『カラマーゾフの兄弟』第九篇第八章 証人の陳述『餓鬼』

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 証人の審問が始まった。けれど、筆者はもう今までのように、詳しく話しつづけることをやめよう。それゆえ、呼び出された証人が一人一人、ニコライの口から、お前たちはまっすぐに正直に申し立てなければならぬ、あとで宣誓をしたうえ、その陳述を繰り返さなければならないのだから、などと言い聞かされたことも省略しよう。また終りに証人一人一人が、その陳述調書に署名を要求されたことも省こう。ただ一つ言っておかなければならぬことがある。と言うのは、審問者が何より最も注意をはらった要点は、主として三千ルーブリの問題であった。つまり、初めの時、すなわち一カ月前このモークロエで、ドミートトーリイが初町で豪遊をきわめた時に使った金は、三千ルーブリであったか、それからまた、昨日の二回目の豪遊の時は三千ルーブリであったか、千五百ルーブリであったか、という問題である。しかし、悲しいかな、すべての証明はことごとくミーチャの申し立てに反していた。一つとしてミーチャの利益になる証拠はなかった。中には、ほとんど仰天するような新しい証拠を提供して、ミーチャの申し立てを根底から覆すものさえあった。まず第一に審問されたのは、トリーフォンであった。彼は審問者の前に出ても、つゆいささか臆する色がないばかりか、むしろ被告に対して厳格、かつ峻烈な憤懣の色を示しながら現われた。それがために、彼は否応なく自分の申し立てをきわめて正直なものと認めさせたうえ、自分自身にも一種の威厳を添えたのである。彼は少しずつ控え目に口をきき、訊ねられるのを待ってから、考え考え正確に答えた。彼がきっぱりと、歯に衣着せず答えたところによると、一カ月前に使った金は三千ルーブリ以下であろうはずがない、ここの百姓たちでもみんな『ドミートリイ・フョードルイチ』の口から三千ルーブリと聞いた、と申し立てるに相違ない。「ジプシイの女たちだけにでも、どのくらい金を撒いたかしれやしません。あいつらだけにでも千ルーブリ以上ふんだくられましたよ。」
「五百ルーブリもやりゃしなかったくらいだ」とミーチャはこれに対して沈んだ調子で言った。「もっとも、あのとき勘定なんかしなかったが……酔っ払っていたもんだから。残念だなあ……」
 この時ミーチャはカーテンを背にして、テーブルのわきに坐ったまま、沈みがちに黙って聞いていた。『ちぇっ、勝手な申し立てをするがいい。もうこうなりゃ、どうだって同じことだ!』とでもいったような、わびしげな疲れた様子をしていた。
「あいつらにやっただけでも、千ルーブリどころじゃありませんよ、ドミートリイ・フョードルイチ」とトリーフォンは断乎としてしりぞけた。「あなたが見さかいなくやたらにお投げになると、あいつらはわれがちに拾ったじゃありませんか。なにしろ、あいつらは泥棒で詐欺師で、馬盗人だもんだから、今でこそ追っ払われてここにいませんが、もしあいつらがいたら、いくらあなたからせしめたか、ちゃんと申し立てるところなんですよ。わっしもあの時あなたの手に、お金がたくさんあるのを見ましたよ、――もっとも、勘定はしませんでした。勘定なんかさせて下さいませんでしたからね、それはまったくでございますよ、――しかし、ちょっと見ただけでも、千五百ルーブリよりずっと多かったのを憶えてますよ……どうして、千五百ルーブリどころですかい! わっしだって、幾度も大金を見たことがありますから、それしきの見分けはつきますよ……」
 昨日の金額についてもトリーフォンは、ドミートリイが馬車からおりるやいなや、また三千ルーブリをもって来たと触れ出した事実を、きっぱり言いきった。
「いい加減にしないか、トリーフォン、そんなことがあったのかい」とミーチャは抗弁した。「確かに三千ルーブリもって来たと触れ出したかね?」
