ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『ドラえもん』の「stayhome」広告について その1

現在、「ドラえもんチャンネル」(以下、「チャンネル」)で大長編ドラえもんが公開されている(※1)ので、朝起きた時に「チャンネル」にいったら、以下の広告を見つけた。

朝日新聞にドラえもんからのメッセージを掲載! 世界のファンにも発信! - ドラえもんチャンネル
「のび太になろう。」 朝日新聞にのび太とドラえもんが登場! - ドラえもんチャンネル

かなり違和感があった。
調べてみたら、以下のような一行コメントがあった。

のび太になろう - Twitter Search
「のび太になろう。」STAY HOME呼びかけ広告に「励まされる」と反響 「いっしょうけんめいのんびりしよう」 - ねとらぼ

賛成できるものもあれば、賛成できないものもあった。
この広告については、「ドラえもん」と藤子不二雄コンビの歴史を調べている、しろうと歴史家(つまり”ただの人”)として、いくつか書いておくべきことがあると思うので、書いておくことにする。
以下の文章の責任は筆者にある。そのかわり、「ドラえもん」の個々の作品に踏み込んで評価するなど、賛否が分かれると予想されることもはっきり書く予定である。もちろん、そのときは、できるかぎり明確で論理的な説明をする。



一番目。問題が長期化する可能性をきちんと子どもに教えないことの罪。

みなさんがよく知っているとおり、2020年5月6日に緊急事態宣言は解除される予定だった。そして、ほとんどの人の予想どおり、緊急事態宣言は5月30日まで延長された。そして新聞やテレビのニュースをみるかぎり、終息宣言が出せる条件を日本政府はいまだはっきりと出せていない。コロナウイルスの性質がやっかいなことにも問題があり、日本政府の実力不足にも問題がある。
現在の日本列島に、政治に関心のある小学生(※2)が何人ぐらいいるのか、私は知らないが、あと数日か数週間だけ我慢すれば無事に外で遊べるようになる、と思っている子どもはとても少ないだろう。
そういうときに、問題が長期化する可能性をきちんと子どもに教えないことは、はっきりいえば、罪ではないだろうか?この広告の文章(特に2020年5月5日の広告)を見るかぎり、作り手がそのことを悩んだ形跡はない(※3)。そもそも、この広告はゴールデンウィーク中の自宅待機を呼びかける目的なのだから、4月末に発表したほうがよかったのではないか?

ドラえもん』という作品は、単なる空想力だけで構成されているのではない。明確に現実原則が貫徹されている。
現在まで続くテレビ朝日版のアニメ『ドラえもん』の第1作目、「ゆめの町、ノビタランド」のラストは、そのことを示している。
また、大長編『ドラえもん』も、結末にときどきご都合主義と思われる場面があるものの、ドラえもんたちの楽観がそのまま通用する、ということは決してない。そもそも、ドラえもん(登場人物のドラえもん)に限れば、楽観している場面は数えるほどしかないはずだ(※4)。
わたしは、アニメ『ドラえもん』については半分以上見ていないので、自信ある結論を示せない。しかし、マンガ『ドラえもん』について、明確に現実原則が貫徹されているということを示すことができる。少なくとも、ひみつ道具が、どんな問題でもらくに解決してくれるという幻想を読者にあたえる、というのは、明らかに誤解である(※5)。

明確に現実原則を貫徹させたマンガが、発表から50年たって、”どの本屋にも”おかれ続けている(※6)。あらためて考えれば、そのことにはそれなりの重みがあるはずである。
そのような作品の読者ならば、たとえ小学生であっても、「問題は最低1年、長期化する」と伝えても、致命的な問題はおきないのではないだろうか。
もしかしたら、このようにあれこれ考えること自体、小学生(子ども)に対して失礼なのかもしれないが。

長くなってしまった。
どこまで続けるかわからないが、最低あと1回やる。次は、「のび太」について。



※1 
コロコロコミック共同企画 大長編ドラえもん 5タイトル連続全編公開!!|ドラえもんチャンネル

※2 ここでは、「政治に関心のある」という意味を広げてとらえたい。たとえば、「外で遊べなくても、VRを使いまくってネット上で遊べば問題ないんじゃない?」という考えも、立派に政治の問題である。しかし、この問題は長くなるので省略する。
※3 特に、「今日はこどもの日。(略)でもね、今はおうちにいよう」。「今は」がいつまでか、ということを理解する手がかりはまったくない。
※4 たとえば、アニメ映画『のび太の恐竜』(1979年版)では、ラストに最後にある人たちがドラえもんたちのところにくるのだが、これはドラえもんたちにとってまったく予想外のことだった。この場面はご都合主義と解釈してもいいと思う。この作品はその点で魅力が損なわれるような、中途半端な構成にはなっていない。
※5 このような誤解をする人はもう少ないだろうが、念のため。注意深い読者ならば、このことにすぐ気がつく。たとえば、多才多芸な精神科医中井久夫氏も、このことを指摘している。ちなみに、『つながりの精神病理』収録のこの論考は、マンガ関係者ではない外部の論者による『ドラえもん』考察として、手に入れやすい論考の一つである。
中井久夫先生がみる、「ドラえもん」!! | 臨床心理士 金子泰之の「行き当たりバッチリ」日記

結局、この漫画が受け入れられているのは、子どもと大人の空想にぴったり適合しながら、現実離れをすっかりしない程度にたずなを引き締めている点にあるのだろう。

あまりにも多くの人たちに知られるようになった作品というのは、作中の重要な構成要素が見落とされることが珍しくない。わたしの単純な考えでは、『ピーナッツ(スヌーピー)』がその”人間が日々悩まされる運命にある、劣等感と優越感の闘争、それに対する数々のセリフ”が日本で愛読者以外にははきちんと意識されておらず、その点、『ドラえもん』はまだましな状況にある。
※6 わたしの知るかぎりでは、近所の大小の本屋4か所に、てんとう虫版『ドラえもん』は置いてある。この意味で、『ドラえもん』は3年年下の『ブラック・ジャック』をこえる偉業をうちたてたのかもしれない。ただし、大長編『ドラえもん』をおいている本屋は1カ所だけである。