『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005-048

第四編

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 本編の二主人公が、緑色のベンチであいびきしてこのかた、一週間ばかりたった。ある朗らかな朝の十時半ごろ、知り合いのだれ彼を訪問に出たヴァルヴァーラ・プチーツィナは、ひどくうち沈んだもの思わしげな様子で、家へ帰ってきた。
 世間には一言《いちごん》もって全貌をおおうようなことのいいにくい人がある。それは通常『世間なみ』の人とか、『多数』とかいう言葉をもって呼ばれる人たちで、これが事実上あらゆる社会の最大多数を形づくっている。文学者はその小説や物語に、おおむね社会の典型を取って来て、それを成型的に芸術的に表現しようと努める、――その典型は、そっくりそのままでは現実に発見しにくいが、とにかく、現実そのものよりはるかに現実的なものである。ポドコリョーシン(ゴーゴリ「結婚」の主人公)はその典型的な点において、あるいは誇張といえるかもしれないが、けっして架空の人物ではない。賢明なる人士の多くはゴーゴリの筆によって、ポドコリョーシンのことを知って以来、自分のりっぱな知人や親友の何十人、何百人が、おそろしくポドコリョーシンに似ているのに気づくようになったのではないか。彼らは、自分の友達がポドコリョーシンのような人間であることは、ゴーゴリの喜劇が出る前から承知していたが、しかしこういう名前を持っているということはまだ知らなかった。じっさいには、花婿が結婚式の前に窓から飛び出すなどという場合は、はなはだまれである。なぜなら、余事はさて置き、だいいち、具合の悪いことだからである。が、それにしても多くの花婿は、たとえりっぱな聡明な人々であるにしても、結婚のまぎわに心の奥で、みずからポドコリョーシンであることを認めるにちゅうちょしないであろう。また同様に、すべての夫が一挙手一投足に、"Tu l'asvoulu, Georges Dandin"(つまり自業自得なんだよ、ジョルジュ・ダンダン――モリエール)と叫ぶことはなかろう。ああ、しかし悲しいかな、この衷心からの叫び声は、全世界の夫の口から蜜月の終わったあとで、幾百万べん、幾千万べんくりかえされたかしれない。いや、蜜月のあとどころか、ことによったら、結婚の翌日かもしれないのだ。
 で、あまりまじめな議論にわたるのを避けて、われわれはただこういって置く。現実においては、人物の典型的特質が水で薄められたような具合で、まったくこうしたジョルジュ・ダンダンも、ポドコリョーシンも存在しているし、毎日われわれの目のまえを歩きまわったり走りまわったりしているけれど、なんだかすこし水っぽくなったようである。この事実を完全に読者に伝えるためにいまひとこと、――モリエールが創造したと寸分たがわぬそのままのジョルジュ・ダンダンも、まれにではあるが、やはり現実界に見受けられるということをことわっておいて、雑誌の評論めいてきたこの議論をおしまいとしよう。が、それにしても、われわれの前に一つの疑問が残る。ほかでもない、われわれ小説家はこの「平凡」な、どこまでも普通な人たちを、どんなに取り扱ったらいいのであろう。この連中をすこしでも興味のあるように読者の膳へすすめるには、いったいどうしたらいいのか? 小説を書くときに、彼らのそばをぜんぜん素通りするわけに行かない。なぜなら、平凡な人間はいたるところにあって、多くの場合、浮世のできごとと関連して、必要な連鎖となっている。彼らを抛棄して顧みないのは、つまり真実らしさをそこなうことになる。典型的な性格や、または単に興味のためのみに、風変わりな、ありそうもない人物で小説を満たすのは、不自然でもあり、またおそらくおもしろくもなかろう。われわれの考えでは、文学者たるものはすべからく、平凡人の中にすらも、興味ある教訓的な片影を捕うべきである。たとえば、ある種の平凡人の特質が、恒久の平凡に含まれているとか、またはさらに進んで、この種の人たちが是が非でも平凡としきたりの軌道を脱しようと、けんめいな努力を注いでいるにもかかわらず、いぜんたる呉下の旧阿蒙で終わるというような場合、この種の人々も独自の特質を得ることになる。つまり、平凡人がどうしても生来の自己に満足しないで、その資質もないくせに、がむしゃらに独立した非凡人になろうとするのである。
 こういう『通常の』もしくは『平凡な』人たちの仲間に入るような人物が、本編の中にも二、三人いる。じつのところ、まだ読者にはっきりと説明してないが、名ざしていえばヴァルヴァーラ、その夫プチーツィン、その兄のガヴリーラ・イヴォルギンである。
 実際のところ、金があって、家柄も相当で、容貌も十人なみ、教育もあり、利口でもあり、おまけに人も好くていながら、これという才もなく、どこという変わったところ――よしや偏屈という種類のものであろうと、それすらもなく、自分の思想もなく、純然たる「世間なみ」の人間であるほどくやしいことはない。財産もある、がしかしロスチャイルドの富はない。家柄もれっきとしているけれど、べつに有名なというほどのものではない。顔も十人なみ以上ではあるが、表情はいたって少ない。教育もしっかり受けていながら、使い道がわからない。分別もあるが、自分自身の思想[#「自分自身の思想」に傍点]を持っていない。情もあるけれど、寛大とまでは到らない、などなど。どこまで行ってもこんなふうである。こういう人たちは、世の中にうようよしている、われわれの想像しているよりもずっと多い。彼らはすべての人々と同じく、二種類に分類される。一つは浅薄で、も一つはそれより『ずっと賢い』。第一のほうは比較的幸福である。浅薄な『平凡人』は、自分こそ非凡な独創的人間であると、容易に苦もなく信じて、なんらの動揺もなくその境遇を楽しむ。ロシヤの令嬢たちのなかには髪を短く切って、青い眼鏡をかけ、ニヒリストと名乗りを挙げさえすれば、もうそれですぐ自分自身の『信念』を獲たものと信じてしまうものがいる。また別の連中は、心中に何かしら人類共通の善良な心持ちを、ほんの爪のあかほどでも感じたら、われこそ人類発達の先頭に立っているという信念を自分ほど強く感じているものはほかにあるまい、といったような気持ちになる。また何々思想とかいうやつをそのままうのみにするか、それともなにかの本の一ページをはじめもおわりもなく、ちょっとのぞいて見るかすれば、もうこれは『自分自身の思想』だ、これはおれの頭の中で生まれたのだと、わけもなく信じてしまう。無邪気の傲慢(もしこんなことがいえるとすれば)は、こんな場合、驚くほどの度合に達する。そんなことはとうていありそうもないけれど、絶えず目に入る事実である。この無邪気な傲慢、この愚かな人間の自己の力量に対する信念は、ゴーゴリの描いた驚嘆すべき典型、ピロゴフ中尉(「ネーフスキイ通り」の主人公)によってみごとに代表されている。ピロゴフは自分が天才である、いな、あらゆる天才の上に立っているということに、一度も疑いをさし挟んだことがない。そんなことは問題にならないほど信じきっている。もっとも、問題などというものは、彼にとっていっさい存在していないのだ。大文豪ゴーゴリは読者の侮辱された道徳心を満足させるため、ついにこの男をひどい目に合わさなければならぬはめになったが、この偉人がただぶるっと身震いしたばかりで、拷問に疲れたからだに元気をつけるため軽やきピローグをペロリと食べたのを見て、あきれて両手を広げたまま、読者をおきざりにしてしまったのである。われわれはつねにこの偉大なるピロゴフが、こんな低い官等にいる時分、ゴーゴリに生けどられたのを残念に思っている。なぜなら、ピロゴフはどこまでもうぬぼれの強い男だから、自分は年とともに肩章の筋がふえ、ついには偉い元帥になるのだ、などと空想をたくましゅうするのは朝飯まえだからである。いや、空想するだけじゃない、そうと信じきって疑わないのだ。将官に昇進する以上、元帥にだって任命されないはずがないじゃないか? こういう連中の多くが、後年、戦場でとんでもない失敗をするのだ。そして、こうしたピロゴフが、ロシヤの文学者、学者、宣伝者のあいだにいく人いたかしれない。わたしは『いた』といいはしたもののしかしもちろん、今だっているのだ……
 本編中の人物ガヴリーラ・イヴォルギンは、第二の種類に属する。全身、頭から足の爪先まで、独創の希望に燃えてはいるけれど、やはり『だいぶ、小利口』な平凡人の種類に入る人である。しかし、この種類は前にも述べたごとく、第一のほうよりずっと不幸である。というのは、利口な[#「利口な」に傍点]『平凡人』は、よしんばちょっとの間(あるいは一生涯でもいい)自分を独創的な天才と想像することがあっても、やはり心の底に懐疑の虫が潜んでいて、それが時とすると、利口な平凡人を絶望のどん底まで突き落とすことがあるのだ。たとえ、あきらめがついたとしても、どこか奥のほうへ押しこめられた虚栄心に毒されてしまっている。もっとも、われわれはあまり極端な例を取りすぎたきらいがある。この利口な[#「利口な」に傍点]人たちの大部分は、けっしてそんな悲劇に達しないですむ。まあ、年とってから、多少肝臓を悪くするくらいのものである。しかし、それにしても、あきらめておとなしくなるまでに、この連中はどうかすると非常に長いあいだ、若い時からいいかげんな年になるまで、恐ろしい放埒をつづけることもある。しかも、それがただ独創的になりたいばっかりなのである。それどころか、まだ奇怪な場合があって、中には独創を欲するために、潔白な人が下劣な行為をあえてする向きもある。しかも、こうした不幸な人の中には、単に潔白なぽかりでなく善良でさえあって、自分の家庭で神のように崇められ、自分の努力によって家族ばかりか、他人の世話までしているのだが、それでどうだろう、一生安心というものを知らないのである! 当人にとっては、自分がりっぱに人間としての義務を果たしているという考えが、いっこう安心にもならないばかりか、かえって心をいらいらさせる。『ああ、なんというつまらないことにおれは大事の一生を棒に振ったんだろう! こんなことが足手まといになって、おれの火薬発見を妨げたんだ! これがなかったら、おれもあるいは、いや、きっと発見したに違いない――火薬かアメリカか、しかとさしてはいえないけれど、たしかに発見したに違いない!』
 こういう連中のなにより最もきわだった特色は、いったい何を発見しなくちゃならないのか、また何を発見しようとしているのか、火薬かアメリカか、そのへんの確かなことが一生涯どうしてもわからないという点にある。しかし、発見の苦痛と思慕の情は、コロンブスガリレオのそれにも劣らぬくらいである。
 ガヴリーラもまさしくこんなふうの苦しみをなめはじめた。しかし、ほんのはじめたばかりである。まだまだこれから、うんともがかなくてはならない。おのれの無才をたえず深刻に自覚すると同時に、自分はりっぱに独立性を有する人間だと信じようとするおさえがたい要求は、ほとんどもう少年時代から絶えず彼の心を傷つけていた。彼は羨望の念の強い、間歇的な欲望を持った、生まれながらに神経のいらいらしている青年であった。欲望の間歇的なのを、彼は強烈なのだと考えた。頭角を現わしたいという欲望の激しいままに、彼はどうかすると、思いきって無分別な飛躍をあえてしようと企むことがあった。しかし、いざとなると、わが主人公はそれを断行するべくあまりに利口すぎた。それが彼を悩ますのであった。ことによったら、彼も万一の場合り夢をものにするためとあれば、何か一つでも極端に卑劣なことをあえてしかねなかったかもしれないが、土壇場まで押しつめられると、彼は極端に卑劣なことをしでかすには、あまりに潔白だということが判明するのであった(そのくせ、ちょいちょいした卑劣なことなら、いつでも二つ返事なのだ)。彼は家庭の貧窮と零落を、嫌悪と憎しみをもってながめていた。で、母の世評と性格とが、今のところ彼の栄達のおもな支柱となっているのを、自分でもよく承知していたにもかかわらず、母に対してすらも、上から見おろすような侮蔑の態度をとっていた。
 エパンチン家へ入るときも、彼はさっそくこうひとりごちた。『卑劣なことをするなら、最後まで押し通すんだ、ただ自分のとくにさえなればいいんだ』けれども――かつて一度も最後まで押し通したことがない。またどういうわけで、ぜひ卑劣なことをせねばならぬと考えたのか、そのへんはあやふやなのである。アグラーヤの一件では頭から度胆を抜かれたが、それでもきれいさっぱりあきらめるというでもなく、もしやを頼みに、彼女との交渉を絶たないようにしていた。そのくせアグラーヤが身を落として、自分のようなものを相手にしてくれようとは、一度だってまじめに考えたことはない。その後ナスターシヤとの話が持ちあがったとき、彼は忽然として、いっさい[#「いっさい」に傍点]を獲得するものは金力のみであると悟った。
『卑劣なことをするくらいなら徹底的にやれ』と彼は得意でもあるが、いくぶんこわくもあるような心持ちで、そのころ毎日こころの中でくりかえしていた。『もう卑劣なことをする以上、どんづまりまでやっつけろ。月なみな連中はこんなとき尻ごみするが、おれなんぞはけっして尻ごみせん!』と絶えずみずから鞭うつのであった。
 アグラーヤを失い、ナスターシヤのほうもああした事情で、いやというほどやっつけられて、彼はすっかりしょげ返った。そしてほんとうに金を、――あの気の狂った男が持って来て、同様に気の狂った女が自分の横面へたたきつけた金を、公爵の手もとまで返してしまった。この金を返したことを、彼は無性に後悔したが、それでもまたこのことが彼にとって非常な誇りであった。公爵が三日間ペテルブルグへ残っているあいだ、彼はほんとうに泣き通したけれど、そのくせこの三日のあいだに、もう公爵をしんから憎むようになってしまった。というのは、あれだけの金を返すということは、『とうていだれでも思いきってできる芸当でない』と信じているのに、公爵があまり彼を同情の目をもってながめすぎたからである。しかし、自分の心の悩みも要するに、絶えずじゅうりんされている虚栄心にすぎない、という正直な反省が、おそろしく彼を苦しめた。それから長いことたって、よくよく落ちついて観察したあげく、アグラーヤのような罪のない風変わりな娘を相手にしたら、まじめにさえ持ちかければうまく丸めることができたのにと、やっとはじめて悟ったのである。後悔の念は彼の心を腐蝕して行った。で、職もなげうって、憂愁と煩悶に深く沈んでしまった。
 彼は両親とともにプチーツィンの厄介になっていたが、おおっぴらで妹婿をばかにしていた。そのくせ、プチーツィ冫の忠告をよく用いて、ほとんどつねにみずからその忠言を求めるほど、利口に立ちまわっていた。彼は、プチーツィンがロスチャイルドのようになろうとも思ってもいないし、それを一生の目的として努力するふうもないのを憤慨した。『高利貸をする以上、最後まで押し通さなくちゃうそだよ。うんと世間の餓鬼どもを絞って、その血で金を鋳造したまえ。なんでも心を鬼にして、ジュウの王さまになるんだね!』しかし、プチーツィンはおとなしい無口なたちなので、ただにやにや笑うばかりであった。が、あるときとうとう、ガーニャにはこの問題をまじめに説明して聞かす必要があると感じて、一種の威厳さえ示しながらそれを実行したことがある。彼はガーニャに向かって、自分はけっして不正なことをしないのだから、ガーニャが自分のことをジュウだなどというのは間違っている、また金が今のような価値を生じたのも、自分のせいではない、自分の行動は公正で潔白である、自分は要するに、『こういう』仕事の代理人にすぎないのだと論証して、最後に自分が事務に正確なため、ごくりっぱな立場から見て第一流の人々の知遇をかたじけなくし、自分の事業もますます拡張しつつあるとつけ足した。『ロスチャイルドなんかにはならないよ、なったって仕方がないものね』と彼は笑いながらいった。『まあ、リテイナヤ街に家を一軒、ことによったら二軒も買って、それでぼくは手を引いちまうよ』『しかし、ひょっとしたら、三軒買えないとも限らないからな!』と彼は心の中で思ったが、けっしてこの空想を口走るようなことはなく、胸の奥深く秘めていた。自然はこんな人物を愛し、いつくしむものである。したがって、プチーツィンもたしかに三軒でなく、四軒の家をもってむくわれるに相違ない。なぜなら、彼は子供の時分から、けっしてロスチャイルドにならぬということを、ちゃんと承知していたからである。しかし、四軒よりうえは自然が許してくれない。で、プチーツィンの件はそれでおしまいなのである。
 ところで、ガヴリーラの妹ヴァルヴァーラは、まるで性質の違った女である。彼女も同様に強い欲望を持っているが、それは間歇的というよりも、むしろ執拗なものであった。彼女はつねにどんづまりまで行ったときには、非常に豊富な理性を示したが、その理性はどんづまりまで行き着くまでのあいだにも、彼女を見捨てるようなことはなかった。実際のところ、彼女も独創を夢みる通常人の数にもれなかったが、そのかわり、彼女は自分に特殊な独創力がみじんもないのを早くから悟ったので、あまりたいしてこのことを苦に病まなかった、――しかし、これも一種のプライドから出たことでない、とは請け合われない。プチーツィンと結婚するについても、彼女はなみなみならぬ決断をもって、実際的の第一歩を踏み出したのである。しかし、結婚をするまぎわに、『卑劣なことをするなら、最後まで押し通してやれ。ただ自分の目的さえ達したらいいのだ』などとは夢にも考えなかった。兄のガーニャだったら、こんな場合、けっしてこの文句をいい落とすはずはない(まったく彼は兄として彼女の決心に同意を表したとき、あやうくこの文句を持ち出そうとしたくらいである)。それどころか、まるっきりあべこべで、ヴァルヴァーラは未来の夫がつつしみぶかくて気持ちのよい、ほとんど教育があるといってもいいくらいの人で、思いきった卑劣なふるまいはけっしてしないということを、根本的に確かめたのち、はじめて結婚したのである。ちょいちょいした卑劣な行為は、ヴァルヴァーラも些細なこととしてあまりやかましく追求しなかった。またそういう『些細なこと』のない人がどこにあろう? 理想どおりの人などとうてい見つかるものではない! そのうえに嫁入りすれば、それでもって父母兄弟にわび住まいを与えることになるのを彼女は知っていた。以前家内におこったごたごたは忘れ、彼女は兄の不幸を見かねて、助力しようと思い立ったのである。
 プチーツィンはときどき、もちろん、うち解けた調子で、ガーユヤを勤めに追い立てることがあった。『きみはそう一概に将軍なんてものを軽蔑するが』と彼はどうかすると冗談半分にいった。『気をつけたまえ、世間の人たちはみんなそのうちに時節到来して、将軍になっちまうぜ。待ってたまえ、そんなところを見せつけられるときがくるから』『いったいおれが将軍や将軍職を軽蔑しているなんて、何から割り出したんだろう?』とガーニャは皮肉な調子でひとりごちた。ヴァルヴァーラは兄を助けるため、自分の活動圏を広めることに決心して、エパンチン家へ出入りしはじめた。これには幼いころの記憶が大いにあずかって力あった。彼女もその兄も子供の時分、エパンチン家の令嬢たちと遊んだことがあったのだ。ここでことわっておくが、もし彼女がエパンチン家訪問に当たって、なにかすばらしい空想を追っているのだったら、好んで加入した平凡人の仲間からいちはやく脱出したものといわねばならぬ。しかし、彼女の追求したのは空想でない。いや、むしろ彼女にいわせれば、かなり根底の深い目算がある。つまり、彼女はこの家族の性質に基礎を置いたのである。アグラーヤの性格にいたっては、つねにおこたりなく研究している。ふたりのもの、――兄とアグラーヤの仲を、もともとどおりに丸めるのが、彼女の目的であった。
 もしかしたら、彼女はほんとうにいくぶんたりとも目的を達したのかもしれないが、またことによったら、あまりに多く兄から期待しすぎて、兄がどうもがいても提供することのできないものを要求するような誤謬におちいっていたかもしれない。それはとにかく、彼女はエパンチン家ではなかなか上手に立ちまわった。幾週間も幾週間も兄のことをおくびにも出さず、きわめて正直らしい誠実なふうをよそおい、率直ではあるが品格をも失わないぐらいにふるまうのであった。その良心の奥のほうはどうかというと、彼女はみずから省みてやましいところを感じなかったので、けっしてみずからとがめるようなことはなかった。これが彼女に力を添えるゆえんでもあった。ただ一つ自分で気のつく欠点は、非常に自尊心、というよりも、むしろ圧迫された虚栄心というようなものが強くて、よく腹を立てるのであった。特に彼女がエパンチン家を立ち去るときは、ほとんどいつでもこんな気持ちになることに自分でも気がつくのであった。
 さて、彼女はいま同家から帰って来たところで、前にも述べたとおり、いたくうち沈んだもの思わしげなふうであった。このうち沈んだ表情のかげから、なにかしら苦々しい冷笑的なものも、のぞいていた。プチーツィンはパーヴロフスクで、ほこりのひどい通りに面した、無細工ではあるけれど、広い木造の家に住んでいた。この家はやがてまもなく彼の手に入るはずになっていたので、彼はもう手まわしよく、だれかほかへ売り払う算段にかかっていた。入口階段を昇りながら、ヴァルヴァーラは二階でただごとならぬ騒々しい物音がするのにきづき、兄と父がわめいている声まで聞きわけた。客間へ入ってみると、兄のガーニャが憤怒のあまりまっさおな顔をして、われとわが髪の毛を引きむしらんばかりの勢いで、部屋の中をあちこちかけまわっている。彼女はちょっと
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眉をひそめながら、大儀そうな恰好で、帽子も取らずに長いすへ腰をおろした。もし自分がいま一分間だまっていて、なぜそんなに走りまわっているの、とかなんとかきかなかったら、兄はきっとぷりぷり怒りだすに相違ない、ということをよくのみこんでいるので、ヴァルヴァーラはとうとう質問というような体裁できりだした。
「やっぱりもとのとおり?」
「何がもとのとおりなんだい?」とガーニャは叫んだ。「もとのとおりだって! どうしてどうして、今どんなことが持ちあがっているか知らないのかい、もとのとおりどころじゃありゃしない! じいさんはきちがいのようになってくるし……おふくろはわめくし。いや、まったくだよ、ヴァーリャ、おまえはなんと思うか知らないが、おれはあのじいさんを追ん出すよ、でなけりゃ……、でなけりや、おれがここを出て行く」他人の家からだれを追ん出すこともできないのに気がついたらしく、彼はこういい足した。
「すこし大目に見てあげなくちゃだめよ」とヴァーリャがつぶやいた。
「何を大目に見るんだ? だれを?」とガーニャは猛り立った。「あのおやじの卑劣なやり口をかい? だめだ、おまえはどうとも勝手におし、おれはそんなことはできない! だめだ、だめだ、だめだ! ほんとになんというざまだ、自分が悪いくせによけいいばり返っているじゃないか。『門を通るのがいやだから垣をこわせ!』といわんばかりだ……おまえなんだってそんな様子をしてるんだい? 顔色ったらありゃしないぜ!」
「顔色は顔色だわ」ヴァーリャはぶすっとした調子でいった。
 ガーニャはなおいっそう目を見はって、妹を見つめた。「あすこへ行ったのかい?」とつぜん彼はこうきいた。
「ええ」
「ちょっと、またなんだかどなってる! なんて恥っさらしだ。おまけに、こんな時をねらってさ!」
「こんな時ってどんな時! なにもそんな特別の時なんかありゃしないわ」
 ガーニャは、なおなお目を大きくして、妹を見すえるのであった。
「なにかかぎつけたかい?」と彼はたずねた。
「ええ、だけど、べつに思いがけないことでもないわ。あれはみんなほんとうだった、と思ったばかりよ。うちの人のほうがわたしたちふたりよりも目が高かったわ。あの人がはじめっからいったようになってしまったのよ。あの人どこにいるかしら?」
「留守だよ。どうなったんだい?」
「公爵が正式に花婿さんなの、すっかり決まったんですとさ。わたし、ねえさんたちから聞いたの、アグラーヤさんも承知ですって。もう今じゃ隠そうともしなくなったわ(だって、今まであの家には、いつもなんだか秘密らしいものが絶えなかったんですもの)。アデライーダさんの結婚はまた延びるんですって。それはね、ふたりの結婚式を一度に、同じ日に挙げるためなのよ。ほんとうに詩的だわ、なにかの詩にありそうだわね! そんなに役にも立たないことに部屋をかけまわるよか、結婚祝いの詩でも作ったほうが気が利いててよ。今晩あすこヘベロコンスカヤ夫人が見えるんですって。ちょうど、おりよく来合わせたのよ。ほかにもお客さんがあるんですとさ。公爵とは前から知り合いなんだそうだけど、とにかく夫人にあの人を引き合わせて、正式に披露するらしいのよ。ただね、公爵が部屋へ入るとき、客に気おくれして、なにか物を落としてこわすか、それとも自分でぶっ倒れるか、そんなことがなければいいかって、心配しているのよ。公爵ならありそうなことですもの」
 ガーニャはいっしょうけんめいに注意して聞き終わった。しかし、彼にとって驚くべきこの報知が、いささかも恐ろしい印象を与えなかったらしい様子を見て、妹は内心びっくりした。
「仕方がないさ、それははじめから明瞭なことだったんだものね」と彼はやや考えてからいった。「つまり、いよいよ干秋楽なんだね?」だいぶしずかになったけれど、やはりまだ部屋の中をあちこち歩きまわりながら、妹の顔をずるい目つきでのぞきこんで、なにやら妙な嘲笑を浮かべて、彼はこういい足した。
「でも、にいさんが哲学者みたいな態度で、この知らせを聞いてくださるから結構だわ。わたし安心してよ」とヴァーリャはいった。
「まあ、重荷をほうり出したわけさ。すくなくともおまえの肩からはね」
「わたしは理窟もいわず、うるさい目もかけず、にいさんのために心からつくしたと思っててよ。にいさんがどんな幸福をアグラーヤさんから求めてるか、わたしそんなこときいたことはありませんからね」
「だが、いったいおれが……アグラーヤさんから幸福を求めたかしらん?」
「まあ、お願いだから……哲学めいたことはよしてちょうだい! とにかく、これで万事おしまいよ。ええ、すっかり片がついたのよ。わたしたちのことはもうこれでたくさん、いいばかを見たに相違ないんだから。白状すると、わたしは今まで一度もこのことを、まじめに見ることができなかったのよ。ただ『万一の場合』を思って、あのひとの突拍子もない性質を当てにして、仕事に取りかかっただけよ。それになによりも、にいさんを慰めてあげたかったもんだから……どうせ九分九厘まではだめだと思ってたわ。だいいち、にいさんが何を得ようとあせってたのか、わたしいまだによくわからないのよ」
「さあ、これからはおまえたち夫婦がかりで、おれを勤めに追っ立てはじめるんだね。意志の力と堅忍力行、それから、小さなことでもおろそかにするなって講釈をはじめるんだろう。ちゃんとそらで覚えてるよ」ガーニャはからからと笑った。
『この人はなにかまた変わったことを考えてるんだよ』とヴァーリヤは思った。
「どうだね、あすこでは――よろこんでるかい、つまり、両親がさ?」ふいにガーニャはこうたずねた。
「いいえ、そうでないらしいわ。もっとも、にいさんご自分で想像がつくでしょう。将軍は満足してるけれども、おかあさんは危がってるわ。婿としてはいやでたまらないってことは、ずっと前からわかりきってたんですもの」
「おれのきくのはそのことじゃない。婿としては考えることもできない、お話にならないものだってことは、知れきった話さ。おれは今の事情をきいてるのさ。今あすこの様子はどうだね? 正式の承諾を与えたのかい?」
「つまり、あの女が今まで『いや』といわなかったというだけなのよ、――それっきりよ。だけど、あのひととしては、それよりほかにしようがないじゃないの。あのひとが今まで没常識なほど、内気な恥ずかしがりだったのは、にいさんだって知ってるでしょう。子供の時分お客さんのとこへ出たくなさに、戸棚の中へもぐりこんで、二時間ぐらいその中でじっとしてたこともあるんですよ。ところが、それがそのまま大きくなって、今でも同じことなのよ。ねえ、わたしはなぜたかあの家で、なにかしら重大なことがあると思われるわ。それがしかも、あのひとから出たらしいのよ。あのひとは心の中を悟られまいと思って、いっしょうけんめい、朝から晩まで公爵のことを笑ってるそうだけど、きっと毎日かげでそっとあの人になにかいうに決まってるわ。だって、公爵がまるで天にでも昇ったようにほくほくものなんですもの。その様子がとてもこっけいなんですとさ。わたしあの家の人から聞いたのよ。ところが、わたしはなんだかあの人たちが、つまりねえさんたちが面と向かって、わたしをばかにしてるような気がしてならなかったわ」
 ガーニャはとうとう顔をしかめだした。ヴァーリャがこの問題であんなに深入りしたのは、わざと兄の本心を見抜くためにしたことかもしれない。しかし、ふたたび二階で叫び声がおこった。
「おれはあのおやじを追ん出してやる!」いまいましさを吐き出す機会が来たのを喜ぶように、ガーニャはいきなりわめきだした。
「そしたら、またきのうのように、行くさきざきでわたしたちの顔に泥を塗ってよ」
「なに、――きのうのようにって? どうしたんだい、何がきのうのようなんだい? いったい……」と急にガーニャはおそろしくあわて出した。
「あら、まあ、にいさんは知らなかったの?」ヴァーリャはふと気がついてこう言った。
「なにかい……おとうさんがあすこへ行ったてえのは、ほんとうなのかい?」と、憤怒と羞恥の念にまっかになって、ガーニャはこう叫んだ。「ああ、ほんとにおまえはあすこから帰って来たんだものなあ! なにか聞いて来たかい? じいさん、あすこへのこのこ出かけたのかい? 行ったのか行かないのか?」
 ガーニャは戸口のほうへ向かって飛び出した。ヴァーリャは飛びかかってその両手をおさえた。
「にいさんどうしたの? まあ、どこへ行くの?」と彼女はいった。「おとうさんをいま放したら、方々へ出かけて行って、よけいいやなことをしでかしてよ!………」
「いったい何をあそこでしでかしたんだ? 何をいったんだ?」
「あそこの人も自分で話ができなかったのよ、よくわけがわからなかったらしいの。ただもう皆びっくりしてしまったんでしょう。将軍とこへ行ってみると、留守だったもんだから、リザヴェータ夫人を呼び出したんですって。はじめのうちは口をさがしてくれ、勤めにつきたいといったそうですが、しまいにわたしたちのことを、――うちの人のことだの、わたしのことだの、とくべつ兄さんのことを愁訴したんですって……なんだかかだか、いろんなことをいったんでしょうよ」
「おまえ、どんなことだか聞くわけに行かなかったのかい?」ガーニャはヒステリイでもおこしたように、ぶるぶるとからだをふるわした。「どうしてそんなことが! おとうさんも自分で自分が何をしたか、ろくろくわからないんですもの。それに、あすこでもすっかりは教えてくれなかったかもしれないわ」
 ガーニャは両手で頭をつかんで、窓の方へかけだした。ヴァーリャはいま一方の窓ぎわに腰をおろした。
「アグラーヤさんて妙な人」とつぜん彼女はこういいだした。「急にわたしを引きとめてね、『ご両親にあたしから特別によろしくおっしゃってください。あたし近日ちゅうにあなたのお父さまにぜひお目にかかりたいとぞんじています』って、そういうじゃありませんか。その口ぶりがいやにまじめでね、そりゃおかしいのよ……」
「ひやかしてるんじゃないか? ひやかしてるんじゃないか?」
「ところが、そうでないんだから、なおおかしいじゃありませんか」
「あのひとはおやじのことを知ってるのか、知っていないのか、おまえどう思う?」
「あすこの家でだれも知らないってことは、間違いっこないと思うわ。だけど、にいさんが今わたしにヒントを与えてくれたのよ。もしかしたら、アグラーヤさんだけ知ってるかもわからなくってよ。あのひとがひとり知っているというのはね、あのひとが大まじめで、おとうさんによろしくといったとき、ねえさんたちもやはりびっくりしていましたもの。何のためにおとうさんひとりによろしくなんていうんでしょう、わけがわからないわ。もしあのひとが知っているとすれば、それは公爵が教えたのよ」
「だれが教えたなんて、そんなこと詮索してなにがおもしろい! どろぼう! これだけはまさかと思ってた。うちじゃ、家の中にどろぼうがいるんだ、しかもそれが『一家のあるじ』なんだからなあ!』
「まあ、ばかなことおっしゃい!」とヴァーリャはすっかり腹を立てて叫んだ。「酔ったまぎれの出来心じゃないの、それだけのことだわ! それに、こんなことを考え出したのはだれだと思って? レーベジェフや公爵じゃなくって……あの人たち自身こそどうなんだろう、たいした知恵者ですからね。あんなことなんか、なんとも思っちゃいないわ、わたし」
「おやじはどろぼうで酔っぱらいだし」とガーニャは心外そうにいった。「おれは乞食で、妹婿は高利貸-これだけありゃ、アグラーヤもさぞかし食指を動かすだろうよ! いや、もうりっぱなことでございますよ!」
「その妹婿の高利貸がにいさんを……」
「食わせてるとでもいうのかね? どうかご遠慮なくしまいまで」
「にいさんはいったい、なにをそんなにぷりぷりしてるの?」ヴァーリャはふと気がついて、こういった。「あなたはなんにもわからないのね、まるで小学生だわ。いったいこんなことのために、アグラーヤさんの目から見て、にいさんの箔が落ちるとでも思ってるの? あんたはあのひとの性質を知らないのよ。あのひとは三国一の花婿には目もくれないで、かえってどこかの大学生といっしょに屋根裏でかつえ死にするために、喜んで家を飛び出す人なのよ、――これがあのひとの空想なのよ! だから、にいさんも堅固な意思と誇りを失わないで、今の境遇をりっぱに耐え忍んでいったら、そのほうがあのひとの目から見て、かえって興味があるのよ、それをどうしても悟ることができなかったのね。公爵があのひとをつったのは、だいいち、公爵がつろうなどとしなかったせいもあるけれど、まったくは公爵が皆からばか扱い
にされてるからだわ。とにかく、あのひとは公爵のために、家じゅうのものを苦しめるだけでもおもしろいんだわ。ほんとうにあんたはなんにもわからないのね!」
「まあ、わかるかわからないか、今に知れらあな」とガーニャは謎でもかけるようにつぶやいた。「だが、それにしてもおれは、おやじのことをアグラーヤさんに知られたくなかったよ。公爵は言葉を控えて、だれにもしゃべらないことと思ったがなあ。レーベジェフにさえ口どめしたくらいだもの。 おれがぜひといって迫ったときでも、すっかりいいきれなか ったのに……」
「してみると、公爵は別としても、やはりみんなに知れちゃったんだわ。ところで、にいさん、これからどうするつもり? 何を当てにして? まだなにか当てがあるとすれば、それはにいさんが受難者のような面影を帯びて、アグラーヤさんの目に映るということぐらいなものよ」
「しかし、あんな浪漫趣味に満ちみちた女でも、外聞の悪いことをしでかすのは恐れてるだろう。すべて一定の範囲内だ、だれしも一定の限界までしか進めないよ。おまえたちはだれでもそんなものだからね」
「アグラーヤさんが恐れるんですって?」軽蔑したように兄をながめながら、ツァーリャはあかくなっていった。「だけど、ほんとうにあんたは見さげはてた根性だわね! あんたはなんの値うちもない人だわ。たとえあのひとがこっけいな恋人にせよ、そのかわり、わたしたちが総がかりになってもかなわないほど高潔な人だわ」
「まあ、いいよ、いいよ、そう怒るなよ」と得意らしい調子でまたガーニャがいった。
「わたしはただおかあさんがかわいそうだわ」とヴァーリャは言葉をついだ。「あのおとうさんの一件が、おかあさんの耳に入らなきゃいいがと、そればかり心配しているのよ、ほんとうに心配だわ!」
「が、もうきっと耳に入ってるよ」とガーニャはいった。
 ヴァーリャは、二階にいる母のところへ行くつもりで立とうとしたが、また立ちどまって、じっと兄の顔を見た。
「だれがそんなことをいうの?」
「きっとイッポリートだよ。ここへ引っ越して来るとすぐ、おかあさんにこのことを言いつけるのを、何より愉快なことだくらいに思ってさ」
「どうしてあの人が知ってるんでしょう、お願いだから教えてちょうだい。公爵とレーベジェフがだれにもいわないことに決めたので、コーリャさえ知らないじゃないの」
「イッポリートかい? なに自分でかぎ出したのさ。あの男がどれくらいずるいやつだか、とても想像がつかないよ。あれは恐ろしい告げ口屋で、悪いことやみっともないことなら、なんでもかぎだす恐ろしい鼻を持ってるんだからなあ。おまえはほんとうにするかどうか知らないが、あいつはアグラーヤさんまで、まんまと手の中に丸めこんでるぜ! もし丸めこんでないとしても、今にかならず丸めこむよ。ラゴージンもやはりあいつに渡りをつけたそうだ。公爵はどうしてそれに気がつかないんだろう? 今のところ、あいつはおれ
を探偵したくてたまらないんだ! あいつがおれを目のかたきにしてるってことは、もうちゃんと前から承知してるさ。しかし、いったい何のためだろう、もう今にも死にそうなからだで、何をしようというんだろう、――とんと合点がいかないよ! だが、おれはあいつに一杯くわしてやる。見てろ、あいつがおれを探偵するんでなくって、あべこべにこちらから探偵してやるから」
「そんなに憎らしいなら、なぜあの人を家へ呼んだの? それに、あんな人を探偵したりなんかする値うちがあって?」
「おまえが自分で呼べ呼べってすすめたくせに」
「なにかの役に立つと思ったんですもの。それはそうと、今じゃあの人がね、アグラーヤさんにほれこんじまって、手紙を出したんですよ。わたしにいろんなことを根掘り葉掘りきいてね……夫人にでも手紙を出しかねない勢いだったわ」
「その意味なら危険な男じゃないよ!」毒々しく笑いながらガーニャはいった。「しかし、きっとなにかとんちんかんなことがあるんだぜ。あいつがほれこんだってのは、ありそうなことだ。なんせ、生意気なふ僧だからなあ! だが……ばあさんに無名の手紙を送るなんて、そんなことはしないだろう。あいつはじつに意地の悪い、ひとりよがりのぼんくらだもの! おれは信じている、いや、おれは確かに知ってる、あいつはまず手はじめとして、あのひとにおれのことを、腹に一物ある男だと触れまわしたんだ。おれはじつのところ、はじめのうちばかになって、あいつにいろんなことをうち明けてしまった。というわけは、あいつが公爵に復讐するため
にだけでも、おれの利害にあずかると思ったからなんだ。ところが、なかなか煮ても焼いても食えんやつだ! 今こそすっかりあいつの根性を見抜いてしまった。こんどの窃盗事件も自分の母親から、大尉夫人から聞いたのさ。おやじがあんなことを思いきってやったのも、つまり大尉夫人のためなんだ。あいつ何のきっかけもなく、出しぬけにいいだすじゃないか、『将軍がぼくの母に四百ルーブリくれるって約束しましたよ』なんて、まったく出しぬけにぶっきらぽうにいうんだよ。そこで、おれはいっさいのいきさつを悟っちまったんだ。そのとき、あいつはなんだか愉快そうに、じいっとおれの顔を見つめるじゃないか。おかあさんに告げ口をしたのも、きっと、ただ、おかあさんの心をかきむしるのがおもしろくてのことなんだ。いったいどうしてあいつ死なないんだ? ひとつ教えてくれないか。だって、三週間たったら、ぜひとも死ぬはずだったんじゃないか。それだのに、こちらへ来てからよけい肥ってきたぜ! せきもしなくなったしね。ゆうべ自分でもそういってたよ。あの翌日からさっそく喀血しなくなったとさ」
「追い出しておしまいなさいよ」
「おれはあいつを憎みやしない、ただ軽蔑してるんだ」と誇らしげにガーニャはいった。「いや、まあ、いい、まあ、いい、憎んでいるとしてもかまわないさ、まあ、いいさ!」ふいに恐ろしく猛烈な勢いで、彼は叫んだ。「おれはあいつに面と向かってそういってやる、あいつが臨終《いまわ》の床についてるときだってかまわないよ! もしおまえがあの『告白』を読んでたらなあ、――傲慢かち出た無知とでもいおうか、いや、どうもじつにお話にならん!。あれはピロゴフ中尉だ、卜悲劇のノズドリョフ(ゴーゴリ「死せる魂」のえせ快男児)だ、いや、なんかといおうより――生意気な小僧っ子だ! おお、あのときおれがあいつの度胆を抜くために、あいつをうんとぶちのめしてやったら、どんなに気が清々したこったろう。あのときうまく行かなかったために、あいつはいまみなに仕返しをしてるんだ……しかし、あれはいったいなんだ? また二階で騒々しい物音がするぜ! ほんとうにまあ、いったいどうしたってんだろう? じっさい、おれはもう辛抱しきれない。プチーツィン君!」と彼は部屋へ入って来るプチーツィンに向かって叫んだ。「いったいあれはどうしたんだ、家の中はしまいにどうなるんだろう? ほんとうに……ほんとうに……」
 しかし(物音は急激に近づいて来た。とつぜん戸がさっと開いて、イヴォルギン将軍が憤怒のあまり顔を紫色にして、からだじゅうわなわなふるわせながら、われを忘れて同じくプチーツィンに飛びかかった。
 そのあとから、ニーナ夫人とコーリャ、いちばん尻のほうにイッポリートがつづいて入って来た。

      2

 イッポリートがプチーツィンの家へ越して来てから、もう五日になる。このことはまったくしぜんに運んだので、彼と公爵とのあいだには、ほとんど格別の言い合いも軋轢もなくですんだ。ふたりは争論しなかったばかりでなく、見受けたところ、仲のいい親友というふうで別れたのであるJあの晩イッポリートに対して、あれほど敵意を示したガーニャが、自分のほうから彼を見舞いに来た。もっとも、あの事件から三日もたったあとではあったけれど、おそらくなにか急に考えついたためらしい。なぜかラゴージンまでが、同様に病人を見舞いに来るようになった。はじめのうちは公爵も、ここを出て行ったほうがこの『哀れな少年』にとって、ためがよかろうと思ったのである。しかし、引っ越しのときすでにイッポリートは、『あのプチーツィンさんがご親切に、宿を貸してやるといわれますから、あの人のところへ越して行きます』といった。そして、ガーニャが主となって、彼を自分の家へ引き取ると主張したにかかわらず、わざと思惑があってのように、ガーニャのところへ越して行くとはいわなかった。ガーニャはそのときすぐこれに気がついてむっとなり、胸の中へ畳みこんだのである。
 彼が妹に向かって、病人がよくなったといったのはほんとうである。じっさい、彼は以前よりだいぶよくなった。それはひと目みたばかりでわかった。彼は人をばかにしたような、たちのわるい微笑を浮かべながら、人々のあとからゆっくりと部屋へ入って来た。ニーナ夫人は、すっかりおびえてしまったふうであった(彼女はこの半年のあいだにだいぶやせて、非常に面変わりがした。娘を嫁にやってそのほうへ引き移ってから、表面的にはほとんど子供たちのことに干渉しなくなった)。コーリャは心配そうな顔をしてとほうにくれ
ていた。新しく家内に起こったこのごたごたの原因を、もちろん知るはずはないので、彼のいわゆる『将軍の狂気』についても、多くのことがわからなかった。しかし、父が絶え間なしにいたるところで、わけのわがらぬことをしでかして、まるで以前の父と思われないほど人が変わってしまったことだけは明瞭だった。また老人がこの三日ばかり、ぴったり酒をのまなくなったのも、心配の種であった。彼は父がレーベジェフや公爵と仲たがいして、喧嘩までしたことも承知していた。コーリャは自分の金でウォートカの小燈を買って、たったいま帰って来たばかりなのである。
「ほんとうですよ、おかあさん」彼はさきほど二階で、ニーナ夫人を説いてこういった。「まったぐ飲ましてあげたほうがいいんですよ。もう三日ばかり、杯に手を出さないじゃありませんか、きっと心配ごとがあるんですよ。ほんとうに飲ましたほうがいいんです。ぼく、債務監獄にいる時分にも、よく持ってってあげましたよ」
 将軍は戸をいっぱいあけ放して、憤怒のあまりに身をふるわしつつ、しきいの上に立ちはだかった。
「ねえ、プチーツイン[#「プチーツイン」はママ]君!」と彼は雷のような声でわめいた。「もしあんたがこの青二才のアテイストのために、皇帝の恩寵をかたじけのうした名誉ある老人を、自分の父親を、いや、なに、すくなくとも自分の妻の父親を、犠牲にしようと決心されたのなら、わしは即刻あんたの家に足踏みせん。さあ、どちらかひとり選びなさい、早く選びなさい、わしを取るかそれともこの……ねじ釘か! そうだ、ねじ釘だ! わしはなんの気もなしにいったのだが、まさにこれはねじ釘だ! なぜというて見なさい、こいつはわしの胸をねじ釘でえぐるのだ、おまけにすこしの遠慮会釈もなく……ねじ釘のように……」
「コルク抜きじゃありませんか?」とイッポリートが口を出した。
「いや、コルク抜きじゃない。なぜといって、わしはきさまに対して将軍でこそあれ、酒場じゃないのだから! わしは勲章を持ってるぞ、勲章を……ところが、きさまの持っているのは、こぶぐらいのものだ。さあ、こいつかわしか! 早く決めなさい、プチーツィン君、すぐ、今すぐ!」と彼はのぼせあがって、プチーツィンに向かって叫んだ。
 そのときコーリャがいすをすすめたので、彼は力抜けしたようにぐたぐたと腰をおろした。 「いや、まったくあなたは……お休みなすったほうがよろしいですよ」とプチーツィンは度胆を抜かれてつぶやいた。
「おやじめ、まだいばりかえってるんだ!」とガーニャは小声で妹にささやいた。
「休めって!」と将軍は叫んだ。「わしは酔うてはおりませんぞ、あんたはわしを侮辱しなさるのかね。ああ、わかった」とふたたび立ちあがりながら、言葉をつづけた。「ああ、わかった、ここではみんながわしに敵対しておるのだ、だれも彼もみんなそうだ。もうたくさんだ! わしは出て行く……しかし、いいかな、プチーツィン君、いいかな……」
 人々は彼にしまいまで口をきかせず、無理やりに腰をかけ
さした。そして、気を落ちつけるようにと頼むのであった。ガーニャはぷりぷりしながら、片隅へ引っこんでしまった。ニーナ夫人はふるえながら泣いていた。
「いったいぼくが何をしたってんだろう? なんだってこの人はぼくにくってかかるんだろう?」とイッポリートは歯をむきだして叫んだ。
「じゃ、なにもなさらなかったんですか?」と不意にニーナ夫人がいいだした。「あんな老人をいじめるなんて……ほんとうに不人情な恥ずかしいことです……」とにあなたのような立場にあったらなおのこと……」
「だいいち、ぼくの立場ってどんな立場ですか、奥さん? ぼくは個人として、非常にあなたを尊敬しています、しかし……」
「こいつはねじ釘だ!」と将軍は叫んだ。「こいつはわしの胸や魂を、ねじ釘のようにえぐるのだ! こいつはわしを無神論の信者にしたくてたまらんのだ! やい、青二才! きさまなんぞまだ生まれてもおらんさきから、わしはもう名誉に包まれていたんだぞ。きさまは二つにぶった切られた羨望やのうじ虫だ……ごほんごほんせきばかりしながら……不信心と毒念に死にかかってるんだ……いったい何のためにガーニャはきさまのようなやつを連れて来たんだ? ほんとうにみんなそろって――他人をはじめ現在のわが子にいたるまで、みんなわしにさからおうとばかりするのだ!」
「もうたくさんですよ、とうとう悲劇をおっぱじめちゃった!」とガーニャが叫んだ。「ただわたしたちの顔をつぶすようなことを、町じゅう触れまわしてさえくださらなけりゃ、よかったんですがね!」
「なんだって、わしがきさまの顔をつぶす! 青二才めが!わしはきさまに名誉をかけこそすれ、顔をつぶすなんてことができるものか」
 彼は叫び出した。人々ももう彼をおさえることができなかった。が、ガーニャも見受けたところ、がまんしきれなくなったらしい。
「こんなになってから、名誉を口にするなんて!」と彼は毒毒しく叫んだ。
「何をいった?」将軍はまっさおになって、一歩ふみ出しながらこうわめいた。
「いえね、ぼくがちょっと口をあけさえすれば……」とつぜんガーニャは甲走った声で叫んだが、さすがしまいまではいいきらなかった。
 ふたりは面《めん》と面と相対して突っ立った。両方とも度はずれに逆上しているが、ガーニャのほうはことにひどかった。
「ガーニャ、まあ、どうしたの!」と、ニーナ夫人は飛びかかって、息子をおさえながら叫んだ。
「どちらを向いても、ばかばかしいことばかりだわ!」とヴァーリャは歯がゆそうに、断ち切るようにいった。「たくさんだわ、おかあさん」ヴァーリャは母をおさえた。
「ただおかあさんに免じて許しておきます」とガーユヤは悲劇的な声でいった。
「いってみろ!」と将軍はすっかりのぼせあがって、ほえ猛った。「いってみろ、父ののろいを覚悟して……いってみろ!」
「へ、ぼくがあなたののろいに驚くと思ってるんですか! あなたがもうこれで八日間というもの、まるできちがい同然になってるからって、だれの知ったことですか? ええ、もう八日になります、ぼくはちゃんと日にちまで知っています。…… 気をつけなさい、ぼくをぎりぎりの線までやらないようにね、そうなったら、すっかりいってしまうから……おとうさんは何のためにきのうエパンチン家へ、のこのこ出かけて行ったんです? いい年をして、髪も白くなり、おまけに一家のあるじといわれる身でありながら! いや、じつに結構なことでさあ!」
「およしよ、ガンガ!」とコーリャがわめいた。「およしよ、ばか!」
「いったいぼくが、ぼくがいったいこの人をどう侮辱したというんです?」とイッポリートはいいつのったが、しかも、相も変わらず、例の人をばかにしたような調子であった。「なんだってこの人はぼくをねじ釘だなんていうんでしょう、ね、みなさんお聞きになったでしょう? 自分からぼくにつきまとって来たくせに。こうなんですよ。いまぼくのところへやって来て、大尉《カピタン》エロベーゴフとかいう人の話を持ち出したんです。ぼくはね、将軍、けっしてあなたのお仲間に入りたくないんですから、以前もなるべく避けるようにしてたのは、あなたも自分でご承知でしょう? だって、大尉《カピタン》エロペーゴフなんか、ぼくに何の用があります、察してもください。ぼくは大尉《カピタン》エロペーゴフのためにここへ来たのじゃありませんからね。ぼくはただこの人に向かって、大尉《カピタン》エロペーゴフなんて人は、てんでいたこともないじゃありませんかって、直截に意見を吐いただけなんですよ。ところが、将軍はいきなり今の大乱痴気をはじめたわけなんです」
「まったくそのとおり、いたこともないです!」とたたき切るようにガーニャがいった。
 しかし、将軍は度胆を抜かれてつっ立ちながら、無意味にあたりを見まわすのみであった。わが子の言葉の思いきって無遠慮な訓子に、すっかり気をのまれてしまったのである。最初の一瞬間、彼はなんというべき言葉も知らなかった。とうとうイッポリートがガーニャの答を聞いて、からからと笑いながら、『そら、ごらんなさい、現在あなたの息子さんまで、やはり大尉《カピタン》エロペーゴフなんて人は、まるでいないというじゃあひませんか』と叫んだとき、老人はすっかりまごついて、こうつぶやいた。
「カピトン・エロペーゴフだ、大尉《カピタン》じゃない……カピトンだ、退役中佐のエロペーゴフだ……カピトンだ」
「カピトンもやはりいないです!」ガーニャはもうすっかりむきになって、いった。
「だが……なぜいないんだ?」と将軍はつぶやくようにいった。と、くれないがさっとその顔に散った。
「もうたくさんですよ!」プチーツィンとヴァーリャがなだめようとした。
「お黙りよ、ガンガ!」とまたコーリャが叫んだ。
 しかし、この同情がさすがの将軍をわれに返らしたらしい。
「どうしていないんだ? なぜいないんだ?」とものすごい形相で、彼はわが子に飛びかかった。
「いないからいないんです。ただそれだけですよ。またそんな者のいるはずはありません! さあ、これでいいでしょう! もういいかげんに切りあげなさいよ」
「ああ、これが息子か……これが親身の息子か、わしがあれほど……ああ、神さま! エロペーゴフが、エロシカ・エロペーゴフがいなかったって!」
「ほら、あのとおりだ、エロシカといってみたり、カピトンといってみたり!」とイッポリートが口を挟んだ。
「カピトンだよ、きみ、カピトンだよ、エロシカじゃないよ! カピトンだ、カピトン・アレクセーエヴィチだ、ええと、そうだ、カピトンだ……退役の……中佐でな……マリヤ……マリヤ………ペトローヴナ・ス……ス……ストゥゴーヴァと結婚した……わしとは士官学校の学生時代からの親友だったのだ! わしはあの男のために血を……わしはあの男を保護してやったんだ……とうとう戦死したがな。そのカピトン・エロペーゴフがいなかったなんて! いなかったなんて!」
 将軍はやっきとなってこう叫んだ。しかし、なんだか事件の本体は別のところにあるのに、この叫び声はそれにはいっこうおかまいなく、とんでもないところを勝手に暴れまわっているような気味あいだった。もしこれがほかのときだったら、彼はもちろんカピトン・エロペーゴフの存在の否定以上に無礼なことすら、虫を殺してがまんしたかもしれない。夢中になってどなり散らして、ひと騒動もちあげるにしても、結局、二階の書斎へひと寝入りと引きあげたかもしれない。しかし、今は不思議な感情の働きのために、エロペーゴフの否定のごときささたる侮辱が、杯の水をあふれさせるような結果を生じたのである。老人は顔を紫色にして、両手を振り上げながら、
「たくさんだ! わしののろいを受けるんだぞ……もうこの家を飛び出してしまう! コーリャ、わしの旅嚢《サック》を持って来い、もうひと思いに……出て行ってしまう!」と叫ぶのであった。
 彼は非常な憤激のていで、せかせかと出て行った。そのあとから、ニーナ夫人、コーリャ、プチーツィンが飛んで行った。
「まあ、にいさん、なんということをしでかしたの?」とヴァーリヤはいった。「おとうさんはまたあすこへのこのこ出かけていらっしゃるわ。なんて面よごしだろう、なんて面よ ごしだろう!」
「じゃ、どろぼうなんかしないがいい!」とガーニャは憤怒のあまり、のどをつまらせんばかりに叫んだが、ふとその目がイッポリートと出あうと、ガーニャはぶるぶると身をふるわした。
「ところで、イッポリート君、きみはなんといったところで、他人の家にいて……厄介になっているということを覚えていて、明らかに気のちがった老人に、さからわないようにするのが当然だったんですよ……」
 イッポリートも同様むっとしたらしかったが、しかし一瞬にしてわれを制した。
「ぼくはあなたにぜんぜん不同意ですな、あなたのおとうさんはけっして気が狂ってはいませんよ」と彼は落ちつきすまして答えた。「ぼくの目には、かえって最近あの人が大いに知恵を増されたように思われます。ええ、まったくです。あなたはほんとうにしませんか? あの人は用心ぶかく疑りぶかくなって、なんでもかでも探り出そうとします。そして、ひと口ものをいうにも、かならず考えこまれますよ……あのエロペーゴフのことだって、あてがあっていったんです。まあ、どうです、あの人はぼくをつり出して……」
「ええ、おやじがきみをつり出そうとしようがしまいが、ぼくの知ったことじゃないです! お願いだから、ぼくを相手に小細工をろうしないでくれたまえ」とガーニャはかん走った声でどなった。「もしおやじがあんな状態におちいった真の原因を承知しているなら(ところで、きみはこの五日間、ぼくをスパイしてるんです、それはきみもたしかにご承知でしょう)、それならあんな……不幸な人間をいらいらさしたり、事件を誇大して母を苦しめたりしてはならなかったはずです、じっさい、これはつまらないことです、ただの酔っぱらい騒ぎです、それだけのこってす、おまけに、なんの証拠もないじゃありませんか。ぼくはあんなことをどれほどにも考えてやしませんよ……ところが、きみは毒舌をふるったり、スパイしたりしないじゃいられないんです、なぜって、きみは……きみは……」
「ねじ釘ですか」とイッポリートは薄笑いした。「なぜって、きみはやくざものだからです。弾丸もこめてないピストルを射って驚かすために、三十分も人を悩ましたあげく、あんな恥ずかしい卑怯な真似をするなんて。死にそこない、まるで二本足で歩くかんしゃく玉だ。ぼくが厄介を見てあげたおかげで、きみはこのごろすこし肥って来て、せきもしなくなった。それだのに、きみは返礼として……」
「たったひと言いわしてください。ぼくはヴァルヴァーラさんの家にいるので、あなたの家じゃありません、あなたはすこしもぼくの厄介を見てくだすったことはありません、かえってご自分が、プチーツィン氏の厄介になっていられるように思いますが。四日まえにぼくは母に頼んで、ぼくのためにパーヴロフスクに家をさがして、自分でもこっちへ越してくるように、書いてやりましたよ。じっさい、ぼくはここへ来て、すこし気分がよくなったようですから。もっとも、けっして肥りもしなければ、せきもやみませんがね。ところで、母はゆうべ家がめっかったといって知らしてよこしましたから、ぼくはあなたのおかあさんと妹さんにお礼を申し上げて、きょうすぐ引き移るつもりです。このことをまず取りあえずお知らせしておきます。このことはもう昨夕から決めてあるのです。いや、お話中に口を入れて、まことにすみません。あなたはまだまだたくさんいいたいことがあったのでしょう」
「おお、もしそうなら……」ガーニャの声はふるえた。
「もしそうなら、ぼくは失礼して腰かけさせていただきます」将軍のすわっていたいすにゆうゆうと座をしめながら、イッポリートはつけくわえた。「なにぶんまだ病人ですからね。さあ、これであなたのおっしゃることを、ゆっくりうかがいましょう。ましてこれがふたりの最後の会話、いや、あるいは最後の会見かもしれないんですからね」
 ガーニャは急にきまりが悪くなった。
「じつのところ、ぼくはきみと利害の決算をするまでに、身を落としたくないんですよ。で、もしきみが……」
「あなたそんなにお高くとまったってだめですよ」とイッポリートがさえぎった。「ぼくのほうだって、ここへ来たはじめの日から、ふたりが別れるときに何もかも、すっかりむき出しにぶちまけてしまおうと、ちゃんと覚悟して楽しんでたんですよ。ぼくは今それを実行しようと思います。しかし、もちろん、あなたのお話がすんだあとでね」
「ぼくはきみにこの部屋を出て行ってもらいたいんですよ」
「だけど、いってしまったらいいでしょう、どうしてあのときいわなかったろうと、あとで悔みますよ」
「およしなさい、イッポリートさん。そんなことほんとうに恥ずかしいじゃありませんか、後生だから、やめてください」とヴァーリャがいった。
「ご婦人に免じて容赦しましょう」とイッポリートは席を立ちながら笑った。「失礼ですが、ヴァルヴァーラさん、あなたのためにすこし切りつめますが、しかしただ切りつめるだけですよ。だって、今となっては、あなたのにいさんとぼくとのあいだの話合いは、どうしても避くべからざるものとなりましたからね。ぼくは誤解を残したままでは、なんとあってもここを去る決心がつきません」
「なんのことはない金棒引きだ」とガーニャが叫んだ。「だから、金棒を引かないで行く気になれないんだ」
「そら、ごらんなさい」とイッポリートが冷やかに笑った。「とうとうがまんができなかったでしょう。まったくいってしまわないと後悔しますよ。さあ、もう一度あなたに発言権を譲りましょう。ぼく、待っていますよ」
 ガーニャは無言のまま、さげすむように相手をながめていた。
「おいやですか? どこまでも初志を貫こうとおっしゃるんですか、――それはあなたのご勝手です。が、ぼくのほうもつとめて手短に申しましょう。ぼくはきょう二度も三度も、厄介者といって責められましたが、しかしそれは不公平です。あなたこそぼくをここへおびき出すについて、ぼくをわなにかけようとされたんです。つまり、ぼくが公爵に復讐したがっているように推量されたんです。そのうえに、あなたは、アグラーヤさんがぼくに同情を表わして、あの告白を閲読したという話を聞きこんだものだから、どういうわけか知らないが、ぼくが渾身の努力を傾倒してあなたの利害に参与し、あなたの片腕になるものと、ご自分で勝手に決めてしまわれたのです。もうこれ以上詳しいことは申しますまい! ぼくはあなたから自白も肯定も要求しません。ただあなたを
良心に対面さしたまま見すてて行くということと、それからいまぼくらふたりおたがいによく理解し合っているということだけで、十分なのです」
「だけど、あなたはなんでもない普通のことから、とんでもないことを捏造なさるのねえ!」とヴァーリャが叫んだ。
「だから、ぼくがそういったじゃないか、『金棒引きの生意気小僧』だって」とガーニャはいった。
「失礼ですが、ヴァルヴァーラさん、ぼくはつづけて申しますよ。もちろん公爵という人は、愛することも尊敬することもできません。しかし、あの人はじつにいい人です。もっとも……ずいぶんこっけいなところもありますがね。だけど、あの人を憎むわけはさらさらありません。ところが、あなたのにいさんがぼくをそそのかして、公爵に謀叛をおこさせようとされたときも、ぼくはそんな様子は鴛にも見せなかった。つまり、ぼくは大団円になってうんと笑ってあげようと、もくろんでたのです。にいさんがきっとぼくに口をすべらして、とんでもないしくじりをなさるってことは、ちゃんと承知してましたよ。ところが、案の定そのとおりです。ぼくはいまこころよく、にいさんを大目に見てあげますが、それはただあなたに対する尊敬のためです。ヴァルヴァーラさん。しかしぼくがそんな生ぬるい手でわなにかかる男でない、ということを明らかにしましたから、なぜぼくがにいさんにまぬけな役目を演じさせたくなったか、そのわけもお話ししましょう。いいですか、ぼくがそんなことをしたのは、じつのところ憎悪のためです、率直にいいますがね。こうして死にかかっていますから(だって、ぼくはなんといっても死ぬんですよ、いくらあなたがたが肥った肥ったとおっしゃってもね)、ぼくはこんなことを感じたのです、あの一生ぼくを迫害した一種族の代表者を、せめてひとりでも槍玉にあげて、まぬけな目に合わしてやったら、ぼくもずっと安心して、天国へ行けるんだがなあ、とね。この種族の人間こそ、ぼくの憎んでやまないものです。が、浮彫りのようにたくみにできたその手合いの肖像が、すなわちあなたのおにいさんなんです。ぼくがあなたを憎むわけはね、ガヴリーラさん、――こういったら、あなたはびっくりされるかもしれませんが、――つまり、あなたが最も傲慢な、最も卑劣な、最も唾棄すべき凡庸の典型であり、権化であり、象徴であるからにすぎません[#「からにすぎません」に傍点]。あなたは高慢な凡庸です。すこしも自己を疑うことのない、泰然自若たる凡庸です! あなたは月なみ中の月なみです。自分自身の思想なんてものはこれっからさきも、あなたの頭脳にも感情にも、けっして宿ることのできない運命を背負ってるのです。けれど、あなたは方図の知れないほどのやっかみ屋です。あなたは自分こそ最も偉大な天才だと信じていながら、やはり心の暗くなったおりには、疑念があなたを訪れて、腹を立てたりうらやんだりするのです。おお、あなたの地平線にはまだ黒い不吉な点があります。もっとも、あなたがすっかりばかになりきったら、その点も消えようし、またそれも遠いさきのことじゃありません。しかし、それでもあなたの行く手には、長い変化の多い道が横たわっています。しかも、たいして愉快なものとはいいかねますね。ぼくはそれが痛快ですよ。まあだいいち、あなたは例のお嬢さんを手に入れることなんかできませんよ、ぼく予言しておきます……」
「ええ、もう聞いていられない!」とヴァーリャが叫んだ。「もうあなたそれでおしまい、意地悪さん?」
 ガーニャは青い顔をして、ふるえながら黙っていた。イッポリートは言葉をとめて、気持ちよさそうにじっと彼を見つめていたが、やがて視線をヴァーリャに転じると、にっと笑って会釈し、そのままひと言もつけ足さないで出て行った。
 もしガーニャが運命を嘆じ、失敗を訴えるとすれば、それは無理のないことである。ヴァーリャはしばらくのあいだ、兄に話しかける勇気がなかった。彼が大股に自分のそばを通り過ぎたときも、そちらを振り返って見ることさえできなかった。ついに彼は窓のほうへ去って、妹に背を向けた。ヴァーリャは『両天秤』というロシヤのことわざを思い出していた。二階ではまたしても騒がしい物音がおこった。
「行くのかい?」妹が席を立つのを聞きつけて、ガーニャはそのほうをふり向いた。「お待ち、これをごらん」
 彼は近寄って、ちょっとした手紙という体裁に畳んである小さな紙きれを、テーブルの上へほうり出した。「あら、まあ!」と叫んで、ヴァーリャは手を打った。
 手紙はちょうど七行あった。『ガヴリーラ・イヴォルギンさま! あなたがわたしに好意を持ってくださることと信じていますから、わたしは自分にとって重大なある件について、あなたの忠言をお願いすることに決心しました。わたしは明朝正七時、緑色のベンチでお目にかかりとうございます。これはわたしどもの別荘から近いところにございます。ヴァルヴァーラさまにもぜひごいっしょにおいでを願わなければなりません。あのかたはよく場所をご承知でいらっしゃいます。A・E』
「いらっしゃい、こうなった以上、あのひととよく話をつけたがいいわ!」とヴァーリャは両手を広げた。
 ガーニャはこのとき大すましにすましていたかったのだが、どうしても得意の色を出さずにいられなかった。おまけに、イッポリートがああいう失敬な予言をしたあとだから、なおさらである。得意の微笑がその顔に無遠慮に輝いた。ヴァーリャまでが、嬉しさに顔の相好を崩した。「おまけに、あの家で婚約の披露をするという当日なんですものね! いらっしゃい、そういうことなら、よくあのひとと話をおつけなさいよ!」
「おまえどう思う、あのひとはあす、なにをいうつもりなんだろう?」とガーニャがきいた。
「そんなことどうだっていいのよ。とにかく、六か月ぶりにはじめて会いたくなったんだわ。よくって、にいさん、あそこの家で何かおこったにしろ、また事情がどう変わってきたにしろ、とにかくこれは重大なことよ! 重大すぎるくらいだわ! また気取ってやりそこねないようにしてちょうだい、それに、気おくれしちゃだめよ、よくって? わたしがあすこへ半年のあいだ通ったのが何のためか、あのひとにのみこめないはずがないわ。それに、ヽどうでしょう、きょうあのひとはわたしにこのことをおくびにも出さないのよ、そぶりにも見せないじゃありませんか。わたしはあの家へ内証でいったから、わたしがいったことをおばあさんは知らなかったの。さもなければ、きっとわたしを追んだしたにきまってるわ。まったくにいさんのために、ぜひ探り出さなくちゃならないと思って、危険を冒して通ったんだわ……」
 ふたたび叫び声と物音が二階で聞こえた。いくたりかの人が階段からおりて来た。
「もうなんといったって、こんなこと許して置かなくって、よ!」とヴァーリャがおびえたように、あわてた調子で叫んだ。「こんな外聞の悪いことは、もう影もないようにしなくちや! さあ、行っておわびをなさいよ」
 しかし、一家のあるじはすでに通りへ出ていた。コーリャがあとから旅嚢《サック》をさげてゆく。ニーナ夫人は正面の階段に立って泣いていた。彼女は夫のあとを追ってかけだそうとしたが、プチトツィンに引きとめられたのである。
「そんなことをなすったら、いっそう将軍に油をかけるようなものです」と彼は夫人にいった。「どこへも行くところなんかないんですから、三十分もたったら、また引っ張って来ます。わたしがコーリャと相談しておいたんですから。しばらく勝手にばかな真似をさしとくんですよ」
「何を力んでるんです、どこへ行くんですよ!」とガーニャが窓から叫んだ。「行くところもないくせに!」
「帰ってらっしゃいよ、おとうさん!」とヴァーリャも叫んだ。「近所へ聞こえるじゃありませんか」
 将軍は立ちどまって振り返り、片手をさし伸べながら叫んだ。「この家はわしののろいを受けるんだぞ!」
「なんでもせりふじみなくちゃ承知しないんだ!」がたんと窓の戸をしめながら、ガーニャはつぶやいた。
 近所の人はほんとうにこの騒ぎを聞きつけた。ヴァーリャは部屋をかけだした。
 妹が出たとき、ガーニャはテーブルから手紙を取り上げて、ちょっと接吻して舌を鳴らし、とんと跳躍《アントラシヤー》をするのであった。

      3

 将軍の乱痴気さわぎも平生ならば、別段なんのこともなしにけりがついたかもしれない。以前とても、この種のばか騒ぎがとつぜんもちあがることもあったが、そんなことはきわめてまれであった。なぜなら、総じて彼はおとなしい、ほとんど善良といっていいくらいの気質だったからである。彼は晩年にいたって、自分を征服しはじめた不規律と、いくど戦ったかしれぬほどである。とつぜん自分が『一家のあるじ』であるということを思い出し、妻と仲直りして心から涙を流すこともあった。彼はニーナがつねに無言で自分を許してくれるのみか、自分が零落して道化者のようになっても、なお変わりなく愛してくれるので、ほとんど崇拝ともいうべき敬意を表していた。しかし、このりっぱな『不規律』との戦
は、あまり長くつづかなかった。将軍も種類こそ違え、やはりあまりにも『間歇的』すぎる人間であった。彼は通常、家庭内の悔いに満ちた無為の生活に堪えきれなくなり、ついには謀叛に走ってしまうのであった。狂憤に襲われると同時に、自分でも悪いこととは知りながら、やはり押しこらえることができなかった。口論をはじめる、大ぎょうな調子でとうとうと弁じ立てる、無理なぐらい無限の尊敬を要求する。そして、とどのつまりは、家からどろんを決めこむのだ。ときによると、長いあいだ帰って来ないこともあった。最近二年間、彼は家庭内のことがらについては、ごく概括的に聞きかじるくらいのもので、けっして詳しく立ち入って聞こうとしなかった。そんなことは自分の任でないのを、よく承知していたので。 しかし、今度ばかりは『将軍の乱痴気騒ぎ』の中に、なにかしらひと通りでないところがあった。みんな何かあるものを承知していながら、それを口にするのを恐れているような具合であった。将軍はつい三日まえ『正式に』自分の家庭へ、つまりニーナ夫人のもとへ出頭したばかりである。しかし、いつもの『出頭』のときのように、あきらめて後悔した色は見えないで、おそろしくいらいらしていた。彼はやたらにそわそわして、口数が多く、行き会う人ごとに、熱した噛みつくような調子で話しかけたが、しかしその話題がまちまちで、しかもとっぴなので、いったいどうしてそんな気になるのか、合点がいかないくらいであった。ときどき急にはしゃぎだすが、どちらかというと、考えこんでいるほうが多かった。そのくせ何を考えてるのか、自分でもよくわからない。とつぜんエパンチン家のことや、公爵のことや、レーベジェフのことなどを口走るが、すぐにぴたりと話をやめて、しまいにはまるで口をつぐんでしまう。はたのものが詳しくつっこんでたずねると、ただにたにたとにぶい微笑を浮かべるばかりであった。もっとも、何をきかれてるか、それさえろくにわからないようなふうであった。
 昨夜はよっぴて溜息をついたりうなったりして、ニーナ夫人を苦しめた。夫人は何にするのか、ひと晩じゅう湿布を温めていた。夜明け近くなって、とつぜんとろとろと寝入ったが、四時間ばかり眠ったのち、はげしい乱脈な気鬱症の発作に目をさました。それが例のイッポリートとの喧嘩と、『この家をのろってやる』のせりふで終わったのである。またこの三日間、彼が極度の自尊におちいって、その結果、なみはずれて怒りっぽくなったのにも、人々は心づいていた。コーリャは母に向かって、こんなことはみんな酒が恋しいためか、さもなくば、このごろばかに仲よくなったレーベジェフに会いたくて、気が鬱してるのだと主張した。しかし、三日前に彼はこのレーベジェフとも急に喧嘩して、恐ろしい剣幕であばれ散らして別れたのみならず、公爵まで相手にひと幕演じたのである。コーリャは公爵に説明を求めたが、とうとう公爵がなにが隠そうとしているのに気づいた。ガーニャがああまで正確な推測をもって結論したごとく、母夫人とイッポリートとのあいだになにか特殊な会話があったとすれば、ガーニャのいわゆる金棒引きが、なぜ同じような方法で、同じことをコーリャにも吹きこむことを遠慮したのだろう?あるいはこの少年は、ガーニャが妹との会話の中に断定したような、そうした意地わるな『生意気小僧』ではなく、それとは別種な趣きの違った意地悪なのではあるまいか? ニーナ夫人に向かって、ただただその『胸をかきむしる』快さを味わうためのみに、自分の観察を伝えたなどと言うのも、きわめて怪しい話である。ついでにいっておくが、人間の行動の原因というものは、普通われわれがのちになって説明するよりもはるかに複雑多様なもので、はっきりとした輪郭を帯びている場合はまれである。で、ときとしては、単なる事件の記述にとどめておくのが、説明者にとっても有利な場合がある。で、われわれは将軍事件に関するこのさきの説明に際しても、こんな態度を取ることにしようと思う。なぜなら、物語の中でようやく第二義的の位置を占めているこの人物に対しても、われわれがこれまで予想していたより以上の注意を、どうしても払わねばならぬはめになったからである。
 これらの事件はあとからあとからと、次のような順序でもちあがったのである。
 レーベジェフはフェルディシチェンコ捜索のため、ペテルブルグへ出かけてから、その日すぐ将軍と同道で帰って来た。しかしそのおり、格別これというほどのことを公爵に伝えなかった。もし公爵が自分自身の重大な印象にまぎれて、あれほど夢中になっていなかったら、次の二日間レーベジェフがすこしもうち明けた話をしないのみか、かえってなぜか公爵と顔を合わすのを避けようとさえするのに、すぐ気がついたはずである。やっとこの事実に気づいた公爵は、レーベジェフがこの二日間、ときたま顔を合わすたびに、いたって上機嫌で、ほとんどいつも将軍といっしょなのを思い出して、一驚を喫した。ふたりの親友は、もはや一刻も離れようとしなかった。どうかすると、早口で声高な談話や、哄笑をまじえた楽しげな論争の声が、二階から公爵の部屋まで聞こえた。一度なぞは、夜おそく軍隊式の酒盛りの歌が、急に思いがけなく響いてきた。彼はすぐ将軍のしわがれたパスに気づいた。しかし、歌はしまいまで行かないうちにやんでしまった。それからおよそ一時間ばかりも、激しい興奮した話し声がつづいたが、それはあらゆる兆候から推して、酔っぱらったあげくと察しられた。やがて、いいかげんはしゃいだ二階の『親友』が抱き合って、ついにどちらかが泣きだしたということは、察するにかたくなかった。それから激しい争論の声が聞こえたが、それもやはりすぐやんでしまった。このあいだじゅう、コーリャはなにかしらとくべつ不安な心持ちに襲われていた。公爵はおおむね留守がちで、どうかすると、よる非常におそく帰って来ることもあった。すると彼はいつも、コーリャがいちんち公爵をさがしまわっていたという知らせを聞くのであった。けれど、会って見ると、コーリャはべつに変わったことをいうわけでない。ただ将軍に対し。て非常に『不満』だ、将軍の今の行状が心外でたまらない、というくらいなものである。『うろうろ歩きまわって、つい近くの酒場で飲んだくれて、往来で抱き合ったり、口論したり、両方からおたがいに油をかけ合ったりして、どうしても
離れることができないってふうなんです』それと同じようなことは以前だって、ほとんど毎日のようにあったじゃないか、と公爵が突っこんだとき、コーリャはそれに対してなんと答えていいか、そして今の自分の不安がどこにあるか、それをどう説明していいかわからなかったのである。
 酒盛の歌と口論の翌朝十一時ごろ、公爵が家を出ようとしていると、とつぜん彼の前に将軍が現われた。なにやらおそろしく興奮している。というよりも、ほとんど動顛しているといったほうがいいくらいだった。
ムイシュキン公爵、わしはずっとずっと前から、あなたにお目にかかる光栄と機会を求めていました」痛いほどかたく公爵の手を握りしめながらこうつぶやいた。「もう、もうずっと以前からです」
 公爵は着席をこうた。
「いや、すわりますまい、それにお出かけのじゃまをしておるようですからな。またこの次に……このさいわしは………心願の成就について、あなたにお祝いをいってよろしいようですな」
「どんな心願です?」
 公爵はどぎまぎしてしまった。彼はこうした立場にある多くの人々と同じく、けっしてだれも見はすまい、察しはすまい、悟りはすまいと信じていたので。
「ご安心なさい、ご安心なさい! あなたの微妙な感情を騒がすようなことはしますまい。自分でも経験して知っておりますよ。他人が……その、なんですな……世俗にもいうとおり、頼みもしないことにくちばしを入れるというのは……いや、わしも毎朝これを経験していますて。わしはほかの用事で来たのです、すこぶる重大な用事でしてな、公爵」
 公爵はもう一度着席をこい、自分でも腰をおろした。
「じゃ、たった一秒間……じつはあなたのご意見を聞きに来たのですよ。わしはもちろん実際的な目的というものなしに暮らしておりますが、しかし、自分自身を尊敬し、かつは……ロシヤ人ぜんたいに欠けている事務的性質を尊敬しておりますので、一般にいえば……自分自身をはじめ、妻や子供らを世間なみの地位に立たしたいと思いましてな……つまり、てっとり早くいえば、助言を求めておるのです」
 公爵は熱心にその心がけを激賞した。
「いや、そんなことはくだらん話です」と将軍は早口にさえぎった。「わしはこんなことのためでなく、もっと重大なお話があって来たんですよ。つまり、態度の真摯と感情の高潔を信じうる人として、あなたにうち明けようと決心するところがあって……あなたわしの言葉にびっくりされましたか、公爵?」
 公爵は特に驚くというほどではないが、異常な注意と好奇心をもって、客の言行を観察していた。老人はいくぶん青い顔をして、くちびるはかすかにふるえ、手は落ちつくところを知らぬようであった。彼は二、三分すわっているうちに、なんのためか、もう二度までもふいにいすから飛びあがり、また急に腰をおろした。しかも、自分の挙動にすこしも注意を払わないようである。テーブルの上に本がいく冊か載って
いたが、彼は話しながらその中の一冊を取って、ぱらりとめくると、出て来たページをちょいとのぞいてすぐまた閉じ、テーブルの上へ置いた。そして別の本を取り上げたが、今度はあけないで、しまいまで右の手に持ったまま、絶えず空中に振りまわしていた。
「たくさんです!」と彼は急に叫んだ。「見うけたところ、わしはだいぶあなたのおじゃまをしたようですな」
「いいえ、どういたしまして、とんでもない、どうぞお話しください。それどころじゃありません、ぼくはいっしんに耳を傾けて、お言葉の意味を取ろうとしてるんです……」
「公爵! わしは自分自身を、尊敬されるような地位に置きたいと思ってるんです……わしは自分自身とそして……自分の権利を尊重したいと思ってるんです」
「そういう希望を持った人は、その希望一つだけに対しても、尊敬を受ける価値があります」
 公爵がこの習字の手本にありそうな一句をいったのは、これがりっぱに相手の心に作用するというかたい信念から出たことである。彼はなにかこんなふうに調子のいい、そのくせ内容の空虚な、気持ちのいい句をしかるべきときにいったら、こうした人間、ことに将軍のような位置にある人間の心を静め、やわらげることができると、本能的に洞察したのである。とにかく、こんな客は心をやわらげて帰してやる必要があった。これが第一である。 はたしてこの句は将軍の心にこびた。彼はすっかりこの句が気に入って、感動してしまった。それから、急に涙っぽくなって、調子を湿らしながら、感激に満ちた長いうち明け話にかかった。しかし、どんなに注意力を緊張させ、耳を澄ましても、公爵は文宇どおりになにひとつのみこむことができなかった。将軍は、ひしひしと押し寄せて来る思想を吐露する暇がないというように、熱した早口な調子で、ものの十分ばかりもしゃべり立てた。しまいには、涙さえ目の中に光りはじめた。が要するに、それは頭もなければ尻もない、ただの空語で、とつぜん妙なところでとぎれたり、互いにひょいひょい飛び移って行くような、突拍子もない言葉と思想にすぎなかった。
「たくさんです! あなたはわしを了解してくださった、それでわしは安心しました」ふいに立ちあがりながら、彼はこう結んだ。「あなたのような心の人が、苦しんでいるものを了解しないというはずはない。公爵、あなたは理想そのもののように高潔でいらっしゃる! あなたにくらべたら、ほかの連中は何するものぞやです! しかし、あなたはお年が若いから、わしが祝福してあげます。で、結局のところ、わしがおじゃまにあがったのは、ひとつ重大なるお話のために、会見の時間を指定していただくためです。これがわしの最も大きな希望なんです。わしはただ友誼と情愛を求めておるのですよ、公爵。わしは今まで一度も、この衷心からの要求を満足さしたことがありませんでな」
「ですが、なぜ今おっしゃらないのです? ぼくはよろこんで承りますが……」
「いかんです、公爵、いかんです!」と将軍は熱してさえぎった。「今はいかんです! 今というのはただの空想です!これはあまり、あまり重大な事件です、あまり重大な事柄です! この面談の時は、最後の運命の決せられる時です。これはわしの[#「わしの」に傍点]時になるのです。だによって、こういう神聖な瞬間にあたって、偶然ここへ来合わしたものが、偶然来合わした無礼者が、ふたりの話を妨げるというようなことは、非常に望ましくないのです。こういう無礼者も少なくないですからな」と彼は出がけに公爵のほうへかがみこんで、さも一大事をもらすような、ほとんどおびえたような奇妙な声でささやいた。「公爵、そりゃまるで、あなたの……靴のかかとほどの価値もないような無礼者がありますよ! いいですか、今わしが自分の足のことを口に出さなかったのを、特にご注意ください! わしはあまりに自分を尊敬しているから、そんなことを臆面なしに口にすることができんですよ。しかし、こういう場合、自分のかかとを不問に付することによって、あるいは非常な人格の誇りを示してるのかもしれませんよ。これを理解できる人は、ただあなたひとりきりです。あなたのほかにだれひとりわかるやつはおりません。ことにあいつ[#「あいつ」に傍点]がその中の親玉です。あいつ[#「あいつ」に傍点]はなんにもわからんのですよ、公爵。まるで、まるで理解の能力がないのですよ。理解するためには心を持たんけりゃならんですからなあ!」
 しまいには公爵はもう面くらってしまって、面談の時を明日の今ごろということに決めた。将軍は慰められて、すっかり安心して、元気よく出て行った。夕方六時すぎ、公爵はちょっとレーベジェフに来てほしいと使いをやった。
 レーベジェフはばかにせかせかしながらやって来た。そして、入って来るやいなや、すぐ『まこどに光栄の儀に存じます』といった。三日のあいだ逃げ隠れて、公爵と顔を合わすのを避けたのは、影もないことのように口をぬぐってすましている。彼はいすの端にちょこんとすわって、顔をしかめたり、にたにた笑ったり、くすぐったいようなうかがうような目つきをしたり、もみ手をしたりして、もうみんながとうから察して期待している大事件の通知といったようなものを、罪のない心持ちで待ちかまえているらしい様子であった。公爵はまたちょっとてれた。だれもがとつぜん自分から何ものかを期待しはじめ、まるでお祝いでもいいたそうに謎をかけたり、笑ったり、目をぱちぱちさせたりしながら、自分をのぞきこむようになったのを、彼は明らかに見て取ったのである。ケルレルはもう三度まで、彼のところへちょっとかけこんで来たが、これも同様お祝いをいいたそうな様子が、ありありと見えていた。しかし、そのたびに、なにやらものものしい調子で、わけのわからぬことをいいだすばかりで、いつもしまいまでいい終わらぬうちに姿をかき消してしまう(彼はこの二、三日、どこかでめちゃめちゃに飲みくらって、さる玉突屋で大声でわめき散らしたという話だ)。コーリヤまでが、心配のある身の上にもかかわらず、二度ばかりなにやらわけのわからぬことを、公爵にいったことがある。
 公爵はいきなり、いらいらした調子でレーベジェフに、将軍の目下の状態についてなんと思うか、なぜ将軍はあんなにそわそわしているのかとたずねた。彼は手短にさきほどのできごとを話した。
「だれでもそれぞれ不安を持っておりますよ、公爵。それに……今のように奇態な、落ちつきのない時代においては、ことにそうです、はい」とレーベジェフはいくぶんそっけない調子で答えて、腹立たしげに口をつぐんだ。その様子は、ひどく期待を裹切られた人のようであった。
「なんという哲学でしょう!」と公爵は苦笑した。
「哲学は必要なものです。ことに今の時世では、その実際的応用が必要なんですが、みんななおざりにしております、まったくです。ところで、ご前さま、わたくしはあなたもご承知のある点について、あなたのご信任をいただいておりますが、それもただ一定の限度までの話ですよ。つまり、この一つの点に関することがら以上にはすこしも出ません……もっとも、わたくしはそのわけを承知していますから、けっして不平なぞ申しません……」
「レーベジェフ君、きみはなにか腹でも立てているようですね?」
「どういたしまして、ご前さま、けっして、これっからさきも!」とレーベジェフは心臓へ乎を当てながら、ぎょうぎょうしく叫んだ。「それどころではございません。わたくしは社会の位置においても、知情の発達においても、富の蓄積においても、以前の行状においても、また知識の点においてさえも、わたくしの希望の前に高く輝いているあなたの、ご前さまの信任を受ける価値はございません。もしなにかお役に立つとしましても、それは奴隷か、雇人としての働きにすぎん、ということを悟りましたので……しかし、わたくしは怒りはしません。ただ悲しいことに思っています」
「レーベジェフ君、まあ、何をいうんです?」
「それに相違ありません! 今もそうでした! あなたと顔を合わしたり、また心と頭とであなたの一挙一動を注意しているうちにも、いつもひとりで考えるのでした。自分は親友として、いろんなことをうち明けていただく値うちはないものの、家主という資格で相当の時期に、予期している時分に、まあ、その……命令といいますか、うち合わせといいますか、そんなことをいろいろ聞かしていただけるものと思っておりました。なにぶんあれやこれやの事情が変わる時が、もうまぢかに迫っていますので……」
 こういってレーベジェフは、驚いて自分のほうをながめている公爵を、小さな鋭い目で食い入るように見つめた。彼はまだやはり好奇心を満足さすことができると、一縷の希望をいだいていたのである。
「何が何やらさっぱりわけがわかりませんね」公爵はあやうく怒り出さんばかりに叫んだ。「ほんとうに……きみはあきれ果てた策士ですね!」と彼はいい、いきなり真心から出たような笑いかたで吹きだした。
 レーベジェフも同時にからからと笑った。そして、その急に輝かしくなった目つきは、自分の希望が明らかにされたのみならず、なお一倍たしかめられたことを語るかのようであった。「お聞きなさい、じつはね、レーベジェフ君、怒っちゃいけませんよ。ぼくはきみの、いや、たんにきみばかりじゃありませんが、無邪気なのに驚いてるんですよ! きみがたは恐ろしい無邪気な心持ちで、なにかしらぼくから期待してるんでしょう。ところが、ぼくにはきみがたの好奇心を満足させるようなものがなにひとつないので、きみがたに対して間の悪い、恥ずかしい気持ちがするくらいですよ。誓っていいますが、ぼくの身の上にはけっして変わったことはありません、ほんとうですよ!」
 公爵はまたもや笑いだした。
 レーベジェフは急に気取ってしまった。彼がときどき無邪気な、というより、むしろうるさいほど好奇癖を出すのは事実であるが、同時に彼はかなり狡猾なひねくれた男で、どうかするとすっかり黙りこんで、底意地わるく思われる場合さえあった。そのために、いつもいつもこの男の好意をはねつけてばかりいた公爵は、ほとんど彼を敞にしてしまったのである。けれども、公爵がはねつけるのは軽蔑のためではなく、彼の好奇心の対象があまりに微妙だからである。公爵はつい三、四日まえまで、自分の空想をほとんど罪悪のように観じていたくらいである。しかし、レーベジェフは、公爵がはねつけたのを自分に対する個人的嫌悪と不信のように解釈して、つねに毒念をもって公爵のもとを去るのであった。そして、公爵との関係から、コーリャやケルレルのみならず、自分の親身の娘ヴェーラにさえ嫉妬を感ずるのであった。このときも彼は公爵にとって、きわめて興味ある報知を伝えることもできたし、またそれを望んでいたのだが、ついに浮かぬ顔をして口をつぐんでしまった。
「ご前さま、いったいなんのご用なのでございましょう?なぜと申して、あなたは今わたくしを……お呼びになったのでございますからね」ややしばらく無言ののち、ついに彼はこういった。
「いや、じつはぼく、将軍のことをきこうと思ったんです」同様にちょっとの間おもいに沈んでいた公爵は、ぴくりと身震いして答えた。「それから……あのいつかきみがぼくに話された窃盗事件もね……」
「というのは、何のことですね?」
「おやおや、きみはぼくのいうことがまるでわからないようなふうだね! きみにいつでも芝居めいたことをしなくちゃ承知しないんですからね。金ですよ、金ですよ。ほら、きみが紙入れのまま落としたっていう四百ルーブリですよ。このあいだペテルブルグへ行く前に、ぼくのところへ寄って話したじゃありませんか、――これでわかったでしょう?」
「な、なるほど、あの四百ルーブリのことですか!」レーベジェフはやっといま判断がついたというふうに、言葉じりを引いた。
「ご親切に心配してくださいまして、ありがとうござります。わたくしにとりまして、身にあまる面目でござります。しかし……あれは見つかりました、それもずっと以前のことです」 「見つかりましたって? ああ、いいあんばいだった!」
「その叫び声はあなたとして、高潔しごくなものです。なぜと申して、四百ルーブリの金は、多くの孤児をかかえながら、苦しい労働で生計を立てている男にとって、なかなかなまやさしいことではありませんからね」
「さよう。だが、ぼくのいうのはそのことじゃありません――しかし、もちろん、ぼくは見つかったのを嬉しく思いますが」公爵はいそいで訂正した。「しかし、……一体どうして見つけたんです?」
「いやはや、造作のないことだったのです。フロックの掛けてあったいすの下にあったのです。ですから、おおかた紙入れがポケットから、床の上へすべり落ちたものと見えます」 「どうしてまたいすの下に? そんなはずはない。きみはあのとき隅々くまなくさがしたって、自分でいってたじゃありませんか。どうしてこのいちばん大切な場所を見落としたのでしょう?」
「ところが、まったくよく調べたのですよ! 調べたってことはようく、ずんとよく覚えております! 四つんばいになって、その場所を手でなでてみました。いすまでどけて見たのですが、わたくしは自分の目が信じられんでしたよ。なんにもなくて、まるでわたくしのこの掌みたいに、すべすべした空の場所でございます。それでもいつまでもなでまわしておりました。こんな子供らしい所作は、人がぜひともさがし出したいと思ったとき、いつもよくすることなのです……大切なものがなくなって、つらくってたまらない場合ですね。なんにもない空な場所だと知っていながら、それでも十ぺんも十五へんものぞいてみるものですよ」
「かりにまあそうだとしても、いったいどうしたというんでしょう?………どうもわかりませんなあ」と公爵はまごまごしながらつぶやいた。「前にはなかったっていいながら、その場所をさがしているうちに、ふいと出て来たなんて!」
「へえ、まったくふいと出て来たんで」
 公爵は不審そうに相手を見つめた。
「で、将軍は?」とつぜん彼はこうきいた。
「といいますと、将軍がどうしましたので?」とレーベジェフはまた、わけがわからないというふうをした。
「ああ、なんというこった! ぼくのきいてるのは、つまり、きみがいすの下に紙入れを見つけたとき、将軍がなんといったかってことなんです。だって、以前いっしょにさがしたんでしょう?」
「以前はいっしょでした。けれど、今度はじつのところを申しますと、わたくしがひとりで紙入れをさがし出したのです。そして、このことはいわないで、黙ってるほうがいいと考えましたので」
「しかし、いったいなぜです……そして、金は手つかずでしたか?」
「紙入れをあけて見ましたところ、すっかりそのままでした。一ルーブリのはしたまで」
「せめて、ぼくにだけでも、知らしてくれるとよかったんですのにね」と公爵はもの思わしげにいった。
「ですけれど、あなたご自身でその……非常ななんですね……その感銘を受けておられるさいに、余計なご心配をかけてはと遠慮しましたので。それにわたくし自身も、なんにも見つけないようなふりをしております。紙入れはあけて、中を調べて、それからまたちゃんとしめて、もとの場所へ置いときましたよ」
「何のために?」
「さ、さよう、これからさきどうなるかという好奇心のためです」もみ手をしながら、レーベジェフはひひひと笑った。
「じゃ、今でも紙入れは、おとといからずっとそこにころがってるんですか?」
「いいえ、そうじゃありません。ただ一日ひと晩ころがってたきりです。ご承知か知りませんが、わたくしは将軍に見つけ出してもらいたい、という気がいくぶんあったのです。なぜと申して、わたくしがとうとう見つけた以上、将軍だっていすの下から突き出して、すぐ目に入るようになってるものに、気がつかんはずはありませんからね。わたくしは何べんもいすをもち上げて置きかえましたので、紙入れはすっかり見えるようになってしまいました。けれど、将軍はどうしても気がつかないのです。それがまる一昼夜つづきました。どうもあの人は、このごろばかにそわそわして、物の見わけもつかんと見えます。笑ったりふざけたりしながら、話しておるかと思うと、急におそろしく腹を立てて、人にくってかかる、しかもどういうわけだか、かいもくわからんのです。おしまいにふたりで部屋を出ましたが、戸はわざとあけ放しにしておきましたので、将軍はちょっと迷ったふうで、なにかいいたそうにしました。たぶんあんな大金の入った紙入れを置いとくのが、心配だったのでしょう。しかし、とつぜんめちゃくちゃに怒りだして、なんにもいいませんでした。そして、往来へ出てふた足と歩かないうちに、わたくしをうっちゃって、反対の側へどんどん行ってしまいました。その晩、ただ酒場で落ち合ったばかりです」
「でも、おしまいには、きみもいすの下から紙入れを取ったでしょう?」
「いや、その晩にいすの下から消えて失くなりましたので」
「じゃ、いまいったいどこにあるんです?」
「ここにあります」レーベジェフはすっくと立ちあがって、気持ちよげに公爵を見ながら、急に笑い出した。「いつの間にかここに、わたくしのフロックの裾に入ってるのです。ね、ごらんください、ちょっとつまんでみてください」
 じっさいフロックの左側の裾、しかも前のほうのよく目立つところに、袋のようなものができて、ちょっとさわったばかりで、ポケットのほころびから落ちこんだ、皮の紙入れのあることが察せられた。
「引き出して調べてみたら、すっかり手つかずでした。で、またもとのところへ入れて置いて、こうしてきのうの朝から、裾の中へ入れたまま持ち歩いております、足へとんとんとぶっつかりますよ」
「それで、きみは気がつきませんか?」
「いや、べつに気がつきません、へへ! ところで、ご前、どうでございましょう、――もっとも、こんなことはかくべつご注意を促す値うちもありませんが、――わたくしの服のポケットは、みんなしっかりしていたものが、ひと晩のうちにとつぜんこんな大穴が明くなんて! なおもの好きによく調べてみると、だれか鉛筆けずりのナイフで切り抜いたような具合です。どうもほんとうにならないくらいでしょう?」
「で……将軍は?」
「きのうもきょうもいちんち怒っておりました。ばかに不平らしいのです。いやみなほど嬉しがって、浮かれているかと思うと、また涙を流すくらい気が弱くなる。それかと思うと、今度は急にぷりぷり怒りだすというふうで、気味が悪くなってしまいます。いや、まったくなんで。わたくしはなんといっても軍人と違いますからね。きのうふたりで酒場に腰を据えていますと、なにかの拍子でこの裾が山のようにふくれて、みんなの目につくところへ出しゃばりました。すると、将軍はぷんとして、わたくしを尻目にかけるじゃありませんか。あの人がわたくしの目を真っすぐに見るということは、このごろもう長いあいだありません。ただうんと酔っぱらったときとか、それとも、感きわまったときかに限りますので。ところが、きのうは二度ばかり、きっとわたくしをにらみました。なんのことはない、まるで背中を氷水が流れたような気持ちでした。もっとも、あすは紙入れを見つけ出すつもりです。けれど、あすまではまだこうして、紙入れといっしょにひと晩散歩しますよ」
「何のためにきみはそうあの人を苦しめるんです?」と公爵は叫んだ。
「苦しめはしません、公爵、苦しめはしません!」とレーベジェフは熱くなっておさえた。「わたくしは衷心からあの人を愛しております。そして……尊敬しております。ところで、今となって見ると、あなたがほんとうにされようと、されまいとご勝手ですが、前よりいっそうわたくしにとって大事な人になりましたんで、わたくしはなおいっそうあの人を尊敬するようになりました!」
 レーベジェフがこういったときの調子は、あくまでまじめで殊勝らしいので、公爵はとうとう憤慨してしまった。
「愛してるくせに苦しめるんですか! まあ、考えてもごらんなさい、あの人がその紛失品をきみのプロッタの中や、いすの下に置いて、きみの目につくようにしたということ一つだけで、きみに対してけっしてずるいことをしない、正直にあやまるという意味を知らせてるんですよ。いいですか、あやまるといってるんですよ! つまり、あの人はきみの優しい感情を当てにしてるんです。つまり、きみのあの人に対する友情を当てにしてるんです。ところが、きみはあんな……潔白このうえない人に、そういう侮辱を与えるなんて!」
「潔白このうえない人ですって、公爵、潔白このうえない人ですって?」とレーベジェフは目を光らせながら叫んだ。「そういう正義の言葉を発しうるのは、とりもなおさず、ご前さま、あなたひとりでございます! そのために、いろんな悪行に心の腐ったわたくしでありますけれど、崇拝といっていいくらい、あなたに信服しておるのでござります! じゃ、もう決りました! 紙入れはあすといわず、今すぐこの場でさがし出すことにしましょう。さあこのとおり、あなたの目の前で取り出しますよ。ほら、これです。金もこれ、そっくりここにあります。どうぞこいつをあすまでお預りください。あすかあさって頂戴します。ところで、公爵、この金が盗まれた最初の晩、うちの庭の石の下かなにかに隠されていたらしいんですが、あなたどうお思いでござります?」
「いいですか、あの人に紙入れが出たなんて、むきつけにいっちゃいけませんよ。ただもうあの人が服の裾に何もないのを見て、ひとりで悟るように仕向けたらいいんですよ」
「そうでしょうかね? いっそ見つけたといって、今まで気がつかなかったようなふりをしたほうがよくないでしょうかねえ?」
「い、いや」と公爵はちょっと考えて、「い、いや、もう遅い、それは危険です、まったくいわないほうがいいんですよ! そして、あの人には優しくしておあげなさい、しかし……あまり目立つようにしちゃだめですよ、それに、それに……わかってるでしょう……」
「わかっております、公爵、わかっております。というのはつまり、実行おぼつかないということがわかっていますので。なぜって、そうするには、あなたのような心を持ってなくちゃだめですものね。それに、当のあの人からして、かんしゃく持ちのむら気ですので、ときどきあまりなと思うほど横柄な仕打ちを見せなさる。あの人は涙っぽいことをいって、抱きついたりなぞするかと思うと、急に私をばかにして、こっぴどくからかいだすのです。ですから、わたくしもそんなとき、なにくそという気になって、わざと服の裾をひけらかしてやりますよ、へへ! では、ごめんください、公爵。だいぶお引き留めして、ご愉快な感情のおじゃまをしておるらしゅうございますから……」
「しかし、お願いですから、前のように内証でね!」
「抜き足でそろりそろり、抜き足でそろりそろり、えへへ!」
 しかし、事件はこれで終わりを告げたとはいうものの、公爵は前よりもっと気がかりになってきた。彼はじりじりしながら将軍とのあすの会見を待ち受けた。

      4

 指定した時間は、十一時と十二時のあいだであったが、公爵はまったく思いがけない事情のために遅刻した。家へ帰って見ると、将軍はもう、部屋にすわりこんで待っていた。ひと目見て、彼は将軍が不満でいるのを知った。つまり、しばらく待たされたからだろう。わびの言葉をのべると、公爵は急いで席についたが、なんだか妙におじけづいていた。ちょうど客が陶器かなにかで作ったもので、どうかした拍子にこわしはしないかと、絶えずびくびくしているようなふうであった。これまで彼は、将軍の前へ出ておじけづいたこともなければ、そんなことはてんで頭にも浮かばなかったくらいである。間もなく公爵は、将軍がきのうとはまるで別人のようになっているのに気がついた。あのうろたえてそわそわした様子に引きかえて、きょうはおそろしくしっかり気を引きしめているふうが、ちらちらと感じられる。で、これはなにか断固たる決心をした人ではないか、と推量してもみたくなるほどであった。とはいえ、その落ちつきも内心のところは、見かけほどではないかもしれぬ。しかし、それはとにかく、客は控え目な品格を見せているが、それにしても、上品なうち解けた様子であった。はじめのうちは公爵との応対にも、いくぶんへりくだったようなところさえ見えた。――それは不当な侮辱を受けた誇りの強い人が、えて見せるような態麌である。声の調子になんとなく悲痛の響きがあったが、それでも、ぜんたいに優しいものの言いぶりであった。 「先日拝借した書物を持って来ました」彼は自分が持って来て、テーブルの上に置いた一冊の本を、あごでさしながらものものしくいった。「ありがとうございました」
「いや、どうも。あなたはこの文章をお読みになりましたか? いかがです、お気に入りましたか? なかなかおもしろいでしょう?」公爵は、すこしでも本筋を離れた世間話をはじめる機会が、こう早くやって来たのを喜んだ。
「おもしろいかもしらんが、蕪雑な書きかたですなあ。そして、もちろん他愛もない話ですよ。ことによったら、一つ一つみんなうそかも知れませんて」
 将軍は泰然自若として、ちょっと言葉じりまで引きながらこういった。
「どういたしまして、これはじつに正直な話なんですよ。フランス軍のモスクワ滞留のことを書いた、一老兵の目撃談なんです。この中には、なんともいえないほどいいところが、ちょいちょいあります。それに実見者の記録というものは、どれでも貴重なものだと思います。その実見者がだれであろうとも。ね、そうじゃありませんか?」
「わたしが編集者だったら、こんなものは掲載しませんな。ところで、一般に実見者の記録ということにいたっては、つまり世間の人たちが、まじめな価値のある人の説よりも、ほら吹きのたいこもちを信用する、ということを証明しておるのです。わたしも十二年の戦争(一八一二年のナポレオン侵入)に関する記録をいくつか知っとりますが、そりゃ……じつは、公爵、わたしは今度この家を、レーベジェフの家を出ようと決心したですよ」
 将軍は意味ありげに公爵をながめた。
「あなたは、パーヴロフスクにご自身の家があるじゃありませんか……お嬢さんのとこに……」なんと挨拶していいかわからないので、公爵はこんなことをいった。
 彼は、将軍が一|期《ご》の浮沈に関するような大事件について、助言を求めに来たのだということを思い出した。
「わたしの妻《さい》のところです。つまり、いいかえれば、自分のところでもあれば娘のところでもあるんですよ」
「ごめんください、ぼくは……」
「わしがこの家を出て行くわけはね、公爵、レーベジェフのやつと絶交したからです。ゆうべ絶交したんですが、なぜもっと早くしなかったかと後悔しましたよ。わしは元来尊敬を要求するのです。そして、なんですな、わしが自分の心を贈り物にするような人たちからさえも、この尊敬を受けるのを希望しているわけです。まったくわしはしばしば自分の心を贈り物にします。そして、ほとんで[#「ほとんで」はママ]つねにあざむかれてばかりいますよ。あの男もわしの贈り物を受ける価値のないやつでした」
「あの人にはずいぶんだらしのないところが多いです」と公爵は控え目な調子で口をいれた。「そして、一、二の性質は……しかし、その間にあって、なお誠意が認められます。狡猾ではありますが、なかなか興味のある人間です」
 公爵の巧緻ないいまわしと、うやうやしい語調とは将軍の心に媚びたらしい。もっとも、彼はいぜんとしてときどきふいに、信じかねるらしい目つきをすることもあるけれど、公爵の語調があまり自然で誠実なので、疑いをいれる余地がなかったのである。
「あの男にもいい資質があるということは」と将軍が引き取った。「あの人間に、ほとんど友誼ともいうべきものを与えたこのわしが、第一番に意見を発表したのです。わしは自分 でも家族を持っておるから、あの男の家やもてなしには何の要もありません。もっとも、わしは自分の乱行を弁護しようとするのじゃない。わしは不謹慎な男だから、あの男といっ しょに酒を飲みました。そして今そのことを思って泣いとるかもしれんです。しかし、たびたび飲酒のためのみに(どうか公爵、このいらいらした男の粗暴ないいまわしをお許しく ださい)、しかしただただ飲酒のためのみに、わしはあの男と交わりを結んだのじゃないです。わしはつまり、今あなたのいわれた性質に惚れこんだのです。が、なにもかもすべて
ある程度までで、人の性質もその例をまぬかれませんよ。もしあの男がふいにわしに面と向かって、十二年の戦争のとき、まだほんの赤ん坊のころ、子供のころに右足を失って、それをモスクワのヴァガンコフスキイ墓地に葬った、などというような失敬なことをいったとすれば、それはつまりはめをはずしたのであって、不敵と高慢を示すことになるのです……」
「それはたぶんただちょっとにぎやかに、人を笑わすための冗談なのでしょう」
「承知しています。にぎやかに人を笑わすための無邪気なほらは、たとえぶしつけなものであっても、人を侮辱しないです。中には、ただ相手に満足を与えんがため、単なる友誼の念からしてうそをつくものもあります。ところが、もしその中から不敬の色が透いて見える場合には、――もし『おまえと交際するのはいやになった』という意味を、その不敬の色によって示そうとする場合には、高潔なる人はただその男からおもてをそむけて、そんな無礼者に相当な仲間を教えてやるよりほか、仕方がないじゃありませんか」
 将軍はこういいながらまっかになった。
「だって、レーベジェフが十二年にモスクワへ行くはずがありませんよ、それにしては、あまり年が若すぎますものね。まったくおかしな話です」
「第一が、これです。しかし、かりにあの当時生まれてたとしても、フランスの猟兵があいつに大砲の口を向けて、ただ慰みのために片足うち落としただの、その足をまたあいつが拾いあげて、家へ持って帰り、あとでヴァガンコフスキイ驀地に埋葬しただのと、そんなことを面と向かっていい張るにいたっては、言語道断です。おまけにその墓の上に石碑を立てて、表のほうには『十等官レーベジェフの足ここに葬らる』裏のほうには『わが愛《いと》しき舎利よ、喜びの朝まで静かに眠れ』という銘が彫ってあるだの、毎年この足のために法要を営むだの(これなぞにいたっては、もう贖神罪に相当します)、このために先生自身、毎年モスクワへ出向くだの、勝手なことを吹き散らすのです。この話の証拠としてその墓を見せるから、モスクワへ出かけようというのです。そればかりじゃない、クレムリンに置いてある、フランスから分捕った例の大砲まで見せる、とこういうじゃありませんか。なんでも、門から十一番目の旧式なフランス小砲だと、いい張るんですよ」
「それにあの人の足は、両方ともりっぱにそろってるじゃありませんか、しかもみんなの目にさらされてますよ!」と公爵は笑いだした。「まったくのところ、それは無邪気な冗談ですよ、腹を立てるのはおよしなさい」
「しかし、わしのいいぶんも聞いてください。足がみんなの目にさらされているということもですな、あの男にいわせると、チェルノスヴィートフ式の義足だと主張するんですが、一概に荒唐無稽ともいわれんですからね……」
「ああ、なるほど、チェルノスヴィートフ式の義足なら、ダンスさえできるって話ですね」
「まったくそのとおりです。チェルノスヴィートフが義足を発明したとき、まず第一番にわしのところへ見せに来たもんですがね。しかし、その発明が完成されたのは、ずっとあとでしたよ……ところがあの男は、なくなった細君さえ長い結婚生活のあいだ、自分の亭主の足が木だということを知らなかったというのです。わしがいろいろあの男の不合理を指摘してやったら、こういうじゃありませんか。『もしおまえさんが十二年の戦争にナポレオンの小姓をしてたのなら、わしにだって自分の足をヴァガンコフスキイに葬るくらいのことは許してもよかろう』だって」
「あなたはほんとうに……」といいさして、公爵はまごついた。
 将軍も同様に、ほんの心持ちてれたようなふうであったが、その一刹那おもいきって横柄な、ほとんど冷笑さえまじえた目つきで、きっと公爵を見つめた。
「しまいまでおっしゃい」と彼は特になめらかな調子で、言葉じりを引き伸ばすようにいった。「しまいまでおっしゃい。わしはおとなしい人間だから、しまいまで聞きますよ。自分の目の前に落ちぶれはてた……役立たずの人間を見ながら、同時にその人問が……偉大なるできごとの実見者であったという話を聞くのが、あなたにとってこっけいに思われるなら、包まずまっすぐに白状なさい。あいつ[#「あいつ」に傍点]はまだなんにもあなたに……讒訴しませんかね?」
「いいえ、ぼくはレーベジェフから、なんにも聞きません。もしあの人のことをおっしゃるのなら……」
「ふむ! わしはその反対かと思ってた。じつはゆうべわれわれふたりのあいだの話題が例の……本の中の奇怪な文章のことに移ったのです。わしはあの文章の不合理なことを指摘してやりました。なぜといって、わしはあの戦争の実見者だったので……あなたはにやにや笑っておられますな、公爵、あなたはじろじろわしの顔を見ておられますな?」
「い、いいえ、ぼくは……」
「わしは見かけこそ若く見えるけれど」と将軍は言葉じりを引いた。「しかし、ほんとうは、見かけより年を取っておるのです。十二年の戦争のときにわしは十か十一ぐらいでした。わしの年は自分でもよくわからんです。履歴書ではすこし減らされてるんです。またわし自身も年を隠したがる弱点がありましてな、ずっと一生のあいだ……」
「いや、まったくのところ、ぼくはあなたが十二年の戦争のとき、モスクワヘいらしったということを、ちっとも妙だとは思いません、ですから……あなたは多くの実見者と同じように……いろんなことをお話しになってよろしいのです。あるひとりの自叙伝の作者は、自分の著書の冒頭に、十二年の戦争のときモスクワでフランスの兵士が、まだほんの赤ん坊であった著者を、パンで養ったと書いています」
「それ、ごらんなさい」と将軍はつつましげに同意を表した。「わしの事件はもちろん日常茶飯事の域を脱していますが、しかしまるで荒唐無稽な話でもないのです。真実がありうべからざることのように見えるのは、ままある例です。皇帝つきの小姓! というと、もちろん妙に聞こえるかもしれません。けれども、十歳になる子供の冒険は、つまりその年齢でもって説明できるかもしれません。十五の子供だったら、そんなことはたぶんなかったでしょう、いや、きっとそうに違いないです。なぜといって、もしわしが十五にもなっておったら、ナポレオン入京の日にモスクワを逃げ遅れて恐ろしさにぶるぶるふるえている母のそばを離れ、スターラヤ・バスマンナヤ街にある木造の家をぬけ出すようなことはしなかったでしょうからなあ。十五にもなっておったら、おじけがついたに相違ありません。ところが、わずか十にしかならないわしは、何ものにも驚かなかったです。そして、ナポレオンが馬をおりようとしているとき、群集を分けて、宮殿の玄関さして進みました」
「年が十だから恐れなかった、ということにお気がついたのは、疑いもなく卓見でしたね……」と公爵はばつを合わせたが、今にもあかい顔をしはせぬかと、びくびくしながら気をもむのであった。
「まったく疑う余地もありません。この事件はすべて実際においてのみおこりうるように、自然にかつ単純に運んだのですよ。もしこの事件に小説家が筆を染めたら、きっとありうべからざる空想を織りまぜるに相違ありません」
「おお、それはじっさいそのとおりですよ!」と公爵は叫んだ。「それはぼくも大いに痛感した思想なんです、おまけについ近ごろ、ぼくはたった一つの時計のために、人を殺したほんとうの話を知っていますが、――これはもう新聞にも載っています。もしこんなことを小説家が作り出そうものなら、民衆生活研究の大家や批評家連はかならず、そんなことがあるものかと怒号するに相違ありません。しかし、これを新聞紙上で事実として読んでいるうちに、こういう事実からしてほんとうにロシヤの現実を学ぶことができるものだと。しみじみ感心してしまいます。まったく、あなたはいいところにお気がつきました」まざまざと顔をあかくする機会を免れおおせたのを喜びながら、公爵は熱くなってこう結んだ。
「そうでしょう? そうでしょう?」と将軍は満足のあまり、目さえ輝かせながら叫んだ。「で、危険ということを知らない子供は、光りかがやく軍服や、供奉の大や、前からうんと話に聞いていた偉人を見ようと思って、群集を押し分けて進みました。なぜというに、二、三年まえからみんな口を揃えて、この人のことばかり話しておりましたからな。世界じゅうがこの人の名で満たされていたのです。わしはまあ、いわばこの名を乳といっしょに飲んでおったようなものです。ナポレオンは二、三歩へだたったところを通りすがりながら、ふとわしの視線を見わけました。わしはそのとき貴族の子供らしい服を着ていたのです。平生から身なりはぜいたくにしておったのでな。つまり、そうした群集の中でわしがひとり……な、お察しがつくでしょう……」
「それはおっしゃるとおり、ナポレオンの目にとまるはずです。なぜって、その事実から推して、だれも彼も町を棄てて走ったわけじゃない、貴族の大たちも子供を連れて居残っている、ということが証明されますからね」
「そこです、そこです! 彼は貴族を引き寄せたかったのですな! ナポレオンがその鷲のような視線を投げたとき、わしの目はそれに答えて、一時に輝き出したに違いないです。Voila un garcon bien eveille! Qui est ton pere?(おお、なんて元気な子供だ! おまえのおとうさんは、いったいだれだね?)わしは興奮のために、はあはあ息を切らしながら、さっそくこう答えたです。『祖国の戦場で討ち死にをした将軍です』Le fils d’un boyard et d’un brave par-dessus le marche! J’aime les boyards. M’aimes-tu petit?(この子は貴族で、おまけに英雄の息子だ。わしは貴族が好きだ、おまえはわしが好きかね?)この早口な問いに対して、わしも同じく早口に答えました。『ロシヤ人は祖国の敵の中にさえ、偉人を見わけることができます!』いや、なに、このとおりな言いまわしをしたかどうかは、覚えておらんが……なにぶん子供のことだからな……しかし、意味はたしかにこうでしたよ! ナポレオンは、びっくりしてじっと考えておったが、やがて供奉の人たちに向かって、『わしはこの子供のプライドが気に入った!しかし、すべてのロシヤ人がこの子供のように考えてるとすれば……』こういいさして、宮殿の中へ入ってしまいました。わしはすぐに供奉の人たちにまじって、彼のあとを追ったです。供奉の人たちのだれ彼は、わしのために道を開いて、寵児かなにかのようにわしを見まわしておる。しかし、そんなことは、ちらとわしの目をかすめたきりです……今でも覚えているのは、最初の広間へ入ったとき、皇帝がふいにエカチェリーナ女帝の肖像の前に立ちどまって、長いあいだもの思わしげに見つめていたが、やがて、『このひとはえらい女たった!』といって、そばを通り過ぎました。二日後、わしは宮殿でもクレムリンでもみんなに知られて le petit boyard(小さい貴族)と呼ばれるようになりました。そして、夜寝るときだけ家へ帰ったものです。家ではみんなが気も狂わんばかりの騒ぎです。それから、また二日ののち、ナポレオンの小姓のド・パザンクール男爵が遠征の苦に堪えないで死にました。そのときナポレオンは、わしのことを思い出したわけです。人々はわしをつかまえて、何ごとやらわけも話さずに、引っ張って行きました。そして、故人の、――バザンクールは十二ばかりの子供でした、――制服を、わしのからだに合わして見るのです。やっと制服を着て、わしはご萠へ引き出されました。皇帝がわしにちょっと首を振ってみせたとき、わしは自分が恩寵にあずかって、小姓の役を仰せつけられたことを聞いたのです。じつに嬉しかったですなあ。じっさい、もうずっと前から、皇帝に対して熱い同情を感じとったのでね……それに、みごとな軍服というやつが、子供にとっては、重大な意義を持っておりますからなあ……わしは裾の細くて長い、渋い緑色の燕尾服を着て歩きました。金のボタン、金のぬいがしてある赤い袖口、ぴんと立って前の開いた高い襟、金のぬいをした裾、きっちりと足にくっつく大鹿皮の白ズボン、白い絹のチョッキ、絹の靴下、留金付きの靴……そして、皇帝が馬上で散歩をなさるとき、もしわしがお供の人数に加わっていたら、深い大長靴をはくのです。軍の状況はあんまりかんばしくなく、しかもおそろしい災難は予感されておったけれど、格式はできるだけ守られていた。いや、むしろそうした災難が予感されればされるほど、
ますます厳格になったくらいです」「そう、もちろん……」と公爵はとほうにくれたようなふうでつぶやいた。「あなたがその時のことをお書きになったら……さぞおもしろいでしょうにね」
 もちろん将軍は、きのう一度レーベジェフに話したことをくりかえすのだから、その語調はしたがってなめらかなものであったが、またしても疑わしそうなまなざしで、公爵を尻目にかけた。
「書いたらって」と彼はなお一倍、得々たる様子でいった。「わしの話を書いたらって? どうもそんな気にはならなかったですよ、公爵! しかしお望みなら、わしの回想録はもうできとるんですよ、しかし……それは書見台の中に潜んどるのです。わしのからだを土でおおうときに、はじめて、世に出るものなら出してもいいです。そしたら、きっと外国の言葉にも翻訳されるに違いありません。もっとも、文学的価値のためではありません。わしが自分で目撃した偉大な事実が重要なものであるからです。当時わしはほんの子供だったけれど、そのためにいっそう価値が生じるのです。つまり、子供だというので、わしはあの『偉人』のごく身近かまで、寝所にまで入りこみましたからね! わしは『不幸におちいった巨人』の呻吟の声を、毎晩聞きましたよ。まったくそんな子供の前でうめいたり泣いたりするのに、遠慮なぞするはずがないですからね。もっとも、わしは彼の苦悶の原因がアレクサンドル帝の沈黙にある、ということをよく承知しておりましたがね」
「そうでしょう、そしてナポレオンは手紙を書いたでしょう……講和を申し込むために……」と公爵は臆病らしく相づちを打った。
「はたしてどんな申込みか、われわれにはわからんですが、しかし毎日、毎時、あとからあとがら手紙を書いていましたよ! おそろしく興奮してね。ある晩わしは目に涙を浮かべて、彼に飛びかかりました(ああ、じっさい、わしは彼を愛しておったのです!)そして、『アレクサンドル陛下におわびをなさい、ねえ、おわびを!』と叫びました。つまり、『アレクサンドル陛下と和睦なさい!』というべきところだったのですが、子供のことだから、無邪気に自分の考えをいったわけです。すると、彼は部屋の中をあちこち歩きまわっていましたが、『おお、わが子供よ!』と叫びました。『おお、わが子供よ!』彼は、その当時わしが十やそこいらの子供だということに、気がつかないようなふうで、むしろわしと話をするのを好んでおりましたっけ。『おお、わが子供よ!わしはアレクサンドル陛下なら、足に接吻することさえあえて辞せないが、そのかわりプロシヤの王や、オーストリヤの皇帝や、あんなやつらは、永久に憎まずにはいられない! そして……しかし、そちは外交のことなぞ、なにもわからないのだ!』彼はこのとき急に、相手がだれであるかを思い出したように、ぴたりと口をつぐんでしまったが、その目は長いあいだ火花を散らしておりました。まあ、こんなふうの事実をすっかり書いてごらんなさい、――まったくわしはこの偉大なる事実の実見者だったのですからな、――そして、今にもそれを出版してごらんなさい、あんな批評家だとか、文学上の虚栄心だとか、羨望だとか、または党派だとか、そんなものはすっかり消し飛んでしまうんだが……しかし、わしはまっぴらごめんですよ!」
「党派のことについてあなたのおっしゃったことは、もちろん公明な説です。ぼくはあなたに同意ですよ」と公爵はつかの間の沈黙ののち、小さな声でこういった。「ぼくもついこのあいだシャルラスの『ワーテルロー会戦』を読んでみました。これは明らかにまじめな著書で、この本がなみなみならぬ知識をもって書かれたことは、専門家さえも保証しています。しかし、てページごとにナポレオンの没落を喜ぶ心持ちがうかがわれます。もし他の戦役においても、ナポレオンの才能のあらゆるしるしを否定することができたら、シャルラスは非常に嬉しくてたまらなかったでしょう。これはどうもこんなまじめな本として、よろしくないと思いますよ。なぜって、これも一種の党派根性ですものね。ところで、あなた、お勤めのほうは非常に忙しかったですか……皇帝のおそばで?」
 将軍は有頂天であった。公爵の言葉は、まじめで虚心坦懐な点において、彼の疑惑の最後の残滓を吹き散らしてしまった。
「シャルラスですか! おお、わし自身も大いに不満だったので、当時あの人に手紙をやったことがあります。しかし……わしも確かなことはいま覚えておらんが……で、わしの勤務が忙しかったかときかれたんですな? いやいや、どうして! わしは皇帝つきの小姓と呼ばれてはおったが、そのときもうそれをまじめな話だと考えていなかったのです。それに、ナポレオンはまもなく、ロシヤ人を近づけようというすべての望みを失ったので、もし……もし個人としてわしを愛しておらんかったら(と、こうわしはいま大胆にいうことができますよ)、単に政略のために近づけたわしのことも、むろんとうに忘れたはずです。ところで、わしはまた心から彼に引きつけられたのです。勤務なんてそんなものは要求されなかった。ただときどき宮殿へ伺候して……白エ帝の散歩に騎馬でおともをすればよかった、ただそれっきりです。わしはかなり馬に乗れましたのでな。彼は昼餐まえに出かけましたが、供奉の中にはたいてい、タブーと、わしと、騎兵扈従のルスタン……」
「コンスタンじゃありませんか」とつぜんどうしたわけか公爵は口をすべらした。
「い、いいや、コンスタンは当時もういなかったです。あの人は手紙を持って…ジョゼフィーヌ皇后のところへ行っていました。あの人のかわりにふたりの伝令と、ポーランドの槍騎兵が四、五人いましたよ。まあ、それが供奉の全体です、が、むろんほかに将軍や元帥たちが大勢いるんですよ。これはナポレオンがいっしょに地形や軍の配置を覬察したり、いろんな相談をしたりするために選び出したのです……いちばんよくおそばにいるのはダヴーで、いま覚えているところでは、大きな肥った冷淡な男で、眼鏡をかけた奇妙な目つきをしていたっけ。この人を皇帝はいちばんよく相談相手にしとりました。皇帝はこの人の考えを尊重しておりましたよ。今でも覚えておるが、ふたりでいく日もいく日も相談しておることがありましたよ。ダヴーが朝に晩にやって来て、争論することさえあった。しまいにはナポレオンも同意しそうなふうに見えました。ふたりがさし向かいで書斎にすわっておると、わしはほとんどふたりの目にも入らないようなふうで控えておる。するといきなり、ふいとナポレオンの目がわしのほうへ向く。なんだか不思議な想いがその目を、ちらとかすめたようでした。『子供よ!』と出しぬけに、彼はわしに向かって、『そちは何と思う、もしわしが正教を採用して、この国の奴隷を自由にしてやったら、ロシヤ大はわしに従うかどうだろう?』『けっしてそんなことはありません!』とわしは憤慨して叫んだ。ナポレオンは、はっとして、『愛国心に輝くこの子供の目色の中に、わしはロシヤ全国民の意見を読むことができた。たくさんだ、タヴー! そんなことはみんな妄想だ! ほかの方策を申して見い』」
「そうですか、しかし、その方策は力強い思想でしたね!」公爵は見うけたところ、興味を感じたらしくこういった。「で、あなたはその方策を、タブーのものとなさるのですね!」
「すくなくとも、ふたりがいっしょに相談したんですな。むろん、ナポレオン式の鷲のような思想です。しかし、今一つの方策も、やはりりっぱな思想でしたよ……それは例の有名なconseil du lion(獅子の献策)です。これはナポレオン自身がダヴーにいった言葉です。それはつまり、全軍を率いてクレムリンにたてこもり、バラックを建て、壕をつくり、砲を配置して、できるだけ馬を貎って、肉を塩漬にしておく。そしてまたできるだけ穀類を買いこんだり、略奪したりして、春が来るまで冬ごもりをする。そして春が来たら、ロシヤ軍を突破しようというにあるんです。この方策は強くナポレオンの心を引きました。われわれは毎日クレムリンの城壁をぐるぐるまわりました。彼はどこをこわすとか、どこに眼鏡堡を建てるとか、どこに半月堡を築くとか、どこに防塞を建てるとか、そういう指図をしたが、――いや、その着眼といい、機敏といい、正確といい、驚くべきものです! とうとうなにもかも決まったので、タブーはいよいよの決定を迫りました。ふたたびふたりはさし向かいになりました。そして、わしは第三者です。ふたたびナポレオンは腕組みしながら、部屋の中を歩きだしました。わしはその顔から目を放すことができなかった。わしの心臓は早鐘のように動悸を打っておりました。『わたくしは参ります』とダヴーがいうと、『どこへ?』とナポレオンがききました。『馬を塩漬けに』というダヴーの返事です。ナポレオンは溜息をつきました。運命はまさに決せられんとしてるのです。『子供よ』と、彼は出しぬけに、わしに問いかけました。『そちはわれわれの計画を、なんと思うか?』もちろん彼がこうきいたのは、偉大な知恵をもった人が時としてせっぱつまったとき、鷺と格子(貨幣の裏表)で占うのと同じ理窟ですな。わしはナポレオンのかわりにタブーに向かって、霊感でも受けたように、傲然とこういったです。『将軍、もうお国へ逃げてお帰んなさい!』これでこの方策もおじゃんになりました。ダヴーは肩をすくめながら、出がけに小さな声でBah! Il deviant superstiticux !(おやおやこの人はすっかりご幣担ぎになった)といった。その翌日、進出の命令がくだったのです」
「それはじつにおもしろい話ですね」と公爵はおそろしく小さな声でいった。「もしそれがほんとうにあったことなら……いや、ぼくがいおうと思ったのは……」彼はあわてていいなおそうとした。
「おお、公爵!」と将軍は叫んだ。彼は自分の物語ですっかりいい気持ちになって、極端に不注意な失言にさえ、かくべつ気をとめそうな様子はなかった。「あなたは『そんなことがあったら』とおっしゃるが、しかしそれより以上のことがあったのです、まったくずっと以上のことがあったのです! そんなことはつまらん政治上の事実ですが、くりかえして申します、わしはこの偉人の夜の臥床の涙や、うめきの目撃者なんですよ。このことにいたっては、わしよりほかに、だれも見たものはありません! しまいには、もう涙を流して泣くようなことはなくなって、ただときどきうめいておるばかりでした。しかし、その顔はだんだん暗い影でおおわれて行きました。それはちょうど永遠が自分の暗澹たる翼で包んでいるような具合でした。どうかすると、われわれふたりはいく晩もいく晩も長いことさし向かいで、時を過ごすことがあった、――騎兵扈従のルスタンはよくお次の間でいびきをかいていたっけ。じつにぐっすり寝る男でしたからね。『そのかわり、あれはわしに対しても、わしの王朝に対しても忠実なやつじゃ』とナポレオンは、この男のことをいっておりましたよ。あるとき、わしは妙につらくってたまらないことがありました。ふと彼は、わしの目に涙が浮かんでるのに気がついて、さも感激したようなふうでわしを見つめていたが、『そちはわしをあわれんでくれるのか?』と彼は叫んだ。『おお、子供よ、そちのほかに、まだひとり別な子供が、わしをあわれんでくれるかもしれない。それはわしの息子のle roi de Rome(ローマ王)だ。ほかのものは、みんなわしを憎んでおる。兄弟らは第一番に、不幸につけこんで、わしを売るやつなのだ!』わしはしゃくりあげながら、彼に飛びかかった。すると彼もたまらなくなって、ついにふたりは抱き合いました。ふたりの涙が一つに流れ合うばかりでした。『手紙を、手紙をジョゼフィーヌ皇后にお書きなされませ!』とわしは泣きながらこういった。ナポレオンはぴくっと体をふるわせて、ちょっと考えたすえ、『そちはわしを愛してくれる第三の心を、思い出させてくれた、じつにありがたく思うぞよ!』といいました。さっそく彼はテーブルに向かって、手紙を書きましたが、翌日それをコンスタンに持たせて、出発させたわけです」
「あなたはりっぱなことをなさいましたね」と公爵はいった。「悪い考えに浸っている人間に、美しい感情を呼びさましておやりになったんですもの」
「そこですよ、公爵、あなたはじつに美しい解釈をしてくれましたね、あなたご自身の心に似つかわしい解釈を!」と将軍は歓喜の声を上げた。すると不思議にも、真の涙がその目

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP433-483

戸をたたく音がするので目をさました。もし九時すぎまでぼくが自分で戸をあけず、また茶をよこすように声をかけなかったら、マトリョーナが自分で戸をたたくことに規定してあるのだ。で、ぼくは彼女のために戸をあけてやったが、そのときすぐに、戸はこうしてちゃんと鍵をかけてあるのに、どうしてあの男が入って来たんだろう、という想念が浮かんできた。そこでぼくは家人に聞きただして、本物のラゴージンの入って来られるはずがない、ということを確信した。なぜなら、うちの戸は夜になると、すっかり錠をおろしてしまうからである。
『いま詳しく描写した奇怪なできごとこそ、ぼくが断固「決心した」原因である。したがって、この最後の決心を急がしたものは、論理でも演繹でもなく、ただ嫌悪の念のみである。かように奇怪な形式を採ってぼくを侮辱する人生に、このうえ踏みとどまってはいられない。あの幻覚がぼくを卑小なものにしてしまった。ぼくはふくろぐもの姿を借りている暗愚な力に、降伏することはとうていできなくなったのである。日暮れがたになって、十分断固たる決心を感得した刹那、はじめてぼくは軽々とした気持ちになった。これはほんの最初の一瞬間で、次の瞬間以後は、すでにパーヴロフスク行きの汽車中にあった。しかし、このことはもう十分説明しておいた。

      7

『ぼくは小さな懐中用のピストルを持っていた。それを買い
こんだのは、子供の時分で、決闘だとか強盗の襲撃だとか、もしくは決闘の申し込みを受けていさぎよくピストルで立つとか、そんな空想が急におもしろくなる、ばかげた年ごろのことだった。ひと月ぽかりまえ、ぼくはこのピストルを取り出して見て、ちゃんと用意をしておいた。これを入れてあった箱の中には、二発の弾丸があったし、薬筒には三発分の火薬もあった。このピストルは、やくざなしろもので、ひどく横のほうへそれるから、十五歩以上離れたら到底うてっこない。しかし、もちろんぴったりこめかみへ当てれば、頭蓋骨をひん曲げることができるのは、いうまでもない。
『ぼくは日の出と同時に、パーヴロフスクで死ぬことにきめた。それも別荘の人を驚かさないために、公園へおりて死ぬのだ。ぼくの「告白」は警察に対して、十分事件の真相を説明するだろう。心理学に興味を有する人や、その他必要を感ずる人たちは、この「告白」からなんとでも勝手に結論をくだされるがよい。とはいえ、ぼくはこの原稿が公けにされることを望まない。ねがわくは、公爵が一部の写しを手もとに蓄えておき、いま一部をアグラーヤ・エパンチナに渡してもらいたい。これがぼくの本志である。またぼくの遺骨は学術に貢献するため、医科大学へ寄付する。
『ぼくは自分に対して裁きを認めない、したがって、今あらゆる法権の外に立っている。いっそやこんなことを想像して、おかしくてたまらなかった。ほかでもない、もしぼくがとつぜんいまだれ彼の容赦なく、一度に十人くらい殺してみようと考えついたら――なんでもいい、とにかくこの世でいちばん恐ろしいとされていることを、実行してみようと考えついたら、わずか二週間か三週間の命と隕られて、拷問も折檻も役に立たないぼくを相手にする裁判官の窮境はどんなものだろう? ぼくは注意ぶかい医者のついているお上の病院で、楽々と目をつむるだろう。きっと自分の家より暖かくて、居心地がよいに相違ない。なぜぼくと同じ境遇にいる人たちにこんな考えが、せめて冗談にでも頭に浮かばないのだ? しかし、あるいは浮かぶかもしれない。ロシヤにはのんきな人たちもずいぶんいるようだから。
『が、たとえぼくが裁判を認めないといっても、やはり人々はぼくを裁判するであろう、それは承知している。しかし、そのときぼくは耳も聞こえなければ、口もきけない責任者となっているのだ。とはいえ、ぼくは答弁として、強制せられざる自由な言葉をひとことも吐かないで、この世を去ってしまうのはいやだ。けれど、それは申しわけのためではない――どうして、どうして! ぼくは何ごとについても、他人におわびを申すべき筋はない。ただ自分でそうしたいからである。
『ここにだいいち、奇妙な問題というのは、わずか二週間か三週間しか残っていないぼくの権利を、論駁し否定しようなんて了見をおこすのは、そもそもだれだろう? そしてなんのため、またいかなる動機からだろう? こうなってから、裁判なぞ何になるのだ? 単にぼくが宣告を受けただけで足りないで、その宣告の期限をいさぎよく守る必要なんかどこにあるのか? いったいそんなことがじっさいだれに必要なのか? あるいは世道人心のためとでもいうのか? もしぼくが健康と力のさかりにありながら、「同胞のために益をもたらしうべき」おのれの命を縮めようとするのだったら、世道人心は相談もなしに命を勝手に扱ってはならぬとか、また、その他なんとかふるくさい紋切り型をいってぼくをとがめるだろう? それならぼくにも得心がいく。しかし、今は? もう死刑の期日まで宣告されている今はどうだ? ただ命をほうり出したばかりで足りないで、おまけに公爵の気安めかなにかを聞きながら、生命の最後のアトムを神さまに返上するときに発する気味の悪いうめき声までが、世道人心に必要であろうというのか? 公爵といえば、あの人はきっと例のキリスト教的な論証で、じっさいおまえさんの死ぬのはけっこうなことだよ、つてなおめでたい結論に到着するにきまっている(あの人みたいなキリスト教徒は、いつでもこんな思想に到達する、これがあの連中の十八番なのだから)。いったい彼らはあのこっけいな「パーヴロフスクの木立」をもって、いったいどうしようという気なんだろう? ぼくの生涯の最後のいく瞬間かをやわらげようというのか? あの人たちは生と愛とのおぼつかない影をもって、ぼくの「マイェルの家の壁」や、露骨に正直な態度で書いてあるその上の文字を、すっかりぼくの目から隠してしまおうと思っているが、ぼくはそんな幻影を信じて夢中になればなるほど、ますます不幸になるということを、いったいあの人たちは会得しないのだろうか? 諸子が有するパーヴロフスクの自然、諸子の公園、諸子の日の出、日の入り、諸子の青空、諸子の満ち足りた顔、これらはすべて何するものぞ! こうした喜びの宴も、ぼくひとりを無用と数えることをもってその序開きとしているのではないか? こうした自然の美も、ぼくにとぅてなんの用があろう? ぼくのそばで日光を浴びて、うなっている微々たる一匹の蠅すらも、この宴とコーラスの喜びにあずかるひとりとして、自分のいるべき場所を心得かつ愛して、幸福を感じているのに、ぼくひとりきりのけものである――今はこういうことを分ごとに、いや秒ごとに切実に感じなければならぬ、いやでも無理無体に感じさせられる。今までは了見の狭いばかりに、このことを悟ろうとしなかったのである。おお、ぼくは知っている、公爵はじめその他すべての人は、ぼくがこんな「ずるい不貞腐《ふてくさ》れな」ことをいうかわりに、いさぎよく世道人心の勝利のためを思って、有名なミルヴォアの古典詩を朗吟すればいいと、望んでいるに相違ない。

“O, puissent voir votre beaute sacree
Tant d'amis sourds a mes adieux!
Qu'ils meurent pleins de jours, que leur mort soit
pleuree!
Qu'un ami leur ferme les yeux!”

