ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第八篇第三章 金鉱

   第三 金鉱

 それは、グルーシェンカがラキーチンに向って、さもさも恐ろしそうに話して聞かせたミーチャの来訪である。そのころ彼女は、例の『知らせ』を待っていたので、昨日も今日もミーチャが姿を見せないのを悦んで、どうか神様のお計らいで自分の出発まで来ないでくれるようにと望んでいた。ところへ、ふいに姿を現わしたのである。それから先はもうわかっている。彼女は男をまいてしまうために、さっそく自分をサムソノフの家まで送るように説き伏せた。『金の勘定』にぜひぜひ行かねばならぬ、といったふうに持ちかけたのである。ミーチャはすぐさま送って来たが、クジマーの門ぎわで別れる時、彼女は自分を家まで送り帰すために、十一時すぎに迎えに来るという約束を男にさせた。ミーチャはこの命令にも、やはり満足を感じた。『クジマーのところにいるといえば、つまり親父のところへは行かないのだ……もしあれが嘘をつかなかったら』と彼はすぐこうつけたした。しかし、彼の目には嘘をついたように思われなかった。
 つまり、彼はこういうふうな性質のやきもち焼きなのであった、――ほかではない、愛する女と別れている間は、留守ちゅう女の身にどういうことが起るだろうと案じたり、またどうかして女が自分に『背き』はしないだろうかなどと、恐ろしいことのありたけを考えつくした挙句、もうきっと背いているにちがいないと心底から思い込み、惑乱して死人のようになって女のところへ駆けつけるが、女の顔を、――愉快そうに笑っている優しい女を一目見るなり、もうさっそく元気を取り戻して、すべての疑いはどこへやら、嬉しいような恥しいような心持で、われとわが嫉妬を罵るのである。ミーチャも、グルーシェンカを送りとどけると、わが家をさして駆けだした。おお、彼は今日じゅうに仕遂げなければならぬことが、山ほどある! しかし、少くとも、心は重荷をおろしたように軽くなった。『ただ少しも早く[#「少しも早く」はママ]スメルジャコフを摑まえて、昨夜なにか変ったことがなかったか訊かなきゃならん。もしあれが親父のところへ行ったとすれば、それこそ大変だ、おお!』という考えが彼の頭にひらめいた。こういうありさまで、まだ自分の家まで走りつかぬうちに、またもや嫉妬の念が、休みなき彼の心に動きだしたのである。
 嫉妬! 『オセロは嫉妬ぶかくない、いや、かえって人を信じやすい』とはプーシュキンの言葉である。そして、この言葉一つだけでも、わが大詩人の異常なる洞察の深さが証明せられたものと言ってよい。オセロは単に心をめちゃめちゃに掻き乱され、全人生観を濁されたというにすぎない。なぜなれば、彼の理想が亡びたからである[#「彼の理想が亡びたからである」に傍点]。オセロは身をひそめて探偵したり、隙見をしたりなぞ決してしない。彼は人を信じやすい。それゆえ、彼に妻の不貞を悟らせるためには、非常な努力を費してつっ突いたり、後押ししたり、油をかけたりしなければならぬ。本当のやきもち焼きはそんなものでない。本当のやきもち焼きが何らの良心の呵責をも感ずることなく、どれくらい精神的堕落と汚辱のうちに安住し得るかは、想像さえも不可能である。しかも、それらすべての人が、陋劣、醜悪な魂の所有者であるかというに、決してそうでない。それどころか、かえって高潔な心情を具え、自己犠牲の精神に充ち、清浄な愛を『いだいた人が、同時にテーブルの下に隠れたり、卑屈きわまる人間を抱き込んだり、間諜や立聞きなどという醜悪な行為を、平然とすることができるのだ。
 オセロはいかなることがあろうとも、決して妥協し得なかったに相違ない。たとえ彼の心が幼児のごとく穏かで無邪気であろうとも、赦す赦さぬは別として、妥協することはできなかったろう。ところが、本当のやきもち焼きはまるで違う。ある種のやきもち焼きがどれくらいまで妥協し赦し得るかは、想像することも困難である。やきもち焼きは誰より最も早く赦すものである。それはすべての女が呑み込んでいる。やきもち焼きは非常に早く(もちろん、はじめ恐ろしい一幕を演じたあとで)、火のごとく明らかな不貞をも赦すことができる。みずから目撃した抱擁や接吻さえ赦すことができる。ただし、これは『最後の』出来事で、競争者は今からすぐ世界の果てへ去っていなくなってしまうとか、もしくはその恐ろしい競争者の来る気づかいのないところへ、自分で女を連れて逃げてしまう、といったようなことが考えられる場合の話である。
