぴと》のためにも存在しなくなるのかもしれないのだ。おれの意識が消えるが早いか、全世界はさながらおれ一人の意識の付属物かなんぞのように、幻のごとく消えて失くなってしまうかもしれない。なぜなら、この世界ぜんたいも、これらすべての人々も、結局、おれ自身、おれ一人だけにすぎないからかもしれないのだ。こんなことは今さらいうまでもない。今でも覚えているが、おれはじっとすわったまま、あれこれと考え耽りながら、後から後からとひしめき寄せるこれらの新しい疑問を、ぜんぜん反対の側にひっくり返して、それこそほんとうに新しい思想を考え出した。例えば、忽然として、おれの頭に奇妙な想像が浮かんだものである。もしおれが以前、月か火星に住んでいて、そこでおよそ想像し得るかぎりの破廉恥で不名誉な行為をし、そのためただ夢の中にのみ、時として見る悪夢の中でのみ体験するような、罵詈嘲笑を浴びた後、この地上に現われ、しかも別の遊星でした行為に関する意識を保ちつづけ、しかもそのうえもはや決して二度ともとの遊星には帰らない、ということを承知していたとすれば、地球から月を眺めながら、おれははたして無関心[#「無関心」に傍点]でいられるかどうか? その行為に対して羞恥を感ずるかどうか? なにしろ、ピストルがもう目の前に横たわっていて、あれ[#「あれ」に傍点]はもういよいよ間違いなしということを全身に感じていた時であるから、こんな疑問はあまりにも呑気な、用のないものではあったが、おれは興奮していらいらしてきた。今となっては、あらかじめある何物かを解決せずには、もう死ぬことさえできないような気がした。一口にいえば、あの女の子がおれを助けたのだ。なぜなら、おれはさまざまな疑問で、引き金をおろす瞬間を延ばしたからである。かれこれしているうちに、大尉の部屋でもだんだんひっそりしてきた。彼らは勝負を終わって、寝支度にかかったらしく、しばらくぶつぶついったり、大儀らしくののしり合ったりしているだけであった。その時、おれはふとテーブルの前の安楽いすに腰かけたまま、眠りに陥《おち》てしまった。こんなことは、これまでかつてなかったのである。おれは自分でもまったく気のつかぬうちに、寝てしまったのだ。夢というものは、ご承知のとおり、はなはだもって不思議千万なものである。あるところはあきれるほど明瞭に、宝石細工のように細かな点まで、まざまざと現われるかと思えば、またあるところは、まるで空間も時間も無視したように、無遠慮に飛び越して行くのである。どうやら、夢を押し進めて行く力は、理性でなくて希望であり、頭脳でなくて心情であるらしい。が、それにもかかわらず、どうかするとおれの理性は、夢の中で狡知をきわめた芸当をやって見せることがある! しかし、夢の中では、おれの理性に摩訶不可思議なことが生じるのだ。早い話が、おれの兄は五年前に死んだ。おれは時おり夢に見る。兄はおれの仕事に仲間入りをして、二人は大いに興味を感ずる。にもかかわらず、おれはずっと夢のつづいている間じゅう、兄貴はもう死んでしまって、埋葬されたということをはっきり知りもし、覚えてもいるのである。兄が死人でありながらおれのそばにいて、いっしょにまめまめしく働いているのを、なぜおれは不思議に思わないのか? なぜおれの理性はそれを平気で見のがしているのか?だが[#「しているのか?だが」はママ]、もうたくさん。いよいよ夢の話に移ろう。さてその時、十一月三日におれはこんな夢を見たのだ! 今みんなは、そんなことはただの夢でしかないじゃないかといって、おれをからかう。しかし、この夢がおれに真理を告げ知らせてくれた以上、夢であろうとなかろうと、同じことではないか? いったん真理を知り、真理を見た以上、それはあくまで真理であって、眠っていようと醒めていようと、それ以外の真理はあり得ないではないか。が、まあ、ただの夢でもいい、かまわない。しかし、諸君のそれほどありがたがる生命を、おれは自殺で抹殺しようとした。ところが、夢は、おれの夢は、――おお、あの夢は新しい、偉大な、更生された、力強い生活をおれに告げ知らせてくれたのだ! まず聞いてもらおう。

      3

 前にもいったとおり、おれはいつの間にか、というより、相変わらず同じようなことばかり瞑想しつづけながら、そのまま寝入ってしまった。ふとこんな夢を見た。おれはピストルを取りあげて、すわったままいきなり心臓へおしあてた、――頭ではなく心臓なのだ。ところが、おれは前から必ず頭を射とう、右のこめかみを射ち抜こうときめていたのである。胸にピストルをあてて、おれは一秒か二秒待っていた。すると、蠟燭も、テーブルも、壁も、おれの前にあるものが急に動きだし、ふわふわと揺れはじめた。おれは大急ぎで引き金をおろした。
 どうかすると、夢で高いところから墜ちたり、人に斬られたり打たれたりするが、決して痛みを感じないものである。ただほんとうに自分で何かの拍子に、手や足を寝台にぶっつけた時は別で、そういう折には痛みを覚え、ほとんど常に痛みのために目をさます。おれの夢もそのとおりで、痛みなどは感じなかったが、発射と同時に、おれの内部でなにもかもが震動して、いっさいのものが忽然と消えてしまい、まわりがすっかり真っ黒になったような気がした。おれはさながら目も耳もつぶれたようなあんばいだった。と、いつしか仰向けに長くなって、何か固いものの上に横たわっている。なに一つ見えもせず、指一本、動かすこともできない。みんながやがや歩きまわったり、わめいたりしている、大尉のだみ声が聞こえるかと思うと、主婦の金切り声もする。――そのうちとつぜんまたいっさいがとぎれて、やがておれは、蓋をした棺の中に入れて担いで行かれる。おれは棺が揺れるのを感じて、そのことを心に考える。とふいに、おれはもう死んだのじゃないか、すっかりこと切れたのじゃないかという考えが初めて強く心を打った。おれはそれを承知して、いささかも疑いをいだかない。目も見えず身動きもできないながらしかもそう感じ考えるのだ。けれど、間もなく、それにも諦めがついてしまった。夢の中の常として、文句なしに現実をそのまま受け入れるのだ。
 やがておれは土の中に埋められる、人はみんな行ってしまって、おれは一人きり、まったくの一人ぼっちになってしまう。おれは身動きしない。以前、おれが墓に葬られる有様をうつつに想像したとき、いつも墓というものを湿けと寒さの感触に結びつけたものだ。今もやはりそのとおりで、おれはひどく寒い気がした。わけても、足の指さきに寒さを覚えたが、そのほかのことはなんにも感じがない。
 おれは横になっていたが、不思議なことには、なに一つ期待しなかった。死人に何も待つことなんかありゃしないという観念を、文句なしにおとなしく受け取ったわけである。しかし、しめっぽかった。どれぐらい時がたったか、――一時間か、二、三日か、それともうんと日数がたったか、そこはおれにはわからぬ。が、ふとおれの閉じた左の目に、棺の蓋から滲み込んだ水が一しずく落ちた。それから一分ほどしてまた一しずく、それからまた一しずく、といったふうにつづいてゆく。みんな一分おきなのだ。はげしい憤懣の念が、突如、おれの心に燃え立ってきた。やがて、ふいにそれが肉体的な痛みに感じられた。「これはおれの傷口だ」とおれは考えた。「これはおれの射ったところだ、あすこに弾丸があるのだ……」水滴はのべつ一分ごとに落ちてくる。それがきまっておれの閉じた左の目の上なのだ。おれはとつぜん、おれの身に起こっているいっさいの命令者である何者かに向かって呼びかけた、ただし、声に出してではない、おれは動けないのだから、――自分の全存在をもって呼びかけたのである。
「たといお前が何者であろうとも、もしお前というものがあるならば、そして現在、行なわれているものよりも合理的なものが何かあるならば、その合理的なものがここにもあるようにしてくれ。もしお前がおれの無分別な自殺を、これからさきの醜い愚かしい存在で罰しようとしているのなら、これだけのことを知ってもらいたい、――たとえいかなる苦悶がおれの身にふりかかるにもせよ、その苦しみの幾百万年かのあいだ、おれが無言のうちに嘗めなければならぬ侮辱とは、とうてい同日の論ではないのだ!………」
 おれはかく呼びかけて口をつぐんだ。ほとんどまる一分間ふかい沈黙がつづいて、さらに一滴の水すらもしたたり落ちたが、必ずや今すぐすべてが一変するに相違ないということを、おれは知っていた。知っていたばかりか、堅く限りなく信じていたのだ。すると、忽然、おれの墓がさっと開いた。といって、だれかが墓を掘りあばいたのかどうか知らないが、おれはだれともしれぬ模糊とした存在に抱き取られて、二人はいつしか無限の空間の中にいるのであった。おれはとつぜん目が開いた。それは深い深い夜で、このような暗さはかつてどこにもなかった! おれたちは、もはや地上遙かに離れた空間を翔《かけ》っていた。おれは、おれを運んで行く者に何もきかなかった。おれは待っていた。そして、傲然としていた。おれは、恐れてはいないぞと、自分で自分にいいきかせた。そして、恐れていないのだと考えると、うれしさに息がつまりそうな気がした。おれはどれくらいのあいだ飛んで行ったか覚えていない。思い浮かべてみることもできない。すべてが、いつも夢の中で経験するのと同じようなふうであった。夢の中では空間も、時間も、存在と理性の法則も飛び越してしまって、心の夢見る点にのみ停止するものである。とつぜん、暗黒の中に一つの小さな星を認めたことを、おれは覚えている。「あれは狼星だね?」と、おれはふいにたまりかねて問いかけた。というのは、何事もいっさいたずねまいと思っていたからである。「いや、あれはお前が家へ帰りしなに、雲のあいだに見つけたあの星なのだ」と、おれを運んでいた存在物は答えた。この存在物は、なにか人間みたいな面影を持っていたのを、おれは知っていた。奇妙なことながら、おれはこの存在物が好きでなかったのみならず、深い嫌悪の念さえも覚えたほどである。おれは完全な無を期待していたので、つまりそれがために、自分の心臓に弾丸を打ち込んだのだ。ところが、いまおれはある存在物の手に抱かれている、もちろん、人間ではないけれど、とにかく、現にある[#「ある」に傍点]ものだ。存在しているものだ。「ははあ、してみると、死後にも生活があるのだな!」とおれは夢に特有の不思議な軽率さでこう考えた。けれど、おれの心の本質は、おれといっしょに深い奥底に残っていた。
「で、もしさらにいちど生存[#「生存」に傍点]しなければならないのなら」とおれは考えた。「だれかの、いなみがたき意志によって、生きなければならぬとしたら、おれは征服され、屈辱をうけるのなんかいやなことだ!」――「お前はおれがお前を恐れていることを知っているだろう、だもんだから、おれを軽蔑しているんだろう」とふいにおれは、ピンででも剌されたように自分の屈辱を胸に感じて、我慢しきれずに道づれに問いかけたが、この問いの中には告白が含まれていたのである。彼はおれの問いに答えなかったが、おれは忽然として、自分は軽蔑されてはいない、嘲笑されてもいない、憐れまれてさえもいない、おれの道はおれ自身にだけ交渉のある、未知の、神秘な目的をもっているのだ、ということをさとった。おれの胸の中に次第に恐怖がつのっていった。なにかしらあるものが、言葉もなく、しかし苦痛を伴って、沈黙の道づれからおれに伝わってき、おれの内部にまで滲透するような具合だった。おれたちは、暗い未知の空間を翔ってゆく。もうだいぶ前から、見覚えのある星座の星々が、目に入らなくなっていた。この宇宙の大空には、光が地球へ達するのに幾千年、幾万年もかかるような星があることを、おれは知っていた。もしかしたら、おれたちはもう、そうした空間を飛び過ぎたのかもしれない。胸を悩ます恐ろしい憂愁の中に、おれは何やら待っていた。すると、ふいに、なにかしら馴染みのある、はげしく呼び招くような感じが、おれの全心をゆすぶった。見ると、思いがけなく、わが太陽が目にはいるではないか! おれは、これがわれわれ[#「われわれ」に傍点]の地球を生んだわれわれ[#「われわれ」に傍点]の太陽であり得ないことを知っていた。おれたちは、われわれ[#「われわれ」に傍点]の太陽から、無限の距離にへだてられているのだ。にもかかわらず、おれは自分の全存在をもって、これはわれわれの太陽とまったく同じようなものである、その反覆であり、双生児であるということを知った。甘い呼び招くような感情が、おれの魂の中で歓喜の曲をかなではじめた。光、おれを生んだ光のなつかしい力が、おれの心の中に反応し、それをよみがえらした。おれは生命を感じた。墓に入って以来はじめて、もとの生命を感じた。
「だが、もしあれが太陽だとすれば、われわれの太陽とまったく同じものだとすれば」とおれは叫んだ。「いったい地球はどこにあるのだ?」すると、おれの道づれは、闇の中でエメラルドのような輝きを放っている小さな星をさし示した。おれたちはまっすぐにそのほうへ飛んで行った。
「いったい宇宙にはこうした反覆があり得るものだろうか、いったい自然の法則とはこういうものだろうか?………もしあすこに地球があるとすれば、それはわれわれの地球と同じものだろうか……あれとそっくりそのまま、不仕合わせな、貧しい、しかし永久に愛すべき貴いものであって、自分の最も忘恩な子供たちの心にさえ、苦しい、愛着の念を呼びさます力を持っているのだろうか?………」と、おれは自分の見棄てて来たもとのなつかしい地球に対する、やむにやまれぬ烈しい愛情に身をふるわせながら叫んだ。かつて辱しめた哀れな娘の面影が、おれの眼前をひらめき過ぎた。
「なにもかも今にわかるよ」とおれの道づれは答えたが、その言葉の中には何かある哀調が響いていた。しかし、おれたちはぐんぐんとその遊星に近づいた。遊星は、見ているうちに大きくなってきて、おれは大洋を見分け、ヨーロッパの輪郭を認めるようになった。とふいに、なにかしら偉大な、神聖な嫉妬とでもいったような、不思議な感情がおれの心に燃えあがった。「どうしてこんな反覆があり得るのだろう、またいったいなんのためなのだ? おれはただおれの見棄てて来た地球を愛するのみだ。忘恩なおれが心臓に撃ち込んだ一発の弾丸で、われとわが生命の火を消したときの、おれの血のしぶきが残っているあの地球のみしか、愛するわけにゆかない。おれは決して一度だって、あの地球を愛することをやめはしなかった。あの夜だって、生命に別れを告げながらも、いつにもましていっそう悩ましく、地球を愛していたかもしれないのだ。いったいあの地球にも苦悶があるだろうか? われわれの地球では、真の愛はただ苦悶とともに、苦悶を通してのみ味わうことができるのだ! われわれはそれよりほかの愛し方ができず、それ以外の愛を知らない。おれは愛せんがために苦悶を欲するのだ。おれは今この瞬間、涙を流しながら、おれの見棄てて来たあの地球に接吻したい、ただあの地球のみを渇望する、そのほかの生活なんか望まない、いっさい受けつけない!………」
 しかし、おれの道づれはもうおれを見棄ててしまった。おれは突如として、まるきり自分でも気がつかないうちに、楽園のように美しい、のどかな太陽の光を浴びながら、この第二の地球の上に立っているのだった。おれはどうやら、われわれの地球ではギリシャ多島海にあたる群島の一つか、さもなくば、この多島海に隣接している大陸の海岸にいるらしかった。おお、なにもかもがわれわれの地球と同じであった。ただうち見たところ、到るところさながら祭りのようで、なにかしらようやく達せられた偉大にして神聖な勝利の喜びに、輝いているかのようであった。優しいエメラルド色の海は静かに岸を打って、ほとんど意識的と見えるばかり明瞭な愛情をもって、石や砂を舐めている。高い見事な樹々は鮮かな緑の色を誇りかに[#「誇りかに」はママ]聳え、無数の葉は静かな、愛想のよいささやきでおれを歓迎し(おれを信じて疑わない)、あたかも、何か愛の言葉を語っているかのよう。若草は目もさめるような香ぐわしい花々に燃え立っている。小鳥どもは群れをなして空を飛び交い、恐れげもなくおれの肩や手にとまって、その愛らしいふるえおののく翼で、喜ばしげにおれを打つのだ。やがてそのうちに、おれはこの幸福な地球の人々を見つけ、それと気づいた。彼らはみずからおれのほうへやって来て、おれを取り囲み、おれに接吻するのであった。太陽の子、おのが太陽の子、――おお、なんと彼らの美しいことよ! おれはわれわれの地球上で、人間のこのような美しさを、かつて見たことがない、ただきわめて幼いわれわれの子供たちに、この美しさのおぼろな、弱々しい反映を見いだし得るのみである。これらの幸福な人々の目の中には、明らかな輝きが燃えていた。その顔は叡知と、すでに平穏に達するまでに満たされた意識に輝いていたけれども、しかし、それらの顔は愉しそうであった。彼らの言葉や声には、子供らしい歓びが響いていた。ああ、おれは彼らの顔を一目みるなり、たちまちなにもかもすべてを悟ってしまった! それはまだ堕罪にけがされない土地であって、そこに住んでいるのは、罪悪を知らない人々なのだ。全人類の伝説によると、われわれの祖先が堕罪の前に住んでいたのと、同じような楽園に住む人人なのだ。ただ違うのは、ここでは到るところが、同じような楽園であるということだ。これらの人々は悦ばしげに笑いながら、ひしひしとおれのそばへ集まって来て、優しく愛撫するのであった。彼らはおれを自分たちのところへつれて行った。だれもが、おれの気をおちつかせたくてたまらなかったのだ。おお、彼らはおれになに一つたずねようとしなかったが、どうやらなにもかも知っているらしい様子で、少しも早くおれの顔から、苦痛の陰を追いのけたいふうであった。