「さらば」ちょうわが言の葉に
耳かさぬあまたの友に
見せまほしなれが聖《くす》しき美をば。
齢《よわい》みちてこの世を去るとき
人々に泣き惜しまれん
その死せる固き瞼を
蔽うべき人もありなむ。

『とはいえ、世のおめでたき人々よ、ぼくの言葉を信じたまえ、この道学的な詩の中にさえ、このフランスの詩のアカデミックな人生祝福の中にさえ、韻律の中でせめてもの憂さをやるような、あきらめられぬ毒念と、秘められたる無量の憤懣とが、濳んでいる。そのために詩人みずから迷路に入って、この憤懣の念を歓喜の涙と取り違えたまま死んでいったのである。まことにおめでたい話ではないか! ところで、人間の無価値、無気力の自覚にも一定の限界があって、それからさきへは踏み出すことができない。この限界を踏み出すと、人間は自分の醜態の中に、大いなる喜びを感じはじめるものである……もちろん、この意味においては、あきらめも異常な力である。それはぼくも肯定する――もっとも、宗教があきらめを力と考えるのとは、意味が違うけれど。
『宗教! 宗教といえばぼくは永生を認める、また今までも認めてきたかもしれない。意識が最高の力の意志によって点火されたとしてもいい。この意識が世界を振り返って、「われ有り!」といったとしてもかまわない。また最高の力によって、ちょっとこれこれの目的があるから――いや、目的も説明しないで、ただ必要があるから死んでしまえ、と命令されてもかまわない、そんなことはみんな平気である。しかし、それにしても、やはり「だからといって、なんのためにおれのあきらめが必要なんだ?」という、いつもおきまりの疑問がわいてくる。いったい自分の餌食《えじき》にしたものから賛辞なんか強請しないで、ひと口にあっさり食ってしまうわけにゆか『ないのかしら? ぼくがこの二、三週間をおとなしく待たないからといって、腹を立てる人がほんとうにだれかいるだろうか? そんなことは信じるわけにゆかない。それよりか、こう想像したほうがはるかに正確である。つまり、なにかしら全体としての宇宙のハーモニイとか、もしくはなんとかのプラスーマイナスとか、あるいはなにかの対照とか――そんなもののために、取るに足らぬぼくのアトムの生命が必要なのだろう。それはちょうど数百万の生物が残りの全世界を維持するために、毎日自分の生命を犠牲に供しているのと、同じ理屈である(もっとも、この思想もそれ自身としては、あまり度量の広いものでないことを指摘しなければならない)。しかし、それもよかろう! 絶え間なくたがいの肉を噛み合わなければ、世の中を形づくることが絶対に不可能だということは、ぼくもべつに異存はない。それどころか、一歩進んで、おまえはその宇宙の組織について、すこしも知るところがないのだといわれても、ぼくはべつに不服をとなえはしない。しかしそのかわり、次の事実はたしかにしっかり心得ている。いったん「われ有り」という自覚を与えられた以上、世の中があやまちだらけであろうと、またそのあやまちなしには世の中が立って行けまいと、そんなことはぼくにとってなんのかかわりもありゃしない。これが真実であるとすれぼ、だれだってぼくをかれこれ非難する筋は一つもないのだ! 人はなんといおうと、そんなことは不可能でもあり、不公平でもある。
『とはいうものの、ぼくは自分でいっしょうけんめい希望しているにかかわらず、来世も神もないということを、どうしても想像することができない。なによりも正確な言いかたは、来世も神もあるけれど、われわれは来世もその法則もてんで知らないということになる。もしそれを知るのが非常に困難な、というより、むしろぜんぜん不可能のことであるならば、ぼくがその不可能を解しえなかったからといって、そこにいかなる責任がありえようか! 世間の人たちは、むろん、公爵もその中にまじって、「つまり、そういう場合には服従が必要なのだ、理屈をぬきにして、単なる道義のために服従しなくちゃならん、その謙譲の徳はあの世でむくいられるから」といっている。ぜんたい人間というやつは、自分たちが神を了解できない腹立ちまぎれに、自分たちのけちな観念を神さまに押しつけて、神さまをつまらないものにしてしまうのだ。しかし、かさねていうが、神を了解できないとすれば、人間に理解を許されないことに対して、責任を持つわけにはいささかまいりかねる。してみると、ぼくが神の真の意志と法則を、理解することができないからって、ぼくをうんぬんするものはだれもないはずである。いや、もういっそ宗教談はよしにしたほうがいい。
『ああ、もうたくさんだ。ぼくがこのへんまで読み進むとき、もうきっと陽が昇って、「天に響きわたり」、偉大な量りしれない力が宇宙にみなぎるだろう。それもよかろう! ぼくはこの力と生の源泉を直視しながら死ぬのだ、生はほしくない! もしぼくが生まれない権利を持っていたら、こんな人をばかにしたような条件では、存在をがえんじなかったに違いない。しかし、ぼくはもう命数の定まった人間であるけれど、まだ死ぬ権利を持っている。権力も小さい、したがって叛逆もまた小さい。
『最後にひと言あきらかにしたいことがある。ぼくの死なんとするのは、けっしてこの三週間を耐え忍ぶ力がないからではない。おお、ぼくはかなりの力を持っている。もしその気にさえなれば、自分の受けた侮辱感だけでも十分な慰藉となったろう。しかし、ぼくはフランスの詩人でないから、そんな慰藉はほしくない。ところが、ついに誘惑が発見された。自然は例の三週間の宣告でもって、極端にぼくの行動を制限してしまったので、今のところぼくが自分の意志で、はじめるとともに片づけられる仕事は、自殺よりほかにないかもしれない。いや、まったくのところ、ぼくは最後の事業の可能を利用したいのかもしれない。反抗も時としては、大きな仕事になることがあるのだ……』
『告白』はついに終わった。イッポリートははじめて口をつぐんだ……
 こうした極端な場合には、破廉恥なやぶれかぶれの露骨さが、極限まで達するものだ。神経質の人間はむやみにいらだって自分を忘れ、果ては何ものをも恐れぬようになり、どんな醜態でも演じかねない心持ちになる。いや、それどころか、そんなことをするのが、かえって愉快にさえなり、人に飛びかかったりするものである。しかも、そのさい、漠としたものではあるが、しかし確固たる目的を心中にいだいている――つまり、その醜態を演じるとすぐ、高い塔から飛びおりて。もしなにか面倒ないざこざがおこったら、死をもっていっきょに解決してしまおうという目算なのである。こうした心的状態の兆候は、普通の場合、しだいにつのって来る肉体力の消耗である。今までイッポリートをささえていた異常な、ほとんど不自然な緊張は、この頂上に達した。ただうち見たところ、病気に腐蝕されたこの十八歳の少年は、枝からもがれてふるえている一枚の木の葉同然に弱々しかったが、一時間ばかりたって、はじめて傍聴者の群れを見まわすやいなや、なんともいえぬ高慢な、この上なく人をばかにした、腹立たしげな嫌悪の表情が、その目つきと微笑に浮かんできた。彼は急いで戦いを挑もうとしたが、聴衆はことごとく不平満々であった。人々はいまいましそうな様子で、騒々しくテーブルから立ちあがった。疲労と酒と興奮とは、一座のだらしない光景を、いな、いいうべくんば、けがらわしい光景を強めたかのようである。
 急にイッポリートは弾かれたようにいすを離れた。
「陽が昇った!」輝きそめた木立の頂きを見つけて、まるで奇跡ででもあるかのように公爵にさし示しながら、彼はこう叫んだ。「昇った!」
「きみは昇らないとでも思ったんですか?」とフヱルディシチェンコが注意した。
「また一日あつい目にあうんだ」とガーニャは帽子を手に、のびのびとあくびをしながら、気のない、いまいましそうな様子でつぶやいた。「まるひと月、こんな日照りだからたまらない!………プチーツィン、きみ出かけるかどうだね?」
 イッポリートは棒立ちになるほど驚いて、耳を澄ましていたが、急にものすごいくらい青くなって、全身をぶるぶるふるわせた。
「あなたはぼくを侮辱しようと思って、気のないふりをなさるけれど、どうもおそろしくまずいやりかたですね」と彼は穴のあくほどガーニャの顔を見つめながらいった。「あなたはやくざものです!」
「ちぇっ、なんてだらしのない恰好だ!」とフェルディシチェンコがわめいた。「なんてえ意気地のない恰好だろう!」
「なあに、ばかなのさ」とガーニャはいった。
 イッポリートは少々きっとなった。
「皆さん」と彼はいぜんとしてぶるぶるふるえながら、一語一語に声をとぎらしつついいだした。『ぼくがあなたがたから、個人としての恨みを買ったのは、よく承知しています。そして……この世迷言であなたがたを苦しめたのを悲しみます(と彼は原稿を指さした)。しかし、そいつがすこしも利かなくって残念です……(と彼は愚かしくにたりと笑った)。利いたでしょうか、エヴゲーニイ・パーヴルイチ?」ふいに彼は一足飛びにこんな質問を発した。「利いたか利かないか、いってください!」
「すこし冗漫でしたが、しかし……」
「すっかりいってください! せめて一生に一度だけでもうそをつかないでね!」とイッポリートは身をふるわせながら命令した。
「おお、ぼくはどうだってかまやしないです。お願いだから、うるさくしないでください」とエヴゲーニイはぶつくさいいながら、そっぽを向いた。
「じゃ、お休みなさい」とプチーツィンが公爵に近寄った。
「まあ、この人が今にも自殺しようとしているのに、あなたがたはいったいどうしたんです! ちょっとあの人を見てごらんなさい!」と叫んで、ヴェーラはイッポリートのほうへ飛んで行き、あわてふためいてその手をおさえた。「だって、この人は日の出といっしょに自殺するって、そういったじゃありませんか。それだのに、まあ、あなたがたは!」
「自殺するものか!」といくたりかの声が、意地悪い満足の調子でこうつぶやいたが、その中にはガーニャもまじっていた。
「皆さん、気をつけてください!」同様にイッポリートの手をおさえながら、コーリャがわめいた。「ちょっとこの人の様子を見たら、わかりそうなもんじゃありませんか! 公爵! 公爵、あなたはいったいどうしたんです!」
 イッポリートのまわりにはヴェーラ、コーリャ、ケルレル、ブルドーフスキイが集まった。この四人がいっしょになって、彼の手をつかまえるのであった。
「この男は権利を持っている……権利を……」とブルドーフスキイはいったが、こういう当人もやはりぼうっとしてしまっていた。
「失礼ですが、公爵、あなたはどういう処置をおとりになります?」とレーベジェフは公爵のそばへやって来たが、酔いくらって小面の憎いほど、ぷりぷり怒っている。
「どういう処置って?」
「つまりですな、失礼ですが、わたしはここの主人ですから……へへ、もっとも、あなたに対して尊敬を表わすのを怠るわけではさらさらございませんがね……まま、かりにあなたをここの主人公としましたところで、自分の持ち家の中でなんするなんて……わたしはいやですがね」
「自殺するものか、ただ小僧っ子がふざけてるんだ!」ふいにイヴォルギン将軍が不平そうな調子で、しかも泰然自若として叫んだ。
「ようよう、将軍さま!」とフェルディシチュンコがはやした。
「承知していますよ、将軍、自殺しないってことは承知してますがね、それでもやっぱり……だってわたしゃここの主ですからね」
「ちょっとチェレンチェフ君」とつぜんプチーツィンが公爵に暇を告げたあと、イッポリートに手をさし伸べながらこういいだした。「きみはたしかその手帳の中で、ご自分の遺骨のことを書いてましたね、大学へ寄付するとかって、あれはきみの遺骨のことですね、つまり、きみの骨を寄付されるんですね?」
「ええ、ぼくの骨です……」
「わかりました。よく聞いとかんと、間違いがおこるかもしれませんからね。なんでも、一度そんな場合があったそうですよ」
「なんだってあなたは、この人をからかうんです?」急に公爵が叫んだ。
「とうとう泣かせちゃった」とフェルディシチェンコがいい添えた。
 しかし、イッポリートはけっして泣きはしなかった。彼はちょっと席を離れようとしたが、周囲を取り巻いている四人のものが、いっせいにその手をつかんだ。すると、どっと笑い声がおこった。
「つまり、手をつかませるように仕向けたんだ。そのために手帳を読んだのさ」とラゴージンがいった。「あばよ、公爵! やれやれ、長っ尻をすえちゃって、骨が痛いや」
チェレンチエフ君、よしきみがほんとうに自殺するつもりだったにしても」とエヴゲーニイは笑いながらいった。「あんなご挨拶を受けた以上、みんなをからかうために、わざと自殺をやめるのが順当ですな。ぼくだったらそうしますよ」
「あの連中は、ぼくが自殺するのを、見たくってたまらないんだ!」とイッポリートは彼を目がけて飛びかかった。
 彼はまるではねあがるような調子でものをいった。「あの連中はそれが見られないもんだから、いまいましくてたまらないんだ」
「じゃ、あなたは見られないと思うんですか?」
「ぼくはけっしてきみに油をかけたりなんかしませんよ。それどころか、ぼくはたしかにきみが自殺されるだろうと思って、大いに心配してるんです。しかしまあ、とにかく怒んなさんな……」とエヴゲーニイは保護者らしい口調で、言葉じりを引きながらこういった。
「ぼく、いまはじめてわかった。この人たちに原稿を読んで聞かしたのは、ぼくの一生の誤りだった」といいながら、イッポリートは思いがけなく、まるで親友としての忠言でも求めるような信頼の表情を浮かべて、エヴゲーニイをながめた。
「きみの立場はまったくこっけいなものですが、しかし……ほんとうにどんな忠言を呈していいやら、わかりませんなあ」エヴゲーニイはほほ笑みながら答えた。
 イッポリートはまたたきもせずに、きびしい顔つきで相手をながめながら無言でいた。ときおり、まったく意識を失ったのかと思われるくらいであった。
「じつにけしからん話です、なんというやり口でしょう!」とレーベジェフがいった。「『何びとをも驚かさないように公園で自殺する』なんていって置きながら、梯子段をおりて三足ばかり庭へ出たら、だれも驚かさないことになる、と思ってるんですからね」
「皆さん……」と公爵がなにかいいかけた。
「いいえ、失礼でござりますが、公爵さま」とレーベジェフは勢い猛にいった。「あなたもご自分でごらんですから、おわかりでもござりましょうが、これはけっして冗談じゃありません。お客人がたの少なくとも半数は、わたしと同意見でいらっしゃることと思いますが、ここであんなことをいいきった以上、もう自分の体面を保つためにでも、かならず自殺するはずです。してみると、わたしはここの主人として、あなたにご加勢を願いたいということを、証人の聞いている前で、公然と申しあげねばなりませんので」
「どうしようというんです、レーベジェフ君? わたしはよろこんで加勢しますよ」
「こうでござります。第一に、あの人がたったいまわたしどもに向かって自慢したピストルを、付属品もろともに引き渡させなけりゃなりませんて。もし引き渡したら、病気に免じてこの家で一夜を明かさせることを承知します。しかし、それはむろん、わたしのほうから監視を置くという条件つきで。けれど、あすになったら、ぜひとも勝手に、どこなと出ていってもらいます。どうか、公爵、暴言をおゆるしください。もしその武器を渡さないなら、わたしは今すぐあの男の手を取って――わたしが片手を取れば、将軍が片手を取ってくれます――さっそく警察へ知らせにやります。そしたら、もうこの事件は警察の審理に移るのです。フェルデイシチェンコ君が友達のよしみで、ひと走りいって来てくれます」
 ひと騒ぎ持ちあがった。レーベジェフはもう熱くなって、常規を逸してしまった。フェルディシチェンコは警察へ出かける身仕度をするし、ガーニャはむきになって、だれも自菻なんかしやしないと主張する。エヴゲーニイは黙っていた。
「公爵、あなたはいつか塔から飛びおりたことがありますか?」とふいにイッポリートがささやいた。
「い、いいえ……」と公爵は無邪気にこう答えた。
「あなたはぼくが皆のこうした憎しみを、見とおしていなかったと思いますか?」目をぎらぎら輝かしつつ、ほんとうに相手から答えを待ち設けるかのごとく、公爵を見つめながら、イッポリートはふたたびささやいた。「たくさんです!」とつぜん彼は一同に向かって叫んだ。「ぼくが悪かったのです……だれよりいちばん悪かったです! レーベジェフさん、ここに鍵があります(と彼は金入れを取り出し、その中から三つ四つ小さな鍵のついた鋼《はがね》の環を抜き出した)。このしまいから二つ目のです……コーリャが教えてくれますよ……コーリャ! コーリャはどこにいるの?」彼はコーリャを見ていながら、しかもそれと気づかないでこう叫んだ。『ああ……この子があなたに教えてくれます。さっき、この子といっしょに袋を片づけたんですから、コーリャ、きみ案内してあげてくれ。公爵の書斎のテーブルの下にぼくの袋がある……この鍵であけるんだよ。下のほうの箱の中にピストルと火薬筒があるからね。レーベジェフさん、さっきこの子が自分で片づけたんだから、この子に教えておもらいなさい。しかし、ぼくはあすの朝早くペテルブルグへ行くから、そのときピストルを返してください、いいですか? ぼくがこんなことをするのは公爵のためで、あなたのためじゃありませんよ」
「なるほど、そのほうがよさそうだ」とレーベジェフは鍵を引ったくって、毒々しい薄笑いを浮かべつつ、次の間へかけだした。
 コーリャは立ちどまって、なにやらいいたそうにしたが、レーベジェフはかまわずしょっぴいて行ってしまった。
 イッポリートは笑い興ずる客人たちを見まわした。公爵は彼の歯が激しい悪寒に襲われたように、がちがちと響いているのに心づいた。
「あの連中はみんな、なんてやくざ者でしょう!」とふたたびイッポリートは憤懣にたえぬ面持ちで、公爵にささやいた。
 彼が公爵にものをいうときには、いつも屈みかかってささやくのであった。
「あんな人たちはうっちゃっておおきなさい。きみは非常に弱ってるんですから……」
「すぐです、すぐです……すぐに行きます」
 ふいに彼は公爵を抱きしめた。
「あなたはきっとぼくをきちがいだとお思いでしょうね?」と奇妙な笑いかたをしながら、彼はじっと相手を見つめた。
「そんなこと……しかしきみは……」
「すぐです、すぐです、黙っててください。なんにもいわんでいてください。そして、じっと立っててください……ぼくはあなたの目を見たいのです……そうして立っててください、ぼく、見るんですから。ぼく『人間』と暇ごいをするんですから」
 彼はじっと立ったまま、公爵を見つめていた。そして、汗のためにこめかみの毛をめちゃめちゃに乱したまま、まるで逃がしては一大事とでもいうように、なんだか妙な恰好をして公爵をつかまえながら、十秒間ばかりまっさおな顔をして
黙りこんでいた。
「イッポリート、イッポリート、きみはいったいどうしたのです?」と公爵は叫んだ。
「すぐです……もうたくさん……ぼくよこになります。しかし、太陽の健康のためひと口飲みたいですなあ……ぼく、飲みたいんです、飲みたいんです、放してください!」
 彼は手早く卓上の杯を取って、脱兎のごとく席を離れ、一瞬の間に露台の昇降口へ近づいた。公爵はそのあとを追おうとしたが、あいにくわざとねらったように、ちょうどこの瞬間エヴゲーニイが暇を告げるため、公爵に手をさし伸べたのである。一秒が過ぎた。と、ふいに露台で一同の叫び声がおこった。つづいてたとえようもない混乱の一瞬が来た。
 そのわけはこうである。
 露台の入口へ近寄ると、イッポリートは左手に杯を持ったまま立ちどまって、右手を外套の右側のポケットヘ突っこんだ。あとでケルレルの主張するところによると、イッポリートはまだ公爵と話しているときから、ずっと続けて右手をこのかくしへ入れたままで、公爵の肩や襟をおさえたのも左手だったとのことである。こうしてポケットへ突っこんだままの右手が、まずだいいち、自分の心に疑念を呼びさましたと、ケルレルは言い張った。それはどうでもいいとして、妙な不安にかられた彼は、イッポリートのあとを追ってかけだした。が、もう間に合わなかった。彼はただとつぜんイッポリートの右手に、なにやらひらめいたのを見たばかりである。その一瞬間、小さな懐中用のピストルが彼のこめかみにぴったり押し当てられていた。ケルレルはその手をおさえようとおどりかかったが、その一刹那イッポリートは引金をひいた。と、鋭いかわいたような引金の音がかちりと響いたが、発射の音は聞こえなかった。ケルレルが抱きとめたとき、イッポリートは感覚を失ったかのごとく、その腕に倒れかかった。もうほんとうに死んだと思ったのだろう。ピストルは早くもケルレルの手にあった。人々はイッポリートを捕えていすを置き変え、その上に腰をかけさせた。一同はそのまわりにむらがって、がやがやとわめきながら事情をたずねた。引金のかちりという音は聞こえたけれど、当人は生きているのみか、かすり傷さえ負っていないのである。当のイッポリートは、どうしたことかわからないで、ぼんやりとすわったまま、無意味な目つきで人々を見まわした。このときレーベジェフとコーリャがかけこんだ。
「不発だったんですか?」という質問が周囲からおこった。
「あるいは装填してなかったのかもしれない」と臆測をたくましゅうするものもあった。
「装填してありますよ!」とケルレルがピストルをあらためながら叫んだ。「しかし……」
「いったい不発だったんですか?」
「雷管がまるでなかったです」とケルレルが告げた。
 引きつづいておこったあわれな光景は、話にもできないぐらいであった。人々の最初の驚愕は、とたんに笑いに変わって来た。中にはこのできごとに意地悪い喜びを感じて、大声に笑いだすものさえあった。イッポリートはヒステリーでもおこしたように、しゃくりあげて泣きながら、自分の手を激しくねじまわした。そして、だれ彼の差別なしに、フェルディシチェンコにさえ、飛びついて、その両手をおさえながら、雷管を入れ忘れたのだ、「ついうっかりして忘れたんです、わざとしたのじゃありません。雷管はすっかり、ほら、このチョッキのかくしの中にあります、十ばかりあるんです」(彼はあたりの人にそれを出して見せた)、はじめから入れなかったのは、万一ポケットの中で発射しやしないかと恐れたからで、必要なときにはいつでも間に合わすことができると考えていたのに、うっかり忘れしまったのだ、などと誓うのであった。彼は公爵やエヴゲーニイに飛びかかったり、ケルレルに泣きついたりして、ピストルを返してくれ、「ぼくは廉恥心、廉恥心がある」ことをすぐにも証明して見せる……、ぼくは「永久に恥辱を受けた!」などと訴えるのであった。
 彼はついに意識を失って倒れた。人々は彼を公爵の書斎へ運んで行った。すっかり酔いのさめ果てたレーベジェフは、さっそく医師を迎えに使いをやってから、娘や息子やブルドーフスキイや将軍といっしょに、自分で病床に付き添うことにした。人事不省に陥ったイッポリートのからだが運び出されたとき、ケルレルは部屋の真ん中に仁王立ちになって、ひとことひとことはっきり発音しながら、おそろしく感激した様子で一同に向かって宣言した。
「諸君、もし諸君のうちだれにせよ、いま一度ぼくのいる前で、わざと雷管を忘れたんだとか、またはあの不仕合わせな
青年が一場の喜劇を演じたにすぎんとか、かりにもそんなことを口外されたら、その人の相手はぼくが代わっていたしますぞ」
 しかし、だれひとりそれに答えるものはなかった。やがて客は急にあわてて、どやどやと散りはじめた。プチーツィン、ガーニャ、ラゴージンは、つれ立って出て行った。
 公爵はエヴゲーニイが計画を変更して、べつになんの相談もせずに帰ろうとするので、非常に驚いた。
「さっきあなたはみんな帰ったあとで、わたしに話したいことがあるとおっしゃったじゃありませんか?」彼はきいてみた。
「ええ、そうなんですよ」とエヴゲーニイはとつぜんいすに腰をおろして、公爵をそばにすわらせながらいった。
「しかし、わたしはさしむきこの計画を変更しました。じつ。のところ、わたしは少々まごつかされたんですよ。あなたもやはりそうでしょう? わたしは、考えがすっかりこんぐらかってしまいました。それに、わたしのご相談したいこと‘は、自分として非常に重大なことなんです。いや、わたしばかりでなく、あなたにとっても重大なことです。じつはねえ、公爵、わたしは一生にせめて一度だけでも公明正大に、つまりぜんぜん底意なしに、ことをしてみたいと思ったのですが、今、この瞬間はどうもぜんぜん公明正大なことをする能力がなさそうなんです。あなたもやはりそうでしょう……そこで、あの……いや、またあとでご相談しましょう。わたしは今度三日ばかりペテルブルグヘ行って来ますが、そのあいだ待っていたら、わたしにもあなたにもことの真相がはっきりしてくるかもしれませんよ」
 彼はふたたびいすから立ちあがったので、はじめなんのために腰をかけたのかと、おかしな気がするほどだった。エヴゲーニイがなにか不満らしい、いらいらした様子で、敵意ありげに自分をながめているのは、公爵にもやはりそれとなく感じられた。彼の目つきはさきほどとはすっかり違っている。
「ところで、あなたはこれから病人のほうへ?」
「ええ………しかし、ぼくが心配なのは……」と公爵はいいかけた。
「心配することはありませんよ。きっと六週間くらいは生きのびますよ。あるいはここですっかりなおるかもしれないくらいです。しかしなによりも、あす追ん出してしまうのが一番ですよ」
「ひょっとしたら、まったくぼくは暗黙の中に、あの人を突っついたかもしれません、なぜって……ぼくひとことも口をきかなかったんですからね。ことによったら、あの人はぼくがあの自殺を疑ってる、とでも思ってるかもしれませんね。あなたどうお考えです、エヴゲーニイ・パーヴルイチ?」
「けっしてけっして。あなたまだそんなことで心配するなんて、どうもじつにお人好しですね。よく人はほめてもらいたさに、あるいはほめてくれない面あてに、わざと自殺するものだって話は聞いていましたが、ほんとうに見たのははじめてです。しかし、なによりもほんとうにしかねるのは、あの
正味まる出しの意気地なさですよ! とにかく、あすあいつを追ん出したほうがいいですよ」
「あなたはあの人がもう一度自殺すると思いますか?」
「いや、もうやりません。しかし、ああした自家製のロシヤ式ラセネール(パリを騒がせた凶悪犯人)に気をおつけなさい。くりかえして申しますが、あんな才能のない、気短かな、そして欲の深いうじ虫にとっては、犯罪がなによりいちばん普通の避難所ですからね」
「いったいあれがラセネールでしょうか?」
「筋道はいろいろあるでしょうが、本質は同じです。さっき、あいつが自分から『告白』の中でいってましたが、見てらっしゃい、まったくあのとおりただの「慰み」のために、あの男が十人の人を殺すことができるかできないか。ぼくはあんなことを聞いたので、今夜寝られそうもありません」
「しかし、それは案じすごしかもしれませんね」
「あなたはじつに感心ですね、公爵。いったいあなたは、今あいつが十人殺しをしそうだと、そう思いませんか?」
「ぼくはその返事をするのが恐ろしいです。まったく何もかも万事奇妙ですけれど、しかし……」
「まあ、ご勝手に、ご勝手に!」とエヴゲーニイはいらだたしげに言葉を結んだ。「おまけに、あなたはそんな勇者なんですからねえ。ただし、ご自分でその十人の数に入らないようにご用心なさい」
「しかし、まあ、おそらくあの人はだれも殺しゃしますまいよ」もの思わしげに相手を見つめながら、公爵はそういった。
 こちらは憎々しげに笑いだした。
「さようなら、もうだいぶおそいです! ところで、あなたはあいつが例の『告白』の写しを、一部アグラーヤさんへと遺言したのに、お気がつきましたか?」
「ええ、つきました、そして……そのことを考えてるんです」
「なるほど、十人殺しの場合にはね……」とエヴゲーニイはまた笑って、出て行った。
 それから一時間たって三時すぎに、公爵は公園へおりて行った。彼はわが家で寝に就こうと試みたが、胸の動悸が激しくてだめだった。もっとも、家の中はすっかり片づいて、また、かなり落ちついてもきた。病人は寝入ったし、来診の医師は、さしむきどうという危険もないと見たてた。レーベジェフとコーリャとブルドーフスキイは、交代で当番をするというので、病人の部屋で横になった。こういうわけで、もう心配することはすこしもなかった。
 しかし、公爵の不安は一刻一刻とつのって行った。彼はぼんやりした目つきであたりを見まわしながら、公園をさまよっていたが、とつぜんびっくりして立ちどまった。いつしか停車場前の広場までたどりついて、聴衆席のベンチや、奏楽席の譜面台の列が目に映じたのである。この場所は彼の心をおびやかし、なぜかしら非常に醜いもののように思われたので、彼はもと来たほうへ引っ返し、昨タエパンチン家の人々とともに停車場へ行ったときと同じ道をたどって、密会に指定された緑色のペンチに近寄り、どっかとばかり腰をおろすと、いきなりからからと笑いだしたが、すぐにそうした自分自身に対して、たまらない憤怒を感じるのであった。もの淋しい心持ちはなおつづいていた。彼はどこかへ行ってしまいたかった……しかし、どこへ行ってしまいたいのかはわからなかった。頭の上の木の間では小鳥がさえずっていた。彼は木の葉の茂みを透して、小鳥を探しはじめたが、小鳥はふいに木を離れて飛び立った。その刹那どういうわけか、例のイッポリートの書いた『熱い日光を浴びている一匹の蠅』が彼の心に浮かんできた。『この蝿すらも宇宙のコーラスの一員として、自分のいるべき場所をちゃんと心得ているのに、ぼくひとりきりのけものである』という一句は、さきほども彼の心を打ったが、今またさらにこのことが思い出された。とっくの昔に忘れていた一つの記憶が彼の心中をうごめきだして、急にとつぜんはっきりしてきたのである。
 それはスイスにおける治療の第一年目、というよりも最初の三、四か月目のことであった。そのころ彼はまだぜんぜん白痴の状態で、ろくすっぽ話もできなければ、人が何を要求するかもわがらなかった。あるとき太陽の輝かしい日に山へ登って、言葉に言い表わせない悩ましい思いをいだきつつ、長いあいだあちこち歩きまわったことがある。目の前には光り輝く青空がつづいて、下の方には湖水、四周には果てしもしらぬ明るい無窮の地平線がつらなっていた。彼は長いことこの景色に見入りながら、もだえ苦しんだ。この明るい、無限の青空にむかって両手をさしのべ、泣いたことが、今思いだされたのである。彼を悩ましたのは、これらすべてのものに対して、自分がなんの縁もゆかりもない他人だという考えであった。ずっと以前から――子供の時分から、つねに自分をいざない寄せているくせに、どうしてもそばへ近づくことを許さないこの歓宴、この絶え間なき無窮の大祭は、そもいかなるものだろう? 毎朝これと同じ輝かしい太陽が昇り、毎朝滝のおもてが虹にいろどられ、遠いかなたの大空の果てに立ついちばん高い雪の峰は、毎晩むらさき色の焔に燃え立つ。『自分のそばで、熱い太陽の光を浴びている微々たる蠅は、どれもどれも宇宙のコーラスの一員として、おのれのい応べき場所を心得、愛し、そして幸福なのである』。一本一本の草もつねに成長し、かつ幸福である。いっさいのものにおのれの道があり、いっさいのものがおのれの道を心得ている。そして唄とともに去り、唄とともに来る。しかるに、自分ひとりなんにも知らなければ、なんにも理解できない、人向もわからない、音響もわからない、すべてに縁のないのけものである。ああ、もちろん彼はこうした疑惑を言葉に現わすことはできなかった。彼はつんぼのように、おしのように苦しんだのである。しかし、いま彼は当時の自分がこうした考えを、すっかり同じ言葉で語ったことがあるように思われた。で、あの『蝿』のことも、イッポリートが当時の自分の言葉と涙の中から取って来たような思いがした。彼はそうと固く信じきっていたので、そのためになぜかしら心臓の鼓動が激しくなってきた……
 彼はペンチの上で眠りに落ちたが、その不安は夢の中でもいぜんとしてつづいた。眠りに入るちょっと前に、イッポリートの十人殺しという言葉を思い出し、その想像のばかばか
しさに苦笑した。あたりには快いさわやかなしじまが立ちこめて、聞こえるものとては木の葉のすれ合う響きのみであったが、そのためにかえってあたりがいっそうしんと、もの淋しくなるのであった。彼はとてもたくさん夢を見た。それはみんな不安の気に充ちたもので、彼は絶え間なしにぶるぶると身をふるわした。ついにひとりの女がそばへ寄って来た。彼はその女を知っている、胸苦しいほどよく知っている。いつでも名を呼んで、指さし示すことができるくらいである、――けれど、不思議にも今の女の顔は、いつも見なれている顔とまるっきり違うようである。彼はそれをこの女の顔だと承認するのが、もの狂おしいほどいやであった。この顔には、悔悟と恐怖の色がみちみちて、たったいま恐ろしい罪を犯した大罪人かと思われるばかりであった。涙はその青ざめた頬にふるえていた。彼女は公爵を小手招ぎして、そっと自分のあとからついて来いと知らせるように、指をくちびるに当てて見せた。彼の心臓は凍ったようになった。たとえどんなことがあろうとも、この女を罪びとと見るのはいやだった。けれども、彼は今すぐなにかしら恐ろしい、自分の生涯に大影響を与えるようなことが、おこりそうな気がしてならなかった。見受けたところ、この女は公園のほど遠からぬところにある何ものかを、公爵に見せたいようなふうであった。彼は女のあとについて行くつもりで立ちあがった。と、にわかに彼のそばで、だれやらの明るい生き生きした笑い声が響き、だれかの手が彼の手の上に置かれてあった。彼はこの手を取って、固く握りしめると、はじめて目がさめた。目の前にはアグラーヤが突っ立って、声高に笑っていたのである。

      8

 彼女は笑っていたけれど、同時に不平そうでもあった。
「寝てらっしやるんだわ! あなた寝てらしたのね!」と彼女はばかにしたような驚きの調子で叫んだ。
「ああ、あなたですか!」と、まだはっきりと目がさめきらないで、不審そうに相手を見ながら、公爵はつぶやいた。「ああ、そうだった! お約束したんですね……ぼくここで眠ってたんです」
「拝見しましたわ」
「だれもあなたのほかにぼくをおこしたものはありませんか? あなたのほかだれもここへ来ませんでしたか? ぼくはここに……別な女が来たと思いましたが……」
「ここへ別な女が来ましたって……」
 やっと彼ははっきりわれに返った。
「いや、なに、ちょっと夢を見ただけです」と公爵はもの思わしげにいった。「しかし、妙だな、こんなときにこんな夢を見るなんて……まあ、おすわんなさい」
 彼はアグラーヤの手を取ってベンチにすわらせた。そして、自分もそのそばに腰をおろしながら、考えこんでしまった。アグラーヤは話をはじめないで、ただじっと穴のあくほど相手を見つめるのみであった。公爵も同様に相手をながめていたが、どうかすると、彼女が自分の前にいるのに気のつかないようなふうであった。彼女は顔をあからめた。
「ああ、そうそう!」と公爵はぶるっと身震いしながら、「イッポリートがピストルで自殺しかけましたよ!」
「いつ? あんたのとこで?」彼女はたずねたが、べつに、たいして驚いた様子もない。「だって、昨晩はどうやらまだ生きてたようじゃありませんの? それにしても、あなたはそんなことのあったあとで、よくまあ眠られましたわねえ!?」急に元気づきながら、彼女は叫んだ。
「ですが、あの人は死にゃしないんですよ、ピストルが発射しなかったもんですからね」
 アグラーヤの強請によって公爵は昨夜のできごとを、さっそく詳しく話さなければならなかった。彼女はひっきりなしに話のさきを急がしたが、そのくせ、絶えずいろんな質問で――しかも本筋に関係のない質問で、話をさえぎってばかりいた。中でも彼女がいちばん注意を払って聞いたのは、エヴゲーニイのいった言葉で、いく度も聞き返したほどである。
「もうたくさんですわ、急がなくちゃなりませんもの」
 いっさいの事情を聞き終わってから、彼女はこう結んだ。
「あたしたちはたった一時間、八時までしかここにいられませんの。だって、あたしここに来たことを人に知られないように、八時にはぜひ家へ帰ってなくちゃならないんですからね。あたし、用事があって来たんですもの。あなたにたくさんお知らせしたいことがありましてね。ところが、あなたは今すっかりあたしをまごつかしてしまいましたわ。イッポリートのことなら、あたしそう思いますわ、あの人のピストルは発射しないのがあたりまえですよ。そのほうがよっぽどあの人に似合ってよ。だけどあなた、あの人はほんとうに自殺するつもりだった、この事件にはなんのごまかしもないと信じてらっしゃる?」
「けっしてごまかしなんかありません」
「それはそうでしょうね。ですが、ほんとうにそう書いてあうたんですの――あたしにその『告白』を届けるように、あなたに頼むって? なぜあなた届けてくださらなかったんですの?」
「でも、死ななかったじゃありませんか。ぼくあの人にきいて見ましょう」
「ぜひ届けてください、なにもきくことなんかありませんわ。あの人は、きっとそうしてもらうのが嬉しいのよ。なぜって、あの人が自殺しようとしたのは、あとであたしに『告白』を読んでもらうためかもしれないわ。公爵、どうぞあたしのいうことを笑わないでください、だってほんとうにそうかもしれないんですもの」
「ぼく、笑やしません。なぜってぼく自身もいくぶんそんな傾きがあるかもしれないと信じてるんですから」
「信じてらしって? ほんとうにあなたもやっぱりそうお思いになって?」とアグラーヤはふいに驚いたようにこういった。
 彼女は早口に聞き返したり、せかせかとものをいったりしているが、ときどき妙にまごついて、しまいまでいいきらないこともあった。そして、絶えずなにか知らせようとあせっていた。概して、彼女は異常な不安をいだいているらしく、目つきはきわめて大胆で、挑むように見えるけれど、いくぶんおじけづいているらしくもあった。彼女はきわめて平凡な普段着をまとっていたが、それがたいへんうつりがよかった。彼女はベンチの端に腰かけたまま、しょっちゅう身震いしながら顔をあかくしていた。イッポリートが自殺しかけたのは、アグラーヤに『告白』を読んでもらいたいためかもしれぬという公爵の答は、ひどく彼女を驚かした。
「それはもちろん」と公爵は弁解した。「あなたばかりでなく、みんなにほめてもらいたかったのですが……」
「ほめてもらいたいって、どういうことですの?」
「つまりそれは……なんといったらいいでしょう? どうもお話しにくいですね。ただ一つ確かなことは、あの人はみなが自分を取り巻いて、『われわれはあなたを愛しかつ尊敬しています。どうぞ生き残ってください』といってくれるのを、望んでいたに相違ありません。しかし、あの人がだれよりもいちばんあなたを目安においていた、というのは大いにありうべきことです。なぜって、あんなときにあなたのことをふいといいだすんですものね……もっとも、自分ではあなたを目安においてることを知らなかったかもわかりませんが」
「そうなると、もうあたしなんのことやらちっともわかりませんわ。目安において、そして目安においたことを知らなかったなんて。もっとも、わかるような気もしますわ。あのね、あたしだってまだ十三、四の娘時代に、何べんとなしに考えたのよ――両親に書置きをして毒をのむ、そして棺の中に寝ていると、みんなが涙を流しながら、あたしに惨酷なことをしたのを後悔するってなことを、やっぱし考えましたわ……なんだってあなた、にたにた笑うんです」と眉をひそめながら、口ばやにつけ足した。「あなたなんかひとりで空想するときに、どんなことを考えるか、しれたもんじゃなくってよ。きっとご自分が元帥にでもなって、ナポレオンを征伐するところなんか空想なさるんでしょう?」
「ええ、まったくですよ、ほんとうのところ、ぼくはそんなことを考えてますよ、ことにうとうとと寝入りかけたときにね」と公爵は笑いだした。「ただしぼくはナポレオンでなく、いつもオーストリヤ人ばかり征伐するんです」
「公爵、あたしはちっとも、あなたと冗談なぞいいたくありませんの。イッポリートにはあたし自分で会いますから、前もって知らせといてくださいな。ところで、あなたとしては、どうもたいへんよくないことだと思いますわ。だって、今あなたがイッポリートに対してなすったように、人の魂をながめて批評するのは、とても失礼なこってすわ。あなたには優しみというものがなくって、ただ真理一点ばりね――つまり、不公平だということになりますわ」
 公爵は考えこんだ。
「あなたこそぼくに不公平なように思われますよ」と彼はいった。「だって、あの人がそんなふうに考えたからって、べつだん悪いところはないように思われますがねえ。なぜって、だれもそういうふうに考える傾向を持っていますもの。おまけに、あの人はぜんぜんそんなことを考えないで、ただそうしたいと感じただけかもしれませんよ……あの人はこの世の名ごりに人間にぶつかって、みんなの尊敬と愛を得たいと願ったのです。まったくこれはりっぱな感情です。ただあの場合、妙な結果になってしまったんですよ、病気のせいでもありましょうが、まだなにかほかにじゃまをするものがあったのです! それに、ある人は何をしてもうまく運ぶのに、またある人は何をやっても、めちゃめちゃになるものでしてね……」
「それはきっと、ご自分のことをつけ足しにおっしゃったのでしょう?」とアグラーヤが口を入れた。
「ええ、自分のことです」公爵はこの問の皮肉な調子には、すこしも気づかずに答えた。
「けれど、なんといっても、あたしがあなただったら、この場合、けっして眠ったりなんかしませんね。してみると、あなたはどこへいらっしっても、すぐ寝ておしまいになるのね。これはどうもあなたとしてたいへんわるいこってすわ」
「でも、ぼくはひと晩じゅう寝なかったのですもの。そのうえ、さんざん歩いて歩きまわって、音楽隊へ行ったりなぞしたんですからね」
「音楽隊ってどんな?」
「あのゆうべ演奏のあったところです。それからここへ来て腰をおろすと、いろんなことを考えてるうちに寝入ってしまったんです」
「ああ、なるほどそうですの! そういうわけなら、状況があなたのために有利になって来ますわ……ですが、なんのために奏楽堂なんかへいらしったんですの?」
「わかりません、ただちょっと……」
「いいわ、いいわ、あとでまた。あなたは、あたしの話に横槍ばかり入れてらっしゃるのよ。あなたが奏楽堂へいらっしゃろうと、いらっしゃるまいと、あたしの知ったことじゃありませんからね。ところで、あなたどんな女の夢をごらんなすって?」
「それは……あの……あなたもごらんになった……」
「わかりましたわ、よくわかりましたわ。あなたはたいへんあの女を……あの女をどんなふうに夢に見ました、どんな恰好をしてるところを? いいえ、あたしそんなことなんかちっとも知りたかないわ」といきなりいまいましそうに、断ち切るようにいった。「あたしの話に横槍を入れないでください……」
 彼女はじっとこらえて、いまいましさを追いやろうとするかのごとく、しばらく黙って控えていた。
「じつはね、あたしがあなたをお呼びしたのは、こういうわけなんですよ。あたしあなたに親友になっていただきたいんですの。なんだってあなた急に目を丸くなさるんです?」彼女はほとんど憤怒の色を浮かべながらこういった。
 公爵は、彼女がまたおそろしくあかくなったのに気がついて、このとき、しんから、いっしょうけんめいに彼女を見つめたのである。こういう場合、彼女はあかくなればなるほど、いよいよ自分に腹を立てるらしかった。それはぎらぎらと輝く目に読まれるのであった。ところが、一分間もたつと、おおむねその憤怒を相手のほうへ持って行く。しかも、その相手に罪があろうとなかろうとおかまいなく、すぐに喧嘩をおっぱじめるのであった。彼女はこういう粗暴な、同時に恥ずかしがりな自分の性質を承知しているので、ふだんあまり話の仲間入りをしなかった。そしてふたりの姉に比べると無口なほうで、むしろ無口すぎるくらいであった。特にこういう尻くすぐったい場合に、ぜひ口をきかなければならないときは、おそろしく高慢な、まるで喧嘩を吹きかけるような調子で話しだすのであった。彼女はいつでも、自分が顔をあかくしかけるか、もしくはあかくしそうなときには、もう前もって予感を覚えるのであった。
「あなたはたぶんこの申し込みに応じないでしょうね」と彼女は高慢げに公爵を見つめた。
「おお、けっして、応じますとも。だけど、そんなことはまるで必要がないじゃありませんか……つまり、その、そんな申し込みをなさる必要があろうとは、思いもかけなかったんですものね」と公爵はまごまごしてしまった。
「あら、それじゃどう思ってらしったの? いったいなんのためにあなたをここへ呼んだと思って? いったいあなたの胸の中にはどんな考えがあるんでしょう? もっとも、あなたはあたしのことを、かわいいおばかさんだと思ってらっしゃるのかもしれませんね。うちの人たちと同じように」
「みながあなたをおばかさんだと思ってるなんて、ぼくそんなこと知らなかった。ぼく……ぼくは思いませんよ」
「お思いなさらないって? あなたとしてはとても、とても上出来ですわね。特別お利口ないいかたですわ」
「ぼくの考えでは、あなたこそどうかすると、非常にお利口なことがありますよ」と公爵はつづけた。「さっきなんかとつぜんじつに利口なことをおっしゃいましたよ。ぼくのイッポリートに関する臆測に対して、『真理一点ばりだから、したがって不公平だ』とおっしゃいましたね。ぼくはこのひとことを覚えていて、いろいろ考えてみるつもりです」
 アグラーヤはふいに嬉しさのあまり、ぱっと顔をあからめた。彼女のこうした変化はいつもきわめて露骨にきわめて急激に生じるのであった。公爵も同様に喜んだ。相手の顔を見ながら、嬉しさのあまり笑いだしたほどである。
「ねえ、公爵」彼女はふたたびいいだした。「あたしはね、あなたにいろんなことをすっかりお話ししようと思って、長いあいだ待ってたんですよ。ほら、あなたがあちらから手紙をくだすったでしょう、あのとき以来、いえ、もっと前からよ……半分はもう昨夕あたしからお聞きなすったでしょう。あたしはあなたをいちんば[#「いちんば」はママ]潔白で、正直なかただと思ってますの。なによりいっとう潔白で、正直なかたですわ。で、もし人があなたのことを知恵のすこし……いえ、なに、ときどき脳の病気をおわずらいになるなんていいましたら、それは大違いですわ。あたしそうきめて、人と喧嘩までしましたのよ。なぜって、よしんばあなたがほんとうに脳の病気をおわずらいになるとしても(こういったからって、あなたはもちろん腹を立てはなさらないでしょう。あたしは一段たかい見地に立っていってるんですもの)、そのかわり、あなたはいっとう大切な知恵にかけては、世問の人たちのだれよりも、ずっとすぐれていらっしゃいますわ。まったく世間の人たちの夢にも見たことのないようなものですの。だって、人間の知恵には、大切なのと大切でないのと、ふたとおりありますものね。そうでしょう? そうじゃなくって?」
「ひょっとしたら、そうかもしれませんね」と公爵はやっとの思いでこれだけいった。彼の胸はおそろしくふるえて、波うつのであった。
「あたしも、あなたはわかってくださると思ってたわ」と彼女はものものしげな調子でいった。「S公爵やエヴゲーニイさんは、このふたとおりの知恵のことが、ちっともわからないんですよ。アレクサンドラだってやっぱしそうよ。ところが、どうでしょう、おかあさまはわかるんですの」
「あなたはおかあさんによく似てらっしゃいますからね」
「なぜですの? ほんとうに?」とアグラーヤはびっくりしてたずねた。
「おお、ほんとうですとも」
「どうもありがとうございます」と彼女はちょっと考えてからいった。「おかあさまに似ているなんて、あたしほんとに嬉しいわ。してみると、あなたはおかあさまをよっぽど尊敬してらっしゃいますね?」この間の無邪気なことにはすこしも気がつかず、彼女はこういい足した。
「しますとも、尊敬しますとも。そして、あなたがそうして直覚的に悟ってくだすったのを、ぼくはたいへん嬉しく思います」
「あたしも嬉しいんですよ。なぜって、ときおり人がおかあきまを……ばかにするのに気がついたからなの。でねえ、これからがかんじんなお話なのよ。あたしは長いこと考えつづけて、とうとうあなたを選び出したんです。あたしは家の人にばかにされるのいやですわ。かわいいおばかさん扱いにされるなんて、いやなこったわ。人にからかわれるのも大嫌い……あたしはこういうことにすぐ気がつくたちだから、エヴゲーニイさんもきっぱりことわってしまったんですの。だって、みながあたしを嫁にやりたがるのが、あたしいやで仕方がないんですもの! あたしはね……あたしはね……あの、あたしは家を飛び出したいの。その加勢をしてもらおうと思って、それであなたをお呼びしたんですよ」
「家を飛び出すうて?」と公爵は叫んだ。
「ええ、ええ、家を飛び出すのよ!」異常な憤怒の情に燃えながら、彼女はふたたびこう叫んだ。「あたしはいつまでもいつまでも、あかい顔をさせられるのはいやですわ。あたしはあの人たちの前で――S公爵やエヴゲーニイさんの前で、あかい顔をするのはいや、だれの前でもいやよ。だから、あなたを選び出したんですの。あなたになら、なんでもすっかり話してしまいたいわ。いったんこうと思ったら、いっとう大切なことでもね。だから、あなたのほうでも、なにひとつあたしに隠しちゃだめよ。あたしはね、自分自身に話すような具合に、なんでも話すことのできる人が、せめてひとりだけでもほしいんですの。みんなが急にこんなことをいいだしたんですよ――あたしがあなたを恋して、待ちこがれてるなんてね。それはまだあなたがお帰りにならない前のことだったんですの。だから、あたしあの人たちにあなたの手紙を見せなかったわ。ところが、今ではみんなそんなことをいってるでしょう。だけど、あたしは勇敢な女になって、何ものをも恐れたくないと思ってますの。あたし、社交界の舞踏会なんか回って歩きたくない。あたしはなにか人類に貢献したい。で、もうずっと前から家出しようと思ってましたの。だって二十年のあいだ、まるで壜の中で栓でもされたような暮らしをしてるんですもの。そして、親たちは私をお嫁にやりたくって困ってるじゃありませんか。あたしは十四の年に、家出をしようと思ったことがあるのよ。もっとも、その時分はほんとうのおばかさんだったけど、今はすっかり計画ができあがってしまったから、よく外国のことを聞こうと思って、あなたを待ってましたのよ。だって、あたしまだ一つもゴシック式の教会堂を見たことがないんですもの。あたしローマにも行きたいし、学者の書斎も見たいし、パリで勉強もしたいわ。この一年間、準備のつもりで勉強して、ずいぶん本を読んだのよ、禁制の本をすっかり読んでしまったわ。アレクサンドラもアデライーダも、どんな本を読んだってかまわないけど、あたしはどれでもってわけに行かないの。あたしには監視がついてるんですもの。あたし、姉たちとは喧嘩したくないけれど、両親にはもうとっくに宣言してあるんですよ――もうこれからはあたしの社会上の位置をすっかり変えてしまいますってね。あたしは教育事業に従おうと決心して、あなたを当てにしてるんですよ。なぜって、あなたは子供が好きだっておっしゃったからですの。ねえ、あたしたち、いっしょに教育に従事することができるでしょうか?今すぐでなくって、さきになってからよ。いっしょに社会に貢献しようじゃありませんか。あたし将軍の娘でいたくないんですもの……ねえ、あなたは大学者でしょう?」
「おお、まるっきり違います」
「それは残念ですこと、あたしはまたそう思ってたんですよ……なんだってあんなことを考えたのかしら? でも、あなたはやはりあたしを指導してくださるでしょうね、あたしあなたを選んだのですから」
「それはばかばかしいこってすよ、アグラーヤさん」
「あたしどうしても、どうしても家を飛び出すわ!」と彼女は叫んだ。その目はふたたび輝きはじめた。「もしあなたが承知してくださらなければ、あたしガーニャと結婚するわ。家の人が私のことを、けがらわしい女だと思って、とてつもないことで非難をかぶせたりするのは、あたしいやです」
「あなたはいったい正気なんですか?」公爵はほとんど席から飛びあがらんぽかりであった。「どんな非難です、だれが非難するのです?」
「家の人みんなです、おかあさまも、姉ふたりも、父も、S公爵も、あのけがらわしいコーリャまでいっしょになって! よしむきだしにいわないまでも、腹の中でそう考えててよ。あたしあの人たちみんなに――父にも母にも面とむかって、そういってやったわ。するとおかあさまはその日一日、病人のようになってしまったのよ。そして、次の日アレクサンドラとお父さんがあたしに向かってね、おまえは自分でどんなでたらめをしゃべったかわからないのだっていうから、あたしその場で、いきなりつけつけといってやったわ――あたしもう子供じゃないから、なんでも、どんな言葉でもわかっています。もう二年も前からいろんなことを知るために、わざとポールードーコックの小説を二冊も読みました、つて。おかあさまはこれを聞くと、あやうく気絶するほどだったわ」
 公爵の頭には急に奇妙な考えが浮かんだ。彼はアグラーヤの顔をじっと見つめて微笑した。彼は自分の前にすわっているのが、かつてガーニャの手紙を高慢な調子で読んで聞かした、あの気取った尊大な娘と同じ人だと、どうしても信じられなかった。あの尊大で峻厳な美人の中に、じっさい今[#「今」に傍点]でもすべての言葉[#「すべての言葉」に傍点]はわからないらしいねんねえが、どうして潜んでいるかしらと、不思議でならなかった。
「あなたはいつも家でばかり暮らしてらしったのですか?」と彼はきいた。「つまり、ぼくのいうのは、どこかの学校へお通いにならなかったかってことなんです。どこかの専門学校で勉強なさらなかったんですか?」
「どこへも一度も通ったことはありません。いつもいつも壜の中に栓をされたようにして、家にばかりすわってましたわ。そして、壜の中からすぐお嫁に行こうというんですよ。なんだってまたお笑いになるの? どうも見たところ、あなたもやはりあたしをばかにしてらっしゃるんですね? そして、あの人たちの肩を持つんですね?」と彼女はいかつく眉をしかめてつけ足した。「あたしに腹を立てさせないでちょうだい。それでなくってさえ、自分がどうなってるかわからないんですから……あなたはきっとあたしがあなたにほれこんで、あいびきに呼び出したものと信じきって、ここへいらしったに相違ないわ」と彼女はいらだたしげにいった。
「ぼくはほんとうに昨夜そう思って、心配したんですよ」と公爵は無邪気につぶやいた(彼はおそろしく狼狽していた)。「しかしきょうはけっして……」
「えっ!」とアグラーヤは叫んだ。下くちびるが急にふるえだした。「心配したんですって! とんでもない……あたしがあんたに……まあ、とんでもない! あなたはたぶんこんなことを考えたんでしょう――あたしがあなたをここへ呼んで、網にかける、するとだれかに見つけられて、あなたといやでも応でも結婚しなければならなくなる……」
「アグラーヤさん、よくまあ恥ずかしくないこってすねえ。あなたの清い無邪気な胸に、どうしてそんなけがらわしい考えがわいたのです? ぼく、誓って申しますが、あなたは自分でおっしゃったことを、ひとことだってほんとうにはしていないんです……あなたは自分で自分のいったことが何だかわからないんです!」
 アグラーヤは自分で自分の言葉に驚いたかのように、しつこく目を伏せたまますわっていた。
「あたしちっとも恥ずかしくないわ」と彼女はつぶやいた。「なぜわたしの胸が無邪気だってことがわかるんですの? じゃ、どうしてあのときあたしに恋文なんかよこしたんです?」
「恋文? ぼくの手紙が恋文ですって? あの手紙は非常に敬意のこもったものなんですよ。あの手紙はぼくの生涯で最も苦しい瞬間に、ぼくの心から自然にあふれでたんです! ぼくはあのときなにかの光明のようにあなたのことを思い出したんです、ぼくは……」
「ま、よござんす、よござんす」と彼女は急にさえぎったが、その調子はもう前とちがって、すっかり後悔したような、というよりむしろおびえたようなふうであった。そして、やはりまともに彼の顔を見ないようにしながら、すこし寄りかかりぎみで、どうか怒らないでくれと頼むかのごとく、彼の肩にちょっとさわろうとさえした。「よござんすよ」と彼女はおそろしく恥じ入りながらつけ加えた。「あたしどうやらとてつもないばかげたいいかたをしたようね。あれはその……あなたを試してみるためなんですの。どうぞはじめからいわなかったことにしてくださいね。もしお気にさわったらゆるしてください。そんなに真正面からあたしの顔を見ちゃいや、横を向いててくださいな。あなたはけがらわしい考えだとおっしゃいましたが、あれはね、あなたをひと針つこうと思って、わざといったことたんですよ。あたしどうかすると、自分でも恐ろしいようなことがいいたくなって、ぷいと口に出してしまうのよ。ところであなたはたった今、あの手紙は自分の生涯でいっとう苦しい瞬間に書いたとおっしゃいましたね……あたしどんな瞬間だが知ってますわ」ふたたび地上を見つめながら、彼女は低い声でいい足した。
「ああ、あなたにいっさいの事情がわかったらなあ!」
「あたしすっかり知ってるわ!」と彼女はさらに興奮して叫んだ。「当時あなたはあの卑しい女といっしょに駆落ちして、まるひと月のあいだ同じ部屋で暮らしてたんです……」
 彼女がこういったとき、その顔はあかくならないで青ざめてきた。そして、まるでわれを忘れたかのように、いきなり席を立ったが、すぐまた気がついて座にかえった。くちびるはまだ長いことふるえつづけていた。公爵はこの思いがけない言行にすっかり面くらって、どういうわけか考える暇もなかった。
「あたしあなたが大嫌いよ」とつぜん彼女はぶち切るようにこう言った。
 公爵は返事しなかった。ふたりはまた一分間ほど黙っていた。
「あたしはガーニャさんが好き……」と首をかしげつつ早口にいったが、その声はやっと聞こえるか聞こえないかであった。
「それはうそです」同様にささやくような声で公爵はいった。
「とおっしゃると、つまり、あたしがうそつきだってことになりますね。いいえ、ほんとうです。あたしは、おとといこのベンチの上であの人に誓ったのよ」
 公爵はびっくりして、いっとき考えこんだ。
「それはうそです」と彼は断固としていった。「そんなことはみんなあなたが考え出したんです」
「まあ、おそろしくていねいな口のききかたですこと! だってね、あの人は生まれ変わったようにいい人になりました。そして、あたしを自分の命より以上に愛してるんです。あの人はそれを証明するために、あたしの前で自分の于を焼いて見せました」
「自分の手を焼いたんですって?」
「ええ、自分の手を。ほんとうになさろうとなさるまいと、あたしにとっては同じことだわ」
 公爵はふたたび黙りこんだ。アグラーヤの言葉に冗談|気《け》はなかった。彼女はぷりぷりしていた。
「じゃ、なんてすか。もしそんなことがここであったとすると、あの人はここへろうそくでも持って来たんですか? さもなくば、ぼく考えがつきません……」
「ええ、ろうそくをね。それがどうしたんです」「丸のままのですか、それとも燭台に立ってるのですか?」
「ええ、あの……いいえ……半分ばかりよ……燃えさしよ……いいえ……丸のまんまの――まあ、そんなことどうでもいいわ、よしてちょうだい……そしてお望みなら、マッチも持って来たことにしましょうよ。ろうそくをともして、まる三十分もその中に指を突っこんでたの。こんなことほんとうらしくなくって?」
「ぼくきのうあの人に会ったけれど、指はなんともなかったですよ」
 アグラーヤは急に子供のようにふっと吹き出した。
「ねえ、今あたしが何のためにうそをついたかわかって?」とつぜん彼女はまだくちびるに微笑をただよわせつつ、子供らしい心安さで公爵の方へふり向いた。「それはね、うそをつくときに、なにかしらとても珍しい奇抜な……つまり、その、なんですわ、とても類の少ない……というより、まるで類のないようなことを、ちょいと上手に挟むと、そのうそが、たいへんほんとうらしくなるものよ! あたしそれに気がついて応用してみたけど、まずかったわねえ。だって、あたし上手にできないんですもの……」
 ふと彼女は心づいたように、また眉をしかめた。
「あのときあたしが」まじめなというよりむしろ愁わしげな目つきで、公爵をながめながら、彼女はこういい足した。「あのときあたしが『貧しき騎士』をあなたに読んで聞かしたのはね、あれでもって、あなたのある一つの性質を、賛美しようと思ったんですけど、またそれといっしょにあの行状について、あなたの面皮をはいであげようと思ったんですの。そして、あたしが何もかもすっかり知ってるってことを、あなたに知らせてあげたかったの……」
「あなたはぼくに対しても……また今あなたが恐ろしい言いかたをなすった不仕合わせな女に対しても、不公平な考えを持っていらっしゃいますよ、アグラーヤ」
「そのわけはね、あたしが何もかも承知してるからですよ、だから、あんないいかたをしたんですよ! あたしは、半年前にあなたが大勢の前で、あの女に結婚を申し込んだことを知ってますよ。口を出さないでちょうだい、このとおりあたし注釈ぬきで話しますから、そのあとで、あの女はラゴージンといっしょに逃げました、それからあなたはあの女といっしょに、どこかの村とか町とかで暮らしたでしょう。すると、そのうちにあの女はなんとかいう男のところへ逃げていったのよ(アグラーヤはおそろしく顔をあからめた)。そののち、女はまるで……まるで気ちがいみたいに自分を愛してくれるラゴージンのところへ、またぞろ戻って来たんです。それからまたまた、あなたはやはりたいへん利口なおかただから、あの女がペテルブルグへ帰ったと聞くとすぐ、そのあとを追って、今度ここへかけつけていらしったのよ。ゆうべもあの女をかばおうとして飛び出しなさるし、今も今で夢にまでごらんになる……ほらね、あたしすっかり知ってるでしょう。ほんとうにあなたはあの女のために、あの女のためにここへおいでになったんでしょう」
「ええ、あの女のためです」と公爵は小さな声で答えた。彼はもの思わしげな沈んだ様子で首を傾げていたので、アグラーヤがどんなに目を輝かしつつ自分を見つめているか、まるっきり気がつかなかった。「あの女のためですが、ただちょっと……知りたいことがあって……ぼくはあの女がラゴージンといっしょになって、幸福を得ようとは信じられないものですから……そのう、あの女のためにどんなことをしてやれるか、どうして助けることができるか、自分でもわからないくせにやって来たんです」
 彼は身震いしてアグラーヤを見やった。こちらは憎悪の色を浮かべながら、彼の言葉を聞いていた。
「何のためかわからないくせにいらしったのなら、つまりあなたはあの女に首ったけなんでしょう」とうとう彼女はこういった。
「いいえ」と公爵は答えた。「いいえ、すこしも愛してはいません。おお、ぼくがあの女といっしょに暮らした時分のことを追想して、どんな恐怖を感じるか、それがあなたにわかったら!」
 こういったとき、彼の身内を戦慄が流れたほどである。
「すっかりいってごらんなさい」とアグラーヤはいった。
「あの事件について、あなたにお聞かせできないようなことは、一つもないのです。なぜあなたに――あなたひとりだけに、あのことをすっかりお話ししたくなったのか、ぼく自身にもわかりません。もしかしたら、ほんとうにあなたをいっしょうけんめいに愛していたのかもしれません。あの不仕合わせな女は自分が世界じゅうでいちばん堕落した、罪ぶかい人間だと、深くふかく信じきっているのです。ああ、あの女を辱しめないでください、石を投げないでください。あの女はいわれなくけがされたという自覚のために、過度に自分を苦しめているのです。しかも、どんな罪があるんでしょう。ああ、まったくそら恐ろしい! あの女はひっきりなしに逆上して叫んでいます、『わたしは自分の罪を認めるわけに行かない、わたしは世間の人の犠牲だ、放蕩者の悪党の犠牲だ』と叫んでいます。しかし、人にはどんなことをいうにもせよ、あの女は自分からさきに立って、自分のいうことを信じていないのです。それどころか、心の底から自分を……に非ぶかい人間だと思いこんでるのです。ぼくがこの迷妄を追っ払おうとしたとき、あの女の苦痛はじつに極度にまで達して、ぼくの心はあの恐ろしい時代のことを覚えているあいだは、とうていいやされそうもないほど傷つけられてしまいました。まるでぼくの心は永遠に突き剌されてしまったみたいなのです。あの女がぼくのところから逃げ出したのは、なんのためかごぞんじですか? つまり、自分が卑しい女だってことを証明するためなんですよ。しかし、なにより恐ろしいのは、-あの女がそれを自分でも知らないで、ただたんとなく卑劣な行為をしでかして、『ほら、おまえはまた新しく卑劣なことをした、してみると、おまえはやっぱり卑劣な動物なんだ!』と『自分で自分をののしりたい、必然的な心内の要求を感じたために逃げ出した――その事実なんです。おお、アグラーヤ、あなたにはこんなこと、おわかりにならないかもしれませんね! しかし、こうして絶え間なく自分のけがれを自覚するのが、彼女にとってはなにかしら不自然な、恐ろしい愉楽かもしれないんです。ちょうどだれかに復讐でもするような快楽なんですね。ときどきぼくはあの女が、周囲に光明をみるようになるまで導いてやりましたが、すぐにまたむらむらと取りのぼせて、果てはぼくが一段たかくとまって澄ましてるといって、ひどくぼくを責めるようになりました(ところが、ぼく、そんなこと考えてもいなかったですよ)。そして、ぼくの結婚申し込みに対して、こんなことをむきつけていうんです――わたしは高慢ちきな同情や、扶助や、ないしは「ご自分と同じように偉くしてやろうという親切」なんか、けっしてだれからも要求しません、なんてね。あなたはゆうべあの女をごらんになりましたが、いったいあんな仲間といっしょになって、幸福を感じてるとお思いですか、いったいあれがあの女の伍すべき人たちでしょうか? あなたはごぞんじないでしょうが、あの女はなかなか頭が進んでるんですよ、なんでも理解できるんですよ! ときどきぼくもびっくりさせられることがあるくらいです!」
「あなたは、あちらでもやはりそんな……お説教をなすったんですの?」
「おお、どういたしまして」と公爵は、質問の語気に気もつかず、考えぶかそうに答えた。「ぼくはほとんどしじゅう黙ってばかりいました。実際はときおりいいたいと思ったんですけれど、なんといっていいかわからないことが多かったのです。ねえ、そうでしょう、まるで口をきかないほうがいいような場合右あるでしょう。ああ、ぼくはあの女を愛しました。非常に愛しました……けれど、あとになって……あとになって、あの女はすっかり察してしまいました」
「何を察したんですの?」
「つまり、ぼくがあの女を憐れんでるだけで、もう……愛してはいないことを」
「けれど、もしかしたらあの女は、いつかいっしょに逃げ出したあの地主に、ほんとうにほれこんでたのかもわかりゃしないわ」
「いや、ぼくにはすっかりわかっています、あれはその地主を冷笑したばかりです」
「で、あなたのことはけっして冷笑しませんでした?」
「いいえ、あの女は面あてに冷笑しました。おお、あの時分は腹立ちまぎれに、おそろしくぼくに食ってかかって――そして自分でも苦しんでいました! けれど……あとで……ああ、もうあのことを思い出させないでください、田心い出させないで!」
 彼は両手で顔をおおった。
「あなたはごぞんじないんですの、あの女がほとんど毎日あたしに手紙をよこすのを?」
「じゃ、ほんとうなんだ!」と公爵は不安げに叫んだ。「ぼくちらと小耳に挟んだけれど、それでもほんとうと思いたくなかったのです」
「だれから聞きました?」アグラーヤはおびえたようにぴくりとなった。
「ラゴージンがきのうぼくにそういいました。はっきりしたいいかたじゃなかったけれど」
「きのう? きのうの朝ですの? きのうのいつごろ、音楽隊ゆきの前? あと?」
「あとです、晩の十一時すぎでしたから」
「ははあ、なるほどね、もしラゴージンが……ところで、その手紙にどんなことが書いてあるかごぞんじ?」
「ぼくはどんなことだって驚きゃしません。あの女は気ちがいですからね」
「これがその手紙ですの(アグラーヤはポケットの中から、封筒に入った三通の手紙を取り出して、公爵の前へほうり出した)。もうこれで一週間というもの、あたしにあなたと結婚しろといって、泣きつくように頼んだり、おだてたり、誘惑したりしてるんですよ。あの女は……ええ、そうね、あの女は気ちがいとはいい条、利口なんですよ、あなたがあたしよりずっと利口だ、とおっしゃったのは、まったくですわ……あの女はこんなことを書いてよこすんですの――、わたしはあなたを慕わしく思っています、せめて遠くからでもお顔が見たいと思って、機会を求めてるんですとさ。それからね、公爵はあなたを愛していらっしゃる、わたしはそれを知っています、ずっと前から気がついています、わたしはあちらにいる時分から、公爵とあなたのことをおうわさしていました。わたしは公爵が幸福になられるのを見とうございます、そして、その幸福はすなわちあなただということを、かたく信じていますですって……あの女の手紙の書きかたは……ぞんざいで奇態だわ……あたしはだれにもこの手紙を見せないで、あなたを待ってたんですのよ。いったいなんの意味かあなたごぞんじ? ちっとも見当がおつきになりません?」
「それは狂気の沙汰です、あの女が気ちがいだって証拠です」公爵はいったが、そのくちびるはふるえていた。
「あなたもう泣いてるんじゃありません?」
「いいえ、アグラーヤ、ぼく泣いてやしません」と公爵は相手を見つめた。
「この場合どうしたらいいでしょう。なんとか意見を聞かしてくださいな、あたしこんな手紙をもらうのはいやですわ!」
「おお、うっちゃっておおきなさい、お願いです!」と公爵は叫んだ。「こんな暗黒の中であなたに何ができましょう。あの女がもう手紙なんかよこさないように、全力をそそぎます」 「もしそうなら、あなたは不人情な人よ!」とアグラーヤが叫んだ。「あの女はけっしてあたしなんか慕ってるんじゃなくって、あなたを、あなたひとりを愛してるってことが、いったいあなたはおわかりにならないんですの! いったいあなたはあの女の全部を見透かしてしまったくせに、これだけが目にとまらないんですの? これがどんなことだか、この手紙がどんな意味を含んでるか、あなたご存じ? これは嫉妬です。いいえ、嫉妬以上です! あの女は……あなたはこの手紙に書いてあるとおり、ほんとうにあの女がラゴージンと結婚するとお思いなすって? あの女はあたしたちが式を挙げたら翌日、自害してしまいますI」 公爵はぴくりと身をふるわした。彼は心臓の凍るような思いであった。けれども、また驚きの念をもってアグラーヤを見つめた。このねんねえがもうとうから一人前の女になっているのだと考えると、妙な心持ちがした。
「アグラーヤ、ぼくは神さまにでも誓います。あの女の心を静めて、幸福な身の上にするためには、ぼくは命を投げ出しても惜しくないと思っています。しかし……ぼくはもうあの女を愛するわけに行きません。あの女もそれをよく承知しています!」
「じゃ、ご自分を犠牲になさるがいいわ、それがあなたによく似合ってよ! ほんとうにあなたは偉い慈善家ねえ。それからね、あたしのことを『アグラーヤ』なんていわないでちょうだい……あなたはさっきあたしのことを『アグラーヤ』と呼び捨てにしたでしょう……ええ、あなたはぜひとも、かならずあの女を復活させなくちゃならないわ。そして、その心を鎮めて落ちつかせるために、またいっしょに駆落ちしなくちゃならないわ。だって、あなたはほんとうにあの女を愛してらっしゃるんですもの!」
「ぼくはそんなふうに自分を犠牲にすることができなかったのです。もっとも、一度そうしたいと思ったことがあるけれど……いや、ことによったら、今でもそう思ってるかもしれませんがね。しかし、ぼくといっしょになったら、あの女の身の破滅だってことは、ぼくたしかに[#「たしかに」に傍点]知っています。だから、うっちゃっておくんです。ぼくはきょうの七時に、あの女に会わなくちゃならなかったんですが、たぶんもう行きますまい。ああした誇りの強い女ですから、ぼくの愛なんかけっしてけっして許しゃしません――そうして、ぼくらはふたりとも身を滅ぼしてしまうのです。これは不自然なようですが、この事件ではいっさいがことごとく不自然なんですからね。あなたは、あの人がぼくを恋してるっていいますが、あれがいったい恋でしょうか? ぼくがあんな苦痛を受けた以上、あれを恋というわけにはゆきません。ええ、まったく別なものです。恋じゃありません!」
「まあ、なんて青い顔でしょう!」と、ふいにアグラーヤはびっくりして、こういった。
「なんでもありません。あまり眠らなかったので、からだが弱ったのでしょう。ぼくは……ぼくたちはあのときほんとうにあなたのことをうわさしたんですよ、アグラーヤ……」
「じゃ、あれはほんとうなんですね? あなたはほんとうにあの女とあたしのうわさをすることができたんですか[#「あの女とあたしのうわさをすることができたんですか」に傍点]? それに、どうしてあなたはあたしを愛したりなんかできたんですの? あのときたった一度、あたしをごらんになったきりじゃありませんか」
「どういうわけか自分でもわかりません。あの当時のぼくの真っ暗な心の中に、新しい曙が空想されたのです……あるいはほんとうにひらめいたのかもしれません。どうしてあなたのことを第一番に考えたのか、自分でもわかりません。あの手紙にわからないと書いたのは、ほんとうのことなんです。それはみんな、あの当時の真っ暗な心から生じた空想なんです……その後、ぼくは仕事をはじめました。で、三年間こちらへ来ないはずだったんです……」
「じゃ、つまりあの女のためにいらしったんですね?」
 アグラーヤの声の中には、なにかふるえるようなものがあった。
「ええ、あの女のためです」
 暗澹たる沈黙の二分間が過ぎた。アグラーヤは席を立った。
「もしあなたのおっしゃるように」と彼女はふるえ声でいいだした。「もしあなたの信じてらっしゃるように、あの……あなたの女が……気ちがいだとすれば、そんな気ちがいの空想に用はありませんからね……公爵、お願いですから、この三本の手紙を持って行って、あたしからだといってあの女にたたきつけてください! もしあの女が」とアグラーヤは急に調子を張って、「もしあの女がいま一度あたしのところへほんの一行でも書いてよこしたら、あたしはおとうさんにいいつけて、懲治監へ入れさせるからって、あの女にそういってください……」
 公爵は驚いて飛びあがり、思いがけないアグラーヤのものすごい顔をながめていた。すると、とつぜん目の前に霧がかかったような気がしてきた。
「あなたがそんなことを感じるはずはありません……それはうそです!」と彼はつぶやいた。
「いいえ、ほんとうです! ほんとうです!」ほとんどわれを忘れて、アグラーヤは叫んだ。
「なにがほんとうなんだって、どうほんとうなの?」ふたりのそばでだれかのおびえたような声が響いた。ふたりの前にはリザヴェータ夫人が立っていた。
「ほんとうというのはね、あたしがガーニャのお嫁さんになるってことなのよ! あたしがガーニャに恋して、あすにもいっしょに駆落ちしようってことなのよ!」とアグラーヤは母にくってかかった。「わかって? おかあさまの好奇心はそれで満足して? そして、このことに賛成してくだすって?」
 こういい捨てて、彼女はわが家をさしてかけだした。
「いけません、あんたは帰らないでください」と夫人は公爵を引きとめた。「お願いですから、家へちょっと相談に寄ってくださいな……ああ、なんという苦しみだろう、わたしは夜っぴて眠らなかったんですよ」
 公爵は夫人のあとからついて行った。

      9

 自分の家へ入ると、リザヴェータ夫人は、いきなり取っつきの部屋に足をとめた。もうそれよりさきへ進む元気がなかったので、すっかり力ぬけがしたように、長いすにどっかり身を落として、公爵に席をすすめることさえ忘れていた。それはかなり大きなホールで、真ん中には円テーブルがすえてあり、壁炉《カミン》の設備もでき、窓のそばのかさねだなには花がたくさんおいてあって、うしろの壁には庭への出入り口になっている別のガラス戸があった。すぐにアレクサンドラとアデライーダが入って来て、けげんなもの問いたげな様子で公爵と母をながめていた。
 令嬢たちは別荘へ来てから、たいてい朝九時ごろに起床した。ただアグラーヤがこの二、三日、すこし早く起き出して、庭へ散歩に出るようになったが、それにしても七時などという時刻ではなく、八時か、さもなければもうすこし遅かった。さまざまな心づかいのため、ほんとうにひと晩じゅう眠られなかった夫人は、もうアクラーヤが起きたころだと考えたので、娘と庭で出会うつもりで、わざわざ八時ごろに床を出た。が、庭にも寝室にも彼女はいなかった。そこで大人はすっかり心配になって、姉たちを呼びおこした。アグラーヤがもう六時すぎに公園へ出たということを下女から聞くと、姉たちは空想家の妹の新しい空想を冷笑しながら、アグラーヤをさがしに公園に行ったら、あの娘はよけいおこりだすだろうと母に注意した。そして、今ごろはたぶん本を持って、緑色のペンチにすわってるだろう、なぜなら、三日前にS公爵があのベンチの辺の景色にはなんの奇もないといったために、あやうくアグラーヤと口論せんばかりであったから、といい添えた。
 ふたりのあいびきを見つけたうえに、娘の奇態な言葉を聞くと、リザヴェータ夫人はいろいろとわけがあって、おそろしくぎょうてんした。しかし、こうして公爵をひっぱって来てみると、急にみずから事をおこしたのを感じて、おじけづいた。『アグラーヤが公園で公爵に出会って話しこんだからって、なにが悪いんだろう。よしんば前から約束した出会いであったにせよ、なにもかまったことはないはずだ』
「ね、公爵」彼女はついに気を取り直して、「わたしがあんたをここへひっぱって来たのを、訊問のためだなんて思わないでちょうだい……きのうの晩のこともあったしするから、当分のあいだ、あんたとは会いたくなかったくらいなんですからね……」
 彼女はちょっと言葉につまった。
「しかし、それにしても、きょうぼくがアグラーヤさんに会ったのは、どういうわけだか聞きたくてたまらないのでしょう?」と公爵は落ちつきはらって、いいきった。
「そりゃあ、まあ、知りたいですとも!」と夫人はすぐにかっとなった。「歯にきぬ着せない言葉も、べつに恐れやしませんよ。なぜって、だれひとりばかにしたこともなければ、またばかにしようと思ったこともありませんからね……」
「とんでもないことを、ばかにするしないは別にして、知りたいのがあたりまえです。あなたは母親ですもの。ぼくたちが正七時に、緑色のベンチのそばで会ったのは、きのうアグラーヤさんからお招きを受けたからです。お嬢さんはゆうべ手紙で、ぜひぼくに会ったうえ、重大な件について話したいと。こういう意志をお伝えなすったのです。ぼくたちは約束どおり会見して、まる一時間、もっぱらお嬢さんおひとりの一身に関することで話をしました、それっきりです」
「もちろん、あなた、疑いもなくそれっきりです」と夫人は威を帯びた調子でいった。
「りっぱですわ、公爵!」アグラーヤがとつぜん部屋へ入って来て、こういった。「あたしのことを、卑劣なうそなんかつけない女だと思ってくだすったのね。真底からお礼を申しますわ。おかあさま、もうたくさんよ。それともまだなにか訊問なさるつもり?」
「これ、アグラーヤ、わたしはこれまでまだ一度もおまえのまえで、あかい顔をするようなことはありませんでした。もっともおまえは、わたしにあかい顔をさせたほうが嬉しかったのかもしれないがね」と教訓じみた調子で夫人はいった。「さようなら、公爵、お騒がせしてすみませんでした。どうぞわたしは変わりなくあなたを尊敬しているものと信じてください」
 公爵はすぐに両方へ会釈して、無言のまま出て行った。アレクサンドラとアデライーダはにたりと笑って、なにやらふたりでささやき合った。夫人はいかつい目つきをしてふたりをにらんだ。
「おかあさま、あれはね」とアデライーダが笑いだした。「ただ公爵があんなにりっぱなお辞儀をなすったからよ。どうかすると、まるで粉袋みたいな恰好をしてるくせに、今なんぞは思いがけなく、まるで……まるでエヴゲーニイさんかなんぞのような……」
「礼儀や品格を教えるのは心そのもので、踊りの先生じゃありません」と夫人はものものしくこういって、アグラーヤのほうをふり向きもせずに、二階の居間へ行ってしまった。
 公爵が九時ごろに家へ帰ってみると、露台に娘のヴェーラと女中がすわっていた。ふたりはいっしょにきのうの騒ぎのあと始末をして、片づけたり掃いたりしていた。
「まあ、いいあんばいにお帰りまでに片づいたわ」とヴェーラが嬉しそうにいった。
「お早う。ぼくは少々目まいがしましてね。寝か足りないもんだから。ひと寝入りしたいものですな」
「きのうのように露台で? よろしゅうございます。あたしお起こししないように、みなに申しつけて置きますわ。おとうさんはどこかへ出かけました」
 女中は出て行った。ヴェーラもそのあとからついて行こうとしたが、なにを思ったか引っ返して、心配そうに公爵に近づいた。
「公爵、どうかあの……不仕合わせな人をかわいそうだと思ってくださいまし。そして、きょうあの人を追い出さないでくださいまし」
「けっして追い出しなんかしません。あの人の思いどおりにします」
「もうなんにも仕でかしゃしませんから……あまり厳重に取り扱わないでくださいましね」
「おお、どうしてそんなことを、なんの必要があります?」
「それから……あの人をからかわないでくださいまし、それが一番のお願いでございますわ」
「おお、けっしてけっしてそんなことはしません!」
「あなたみたいなおかたにこんなことをいうなんて、あたしほんとうにばかですわねえ」とヴェーラは真っ赤になった。「あなたはお疲れでいらっしゃいますけど」もう出て行きそうにして、半分向きを変えながら、彼女は急に笑いだした。「でも、今あなたは美しい目つきをしてらっしゃいますわ……いかにも仕合わせらしい……」
「ほんとうに仕合わせらしいですか?」と公爵はいきいきした調子でたずね、嬉しそうに笑いだした。
 しかし、いつも男の子みたいに無邪気で、遠慮のないヴェーラが、急になにかきまりわるそうな様子をして、ますます顔をあからめながら、いつまでも笑いやまずに、いそいそと部屋を出て行った。
『なんという……かわいい娘だろう……』と公爵は考えたが、すぐに彼女のことを忘れてしまった。彼は柔らかい長いすとテーブルのすえてある露台の片隅へ行って腰をおろすと、両手で顔をおおって、十分ばかりじっとしていた。と、ふいにせかせかと心配らしい様子でかくしへ手を突っこみ、三通の手紙を取り出した。
 けれどもふたたび戸が開いて、コーリャが入って来た。公爵は手紙をもとへ戻して、またその時を遠ざけることができたのを喜ぶように彼を迎えた。
「どうも大変でしたね!」とコーリャは長いすにすわるが早いか、こういう性質の人の常として、いきなり本題に入った。「あなたは今イッポリートをどう見ていらっしゃいます? 尊敬しませんか?」
「どうしてそんなことが……しかしコーリャ、ぼくは疲れているんですよ……それに、あの話をまた持ち出すのはあまり気が進まないんでね……しかし、あの人はどんなです?」
「寝ていますよ、それにまだ二時間ぐらい寝通しでしょうよ。あなたが家で寝ないで、公園を散歩なすったのはよくわかります……もちろん興奮なさるのはあたりまえですよ!」
「ぼくが公園を散歩して家で寝なかったのを、どうして知ってるんです?」
「ヴェーラがいま教えてくれたんです。そして、ぼくに入っちゃいけないってとめたんですが、がまんしきれなくって、ちょっと……ぼくはこの二時間、ベッドのそばで寝ずの番をして、たった今コスチャ(レーベジェフの息子)を代わりにすわらしたところなんです。ブルドーフスキイは出かけました。じゃ、公爵、おやすみなさい。グッドナイト……じゃないグッドデイ! ときに、ぼくは驚いちまいましたよ」
「そりゃもちろん、ああした……」
「いいえ、公爵、違います。ぼくは『告白』に驚いたのです。ことに神と来世を説いたあたりにね。あすこにはいだーいな思想が含まれています!」
 公爵は愛想のいい目つきでコーリャをながめた。彼はむろん、すこしも早くこの偉大な思想を話したくて来たのである。
「だけど、大切なのは、単に思想ばかりじゃなくって、ぜんたいの背景なんです! もしあれをヴォルテールや、ルソーや、プルードンが書いたなら、一読して注目はしますけれど、あれほどまで驚嘆しなかったでしょう。ところが、生きてる間がもう十分しか残ってないことを、正確に心得てる人間がこんなことをいうのは――じつに雄々しいじゃありませんか? じつにこれは人間品位が示しうる最高の独立じゃありませんか、じつに勇壮じゃありませんか……いや、ほんとうに偉大な精神力です! ところが、それにもかかわらず、雷管をわざと入れなかったなんて断言するのは、――卑劣です、不自然です! ねえ、公爵、ゆうベイッポリートはずるいことをいってぼくをだましたでしょう。ぼくは一度もあの男といっしょに袋をつめたこともなければ、ピストルを見たこともないのです。あの男がみんな自分でこめたんです。だからぼく、ふいをうたれて、面くらっちゃったんですよ。ヴェーラの話だと、あなたはあの男をここへ置いてくださるそうですね。まったく請け合います、けっして危険はありません。それに、ぼくらがそばを離れずに付いてるんですものね」
「きみがたの中でだれが昨夜あっちにいたんです?」
「ぼくに、コスチャに、レーベジェフに、ブルドーフスキイ。ケルレルはしばらく来ていましたが、すぐレーベジェフの部屋へ寝に行きました。だって、あの部屋にはもう寝る場所なんかないんですもの。フェルディシチェンコもやはりレーベジェフのところで寝て、けさ七時に帰って行きました。将軍はいつもレーベジェフのところにいるんですが、今はやはりちょっと出ています……レーベジェフはたぶんここへやって来ますよ。何用か知らないけれど、あなたをさがしているようですよ、二度もたずねましたもの。あなたおやすみになるんでしたら、あのひとを入れたもんでしょうか、どうでしょう? ぼくも行って寢ようや。ああ、そうそう、ひとつあなたにお話ししたいことがあった。ぼく、さっきおとうさんに面くらっちゃったんですよ、ブルドーフスキイが交代のために六時すぎ、いや、ほとんど六時にぼくをおこしたでしょう。ぼくがちょっと外へ出て見ると、おとうさんに出会ったんです。おそろしく酔っぱらって、人の見分けがつかないくらいなんです。まるで棒みたいにぼくの前に立っていましたが、ひょいと気がつくと、いきなり飛びかかって、『病人はどうだ? おれは病人の様子を見にきたところなんだぞ』というじゃありませんか。ぼくはこうこうだと教えてやったのです。『それはいい具合だ。しかし、おれがこうして歩いているのは、ひとつおまえに注意しておきたいことがあるからだ。そのためにおきて来たんだよ。ほかでもない、フェルディシチェンコの前では、なにもかもべらべらしゃべってしまうわけに行かんぞ……控え目にするんだぞ』つていうのです。公爵なんのことだがわかりますか?」
「へえ! しかし……われわれにとってはどうだっていいことです」
「ええ、そりゃそうですとも、ぼくたちはマソンじゃありませんからね。だから、ぼくはおとうさんがこれしきのことで、よる夜中わざわざおこしに来たというので、びっくりしちゃったんです」
「フェルディシチェンコは帰ったっていいましたね?」
「ええ、七時に。ぼくんとこへちょっと寄って行きました。ぼくはそのとき寝ずの番をしてましたからね。なんでもヴィルキンのところで、またひと寝入りするんだとかいいました――ええ、ヴィルキンという飲んべがいるんですよ。さあ、行こうっと! おや、レーベジェフさん……公爵は眠いとおっしゃるから、帰った、帰った!」
「公爵、ほんのちょっとのあいだ、わたしの目から見てすこぶる重大な件について、お話ししたいことがござりまして」と入ってきたレーベジェフはささやき声で、妙に恃むところありげな調子で、目苦しそうにこういうと、ものものしく会釈した。 彼はいま外から帰って来たばかりで、自分の住まいへも寄らなかったので、帽子を手に持っていた。その顔は一種とくべつなぎょうぎょうしい威厳を帯びて、しかもだいぶ心配そうであった。公爵はすわるようにいった。
「きみは二度もぼくを訪ねてくれたそうですねえ? おおかた、ゆうべのことで、まだ気をもんでるんでしょう?………」
「あの昨夜の小僧のことをおっしゃってるんですか、公爵?いいや、いや、きのうはすっかり頭がめちゃめちゃになっておりましたが……きょうは何ごとにつけても、あなたのご意見に『コントレカールしよう』とはぞんじませぬ」
「コントレカール……きみなんといったんです?」
「はい、コントレカールするといいましたので、これは今日よくあるように、ロシヤ語系の中へはいったフランス語(コントルカレ――さからう)でござります。しかし、たって間違ってないとは申しません」
「なんだってきみはきょうそんなに澄ましこんで、取りつくろってるんです。そして口をきくにも、一音一音つづるようないいかたをして……」と公爵は薄笑いを浮かべた。
「ニコライ君!」とレーベジェフは、感に堪えたような調子で、コーリャに向かっていい出した。「わたしは公爵にある大切なこと……」
「いや、わかってます、わかってます、ぼくの知ったことじゃありません! さよなら、公爵!」コーリャはすぐに立ち去った。
「あの子はさとりがいいから好きですな」とレーベジェフはあとを見送りながらいった。「なかなか活発な子ですよ、公爵、大変な災難に出会いました、ゆうべかそれともきょう明けがたか……はっきりした時刻はまだ決めかねますけれど」
「どうしたのです?」
 「公爵、四百ルーブリの金がわきポケットから失くなったのです。ひどい目にあいましたよ!」とレーベジェフは苦笑いをしながら、いい足した。
「きみが四百ルーブリなくしたんですって? それはお気の毒でしたね」
「とりわけ自分の労働で、正直に暮らしている貧しい人間にとりましてはね」
「もちろん、もちろんですとも、いったいどうして?」
「酒のためです。わたしはあなたを神さまと思ってご相談しますので。きのうの五時に、ひとりの債務者から四百ルーブリの金額を受け取って、汽車でここへ帰りました。紙入れはかくしへしまって置いたのです。略服をプロッタに代えるとき、金は自分の手に持っていたいと思って、フロックのほうへ入れ換えて置きました。それはある人に頼まれていたので……代理人の来るを待って、渡そうと考えたのです……」
「お話し中ですが、きみが貴金属品を抵当にして金を貸すって、新聞に広告してるというのはほんとうですか?」
代理人に任してるのです。所書きの下に自分の名は書いておりませんので。わずかばかりの金しか持ってないうえに、家族がふえたもんですから、お察しください、正当な利子でもって……」
「いいです、いいです、ぼくはただきいてみただけなんですよ、話の腰を折って失礼しましたね」
代理人はやって来ませんでした。そうこうしているうちに、あの不仕合わせな若い人をつれて来ました。ちょうど食事のあとでしたから、わたしはもうそのときから、いい心持ちになっていたのです。それから、あのお客人たちが見えて……お茶を飲みましたろう。で……わたしは身の破滅も知らないで浮かれだしたのです。もうだいぶおそくなって例のケルレルが入って来て、あなたの誕生日のことと、シャンパンを出せというお指図のことを知らせたとき、わたしは心というものを持っていますので(それは、公爵、あなたも認めてくださいましょう、それだけのことはしているのです)、もっともセンチメンタルな心とは申しませんが、恩を知る心なのです。それを自慢にしているので――とにかく心というものを持っておりますので、わたしはお出迎えを一倍荘厳にするためと、また親しくお祝いを申しあげる用意のために、わたしはちょうど着ていたぼろを、帰宅のさいぬぎ捨てたばかりの略服に換えようと思い立ちましてな、さっそくそれを実行しました。わたしがひと晩じゅう略服を着ていたのは、たぶんお気づきのこととぞんじます。服を着換えるときに、フロックのほうへ金入れを忘れたのでございます……神さまが罰を当てようとお思いなさるとき、まず一番に知恵を取り上げるというのは、ほんとのことでございます。で、やっとけさ七時ごろ目をさましたとき、気ちがいのように飛びあがって、第一番にフロックに手をかけて見ましたが、――ポケットはからっぽ! 紙入れは影も見えません!」
「ああ、それは不快なことですね!」
「まったく不快なので、いや、あなたはいまさっそくの機転で、ほんとうのいいまわしを発見なさいました」いくぶんずるいところのある調子でレーベジェフがおさえた。
「なんですって、しかし……」と公爵はもの思わしげな気づかわしそうな声でこういった。「だって、まじめな話なんですよ」
「まったくまじめな話なんで――それから、いま一つあなたの発見なすった言葉で……」
「ああ、もうたくさんですよ、いったい何を発見するんです? 大切なのは言葉じゃありません……もしやきみは酔ったまぎれにポケットから落としたような気はしませんか?」
「そうかもしれません。あなたが誠意をこめておっしゃったとおり、酔ったまぎれには何をするかしれたもんじゃございません、公爵! けれど、考えてもくださいまし。もしフロックを着かえるとき、ポケットから落としたとしたら、落とした品はそこの床の上にあるはずじゃありませんか。ところで、その品がどこにござります?」
「どこかテーブルのひきだしへでも入れなかったのですか?」
「すっかりさがしました。どこもかしこもひっくり返して見ました。まして、どこへも隠さず、どのひきだしもあけなかったのは、よく覚えとりますから仕方がありません」
「戸だなを見ましたか?」
「第一番に。それどころか、きょう何べんも見ました――おまけに、どうしてわたしが戸だなの中へ入れるはずがありましょう、公爵さま?」
「正直なところ、ぼくはおそろしく気がかりです。してみると、だれか床の上から拾ったんですね!」
「それとも、ポケットから盗み出したか、二つに一つです」
「ぼく、気になってたまらない。だって、だれかひとり……これが疑問ですからね!」
「まったく間違いのないところ、それが一番の問題なのです。いや、あなたが言葉や考えを正確に発見して、状況をはっきりお決めになる手際には驚き入りました……」
「ええ、冗談はよしてください。それどころか……」
「冗談ですって!」とレーベジェフは両手をうって叫んだ。
「ま、ま、ま、よろしい、ぼくおこってるんじゃありません、話がまるで違うので……ぼくはほかの人たちのことが心配になるんです。きみはだれを疑います?」
「それはしごく困難な……しごく複雑なことですて! 下女を疑うわけにはまいりません。あれは台所にばかりすわっとりましたからね。自分の子供らもはや……」
「あたりまえです!」
「してみると、客の中のだれかです」
「しかし、そんなことがありうるでしょうか?」
「ぜんぜん絶対的にありえないことです。しかし、ぜひそうでなくちゃなりません。とはいうものの、もし泥棒があったとしても、それはゆうべ大勢あつまってたときでなく、夜中か明けがたにここへ泊まった人が、だれかやったものと考えなくちゃなりませんて」
「ああ、なんということだ!」
「ブルドーフスキイとコーリャはとうぜん除外しますよ。ふたりともわたしの部屋はのぞきもしないですからね」
「むろんですよ、よしんば入ったところで! きみのところへ泊まったのはだれだれです?」
「わたしを入れて四人が、隣り合わせの部屋で寝ました。わたしと、将軍と、ケルレルと、フェルディシチェンコです。つまりわれわれ四人のうちひとりです」
「三人のうちひとりでしょう。しかし、だれでしょう?」
「わたしは公平を重んずるために、また順序として自分を勘定に入れたんですが。けれど、公爵、わたしは自分のものを盗むことなんかできませんからね。もっとも、そんなためしはよく世間にありますけれど……」
「ええ、じれったいなあ!」と公爵は堪えかねて叫んだ。「早く本題にお入んなさい、なにをだらだらやってるんです……」 
「してみると、残るところ三人です。まず第一に、ケルレル氏は一所不住の酔っぱらいで、ときとしては自由主義者、といっても、財布の点に限ってです。その他の点については自由主義的というより、古武士的傾向を持っております。はじめここで病人の部屋に寝とりましたが、床の上へじかべたではごつごつするといって、もう夜中になって、わたしどものほうへ引っ越して来ました」
「きみはあの人を疑うのですか?」
「疑いましたよ。わたしが七時すぎに、気ちがいのように飛びおきて、額に手を当てたとき、すぐに泰平の夢を見ている将軍をおこしました。フェルディシチェンコの奇妙な消えかたを頭に入れて置いて(これひとつだけでも、われわれの疑いをひきおこすのに十分ですからね)、ふたりはまず、ちょうど……ちょうど釘かなんぞのように寝そべっているケルレルを捜索することに決めました。すっかりさがしてみましたが、ポケットには一サンチームもありません、おまけに、一つとして穴のあいてないポケットはないというていたらくなんで。ただ青い格子縞の木綿ハンカチがありましたが、これも尾籠な有様でしてな。それから、いまひとつどこかの小間使から来た色文、これには金の請求と、なんだか妙なおどし文句が並べてありました。それから、あなたもごぞんじの三面記事の切抜きです。将軍は無罪と決めました。なお手落ちなく調べるために、本人をおこして、無理にゆさぶりおこしてみましたが、なんのことやらろくろく合点がゆかないふうで、口をぽかんとあけて、酔っぱらった顔の表情といったら、まがぬけて罪がなくって、いっそうばかげていました、この男じゃないです!」
「ああ、それで安心した!」と公爵は嬉しそうに溜息をついた。「ぼくもこの人を心配してたんですからね!」
「心配してらしった? してみると、何かよりどころがありましたんで?」レーベジェフは目を細めた。
「いやいや、どうして、ぼくはただ」と公爵は口ごもった。「心配してたなんて、とてつもないばかないいかたをしたもんですよ。お願いだからきみ、だれにもいわないでください 「公爵、公爵! あなたのお言葉はわたしの胸の中に納めときます……胸の底に! ここは墓の中同様に大丈夫でござい
ます!………」帽子を胸に押しつけながら、レーベジェフは感激の調子でこういった。
「よろしい、よろしい……そこで、今度はフェルディシチェンコですね? いや、つまり、フェルディシチェンロを疑うんですね、というつもりだったんですよ」
「ほかにだれがありましょう?」じっと公爵を見つめながら、レーベジェフは低い声でいった。
「そう、むろん……ほかにだれを……いや、その……なにか証拠がありますか?」
「証拠はあります。第一に七時、いや、六時すぎに消えてしまったこと」
「知ってます、さっきコーリャがいいましたよ、コーリャのところへ寄って、だれやらの家へ……名を忘れましたが、友達のところへもうひと寝入りしに行く、とかいったそうですね」 「ヴィルキンの家でしょう。じゃ、ニコライさんがもう話したのですか?」
「しかし、盗みのことなんかいわなかったですよ」
「あの子は知らないのです。なぜといって、わたしはしばらく事件を秘密にしておくつもりなんで。そこで、ヴィルキンのところへ行く、というのになにも不思議はないように思われますね。酔っぱらいが、自分と同じような酔っぱらいのところへ行くんですものね。もっとも、夜明け前ではあるし、これという用向きもないのですけれど……しかし、ここで于がかりが出て来るので。あの男は行きしなに所書きを置いて帰りました……ね、公爵、とくとこの問題を研究してごらんなさりませ。いったいなんのために居所を知らせたのでしょう?………なんのためにわざわざまわり路をして、ニコライさんの部屋へ寄って、『ヴィルキンのところへひと寢入りしに行って来る』なんていうのでしょう? よしやヴィルキンのところだろうと、どこだろうと、あんな男が出かけて行くのを、だれが知りたがるもんですか? なんのために報告するのでしょう? そこがすなわち企んだところなんです、盗人式に企んだところなんですよ! それはつまり『わざわざ自分の行く先をくらまさない以上、おれが泥棒だなんていわれるはずがないじゃないか。いったい泥棒が自分の行く先を知らせるだろうか?』という、つまり嫌疑を避けて砂の上の足跡を消すための、余計な心配なんです……おわかりになりましたか、公爵?」
「わかりました、よくわかりました、しかし、それだけじゃ不十分じゃありませんか?」
「第二の証拠は、足跡がうそだったということです。つまり、言い残した所書きがほんとうでなかったので。一時間たった八時ごろに、わたしはヴィルキンの家を訪ねてみました。ついそこの五番町に住んでいて、わたしとも知り合いの仲ですのでな。ところが、フェルディシチェンコは影も形も見えません。まるっきりかなつんぼの婆さんをつかまえて、やっとのこと聞いてみますと、一時間ばかりまえほんとうにだれか戸をたたいた、しかもかなり猛烈にたたいて、呼鈴までこわしたものがあるけれど、婆さんはだんなさまをおこしたくなかったので、戸をあけなかったそうです。もっとも、婆さんもおきたくなかったのかもしれません。そんなことはよくありますでな」
「それできみの証拠はみんなですか? それじゃまだ不十分ですよ」
「公爵、それではだれを疑ったらよろしいのです。考えてもごらんください!」とレーベジェフは感に堪えたような調子でこう結んだ。なにやらずるそうな色が、その薄笑いの中からのぞいていた。
「もう一度部屋の中やひきだしを見たらいいでしょう」ややしばらく考えこんだのち、公爵は心配そうにいった。
「見ましてござります!」なおいっそう感に堪えたようなふうで、レーベジェフは嘆息した。 「ふむ!………だが、何のために、何のためにきみはフロックを着換える必要があったのです?」と公爵は残念そうにテーブルをたたいて叫んだ。
「古い喜劇にあるようなおたずねですね。けれど、公爵、あなたはわたしの災難をあまり苦に病んでくださりすぎます! わたしにはそれだけの値うちはありはせんです。いえ、なに、わたしひとりだけはその価値がないのでございます。ところが、あなたは犯人のことを……あのやくざなフェルディシチェンコ氏のことを心配して、苦しんでいらっしゃいますから……」
「いや、よろしい、よろしい、きみはほんとうに心配させましたよ」不興げなそわそわした声で公爵はさえぎった。「で、どうしようというつもりなんです? もしきみがフェルデイ
ジチェンコに相違ないと、信じておられるとすればですね……」
「公爵、公爵、だれがほかにありましょう?」とレーベジェブはしだいに感激の度を加えながら、身をもむようにしていった。「さしむき疑いをかけるような人がいないのは、――フェルディシチェンコ氏以外の人を疑うのが、ぜんぜん不可能だということは、これまた有力な証拠です。つまり、証拠が三つあるわけです! だといって、しつこいようですが、ほかにだれがおります? プルドーフスキイ氏を疑うわけにゆかないじゃありませんか、へへへ!」
「ああ、また、なんてばかげたことだろう!」
「また将軍でもありますまい、へへへ!」
「なんて乱暴な!」こらえきれずに、座の上で身をもだえるようにしながら、公爵はほとんど腹立たしげな調子でこういった。
「もちろん乱暴です! ヘヘヘ! ところであの男、ではない将軍は、わたしを笑わせましたよ! こうなんです、わたしが先刻あの人といっしょに、ヴィルキンのところへあとをつけて行ってますと……ちょっとおことわりしておかなくちゃなりませんが、わたしが紛失に気づいて第一番にあの人をたたきおこしたとき、わたしよりもはるか以上に驚いて、顔色が変わったくらいです。赤くなったり、青くなったりしていましたが、とうとういきなりものすごいほど憤慨しだしました。わたしもそれほどまでとは思いもよらなかったくらい。じつにどうも高尚な人ですね! もっとも、のべつうそばかりつくという弱点はありますが、見上げた心持ちの人です。そのうえ取りとめのない人ですから、罪のないところですっかり人を信用させます。もう、一度申しあげましたが、わたしはあの人に弱味ばかりでなく、愛情さえも感じておりますので。さて、将軍は急に往来の真ん中に立ちどまって、プロッタをぱっと広げて、胸をあけて見せるじゃありませんか。『さあ、わしを検査してくれ、きみはケルレルを検査した以上、わしを検査せんという法はない! 公平という点から見ても、それが当然のことなんだ!』というのです。そういう当人は手も足もふるえて、真っ青な顔をして、その様子のものすごいこと。わたしはからからと笑って、こういいました。『ねえ、将軍、もしだれかほかの人間がおまえさんのことをそういったら、わたしは即座にこの手で自分の首をねじきって、それを大きな皿の上へ載っけて、そんな嫌疑をかけるやつのところへ、自分で持って行って、こういってやりますよ。余ほら、ごらんない、この首でもってわたしはあの人の潔白を保証しますよ。いや、首ばかりじゃない、火の中へでも飛びこみます》こんなにしてまで、あんたを保証する覚悟なんですよ』というわけで。するとあの人は飛びかかって、わたしにしがみついて、――それもやはり往来の真ん中なんですよ、――涙を流してふるえながら、せきもできないほど強くわたしを自分の胸へしめっけましてね、『今の不幸な境遇に落ちてから、残っている親友はきみひとりだ!』というじゃありませんか。センチメンタルな人ですよ! ところが、もちろん例のお得意の『逸話』をことのついでに話
しました。それはなんでも若い時分に、やはり一度五万ルーブリ紛失の嫌疑を受けたことがある、というのです。しかし、次の日、さっそく火事で焼けている家の中へとびこんで、嫌疑をかけた伯爵と、当時生娘でいたニーナさんを火焔の中から引き出した。すると、伯爵がいきなりあの人に抱きついて、そこですぐニーナさんとの結婚が成立したんだそうで。ところが翌日、紛失した金の入った小箱が、火事跡に見つかりました。それは鉄で作った英国式ので、秘密錠がかかっていたそうですが、どうかして床下へ落ちたのに、だれも気がつかないでいたところ、やっと火事のおかげでめっかったということです。なに、真っ赤なうそですよ。しかし、ニーナさんのことをいうときには、しくしく泣きだしましたよ。ニーナさんはじつに貞淑な奥さまでござりますね。もっとも、わたしに対しては、腹を立てておいでなさりますけれど」
「きみは知り合いじゃないんですか?」
「まあ、ないといってもいいくらいです。しかし、真底から、お近づきになりたいと思っております。せめてあのかたの前で、申し開きでもしたいとぞんじましてね。ニーナさんはわたしがおつれあいを酒飲みに仕込むといって、不平を持っていらっしゃるのです。ところが、道楽を仕込むどころじゃない、どちらかというと、おとなしくしてあげてるのですよ。ことによったら、わたしはあの人をためにならない仲間から、遠のけてあげてるのかもしれません。それに、わたしにとっては莫逆の友ですから、正直なところ、もうもうけっしてあの人を手放しなんかしません。つまり、あの人の行くところへはわたしもついて行く、というふうなんです。なぜというに、あの人を抱きこむ方法はセンチメンタルな話よりほかにないのでしてな。このごろでは、もうあの大尉夫人のところへは、ちっとも足踏みしません。もっとも心の中では、行きたくてたまらないんですがね。どうかすると、あの女のことを思ってうなりだすことさえあります。それも朝、床を出て、靴をはくときがいちばん激しいんで。なぜか知りませんが、この時刻に限ります。金はすこしも持っていません、そこが困ったところなんで。金を持たないじゃ、あの女のところへ出かけるわけに行きません。公爵、あなたに金の無心を申しませんでしたか?」
「いいえ、申されませんよ」
「きっと恥ずかしいんですよ。借りたいのは山々なんですがね。わたしにも、公爵をわずらわしたいようにいってましたからね。つまり、恥ずかしいのです。ついこのあいだあなたから借りたばかりではあり、またしょせん貸してもくださるまいと思うからですよ。あの人が親友としてわたしにうち明けました」
「きみはあの人に金を貸さないんですか?」
「公爵、公爵、金どころじゃありません、わたしはあの人のためなら命さえも……いや、しかし大げさなことはいいますまい――命とは申しませんが、熱病でも、はれものでも、せきでも、大丈夫、がまんする覚悟です。ただし、それもせっぱつまった必要があるときに限りますので。なぜといって、あの人を偉いとは思っておりますが、もうさきの見こみのない人ですからね。こういうわけで、けっしてお金だけじゃありません!」
「してみると、金を貸すんですね?」
「いいえ、金を貸したことはございません。またあの人もわたしが貸さないってことを、自分でよく承知しています。しかしそれも、あの人が品行をつつしんで改心するように、と思ってのことです。今度もわたしのペテルブルグ行きに、ねだってくっついて行くことになりました。じつは、わたしはフェルディシチェンコ氏のあとを追って、さっそくペテルブルグへ行こうと思っているのです。なぜって、あの男がもうあちらへ行ってるのは、たしかにわかってるからです。将軍はもう夢中になって、勇み立っております。しかし、ペテルブルグへ行ったら、わたしを出し抜いて、大尉夫人を訪問しやしないかと、懸念しておりますので。白状しますが、わたしはわざとあの人を放してやろうか、とさえ思っています。じっさい、ペテルブルグへ行ったら、フェルディシチェンコ氏をさがすに都合のいいように、着くとすぐてんでんに別れようと約束したのですよ。こうして、あの人を放しておいて、とつぜん寝耳に水で、大尉夫人のところへ行っておさえてやろう、とこう思っておりますよ、――つまり家庭の人として、いや、一般に人として、将軍を辱しめてやろうというのです」
「ただあまり騒々しくしないでください、レーベジェフ君。お願いだから、騒々しくしないでくださいよ」と公爵は激しい不安の色を浮かべて、小声でこういった。
「なんの、けっして、ただあの人を辱しめて、どんな顔をするか見たいからです、――なぜといって、公爵、顔色でいろんなことを帰納することができますからね、ことに、ああいう人はなおさらです。ねえ、公爵、わたしは自分で大きな災難を背負っていながら、今でもあの人のことを、あの人の品行匡正を、考えずにいられないのです。じつは、公爵、ひとつ大変なお願いがござります。正直なところ、そのためにおじゃまに来ましたので。あなたはあそこの家とお知り合いで、いっしょに暮らしたことさえおありですから、もしあなたが将軍のために、あの人の幸福のために、助力してやろうと決心なさりましたら……」
 レーベジェフは祈祷でもするように、手まで合わして見せた。
「なんですって? 何を助力するんです! レーベジェフ君、まったくのところ、ぼくはきみのいうことをはっきり知りたいんですから……」
「わたしはただもうこの決心をもって、おじゃまにあがりましたので! ニーナ夫人のお手を借りたら、ききめがあるかと思いましてな。自分の家庭のふところの中で将軍を観察……というより常時監視したらと思うのですが、不幸にして、わたしは夫人と知り合いでありませんので……それに、いわゆる満腔の熱情をもってあなたを尊敬しているニコライさんという人もありますから、またなにかの役に立つかもしれません……」
「とんでもない! ニーナさんをこんな事件へ引きこむなんて……きみはなんてばかなことを! それにコーリャ君まで……もっとも、ぼくはまだきみのいうことが、ほんとうにわからないのかもしれませんね、レーベジェフ君」
「いや、なに、わかるもわからないもございません!」とレーベジェフは、いすから飛びあがらんばかりにあわてた。「ただただセンチメンタルな同情と優しい言葉、これがあの病人に対する唯一の薬です、公爵、あの人を病人と見ることを、あなたは許してくださりますか?」
「それはかえって、きみのこまやかな知性を証明していますよ」
「このことをいっそう明瞭にするため、実地から取ってきた例を引いてお話ししますと、将軍はこういう人なんです。あの人にはいま、金を持たずに訪ねることのできない大尉夫人という病があります。きょう将軍を現場でおさえようと思っているのは、この女の家です。もっとも、それはただただあの人の幸福のためにするのですよ。しかし、かりに大尉夫人ばかりでなくほんとうの犯罪を、いや、その、なにかまあ、非常に破廉恥な間違いを仕でかしたとしても(もっとも、あの人にそんなことができるわけはないのですけれど)、それでもやはり、高尚な優しい行ないでもって、どんなふうにでもあの人を操っていけます。まったくセンチメンタルな男でございますからな! ごらんなさい、とても五日と辛抱できないで、泣きながら自分のほうからいいだして、すっかり白状してしまいます、――ことに家族のかたやあなたなどの助けを借りて、あの人の一挙一動を監督するというように、上手にしかも高尚に仕かけていったら、なおたしかです……もし公爵さま!」なにか感激したように、レーベジェフは急に飛びあがった。「なにもわたしはあの人がたしかに……なにしたというのではありません。わたしはあの人のためには今すぐでも、その、なんですよ、からだじゅうの血をすっかり流してもいいくらいに思っておるのです。しかし、不節制と、酒と、大尉夫人と、こういうものがいっしょになったら、どんなことだってやりかねませんからね、そうじゃありませんか?」
「そういう目的なら、ぼくはもちろんいつでも助力しますがね」公爵は立ちあがりながらこういった。「ただ白状すると、ぼくは心配でたまらないんですよ。だって、きみはやはりまだ将軍を……いや、つまりフェルディシチェンコを疑ってると、自分でいったじゃありませんか」
「ええ、ほかにだれを、ほかにだれを疑いましょう。公爵さま?」とレーベジェフは感に堪えたように微笑しながら、祈るように両手を合わした。
 公爵は眉を寄せつつ席を立った。
「ねえ、レーベジェフ君、ここに一つ誤解されている大事件があるんですよ。あのフェルディシチェンコですね……ぼくはあの人のことを悪くいいたくはないけれど……しかしあのフェルディシチェンコが……その、なんですね、ことによったら、そうかもしれませんよ!………つまり、ぼくのいいたいのは、ほんとうにあの人がほかのだれよりも、いちばんそういうふうに思われる、つてことなんですよ」
 レーベジェフは目を丸くして、耳を立てた。
「じつはね」公爵は部屋の中をあちこちと歩きまわって、レーベジェフのほうを見ないようにしながら、だんだん深く眉をひそめて、よどみがちにこういった。「ぼくはこういうことを知らせてもらったんですよ……あのフェルディシチェンコの前では何ごとも控え目にして……余計の口をきかないほうがいい、とこういう話を聞いたんです――いいですか、ぼくがこんなことを引き合いに出したのは、ことによったら、あの人がだれよりもいちばんそういうことをしそうだ……それが割合に間違いのない考えかもしれない、といおうと思ったからなんです。そこがかんじんなところなんですよ、わかりました?」
「そのフェルディシチェンコのことを、だれがあなたに知らせましたか?」レーベジェフはおどりあがらんばかりであった。
「ちょっと内密で聞かしてもらったんです。しかし、ぼく自身はそんなことをほんとうにしやしません……こんなことを知らせなくちゃならなくなったのが、じつに残念でたまらないけれど、まったくのところ、ぼくはそんなことをほんとうにしやしません……ばかばかしい話です……ちょっ、ぼくはなんてばかな真似をしたんだろう!」
「もし、公爵」と、レーベジェフは身震いさえしながら、「それは重大なことです、今という場合、ことに重大なことです。しかし、それはフェルディシチェンコ氏の一身に関してでなく、どういう具合でそれがあなたのお耳に入ったか、ということが重大なところなんです(こういいながら、レーベジェフは公爵に歩調を合わそうと骨を折って、あとからちょこちょこかけまわるのであった)。じつは、公爵、こうなると、わたしもひとつお知らせしたいことがござりますので。さっき将軍がわたしといっしょにヴィルキンの家へ行く途中、もう例の火事の話をしてしまったあとで、急におそろしく憤慨しながら、フェルディシチェンコ氏について、それと同じことを匂わしたのです。ところが、そのいいかたがごたごたして辻褄が合わんので、わたしは何げなく二つ三つ問い返してみたのです。その結果、この知らせも要するに、『閣下』の感激が生み出したものにすぎない、つてことを見抜いてしまいました。なぜと申して、あの人がうそをつくのは、ただ感激を包みかねるからです。が、おたずねしたいのは、よしんば将軍がうそをついたとしても(それはうそに決まってますが)、どうしてこれがあなたの耳に入ったか、ということです? ね、そうでしょう、あれは将軍のほんの一時の感激なのでしょう、それをだれがあなたに知らせたのです? これは重大なことです、これは……これは非常に重大なことです……いわば……」
「ぼくはたった今コーリャから、またコーリャはおとうさんから聞いたのです。なんでも、あの子がけさ六時か六時すぎに、なにかの用で外へ出たとき、将軍に出会ったんだそうですよ」
 公爵はこの一件をくわしく語った。
「ははあ、なるほど、これこそいわゆる証跡ですな!」とレーベジェフは手をこすりながら、聞こえるか聞こえないかぐらいに笑った。「わたしの思ったとおりですよ! してみると、つまり『閣下』は五時すぎに、わざわざご自分の無邪気な夢を破って、最愛のわが子をゆりおこし、フェルディシチェンコ氏と室を接するのはこのうえもない剣呑なことだと、知らせに行ったんですね! これでもって判じると、フェルディシチェンコはじつに大変な危険人物で、また『閣下』の慈愛は計りしれないほどですなあ、へへへ!………」
「まあまあ、レーベジェフ君」と公爵はすっかりあわてていった。「お願いだから、穏便にやってください! 騒動をおこしちゃいけませんよ! 頼みます、レーベジェフ君、後生です……そんなわけなら、ぼくも誓って助力をしますが、ただだれにも知れないようにね、だれにも知れないように……」
「ご安心くださいまし、公爵さま、ご前さま」とレーベジェフはすっかり夢中になって叫んだ。
「ご安心くださいまし、これは万事わたしのこの高潔なる胸一つにおさめてしまいます! ごいっしょにそろっと抜き足でね! 抜き足でごいっしょにね! わたしはからだじゅうの血をすっかり……ご前さま、わたしは精神の卑劣なやつでござります。けれど、どんな卑劣なやつでも、――というより、いっそ人非人でもよろしい、つかまえて聞いてごらんなさりませ。自分と同じような人非人か、あなたみたいな高潔このうえないおかたか、いったいどちらとともに仕事をしたいかってね。すると、そいつはきっと、高潔なおかたといっしょに働きたいと申しますよ。そこがそれ、徳の力というものでござります! では、公爵さま、ごめんくださいませ! そろっと抜き足で……そろっと抜き足で……ごいっしょにね」

