『カラマーゾフの兄弟』第九篇第五章 受難―三

[#3字下げ]第五 受難―三[#「第五 受難―三」は中見出し]

 ミーチャは気むずかしげに話し始めたが、しかし、自分の伝えようとしている事件を、ただの一カ所でも忘れたり言い落したりすまいと、前より一そう骨折っているらしかった。彼は塀を乗り越えて父の家の庭園へ入り込んだことや、窓のそばまで近よったことや、それから最後に、窓の下で演ぜられた出来事などを詳しく物語った。彼はグルーシェンカが父のところに来ているかどうか、一生懸命に知ろう知ろうとあせりながら、庭園の中でさまざまな感情に胸を波立たせたことを、明瞭に、確実に、さながら浮彫のように話して聞かせた。けれど、不思議にも、こんどは検事も予審判事も、何か妙に遠慮がちに耳を貸しながら、そっけなく彼を眺めていた。質問の度数さえずっと減ってしまった。ミーチャは彼らの顔色を見たばかりでは、何ともその心持を判ずることができなかった。『侮辱を感じて怒ってるんだろう』と彼は思った。
『ちぇっ、勝手にしやがれ!』とうとうグルーシェンカが来たという合図をして、父親に窓を開けさせようと決心したくだりを物語った時、検事と予審判事は『合図』という言葉に少しも注意を払わなかった。この言葉がこの場合どんな意味をもっているかが、全然わからないもののようであった。ミーチャさえもこれに気がついたほどである。最後に窓から顔を突き出した父親を見て、かっと憤怒の情が沸きたって、かくしから杵を取り出したその瞬間まで話を進めると、彼は急にわざとのように言葉を切った。彼はじっと坐ったまま壁のほうを見た。人々の目が食い入るように自分を見つめているのを彼は知っていた。
「で」と予審判事は言った。「あなたは兇器を取ったのですね……そ、それからどういうことになりましたね?」
「それからですか? それからぶち殺しましたよ……やつの額をがんとやって、頭蓋骨をぶち割った……とこうあなた方はお考えなのでしょう、そうでしょう!」彼の目は突然ぎらぎらと輝きだした。それまで消えていた憤怒の火は、急に異常な力をもって彼の胸に燃えあがった。
「私たちの考えはそうです。」ニコライは鸚鵡返しにこう言った。「で、あなたのお考えは?」
 ミーチャは目を伏せて、長いこと黙っていた。
「私はね、みなさん、私はこうしましたよ。」彼は静かに言い始めた。「誰かの涙の力でしょうか、死んだ母が神様に祈ったのでしょうか、あるいは天使がその瞬間、私に接吻したのでしょうか、――どういうわけだか知りませんが、とにかく悪魔が征服されたのです。私は窓のそばから飛びのいて、塀のほうへ駆け出しました……親父はびっくりしました。そして、その時はじめて私の顔を見分けて、あっと叫びながら窓のそばを飛びのきました……私はそれをよく憶えています。私は庭を横切って、塀のほうへ行きました……ところが、もう塀の上に昇ってしまった時、グリゴーリイが私に追いついたのです……」
 このとき彼はとうとう目を上げて聴き手を見た。聴き手は妙に冷静な注意をもって、彼を眺めているようであった。一種憤懣の痙攣がミーチャの心をさっと流れた。
「みなさん、あなた方はいま私を笑ってるんですね!」と彼は急に言葉を切った。
「どうしてそうお考えになるのです?」とニコライは言った。
「それはあなた方が、私の言葉を一ことも信用して下さらんからです、ええ、そうです! そりゃもう私にだってわかりますよ。私は一番だいじなところまで話してきたのです。老人は頭を割られて、今あそこに倒れています。ところが、私はどうでしょう――いよいよ殺そうという気で、杵を手にした悲劇的な光景を描きながら、急に窓のそばから逃げ出したなんて……叙事詩です! 詩になりそうなことです! 若造の言うことがそのまま信じられるものですか! はっ、はっ! みなさん、あなた方は皮肉やですねえ!」
 こう言って、彼は椅子に坐ったまま、くるりと体をねじって、そっぽを向いた。椅子がめきめきと音をたてた。
「だが、あなたは気がつかなかったですか?[#「気がつかなかったですか?」はママ]」検事はミーチャの興奮にまるで注意しないらしく、突然こう口を切った。「あなたは窓のそばから逃げだす時、離れの向う側にある庭に向いた戸が開いていたかどうか、気がつきませんでしたか?」
