ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第七章 ミーチャの大秘密――一笑に付さる

   第七 ミーチャの大秘密――一笑に付さる

「みなさん。」彼はやはり以前と同じ興奮のていで言い始めた。「あの金は……私はすっかり白状しましょう……あの金は私のものでした。」
 検事と予審判事の顔は長く延びた。彼らもこういうことはまったく予期しなかったのである。
「どういうわけであなたのです[#「どういうわけであなたのです」はママ]」とニコライは呟いた。「まだその日の五時には、あなた自身の申し立てによると……」
「ええっ、その日の五時も、私自身の申し立ても、くそをくらえだ。そんなことは、今の問題じゃありません。あの金は私のものです、私のものです、いや、私の盗んだ金です……私のではありません、つまり、盗んだ金です、私が盗んだ金です、それは千五百ルーブリありました。それを私は体から離さずに持っていたのです、絶えず肌身はなさずに……」
「しかし、あなたはどこからその金を取って来たのです?」
「頸からです、みなさん、頭から取ったんです、これ、この私の頸から……あの金はここにあったのです。私の頸にあったのです。きれの中に縫いこんで、頸にかけていたのです。もうとっくから、もう一カ月も前から、私は恥と汚辱を忍んで、あの金を頸にかけていたのです!」
「しかし、あなたは誰の金を……着服したのです?」
「あなたは『盗んだのか?』と言いたかったでしょう。もう率直に言って下さい。実際、私はあの金を盗んだのも同然だと思っています。が、もしお望みとあれば、実際『着服した』のです。しかし、私の考えでは、盗んだのですと言ったほうがよさそうです。ところが、昨夜はもうすっかり盗んでしまいました。」
「昨夜? しかし、あなたはたった今、あれを手に入れたのは一カ月前だと言われたじゃありませんか!」
「でも、親父のところから盗み出したのじゃありません、親父の金じゃないです。心配しないで下さい、親父のところから盗ったのではなくって、あのひとのものです。どうか口を入れないで、すっかり話させて下さい。まったく私は苦しいんだから。じつは一カ月前、私の許嫁であったカチェリーナ・イヴァーノヴナ・ヴェルホーフツェヴァが私を呼んだのです……あなた方はあの婦人をご存じですか?」
「知っていますとも、むろんです。」
「ご存じだろうと思いました。あのひとは実に潔白な婦人なのです。潔白な人間の中でもかくべつ潔白な婦人ですが、もうとうから私を憎んでいます。そうです、とうからです、とうからです……しかし、憎むのはもっともです、もっともなんです!」
「カチェリーナ・イヴァーノヴナが?」と予審判事はびっくりして問い返した。
 検事も同様おそろしく目を見据えた。
「ああ、あのひとの名をみだりに呼ばないで下さい! 私があのひとを引き合いに出したのは、卑劣な行為です。しかし、私はあのひとが私を憎んでいることを知りました……とっくに、そもそもの初まりから、あっちにいる時、私の下宿へ来た時から……いや、もう言いますまい、あなた方はこんなことを知る値うちがありません、これはまるで必要のないことです……ただお話ししなければならんのは、一カ月前にあのひとが私を呼び寄せて、三千ルーブリの金を渡し、それをモスクワにいる自分の姉と、それからもう一人の親戚の女に送ってくれと言ったことです。(まるで自分では送れないかなんぞのように?)ところが、私は……それがちょうど私の一生に一転期を画する時と、私が初めてほかの「女」を恋した時なのです。それはあの女です、今の女です、いま下にいるグルーシェンカです……その時、私はあれをこのモークロエヘ引っ張って来て、ここで二日間にあのいまいましい三千ルーブリの半分、つまり千五百ルーブリを撒きちらし、残りの半分を残しておいていたのです。この千五百ルーブリを私は守り袋の代りに頸へかけて、始終もち歩いていましたが、昨日とうとう封を切って使ったのです。ニコライ・パルフェノヴィッチ、今あなたの手にある八百ルーブリは、そのつりです、昨日の千五百ルーブリのつりです。」
「失礼ですが、あなたがあの時、一カ月前に、ここで使ったのは三千ルーブリで、千五百ルーブリじゃないでしょう、それは誰でも知っています。一たいどういうわけなんです?」
「誰がそんなことを知ってるんです? 誰が一たい勘定したのです? 私が一たい誰に勘定させました?」
「冗談じゃありませんよ。あの時ちょうど三千ルーブリ使ったとみんなに言ったのは、あなた自身じゃありませんか。」