      10

 公爵はなぜあの三通の手紙に触れるたびに身内が寒くなるのか、またなぜ日暮れがたまでこの手紙を読むのを延ばし延ばししたかがやっとわかった。けさほどこの三通の中でどれをあけて見ようかと、決心しかねているうちに、いつしか長いすの上で重苦しい夢の中へ引きずりこまれてしまったが、そのときにまた例の『罪の女』がそばへ寄って来た。彼女はまたもや長いまつげに涙の玉を光らせながら、あとからついて来いと、彼をさし招くのであった。彼は前と同じように、悩ましい気持ちで女の顔を思い浮かべながら、目をさました。すぐにも彼女のところへ出かけたかったけれど、それもできない。ついにほとんど絶望の状態で、手紙を開いて読みはじめた。
 この手紙もまた夢のようであった。
 人はよく奇妙な、とうていありえないほど不自然な夢を見るものである。そんなとき目がさめてから、その夢をありありと思いおこしているうちに、一つの奇怪な事実に逢着して、驚かされることがしばしばである。まずなにより第一に心に浮かぶのは、夢を見ているあいだじゅう、理性がしばしも心を去らないという一事である。むしろそのあいだじゅう、異常な狡知と論理をもって終始した記憶さえ残るものである。よく殺人者がわれわれを取り巻いて、刃物を逆手に持って用意をしているくせに、奸知を弄して底意を隠し、さもなれなれしそうに話しかけてくる。そうしてただなにかの合図があるのを待っている。ところが、われわれは逆に彼らの裏をかいて身を隠す。すると、またあとになって、彼らもこちらの計略をちゃんと承知しているくせに、ただわれわれの隠れ家《が》を知ったふりを見せないだけなのだ、ということに気がつく。けれども最後に、またわれわれは彼らを計略であざむきおおせる、――とこんな筋道をうつつにまざまざと思いおこすことがある。けれど、それと同時にわれわれの理性は、夢の中でひっきりなしに現われて来るこういう無数のわかりきった背理や、荒唐無稽と妥協することができるのは、そもそもどういうわけだろう? たとえば、ひとりの殺人犯がわれわれの目前で忽然と女にばける。と、また女から悪ごすそうな、いやらしい一寸法師になる、――こんなことをわれわれは既成の事実として、なんらの疑惑もなく即座に承認してしまう。しかるに、一方においては、理性が極度に緊張しきって、異常な力と、狡知と、聡明と、論理を示しているではないか。またこれと同じく、夢からさめて、すっかり現実界へ入ってしまったあとで、なにかしら自分にとって解くことのできない謎を残して来たような気が、いつもほのかにするものである。いや、ときとしては、それがなみなみならぬ力をもって迫ることすらある。われわれは夢そのものの愚かしさを笑いながら、それと同時に、こうした愚かしさのこぐらかったところに、なにかしら一種の思想が含まれているのを感
ずる。しかも、その思想はすでに現実のものである。自分の生活に即したあるものである。自分の心の中につねに潜んでいるあるものである。それは、夢によってなにか新しい予言的な、待ちこがれていたものを聞かされたような気持ちである。この印象は非常に嬉しいか、非常に悲しいか、とにかくじつに強烈である。しかし、その本質はどこにあるか、意味はどうであるか、――そんなことは理解も追想もできない。
 ほとんどそれと同じことが、この手紙の読後に感じられた。まだあけて見ぬさきから、公爵はこの手紙の存在する、存在しうるという事実そのものが、すでに悪夢のように感じられた。夕方ひとりでそこはかとなくさまよいつつ(どうかすると、自分で自分がどこを歩いているか、わからなくなることがあった)、公爵は心の中で自問自答するのであった。どうして彼女が彼女に[#「彼女が彼女に」に傍点]手紙をやろうなどと決心したのだろう?どうして彼女にあのこと[#「あのこと」に傍点]が書けたのだろう? そして、またどうしてそんな気ちがいじみた空想が、彼女の頭に生じたのだろう? しかし、もうこの空想は実現せられた。しかも、公爵にとってなにより意外であったのは、彼がこの手紙を読んでいるあいだ、ほとんど自分から先に立って、この空想の可能を信じ、この空想の正当なことさえ信じたという一事である。むろん、これは夢である。悪夢である、狂気の沙汰である。しかし、その中になにやら悩ましいほど真実な、受難者のように正しいあるものがあって、それが『悪夢』も『狂気の沙汰』をも、ことごとくあがないつくしている。数時間のあいだ、彼はその手紙にうなされているような具合であった。絶え間なく切れぎれの文句を思い出して、その中に注意を集中しては、考えこむのであった。どうかすると、こんなことは以前からすっかり予期し洞察していた、とひとりごちたいような気持ちにさえなった。それのみか、こんなことはもういつかずっとずっと前に読んだことがある、とさえ思われた。あのとき以来、彼がこがれ抜き苦しみ抜き、しかも恐れていたものがことごとく、すでに一度読んだことのある三通の手紙につくされているではないか。
『この手紙をご披兄のさい(とこう第一の手紙は書き出されてあった)、まず最初に署名をごらんくださいまし。この署名はあなたにいっさいの事情を説明するでございましょう。それゆえ、わたしはあなたに向かってひと言も申しわけや、説明をいたしません。もしわたくしがいささかでも、あなたと対等に近い圸位にありましたら、あなたはこういう失礼な仕方に、廐をお立てなされたかもしれません。けれども、わたくしは何者でしょう、そしてあなたはどういうご身分でしょう? わたくしたちふたりはまったく両極端を示しています。あなたの前へ出ると、わたくしはものの数にも入らぬはしためでございます。それゆえ、たとえわたくしがあなたを侮辱しようと思ったとて、とてもできることではございません』 進んで別なところで、彼女は次のように書いている。 『わたくしの言葉を病める心の病める感激とお思いなさらないでくださいまし。あなたはわたくしにとって完全そのものでございます! わたくしは毎日あなたを見ました、今でも
見ています。けれども、わたくしはあなたを批判なぞいたしません。批判などで、あなたが完全そのものであるという信念に達したのではございません。わたくしはただ信じたのでございます。けれど、わたくしはあなたに対して申しわけないことがあります。ほかでもございません、わたくしはあなたを愛しているのでございます。じっさい、完全というものは愛されるはずのものではございません。ただ完全としてながめるべきものでございます。そうではありませんか? ところが、わたくしはあなたにほれこんでしまいました。愛は人間を平等にすると申しますけれど、ご心配くださいますな、わたくしは人に見せない心の底ですらも、あなたを自分と等《ひと》しなみには考えていません。今わたくしは「ご心配くださいますな」と申しましたが、ほんとうにあなたを心配させることができるでしょうか?……ああ、もしできることなら、わたくしはあなたの足跡を接吻したでしょう。おお、けっしてわたくしはあなたと肩を並べはいたしません……どうぞ署名をごらんください。早く署名をごらんくださいまし!
『けれども、わたくしは(と彼女はまた別の手紙にこう書いている)、いつもあなたをあの人といっしょにしようと努めているのに、自分でもそれと気がつきます。今までついぞ一度も、あなたがあの人を愛してらっしゃるかしら? などという問いを発したことはありません。あの人はひと目みるなりあなたを恋しました。そして、あなたのことを「光」かなんぞのように思いおこしていました。これはあの人の自分でいった言葉でございます。わたくしがあの人の口から聞いたのでございます。けれども、あなたがあの人にとって光だということは、あの人の言葉を聞かなくともわかります。わたくしはあの人のそばにひと月暮らして、あなたもあの人を愛していらっしゃることを、はじめて悟りました。あなたもあの人も、わたくしにとっては一つでございます。『あれはどういうわけでございましょう?(と彼女はさらにこう書いている)きのうわたくしがあなたのおそばを通ったとき、あなたは顔をあかくなすったようでございますね?あれがわたくしの思い違いだった、などというはずはございません? よしあなたをこの世でいちばんけがらわしい洞穴のような社会へつれて行って、恐ろしい悪行をむき出しにお目にかけたとしても、あなたがあかい顔をなさるはずはありません。あなたが侮辱を感じて、腹をお立てになるはずはありません。それはむろん、卑しいけがれた人間をお憎みになることはありましょう。けれども、それはご自分のためではなくて、その侮辱を受けた人のためでございます。しかし、あなたを侮辱することは、だれしも不可能でございます。じつのところ、あなたはわたくしのようなものさえも愛してくださるような気がしてならないのでございます。あなたはわたくしにとっても、あの人のいうように、天使同様でございます。ところで、天使は人を憎むことができません、また人を愛しないでもいられません。いったいすべての人を、すべての同胞を愛するってことができるでしょうか? この問いをわたくしはよく自分で自分にかけてみました。むろん、否です、むしろ不自然なくらいでございます。人類に対する抽
象的な愛においては、ほとんどつねに自分ひとりを愛するものでございます。これはわたくしたちにはできない相談ですが、あなたは別でございます。あなたはだれひとりくらべるもののないかたです。あなたはあらゆる侮辱や個人的怨恨の上に超越してらっしゃるかたですもの、せめてだれかひとりぐらい愛さずにいられましょうか? あなただけはエゴイズムのためでなく、――自分自身のためでなく、あなたの愛してらっしゃる人のために、愛することがおできになります。こう思っている矢先、あなたがわたくし風情のために、羞恥や憤怒をお感じになると知って、どんなにか痛ましかったでしょう! ここにあなたの破滅が潜んでいます、つまり、あなたはわたくしと同列になるのでございますもの……
『きのうあなたにお目にかかってから、家へ帰って一つの絵を考えつきました。キリストを描くのに、画家はたいてい聖書の言い伝えによるようですが、わたくしだったらいっぷうかえてみますわ、わたくしはキリストをひとりっきり描きます。だって、弟子たちもときどきは先生を、ひとりぼっちにして置くこともあったでしょうからねえ。わたくしの絵では、キリストがひとりの小さな子供と、さしむかいで残っているのでございます。子供はキリストのそばで遊んでいます。もしかしたら、子供らしい言葉で話しかけるのを、キリストもじっと聞いていたかもしれません。しかし、今は黙ってなにやら考えこんでいます。その手は置き忘れたかのように、子供のつやつやした頭の上に、うっとりと載ったままでございます。キリストは遠い地平の方をながめています。その目の中には思想が、全世界のように偉大な思想が宿って、その顔は沈みがちでございます。子供は口をつぐんで、師のひざによりかかり、小さな手で頬杖つきながら、首を上げて考えぶかそうな目つきで(どうかすると、子供もじっと考えこむことがございます)、キリストを見つめています。太陽はしだいにかたむいて行く……これがわたくしの絵のすべてでございます。あなたは無垢なおかたです。そして、その無垢の中にあなたの完全がそっくりふくまれています。おお、どうかこのこと一つだけ覚えていてくださいまし! あなたに献げているわたくしの熱情なんか、あなたになんの興味がありましょう? しかし、あなたはもうわたくしのものでございます、わたくしは一生涯あなたの影身に付き添います……わたくしはすぐに死ぬのですもの』
 最後に三つ目の手紙にはこう書いてあった。
『後生ですから、わたくしのことはなんにも思わないでくださいまし。またわたくしがこうして、あなたに手紙をさしあげることによって、自分で自分を貶しめているなどと思わないでください、またよしや自尊心からにせよ、自分を貶しめて、それを快しとするような女だなどと、わたくしのことを考えてくださいますな。いいえ、わたくしにはわたくしの慰藉がございます。けれども、それをはっきりお話しすることはできません。だって、わたくしは自分にさえはっきり説明できないんですもの、そのためにいろいろ苦しんでいるのですけれど。けれども、たとえ自尊心の発作のためであろうと、自分を貶しめるなんてことはとうていできません。また心の浄く美しいために自分を貶しめることも、わたくしにはできない芸でございます。つまり、わたくしはまるっきり自分を貶しめていないということになります。 『なぜわたくしはあなたを味方にしようとするのでしょう、あなたのためでしょうか、それともわたくしのためでしょうか? もちろん、わたくしのためでございます。この中にわたくしの問題の解決が、ことごとく含まれています。わたくしはとうからひとりでそう考えておりますの……承りますれば、おねえさまのアデライーダさまがあの当時わたくしの写真を見て、こんな美貌があったら全世界を傾けることができる、とおっしゃったそうでございますね。けれども、わたくしは浮世を思いきってしまいました。あなたは、レースやダイヤモンドに身を飾って、酔っぱらいややくざ者に取り巻かれてるわたくしをごらんになったので、こんな言葉をわたくしの口からお聞きなすったら、さぞおかしくお思いでございましょう。どうぞこのことには目を向けないでください。わたくしはもうほとんど存在してないのでございます、わたくしは自分でよく承知しています。わたくしのからだの中には、わたくしのかわりにどんなものが棲んでいるか、神さまよりほかにはだれも知りません。絶えずわたくしを見つめている恐ろしい二つの目の中に、この事実を読み取ることができます。この目はわたくしの前にいないときでも、わたくしを見つめているのです。この目がいま黙っています[#「黙っています」に傍点](いつでも黙っているのです)、けれども、わたくしはこの目の秘密を知っています。あの男の家は陰気くさい淋しいもので、その中にも秘密があります。あの人はきっといつかのモスクワの人殺しみたいに、絹のきれで包んだかみそりを、箱の中に隠してるに相違ありません。その下手人もやはりある家に母親といっしょに住んでいて、ある女ののどを斬るために、絹でかみそりを包んでいたのです。あの男の家にいるあいだじゅう、わたくしはこんな気がしました。どこか床下あたりに、親父さんがまだ生きている時分にかくした死骸が、やはりモスクワの人殺しみたいに油布でおおわれて、まわりに防腐剤の壜が並べてあるかもしれない。わたくしはその死骸の端のほうを、ちょっとあなたのお目にかけることさえできるような思いが致します。あの男はしじゅう黙っています。けれども、あの男がわたくしを憎まずにいられないほど愛しているのを、わたくしはよく知っています。あなたがたの結婚とわたくしたちの結婚は同時に致しましょう、-わたくしはあの男にすこしも隠しだてはしません。わたくしはほんとうに恐ろしさのあまり、あの男を殺しやしないかと思います……けれど、向こうのほうがさきにわたくしを殺すでしょう……あの男はたったいま笑いながら、おまえさんはうわごとをいってるのだ、と申しました。あの男は、わたくしがこうしてあなたに手紙をさしあげるのを、ちゃんと知っているのでございます』
 こうした夢にうなされているような言葉が、まだまだこの手紙の中にたくさんあった。その中の一通、第二の手紙は、大形の書簡箋二枚にいっぱい細かく書きつめてあった。
 ついに公爵はきのうと同じように、長いあいださまよい歩いたすえ、暗い公園の外へ出た。明るい透き通ったような夜は、いつもよりひとしお明るいように思われた。『まだそんなに早いのかしら?』と彼は考えた(時計は家へ忘れてきたのである)。どこかで違い奏楽の音が聞こえるような気がした。『きっと停車場だろう』と彼はふたたび考えた。『しかしむろん、きょうはあの人たちも、あすこへ出かけなかったろう』彼はこんなことを想像しているうちに、自分がその人たちの別荘のすぐそばに立っているのに心づいた。結局ここへやって来るに相違ないと信じていたので、胸のしびれるような心持ちで露台へあがった。が、だれひとり出迎えるものもなかった。露台はがらんとしていた。彼はしばらく待ってから、広間へ通ずる戸を開いた。『この戸はいつもしめてあったことがないのだが』という考えがちらとひらめいた。けれど、広間もがらんとして薄暗かった。彼はけげんな様子をして、部屋の真ん中に突っ立っていた。とつぜん戸があいて、アレタサンドラがろうそくを手に入って来た。公爵を見るとびっくりして、不審そうにその前に立ちどまった。察するところ、彼女はただ一方の戸へ抜けるために、この部屋を通りすがったばかりなので、こんなところにだれかいようとは、思いも設けなかったらしい。
「まあ、どうしてあなたは、こんなところにいらうしゃいますの?」と彼女はようやく口をきった。
「ぼくちょっとお寄りして……」
「おかあさまは少々気分がすぐれませんでねえ。アグラーヤもやはりそうですの。アデライーダはいま寝支度をしています。わたしもやはりこれから行って休むとこなんですの。わたしたちは今夜ひと晩じゅう家でぼんやりしていました。おとうさまとS公爵はペテルブルグへ……」
「ぼくが来ましたのは……ぼくがお宅へまいりましたのは……今……」
「あなたいまなん時かごぞんじですの?」
「いいえ……」
「十二時半ですよ。わたしたちいつも一時に臥《ふ》せりますから」
「え、ぼくは……九時半ぐらいかと思ったんです」
「いいえ、かまいませんわ!」と彼女は笑いだした。「なぜもっと早くいらっしゃらなかったんですの? ことによったら、あなたをお待ちしていたかもしれなかったんですのに」 「ぼくはまた……思ったんです……」彼は帰りぎわに、どもりどもりこういった。
「さよなら! あす、わたしみなを笑わしてやりますわ」
 彼は公園に沿ってまがる道を、わが家のほうへ歩きだした。心臓はどきどきと早鐘をついて、思いは糸のごとく乱れ、まわりのものはすべて夢に似ていた。と、ふいに、――かつて二度まで夢の切れ目となったかの幻が、ふたたび彼の前に立ち現われた。あのときと同じ女が公園の中から出て来て、ここに彼を待ち伏せていたかのように、目の前に立ちどまったのである。彼は身震いして足をとめた。女はその手を取って、かたく握りしめた。『いや、違う、これは幻じゃない?』
 ついに彼女は半年まえの別離以来はじめて、公爵に顔と顔を突き合わして立ったのである。彼女はなにやらいいだしたが、彼は黙ってその顔を見つめていた。胸がいっぱいになって、しくしく痛みはじめたのである。彼はその後どうしても、この時のめぐりあいを忘れることができなかった。そして、思い出すたびに、いつも同じ心の痛みを感ずるのであった。彼女は夢中になったもののように、いきなり往来の上にひざをついた。公爵は驚いて一歩すさった。と、彼女は男の手を取って、接吻しようとした。さっきの夢と同じように、今も涙が長いまつげの上に光っている。
「お起きよ、お起きよ!」と彼は女を抱きおこしながら、おびえたような声でささやいた。「早くお起きよ!」
「あなたは仕合わせでいらしって? 仕合わせ?」と彼女は聞いた。「たったひと言いってちょうだい、あなたいま仕合わせ? きょう、いま? あのひとのとこへ行って? あのひとはなんていって?」
 彼女は身をおこさなかった、そうして相手のいうことを聞こうともしなかった。ただ早口に畳みかけてたずね、早口に語るさまは、あとから追っ手でも来ているか、と思われるほどであった。
「わたし、あしたはあなたのおいいつけどおり出発します。わたしもうけっして……これであなたにお目にかかるのもお名ごりね、お名ごりねえ! 今度こそは、もうほんとうの見納めだわね!」
「気を静かに持って、早くお起き!」と公爵は絶望したようにいった。
 彼女はその両手を取って、むさぼるように公爵を見つめるのであった。
「さようなら!」こういってついに彼女は立ちあがり、急ぎ足にほとんど走るようにして、彼のそばを離れた。と、出しぬけにラゴージンの姿が彼女のそばに現われて、その手を取って引き立てて行くのが、公爵の目に入った。「ちょっと待ってくんな、公爵」とラゴージンがわめいた。「五分たったら、間違いなく帰って来るから、ちょっとの間だけな」
 五分たってから、ほんとうに彼は引っ返してきた。公爵は一つところにじっと立って待っていた。
「馬車に乗せて来た」と彼はいった。「あすこの隅んとこで、もう十時ごろから馬車が待たせてあったんだ。あいつはな、おめえが今夜ひと晩じゅうあのひとのところで遊んで来るってことを、ちゃんと知ってたもんだからね。さっきおめえが書いたものは、たしかにあいつに渡したよ。あのお嬢さんのところへ手紙をやるようなことは、もうけっしてしまいよ。あいつが自分で誓ったんだからね。そして、この土地もおめえの望みどおり、あす引き払うそうだ。そのお別れに、ひと目おめえに会いたいってんで、おめえはことわったけれど、ここでおめえを待ち伏せしてたのさ。ほら、ちょっとあのほうへ引っ返すと、ベンチがあらあな、あの上でよ」
「あのひとが自分できみをつれて来たのかね?」
「へん、なんだって?」とラゴージンは白い歯をむいて、
「わかってるよ、自分でちゃんと知ってるくせに。で、おめえ手紙を読んだかい?」
「ああ、そうそう、きみこそほんとうにあの手紙を読んだのかい?」公爵はふいとこのことを思い出して、ぎょっとしながらたずねた。
「あたりまえよ。どんな手紙でも、あいつが自分で見せてくれるんだ。かみそりのことを知ってるかね、へへ!」
「気ちがいだ!」公爵は両手をもみながら叫んだ。
「そんなことがだれにわかるもんか。ことによったら、そうでないかもしれないぜ」ひとりごとのようにラゴージンは小さな声でいった。
 公爵は答えなかった。
「じゃ、あばよ」とラゴージンがいった。「おれもあす立つ。てくんだから、あとで悪くいわないでくんな! おい、ところでね」と急に振り返りつつ、彼はいい足した。「なぜおめえはあいつの聞くことに返事しなかったんだ。おめえは仕合わせかい、どうだい?」
「いや、いや、いや!」と公爵は無限の悲哀を帯びた声で叫んだ。
「『うむ』というはずなんかないやね!」とラゴージンは憎憎しげに笑って、振り返りもせずに立ち去った。

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP385-432

もって取り返しをつけるからいい』とこう考えるからだよ……」
 ラゴージンは聞き終わって、高らかに笑った。
「おい、どうだね、公爵、おめえも自分でなにかの拍子に、そんな女の手に落ちたことがないかい? おれはおめえのことでちょっと聞きこんだことがあるんだが、ほんとうだろうかな?」
「何を、何をきみは聞いたんだい?」公爵はぴくりとして、なみなみならぬ狼狽のさまを示しながら立ちどまった。
 ラゴージンはなおも笑いつづけた。彼はいくぶんの好奇心と満足を覚えたらしく、公爵の言葉を聞き終わった。公爵の喜ばしげな熱中した様子は、いたく彼を驚かしたが、また同時に元気をつけたのである。
「そうさ、聞いたところじゃねえ、今こそおめえの様子で、そのうわさがほんとうだってことがわかったよ」と彼はいい足した。「なあ、おめえが今のようにしゃべったことがこれまであるかい? あんな話はどうもおめえのいいそうなこってねえよ。しかし、おめえについて、ああしたうわさを聞かなかったら、こんなとこへやって来やしないさ。しかも、公園へ真夜中によ」
「ぼくはきみのいうことがちっともわからないよ、パルフェン」
「あいつがずっと以前におめえのことを話して聞かせたっけが、さっきおめえが楽隊を聞きながら、あの娘とすわってるところを見て、自分にもそれがよくわかったよ。あいつがおれに誓っていうんだ、――きのうもきょうも誓っていったよ、――公爵は、アグラーヤに猫っ子のようにほれこんでるとよ。だがな、公爵、それはおれにとっちゃ同じことさ。おれの知ったこっちゃねえ。よしんばおめえがあいつに飽きがきたからって、あいつはおめえに飽きがこねえんだからなあ。おめえも知ってるだろうが、あいつはどうしてもおめえをあの娘といっしょにしたいって、誓いまで立てたぜ、へへ!いいぐさがいいや、『それでなけりや、わたしはおまえさんといっしょにならない。あの人たちが教会へ行くと溥、わたしたちも教会へ行きましょう』だとさ。いったいこりゃなんのこったい? わけがわからない、今まで一度だってわかったことがねえ。首ったけおめえにほれてるのかしらん……もしほれるなら、なんだっておめえをほかの女といっしょにしたがるんだろう?『わたしは公爵の仕合わせなところを見たい』なんていうのを見りゃ、やっぱりほれてるんだよ」
「ぼくはこれまできみに口でもいえば、手紙にも書いたじゃないか、あれは……正気じゃないって」
 ラゴージンの言葉を、悩ましげな表情で聞き終わったとき、公爵はこういった。
「どうだかなあ! それはもしかしたら、おめえの考え違いかもしれないぜ!………もっとも、あいつはおれが楽隊からつれて帰ると、すぐいきなり結婚の日取りを自分で決めたよ。三週間たったら(もしかしたらそれよりも早く)、きっと婚礼しようというんだ。じっさいそういって誓いを立てたんだよ。胸から聖像をはずして接吻したんだからな。つまり、こういうわけだから、このことはおめえの了見ひとつできまるんだぜ。へへ!」
「それはみなうわごとだ! きみがぼくのことでいったよな、そんなことがけっしてあろう道理がない! あすぼくはきみのとこへ行って……」
「どうしてあいつが気ちがいなんだ?」ラゴージンはさえぎった。「なぜあいつはほかの人から見ると正気なのに、ただ おめえにばかり気ちがいに見えるんだい? どうしてあいつはあそこへ手紙を出してるんだろう? それに、もし気ちが いなら、あそこの人たちも、手紙の文面で気がつきそうなもんじゃねえか」
「手紙ってなんだね?」と公爵はびっくりしてきいた。
「あすこへ出してる手紙さ。あの娘によ。そして、あの娘が読んでるんだ。それとも知らないのか? ふん、それじゃ今に知れるよ。あの娘が見せてくれるから」
「そんなことほんとうになるものか!」公爵は叫んだ。
「おーい、おい! ほんとうに公爵、おめえはこの道にかけちや、まだまだ苦労が足りないぜ、ほんのひと足ふみこんだだけだよ。もうすこしたってみな、今に自分で警祭屋になって、女の一挙一動みんな探り出してしまうようになるよ。もしただ……」
「もうよしたまえ、パルフェン、そんなこともう二度といっちゃいけない!」と公爵は叫んだ。「ねえ、パルフェン、ぼくはいまきみの来るちょっと前に、ここをぶらぶらしていたが、急に大声で笑い出した。なにがおかしかったのか、ぼくもわからない。しかし、そのきっかけとなったのは、あすがわざとのようにちょうどぼくの誕生日に当たる、とこう思いついたからさ。が、もうかれこれ十二時だろう。いっしょに行こう。行って、その日を迎えよう! ぼくんとこに酒があるから、酒でも飲んで、そして、いま自分でも何を望んでるかわからないものを、ぼくのために望んでくれたまえ。ぜひきみから望んでもらいたいのだから。ぼくもきみのために十分な幸福を望むよ。だけど、十字架をもどしてくれなんていうのじゃないよ! またきみだってその翌日、ぼくに十字架を送り返しはしなかったじゃないか! 今もきみの胸にかかってるんじゃないか? かかってるだろう?」「かかってる」とラゴージンは答えた。「じゃ、出かけよう。ぼく、きみがいなくちゃ、新しい生活を迎える気になれない。まったくぼくの新しい生活がはじまったんだからね? きみ知ってるかい、パルフェン、ぼくの新しい生活がきょうはじまったんだよ?」「今こそおれの目にも見える。おれにもわかる。たしかにはじまったんだ。あいつ[#「あいつ」に傍点]にそう知らしてやろうよ。おめえはまったく夢中だぜ、公爵!」

      4

 ラゴージンとつれだって、自分の別荘に近寄ったとき、あかあかと燈火の輝く露台に多くの人々が集まって、がやがやと騒いでいるのを見て、公爵はひとかたならず驚いた。愉快げな一座は大声に話したり、笑ったりしている。どなるような声を立てて口論しているものさえあるらしい。ひと目見ただけで楽しいまどいのはじまっていることが察しられた。じっさい、彼が露台へあがって見ると、一同のものは酒を、しかもシャンパンを飲んでいるのであった。そして、多くの人人がもうかなり上機嫌になっているところを見ると、酒宴はだいぶまえからはじまったらしい。客はみんな公爵になじみのある人たちばかりだったが、だれも呼ばないのに。まるで招きに応じて来たかのように、一同うちそろって一時に集まったのは、いかにも奇妙だった。誕生日のことは彼自身も、ついさきほど偶然おもい出したばかりである。
「してみると、だれかにシャンパンを抜くっていったんだな。それであいつらすぐにかけつけたものと見える」と公爵のあとから露台に昇りながら、ラゴージンはつぶやいた。「おらあこのへんの呼吸をちゃんと心得てらあ。あいつらときたら、ちょっと口笛を鳴らしせえすりゃあ……」と彼はほとんど憎々しげにつけ加えた。もちろん、ついこのあいだまでの自分の生活を思い出したのである。
 一同は叫喚と祝辞をもって公爵を迎え、そのまわりをとり囲んだ。あるものはおそろしく騒々しかったが、またあるものはずっとおとなしかった。が、みんな誕生日のことを聞いて、急いで祝詞を述べるために、ひとりひとり自分の順番を待っていた。中にも二、三の人の同席は。公爵の好奇心を引いた。たとえば、ブルドーフスキイなどが、それである。が、なにより不審に思ったのは、この一座の中に思いがけなく、エヴゲーニイのまじっていることである。公爵は自分の目を信じられないような気がし、彼の姿を見たとき、ほとんど仰天せんばかりであった。
 その間に、真っ赤な顔をしたレーベジェフは、感きわまったような風つきをして、報告のため走り寄った。彼はもうだいぶいい機嫌[#「いい機嫌」に傍点]になっている。その饒舌からわかったことだが、一同はまったく自然な具合で、偶然に集まったのである。まず第一番にイッポリートが日暮れ前に到着して、非常に気分がいいからというので、露台で公爵を待つことにし、長いすに身を休めていた。つづいてレーベジェフが家族の者、すなわちイヴォルギン将軍と娘たちをつれておりて来た。ブルドーフスキイはイッポリートを送りがてら、いっしょについて来たのである。ガーニャとプチーツィンは、たぶんついさきほど通りすがりに寄ったものだろう(ふたりの来訪は、ちょうど停車場の椿事と同時刻であった)。それからケルレルが来て、公爵の誕生日のことを報告し、シャンパンを要求した。エヴゲーニイはかっきり三十分前にやって来た。シャンパンを抜いて祝賀会を開こうと極力主張したのは、コーリャであった。レーベジェフはおっと合点で、酒を出したのである。「けれど、自分のです。自分のです!」と彼はまわらぬ舌でいった。「お誕生日を祝うために自腹を切ったのです。それにまだご馳走が出ますよ、前菜《ザクースカ》があります。それは娘が世話を焼いてくれるはずです。しかし、公爵、まあいまどんな問題を論じていたとお思いなされます? そら、お覚えですか、ハムレットの『永らえるか永らえぬか?』と申すやつを?現代的の問題です、現代的の! 疑問を提出したり答えたり……チェレンチエフ氏(イッポリート)が音頭取りで……どうしても寢ようといわれません! ところで、シャンパンのほうはたったひと口、ひと口のまれたきりですから、からだにゃさわりませんよ……さ、公爵、こっちへ寄って、解決をつけてくださりませ! 皆あなたをお待ちしておりました、あなたのりっぱなお知恵を待っておりました……」
 公爵は、同じく群集を押し分けて、彼のほうへ近寄ろうと急いでいるレーベジェフの娘ヴェーラの、可憐な優しい視線に気づいた。彼はだれよりもまっさきに、彼女のほうへ手をさし伸べた。ヴェーラは嬉しさのあまりぽっと赤くなって、「この日から[#「この日から」に傍点]あなたに幸福な生活がはじまりますように」と挨拶した。それから大急ぎで台所へかけ去った。彼女はそこで前菜《ザクースカ》の支度をしていたのであるが、公爵の帰って来る前に、ちょっと仕事の暇さえあれば、この露台へ出て来た。そして、ほろ酔い機嫌の客人たちの間に絶えまなく交換されるヴェーラにとっては奇態な抽象的な問題に関する熱した議論を、いっしょうけんめいに聞いていたのである。妹娘のほうは次の部屋の箱の上で、口をあけたまま寝入っている。が、レーベジェフの息子の少年は、コーリャとイッポリートのそばに立っていた。そのいきいきした顔の表情を見ただけでも、まだぶつ通し十時間ぐらいは人々の議論を聞きながら、喜んで一つところに立ち通すつもりでいることが察しられた。
「ぼくは特にあなたを待っていたのです。そして、あなたがいかにも仕合わせらしい様子でお帰りになったのを、非常に愉快に思います」公爵がヴェーラのすぐあとで、イッポリートのほうへ握手に進んだとき、彼はこういった。
「なぜぼくが『いかにも仕合わせらしい』ってことがわかりました?」
「顔つきでわかりますよ。さあ、皆さんに挨拶をすまして、早くぼくのそばへすわってください。ぼくは特にあなたを待っていましたよ」と彼は「待っていました」にかくべつ力を入れながら、いい足した。「こんなに遅くまで起きていてさわらないでしょうか?」という公爵の注意に対して、彼は三日前になぜああ死にたくなったのか不思議なくらいだ、そして今夜ほど気分のいいことは今までになかったと、答えた。
 ブルドーフスキイも座を飛びあがって、どもりながらきれぎれに、「ぼくはその……ぼくはイッポリートをつれていっしょに来ました。同様にとても嬉しいです。あの手紙にはつまらんことを書いちまいました。今はただもう嬉しいです……」としまいまで言い終わらぬうちに、かたく公爵の手を握って、いすに腰をかけた。
 最後に、公爵はエヴゲーニイのほうへも進んで行った。こちらはすぐに彼の手を取って、
「ちょっとひとこと、あなたにお話ししたいことがあるんです」彼は小さな声でささやいた。「そして、たいへん重要な事件に関するお話なんです。ちょっとあちらへまいりましょう」
「ちょっとひとこと」とまた別な声が公爵のまた一方の耳に
ささやいた。そして、別な手が別のほうから彼の手を取った。
 公爵は驚いてそのほうを見ると、おそろしく頭のぼうぼうした男が赤い顔をして、目をぱちぱちさせながら笑っている。それがフェルディシチェンコだとはすぐにわかった。いったいどこから出て来たものやら。
「フェルディシチェンコを覚えてますか?」と彼はきいた。
「きみはどこから来たんです?」と公爵は叫んだ。
「この男は後悔しているんです」とケルレルがかけよってわめいた。「この男は隠れてたんです。われわれのところへ出るのが恥ずかしいといって、隅っこへ隠れてたんです。公爵、この男は後悔しています。自分が惡かったと感じています」
「いったいなにが悪かったんです、なんですか?」
「じつはわが輩がついさっき会って、ここへひっぱって来たんです。まったく後悔してるんです」
「たいへん嬉しいです。皆さん、さあ、あっちへ行って、ほかの人たちといっしょにすわってください、ぼくは今すぐまいります」やっといい加減にあしらって、公爵はエヴゲーニイのほうへ急いだ。
「あなたのところはたいへんおもしろいですね」とエヴゲーニイが口を切った。「ぼくは三十分ばかりあなたをお待ちしていたあいだ、大いに愉快でした。ところでねえ、公爵、ぼくクルムイシェフのほうはうまく納めてしまいました。それで、あなたをご安心させるために、寄ってみたのです。あなたすこしもご心配はいりませんよ。あの男はたいへん、たいへん冷静に事件を判断してくれました。それに、ぼくなどにいわせれば、むしろあの男のほうが悪いんですからね」
「クルムイシェフつてだれですか?」
「ほら、あのさっきあなたが、手をおつかまえなすった……じつはたいへん腹を立てて、あすはあなたのところへ人をよこして、談判するつもりでいたんですがね」
「もうたくさんです、なんてばかばかしい!」
「もちろん、ばかばかしいこってす。しかし、かならずそのばかばかしい結果を見るはずだったんですが、こういうふうの人たちは……」
「ですが、あなたはたぶんまだなにかほかの用事でおいでになったのでしょう、エヴゲーニイ・パーヴルイチ?」
「おお、むろん、まだなにか用事があるんです」と、こちらはからからと笑った。「ぼくはねえ、公爵、あす引明け早々、あのとんでもない事件(それ、あの伯父のこと)でペテルブルグへ出かけます。まあ、どうでしょう。あれはすっかりほんとうで、ぼくひとりをどけたほか、みんなもう知ってるじゃありませんか。ぼくはじつにもう仰天してしまって、あそこ[#「あそこ」に傍点]へ、――エパンチン家へも行くすきがなかったくらいです。あすもやはり行きません、あすは向こうで滞在しますからね、そうでしょう? たぶん三日ばかり帰れないでしょう。てっとり早くいえば、ぼくの仕事に一頓挫きたしたんです。今度の事件はまったく重大なできごとではありますが、ぼくはある事柄についてきわめて露骨に、あなたとご相談しなければならん、しかも時を移さず、つまり、出発前に、――とこう考えたのです。もしご承知なら、ぼくはこの一座の散じるまで、じっとすわって待っています。それに、ぼくは今どこへも行くところがありません。すっかり気分がむしゃくしゃしちゃって、寝ることもできないのです。こんなに人を追いまわすのは失礼で済まないわけですが、遠慮なくうち明けて申しますとね、公爵、ぼくはあなたの友誼を求めに来たのです。あなたはじつに比類を絶したかたです。つまり、何をするにもまた、おそらくはぜんぜんうそをつかない人です。ところで、ぼくはある一つの事について、親友ともなり、忠告者ともなる人が必要なのです。なぜって、ぼくはまったく不幸な人間の仲間へ入ってしまいました……」
 彼はふたたび笑いだした。
「しかし、困ったことには」公爵はちょっと考えこんだ。「あなたはあの人たちが帰るまで待つとおっしゃるけれど、それはいつのことだがわかりませんよ。いっそふたりで公園のほうへおりて行きませんか。あの人たちは待ってくれますよ。ぼくはあやまって来ますから」
「そりゃいけません、ぼくはふたりが特別の目的をもって、なにかたいへんな話をしているように、あの人たちから思われたくないわけがあるんです。あすこには、われわれふたりの関係におそろしく興味を持ってる人がいるんですからね。あなた、それがおわかりになりませんか、公爵? ですから、たいへんな話どころではなく、まったくの親友らしい関係にすぎないことを、あの人たちから見てもらったほうが、非常に好都合です――ね? あの人たちは二時間もたったら別れて行きますから、そのときぼくは二十分ばかり、でなく
ば三十分ばかりおじゃまさしていただきましょう」
「どうとも、ご都合のよろしいように。そんなお話はなくとも、ぼくはしごく満足です。また友達づきあいというあなたのお言葉にたいして、心からお礼を申しあげます。きょうぼくがこんなにそわそわしているのをゆるしてください。じつは、ぼくどうしても注意を集中することができないんです」
「わかっています、わかっています」とエヴゲーニイは軽い嘲笑を浮かべてつぶやいた。
 彼は今晩なんでも無性におかしがった。
「何がおわかりなんですか?」と公爵はぴくりとした。
「ねえ、公爵、あなたはお気がつきませんか」と直接質問には答えず、エヴゲーニイは薄笑いをつづけた。「ぼくがここへ来たのは、あなたをだまして、そ知らぬ顔でなにか探り出そうと思ったからですよ、お気がつきませんか、え?」
「あなたがなにか探りだしにいらしったのは、そりゃ疑いもない事実です」とついに公爵も笑いだした。「それはまた少々ぼくをだましてやろうくらい、ご決心なすったかもしれません。しかし、そんなことはなんでもありません、ぼくはあなたを恐れないです、だいいち、ぼくはいまいっさいどうだってかまわないような気がするんです。まったくですよ。それに……それに、ぼくはまずなによりさきに、あなたがなんといってもりっぱな人だと信じてますから、そのうちにわれわれはほんとうに親友として、おつきあいねがうようなことになるかもしれません。エヴゲーニイ・パーヴルイチ、ぼくはあなたが気に入ったのです。あなたはたいへん、たいへん、しっかりしたかただと思います」
「いや、どんなときでも、またどんなことがらでも、あなたとお話しするのはじつに愉快ですよ」とエヴゲーニイは話を結んだ。「さ、まいりましょう。ぼくはあなたの健康のために一杯ほしますから。ですが、ぼくはわざわざあなたのところへお寄りしたのを、非常に満足に思います。あ!」と彼はにわかに足をとめて、「あのイッポリート君は、あなたのところへ逗留に来られたんですか?」
「そうです」
「あの人はまだきょうあすには死にませんね、ぼくはそう思いますよ」
「それがどうしたんですか」
「いや、その、なんでもありません。ぼくはさっき三十分ほど、あの人といっしょにすわっていたんですがね……」
 イッポリートはその間じっと公爵を待ちかねていた。そして、公爵とエヴゲーニイが脇のほうで話しているとき、絶えまなくそのふたりのほうを見やっていた。ふたりがテーブルに近寄ったとき、彼は熱病に浮かされたように活気づいてきた。しかし、なんとなく不安げで、わくわくしている。汗が額ににじみ出て、ぎらぎら光る目の中には、絶えまなく動揺しているような不安のほか、なにかはっきりしない焦躁が現われていた。その視線はあてもなく物から物、顔から顔へ移っていた。彼はいままで一座の騒々しい会話にまじって、おそろしく力を入れていたが、しかしその活気は単に熱病やみのようなものだった。それに、会話そのものにはなんの注意も払っていなかった。彼の論争はおそろしくつじつまが合わず、嘲笑的で、無考えな逆説にみちていた。たった一分前に、非常な熱をもって自分から論じはじめた問題さえ、彼は中途でほうり出してしまった。人々は、なみなみとシャンパンをついだ杯を二つまで飲みほすことを、いささかの反対もなく彼に許したのみならず、もうすこし口をつけた三つ目の杯が、彼の前に置いてあった。公爵はこれを聞いて驚きもし、悲しみもしたが、これを知ったのはずっとあとのことであった。彼は今のどころあまりものごとに気のつくほうでなかった。
「ねえ、公爵、ぼくはきょうという日があなたの誕生日に当たるのが、嬉しくてたまらないんですよ!」とイッポリートは叫んだ。
「なぜ?」
「今にわかりますよ。まあ、早くおかけなさい。第一の理由は、このとおりあなたの……お仲間が集まったからです。じつはぼくも大勢人が来るだろうと、内々あてにしてたんです。ぼく、生まれてはじめて目算が当たりましたよ! ただ残念なのは、誕生日ということを知らなかった一事です。そうと知ったら、お祝い物を持って来るんでしたのに……はは! いや、しかしぼくだってお祝いを持って来たかもしれませんよ! 夜明けまで間がありますか?」
「夜明けまで二時間もありませんよ」とプチーツィンは時計を見ながら言った。
「だが、今だって庭なら書物が読めるんですもの、夜明けもなにも要《あ》ったもんじゃありません」とだれやらこう注意した。
「しかし、ぼくはちょっと端っこだけでも太陽が見たいんですよ。太陽の健康を祝して飲んでもいいですか。公爵、いかがでしょう?」
 イッポリートはまるで号令でもくだすように、無遠慮に一同に向かって、言葉鋭くたずねるのであった。しかし、自分ではそんなことに気もつかないらしかった。
「飲みましょうかね。だけどきみ、もすこし落ちついたほうがいいでしょう、イッポリート君、ね?」
「あなたがたはのべつ、『寝ろ、寝ろ』ばかりいうんですね。公爵、あなたはぼくの乳母《ばあや》さんですか! 太陽が出て『空に響きそめ』たら、そのときすぐに寝るとしましょう――だれかの詩の中に『大空に太陽は響きそめたり』ってのがありました。無意味だが、いいですね! レーベジェフさん! 太陽はじっさい、生命の根源ですね? 黙示録の中では、『生命の根源』のことをなんといってあります? 公爵、あなたは『茵?の星』の話をお聞きになりましたか?」
「聞きましたよ、レーベジェフさんはこの『茵?の星』を、現今ヨーロッパにひろがっている鉄道の網のように解釈しているそうです」
「いいえ、失礼ですが、そんなふうにとってもらっちゃ困ります」とレーベジェフは、一座におこった笑い声を制しようとするかのごとく、飛びあがって両手を振りながら叫んだ。「失礼ですが、この人たちのように……この人たちは……」
と叫んだが、急に公爵のほうへ振りむいて、「ですが、それは、ある要点においては、その……」
 彼は無遠慮に二度までテーブルをとんとんたたいたが、そのため笑い声がますます高くなった。
 レーベジェフはごく普通ないつもの『晩酌的』機嫌でいるにすぎなかったが、今はさきほどの長い『学術的』論争のために、少々度をすごして興奮し、いらいらしていた。こういう場合、彼は非常な軽蔑を露骨にあらわして、論敵に向かうのであった。
「それはまったく思い違いです。公爵さま、わたしどもは三十分ばかり前に、こういうとりきめをしたのです。すなわち、だれかひとりものをいっているあいだは、けっして、横槍を入れない、大声で笑わない、というのは、その人に所信をことごとく自由に吐露させるためです。それがすんだあとなら、無神論者でもだれでも、思う存分弁駁するがいい、とこういうことにして、将軍を議長に選んだわけです。ところが、まあ、どうでしょう? これじゃどんなに高邁な思想、深遠な思想をいだいてる人でも、まごつかざるを得んじゃありませんか……」
「さあ、話したまえ、話したまえ、だれも横槍を入れてやしないから?」という人々の声が響いた。
「話したまえ、ただし、しどろもどろにならないように」
「いったい『茵?《いんちん》の星』ってなんですか?」とだれかがきいた。「なんのこったかちょっともわからん」いかにももったいぶ
つた様子で、さきほどまでしめていた議長の席に着きながら、イヴォルギン将軍が答えた。
「わが輩はこういう討論や興奮が大好きなんですよ、公爵。もっとも、学術的なのに限りますがね」とケルレルはたまらない嬉しさともどかしさに、いすの上で尻をもぞもぞさせながらつぶやいた。
「学術的かつ政治的なものに限るです」彼はふいに思いがけなく、自分のすぐ隣にすわっているエヴゲーニイのほうへねじ向いた。
「わが輩は新聞でイギリスの議会の記事を読むのが、たまらなく好きですよ。といっても、わが輩は政治家でないから、そこで何を論じているかということよりも、彼らが政治家としていかにふるまい、いかに議論しているかに興味があるんですよ。『反対窩に坐したる高潔なる子爵』とか、『余と意見をともにせる高潔なる伯爵』とか、『その提議をもってヨーロッパを驚かしたる高潔なる余の論敵』とか、つまりそういう表白法や、そういう自由なる国民の議員気質が、われわれにとってうらやましいです。公爵、わが輩はほとんど魅惑されるです。じつのところを申しますと、わが輩は内心の奥底において、つねに芸術的なところがありましてね、エヴゲーニイ・パーヴルイチ」
「で、それがいったいどうなんですか」とまた一方では、ガーニャが熱くなって叫んでいる。「つまり、きみの意見によると、鉄道はのろうべきものである、それは人類を滅ぼす、それは『生命の根源』を濁すために、地に堕ちた毒だというんですか?」
 ガーニヤは今夜ことに興奮して、公爵から見ると、ほとんど勝ちほこったような愉快な気分になっていた。彼はむろんレーベジェフをたきつけて、からかってみるつもりではじめたのだが、すぐに自分から熱してしまった。
「いや、鉄道じゃありません、違います!」とレーベジェフも同時に、夢中になって言葉を返した。彼はこのときなんともいえない快感を覚えたのである。「つまり、ただ鉄道のみが生命の根源を濁すのじゃありません、そういうふうのもの全体がのろうべきものです。最近、数世紀問の風潮全体、つまり科学や実際的方面の風潮が、あるいは……いや、じっさいのろうべきなのです」
「たしかにそれはのろうべきですか、それとも『あるいは』ですか。これは重大なる問題ですからね」とエヴゲーニイが聞きただした。
「のろうべきです、のろうべきです、たしかにのろうべきです!」とレーベジェフは熱くなってくりかえした。
「そんなにせきこむことはありませんよ、レーベジェフ君、きみはいつも朝のうちのほうが善良ですね」プチーツインがほほえみながら注意した。
「しかし、晩になると、そのかわり露骨です! 晩になると、真実で露骨です!」と夢中になってレーベジェフはそのほうへ振りむいた。「率直で正確で、潔白で立派です。これはつまり、自分の弱点をさらすことになるんですが、そんなことは平気です。わたしは今夜あなたがたをみんな、――無神論の人をみんな呼び出して、対決しましょう。さあ。皆さん、あなたがたはいったい何をもって世界を救おうとなさるんです、何において世界の歩むべき正当の路をさがし出しました?――あなたがたは、科学、工芸、協会、賃銀などの人ですが、何をもってこの問題を解決します? 信用ですか?そもそも信用とはなんです? 信用がわれわれに何を与えてくれますか?」
「いや、あなたはなかなか好奇心のさかんな人ですね!」とエヴゲーニイがいった。
「こういう問題に好奇心をいだかない人は、つまり、社交界のごろつき連中ぐらいなものです、わたしの意見はこうですね!」
「信用は一般人心の大同団結とか、利益の平均とかいう結果を与えてくれますよ」とプチーツィンが注意した。
「ただただそれだけです! なんらの精神的根拠も持たないで、ただ個人の利己心と物質的必要ばかり満足させようとするんですね? 一般の平和、一般の幸福は、ただ必要ということから割り出されるんですね? 失礼ですが、わたしの解釈は間違っておりませんでしょう、あなた?」
「そうです、じっさい生き、飲み、たべるという共通の要求と、それから万人の協力、お眞び利益の一致なしには、これらの必要を満足させることができないという、確固たる科学的信念、これなどは将来人類の依拠すべき見解となり『生命の源泉』となりうるに十分強固な思想だと思われますね」と熱中したガーニャはむきになって弁じた。
「飲んだり食ったりする必要は、単に自己保存の感情です……」
「しかし、いったい自己保存の感情は、そんなに小さなものでしょうか? 自己保存の感情は、人類のノーマルな原川ですよ……」
「あなたはだれからそんなことを聞きました?」ととつぜんエヴゲーニイが叫んだ。「原則ということは、そりゃほんとうです。しかし、ノーマルかもしれませんが、破滅の法則がノーマルなのと同程度です。あるいは自己破滅の法則かもしれません。ぜんたい、自己保存にばかり人類のノーマルな原則があるものでしょうか?」
「へえ!」す早くエヴゲーニイのほうへ振りむきながら、イッポリートはこう叫んで、無作法な好奇心をもって相手をながめた。しかし、エヴゲーニイの笑ってるのを見て、自分で もまた笑いだした。彼はそばに立っているガーニヤを突っついて、またしても何時かときいた。そして、コーリャの銀時計をわざわざ自分のほうへ引き寄せ、むさぼるように針を見 つめていた。やがてなにもかもみな忘れてしまったように、ぐったりと長いすに身を伸ばし、両手をうしろ頭にでいながら、天井をながめだした。三十秒ばかりたつと、彼はまた真っすぐに起き直って、テーブルに対坐し、極端に熱中したレーベジェフの饒舌に聞き入るのであった。
「人をばかにした狡猾な思想ですね。ぴりっとくる思想ですね!」レーベジェフは夢中になって、エヴゲーニイの逆説を追究した。「相手に喧嘩をしかけるつもりでいい出した思想です、―しかしほんとうのところをいってますよ! なぜって、あなたは交際じょうずな皮肉屋で、色事師ですから(といっても、まんざら才のないおかたでもありませんがね!)あなたがどれくらい深遠で正確な思想を吐露しなすったか、ご自分でもおわかりなさらんのです! さよう、自己保存の原則と自己破滅の原則は、人類に在って同じように強い力を持っております! 悪魔が神と同様な力で人類を支配しております、しかも、それがいつまでつづくか、われわれには際限が知れぬくらいです。あなたお笑いになりますか?あなた悪魔をお信じなさいませんか? 悪魔を信じないのはフランス思想で、軽薄な思想です。あなたは悪魔が何ものかごぞんじですかね? 悪魔の名前はなんというか、ごぞんじですかね? あなたがたは名前も知らないくせに、ヴォルテールのひそみにならって、ただ形式、-蹄だとか、尻尾だとか、角だとかいうものを冷笑しなさる。しかもそれは、みんなあなた自身で作り出したものじゃありませんか。悪魔は偉大な恐ろしい霊魂で、あなたがたの作り出した啼や、角などを持ってやしませんよ。しかし、いま論ずべき問題はこんなことじゃありません」
「どうしてそれがいま論ずべき問題でないってことがわかりました?」とにわかにイッポリートは叫んで、発作でもおこしたように笑いだした。
「なるほど巧妙で、暗示に富んだ質問ですよ!」とレーベジェフはほめそやした。「しかし、やはり問題はそんなことじゃありません。今のわれわれの問題は、はたして『生命の根源』は衰微しなかったか、というこってす、――その、なんの発達の影響を受けて……」
「鉄道の発達ですか?」とコーリャはどなった。
「鉄路交通発達のためじゃありません。怒りっぼいお若い衆。そうじゃない。全体の傾向をいうのです。鉄道などはただそれの縮図、もしくは芸術的表現の役目を勤めるだけです。人類の幸福のためとかいって、がやがや騒いだり、たたいたり、あわてたり、急いだりしているのです。そこでひとりの憂き世を捨てた思想家が、『人間社会がばかに騒々しく実利的になって、精神の平穏というものが少なくなってしまった』と訴えると、『そうかもしれん、しかし飢えた人類にパンを運ぶ荷車の響きは、精神的平穏よりいいかもしれない』と、いまひとりのどこへでもほうぼうへでかける思想家が、得意然として答え、虚栄満々たる顔つきをしながらそこを去ってしまう、という具合です。しかし、わたしは、――このいとうべき卑劣漢たるレーベジェフでさえ、この人類ヘパンを運ぶ荷車を信じません! なぜというに、精神的基礎なくして人類にパンを運ぶ荷車は、そのパンを運んでもらう一部の人々の快楽のために、人類の大部分をそっちのけにして、平然としているからです。それはもう前例もあることです……」
「それは、荷車が平然としてそっちのけにするんですか?」とだれかが揚げ足を取った。 「もう前例もあったことです」とそんな質問には注意も向けず、レーベジェフはくりかえした。「人類の友とかいうマルサスの例もあります。しかし、精神的基礎のぐらついた人類
の友は、人類を滅ぼす食人種です。そうした連中の虚栄心の強いことなぞは、いわずもがなです。今まで人類の友という連中は、数限りなくあったけれど、かりにだれかそのひとりの自尊心を傷つけてごらんなさい、その男はすぐ浅薄な復讐心のために、平気で四方からこの世界に火をつけますから、――もっとも、それはだれしも同じことで、われわれだってひとりひとりみなそうなんです。そして、ほんとうのところ、わたしもそうです。だれよりも卑怯なこのレーベジェフは、たぶん第一番に、薪を運んで来て、自分は遠いところへ逃げてしまいますよ。しかし、これもやはり当面の問題じゃありゃせん!」
「いったいまあ何が問題なんです?」
「あきあきしちゃった!」
「問題は何百年か前のある事件にあるのです。わたしはどうあっても、何百年か前の事件をお話しせにゃなりませんので。現今わが祖国において……皆さんはわたしと同様に、わが祖国を愛していらっしゃることと信じます。なぜと申しますと、わたしは祖国のためには、からだじゅうにありったけの血を流してしまおう、とさえ考えて……」
「それから? 早く!」
「いまできうるかぎりの統計と、記憶を基として考えてみますに、わが祖国においては西ヨーロッパにおけるごとく、全国一般にわたる恐るべき飢饉は、現今一世紀に四度、換言すれば、二十五年ごとに一度ぐらいしか見舞いません。この数字が正確かどうかは請け合いかねますが、しかし比較的きわめてまれであります」
「なんと比較して?」
「十二世紀およびその前後と比較して。なぜと申しますと、文学者たちの書いたものによると、全国にわたる大飢饉は二年に一度、すくなくも三年に一度は、わが国を見舞ったものです。かような次第で、人々は人間の肉を食うという、非常手段にさえ走りました。もっとも、それはかたく秘密を守っていたのです。こんな横着者のひとりが老年になってから、べつに大から責められたわけでもないのに、自分から進んで白状したんです。なんでも、長く貧しい生涯の中に、六十人の坊主と、普通の民家の赤ん坊を何人か、六人ほどで、それ以上ってことはない、これは非常に少ない、つまり坊さまの数に比べてですよ、ごくごく内証で手にかけて、ひとりで食っちまったそうですよ。世間普通の大人に対しては、そんな恐ろしいもくろみを実行したことがなかったそうです」
「そんなことがあってたまるもんか!」と議長自身、つまり将軍は、ほとんど憤慨にたえないような声でどなった。「みなさん、わたしはしょっちゅうこの男と議論したり、喧嘩したりします、いつもたいていおきまりの問題ばかりですがな。ところが、この男はときどき耳の痛くなるような、ほんとうらしいところのちっともない、あんなばか話を持ち出すのが、なによりも奸きなんですじゃ」
「将軍! ご自身のカルス包囲の話はどうなすったんですな。皆さん、わたしのいま申した話は赤裸々の真実です。さようご承知ください。わたし一個としても注意いたしておきますが、ほとんどすべての真実は、つねに不変の法則を持っているものの、ほとんどつねにほんとうらしくない、信じることのできないようなものです。どうかすると、現実的であればあるだけ、いよいよほんとうらしくなくなるものでしてな」
「だけど、いったい六十人の坊さんが食べられるもんですかね?」とあたりに笑い声がおこった。
「それは、いっときにいきなり食べてしまったのではありますまい、それは明瞭なことです。たぶん十五年か二十年のあいだにやったものらしいですね。それはわかりきった自然のことです……」
「自然のことですって?」
「自然のこってすよ!」と衒学的な執拗さをもって、レーベジェフはいい張った。「いろんな理由もありますが、だいいち、カトリックの坊さまは生来おせっかいでもの好きですから、森だとかなんだとか、人目の少ないところへおびき出して、まえ申したようなことをするのは、いとやすいこってすからね。しかし、その男にとって食われた人の数が、ほんとうにできないほど非常なものだったということは、どこまでも否認するわけにいきませんよ」
「それはまったくほんとうかもしれませんよ、みなさん」とふいに公爵がこういった。
 このときまで彼は無言に人々の争論を聞いていて、あえて口をいれなかった。ただしょっちゅう皆がどっと笑いくずれるあとについて、真底からおかしそうに笑っていた。見たと
ころ、彼は周囲の陽気で、騒々しいのが、嬉しくてたまらないらしかった。そればかりか、人々がむやみに酒をあおるのさえ、嬉しそうなふうであった。彼は、夜っぴてひとことも口をきかずにすわっているつもりではないかとも思われたが、とつぜんなんと思ったか口をきったのである。しかも、その口のきりかたがおそろしくまじめだったので、一同はにわかに好奇の。心をいだきながら、彼のほうをふりむいた。
「ぼくがいいたいのは、じっさいその時分、大飢饉が多かったということです。このことはぼくも聞いています。もっとも歴史はあまりよく知らないんですけれど。きっとそうだったでしょう。ぼくがスイスの山へ入ったとき、非常に驚いたのは、岩石ががたる山の坂道に建てられた古い騎士時代の城の廃墟でした。その岩は非常にけわしくて、すくなくとも垂直半露里の高さはありました(それは、つまり、小道づたいに昇ると、幾露里かあるのです)。城がどんなものであるかは、わかりきったことです。なんのことはない、石の山です。じつに想像もつかない恐ろしい工事です! そして、これはみんな当時の貧しい人たち、家来どもが建てたんです。そのうえに、こういう人たちはいろんな税を払ったり、坊さんたちを養っていったりしなければならなかったんでしょう。それにまあ、どうして自分の口すぎをして、畑を耕作することができますか! そういう人たちは、そり当時ごく人数が少なかったのですが、それはきっとかつえて死んだからに相違ありません。そして、おそらく文字どおりに、なにも食べるものがなかっただろうと思います。ぼくはこの種の人民がぜんぜん絶滅してしまうとかなんとか、そんな変事がどうしておこらなかったろう、と時おり考えることがありました。じっさいどんなふうに踏ん張って、押しこたえたんでしょうねえ? 人食いもいたでしょう、しかも大勢いたかもしれません。この点、レーベジェフさんのいうことはほんとうに違いありません。ただどういうわけで坊さまを引合いに出したのか、またそれで何をいおうとしたのか、それだけはぼくにはわかりませんが」
「たぶん十二世紀ごろには、坊さんよりほかに食べられるような者がいなかったんでしょう。なぜって、その時分は、坊さんばかり脂ぎってたんでしょうからね」とガーニャがいった。
「いやじつにりっぱな、そして正しいご意見です!」とレーベジェフは叫んだ。「まったくその男は娑婆の人間には、けっして手を出さなかったんですからね。六十人の坊主に対して、一人も娑婆の人がいなかったんですよ。まったくそれは恐ろしい歴史的な、しかも統計的な思想です。こういう事実からして、才能のある人はりっぱな文明史をこしらえあげますよ。なぜと申すに、坊主たちのほうがその当時の人類全体よりか、すくなくとも六十倍しあわせで、自由な暮らしをしていたってことが、数学的に正確になってきますので。そして、たぶん自分以外の人類ぜんたいより、すくなくも六十倍脂ぎっていたのでしょう……」
「こじつけ、こじつけ、レーベジェフさん!」とあたりの人人が声高に笑いだした。
「歴史的の思想だということも賛成ですが、しかしきみは何を結論しようというんですか?」と公爵は真顔に質問をつづけた(彼の話しぶりはおそろしくまじめで、冗談らしいところや、レーベジェフに対するあざけりは、影さえ見えなかった。で、彼の調子はこの一座のあいだにまじって、自然こっけいなものとなった。それがもうすこし激しくなったら、一同はさらにその嘲笑を彼の上に転じたかもしれぬ。けれども、彼はそれに気がつかなかったのである)。
「いったいあなたにはおわかりにならないんですか。この男は気ちがいなんですよ」エヴゲーニイは公爵のほうへかがみこんでささやいた。「ぼくはさっきここで聞きましたが、この男は弁謾士気ちがいで、弁論に夢中なんです。そして、試験を受けるつもりなんですって。見てごらんなさい、今に素敵なもじり弁論が出て来ますから」
「わたしはいま、大事件を論結しようとしてるのです」と、そのあいだにレーベジェフがどなりはじめた。「しかし、まず最初に、罪人の心理的かつ法律的状態を明らかにしましょう。まず吾人の気のつくことは、犯人が、すなわちわたしの被弁護者が、かの奇怪な行動をつづけているあいだに、ほかの食料を発見することのほとんど不可能なるにもかかわらず、この興味深い犯行の最中、いくどか後悔の念を表して、僧族を避けようとした事実があります。それはいろいろな事件に徴しても明らかであります。とにかく、彼は赤ん坊を五人か六人食べたという話です。これは数字から見れば、比較的些細なものでありますが、そのかわり別な観点からすると、重大な意味をもっています。察するところ、恐ろしい良心の呵責に苦しめられて(なぜと申しますに、わたしの被弁護者は宗教心の厚い、良心を有した男ですからね。それはわたしが証明します)、そこで、できるだけ自分の罪障を軽くするために、一種の試験として、坊主の肉に代えるに俗界の肉をもってしました。単に試験としてやってみたということ、これまた疑う余地がありません。美食的《ガストロノミック》な変化を求めたものにしては、六という数字があまりに些細にすぎるのであります。いったいどういうわけで六人にとどまって、三十人でないのでありましょう?(わたしは半数をとったのです、つまり半分半分と見たのですがね)これが単に涜神罪、すなわち教会付属物に対する侮辱の恐怖から生じた自棄的の試みであったとすれば、六という数字はじつによくわかって来るのであります。なぜならば、良心の呵責を満足させるための試みならば、六人という数は十分すぎるのであります。そのわけはこうした試験の成功しようはずがないからであります。わたしの考えまするに、赤ん坊はあまり小さくて、その、つまり大きくないもんですから、一定期間のあいだに必要な赤ん坊の数は、坊主よりも二倍、あるいは三倍になるはずであります。かような次第ですから、罪はよし一方から見て小さくなるとしても、結局、他の一方から見て、大きくなって行きます。すなわち、質でなくして、量ですね。諸君、こう論ずるに当たって、むろんわたしは十二世紀の犯人の心理に潜入しているので、わたし一個人、すなわち十九世紀の人間として見ると、あるいはまた別様な意見があるかもしれません。でありますから、皆さん、なにもわたしにそんな白い歯をお見せになる必要はないのです。将軍、あなたときたら、もうまったく無作法なくらいですよ。第二に、わたし一個人の意見としては、赤ん坊はたいして滋養になりません。そして、あるいはあまり甘ったるすぎて、自然の要求をみたすことができないうえに、あとでただ良心の呵責を残すだけかもしれません。で、今度は結論であります。この結論の中には、当時および現代において、最も大なる問題の解決が含まれているのであります。犯人は最後に坊主たちのところへ出かけて自訴をし、自分を政府《かみ》の手へわたしたのであります。したがって、当時の規定によれば、いかなる苦痛、――いかなる拷問が、――いかなる歯車や水火の責めが彼を待ち設けていたかという疑問がおこります。だれが強いて彼をして自訴するにいたらしめたか? なぜ彼は六十という数字に自分の手をとどめて、死ぬまで秘密を守らなかったか? なぜ彼は教会を棄てて、隠遁者として悔悟の生活を送らなかったか? あるいはまた、なぜ彼自身も僧門に入らなかったか? つまり、ここに謎の偉大なる解明があるのであります! つまり、これにはなにか水火の責めよりも、また二十年来の習慣よりも、もっと強いあるものがあったのです! すなわち、どんな不幸よりも、どんな凶作よりも、どんな拷問よりも、癩病よりもペストよりも、ずっと強い思想があった砂です! もしこの人心を制縛し、匡正し、生命の根源を豊富にするところの思想がなかったら、人類はとうていこれらの不幸災厄を耐えしのぐことができません! 諸君、そんなふうの強い力が、悪行と鉄道の時代たる現代にあったら、ひとつわたしに見せてください……いや、汽船と鉄道の現代といわなくちゃならんようですが、わたしは悪行と鉄道の現代といいます。なぜならわたしは酔っぱらってはおりますが、いうことに間違いはないからです。せめてあの時代の半分でも、全人類を掣肘するような力があれば、ひとつわたしに見せてくださいませんか。この『星』のもと、人間を迷わせるこの鉄道の網のもとにおいても、生命の根源はかれもにごりもしなかった、などと大胆なことをおっしゃるわけにはまいりませんよ! また、皆さんの裕福な暮らしや、財産や、飢饉の少ないことや、交通の完備などをもって、わたしを脅かすわけにもいきませんよ! 財産は多くても力は少ない、人を制縛する思想もない。なにもかもぐたぐたになってしまった、なにもかももろくなってしまったのです。そして、だれも彼ももろくなってしまったのです! われわれは、みんなみんなもろくなってしまいました!………しかし、当面の問題はこれでもありません。問題はこうなんです。公爵さま、皆さんのために用意した前菜《ザクースカ》を、こちらへ運びましてもよろしゅうござりますか?」
 レーベジェフの詭弁に、聞き手の中のある人は、もうむきになって憤慨していたが、思いがけぬ前菜の結論を聞いて、とたんにすっかり機嫌を直した。彼自身もこんな結論を、『巧妙な弁護士的事態転換』と名づけていた。またもや愉快そうな笑い声がおこり、客人たちは元気づいてきた。一同は手足を伸ばして、露台を散歩するためにテーブルを離れた。ただひとりケルレルはレーベジェフの演説に大不平で、ひとかたならぬ興奮の様子であった。
「あの男は文化を攻撃して、十二世紀時代の信心気ちがいを鼓吹してるんです。しかも、なんら無邪気な心持ちなしに詭弁を弄してる。いったいあの男自身は何をしてこの家を手に入れたんだろう? ちょっとうかがいたいもんですよ」と彼はひとりひとりの袖を引きながら声高にいった。
「わたしはほんとうの黙示録の説明家を見ましたよ」とイヴォルギン将軍がまた別なほうで、別な聞き手に向かっていっていたが、そのうちプチーツィンが上衣のボタンをつかまえられて、聴聞の役目を強いられたのである。「それは故人になったグリゴーリイ・セミョーノヴィチーブルミストロフですが、じっさい、もうなんといっていいか、まるで心臓に火をつけられるような気持ちでしたな。だいいち、この人は眼鏡をかけて、時代のついた黒い革表紙の大きな本を繰っとりましたよ。そのうえ白い鬚を生やして、寄付金の礼に贈られたメダルが二つあったのです。その話しぶりが荘重で厳格で、りっぱな将軍たちでもその前に出ると、ひとりでに頭がさがりましたよ、婦人たちとなると、よく気絶する人もあったほどでな。まったく――ところが、この男は前菜で結論をつけとる! じつにお話にならん!」
 将軍の話を聞きながら、プチーツィンは微笑して、帽子に手をかけそうにした。しかし、なにやら心を決しかねているのか、それとも帰ろうと考えたことを忘れたのか、どっちとも見当がつかなかった。ガーニャは人々がテーブルを離れるちょっと前から、杯をわきのほうへ押しのけて、飲みやめてしまった。なんとなく沈んだような影が彼の顔をかすめたのである。一同が席を立ったとき、彼はラゴージンのそばへ近寄り、並んで腰をおろした。その様子から見ると、ふたりは非常に仲のいい友達同士のように思われた。ラゴージンもはじめのうちはやはり何遍も、そっと出て行きたそうにしていたが、これまた出て行こうと思ったのを忘れてしまったように、今は頭を垂れて、身動きもせずにすわっていた。彼は今夜ははじめからしまいまで一滴の酒も飲まないで、おそろしく考えこんでいる。ただときどき目を上げて、一同のものをひとりひとりながめるだけであった。なにか彼は自分にとって非常に大切なことを待ち設けていて、それまではどうしても帰るまいと決心しているようにも、今は想像されるのであった。
 公爵はみんなで二杯か三杯はしたばかりだが、だいぶ愉快そうであった。テーブルから立って、エヴゲーニイと視線を合わしたとき、彼はふたりのあいだに約束された相談を思い出した。そして、愛想よく微笑して見せた。エヴゲーニイはちょっとうなずいたが、ふいにイッポリートをさして、じっとその顔を見守るのであった。イッポリートは長いすの上に横になって、眠っていた。
「ねえ、いったいなんのためにこの小僧っ子は、あなたのところへ入りこんだんです、公爵?」といきなり彼は公爵がびっくりするほど、憤懣と憎悪をあらわに見せながら、こういい出した。「ぼく請け合っていいますが、この小僧なにか悪いことを腹の中で企んでますよ!」
「この人は」と公爵はいった。「きょう非常にあなたの興味をひいてるように、ぼくはお見受けしました。すくなくとも、そう思われましたよ、エヴゲーニイ・パーヴルイチ。そうでしょう?」
「それに、こういい添えてください。ぼくの今の状態として、自分でもいろいろ考えるべきことがあるにもかかわらず、ってね。じっさい、自分でも驚いてるぐらいですよ、今夜ははじめからずっと、このいやな配から、目を放すことができないんですからね!」
「イッポリート君の顔は美しいじゃありませんか……」
「ちょいと、ちょいとごらんなさい!」エヴゲーニイは公爵の手を引きながら、こう叫んだ。「ちょいと!………」
 公爵はまたしてもびっくりして、エヴゲーニイを振りかえった。

       5

 レーベジェフの弁論の終わるころ、ふいに長いすの上で眠りに落ちたイッポリートは、まるでだれかに横腹を突かれたかのように、ひょいと目をさまして、ひとつ身震いをし、起きあがってあたりを見まわすと、真っ青になった。彼はほとんど一種の驚きをもって人々をながめていたが、ようやくいっさいのことを思いおこしたとき、彼の顔にはほとんど恐怖ともいうべきものが現われた。
「どうしたんです、みんな帰るんですか? すんじゃったんですか? 何もかもすんじゃったんですか? 太陽は出ましたか?」と公爵の手をつかまえながら、彼は不安げにたずねた。「なん時です? 後生だから教えてください、一時ですか? ぼく、寝すごしちゃった。ぼく、長いこと寝てましたか?」ほとんどやけ気味の調子で彼はつけ足した。その様子はすくなくとも、彼の運命の浮沈にかかわる大事の時を寢すごしたようであった。
「きみが寝たのは七、八分ぐらいのものですよ」とエヴゲーニイが答えた。
 イッポリートはむさぼるように彼を見つめながら、しばらくなにやら思いめぐらしていた。
「ああ……それだけですか! してみると、ぼくは……」と彼は大変な重荷でもほうり出すように、深い深い息をついた。彼はやっとのことで察しがついた。なにも『すんじまい』はしない、まだ夜は明けない、客人たちがテーブルを立うたのは前菜のご馳走になるためであり、たった今レーベジェフの饒舌が終わったばかりなのだ、とこう考えついて、彼は微笑した。結核性の潮紅が、二つの濃いしみのように双頬に踊りはじめた。
「ああ、あなたはぼくが寝てる間に、もうすっかり分秒の勘定までしてくだすったんですね、エヴゲーニイさん」と彼は冷笑的にあげ足をとった。「あなたはこのひと晩じゅう。ぼくから目を放しませんでしたね。ぼく、ちゃんと見てましたよ……ああ! ラゴージン! ぼく、たった今あの男を夢に見ましたよ」眉をひそめながら、テーブルに向かってすわっているラゴージンをあごでしゃくって、彼は公爵にささやいた。「ああ、そうだ」と彼はまたしても別なほうへ注意を飛ばしてしまった。「弁士はどこです、レーベジェフはどこです? してみると、レーベジェフは弁論をすましたんですね。あの男は何をいいました? 公爵、いったいあれはほんとうですか、世界を救うものはただ『美』あるのみだとおっしゃったてえのは? 諸君」と彼は大きな声で、一同に向かって叫んだ。「公爵は美が世界を救うといっておられます!ところで、ぼくはこういいます、公爵がそんな遊戯的な思想をいだいているのは、恋をしてるからです。諸君、公爵は恋をしていられます。ぼくは、さっき公爵がここへ入って来ると同時に、こう信じて疑いませんでした。あかい顔なんぞしないでください、公爵、ぼくあなたがお気の毒になりそうですから。いったいどんな美が世界を救うんです? コーリャがぼくにそういいましたよ……あなたは熱心なキリスト信者ですって? あなたが自分でキリスト信者だとおっしゃったって、コーリャが話しましたよ」
 公爵は注意ぶかく彼を見まわしたが、返事はしなかった。
「あなた、ぼくに返事してくれないんですか? あなたはたぶん、ぼくが非常にあなたを奸いていると、そう思ってらっしゃるんでしょう?」ととつぜんイッポリートは、ちぎってほうりつけるようにいい足した。
「いいえ、そうは思いません。きみがぼくを好いていられないのは、ぼくも知っています」
「え! きのうのことがあってもですか? ぼくはきのうあなたに対して誠実でした」
「ぼくはきのうもやはり知っていました、きみがぼくを好いでいられないのを」
「というのは、つまりぼくがあなたをうらやんでるからですか? うらやんでるとおっしゃるんですか? あなたはいつでもそう考えておいでになりました、今でも潯えていらっしゃるんです。しかし……しかし、なんのためにぼくはこんなことをあなたにいってるんだろう? ぼく、もう少しシャンパンが飲みたくなった。ケルレル君、ついでくれたまえな」
「きみはもう飲んじゃいけません、イッポリート君、きみにはあげられません……」と公爵は彼のそばから杯を押しのけた。
「いや、まったく……」と彼はすぐに同意した、なにやら思案しているかのように。「たぶん、あの連中はいろんなことをいうだろうなあ……いや、あの連中がとやかくいうからって、ぼくにとってそれがどうしたってんだ? そうじゃありませんか、そうじゃありませんか? あとであの人たちに勝手なことをいわしたらいいんですよ、ねえ、公爵? それに、あとで何があろうと、そんなことは、われわれにとってなんの関係もないこってす! もっとも、ぼくは寝ぼけ半分にでたらめをいってるんですよ。だが、ぼくはなんて恐ろしい夢を見たんだろう、たった今、思い出した……あなた、どうかこんな夢をごらんにならないように、公爵。ぼく、じっさいあなたを好いていないかもしれませんがね。もっとも、好いていないからって、なにもその人に対して、悪いことを祈るにゃ当たりませんからね、そうじゃありませんか? だが、なんだって、ぼくはこんなことをきいてばかりいるんだろう。ほんとうに、ぼくはいろんなことをきいてばかりいる! さ、あなた、手をお出しなさい、ぼくしっかり握ってあげましょう、ほら、こんなにね……だけど、あなたはよくまあぼくに手を出してくれましたねえ! してみると、ぼくがその手を真底から握りしめるってことを、あなたはもうちゃんと知っておいでなんですね?……たぶん、ぼくはもう酒を飲まないでしょう。なん時ですか? いや、まあいい、ぼく、なん時だか知ってますよ。時間が来た! 今がちょうどいい時だ。なんですあれは? あちらの隅のほうで前菜《ザクースカ》を並べてるんですか? すると。このテーブルはあくんですね? けっこう! 諸君、ぼくは……しかし、あの人たちははじめっから聞いちゃいないんだ……公爵、ぼくはある一つの文章を読もうと思っています。前菜《ザクースカ》のほうがむろんずっとおもしろいに相違ありませんが……」といいながら、ふいにまったく思いがけなく、彼は上衣のかくしから大形の紙包みを取り出した。それには大きな赤い印を捺して、封がしてある。彼はそれを自分の前のテーブルに載せた。
 この思いがけない一物《いちもつ》は、不用意な、というよりも、それとは別なものに対して心構えしていた一座の人々に、なみなみならぬ印象を与えた。エヴゲーニイはいすから伸びあがるし、ガーニャはいち早くテーブルのほうへ寄って来た。ラゴージンもそれと同じことをしたが、ことの真相はわかっているよといったような、なんとなく不機嫌らしい、腹立たしげな様子であった。すぐそばに居合わせたレーベジェフは、好嵜の目を光らせながら近づいて、ことの真相を洞察しようとするかのごとく、いっしょうけんめいに包みをながめていた。
「それはなんですか?」と公爵は心配げにたずねた。
「太陽がちょっと端をのぞけるといっしょに、ぼくも床につきます。公爵、ぼくがいったことは間違いありません、見てらっしゃい!」とイッポリートは叫んだ。「しかし……しかし……あなたがたはぼくにこの包みの封を切ることができないとお考えですか?」彼はなんだか撓みかかるような目つきをして一同を見まわしながら、べつにだれに向かってともなくこういい足した。
 公爵は、彼が全身をぶるぶるふるわしているのに気づいた。
「われわれはだれもそんなことを考えやしません」と彼は一向に代わって答えた。「だいいち、だれかがそんな考えを持ってるなんて、どうしてそんなことを邪推するんです? それに、いま時分なにか読むなんて、ずいぶんへんな思いつきじゃありませんか。いったい、きみそれはなんですか、イッポリート君?」
「なんです、いったい? この人はまあどうしたのです?」ときく声があたりに起こった。 
 一同はイッポリートのほうへ寄って来た。中にはまだ前菜をむしゃむしゃやりながら、のぞきにくるものもあった。赤い封印を捺した紙包みは、磁石のように人々を引き寄せるのであった。
「これはぼく、きのう自分で書いたんですよ、公爵。あなたのところでごやっかいになりますと約束したすぐあとでした。ぼくはきのういちんち書いて、夜から朝にかけてやっと終わったのです。ゆうべ明けがたちかくに一つ夢を見ましたが……」
「いっそあすにしたらどうです?」と公爵はおずおずさえぎった。
「あすはもう『そののち時を延ばすべからず』ですよ」とイッポリートはせせら笑った。「しかし、ご心配はいりません。
 ぼく四十分か、一時間で読んじまいます……それに、ごらんなさい。みんなが不思議そうな様子をしてるじゃありませんか。みんなこっちへやって来て、みんなこの封を見ています。まったくのところ、ぼくがもし、この文章に封をしなかったら、なんの感銘を与えることもできなかったでしょう! はは! 神秘というものはこんなところに存するんですよ! 封を切りましょうか、どうしましょう、皆さん?」と彼は奇 怪な笑いかたをし、両眼を輝かしつつわめいた。「神秘! 神秘! ところで公爵、『そののち時を延ばすべからず』と告げたのはだれだか、覚えていらっしゃいますか? それは 黙示録の中の偉大な、力強い天使が告げたんですよ」
「読まないほうがいいです!」とふいにエヴゲーニイが叫んだが、その様子が彼としては思いも設けぬ不安の色を帯びているので、多くの人には奇妙に思われたくらいである。
「読むのはおよしなさい!」と公爵も紙包みに手をかけて叫んだ。
「なにも読むことはない。いま前菜《ザクースカ》が出るんだから」とだれかがいった。
「文章ですって? 雑誌にでも載せるんですか?」といまひとりがきいた。「でも、つまんないかもしれませんね?」とまたひとりいい足した
「まあ、いったいなんです?」とその他の人々はたずねた。
 しかし、公爵のびっくりしたようなみぶりは、当人のイッポリートまで驚かしたようであった。
「じゃ……読まないんですね?」紫色になったくちびるに歪んだ微笑を浮かべて、彼はなんとなくあやぶむように公爵に向かってささやいた。「読みますまいね?」とまた以前の、まるで一同に食ってかかるような目つきで、ひとりひとりの目、顔を順々に見まわしながら、彼はつぶやいた。「あなた、こわいんですか?」とまた彼は公爵のほうを振りむいた。
「何を?」こちらはだんだん顔色を変えながら、問い返した。
「だれか二十コペイカのお持ち合わせはありませんか?」とイッポリートはだれかに突かれたように、とつぜんいすから飛びあがった。「なんでも銀貨ならいいです」
「さあ。これ!」とレーベジェフがさっそくさし出した。
 ひょっとしたら、病身のイッポリートがとうとう発狂したのではないかという考えが、ちらと彼の頭に浮かんだ。
 「ヴェーラさん?」とイッポリートは忙しげに呼んだ。「さあ、これを取ってテーブルの上へ投げてみてください。鵞が出るか格子が出るか? 鷲だったら読むんです!」
 ヴェーラはびっくりしたように金とイッポリート、それから父親の顔を見くらべたが、やがて妙に無器用な恰好をして、もう自分は金を見てはならないと信じたかのように、頭を上のほうに振りむけながら、金をテーブルの上に投げた。鷲の絵が上を向いて落ちた。
「読むんだ!」とイッポリートは、あたかも運命の判決に圧しひしがれたようにつぶやいた。彼はたとえ死刑の宣告を読み上げられても、これ以上ではあるまいと思われるほど青くなった。「だがしかし」ややしばらく無言ののちに、彼はとつぜん身震いしてこういった。「これはいったいなんだろう?ほんとうにぼくはいま運命のくじを引いたのかしら?」いぜんとして露骨な押しつけがましい態度で、彼は一同を見まわした。「しかし、これはまったく驚くべき心理的特性じゃありませんか」と真底からの驚愕を現わしながら、彼はふいに公爵に向かって叫んだ。「これは……これはじつに不可思跟な特性ですよ、公爵!」ようやくわれに返って勢いづきながら彼はぐりかえした。「あなたこれを書きとめておきなさいな、公爵、そしてよく覚えておきなさい。だって、あなたは死刑に関する材料を収集してらっしゃるそうじゃありませんか……ぼく、人から聞きました、はっは! おお! ぼくはなんてわけのわからんばかげたことをいってるんだろう!」そういって彼は長いすに腰をおろし、テーブルに両ひじついて自分の頭をつかんだ。「むしろ恥ずべきこった!………いや、しかし、恥ずかしいということが、ぼくにとっていったいどうなんだ」と彼はすぐに頭を上げて、「諸君! 諸君、ぼくはこの包みを開封します」と一種おもいがけない決意を帯びた調子で披露した。「ぼくは……ぼくはしかし、しいて聞いてくださいとはいいません!………」
 興奮のあまりふるえる手で彼は包みの封を切り、細かい字で書きつめたいく枚かの書簡箋を中から取り出し、前に置いて整理しはじめた。
「いったいあれはなんです? いったい、これはどうしたというんです? 何を読もうというんですか?」とあるものは沈んだ声でつぶやいたが、その他のものは黙っていた。
 しかし、一同は席について、好奇の目を輝かせながらながめた。じっさい、彼らはなにかなみなみならぬものを待ち設けていたのかもしれぬ。ヴェーラは父のいすにしがみついて、ほとんど泣きださんばかりにぎょうてんしていた。コーリャもほとんどそれと同じくらいにびっくりしている。レーベジェフはもう席についていたが、急に立ちあがってろうそくを取り、読みやすくするためにイッポリートのそばへ立てた。
「諸君、これは……いや、これが何ものだかということは、今すぐ合点がおいきになります」イッポリートはなんのためにやらこういい添えて、ふいに読みはじめた。「『わが必要なる告白』題銘。"Apres moi le deluge"(わが死後はよしや洪水あるとも――あとは野となれ山となれの意)ふっ、こんちくしょう」にわかに彼はまるでやけどでもしたようにどなった。「よくまあまじめにこんなばかばかしい題銘が入れられたもんだ!………さあ、聞いてください、諸君!………しかしおことわりしておきますが、つまるところ、これはぜんぜん恐ろしいナンセンスで終わるかもしれません! ただこの中にいくらかでもぼくの思想が……もし皆さんがこの中になにか秘密なものとか……もしくは……国禁的なものがあるように考えていらっしゃるならば……ひと口にいうと……」
「前置きをぬきにして、読んでもらいたいもんですね」とガーニャがさえぎった。
「ごまかしてるんだ!」だれやらがいい添えた。
「文句が多すぎらあ!」としじゅう黙っていたラゴージンが口をいれた。
 イッポリートは、きっとそのほうを見た。ふたりの視線がぴったりと合ったとき、ラゴージンは苦々しく、また腹立たしげに歯をむいて、ゆっくりとした調子で奇妙な言葉を発した。
「こういうことはそんなふうに細工するもんじゃねえ、若い衆、それじゃ違うぜ……」
 何をラゴージンがいおうと思ったかは、むろんだれも知らなかった。けれども、これらの数語は一同にかなり奇怪な印象を与えた。ある同じような観念が、ちらと一同の心の端をかすめたのである。イッポリートに対しては、この数語が恐ろしい作用をもたらした。彼は公爵が手を伸ばして支えようとしたほど、にわかに激しくふるえ出し、あやうく声を出して叫びかけたが、急にのどがつまって声が出なかったらしい。まる一分間、彼はものをいうことができないで、重々しい息をつきながら、じっとラゴージンを見つめていた。ついに彼は息をきらせながら、いっしょうけんめい力を出して、
「そんなら、あれはきみ……きみだったんですか……きみですか?」といいだした。
「いったいどうしたんだね? おれがどうしたってえんだい?」とラゴージンはけげんそうに答えた。
 しかし、イッポリートはかっとなって、ふいに狂暴な調子で鋭く激しく叫んだ。
「きみは先週、ぼくが朝のうち、きみんとこへ行ったちょうどあの日の夜、一時すぎにぼくのとこへ来たんだ、あれはきみ[#「きみ」に傍点]だ!! 白状しなさい、きみでしょう?」
「先週の夜? ほんとうにおめえはすっかり気がちがったんじゃねえかい、若い衆?」
『若い衆』はなにやら思いめぐらすように、人さし指を額に当てながら、ふたたび一分間ばかり無言でいたが、やはりまだ恐ろしさに歪んだような青ざめた微笑の中に、とつぜんなにやら狡猾らしい、勝ちほこったようにすら見えるものが、ちらとひらめいた。
「あれはきみだったんです!」ついに彼はささやくように、とはいえ非常に確信の色を示しながらくりかえした。「きみはあのときぼくんとこへ来て、一時間ばかり――いや、もっと長く窓ぎわのいすに黙ってすわってたんです。あれは夜中の十二時すぎか、一時すぎごろだった。それから二時すぎに、きみは立って出て行ったのでしょう……あれはきみだったんです、きみだったんです! なぜきみがぼくをおびやかしたのやら、またなぜぼくを苦しめに来たのや――それはわかんないけれど、しかしあれはきみだったんです!」
 こういった彼のまなざしの中には、ふいに限りない憎悪がひらめいた。恐怖の戦慄はいまだに静まらなかったけれど。
「諸君、このことは今にすっかりおわかりになります、ぼく……ぼく……さあ、聞いてください……」
 彼はまたしてもおそろしくあわてながら、紙に手をかけた。紙はすべってばらばらに乱れた。彼はそれを整えるのに努力した。紙片は彼のふるえる手の中でおののいていた。彼は長いあいだ平静に返れなかったのである。
「気がちがったのか、それとも熱にでも浮かされてるのか?」と聞こえるか聞こえないほどの声で、ラゴージンはつぶやいた。
 朗読はついにはじまった。はじめのうち五分ばかり、この思いがけない『文章』の作者は、やはりせいせい息をきらしながら、緩急のととのわぬ乱れた読みかたをした。が、そのうちに声がしっかりしてきて、内容の意味をはっきりと伝えるようになった。ただときどきかなり強いせきがその進行をさえぎるのみであった。文章のなかばごろから彼はだいぶ声をからしたが、朗読が進むにつれて、しだいに激しく彼を領してきた恐ろしい感激は、聴者に与える病的な印象とともに、終わりに近づくにしたがって頂点に達した。以下、つぎに掲げるのはこの『文章』の全部である。

   わが必要なる告白
"Apres moi le deluge"
『きのうの朝、公爵が来た。いろんな話の中に、彼は自分の別荘へ引っ越してくるようにと勧めた。ぼくは、彼がかならずこのことを主張するだろうと、前から思っていたし、また彼のいつもの口癖で、「別荘の人たちや木立のあいだで死ぬほうが楽だから」と真正面からやっつけることとかたく信じていた。ところが、きょう彼は死ぬ[#「死ぬ」に傍点]とはいわないで、「暮らすほうが楽だろう」といった。しかし、ぼくの境遇にあっては、どっちにしても同じようなものだ。ぼくは、彼がしょっちゅう木立木立というのは、はたして何を意味するか、またなぜそんなに木立を押しつけようとするのか、と聞いたら、なんでもあの晩、ぼく自身が、この世の名ごりに、木立を見にパーヴロフスクヘ来たと、こういったのだと聞いて、非常に驚いた。しかし、木立の下で死ぬのも、窓外のれんがを見ながら死ぬのも、同じことではないか、残り二週間という今となっては、たにも騒ぐに当たらないと、ぼくは公爵に向かっていった。すると、彼はすぐさま同意を表したが、しかし彼の意見によると、緑の色と清浄な空気は、ぼくのからだに生理的転化を呼びおこして、ぼくの興奮もぼくの夢も変わってき、あるいはしのぎよくなるかもしれぬ、とのことであった。
『ぼくはまた笑いながら、彼のいうことはまるでマテリアリストのようだ、といってやった。すると、彼は持ち前の微笑を浮かべて、彼はつねにマテリアリストであると答えた。彼はけっしてうそをつくことがないから、この言葉も何かの意味を蔵しているかもしれぬ。彼の微笑はじつに気持ちよかったので、ぼくはいまさら注意して彼の顔をながめた。ぼくはいま自分が彼を愛しているかいないか、それは知らぬ(今そんなことにかまっている暇がない。が、注意すべきことは、五か月間の彼に対するぼくの憎悪は、最近一か月間にいちじるしくやわらいできた。もしかしたら、ぼくがあのときパーヴロフスクヘ行ったのは、主として彼を見るためだったかもしれない)。とはいえ……なぜぼくはあのときこの部屋を捨てて出たのだろう? 死刑を宣告されたものが、自分の巣を捨てて出るという法はない。だから、もし今度ぼくがこうして確たる決心を採らず、かえってじっと最後の時を待つことに決めていたら、そのときはもちろん、パーヴロフスクヘ「死にに」来いなどという、彼の申し出を許容しなかったに、きまっている。
『しかし、ぼくは急いでこの「告白」をかならずあすまでにぜんぶ仕上げねばならぬ。してみると、読み返して訂正している暇がない。で、ぼくは公爵およびそこに居合わせるらしく思われる二、三の人に読んで聞かせるとき、はじめて読み返すことになる。この中にはひと言たりとも虚偽はなく、こととごとく誇るに足る最後の真理のみであるから、ぼくがこれを読み返すときに、その真理がぼく自身にいかなる感銘を与えるだろうか、それが今から楽しみである。けれども「誇るに足る最後の真理」とは、ぼくもくだらんことを書いたものだ。それでなくてさえ、あますところわずか二週間の今となって、うそなどつく価値はないのだ。なぜならば、二週問などという日数は、生きるべき価値がないからである。これこそぼくの書くことが、まったくの真実であるという最良の証明である(N・B・ここに一つ忘るべからざる想念がある。ほかでもない、ぼくはこのとき、いや、ときおり狂人ではあるまいか、ということである。極度に達した結核病者はどうかすると、ときとしてわずかのあいだ発狂することがあるとは、しばしば聞くところである。これはあす朗読の際、聴き手の表情によって、実否を確かめなければならない。この問題はかならず完全に解決する必要がある。でなければ、何ごとにも着手するわけにいかない)。
『ぼくはいま恐ろしいばかなことを書いたような気がしてならぬ。しかし、さきほどいったとおり、訂正している暇がない。それに、たとえ五行目ごとに、自家撞着をしているのにみずから気づいても、この原稿を一行たりとも訂正しないことを誓っておく。つまり、自分の思想の論理的展開がはたして正確であるかいなかを、あす決定したいのである。ぼくははたして誤謬を発見するだろうか、したがって、ぼくがこの六か月間この部屋の中でくりかえし考えたことは、ことごとく正確だろうか、あるいは単に一種のうわごとにすぎないだろうか。
『もしぼくが二か月前に、今のようにぜんぜんこの部屋を見捨てて、マイエルの家のれんが壁とも別れを告げることになったら、ぼくはかならずもの悲しさを覚えたに相違ない。が、いまはなにひとつ感じない。しかるに、ぼくはあす部屋も壁も永遠に[#「永遠に」に傍点]見捨てようとしているのだ! してみると、二週間ぐらいのためには何ごとも惜しむに当たらないし、いかなる感動にも没頭する価値がない、というぼくの信条はぼくの自然性を征服し、ぼくの全感覚を支配することができるのだ。しかし、これは真実だろうか? ぼくの自然性が今やことごとく征服されたのは、はたして真実だろうか。もしいま人がぼくを拷問にかけはじめたら、ぼくはたしかに悲鳴を上げるに相違ない。そして、二週間しか生活の日が残っていないから、痛みを感じたりわめいたりする価値がない、とはいわないだろう。
『しかしぼくの生活の日は二週間きりで、それ以上のこっていないというのは、真実だろうか? あのときパーヴロフスクでああいったのはうそだ。Bはぼくに何もいいはしない、そして一度もぼくと逢ったこともない。しかし、一週間ばかり前に、ぼくは大学生のキスロロードフを連れて来てもらった。彼自身の確信によれば、彼はマテリアリストで、アテイストで、ニヒリストだとのことである。ぼくはそのため特にこの男を呼んだのだ。ぼくはもう今度こそいささかの容赦もなく無遠慮に、赤裸々の真実をぶちまけてくれる人が望ましかったのである。そして、彼はそのとおりにしてくれた。しかも、単に平気で無遠慮だったのみならず、さもさも満足そうにそれを実行した(ぼくにいわせれば、これなどはもう余計なことだ)。彼は真正面から、ぼくの余命はほぼひと月ぐらいだとやっつけた。しかし、周囲の事情が良かったら、あるいはもっと長いかもしれないが、また、あるいはそれよりずっと早いかもしれぬ、とのことであった。彼の意見にしたがえば、ぼくは急にあすにも死ぬかもしれないそうである。こういうことはよくあるやつで、つい三日ばかり前、あるひとりの若い女で、やはり肺病のため、ぼくと同じような境遇にあったコロムナの人が、市場へ買出しに行く支度をしているうちに、とつぜん気分が悪くなって、長いすに倒れ、それきり息を引き取ってしまった。こんなことをキスロロードフは、自分の無感覚と不注意を誇るような調子さえ示しながら、すっかりぼくに話して聞かせた。そして、まるでそれがぼくにとって、光栄ででもあるかのように思っているのだ。つまり、ぼくを自分と同じような人間、――死ぬということなぞにはなんの価値をも付与しないで、いっさいを否定する高等な人間と見なしていることを、その話で知らせようとしたのだ。が、とにかく事実は結局、明瞭になった。一か月だけで、けっしてそれ以上ながくはない! 彼の見立てちがいでないことは、ぼくもぜんぜん信じている。
『ぼくが非常に驚いたのは、なぜさきほど公爵がぼくの「悪い夢」を、ああまで見透かしてしまったか、ということである。パーヴロフスクヘ来たら、ぼくの興奮もぼくの夢も変わるだろう、と彼は文字どおりにそういった。それに、なぜ夢なんて言葉を持ち出したんだろう? 彼は医学者か、それともじっさい非凡な知恵をもっていて、多くの事物を洞察することができるのだろうか(しかし、なんといっても、彼が「白痴」であることは、なんら疑いない)。ぼくは彼の来訪のちょっと前に、まるであつらえたように一ついい夢を見た(といっても、それは近ごろしょっちゅう見るような夢の一つである)。
『ぼくは、ふと眠りにおちた、――おそらく彼の来訪の一時間まえだったと思う、――と見ると、ぼくはある部屋の中にいる(しかし、ぼくの部屋ではない)。それはぼくの部屋より大きくて高く、道具も上等で、全体に明るかった。戸だな、たんす、長いす、そして大きな広い寝台には、緑色の、綿のはいった絹夜具がかかっている。しかし、ぼくはこの部屋に一つの恐ろしい動物、一種の怪物を見つけた。それは蝎みたいなものであったが、蝎とも違う。さらにいとわしく、さらに恐ろしかった。そのわけは、たぶんそんな動物が自然界にいないのと、またそれがことさら[#「ことさら」に傍点]ぼくのところへ現われたのと、その中になにかの神秘が潜んでいるらしいのと、この三つが原因であろう。ぼくはとくとこの怪物を見定めた。それは鳶色をして、殼のようなものに包まれた爬虫類で、長さ七インチばかり、頭部の厚みは指二本ならべたくらいで、尾っぽに近づくにつれてしだいに細くなっている。で、尾の先端は厚さ五分の一インチぐらいしかない。頭から一・七インチばかり離れたところに、長さ三インチ半ぐらいの足が、胴の両側から一本ずつ、四十五度角をなして出ている。で、上から見ると、この動物全体が三叉の戟《ほこ》の形を呈している。頭はよく見きわめなかったが、あまり長くない、堅い針の形をした二本の触角が見えた。同じく鳶色をしている。そんなふうの触角が尻の先にも、両足の先にも二本ずつ出ている。都合みなで八本ある。この動物は足と尻尾で身を支えながら、非常な速度で鄒屋じゅうをはいまわるのであった。そして、走るときには、その胴体と両足が、固そうな殼で包まれているにもかかわらず、恐ろしい速さで小蛇のようにうねるので、見ていると胸が悪くなってくる。ぼくは刺されはせぬかと非常に恐ろしかった。このものが有毒動物であるということは、前から聞いていた。しかし、ぼくを最も苦しめたのは、だれがこれをぼくの部屋へ追いこんだのか、ぼくをどうしようというのか、これにはどんな秘密があるのか、という想念であった。怪物はたんすや戸だなの下に隠れたり、隅にはいこんだりする。ぼくはいすの上に両足を引き上げ、ひざの下へ敷いてしまった。怪物は部屋を斜めに横切って、どこかぼくのいすのへんに消えて見えなくなった。ぼくは恐ろしさにあたりを見まわした。が、足をひざの下に敷いてあるから、よもやいすの上にあがりはしないだろうと、そんなことを頼みにしていた。と、ふいにうしろのほうで、ほとんどぼくの頭の辺で、がさがさという響きを耳にした。振りかえって見ると、毒虫は早くも壁を伝わって、ぼくの顔と同じくらいのところへはい昇っている。そして、恐ろしい速度でうねりまわっている尻尾が、ぼくの髪の毛にさえ触れているではないか。ぼくが飛びあがると、毒虫も姿をくらました。ぼくは毒虫にまくらの下へはいこまれはしないかと思うと、寝台に横になるのがこわかった。やがて部屋の中へ母と、もうひとり母の知り合いがはいって来た。ふたりは毒虫をつかまえにかかったが、ぼくから見るとはるかに落ちついて、おそれもしなかった。ふたりはなんにも合点がいかなかったのである。ふいにまた毒虫は姿を現わした。今度はきわめて静かに、なにか特別な考えでもあるかのように、静かにからだをうねらせつつ(それがまた特にいとわしく見えた)、またしても部屋をはすかいに横切って、戸口のほうへ歩いて行った。そのとき母は戸をあけて、ノルマという家の飼犬を呼んだ――それは黒いむく毛の大きなテルニョフ種(ニュウファウンドランド・ドッグ)であったが、もう五年まえに死んでいた。ノルマは部屋へかけこんだが、まるで釘づけにされたように、毒虫の前に立ちどまった。毒虫も立ちどまった。が、やはりいつまでもからだをうねらして、両足としっぽの先で床をこつこつたたいていた。もしぼくの観察に誤りないならば、一般に動物というものは、神秘的な驚愕を感じないものである。しかし、この瞬間、ノルマの驚愕の中にはなにか一種異常な、ほとんど神秘的ともいうべきものがあった。そしてノルマはぼくと同様、この動物の中になにか全運命をくつがえすような、恐ろしい神秘が潜んでいることを、直覚したかのように思われた。毒虫が静かに用心ぶかくノルマのほうへはい寄ると、ノルマはそっとあとへしさって行く。毒虫はふいに相手におどりかかって、剌そうと思ったらしい。しかし、極度の恐怖にもかかわらず、ノルマは憎々しそうな様子で毒虫を見つめていた。が、その肢はふるえていた。やがて、彼はおもむろにその恐ろしい歯をむいて、大きな赤い口をかっと開き、すきをうかがいながら身構えしていたが、やがて心を決してふいに毒虫をくわえた。きっと毒虫はすべり抜けようとして、激しく暴れたに相違ない。ノルマはも一度落ちかけた敵を宙で捕えた。それから、また二度までも大きな口で、あたかもひと呑みにするような勢いでくわえこんだ。殼は歯に当たってかちかちと鳴り、口からはみ出ている尾や足のさきは、恐ろしい速度で顫動するのであった。とつぜんノルマは悲しげに叫んだ。毒虫はその間にとうとう彼の舌を刺したのである。ノルマは痛みに耐えかねて、叫んだりうなったりしながら口をあけた。咬《か》みつぶされた毒虫はその半崩れの胴体から、白い液をおびただしく彼の舌に絞り出しつつ、口の中に横たわって、まだうごめいているのが見えた。その液は踏みつぶされた油虫のそれのようであった。……そのとたんにぼくは目をさました。公爵がやってきたのだ』
「諸君」とイッポリートはふいに朗読をやめて、みずから恥ずるもののごとくいった。「ぼくは一度も読み返して見なかったのですが、なんだか実際あんまり無駄なことを書きすぎたようです。この夢は……」
「そんな傾向がありますね」ガーニャは急いで口をはさんだ。
「あの中にはまったく個人的なことが多すぎるんです。つまり、ぼく自身のことが……」
 こういったイッポリートは、疲れた弱々しい様子で、額の汗をハンカチでぬぐった。
「そうですな。あんまりご自分のことにばかり、興味を持ちすぎてるようですな」とレーベジェフがしわがれ声でいった。
「諸君、ぼく、くりかえして申しますが、どなたにも無理に聞いてくださいとはいいませんよ。おいやなかたは遠慮なく、あちらへいらしってください」
「追い立てやがる……自分の家でもないくせに」やっと聞こえるぐらいの声で、ラゴージンがつぶやいた。
「どうです、ひとつわれわれがみんな一ときに立って、あちらへ行ってしまったら?」今までさすがに大きな声でものをいいかねていたフェルディシチェンコが、とつぜんこういいだした。
 イッポリートはふいに目を伏せて、原稿をつかんだ。が、それと同時にまた目を上げて、双頬に赤い斑点を染め出し、目を輝かせ、執念ぶかくフェルディシチェンコを見つめながら、「きみはまったくぼくを好いていないんですね!」といった。
 同時に笑い声がおこった。とはいえ、多くのものは笑わなかった。イッポリートはおそろしくあかくなった。
「イッポリート君」と公爵がいった。「その原稿を閉じて、ぼくにおよこしなさい。そして、きみはぼくの部屋でおやすみなさい。寝る前にふたりで話しましょう、そして、あすの朝もね。しかし、もうこの原稿はけっして開かないという条件つきですよ。いやですか?」
「そんなことできるもんですか?」イッポリートはすっかり驚いて、彼の顔を見た。「諸君」彼はふたたび熱に浮かされたように元気づきながら叫んだ。「とんだばかな挿話で、ぼくは自己制御の不能を暴露しました。もうけっして朗読を中絶しません。聞きたい人は、――お聞きなさい……」
 彼は忙しげにコップの水をひとのみして、人々の視線を避けるためにテーブルにひじをつきながら、強情に朗読をつづけた。とはいえ、羞恥はたちまち失せた。
『わずか数週間ぐらいの生活は(と彼は読みつづけた)、生きるだけの価値がないという観念が、ほんとうにぼくの心を征服しはじめたのは、ぼくの余生がまだ四週間あるという、ひと月ばかり前のことだったと思う。それが完全にぼくを征服しつくしたのは、あの晩パーヴロフスクからもどって来たとき、すなわちわずか三日前である。この観念とぴったり直面した瞬間は、公爵の家の露台であった。それは、ぼくが生涯における最後の試みをなそうと思って、人と木立が見たいといいながら(まったくぼくがこういったものとしておこう)、熱くなってブルドーフスキイの、ぼくの「隣人」の権‘利を主張した、その一瞬間におこったのだ。あのときぼくは、人々がふいに驚いて両手を広げ、ぼくをその胸に抱きしめて、なんのためか知らぬが、彼らはぼくに、またぼくは彼らに、許しをこうにちがいない、と想像したのである。しかし、とどのつまり、ぼくはくだらないまぬけの役を演じてしまった。つまりこのとき、ぼくの心中に「最後の確信」が燃えあがったのだ。どうしてぼくはこの六か月間この「確信」なしに生きていられたのか、今はただ驚くほかはない! ぼくは自分が肺病にかかっている、しかもそれは不治の難病だと確実に知っている。ぼくは今までみずからあざむくことなく、明晰にことの真相を予知していた。しかし、それがはっきりわかればわかるほど、ぼくは生きたいという痙攣的な欲望を感ずるのであった。ぼくは生にしがみついて、どんなことがあろうとも生きたいと思った。あのときぼくを蝿のごとくおしつぶせと命令した(むろんなんのためともわからない)暗黒な、陰惨な運命のくじに対して、ぼくが腹を立てたのは当然だということ、それは自分でも承認する。しかし、なぜぼくは単に腹を立てるだけで済まさなかったのか? みすみす不可能と知りながら、どうしてぼくはほんとうに生きることをはじめた[#「はじめた」に傍点]のか? もはや試みるべき必要のないことを知りつつ、どうして試みたのか? とはいえ、書物を読むことすらできず、ためにいっさい読書をやめた。なんのために読むのだ。なんのために六か月のあいだにものを知ろうとするのだ? こうした観念は一度ならず、書物を投ぜしめた。
『そうだ、あのマイエルの家の壁は、さまざまな事実を諸君に伝えることができる! ぼくはあの壁の上にいろんなことを書きつけた。あのきたない壁の斑点で、の暗記していないものは一つもない。おお、のろわれたる壁よ! が、それにしても壁は、パーヴロフスクの木立のいっさいよりも、ぼくにとって高価である。いや、もしぼくが今日すべてのものに対して没交渉でなかったら、あの壁は何よりも高価であらねばならぬ。
『今となって思い出すが、ぼくは一時なんという貪婪《どんらん》な興味をもって、世人[#「世人」に傍点]の生活に注目しはじめたろう。あのような激しい興味は、以前かつてなかったことだ。ぼくは病勢がつのって、自身で部屋の外へ出ることができないとき、どうかすると、耐えがたい焦躁をもってコーリャを待ちながら、その来ようが遅いのをののしったものである。ぼくはむやみにいろんな些事に没頭し、あらゆる風説に興味を動かして、ほとんどりっぱな告げ口屋になりおおせたかと思われるほどであった。ぼくにとってどうしても合点のいかなかったのは、なぜ世間の人たちはあれだけ長い生涯を与えられていながら、金持ちになることができないのか、という疑問であった(とはいえ、今でもやはり合点がいかない)。ぼくの知人にひとりの貧乏人がいたが、あとで人の話を聞けば、飢え死にしたとのことである。この事実はほとんどぼくを狂憤せしめた。ほんとうにもしこの貧乏人をよみがえらすことができたら、ぼくはきっとこの男に刑罰を加えねばおかないところだった。どうかすると、二、三週間もつづけて気分の軽いことがあった。そんなときぼくは通りへ出てみたが、その通りがまた激しい憤懣の念をよびおこして、ぼくは人なみに外へ出ることができたにもかかわらず、わざと二日も三日も部屋の中に閉じこもっていた。歩道に沿って人のそばをあちこちと、いつも心配そうなむずかしい顔をしながら、さも忙しそうにそわそわして、どこへでも臆面なしに鼻を突っこむ世間の連中が、いやでいやでたまらないのである。なんのためにあの連中は年がら年じゅう、悲しい、心配そうな、忙しげな顔つきをしているのだろう、なんのために年がら年じゅう、小むずかしく意地悪なのだろう?(そうだ、あいつらはまったく意地悪だ、意地悪だ、意地悪だからだ)。あいつらがめいめい前途に六十年ずつも長い生涯をかかえていながら、いつも不仕合わせで、生活らしい生活ができないからって、いったいだれの知ったことか? なぜザルニーツィンは前途に六十年の生を有しながら、飢餓に身を滅ぼしたのか? あいつらはめいめい自分のぼろや、下等らしい両手をひけらかしながら、怒ったりわめいたりしているのだ。「われわれは牛のように働いて働いて、働きぬいて、それで犬のように飢えて貧乏してる! ところが、ほかのものは働きも稼ぎもしないのに金を持ってる!」(ふむ、いつものきまり文句だ!)こんな連中の仲間にイヴァン・フォミッチ・スーリコフという、もとは「由緒ある家から出た」と自称する貧乏な意気地なしがいた。――これはぼくと同じまで、ぼくより一段うえに住んでいる、――いつもひじが抜けてボタンのちぎれた服を着、いろんな人の走り使いに頼まれて、朝から晩まで忙しそうにかけずりまわっている。一度だれかこの男と話してみたまえ。「もう貧乏で乞食のような暮らしをしております。女房が死んだときも、薬を買うおあしさえなかったのでございます。それに今年の冬は、赤ん坊をひとりこごえ死にさせてしまいました。はい、いちばん上の娘はよそへ妾奉公に出てしまいましてございます」……年じゅうめそめそしている、年じゅう泣きごとをならべている! おお、ぼくはけっして、――今も以前も、こんなばかものどもに対して、なんら憐憫の情をも感じたことがない。ぼくはこういうのを誇りとする! なぜあいつらは自分でロスチャイルドにならないのだ! あいつらがロスチャイルドのように、何百何千万という金がないからって、だれの知ったことだろう? あいつらが、まるで謝肉祭の見世物小屋の中にあるようなインペリアルや、ナポレオンドル(金貨の名)の山、高いすてきな山を積まないからって、だれの知ったことだろう? あいつらが生きてる以上、すべてはあいつらの権力内にあるのではないか!あいつらにこの道理がわからないからって、だれにも責任はありゃしない! 
おお! 今こそぼくはもうどうなってもかまいはしない、今はもう腹を立ててる暇がない。しかし、あの時分、あの時分ぼくは毎夜狂憤のあまりまくらを咬《か》んだり、夜着を裂いたりしたものだ。あの時分ぼくは世間の人が、ほとんど着るものもかぶるものもない十八の少年を、――ぼくを、いきなり往来へ追ん出して、まるっきりひとりぼっちにしてくれればいい、などと空想した、いっしょうけんめいに望んだ、わざとそんなことを望んだのである。家もなく、仕事もなく、一片のパンもなく、親族もなく、広い世界にひとりの知己もなく、飢えて、へとへとになっていてもいい(そのほうが結局しあわせだ!)、ただ健康でさえあればいい。そしたら、ぼくは世間のやつらをあっといわせてやろうものを……
『どうしてあっといわせるのだ? と諸君は聞かれるかもしれない。
『ああ、いったい諸君はぼくがそれでなくてさえ、この「告白」でもってみずから辱しめたのを、知らずにいると思考されるのか? しかし、たいていの人はもはやぼくは十八歳の
少年でない、ぼくがこの六か月間に生きて来たような生きかたをするのは、つまり、髮の白くなるまで生きたのと同じことであるのを忘れてしまい、ぼくを目して人生を知らぬ小僧っ子であるというだろう。けれども、笑いたいものは勝手に笑わしておけ、ぼくの言葉を作り話だというのならいわしておけ。それにまたじっさい、ぼくは自分で作り話をこしらえてひとりで話していたのだ。そして、それらの物語で自分の夜な夜なをみたしていたのだ。今でもぼくはそれをすっかり覚えている。
『しかし、今となって、ぼくはそのような作り話をふたたびくりかえすべきだろうか、-今のぼくにとって作り話の時代は過ぎ去ったのではないか? それに、話して聞かせる人もない! ぼくがそうした物語でみずから慰めていたのは、ぼくがギリシャ文法を学ぶことさえ禁じられている、ということを明瞭に悟ったときである。ふと「文章論《シンタクシス》までもゆかないうちに死んでしまうだろう」という考えが、最初の一ページから頭に浮かんだので、ぼくは書物をテーブルの下へほうり出してしまった。今でもやはり同じところにころがっている。ぼくはマトリョーナ(下女)に、それを拾ってはいけない、といいつけたのである。
『ぼくの「告白」を手に入れて、辛抱づよく通読してくれる人があったら、その人はぼくを狂人か、さもなくば単なる中学生と考えるだろう。あるいはまた、死刑を宣告されたために、自分以外の人がみんな命を粗末に安価に浪費し、懶惰《らんだ》に鉄面皮にその特権を利用しているように、つまり、皆が皆ひとり残らず生をうくる価僖のないもののように見えだしたのだ、とこういうふうにとるかもしれぬ。しかし、それがどうだというのだ? ぼくは宣言する、その人の考えは間違っている、ぼくの信念は、ぼくが受けた死刑の宣告にぜんぜんなんの関係もない、と。かりに世間の人たちにたずねてみるがよい、――幸福は那辺に存するかという問題について、世間の人たちの百人が百人までいかなる見解を有しているか?このことに関して、ぼくは確信をもっていう、コロンブスが幸福を感じたのは、彼がアメリカを発見したときではなくして、それを発見しつつあったときである、と。ぼくは確信する、彼の幸福の最も高潮した瞬間は、おそらく新世界発見のちょうど三日前であったろう。すなわち乗組員が一揆を起こして、絶望のあまり船をヨーロで(のほうへ返そうとしたときであろう! このさい、問題は新世界にあるのではない、そんなものはなくたってかまいはしない! じっさいコロンブスは、ほとんど新世界を見ずに死んでしまったようなものだ。じじつ、自分が何を発見したのかも知らずに死んでしまった。つまり、問題は生活にあるのだ、ただ生活のみにあるのだ、――絶え間なき永久の探求にあるので、けっして発見にあるのではない! しかし、何をしゃべっているのだろう! ぼくのいまいったことのすべては、あまり世間普通のきまり文句に似ているので、あるいはぼくを目して少年雑誌に文章を投稿している中学の下級生とするかもしれぬ。でなければ、「じっさいこの男はなにかいおうとしたものらしいが、心ばかり逸《はや》っても、やはり……『告白』ができなかった
のだ」というかもしれぬ、ぼくはこれを恐れる。とはいえ、ぼくはひと言こうつけくわえたいと思う。あらゆる天才の思想、もしくは新人の思想、いな、むしろどんな人間の頭脳に生じたものにしろ、あらゆるまじめな思想の中には、どうしても他人に伝えることのできないようなあるものが残っている。これがために幾巻の書をかきつづっても、三十五年間自分の思想を講義しても、つねにどうしても自分の頭蓋の中から出て行こうともせず、永久に自分の内部にとどまっているような何ものかがある。そうして、人々は自分の思想中もっとも重要なものを、だれにも伝えないで死んでしまうかもしれないのだ。しかし、ぼくもまたこれと同様に、六か月間自分を苦しめたものをことごとく伝えることができなかったら、ぼくはかの「最後の信念」を獲得したとはいえ、それに対してあまりに高い価を払ったのである。このことをこの「告白」の中に明らかにしておくのは、それがある目的のために必要なことと考えたからである。
『けれども、次へ移らねばならぬ。