「いいえ、開いてはいなかったです。」
「開いていなかった?」
「むろんしまっていました。それに、誰が開けるもんですか? そうだ、戸はと[#「戸はと」はママ]、ちょっと待って下さい!」彼は急にわれに返ったようなふうで、ぶるぶると微かに身顫いした。「では、あなた方がごらんになった時、戸は開いてたんですね?」
「開いてました。」
「もしあなた方自身でないとすれば、一たい誰が開けたんだろう?」ミーチャは急に恐ろしく仰天した。
「戸は開いていました。あなたのご親父を殺したものは、疑いもなくこの戸から入ったのです。そして、兇行を演じてしまうと、またこの戸口から出て行ったに相違ありません。」検事はえぐるような調子で、そろそろと一語一語くぎりながら言った。「これはわれわれには明白です。兇行が演ぜられたのは確かに室内で、窓ごし[#「窓ごし」に傍点]ではありません。これは臨検の結果から見ても、また死体の位置やその他の事柄から見ても、十分明々白白です。この点には毫も疑いの余地がありません。」
 ミーチャは恐ろしく動顛してしまった。
「でも、みなさん、そんなはずはありませんよ!」と彼はすっかり度を失って叫んだ。「私は……私は入りません……私は確かに、私は正確に断言します。私が庭の中におった時も、庭から逃げ出した時も、戸は初めからしまいまで閉っていました。私はただ窓の下に立っていて、窓ごしに親父を見ただけです、ただそれだけです……私は最後の一瞬間まで憶えています。また、よしんば憶えていないまでも、ちゃんと、わかっています。なぜと言って、あの合図[#「合図」に傍点]を知っているものは、私とスメルジャコフと、そして亡くなった親父だけなのです。合図がなけりゃ、親父は世界じゅうのどんな人間が来たって、金輪際、戸を開けるこっちゃありません!」
「合図? その合図というのは何です?」検事は貪るような、ほとんどヒステリイに近い好奇心を現わしながら、こう言った。彼は慎重ないかめしい態度を一時になくしてしまった。彼はおずおずと匐い寄るように問いかけた。彼はまだ自分の知らない、重大な事実のあることを感じた。そして、またすぐ、ミーチャがその事実をすっかり打ち明けないかもしれぬ、という非常な恐怖をも感じたのである。
「じゃ、あなた方は知らなかったのですね!」とミーチャは嘲るような、にくにくしげな薄笑いを浮べながら、検事に向って目をぱちりとさせた。「もし私が言わなかったらどうします? 一たい誰から聞き出すことができるでしょう? 合図のことを知っているのは、亡くなった親父と、私と、それからスメルジャコフと、それっきりなんですよ。ああ、それからまだ天道さまも知っています。だが、天道さまはあなた方に教えてくれませんよ。なかなか面白い事実でしてね、これを基にしたら、どんな楼閣でも築き上げることができますよ。はっ、はっ! しかし、みなさんご安心なさい、打ち明けますよ。あなた方も馬鹿なことを考えて心配していますね。一たい私をどんな人間だと思っているんです! あなた方の相手にしていられる被告は、みずから自分のことを白状して、わが身を不利に落すような人間なんです! そうです。なぜと言って、私は名誉を護るナイトだからで。ところが、あなた方はそうじゃありません!」
 検事はさまざまな当てこすりを黙って聞いていた。彼はただ新しい事実が知りたさに、いらだたしげに身慄いしていた。ミーチャは、父がスメルジャコフのために案出した合図を、一つ残らず正確に詳しく話して聞かせた。彼は、窓をとんとんと叩く一つ一つの音が、どんな意味をもっているかを物語った。彼はこの合図をテーブルで叩き分けてまでみせた。また、彼ミーチャが老人の窓を叩いた時、『グルーシェンカが来た』という意味の合図をしたのか、と訊ねたニコライの問いに対して、彼は確かに『グルーシェンカが来た』という合図をしたのだと答えた。
「さあ、これであなた方は楼閣をお築きなさい!」と言ってミーチャは言葉を切り、また軽蔑するように一同から顔をそむけた。