      4

 ところで、もう一度お断わりしておくが、なにぶんこれはただの夢にすぎないのである! しかし、これらの無垢な美しい人たちの愛の感触は、永久におれの内部に残って、おれは今でも、彼らの愛があちらから、おれにそそぎかけられているような気がする。おれは自分で彼らを見、彼らを認識し、確信したのだ、おれは彼らを愛し、後には彼らのために苦しんだのだ。おお、おれはすぐにその時でさえ悟ったのだが、多くの点について、おれはぜんぜん彼らを理解できそうもないと思った。現代のロシヤ人であり、ペテルブルグの進歩主義者であるおれにとっては、たとえば、彼らがあれだけ多くのことを知りながら、われわれの科学を有していないということが、不可解千万に思われた。けれど、おれは間もなく合点がいった。彼らの知識は、われわれの地球で行なわれるのとは違った、直感によって補われ養われるし、また彼らの希求も同じく、ぜんぜん別なものであった。彼らはなにものも望まず、おちつきすましている。彼らはわれわれのように人生認識を追求しない。なぜなら、彼らの生活は飽満していたからである。しかし、彼らの知識はわれわれの科学よりも深く、かつ高遠であった。われわれの科学は、人生はなんぞやという疑問の説明を求めて、他人に生活を教えるために、みずから生を意識せんと努力しているが、彼らは科学の助けなくして、いかに生くべきかを知っていたのだ。おれはそれを合点したが、しかし彼らの知識を理解することはできなかった。彼らはおれに自分たちの樹をさし示したが、おれは彼らがそれを眺める愛情の程度を、理解することができなかった。彼らはあたかも、自分と同じ生きものと話すようなあんばいであった。それどころか、彼らは樹木と話をしたといっても、おれの考え違いではあるまい! そうだ、彼らは樹木の言葉を発見して、相手も自分の言葉を解してくれるものと信じきっていたのだ。自然ぜんたいに対しても、彼らはそれと同じ見方をしていた。――動物どもも彼らとともにむつまじく暮らして、決して彼らに襲いかかることなどなく、彼らの愛に征服されて、彼らを愛していた。彼らはおれに星をさしてみせ、それについてなにやら話したけれども、おれにはなんのことやらわからなかった。しかし、彼らが何かで空の星と接触を保っているのは、信じて疑わなかった。それは思想の仲立ちによるのではなく、何かもっと生きた方法なのだ。おお、これらの人々は、しいておれに理解してもらおうともせず、そんなことなど無視して、おれを愛してくれたが、おれは彼らが決してこちらを理解することがないのを知っていたので、われわれの地球のことはほとんど少しも話さなかった。ただ彼らの住んでいる土地を接吻して、無言のうちに彼ら自身を尊崇した。彼らはそれを見て、なすがままにさせておき、おれが豊かな愛のために彼らを尊崇するのを、恥ずるふうもなかった。おれが折ふし、涙ながらに彼らの足を接吻するようなときでも、彼らはおれのために心を苦しめなどはしなかった。それはやがて力強い愛でおれに報いる時がくるのを、心に歓びを秘めながら承知していたからである。時として、おれは驚愕の念をいだきながら、自問したものだ、――どうして彼らはおれみたいな人間を、しじゅう侮辱せずにいられるのだろうか、どうしておれみたいな人間に、嫉妬や、羨望の念を一度も起こさせずにすむのだろうか? おれは幾度となく自問したものだ、――どうしておれみたいな威張り屋のうそつきが、彼らの夢にも知らないような自分の知識を自慢せずにいられたのか、たとい彼らに対する愛情のためだけにでも、彼らをびっくりさせずにいられたのか?
 彼らは子供のように快活で元気がよかった。彼らは自分たちの美しい森や林をさまよいながら、素晴らしい歌をうたっていた。彼らは自分たちの樹に生る木の実とか、自分たちの森で採れる蜂蜜とか、彼らを愛する動物の乳とか、すべて軽い食物を糧としていた。衣食のために働くのは、ほんのちょっと、わずかな間であった。彼らにも恋はあって、子供も生まれた。しかし、われわれの地球に住むいっさいの人間に巣くっていて、わが人類のほとんどすべての罪の源となっている残忍な[#「残忍な」に傍点]情欲の発作などは、ついぞ見受けたことがなかった。彼らは新しく出生した子供たちを、自分たちの幸福に参加する新しい仲間として、歓びむかえた。彼らのあいだに争いもなければ、嫉妬騒ぎもなく、それがいったいどんなものであるかさえも知らなかった。彼らの子供はみんなのものであった。というのは、すべての人が、一家族を形成していたからである。彼らの間には、ほとんど病気らしいものがなかった。もっとも死というものはあったが、老人たちは別れを惜しむ人々に取り囲まれて、彼らを祝福し、彼らに微笑を送り、またみずからも彼らの微笑に送られながら、静かに死んでゆくのだ。その際、おれは悲嘆や涙などを見受けたことがない。そこにはあたかも、法悦にまで増大した愛情があるのみ、しかもそれは、おちついた、充実した、瞑想的な法悦なのである。彼らは死後もなお死者と接触を保って、彼らの地上における結合は、死によって中絶されないのではあるまいか、とそう思われるほどであった。おれが永遠の生命ということを質問すると、彼らはほとんど合点のゆかない様子であったが、見たところ、彼らは永遠の生命を無意識にかたく信じていて、そんなことは問題にならないようなふうだった。彼らには神殿というものはなかったけれど、宇宙の統率者との絶え間なき生きた連繋があって、それが何か日常欠くべからざるものとなっているのであった。彼らには信仰はなかったけれども、そのかわり確固たる知識があった。つまり、地上の喜びが自然の限界まで充満した時には、彼らのために生者死者を問わず、宇宙の統率者との連繋がさらに拡大されるということを、彼らは承知しているのであった。彼らはこの瞬間を歓びをもって待ち受けていたが、急いだり苦しんだりすることなく、いわばそれに対する予感を、心の中にいだいているようなふうで、それをお互い同士語り合うのだった。毎晩眠りにつくとき、彼らは声を揃えて、整然たる合唱を試みるのを好んだ。これらの歌の中に、彼らは暮れゆく一日が与えた感懐を残りなく伝えて、その一日を讃え、それに別れを告げるのであった。彼らは大地、海、森、すべて自然を讃えた。彼らはお互い同士について歌を作り合い、子供のように褒め合った。それはきわめて単純な歌であったが、おのずと心の中から流れ出るので、よく人の心に滲み入るのだ。また歌の中ばかりでなく、彼らはお互い同士に見とれることを一生の仕事にしているらしかった。それはなにか一般共通の相互恋愛、とでもいったようなものであった。彼らの歓喜に充ちたものものしい歌の中には、おれにまったく理解のできないものがあった。言葉では通じているくせに、どうしてもぜんたいの意味をつかむことができないのだ。それは結局、おれの頭脳におよびがたいものとして残ったが、おれの心はだんだん無意識にその意味を滲み通していった。おれはしばしば彼らに向かっていった、自分はもうとうからこれを残らず予感していた、この喜悦と光栄はすでにわれわれの地球にいる時分から、時としてたえがたい憂悶に達するほどの、呼び招くような憧れとなって自分の心に響いていた、自分は心の夢と叡知の空想の中で彼らすべてと、彼らの光栄を予感していた。自分は以前の地上にいる頃、涙なしに落日を眺められないことがしばしばあった……あの地上に住む人々に対する自分の憎悪には、なぜつねに憂愁がこもっていたのか、どうして彼らを愛さずには憎むことができないのか、なぜ彼らをゆるさずにはいられないのか、なぜ彼らにたいする愛には憂愁がこもっているのか? どうして彼らを憎まずには愛すことができないのか? こんなことをいうおれの言葉に、彼らは耳を傾けていたが、おれのいうことを想像することもできないのは、ちゃんとおれの目に見えていた。しかし、おれは彼らにそういう話をしたのを悔みもしなかった。自分の見棄ててきた人々に対するおれの悩みの烈しさを、彼らがあますところなく理解してくれたのは、ちゃんとわかっていた。それに、彼らが愛情に貫かれたやさしい目つきでおれを眺め、おれもまた、彼らのまえでは、自分の心までが彼らの心と同じように穢れのない、正直なものになってゆくのを感じた時、おれは彼らを理解しないことを残念に思わなかった。生の充実感のために、おれは息がつまりそうになり、彼らのために無言の祈りを捧げたものである。
 おお、いまだれもかれもが面と向かっておれを笑い、いかに夢とはいいながら、現在お前の話しているような詳細を見ることはできっこない、お前は夢にうなされているうちに、お前の心が生み出した感じを見、感じたまでであって、細かいことは、目がさめてから自分で創り出したのだという。そこでおれが、あるいはほんとうにそのとおりかもしれないと白状したとき、――いやはや、おれはどんなに皆から笑い倒されたことか、なんというお慰みを彼らに供給したことか!おお、[#「ことか!おお、」はママ]それはもちろんいうまでもなく、おれはただあの夢の感じに征服されたので、その感じのみが、血の滲むほど傷つけられたおれの心に、残ったに相違ない。が、そのかわり、おれがほんとうに眠っているときに見た夢の現実の姿かたちは、いいようもないほどの調和に充たされ、魅力と美と真実に貫かれていたので、むろん、おれが目をさました後、われわれの哀れな言葉に表現することなど、できるわけがなく、当然、おれの頭の中で消えてしまうべきはずであった。してみると、ほんとうにおれはやむなく後から、無意識に、自分で細かいところを創作したのかもしれない。ことに、少しも早く、なんとかしてそれを人に伝えたいという、烈しい欲望に燃えていたのであってみれば、恐ろしい歪曲をあえてしたのも、あたりまえであろう。しかし、それかといって、これらいっさいのことがほんとうにあったのだという点を、どうして信ぜずにいられよう? あるいは、おれがいま話しているより、千層倍も美しく、喜ばしく、光明にみちていたかもしれないのだ。たといこれが夢であるにもせよ、すべて事実なくては[#「事実なくては」はママ]ならないことなのだ。なんなら、諸君にひとつ秘密を教えてあげようか、これは始めから終わりまで、決して夢ではないかもしれないのだ! なぜなら、その後で、夢などに現われてくるはずがないほど、深刻味に充ちたある真実が生じたからである。まあ、この夢は、おれの心が生み出したものとしておこう。が、はたしておれの心だけの力で、その後起こったような恐るべき真実を、生み出せるものだろうか?どうして[#「だろうか?どうして」はママ]おれがそんなことを独力で考え出したり、心で生み出したりなどできるものか。いったいおれの浅薄な心や、とるにたらぬ気まぐれな頭が、そのような真実の啓示をなし得るまでに、高揚するだろうか! まあ、考えてもみてくれたまえ、おれは今まで隠していたのだが、今こそこの真実までもうち明けてしまおう。ほかでもない、おれは……彼ら一同を堕落させてしまったのだ!

