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フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第八章 三度目の、最後の面談

   第八 三度目の、最後の面談

 まだ半分道も行かないうちに、その日の早朝と同じような、鋭いからっ風が起って、細かいさらさらした粉雪がさかんに降りだした。雪は地面に落ちたが、落ちつくひまもなく風に巻き上げられた。こうして、間もなく本当の吹雪になってしまった。この町でも、スメルジャコフの住まっているあたりには、ほとんど街灯というものがなかった。イヴァンは暗闇の中を吹雪にも気づかず、ほとんど本能的に路を見分けながら、歩いて行った。頭が割れるように痛んで、こめかみがずきずきいった。手首は痙攣を起していた(彼はそれを感じた)。マリヤの家まぢかになった頃、とつぜん一人の酔いどれに出会った。それはつぎはぎだらけの外套を着た背の低い百姓で、よろよろと千鳥足で歩きながら、ぶつぶつ言ったり、罵ったりしていた。急に罵りやめたかと思うと、今度はしゃがれた酔いどれ声で、歌いだすのであった。

  やあれ、ヴァンカは
  ピーテルさして旅へ出た
  わしゃあんなやつ待ちはせぬ

 しかし、彼はいつもこの三の句で歌を切って、また誰やら罵りだすかと思うと、またとつぜん歌を繰り返しはじめた。イヴァンはまるでそんなことを考えもしないのに、もうさきほどからこの百姓に、恐ろしい憎悪を感じていたが、やがてそれをはっきり意識した。すると、いきなり、百姓の頭に拳骨を見舞いたくてたまらなくなった。ちょうどこの瞬間、彼ら二人はすれ違った。そのとたん百姓はひどくよろけて、力一ぱいイヴァンにぶつかった。イヴァンはあらあらしく突きのけた。百姓は突き飛ばされて、凍った雪の上へ丸太のように倒れたが、病的にただ一度、『おお! おお!』と唸ったきりで、そのまま黙ってしまった。イヴァンが一歩ちかよって見ると、彼は仰向きになったまま、身動きもせず、知覚を失って倒れていた。『凍え死ぬだろう!』とイヴァンは考えたなり、またスメルジャコフの家をさして歩きだした。
 彼が玄関へはいると、マリヤが蠟燭を手に駈け出して、戸を開けた。そして、パーヴェル・フョードロヴィッチ(すなわちスメルジャコフ)は大病にかかっている、べつに寝てるというわけではないが、ほとんど正気を失った様子で、お茶の支度をしろと言いつけながら、それを飲もうともしない、というようなことを彼に囁いた。
「じゃ、暴れでもするのかね?」とイヴァンはぞんざいに訊いた。
「いいえ、それどころじゃありません。ごく穏やかなんでございます。ただあまり長くお話をなさらないで下さいまし……」とマリヤは頼んだ。
 イヴァンは戸を開けて、部屋の中ヘー足はいった。
 初めて来た時と同じように、部屋はうんと暖めてあったが、中の様子がいくらか変っていた。壁のそばにあったベンチが、一つ取り除けられて、その代り、マホガニイに似せた大きな古い革張りの長椅子がおいてあった。その上には蒲団が敷かれて、小ざっぱりとした白い枕がのっていた。スメルジャコフはやはり例の部屋着を着て、薄団の上に坐っていた。テーブルは長椅子の前に移されていたので、部屋の中はひどく狭苦しくなっていた。テーブルの上には、黄いろい表紙のついた厚い本がのっていたが、スメルジャコフはそれを読んでいるでもなく、ただ坐ったきり、何にもしていないらしかった。彼はゆっくりした無言の目つきで、イヴァンを迎えた。見たところ、イヴァンが来たのに一こう驚かないふうであった。彼はすっかりおも変りがして、ひどく瘦せて黄いろくなっていた。目は落ち込んで、その下瞼には蒼い環さえ見えた。
「お前は本当に病気なのかね?」イヴァンは立ちどまった。「おれは長くお前の邪魔をしないから、外套も脱ぐまいよ。どこへ腰かけたらいいんだ?」
 彼はテーブルの反対の側から廻って、椅子を引き寄せ、腰をおろした。
「なぜ黙っておれを見ているんだ? おれはたった一つ、お前に訊きたいことがあって来たんだ。まったくお前の答えを聞かないうちは、どうあっても帰らんつもりだ。お前のところヘカチェリーナさんが来るだろう?」
 スメルジャコフは依然として、静かにイヴァンを見ながら、長い間じっとおし黙っていたが、急に片手を振って、顔をそむけてしまった。
「どうしたんだ?」とイヴァンは叫んだ。
「どうもしません。」
「どうもしないはずはない!」
「ええ、まいりましたよ。だが、どうだっていいじゃありませんか。帰って下さい。」
「いや、帰らない! いつ来たか言え!」
「なに、私はあのひとのことなんか覚えてもいませんよ。」スメルジャコフは軽蔑するように、にたりと笑ったが、急にまたイヴァンのほうへ顔を向けて、一種もの狂おしい憎悪の目で彼を見つめた。それは、一カ月前に会ったときと同じ目つきであった。
「どうやら、あなたもご病気のようですね。まあ、げっそりとお瘦せなすったこと、まるでその顔色ったらありませんよ」と彼はイヴァンに言った。
「おれの体のことなど、心配してくれなくてもいいから、おれの訊いたことに返事をしろ。」
「それに、あなたの目の黄いろくなったことはどうでしょう。白目がまるで黄いろくなってしまって、ひどくご心配ですかね?」
 彼は軽蔑するように、にたりとしたが、急に声をたてて笑いだした。
「おい、いいか、おれはお前の返事を聞かないうちは帰りゃしないぞ!」とイヴァンは恐ろしく激昂して叫んだ。
「何だってあなたは、そうしつこくなさるんです? どうして私をいじめなさるんです?」とスメルジャコフはさも苦しそうに言った。
「ええ、畜生! おれはお前に用事なんかないんだ。訊いたことにさえ返事すりゃ、すぐ帰る。」
「何もあなたに返事することなぞありませんよ!」とまたスメルジャコフは目を伏せた。
「いや、きっとおれはお前に返事をさせる!」
「どうしてそんなに心配ばかりなさるんです!」とスメルジャコフは急にイヴァンを見つめた。彼の顔には軽蔑というよりも、もはやむしろ一種の嫌悪が現われていた。「あす公判が始まるからですか? そんなら、ご心配にゃおよびません、あなたに何があるもんですか! 家へ帰って安心してお休みなさい。ちっとも懸念なさることはありゃしません。」
「おれはお前の言うことがわからん……どうしておれが明日の日を恐れるんだ?」とイヴァンはびっくりしてこう言った。と、ふいに彼の心は事実、ある驚愕に打たれて、ぞっとしたのであった。スメルジャコフはまじまじとそれを眺めていた。
「おわかりにな―り―ませんかね?」と彼はなじるように言葉を切りながら言った。「賢いお方が、こうした茶番をやるなんて、本当にいいもの好きじゃありませんか!」
 イヴァンは黙って彼を眺めた。イヴァンはこういう語調を予期しなかった。それは、実に傲慢きわまるものであった。しかも、以前の下男が、いま彼にこうした口をきくというのは、それこそ容易ならぬことであった。この前の面談の時でさえ、まだまだこんなことはなかった。
「ちっとも、ご心配なさることはありませんて、そう言ってるじゃありませんか。わたしゃああなたのことは、何も申し立てやしませんからね。証拠がありませんや。おや、お手が慄えてますね。どうして指をそんなに、ぶるぶるさせていらっしゃるんです? さあ、家へお帰んなさい。殺したのはあなたじゃありません[#「殺したのはあなたじゃありません」に傍点]。」
 イヴァンはぎくっとした。彼はアリョーシャのことを思いだした。
「おれでないことは自分で知っている……」と彼は呟いた。
「ご存じ―ですかね?」とまたスメルジャコフは言葉じりを引いた。
 イヴァンはつと立ちあがって、スメルジャコフの肩を摑んだ。
「すっかり言え、毒虫め! すっかり言っちまえ!」
 スメルジャコフはびくともしなかった。彼はただ狂的な憎悪をこめた目で、イヴァンにじっと食い入るのであった。
「じゃ、申しますがね、殺したのは実はあなたですよ」と彼はにくにくしくイヴァンに囁いた。イヴァンはどっかと椅子に腰をおろした。ちょうど何か思いあたりでもしたもののように、彼は意地わるそうに、にやりとした。
「お前はやっぱりあの時のことを言っているのか? このまえ会った時と同じことを!」
「そうです、このまえ私のところへおいでの時も、あなたはすっかり呑み込みなすったじゃありませんか。だから、今も呑み込みなさるはずでございますよ。」
「お前が気ちがいだってことだけは、おれにも呑み込めるよ。」
「よくまあ、飽き飽きしないことですね! 面と向ってお互いにだましあったり、茶番をやったりするなんて? それとも、また面と向って、私一人に罪をなすりつけようとなさるんですか? あなたが殺したんですよ、あなたが張本人なんですよ。私はただあなたの手先です。あなたの忠実な僕《しもべ》リチャルド[#「忠実な僕《しもべ》リチャルド」はママ]だったんです。私はあなたのお言葉にしたがって、やっつけたんですからね。」
「やっつけた? じゃ、お前が殺したんだね?」イヴァンは総身に水を浴びたようにぞっとした。何やら頭の中で非常なショックを受けたかのように、彼は体じゅうがたがたと慄えだした。その時はじめて、スメルジャコフもびっくりして彼を見つめた。たぶんイヴァンの驚愕があまりに真剣なのに、打たれたものらしい。
「じゃ、あなたは本当に何にもご存じなかったんですか?」とスメルジャコフは信じかねるように囁いた、イヴァンの目を見つめて皮肉な笑いをもらしながら。
 イヴァンはいつまでも彼を眺めていた。彼は舌を抜かれでもしたように、口をきくことができなかったのである。

