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フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第九章 ミーチャの護送

   第九 ミーチャの護送

 予審調書が署名されると、ニコライは巌かに被告のほうを向いて、次の意味の『判決文』を読んで聞かせた。何年何月何日某地方裁判所判事は某を(すなわちミーチャを)しかじかの事件に関する被告として(罪状は残らず詳細に書き上げてあった)審問したところ、被告はおのれに擬せられた犯罪を承認しないにもかかわらず、自己弁護のために何らの証跡をも提示しない。しかるに、すべての証人(某々)もすべての事情(しかじか)も、完全に彼の犯罪を指摘するということを考慮においたうえ、『刑法』第何条何条に照らして次のごとき決定をした。すなわち、被告が審理と裁判を回避するおそれのないように、彼を某監獄に拘禁して、この旨を当人に告示し、かつこの判決文の写しを副検事に通達する云々、というような意味であった。手短かに言えば、ミーチャは自分がこの時から囚われ人として、これからすぐに町へ護送され、きわめて不快なある場所で監禁されることになる旨を、申し渡されたのである。ミーチャは注意してこの判決文を聞き終ると、ひょいと両肩をすくめた。
「仕方がありません、みなさん、私はあなた方を責めやしません。私はもう覚悟をしています……あなた方としてほかに方法がなかったということは、私にもよくわかっています。」
 ニコライはミーチャに向って、ちょうどここへ来合せた警部マヴリーキイが、今すぐ彼を護送して行く旨を宣告した。
「ちょっとお待ち下さい!」とミーチャはふいに遮った。そして、抑えがたい感情に駆られながら、室内にいるすべての人に向って言いだした。「みなさん、私たちはみんな残酷です、私たちはみんな悪党です、私たちはみんなの者を、母親や乳呑み児を泣かせています。けれど、その中でも、――今はもうそう決められたってかまいません、――その中でも私が一番けがらわしい虫けらです! それだってかまいません! 私はこれまで毎日、自分の胸を打ちながら改悛を誓いましたが、やはり毎日、おなじ陋劣な所業を繰り返していたのです。が、今となって悟りました。自分のようなこういう人間には鞭が、運命の鞭が必要なのです、私のようなものには繩をかけて、外部の力で縛っておかなけりゃなりません。自分一人の力では、いつまでたっても起きあがれなかったでしょう! しかし、とうとう鉄槌は打ちおろされました。私はあなた方の譴責を、世間一般の侮蔑の苦痛を引き受けます。私は苦しみたいのです、苦しんで自分を浄めたいのです! ねえ、みなさん、本当に浄められるかもしれないでしょう、ね? しかし、最後にもう一ど言っておきますが、私は親父の血に対して罪はないです! 私が刑罰を受けるのは、親父を殺したためではなく、殺そうと思ったためなんです。実際、危く殺くかねなかったんですからね……しかし、私はやはり、あなた方と争うつもりです、これはあらかじめあなた方に宣言しておきます。私は最後まであなた方と争って、その上はどうなろうと神様の思し召し次第です! みなさん、赦して下さい、私が訊問の時にあなた方に食ってかかったことを、立腹なすっちゃいけませんよ。そうです、私はあの時まだ馬鹿だったのです……一分間後には私は囚人《めしゅうど》ですから、いま最後にドミートリイ・カラマーゾフはなお自由な人間として、あなた方のほうに手をさし伸べます。あなた方と別れるのは、つまり人間と別れることなんです!………」
 彼の声は慄えだした。彼は本当に手をさし伸べたが、一番ちかくにいたニコライは、突然どうしたのか、妙な痙攣するような身振りでその手をうしろへ隠してしまった。ミーチャは目ざとくこれを見つけて、ぶるっと身慄いした。彼はさし出した手をすぐおろした。
「審理はまだ終っていないのですから」とニコライはいくらかどきまぎしながら呟いた。「まだ町でつづけなくちゃなりません。私はむろんあなたの成功を……あなたが無罪の宣告をお受けになることを……望んでいます……ところで、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、私はいつもあなたを罪人というより、むしろ……何と言いますか、不幸な人と考えていたのです……私たち一同は――あえて一同に代って言いますが、私たち一同はあなたを、根本において高潔な青年と認めることに躊躇しません。しかし、残念なるかな、あなたはいささか過度にある種の情欲に溺れたのです……」
 言葉が終りに近づくにつれて、ニコライの小さな姿はなみなみならぬ威厳を現わした。ミーチャの頭にはふとこんな考えが浮んだ。この『小僧っ子め』今にもおれと腕を組んで、部屋の片隅へ連れて行きながら、そこでまたつい近ごろ二人で話し合ったと同じような『娘連』の噂でも始めるのではなかろうか、と彼は思った。事実、刑場へ曳いて行かれる罪人の頭にさえ、どうかすると、まるで事件に無関係な、その場の状況にふさわしからぬ考えがひらめくことも、少くないのである。
「みなさん、あなた方は善良な人です、あなた方は人情を心得ていらっしゃる、――どうでしょう、もう一度、あれに会って、最後の別れをさして下さいませんか?」とミーチャは訊いた。
「むろんよろしいのですが、ただみんなのいるところで……つまり今は、もう誰もおらぬところでは……」
「じゃ、ご列席ください!」
 グルーシェンカは連れられて来たが、あまり言葉もない短い別れであった。ニコライは不満であった。グルーシェンカはミーチャに向って丁寧に頭を下げた。