      6

『ぼくはうそをつきたくない。正直なところ、現実はこの六か月間、ぼくをかぎにかけて捕えていた。そして、どうかすると、恐ろしい宣告をも忘れて、というより、むしろそのことを考えようとしないで、事務をとる気にさえなるほど、ぼくの心をまぎらすことがあった。ついでだから、当時のぼくの周囲を語るとしよう。八か月ぽかりまえ病勢がとみに進んだとき、ぼくはすべての交渉を絶ち、以前の交友をも捨ててしまった。ぼくはいつもかなり気むずかしい人間であったから、友達のほうでも苦もなしにぼくを忘れた(もっとも、こんないきさつがなくとも、彼らは容易にぼくを忘れたに相違ない)。家にいるとき、つまり家庭におけるぼくの状態も、やはり孤独であった。五か月ばかり前から、ぼくは永久に内部からしめきった一室にこもり、自分というものを家庭の住まいから、ぜんぜんきり放してしまった。ほかのものも、ぼくのいうことはいつでも聞いてくれたから、一定の時間に部屋の片づけと、食物を持ち運びする以外、だれもぼくの部屋へはいることができなかった。母はぼくの命令を戦々恐々と守った。そして、ぼくがときどき部屋へはいることを許してやっても、ぼくの前でぐちをこぼすのを遠慮した。ふさい子供らも騒々しくして、ぼくに迷惑をかけるといっては、のべつ折檻されていた。ぼくも子供らのわめき声がやかましいといって、よく訴えたものだ。とにかく、みなのものは今のところ、ぼくを愛しているに相違ない。ぼくのいわゆる「忠実なるコーリャ」も、同様にかなり悩まされたらしい。このごろ、彼もぼくを悩ますようになったが、それはきわめて自然なことだ。人間というものは、たがいに悩まし合うように作られているのだもの。しかし、気がついて見ると、彼は「病人だから容赦してやらなくちゃ」と、前もって誓ったかのように、ぼくのかんしゃくをがまんしているらしい。それがぼくをいらいらさせたのはあたりまえである。けれども、彼はどうやら公爵の「キリスト教的忍従」を模倣しだしたらしい。これは少々こっけいである。彼は若い熱性の少年であるから、何ごとでも模倣するのは当然だが、もういいかげん、自分自身の理性で生活してもいいころだ、とこうぼくはときに考える。が、ぼくはこの少年がとても好きだ。
『ぼくは同じようにスーリコフをも苦しめた。これはぼくらよりも一階上に住んでいて、朝から晩までだれかの用使いに走りまわる男である。ぼくはしじゅう彼に向かって、おまえの貧乏はおまえ自身が悪いのだ、といって聞かせるものだから、しまいにはびっくりして来なくなってしまった。彼はすこぶるあきらめのいい男である、世界じゅうでいちばんあきらめのいい存在といってもいいほどである(N・B・忍従は力なりというが、これは公爵にただしてみなくちゃならぬ、公爵自身のいったことなんだから)。それはとにかく、三月の月にこの男が自分の赤ん坊を「凍《しば》れ死《し》に」さした(これは彼のいいぐさなので)、という話を聞いて、様子を見るために階上へあがって行ったことがある。ぼくはそのとき何心なく赤ん坊の死骸に冷笑をもらしてしまったので、またしてもおまえ「自身が悪いのだ」とスーリコフに説明しはじめた。すると、急にこの蕈《きのこ》おやじのくちびるがぴりりとふるえた。彼は片手でぼくの肩をおさえ、片手で戸口を指しながら、小さな、ほとんどささやくような声で、「出てください!」といった。で、ぼくは外へ出た。しかし、このできごとが気に入ってしまった。彼がぼくを戸口から送り出した瞬間すら、嬉しくてたまらなかった。けれど、あとになって、彼の言葉はぼくに奇妙な、重苦しい侮蔑とまじった憐憫の印象を残した(そんな感じは、すこしも味わいたくなかったのだが)。ああした侮辱を受けたときでさえ(ぼくはそんなつもりではなかったのだが、自分でも彼を侮辱したという感じがする)、ああいうときでさえ、この男はかんしゃく玉を破裂させることができないのだ!・ あのときくちびるがぴりっとふるえたのは、けっして憤怒のためでない、それは、ぼくが誓っておく。ぼくの手を取って、あのりっぱな「出てください」をいったのも、けっして腹立ちまぎれではない。品格はあった、しかも十分にあった。それはぜんぜん彼に似つかわしくないほどだった。(だから、正直なところ、コミックな要素もたくさんあった)が、憤怒はなかった。しかし、彼は急にぼくをばかにしはじめたのかもしれない。そのとき以来、二、三度階段で出会ったことがあるが、彼はなんと思ったか、急に今までになく帽子をぬぎはじめた。けれど、もう前のように立ちどまらず、間の悪そうな様子でこそこそ走り抜ける。かりにぼくを軽蔑しているとしても、やはり独特のやりかたである。つまり、彼は「忍従的[#「忍従的」に傍点]に軽蔑」しているのだ。しかし、彼が帽子を取るのは、あるいは単に債権者の息子に対する恐怖のためかもしれぬ。というわけは、彼はいつも母に借金していて、どうしても肩を抜くことができないからである。それはなによりもいちばん確かなことだ。ぼくは彼によくわけを話そうかと思った。そうしたら先生、十分もたたないうちに、ゆるしをこうに相違ないと、信じていたからである。しかし、もうあの男にさわらないでおくほうがいい、と考え直した。
『ちょうどそのころ、つまり、スーリコフが子供を「凍《しば》れ死《し》に」さしたときだから、三月のなかばごろであった。ぼくはなぜか急にからだの具合がよくなって、その状態が二週間ばかりつづいた。で、しょっちゅう外出するようになったが、それも主としてたそがれ時だった。ぼくはあの空気がしだいに凍ってきて、ガスのともりはじめる三月のたそがれ時が好きなので、どうかすると、ずっと遠方まで歩きまわることがあった。そのときシェスチラーヴォチナヤで暗がりの中を、ひとりの「お上品」な仲間らしい男が、ぼくを追い越した。よく兄わけることができなかったが、なにやら紙に包んだものをさげて、なんだか妙につんつるてんの、季節はずれに薄い、ぶざまな外套を着ていた。彼がぼくの前方十歩ばかりの街燈のそばまで来たとき、ぼくはそのかくしからなにかばたりと落ちたのに気がついた。ぼくは急いで拾い上げた――それはちょうどいい時であった。なぜというに、もうだれやら長い上衣《カフタン》を着た男が、横合いから飛び出したからである。しかし、その男は一物がぼくの手に入ったのを見て、べつにあらがおうとせず、じろりとぼくの手中をのぞいてから、そばをすり抜けてしまった。この一物は大きな、モロッコ皮で作った、旧式の、ぎっちりつまった紙入れだった。けれども、ぼくはひと目見るなり、この中にはなんでもお好みしだいのものが入っていようが、ただ金の入ってる心配だけはないということを、なぜかすぐに察してしまった。落とし主はもう四十歩も前のほうを歩いていたが、間もなく群集にまぎれて見失った。ぼくはあとを追って走りながらわめきはじめた。しかし、「おうい!」とよりほかに呼びかたがないので、向こうは振りかえろうともしなかった。急に彼は左手にある一軒の家の門内へ吸いこまれた、ぼくがひどく暗い門の下へかけこんだとき、彼はもうそこにいなかった。その家の大きさはすばらしいもので、よくごみごみした住居のために山師どもの建てるようなものであった。そんな家の中には、どうかすると百軒ぐらいまでに割られたのもある。ぼくが門内へかけこんだとき、大きな庭の右手に当たる裏の片隅に、どうやら人間らしいものが歩いているように思われた。もっとも、暗やみのことゆえ、ようやく物のあやめが見えるだけであった。そこまでかけつけて、ぼくはようやく階段の入口を見つけた。階段は狭いうえにおそろしくよごれて、あかりはまるでついていなかった。しかし、まだ高いところで一段ずつ、ことことと人の登ってゆく足音が聞こえた。ぼくは、どこかで彼が戸をあけている暇に、追いつくことができると胸算用しながら、一散に階段をかけのぼった。はたして思うつぼであうた。ごくごく短い階段が数えきれないほどつづいているので、ぼくは非常に息切れがしはじめた。すると、五階で戸があいて、またすぐにしまる音がした。五階だということは、階段を三つも隔てた下のほうから、もうちゃんと察しがついた。ぼくが上へかけのぼって、踊り場で息を休め、呼鈴のありかをさがしたりなどしているうちに、幾分か時が過ぎた。やっとぼくのために戸をあけてくれたのは、穴のような台所で湯沸《サモワール》の火を吹いている女房《かみさん》だった。彼女は無言でぼくの質問を聞いていたが、もちろん、すこしも合点がゆかなかった。で、無言のまま次の間へ通ずる戸をあけてくれた。それは同様に小さな、おそろしく天井の低い部屋で、ぜひなくてはならないひどい道具類と、たれを下ろした大きな広い寝台がすえてあって、その上には「チェレンチッチ」(と、かみさんは声をかけたので)が横になっている。その様子がどうも酔っぱらっているらしかった。テーブルの上にはろうそくの燃えさしが、鉄の燭台の上でまさに燃えつきんとしているし、おおかたからになったウォートカの小尽か立っていた。チェレンチッチは寝たまま、なにやらうなるようにいって、次の戸のほうをさして手を振った。かみさんはもう元の部屋へ行ってしまったので、ぼくはいやでもこの戸をあけるよりほかに仕方がなかった。で、ぼくは戸をあけて、また次の間へ入った。
『この部屋は前よりもっと狭く、向きを変えることさえできないほどだった。片隅にある幅の狭いひとり寝の寝台が、むやみに場所を取っていたのである。このほかの家具といっては、いろいろなぼろを載せた飾りのないいすが合計三脚と、思いきり粗末な台所用のテーブルと、その前にある古い油布張りの長いすと、それっきりであったけれども、テーブルと寝台とのあいだはほとんど通り抜けができなかった。テーブルの上には前の部屋と同じような燭台があった。寝台の上では小さな赤ん坊が泣いていたが、その泣き声から察すると、まるまる三週間ぐらいしかたたぬらしい。病みあがりの青い顔をした女がおむつを換えている。女はまだ若そうなふうであったが、丸裸といってもいいくらいな身なりをしている。おそらく産後でやっと床上げをしたばかりだろう。赤ん坊は容易に機嫌を直さないで、やせさらばえた母の乳を待ちかねて、泣き立てるのだった。長いすの上にはもうひとりの子供、三つばかりの女の子が、燕尾服ようのものにくるまって寝ていた。テーブルのそばには例の「紳士」が、くたびれきったフロックを着て(彼はもう外套を脱いでいた、脱ぎ捨ては寝台の上に投げ出されてあった)、立ったまま、青い紙の包みを解いて、二斤ばかりの白パンと二きれのちっぽけな腸詰を取り出した。テーブルの上にはそのほか茶の入った急須があるし、黒パンのきれがごろごろしている。寝台の下には、鍵のかかっていない鞄がのぞいているほか、なにかぼろきれの入った包みが二つころがっている。
『てっとり早くいえば、恐ろしい乱脈であった。ひと目見たところ、ふたりとも、「紳士」も「夫人」も、れっきとした人だったのが、貧のためにこうした下賤の身の上に落とされ、ついには乱脈に征服されて、それと戦おうという気力も尽き果て、日に日につのるこの乱脈の中に、なにか復讐的な苦しい満足感を発見するといったふうな、苦い要求を覚えるまでに立ちいたったらしい。
『ぼくが入ったとき、やはりちょっと前に入って来て、食料を広げはじめたばかりの「紳士」は、なにやら早口に熱した調子で妻と言葉を交わしていた。妻はまだおむつを換え終わらないうちから、もうぐずぐずぐちをこぼしはじめた。夫の一もたらした報告が、例によって、あまり思わしくなかったに相違ない。年のころ二十八ばかりと思われるこの紳士の顔は、浅黒くかわききって、黒いほお髯にふちどられ、あごはつやつやするほどきれいに剃り上げてあった。ぼくはこの顔がかなり上品に、気持ちよく思われるくらいだった。気むずかしい目つきをした、気むずかしい顔ではあるが、なにかというとすぐむらむらとなるような、病的な誇りの影を帯びていた。ぼくが入ったとき、奇妙な一場の芝居が持ちあがった。
『世の中には、自分のいらいらした怒りっぽい性質の中に異常な快感を見いだす人間がある。この快感は憤怒が絶頂に達したとき(こんな人はすぐそんなふうになるものだが)、ことに強く感じられる。こういう瞬問には侮辱されたほうが、侮辱されないよりも、痛快に思われるくらいである。これらの怒りっぽい人間は、あとで慙愧のためにおそろしく苦しめられるものだが、しかしそれは彼らが利口な人間であって、自分が適度を十倍も越えて腹を立てたことを了解することができる場合に限る。この「紳士」はいっとき、驚いたようにぼくを見つめているし、細君のほうはすっかりおびえあがっていた。まるで自分らのところへ、だれにもせよ他人が入って来るというのが、とほうもない大異変ででもあるかのようだ。と、急に彼はほとんどもの狂おしいほどの怒りを現わして、ぼくに飛びかかった。ぼくがやっと口を開くか開かないかに、彼はぼくのきちんとした身なりを見て、なお侮辱されたように感じたのである。つまり、ぼくが無作法にも他人の隠れ家へ踏みこんで、彼自身さえ恥ずかしく思っている見苦しい部屋の様子を見たのが悪かったのだ。もちろん彼は自分の失敗に対するうっぷんを、だれでもかまわず浴びせかける機会のきたのが、なにより嬉しかったのだろう。最初の瞬間、つかみかかって来るのではないかと思った。彼はまるで女がヒステリーでもおこした吩のように、細君さえおびえるほど真っ青になった。
『――どうしてきみはそんな入りかたをするんです、失敬な! お出なさい!^^と彼はぶるぶるふるえながら、やっとのことでこれだけの言葉を発した。しかし、ふと彼はぼくの手にしている紙入れに目をとめた。
『――たぶんあなたがお落としなすったんでしょうね。――とぼくはできるだけ落ちついて、そっけなく言った(もっとも、当然そうすべきではあったのだが)。
『相手はすっかり度胆を拉かれて、ぼくの前に突っ立ったまま、しばらくのあいだは、何がなんだか合点の行かないようなふうであった。それから急に自分のかくしをおさえてみて、恐ろしさのあまり口をぽかんとあけながら、片手で自分の額をたたいた。
『――やっ、これはしたり! どこで見つけてくださいました。そしてどんな具合に?――
『ぼくはできるだけそっけない調子で、紙入れを拾った時の様子から、彼のあとを追っかけてわめいたことや、とうとう当てずっぽに手探りで、階段をかけのぼったことなどを、できるだけ手短かに、しかもこのうえなくそっけなく話して聞かせた。
『――おやおや、どうも!――と彼は妻のほうを向いて叫んだ。――あの中にはうちの証書だの、わたしのなけなしの医療器具だの、何もかもみんな入ってたんだよ……いや、どうもありがとうござんした。まったく、あなたのしてくだすったことが、わたしたちにとって、どういう意味を持っているか、おそらくごぞんじありますまい? じっさいわたしは破滅してしまうところだったんです!――
『ぼくはその間に戸のハンドルをつかみ、返事もしないで立ち去ろうとした。と、急に息がつまってきた。ぼくの興奮はついに急激なせきの発作となって破裂したので、ぼくはじっと立っていることもできなくなった。見ると、「紳士」はぼくのためにあいたいすを見つけようとして、四方八方とびまわりはじめた。とうとう一つのいすからぼろを取って床へ投げ、あわててそれを持ち出して、そろっと腰かけさした。けれど、せきはひきつづき三分間ばかりも鎮まらなかった。やっとぼくが人心地のついたとき、彼はもうぼくのそばへ別ないすを置いてすわっていた。たぶんこれに載せてあったぼろも床へほうり出したのだろう。彼は一心にぼくを見つめていた。
『――あなたは、その……お悪いようですな?――よく医者が患者に接するさいに使うような訓子で、彼はこういった。――わたしは、その……医学の研究者で(彼は医者といわなかった)。――こういってから、なんのためやら指で部屋の様子をさし示した。それはちょうどいまの境遇に対して、抗議を申し込むようなふうつきであった。――お見受けしたところあなたは……――
『――ぼくは肺病です。――できるだけ手短かにいって、ぼくは立ちあがった。
『と、相手もすぐさまとぶように薬を立った。
『――もしかしたら、あなたはぎょうさんに考えておいでかもしれませんよ……薬を飲んでから……――
『彼はすっかりまごついてしまって、いつまでもわれに返ることができないようであった。紙入れはいぜんとして、彼の左手に幅をきかしている。
『――おお、心配しないでください。――ふたたびドアのハンドルに手をかけながら、ぼくはさえぎった。――ぼくは先週Bに見てもらいましたが(ぼくはここでもまたBのことを持ち出した)、大勢はすでに定まっているんだそうです。ごめんなさい……――
『ぼくはふたたびドアをあけ、恥ずかしさに圧されてまごまごしながら、感謝の色を浮かべている医師を見捨てようとしたが、いまいましいせきがちょうどねらったように込みあげてきた。すると医師はまた、すわって休めと主張してやまなかった。彼は妻に目くばせした。と、妻は席を立たないで、ふたことみことお礼と挨拶の言葉を述べた。そのとき彼女は非常にどきまぎして、青黄いろいかわききった頬にくれないが踊りだすほどであった。ぼくは居残ったけれど、しじゅうふたりに窮屈な目をさせるのが、気がかりでたまらないといった様子をして見せた(またそうするのがあたりまえである)。慙愧の念が医師を悩ましはじめた。ぼくはそれに気がついた。
『――もしわたしが……と彼はのべつ言葉をとぎらせ、飛躍しながらいいだした。――わたしはあなたに深く感謝していますが、また同時に、あなたに対して申しわけないことです……わたしは……ごらんのとおり……――と彼はまた室内を指さした。――目下のところ、こんな状態でいますから……
『――おお――とぼくはいった――なにも見ることなんかありませんよ。わかりきった話でさあ。あなたはきっと職を失ったものだから、事情を話して口を求めに、首都へ出て来られたんでしょう!――
『――どうして……あなたは知ってらっしゃるんです?――と彼は驚いてたずねた。
『――ひと目見ればわかりますよ。――ぼくは心にもない冷笑的な調子で答えた。――ここへはいろんな人が希望をいだいて地方から出て来て、あちこち奔走してまわりながら、これと同じような生活をしていますからね。――
『彼は急に熱くなって、くちびるをふるわせながら、訴えるように身の上話をはじめた。そして、正直なところ、ぼくの興味をひいた。ぼくはかれこれ一時間ばかりここに腰をすえていた。しかし、彼の話した身の上話というのは、ありふれたものであった。彼はさる県庁の官医であったが、あるときなにかいやなごたごたがはじまって、細君までがその中へ巻きこまれてしまった。彼は男性のプライドを示し、熱くなって憤慨した。ところが、県知事の更迭《こうてつ》とともに、形勢は敵方へ有利になった。彼は敵の陥穽に陥って讒訴され、ついに職を失った。で、最後の金を投じて、身の明かしを立てるためにペテルブルグへやって来た。ペテルブルグは人も知るごとく、こんな人閧のいうことを長く聞いている所ではない、ひととおり聞き終わると、ぽんとはねつける。それからまたいろいろな約束でつっておいて、その次にはなにかおそろしくやかましいことをいいだし、始末書をかけと命令する。そして最後に、その書いたものを採用するわけには行かないから、願書を差し出せという、――こんなふうで、彼はもう五か月も走りまわって、持ち物はすっかり売り食いしてしまった。わずかぽかり残った妻の衣類まで、質に入れてあるような始末、そのうちに子供が生まれた。ところが……「きょうはさし出した願書を、きっぱり突き返されてしまいました。そして、わたしはパンすらもっていません、ほんとうの無一物です。おまけに赤ん坊は生まれるし、わたしは、わたしは……」
『彼はいすからとびあがって、そっぽを向いてしまった。妻は片隅で泣いているし、赤ん坊はまたもや悲しげに叫びだした。ぼくは手帳を取り出して書きとめた。書き終えて座を立ったとき、彼はぼくの前に突っ立って、不安げな好奇心をもってながめていた。『ぼくはこれにあなたのお名と――こうぼくは彼に向かっていった。――そのほか勤務してらした土地とか、県知事の名とか、月日とかを書きとめておきました。じつはぼくの学校時代からの友達で、バフムートフというのがありますが、この男の叔父さんでピョートル・バフムートフてのは、はぶりのいいりっぱな官吏で、某局の長官をしていますから……――
「ピョートル・バフムートフですって?――医師は身震いせんばかりに叫んだ。-わたしの事件はほとんどあの人の意志ひとつで、どうともなるんですよ!――
『実際において、たまたまぼくが助力することとなったこの医師の事件とその解決は、万事とんとん拍子にうまく運んでいった。まるで小説かなんぞのように、わざとはじめから用意してあるようだった。ぼくはこの哀れな人々に向かってこういった、――ぼくに対してなんの希望をもかけないようにしてほしい、ぼく自身あわれな中学生だから(ぼくは自分の零落をわざと誇大した。なぜなら、ぼくはもう学校を卒業しているから、中学生ではないのである)、ぼくの名前なんか知らせるほどのことはない、ぼくはこれからすぐヴァシーリエフスキイ島の友人、バフムートフのところへ出かけようと思う。ぼくの確聞するところによれば、叔父の四等文官は独身もので子がないところから、甥を自分の一族における最後のひとりとして無性にあがめたてまつって、ばかばかしいほどかわいがっているから、「もしかしたら、この友達があなたがたのため、またぼくのために、なんとかしてくれるかもしれません、もちろん叔父さんの力を借りてですよ……」といった。
『――もうただ閣下に事情を話すことさえ許してもらえたら……ただもう口頭で弁明する光栄さえ得るならば!――と彼は熱病やみのようにふるえながら、目をぎらぎら光らせて叫んだ。
『彼はじっさい「光栄」といったのである。ぼくは最後にもう一度、事件はきっとこわれてしまって、何もかも無意味な努力となるに相違ないから、もしぼくが明朝ここへやって来なかったら、すなわち万事休したものと見て待たないでくれ、こうくりかえして辞し去った。ふたりはいっしょうけんめいに頭を下げながら、ぼくを見送った。ふたりともほとんど正気を失っていた。ぼくはこの時のふたりの顔の表情をけっして忘れはしない。ぼくは辻馬車を雇ってすぐヴフンーリエフスキイ島さして出かけた。
『ぼくは中学時代にはこのバフムートフと、いく年かのあいだつねに敵対関係にあった。クラスでも彼は貴族組であった。すくなくともぼくはそう呼んでいた。りゅうとしたなりでおかかえの馬車に乗って来たものだ。しかし、いささかも高ぶるようなことはなく、いつも優れたクラスメートで、いつも思いきってのんきなほうで、どうかするとおそろしく気の利いたことをいうこともあった。しかし、つねにクラスの首席を占めていたにもかかわらず、けっして才気縦横というたちではなかった。ぼくにいたっては何にかけても、第一番の成績など取ったことがなかった。ぼくひとりを除けば、学友はすべてこの男を愛していた。このいく年かのあいだに、彼は何べんもぼくに接近しようとしたが、ぼくはそのたびに気むずかしい、いらいらした調子でそらしてしまうのであった。今はもうかれこれ一年ばかりも彼に会わない。彼は目下、大学に籍をおいている。八時すぎにぼくが彼の寓居を訪れたとき(侍僕がぼくの来訪を取り次いだりなんかして、すつかり本式である)、彼ははじめびっくりしたように、てんで愛想を見せようともしないでぼくを迎えたが、すぐにはしゃぎ出して、ぼくの顔をながめながら、急にからからと笑いだした。
『――チェレンチエフ君、なんだってきみはぼくんとこへやって来たんだね?――彼はいつも持ち前の少々失礼なくらいだが、けっして人を怒らせることのない、愛嬌のいいうち解けた調子でこう叫んだ。ぼくはこのたくみな調子を愛しもすれば、また憎みもしたのである。――しかし、いったいどうしたんだい?――と彼はおびえたように叫んだ。――きみ、病気でもしてるのかい?――
『せきはまたしてもぼくを悩ましはじめた。ぼくはいすの上へ倒れかかったまま、息を継ぐのがやっとだった。
『――心配しないでくれたまえ、ぼくは肺病なんだから、――とぼくはいった。――ところで、今夜はお願いがあって来たんだがね。――
『彼はびっくりしたように席に着いた。で、ぼくはさっそく例の医師の一件を物語って、きみは叔父に対してたいへん勢力を持っていることだから、なんとかしてもらえるだろうと思って来たのだ、といった。
『――そりゃするとも、きっとするよ、あすにもすぐ叔父のところへ行って来よう。ぼくはかえって嬉しいくらいだよ。それに、きみの話があんまりうまいもんだから……だが、きみ、それにしても、どうしてぼくんとこへ来ようなんて思いついたんだね?――
『――それはこの事件が、きみの叔父さんの考えひとつで、どうでもなるんだものね。そのうえに、きみとぼくとはいつも敵同士だったろう。ところが、きみは高潔な人だから、敵の頼みをはねつけるようなことはすまいと思ったのさ。――とぼくは皮肉を含んだ調子でいった。
『――ナポレオンがイギリスに対したごとくにかね?――と彼は哄笑一番しながら叫んだ。――するとも、するとも! できうるならば今すぐでも行くよ!――ぼくがまじめな、いかつい様子をして立ちあがるのを見て、彼はあわててこうつけ足した。
『はたしてこの事件は思いがけなく、それ以上は望めないほどうまく運んだ。一か月半ののち、医師は別の県で職を授けられ、旅費のほかに補助金までもらうことになった。ぼくのひそかに見るところによれば、バフムートフは非常に足しげく医師のもとへかよって(そのくせ、ぼくはそのとき以来わざと彼の家を遠ざかって、彼がときどきぼくのもとへかけつけて来ても、ほとんど木で鼻をくくったようにあしらった)、医師が金を借りるまでに仕向けたらしい、ぼくはこの六週間のあいだ、バフムートフと二度ばかり会ったが、三度目に会ったのは医師の送別会の席であった。この送別会はバフムートフが自分の家で催したので、シャンパンつきの正式な宴会であった。医師の妻も出席したが、赤ん坊が気にかかるので、すぐ帰ってしまった。それは五月はじめの明るい夕方だった。大きな太陽の玉が入海に没せんとしていた。バフムートフはぼくを家まで送ってくれた。ぼくたちはニコラーエフスキイ橋を渡って行った。ふたりともかなり酔っていた。パフムートフは事件がりっぱにおさまって、嬉しいかぎりだといい、ぼくに感謝を表した。そして、ああいう善根を施したあとの今は、非常に愉快だということをうち明けて、この手柄もみんなぼくのものであると主張し、現今多くの人が個人的の善行を無意味だと教えるが、あれは間違った説である、と気焔を吐いた。ぼくも無性にしゃべりたくなってきたので。
『――個人的な慈善をそしるのは、――といいだした。――つまり人間の自然性をそしり、個人的自由を侮蔑することになる。しかし、組織だった「社会的慈善」と、個人の自由に関する問題は、二つの異なれる、とはいえ、たがいに相反撥することのない問題なんだ。個人としての善行は、いつまでも存在を絶たないだろう。なぜなら、それは人性の要求なんだから。一つの個性が他の個性に直接の感化を与えようとする、いきた要求なのだからね。モスクワにひとりのおじいさんがいた。「将軍」といわれているが、ほんとうはドイツふうの名前を持った四等文官なのさ。この人は一生涯、監獄や犯罪人のあいだをかけずりまわっていた。どんなシベリア行きの囚徒の組でも、この「おじいさんの将軍」が、|雀が丘《ヴォロビョーヴィエ・ゴールイ》へ自分らを訪問に来るってことを、あらかじめちゃんと承知していたものだ。この人はこういう仕事をきわめてまじめに、敬虔な態度でやったそうだ。まず囚徒の列前に現われて、しずしずとそのそばを通って行く。囚徒らが四方から取り巻くと、おじいさんはひとりひとりの前にとまって、その欲するところを聞いてやる。しかも、訓示めいたことはけっしてだれにもいわず、みなの者に「いい子だ」てなことをいってやるんだそうだ。そして、金を恵んでやったり、日常の必需品――靴下代用布《ポルチャンカ》だの、巻き脚絆だの、麻布だのを送ってやったり、ときとすると聖書を持って行って、字の読めるもののあいだに分けてやることもある。それで、字の読める連中はみちみち自分で読むし、また読めない連中は読めるものから聞かしてもらうだろう、と信じきって疑わないのさ。囚人が自分から話しだせば、とっくり聞いてやったが、自分から囚人の罪を問いただすようなことはめったにしなかった。この人の前へ出ると、あらゆる囚徒は対等で応対して、すこしも上下の差別がないんだ。こっちから兄弟かなんぞのように話しかけるものだから、囚徒のほうでもしまいには、自然おとうさんのように思われてくるのさ。もし囚徒の中に赤ん坊を抱いた女でもいると、おじいさんはそばへやって来て子供をあやし、子供が笑いだすまで指をぱちぱち鳴らすんだそうだ。永年のあいだ死ぬまぎわまで、こういうふうにやりつづけたので、しまいにはロシヤぜんたい、シベリアぜんたい――つまり囚人仲間ぜんたいが、この人のことを知るほどになった。シベリアへ行ったことのあるひとりの男が、自分で見たといってぼくに話して聞かせたが、はらわたまで悪党根性のしみこんだ囚徒が、ときどきこの「将軍」を思い出すことがあるそうだ。そのくせ「将軍」は流刑隊を訪ねて行っても、ひとりあたま二十コペイカ以上わけてやることはほとんどなかったそうだ。そりゃもちろん熱烈とかまじめとか、そんな思い出しかたじゃないけれど、あるとき、いわゆる「不仕合わせな連中(無期徒刑囚を指すロシヤ民間の言葉)』のひとりで、ただただ自分の慰みのためのみに二十人ばかりの人を殺し、六人の子供を斬ったとかいう男が(こんなのもよくいるそうだ)、とつぜんなんのためというでもないのに、二十年のあいだあとにもさきにもたった一度、「なあ、あのおじいさんの将軍はどうしたろう、まだ生きてるかしらん?」と溜息をつきながらいったそうだ。そのときたぶん、にたりと笑ったくらいのことだろう――ただそれだけのことなんだ。しかし、この男が二十年間忘れないでいた「おじいさんの将軍」によって、いかなる種子がこの男の胸へ永久に投じられたか、きみにはしょせんわからないだろう? こうした人と人との交流が、交流を受けた人の運命にいかなる意味を有しているか、きみにはとてもわからないだろう?………そのあいだには、ほとんど一個の独立の人生が含まれている、われわれの目には見えない無数の脈が分派しているのだ。非常に優れた、非常に鋭敏な将棋さしでさえ、勝負の道筋はたった五つか、六つしか予察することはできない。あるフランスの将棋さしが勝負の道筋を十も予察することができるといって、奇跡みたいに書いたものを読んだことがあるが、しかしわれわれに知れない道筋は、いくつあるかわかりゃしない。人は自分の種子を、自分の善行を、自分の慈善を(いかなる形式でもかまわない)、他人に投げ与えるとき、その相手は自分の人格の一部を受けいれることになるんだ。つまり、その人たちは相互に交流することになるんだ。いますこし注意を払ったなら、りっぱな知識というより、むしろ思いがけない発見をもって報いられる。つまり、その人はついにかならず自分の仕事を、一種の学問として取り扱うようになる。そして、その仕事はその人の全生涯をのみつくし、かつ充実させるに相違ない。また一方から見ると、その人のいっさいの思想-その人によって投じられたまま忘れられていた種子が、ふたたび血肉を付せられて生長する。なぜなら、授けられたものが、さらに別な人間にそれを伝えるからだ。もしこうしたふうの多年の労苦や知識が積もって、その人が偉大な種子を投げるようになったら、つまり、偉大な思想の遺産を、世界に残すことができるようになったら……――こんなふうのことを長々とぼくはそのときしゃべった。
『――それだのに、もしきみは現世において、それを行なうことを拒絶されてるのだと考えると、じつに!――だれかをなじるような調子で、バフムートフは熱くなって叫んだ。
『このときぼくらは橋の上に立って、欄干にもたれなからネヴァ河をながめていた。
『――ねえきみ、いまぼくの頭に浮かんできたことがわかるかね?――とぼくはなお低く欄干の上に屈みかかりながらいった。
『――いったいきみは川ん中へ飛びこもうとでも思ってるのかい?――とバフムートフはほとんどぎょうてんせんばかりに叫んだ。たぶんぼくの思想を顔色に読んだのであった。『――いや、今のところ、まだこう考えてるだけなんだ。ぼくの余命は目下二、三か月、あるいは四か月かもしれないが、かりに二か月しかないとして、ぼくが一つの善根――非常な労苦やわずらわしい奔走を要求する、いわば今度のドクトル事件のようなのを、施したくてたまらなくなるとする。ところが、そんな事情であってみれば、余命の不足なためにこの仕事を断念して、自分の手に合った[#「手に合った」に傍点]すこし小ぶりな「善根」をさがさなくちゃならない(もちろん、それは慈善をしたくてたまらなくなったときの話だがね)。ね、じっさいおもしろい考えじゃないか!――
『かわいそうに、バフムートフはひどくぼくのことを心配して、家まで送り届けてくれた。そして、どこまでも気をきかして、一度も慰藉の言葉を口にせず、ほとんどしまいまで黙りきりだった。別れるまぎわに、彼は熱意をこめてぼくの手を握りしめ、ぼくを見舞うことを許してくれとこうた。ぼくはそれに答えて、もし彼が「慰問者」としてぼくを訪ねるのなら(なぜというに、よし彼が黙っているとしても、やはり彼はぼくを慰めるために来るに相違ない)、その行為によってますます痛切に死を自覚させることになる。こういってやったら、彼はあきれたように肩をすくめたが、それでもぼくの説に同感した。ふたりは自分でも思いがけないほど、慇懃に別れを告げたのである。
『けれどこの晩、ぼくの「最後の信念」の最初の種子が投じられた。ぼくは渇したもののように、この新しい[#「新しい」に傍点]思想に飛びかかって、むさぼるようにその思想のあらゆる陰影、あらゆる形態を研究し、ひと晩じゅうまんじりともしなかった。そして、より深くその思想に沈潜し、より多く自分の心へ吸収するにしたがって、ぼくはますます寒心せざるを得なかった。ついに恐ろしい畏怖の念がぼくを襲って、その後、いく日か心を去らなかった。この絶え間なき畏怖の念を凝視しているうちに、ときどきぼくは別な恐怖のため、全身氷のようになることがあった。なぜというに、この畏怖の念から推して、ぼくの「最後の信念」があまりに深く心内に食い入って、かならず解決を得なければやまぬだろうと論結することができたからである。しかし、解決のためには決断力が欠けていた。ところが、三週間たって、いっさいのことはきれいに片がついた、決断力も生じた。けれども、それはきわめて奇怪な事情のおかげだったのである。
『ここですべての原因を、数学的な正確さをもって述べておこう。もちろん、ぼくにとってはどうだって同じようなものの、しかし今[#「今」に傍点](もしかしたら、この刹那だけかもしれないが)、すべてぼくの行動を批評する人たちに、この「最後の信念」がいかなる論理の演繹《えんせき》から生じたかを知らせたいのである。ぼくはたった今こう書いておいた。すなわち、ぼくの「最後の信念」を実行するに欠けていた断固たる決心は、ぜんぜん論理的演繹のためでなく、なにかしら奇怪な衝動のために――事件の進行とはなんの関連もない、偶然な事情のために生じた、と書いておいた。十日ばかり前、ラゴージンがちょっとした用事でぼくを訪問した。どんな用事か、くだくだしく書くのも無駄である。ぼくはその前ラゴージンに会ったことはないが、うわさはずいぶん聞いていた。自分に必要なことを聞いてしまうと、彼は間もなく帰って行った。つまり、彼が来たのは、ただ聞き合わせのためであるかち、ぼくらふたりの関係はそれきり絶えてしまったわけである。しかし、彼は非常にぼくの興味をそそったので、ぼくはその日いちんち奇妙な思想に支配されていた。ついに翌日、自分のほうから彼のところへでかけ、訪問をかえそうと決心するに至った。ラゴージンはあまりぼくを好まないと見えて、もうこのうえの交際をつづける必要はないと、「婉曲に」ほのめかしたほどである。が、それにしても、ぼくは非常におもしろい一時間を過ごした。おそらく彼も同様であったろう。
『ぼくらふたりはたがいに(ことにぼくの目から見れば)、心づかずにいられないほど激しいコントラストをなしている。ぼくはすでに自分の日を数えつくした人間であり、彼は最も充実した生活をし、現在の刹那に生きている男である。彼はけっして「最後の演繹」であろうとなんであろうと、自分の……自分の……まあ、狂熱とでもいっておこうか……自分の狂熱の原因に関係のないことは、考えようともしない。無礼な表現であるが、自分の思想を表白することのできない三文文士として、ラゴージン君にゆるしてもらわなければならぬ。彼はいたって無愛想であるにもかかわらず、賢い人間のように思われた。そして、「例のひと」以外のものには、すこしも興味を感じないけれど、いろんなことを理解しうるらしい。ぼくは自分の「最後の信念」を彼に匂わしたわけではないが、なんだかぼくの話を聞いているうちに、ほぼ察したらしかった。彼はしじゅう黙りこんでいた、じつにおそろしい無口な男である。ぼくは彼に向かって、ふたりのあいだには大変な相違があるし、性質も両極端をなしているにかかわらず Les extremites se touchent(両極端は相一致す)ということもあるから(ぼくはこれをロシヤ語で説明してやった)、彼も見受けるところ、ぼくの「最後の信念」にさして縁遠くないらしい、というふうなことをほのめかしてやった。その言葉に対する返事として、彼は気むずかしい渋い顔をしながら立ちあがって、まるでぼくが辞し去ろうとでもいったかのように、自分でぼくの帽子をさがし出し、礼儀のために見送るようなふりをして、ていよく自分の陰気な家からぼくを追ん出してしまった。ところで、彼の家はぼくに一驚を喫せしめた。まるで墓場である。彼はそれがかえって気に入ってるらしい。しかし、これはもっともな話である。彼のいま経験している生活は、家の装飾などを必要とするには、あまりに充実しすぎているからである。
『このラゴージン訪問は非常にぼくを疲れさした。それでなくとも、ぼくは朝のうちから気分が悪かったので、夕方になるとひどく力抜けがして、寝台に横たわった。ときおり激しい熱がして、どうかすると、うわごとさえいうほどになった。コーリャは十一時までそばにいてくれた。とはいえ、ぼくは彼のいったことも、ふたりで話したこともすっかり覚えている。しかし、ほんのしばらくのあいだ目を閉じていると、すぐ例のスーリコフが何百万という金をもらった夢を見るのであった。彼はこの金をどこへ置いていいかわからないで、しきりに頭を悩ましている。もしや盗まれやしないかと思って、びくびくものなのである。で、とうとう土の中へ埋めることに決めた。ぼくはそんな大金をむなしく土中に埋めるよりも、その金貨で凍え死んだ赤ん坊のために金の棺を鋳たらよかろう、そして、そのためには、赤ん坊を掘り出さなければならぬ、と忠告した。スーリコフはこの冷やかしを感涙にむせびながら受けいれて、すぐさま実行に着手した。ぼくはぺっと唾を吐いて、そのかたわらを立ち去った。ふとわれに返ったとき、コーリャの確言するところによると、ぼくはこのあいだずっと、すこしも眠らないで、彼を相手にスーリコフの話をしていたそうである。ときどきぼくは非常に悩ましく、もの狂おしい気持ちになったので、コーリャはひどく心配しながら帰って行った。ぼくがそのあとで、自分で戸に鍵をかけようと思って立ちあがったとき、とつぜん一つの画面が脳裏に浮かんだ。それはきょうラゴージンの家でもいちばん陰気な広間の鴨居にかかっていたものである。そばを通り過ぎるとき、主人公みずから指さしてくれたので、ぼくは五分ばかり、その前に立っていた。それは芸術的に見て、べつにいいと思うところはすこしもなかったが、しかしなにかしら妙な不安を、ぼくの心中に呼びさました。
『この絵には、たったいま十字架からおろされたばかり[#「ばかり」に傍点]の、キリストが描かれてあった。画家がキリストを描くときには、十字架に乗っているのでも、十字架からおろされたのでも、どちらも同じように、顔面に異常な美の影をとどめるのが、常套手段となっているようである。彼らはキリストが最も恐ろしい苦痛を受けているときでも、この美を保存しようと努めている。ところが、ラゴージンの家にある絵は、美なんてことはおくびにも出していない。これは十字架にのぼるまでにも、十字架を背負ったり、十字架の下になって倒れたり、傷や拷問や番人の鞭や愚民の笞《しもと》を受けたりしたあげく、最後に六時間の十字架の苦しみ(すくなくとも、ぼくの勘定ではそれぐらいになる)を忍んだ、一個の人間の死骸の赤裸裸な描写である。それにじっさい、たったいま十字架からおろされたばかり[#「ばかり」に傍点]の、まだ生きた温みを多分に保っている人間の顔である。まだどの部分も硬直していないから、いまでもまだ死骸の感じている苦痛が、この顔にのぞいているようにさえ見える(この感じは画家によってたくみにつかまれていた)。そのかわり、顔は寸毫の容赦もなしに描かれてある。そこには自然があるのみだ。まったくどんな人にもせよ、ああした苦しみのあとでは、あんなふうになったに相違ない。ぼくの知るところによると、キリスト教会では教祖の苦痛は形式的のものでなく、実際的のものだと古代から決定しているそうである。したがって、彼のからだも十字架の上で十分、完全に、自然律に服従させられたに相違ない。この絵の顔は鞭の打擲《ちょうちゃく》でおそろしくくずれ、ものすごい血みどろな打ち身のためにはれあがって、目は開いたままで、瞳をやぶにしている。大きな白目はなんだか死人らしい、ガラスのような光を帯びていた。しかし、不思議なことに、この責めさいなまれた人間の死骸を見ているうちに、一つの興味ある風変わりな疑問が浮かんでくる。もしちょうどこれと同じような死骸を(またかならずこれと同じようだったに相違ない)、キリストの弟子一同や、未来のおもなる使徒たちや、キリストを慕って十字架のそばに立っていた女たちや、その他すべて彼を信じ崇拝した人々が見たとしたら、現在、こんな死骸を目の前に控えながら、どうしてこの殉教者が復活するなどと、信ずることができようか? もし死がかように恐ろしく、また自然の法則がかように強いものならば、どうしてそれを征服することができるだろう、こういう想念がひとりでに浮かんでくるはずだ。生きているうちには「タリタ・クミ(娘よ、われ汝に命ず、起きよ)」と叫んで、死せる女を立たせ、「ラザロよ来たれ」といって死者を歩ましなどして、自然を服従させたキリストさえ、ついには破ることのできなかった法則である。それをどうして余人に打ち破ることができようぞ! この絵を見ているうちに、自然というものがなにかしら巨大な、貪婪あくなき唖の獣のように感じられる。いや、それよりもっと正確な――ちょっと妙ないいかただが、はるかに正確なたとえがある。ほかでもない、最新式の大きな機械が、無限に貴く偉大な創造物を、無意味にひっつかんで、こなごなに打ち砕き、なんの感動もなしににぶい表情でのみこんでしまった、というような感じが、この絵に現われた自然である。ああ、この創造物こそは自然ぜんたいにも、その法則ぜんたいにも、地球ぜんたいにも換えがたいものなのである。いや、かえって地球はただただこの創造物の出現のためにのみ、作られたのかもしれない。この絵によって表現されているものは、つまり、いまいったようないっさいのものを征服しつくす、暗愚にして傲慢な、無意味にして永久な力の観念であるらしい。この観忿はおのずと見ているものの心に伝わってくる。絵の中にはひとりも出ていないが、この死骸を取り巻いていたすべての人は、自分の希望、いな、表現ともいうべきものを、ことごとく一時に粉砕されたこの夕べ、恐ろしい悩みと動乱を心に感じたに相違ない。もちろん、みんなめいめい、どうしても奪うことのできない偉大な思想を得たでもあろうが、しかし彼らは言語に絶した恐怖をいだきつつ、その場を去ったに違いない。もし教祖自身もこうした姿を刑の前夜に見ることができたなら、はたしてあれと同じ態度で十字架にのぼり、あのとおり従容《しょうよう》として死についたろうか? こうした疑念も、この絵を見ているうちに、しぜんと心に浮かんでくる。
『あるいはまったく悪い夢にうなされたのかもしれないが、こんなことがちぎれちぎれに浮かんできて、ときにはまざまざと姿まで目に映るのだった。こんなことがコーリャの帰ったのち、一時間半もつづいた。姿なきものが姿を現わして、心に浮かぶことがありうるのだろうか? しかしぼくはときとすると、あの限りなき暴虐の力が――あの唖つんぼの暗愚なあるものが、奇怪な想像もできないような形を帯びているのを、目に見るように思われた。だれだかろうそくを持った男がぼくの手を引いて、大きないやらしいふくろぐもみたいなものを指さしながら、これがその暗愚にして万能なあるものだと言い張って、憤るぼくを冷笑した、そんなこともあったと覚えている。ぼくの部屋の聖像の前には、あかしが毎晩ともされる、――その光はもうろうとして弱々しいけれど、なんでも物のけじめはつくし、すぐ下なら本を読むことさえできる。かれこれ十二時すぎたころらしかった。ぼくはすこしも眠くないので、目をあけて横になっていると、急に部屋の戸があいて、ラゴージンが入って来た。
『彼は部屋に入ると戸をしめて、無言のままじろりとぼくをながめ、燈明のほとんど真下にある、片隅のいすのほうへ、静かに歩き出した。ぼくは非常に驚いて、ながめていた。ラゴージンはテーブルにひじをついて、だんまりでぼくを見つめはじめた。こうして二分か三分たった。彼の沈黙はおそろしくぼくを侮辱し、いらだてたように覚えている。なぜ彼はものをいおうとしないのか? もちろん、彼がこんなに遅くやって来たのは、妙に思われぬでもなかったが、どういうわけか、このことではさほど驚かなかった。それどころか、けさぼくは自分の思想をはっきりいわなかったけれど、彼がそれを悟ったのはよくわかっている。ところで、この思想たるや、いかに夜がふけようとも、いま一度そのことについて、ぜひ話しに来なくてはならないような性質のものである。そこで、ぼくは彼がそのために来たのだなと思った。この朝、ぼくらふたりはいくぶんにらみ合いの姿で別れた。そして、彼が二度ばかり非常に冷笑的な目つきで、ぼくをながめたのさえ覚えている。この冷笑を今も彼の目つきに読むことができた。それがぼくをいらだたしたのである。しかし、これがほんとうのラゴージンであって、幻覚でも夢でもないということは、はじめから毛頭《もうとう》疑いをはさまなかった。そんな考えさえもおこらなかった。
『そのあいだ彼はやはりじっとすわったまま、いぜんたる嘲笑を浮かべて、ぼくを見つめている。ぼくは憎々しげに床の中でくるりと向きを変え、同じように枕にひじをつきながら、たとえしまいまでこうしていてもかまわない、やはりだんまりでいてやろうと腹を決めた。なぜかしらぬが是が非でも、彼のほうからさきに口をきらせたかったのである。なんでもこんなふうで二十分ばかりたったらしい。ふと、これはことによったらラゴージンでなく、ただの幽霊ではあるまいか、という考えがとつぜん頭に浮かんだ。
『ぼくは病中にもまたその前にも、いまだかつて幻覚を見たことがない。しかし、ぼくは子供の時分から、また今でも、ついちかごろでも、もしただの一度でも幻覚を見たら、即座に死んでしまうような気持ちがした。ぼくはいかなる幻覚をも信じないが、それでもこんな感じがするのであった。しかし、これはラゴージンでなくて、ただの幻にすぎないという考えが、脳中にひらめいたとき、ぼくはすこしも驚かなかったように覚えている。それのみか、むしろかんしゃくをおこしたくらいである。まだ不思議なことには、はたして幻覚であるか、もしくはラゴージン自身であるかという問題の解決は、なぜかすこしもぼくの興味をひかないうえに、当然感じそうな不安をもよびおこさなかった。ぼくはあのときなにか別のことを考えていたような気がする。それよりか、けさほど部屋着に上靴をはいていたラゴージンが、なぜ今は燕尾服に白いチョッキをきて、白いネクタイをしてるのかしら、といったような疑問のほうが、はるかに強くぼくの心をしめた。またこんな想念も心をかすめた。もしこれが幻であって、しかもぼくがそれを恐れないとすれば、ぼくはどうしても立ってそばへ近寄り、自分で真偽を確かめなければならない。しかし、ぼくは勇気が足りず、こわがっていたのかもしれない。ところが、ややあって「おれはほんとうにこわがっているな」と考えつくやいなや、とつぜん総身を氷でなでられる思いがした。ぼくは背筋に寒けを感じ、ひざがわなわなふるえだした。この瞬間、ぼくの恐怖を察したかのように、ラゴージンは今までひじつきでいた手を引いて身を伸ばし、今にも笑いだしそうに口を動かしはじめた。そして、しつこくぼくを見つめるのであった。憤怒の念はぼくの全身を襲った。で、憤然として飛びかかろうとしたが、はじめ自分からさきに口をきるまいと誓ったので、そのまま寝台の上でじっと辛抱していた。そのうえ、これがはたして本物のラゴージンかどうか、まだやはり確かでなかった。
『この状態がどれくらいつづいたか、正確に覚えていない。またときおり意識を失ったかどうか、これもはっきり記憶していない。ただ一つ覚えているのは、ついにラゴージンが立ちあがって、さっき入ったときと同じように、そうっと注意ぶかくぼくを見つめたのち(もうにたにた笑いはやめてしまった)、ほとんど爪立《つまだ》ちといっていいくらい静かに出口に近寄り、戸をあけてしめ、そのまま出て行ったことだけである。ぼくは寝床から起きださなかった。ぼくは長く目を見張ったままじっと横になって、しきりに考ていた[#「考ていた」はママ]が、それが時間にしてどのくらいであったか、覚えていない。いったいなにを考えていたのやらかいもくわからない。またどういうふうに意識を失ったか、これも覚えがない。翌朝九時すぎに、

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP337-384

「あの女[#「あの女」に傍点]と結婚するためでないってことを、お誓いなさい」
「なんでもお望みのものにかけて誓います!」
「あんたのいうことをほんとうにします。さ、わたしに接吻してちょうだい。ああ、やっとこれで自由に息がつける。だけどね、アグラーヤはあんたを愛してなんかいませんよ、だから相当の方法をおつけなさいというんです。ええ、わたしがこの世に生きてるあいだは、アグラーヤをあんたにやりゃしないから! よござんすか」
「よござんす」
 公爵は夫人の顔を正視できないほど赤くなった。
「よく聞いてらっしゃい。わたしはあんたをまるで神さまみたいに待っていました(ところが、あんたはそんなにする値うちのない人でしたよ)。そして、わたしは毎晩毎晩、涙でまくらを濡らしました、――いいえね、あんたのことを思ってじゃありません、心配はご無用ですよ。わたしにはまるで別な、いつもいつも同じ絶えまのない悲しみがあるんですの。わたしがじりじりするような気持ちであんたを待ってたのは、あんたを親友か肉親の弟として、神さまがわたしに授けてくだすったのだと、今でもやはり信じてるからです。わたしの身近かにはペロコンスカヤのお婆さんのほかだれひとりいないのに、そのベロコンスカヤのお婆さんまでよそへ逃げてしまって、おまけに老いぼれて、羊のようなばかになってるんですからね。じゃ、もう一つ簡単に『はい』とか『いいえ』とか答えてちょうだい。おとといなぜあの女[#「あの女」に傍点]が馬車の中からどなったか、知ってますか?」
「誓って申します。ぼくあのことはすこしもあずかり知りません!」
「たくさん。わたしあんたを信じます。それを聞いて、あのことについてはわたしの考えも違って来ました。けども、まだきのうの朝あたりは、なにもかもエヴゲーニイさんひとりのせいにしてたんですよ、おとといの晩と、きのうの刺とまる一昼夜! 今はむろん、あの人たちのいうことに賛成しないわけにいきません。あの人はいちばん親しみやすいばかだというので、あのときからかわれたんです、よくわかってます。しかし、どういうわけやら、なんのためやら、どんな目的があってやら、皆目わからない。(ただこれ一つだけでもうさんくさい、そしてみっともないことですよ!)とにかく、なにしろあの人にアグラーヤはあげられない、このことはあんたにちゃんと言っておきます! よしんばあの人がいい人であろうとも、わたしの心は変わりません。わたしも以前はずいぶんまよいましたが、今度という今度はたしかに決心しました。『まあ、最初わたしを棺に入れて、土の中に埋めといて、それから娘をあの人にやってください』つて、こうわたしは夫《たく》にもきょう、きっぱりいっときました。え、わたしがどんなにあんたを信用してるかわかるでしょう?」
「ええ、よくわかっています」
 リザヴェータ夫人は刺すように公爵を見つめた。もしかしたら、夫人はエヴゲーニイに関するこの報告が公爵にどんな感銘を与えるかを、見きわめたかったのかもしれない。
「ガヴリーラのことをなんにも知らない?」
「その……たくさん知ってます」
「あの人、アグラーヤと交渉があるってこと、あんた知ってましたか、どう?」
「ちっとも知りませんでした」公爵は愕然と身ぶるいした。「なんですって、ガヴリーラ君がアグラーヤさんと交渉があるとおっしゃるんですか? そんなことありようがないです!」
「つい近ごろのこってすよ。それについては、妹があの男のためにこの冬じゅう鼠のように働いて、道をつけたんですよ」
「ぼくはほんとにしません」と公爵は、しばらく黙想と動揺ののち、断固としてくりかえした。「もしそんなことがあったら、ぼくはたしかにもうそれを知ってたはずです」
「たぶんあの人が自分のほうからあんたのとこへやって来て、あんたの胸に顔を埋めながら、涙を流して自白をすると思ってるんでしょう! ええ、あんたはなんておめでたいんでしょう! なんて! 皆があんたをだましている、まるで……まるで……それに、あんたはあの男なんぞを信川して、よくまあ恥ずかしくないことだ。あの男がいつもいつもあんたに一杯くわしてるのが、いったい目に入らないの?」
「あの人がときどきぼくをだますのは、ぼくもよく知ってます」と公爵は気乗りのしない調子で小声にいった。「それに、ぼくがそれを知ってるということは、あの人も心得ているんです」と彼はいい足したが、しまいまでいわず口をつぐんだ。
「知ってて信用するって! まあ、ごていねいなこと! だけどあんたにしてみれば、それがあたりまえなんですね。たにも驚くことなんぞなかったんだ。いつでもこのとおりの人なんだから! ちょっ! あ、ところでね、このガンカか、でなければヴァーリカが、あの子をナスターシヤに手引きしたんですよ」
「だれを?」と公爵は叫んだ。
「アグラーヤを」
「ぼくほんとにできません! そんなことがあるものですか! いったいどんな目的で?」公爵はいすからおどりあがった。
「わたしもほんとうにできません、ちゃんとした証拠はあるんだけれど。まったくわがままな、空想的な、気ちがいみたいな娘だ! 意地の悪い、ほんとうに意地の悪い娘だ! 千年でも万年でも、わたしは念を押していいますが、意地の悪い娘です! うちの子はどれもこれもそろってあんなになってしまった。あの濡れしょぼけた雌鶏までが、アレクサンドラまでがそうなんです。けれど、アグラーヤだけはもう箸にも棒にもかからない。が、なんといっても、わたしはそんなことほんとにしません。しかし、もしかしたら、ほんとにしたくないと思うから、ほんとにしないのかもしれない」と彼女はひとりごとのようにつけ足した。
「なぜあんたは家へ出向いて来なかったんです?」ふいに夫人はまた公爵のほうへ振り返って、「この三日間というもの、あんたはどうして家へ来なかったの?」と、もどかしげにたたみかけて叫んだ。
 公爵はそのわけを話しかけたが、夫人はまたしてもさえぎった。
「だれも彼もみんなあんたを阿呆あつかいにして、あんたをだましてるんです! あんたはきのうペテルブルグへ行ったんですってね。きっとあんたは両ひざをついて、ぜひともあの一万ルーブリを受け取ってくれって、あの悪党にさんざん頼んだに相違ない!」
「まるでうそです、そんなこと考えもしなかったです。ぼくはあの人に会いませんでした。それに、あの人は悪党じゃありません、ぼくあの人から手紙をもらいました」
「見せてちょうだい!」
 公爵は折り鞄から手紙を取り出し、リザヴェータ夫人に渡した。手紙には次のように書いてあった。
『拝啓、ぼくは世間の目から見たら、自尊心など持つ権利は毛頭ない人間です。公衆の意見によると、そんな権利を持つためには、ぼくはあまりにもやくざな人間なのです。しかし、これは単に公衆の見解でありまして、あなたのご意見ではありません。公爵、ぼくはあなたがおそらくほかのだれよりも、すぐれた人であることを確信しました。ぼくはこの確信のためにドクトレンコと合わず、ついに彼と決裂しました。ぼくはあなたから一コペイカも頂戴しません。ただあなたが母に扶助を与えてくだすったことについては、深く感謝すべき義務があります。ただし、これはぼくの性格の弱さから出たことではありますが、とにかく、いまぼくのあなたを見る目は変わっておりますので、それをお知らせする必要が
あると考えます。なお、ぼくとあなたのあいだには、今後なんの関係もありえないものと思っています。
アンチーブ・ブルドーフスキイ
 P・S あの二百ルーブリに足りなかった金額は、そのうちに間違いなくご返済します』
「まるで寝言だ!」とリザヴェータ夫人は手紙をほうりもどしながら、断ち切るように言った。「読むだけの値うちもなかった。なんだってあんたは、そんなに、にたにた笑いをしてるの?」
「しかし、あなただってそれを読んで、嬉しかったでしょう」
「なんですって? こんな虚栄心の餌食になったようなでたらめが! あの手合いはみんな虚栄と尊大で気がちがってるのに、あんたはそれがわからないの?」
「そりゃそうですが、しかしこの人は罪をわびて、ドクトレンコとも絶交したというじゃありませんか。この人の虚栄心が強ければ強いだけ、こういう決断はその虚栄心にとって高価なものだったに相違ありません。おお、あなたはなんてちっちゃな赤ちゃんなのでしょうね、奥さん!」
「まあ、あんたはほんとうに平手打ちでも頂戴したいの?」
「いいえ、けっしてそんなつもりはありません。ただあなたが手紙を読んで喜んでらっしゃるくせに、それを隠そうとなさるからです。なぜあなたは自分の感情を恥ずかしがりなさるんでしょう? 万事につけてあなたはそうなんですよ」
「もうひと足でもわたしのほうへ寄ったら、承知しませんよ」憤怒に顔を真っ青にして、リザヴェータ夫人はおどりあがった。「これからはけっしてあんたの匂いだって、わたしめそばにこさせやしないから」
「ところが、もう三日もしたら、自分でここへいらしって、うちへ来いとおっしゃるにきまっています。ほんとうによくまあ恥ずかしくありませんね! それはあなたの優れた感情じゃありませんか、どうしてそれを恥と思いなさるんでしょう? それではあなた、自分で自分を苦しめるようなもんじゃありませんか」
「死んだってあんたなんか呼びやしない! あんたの名前も忘れてしまう! いいえ、もう忘れてしまった!」
 夫人は公爵のそばを飛びのいた。
「ぼくはあなたのおっしゃるまでもなく、お宅へあがることをさしとめられています!」と公爵はそのあとから叫んだ。
「なんですって? だれがさしとめたの?」
 彼女はピンで刺されたように、一瞬にして振り返った。公爵はやや答えをためらった。なにごころなしとはいいながら、たいへんなことを口からすべらしたと思った。「だれがあんたにさしとめたんです?」と、いきおい猛にリザヴェータ夫人は叫ぶ。
「アグラーヤさんがさしとめてらっしゃるんです……」
「いつ? さあ、聞かしてちょうだいってば!!」
「けさぼくに、けっしてお宅へあがってはならぬといってよこされました」
 リザヴェータ夫人は棒のように突っ立っていたが、なにやら思いめぐらしている様子だった。
「何をよこしたの? だれをよこしたの? あの小僧っ子にことづけして?」と、だしぬけにまた叫んだ。
「ぼくは手紙をもらいました」と公爵がいった。
「どこに? お見せなさい! 早く!」
 公爵はちょっと考えたが、チョッキのかくしから無造作に畳んだ紙きれを取り出した。それには次のように書いてあった。
ムイシュキン公爵! ああしたできごとのあったあとで、もしあなたがわたしどもの別荘を訪問して、わたしを驚かそうというお考えでいらっしゃるなら、わたしはあなたを歓迎する仲間に入りませんから、そのおつもりでいてくださいまし。
アグラーヤ・エパンチナ』
 リザヴェータ夫人はしばらく思案していたが、やがてふいに公爵に飛びかかり、その手を握ってしょびきはじめた。
「さあ、すぐ! おいで! どうしても今すぐ、さあ、早く!」ひととおりならぬ興奮と焦躁の発作に襲われながら、彼女は叫ぶのであった。
「だって、あなたはぼくを……」
「なんです? ほんとに罪のないお人好しだこと! 男ともいえやしない! さあ、今度こそわたしがすっかり見抜いてしまってやる、この二つの目で……」
「まあ、せめて、帽子だけでも取らしてください……」
「さあ、これがあんたの腐れしゃっぽです、さあ、行きましょう! ほんとに流行のものさえろくすっぽ気の利いた見立てができないんだからねえ!………これはあの子が……これはあの子が、さっきのことがあってから……甄一に浮かされて」一瞬の間も手を放さず、ぐんぐんしょびきながら、リザヴェータ夫人はつぶやくのであった。「さっきわたしがあんたの肩を持って、あの人はばかだ、あれっきりやって来ない、とそういったからだ……それよりほかに、こんなでたらめな手紙を書くわけがない! こんなはしたない手紙を? ええ、はしたないですとも、上流の、教育のある、賢い、賢い令嬢の身分として……ふむ!」と夫人はしゃべりつづけた。「それとも……それとも、ひょっとしたら……ひょっとしたら、あんたのやって来ないのがくやしくなって、しでかしたことなのかしら。ただ無考えなものだから、ばかにこんなふうに書いて見せたら、言葉どおりに取るってことを考えなかったかもしれない。ところが、案の定そうだった。あんたは何を盗み聞きしてるの?」と、思わず口がすべったのに気づいて夫人は叫んだ。「あの子はあんたのような道化がほしいんですよ、しばらく会わなかったからね、それであんたにこんなことをするんです! あの子がこれからあんたを槍玉にあげるのが、わたしも嬉しい、まったく嬉しい! あんたはそうされるのがあたりまえだ。あの子はまたそうするだけの腕があります、ええ、腕がありますとも!」

第三編

      1

 わが国には実際的な人間がいない、こういう嘆声がひっきりなしに聞かれる。たとえば政治方面の人物も多ければ、将‐軍などという人たちもたくさんいる。またさまざまな支配人など、どれだけ需要があろうと、すぐにどんな人でも見つけ出すことができる――が、実際的な人物はいない。すくなくとも、みながそういって嘆じている。人々のいうところによれば、いくつかの鉄道では駅員にさえ、しっかりしたのがないとのことである。なにか汽船会社あたりで、小才の利いた幹部を編成しようと思っても、それさえぜんぜん不可能である。どこそこでは新開通線の汽車が衝突したとか、鉄橋から転落したといううわさを聞くかと思えば、また別のところでは、列車があやうく雪の広野に冬ごもりしかけたという新聞記事が見あたる。それはなんでも列車が数時間の予定で出発したところが、五日も雪の中に立ち往生したのである。またあるところで何万貫という貨物が、ふた月も、三月も一つところに停滞し、きょうかあすかと発送を待っているうちに、腐りはじめたという話があるかと思えば、またあるところでは(もっとも、この話はほんとうにしかねるくらいだが)ある行政官-といっても、つまりなにかの監督が、さる商店の手代に貨物の発送をうるさく哀願されて、発送のかわりに、その手代の頬桁を処分した、といううわさが伝えられる。しかも、その監督はそういった行政的行為を、ただ『ちょっとかんしゃくをおこした』からだと説明して、済ましているそうである。目下、官途における役所の数はたいへんなもので、考えるのも恐ろしいくらいである。そして、多くのものが勤めてもいたし、現に勤めてもいるし、また勤めようと望んでもいるのだから――これだけの素材があれば、なにか相当の汽船会社を組織できそうに思われるではないか? この疑問に対して、どうかすると非常に単純な、ほとんど信ずることもできぬぐらい単純な答えをする人がある。その人たちにいわせると、じっさいわが国では多くのものが勤めてもいたし、勤めてもいる。そして、もうこの状態が二百年ばかり、曾祖父の時代から曾孫の代まで、最もすぐれたドイツ式にのっとってつづいている――が、こうした勤め人はまた最も非実際的な人たちで、その結果、抽象的な傾向と実際的知識の欠如が、勤め人自身の仲間において、しかもついさきごろ、ほとんど最もすぐれた長所美点であるかのごとく見なされるにいたった、というのである。しかし、筆者は益もないことに勤め人の話など始めてしまった。じつは単に実際的な人物のことを話したかったのである。まったく臆病と創意の完全な欠乏とが、今日までつねにわが国において、実際的人物の重要かつ最善の兆候と考えられていたし、なお今日でも考えられているのは、疑いもない事実である。しかし、たにもわがロシヤばかりを非難する必要は毫もない――ただし、以上の意見を非難と考えるならばだが。創意の欠乏ということは、世界各国いたるところにおいて、昔から今日に至るまでつねに事務的人物、実際的人物の第一の資格、最良の美点とされている。すくなくも九十九パーセントまでの人は(しかも、これはいちばん少なく見つもった数である)、つねにこうした思想のもとに行動しているので、ただ残りの百分の一が、いつも別様の見解をいだいていたし、またいだいてもいる。
 発明家とか天才とかは、世に出てしばらくのあいだは(また大多数、晩年に至るまでも)、社会でばかとよりほかには見られないのが、ほとんど常態だった――これはもはやあまりにきまりきった見かたで、だれにもあれ知らないものはない。たとえば、数十年間、だれも彼もが自分の金を銀行へ運びこんで、四分の利息で、何十億かの金を積み上げているが、もし銀行というものがなく、みながてんでに自分で事業をはじめたなら、これら数百万の大部分は株式熱や、山師の手にかかって消えてしまったにちがいない――しかも、それさえ、礼譲と道義の要求ということになっていた。まったく道義がそれを要求したのである。かくのごとく、道義にかなった臆病と礼譲にかなった創意の欠乏とが、今日まで一般の意見どおり、しっかりした事務的人物に固有の資質だとすれば、あまり急に変わった人間になるのは、単に秩序を破ることになるのみならず、無作法なことにさえもなるだろう。
 たとえてみれば、わが子を愛する母親なら、息子か娘が軌道を踏みはずそうとするのを見て、だれしも驚きと恐れのあまり、病気にならないものはないだろう。『いや、もういっそ創意なんてものはなくても、幸福で満足に暮らしてくれたほうがいい』と自分の赤ん坊を揺りながら、すべての母親はこう考える。またわが国の乳母たちは赤ん坊を揺すりながら、開闢以来同じことをくりかえし歌っている。『黄金《こがね》をつけて歩かっしゃれ、将軍さまにならっしゃれ!』してみると、わが国の乳毋たちにさえも、将軍の位階がロシヤ人の幸福の限界と思われるのだから、したがって平穏でりっぱな幸福というものが、最も普及した国民的理想なのである。じっさい、中どころへんで試験に及第し三十五年間勤続したら、だれだってしまいには閣下にでもなって、相当な金高を銀行に積まないものはなかろう。こういうふうで、ロシヤ人はほとんどなんらの努力をも用いずに、とどのつまりは、事務的で実際的な人物という評判を獲得するのだ。まったく、ロシヤで閣下になれないのは、ただオリジナルな人、語を換えていえば、物騒な人ばかりである。ことによったら、いくぶん誤解もあるかしれないが、一般にいえば、それはほんとうである。そして、社会がそんなふうに実際的人物の理想を定義したのは、徹頭徹尾もっともなしだいである。が、とにかくずいぶん無駄なおしゃべりをしてしまった。というのも、われわれにとってなじみ深いエパンチンの家庭に関して、ふた言み言説明を加えようと思ったからである。この家の人々、というのが不正確ならば、この家庭で最も分別のある人たちは、この一族に共通な一つの性質のために絶えず苦しんでいた。その性質は上に述べたもろもろの徳性に正反対なものである。事実を正確に理解することができないくせに(じっさい、それはなかなかむずかしいことなのだから)、これらの人々は、自分の家におけるすべてのことが、よそとは違っているような気がしてならなかった。よそでは万事なめらかにいってるが、自分の家ではなんだかごそごそけば立っている。よそのものはみな軌道に沿うて走っているのに、自分たちは絶えまなしに脱線してばかりいる。みなの人はしじゅうお行儀よく小心翼々としているが、自分たちはそうでない。じつをいえば、リザヴェータ夫人はあまりびくびくしすぎるくらいであるが、それはよその夫人たちの翹望している道籏的社交的の臆病とは違う。もっとも、そんなに気をもんでいるのは、リザヴェータ夫人ひとりかもしれぬ。令嬢たちは洞察力の鋭い皮肉な人たちだけれども、まだ年が若いし、将軍もいくぶん洞察力は持っていたが(ただし、融通の利かぬものであった)、しかしことが面倒になった場合は、ふむ!といったきりで、とどのつまりは、リザヴェータ夫人にいっさいの希望をつなぐことになるのが、おきまりだった。こういうわけで、責任は自然と夫人の双肩に落ちて来た。いったいこの家庭は創意に富んでいるのでもなければ、みずから意識して奇を求め、それがために軌道から飛び出してばかりいるのでもない。もしそうだったら、まったく無作法な話であるが、いや、けっしてそうではない! じっさいそんなふうのことはなかった。つまり、なにか意識して定められた目的などはなかったのである。が、やはり結局、エパンチン家の家庭は非常に尊敬すべきものであるにかかわらず、一般にすべての尊敬すべき家庭として当然かくあらねばならぬ、と思われているのと違うところがあった。近ごろになって、リザヴェータ夫人は万事につけて自分ひとりに、――自分の『不仕合わせな』性格に罪を帰するようになり、そのために彼女の苦悶がいっそう大きくなって来たのである。彼女は絶えまなしに自分を『ばかで無作法な変人』と罵り、猜疑心のために苦しみ、ひっきりなしにあわて騒ぎ、なにかちょいとした事情の行き悩みさえ解決する方法を知らず、絶えず不幸を誇大視するのであった。
 まだこの物語の発端において、エパンチン家の人々が、しんから社会一般の尊敬を受けていることをいっておいた。卑しい身分から成りあがったイヴァン将軍自身すら、いたるところでまぎれもない尊敬をもって迎えられた。じっさい、彼は尊敬を受けるだけの値うちがあったのだ。だいいち、金持ちで「利口な」人として、第二には、たいして才にたけたほうではないが、しっかりした人物としてである。しかし、いくぶん感じの鈍いということは、ほとんどすべての事務家、というのが間違っているならば、すくなくとも、すべてのまじめな蓄財家の避くべからざる性質である。最後に、将軍は言語動作も礼にかなっているし、謙遜でもあるし、必要なときに沈黙する術も心得ていたし、そのうえ単に将軍としてのみならず。潔白にして高尚な一個の人間としても、自分の権威を他人に侵されるようなことをしなかった。しかし、なにより重要なのは、将軍が有力なる保護のもとに立っていることであった。
 リザヴェータ夫人はどうかというに、夫人はさきにも述べたごとく名門の生まれである。もっともロシヤでは門地などということでは、なにか特別な縁戚でもないかぎり、あまり注目をひくことができないらしい。しかし、夫人にもりっぱな縁戚があるので、人から尊敬もされればかわいがられもした。しかも、非常に勢力ある人たちがそうするので、自然とほかの人々もそれにつづいて夫人を尊敬し、かつ仲間にいれなければならぬようになった。疑いもなく、彼女の家庭に関する苦しみは根拠のないもので、原因といえばごくくだらないものであったが、彼女はそれをこっけいなほど誇張していた。けれども、もしだれか膵の上か額の真ん中にいぼがあるとすれば、なんだかみなが自分のいぼを見て笑うのを唯一無二の仕事にして、たとえアメリカ発見ほどの大功を立てても、このいぼのために人が自分を非難するような気がするものである。じじつ、世間でリザヴェータ夫人を『変人』扱いにしているのは、疑いもないことであるが、同時にまた確かに尊敬もした。しかし、ついに夫人は、自分が人から尊敬されているということさえ信じなくなった、――そこにいっさいの不幸が含まれているのである。娘たちを見ても、自分が絶えずその出世を妨げてるのではないかと思って煩悶したり、自分の性格がこっけいで無作法で、とてもやりきれないと悶えたりして、そのためにイヴァン将軍や令嬢たちを責め、毎日毎口喧嘩するのはいうまでもないことであった。そのくせ、同時に夫や娘たちを夢中になるまで熱愛していた。
 が、なにより夫人を苦しめたのは、令嬢たちが自分と同じような『変人』になってくる、という考えであった。あんな娘たちは世界にいやしない、またいるべきものでない。『ニヒリストができあがっているのだ、それきりだ!』と夫人はひっきりなしに胸の中で考えた。この一年間、ことについ近ごろになって、このうっとうしい思想がしだいしだいに、彼女の心にかたく根を張ってきたのである。
『だいいち、あの娘《こ》たちはどうしてお嫁に行かないんだろう』と夫人は絶えず自問自答した。『母親をいじめたいからだ、――あの娘たちはこれを一生の目的にしているのだ、それはもう決まりきってる。なぜって、こんなふうのことが新しい思想で、あのいまいましい婦人問題なのだから! 現にアグラーヤが半年ばかり前に、あのりっぱな髪を切ろうとしたじゃないか?(ほんとにわたしの若い盛りのときだって、あんな旻をしてはいなかった!)現に鋏を手に持っていたじゃないの、わたしは両ひざついて頼んで、やっと思いとどまってもらったっけ!………だけど、あの娘はただ母親をいじめてやろうという、意地の悪い量見から、あんなことをしたものらしい。まったくあの娘は意地の悪い、わがままな、甘やかされた女だから……いや、とにかく意地悪だ、意地悪だ、意地悪だ! だが、あの肥っちょのアレクサンドラまでが、同じようにあの娘のあとについて、自分の髪を切ろうとした
のはどうしたことだろう? このほうはけっして面当てでも気まぐれでもなく、甃がないと楽に寝られる。頭が屈まないと、アグラーヤにつつかれて、ばかばかしいそれを真に受けてしまったのだ。それにもうこの五年ばかりのあいだに、どれだけ、ほんとにどれだけ花婿の候補者があったかしれやしない。しかも、まったくその中にはいい人もあった、じつにじつにりっぱな人もあったのに! 何をあの娘たちは待ってるのかしら、なぜお嫁に行かないんだろう? ただ母親に蜩をおこさせたいばかりだ――ほかになんのわけもありやしない! あるものか! あるものか!』
 しかし、ついに彼女の母心に太陽が昇りかけた。せめてひとりの娘、アデライーダだけでも身が固まりそうである。『ああ、やっとひとりだけでも肩が抜かれます』とリザヴェータ夫人は、なにか機会があったときに、そう口に出していった(もっとも、夫人は胸の中では、もっともっと優しいいいかたをしたのだ)。しかも、万事はりっぱに、世間体も恥ずかしがらぬように取り運ばれたのである。社交界でもこのことについて、敬意を表しつつうわさし合ったぐらいである。婿は有名な人物で、公爵で、財産もあれば人となりもよく、そのうえに花嫁とは気がしっくり合っている。それよりうえに何を望むことがあろう? けれども、アデライーダのことは夫人も以前から、ほかのふたりほどには心配しなかったのである。彼女の芸術的傾向が、絶えず猜疑の目を光らしている夫人の心を、ときおり苦しめることもあったが、『そのかわり性質が快活で、それに分別も十分にあるから、あの娘が廃れものになるようなことはあるまい』と夫人は結局安心の胸をなでおろしていた。彼女がいちばんに恐れたのはアグラーヤである。
 ついでにいっておくが、長女のアレクサンドラに関しては、恐れていいのか悪いのか、夫人自身もどうしたものやらわからなかった。どうかすると、夫人はもうすっかり、『娘ひとり台なしにしてしまった』ような気がした。もう二十五といえば、――これからさきも老嬢でとおすに相違ない。『あれはどの器量を持ちながら!………』とリザヴェータ夫人は扠な夜な娘のために涙さえ流した。ところが、アレクサンドラのほうではそんな晩にもぐっすりと、おだやかな夢を見ながら眠っていたのである。
『いったいあれはどうだろう――ニヒリストかしら、ばか女かしら?』が、ばか女でないということは、リザヴェータ夫人にとって露ほども疑いがなかった。彼女は非常にアレクサンドラの意見を尊重して、相談相手にするのを好んでいた。しかし「意気地なし」だということは、疑いをいれる余地のないほど明白である。『まあ、落ちつき払っていることったら、突き飛ばしたって倒れやしない! だけど「意気地なし」はあんなに落ちついてるもんじゃないが、――ふっ!ほんとうにあの娘たちにかかったら、頭がぼうっとしてしまう!』
 リザヴェータ夫人はアレクサンドラに対して、秘蔵娘アグラーヤに対する以上に、ある説明しがたい悩ましい同惰をいだいていた。けれども、癇性らしい突飛な言行や(これが夫人の母としての心づかいと同情のおもなる表白である)、突っかかって行くような態度や、「意気地なし」などといったふうの悪口も、ただアレクサンドラを笑わせるばかりであった。で、しまいには、くだらない些細な事柄がおそろしくリザヴェータ夫人の腹を立てさせ、夢中にならせてしまうほどになった。例を挙げていうと、アレクサンドラはいつまでも寝ているのが好きで、よくいろんな夢を見た。ところが、その夢はおそろしくばかげていて、子供らしいのが常で、ちょうど七つぐらいの子供に似つかわしいものだった。で、この夢の子供らしいということが、なぜかお母さんの刪に触れはじめた。あるときアレクサンドラが、九羽の雌鶏を夢に見たところ、このために彼女と母とのあいだに、開き直っての口論がおこった。が、さて、なぜ? といわれると説明がむずかしい。
 あるとき一度、たった一度、彼女はちょっと奇抜な夢を具ることができた――それはどこかの暗い部屋の中に坊主がいて、彼女はそこへ入って行くのが、どうも恐ろしくてたまらなかったというのだ。この夢はすぐさまふたりの妹がぎょうさんに笑いながら、大威張りでリザヴェータ夫人に報告した。が、母夫人は、またもや腹を立てて、三人の娘をばかと呼んだ。『まったくばか娘らしく落ちつき払っている。まったく「意気地なし」に相違ない、突き飛ばしたって倒れやしない。だけど、なんだか沈んだところがある。どうかすると、まるっきり沈んだ様子をしているが! 何がいったい悲しいんだろう? 何が?』ときどきはこの疑問をイヴァン将軍にまで提出することがあった。しかも、彼女の癖として、ヒステリカルな、おどすような、即刻返事が聞きたいといったようなふうだった。イヴァン将軍はふむといって眉をしかめ、肩をすくめたのち、さておもむろに両手を広げながら、解決をくだす。
「婿さんがいるんだ!」
「ただし、あの子にはあなたのような夫を、神さまから授からないようにしたいものですね」とついにリザヴェータ夫人は、爆弾のように破裂した。「あなたのような判断や、宣告のしかたをしない夫が必要なんですよ、イヴァン・フョードロヴィチ。あなたのようにがさつな、乱暴者でない人が必要なんですよ、イヴァン・フョードロヴィチ……」
 イヴァン将軍はすぐに逃げ出すし、リザヴェータ夫人も破裂[#「破裂」に傍点]が済むと、やがて落ちついてくるのが常であった。そして、その日の夕がたにはきっと夫人はイヴァン将軍に対して――「がさつな乱暴者」に対して、非常に注意ぶかく、しとやかに、愛想よく、丁寧になるのはむろんであった。将軍は結局、善良にして愛すべく、かつ尊敬すべきイヴァンーフョードロヴィチであった。なぜなら、夫人は生涯将軍を愛していて、むしろほれこんでいたといっていいくらいであった。そのことは当のイヴァン将軍もよく知っていたので、リザヴェータ夫人を無限に尊敬していた。
 しかし、夫人の絶えまなき主なる苦悶は、アグラーヤであった。
『まったく、まったくわたしのとおりだ、何から何までそっくりわたしの姿絵だ』とリザヴェータ夫人はひとりごちた。『わがままでしようのない惡魔だ! ニヒリストで、変人で、きちがいで、意地悪だ。意地悪だ、意地悪だ! おお、あの娘はどんなに不仕合わせなものになるだろう!』
 けれども、前に述べたごとく、さし昇った太陽の光はちょっとの間、すべてを照らし柔らげるかのように見えた。リザヴェータ夫人がいっさいの心配事を離れて、ほんとうに息を抜いたのは、一生にこのひと月ばかりのあいだだけであった。近々に挙げられるべきアデライーダの婚儀に関連して、アグラーヤのことについても、いろいろと世間でうわさをし始めた。その間アグラーヤの挙動はじつにみごとで、落ちついて、賢く、揚々として、いくぶん高慢だというそしりもあったくらいだが、それが、また彼女にうつりがよかった。それに、まるひと月のあいだ母に対してじつに優しく、じつに親切であった! (「もっとも、あのエヴゲーニイという人はもっともっとよく観察して、底心底まで割って見なくちゃならない。それに、アグラーヤもほかの人より、特別にあの人を好いてるふうも見えないから!」)が、とにかくふいに、なんともいえぬほどいいお嬢さんになってくれた、――ほんとうになんという美人だろう、まったくなんという美人だろう、日ましに美しくなって行く! と思って喜んでいると、まあどうだろう……
 あのやくざな公爵が――あの手のつけられぬ白痴《ばか》が出て来てから、急になにもかもめちゃめちゃになって、うちじゅうがまるで引っくり返ったような具合になってしまった!
 いったい何がおこったというんだろう?
 ほかの人から見たら、きっと何ごともないように思われるだろうが、リザヴェータ夫人の他人と異なっているところは、じつに平々凡々たる事がらの入りまじり組み合わさったものの中に、いつも夫人の付きものになっている不安の眼鏡を透して、つねになにかしら病気でも引きおこしそうなほど、恐ろしいものを発見する性質であった。彼女はそのたびにたとえようもないほど疑ぐりぶかい、言葉にいい表わせない、したがってじつに重苦しい恐怖を感じるのであった。だから今こうした根拠もない笑うべきごたごたの紛糾したあいだから、なにやら真に重大らしい、真に不安や疑いを呼びおこしそうなあるものが顔をのぞけたとき、夫人の心持ちはどんなであったか?
『それになんて厚かましい。わたしに無名の手紙をよこして、あの売女[#「売女」に傍点]のことを――アグラーヤがあの売女と関係を結んでるなどと知らせてくるなんて、ほんとうにどこまで図々しいんだろう?』リザヴェータ夫人は公爵を引き立ててくるみちすがら、ひとり心の中でくりかえすのであった。家へ着いて、おりから家族全体が団欒していた円テーブルの前に、公爵をすわらせながらも、やはり考えつづけた。『ほんとうに、そんなことを考えつくだけでも厚かましいじゃないか!たとえちょっとでもそんなことをほんとうにして、アグラーヤにあの手紙を見せたりなどするくらいなら、恥ずかしくて死んでしまったほうがましだ! これはまったくわたしたちエパンチン家のものを嘲弄しようという企みだ! これというのもみんなイヴァン・フョードロヴィチのおかげだ。みなあなたのおかげですよ、イヴァン・フョードロヴィチ! ああ、なぜエラーギン(ネヴァ河口の小島、別荘地)へ越して行かなかったろう。だから、わたしエラーギンがいいといったんだに! これはもしかしたら、ヴァーリカ(ヴァーリャの侮辱的な呼び方)がよこしたのかもしれない、それとも、ひょっとしたら……ええ、なにもかもイヴァン・フョードロヴィチが悪いんだ! これはあの売女が将軍を目当てにこしらえた狂言に違いない。あの人に赤恥をかかせようとして以前の関係を思い出して企んだことだ。いつか将軍があの女のとこへ真珠を持って行ったとき、まるでばか者扱いにして、将軍の膵つらを取って引きまわしたあげく、腹さんざん嘲弄したそうだが、今度もあの時とすっかり同じことをしでかすつもりなのだ……しかし、なんといっても、わたしたちはこの事件に巻きこまれてしまったのだ。あなたの娘たちもやはり巻きこまれてるんですよ、イヴァン・フョードロヴィチ。処女ですよ、令嬢ですよ、上流社会の令嬢ですよ、近いうちに嫁入しようという若い娘たちですよ。それがあんな場所に居合わせて、あんな場所に立っていて、みんなすっかり聞いてしまったじゃありませんか。あんな小僧っ子連といっしょに巻きこまれたじゃありませんか。ねえ、あなた、お喜びなさい、同じ場所に立って聞いてたんですよ! それに、わたしはこの公爵のやつも勘弁しやしない、どうして勘弁するものか! それに、なんだってアグラーヤが三日ばかりヒステリーをおこして、姉たちと喧嘩せんばかりの様子を見せたのだろう。ふだん手を接吻したりなんかして、母親のように敬っていたアレクサンドラにまで、食ってかかったではないか。なんだってあの娘は三日のあいだ、みんなに謎をかけるようなことばかりいうのだろう? それから、またガーニャはこのことにどんな関係があるのだろう?なぜあの娘はきのうからきょうにかけて、ガーニャの肩を持ってほめちぎったあげく、しまいに泣き出したんだろう?またアグラーヤは、公爵からもらった手紙を、姉たちにも見せないようにしていたのに、あの無名の手紙にいまいましい「貧しき騎士」のことなど書いてあったのは、どういうわけだろう? それに、どうして……なんのためにわたしは公爵のところへ気ちがい猫のように、夢中になってかけつけて、自分からわざわざあの男をここへひっぱってきたんだろう? ああ、わたしは気がちがったのだ、なんてことをしでかしたんだろう! 若い男をつかまえてわが娘の秘密をうち明けるなんて、それも……その当人に関係している秘密ではないか! まだしもこの男が白痴《ばか》で……そして、うち全体の親友だからいいようなものの……だけど、いったいアグラーヤはこんな片輪者が気に入ったのかしら! おやまあ、わたしとしたことが、何を考えてるんだろう! ちょっ! ほんとうにわたしたちは突飛な人間ばかりそろったものだ……わたしたちはみんな、ことにまずわたしなんかは、ガラス戸棚の中へ入れて見世物にでもするといいかもしれない、入場料十コペイカぐらいでね。あなた、わたしはけっして勘弁しませんよ、イヴァン・フョードロヴィチ、どうあってもあなたを勘弁しませんからね! ところで、あの娘はなぜ公爵をいじめないんだろう? いじめてやるって約束したくせに、今となると、いじめようともしない!・ ほら、ほら、いっしょうけんめいに公爵のほうを見つめたまま黙っている。出て行こうともしないで、じっと立っている! そのくせ、自分からあの人に来ちゃいけないといってやったじゃないか……公爵はまた顔を真っ青にして腰かけてる。ああ、いまいましい。あのエヴゲーニイのおしゃべりがひとりこの座をあやつっている! まあ、しゃべることしゃべること、ちっとも口をいれさしやしない。わたしどうかして話をうまく持ちかけて、すっかり探り出してやりたいんだけど……』
 公爵はいかにも真っ青といってもいいくらいの顔色をして、円テーブルの前にすわっていた。彼は激しい恐怖に襲われていたが、ときどき自身にさえわけのわからぬ、胸のつまるような感激に包まれるのであった。ああ、彼にとってなじみの深い二つの黒い目が、自分のほうをながめている部屋の一隅に視線を転じるのが、どんなに恐ろしいことだったろう。が、同時に、アグラーヤからああした手紙をもらったのちに、ふたたびこういう人々のあいだにすわって、彼女の聞きなれた声を耳にすることができたと思うと、幸福感に胸もしびれるような気持ちがした。『ああ、あのひとは今なんといいだすだろう!』と思いながら、自分は一語も発しないで、いっしょうけんめいにエヴゲーニイの「おしゃべり」を聞いていた。エヴゲーニイはまたこの日この晩ほど興奮して、満足な心持ちになったことは珍しかった。公爵は長いことその話を聞いていたが、そのくせ、ひとこともわからなかった。まだペテルブルグから帰って来ないイヴァン将軍のほかは、一同うちそろっていた。S公爵も、席に居合わせた。人々はもすこしたったら、茶の支度のできるまで、オーケストラを聞きに行くことになっているらしかった。今の会話は、公爵の来るちょっと前にはじまった様子である。間もなく、とつぜんどこからかコーリャがやって来て、露台へすべりこんだ。『してみると、以前どおりこの家へ出入りを許されてるんだな』と公爵は心の中で考えた。
 エパンチン家の別荘は、スイスの田舎家のおもむきを取り入れ、四方から花と青葉で飾られた、贅沢なものであった。あまり大きくはないが、みごとな花園がずっとまわりを取り囲んでいた。人々はみんな公爵の家と同じように、露台に腰をかけていた。ただその露台がすこし広くて、気どった造りであった。
 いま進行している会話のテーマは、多くの人の気に入らないらしかった。察するところ、この会話は激しい議論の結果はじまったものらしく、一同は話題を転じようと思っている様子だったが、エヴゲーニイはかえって余計にがんばって、自分の議論が人々に与える印象などてんでかまおうとしなかった。公爵の来訪はなお彼を興奮させたらしい。リザヴェータ夫人はよくわからぬなりに顔をしかめていた。アグラーヤはすこし片寄って、というよりほとんど隅っこにすわっていたが、その場を去ろうともせず、強情に黙りこんだまま聞いていた。
「失礼ですが」とエヴゲーニイは熱して言葉を返した。「わたしはべつに自由主義に反対するわけじゃありません。自由主義はけっして悪いものでないどころか、統一体を組織するに必要な一部分で、これがなかったら、その統一体はばらばらになるか、滅びるかしてしまいます。自由主義はもっとも穏健な保守主義と同様に、存在の権利を持っています。しかし、わたしの攻撃するのはロシヤの自由主義です。つまり、ロシヤの自由主義者は、ロシヤ的[#「ロシヤ的」に傍点]自由主義者でなくして、非ロシヤ的[#「非ロシヤ的」に傍点]自由主義者だから、それをわたしは攻撃するのです。どうかわたしにロシヤ的自由主義者を見せてください。そしたら、わたしはすぐあなたがたの目の前で、その男を接吻しますよ」
「もしその人があなたに接吻する気になればでしょう」なみはずれて興奮したアレクサンドラがこういった。頬の色までがいつもより赤くなっていた。
『おや、まあ』とリザグェータ夫人は胸の中で考えた。『いつも食べて寝てばかりいて、てこでも動きそうにない恰好をしていながら、一年に一度ぐらいふいにひょっこり立って、びっくりするようなことをいいだすんだからね』
 公爵はふと気がついた。エヴゲーニイのこうしたまじめな問題を論ずる調子があまりに快活で、夢中になって熱しているのか、それとも冗談をいってるのかわからないような態度が、アレクサンドラの気に入らなかったらしい。
「わたしはね、公爵、あなたのいらっしゃるちょっと前に、こういうことを断言したのです」とエヴゲーニイは語りつづけた。「わが国の自由主義者は、今までただ二つの階層からのみ出て来ました。すなわち以前の地主(今なくなっている)と神学生とこの二つの階層です。ところが、それはいま両方とも一種特別な、国民からぜんぜん独立した階級に変化してしまいました。それはさきへ進むにしたがって、世代より世代を追って、はなはだしくなっていきます。だから、彼らはいろんなことをしたし、またしてもいますが、それはみな非国民的です……」
「なんだって? じゃ。今まで行なわれたことは、みんな口シヤ的でないというのかね?」とS公爵が抗言した。
「非国民的だよ。よしロシヤ式であるとしても、国民的ではないよ。自由志峩者もロシヤ的でなければ、また保守主義者もロシヤ的でない、なにもかもそうだ……だから、ぼく断言するが、国民は地主や神学生のすることを、なにひとつ承認しやしない、今日だって、また今後だってね……」
「これはおもしろい! どうしてきみはそんな逆説を断定できるのだろう、もしそれがまじめだとすれば。ロシヤの地主に対するそんな突飛な議論を、ぼくは黙過することができない。きみ自身だってロシヤの地主じゃないか」とS公爵は熱して言葉を返した。
「いや、ぼくはきみの解《と》るようなふうに、ロシヤの地主を論じたんじゃない。ぼくがその中に属してるということだけからいっても、地主の身分は尊敬すべきものさ。まして今日では、階級としては存在しなくなったんだからね……」
「それに、文学にだって、ちっとも国民的のものはなかったんでしょうか?」とアレクサンドラがさえぎった。
「わたしは文学のほうはあまり得手じゃないんですが、わたしの意見では、ロモノーソフプーシキンゴーゴリを除くのほか、ロシヤ文学はぜんぜんロシヤ文学でないですよ」 「第一、それだけあれば少ないとはいえません。第二に、ひとり(ロモノーソフ)は民衆の中から出ていますが、あとのふたりは地主ですよ)とアデライーダが笑いだした。
「たしかにそうです、が、そう得意にならないでください。つまり、今までのロシヤ文学者中、ただこの三人だけがそれぞれなにかしらほんとうに自分の[#「自分の」に傍点]言葉、だれの借り物でもない自分自身の言痢をいうことができたものですから、それでこの三人がたちまち国民的になったのです。ロシヤ人のうちだれにもあれ、なにか自分の言葉、借り物でないほんとうに自分の言葉をいうなり書くなり、実行するなりしたら、そのものはかならず国民的になります。よしそのものがロシヤ語さえ満足に話せないとしてもです。これがわたしの原川です。しかし、わたしどもは文学の話をはじめたのじゃありません。社会主義者の話から脇道へそれたのです。で、わたしは確信しますが、わが国にはひとりの社会主義者もありません。かつてもなかったし、現在もありません。なぜって、口シヤの社会主義者はだれもご同様に、地主か神学生ばかりだからです。わが国の有名な折紙つきの社会主義者は、内地にいるのにしろ外国にいるのにしろ、みな農奴制時代の地主から出た自由主義者にほかならぬのです。あなたがたはお笑いになりますか? まあ、わたしにあの連中の書物を貸してください、あの連中の教義か手記を貸してごらんなさい。わたしは文学批評家じゃありませんが、ひとつ権威ある文学的な批評文を書いてお目にかけましょう。そして彼らの書物、小冊子、回想録の一ページ一ページが、以前のロシヤの地主によって書かれたものであるということを、白日のごとく明瞭に証明します。彼らの憤怒、不平、皮肉はことごとく地主的です(おまけにファームソフ(クリポエードフの喜劇「知恵の悲しみ」)以前の地主です!)。彼らの歓喜、涕泣は、あるいはほんとうの誠実な歓点にてあり、涕泣であるかもしれませんが、やはり地主的です! 地主的でなければ神学生的です……あなたがたはまたお笑いなさるんですね。おや、あなたも笑ってらっしゃいますね、公爵、やはりご異存がありますか?」
 まったく一同のものが笑っていた。公爵も薄笑いをしたのである。
「ぼくは、その、異存があるかないか、すぐ申しあげるわけにいきませんが」と公爵はふいに笑いやめて、いたずらを見つけられた小学生のような顔つきをしながら、こういった。「しかし、あなたのお説をうかがいながら、非常な満足を感じていることだけは、信じていただきたいのです……」
 こういいながらも、彼はほとんど息がつまらんぽかりであった。額に冷汗すらにじみ出た。彼がここに来てすわって以来、今のが彼の発した最初の言葉であった。彼はあたりを見まわそうと試みたが、気がひけてできなかった。エヴゲーニイはそのそぶりを見てとって、微笑した。
「皆さん、わたしはあなたがたに一つの事実をお話ししまし、よう」と彼は以前の調子、つまりおそろしく熱して夢中になっているのか、あるいは自分自身の言葉をあざけっているのか、わからないような調子でつづけた。「その事実、その観察、むしろ発見の名にさえ価するものは、わたしのもの、ただわたしだけのものとすることができるのです。すくなくとも、このことについてはどこにも語られていず、また書かれていません。この事実の中に、わたしのいわゆるロシヤの自由主義の全貌が現われています。第一に自由主義を現存する社会状態に対する攻撃と見ないで(理性にかなったものか、間違ったものかは別問題として)、とにかく、そんなふうの攻撃と見ないで、一般にいったならば、自由主義とはいったいなんでしょう? で、わたしのいう事実とは、ほかでもありません、ロシヤの自由主義は、現存せる生活秩序に対する攻撃ではなく、わが国の生活秩序の本質に対する攻撃です。単なる生活秩序、ロシヤの生活秩序に対する攻撃ではなくして、ロシヤそのものに対する攻撃です。わが自由主義者は口シヤを否定する、すなわち自分の母親をのろい鞭打つまでにいたったのです、ロシヤになにか不幸があったり、失敗があったりするたびに、彼らはそれをあざけり、それに対して歓喜の情を覚えるのです。彼らは国民的習俗、歴史、その他あらゆるものを憎んでいます。彼らのためになにか弁護の辞があるとすれば、それはただ彼らが自分のしていることを知らないで、ロシヤに対する憎悪が最も有益な自由主義だと感違いしていることです。(じっさい、ほかの人たちから、喝采を受けているものの、ご当人は本当のところおそろしく間の抜けた、鈍い、そして危険な保守主義者で、しかも自分自身それを知らずにいるのんきな自由主義者を、あなたがたもしばしば見かけられることでしょう!)つい近ごろまで、わが国の自由主義者のあるものは、このロシヤに対する憎悪を、ほとんど祖国に対する真摯な愛であるかのように思いこみ、その祖国に対する愛の本質を、他人よりよく知ってるのを誇っていました。ところが、今ではまだまだずっと露骨になって、『祖国に対する愛』という言葉さえ恥ずべきものとみなし、その観念までも有害な、つまらないものとして、頭の中から追いのけ、隅っこのほうへ押しこんでしまいました。この事実は正確なものです、わたしはそれを主張します……まったくいつかはほんとうのことを十分に、ざっくばらんに、露骨にいってしまわなければなりませんからね。しかし、それとともに、またこの事実は、いずこにおいても、開闢以来かつていかなる国民のあいだにも見られなかったものです。したがって、この事実は偶発的のもので、いつかは過ぎ去ってしまうかもしれません、それには異論ありません。じっさい、自分の祖国を憎むなんていう自由主義は、どこだってありうるものでないですからね。この問題をわが国ではなんと説明しますか? まあ、以前もやはりそんなものがあったとか、あるいはロシヤの自由主義は目下ロシヤ的自由主義ではないから、とかいって説明するんですね、――ほかには方法がありませんよ、わたしの考えでは」
「ぼくはきみのいったことを、みんな冗談とみなすよ、エヴゲーニイ君」とS公爵はまじめにいった。
「わたしは自由主義者を残らず見たわけでありませんから、なんとも判決めいたことは申しません」とアレクサンドラがいった。「けれど、あなたのご意見をうかがって、たいへん不平でございました。あなたは部分的な場合を取って来て、一般の原則に当てはめようとなさいました。したがって、誹謗なすったわけですわ」
「部分的な場合! ははあ! ひどいことをおっしゃいますね」とエヴゲーニイはすぐに引き取った。「公爵、あなたはなんとお考えになります、これは部分的な場合でしょうか、どうでしょう?」
「ぼくはやはり見聞が少ないし……自由主義者とのつきあいも少ないから、といわなければなりません」と公爵は答えた。「しかしぼくには、あなたのおっしゃることが、いくぶんごもっとものように思われます。たぶんあなたのおっしゃったような自由主義は、じっさいわが国の生活状態のみならず、ロシヤそのものを憎むという傾向があるらしいですね。が、それはむろん、多少というぐらいのことで……むろん、万人にとって真理だとはいわれますまい……」
 彼は急にまごついて、しまいまでいい終わらなかった。彼はひどくわくわくしていたけれど、それでもこの会話によほど興味をいだいていたのである。公爵には一つの癖があった。それは興味を感じた話を聞くときと、また人からたずねかけられて答えるときに示す、注意のなみなみならぬ子供らしさであった。彼の顔にもそのからだの姿勢にも、諷刺や諧謔にすこしも気のつかぬ子供らしさと、相手を信じきった心持ちが現われていた。エヴゲーニイは一種特別の嘲笑をもって、ずっと前から公爵に対していたが、今この答えを聞くとともに、おそろしくまじめになって彼をながめた。あたかも彼からこんな答えを聞くのが、思いがけないという様子であった。
「ははあ……しかし、なんだかあなた変ですね」とエヴゲーニイはいいだした。「まったくのところ、あなたはまじめでお答えになったのですか、公爵?」
「じゃ、あなたはまじめでおききになったのじゃないんですか?」とこちらは筮いて問い返した。
 一同は笑いだした。
「だめですよ」とアデライーダがいった。「エヴゲーニイさんはいつも相手かまわずからかいなさるんですよ! あなたごぞんじないでしょうけれど、このかたはときどきとんでもないことを、まじめくさってお話しなさるんですからね!」
「なんだか重っ苦しいお話ですことね、もうさっぱりとよしたらいかがでしょう」とアレクサンドラが言葉鋭くいった。「散歩に行くはずだったんですのにねえ……」
「まいりましょうとも、こんな気持ちのいい晩ですもの!」エヴゲーニイは叫んだ。「しかし、今度こそ、わたしがまじめにいったってことを証明するために、――だれよりもまず公爵に証明するために、(ねえ、公爵、あなたは非常にわたしの興味を喚起なさいました。そして、誓って申しますが、わたしはけっして見かけほどからっぽな人間ではありません、――もっとも、じっさいのところ、わたしはからっぽな人間ですがね!)……皆さん、もし皆さんがお許しくださるなら
ば、わたしは単に自分一個の好奇心を満足させるために、ひとつ公爵に最後の質問を捉出しようと思います。それでもって打ち切りとしましょう。この疑問はまるでわざとのように、二時間ぽかりまえ、わたしの胸に浮かんできたのです(ねえ、公爵、わたしだってどうかすると、まじめなことも考えるんですよ)。わたしはこの疑問を自分で解決しましたが、公爵がどんなふうにおっしゃるか拝聴したいもんですね。たった今『部分的な場合』というお説が出ましたが、この言葉はいまわが国で意味深長なもので、ちょいちょい耳にします。つい近ごろだれでも彼でも例の恐ろしい六人殺し……あの若い男の犯罪と、そのときの弁護士の奇態な弁論のことをうわさしたり、新聞雑誌に掲載したりしていました。その弁論というのは、被告の貧困状態において、これら六人のものを殺そうという考えの浮かぶのは、自然のこと[#「自然のこと」に傍点]であるという論旨なんです。これは弁謾士のいったとおりではありませんが、意味はこのとおりか、もしくはこれに近いのです。わたし一個の考えでは、弁護士はこの奇態な意見を公けにしながら、自分では現代における最も自由主義的な、最も人道的な、最も進歩的な、思想を述べているものと、信じて疑わなかったのでしょう。で、あなたのご意見はいかがでしょうか?理解信念の上におけるこうした歪曲や、こうしたいびつなばかばかしい観察の存在しうるということですね、これは部分的な場合でしょうか。それとも一般的なものでしょうか?」
 一同はからからと笑った。
「部分的です、むろん部分的ですわ!」といって、アレクサンドラとアデライーダが笑いだした。
「失礼だが、も一度注意するよ、エヴゲーエイ君」とS公罸がいった。「きみの冗談もだいぶ膵についてきたよ」
「あなたどうお考えです、公爵」そんな注意はろくすっぽ聞かずに、ムイシュキン公爵の好奇心に輝くまじめなまなざしを見て取って、エヴゲーニイはこういった。「あなたにはなんと思われますか、これは部分的な場合ですか、それとも一般的なものですか? じつのところ、わたしはあなたのためにこの質問を考え出したのです」
「いいえ、部分的ではありません」と、小さいけれどしっかりした声で、公爵は答えた。
「まあ、どうしたんです、ムイシュキン公爵」と、いくぶん歯がゆそうな調子でS公爵は叫んだ。「いったいあなたはこの人がからかってるのが見えないんですか。この人はまるで頭からふざけてかかって、あなたを槍玉に上げようと考えてるんですよ」
「ぼくはエヴゲーニイ・パーヴルイチがまじめにいってらっしゃると思ったんです」と公爵は顔を赤らめて、伏し目になった。
「ねえ、公爵」とS公爵はつづけた。「いつか三か月ばかり前に、ふたりで話したことを思い出してください。わたしたちはそのとき、まだ新しいロシヤの法曹界に多くのりっぱな才能ある弁護士を発見することができるって、話し合ったじゃありませんか! また陪審員の判決にも、大いに注目すべきものが、いくらもありますからね! あなたはそのとき、たいへんよろこんでいらしったから、わたしもあなたの喜びを見て嬉しく思ったのです……わたしたちはそのとき、わがロシヤの誇りだといい合ったもんですよ……ところで、このまずい弁護は、この奇妙な弁論は、むろん偶然のものです、千に一つぐらいの例外です」
 ムイシュキン公爵はしばらく考えこんでいたが、やがて信念に満ちみちた、とはいえ、低い、むしろ臆病な訓子で答えた。
「ぼくがいおうと思ったのは、エヴゲーニイ・パーヴルイチの言葉を借りていえば、思想および理解の上における歪曲が、あまりにもしばしば見うけられるので、残念ながら部分的というよりは、むしろ一般的といったほうが近いくらいです。もしこうした歪曲が一般的な場合でなかったら、今度のようなありうべからざる犯罪も、おこらなかったでしょう……」
「ありうべがらざる犯罪? ですが、わたしはたってこういいます。こんなふうの犯罪、いな、あるいはもっと恐ろしい犯罪は前にもありました、つねにありました。そして、単にわが国ばかりでなく、いたるところに行なわれました。まだまだ良いあいだ、この種の犯罪はくりかえし演ぜられるでしょう。ただ相違している点は、ロシヤには今日まであまり公けに口にするものがなかったのに、このごろでは多くのものが口に出していうばかりか、文章にまで書くようになったことです。それがために、こうした犯人が今日はじめて現われたように思われるのです。この中にあなたの誤解、きわめてナイーヴな誤解があるのですよ、公爵」とS公爵はあざけるように微笑した。
「それはぼく自身にしても、こうした恐ろしい犯罪が前にもたいへん多かったのを知っています。ぼくはせんだって監獄へ行き、いくたりかの犯人と未決囚に接することができました。その中には、今度のよりもっと恐ろしい、まるきり後悔の念なしに十人の人を殺したような犯人などもいました。しかし、ぼくはそのさいこういうことに気がつきました。それはすこしも後悔しないで人を殺すような、骨の髄まで悪者根性のしみこんだ者でも、やはり自分が犯人[#「犯人」に傍点]であるということを知っています。つまり、まるきり後悔の念を感じないにしろ、良心的に悪いことをしたと考えているのです。しかも、彼らのひとりひとりがみなそうなんです。ところが、今エヴゲーニイ・パーヴルイチのおっしゃった人たちは、自分を犯人と考えようとしないで、そうする権利を持っていたのだ……善いことをした……とまあ、ほぼそんなふうに考えるんですからね。つまり、この点に恐ろしい相違が含まれていると、ぼくは思います。なお注意すべきは、それがみな若い人たちであるということです。この年ごろが最も思想の歪曲におちいりやすい危険な年齢なんでね」
 S公爵はもう笑いやめて、けげんそうに公爵のいうことを聞き終わった。もう前からなにやらいいたそうにしていたアレクサンドラは、急になにか特別な考えに押しとどめられたかのごとく、開きかけた口をつぐんだ。エヴゲーニイにいたってはもうすっかり度胆を抜かれて、いっさい嘲笑のほこ先を収めて公爵をながめた。
「いったいあなた、なんだってそんなに、あの人のいうことにびっくりなさるんです……?」思いがけなくリザヴェータ夫人が割って入った。「いったいあの人があなたよりも知恵が足りなくって、あなたみたいに物事を判断することができない、とでも思ってらしたんですか?」
「いいえ、そんなわけじゃないのです」とエヴゲーニイがいった。「失礼なお尋ねですが、それだけのご見識がおあんな さるのに、どうしてあなたは(どうぞわたしのぶしつけをお 許しください、公爵)、どうしてあなたはあの奇怪な事件……ほら、二、三日前におこった……ブルドーフスキイとかいいましたね……あの事件のときに、どうしてあなたは思想 信念の歪曲にお気がつかなかったのですか! だってあれは まったくさっきいったのと同じじゃありませんか? あのときあなたはちっともお気がつかなかったように見受けましたがねえ」
「ねえ、あなた」とリザヴェータ夫人は熱くなっていった。「わたしどもは皆ちゃんと『気がついて』、得意になって公爵にそれを自慢していましたがね、この人は今日、あの連中のひとりから手紙を受け取りました。あの中の頭分でにきびだらけの……覚えておいでだろう、アレクサンドラ? その男が公爵にわびをして、その文句はあの連中相応のものだったけれど、あのときその男をたきつけたあの友達と絶交したって、知らせてよこしたんですよ。ね、覚えてるだろう、アレクサンドラ? そして、今ではだれよりも公爵を信じるっていってますよ。いかがです、わたしたちは今この人の前で鼻高々でいるけど、こんな手紙はまだ受け取ったことがありませんよ」
「それに、イッポリートもやはりこのかたの別荘へ引っ越して来ましたよ!」とコーリャが叫んだ。
「え! もうここヘ!」と公爵は心配しはじめた。
「あなたが奥さんとお出かけになったすぐあとに来たんです。ぼくつれて来たんです」
「ふん、わたしが請け合いますよ」リザヴェータ夫人はたったいま公爵を賛めたことを忘れて、とたんに怒り出した。「わたしが請け合いますよ、この人は昨日あの男の屋根部屋へ出かけて行って、あの意地悪の性悪男に、お慈悲でここへ引っ越すようにって、両ひざついて頼んだに相違ありません。公爵、あんたきのう行ったんでしょう? だって、さっき自分で白状したじゃありませんか。そうですか、そうでないのですか? 両ひざつきましたが、つきませんか?」
「けっしてつきはなさらなかったです」コーリャは叫んだ。「まるっきり反対です。イッポリートがきのう公爵の手を取って、二度接吻したんです。ぼく自分で見ましたよ。それでいっさい話が片づいちまいました。それから公爵はただイッポリートに別荘へ来たほうが楽じゃないがっておっしゃったら、イッポリートがさっそく承知して、すこしよくなったらすぐ引っ越すっていったのです」
「きみだめですよ、コーリャ……」と公爵は席を立って、帽子を取りながら、つぶやくようにいった。「なんだってきみ、みんなしゃべってしまうんです、ぼくは……」
「あんたいったいどこへ?」とリザヴェータ夫人がひきとめ
た。
「公爵、ご心配には及びませんよ」とコーリャは興奮して言葉をついだ。「今いらっしては、あれを心配させるばかりですよ。あれは旅疲れで寝入ってしまいました。とても喜んでいましたよ。ぼくは今お会いにならないほうがずっといいと思いますよ。いっそあすまでうっちゃってお置きなさいな。でないと、またまごつきますから。さっきもいってましたが、もうこの半年のあいだ、今日ほど気持ちがよくて元気なことはないって。おまけにせきもずっとずっと少ないんですよ」
 このとき公爵は、アグラーヤがふいに片隅から出て来て、テーブルに近寄ったのに気づいた。彼はその顔をながめる勇気がなかったけれども、この瞬間、彼女が自分のほうを見ていたことを、からだぜんたいで直覚した。おそらくそのまなざしはものすごく、その黒い目の中にはきっと憤懣の炎が燃えて、顔にはくれないがそそいでいたに相違ない。
「ですが、ニコライ・アルダリオーノヴィチ(これはコーリャに対する冷やかし半分の敬称)、わたしの考えでは、あなたがその人を連れて来られたのは、無駄なことらしいですな。もしその人があのとき泣いてわたしたちを自分の葬儀に招待した、肺病やみの子供であるならばですね」とエヴゲーニイが注意した。「あの人は、隣家の壁のことを、じつにみごとに話しましたが、きっとこちらへ来ても、その壁を思って憂欝症にかかりますね、それはもうたしかです」
「まったくですよ。あの男はかならずあんたといい合いをして、つかみ合いをして、そして飛び出すにきまっている、――それくらいのこってすよ!」
 こういってリザヴェータ夫人はものものしい様子をして、縫い物のはいっている小寵を引き寄せた。彼女は、もう一同が散歩にと席を立ったのを、忘れていた。
「いま思い出しましたが、あの人は例の壁をたいそう自慢していましたね」とまたもやエヴゲーニイが口を出した。「この壁がなかったら、あの人は雄弁な死様《しによう》ができないでしょうよ。あの人はまったく、雄弁な死様がしたくてたまらないんですからね」
「それでどうなんですか?」と公爵はつぶやいた。「もしあなたが、あの人をゆるしてやりたくないとおっしゃるのでしたら、あの人もあなたにはかまわず死ぬでしょう。あの人は今度ただ木立ちがながめたくてやって来たのです」
「おお、何をおっしゃるのです、わたしのほうからは、なにもかもゆるしてあげますとも。どうぞあの人にそうお伝えください」
「それをそんなふうにとってくだすっては困ります」依然として床の一点を眺めつづけながら、目を上げようともせずに、静かな気のない調子で公爵が答えた。「ぼくのつもりは、あなたもあの人からゆるしを受けることを承知なさればいいに、とそう思ったのです」
「わたしにこの場合なんの関係があります? わたしがあの人にどんな悪いことをしたのでしょう」
「もしおわかりにならなければ、まあ……しかし、あなたわかっていらっしゃるじゃありませんか。あの人はあのとき……あなたがたみなさんを祝福して、あなたがたからも祝福を受けたかったのです。それだけのことです……」
「ねえ、公爵」とS公爵は、同席のだれかれと目まぜをしてから、なんとなく危ぶむようなふうに急いで引き取った。「地上の楽園は容易に得られるものじゃありません。ところが、あなたはそれにもかかわらず、多少天国というものを期待していらっしゃる。地上の天国はなかなかむずかしいものです。あなたの美しい心でお考えになるよりも、はるかにむずかしいものですよ。それよりか、いっそよしてしまいましょう。でないと、またおたがいに間の悪い思いをしないとも限りませんから、そのとき……」
「オーケストラを聞きに行きましょう」リザヴェータ夫人は腹立たしげに起ちあがりながら、言葉鋭くこういった。
 つづいて一同席を立った。