「そうです、言いました、町じゅうのものに言いました。町じゅうのものもそう言いました。みんなそう思っていました。このモークロエでも、やはりみんな三千ルーブリと思っていました。しかし、それでもやはり、私の使ったのは三千ルーブリじゃなくって、千五百ルーブリです。そして残りの千五百ルーブリは、袋の中に縫い込んだのです。こういうわけなんですよ、みなさん、昨日の金の出所はこういうところにあったんですよ……」
「それはほとんど奇蹟だ……」とニコライは呂律の廻らない調子で言った。
「じゃ、失礼ですが、一つお訊ねしましょう、」とうとう検事がこう言いだした。「あなたは以前このことを……つまり、その千五百ルーブリ残っているということを、その当時、一カ月まえ誰かに言いましたか?」
「誰にも言いません。」
「それは不思議ですね。一たいあなたはまるっきり誰にも言わなかったのですか?」
「まるっきり、誰にも言いません、断じて誰にも言いません。」
「しかし、なぜそんなに黙っていたのです? どういうわけであなたはそんなことを、そんなに秘密あつかいにしていたのです? もっと正確に説明しますと、あなたは結局、われわれに自分の秘密を打ち明けたじゃありませんか。その秘密は、あなたの言葉によると、非常に『恥ずべき』ものだそうですが、そのじつ(むろん、相対的の話ですよ)、この行為は、すなわち人の金を三千ルーブリ着服した、それもただ一時着服したという行為は、私の見解から言うと、少くとも、ただひどく無分別な行為というにすぎません。のみならず、あなたの性格を考慮に入れるときは、決してそれほど恥ずべき行為ではありません……むろん、非難すべき行為である、ということには私も同意しますが、非難すべき行為というだけで、それほど恥ずべき行為じゃありません……つまり、私のとくに言おうとするところは、あなたが使ったあの三千ルーブリの金が、ヴェルホーフツェヴァ嬢から出ていることは、もうこの一月の間に多くのものが察していましたから、あなたの申し立てのないうちに、私もその物語を聞いていた、とこういう点なのです……例えば、ミハイル・マカーロヴィッチなどもやはり聞いておられます。ですから、しまいにはもうほとんど物語ではなくなって、町じゅうの噂話になったくらいです。それに、あなた自身(もし私の思い違いでないとすれば)このことを、つまりこの金がヴェルホーフツェヴァ嬢から出たということを、誰かに打ち明けた形跡がありますよ……ですから、あなたが今まで、つまりこの瞬間まで、あなたのいわゆる『取りのけておかれた』この千五百ルーブリを、非常な秘密として扱っていられたのみならず、その秘密に一種の恐怖さえ結びつけておられるのは、実に驚くのほかありません[#「驚くのほかありません」はママ]……そんな秘密の告白が、あなたにこれほどの苦痛を与え得るとは、どうしても本当にできません……なぜと言って、あなたは今、これを白状するよりも、いっそ懲役に行ったほうがいい、とまで絶叫したじゃありませんか……」
 検事は口をつぐんだ。彼はひどく興奮していた。彼はほとんど憎悪に近い自分の不満を隠そうともせず、語句の修飾などには心もとめず、連絡もなしに、ほとんどたどたどしい言葉づかいで、胸にたまっていることを残らず言ってしまったのである。
「しかし、恥辱は千五百ルーブリにあるのじゃなくって、その千五百ルーブリを、三千ルーブリから別にした点にあるのです。」ミーチャはきっぱりとこう言った。
「けれど、それがどうしたのです?」と検事はいらだたしそうに、にたりとした。「すでにあなたが非難すべき方法で(しかし、お望みとあれば、恥ずべき方法と言いましょう)、恥ずべき方法で着服した三千ルーブリから、自分の考えで半分だけ別にしたということに、どうして恥ずべき点があるのです? 重大な問題は、あなたが三千ルーブリを着服されたことであって、その処置のいかんではありません。ついでだから訊きますが、あなたはなぜあんなふうな処置をしたのです[#「あんなふうな処置をしたのです」はママ]。つまり、あの半分を別にしたのです? 何のために、どういう目的であなたはそんなことをしたのです? それを説明していただけませんか。」
「ああ、みなさん、その目的に、すべてがふくまれてるんです!」とミーチャは叫んだ。「卑劣な動機から別にしたのです、つまり、打算です。なぜならこの場合、打算は卑劣と同じですからね……しかも、まる一カ月この卑劣な行為がつづいていたのです!」
「わかりませんね。」