「では、この合図を知っているものは、亡くなられたご親父と、あなたと、下男のスメルジャコフだけだったのですね? もうそれ以外にはありませんか?」も一度ニコライは念を押した。
「そうです、下男のスメルジャコフと、それから天道さまです。天道さまのことも書きつけて下さい。これを書きつけておくのも無駄ではないでしょう。それに、神様はあなた方ご自身にとっても必要なことがありますよ。」
 もちろん、さっそく書きつけにかかった。が、書記が書きつけている間に、検事は思いがけなく新しいことを思いついたように、突然こう言いだした。
「もしその合図をスメルジャコフが知っていたとして、そしてあなたがご親父の死に関する嫌疑を頭っから否定される場合には、約束の合図をしてご親父に戸を開けさせ、それから……兇行を演じたのは、そのスメルジャコフではありませんか?」
 ミーチャはふかい嘲笑のまなざしで、しかし同時に、恐ろしい憎悪の色をうかべながら検事を見た。彼は無言のまま長いこと見つめていたので、検事も目をしぱしぱさせはじめた[#「しぱしぱさせはじめた」はママ]。
「また狐を捕まえましたね!」ミーチャはとうとう口を切った。「また悪者の尻尾をひっ掴みましたね。へっ、へっ! 検事さん、あなたの肚の中はちゃんと見えすいていますよ! あなたは私がすぐに飛びあがって、いきなりあなたの助言にしがみつき、『ああ、それはスメルジャコフです、あれが犯人です!』と喉一ぱいの声で呶鳴るだろう、とこうお考えになったんでしょう。白状なさい、そう考えたんでしょう。白状なさい、でなけりゃ、先を話しませんよ。」
 けれど、検事は白状しなかった。彼は黙って待っていた。
「あなたのお考えは間違っています。私はスメルジャコフだなんて喚きませんよ!」とミーチャは言った。
「では、あの男を少しも疑わないのですか?」
「あなた方は疑っておいでですか?」
「あの男も疑いました。」
 ミーチャはじっと目を床の上に落した。
「冗談はさておいて」と彼は陰欝な調子で言いだした。「ねえ、みなさん、私は最初から、さっきあのカーテンの陰からあなた方のところへ駈け出した時から、もう『スメルジャコフだ!』という考えが私の頭にひらめいたんです。ここでテーブルのそばに腰をかけて、あの血を流したのは自分じゃないと叫びながらも、私は、『スメルジャコフだ』と考えていました。スメルジャコフは、私の心から離れなかったのです、今もまた突然『スメルジャコフだ』と考えました。が、それはほんの瞬間で、すぐそれと同時に、『いや、スメルジャコフではない!』と考えました。みなさん、あれはやつの仕事じゃありませんよ!」
「そうすると、ほかに誰かあなたの疑わしいと思う人物はありませんか?」とニコライは用心ぶかい調子で問いかけた。
「一たい誰なのか、どういう人物なのか、天の手か、それとも悪魔の手か、私には一切、わかりません。しかし……スメルジャコフではありません!」とミーチャはきっぱり断ち切るように言った。
「しかし、なぜあなたはそう頑固に、そして執拗に、あの男でないと断言されるのです?」
「信念です、印象です。なぜかと言えば、スメルジャコフはごく下司な人間で、そのうえ臆病者だからです。いや、臆病者ではありません、二本脚で歩く世界じゅうの臆病の塊です。あの男は牝鶏から生れたんです。私と話をする時でも、こっちが手を振り上げもしないのに、殺されはしないかと思って、いつもぶるぶる慄えています。あいつは私の脚もとで、四つん這いになって涙を流しながら、文字どおりに私のこの靴を接吻して、『嚇かさないで下さい』と言って哀願するのです。『嚇かさないで下さい』とはどうです、――何という言葉でしょう? ですが、私はあの男に金を恵んでやったくらいです。あいつは癲癇やみの薄馬鹿の、ひ弱い牡鶏です。八つの小僧っ子でもぶちのめすことができますよ。これがそもそも一人前の人間でしょうか? スメルジャコフじゃありませんよ、みなさん。それに、あいつは金をほしがらないんですからね。私が金をやっても取ったことはありません……第一、あいつが何のために親父を殺すんです? だって、あいつは親父の息子らしいんです、隠し子らしいんですよ。あなた方もご存じでしょう?」