  やあれヴァンカは
  ピーテルさして旅に出た
  わしゃあんなやつ待ちはせぬ

 という歌が、とつぜん彼の頭の中に響きはじめた。
「ねえ、おい、おれはお前が夢じゃないかと思って、恐ろしいんだ、おれの前に坐っているのは幻じゃないか?」と彼は呟いた。
「幻なんてここにいやしませんよ、私たち二人と、もう一人ある者のほかはね。確かにその者は、そのある者は今ここに、私たちの間におりますぜ。」
「それは誰だ? 誰がいるんだ? 誰だ、そのある者は?」あたりを見まわしたり、すみずみに誰かいないかと忙しげに捜したりしながら、イヴァンはびっくりして訊ねた。
「そのある者というのは神様ですよ、天帝ですよ。天帝はいま私たちのそばにいらっしゃいます。しかし、あなたがいくらお捜しになっても、見つかりゃしませんよ。」
「お前は自分が下手人だと言うが、それは嘘だ!」とイヴァンはもの狂おしく叫んだ。「お前は気ちがいか、それとも、この前のように、おれをからかおうとするのだろう!」
 スメルジャコフはさきほどと同じように、いささかも驚かずにじっとイヴァンを見まもっていた。彼はいまだにどうしても、自分の疑念をしりぞけることができなかった。やはりイヴァンが『何もかも知っている』くせに、ただ『こっちばかりに罪をなすりつけようとしている』というような気がした。
「ちょっとお待ちなさい。」とうとう彼は弱々しい声でこう言って、ふいにテーブルの下から自分の左足を引き出し、ズボンを捲し上げはじめた。足は長い白の靴下につつまれて、スリッパをはいていた。彼はそろそろと靴下どめをはずして、靴下の中へ自分の指を深く突っ込んだ。イヴァンはじっとそれを見ていたが、急にぴくりとなって、痙攣的にがたがた慄えだした。
「気ちがい!」と彼は叫んで、つと立ちあがると、うしろへよろよろとよろめいて、背中をどんと壁にぶっつけ、体を糸のように伸ばして、ぴったり壁にくっついてしまった。彼はもの狂おしい恐怖を感じながら、スメルジャコフを見つめた。スメルジャコフは、イヴァンの驚愕を少しも気にとめないで、やはり靴下の中を捜していた。しきりに指先で何か摑もうとしているらしかったが、とど何かを探りあてて、それを引き出しにかかった。イヴァンは、おそらく書類か、それとも何かの紙包みだろうと見てとった。スメルジャコフはそれを引き出すと、テーブルの上においた。
「これです!」と彼は低い声で言った。
「何だ?」イヴァンは身ぶるいをしながら答えた。
「どうか、ごらん下さい」とスメルジャコフは相変らず低い声で言った。
 イヴァンはテーブルのほうヘー歩ふみ出し、その紙包みを手に取って開こうとしたが、まるで何か不気味な恐ろしい毒虫にでもさわったように、急につと指を引っこめた。
「あなた指がまだ慄えていますね、痙攣していますね」とスメルジャコフは言い、自分でそろそろと紙包みを開いた。中からは虹色をした百ルーブリ札の束が三つ出て来た。
「残らずここにあります、三千ルーブリあります、勘定なさるにもおよびません。お受け取り下さい」と彼は顋で金をしゃくりながら、イヴァンにこう言った。イヴァンは椅子にどうっと腰を落した。彼はハンカチのように真っ蒼になっていた。
「お前、びっくりさしたじゃないか……その靴下でさ……」と彼は異様な薄笑いを浮べながら言った。
「あなたは本当に、本当にあなたは今までご存じなかったのですか?」とスメルジャコフはもう一ど訊いた。
「いや、知らなかった。おれはやはり、ドミートリイだとばかり思っていた。兄さん! 兄さん! ああ!」彼は急に両手で自分の頭を摑んだ。「ねえ、おい、お前は一人で殺したのかい?兄貴の手[#「かい?兄貴の手」はママ]を借りずに殺したのか、それとも一緒にやったのか?」
「ただあなたと一緒にしただけです。あなたと一緒に殺しただけです。ドミートリイさんには何の罪もありません。」
「よろしい、よろしい……おれのことはあとにしてくれ。どうしておれはこんなに慄えるんだろう……口をきくこともできない。」
「あなたはあの時分、大胆でしたね。『どんなことをしてもかまわない』などと言っておいででしたが、今のその驚き方はどうでしょう!」とスメルジャコフは呆れたように呟いた。「レモナードでもおあがりになりませんか。今すぐ言いつけましょう。とても気分がはればれとしますよ。ところで、こいつをまず隠しておかなくちゃ。」
 こう言って、彼はまた紙幣束を顋でしゃくった。彼は立ちあがって戸口へ行き、レモナードの支度をして持って来るように、マリヤに言いつけようとしたが、彼女に金を見られないように、何か被せるものを捜すことにして、まずハンカチを引き出したが、これは今日もまたすっかり汚れていたので、イヴァンが入って来た時に目をつけた、例のテーブルの上にただ一冊のっている黄いろい厚い書物を取り上げて、それを金の上に被せた。その書名は『我らが尊き師父イサアク・シーリンの言葉』と記してあった。イヴァンは機械的にその表題を読んだ。
「レモナードはいらない」と彼は言った。「おれのことはあとにして、腰をかけて話してくれ、どういう工合にやったのか、何もかもすっかり話してくれ……」
「あなた、外套でもお脱ぎになったらいいでしょう。すっかり蒸れてしまいますよ。」
 イヴァンは今やっと気づいたように外套を脱ぐと、椅子から立たないで、ベンチの上へ投げ出した。
「話してくれ、どうか話してくれ!」
 彼は落ちついてきたらしかった。そして、今こそスメルジャコフがすっかり[#「すっかり」に傍点]言ってしまうだろうと信じて、じっと待ち受けていた。
「どんな工合にやっつけたかというんですね?」スメルジャコフはほっとため息をついた。「例のあなたのお言葉にしたがって、ごく自然な段どりでやっつけましたよ……」
「おれの言葉なんかあとにしてくれ」とイヴァンはまた遮ったが、すっかり自己制御ができたらしく、もう以前のように呶鳴らないで、しっかりした語調で言った。「どういう工合にやったか、詳しく話して聞かせてくれ、すっかり順序を立てて話してくれ、何一つ忘れちゃいけない。詳しく、何より第一に詳しく。どうか話してくれ。」
「あなたが立っておしまいになったあとで、私は穴蔵へ落ちました……」
「発作でかね、それともわざとかね?」
「そりゃわざとにきまってますよ。何事によらず、すっかり芝居を打っていたんです。悠々と階段を下までおりて、悠々と横になると唸りだして、連れて行かれるまでばたばたもがいていました。」
「ちょっと待ってくれ! ではその後も、病院でもずっと芝居をしていたのかね?」
「いいえ、そうじゃありません、あくる朝、病院へ行く前に、本当に激しい発作がやって来ました。もう永年こんなひどいのに出会ったことがないくらいで、二日間というもの、まるっきり感じがありませんでしたよ。」
「よろしい、よろしい。それから。」
「それから、寝床に寝かされましたが、いつも私が病気になった時のおきまりで、マルファさんが自分の部屋の衝立ての向うへ、夜どおし寝かしてくれることはわかっていました。あの女は、私が生れ落ちるとから、[#「生れ落ちるとから、」はママ]いつも優しくしてくれましたからね。夜分、私はうなりました、もっとも、低い声でしたがね。そして、今か今かと、ドミートリイさんを待っていました。」
「待っていたとは? お前のところへか?」
「私のところへ何用があります? 旦那の家へですよ。なぜって、あの人がその夜のうちにやって来ることを、もうとう疑っちゃおりませんでした。だって、あの人は私がいないから、何の知らせも手に入らないので、ぜひ自分で塀を乗り越えて、家の中へ入らなけりゃならないはずですものね。そんなことは平気でできるんですから、きっとなさるに違いありません。」
「だが、もし兄が行かなかったら?」
「そうすりゃ、何事もなかったでしょうよ。あの人が来なけりゃ、私だって何も思いきってしやしませんからね。」
「よろしい、よろしい……もっとよくわかるように言ってくれ。急がずにな、それに第一、何一つ抜かさないように!」
「私は、あの人が旦那を殺すのを待っていたのです……そりゃ間違いないこってす。なぜって、私がそうするように仕向けておいたんですからね……その二三日前からですよ……第一、あの人は例の合図を知っています。あの人はあの頃、疑いや嫉妬が積り積っていたのですから、ぜひこの合図を使って、家の中へ入り込むにきまりきっていたんですよ。それは決して間違いっこありません。そこで、私はあの人が来るのを待ってたわけなんで。」
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは遮った。「もし、あれが殺したら、金を持って行くはずじゃないか。お前だってそう考えるはずじゃないかね? してみれば、そのあとで何がお前の手に入るんだい? おれはそいつがわからないね。」
「ところが、あの人には決して金のありかがわかりっこありませんよ。あれはただ私が、金は蒲団の下に入っていると言って、教えておいただけなんで、まったく嘘の皮なんです。以前は手箱の中に入っていましたが、旦那は世界じゅうでただ一人、私だけ信用していましたから、そのあとで私が、金のはいった例の封筒を、聖像のうしろの隅へおきかえるように教えたんです。そこなら、ことに急いで入って来た時など、誰にも気づかれる心配がありませんからね。こういうわけで、あれは、あの封筒は、旦那の部屋の片隅の聖像のうしろにあったので。蒲団の下へ入れるなんて、そりゃ滑稽なことですよ。まだせめて手箱の中へ入れて、錠でもかけておきまさあね。でも、今はみんな、蒲団の下にあったものと信じきっていますが、馬鹿な考え方じゃありませんか。で、もしドミートリイさんがお父さんを殺しても、大ていの人殺しにありがちなように、ちょっとした物音にもおじけて、何一つ見つけ出さずに逃げてしまうか、それともふん縛られるかにきまっています。そうなりゃ、私はいつでも、あくる日でも、その晩にでも、聖像のうしろからその金を持ち出して、罪をすっかり、ドミートリイさんになすりつけることができますからね。私はいつだって、それを当てにしていいわけじゃありませんか?」
「でも、もし兄が親父を殴っただけで、殺さなかったとしたら?」
「もしあの人が殺さなかったら、むろん、私は金を取らないで、そのまま無駄にしておいたでしょう。が、またこういう目算もありましたよ。もしあの人が旦那を殴りつけて気絶させたら、私はやはりその金を盗んで、あとで旦那に向って、あなたを殴って金を取ったものは、ドミートリイさんのほかに誰もありません、とこう報告するんですよ。」
「ちょっと待ってくれ……おれは頭がこんぐらかってきた。じゃ、やっぱりドミートリイに殺させて、お前が金を取ったと言うんだな?」
「いいえ、あの人が殺したんじゃありません。なに、今でも私はあなたに向って、あの人が下手人だと言えますが……しかし、今あなたの前で嘘を言いたかありません。だって……だって、お見受け申すとおり、よしんば実際あなたが今まで、何もおわかりにならずにいたにしたところで、よしんば私の前でしらを切って、わかりきった自分の罪を人に塗りつけていらっしゃるのでないとしたところで、やっぱりあなたは全体のことに対して罪があるんですからね。なぜって、あなたは兇行のあることを知りながら、また現にそれを私に依頼しておきながら、自分では何もかも知っていながら、立っておしまいなすったんですものね。ですから、私は今晩、この一件の張本人はあなた一人で、私は自分で殺しはしたけれど、決して張本人じゃないってことを、あなたの目の前で証明したいんですよ。あなたが本当の下手人です!」
「なに、どうしておれが下手人なんだ? ああ!」イヴァンは自分の話はあとまわしにする決心を忘れて、とうとう我慢しきれずにこう叫んだ。「それはやはり、あのチェルマーシニャのことかね? だが、待て。よしんばお前が、おれのチェルマーシニャ行きを、同意の意味にとったとしても、一たい何のためにおれの同意が必要だったんだ? お前は今それをどういうふうに説明する?」
「あなたのご同意を確かめておけば、あなたが帰っていらしっても、紛失したこの三千ルーブリのために、騒ぎをもちあげなさることもあるまいし、またどうかして、私がドミートリイさんの代りに、その筋から嫌疑をかけられたり、ドミートリイさんとぐる[#「ぐる」に傍点]のように思われたりした時に、あなたが弁護して下さるってことが、ちゃんとわかっているからですよ……それに、遺産を手に入れておしまいになれば、その後いついつまでも、一生私の面倒を見て下さるでしょうからね。なぜって、あの遺産を相続なさったのは、何といっても私のおかげですよ。もしお父さんがアグラフェーナさんと結婚なすったなら、あなたはびた一文、おもらいになれなかったでしょうからね。」
「ああ! じゃ、お前はその後一生涯、おれを苦しめようと思ったんだな!」イヴァンは歯ぎしりした。「だが、もしおれがあのとき出発せずに、お前を訴えたらどうするつもりだったのだ?」
「あの時あなたは何を訴えようとおっしゃるんですね? 私があなたにチェルマーシニャ行きを勧めたことですか? そんなのはばかばかしい話じゃありませんか。それに、私たちが話し合ったあとで、あなたが出発なさるにせよ、残っていらっしゃるにせよ、べつに困ることはありゃしませんや。もし残っていらっしゃれば、何事も起らなかったでしょう、私はあなたがこの話をお望みにならないことを知って、何事もしなかったでしょうよ。が、もし出発なされば、それはあなたが私を裁判所へ訴えたりなどせずに、この三千ルーブリの金は私が取ってもいい、とこうおっしゃる証拠なんですからね。それに、あなたはあとで私をいじめたりなさることもできません。なぜって、そうなりゃ、私は法廷で何もかも言ってしまいますからね。しかし、何も私が盗んだり、殺したりした、なんて言うんじゃありませんよ……そんなことは言やしません……あなたから、盗んで殺せとそそのかされたが、承知しなかったと、こう申しまさあね。だから、あの時あなたの同意をとって、決してあなたからいじめつけられないようにしておく必要があったのです。だって、あなたはどこにも証拠を持っていらっしゃらないけれど、私はその反対に、あなたはお父さんが死ぬのを恐ろしく望んでいらしったと、こうすっぱ抜きさえすれば、いつでもあなたを押えつけることができますからね。で、ちょっと一こと言いさえすれば、世間のものはみんなそれを本当にしますよ。そうすりゃ、一生涯、あなたの恥になりますよ。」
「望んでいた、望んでいた、おれがそんなことを望んでいた、と言うのか?」イヴァンはまた歯ぎしりした。
「そりゃ間違いなく望んでおいででしたよ。あなたが承知なすったのは、つまり、私にあのことをしてもいいと、だんまりのうちに、お許しになったんですよ。」スメルジャコフはじっとイヴァンを見つめた。彼はひどく弱って、小さな声でもの憂そうに口をきいていたが、心内に秘められた何ものかが、彼を駆り立てたのである。彼は確かに何か思わくがあるらしかった。イヴァンはそれを感じた。
「さあ、そのさきはどうだ!」とイヴァンは言った。「あの夜の話をしてくれ。」
「そのさきといっても、わかりきってるじゃありませんか! 私が寝て聞いていますとね、旦那があっと言いなすったような気がしました。しかし、グリゴーリイさんが、その前に起きて出て行きました。すると、いきなり唸り声が聞えたと思うと、もうあたりはしんとして、真っ暗やみでした。私はじっと寝て待っていましたが、心臓がどきどきいって、我慢も何もできなくなりましたから、とうとう起きて行きました。左側を見ると、旦那の部屋では、庭に向いた窓が開いているじゃありませんか。私は、旦那が生きているかどうか見さだめようとして、また一あし左のほうへ踏み出しました。すると、旦那がもがいたり、ため息をついたりしている気配がします。じゃ、まだ生きてるんだ。ちぇっ、と私は思いましたね! 窓へ寄って、『私ですよ』と旦那に声をかけますと、旦那は、『来たよ、来たよ。逃げて行った!』と言うんです。つまり、ドミートリイさんが来たことなんです。『グリゴーリイは殺されたよ! どこで?』と私は小声で訊きました。『あそこの隅で』と指さしながら、旦那はやはり小さい声で囁きました。『お待ち下さい』と私は言い捨てて、庭の隅へ行ってみますと、グリゴーリイのやっこさん、体じゅう血まみれになって、気絶して倒れているんです。そこで、確かにドミートリイさんが来たんだな、という考えがすぐ頭に浮んだので、その場ですぐ一思いにやっつけてしまおう、と決心しました。なぜって、よしグリゴーリイが生きてても、気絶しているので、何にも気がつきはしないからです。ただ心配なのは、マルファがふいに目をさましはしないか、ということでした。私は、その瞬間にもこのことを感じましたが、もう心がすっかり血に渇いてしまって、息がつまりそうなのです。そこで、また窓の下へ戻って、『あのひとがここにいます、来ましたよ、アグラフェーナさんが来て、入りたがっていますよ』と旦那に言いました。すると、旦那は赤児のように、ぶるぶる身ぶるいをしました。
『こことはどこだ? どこだ?』こう言ってため息をつきましたが、まだ本当にしないんです。『あそこに立っていらっしゃいます。戸を開けておあげなさい!』と私が言いますと、旦那は半信半疑で、窓から私を見ていましたが、戸を開けるのが恐ろしい様子なんです。『つまり、おれを恐れてるんだな』と私は思いました。が、おかしいじゃありませんか、そのとき私は急に窓を叩いて、グルーシェンカが来てここにいる、という合図をすることを思いついたのです。ところが、旦那は言葉では本当にしないくせに、私がとんとんと合図をしたら、すぐ駈け出して、戸を開けて下すったじゃありませんか。戸が開いたので、私は中へ入ろうとしましたが、旦那は私の前に立ち塞がるようにして、『あれは、どこにいる? あれはどこにいる?』と言って、私を見ながらびくびくしています。こんなにおれを恐れてるんじゃ、とてもうまくゆかないな、と私は思いました。部屋へ入れないんじゃあるまいか、旦那が呶鳴りはしないか、マルファが駈けつけやしないか、またほかに何か起りはしないか、などと考えると、その恐ろしさに足の力が抜けてしまいました。その時は何も覚えていませんが、きっとわたしは旦那の前で真っ蒼になって、突っ立っていたに違いありません。『そこです、そこの窓の下です。どうして旦那はお見えにならないんでしょう?』と私が旦那に囁くと、『じゃ、お前あれを連れて来てくれ、あれを連れて来てくれ!』『でも、あのひとが怖がっていらっしゃいます。大きな声にびっくりして、藪の陰に隠れていらっしゃるんです。旦那ご自分で書斎から出て、呼んでごらんなさいまし』と私が言いました。すると、旦那は窓のそばへ駈け寄って、蠟燭を窓の上に立てて、『グルーシェンカ、グルーシェンカ、お前そこにいるのかい?』と呼びましたが、こう呼びながらも、窓から覗こうとしないんです。私から離れようとしないんです。恐ろしいからなんですよ。私をひどく恐れていたので、私のそばを離れないんですよ。『いいえ、あのひとは(と、私は窓に寄って、窓から体を突き出しながら)、あそこの藪のなかにいらっしゃいますよ。あなたを見て笑っていらっしゃいます、見えますでしょう?』と言いました。すると、旦那は急に本当にして、ぶるぶると身ぶるいしだしました。なにしろ、すっかりグルーシェンカに惚れ込んでいたんですからね。で、旦那は窓から体をのり出した。そのとき私は、旦那のテーブルの上にのっていたあの鉄の卦算、ね、憶えていらっしゃいましょう、三斤もあるやつなんですよ、あいつを取って振り上げると、うしろから頭蓋骨めがけて折ちおろした[#「折ちおろした」はママ]んです。旦那は叫び声さえも出さないで、すぐにぐったりしてしまったので、また二三度なぐりつけました。三度目に頭の皿の割れたらしい手ごたえがありました。旦那はそのまま仰向けに、顔を上にして倒れましたが、体じゅう血みどろなんです。私は自分の体を調べてみると、さいわいとばっちりもかかっていないので、卦算を拭いてテーブルの上にのせ、聖像の陰へ行って、封筒から金を取り出しました。そして、封筒を床の上に投げ捨て、ばら色のリボンもそのそばへおきました。ぶるぶる慄えながら庭へ出て、すぐさま空洞《うつろ》のある林檎の木のそばへ行きました、――あなたもあの空洞《うつろ》をご存じでしょう、私はもうとうから目星をつけておいて、その中へ布と紙を用意していたんです。そこで、金を残らず紙に包み、その上からまた布でくるんで、空洞の中へ深く入れました。こうして、二週間以上もそこにありましたよ、その金がね。その後、病院から出た時に、はじめてそこから取り出して来たわけで。それで、私は寝台へ帰って寝ましたが、『もし、グリゴーリイが死んでしまえば、はなはだ面白からんことになる。が、もし死なずに正気づけば、大変いい都合だがなあ。そうすりゃあの男は、ドミートリイさんが忍び込んで、旦那を殺して、金を盗んで行ったという証人になるに相違ない』とこう私はびくびくしながら考えました。そこで、私は一生懸命に唸りだしたんです。それは、少しも早くマルファを起すためだったので。とうとうマルファは起き出して、私のところへ走って来ようとしましたが、突然グリゴーリイがいないのに気がつくと、いきなり外へ駈け出して、庭で叫び声を立てるのが聞えました。こうして、夜どおしごたごたが始まったわけなんですが、私はもうすっかり安心してしまいましたよ。」
 話し手は言葉を休めた。イヴァンは身動きもしなければ、相手から目を放しもせず、死んだように黙り込んで、しまいまで聞いていた。スメルジャコフは話をしながら、ときおりイヴァンをじろじろと見やったが、大ていはわきのほうを見ていた。話し終ると、彼はさすがに興奮を感じたらしく、深く息をついた。顏には汗がにじみ出した。けれども、後悔しているかどうかは、見てとることができなかった。
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは何やら思い合せながら遮った。「じゃ、戸はどうしたんだ? もし親父がお前だけに戸を開けたのなら、どうしてその前にグリゴーリイが、戸の開いているところを見たんだ? グリゴーリイはお前よりさきに見たんじゃないか。」
 不思議なことには、イヴァンは非常に穏やかな声で、前とはうって変った、いささかも怒りをふくまない語調で訊いた。で、もしこのとき誰かそこの戸を開けて、閾のところから二人を眺めたなら、二人が何かありふれた面白い問題で、仲よく話をしているものと思ったに相違ない。
「その戸ですがね、グリゴーリイが見た時に開いていたというのは、ただあの男にそう思われただけですよ。」スメルジャコフは口を歪めてにたりと笑った。「一たいあいつは人間じゃありません。頑固な睾丸《きん》ぬき馬ですからね。見たんじゃなくって、ただ見たように思ったんですが、――そう言いだしたが最後、もうあとへは引きゃしません。あいつがそんなことを考えだしたというのは、私たちにとってもっけの幸いなんですよ。なぜって、そうなりゃ否でも応でも、ドミートリイさんへ罪がかかるに相違ありませんからね。」
「おい、ちょっと、」イヴァンはこう言ったが、また放心したようにしきりに考えていた。「おい、ちょっと……おれはまだ何かお前に訊きたいことがたくさんあったんだが、忘れてしまった……おれはどうも忘れっぽくて、頭がこんぐらかっているんだ……そうだ! じゃ、これだけでも聞かせてくれ。なぜお前は包みを開封して、床の上にうっちゃっておいたんだ? なぜいきなり包みのまま持って行かなかったんだ……お前がこの包みの話をしている時には、そうしなけりゃならなかったような気持がしたんだが……なぜそうしなけりゃならなかったのか……どうしてもおれにはわからない……」
「そりゃちょっとしたわけがあってしたんですよ。だって、前からその包みに金がはいってることを知っている慣れた人間は、――例えば私のように、自分でその金を包みの中へ入れたり、旦那が封印をして上書きまでなすったのを、ちゃんと自分の目で見たりしたような人間は、かりにその人間が旦那を殺したとしても、殺したあとでその包みを開封したりなんかするでしょうか? しかも、そんな急場の時にですよ。だって、そんなことをしなくても、金は確かにその包みの中に入ってることをちゃんと知ってるんじゃありませんか。まるで反対でさあ。私のようなこうした強盗は、包みを開けないで、すぐそれをかくしに入れるが早いか、一刻も早く逃げ出してしまいまさあね。ところが、ドミートリイさんはまったく別です。あの人は包みのことを話に聞いただけで、現物を見たことがありません。だから、もしあの人がかりに蒲団の下からでも包みを盗み出したとすれば、すぐにそれを開封して、確かに例の金が入ってるかどうか、調べてみるはずですよ。そして、あとで証拠品になろうなどとは考える余裕もなく、そこに封筒を投げ棄ててしまいます。あの人は常習犯の泥棒じゃなくって、今まで一度も人のものを取ったことがないんですもの、なにぶん代々の貴族ですからね。で、よしあの人が泥棒をする気になったからって、ただ自分のものを取り返すだけで、盗むというわけじゃないんですからね。だって、あの人は前もってこのことを町じゅうに言いふらしていたじゃありませんか。おれは出かけて行って、親父から自分のものを取り戻すんだと、誰の前でも自慢していたんですからね。私は審問の時この意味のことを、はっきりと言ったわけじゃありませんが、自分でもわからないようなふうに、そっと匂わせましたよ。ちょうど検事が自分で考え出したので、私が言ったんじゃない、というようなふうに、ちょっとほのめかしてやりました、――すると、検事はこの匂いを嗅ぎつけて、涎を垂らして喜んでいましたよ……」
「一たい、一たいお前はその時その場で、そんなことを考え出したのかい?」とイヴァンは呆れかえって、突拍子もない声で叫んだ。彼はふたたび驚異の色を浮べて、スメルジャコフを眺めた。
「まさか、あなた、あんな火急の場合に、そんなことを考え出していられるものですか? ずっと前から、すっかり考えておいたんです。」
「じゃ……じゃ、悪魔がお前に手つだったんだ!」とイヴァンはまた叫んだ。「いや、お前は馬鹿じゃない、お前は思ったよりよっぽど利口な男だ……」
 彼は立ちあがった、明らかに、部屋の中を歩き廻るためらしかった。彼は恐ろしい憂愁におちいっていたのである。ところが、通り道はテーブルに遮られて、テーブルと壁の間は、やっとすり抜けるほどしか余地がなかったので、彼はその場で一廻転しただけで、また椅子に腰をおろした。こうして歩き場を得なかったことが、急に彼をいらだたせたものとみえ、彼はいきなり以前のとおりほとんど無我夢中に叫んだ。
「おい、穢らわしい虫けらめ、よく聞け! お前にはわかるまいが、おれが今までお前を殺さなかったのは、ただお前を生かしておいて、あす法廷で答弁させようと思ったからだ。神様が見ておいでだ(イヴァンは片手を上げた)。あるいはおれにも罪があるかもしれない。実際、おれは内心、親父が死んでくれればいいと、望んでいたかもしれない。けれども、誓って言うが、おれはな、お前が思っているほど悪人じゃないんだぞ。おれはまるでお前を教唆しやしなかったかもしれない。いや、教唆なんかしなかった! だが、どの道おれはあす法廷で、自白することに肚を決めてる。何もかも言ってしまうつもりだ。だが、お前も一緒に法廷へ出るんだぞ! お前が法廷で、おれのことを何と言おうと、またどんな証拠を持ち出そうと、――おれはそれを承認する。おれはもうお前を恐れちゃいない。何もかも、自分で確かめる! だが、お前も白状しなけりゃならんぞ! 必ず、必ず、白状しなけりゃならんぞ! 一緒に行こう! もうそれにきまった!」
 イヴァンは厳粛な態度できっぱりとこう言った。彼の目の輝きから判断しても、もうそれにきまったことは明らかであった。
「あなたはご病気ですね、どうやら、よほどお悪いようですよ。あなたの目はすっかり黄いろになっていますよ」とスメルジャコフは言ったが、その言葉には嘲笑の語気は少しもなく、まるで同情するようであった。
「一緒に行くんだぞ!」とイヴァンは繰り返した。「もしお前が行かなくたって、同じことだ、おれ一人で白状する。」
 スメルジャコフは何か思案でもしているように、しばらく黙っていた。
「そんなことができるものですか。あなたは出廷なさりゃしませんよ」と彼はとうとう否応いわさぬ調子で、きっぱりとこう断じた。
「お前にはおれがわからないんだ!」とイヴァンはなじるように叫んだ。
「でも、あなた、何もかもすっかり白状なされば、とても恥しくってたまらなくなりますよ。それに、第一、何のたしにもなりませんよ。私はきっぱりとこう申します、――私はそんなことを一口だって言った覚えはありません、あなたは何か病気のせいか、(どうもそうらしいようですね)、それとも、自分を犠牲にしてまでも、兄さんを助けたいという同情のために、私に言いがかりをしてらっしゃるんです。あなたはいつも私のことを、蠅か虻くらいにしか思っていらっしゃらなかったんですから、って。ねえ、こう言ったら、誰があなたの言うことを本当にするものがあります? あなたはどんな証拠をもっておいでです?」
「黙れ、お前が今この金をおれに見せたのは、むろんおれを納得させるためなんだろう。」
 スメルジャコフは紙幣束の上から、イサアク・シーリンを取って、わきへのけた。
「この金を持ってお帰り下さい。」スメルジャコフはため息をついた。
「むろん、持って行くさ! だが、お前はこの金のために殺したのに、なぜ平気でおれにくれるんだい?」イヴァンはひどくびっくりしたように、スメルジャコフを見やった。
「そんな金なんか、私はまるでいりませんよ」とスメルジャコフは片手を振って、慄え声で言った。「はな私はこの金を持ってモスクワか、それともいっそ外国へでも行って、人間らしい生活を始めようと、そんな夢を見ていました。それというのも、あの『どんなことをしてもかまわない』から来てるんですよ。まったくあなたが教えて下すったんですもの。だって、あなたは幾度も私にこうおっしゃったじゃありませんか、――もし永遠の神様がなけりゃ、善行なんてものもない、それに、第一、善行なんかいるわけがないってね、それはまったく、あなたのおっしゃったとおりですよ。で、私もそういうふうに考えたんでございます。」
「自分の頭で考えついたんだろう?」イヴァンはにたりと、ひん曲ったような笑い方をした。
「あなたのご指導によりましてね。」
「だが、金を返すところから見れば、今じゃお前は神様を信じてるんだね?」
「いいえ、信じてやしませんよ」とスメルジャコフは囁いた。
「じゃ、なぜ返すんだ?」
「たくさんです……何でもありゃしません!」スメルジャコフはまた片手を振った。「あなたはあの時しじゅう口癖のように、どんなことをしてもかまわないと言っていらしったのに、今はどうしてそんなにびくびくなさるんですね? 自白に行こうとまで思いつめるなんて……ですが、何にもなりゃしませんよ!あなた[#「しませんよ!あなた」はママ]は自白なんかなさりゃしませんよ!」スメルジャコフはすっかりそう決めてでもいるように、またもや、きっぱりとこう言った。
「まあ、見ているがいい!」とイヴァンは言った。
「そりゃ駄目ですよ。あなたはあまり利口すぎます。なにしろ、あなたはお金が好きでいらっしゃいますからね。そりゃちゃんとわかっていますよ。それに、あなたは名誉も愛していらっしゃいます。だって、あなたは威張りやですもの。ことに女の綺麗なのときたら、それこそ大好物なんですよ。が、あなたの一番お好きなのは、平和で満足に暮すことと、そして誰にも頭を下げないことですね、――それが何よりお好きなんですよ。あなたは法廷でそんな恥をさらして、永久に自分の一生を打ち壊してしまうようなことは、いやにおなんなさいますよ。あなたはご兄弟三人のうちでも、一ばん大旦那さんに似ていらっしゃいますからね。魂がまるであの方と一つですよ。」
「お前は馬鹿じゃないな。」イヴァンは何かに打たれたようにこう言った。彼の顔はさっと赤くなった。「おれは今まで、お前を馬鹿だとばかり思っていたが、いま見ると、お前は恐ろしくまじめな人間だよ!」今さららしくスメルジャコフを見つめながら、彼はこう言った。
「私を馬鹿だとお考えになったのは、あなたが高慢だからです。さ、金をお受け取り下さい。」
 イヴァンは三千ルーブリの紙幣束を取って、包みもしないでかくしへ入れた。
「あす法廷で見せるんだ」と彼は言った。
「法廷じゃ、誰もあなたを本当にしやしませんよ。いいあんばいに、あなたは今たくさんご自分の金をもっておいでですからね、自分の金庫から出して持って来たんだとしか、誰も思やしますまい。」
 イヴァンは立ちあがった。
「繰り返して言っておくがね、おれがお前を殺さなかったのは、まったく明日お前という人間が必要なからだ。いいか、これを忘れるなよ。」
「殺すならお殺しなさい。今お殺しなさい。」スメルジャコフは異様にイヴァンを見つめながら、異様な調子でだしぬけにこう言った。「あなたはそれもできないんでしょう」と彼は悲痛な薄笑いを浮べてつけたした。「以前は大胆な人でしたが、今じゃ何一つできないんですからね!」
「明日また!」と叫んで、イヴァンは出て行こうとした。
「待って下さい……も一度その金を私に見せて下さい。」
 イヴァンが紙幣を取り出して見せると、スメルジャコフは十秒間ばかり、じっとそれを眺めていた。
「さあ、お帰んなさい」と彼は片手を振って言った。「旦那!」彼はイヴァンのあとから、また突然こう叫んだ。
「何だい?」イヴァンは歩きながら振り向いた。
「おさらばですよ!」
「明日また!」とイヴァンはも一ど叫んで、小屋の外へ出た。吹雪は相変らず荒れ狂うていた。彼は初めちょっとのあいだ元気よく歩いていたが、急に足がふらふらしてきた。『これは体のせいだ。』彼はにたりと薄笑いをもらして、そう考えた。と、一種の歓喜に似たものが心に湧いた。彼は自分の内部に無限の決断力を感じた。最近はげしく彼を苦しめていた心の動揺が、ついに終りを告げたのである。決心はついた。『もうこの決心は変りっこなしだ』と彼は幸福を感じながら考えた。その途端、彼はふと何かにつまずいて、いま少しで倒れるところだった。立ちどまってよく見ると、さっき彼の突き飛ばした例の百姓が、もとの場所に気絶したまま、じっと倒れているのであった。吹雪はもうほとんどその顔ぜんたいを蔽うていた。イヴァンはいきなり百姓を摑んで、自分の背にひっ担いだ。右手に見える小家のあかりを頼りに進んで行き、とんとんと鎧戸を叩いた。やがて、返事をして出て来たあるじの町人に、三ルーブリお礼をする約束で、百姓を警官派出所に担ぎ込む手つだいを頼んだ。町人は支度をして出て来た。それから、イヴァンは目的を達して、百姓を派出所へ連れて行き、すぐに医師の診察を受けさせたばかりでなく、そこでも鷹揚に『さまざまな支払い』に財布の口を開けたことは、ここにくだくだしく書きたてまい。ただ一つ、言っておきたいのは、彼がこの手続きをするのに、ほとんど一時間以上かかったことである。けれども、イヴァンはすこぶる満足していた。彼の考えはそれからそれへと拡がって、働きつづけた。『もしおれが明日の公判のために、こんな固い決心をしていなければ』と彼は突然ある快感を覚えながら考えた。『百姓の始末なんぞに、一時間もつぶしはしなかったろう。さだめしそのそばを通り過ぎながら、やつが凍え死にしそうなのを冷笑したことだろう……だが、おれが自己反省の力をもってることはどうだ?』彼はその瞬間、さらに一倍の快感を覚えながらこう考えた。『それだのに、やつらはおれのことを、気がふれてるなんて決めこんで!』
 わが家の前まで帰りつくと、彼は急に立ちどまった。『今すぐ検事のところへ行って、何もかも陳述してしまったほうがよくないかしらん?』と自問したが、また家のほうへ向きを変えて、その疑問を決定した。『明日まとめて言おう』と彼は自分に囁いた。と、不思議にも、ほとんどすべての歓喜と自足が、一時に彼の胸から消えてしまった。彼が自分の部屋へはいった時、何やら氷のようなものが、とつぜん彼の心臓にさわった。それは一種の追憶のようなもので、より正確に言えば、この部屋の中に以前もあったし、今でもつづけて存在している、何か押しつけるような、忌わしいあるものに関する記憶であった。彼はぐったりと長椅子に腰をおろした。婆さんがサモワールを持って来た。彼はお茶をいれはしたが、まるっきり手にもふれないで、明日まで用事はないと言って、婆さんを返してしまった。長椅子に腰かけているうちに、頭がぐらぐらしてきた。何だか病気にかかって、ひどく衰弱しているような気がした。彼は眠けを催したが、不平らしく立ちあがり、眠けを払うために、部屋の中を歩きだした。ときおり、うなされてでもいるような気がした。けれど、何より気にかかるのは、病気ではなかった。彼はまた椅子に腰をおろして、何か捜してでもいるように、ときどきあたりを見まわしはじめた、それが幾度か繰り返された。最後に、彼の目はじっとある一点を見すえた。イヴァンはにやりとしたが、顔はさっと憤怒の紅に染められた。彼は長いあいだ長椅子に腰かけて、両手でしっかり顔をささえながら、やはり流し目に以前の一点、――正面の壁のそばにある長椅子を見つめていた。見受けたところ、何かが彼をいらだたせたり、不安にしたり、苦しめたりしているようなふうであった。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第七章 二度目の訪問