      2
 このとき、公爵はふいにエヴゲーニイに近寄った。
「エヴゲーニイ・パーヴルイチ」と彼は相手の両手を取って、不思議な熱を帯びた訓子でいいだした。「どうぞぼくを信じてください、ぼくはどんなことがあろうとも、あなたを最も高潔な、最も善良なおかたと思います。どうぞこのことを信じてください……」
 エヴゲーニイは驚きのあまり一歩うしろへ退ったほどであった。その一瞬問、彼は堪えがたい笑いの発作をかろうじて押しこたえたのである。しかし、よく見つめているうちに、彼は公爵が前後をわきまえずにいるのではないか、すくなくもなにか特別な心の状態になっているのではないか、とこころづいた。
「誓っていいますが」と彼は叫んだ。「あなたは、まるっきり違ったことをいおうとしていられたのです。そして、おそらくわたしではなく、ほかの人におっしゃりたかったのでしょう……しかし、あなたはまあどうなすったんです? お気分でも悪くはないのですか?」
「そうかもしれません、大いにそうかもしれません。あなたの観察は当たったかもしれません、ぼくはまったくあなたとは違った人のほうへ近寄りたかったのでしょう!」
 こういって、彼はなんとなく奇妙な、こっけいにさえ感じられる微笑を浮かべた。が、急に激したように叫んだ。
「どうかあの三日前のぼくの行為を、もう思い出させないでください! ぼくはこの三日間、恥ずかしくてたまらなかったのです……ぼくは自分が悪かったということを、よく承知しています……」
「まあ……いったい、なにをそんなに恐ろしいことをなすったんです?」
「ぼくにはわかっています、エヴゲーニイ・パーヴルイチ。あなたはだれよりもいちばん余計ぼくのために、恥ずかしい思いをしてらっしゃる。あなたは顔を赤くしていられますね。それは美しい心の特質です。ぼくは今すぐ帰りますから、どうか安心してください」
「まあいったいこの人はどうしたんだろう! 発作でも始まったのかしら?」とリザヴェータ夫人はびっくりしてコーリャにたずねた。「心配しないでください、奥さん、いま発作などありません。ぼくもうすぐ帰ります。ぼく、自分でよく知っています。ぼくは……自然にしいたげられた男です。ぼくは二十四年間、生まれてから二十四の歳まで病人でした。どうぞ今も病人の言葉として聞いてください。ぼくはいますぐ帰ります、今すぐ。安心してください。ぼくは赤い顔などしません――だって、こんなことのために赤い顔をするのは変ですものね、そうじゃありませんか?――しかし、ぼくは社会における無用人です……といったって、それはけっして自尊心から申すのではありません……ぼくはこの三日間いろいろに渮えたすえ、どうしてもあなたがたに会ったら、おりを見つけて、まじめな高潔な態度で申しあげようと決心したのです。ほかでもありませんが、どうしてもぼくの口にのぼすことのできないような理想、しかも高遠なる理想がこの世にあるということです。なぜ口にのぼしてはいけないかというと、ぼくの口にのぼると、それがみなこっけいなものになってしまうからです、S公爵もたった今このことをぼくに注意してくださいました……ぼくには礼にかなった身振りがありません、感情の中庸というものがないのです。ぼくの持っている言葉はことごとく見当ちがいで、思想に相当したものがありません。これはその思想に対する侮辱です。こういうわけですから、ぼくには権利がなにもありません……おまけに、ぼくは疑ぐりぶかい性分です。ぼくは……ぼくはこの家の皆さんがぼくを侮辱なさるはずがない、むしろ真価以上に愛してくださると信じていますけれど、それでもやはりわかっています(ぼくはたしかにわかっています)、二十年も病気したあげくですから、どうしても人から冷笑されずにいられないようなものが、なにか残っているに相違ありません……ときとしてはね……、そうでしょう?」
 彼は返答か決定でも求めるような風つきで、あたりを見まわした。この思いがけない病的な、どうしてもいわれがあるとは思われない公爵の興奮に、一同は重苦しいためらいの念にとらわれて突っ立っていた。が、この公爵の言葉は、一つの奇怪な挿話の原因となったのである。
「なんのためにあなたはそれを今ここでおっしゃるんです?」ふいにアグラーヤが叫んだ。「なんのためにあなたはそれをこの人たち[#「この人たち」に傍点]におっしゃるんです? この人たちに! この人たちに!」
 見たところ、彼女は憤懣の頂点に達しているらしかった。その両眼は激しい火花を散らしていた。公爵はその前におしのように、声もなく突っ立っていた。と、急に真っ青になった。
「ここにはそんな言葉を聞くだけの値うちのある人が、ひとりもいないのです!」といったアグラーヤの言葉は、暴風の吹きおこるようであった。「ここにいる人はみんなだれも彼も、あなたの小指一本にさえ当たりません。あなたの知、あなたの情の分与に参ずる資格がありません! あなたはだれよりも潔白です、だれよりも高尚です、だれよりもりっぱです、だれよりも善良です、だれよりも賢者です!………ここには、あなたのいま落としたハンカチをこごんで拾う値うちすらないような人たちもいるんですからね……なんのためにあなたは自分を侮辱して、だれよりも低いところに自分をお置きになるのです? なぜあなたは自分の中にあるものを、すっかりこじれさしてしまったのです、なぜあなたは誇負の心がないのです?」
「まあ、ほんとうに思いもよらなかった!」とリザヴェータ夫人は思わず両手を拍った。
「貧しき騎士、万歳《ウラー》!」とコーリヤは有頂天になって叫んだ。
「お黙んなさい! なんだってみんなあたしに恥をかかせようとするんです。しかも、あたしたちの家で!」とアグラーヤはいきなり、リザヴェータ夫人に突っかかって行った。彼女はもういっさいのものに目をくれず、あらゆる障害物を乗り越して行こうとする、ヒステリックな心の状態になっていた。「なぜ皆がそろっていじめるんです? 公爵、なんだってこの人たちはこの三日間、あなたのことでうるさくあたしをいじめるんでしょう? あたしはどんなことがあったって、あなたと結婚しやしません! ようござんすか、どんなことがあろうとけっして結婚しません! よく覚えててちょうだい! ほんとうにあなたみたいなこっけいな人と結婚できるもんですか? まあ、ちょっと鏡の前へ行って、そうしてぼんやり立ってらっしゃる様子をごらんなさい! なんだって、なんだってこの人たちは、あたしがあなたと結婚するなどといって、からかうんでしょう? あなたそれを当然知ってらっしゃるはずですわ! あなたもやはりこの人たちと、なにか申し合わせていらっしゃるんでしょう!」
「だれもけっしてからかやしなくってよ!」とアデライーダはびっくりしてつぶやいた。
「だれひとりそんなこと考えたこともありません、それらしいことをいったものさえありませんよ!」とアレクサンドラは叫んだ。
「だれがこの子をからかったのです? いつこの子をからかったのです? だれが大胆にもこの子にそんなことをいったんです? この子は熱にでも浮かされてるんですか、どうですの?」と憤怒に身をふるわせつつ、リザヴェータ夫人は一同に向かっていった。
「みんながそういいました。ひとり残らずこの三日間からかったのです! あたしはけっしてこの人と結婚などしやしません!」
 こう叫んでアグラーヤは、いきなり苦い涙をはらはらとこぼし、ハンカチで顔をおおいながら、いすに身を投じた。
「公爵はまだおまえに……」
「ええ、ぼくはまだあなたに求婚したことはありません、アグラーヤさん」とふいに思わず公爵は叫んだ。
「なぁんですって!」驚愕と憤懣と恐怖の念に、リザヴェータ夫人は言葉じりを引きながら言った。「いったいなんですの?」
 彼女は自分の耳を信じたくないような気がした。
「ぼくはただその」と公爵はふるえあがりながら、「ぼくはただアグラーヤさんに言明したかったのです……つまり、ぼくがアグラーヤさんに結婚を申しこもう……などという意志をぜんぜんもっていなかったということを、申しあげたかったのです。さきになったらいつか……という考えすらありませんでした。何ごともぼくが悪いのではありません、誓ってぼくに罪はありません、アグラーヤさん! ぼくはけっしてそんなことを望みはしなかったのです、けっしてそんな考えをいだいたことはありません。またけっしてこのさきも望みはしません。それはあなたご自身で見ていてくださればわかります。どうぞぼくを信じてください! これはだれか悪い人間が、ぼくのことをあなたに讒謗したのです! どうぞ安心してください!」
 こういいながら、彼はアグラーヤに近づいた。彼女は今まで顔をおおっていたハンカチをのけて、ちらりと相手の顔とそのうろたえた様子を見やった。そして、しばらく彼の言栞の意味を思いめぐらしていたが、ふいに破裂するように公爵の鼻のさきで笑い出した、――それはじつに愉快でこらえきれないような、さもおかしそうな、同時に人をばかにした高笑いであった。で、第一に、アデライーダが、やはり公爵のほうをながめると同時に、がまんしきれなくなり、妹に飛びかかって抱きしめながら、同じくこらえきれないほど愉快らしい、小学生のような笑いかたで笑いくずれた。ふたりの様子を見ながら、とつぜん公爵までがにこにこ笑いはじめた。そして、嬉しそうな幸福らしい表情を浮かべて、
「いや、結構です、結構です!」とくりかえした。
 このときはもうアレクサンドラもがまんしきれなくなって、腹の底から笑い出した。この三人の無遠慮な高笑いは、いつ果てるともみえなかった。
「まるで気ちがいだねえ!」とリザヴェータ夫人はつぶやいた。「たったいま人をびっくりさせるかと思えば、今度はまた……」
 しかし、今はS公爵も笑えば、エヴゲーニイも笑いだした。コーリャはまた際限なしにからからと笑いつづけるのであった。一同の様子をながめながら公爵も笑っていた。
「散歩にまいりましょう、散歩にまいりましょう!」とアデライーダが叫んだ。「みんないっしょにね、そして、公爵もぜひわたしどもといっしょにいらっしゃらなくてはなりません。あなたが帰っておしまいになるって法はありません。あなたはわたしどもにとって大切な、かわいいかたなんですもの! ねえ、アグラーヤ、なんてかわいいかただろうねえ!そうじゃありません、おかあさん! それに、わたしはぜひとも公爵を接吻して、抱いてあげなくちゃなりませんわ……あの……今アグラーヤに説明してくだすったお礼にね。おかあさん、ねえ、わたし公爵を接吻してあげてよくって? アグラーヤ、わたしあんたの[#「あんたの」に傍点]公爵を接吻してもいい!?」といたずらっ子らしい調子で叫んで、ほんとうに公爵のほうへかけよると、その額に接吻した。
 こちらは彼女の手を取って、ぐっと握りしめたので、アデライーダはあやうく叫び声を立てようとしたほどである。公爵は限りない歓喜の色を浮かべて彼女を見つめたが、ふいにす早くその片手をくちびるへ持って行って、三度まで接吻した。
「さあ、まいりましょう!」とアグラーヤは呼び立てた。「公爵、あなたあたしの手を引いてくださいな。おかあさま、そうしてもいいでしょう、あたしを嫌った花婿さんだから? ね、あなたは永久にあたしを嫌って、拒絶なすったんでしょう、公爵? いいえ、そうじゃありません、そんな具合に女に腕を出すものじゃなくってよ。いったいあなたは女の手の引きかたをご存じないんですの? ええ、それでいいわ、まいりましょう。あたしたちが先頭になろうじゃありませんか、先頭に立つのはおいや、tete-a-tete(ふたりっきりで)は?」
 彼女はとめどなくしゃべりつづけるのであった、やはりときどき突発的に笑いながら。
『結構なことだ、ありがたい!』自分でもなぜやらわからぬながら、なんとなく嬉しくて、リザヴェータ夫人は腹の中でこうくりかえした。
『まったく奇妙な人たちだ!』とS公爵は考えた。ことによったら、彼がこう考えるのは、この家へ出入りしはじめてから、これでもう頁遍目ぐらいかもしれない。しかし……彼はこの奇妙な人たちが好きなのであった。ムイシュキン公爵はどうかというに、この人はあまりS公爵の気に入らないらしい。彼はいくぶん眉をひそめながら、なんとなく心配らしい様子で、一同とともに散歩に出かけた。
エヴゲーニイはこのうえなく愉快な気持ちになっているらしく、停車場までの道すがら、絶えずアレクサンドラとアデライーダを笑わせていた。しかし、ふたりともあまり容易に彼の冗談を聞いて笑うので、ついに彼はふたりがまるっきり自分のいうことを聞いていないのじゃないかと、ふと気をまわしてみたくらいである。こう考えると、彼はいきなりわけもいわずに、度はずれな真剣さで、からからと大きな声で笑い出した(じっさい、彼はこうした性格の男なのである!)。とはいえ、このうえなく浮き浮きした気分になっていたふたりの姉は、一同にさきだって行くアグラーヤと公爵のほうを、絶えずながめやった。見受けるところ、妹は彼女たちに大きな謎を投げかけたものらしい。S公爵はリザヴェータ夫人の気をまぎらすつもりか、つとめてよそごとのような話を仕向けながら、かえってひどく夫人にうるさがられていた。夫人はすっかり頭の中がめちゃめちゃになっているらしく、とんちんかんな返事ばかりして、どうかすると、まるっきり返事をしないことがあった。けれども、アグラーヤの謎はこの晩あれだけではすまなかった。いま一つ最後の謎が、今度はただ公爵ひとりだけの胸に落とされたのである。ほかでもない、別荘からおよそ百歩ばかりのところまで来たとき、アグラーヤは早口で半分ささやくように、しつこく押し黙っている自分の騎士《カヴァレール》に向かって、
「右のほうをごらんなさい」といった。
 公爵はそのほうを振りむいた。
「よくごらんなさい。あの公園にあるベンチがお見えになって、ほら、あの大きな木が三本あるところ……緑色のベンチ?」
 公爵は見えますと答えた。
「あなたここの場所がお気に入りました? あたし朝早く、七時っころ、みんながまだ寝ている時分に、ここへひとりで来て腰をかけるんですのよ」
 公爵はじつに美しい場所だとつぶやいた。
「さ、もうあたしのそばから離れて歩いてください、あたしもうあなたと手を組んで歩くのいやになりましたの。いえ、それよりいっそやはり手を組んでらっしゃい、そのかわりあたしにひと口もものをおっしゃっちゃいけませんよ。あたし自分ひとりだけで考えたいんですから……」
 しかし、なににしても、この注意は無駄なことであった。たしかに公爵はこの命令がなくても、はじめからしまいまでひとことも口をきかなかったに相違ない。緑色のベンチのことを聞いたとき、彼の心臓はおそろしく鼓動しはじめた。が、一瞬にして彼は考え直し、恥じ入りながら自分の愚かしい想像を追いのけた。
 パーヴロフスクの停車場には、一般に知られているとおり、すくなくも皆のいうところによれば、市から『あらゆる種類の人たち』が押し寄せて来る日曜や祭日よりも、かえって平日のほうに『選り抜き』の人々が集まってくる。それらの人々の装いは、あまりけばけばしくないけれど、あか抜けがしている。ここへ音楽を聞きに集まるということは、一般の慣わしになっていた。じっさい、オーケストラはたぶん公園楽隊としてなかなかすぐれており、しじゅう新しい曲を演奏しているのである。一般に内輪同士らしくうちとけた様子はあったが、礼節と整頓の重んぜられることは非常なものであった。おたがいにみな知り合った別荘住まいの人たちが、たがいの様子を見ようとして集まってきた。多くのものは真底から満足してこれを実行し、これ一つのために出かけてくるのであったが、中にはほんとうに音楽ばかり聞きにくる人もあった。見苦しい騒ぎはごくまれであったが、それでもどうかすると、平日にすら持ちあがることがあった。しかし、まったくそういう騒ぎがなくては、世の中のことはすまぬものである。
 このときは珍しい良夜であったから、群集も多く、演奏中の楽隊に近い席はすっかりふさがっていた。エパンチン家の一行はいくぶんわきに寄って、停車場の左入口のすぐそばにあるいすに座をしめた。群集と音楽はいくぶんリザヴェータ夫人を元気づかせ、令嬢たちの気をまぎらせた。彼女らはそのあいだに知り合いのだれ彼と視線をまじえ、だれ彼の人に愛想よくうなずいてみせた。またそのあいだには人の衣装をながめたり、ちょいちょい変なことを見つけてその話をしたり、冷やかすようにほほえんだりした。エグゲーニイも同様たびたび会釈していた。ここでもまだいっしょになっていたアグラーヤと公爵には、二、三の人が早くも注意を向けはじめた。やがてそのうちに母夫人と令嬢たちのそばへ、知り合いのだれ彼の若い人たちが近寄って来たが、その中の二、三人はいつまでも居残って話しこんでいた。それはみなエヴゲーニイの友人である。その人たちのあいだにひとり若い美しい士官がいた。これは快活で話ずきな男だったが、しきりにせきこんでアグラーヤに話しかけ、その注意を自分のほうへ向けさせようと、いっしょうけんめいに苦心していた。アグラーヤもこの男に対して非常に優しく、そしてひどくおもしろそうにしていた。エヴゲーニイはまた公爵に、この友人を紹介することを許してくれといった。公爵はこの人たちが自分に何を求めているのやら、よくわからない様子であったが、とにかく紹介もすんで、ふたりは会釈をし、たがいに于を握り合った。エヴゲーニイの友人はなにか質問を発したが、公爵はそれに対してぜんぜん返答しなかったらしい。あるいは返答したのかもしれぬが、なにやら口の中でぶつぶつつぶやいたばかりであった。その様子がいかにも奇妙だったので、士官はじっと彼の顔を見つめていたが、やがてエヴゲーニイのほうへ視線を転じた。と、その瞬間、なんのためにエヴゲーニイがこの紹介を思いついたかを察して、ほんの心持ちにっと薄笑いを浮かべ、ふたたびアグラーヤのほうへ振りむいた。このときアグラーヤが急に赤くなったのに気がついたのは、エヴゲーニイひとりだけである。
 公爵はほかのものがアグラーヤと話したり、機嫌をとったりしているのに、気のつかない様子であった。どうかすると、彼女のそばにすわっていることさえ忘れがちであった。ときおり彼は、どこかへ行って、ここからまったく姿を消してしまいたいような気がした。ただひとり自分の思想に没顫して、自分がどこにいるやら、だれひとり知るものもない、陰欝な淋しい場所が、好もしいようにさえ思われた。それもかなわないのなら、せめて自分の露台にでもすわっていたい。ただその場にはだれも、レーベジェフもその子供たちもいないほうがいい、あの長いすに身を投げかけ、枕に顔を埋め、そのまま昼も夜もまた次の日も、じっと横になっていたい。ときどきちらりと山のことも想像に浮かんだ。山といっても、その中でなじみの深いある一つの場所で、彼は好んでいつもその場所を思い浮かべた。それは、彼がまだスイスに暮らしていたころ、毎日のように出かけて、下の村を見おろしたところである。そこから下の方に、やっと見えるか見えないぐらいの白糸のような滝、白い雲、捨てて顧みられない古城の廃坑をながめるのがすきだった。おお、どんなにか彼は今この場所に立って、ただ一つのことばかり思いつづけていたかったろう、――おお! 一生このことばかり思いつづけていたい、――このこと一つだけで千年のあいだ考えとおすにも十分である! そして、ここの人たちが、自分のことを忘れてしまったってかまいはしない。いや、そうならねばならぬ、そのほうがかえって都合がいい。もしはじめからこの人たちがぜんぜん自分を知らずにいて、この恐ろしい幻影がただの夢であったなら。しかし、もう夢でもうつつでも、どちらでも同じことではないか! ときどき彼はふいにアグラーヤを見つめはじめる。そして、五分間ばかりその顔から目を放さなかったが、その目つきがじつに奇妙であった。まるで自分から二露里も離れている物体か、あるいは絵姿でもながめているようで、当のアグラーヤを見る目つきではなかった。
「なんだってあなたはあたしをそんなにごらんなさるの、公爵?」ふいに自分を取り巻く人々のにぎやかな会話と笑い声を断ち切って、アグラーヤはこう問いかけた。「あたしあなたがこわいわ。あたしなんだかあなたが今にも手を伸ばして、指であたしの顔をいじってごらんになりそうな気がして、しようがないんですのよ。そうじゃありませんか、ねえ、エヴゲーニイさん、公爵の目つきはそんなふうですわね?」
 公爵は、人が自分に話しかけたのを、びっくりしたように聞いていた。そして、なにやら思いめぐらすさまであったが、ほんとうによくわからなかったと見えて、返事をしなかった。が、みなが笑っているのを見ると、いきなり大きな口をあけて、自分でも笑い出した。あたりの笑い声はひとしお高くなった。士官はよほどおかしがりと見えて、いきなりぷっとふきだした。アグラーヤはふいに腹立たしげに口の中でつぶやいた。
「白痴《ばか》!」
「まあ! ほんとうにこの娘は、いったいこんなものに……いったい、この子はほんとに気がちがうのじゃないかしら」とリザヴェータ夫人は歯ぎしりしながらひとりごちた。
「あれは冗談ですよ。あれはさっきの『貧しき騎士』と同じような冗談ですよ」とアレクサンドラはしっかりした調子で、母夫人に耳打ちした。「それだけのこってすわ! あの子は今もまた自分一流のやり方で、公爵をからかったんですよ。ただこの冗談はあんまり薬がききすぎました。もうやめさせなくちゃなりませんわ、おかあさま! さっきはまたまるで女優みたいに変な真似をして、わたしたちをびっくりさせるかと思うと……」「まあ、それでも相手があんな削唹だからまだしもなんですよ」とリザヴェータ夫人はささやき返した。
 娘の解釈はとにかく大人の胸を軽くした。
 とはいえ、公爵は自分を白痴《ばか》と呼ぶ声を聞いて、身震いした。しかし、それは白痴といわれたためではない。『白痴』という言葉はすぐに忘れてしまった。が、群集の中に、自分のすわっている席からほど遠からぬどこか端のほうで、――公爵はどこのどのへんということを、的確に示すことができなかったけれども、一つの顔が、ちらとひらめいたからである。うずを巻いた暗色の毛、見覚えのある、じつによく見なれた微笑と目を持った青ざめた顔が、――ちらとひらめいて、消え去ったのである。あるいはただ気のせいだったかもしれぬ、大いにそうかもしれぬ。彼の心に残った印象は、ただひん曲がったような嘲笑と、目と、ちらと目に映ったひとりの屶の薄い緑色をした、しゃれたネクタイばかりであった。この人が群集の中にまぎれこんだのか、それとも停車場の中へ入ったのか、公爵はやはり明言することができなかった。
 しかし、一分間ののち、公爵はとつぜんそわそわと落ちつかぬ様子で、あたりを見まわしはじめた。あの第一の幻影が、つづいて来る第二の幻影の予言であり、先駆であったのかもしれぬ。それはたしかにそうだったのだ。いったい彼はここへ出かけて来るとき、もしかしたらある人に出くわすかもしれないということを、忘れていたのだろうか? それは事実である。彼がこの停車場へ向けて歩いて来るあいだ、自分で自分がどこへ行ってるのやら、まるっきり知らずにいたようなありさまだった。――それほど彼の心は暗く重かったのである。もし彼がいますこし注意して見ることができたら、まだそれより十五分ばかり前にアグラーヤが、なにか自分の周囲に潜むあるものをさがすような風つきをして、ときどき不安げにあたりを見まわしているのに、気がついたはずである。いま彼の不安が恐ろしく目立ってくると同時に、アグラーヤの不安と動揺もそれにつれて大きくなった。そして、彼がうしろを振りかえって見るやいなや、ほとんど同時に彼女もそのほうを振りむくのであった。しかし、不安は間もなく解決された。
 公爵はじめエパンチン家の一行は、停車場の横手の出口に近く陣取っていたが、そこからにわかに一隊の群集、すくなくとも十人ぐらいの同勢からなる一群の人々が現われた。群集の先頭に三人の女が立っている。その中のふたりは驚くばかりの美人であったから、そのあとからこれぐらいのお供がやって来るのも、あながち不思議はなかった。けれど、そのお供も婦人たちも――すべてこれらの人たちは、音楽を聞きに集まっているその他の人々とはまるで変わった、一種特別のものであった。ほとんどすべての人々はこの一群に気がついたが、大部分は見て見ぬふりをしようと努めていた、ただ若い連中のだれ彼は、彼らの姿を見て微笑しながら、たがいに低い声でささやき合った。しかし、ぜんぜん彼らに気づかずにいるのは不可能であった。彼らはわざと自分の姿をひけらかして、大きな声で話したり、笑ったりしているのだ。彼らの多くが酔っぱらっているらしいということは、想像するにかたくなかった。もっとも二、三の者は、ハイカラなしゃれた身なりをしていたけれども、また思いきって奇妙な恰好をして、奇妙な服を着け、いやに興奮した顔つきのものも少なくなかった。彼らの中には軍人もあれば、あまり若くないのもあり、また、ゆったりと優英な仕立ての服を着こんで、指輪やカフスボタンを光らせ、漆のように黒いりっぱなかつらをかぶり、ほお髯を立て、顔に一種上品な、とはいえいくぶんしかつめらしい威厳を持たした、裕福らしい風采の人々もまじっていた。しかし、社会では、こういう人々をペストのように嫌って避けるようである。この町はずれの停車場に集まった公衆の中には、なみなみならずきちょうめんなので有名な人たちも、世間から特に尊敬されている評判のいい人たちもあった。しかし、どんな用心ぶかい人でも、ふいに隣家から落ちてくるれんがに、四六時中、気をつけているわけにはいかない。このれんがは音楽に集まったきちんとした公衆の上に、今しも落ちかかろうとしているのであった。
 停車場からいまオーケストラの陣取っている広場へ出るには、小さな段々を三つおりなければならなかった。この段々の上にかの一隊は立ちどまったが、思いきってそこからおりかねるふうであった。と、ひとりの女が平気で前へ進み出た。それにつづいて、ただふたりの男だけが思いきって進んだ。ひとりはかなりおとなしそうな顔つきをした中年男で、すべての点において、ひととおりの外貌を備えていたが、あからさまに風来坊といった風体であった。つまり、世間によくあるやつで、自分でもまるで人を知らなければ、人からもまるで知られないという連中のひとりなのである。いまひとり、女のそばを離れずにいるほうは、まったくごろつきで、気味の悪い風体をしている。それ以外、だれもこの突飛《とっぴ》な婦人についてこようとする者はなかったが、彼女は段々をおりながら、うしろを振りかえってみようともしなかった。さながら、人がついてこようとこまいと同じことだといわんばかりである。彼女は依然として声高《こわだか》に話したり、笑ったりしていた。その服装にはなみなみならぬ趣味も現われ、かつ金もかかっているけれど、普通のたしなみから見れば、多少けばけばしすぎるようである。彼女は楽隊のそばを横切って、広場の向こう側をさして進んで行った。そこには道ばたで、だれの馬車であろうか、人待ち顔に立っている。
 公爵はもう三か月以上も彼女[#「彼女」に傍点]を見なかった。今度ペテルブルグへ出てからこの数日間というもの、公爵は絶えず彼女を訪れようと心組んでいたが、なにか一種神秘な予感ででもあろうか、つねに彼を引き留めていたのである。すくなくとも、彼は近いうちに起こるべきこの女との再会の印象がどんなものであるか、どうしても想像することができなかった。彼は恐怖の念を覚えつつも、ときどきその場合の感じを心に描いてみようと努めた。ただ一つ的碓なのは、その感じが重苦しいものに相違ないということであった。まだ彼がはじめて写真に接したばかりのとき、彼女の顔が彼の心にひきおこしたあの最初の感銘を、彼はこの六か月のあいだにいくどとなく思い浮かべたのである。しかしこの写真から受けた印象の中にさえ、今おもいおこしてみると、多すぎるぐらい重苦しいあるものが潜んでいた。ほとんど毎日のようにこの女に会っていた田舎のひと月が、彼の心に恐ろしい作用を及ぼしていたので、この時分に関する単なる追想すらも、なるべく自分の脳裡から追い出すようにしていた。この女の顔そのものが、つねに彼にとって悩ましい何ものかを蔵していた。公爵はラゴージンと話し合ったときに、この感じを限りなき憐愍の情として説明した、それはほんとうである。この顔はまだ写真を見たばかりのときから、彼の心に激しい憐愍の苦痛を呼びおこした。この人物に対する同情と苦痛の感銘は、今まで一度も彼の心を離れたことがない、今でも離れないでいる。おお、それどころか、かえって余計に激しくなっているのだ。けれども、ラゴージンにいって聞かせただけの説明では、公爵はまだ不満足であった。ところが、たった今、思いがけなくこの女が姿を現わした刹那、おそらく一種の直覚の働きでもあろう、彼はラゴージンに話した自分の言葉に不足していたものを了解した。ああ、この恐怖をいい表わすには、人間の言葉はあまりに貧しい。そうだ、恐怖である! 彼は今、この瞬間にそれを完全に直覚した。彼は特別な理由によって、この女が気ちがいだと信じた。徹頭徹尾そう信じて疑わなかった。もしひとりの女を世界じゅうの何ものよりも深く愛し、あるいはそうした愛の可能を予感しつつある男が、突然その女が鎖につながれ、鉄の格子に閉じこめられ、監視人に棒で打たれているところを見つけたらどうか、――こうした感覚こそ、いま公爵の直感したところのものに、いくぶん似寄っているかもしれぬ。
「どうなすったの、あなた?」とアグラーヤは彼のほうを振りむいて、子供らしくその手をひっぱりながら、早口にささやいた。
 彼はそのほうに頭を向けて彼女をながめ、この瞬間合点のいかぬほどぎらぎら輝いていた黒い目を見つめながら、にっこり笑って見せようとしたが、ふっと一瞬の間にアグラーヤのことを忘れ果てたかのように、ふたたび目を右のほうへ転じ、またもやかの恐ろしい異常な幻影を追いはじめた。ナスターシヤはこの瞬間、令嬢たちの席のすぐそばを通り抜けていた。エヴゲーニイはなにか、ひどくおもしろおかしそうなことを、早口に生きいきした調子で、アレクサンドラに話しつづけている。公爵はのちのちまでも覚えていたが、アグラーヤはこのときふいになかばつぶやくような声で、『なんてまあ……』といった。
 このひとことはなんともつかない、しっぽの切れたもので終わった。彼女はすぐにはっと気がついて、それきり何もいい足さなかったが、しかしそれだけでも十分であった。ナスターシヤは今まで特にだれに目をつける様子もなく通り抜けていたが、急に一行のほうへ振りむいて、いまはじめてエヴゲーニイに気がついたかのごとく、
「あらまあ! この人はこんなところにいるんだわ!」と急に立ちどまって、彼女は叫んだ。「飛脚を使ってさがさしても、見つからないと思えば、こんな思いもよらないところに
すわってるのねえ、わざとのようだわ……わたしまたあんたはあの……伯父さんのところにいるのかと思ってたわ!」
 エヴゲーニイはかっとなって、ものすごい目つきでナスターシヤをながめたが、すぐにまた顔をそむけてしまった。
「おや! いったいあんた知らないの? この人はまだ知らないんだわ、まあどうでしょう! 死んだんですよ! けさがたあんたの伯父さんが、ピストルで死んじゃったんですよ! わたしついさっき、二時間ばかり前に聞いたわ、ええ、もうおおかた町の半数の人たちは知ってますよ。官金三十五万ルーブリつかいこんだんですって。中には五十万だっていう人もあるわ、わたしあんたがその伯父さんから遺産を貰うのだとばかり思って当てにしてたのに、――みんなほらだったのね。しようのない極道|老爺《おやじ》たったそうよ……じゃ、さようなら、bonne chance(ご幸福を祈ります)じゃ、あっちへ出かけないの? 道理で早く退職を願ったはずだわ、はしっこいこと! しかし、そんなばかなことってないわ。知ってたんだ、前から知ってたんだわ。たぶんもうきのうあたりから知ってたんでしょう……」
 こうした傲慢でうるさい、ありもしない近づきの押し売りには、なにかある目的が潜んでいた。それは今さらもうなんの疑いもないことである。エヴゲーニイははじめのうち、どうにかしてうまく受け流し、なにがあろうともこの無礼な女を気にかけないように努めていた。しかしナスターシヤの言葉は雷のごとく彼の頭上に落ちかかった。伯父の死ということが耳に入ると、彼はハンカチのように青くなって、思わずナスターシヤのほうを振りむいた。この瞬間リザヴェータ夫人は急に立ちあがって、ほかの人々を促しながら、ほとんど走るようにしてこの場を離れた。ただムイシュキン公爵のみは、しばらく決しかねたように、一秒ばかりその場に立ちすくんでいた。エヴゲーニイもやはり茫然自失したかのごとく、じっと立っていた。しかし、エパンチン家の一行がまだ二十歩と離れぬうちに、恐ろしい騒ぎが持ちあがったのである。
 さきほどアグラーヤと会話を試みていた士官は、エヴゲーニイと大の仲よしであったが、今や憤懣の極に達した。
「もうぶんなぐってくれなくちゃだめだ。それよりほかにこの売女《ばいた》をとっちめる法がない!」と大きな声でいい出した(この男は以前からエグゲーニイの腹心であったらしい)。
 ナスターシヤはたちまち彼のほうへ振りむいた。その目はものすごく輝いていた。彼女は、二歩ばかり隔てて立っている、まるっきり兄覚えのないこの青年のほうへおどりかかった。士官はつるを編んだ細いステッキを携えていたが、ナスターシヤはやにわにそれを引ったくって、この無礼者の顔を斜《はす》かいに力任せに打ちすえた。それはほんの一瞬のできごとであった……士官はわれを忘れて彼女にとびかかった。ナスターシヤの周囲にはもう取り巻きがいなかった。取り済ました中年の紳士はいつの間にやら姿を隠し、一杯機嫌の紳士のほうはすこし離れたところに立って、いっしょうけんめいに笑っている。もう一分ののちには、警官も飛んで来たに相違ないが、今この瞬間、ナスターシヤは恐ろしい目を見るところであった。が、そこへ思いがけない助けが入った。やはり二歩ばかり間をおいてたたずんでいた公爵が、うしろから士官の両腕をとらえたのである。その手を振り放そうとして、士官は激しく公爵の胸を突き飛ばした。公爵は三足ばかりよろよろとして、いすの上に倒れた。けれども、このときすでにナスターシヤのそばへふたりの保護者が現われていた。今にもおどりかかろうと身構えしている士官の前に、ぬっと拳闘の先生が立ちはだかっていた。例の新聞記事の作者で、以前のラゴージンの徒党の一員である。
「ケルレルです! 退職中尉です」と彼は力みかえって名乗りを上げた。「もし腕ずくの勝負がお望みでしたら、わが輩が弱い女性に代わってお相手になりましょう。イギリス式拳闘はすっかり卒業しました。そんなに突くのはおよしなさい。あなたの血のにじむような[#「血のにじむような」に傍点]憤慨は同情に堪えんですが、一婦人に対して公衆の面前で腕力沙汰は許すわけにはいきません。もし高潔な人士にふさわしい他の方法に訴えようとおっしゃるなら、――あなたはもちろん、わが輩の言を了解してくださらねばならんです……」
 しかし、士官はやっとわれに返って、もう彼の言葉を聞いていなかった。このとき群集の中から現われ出たラゴージンは、す早くナスターシヤの手を取って、ぐんぐんしょっぴいて行った。ラゴージン自身もおそろしく気を転倒さしているらしく、青い顔をしてふるえていた。しかし、ナスターシヤを連れ去る前に、彼は士官にむきつけて毒々しく笑いながら、勝ちはこった市場商人のような顔つきをしていった。
「ちょっ! とんだ目にあったね! しゃっ面《つら》あ血だらけだ! ちょっ!」
 すっかりわれに返って、相手がどんな人間かを悟った士官は、丁寧に(とはいえハンカチで顔をおおいながら)もういすから立ちあがった公爵に向かって、
「あなたはムイシュキン公爵でしたね、さきほどお近づきの栄を得た?」
「あの女は気ちがいです! 狂人です! ほんとうです」となんのためやら、わななく両手を相手のほうにさし伸べながら、公爵はふるえ声で答えた。
「ぼくは残念ながら、そういううわさを聞いていないのでしてな。ぼくはただあなたのお名前を知ればいいのです」
 彼はちょっとうなずいて立ち去った。警官は、このできごとに関係した最後の人たちが隠れてしまってから、ちょうど五杪たったときかけつけた。とはいえ、この騒ぎはせいぜい二分より長くはつづかなかった。群集のだれ彼は席を立って行ったし、あるものは席を移しただけだし、あるものは非常にこの騒ぎを興がっていたし、またあるものはむきになって、かしましくこのことを問題にしていた。手短かにいえば、事件はごく平凡に終わりを告げたのである。楽隊はさらに演奏をはじめた。公爵もエパンチン家の一行を追って行った。もし彼が士官に突き飛ばされていすに倒れたとき、自分で思い当たるか、それともなにかの拍子で右のほうをながめたら、二十歩ばかり離れたところでアグラーヤが、この見苦しい光景をながめるために、もうずっとさきのほうへ行っている母や姉の呼び声を、耳にも入れずたたずんでいるのに気づいただろう。このときS公爵が彼女のそばへ走ってきて、早くここを去るようにすすめたのである。アグラーヤが一行に追いついたときは、興奮のあまり人々の言葉もほとんど耳に入らぬ様子だったのを、リザヴェータ夫人はよく覚えていた。しかし二分ののち、一同が公園に入るやいなや、アグラーヤはいつもの平然とした気まぐれな声で、「あたしあの喜劇がどんなふうで幕になるか、それが見たかったのよ」といりた。

      3

 停車場のできごとは、母夫人と令嬢たちにとって驚きというよりも、ほとんど恐怖であった。リザヴェータ夫人は不安と動乱に、停車場から家へ着くまで、文字どおりかけださんばかりに、娘たちをせき立てた。夫人の観察と見解に従うと、この事件のために非常に多くのことが発生し、暴露されたのである。そのためにすっかり仰天して、何が何やらわからなくなってしまったにもかかわらず、彼女の頭の中に一つの想念がくっきりと浮かんで来た。しかし、みなのものも、なにかしら特殊な事がおこって、おそらくは、さいわいにも、ある重大な秘密が暴露されはじめた、ということを悟った。以前、S公爵がいろいろに弁解したり、説明したりしたものの、エヴゲーニイは『今という今、明るみへひきだされて』、仮面を引きはがされ、『あの売女《ばいた》との関係をりっぱに暴露された』に相違ない、とこうリザヴェータ夫人も、そしてふたりの姉さえも考えたのである。しかし、この結論から得た賜物《たまもの》は、なおいっそう不思議な謎が謎の上に重なっただけのことだった。令嬢たちは、あまりにもはなはだしい母夫人の驚きようと、あまりにも見えすいた逃げようを、いくぶんこころの中で苦々しく思っていたけれども、こんな騒ぎが持ちあがったばかりのときに、いろいろな問題で母を苦しめる気になれなかった。そのうえ、ふたりはなぜか知らないが、妹のアグラーヤが、もしかしたらこの事件に関して、自分たちや母親などより余計に知っているかもしれぬ、といったような気がしたのである。S公爵もやはり夜のように暗い顔をして、ひどく考えこんでいた。リザヴェータ夫人は途中ひとことも彼に口をきかなかったが、彼のほうでもそれに気のつかない様子であった。アデライーダは彼に向かって、『あの伯父さんてだれのことですの、そしてペテルブルグで何があったんでしょう?』ときいてみたが、彼はその答えとして、思いきり渋い顔をしながら、なにかの調査をどうとかしたと口の中でつぶやき、それはみんなもちろんつまらないばかげたことだといった。『それはそうに決まってますわ!』とアデライーダは答えたが、もうそれっきりなにもきかなかった。アグラーヤはなにかまた非常に落ちつき払っていて、ただ途中みんなあまり早く走りすぎると注意したばかりである。一度彼女はうしろを振りかえって、自分たちを追って来る公爵を見つけた。そのいっしょうけんめいに追いつこうとする努力を見て、彼女はあざけるように笑ったが、もうそれから彼を振りかえって見ようともしなかった。
 ついに別荘のほとんどすぐそばで、一行を迎えにやって来るイヴァソ将軍に出会った。将軍はつい今しがたペテルブルグから帰ったばかりである。彼はすぐさま第一番に、エヴゲーニイのことをたずねた。けれど、夫人は返事しないばかりか、そのほうへは目もくれずに、こわい顔をしてすっと通り抜けてしまった。娘たちやS公爵の目つきからして、彼はたちまち家のなかへ雷雨が襲って来たことを察した。がそれ以外、彼自身の顔にもなにかしらなみなみならぬ不安の色が映っていた。彼はすぐS公爵の手を取って、家の入口のところへ引きとめ、ほとんどささやくような声で、ふたことみこと言葉を交わした。やがて、露台へあがって、リザヴェータ夫人のところへ行ったとき、ふたりの心配そうな顔つきから察して、なにかひととおりでない知らせに接したことが想像された。だんだんと一同のものが、二階のリザヴェータ夫人のもとへ集まっていったので、とうとう露台には公爵ひとりだけが取り残されてしまった。彼は何ごとかを期待するように、とはいえ、自分でもなんのためやらわからず、片隅に腰かけていた。彼は家内のごたついているのを兄ながら、帰ろうという考えはすこしもおこらなかった。見受けたところ、彼はいま全宇宙を忘れ去って、どこにすわらされようと、そのまま二年くらいふっとおしに、平気ですわっていかねない様子であった。
 二階からは、ときどき心配そうな話し声が聞こえてきた。彼はどれくらいそこにすわっていたか、自分でも覚えていな
かった。もうだいぶおそいらしく、あたりはすっかり暗くなっていた。そのとき、ふいにアグラーヤが露台へ出て来た。見たところ、彼女はきわめて落ちついていたが、顔色はいくぶん青かった。アグラーヤは、こんな隅っこに公爵がいすにかけていようとは「思いもよらなかった」らしく、公爵の姿を見ると、けげんな様子で微笑した。
「あなたそんなとこで何してらっしゃるの?」と彼のそばへ近づいた。
 公爵はあわてて、口の中でなにやらもぞもぞいいながら、いすから飛びあがった。けれども、アグラーヤがすぐそのそばのいすに腰をおろしたので、彼もまた席に着いた。彼女は急に、そして注意ぶかく公爵を見つめたが、今度はさらになんの考えることもないようなふうで窓のそとを眺め、それからまた公爵のほうへ顔を向けた。『おおかた、ぼくのことを笑ってやろうと思ってるんだろう』と公爵は考えたが、『しかし、そうじゃない、笑うならあのとき笑ったはずだ』
「あなたお茶があがりたいんでしょう、そうだったらあたし持って来させますわ」としばらく無言ののち、彼女は言った。
「い、いいえ。ぼく知りません……」
「まあ、それがわかんないはずはありませんわ! ああ、そうだ、ねえ、公爵、もしだれかがあなたに決闘を申しこんだら、あなたそのときどうなすって? あたしさっきからききたかったんですのよ」
「だって……いったいだれが……だれもぼくに決闘なんか申しこみゃしません」

「いいえ、もし万一申しこんだら? あなたひどくびっくりなさる?」
「そうですね、ぼくはひどく恐れるでしょうね」
「ほんとう? じゃ、あなたは臆病者だわね?」
「いいえ、たぶんそうじゃないでしょう。臆病者というのは恐れて逃げるもののことです。恐れても逃げないものは、まだ臆病じゃありません」と公爵はちょっと考えてから、微笑しながら言った。
「あなたお逃げにならない?」
「たぶん逃げないでしょう」と言って、公爵はとうとうアグラーヤの質問ぶりに笑わされてしまった。
「あたしはね、たとえ女でも、けっして逃げ隠れはしません」と腹立たしそうに彼女は言いだした。「ですが、あなたはあたしをばかにしてらっしゃるんですね、例の癖で自分を興味のある人間と思わすために、わざとそらっとぼけてらっしゃるんでしょう。ねえ、ひとつうかがいますが、普通決闘では二十歩か十歩の距離で射ち合うんですから、――つまり、どうしても殺されるか、傷をつけられるかにきまってますわねえ?」
「決闘ではめったに当たらないはずですが」
「なぜですの? だってプーシキンは殺されましたよ」
「それはおそらく偶然でしょう」
「ちっとも偶然じゃありません。死ぬか生きるかの決闘ですもの、それで殺されたんですわ」
「あのときの弾丸は非常に低いところへ当たりましたから、きっとダンテス(プーシキンを決闘で殺したフランス生まれの青年将校)がどこかすこし高いところ、胸か頭かをねらったんでしょう。そんなねらいかたはだれもしません。してみると、プーシキンに弾丸が当だったのは、偶然の過失だったんでしょう。それはぼく、信頼すべき人たちから聞いたんです」
「あたしはいつかある兵隊と話しましたが、その人はそういいました。軍隊では操典にちゃんと規定されてるんですって、散兵で射撃のときには半身をねらえ、『半身』とはっきり書いてあるんですとさ。ほら、してみるとけっして胸や頭ではなくって、半身を射つように命令が出てるんですからね。あたしその後、ある将校に聞いてみたら、まったくそうに違いないっていいましたわ」
「それはそうですとも、距離が遠いんですからね」
「あなた射撃がおできになって?」
「ぼくは一度も射ってみたことがありません」
「じゃ、ピストルを装填することもできません?」
「できません。いや、そのやりかたはわかっていますが、自分ではまだ一度もやったことがないのです」
「では、やっぱりできないんですわ、だってそれには実習がいりますからね。ねえ、よく聞いて覚えてお置きなさいよ。第一に湿りけのない、ピストル用のいい火薬を買うんですの(なんでも湿りけのない、かわいたのがいいんですって)。そして、なんでも細かいのでなくちゃならないそうよ。あなたそんなふうのをお買いなさい、大砲を射つようなのじゃだめよ。なんでも弾丸を自分で造る人もあるんですって。あな
たピストルを持ってらっしゃる?」
「いいえ、それにいりもしません」と公爵はにわかに笑いだした。
「あら、なんてつまんないことを! ぜひお買いなさいよ。いいのをね、フランス驍かイギリス驍、これがいちばん上等だそうですよ。それから、火篆を雷管一本分か二本分ぐらい出して、それをつめるんですの。もっと多いほうがいいかもしれないわ。そして毛氈《もうせん》をおつめなさい(どういうわけだか、かならず毛氈でなくちゃならないそうよ)。これはどこかから、――なにかふとんのようなものからでも取れるでしょうし、また扉にもときどき毛氈が打ちつけてありますからね。そこで毛氈のきれをつめてから、弾丸をお入れなさいな、――ようござんすか、弾丸はあとからで、火薬がさきなんですよ。でないと射てないわ。なんだってお笑いになるの?あたしね、あなたが毎日二、三度ずつ射撃の稽古をして、ぜひ的に当たるようになっていただきたいの。おできになって?」
 公爵はただ笑っていた。アグラーヤはくやしそうに足を踏み。暘らした。こんな話題にもかかわらず、彼女の様子のまじめなのが、いくぶん公爵を驚かした。彼もなにか確かめておかねばならぬ、なにかきいておかねばならぬ、――すくなくとも、ピストルの装填法よりもっとまじめな事柄について、きいてみなければならぬということは、多少感じないでもなかった。けれども、そんなことは頭の中からすっ飛んでしまって、ただ自分の前にアグラーヤがすわっている、そして自分はその顔を見ている、ということだけしか考えられなかった。彼女がどんなことを話そうと、このとき彼にとってはほとんど風馬牛であった。
 ついに二階から露台ヘイヴァン将軍がおりて来た。彼はどこかへ外出の身支度をしていたが、うっとうしい、心配げな、しかし断固たる顔つきであった。
「ああ、ムイシュキン公爵、きみでしたか……そして、今どちらへ?」公爵が席を動こうとも考えていないのに、彼はこうたずねた。「出かけませんかね。わたしはきみにひとこといいたいことがあるから」
「さようなら」といって、アグラーヤは公爵に手をさし伸べた。
 露台はもうだいぶ暗くなったので、公爵はこの瞬問、彼女の顔をはっきり見分けることができなかった。一分ののち将軍といっしょに別荘のそとへ出たとき、彼は急におそろしく赤くなって、強く自分の右手を握りしめた。
 聞いてみると、イヴァン将軍も彼と同じ道筋であった。イヴァン将軍はこの夜遅いのに、何ごとかでだれかと会談に急いでいるのであった。にもかかわらず、とつぜん公爵に向かって、早口に心配らしい調子で、かなりまとまりのつかないことを話しだした。そして、いくどもリザヴェータという名をはさんだ。もし公爵がこのときもうすこし注意していたら、将軍が話のあいだになにか自分から探り出そう、というよりは、むしろ直接露骨に何ごとかたずねようとしながら、どうもこのかんじんな点に触れかねているのを察したろう。
ところが、恥ずかしいことに、公爵は非常に心がざわついていたので、はじめのほうはなんにも聞いていなかった。で、将軍がなにかある質問を提出して、彼の前に立ちどまったとき、彼は仕方なしに、なにもわからない、と白状しなければならなかった。
 将軍は肩をすくめた。
「きみがたはだれも彼もなんだか奇妙な人間になってしまったね」と彼はまた急いで話しだした。「じっさいのところをいうが、わたしはリザヴェータの考えや心配がさっぱり腑に落ちん。あれはまたヒステリーをおこして、われわれは恥をかかされた、顔に泥を塗られた、といって泣くんだよ。だが、いったいそれはだれだ? どんなふうにして? だれといっしょに? いつ、どういうわけで? ちっともわからん。わたしもじっさいのところ悪かった(それは自分でも認めている)。重々悪かった。しかし……あの厄介な(おまけに不身持ちな)女の不敵な行為は、もうやがて、警察の手を借りて抑制することができる。じつは、わたしもこれから二、三の人に会って、注意しておこうと思っておる。万事は年来の友誼を利用して、しずかに、おとなしく、いや、愛想よくといってもいいぐらいうまくやって見せる。けっして騒動などもちあがるようなことはしない。そうはいうものの、このさきさまざまな事件もおころうし、また今までもいろいろわけのわからんことが多いのは承知しています。これにはなにか秘密な企みがあるに相違ない。しかし、ここでなんにも知らんといえば、またあそこでもやはり、知らぬという。わたしも聞かぬ、きみも聞かぬ、あの人もこの人もやはりなんにも聞きません、ではしようがない。ほんとうにいったいだれが知ってるんだろう、え? いったいきみはこの事件をなんと説明しますかね、この事件は半分蜃気楼だ、たとえば月の光とか……あるいはその他の幻影のように、じっさいにおいて存在しておらんものだ、ということ以外に?」
「あれはきちがいです」ふいに公爵は、さきほどのできごとのすべてを悩ましく思いだして、つぶやくように答えた。
「もしきみがあの女のことをいってるのなら、ぴったり符合してるね。わたしも多少そうした観念が浮かんでくるので、今まで安心して眠られたんですよ。ところが、いま見ると、あの女の考えてることは案外正確で、どうもきちがいとは信じられない。かりにあれがつまらん女にしても、それでもやはり綿密な女です、けっしてきちがいどころの段じゃない。きょうカピトン・アレクセイチについていったことなぞは、りっぱにそれを証明してますよ。あの女のほうからいっても、きょうのできごとは詐欺師的だ、すくなくとも、なにか特殊な目的のためにこしらえた狡猾な所作です」
「カピトン・アレタセイチってだれです?」
「おや、これはどうだ、きみはなんにも聞いてなかったんだね。わたしはまず第一にカピトン・アレクセイチのことから、話を切り出したんじゃありませんか。おそろしい報知で、いまだに手足がふるえるぐらいだ。そのためにきょうペテルブルグで遅くなったんですよ。カピトン・ラドームスキイはエヴゲーニイの伯父だよ……」
「ははあ!」と公爵は叫んだ。「この人がけさ未明に……七時ごろにピストル自殺をしたんです。もう七十ぐらいで、人から尊敬を受けている老人だが、なかなかの享楽主義者でね。万事すっかりあの女のいうとおり、――官金費消、しかも莫大な額です!」 
「あれはまたどこから……」
「聞いたかって? は、は! だってきみ、あの女はこの町に姿を現わすと同時に、一小隊ぐらいの崇拝者を作ってしまったじゃありませんか。きみは知らないかもしらんが、じつにとんでもない人たちが、あの女の『知己たる光栄』を求めに訪ねて行くんだからなあ。だから、自然の道理として、さっきあの女はだれかペテルブルグから来た人に、なにか教えてもらったんですよ。なぜといって、あちらではもう町じゅうの人が知ってるし、このパーヴロフスグでも町の半分、いや、町ぜんたいが承知してるんだものな。だが、しかし話を聞いてみると、あの女が文官服のこと、――つまり、エヴゲーニイ君がうまい時を見計らって退職したって批評したのは、じつにうがってるじゃないか! なんという性《しょう》わるな当てこすりだ! いいや、なかなかどうして、これなんぞはけっしてきちがいのいえることじゃないよ。しかし、わたしだって、エヴゲーニイ君があらかじめこの騒動を知っていた、つまり、何月の何日午前七時なんていうことを知っていたとは、けっして信じたくない。けれども、あの人はすくなくとも、それを予感することはできたはずだからね。わたしは、いやわたしたちは、S公爵などといっしょに、カピトン・アレタセイチはあの人にいくらか遺産を渡すことになると、あてにしていたんだよ。恐ろしいこった! 恐ろしいこった!だがね、これだけはよく会得してくれたまえ、わたしはいかなる点においても、エヴゲーニイ君を責めはしない。これは取りあえずきみにいっとくがね、しかし、それにしても、やはり疑わしいて。S公爵はおそろしく転倒してしまってるよ。たんだかいろんなことがいっしょに落ちかかったようでね」
「ですが、エヴゲーニイ・パーヴルイチの行為のどこが疑わしいんですか?」
「何もないさ! あの人の挙動はじつにりっぱなものだ。わたしはなにもそんな意味でいったんじゃない。あの人自身の財産はきずつかずと思うよ。リザヴェータはむろん、そんなことを耳にも入れようとせんがね……が、なにより厄介なのは、家庭にいろんな騒動、というよりか、むしろいろんなごたごた……いや、もうなんといっていいか、名のつけようもないことが、つぎつぎ持ちあがるんでね……きみはまったくのところ、うち全体の親友だから、うち明けていうけれど、考えてもみてくれたまえ、もっとも、これは確かな話じゃないが、なんだかエヴゲーニイ君がひと月以上も前に、アグラーヤとじか談判をして、あれからきっぱりことわられたらしいんですよ」
「そんなことがあるもんですか!」と公爵は熱して叫んだ。
「だが、きみすこしはなにか知ってるだろう? いやね、きみ」と将軍は愕然とふるえあがりながら、釘づけにされたようにその場へ立ちどまった。「わたしはあるいは役にも立たんことを、無考えにきみにしゃべったかもしれないが、それというのも、きみが……きみが……そのまあ……そんなふうな人だからなんですよ。しかし、おおかたきみは、なにか、特別な事情を知ってるだろうね?」
「ぼくなにも知りません……エヴゲーニイ君のことは」公爵はへどもどしながら言った。
「わたしも知らないんだよ! わたしは……きみ、みなのものが寄ってたかって、めちゃめちゃにわたしを土の中に埋めて葬ってしまおうとしてる。そして、生きた人間にとってそんなことは苦しみだ、とても堪えうるものでないってことを、考えようともしないんだからね。たった今もひどい芝居を打ったが、じつに恐ろしい! わたしは親身の息子として、きみにこんなことも話すんだよ。なにより困ったのは、アグラーヤがおかあさんを嘲弄することなんだ。あの娘がひと月ばかり前に、エヴゲーニイ君の申し込みを拒絶したらしい、ふたりのあいだになにか交渉があったらしいということは、姉たちがちょっと謎といったふうの体裁で知らしてくれたのです……もっとも謎といっても、しっかりした謎だがね。しかし彼女《あれ》はじつにわがままで、しかも空想的な女でね、とてもお話にならんくらいですよ! 情や知の方面で、いろんなりっぱな資質とか寛大な心持ちとか、それらのものは持っているかもしれんが、にもかかわらずあの気まぐれ、冷笑-なんのことはない悪魔のような性質だ、おまけに空想が強いときてるんだからね。たった今も、おかあさんを面と向かって愚弄する。ねえさんたちもS公爵もむろん槍玉に上げるという始末です。わたしなんぞときたらいうまでもないことさ。あの娘がわたしを嘲弄するのは珍しくないからね。だが、わたしなんぞは平気だ、わたしはねきみ、あれがかわいい、あれがわたしを嘲弄するのが、かえってかわいいぐらいだ。そして、どうもあの子悪魔は、そのためにわたしを特別に好いておるらしい。請け合っておくが、あれはきみもなにかのことで嘲弄したに相違ない。わたしは今さき、あの二階で大騒ぎのあったあとで、きみと話してるところへ行き合わせたが、あれはまるでなんの気《け》もなかったように、けろりとして腰をかけておったね」
 公爵はおそろしく赤面して右手を握りしめたが、それでもやはり黙っていた。
「ねえ、きみ、公爵!」とつぜん将軍は感激したような、熱心な調子でいいだした。「わたしは……いや、わたしばかりじゃない、妻《さい》でさえも……(あれはまたこのごろ急にきみをもちゃげ出してね、おかげでわたしにまで風向きがいいのだ、しかしどうしたわけか見当がつかない)。そこで、わたしら夫婦はなんといっても、きみを真底から愛している、そしてどんなことがあろうとも、いや、つまり外見上どんなふうであろうとも、きみを尊敬しますよ。しかしね、きみ、察してもくれたまえ、まったく考えてもみてくれたまえ、あの落ちつき払った子悪魔が(だってじっさい、子悪魔じゃないかね。われわれが何をたずねたって、ばかにしきったような顔つきをして、おかあさんの前に棒立ちになってるんだから
なあ。ことにわたしのきくことなんか、てんで鼻のさきであしらうんだよ。それというのも、わたしが『おれは一家の長だからひとつ威厳を示してやれ』などというばかげた考えをおこしたからさ――いや、まったくばかなことをした)。ところで、あの子悪魔め、とつぜん冷笑の色を浮かべながら、こんなことをいうじゃないか、『あの気ちがい女は(あれもそういいましたよ、で、わたしはきみのいったことと符合してるのが、不思議でならない)、あの気ちがい女が、どうあろうとも、あたしをムイシュキン公爵と結婚させたい、などという考えをおこして、そのためにエヴゲーニイさんを家からいびり出そうとしてるのに、あなたがたはいったい気がつかないの?』……これを聞いたときの狐につままれたような気持ちといまいましさ、まあきみ、察してくれたまえ。ところが、あれはそういったきり、わけはひと口も説明しないで、ひとりできゃっきゃっ笑っておるじゃないか。われわれがあいた口もふさがらないうちに、戸をばたんと閉めて出て行ってしまった。そのあとで、さっきあれときみとの間におこった一件を聞いたもんだから……で……で……ね、いいかね、公爵、きみはそんな怒りっぽい人でもないし、分別もある人だから――いや、まったくきみにその資質があることは、わたしも認めている……しかし、……きみ、怒らないでくれたまえ、まったくのところ、娘はきみをばかにしてるよ。だが、ちょうど子供がふざけているようなもんだから、きみあれのことを怒ったりしちゃいけない。しかし、それはたしかにそうなんだ。なにもぎょうさんに考えないでくれたまえ――あれはただもう退屈まぎれに、きみだのわれわれだのをからかってるんだからね。じゃ、失敬! きみはわれわれの心情を知ってくれるだろうね? きみに対するわれわれのまごころをさ? それはもうどんなことがあっても、いかなる点においても、永久に変わることはないよ……ところで……わたしはこれからこっちのほうへ行かなきゃならん、さようなら! ほんとうに、こんないやな気持ちになることは、めったにないこった……もうこうなると別荘住まいもなあ!」
 四辻でひとり取り残された公爵は、あたりを見まわして、急ぎ足に通りを横切り、とある別荘のあかりのさした窓に近寄って、将軍との会話のあいだじゅう、しっかりと右手に握りしめていた小さな紙きれを広げ、弱々しい光をぬすむようにしながら読みはじめた。
『明朝七時、あたしは公園の緑色のベンチで、あなたをお待ちしています。ある重大な件について、あなたとお話ししようと決心しましたの。それはつまり、あなたに関係したことなんです。
『P・S・あなたはこの手紙をだれにもお見せにならないことと存じます。こんな注意をするのは心苦しいのですけど、あなたに対しては、そうするのが当然だと考えましたから、書き添えました――あなたのこっけいな性質に対して、羞恥の情に顔を赤らめながら。
『PP・SS・緑色のベンチというのは、さっきあたしがあなたにお教えした、あれのことですよ。ほんとうにはずかしいとお思いなさい! あたしはこれをも書き添えなければな
らないんですからね』
 手紙は大急ぎの走り書きで、たしかにアグラーヤが露台に出て来るすぐ前に、やっとどうやらこうやら畳んだものらしい。驚きに近い、ほとんどいいがたい惑乱を覚えつつ、公爵はふたたび手紙をかたく握りしめ、まるでおどしつけられた泥棒のように、あかりのさす窓際を飛びのいた。この動作とともに、すぐ自分の肩のところに立っていたひとりの男に、ばったり突き当たった。
「わが輩はあなたのあとをつけてるんですよ、公爵」とその男は言った。
「ああ、きみはケルレル君?」と公爵はびっくりして叫んだ。
「あなたをさがしてたんです。じつは、エパンチン家の別荘のそばで待ち受けてました。むろん、入るわけにゃ行きませんからなあ。あなたが将軍といっしょに歩いておいでなさるあいだ、あとからついておったのです。公爵、わが輩はあなたの御意のままです、どうぞケルレルに指図してください。もし必要があったら、喜んで犠牲になりましょう。いや、死んでもかまやせんです」
「だが……なぜですか?」
「でももう、たしかに申し込み状が来るに相違ないじゃありませんか。あのマラフツォフ中尉は――わが輩あの人をよく知っとりますが――といっても、個人的にじゃないです……あの人はけっして人から侮辱を受けて黙ってなんかいやせんです。われわれの仲間、というのは、わが輩やラゴージンなどは、あの男の目には、ごろつきぐらいにしか見えないんですから、それは当然かもしれませんがね、そんな具合で、しぜんあなたひとりが責任を負うようになるかもしれません。公爵、あなた酒代《さかて》を払わなきゃならんですよ。あの男があなたのことをたずねてたのは、わが輩も聞いていました。だから、もうあすにもあの男の友人が、あなたのところへやってくるでしょう、いや、もう現に来て待ってるかもしれんですよ。もしわが輩を介添人に選んでくださるならば、わが輩はあなたのために水火の中をも辞さんつもりです。そのためにわが輩はあなたをさがしたんです」
「そんなら、きみもやはり決闘のことをいってるんですか?」と公爵はふいに声高に笑いだした。ケルレルはすっかり面くらった。
 彼の笑いかたは非常なものであった。ケルレルは、介添人になりたいという自分の希望がもしいれられなかったらと、今まで針の上にすわったようにじりじりしていたので、いま公爵の度はずれに愉快らしい笑いようを見て、ほとんど侮辱を感じたほどである。
「ですが、公爵、あなたはさっきあの男の手をおつかまえになったでしょう。名誉ある紳士にとってそんなことは、しかも衆人環視の中では、とうてい忍びうるところでないです」
「だって、あの人はぼくの胸を突きとばしましたよ」と笑いながら公爵は叫んだ。「ぼくらはなにも喧嘩なぞすることはないのです! ぼくあの人におわびをします、それだけのこってす。もしどうしても喧嘩しろとならば、喧嘩もしましょう! 鉄砲の射ちっこもいいでしょう。ぼくもむしろ希望するところです。はは! ぼくはもうピストルの装填法を知ってますよ! ねえ、きみ、ぼくにピストルのつめかたを教えてくれた人があるんですよ! ケルレル君、きみピストルの装填法を知ってますか? まず最初にピストル用の火薬を買うんです。湿ってない、そして大砲に使う火薬のように荒くないのが要るんです。それから、さきに火薬を入れて、どこかの扉から毛氈を取って来て、さてその後はじめて弾をこめるんです。弾を火薬よりさきにこめちゃいけません。そうすると発射しないんですって。いいかね、ケルレル君、そうすると発射しないんですって。はは! まったくこれはりっぱな理由じゃありませんか、ケルレル君! おお、そうだ、ケルレル君、ぼくはいまきみを抱いて接吻しますよ。ははは!きみはどうしてあのとき、あの士官の前へ来たんです? きみ、大急ぎでぼくのところヘシャンパンを飲みにいらっしゃい。皆で酔い倒れるまで飲みましょう! じつはね、ぼくシャンパンの壜を十二本もってるんです、レーベジェフの穴蔵にあります。ぼくがあの人の家へ移って行ったらすぐあくる日――おととい、レーベジェフがなにかの『ついでに』売ってくれたんですよ。で、ぼくみんな買っちまいました! ぼくはありったけの人数を集めて騒ぐんだ! ときに、きみは今夜寝ますか?」
「むろん、いつもの夜と同じように寝ますよ、公爵」
「ははあ、それじゃ安らかにお休みなさい! はは!」
 公爵は、いくぶん面くらったらしいケルレルの思案顔を見捨てて、往来を横切り、公園の中に消えてしまった。ケルレルは公爵がこんな奇妙な気分になったのを、いままで見たこともなければ、また単に想像することさえできなかった。
『たぶん熱病だろう。もともと神経質の人だからな。それにいろいろなことがおこったので、からだにさわったんだ。しかし、けっしておじけがついたわけじゃない。あんなふうの連中はなかなかおじけなどつくこっちゃない、どうしてどうして!』とケルレルは心に思った。『ふむ、シャンパン――なかなかしゃれたご報告だわい。十二本、一ダースだな。結構、しっかりした予備隊だ。が、請け合ってもいい、このシャンパンはレーベジェフが、だれかから抵当に取ったものに相違ない。ふむ……! しかし、やつはなかなかかわいい男だ、あの公爵は。じっさいわが輩はあんなふうの男が好きだ。だが、いたずらに時を空費するには当たらんて……それにシャンパンがあるとすれば、これこそ本当の「時」というものだ……』
 公爵がまるで熱に浮かされていたというのは、もちろんほんとうであった。
 彼は長いこと暗い公園をさまよいまわったが、ついに、とある並木道を低徊している『自分を発見した』。例のベンチから、高く目立ちやすい一本の老木まで百歩ばかりのあいだ、もう三十度か四十度ぐらい、この並木道を行きつもどりつした記憶が、彼の意識の中に残っていた。この少なく見つもっても一時間のあいだに、彼が公園で考えたことを思い出すのは、とうてい、望んでもできないことであった。とはいえ、ある一つの考えに没頭している自分自身にふと気がついたとき、彼はとつぜん腹をかかえて笑いだした。その考えはかくべつ笑うようなことではなかっだけれど、彼はなんだかに無性に笑いたかったのである。彼はこんなことを考えてみた。決闘に関する想像は、単にケルレルの頭にのみ浮かびうることではなく、したがって、ピストルの装填法に関する説明も、あながち偶然ではない……『おや』と彼はまた急に別な想念に心を照らされて立ちどまった。『さっきぼくが隅っこのほうに腰かけていたとき、あのひとが露台へおりて来た。そしてぼくがいるのを見ておそろしくびっくりして、――そして急に笑いながら……茶のことなんか言いだしたっけ。だが、このときもうあのひとの手の中に手紙があったんだから、してみるとあのひとは、かならずぼくが露台にいることを知ってたに違いない。じゃ、ぜんたい、なんだってあんなにびっくりしたんだろう? ははは!』
 彼は手紙をポケットから取り出して、ちょっと接吻したが、すぐにそれもよして考えこんだ。
『じつに奇態だ! じつに奇態だ!』と彼は一種のわびしさを胸にいだきつつ、一分ほどたってこういった。強い感激を覚えた瞬間に、彼はいつもわびしい気持ちになり、自分でもなぜか知らないのであった。彼はじっとあたりを見まわして、いつの間にかこんなところへ来ているのに驚いた。へとへとに疲れていた。彼はベンチに近づいて、腰をおろした。なみなみならぬ静けさがあたりを領している。停車場の奏楽はもうやんでいた。公園にはもはやだれひとりいないらしい。もちろん十一時半より早いことはない。夜は静かで、暖かで、明るかった――六月はじめによくあるペテルブルグ付近の夜である。しかし、茂った本陰の多い公園の、彼が今歩いている並木道は、もうまったく暗かった。
 もしだれかがこの瞬間、彼に向かって、おまえは恋している、熱烈な恋をしているといったら、彼は驚いてそうした観念を否定するであろう、ことによったら、腹を立てるかもしれない。またもしだれかその男が、アグラーヤの手紙は恋文だ、あいびきの申し出だとつけ足したら、彼はその男に対する羞恥のために、顔から火が出るような思いをして、あるいはその男に決闘を申し込むかもしれない。が、それはまったく真剣である。彼は一度だって、そんな疑念をさし挟んだこともなければ、この令嬢が彼に恋するとか、あるいは彼がこの令嬢に恋するかもしれぬといったような、『二重人格的』な考えを許容したことがないのである。こんな考えがおこったら、彼は恥ずかしくてたまらなかったに相違ない。彼に対する、彼のような男に対する恋愛の可能性は、彼にとって奇怪事と思われた。もしこの場合、じっさいなにかあるとしたら、それは彼女のいたずらぐらいのものだ、と彼はこんなふうに考えた。しかし、彼自身としては、この考えに対して格別の注意も払わず、当たり前のことと思っていた。それよりもまったく別なことに彼は気を取られ、かつ心配していたのである。
 さきほど将軍が興奮のあまりちょっと口をすべらした言葉、すなわちアグラーヤが一同のもの、ことに公爵を嘲弄しているということは、彼も信じて疑わなかった。が、それで
も、彼はなんの侮辱をも感じなかった。彼にいわせれば、むしろそれが当然であった。ただ彼にとって肝要なことは、あすの朝早く彼女に会える、彼女といっしょに緑色のベンチに巫って、ピストルのつめかたを聞きながら、彼女をながめることができる、ただそれだけである。それ以外なにもいらない。また彼女が何を話すつもりなのか、直接自分の身に関する重大な事件とは何ごとか、――という疑問もやはり、一、二度彼の頭にひらめいた。しかし、わざわざ自身を呼び出そうというような『重大事件』が。はたして存在するかどうかという疑いは、ただの一分間も彼の胸にわかなかった。いな、むしろ彼は、ほとんどこの重大事件のことを考えなかった。そんなことを考えるべき衝動を、すこしも感じなかったのである。
 並木道の砂にきしむ静かな足音は、彼の頭を上げさした。闇の中に顔をはっきり見わけることのできなかったその男は、ペンチに近寄り、彼と並んで腰をかけた。公爵はすばやくそのほうへ身をよせ、ほとんどぴったりと寄り添うた。と、青白いラゴージンの顔が見わけられた。
「きっとどこかこのへんをうろついてるだろうと思ったよ。さがすのにあまり手間を取らなかった」ラゴージンは歯のあいだから言葉を押し出すようにつぶやいた。
 彼らがこうして落ち合ったのは、かの料理屋の廊下以来はじめてだった。思いがけないラゴージンの出現に驚かされで、公爵はしばらく自分の思想を集中することができなかった。そして、悩ましい感触が彼の心によみがえったのである。見受けたところ、ラゴージンは自分の公爵に与えた印象を、よく了解していたらしい。彼ははじめのあいだ、妙につじつまの合わぬことをいっていたが、やがてなんとなくわざとらしい、くだけた調子で話しだした。けれども、公爵はまもなく、相手の言葉にすこしもわざとらしいところはなく、またべつにたいしてまごついている様子もない、と思いかえした。もし彼の身ぶりや話しぶりに、なにか間の悪そうなところがあるとすれば、それはただうわべだけであった。内面的には、この男はけっしてなんとも変化するはずがないのである。
「どうしてきみ……ぼくがこんなところにいるのをさがし出したんだい?」と公爵はなにか口をきくためにそうきいてみた。
「ケルレルから聞いたんだ(おれはおめえのとこへ寄ってみたよ)。『公園へ行かれました』というから、ふん、そりゃそうだろうと考えたさ」
「何が『そうだろう』なんだね」と心配そうに公爵は、相手が何げなしにすべらした言葉じりをおさえた。
 ラゴージンはにやりと笑ったが、説明はしなかった。
「おれはおめえの手紙を受け取ったよ、公爵。おめえあんなこといったって、しようがないじゃないか……ほんとうにいい好奇《すき》だなあ!………ところで、いまおれはあれ[#「あれ」に傍点]のとこからやって来たんだが、ぜひおめえを呼んで来てくれっていうのさ。なにかどうしてもおめえに話さなくちゃならんことがあるそうだ。きょうにもすぐといってるんだがな」
「ぼくあす行くよ。きょうはもう、家へ帰らなくちゃならないから。きみ……ぼくのとこへ来る?」
「なんのために? おれはもういうだけのことをいっちまった。あばよ!」
「よらないで行くのかい、いったい?」と公爵は低い声でたずねた。
「奇態な人間だなあ、おめえは。まったく面くらっちまうぜ、公爵」
 ラゴージンは毒々しく薄笑いした。
「なぜ? いったいどういうわけで、いまきみはぼくにそう腹を立ててるんだね?」憂わしげに、しかも熱を帯びた訓子で公爵はさえぎった。「だって、きみの考えてたのがみんなうそだってことは、現に自分で悟ってるじゃないか。しかし、ぼくにたいするきみの憎しみが今まで消えずにいるということは、ぼく自身でも考えていた。それはなぜか知ってる? なぜというに、きみはかつてぼくの命を図ろうとした、そのためにきみの憎しみはまだ消えずにいるのだよ。が、ぼくは誓っていう。ぼくはあの日、十字架を交換して兄弟の誓いを立てた、あのパルフェン・ラゴージンひとりを覚えてるだけだ。ぼくはきみがこの悪い夢をすっかり忘れてしまって、今後けっしてその話をぼくにしかけないようにと思って、きのうの手紙にもそのことを書いておいたんだ。なんだってそんなにじりじりのくんだい? なんだって手をそんなに隠すんだい? くり返していうが、あのときのことはいっさい悪い夢だと思っている。ぼくはあの日いちんちのきみを、ぼく自身のことと同じようにそらで知ってる。きみの考えていたことは、けっして存在していなかったし、また存在するはずもないのだよ。いったいなんのためにわれわれの憎しみは存在するんだろう?」
「われわれのって、いったいおめえの憎しみがあるのかい!」公爵の思いがけない熱烈な言葉に対する答えとして、ラゴージンはまたもや笑いだした。
 彼はじっさい、公爵をよけるようにして、二、三歩隘れたところに立って、両手を隠していた。
「もう今となっちゃ、おれはどうしたっておめえんとこへ出入りするわけに行かねえ、公爵」と彼はゆっくりと重みをつけながら、こういい足して言葉を結んだ。
「それほどにぼくを憎などでもいうのかい?」
「おれはおめえを好かねえよ、公爵、だからおめえのとこへ出かけるわけもねえさ。おめえはまるで子供が玩具をほしがってるのと同じだよ、――是が非でもよこせ、というやつさ、ところが、ほんとうのことはなんにもわかっちゃいないんだ。おめえのいまいってるのも、手紙に書いてるのも一つことだ、おれはおめえを信じてるよ。おめえのいうことをひとことひとこと信じてる。そして、おめえが一度もおれをだまさなかったし、また今後もだましたりしないことを、ようく知ってるよ。が、それでもやはりおれはおめえを好かねえ。ところが、おめえはなにもかもすっかり忘れちまって――あのときおめえに匕首を振り上げたラゴージンを忘れちまって、ただ十字架の兄弟のラゴージンを覚えているばかりだって、こう手紙に書いてるだろう、だが、おめえどうしておれの心持ちがわかるかい?(ラゴージンはまたしてもにやりと笑った)。おれはあのことについちゃ、その後、一度も後悔したことがないかもしれんぜ。それだのにおめえは気早にも、兄弟としてゆるしの手紙をよこすなんて。ひょっとしたら、おれはあの晩まるっきり別なことを考えていて、あのことなぞは……」
「考えることさえ忘れたんだろう!」と公爵が受けた。「そりゃそうとも! ぼく、請け合っていうが、きみはあのときすぐに汽車に乗って、このパーヴロフスクヘやって来て、ちょうど今晩と同じように、音楽場の人ごみの中であれをつけまわし、見張ってたんだろう。そんなことをいったって、びっくりしやしないよ! あのとききみがあんなふうに、たった一つのこと以外、何も考えることのできないような状態に落ちてなかったら、たぶんぼくに匕首を振りかざすこともなかったろうになあ。ぼくはあの日、朝からきみを見てるうちに、そんなふうの予感をいだかされたよ。きみにはわかるまいが、あの時のきみの様子はどうだったろう? 十字架を交換したときにも、そうした考えがぼくの心に動いたよ。いったいきみはなぜぼくをおっかさんのところへ連れて行ったんだい? あれでもって自分の手をおさえようと思ったんだろう? いや、しかしきみがそんなことを考えるなんて、ありうべからざるこった。たぶんぼくと同様にただそう感じたんだね……ぼくたちはあのときと同じことを感じていたからね。もしきみがあのとき、ぼくに手を上げなかったら(もっとも、その手は神さまが引きのけてくだすったが)、ぼくは
いまきみに対してどんな位置に立つだろう? だって、ぼくはどっちにしても、きみにこの嫌疑をかけたんだから、罪はふたりとも同一だ。つまりそうなるんだよ!(まあ、そんなに顔をしかめるのをよしたまえ? え、なんだってきみは、そんなに笑うんだね?)『後悔しなかった!』って? そりゃそうだろう。たとえしたいと思っても、おそらく後悔することができなかったろう。なぜって、きみはおまけにぼくを好いていないんだものね。それに、あれがぼくを愛して、きみを愛してないという考えを棄てないかぎり、たとえぼくが天使のごとく無垢な身であったにしろ、きみはぼくがいやでたまらないだろう。つまりは嫉妬なんだよ。しかし、ぼくはついこの週になって、こんなことを考えついたから、きみに話してみよう。ねえ、パルフェン、あれはいまきみをだれよりも、いちばん余計に愛しているのかもしれないよ。で、愛すれば愛するだけ、いっそう、きみを苦しめるんだ。あれはそんなことをきみにいいやしないから、それを洞察しなくちゃいけない。なんのために、とどのつまりはきみと結婚するのかってことは、やがてあれがきみ自身にいうだろう。ある種の女はこんなふうに愛されるのを好くもので、あれはまさにそうした性格たんだよ! またきみの性格ときみの愛は、かならずあれを勁かさずにはおかない! きみは知らないかもしれんが、女ってものは惨忍な行為と冷笑で男を苦しめて、それですこしも良心の呵責を受けずにいられるんだよ。そのわけは、いつも男を見ながら心の中で、『今こそわたしは、この人を死ぬほど苦しめているけれど、そのかわりあとで愛を

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP289-336

あ、思ったとおりだ。今になってぼくの推察の正しかったことが、やっとこの目に見えて来た」公爵は相手の興奮を静めようと熱中して諄々と説いたが、かえってそれが興奮をかき立てるばかりなのに気づかなかった。
「なんですって? 何が見えて来たんです?」と人々はかみつかんばかりの勢いで、彼のほうへ詰め寄った。
「まあ、待ってください。第一に、ぼくは自分でよくブルドーフスキイ君の人物を観察したのです。もう今こそばくは同君の人となりがはっきりとわかりました……同君は無邪気な人ですが、いつも人にだまされてばかりいます! それに、ブルドーフスキイ君は寄るべのない身の上です……だからぼくは同君を許さねばなりません。ところで、第二に、ガヴリーラさんが、――この事件はガヴリーラさんに委任しておいたんですが、ぼくはしじゅう旅行してたうえに、ペテルブルグで三日ほど病気したので、だいぶ前から報告に接しなかったんですが、――いま一時間ばかり前に、思いもかけずガヴリーラさんが、ぼくの顔を見るとすぐ、自分はチェバーロフの奸計をすっかり見破った、それには歴とした証拠がある、と知らせてくだすったのです。聞いてみると、チェバーロフは甘くの想像したとおりの人でした。みんながぼくのことを白痴だといっているのは、ぼくは自分でようっく承知しています。で、ぼくが気軽に金をやるといううわさを聞きかじったチェバーロフは、ぼくをだますのはわけのないことだ、それに故人パヴリーシチェフ氏に対するぼくの感謝の情を利用することもできる、とこんなふうに考えたんです。しかし、これは余談です、――まあ、皆さんしまいまで聞いてください、しまいまで――じつはいま思いがけなく、ブルドーフスキイ君がけっしてパヴリーシチェフ氏の息子さんでないことがわかったのです! たった今ガヴリーラさんがぼくにそういって、確かな証拠が手に入ったと断言されました。皆さん、いったいなんとお思いです。今までいったりしなすったことに対しても、まったくほんとにはできないじゃありませんか! え、確かな証拠があるんだそうですよ! ぼくはまだほんとうになりません、自分でもほんとうになりません、まったくです。ガヴリーラ君はまだ詳しいことをすっかり話されませんから、ぼくもいくぶんうたがっています。けれど、チェバーロフがいかもの師なのは、もはや疑いの余地がありません。この男は、気の毒なブルドーフスキイ君も、こうして友達を助けに堂々とおいでになった皆さんも(じっさい、ブルドーフスキイ君はいまだれかの扶助を要するからだです、それはよくぼくにもわかります!)すっかり口先で丸めこんで、こんな詐欺的行為にまきこんでしまったのです。だって、じっさいこれは奸計じゃありませんか、詐欺じゃありませんか!」
「なぜ詐欺です!………なぜ『パヴリーシチェフ氏の息子』でないんです!………どうしてそんなわけがあります」と口々に叫びだした。
 ブルドーフスキイの一行は名状しがたい惑乱におちいった。「ええ、もちろん詐欺です! だって、もし今ブルドーフスキイ君が『パヴリーシチェフ氏の息子』さんでないことがわかったら、この場合、同君の要求は明白な詐欺的行為じゃありませんか。(ただし、これはむろん同君がほんとうの事情を知ってると仮定してですよ!)しかし、そこがかんじんなとこで、つまりブルドーフスキイ君はだまされたんです。だから、ぼくもこうして同君の弁護をしようとあせってるのです。同君の正直な性質は同情に価します。同君は扶助なしにやっていけないというのは、ここのことです。こう解釈しなかったらブルドーフスキイ君はこの事件でかたりになってしまいます。だから、ぼくは同君が何も知らないのだと、とっくから確信しています! ぼくもやはりスイスへ行くまでは、あれと同じような状態でした。あんなふうに取りとめのない言葉をどもりどもり話したり、なんかいおうと思ってもいえなかったり……そうしたふうの心持ちはよくわかります。ぼくはたいへん同情します、なぜって、ぼく自身ほとんどああいうふうだったんですから、こういう口をきく権利を持ってるんです。しかし、ぼくはやはり、――すでに『パヴリーシチェフ氏の息子』なるものもなく、このいっさいの事件がごまかしだとわかったにもかかわらず、ぼくは依然決心を変えないで、パヴリーシチェフ氏に対する記念として、一万ルーブリを返済するつもりです。ぼくはこの事件のもちあがるまで、パヴリーシチェフ氏の記念に一万ルーブリの金を学校事業に使用するつもりだったのですが、今となっては学校事業に費やすのも、ブルドーフスキイ君にお返しするのも、道理において違いはありません。じっさいブルドーフスキイ君は、たとえ『パヴリーシチェフ氏の息子』さんでなくとも、ほとんどそれと同じようなものです。なぜなら、同君自身もむごたらしく欺かれた人だからです。同君は真底から自分をパヴリーシチェフ氏の息子だと思っていられたんです! 皆さん、これからガヴリーラ君の話を聞いてください、そして、この事件をおしまいにしましょう。立皈なすっちゃいけません、そう、激昂なさるもんじゃありません、まあ、すわってください! ガヴリーラさんが今すぐに委細説明してくださいます。じつのところ、ぼくもたいへん一部始終の話を聞きたいんです。それでね、ブルドーフスキイ君、ガヴリーラさんはわざわざプスコフヘきみのおかあさんに会いに行かれたんですが、きみが心にもなくあの記事に書かれたように、おかあさんはけっして死ぬような病気などにかかっちゃいられないそうですよ……吻ゝ、皆さん、すわってください、すわってください!」
 公爵は腰をおろし、またしても席から飛びあがろうとするブルドーフスキイの連中を、やっとのことでもとの座に着かした。終わりの十分か二十分のあいだ、彼はまるで夢中になってしまって、ほかの人たちを圧倒しようとでもするような大きな声で、早口にじれったそうにしゃべったが、もちろん今では、不用意に口をすべらした二、三の言葉や臆測を、おそろしく後悔しなければならなかった。熱中して相手をかっとさせなかったら、もし彼があれほどまで露骨に性急にああした当て推量や、いわでもの無遠慮な言頻を、口に出すはずではなかったのだ。席につくやいなや、焼けつくような悔悟の念が痛いほど彼の胸を刺した。自分がスイスで治療してもらったと同じ病気を明からさまに擬して、ブルドーフスキイを侮辱した罪はしばらくおいても、――なおそのほか学校事業に使用するはずの一万ルーブリを提供したそのやり口が、どうもあまりに粗暴で不用意で、まるで贈り物のようになってしまったようだ。おまけに、多くの人の前で大声にしゃべってしまったではないか!『あすまで待ってふたりきりのときにいいだすべきところだった』と公爵はとっさの間に考えついた。『しかし、もうおそらくだめだろう! ほんとうにおれはばかだ、正札つきのばか者だ!』おそろしい羞恥と悲痛の発作にうたれて、彼は心の中でこう決めた。
 とかくしているうちに、今までわきのほうに控えて、かたくなに沈黙を守っていたガーニャが、公爵の招きに応じて歩み出た。彼のかたわらに立ちどまると、公爵から依頼された事件に関する報告を、静かにはっきりと述べにかかった。騒がしかった話し声はとたんに消えてしまった。一同、特にブルドーフスキイの連中は、なみなみならぬ好奇心をもって耳を傾けたのである。

      9

「きみはもちろん」とガーニャはいきなりブルドーフスキイに向かってきり出した。ブルドーフスキイはびっくりし、目を丸くして、彼を見つめながら、いっしょうけんめいそのいうことに耳を傾けていたが、ひどく狼狽しているさまはありありと読まれた。「きみはもちろん次の事実を否定なさらんでしょうね。いや、むしろ否定するのをいさぎよしとなさらんでしょうね。というのは、ほかでもないですが、きみのおかあさんが八等官ブルドーフスキイ氏すなわちきみのおとうさんと正式の結婚をなすってから、ちょうど二年たったのちにきみが生まれ落ちたという事実です。きみの生年月日を実際的に証明するのは簡単なことですから、あのきみにとっても、またきみのおかあさんにとっても非常な侮辱に当たる新聞記事中の勝手な事実改変は、単にケルレル君一個の空想が、あまりわるふざけにおちいったためとでもしなければ、説明のしようがありません。同君はそうすることによって、なおいっそうきみの権利を明瞭ならしめ、きみの利益を増すことができると考えたのでしょう。ケルレル君の説によれば、同君はあらかじめこの記事をきみに読んで聞かしたが、それも全部ではなかったとのことでした……してみると、疑いもなく、同君の読んで聞かされたのは、この辺にまで及ばなかったに相違ありません……」
「まったく及ばなかったんです」と拳闘の先生がさえぎった。「しかし、事実の全部はある確かな人がわが輩に伝えてくれたんですよ。で、わが輩は……」
「ケルレル君、失礼ですが」とガーニャは押しとどめた。「ぼくに言わしてください。大丈夫、いまにきみの文章にも及びますから、そのとき説明してください。今は順序を追って報告をつづけたほうがいいでしょう。まったく偶然のことからして、妹のヴァルヴァーラ・プチーツィナの助力で、わたしは故人パヴリーシチェフ氏の手紙を手に入れました。それは二十四年前、故人が外国からヴェーラーアレクセエヴナーズブコーヴァという、妹といたって仲のよい未亡人の地主にあてたものです。ズブコーヴァさんと近づきになってから、わたしはこの人に教えられて、退職大佐のチモフェーイ・ヴャーゾフキンという、故人とは遠縁に当たるうえに、一時莫逆の友たった人のところへ出かけました。この人のおかげで、同じく外国からよこしたパヴリーシチェフ氏の手紙が、二通手に入りました。この三通の手紙、その日付、その中に書いてある事実によって、パヴリーシチェフ氏がブルドーフスキイ君の誕生一年半以前に外国へ向けて出発し、そのままずっと三年間滞在したことが、数学的に証明されます。これはけっして否定はおろか、疑念をさし挟むことさえできぬ確かな事実です。ブルドーフスキイ君、ご承知のとおり、きみのおかあさんは一度もロシヤから外へ出られたことはありません。たださしあたり、わたしはこの手紙を読むのはやめておきます。もうだいぶ遅いですから、とにかく、わたしは事実だけを発表したのです。もしお望みなら、あすの朝でもお目にかかりますから、いくたりでもよろしいから立会人なり、筆蹟鑑定の専門家なりお連れなすってください。ただわたしのいま報告したことが明々白々たる真実であることを、確信なさらぬわけに行かないのは、疑うまでもありません。もしそうだとすれば、もちろんこの事件はこれで瓦解して、自然消滅になったわけです」 ふたたび一座はざわめき立って、深い動揺がこれにつづいた。本人のブルドーフスキイはっと立ちあがりいすを離れた。
「もしそうだとすれば、ぼくはだまされたんだ、だまされたんです。けれど、それもチェバーロフにだまされたのじゃなくって、ずっとずっと以前からです。専門家も面会もいやです。ぼくはあなたを信用するからいっさい断念します……一万ルーブリもごめんこうむります……さようなら……」
 彼は帽子を取ると、いすを押しのけて出て行こうとした。
「ブルドーフスキイ君、もしおさしつかえがなかったら」とガーニャは静かにもの柔らかく呼びとめた。「たった五分間でよろしいからお待ちを願います。この事件に関連してなかなか重大な、しかもきみにとっていずれにしても非常に興味ある事実が、二つ三つ出て来たのです。わたしの考えでは、きみもぜひそれを知っておかぬわけにいきますまい。それに、きみだって、事件がすっかり明白になったら、きっと愉快に相違ないと思います……」
 ブルドーフスキイは深くもの思いに沈んだ様子で、やや頭《こうべ》を垂れたまま黙って席に着いた。レーベジェフの甥もいっしょに出ようとして立ちあがったが、これもブルドーフスキイにつづいて元の座に直った。この男はまだなかなかとほうにくれるなどということはないが、それでもずいぶん俗気を抜かれた様子である。イッポリートは眉をひそめて、浮かぬ顔をしていたが、これもかなりびっくりしたらしい。けれども、ちょうどその瞬間に彼は激しくせき入って、自分のハンカチを血ですっかりよごしてしまった。拳闘の先生は仰天せんばかりであった。
「そら見ろ、ブルドーフスキイ!」と彼はいまいましげに叫んだ、「だからあのとき……おとといわが輩がいったじゃないか。ひょっとしたら、貴公はほんとうにパヴリーシチェフの息子じゃないかもしれんぞって!」
 このとき、おしこらえたような笑い声がおこったが、中に二、三人、ひときわ高い声で吹きだしたものがある。
「ケルレル君、きみの今いわれた事実は」とガーリャはすかさず取っておさえた。「なかなか値うちのあるものでしたよ。が、とにかく、わたしはきわめて正確な材料をもととして、りっぱにこういいきることができます。ブルドーフスキイ君は自分の生年月日をようくわかっていられたのだけれど、パヴリーシチェフ氏がそのころ外国へ行ってたことはごぞんじなかったのです。故人は生涯の大半を外国に過ごして、ただわずかのあいだだけしかロシヤヘ帰られなかったそうです。そのうえ当時の旅行は、特に二十年以上も経った今日まで記憶しておくほど、いちじるしい特殊な事実でもなかったので、パヴリーシチェフ氏とごくごく親しかった人たちでさえ、うろ覚えなくらいですから、まして当時生まれてもいなかったブルドーフスキイ君はなおさらです。もちろん、調査するのは不可能なことでもありません。しかし、白状しますが、わたしの手に入れた資料は、じつに偶然なことで発見したので、あるいは手に入らないほうが勝ちだったかもしれません。こんなわけですから、ブルドーフスキイ君のみならず、たとえチェバーロフがこの資料を手に入れようと考えたにしろ、それは絶対に不可能だったでしょう。もっとも、そんなことを考えもされなかったかもしれませんがね……」
「失礼ですが、イヴォルギンさん」ふいにイッポリートがいらいらした調子でさえぎった。「いったいなんのためにそんなくだらんことばかりおっしゃるんです(いいすぎたらごめんなさい)。事件はもう明白になって、だいたいのお説はぼくらも信じているのに、なんだってそんな重っ苦しい失礼な無駄口を、だらだら引き延ばそうとなさるんです! おおかたあなたは自分の探偵の手際を自慢なさりたいんでしょう。おれはりっぱな検事だろう、刑事だろうといって、ぼくらや公爵の前でひけらかしたいんでしょう。それともあるいは、ブルドーフスキイがこの事件に関連したのは、何も知らなかったせいだといって、彼のために弁護や謝罪の役目を引き受けてやろうというおつもりなんですか? しかし、それはあまり生意気ですよ、あなた! ブルドーフスキイがあなたの弁護や謝罪など求めていないのは、とっくにご承知のことだと思っていました! それでなくってさえ、ブルドーフスキイはくやしがってるんですよ、いま苦しい間の悪い位置にあるんですよ、あなたはそれを察して、了解してやるのがほんとうじゃありませんか……」
「たくさんですよ、イッポリート君、たくさんですよ」とガーニャはやっとすきを見て、口を入れた。「まあ気を落ちつけなさい、かんしゃくをおこしちゃいけません、きみはたいそう具合が悪いそうじゃありませんか。まったく同情しますよ。で、そういうわけなら、わたしもこれでおしまいにしましょう。つまり、わたしの信ずるところでは、皆さんが十分ご承知になったって、けっして無益ではなかろうと思う二、三の事実を、ごくてっとり早く報告することにしましょう」一座の人々が皆じれったいといったふうに、いくぶんざわざわしはじめたのを見て取って、彼はこういい足した。「わたしはこの事件に興味をいだいていらっしゃる皆さんに、次の事実を証拠に挙げてお知らせしたいと思います。そこで、ブルドーフスキイ君、きみのおかあさんがパヴリーシチェフ氏にいろいろ世話を見てもらったわけは、ほかじゃありません。おかあさんのねえさんというのが、パヴリーシチェフ氏のごく若い時分に恋した小間使だったからです。パヴリーシチェフ氏は、なんであろうとも、ぜひその娘と結婚するつもりでいたところ、そのひとは急病のためにわかになくなったのです。わたしは確かな証拠を握っていますが、この正確で誤りのない家庭内のできごとは、知る人もきわめて少なく、むしろぜんぜんわすれられていたのです。それからのちの経過をお話ししますと、きみのおかあさんは十ばかりの子供の時分、親に代わってパヴリーシチェフ氏に引き取られて養育され、莫大な持参金を分けてもらったりしたので、これが多くの親戚のあいだにたいへんやかましい取り沙汰の種をまいたそうです。中には同氏が自分の養女と結婚するのではないか、などと考えるものさえありました。ところが、とどのつまり、おかあさんは自分の望みで(これも精確無比の方法で証明することができます)、登記所官吏のブルドーフスキイ氏のところへ、二十歳の年にお嫁入りしたのです。ここにわたしはきみのおとうさんの人となりを説明するために、若干の正確な事実を収集しておきましたが、おとうさんはきわめて非事務的な方で、一万五千ルーブリというおかあさんの持参金を受け取ると同時に、官を辞して商売に于を出したが、人にだまされてすっかり資本《もと》をすってしまった、その失望に堪えきれないで酒をはじめ、それがために病気して、とうとう結婚してからわずか八年目に若死にしてしまわれました。それから、きみのおかあさんから親しく聞いたところによると、おかあさんはその後、赤貧洗うがごとき境遇におちいって、パヴリーシチェフ氏の寛大な扶助がなかったら、とっくに死んでしまわれたかもしれなかったそうです。氏は毎年六百ルーブリまでの手当てを欠かさずに送られたのです。また無数の事実の証明するところによると、氏は当時まだほんの赤ん坊であったきみを、非常にかわいがられたということです。これらの事実や、またしてもおかあさんを引き合いに出すようですが、おかあさんのお言葉などを総合してみると、氏がきみをかわいがったのは、主としてきみが幼年時代にどもりか、不具者か、なんでもそんなふうの哀れな、不仕合わせな子供といったような塩梅だったからに相違ありません(ところで、ちょっとついでにいっておきますが、パヴリーシチェフ氏はすべて造化の神にしいたげられ、辱しめられた人、ことに子供に対して、生涯ある種の優しい同情をいだいていたのは、正確な証拠によって探りえたところです。これは今度の事件にとってきわめて重要な事実であると信じます)。それから最後に、いま一つ重大な事実について、精密な調査を遂げたのを誇ってもいいと思います。この、きみに対するパヴリーシチェフ氏のなみなみならぬ親切は(氏の尽力できみは中学へ入って、特別な保護のもとに勉強することができたのです)、ついにだんだんと親戚や奉公人のあいだに、一種の疑惑を呼びおこしたのです。すなわちきみはパヴリーシチェフ氏の息子さんで、きみのおとうさんは氏のためにうまうまとだまされたのじゃないか、と疑いだしたんです。大事なことですが、この疑惑がかたく根深いものとなってしまったのは、パヴリーシチェフ氏の晩年のころで、遺言がどうなるかと皆びくびくしていたときのことです。この時分には最初の事情などすっかり忘れていたうえに、それを調べてみることもできなかったのです。ブルドーフスキイ君、疑いもなくこのうわさがきみの耳にも入って、きみの全心を支配しつくしたに相違ありません。わたしはきみのおかあさんにお目にかかりましたが、おかあさんはそのうわさを知っていられたけれども、きみがそんなうわさに迷わされていようとは、今まで夢にもごぞんじないのです(わたしもうち明けずにおきました)。ブルドーフスキイ君、わたしがきみのおかあさんにプスコフでお目にかかったとき、おかあさんは病苦と極度の貧困に悩まされておいででした。パヴリーシチェフ氏の死後そうなったのです。おかあさんはありがた涙に暮れながら、今はただきみの助力のおかげで、その日を過ごしている、そしてきみの将来に多大の望みをかけているとのことでした。おかあさんは熱烈にきみの未来の成功を信じていらっしゃるのです……」
「もういよいよがまんができない!」とレーベジェフの甥がじれったそうに、いきなり大きな声でいいだした。「そんな小説めいたお話が何になるんですかい?」
「陋劣だ、無礼きわまる!」とイッポリートは激しく身悶えした。
 けれど、ブルドーフスキイはなんにもいわず、身じろぎすらしなかった。
「何になるかですって? なぜですって?」自分の結論を述べようと皮肉に心構えしながら、ガーニャはわざとずるく出て驚いたような顔をした。「第一にブルドーフスキイ君も今となってみると、パヴリーシチェフ氏が自分をかわいがってくれたのは博愛心のためで、けっしてわが子として愛したのではないということを、おそらく根本的に承認なすったでしょう。ブルドーフスキイ君は、ケルレル君があの記事を読んで聞かしたとき、それを保証し賛成なすったのですから、この一事を知るだけでも、同君にとって必要なことだったのです。わたしがこういうのも、つまり、きみを高尚な人と考えるからなんですよ、ブルドーフスキイ君。第二に、この事件についてはチェパーロフさえも、ゆすりかたりの気は微塵も持っていなかった、ということがわかりました。これはわたしのほうからいっても、はなはだ肝要な点なのです。そのわけはさっき公爵が激昂のあまり、わたしまでがこの不幸な事件の詐欺的性質について、公爵と同意見であるように言われたからです。いや、それどころか、この事件は四方八方ことごとく、しっかりした確信でもって固まってるのです。あのチェパーロフにしても、あるいはじっさい大山師かもしれませんが、この事件においては単にごまかし屋、へぼ公事師、三百代言というだけのものです。彼はただ弁護人として大もうけをしようと思ったまでで、その目算は精緻で巧妙だったのみならず、また大いに正確なものであったのです。彼は公爵がやすやすと金を人に渡される事実や、公爵の故パヴリーシチェフ氏に対する感激と尊敬の情や、すでに世間へ知れわたった、名誉、良心の義務に関する公爵の古武士的な見解(これがもっとも大切なのです)、こういうものを基礎として出発したのです。さてブルドーフスキイ君自身にいたっては、むしろこういうことさえできると思います。同君はかねがね抱懐しておられた信念のために、チェバーロフや取り巻きの人たちにそそのかされて、利害問題というよりも、真理、進歩、人類に対する務めとして、今度の事件を始められたものと思います。もうこれだけの事実を報告したら、ブルドーフスキイ君が、よしや外面の現われはどうあろうとも、清浄潔白なかたであるということは、皆さんも合点なすったに相違ありますまい。そして、また公爵も以前よりいっそうすすんでこころよく親友としての助力、ならびにさっき学校とかパヴリーシチェフ氏とかの説が出たときにおっしゃったような、実際的の扶助をも与えられることと信じます」
「よしてください。ガヴリーラさん、よしてください!」と公爵はすっかり面くらって叫んだが、しかしもう遅かった。
「ぼくはもうさっきから三度もいったじゃありませんか」とブルドーフスキイはいらだたしげにわめいた。「ぼく、金なんぞいりません。受け取りゃしません……なんのために……いやだ……けがらわしい!」
 彼は今にも露台からかけおりようとした。するとレーベジェフの甥がその手をつかまえて、なにやら耳打ちした。で、彼はいきなり取って返して、ポケットから封のしてない大形の封筒を引き出すと、そのまま公爵のそばのテーブルへほうりつけた。
「さあ、金を返します!………あなたはよくも図々しく……図図しく!……金なんか!」 「二百五十ルーブリです、あなたが失礼にも贈り物という名義で、チェバーロフの手からよこしなすった……」とドクトレンコが説明した。
「あの新聞には五十ルーブリとしてあったのに!」とコーリャが叫んだ。
「ぼくが悪かったです!」公爵はブルドーフスキイに近寄りながらいった。「ブルドーフスキイ君、ぼくはきみに対してじつに済まないことをしました。けれど、あの金は贈り物としてさしあげたわけじゃありません、まったくです。ぼくは今も済まないことをいいました……先刻も済まないことをいいました(公爵は胸のうちが千々にかき乱れて、疲れきった弱弱しい様子をしていた。それに、いうことも、いっこうとりとめがなかった)。ぼくはかたりっていいましたが……あれはきみのことじゃありません、思い違いでした。それからぼくは、きみが……ぼくと同じような病人だといいました。しかし、きみはぼくなどと同じじゃありません、きみは……家庭教師をしておかあさんを養っていられますもの。ぼくはきみがおかあさんの顔に泥を塗ったといいましたが、きみはおかあさんを愛していられます。おかあさんが自分からそうおっしゃったんですもの……ぼく、知らなかったんです……先刻ガヴリーラさんがしまいまで話してくださらなかったので……ほんとうに悪かったです。またぼくは大胆にも、きみに一万ルーブリを提供するなどと申し出ましたが……あれはあんな具合にすべきものじゃなかったが、今となっては……だめだ。きみはぼくをばかにしていられるんだから……」
「ほんとにここは瘋癲病院だ!」とリザヴェータ夫人が叫んだ。
「ええ、もちろん気ちがい病院だわ!」とたまりかねてアグラーヤが言葉するどく言った。
 しかし、この言葉は人々の騒々しい声にまぎれて聞こえなかった。一同は声高に話したり、批評めいたことをいったりして、中には争論するものも、笑いだすものもあった。憤懣の頂上に達したエパンチン将軍は、おのれの威厳を傷つけられたような顔をして、リザヴェータ夫人を待っていた。レーベジェフの甥は捨てぜりふのように。
「ねえ、公爵、あなたはやはり偉いかただ。あなたはどこまでもご自分の……その、病気(まあ、遠慮してこういっときましょうよ)を利用することをごぞんじですよ。あなたの友誼を求めたり、金を提供したりなさるやり口があまりうまいもんだから、高潔な人はどうしたってそいつを受け取るわけには行かないじゃありませんか。つまり、べらぼうに無邪気なのか、それとも図抜けてうまいのか、どちらかでさあ……もっとも、あなたはどっちだがよくおわかりでしょうがね」
「ちょいと、皆さん」とかくしている暇に金包みをあけて見たガーニャは、いきなりこう叫んだ。「この中には二百五十ルーブリなんてありゃしない。いっさいでたった百ルーブリつきゃありません。いや、わたしはね、公爵、なにか間違いでもおこってはと思ったもんですから」
「うっちゃってください、うっちゃっといてください」と公爵はガーニャに向かって両手を振った。
「いや、『うっちゃってください』なんて法はありません!」とレーベジェフの甥は、すぐに食ってかかった。「わっしたちはあなたの『うっちゃってください』がしゃくにさわるんですよ、公爵。わっしたちあけっして逃げ隠れなんざあしませんからね。なにもかもあけっぱなしに申しますよ。まったくのところ、その中には百ルーブリっきりで、二百五十ルーブリじゃありません。だが、どっちにしても、つまり回じことじゃありませんか……」
「で……でも同じことじゃありませんよ」と、いかにも子供らしい腑に落ちない顔つきをして、ガーニャはすかさず言葉をはさんだ。
「まあ、話の腰を折らないでくださいな。わっしたちはあなたの高をくくってらっしゃるほどばかじゃありませんからね、弁護士さん」とレーベジェフの甥が毒々しくどなった。「もちろん、百ルーブリは二百五十ルーブリでもなければ、同じことでもありませんや。しかし、大切なのは主張ですよ、このさいただ主旨が大切なんで、百五十ルーブリ足りないのは些細なこってさあ。つまり大切なのは、ブルドーフスキイがあなたの贈り物を受け取らないで、あなたの顔へたたきつけたということで、この意味から見れば、百ルーブリも二百五十ルーブリも同じこってさあ。ブルドーフスキイが一万ルーブリを受け取らなかったのは、あなたもごらんなすったでしょう。もし卑劣な男だったら、この百ルーブリも持って来なかったでしょうよ。百五十ルーブリという金は、チェバーロフが公爵のところへ出向いて行った、その費用に要ったんです。あなたがたがわっしたちの無器用さかげんや、事務を運ぶ手並みのへまさかげんをお笑いになさるのは結構です。そうでなくってさえ、あなたがたはいっしょうけんめいにわっしたちをこっけいなものにしてやろうと苦心していなさるんだから。しかし、わっしたちを不正直だなどとはいわしませんぜ。あの百五十ルーブリの金はね、あなた、わっしたちが共同で公爵に返済します。よしんば一ルーブリずつであろうとも、かならず返します、利息をつけて返しまさあ。ブルドーフスキイは貧乏で何百万という金はなし、それにチェバーロフは旅行から帰ると勘定書を突きつける……わっしたちは勝訴したらと思ったんだが……だれだってあの男の身になったら、ほかにしようがあるもんですか」
「だれとはなんのこってす?」とS公爵は叫んだ。
「わたしは気がちがいそうだ!」リザヴェータ夫人がふいにこう叫んだ。
「これはまるで」と、今まで長いあいだじっと立ったまま傍観していたエヴゲーニイが笑いだした。「このあいだから評判のある弁護士の弁論みたいだ。その弁護士はね、強盗の目的で一度に六人の人を殺した被告の弁護をするために、被告の貧困状態を陳述してるうち、ふいとこんなふうのことを結論したんだそうです。『わが輩の被告が貧窮に責められて、この六人殺しを思いついたのは、きわめて無理からぬことであります。だれであろうとも被告の地位におかれたならば、こういうことを思いつかぬわけにいかなかったでしょう』って、まあこんなふうにいったそうですが、とにかく、ひどく愛嬌のある話ですね」
「たくさんです」腹立たしさにからだをふるわせないばかりのリザヴェータ夫人が、いきなりいいだした。「もういいかげんに、こんなわけのわからないお話の片をつけていい時分でしょう!」
 夫人はじっさいおそろしいほど興奮していた。ものすごく見えるまでに首をうしろへそらせながら、傲慢な、いらだたしげな、いどむような態度で、ぎらぎらと燃えるような視線を一座の人々に浴びせかけたが、このとき彼女はどれが敵やら味方やら、ほとんど見わけがつかなかったらしい。それは倨傲《きょごう》な争闘の要求、一刻も早くだれかに飛びかかってやりたいという要求が、矢も楯もたまらぬほど激しくなったとき、長く堰き止められていた怒りが堤を決してあふれ出る、そういったふうのクライマックスに達した心持ちであった。リザヴェータ夫人を知っている人々は、夫人の心内になにか特殊なあるものが生じたことを直覚した。イヴァン将軍は翌日S公爵に向かって、『あれはよくあんなふうになることがあるんですがね、きのうみたいに猛烈なのは少ない。まあ、三年に一度くらい、それより多いことはけっしてない! けっしてそれより多くはない』ときっぱり断言したくらいである。
「たくさんですよ、あなた、うっちゃっといてください!」とリザヴェータ夫人は将軍に向かって叫んだ。「なんだってそんなに、わたしのほうへ手を突き出してらっしゃるんです? あなたはさっきわたしを連れ出すことができなかったじゃありませんか。あなたはわたしの夫で、一家の頭ですもの、わたしがあなたのいうことを聞かないでいっしょに出て行かなかったら、わたしのようなばかものは耳でもつかんで引きずり出したらよかったんですよ。よしそうまでなさらなくっても、せめて娘たちのことでも心配なさるべきじゃありませんか! だけど、もう今はわたし自分で方法をつけます。こんな恥ずかしい思いをさせられて、とても一年や二年で消えることじゃありません……まあ、待ってください、わたしはまだ公爵にもお礼をいわなくちゃ!………公爵、ありがとう、いろいろご馳走さまでした! わたしはまた若い人たちのお話を聞こうと思って、ついつい長居をしてしまいました……ああ、ほんとうに今のはなんというざまです、なんという見苦しい! あれはまるでめちゃくちゃです、見ちゃいられない、あんなことは夢にだって見られやしない! え、あんなやつらはどこをさがしたって、ほかにいやしない! お黙り、アグラーヤ! お黙り、アレクサンドラ! おまえたちの知ったことじゃありません!………エヴゲーニイさん、なんだってわたしのそばをうろうろしなさるんです、わたしあなたには飽きあきしましたよ!………それで、公爵、あんたはあいつらにわびをするんですね」とふたたび公爵のほうを向いて突っこんだ。「なんです、いったい、聞いてれば、『まことに済みませんでした、ぼくは失礼にもきみに金なぞを捉供しようとしました』なんて……おまえはなんだって笑うのだえ、力みやさん!」ふいに夫人はレーベジェフの甥に食ってかかった。「われわれはそんな金なんかおことわりします、われわれは無心するのでなくっ七、要求するのです、だとさ! きっと、このお白痴《ばか》さんがあすにもあいつらのところへのこのこ出かけてって、また友誼とお金を持ち出すのをちゃんと知り抜いてるんだよ! ね、あんた行くだろう?行くだろう? 行くんですか、行かないんですか?」
「行きます」低いおとなしい声で公爵がいった。
「あれをお聞きかえ? それごらん、おまえはあれをあてにしてるんだろう」と夫人はまたもやドクトレンコのほうへ向いて、「もう金はポケットに入ってると同じようなもんだと思って、威張り散らすんだろう、人を煙に巻くんだろう……ね、いい子だからどこかほかへ行ってばかをさがすがいい。わたしはおまえの小細工をちゃんと見とおしてるからね!」
「奥さん!」と公爵が叫んだ。
「もう出かけようじゃありませんか、奥さん、もうずいぶんおそいですよ、そして、公爵もいっしょにおつれして行こうじゃありませんか」できるだけ落ちつき払って微笑しながら、S公爵はこう言った。令嬢たちはほとんどあっけにとられて、わきのほうに立っていたが、将軍はもうすっかり度胆を抜かれてしまった。ほかの人たちもいちようにびっくりしていた。やや離れて立っていた二、三の人は、盗み笑いをしながらなにやらささやきかわしている。レーベジェフの顔には感きわまったような色が浮かんでいた。
「めちゃくちゃで見ていられないようなことは、奥さん、どこだってありまさあ」とレーベジェフの甥はもったいぶっていったが、それでもやはり、へこんだような声であった。
「そうかもしれないが、あんなふうのはありません! 今おまえさんたちのして見せたようなのは、どこの世界にだってありゃしない!」とまるでヒステリイでもおこしたように、毒々しい笑いを浮かべつつ、リザヴェータ夫人がおさえた。「まあ、皆さん、うっちゃっといてくださいってば」夫人は自分をさまざまになだめようとする人々に向かって叫んだ。「ねえ、エヴゲーニイさん、あなたまでが今こんなことをおっしゃったでしょう。どこかの弁護士が、貧苦のために人を六人殺すほど自然なことはないっていったそうですね。してみると、いよいよ世も末になったんです。わたしはまだそんなの聞いたこともありません。今こそ何もかも合点が行きました。ほら、このどもりさん、いったいこの男が人殺しをしないでしょうか?(と彼女は、けげんな顔をして自分のほうをながめているブルドーフスキイを指さした)。いいえ、わたし睹でもします、きっと人殺しをしますとも! ね、公爵、たぶんこの男は一万ルーブリのあんたのお金を受け取らないでしょう、たぶん良心にとがめられて受け取らないでしょう。けれど、夜中にやって来て、あんたを殺して、手箱の中からその金をひき出すに相違ない、良心にとがめられてきっとひき出すに相違ない。でも、それもこの男に言わせれば不正なことじゃないのだそうだ。『高尚な絶望の発作』だとか、なんとかの『否定』だっていうんだろう……けがらわしい。もうよろずのことがみんなあべこべに転倒してしまったのだ。家の中にばかり育って来た娘の子が、いきなり往来の真ん中で旅行馬車にひらりと飛び乗って、『おかあさん、わたし二、三日前にカールルィチとかイヴァーヌィチとかいう、これこれの人と結婚しましたからね、さようなら!』なんていうようなことが、おまえさんたちの考えではりっぱな行ないなんですかえ? 尊敬すべき自然なことだというのですかえ?婦人問題というんですかえ? ほら、この小僧っ子も(とコーリャを指さして)、こんなものまでこのあいだひと[#「ひと」に傍点]と議論して、今のようなことこそ『婦人問題』だっていうじゃありませんか。よしんば母親はみんなばかだとしても、せめて人間らしく付き合うがいい!………これ、おまえさんがたはさっきなんだって、首をそっくりかえらして入っておいでだったえ? まるで、『おれさまたちが歩いてるのだ、そばへも寄ることはならんぞ。おれさまたちにありったけの権利をよこせ、しかしきさまなんぞは目通りで口をきくこともならんぞ。おれさまたちにありったけの尊敬を払え。この世の中にないような尊敬も払わなくちゃ承知しない、そのかわり、きさまなどは最下等な下男よりもひどい扱いをしてやるから!』とでもいったふうな恰好じゃないか。なんだえ、真理を求めるの、権利を主張するのといいながら、ご自身たちは回教徒そこのけの讒謗を、新聞でこの人に浴びせかけたじゃないか。『要求するのです、無心じゃありません。われわれはひと言もあなたにお礼なんかいいません。なぜなら、それをするのはご自分の良心を満足させるためですからね!』だとさ、なんて理屈だろう! ふん、もしおまえさんが公爵にひと言もお礼をいわなければ、公爵だっておまえさんにこう返答するかもしれないよ。『わたしはパヴリーシチェフさんをすこしもありがたいとは思っていません、なぜならパヴリーシチェフさんが善根を施したのも、やはり自分の良心を満足させるためだから』とね。ところが、おまえはただ公爵がパヴリーシチェフさんに懐《いだ》いている、そのありがたいという心持ちばかりが目当てなんじゃないか、まあ、考えてもごらん、この人はおまえから借りたんじゃないよ、おまえに義理があるわけじゃないよ。してみれば、そのありがたいって心持ちのほか何を目当てにするものがあります? よくもまあ自分で、お礼はけっしていわないなんて口がきけたものだ! まるできちがいだ! 世間が誘惑に負けた娘をいじめると、人はその世間を野蛮な不人情なものに考えるのが普通です。世間を不人情だと思ったら、こんな世間を渡って行かねばならぬ娘は、さぞ苦しい辛いことだろうと考えてやるのもあたりまえです。ところが、おまえはそれをわざわざ新聞で世間の前へ引き出して、苦しいだの辛いだのといってはならぬ、と無理な要求をする。ほんにきちがいだ! 見栄坊だ! 神さまを信じない人たちだ、キリストを信じない人たちだ! ああ、おまえたちはもうすっかり見栄坊とから威張りの根性が骨までしみこんでるから、とどのつまりは共食いぐらいが落ちだ、わたしがいっときますよ。ほんとうにこれでも横紙破りでないかえ、めちゃくちゃでないかえ、ふしだらでないのかえ? ところが、この恥しらずはまだ性懲りもなく、あいつらのとこへのこのこおわびに行くなんていってる! おまえたちのような人がどこにあるものかね。何がいったいおかしくって笑うの? わたしがおまえたちを相手にして、自分で自分の顔に泥を塗ったからかえ? ああ、それはもう済んだことだから、なんともしようがありません!………これ、おまえそんなにたにた笑いはよしておくれ、このへっぽこ!(と、夫人はにわかにイッポリートに食ってかかった)。やっと虫の息でいながら、他人に放埒を教えこむなんて。おまえはわたしのこの子供を、放埒者に仕込んでおくれだったね(といいながら、彼女はふたたびコーリャを指さした)。この子はおまえのことばかり、うわごとにまでいってるじゃないか。おまえはこの子に無神論をお教えだね、おまえは神さまを信じないんだね。ほんとうにおまえのようなものは、まだまだひどい目にあわしていいのだ。おとといおいで!………じゃ、ムイシュキン公爵、おまえさんはお出かけなんだね、あすあいつらのとこへお出かけなんだね?」と夫人は、はあはあ忙しく息をつきながら、またもや公爵に問いかけた。
「出かけます」
「そんなら、もうおまえさんみたいな人なんか見たくもない!」と夫人はす早く身をかえして立ち去ろうとしたが、ふいにまたもどって来て、「そして、この無神論者のとこへも行くつもりなの?」とイッポリートを指さした。「まあ、なんだっておまえはわたしを見て、にたにた笑ってるんだえ!」なんとなく不自然な声でこう叫ぶと、彼女はイッポリートのほうへ飛びかかった。彼女はその悪どい冷笑に堪えきれなかったのである。
「奥さん! 奥さん! 奥さん!」と叫ぶ声が四方からおこった。
「おかあさま、なんて恥ずかしいことを!」とアグラーヤは声高に叫んだ。
「ご心配なさいますな、アグラーヤさん」とイッポリートは落ちついていった。リザヴェータ夫人は彼におどりかかったが、なぜかしらその手をつかんで放さなかった。夫人は彼の前に立ちはだかったまま、じっともの狂おしい目をすえて、吸いつけられたようにその顔を見つめているのであった。「ご心配なさいますな、こんな死にそこないをぶつわけにいかないってことは、おかあさまもすぐお気がつくことでしょうから……ぼくがなんのために笑ったかってことは、いつでも申し開きをします……聞いてくだされば幸甚です……」
 彼はいきなりひどくせきこんで、まる一分間ばかりせきを納めることができなかった。
「もう死にかかってるくせに、まだえらそうにしゃべってるよ!」とリザヴェータ夫人は彼の于を放して、そのくちびるから血を拭き取るさまを、ほとんど恐怖に近い表情をもってながめながらこう叫んだ。「おまえ、話どころの騒ぎじゃないじゃないかね! なによりもまず寝に行かなくちゃならないのに……」
「ええ、そうしますよ」と、ほとんどささやくような低いしゃがれ声で、イッポリートは答えた。「ぼくうちへ帰ったらすぐ休みます……もう二週間たったらぼくは死ぬんです、ぼく知っています……先週Bがそういったのです……で、もし失礼でなかったら、ぼくはお別れにたったひとこと申しあげたいことがあるんですけど……」
「まあ、おまえさんは気でも狂ったんじゃないの? ばかなことばかり! 静かに療治でもしなきゃならないのに、お話どころの沙汰ですか! さ、さ、あっちへ行ってお休み!……」とリザヴェータ夫人はびっくりして言った。
「いちど横になったら、もう死ぬまで起きられないんですよ」とイッポリートは微笑した。「ぼくはきのうもそんなふうに、もう二度と起きないように、死ぬまで起きない覚悟で寢てしまおうかと思ったんですが、まだ足の立つ間はと思って、あさってまで延ばしたのです……その、そこの連中といっしょに、ここへきょうやって来るために……しかし、もうすっかりくたびれてしまいましたよ」
「さ、すわんなさい、すわんなさい、なんだって立ってるんだえ! ほら、いすをあげます」とリザヴェータ夫人はおどりあがって、みずからいすをすすめた。
「ありがとうございます」とイッポリートは静かに言葉をついだ。「では、あなた向き合ってすわってください、すこしお話ししましょう……ふたりでぜひお話をしましょう、ね、奥さん、ぼくはこんどはこのことを言い張りますよ……」と彼はふたたび夫人に笑顔を見せた。「まあ、考えてみてくださいな、ぼくがこうして外の空気を呼吸したり、人なかにまじったりするのもこれがおしまいで、もう二週間たったら間違いなく土の中に入るんですからね、つまり、いってみれば、これが人間と自然とに対する告別みたいなもんですよ。ぼくはそうたいして感傷家でもありませんが、でもねえ、やはりこの事件がパーヴロフスクでおこったのを、とても嬉しく思ってるんです。なんといっても、若葉の萌えた木立ちを見てるのはいいもんですからね」
「まあ、今度は何を言いだしたんだろう」とリザヴェータ夫人はますますあっけにとられた。「おまえさんはもうすっかり熱にうかされている。さっきは黄いろい声を出してわめき立てたくせに、今度はやっとのことで息をつきながら、はあはあいってる!」
「ぼくいますぐ休みます。だが、なぜあなたはぼくの最後のお願いを聞いてくださらないんでしょう……じつはねえ、奥さん、ぼくせんからどうかしてあなたとお心安く願いたいものだと考えてたんです。あなたのことはいろいろ聞いていました、コーリャから。いや、じっさい、ぼくを見捨てないでいてくれるのは、コーリャひとりくらいのもんです……あなたはまったく変わった突飛なかたですね。ぼくいま親しくお目にかかって知りました……じつはぼく、あなたが少々好きになって来ましたよ」
「まあ、わたしはそれだのに、まったくのところ、この子をあやうくぶつところだった」
「あなたをとめたのはアグラーヤさんです。ね、ぼくの想像は違わないでしょう。ね、このかたがお嬢さんのアグラーヤさんでしょう! まったく美しくていらっしゃるんですね。ぼくいままで一度もお目にかかったことはないけれど、さっきひと目見てそうだと悟りました。この世の見納めに、せめて美しいかたなりとよくながめさしてください」とイッポリートはなんとなくきまり悪そうな、ひん曲がったような微笑を浮かべた。「さあ、ここには公爵も将軍も、皆さんがそろってらっしゃるのに、なぜあなたはぼくの最後の願いをいれてくださらないのです?」
「いすを!」とリザヴェータ夫人は叫んで、自分で手ずから引き寄せて、イッポリートに向かい合って腰をおろしながら、「コーリャ」と呼んだ。「おまえさん、この人といっしょにすぐ出かけてちょうだい、あすはわたしが自分でかならず……」
「まことに失礼ですが、ぼく公爵に茶を一杯いただきたいのです……すっかり疲れちまいました。いかがです、奥さん、あなたは公爵といっしょに茶を飲みに行こうとおっしゃいましたが、ひとつここに残っていっしょにいてくださいませんか。公爵はきっとみんなに茶をふるまってくださるでしょうから。どうか指図がましいところはおゆるしを願います……しかし、ぼくにはあなたという人がよくわかっています。あなたはじつにいいかたです。公爵も同様です……われわれはみんなぞろいもそろって、こっけいなほどお人よしなんですからね……」
 公爵は急にせかせかしだした。レーベジェフがいっさんに部屋をかけだすと、娘のヴェーラもあとにつづいた。 「まったくだね」と将軍夫人はずばりと断ち切るように答えた。「じゃ、お話しなさい。だけど、なるべく静かにだよ、夢中になっちゃいけないから。とうとうおまえさんはわたしを泣き落としにかけてしまった……公爵!・ わたしはあんたのとこでお茶なんぞ飲んであげるわけがないんだけど、今のような始末だから、このままじっとしていましょうよ。でも、わたしはだれにもわびなんかしやしないから! ええ、だれにも! ばかばかしい! もっとも、わたしがあんたの悪口をついたのだったら、どうかまあ、勘弁してもらいましょう、――だが、それもいやなら、いやでかまいませんよ。けれど、わたしはだれも無理に引きとめてるわけじゃないんですよ」と夫人はいきなりなみなみならぬ憤怒の形相で、夫と娘たちのほうへ振りむいた、ちょうどこの人たちが夫人に対して、なにか済まぬことでもしたかのように。「わたしはひとりだって家へ帰れますからね……」
 しかし、人々は彼女にしまいまでものをいわせなかった。一同は近寄って、そのまわりをぐるりと取り囲みながら機嫌をとった。公爵はさっそく一同に、居残って茶を飲むようにすすめ、かつ今までこのことに気がつかなかったのをあやまった。将軍までがおそろしく愛想よくなって、『だが、露台じゃ冷えはしないかね?』などとやさしく話しかけながら、夫人に向かってなにやら気の静まるようなことをいった。彼はイッポリートにさえも、『もう大学には前から通っていますか?』ときこうとしかけたが、さすがにそれはしなかった。エヴゲーニイとS公爵は、にわかに愛想よく快活になってきたし、アデライーダとアレクサンドラの顔には、さきほどから消え残っている驚きの表情のあいだから、満足といってもいいくらいな影が現われた。要するに、皆のものはリザヴェータ夫人の危機が通り過ぎたのを喜んだのである。ただアグラーヤだけは眉をひそめて、やや離れた席に無言のまま腰をおろした。
 その他の人々も居残って、だれひとり、イヴォルギン将軍すら出て行こうとはしなかった。もっともイヴォルギン将軍は、レーベジェフから通りすがりになにやら小声でいわれたが、それが、あまり気持ちのいいことでなかったらしく、すぐにどこか隅っこのほうへ消えてしまった。公爵はブルドーフスキイとその仲間をも、ひとりのもれなしに招待してまわった。こちらはいかにもわざとらしい顔つきで、イッポリートの帰りを待つむねを答え、すぐと露台のいちばん遠い端へ引っこんで、またそこでも一列に並んですわった。おそらく茶は、レーベジェフが自分の家で飲むのに用意していたのだろう、間もなくそこへ運び出された。
 十一時が打った。