「驚きますなあ。しかし、も一ど説明しましょう。あるいは実際わからないかもしれませんからね。それはこうなんです。私は、自分の潔白を見込んで委託された三千ルーブリを着服して、使ってしまいました、すっかり使いはたしました。そして、翌朝、あのひとのところへ行って、『カーチャ、悪いことをした、わしはお前の三千ルーブリを使ってしまったのだ』と言ったらどうでしょう、いいことでしょうか? いや、よくはありません、――不正なことです、浅はかなことです、獣です、獣同然になるまで自分を押えることのできない人間です、そうじゃありませんか、そうじゃありませんか? しかし、それにしても、盗人じゃありますまい? 本当の盗人じゃない、本当の盗人じゃないでしょう、そうじゃありませんか! 使いはしたけれど、盗みはしませんからね! ところが、ここに第二の方法、もっとうまい方法があります、よく聞いて下さい。でないと、また変なことを言いだすかもしれませんから、――何だか頭がぐらぐらするんです。そこかでもない、ここで三千ルーブリの中から千五百ルーブリ、つまり半分だけ使うんです。そして、翌る日あのひとのところへ行って、あとの半分をさし出しながら、『さあ、カーチャ、このわしから、ならず者から、無分別な横着者から、この半金を受け取っておくれ。わしは半分つかってしまったんだ。いずれこの半分も使ってしまうだろうから、君子は危きに近よらずだ!』とこう言うのです。どうです。こういう場合は? 獣とでも、横着者とでも、何とでも言って下さい。しかし、泥棒じゃありません、腹の底までの泥棒じゃありません。なぜと言って、もし泥棒なら半分のつりを返しに持って行かないで、自分のものにしてしまうでしょう。ところが、私は半分もって行ったから、あとの半分、つまり使いはたした金も持って来るだろう、一生涯その金を求めて働いて、できたら持って来て返すだろうと、そうあのひとは思います。こういうわけで、私は横着者ではありますが、決して泥棒じゃありません、泥棒じゃありません、何と言われてもかまいませんが、ただ、泥棒というわけにはゆきません!」
「まあ、かりにいくらか相違はあるとしても」と検事は冷やかに、にたりと笑った。「それでも、あなたがそこに、それほど根本的な相違を認められるのは、奇妙ですね。」
「いや、それほど根本的な相違を認めますとも。卑劣漢には誰でもなることができます、あるいは誰でもみんな卑劣漢かもしれません。しかし、泥棒には誰でもなるというわけにゆきません、ただ図抜けた卑劣漢だけです。しかし、私はこんな微妙な相違を、うまく説明することができません……が、とにかく、泥棒は卑劣漢よりもっと卑劣です。これが私の信念なんです。いいですか、私はまる一カ月間、その金を持ち歩いていました、明日にもそれを思いきって返すことができます。そうなれば、私はもう卑劣漢じゃありません。ところが、決行できなかったんです。毎日決心しながら、――毎日『決行しろ、早く決行しろ、この卑劣漢』と言って、自分で自分をうしろから突くようにしながら、もうまる一カ月のあいだ、決行ができなかったのです。どうでしょう、いいことでしょうか、あなた方のご意見では、これがいいことでしょうか?」
「まあ、かりにあまりよくないことだとしても、とにかく、その心持は十分理解することができます。それについては私も異存ありません」と検事は控え目に答えた。「ですが、とにかく、そういう微妙な相違に関する議論は、すっかり抜きにして、またもとの用件に戻ってはどうでしょう。その用件というのは、ほかでもありません、なぜあなたは最初あの三千ルーブリを別にしたのです、つまり、なぜ半分使って半分かくしておいたのです? さっきお訊ねしたけれど、まだ説明してもらいませんでしたね。一たいなぜ隠したのです。一たいあの残った千五百ルーブリを何に使うつもりだったのです? ドミートリイ・フョードロヴィッチ、私はあくまでそれを聞きたいのです。」
「ああ、本当にそうだ!」とミーチャは自分の額を叩いてこう叫んだ。「赦して下さい。私はあなた方を苦しめるだけで、要点を説明しなかったっけ。でなかったら、あなた方もすぐに悟ってしまわれたでしょうになあ。なぜと言って、目的の中に、この目的の中に汚辱があるからです! ねえ、考えてごらんなさい、あの老人が、亡くなった親父が、しょっちゅうアグラフェーナをぐらつかせていました。それが私の嫉妬の種なんです。あの女はおれにしようか、あいつにしようか、と迷っているんだろう、こうその当時考えたもんです。しかし、またこんな考えも毎日浮んできました、もし急にあれが肚を決めたらどうしよう? おれを苦しめるのにも飽きがきて、『わたしはあなたを愛しているのよ。あの人じゃないわ、さあ、わたしを世界の果てへ連れてってちょうだい。』などとだしぬけに言いだしたらどうしよう、とこう思ったわけです。