   第七 二度目の訪問

 スメルジャコフはその時分、病院を出ていた。イヴァンは彼の新しい住まいを知っていた。それは、例の歪みかしいだ丸太づくりの小さい百姓家みたいな家で、廊下を真ん中にして二つに仕切られていた。一方には、マリヤ・コンドラーチエヴナと母親が住まっているし、いま一方にはスメルジャコフが納まっていた。彼がどういう条件で同棲しているのか、――ただで世話になっているのか、それとも金を出しているのか、それは誰にもわからなかった。あとになって世間の人は、たぶんマリヤの婿という形で、当分ただで世話になっていたのだろうと噂した。母親も娘も一方ならず彼を尊敬して、自分たちより一段うえの人のように見なしていた。
 イヴァンはとんとん戸を叩いて、玄関へ入ると、すぐにマリヤの案内で、スメルジャコフの占領している『綺麗なほうの部屋』へ通った。部屋の中には化粧瓦の暖炉があって、恐ろしく暖かくしてあった。まわりの壁には、けばけばしい空色の壁紙が貼ってあったが、あいにく一面ぼろぼろに裂けて、その中で油虫がおびただしい群をなして匐い廻りながら、絶えずがさがさ音をたてていた。家具類もいたって粗末なもので、両側の壁のそばにはベンチが二つあるし、テーブルのそばには二脚の椅子があった。テーブルはありふれた木製であったが、それでもちゃんとばら色の模様のついたテーブル掛けで蔽われていた。二つの小さい窓ぎわには、それぞれゼラニウムの鉢植がのっていた。片隅には龕に納められた聖像がかかっている。テーブルの上には、でこぼこだらけの、あまり大きからぬ銅のサモワールと、茶碗を二つのせた盆があった。けれど、スメルジャコフはもうお茶を飲んでしまったので、サモワールの火も消えていた……彼自身は、テーブルのそばなる[#「そばなる」はママ]ベンチに腰かけて、手帳を見ながら、ペンで何やら書きつけていた。そばにはインク壜と、背の低い青銅の燭台があった。燭台にはステアリン蠟燭が立っていた。イヴァンはスメルジャコフの顔を見るとすぐ、もう病気はすっかり癒ったのだなと思った。彼の顔は前よりはればれして、肉づきがよく、前髪は梳き上げられ、鬢の毛には香油がつけてあった。彼は華美な木綿の部屋着を着こんで、腰かけていたが、それはだいぶ着古したもので、かなりぼろぼろしていた。鼻には眼鏡がかかっていた。以前イヴァンは、彼が眼鏡をかけているのを見たことがなかった。このつまらない事実が、突然イヴァンを一そうむらむらとさせた。『何だ、生意気な、眼鏡なぞかけやがって!』とイヴァンは腹の中で思った。スメルジャコフはゆっくり頭を持ちあげて、入って来た客を眼鏡ごしにじっと見やった。やがて彼は静かに眼鏡をはずし、ベンチから立ちあがったけれど、何だかまるでうやうやしいところがなく、いかにももの憂そうで、ただおつき合いに必要なだけの礼儀を守るのだ、といったような様子をしていた。イヴァンはすぐこれに感づいて、胸の中へすっかり畳み込んだ。しかし、何より目についたのは、スメルジャコフの目つきであった。それはきわめて毒々しく不興げで、しかも高慢の色さえおびていた。『何のためにふらふらやって来たんだ。何もかもあの時すっかり話し合ったじゃないか。何の用でまたやって来たんだ?』とでも言っているよう。イヴァンはやっとのことで胸を撫でおろした。
「お前のところは暑いね」と彼は突っ立ったままこう言って、外套のボタンをはずした。
「お脱ぎなさいまし」とスメルジャコフは許可を与えた。
 イヴァンは外套を脱いで、ベンチに投げかけ、慄える手で椅子を取ると、急いでそれをテーブルのそばへ引き寄せ、腰をおろした。スメルジャコフはイヴァンよりさきに、例のベンチに腰をかけた。
「第一に、僕らのほかには誰もいないね?」とイヴァンは厳かな口調で、せきこんで訊いた。「誰か聞いてやしないかね?」
「誰も聞いちゃいませんよ。ご覧のとおり、あいだに玄関がありますからね。」
「おい聞け、おれがお前と別れて病院から出て行く時、お前は一たい何と言った? お前が癲癇をまねる名人だってことをおれが黙っていたら、お前もおれと門のそばでいろいろ話したことを、予審判事に申し立てないと言ったね?『いろいろ』とは何のことだ? どんなつもりで、お前はあの時あんなことを言ったんだ? おれを脅かしたのかね? 一たいおれがお前と何か組でも組んだとでもいうのか? おれがお前を恐れているとでも言うのかい?」
 自分が一切あてこすりや廻り遠い言い方を捨てて、公然たたかっているのだということを、相手に知らせようとするらしく、イヴァンは恐ろしい剣幕でこう言った。スメルジャコフの目は毒々しくぎらりと光って、左の目がしぱしぱ瞬きしだした。その目は例によって、控え目な、落ちついた表情をしていたけれど、すぐ自分の言い分を答えた、『お前さんが潔白を望むなら、さあ、これがその潔白でさ』とでも言うように。
「あの時のつもりは、こうでございました。あの時あんなことを言ったのは、あなたが前もって今度の親殺しを承知していながら、お父さんをうっちゃって、旅へ立っておしまいになったものですから、世間の人があなたの心持について、よくないことを言うかもしれない、ひょっとしたら、どんなことを言いだすかもしれない、とこう思ったからでございます、――これを私はあの時、役人に言わないとお約束したわけなので。」
 見たところ、スメルジャコフはせきこまないで、おのれを制しながら、口をきいていたようであるが、その響きには何かしらきっぱりした、頑固な、毒々しい、ふてくされた、挑むような語気が響いていた。彼は臆面もなくイヴァンを見つめていた。で、イヴァンは初め一瞬間、目の中がちらちらするような思いがした。
「なに? どうしたって? 一たいお前は正気かどうなんだ?」
「まったく正気でございますよ。」
「じゃ、お前は、おれがあのとき、人殺しを知っていたと言うんだな?」とうとうイヴァンはこう叫んで、はげしく拳でテーブルをたたいた。「『またどんなことを言いだすかもしれない』とは何だ? さあ言え、悪党!』
 スメルジャコフは黙ったまま、依然として例のずうずうしい目つきで、イヴァンを見つめていた。
「さあ、言え、くたばりそこないの悪党め、『またどんなこと』とは何だ?」とこっちは呶鳴った。
「私が今『どんなこと』と言ったのは、あなたご自身があの当時、お父さんの横死を望んでいらしったことなんで。」
 イヴァンは飛びあがりざま、力まかせに拳でスメルジャコフの肩を叩いたので、こっちはよろよろと壁に倒れかかった。見る見る彼の顔は涙に洗われた。彼は、「旦那、弱い者をぶったりなんかして、恥しいじゃありませんか!」と言いながら、突然、さんざんに鼻をかんだ青い格子縞の汚いハンカチで目を蔽うと、静かにしくしくと泣きだした。一分間ばかりたった。
「もうたくさんだ! やめろ!」とイヴァンはまた椅子に腰をおろしながら、とうとう命令するように言った。「お前はおれの癇癪玉を破裂させてしまおうとしてるんだ!」
 スメルジャコフは目からハンカチをどけた。その皺だらけになった顔ぜんたいが、たったいま受けた侮辱をありありと現わしていた。
「悪党め、じゃお前はあの時、おれがドミートリイと一緒になって、親父を殺そうとしてると思ったんだな?」
「私はあの時あなたのお考えがわからなかったのでございます」とスメルジャコフは腹だたしそうに言った。「だから、あの時、あなたが門へお入りになった時に、お留めしたんで。この点について、あなたを試してみようと存じましてね。」
「何を試すんだ? 何を?」
「お父さんが少しも早く殺されるのを、望んでいなさるかどうか、そのことでございますよ。」
 何よりもイヴァンを激昂させたのは、スメルジャコフが例のずうずうしい語調を、どこまでも強情に棄てないことであった。
「じゃ、あれは、お前が親父を殺したんだな!」イヴァンはだしぬけにこう叫んだ。
 スメルジャコフは軽蔑するように、にたりと笑った。
「私が殺したんでないということは、あなたもよっくご存じのはずじゃありませんか。私はまた、賢い人間が、二度とこんな話をする必要はないと思っていましたよ。」
「だが、なぜ、なぜあの時お前はおれに対して、そんな疑いを起したんだ?」
「もうご存じのとおり、ただただ恐ろしいばっかりに疑ったのでございます。なぜと申して、私はあの頃、恐ろしさにびくびくしながら、誰でも彼でも疑るような心持になっていましたからね。こういうわけで、あなたも試してみようと肚を決めました。だって、もしあなたが兄さんと同じようなことを望んでいらっしゃるとすれば、もう万事おしまいで、私も一緒に蠅のように殺されてしまうに違いない、とこう思ったのでございます。」
「おい、まて、お前は二週間まえには、そう言わなかったぞ。」
「病院であなたとお話をした時も、やはりこう言うつもりでございましたよ。ただよけいなことを言わなくっても、おわかりになると思ったばかりで、あなたは大そう賢いお方でございますから、真正面からの話はお好みでなかろうと思いましてね。」
「ええ、あんなことを言ってやがる! だが、返事をしろ、返事を。おれはどこまでも訊くぞ。どうしてお前はあのとき、その下劣な心の中に、おれとしてあるまじい、そんな下等な疑いを起したんだ?」
「殺すなんてことは、こりゃあなたにどうしてできることじゃありませんし、また殺そうという気もおありにならなかったでございましょう。だが、誰かほかのものが殺してくれたらいいくらいは、お思いになったはずでございますよ。」
「よくも平気で、平気でそんなことが言えるな! どういうわけでおれがそんなことを望むんだ、どうしておれがそんなことを望むわけがあるんだ?」
「どういうわけで? じゃあ、遺産はどうしたのでございます」とスメルジャコフは毒をふくんだ復讐の調子で答えた。「だって、もしお父さまが亡くなれば、あなた方ご兄弟は、めいめい四万ルーブリたらず、分けてもらえるはずでございました。ことによったら、それ以上になるかもしれません。が、もしフョードルさまがあの婦人と、あのアグラフェーナ・アレクサンドロヴナと結婚してごらんなさい、あのひとは結婚式をすまし次第、すぐに財産そっくり自分の名義に書き替えてしまいますよ。あのひともなかなか抜け目ありませんからね。そうすりゃ、あなた方ご兄弟三人は、お父さまが亡くなられたあとで、二ルーブリと手に入りゃしますまい。ところが[#「ところが」はママ]、結婚はむずかしい話だったでございましょうか? わずか髪の毛一筋という瀬戸際だったのでございますよ。あのひとが小指一本うごかしさえすれば、お父さまはすぐにも舌を出し出し、あのひとのあとについて、教会へ駈けて行かれたに相違ありませんからね。」
 イヴァンは苦しそうに、やっと自分を抑えていた。
「よろしい、」彼はとうとうそう言った。「見ろ、このとおり、おれは飛びあがりもしなければ、お前を撲りもせず、また殺しもしなかった。さあ、それからどうだというんだ。お前に言わせれば、兄のドミートリイを親父殺しの役廻りにきめておいて、おれがそれを当てにしていたと言うんだろう?」
「それを当てになさらないでどうしましょう。だって、あの方が殺してごらんなさい、それこそ貴族の権利も、位階も、財産もひんむかれて、流し者[#「流し者」はママ]になってしまうでしょう。そうすりゃ、お父さまが殺されたあとで、あの人の取りまえは、あなたとアレクセイさんと、半分わけになるでしょう。つまり、あなた方お二人は四万ルーブリずつではなく、六万ルーブリずつ手に入るわけになりますものね。だから、あなたはあの時、きっとドミートリイさまを当てになすったんでございます!」
「いいか、おれは我慢して聞いてるんだぞ! だが、聞け、悪党! おれがもしあのとき誰かを当てにしたとすれば、それはむろんお前だ、ドミートリイじゃない。おれは誓って言うが、お前が何か穢らわしいことをしやしないかって、そんな気がしてたんだ……あの時……おれは自分の心持を覚えている?[#「おれは自分の心持を覚えている?」はママ]」
「私もあの時ちょっとそう思いましたよ。あなたはやはり、私のことも当てにしていらっしゃるんだろうってね」とスメルジャコフは嘲るように、にたりとした。「だから、こういうわけで、あの時あなたは私の前で、一そうはっきりご自分の正体を見せておしまいになったので。なぜといってごろうじ、もし私が何かしでかしそうだと感づきながら、しかも出発なすったのだとすれば、つまり、お前は親父を殺してもいい、おれは邪魔をしないぞ、とおっしゃったのも同然じゃありませんか。」
「悪党め、お前はそうとっていたんだな。」
「それというのも、やはりあのチェルマーシニャのためでございますよ。まあ、考えてもごらんなさいまし! あなたはモスクワへ行くつもりで、お父さまがどんなにチェルマーシニャヘ行けとおっしゃっても、撥ねつけてらしったんでございましょう! ところが、私風情のつまらない一ことで、すぐに賛成なすったじゃありませんか! あなたがあの時、チェルマーシニャ行きに賛成なさるなんて、どういう必要があったのでございましょう? あなたが私の一ことで、わけもなくモスクワ行きをよして、チェルマーシニャヘおいでになったところを見れば、何か私を当てにしてらしったんじゃありませんか。」
「そうじゃない、誓って言う、決してそうじゃない!」とイヴァンは歯ぎしりしながら唸った。
「どうしてそうじゃないんですね? 本当を言えば、まるで反対ですよ。あなたは息子の身として、あの時あんなことを言った私なぞは、まず警察へ突き出してしまうか……少くとも、その場で横面を張り飛ばすか、しなけりゃならんはずじゃありませんか。ところが、まあ、どうでございましょう、あなたは少しも怒るどころじゃない、その反対に、すぐ私のつまらない言葉をそのまま喜んで採りあげて、出発なすったじゃありませんか。そんなことは、まるでばかばかしい話でございますよ。なぜって、あなたはお父さんの命を護るために、残っていらっしゃるのが本当だったんでございますからね……私はどうしても、こうとらずにゃいられませんよ!」
 イヴァンは眉をしかめながら、ぶるぶると慄える両の拳を膝に突いて、じっと腰かけていた。
「そうさ、お前の横面を張り飛ばさなかったのは、残念だったよ。」彼は苦笑した。「お前を警察へ引き摺り出すことは、あの時どうもできなかったんだ。誰がおれの言うことを、本当にしてくれるものか。またおれだって、どんな証拠を見せることもできないじゃないか。だが、横面を張ることは……ああ、残念ながら気がつかなかった。今びんたは禁じられているけれど、お前の面を粥にしてやるんだったにな。」
 スメルジャコフはさも気味よさそうに、イヴァンを眺めていた。
「人生の普通の場合には」と彼はいかにも自足したらしい、教訓的な調子で言いだした。それは、いつかグリゴーリイと信仰論をたたかわして、フョードルの食卓のそばで、老人をからかったのと同じ調子であった。「人生の普通の場合には、びんたは実際いま法律で厳禁されています。みんな叩くのをやめました。ですが、人生の特別な場合には、ただこの町ばかりではなく、世界じゅうどこへ行っても、ことに最も完全なフランス共和国でさえも、やはりアダムとイヴの時代と同じように撲っています。それは決して、いつになってもやめやしません。ところが、あなたはあの特別な場合にさえ、思いきっておやりになれなかったのでございますよ。」
「何かね、お前はフランス語を勉強してるのかね?」とイヴァンは、テーブルの上においてある手帳を顎でしゃくった。
「私だってフランス語くらい勉強して、自分の教養をはかってならんという法はありませんからね。私だってヨーロッパのああした仕合せなところへ、いつか行くおりがあるかもしれない、と思いましてね。」
「おい、悪党。」イヴァンは目を光らせ、全身を震わせた。「おれはな、お前の言いがかりを恐れてやしないんだぞ。だから、何でもお前の言いたいことを申し立てるがいい。おれが今お前を撲り殺さないのは、ただこの犯罪についてお前を疑っているからだ。お前を法廷へ引き出そうと思ってるからだ。おれはいまにお前の化の皮を引んむいてやるぞ。」
「ですが、私の考えじゃ、まあ、黙っていらしたほうがよござんすよ。だって、私がまったく何も悪いことをしていないのに、お責めになることなんかないじゃありませんか。それに、誰があなたを本当にするものですか? それでも、もしあなたがしいておっしゃるなら、私もすっかり言ってしまいますよ。私だって、自分を護る必要がありますからね!」
「おれが今お前を恐れてるとでも思うのかい?」
「私が今あなたに申し上げたことは、たとえ法廷では本当にしなくっても、その代り世間で本当にしますからね。そしたら、あなたも面目を潰すじゃありませんか。」
「それはやはり、『賢い人とはちょっと話しても面白い』ということなのかね、え?」イヴァンは歯ぎしりした。
「てっきり図星でございますよ。だから、賢い人におなんなさいまし。」
 イヴァンは立ちあがり、憤怒に身を震わせながら、外套を着た。そして、もうスメルジャコフには一言も返事もしなければ、そのほうを見向きもせず、いそいで小屋から出て行った。涼しい夜気は、彼の気持を爽やかにした。空には月が皎々と照っていた。思想と感覚の恐ろしい渦巻が、彼の心の中で煮え返っていた。『今すぐスメルジャコフを訴えてやろうか? だが、何を訴えるんだ。あいつには何といっても罪はないんだ。かえって反対に、あいつのほうでおれを訴えるだろう。実際、おれはあのとき何のためにチェルマーシニャヘ行ったんだ? 何のためだ? 何のためだ? 何のためだ?』とイヴァンは自問した。『そうだ、むろん、おれは何かを予期していた。あいつの言うとおりだ』と、またもや彼の頭に浮んだのは、最後の夜、父の家の階段で立ち聞きしたことであった。けれど、今度はそれを思いだすと、何ともいえぬ苦痛を感じたので、まるで何かに突き刺されたように、歩みさえ止めてしまった。『そうだ、おれはあの時あれを予期していたんだ、まったくそうなんだ。おれは望んでたんだ、まったくおれは親父が殺されるのを望んでたんだ! おれは人殺しを望んだのだろうか、望んだのだろうか? スメルジャコフを殺さなけりゃならん! 今もしスメルジャコフを殺す勇気がなければ、おれは生きてる価値はない!……』
 イヴァンは家へ帰らずに、すぐまたその足でカチェリーナのところへ赴き、その様子で彼女を驚かせた。彼はまるで気ちがいそのままであった。彼はスメルジャコフとの話を、微細な点まで残らず打ち明けた。そして、いくらカチェリーサから諭されても、落ちついた気分になれず、しきりに部屋の中を歩き廻りながら、奇怪なことをきれぎれに喋り立てた。とうとう彼は椅子に腰をおろし、テーブルに肱を突き、頭を両手で支えながら、奇妙な文句を口走った。
「もし下手人がドミートリイでなくって、スメルジャコフだとすれば、僕もあいつと連帯なんです。だって、僕があいつを使嗾したんですからね。いや、僕はあいつを使嗾したろうか、――そりゃどうだかわからない。けれど、もし下手人があいつで、ドミートリイでなければ、むろん僕も下手人です。」
 カチェリーナはこれを聞くと黙って立ちあがった。そして、自分の書きもの卓《づくえ》のところへ行って、その上にあった箱を開き、中から一葉の紙片を取り出して、イヴァンの前においた。これが例の証拠品で、後日イヴァンがアリョーシャに向って、兄ドミートリイが父親を殺したという『数学的証明』と言ったものである。それはミーチャが酔っ払って、カチェリーナに書き送った手紙であった。それを書いたのは、彼が修道院へ帰るアリョーシャと野っ原で出会ったその晩のことで、つまり、カチェリーナの家でグルーシェンカが彼女を辱しめた後のことであった。その時、ミーチャはアリョーシャと別れると、グルーシェンカの家へ飛んで行った。グルーシェンカに会ったかどうかはわからないが、とにかく彼はその晩、料理屋の『都』へ行って、そこで例のとおり盛んに飲んだ。やがて、酔いに乗じて、ペンと紙を取り寄せ、自分にとって重大な証拠品を書いたのである。それは辻褄の合わない、乱雑な、くだくだしい手紙で、どう見ても『酔いどれ』の手紙であった。それはちょうど、酒に酔った人が家へ帰って来て、自分はいま侮辱された、自分を侮辱したものはしようのない悪党だが、自分はその反対に素晴らしい立派な人間で、自分はその悪党に仕返しをしてやるのだと、涙を流し、拳でどんどんテーブルを敲きながら、とりとめもないことを長たらしく、女房や家のものなどにやっきとなって喋りちらす、そういう種類のものであった。彼が酒場でもらった手紙の用紙は、普通の下等な書翰紙の汚い切れっぱしで、その裏には何やら計算のようなものが書いてあった。酔いどれが管を巻くのだから、むろん紙面がたりなかった。で、ミーチャは余白一面に書いたばかりか、最後の幾行かは、前に書いた上へ筋かいに書かれてあった。それはこういう意味の手紙であった。

『宿命的なるカーチャ! あす僕は金を手に入れて、お前の三千ルーブリを返済しよう。偉大なる忿怒の女よ、さようなら、僕の愛よ、さようなら! もうおしまいにしよう! 明日、僕はあらゆる人に頼んで金を手に入れる。もし手に入らなければ、きっと誓っていう、イヴァンが立つとすぐ、親父のところへ行って、頭をぶち割って、枕の下にある金を奪うつもりだ。僕は懲役へやられても、三千ルーブリの金はお返しする。だから、お前も赦してくれ。僕は額を地面につけてお辞儀をするよ。なぜなら、僕はお前に対して卑劣漢だったからだ。赦してくれ。いや、いっそ赦してくれるな、そのほうがお前も僕も気持が楽だろう! お前の愛よりも、懲役のほうがましだ。僕はほかの女を愛してるんだから。お前はその女を、今日こそよく知ったろう。だから、どうしてお前に赦すことができよう? 僕は自分の泥棒を殺すのだ! そして、お前たち一同をのがれて東へ行く。そして、誰のことも忘れてしまおう。あの女もやはり忘れるのだ。僕を苦しめるのはお前ばかりじゃなくって、あの女[#「あの女」に傍点]もそうなんだから、さようなら!
 二伸。僕は呪いを書いているが、それでもお前を尊敬しているんだ! 僕は自分の胸の声を聞いている。一つの絃が残って鳴っている。むしろ心臓を真っ二つに断ち割ったほうがいい。僕は自分を殺そう。だが、まずあの犬から殺してやる。あいつから三千ルーブリ奪って、お前に投げつけてやるのだ。僕はお前に対して悪党になっても、泥棒じゃないのだ! 三千ルーブリを待っておいで。犬の寝床の下にあるのだ、ばら色のリボン。僕は泥棒じゃない。自分の泥棒を殺すんだ。カーチャ、軽蔑するような見方をしてくれるな。ドミートリイは泥棒じゃない、人殺しだ! 僕は傲然と立って、お前の高慢を赦さないために、親父を殺し、自分を亡ぼすのだ。お前を愛さないために。
 三伸。お前の足に接吻する、さようなら!
 四伸。カーチャ、誰か僕に金をくれるように神様に祈ってくれ。そうすれば、血に染まないですんだ。誰もくれなければ血に染むことになる! 僕を殺してくれ!
[#地から5字上げ]奴隷にして敵なる
[#地から1字上げ]D・カラマーゾフ

 イヴァンはこの『証拠品』を読んでしまうと、確信を得て立ちあがった。してみると、下手人は兄で、スメルジャコフではない、スメルジャコフでなければ、すなわち彼イヴァンでもないわけである。この手紙は俄然彼の目に、数学的の意味を有するものとして映じてきた。もはや彼にとって、ミーチャの罪を疑う理由は少しもなくなった。ついでに断わっておくが、ミーチャがスメルジャコフと共謀して殺したのかもしれない、などというような疑念は、イヴァンの心に全然おこらなかった。またそういうことは、事実にもはまらなかった。イヴァンはすっかり安心してしまった。翌朝彼は、スメルジャコフとその嘲弄を思いだすと、われながらばかばかしくなった。幾日かたつと、彼はスメルジャコフに疑われたことを、どうしてあんなに苦にしたのかと、驚かれるほどであった。彼はスメルジャコフを蔑視して、あのことを忘れてしまおうと決めた。こうして、一カ月すぎた。彼はもう誰にもスメルジャコフのことを訊かなかった。しかし、彼が重い病気にかかって、正気でないということを、二度ばかりちらと耳にした。『結局、気がちがって死ぬんでしょう。』ある時、若い医者のヴァルヴィンスキイはこう言った。イヴァンはこの言葉を記憶に刻んだ。この月の最後の週に、イヴァンは自分もひどく体の工合が悪いのを感じるようになった。公判前に、カチェリーナがモスクワから招いた医者にも、彼は診察を乞いに出かけた。この時分、彼とカチェリーナとの関係は極度に緊張してきた。二人は、互いに愛し合っている敵同士みたいなものであった。ほんの瞬間ではあったが、カチェリーナが強い愛をもってミーチャに帰って行ったことは、イヴァンを狂おしいばかりに激昂させた。不思議なことには、筆者が前に書いたカチェリーナのもとにおける最後の場面まで、つまり、アリョーシャがミーチャとの面会後カチェリーナの家へ来た時まで、彼イヴァンは一カ月のあいだ一度も彼女の口から、ミーチャの犯行を疑うような口吻を聞いたことがなかった(そのくせ、彼女は幾度もミーチャに『帰って』行って、イヴァンの激しい憎悪を呼び起したのである)。それから、も一つ注意すべきことは、彼がミーチャへの憎悪を日一日と増しているのを感じつつも、同時にその憎悪がカチェリーナの復帰のためではなくて、彼が父親を殺した[#「彼が父親を殺した」に傍点]ためだということを、理解していた点である。彼はこのことを十分に感じていたし、意識してもいた。にもかかわらず、彼は公判の十日前にミーチャのところへ行って、兄に逃走の計画を持ち出した。この計画は、明らかに久しい前から考え抜いたものらしかった。そこには、彼をしてこういう行動に出さした重大な原因のほかに、彼の心にひそんでいたある癒しがたい傷があったのである。それは、ミーチャに罪を着せたほうが彼イヴァンにとって都合がいい、そうすれば、父親の遺産をアリョーシャと二人で四万ルーブリどころか、六万ルーブリずつ分配することができると、スメルジャコフがちょっと一こと洩らしたために生じたのであった。彼はミーチャを逃走させる費用として、みずから三万ルーブリを犠牲に供する決心をした。その時ミーチャのところから帰って来る途中、彼は非常な悲哀と苦悶を感じた。自分がミーチャの逃走を望むのは、ただ三万ルーブリを犠牲に供して、心の傷を癒すためばかりでなく、まだ何かほかに理由があるような気がしたのである。『おれが内心おなじような人殺しだからではあるまいか?』と彼はみずから問うてみた。何やら漠としてはいたが、焼けつくようなあるものが彼の心を毒した。ことにこの一カ月間というもの、彼の自尊心は非常な苦痛を覚えた。が、このことはあとで話すとしよう……
 イヴァンはアリョーシャと話をした後、自分の家のベルに手をかけたが、急にスメルジャコフのところへ行くことにした。これは突然、彼の胸に湧きあがった一種特別な憤怒の念に駆られたためであった。ほかでもない、カチェリーナがアリョーシャのいる前で、彼に向って、『あの人が(つまりミーチャが)下手人だって、わたしに言い張ったものは、ただあんた一人だけですわ!』と叫んだことを、ふいに思い出したのである。これを思い出すと、彼は棒立ちになった。彼はかつて一度も、ミーチャが人殺しだなどと、彼女に言い張ったことはなかった。それどころか、スメルジャコフのところから帰って来た時など、彼女の前で自分自身を疑ったほどである。むしろ彼女こそ、そのとき例の『証拠品』を見せて、ミーチャの犯罪を証明したのではないか。ところが、突然いまになって彼女は、『わたし自分でスメルジャコフのところへ行って来ました!』と叫んでいる。いつ行ったんだろう! イヴァンは一向それを知らなかった。してみると、彼女はミーチャの犯罪を十分に信じていないのだ! スメルジャコフは彼女に何と言ったろう? 一たいやつは何を、どんなことを言ったのだろう? 彼の心は恐ろしい憤怒に燃えあがった。どうして三十分前に、彼女のこの言葉を聞きのがして、叫ばずにすましたのか、わけがわからなかった。彼はベルをうっちゃって、スメルジャコフの家をさして出かけた。『今度こそ、あいつを殺してしまうかもしれない』と彼はみちみち考えた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第六章 スメルジャコフとの最初の面談