 もちろん、妥協の心が生ずるのはごく僅かな時間にすぎない。なぜと言うに、もしその競争者がほんとうに姿を隠してしまうにしても、すぐ翌る日は新しい別な競争者を拵えて、新しい競争者にやきもちを焼くからである。それほどまでに監視しなければならぬ愛に、どんな有難味があるのだろう? それほど一生懸命に見張らねばならぬ愛が、どんな価をもっているのだろう? とまあ、よそ目には思われるけれども、本当のやきもち焼きは決してそんなことを考えない。そのくせ、彼らの間にはまったく高潔な心情を有する人たちも、往々にして見受けられるものである。なおここに注意すべきは、高潔な心情を有するこれらの人々が、どこかの小部屋に立って盗み聞きしたり、探偵したりする一方、もちまえの『高潔なる心情』によって、われから好んで沈み込んだ汚辱の深さを明らかに了解してはいるくせに、少くも小部屋の中に佇んでいる間は、決して良心の呵責を感じないものである。
 ミーチャもグルーシェンカを見ると同時に、嫉妬の情はどこへやらけし飛んで、一瞬の間に信じやすい綺麗な心持になってしまった。そればかりか、むしろ自分で自分の汚い感情を卑しんだほどである。しかし、これも要するに次の実情を証明するにすぎない。ほかではない[#「ほかではない」はママ]、この女に対する彼の恋には、彼自身の考えているよりもはるかに高尚なあるものがふくまれているので、かつてアリョーシャに説いたような、『肉体の曲線美』や情欲ばかりではない。が、そのかわりグルーシェンカの姿が見えなくなると、ミーチャはすぐにまた、彼女が卑劣で狡猾な不貞の所業を犯しているのではないかと疑い始めた。良心の呵責などはこのとき少しも感じなかった。
 こうして、ふたたび嫉妬心が彼の心に沸き立ち始めた。何にしても急がなくてはならぬ。第一着手として、急場の間に合せに、ほんの少しばかりでも金を手に入れる必要がある。昨日の九ルーブリは旅行のために、ほとんどなくなってしまった。しかし、まるきり一文なしでは、むろん、手も足も出ない。けれど、彼はさっき馬車の上で、新しい計画とともに、急場の間に合せに金を拵える方法を、もうちゃんと工夫しといたのである。彼は優秀な決闘用のピストルを一対、薬莢つきで所持していた。今までこれを質にも入れずにいたのは、自分の所有品の中で、これを一ばん愛好していたからである。
 彼はもうずっと前から料理屋の『都』で、ある若い官吏とちょっとした近づきになっていたが、何かの機会に同じ料理屋で小耳に挾んだところによると、この若い裕福な官吏は熱心な武器の愛好者であり、ピストルや連発拳銃《レヴォルヴァ》や匕首を買い集めては、居間の四|壁《へき》にかけ並べ、知人に見せて自慢している、そしてピストルの構造や、装塡法や、発射法などを説明するのが、すこぶる得意だとのことであった。
 ミーチャは、長くも考えないで、すぐさまこの人のもとへ赴き、十ルーブリでピストルを質に取ってくれないかと申し込んだ。若い官吏は非常に悦んで、すっかり手放してしまわないかと勧めたが、ミーチャは承知しなかった。で、彼は利子なぞ決して取らないからといって、十ルーブリの金を渡した。二人は親友として別れた。ミーチャは急いだ。彼は少しも早く[#「少しも早く」はママ]スメルジャコフを呼び出そうと、フョードルの家の裏手にあたる例の四阿《あずまや》さして飛んで行った。こういうふうにして、またもや次のごとき事実が成立したのである。すなわち、これから筆者が物語ろうとしているある事件発生の三四時間まえに、ミーチャは一コペイカの金も所持していなかった。そして、自分の愛玩品を十ルーブリで質入れしたが、三時間の後には、幾千という金が彼の手に握られていた、――しかし、筆者はまた先廻りをしている。
 マリヤ(フョードルの隣家の娘)のところでは、スメルジャコフ発病の報知がミーチャを待ちもうけていて、非常に彼を驚かせ、かつ当惑さした。彼は穴蔵へ墜落の顚末から、医師の来診、フョードルの心づかいなどに関する物語を、すっかり聞きとった。弟のイヴァンがけさモスクワへ出発したということも、興味をもって聞いた。『きっとおれより先にヴォローヴィヤを通過したんだろう』とミーチャは考えた。とはいえ、スメルジャコフはひどく彼を心配さした[#「心配さした」はママ]。『これからどうしたらいいんだろう、誰が見張りをしてくれるんだろう。誰がおれに内通してくれるんだろう?』彼は親子のものに向って、ゆうべ何か気づいたことはないかと、貪るような調子で根掘り葉掘りして訊いてみた。