私は二十コペイカ玉をたった二枚きりきゃ持ってないんですからね、どうして連れ出すことができましょう。その時はどうにも仕方がない、――もう破滅だ。その時わたしはあの女を知らなかったもんですから、理解していなかったもんですから、あれはきっと金がほしいにちがいないから、おれの貧乏に愛想をつかすだろうと考えました。そこで私は横着にも、三千ルーブリの中から半分だけ別にして、それを平然として針で縫い込んだのです。あてにするところがあって、縫い込んだのです。まだ遊興に出かけない前に縫い込んだのです。それから、縫い込んだあとで、残りの半分を持って遊興に出かけたんです。いや、実に陋劣だ! さあ、これでおわかりになったでしょう?」
 検事は大声に笑った。予審判事もやはり笑いだした。
「私の考えでは、あなたが自己を抑制して残らず使ってしまわなかったということは、かえって賢いやり方でもあり、また道徳的にも結構なことだと思いますね」と言って、ニコライはひひと笑った。「なぜと言って、べつにどうということはないんですものね。」
「ところが、盗んだということがあります。そうですよ! ああ、私はあなた方の無理解がそら恐ろしくなります! 私は、袋に縫い込んだ千五百ルーブリの金を懐中しているあいだ、しじゅう、毎日、毎時、自分に向って、『貴様は泥棒だぞ、貴様は盗んだんだぞ!』と言いつづけていました。それがために、私はこの一カ月というもの、乱暴なことばかりしたんです、それがために料理屋でも喧嘩をしました、それがために親父も殴りました。つまり、自分は泥棒だという気がしたからです! 私は弟のアリョーシャにさえ、この千五百ルーブリのことを打ち明ける勇気もなければ、決心もつかなかったのです。それほど私は自分を卑劣漢で、詐欺師だと感じていました。しかし、お断わりしておきますが、私は金を肌につけて持って歩きながらも、それと同時に、毎日、毎時、自分で自分に向って、『待てよ、ドミートリイ、お前はまだ盗人じゃないかもしれんぞ』とこう言いつづけました。なぜでしょう? ほかでもありません、自分は明日にもカーチャのところへ行って、この千五百ルーブリを返すことができると思ったからです。ところが、きのうフェーニャのところから、ペルホーチンの家へ行く途中、はじめてこの袋を頸から引きちぎろうと決心しました。その時までは、どうしても決心がつかなかったんですが、いよいよ引きちぎったその瞬間、もう一生涯とり返しのつかない、弁解の余地のない立派な泥棒になったのです、泥棒でしかも破廉恥な人間になったのです。なぜでしょう? それは私が袋を引きちぎると同時に、カーチャのところへ行って、『わしは卑劣漢だが、泥棒ではないよ』と言おうと思った自分の空想をも、袋と一緒に引きちぎってしまったからです! もうわかったでしょう、え、おわかりでしょう?」
「なぜあなたは、ゆうべにかぎって、そんな決心をなすったのです?」とニコライは口を入れた。
「なぜですって? おかしなお訊ねですね。なぜと言って、私は朝の五時、夜の引き明けにここで死のうと、自分で自分に宣告したからです。『卑劣漢だろうが、高潔な人間だろうが、死ぬのに変りがあるものか!』と考えたからです。ところが、そうじゃなかった、どうでもよくないことがわかったのです! あなた方は本当になさらんかもしれませんが、ゆうべ何よりも私を苦しめたのは、私が年よりの下男を殺したため、シベリヤへ行かなくちゃならない(しかも、それは自分の恋がかなって、ふたたび天国が眼前にひらけた時ですからねえ!)というような危惧の念ではありません。むろん、これも苦しめるには苦しめました。が、それほどじゃなかったです。『自分はとうとうあのいまいましい金を胸から引きちぎって、すっかりそれを撒き散らしてしまったから、もう今では立派な盗人になりはてたんだ!』という、このいまわしい意識ほど烈しくはありませんでした。おお、みなさん、本当に心底から繰り返して言いますが、私はあの一晩にいろいろなことを知りましたよ! 人間は卑劣漢として生きてゆけないばかりか、卑劣漢として死ぬこともできないものだ、それを私は悟りました……そうです、みなさん、死ぬのも潔白に死ななけりゃなりません!………」
 ミーチャは真っ蒼になっていた。彼は極端に熱していたが、その顔には疲労と苦痛の色が現われていた。