「わたしは一たんあなたのものだと言った以上、どこまでもあなたのものよ。あなたがどこへやられることにきまっても、死ぬまであなたと一緒に行きますわ。では、さようなら、本当にあなたは無実の罪に身を滅ぼしたんだわねえ!」
 彼女の唇は顫え、その目からは涙がはふり落ちた。
「グルーシェンカ、おれの愛を赦してくれ。おれが自分の愛のために、お前まで破滅さしたのを赦してくれ。」
 ミーチャはもっと何か言いたそうにしていたが、自分から急に言葉を切って出て行った。しじゅう目を放さないでいた人たちが、すぐ彼のまわりに集った。昨日アンドレイのトロイカで、あんなに勢いよく乗りつけた階下の玄関わきには、もう支度のできた二台の馬車が立っていた。顔のぶくぶくした、ずんぐり肉づきのいいマヴリーキイは、何か突然はじまった不始末に業を煮やして、ぷりぷりしながら呶鳴っていた。そして、何だか恐ろしく厳めしい調子で、ミーチャに馬車へ乗れと言った。
『あいつ、以前おれが料理屋で酒を飲ませた時分とは、まるで顔つきが違ってやがる』とミーチャは馬車に乗りながら考えた。トリーフォンも玄関からおりて来た。門のそばには人が大勢、――百姓や女房や馭者どもがむらがって、みんなミーチャを見つめていた。
「みんな赦しておくれ!」突然ミーチャは馬車の上から、彼らに向ってこう叫んだ。「わしたちも赦しておくんなさい」と、二三人の声が聞えた。
「トリーフォン、お前も赦してくれろよ!」
 しかし、トリーフォンは振り向こうともしなかった。非常に忙しかったのかもしれない。やはり何やら呶鳴りながら、あたふたしていた。マヴリーキイに随行する組頭が、二人乗り込むはずになっていた二番目の馬車が、まだごたごたしていることがわかった。二番目の馬車に乗せることになっていた百姓は、外套を引っ張りながら、町へ行くのはおれじゃなくてアキームだと言って、頑固に争っていた。けれど、アキームはいなかった。人々は彼を呼びに走って行った。百姓はいつまでも強情をはって、も少し待ってくれと願った。
「マヴリーキイさま、この手合いときたら、本当に恥しらずでございますよ!」とトリーフォンは叫んだ。「てめえは一昨日、アキームから二十五コペイカもらったやつを、すっかり飲んじまやあがったくせに、今となってぶうぶう言ってやがるんだ。ただね、マヴリーキイさま。ろくでもない手合いに対しても、あなたが優しくしておやんなさるには、まったく感心のほかございません。ただこれだけ申し上げておきますよ!」
「一たい馬車を二台もどうするんだね?」とミーチャは口を入れた。「マヴリーキイ・マヴリーキエヴィッチ、一台でたくさんだよ。決してお前たちに手向いしたり、逃げ出したりしやしないから、護送なんかいりゃしないよ。」
「ねえ、あなた、まだ習っていらっしゃらんのなら、われわれに対する話の仕方を稽古して下さい。私はあなたから『お前』呼ばわりされる覚えはありませんからね。そして、そんなに突っつかないで下さい。それに忠告なぞは、この次までとっといたらいいでしょう……」胸のもやもやを吐き出すおりがきたのをひどく悦ぶように、突然マヴリーキイはあらあらしくミーチャの言葉を遮った。
 ミーチャは口をつぐんだ。彼は真っ赤になった。と、一瞬の後、急に激しい寒さを感じた。雨はやんでいたが、どんよりとした空にはやはり一面に雲がひろがって、身を切るような風がまともに顔へ吹きつけた。『一たいおれは風でも引いたのかしらん』とミーチャは肩をすくめながら考えた。やっとマヴリーキイも馬車へ乗った。そして、気のつかないような顔をして、ミーチャをぐいと押しつめながら、ひろびろと場所を取って、どさりと腰をおろした。実のところ、彼はこの任務が厭でたまらなかったので、すっかり機嫌を悪くしていたのである。
「さようなら、トリーフォン!」とミーチャはふたたび叫んだが、今のは善良な心持からではなく、憎悪のあまり思わず知らず呼んだのだ、ということを自分でも感じた。
 けれど、トリーフォンは両手をうしろで組み合わせて、まともにミーチャを見つめながら、傲然として突っ立っていた。彼はきっとした腹立たしげな顔つきで、ミーチャには何とも返事をしなかった。
「さようなら、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、さようなら!」突然どこから飛び出して来たのか、カルガーノフの声が響きわたった。
 彼は馬車のそばへ駈け寄って、ミーチャに手をさし伸べた。彼は帽子なしであった。ミーチャはすばやく彼の手を取って、握りしめた。
「さようなら、カルガーノフ君、君の寛大な心は決して忘れやしないよ!」彼は熱してこう叫んだ。
 けれども、馬車はごとりと動きだして、二人の手は引き離された。鈴が鳴り出だした、――ついにミーチャは護送されて行った。
 カルガーノフは玄関へ駈け込んで、片隅に腰をおろすと、頭を垂れ、両手で顔を蔽いながら、声を立てて泣きだした。彼は長い間こうして腰かけたまま泣いていた、――それはもう二十歳からになる青年の泣き方でなく、まるで小さな子供のような泣き方であった。彼はミーチャの犯罪をほとんど信じきっていたのである。『ああ、何という人たちだろう。あの人たちがああいうことをするとしたら、一たい誰が本当の人間なんだろう!』彼は苦しい憂愁というよりも、むしろ絶望の情をいだきながら、何の連絡もなくこう叫んだ。このとき彼は、もうこの世に生きているのがいとわしかった。『生きてる値うちがあるんだろうか! そんな値うちがあるんだろうか!』と青年は悲しげに叫んだ。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社