こちらは、彼が何を訊きたがっているか、よくわかっていたので、決して誰も来はしなかった、ゆうべはイヴァンも泊ったことだしするから[#「ことだしするから」はママ]、『もう万事きちんとしておりました』と言って、彼の疑いを解いた。彼は考え込んだ。どうあっても、今日もやはり見張りをしなくてはならないが、どこにしたものだろう? ここにするか、それともサムソノフの門前にするか? 彼は臨機応変でどっちへも行かねばならぬと決心したが、しかし、今は、今は……というのは、ほかでもない。今はあの馬車の中で案出した『計画』、今度こそ間違いのない新しい計画が彼の目前に儼として控えているので、もはやその実行をゆるがせにするわけにゆかなかった。ミーチャはこのために、一時間だけ犠牲に供することとした。『一時間のうちに、すっかり解決して是非を見きわめ、それから、それからまず第一にサムソノフの家へ駆けつけて、グルーシェンカがいるかいないか調べてみる。そうして、またすぐにここへ引っ返し、十一時まで待っていよう。そのあとで、もう一度サムソノフのところへ行って、あれを家まで送り返すんだ』と、こう手はずを決めた。
 彼は家へ飛んで帰って、顔を洗い、頭を梳き上げ、服を浄め、着替えをすまして、ホフラコーヴァ夫人のもとへ赴いた。悲しいかな、彼の『計画』はここにあった。彼はこの婦人から三千ルーブリの金を借りようと決心したのである。何よりも注意すべきは、夫人が自分の乞いを拒まないだろうというなみなみならぬ確信が、ふいに咄嗟の間に生じたことである。もしそんな確信があったくらいなら、なぜ初めから自分と同じ社会に属するこの女のところへ来ないで、話すべき言葉にさえ迷うほど肌合いの違うサムソノフのとこなぞへ出かけたのだろう、こういう不審が起るかもしれないが、それにはわけがある。ほかでもないが、この一月ばかり、彼はホフラコーヴァ夫人とだいぶ疎遠になっているし、以前とてもあまり親しくしていたわけではない。その上、彼女自身ミーチャが大嫌いなのを、彼もよく承知していたからである。この婦人は最初からミーチャを憎んでいた。それもただ、ミーチャがカチェリーナの許嫁《いいなづけ》だからというまでのことである。彼女はカチェリーナがミーチャを棄てて、『古武士のように人格の完成した、ものごしの端正な優しいイヴァン』と結婚するのを、夢中になるほど望んでいた。ミーチャの『ものごし』などは、憎らしくてたまらなかったのである。ミーチャはミーチャで、夫人を冷笑していたので、ある時こんなことを言ったことがある。『あの婦人はなかなかさばけていて元気がいいが、しかしそれと同じくらいに無教育だよ。』
 ところが、今朝ほど馬車の中で一つの輝かしい想念が、彼の心を照らしたのである。『もしあの婦人がそれほどまでに、おれとカチェリーナの結婚を嫌っているならば(実際、あの婦人はヒステリイになりそうなほど嫌っているのだ)、今この三千ルーブリを拒絶するはずがない。なぜって、おれはこの金をもってカーチャを棄て、永久にここから逃げ出して行くんじゃないか。ああいうわがままな上流の婦人たちは、何か非常に気まぐれな望みを起すと、自分の望みどおりにするためには、どんなものだって惜しみはしない。それに、あの婦人は大した金持なんだからなあ』とミーチャは考えた。
 ところで、『計画』そのものはどうかというに、それは前と同じくチェルマーシニャに対する、自分の権利の提供であった。しかし、昨日サムソノフに対したような、商業上の目的を持ってはいなかった。つまり三千ルーブリの代りにその倍額、すなわち六七千ルーブリの利益を引き出すことができるなどといって、この婦人を誘惑しようとは思わなかった。ただ負債に対する正当な抵当にしよう、というだけのつもりであった。
 この新しい着想を展開させてゆくうちに、ミーチャは有頂天になってしまった。これは、事を始める時とか、何か急な決心をした場合などに、いつも彼の心に生ずる現象であった。彼はすべて自分の新しい思いつきに、熱情を傾けて没頭するのが常であった。それでも、ホフラコーヴァ夫人の家の階段に足をかけた時、背中に恐怖の悪寒を感じた、これこそ自分の最後の希望であって、もうこれから先は、世界じゅうに何一つ残っていない。もしこれが失敗に帰したら、『僅か三千ルーブリのために斬取り強盗をするよりほかはない……』ということを、この一瞬に初めて完全に、数学的に明瞭に自覚したのである。彼がベルを鳴らしたのは、もはや七時半であった[#「もはや七時半であった」はママ]。