      5

 そう、そうなのだ、とどのつまり、おれは彼ら一同を堕落させてしまったのだ! どうしてそういう成り行きになったかは知らないが、とにかくはっきり覚えている。夢は幾千年かを飛び越して、ただおれに渾然としたものの印象を残したのみである。おれは要するに、堕罪の原因が自分だったということしか知らない。ちょうど豚に寄生するいまわしい旋毛虫のように、数々の国に病毒を伝染させるペストの黴菌のように、自分の来るまで罪というものを知らなかった幸福な国を、おれはすっかり毒してしまったのだ。彼らはうそをつくことを習い、うそを愛するようになり、うその美しさを知ったのである。いや、その始まりはおそらく無邪気[#「無邪気」に傍点]なことだったのであろう、冗談から、媚態を装うことから、愛の戯れから、またはほんとうに目に見えぬ黴菌みたいなものから、始まったのかもしれない。とにかく、このうその黴菌が彼らの心に侵入して、しかも彼らの御意に召したのである。それから、急速に情欲が生まれ、情欲は嫉妬を生み、嫉妬は残忍を生み……おお、おれはよく知らない。覚えていないが、やがてすみやかに、きわめてすみやかに最初の血がしぶきをあげた。彼らは驚愕して色を失った、こうして、分散し孤立しはじめたのである。種々な同盟が現われたが、今度はもう互いに対立するものばかりだった。非難攻撃がはじまった。彼らは羞恥というものを知り、羞恥を美徳に祭りあげた。名誉なる観念が生まれて、おのおのの同盟にそれぞれの旗印がかかげられた。彼らは動物を虐待しはじめ、動物も彼らのもとを離れて森に去り、彼らの敵となった。分裂、孤立、個性のための闘争が始まり、おれのだ、いや、お前のだ、といがみ合うようになった。彼らは種々まちまちな言葉で話しはじめた。彼らは悲哀というものを知り、悲哀を愛するようになり、苦悶を渇望して、真理はただ苦悶によってのみ得られるなどといいだした。そのとき、彼らの間に科学が出現した。彼らが邪悪になったとき、彼らは四海同胞とか人道とかを口にし、この観念を理解した。彼らが罪を犯すようになってから、正義というものを発明して、数々の法典を書き、それを保存するようになった。そして、法典を保証するために、ギロチンを造った。彼らは自分たちの失ったものについては、きわめておぼろげな記憶しか持っていず、かつて自分たちが無垢で、幸福であったということを、信じたがらないほどになった。彼らはそういった以前の幸福の可能をすら嘲笑し、これを空想と呼んだ。彼らはそれを具体的な形で、思い浮かべることさえできなくなったが、ここに不思議な奇妙なことというのは、昔の幸福に対する信仰を失って、それをお伽噺と呼んでいるくせに、彼らはさらにふたたび無垢な幸福の身の上になりたいと願うあまりに、幼な児のごとくおのれの心の望みの前に跪拝し、この希望を神化して、無数の神殿を建立し、おのれ自身の理想、おのれ自身の「希望」に祈りを捧げるようになった。そのくせ、この希望の実現の不可能なことを十分信じているのだが、しかもなおこれを礼拝して、涙を流しながら跪拝するのだった。ところが、万が一、彼らの失った無垢で幸福な状態に帰れるようなことになったら、もしだれかが突如それを彼らに示して、お前たちはこれに復帰することを望むかとたずねたならば、彼らはきっとそれを断わったに違いない。
 彼らはおれに答えて、こういった。「われわれはうそつきの意地わるで、不正なものであってもかまわない。われわれはそれを承知して[#「承知して」に傍点]、そのために哀泣し、われとわが身を苦しめさいなんでいるばかりか、やがてわれわれを裁くであろう名も知らぬ大慈大悲の判官以上に、みずからを罰しているかもしれぬ。しかし、そのかわり、われわれには科学があるから、それによって、われわれはふたたび真理をさがし出すが、今度はもう意識的にそれを受け入れるのだ。知識は感情よりも尊く、生の知識は生よりも尊い。科学はわれわれに叡知を授け、叡知は法則を啓示する。幸福の法則の知識は幸福以上だ」とこんなふうに彼らはいった。そういった後、彼らの一人一人が、だれよりも一番、自分自身を愛するようになった。またそれよりほかには、なんともしようがなかったのだ。一人一人のものが自分の個性にかまけて、他人のそれを一生懸命に低下させ、縮小させようと努め、それに全生涯を費やすのであった。奴隷制度が出現した。中には好んで奴隷になるものさえ出てきた。弱者は進んで強者に屈服したが、ただしそれは自分よりさらに弱いものを圧迫するのに、強者の力をかりんがためである。やがて義人《ただしきひと》が現われて、これらの人々のもとにおもむき、涙を浮かべて彼らの誇りを説き、彼らが中庸も、調和も、羞恥の念も失いつくしたことを責めたが、人々は彼らを嘲り、石をもって打擲した。神の殿《みや》の閾で聖なる血潮が流された。そのかわりに、またこういうことを考える人が出てきた。どうかしてすべての人がさらにふたたび結合して、一人一人が自分自身をだれより最も愛しながら、それと同時にだれひとり他人の邪魔をせず、そんなふうにして一見、和協せる社会に住んでいるようにできないものだろうか。この理念からして、幾つも大きな戦争がもちあがった。そのくせ、すべての交戦軍は、科学と、叡知と、自衛感情とは、結局、人間を協和ある理性的な社会に融合せしめるに相違ないと、かたく確信していた。そういうわけで、さしあたり仕事を早めるために、「叡知の人々」は、彼らの理想を解しない、叡知のない人々を、一刻も早く殲滅《せんめつ》しようと努めた。その連中が彼らの理想の勝利を妨げないためなのである。けれど、自衛の感情は急速に衰えていって、今度は高慢な連中や淫蕩漢が現われて、すべてかあるいは無を端的に要求しだした。すべてを獲得するためには悪行に訴え、それが成功しなかった場合には、自殺に走った。無価値の中で永久におちつくために、虚無と自己破壊を崇める宗教が現われた。ついにこれらの人々も、無意味な労苦に疲れて、その顔には苦痛の色が浮かんできた。これらの人々は、苦痛は美である、なんとなれば、ただ苦痛の中にのみ思想があるから、と高唱した。彼らは苦痛を歌にうたった。
 おれは両手を折れんばかりによじながら、彼らの間を歩きまわり、彼らの上を哭き悲しんだ。が、ことによったら、彼らがまだ無垢でうるわしく、その顔に苦痛の浮かんでいなかった時分よりも、もっと強く彼らを愛していたかもしれない。おれは彼らに穢された地球を、楽園であった時よりもさらに愛するようになった。それは、ただ悲しみというものが現われたからにすぎない。しかし、それは自分のため、ただ自分のためばかりなのだ。おれは彼らを憐れみながら泣いたのだった。おれは彼らに両手をさし伸べながら、絶望のあまりわれとわが身を責め、呪い、軽蔑した。おれは彼らにそういった。――これはみんなおれがしたのだ、おれ一人だけの仕業だ、おれが彼らに淫蕩と、病毒と、虚偽をもたらしたのだ!と。[#「たのだ!と。」はママ]おれは彼らに、おれを十字架にかけて磔《はりつけ》にしてくれと哀願した。おれは彼らに十字架の造り方を教えてやった。おれはおのれみずからを殺すことができなかった、それだけの力がなかったけれども、彼らからその苦艱を受けたかったのだ。おれは苦艱に渇し、その苦艱の中に、おれの血が最後の一滴まで流れるように、と渇望したのだ。しかし、彼らはおれのことを笑うばかりで、はてはおれのことを気ちがい扱いするようになった。彼らはおれを弁護して、自分たちはお前から、ただほしいと思ったものを受け取ったばかりなのだ、今日《こんにち》あるいっさいのものは、すべてかくあらねばならぬものなのだ、といった。とどのつまりには、お前は自分たちにとって危険になってきた、もしお前が口をつぐまなければ、瘋癲病院へ入れてしまうぞ、と宣告したほどである。その時、いいがたい悲しみがおれの魂に流れ込んで、ひしひしと胸をしめつけたので、おれは今にも死にそうな気がした……その時……いや、まあ、そういったわけで、おれは目をさましたのだ。

