ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

メモ 『ドラえもん論』(2020年3月26日、杉田俊介、Pヴァイン)についてのコメント(追記あり)

以下、短い文を並べることにする。

・わたしは、『ドラえもん』と藤子不二雄コンビが、過去のものとされていることをおそれる。杉田氏たちがそれを認めるかどうかはともかく。これはわたしのいま現在の不安である。

・わたしは、藤子不二雄コンビが過去の人間とされているのではないか、という疑問をもっている。2020年内に、藤子不二雄コンビのどちら一人の、しっかりした伝記が出版される可能性がほとんどない、という事実からこう判断している。「しっかりした伝記」というのは、『スヌーピーの父 チャールズ・シュルツ伝』(デイヴィッド・マイケリス)のような伝記のことをさす。
・もう一点、『ドラえもん』と後輩の『クレヨンしんちゃん』が、2019年10月に土曜日午後4時、午後5時に移動させられたことも、そういう判断の根拠になっている。
・さて、『ドラえもん論』(杉田俊介)をざっと読んだ。藤子不二雄コンビの実証研究がしっかりしているとはいえないことを、杉田氏も意識していないのではないか、と思わされる点がひじょうに気になる。
・たとえば、非常に単純なことなのだが、野比のび太が「ドラえもーん」と叫んでからドラえもんに泣きつく、という場面は、実はそれほど多くない。わたしの数えた結果では、連載約1300回のうち、100回以下だった。それなら多いほうだ、と言われたらそれまでだが。少なくとも大長編において、この場面があるのは、「アニマル惑星」のみ、それも、セリフの「ドラえもーん」は活字ではなく、手書きの効果音として書きこまれている。明らかに作者の意図がある。
・もう一つ指摘しておきたいことがある。「ひみつ道具」という単語は、連載開始からずっとあとになって生まれたものである、ということだ。わたしが確認したかぎりでは、「てんとう虫コミックス版「ドラえもん」の第11巻まで、「ひみつ道具」という単語は一回も使われていない。すくなくとも、目立つような書きこまれかたはされていない。明らかに作者の意図がある。
・なぜこういうことを指摘する必要があるのか。事実と異なる常識が受け入れられている、という指摘だけではない。それは、『ドラえもん』が基本としてギャグマンガでありながら、同時に、しっかりした人情話や冒険話を描けるのはなぜか、という問題と関係している。わたしの仮説は、野比のび太(と登場人物ドラえもん)の”ふつうさ””読者との段差のなさ”を描きだすために、定式化や作中上の専門用語は邪魔だったから、というものである。それを、多くの読者や第三者が勝手にカンチガイしているだけ、であろう。
・わたしには、上に書いた指摘を完全に実証するだけの時間がない。せいぜい、初期の第10巻までしか検証できない。
 
・それにしても、なぜ野比のび太についてきちんと論じられることが少ないのだろう。『エヴァンゲリオン』シリーズの碇シンジとくらべれば、特に、熱量のちがいははっきりしていると思う。もし杉田氏の言うように、野比のび太が戦後日本社会のなかで重要な位置づけをされている(されるべきである)「弱さ」を代表しているとするならば、この奇妙な現象はきちんと説明されないといけない。