 初めのうち、状況は彼に微笑を示すかのように思われた。彼が取次ぎを頼むやいなや、すぐさま恐ろしく急に案内してくれた。『まるでおれを待ってたようだ、』ちらとこんな考えが彼の頭をかすめた。つづいて彼が客間へ案内された時、ほとんど駆け込むように、女主人公が入って来て、本当に待ちかねていたと告げるのであった。
「待ちかねてました、待ちかねてました。まったくあなたが来て下さろうとは、わたしにとって思いもよらないことでしょう、ね、そうじゃありませんか。けれども、わたしはあなたを待っていましたの。わたしの直覚力に感心なすったでしょう。ドミートリイさん、わたし今日あなたがいらっしゃるに相違ないと、朝じゅう信じきっていましたの。」
「それはまったく不思議ですね、奥さん、」不器用に腰をおろしながら、ミーチャはこう言った。「しかし……僕は非常に重大な用件で伺ったのです。重大な中でも重大な用件で……しかし、奥さん、それは僕にとって、僕一人だけにとって重大なのです。しかも、火急を要する……」
「ええ、非常に重大な用件でいらしったのです、承知してます。それは予感などという問題じゃありません、保守的な奇蹟の要求でもありません(あなたゾシマ長老のことをご存じですか)。これは、これは数学の問題なんです。なぜって、カチェリーナさんにあんなことが起ったあとで、あなたがいらっしゃらないはずがないんですもの、ええ、はずがありません、はずがありません。それは数学的に明瞭です。」
「現実生活のレアリスムです、奥さん、これなんです! しかし、どうぞ一通り……」
「まったくレアリズムですの、ドミートリイさん。わたしは今すっかりレアリスムの味方です。わたし今まであんまり奇蹟などということを教え込まれていたものですから……あなたゾシマ長老のなくなられたことをご存じですか?」
「いや、今が聞き始めです、奥さん、」ミーチャはちょっと驚いた。彼の頭にはちらとアリョーシャの姿がひらめいた。
「けさ夜の明けないうちでした。それに、どうでしょう……」
「奥さん」とミーチャは遮った。「僕はいま自分が非常な絶望におちいって、もしあなたが助けて下さらなかったら、何もかもがらがらになってしまう、まず誰よりも自分がまっさきにがらがらになってしまう、ということだけしか考えられないのです。言い廻しの卑俗なのはお赦し下さい。僕は夢中なのです。熱病にかかってるのです……」
「知ってます、知ってます。あなたは熱病にかかってらっしゃるんです、わたし何でも知ってます。あなたはそれよりほかの心持になれないんですよ。あなたのおっしゃることは、何でも初めからわかっています。わたし前《ぜん》からあなたの運命を気にかけていましたの、ドミートリイさん、あなたの運命から目を放さないで研究していますの……ええ、まったくのところ、わたしは経験のある魂の医者ですからね。」
「奥さん、あなたが経験のある医者でしたら、僕はその代り経験のある患者です」とミーチャはやっとの思いでお愛想を言った。「もしあなたが僕の運命を研究して下さる以上、滅亡に瀕しているその運命を助けても下さるだろう、というような気がします。しかし、そのためには、僕の計画を一通り話さしていただきたいのです。実はその計画をお勧めしようと思って、大胆にもお宅へ伺ったようなわけなんです……それに、あなたから期待していることも聞いていただきたいので……僕が伺いましたのはね、奥さん……」
「話さないでおおきなさい、それは第二義にわたりますわ。わたしが人を助けるのは、あなたが初めてじゃありません。あなたはたぶんわたしの従妹のベリメーソヴァをご存じでしょう。あれのつれあいが破滅に瀕した時、――あなたの適切なお言葉を借りると、がらがらになりかけた時、どうしたとお思いになります? わたしが馬匹飼養を勧めてやったので、今では立派に栄えております。あなた馬匹飼養の観念を持ってらっしゃいますか、ドミートリイさん?」
「ちっとも持っていません、奥さん、――ええ、奥さん、ちっとも持っていません!」とミーチャは神経的にいらいらしながら叫んで、ちょっと席を立とうとした。「お願いですから、一通り聞いて下さい。たった二分間だけ自由な物語の時を与えて、まず最初に僕の来訪の目的たる計画を、すっかり話さして下さい。それに、僕は時間が必要なのです、非常に忙しいのです……」すぐにまた夫人が口を出しそうな気配を感じたので、相手を呶鳴り負かそうという意気ごみで、ミーチャはヒステリックにこう叫んだ。「僕は絶望のあまりにこちらへ伺ったのです……絶望のどん底に落ちてしまったので、奥さんから金を三千ルーブリだけ拝借しようと思って伺ったのです。しかし、奥さん、確実な、確実この上ない抵当があるのです。確実この上ない保証があるのです! お願いですから一通り……」