「われわれもその昔話は聞きました。しかし、あなたもご親父の息子さんじゃありませんか。それにあなた自身みんなの前で、親父を殺してやると言われたじゃありませんか。」
「一つ探りを入れましたね! しかも、質の悪い下劣な探りです! 私はびくともしませんよ! ねえ、みなさん、私の目の前でそんなことを言うのは、あまり陋劣すぎるかもしれませんよ! なぜ陋劣かと言えば、私が自分からあなた方にそう言ったからです。私は殺そうと思ったばかりか、殺したかもしれないのです。おまけに、すんでのことで殺すところだったと、潔く自白しているじゃありませんか。しかし、私は親父を殺さなかった、私の守り神が私を救ったのです!………あなた方はこのことを考慮に入れなかったですね……だから、あなた方を陋劣だと言うんですよ。なぜって、私は殺さなかったからです、殺さなかったからです! わかりましたか、検事さん、殺さなかったんですよ!」
 彼はもう喘ぎ喘ぎ言っていた。彼がこんなに興奮したことは、長い審問中まだ一度もなかったのである。
「ところで、みなさん、あのスメルジャコフは、あなた方にどんなことを言いました?」彼はしばらく無言ののち、にわかにこう言って言葉を結んだ。「それを聞かせてもらえませんか?」
「どんなことでもお訊きになってかまわないですよ」と検事はひややかな、いかめしい態度で答えた。「事件の事実的方面に関したことならば、どんなことでもお訊き下さい。繰り返して申しますが、われわれはあなたからどんな問いを出されても、それに対して十分満足な答えをすべき義務があるのです。お訊ねの下男スメルジャコフを見つけた時、当人は立てつづけに十度も繰り返して襲ったかと思われる非常に烈しい癲癇の発作にかかって、意識を失ったまま病床に横たわっていました。一緒に臨検した医師は患者を診察すると、とても朝までもつまいとさえ言ったほどです。」
「ふむ、それじゃ親父を殺したのは悪魔だ!」と、ミーチャは思わず口走った。彼はその瞬間まで『スメルジャコフだろうか、それとも違うかしらん?』としきりに自問していたらしい。
「またあとで、もう一度この事実に戻ることとして」とニコライは決めた。「今はさきほどの陳述をつづけていただけないでしょうか。」
 ミーチャは休息を乞うた。検事側は慇懃にそれを許可した、一息いれると、彼はつづきを話しだしたが、よほど苦しそうであった。彼は精神上の苦痛と、屈辱と、動乱とを感じたのである。それに、検事も今はわざとのように、『瑣末な事柄』に拘泥して、絶えずミーチャをいらだたせはじめた。ミーチャが塀の上に馬乗りになって、自分の左脚に縋りついたグリゴーリイの頭を杵で撲りつけると、そのまますぐ倒れた老僕のほうへ飛びおりた、という話をするやいなや、検事は急にミーチャを押し止めて、塀の上に馬乗りになっていた時の様子を、もっと詳しく話してもらいたいと言った。ミーチャはびっくりして、
「なに、それはこういうふうに腰かけたんです、馬乗りに跨ったんです、一方の脚をあっちに、いま一方をこっちに……」
「で、杵は?」
「杵は手に持っていました。」
「かくしの中じゃなかったですか? あなたはそれを詳しく記憶していますか? どうです、あなたは強く手を振りましたか?」
「それはきっと強かったでしょうね、そんなことを何にするんです?」
「あなたがそのとき塀の上に腰かけたと同じように、一つその椅子に腰をかけて、どっちへどう手をお振りになったか、よくわかるように、手真似をして見せていただけませんか。」
「あなた方は、また私をからかっていられるんですね。」ミーチャは傲然と訊問者を見つめながら、こう訊いた。が、相手は瞬き一つしなかった。
 ミーチャは痙攣的にくるりと向きを変えて、椅子の上に馬乗りになって片手を振った。
「こういうふうに撲ったのです! こういうふうに殺したのです! それから、何が入り用です?」
「有難う。では、ご苦労でしょうが、も一つ説明していただけませんか、一たい何のために下へ飛びおりたんです、どういう目的があったのです、つまり、どういうつもりだったのです。」