「言いましたとも、ドミートリイ・フョードルイチ。アンドレイのいるところで言いましたよ。そうだ、あそこにアンドレイがおりますよ。まだ帰っていないから、あれを呼んでごらんなさいまし。だが、あなたはあそこの大広間で、コーラスにご馳走をした時も、ここに六千ルーブリおいて行くのだと、おおっぴらに呶鳴ったじゃありませんか、――六千ルーブリというのは、前の金を合わしたものと、こうとらなけりゃなりませんや。ステパンも、セミョーンも聞きました。それにカルガーノフさんも、その時、あなたと並んで立っていらっしゃいましたから、たぶんあの方も、憶えておいででございましょう……」
 六千ルーブリという申し立ては、審問者たちになみなみならぬ注意をもって受け入れられた。新奇な表現が気に入ったのである。三千ルーブリと三千ルーブリとで六千ルーブリになる。うち三千ルーブリはあの時の分で、三千ルーブリは今度の分、両方あわせて六千ルーブリ、実にこの上もなく明瞭である。
 トリーフォンが名ざした百姓たち、すなわちステパンとセミョーンと馭者のアンドレイ、それにカルガーノフを加えて、みんな残らず審問された。百姓たちも馭者もためらう色なく、トリーフォンの陳述を裏書きした。そればかりか、アンドレイの言葉の中でも、彼がミーチャと途中で交わした会話は、とくに注意して書きとめられた。それは例の、『一たいおれは、ドミートリイ・カラマーゾフはどこへやられるだろう、天国だろうか地獄だろうか? あの世へ行ったら、赦してもらえるだろうか、どうだろう?』という言葉であった。『心理学者』のイッポリートは、微妙な笑みを浮べながら、始終の様子を聞いていたが、最後にこのドミートリイの行方に関する申し立てをも、『一件書類に加える』ようにすすめた。
 カルガーノフは自分が審問される番になると、いやいやらしく顔をしかめながら、駄々っ子のような顔つきをして入って来た。彼は検事やニコライなどと旧い知合いで、毎日のように顔を合せているくせに、まるで生れて初めて会ったような口のきき方をした。彼はまずのっけから、『僕はこの事件について何にも知りません、また知りたくもないのです』と言った。が、六千ルーブリという言葉は、彼も耳にしたとのことであった。そのとき彼はミーチャのそばに立っていたことも承認した。彼もミーチャの手に金があるのを見たが、『いくらあったか知りませんよ』と言いきった。ポーランド人たちがカルタで抜き札をしたことは、彼もきっぱり断言した。また幾度となく繰り返される人々の問いに対して、実際ポーランド人たちが追われて後、ミーチャと、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナとの関係が円滑になったこと、彼女もミーチャを愛していると、自分の口から言ったことなどを陳述した。彼はアグラフェーナ・アレクサンドロヴナのことを口にする時、うやうやしい控え目な言葉を使って、まるで上流社会の貴婦人の話でもするようなあんばいであった。そして、一度も『グルーシェンカ』などと呼び捨てにしなかった。若いカルガーノフが申し立てをいやがっているのは、明らかにわかっていたにもかかわらず、イッポリートは長いあいだ彼を審問した。その夜ミーチャの身の上に生じた、いわゆる『ローマンス』の内容がどんなものかということも、彼の口から初めてこまかに知ったのである。ミーチャは一度もカルガーノフの言葉を遮らなかった。青年はやっと退出を許された。彼は蔽いられない憤懣を示しながら立ち去った。
 ポーランド人たちも審問された。彼らは自分の部屋で床についていたが、夜っぴて眠らなかった。そのうちに官憲が来たので、自分らもきっと呼び出されるに相違ないと思い、急いで着替えをし身支度をととのえていた。彼らは幾分おじけづきながら、しかも堂々と現われた。おも立ったほう、つまり小柄な紳士《パン》は、休職の十二等官で、シベリヤで獣医を奉職していたことがわかった。姓はムッシャローヴィッチであった。ヴルブレーフスキイは自由開業のダンチスト、ロシヤ語で言えば歯医者であった。二人とも部屋へ入ると早々、ニコライが審問しているのにおかまいなく、脇のほうに立っているミハイル・マカーロヴィッチに向いて、答弁を始めた。