      10

 イッポリートは、ヴェーラ・レーベジェヴァのさし出す茶にくちびるをうるおして、茶碗をテーブルへ置いたが、ふいにきまり悪くなったような顔つきで、もじもじしながらあたりを見まわした。
「ちょっと、奥さん、この茶碗をごらんなさいな」と彼は妙にせきこんだ。「この瀬戸焼の茶碗は、しかもうんと上等らしいこの瀬戸焼の茶碗は、いつもレーベジェフの家の、ガラス戸つきの茶箪笥にちゃんとしまいこんであって……今まで一度も出たことがないんです……これはよくあるやつで……細君の嫁入道具なんですよ……そういう習慣なんです……で、いまぼくたちにこれを出したのは、もちろんあなたに敬意を表したんです、それくらいあの男は有頂天になったんですよ……」
 彼はまだなにかいい足したかったのだが、うまく出て来なかった。
「それでも、さすがにきまりが悪くなったんですね、それくらいが落ちだろうと思ってましたよ!」
 エヴゲーニイが、ふいに公爵の耳に口を寄せてささやいた。「少々けんのんですね、え? じつにはっきりした兆候だ、今にきっと腹立ちまぎれになにかこう恐ろしい、リザヴェータ夫人もいたたまらないような、突拍子もないことをしでかすに相違ありませんよ」
 公爵は反問するように相手の顔をながめた。
「あなたは概して、突拍子もないことを恐れはなさらんでしょう?」とエヴゲーニイはいい足した。「わたしもやはりそうなんです、むしろ切望してるくらいですよ。というのは、わが親愛なるリザヴェータ夫人にぜひともきょう、今すぐに罰が当たればいいと思うからなので、それを見ないうちは帰らないつもりです。おや、あなたは熱でもあるんじゃありませんか」
「あとでまたお話ししましょう、じゃまになりますから。ほんとうにぼくは気分が悪いんです」と答えた公爵の調子は、そわそわしているというよりか、むしろいらだたしげであった。
 彼はふと自分の名を耳にしたので気がついてみると、イッポリートが自分のことをうわさしてるのであった。
「あなたほんとうになさいませんか?」とイッポリートはヒステリックに笑った。「そりゃそのはずです。けれど、公爵はとたんにいっぺんこっきりでほんとうにして、すこしもびっくりなんかなさらんでしょうよ」
「あんた聞いてたかえ?」リザヴェータ夫人は公爵のほうへ振り向いた。「聞いたの?」
 あたりに笑い声がおこった。レーベジェフは忙しそうに前のほうへ割って出て、リザヴェータ夫人のすぐ目の前をうろうろしはじめた。
「この人がいうのにね、このひょっとこが、あんたの大家さんが、あんたをこきおろしたさっきの新聞記事を、そこにいる先生に頼まれて直したんだとさ」
 公爵はあきれてレーベジェフを見つめた。
「なんだってあんたは黙ってるの?」とリザヴェータ夫人は地団太さえ踏んで見せた。
「どうも仕方がありません」相変わらずレーベジェフを見まもりながら公爵はつぶやいた。「この人が直したってことはもうわかっています」
「ほんとうかえ?」とリザヴェータ夫人は急にレーベジェフを振り返った。
「まったくそれに相違ありません、奥さま!」毅然とした揺ぎない調子でこう答えて、レーベジェフは片手を心臓の上へ当てた。
「まるで手柄でもしたようだ!」と夫人はほとんどおどりあがらんばかりに叫んだ。
「下劣なことでした! 下劣なことでした!」とレーベジェフはつぶやいて、胸のあたりをとんとんたたきながら、しだいに頭を低く垂れるのであった。
「おまえが下劣な人間だろうがなんだろうが、わたしの知ったこっちゃない! この男は『下劣でした』くらいにいっておけば、済むと思ってるんだよ。それに、公爵、あんたはこんな連中を相手にして、よくまあ恥ずかしくないのねえ。もう一度、わたしはあんたに注意します! 愛想もこそも尽きた人だ!」
「公爵はわたしをゆるしてくださいます!」と確信と感銘を帯びた声で、レーベジェフがいいきった。
「ただただ高潔な心からして」不意に前の方へ飛び出したケルレルは、いきなりリザヴェータ夫人に向かって、朗々たる声を張り上げながらこういった。「ただただおとしいれられた友達を売るまいという高潔な心のために、わが輩はこの男が、あなたもお聞きになったでしょうが、われわれを梯子段から突き落とすなどといったにもかかわらず、記事の訂正についてはひと言も口に出さんかったのです。真実を明らかにするために白状しますが、わが輩はじっさい、この男に六ルーブリで依頼したです。しかし、それとて文章のためではなく、ただただ主として、わが輩の知らない事実を知らんがためだったのです。つまり、信頼すべき人間としてこの男に頼んだのです。ゲートルの件だの、スイスの先生の家で大食した件だの、二百五十ルーブリのかわりに五十ルーブリとした件だの、つまり、そういうふうの細工はみんなこの男の責任です、この男が六ルーブリでやったことです。が、文章は直しゃしなかったです」
「わたしは、ぜひ注意しておかんけりゃならぬことがあります」しだいに大きくなって行く笑い声の中で、レーベジェフは、熱病やみのようにいらいらした、しかもなんとなくしょげた声でさえぎった。
「わたしが直したのはほんの前半で、まんなか辺まで来たとき、ある一つの点で意見が合わずにいい合いして、それきり、あとの半分はもう訂正しなかったのです。だから、あの記事の中の見苫しいところは(まったく記事は見苦しいものですからね!)けっしてわたしの責任じゃありませんので……」
「この男の気をもむのはそれくらいなことだ!」とリザヴェータ夫人は叫んだ。
「ちょっとうかがいますが」とエヴゲーニイはケルレルに向かって、「その記事を訂正したのはいつですか?」
「きのうの朝でした」とケルレルが報告した。「そのさい、われわれは双方から秘密を守るという約束をしましたので」
「そんなら、この男があんたの前にはいつくばって、どんなことでも仰せのとおりいたします、なんていってた時分なんですよ。ええ、まあ、なんて連中だろう! おまえのプーシキンもいらない、おまえの娘もよこしちゃなりません!」
 こう言って、リザヴェータ夫人は立ちあがろうとしたが、ふとイッポリートの笑ってるのに気がつくと、いらいらした様子で振りむいた。
「おまえさんはいったいわたしをみんなの笑いぐさにするつもりで引きとめたのかえ!」
「まあ、とんでもない!」とイッポリートはくちびるをねじ曲げながら、にやりと笑った。「しかし、あなたがなみはずれていっぷう変わってらっしゃるのには、ぼくびっくりしちまいました。じつをいうと、レーベジェフの一件がどれくらいあなたに利き目があるか、ためしてみようと思って、わざわざひっぱり出してみたんですよ。ええ、そうです、あなたひとりが目当てだったのです。なぜって、公爵はきっとゆるされるに相違ないと考えたからです。それに、じっさいのところ、ゆるされたじゃありませんか……もしかしたら、胸の中で、あれのためにいいわけを考えついたかもしれませんよ。ね、公爵、そうでしょう?」
 彼は息をきらしていた。その奇怪な興奮は一語ごとに度を増してゆくのであった。
「ふん!………」とリザヴェータ夫人は、相手の語調に一驚を吃しながら、腹立たしげにいった。「それで?」
「ぼくはあなたのことをいろいろうわさに聞きました、今の話に似寄りのことをですね……そして、たいへん愉快に感じました……今ではたいへんあなたを尊敬してるんですよ」とイッポリートはつづけた。
 こういいながらも、同時に彼はこれらの言葉で、まるっきり別な意味を表わそうとしているらしかった。彼は話の調子に冷笑の影を帯びさせていたが、またそれと同時に不思議なほどわくわくして、疑ぐりぶかい目つきであたりを見まわしながら、わき目にもいちじるしいほどへどもどして、ひと口ごとに言葉をつまらせるのであった。これらの事柄が、その肺病やみらしい容貌や、激昂した怪しく光る目つきなどといっしょになって、いつまでも人々の注意をひきつけるのであった。「ぼくはいっこう世間しらずなんですが(これはぼくりっぱに白状します)それでも、ずいぶんびっくりしましたね。だって、あなたはさっきご身分をもお考えにならないで、ぼくらの仲間と一座なすったのみならず、この……お嬢さんがたまでここへおいて、こんな醜聞を耳にお入れになるんですもの、もっとも、お嬢さんがたも、こんなことはすっかり小説で読んでらっしゃるでしょうがね。ですが、こうはいうものの、ぼくすこしうろたえてるから、ほんとうのことはわかりませんけれど……しかしなんといってもこんな小僧っ子の(ええ、ぼくは小僧っ子に相違ありません、これもまた白状しておきます)、いうことを聞いて帰るのをやめたうえ、いっしょにお茶を飲んだり、なにかの……世話を焼いたりして、そしてあくる日はずかしい思いをするような人が、あなたをおいてほかにないことは確かです(もっとも、ぼくのいいまわしが壺をはずれてることも自分で承知しなくちゃなりませんが)……とにかく、こうしたいっさいのことを、ぼくは大いに讃美し尊敬します。しかし、閣下は、あなたのご主人は、こんなことなどけっしてなすべきことでないと思ってらっしゃる、それは閣下のお顔を見ただけでわかります……ひひ!」すっかり狼狽してしまって、彼はばかにしたような笑いかたをしたが、にわかにせきがこみ上げてきて、二分間ばかりというもの、あとをつづけることができないほどであった。
「まるで息づまりでもしたようだ!」激しい好奇心をもって彼を見つめながら、リザヴェータ夫人は鋭く冷ややかな調子でいった。「ねえ、いい子だ、もうたくさんです。もう遅いんだから!」
「失礼ですがね、きみ、わたしにもひと言いわしてください」とエパンチン将軍はがまんしきれなくなって、ふいにいらだたしげに口をきった。「妻《さい》がここにこうしているのは、ムイシュキン公爵がわれわれ一同の友達でもあり、ご近所同士でもあるからです。何にせよ、きみのような年のいかん人が、リザヴェータの言行を批評したり、わたしの顔に書いてあることを口に出して、しかも面と向かってうんぬんするのはいささか僭越ですよ、まったく。それに、妻《さい》がここに居残ったというのも」とほとんど一語一語にかんしゃくをあおり立てながら、将軍は語をついだ。「つまりね、きみ、一つはあまり驚いたのと、一つには奇態な若い人たちを見て行こうという、われわれにも了解できる現代的な好奇心のためです。わたしが居残ったのも、いわば往来で立ちどまったのと同じですよ。なにか――ベつの価値ある、その……その……その……」
「珍しいものですか」とエヴゲーニイが口を入れた。
「いや、さよう、そのとおり」少々譬喩に困っていた将軍は大いに喜んだ。「つまり、その珍しいものを見るような心持ちです。しかし、リザヴェータがきみといっしょに居残ったのは、単にきみが病身だから(もしきみの死にかかっているというのがほんとうならばだね)、きみの哀れっぽい言葉に動かされた同情心のためなのだ。きみのような若い人で、なおそれにお気がつかれんというのは、わたしにとってなによりも驚くべく悲しむべきことです、文法上こんな言いかたはできんかしらないがね。どんなことがあろうとも、妻の名誉、性質、品位に汚名をきせることは不可能です……リザヴェータ!」と将軍は真っ赤になって結論した。「もうそろそろ出かけたいなら、公爵にお暇ごいしてそれから……」
「ご教訓ありがとうございました、将軍」と思いもよらぬイッポリートが、もの思わしげに彼の顔を見ながら、まじめに いった。「行きましょう、おかあさま。まだなかなかなんですの!」と、いすを立ちあがりざま、アグラーヤはもどかしげにぷりぷりしながらいった。
「ね、あなた、もしおさしつかえなかったら、もう二分ばかり待ってくださいまし」とリザヴェータ夫人は威を帯びた態度で、夫のほうへ振りむいた。「わたしはなんだかこの人がすっかり熱に浮かされて、うわごとばかり言ってるように思われます。ええ、それに相違ありません。あの目つきでわかります。このままうっちゃって置くわけにいきません。ムイシュキン公爵! この人を今夜あんたのとこへ泊めていただけますか、これからペテルブルグへこの人を連れて帰るなんて無理ですからね。Cher prince(親愛なる公爵)あなたお退屈じゃありません?」と夫人は何を思い出したのか急にS公爵のほうへ振りむいた。「アレクサンドラ、ここへおいで、髪をちょっと直さなくちゃ、さあ」
 夫人はすこしも直す必要などのない娘の旻を直し、さて接吻をしてやった。彼女がわざわざ娘を呼んだのはただそれがためなので。
「奥さん、あなたはまだまだ生長しうる資質のあるおかただと思いましたよ……」もの思いからさめたイッポリートはまたいいだした。「ああ、そうだ! ぼくはこんなことをいおうとしてたんです」ふいになにやら思い出したふうに、彼は嬉しげに叫んだ。
「ほら、プルドーフスキイは真底から母親を保護しようと思ったんでしょう、ね? ところが、案外にも、それが母親に泥を塗るような結果になっちまったじゃありませんか。また公爵にしろ、清いお心からブルドーフスキイに友情と巨額な金を提供しようとされた。そして、おそらくわれわれのうちだれひとりとして、公爵に嫌悪の念などいだいてる者はない。ところが、このふたりの人はまるで不倶戴天の仇みたいな具合になってしまいました……ははは! 皆さんは、ブルドーフスキイが自分の母親に対して、皆さんの考えによると、みにくい不体裁なふるまいをするというので、あの男を憎んでいらっしゃる、ね、そうでしょう? でしょう? でしょう? だって、皆さんはむやみに体裁とか形式美とかいうものがお好きで、それのみを主張していらっしゃるんですものね、まったくでしょう?(ええ、それのみです、ぼく、以前からそう考えていました!)いや、まったくのところ、皆さんのうちどなただって、ブルドーフスキイほどには自分の母親を愛されなかったかもしれないんですからね! それから、公爵、あなたはガーネチカの手からこっそりと、ブルドーフスキイの母親に金をお送りになったでしょう。ぼく知ってます。ところで、誓って申しますがね(彼は、ひひひ!とヒステリックな笑いを発した)、誓って申しますが、今度はブルドーフスキイのほうが、形式のデリカシイが欠けているとか、母を尊敬していないとかいって、あなたに食ってかかりますよ、ええ、ほんとうですとも、ははは!」
 彼はまたしても息がつまって、せきこむのであった。
「さ、それでおしまい? もう済んだの、みんな言ってしまったの? もう行っておやすみ、おまえさん熱に浮かされてるんですよ」相手から不安げな目を離そうとせぬリザヴェータ夫人は、いらだたしそうにさえぎった。「ああ、まあ、どうしたらいいのかしら! まだ、この人は話してるよ!」
「あなたはたんだか笑ってらっしゃるようですね、なんだってあなたはぼくを見ちや笑うんです? いいえ、ぼく知ってます、あなたはぼくのことを笑っていなさるんです」落ちつきのない、いらいらした口調で、彼はとつぜんエヴゲーニイに向かってこういった。 エヴゲーニイはじっさい、笑っていたのである。
「ぼくはただ、きみにおたずねしたいと思っただけなんですよ……イッポリート……いや、失礼ですが、ぼくはちょっときみの苗字を忘れました」
チェレンチエフ君」と公爵が口を入れた。
「ああ、チェレンチェフ、ありがとう、公爵、さっき教えてくだすったんですが、ついすっぽ抜けちゃって……チェレンチエフ君、ぼくちょっときみにおたずねしたいと思ったんですよ。きみはちょいと窓越しに十分か、十五分ばかり群集と話をしたら、みんなはすぐきみのいうことに賛成して、きみのあとからついて行く、といったふうなご意見のように聞いていましたが、まったくですか?」
「大いにいったかもしれません……」と、イッポリートはなにやら考え出したふうで答えた。「いや、きっとそういったに違いありません!」とふたたび元気づきながら、きっとエヴゲーニイの顔をながめて、ふいにつけ足した。「それがいったいどうしたんですか?」
「べつにどうもしません。ぼくはただ参考のため完全に知っておこうと思って」
 エヴゲーニイは口をつぐんだが、イッポリートはもどかしげな期待の念をもって、いつまでも相手を見つめていた。
 「え、どうしたのです、済みましたか?」とリザヴェータ夫人はエヴゲーニイに向かって、「さあ、早く済ましておしまいなさい、この人はもうやすまなくちゃならないんですから、それとも、あとが出ないんですか?」
 彼女はひどくぷりぷりしていた。
「ぼくはこういい足すのを辞さないです」とエヴゲーニイは微笑しながらいった。「きみの友人諸君のいわれたことすべて、それからいまきみがいともあざやかに述べられたことすべてを総合すると、ぼくの見るところでは、一つの権利謳歌の理論に帰着するようですね。あらゆるものをあとにし、あらゆるものを放棄し、あらゆるものを除外し、しかもことによったら、権利そのものが何に起因するやも研究しないで……ええ、違いますか、ぼくのいうことは?」
「もちろん違います、ぼくはあなたのおっしゃることがわからないくらいです……それから?」
 一隅でもやはりぶつぶついう声がおこった。レーベジェフの甥は小声でなにやらつぶやき出した。
「もうほとんどいうことはないのです」とエヴゲーニイが言葉をついだ。「ただひと言いっておきたいのは、こうした理論からすぐに力の権利、すなわち単一無二なる拳固の権利、個人的欲求の権利へ、一足飛びに飛んでしまいたがることです。もっとも、。世間のことはそれでたいてい、けりがつくんですがね。プルードンも力の権利ということを力説したですからね。アメリカの戦争のときにも、最も進歩した自由主義の人たちが、大農場主の利益を保護するために、こんなふうのことを宣言しましたよ。黒人は黒人、白人よりは下に立つべきものだ、したがって、力の権利は白人の有に帰しているって……」
「それで?」
「したがって、きみも力の権利を否定しないでしょう?」
「それから?」
「きみはずいぶん理屈屋ですね。ぼくのいいたいのは、力の権利ってやつは虎や鰐の権利、ダユーロフやゴールスキイの権利とあまり縁が遠くないってことなんですよ」
「わかりません、それから?」
 イッポリートは、ほとんどエヴゲーニイのいうことを聞いていなかった。で相手に向かって『それで』とか『それから』とかいってるのも、どちらかといえば、会話にさいして古くからなれきった習慣のためで、注意や好奇心のためではないらしい。
「それからさきはありません……それっきりです」
「しかし、ぼくはけっしてあなたに腹など立てちゃいません」ふいに思いもかけずイッポリートはそういって、顔に微笑すら浮かべつつ、ほとんど無意識に片手をさし伸ばした。
 エヴゲーニイは、はじめちょっとびっくりしたが、やがておそろしくまじめな様子をして、謝罪でも受けるようにその手にさわった。
「ぼくはいまひとことつけ加えないわけにいきません」と彼は持ち前のなんとなく裏表のありそうな、うやうやしい調子で言った。
「ぼくはきみが多大なる注意をもって、ぼくのいうことをしまいまで聞いてくだすったのを衷心から感謝します。なぜなら、わが国の自由主義者なんて連中は、ほかの人がなにか飛び離れた信念を持しているのを、とても平気で見ていることができないで、すぐ論敵に罵詈を浴びせかけたり、あるいはそれよりもっと悪辣な手段をもって報いたりしたがるもんですからね……」
「そりゃまったくきみのいわれるとおりですよ」とエパンチン将軍は口をいれた。そうして両手を背中に組み合わせながら、退屈でたまらぬという顔つきをして、露台の出口まで引きあげると、いまいましそうにあくびをした。
「さあ、もうあんたのお話はたくさんですよ」とリザヴェー夕夫人はいきなりエヴゲーニイにこういった。「わたしあんたにはあきあきしました……」
「もうずいぶんおそいようだ!」とイッポリートは、きまり悪そうにあたりを見まわしながら、おびえたように、とつぜん心配らしく立ちあがった。「ぼくすっかり皆さんをお引きとめしちまいましたね。ぼくはあなたがたになにもかもいっちまおうと思ったんです……ぼくはあなたがた皆さんが……おわかれに……しかし、それもこれもみなぼくの妄想でした……」
 見受けたところ、彼は突発的に元気づいて、二分か三分くらいうわごとのような状態からわれにかえり、ふいに完全な意識を取りもどしてさまざまのことを思いだしては、口にしているようであった。もっとも、その言葉は多く断片的で、おそらく孤独な病床に寝られぬ夜長の淋しいおりおり、ずっと以前から思いついて、そらんじていたものらしい。
「じゃ、さようなら!」と彼はふいにそぎ落とすような口調でいった。「けれど、あなたがたはぼくが平気でさようならをいえるとお思いですか? はは!」と自分で自分のまずい[#「まずい」に傍点]質問をいまいましげにあざけったが、またとつぜん、ちょうどいいたいことがうまく口に出て来ないのを、もどかしがるようなふうで、声高にいらだたしそうにいいだした。「閣下! まことにぶしつけなお願いではございますが、どうぞぼくの葬式にお立ち会いくださいませんか、ただし、そうしてくださるだけの価値があるとお思いになったらですが……そして、皆さんもどうぞ将軍につづいて……」
 こういって、彼はふたたび笑いだした。しかし、それはもう狂者の笑いであった。リザヴェータ夫人はびっくりして彼のほうへ寄り添いながら、その一方の手をつかまえた。イッポリートは例の笑いを含んだまま、じっと相手の顔を見つめていた。とはいえ、その笑いはもはやほんとうにつづいてるのではなく、あたかも顔の上に凍りついたまま残っているかのように見えた。
「じつはねえ、ぼくがここへ来たのは木を見るためなんですよ。ほら、あれですよ……(と彼は公園の木立ちを指さした)。ずいぶんおかしいじゃありませんか? え? ほんとうにおかしかありませんか?」と彼はまじめにリザヴェータ夫人にたずねたが、いそなり考えこんだ。やがてまたすぐに頭を持ちあげて、一心に群の中をさがしはじめた。彼はエヴゲーニイをさがそうとしたのである。エヴゲーユイは前と同じく、右側のあまり遠くもない場所に立っていたのだが、彼はすぐ忘れてまたさがしはじめた。「ああ、あなたお帰りになったのじゃないんですか!・」と彼はやっと見つけ出した。
「あなたはさっき、ぼくが窓ごしに十五分ばかり話をしようとしているとかいって、しきりに笑ってらっしゃいましたね……ほんとうのところ、ぼくはもう十八の子供じゃありませんよ。ぼくは長いこと枕の上に寢つづけて、長いあいだその窓をながめて、長いあいだ考えました……もう……ありとあらゆることを……死人には年がないってことを、あなたごぞんじですか。ぼくはつい先週、夜中にふいと目がさめたとき、このことを考えたんです……ところで、あなたは何をいちばんに恐れていらっしゃるか、おわかりですか? あなたはぼくたちの誠実を何よりも恐れていらっしゃるんです。もっとも、ぼくたちをばかにしきってはおいでですがね! このこともやはりその夜、枕の上で考えたんですよ……ねえ、奥さん、ぼくがさっきあなたを笑いぐさにしようとしたなんて、そんなことを思ってらっしゃるんですか? いいえ、ぼくはあなたのことを笑ったりなんかしやしません、ぼくはただあなたを賛美しようとしたんです……コーリャの話に、公爵があなたのことを子供だと言われたそうですが……それはほんとうのこってす……おや、いったいぼくは……なにかまだいいたいことがあったのになあ……」
 彼は両手で顔をおおうて考えこんだ。
「ああ、こうなんです。さっきあなたがさようならとおっしやったとき、ああ、ここにこういう人たちがいるが、この人たちもすぐにみんななくなってしまうのだ。永久に! とふいにこんなことを考えました。そして、この木立ちもなくなってしまい――残るのはただ煉瓦の壁ばかり……ぼくの窓の真向かいにあるマイェルの家の赤い壁ばかり……おい、やっこさん、こういうことをすっかりあの連中にいってみろ……ためしにいってみろ。ほら、ここに絶世の美人がいる……ところが、おまえは死人じゃないか、死人でございますって名乗りを上げろ。『死人は何をいってもかまわない』つてそういってみろ、公爵夫人マリヤ・アレクセエヴナも叱りゃしないって、そういわないか、はは! おや、皆さん笑ってらっしゃらないんですか?」と彼は猜疑の目をもってあたりを見まわした。「ところでねえ、まくらに頭を載せてじっとしていると、いろんな考えが浮かんでくるんですよ……じつは、ぼくね、自然は皮肉なりと確信しました……あなたはさっきぼくを無神論者だとおっしゃったでしょう。ところが、この自然は……なんだってあなたがたはまた笑うんです? あなたがたはじつに残酷な人たちですねえ!」と彼はふいに沈みきった憤懣を声に響かせながら、一同を見まわすのであった。「ぼくはけっしてコーリャを堕落さしたりなんかしませんよしとつぜん思い出したように、彼は今までとまるで違った、まじめな、なにか思いこんだような調子で言葉を結んだ。
「ここにいる人はだれも、だれもおまえさんのことを笑ったりなんかしやしないから、心配おしでないよ!」とリザヴェータ夫人はほとんど苦しそうな様子でいった。「あすは新しいお医者を呼んで来ます、前の医者は見立てちがいをしたんです。まあ、おすわりなさいってば、足もとがよろよろしてるじゃないの! まるでうわごとばかり……ああ、この人をいったいどうしたらいいんだろう!」とリザヴェータ夫人はうろうろしながら彼を肘いすにすわらせた……
 彼女の頬には涙がぼちりと光った。
 イッポリートは、まるで雷に打たれたように立ちどまり、片手を上げ、おずおずとさし伸べながら、この涙にさわってみた。彼は妙に子供らしい笑いかたで、ほほえんだ。
「ぼく……あなたが……」と彼は妙に嬉しそうにいいだした。「あなたはとてもおわかりになりますまいね、ぼくがどれだけあなたを……この男はいつもぼくをつかまえて、あなたのことを夢中になって話して聞かせるんです、そら、この男、コーリャです……ぼくは、もうこの男の夢中になるのが、好きでたまらないんですよ。ぼくはけっしてコーリャを堕落なんかさせやしません! でも、ぼくはこの男をうっちゃって行かなきゃならない……はじめ、ぼくはだれも彼もみんなうっちゃって行こうと思っていたけれど、そんな人はだれもいませんでした、だれもいませんでした……ぼくはまた行動者たらんとも欲していました、そして、その権利を持っていたのです……おお、ぼくはなんと多くのものを望んだことだろう! しかし、今はぼくなんにも望みません、なんにも望むことを欲しません。ぼくはもうなんにも望まないという誓いを立てたのです。ぼくがいなくっても、ほかの人が真理を探求するでしょうよ! じっさい、自然は皮肉ですねえ! なぜ自然は」と彼は熱を帯びた調子で突っこむようにいった。「なぜ自然は、ただただ冷笑せんがためのみに、最も優れたるものを創り出すのでしょう? 自然は、この地上におけるすべての人が完全の典型と認めるほどの唯一無二の人を世に示しながら、恐ろしい流血の原因となるべき言葉を発せざるを得ないような運命をその人に与えたじゃありませんか……その血、その血がもし一時に流れたら、人類はきっとむせ返ったに相違ありません! ああ、ぼくが死んでゆくのは、かえっていいことなんだ! ぼくも生きてたら、やはりなにか恐ろしいうそをいったかもしれませんからね。自然がそんなふうに仕向けるに相違ありません!………ぼくはけっしてだれも堕落なんかさせやしませんでした……ぼくはただ万人の幸福のため、真理の発見宣伝のために生きたかったんです……ぼくはマイエルの家の壁を窓ごしにながめながら、わずか十五分ばかり話しているうちに、ありとあらゆる者を帰服させたいと思ったことがあります。ところが、一生のうちにただ一度……あなたひとりと意気投合しました、万人というわけにはいかなかったけど!………しかし、こんなことをいってみたところで、かちえたものはなんでしょう! 何もありません! かちえたのは侮蔑ばかり! 要するにばかなんです、つまり用のない人間なんです、つまり時が来たんです! しかも、なにひとつ思い出となるべきものを残しえずに――音もなく、足跡もなく、たった一つの事業もなく、これという信念を宣伝することもできないで!………どうかこのばか者を笑わないでください! 忘れてください! すっかりみんな忘れてくださればいいんです……どうかただ忘れてしまって、残酷な取り扱いをしないでください! じつをいいますとね、たとえこんな肺病にかからなかったにしろ、どうせぼくはやはり自殺でもする人間なんですよ……」
 彼はまだまだしゃべりそうなふうであったが、急にいいさしてひじ掛けいすに身を投げ出し、両手で顔をおおって、子供のように泣きだした。
「まあ、ほんとうにこの子をどうしろとおっしゃるの!」と叫びながら、リザヴェータ夫人は彼のほうへとかけ寄って、その頭に手をかけ、しっかりと自分の胸へ抱きしめた。彼は痙攣的にしゃくりあげて泣くのであった。「さあさ! さ、泣くのはおよし、たくさん、おまえさんはいい子なんだよ、おまえさんはなんにもものを知らないから、そんなことをおいいだけれど、それは神さまがゆるしてくださる。さ、たくさんです、男らしくなさいよ……それに、おまえさん恥ずかしいとは思わないの……」
「ぼくにはね、あっちのほうに」と、頭を持ち上げようとつとめながら、イッポリートがいいだした。「あっちのほうに弟がひとりと、妹がふたりあるんです、まだ頑是ない、かわいそうな、罪のない子供なんです……あのひと[#「あのひと」に傍点](イッポリートの母、大尉未亡人をさす)がこの子たちをめちゃめちゃにしちまいますから、――奥さん――マドンナのような奥さん……あなたはご自身が子供なんですから……あの子たちを救ってください! あの子たちをあの手から奪ってください! あのひとは……ああ、いうのも恥です! おお、あの子たちを助けてやってください、助けて……そのかわりに神さまが、それを百倍にして返してくださいます、後生です、一生のお願いです!………」
「ほんとうになんとかいってくださいな、あなた、いったいどうしたらいいんです!」じりじりしたような声でリザヴェータ夫人が、イヴァン将軍に叫んだ。「お願いですから、そのもったいらしい無言の行を破ってください! あなたがなんとかきめてくださらなけりや、わたしはここへ居残って泊まりますから、そうお覚悟を願います。あなたは今までひとりで権力をふりまわして、ずいぶんわたしをおいじめなすったんですからね!」
 リザヴェータ夫人は夢中になってこう問いかけながら、猶予のない返事を待ち設けていた。しかし、こういう場合その座に居合わすものは、よしその人数が大勢であっても、ただ事なかれ主義を守って、おおむね沈黙と消極的な好奇心をもって報いるのみで、ずっとのちになってから、自分の考えを述べるものである。この場合に居合わせた人々の中には、ただひと言も口を出さないで、夜が明けようと朝になろうと、平気で腰を落ちつけていそうな連中もあった。たとえば、ヴァァルヴぁーらのごときがそれで、彼女はこの晩ずっとすこし離れたところにすわって、無言のままいっさいの様子を、ひとかたならぬ好奇心をもって聞いていた。もっとも、それはなにか仔細のあることかもしれぬ。
「わたしの意見をいわせればね、リザヴェータ」と将軍がきり出した。「今この場合、必要なのは、いわばむしろ看護婦で、われわれの大騒ぎじゃない。そして、なんなら、頼もしいまじめな人がひと晩いてくれるといいんだがな。しかし。なんにしても、公爵に相談して……安静を与えなくちゃならん。あすになったら、またなんとかご相談に乗ってもいいじゃないか」
「もう十二時だ、わっしたちゃそろそろ出かけますよ。イッポリートはいっしょに行くんですか、それとも、あなたんとこへおじゃまになるんですかね?」とドクトレンコはいらだたしそうに、ぷりぷりしながら公爵にきいた。
「なんなら、きみがたもいっしょに泊まって行かれたらいいでしょう」と公爵はいった。「場所はありますから」
「閣下」思いがけないケルレルが、いかにも感激したようなふうで、将軍のそばへかけよった。「もし今夜ひと晩の看護に信頼すべき人が必要でしたら、わが輩よろこんで友達のために犠牲となります……あれはじつに愛すべき男です! わが輩はとうからあの男を偉人として尊敬しています、閣下!わが輩などはもちろん、修養の点においては欠けておりますが、この男になにか批評でもさしたら、まるで真珠です、咳唾珠をなすといっていいくらいです、閣下!」
 将軍はたまらぬといったように顔をそむけた。
「ぼくはむろん、あの人に泊まっていただければ嬉しいです、ええ、あの人はどうしたって汽車なんかに乗るわけにいきません」リザヴェータ夫人の癇性らしい問いに答えて、公爵はこう説明した。
「おまえさんはいったい居睡りでもしてるの? もしいやだったら、わたしが、この子を家へつれて帰りますよ! おや、まあ、この人までが今にも倒れそうな顔をしてる! いったいあんた具合でも悪いの?」
 リザヴェータ夫人はさきほど公爵が、いまわの床にふしていないのを見たとき、その様子から察して、公爵の健康状態をあまりよいほうへ誇張して考えすぎたのである。しかし、ついさきほどまでの病気、それに伴う苦しい回想、こと多かりしこの一夜の疲れ、『パヴリーシチェフの息子』事件、それから今のイッポリートの事件、――これらすべてのものが寄ってたかって、病的に鋭敏な公爵の感受性を、ほとんど熱病的な状態に達するまでにいらだたせたのである。しかし、なおそのほかに、いま彼の目の中にはなにかまだ別な心づかい、むしろ危惧の念とでもいうようなものが映っていた。彼は、イッポリートがまだなにか仕出かしはしないかと心配するように、恐るおそるイッポリートをながめていた。
 ふとイッポリートは、ものすごいほど青い顔をして立ちあがった。そのひん曲がった顔には、捨て鉢に近いような恐ろしい羞恥の色が浮かんでいた。こうした表情は、主として、憎にくしげにまた臆病そうに一同をながめる視線と、ぴりぴりふるえるくちびるにただようねっとりした、気力のない、ゆがんだような冷笑に現われるのであった。が、その視線を彼はすぐ下に落として、依然微笑を含んだまま、露台の出口のあたりに立っているブルドーフスキイと、ドクトレンコのほうへよろよろしながら歩いて行った。この人たちといっしょに婦ろうというのであった。
「ああ、これをぼくは心配してたんです!」と公爵は叫んだ。「きっとそうに違いないと思った!」
 イッポリートはきちがいじみた憎悪をもって、くるりと彼のほうへ振り返った。その顔面筋肉の一本一本がぴりぴりふるえながら、ものをいうように思われた。
「ああ、あなたはこれを心配してたんですか!『きっとそうに違いないと思った』んですって、じつをいいますとね」と彼は口から泡を飛ばしながら、のどにかかったような甲高い声でわめいた。「もしぼくがここにいる人の中で、だれか憎んでるものがあるとすれば(ぼくはあなたがたをみんなみんな憎んでいるけれど)、ことにあなたを――仮面《めん》かぶりの、口さきのうまい若さまの、白痴の、百万長者の慈善家のあなたを、世界じゅうのだれよりも何よりもいちばんに憎みます! ぼくはとうからあなたという人を見透して憎んでたんです。まだうわさだけしか知らなかった時分から、ぼくは心内にありったけの憎悪を傾けてあなたを憎んでたんです……今夜のことはみんなあなたが仕組んだわざです……ぼくを発作に近い状態へ導いたのもあなたのしわざです! あなたは死にかかってる病人に恥をかかせました、ぼくのさっきの大人げない所作はあなたの罪です! ぼくがもし死なないで生きてたら、きっとあなたを殺すでしょうよ! あなたのお慈悲なんぞに用はありません、そんなものだれからも貰いやしない、よござんすか、だれからもなんにも貰わないから! さっきぼくは熱に浮かされてたんだから、あなたたちは得意になる権利などないんだ……ぼくはあなたたちをみんな永久に呪います」
 といって、彼はすっかり息をつまらしてしまった。
「さっき泣いたのが自分で恥ずかしくなったのです」とレーベジェフはリザヴェータ夫人にささやいた。「『きっとそうに違いないと思った!』なんて、どうも公爵! すっかり見透しましたね……」
 しかし、リザヴェータ夫人は彼に一ベつすらも与えなかった。彼女は傲然と身をそらし、頭をうしろへぐいと引いて突っ立つたまま、軽蔑のまじった好奇の目をもって、この『連中』を見まもっていた。イッポリートの言葉が終わったとき、将軍はちょいと両肩を揺すり上げたが、夫人は『いったいその所作はなんですか?』とでもいいたそうに、腹立たしげに頭のてっぺんから足の爪先まで夫をねめまわした。が、すぐにまた彼女は公爵のほうへ向き直って。
「公爵、うちの突飛な親友さん、どうもありがとう、わたしたち一同に愉快なひと晩を過ごさしてくだすって……たぶん、わたしたちをこのばか騒ぎに巻きこんでやったと思って、嬉しくってたまらないのでしょう……もうたくさん、ありがとう、せめてわたしに自分の姿をよっく見さしてくだすっただけでも、お礼を中さねばなりません!………」
 と夫人はぷりぷりしながらケープを直しはじめ、『あの連中』が出て行くのを待っていた。間もなく『あの連中』のところへ辻待の軽馬車がやって来た。それは、まだ十五分ばかり前にドクトレンコが、レーベジェフの息子の中学生を走らせて呼んで来たのである。将軍も夫人のあとからすかさず口をいれた。
「公爵、じっさい、わたしはまるで思いもよらんかったですよ!………ことに、ことにああして親密に交際していただいたあとだからね……それにまたリザヴェータも……」
「まあ、どうして、こんなことができたんでしょう!」と叫んで、アデライーダは公爵に近寄り、握手を求めた。
 公爵は茫然自失したように、彼女の顔を見てほほえんだ。ふいに早口なささやきが、熱した彼の耳を焼いたように感じた。
「もしあなたがこのけがらわしい人たちを、今すぐうっちゃ っておしまいにならなければ、あたしは一生、一生あなたを憎みますよ!」とアグラーヤがささやいたのである。彼女は激昂の極に達している様子であったが、公爵がその顔を見るすきもないうちに、すばやく体をかわしてしまった。けれど、公爵には今さら『うっちゃってしまう』べき人もものもなかった。病人のイッポリートはみんなでどうかこうか辻馬車に乗せて、行ってしまったので。
「どうでしょう、あなた」とリザヴェータ夫人は夫にいった。「まだ長くいつまでもこんなことがつづくんでしょうか、あなた、なんとお考えになります? まだまだわたしはあの意地悪な小僧どもにいじめられなくちゃならないんですか?」
「なに、おまえ……わたしもちゃんと覚悟があるし……公爵も……」
 エパンチン将軍も同様、公爵に手をさし伸べたが、握りしめる暇もなく、リザヴェータ夫人のあとを追ってかけだした。夫人は騒々しいもの音を立てながら、ぷりぷりして露台をおりて行った。アデライーダと婚約の夫、それからアレクサンドラなどは、真底から愛想よく公爵に別れを告げた。エヴゲーニイもその数にもれなかったが、これはひとりではしゃいでいた。
「案の定でしたね! ただあなたまでがお気の毒な、ずいぶん苦しい思いをしましたね」彼はなんとも言えぬかわいい薄笑いを浮かべてささやいた。
 アグラーヤは別れを告げずに帰って行った。
 しかし、この夜の異変はこれのみではまだ終わらなかった。リザヴェータ夫人はまた一つ、じつに思いがけない人との邂逅で、苦しい思いをしなければならなかった。
 夫人が階段を伝って、公園をぐるりと取り巻く往来までおりきらぬときに、二頭の白馬をつけた目のさめるようなりっぱな馬車――幌馬車が、公爵の別荘のそばを疾駆して過ぎた。馬車の中には、盛装の貴婦人がふたりすわっていた。けれども、十歩と乗り過ぎないうちに、馬車はふいにぴたりととまった。貴婦人のひとりは、自分にとって見すごしのならぬ知人が目に入ったようにとつぜんうしろを振り返った。
「エヴゲーニイさん! まあ、あんたでしたの?」とふいに澄みきった美しい声が響きわたった。その声を聞いたのは、公爵のほかに、いまひとりだれかあったらしい。「ああ、ほんとうに嬉しい、とうとうさがし出してやったわ! わたし、あんたのために町へわざわざ使いを出したのよ、ふたりまで! 一日あんたをさがしまわったわ!」
 エヴゲーニイは雷に打たれた人のように、階段の途中で立ちすくんだ。リザヴェータ夫人もその場にじっとたたずんでいたが、エヴゲーニイと違って、恐ろしさに全身が麻痺したのではない。彼女はさっきあの『連中』を見すえたときと同じく、傲然と冷ややかな侮蔑の目をもって、この大胆不敵な女を見つめたのであるが、彼女はすぐにその目をエヴゲーニイヘ転じた。
「ニュースがあるのよ!」と澄みきった声がつづける。「クプフェルの手形のことは心配ご無用ですよ、ラゴージッが三万ルーブリで買い取ったから、わたしが説き伏せたのよ。すくなくも、とうぶん七月ばかりは安心しててよござんすわ。それから、ピスクープとかなんとかいうがらくた連中のほうは、もともと知り合いの仲だから、たんとかうまく折り合うでしょう! ま、こんなふうに万事都合よく運んだの。ご機嫌よう。またあすお目にかかりましょうね!」
 幌馬車は動き出したが、見る間に消え失せた。
「あれはきちがいだ!」腹立たしさのあまり真っ赤になって、合点のいかぬ様子であたりを見まわしながら、エヴゲーニイが叫んだ。「何をあの女はいうのやら皆目わけがわからん! いったいなんの手形だ! いったいあの女は何者だ!」
 リザヴェータ夫人は、それからまだ二秒ばかりのあいだ、じっと彼をにらんでいたが、いきなり急に踵をめぐらして、わが家の方へ歩き出した。一同もそれにつづいた。ちょうど一分間たってから、エヴゲーニイが恐ろしい惑乱のていで、公爵の立っている露台へ引っ返して来た。
「公爵、まったくあなたは、今のことがなんだかおわかりになりませんか?」
「いいえ、なんにもわかりません」自分でもひととおりならぬ病的に緊張した心持ちにおちいっていた公爵はこう答えた。
「ごぞんじないですか?」
「ぞんじません」
「ぼくもわからないんです」とふいにエヴゲーニイは笑いだした。「ええ、ほんとうにあんな手形とかなんとかいうものには、なんの関係もないんです。いや、まったく、信じてください……おや、あなたはどうなすったのです、卒倒でもしそうなんですか?」
「おお、そんなことはありません、そんなことは、ほんとうです、けっしてありません……」

      11

 やっと三日目になって、エパンチン家の人々の機嫌が直った。
 公爵はいつもの癖として、多くの点において自分を責め、真底から懲罰を期待していたのだが、それでもはじめから、リザヴェータ夫人が自分に真剣で腹を立てるはずはない、夫人はどちらかといえば自分で自分に腹を立てたのだと、心のうちでかたく信じきっていた。ところが、こうしたにらみ合
いの時期が案外ながびくので、公爵も三日目あたりには、なんともいえぬ暗澹たる迷路に踏みこんでしまった。それにはいろいろな事情も手伝っていたのだろうが、主としてある一つのことが原因となったのである。しかも、それがこの三日間に、だんだんと公爵の猜疑心の中に根を張ってしまった(公爵はついさきごろから、二つの相反した性癖のためにみずから責めていた。すなわち、なみなみならぬ『ばかばかしいくらいしつこい』信頼心と、またそれと同時に『どす黒い陋劣な』猜疑心である)。手短かにいってみると、あのエクセントリックな貴婦人に関するできごとが、あの幌馬車の中からエヴゲーニイに話しかけた貴婦人の件が、三日目ごろになって謎のように薄気咏わるく、彼の心中に拡大されたのである。この事件の他の方面はしばらくおくとして、公爵にとってその謎の本体は、『この奇怪な新しい事件について、はたして自分に罪があるのだろうか、それともただ……』(彼はそのほかだれに罪があるのか、いいきらなかった)という悲しい疑問にほかならぬのであった。N・F・Bの頭文字にいたっては、公爵の見解によれば、あれはただほんの罪のないいたずら、というよりむしろ子供らしいいたずらで、こんなことをなにかと深く考えるのは恥ずべきことであり、むしろある点から見れば、ほとんど破廉恥な所業である。
 もっとも、あの公爵ひとりが『もと』で恐ろしい乱脈をひきおこした翌朝、公爵はS公爵とアデライーダの来訪の栄に接した。このふたりがやって来たのは、『主として[#「主として」に傍点]公爵の健康をたずねるため』に、ふたりきりの散歩のついでに立ち寄ったのである。アデライーダはそのすぐ前に、公園で一本の木を見つけた。珍しい古木で、長いうねうねした枝がいっぱい繁った上に若緑がさして、幹には洞や裂け目があった。彼女は、是が非でもそれを描いてみよう! と決めたといって、訪問の半時間をただこの話だけで持ちきった。S公爵はいつものとおり優しく愛想のいい調子で、公爵に以前のことをたずねたり、ふたりがはじめて知り合いになった当時を追懐したりした。そんなありさまで、ゆうべのことはいっさい口にのぼらなかった。が、とうとうアデライーダはこらえきれなくなって、にやりと笑いながら、じつはきょう微行《インコグニト》で来たのだと、白状した。自白はそれきりでおしまいであったが、それだけでも両親が、ことにリザヴェータ夫人が、なにかとくべつ不機嫌でいるのを察することができた。夫人のことも、アグラーヤのことも、おまけにイヴァン将軍のことさえも、アデライーダとS公爵は来訪中ひとことも口にしなかった。それから、また散歩にといって出ていくときも、公爵にいっしょに参りましょうとはいわなかった。わが家へ招待するなどということにいたっては、ほのめかすような調子さえなかった。この件に関しては、アデライーダがひとこと注意すべき言葉をもらした。自作のある水彩画の話をしたとき、彼女はふいにそれを公爵に見せたいと言いだした。『どうかして早くお目にかけたいものですがね! ああ、そうだ! もしきょうコーリャが来たら、その絵を持たせてよこしましょう。でなければ、あすわたしがS公爵と散歩に出るときに、自分で持ってまいりますわ』と彼女は決めたが、こうしてだれにも迷惑のないように、むずかしい懸案を上手に解決しえたのが、いかにも嬉しそうな様子であった。 最後に、もうほとんど別れの挨拶も済んだとき、S公爵はとつぜんおもい出したように、
「ああ、そう」とききだした。「ねえ、ムイシュキン公爵、あなた、あの婦人がだれだかごぞんじありませんか、ほら、ゆうべ馬車の中からエヴゲーニイを呼びかけた……」
「あれはナスターシヤ・フィリッポヴナです」と公爵は答えた。「ほんとうにあなたは今まで、あのひとがだれだかごぞんじなかったのですか? ですが、あのひとといっしょにいたのは、だれだか知りません」
「わたしも、うわさで知っています!」と、S公爵は受けた。「しかし、あの女のいったことは、いったいなんのこってしょう。じつのところ、それがわたしにとっても、またほかの人にとっても大きな謎なのです」
 S公爵はよそ目にもそれとわかるくらい、深い驚愕の念をいだいている様子であった。
「あの人がいったのは、なにかエヴゲーニイさんの振り出した手形のことなんです」と公爵の答えはおそろしく単純だった。「それがどこかの高利貸の手に入ったのを、あの人の頼みでラゴージンが引き取った。そしてラゴージンは、エヴゲーニイさんのために猶予するはずだ、とこういったんでしょう」
「それはわたしも聞きましたよ、聞きましたよ、公爵。しかし、考えてもごらんなさい、そんなことのありようがないでしょう! エヴゲーニイが手形なんか出すはずは、けっしてないじゃありませんか! あれだけの財産を持ってるんですもの……もっとも、以前は、持ち前の軽はずみからそんなことがあって、わたしも始末をしてやった覚えはありますが……しかし、あれだけの財産があるのに、高利貸に手形を渡して心配の種を作るなんて、ありうべからざるこってす。それに、あの男が、ナスターシヤと、『あんた』だのなんだのって、親しげな口をきき合うほどの間柄になるというのも、あるまじきことです、――つまり、謎というのは、おもにこの点にあるのです。あの男は、なんだかちっともわけがわからんといっていますが、わたしもそれを信じます。ところで、それはそれとして、公爵、ひとつあなたにおたずねしたいのは、このことでなにかお聞きこみになりませんか? つまり、なにかの奇跡によって、せめてあなたのところへなりとも、風説が伝わりはしなかったかと思いましてね」
「いいえ、なんにも知りません。誓って申しますが、ぼくは、この件には、けっしてなんの関係もないのですから」
「ああ、あなたはきょうどうなすったんですか? まるで人が違ったようですよ。どうしてあなたがこんな事件の関係者だなどと想像できるものですか?………いや、あなたはきょうだいぶお加減がわるいようです」こういいながら、彼は相手を抱いて接吻した。 「いったい『こんな』事件の関係者って、どんな事件なんです? ぼくには『こんな』事件なんてものは、すこしもないように見えますがねえ」
「疑いもなく、あの婦人はひとのいるところで、エヴゲーニイの持ってもいないし、また持つはずもないような性質を押しつけて、エヴゲーニイの妨害をしようと思ったに相違ありません」とS公爵はかなりそっけない口調で答えた。
 ムイシュキン公爵は、ちょっとまごまごしたが、依然として、もの問いたげに相手の顔をじっとながめつづけた。しかし、こちらは黙りこんでいた。
「でも、あれは単に手形だけのことではないでしょうか?ゆうべのことは単純にありのままに解釈すべきものではないでしょうか?」公爵はとうとう、たまらなくなったというふうにこうつぶやいた。
「だから、わたしがいうのじゃありませんか、まあ、ご自分で考えてごらんなさい。エヴゲーニイと……あの女と、おまけにラゴージンとのあいだに、どんな関係がありうるものですか? くりかえして申しますが、あの男の財産はじつにたいしたものです、それはちゃんとわたしにわかっています。そのほか、いま一つ別な財産を、伯父さんからもらうことになっているんですからね、つまり、ただナスターシヤが……」
 S公爵はまたもふいに口をつぐんだ。彼は明らかに、公爵にナスターシヤのことを話すのが、いやだったらしい。
「してみると、いずれにしても、あのひとはエヴゲーニイさんと知り合いなんですね」ちょっと一分間ばかり無言でいたムイシュキン公爵は、いきなりこうきいてみた。
「それはじっさいらしいのです、なにしろ軽はずみな男ですからね! ですが、もしほんとうだとしても、よほど前のことらしいです、まだあの……いや、その、二、三年も前のことでしょう。なにしろ、あの男はトーツキイとも知り合った仲ですから。しかし、今のところ、あんなふうなことはけっしてあるべきはずがないんです。『あんた』呼ばわりなんか、断じてあるべきものでないんです! あなたもご承知のとおり、あの女だって、ずっとこちらにいなかったんですからね。どこにもいなかったんですからね。あの女がまた姿を現わしたということは、たいていの人がまだ知らないでいるくらいです。わたしがあの馬車に気づいたのはこの三日ばかりで、けっしてそれより前じゃありません」
「りっぱな馬車ですわねえ!」とアデライーダがいった。
「ええ、ずいぶんりっぱな馬車です」
 こんな調子ではあったが、とにかくふたりはムイシュキン公爵にきわめて親しい、きわめて隔てのない心持ちをいだいて立ち去った。
 われらの主人公にとって、この訪問は甚大な意味を蔵していた。かりに公爵が昨晩以来(あるいはもっと前から)、種種の疑惑を重ねたとしても、この訪問を受けるまでは自分の危惧を肯定する気はなかった。ところが、今はなにもかも判明した。もちろん、S公爵はこの事件を誤って解釈しているが、それでもやはり事実の近くを徘徊していたのだ、ともあれ奸計[#「奸計」に傍点]のあることを見抜いたのだ。『もしかしたら、あの人は腹の中ではほんとうのことがわかってるかもしれない』と公爵は考えた。『しかし、ただそれを町言したくないので、わざと間違った解釈をしたのかもしれぬ』しかし、なにより明白なのは、人々が(つまりS公爵が)、なにか事実闡明の一助にもというつもりで、自分のところへやって来たことである。はたしてそうとすれば、自分はこの奸計の一味と思われているに相違ない。のみならず、もしこれがさほど重大な事実とすれば、あの女[#「あの女」に傍点]にはなにか恐ろしい目的があるに違いない、いったいどんな目的だろう! じつに恐怖すべきことだ!『どうしてあの女を引きとめたらいいのだろう? あの女[#「あの女」に傍点]がいったんこうと思いこんだら、どうしたって引きとめることはできない!』公爵はこのことをみずから経験して知っていた。『きちがいだ! きちがいだ!』
 しかし、この朝はまだほかにも雑多な解決のつかぬ事情が、あまりにも多く輻湊《ふくそう》して、それがみんな一時に猶予なき解決を要求するので、公爵はひどく憂欝であった。いくらか彼の気をまぎらしてくれたのは、ヴェーラ・レーベジェヴァである。彼女は赤ん坊のリューボチカを抱いてやって来て、なにやかや長いこと笑い笑い話して行った。そのあとから妹が口をぽかんとあけて遊びに来るし、最後にレーベジェフの息子の中学生も入って来た。この少年のいうには、かの地上の水の源に陥ちた『黙示録』の茵闥《いんちん》の星は、父親の講釈によると、ヨーロッパー円に広がっている鉄道網にほかならぬそうである。公爵は、レーベジェフがそんな講釈をするとは思われなかったので、いいおりがあったら早速、当人にきいてみることにきめた。公爵はまたヴェーラから、昨晩以来ケルレルがこの家へころがりこんで、いろいろな点から察するところ、しばらく出て行きそうもないということを聞き知った。それにはわけがある。この家にはなかなかいい相手がいて、ことにイヴォルギン将軍とは非常に仲よくなってしまったのである。もっとも、彼自身のいうところによれば、彼がこの家にとどまるのは、ただただ自分の教育を完成したいがためだそうである。こうして、一般にレーベジェフの子供たちは、しだいに日を追って公爵の気に入って来た。コーリヤは一日うちにいなかった。彼は早朝からペテルブルグへ出かけたのである(レーベジェフはやはり未明に、なにか自分の用向きで出発した)。しかし公爵は、きょうかならず自分のところへ来なければならぬはずになっているガーニャの来訪を、じりじりしながら待ち受けていた。
 ガーニャは午後六時すぎ、食事を終えるとすぐに訪ねて来た。公爵は彼の様子をひと目見ると、すくなくともこの人は事情を、誤りなく知っているに違いない、――またどうして知らぬはずがあろう、この人にはヴァルヴァーラとか、プチーツィンとかいう、りっぱな助手がついているのだもの、と考えた。けれど、公爵とガーニャの関係は、一種不思議なものであった。もちろん、公爵は彼に、ブルドーフスキイ事件の調査を委託して、そのために折り入って懇願したほどであるが、こうした信頼や、以前の関係などがあるにもかかわらず、おたがいになにもいいだすまいと約束でもしたようなところが、いつもふたりのあいだにちらほら見えていた。しかし、どうかすると公爵は、『もしかしたらガーニャがみずから進んで、いささかもわだかまりのない至情を披瀝したようなまじわりを求めているのではないか』と思われることがあった。たとえば、今も今とてガーニャが入って来るやいなや、今この瞬間こそすべての点でふたりのあいだの厚氷を打ち砕くべき時だといったふうの固い確信を、ガーニャの顔色に読めたような気持ちがした(もっとも、ガーニャは妙にせかせかしていた、というのは、妹のヴァーリャがレーベジェフのところで彼を待っていたからである。ふたりともなにかの用事で先を急いでいた)。
 けれど、もしガーニャが公爵のもどかしそうな質問や、われともなしに出て来る報告や、隔てのない心情の吐露などを期待していたとすれば、それはむろん非常な間違いである。この二十分の訪問のあいだじゅう、公爵はひどく考えこんで、ほとんどぼんやりしてるといっていいくらいであった。待ちもうけていた数々の質問、というよりむしろガーニャが待ちのぞんでいたある一つの重大な質問は、とても出そうになかった。で、ガーニャもすこし控え目に話そうと腹をきめて、二十分間というもの、口を休めずに、ごく軽い罪のないおしゃべりを早口につづけたが、重大な点には触れずに終わった。
 ガーニャはなにかの話のついでに、ナスターシヤがこのバーヴロフスクヘ来てから、たった四日ばかりにしかならぬのに、早くも世間の注意をひいていることを物語った。彼女はどこかマドロス街にあるダーリヤの粗末な小家に住んでいるが、その馬車はバーヴロフスク一番といいたいようなものである。彼女の周囲には、早くも老若の崇拝者が群れをなして集まり、どうかすると、騎馬の人が彼女の幌馬車に付き添っていることがある。ナスターシヤは以前のようになかなか穿鑿が厳しくて、仔細に吟味したうえで自分のそばへ近づけているのだが、それでもすでに一小隊くらいの人数ができて、まさかのときに頼る人は十分あるということだった。別荘ずまいの連中のうちで、もはや正式に婚約のできたある男が、彼女のために早くも相手の娘と口論したとか、ある年とった将軍が息子に対してほとんど呪いの言葉を浴びせたとか、うわさとりどりである。彼女はよくひとりの美しい少女を連れて乗りまわす。それはやっと十六か十七くらいの年ごろで、ダーリヤの遠縁に当たるとのことであった。この少女は非常に歌がうまいので、その小さな家は、夜ごとに通行の人の注意をひいている。とはいえ、ナスターシヤは貴婦人として恥ずかしからぬようにふるまって、身なりの好みもけばけばしくないばかりか、人なみ優れた趣味が現われているので、貴婦人たちはその趣味、美貌、幌馬車をしきりにうらやましがっている。
「ゆうべの突飛なやり口は」とガーニャは口をすべらした。「むろん、前々から企んでいたことですから、勘定に入れるわけにゃいきません。なにかあのひとに突っかかって行くのには、ことさら妨害運動をするか、それとも悪口でもしなけりゃなりませんが、それも、しかし、猶予しちゃいけません」とガーニャは結んだが、きっと公爵が、『なぜ昨夜の出来ごとを前々から企んでいたことというのか、そしてなぜ猶予してはならぬのか』ときくだろうと思ったのである。しかし、公爵はなんにもきかなかった。
 エヴゲーニイのことに関しては、べつになんともきかれぬ前から、ガーニャは長々と報告した。それも、なんのきっかけもなしにふいと持ち出したのだから、はなはだ具合が変であった。ガーニャの意見によると、エヴゲーニイは以前もナスターシヤを知らなかったし、今だって顔に見覚えがあるかないか、わからぬくらいである。なぜなら、彼はつい四日ばかりまえ散歩に出たとき、だれかからナスターシヤに紹介されて、一度その家へ寄ったことがあるにすぎない、しかも、ほかに連れがあったのである。例の手形の件は、ありそうなことである(ガーニャはこれを摧実に知っていた)。エヴゲーニイの財産の莫大なのは、言をまつまでもないが、『領地のほうの財政は、いくぶんか乱脈になっている………』といいさして、ガーニャはこの興味ある事実の報告をぷつりと断ち切った。ナスターシヤの昨夜の突飛な行動については、彼は右にちょっと述べたことのほか、ひとことも口に出さなかった。やがて、ヴァルヴァーラが兄につづいて入って来て、一分間ばかりすわっていたあいだに、やはりきかれもしないさきから、次のようなことを知らせた。エヴゲーニイはきょうあすのうちにペテルブルグへ行くし、夫のプチーツィンも同じくエヴゲーニイの用事で、同じくペテルブルグへ出発するはずである。じっさい、なにやら事件が持ちあがったらしい。彼女が帰りしなにつけ足したところによると、リザヴェータ夫人はきょうおそろしく不機嫌だが、なにより変なのは、アグラーヤが家じゅうのものと喧嘩したことで、しかも父将軍や母夫人ばかりが相手でなく、ふたりの姉たちとも言いあらそいをしたのである。『これなどはまったくよくないことで
すわ』とヴァルヴァーラはいった。ちょっと話のついでのようにこの最後の事実(公爵にとってはきわめて意味ぶかい事実)を報告すると、兄妹はいとまを告げて出て行った。『パグリーシチェフの息子』事件に関しても、ガーニャはやはり、ひとことも口にしなかった。それはうわっつらばかりの遠慮のためか、さもなくば『公爵の心持ちを察して』のことかもしれぬ。しかしとにかく、公爵は彼の骨折りで事件の落着したことを、あらためて礼をいった。
 やっとのことでひとりきりにしてもらえたのを喜びながら、公爵は露台をおりて往来を横切り、公園へ入った。どんなふうに『第一歩』を踏み出すべきかを熟考し、解決したかったのである。けれど、この『第一歩』は熟考すべき種類のものではなく、熟考せずにただただ決行すべき性質のものであった。にわかに彼は、こんなことをいっさいふり棄てて、もと来たほうへ引っ返し、どこか遠い田舎にでも引っこんでしまいたい、今すぐ、だれにも別れを告げずに立って行きたい、という激しい欲求を感じた。もう二、三日でもここにぐずぐずしていたら、この世界へ永久に引きずりこまれて、この世界が生涯の運命となってしまうだろう、と彼は痛感したのである。しかし、十分と考えないうちに、逃げ出すことは不可能だ、これは自分の意気地なさから出たことだ、自分の前にはある問題が展開していて、それを解決しないのは、すくなくともその解決に全力をそそがないのは、今の自分として許されないことだ、と、はらを決めた。こうした想念をいだいて家へ帰ったが、十五分間とは散歩しなかったのである。このとき彼は、じつにじつに不幸な人間であった。
 レーベジェフがやはりまだ不在だったので、夕方ケルレルは首尾よく公爵のところへ押しかけて来た。酔っぱらってはいなかったが、感慨にたえないという調子で、心情を吐露しながら懺悔話をはじめた。彼はぶっつけに公爵に向かって、自分は公爵に今までの仝生涯を話しに来た。パーヴロフスクヘ残ったのもそれがためだといった。この男を追い出すのは所詮不可能であった。彼はどんなことがあろうと出て行きそうになかった。ケルレルは長々と、とりとめない話をしそうな様子であったが、ふいに、まだ二口か三口しかいわぬうちに、もう結論へ飛び越してしまい、自分はあらゆる道徳の幻影を失って(それはもっぱら上帝に対する不信から生じたものであるが)、ついには盗みをするまでに立ちいたった、とうち明けた。
「あなたはほんとうに想像がつきますか!」
「ねえ、ケルレル君、ぼくだったら特別な必要もないのに、そんなことを自白しませんがねえ」と公爵はいいかけた。「もっとも、きみは自分にいいがかりをしておられるのかもしれませんね」 「いや、これはあなただけです、あなたひとりだけに、自分の精神的発育を助けたいと思っていうのです! ほかの人にはけっして口外することじゃありません。死ねば、この秘密は経帷子の下へ持って行きます! しかし、あなたはごぞんじないかもしれませんが、とてもごぞんじはないでしょうが、現代において金をもうけるってことは、じつにむずかしいもんですなあ! どこへ行けば金が手に入るんです、ひとつうかがいたいですよ。こういうと、いつも返事はただ一つです。『黄金か、ダイヤモンドを持って来い、それを抵当に金を貸してやろう』とこうです。つまり、わが輩の持ってないものばかり注文するんです。あなた、これが想像できますか? わが輩はとうとう腹を立てて、いつまでもじっと立ってたです。『エメラルドの抵当で貸してくれますかね』ときくと、『エメラルドなら貸そう』『いや、それはなによりだ』といってわが輩は帽子をかぶって外へ出ましたよ。ちぇっ、あんちくしょう、あいつらみんな悪党だ! ええ、そうですとも!」
「ところで、きみはほんとうにエメラルドを持ってたんですか?」
「どんなエメラルドをわが輩が持ってるとおっしゃるんです! いや、公爵、あなたはまだ光明的に、無邪気に、いわば牧歌的に人生を見てますね!」
 公爵は気の毒なというより、なんとなく良心のとがめを感じてきた。彼の胸にふとこんな考えが浮かんだ。『だれかの善良な感化の力を借りて、この男をなにかに仕立てあげることはできないかしらん?と思ったが、自分の感化は二、三の原因できわめて不適当であると考えた、――それは自卑心から出たことではなく、彼の特殊な物の見かたによるのである。だんだんとふたりは話に油が乗って、別れるのがいやなほどになった。ケルレルはしゃあしゃあとした平気な調子で、どうしてこんなことが話せるか、とても想像のつかぬようなことを自白するめで。あった。彼は新しい物語にかかるたびに、心に慚愧の涙が満ちあふれていると、むきになって誓った。そのくせ、彼の話しぶりは、自分のしたことを自慢しているような具合で、どうかするとふたりともきちがいみたいに、大きな声で笑い出さずにいられないほどおかしいことがあった。
「しかし、きみにはどこか子供らしいほど人を信じる心持ちと、なみはずれて正直なとどろがあります。それが大切なんですよ」最後に公爵がこういった。「まったくきみはこれだけでも、ずいぶん償いができるというもんです」
「わが輩は高潔です、高潔です、騎士のように高潔です!」とケルレルは夢中になって念を押した。「ところが、公爵、こんなことはみんな心の中で考えるだけで、いわゆるから元佩にすぎない。じっさいに現われるのとはまるで違うというのは、どうしたわけでしょう? 合点がゆかんです」
「そう落胆したものじゃありません。いまきみは自分の秘密をすっかりぼくにうち明けなすった、とこう罹実にいえますね? すくなくとも、きみがいま話されたものに、なにも補足することはできないでしょう? そうでしょうね?」
「できない?!」となにかしら哀れむような声で、ケルレルが叫んだ。「おお、公爵、あなたはまだそれほどまで、その、スイス的に人間を解釈されるんですか」
「まだなにかつけ足すことができるというんですか?」と臆病げな驚きの表情で公爵は問い返した。「じゃ、いったいきみはぼくから何を期待してたんです、どうぞいってください、それに、なんのためにぼくのとこへ来て、懺悔なんかしたのです?」
「あなたから? 何を期待していた? だいいち、あなたの淳朴な心を見ているだけでも愉快です。あなたと対座して話しをするのが愉快なんです。すくなくとも、いまわが輩の前にいるのは、最も善徳な人だということがよくわかりますからね……ところで、第二には……第二には……」
 と彼は文句につまった。
「たぶん金でも借りたいと思ったんでしょう」と公爵はまじめで単純な、それどころかいくぶん臆病げな調子で助言した。
 ケルレルはぎくっとした。彼は以前見せたような驚きの色を浮かべて、ちらりと公爵の目をまともにながめたが、やがて拳をもって強くテーブルをたたいた。
「これだ、この調子であなたは人の度胆を抜いてしまわれるんですよ! ね、公爵、お手柔らかに願いますよ。ふだんあんなふうな、黄金時代にも聞いたことのないような、淳朴で無邪気な態度をとっていられるかと思うと、にわかにそんな深刻な心理観察の矢でもって、人の心を突き通されるんですものね。が、失礼ながら、これには説明を要します。なぜというのに、わが輩は……わが輩は……いや、すっかり面くらっちまった! もちろん、究極の目的は、詮ずるところ、金を借りるにあるんです。しかし、あなたがいま金のことをきかれた調子は、まるでそんなことはすこしもとがむべきじゃない、それが当然だ、といったような具合でしたものなあ」
「ええ……きみとしてはそれが当然です」
「憤慨もなさいませんか?」
「ええ……なんだって?」
「まあ、聞いてください、公爵、わが輩がゆうべからここへ居残ってるのは、第一、フランスのブルダルウ大司教に敬意を表するためなんです(レーベジェフのところで三時まで酒燈の栓を抜きましたよ)。ところで、第二は(わが輩のいうことが正真正銘まちがいなしということは、ありとあらゆる十字架にかけて誓います!)わが輩がここへ居残ったのは、あなたにすっかり心の底から懺悔して、おのれの精神的発達に資せんがためだったんです。こういう考えをいだきながら、わが輩は涙にかきくれつつ、三時過ぎに寝ついたんです。このときのわが輩が高潔無比な人間であったことは、信じてくださるでしょうな。ところで、わが輩がこうして真底から、内面的にも外面的にも涙に暮れながら、(というのは、わが輩そのとき、とうとうしゃくりあげて泣いたからです、じっさい!)さて、いよいよ寝つこうとしている瞬間に、『どうだろう、最後にあの男から金を借りることはできんだろうか、懺悔をしたあとで』という憎むべき考えが浮かんで来たのです。こういう具合で、わが輩はなにかの『愁嘆場』みたいなふうに懺悔の腹案をしたのです。つまり、その涙で路を歩きよくしておいて、あなたが惻隠の情を起こしたときに、百五十ルーブリほど出させようと思ったのです。あなた。これを卑劣だとは考えませんか?」
「いや、それはきっとほんとうじゃないでしょう。これはその二つの事実が偶然いっしょになったのです、二つの考えが一時に浮かんだのです、よくあるこってす。ぼくなんかしょっちゅうですよ。それにしても、よくないことだと思いますね、そして、ケルレル誰、ぼくはなによりもこの点で自分を責めています。きみはまるでぼく自身の話をされたようですね。ぼくは時とすると、こんなふうに考えることがありますよ」公爵は深い興味を呼びさまされたかのように、おそろしくまじめな、誠実な調子で言葉をついだ。「つまり、『人間というものはだれでもそうだ』というのを口実にして、自分の行為を是認するようにさえなりかけたのです。なぜって、この二重[#「二重」に傍点]思念というやつを敵にして戦うのは、非常にむずかしいことですものね、ぼく覚えがありますよ。どこからやって来るのか、どうして生まれるのか、まったくはかりしることができません。ところで、きみは直截に卑劣だといわれる!そういわれてみると、ぼくはまたこの二重思念が怖くなりだしそうですよ。しかし、ぼくはきみの裁判官じゃありませんが、それにしてもぼくの考えでは、これを卑劣だといきなりいい捨てるわけにいかない、きみはどう考えます? きみは涙で全を引き出そうという奸策を講じた。しかしきみの懺悔にはまだほかに高尚な、金銭以外の目的があったと、現にいまきみ自身で誓ったじゃありませんか。ところで、その金のことですが、それはおそらく遊興に要るんでしょうね? そうだとすれば、あんな懺悔をしたばかりのきみとして、もちろんだらしない考えですよ。しばらく遊興から遠ざかるというのはどうです? やはり不可能ですか。どうしたらいいんでしょう? 結局、きみ自身の良心に委せるのが最上策でしょう、なんと考えます?」
 公爵はひととおりならぬ好奇心をもってケルレルをながめた。見たところ、二重思念の問題は前から彼の心を領していたらしい。
「いったいこんなあなたのような人を、なぜ白痴《ばか》白痴《ばか》というんでしょう、わけがわからん!」とケルレルは叫んだ。
 公爵はぽっと顔を赤くした。
「ブルダルウ大司教ですな、ああいう人でさえこんな男をゆるしはしなかったでしょう。ところが、あなたはわが輩をゆるしたうえに、人道的に裁断してくだすった! わが輩は自分に対する罰として、かつはわが輩が非常に感動したことを証明するために、百五十ルーブリを撤回しますから、どうぞ二十五ルーブリだけください、それでたくさんです! それだけあれば、すくなくとも、二週間はわが輩にとって十分です。二週間たたないうちに、金なんかけっしてねだりに米ません。じつはアガーシュカのご機嫌をとってやろうと思ったんですが、あんなやつ、それだけの価値がありません。おお、親愛なる公爵、ねがわくは神の祝福を受けたまえ!」
 たったいま帰ったばかりのレーベジェフが、そのうちにいよいよ入って来た。そして、ケルレルの握っている二十五ルーブリ札をみて、ちょっと顔をしかめた。けれども、金良平に入れたケルレルは大急ぎで逃げ出し、たちまち姿を消してしまった。レーベジェフはさっそく彼の讒訴《ざんそ》をはじめた。
「きみのいうことは公平を欠いています、あの人はほんとうに後悔しましたよ」最後に公爵はこう注意した。
「ですが、そんな後悔がなんです? ちょうどゆうべわたしが申したのと同じです!『卑劣です、卑劣です』というけれど、それはただ口さきだけです」
「じゃ、きみがああいったのは、口さきだけだったんですか、ぼくはまた……」
「では、ひとつあなたに、まったくただあなただけにほんとうのことを申します、あなたは人の腹ん中をお見通しなさいますからね。口さきも実行も、-うそもまことも、わたしの心の中じゃみんないっしょになっていて、みんなほんとうなのです。まことと行ないとは、ほんとうに心から後悔したときに出て来るのです。ほんとうになさろうと、なさるまいとご勝手ですが、わたしはけっしていつわりは申しませんので。ところが、うそと口さきは、どうかして人をつってやろう、後悔の涙で泣きおとしにかけてやろうという、鬼のような(といっても、だれしもありがちな)考えをおこしたときに出て来るのです。いや、まったく、そうしたもんです。ほかの者にはけっしていうところじゃなかったのです。いえば、笑うか唾を吐きかけるかします。けれど、公爵、あなたは人道的に判断なさいますので……」
「おや、たった今もあの人が、それと寸分ちがわないことをいいましたよ」と公爵は叫んだ。「それに、きみがたはふたりとも、まるで自慢でもするような調子ですね! きみがたにはあきれてしまいますよ。ただあの人のほうがきみよりも真実です。きみはまったく一個の職業にしてしまっています。いや、もうたくさん、レーベジェフ君、そんなに顔をしかめるのはよしてください、そして手を心臓に当てるのも……きみはなにかいうことがあるんじゃないんですか。ただやって来るわけはないでしょう……」
 レーベジェフは顔をしかめて、からだを縮こめた。
「ぼくはひとつきみにたずねたいことがあって、いちんちきみの帰りを待ってたんですよ。せめて一生に一度だけでも、最初からほんとうのことを答えてください。きみはあの昨夜の馬車事件にいくぶんか関係があるんでしょう」
 レーベジェフはまたもや顔をしかめて、ひひひと笑いながら、もみ手をし、くしゃみまでして見せたが、それでもまだ容易に口をきろうとしない。 「関係があるらしいふうですね」
「けれど、ほんの間接に、まったくただ間接にちょっと。わたしはほんとうに間違いのないとこを申しております。わたしが関係したというのは、ただわたしどもへ今こうした集まりがあって、その中にはこれこれの人がおられますということを、例のかたにおりを見計らってお知らせしただけなんで」
「ぼくは、きみが息子さんをあすこ[#「あすこ」に傍点]へ使いにやったのを知ってます。本人がさっきぼくにそう言いました。しかし、まあ、なんという小細工だろう!」と公爵はこらえかねて叫んだ。
「それはわたしのふ細工じゃございません、違います」とレーベジェフは両手を振った。「まったく別な人たちです、別な人たちです。それに、これは小細工と申すよりも、むしろその……空想のさせたわざでございます」
「ほんとにどうしたわけなんです、後生だから、うち明けた話を聞かしてください。これが直接ぼくに関係しているってことが、いったいきみにはわからんのですか。それに、エヴゲーニイさんの面目をつぶすようなことをしてるじゃありませんか」
「公爵、公爵のご前さま!」とレーベジェフはまたしてもからだを縮めて、「だって、あなたがわたしにほんとうのことを、そっくりいわしてくださらないのじゃありませんか。まったくのところ、わたしがあなたにほんとうのことを申しあげようとしたのは、一度や二度じゃございません。それでも、あなたはしまいまでいわせてくださらなかったので……」
 公爵はしばらく黙って考えていたが、
「じゃ、よろしい、ほんとうのことをいってごらんなさい」と重々しくいいきったが、、それまでにはだいぶ激しい心内の闘争があったらしい。
「アグラーヤさまが……」レーベジェフはさっそくきり出した。
「お黙んなさい、お黙んなさい!」と公爵は声あららかに叫んだが、その顔は怒りのために(あるいは羞恥のためかもしれぬ)真っ赤になった。「そんなことのあるはずがない、それはみんなでたらめです! それはみんなきみか、でなければきみのような気ちがいの考え出したこってす。ぼくは今後、けっしてきみからそんなことを聞かないから、そう思ってください!」
 その晩おそく、もう十一時近いころに、コーリャが新しい報告をしこたま持って来た。彼の報告はペテルブルグに関するものと、パーヴロフスクに関するものとふたとおりであった。ペテルブルグのほうはまたのちほどゆっくり話すつもりで、コーリャは大急ぎで、ごくかいつまんでの話をしたのち(それは主として、イッポリートと昨夜のできごととに関するものであった)、すぐさまパーヴロフスクの問題に移った。彼は三時間ばかり前にペテルブルグから帰って来たが、公爵のところへは寄らずに、すぐエパンチン家へおもむいた。『ところが、そこはまるでめちゃめちゃ』なのである。もちろん、そのおもな原因はあの幌馬車のことであったが、しかしそのほか、まだ彼にも公爵にもわからないことがなにかおこったに相違ないらしい。『ぼくはむろん、スパイなんかしやしなかったんですから、だれにも根掘り葉徊りきこうとは思わなかったのです。でも、ぼくが行ったら、なかなか歓待してくれましたよ。じっさい、思いがけないくらい歓待してくれた。でもね、公爵、あなたの話はひと口も出ませんでした!』とコーリャは報告した。
 が、なによりも不思議で重要なのは、さきほどアグラーヤがガーニャの肩を持って、家族のものと口論したことである。詳しい事情は知るよしもないが、とにかくガーニャの肩を持ったのは事実である。(まあ、いったいどうしたことでしょう! とコーリャがいった)。しかも、その口論がずいぶん猛烈だったから、なにか重大な事柄に相違ない。将軍は遅れてやって来た。エヴゲーニイと連れ立って来たのだが、不機嫌らしく眉をひそめていた。ところが、エヴゲーニイは一同から歓迎され、おそろしく快活で愛嬌があった。最も内容に富んだ報告は、リザヴェータ夫人がヴァルヴァーラを追い出した頤末である。夫人は、令嬢たちのところへすわりこんで話しているヴァーリャを自分の居間へ呼び寄せ、いたってもの静かな慇懃な調子で、永久にこの家へ足踏みしないように命じた。『ぼく、本人のヴァーリャから聞いたんです』とコーリャは、注を入れた。しかし、ヴァーリャがリザヴェータ夫人のもとを去って、令嬢たちと別れを告げたとき、令嬢たちは、彼女が永久に訪問をことわられて来たことも、これが最後の告別だということも知らなかった。
「けれど、ヴァルヴァーラさんは七時ごろに、ぼくのとこへ来ていらしったんですがね」と公爵は驚いてたずねた。
「しかし、追ん出されたのは七時すぎか、八時くらいでした。ぼくはヴァーリャとガーニャが、かわいそうでたまらないんですよ……あのふたりはいつもなにか悪企みをやってるに相違ない、そんなことでもしないじや、いられないんですからね。しかし、何を企んでるやら、ちっともわかんない、またわかろうとも思いませんよ。ですけどね、ぼくの大好きな公爵、誓ってもいいです、ガーニャには良心があります。にいさんは多くの点から見て滅びた人だけど、また多くの点において、さがして見つけ出してやるだけの価値のある性質をもっています。ぼくはもとあの人を理解しなかったのを、許すことのできない誤ちだったと思います……けれど、今ヴァーリャの一件をお話ししたあとで、ぼくとしてこのさきをつづけて話したもんでしょうかねえ。じっさい、ぼくはごく最初からぜんぜん独立して離れた立場にいたんですが、それでもやっぱり考えないといけませんものね」
「きみ、そんなににいさんを気の毒がっても、しようがないじゃありませんか」と公爵は注意した。「もし事件がそれほどまでに進行したものとすれば、ガヴリーラさんはリザヴェータ夫人の目にも、危険だと思われるようになったんでしょう、つまり、あの人のあの期待は裏書きされたわけなんでしょう」
「期待ってなんです、どんな期待です?」とコーリャはびっくりして叫んだ。「もしやあなたは、こんなことを考えてらっしやるのじゃありませんか、アグラーヤさん……が、そんなことのあろうはずがありません!」
 公爵は黙っていた。
「あなたは恐ろしい懐疑派ですね、公爵」二分間ばかりののちに、コーリャはつけ足した。「ぼく、なんだかあなたがいつごろからか、非常な懐疑派になったような気がしてなりません。あなたは何ものも信じないで、いつも臆測ばかりするようにおなんなさいましたよ……でも、ぼくがこの場合『懐疑派』という言葉を使ったのは、ほんとうに正確だったでしょうか?」
「正確なんでしょうね。もっとも、ぼく自分でもほんとうのことはわかりませんがね」
「ですが、ぼくのほうから『懐疑派』という言葉は撤回します。そのかわり新しい説明を見つけました」とふいにコーリャが叫んだ。「あなたは懐疑派でなくって、やきもちやきです! あなたは、ある高慢ちきなお嬢さんのことで、ガーニャにひどくやきもちを焼いてらっしゃるんです!」
 コーリャはいきなり飛びあがって、今までおそらくこんな笑いかたはできなかったろうと思われるほど、気持ちよくからからと高笑いした。公爵が顔中真っ赤になったのを見ると、コーリャはいっそう声高に笑いだした。公爵がアグラーヤのことでやきもちを焼いているという考えは、おそろしくコーリャの気に入ったのである。しかし、公爵が真剣に煩悶しているのに気がつくと、彼はすぐに笑いやんだ。それから、ふたりはまじめな心配らしい調子で、まだ一時間か一時間半ばかり話しつづけた。
 翌日、公爵はあるのっぴきならぬ用事で、午前中をペテルブルグに過ごした。もう午後の四時すぎたころ、彼はパーヴロフスクヘの帰途についたが、停車場でぱったりエパンチン将軍に出くわした。彼はいきなり公爵の手を取って、なんとなくびくびくしたようにあたりを見まわしながら、いっしょに帰ろうといって、公爵を一等車のほうへひっぱって行った。彼はなにやら重大な事がらで談合したいと、いっしょうけんめいなのであった。
「ねえ、公爵、まずどうかわたしに腹を立てないでくれたまえ。もしわたしがなにか悪いことをいったりしたりしたら、それも水に流してくれたまえ。わたしはゆうべきみのところへ訪ねて行こうと思ったんだが、ただこのことについてリザヴェータがどういうかわからなかったもんだからね……うちは……まるで地獄さ。なにか謎のようなスフィンクスの棲家になってしまったよ。わたしはただうろうろするばかりで、なんにもわからない。きみ一身に関していえば、わたしの考えでは、きみはわれわれのうちでいっとう罪が軽い。もっとも、きみのためにいろいろごたごたもおきたのはもちろんだがね。まったく、公爵、博愛家になるのは愉快なものに相違ないが、その愉快もたいしたものじゃないね。しかし、わたし自身もあるいは禁制の木の実を食べたほうかもしれないて。わたしはむろん善を奸むから、したがってリザヴェータをも尊敬している、が……」
 イヴァン将軍はまだそれから長いあいだ、こんな調子で話しつづけたが、その言うことは驚くばかりとりとめがなかった。極度に不可解なもののために昏迷し、惑乱しているらしかった。「きみがこの事件になんのかかわるところもないのは、わたしにとって微塵うたがいの余地もないさ」彼はやっとのことでいくらか明瞭に語りだした。「しかし、当分のあいだ、うちを訪ねないようにしてくれたまえ、このさき風向きの変わるまでね、親友としてお願いするのだから。ところで、あのエヴゲーニイ君のことにいたっては」と、彼はなみなみならぬ熱をもって叫んだ。「あれはなんの意味もない讒謗だ。讒。謗も讒謗、恐ろしい讒謗だ! あれはいいがかりだ。これにはなにか企みがある、すべてを瓦解させ、われわれを反目させようという手段だ。じつはね、公爵、これはここきりの話だが、われわれとエヴゲーニイ君とのあいだには、まだひと言もきり出されてないのだよ。わかるかね? われわれはなにものにも束縛されてはいない、――しかし、このひと言はいまにきり出されるかもしれない、もうすぐ近いうちに。こういうわけだから、これにじゃまを入れようという悪だくみなんだ! しかし、なんのために、なんのわけでというと、わたしは、さっぱりわからん。恐ろしい女、無鉄砲な女、わたしは夜もおちおち寝られんほどあの女がこわい。それに、あの馬車はどうだね、それに白い馬、まったくシ″クだ、じっさいあれはフランス語でいうシックじゃないか。だれがあの女に買ってやったものだろう? じつのところをいうとね、罪なことだが、わたしはおとといエヴゲーニイ君に疑いをいだいたよ。しかし、それはありうべきはずがないということがわかった。もしそんなことがないとすれば、なんのためにあの女はこのさい、じゃまを入れようとするのだ?ね、ね、じっさい、謎じゃないか! あの女が自分のそばヘエヴゲーニイ君を引きつけておきたいのか、しかし、またくりかえしていうが、同君はあの女と知り合いでもなんでもない。これはわたしがきみに誓ってもいい。そして、あの手形うんぬんはまったく捏造《ねつぞう》だ! あの往来ごしに大きな声で『あんた』呼ばわりをした、あの図々しい態度はどうだ! 純然たる奸策だ! わかりきったことだ、侮蔑をもって否定すべきことであり、またエヴゲーニイ君に対しては、尊敬を倍加すべき愚かなことだ。わたしはリザヴェータにもこのとおりにいっておいた。では、今度はわたしの極秘を聞かしてあげよう。わたしのかたく信ずるところでは、これはあの女
が以前のわたしの行為に対して、個人的復讐心からやったことではなかろうか。もっとも、わたしはけっしてなにもあの女に対して悪いことをした覚えはないけど、ただある一事を思い出しては赤面しているのだ。ところが、今となって、またしてもあの女が飛び出して来た。わたしはもうすっかり消えてなくなったものと思っておったに。いったいあのラゴージンはどこにいるのかね、お願いだから教えてくれたまえ。わたしはもうとうにあの女[#「あの女」に傍点]はラゴージン夫人かと思っておった」
 てっとり早くいえば、この人はすっかりとほうにくれているふうであった。道みち一時間ばかり、彼はほとんどただひとりで話しつづけ、さまざまな疑問を提出しては自分でそれを解決し、しょっちゅう公爵の手を握りしめるのであった。そして、いかなる件についても公爵に嫌疑をかけようなどとは思いもそめぬと、すくなくともそのことばかりいっしょうけんめいに誓った。これが、公爵には重大な意味を帯びて響いた。いちばんしまいに将軍は、ペテルブルグのある役所で長官を勤めているエヴゲーニイの親身の叔父に関する物語をした。
「なかなか羽振りのいい人で、年は七十からになるが、好色漢《すきもの》で、くい道楽で、なかなかの苦労人さ……はは! わたしはよく知ってるが、この人がナスターシヤのうわさを聞いて、手に入れようと骨を析ったものだ。先刻ちょっと寄ってみたが、加減が悪いとかで面会できなかった。しかし、金持ちでね、じっさい金持ちだ、そして位も高いし……まあ、どうか精々達者で長生きされるように! だが、なんといっても、遅かれ早かれエグゲーニイ君の于に入るのさ……さよう……しかし、わたしはそれでもやはりこわい! なんだかわからんがこわい……なにかしら空中を翔《かけ》っているものがあるような気がするんだ。ちょうど、こうもりかなんぞのように、災難が飛んでいるような……こわい、こわい!………」
 それからわれわれがすでに述べておいたごとく、ようやく三日目にエパンチン家とムイシュキン公爵とのあいだに、公式の和解が成立したのである。

      12

 午後七時ごろであった。公爵が公園へ出かけようとしているところへ、ふいにリザヴェータ夫人がたったひとり、彼の露台へ入って来た。
「一番に[#「一番に」に傍点]ことわっておきますがね」と彼女は口をきった。「わたしがあやまりに来たなんて、虫のいいことを考えないでちょうだい。ばかばかしい! なにもかもすっかりあんたが悪いんです」
 公爵は黙っていた。
「悪いの、惡くないの?」
「ええ、ちょうどあなたと同じくらいに。しかし、ぼくもあなたも意識的にはけっしてなにも悪いことなどしていません。ぼくはおととい自分が悪いと考えましたが、今はそれが間違いだという判断がつきました」
「まあ、あんたはそんなこと! ま、ま、ようござんす、わたしのいうことをお聞きなさい、そして、腰でもおかけなさいよ。わたしもここに突っ立ってる気は毛頭ありませんからね」
 ふたりは席に着いた。
「それから第二には[#「第二には」に傍点]、あの憎らしい小僧っ子どものことを、ひとことも口に山しちゃなりませんよ! わたしは十分間ここにすわって、あんたと話をしますからね。わたしはあんたにききたいことがあって来たんですよ(いったいあんたなんだと思ったの?)だから、もしあんたがただのひと言だろうと、あの生意気な小僧っ子どものことをおくびにでも出したら、わたしはすぐに立って出て行きます。そしたら、もうすっぱりあんたと絶交ですよ」
「いいです」と公爵は答えた。
「じゃ、ひとつききますがね、あんたはふた月か、ふた月半くらい前、復活祭のころアグラーヤに手紙を送りましたか」
「か、かきました」
「どんな目的があって? 手紙にはなにが書いてあったの?その手紙を見せてちょうだい!」
 リザヴェータ夫人の目はぎらぎらと燃え、からだはもどかしさにふるえんばかりであった。
「手紙はぼくのとこにありません」と公爵は度胆を抜かれて、急におじけづいた。「まだそっくりあるとすれば、アグラーヤさんとこにあるはずです」
「ごまかすんじゃありません! 何を書いたんです?」
「ぼく、何もごまかしもしなければ、恐れもしません、なにもぼくがアグラーヤさんに手紙を上げてはならぬってわけはないと思いましたから……」 「お黙んなさい! あとでなんとでもおっしゃい、手紙にはなんと書いてありました? なんだってあんた赤い顔をするの?」
 公爵はちょっと考えて、
「奥さん、ぼくにはあなたのお考えがわかりませんが、ただこの手紙がたいへんお気にさわったらしいことだけはわかります。ね、そうじゃありませんか、そんな問いに答えるのは、ぼくおことわりしたかもしれないんですよ。しかし、ただぼくがあの手紙のことを恐れてもいなければ、それを書いたのを後悔してもいず、またけっしてそれがために赤い顔もしないということを知っていただくために(こういった公爵の顔は前に倍して赤くなった)、あなたにその手紙を読んでお聞かせしましょう、たぶん暗記していると思いますから」
 こういって、公爵はほとんど一字たがわず手紙を暗誦した。
「なんてばかなこったろう? そんなでたらめになにか意味があると思ってるんですか?」と異常な注意をもって聞き終えた夫人は、言葉するどくたずねた。
「自分でもしっかりとはわかりません。しかし、ぼくの感情が真実だったとは思います。あの時分、ぼくはよく生命の希望に充ちた瞬間をたびたび経験しましたから」
「どんな希望?」
「どうも説明しにくいですが、ただあなたがいま考えておられそうなのとは違います。希望……って、つまり未来の希望、つまりその、あるいは自分もあすこで[#「あすこで」に傍点]まんざら縁もゆかりもない他人ではないかもしれぬ、といったふうな歓喜の希望なんです。ぼくは生まれ故郷のこのロシヤが、ふいに大好きになったのです。それで、ある太陽のかがやかしい朝ペンを取って、アグラーヤさんにあてた手紙を書いたんです。なぜアグラーヤさんにあてたかってことは――自分でもわかりません。まったく人はどうかすると、自分のそばに親友がいてほしいと思うことがあるでしょう。ぼくもやはり親友がほしくなったものと見えます……」しばらく無言ののち、彼はこうつけ加えた。
「あんたほれたんじゃないの?」
「い、いいえ。ぼく……ぼくは妹にあてるようなつもりで書いたのです。だから、署名も兄よりとしました」
「ふ、わざとでしょう、わかってますよ」
「ぼくはそんな問いにお答えするのが、つらくてなりません、奥さん」
「つらいのはわかってます、だって、あんたがいくらつらくたって、ちっともわたしの知ったことじゃありません。さ、わたしのいうことを聞いて、神さまの前に出たつもりでほんとうのことをいうんですよ。あんたうそをついてますか、ついてませんか?」
「ついてません」
「ほれていないってのはほんとうですか?」
「たぶん、まったくほんとうだと思います」
「ほらほら、『たぶん』だなんて! あの小僧っ子が渡したの?」
「ぼくはニコライ・アルダリオーノヴィチに……」
「小僧っ子ですよ! 小僧っ子ですよ!」とリザヴェータ夫人は憤怒の声あらく叫んだ。「わたしはニコライ・アルダリオーノヴィチなんて、いったいどんな人やら皆目知りませんよ! 小僧っ子です!」
「ニコライ・アルダリオーノヴィチです……」
「小僧っ子だっていってるじゃないの!」
「いいえ、小僧っ子じゃありません。ニコライ・アルダリオーノヴィチです」しっかりした、とはいえ、かなり低い声でついに公爵はこう答えた。
「ええ、よござんす、公爵、よござんす! これもちゃんと勘定に入れておくから」
 彼女はいっとき興奮をおさえて、ほっと息をついた。
「じゃ『貧しき騎士』つてなんですの?」
「まったく知りません、これはぼくの関係しないことです。おおかた、なにかのしゃれでしょう」
「まあ、思いがけなくおもしろいことを聞くものだ! だけど、いったいうちの娘があんたに興味を持ったのかしら?だって、あの子は自分の口からあんたのことを『片輪』だの『白痴《ばか》』だのといったんですものね」
「ぼくにそんなことを知らせてくださらなくてもよかったんですのに」とがめるような、がほとんどつぶやくような声で公爵はいった。
「怒んなさんなよ。あの子は甘やかされて育ったものだから、我が強くってきちがいみたいな女なんだからね、――だれか気に入ったとなると、きっと大きな声で悪口いったり、面と向かってからかったりします。わたしもちょうどあれと同じような娘でしたよ。ただね、後生だから、そう得意にならないでちょうだい、あんたのものじゃありませんからね。わたしはそんなことをほんとうにしようとは思いません、またそんなことけっしてあろうはずがありません! わたしはね、ただあんたがなんとか方法をつけるようにと思って、こんなことをいうんです。ね、誓ってちょうだい、あんたはあの女[#「あの女」に傍点]と夫婦になってやしないんだね」
「奥さん、何をおっしゃるんです、とんでもないことを!」
 公爵は驚きのあまり、いすから飛びあがらんぽかりであった。
「だって、今にも結婚しかねない勢いじゃなかったの?」
「ほんとうに結婚しかねない勢いでした」とつぶやき、公爵はうなだれた。
「じゃ、どうです、そうしてみると、あの女[#「あの女」に傍点]にほれてるんでしょう! 今度もあの女[#「あの女」に傍点]のためにやって来たんじゃないの? 例のあの?」
「ぼくは結婚などのために、ここへ来たんじゃありません」と公爵は答えた。
「なにかあんたにとって神聖なものがこの世にありますか?」
「あります」

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP241-288

正確なのは、レーベジェフが例の甥をも内々尊敬していることだ!
 とはいうものの、彼がこれらの人たちについて、早計な推断をするのはどうしたことか、きょうはじめて訪問したばかりの彼が、こんな臆測をたくましゅうするのはなんとしたことか! しかし、きょうレーベジェフは彼にとって問題の人となってしまった。じっさい、彼がこんな人だとは、公爵も思いがけなかった。以前知っていた彼はこんな男ではなかった! レーベジェフとデュバルリ夫人、――まあ、これはそもそもなにごとだろう! しかし、ラゴージンがもし殺害を企てても、六人殺しの事件のような、あんな乱脈な殺しようはすまい、あんなめちゃめちゃな真似はよもやできまい。図面つきであつらえてこしらえさした兇器に、まったく前後不覚の状態におとしいれられた六人の家族! ラゴージンがそんな兇器を図面つきで特別に注文しようはずがない……ラゴージンのところには、――しかし、ラゴージンがひとを殺すとは、はたして、たしかにきまったことなのか? こう思って、公爵はふいにびくっとした。「こんな無恥で露骨な臆測をするのは、自分として一種の罪悪ではなかろうか、卑しむべきことではなかろうか!」と叫んだ。羞恥のくれないがぱっと彼の顔を染めた。彼は愕然として根の生えたように往来に立ちつくした。
 彼は一時にすべてを思いおこした。さきほどのパーヴロフスク行きの停車場、ニコラエフスキイ停車場(モスクワ息の発車駅)、『目』のことについてラゴージンに面と向かって発した問い、いま自分で掛けているラゴージンの十字架、彼が自分からさきに立って母の祝福を受けさしたこと、ついさっき階段の上でラゴージンがしてくれた最後の痙攣的な抱擁とその最後の断念、――こういうことのいろいろあったあとで、たえずあたりから何ものかをさがし出そうとあせっている自分の心持ち……それにあの店、あの一品……なんという卑劣さ! のみならず、自分はいま『特別の目的』、特別の『思いがけない想念』をいだいて、あるところへ志しているのではないか! 絶望的な苦悶は彼の心をつかんだ。彼はすぐさま自分の宿へ引っ返すつもりで、すこしそのほうへ歩き出したが、一分とたたぬうちに立ちどまり、思荼をめぐらし、また取って返して、もとの道を進んで行った。
 ついに彼はペテルブルグ区へ来た、かの家のそばちかくまでやって来た。けれども、今の彼は以前の目的、『特別な想念』をいだいて、その家をさして行くのではない! どうしてそんなことがあってよいものか! じじつ、彼の病気は再発しかかっている、これはもはや疑うまでもない。あるいはきょうじゅうにかならず発作がおこるかもしれぬ。この暗黒状態はその発作のわざかもしれず、あの『想念』なるものも発作のせいかもわからぬ! けれど、暗雲はすでに散じ、デモンは追われ、疑惑もはや消えうせて、彼の心は歓喜の情に満ちている! ただ長く彼女を見ない、ぜひ会ってみなければならぬ。それに……そうだ、今すぐにもラゴージンに会ってその手をとり、ふたりいっしょに出かけたいものだ……彼の心は清らかである、彼はけっしてラゴージンの競争者ではない! あすにも自分でラゴージンのところへおもむいて、彼女に会ったことを告げるつもりである。じっさい、かれがここへ飛んで来たのは、(ラゴージンの言葉を借りると)ただ彼女にひと目あいたいがためである! ことによったら、望みどおり会えるかもしれぬ、彼女がパーヴロフスクにいるというのは、それほど確実なことでもないのだから!
 そうだ! 今こそいっさいをきっぱり片づけねばならぬ、すべての人がたがいの心を読み合わねばならぬ、さっきラゴージンの叫んだああした悲惨な熱狂的な断念の叫びを、いっきいなくしてしまわねばならぬ、しかも、それは無理のない、自由な、そして……明るい方法で遂行せねばならぬ。ラゴージンとても光明の精神に欠けているわけではあるまい。彼は自分の口からして、おれの愛しかたはおめえのとはまるっきり違っている、おれには同情とか憐愍とかいうものがすこしもない、こんなこともいっていたし、また『おめえの愍みはおれの恋より強いかもしれない』とこうもつけ足した。しかし、彼は自分で自分に言いがかりをしているのだ。ふむ………ラゴージンが本を読みだした、――いったいこれは『愍《あわれ》み』ではなかろうか、『愍み』のはじまりではなかろうか? ただこの本が彼の手もとにあるということだけで、彼が彼女にたいする関係を完全に自覚していることが証明されるではないか? それに、さきほどの彼の物語はどうだろう? いやいや、あれは単に情欲というよりはたしかに深いものだ。いったい彼女の顔は単に人の情欲のみをそそるようにできているだろうか? それにあの顔がいま人の情欲をそそりうるだろうか? ああ、あれこそは人の同情を呼びさまさずにはおかぬ顔だ、人の心をわしづかみにせずにはおかぬ顔だ、あの顔こそは……と、にわかにやけつくような苦しい回想が、公爵の心をかすめて通った。
 しかり、苦しい回想である。彼ははじめて彼女に発狂の兆候を認めたとき、非常に煩悶したことを思いだした。そのとき彼は本当に自暴自棄的な心持ちを覚えた。女が自分のところからラゴージンのほうへ走ったとき、どうしてそのまま捨てておいたのであろう? みずから女のあとを追って走るべきであって、安閑と人の報告など待っているべきではなかったのだ。……しかし……いったいラゴージンは今まで彼女の発狂に気がつかないのだろうか。ふむ!………ラゴージンは、あらゆる事件に別の原因を、情欲的の原因ばかり見る人である! それに、あの気ちがいじみた嫉妬はなんということだ! そうして、先刻あんな臆測をしたのは、何をいおうという腹だったのか?(こう思って、公爵はふと顔を真っ赤にした、何か心臓の中でぴくっとふるえたような気がした)
 だが、なんだってこんなことを思い出す必要があるのか? これではまるで、双方から気ちがいじみた真似をし合ってるようなものだ。いったい自分が情欲的にあの女を愛するなんて、ほとんど不可能なことだ、ほとんど残酷な不人情なことだ。そうとも、そうとも! じっさいラゴージンは自分で自分に言いがかりをしているのだ。彼は苦悶することも同情を寄せることもできる偉大な心情を持っている。もし彼がことの真相をすっかり知り抜いて、あの傷つけられた半気ちがいの女がどれほどかわいそうな存在であるかに想到したら、彼とてもその時は、以前なめさせられた苦患をことごとくゆるしてしまうだろう。きっと彼女のしもべとなり、兄弟となり、親友となり、予言者となるに相違ない。そして、同情はラゴージン自身にも教訓を授け、その生涯を意味あるものとするであろう。同情こそ全人類の生活における最も重要な、あるいは唯一の法則であるのだ。おお、自分はラゴージンにたいして、なんというゆるしがたい卑劣な罪を犯していることか! あんな恐ろしいことを想像できたとすれば、暗闇なのは『ロシヤ人の心』ではなくて自分の心だ。モスクワでふたことみこと、真心のあふれた熱烈な言葉を取りかわしたばかりで、もうラゴージンは自分を兄弟と呼んでいるではないか、それだのに自分は……いやいや、しかしあれはほんの病気がいわせるうわごとだ! みんな今にきれいに落着する!……だが、さっきラゴージンが、『おれはだんだん信仰をなくする』といった声は、なんと沈んだ調子だったろう! まったくこの男はひどく苦しまなければならぬ人だ。彼は『この絵を見るのが好きだ』といったが、好きなのではなくて、つまり必然的の要求を感じているのだ。ラゴージンはけっして単なる情欲の奴隷ではない。彼はなんといっても人生の格闘者である。失った信仰を力ずくで取りもどそうとしているのだ。彼は今苦しいほど信仰の必要を感じている……そうだ! なにかしらを信じなければならないのだ! だれかしらを信じなければならないのだ! だが、あのホルバインの絵はなんて奇妙な絵だろう……あ、もうこの通りがそうなのだ! ほら、きっとあの家だ、やはりそうだった――十六番地、『十等官フィリーソヴァ女史』……ここだ! 公爵はベルを鳴らして、ナスターシヤ・フィリッポヴナに面会を求めた。
 すると、女主人が自分から出て来て、ナスターシヤはもう朝のうちからパーヴロフスクのダーリャのもとへおもむいて、『あるいは四、五日逗留するようなことになるかもしれぬ』と答えた。フィリーソヴァは小柄な、目の鋭い、顔のとがった女で、年ごろは四十ばかり、ずるそうな目つきをしてじっと公爵を見つめた。お名前はという彼女の問いに対して(彼女はこの問いになんとなくことさらしい秘密の色を匂わせたので)、公爵ははじめのうち妙に返答がためらわれた。が、すぐに気をとり直して、自分の名をよくナスターシヤに取り次いでくれと、しつこいほどくれぐれも頼んだ。フィリーソヴァは注意を傾けて、むやみと秘密めかしい顔つきをしながら、このしつこい頼みを聞いていたが、それは明らかに、『ご心配はいりません、ちゃんと心得てますよ』という腹らしかった。公爵の名前が、強い感銘を与えたものと見える。公爵はぼんやりその顔をながめたのち、くびすをめぐらし、宿へ引っ返した。けれども、彼が出た時の様子は、はじめフィリーソヴァの家でベルを鳴らしたときと、まったく違っていた。彼の心内にはふたたび、しかも瞬間的に、なみなみならぬ変化がおこったのである。彼はふたたび色青ざめて弱弱しく、思い乱れこころ悩める人のように道を歩いた。ひざ頭がぶるぶるとふるえ、にごったような頼りなげなほほえみが、やや紫いろを帯びたくちびるにただよっていた。彼の『思いがけない想念』はにわかに事実として確かめられたのである、――かくして、ふたたび彼は自分のデモンを信じはじめた。
 しかし、はたして事実となったのであろうか? はたして確かめられたのであろうか? それにしても、この心内の暗きと寒さは、このふるえは、この冷たい汗はどうしたというのだ? たった今あの目[#「今あの目」に傍点]を見たからか? しかし、夏の園《レートエイ・サード》から一直線にやって来たのは、ただただあの目を見ようがためではなかったか? あの『思いがけない想念』というのは、このことにほかならなかったのではないか。ここへ[#「ここへ」に傍点]――との家のそばへ来れば、きっとあの『けさはどの目』が見られるということを的確に信じたいがために、ここへ来たくてたまらなかったのではないか。おのが身内もふるえるほどの。激しい望みであったものを、今さらその目をほんとうに見とめたからといって、どうしてこんなにびっくりし、そわそわしているのだ? まるで思いもよらなかったことのように! ああ、これこそあれ[#「あれ」に傍点]と同じ目[#「同じ目」に傍点]である。(あれと同じ[#「あれと同じ」に傍点]だというととはもう今となっていささかも疑う余地がない!)けさニコラエフスキイ停車場で汽車をおりたとき、群集の中で光った目である。それから先刻ラゴージンの家でいすにつこうとしたおり、肩ごしに視線を捕えたあの目である(まったくあれと同じだ!)。あのとき、ラゴージンはそれを否定して、ひん曲がった氷のような薄笑いを浮かべながら、『いったいだれの目だったんだろう?』ときいたっけ。ついさきほども、公爵がアグラーヤのところへ行くつもりで汽車に乗った時(もうこれで一日のうちに三度目だ)、ツァールスコエ・セロー鉄道の停車場であの目をふと見つけた。そのときはやたら無性にラゴージンのそばへ行って、彼に[#「彼に」に傍点]面と向かって、『あれはだれの目だったろう?』といってやりたかった。けれども、彼はそのまま停車場からかけだして、例の刃物屋の店先へ来るまで振り返ってもみなかった。ここで彼はしばらく歩みをとめ、鹿角の柄のついた一品を見て、六十コペイカくらいと値踏みしたものである。こうして、かの奇怪にして恐るべきデモンはついにまったく彼に取りついて、もはや離れようとしなかった。彼が夏の園で菩提樹の陰にすわって忘我の境をさまよっていたとき、このデモンは彼の耳にこうささやいたのである、――もしラゴージンがこうして朝からあとをつけて、一歩一歩、自分のすることをねらう必要があると考えている以上、自分がパーヴロフスタヘ行かないと知るやいなや(これはラゴージンにとって、のるかそるかの大事な点に相違ない)、かならずやすぐにあすこへ[#「あすこへ」に傍点]、ペテルブルグ区のあの家へ出かけて行って、ついけさほど、『今後けっしてあのひとに会わぬ』とか、『そんなことのためにペテルブルグへ来たんじゃない』などとりっぱな口をきいた公爵を見張ろうとするに違いない。これがデモンのささやきであった。ところで、公爵はああして痙攣にかかった人のように、まっしぐらにあの家をさしてかけだした。そうして、はたしてそこにラゴージンを迎えたのだ。しかし、それがいったいどうしたというのか? 彼はただ陰惨ではあるが、十分に察しられる心持ちをいだいた、一個の不仕合わせな人間を見たばかりである。それに、この不仕合わせな人間は、もはや隠れようともしなかったのではないか。じっさいラゴージンは、けさほどなぜか強情をはってうそをついたが、ツァールスコエ・セロー鉄道の停車場では、ほとんど姿を隠そうともせずに突っ立っていた。どちらかといえば、姿を隠したのは公爵のほうで、ラゴージンではなかった。また今度あの家のそばでは、斜めに五十歩ばかり隔てた反対側の人道に、腕組みしながら立ったまま待ちうけていた。もうすっかり全身を現わして、むしろわざと目にとまるようにしていたが、その様子が裁判官かなんぞのようで、まるっきりそれらしいところはなかった。……しかし、それ[#「それ」に傍点]とはいったいなんだ!。
 が、公爵はなぜ今も自分のほうから彼のそばへ寄らずに、知らぬふりをして身をそらしてしまったか? ふたりの目はぴったり合ったではないか(そうだ、ふたりの目はぴたりと合って、たがいに顔と顔を見合わしたのだ)。そればかりか、公爵自身が、ついさきほど彼の手を取って、いっしょにあすこ[#「あすこ」に傍点]へ行こうと思ったのではないか! あすはラゴージンのところへ行って、あのひとに会って来たというつもりではなかったか。またあすこへ行く途中、ふいに歓喜が胸に溢れて、例のデモンをふるい落としたばかりではないか! それとも、じっさい、ラゴージンの中に、つまり今日の[#「今日の」に傍点]この男の言葉、動作、行為、視線などの総和の中に、公爵の恐ろしい予覚やデモンの毒々しいささやきを肯定するような、あるものがあったのであろうか? そのあるものというのは、なにがなしに自然と感じられるばかりで、分析することも話すことも、十分な理由を挙げて証明することもできない。しかし、これらの困難と不可能にもかかわらず、そのあるものは非常にはっきりまとまった打ち消すことのできない印象を与えて、その印象がいつとなくしっかりした確信に変わっていく。のである。
 だが、確信とはなんの確信か?(ああ、この確信の、『この陋劣な予感』の奇怪さ卑劣さが、いかに公爵を苦しめたことだろう、そうして彼はどんなに自分自身を呪ったことだろう!)『いってみろ、なんの確信だか、勇気があればいってみろ!』と彼は譴責と挑戦の語気をもって、絶えまなくひとりごちた。『自分の考えていることをすっかり、明瞭に、正確に、なんのちゅうちょなしに、きちんとした形式に入れて、言い表わしてみろ! おお、おれは、なんて破廉恥漢だ!』と彼は顔を赤くしながら、憤然とくりかえした。『おれはこのさき、どのつら下げてあの男に会おうというのか! おお、きょうはなんという日だ! おお、ほんとうになんという恐ろしい夢だ!』
 ペテルブルグ区からとって返すこの長い苦しい道も終わろうとするころ、ほんの一分間ではあったが、すぐにもこれからラゴージンのところへ行って、その帰りを待ち合わせ、羞恥と涙の中に彼を抱きしめていっさいをうち明け、いっさいの片をきれいに、いっときにつけてしまいたい、という望みが公爵の心を激しくとらえた。けれども、そのときはすでに宿のそばまで来ていた……さっきもこの宿屋がなんだか気に食わなかったが、この廊下も、自分の部屋も、この家ぜんたいも、みんなひと目見たばかりで気に食わなかった。彼はこの日のうち幾度となく、またここまで帰って来なければならぬということを思い出しては、なんだか妙にいやあな気持ちがした……『きょうはなんだってまあ、患っている女みたいに、いちいち虫の知らせなんてものを気にかけるんだろう!』と彼は門際に立ちどまりながら、いらだたしげな冷笑を浮かべてこう考えた。*と、きょう見たある一つの物がこの瞬間に、きわだって心に浮かんで来た。けれど、その浮かびかたは『冷静』で、『完全なる理性』を伴っていて、もはや以前の『恐ろしい夢』は影もなかった。彼はふとさっきラゴージンのテーブルの上に見つけたナイフを思いおこしたのである。『だが、ラゴージンだって、自分のほしいだけのナイフをテーブルの上に置いてならないって法はないではないか』と考え、彼はにわかに自分で自分にびっくりした、と同時に、――びっくりしてからだの麻痺するような心持ちを覚えると同時に、さきほど自分が刃物屋の店先に立ちどまったことを思いおこした。『いったいどういう関係がその間にあるというんだ!』と叫びかけたが、いい終わらぬうちに口をつぐんだ*。堪えがたい羞恥というよりもむしろ絶望がさらに潮のごとく襲って、彼をその場へ、門の入口へ釘づけにしてしまった。彼はちょっと歩みをとめたのである。これはよくあることで、思いがけなく浮かんでくる堪えがたい回想、ことに羞恥と結びつけられた回想は、普通ちょっとのま人をその場へ立ちどまらせるものである。『そうだ、おれは真情のない人間で、そして臆病者だ!』と公爵は沈んだ調子でくりかえし、急に突発的に歩きだしたが……また歩みをとめてしまった。
 註*~*まではズ七四年版でドストエーフスキイが削除した部分である(訳者)
 ただでさえ暗いこの門はこのとき非常に暗かった。じりじりとおおいかかって雷雨を知らせる黒雲は、夕べの光を呑みつくし、公爵が宿に近寄ったときは、にわかに空一面に流れ広がった。彼が一分間ほど立ちどまってから急に歩き出したその瞬間に、彼はちょうど門のすぐ入口、往来から門へ入りこもうというところにいた。ふいに彼は門のずっと奥のほうの薄くらがり、正面階段に近いあたりに、ひとりの男が立っているのをみとめた。この男は何ものかを待ちもうけているふうにみえたが、すばやく身をひるがして消え失せた。公爵ははっきりこの男を見わけるすきがなかったので、むろんだれとたしかにはいえなかった。それに、ここは宿屋であってみれば、さまざまな人の通るのはあたりまえである。多くの人が廊下へ入ったり出たり、あわただしげに馳せちがうのも珍しくない。しかし、『自分はこの男を見わけることができた、この男はラゴージンに相違ない』という、打ち消すことのできない十分な確信を得たような気がした。一瞬ののち、公爵は彼のあとを追って、階段めがけてかけだした。彼は心臓の凍るような思いがした。『いまに万事すっかり落着するのだ!』怪しい確信をいだいて、彼はこうひとりごちたのである。
 公爵が門からかけのぼった階段は、二階と三階の廊下へ通じてい、その廊下の両側には宿の客室が並んでいた。古くから建っている家の例にもれず、この階段は石造りで、暗くて狹く、太い石柱のまわりをうねっている。はじめての踊場には、この柱の中に壁龕といったふうの穴がしつらえてあった。それは幅一歩に足りず、深さはわずか半歩くらいしかなかったが、それでも人間ひとり入るだけの余裕はあった。ずいぶん暗かったけれど、公爵はここまで馳せのぼったとき、そこに、この穴の中に、なぜか人が隠れているのを、すぐさま見わけることができた。にわかに公爵は右のほうを見ずに、ずっとそのまま通り過ぎたくなった。と、一歩ふみ出したとき、がまんしきれず振り返った。
 さっきの二つの目、あれと同じ[#「あれと同じ」に傍点]二つの目が、不意に彼の視線と出会った。穴の中に潜んでいた男も、その間に一歩ふみ出して来た。一秒間、両人はほとんどからだとからだとぴったり合うように、向き合って突っ立っていた。不意に公爵は相手の両肩をつかんで、明かりに近い階段の方へくるりとねじ向けた。もっとはっきりその顔が見たかったのである。
 ラゴージンの目はぎらぎらと輝き、もの狂おしい薄笑いにその顔が歪んで見えた。と、右手があがって、なにやらその中できらりと光った。公爵はその手を押しとどめようともしなかった。彼はただ自分が。
パルフェン、ぼくはほんとうにできない!………」
 と叫んだらしいのを覚えているばかりだ。
 それにつづいて、なにかしらあるものが彼の眼前に展開した。異常な内部の光[#「内部の光」に傍点]が彼の魂を照らしたのである。こうした瞬間がおそらく半秒くらいもつづいたろう。けれども、自分の胸の底からおのずとほとばしり出た痛ましい悲鳴の最初の響きを、彼は意識的にはっきり覚えている。それはいかなる力をもってしても、とめることのできないような叫びであった。つづいて瞬間に意識は消え、真の暗黒が襲ったのである。
 それは、もう以前から絶えてなかった癲癇の発作がおこっ。たのである。輻摘の発作というものは、だれしも知っているように、とっさの間に襲うものである。この瞬間にはふいに顔、ことに目つきがものすごく歪む、そして痙攣が顔と全身の筋肉を走って、恐ろしい、想像もできない、なんともかんともいいようのない悲鳴が、胸の底からはとばしり出る。この悲鳴の中には人間らしいところがことごとく消え失せて、そばで見ている者でさえ、これがこの男の叫び声だと考えるのは、どうしても不可能である。すくなくとも困難である。そればかりか、この男の内部にはだれか別な人間がいて、それが発した声のようにさえ思われる。すくなくとも大多数のものは、こんなふうにおのれの受けた印象を述べている。大多数のものは癲絹の発作に襲われた人を見て、なにかしら神秘的なあるものを含んだ、激しく堪えがたい恐怖をいだくものである。こうしたときのその他いっさいの恐ろしい印象にくわえるに、この突然の恐怖の感じが、ふいにラゴージンをその場へ立ちすくませ、すでに頭上にくだりつつあった免るべがらざる刃の難から、公爵を救ったものとも想像される。ラゴージンは発作ということに思い当たる暇もなく、公爵がよろよろ後ずさりするや、ふいに仰向きに倒れて、がんと頭を石段に打ち当てながら、急転直下、階段をころがり落ちるのを見ると、まっしぐらに下へかけおりて、倒れている相手を迂回し、ほとんど夢中で宿屋を走り出たのである。 痙攣と身もだえのために病人のからだは、十五段とはない階段を下までころがり落ちた。間もなく、五分もたたぬうちに見つけたものがあって、たちまち人々が黒山のように集まった。頭の辺に流れているおびただしい血が、人々の疑惑を呼んだ。この男が自分でけがしたのか、それとも『だれか悪いやつ』があるのだろうか? しかし、そのうちに、だれ彼のものが癲痢ということに思い当たった。すると、またボーイのひとりが、この人は先刻の泊まり客だといいだした。とうとうこの髓さは、ある僥倖的な事情によって、しごく都合よく解決がついた。
 コーリャ・イヴォルギンは四時ごろに『衡屋』へ帰るといっておきながら、そのままパーヴロフスクヘ出かけたが、ふと、また思い返して、エパンチン将軍夫人のところで『ご馳走になる』のをやめ、ペテルブルグへとって返し、急いで『衡屋』へ姿を見せたのは、夕方の七時ごろであった。そこへ残してあった手紙によって、公爵がこの町へ来たことを知ると、彼は、手紙に示された所書きをしるべに、取るものも待ち受けていた。だれかが発作で倒れたという話を聞きつけると、彼はたしかな予感にかられて現場へかけつけたが、はたして公爵であった。すぐさま応急の手当を施して、公爵をその部屋へ運んだ。彼は間もなく正気づいたが、それでも完全な意識に返ったのは、だいぶたってからのことである。頭部の打撲傷の診断に呼ばれた医者は、傷口に湿布を施して、打撲傷からおこりそうな危険はすこしもないといった。一時間ののち、公爵がそろそろ周囲の状態を解するようになったとき、コーリャは彼を馬車に乗せて、宿屋からレーベジェフの家へともなった。レーベジェフはひとかたならぬ熱誠を、うるさいくらいな会釈に現わして病人を迎えた。そして、この人のために特に別荘ゆきを早め、翌々日、一同はすでにパーヴロフスクの人となった。