 もう朝だった、といって、まだ、明けきってはいなかったが、かれこれ五時過ぎであった。おれは例の安楽いすに腰かけたままであった。蝋燭はすっかり燃えつきて、大尉の部屋でもみんな寝てしまって、あたりはこの家として珍しくしんとしていた。まず第一におれのしたことは、なみなみならぬ驚きに打たれて、跳びあがったことである。こんなことは、ごくつまらないこまごました点にいたるまで、今までかつてなかったことである。例えば、おれは決して安楽いすにすわったまま、寝込むようなことはなかったのだ。と、そのとたん、おれがぼんやり立って、徐々に正気に返っているうち、ふと前のテーブルにおかれたピストルが目に入った、ちゃんと弾丸がこめられて、用意ができているやつだ、――けれど、おれはたちまちそれをわきのほうへ押しやった! おお、いまこそ生きるのだ、あくまで生きるのだ! おれは双手を挙げて、永遠の真理に呼びかけた。呼びかけたのではない、泣きだしたのだ。狂喜の念、はかり知れぬ狂喜の念が、おれの全存在を揺りあげた。そうだ、生活だ、そして伝道だ! 伝道ということに、おれは即座に決心した。そしてもう、もちろん、生涯の仕事なのだ! おれは伝道に出かける、おれは伝道したいのだ、――何をだって? 真理だ、なぜなら、おれはそれを見たのだもの、この目でちゃんと見たのだもの、真理の光栄を残りなく見たのだもの!
 こうして、おれは現に、今日まで伝道している! のみならず、だれよりも一番、おれのことを冷笑した連中を、ことごとく愛している。なぜそうなのか知らない、説明ができない。がそれでいいのだ。彼らにいわせれば、おれは今でもしどろもどろのことをいってるそうだ。つまり、今からもうあんなにしどろもどろでは、さきざきどんなことになるのやら、というわけだ。正真正銘、そのとおりである。おれはしどろもどろのことをいっていて、さきざきもっとひどくなるかもしれない。もちろん、伝道のこつを、つまりいかなる言葉、いかなる行為で伝道するかを発見するまでには、幾度もしどろもどろをきわめるだろう、なにぶん、これはとても実行の困難なことなのだから。おれにとっては、それは今でも火を見るより明らかなのだが、しかし聴いてもらいたい。まったくだれだって、少しもまごつかない者なんかありゃしない! けれど、すべての人間は、同じものを目ざして進んでいるのではないか。少なくとも、すべての人間が、賢者から、しがない盗人風情にいたるまで、道こそ違え、同じものを目ざして行こうとしているのだ。これは月並みな真理ではあるが、この中に新しいところがある。というのはほかでもない、おれはあまりひどくはしどろもどろになり得ない。なぜなら、おれは真理を見たからだ。おれは見た。だから、知っているが、人間は地上に住む能力《ちから》を失うことなしに、美しく幸福なものとなり得るのだ。悪が人間の常態であるなんて、おれはそんなことはいやだ、そんなことはほんとうにしない。ところで、彼らはみんな、ただおれのこうした信仰を笑うのだ。しかし、どうしてこれが信ぜずにいられよう、おれは真理を見たのだもの、――頭で考え出したものやなんかと違って、おれは見たのだ、しかと見たのだ。そして、その生ける形象[#「生ける形象」に傍点](かたち)が永遠におれの魂を充たしたのだ。おれはそれをばあまりにも充実した完全さで見たものだから、そういうことが人間にあり得ないとは、信じられないのである。さあ、としてみれば、どうしておれのいうことがしどろもどろなのだ? もちろん、横道にそれることはあるだろう、しかも幾度もあるかもしれない、ひょっとしたら、借り物の言葉でしゃべるかもわからない。が、それも長いことではない。おれの見た生ける形象《かたち》は常におれとともにあって、たえずおれを匡《ただし》し、指向してくれるだろう。なに、おれは元気だ、おれは生き生きしている。だからあくまで進む、よしんば千年だって進む。実のところ、おれは初め、彼らを堕落させたことを隠そうかとさえ思ったけれど、それはおれの誤りだった、――これがそもそも第一の誤りだったのだ! しかし、真理が、お前はうそをついてるぞ[#「うそをついてるぞ」に傍点]とささやいて、おれを守護し、正道に立ち帰らしてくれた。が、いったいなんとして楽園をつくったものか、おれは知らない。なぜなら、言葉でつたえることができないからだ。夢がさめてから、おれは言葉を取り落としてしまった。少なくも、おもな最も重要な言葉をすっかり失くしたのだ。だが、かまわない、おれは出かける、そして始終うまずたゆまず話すつもりだ、というのは、自分の見たことを伝えるすべは知らないけれど、なんといっても、この目で、ちゃんと見たからである。ところが、笑い好きの連中にはこれが腑に落ちない。曰く、「夢を見たのさ、うわ言だ、幻覚だ」と。ええっ! いったいそれがそんなに賢いことなんだろうか? 彼らはいかにも得々としているのだ! 夢だって? 夢とはそもそもなんであるか? わが人生ははたして夢でないのか? いや、なお一歩すすんでいおう、よしんば、よしんばこれが決して実現することがなく、地上の楽園などあり得ぬこととしてもよい(なるほど、それはおれも納得している!)――が、それにしても、やっぱり伝道をつづけるつもりだ。しかしながら、これは実に造作のないことで、一日で、たった一時間で[#「たった一時間で」に傍点]、なにもかもたちまちできあがってしまうかもしれやしない! まずかんじんなのは、おのれみずからのごとく他を愛せよということ、これがいちばん大切なのだ、これがすべてであって、これ以上まったくなんにもいりゃしない。これさえあれば、いかに実現されるかは即座にわかってしまう。しかも、これは幾億度となくくり返しお説教された古臭い真理なのだが、どうもうまく生活に融け合わなかったのだ! 「生命の意識は生命よりも上のものだ、幸福の法則の知識は幸福よりも貴い」というやつ。つまりこいつとたたかわなければいけないのだ! だからおれはそれをやる。もしみんながその気になりさえすれば、たちまちなにもかもできあがってしまうのだがなあ。
     ―――――――――――――――――
 ところで、あの小さな女の子はさがし出した……伝道に出かけるのだ! 出かけるのだとも!
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集15 作家の日記下』、1970年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『おとなしい女』第二章(完)