様子を知らないために、彼をここで一番えらい長官と思い込んだからである。彼らは一口ごとに、彼を『pan pulkovnik([#割り注]大佐の訛り[#割り注終わり])』と呼んだ。が、当のミハイル・マカーロヴィッチが幾度か注意をしたので、ようやくニコライよりほかの人に答えてはならないのだと悟った。彼らはただときどき間違った発音をするだけで、ごくごく正確なロシヤ語を使えることがわかった。グルーシェンカに対する以前と今の関係について、ムッシャローヴィッチはむやみに熱心な、しかも傲慢な調子で話しはじめた。すると、ミーチャはたちまち前後を忘れて、貴様のような『悪党』に、おれのいるところでそんなことを言わしておくわけにゆかない、と呶鳴りつけた。ムッシャローヴィッチはすぐ『悪党』という言葉に注意を向けて、調書に記入してもらいたいと言った。ミーチャは憤怒のあまりかっとして言った。
「悪党だとも、悪党だとも! このことを書き込んで下さい。それから、調書に書かれようとどうしようと、私はどこまでも悪党と呶鳴りますからね、このこともやはり書き込んで下さい!」と彼は叫んだ。
 ニコライはこれを調書に記入したが、しかしこの不快な場面においても、なお十分賞讃すべき敏腕と、事務的才能を発揮した。彼は厳然としてミーチャをさとしたうえ、すぐ事件の小説的方面に関する審問を一さい中止し、さっそく根本の問題へ転じた。根本問題の中でも紳士《パン》たちのある申し立てが、審問者一同の異常な好奇心を呼びさました。それは、ミーチャが例の小部屋でムッシャローヴィッチを買収して、三千ルーブリの手切れ金を渡すように約束したことである。彼はその時、七百ルーブリは今すぐ手わたしするが、あとの二千三百ルーブリは『あすの朝』町で渡そう、このモークロエではそんな大金の持ち合せがないけれど、町には金があるのだ、と立派に誓言した。ミーチャは思わずかっとして、あす確かに町で渡そうなどと言った憶えはないと弁明したが、ヴルブレーフスキイが友の陳述を裏書きしたので、ミーチャもちょっと考え直し、どうも紳士《パン》たちの言うとおりであったらしい、あの時はひどく興奮していたから、事実そんなことを言ったかもしれない、と顔をしかめながら承認した。検事は貪るようにこの申し立てを聞き取った。で、ミーチャが手に入れた三千ルーブリの半分もしくは一部分は、実際、町のどこかに、いや、ことによったら、このモークロエのどこかに隠してあるかもしれない、ということが裁判官にとって明瞭になってきた(後に実際そうと決めてしまった)。こういうわけで、ミーチャがたった八百ルーブリしか持っていなかったという、審理上なんとなく尻くすぐったい事実も、これで説明がついたわけである。これは今までのところ、たった一つしかない、しかもつまらない証拠ではあるけれど、何といっても、ミーチャにとって有利な事実だったのである。これで、彼の利益になる唯一の証拠も破却された。自分では千五百ルーブリしかないと言っておきながら、紳士《パン》に向っては明日かならず残金の二千三百ルーブリを渡すと誓ったとしたら、その二千三百ルーブリの金をどこから持って来るつもりだったのだ、この検事から訊かれた時、ミーチャはきっぱりと、あす『ポーランド人の畜生』に渡そうと思ったのは金ではなく、チェルマーシニャの土地所有権に対する正式の証書なのだ、と答えた、それは、サムソノフとホフラコーヴァ夫人に提供したのと同じ権利であった。検事は『無邪気な言いぬけ』を聞いて、せせら笑いさえもらした。
「あなたは相手が現金二千三百ルーブリの代りに、この『権利』の受領を承諾すると思いましたか?」
「きっと承諾するに相違ありませんよ」とミーチャは熱して遮った。「そうじゃありませんか、あの権利から取れる金は、僅か二千ルーブリやそこいらじゃなくて、四千ルーブリにも六千ルーブリにもなるんですからね! あいつはすぐにお仲間のポーランド人や、ユダヤ人や、弁護士などを狩り集めて、三千ルーブリはおろかチェルマーシニャ全部を、爺さんの手からもぎとってしまうに相違ありませんよ。」