   第六 スメルジャコフとの最初の面談

 イヴァンがモスクワから帰って以来、スメルジャコフのところへ話しに行くのは、これでもう三度目であった。あの兇行後、初めてスメルジャコフに会って話をしたのは、彼がモスクワから帰って来た当日て[#「当日て」はママ]あった。それから、一二週間ほどたって二度目の訪問をした。この二度目の訪問以来、彼はスメルジャコフとの面談を打ち切ったので、もう一カ月以上、彼に会いもしなければ、また彼の消息をも聞かなかったのである。イヴァンがモスクワから帰って来たのは、父親の死後五日目だったから、むろん、棺さえ見なかった。葬式はちょうど彼の着く前日にすまされていた。イヴァンの帰郷が遅れたわけはこうであった。イヴァンのモスクワの居所をはっきり知らなかったアリョーシャは、電報を打つのにカチェリーナのところへ駈けつけたが、カチェリーナもやはり居所を知らなかったので、自分の姉と叔母に宛てて打電した。それは、イヴァンがモスクワへ着くとすぐ、彼らの家へ立ち寄ったことと思ったからである。けれど、イヴァンはモスクワへ着いてから、四日目に初めて彼らを訪ねたのであった。むろん、電報を読むとすぐさま、まっしぐらにこの町へ帰って来た。帰るとまず第一に、彼はアリョーシャに会ったが、アリョーシャと話をしてひどく驚いたのは、彼がこの町のあらゆる人々の意見とまるっきり反対に、ミーチャをつゆほども疑おうとせず、いきなり下手人としてスメルジャコフを挙げたことである。その後、彼は署長や検事などに会って、予審や拘引の模様を詳しく知ると、さらに一そうアリョーシャの考えに驚きを感じた。で、結局、アリョーシャの意見は、極度に興奮した兄弟の情と、ミーチャに対する同情から起ったものと解釈したのである。アリョーシャがミーチャを熱愛していることは、イヴァンも知っていた。ついでに、兄ドミートリイに対するイヴァンの感情について、たった一こと言っておくが、彼はひどくミーチャを嫌っていた。どうかすると、せいぜい憐愍を感ずることがあるくらいで、それすらやはり嫌悪に近い軽侮の念を交えていた。ミーチャは第一その様子からして、ぜんぜんイヴァンの同情をひくようにできていなかった。カチェリーナのミーチャに対する愛をも、イヴァンは憤りの目をもって眺めていた。
 彼が被告としてのミーチャに会ったのは、やはり帰郷の当日で、この面会はミーチャの犯罪に対する彼の信念を弱めなかったばかりか、むしろ、一そう強めたくらいである。その時、ミーチャは不安らしく病的に興奮していた。彼はやたらに喋ったが、そわそわしていて落ちつきがなかった。非常に激越な調子で、スメルジャコフの罪を鳴らしたが、その話には一こう、筋みちがたっていなかった。彼が最も多く口にしたのは、死んだ父親が彼から『盗んだ』三千ルーブリのことであった。『あれはおれの金なんだ。あれはおれの金だったんだ』とミーチャは繰り返した。『だから、たとえおれがあの金を盗んだにしても、もうとう、やましいことはないはずなんだ。』彼は自分に不利なすべての証拠を、ほとんど弁護しようとしなかった。自分に有利な事実を説いてみても、やはりしどろもどろで馬鹿げていた、――全体に、彼はイヴァンに対しても、あるいはまた誰に対しても、頭から弁明を望まないもののようであった。それどころか反対に腹をたてたり、傲然として自分に対する非難を蔑視したり、罵ったり、激昂したりするだけであった。戸が開いていたというグリゴーリイの証明に対しては、彼はただ軽侮の色を浮べて笑うだけで、『それは大かた悪魔でも開けたんだろう』と言った。が、この事実に対して、何ら筋みちのたった説明を加えることはできなかった。のみならず、『すべては許される』と公言しているものに、人を疑ったり審問したりする権利はない、などと乱暴なことを言って、面会早々イヴァンを怒らしてしまった。全体として、彼はこの時あまりイヴァンに親しい態度を見せなかった。イヴァンはミーチャとの面会を終ると、すぐその足でスメルジャコフのところへ出かけて行った。
 彼はモスクワから帰って来る汽車の中で、スメルジャコフのことや、出発の前夜、彼と交した最後の対話などを、絶えず思いつづけた。さまざまなことが彼の心を惑乱した。さまざまなことが、うさんくさく思われた。しかし、予審判事に申し立てをする時には、しばらくその対話のことは言わずにおいて、スメルジャコフと会うまで延ばしていた。スメルジャコフは当時、町立病院に収容されていた。医師のヘルツェンシュトゥベと、病院でイヴァンを出迎えた医師のヴァルヴィンスキイは、イヴァンの執拗な問いに対して、スメルジャコフの癲癇は疑う余地がないと確答し、『あいつは兇行の当日、癲癇のふりをしていたんじゃありませんか?』というイヴァンの問いに、びっくりしたほどである。彼らの説明によると、今度の発作は並み大抵のものでなく、幾日間も繰り返し繰り返し継続したので、患者の命もずいぶん危険であったが、いろいろと手当てをしたおかげで、今では生命に別条はないと言えるようなものの、まだ患者の精神状態に異状を呈するようなことがあるかもしれない。『一生涯というほどではないまでも、かなり長い間ね』と医師のヘルツェンシュトゥベはこうつけたした。『じゃ、あの男はいま発狂してるわけですね?』という性急な質問に対して、二人の医師は、『全然そういうわけではありませんが、いくぶんアブノーマルなところも認められます』と答えた。イヴァンはそのアブノーマルがどんなものか、自分で調べてみようと思った。彼はすぐ面会に病室へ通された。スメルジャコフは隔離室に収容されて寝台の上に横たわっていた。そのそばには、いま一つ寝台があって、衰弱しきったこの町のある町人が占領していたが、全身水腫でむくみあがって、どう見ても明日あさってあたりの寿命らしかったので、この男のために話を遠慮しなければならぬようなことはなかった。スメルジャコフはイヴァンを見ると、うさんくさそうににたりとした。そして、最初の瞬間、何となくおじ気づいたようなふうであった。少くとも、イヴァンにはそう思われた。けれど、これはほんの一瞬間で、その後はかえって異様な落ちつきはらった様子で、彼を驚かせた。イヴァンは、一目見たばかりで、彼が極度の病的状態にあることを確かめた。彼はひどく衰弱していた。いかにもむずかしそうに舌を動かして、のろのろと話をした。そして、ひどく瘦せ細って黄いろくなっていた。二十分間ばかりで終った面会の間にも、彼は絶えず頭痛がするだの、手足が抜けるように痛むだの、と訴えつづけた。去勢僧のような乾からびた彼の顔は、すっかり小さくなったように見えた。こめかみの毛はくしゃくしゃにもつれて、前髪はただ一つまみのしょぼしょぼ毛となって突っ立っていた。けれども、絶えず瞬きをして、何事か暗示してでもいるような左の目は、依然たるスメルジャコフであった。『賢い人とはちょっと話しても面白い』という言葉を、すぐにイヴァンは思い出した。彼は、スメルジャコフの足のほうにある床几に、腰をおろした。スメルジャコフは苦しそうに、寝床の上でちょっと礼を動かしたが、自分から口をきこうともせず、黙りこんだまま、もうさほど珍しくもない、といったような顔つきをして、イヴァンを眺めていた。
「話ができるかね?」とイヴァンは訊いた。「大して疲らせはしないが。」
「そりゃできますとも」とスメルジャコフは弱々しい声で呟いた。そして、「いつお帰りになったのでございますか?」と、相手がばつ[#「ばつ」に傍点]のわるそうなのを励まそうとでもするように、余儀なくおつき合いといった調子でこうつけたした。
「なに、きょう帰ったばかりさ……ここの、お前たちの騒ぎをご馳走になろうと思ってな。」
 スメルジャコフはほっとため息をついた。
「どうしてため息なんかつくんだ。お前はまえから知っていたんじゃないか?」とイヴァンはいきなり叩きつけた。
 スメルジャコフはものものしげにしばらく口をつぐんでいた。
「そりゃ知らなくって何としましょう! まえもってわかりきっていたんですからね。ただ、あんなにされようとは思いませんでしたもの。」
「どうされようと思わなかったんだ? お前、ごまかしちゃいかんぞ! あのときお前は穴蔵へ入りさえすれば、すぐ癲癇になると予言したじゃないか。いきなり穴蔵と言ったじゃないか。」
「あなたはそれを訊問の時に、申し立てておしまいになりましたか?」スメルジャコフは落ちつきはらって、ちょっとこう訊ねてみた。
 イヴァンは急にむらむらとした。
「いや、まだ申し立てないが、きっと申し立てるつもりだ。おい、こら、お前は今、おれにいろんなことを説明しなけりゃならないぞ。おい、いいか、おれはお前に冗談なんか言わしゃしないぞ!」
「何であなたに冗談を申しましょう。私はあなた一人を神様のように頼っているのでございますもの。」スメルジャコフはやはり落ちつきはらってこう言ったが、ただちょっとのま目をつぶった。
「第一に」と、イヴァンは切り出した。「癲癇の発作は予言できないってことを、おれはちゃんと知っている。おれは調べて来たんだから、ごまかしたって駄目だ。時日など予言することはできやしない。それに、お前はどうしてあのとき、時日ばかりか穴蔵のことまで予言したんだ? もしお前がわざと芝居をしたのでないとすれば、ちょうどあの穴蔵の中で発作にやられるってことを、どうしてお前はまえもって知っていたんだ?」
「穴蔵へは、そうでなくても、一日に幾度となく行かなきゃなりません」とスメルジャコフはゆっくりゆっくり言葉じりを引いた。「一年前にもちょうどそれと同じように、私は屋根裏の部屋から落ちたことがあるんでございますよ。発作の日や時間を予言することはできませんが、そういう虫の知らせだけは、いつでもあることでございますからね。」
「だが、お前は時日を予言したじゃないか!」
「旦那、私の癲癇の病気のことは、ここのお医者に訊いていただけばよくおわかりになります。私の病気が本当だったか仮病だったか、すぐわかりますよ。私はこのことについちゃあ、もう何にも申し上げることがありません。」
「だが、穴蔵は? その穴蔵ってことを、どうして前から知ったんだね?」
「あなたはよくよくその穴蔵が気になるとみえますね! 私はあの時あの穴蔵へ入ると、恐ろしくって心配でたまらなかったんですよ。ことにあなたとお別れして、もうほかに世界じゅう誰ひとり自分の味方になってくれる人はない、とこう思ったために、よけい恐ろしかったのでございます。私はあのとき穴蔵へ入ると、「今にも起りゃしまいか、あいつがやってきて倒れやしまいか?』[#「しまいか?』」はママ]とこう考えましたので、つまり、この心配のために、いきなり喉に頑固な痙攣が起って……まあ、それで私は真っ逆さまに落ちてしまいました。このことも、またあの前夜、門のそばであなたとこのお話をして、自分の心配や穴蔵の一件など申し上げたことも、私は残らずお医者のヘルツェンシュトゥベさんや、予審判事のニコライさまに詳しく申し立てましたので、あの人たちはすっかりそれを予審調書に書きつけなさいました。ここの先生のヴァルヴィンスキイさんなどは、とくにみんなの前で、それはそう考えたために起ったのだ、『倒れやしまいか、どうだろうか?』という懸念から起ったのだ、とこう主張して下さいました。で、その筋の方もそれはそのとおりに相違ない、つまり、私の心配から起ったものに相違ないと、調書へお書きつけになりました。」
 こう言い終ると、スメルジャコフは、いかにも疲れたらしく深い息をついだ。
「お前はもうそんなことまで申し立てたのかね?」イヴァンはいくらか毒気を抜かれてこう訊いた。彼はあの時の二人の対談を打ち明けると言って、スメルジャコフを嚇かすつもりだった。ところが、スメルジャコフのほうが先を越していたのである。
「私は何にも恐ろしいことはございませんからね! 何でも本当のことを正直に書きつけるがいいんですよ。」スメルジャコフはきっぱりと言った。
「門のそばで僕らがした話を、一句のこらず言ってしまったのかね?」
「いいえ、一句のこらずというわけでもありません。」
「癲癇のまねができると言って、あのときおれに自慢した、あのことも言ったのか?」
「いいえ、それは申しません。」
「それじゃ、聞きたいがね、お前はあの時、なぜおれをチェルマーシニャヘやりたがったんだ?」
「あなたがモスクワへいらっしゃるのを恐れたからでございますよ、何といっても、チェルマーシニャのほうが近うございますから。」
「嘘をつくな。お前はおれを逃そうとしたんじゃないか。罪なことはよけていらっしゃい、と言ったじゃないか。」
「あの時そう申しましたのは、あなたに対する情誼と心服から出たことでございます。家の中に不幸が起るような気がしましたので、あなたをお気の毒に思ってのことなんで。もっとも、私はあなたのことよりも、自分の身が可哀そうだったのでございます。それで、罪なことはよけるようになさいと申し上げたのは、今に家の中に不幸が起るから、お父さんを保護なさらなければならないということを、あなたに悟っていただくためだったのでございます。」
「そんならまっすぐに言えばいいじゃないか、馬鹿!」イヴァンは急にかっとなった。
「どうしてあの時まっすぐに言えましょう? 私があんなふうに申したのは、ただもしやという心配ばかりでございますから、そんなことを言えば、あなたがご立腹なさるにきまっているじゃありませんか。私もむろん、ドミートリイさまが何か騒動を始めなさりはしないか、あの金だってご自分のものとお考えになっていらっしゃるのですから、持ち出したりなどなさりはしないかと、心配しないでもなかったんですけれど、あんな人殺しがもちあがろうなどと、誰が思いましょう? 私はただあの方が、旦那さまの蒲団の下に敷いておいでになったあの封筒入りの三千ルーブリを、お取りになるだけだろうと思っていましたが、とうとう殺しておしまいになったんですものね。旦那、あなだだって予想外だったでございましょう?」
「お前さえ予想外だったと言うものを、どうして僕が予想して家に残っているものか? どうしてお前はそんな矛盾したことを言うんだ?」イヴァンは思案しながらこう言った。
「ですけれど、私があなたにモスクワをやめて、チェルマーシニャヘいらっしゃるようにお勧めしたことからでも、お察しがつきそうなものでございますね。」
「一たいどうしてそれが察しられるんだ!」
 スメルジャコフはひどく疲れたらしく、またしばらく黙っていた。
「私があなたに、モスクワよりチェルマーシニャのほうをお勧めしたのは、あなたがこの土地の近くにいらっしゃるのを望んだからでございますよ。だって、モスクワは遠うござんすからね。それに、ドミートリイさまも、あなたが近くにいらっしゃることを知ったら、あまり思いきったことをなさらないだろうと存じたからなので。これでもお察しがつきそうなはずじゃありませんか。それに、私のことにしても、何事か起ればあなたがすぐに駈けつけて、私を保護して下さるはずでございます。なぜと申して、私はグリゴーリイ・ヴァシーリッチの病気なことや、私が発作を恐れていることなどを、ご注意申し上げておいたからでございます。また、亡くなられた旦那の部屋へ入るあの合図を、ドミートリイさまが私の口から聞いて知っていらっしゃると、あなたにお話し申しましたのは、つまり、ドミートリイさまがきっと何かしでかしなさるに相違ない、とこうあなたがお察しになって、チェルマーシニャヘ行くどころか、すっかり腰を据えてここへ残っておいでになるだろう、と考えたからでございます。」
『話っぷりこそ煮えきらないが、なかなか筋みちの立ったことを言うわい』とイヴァンは考えた。『ヘルツェンシュトゥベは精神状態に異状があると言ったが、どこにそんなものがあるんだ?』
「お前はおれを馬鹿にしてるんだな、こん畜生!」彼はひどく腹をたててこう叫んだ。
「ですが、私はあの時、あなたがもうすっかりお察しになったことと思っていましたよ」とスメルジャコフはきわめて平気な様子で受け流した。
「察しておれば、出かけやしないはずだ!」イヴァンはまたかっとして叫んだ。
「でもね、私はあなたが何もかもお察しのうえ、どこでもいいから逃げ出してしまおう、恐ろしい目にあわないように、できるだけ早く罪なことをよけていようと、こうお思いになったのだとばかり存じていました。」
「お前は誰でも自分のような臆病者と思っているのか?」
「ごめん下さいまし、実はあなたも私と同じような方だと存じましたので。」
「むろん、察すべきはずだったのだ」とイヴァンは興奮しながら言った。「そうだ、おれはお前が何か穢らわしいことをするだろうと察していたよ……とにかく、お前は嘘をついている、また嘘をついている」と彼は急に思い出して叫んだ。「お前はあのとき馬車のそばへ寄って、『賢い人とはちょっと話しても面白い』と言ったことを憶えているだろう。してみると、お前はおれが出発するのを喜んで、賞めたんじゃないか?」
 スメルジャコフはもう一度、また一度ため息をついた。その顔には血の気がさしたようであった。
「私が喜びましたのは」と彼はいくらか息をはずませながら言った。「それはただ、あなたがモスクワでなしに、チェルマーシニャヘ行くことに同意なすったからなんで。何といっても、ずっと近うございますからね。ですが、私があんなことを申したのは、お賞めするつもりじゃなくって、お咎めするつもりだったのでございます。それがあなたはおわかりにならなかったので。」
「何を咎めたんだ?」
「ああした不幸を感じていらっしゃりながら、ご自分の親ごを捨てて行って、私どもを護ろうとして下さらないからでございます。なぜって、私があの三千ルーブリの金を盗みでもしたように、嫌疑をかけられる心配がありましたからね。」
「こん畜生!」とイヴァンはまた呶鳴った。「だが待て、お前は予審判事や検事に、あの合図のことを申し立てたのか?」
「すっかりありのままに申し立てました。」
 イヴァンはまた内心おどろいた。
「おれがもしあのとき何か考えたとすれば」と彼はふたたび始めた。「それは、お前が何か穢らわしいことをするだろうということだ。ドミートリイは殺すかもしれないが、盗みなんかしない、おれはあの時、そう信じていた……ところが、お前のほうは、どんな穢らわしいことをするかしれない、と覚悟していたのだ。現にお前は、癲癇の発作がまねられると言ったじゃないか。何のためにあんなことをおれに言ったんだ?」
「あれはただ、私が馬鹿正直なために申したのでございます。私は生れてから一度も、わざとそんなまねをしたことはありません。ただあなたに自慢したいばかりに申し上げたので。まったく馬鹿げた冗談でございますよ。私はあの時分、あなたが大好きでございましたから、あなたには心やすだてで[#「心やすだてで」はママ]お話ししたのでございます。」
「でも、兄貴は、お前が殺したのだ、お前が盗んだのだと言って、一も二もなくお前に罪をきせているぞ。」
「そりゃ、あの方としてはそう言うよりほか仕方がございますまい」とスメルジャコフは苦い薄笑いをもらした。「でも、あんなにたくさん証拠があがっているのに、誰があの方の言うことを信用するものですか。グリゴーリイさんも戸が開いてるのを見たんですもの、こうなりゃもう仕方がないじゃありませんか。まあ、あんな人なんかどうでもよござんすよ。自分の命を助けようと思って、もがいてらっしゃるんですからね……」
 彼は静かに口をつぐんだが、急に何か思いだしたようにつけたした。
「それに、結局おなじことになりますよ。あの方は私の仕業だと言って、私に罪をなすりつけようとしていらっしゃる、――そのことは私も聞きました、――けれど、たとえ私が癲癇をまねる名人だったにしろ、もしあのとき私が本当に、あなたのお父さまを殺そうという企らみを持っていたら、癲癇のまねが上手だなんかって、あなたに前もって言うはずがないじゃありませんか! もし私があんな人殺しの企らみをいだいていたら、生みの息子さんのあなたに、自分のふため[#「自分のふため」はママ]になる証拠を前もって打ち明けるような、そんな馬鹿なことをするはずがないじゃありませんか! 一たいそんなことが本当になるでしょうか!どうして[#「しょうか!どうして」はママ]、そんなことがあろうとは金輪際、考えられやしませんよ。現に今にしても、私とあなたのこの話は神様よりほかに、誰も聞いているものはありません。が、もしあなたが検事やニコライさんにお話しなすったとしても、結局それは私の弁護になってしまいます。なぜって、以前それほどまでに馬鹿正直であったものを、どうしてその悪漢などと思われましょう? こう考えるのは、ごくあたりまえなことじゃありませんか。」
「まあ、聞いてくれ。」スメルジャコフの最後の結論に打たれたイヴァンは、つと席を立って、話を遮った。「おれはちっともお前を疑っちゃいない。お前に罪をきせるのを、滑稽なこととさえ思ってるんだ……それどころか、お前がおれを安心させてくれたのを、感謝してるくらいだ。今日はもうこれで帰るが、また来るよ、じゃ、さようなら、体を大切にするがいい、何か不自由はないかね?」
「いろいろと有難うございます。マルファ・イグナーチエヴナが私を忘れないで、もし私に入用なものがあれば、以前どおり親切に何でも間にあわせてくれます[#「間にあわせてくれます」はママ]。親切な人たちが毎日たずねて来てくれますので。」
「さようなら。だが、おれはお前が癲癇のまねがうまいことを、誰にも言わないようにするから……お前も言わないほうがいいよ。」イヴァンはなぜか突然こう言った。
「ようくわかっております。もしあなたがそれをおっしゃらなければ、私もあの時あなたと門のそばでお話ししたことを、すっかり申さないことにいたしましょう……」
 イヴァンは急にそこを立ち去ったが、もう廊下を十歩も歩いた頃にやっとはじめて、スメルジャコフの最後の一句に、何やら侮辱的な意味がふくまれているのに気がついた。彼は引っ返そうと思ったが、その考えもちらとひらめいただけで、すぐ消えてしまった。そして『ばかばかしい!』と呟くと、そのまま急いで病院を出た。彼は犯人がスメルジャコフではなく、自分の兄ミーチャであると知って、実際、安心したような気がした(もっとも、それは正反対であるべきはずだったけれど)。ところで、なぜ彼はそんなに安心したのか、――そのとき彼はそれを解剖することを望まず、自分の感覚の詮索だてに嫌忌の念さえ感じた。彼は何かを忘れてしまいたい気がしたのである。その後、幾日かの間に、ミーチャを圧倒するような多数の証拠を詳しく根本的に調べるとともに、彼はすっかりミーチャの有罪を信じてしまった。ごくつまらない人々、――例えばフェーニャやその祖母などの申し立ては、ほとんど人をして戦慄せしめるていのものであった。ペルホーチンや、酒場や、プロートニコフの店や、モークロエの証人などのことは、今さら喋々[#「喋々」はママ]するまでもなかった。ことに細かいデテールが人々を驚倒させた。秘密の『合図』に関する申し立ては、戸が開かれていたというグリゴーリイの申し立てと同じくらいに、判事や検事を驚かした。グリゴーリイの妻のマルファは、イヴァンの問いに対して、スメルジャコフは自分たちのそばの衝立ての陰に夜どおし寝ていた、そこは『わたしどもの寝床から三足と離れちゃおりませんでした』から、自分はずいぶん熟睡していたけれど、たびたび目をさまして、あれがそこに唸っているのを聞いた、『しじゅう唸っていました。ひっきりなしに唸っていました』とこう言いきった。イヴァンはまたヘルツェンシュトゥベと話をして、スメルジャコフは狂人と思われない、ただ衰弱しているまでである、という意見を述べたけれど、それはただこの老医師の微妙なほお笑みを誘うにすぎなかった。『じゃ、あなたはあの男が今とくにどんなことをしてるかご存じですか?』と医師はイヴァンに訊いた。『フランス語を暗誦しているんですよ。あの男の枕の下には手帳が入っていましてね、誰が書いたものか、フランス語がロシヤ文字で書いてありますよ、へへへ!』で、イヴァンはとうとう一切の疑いを棄ててしまった。彼はもはや嫌悪の念なしに、兄ドミートリイのことを考えられなかった。ただ一つ不思議なのは、アリョーシャが下手人はドミートリイでなくて、『きっと確かに』スメルジャコフに相違ない、と頑固に主張しつづけることであった。イヴァンはいつもアリョーシャの意見を尊重していたので、そのために今ひどく不審を感じた。もう一つ不思議なのは、アリョーシャがイヴァンとミーチャの話をするのを避けて、決して自分のほうからは口をきかず、ただイヴァンの問いに答えるにすぎないということである。イヴァンはこれにも十分気がついていた。
 けれど、それと同時に、彼はぜんぜん別なある事柄に気を取られていた。彼はモスクワから帰ると間もなく、カチェリーナに対する焔のようなもの狂おしい熱情に没頭したのである。しかし、その後イヴァンの生涯に影をとどめたあの新しい情熱については、いま物語るべき機会でない。これはまた、別な小説の主題を形成すべきものである。が、その物語をいつかまた始めるかどうか、それは筆者《わたし》自身にもわかっていない。だが、この場合どうしても黙って打ち過されないことがある。イヴァンは、もう前にも書いたとおり、あの夜アリョーシャと一緒に、カチェリーナの家から帰る途中『僕はあまりあの女が好きじゃない』と言ったが、それは大きな嘘であった。もっとも、彼は時とすると、殺してしまいかねないくらい彼女を憎むこともあったが、概して気が狂いそうなほど彼女を愛していた。それにはたくさんの理由が重なっていた。彼女はミーチャの事件に心の底から震撼されて、ふたたび自分のもとへ帰って来たイヴァンを、さながら救い主かなんぞのように思い、いきなり彼に縋りついたのである。彼女が忿怒と、侮蔑と、屈辱の感じをいだいているところへ、ちょうど以前彼女を熱愛していた男が、ふたたび現われたのである(そうだ、彼女はこのことをよく知っていた)。彼女はその男の知力と心情を、いつも深く崇敬していたのである。けれど、この厳正なる処女は、自分の恋人のカラマーゾフ式な抑えがたい激しい情熱を見ても、彼から深い敬慕の念を寄せられても、決してみずからを犠牲に捧げようとはしなかった。それと同時に、彼女は絶えずミーチャにそむいたことを後悔して、イヴァンと烈しく争った時など(彼らはしじゅう喧嘩をした)、露骨にこのことを男に言ったりした。イヴァンがアリョーシャと話をした時、『虚偽の上の虚偽』と呼んだのはこのことなのである。そこにはむろん、多くの虚偽があった、これが何よりもイヴァンを憤慨させたのである……が、このことはあとで言おう。要するに、彼は一時ほとんどスメルジャコフのことを忘れていたのだ。けれども、スメルジャコフを初めて訪ねてから二週間ばかりたつと、また例の奇怪な想念がイヴァンを苦しめはじめた。彼は絶えず自問した、――なぜ自分はあのとき、例の最後の夜、すなわち出発の前夜、フョードルの家で、盗人のように足音を忍ばせながら階段へ出て、父親が下で何をしているかと、耳をすまして聞いたのだろう? なぜあとでこのことを思い出したとき、嫌悪を感じたのだろう?なぜ[#「だろう?なぜ」はママ]その翌朝、途中であんなに急に憂愁に悩まされたのか? なぜモスクワへ入りながら、『おれは卑劣漢だ!』とひとりごちたのか? こんなふうに反問したことだけ言えばたくさんであろう。いま彼はこうしたさまざまな悩ましい想念のために、カチェーリーナさえ忘れがちになりそうな気がした。それほどまでに、彼はまた突然この想念の虜になったのである。ちょうどこういうことを考えて往来を歩いている時、ふとアリョーシャに出会った。彼はすぐ弟を呼び止めて、だしぬけに問いかけた。
「お前おぼえてるだろう、ドミートリイが食事ののちに家の中へ暴れ込んで、親父を撲ったね。それから、僕が外で『希望の権利』を保有するとお前に言ったことがあったっけ。そこで、一つお前に訊くが、そのとき僕が親父の死ぬのを望んでいると考えたかね、どうかね。」
「考えました」とアリョーシャは低い声で答えた。
「もっとも、それは実際そのとおりだったんだ、推察も何もいりゃしない。だが、お前はその時、『毒虫同士がお互いに食い合う』のを、つまりドミートリイが親父を一ときも早く殺すのを、僕が望んでいると思やしなかったかね?……そして、僕自身もその手つだいくらいしかねない、と思やしなかったかね?」
 アリョーシャは心もち顔を蒼くして、無言のまま兄の目を見た。
「さあ、言ってくれ」とイヴァンは叫んだ。「僕はお前があの時どう考えたか、知りたくってたまらないんだ、本当のことを聞きたいんだ、本当のことを!」
 彼はもう前から一種の憎しみを浮べて、アリョーシャを見つめながら、重々しい息をついていた。
「赦して下さい、僕はあの時、そうも思ったのです」とアリョーシャは囁いて、『やわらげるような言葉』を一言もつけ加えずに黙ってしまった。
「有難う!」イヴァンは断ち切るようにこう言ったまま、アリョーシャをおき去りにして、急ぎ足に自分勝手なほうへ行ってしまった。
 そのとき以来アリョーシャは、兄のイヴァンがなぜかきわ立って自分を避けるように努め、そのうえ自分を愛さないようにさえなったことに気づいた。アリョーシャのほうでも、もうイヴァンのところへ行くのをやめてしまった。ところで、イヴァンはその時アリョーシャと会った後、自分の家へ帰らないで、突然ふたたびスメルジャコフのもとへ出向いたのである。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第五章 あなたじゃない