      6

 レーベジェフの別荘はあまり大きくはないが、かなり具合のよい、むしろ美しいといってもいいくらいな家であった。貸家に定められたその一部は、特に数奇をこらしてある。往来から内へ入る口の所にあるかなり広い露台には、オレンジ、レモン、ジャスミンなどが、緑いろに塗った大きな桶に植わって、配置よく並んでいたが、これが、レーベジェフの目算によると、借手をつるのになによりの餌なのである。これらの木のあるものは、別荘といっしょに手に入れたのだが、彼はそれが露台に添える風情にすっかりほれこんで、完、美を期するためにいいおりをねらって、似寄りの鉢植えを罧売で買い添えたのである。この木がやっと別荘へ運び込まれて具合よく配列されたとき、レーベジェフはその日のうちに幾度となく、露台の階段を往来へかけおりて、往来から自分の持ち家をながめながら、きたるべき借手に請求する金高を、そのたびごとに心の中で増してみた。憂悶し衰弱して、肉体までも傷つけられた公爵には、この別荘がひとかたならず心にかなった。
 けれど、パーヴロフスタヘ着いた日、つまり発作の翌々日、公爵はもう見たところほとんど健康のように見えた。もっとも、心の中では、やはり回復しきらぬ自分を感ずるのであった。彼はこの三日間に接したすべての人を喜び懐かしんだ。ほとんどそばに付きっきりのコーリャも、レーベジェフの家族一同も(例の甥はどこかへ姿を隠して、いなかった)、主人公のレーベジェフさえも嬉しかった。またペテルブルグにいるとき見舞に来てくれた、イヴォルギン将軍をさえ心嬉しく迎えたほどである。引っ越して来だのはもう夕景であったが、そのときには、はやかなり大人数の訪問客が露台に集まっていた。最初に来たのはガーニャであったが、しばらくのあいだにすっかりやせて、面変わりがしてしまったので、公爵はちょっと見それたくらいであった。それにつづいて、同じくパーヴロフスクの別荘に来ている、ヴァーリャとプチーツィンが姿を見せた。イヴォルギン将軍にいたっては、たいていいつもレーベジェフの家へ来ているので、引っ越しのさいにもともどもついて来たようである。レーベジェフは将軍を公爵のほうへやるまいとして、つとめて自分のそばへ引きつけていた。ふたりはもううち解けた友達同士のようにつき合った。見たところ、ずっと以前から知り合った間柄らしい。この三日のあいだに、どうかするとふたりが長いあいだ話しこんで、なにやらおそろしく高尚な問題について、大声に議論でもしているらしいのに、公爵も気がついた。レーベジェフはそうした学者ぶった議論を闘わすのが、すくなからず得意なように見受けられた。のみならず、将軍は彼にとって、なくてかなわぬ人となったのではあるまいか、とも考え‘られた。しかしレーベジェフは、公爵に対すると同じように細心な注意を、引っ越しの当日から家族のものにたいしてもはらいはじめた。公爵のじゃまになるというのを口実にして、レーベジェフはだれひとり彼のそばへ寄せつけず、例の赤ん坊の守りをしているヴェーラでさえ別あつかいにしないで、ちょっとでも公爵の部屋の露台へ行きそうなぞぶりを見せると、娘たちに地団太を踏んで飛びかかり、そのあとを追いまわして、公爵がどんなによしてくれと頼んでも聞かなかった。
「だいいち、あれらに勝手に出入りさしたら、尊敬というものがすこしもなくなってしまいます。また第二には、あまりぶしつけです……」あるとき公爵から手づめの質問に会って、彼はとうとうこう説明した。
「それはいったいなんでしょう」と公爵がたしなめた。「じっさい、きみがそうして監督して張り番してくれるのはありがたいが、それはただぼくを苦しめることになるばかりですよ。ぼくひとりぼっちでいるのは退屈でたまらないって、あれほどきみに言ったじゃありませんか。きみこそひっきりなしに手を振ったり、爪先で歩いたりして、よけいぼくの気をくさくささせるじゃありませんか」
 こうして、公爵が当てこすりをいったのはほかでもない、レーベジェフは病人に安静を与える必要があるといって、家のものをみんな追っ払っておきながら、自分はこの三日間ほとんど絶え間なしに、公爵の部屋へ入って来るのであった。そのたびごとに、まずはじめ戸をあけて頭を突き出し、ちょうど『やはりじっとしているかしら、逃げ出しはせぬかしら』と調べるような恰好で部屋の中を見まわし、それから今度は爪先を立てて、そっと盗むような足どりでひじいすに近寄るので、どうかすると、公爵も泡をくってびっくりするくらいであった。そうして、何かご用はないかと、うるさいほど公爵にきいてみて、しまいに『かまわずうっちゃっておいてくれ』といわれると、黙っておとなしく回れ右をし、また爪先を立てて戸口のほうへ歩いてゆく。しかも、その間しじゅう両手を振っているのは、つまり『もうけっしてひと口もものをいいません、ほらこのとおりいま出て行きますよ、もうこれっきりやって来ませんよ』という腹を見せようとするものらしい。しかし、十分、すくなくとも十五分くらいたつと、すぐまたやって来るのであった。コーリャは公爵のところへ自由に出入りする権利を持っていたが、それがレーベジェフにとってひどく残念でもあり、また侮辱のようにすら思われた。コーリャは、よくレーベジェフがものの三十分も戸のそとに立って、自分と公爵の話を立ち聴きするのに気づいて、そのことをむろん公爵にも知らせた。
「きみはぼくを座敷牢に入れっちまって、まるでぼくを自分の好きなようにしてるじゃありませんか」と公爵は抗議を申しこんだ。「すくなくとも、別荘に来たら、そんなことはよしてもらいたいですね。ぼくはだれにでも勝手に面会して、どこへでも好きなところへ出て行くから、そう思ってもらいますよ」 「それはすこしもご無理じゃありません」とレーベジェフは両手を振った。
 公爵は彼を頭のてっぺんから足の爪先まで、じっと見つめた。
「ねえ、レーベジェフ君、あの小戸棚ですね、ほら、きみの寝台のまくらもとのほうにつってあった……あれをここへ持って来ましたか?」
「いや、持ってまいりませんでした」
「じゃ、あすこへ置いて来たんですか?」
「とても持って来られません。壁をこわして出さにゃなりませんでな……固くって、固くって」
「そんなら、おおかたここにあんなふうのがあるんでしょう」
「ずっといいのがあります、ずっといいくらいです。家つきで買ったんで」
「ははあ。ところで、さっききみはだれをぼくのとこへ来させまいとしたんです。一時間ほどまえ……」
「あれは……あれは将軍です。まったく来させなかったのです。それに、あの人があなたのところへ来る用もありませんでな。わたくしは、公爵、あの人を深く尊敬しています。あの人は……あの人はじつに偉い人です。まったくですよ。今におわかりになります。ですが、やはり……公爵さま、あの人にはお会いなさらんほうがよろしいようで」
「なぜでしょう。ひとつうかがいたいもんですな。それに、レーベジェフさん、なんだってきみはそんなに爪先で立ってるんです。またなんだって、いつも大秘密を耳うちでもするような恰好をして、ぼくのそばへやって来るんです」
「下劣です、じっさい下劣です、自分でもそう感じますよ」と思いもよらずレーベジェフは、感じ入ったように胸をたたきながら答えた。「しかし、将軍はあなたに対して、あまりもてなしがよすぎるかもしれませんよ」
「もてなしがよすぎるって?」
「もてなしがよすぎるのです。だいいちに、あの人はわたしどもの家へ住みこもうとしています。そんなことはかまやいたしませんが、どうものぼせやすい人ですから、すぐに親類の押し売りをはじめるんです。わたしはあの人ともうなんべん親類になったかわかりません。なんでもわたしの家内があの人の奥さんの妹に当たるそうで。それに、あなたもやはり母かたの甥に当たるとかって、ついきのうわたしに話して聞かせましたよ。もしあなたがほんとうにあの人の甥ごさんでしたら、公爵さま、わたしもしぜんあなたと親類同士になるわけじゃありませんか。いや、しかしこんなことはなんでもありません。ほんの些細な欠点です。ところで、たったいまわたしにこんなことをいって聞かせるのです。あの人の見習士官時代から去年の六月十一日まで、一生涯のあいだ、毎日あの人のとこへ来て食事をする人の数が、二百よりくだったことはないなどといいだして、はては席を立つ暇もなくのべつ食事をしたり、茶を飲んだりして、一昼夜のうちに十五時間ずつもぶっ通しで、テーブルクロースを換える瑕さえあるかなしかだった。こういう有様が三十年のあいだ、一日も欠けずにつづいたというじゃありませんか。ひとり帰ればまた。ひとりやって来る、休日や祭日には客の数が三百人にもなった。そればかりか、ロシヤ建国一千年祭の日には無慮七百人とはどうです、まったくめちゃくちゃじゃありませんか、どうもはなはだよろしくない兆候ですね。こんな客あしらいのいい人を家へ呼ぶのは、かえってこわい。そこでわたしも、こんな人はあなたにとりましても、わたしにとりましても、あんまりもてなしがよすぎはせんかとぞんじまして……」
「だが、きみはあの人とたいへん仲が好さそうじゃありませんか」
「まあ、兄弟同様にして、今のような話も冗談にして聞いております。まあ、ふたりが親類同士なら親類同士にしておきましょうよ。わたしにとっちゃなんでもありません、むしろ名誉です。いや、かえってあんな二百人のお客や、ロシヤ建国一千年祭の話を通しても、あの人がりっぱなかただという見わけがつきますよ、まじめな話が。ときに公爵、あなたはいま秘密ってことをおっしゃりましたね、-その、わたしがまるで大秘密でもお知らせ申しに来たような恰好をして、あなたのそばへ寄って行くとおっしゃりましたが、その秘密がまるでわざとのようにあるのですよ。じつは例のおかたが、あなたと秘密にお目にかかりたいといってよこされたんです」
「なんだって秘密にするんです? そんなことは、けっしていりません。ぼくが自分であのひとの家へ出かけます。きょうすぐにでも!」
「そうですとも、けっしていりませんとも」レーベジェフは両手を振った。「それに、あのかたはあなたの考えてらっしゃるようなことを、恐れておいでじゃありません。ついでに申しあげますが、あの悪党め、毎日のようにあなたのお加減を問きに来るのです、ご承知ございませんか?」
「きみはなにかしじゅうあの人のことを惡党よばわりするが、ぼくにはそれが不思議でなりませんね」
「けっしてそんなに不思議がることはありません、毛頭ありませんとも」とレーベジェフは大急ぎで話をそらした。「ただわたしの申しあげたかったのは、例のおかたがあの男でなく、まるっきり別な人を恐れていらっしゃることなんです」
「いったい、どうしたんです、早くいってごらんなさいよ」レーベジェフがわざとぎょうさんらしくもったいをつけるのを見て、公爵はいらだたしげに追究した。
「そこが秘密なんですよ」と言って、レーベジェフは薄笑いをした。
「だれの秘密です?」
「あなたの秘密です。公爵、あなたがご自分で、おれのいる前で……あの、その……いっちゃいけないとおっしゃったじゃありませんか」とレーベジェフはつぶやいた。そして、相手を病的なほどいらいらさせたのに満足して、ふいにこう結んだ。「アグラーヤさんを恐れてらっしゃるんで」
 公爵は眉をひそめて、ちょっとの間だまっていたが、「レーベジェフ君、ぼくはほんとうにこの別荘を出て行きますよ」といきなり彼はいった。「ガヴリーラさんとプチーツィンさんご夫婦はどこにおいでなんです? きみのところ?きみはあの人たちまで自分のほうへ横取りしてしまったんですね」
「もう皆さんすぐそこへ見えています、見えています。おまけに、将軍までそのあとからやって来ています。戸という戸はみんなあけ放して、娘たちもみんなすっかり連れてまいりますです」レーベジェフは両手を振って、一方の戸から一方の戸へ飛びまわりながら、度胆を抜かれたようにささやいた。
 このときコーリャが往来からあがって来て、あとからお客が、リザヴェータ夫人と三人の令嬢が来ていると告げた。
「あのプチーツィンさん夫婦と、ガヴリーラさんを通したものかどうでしょう? 将軍を通したものかどうでしょう?」この報知にびっくりしたレーベジェフは、おどりあがって叫んだ。
「どうして通しちゃならないんです? 来たいという人はみんな通してください、じっさいのところ、きみはぼくたちの交友について、はじめからなんだかとんでもない早のみ込みをしてるようですね。きみはなにかしらいつも感違いをしてるんですよ。ぼくはね、人から逃げ隠れするようないわれは、すこしも持っていません」と公爵は笑った。
 彼の顔を見て、レーベジェフもここで笑うのが義務だと考えた。レーベジェフはおそろしくわくわくして胸がおどった。が、それでも見たところ、しごく満足げな様子であった。 コーリャのもたらした知らせは間違いなかった。彼は公爵に知らせるためのみに、エパンチン家の人々よりほんのひと。足はやく来たのであった。で、客人たちはふいに両方から現われた、露台からはエパンチン家の人々、次の間からはプチーツィン夫婦と、ガーニャと、イヴォルギン将軍と。
 エパンチン家では公爵の病気のことも、彼がパーグロフスクヘ来ていることも、たった今コーリャに聞いたばかりである。それまでというもの、将軍夫人は重苫しい疑惑に悩まされていた。もう二日も前に将軍は家族のものに、公爵の名刺を送り届けたが、この名刺を見て夫人は、今度は公爵が自分たちに会うために、さっそくパーヴロフスタヘ来るにちがいたいと、固く信じてしまった。令嬢たちは半年も便りをしなかった人が、今になって急にやって来るはずはない、それにあの人はペテルブルグでいろいろ仕事があるかもしれない、人の都合なんてわかるものじゃないと説いたけれど、効果はなかった。夫人はこの差し出口を聞いてぷんぷん怒りだし、すくなくとも公爵はあすになったらやって来るに相違ない、『それだってもう遅くなってるのだけれど』といって、賭でもしかねまじい勢いであった。次の日、彼女は朝のあいだじゅう待って、昼飯に待ち合わし、夕方まで心待ちにしていたが、さていよいよ暗くなってしまったとき、リザヴェータ夫人はなんでもかでも向かっ腹を立てて、家じゅうの者と喧嘩をした。もっとも、争論のさいに、公爵のことはおくびにも出方なかったのはもちろんである。翌々日も一日じゅう、公爵のことはひと言も口にされなかった。昼食のときアグラーヤがふと口をすべらして、おかあさんが怒るのは公爵が来ないからだといったのに対して、将軍がすかさず、『だが、それはあの男の知ったことでない』と言葉を挟んだとき、リザグェータ夫人はかっとなって立ちあがると、そのままぷいと食卓を離れて行った。とうとう夕方になってコーリャが訪ねて来て、知れるかぎりの報告をもたらし、公爵の遭難をも細かに物語ったのである。こうして、とどのつまりリザヴェータ夫人が大得意となったが、どちらにしてもコーリャにはずいぶん手きびしくあたった。『毎日毎日この辺をうろうろして、追ん出すこともできないほどしつこくするかと思えば、今度は鼬《いたち》の道切りだ。それに自分でやって来るのがいやだったら、せめてちょっとくらい知らせてくれればいいのに』コーリャはこの『追ん出すこともできない』という言葉にさっそくむかっ腹を立てようとしたが、考え直して、この次まで取っておくことにした。じっさい、この言葉そのものがこうまで無礼でなかったら、あるいはまったく腹なぞ立てはしなかったろうと思われるほど、公爵の病気と聞いて心配したり騒いだりするリザヴェータ夫人の心根が、コーリャには嬉しかったのである。夫人はぜひともさっそくペテルブルグへ使いをやって、医学界第一流の大家を聘して、あすの一番列車でつれて来なければならぬと、長いあいだ言い張ったが、結局令嬢たちにとめられてしまった。けれども、夫人が病人を見舞いにといっきに支度したとき、令嬢たちも母に遅れようとはしなった。
「あの人は今にも死にそうなんですよ」とリザヴェータ夫人はあたふた騒ぎながらいった。「それだのに、おまえさんたちは礼儀がどうのこうのって! あの人は家のお友達じゃありませんか、それとも違いますかね」
「浅瀬を見ずに川へ入るなってことがありますわ」とアグラーヤがいいかけた。
「ふん、じゃ行かないがいい、そのほうがかえっていいかもしれません。今にエグゲーニイさんがいらしったら、だれもお相手する人がなくなるからね」
 こういわれてみると、アグラーヤはもちろんついて行かざるをえなかった。もっとも、そういわれなくとも、行こうとは思っていたのである。S公爵もおりふし来合わせて、アデライーダと話していたが、その求めに応じてすぐ婦人たちに。同伴することを快諾した。彼はずっと前から、エパンチン家と交際をはじめたころから、公爵のうわさを聞いて深甚な興味をいだいていた。それに、彼と公爵とは知り合いの仲であった。というのは、つい近ごろどこかで心安くなって、二週間ばかりある小さな町でいっしょに暮らしたことがあるというのだ。それもつい三月ばかり前のことである。S公爵はいろいろと公爵のことを話して聞かせたりして、全体に同情のある批評をくだしていたので、今も旧知を訪問に出かけるについて、心底からの歓びを感じたのである。イヴァン将軍はちょうどこの日は不在であったし、エヴゲーニイもまだ訪ねてこなかった。
 エパンチン家からレーベジェフの別荘までは、三百歩くらいしかなかった。公爵のもとでリザヴェータ夫人が受けた不快な第一印象は、彼の周囲に大人数の客がいることであった。しかも、それらの客人たちの中には、夫人にとって犬猿もただならぬ間柄の人も、二、三見受けられたにおいてをやである。また次に驚いたのは、自分たちを迎えに出て来た公爵の、丈夫らしいにこにこした顔つきと、ハイカラなその服装であった。そこには、自分の期待したような、いまわの床に死にかかっている人なぞは、だれもいなかった。彼女はけげんの念に思わず立ちどまったほどである。コーリャはそれを見ると嬉しくてたまらなかった。彼は夫人が別荘を出かけるときに、けっしてだれも死にかかってはいない、いまわの床なぞどこにもありはしないということを、りっぱにうち明けるべきはずであったにもかかわらず、わざとそれをしなかった。それは、夫人が公爵の、自分の友達の達者でいることを知ったとき、きっと腹を立てるに相違ない、その様子がさだめしこっけいなことだろうとこすからく予想したからである。で、コーリャは、どこまでもリザヴェータ夫人をからかうつもりで、自分の想悚を無作法にも口に出していってしまった。彼と夫人とは一種の友情に結びつけられているにもかかわらず、絶えまなしに、ときとするととほうもなく辛辣な調子で争論をし合っていた。
「あわてないで控えておいで、いい子だから、せっかくお得意の膵を折らないように気をおつけ!」と答えて、リザヴェータ夫人は、公爵のすすめるいすに腰をおろした。
 レーベジェフとプチーツィンとイヴォルギン将軍は、かけよって令嬢たちにいすを進めた。アグラーヤには将軍が進めた。レーベジヱフはS公爵にもいすをさし出したが、そのさい、腰のかがめかたで並々ならぬ尊敬を表わすことを忘れなかった。ツァーリャはいつものとおり、さもさも嬉しそうに、小声で令嬢たちと挨拶を交わしていた。
「あれはほんとうですよ、わたしはね、公爵、あんたが床についていることだとばかり思っていましたよ。つまり、恐ろしい恐ろしいとぎょうさんに考えすごしたんです。うそをつくのは嫌いだから、うち明けていいますがね、わたしは今あんたの嬉しそうな顔を見たとき、くやしいような気がしたほどですの。だけど、誓っていいますが、それはほんのいっときで、すぐに気がつきました。わたしはいつでも気がつきさえしたら、なかなか賢いことをいったりしたりしますよ。たぶんあんたもご同様でしょう。いえ、まったくのところ、もしわたしにほんとうのせがれがあって、その子の病気がよくなったとしても、これほど嬉しくはないでしょう。あんたがそれをほんとうにしなければ、それはつまりあんたの恥ですよ。いえ、わたしの恥じゃありません。ところで、この小僧っ子たらあれどころじゃない、まだまだ図々しいしゃれを持ち出すんですよ。だが、あんたはあれの肩を持つらしいね。それから、わたし前からちゃんといっときますがね、いつかおりを見て、このさきあんな者とお付合いをことわってしまいます。ほんとうですとも」
「だって、ぼくがなぜ悪いんです?」とコーリャは叫んだ。
「公爵はだいぶよくなっていらっしゃるって、ぼくが幾度も幾度もいったんだけど、あんたは公爵がいまわの床にあるものと想像するほうがよほどおもしろいから、ほんとうにしようとなさらなかったのじゃありませんか」
「こちらへは長くご逗留?」とリザヴェータ夫人は公爵に向かって問いかけた。
「夏じゅう、ひょっとしたら、もっと長くいるかもしれません」
「あんた今ひとり身? 奥さんは?」
「いいえ、ありません」と公爵は夫人の刺しこんだ針の無邪気さに微笑した。
「なにもにやにやすることはありません。ありがちのこってすよ。わたしは別荘のことでちょっときいてみたんです。あんたなぜわたしどもへいらっしゃらなかった? はなれのほうはすっかりあいてるんですに。だけど、それはどうともご勝手に。ところで、これはこの人の持ち家ですの? この人の?」とレーベジェフをあごでしゃくりながら、夫人は小声でたずねた。「なんだってあの人はのべつ変な恰好をするの?」
 このとき家の中から露台ヘヴェーラが出て来た。いつものように赤ん坊を両手で抱いている。レーベジェフは今までいすのあいだをうろうろしながら、身の置きどころを知らぬというふうでいるくせに、出て行くのもいやでたまらぬ様子であったが、にわかにヴェーラのほうへおどりかかって、露台からどこかへ追っ払おうと両手を振りまわし、われを忘れて地団太さえ踏むのであった。
「あれはきちがい?」とふいに夫人はこう言いだした。
「いいえ、あれは……」
「たぶん酔っぱらってでもいるんでしょう? いったいあんたのお仲問はあまりりっぱじゃありませんね」と彼女はほかの客たちをもじろりと尻目にかけて、ぶっきらぼうに言った。「だけど、なんてかわいい娘でしょう! あれはだれです」
「あれはヴェーラ・ルキヤーノヴナといって、このレーベジヱフの娘です」
「ああ……ほんとにかわいい娘《こ》だ! わたしあの娘とおなじみになりたい」
 けれど、リザヴェータ夫人のほめことばを小耳に挾んだレーベジェフは、もう自分のほうから娘を目どおりへとひっぱって来た。
「不仕合わせな母なし子です」彼はそばへ近寄りながら、とろけそうな顔つきをした。「これに抱かれている赤ん坊もやはり母なし児で、これの妹です。娘のリュボーフィです。この間なくなった家内のエレーナと、正当な法律上の結婚でできた子です。家内は六週間前に産後の肥立ちが悪くて、神さまのおぼし召しでなくなりました。それで……母親のかわりに、ほんの姉で、ほんの姉と申すにすぎませんが……それだけのことでございますが……」
「ところで、おまえさんは、ただのばか者にすぎませんね、ごめんよ。いや、もうたくさん、おまえさん自分でもわかってるでしょう」とリザヴェータ夫人は憤懣に堪えぬといったふうに、いきなり相手の腰を折った。
「まったくそのとおりです!」とレーベジェフはうやうやしく小腰をかがめた。
「ねえ、レーベジェフさん、あんたが『黙示録』の講釈をなさるってのほんとう?」とアグラーヤがたずねた。
「まったくそのとおりで……もう十五年も……」
「あたし、あんたのうわさをよく聞きましたわ。あんたのこと、たしか、いつかの新聞にも載りましたわね?」
「いや、あれはほかの解釈家のことです。その人はもうなくなって、わたしがそのかわりになったような次第です」と嬉しさにわれを忘れてレーベジェフがこういった。
「お願いですからね、いつか二、三日のうちにあたしにも講釈してくださいな、ご近所のよしみでねえ。あたし『黙示録』に書いてあることがちっともわかりませんの」
「差し出口をしてひどく失礼ですが、アグラーヤさん、そんなことはみんなこの男のごまかしですよ。まったく」とふいにイヴォルギン将軍が口早にいいだした。どうかしてすぐそばにすわっているアグラーヤと話をはじめようと、針の上にすわったようにいらいらしながら、いっしょうけんめいに待ち構えていたのだ。「もちろん、別荘には別荘相応の権利もあれば、興味もあります」と彼はつづけた。「しかし、こんな恐ろしい僭越きわまる男を『黙示録』の講義のためにお呼びになるのは、よくありがちの思いつきです。いや、むしろその奇抜な点において、秀逸といっていいくらいでしょう。しかし、わたしは……ときに、あなたはなにかびっくりしたような目つきでわたしを見ておられるようですな? わたしはイヴォルギン将軍です。ご昵懇の機を得て光栄に存じます。アグラーヤさん、わたしはあなたを抱いてお守りをしたものです」
「たいへんうれしゅう存じます。あたしヴァルヴァーラさんともニーナ夫人とも、お心安くしていただいております」笑いだすまいといっしょうけんめいに、がまんしながら、アグラーヤは早口にいった。
 リザヴェータ夫人はかっとなった。なにかしら前から積もりつもった胸のもだもだ[#「胸のもだもだ」はママ]が、一時に出口を求めたのである。彼女は、かつてずっと以前のことだが、知り合いだったイヴォルギン将軍が、どうにもがまんできなかった。
「またあんたいつものうそをつきますね、あんたがあれを抱いて守りをなすったことなんか、ついぞ一度もありませんよ」と彼女はぶりぶりしながらさえぎった。
「おかあさん、あなた忘れてらっしゃるのよ、まったく抱いてくだすったわ、トヴェーリで」とにわかにアグラーヤが相づちを打った。
「あの時分うちじゃトヴェーリにいたでしょう。あたしあのとき六つだった、覚えていてよ。将軍は弓と矢を作って、あたしに射かたを教えてくだすったわ。そして、あたし鳰を一羽射おとしたわ。ねえ、あたしとあなたといっしょに鴆を射ったのを覚えてらっしゃいます?」
「あたしにはそのときポール紙の兜と、木刀を持って来てくだすったのよ、覚えてますわ!」とアデライーダも叫んだ。
「それはわたしも覚えています」とアレクサンドラも確かめるようにいった。「あんたがたふたりが手傷を負った鳩のことで喧嘩をして、部屋の両端へ立たされたでしょう。アデライーダは兜をかぶって、刀をさしたまま立ってたっけ」
 将軍がアグラーヤに向かって、あなたを抱いて守りをしたことがあるなどといったのは、ただただ会話をはじめるためのお座なり[#「お座なり」に傍点]で、いつも若い人たちと知り合いになる必要があると思ったときには、こんなふうに会話をはじめるからというだけの理由にすぎなかったのである。しかし、今度はまるでわざとのようにほんとうのことをいった。しかも、同じくわざとのように、これがほんとうであることを忘れていた。で、今アグラーヤが不意に、あなたといっしょに鳩を射ったことがあるといいだしたとき、彼の記憶は一時によみがえってきた。そして、よく高齢の人が何か非常に古いことを思い出すときのように、彼はこれらすべてのことを、細かい末の末まで思い出したのである。この回想のいかなる点が、いつも少々ぶつかよい気味の不幸な老将軍に働きかけたかは、ちょっといいにくいが、とにかく彼は、にわかに一方ならず感動した。
「覚えております、すっかり覚えております」と彼は叫んだ。「わたしはあのとき二等大尉だった。あなたは、ほんのちっちゃなかわいいお嬢さんでしたなあ。ニーナ……ガーニャ……わたしもあなたがたのところへ……出入りさしていただいておりましたっけなあ。イヴァン将軍は……」
「それだのにまあ、今あんたはなんということにおなんなすったの?」と夫人が切りこんだ。「そんなに感動なさるところをみると、あんた高尚な感情をすっかり酒代《さかて》にしてしまい なすったわけでもないんですね。だけど、奥さんにあんな苦労をさしたり、子供さんたちの方途もつけなきゃたらないのに、自分が債務監獄に入れられたりなんか。さあ、あんたここを出てらっしゃい。そして、どこか隅っこの戸のかげに立って泣きながら、以前の菲のない時分のことを思い出しなさ い。そしたら、神さまもおゆるしくださるかもしれません。さ、いらっしゃい、わたしまじめにいってるんです。以前のことを後悔して思い出すほど、罪滅しになることはありませんからね」
 しかし、まじめにいってるのだなどと、このうえくりかえす必要はなかった。将軍はいつも酒気の絶えぬすべての人と同様、非常に感じやすいたちであり、また極度まで堕落したすべての酒飲みと同じく、幸福であった過去の思い出を平気で堪え忍ぶことができなかった。彼はおとなしく立ちあがり、戸口のほうへ歩きだしたので、リザヴェータ夫人はすぐかわいそうになって来た。
「イヴォルギンさん、もし!」と彼女はうしろから呼びかけた。「ちょっとお待ちなさいよ。わたしたちはみんな罪の深いからだです。あんたも良心の呵責が少なくなったと思ったら、わたしのところへいらっしゃい。いっしょにすわって昔話でもしましょうよ。こういうわたしだって、あんたよか五十倍も罪が深いかもしれないんですもの。あら、今はあっち行ってらっしゃい。ここにいらっしゃることなんかありません、さようなら……」とリザヴェータ夫人はにわかにびっくりしたようにいった。将軍がのこのこ引っ返しかけたのである。
「きみ、今ついて行かないほうがいいでしょう」と公爵は、父のあとからかけだそうとするコーリャを呼びとめた。――いま行くと、すぐにまた向かっ腹を立てて、せっかくの悔悟が台なしになります」
「まったくです。かまわずにおいときなさい。三十分もたったらお行きなさい」と夫人はひとりぎめに決めてしまった。
「わずか一生にいっぺんでもほんとうのことを言うのは、こうまできき目のあるものですかねえ、涙をこぼさんばかりに感激してましたよ!」とレーベジェフは僭越にも口を出した。
「ふん、おまえさんだって、キちといい人間に違いないよ、もしわたしの聞きこんだことががほんとうだったらね」とリザヴェータ夫人はすかさず取っちめた。
 公爵のもとに集まった客人たち相互の関係は、しだいしだいに決まって来た。公爵はもちろん、大人や令嬢たちの自分にたいする同情を、ありがたく思うこともできたし、またじっさいありがたく思いもしたので、彼自身のほうからもあすといわずきょうすぐにも、こちらへ訪問に来られるより先に、時刻はかなり遅くなっているが、ぜひとも病気を押してエパンチン家へ出かける心構えであったと述べた。将軍夫人は客人たちを尻目にかけながら、それは今すぐにも実行できることですよと答えた。プチーツィンはしごく慇懃な、しごく世間なれた人だったから、間もなく席を立って、レーベジェフの住まっている離れへ退却した。そのさい、主人のレーベジェフをもいっしょにつれて行きたくてたまらなかったが、こちらはすぐあとから行きますというばかりであった。ヴァーリャは令嬢たちと会話を交えていたので、その場に居残った。彼女もガーニャも、父将軍がいなくなったので、大喜びであった。やがてそのガーニャもプチーツィンにつづいて、席をはずした。彼は、エパンチン家の人々と露台に座を同じゅうしている幾分かのあいだ、しじゅうつつましやかに、しかも品格を失うことなくふるまって、二度までも頭から足の爪先までじろじろ見まわしたリザヴェータ夫人の恐ろしい視線に、いささかも動じなかった。じっさい、前の彼を知っていた人人は、彼の人物ががらりと変わったことを思わないわけにいかなかった。これがたいへんアグラーヤの気にかなった。
「いま出て行ったのはガヴリーラさんですね?」アグラーヤはときおり好んでするように、人の話を突き破るような高い声で、だれに向かってともなくふいに問いを発した。
「そうです」と公爵は答えた。
「まあ、だれだかわからなかったわ。あの人もずいぶんお変わりなすったのねえ、しかも……ずっといいほうへ」
「ぼくもあの人のためにたいへんうれしいです」と公爵が言った。
「にいさんはたいへん病気が悪かったのですよ」ヴァーリャが嬉しそうな同情を表わしながら、つけ足した。
「なぜ、あの人がいいほうへ変わったの?」と憤懣にたえぬといった不満の調子で、仰天せんばかりにリザヴェータ夫人がきいた。「どこからそんな理屈が出て来るの? ちっともいいところなんかありゃしません。どこがいったいおまえにはよく見えるんです?」
「『貧しき騎士』よりいいものはほかにありませんよ!」しじゅうリザベータ夫人のいすちかく立っていたコーリャが、にわかにこう叫んだ。
「なるほど、わたしもやはりそう思いますね」とS公爵がいって笑いだした。
「あたしもぜんぜんそれと同意見よ」と勝ち誇ったようにアデライーダが叫んだ。
「『貧しき騎士』って何?」と将軍夫人は不思議そうに、またくやしげに、こういう人たちを見まわしたが、アグラーヤがぱっと顔を赤くしたのを見つけると、腹立たしげにつけ足した。「またなにかくだらないことをいい出したんでしょう!『貧しき騎士』つて、いったいなにものです?」
「この小僧っ子が、あなたのご秘蔵っ子が、人のいったことをはき違えるのは、今にはじまったことじゃなくってよ!」と傲慢な憤怒の調子でアグラーヤが答えた。
 アグラーヤの腹立たしげな言語動作の中には(じじつ、彼女はむやみによく腹を立てた)、そのたびごとに、まじめないかつい顔つきにもかかわらず、何か子供らしい、こらえ性《しょう》のない、小学生じみた、隠しそこなったようなあるものがのぞいて出るので、彼女をみていると、ときとして笑いださずには、いられないほどであった。それがまたアグラーヤにはくやしくてくやしくてたまらなかった。何がそんなにおかしいのか、『どうして失礼千万にも笑ったりなどできるのか』それが彼女にはよくわからなかった。こんどもふたりの姉とS公爵が笑いだした。それに、ムイシュキン公爵までが、なぜか同じように顔を赤くしながらほほえんだのである。コーリャはすっかり得意になり、からからと笑った。アグラーヤはもうむきになって怒りだしたが、それがまた一倍うつくしかった。彼女のこうした困惑と、その困惑した自分自身にたいする憤怒のさまが、なんともいえず似つかわしかったのである。
「この子はおかあさまのいったことだって、ずいぶん妙なふうに取るじゃありませんか」と彼女はいい足した。
「ぼくはあなたご自身の言葉を根拠としてるんですよ!」とコーリャが叫んだ。「ひと月ばかり前あなたは『ドン・キホーテ』をめくりながら、『貧しき騎士』よりいいものはほかにないって、大きな声でおっしゃったじゃありませんか、そのときあなたがだれのことをおっしゃったのか知りません。『ドン・キホーテ』のことか、エヴゲーニイさんのことか、それとも、もうひとりあのかたのことか、そりゃわかりませんが、とにかくだれかのことをおっしゃったに相違ありません。そして、長いことふたりでお話ししたじゃありませんか……」
「おまえさんどうもそんな当て推量するのは、あんまり出しゃばりすぎるというものです」とリザヴェータ夫人はくやしそうに制した。
「だって、ぼくだけじゃないんですもの」とコーリャも負けていなかった。「みんなそのとき話したんです、そして、今でも話してますよ。ほら、たった今S公爵もアデライーダさんも、みんな『貧しき騎士』に賛成するとおっしゃったでしょう。してみると、『貧しき騎士』なるものは存在してるんです。ぼくの考えでは、アデライーダさんさえいうことを聞いてくだされば、ぼくたちはみんな『貧しき騎士』がだれだかってことを知ったはずなんです」
「いったいあたしがなぜ悪いんですの?」とアデライーダが笑いながらたずねた。
「肖像を描くのをおいやがりなすった、それで悪いんです! アグラーヤさんがあのとき『貧しき騎士』の肖像を描いてくれとおっしゃって、自分で考え出した画題をすっかりお話しなすったでしょう、覚えてらっしゃいますか、あの画題ですよ? ところが、あなたはいやだとおっしゃった……」
「だって、どんなに描いたらいいの、だれを描いたら? あの画題によると、『貧しき騎士』は、

顔なる鋼《はがね》の格子をば、
誰《た》が前にても上げざりし。

でしょう。いったいどんな顔だっていうの? 何を描いたらいいの、格子? 仮名《アノニム》?」
「なんにもわかりゃしない、いったい格子とはなんです!」夫人はこの『貧しき騎士』なる称呼によって(しかも、だいぶ前から口にされているらしい)、だれが意味されているかがよくわかってきたので、いらいらしはじめたのである。けれど、ムイシュキン公爵までが同様にもじもじして、しまいには十ばかりの子供のように、すっかりとほうにくれたのを見て、夫人はとうとうかんしゃく玉を破裂さしてしまった。「え、どうしたの、そんなばかな話をやめますか、やめませんか? その『貧しき騎士』のわけを聞かしてくれますか、くれませんか? それともなにかそばへ寄ることもできないほどたいへんな秘密ですか?」
 しかし、一同はただ笑いつづけるばかりであった。
「いや、ほんのごくごくつまらない話なんです。一つ奇態な ロシヤの詩があって」と明らかにこの話をもみ消して話題を変えようと急ぐもののごとく、とうとうS公爵が割って入った。「その『貧しき騎士』のことを歌ってるんですが、頭も尻尾もない小さな断片なのです。ひと月ぽかりまえ、食後にみんなでふざけながら、いつものとおり、アデライーダさんの次の絵のために、画題をさがしたわけなんです。ご承知のとおり、アデライーダさんの画題をさがすのが、ずっと前からお宅で家内じゅうの仕事になっているのですから。そのときこの『貧しき騎士』を引き合いに出したんですが、だれが一番だったか覚えていません……」「アグラーヤさんです!」とコーリャが叫ぶ。
「たぶんそうでしたろう、わたしもよく覚えていません」とS公爵は言葉をついだ。「ある人はてんで頭からこの画題を茶化してしまったのですが、またある人はこれ以上の画題はないと主張しました。しかし、どっちにしても、『貧しき騎士』を描くにはモデルになる顔が必要です。それで、知った人の顔をすっかり穿鑿してみたのですが、一つも適当したのがなかったのです。それで話も立ち消えになりました。これだけのことです。ただなんのためにコーリャ君が今そんなことを思い出して引用なすったのか、どうもわかりませんな。以前おかしくて場所柄にはまっていたことも、今となってはちっとも興味がありませんよ」
「それはなんだか新しいばかげた意味を含ましたからです、毒と侮辱に満ちた意味をさ」とリザヴェータ夫人は断ち切るようにさえぎった。
「いいえ、深い深い尊敬のほかには、ばかげた意味なんかちっともありません」まったく思いもかけぬアグラーヤが、ものものしいまじめくさった声でいいだした。彼女はいつしかわれに返って、さきほどの困惑を圧しつけていた。のみならず、あれやこれやの点から察するところ、今や彼女はこの冗談がだんだんと深みへはまってゆくのを、われから喜んでいるように見うけられた。彼女の心中にこの転換がおこったのは、公爵の当惑がしだいに激しくなって今は極度にまで達したのが、あまりにもあからさまに読まれるようになった瞬間からであった。
「今まで火のついたように笑っているかと思えば、今度はいきなり深い深い尊敬が飛び出したよ! まるで気ちがいだ!なぜ尊敬だえ? さあ、いってごらん、なんだっていわれもなく、深い深い尊敬などが、いきなり飛び出したんです?」
「深い深い尊敬というのはこうですの」ほとんど癩みつかんばかりの母の問いに対して、アグラーヤはやはりものものしいまじめくさった調子で答えた。「それはこの詩の中に、理想をいだくことのできる人間が直截に描かれているからです。第二には、いったん理想を定めたらそれを信じ、それを信じた以上そのために盲目的に一生を捧げるだけの勇気を、この人は持っているのです。まったく今の世に珍しい性質ですわ。その『貧しき騎士』の理想が何か、それは詩の中にはいってありませんが、どうやら輝くばかりの姿、『清き美の姿』らしいんですの。そして、亦しいこがれた騎士はショールのかわりに、数珠を首に結びつけたそうですの。そうそう、それからまだなにかしらわけのわからない、いいさしにしたようなお題目があったっけ、A、N、Bという字、これを自分の楯の上へ彫りつけたんですって……」
「A、N、D(プーシキンの原作ではA・M・Dとなっているが、これはおそらくコーリャの記憶ちがいであろう、Bはバラシュコヴァの頭字)」とコーリャが正した。
「でもあたしは、A、N、Bといってるのよ、あたしそういいたいの」といまいましそうにアグラーヤがさえぎった。「なにはともあれ、ただ一つ明瞭なことは、この貧しき騎士は自分の嫣がだれであろうと、また何をしようと、もうすこしもかまいはしないと思うほどになりました。自分がその女の人を選び出して、その『清き美』を信じ、その前へ永久にひざまずいた、それだけでたくさんだというのです。よしやのちになって、その女のひとが泥棒であるとわかっても、彼は依然としてそのひとを信じ、その清き美のために槍を折らねばならぬ、これが彼の功績なんです。詩人はきっとこの驚くべき人物の中に、純潔で高尚なある騎士のいだいていた、中世紀のプラトニックな恋の偉大な意味を、完全に取り入れようとしたのでしょう。もちろん、これは理想であります。『貧しき騎士』におきましては、この感情が極度にまで、禁欲主義にまで達しているのです。けれど、ほんとうのところを申しますと、こうした感情をいだきうるってことは、なかなか意味深長なものでして、また一面から申しますと、きわめて賞讃すべき点があります。このことはドン・キホーテを引き合いに出すまでもありません。『貧しき騎士』はドン・キホーテと同じような人物ですが、ただまじめで喜劇的な分子のないところが違っています。あたしははじめわからないから笑いましたが、今はこの『貧しき騎士』を愛します、と申すよりか、その功績を尊敬します」
 こうアグラーヤは結んだが、その顔を見ていると、はたしてまじめにいっているのやら、笑っているのやら、とみには見わけがつかなかった。
「ふん、それはどこかのばかものだよ、その男もその功績とやらもさ!」と夫人はこうきめつけた。「それに、アグラーヤ。おまえもずいぶんお吹きだったね、まるで演説みたいだ!わたしの考えでは、おまえには少々不似合いですよ。とにかく、あんなことはいけません。そしてどんな詩なの? 読んで聞かせてちょうだい、覚えておいでだろう、きっと! わたしぜひともどんな詩だか知りたいの、わたしは一生涯、詩というものをがまんできなかったっけが、虫が知らせたのかもしれない。後生だからね、公爵、辛抱してちょうだい、わたしとあんたとは、どうやらいっしょに辛抱しなくちゃならないはめになってるようですよ」と彼女はムイシュキン公爵のほうを振り向いた。夫人はおそろしく向かっ腹を立てていた。
 ムイシュキン公爵はなにやらいおうとしたが、さきほどからの困惑に妨げられて、ひとことも口がきけなかった。ただひとり、例の『演説』でずいぶん無作法なことをいったアグラーヤのみは、いささかも動ずる色もなく、むしろ嬉しそうな様子であった。彼女は相変わらずまじめくさって、ものものしげに立ちあがり、前から心構えをして、ただ人から勧められるのを待っていたといわんばかりの顔つきで、露台の真ん中へ進みいで、しじゅうひじ掛けいすにすわったままでいる公爵の前に立った。一同はやや驚いて彼女を見やった。そして、ほとんど一同のものが、公爵も、姉ふたりも、母夫人も、にがにがしい心持ちをいだきながら、あまりにも薬のききすぎる、しかもかねて用意されてあったらしいこの新しい悪戯をながめた。けれど、アグラーヤはこのわざとらしく誇張した、いかにもこれから詩を読みます、といったような身構えが気に入ったらしい。リザヴェータ夫人は今にも娘をもとの席へ追い戻しそうな気配を示したが、ちょうどアグラーヤが詩の朗読にとりかかろうとしているところへ、新しい客がふたり声高に話しながら、往来から露台へ上って来た。これはイヴァン・エパンチン将軍とそれにつづくひとりの青年であった。ふたたび小さな動揺がおこった。

      7

 将軍と同道して来た青年は、年のころ二十七、八、背の高い、すらりとした、美しい、利口そうな顔だちの男で、大きな黒い目の表情は機知と冷笑に輝いていた。アグラーヤはそのほうを振りむこうともせず、わざとらしい表情で公爵ひとりをながめながら、公爵ひとりを目当てにして、詩の朗読をつづけた。これらは、なにか特別な目算があってのことなのは、今や公爵にとって明らかな事実となった。しかし、新米の客はいくぶんかばつの悪い位置から彼を救い出してくれた。彼は将軍の姿を見つけるや、すぐさま立ちあがって、遠くから愛想よくうなずいてみせ、朗読の邪魔をするなという心をさとらせ、さて自分はひじ掛けいすのうしろに退いて、左子でいすの背に頬杖を突きながら、引きつづき朗読を傾聴した。これはいすに膿掛けているよりもだいぶ具合がよく、それほど「こっけい」に見えなかった。リザヴェータ夫人はまたリザヴェータ夫人で、命令するような風つきで、二度ばかり新来の客に手を振ってみせた、それは立ちどまって聴いていろというつもりなので。その間にも、公爵は将軍について来た新顔の客を非常な興味をもってながめた。これはてっきり、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチ・ラドームスキイに違いないと想像した。彼はこの人のことをいろいろと聞かされてもいたし、自分で考えたのも一度や二度でなかった。ただ彼はその文官の服装に奇異な感をいだかされた。エヴゲーニイが武官であることは、彼も前から聞き知っていた。詩の朗読のあいだじゅう、あざけるような微笑が新しい客の唇にただよっていた。ちょうどこの人も『貧しき騎士』のことはちょっと聞いたことがある、といったような風つきであった。『もしかしたら、この男が自分で考えだしたのかもしれないぞ』と公爵は心に思った。
 けれど、アグラーヤはそれとまるっきりあべこべであった。はじめ一座の中央に進み出たときの誇張したわざとらしさはなくなって、詩の精神に透徹するような力と誠実さで隠されてしまった。彼女は一語一語に意味を含めて、淳朴な調子で読み進んだので、終わりに近いころには、一座の注意を集めつくしたばかりか、遺憾なく譚詩《バラード》の精神を伝えた。その点において、最初ものものしく露台の真ん中に進み出たときのわざとらしく誇大した態度を、いくぶんつぐなうことさえできたほどである。いまこのものものしさの中に見られるものは、彼女がみずから進んで他人に伝えようとしたものにたいする限りない、あるいは無邪気なとさえいえるかもしれない尊崇の念ばかりであった。両眼はきらきらと輝き、その美しい顔には歓喜と霊感との軽い痙攣が、二度ばかり見えるか見えないかに現われて消えた。彼女が読んだ詩は次のようであった。

むかし世に、心すぐにて身貧しく
言葉すくなき騎士ありき。
うち見しところ憂わしく
顔の色さえ優れねど
魂すぐに勇ありき。
人の知恵には及ばざる
ある幻をいだきしが
その面影はいと深く
騎士が心に食い入りぬ。
それより恋にこがれつつ
仇しおみなに目もくれず
世を終わるまでひとことの
言葉かわすも憂しとしぬ。
騎士はおのれの頸にさえ
ショールは捲かで数珠を懸け
顔なる鋼《はがね》の格子をば
誰《た》が前にても上げざりし。
心は清き愛に充ち
甘きおもいに身は浸り
おのが血をもて楯の上に
A、M、Dと記ししか。
さてパレスチナの曠野《あらの》にて
侠者《パラジン》の群高らかに
おのれの護る姫の名を
呼びつつ岩間を戦場へ
馳せ行くときにわが騎士は
声ものすごく叫びける。Lumen coeli, sancta Rosa!
(み空の光、聖なる薔薇!)
いかずちに似る雄たけびに
邪教のやからはおののきぬ。
遠き国なるわが城に
帰りし騎士はたれこめて
ひと間の中に言葉なく
いと悲しげに暮らせしが
狂者のごとくついに死にたり。

 後日このときのことを思い出すたびに、公爵は自分として解釈のできないある疑問に悩まされ、ひとかたならぬ惑乱を感じた。それは、どうしてあのような美しい真摯な心持ちと、あのような一見して明瞭な毒々しいあざけりとをいっしょにすることができたか、である。そこにあざけりの分子があったのは疑うべからざる事実であった。公爵はそれがはっきりわかっていたばかりでなく、そう考えるべき理由を持っていた。ほかでもない、アグラーヤは朗読のさい、A、N、Dの文字をば、N、F、B(ナスターシヤ・フィリッポヴナ・バラシュコヴァの頭文字)に替える大胆を、あえてした。これは確かなことである、自分のほうに聞き違いなどのなかったのは、疑う余地もない(これが事実そうであったことはのちに証明された)。とまれ、アグラーヤの行為は、――もちろん、冗談であるが、ただしあまりに激しい軽はずみな冗談ではある――前もってもくろんだものに相違ない。『貧しき騎士』のことは、ひと月も前から一同が話して(そして『笑って』)いたのである。しかし、のちになって公爵の追憶したところによると、あの頭文字をアグラーヤはすこしも冗談らしい様子を見せず、またばかにした様子もなく、そこに潜んだ意味をはっきり浮き出させるためことさらその文字に力を入れるというでもなく、ただ前と変わらぬまじめさと無邪気な罪のない単純さをもって発音した。そのために、これらの文字がほんとうに詩の中にあったのではないか、まったく書物にそう印刷してあったのではないかと思われるほどであった。なにかしら重苦しい不快なものが、公爵の胸を刺したように感じられた。リザヴェータ夫人は、むろん文字の変わったことにも、当てこすりにも気がつかなかった。イヴァン将軍はただ詩を朗読したということ以外、てんでなんにもわからなかった。それ以外の人々の多くは事の真相を解して、アグラーヤの大胆なやりかたと企らみに一驚を喫したが、みんな黙って色に出すまいと努めた。ただエヴゲーニイのみは、単に了解したばかりでなく、その了解したことを色に出そうとさえ努めた(それは公爵が誓ってもいいと思ったくらいである)。彼はあまりにも冷笑的な笑いかたをしたのであった。
「まあ、いいこと!」朗読が終わるやいなや、夫人は心から感に堪えたように叫んだ。「だれの詩だえ?」
プーシキンですわ、おかあさま。あたしたちに恥をかかせちゃいやですよ、まったく恥だわ!」とアデライーダが叫ぶように言った。
「ああ、おまえさんたちといっしょにいると、こんなことくらいじゃない、まだまだばかになってしまいますよ」とリザヴェータ夫人は、情けなそうに答えた。「ほんとうに恥です! 帰ったらすぐ、そのプーシキンの詩を見せておくれ」
「でも、家にはプーシキンなぞ一冊もなさそうだわ」
「いつの昔からだが」とアレクサンドラがつけ足した。「ばらばらになった本が二冊ばかりころがってますよ」
「すぐにフョードルかアレクセイかを、次の列車で町へ買いにやりましょう。いえ、アレクセイのほうがよかろう。アグラーヤ、ここへおいで! さ、わたしを接吻しておくれ、おまえの朗読はほんとうにりっぱだったよ、けれど、――もしおまえがまじめで読んだのなら」と彼女はほとんどささやくようにいいたした。「わたしおまえがかわいそうです。もしあの人を冷やかすつもりで読んだのなら、わたしはおまえの考えに賛成しませんね。だから、どちらにしても、はなから読まないほうがよかったんだよ。わかったかえ? さ、いらっしゃい、お嬢さん、またあとでふたりで話しましょう。だけど、ずいぶんながいことすわりこんでしまったね」
 その間に公爵はイヴァン将軍に挨拶した。すると、将軍は彼にエグゲーニイを引き合わせた。
「途中で会ったからひっぱって来たんです。この人はたったいま汽車で着いたばかりのところでしたよ。わたしもここへ来るし、うちの者もみんなこちらへ来ていることを知ったのでね……」
「それに、あなたもここにいらっしゃるってことを聞いたもんですから」とエヴゲーニイも言葉を添えた。「わたしはももずうっと前からあなたのお近づきを、いや、お近づきばかりではなく、ご友誼を求めたいと考えてましたので、じつはこの機会を逸してはならぬと思いまして。あなたはお加減が悪いそうですね。たった今うかがったのですが……」
「いえ、もうすっかりよろしいのです。あなたとお目にかかってたいへんうれしく存じます。おうわさはかねがねうかがっておりましたし、またばく自身もS公爵とあなたのおうわさをしたこともございます」とムイシュキン公爵は、手をさし仰べながら答えた。
 双方の挨拶も済んで、ふたりはたがいに握手をし、たがいにじっと目と目を見合わした。たちまち会話は全体に行きわたった。エヴゲーニイの文官服は一同に何か非常に激しい驚愕を与え、その他の印象はすべてしばらく忘れられ、姿を潜めたくらいである。公爵はこれに気がついた(彼はいま貪婪なくらい何にでも早く気がついた。あるいは、ぜんぜんありもせぬことにまで気がついたかもしれぬ)。この服装の変化の中に、なにかひどく重大な事件が含まれてるのではなかろうか、とさえ考えられるのであった。アデライーダとアレクサンドラは、不審そうに根掘り葉掘りエヴゲーニイにきいていた。親族のS公爵はひどく不安の色さえ浮かべた。将軍の声には胸騒ぎのしているような響きがあった。ただひとりアグラーヤのみは、文官服と武官服とどちらがよく似合うか比べて見るかのように、ちょっとエヴゲーニイの顔をもの珍しそうに、とはいえまったく冷静にながめていたが、やがてつと向きをかえて、それきり彼を見ようとしなかった。リザヴェータ夫人もやはりいくぶん心配らしい様子であったが、同じくなにひとつきいてみようともしなかった。エヴゲーニイはあまり夫人のお覚えめでたくないように、公爵には見受けられた。
「いや、びっくりした、まったく驚きましたよ」とイヴァン将軍は人々の問いに応じていった。「わたしはさっきペテルブルグで会ったときから、ほんとうとは思われなかった。おまけに、なぜふいにそんなことをされたのかそれがわかりませんて。会うとすぐいきなり、もうお役所のいすをこわすのはたくさんだ、とこうなんですからね」
 いろいろとその場で取り交わされた会話を総合してみると、エヴゲーニイはもうずっと前から退職のことを披露していたのだが、いつもそのいいかたがなんとなくふざけたように聞こえたので、とてもほんとうにするわけにいかなかったものと見える。それに、彼はいつもまじめなことを話すにも、妙にふざけた様子をしてみせるので、真偽のほどが曖昧であった。ことに、自分でもはっきりわかってもらいたくないと思ったときには、なおさらなのである。
「なに、ぼくはちょっと三、四か月、長くも一年くらい休職で暮らしてみるだけなんですよ」とエヴゲーニイは笑いながらいった。
「だが、わたしの知ってるかぎりでは、あなたの目下の事情はすこしもそんなことを必要としないじゃありませんか」となおも将軍は憤慨した。
「ですが、領地を乗りまわすのはどうです? あなたもご自分で勧めてくだすったじゃありませんか。それにぼく、外国旅行もしてみたいんですよ……」
 とはいえ、話題は間もなくほかへ移った。しかし、傍観者たる公爵の見るところでは、あまりにも激しく度を超えた不安はやはりいつまでもつづいて、その中にはたしかに何かある特殊なものがあった。
「じゃ、なんですか、『貧しき騎士』がまた舞台へ出たんですか?」とエヴゲーニイはアグラーヤに近寄りながら問いかけた。
 ところが、そばで見ていた公爵の驚いたことには、アグラーヤは、けげんな顔をして、不審そうに相手をながめた。まるでふたりの間に、『貧しき騎士』などの話が取り交わされたはずがない、あなたのおっしゃることはなんだかわかりませんよ、といいたそうな具合であった。
「いいえ、遅いです、今からプーシキンを買いに町へ行かせるのは遅いです、遅いですよ!」とコーリャは夢中になってリザヴェータ夫人といい合っていた。「さっきから幾度いってるかしれないじゃありませんか、遅いですよ」
「ええ、まったく今から町へ使いをやるのは遅いですよ」いち早くアグラーヤをはずしたエヴゲーニイが、ここへもすかさず割りこんだ。「ぼくの考えでは、ペテルブルグの店はもう戸を閉めたころですね、八時すぎですもの」彼は時計を引き出して、こう決めてしまった。
「今まで長いこと気がつかずにいたんですもの、あすまでくらい大丈夫、待てるわ」とアデライーダが口を挟んだ。
「それに、不似合いですよ」とコーリャがつけたした。「上流社会の人がそんな文学などに熱中するなんて。まあ、エヴゲーニイさんにきいてごらんなさい、それよか、赤い輪のついた黄色い散歩馬車に憂き身をやつしたほうが、どんなによく似合うかしれませんよ」
「またなにかの本の文句をひっぱり出したわね、コーリャ」とアデライーダが注意した。
「ええ、この人は本の文句を引き合いに出すよりほか、話のしかたを知らないんです」とエヴゲーニイが引き取った。「よく批評集かなにかの長たらしい句を、そのまま引用するんですからね。ぼくは前から、コーリャ君の話をうけたまわる光栄を有しましたが、今のは、しかし、本の文句じゃなかったようです。明らかにコーリャ君は、赤い輪のついたぼくの黄色い散歩馬車を、当てこすったんです。しかし、ぼくはもうほかのと取っ換えてしまいましたよ、少々おそまきでしたね」
 公爵はエヴゲーニイの話しぶりを聞いて、彼がいかにも控えめに、しかもりっぱな朗らかな態度で終始しているのを感じた。それに、自分に突っかかってくるコーリャに向かって、へだてなく親しげな調子で話すのが、とりわけ気に入ったのである。
「それは何?」と将軍夫人はレーベジェフの娘ヴェーラに問いかけた。娘は手に装幀の美しい、まだま新しい、大形の書物を幾冊か捧げて、夫人の前に立っていたのだ。
プーシキン、宅のプーシキンでございます」とヴェーラは答えた。「父が奥さまに進呈するように申しつけましたので」
「なんだってそんな? どうしてそんなことが?」とリザヴェータ夫人はびっくりした。
「進上いたすのではございません。進上いたすのではありません。けっしてそんな失礼なことは申しあげません!」娘の肩のかげからレーベジェフが飛び出した。「相当のお値段で、へえ! これはわたくしども家庭用のプーシキン、アンネンコフ版でして、今ほしいと申しても手に入る品ではございません、――まあ相当のお値段で、へえ! 謹んでお譲りいたしとうござります。それでもって、奥様のあっぱれな文学的感情のお渇きをうるおしていただけましたら、なにより満足のことに存じますので」
「ああ、売ってくれるんですか、そんならありがとう。とても損のいくようなことはおしでないだろうからね。だけど、そんな妙な恰好をするのだけはよしてちょうだい。わたしおまえさんがなかなかの学者だといううわさを聞いていましたが、いつかお話ししてみましょうよ。どうだね、きょうおまえさん自分で持って来てくれますかね!」
「謹んで……うやうやしく承知いたしました!」と娘の手から書物をひったくりながら、レーベジェフはたまらなく嬉しそうに身をくねらした。「結構、だがなくしちゃだめですよ、大切にもってらっしゃい。そんなに謹んだり、うやうやしくしたりしなくてもいいからね。だけど、条件つきですよ」と夫人は相手をじろじろ見まわしながら、いいたした。「しきいのとこまでは入れるけれど、きょうおまえさんを中へ通すつもりはないんだからね。けれど、娘のヴェーラさんは今すぐでもよこしなさい。あの娘はわたしすっかり気に入っちゃった」
「おとうさん、なぜあの人たちのことをおっしゃらないの?」と、こらえかねたようにヴェーラは父にいった。「そうこうしているうちに、あの人たちは自分で入って来てよ。ほら、あんなにがやがやいいだしたわ。公爵さま」このときもう自分の帽子を手に取っていた公爵のほうに向いて、彼女はこう告げた。「あちらへだれだが四人ばかりの人がまいりまして、わたしどものほうで待ちながら、乱暴なことばかりいっています。父はこちらへ通しちゃいけないと申すのですけれど」
「どんなお客さま?」と公爵がたずねた。
「用事で来たと申すのでございますけれど、もし今ここへ通さなかったら、途中で待伏せでもしかねないような人たちでございます。公爵さま、まあひとまず通してやって、それからいい加減なときに追っ払ってやるとよろしゅうございますよ。あちらでガヴリーラさんにプチーツィンさんが、いろいろいい聞かしてらっしゃるのですけど、なかなかはいといわないのでございます」
「パヴリーシチェフさんの息子です! パヴリーシチェフさんの息子です! なに、あんなやつ相手になさる値うちはありません」とレーベジェフは両手を振りまわしながら、「あんな者のいうことなど、聞いてやる値うちはありません。公爵さま、そんなことを気におかけなさるのも、ご身分にかかわるくらいです、それだけのことです。あいつらにはそれでたくさんです……」
「パヴリーシチェフさんの息子? ああ、なんということだ!」と公爵はひどく狼狽して叫んだ。『ぼく、知ってます……だけど、ぼくはその……この事件をすっかりガヴリーラさんに委任したんですが……たった今さきもガヴリーラさんがぼくにそういいました……」
 しかし、このときガヴリーラは早くも家の中から露台へ出て来た。そのあとからプチーツィンもつづいた。すぐ次の間からは、まるでいくたりかの声を圧倒せんとしているような、イヴォルギン将軍の大きな声が、騒々しい物音といっしょに響いた。コーリヤはすぐに物音のするほうへかけだした。
「こいつは大いにおもしろいぞ!」とエヴゲーニイが口に出していった。
『してみると、ちゃんと事情を知ってるんだな!』と公爵は腹の中で考えた。
「パヴリーシチェフさんの息子ってだれです? それに……パヴリーシチェフさんの息子なんて、あるはずがないじゃありませんか」イヴァン将軍は不審そうに一同の顔を見まわしたが、この新しい事件を知らないのは自分ひとりだけだと気がつくと、彼はけげんな顔をしてこうきいた。
 いかにも一同はこぞって胸をおどらせながら、どんなことが持ちあがるかと、待ち設けていたのである。公爵はまったく自分一個のみに関する事件が、かくまで激しく一同の興味をひくのを見て、深い驚きに打たれた。
「もしあなたが今すぐ、あなたおひとりで、この事件の片を付けておしまいなすったら、ほんとにおもしろうございましょうねえ」アグラーヤはなんだかいやにまじめくさった様子をして、公爵のほうへ近寄りながらいいだした、「そして、あたしたち一同はここにこうしていて、あなたの証人にならしていただきとうございますわ。ねえ公爵、今あなたの顔に泥をぬろうとするものがあるのですから、あなたはりっぱに身の明かしをお立てにならなくちゃなりませんわ。あたしは今から、それをあなたのためにお喜びしていますの」
「わたしも早くこのいまいましいゆすり事件の片をつけてもらいたいですね!」と将軍夫人も叫んだ。「そんなやつらはぴしぴしとやっつけておやんなさい、公爵、ちっとも容赦はいりませんよ。わたしこの話を耳にたこができるほど聞かされたので、あんたのためにどれだけ気をもんだかわからないんですよ。それに、どんなやつらだか見るのも一興ですからね、ここへ呼んでごらんなさい、わたしたちはじっとすわっていましょう。ほんにアグラーヤの思いつきはなかなかよかった。公爵、あなたはこのことについてなにかお聞きになりまして?」と彼女はS公爵に向かってたずねた。
「もちろん聞きました、やはりお宅で。が、わたしもやはり、おそろしくその若い連中の顔が見たいんですよ」とS公爵は答えた。
「いったいその連中てのはニヒリストなのですかねえ?」
「いえ、あいつらはニヒリストとは違いますので」これも同じく興奮のあまりぶるぶるふるえださんばかりのレーベジェフが、一足まえへしゃしゃり出た。「あいつらはそれとはまるで違う、特別な連中でござります。わたくしの甥にいわせますと、あいつらはニヒリストよりもっと上手なのです。あなたは、自分がそばにいたらあいつらがまごつくだろうとお思いのご様子ですが、なかなかどうして、あいつらはそれしきのことでまごつくような連中じゃありませんて。ニヒリストの中にはままもののわかった、学者とでもいいたいような人がおりますが、こいつらときたら、それどころの騒ぎでないのです。なぜと申すに、まずなにより実際的な連中だからです。これはつまりニヒリズムの結果でありましょうが、まっすぐな道を通って来たんでなくって、ほんの聞きかじりか、ただしはニヒリズムの前を横目ににらみながら通り抜けたくらいのところです。それに、雑誌に論文かなにか載せて意見を発表するなんて、まわりくどいことはいたしません。なんでもかでもじっさいにやって見せるのです。たとえば、やれ、プーシキンは無意味でござるの、やれ、ロシヤの国はいくつにも分裂しなくちゃならんのと、そんなことはまるでお話が違うのです。ただその、なにかひどく執心なことがあると、たとえそれがために八人の人を殺す必要ができても、むちゃくちゃにやりとおす権利があると思ってるのです。公爵、わたしはやはりどうも賛成いたしかねますが……」
 けれど、公爵はもう戸をあけに立って行った。
「レーベジェフ君、それはいいがかりというもんですよ」と彼はほほえみながらいいだした。「あの甥ごさんはだいぶきみをおどしつけたと見えますね。奥さん、どうかこの人のいうことを、ほんとうにしないでくだい。ゴールスキイやダニーロフ(当時新聞を賑わした殺人犯)などはほんの偶然の産物ですし、この人たちはただ思い違いをしてるまでのことです……ただ一つぼくはここで、皆さんの前でそんな話をしたくないですから、奥さん、まことに申しかねますが、あの人たちがやって来たら一応お目にかけて、それからあちらへ連れて行かしていただきます。さあ、皆さん、どうぞ!」
 しかし、それよりもむしろ別な種類の苫しい想念が彼を悩ますのであった。ほかでもない。もしやだれかが前から考えて、この事件がちょうど今このとき、こうした来客の前で持ちあがるように、しかも彼の勝利とならず、かえって大恥をかかされるのを予期して、こんな細工を企らんだのではなかろうか、といったふうの考えが、ちらっと心に浮かんだのである。けれども、彼は同時に、自分の『奇怪なほど意地わるく疑ぐりぶかい』性質が浅ましく、妙に沈んだ気持ちになった。自分の心中にこんな想念が潜んでいることをだれかに知られたら、彼はとても生きてはいられなかったであろう。で、ちょうど新しい客人たちがどやどやと入って来た瞬間、彼はここにいる人の中で、自分が道徳的に最も劣等な人間なのだと、真底から考えた。入って来たのは五人であった。四人は新顔で、最後のひとりはイヴォルギン将軍であった。彼はおそろしく激して興奮して、発作にかかったような雄弁をふるっていた。『この人はきっとぼくの味方だ!』と公爵はほくそえみながら考えた。コーリャも皆といっしょにすべりこんだ。そして、新来の客の中にまじったイッポリートと、なにやら一生懸命に話していた。イッポリートは耳を傾けながら、にやっと笑った。
 公爵は客をそれぞれ席に着かした。彼らはみなそろいもそろってなま若い、まだ一人前になりきらぬ青年ばかりなので、こんな連中のために、これほどものものしい接見の場を準備したのが、不思議なくらいであった。たとえば、この『新しい事件』について、なんの知るところもないエパンチン将軍は、こうしたなま若い連中を見て急にぶつぶついいだした。もし夫人が公爵の私的利害に関して、不思議なほどの熱心を示さなかったら、たしかになんとかぐずぐずいいだしたに相違ない。とにかく、彼はなかば好奇心、なかば人のいいためそこに居残った。なんといっても、自分は一座の権威として役に立つことができると信じたからなので。けれど、あとから入って来たイヴォルギン将軍が、遠くから会釈をしたとき、彼はまたいまいましい気持ちになった。彼は顔をしかめ、もう何ごとがおころうと、いっさい口をきくまいと腹を決めた。 四人の若い来客のうちにただひとり、もう三十くらいになるらしい男がいた。それは『旧ラゴージンー党』に属していた退職中尉で、望み手があれば十五ルーブリで拳闘の教授もする男であった。彼がほかの連中について来たのは、単に誠実なる親友として、仲間の元気を鼓舞しようというにすぎないらしい。ただし、いったん必要が生ずれば、庇護の役に当たるつもりなのはもちろんである。ほかの三人のうちで座頭役を勤めていたのは、かのパヴリーシチェフの息子と呼ばれる屶である。もっとも、自分ではアンチープ・ブルドーフスキイと名乗りを上げた。彼は身なりの貧乏くさく無精たらしい若者で、両ひじが油でてらてらと鏡のように光るフロックに、いちばんうえまでボタンをかけたべとべとのチョッキ、どこへ行ったか影も見えないワイシャツ、とても余人には真似ができそうもないほど脂じみて、よれよれになった黒い絹の襟巻を着けている。手はろくすっぽ洗わないらしく、顔にはものすごくにきびが吹き出し、髪は亜麻のように白っぽかった。それに目つきが、しいていってみれば、罪のない傲慢な表情をしている。年かっこうは二十二くらい、やせているが背丈はあまり低くないほうである。その顔には、いささかの皮肉も自己反省も映っていなかった。それどころか、おのれの権利に対する安全な(しかもいかにも遅鈍らしい)心酔の色と、また一方、つねに『自分は踏みつけにされてばかりいる』と考えたがる、一種不思議な欲望のかげが勁いている。彼はやたらに激昂してせきこみ、どもりどもり話をするので、言葉をひとつひとつはっきりしまいまでいわないのではないか、と思われる。まるでどもりでなければ、外国人そっくりであるが、そのくせ純粋のロシヤ生まれなので。 第一番に彼のあとからついて来たのは、読者にとって顔なじみのレーベジェフの甥で、その次はイッポリートであった。イッポリートはいたって年少の、十七か十八くらいの青年で、思慮ありげには見えるが、いつもいらいらしい表情を帯びた顔には、病気の恐ろしい痕跡を印している。からだは骸骨同然にやせさらばい、青ざめた黄いろみを呈し、両眼はぎらぎらと輝き、双の頬には二つのしみが燃えるように赤かった。彼は絶えまなくせきつづけるので、そのひとことひとこと、いな、その一呼吸一呼吸にぜいぜいという響きがまじっていた。ひと目みたばかりで、肺病が極度にまで達しているものと知れた。彼の寿命もここ二、三週より長くはないらしい。彼は疲れきったように、だれよりもさきにどかりといすへ身を投げ出した。ほかの連中は入って来るときにいくぶんまごついた様子で、妙に四角ばっていたが、それでも、尊大にあたりを見まわしながら、なにかの拍子で自分の威厳を落としはせぬかと、びくびくしていたので、そうした態度は、無益で瑣末な交際上の礼儀とか偏見とか、あるいは一歩すすめて、自分の利益以外ほとんど世界のいっさいを否定しているという定評に、妙に調和しないのであった。
「アンチープ・ブルドーフスキイです」とせきこみながら、どもりどもり、『パヴリーシチェフの息子』がきり出した。
「ヴラジーミル・ドクトレンコ」とレーベジェフの甥は、まるで自分がドクトレンコであることを自慢でもするように、明瞭にきっぱりと名乗りを上げた。
「ケルレルです」と退職中尉が口早にいった。
「イッポリート・チェレンチエフ」と最後に出しぬけに甲高い声が叫んだ。
 とかくして一同は、公爵にむかい合って、一列にいすを占めながら名を名乗ると、自分で自分に元気をつけるために、帽子を左右の手に持ち換え、眉をひそめて、今にも口をきろうと身構えていた。しかし、一同はなぜか黙りこんで『おい、やっこさんだめだよ、その手は食わんぞ!』といったような、挑戦的な顔つきをして、なにやら待ち設けていた。ただだれかひとり皮切りに、なにかひとこといいだしたら、彼らはそろって一時に、おたがい同士じゃまをしながら、競争でがやがやしゃべりだすに相違ない、といったふうの気配が感じられた。

      8

「皆さん、皆さんがここへおいでくださろうとは、思いもよりませんでした」と公爵は口をきった。「ぼく自身もついきょうの日まで病気してたもんですから。それにあなたのお話は(と、彼はブルドーフスキイのほうへ向いて)もうひと月も前から、ガグリーラーイヴォルギン氏に委託しました。そのことは当時あなたのほうへ通知しておきました。もっとも、ぼくだって自分で親しくお話しするのを避けるわけではありませんが、ごらんのとおり、時が時ですから……どうぞぼくといっしょに別室へお運びを願いたいのです。けっしてお手間はとらしません……今ここにはぼくの友人のかたがたがいられますから、その……」
「友人のかたがた……ええ、ええ、お幾人でも、しかし失礼ですが」とふいにレーベジェフの甥が、まだあまり声は張らないけれど、おそろしく高飛車な調子でさえぎった。「失礼ですが、わたしのほうにも少々いい分がありますよ。あなたはわれわれを遇するに、もすこし丁寧であってもよかったようですね。人をボーイ部屋に二時間も待たせるなんて、あんま力でさあ……」
「それに、もちろん、ぼくだって……それに、あんなのをお華族式というんですか! それに、あんなことは……つまり、あなたは将軍気取りなんですね! ぼくだってなにもあなたのボーイじゃありまぜんよ! それにぼくは、ぼくは……」といきなりアンチプ・ブルドーフスキイが、なみはずれた興奮のていでいいだした。屈辱に堪えぬかのごとく声をふるわし、くちびるをぴくぴく動かし、口から泡を飛ばす様子は、まるでからだが破裂するか、あるいは、ちぎれてけし飛びでもしたようである。しかし、にわかにかっとせきこんだので、もう十こと目くらいから、何をいってるやらわからなかった。
「それがお華族流というのだ!」甲高いひびの入ったような声でイッポリートが叫んだ。
「もしこれがわが輩のことだったら」と拳闘の先生もどなりだした。「その、つまり、直接わが輩の身に関したことだったら、わが輩がブルドーフスキイの位置に立たされたら、わが輩は身分ある紳士として……」
「皆さん、ぼく皆さんのいらしったことを、たったいま知ったばかりなんです。うそじゃありません」と公爵はふたたびくりかえした。
「公爵、われわれはあなたの友人がどんな人だろうと、けっして恐れやしませんよ。われわれにはちゃんとりっぱな権利があるんだから」とまたしてもレーベジェフの甥がいった。
「しかし、ちょっとうかがいますが、あなたはいかなる権利があって」イッポリートが今度はおそろしくぶりぶりして金切声をだした。「ブルドーフスキイの事件を、自分の友人たちに審判させようとなさるんです? われわれはあなたの友人の審判なんか、望まないかもしれないじゃありませんか。あなたの友人の審判にどれだけの価値があるかってことは、あんまりよくわかりすぎてます!………」
「ですが、ブルドーフスキイさん、もしここで話すのがおいやでしたら」と相手のこうした出かたにすくなからず驚かされた公爵は、やっと口をいれることができた。「先刻から申すように、さっそく別間へご案内しましょう。あなたがたのことはまったくのところ、たったいま聞いたばかりなんです……」
「しかし、そんな権利はありません、そんな権利はありません、そんな権利はありません!………あなたの友人なんか……もう!………」粗暴な、しかもおずおずした目つきであたりを見まわしながら、ブルドーフスキイはたどたどしくいいだした。彼は他人を信ずる心が少なく、忌避の念がつのるに従ってますます熱中し、前後を忘れてゆくのであった。「あなたにそんな権利はありません!」
 こういってしまってから、彼はぷつりと引きちぎったように口をつぐみ、赤い太い筋の浮いた、おそろしく飛び出した近視の目を丸くしながら、全身を前へ乗り出すようにし、もの問いだけに公爵を見すえた。公爵はこれにすっかり面くらって、自分まで黙りこんでしまい、同じく一語も発せず、目を丸くして相手をながめていた。
「公爵!」ふいにリザヴェータ夫人が呼びかけた。「さあ、これを今ここで読んでごらんなさい、今すぐに、これはあんたに直接関係があります」
 彼女はせかせかと一枚の週刊滑稽新聞を突き出して、とある文章を指さした。これはまだ客人たちが入ったばかりのとき、レーベジェフが前からなんとかしてご機嫌をとろうと苦心していた将軍夫人のそばへ、そっと横のほうから馳せ寄って、ひとことも口をきかずにポケットからこの新聞を引き出し、しるしの付けてある一欄を指さしながら、夫人の目の前へ突きつけたのである。リザヴェータ夫人は手早く目を通して見たが、ひとかたならず驚いて激昂した。
「ですが、音読でないほうがよかありませんかしら」と公爵は狼狽して、おどおどいいだした。「ぼくひとりで読みたいんですが……のちほど……」 
「じゃ、いっそおまえさん読みなさい。今すぐ、声を出して!」夫人は、いらだたしげに、公爵がやっと手を触れたばかりの新聞をひったくると、コーリヤに向かってこういった。「さあ、大きな声で、ひとりひとりにきこえるように」
 リザヴェータ夫人は熱して夢中になりやすいたちの人であったから、どうかするとろくろく考えもせずにばたばたと、まるで天気模様も調べずに錨を上げて大海へ乗り出すようなことをするのも、珍しくなかった。イヴァン将軍は不安そうにもじもじしていた。しかし、ちょっといっとき、一同はわれともなく静まりかえって、不思議そうに待ち設けていた。コーリヤは新聞を広げて読みにかかった。レーベジェフはかけよって場所を教えてやった。

『プロレタリヤと成金』
  連日白昼に行なわれる強盗事件の一実話!
  進歩! 改革! 正義! 公平!

「奇々怪々なる事件が、いわゆるわが神聖なるロシヤにおいて、行なわれつつある。しかも、それは現代改革のとき、会社企業の盛んなるとき、国民的自覚のとき、年々数億の正貨が外国へ流出するのとき、工業奨励のとき、労働者の手を必要とせざるとき等々、……いや、いくら数えても数えきれることでない。読者諸君のお許しを得て、いざ本題にとりかかろう。
「今回ここに生じた一つの奇談というのは、ほかでもない、わが国では、もはや過去の遺物たる地主仲間(de profundis!)(深き底より――ラテン語)の子孫のひとりに関するものである。もっとも、地主仲間の子孫とはいい条、これはなかなか曰くつきな代物で、祖父はルーレットできれいに財布の底をはたき上げ、おやじは仕方なしに軍隊に入って、見習士官か少尉を勤めたあげく、罪のない官金費消かなにかで裁判に付せられ、営倉の中でおだぶつになってしまう。すると、子供らはこの物語の主人公と同様印館でなければ、刑法上の罪に問われるようなとんでもないことをしでかす(しかし、こんなのは陪審員たちが、大いに啓発して改心させたらいい、などと弁護してくれるが)。それから、さらにひどいのになると、めくらめっぽうなことをしでかして世間の人の度胆を抜き、それでなくてさえいいかげんけがらわしい現代に恥の上塗りをする、とまあいったふうな連中のひとりなのである。
「この話の主人公は半年ばかり前、足には外国ふうのゲートルをはき、寒中に裹もついてない外套にくるまってぶるぶるふるえながら、今まで白痴の療治(sic!)に滞在していたスイスから、ロシヤの国へと帰って来た。うち明けたところ、先生なかなか運のいい男である。というのは、例のスイスで癒して来た、と称するおもしろい病気(が、いったいばかを直すことができるものかどうか、諸君、考えてみたまえ?!!)のことはいうにも及ばず、『ある種の人々はつねに幸福なり(馬鹿には幸運がめぐって来る)』というロシヤの格言を、一身に体現したと申すも過言ではない。思ってもみたまえ、おやじは中尉であったが、中隊の金をちょろりとカルタにつぎこんだせいか、あるいは余計に部下のものをなぐりつけたためか(ご承知のとおり、昔はみなそんなものだった)、なにかの事件で裁判沙汰になっているうちに死んでしまった。ところが、この男爵はほんの赤ん坊のころおやじに死に別れてから、あるロシヤの富裕な地主におなさけで引き取られることになった。
「このロシヤの地主は、――かりにPと呼んでおこう、――以前の黄金時代には四千人の農奴の持ち主だったが(農奴!この言葉の意味がわかりますか、諸君! ぼくにはわからん。ひとつ詳しい辞書でも調べてみなくちゃならん。『神代の話じゃないけれど、やはりほんとうになりかねる』(クリポエードフ『知恵の悲しみの中の句』)だ)、察するところ、夏は温泉、冬はパリの花屋敷で、のんき至極な暮らしをし、そんなところに数えきれぬほどの金をまき散らす、ロシヤ式のらくら者の仲間らしい、すくなくとも、農奴の年貢の三分の一はシャトー・ド・フルールの経営者のふところへ収まった、とだけはたしかにいいきることができる(シャトー・ド・フルールの持ち主こそあやかり者なれだ!)
閑話休題、裕福なPはみなし児の男爵を王子同様に育てた。家庭教師や女教師を(それもむろん、渋皮のむけたのばかりに相違ない)、ついでのときに自分でパリから連れて来た。が、一門のうち最後にひとり生き残った華族の忘れがたみは白痴であって、シャトー・ド・フルール式家庭教師はいうこうお役に立たず、わが男爵は二十の年まで、どこの国語でも話一つすることができなかった。わがロシヤ語もむろんその例外とはならぬのだ。もっとも、ロシヤ語の件はとがめだてすることもない。ついにP氏の地主らしい胸に一つの妄想が浮かんで来た。つまり、スイスでなら白痴に知恵をつけることができるというのであった。しかし妄想とはいえ、なかなかこれは論理的で、なまけ者の物持ちが、金さえ出せば知恵だって市場で買える、ましてスイスでなら買えないはずはないと思ったのは、まことに自然なことである。スイスのさる博士のもとで五年ばかり療治してもらったが、もちろん白痴が利口になるはずはない、その間には幾千という金が出て行った。一説には、それでもどうやら人間に似て来たということだが、いいかげんなできそこないなのは申すまでもない。
「ところが、ふいにP氏が頓死した。遺言なぞはむろんない。あとはお定まりの乱脈、山ほどの相続人がてんやわんやに名乗り出たがその連中にしてみれば、おなさけで、スイスくんだりまで行って療治してもらっている一門最後の忘れがたみなどは、どうなろうとかまったことではない。忘れがたみ先生、ばかとはいい条、博士を欺して恩人の死去を隠し、二年間ただで療治をしてもらったという。さりながら、この博士というのがしたたかな食わせ者だから、とうとう金のないのに、というより、二十五歳の居候の健啖に恐れをなして、自分の古いゲートルをはかせ、よれよれの外套を着せ、お慈悲に三等の汽車賃をくれてnach Russland(ロシヤヘ向けて――ドイツ語)スイスから『おととい来い』とほうり出した。
「どうやら運というやつが、わが主人公に背中を向けた塩梅式だが、おっとどっこい、さにあらず。飢饉をもって数県の人民を瀕死の状態におとしいれた運命は、自分の贈り物を一時にこの男爵の上へ浴びせかけた。例のクルイロフの寓意詩の夕立雲が、からからにかわいた野の上を走り過ぎて、大洋の上にくずれ落ちた、というのにさも似たりではないか。この男がスイスからペテルブルグへ出て来るとほとんど同時に、モスクワにいる母かたの親戚が死にかかっていた(母親というのは、もちろん、商家の出たので)。それは年寄った子供のない商人で、髯むくじゃらな分離派教徒だが、これが正真正銘のりっぱな現金で、何百万という遺産を置き土産にして行こうというのだ(読者諸君、おたがいにあやかりたいものではないか!)この金がそっくり例の忘れがたみ先生のものとなった、この金が、スイスで削綰の療治をしてもらった男爵殿のものになったのだ! すると、早速、まわりの人たちの調子がころりと違って来た。かつてはゲートルばきで、ある有名な美人妾のあとを追っかけようとした男爵のまわりに、とたんに友人や親友がうようよ集まって、親戚と名乗る者さえ出て来た。それに、なによりうらやましいのは名門の令嬢たちが結婚を求めて、山のごとくに慕い寄るという一条である。じつに結構なることどもで、貴族、百万長者、白痴、にうした特質をことごとく一身に具備している花婿は、提灯つけてさがしても見つかるまい、別あつらえでも作れまい……」
「それは……それはいったいなんのことです? わたしにゃさっぱりわからん」とイヴァン将軍は極度の憤慨にがられて叫んだ。
「コーリャ君、よしてください!」公爵は哀願するような声でいった。
 叫び声が四方からおこった。
「読みなさい! どうあっても読まなくちゃなりません!」
 一生懸命に自分をおさえようとするかのさまで、リザヴェータ夫人はこうさえぎった。「公爵、もしあんたが読むのをやめさせれば、わたし喧嘩しますよ」
 いかんともせんすべがないので、コーリャは興奮してわくわくしながら、顔を赤くして、ふるえ声で読みつづけた。「さてわが一夜漬けの大富豪が、いわゆる天にも昇ったような心持ちでいる間に、まったく寝耳に水とでもいうべき一事が出来した。ある日、とつぜんひとりの紳士が彼のもとへ訪れた。この紳士は落ちつき払った厳めしい顔つきをし、服装はあえて流行を追わぬ上品なものであった。慇懃で威厳かあり、しかも道理にかなった言葉には、明らかに進歩的な思想のかげがひらめいていた。紳士はごく手短かに来意を告げた。それによると、この紳士はある有名な弁護士で、ひとりの青年に一事を託され、その代理として訪問したのだ。この青年というのは、別な苗字を名乗ってはいれど、亡きP氏の正真正銘の息子にほかならぬのだ。
「多情なるP氏は若気のあやまちで、正直な貧しい召使の一少女をそそのかしたことがある。召使といってもヨーロッパふうの教育は受けていた(もちろん、農奴制時代の地主さまの威光でできたことだが)。けれども、この関係がたちまちにして例の避くべがらざる結果をもたらしたのを認めると、P氏は娘をさる職人、というよりは、むしろ某処の勤め人に大急ぎで縁づけてしまった。これは生来正直な男で、もうずっと前からその娘に恋していた。はじめのうちは、P氏も新夫婦に扶持をやっていたが、正直な亭主は間もなくその助力を断わった。しばらくたつうち、P氏はだんだんとその娘のことも、その娘に生ませたわが子のことも、とんと忘れてしまって、その後なんらの処置をも取らず亡き人となったのである。
「そうこうしているうちに、その子供は、正当な結婚をした夫妻のあいだに生まれ、夫なる人の寛大な性質のおかげで、本当の息子ということにしてもらって、他姓を名乗って大きくなったのである。とかくするうち、義理ある父はあの世の人となったので、彼は貧しい財産と足の立たぬ病身な母親をかかえて、遠い田舎に取り残された。彼は憤然起って都へ赴き、商人の家の家庭教師となってその日その日の糧を儲け、最初は中学に、やがてある有益なる講義の傍聴生となって、高遠の目的に資したのである。しかし、ロシヤ商人の家庭教師を勤めて、一回十コペイカくらいもらったところで、どれだけの収入があろう。それに、遠い田舎には病身な母親がいて、これも容易に死んで息子の足手まといをとこうとはせぬ。ここで一つの問題というのは、かの忘れがたみ先生は道義上なんと判断すべきであるか? 読者諸君、諸君はもちろん、このにわか分限が次のように独りごちたと考えられるであろう。
『おれは一生涯、P氏からあらゆるものを賦与せられた。教育、家庭教師の招聘、スイスでの白痴療法などのために幾万という金を費やした。ところで、おれはいま数百万の財産の所有者であるのに、P氏の高潔なる息子は、自分では毛頭あずかり知らぬ軽薄にして忘れっぽい父の所行のために、家庭教師などをして飢えに瀕している。おれのために費やされたものの全部は、道義上ことごとくその息子に返さねばならぬ。おれのために浪費されたかの莫大な金高は、じっさいのところおれのものではない。これは単に運命の神の錯誤であって、あの金は当然P氏の息子に属すべきだ。この人のために使用されるべきものだったのだ。それがおれのために費消されたのは、要するに、軽薄にして忘れっぽいP氏の空想的な欲望の所産にすぎない。で、もしおれが非常に高潔でデリケートで正直な男だったら、おれは自分の財産を等分して、この息子にやるのがほんとうだろう、けれども、おれはあまりに打算的な人間だし、それにこの事件があまり法律的でないことが見えすぎるから、財産の半分をやるわけにはゆかぬ。けれど、P氏がおれの白痴に費消してくれた幾万ルーブリかの金すら返さないのは、こりゃまたあまり卑劣で恥しらずというものだ(成金君は「あんまり打算的でなさすぎる」とつけたすのを忘れたのだ)。じっさい、この問題はただ良心と道義の問題だ。もしP氏がおれを引き取って養ってくれず、そのかわりに自分の息子のことを心配したとすれば、おれはそもそもどうなったか?』と。
「ところが、読者諸君よ、大違い! わが忘れがたみ先生は、そんなふうの考えかたをしない。この青年の弁護士は単に友誼のため、進まぬ青年を無理やりに説き伏せて、事件を引き受けたのだが、弁護士が、どんなに名誉、廉潔、道義、さては単なる利害関係からして、彼の果たすべき義務を諄々と説き諭しても、スイスがえりの成金先生は、いっかな耳を傾けようとしない。が、これはまあ仕方がないとしても、ここに一つ、じっさいなんとしても、ゆるすべからざる、またいかなる奇病を楯にとっても許すべからざる事実がある。やっと恩師のゲートルを脱いだばかりの百万長者は、家庭教師の勤めに骨身を削っている高潔な青年が、けっしてなにもお恵みや扶助金をこうているのではなく、ただただ法律的ではないまでも自己の当然の権利を請求している、――いな、自分から請求しているのではなくて、友人たちが彼にかわって奔走しているにすぎないという、きわめて単純な事情さえも会得しないではないか。
「自分の譲り受けた何百万かのおかげで、人からうしろ指さされず弱い者を金で圧しつけることができるようになったのが、嬉しくてたまらぬといったふうな、さもえらそうな顔つきで、成金公爵は五十ルーブリ紙幣を取り出して、傲慢にも贈り物という体裁で心情高潔なる青年に突きつけたのだ。読者諸君、なんとこれがほんとうと思われようか! 諸君はさだめし悩乱憤怒して、憤怒の叫びを挙げられることだろう。けれど、じじつこの成金はそれをあえてしたのだ。むろん、金はすぐに返してしまった。いわゆる、しゃっ面へたたきつけたのである。ああ、いかにこの事件は解決されるだろうか? もちろん、これは法律上の問題で。はないから、残るところただ公衆の批判を仰ぐばかりだ。われわれはこの奇談をおおかた諸賢に訴うるに当たって、その正確を保証するにはばからぬ。うわさによれば、現今名声嘖々たるユーモア作家がこの事件を驚嘆すべき一つの寸鉄詩に作って、自分の意見を発表したそうである。しかも、その詩たるや、単に地方のみならず、都会新聞の風俗欄において、顕著なる位置を占むべき価値があるとのことである。左に紹介する。

  『レフはシナイデルの外套を
  五年のあいだおもちゃにし
  月なみしごくな紋切り型で
暇をつぶしていたりけり
窮屈そうなゲートルで
帰ればすぐに百万の
金が手に入る嬉しさに
ロシヤ語で祈りは上げたれど
貧乏書生の金ぬすむ』」
 *原注=忘れがたみの君の名 **原注=スイスの医者の名

 コーリャは読み終わるやいなや、大急ぎで新聞を公爵に波して、ひとことも口をきかずに片隅へ走って行き、ぴたりと壁に身を押しつけ、両手で顔を隠した。まだ世の中のけがれになれない、子供らしく感じやすい彼の心は、過度にかき乱されたのである。彼はなにかしら恐ろしい、いっさいのものを転倒してしまうようなことがおこったのを感じ、しかもいま自分が声高にこの記事を朗読しただけで、りっぱに自分がその事件の原因を構成したもののように思われた。
 しかし、一座の人もことごとく、それに似通った気持ちを感じたらしかった。
 令嬢たちはおそろしくばつの悪い、恥ずかしい思いをした。リザヴェータ夫人は心中の激しい憤怒をおさえつけながら、同じくこんな事件に口を入れたのを、ひどく後悔している様子であった。もう彼女はかたく口をつぐんでしまった。公爵はどうかというに、あまり遠慮ぶかすぎる人がこうした場合に経験すると同じ感じを味わわされた。他人の行動、若い客人たちのふるまいを、わがことのように深く恥じ入った彼は、最初その人たちの顔を見るのさえ恐ろしかった。プチツィーン、ヴァーリャ、ガーニャ、おまけにレーベジェフまでが、なんとなくとほうにくれたような顔つきをしていた。が、なにより不思議なことに、イッポポリートと『パヴリーシチェフの息子』さえも同様に、なにかびっくりしたように見受けられたし、それにレーベジェフの甥もなにやら不満げな風つきであった。ただひとり拳闘の先生だけは、鹿爪らしい顔をして髭などひねりながら、落ちつき払って構えこんでいた。いくぶん伏目がちにしているのも、けっしてきまりが悪いからではなく、味方の大勝利があまりに見えすいているので、敵を気の毒に思う上品な慎しみのためらしかった。この記事がおそろしく彼の気に入ったことは、万事につけてありありと見えている。
「これはまあ、いったいなんというこった」とイヴァン将軍は低い声でぶつぶついいだした。「まるで下司なボーイ連が五十人も集まって、いっしょに作ったような文章だ」
「閣下、失礼ですが、ちょっとうかがいます。あなたはそんな想像をたくましゅうして、ぼくらを侮辱しようとなさるんですね」こうきいたイッポリートは、体じゅうぴりぴりふるわした。
「それは、それは品位ある紳士のご身分として……ね、そうじゃありませんか、将軍、かりにも品位ある紳士の言として、あんまり無礼じゃないですか!」となぜか同様に身震いして、口髭をひねり上げたり、両肩から胴体までぴくぴく動かしながら、拳闘の先生はうなるようにいいだした。
「だいいち、わたしはきみがたに閣下などといわれる覚えがない。また第二に、わたしはきみがたに一言たりとも弁明の労をとろうと思わん」おそろしく激昂したイヴァン将軍は、ぶっきらぽうにこう答えて席を立ち、一語も発せず露台の出口のところまで身をひくと、一同に背を向けて階段の一番上に立ちどまった。彼はリザヴェータ夫人が座を動こうともしないのを、たまらなく腹立たしく思った。
「皆さん、皆さん、どうぞいいかげんにして、ぼくにひと口いわしてください」胸の憂悶と擾乱を声に響かせつつ公爵が叫んだ。「そして、お願いですから、おたがいにとっくり了解し合うことができるように、話をしようじゃありませんか。皆さん、あの新聞記事のことについては、ぼく平気です、かまいません。ですが、あの中に書いてあることは、すっかりでたらめです。ぼくは、皆さんもそのことをよくご承知だからこういうのです。まったく恥ずかしいくらいじゃありませんか。こういうわけですから、もし万一この文章を、皆さんのうちどなたかがお書きになったとしたら、ぼくはただ驚くほかありません」
「ぼくはたった今のいままで、この記事のことを知らなかったのです」とイッポリートは明言した。「ぼくもこの記事には感服できません」
「わっしゃ書いたのは知っていましたがね、しかし……やはり印刷するということには賛成したくなかったですよ、まだ時期が来ないからなあ」とレーベジェフの甥はつけ足した。
「ぼくは知っていました。けれどもぼくには権利があります……ぼくは……」と『パヴリーシチェフの息子』は早口にいいだした。
「え! じゃ、これはすっかりきみが自分で作ったのですか」と公爵は好奇の色を浮かべながら、ブルドーフスキイを見つめた。「まさか、そんなことが!」
「しかし、あなたはそんなことをきく権利があるんですかね?」とレーベジェフの甥が割りこんだ。
「だって、じっさいおどろかずにいられないじゃありませんか、ブルドーフスキイ君がこんな思いきった……いや……その、ぼくのいいたいのは、あなたがたがこの事件をこうして世論に訴えられた以上、さっきぼくが友人がたの前でそのことをいいだしたとき、なんだってあんなに腹をお立てになったのです?」
「そこですよ!」とリザヴェータ夫人はいまいましそうに叫んだ。
「もし、公爵、しっかりしてくださいまし」もうたまりかねたレーベジェフは、まるで熱にでも浮かされたような調子でこういいながら、いすのあいだを縫って前へ出た。「お忘れなすっちゃいけませんよ、あいつらをここへ通して、言い分を聴いておやりになっただけでも、やつらには過ぎた好意だったのです。なんの、あいつらに権利なぞあってたまるもんですか。まして、この事件をガヴリーラさんにすっかり委任なすったとおっしゃいましたが、そうしてみれば、なおさらもって不都合なことです。それだって、公爵さまがなみなみならんおなさけでそうしてくだすったのだと、ありがたく思わなけりゃならんはずだのに。さあ、公爵さま、せっかくりっぱなお客さまがたがいらっしゃいましたのに、こんな連中のために時間をおつぶしなさるという法はありません。こんな連中はどしどし玄関口からつまみ出したらいいじゃありませんか。わたくしは亭主役にひとつよろこんで……」
「まったくそうだよ!」と家の奥のほうからイヴォルギン将軍の声が響きわたった。
「レーベジェフさん、たくさんですよ、たくさんですよ……」と公爵がいいだしたが、憤懣の声が破裂するようにおこり、彼の言葉をもみ消してしまった。
「いや、公爵、失礼ですが、今はけっしてたくさんどころの騒ぎじゃありませんぜ」ほとんど一同の声を圧倒するくらいな高調子で、レーベジェフの甥がどなった。「このさい、大いに事件をはっきりと、そしてしっかりと確定する必要がある。どうも合点がまいらないようですからね。まったくこの事件には、法律的に引っかかるところがあるもんだから、そこをつけこんで、わっしたちを玄関口からたたき出そうというんですね! 公爵、あなたはいったい、この事件がぜんぜん非法律的で、もし法律的にせんさくしたら、われわれは一ルーブリたりとも、あなたから請求する権利がない、というくらいなことがわからないような間抜けだと考えてるんですか? はばかりながら心得てまさあ。けれどもね、よしんば法律上の権利はないにしてからが、そのかわりにゃ人道的、自然的な権利を持ってますよ、常識の権利、良心の声があるんでさ。こうしたわれわれの権利は、人間のこしらえたけがらわしい法典なんかにゃ、けっして載ってはいますまいよ。しかし、清廉潔白な人士、言葉をかえていえば、つまり常識ある人士は、法令に書いてないような点においても、つねに清廉潔白たるべき義務があります。わっしたちが玄関口からつまみ出される(あなたは今こういっておどかしなすった)のも恐れず、また、こんなに遅くお訪ねするのは重々失礼だと知りながら(もっとも、わっしたちは、そう遅く来たわけじゃないんですがね、あなたがボーイ部屋へお待たせなすったんですよ)、わざわざこちらへやって来たのは、ただわれわれが無心などしてるのじゃなくって、要求すべきものを要求しているのだ[#「無心などしてるのじゃなくって、要求すべきものを要求しているのだ」に傍点]と思うからです。くどいようですが、わっしたちが何ものも恐れずにやって来たのは、あなたを常識のある人、すなわち良心と廉恥のある人だと敬うからこそですよ。じっさいわっしたちはさっき、居候か無心者みたいに、びくびくもので入っては来なかった、自由不羈の人間として昂然と入って来ました。けっしてけっして無心なんかに来やしませんよ、誇りに満ちた自由な要求を持って来たんです(ようござんすか、無心じゃなくて要求に来たんですぜ、よく頭の中へたたきこんでください!)われわれは品位ある人間として、あなたに手づめの問題を提出します。あなたはこのブルドーフスキイの件について自分を正当と思いますか、不正と思いますか?・ あなたは自分がパヴリーシチェフ氏に恩を受けた、いや、あるいは死ぬところを助けてもらったことを認めますか?・ もし認めるとすればですね(わかりきったことですが)、あなたがすでに巨万の富を得た今日、貧困に苦しんでるパヴリーシチェフ氏の子息に(目下ブルドーフスキイと名乗ってはいるけれど)、故人の恩に報いようというお考えですか、いや、良心に照らして、そうするのを正当とお思いですか? 諾か否か? もし諾[#「諾」に傍点]ならば、つまり、あなたがたの言葉で名誉とか良心とかいい、わっしたちが、もういっそう正確な『常識』なる名称によっていい表わすものが、あなたの心中にあるならばですね、すぐわれわれの要求をおいれなさい、それでけりがついちまいまさあ。しかし、いれなすったからって、わっしたちはなにも強いてお願いするんじゃないから、べつにお礼なんかいいませんぜ。そんなものをあてにしてもらっちや困りますよ。なぜって、あなたがそうするのは、けっしてわっしたちのためじゃなくって、正義のためですからね。もしあなたがわれわれの要求をいれぬとおっしゃれば、つまり否[#「否」に傍点]とおっしゃればですね、われわれはすぐに帰ります、それでこの事件もおしまいでさあ。しかし、われわれはあなたの友人がたがおいでの目の前で、あなたのことを頭脳の粗笨《そほん》な、発達の低級な人だといいますぜ。そしたら、今後あなたは、廉恥あり良心ある人間と名乗るわけにいきませんよ、そんな権利はありませんよ。この権利を安あがりで手に入れようたって、そうは問屋がおろしませんさ。わっしのいい分はこれっきりです。問題はこれで確定しました。もし元気があれば、玄関口から追ん出しなさい。しようと思えば、それくらいのことできますよ、あなたは権利を持ってます。ですが、いずれにしても覚えててください、わっしたちは要求するので、無心とは違いますぜ。要求するんです、無心じゃありません」 レーベジェフの甥はすっかりのぼせあがって、こう言葉を結んだ。
「要求するんです、要求するんです。要求するんです。無心じゃありません……」ブルドーフスキイはまわらぬ舌を動かして叫び、蝦のように真っ赤になった。 レーベジェフの甥が気焔を吐き終わったとき、一座の人々はなんとなく色めきわたって、中には憤慨の語気をもらす者さえあった。しかし一同はそれでもやはり、かかり合いになるのを避けようとしているらしかったが、レーベジェフだけは例外で、彼はまるで熱にでも浮かされているようであった。(不思議なことに、レーベジェフは、疑いもなく公爵に味方しているにもかかわらず、いま甥の演説を聞いて、なんとなくこんな場合に身内の人がよくいだくような、一種の誇りがましい満足を味わった。たとえそうでないまでも、すくなくとも、なみなみならぬ満足らしい顔つきで、一同を見まわしたのである)。
「ドクトレンコ君」と公爵はかなり穏かな調子で言いだした。「ぼくの考えでは、きみのいまいわれたことは、半分くらいぜんぜん事実です、いや、大半事実だといってもいいくらいです。で、もしきみのお言葉になにか抜けたとこがなかったら、ぼくはまったくきみと同意見なのでした。しかし、いったい何が抜けていたかときかれたら、ぼくも的確にそれをいい表わすことができません。しかし、ぜんぜん真実だと言うには、きみの言葉にはもちろん、なにか不十分なところがある。が、いっそてっとり早く仕事にかかりましょう。ひとつ皆さんにおたずねしたいのは、なぜこんな記事を新聞に載せたんです。だって、この中の一語一語みんな罵詈讒謗じゃありませんか。ぼくに言わせれば、あなたがたのやりかたは、はなはだ陋劣です」
「ちょっとお待ちなさい……」
「あなた!………」
「それは……それは……それは……」などという声が、激昂した若い客人たちの間からいっせいにおこった。
「その記事のことなら」と、イッポリートが甲高い声で口を入れた、「その記事のことなら、ぼくもほかの連中もけっして賛成しないって、もうさっき申しあげたじゃありませんか。それを書いたのは、ほら、この男です(と彼はならんですわっている拳闘家を指さした)。書きかたはいかにも無作法千万です。この男と同じ退職士官の使いそうな文句をいっぱいいれて、いかにも無学らしい書きかたです。この男がばかのうえに職人根性だってことは、ぼくも異存ありません、それは毎日むきつけにいってやることです。が、それにしても、やはりこの男にもいくぶんの権利はあります。公開ということは法によって認可された各人の、したがってブルドーフスキイの権利です。また愚にもつかんことを書き立てたのは、この男が自分で責任を負いましょうよ。それから、ぼくがさっき一同を代表して、あなたの友人がたの同席を拒んだ件に関しては、ぜひとも皆さんがたに申し開きしなけりゃなりません。ぼくが抗議を申しこんだのは、単にわれわれの権利を主張するためにすぎなかったのです。じっさいをいえば、われわれはむしろ立会人のあるほうを望みます。それはまだここへ入る前から、皆で決めたんです。あなたの立会人がだれであろうと、よしや友人であろうと、かならずやブルドーフスキイの権利を認めないわけに行かんでしょうからね(じじつ、それは数学的に明瞭なんですもの)。その立会人があなたの友人だとすれば、なおさら結構です。事実の真相がますますあきらかになるわけですからなあ」
「ほんとうですよ、わっしたちは、そう決めてたんでさあ」とレーベジェフの甥は念を押すようにいった。
「じゃ、なんだってさっき口をきるかきらぬうちに、ああどなったり騷いだりしたんです、そうきめてやったのなら!」と公爵はあきれてきいた。
「公爵、あの記事のことですな」と拳闘の先生が割って入った。見受けたところ、さきほどからひと言なかるべからずとむずむずしていたらしく、元気のいい愉快そうな訓子であった(それは婦人たちの同席がだいぶきいたのではないかとも疑われた)。「あの記事はじつのところ、わが輩が作者です。イッポリートは今あれをくそみそに罵倒したですが、なに、わが輩はあの男が病気で衰弱しきってる事情を酌量して、なんといっても黙許してやることに決めてるです。しかし、わが輩はこの文章を自分で作って、莫逆《ばくぎゃく》の友のやってる雑誌に通信という体裁で掲載しました。ただ詩だけはじっさいわが輩の作じゃなくって、ある有名なユーモア作家の筆にかかるものです。プルドーフスキイにはたった一度通読して聞かせ
たが、それも全部じゃありません。そして、すぐに掲載の同意を得たんです。ただし、ちょっとご承知を願いたいのは、たとえ同意がなくたって、わが輩は掲載を断行する決心でいたです。公開ということは一般に認められたりっぱな高尚な権利です。ねがわくば公爵ご自身も進歩的な人であって、この事実を否定しないでいただきたいものですな」
「ぼくなんにも否定などしやしません。けれど、考えてもごらんなさい、あなたの文章は……」
「猛烈だとおっしゃるんですか? だが、あの文章は、いわゆる社会の利益ということを眼目にして書いたもんだから、こういう機会を逸するわけにいかないじゃありませんか?もちろん、それは悪いことをした当人にとっては、大いに都合がわるいに相違ないが、社会の利益ということがまず第一ですからなあ。またあの記事の中にある若干の誤謬、といっても一種の誇張法にすぎんですが、あれはつまり、当然ながら、一文の動機たる主旨目的に重きをおいたからです。大切なのはその公明正大なる態度にあるんだから、瑣末な枝葉の点はあとでゆっくり調べたらいいです。それに、いま一つ文章の調子というものがあるし、また、なんといったらいいか、諧謔という別途な目的もあるし、それに――、だれでも皆あんなふうに書くじゃありませんか、ねえ、そうでしょう! はは!」
「しかし、その方法がぜんぜんまちがっていますよ! 皆さん、ぼくは誓って申します」と公爵は声を励ました。「あなたがたは、ぼくがどうあってもブルドーフスキイ君の要求を
いれぬものとして、あの記事を掲載されたのです。つまり、それでもってぼくをおどかして、腹いせしようがためなんです。しかし、何を根拠としてそんなことを決めました? もしかしたら、ぼくはブルドーフスキイ君の要求をいれようと、とっくに決心してるかもしれないじゃありませんか。いや、今こそばくは皆さんの前で宣告しますが、ぼくはじっさいそうするつもりです……」
「ああ、それでこそ、もののわかった潔白な人の言葉です。潔白なもののわかった言葉です!」と拳闘の先生が歓呼の声を上げた。
「まあ、なんという!」とリザヴェータ夫人が覚えず叫んだ。
「もうお話にならん!」とイヴァン将軍はつぶやいた。
「お静かに、皆さん、お静かに、ぼくがことの顯末をお話ししますから」と公爵は哀願するように言った。「五週間ぽかりまえ、ぼくがZにいる時、チェバーロフというブルドーフスキイ君の代人がやって来ました。ケルレル君、きみはたいへんひいき目にあの男の描写をなすったが」ふいに笑いだしながら、公爵は拳闘の先生に向かっていった。「しかし、ぼくはまったくあの男がいやでした。ひと目見たばかりで、このチェバーロフが事件の張本人で、それに、少々ぶしつけないいかたですが、この男がブルドーフスキイ君の正直なのを利用して、こんな事件をはじめるように知恵をつけたのかもしれない、とこう見てとりました」 「あなたはそんなことを口にする権利はありません……ぼくは正直じゃない……それは……」とブルドーフスキイは興奮して、どもりどもりいいだした。
「あなたにそんな臆測をする権利はすこしもありませんよ」とレーベジェフの甥が諭《さと》すような調子でくちばしをいれた。
「これはじつに無礼きわまる!」とイッポリートが黄いろい声で叫んだ。「じつに無礼な、見当ちがいな臆測だ」
「ごめんなさい、皆さん、ごめんなさい」と公爵はあわててわびをした。「どうぞおゆるしください。これは、ただおたがいにすっかり胸襟を開いてしまったほうがよくないかと思ったから、いってみたまでのことです。しかし、どうともご随意に。で、ぼくはチェバーロフに向かって、自分はこのとおりいまペテルブルグの町にいないのだから、さっそく友達に頼んでこの事件を処理してもらいましょう、といったのです。で、ブルドーフスキイ君、その結果は今お知らせしますよ。うち明けたところを申しますとね、皆さん、ぼくはこの事がひどく詐欺じみたものに思われたのです。なぜなら、そのときチェバーロフが……ああ、そうご立腹じゃ困りますよ、皆さん、後生だから腹を立てないでください!」と公爵はびっくりして叫んだ。またしてもブルドーフスキイが憤懣の色を示し、仲間の人たちも気色ばんでがやがや騒ぎだしたのである。「ぼくがこの事件を詐欺じみてるといったからって、なにも皆さんに直接の関係はないじゃありませんか!まったくそのときぼくは皆さんのうちどなたにも、親しくお目にかかったことはなく、おまけに名前すら知らなかったんですものね。ぼくはただチェバーロフひとりについて判断したんですよ。ぼくのいうのは一般的なことなんです。というわけは、皆さんご承知ないかもしれませんが、あの遺産を譲り受けてからというもの、ぼくはずいぶん人からだまされました!」
「公爵、あなたはおそろしく正直ですね」とレーベジェフの甥は注意した。
「それでいて、公爵で百万長者だとさ! ねえ、公爵、あなたは、ほんとうに善良で正直な心を持っておいでかもしれませんがやはり、万人共通の法則を免れることは、むろんできませんよ」とイッポリートは宣告するように言った。
「かもしれません、大きにそうかもしれません」と公爵はせきこんで、「もっとも、きみのおっしゃる万人共通の法則とは、はたしてどんなものか、よくわからないですがね。しかし、つづけてさきを申します。ただし、つまらんことに腹を立てないでください。誓って申しますが、ぼくは微塵もあなたがたを侮辱しようなんて気はないんですからね。ですが、皆さんはまあいったいどうしたというのでしょう。あなたがたは、ひと口でもほんとうのことをいおうもんなら、すぐ腹をお立てになるんですもの! ところで、まず第一に、ぼくが驚いたのは、『パヴリーシチェフ氏の息子』なるものが存在しているということ、しかも、チェバーロフの言によると、いやはや、恐ろしい境遇で存在しているということです。パヴリーシチェフ氏はぼくの恩人であり、ぼくの父の友人であります(ああ、ケルレル君、きみはあの記事の中でひどいでたらめを書きましたね、ぼくの父のことで! 中隊の仝を費いこんだとか、部下の者を凌辱したとか、そんなことはけっしてありません。それはぼくうけ合います。よくまあ、あんな中傷を平気で書く気になりましたね!)。それもいいとして、パヴリーシチェフ氏に関するきみの記事にいたっては、じつに言語道断です。きみはあの高潔無比な人を、淫乱な軽薄漢にしてしまいましたね。しかも、きみはまるで正真正銘の真実でも語るように、思いきって大胆な、思いきって独断的な書きかたをしましたね。ところが、この人は世にも珍しい純潔なかたでした。そして、りっぱな学者でした。この人は、科学界における多くの尊敬すべき人たちのために通信員の役をつとめ、科学奨励のために莫大な金を投じたのです。またその情愛や善行にいたっては、ぜんぜんきみの書かれたとおりです。ぼくはそのころ、ほとんど白痴同様で、なんにもわからなかった(もっとも、そうは言うものの、ロシヤ語は自分で話すこともでき、人の言うのを聞きわけることくらいはできましたがね)。しかし、いま思いおこすことの数々は、ちゃんと評価することができます……」
「ちょっと失礼ですが」とイッポリートは甲高い声で、「あなたのおっしゃることは、あんまりセンチメンタルすぎはしないでしょうか。ぼくらは子供じゃありませんからね。あなたはてっとり早く事件にかかるとおっしゃいましたよ。もう九時すぎですよ、それをご承知ねがいます」
「失礼、失礼」と公爵はさっそく同意した。「最初ちょっと疑ってもみましたが、いやいや、自分だって思い違いをしたいともかぎらん、パヴリーシチェフ氏にはまったく息子さんがあったかもしれぬ、とこう考え直しました。しかし、どら

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP193-240

常な興味をもって事件の成り行きをながめていたのである。しかし、彼はただ事件の実際方面についてのみ報告した。その話によると、彼は公爵のためを思って、公爵――ことにその指導者たるサラーズキンの行為を注視するように、モスクワのある方面で勢力のある信頼すべき二、三の人に委任したそうである。それで遺産に関する、『いや、その、遺産の事実に関する』すべてのうわさはほんとうであったが、遺産そのものははじめ喧ましく触れまわしたほど莫大なものでないということが結局判明した。その財政状態はなかば紛糾《ふんきゅう》して、負債が出てくる、ありもせぬことをいってかたりに来るやつがある、しかも公爵は人々の忠告をも顧みず、きわめて非事務的な行動をとるのであった。『まあ、それもいいさ』と将軍は『沈黙の氷』の破れた今、『誠心誠意』こういうのをはばからなかった。なぜなら、『あの男はすこし、その、なんだ[#「なんだ」に傍点]けれど』それでもやはり、その取りえがあるからである。が、とまれかくまれ、公爵はそのさいばかな真似をしでかした。たとえば、故人の債権者はてんでお話にならぬ怪しげな証文を持ってくるし、中にはただ公爵のことを嗅ぎつけて、まるっきり証文なしにやってくる者もあった。その結果はどうかというと、あんな債権者なんて連中はぜんぜんなんの権利を持っていないと、友人がさまざまに忠告するにもかかわらず、公爵はほとんどすべてのものに相当の目鼻をつけてやった。しかもそれは、じっさい彼らのあるものが非常に困っているということがわかったからにすぎないのである。
 夫人はこの報告に答えて、自分もペロコンスカヤから似寄りの報らせを受け取ったが、『ほんとにそれはばからしい、まったくばからしい。ばかにつける薬がない』と言葉するどくつけ足した。けれども、彼女の顔つきからして見ると、かえってこの『ばか』の行為をよろこんでいるらしかった。とどのつまり、将軍は、夫人が公爵にたいして、まるで親身の息子にでも向けるような関心を持っていること、そして急にアグラーヤをかわいがりはじめたことに気づいた。これを見たイヴァン将軍はしばらくのあいだ、おそろしく事務的な威厳のある態度をとっていた。
 とはいえ、この愉快な気分も長くはつづかなかった。わずか二週間も過ぎたとき、なにかしらまた局面が一変した。夫人はむずかしい顔をし、将軍は幾度か肩をすくめて、ふたたび『沈黙の氷』の中に閉じこもった。事情はいってみればこうである。二週間まえに将軍はある内密の報告を受け取った。それはごく短いのではっきりとはせぬが、そのかわり正確なことは正確である。ほかでもない、はじめモスクワで行くえをくらまして、すぐまた同じモスクワでラゴージンにさがし出され、その後またどこかへ逃げて、ふたたび彼にさがし出されたナスターシヤが、とどのつまり彼と結婚しようという固い約束を与えたのである。ところが、それからわずか二週間しかたたぬうちに、またもや一つの情報が閣下の手に届いた。ナスターシヤはまた三度目に、ほとんど結婚のまぎわになって逃げ出して、今度はどこか地方に姿を隠した。一方、ムイシュキン公爵も、いっさいの事務をサラーズキンに委任して、モスクワから姿を消したというのである。『ナスターシヤといっしょか、それとも単にその跡を追っかけて行ったのか、そこのところはわからんけれど、なにかいわくがありそうだ』と将軍は結んだ。リザヴェータ夫人自身もなにか不快な報知を握っていた。結局、公爵の出発後二か月のあいだに、ペテルブルグにおける彼のうわさもきれいに消え失せて、エパンチン家の『沈黙の氷』はもはや破れることがなかった。けれど、ヴァルヴァーラは相変わらず令嬢たちを訪問していた。
 これらのできごとや情報などの片をつけるために、もう一つつけくわえておこうと思う。春ちかいころ、エパンチン家にもいろいろの変化がたくさんあったので、自分のほうから便りもしなければ、またしようとも思わぬ公爵のことは、いきおい忘れないわけにいかなかった。そして、夏になったら外国へ出かけようという話が、冬のうちにしだいしだいに根を固めていった。もっとも、それはリザヴェータ夫人と令嬢たちだけで、将軍にはむろんそうした『くだらぬ物見遊山』に時を費やす余裕がなかった。この決定は、令嬢たちのおそろしく執拗な主張によって成り立ったのであって、自分たちを外国へやってくれないのは、両親がたえず婿選みに腐心しているからだ、とこう令嬢たちは信じて疑わなかった。あるいは両親のほうでも、婿選みは外国でもできる、ひと夏の旅行くらいすこしも事を破らぬのみか、かえって『助け』になるかもしれぬ、と考え直したのかもわからない。ついでに一言しておくが、かつて相談中であったトーツキイとエパンチン家の長女との結婚は、完全に破談になってしまい、正式の申し込みは、結局されずに済んだ。これはひとりでにそうなっていったので、いっさい相談もしなければ、家庭内の暗闘などいうものもおこらず、公爵の出発とともに双方からぱったりと話がやんでしまった。こうした事情もいくぶんは、当時エパンチン家にびまんしていた重苦しい気分の原因になったのである。もっとも、将軍夫人はそのとき口に出して、今こそ喜んで『両手で十字を切ります』(嬉しくてたまらぬ気持の表現)というにはいった。将軍は自分が悪かったと思って、不首尾を嘆じていたが、それでも長いあいだ、むっつりふくれていた。彼はトーツキイが惜しくてたまらなかった。『あれほどの財産! あれほど目はしのきく人間を!』と考えたのである。トーツキイが、ペテルブルグへやって来た上流のフランス婦人、ブルボン正統派の侯爵夫人にたらしこまれて、近々結婚式を挙げたのち、ひとまずパリに赴き、それからブルターニュかどこかへ行ってしまうということは、しばらくたって将軍の耳に入った。『ふん、フランス女とどろんを決めるそうだ』と将軍は吐き出すようにいった。
 で、エパンチン家では夏のはじめに出発するつもりで、その準備をしていた。すると、思いも寄らずある事情が生じて、なにもかもすっかり根本的に変更してしまったので、旅行は、将軍と夫人の望みどおりに延期された。モスクワからベテルブルグヘSという公爵がやって来たが、これは有名な、といっても、きわめてよい意味において有名な人で、まごころから意識的に有益な事業に従事することを望み、つねに働き、またいつどこにいてもなすべきことを見いだすという、珍しい仕合わせな性質をもった、いわゆる現代的な活動家のひとりである。むやみに出しゃばったり、政党的の偏屈な空論に陥ったり、自分をえらい人間と思ったりすることを避けている公爵は、瓧近おこりつつある事物の多くをきわめて根本的に理解した。最初、彼は官に勤めたが、その後ずっと地方自治の仕事に関係している。そのほか彼はいくつかの学会の有益な通信員でもあった。また知り合いの技師と協力して、すでに収集された報告や研究を基礎として、企画中の重要な鉄道に正確な方向をつけることにもあずかって力があった。年は三十五である。彼は『上流中の上流社会』の人であるばかりか、『りっぱな、しっかりした、争う余地のない』財産を持っているとは、将軍の評語である。将軍はかなり重大なある事件で、自分の長官である伯爵のところへ行ったとき、彼と落ち合って知己になったのである。公爵は一種特別な好奇心から、ロシヤの『事務的な人たち』と近づきになる機会をのがさなかったので、将軍の家族とも近づきになった。三人姉妹のうち、中のアデライーダがかなり強い印象を彼に与えた。春の近づくころ、公爵はおのれの希望をうち明けた。彼はたいへんアデライーダの気に入ったばかりか、リザヴェータ夫人の気にも入っていた。将軍はむろん大喜びであった。自然の勢いとして旅行は延期することになり、結婚式は春ときまった。
 とはいえ、旅行は離れ去ったアデライーダを思う憂愁をまぎらすために、リザヴェータ夫人とふたりの令嬢のちょいとした遊山といった体裁で、夏の中ごろか終わりに一、二か月の予定で実行されそうであった。ところへ、またしてもある新しい事情が出来《しゅったい》したのである。もう春も終わりに近いころ(アデライーダの結婚は少々手間どって、夏の中ごろまで延期されていた)、S公爵は遠い親類のひとり、といっても、彼とはごく親しいエヴゲーニイ・パーヴロヴィチ・Rなる人をエパンチン家へ紹介した。これはまだ若い、二十八くらいの侍従武官で『名門の生まれ』で、絵に描いたような美男子で、才知に富んだ、輝くばかりの『すばらしい学問のある』、なんだか聞いたこともないほどの財産を持った、しかも『新しい』男なのである。この財産という点に関しては、将軍はいつも大事をとった。彼はさっそく取り調べをした。『まったくどうもそうらしい、まだよく調べてみなけりゃならんが』。この若いしかも『未来』ある侍従武官は、モスクワにいるベロコンスカヤのお婆さんの手紙で、ひどくかつぎ上げられていた。ただ一つ彼に関してすこし尻こそばゆいような世評がある、つまりいくたりともなく関係した女があるうえに、不幸な心を『征服』した数も少なくないという話であった。アグラーヤを見てから、彼はエパンチン家にいつまでもすわりこむようになった。もちろん、何も口に出していったのでもなければ、謎めいた口もいっさいきいたことがないけれど、両親はこのさい、外国旅行などについて考える必要は、すこしもないような気がした。もっとも、本人のアグラーヤにはまた変わった意見があったかもしれない。
 このことはわれらの物語の主人公がふたたび舞台へ現われる、ほとんど直前におこったのである。一見したところ、当時ペテルブルグでは、不幸なムイシュキン公爵のことをきれいさっぱり忘れているらしかった。もし彼が今もとの知人のところへ姿を現わしたら、まるで天から降ったように思われたことであろう。それはともあれ、われわれはいま一つの事実を読者に伝えて、それをもってこの序説を終わろうと思う。
 コーリャ・イヴォルギンは公爵出立ののちも、やはり以前の生活をつづけていた。つまり、中学校へ通い、親友イッポリートを訪ね、将軍の監視を勤め、ヴァーリャの家政を助けて、つまり、走り使いをしていた。しかし、下宿人は間もなく消えてなくなった。フェルディシチェンコはナスターシヤの事件から三日後にどこへやら飛び出して、そのうちに姿を隠したので、彼に関するうわさはことごとく消えてしまった。あるものはどこかで酒をくらってるのさといったが、それも確かな話ではない。公爵はモスクワへたってしまった。これで下宿人の片はついたというものである。その後ヴァーリャがプチーツィンヘ嫁入ったとき、ニーナ夫人とガーニャも彼女といっしょにイズマイロフスキイ連隊のそばへ引っ越して行った。イヴォルギン将軍にいたっては、これと同時に、まったく思いもよらぬ一つのできごとがおこった。彼は債務監獄へ入れられたのである。彼をそこへ送ったのは友人である大尉夫人で、将軍が幾度となく彼女に渡した額面二千ルーブリばかりの証文がもとなのである。これは彼にとってまったく寝耳に水であった。つまり、将軍は『一般に人間の高潔心に対する自己の過信の犠牲』となったわけである。一時のがれに借金証文や手形に署名するのが習慣になっていた彼は、そんなものに効力がありえようとは、夢にも思わなかった。そして、いつも『まあちょっと』と安心していたのである。ところが意外にも、まあちょっとでなかった。『これからは他人を信用するのは、高潔なる信頼を示すのは、いいかげんにしなくちゃならん!』と将軍は債務監獄の新しい友達と並んですわりながら、慨嘆の調子で叫ぶのであった。そうして、酒壜を前にすえて、例のカルス包囲中の逸話や、蘇生した兵隊の物語などをして聞かせた。けれど、彼はのんきに日を暮らしていたので、プチーツィンとヴァーリャは、これこそ彼にとってほんとうの棲家だといった。ガーニャもぜんぜんそれを肯定した。ひとり不幸なるニーナ夫人のみは、陰へ入っては苦い涙にくれていた(それが家の人にはむしろ不思議であった)。そして、しょっちゅうぶらぶら炳みつづけながら、暇さえあればイズマイロフスキイ連隊の夫のところへ面会に出かけて行った。
 コーリャのいわゆる『将軍の事件』以来、というよりはむしろ姉の結婚以来、コーリャはまったく言うことをきかなくなって、最近にいたっては、夜の寝泊まりにさえあまり顔出しをしなくなった。うわさによると、彼はあらたに多くの人と交際を結んだそうである。そのほか債務監獄でも、知られすぎるほど顔を知られてきた。それはニーナ夫人がここへ来たとき、彼がいなくてはどうすることもできなかったからである。しかし、家ではものずき半分にもせよ、彼にうるさいことをいうものはなかった。もと彼にがみがみいっていたヴァーリャは、いま弟が方々ぶらついていることについて、ひとことも詰問してみようとしなかった。ここに家人にとって不思議でならなかったのは、ガーニャが例のヒポコンデリイにもかかわらず、友達同士のような態度でコーリャと話もすれば交わりもしたことである。こんなことは以前決して見られなかった図である。なぜなら、これまで二十七歳のガーニャは自然の勢いとして、十五歳の弟にいささかも親切らしい注意を向けず、彼にたいしては自分も粗暴な振舞をすれば、家の者からもただ厳格のみを要求して、いつも『耳をひっぱるぞ』とおどかしたもので、それがためにコーリャは、『人間が持てるだけの忍耐力』を失ってしまったのである。ところが、今はコーリャはガーニャにとって、どうかするとなくてかなわぬ人になったかとさえ思われた。ガーニャがあのとき金を突き返したということは、すくながらずコーリャを驚かした。このために、彼はたいていのことなら兄を許そうという気になったのである。
 公爵の出発後|三《み》月たって、イヴォルギン家の人々は、コーリャがにわかにエパンチン家の人だちと親しくなって、しかも令嬢たちから大いに優遇されるといううわさを聞いた。ヴァーリャはすぐにこのことをかぎつけた。つまり、コーリャは姉を通じて近づきになったのではなく、『自分自身』で推参したのである。しだいに彼はエパンチン家でかわいがられるようになった。将軍夫人ははじめのうち彼が来るのが不満であったが、間もなくその『遠慮のない、お世辞っけのない性質のため』に、彼をいたわるようになった。コーリャが世辞をいわないのは、まったく事実である。ときおり夫人に本や新聞を読んで聞かすこともあったが、彼はこの家で独立対等のつき合いをするだけの勇気があった。もっとも、いつも気をつけて働くことも働いた。しかし、二度ばかりリザヴェータ夫人とひどくいい合って、あなたは専制君主だ、もう二度とこんな家へ足踏みしないと宣言したことがある。最初の争論は『婦人問題』がもとで、二度目のは一年のうちいつ頃が鷽《うそ》をとるのにいちばんいいか、という問題からおこったのである。まことに奇態な話ではあるが、将軍夫人はそれから三日目に侍俟に手紙を持たして、ぜひ来てくれるように頼んだ。コーリヤはべつにかれこれ文句をいわず、すぐに出かけて来た。ただひとりアグラーヤばかりは、なぜかいつも彼を喜ばず、高いところから見くだすような態度をとった。しかし、コーリヤもいくぶん彼女を驚かすべき運命を持っていたのである。それはあるとき、――復活祭ちかくのことであった、――ふたりきりになったおりをえらんで、コーリヤがアグラーヤに一通の手紙を渡し、これはほかの人のいないときに渡してくれといいつかったのだとだけいった。アグラーヤはこわい顔をして、この『増長した小僧っ子』をねめつけたが、コーリヤはさっさと出て行った。彼女は手紙を広げて読みはじめた。『かつてあなたはわたしを信頼してくださいました。しかし、たぶんあなたはもうすっかり忘れておしまいになったかもしれません。どうしてあなたに手紙をさしあげるなどということになったのか、わたしは自分でもわかりません。けれども、あなたに、――ぜひともあなたに、わたしの存在を思い出していただきたいという、おさえがたい希望がわたしのこころにわきおこったのです。あなたがたお三方はわたしにとって必要な人だ、いくどわたしはこう思ったかしれません。しかし、わたしはお三方の中であなたばかりを見ていました。あなたはわたしにとって必要な人なのです。非常に必要な人なのです。自分の身については書くこともありません、話すこともありません。それに、そんなことをしたいとも思いません。ただあなたが幸福でいらっしゃることをせつに望みます。幸福でいらっしゃいますか? ただこれだけのことが申しあげたかったのです。
[#地付き]あなたの兄なるレフ・ムイシュキン公爵
 この短い、かなり無意味な手紙を読んで、アグラーヤはふいにまっかになって考えこんだ。彼女の思想の流れを伝えるのは困難である。やがて彼女は『だれに見せようかしら?』と考えたが、たんだか恥ずかしいような気がした。で、とうとう奇妙なあざけるような微笑を含んで、手紙を自分のテーブルの引き出しへほうりこんだ。あくる日、彼女はふたたびそれをひき出して、固い背皮に装幀された厚い本のあいだへ挾んだ(彼女は自分の書類を必要なとき、さがし出すのに、都合のいいようにいつもこうして処分した)。一週間もたったとき、ふとしたおりに、どんな本だったかちょっとのぞいて見ると、それは『ラマンチャドン・キホーテ』であった。アグラーヤはそれを見ておそろしく笑いだしたが、-なぜか理由はわからない。
 彼女がこの獲物をどちらかの姉に見せたかどうか、それもやっぱりわからない。
 けれども、彼女がこの手紙を読んだとき、ふとこういうことが頭に浮かんだ、いったい増長した威張りやの小僧っ子が、本当に公爵の通信員、おそらくこの土地における唯一の通信員に選ばれたのだろうか? 思いきりばかにしたような顔つきをしながら、とにかく彼女はコーリャをつかまえてこの点を詰問した。ところが、いつも怒りっぽい『小僧っ子』が、このときばかりは相手のばかにしたような顔つきに、いささかの注意をも向けなかった。彼がしごく簡単に、そしてかなりそっけない調子で説明したところによると、公爵がペテルブルグを去るに臨んで、彼は自分の一定した宿所を公爵に知らせ、用事があったらいいつけてくれといっておいたのであるが、これがはじめての使命でもあり、彼の受け取ったはじめての手紙でもある、こういって彼は自分の言葉を確証するために、自分にあてて寄越した手紙を出して見せた。アグラーヤは遠慮なしに読んでみた。コーリャにあてた手紙には次のようなことが書いてあった。
『かわいいコーリャさん、お願いですから、この中に同封した封書を、アグラーヤ・イヴァーノヴナに渡してください。ご健在を。
[#地付き]きみを愛する公爵レフ・ムイシュキン』
「なんぼなんでも、こんな小僧っ子を信用するなんてこっけいだわ」とアグラーヤは、手紙をコーリャに返しながらいまいましげにつぶやくと、軽蔑しきった態度で彼のそばを通り抜けてしまった。
 コーリャもこれにはもうがまんができなかった。彼はわざわざこのときねらったように、ガーニャからわけもいわずにねだって貰った、まだ真新しいグリーンの襟巻にくるまっていたのである。彼は、かんかんになって腹を立てた。