・わたしの観察では、野比のび太の、そして『ドラえもん』と『異色短編』シリーズの「弱さ」表現には、”人間解体の危機”はほとんど表現されていない、それが碇シンジなどとのちがいだと思う。ここでいう”人間解体の危機”は、1980年代以降、30年以上にわたって続いた新自由主義の拡大が最大の原因なのだが、きちんと指摘されていないように思われる。こう書くと驚きあきれられるかもしれないが、わたしの観察ではそう思われるのだからこう書くしかない。だいたい、中曽根康弘が死んだときに、海軍中尉中曽根を書くか、新自由主義者中曽根を書くかで迷わない人たちがこんなにたくさんいるのに、わたしの発言にいまさら驚かれたって、わたしのほうが驚きたいぐらいである。まちがっていたら指摘してください。
・『異色短編』シリーズでも、なんといえばいいのか難しいが、論理的にしか人間解体の危機は表現されていない。別の言い方をすれば、どこか肉体的なものが感じられない。わたしのいう”人間解体の危機”は、たとえば黒子のバスケ脅迫事件の渡邊博史氏のすぐれた自己認識(本当にすぐれているのだからこう認定するしかない)で表現されているのだが、藤子・F・不二雄氏はこういう事態が想像できなかったとわたしは考えている。F氏が、人口減少社会を想像できなかったこともほぼ同じ理由であろう。
・『ドラえもん』を戦後民主主義の代表的存在の一つとしてあげるのは、『ドラえもん』の欠点と、『ドラえもん』からみえる戦後日本文化の欠点を認めてからでないと、わたしにはあぶなくて受けとれない。だいたい、杉田氏の指摘が正しいならば、杉田氏が指摘するまでもなく、『ドラえもん』が戦後民主主義文化の代表的存在というと言われていたはずである。たとえば重松清氏ならば、『ドラえもん』をそう認識していた、というのだろう。しかし、当事者であるサブカルチャー、ポピュラーカルチャー関係者たちそう思っていただろうか? このことを改めて疑問にするべきだと思う。これはわたしのただの仮説なのだが、年下の『クレヨンしんちゃん』ならばともかく、『ドラえもん』については、なんとなく過去の作品、というような認識があるのではないだろうか?
 問題がややこしいのは、『異色短編』シリーズが決して過去の作品でないと認識されている一方で、『ドラえもん』が過去の作品のような気がする、と認識されている、ということである。これは、いちばん広い視点で見れば、現代日本サブカルチャーが、自身の位置づけを十分にできないことに原因がある。
国民国家論の専門家の牧原憲夫氏(本人はこう呼ばれたくなかったようだが)は、自分の著作の中で、「自分の、国民化の過程の分析は完全なものではない」とはっきり断っている。なのに、後輩のわたしはかんちがいして、適当に分析していれば、国民化の過程は十分に読み解けると思っていた。同じ誤りを、現代日本サブカルチャーは犯している、ようにわたしには観察される。

・杉田氏とは直接関係がないことだが、藤子不二雄コンビの年表の空白がこんなに多いことは、歴史家の方法をすこしだけでも学んだわたしにとっては、がまんできないことである。3回の最終回の前後も、手塚治虫赤塚不二夫などとの交流も、てんとう虫コミックス創刊の前後も、落語との関係も、「オバケのQ太郎」「パーマン」についても、年表の空白が多すぎる。
・『劇画・オバQ』についての年表との比較とがないのには、正直いって失望した。オイルショックのおきた1973年の前と後を同じ質のものとしてあつかうならば、そう遠くない先に破滅するだろう。
・事実を確認しておこう。Q太郎は2020年現在までに、3回または4回の最終回をむかえ、復活しているのである。「うれしくない、Q太郎といっしょに、くらさない」、そうはっきりということができないといけない。
・そういえば、『ドラえもん』も、3回の最終回、児童マンガ自体の地位低下、偉大な作者の死とその後の混乱、そして日本社会の荒廃、背負った歴史は軽いものではない。
 
・『ドラえもん』が50年間の間に、結局日本社会(に棲む子ども)を不幸にした、というのならば、『ドラえもん』にいる居場所はない。フィクションというのは、結局そういうものだ。ちなみに、歴史の事実として、そうではない。日本社会が50年間の間に、結局『ドラえもん』を不幸にしたのか。これは恐ろしい問題だが、避けてはいけない。しかし、結論はまだ出ていない。結論が出そうなところにいるとわたしは思っているが。もちろん、スヌーピーチャーリー・ブラウンからの連想でこのことを思いついたのだが。

・よく知られるように、F先生が作品の基本的な題材としたものの一つに、「普通」がある。このことを杉田俊介氏はどう考えるのだろうか。障がい者のありようを考えるとき、「自然さ」はまだともかく、「普通」は自分の敵だと考える人、聞くだけでもおぞましいと考える人は大勢いるはずだ。そこに気がつかない杉田氏ではないはずだが。のび太の非マチズモだけでは足りないこともわかっているはずだ。
(つづく)