   第五 あなたじゃない

 アリョーシャはイヴァンの家へ行く途中、カチェリーナが借りている家のそばを通らなければならなかった。どの窓にも、灯火《あかり》がさしていた。彼はふと立ちどまって、訪ねてみようと決心した。一週間以上も、カチェリーナに会わなかったのである。けれど、このとき彼の頭に、あるいはいま彼女のとこにイヴァンが来ているかもしれない、ことにこういう日の前夜だから、という考えが浮んだ。彼はベルを鳴らして、シナ提灯の淡い光に照らされている階段を昇って行くと、上からおりて来る人があった。そしてすれ違いしなに、それが兄であると知った。彼はもうカチェリーナのところから出て来たものと見える。
「ああ、お前だったのか」とイヴァンはそっけなく言った。「じゃ、さようなら、お前はあのひとのところへ行くのかね?」
「そうです。」
「行かないほうがいいよ、あのひとはひどく『興奮している』から、お前が行くと、よけい気分をかき乱すだろう。」
「いいえ、いいえ!」階上の少し開かれた戸の間から、突然こういう叫び声が聞えた。「アレクセイさん、あなたあの人のとこへいらして?」
「そうです、その帰りです。」
「わたしに何か言づけでもあっていらしったの? おはいんなさい、アリョーシャ。イヴァン・フョードロヴィッチ、あなたもぜひ戻ってちょうだいな。よござんすか!」
 カーチャの声には、命令するような響きがあった。で、イヴァンはちょっとためらったが、やがて、アリョーシャと一緒に引っ返すことに決めた。
「立ち聴きしたんだ!」とイヴァンはいらだたしげに口の中で呟いたが、アリョーシャにはそれがはっきり聞えた。
「失礼ですが、僕は外套を脱ぎませんよ」と、客間へ入った時イヴァンは言った。「それに、僕は腰もかけません。ほんの一分間だけいます。」
「おかけなさい、アレクセイさん」とカチェリーナは言ったが、自分はやはり立っていた。彼女はこの間にいくらも変っていなかったが、その暗い目はもの凄く光っていた。あとで思い出したことであるが、アリョーシャの目には、この瞬間のカチェリーナがかくべつ美しく映じた。
「あの人、どんなことを言づけて?」
「たったこれだけです、」まともに彼女の顔を眺めながら、アリョーシャは言った。「どうか自分を容赦して、法廷であのことを言わないようにって(彼は少し口ごもった)。つまり、あなた方の間に起ったことです……あなた方が初めてお会いになった時分……あの町で……」
「ええ、それはあのお金のために頭を下げたことでしょう!」と彼女は苦い笑い声を上げながら言った。「一たいどうなんでしょう、あの人は自分のために恐れてるんでしょうか、それとも、わたしのためなんでしょうか、え? 容赦するって、――誰を容赦するんでしょう? あの人を、それとも、わたしを?え、どっちなんですの、アレクセイさん。」
 アリョーシャは彼女の言葉の意味を読もうとしながら、じっと相手を見つめた。
「あなたも、また兄自身も」と彼は小さな声で言った。
「そうでしょうとも」と彼女は妙に毒々しい調子で断ち切るように言い、急に顔を赤くした。
「あなたはまだわたしというものをご存じないんですよ、アレクセイさん」と彼女は威嚇するように言った。「だけど、わたしもまだ自分で自分を知らないんですの。たぶんあなたは明日の訊問のあとで、わたしを足で踏みにじろうと思ってらっしゃるんでしょう。」
「あなたは正直に陳述なさるでしょう」とアリョーシャは言った。「それだけで結構なんですよ。」
「女ってものは、とかく不正直でしてね。」彼女はきりりと歯を食いしばった。「わたしはつい一時間まえまで、あの極道者にさわるのを、毒虫にさわるように恐ろしく思っていたけれど……それは間違っていましたわ。あの人は何といっても、わたしにとって人間です! 一たい本当にあの人が殺したんでしょうか? 殺したのはあの人でしょうか!」と彼女は急にヒステリックに叫んで、突然イヴァンのほうへふり向いた。
 その瞬間、アリョーシャは自分が来るつい一分まえまで、彼女が一度や二度でなく、幾十度となくこの問いをイヴァンに持ちかけたらしいことや、結局、喧嘩別れになったことなどを見てとった。
「わたしはスメルジャコフのところへ行って来てよ……あれはあんたよ、あんたがあの人を親殺しだって言うもんだから、わたしはあんたばかりを信用してたんだわ!」やはりイヴァンのほうに向いたまま[#「イヴァンのほうに向いたまま」はママ]、彼女はこう言いつづけた。
 イヴァンはいかにも苦しそうに、にたりと笑った。アリョーシャはこの『あんた』という言葉を聞いて、思わず身ぶるいした。彼は二人のそうした関係を夢にも考えていなかったのである。
「だが、もうたくさんだ」とイヴァンは遮った。「僕は帰ります、明日また来ます。」こう言うなり、彼はくるりと向きを変えて、部屋を出ると、ずんずん階段のほうへ歩いて行った。
 カチェリーナはとつぜん、何か命令でもするような身振りで、アリョーシャの両手を摑んだ。
「あの人のあとをつけていらっしゃい! あの人を追っかけてらっしゃい! 一分間でもあの人を一人にしておいちゃいけません」と彼女は早口に囁いた。「あの人は気がちがったんですのよ。あなた、あの人の気がちがったこと知らないんですか?[#「あの人の気がちがったこと知らないんですか?」はママ] あの人は熱を病んでるんですの、神経性の熱病ですの! 医者がそう言いましたわ。行って下さい、あの人のあとから駈けてって下さい……」
 アリョーシャはつと立ちあがり、イヴァンのあとを追っかけた。彼はまだ五十歩と離れていなかった。
「お前、何の用だい?」アリョーシャが自分を追っかけて来たのを見ると、彼は急に弟のほうへ振り向いた。「僕が気ちがいだから、追っかけて行けと、カーチャが言ったんだろう。ちゃんと知ってるよ」と彼はいらだたしい調子でつけたした。
「むろん、あのひとの思い違いでしょうけれど、あなたが病気だってことは、本当ですよ」とアリョーシャは言った。「私は今あのひとのところで、兄さんの顔を見てましたが、あなたの顔はひどく病的ですよ、イヴァン、とても病的ですよ!」
 イヴァンは立ちどまらずに歩いていた。アリョーシャもそのあとからついて行った。
「だが、アレクセイ、どんなふうにして、人間が気ちがいになるか、お前それを知ってるかね?」とイヴァンは急に恐ろしく静かな、恐ろしく穏やかな声でこう訊いた。この言葉の中には、きわめて素朴な好奇心がこもっていた。
「いいえ、知りません。気ちがいといっても、いろいろ種類があるでしょうからね。」
「じゃ、自分の気ちがいになっていることが、自分でわかるだろうか?」
「そんな時には、自分をはっきり観察することなんかできないだろうと思います」とアリョーシャはびっくりして答えた。
 イヴァンはほんのいっとき黙っていた。
「もし、何か僕に言いたいことがあるのなら、どうか話題を変えてくれ」と彼はだしぬけに言った。
「では、忘れないうちに、あなたへ手紙です。」アリョーシャはおずおずこう言って、かくしからリーザの手紙を取り出し、イヴァンに渡した。二人はちょうど街灯のそばまで来ていたので、イヴァンは手蹟ですぐそれを悟った。
「ああ、これはあの悪魔の子がよこしたんだな!」と彼は毒々しく笑い、開封もせず、いきなり手紙をずたずたに引き裂くなり、風に向って投げつけた。紙ぎれは四方にぱっと飛び散った。
「たぶんまだ十六にもならないんだろう、それにもう申し込みなんかしてる!」彼はまた通りを歩きながら、軽蔑するようにこう言った。
「申し込みしてるんですって?」とアリョーシャは叫んだ。
「わかりきってるじゃないか、淫乱な女がする申し込みさ。」
「何をいうんです、イヴァン、何をいうんです?」とアリョーシャは悲しげに、熱くなって弁解した。「あれは赤ん坊なんです、あんな赤ん坊を侮辱するものじゃありません! あれは病人なんです、重い病人なんですもの。あれもやはり気がちがってるのかもしれない……僕はこの手紙を渡さないわけにゆかなかったんです……それどころか、僕はあなたから何か聞きたかったくらいです……あれを救うために……」
「お前に聞かせることは何にもないよ。よしんばあれが赤ん坊でも、僕はあれの乳母じゃないからね。アレクセイ、もう何も言うな。僕はそんなことを考えてもいないんだ。」
 二人はまたしばらく黙っていた。
「あれはあす法廷でどういう態度をとろうかと、こんや夜どおし聖母マリヤを祈り明かすことだろうよ[#「聖母マリヤを祈り明かすことだろうよ」はママ]」と彼はまたとつぜん鋭い口調で毒々しく言った。
「あなたは……あなたはカチェリーナさんのことを言ってるんですか?」
「そうさ。あれはミーチャの救い主にも、下手人にもなれるんだ! だから、あれはお祈りをして、自分の心を照らしてもらおうとしているのさ。あれはね、われながらどうしていいかわからないんだ、まだ態度を決める暇がなかったんだよ。やはり僕を乳母扱いにして、僕にお守りをさせようとしているのさ。」
「兄さん、カチェリーナさんはあなたを愛してるんですよ」とアリョーシャは悲しそうな、情のこもった調子で言った。
「あるいはそうかもしれん。だが、僕はあの女が好きじゃないんだからね。」
「あのひとは、煩悶していますよ。なぜあなたは……ときおり……思わせぶりをなさるんです?」とアリョーシャはおずおずなじるように言葉をつづけた。「あなたがあのひとに思わせぶりをなすったことを、僕は知っていますよ、こんなことを言っては失礼ですが」と彼はつけたした。
「僕はこの場合、必要な処置をとることができないんだ。あれと手を切って、正直なところをあれに言うことができないんだ!」とイヴァンはいらだたしげに言った。「人殺しに宣告が下るまで、待たなけりゃならない。もしいま僕があれと手を切れば、あれは僕に対する復讐として、あす法廷であの悪党を破滅させるに相違ない。なぜって、あれはミーチャを憎んでいるし、また憎んでいることも知ってるんだからな。今は何もかも虚偽だ、虚偽の上に虚偽を積んでるんだ! 僕があれと手を切らずにいる間、あの女はまだ僕に希望をつないで、あの極道者を殺しゃしない。僕がミーチャを災難から引き出そうとしてるのを、あれは知ってるからね。とにかく、あのいまいましい宣告が下るまでだ!」
『人殺し』とか『極道者』とかいう言葉が、痛いほどアリョーシャの心に響いた。
「でも、一たいどうしてあのひとは、ミーチャを破滅させることができるんです?」彼はイヴァンの言葉に考え込みながら、こう訊いた。「否応なしにミーチャを破滅させるようなことって、一たいどんなことを申し立てるつもりなんです?」
「お前はまだ知らないんだ。あれはちゃんと証拠を一つ握っている。それはミーチャが自分で書いたもので、あの男がフョードル・パーヴロヴィッチを殺したということを、数学的に証明してるんだ。」
「そんなはずはありません」とアリョーシャは叫んだ。
「どうしてそんなはずがないんだ? 僕は自分でちゃんと読んだんだよ。」
「そんな証拠があるはずはありません!」とアリョーシャは熱心に繰り返した。「そんなはずはありません。だって、あの人は、下手人じゃないんですもの。あの人がお父さんを殺したんじゃないんですもの、あの人じゃありません!」
 イヴァンは急に立ちどまった。
「じゃ、お前は誰を下手人と思うんだ?」と彼は一見いかにも冷淡な調子で訊いた。その問いには一種の傲慢な響きさえこもっていた。
「誰かってことは、あなた自分で知ってらっしゃるでしょう。」アリョーシャは小さな声で滲み入るようにこう言った。
「誰だい? それは、あの気ちがいの馬鹿だっていう昔噺かい? 癲癇やみのことかい? スメルジャコフのことかい?」
 アリョーシャは急に全身が慄えるような気がした。
「兄さん、自分で知ってらっしゃるくせに。」こういう力ない言葉が、彼の口から思わずもれて出た。彼は息を切らせていた。
「じゃ、誰だい、誰だい?」とイヴァンはほとんどあらあらしい調子で叫んだ。今までの押えつけたような控え目なところが、まるでなくなってしまった。
「僕はただこれだけ知っています。」アリョーシャは依然として囁くように言った。「お父さんを殺したのはあなたじゃない[#「あなたじゃない」に傍点]。」
「あなたじゃない[#「あなたじゃない」に傍点]! あなたじゃないとは何だ?」イヴァンは棒立ちになった。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃない。あなたじゃありません!」とアリョーシャはきっぱりと繰り返した。
 三十秒ばかり沈黙がつづいた。
「そうさ、僕が殺したんでないことは、自分でちゃんと知っている。お前は何の寝言を言ってるんだい?」蒼白い、ひん曲ったような薄笑いを浮べて、イヴァンはこう言った。
 彼は食い入るようにアリョーシャを見つめた。二人はまた街灯のそばに立っていた。
「いいえ、イヴァン、あなたは幾度も幾度も、下手人はおれだと自分で自分に言いました。」
「いつ僕が言った? 僕はモスクワにいたじゃないか……いつ僕が言った?」とイヴァンは茫然として囁いた。
「あなたはこの恐ろしい二カ月の間、一人きりでいる時に、幾度も自分で自分に、そうおっしゃったのです。」アリョーシャは依然として小さな声で、句ぎり句ぎり言葉をつづけた。けれど、もう今は自分の意志でなく、ある打ち克ちがたい命令によって、夢中で言っているような工合であった。「あなたは自分で自分を責めて、下手人はおれ以外に誰もないと自白したのです。けれど、殺したものは[#「殺したものは」はママ]あなたじゃありません。あなたは思い違いをしています、下手人は、あなたじゃありません、僕の言葉を信じて下さい、あなたじゃありません! 神様は、このことをあなたに言うために、僕をおつかわしになったのです。」
 二人は口をつぐんだ。この沈黙はかなり長くつづいた。二人はじっと立ったまま、互いに目と目を見合せていた。二人とも真っ蒼であった。と、イヴァンは急に身慄いして、ぐいとアリョーシャの肩を摑んだ。
「お前は僕のところへ来ていたんだな!」と、彼は歯ぎしりしながら噺いた。「お前はあいつが来た夜、僕のところにいたんだな……白状しろ……お前はあいつを見たろう、見たろう?」
「あなたは誰のことを言ってるんです……ミーチャのことですか?」とアリョーシャは、いぶかしそうに訊ねた。
「あれのことじゃない、あんな極道者なんかくそ食らえだ!」とイヴァンは夢中に呶鳴った。「あいつが僕のとこへ来ることを、一たいお前は知ってるのか? どうして知ったんだ、さあ言え。」
「あいつ[#「あいつ」に傍点]とは誰です? 誰のことを言ってるのか、僕にはわからないですよ。」アリョーシャはもう慴えたようにこう噺いた。
「いや、お前は知ってる……でなけりや、どうしてお前が……お前が知らないはずはない……」
 けれど、突然、彼は自分を抑えるように急に言葉を切った。彼はそこに突っ立ったまま、何事か思いめぐらしているらしかった。異様な嘲笑が彼の唇を歪めた。
「兄さん」とアリョーシャは慄え声で、また言いだしだ。「僕が今ああ言ったのは、あなたが僕の言葉を信じて下さることと信じているからです。『あなたじゃない』というこの言葉を、僕は命にかけて言ったのです! ねえ、兄さん、命にかけてですよ。神様がこの言葉を僕の魂へ吹き込んで、それをあなたに言わせて下すったのです。たとえ、この瞬間から永久にあなたの怨みを受けても……」
 しかし、イヴァンは見たところ、もうすっかり落ちつきを取り返したらしかった。
「アレクセイ君、」冷やかな微笑をもらしながら、彼はこう言った。「僕はぜんたい予言者や癲癇持ちが大嫌いなんだ。ことに神の使いなんてものは、とても我慢ができない。それは君もよくご承知のはずです。今から僕は君と縁を切る。これが永久の別れになるでしょう。どうか今すぐこの四辻で僕と別れてもらいたい。この横町が君の家へ行く道筋です。ことに、きょう僕のとこへ来るのは、平にごめん蒙ります! よろしいか?」
 彼はくるりと向きを変えて、しっかりした足どりでわき見もせずに、ずんずん行ってしまった。
「兄さん」とアリョーシャは彼のあとから呼びかけた。「もし今日あなたの身の上に何かことが起ったら、まず第一に僕のことを考えて下さい!………」
 しかし、イヴァンは答えなかった。アリョーシャは、兄の姿がすっかり暗闇の中に消えてしまうまで、じっと四辻の街灯のそばに立っていた。イヴァンの姿が見えなくなると、彼は踵を転じて、横町づたいに、そろそろとわが家のほうへ歩みを運んだ。彼もイヴァンも別々に間借りしていた。二人とも荒れはてたフョードルの家に住むのをいやがったのである。アリョーシャはある商人の家に家具つきの部屋を借りていた。イヴァンは、アリョーシャからよほど離れたところに住まっていた。小金を持ったある官吏の未亡人の所有になっている立派な家の、広々としたかなり気持のいい離れを借りていたのである。しかし、この離れづきの女中はたった一人、それも大年よりの耳の遠い婆さんで、しょっちゅうレウマチに悩んでいて、夜は六時に寝、朝は六時に起きるというふうであった。イヴァンはこの二カ月の間、不思議なほど女中を使わないようになって、いつも一人でいるのを喜んだ。彼は自分ひとりで居室を取り片づけ、ほかの部屋はめったに覗きさえしなかった。
 彼は自分の家の門まで来ると、ベルの把手を摑んだまま、ふと立ちどまった。彼は依然として忿怒のために全身がふるえるのを感じたのである。彼は急にベルをはなすと、ぺっと唾を吐いて、くるりと向きを変え、またまるっきり別な方角へ急ぎ足に歩きだした。それはまったく正反対の方向にあたる町はずれで、自分の家から二露里も離れていた。彼はそこにあるごく小さな、歪んだ丸太づくりの家へと向ったのである。この家にはマリヤ・コンドラーチエヴナが住まっていた。以前フョードルの隣りにいて、フョードルの家の台所ヘスープをもらいに来ていた女である。その時分、スメルジャコフはこの女に歌をうたって聞かせたり、ギターを弾いてやったりしたものである。彼女は以前の持ち家を売り払って、今ではほとんど百姓家のようなその家に、母親と二人で住まっていた。病気で死にかかっているスメルジャコフも、フョードルの横死以来、この親子の家に同居していたのである。今イヴァンは突然、ある抑えがたい懸念に駆られて、彼のもとへ出かけたのであった。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第四章 頌歌と秘密

   第四 頌歌と秘密

 アリョーシャが監獄の門のベルを鳴らした時は、もうだいぶ遅く(それに、十一月の日は短いから)、たそがれに近かった。けれど、アリョーシャは何の故障もなく、ミーチャのところへ通されることを知っていた。こういうことはすべてこの町でも、やはりほかの町と同じであった。予審終結後、はじめのうちは、親戚その他の人々の面会も、ある必然の形式で制限されていたが、その後だんだん寛大になった、というわけでもないが、少くとも、ミーチャのところへ来る人々のためには、いつの間にかある例外が形づくられたのである。時によると、被監禁者との面会が、その用にあてられた部屋の中で、ただ二人、――四つの目だけの間で行われることさえあった。が、そういう人はごく僅かで、ただグルーシェンカとアリョーシャとラキーチンくらいのものだった。グルーシェンカには、署長のミハイル・マカーロヴィッチが、とくに好意をもっていた。モークロエでグルーシェンカを呶鳴りつけた時のことが、いつまでもこの老人の心を咎めたのである。その後、彼はよく真相を知るとともに、彼女に対する自分の考えを一変した。不思議なことに、彼はミーチャの犯罪を固く信じていたにもかかわらず、彼が監禁されたそもそもから、『この男も善良な心の持ち主だったらしいが、あんまり酒を飲みすぎて、だらしがないものだから、とうとうスウェーデン人のようにすっかり身を破滅させてしまった』と思って、だんだんミーチャを見る目がやわらいできたのである。彼が心にいだいていた以前の恐怖は、一種の憐憫の情に変った。アリョーシャのほうはどうかというと、署長は非常に彼を愛していた。二人はもうとうから知合いの間柄なのであった。その後しきりに監獄へ出入りしはじめたラキーチンも、彼のいわゆる『署長のお嬢さん』の最も親しい知合いの一人でほとんど毎日お嬢さんのそばで暮していた。そのうえ彼は、頑固一徹の官吏ではあるが、いたって心の優しい老典獄の家で、家庭教師をしていたのである。アリョーシャもやはり典獄の旧友であった。典獄は全体に、『最高の叡知』というような問題で、アリョーシャと語り合うのを好んだ。またイヴァンのほうはどうかというと、典獄は決して彼を尊敬しているわけではないが、何よりも一ばん彼の議論を恐れていた。もっとも、典獄自身も『自分の頭で到達した』ものに相違ないが、やはりえらい哲学者なのであった。アリョーシャに対しては、彼はある抑えがたい好感をもっていた。近頃、彼はちょうど旧教福音書の研究をしていたので、絶えず自分の印象をこの若い親友に伝えた。以前はよくアリョーシャのいる僧院まで出かけて行って、彼をはじめ多くの主教たちと、幾時間も語り合ったものである。こういうわけで、アリョーシャは多少時間に遅れたところで、典獄のところへ行きさえすれば、うまく取り計らってもらうことができるのであった。それに、監獄では一ばん下っぱの番人にいたるまで、みんなアリョーシャに馴染んでいた。むろん看守も、上役から叱られさえしなければ、決して面倒なことを言わなかった。ミーチャはいつも呼び出されると、監房から下の面会所へおりて行くのを常とした。アリョーシャは部屋え[#「部屋え」はママ]入りがけに、ちょうどミーチャのところから出て来たラキーチンに、ばったり出くわした。二人は何やら大きな声で話をしていた。ミーチャはラキーチンを見送りながら、なぜかひどく笑ったが、ラキーチンは何だかぶつぶつ言っているようなふうであった。ラキーチンは近頃、とくにアリョーシャと出会うのを好まず、会ってもほとんど口もきかずに、ただわざとらしく挨拶するだけであった。今も入って来るアリョーシャを見ると、彼は妙に眉を寄せて、目をわきへそらした。その様子はいかにも、毛皮襟のついた大きな暖かい外套のボタンをかけるのに気をとられている、とでもいったようなふうであった。やがて、彼はすぐ自分の傘を捜し始めた。「自分のものは忘れないようにしなくちゃ。」彼はただ何か言うためにしいてこう呟いた。
「君、人のものも忘れないようにしろよ!」とミーチャは皮肉に言って、すぐ自分で自分の皮肉にからからと高笑いを上げた。
 ラキーチンはいきなりむっとした。
「そんなことはカラマーゾフ一統のものに言うがいい。君たちは農奴制時代の私生児だ。そんなことは、ラキーチンに言う必要はない!」憎悪のためにぶるぶると身ぶるいをしながら、彼はやにわに剣突《けんてつ》をくわした。
「何をそんなに怒るんだい? 僕はただちょっと冗談に言っただけだよ!」とミーチャは叫んだ。「ちょっ、ばかばかしい! あいつらはみんなあのとおりだ。」急いで出て行くラキーチンのうしろ姿を顎でしゃくりながら、アリョーシャに話しかけた。
「今まで坐り込んで、面白そうに笑ってたのにもう怒ってやがる! お前に目礼さえしなかったじゃないか。どうしたんだ。すっかり仲たがいでもしたのかい? どうしてお前はこんなに遅く来たんだ? おれはお前を待っていたどころじゃない、朝のうち焦れぬいてたんだ。だが、いいや! 今その埋め合せをするから。」
「あの男はどうしてあんなに兄さんのとこへ来るんです? すっかり仲よしになったんですか?」やはりラキーチンが出て行った戸口を顎でしゃくりながら、アリョーシャはこう訊いた。
「ラキーチンと仲よしになったかって言うのかい? そんなわけでもないが……いやなに、あいつは豚だよ! あいつはおれを……やくざ者だと思ってやがるんだ。それにちょっと冗談言ってもむきになる、――あいつらときたら、洒落というものがてんでわからないんだからな。それが一ばん厄介だよ。あの連中の魂は、なんて無味乾燥なんだろう。薄っぺらで乾からびてるよ。まるでおれが初めてここへ連れられて来て、監獄の壁を見た時のような心持がする。だが、なかなか利口なことは利口な男だ。しかし、アレクセイ、もういよいよおれの頭もなくなったよ!」
 彼はベンチに腰をおろし、アリョーシャをもそばにかけさせた。
「そう、明日がいよいよ公判ですね。じゃ、何ですか、兄さん、もうすっかり絶望してるんですか?」とアリョーシャはおずおずと言いだした。
「お前、それは何言ってるんだい?」ミーチャは何ともつかぬ、漠とした表情で、アリョーシャを眺めた。「ああ、お前は公判のことを言ってるんだな! ちょっ、ばかばかしい! 僕らは今までいつもつまらない話ばかり、いつもこの公判の話ばかりしていたが、一ばん大切なことは、黙っていたんだよ。そりゃ明日は公判さ。しかし、いま頭がなくなったと言ったのは、そのことじゃないよ。頭はなくなりゃしないがね、頭の中身がなくなったってことさ。どうしてお前はそんな批評をするような顔つきでおれを見るんだ!」
「ミーチャ、それは何のことなんです?」
「思想のことさ、思想のことなんだよ! つまり倫理《エチカ》だよ、一たい倫理《エチカ》って何だろう?」
「倫理《エチカ》?」アリョーシャは驚いた。
「そうだ、どんな学問だね?」
「そういう学問があるんですよ……しかし……僕は正直なところ、どんな学問かうまく説明できないんです。」
「ラキーチンは知ってるぜ。ラキーチンの野郎いろんなことを知ってやがる、畜生! やつは坊主になんかなりゃしないよ。ペテルブルグへ行こうとしてるんだ。そこで何かの評論部へ入ると言っている。ただし、高尚な傾向をもってるところだ。大いに世を裨益して、立身出世しようと言うんだ。いや、どうして、あいつらは立身出世の名人だからなあ! 倫理《エチカ》が何だろうと、そんなこたあ、どうでもいい。おれはもうおしまいだ。アレクセイ、おればもうおしまいだよ。お前は神様に愛されている人間だ! おれは誰よりも一番お前を愛してる。おれの心臓はお前を見るとふるえるんだ。カルル・ベルナールってのは、一たい何だい?
「カルル・ベルナール?」とアリョーシャはまた驚いた。
「いや、カルルじゃない、ちょっと待ってくれ、おれはでたらめを言っちゃった、クロード・ベルナール(十九世紀フランスの生理学者)だ。クロード・ベルナールって一たい何だい? 化学者のことかい?」
「それは確か、ある学者です」とアリョーシャは答えた。「けれど、実のところ、この人のこともよく知りません。ただ学者だってことは聞いたけれど、どんな学者か知らない。」
「なに、そんなやつなんかどうでもいい、おれも知らないんだ」とミーチャは呶鳴った。「どうせ、ろくでなしのやくざ者だろう。それが一ばん本当らしい。どうせみんなやくざ者さ。だが、ラキーチンはもぐり込むよ。ちょっとした隙間でも、あいつはもぐり込むよ。あいつもやはりベルナールだ。へっ、ろくでなしのベルナールども! よくもこうむやみに殖えたものだ!」
「一たい兄さんどうしたんですか?」とアリョーシャは追及した。
「あいつはおれのことや、おれの事件のことを論文に書いて、文壇へ乗り出そうと思ってるんだ。そのためにおれのところへ来るんだよ、それは自分でもそう言ったよ。何か傾向のあるものを書きたがってるのさ。『彼は殺さざるを得なかった。何となれば、周囲の犠牲になったからである』てなことをね。おれに説明してくれたよ。社会主義の色をつけるんだそうだ。そんなこたあどうでもいいさ、社会主義の色でも何でも、そんなこたあどうでもいいや。あいつはイヴァンを嫌って憎んでいるよ。お前のこともやっぱりよく思っちゃいない。それでもおれがあいつを追い返さずにおくのは、あいつが利口者だからだ。もっとも、あいつ恐ろしくつけあがりすぎる。だから、おれは今も言ってやったのだ。『カラマーゾフ一統はやくざ者じゃない、哲学者だ。なぜって、本当のロシヤ人はみんな哲学者じゃないか。だが、お前なんかは学問こそしたけれど、哲学者じゃなくて、ごろつきだ』ってね。そしたら、あいつ何ともいえない、にくにくしそうな顔をして笑やがったよ。で、おれはやつに言ったね、de ideabus non est disputandum(思想の相違はやむを得ない――ラテン語)少くとも、おれも古典主義の仲間入りをしたんだよ。」ミーチャは急にからからと笑った。
「どうして兄さんもう駄目なんです? いま兄さんそう言ったでしょう?」とアリョーシャは遮った。
「どうして駄目になったって? ふむ! 実はね……一言でつくせば、おれは近頃、神様が可哀そうになったんだ、だからだよ!」
「え、神様が可哀そうなんですって?」
「いいかい、こういうわけだ。それはここんとこに、頭の中に、その脳髄の中に神経があるんだ……(だが、そりゃ何でもいいや!)こんなふうな尻尾みたいなものがあるんだ。つまり、その神経に尻尾があるんだ。そこで、この尻尾がふるえるとすぐに……つまり、いいかね、おれが目で何か見るとするだろう、そうすると、そいつがふるえだすんだ、つまり、尻尾がさ……こうしてふるえると、映像が現われるんだ。すぐに現われるんじゃない、ちょっと一瞬間、一秒間すぎてからだ。すると、一種の刹那が現われる。いや、刹那じゃない、――ちょっ、いまいましい、――ある映像が、つまり、ある物体というか、事件というか、――が現われる。だが、それはどうでもいい! こういうわけで、おれは観照するし、それから、考えもするんだ。なぜって、それは尻尾がふるえるからなので、おれに霊があるからでもなければ、おれの中に神の姿があるからでもないんだ。そんなことは、みんなばかばかしい話だとさ。これはね、ラキーチンがきのうおれに話して聞かせたんだ。おれはその話を聞くと、まるで火傷でもしたような気がしたよ。アリョーシャ、これは立派な学問だ! 新しい人間がどんどん出て来る、それはおれにもわかっている……が、やはり神様が可哀そうなんだ!」
「いやあ、それも結構なことですよ」とアリョーシャは言った。
「神様が可哀そうだってことかい? だって、化学があるじゃないか、アリョーシャ、化学があるよ! どうも仕方がないさ。坊さん、少々脇のほうへ寄って下さい、化学さまのお通りですよ! ラキーチンは神様を好かない、いや、どうも恐ろしく好かない! これがあいつらみんなの急所だよ! だが、あいつらはそれを隠してるんだ。嘘をついてるんだ。感じないふりをしてるんだ。こういうこともあったよ。『どうだね、君は評論部でもそれで通すつもりかね』とおれが訊くとな、あいつは『いや、明らさまにはさせてくれまい』と言って、笑ってるじゃないか。そこで、おれは訊いた。『だが、そうすると、人間は一たいどうなるんだね? 神も来世もないとしたらさ? そうしてみると、人間は何をしてもかまわないってことになるんだね?』すると先生『じゃ、君は知らなかったんだね?』と言って笑ってるんだ。『利口な人間はどんなことでもできるよ。利口な人間は、うまく甘い汁を吸うことができるんだよ。ところが、君は人殺しをしたが、ぱったり引っかかって、監獄の中で朽ちはてるんだよ!』こうおれに面と向って言うじゃないか。まるで豚だ! おれも以前なら、そんな人間はつまみ出してしまったものだが、今は黙って聞いてるんだ。あいつは気のきいたことをいろいろと喋るし、書かせてもなかなかうまいことを書く。あいつは一週間ばかり前、おれにある論文を読んで聞かせたがね、おれはそのとき三行だけ書き抜いておいたよ。ちょっと待ってくれ、これがそうだ。」
 ミーチャは急いでチョッキのかくしから、一枚の紙きれを取り出して読んだ。
『この問題を解決するには、まず自己の人格を自己の現実と直角におくを要す。』
「わかるかい、どうだ?」
「わかりませんね」とアリョーシャは言った。彼は好奇の色を浮べて、ミーチャを見入りながら、その言うことを聞いていた。
「何もわからないんだ。曖昧ではっきりしていないからね。だが、そのかわり気がきいてるじゃないか。『みんな、今こんなふうに書いてるよ。なぜって、環境がそうなんだから』とこう言うのさ……環境が恐ろしくてたまらないんだ。そして、詩もやはり作っているのさ、くだらないやつったらないよ。ホフラコーヴァの足を詩に作ったんだとよ。はっ、はっ、はっ!」
「僕も聞きました」とアリョーシャは言った。
「聞いた? では、その詩も聞いたかい?」
「いいえ。」
「その詩はおれの手もとにあるんだ。一つ読んで聞かせよう。まだお前には話さなかったから知るまいがね、それには一つロマンスがあるんだ。ほんとにあいつ悪いやつだ! 三週間まえに、先生おれをからかおうと思ってね、『君は僅か三千ルーブリのために、ぱったり引っかかってしまったが[#「ぱったり引っかかってしまったが」はママ]、僕なら、十五万ルーブリくらいせしめて、あの後家さんと結婚してさ、ペテルブルグに石造の家でも買ってみせるよ』と言うんだ。そして、ホフラコーヴァにごまをすってる話をしてね、あの女は若い時からあまり利口じゃなかったが、四十になったら、すっかり馬鹿になってしまった、っておれに話したよ。『だが、おそろしくセンチな女だよ。で、我輩はそこにつけ込んで、あれをものにする。そして、ペテルブルグへ連れて行って、そこで新聞を発刊するんだ。』こんなことを言いながら、穢らわしい淫らな涎をたらしていやがるんだ、それもホフラコーヴァにじゃなくて、あの十五万ルーブリの金に涎をたらしてるんだよ。あいつ毎日おれのところへやって来て、大丈夫、大丈夫、きっと参らしてみせるって力んでるんだ。そう言って、満面笑み輝いていやがるのさ。ところが、あいつだしぬけに追っ払われたんだ。ペルホーチンの思う壺にはまったんだよ。ペルホーチンのやつなかなかえらいよ! まるで追っ払われるために、あの馬鹿女を接吻したようなもんさ! あいつがしきりにおれのところへやって来てる時分、例の詩を作ったんだ。『生れて初めて、穢らわしいことに手を染めるよ。つまり、詩を書くよ。たらしこむためなんだ、つまり、世の中のためなんだ。あの馬鹿な女から資本を引き出して、それから大いに公益につくすんだからな』と言ってたよ。やつらはどんな醜悪なことをやっても、公益のためをふりまわすんだ。『だが、とにかく、君のプーシュキンよりうまく書いたよ。なにしろ、僕は滑稽な詩の中へ巧みに公民的悲哀を加味したんだからね』と言うんだ。プーシュキンについて言ったことは、おれにもよくわかってる。もし本当に才能のある人が、ただ足のことばかり書いたとすればどうだろう。そのくせ、やっこさん自分のやくざな詩をおそろしく自慢してやがる! あいつらの自惚れときたら鼻もちがならん、えらい自惚れなんだ。『わが意中の人の病める足の全治を祈りて』こんな題をつけてやがる、――なかなかてきぱきしてるよ!