「ちょっ、うるさい……倒れた者のそばへ飛びおりたのは……何のためだったかわかりません!」
「あれほど興奮していながらですか? 逃げ出していながらですか?」
「そうです、興奮していながらです、逃げ出しながらです。」
「では、あの男を助けようとでも思ったのですか?」
「助けるなんて……そうです、あるいは助けるためだったかもしれないが、よく記憶していません。」
「あなたは夢中だったのですか? つまり、一種の無意識状態だったのですか?」
「おお、どういたしまして、決して無意識状態におちいったのじゃありません。私はすっかり記憶しています。一糸乱れず、こまかいことまですっかり記憶しています。傷を見るために飛びおりたんです。そして、ハンカチであれの血を拭いてやりました。」
「われわれもあなたのハンカチを見ました。では、あなたは倒れた者を蘇生させてやりたいと思ったのですね。」
「そんなことを思ったかどうか知りません。ただ生きているかどうかを確かめたかったのです。」
「ははあ、確かめたかったのですか? で、どうでした?」
「私は医者ではないから、どっちかわからなかったです。で、殺したんだと思って逃げ出しました。ところが、あれは蘇生したんです。」
「結構です」と検事は訊問を結んだ。「有難う。ただそれだけが聞きたかったのです。さあ、ご苦労ですが、その先をつづけて下さい。」
 哀れにも、ミーチャは憐愍の心から飛びおりて、死せる老僕のそばに立ちながら、『運の悪いところへ爺さんが来あわしたもんだ。しかし、どうも仕方がない。そのままそこに臥てるがいい』というような、哀れな言葉さえ発したのを記憶していながら、それを話そうなどという考えは、てんで浮ばなかった。ところが、検事はただ次の結論を引き出したばかりである。この男が『あんな瞬間にあんなに興奮していながら』、わざわざ飛びおりたのは、自分の犯罪の唯一[#「唯一」に傍点]の証人が生きているかどうか、正確に突きとめるためにすぎなかった。あんな場合でさえこうであるから、この男の力と決断と冷静と思考力とは量るべからざるものがある……云々、云々。彼は『病的な人間を「些細な事柄」でいらだたせ、知らず識らず口をすべらせた』ことに得意を感じていた。
 ミーチャは苦痛をいだきながら語りつづけた。が、すぐに今後は[#「すぐに今後は」はママ]ニコライがまた彼を押し止めた。
「あなたはあんなに手を血みどろにしたうえ、またあとで話を聞けば、顔にまで血をつけて、よく下女のフェーニャのところへ駈け込まれたものですね?」
「でも、その時は、自分が血みどろになってることに気がつかなかったんです!」とミーチャは答えた。
「それはまったくそうだろう。そういうことはよくあるものです」と言い、検事はニコライと目くばせした。
「まったく気がつかなかったのです。検事さん、あなたはうまく言いましたね」と、ミーチャも急に同意した。やがて進んで『自分が道を譲って』『幸福な二人を見のがそう』と咄嗟の間に決心したことを物語った。しかし、もう彼はどうしてもさっきのように、ふたたび自分の心中をさらけ出して『心の女王』のことを話すことができなかった。彼は『南京虫のように自分に食い込んでいる』この冷酷な人たちの前で、そんなことを話すのがたまらなくいやだった。で、繰り返し訊かれる問いに対しても、ごく手短かにぶっきら棒な調子で答えた。
「それで、自殺をしようと決心しました。何のために生き残る必要があるのだ? という問いが、ひとりでに頭に浮びました。女のもとの恋人、争う余地のないもとの恋人が来たのです、女をだました男ではあるけれど、五年たった今日、正式の結婚で罪ほろぼしをしようとして、愛を捧げにやって来たのです、私は自分にとって万事おわったことを知りました……しかも、うしろには汚辱が控えています。例の血なんです、グリゴーリイの血なんです……どうして生きていられましょう? で、抵当に入れておいたピストルを、受け出しに行ったのです。それに弾丸《たま》を填めて、夜の引き明け頃に自分の頭を撃ちぬくつもりで……」
「しかし、その夜は飲めや騒げの大酒もりですか?」
