ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『ドラえもん』の「stayhome」広告について その2

二番目、「野比のび太」は、昼寝ばかりしている子どもではない、ということ。

まず、基本的事実を確認しよう。50万部以上も売れた、てんとう虫版『ドラえもん 0巻』に収録された、6種類の第1回を読めば、すべての作品で、のび太は自分の家から外に出ている(※1)。友達にも会っている。作品を読めば、のび太は友達がいないわけでもないし、昼寝ばかりしているわけでもない。「外で遊ぶ 対 家で昼寝」という対立は、のび太についていえば成立しない。

「小学生向けのマンガなんだから、主人公がずっと家(部屋)にこもっていないのは当たり前」と言われれば、そのとおりである。しかし、該当作品はそんなに単純に分析できない。
ここで、清水正氏の分析を引用する(※2)。やや強引で賛成できない部分もあるが、重要な指摘がある。

 マンガの表層を見読する(マンガは絵を見、セリフを読む行為を同時的に行うので、これからはこの熟語を使うことにする)にとどまれば、のび太を異常な子供と見ることはなかろうが、このマンガを徹底的にリアリズムの観点から見れば、かなり精神的に危機的な状況に置かれていたということになる。白い広々とした床は清潔感や開放感を印象付けるが、同時に確固とした現実的地盤の喪失も感じさせる。のび太は白い床に、座布団を枕に寝そべっているというよりは、まるで雲ひとつ浮かんでいない虚無の空に浮かんでいると解することもできる。のび太はまさに密閉され限定された個室でのびている、と同時にすでに虚無の時空に浮遊した存在でもあったということになる。

「未来の国からはるばると」の冒頭の野比のび太は、現代的な言い方をすれば、「ぼっちになる手前」と解釈できる。
オバケのQ太郎』(1964年発表)の第1回では、大原正太(※3)は、少なくとも5人以上の友達と忍者ごっこをしていて、ふと1人になったときに、オバケのタマゴと出会う。
これにくらべると、たしかに第1回の野比のび太は、ずいぶん消極的に見える。念のため、「小学二年生」「小学三年生」の第1回を見ると、新年のパーティが描かれているが、そこでは確かに、のび太は孤立の危機に立たされている(※4)。
ここからわかることは、野比のび太は、単なるのんびり屋ではなく、また、満たされた心をもつ人間でもないということである。
のび太になろう」という文章は、他人を安心させる効果はまったくない。少なくとも、ドラえもんの代役を少しでもやれる”何か”がいない限りは。

ここで一つ、問題提起をしたい。
野比のび太という人間は、すぐれた空想力をもっていないのでは、とわたしは考えている。
少なくとも、1人だけですぐれた空想をつくることができるわけではない。
「未来の国からはるばると」を読み返すと、のび太の最初の発言は「のどかなお正月だなあ。今年はいいことがありそうだ。」となっている。具体的な何かではなく、「いいことがありそうだ」=「いいことがおきてほしい」ということである。
そして、ドラえもんひみつ道具を出すことができることがわかっても、第2話でも、「どんな道具があるの」という意味の発言をしない。考えてみれば、これはふしぎなことである。「オバケのQ太郎」で、Q太郎と大原正太が、八ミリで西部劇をつくったり、とうしゃ版をつかって新聞社をつくったりしているのとくらべると、すくなくとも最初のころは、野比のび太はあんまり想像力がないんじゃないか、と思えてくる。藤子・F・不二雄先生がどこまで考えていたか、よくわからないが、初期の個々の作品に即して論じれば、そうなると思う。


※1 『よいこ』版では、玄関までしか出ていないが。
※2 https://shimizumasashi.hatenablog.com/entry/20111201/1322747407
※3 それにしても、どこにでもありそうな名前だ
※4 「ぼくは、何をやるかなあ、よわったなあ。」(「小学二年生」版、P31)、「どうでもいいや。」(「小学三年生」版、P48)。孤立の危機、というのは大げさな表現ではない。少なくとも、この時点でののび太はそこまで無神経な人物ではない。
なるほど、『ドラえもん』が超有名になるのも納得である。