  いかなる足ぞ、この足は、
  少し腫れたるこの足は!
  医者を頼んで療治をすれば、
  繃帯巻いて片輪にされる。
   *  *  *
  足ゆえわれはなげくにあらず、
  そはプーシュキンにまかすべし。
  われのなげくは頭ゆえ
  思想を悟らぬ頭ゆえ。
   *  *  *
  やや悟りぬと思う時、
  足はそれをば妨げぬ!
  足を癒さぬそのうちは、
  頭は悟ることあらじ。

 豚だよ、本当に豚だよ。だが、馬鹿野郎め、なかなか面白く作りやがったよ! 実際『公民的悲哀』も加味していらあ。しかし、追っ払われた時は、どんなに怒ったろうなあ。さだめし歯ぎしりしたことだろうよ!」
「あの男はもう復讐をしましたよ」とアリョーシャは言った。「ホフラコーヴァ夫人の悪口を投書したんです。」
 アリョーシャは『風説《スルーヒイ》』紙上にのっていた通信記事のことを、かい摘んでミーチャに物語った。
「そうだ、それはあいつに違いない、あいつにきまってるさ!」とミーチャは顔をしかめて、相槌を打った。「それはあいつだよ! その投書は……おれは知ってるんだ……グルーシェンカのことでも、ずいぶん汚いことを書いて投書したよ……それから、あの女、カーチャのこともな……ふむ!」
 彼はそわそわと部屋の中を歩きはじめた。
「兄さん、僕はゆっくりしていられないんです。」しばらく黙っていたアリョーシャがこう言った。「明日はあなたにとって、実に恐ろしい重大な日なんです。あなたに対して神様の裁きが行われるんじゃありませんか……ところが、兄さんは平気でぶらぶらしながら、くだらないことばかり言ってるんですもの、僕おどろいちゃった……」
「いんや、驚くにはおよばないよ」とミーチャは熱して遮った。「あの鼻もちのならない犬のことでも話せと言うのかい、え? あの人殺しのことをかい? そのことならもう十分話し合ったじゃないか。あの鼻もちのならないスメルジャーシチャヤの息子のことなら、もう話したくない! 神様があいつを罰して下さるよ。今に見ていな、黙っていてくれ!」
 ミーチャは興奮しながら、アリョーシャに近づいて、いきなり接吻した。その目はらんらんと燃えていた。
「ラキーチンにはこれがわからないんだ。」彼は何か激しい歓喜にでも駆られている様子で、こう語りだした。「だが、お前は、お前は何でもわかってくれる。だから、おれはお前を待ちわびていたんだ。実はね、おれはもうとうからこの剝げまだらな壁の間で、お前にいろいろ話したいと思っていながら、肝腎なことを黙っていたんだ。まだまだその時が来ないような気がしてたもんだからな。今いよいよその時が来たから、お前に心の底までぶちまけるよ。アリョーシャ、おれはこの二カ月の間に、新しい人間を自分の中に感じたんだ。おれの中に新しい人間が蘇生したんだ! この人間は今までおれの中に固く閉じ籠められていたので、もし今度の打撃がなかったら、外へ現われずにしまったろう。恐ろしいことだ! おれは鉱山へ流されて、二十年間鎚を振って、黄金を掘ることなんか何でもない、――それはちっとも恐れやしない、今は別なことが恐ろしいんだ。この蘇生した人間がどこかへ行ってしまうのが恐ろしいんだ! おれは向うで、鉱山の土の下で、自分と同じような囚人や、人殺しの中にも人間の心を見つけ出して、彼らと合致することができる。なぜって、そこでも生活したり、愛したり、苦しんだりすることができるんだものな! おれはこの囚人の中に、凍えた心をよみがえらせることができるんだ。おれは幾年間でも彼らのために力をつくし、その坑《あな》の中から高貴な魂や、献身的な精神を世間へ送り出すことができるんだ。おれは天使を生み、英雄を蘇生させることができるんだ! だが、そういう人間はたくさんいる、何百人となくいる。われわれはみんな彼らのために責任を負わなけりゃならん! なぜおれはあの時、あの瞬間、『餓鬼』の夢を見たと思う? 『どうして、餓鬼はああみじめなんだろう?』この問いはあの瞬間、おれにとって予言だったんだ。おれはあの『餓鬼』のために行く。なぜなら、われわれはみな、すべての人のため、すべての『餓鬼』のために責任があるからだ。なぜなら、小さい子供もあれば、大きな子供もあるからな。みな『餓鬼』なんだ。おれはすべての人のために行く。実際、誰か一人くらい、他人のために行かなけりゃならんじゃないか。おれは、親父を殺しはしなかったが、やっぱり行かなけりゃならん。だまって受ける! おれはここで、こういうことを考えついたんだ……この剝げまだらな壁の間でな。だが、そういう人間がたくさんいる。地の下で手に鎚を持ったものが、何百人となくいる。ああ、そうだ、われわれは鎖に繋がれて、自由がなくなるんだ。しかし、その時、われわれはその大きな悲しみの中にいながら、さらに歓喜の中へとよみがえるんだ。人間この歓喜がなくちゃ、生きることができない。だから、神様はあるんだ。なぜって、神様が歓喜の分配者だからだ。歓喜は神様の偉大な特権だからだ……ああ、人間よ、祈りの中に溶けてしまえ! おれはあそこの地の底で、神様なしにどうして暮せよう? ラキーチンの言うことは、みんな嘘だよ。もし神様を地上から追っ払ったら、われわれは地下で神様に会う! 囚人は神様なしに生きて行けない。囚人でないものより一そう生きて行けないのだ。だから、われわれ地下の人間は地の底から、歓喜の所有者たる神様に、悲愴な頌歌《ヒムン》を歌おう! 神とその歓喜に栄えあれ! おれは神様を愛している。」
 ミーチャはほとんど息を切らせんばかりに、この奇怪な長物語を終った。その顔色は真っ蒼になって、唇はふるえ、目からは涙がはふり落ちていた。
「いや、生活は満ち溢れている。生活は地の下にもある!」と彼はふたたび語りだした。「アレクセイ、おれが今どんなに生を望んでいるか、この剝げまだらな壁の間で、存在と意識を欲する烈しい渇望が、おれの心のうちに生れて出たか、とてもお前にはわかるまい! ラキーチンにゃこれがわからないんだ。きゃつは家を建てて、借家人を入れさえすりゃいいんだからな。だが、おれはお前を待っていたんだ。それに、一たい苦痛とは何だ? おれはたとえ数限りない苦痛が来ても、決して、それを恐れやしない。以前は恐れていたが、今は恐れない。でね、おれは法廷でも、一さい返答をしまいと思ってるんだ……おれのなかには、今この力が非常に強くなっているので、おれはすべてを征服し、すべての苦痛を征服して、ただいかなる瞬間にも、『おれは存在する!』と自分で自分に言いたいんだ。幾千の苦しみの中にも、――おれは存在する。拷問にさいなまれながらも、――おれは存在するんだ! 磔柱の上にのせられても、おれは存在している、そして太陽を見ている。よしんば見なくっても、太陽のあることを知っている。太陽があるということを知るのは、――それがすなわち全生命なんだ。アリョーシャ、おれの天使、おれはな、種々様々な哲学で殺されていたんだ。哲学なんかくそ食らえだ! 弟のイヴァンは……」
「イヴァン兄さんがどうしたんです?」とアリョーシャは遮ったが、ミーチャはよくも聞かなかった。[#「よくも聞かなかった。」はママ]
「実はな、おれは以前こういう疑念を少しも持っていなかったが、しかし何もかも、おれの中にひそんでいたんだね。つまり、おれの内部で、自分の知らない思想が波立っていたために、おれは酔っ払ったり、喧嘩をしたり、乱暴を働いたりしたのかもしれない。おれが喧嘩をしたのは、自分の内部にあるその思想を鎮めるためだったんだ。鎮めて、抑えるためだったんだ。イヴァンはラキーチンと違って、思想を隠している。イヴァンはスフィンクスだ、黙っている、いつも黙っている。ところが、おれは神様のことで苦しんでいるのだ。ただこのことだけがおれを苦しめるんだ。もし神様がなかったらどうだろう? もしラキーチンの言うとおり、神は人類のもっている人工的観念にすぎないとしたらどうだろう? そのときは、もし神がなければ、人間は地上の、――宇宙のかしらだ。えらいもんだ! だが、人間、神様なしにどうして善行なんかできるだろう? これが問題だ! おれは始終そのことを考えるんだ。なぜって、そうなったら人間は誰を愛するんだね? 誰に感謝するんだね? また誰に向って頌歌《ヒムン》を歌うんだ? こういうと、ラキーチンは笑いだして、神がなくっても人類を愛し得る、と言うんだが、それはあの薄ぎたない菌《きのこ》野郎がそう言うだけで、おれはそんなこと理解できない。ラキーチンにとっちゃ、生きてゆくことなんか何でもないんだ。『君はまず何よりも、公民権の拡張に骨を折るがいい、でなけりゃ、牛肉の値段があがらないようにでも奔走するがいい。人類に愛を示す上において、このほうが哲学よりよほど単純で近道だ』なんて、今日もおれに言ったよ。おれはそれに対して『なに、君なんかたとえ神様がなくたって、自分のとくになることなら、きっと牛肉の値段をあげるだろう。一コペイカで一ルーブリくらい儲けるだろう』と茶化してやったんだ。すると、やつ、ひどく怒ったよ。だが、そもそも善行とは何だね! アレクセイ、教えてくれ。このおれにはたった一つの善行しかない。ところが、シナ人にはまだほかの善行があるんだ。つまり、善行というのは相対的なものなんだ。どうだね? 違うかね? 相対的なもんじゃないかな? 面倒な問題だよ? お前、笑わないで聞いてくれ。おれはこの問題のために、二晩も眠らなかったんだよ。おれはいま世間の人が平気で生きていて、ちっともこのことを考えないのに驚いてる。空なことにあくせくしてるんだ! イヴァンには神様がない。あれには思想があるんだ。とてもおれなぞの手に合わんだろうが、しかし、とにかくあれは黙っている、どうもイヴァンはマソンだと思うよ。何を訊いても黙ってるんだからな。あれの叡知の泉を一口のませてもらおうと思ったが、やはり黙ってるんだ。でも、たった一度、一こと口をきいたことがあったっけ。」
「どんなことを言いました?」アリョーシャはせきこんで声を上げた。
「おれがね、もしそうだとすれば、何もかも赦されることになるじゃないかと言うとね、あれは顔をしかめて、『われわれの親父のフョードル・パーヴロヴィッチは豚の児だったが、しかし考えは確かでしたよ』とこうやっつけたもんだ、たったこれだけしか言わなかったよ。あれはラキーチンよりもっと上手《うわて》だね。」
「そうです」とアリョーシャは悲しそうに承認した。「ですが、イヴァン兄さんはいつここへ来たんです?」
「それはあとで話すよ。今はほかの話にしよう。おれは今までイヴァンのことをお前に少しも話さなかった。いつもあと廻しにしてたんだ。このおれの問題が片づいて、宣言がすんだ時、何やかやお前に話そう、すっかり話してしまうよ。そこには一つ妙なことがあるんだ……お前はそのことについて、おれの裁判官になってくれるだろうな。だが、今はそのことを言いだしちゃいけない。今はだんまりだ、さて、お前は明日の公判のことを言ってるが、実のところ、おれはそのことについちゃ、何も知らないんだ。」
「あなたはあの弁護士と打ち合せをしましたか?」
「弁護士なんて何になるものか! おれはすっかりあいつに話したんだがね。猫をかぶった都仕込みのごろつきさ。やはりベルナールよ。毀れたびた銭ほどもおれの言うことを信じないんだ。てんからおれが殺したものときめこんでいるんだ。まあ、どうだい、――おれにはもうわかっている。『そんなら、なぜ僕の弁護に来たんです?』と訊いてやったよ。まあ、あんなやつらなんかくそ食らえだ。それに医者まで呼び寄せて、おれを気ちがいだってことにしようと思ってるんだ。そんなことをさせるものか! あのカチェリーナは、『自分の義務』を最後まではたそうと思ってるが、そりゃ無理なんだよ(ミーチャは苦々しそうに笑った)。猫だ! 冷酷な女だ! あれはね、僕があの時モークロエであれのことを、『偉大なる怒り』の女だと言ったことを知ってるんだ! 誰か喋ったんだよ。だが、証拠は浜の真砂のように殖えたね、――グリゴーリイは自説を曲げない。あの男は正直だが、馬鹿だよ。世の中には馬鹿なため正直なやつが多いて。これはラキーチンの思想なんだが、グリゴーリイはおれにとっちゃ敵だ。時にはまた友達にするよりか、敵に持ったほうがとくなものもあるて。これはカチェリーナのことを言ってるんだよ。心配だ、ああ、ほんとうに心配だ。あの女がおれから四千五百ルーブリ借りて、平身低頭したことを法廷でしゃべりはしないかと思ってさ。あの女は最後まで、最後の負債まで払わなけりゃきかんだろう。おれはあの女の犠牲なんかほしくない。あの連中は、法廷でおれに恥をかかすに違いない。実際たまらんなあ。アリョーシャ、お前あの女のところへ行って、法廷でこの一件を言わないように頼んでくれんか。それとも駄目かな? ちょっ、まあ、仕方がない、とにかく、我慢するよ! だが、おれはあれを可哀そうとは思わないよ。自分でそれを望んでいるんだからな。泥棒がつらい目をするのはあたりまえだ。アレクセイ、今おれは自分の言うべきことを言うよ(彼はまた若い薄笑いを浮べた)。ただ……ただ、グルーシャだ、グルーシャだ、ああ、あれは今なんのために、あんな苦痛を身に引き受けようとしているんだろう?」彼は急に涙ぐんでこう叫んだ。「グルーシャはおれをさいなむんだ、あの女のことを考えると、おれは死にそうだ、死にそうだ! あれはさっきおれのところへ来て……」
「あのひとは僕に話しましたよ。あのひとは今日あなたのことでとてもつらがってますよ。」
「知ってるよ。おれは一たいどういういまいましい性格なんだろう。おれはやきもちをやいたんだよ。でも、すぐ後悔して、あれが帰る時には接吻してやったよ。けれど、謝りはしなかった。」
「なぜ謝らなかったんです?」とアリョーシャは叫んだ。
 ミーチャは急に愉快そうに笑った。
「可愛いアリョーシャ、お前自分の惚れている女には、決して謝っちゃいけないよ! とりわけ惚れた女には、たとえその女に対してどんなに罪があってもな! だから、女は、――アリョーシャ、女ってものはえたいの知れないものなんだ。おれも女のことにかけちゃ、少しぐらい話がわかるよ! まあ、ためしに女の前で自分の罪を認めて、『悪かった、どうぞ赦してくれ!』とでも言ってみるがいい。それこそたちまち、霰のようにお小言が降りかかって来るよ! 決して単純率直に赦してくれやしない。かえってお前を味噌くそに悪く言って、ありもしないことまで持ち出しこそすれ、決して何一つ忘れやしない。そして、言いたい放題いったあげく、やっと赦してくれるんだ。でも、それはまだまだたちのいいほうなんだよ! 一切がっさい洗いざらいさらけ出して、何もかもみんな男のほうへぬりつけてしまうんだ、――おれはお前に言っておくがね、女にはこうした残酷性があるんだ。われわれが生きるのになくてならんあの天使のような女は、一人残らずこの残酷性をもっている! ねえ、アリョーシャ、おれは露骨に率直に言うがね、どんな立派な身分の人でも、男は必ず女の臀に敷かれなけりゃならん。それはおれの信念だ。信念じゃない、体験なんだ。男はあまくなけりゃならん。女にあまいということは、男を傷つけるもんじゃない。英雄をも傷つけやしない。シーザアをも傷つけやしないよ! だが、それにしても、謝罪だけは、決してどんなことがあってもするものじゃないぞ。この掟をよく覚えておくがいいぜ。女のために亡びた兄のミーチャが、お前にこれを伝授するんだ。いや、おれはむしろ赦されないままで、何とかグルーシャにつくしてやろう。おれはあの女を崇拝しているんだ、アレクセイ、おれはグルーシャを崇拝しているんだ! だが、あれはそいつを知らない。駄目だ、あれはどんなにしても、やはりおれの愛しようがたりないと言うんだ。あれはおれを悩ませる、愛で悩ませるんだ。以前はどうだったろう! 以前おれを悩ましたものは、ただ極悪非道の妖婦めいた肉体の曲線だったが、今じゃおれはあれの魂をすっかり自分の魂の中に受け入れて、あれのおかげで真人間になったのだ! おれたちは結婚さしてもらえるかしらん? そうしてもらえなかったら、おれは嫉妬のために死んでしまうだろう。何だか毎日そんな夢ばかり見てるよ……あれはおれのことをお前に何と言ったかね?」
 アリョーシャは、グルーシェンカがさっき言ったことを残らず繰り返した。ミーチャはくわしく聞いて、幾度も問い返したが、結局、満足らしい様子であった。
「じゃ、やくのを怒ってはいないんだな?」と彼は叫んだ。「まったく女だ!『わたし自分でも残酷な心をもっている。』ああ、おれはそういう残酷な女が好きなんだ。もっとも、あまりやかれるとたまらない、喧嘩になってしまう。だが、愛する、――限りなく愛する。おれたちに結婚させてくれるだろうか? 囚人に結婚させてくれるだろうか? 疑問だね。おれはあの女がいなけりゃ、生きてることができないんだ[#「生きてることができないんだ」はママ]……」
 ミーチャは顔をしかめて、部屋の中を歩いた。部屋の中はほとんど薄暗くなっていた。彼は急にひどく心配そうな顔つきをしはじめた。
「秘密だって、あれは秘密と言ったのかい? おれたち三人があれに対して、陰謀を企らんでると言ったのかい? 『カーチカ』もそれに関係があると言ってたのかい? いや、なに、グルーシェンカ、そうじゃない。お前は邪推してるんだ。それはばかばかしい女の邪推だ! アリョーシャ、もうどうなろうとままよ、お前にわれわれの秘密を打ち明けよう!」
 彼はあたりをじろりと見まわし、急いで自分の前に立っているアリョーシャに近づき、いかにも秘密らしい様子をして囁きだした。しかし、実際は誰も二人の話を聞いていなかった。番人は片隅のベンチに腰かけて居睡りをしていたし、番兵のところまでは二人の話し声は一言も聞えなかった。
「おれはわれわれの秘密をすっかりお前に打ち明けよう!」とミーチャはせきこみながら囁いた。「実は、あとで打ち明けるつもりだったのさ。なぜって、お前と相談もしないで、おれに何か決められると思う? お前はおれの有するすべてだ。おれはイヴァンのことを、われわれより一段うえに立ってるとは言うものの、お前はおれの天使だ。お前の決定が、すべてを決するんだ。お前こそ一段うえの人間で、イヴァンじゃない。いいかい、これは良心に関することなんだ。高尚な良心に関することなんだ、――おれ一人で片づけることのできないほど重大な秘密なんだ。だから、お前の判断を煩わそうと思って、延ばしていたわけだ。だが、やっぱりいま解決する時じゃない。やはり宣告がすむまで、待たなけりゃならんな。宣告が下ったら、その時こそ、おれの運命を決めてくれ。今は決めてくれるな。おれはいまお前に話すから、よく聞いてくれ。しかし、解決はしてくれるな。じっと待って、黙っていてくれ。おれはお前に残らず打ち明けはしない、ただ骨子だけ簡単に話すから、お前は黙っているんだよ、問い返してもいけないし、身動きしてもいけないよ。いいかね? だが、ああ、おれはお前の視線をどうして避けよう? お前はたとえ黙っていても、その目が解決を下すだろう。おれはそれを恐れてるんだ。いや、本当に恐ろしい! アリョーシャ、聞いてくれ。イヴァンはおれに逃亡を勧めるんだ。くわしいことは言うまい。万事準備ができている。万事うまくゆくんだ、黙っていてくれ。解決しないでくれ。グルーシャをつれてアメリカへ行けと言うんだ。実際、おれはグルーシャなしには生きてゆけないんだ! もしおれと一緒にグルーシャをあそこへやってくれなかったらどうする? 囚人に結婚を許してくれるだろうか? イヴァンは許さないと言うんだ。だが、グルーシャなしに、どうしておれはあの坑《あな》の中で槌を握ることができよう。その槌で自分の頭を打ち割ってしまうより、ほかに仕方がない! だが、一方、良心をどうする? 苦痛を避けることになるじゃないか! 天啓があったのに、その天啓を避けることになる。浄化の路があったのに、それを避けて廻れ右をすることになる。イヴァンはアメリカでも、『いい傾向』さえ持していれば、坑の中で働くよりも、より多く人類に益をもたらすことができる、とこう言うんだ。しかし、わが地下の頌歌《ヒムン》はどこに成り立つ? アメリカが何だ、アメリカもやはり俗な娑婆世界だ! アメリカにもやっぱり譎詐が多いだろうと思う。つまり、磔をのがれるわけだ! おれがお前にこんな話をするのはな、アレクセイ、これがわかるのはお前のほかにないからだよ。ほかには誰もない。ほかのものにとっては愚の骨頂だろう。今お前に話した地下の頌歌《ヒムン》のことなんぞは、みんな譫言にすぎないだろう。人はおれのことを気が狂ったのか、それとも馬鹿だと言うだろう。だが、おれは気が狂ったんでもなけりゃ、馬鹿でもないのだ。イヴァンも頌歌《ヒムン》のことはわかっている、どうして、わかっているとも。が、それについては返事もせずに、ただ黙っているのだ。あれは、頌歌《ヒムン》を信じていない。黙っていてくれ、黙っていてくれ。お前の目が何を語っているか、おれにはよくわかってるんだ。お前はもう解決したんだ! 決めないでくれ。おれを容赦してくれ。おれはグルーシャなしには生きてゆかれないんだ。公判がすむまで待っていてくれ!」
 ミーチャは夢中でこう言い終った。彼はアリョーシャの肩を両手で摑んだまま、熱した目でじっと貪るように弟の目を見つめた。
「一たい囚人に結婚を許すだろうか?」彼は哀願するような声で三たび繰り返した。
 アリョーシャは一方ならぬ驚きをもって聞いていた。彼は心の底から揺ぶられたような気がした。
「これだけ聞かせて下さい」とアリョーシャは言った。「イヴァン兄さんは頑固にそれを主張するんですか? そして、そんなことをまっさきに考え出したのは、一たい誰なんですか?」
「あれだよ、あれが考え出したんだよ。そして、頑固に主張してるんだよ! あれはあまりおれのところへ来なかったのに、とつぜん一週間まえにやって来て、藪から棒にこんなことを言いだしたんだ。そして、恐ろしく頑固に主張してるんだよ。勧めるんじゃなくて、命令するんだ。おれはイヴァンにもお前と同じように、すっかり心の中を打ち明けて、頌歌《ヒムン》のことも話したんだがね、イヴァンはおれが自分の命令にしたがうものと信じて疑わないんだ。逃亡の手はずまで話して聞かせて、いろいろな事情を取り調べてるんだ。が、そのことはまあ、あとにしよう。とにかく、あれはヒステリイじみるほど主張しているよ。肝腎な問題は金だが、一万ルーブリをその逃亡費にあてよう。アメリカまでは二万ルーブリかかるけれども、一万ルーブリで立派にお前を逃亡させてみよう、とこう言うんだ。」
「僕には決して喋っちゃいけないと言いましたか?」とアリョーシャはさらに訊き返した。
「決して誰にも喋っちゃいけない。ことにお前には、お前にはどんなことがあっても話しちゃならない、と言うんだ! きっとお前がおれの良心になるのを恐れてるに相違ないよ。だから、おれがお前に話したことを、あれに言わないようにしてくれ。言ったら、それこそ大変だからな!」
「なるほど、兄さんの言うとおり」とアリョーシャは言った。「宣告が下るまでは決められませんね、公判がすめば、自分で決めることができますよ。その時、あなたは自分の中に新しい人間を発見しますよ。その新しい人間が解決してくれるでしょう。」
「新しい人間か、それともベルナールか、そいつがベルナール流に解決してくれるだろう! おれは、おれ自身軽蔑すべきベルナールのような気がするからな!」とミーチャは苦い微笑をもらした。
「けれども、兄さん、あなたはもう無罪になる望みをもっていないんですか!」
 ミーチャは痙攣的にぐいと両肩をすくめて、頭を横に振った。
「アリョーシャ、お前はもう帰らなけりゃいかんよ!」と彼は、突然いそぎだした。「看守が外で呶鳴ったから、今すぐここへやって来るよ。もう遅いんだ、規則違反だからな。早くおれを抱いて、接吻してくれ。おれのため十字を切ってくれ。アリョーシャ、明日の受難のために十字を切ってくれ……」
 二人は抱き合って、接吻した。
「イヴァンは」とミーチャは突然、言いだした。「逃亡を勧めながら、自分ではおれが殺したものと信じてるんだよ!」
 悲しそうな嘲笑が、彼の唇へ押し出された。
「あの人がそう信じてるかどうか、兄さんは訊いたんですか?」とアリョーシャは訊いた。
「いや、訊きゃしない。訊きたかったけれども、訊けなかったんだ。その勇気がなかったんだ。しかし、おれは目色でちゃんとわかってる。じゃ、さようなら!」
 二人はもう一度いそいで接吻した。アリョーシャが出て行こうとした時、ミーチャはまたふいに彼を呼び止めた。
「おれの前に立ってくれ、そうだ、そうだ。」
 彼はこう言って、ふたたび両手でアリョーシャの肩をぐいと摑んだ。ふいにその顔は真っ蒼になって、薄暗がりの中でも、恐ろしく鮮かに見えるほどであった。唇はぐいと歪んで、目は食い入るようにアリョーシャを見つめた。
「アリョーシャ、神様の前へ出たつもりで、まったく正直なところを聞かせてくれ、お前はおれが殺したと信じてるか、それとも信じていないかい? お前自分で信じてるかい、どうだい? まったく正直なところをさ、嘘を言っちゃいけないよ!」と彼はアリョーシャに向って、前後を忘れたように叫んだ。
 アリョーシャは何かでどしんと突かれたような気がした。彼がこれを聞いた時、何やら鋭い痛みが心の中を走ったように思われた。
「たくさんですよ、何を言うんです、兄さん……」彼は途方にくれたように囁いた。
「正直なところを言ってくれ、嘘を言っちゃいけない!」とミーチャは繰り返した。
「僕はあなたが下手人だとは、一分間も信じたことがありません!」突然アリョーシャの胸から、こういう慄え声がほとばしり出た。彼は自分の言葉の証人として、天なる神を呼びでもするように、右手を高くさし上げた。
 ミーチャの顔はたちまち一めん幸福に輝き渡った。
「有難う!」気絶したあとで、はじめてため息を吐き出す時のように、彼は言葉じりを引きながら言った。「今こそお前はおれを生き返らせてくれた……まあ、どうだ、今までおれはお前に訊くのを恐れていたんだ、このお前にだよ。お前にだよ。さあ、行ってもいい、行ってもいい! お前は明日のためにおれの心を堅めてくれた。おれはお前に神様の祝福を祈る! さあ、お帰り、そしてイヴァンを愛してやってくれ!」ミーチャの口からこういう最後の言葉がほとばしり出た。
 アリョーシャは目に一ぱい涙をたたえて、そこを出た。ミーチャがアリョーシャに対してさえ、これほどまでに疑念をいだいていた、これほどまでに弟を信じていなかったということは、不幸な兄の心中にある救いのない悲哀と絶望の深淵を、突然アリョーシャの目の前にひらいて見せた。彼は以前、それほどまでとも思わなかったのである。深い無限の同情がたちまち彼を捉え、苦しめはじめた。刺し貫かれた彼の心は悩み痛んだ。『イヴァンを愛してやってくれ!』というミーチャの今の言葉が思い出された。それに、彼はイヴァンのところへ、志しているのであった。彼はもう朝のうちから、ぜひイヴァンに会いたいと思っていた。彼はミーチャに劣らないほど、イヴァンのことで心を悩ましているのであったが、今ミーチャに会った後は、かつてないくらいイヴァンのことが心配になってきた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第三章 悪魔の子