 もちろんムッシャローヴィッチの陳述は、きわめて詳細に調書へ記入された。これで紳士《パン》たちは退出を許された。カルタの抜き札をしたことは、ほとんど一ことも訊かれなかった。それでなくとも、ニコライは彼らに感謝しきっていたので、些細なことで煩わすのは望ましくなかったのである。ことにそれは、酔っ払ってカルタをもてあそんでいる間に起った、つまらない喧嘩にすぎない。そのうえ、あの夜は全体として放埒な醜行も決して少くなかった……こういうわけで、二百ルーブリの金はそのまま紳士《パン》たちのかくしに入ったのである。
 次にマクシーモフ老人が呼び出された。彼はおどおどと小刻みな足どりで近づいた。取り乱したなりをして、ひどく沈んだ顔つきであった。彼はそれまで下でグルーシェンカのそばに、黙って腰かけていたのである。『もう今にもグルーシェンカによりかかって、しくしく泣きだしそうな様子で、青い格子縞のハンカチで目を拭いていたよ』とあとでミハイル・マカーロヴィッチは物語った。こういうわけで、今はかえってグルーシェンカのほうが彼を宥めたり、すかしたりするようなありさまであった。老人はさっそく涙ながらに、『身貧なために十ルーブリというお金を』ドミートリイから借りたのは、重々わたくしが悪うございました、けれどいつでも返すつもりでおります、と言った……ドミートリイから金を借りる時に、あの男の持っている金を誰よりも一番近くで見たはずだが、どれくらいの金が手の中にあったか、気がつかなかったか? というニコライの突っ込んだ質問に対して、マクシーモフはいともきっぱりした調子で、『二万ルーブリ』あったと答えた。
「あなたは以前どこかで二万ルーブリの金を見たことがありますか?」とニコライはにこっとして訊いた。
「はいはい、見ましたとも。けれど二万ルーブリでなくって七千ルーブリでございます。それは、家内がわたくしの村を抵当に入れた時のことでございます。わたくしには、遠くから見せながら自慢しておりましたが、なかなか大きな紙幣束で、みんな虹色をしておりましたよ、ドミートリイさんのもやはり、みんな虹色でございました……」
 ほどなく彼は退出を許された。とうとうグルーシェンカの番となった。審問者たちは、彼女の出現がドミートリイに異常な影響を与えはしないかと、危ぶんでいるらしかった。ニコライなどはドミートリイに向って、二こと三こと訓戒めいたことを言ったほどである。が、ミーチャはそれに対する答えとして、無言のまま頭を下げた。これは『騒動を起しません』という心持を知らせたのである。グルーシェンカを連れて来たのは、署長のミハイルであった。彼女はいかつい、気むずかしそうな顔つきをして入って来たが、見たところは、いかにも落ちついているようであった。彼女は指された椅子の上に、ニコライと相対して静かに腰をおろした。彼女は恐ろしく蒼い顔をしていた。寒けでもするとみえて、美しい黒のショールをふかぶかと頸に巻いていた。実際、彼女はそのとき軽い悪寒を感じたのである。それは、この夜以来ながいこと彼女を苦しめた大病の最初の徴候であった。彼女のきりっとした様子や、悪びれたところのない真面目な目つきや、落ちつきのあるものごしなどは、非常に気持のいい印象を一同に与えた。ニコライなどはたちまちいくらか『心を動かされた』ようであった。その後あちこちで当時の話が出ると、この女を心底から『実に美しいなあ』と感じたのは、そのときが初めてだと白状した。それまでにも、たびたび彼女を見たことはあるけれど、いつも『田舎のヘテラ』([#割り注]古代ギリシャの浮かれ女[#割り注終わり])のたぐいだと思っていた。