「そんなことはあなたあとで、あとで!」とホフラコーヴァ夫人も負けないで手を振った。「それにさきほども申したとおり、あなたのおっしゃることは、何でも前から知り抜いていますの。あなたは幾らかのお金がほしい、三千ルーブリのお金が入り用だとおっしゃいますが、わたしもっとたくさんさし上げます、数えきれないほどたくさんさし上げます。わたしあなたを助けて上げますわ、ドミートリイさん。けれど、わたしの言うことを聞いて下さらなくちゃなりませんよ!」
 ミーチャはまたもや椅子から跳りあがった。
「奥さん、本当にあなたはそんなにご親切なのでしょうか!」と彼は異常な感激をこめて叫んだ。「有難う、あなたは僕を救って下さいました。あなたは人間ひとりを不自然な死から、ピストルから救って下すったのです……僕は永久に感謝いたします……」
「わたし三千ルーブリよりかずっとたくさん、数えきれないほどたくさんさし上げます!」とホフラコーヴァ夫人は輝くような微笑を浮べて、ミーチャの歓喜を眺めながら叫んだ。
「数えきれないほど? しかし、そんなには必要がないのです。僕にとってなくてかなわぬのは、あの恐ろしい三千ルーブリです。そこで、僕のほうでも無限の感謝をもって、その金額に対する保証をするつもりでおります。ほかではありません、僕はある計画を提供したいと思います、それは……」
「たくさんですよ、ドミートリイさん、言った以上は必ずいたします。」われこそ慈善家だという無邪気な誇りをいだきながら、夫人は断ち切るような調子でこう言った。「わたしあなたをお助けすると言った以上、必ず助けてお目にかけます。わたしはベリメーソフと同じように、あなたもやはりお助けしますわ。あなた金鉱のことを何とお考えになります、ドミートリイさん?」
「金鉱ですって、奥さん! 僕そんなことは一度も考えたことがありません。」
「そのかわり、わたしがあなたに代って考えて上げました! 考えて考えて、考え抜きましたの! わたしもうまる一月の間、この目的をもって、あなたを観察しておりました。わたしは幾度も、あなたがそばを通りなさるところを見ましてね、ああ、この人こそ金鉱へ行くべき精力家だと、繰り返し繰り返し考えましたの。わたしはあなたの歩きっぷりを研究して、この人はきっとたくさんの金鉱を発見するに相違ないと決めました。」
「歩きっぷりでわかるんですか、奥さん?」ミーチャは微笑した。
「ええ、そりゃ歩きっぷりだってね。では、何ですの、ドミートリイさん、あなたは歩きっぷりで性格が知れるという意見を、否定なさるんですか? 自然科学でも、同じことを確認してるじゃありませんか。おお、わたしは現実派です。ドミートリイさん、わたしは今日から、――あの僧院の出来事のために心をめちゃめちゃに掻き乱されてから、すっかり現実派になってしまいました。わたしは実際的な事業に身を投じたいと思いますの、わたしの痼疾は癒されました。ツルゲーネフの言ったように、足れり!(ツルゲーネフの厭世的思想を盛った詩的散文『足れり!』を指す)ですわ!」
「しかし、奥さん、あなたが寛大にも僕に貸してやろうと約束なさいました、あの三千ルーブリは……」
「そりゃあなた大丈夫ですよ、ドミートリイさん」と夫人はすかさず遮った。「その三千ルーブリはあなたのかくしに入ってるも同然ですよ。しかも、三千ルーブリやそこいらでなくて、三百万ルーブリですよ。おまけにごく僅かな間ですよ! わたしあなたの理想をお教えしましょう。あなたは金鉱を捜し当てて、何百万というお金を儲けた上、こちらへ帰っていらっしゃるのです。そうして、立派な事業家になって、わたしたちを導いて下さるのです。善行へ向けて下さるのです。一たいすべての事業をユダヤ人まかせにしてよいものでしょうか? いえ、あなたはたくさんの建物を起して、いろいろな事業をお企てなさいます。貧民に助力をして、彼らの祝福を受けるようにおなんなさいます。現代は、鉄道の時代でございますからね、ドミートリイさん。あなたは世間に名を知られて、大蔵省になくてならない人物におなんなさいます。大蔵省はいま非常に人材を要求していますからねえ。わたしは露国紙幣の下落が苦になって、夜も寝られませんの、この方面からわたしを知っている人は、少うございますがね……」