※このテキストの校正に協力してくださった、「いとうおちゃ」さんに感謝します。

    第 2 章

   1 傲慢の夢

 ルケリヤはたった今、このままわたしのところに住みつこうと思わない、奥さんの葬式がすんだら、早速お暇をいただくと言明した。わたしは五分ばかり跪いて祈った。一時間も祈っているつもりだったが、のべつ考えて考えつめている。それも病的な考えばかりなのだ、病的な頭、――これではお祈りしたって仕方がない、――ただ罪になるばかりだ! 同じく不思議なのは、いっこうに眠くないことである。大きな、あまりに大きな悲しみの中では、最初の強烈な爆発の後では、いつも眠くなるものだ。死刑の宣告を受けた者は、最後の晩に異常によく眠るという話である。そう、それはそうなければならぬはずで、それが自然にかなっている、さもなければ、とてもたえきれないだろう……わたしは長いすに横になったが、結局、寝つけなかった……
    ――――――――――
 ……その当時、病気の六週間というもの、わたしたち、というのはわたしと、ルケリヤと、病院から雇って来た学校出の看護婦と、それだけが、昼となく夜となく彼女の看病をした。わたしは金に糸目をつけなかった。むしろ彼女のために金を費いたかったくらいである。医者はシュレーデルを呼んで、一回の往診に十ルーブリずつ払った。彼女が意識を取りもどしてからは、わたしはできるだけ彼女の目にふれないようにした。だが、いったいわたしは何をこまごまと描き立てているのだ。彼女はいよいよ床を離れると、やはりわたしがそのとき彼女のために買って来て、わたしの部屋に据えておいた特別のテーブルの前に、静かに黙って腰をおろした……そうだ、わたしたちが完全に黙り込んでいたのはほんとうである。といっても、後で口をきくようにはなったが、――しかしありふれたことばかりであった。わたしはもちろん、わざと口数を減らすようにしていたが、彼女のほうでも、よけいなことをいわないですまされるのを、喜んでいるらしい、それがよくわかった。彼女としては、それがまったく自然であるように思われた。――「あれはあまり激動を受けたのだ、あまりに打ち負かされたのだ」とわたしは考えた。「もちろん、なるべく早く忘れさせ、慣れさせるようにしなければならぬ」こういうわけで、わたしたちは黙っていたが、しかしわたしは心のうちで、将来の準備をすることを、瞬時といえども忘れなかった。わたしは彼女も同じだろうと考えた。わたしにとっては、あれはいま腹の中で何を考えているのかな、と推察するのが、かぎりなく興味ある仕事だった。
 もう一ついっておくが、おお、もちろん、彼女の病中、わたしがどんなに彼女の枕頭で呻吟しながら、苦痛を忍んできたかは、だれ一人知るものはないのだ。しかし、わたしは腹の中で呻吟したので、その呻き声を胸の中で圧し殺し、ルケリヤにさえ知られないようにした。彼女がいっさいを知らずに死んでしまおうとは、わたしとして想像することも、仮定することも、できなかった。彼女が危険の域を脱して、健康を恢復しはじめるにおよんで、わたしは忘れもしない、たちまちすっかり安心してしまった。のみならず、わたしは自分たちの将来[#「自分たちの将来」に傍点]をできるだけさきへ延ばして[#「さきへ延ばして」に傍点]、当分はなにごとも現在のままにしておこう、と決心した。そうだ、そのときわたしの心中には何やら奇妙な、特殊なことが起こったのだ。どうも、そうよりほかにいいようがない。――わたしは勝ち誇っていて、その勝ったという意識だけで、十分満足なのであった。こんなふうにして、一冬は過ぎた。おお、わたしはかつてそれまでなかったほどに満足であった。しかも、それが冬じゅうつづいたのである。
 さて、わたしの生涯には、一つの恐ろしい外面的事情があって、それがその時まで、つまり妻の事件が起こるまで、毎日毎日わたしの心を圧していた。というのは、ほかでもない、――名声を失墜して、連隊を追い出されたことである。一言にしていえば、わたしに対して暴虐な不正が行なわれたのである。もっとも、わたしは重苦しい性格のために、同僚たちからきらわれていた。あるいは笑うべき性格のため、といったほうがいいかもしれない。なにしろ世の中には、当人にとっては高尚なもので、心の底に秘蔵し尊重しているものでも、同時になぜか、仲間の連中を笑わせるような場合があるものである。まったくのところ、わたしは学校時代にも、ついぞ人から愛されたことがなかった。わたしはどこへ行っても、いつもきらわれものであった。わたしはルケリヤにまで好いてもらえないのだ。ところで、連隊での事件は、わたしが毛嫌いされていた結果とはいい条、疑いもなく偶発的性質をおびていたのである。わたしがこんなことをいうのは、あり得たかもしれぬが、またあり得なかったかもわからないような偶発事のために、――浮雲のごとくかたわらを通り過ぎたかもしれない事情の、不幸な堆積のために身を滅ばすほど、癪にさわる、我慢のならぬことは、ほかにないからである。知識階級の人間にとっては屈辱である。事件というのは、次のとおりであった。
 ある劇場で、わたしは幕間に食堂へ行った。軽騎兵のAがとつぜん入って来るなり、そこに居あわせた大勢の将校や公衆の前で大声に、仲間の軽騎兵二人を相手に、わが連隊のベズームツェフ大尉が廊下でたったいま醜態を演じたが、「どうやら酔っぱらっていたらしい」と話しだした。その会話はちぐはぐなまとまりのつかないものでおわったし、それに第一、話が間違っていた。というのは、ベズームツェフ大尉は酔っぱらっていなかったし、醜態というものも実は醜態ではなかったのだから。軽騎兵たちは別の話をしだして、それでおしまいになった。ところが、翌日になると、そのうわさがわが連隊にまで聞こえた。すると、連隊ではさっそく、この隊のものでそのとき食堂にいたのは、わたし一人きりであったにもかかわらず、A軽騎兵がベズームツェフ大尉のことで生意気な口をきいていた時、わたしがそのそばへ近寄って注意をしたうえ、その話をやめさせなかったのはけしからんといいだした。しかし、いったいなんのためにそんな必要があるのだ? よしAがベズームツェフにふくむところがあったとしても、それは彼らの私事であって、わたしがなんでそれに捲き込まれねばならぬのだ? しかるに、将校たちは、それは私事ではなくて連隊に関することだ、といいはじめた。そして、そこに居あわせたわが連隊の将校はわたし一人きりだったから、わたしはそれでもって、そのとき食堂にいた将校や公衆一同に、わが連隊には自分の名誉や、連隊の名誉に対して、あまり敏感でない将校もあり得ることを証明したものだ、とこういうわけである。わたしはこうした断定に服することができなかった。みんなはわたしに向かって、少々手遅れではあるが、まだ今でも、わたしが正式にAと話し合いをつけさえすれば、事態を収拾することもできる、と仄めかしてくれた。わたしはそんなことはいやだったし、それに少しいらいらしてもいたので、傲然と拒絶した。それからすぐさま退官願いを出した、――これがいっさいの事情である。わたしは傲然としていたものの、しかし打ちひしがれた気持ちで連隊を出た。わたしは意気沮喪してしまった。ちょうどその時、折も折、モスクワにいた姉の夫が、わたしたちの小さな財産を蕩尽して、わたしの分け前も、――ほんのぽっちりではあったけれど、いっしょに費われてしまったので、わたしは一文なしで往来へほうり出されたわけである。わたしは民間の勤め口にありつくこともできたのだが、はねつけてしまった。光輝ある軍服をつけた後で、どこかの鉄道などへ行く気はしなかったからである。それで、恥ずかしい思いをするなら、うんと恥ずかしい目をしろ、屈辱なら屈辱けっこう、堕落するなら、徹底的に堕落しろ、悪けりゃ悪いほどいい、――こういったような態度を選んだのである。それから、暗い思い出の三年間、そのあいだには、ヴャーゼムスキイの家に泊まったことさえある。一年半前に、モスクワでわたしの教母にあたる金持ちの老婆が死んで、遺言状を開いて見ると、思いがけなく、ほかの人たちのお相伴で、わたしも三千ルーブリの金を残してもらっていた。わたしは一思案して、即座に自分の運命を決したのである。わたしは人にゆるしを乞わないで、質屋を始めることにきめた。まず金、それから小さな住居、そして、――以前の思い出から遠ざかった新生活、これがわたしの計画であった。にもかかわらず、暗い過去と、永久に傷つけられたわたしの名誉は、二六時中やむ時もなくわたしを悩ますのであった。が、そのときわたしは結婚した。偶然かどうか、――それは知らない。しかし、彼女をわが家へ迎え入れるにあたって、わたしは親友を得たと考えた。わたしにはあまりにも親友が必要だったのである。しかし、わたしはこの親友を養成し、仕上げをし、あまつさえ征服しなければならぬことを、明らかに見てとった。いったいこの十六になったばかりの先入見を持った娘に、いきなりだしぬけに何か説明してやることができたろうか? 例えば、恐ろしいピストル事件の偶然な助けがなかったら、どうしてわたしは自分が臆病者でなく、連隊でわたしを臆病者と宣告したのは不正であったことを、彼女に信じさせることができよう? しかし、変事はちょうどいい時に来てくれた。ピストルの試練にたえたわたしは、自分の陰鬱な過去ぜんたいに復讐したのである。このことはだれも知らなかったが、彼女[#「彼女」に傍点]は知っていた。これはわたしにとってすべてであった、なぜなら、彼女はわたしにとってすべてであり、空想裡におけるわたしの未来の希望の全部であったから! 彼女は、わたしが自分のために用意していた唯一の人であって、ほかの人間は入用がなかった、――その彼女がいっさいを知ったのだ。少なくとも、あまりあわててわたしの敵に加担しようと急いだのだが、正しくなかったことを知ったのである。この想念はわたしを有頂天にした。彼女の目にわたしはもはや卑劣漢ではなく、ただ風変わりな人間、というくらいなものであった。今ああいうことの起こったあとでは、こう考えるのも、わたしとしてあながちうれしくないことでもなかった。風変わりは悪徳でないどころか、時としては、かえって女性をひきつけるものである。手っとり早くいえば、わたしは故意に大団円を遠ざけたのである。あの出来事はさしあたり、わたしを安心させるのに十分すぎるくらいであり、わたしの空想にとって、あまりに多くの画面と材料を含んでいた。この、わたしが空想家だったということがいけなかったのだ。つまり、わたしには材料が十分だったので、彼女は待っていてくれるだろう[#「彼女は待っていてくれるだろう」に傍点]と考えたのである。
 こうして、一種の期待の情のうちに一冬過ぎた。わたしは、彼女が自分の小さいテーブルの前に腰かけているのを、そっとぬすみ見るのが好きであった。彼女は編物や肌着いじりなどをし、晩には時おり、わたしの書棚から本をとり出して読んでいた。その書物の選択も、わたしのために有利に転向していることを証明するものでなければならなかった。彼女はほとんどどこへも出て行かなかった。食後、たそがれ前に、わたしは毎日彼女を散歩に連れ出した。こうして、わたしたちは運動をしたが、以前のような、まったくのだんまりとはかぎらなかった。わたしは、二人は黙っているのではない、仲よく話し合っているのだ、といった様子をすることに努めてはいたものの、前にもいったとおり、わたしたちは二人とも、くだくだしいことはいわないようにしていたのである。わたしはことさらそうしたのだが、彼女にはぜひとも「余裕を与え」なければならぬものと考えていた。もちろん、奇妙なことながら、自分では彼女をぬすみ見るのが楽しいのだけれども、冬じゅう一度も、わたしにそそがれた彼女の視線を捉えることができなかったのに、そのことはほとんど冬の終わりまで、ついぞ頭に浮かばなかった! わたしはそれを彼女の内気からくることと思っていた。それに、病後の彼女は、いかにも臆病らしくおとなしい、弱々しい様子をしていたのである。いや、やはり時を待つにかぎる、そうすれば、「あれのほうから急にこっちへ近づいて来るだろう……」
 この想念は否応なく、わたしを有頂天にさせた。つけ加えておくが、ときどきわたしはまるでわざとのように、われとわが心を燃え立たせて、実際、彼女が憎らしくなるまで、自分の魂と知性を緊張させたものである。しばらくこんな様子でつづいていった。しかし、わたしの憎悪はどうしてもわたしの心中に成熟し、根を固めることができなかった。それに、第一、わたし自身、こんなことは単なる遊戯でしかないように感じていたのだ。おまけにそのときわたしは、寝台や衝立てを買って婚姻を破棄したけれど、彼女が罪人であるとは、どうしても金輪際思えなかったのである。それも、彼女の犯行について、軽率な判断を下したからではなく、当日まだ寝台を買わぬ前から、もう彼女をゆるしていい根拠を、完全につかんでいたからである。一口にいえば、これはわたしとして奇怪なことである、なぜなら道徳的にはわたしは厳格な人間なのだから。ところが事実は反対で、わたしの目から見ると、彼女はあまりに打ち負かされ、あまりに卑しめられ、あまりに、圧しひしがれていたので、わたしは時として、悩ましいまでに、彼女に憐憫を感じるのであった。もっとも、それにもかかわらず、どうかすると、彼女が屈服してしまったと思うと、うれしくてたまらなくなることがあった。わたしたちが平等ではないという考えが気に入ったのである……
 ふとしたことで、わたしはこの冬の間に、ことさら二、三の善行を施したものである。わたしは二つの債務をゆるし、一人の貧しい女にぜんぜん質草なしに金を与えた。そして、妻にもこのことをいわなかった。また第一、彼女に知ってもらいたさにしたことではないのだ。しかし、女自身が礼に来て、跪かんばかりに感謝した。こうして、事はばれてしまった。わたしが見受けたところでは、この女のことを聞いた時、彼女も実際、満足を感じたらしかった。
 けれど、やがて春が来て、早くも四月の半ばとなった。窓の二重枠は取りはずされ、太陽は明るい大幅の光線で、わたしたちの沈黙がちな部屋を照らすようになった。が、わたしのまえに幕が垂れて、わたしの知性を盲目にしていた。宿命的な恐ろしい幕! ところが、どうしてそんなことになったのか知らないが、その幕がとつぜんぱったり落ちて、わたしは急に目があき、いっさいを理解した。それは偶然だったのか、あるいはそうした時期が到来したのか、それとも、太陽の光線がわたしの鈍った知性の中に、思考と推察の火を点じてくれたのか? いや、そこには思考も推察もなかった。ふいに一つの血管が、死に瀕していた血管が、震えだして生き返り、鈍くなっていたわたしの魂と、わたしの悪魔的な慢心を照らし出したのである。その時は急に、席から飛びあがったようなあんばいであった。そうだ、それはまったく唐突に、不意打ちにやって来たのだ。それは日暮れまえ、食後の五時頃に起こったことである……