『ところが、あの女のものごしといったら、まるで上流の貴婦人のようですよ。』あるとき彼は婦人たちの集った席で感激の色をうかべながら、思わずこう口をすべらしたほどである。けれど、婦人たちは大いに不満そうな様子でその言葉を聞いていたが、すぐさまその罰として、彼に『悪戯者』という綽名をつけた。が、彼は結局、それに満足していた。部屋へ入りしなに、グルーシェンカは盗むようにちらりとミーチャを見やった。すると、ミーチャも不安げに彼女を見返した。しかし、彼女の様子はすぐさま彼を安心さした。まず最初必要な質問や訓戒がすると、ニコライはいくらか吃りながらも、なおきわめて慇懃な態度を保って『退職中尉ドミートリイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフとは、どういう関係だったのですか?』と訊いた。この問いに対して、グルーシェンカは静かな、しかもしっかりした語調でこう答えた。
「わたしの知合いだったのでございます。知合いとして先月じゅうおつき合いをいたしましたので。」
 それからつづいて、半分もの好きに発しられた質問に対して、あの人は『時おり』気にいったこともあるけれど、決して愛してはいなかった。当時あの人を引き寄せていたのは、ただ『意地わるい面あて』のためにすぎなかった。つまり、あの爺さんに対する態度と変りはなかったと答えた。ミーチャが自分のことで、フョードルを初め、その他ありとあらゆる人に嫉妬するのも知っていたが、かえってそれを慰みにしていた、とこう彼女は率直に、ありのままを打ち明けた。フョードルのところへ嫁《い》こうなどとは夢にも思わず、ただ彼を玩具にしたばかりであった。『先月じゅうはあの人たち二人のことなぞ、考えている暇がありませんでした。実は、わたしに対してすまないことをしている、まるで別な人を待っていたんですの……けれど、あなた方もこんなことをお訊きになっても、仕方がありますまいし、わたしもあなた方にお答えする必要はないと思います。なぜって、これはわたし一人きりのことなんですから』と言って、彼女は言葉を結んだ。
 で、ニコライもさっそくその言葉にしたがった。彼はまた『小説的な』点について、しつこく訊ねるのをやめて、直接まじめな問題、つまり三千ルーブリに関する主要問題に移った。グルーシェンカは、ミーチャが一カ月まえモークロエで、まったく三千ルーブリ消費した、もっとも、自分で金をかぞえてみたわけではないが、ミーチャの口から三千ルーブリと聞いたのだ、と証言した。
「あなた一人にそう言ったのですか、それともほかに誰かいる時だったのですか? あるいはまたあなたの前で、ほかの人にそう言ってるのをお聞きになったのですか?」検事は例の調子で訊ねた。
 この問いに対してグルーシェンカは、人前でも聞いたし、ほかの人に話しているのも聞いたし、また二人きりの時にも聞いたと断言した。
「二人きりの時に聞いたのは一度ですか、それともたびたびですか?」と検事はまた訊ね、そしてグルーシェンカからたびたび聞いたという答えを得た。
 イッポリートはこの申し立てにひどく満足した。それから、審問が進むにしたがって、グルーシェンカがこの金の出所、つまり、ミーチャが、カチェリーナの金を着服した事実を承知していた、ということも判明した。
「だが、一カ月前にドミートリイ・フョードロヴィッチが使ったのは、三千ルーブリよりずっと少かったということや、ちょうどその半額を用心のために、隠しておいたということを、せめて一度でも聞いたことはありませんか?」
「いいえ、そんなことは一度を聞きません」とグルーシェンカは答えた。それどころか、ミーチャはかえってこの一月のあいだ、自分には金が一コペイカもないと、しじゅう言い通していたことさえ判明した。「いつもお父さんからもらえるのを待っていました」とグルーシェンカは結んだ。
「では、いつかあなたの前で……何かの拍子にちょっと口をすべらすか、それとも腹立ちまぎれに」とニコライは、突然さえぎった。「自分の父親の命を取るつもりだ、などと言ったことはありませんか?」
「ええ、ありました!」グルーシェンカはほっとため息をついた。
「一度ですか、たびたびですか?」
「幾度も言いました、いつも腹を立てていたときでございます。」
「で、あなたはあの人がそれを実行すると信じていましたか?」
「いいえ、一度も信じたことはありません!」と彼女はきっぱり答えた。「わたしはあの人の高潔な心を信じていましたから。」