「奥さん、奥さん!」一種不安な予感をいだきながら、ふたたびドミートリイは遮った。「僕は悦んで、心から悦んであなたのご忠告に、――分別あるご忠告にしたがうでしょう、――奥さん……僕は本当にそこへ……その金鉱へ出かけて行くでしょう……そのご相談にはまた一ど出直してまいります……いや、幾たびでもまいります。しかし今は、あなたが寛大にも僕に約束して下すったあの三千ルーブリを……ああ、それさえあれば僕は自由になれるのです、もしできるなら今日にも……つまり、その、僕はいま一時間も猶予ができないのです、まったく一時間も……」
「たくさんですよ、ドミートリイさん、たくさんですよ!」と夫人は執念く遮った。「問題はただ一つです。あなた金鉱へいらっしゃいますか、いらっしゃいませんか、十分なご決心がつきましたか、数学的なご返事を伺いましょう。」
「行きますよ、奥さん、あとで……僕はどこでもお望みのところへ行きます、奥さん……しかし今は……」
「ちょっと待って下さい!」と叫んで夫人は飛びあがり、たくさんな抽斗のついた、見事な事務テーブルへ駆け寄って、恐ろしくせかせかした様子で何やら捜しながら、一つ一つ抽斗を開け始めた。
『三千ルーブリ!』ミーチャは心臓のしびれるような心持でこう考えた。『しかも、今すぐ、何の書面も証文も書かないで……おお、これこそ実に紳士的態度だ! 見上げた婦人だ、ただあれほどお喋りでなかったらなあ……』
「これです!」と夫人はミーチャのところへ戻って来ながら、嬉しそうにこう叫んだ。「これですの、わたしが捜してたのは!」
 それは紐のついた小さい銀の聖像で、よく肌守りの十字架と一緒に体へつけるような種類のものであった。
「これはキーエフから来たものでしてね、」夫人はうやうやしげに語をついだ。「大苦行者聖ヴァルヴァーラの遺物なんですの。どうかわたし自身に、あなたのお頸へかけさして下さい。それで新しい生涯と新しい功績に向おうとする、あなたを祝福することになりますからね。」
 こう言って、夫人は本当にその聖像を頸にかけ、それをきちんと嵌めようとするのであった。ミーチャはすっかり面くらって体を前へ屈めながら、夫人の手伝いを始めた。やっとのことで、彼はネクタイとシャツの襟のあいだを通して聖像を胸へ下げた。
「さあ、これでいつでも出発できます!」得々たるさまでふたたびもとの席へ坐りながら、ホフラコーヴァ夫人はこう言った。
「奥さん、僕は実に嬉しくてたまりません……そのご親切に対して……何とお礼を言っていいかわからないほどです。しかし……ああ、いま僕にとってどれくらい時間が貴重なのか、それがおわかりになったらなあ!………いま僕が、あなたのあの寛大なお言葉に甘えて、こうして待ちかねているその金は……ああ、奥さん、あなたはそんなにご親切な方で、感謝の言葉もないほど寛大にして下さるのですから(ミーチャは感激のあまり突然こう叫んだ)、いっそもう打ち明けてしまいましょう……もっとも、あなたはとっくにご存じのことですが……僕はこの町に住むある者を愛しているのです……で、僕はカーチャに背きました……いや、僕はカチェリーナさんと言うつもりだったのです……ああ、僕はあのひとに対して、不人情で不正直でした。しかし、ここへ来て別な……一人の女を愛し始めたのです。あなたはその女を軽蔑しておいでかもしれません。なぜって、あなたはもう何でもご承知ですからね。しかし、僕はどうしても、どうしてもその女を棄てることができません。そのためにいま三千ルーブリの金が……」
「何もかも、棄てておしまいなさい、ドミートリイさん!」恐ろしく断乎たる調子で夫人は遮った。「棄てておしまいなさい、ことに女をね。あなたの目的は金鉱にあるのですから、そんなところへ女なぞ連れて行く必要はありません。後日あなたが富と名誉に包まれて帰っていらっしゃる時、あなたはご自分の心の友を上流社会に発見なさるでしょう。それは知識があって、偏見のない、現代的な令嬢です。いま頭を持ちあげはじめた婦人問題が、ちょうどその頃に成熟するでしょうから、新しい女も出て来るに相違ありません……」
「奥さん、それは別な話です、別な話です……」ミーチャは手を合せて拝まないばかりであった。