   2 突如幕は落ちた

 その前に一言しておく。まだひと月ばかり前に、わたしは彼女の異様なもの思いに気がついた、それはもはや沈黙ではなくてもの思いである。これも突如として気のついたことなのである。彼女はそのとき頭を縫物のほうへかしげて、仕事をしており、わたしが彼女を見ているのを知らずにいた。そのおりふいにわたしがはっと思ったのは、彼女がひどくやせ細って、顔は青ざめ、唇まで白々としていることであった、――これがもの思わしげな様子と一つになって、寝耳に水の極度な驚きを呼び起こしたのである。わたしはもうその前にも、小さな乾いた咳を聞いたことがあった。夜中には、とくに耳についた。わたしはいきなり席を立って、彼女にはなにもいわないで、シュレーデルに往診を頼みに行った。
 シュレーデルは翌日やって来た。彼女はひどく驚いて、シュレーデルとわたしの顔を見くらべていた。
「だって、あたしなんでもないんですのよ」と彼女は曖昧な薄笑いをしていった。
 シュレーデルはろくすっぽ、彼女を見もしなかった(こういう医者はどうかすると、えらそうにぞんざいなやり方をするものである)。ただ別室でわたしに向かって、これは病後の名ごりだから、春になったら、どこか海岸へでも転地したらよかろうが、それができなければ、ただの別荘へでも移ったら、といっただけである。一口にいえば、体がよわっているか、それともなにか事情があるのだという以外には、何もいわなかったのである。シュレーデルが出て行くと、彼女はとつぜんもう一度、恐ろしくまじめな目つきで、わたしの顔を見ながらいった。
「あたし、どっこも、どっこも悪かありませんのよ」
 しかし、いってしまってから、急にあかい顔をした、どうやら恥ずかしくなったらしい。見たところ、たしかにそれは羞恥であった。ああ、今こそわかる、――彼女はわたしがまだ彼女の夫[#「彼女の夫」に傍点]であって、相変わらず彼女のことをさもほんとうの夫らしく心配しているのが、恥ずかしかったのである。しかし、その時、わたしはそれがわからなかったので、あかくなったのを従順のせいにしてしまった(これが幕なのだ!)。
 それから、ひと月ばかりたった四月の、太陽の明るいある日の午後四時すぎ、わたしは帳場にすわって計算をしていた。ふと聞くと、彼女はわたしたちの居間で、自分の小机に向かって仕事をしながら、低い低い声で……歌をうたいだした。この珍しい出来事は、わたしの心に震撼的な印象を与えた。わたしはいまだにその印象がよくわからないのである。それまで、わたしはほとんど一度も、彼女の歌うところを聞いたことがなかった。ただ、彼女を家へ迎え入れたごく初めの頃、まだピストルで的を射ったりして、ふざけることのできた時分は別で、その当時は彼女の声も、正確ではなかったが、まだ、かなり力強く、朗らかで、きわめて愉快な、健康らしい声であった。ところが、今は歌声は妙に弱々しく、――うら悲しいというわけではないが(それは何か小唄だった)、声に何やらひびの入った、破れたようなところがあって、まるで声の調子がとれず、歌そのものまで病気しているようであった。彼女は小声で歌っていたが、急に節が高くなったかと思うと、ぷつりと切れてしまった、――なんというかわいそうな声、なんというみじめなと切れ方。彼女は軽く咳払いをして、ふたたび静かに静かに、聞こえるか聞こえないかの声で歌いだした……
 人はわたしの興奮を笑うだろうが、どうしてわたしが興奮したかは、決してだれもわかる人はあるまい! いや、わたしはまだそのとき彼女がかわいそうなのではなかった。それはなにかしらまるで別なものであった。初め、少なくとも最初の数分間、突如として疑惑の念と恐ろしい驚愕が現われたのである。それは恐ろしい、奇妙な、病的な、ほとんど復讐的ともいうべき驚きであった。『歌をうたっている、しかもおれのいる前で! あれはおれのことを忘れたんだろうか、いったい[#「あれはおれのことを忘れたんだろうか、いったい」に傍点]?』
 魂の底まで揺り動かされて、わたしはその場にたたずんでいたが、やがて急に立ちあがると、帽子を取って、なんの考えもなく部屋を出た。少なくともどこへ、なにしに行くのか知らなかった。ルケリヤが外套を渡してくれた。
「あれはうたうのか?」とわたしはついルケリヤにいってしまった。相手は合点がゆかなかった、そして、合点のゆかないままに、わたしを見つめていた。もっとも、わたしはまさにえたいの知れない人間ではあった。
「あれがうたうのはこれが初めてかね」
「いいえ、あなたのお留守には時々おうたいなさいます」とルケリヤは答えた。
 わたしはなにもかも覚えている。わたしは階段をおりて、通りへ出ると、足にまかせて、どこともなく歩きだした。街角まで行って、どこやらぼんやり眺めはじめた。そこは人がしきりに往き来して、人を押したり突いたりするのであったが、わたしはそれを感じなかった。わたしは辻馬車を呼んで、なんのためとも知らず、ポリツェイスキイ橋まで行かせようとした。が、それも急にやめて、馬車屋に二十コペイカ玉を一つやった。
「これは無駄に足を止めさした罰金だ」と、わたしは意味もなく笑いかけながらいったが、心の中にはふいに一種の歓喜が湧きあがってきた。
 わたしは歩みを早めてわが家へ引っ返した。ひびの入ったような貧弱な内部の歌が、ふとまたもやわたしの心中に響きだした。わたしは息がつまりそうであった。落ちた、例の幕が目から落ちたのだ! わたしのいるところでうたいだしたというのは、つまり、わたしのことを忘れたからだ、――これは明瞭である。そして、これは恐ろしいことだった。わたしの魂はそれを感じた。しかし、歓喜は心の中に輝いて、恐怖を圧倒したのである。
 おお、運命の皮肉! なにぶんこの一冬じゅう、わたしの心にはこの歓喜以外なにもなかったし、またあり得なかったのだが、しかしわたし自身はこの冬じゅうどこにいたのか?わたしは[#「いたのか?わたしは」はママ]はたして自分の心のそばに張り番していたろうか?わたしは[#「ろうか?わたしは」はママ]大急ぎで階段を駆けあがった。おずおず入って行ったかどうか、それは知らない。ただ床ぜんたいが、さながら波打って、わたし自身はまるで河を泳ぐようにして入ったこと、それを覚えているだけである。わたしが部屋へ入って行くと、彼女はもとの場所にすわったまま、うなだれて裁縫をしていたが、もううたってはいなかった。ちらとなんの好奇心もなくわたしのほうを見たが、それはまなざしとはいえない、ただ人が部屋に入って来る時に見せる、いつもの無関心なしぐさにすぎなかった。
 わたしはいきなりそのほうへ歩み寄って、気でも狂った人のように、ぴったりとそのそばの椅子に腰をおろした。彼女はぎょっとしたように、素早くわたしの顔を見た。わたしは彼女の手をとったが、何をいったか、いや、何をいおうとしたか覚えがない。なぜなら、正しく言葉を発することすらできなかったからである。わたしの声はと切れがちで、思うままにならなかった。それに、わたしはいうべき言葉も知らず、はあはあ息を切らしているばかりであった。
「さあ、話そう……ねえ……何かいっておくれ!」とわたしはだしぬけに、なにやらばかげたことを、呂律も怪しくいいだした、――なに、ばかだの利口だのといっているどころの騒ぎか? 彼女はもう一度ぴくりと身ぶるいして、わたしの顔を見つめながら、烈しい驚愕におそわれたようで、一歩あとずさりした。とふいに――厳しい驚き[#「厳しい驚き」に傍点]が彼女の目に現われた。そうだ、驚きである、しかも厳しい[#「厳しい」に傍点]驚きである。彼女は大きな目でわたしを見つめていた。この厳しさ、この厳しい驚きは、一挙にわたしを粉砕したのである。「では、お前はまだ愛がいるのか? 愛が?」女は口をつぐんではいたものの、この驚きの中に、突如こういう質問が聞こえたようであった。わたしはすべてを読みとった。すべてなにもかも。わたしの内部ではいっさいのものが震撼し、わたしはそのまま彼女の足もとへ崩れ落ちた。そうだ、わたしは彼女の足もとへくずおれたのだ、彼女は早くもおどりあがったが、わたしは異常な力で彼女の両手を抑えた。
 わたしも自分の絶望の深さを十二分に理解した。まさに理解していたのだ! しかし、正直なところ、歓喜はわたしの胸の中でたえがたいまでに沸きかえって、そのまま死ぬのではないかと思ったほどである。わたしは陶酔と幸福にひたりながら、彼女の足を接吻した。そうだ、測りがたいはてしない幸福にひたっていたのだ。しかも、それは自分の救いのない絶望を残りなく理解したうえでの話である! わたしは泣き、何やらいったが、口がきけなかった。驚愕と恐怖の念は、とつぜん彼女の心中で一種不安な想念と入れ代わり、なみなみならぬ疑問と一変した。彼女は不思議な、むしろけうとい目つきでわたしを見つめ、なにやら一時も早く理解しようとして、にやっと笑った。わたしに足を接吻されるのがひどく恥ずかしかったので、彼女はそれを引っ込めたが、わたしはすぐ彼女の足ののっていた床の上を接吻した。彼女はそれを見ると、急に羞恥のあまり笑いだした(人が羞恥のあまり笑うということは、よくあるものだ)。ヒステリーが起こったのである。わたしはそれを認めた。彼女の両手はわなわなふるえていた。が、わたしはそのことは考えもせず、たえずしどろもどろにつぶやきつづけるのであった、――自分は彼女を愛している、自分はこの場から立ちあがりはしない。「お前の着物を接吻させてくれ……こうして一生お前に向かって祈らせてくれ……」それから何をいったか、わたしは知らない、覚えがない、――ただふいに彼女はしゃくりあげて泣きだし、がたがたと身ぶるいをはじめた。恐ろしいヒステリーの発作がおそってきた。わたしは彼女をびっくりさせたのである。
 わたしは彼女を寝床へ移した。発作が過ぎると、彼女は寝床の上にすわって、なんともいえないたたきのめされたような様子で、わたしの両手をつかみ、わたしに気をおちつけてくれと頼むのであった。「もうたくさんですわ、ご自分を苦しめないでちょうだい、心をおちつけてちょうだい!」こういって、またもや泣きだした。この晩ずっと、わたしは彼女のそばを離れなかった。わたしはのべつ彼女に向かって、今すぐ、二週間もしたら、ブーローニュへ海水浴につれて行く、お前はなんだかひびの入ったような声をしているが、自分はさっきそれを聞いた、この店はたたんで、ドブロヌラーヴォフに売ってしまう、なにもかも新しく始めるんだ、などと話しつづけたが、一番おもなことは、ブーローニュ、ブーローニュへ行くことであった! 彼女はそれを聞きながら、たえず恐れていた。その恐れは刻々に強くなっていった。しかし、わたしにとって大切なことはそれではなく、もういちど彼女の足もとに身を投げて、もういちど彼女の立っている床に接吻したい、接吻したい、彼女に祈りたいという欲望が、ますます抑えがたい力をもって募ってくることであった。「これ以上、わたしはもうお前になんにも、なんにも頼みゃしない」とわたしは一分ごとにくり返した。「わたしにはなんにも答えないでいい、わたしなんか目にもとめなくったってかまやしない。ただ隅のほうから、そっとお前を見ることだけ許しておくれ。おれのことなぞは、なにか自分の持ち物のように、小犬のように扱ってくれたらいいんだ」……彼女は泣いていた。
「あたしはまた、あなたがあたしをこのままにしておいてくださるものとばかり思ってましたわ[#「あたしはまた、あなたがあたしをこのままにしておいてくださるものとばかり思ってましたわ」に傍点]」ふいにこういう言葉が無意識に彼女の口からもれた。――これは彼女自身すらも、どんなふうにいったか、まるで気づかなかったかもしれないほど、なんの意識もなく発せられた言葉であるが、にもかかわらず、――ああ、それこそ最も重要な、最も運命的な言葉であり、その晩もっとも明瞭にわたしに理解された彼女の言葉であって、わたしはそのために、まるで心臓をナイフでぐさっと抉られたような気がした! この言葉はわたしにいっさいを説明した、いっさいなにもかも。しかし、彼女がそばにおり、わたしの目の前に見えている間は、わたしはがむしゃらに希望をつないで、めちゃめちゃに幸福であった。いうまでもなく、わたしはその晩、おそろしく彼女を疲らせた。わたしもそれは知っていたけれど、今にすぐなにもかもを一変してしまうのだ、とたえず心に考えていた。ついに夜中ちかくなって、彼女はすっかり気力が衰えはてた。わたしは眠るようにと勧めた。彼女はたちまちぐっすり寝入ってしまった。わたしは譫言《うわごと》がはじまるものと覚悟していた。譫言ははじまったが、きわめて軽いものであった。その夜、わたしはほとんど一分ごとに起きて、上靴ばきでそっと彼女を見に行った。あの時、三ルーブリで買ってやったあの貧弱な寝台、鉄の寝台に横たわっているこの病的な存在を眺めながら、わたしはその枕もとで、われとわが手を折れよとばかり揉み抜いた。わたしは跪いたが、眠っている彼女の足に(彼女の意志を待たず!)接吻することはあえてしなかった。わたしは跪いて神に祈りはじめたが、またしても飛びあがるのであった。ルケリヤはわたしの様子に目をつけて、のべつ台所から出て来た。わたしは自分から彼女のほうへ行って、もう床についてくれ、明日は「まるっきり別のこと」が始まるのだから、といった。
 またわたしもそれを盲目的に、もの狂おしいまでに、烈しく信じきっていた。おお、歓喜歓喜がわたしを溺らしたのである。わたしはひたすら明日の日を待っていた。何よりいけないのは、二、三の徴候があったにもかかわらず、わたしがいかなる不幸をも信じなかったことである。幕は落ちたにもかかわらず、理解力はまだぜんぶ恢復していなかったのである、その後も長く、恢復しなかったのである、――おお、今日まで、つい今日の日まで※[#感嘆符二つ、1-8-75] 第一、どうして、どうしてそのとき理解力の恢復のしようがあったろう。なにしろ、その時は彼女はまだ生きていたのだもの、彼女はわたしの目の前におり、わたしは彼女の前にいたのだもの。「あす彼女が起きたら、これをすっかり話してやろう。すると、彼女もすっかり合点してくれるだろう」これがその時のわたしの考え方であった。簡単明瞭、だからこそ有頂天だったのである!そこでかんじん[#「である!そこでかんじん」はママ]なのはブーローニュ行きである。なぜかわたしはひっきりなしに、ブーローニュにこそいっさいがある、ブーローニュにこそ何か終局的なものが含まれている、と考えていたのである。「ブーローニュへ、ブーローニュへ』[#「「ブーローニュへ、ブーローニュへ』」はママ]……わたしはもの狂わしい気持ちで、朝の来るのを待っていた。