「その夜は大酒もりです。ええ、くそっ、みなさん、いい加減に切り上げて下さい。確かに自殺しようと思ったんです。すぐその近くでね。朝の五時には、自分で自分の始末をつけるつもりだったので、かくしには書置きまで用意しておきました。ペルホーチンのところで、弾丸を填めた時に書いたんです。その書置きはこれです。読んでみて下さい。しかし、あなた方のために話しているんじゃありませんよ?」
 彼はさげすむように突然こうつけたした。彼は自分のチョッキのかくしから遺書を取り出し、テーブルの上へ投げだした。審問官たちは好奇の念をいだきながら読みくだし、例のごとく一件書類の中へさし加えた。
「では、ペルホーチン君のところへ行った時にも、やはり手を洗おうと思わなかったのですか? つまり、嫌疑を恐れなかったのですね。」
「嫌疑とは何です? 疑われようが疑われまいが、どっちにしたって同じことです。私がここへ駈けつけて、五時にどんとやってしまえば、誰も何ともしようがないじゃありませんか。もし親父の事件がなかったら、あなた方は何もご存じあるまいし、したがって、ここへもおいでにならなかったはずですからね。ああ、これは悪魔のしわざです、悪魔が親父を殺したんです。あなたの方も悪魔のおかげで、こんなにはやく知ったんです! よくもこんなにはやく来られたものですね? 不思議だ、夢のようだ!」
「ペルホーチン君の伝えたところによると、あなたはあの人のところへはいって行ったとき、手に……血みどろになった手に……あなたの金を……大枚の金を……百ルーブリ札の束を持っておられたそうですね。これはあの人のところに使われている小僧も見たそうです。」
「そうです、みなさん、そうだったようです。」
「すると、そこに一つの不審が起ってくるのです。聞かせていただけましょうかね」とニコライはきわめてもの柔かに言い始めた。「一たいあなたはどこからそれほどの金を、とつぜん手にお入れになったのです? 事実からみても、時間の勘定からみても、あなたは家へも寄らなかったじゃありませんか。」
 検事はこの露骨な質問にちょっと顔をしかめたが、べつにニコライの言葉を遮ろうともしなかった。
「そうです、うちへは寄りません」とミーチャは落ちつきはらったような調子で答えたが、目は下のほうを向いていた。
「そういうわけでしたら、どうかもう一ど質問を繰り返させて下さい」とニコライは、おずおず匐い寄りでもするように問いをつづけた。「一たいどこからあれほどの大金を一時に手に入れたのです? だって、あなた自身の自白によると、同じ日の五時頃には……」
「十ルーブリの金に困って、ピストルをペルホーチンのところへ質入れするし、それからまた、ホフラコーヴァ夫人のところへ三千ルーブリの金を借りに行って、まんまと断わられたとか、何とかかとか、くだらないことを並べるんでしょう。」ミーチャは烈しく相手の言葉を遮った。「みなさん、こういう工合で、困ったのは事実です。その時ひょっこり、何千ルーブリという金ができたんです。どうですね? しかし、こうなると、みなさん、あなた方はお二人とも、もしその金の出どころを言わなかったらと思って、びくびくしておいでですね。いや、そのとおりです、言やしません。みなさん、図星ですよ、決して言やしません。」ミーチャはなみなみならぬ決心を示しながら、いきなり断ち切るようにこう言った。
 審問官たちはしばらく黙っていた。
「しかし、カラマーゾフさん、われわれはぜひとも、それを知らなければならないんですがね」とニコライは静かに、つつましやかに言った。
「それはわかっています。が、言いません。」
 すると、検事も口を出して、ふたたび注意した、――審問を受ける者は、そのほうが自分にとって有利だと思ったら、むろん審問に答えないでもよろしい、しかし、そういう場合、被疑者はその沈黙のために、とんでもない損失を受けないものでもない。ことに、これほど重要な審問の場合にはなおさらである、しかもその重要の程度たるや……
「かくかくにしてかくかくなりでしょう。もうたくさんです、そんな説法は前にも聞きましたよ!」とミーチャはふたたび遮った。「それがどんなに重大事だかってことは、私も承知しています、それが最も根本的な要点だ、ということも承知しています、が、やはり言いません。」