「あなたの心持は次第にわかってきました、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事はもの柔かな、ほとんど同情するような調子で、言葉じりを引いた。「しかし、それはみんな、あなたはどうお考えか知らないが、私の考えでは、神経にすぎないと思いますね……病的な神経、確かにそうですよ。例えばですね、ほとんど一カ月にわたるそんな烈しい苦痛をのがれるために、なぜ依頼者たるその婦人のところへ行って、千五百ルーブリの金を返さなかったのです? そして、あなたの境遇は、あなたご自身のお話によると、非常に恐ろしいものだったんですから、どうしてそのご婦人とよく相談の上で、誰の頭にも自然と浮んでくる方法を、講じてはみなかったのです? つまり、そのご婦人の前に、潔く自分の過失を打ち明けたあとで、自分の出費に要する金を借りることが、どうしてできなかったのです? 寛大な心を持ったそのご婦人は、あなたの困窮を知ったなら、むろんあなたの要求をこばみはしなかったでしょう。ことに証文を入れるとか、あるいはやむを得ない場合には、商人サムソノフやホフラコーヴァ夫人に提供されたような抵当を入れるとかしたら、なお大丈夫だったはずですよ。実際あなたは今でもその抵当を、値うちのあるものと思っていられるんでしょう?」
 ミーチャは急に真っ赤になった。
「じゃ、あなたはそれほどまで私を卑劣漢と思っていられるんですか! まさかそんなことを真面目でおっしゃるんじゃありますまい!」彼は検事の目をひたと見つめながら、いかにも相手の言葉が信じられないといったような、不満らしい調子でこう言った。
「めっそうもない、真面目ですと……どうしてあなたは真面目でないなどとお思いですか?」今度は検事のほうがびっくりした。
「ええ、それは何とも言いようのない陋劣な話です! みなさん、自分ではおわかりになりますまいが、あなた方は私を苦しめていられるんですよ! どうかすっかり言わせて下さい。私はいま自分の極道さ加減をきれいに白状してしまいます。しかし、それは、あなた方に恥を知らせるためですよ。人間の感情のコンビネーションが、どれくらいまで陋劣になり得るかを知ったら、あなた方もびっくりされるでしょう。実はね、検事さん、私もあなたがいま言われた方法を、自分で講じたことがあるんですよ。そうです、みなさん、私もこの呪うべき一カ月の間、そういう考えをいだいていました、で、もうほとんどカーチャのところへ出かけよう、とまで決心していたくらいです。私はそれほど陋劣になっていました。しかし、あれのところへ行って、自分の心変りを打ち明けたうえ、この心変りのために、この心変りを実行するために、将来この心変りに要する費用のために、あの女に、カーチャに金を無心して(無心するんです、いいですか、無心するんですよ!)そして、すぐほかの女と一緒に、あれの競争者と一緒に、あれを憎みあれを侮辱した女と一緒に駈落ちするなんて、――そんなことができるものですか。あなたは気がどうかしていますよ、検事さん!」
「どうかしているかいないか、それは別として、しかし私はつい夢中になって、ろくに考えもしないで言ったんですよ……まったくそうした女性の嫉妬については、もしあなたの言われるとおり、そこにじっさい嫉妬があったとすれば……そうです、そこには何かそれに類したものがあるでしょう……」と言って、検事はにたりと笑った。
「しかし、それは実に穢らわしいことです。」ミーチャは勢い猛に拳でテーブルを叩いた。「それはもう何と言っていいかわからないほど、悪臭芬々たる行為です! そうでしょう、あれはその金を私にくれたでしょう。ええ、くれたでしょう、確かにくれたでしょう。わたしに対する復讐のために、復讐を楽しむ心持のために、私に対する軽蔑を示すために、くれたでしょう。なぜと言って、あれもやはり偉大なる怒りに充ちた、兇悪な女ですからなあ! 私はその金をもらったでしょう。ええ、もらったでしょう、もらったに違いありません。しかし、その時は一生涯……ああ、実に! 失礼しました、みなさん、私がこんなに呶鳴るのは、私がもうずっと前から、一昨日あたりから、自分でもそういう考えを持っていたからです。それはちょうど、私が猟犬《レガーヴィ》を相手にして騒いだ夜です。それから昨日、そうです、きのうも一日そうでした。私は憶えていますが、ちょうどこの事件が起るまで……」
「どんな事件です?」ニコライは好奇に充ちた調子で口を挿んだ。が、ミーチャはそれをよく聞き取ろうとしなかった。
「私はあなた方に恐ろしい告白をしました」と彼は沈んだ様子で言葉を結んだ。「みなさん、だから、その自白を評価して下さい。いや、そればかりじゃたりません、評価するばかりじゃたりません、評価するというよりは、むしろ尊重して下さい。もし尊重して下さらなければ、もしこの言葉さえあなた方の心を動かさないとすれば、つまり、それは私をまったく尊敬していない証拠だと、こうあなた方に断言します。私はあなた方のような人に自白したのが恥しい。私はむしろ死にたいくらいです! ええ、自殺します! しかし、私にはわかります、よくわかります、あなた方は私の言うことを、本当にしてはおられないんです! やっ、あなた方はこれまで書きとめようというんですか?」彼はもう本当にぎょっとしてこう叫んだ。