「みなさん、どうか」と突然ミーチャは叫んだ。「どうかあなた方のまえで、アグラフェーナにたった一こと言わせて下さい。」
「お言いなさい」とニコライは許した。
「アグラフェーナ。」ミーチャは椅子から立ちあがった。「神様とおれを信じてくれ! ゆうべ殺された親父の血に対して、おれには何の罪もないのだ。」
 ミーチャは、こう言ってしまうと、また椅子に腰をおろした。グルーシェンカは立ちあがって、うやうやしく聖像に向って十字を切った。
「神よ、なんじに光栄あらせたまえ!」と彼女は熱烈な、人の心にしみ込むような声で言うと、まだもとの席へ腰をかけないうちに、ニコライのほうへ向って、「あの人がいま言ったことを信じて下さいまし! わたしはあの人を知っています。あの人はくだらないことを言うには言いますが、それはただ冗談半分でなければ、依怙地のためでございます。けれど、良心にそむくような嘘は決して言いません。本当のことをありのままに言うのですから、それを信じてあげて下さいまし!」
「有難う、グルーシェンカ、おかげでおれも力がついてきた!」とミーチャは顫え声で答えた。
 昨日の金に関する質問に対して、彼女はちょうどいくらあったか知らないが、昨日ほかの人に三千ルーブリもって来たと言ったのは、たびたび耳に挾んだと答えた。また金の出所については、次のように説明した。ミーチャはカチェリーナのところから盗んで来たのだと、自分ひとりにだけ、打ち明けたが、自分はそれに対して、いや決して盗んだのではない、あす金を返しさえすればよいと答えた。カチェリーナのところから盗んで来たというのはどの金をさすのか、昨日の金か、それとも一カ月まえにここで使った金か? という検事の執拗な問いに対して、一カ月まえに使った金のことを言ったのだ、少くとも自分はそうとった、と断言しだ。
 やっとグルーシェンカも退出を許された。その時ニコライは熱心な調子で彼女に向って、もうすぐ町へ帰ってもよろしい、もし自分が何かのお役に立てば、――例えば、馬車の便宜を取り計らうとか、あるいはまた付添い人がほしいとかいう場合には、自分が……自分のほうから……
「有難うございます」とグルーシェンカは会釈をした。「わたしは、あの地主のお爺さんと一緒にまいります。あのお爺さんを連れて帰ってやります。けれど、もしなんなら、ドミートリイさんの判決がきまるまで、下で待たせていただきとうございます。」
 彼女は出て行った。ミーチャは落ちついていたばかりでなく、すっかり元気づいたような顔つきをしていた。が、それはほんのしばらくであった。時が進むにしたがって、一種奇妙な生理的衰弱が彼の全身を領しはじめた。目は疲労のために閉されがちになってきた。とうとう証人の審問は終った。人々は、調書の最後の整理にとりかかった。ミーチャは立ちあがって、自分の椅子のところから片隅にあるカーテンの陰へ行き、毛氈をかけたこの家の火箱の上へ横になると、そのまま眠りに落ちてしまった。彼はある不思議な夢を見た。それは少しも場所と時に似合わしくない夢であった。彼は今どこか荒涼たる曠野を旅行しているらしい。そこはずっと前に勤務したことのある土地だった。一人の百姓が、彼を二頭立の馬車に乗せて、霙の中を曳いて行く。十一月の初旬で、ミーチャは妙に寒いような感じがした。綿をちぎったような大きな雪が、ぽたぽたと降っていたが、落ちるとすぐ地べたに消えてしまうのであった。百姓は巧者に鞭を振りながら、元気よく馬を駆った。恐ろしく長い亜麻色の顎鬚を生やした男で、年の頃は五十ばかり、さして老人というほどでもない。鼠色の百姓らしい袖なし外套を着ていた。すぐ近くに小さな村があって、何軒かの真っ黒な百姓家が見えていた。しかし、百姓家の大半は焼き払われて、ただ焼け残った柱だけが突っ立っていた。村へ入ろうとすると、道の両側に、女どもがぞろっと並んでいた。大勢な人数でほとんど隊をなしていたが、揃いも揃って痩せさらばえ、妙に赤っ茶けた顔をしていた。ことに一番はじにいるのは、背の高い骨張った女で、年頃は四十くらいらしかったが、また二十くらいとも思われた。やつれた細長い顔をして、手には泣き叫ぶ赤ん坊を抱いていた。乳房はもう乾あかって、一滴の乳も出ないらしかった。赤ん坊は、寒さのためにまるで紫色になった、小さなむき出しの拳をさし伸べながら、声をかぎりに泣いていた。