   3 あまりにわかる

 これはなにしろ、つい数日前、五日前のことである。わずかに五日前、先週の火曜日のことなのだ! いや、いや、彼女がもうちょっとの間、ほんのちょっぴり待ってくれたら、――二人の間を閉していた闇を払いのけたものを――しかし、いったい彼女は安心していたのでなかったろうか? 翌日は、多少まごついた様子は見えていたものの、もう笑顔でわたしのいうことを聞いていた……要するに、この間じゅう、つまり、この五日間というもの、彼女にはまごついた様子というか、あるいは羞恥の色というか、が見えていたのである。同時に恐れてもいた、非常に恐れていたくらいである。わたしは争わない、狂人のように自己撞着もしまい。恐怖はたしかにあったが、なにしろ、彼女に恐れるなというほうが、じたい無理なのである。わたしたちはもう久しく、互いに他人みたいになりすまし、すっかり離れてしまっていたところへ、ふいにああいった事情が現われたのだから……しかし、わたしは彼女の恐怖には気をとめなかった、それほど新しいものが燦然と輝いていたのである!………もっとも、わたしが過ちを犯したことは事実である。疑いもなき真実である。それどころか、数々の過ちさえもあったろう。すでにわたしは翌日目をさますと、いきなり朝っぱらから(それは水曜日であった)、さっそく過ちをしでかしてしまった。ほかでもない、わたしは急に彼女を自分の親友にしてしまったのである。わたしはあまりに、あまりに急ぎすぎた。しかし、それでも懺悔は必要であった、欠くべからざるものであった、――いやいや、そんな生やさしいものではない、それは懺悔以上のものだった! わたしは生涯、自分自身に隠していたことすら隠さなかった。わたしは、冬じゅうひたむきに彼女の愛を信じていたことを、率直に語った。また質店はわたしの意志と知性の堕落にすぎず、自撻と自讃の個人的観念にすぎなかったことを、彼女に説明した。わたしはさらに、次のようなことを説いて聞かせた。あの時、わたしは芝居の食堂で実際おじけづいたのだ。自分の性格から、猜疑心から臆したのだ。というのは、周囲の様子に圧迫され、食堂に圧迫されたのである。いったい自分はどんなふうに見えるだろう、ばかげたものになりはしないだろうか、という考えに圧倒されたのである。要するに、決闘そのものではなく、ばかげたことになるのを恐れたのであった……ところが、その後では、それを自白するのがいやさに、みんなを苦しめ、またそのために彼女を苦しめた。彼女と結婚したのも、その腹いせに彼女を苦しめようがためだったのである。総じて、わたしはこの告白の大部分を、熱病にでもかかったような調子で語った。彼女のほうはどうかというと、わたしの両手をとって、もうやめてくれと頼んだ。「あなたは誇張していらっしゃるんですわ……あなたは自分で自分を苦しめていらっしゃるのよ」そういって、またもやさめざめと泣きだして、危くふたたび発作を起こしそうになった! 彼女はそれからもひっきりなしに、どうかそんなことは何もいわないように、思い出さないように、と哀願するのであった。
 わたしは彼女の哀願を気にとめなかった。もしくはあまり深く気にとめなかった。なにしろ春である。ブーローニュ行きである! そこには太陽がある。新しいわれわれの太陽がある、わたしはただその話ばかりしていたのだ! わたしは店を閉めて、営業をドブロヌラーヴォフに譲ってしまった。わたしはとつぜん彼女に向かって、教母からもらい受けた元金三千ルーブリを、ブーローニュ行きの旅費にあてて、それ以外はことごとく貧しい人たちに分け与え、その後、帰って来たら、新しい勤労の生活を始めよう、と申し出た。そして、わたしたちはそうすることにきめた。なぜなら、彼女はなんにもいわなかったからである……彼女はただにっこりほほ笑んだだけである。見受けたところ、彼女はどちらかというと、わたしを落胆させまいという優しい心づかいから笑ったものらしい。わたしは、自分というものが彼女にとって、重荷になっていることを見てとった。どうか、わたしがそれに気もつかないほど、愚かなエゴイストだとは思わないでもらいたい。わたしはすべてを看取していた、最後の一点一画まで看取して、だれよりもよく承知していた。わたしの絶望は挙げてことごとく、目の前にさらされていたのである!
 わたしは彼女に、自分のことや彼女のことや、いっさいなにもかも語って聞かせた。ルケリヤのことを話した。わたしは自分の泣いたことをも話した……おお、わたしとても幾度となく話題を変えたものである。あの種の事柄は、金輪際口に出すまいと努めもした。また彼女も一、二度は元気づいたように見えた。わたしはそれを覚えている、よく覚えている! なぜ諸君は、お前は見ていながらなに一つ認めなかった、などというのか? もしあのこと[#「あのこと」に傍点]さえ起こらなかったら、すべては復活したに相違ないのだ。現に彼女は、まだつい一昨日のこと、話題が読書のことにおよんで、彼女がこの冬読んだもののことにふれた時、グラナダ大司教とジル・ブラースのあの場面(フランスの作家ル・サージュの小説『ジル・ブラース』より)を思い出し、いろいろとわたしに話をして聞かせ、笑ったではないか。しかも、なんという子供らしい、まるで婚約時分のようにかわいらしい笑いであったか(瞬間、ほんの瞬間!)わたしはどんなにかうれしかったものである! とはいえ、この大司教の話はわたしをいたく驚かした。してみると、彼女は冬籠りをしていた間に、こういう傑作に笑い興じることができるほど、精神の安静と幸福を見いだしたわけである。してみると、彼女はもうまったく安心して、わたしが彼女をこのまま[#「このまま」に傍点]にしておくものと信じはじめたわけである。「あたしはまた、あなたがあたしをこのまま[#「このまま」に傍点]にしておいてくださるものと思っていましたわ」――現に彼女はあの時、火曜日に、こういったではないか! おお、十歳の少女みたいな考えである! そして、ほんとうにどこまでも、すべてがこのまま[#「このまま」に傍点]でいるものと信じていたのだ、――彼女は自分のテーブルに向かい、わたしはわたしのテーブルに向かって、そのままで二人は六十までも生きていくもの、と信じていたのである。ところが、とつぜん、――わたしが夫として近づいていく、そして夫には愛が必要である! おお、誤解、おお、わたしの盲目さ加減!
 わたしが歓喜をもって彼女をながめたのも、やはり誤りであった。じっと、我慢していなければならなかったのだ。ところが、歓喜が彼女を驚かしたのだ。しかし、その後はわたしも我慢して、もはや彼女の足に接吻などしなかった。わたしは一度も……なんというか、まあ、自分が夫であるといったような顔を見せなかった、――まったく、そんなことはわたしも夢にも考えていなかった、――わたしはただ祈ったのである! しかし、まんざらむっつりと黙り込んでいるわけにもゆかない、ぜんぜん口をきかずにもいられまいではないか! わたしはだしぬけに彼女に向かって、わたしは彼女の話を享楽しているので、彼女を自分よりずっと、ずっと、比較にならぬほど教養のある、知情の発達した人間だと思っている、とこう明言した。彼女は真っ赤になって、はにかみながら、あなたは誇張していらっしゃるといった。そのときわたしはついうかつに、我慢しきれなくなって、あのとき扉の外で彼女の決闘、――あの畜生を相手の純潔の決闘を立ち聞きしながら、どんなに歓喜を覚えたか、彼女の子供のように単純な心に現われる知恵と機知の閃きとに、いかなる悦びを感じたか、などというようなことを話してしまった。彼女は全身をぴくりとふるわし、またしても、あなたは誇張していらっしゃる、とおぼつかない調子でいったが、急にその顔が一面にさっと曇って、両手で顔をおおったと思うと、しゃくり泣きに泣きだした……その時もうわたしも自分を抑えかねて、またもや彼女の前にどうと身を投げ、またもやその足に接吻しはじめた。そして、またしてもとどのつまり、火曜日同様の発作におわった。これは昨晩のことであった、ところが、朝になると……
 朝になると※[#疑問符感嘆符、1-8-77] 気ちがい、この朝は、今日のことではないか、まださっき、ついさっきのことではないか!
 よく聞いて、思いをいたしてもらいたい。さきほど(これは昨日の発作の後のことである)、わたしたちがサモワールのそばでいっしょになった時、彼女はむしろその平静さでわたしを驚かしたくらいである。なんと、こういう次第だったのだ! ところで、わたしのほうは、昨日のことを思って、一晩じゅう戦々恐々としていた。さて、とつぜん、彼女はわたしのそばへ来て、わたしの前に立ちどまり、手を合わせて、(ついさっき、ついさっきのことなのだ!)こんなことをいいだした。――あたしは罪人で自分でもそれを承知しています、その罪が冬じゅうあたしを苦しめたのみか、今もやはり苦しめています……あなたの度量の広いお心は、身にあまってありがたいことに思っています……「あたし、あなたの忠実な妻になって、あなたを尊敬しますわ」……わたしはおどりあがって、気ちがいのように彼女を抱きしめた! わたしは彼女を接吻した、長い別れの後に初めて、夫として彼女の顔や唇に接吻した。ただわたしはなんだってさっき出かけたのだろう、たった二時間ばかりのことではあったけれど……わたしたちの外国旅券を取りに行ったのだ……なんということだ! ほんの五分間、五分間はやく帰ってさえ来たら?……帰って見ると、アパートの門に群がっているあの群集、わたしを見るあの目つき……おお、なんということだ!
 ルケリヤがいうには(おお、わたしは今後どんなことがあってもルケリヤを離さない。彼女はなにもかも知っている、彼女は冬じゅう家にいたのだから、彼女はすべてをわたしに話してくれるだろう)、その彼女がいうには、わたしが家を出てから帰って来るまで、ほんの二十分かそこいら前に、――ルケリヤは急に、なんであったかよく覚えてないが、たずねることがあって、居間にいた奥さんのところへ入って行った。見ると、彼女の聖像(例の聖母像)が取りはずされて、彼女の前のテーブルの上に置かれている。奥さんは、今までそれにお祈りでもしていたようなふうである。「奥さん、どうなさいました?」「どうもしやしないわ、ルケリヤ、あっちへ行って。――ちょっとお待ち、ルケリヤ」と彼女はそういって、ルケリヤのそばへ来て接吻した。「奥さん、あなたお仕合わせでいらっしゃいますか?」というと、「ああ、仕合わせだよ、ルケリヤ」「ねえ、奥さん、ほんとうのことを申しますと、旦那様はもうとっくにあなたにお詫びなさらなければならなかったのですわね……でも、仲直りがおできになってようございましたこと」「もういいわ、ルケリヤ、あっちへ行って、ルケリヤ」とにっこりして見せたが、それはいかにも変な笑い方であった。あまり変だったので、十分ばかりして、ルケリヤはまたふいと彼女を見に行く気になった。『奥さんは壁の際に、窓のすぐそばに立って、片手を壁にあてがい、その手に頭を押しつけて、こんなふうに立って、考えていらっしゃるんですの、わたしがこちらの部屋に立って見ているのにも、気がつかなかったほど、じっと考え込んで立っていらっしゃるのです。見てると、どうやら奥さんはにこにこ笑っていらっしゃるらしい。じっと立って考えながら、笑ってらっしゃる。しばらくそうして見ていてから、わたしはそっと引っ返して、出て行きました。腹の中では、いろいろ何かと考えていたのでございます。すると、急に窓のあく音が聞こえました。わたしはすぐまたそちらへ行って、「奥さん、寒いからお風邪を召すといけませんよ」と申しあげようと思って、ふと見ると、奥さんは窓の上にあがっていらっしゃるではありませんか、もうすっかり背丈いっぱいに身を伸ばし、開け放した窓の上に立って、わたしのほうへうしろを向けていらっしゃいます、手には聖像をお抱きになって。わたしは思わずどきっとして、「奥さん、奥さん!」と金切り声を立てました。奥さんはそれを聞くと、わたしのほうへふり返ろうとして、少し身動きなさいましたが、結局ふり返らずに、ひと足まえへ踏み出しなさいました、聖像を胸に抱きしめたまま、――そして、窓から身を投げておしまいなすったのです』
 わたしが門へ入った時には、彼女はまだ温かだった、わたしはただそれだけを記憶している。何よりはっと思ったのは、みんながわたしを見ていたことである。はじめがやがや騒いでいたものが、そのとき急に黙ってしまって、わたしの前に道を開いた。と……そこには聖像を抱いた彼女が横たわっていたのである。わたしは無言でそのそばへ寄り、長いこと見つめていたのを、闇を透すようにぼんやり覚えている。みんなは人垣をつくって、わたしに何やらいっている。ルケリヤもそこにいたのだが、わたしは気がつかなかった。当人の話では、わたしに口をきいたとのことである。わたしが覚えているのは、一人の町人だけである。この男はのべつわたしに向かって、「血が一っちょぼ口から出たよ、一っちょぼ、一っちょぼ!」と叫んでは、そこいらの石についていた血をさすのであった。わたしはどうやらその血に指で触ったらしい。指を汚したので、その指を見ていると(これは覚えがある)、その男はのべつ「一っちょぼ、一っちょぼ!」といっていた。
「いったいその一っちょぼって、なんのことだ?」わたしはありったけの声を出してこうわめくと、両手を振りあげて、その男に飛びかかったということである……
 ああ、むちゃだ! むちゃだ! 誤解だ! 真実とは思えない! 不可能なことだ!