「しかし、今あなたはこんなことを言いましたね。」ニコライはびっくりして彼を見つめた。「ほかでもありませんが、あなたは最後の瞬間まで、ヴェルホーフツェヴァ嬢のところへ行って、その金を借りるつもりであった、と言われましたね……実際のところ、これはわれわれにとって非常に重大な申し立てですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、つまり、その、事件ぜんたいに関してですな……ことにあなたにとって、ことにあなたにとって重大な申し立てです。」
「冗談じゃありませんよ、みなさん」とミーチャは思わず手を拍った。「せめてそれだけは書かないで下さい。恥を知るもんですよ! 私はいわば、自分の心をあなた方の前で真っ二つに割って見せたんです。ところが、あなた方はこの機に乗じて、その割れ目を指でほじくり廻すんです……ああ、何ということだ!」
 彼は絶望のあまり、両手で顔を蔽うた。
「そんなに心配なさらなくってもいいですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事は言った。「いま書きとめたことは、あとですっかりあなたにお聞かせしますから、もし不服な点があったら、あなたのお言葉どおりに訂正します。が、今わたしは一つ繰り返してお訊きしたいことがあります、これでもう三度目なんです。あなたがこの金を袋の中へ縫い込んだことを、あなたから聞いたものは一人もないのですか? 本当に誰ひとりもないのですか? 私はあえて言いますが、それはほとんど想像できないことですよ。」
「誰も聞きません、誰も聞かない、と言ったじゃありませんか。あなた方は何もわかっていないのです! もううるさく訊かないで下さい。」
「それではどうぞご随意に。が、このことはぜひ闡明しなけりゃならないんです。それに、このさきまだ時日はいくらでもありますからね。しかし、まあ考えてごらんなさい、三千ルーブリの金を使ったということは、あなたが自分で吹聴して廻ったんですよ。のみならず、あなたは到るところでそのことを、大っぴらにわめき散らしたじゃありませんか。証拠は何十といってあります。あなたが言われたのは三千ルーブリで、千五百ルーブリじゃありません。それに今度も、きのう金が出て来たとき、また三千ルーブリもって来たと、やはり大勢の人に言われたじゃありませんか……」
「何十どころじゃありません、何百という証拠があなた方の手に握られています。証拠は二百もあります、聞いた者は二百人もあります、いや、千くらい聞いたでしょう!」とミーチャは叫んだ。
「ね、そうでしょう。誰も彼もみんな証明しています。してみれば、みんな[#「みんな」に傍点]という言葉は、何かの意味を持っているはずですよ。」
「何の意味もありませんよ。私がでたらめを言ったら、みんなが私のあとについて、でたらめを言うようになったんです。」
「しかし、あなたは何のために(あなたの言葉を借りると)、でたらめ[#「でたらめ」に傍点]を言わなければならなかったのです?」
「そんなこと誰が知るもんですか。自慢のためかもしれませんね……ちょっとその……どうだ、こんなにたくさんの金を使ったぞといったような……あるいはまた例の縫い込んだ金のことを、忘れたかったからかもしれません……そうです、まったくそのためなんですよ……ええ、ばかばかしい……幾度あなたはそんなことを訊くんです? ただでたらめを言ったのです、それっきりです。一どでたらめを言ってしまったから、もう訂正したくなかったんです。人間というものはどうかすると、くだらない動機からでたらめを言うものですよ。」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事は諭すように言った。「どんな動機から人が嘘を言うかってことは、容易に決定できるもんじゃありません。ときにお訊ねしますが、あなたの頸にかかっていたその守り袋なるものは、大きなものでしたか?」
「いいえ、大きくはありません。」
「例えば、どのくらいの大きさです?」
「百ルーブリ紙幣を半分に折った、まあそれくらいの大きさです。」
「では、そのきれというのを、見せていただけないでしょうか? いずれどこかに持っておいででしょうから。」