「どうしてあんなに泣いているんだ? どうしてあんなに泣いているんだ?」彼らのそばを飛ぶように通り抜けながら、ミーチャはこう訊いた。
「餓鬼でがんす」と馭者は答えた。「餓鬼が泣いてるでがんす。」
 馭者が子供と言わずに、百姓流に『餓鬼』と言ったのが、ミーチャの心を打った。そして、百姓が餓鬼と言ったために、一しお哀れを増すように思われて、すっかり気に入ったのである。
「だが、どうして餓鬼は泣いてるんだ?」とミーチャは馬鹿のように、どこまでも追窮した。「なぜ手をむき出しにしてるんだ、なぜ着物に包んでやらないのだ?」
「餓鬼は凍えたでがんす。着物が凍ったでがんす。だから、ぬくめてやれねえでがんす。」
「でも、なぜそんなことがあるんだね? なぜだね?」と愚かなミーチャはどこまでも問いをやめない。
「貧乏人の焼け出されでがんす。パンがねえでがんす、家さ建ててえで、お助けを願うてるでがんす。」
「いいや、いいや、」ミーチャはやはり合点がゆかないふうで、「聞かせてくれ、なぜその焼け出された母親たちが、ああして立ってるんだ、なぜ人間は貧乏なんだ、なぜ餓鬼は不仕合せなんだ、なぜ真裸な野っ原があるんだ、なぜあの女たちは抱き合わないんだ、なぜ接吻しないんだ、なぜ喜びの歌をうたわないんだ、なぜ黒い不幸のためにこんなに黒くなったんだ、なぜ餓鬼に乳を飲ませないんだ?」
 彼は心の中でこういうことを感じた。自分は愚かな気ちがいじみた問い方をしている、しかし、どうしてもこういう問い方がしたいのだ、どうしてもこう訊かなければならないのだ。彼はまた、今まで一度も経験したことのない感激が心に湧き起るのを覚えて、泣きだしたいような気持さえする。もうこれからは決して餓鬼が泣かないように、萎びて黒くなった餓鬼の母親が泣かないようにしてやりたい。そして、今この瞬間から、もう誰の目にも涙のなくなるようにしてやりたい、どんな障害があろうとも、一分の猶予もなく、カラマーゾフ式の無鉄砲な勢いをもって、今すぐにもどうかしてやりたい。
「わたしがあなたのそばについててよ。もう決してあんたを棄てやしない、一生涯あんたについて行くわ。」情のこもったグルーシェンカの優しい言葉が、彼の耳もとでこう響いた。
 すると彼の心臓は燃え立って、何かしらある光明を目ざして進みはじめた。生きたい、どこまでも生きたい、ある路を目ざして進みたい、何かしら招くような新しい光明のほうへ進みたい、早く、早く、今すぐ!
「どうしたんだ? どこへ行くんだ?」とつぜん目を見開いて、箱の上に坐りながら、彼はこう叫んだ。それはちょうど気絶でもした後に、息を吹き返したような気持であったが、しかしその顔には輝かしい微笑がうかんでいた。
 彼のそばにはニコライが立っていた。調書を聞き取った上で、署名をしてくれと言うのであった。ミーチャは一時間、もしくはそれ以上寝たのだと悟った。が、ニコライの言葉はもう聞いていなかった。さきほど疲れきって、箱の上へ身を横たえた時には、そこにはなかったはずの枕が、いま思いもかけず自分の頭の下へおかれているのに気づいて、彼ははっと思った。
「誰が私にこの枕をさしてくれたんです? 誰でしょう、その親切な人は!」まるで大変な慈善でも施されたかのように、一種の歓喜と感謝の念に満たされながら、彼は泣くような声でこう叫んだ。
 親切な人は、後になってもとうとうわからなかった。いずれ証人の中の誰かが、さもなくばニコライの書記かが、同情のあまり枕をさせてやったものであろうが、彼の心は涙のために顫えるようであった。彼はテーブルに近づいて、何でもお望みしだい署名すると言った。
「みなさん、私はいい夢を見ましたよ。」彼は何か悦びにでも照らされたような、さながら別人のような顔をしながら、奇妙な調子でこう言った。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社