   4 わずか五分の遅刻

 いったいわたしのいい分が違っていたのだろうか? はたしてこれが真実らしいだろうか? はたしてこれをあり得ることといえるだろうか? なんのために、何がゆえにこの女は死んだのか?
 おお、信じてもらいたい、わたしは理解している。けれど、彼女はなんのために死んだのか、――これはやはり疑問だ。彼女はわたしの愛におびえたのだ。そして、まじめに、これを受けたものか受けないものかと自問してみたうえ、この疑問をささえきることができないで、死を選んだのだ。わかっている、わかっている、なにも頭をひねることはない。彼女はあまりに多くの約束を与えたので、それを守ることは不可能だと悟って、愕然としたのだ、――ことは明々白々である。そこにはまったく恐ろしいそこばくの事情があるのだ。
 なぜなら、そもそもなんのために彼女は死んだのか? この点が依然、疑問として残っているからである。疑問はどきんどきんと音を立てている、わたしの脳壁をたたいている。わたしはむろん、彼女がそのまま[#「そのまま」に傍点]であることを望むのだったら、そのまま[#「そのまま」に傍点]にしておいたろう。ところが、彼女はそれを信じなかった、それがいけないのだ! いや、いや、わたしはでたらめをいっている、そんなことはまるで違う。ほかでもない、わたしに対しては正直でなければならないからだ、愛する以上は全的に愛さなければならぬので、あの商人を愛するような愛し方ではいけないからである。彼女は、商人に必要な程度の愛に応ずるには、あまりに純潔で、あまりに無垢であったから、わたしをだます気になれなかったのである。愛の仮面をかぶった中途半端な愛や、四分の一の愛で欺くのをいさぎよしとしなかったのである。あまりにも正直であった、これが原因なのだ! 記憶しておられるかどうかしらないが、わたしはあのとき心の寛さを接木《つぎき》しようと企てたものだ。なんと奇妙な考えだろう。
 ここで大いに興味のある問題は、彼女がわたしを尊敬していたかどうかということである。わたしとしては、彼女がわたしを軽蔑していたかどうかしらない。が、軽蔑していたとは思えない。それにしても、彼女がわたしを軽蔑しているかもしれぬという考えが、どうして冬の間に一度もわたしの頭に浮かばなかったか、それが不思議でたまらない。わたしは、あのとき彼女が厳しい驚き[#「厳しい驚き」に傍点]の色を浮かべてわたしを見たその瞬間まで、まったく反対のことを確信していたのである。まったく厳しい驚き[#「厳しい驚き」に傍点]であった。そのときわたしはたちまち即座に、彼女がわたしを軽蔑していることを悟った。それこそ永久に取り返しのつかない気持ち! ああ、いくらでも、いくらでも、一生涯でも軽蔑していてくれたらいいのだ、生きてさえいてくれたら、生きてさえいてくれたら! まだついさきほどまで歩いたり、ものをいったりしていたのに。どうして窓からなど身を投げたのか、わたしにはとんと合点がゆかない! せめて五分前にでも、なんとかして予想することができたら? わたしはルケリヤを呼んだ。今はもうどんなことがあってもルケリヤは離さない、どんなことがあっても!
 おお、わたしたちはまだ話し合うこともできたはずなのだ。わたしたちはただ冬の間に、ひどく離ればなれの気分になっていたが、しかしもう一度うち解けることが、はたして不可能であったろうか? なぜ、なぜわたしたちは意気投合して、もういちど新しい生活を始めることができなかったのか? わたしは寛大だし、彼女も同様である、――すると、ここに結合点が存在するわけだ! もう数言の説明と二日の日数、――それ以上は不要だ。そうすれば、彼女はもうすべてを理解したのだ。
 何よりもいまいましいのは、すべてが偶然だということである、――単純な、野蛮な、蒙昧な偶然だということである。これが癪にさわる! 五分、たった五分だけ遅れたのである! わたしが五分早く帰っていたら、――あの一瞬間は浮雲のように過ぎ去って、そんな考えは決して二度と、彼女の頭に浮かばなかったであろう。そして、結局、いっさいを理解してくれたに相違ないのだ。ところが、今はふたたび空虚な部屋部屋と、孤独なわたし。向こうで時計の振子がちくたく鳴っている。やつにはなんのかけかまいもないのだ、なに一つかわいそうではないのだ。だれもいない、――これがやりきれないのだ!
 わたしは歩いている、のべつ歩きまわっている。わかっている、わかっている、そばから口を出さないでもらいたい。わたしが偶然を怨み、五分を訴えているのが、諸君にはおかしいのであろう? しかし、そこには一つ自明の事柄がある。まず次の一事を考えていただきたい。彼女は、ふつう死んでいく人が遺すように、「わが死について何人も咎めたもうな」という書置きすら遺しておかなかった。いったい彼女は、ルケリヤまでが「なにしろ二人きりしかいなかったのだから、お前が突き落としたんではないか」というかどで、迷惑を受けるかもしれぬという判断がつかなかったのだろうか。もしも四人の人間が離れの窓と中庭から、彼女が両手に聖像を抱いて立っていたと思うと、やがて自分で飛びおりたところを見ていなかったら、少なくとも、ルケリヤは罪なくしてあちこち引っぱりまわされたかもしれないのである。しかし、人が立って見ていたというのも、これまた偶然ではないか。いや、これはみな瞬間である。単なる非情無識の瞬間にすぎない。唐突と幻想! 彼女が聖像の前に祈ったからとて、それがそもそもなんだろう? それは死の前の祈りという意味にはならない。おそらくその瞬間は、わずか十分ぐらいつづいたにすぎまい。そして、いっさいの決心はほかならぬ彼女が壁際に立って、頭を片手にもたせ、ほほ笑んでいた時に成り立ったに相違ない。頭ヘ一つの想念が飛び込むと、ぐらぐらっと目まいがして、――もうそれに抵抗することができなかったのだ。
 そこにはなんといわれても、明瞭な誤解がある。わたしとはまだいっしょに暮らしてゆけたはずなのだ。が、もし貧血の結果としたらどうだろう? 単に貧血のためであったら、生活力の消耗からきたのであったら? 彼女は冬の間に疲れたのだ、それなのだ……
 遅かった※[#感嘆符三つ、ページ数-行数]
 柩の中の彼女は、なんとほっそりしていることか、あの鼻のなんと尖ったことか、睫毛は小さな矢のように並んでいる。いったいどんな具合に落ちたものだろう、――どこ一つ砕けても折れてもいない! ただあの「一っちょぼの血」だけだ。つまり、デザート・スプーン一杯の量である。脳震盪なのだ。奇怪な考えだが、もし葬らずにすんだらどうだろう、なぜなら、もし彼女が担いで行かれたら、それこそ……ああ、だめだ、担いで行かれるなんてことは、ほとんど不可能だ! なに、それはわたしだって、彼女が担いで行かれねばならぬことは知っている。わたしは気ちがいでもなければ、決して譫言《うわごと》をいっているのでもない。それどころか、こんなに知性が輝いたことはかつてないくらいだ、――しかし、また家にだれもいなくなるのに、いったいどうしろというのだ、またしても二つの部屋、そしてまたしても、わたし一人が質物に囲まれて。譫言、譫言、譫言といえば、つまりこのことなのだ! わたしは彼女を苦しめたのだ、それなのだ!
 今のわたしにとって諸君の法律がなんだ? 諸君の習慣、諸君の風俗、諸君の生活、諸君の国家、諸君の信仰が何するものぞ? 諸君の裁判官をしてわたしを裁かしめよ。わたしをして法廷に、諸君のご自慢の公開法廷に立たしめよ。そうすればわたしは、おれはなにものをも認めないといってやる。裁判官は叫ぶだろう、「黙りなさい、将校!」と。しかしわたしは叫び返してやる、「いま貴様のどこに、おれを従わせるだけの力があるのだ? 何がゆえに暗澹たる蒙昧が、この世の何より高価なものを打ち砕いたのか? 貴様らの法律が今のわたしに何になるか? おれは貴様らから絶縁するのだ」おお、わたしはもうどうだってかまわない!
 盲目、盲目の女! 死骸になった女、なんにも聞こえないのだ! わたしがお前をどんな天国に住ませようとしていたか、お前は知らないのだ。天国はわたしの心のうちにあったのだ、わたしはそれでお前のまわりを取り囲んだはずなのだ! なに、よしんばお前がわたしを愛さなかったとしても、――それでかまわない、なに、たいしたことではない! いつまでもそのまま[#「そのまま」に傍点]でよかったのだ、いつまでもそのまま[#「そのまま」に傍点]そっとしておいたはずなのだ。ただ友だちとしてわたしに話をしてくれたら、――それで二人は喜んだだろう、うれしそうに目をみかわして、わらっただろう。そんなふうにしてくらしたにちがいないのだ。が、もしほかの男が好きになったら、――なあに、かまわない、愛するがいい、愛するがいいのだ! お前がその男といっしょに歩いて笑っているところを、わたしは通りのこちら側から見ているだろう……おお、どんなことでもかまわない、ただせめて一度でも目をあけてくれたら、一瞬間、ほんの一瞬間だけでいい! さっきわたしの前に立って、これからあなたの忠実な妻になると誓った、時のように、わたしの顔を見てくれたら! おお、その時は一目でいっさいを理解してくれたろうものを!
 ああ、蒙昧! おお、自然! 地上の人間は孤独なのだ、――これが不幸なのだ! 「この野に生きた人間がいるだろうか」と古いロシヤの勇士は叫ぶ。勇士ではないが、わたしも叫ぶ。しかし、だれも応えるものがない。太陽は宇宙に生気を与えるという。太陽が昇ったら、――その太陽を見るがいい、はたして死んでいないだろうか? なにもかも死んでいる、到るところ死人だらけだ。ただ生きているのは人間ばかり、その周囲は沈黙が領している、――これが地上の有様なのだ!「人々よ、互いに愛し合うべし」これをいったのはだれだ? これはぜんたいだれの遺訓だ? 時計の振子はちくたくと無感覚な、いまわしい音を立てている。夜中の二時だ。彼女の小さな靴が、まるで主人を待つもののように、寝台のそばに並んでいる……いや、真剣の話、あす彼女が担いで行かれたら、わたしはいったいどうしたらいいのだ?

(底本:『ドストエーフスキイ全集14 作家の日記上』、1970年、米川正夫による翻訳、河出書房新社