「いいえ、それなんですよ。あなたに必要なのはそれなんですよ。あなたがご自分でも意識しないで渇望してらっしゃるのは、つまりそれなんですよ。わたしだって、今の婦人問題にまるっきり縁がなくもないんですの、ドミートリイさん。婦人の発展につれて、最も近い将来に婦人が政治上の権力をも得る、というのがわたしの理想なんですの。わたし自身にも娘がありますからね、ドミートリイさん。ところが、この方面からわたしを知っている人はあまりありません。わたしはこの問題について文豪シチェドリン(サルトウィコフ、一八二六―八九年、有名な諷刺文学者)に手紙を送ったことがありますの。この文豪は婦人の使命について、実に実に多くのことを教示してくれたので、わたしは去年、二行の手紙を無名で送りました。それはね、『わが文豪よ、現代の婦人に代りて君を抱擁接吻す、なおつづけたまえ』というんですの。そして署名は、『母より』としました。『現代の母より』としようかとも思って、しばらく迷ったんですけれど、ただ母だけにしてしまいました。そのほうに精神的の美がより多くありますからね、ドミートリイさん。それに、『現代』という言葉が雑誌の『現代人』を思い出させます、これは今の検閲の点から見て、あの人たちには苦い記憶ですものねえ……あらまあ、あなたはどうなすったんですの?」
「奥さん、」とうとうミーチャは跳りあがって、力ない哀願を表するために、夫人の前に両の掌を合せた。「あなたは僕を泣きださせておしまいになります、奥さん。もしあなたがああして寛大にお約束なすったことを、いつまでものびのびになさいますと……」
「お泣きなさい、ドミートリイさん、お泣きなさい! それは美しい感情ですよ……あなたはこれから長い旅路にのぼる人ですからね! 涙はあなたの心を軽くしてくれます。後日お帰りになってから、お悦びなさる時がありますよ。本当にわたしと悦びを頒つために、わざわざシベリヤから駆けつけていただきとうございますね……」
「しかし、僕にも一こと言わせて下さい。」突然ミーチャは声を張り上げた。「最後にもう一度お願いします。どうか決答をお聞かせ下さい、一たいお約束の金額はきょういただけるのでしょうか? もしご都合がわるければ、いついただきにあがったらいいのでしょう?」
「金額と申しますと?」
「お約束の三千の金です……あなたがああして寛大に……」
「三千? それはルーブリですの? いいえ、ありません、わたしに三千のお金はありません。」妙に落ちつきすました驚きの調子で、ホフラコーヴァ夫人はこう言った。ミーチャは、全身しびれるような思いがした……
「どうしてあなた……たった今あなたが、その金は僕のかくしに入ってるも同じことだ、とおっしゃったじゃありませんか……」
「おお、違います、あなたはわたしの言葉を間違えて解釈なすったのです、ドミートリイさん。もしそんなことをおっしゃるなら、あなたはわたしを理解なさらなかったのですよ。わたしは鉱山のことを言ったんですの……まったくわたしは三千ルーブリよりずっとたくさん、数えきれないほどたくさんお約束しました、今すっかり思い出しました。けれども、あれはただ金鉱を頭において言ったことなんですの。」
「で、金は? 三千ルーブリは?」とミーチャは愚かしい調子で叫んだ。
「おお、もしあなたがお金というふうにおとりになったのでしたら、それはわたし持ち合せがありませんの、わたし今ちょうど少しも持ち合せがありませんの、ドミートリイさん。わたし今ちょうど支配人と喧嘩をしているところでしてね、わたし自身でさえ二三日前にミウーソフさんから、五百ルーブリ拝借したような始末ですの、ええ、ええ、本当にお金は持ち合せがありません。それにねえ、ドミートリイさん、よしんば持ち合せがあるにもせよ、わたしご用立てしなかったろうと思いますわ。第一、わたし誰にもご用立てしないんですの、お金を貸すってことは、つまり喧嘩をするということになりますからねえ、ことに、あなたにはよけいご用立てしたくないんですの、あなたを愛していればこそ、ご用立てしないのです、あなたを助けたいと思えばこそ、ご用立てしないのです。だって、あなたに必要なのは、ただ一つきりですもの、――鉱山です。鉱山です、鉱山です!………」
「ええ、こん畜生!………」ふいにミーチャは唸るようにこう言って、力まかせに拳固でテーブルを叩いた。
「あら、まあ!」とホフラコーヴァ夫人はびっくりして悲鳴を上げながら、客間の隅へ飛び退いた。
 ミーチャはぺっと唾を吐いて、足ばやに部屋を去り、家の外なる往来の暗闇へ飛び出した。彼は気ちがいのように自分の胸を叩きながら歩いた。それは二日前、最後にアリョーシャと暗い往来で出会った時、弟の前で叩いて見せたと同じ個所であった。胸のこの個所[#「この個所」に傍点]を叩くということが何を意味するか、またこの動作をもって何を示そうとしているか、――これは今のところ、世界じゅうで誰ひとり知るものもない秘密である。あの時、アリョーシャにすら打ち明けなかった秘密である。しかし、この秘密の中には、彼にとって汚辱以上のものがふくまれているのだ。