   第三 悪魔の子

 アリョーシャがリーザの部屋へはいると、彼女は例の安楽椅子になかば身を横たえていた。それは、彼女がまだ歩けない時分に、押してもらっていたものである。彼女は出迎えに身を動かそうともしなかったが、ぎらぎら輝く鋭い目は、食い入るように彼を見つめた。その目はいくぶん充血したようなふうで、顔は蒼ざめて黄いろかった。彼女が三日の間に面変りして、やつれさえ見えるのに、アリョーシャは一驚を喫した。彼女は手をさし伸べようともしなかった。で、彼はこっちからそばへ寄って、着物の上にじっと横たわっている彼女の細長い指に、ちょっとさわった後、無言のままその前に腰をおろした。
「あたしはね、あなたが急いで監獄へ行こうとしてらっしゃることも」とリーザは鋭い口調で言いだした。「お母さんがあなたを二時間も引き止めて、たった今あたしやユリヤのことを、あなたにお話ししたことも知ってるのよ。」
「どうしてご存じなのです?」とアリョーシャは訊いた。
「立ち聴きしたのよ。あなた、何だってあたしをにらんでらっしゃるの? あたし、立ち聴きしたかったから、それで立ち聴きしたのよ。何にも悪いことなんか、ありゃしないわ。だからあたし、あやまらない。」
「あなたは何か気分を悪くしていらっしゃるんでしょう?」
「いいえいそれどころじゃない、嬉しくってたまんないのよ。たった今も三十ペン[#「三十ペン」はママ]から繰り返し、繰り返し考えたんですけどね、あたしあなたとのお約束を破って、あなたとご婚礼などしないことになったので、どんなにいいかしれないわ。あなたは夫として不向きよ。あたしがあなたのところへお嫁に行くでしょう、そして突然あなたに手紙を渡して、あたしが結婚してから好きになった人のところへ持って行って下さいと頼んだら、あなたはきっと持っていらっしゃるに違いないわ。その上、返事までも持って来て下さるでしょうよ。あなたは四十になっても、やっぱりそういう手紙を持って歩きなさるわ。」
 彼女は急に笑いだした。
「あなたはずいぶん意地わるだけれど、それと一緒に、どこか率直なところがありますね。」アリョーシャは、彼女にほお笑みかけた。
「あなたを恥しくないから、それで率直になれるのよ。あたしね、あなたが恥しくないばかりか、恥しがろうとさえ思わなくってよ。ええ、あなたをよ、あなたに対してよ。アリョーシャ、どうしてあたしはあなたを尊敬しないんでしょう? あたしはあなたをとても愛してるけど、ちっとも尊敬していないの。もし尊敬してれば、あなたの前で恥しくもなく、こんなことを言えるはずがありませんわ、ね、そうでしょう?」
「そうです。」
「じゃ、あたしがあなたを恥しがらないってことを、あなた本当になすって?」
「いいえ、本当にしません。」
 リーザはまた神経的に笑いだした。彼女はせきこんで早口に喋った。
「あたしね、監獄にいるあなたの兄さんのドミートリイさんへ、お菓子を送ってあげたのよ。ねえ、アリョーシャ、あなたは本当にいい方ねえ! だって、あなたはこんなに早く、あなたを愛さなくてもいいって許可を、あたしに与えて下すったでしょう。だから、あたしそのために、あなたを恐ろしく愛してるのよ。」
「リーザ、あなたはきょう何用で僕を呼んだのです?」
「あなたに一つ自分の望みをお話ししたかったからよ。あたしはね、誰かに踏みにじってもらいたいの。あたしと結婚をして、それからあたしを踏みにじって、あたしをだまして出て行ってくれればいいと思うわ。あたし仕合せになんかなりたくない!」
「それじゃ、混沌が好きになったんですね?」
「ええ、あたし混沌が大好きよ。あたし家なんか焼いてしまいたいのよ。あたしはこっそり匐い寄って、そっと家に火をつけるところを想像するのよ、ぜひそっとでなくちゃいけないの。みんな消そうとするけれど、家は燃えるでしょう。ところが、あたしは知ってながら黙ってるわ。ああ、なんてばかばかしい、なんて退屈なんだろう!」
 彼女は嫌悪の色を浮べながら、片手を振った。
「裕福な暮しをしてるからですよ」とアリョーシャは静かに言った。
「じゃ、一たい貧乏で暮すほうがよくって?」
「いいです。」
「それは亡くなった坊さんがあなたに吹き込んだことよ。それは間違ってるわ。あたしが金持で、ほかのものは貧乏だってかまやしないわ。あたし一人でお菓子を食べたり、クリームを飲んだりして、誰にもやりゃしない。ああ、まあ、聞いてらっしゃいよ、聞いて(アリョーシャが口を開けようともしないのに、彼女はこう言って手を振った)。あなたは以前もよく、そんなことを言ってきかせましたね。あたしはすっかり暗記しててよ。飽き飽きするわ。もしあたしが貧乏だとしても、誰かを殺してやるわ、また、たとえ金持だとしても、やはり殺すかもしれないわ、――とてもじっとしていられやしない! あたし刈り入れがしたいのよ。裸麦を刈りたいのよ。あたしあなたのとこへお嫁に行くから、あなたは百姓に、本当の百姓になるといいわ。あたしたら仔馬を飼うわ、よくって? あなたカルガーノフさんをご存じ?」
「知っています。」
「あの人はしょっちゅう歩き廻りながら、空想してるのよ。あの人が言うのには、人はなぜまじめくさって暮してるんだ、空想しているほうがよっぽどいい。空想ならばどんな愉快なことでもできるけど、生活は退屈なものだって、だけど、あの人はもうやがて結婚するわ。あたしに恋を打ち明けたんですもの。あなた独楽を廻せて?」
「廻せます。」
「あの人はちょうど独楽みたいな人よ。廻して投げて、鞭でぴゅうぴゅう引っぱたくといいのよ。あたしはあの人のところへお嫁に行って、一生涯、独楽のようにまわしてやるわ。あなたはあたしと一緒に坐ってるのが恥しくなって?」
「いいえ。」
「あなたは、あたしが神聖な有難いことを言わないので、ひどく怒ってらっしゃるのね。でも、あたし聖人なんかなになりたくないんですもの。人は自分の犯した一等大きな罪のために、あの世でどんな目にあうでしょう? あなたはよく知ってらっしゃるはずだわ。」
「神様がお咎めになります。」アリョーシャは、じっと彼女を見つめた。
「あたしもね、そうあってほしいと思うのよ、あたしがあの世へ行くと、みんながあたしを咎めるでしょう。ところが、あたしはだしぬけに、面と向ってみんなを笑ってやるわ。アリョーシャ、あたしは家を、あたしたちの家を焼きたくってたまんないのよ。あんた、あたしの言うことを本当になさらないでしょう?」
「なぜですか? 世間にはよくこんな子供がありますよ。十二やそこいらのくせに、しじゅう何か焼きたくってたまらないので、よく火をつけたりなんかするんです。それも一種の病気ですね。」
「嘘よ、嘘よ。そんな子供もあることはあるでしょうが、あたしそんなことを言ってるんじゃなくってよ。」
「あなたは悪いことといいこととを取り違えてるんです。それは一時的な危機ですが、つまり、以前の病気のせいかもしれませんね。」
「あら、あなたはあたしを軽蔑してらっしゃるのね! あたしはただ、いいことをしたくなくなって、悪いことがしたいのよ。病気でも何でもないわ。」
「なぜ悪いことをしたいんです!」
「どこにも何一つないようにしてしまいたいからよ。ああ、何もかもなくなったらどんなに嬉しいでしょう! ねえ、アリョーシャ、あたしはね、どうかすると片っ端から、めちゃくちゃに悪いことをしてやろうと思うことがあるの。長いあいだ人が気のつかないように悪いことをしていると、やがて人が見つけて、みんなあたしを爪はじきするでしょう。ところが、その時あたしは平気な顔をして、みんなを見かえしてやるわ。これがあたし、たまらなく愉快に思えるのよ。アリョーシャ、どうしてこれがそんなに愉快なんでしょう?」
「そうですね。それは何かいいものを圧し潰したいとか、または今あなたの言われたように、火をつけたいとかいう要求なんです。そういうこともよくあるものです。」
「あたし言うだけじゃないわ。本当にしてよ。」
「そうでしょうとも。」
「ああ、あたしはね、そうでしょうともと言って下すったので、本当にあなたが好きになっちゃったわ。だって、あなたは決して、決して嘘をおっしゃらないんですもの。でも、あなたはもしかしたら、あたしがあなたをからかうために、わざとこんなことを言うんだと思ってらっしゃるかもしれないわねえ?」
「いいえ、そうは思いません……しかし、ひょっとしたら、あなたは本当にそういう心持を、少しは持ってらっしゃるかもしれませんね。」
「ええ、少しばかりもってるわ。あたし決してあなたに嘘なんか言わないから」と彼女は異様に目を光らせながら言った。
 アリョーシャが何よりも驚いたのは、彼女の生まじめさであった。以前、彼女はどんなに『まじめな』瞬間でも、快活と滑稽味を失わなかったのに、この時の彼女の顔には、滑稽や冗談の影さえ見えなかった。
「人間には時として、罪悪を愛する瞬間があるものです」とアリョーシャは考え深い調子で言った。
「そうよ、そうよ! あなたはあたしの考えてることを言って下すったわ。人はみんな罪悪を愛しています、みんなみんな愛しています。いつも愛していますわ。あたしなんか『瞬間』どころじゃないことよ。ねえ、人はこのことになると、まるで嘘をつこうと約束でもしたように、みんな嘘ばかりついてるのよ。人はみな悪いことを憎むっていうけれど、そのじつ内証で愛してるんだわ。」
「あなたはやはり今でも、悪い本を読んでるんですか?」
「読んでますわ。お母さんが読んでは枕の下に隠してるから、あたし盗んで読むのよ。」
「よくまあ、あなたはそんなに自分を台なしにして、良心が咎めませんね?」
「あたしは自分をめちゃめちゃにしてしまいたいのよ。どこかの男の子は、体の上を列車が通ってしまう間、じっとレールの間に寝ていたそうじゃなくって、仕合せな子ねえ! ねえ、あなたの兄さんはお父さんを殺したために、いま裁判されようとしてるでしょう。ところが、みんなは、兄さんがお父さんを殺したのを喜んでるのよ。」
「親父を殺したのを喜んでるって?」
「喜んでるのよ、みんな喜んでるわ! みんな恐ろしいことだと言ってるけれど、その実とても喜んでるのよ。第一あたしなんか一番に喜んでるわ。」
「みんなのことを言ったあなたの言葉には、いくらか本当なところもありますね」とアリョーシャは静かに言った[#「言った」はママ]
「ああ、あなたは何という考えをもってらっしゃるんでしょう!」リーザは感きわまって、こう叫んだ。「しかも、それが坊さんの考えることなんですもの! アリョーシャ、あなたは本当に、決して嘘をおっしゃらないわね、だから、あたしあなたを尊敬するのよ。ねえ、あたし自分の見た滑稽な夢をお話ししましょうか。あたしはね、どうかすると悪魔の夢を見ることがあるのよ。何でも、夜中にあたしが蠟燭をつけて居間にいると、だしぬけに、そこいらじゅう一ぱい悪魔が出て来るの、部屋のすみずみだのテーブルの下などにね、そして戸を開けようとするのよ。戸の陰には悪魔がうようよしていて、入って来てあたしを摑みたがってるのよ。やがてそろそろ寄って来て、今にもあたしを摑もうとするから、あたし急にさっと十字を切ると、みんな後へ引きさかって、びくびくしているのよ。けれど、すっかり帰ってしまおうともせず、戸のそばに立ったり、隅っこにしゃがんだりして待ってるの。するとね、あたしだしぬけに大きな声をあげて、神様の悪口が言いたくなったので、思いきって悪口を言いだすと、悪魔たちはすぐまたどやどやと、あたしのほうへ押し寄せて来て、大喜びであたしを捕まえようとするじゃありませんか。そこで、あたしがまた急に十字を切ると、悪魔たちはみんな後へさがってしまう。それが面白くって、面白くって息がつまりそうなくらいだったわ。」
「僕もよくそれと同じ夢を見たことがあります」とアリョーシャはふいにそう言った。
「まさか」とリーザはびっくりして叫んだ。
「ねえ、アリョーシャ、冷やしちゃいやよ[#「冷やしちゃいやよ」はママ]、これは大へん重大なことなんですからね。だって、まるで違った二人のものが同じ夢を見るなんて、そんなことあるもんでしょうか?」
「確かにありますよ。」
「アリョーシャ、本当にこれはとても重大なことなのよ」とリーザはなぜかひどく驚いた様子で、言葉をつづけた。「重大っていうのは夢のことじゃなくって、あなたがあたしと同じ夢を見たっていう、そのことなのよ。あなたは決して、あたしに嘘なんかおっしゃらないわね。だから今も嘘ついちゃいやよ、――それは本当のことなの? あなた冷やかしてらっしゃるんじゃなくって?」
「本当のことです。」
 リーザはひどく何かに感動して、ややしばらく黙っていた。
「アリョーシャ、あたしのとこへ来て下さいね、しじゅう来てちょうだいね」と彼女は急に哀願するような声で言った。
「僕はいつも、一生涯あなたのとこへ来ますよ。」アリョーシャはきっぱりと答えた。
「あたしあなた一人だけに言うんですけどね」とリーザはまた言いはじめた。「あたしは自分一人と、それからあなただけに言うのよ。世界じゅうであなた一人だけに言うのよ。あたし自分に言うよか、あなたに言うほうがよっぽど楽だわ。あなたならちっとも恥しくないの、それこそちっとも。アリョーシャ、どうしてあなたがちっとも恥しくないんでしょう。え? ねえ、アリョーシャ、ユダヤ人は復活祭に子供を盗んで来て殺すんですってね、本当?」
「知りませんね。」
「あたしは何かの本で、ある裁判のことを読んだのよ。一人のユダヤ人が四つになる男の子を捕まえて、まず両手の指を残らず切り落して、それから釘で壁に磔《はりつけ》にしたんですって。そして、あとで調べられた時、子供はすぐ死んだ、四時間たって死んだと言ったんですって、四時間もかかったのに、すぐですとさ。子供が苦しみぬいて、唸りつづけている間じゅう、そのユダヤ人はそばに立って、見とれていたんですって。いいわね!」
「いいんですって?」
「いいわ、あたしときおりそう思うのよ、その子供を磔にしたのは、自分じゃないのかしらって。子供がぶら下って唸っていると、あたしはその前に坐って、パイナップルの砂糖煮を食べてるの。あたしパイナップルの砂糖煮が大好きなのよ。あなたお好き?」
 アリョーシャは黙って彼女を見つめていた。その蒼ざめた黄いろい顔は急に歪んで、目はきらきらと燃えだした。
「でね、あたしこのユダヤ人のことを読んだ晩、夜っぴて涙を流しながら慄えてたのよ。あたしは赤ん坊が泣いたり唸ったりするのを(子供も四つになればもうわかりますからね)想像しながら、それと一緒に、パイナップルのことがどうしても頭から離れないのよ。朝になると、あたしはある人に手紙をやって、ぜひ来て下さいと頼んだの、その人が来ると、あたしはだしぬけに男の子のことだの、パイナップルの砂糖煮のことだの話したわ。残らず[#「残らず」に傍点]話してしまったわ、残らず[#「残らず」に傍点]すっかり、そして『いいわね』って言ったの。すると、その人は急に笑いだして、それは実際いいことだと言うと、いきなりぷいと立ってすぐ帰っちまったの[#「帰っちまったの」はママ]。みんなで五分間ばかりいたきりだったわ。その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、軽蔑したんでしょうか? ねえ、ねえ、アリョーシャ、その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、どうでしょう?」彼女はきらりと目を輝かせて、寝椅子の上でぐいと体を伸ばした。
「じゃ」とアリョーシャは興奮しながら言った。「あなたはその人を、自分でよんだんですか?」
「自分でよんだのよ。」
「その人に手紙をやったんですか?」
「手紙をやったのよ。」
「わざわざこのことを、赤ん坊のことを訊くために?」
「いいえ、まるでそんなことじゃないの。でも、その人が入って来るとすぐに、あたしそのことを訊いたわ。すると、その人は返事をして、笑って、立って行ってしまったの。」
「その人はあなたに対して、立派な態度を取りましたね」とアリョーシャは小さな声で言った。
「でも、その人はあたしを軽蔑したんじゃないでしょうか? 笑やしなかったかしら?」
「そんなことはありません。なぜって、その人自身も、パイナップルの砂糖煮を信じてるかもしれないんですもの。リーザ、その人もやはりいま病気にかかってるんですよ。」
「そうよ、あの人も信じてるのよ」とリーザは目を光らせた。
「その人は誰も軽蔑しちゃいません」とアリョーシャは語をつづけた。「ただその人は誰も信じていないだけです。信じていないから、つまり軽蔑することになるのです。」
「じゃ、あたしも? あたしも?」
「あなたも。」
「まあ、いいこと。」リーザは、歯をきりきりと鳴らした。「あの人が、笑ってぷいと出て行ったとき、軽蔑されるのもいいもんだって気がしたわ。指を切られた子供も結構だし、軽蔑されるのも結構だわ……」
 彼女はこう言いながら、妙に毒々しい興奮した声で、アリョーシャに面と向って笑いを浴びせた。
「ねえ、アリョーシャ、ねえ、あたしはね……アリョーシャ、あたしを救けてちょうだい!」ふいに彼女は寝椅子から跳ねあがりざま、彼のほうに身を投げて、ぎゅっとその両手を握った。「あたしを救けて」と彼女はほとんど呻くように言った。「いま言ったような話ができるのは、世界じゅうにあなたよりほかありません。だって、あたし本当のことを言ったんですもの、本当のことよ、本当のことよ! あたし自殺するわ。だって、何もかもみんな穢らわしいんですもの! あたし何もかも穢らわしい、何もかも穢らわしい! アリョーシャ、なぜあなた、あたしをちっとも、ちっとも愛してくれないの!」
 彼女は前後を忘れたように、こう言葉を結んだ。
「そんなことはない、愛しています!」とアリョーシャは熱して答えた。
「じゃ、あたしのために泣いてくれて、泣いてくれて?」
「泣きます。」
「あたしがあなたの奥さんになるのを、いやだと言ったためじゃなくって、ただあたしのために泣いてくれて?」
「泣きます。」
「そう、有難う! あたしあなたの涙よりほか何にもいらないのよ! ほかのやつなんか、みんなあたしを苦しめたって、みんな、みんな、一人残らず[#「一人残らず」に傍点]あたしを踏み潰したって、かまやしないわ! だって、あたしは誰を愛していないんですもの。本当に誰も愛していないのよ! それどころか、憎んでるわ! さあ、いらっしゃい、アリョーシャ、もう兄さんのとこへ行く時分よ!」彼女はふいに身を離した。
「あなたはあとでどうなさるんです?」とアリョーシャは慴えたように言った。
「兄さんのとこへいらっしゃい。監獄の門が閉まってよ。いらっしゃい。さ、帽子! ミーチャにあたしからと言って、接吻してちょうだい。さあ、いらっしゃい、いらっしゃい!」
 こう言って彼女は、ほとんど無理やりアリョーシャを、戸のほうへ突き出すようにした。アリョーシャは愁わしげな不審の表情でリーザを見ると、その瞬間、自分の右手に手紙があるのを感じた。それは小さな手紙で、かたく畳んで封印がしてあった。彼はちらりと見ると、『イヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフさま』と書いてあった。彼はすばやくリーザを見た。と、その顔はほとんど威嚇するような表情になった。
「渡して下さい、きっと渡して下さいよ!」彼女は全身をふるわせながら、夢中でこう命令した。「今日すぐ! でないと、あたし毒を呑んで死んでしまってよ! あたしがあなたを呼んだのもそのためよ!」
 彼女はこう言って、大急ぎでぱたりと戸を閉めてしまった。掛金はがちりと音をたてた。アリョーシャは手紙をかくしへ入れると、ホフラコーヴァ夫人のもとへも寄らないで、すぐ階段のほうへ行った。彼はもう夫人のことを忘れていたのである。リーザはアリョーシャが遠ざかるやいなや、すぐ掛金をはずしてこころもち細目に戸を開き、その隙間に自分の指をさし込むと、力まかせにぐっと戸を閉めて、指を押した。十秒間ばかりたってから、彼女は手を引いて、そろそろと静かに安楽椅子へ戻ると、その上に坐って、体をぐいと伸ばした。そして、黒くなった指と、爪の間から滲み出た血をじっと見つめた。唇がぶるぶると慄えた。彼女は早口にこうひとりごちた。
「あたしは恥知らずだ、恥知らずだ、恥知らずだ!」
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第二章 病める足