「ええ、ばかばかしい……何というくだらない……そんなものがどこにあるか知るもんですか。」
「しかし、まあ、聞かせて下さい、いつどこであなたはその袋を頸からはずしたんです? あなたの申し立てによれば、家へは寄らなかったのでしょう?」
「ええ、フェーニャのところを出ると、すぐペルホーチンの家へ向けて行きましたが、その途中で頸から引きちぎって、金を取り出したんです。」
「暗闇の中で?」
「蠟燭なんか何にします? そんなことは指一本ですぐできましたよ。」
「往来で鋏もなしに?」
「広場だったと思います。鋏なんか何にします? 古いぼろきれですもの、すぐに破れてしまいました。」
「それから、そのきれをどこへやりました?」
「その場で棄ててしまいました。」
「それはどこです?」
「広場です、とにかく、広場に棄てたんです。広場のどこだったか、そんなこと誰が知るもんですか。一たいあなたはそれを聞いてどうなさるんです?」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、それは非常に重大なことです。あなたのためになる証拠物件なんです。どうしてあなたはそれを理解しようとしないのです? 一カ月前それを縫う手つだいをしたのは誰ですか?」
「誰も手つだいません。自分で縫ったんです。」
「あなたに縫えるんですか?」
「兵隊は縫うすべを知ってなけりゃならない。しかし、あんなものにはすべも何もいりゃしません。」
「あなたはその材料を、つまり、袋を縫ったぼろきれを、どこから持って来ましたが?」
「一たいあなたは私をからかってるんじゃありませんか?」
「決してからかやしません。それに、からかうなんて場合じゃないですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ。」
「どこからぼろきれを持って来たか、どうも憶えがありません。いずれどこからか持って来たんですよ。」
「それくらいのことは憶えていられそうなもんですね。」
「しかし、本当に憶えていないんです。たぶん肌着か何かを引き裂いたんでしょう。」
「それは非常におもしろい。明日あなたの下宿へ行って、その品を捜してみましょう。きれを取ったらしいシャツが出て来るかもしれませんからねえ。そのきれは、どんなものです? 厚地ですか、薄地ですか?」
「どんなものだったか憶えてるもんですか。ちょっと待って下さい……ほかのきれから引き裂いたんじゃないようです。あれはキャラコでした……何でもかみさんのナイト・キャップで縫ったような気がします。」
「かみさんのナイト・キャップで?」
「そうです、かみさんのところから盗み出したんです。」
「盗み出したとは?」
「それはこうです。私は実際いつだったかナイト・キャップを一つ、雑巾にしようと思ったのか、それともペン拭きにしようと思ったのか、とにかく盗み出したことがあります。こっそりと持って来たんです。それで、何の役にも立たないぼろきれが、私のところに転かっていましたが、ちょうどこの千五百ルーブリの置場に困ったので、それを縫い込んだわけなんです……まったくこのぼろきれに縫い込んだらしい。幾度となく洗い哂した、古いキャラコのきれなんですよ。」
「では、あなたは確かにそう記憶しておいでですか?」
「確かにそうだったかどうか知りません。何でもナイト・キャップだったと思うんです。いや、そんなことはどうだってかまいませんよ。」
「そうだとすれば、少くとも、かみさんは自分のナイト・キャップがなくなったのを、思い出すことができるでしょうね?」
「いいえ、かみさんは気もつかないんですよ。幾度も言ったとおり、古いぼろぼろなきれで、一文の値うちもないんですからなあ。」
「じゃ、針はどこから持って来たんです? 糸は?」
「私はよします。もう言いたくありませんよ。たくさんですよ。」とうとうミーチャは怒りだした。
「それにしても、おかしいですね、あなたが広場のどういうところで、その……守り袋を棄てたか、すっかり忘れておしまいになるなんて。」
「では、あす広場を掃除さしてごらんなさい。ひょっとしたら見つかるかもしれませんから。」ミーチャはにたりと笑った。「たくさんですよ、みなさん、たくさんですよ」と彼は疲れきったような声でこう言い切った。「あなた方が私を信じていられないのは、もうよくわかりました! 何一つ、これっからさきも信じてはおられません。しかし、私が悪いんです、あなた方の罪じゃない。何も出しゃばる必要はなかったんですよ。何だって、何だって私は自分の秘密をあかして、自分で自分を穢したんでしょう! あなた方にとってはただ滑稽なだけです、その目色でわかりますよ。検事さん、これはあなたが私を吊り出したんです! もしできるなら凱歌でもお上げなさい……あなた方は永久に呪われた拷問者だ!」