「それはわれわれには何の痛痒もありません。これはわれわれのことではなくって、あなたのことなんですよ。あなたが自分で自分を傷つけるばかりですよ」とニコライは神経的に注意した。
「みなさん、冗談はさておいてですね、」ミーチャは目を上げて、きっと二人を見つめた。「私はもう初めっから、われわれがこの点で鉢合せすることを感じていたのです。しかし、最初陳述をはじめた時には、まだ遠い霧の中にあったので、すべてがぼうとしていました。で、私は単純に『われわれ相互の信用』を提議してかかったような次第です。ところが、今になって、そういう信用のあるべきはずがないことを悟りました。なぜって、われわれはどうせ一度、このいまいましい塀にぶっ突からなけりゃならないからです! そして、とうとうぶっ突かったのです! 駄目です、万事休すです! しかし、私はあなた方を責めません。あなた方も口先だけで私を信ずるわけにはいかないでしょう。それはよくわかっています。」
 彼は暗然として口をつぐんだ。
「では、重大な点を語るまいというあなたの決心と抵触しないで、しかもそれと同時にですね、これほど危険な陳述に際しても、なおあなたに沈黙を守らせる、この強い動機が何であるかということを、ちょっとでも仄めかしていただくわけにはゆかないものでしょうか?」
 ミーチャは沈んだ、妙に考えぶかそうな微笑をうかべた。
「みなさん、私はあなた方が考えておられるより、ずっと人がいいんですよ。だから、沈黙のわけを話しましょう。ちょっと仄めかしてあげましょう。もっとも、あなた方にそんな価値はないんですがね。みなさん、私が沈黙するのは、私にとって汚辱だからです。どこからあの金を持って来たかという訊問に対する答えの中には、よしんば私が親父を殺して彼のものを強奪したとしても、その殺人や強盗などさえ比較にならんほど、重大な問題がふくまれているのです。だから、言えないのです。汚辱のために言えないのです。みなさん、これも書きつけますか。」
「書きつけますよ」とニコライはへどもどしたように呟いた。
「でも、あれは、『汚辱』のことは、書きつけないのが至当でしょう。私がこれを白状したのは、ただ人のいいためです、白状しないでもよかったのです。つまり、あなた方に進呈したのです。それに、あなた方はすぐさま一々書きつけなさる。いや、まあ、お書きなさい、どうとも存分にお書きなさい。」彼は軽蔑するように気むずかしげな調子で言葉を結んだ。「私はあなた方を恐れやしません……あなた方に対して誇りを感じています。」
「では、その汚辱というのは、どんな種類のものか、一つ話していただけませんか?」ニコライはまごつき気味で、こう言った。
 検事は恐ろしく顔をしかめた。
「駄目です、駄目です、C'est fini([#割り注]もうそれきりです[#割り注終わり])を折るだけ損ですよ。それに、穢らわしい思いをする価値はありません。もういい加減あなた方を相手にして、穢らわしい思いをしたんですから。あなた方は聞く資格がないんです、あなた方にかぎらず誰ひとり……みなさん、もうたくさんです、もう、打ち切ります。」
 その語調は思いきって断乎としていた。ニコライはしいて訊くことをやめた。しかし、イッポリートの目つきで、彼がまだ望みを失わずにいることを、すぐに見てとった。
「では、せめてこれだけでも聞かして下さい。あなたがペルホーチン氏のところへ行った時、あなたの手にどのくらいの金額があったのです、つまり、幾ルーブリあったのです?」
「それをお話しすることはできません。」
「あなたはペルホーチン君に、ホフラコーヴァ夫人から三千ルーブリ借りて来た、とかおっしゃったそうじゃありませんか?」
「たぶんそう言ったでしょう。だが、みなさん、もうたくさんですよ、もう決して言いませんよ。」
「そういうことなら、ご面倒でしょうが、あなたがここへいらっしゃる時の様子と、ここへ来てからなすったことを、残らず話して下さいませんか?」