      2

 六月初旬のことであった。ペテルブルグには珍しく、もう一週間ばかりつづいて美しい日和であった。エパンチン家ではパーヴロフスクにぜいたくな別荘を持っていたが、リザヴェータ夫人がにわかに騒ぎだして、二日たらずごたくさしたあげく、そこへ越して行った。
 エパンチン家の人々が越して行った二日目か三日目に、モスクワ発の一番列卓で、公爵ムイシュキンがペテルブルグへやって来た。だれも彼を停車場に出迎えるものはなかったのに、公爵が車を出るとき、だれかの怪しい燃えるよう友二つの目が、その列車で到着した人々を取り囲む群集の中に、突如ちらりとひらめいたように思われた。彼が注意して見つめたときには、もはやそこには何もなかった。もちろん、ただちらりとしただけであるが、その目は不快な印象をとどめた。それでなくてさえ、公爵は沈みこんでふさぎがちで、なにやら心配らしい様子をしていたのである。
 辻馬車はリテイナヤ街からほど遠からぬとある宿屋へ彼を運んだ。宿屋は見すぼらしいものであった。公爵は粗末な道具類に飾られた薄暗い部屋を二つ借りて、顔を洗い着物を改め、何も注文せずにせかせかと外へ出た。さながら時間を失うのが惜しいか、あるいはだれか訪問しようと思っているさきの人が外出でもするのを恐れるようなふうであった。
 もし半年以前、彼がはじめてペテルブルグへ来た時に知り合いであった人が、いま彼をひと目見たならば、ずっと押し出しがよくなったと断言するであろう。しかし、それもそういえばそうだ、くらいのところである。ただ着つけだけはがらりと変わっている。服はモスクワで、しかもりっぱな服屋に縫わした仕立ておろしであった。けれど、服にもやはり欠点があった。というのは、仕立てがあんまり流行型すぎる(もっとも、正直ではあるがあまり上手でない仕立屋は、いつもこんなことをするものである)。おまけに、着る当人が流行などにいっこう気をつけない人であるから、よっぽどの笑い上戸がよくよく公爵をながめたら、あるいはなにかにやりと笑いたくなるようなところを見つけだすかもしれぬ。しかし、世の中にこっけいなことはけっして少なくないのだ。
 公爵は辻馬車を雇ってペスキーヘはしらせた。いく丁目かにわかれているロジェストヴェンスカヤ街の一つで、彼は間もなく一軒の大きからぬ木造の家をさがし出した。この家が案外きれいで小ざっぱりして、花の植わった前庭まで秩序整然としているのには、公爵もすくなからず一驚を喫した。往来に面した窓はあけ放されて、その中からほとんど叫んででもいるような声が、やみ問なしに聞こえた。ちょうどだれかが朗読しているか、もしくは演説でもしているような調子であった。ときどきその声はいくたりかの高らかな笑い声でさえぎられた。公爵は庭へ入って入口階段を昇り、レーベジェフ氏に面会を求めた。「ほらあそこにいらっしゃいます」袖をひじの辺までたくし上げた下女が、戸をあけながら『客間』をさした。
 この『客間』は暗青色の壁紙を張って、小ぎれいではあるがいくぶんきざな装飾を施してあった。というのは、丸テーブルや、長いすや、円いガラスの蓋をかぶせた青銅の時計や、窓の間にかけられた細長い鏡や、青銅の鎖で天井からつるされたガラス玉のいくつもはまった小形の古いシャンテリヤの類である。部屋の真ん中には、夏らしく上着なしでチョッキ一枚のレーベジェフが、はいって来る公爵に背を向けて立っており、自分の胸をたたきながら、どんな演題か知らぬが悲痛な雄弁をふるっていた。傍聴者としては、手に書物を持った快活で利口そうな顔つきの十五歳前後の少年がひとりと、両手に乳呑児をかかえ、全身喪服につつまれた二十歳ぐらいの若い娘と、同じく喪服を着て、大きく口をあけながらきゃっきゃっと笑っている十三ばかりの女の子であった。最後にもうひとりきわめて奇態な聴き手というのは、髪の濃く長い、目の大きく黒い、あご鬚ほお髯の卵とでもいいたいようなものをしょぼしょぼと生やした、色は浅黒いが、かなり美しい、二十歳恰好の青年で、これは長いすの上にねそべっていた。この聴き手は、しじゅうレーベジェフの演説に横槍を入れたり、反対したりしていたらしい。ほかの連中が笑っていたのはこれがためと見えた。「ルキヤン・チモフェーヴィチ、もし、ルキヤン・チモフェーヴィチ! まあほんとうに! ちょっとこっちをごらんなさいな! ほんとうにあきれかえっちまう!」と下女は両手をひと振りし、真っ赤になって怒りながら出て行った。
 レーベジェフはふりかえったが、公爵の姿が目にはいると、彼はいっとき雷に打たれたもののように棒立ちになっていた。と、ふいに下劣な微笑を浮かべて客のほうへかけだしたが、また途中でおじけづいたらしくぐずぐずしていた。でも「こ、こ、これはこれは、公爵さま!」とだけは、やっということができた。 けれども、まだやはり落ちつきを取りもどすことができなかったと見えて、ふいになんのわけもないのに、赤児を抱えている喪服の娘に飛びかかった。こっちは不意をくらって、ちょっとたじたじとなったが、すぐにそのほうはよして、今度は次の間のしきいの上に突っ立って、さきほどの名ごりの微笑をまだ浮かべつづけている十三ばかりの女の子を襲った。女の子は思わずきゃっと叫んで、まっしぐらに台所へ逃げ出した。レーベジェフはそのうえにもおどしのきくように、逃げて行く子供のうしろから地団太を踏んで見せたが、ふと公爵のまごまごしたような視線に出くわすと、申しわけのようにこういった。
「その……あなたに敬意を表するためで……へへへ!」
「きみそんなことをしなくったって……」と公爵がなにかいいだしそうにすると、
「ただ今、ただ今、ただ今……ちゃっとつむじ風のように!」とレーベジェフはすばやく部屋のそとへ消えてしまった。
 公爵は、びっくりした娘の顔、少年の顔、長いすにねそべっている若者の顔を見くらべた。すると、みんなが笑っていたので、公爵も笑いだした。
「燕尾服を着にいったんです」と少年がいった。
「なんていまいましい話だろう」とまた公爵はいいかけた。「ぼくはまた、その……ねえ、あの人は……」
「酔っぱらってるとお思いですか」と叫ぶ声が長いすからおこった。「なあに、これっからさきも! さよう、盃に三杯か四杯――まあ、五杯ぐらいやったかな、しかしそんなことはもう定式になってまさあ」
 公爵は長いすのほうへふり向こうとした。が、そのとき娘がかわいい顔にこのうえもなくうち解けた表情を浮かべていいだした。
「父は毎朝あまりたんとはいただきませんの。あなたもしなにかご用でいらっしたのでしたら、今おっしゃいましな。ちょうどいいおりですの。夕方帰って参りますと、もう酔っぱらってますから。それに、このごろではおもに夜分寝る前に泣きながら、わたしたちに聖書を読んで聞かしてくれますの。と申しますのは、五週間まえにうちのかあさんがなくなったもんですから」
「あいつが逃げだしたのは、あなたに受け答えするのがむずかしくなったからでさあ」長いすの若者は笑いだして、「わっしゃあ賭でもしますよ、あいつはあなたをごまかそうとしています、今その腹案を立ててるんですよ」
「たった五週間にしかなりません! たった五週間にしか!」
ともう燕尾服を着こんだレーベジェフが、目をしょぼしょぼさせ、ポケットからハンカチを出して涙を拭く用意をしながら、部屋へ帰って来て、こういった。「みんなみなし児でございます」
「おとうさん、なんだってそんな穴だらけの物を着て出たんですの」と娘がいった。「だって、あの戸の向こうに、新しいフロックがあるじゃありませんか、見えないんですの、いったい」
「やかましい、ばった!」レーベジェフはどなりつけた。「ほんとにきさまは!」と地団太を踏みそうにした。
 けれど、今度は娘はただ笑っていた。
「なにをおとうさんおどかしてらっしゃるの。あたしはターニャじゃないから、逃げ出しなんかしなくってよ。ただこのリューボチカが目をさますばっかりだわ。それに、驚風《きょうふう》でもおこしたら、どうなさるの……大きな声をして!」
「め、め、めっそうな! 舌がはれっちまうぞ、とんでもない……」とレーベジェフはおそろしく面くらって、娘の腕に眠っている赤ん坊のほうへ飛んで行き、頓狂な様子をして二、三度、十字を切った。
「神よ、守りたまえ、神よ、守護したまえ! これはわたしのじつの赤ん坊で、リュボーフイという娘です」と彼は公爵に向かって「このあいだなくなった、――難産で死んだ家内のエレーナと、正当な法律上の結婚でできた児です。このやせっぽちは、わたしの娘でヴェーラ、喪服を着ています……ところで、こいつは、こいつは、おお、こいつは……」
「なんだっていいさしにしてよすんだい?」と若者が叫んだ。「さあ、次をいいな、きまり悪がるこたあないぜ」
「公爵さま!」となにやら急に感きわまったようにレーベジェフが叫んだ。「ジェマーリンの一家がみな殺しにされたことを、新聞でごらんになりましたか?」
「読みましたよ」と、いささか驚いたように公爵は答えた。
「さようで、じつはこの男がジェマーリン殺しのほんとうの下手人です、こいつがそうなんで」
「きみ、なにをいうんです?」と公爵はいった。
「つまり諷喩的に申しまして、第二のジェマーリン一家の第二の下手人です、もしそんなものがこのさきあるとすればですがね。こいつはそれを手ぐすね引いて待ってますよ……」
 一同は笑いだした。公爵はふと気がついた、もしかしたら、レーベジェフはほんとうに自分がいろんなことをたずねるだろうと感づいて、それになんと答えていいやらわからぬものだから、どうかして時を移そうがためばかりに、こうして苦しまぎれの駄じゃれを言ってるのではあるまいか。
「謀叛をおこしてるんです! 陰謀をたくらんでるんです!」レーベジェフはもうがまんができぬといったふうにわめいた。「ねえ、いったいわたしはこの口悪を、こんな、その放蕩者の悪党を、たったひとりの甥と思わねばならんのでしょうか、死んだ姉のアニーシヤのひとり息子と思わねばならんのでしょうか?」
「よせよ、おまえさんは酔っぱらってるんだ! ねえ、公爵、どうでしょう、この人は弁護士商売をはじめて、訴訟事件をあさって歩こうと思い立ったんですぜ。雑弁筰の研究とやらをおっぱじめて、家でも子供たちをつかまえて、しかつめらしい言葉づかいばかりしてるんでさあ、五日前にも治安判事の前でしゃべったんですが、まあいったいだれを弁護したとお思いなさいます。拝んだり祈ったりしたかいもなく、身上ありったけの五百ルーブリを高利貸の畜生にはぎ取られたお婆さんじゃなくって、そのザイドレルとかいうジュウの高利貸を、五十ルーブリという礼金に目がくれて弁護したんですよ……」
「五十ルーブリてのは勝ったときの話で、負けたらたった五ルーブリです」と、今までけっしてわめいたりなんかしたことはありませんといったような、がらりとうって変わった声で、レーベジェフは説明した。
「むろん、くだらんことをしゃべったばかりでさあ、だって昔とは違いますからね、みんなのお笑いぐさになっただけですよ。けれど、やっこさんすっかり大満足だからおかしい。まあ、こんな具合ですぜ、公平無私なる裁判官諸賢よ。潔白なる労働によって口を糊している足なしの老人が、最後のパンの一片を失おうとしている事実を想起せられんことを。『法廷ニオイテハ仁慈ヲ旨トスベシ』という、立法者の賢明なる一語を想起せられんことを、だそうです。とてもほんとうにゃなさるまいが、先生この演説を法廷でやったのと寸分たがえず、毎朝そのままわっしたちにしゃべって聞かすんですぜ。キーうでもう五へん目、あなたのいらっしゃるちょうどまえまでやってたんです。それくらい、まあお気に召したもんでさあ。自分ひとりで恐悦がってるんですからね。それに、まただれやらを弁護しようと思ってるんですよ。あなたはムイシュキン公爵らしゅうござんすね。コーリヤがわっしにあなたの話をしましたよ、世界じゅうであなたほど賢い人にはまだ出会ったことがないって……」
「ないとも! ないとも! これ以上賢い人はこの世の中にありゃしない!」とすぐレーベジェフが相づちを打った。
「しかし、こりゃまあほらだとしましょうよ。あるものはあなたを好いていようし、またあるものはおべっかを使ってもいるでしょう。ところが、わっしはあなたにお世辞をいおうなんて気は、さらさらありませんからね、このことは前もってご承知を願います。だが、あなたもまんざら分別のないかたじゃありません。ねえ、ひとつこの男とわっしを裁いてくださいませんか。おい、いやかね、公爵がわれわれを裁いてやろうとおっしゃるが」と彼は叔父に声をかけた。「あなたがおりよく来合わせてくだすったんで、わっしゃ、とても嬉しゅうござんすよ」
「結構!」とレーベジェフはぎょうさんに叫んだが、いつの問にかまた押し寄せて来た人たちのほうを、われともなしにふり返って見た。
「きみがたはいったいどうしたんですか!」と公爵は顔をしかめながらいいだした。
 彼はほんとうに頭痛がしてきた。それに、レーベジェフが自分をごまかして、用件がのびのびになるのを喜んでいることが、しだいに明瞭になってきた。
「まず事態を陳述しておきます。わっしゃこの男の甥です。いつもうそばかりついているやつですが、こりゃほんとうをいってますよ。わっしゃ学校を卒業しなかったけれど、卒業したいとは思っています。そして、あくまで初志を貫徹します。なぜってば、わっしにや意地ってものがありまさあ。が、当分生存をつづけるべく、二十五ルーブリで鉄道のある仕事をしようと思ってます。そのほか、白状しますが、この男が二、三度わっしに助力してくれましたよ。わっしは二十ルーブリの金を持ってましたが、そいつをすっかりすっちまったんです。ねえ、どうです。公爵、わっしはその金を博奕で負けっちまうような、そんなやくざな、下司な野郎なんですぜ!」
「おまけに相手はならずものです、金なんか払ってやる必要のないならずものです」とレーベジェフが叫んだ。
「そうだ、ならずものだ! しかし払う必要のあるならずものだったのさ」と若者は言葉をついだ。「だが、やつのならずものだってことは、わっしが証明しまさあ。しかし、叔父さん、こりゃなにもあいつがおまえをぶちのめしたからってわけじゃないぜ。これはねえ、公爵、これは以前ラゴージンの仲間に入ってたお払い箱の士官、退職中尉のことなんですよ。いま拳闘を教授してまさあ。あの連中はラゴージンに追っぱらわれてから、あっちこっちぶらぶらしてますよ。だが、なにより悪いのは、やつがならずものでやくざもので、こそ泥だってことを承知しながら、それでもやつを相手に勝負をやったことなんでさあ。それから、最後の一ルーブリまで吐き出そうというときに(わたしたちは『パルキ』をやったんです)、負けちまったら叔父さんのところへ行って頼もう、――まんざら没義道なこともいうまい、とこう腹の中で考えたことなんでさあ。これはじつになんともはや下劣です!まったく下劣です! こりゃまったく意識的の下司根性でさあ!」
「いや、こりゃまったく意識的の下司根性だ!」とレーベジェフが同じことをくりかえした。 「まあ、そう威張るなよ、ちょっくら待ちな」といまいましそうに甥は叫んで、「あいつ喜んでやがる。わっしはねえ、公爵、こいつのところへ来て、なにもかも洗いざらい白状に及んだんですよ。わっしの行動はりっぱなもんでした、わっしは自分にすこしも容赦しなかったんです。わっしはこいつの前で、できるだけわれとわが悪口をつきました、ここにいる者がみんな証人でさあ。その鉄道の勤めへ出るにゃ、どうしてもなんとかなりをこさえなきゃなりませんや。だってこのとおりのぼろ衣装ですからね。まあ、ちょいとこの靴を見てください! このなりじゃ、とても勤めに出るわけに行かないじゃありませんか。ところが、決められた時までに出頭しなかったら、ほかのやつに口を取られてしまいまさあ。そしたら、わっしゃまた一文なしになって、いつほかの勤め口が見つかるかわかりゃしませんや。今わっしが無心するのはたった十五ルーブリですぜ。そのうえに、以後けっして無心は申しませんし、この借金も向こう三か月のあいだに、一コペイカ残さずきれいさっぱり返済もします、と約束してるんですよ。なに、わっしだっていったことをたがえやしません。わっしゃパンとクヴァス(国民的な清涼飲料)だけで、ふた月や三月は平気でやって行けまさあ。なぜってば、わっしにも、意地ってものがありますからな。ねえ、三か月のあいだの俸給が七十五ルーブリになるでしょう。ところで、わっしがこの男に借りる金は、以前の分と合して三十五ルーブリだから、十分返済できるわけじゃありませんか。利息なんかいくらでも取るがいい、こんちくしょう! この男にゃおれの気性がわからないのかしらん? ひとつきいてみてくださいよ、公爵。以前わっしに貸してくれた金を、返済したかしなかったか、きいてみてください。今度なぜ貸してくれないかってば、わっしがあの中尉に金を捲き上げられちまったのが、しゃくにさわるからです。ほかにわけのありようがない! まったくこういう野郎なんですからね。始末におえやしない!」
「出て行かないのです!」とレーベジェフも叫ぶ。「ここへ寝たきり出て行かないのです」
「だからおれがそういったじゃないか! 金をよこさないうちは、けっして行きゃしないって。公爵、あなたはたんだかにたにた笑ってらっしゃるようですな。おおかたわっしの言いぶんがまっとうでないと思っていなさるんでしょう」
「ぼくはべつに笑ってやしないですが、ぼくの考えではまったくあなたのいいぶんは少々まっとうでない」といやいやらしく公爵は答えた。「もういっそのこと、ぜんぜんまっとうでないと、まっすぐ
にいってください、お世辞なんかいりませんよ。『少々』たあなんですかい!」
「お望みならば、ぜんぜんまっとうでありません」
「お望みならですって? ちゃんちゃらおかしい! こんなことをするのは、なんだかうしろめたい、それにまた金もこの男のものなら、意志もこの男のものだから、わっしのほうからいえば、ゆすりにひとしいことをしてるのだくらい、知らないでいるとお思いですか。はばかりながらぞんじています。しかしね、公爵、あなたは……世の中をごぞんじないのですよ。こんな連中はうんと教えこんでやらなきや、話のわかりっこありませんぜ。こんな連中は教えてやらなきゃしようがないんでさあ。わっしの良心ははばかりながらきれいなもんですぜ。わっしは良心に誓ってこの男に損はかけさせません、利子を付けて返済しますよ。そのうえ、この男はわっしからもう精神的賠償を得てるんじゃありませんか。だって、わっしはこの男の前で卑下したんですから、そのうえいったいなにが入り用なんですかい? この男こそなにひとつためになることもしない、しようのないやくざものじゃありませんか。ほんとうにこいつが何をしてるかごぞんじですかね? こいつが他人に何をし向けて、どんなふうに人をだましてるか、ちょっときいてごらんなさい。いったいこの家をどうして手に入れたとお思いですかい? もしこの男がまたあなたをだましたり、この先もどうしてだまそうかと工夫をめぐらしていなかったら、わっしは首でも切ってさしあげまさあ! あなた、にたにた笑っておいでですな、ほんとうになさいませんか?」
「しかし、ぼくなんだかきみのいうことはどうも、きみの立場に似合わないような気がしますよ」と公爵はいった。
「わっしはここにもう三日寝てますから、なにもかもみんなこの目でにらんどきましたよ!」と若者は、相手の言葉には耳もかさぬ様子で叫んだ。「まあ、考えてもごらんなさい。こいつはこの天使みたいな娘に、わっしの従妹にあたるこの母なし児に濡れ衣を着せて、毎晩毎晩いい人でも来やしないかと、現在自分の娘の探偵をするじゃありませんか。それから、わっしのところへもこっそりやって来て、この長いすの下なんかごそごそさがしやがるんですぜ。あまり疑ぐり深いんで気でもちがったんでしょうよ。どこにもかしこにも泥棒が隠れてるような気がするんですね。ひと晩じゅうひっきりなしに飛び起きて、窓がよくしまってるかどうかのぞいてみたり、戸口を調べてみたり、ペチカの蓋をあけてみたりして、毎晩七へんずつくらいがお決まりなんでさあ。法廷じゃかたりの弁護をしておきながら、大将自身はひと晩に三度も起きだして、お祈りをするじゃありませんか。この広間にひざをついて、ものの三十分も頭を床にこつこつ打ち当てながら、だれでも彼でも思いつき次第、息災を祈ってやって、ありったけのお祈りをすっかり読んじゃうんでさあ、それも酔っぱらった勢いでやるんですからね。いつだったか、デュバルリ伯爵夫人(ルイ十五世の寵妃)の魂が安らかに眠りますようにって祈祷してるのを、わっしゃこの耳でちゃんと聞きました。コーリャも知ってます。まるで気ちがいだ!」
「まあ、ごらんください、お聞きください。こいつめがわたしに恥をかかそうとします、公爵!」とレーベジェフは真っ赤になり、真剣にわれを忘れてわめいた。「たぶんわたしは酔っぱらいで、ごろつきで、泥棒で、悪党に相違ござんすまい。けれども、わたしがこの口わるを、ほんの赤ん坊の時からおむつにくるんだり、たらいで洗ってやったりしたのを、忘れていやがるんです。乞食同然のやもめ暮らしをしている姉のアニーシヤのとこへ、同様に乞食ぐらしのわたしが出かけて行って、毎晩毎晩ふっとおしに、まんじりともせずすわったまま、親子ふたりの病人を介抱したり、下にいる庭番のところから薪を盗んで来たり、こいつに歌をうたって聞かしたり、指をぱちぱち鳴らしてみせたり、すき腹をかかえていろいろ守《もり》をしてやったものです。ところが、今、こいつ人を愚弄しくさるじゃござんせんか。それに、やい、よしんばおれがほんとうにいつか一度、デュバルリ伯爵夫人の魂が安らかなようにって、額に十字を切ったにしてからが、そんなことは何もてめえの知ったこっちゃないじゃないか。じつは、公爵、四日ばかり前に、生まれてからはじめて、伯爵夫人の伝記を辞典で読んだのです。こら、てめえは全体そのかたか、デュバルリ夫人が、どんなかたであったか知ってるか?さあ、知ってるか知ってないかいってみろ」
「ふん、そんなこと知ってるなあ、おまえばかりだろうよ!」とあざけり気味ではあるが、あまり気のない声で若者はつぶやいた。
「この伯爵夫人というのはな、賤しいところから出た人だが、のちには女王さまに代わって政治をなすったえらいかただぞ。ある皇后さまがこのかたにあてた手紙に『ma cousine(わが従妹よ)』と書かれたくらいだ。枢機卿というのはローマ法王の使者だが、これがレヴェ・デュ・ロア(朝の着衣式)のときに(てめえ、レヴェ・デュ・ロアてのはなんだか知りゃすまい)自分から申し出て、このかたの素足に絹の靴下をほかしてあげたということだぞ。しかも、それを身に余る光栄に思ったというんだから、たいしたものさ。まあ、万事こういうふうに高貴なありかたいおかたなんだぞ! てめえそれを知ってるか? どうも顔つきから見ると知らんらしいて! それから夫人のおかくれになった時のことを知ってるか? 知ってるならいってみろ!」
「ひっこんでろ! 小うるさい!」
「それはこうなんだ。そういう名誉なことのあったのちに、首斬人のサムソンという男が、一時は飛ぶ鳥をも落とすような勢いであったこのおかたを、なんの罪もないのに、ただパリの女商人どもの慰みに、ギロチンへひっぱり出したんだよ。夫人は、恐ろしさに、自分の身がどうなっているかもわからない。やがて、首斬人が自分のくびをつかんで、刀のほうへ押しつけながら、足げにしているのに気がつくと、――ほかのものはそれを見て笑ってるのだ、――夫人はこう叫ばれたと思え。 "Encore un moment, monsieur le bourreau, encore un moment!"このわけは、『もう一分間のばしてください、首斬人さん、たった一分間だけ!』ということになるんだ。つまり、この一分間に、神さまが夫人をゆるしてくださるわけなんだ。なぜって見ろ、人間の魂をそれ以上ミゼラブルな目にあわせるなんて、考えることもできないじゃないか。てめえミゼラブルという言葉がどんな意味か知ってるか。つまりこんなことをミゼラブルっていうのさ。この『もう一分間』という夫人の叫び声のくだりを読んだとき、おれはちょうど心の臓を火箸で挾まれたような気がした。やい、うじ虫、おれがこのえらい罪びとのために、ひと晩ねる前にお祈りをしたからって、それがいったいてめえにとってどうだというのだ。それに、おれがこのかたのためにお祈りしたわけは、開闢以来だれひとり、このかたのために十字を切ったものもないからだ。またそんなことをしようと、考えたものさえないからかもしれん。ことによったら、あの世にいられるデュバルリ夫人も、自分と同じような罪の深い男が出て来て、ただの一度だけでも自分のために、地べたに額をつけてお祈りしたと思うと、きっと嬉しい気持ちがするに相違ない。てめえは何がおかしいんだ? 本当にならんか、極道め。てめえたちに何がわかってたまるものか。それに、てめえがほんとうに立ち聞きしたのなら、てめえはさっそくもううそをついてる。なぜって、おれはデュバルリ夫人ひとりのためにお祈りしたんじゃない。おれはこういってお祈りを上げたんだぞ。『神よ、偉大なる罪びとデュバルリ伯爵夫人と、彼女と同じき人々の魂を安らかにいこわせたまえ』こういえばすっかりわけ合いが違うからな。じっさい、そんなふうのえらい罪びとだの、どかりと運の狂った人だの、不仕合わせを堪え忍んで来た人だのがずいぶんたくさんあって、それが今あの世でもがいたりうめいたりして、人が冥福を祈ってくれるのを待ってるんだからなあ。もしおれの祈祷しているときに、てめえが立ち聞きなんかしたのなら、おれはおまえやおまえと同じような生意気なやつらのためにも、やはり……」
「もうたくさん、けっこう、だれのためにでも勝手に祈祷するがいい、こんちくしょう、ぎょうさんな声ばかり立てやがって!」と甥はいまいましそうにさえぎった。「ねえ、この男はわれわれの仲間でいちばんの学者なんですよ、公爵、ごぞんじなかったのですか?」と何か間の悪そうな冷笑を浮かべながら、つけくわえるのであった。「今でも現にいろんな本や回想録なんかを読んでまさあ」
「きみの叔父さんはまんざら……まごころのない人じゃありませんからね」と気のない調子で公爵はいった。
 彼はこの若者がたまらずいやになってきた。
「あなたはいやに家の叔父きをおほめになりますね! ところが大将、手を殊勝らしく胸のあたりへ当てかって、口をへの字なりに結んでいるが、すぐにがまんができなくなるんでさあ。おそらくまごころは持ってるんでしょうが、しかしかたりでしょうな。これがどうも残念ですよ。おまけに酒のみでしてね。だれでも長の年月、酒ばかり飲みくらってるやつはそうなんですが、からだじゅうのぜんまいがすっかりゆるんじゃって、どこもかしこもぎしぎしいってるんですぜ。まあ、かりにこの男が自分の子供たちをかわいがり、なくなった叔母さんを尊敬したとしましょう……もっとも、この人はわっしたちもかわいがってくれましてね、ちゃんと遺言状にも(ええ、うそじゃありません)わっしに財産のいくぶんか譲ると書いてまさあ」
「何を譲るもんか?」とレーベジェフはかみつくように叫んだ。
「ねえ、レーベジェフ君」と公爵は、若者にくるりと背を向けて、固く決心したようにいいだした。「ぼくは今までの経験で知ってるが、きみは自分でその気にさえなれば、なかなか事務的の人なんです……ぼくはいま非常に胯間が少ないから、もしきみが……失礼ですが、きみの名と父称は何といいましたっけね、ぼくわすれちゃった」
「チ、チ、チモフェイ」
「そして?」
「ルキヤーノヴィチ」
 部屋に居合わせたものはまたしても笑いこけた。
「うそつけ!」と甥はどなった。「また今もうそをつきやがった。公爵、こいつはけっしてチモフェン・ルキヤーノヴィチなんていいやしません。ルキヤン・チモフェーエヴィチでさあ。おい、ルキヤンだろうがチモフェイだろうが、おまえにとって損も得もなけりゃ、公爵にだってなんのかかわりもないこっちゃないか。こいつはもううそをつくのが癖になってるんでさあ、いや、まったくですぜ!」
「ほんとうですか、いったい?」と公爵はじりじりしながらきいた。
「ルキヤン・チモフェーエヴィチ、まったくです」と白状したレーベジェフはもじもじして、おとなしく目を伏せ、ふたたび手を胸のうえにおいた。
「まあ、いったいなんのためです、ほんとうに困った人だ!」
「ただ自分を卑下しようと思ったので」とややおとなしく頭を垂れながら、レーベジェフがつぶやいた。
「ええ、そんな卑下があってたまるもんですか! ああ、コーリヤがどこにいるか、それさえわかってたらなあ!」といい、公爵はきびすを返して出て行きそうにした。
「コーリヤのいどころはわたしが教えてあげましょう」とふたたび若者がしゃしゃり出た。
「め、め、めっそうもない!」とレーベジェフは飛びあがって、急にうろたえだした。
「コーリヤはゆうべここへ泊まったんですが、朝になって、おとうさんの将軍をさがしに出かけましたよ。公爵、あなたはいったいなんだって金なんか出して、将軍を監獄から引き抜いてやったんです。将軍はゆうべここへ泊まりに来ると約束したのに、やって来ませんでしたよ。きっとここからあまり遠くない『衡屋』という宿屋に泊まったんでしょう。だからコーyラはそこにいるか、でなければ、パーヴロフスタのエパンチン家にいるんです。あの男すこし金を持ってたから、きのうから行きたいっていってましたよ。だから、つまるところ、『衡屋』でなければパーヴロフスクでさあ」
「パーヴロフスクです、パーヴロフスクです! ときに、ふたりであちらのほうへ参ろうじゃございませんか……庭のほうへ……コーヒーでもさしあげます」
 こういってレーベジェフは、公爵の手を取って引き立てた。ふたりは部屋を出て、ちょいとした空地を横切り、くぐりの中へ入った。そこにはじっさい、いたってささやかな、いたってかわいい庭があり、天気つづきのおかげで、木立ちがみんなもう芽を出している。レーベジェフは公爵を緑色の木造ベンチにかけさした。その前には、同じ緑色のテーブルが地べたに打ちこまれていた。レーベジェフは向き合って席をとった。ほどなくほんとうにコーヒーも出て来た。公爵はべつに辞退もしなかった。レーベジェフはいかにも卑劣そうな顔つきで、むさぼるように公爵の目色をうかがっている。
「きみがこんな世帯を持っていようとは、思いもよらなかったですよ」まるっきりほかのことを考えている人のような顔つきで、公爵はこういった。
「み、みなし児がおりまして……」レーベジェフはからだをひねりながらいいかけたが、ふいとまた口をつぐんだ。
 公爵はそわそわと自分の前のほうをながめたが、いうまでもなく、いま自分のたずねたことを早くも忘れていた。またいっときたった。レーベジェフはじっと相手を見つめたまま待ち受けていた。
「ええと、なんだっけ?」ふと気づいたように公爵は口をきった。「ああ、そうだ! ねえ、レーベジェフ君、きみはもう、ぼくが何用で来たかわかってるでしょう。ぼくはきみの手紙のことでやって来たんですよ。早く聞かしてください」
 レーベジェフはもじもじしながら、何かいいたそうにしたが、ちょっとどもるような音を発しただけで、ひとことも言葉は出なかった。公爵はしばらく待っていたが、やがて淋しい微笑をもらした。
「ぼくにはきみの心持ちがよくわかるようです、ルキヤン・チモフェーエヴィチ。きっとぼくが来ようなぞとは思いがけなかったんでしょう。きみはたった一度知らせたくらいでは、ぼくがあんな田舎からわざわざ尻を持ちあげなんかすまいと思って、ただ良心に対する申しわけに手紙をよこしたんでしょう。ところが、ぼくはこのとおりやって来ましたよ。ねえ、もうたくさんです。うそつくのはおよしなさい。二君に仕えるのはたくさんです。ラゴージンがこのペテルブルグへ来てもう三週間になるのは、ぼくだって知ってますよ。きみはいつかのように、あのひとをラゴージンに売りつけたんですか、どうです? ほんとうのことをいってください」
「あの極道め、自分でかぎつけたんです、自分で」
「あの人に毒づくのはおよしなさい。そりゃあの人もきみに対してよくないことをした……」
「ぶんなぐったのです、ぶんなぐったんで!」とおそろしく熱くなって、レーベジェフは言葉じりを押えた。「モスクワじゃ町じゅうで犬をけしかけました、牝の猟犬を、恐ろしい犬でしたよ」
「レーベジェフ君、きみは、ぼくを子供あつかいにするんですか。まじめに話してくださいよ、あのひとは今度もまたモスクワでラゴージンを振り捨てたんですか?」
「まじめです、まじめです、今度も式のまぎわになってです。こっちはいま一分二分と数えて待っているのに、あのひとはまっすぐにわたしのとこをさして、ペテルブルグへやった来ました。『助けてちょうだい、ルキヤン、かくまってちょうだい、そして公爵にもいわないでちょうだい』……とこうなんです。公爵、あのかたはラゴージンよりもっとあなたを恐れてぃなさりますよ。それにここの――じつによくできた人でしてな」とレーベジェフはこすぃ目つきをして、指を一本額に当ててみせた。
「で、きみはまたあのふたりを引き合わしたんですね?」
「ご前、公爵、どうして……どうしてそうせずにいられますか?」
「いや、もうたくさん、ぼく自分で調べる。しかし、たった 一つ聞いときたいんだが、今あのひとはどこにいるんです、ラゴージンのとこですか?」
「いや、いや、違います! けっしてけっして! あのひとは、まだ一本立ちでおられます。あのひとのおっしゃるに、わたしは自由だ、わたしはまったく自由なからだだって、くりかえしくりかえしいわれるんですよ、公爵。今でもやはりペテルブルグ区(ネヴァ河のデルタ地帯の島々からなる地域)におられます。先日手紙でお知らせ申したように、家内の妹の家にいらっしゃるのです」
「今でもそこにいるんですね?」
「そこにいます。それともあまりお天気がいいから、ハープ ロフスクにあるダーリヤさんの別荘においでかもしれません。まったくぁのひとは、わたしは自由だ、わたしは自由だって、よくぉっしゃいますよ。きのうもコーリャさんに自分 が自由なからだだってことを、ずいぶんご自慢なさいました。どうもよくないしるしですよ!」
 とレーベジェフは作り笑いをした。「コーリャはしょっちゅう、あのひとのとこへ行くんですか?」
「どうもあれは軽はずみで、おしゃべりで、秘密の守れない人です」
「きみはもう長くそこへ行ってみないんですね?」
「毎日まいります、毎日」
「じゃ、きのう行ったんですか?」
「い、いえ、さきおとといです」
「レーベジェフ君、きみは少々酔ってますね。じつに残念だ! でなければ、いろいろ聞きたいことがあるんだけれど」
「め、め、めっそうもない、酒なんぞこれっぱかりも!」
 レーベジェフはぐいと身をそらした。
「ねえ、きみが会って来たとき、あのひとはどんな様子でした?」
「捜索的でした……」
「捜索的って?」
「いつもなんだかさがしていられるようたんです、まるで何かなくなったという様子でね。結婚が目の前に迫っている、と思っただけでも胸が悪くなり、腹が立つらしいんです。あの男のことはまるでみかんの皮くらいにしか思っておられません。まったくそれっきりです。いや、それっきりじゃない。こわい恐ろしいという気もたしかにあります。あの男のことは、話をするのさえ禁物になっていまして、顔を合わすのは、よくよくのっぴきならん用事のときだけです。あの男もそれに気がついてるから、またひと騒動なくちゃ済みますまい! 元来がそわそわと落ちつきのない、人をばかにしたような、よく二枚舌を使う、ちょいとしても人に突っかかってゆこうというふうのひとですからね……」
「二枚舌を使う、人に突っかかってゆく?」
「さよう、突っかかってきたがる人です。せんだってもある話からして、あやうくわたしの旻をつかまんばかりでしたよ。わたしは『黙示録』でお説教をしようとしたところ……」
「なんですって?」公爵は何か聞きちがえたと思って、こう問い返した。
「『黙示録』を読んだんです。まったくあのかたは物騒なことを空想する人でしてな、ヘヘ! それにまじめな問題なら、自分に関係のないことにでも、ずいぶん夢中になるひとだということを、ちゃんと見抜きました。好きですね、まったく好きなんですね。それがために、自分を図抜けてえらいもののように思っておられますよ、さよう。そこでわたしは『黙示録』の講釈にかけちゃなかなか大家でして、もう十五年も講釈をしています。人間というものは『第三の活物』の黒馬と、その上にのって手に衡《はかり》を持った人といっしょに暮らしているのだ、とこうわたしが申しますと、あのひとも賛成してくれましたよ。なぜってごらんなさい、今の世の中はなんでもかでも衡と談判で持ちきり、人間はただ自分の権利ぽかりさがしているじゃありませんか。『銀一ディナールに小麦一|升《ます》、銀一ディナールに大麦三|升《ます》なり』でさあ……そのうえに自由な精神だの、清き真心だの、健全なる身体だの、ありたけの神さまの賜物を大切にしまっておこうというのだから、やりきれませんよ。しかし、権利一点ばりでそんなものがしまえるはずがないから、すぐそのあとから『死』と呼ばれる青ざめた馬がやってくる、そのまたあとから地獄……まあ、こんなふうのことを話して、意見が合ったのです、――そしてなかなかききめがありましたよ」
「きみ自身それを信じてるんですか?」と不思議そうな目つきでレーベジェフをながめながら、公爵はたずねた。
「信ずればこそ講釈もするんです。なぜと申して、わたしは貧乏で裸一貫で、輪廻の原子《アトム》にすぎないのですものな。いったいだれがレーベジェフなぞを敬ってくれます? だれも彼もわたしを愚弄して、ほとんど足げにせんばかりです。けれど、この講釈ではわたしも高位高官の人と同等です。それも知恵のおかげでな! ある高位のお方は叡知でそれを感じて、ひじいすにすわったままふるえだしたもんです。一昨年-わたしがまだ役所に勤めておったころ、ニールーアレクセーエヴィチ閣下が、復活祭の前週にわたしのうわさをお聞きこみになり、ピョートル・ザハールイチを通じて、わざわざわたしを当番室からご自分の書斎へお呼び寄せになりまして、ふたりきりにさし向かいになったとき、『きさまは反基督の先生だというが事実か?』とこう問われました。で、わたしはべつに隠し立てもせずに、『いかにもさようでござる』と答えて、おめず臆せず申し立てたばかりか、わざわざ諷刺画の巻物や数字まで出して見せたものです。閣下はふふんと鼻であしらっておられたが、諷刺画や数字を見ると、さすがにぞっとして、もういいから本を閉じてあっちへ行け、と申されましたよ。復活祭の前週には褒美をやるという約束でしたが、その二週間後に魂を神さまに返上してしまわれました」
「レーベジェフ君、何をいってるんです?」
「いえ、ありのままをお話しするのです。ご飯を食べてすぐあとに馬車からおっこちて……小さい棒杭にこめかみを打ち当てて……そのまま子供のように、まるで子供のように、あの世へいってしまわれました。職員名簿には七十三歳としてありましたが、顔の赤い、頭の白い人で、からだじゅう香水をぷんぷん匂わして、いつ見てもにこにこ笑っていなさる、まるっきり子供みたいなかたでした。当時、ピョートル・ザハールイチが、『なるほどおまえの予言したとおりだった』と思い出しては、言い言いなされました」
 公爵はそろそろ立ちあがりかけた。レーベジェフはそれを見るとびっくりし、へどもどしはじめた。
「たいそうそっけなくおなんなさいましたねえ、ヘヘ!」と彼は卑屈らしい調子でおずおずといった。
「いや、じっさい、ぼくはなんだか気分が悪いんです。妙に頭が痛くって、旅づかれかしら」と公爵は顔をしかめながら答えた。
「別荘にでもいらしってはいかがで?」とレーベジェフはおずおずと遠まわしに持ちかけた。
 公爵は立ったまま考えこんでいた。
「わたしも三日ばかりたったら、うちのものをみんな連れて、別荘へ出向こうと思っております。こんどできたひなっ子(リューボチカをさす)のからだのためにもなるし、その間にこの家の手入れもすこしできますしするから……別荘というのはやはりパーヴロフスクにあるので」
「きみもやはりパーヴロフスクヘ?」とふいに公爵が問いかけた。「いったいまあ、どうしたっていうんです。ここの人はみんなパーヴロフスクヘ行くんですか? そして、きみもあすこに自分の別荘を持ってるんですか?」
「みんなパーヴロフスクヘ行くわけではありませんが、プチーツィンさんが安く手に入れた、いくつかの別荘のうち、一軒をわたしに譲ってくださったのです。あすこはなかなかいいところですよ。土地が高くって、青いものが多くって、暮らし向きが安あがりで、上品で音楽的なもんだから、それでみんなパーヴロフスタヘ行きたがるんです。もっとも、わたしは離れに入って、ほんとうの別荘のほうは……」
「貸してしまったんですか」
「い、いえ、貸して……しまったというわけじゃござんせん」
「ぼくに貸してください」と、いきなり公爵がいいだした。
 レーベジェフは、ただこれを目あてにして、遠まわしに持ちかけたものらしい。じっさい、この思いつきは、三分ばかり前に彼の頭に浮かんだことなのである。とはいうものの、彼はほんとうに借り手を求めているのではなかった。もう望み手ができて、たぶん借りるだろうと通知をよこしたくらいである。それに、レーベジェフは『たぶん』でなく、きっと借りるだろうと確信していた。ところが、今ふとうまい思案が浮かんだので、前の希望者の約束がしっかりしてないのを利用し、別荘を公爵に渡してしまおうと決心した。彼の算用によると、そのほうがだいぶもうけが多そうなのであった。
『これからうんといろんな衝突だの、局面展開だのがあるぞ』と想像した。彼は公爵の申し込みを大喜びで承諾し、家賃に関する公爵の問いなどはてんで取り合わなかった。
「いや、そんなら好きなように、ぼくも聞き合わせてみます。損のゆかないようになさい」
 このときふたりはもう庭を出かかっていた。
「わたしはあなたに……わたしはあなたに……もしお望みでございましたら、ご前さま、めっぽうおもしろいことを一つお知らせしますが、例の一件に関係したことで……」嬉しさのあまり公爵のそばにちかぢかと身をすりよせながら、レーベジェフはこうささやいた。
 公爵は立ちどまった。
「ダーリヤさんもやっぱりパーヴロフスクに別荘を持っておられます」
「それで?」
「それから、例のひとはこのダーリヤさんと仲よしだから、しょっちゅうパーヴロフスクヘ遊びに来るつもりらしいのです。何かあてがあって」「それで?」
「アグラーヤさん……」
「ああ、もうたくさん!」何か不快な感じを声に響かせながら、公爵はさえぎった。まるで痛いところにさわられでもしたような具合であった。「そんなことは……まるで違ってる。それよりかきみはいつ引っ越すんです? ぼくは早けりや早いだけ都合がいいのです。なにぶん宿屋ずまいですからね……」
 こうした会話を交えながらふたりは庭を出て、家へは入らずに空地を横切り、くぐりへ近づいた。
「こうなすっちゃいかがでしょう」とうとうレーベジェフが考えついた。「きょうすぐにも、宿屋を引き払って、わたしどものほうへいらっしゃいまし。そして、あさってごいっしょにパーヴロフスクヘお伴いたしましょう」
「考えてみましょう」と公爵は考えこんだような調子でいい、門を出て行った。
 レーベジェフはそのあとを見送った。公爵が急にそわそわしだしたのにびっくりしたのだ。彼は出て行くときに『さようなら』ともいわなければ、首を振って会釈することさえ忘れてしまった。いつも公爵がていねいで注意ぶかいのを知っているレーベジェフには、それがいかにも奇妙に思われた。

      3

 もう十一時すぎていた。エパンチン家へ出かけたところで、ただ勤め向きの仕事に忙しい将軍に会えるきり、しかもそれさえたしかでないということは、公爵も承知していた。もっとも、将軍ならすぐに会ってくれたうえに、パーヴロフスクヘ連れて行ってくれるかもしれぬと考えたが、公爵はそれまでにもう一軒訪問したいところがあった。エパンチッ家へ行くのが遅れて、パーヴロフスク行きをあすに延ばすようになってもかまわぬ気で、急に寄ってみたくてたまらなくなったある一軒の家をさがし出そうと決心した。
 とはいえ、この訪問は彼にとって、いくぶん冒険的な性質を帯びていた。彼はしばらく思い迷ってちゅうちょした。この家について彼の知っているのは、サドーヴィヤ街に近いゴローホヴァヤ街にあるということだけである。彼はそのそばまで行ったら、寄るとも寄らないとも最後の決心がつくだろう。こう思ってそのほうへ歩みだした。
 サドーヴァヤとゴローホヴァヤの四辻に近寄りつつ、公爵はなみなみならず波立ち騒ぐ胸に、自分ながらびっくりした。心臓がこんなに痛いほど動行するとは思いも設けなかった。とある家が、いっぷう変わった外形のためでもあろうか、もう遣いところから、彼の注意をひきはじめた。これは公爵がのちになって思い山したことだが、彼はひとりごとのように「きっとその家に相連ない」といった。そして、自分の推量が当たったか当たらないか調べるために、なみなみならぬ好奇心をいだいてその家へ近づいて行った。彼はもし自分の推量が当たっていたら、非常に不愉快になるにちがいない、となぜかそう感じた。
 この家はどす黒い緑色に塗られて、いっさい装飾というもののない、暗欝な感じのする大きな三階建てであった。はなはだ数は少ないが、前世紀の終わりごろに建てられたこの種の家は、移り変わりの激しいペテルブルグにありながら、このあたりの街々ではすこしも旧状を変えずに残っている。これらの家々はみな頑丈な建てかたで、壁は厚く、窓は思いきって少ない。いちばん下の窓にはどうかするとよく格子がはまっている。そして最下層は多く両替屋になっていて、上には、両替屋の厄介になってるスコペッツ(去勢禁欲の一宗派)が借りている。外側から見ても内へ入っても、なんだかぱさぱさにかわききって愛想がないようで、しじゅう物かげへ姿を潜めようとでもしているよう。なぜ家の外形を見ただけでそんな気がするかといっても、――それはちょっと説明しにくい。もちろん、建築上の線なるものが特殊の秘密を持っているのであろう。これらの家に住まっているのはもっぱら商人である。門に近寄って標札を振りあおいだ公爵は、『世襲名誉市民ラゴージZの家』と読みくだした。
 もう、とつおいつ考えないことにして、公爵はガラス戸をあけた。戸は騒々しい音を立てて、彼のうしろでぱたりとしまった。彼は正面階段を二階へさして登りはじめた。暗い石の階段は粗雑な組み立てで、その両側の壁は赤いペンキで塗ってある。ラゴージンが母と弟といっしょにこの陰気な家の二階ぜんたいを住まいとしていることは、彼も聞いて知っていた。公爵のために戸をあけた召使は、取り次ぎもせずすぐに案内をはじめ、長いことあちらこちらと引きまわした。ふたりはあるりっぱな広間を通り抜けた。それは壁が『大理石』まがいの模様に塗られ、床は槲材のはめ木で二十年代の粗野な作りの、重々しそうないすテーブルで飾られてあった。それからまたあっちへ曲がり、こっちへうねりしながら、小さな檻のような部屋をもいくつか通り抜けた。なんべんも二段か三段の階段をあがったりおりたりして、ようやくとある部屋の戸をたたいた。戸を開いたのは、主人公のパルフェン・セミョーヌイチであった。公爵の姿が目に入ると、彼はまっさおになって、びっくりしたように視線をじっとひとところにすえ、口をゆがめて、なにかしら極度の疑惑に襲われたかのような薄笑いを浮かべながら、しばらくのあいだ石彫りの像のごとくにその場へ棒立ちになった。さながら公爵が訪問しようなどとは、ぜんぜんありうべからざる奇跡的なことのように思われたらしい。公爵もなにかこんなふうのことを予期していたが、それでもあまりのことに面くらったほどである。
パルフェン、ぼくなんだが悪いとこへ来合わせたようだね、なんならぼく、帰るよ」公爵はもじもじしながら、とうとうこう口をきった。
「いや、いいおりなんだ! いいおりなんだ!」とパルフェンはやっとわれに返った。「さあ、どうぞ、入んな!」
 彼らはおたがいにうち解けた口をきき合った。モスクワではいっしょに落ち合って、しばらく話しこむような機会がしょっちゅうあって、たまにはたがいの胸の中に忘れることのできない感銘を印した瞬間《とき》も、幾度かあったのである。しかし、今はもはや三か月以上もうち絶えて会わずにいた。
 ぴくりぴくりと走るかすかな痙攣と青白い色は、いつまでもパルフェンの顔から去らなかった。彼は客を招じ入れるには入れたものの、なみなみならぬ惑乱の状態はまだいぜんとしてつづいていた。彼が公爵をひじいすに導き、テーブルに向かって座につかしたとき、公爵はふと何ごころなく彼を見返ったが、たとえようもなく奇怪な、重苦しい視線に射すくめられて立ちどまった。何かあるものが彼の胸を突き剌したような気がしたが、同時に別なあるものが思いおこされた、――それはけさほどの重苦しい暗欝な印象である。彼はすわろうとせずにじっと立ったまま、しばらくラゴージンの目を見つめていた。その目は最初の瞬間、ひとしお鋭く輝いたように思われた。とうとうラゴージンはにたりと笑ったが、まだいくらか度を失ったようにどぎまぎしていた。
「なんだっておめえ、そんなに穴のあくほど人の顔を見るんだ?」と彼はつぶやいた。「腰をかけな!」
 公爵は座についた。
パルフェン」と彼はいいだした。「きみ隠さずにうち明けてくれたまえ、きみはぼくがペテルブルグへ来るってことを、前から知ってたのかい?」
「おめえがやって来るだろうとは、おれも考えてたよ、みな、当たったじゃないか」とこちらは毒々しく笑いながらつけ足した。「しかし、おめえがかならずきょう来るなんて、どうしておれが知るものか!」
 この答えの中に含まれた鋭い、突発的な、それでいて妙にいらいらした疑問の調子は、さらに公爵を驚かした。「たしかにきょうと知ってたにしろ、なにもそんなにいらいらすることはないじゃないか」と公爵はもじもじしながらそういった。
「じゃ、おめえはなんだってあんなことをきいたんだ」
「さっき汽車からおりたときに見た二つの目が、いまきみがぼくをうしろから見ていた目つきに、そっくりそのままたんだもの」
「へえ! いってえだれの目だったんだろう?」とラゴージンはいぶかしげにつぶやいた。公爵は、彼がぴくりとふるえたような気がした。
「もっとも、人込みの中だったから、ただそんな気がしたばかりかもしれないよ。ぼくはこのごろよくそんなことがあるようになった。ねえ、パルフェン、ぼくはなんだかしだいしだいに、五年前よく発作のおこってたときと、同じような心持ちになって行くみたいだ」
「ふん、そうかなあ、じゃ、そんな気がしただけかもしれないぜ。おれは知らんよ……」とパルフェンはつぶやいた。
 彼は愛想のいい微笑をもらしたが、この場合それが彼の顔にすこしも似つかなかった。たとえて言えば、その微笑はどこかこわれていて、パルフェンはどんなに苦心しても、うまく継ぎ合わすことができないという様子であった。
「どうだい、また外国へでも行くのかね!」と彼はたずねたが、ふいにまたつけ足した。「おめえ覚えてるかね、去年の秋ふたりいっしょに、プスコフから汽車に乗って来たときのことを? おれはここへ来るし、おめえは……マントにくるまってね、ゲートルをはいてさ?」
 こういってラゴージンは、いきなりからからと笑いだし
た。しかも、今度は一種の憎悪を隠そうともしなかったばかりか、かえってやっとのことでそれをぶちまけてしまう機会が来たのを、喜ぶような調子であった。
「きみはいよいよここへ落ちつくことにしたんだね?」と公爵は書斎を見まわしながらきいた。
「ああ、これがおれの家だ。ここよりほかにおれの行くとこがあるかい」
「ずいぶんながいこと会わなかったね。きみについてはいろんなうわさがあるよ、これがきみのすることかと思うようなうわさが」
「世間のやつらあ、どんなことだっていわあね」とラゴージンはそっけなく答えた。
「しかし、例の連中をすっかり追っぱらってしまって、親の家にひっこんでるんだから、あまりふざけることもできまいねえ。だが、結構だよ。この家はきみのもの、それとも共同の?」
「うちはおふくろのものだ。おふくろは廊下を越してこっちにいらあ」
「きみの弟さんはどこにいるんだえ?」
「弟のセミョーンは離れに寝起きしてる」
「家族はあるの?」
「やもめだ。が、いったい、おめえはそんなことを聞いてどうするんだい?」
 公爵は、ちらりとその顔をながめたが、返事をしなかった。彼はにわかに考えこんでしまい、相手の問いも耳に入らなかったらしい。ラゴージンはべつに追究しようともせず控えていた。ふたりはしばらく無言でいた。
「ぼくはここへ来るときに、百歩くらい向こうから、ちゃんときみの家がわかっちまったよ」と公爵がいいだした。
「そりゃなぜだい?」
「なぜかさっぱりわからない。きみの家はきみの家族ぜんたいの、ラゴージン家の生活ぜんたいの外貌を持っている。といっても、なぜそうかときかれると、なんとも説明のしようがないのだ。むろん、くだらん妄想さ。ぼくはこんなことが気にかかるのが、自分で恐ろしいくらいだよ。以前なら、きみがこんな家に住まってるなんて考えもしなかったんだけど、きょうはじめて見るとすぐこう思った、『あの男の家はきっとこんなふうに相違ない』って」
「なあんだ!」ラゴージンは公爵の漠然たる心持ちが腑に落ちないので、なんともつかぬ薄笑いをした。「この家はまだ祖父《じい》の時代に建てたんだがいつもスコペッツ派のフルジャコフー家が住んでいたものだ。今でもやはり間借りをしてらあ」
「まったく暗いねえ。それに、きみも薄暗いような風つきをしてるよ」と書斎を見まわしつつ公爵はこういった。
 それは天井の高い、薄暗い、大きな部屋で、ありとあらゆる道具類が所せまく並べてあった。多くは大形の事務机や、ビューローや、事務用の書籍書類の入った戸棚などである。幅の広い赤いモロッコ皮の長いすは、明らかにラゴージンの寝台に代用されているらしかった。すすめられるままに席についた公爵は、自分の前にあるテーブルの上に二、三冊の書物を見た。その中の一冊はソロヴィヨフの歴史で、読みさしにしたところを広げたまま、しおりが挟んであった。四方の壁にははげた金箔の額縁の中に、黒くすすけて何が何やらわけのわからない油絵がいくつかかかっている。その中の一つで、全身の肖像が公爵の注意をひいた。それは五十歳ばかりの男で、ドイツ仕立てではあるが裾の長いフロックを着、首のあたりに二つのメダルをつけており、しょぼしょぼしたごま塩の短いあご鬚を生やし、しわだらけの黄色い顔に、疑りぶかい、秘密の多そうな、もの悲しい目を光らしている。
「これはきっときみのおとうさんだろう?」と公爵がきいた。
「ああ、そうだよ」とラゴージンは不快な微笑をもらした。さっそくなくなった親に対して、なにか無遠慮な冗談をいってやろうと、その心がまえでもするように。
「この人は旧教派じゃなかったんだろうな?」
「そうじゃない。教会へ通ってた。もっとも、旧教派のほうによけい道理があるとはいってたがな。そして、スコペッツ派もずいぶんありがたがってたよ。これが親父の居間だった。しかし、おめえなんだってきくんだ、おめえ旧教派なのかい?」
「結婚の式をここで挙げるつもりなの?」
「こ、ここだ」思いもよらぬ問いにぴりりとからだをふるわせて、ラゴージンは答えた。
「もうすぐ?」
「そりゃおめえだって知ってるんじゃないか。おれの考えで決まるこっちゃあるまいし」
パルフェン、ぼくはきみの敵じゃないから、何ごともきみのじゃまをしようという気は毛頭ない。これは前にも一度、ほとんどこれと同じような場合にいったことだが、もう一度くりかえして断言しておく。モスクワできみの結婚の支度が進んでいたときにも、ぼくはじゃまなぞしなかった。これはきみも自分で知ってるだろう。最初あの人はほとんど結婚のまぎわになって、ぼくのとこへ身を投じて来て、『助けてくれ』といった。ぼくはあの人のいったことをそのままくりかえしてるんだから、そのつもりで聞いてくれ。その後またぼくのところから逃げ出して行った。それをきみがさがし出して、また結婚の運びをつけたんだね。ところが、話に聞いてみると、あの人はまたぞろきみのとこから逃げ出して、ここへ来たそうじゃないか。これはまったくたんだね? じつはレーベジェフが知らせてくれたので、それでぼくも出かけて来たのさ。ところが、またここでうまく折り合いがついたって話は、ついきのう汽車の中できみの以前の友達から聞いたばかりなんだ。知りたければいうが、あのザリョージェフさ。ぼくがここへ出向いて来たのは、こういうつもりだったのだ。つまり、あの人を説いて、健康回復のために外国へでも行かせようと思ったんだ。あの人はからだも精神も、ことに脳がひどく錯乱しているから、ぼくの考えでは、よほど親切に介抱してやる人間が必要だよ。ぼくは自分であの人を外国へ連れて行こうなんて気はさらさらない。万事ぼくからは口を入れずに運びたいと思っている。まったくぼくはほんとうのことをいってるんだよ。もしきみの縁談がうまく折り合ったといううわさがほんとうなら、ぼくはけっしてあの人の前へ出やしない。きみのとこへもこれきりやって来もすまい。ぼくはきみに対していつも明けっぴろげだから、きみをだましたりなんかしないことは、きみ自身で知ってくれるだろう。この事件について考えてることを、きみに隠し立てなどしなかった、そしていつもきみといっしょになるのは、とりも直さずあの人の身の破滅だといってきた。きみのほうからいってもやはり身の破滅だ……もしかしたら、あの人よりかもっとひどいやつが来るかもしれない。もしきみたちふたりが別れ話になったら、ぼくは大いに満足する。しかし、きみたちの話にじゃまを入れようだの、こわしてやろうだのと、そんな気持ちはけっしてない。だから安心して、ぼくを疑ぐるのはよしてくれたまえ。それに、きみだって知ってるじゃないか、いったいぼくがほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]きみの競争者になったことがあるかね? あの人がぼくのところへ逃げだして来たときだってさ。おや、きみは笑ったね。知ってるよ、何を笑ったのか。それに、ぼくはあのとき別々な町へ別れて暮らしてたことも、きみは確実に[#「確実に」に傍点]知ってるはずだ。前にもいったことだが、ぼくはあの人を[#「あの人を」に傍点]、『恋で愛してるのじゃなくて、憐憫で愛して』るんだよ。ぼくはこの定義がぴたりと合っていると思う。きみはあのとき、このぼくの言葉がよくわかったといったろう、ねえ? わかったんだろう? ああ、なんて憎憎しそうな目つきをしてぼくをにらむんだろう。ぼくはきみを安心させに来たんだよ。きみもぼくにとって大切な人だからね。ぼくはきみが大好きなんだよ、パルフェン。が、もう出かけよう、そしてこれからけっしてやって来ないよ。失敬」
 公爵は立ちあがった。
「もっといっしょにいてくんな」とラゴージンは席を立たずに、右手で頬杖をつきながら、小さな声でいった。「もう久しくおめえに会わなかったもんなあ」
 公爵は腰をおろした。またふたりともしばらく黙っていた。
「おれはな、おめえが目の前からいなくなると、すぐにおめえが憎くてたまらなくなるんだよ、レフ・ニコラエヴィチ。おめえに別れてから三か月のあいだ、おれはのべつおめえのことで腹を立てとおしていた、ほんとのこった。もうおめえをひっつかまえて、何か毒でもくらわしてやりたかった。そんなふうだったよ。ところが、いま十五分といっしょにいないうちに、いつの間にやら腹の虫が納まっちまった。そして、おめえがもともとどおりかわいくなっちまったよ。もっといてくんな……」
「ぼくがきみの前にいると、きみはぼくを信じてくれるが、ぼくがいなくなると、すぐ信ずるのをよして疑ぐりだすんだ。きみはおとうさん似なんだね!」と親しげにほほえみつつ自分の感情を隠すようにしながら、公爵は答えた。
「おれはおめえと話をしてると、おめえの声を信じたくなってくるんだ。そりゃおれだって、おめえとおれを同じように見るわけに行かねえってことは、万々承知してるんだけど……」
「なんだってそんな余計なことをいうんだい。またかんしゃくがおこってきたね」と公爵はラゴージンの様子に驚かされてこういった。
「なに、おめえ、このことについちゃ、われわれの考えなんてきいてやしないんだ」と相手は答えた。「いっさいわれわれにはおかまいなしで、さきが決めっちまうんだからね。そこでふたりがあの女にほれるのだって、やり口がまるっきり別だろう、つまり何事についても違いがあるんだ」彼はちょっと言葉を切り、さらに低い声で語りつづけた。「たとえば、おめえはかわいそうだから好きだというが、おれにゃそんなものはかけらほどもない。それに、あの女はおれをこんかぎり憎んでるんだからなあ。おれは毎晩あの女の夢を見る。いつもあの女がほかの男といっしょに、おれのことを笑ってるような気がするんだ。またじっさいそうなんだからな。おれと結婚の約束しておきながら、おれのことなんざすっかり忘れちまってらあ。まるで靴でも取っ替えるようなつもりでいやがる。おめえはほんとうにしねえかしらんが、もう五日ばかりというもの、あれんとこへ行かないんだぜ。どうも思いきって行く元気がないんだ。『何用でいらしたの?』なんてきかれるかと思うとな。まったくあの女にはずいぶん赤恥をかかされたものなあ……」
「恥をかかされたって? きみはまあ何を!」
「知らんふりなんかしてる! だって、あれが式のまぎわにおめえといっしょに逃げだしたってこたあ、たった今おめえがいったばかりじゃねえか」
「しかし、きみ、自分だってほんとうにはしないだろう……」
「だが、あの女はモスクワで、士官のゼムチュージニコフといっしょになって、おれに恥をかかせたじゃねえか。いや、わかってる、恥をかかせたんだ。しかも、自分のほうから式の日どりを決めたすぐあとでよ」
「そんなことがあるもんかね!」と公爵は叫んだ。
「いや、たしかにわかってる」とラゴージンは信じきったようにいいきった。「なにかね、そんな女じゃない、とでもいうのかい。そりゃもう、おめえ、そんな女でないってことはわかりきってらあね。今いったようなことは、みな心にもないでたらめさ。おめえといっしょにいるときは、あれもそんな女じゃなかろう。かえって人がそんなことをするのを見たら、恐ろしがるくらいかもしれん。ところが、おれにたいしては『そんな女』なんだ。だって、ほんとうにそうたんだからなあ。あれはおれを人間の中のくずみてえに思ってやがる。ケルレル、あの拳闘のうまい士官の一件だって、ただおれをばかにしたいばっかりにこさえたことたんだ。おれはちゃんと知ってる。まあとにかく、モスクワであの女がおれにどんなことを仕向けたか、おめえはまだよく知らないだろう? それに金、金をどれだけつぎこんだか……」
「それだのに……きみはどうしてまた結婚しようというのだ!………さてどんなことになるやら……」公爵は恐怖に襲われてこうたずねた。
 ラゴージンは重々しくものすごい目を公爵に向けたが、なんとも答えなかった。
「あれんところへ行かないのは、もうこれで五日目だ」としばらく黙っていたラゴージンは言葉をつづけた。「いつも追い立てられやしないかと思って、びくびくしてるんだ。あれはいつもそういう、―わたしはまだ今のところ自分の心のご主人さまだから、もしその気にさえなれば、いつだっておまえさんを追っ払って、ひとりで外国へ行きます、ってよ(『この外国へ行くってのは、あれがおれに向いてそういったんだよ』と彼はなんだか一種特別な目つきで公爵を見つめながら、注でも入れるようにいった)。そうかと思えば、またひとをからかってばかりいることがある。なぜか知らないが、あの女はおれを見てると、おかしくてたまらないらしいんだ。かと思うと、また顔をしかめて、眉を八の字にして、ひとことも口をきかねえ、これがおれにや恐ろしいんだ。あるときふと気がついて、いつも空手でくるから悪いんだと悟ったのさ。――ところが、あれははじめのうちただ笑っていたが、しまいにはとうとう怒りだしちゃった。一度こんなことがあったっけ、あの女は以前ずいぶんぜいたくな暮らしをしていたが、それでもまだこんなのは見たことがあるまいと思われるようなショールを持ってったところ、さっそく小間使のカーチャにくれちまった。いつ結婚するかってことについちゃ、おくびにも出しゃしねえんだ。ほんとに女のところへ出かけて行くのを恐れるような花婿が、どこの世界にあるもんか。こうしてすわっててもがまんしきれなくなると、そっとこっそり、あれの家の前を往ったり来たりするか、でなければ、どこか隅のほうに隠れてる。ふっと気がついて見ると、かれこれ夜明けごろまで門のそばに見張りしてることがあった。そのときちらと目に入ったものがあるので、上のほうをふり向いて見ると、どうだろう、あの女が窓からのぞいてるじゃねえか。そして、『もしわたしがおまえさんをだましてるってことがわかったら、いったいわたしをどうするつもり?』ってきくから、おれは辛抱しきれなくなって『そりゃ自分でわかってるだろう』といってやった」
「わかってるって何を?」
「なんでおれがそんなことを知るもんか?」とラゴージンが毒々しく笑った。「おれはあのころモスクワでいっしょうけんめいに探りを入れたんだが、だれも男らしいものを挙げることができなかった。一度あの女をおさえてきいたことがあるんだ。『おめえは今におれと結婚して、堅気な家に入ろうというのに、今のおめえの仕打ちはなんだ。ほんとうにしようのないやつだ!』」
「きみそんなことをあの人にいったのかい?」
「いったよ」
「で?」
「ところが、あれのいうには、『わたしは今おまえさんをボーイにだって使いたくない、ましておまえさんの女房になるなんて』そこでおれは、『生意気なことをいうな。おれはここから出て行きゃしねえ、成り行く果てはわかってるんだ!』回わたしは今すぐケルレルを呼んで、おまえさんを門のそとへほうり出させるから』とぬかしやがる。そのときおれはあ
いつに飛びかかって、紫ばれになるほど引っぱたいてやったあ」
「そんなことがあってもいいものか!」と、公爵は叫んだ。
「ところがあったのさ」と静かな調子ではあったが、目を光らせながらラゴージンが答えた。「それからちょうど二日一晩、寝もせねば食べも飲みもせずに、部屋から一足も出ずに、あの女の前にひざをついて、『もしおれをゆるしてくれなけりゃ、死んでしまう。出てなんか行くもんか。無理に引きずり出させようとすりゃ、身を投げっちまう。おれはおめえがいなくちゃ生きてるかいがない』てなことをいったのだ。あれはその日いちんち、まるできちがいみてえだった。泣いているかと思うとナイフでおれを殺そうとしたり、悪口をついたりするんだ。それからザリョージェフ、ケルレル、ゼムチュージニコフなんて連中を呼び寄せて、おれのほうを指さしながら、つらの皮をひんむくようなことをぬかすじゃねえか。『皆さん、いっしょにそろってこれから芝居へ行きましょう。この人はそとへ出たくないっていうから、ここへうっちゃっときましょう、わたしゃこの人のためにしばられるわけはないんだから。パルフェンさん、わたしがいなくてもお茶を出させますよ、きょうはきっとおなかがすいたでしょう』芝居からはひとりきりで帰って来た、そしていうことに、『あいつら臆病者の意気地なしだから、おまえさんをこわがってるんだよ。そうして、あの様子じゃとても帰って行きそうにない、もしかしたら、あなたを殺そうとするかもしれない、なんて人をおどかすんだ。わたしはこれから寝間へ行くけれど、戸締まりなんかしませんよ。わたしがどれだけおまえさんを恐れてるか、よく見て覚えといてもらいましょう! おまえさんお茶を飲んだ?』『いいや、なんで飲むもんか』『それはえらいとほめてあげたいが、おまえさんにはちっとも似合わなくってよ』ところが、あの女ははたしていったとおりに、部屋の戸を締めないで寝たもんだ。あくる朝、出て来て笑いながら、『おまえさんまあいったい気でもちがったの。だって、そんなにしてたら飢え死にしちまうじゃないの?』で、おれが『勘弁してくんな』というと、『勘弁するのはいや、もうおまえさんの女房にゃならないといったじゃないか。だが、いったいおまえさんはこのひじいすにすわったまんま、夜っぴてまんじりともしなかったの?』『ああ、寢なかった』『なんて賢い人だろう! 茶を飲んでご飯を食べるのは、やはりいや?』『いやだっていったじゃないか、――よ、勘弁してくんな!』『それはまったくおまえさんの柄にないわ、考えてもごらんよ、まるで牛に鞍を置いたようじゃなくって。ほんとうにおまえさんわたしをおどかそうと考えついたんじゃないの、おまえさんがそんなにおなかをすかしてすわりこんでると、ああ、なんて困ったこったろう、とかなんとかいうだろうと思ったの? へっ、ほんとうにおどかされるわねえ!』ってぷりぷり怒りだしたが、それも長いこっちゃねえ、すぐにまたおれをからかいだした。そのときおれがびっくりしたのは、あれがおれをてんで憎んでもいなけりや、うらんでもいないってことだ。ところで、あの女は執念ぶかいほうだろう、いつまでたっても執念ぶかく人を恨む女だろう! そこでおれはふと考えたね、あの女は、おれに対して深い恨みをいだく気にもなれないほど、ひとを安く見くびっちまってるんだ。いや、まったくの話なんだ。あれのいうことに、『ねえ、おまえさん、ローマ法王てなんだか知ってる?』『聞いたことはある』『いったい、パルフェンさん、おまえさんはまだ一度も世界歴史を習ったことないの!』『おれはなんにも習ったことはねえ!』と返答すると、『じゃ、今わたしが教えてあげよう、あるときひとりの法王があって、それがある皇帝に対して腹を立てたのよ。すると、その皇帝は三日のあいだ、飲まず食わずはだしのままで、法王のご殿の前にひざをついて立ちつづけて、やっとゆるしが出たって話がある。おまえさんどう思って?この皇帝が三日間、ひざをついて立っているときに、何を考えてどんな誓いを立てたかわかって?……いえ、待ってちょうだい、これはわたしが自分でおまえさんに読んで聞かしてあげるわ』とこういって、立ちあがったかと思うと、本を持って来た。『これは詩よ』といって、この皇帝が三日間にかならず法王に讐《あだ》を報いずにゃおかぬと誓った、という詩のひとくさりを読んで聞かした。『このお話はおまえさんの気に入って?』ときくから、おれは、『おめえのいま読んだのは、まったくうがってるな』と返事した。『ああ、うがってるなんてとこをみると、おまえさんもきっと、なにか誓いを立てたんだね、――あれがおれの女房になったら、すっかりこの仕返しをして、匳をいやさなくちゃ承知しないぞ、なんてね!』『なんだかわからん、ひょっとしたら、そんなことを考えてるかもしれん』『わからないってどうなの?』『わからん、おれはそんなことをいま考える気がしねえのだ』『じゃ、いま何を考えてるの?』『おめえが席を立って、おれのそばを通って行くときに、おれはおめえをながめておめえを見送る。おめえの服がしゅっしゅっと鳴ると、おれは心臓が下のほうへ落ちて行くような気がする。おめえが部屋を出て行くと、おれはおめえのいったひと言ひと言を思い出して、どんなふうにしてどんな声でいったか、ということまで考えてみる。ゆうべなぞはひと晩じゅう何も考えずに、ただおめえの寝息ばかり聞いていた。二度ばかり寝返りをうったのも知ってる』するとあの女は笑いだして、『まあ、おまえさんは、それじゃおおかたわたしをぶったことなんぞは、考えもしなけりゃ思い出しもしないんだろうねえ?』『いや、考えてるかもしれねえ、わからん』『じゃ、もしわたしがどこまでも勘弁しないといって、おまえさんの女房にならなかったら?』『もう一度いったよ、身い投げて死ぬんだ』『だけど、たぶんその前にわたしを殺すだろうね』……といって考えこんだものだ、それからまた腹を立てて出て行っちまった。一時間ばかりたって、またおれのところへひどくふさぎこんだ顔つきをしてやって来た。『パルフェンさん、わたしはおまえさんといっしょになります。けれど、なにもおまえさんがこわいからってわけじゃない、ただどうしてみたって、すたれたからだだもの、どこへ行ったところで、いいことなんかありゃしない。おすわんなさい、いまご飯をあげますから。おまえさんといっしょになるといったからには、わたしはおまえさんの貞節な女房ですよ、もう疑ったりすることはないわよ』とこうきた。そして黙っていたが、またしばらくして、『やはりなんてたって、おまえさんは下男じゃないからねえ。わたし以前おまえさんのことをまったくおあつらえ向きの下男だと思ってたの』まあ、こういうわけで、即座に式の日取りを決めたのさ。ところが、一週間たつとまたおれんとこから抜け出して、ここにいるレーベジェフのとこへやって来た。そして、おれがここへ来たときに、あれはこんなことをいうんだ。『わたしはどうしてもおまえさんがいやだというのじゃありません。ただ自分の堪能するだけ待ってもらいたいの、なぜって、まだまだわたしの自由だから。もしどこまでもわたしが望みなら、おまえさんも待たなくちゃなりませんよと』とまあ、こういったようなのが現在の姿なんだ……公爵、おめえはこれをなんと考える?」
「きみは自分でなんと考えてるの?」沈んだ目つきでラゴージンの顔をながめつつ、公爵は問い返した。
「おれがいったい何を考えるというんだ!」われともなくこちらはこう叫んだ。彼はまだ何かいい足そうとしたが、やるせない淋しさにおされて口をつぐんだ。
 公爵はふたたび立ちあがり、出て行きそうにした。
「ぼくはなんといってもきみのじゃまはしないよ」心内に秘めた自分の思いに答えるような調子で、彼は小さな声でそう言った。
「ね、一つおめえに言いぶんがある!」ラゴージンはふいに元気づいて、双の目がきらきら光りだした。「なんだっておめえはそんなにおれに譲ろう譲ろうとするんだ、わかんねえな、それとも、もうすっかり恋が冷めちまったとでもいうのかい? だって、以前はやっぱりあれのことで、ふさいでばかりいたじゃねえか。おれはちゃんと知ってるよ。それに、今度もなんだって気ちがいみたいにこのペテルブルグへかけつけたんだろう。憐憫とやらのためかね?(こういう彼の顔は毒々しい冷笑にゆがんで見えた)ヘヘ!」
「きみはぼくがだましてると思うの?」と公爵がきいた。
「いいや、おれはおめえを信じてる、だが何がなんだかいっさいわけがわからん。まあ、何よりいちばんたしかなのは、おめえの『憐憫』のほうがおれの恋よかも強いってことだ!」
 なにかしら毒々しい、今にもそとへあぶれだしそうなあるものが、彼の顔に燃え立った。
「だけど、きみの恋は、憎しみとすこしも区別がつかないんだものね」と公爵はほほえんだ。「もしその恋がなくなったら、もっともっと恐ろしいことがおこるに相違ない。きみ、パルフェン、ぼくは、こういいきっておく……」
「じゃ、なんだね、おれが斬り殺すってえんだね?」
 公爵はふるえあがった。
「きみは現在の恋のために、現在うけている苦しみのために、あの人を無性に憎みだすに相違ない。あの人がまたしてもきみと結婚しようという気になったのが、何よりも不思議でたまらない。きのうはじめて聞いたときには、ほとんど信じることができなくって、じつに重苦しい心持ちになった。じじつ、あの人が二度までもきみをきらって、式のまぎわに逃げだしたのも、やはり虫が知らせたんだ。いったいあの人はいまきみから何を望んでるんだろう? きみの金だろうか? そんなばかげたことはない。それに、きみも金なら今までにずいぶんつかって見せたはずだからね。してみると、ただつれあいがほしいためだろうか? そんなら、きみのほかに、いくらでも見つかりそうなものだ。どんな男でもあのひとにとっては、きみよりいいにちがいない。なぜって、きみはたぶんもうとたんに殺してしまうからさ。きっとあのひとも今そのことをりっぱにさとってるんだろう。え、きみはそれほど強くあの人を愛してるの? じっさいこんなことはその……世間には変わった女もあって、こういうふうの恋を求めているそうだが……しかし、それは……」
 公爵は言葉をきって考えこんだ。
「おや、おめえはまたおれのおやじの絵を見て、にやりと笑ったようだな?」とラゴージンがたずねた。彼は穴のあくほど、公爵の顔色の変化を、その一本の筋肉の微動をものがさじと見まもっていたのである。
「何をぼくが笑ったかって? ぼくは、ただこう思ったのさ、もしこの事件が、この恋がおこらなかったら、きっときみはこのおとうさんと寸分の相違もない人になったろう、それもごく近いうちにだね。おとなしい無口な細君とたったふたり、この家にむっつりとすわったまま、ときたま出す言葉も四角ばって、だれひとり信用もせず、それに、そんな必要も感ぜず、ただ黙ってむずかしい顔をして、金ばかりふやしていたろうね。まあせいぜい、ときおり古臭い本に感心して、いっしょうけんめいほめちぎったり、二本指で十字を切る(旧教派のやりかた)ことに興味を持つようになる。もっとも、これは、だいぶ年が寄ってからだけれど……」
「たんと冷やかすがいい。だが、あれもつい近ごろこの絵を見たとき、それとそっくり同じことをいったっけ? 不思議だなあ、おめえたちふたりは何から何まで同じような……」
「じゃ、あの人はきみのとこへ来たことがあるの?」と好奇の念にかられながら公爵はたずねた。
「ある。この絵を長いあいだながめて、おやじのこともいろいろとたずねたよ。それからしまいに、にやにや笑いながら、こういったんだ。『おまえさんもちょうどこれと同じようになるべき人だったのよ、パルフェンさん。おまえさんは強い欲情を持っているから、もしおまえさんに分別というものがなかったら、シベリアへ懲役にでも行きかねなかったかもしれない。でも、おまえさんには大きな分別があるのでよかったわ』とこうなのだ(いや、おめえほんとうにしないかもしれんが、まったくこうだったんだ。おれだってあれがこんなことをいうのは、はじめて聞いたんだものなあ!)。それから、『もしおまえさんが今みたいな物好きをよしてしまったら、おまえさんみたいに教育のない人は、お金を貯めにかかるだろうねえ。そして、おとうさんと同じように、スコペッツ派の連中に取り巻かれて、ぽつねんとすわってたに違いないわ。もしかしたら、その人たちのほうへ宗旨がえくらいしたかもわからないわ。だけど、お金はめちゃめちゃに好きになって、それこそ二百万どころか、千万くらい貯めこんで、おしまいにはその金袋のあいだで、かつえ死にするのが落ちだ。なぜって、おまえさんは何事につけても欲情が激しいから、なんでもきちがいじみたところまで持ってかなくちゃ承知しない人なんだわ』こんな具合にいった、まったく言葉もこれと寸分違いなしなんだよ。その前までは一度だって、おれにこんな言いかたをしたことがなかった! いつでもばかげた話をするか、でなければ、冷やかしてばかりいたもんだ。いや、そのときだってはじめは笑い笑いいってたんだが、そのうちにおそろしく様子が沈んできたのさ。それから、この家をずっとひとまわりして見たが、なんだかびくびくしてるようなふうだったよ。『おれはこいつをすっかり建てかえて手入れをする。でなけりや、式までにほかの家を買ってもいい』というと、『なんのなんの、なにも変えることないわ。このまんまで暮らしましょう。わたしおまえさんのおかみさんになったら、おまえさんのおっかさんのそばへすわっていたいの』という返答だ。そこで、おれはあれをおふくろのとこへ連れてってやったが、まるで実の娘みたいにていねいなんだ。おふくろは以前から、もう二年越しに半分あほうのようになっているんだが(病気なんだ)、おやじが死んでからは、なんのこたあない、まるで赤ん坊だあ。じっとすわったまんま、立つこともできないで、ただ人さえ見れば、だれにでも彼にでもお辞儀をするのさ、やはりすわったままでな。飯を食べさせないでいても、三日くらいは大丈夫気がつかないでいそうだよ。おれはおふくろの右手をとって重ねてやった。『おかあさん、祝福をしておくれよ、この人はおれの女房になってくれようというんだ』とおれがいうと、あれは情をこめておふくろの手に接吻をしたが、あとで『おまえさんのおっかさんはきっといろんな悲しい目にあって来なすったんだね』といったっけ。この本を見つけたときには、『これはおまえさんどうしたの、ロシヤ歴史を読みだしたのね?』ときいた。(もっとも、モスクワにいるとき、いつだったかおれに向かって、『おまえさん、なんとかして自分に教養をつけたらどう? せめてソロヴィヨフの「ロシヤ歴史」でも読むといいんだわ。だっておまえさんてばなんにも知らないんだもの』といったことがあった)『結構だわ、そんなふうにして読むといいわ。わたしおまえさんに最初どんな本を読んだらいいか、目録みたいなものをこさえてあげてよ。ほしくって? いや?』あれがこんなふうなもののいいかたをしたことは、今までけっしてなかったから、おれはかえってびっくりしたくらいだ。おれはそのときはじめて人心地がついて、ほっと安心したようなわけさ」
「それはほんとうに結構だ、パルフェン」と公爵は真心こめていった。「じつに結構だ。ことによったら、神さまがきみたちふたりのあいだをまるく納めてくださるのかもしれないよ」
「そんなことは金輪際ありゃしねえ!」とラゴージンはすごい剣幕で叫んだ。
「ねえ、パルフェン、もしきみがそんなにあの人を愛してるなら、どうかしてあの人に尊敬されるようになりたいと思わない? もしそういう望みがあれば、なにもそんなに落胆するにゃ及ばないさ。さっきもいったとおり、なぜあの人がきみといっしょになろうとしているかってことが、ぼくには非常に興味ある問題なんだ。ぼくはむろん、そいつを解くことができないけれど、そこにはかならずなにか十分な、理知的な理由がなければならん、それだけはなんといっても疑えない。あの人はきみの愛情を見抜いているのはもちろんだが、きみにいろいろ長所があるということも、またりっぱに見抜いていた。それはそうにちがいない! きみのいまいったことは、ちゃんとそれを説明してるじゃないか。あの人が今まで仕向けたり、いったりしたのとは、がらりとちがった態度できみに接することもありうるって、きみがいま自分の口からいったばかりじゃないか。きみは疑ぐり深くて嫉妬心が強いから、悪いほうばかり見て、それを誇張して考えるのだ。じっさい、あの人はもちろん、きみのいうように、きみのことを悪く思ってやしないよ。でなかったら、あの人がきみと結婚するのは、意識的に水の中へ飛びこむか、白刃《しらは》の下をくぐると同じことになるじゃないか。いったいそんなことがあるものかね? だれが意識しながら水の中へ飛びこんだり、白刃の下をくぐったりするものか!」
 ラゴージンは苦い嘲笑を浮かべながら、熱誠にあふれる公爵の言葉を聞き終わった。彼の信念はもはや揺るがすことのできぬほど、しっかり決まってしまったようであった。
「なんだってきみはそんないやあな目つきをしてぼくをにらむの?」公爵は重苦しい心持ちで覚えずこうきいた。
「水の中か白刃の下!」とこちらはやっとのことで口をきった。「へっ! あの女がおれんとこへ来ようってのは、つまり、おれのうしろに白刃が待ち伏せてるからなんだ! 公爵、おめえは今まで、ことの入りわけをほんとうに気がつかなかったのかい?」
「ぼくはきみのいうことがわからない」
「しようがねえなあ、じゃ、ほんとうになんにもわかんないのかなあ、ヘヘ! よく人がおめえのことをあれ[#「あれ」に傍点]だっていうが……あの女はほかの男にほれてるんだよ、わかったかい?おれが今あれにほれてると同じくらいに、あれは今そのほかの男にほれてるのさ。そのほかの男っていうのは、おめえだれか知ってるか? おめえ[#「おめえ」に傍点]なんだよ! おい、知らなかったのかい、え?」
「ぼく?」
「おめえさ。あれはあの命名日のそもそもから、おめえにほれこんじまったんだ。しかし、あれはおめえと夫婦になるわけにゃゆかねえと思ってる。なぜって見な、そうすればあれはおめえの顔に泥を塗って、おめえの一生を台なしにしちゃうわけだろう。『わたしがどんな女かってことは、わかりきってるじゃありませんか』とよく言い言いしてたよ。このことは今までくりかえしくりかえしいってる。こりゃみんなあの女が自分の口から、おれに面と向かってぶちまけたんだよ。つまり、おめえの顔に泥を塗ったり、一生を台なしにするわけにゃゆかねえが、おれなんざ大丈夫、かまうこたあねえからいっしょになれ、-とまあ、こんなふうにあれはおれのことを考えてるのさ。これもやはり知っといてもらおうよ!」
「じゃ、なんだってあのひとはきみんとこから、ぼくのとこへ逃げだしたんだろう……そして、ぼくのとこから……」
「おめえんとこからおれのとこへ! へっ! あれが何か出しぬけに突拍子もないことを思いつくのは、珍しくもありゃしねえさ! あれは今まるで熱に浮かされてるようなもんだ。どうかすると、『おまえさんのとこへ行くのは、水の中へ飛びこむつもりで行くんだ。早く式をしましょう!』とわめきながら自分からせき立てて日取りを決めたりなんかするんだが、その日がだんだん近づいて来ると、気がついてこわくなるのか、それとも何かほかに思案でも浮かぶのか、どうだか知らねえが、おめえも見て知ってるだろう、泣く、笑う、熱に浮かされて騒ぐ、めちゃめちゃだあ。それから、あれがおめえのとこから逃げだしたのも、べつに不思議なことはありゃしねえ。あれがあのときおめえのとこから逃げだしたのは、自分がどんなにひどくおめえにほれこんでるかってことに、自分で急に気がついたからなんだよ。そして、おめえのとこにもいたたまれなくなったんだよ。おめえはさっき、モスクワでおれがさがし出したといったね。うそだよ、それは、――あれが自分からおれんとこへ走って来て、『日を決めてちょうだい、わたし、もう腹をすえてしまった! シャンパンをちょうだい! ジプシイ女のとこへ遊びに行きましょう!』とわめいたんだよ……まったくおれという人間がいなかったら、あれはとっくに身を投げてしまってたろうよ。いや、ほんとのこった。いまだに身を投げずにいるのは、たぶんおれが水よりもまだ恐ろしいからなんだろう。おれといっしょになるというのも、一つの面当てなのさ。もしほんとうにいっしょになったら、それこそ間違いなしだ、面当てにするこったよ」
「きみはまあ何を……きみはまあ何を……」と公爵は叫んだが、しまいまでいいきることができなかった。彼は恐ろしげにラゴージンをながめた。
「なんだってしまいまでいっちまわないんだ?」とラゴージンはにやりと笑いながらいった。「なんならおれがいってやろうか。おめえはいま腹ん中でこんなふうに思ってるだろう、――ああ、こうなってしまっては、この男をあのひとといっしょにするわけにいかん。どうしてあのひとにそんなことをさせられるものか! へん、何を考えてるかちゃんとわかってらあ……」
「ぼくはそんなことのために来たんじゃないよ、パルフェン、そんなことは考えてもいなかった」
「そりゃたぶんそんなことのためじゃなかったろう、またそんなことは考えてもいなかったろうよ。しかし、たった今たしかにそうなったのさ、ヘヘ! だが、もうたくさんだ!いったいおめえはなんだってそんなにおったまげるんだい?いったいまるっきりそれに気がつかねえでいたのかい? ほんとにびっくりさせるじゃねえか!」
「それはみんな嫉妬だよ、パルフェン、それはみんな病気のせいだよ、それはみんなきみがやたらに誇張して考えてるんだよ……」と公爵は度はずれにわくわくしてつぶやいた。「きみどうしたの?」
「よしなよ」とラゴージンがいって、手早く公爵の手からナイフを取り、もとの場所へ置いた。ナイフはもと本のそばにあったのを、公爵が何ごころなくテーブルの上から取りあげたのである。
「ぼくはさっきペテルブルグに入る時から、なんだか虫が知らせるような気がした……」と公爵は言葉をついだ。「それでぼくはここへ来るのに気が進まなかったんだ。ぼくはこの土地であったことをすっかり忘れてしまいたかった、胸の中からむしり取ってしまいたかった。じゃ、失敬……おや、きみはどうしたんだい!」
 気の落ちつかぬような調子でこんなことをいいながら、公爵はまたしても例のナイフを取り上げようとした。すると、ラゴージンはまたそれを彼の手からもぎ取って、テーブルの上へほうり出した。それはありふれた形をしたナイフで、折り畳みのできない鹿角の柄が付けてあり、身は長さ三寸五分ばかり、幅もそれに相当している。
 公爵が二度までもこのナイフをもぎ取られたのに特殊の注意を払っているのを見たラゴージンは、毒々しい憤懣の色を現わしてそれを引っつかみ、本のあいだへ挾んで、ぽんとほかのテーブルへほうり出した。
「きみはあれでページでも切るのかね」とたずねた公爵の声音《こわね》はなんとなくぼんやりして、やはりまだ深いもの思いの影が響いていた。
「うん、ページを……」
「でも、これは庭作りのナイフじゃないか」
「うん、庭作りのだ。だが、庭作りのナイフでページを切っちゃならねえって法があるかい?」
「それに、あれは……ま新しいぜ」
「新しけりゃどうしたってんだ? いったいおれにいま新しいナイフを買う金がねえとでもいうのかい?」とラゴージンはなぜか妙に激昂して、一語一語にいらいらしながら叫んだ。
 公爵は、ぴくりとして、じっと、ラゴージンを見つめた。が、やがてふいにすっかりわれに返ったかのごとく、笑いだした。「いったいまあふたりともどうしたんだろうね? 勘弁してくれたまえ、ぼくは頭が重くなると、今みたいなことをいったりするんだ。それに、あの病気が……ぼくはだんだんあんなふうにぼんやりして来て、ばからしいことをいうようになったよ。ぼくまったく、あんなことをきこうなんて気はなかったんだよ。……何をいったか覚えてもいないくらいだもの。じゃ、さようなら……」
「そっちじゃないよ」とラゴージンがいった。
「忘れちゃった」
「こっちだ、こっちだ、おれがいっしょに行って教えてやろう」

      4

 公爵がさっき通ったと同じ部屋部屋を、ふたりは抜けて行った。ラゴージンがすこしさきに立ち、公爵はそのあとからつづいた。やがて大きな広間に入った。ここは四方の壁にいくつかの絵がかかっていたが、みな高僧の肖像でなければ風景画で、何を描いたものやらみわけがつかない。次の間に通ずるドアの上に、奇妙な形をした絵が一枚かかっていた。長さが六尺ちかくもあるのに、高さはせいぜい一尺を出ない。これには、つい今しがた十字架からおろされたばかりのキリスト像が描いてある。公爵はちらと見上げて、なにやら思い出したかのようであったが、べつに立ちどまろうともせず、そのまま扉をくぐって向こうへ行きかけた。彼はなんとなく気分が重いので、早くこの家を出てしまいたかった。ところが、ラゴージンはふいに絵の前に歩みをとめた。
「ほら、ここにある絵はみんな一ルーブリかニルーブリで、おやじがせり売りで買って来たものなんだ。おやじは絵が大好きだったのさ。この絵をもののわかったある人が見て、皆がらくただといったが、こいつは――この扉の上にかかっている絵さ、――やはり二ルーブリで買ったもんだが、こいつばかりはがらくたでないといったそうだ。まだおやじが生きてる時分から、この絵を三百五十ルーブリで譲ってくれというものがあったが、サヴェーリェフ、イヴァン・ドミートリチといってやはり商人だけれど、非常にこのほうの好きな人が、四百ルーブリまでせり上げたんだ。ところが、つい先週だったっけ、弟のセミョーンに五百ルーブリだすと申し込んだものがあった。しかし、おれは、いるからって売らせなかった」
「ああ、これは――ハンス・ホルバインの模写だね」ようやく絵を見わけた公爵はこういった。「ぼくはそんなにえらい鑑定家じゃないけれど、りっぱな模写らしい。この絵は一度外国で見たけれども、いまだに忘れられないよ。だが……きみはなんだって……」
 ラゴージンはふいに絵をうっちゃらかして、以前の道をさきへ進んで行った。もちろん、ふいにラゴージンの様子に現われた怪しくいらだたしげな気分や、茫然と落ちつかぬようなそぶりは、いくぶんかこの突飛な振舞の原因を説明してはいるものの、それにしても、ラゴージンが自分ではじめた会話をぶつりと切って、公爵にろくろく返事もしないのが、なんとなく公爵には変に思われた。
「ねえ、レフーニコラエヴィチ、おれはせんからおめえにききたいことがあったんだ、おめえは神さまを信じるかどうだい?」二、三歩歩くと、いきなりまたラゴージンが口をきった。
「きみはほんとうに変なことをきくねえ、それに……きみの目つきったらないぜ!」われともなしに公爵はこう注意した。
「おれはあの絵を兄てるのが大好きだ」しばらく黙っていたあと、またしても自分の質問を忘れ果てたかのように、ラゴージンはつぶやいた。
「あの絵を!」思いがけなく心に浮かんだある思想に圧されて、公爵はふいにこう叫んだ。「あの絵を! いや、あの絵を見ていると、中には信仰をなくす人さえあるかもしれない
「まったくなくしてしまうよ」と思いもよらずラゴージンが相づちを打った。
 ふたりは出口のすぐそばまで来ていた。
「なんだって?」公爵はいきなり立ちどまった。「まあ、きみはどうしたんだろう! ぼくちょっと冗談にいったことを、きみはもうまじめになってさ! だが、ぼくが神さまを信ずるかなんて、どういうつもりできいたの?」
「なあに、なんでもない、ちょっと、その。おれは以前からきいてみたいと思ってたんだ。だって、見な、今どきのやつら、たいてい信じてないじゃないか。ところで、どうだろう。ほんとうだろうか(おめえは外国で暮らしたってえから、きいてみるんだが)、――ある男がおれに酔った勢いでいったことがある。このロシヤにゃ、ほかのどの国よりも、神さまを信じねえ人間が多いって。その男の言いぐさでみると、ロシヤではそうするのがよその国よりかやさしい、そのわけはロシヤのほうが一足さきへ出てるからだ、とこういうんだ……」
 ラゴージンは、厚かましい薄笑いをもらした。いうだけのことをいってしまうと、彼はにわかに戸をあけて、公爵の出て行くのを待つように、とってを握っていた。公爵はびっくりしたが、そのままそとへ出た。相手はそれにつづいて階段の上の踊場へ出、うしろ手に戸をしめた。両人は顔と顔を突き合わして立っていた。まるでふたりとも自分がどこへ来たのか、さしあたり何をしたらいいのか、忘れてしまったように。
「失敬」と公爵は手をさし伸べながらいった。
「失敬」とラゴージンは応えて、固く、とはいえまったく機械的に、さし伸べられた手を握った。
 公爵は一段おりてからまたふり返った。
「あの信仰の話だがね」と彼は笑いを含みながらいいだした(明らかに、彼はこんな具合でラゴージンと別れたくなかったらしい)。それに、ふとあることを思い出して、急に元気づいたのである。「あの信仰の話だがね、ぼくは先週二日ばかりのあいだに、四人ほど変わった人に出くわしたよ。朝のうちに新設の鉄道でやって来る途中、車の中でSというひとと近づきになって、四時間ばかり話をした。ぼくはこの人について前からいろいろ聞いてはいたが、無神論者だっていう評判だった。この人はじっさいえらい学者だったから、ぼくはほんとうの学者と話ができると思って、たいへんうれしかった。そのうえ、この人は学者には珍しい修養の積んだ人で、ぼくなんかにたいしても、知識や理解の程度をぜんぜんおなじゅうしたもののように話してくれた。この人はもちろん、神を信じないっていうんだけれど、ぼくはなんだかはじめからしまいまで、見当ちがいの話を聞かされてるみたいな気がしてびっくりした。というのは、ぼくその前からいろんな無神論者の話も聞き、本もずいぶん読んだけれど、そういう人たちのいうことも、本に書いてあることも、ちょっと見にはもっともらしいが、みんなまるっきり見当ちがいみたいな気がするからさ。ぼくはそのとき、このことを正直にいったけれども、きっと言いかたがはっきりしなかったのか、それともまずかったんだろう、その人は少しもわかってくれなかった……。それから、夕方にぼくはある郡部の宿屋に泊ったところ、そこではほんの昨夜、人殺しがあったばかりだというのだ。で、ぼくが着いたときには、だれも彼もみんなその話ばかりしていた。ふたりの百姓が、しかも分別ざかりの男で、酒の気はすこしもなく、おたがいにずっと前から知り合いの仲だった友達なんだがね、それがいっしょにお茶を飲んで、同じ部屋で床に入ろうとしたそうだ。ところが、ひとりのほうが、黄色い南京玉の紐のついた錣の時計を持ってたのさ。もひとりのほうはその以前、つれの男がそんなものを持っていることを知らなかったらしいんだが、事件のおこる二日ばかりのあいだに、こいつが目にとまったものと見える。この男はけっして泥棒じゃない、それどころか、むしろ正直なくらいだし、百姓たちの常として、暮らしにも困るほうではなかった。しかし、この時計がぞっこん気に入っちまって、迷いこんじまって、とうとうがまんできなくなったんだ。そっとナイフを取り出して、つれの男が向こうをむいたときに、そろそろとうしろから近寄って、ねらいを定め、空を見上げて十字を切りながら、心の中で悲痛な祈祷を捧げたそうだ。『神よ、イエス・キリストのためにゆるしたまえ!』とこういって、ただひとうちに自分の友達を、羊かなんぞのように斬り殺して、時計を引き出したそうだよ!」
 ラゴージンは笑いくずれた。彼はまるでなにかの発作にでも襲われたように、大きな声を立てて笑った。ついさきほどまで沈みがちでいたものが、急にこんなに笑いだすのを見ていると、なんだか奇異な感じがするほどであった。
「いや、おれはまったくそんなやり口が好きだ! ほんとうに何よりおもしろいよ!」と彼は大声で息がつまるかと思われるほど、痙攣的にどなるのであった。「ひとりのほうは、神を信じないっていうかと思えば、もうひとりのほうは、人を殺すのにもお祈りを上げるほど信心が深いんだ……いや、じっさい、おめえ、こんな話はとても思いつこうたってできやしねえぜ! ははは!………ほんとうに、こいつぁめっぽうおもしろいや!………」
「あくる朝、すこし町をぶらつこうと思ってそとへ出た」と公爵は、ラゴージンが笑いやむやいなや、言葉をつづけた。もっとも、ラゴージンはまだやはり笑いの名ごりか、くちびるを痙攣したように発作的にふるわせていた。「ふと見ると、木をしいた歩道の上を、まるでぼろぼろの身なりをした酔っぱらいの兵隊が、ふらふらと歩いて来るじゃないか。それがぼくのそばへやって来て、『旦那さま、銀の十字架を買っておくんなさい、たった二十コペイカでお譲りしますよ、銀ですぜ!』というんだ。見ると、その男の手の中に、たったいま廁からはずしたばかりらしい十字架が、ひどく使い古した水色のリボンつきのまま載っかっている。しかし、ひと目見ただけで、まがいもない錫《すず》だってことはすぐわかる。ピザンチンふうの模様のいっぱいある、上下に短い腕木がついた、大形のやつだった。ぼくはさっそく二十コペイカ玉を一つ取り出して、その兵隊にくれてやり、十字架は即座に自分の胸にかけた、――すると、兵隊は間抜けなだんなをだましてやって大満足という様子をして、自分の十字架を売りとばした金で一杯ひっかけに出かけた。これはもう正直、間違いないとこだ。ぼくはそのとき、ロシヤに来て以来どっとわきおこったさまざまな印象で胸がいっぱいになっていた。以前はこのロシヤって国が、まるで口をきかないスフィンクスみたいな気がして、さっぱりわからなかった。それで、外国にいる五年間もこの国について、突拍子もない空想をたくましゅうしていたのだ。そこで、ぼくは道すがら、いや、このキリストを売った男を非難するのは、もう少々待たなくちゃならぬ、こうした酔っぱらいの弱々しい心の中にどんなものが含まれてるかは、神さまがよくごぞんじだ、こんなに考えながら、一時間ほどたって宿へ帰りかけていると、乳呑児をかかえたひとりの女房に行き会った。この女房はまだ若い女で、赤ん坊は生まれてやっと六週間くらいにしかならない様子だった。すると、赤ん坊が生まれてはじめて笑顔を見せたのに、気がついたらしいんだ。そのとき女はさもさも信心ぶかそうな顔つきをしてふいと十字を切るじゃないか。『おかみさん、いったいどうしたの?』ときくと(ぼくはその時分なんでもかでもたずねてみたものなんだ)『いえ、まあ、あなた、はじめて赤ん坊の笑顔を見た母親の嬉しさは、菲びとが真心こめてお祈りするのを天の上からごらんあそばすたびに神さまがいだかれる嬉しさと、まったく同じなんでございますよ』と答えた。その女房の言葉はこれとほとんど同じだったよ。じつに深い、こまやかな、ほんとうの意味での宗教的な思想じゃないか。この思想の中にはキリスト教の全本質が、一語にして尽くされている。人間の生みの親としての神にたいする解釈、また親が生みの子を思うと同じような神の人間を思う喜び、こういうものにたいする解釈が、すべてことごとくこの中に言い表わされている。じっさい、これがキリストの最も重要な思想なんだ! しかも、それを道破したのが、無教育な一婦人なんだからね! まったく、母親というものはねえ……それに、もしかしたら、この女があの兵隊の女房かもしれやしない。ねえ、パルフェン、きみはさっきぼくにたずねたが、これがぼくの返答だ。宗教的感情の本質というものは、いかなる論証、いかなる過失や犯罪、いかなる無神論の尺度にも当てはまるものじゃない。こんなものの中には、なにか見当ちがいなところがある。またいつまでたっても見当ちがいだろう。それは永久に無神論などがすべってはずれて、つかむことのできない、また永久に人々が見当ちがい[#「見当ちがい」に傍点]な解釈をくだすような、あるものなのだ。しかし、何より大切なのは、このあるものがロシヤの人の心に、最も多く見られるということなのだ。これがぼくの結論だ! これこそぼくがわがロシヤの中からつかむことのできる、最も価値ある信念の一つだ。パルフェン、なすべきことはずいぶんあるよ! このロシヤの国にいて、なすべきことはずいぶんあるよ、ぼくのいうことを信用してくれ。一時モスクワでよく落ち合って話しこんだころのことを、思い出してくれたまえ……それに、今度もぼくはこの土地へ帰って来ようなんて気は、毛頭なかったんだけどなあ! そして、まったく、まったくこんな具合にしてきみに会おうとは思わなかった! いや、しかし、しようもないさ!………さようなら、失敬するよ! 無事でいてくれたまえな!」
 彼は踵をめぐらして階段をおりて行った。
「レフ・ニコラエヴィチ!」公爵が最初の踊場までおりたとき、パルフェンは上から声をかけた。「おまえが兵隊から買った十字架は、今ここにあるのかい」
「ああ、いま掛けてる」
 公爵はふたたび立ちどまった。
「ちょいと見せてくんな」
 ふたたび奇怪な場面が現われた。彼はちょっと考えて上へあがり、首に掛けたままはずさずに自分の十字架を示した。
「おれにくれねえか」ラゴージンがいった。
「なんだって? きみはもしや……」
 公爵はこの十字架と別れたくなかった。
「おれが掛けたいんだ。そのかわりおれのをはずすから、おまえかけな」
「取っかえっこしようってのかい。そんならそうしたまえ、ぼくは嬉しいよ。兄弟の誓いをたてよう!」
 公爵は自分の錫の十字架、ラゴージンはその黄金《きん》の十字架をはずして、交換した。パルフェンは押し黙っていた。以前の疑惑の色や、以前の苦々しい、冷笑的とさえいいたいような薄笑いが、この新しい義兄弟の顔から消えずに、少なくともときおり激しく目に立つのを見て、公爵は重苦しい驚きの念を覚えた。やがて、ラゴージンは無言のまま公爵の手を取って、しばらく何事をか決しかねるていで、じっとたたずんでいた。と、ふいに彼は相手を引き立てるようにしながら、やっと聞こえるか聞こえないかの声で、『行こう』といった。一階の踊場を通り過ぎると、さっき出て来た扉と真向かいになっている戸口で、ラゴージンは呼鈴を鳴らした。戸はすぐに開かれた。
 すっかり背中の曲がった、頭に布を巻いた黒衣の老女が、黙ってていねいにラゴージンに会釈した。こちらはなにやら早口に彼女にたずねたが、返事を待とうともせず、さらに公爵を導いていくつかの部屋を通って行った。部屋部屋は薄暗く、寒い感じがするほどきちんとして、白い清潔な蔽布をかけた昔ふうの道具類を、いかめしくそっけなく並べてあった。ラゴージンは取り次ぎを待たずに、すぐさま公爵を客間らしい小さな部屋に導いた。部屋は、つやつやしいマホガニーで造った、両端に戸のある板壁で仕切られてあったが、その向こうは見たところ寝室にでもなっているらしかった。客間の片隅の暖炉に近く、ひとりの小柄な老女がひじいすに腰かけていた。まだ一見して、そんなにひどくよぼよぼしていない、それどころかずいぶん達者そうな、気持ちのいい、丸つこい顔をしているが、頭の毛はすっかり白くなっているうえに、気持ちがまったくの赤児に返っているということは、ひと目でそれと知ることができた。彼女は黒い毛織の着物をきて、同じく黒の大きな布を首に捲き、黒リボンの付いた白いさっぱりした室内帽子をかぶっている。足は前に置いた小さな台に支えられていた。そのそばには、もうひとり小ざっぱりとした老婆がいた。これはさらに年をとっている様子で、同様に黒い喪服を着け、同様に白い室内帽子をかぶっていたが、察するところ、なにか食客ででもあるらしく、黙って靴下を編んでいた。ふたりの老女はこうしていつも黙りこんですわっているのであろう。ひじいすのほうの老女は、ラゴージンと公爵の姿を見ると、ふたりに微笑《ほほえ》みかけ、幾度となく頭を下げて満足の意を表した。
「おっかさん」とラゴージンはその手を接吻しながらいった。「この人はおれの大の仲好しで、レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵って人なんだよ。おれはこの人と十字架の取っかえっこをしたんだ。モスクワではおれのために、親身の兄弟同様につくしてくれた。ね、おっかさん、この人に祝福をしてくんな、親身の息子と同じように、いや、ちょっと待ちな、おれがうまくおっかさんの指を組み合わしてやるから……」
 しかし老母は、パルフェンが手をくだすよりさきに、自分で右の手を挙げて指を三本くみ合わし、うやうやしげに公爵に十字を切った。それから、またもう一度やさしく愛想よくうなずいてみせた。
「じゃ、出かけよう、公爵」とパルフェンはいった。「おれがおめえを連れて来たのは、ただこれだけの用なんだよ……」
 ふたたび階段のところへ出た時、彼はいい足した。
「じつは、おふくろは人のいうことがなんにもわからないんだ。だから、おれの言ったことだって、なにひとつわかりゃしなかったんだ。それだのに、おめえを祝福したのを見ると、おふくろが自分で望んでしたことなんだよ……じゃ、さようなら。おれもおめえももう別れていい時分だ」
 こういって、彼は自分の部屋の戸をあけた。
「でも、お別れに一度抱かしてくれたっていいじゃないか、おかしな人だなあ!」と公爵はもの優しい非難の目をもって彼をながめながらこう叫び、相手を抱きしめようとした。
 しかし、パルフェンは両手を挙げたかと思うと、すぐにまたおろしてしまった。彼はなんとなく決しかねたていで、公爵を見まいとするもののように顔をそむけた。彼は公爵を抱擁したくなかったのである。
「心配するこたあねえ。おれはおめえの十字架をもらった以上、けっして『時計』のためにおめえを殺したりなんかしやあしねえ!」と彼はあいまいな調子でいって、ふいに一種奇妙な笑い声を立てた。
 と、にわかに彼の顔は一変した。おそろしいほど色青ざめて、くちびるはふるえ、双の目はぎらぎら燃えだした。彼は両手を挙げてしかと公爵を抱きしめ、息を切らしながら、
「もうそうした前世の約束なら、あの女は、おめえとるがいい! あれはおめえのもんだ! おれはおめえに譲った!……ラゴージンを忘れないでくんな」
 といいざま、彼は公爵を突き放し、あとをも見ずに自分の部屋へ入るや、ぱたりと戸を閉《た》てきった。

      5

 もうだいぶ遅くなって、かれこれ二時半に近かった。で、公爵が訪ねて行ったとき、エパンチ冫将軍は不在であった。彼はそこへ名刺をおくと、これからすぐ『衡星』へ出かけてコーリャを訪い、もし留守だったら置き手紙でもしようと決心した。『衡屋』へ行ってみたら、宿のものが出て来て、『ニコライ・アルダリオーノヴィチ(コーリャをさす)は朝からお出かけになりました。そして、もしも万一だれか訪ねて来たら、たぶん三時ごろに帰るだろうといってくれ、もし三時半になっても帰って来なかったら、汽車でパーヴロフスクヘ出向いて、エパンチン将軍夫人の別荘でご馳走になっているものと思ってくれ、とかようにお言い残しでございました』といった。公爵は腰を落ちつけて待つことにし、ついでに何か食べるものを命じた。
 三時半はおろか四時になっても、コーリャは姿を見せなかった。公爵はそとへ出て、行き当たりばったり、機械的に歩きだした。初夏のペテルブルグには、ときどきうららかな日和がある、――明るい、暑い、そして静かな日和がある。その日もちょうどあつらえたように、こうした珍しい日和であった。
 しばらくのあいだ公爵は、あてもなくぶらぶらさ迷い歩いた。彼は町にあまりなじみもないので、ときどき方々の家の前や、四辻や、広場や、橋の上などに立ちどまってもみた。また一度は、とある菓子ホールへ休息に入ってもみた。ときとすると、もの珍しそうに通行人をきょときょと見まわしもした。しかし、多くは通行人にも気がつかねば、自分でどこを歩いているかさえ知らずにいた。彼は苦しいほど緊張した不安な状態に陥っていたが、それと同時に、矢も楯もたまらぬ隠遁の要求を感じるのであった。彼は自分ひとりだけになって、この悩ましい緊張感の中に、すこしの出口も求めず、受身の態度で没入していたい気がした。自分の心になだれかかるさまざまの問題が、ただただいまわしく、それを解決しようという気にもなれなかった。『仕方がないさ、なにも自分が悪いわけじゃないんだもの』と彼はほとんど無意識に心の中でつぶやくのであった。
 六時に近いころ、彼はツァールスコエ・セロー鉄道のプラットホームに立っていた。孤独の状態はまもなく彼に堪えがたくなったのである。新しい熱情の潮が彼の心にみなぎりあふれ、魂を包んで苦しめていた暗闇は、一瞬にして輝かしい光明に照らし出された。彼はパーヴロフスク行きの切符をもとめて、堪えがたい焦躁の心持ちで早くそこへ行ってしまおうとあせった。が、あるものが彼を追究していたのはもちろんである。しかも、そのあるものは、一つの現実世界で、けっして幻想ではない。もっとも、彼は、幻想であると考えたかったのかもしれないけれど。
 汽車の中へ座を構えたとき、彼はにわかにたったいま買ったばかりの切符を床へたたきつけ、当惑したような沈みこんださまで、停車場を出た。幾分かたったのち彼は往来の上で、ふいに何事か思い出したようなそぶりをした。長いこと自分を苦しめていたある不思議なものを思いおこしたのだ、自分がいっしょうけんめいある仕事に没頭していることを、ふいにはっきりと意識したのだ。それはもうずっと以前から継続していたが、今この瞬間まですこしも気づかないでいたのだ。もう幾時間も前から、まだ『衡屋』にいるころから、いや、ことによったら『衡屋』へ行く前から、彼はともすれば自分の周囲に、あるものをさがしはじめたのであった。ときおり長く、半時間も忘れていることもあったが、やがてふたたび不安げにあたりを見まわして、なにやらさがしているのであった。
 しかし、自分の心内にだいぶまえから生じていながら、しかも今まですこしも自覚せずにいたこの病的な働きに気がつくやいなや、たちまちさらに一つの事柄が記憶の底からよみがえって、異常な興味をそそった。というのはほかでもない、彼が絶えまなく周囲を見まわして、なにやらさがし求めている自分に心づいたちょうどそのとき、彼はとある小店の窓に近い歩道に立って、そこに並べてある一つの品を一心にながめていたことを思いだしたのである。自分がたった今、わずか五分間ばかり前にこの店の窓ぎわに立っていたのは、はたして現実であったのか、ただの幻想ではなかろうか、なにか別のことといっしょにして考えているのではなかろうか、彼はどうしても今すぐに実否をただしたい気がした。ほんとうに、この店とこの品は、この世に存在しているのか?彼はきょう自分がことに病的な気持ちにとらえられているのを感じた。それは以前病気の激しかったとき、発作の襲おうとするまぎわによく経験したのと、ほとんど同じ気持ちであった。こうした発作のおこりそうなときの彼は、自分でも知 っていたが、おそろしくぼんやりしてしまって、よくよく注意を緊張させて見ないことには、人の顔やその他のものをいっしょくたにして、間違えることが多かった。
 けれども、はたして自分がそのとき、その店の前に立ったかどうか、じっさいのところを突きとめたいとあせったのには、特別な原因があった。店の飾り窓に並べてある商品の中に一つの品物があった。彼はそれを見つめて、銀貨で六十コペイカと値をふんだことさえ、ぼんやりした不安な状態に陥っていたにもかかわらず、よく覚えていた。もしこの店が真に存在していて、この一品がほかの品物といっしょに並べてあったとすれば、当然彼はただこの一品のためにのみ、ここへ足をとめたことになる。してみると、この一品は、彼が停車場を出たばかりで重苦しい惑乱を感じているときでさえ、その注意を向けさせるだけの強い力を持っているものといわねばならぬ。彼は悩ましげに右手のほうをながめながら歩みを運んだが、心臓は不安な、もどかしい気持ちにどきどきしていた。しかし、やがてその店が現われ、彼はついにそれを見つけ出したのだ! ここへ引っ返して見ようと思いついたとき、彼はまだ五百歩ばかりしか隔ててないところにいたのである。
 はたして、ここに六十コペイカの例の一品がある。『むろん、六十コペイカくらいのもんだ、それ以上の値うちはない!』と彼は腹の中で念を押すようにいって、笑いだした。しかし、その笑い声は妙にヒステリックであった。彼はひどく重苦しい気分になった。今こそはっきりと思い出される。さっきこの窓ぎわに立っているとき、彼は急にうしろを振り返って見た。ちょうどけさほど停車場で、ラゴージンの凝視を背中に感じたときと同じように。彼は思い違いでなかったことを確めると(もっとも、その前から確実に信じてはいたのだが)、この店をついと離れ、大急ぎで立ち去った。これらすべてのことはさっそく、ぜひとっくりと考えてみなければならぬ。あの停車場のことも幻覚ではない、なにかしらしっかりと現実に根ざしたものが彼の身におこったので、以前から彼を苦しめている不安の念も、かならずやこれと関連しているに違いない、これはもはや疑う余地のないほど明瞭になってきた。けれども、心内に巣くう堪えがたい嫌悪の情がまた力を増してきて、彼はなんにも考えたくなくなった。彼はこのことを考えるのはよして、まるっきり別なもの思いにふけりはじめた。
 さまざまなもの思いのうちに、彼はまたこういうことも思って見た、彼の癲癇に近い精神状態には一つの段階がある(ただし、それは意識のさめているときに発作がおこった場合のことである)。それは発作の来るほとんどすぐ前で、憂愁と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。生の直覚や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の問で、たちまち稲妻のごとくに過ぎてしまうのだ。そのあいだ、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に、忽然と溶けこんでしまうかのように思われる。しかし、この瞬聞、この光輝は、発作がはじまる最後の一秒こ秒である、けっしてそれより長くはない)の予感にすぎない。この一秒が堪えがたいものであった。彼はすでに健康なからだに返ってから、この最後の一瞬のことを回想して、よく自問自答するのであった。すなわち、この尊い自己直感、自己意識――つまり『尊い至純な生活』――の明光もひらめきも、要するに一種の病気であり、ノーマルな肉体組織の壊滅にすぎないのだ。とすれば、これはけっして尊い至純な生活どころではなく、かえって最も低劣な生活とならなければならぬ。こうも考えたけれど、彼はやはり最後には、きわめて逆説的な結論に達せざるをえなかった。『いったいこの感覚がなにかの病気ならどうしたというのだ?』彼はとうとうこんなふうに断定をくだした。『この感覚がアブノーマルな緊張であろうとなんであろうと、すこしもかまうことはない。もし結果そのものが、感覚のその一刹那が、健全なときに思い出して仔細に点検してみても、いぜんとして至純な諧調であり、美であって、しかも今まで聞くことは愚か、考えることさえなかったような充溢の中庸と和解し、至純な生の総和に合流しえたという、祈祷の心持ちに似た法悦境を与えてくれるならば、病的であろうとアブノーマルであろうと、すこしも問題にならない!』
 漠としたこの思想は、まだまだきわめて脆弱なものであったが、彼自身にはこのうえなく明瞭であった。とまれ、これが真に『美であり祈祷』であり、また至純なる生の総和であることについて、彼はつゆ疑うことができなかった、またそのような疑念をさし挟む余地がないように思われた。じっさいこれは、理性を腐蝕させ霊魂を賎劣にするハッシュ(麻薬の一種)や阿片や酒が原因となったアブノーマルな非実在的なある種の幻影が、夢のように彼を襲うたのとはわけが違う。これは病的な状態が終わったのちに健全な頭脳をもって、彼が判断しえたところである。つまり、こうした一刹那の感じは、自己意識の――もしそれを一語で言い表わす必要があるならば、自己意識であると同様に、最高の程度における直截端的な自己直観のI異常な緊張としかいいようがない。もしその一刹那に、つまり発作前、意識の残っている最後の瞬間に、『ああ、この一瞬間のためには一生涯を投げ出しても惜しくない!』とはっきり意識的にいういとまがあるとすれば、もちろん、この一刹那それ自体が全生涯に価するのである。
 もっとも、自分の議論の弁証法的方面には、彼もあまり力を入れようとしなかった。ただ心内の暗くにぶくなったような痴愚《イジオチズム》の感じが、この『至高なる刹那』の明白な結果として、彼の前に立ちふさがるのであった。むろん、彼とても、むきになってこんなことを人と議論などしないだろうが、しかし彼の結論には、つまりこの一刹那の評価には、疑いもなく誤謬があったに相違ない。が、やはりなんといっても、この感触の現実的なことはいくぶんかれを当惑させたのである。まったく現実に対してはなんとも仕方がないではないか? なんといっても、これはじっさいにあったことなのだ。なんといっても、彼はじっさいそうした一刹那に、『いま自分がはっきりと感じるかぎりなき幸福のためには、この一刹那を全生涯に代えてもいい』というだけの暇があったではないか。
 彼は一時モスクワで仲のよかったラゴージンに、こういったことがある。『この一刹那に、ぼくはあの時はもはやなかるべし[#「時はもはやなかるべし」に傍点]という警抜な言葉が、なんだかわかってくるような気がした』それから、ほほえみながらつけ足して、『あの癲癇もちのマホメットが引っくり返した水瓶から、まだ水の流れ出さぬさきに、すべてのアラーの神の棲家を見つくしたというが、おそらくこれがその瞬間なのだろう』もっとも、彼はモスクワではラゴージンとよく落ち合って、こればかりでなくいろいろな話をしたものである。
『さっきラゴージンは、あの当時ぼくを兄弟同様に思ってたといったが、きょうはじめて、ぼくにうち明けたんだな』と公爵は腹の中で考えた。
 彼がこんなことを考えていたのは、夏の園《レートニイ・サード》のとある木陰のベンチの上であった。もうかれこれ七時ごろで、公園はがらんとしていた。なにかしら暗欝な影がちらとつかのま落日のおもてをかすめた。空気は息苦しく、かすかに雷雨の襲来を知らせるような何ものかがあった。彼は今のこうした瞑想的な気分の中に、一種の快い誘惑を感じた。あらゆる外物に対し、回想や批判をもってからみついていったが、これがなんとなく好もしかった。彼はしじゅうなにかしら目前にさし迫ったほんとうのことを忘れたい気がしたが、ちょっとあたりを見まわすたびに、どうかしてもぎ放したいもぎ放したいと思っている暗い自分の想念を、すぐさま思い出すのであった。さきほど酒場で食事のときに、近ごろ非常にやかましい騒ぎになっているきわめて奇怪な殺人事件について、ボーイを相手に話したことを思い出したが、このことを思い出すやいなや、ふいに彼の心内に不思議な変化が現われてきた。 ほとんど一種の誘惑ともいうべき、激しいおさえがたいある欲望が、がぜんかれの意志を完全に麻痺さしたのである。彼はベンチを立ちあがり、公園からすぐにペテルブルグ区へ出かけた。さきほどネヴァ河の河岸通りでだれか通行人を捕まえて、ペテルブルグ区の見当を川越しに教えてくれと頼んだとき、その人はさっそく教えてくれた。が、彼はそのとき出かけて行かなかった。それに、どうしてもきょうゆかねばならぬ必要はないのだった。それは彼も自分でよく知っている。所書きはちゃんと持っているのだから、レーベジェフの親戚の女というのをさがし出すのは、きわめてたやすいことであったが、彼はその女が家にいないことを的確に信じていた。『きっとパーヴロフスクヘ行ったに相違ない。でなければ、コーリャも約束どおり「衡屋」に何か書き残しておくはずだ』こういうわけであるから、彼がいま出かけて行ってるのも、もちろんその女に会おうがためではなく、暗い悩ましい別の好奇心が彼をそそのかしていたのである。あるあらたな思いがけない観念が彼の頭に浮かんだのだ……
 しかし、自分が歩きだし、そして、どこへ向けて歩いてるかちゃんとわかっている、この自覚だけで彼を苦しめるのにはもう十分すぎるくらいであった。一分もたたぬうちに、ふたたび彼はほとんど自分の行く道に気づかず歩いていた。自分の『思いがけない想念』を吟味しているのが、にわかにいまわしく、とうていやりきれないような気がして来た。彼は苦しいほど張りきった注意を払って、目に映ずるすべてのものに見入った、空もながめた、ネヴァ河もながめた。ふと行きあった小さな子供に話しかけようともした。ことによったら、持病の癲癇の症状がしだいしだいにつのってゆくのかもしれぬ。雷雨は速度こそにぶいが、じじつ、近くなりまさってくるようである。もう遠雷の轟が聞こえはじめた。おそろしく息苦しくなってくる……
 よくばからしいほどあきあきした音楽の一節が、うるさく心に浮かんでくるように、なぜかさっき見たレーベジェフの甥の姿が、ひっきりなく思いおこされる。しかも、不思議なことには、あのときレーベジェフが甥を公爵に紹介しながら、自分の口から話して聞かせた人殺しの下手人の姿となって、この甥は公爵の記憶によみがえった。それに、この記憶を新聞で読んだのは、ごく最近のことであった。こうしたふうの話は、彼もロシヤヘ入ってからどれだけ読んだり聞いたりしたかしれぬ。彼は執念《しゅうね》くこういう種類のできごとに注意を払っていたのである。さきほどのボーイとの対話の中でも、彼はこのジェマーリンー家の殺人事件に異常な興味を示したものである。彼は、ボーイまでも自分の説に賛成してくれたことを思い出した。と、またつづいてボーイの姿をも思い出した。それは小利口そうなもったいぶった、用心ぶかそうな若者であった。『しかし、あれだってどんな人間だかわかりゃしない。新しい土地で、新しい人たちの心持ちを洞察するのはむずかしいものだから』と思った。とはいえ、彼はロシヤ人の魂を熱狂的に信じはじめたのである。ああ、彼はこの六か月のあいだに、自分にとってまったく新奇な、かつて聞いたこともないような、思いがけない、謎のような多くのできごとに接してきた! けれども、人の心は暗闇である。そして、ロシヤ人の心も同じく暗闇である。すくなくとも、多数のものにとって暗闇である。早い話がラゴージンだ。公爵は彼と親しくしている、ごくごく親しくしている、『兄弟同様』に親しくしている、――ところで、いったいかれはラゴージンを知っているだろうか? けれども、どうかするとすべてのものが渾沌として、でたらめで、醜陋をきわめることがある。それにあの先刻のレーベジェフの甥、なんといういまいましいにきび野郎だろう、あのすっかり納まり返っている様子が憎々しい。が、おれはぜんたいどうしたのだろう?(と公爵はとりとめのない妄想をつづけるのであった)なにもあの男が六人殺しの下手人というわけでもないのに、なんだかそれといっしょにして考えているようだ……なんて奇態なことだ! ああ、なんだか頭がぐらぐらする……ところで、レーベジェフの姉娘、あの赤ん坊を抱いて立っていた娘は、なんて思いやりの深そうなかわいい顔をしていることか。それに、あの子供らしい表情、子供らしい笑いかた! 今までこの顔のことを忘れていて、やっと今おもい出したのが不思議なくらいである。レーベジェフはこの子供らに地団太を踏んだりしながらも、やはり皆のものを尊敬しているらしい。しかし、二二が四というほど