 彼はうなだれ、両手で顔を蔽うた。検事と判事は黙っていた。やがてミーチャは頭を上げて、ぼんやり彼らを見やった。その顔にはもはや取り返しのつかない、極度の絶望が現われていた。彼は妙にむっつりおし黙って、椅子に腰かけたまま、忘我の境におちいったようなふうつきであった。が、それにしても、事件を片づける必要があった。すぐ証人の審理に移らなければならなかった。もう朝の八時で、蠟燭はとうに消された。審問のあいだ絶えず出たり入ったりしていたミハイル・マカーロヴィッチと、カルガーノフとは、この時ふたたび出て行った。検事も判事も、やはり非常に疲れたような顔つきをしていた。それは欝陶しい朝であった。空は一面雲に蔽われ、雨は盆を覆すように降りしきっていた。ミーチャはぼんやり窓を見つめていた。
「ちょっと窓を覗かせてもらえませんか?」ミーチャは突然ニコライに訊いた。
「さあさあ、いくらでも」とニコライは答えた。
 ミーチャは立ちあがって窓に近づいた。雨脚は、青みがかった小さい窓ガラスを、烈しく叩いていた。窓のすぐ下には泥ぶかい街道がつづいて、その先には雨靄の中に、黒ずんだ、貧しげな、醜い百姓家が並んでいたが、雨のために一段と黒ずんで貧しげに見えた。ミーチャは『金髪のアポロ』のことや、その最初の輝きとともに自殺しようと考えていたことなどを思い出した。『しかし、こういう朝のほうがかえってよかったかもしれない』と考えて、彼は薄笑いをうかべた。と、急に片手を上から下へと振って、『拷問者たち』のほうへ振り向いた。
「みなさん!」と彼は叫んだ。「私は自分の身が破滅だってことを知っていますが、しかし、あれは? あれのことを聞かせて下さい、お願いです。あれも私と一緒に破滅しなければならんのでしょうか? あれに罪はないです。あれが昨日『みんなわたしが悪いのです』と叫んだのは、夢中で言ったことなんです。あれには決して、決して罪はありません! 私はあなた方と一緒に話してるうちにも、夜どおし心配でたまらなかったです……あなた方は今あれをどうなさるつもりか、聞かせていただくわけにゆきませんか? 駄目でしょうか?」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、そのことなら決してご心配なく。」検事はいかにもせき込んだらしい調子で、すぐにこう答えた。
「あなたが切実な興味を感じていられるあのご婦人に対して、何事にもあれ心配をかけるような理由は、まだ今のところ少しもありません。このさき事件が進行しても、やはり同じことだろうと思います、そうあってほしいものです……この意味においては、むしろ私たちのほうから、でき得るだけのことをするつもりですから、決してご心配のないように。」
「みなさん、感謝します。いろんなことはありましたが、何といっても、あなた方はやはり潔白で公平な方です。私はそれを見抜いていました。あなた方は私の心から重荷を取りのけてくれました……さて、これからどうするんです? 私はもう何でも悦んで。」
「そうですね、なにしろ急がなければなりません。さっそく証人の審理に移りましょう。これもやはり、ぜひあなたの面前で執行することを要するのです。それで……」
「しかし、まずお茶を飲んではどうでしょう?」とニコライは遮った。「もう大分かせぎましたからね!」
 もし下にお茶の支度ができておれば(ミハイル・マカーロヴィッチが出て行ったのは、きっと『一杯飲んで』来るために相違ないと想像したので)、一杯ずつ飲んだ上で、あらためて『大いにやろうじゃないか」ということに一決した。正式のお茶とザクースカは、もっと時間に余裕ができるまで延ばすことになった。はたして、下にはお茶の支度ができていたので、さっそく二階へ運ばれた。初めミーチャは、ニコライが愛想よくすすめるお茶を辞退したが、やがて自分のほうから求めて、貪るように飲みほした。しかし、全体に何だかひどく疲れたような顔つきであった。ちょっと考えると、あんな古英雄のような力を持っている男だから、たとえいくら強烈な刺戟に充ちていたからとて、一晩くらいの徹夜の宴は、彼にとって何ほどのこともないはずであったが、しかし、彼は自分でもやっとの思いで腰かけているのを感じた。どうかすると、すべての物が目の前を動きだしたり、ぐるぐると廻ったりするような気がした。
『も少したったら、譫言を言いだすかもしれないぞ』と彼は心の中で考えた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社