もし三千ルーブリを手に入れて、カチェリーナに返済することによって、自分が良心の呵責を受けながら体に着けて歩いているこの汚辱を、胸の一個所から[#「一個所から」に傍点]取りはずさなかったら、たちまち破滅であり自殺であるようなものが、この秘密の中にふくまれているのだ。これは後になって十分読者に闡明されるであろう。とにかく、最後の望みの消え失せた今は、あれほど肉体的に強健であったこの男が、ホフラコーヴァ夫人の家を幾足も離れないうちに、とつぜん小さな子供のように、おいおいと泣きだしたのである。こうして彼は広場までやって来た。と、ふいに真正面から何ものかに突き当ったような気がした。それと同時に、誰やら小柄な、老婆らしいのが、金切り声を上げて喚いた。彼はこの老婆を危く突き倒すところであった。
「あれえ、あぶなく人を殺そうとしやがって! 何だって無鉄砲な歩き方をするんだい、乞食野郎!」
「おや、お前さんは?」暗闇の中に老婆の顔を見すかして、ミーチャはこう叫んだ。それは例のサムソノフの看病をしている老女中で、ミーチャは昨日よく目をとめて見たのである。
「まあ、あなたこそ思いがけない!」と老婆はまるで別人のような声で言った。「暗いものですから、どうも見分けがつきませんでね。」
「お前さんはクジマー・クジミッチの家に住み込んで、あの人の看病をしているんだね?」
「さようでございますよ、あなた、たった今プローホルイチのところへ用使いにまいりましてね……ですが、あなたは、やっぱり、どうもどなたやら思い出せませんが。」
「ちょっと訊きたいことがあるんだよ、お婆さん、アグラフェーナさんは今お前さんのところにいるかね?」もどかしさのあまりにわれを忘れて、ミーチャはこう言った。「さっきおれは自分であのひとを送って行ったんだが。」
「いらっしゃいましたよ、あなた。おいでになったと申しましても、ちょっと腰をおろしなすったきりで、すぐにお帰んなさいました。」
「何だって? 帰った?」とミーチャは叫んだ。「いつ帰ったんだ?」
「やはりあの時刻にお帰りになったのでございます。わたしどもにいらしったのは、ほんのちょっとの間でございますよ。旦那さまにちょいとした話をしてお笑わせになると、そのまま逃げ出しておしまいなさいました。」
「嘘をつけ、こん畜生!」とミーチャは呶鳴った。
「あーれまあ!」と老婆は喚いたが、もうミーチャは影も形も見えなかった。彼はまっしぐらにモローゾヴァの家をさして駆けだした。それはちょうどグルーシェンカが、モークロエヘ向けて出発した時刻で、まだ十五分とたっていなかった。フェーニャは、下働きをしている祖母のマトリョーナと台所に坐っていたが、とつぜん思いがけなく『大尉さん』が駆け込んだ。その姿が目に入ると、フェーニャは、あれえと叫んだ。
「喚くか?」とミーチャは呶鳴った。「あれはどこにいる?」
 しかし、恐ろしさのあまり気の遠くなったフェーニャが、まだ一ことも口をきかぬさきに、彼はいきなり、どうとその足もとにくず折れた。
「フェーニャ、後生だから教えてくれ。あのひとはどこにいるのだ?」
「旦那さま、わたしは何も存じません、ドミートリイさま、わたしは何も存じません。たとえ殺すとおっしゃっても、何も知らないのでございます」とフェーニャは一生懸命に誓った。「あなた、さっきご自分で、一緒にお出かけなすったじゃありませんか……」
「それからまた帰って来たのだ!………」
「いいえ、お帰りにはなりません、誓って申します、お帰りにはなりません!」
「嘘をつけ!」とミーチャは呶鳴った。「貴様のびっくりした顔つきを見ただけで、あれの在りかはちゃんとわかってる!……」
 彼はそのまま戸外《おもて》へ飛び出した。度胆を抜かれたフェーニャは、こんなにやすやすと欺きおおせたのを悦んだが、それはミーチャに暇がなかったためで、さもなくば自分も大変な目にあったのだということをよく承知していた。しかし、ミーチャは飛び出しながらも、ある思いがけない動作によって、ふたたびフェーニャとマトリョーナ婆さんを驚かした。ほかでもない、テーブルの上に銅製の臼があって、それに杵が添わっていた。それは長さ六寸ばかりの小さな銅の杵であった。ミーチャは駆け出しざま、片手で戸で開けながら、片手で臼から杵を引ったくって、脇のかくしへ押し込むと、そのまま姿を消したのである。
「あら大変だ、誰か殺す気なんだわ!」とフェーニャは両手を拍った。

(底本:『ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟上』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社