「ああ、そのことならここの人たちに訊いて下さい。しかし、私が話してもいいです。」
 彼は物語った。けれど、筆者《わたし》はもうその物語をここで繰り返すまい。彼はそっけない調子でざっと話した。が、自分の恋の歓喜については、一ことも話さなかった。しかし、自殺しようという決心が、『ある新しい事実のために』消え失せたことだけは話した。彼は動機の説明やデテールを避けながら物語ったのである。しかし、予審判事も今度はあまり彼を苦しめなかった。この場合、彼らにとって重大な問題は、こんなところに存するのではないことは明らかであった。
「それはすっかりよく調べてみましょう。どうせ、証人喚問の時に、もう一度その問題に戻らなけりゃならないんですから。証人の喚問はむろん、あなたの面前で執行することにします」と言い、ニコライは審問を終えた。「ところで、もう一つあなたにお願いがあるのです。どうかこのテーブルの上へ、あなたの身についている品物、ことにいま持っていられる金を、残らず出して下さいませんか。」
「金ですって? さあさあ、私もよくわかっていますよ、それは必要なことでしょう。もっと早く言いだされなかったのが不思議なくらいですよ。もっとも、私はどこへも行かずに、ちゃんとお目の前に控えていましたがね、さあ、これが金です、わたしの金です。さあ、数えて下さい。手に取ってごらんなさい、これでみんなだと思います。」
 彼は方々のかくしから、はした金まですっかり出してしまった。チョッキの脇についているかくしからも、二十コペイカの銀貨を二枚出した。数えてみると、八百三十六ルーブリ四十コペイカあった。
「これでみんなですか?」と予審判事は訊いた。
「みんなです。」
「あなたはたったいま陳述のとき、プロートニコフの店に三百ルーブリおいて来た、と言われたじゃありませんか。ペルホーチンに十ルーブリかえし、馭者に二十ルーブリやり、カルタで二百ルーブリまけて、それから……」
 ニコライは何から何まで数え上げた。ミーチャは自分から進んで手つだった。いろいろ考えて、一コペイカも落さないように計算の中に加えた。ニコライはざっと締めをしてみた。
「してみると、この八百ルーブリを加えて、都合千五百ルーブリばかり初めに持っていられたのですね?」
「そうなるわけですな」とミーチャは断ち切るように言った。
「しかし、誰も彼もが、ずっと多かったと言ってるのは、どういうわけでしょう。」
「勝手に言わせておけばいいじゃありませんか。」
「しかし、あなた自分でも、そう言われたじゃありませんか。」
「私自身もそう言いました。」
「それでは、まだ訊問しないほかの人たちの証明によって、もう一ど取り調べることにしましょう。あなたの金のことについては心配ご無用です。あの金は保管すべきところに保管しておきます。そして、もしあなたがあの金に対して確たる権利をもっておられることがわかれば、と言うよりも、その、証明されれば、一切の……事件が終ったあとで、あなたのご自由にまかせます。そこでと、今度は……」
 ニコライはふいに立ちあがった、そして、『あなたの衣類とその他一切の品物』に対して、精密な検査を行う『必要があるのです、義務ですから仕方がありません』ときっぱり宣言した。
「どうか検査して下さい。みなさん、お望みとあれば、かくしを残らずびっくり返しましょう。」
 実際、彼はかくしを裹がえしにかかった。
「着物を脱いでもらわねばなりません。」
「何です? 着物を脱げ? ちぇっ、ばかばかしい! このまま捜して下さい。それじゃいけないんですか?」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、どうしてもそういうわけにゆきません。着物を脱いで下さい。」
「じゃあ、ご勝手に、」ミーチャは暗然としてしたがった。「しかし、ここでなく、カーテンの陰にして下さい。どなたがお調べになるのですか?」
「むろん、カーテンの陰です」と、ニコライは同意のしるしに頷いた。彼の顔は特殊なものものしさをあらわしていた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社