   第二 病める足

 用件の第一は、ホフラコーヴァ夫人の家へ行くことだった。アリョーシャは、少しでも手早くそこの用件を片づけて、遅れぬようにミーチャを訪ねようと思い、道を急いだ。ホフラコーヴァ夫人はもう三週間から病気していた。一方の足が腫れたのである。夫人は床にこそつかないけれど、それでも昼間は華美な、しかし下品でない部屋着をまとって、化粧室の寝椅子の上になかば身を構えていた。アリョーシャも一度それと気がついて、無邪気な微笑を浮べたことだが、ホフラコーヴァ夫人は病人のくせに、かえってお洒落をするようになった。いろんな室内帽子を被ったり、蝶結びのリボンを飾りにつけたり、胸の開いた上衣をきたりしはじめたのである。アリョーシャは、夫人がこんなにお洒落をするわけを悟ったが、浮いた考えとしていつも追いのけるようにした。最近二カ月間、ホフラコーヴァ夫人を訪ねて来る客の中に、かの青年ペルホーチンが交っていたのである。アリョーシャはもう四日も来なかったので、家へはいるとすぐ、急いでリーザのところへ行こうとした。彼の用事というのは、つまりリーザの用だったからである。リーザはきのう彼のもとへ女中をよこして、『非常に重大な事情が起ったから』すぐに来てもらいたいと、折り入って頼んだ。それがある理由のために、アリョーシャの興味をそそったのである。けれど、女中がリーザの部屋へ知らせに行っている間に、ホフラコーヴァ夫人はもう誰からか、アリョーシャの来たことを知って、『ほんの一分間でいいから』自分のほうへ来てくれるようにと頼んだ。アリョーシャはまず母親の乞いをいれたほうがよかろうと思った。彼がリーザのそばにいる間じゅう、夫人は絶えず使いをよこすに相違ないからである。ホフラコーヴァ夫人は、とくにけばけばしい着物を着て、寝椅子に横になっていたが、非常に神経を興奮させているらしかった。彼女は歓喜の叫びをもって、アリョーシャを迎えた。
「まあ、長いこと長いこと、本当に長いこと会いませんでしたわね! まる一週間も、本当に何という……あら、そうじゃない、あなたはたった四日前、水曜日にいらっしゃいましたっけねえ。あなたはリーザを訪ねていらしたんでしょう。あなたったら、わたしに知られないように、ぬき足さし足であれのとこへ行こうと思ってらしたんでしょう。きっとそうに違いありませんわ。ねえ、可愛いアレクセイさん、あれがどのくらいわたしに心配をかけてるか、あなたはご存じないでしょう。だけど、これはあとで言いましょう。これは一ばん大切な話なんですけど、あとにしますわ。可愛いアレクセイさん、わたしうちのリーザのことを、すっかりあなたに打ち明けます。ゾシマ長老が亡くなられてからは、――神様、どうぞあの方の魂をお鎮め下さいまし!(彼女は十字を切った)――あの方が亡くなられてからというものは、わたしあなたを聖者のように思っていますのよ、新しいフロックが本当によくお似合いになるんですけれど。あなたはどこでそんな仕立屋をお見つけなすって?でも[#「?でも」はママ]、これは大切なことじゃありません、あとにしましょう。どうかね、わたしがときどきあなたをアリョーシャと呼ぶのを、許して下さいね。わたしはもうお婆さんですから、何を言ってもかまいませんわね」と彼女は色っぽくほお笑んだ[#「ほお笑んだ」はママ]。「けれど、これもやっぱりあとにしましょう、わたしにとって一ばん大事なのは、大事なことを忘れないことなんですの。どうぞ、わたしが少しでもよけいなことを喋りだしたら、あなたのほうから催促して下さい。『その大事なことというのは?』と訊いて下さいな。ああ、いま何が大事なことやら、どうしてわたしにわかるものですか! リーザがあなたとの約束を破ってからというものはね、アレクセイさん、あなたのとこへお嫁に行くという、あの子供らしい約束を破ってからというものは、何もかもみんな、長いあいだ車椅子に坐っていた病身な娘の、子供らしい空想の戯れであったということが、むろんあなたもよくおわかりになったでしょうね、――おかげで、あれも今ではもう歩けるようになりました。カーチャがあの不幸なお兄さんのために、モスクワから呼んだ新しいお医者さまがね……ああ、明日は……まあ、何だって明日のことなんか! わたし明日のことを考えただけでも、気が遠くなりますよ! 何よりも一ばん好奇心のためなんですの……手短かに言えば、あのお医者さまが昨日わたしのところへ来て、リーザを診察したんですの……わたし往診料に五十ルーブリ払いましたわ。ですが、これも見当ちがいですわ、また見当ちがいを言いだして。で、わたしもうすっかりまごついてしまいましたわ。わたしはあわててるもんですから。しかも、なぜあわててるんだか、自分にもわかりませんの。ほんとうに、今は何が何だかさっぱりわからなくなりました。何もかもみんなごちゃごちゃになっちまって。[#「なっちまって。」はママ]わたしあなたが退屈して、いきなり逃げておしまいになりゃしないかと、それが心配でたまりません。宵にちらりと見たばかりでね。あら、まあ、どうしましょう! わたしとしたことが、お喋りばかりしていて。第一、コーヒーをいれなきゃ。ユリヤ、グラフィーラ、コーヒー持っておいで!」
 アリョーシャは、たったいまコーヒーを飲んだばかりだと言って、急いで辞退した。
「どちらで?」
「アグラフェーナさんのとこで。」
「それは……それはあの女のことですの! ああ、あの女がみんなを破滅させたんですわ。もっとも、わたし知りません、人の話では、何でもあの女は、今じゃ聖者になったということじゃありませんか。少し遅まきですけど、そのまえ必要な時にそうなってくれればよかったんですけど、もう今となっては、何の役にもたちゃしませんわ。まあ、黙って聞いて下さい。アレクセイさん、黙って聞いてて下さい。わたし、うんとお話ししたいことがあるんですけど、結局、何にも言えないのがおちでしょう。ああ、この恐ろしい裁判問題……ええ、わたしきっと行きます。安楽椅子に腰かけたまま、連れて行ってもらおうと思ってますの。それに、わたし坐ってるだけなら平気ですし、誰か一緒について来てもらえば、大丈夫ですよ。ご存じでしょうが、わたしも証人の一人なんですもの。ああ、わたし何と言いましょう、何と言ったらいいでしょうね! 本当に何と言ったらいいのやらわかりませんわ、私だって、宣誓しなければならないんでしょう、ね、そうでしょう、そうでしょう?」
「そうです。けれど、あなたがお出かけになれようとは思えませんがね。」
「わたし腰かけてならいられますよ。ああ、あなたはわたしをはぐらかしてばかりいらっしゃる! ああ、あの恐ろしい裁判問題、あの野蛮な犯罪、そしてみんなシベリヤへやられるんですわ。それかと思うと、ほかの人は結婚するでしょう。しかも、それがどんどん急に変って行くんですもの。そして、結局、何のこともなくみんな年をとって、棺桶にはいって行くんですわ。まあ、それも仕方がありません、わたし疲れました。あのカーチャ――cotte charmante personne(あの可愛い人)、ね、あの人はわたしの希望をすっかりぶち壊してしまいました。あの人はお兄さんのあとを慕って、シベリヤへ行くでしょう。すると、もう一人のお兄さんは、またあのひとのあとを追って行って、隣りの町かなんかに住み、こうして三人が互いに苦しめ合うことでしょう。わたしそんなことを思うと気がちがいそうですわ。ですが、何より困るのは、あのやかましい世間の評判なんですの。ペテルブルグやモスクワなどの新聞にも、幾千たび書かれたかしれやしません。ああ、そう、そう、どうでしょう、わたしのことも書きましたよ、わたしがお兄さんの『情人』だったなんて。わたしそんないやらしいことを口に出せませんわ。まあ、どうでしょう、ねえ、まあ、どうでしょう!」
「そんなことがあってたまるもんですか! どこにどんなふうに書いてありました?」
「今すぐお目にかけますよ。わたしきのう受け取って、さっそく、きのう読んだんですの。ほら、このペテルブルグの『風説《スルーヒイ》』という新聞ですよ。この『風説《スルーヒイ》』は今年から発行されてるんですが、わたし大へん風説好きだもんですから、申し込んだんですの。ところが、こんど自分の頭の上へ落っこちて来たじゃありませんか。まあ、こんな風説なんですよ、そら、ここ、ここのところですの、読んでごらんなさい。」
 彼女は枕の下においてあった新聞紙を、アリョーシャにさし出した。
 彼女は取り乱しているというより、打ちのめされたようになっていた。実際、彼女の頭はごったごたに掻き廻されていたのかもしれない。新聞の記事はすこぶる注意すべきもので、むろん彼女にかなり尻くすぐったい印象を与えるべきはずのものであったが、幸いこの瞬間、彼女は一つのことにじっと注意を集注[#「集注」はママ]することができなかったので、一分間もたつと、新聞のことは忘れて、話をすっかりほかのほうへ移してしまった。今度の恐ろしい裁判事件の噂が、もう全ロシヤいたるところに拡がっているということは、アリョーシャもとうから知っていた。ああ、彼はこの二カ月間に、兄のこと、カラマーゾフ一家のこと、また彼自身のことなどに関して、正確な通信とともに、またどれくらい、いい加減なでたらめな通信を読んだかしれない。ある新聞などには、アリョーシャが兄の犯罪後、恐怖のあまり、出家して修道院に閉じ籠ったなどと書いていた。ある新聞はこれを駁して、反対に彼がゾシマ長老と一緒に修道院の金庫を破って、『修道院からどろんをきめた』と書いた。『風説《スルーヒイ》』紙に出た今度の記事は、『スコトプリゴーニエフスク(家畜追込町というほどの意味)より、カラマーゾフ事件に関して』(悲しいかな、わたしたちの町はこう名づけられていた。筆者《わたし》はこの名を長いあいだ隠していたのである)という標題《みだし》であった。この記事は簡単なもので、ホフラコーヴァ夫人というようなことはべつに何も書いてなかった。それに、概して人の名は隠されていた。ただこの大評判の裁判事件の被告は休職の大尉で、ずうずうしい乱暴な懶け者[#「懶け者」はママ]で、農奴制の支持者で、色事師、ことに『空閨に悩んでいる貴婦人たち』に勢力を持っていた、と書いてあるだけであった。そのいわゆる『空閨に悩んでいる未亡人』の中で、もう大きな娘を持っているくせに、恐ろしく若づくりのある夫人などは、ひどくこの男にのぼせあがって、犯罪のつい二時間ほど前、彼に三千ルーブリの金を提供した。それは、すぐ自分と一緒にシベリヤの金鉱へでも逃げてもらうためであった。が、この悪漢は、四十過ぎた悩める姥桜と、シベリヤくんだりまで出かけるより、親父を殺して三千ルーブリ奪い取り、その上で犯跡をくらますほうが利口だ、と考えたのだそうである。ふざけた記事は、当然の結論として、親殺しの罪悪と、旧い農奴制度の悪弊について、堂々たる非難を投げていた。アリョーシャは好奇心にかられつつ読了すると、それを畳んでホフラコーヴァ夫人に返した。
「ね、わたしのことでなくて誰でしょう」と彼女はまた言いだした。「それはわたしですわ。だって、わたしはそのとおり、ついあの一時間まえに、あの人に金鉱行きを勧めたんですもの。ところが、それをだしぬけに、『四十過ぎた悩める姥桜』だなんて! わたし、そんなことのために言ったんじゃありません。これはきっとあの人がわざとしたことです! 神様、どうかあの人を赦してやって下さいまし。わたしも赦してやります。でも、これは……これは一たい誰が書いたのかおわかりになって。きっとあなたのお友達のラキーチンさんよ。」
「そうかもしれません」とアリョーシャは言った。「私は何にも聞きませんが。」
「あの人ですよ。あの人ですよ。『かもしれない』じゃありません! だって、わたしあの人を追い出したんですもの……あなたはこの話をすっかりご存じでしょう?」
「あなたがあの男に向って、今後もう訪ねて来ないようにとおっしゃったのは、私も知っています。が、どういうわけでそんなことをおっしゃったのか……それは、少くとも、あなたからは伺いませんでした。」
「じゃ、あの人からお聞きになったんですね! どうでした、あの人はわたしの悪口を言ってたでしょう? ひどく悪口を言ってたでしょう?」
「ええ、悪口を言っていました。でも、あの男は誰のことでも悪口を言うんですよ。けれど、なぜあの男の訪問を拒絶なすったかということは、あの男からも聞きませんでした。それに、私は近頃あの男とあまり会わないんです。私たちは親友じゃないんですから。」
「では、そのわけをすっかりあなたに打ち明けますわ、どうもしようがありません、わたしもいま、後悔してるんですの。だって、それについては、わたし自身にも責任がないと言いきれない点があるんですから。でも、それは小さい、小さい、ごく小さい点で、まるっきりと言ってもいいくらいなんですの。こうなのよ、あなた(ホフラコーヴァ夫人は急に何だかふざけたような顔になった。そして、口のあたりには謎のような、可愛い微笑がちらりとひらめいた)、ねえ、わたしはこんなふうに疑ってるんですの……ごめんなさい、アリョーシャ、わたしあなたに母親として……いいえ、そうじゃない、そうじゃない、それどころか、わたしは今あなたを自分の父親のように思ってお話ししますわ……だって、母親というのはこの場合ちっとも似合わないんですもの……ちょうど、ゾシマ長老に懺悔を聞いてもらうような気持なんですの、そう、それが一ばん適切です。わたしさきほどあなたを隠者だと言ったくらいですもの。でね、あの可哀そうな若い人、あなたのお友達のラキーチンがね(ああ、わたしとしたことが、あんな人に腹を立てることもできませんわ! わたし腹もたつし憎んでもいるけど、それはほんのちょっとなんですの)、一口に言うと、あの軽はずみな若い男が、まあ、どうでしょう、突然わたしに、恋をする気になったらしいんですの、わたしはずっと後になって、ふとそれに気がついたんですの。わたしたちは前からも知合いでしたけれど、つい一カ月ほど前から、あの人はしげしげと、大かた毎日のように、わたしのとこへ足を運ぶようになりました。でも、わたし何にも気がつかずにいたんですの……ところが、ふと何かに心を照らされでもしたように、わたしはそれと気がついて、びっくりしましたわ。ご存じでしょうが、わたしはもう二カ月も前から、あの謙遜で美しい立派な青年、――町の役所に出ているピョートル・イリッチ・ペルホーチンを、うちへ寄せるようになったんですの。あなたもよくあの人とお会いなすったわね。本当に立派な、真面目な方じゃありませんか。あの人が来るのは三日に一度くらいで、毎日じゃありませんが(毎日来てくれたってかまやしませんわ)、いつでも綺麗な服装をしていますの。一たいわたしはね、アリョーシャ、ちょうどあなたみたいに、才のある謙遜な若い人が好きでしてねえ。ところが、あの人はほとんど国務の処理ができるほどの才知をもっていて、その話っぷりがまたとても愛想がいいんですよ。わたしはどこまでもあの人のために運動しますわ。あの人は未来の外交家ですからね。あの恐ろしい夜、わたしのところへやって来て、ほとんど死にかかってるわたしを助けてくれたんですもの。ところがね、あなたのお友達のラキーチンときたら、いつもこんな靴を履いて来て、絨毯の上を引きずって歩くんですよ……とにかく、あの人はわたしに何か仄めかそうとしたんですの。一度など帰りしなに、わたしの手を恐ろしく堅く握りしめるじゃゃありませんか。あの人に手を握られてから、急にわたしの片足が痛みだしたんですよ。あの人は以前もわたしのところで、ペルホーチンさんに出会ったものですが、まあ、ひどいじゃありませんか、さんざんあの人を愚弄したあげく、呶鳴りつけるんですよ。わたしどうなるかと思って、二人を見ながら、お腹の中で笑っていましたの。ところが、いつだったか、わたし一人で坐っていますと、――いいえ、そうじゃない、その時わたしはもう寝ていたんですの。わたし一人で寝ていますとね、ラキーチンがやって来て、まあ、どうでしょう、自分の詩を見せるじゃありませんか。わたしの痛んでいる足のことを書いた短い詩ですの。つまり、わたしの痛める足のことを韻文で書いたんですのよ、ちょっと待って下さい、何と言ったっけ。

  この足よ、この足よ
  少しやまいにかかりしよ……

とか何とかいうんですが、――わたしどうしても詩が覚えられませんわ、――あそこにおいてあるんですけど、――あとでお目にかけましょう。でも、本当に立派な詩ですわ。それも、足のことだけじゃなくって、中に立派な教訓をふくんでるんですけど、忘れてしまいましたわ。まあ、一口に言えば、まったくアルバムへ入れて保存したいような気がするほどですの。むろん、大へん感謝しましたわ。それであの人もすっかり得意になっているようでしたが、わたしがまだ十分お礼を言う暇もないうちに、突然ペルホーチンさんが入って来たんですの。すると、ラキーチンさんは急にさっと顔色を曇らせてしまいました。わたしはね、ペルホーチンさんが何かあの人の邪魔をしたんだってことを、すぐに見抜いてしまいました、なぜって、ラキーチンさんは詩を読んでしまったあとで、きっとすぐ何かわたしに言おうと思ってたらしいんですもの。わたしいきなりそう直覚しましたの。ところが、そこヘペルホーチンさんが入って来たでしょう。わたしはすぐにその詩を見せました。でも、誰が作ったかってことは言わなかったんですの。あの人は今でも白を切って、誰が作者なのか、あの時察しがつかなかったと言ってますが、実はその時すぐと察してしまったに相違ありません、ええ、相違ありませんとも。あの人はわざと気がつかないふりをしたんですわ。で、ペルホーチンさんはすぐきゃっきゃっと笑いながら、批評を始めましたの。くだらない詩だ、神学生か何かが書いたに違いないなんて、しかもそれが烈しい突っかかるような調子なんですの! すると、あなたのお友達ったら、笑ってすませばいいものを、まるで気ちがいのようになってしまったんですの……ああ、わたし、二人が摑み合いするだろうと、はらはらしたくらいですわ。ラキーチンさんは、『それは僕が書いたんだ』って言うんですの。『僕が冗談半分に書いたんだ。なぜって、僕は詩を書くなんて、くだらないことだと思ってるからさ……しかし、僕の詩はなかなか立派なものだよ。プーシュキンが女の足を詩に書いたって、世間じゃ記念碑を建てるって騒いでるが、僕のは思想的傾向があるんだ。ところが、君なんか農奴制の賛成者だろう。君なんか少しも人道ということを知らない、君なんか現代の文明的な感情を少しも感じないんだ、君は時勢おくれだ、賄賂とりの役人だ!』と、こうなんですのよ。私は大きな声を出して、二人を止めました。でも、ペルホーチンさんは、ご存じのとおり沈着な方でしょう、だから急にとりすました上品な態度になってね、嘲るように相手を見ながら聞いていましたが、やがて詫びを言いだすんですの。『私はあなたのお作だってことを知らなかったのです。もしそうと知っておれば、あんなことは言わなかったでしょう。もしそうとわかっていたら、大いにほめたはずなんですよ……詩人てものは誰でも、そんなふうに怒りっぽいものですからね……』なんて、つまり大そう取りすました上品な態度で、その実冷やかしたわけなんですの。あれはみんな冷やかしてやったのだと、あとでペルホーチンさんはそう言いましたが、わたしその時、あの人が本気に謝ったのだと思いましたわ。で、わたしはちょうど今あなたの前でこうしているように、その時じっと横になったまま、ラキーチンさんがわたしの家で、わたしのお客に悪口をついたのを理由として、あの人を追い返してしまったら、それは立派な行為だろうかどうだろうか、と考えたんですの、こういう工合に横になって目を閉じて、立派か立派でないかといろいろ考えてみたけれど、どうも思案がつかないんですの。さんざん苦しんで苦しんで、呶鳴りつけてやろうかどうしようかと、心臓をどきどきさせたもんですわ。一つの声は呶鳴れと言うし、いま一つの声は、いや呶鳴ってはいけないと言うんですの。とうとういま一つの声が聞えるやいなや、わたしはだしぬけに呶鳴りだして、そのまま卒倒してしまいました。むろん、大騒動が起りましたわ。ふいにわたしは立ちあがって、あなたにこんなことを言うのはつらいんですけど、もうあなたに来ていただきたくないんです、とこうラキーチンさんに言いましたの。こうして、あの人を追い出したんですの。アリョーシャ! わたし自分ながら、馬鹿なことをしたと思います。わたしちっともあの人に腹を立ててはいなかったんですもの。ただふいと急に、それがいいような気がしたんですの。つまり、そのシーンがね……でも、そのシーンは何といっても自然でしたわ。なぜって、わたしさんざん泣いたんですもの、その後、幾日も泣きましたわ。けれど、ある日食事をすましたあとで、すぐにけろりと忘れてしまいましたの。もうあの人が来なくなってから、二週間になりますが、もう本当にあの人は来ないのかしら、というような気がするんですよ。これはつい昨日のことですの。ところが、その晩には、もうこの『風説《スルーヒイ》』が届いたじゃありませんか。わたし読んでびっくりしました。ほかに誰が書くものですか、きっとあの人が書いたに違いありません。あのとき家へ帰ると、すぐテーブルに向って書いたんですよ。そして、送るとすぐ新聞に出たんです。これは二週間まえのことよ。でも、アリョーシャ、わたし何を言ってるんでしょう。言わなけりゃならないことは、まだちっとも言っていないんですのに。だって、自然こんなことが言えるんですもの!」
「私は今日ぜひ時間内に、兄のとこへ行かなきゃならないんです」とアリョーシャはもじもじ言いだした。
「そうそう! あなたは今わたしに何もかも思い出させて下さいました。ねえ、アリョーシャ、 affect (激情)って、一たいどういうことなんでしょう?」
「何のことです、 affect って?」とアリョーシャはびっくりした。
「裁判の affect ですよ。どんなことでも赦される affect のことですよ。どんなことをしても、すぐに赦されるんですわ。」
「一たいそれは何のことなんです?」
「ほかじゃありません、あのカーチャがね……ああ、ほんとにあのひとは可愛い、可愛い娘さんですわ。ただ一たい誰を恋してるんでしょう。どうしてもわかりませんわ。つい近頃も訪ねて来たんですけど、わたしはどうしても訊き出せないんですの。それに、あのひとは近頃、わたしに大へんそらぞらしくなって、ただわたしの容体を聞くだけで、ほかのことは何にも話さないんですもの。おまけに、その話の調子があまり他人行儀だから、わたしはどうでもいい、勝手になさいと思ったほどですの……ああ、そうそう、その時この affect の話が出たんですの。ねえ、お医者さまが来たんですよ。気ちがいの鑑定ができるお医者さま。あなたお医者が来たことを知ってらしって? もっとも、あなたが知らないはずはないわね。あなたがお呼びになったんですものね。いいえ、あなたじゃない、カーチャですわ! 何もかもカーチャですわ! ねえ、かりにここに正気の人がいるとしましょう。ところが、その人が急に affect を起したんですの。意識もしっかりしてるし、自分が何をしているかってこともよく知ってるんですけど、それでもやはり affect を起してるんです。だからドミートリイさんも、やはり affect を起しているに違いありません。新しい裁判が開けてから、初めてその affect がわかってきたのよ。これは新しい裁判の恩恵ですわね、あのお医者さんはあの晩のことをわたしに訊きましたの、つまりあの金鉱のことですわ、――あの男はその時どんなふうだったかって。むろんあの時 affect を起してたのでなくってどうしましょう? 入って来るとすぐに、金だ、金だ、三千ルーブリだ、三千ルーブリ貸してくれって呶鳴って、そしてふいに出かけて殺してしまったんですもの。殺したくはない、殺したくはないと言ってながら、だしぬけに殺したんですよ。つまりこういうふうに、殺すまいと思っていながら、つい殺してしまったという点で、あの人は赦されるんですわね。」
「でも、兄さんは殺しゃしなかったじゃありませんか」とアリョーシャはやや鋭い口調で遮った。彼は次第に不安と焦躁を感じてきた。
「それはわたしも知ってます。殺したのはあのグリゴーリイ爺さんですよ……」
「え、グリゴーリイが!」とアリョーシャは叫んだ。
「あれです、あれです、グリゴーリイですよ……ドミートリイに撲りつけられて、じっとそのまま倒れていたんですが、やがてそのうちに起きあがって、戸が開いているので入って行って、フョードルさんを殺したんですよ。」
「でも、それはなぜです、なぜですか?」
「つまりaffectを起したんですよ。ドミートリイさんに頭を撲られてから、こんど気がついた時affectを起してしまったのです。そして入り込んで殺したんですわ。あれは自分で殺したのじゃないと言いはってますが、それはたぶん覚えていないからでしょうよ。けれどね、もしドミートリイさんが殺したんだとすれば、かえってそのほうがよござんすわ、よっぽどよござんすわ。わたしはグリゴーリイが殺したんだと言いましたが、本当はやっぱりドミートリイさんが殺したに違いありません。そのほうがずっとずっとようござんすわ! あら、そりゃわたしだって息子が親を殺したのをいいと言うのじゃありませんよ。わたしそんなことを賞めやしません。それどころか、子供は親を大切にしなけりゃなりませんとも。でも、やっぱりあの人のほうがいいと思うわ。なぜって、もしそうだとすれば、あなたも悲しまなくっていいからですわ。だってあの人は意識を失って、――じゃない、意識はあっても自分か何をしているかわきまえずに殺した、と言えるからですよ。きっと、きっとあの人は赦されますよ。それが人道というものですからね。そして、みんなに新裁判の恩恵を知らせてやったほうがよござんすよ。わたしは少しも知らなかったんですけれど、人の話では、それはもうとっくの昔からそうなんだそうですね。わたし、昨日そのことを聞いた時、もう本当にびっくりしちゃって、すぐにあなたのとこへ使いを出そうと思ったほどでしたよ。それからね、もしあの人が赦されたら、わたしあの人を法廷からすぐに宅の晩餐会へお招きしますわ。知合いの人たちを呼んで、みんなで新しい裁判のために乾杯しようと思うんですの、わたしあの人を危険だなんて思いません。それに、うんと大勢お客を呼びますから、あの人が何かしでかしても、すぐいつでも引きずり出すことができますわ。あの人はそのあとで、どこかほかの町の治安判事になるといいですね。だって、自分で不幸を忍んだものは、誰よりもよく人を裁きますからね。ですが、一たい今の世にaffectにかかっていない人があるでしょうか。あなたでもわたしでもみなかかっているんですわ。こんな例はいくらでもありますよ。ある人は腰かけて小唄《ロマンス》を歌っているうちに、とつぜん何か気に入らないことがあったので、いきなりピストルを取って、ちょうどそばに居合せた人を撃ち殺したんですって。でも、あとでその人は赦されたそうです。わたし近頃この話を読んだのですが、お医者さんたちもみんな証明していました。今お医者さんは誰でもそう言ってますわ、誰でもみんなそう言ってますわ。困ったことには、うちのリーザもやはりaffectにかかってるんですの。わたしは昨日もあれのために泣かされましたよ、一昨日も泣かされましたわ。ところが今日になって、あれはつまり、affectにかかっているのだってことに思いあたったんですの。ああ、ほんとにリーザには心配させられますよ! あの子はすっかり気がちがってるんだと思いますわ。なぜあれはあなたをお呼びしたんでしょう? あれがあなたを呼んだのですか、それとも、あなたのほうからあれのところへいらしたんでしょうか?」
「あのひとが呼んだのです。私はもうあちらへ行きましょう」とアリョーシャは思いきって立ちあがった。
「あら、ちょいとアリョーシャ、それが一ばん大切なところかもしれませんわ。」ふいにわっと声をあげて泣きだしながら、夫人はこう叫んだ。「誓って申しますが、私は心からあなたを信用して、リーザをおまかせします。あれがわたしに隠してあなたをお呼びしても、そんなことを何とも思やしません。けれど、お兄さんのイヴァン・フョードルイチには、そうたやすく自分の娘をまかせることができませんの。もっとも、わたしは今でもやはりあの人を、立派な男気のある青年と思っていますけれどね。まあ、どうでしょう、あの人はわたしの知らない間に、突然リーザに逢いに来たんですよ。」
「え? 何ですって? いつ?」アリョーシャはびっくりして訊いた。彼はもう腰をかけようともせず、立ったままで聞いていた。
「今お話しします。ことによったら、そのためにあなたをお呼びしたのかもしれません。もう何のためにお呼びしたか、わからなくなってしまったんですけど。こうなんですのよ、イヴァン・フョードルイチはモスクワから帰ってから、わたしのところへ二度ほど見えました。一度は知人として訪問して下すったのですけど、いま一度はつい近頃のことで、その時ちょうどカーチャが見えていたものですから、あの人はカーチャに逢うためにいらしたんですの。むろんわたしは、あの人がそれでなくても、非常にお忙しいことを知ってましたから、始終訪ねてもらいたいとも考えていませんの。Vous comprenez, cette affaire et la mort terrible de votre papa.(おわかりでしょう、あの事件と、それにあなたのお父さんの恐ろしいご最後) ところがね、あの人がまたふいに訪ねてらしったんですの、それも、わたしのほうじゃなくって、リーザなんですの。これはもう六日も前のことで、五分間ばかりいてお帰りになったそうですが、わたしはその後三日もたってから、グラフィーラから聞いたもんですから、本当にだしぬけで、びっくりしましたわ。で、すぐリーザを呼びますと、あの子は笑ってるんですの。そしてね、あの人はわたしが臥《ふせ》っていると思ったので、リーザのとこへ容態を訊ねに来たのだと、こう言うんです。それはむろんそうだったんでしょう。ですけど、一たいリーザは、リーザは、ああ、神様、あれはどんなにわたしに心配をかけることでしょう! 考えてもごらんなさい、ある晩とつぜん、――それは四日前のことで、この間あなたが来てお帰りになるとすぐでしたわ、――あれは夜中にとつぜん発作を起して、喚くやら唸るやら、それはひどいヒステリイを起したんですの! 一たいどうしてわたしは一度もヒステリイを起したことがないのでしょう。ところが、リーザはその翌日もまたその翌日も発作を起して、とうとうきのうのaffectになったんですの。だしぬけに『あたしはイヴァンさんを憎みます、お母さん、あの人を家へ入れないで下さい、家へ入るのを断わって下さい!』って喚くじゃありませんか。わたし本当に度胆を抜かれてぼっとしながら[#「ぼっとしながら」はママ]、そう言いましたの。あの立派な青年紳士の訪問をどう言って断わることができますか。あの人はあんなに学問があって、おまけにあんなに不幸な身の上なんですもの。なぜって、あんなごたごたは何といっても不幸で、決して幸福じゃありませんからね、そうじゃありませんか? ところが、あれはそれを聞いて、からからと笑うんですの。それがねえ、さもさも馬鹿にしたような笑い方なんですのよ。でも、わたしは、まあ笑わせてよかった、これで発作もなおるだろう、と思って喜びましたわ。それに、お兄さんのほうは、わたしに断わりもなくあれを訪問したり、妙なことをなさるなら、そのわけを訊いて、きっぱり出入りをお断わりするつもりでしたの。ところが、今朝リーザは目をさますと、だしぬけにユリヤに腹を立てて、まあ、どうでしょう、平手で顔を打つじゃありませんか。なんて恐ろしいことでしょう。わたしは自分の女中でも、『あなた』と呼んでるんですもの。すると一時間もたつと、あれはユリヤの足を抱いて接吻するんですの。そして、わたしのところヘユリヤをよこして、もうお母さんのとこへは行かない、今後決して行こうと思わないと、こんなことを言わせるじゃありませんか、そのくせ、わたしがあれのとこへ足を引きずって行くと、あれはわたしに飛びついて、接吻したり泣いたりする。そうして、接吻しながら、いきなり一口もものを言わないで、ぷいと出て行ってしまうもんですから、わたし何のことだか、さっぱりわけがわかりませんの。わたしの大好きなアレクセイさん、わたし今じゃあなただけを力にしています、わたしの生涯の運命は、あなたの手の中にあるんですの。あなたリーザのところへ行って、あれから何もかもすっかり聞き取って下さいません? それができるのは、ただあなた一人だけですからねえ。それから帰って来て、わたしに、――この母親に話して下さいな、なぜって、あなたも察して下さるでしょうが、もしこんなことが長くつづいたら、わたし死ぬよりほかありません。死んでしまうか、それとも家を逃げ出すばかりですわ。わたしもう我慢ができないのです。今までずいぶん我慢し抜いてきましたが、その堪忍袋の緒だって切れるかもしれません、その時……その時が怖いんですよ。ああ、ペルホーチンさんがいらしった!」ピョートル・イリッチ・ペルホーチンが入って来たのを見ると、ホコラコーヴァ夫人[#「ホコラコーヴァ夫人」はママ]は急に顔を輝かしながら、こう叫んだ。「遅かったわね、遅かったわね! さあ、どうなすって、おかけなさいな、そして早く話して聞かせて下さい、わたしの運命を決して下さい。で、いかがでした、あの弁護士は?アレクセイさん、あなたどこへいらっしゃるの?」
「リーザのとこへ。」
「そう、では、忘れないでね。今わたしのお願いしたことを忘れないでね。わたしの運命がきまるんですからね、ほんとに運命が!」
「むろん、忘れやしません、もしできさえしたら……だが、なにしろこんなに遅くなっちまったので[#「なっちまったので」はママ]」とアリョーシャは出て行きながら呟いた。
「いいえ、ぜひぜひ帰りに寄って下さいよ。『もしできたら』じゃ駄目。でないと、わたし死んじまうわ![#「死んじまうわ!」はママ]」とホフラコーヴァ夫人は、アリョーシャのうしろから叫んだが、彼はもう部屋の外へ出てしまっていた。
 
(※ affect→ affect 前後を半角開ける)
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社