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フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第三章 生徒たち

   第三 生徒たち

 けれど、コーリャにはもうこの言葉は聞えなかった。彼はやっと出かけることができた。門の外へ出ると彼はあたりを見まわし、肩をすぼめ、『ひどい寒さだ!』とひとりごちて、通りをまっすぐに歩いて行ったが、とある横町を右へ折れて、市《いち》の広場をさして行った。広場へ出る一軒てまえの家まで来ると、彼は門のそばに立ちどまり、かくしから呼び子を取り出して、約束の合図でもするように、力一ぱい吹き鳴らした。一分間も待つか待たないうちに、木戸口から血色のいい男の子が飛び出して来た。年は十一くらいで、さっぱりとした暖かそうな、ほとんど贅沢といっていいくらいな外套を着ていた。この子供は予科にいる(コーリャより二級下の)スムーロフで、ある富裕な官吏の子であった。彼の両親は自分の息子に、危険性をおびた名うての腕白者であるコーリャと遊ぶことを許さないらしく、スムーロフはそっと抜け出して来た模様である。おそらく読者は記憶しているだろうが、このスムーロフは、二カ月まえ溝の向うからイリューシャに石を投げつけた少年群にまじっていた一人で、その時イリューシャのことを、アリョーシャに話して聞かせた子であった。
「クラソートキン君、僕はもう一時間も、君を待ったんですよ」とスムーロフは断乎たる色を見せながら言った。子供ふたりは広場のほうへ向けて歩きだした。
「遅れたんだ」とコーリャは答えた。「ある事情があってね。君、僕と一緒に歩いて折檻されやしないかい?」
「ああ、もうよして下さい、折檻なんかされるもんですか。ペレズヴォンも連れて来ましたか?」
「つれて来たよ!」
「それで、やはりあそこへ?」
「ああ、やはりあそこへ。」
「ああ、もしジューチカがいたらなあ!」
「ジューチカのことは言いっこなし、ジューチカはもういないんだ。ジューチカは未知の闇の中に葬られちゃったんだ。」
「ああ、こういうふうにしちゃいけないかしら。」スムーロフは急に立ちどまった。「ねえ、イリューシャが言うには、ジューチカもやはり縮れ毛で、青味がかった灰色の犬だったそうだから、これがそのジューチカだって言っちゃいけないかしら。ことによったら、本当にするかもしれませんよ。」
「君、学生が嘘をつくのはよくないよ。これが第一で、たとえいいことのためだって、決して嘘をつくもんじゃない、これが第二だ。が、それよりも君はあそこで、僕が行くってことを喋りゃしなかったろうね。」
「とんでもない、そりゃ僕もわかってますよ。だけど、ペレズヴォンじゃあいつが承知しませんよ。」スムーロフはほっとため息をついた。「こうなんですよ、あの親父ね、『糸瓜』の大尉ね、あれがこう言うんです、――きょう鼻の黒い本当のマスチフ種の仔犬をもらって来てやるって。あいつはその犬でイリューシャの機嫌を直すつもりなんだけど、とてもむずかしいでしょう。」
「だが、一たい先生はどうだい、イリューシャは?」
「ああ、どうもいけないんですよ、いけないんですよ! 僕あれはきっと肺病だと思うなあ。気は確かなんだけど、変な息の仕方でね、その息づかいが悪いんです。この間も少し歩かせてくれって頼むから、靴をはかせてやると、一足ゆきかけて、ぶっ倒れてしまうじゃありませんか。そのくせ、『ああ、お父さん、これはもとの悪い靴で、もう前っから歩きにくくっていけないって、僕しじゅうそう言ってるじゃありませんか』なんて言うんです。あいつは倒れるのを靴のせいにしてるんだけど、なに、ただ体が弱ってるからですよ。もう一週間ももちゃしない。ヘルツェンシュトゥベが診察に来てるんですよ。今あすこの家は金ができてるんですからね。たくさんもってますよ。」
「かたりだよ。」
「誰が?」
「医者だとか医術を種にしている有象無象さ。これは一般的に言っての話だが、個別的に言ったって、もちろんのことだよ。僕は医術というものを認めないんだ。無駄なことだよ。しかし、僕そのうちにすっかり調べ上げるよ、だが、君らはなんてセンチメンタルなことを始めたんだ? 君らは全級こぞってあそこへ行ってるらしいじゃないか?」
「全級こぞって行くわけじゃないんです。十人ばかりの仲間がいつも毎日ゆくんです。そんなこと何でもないじゃありませんか。」
「しかし、この件について不思議なのは、アレクセイ・カラマーゾフの役廻りだよ。あいつの兄は明日か明後日あたり、ああいう犯罪のために裁判されようとしてるのに、どうしてあの男は子供たちと、そんなセンチメンタルな真似をしてる余裕があるんだろう?」
「それは、センチメンタルなことでも何でもないんですよ。だって、そういう君だって、イリューシャと仲直りに行ってるじゃありませんか。」
「仲直り! 滑稽な言葉だね。もっとも、僕は誰にも自分の行為を解剖すること[#「行為を解剖すること」はママ]を許さないよ。」
「だが、イリューシャは君に会ったら、どんなに喜ぶかしれませんよ! 君が来ようとは、夢にも思ってないんですからね。なぜ君は、なぜ君はあんなに長いこと行こうとしなかったんです?」とスムーロフは熱くなって叫んだ。
「ねえ、君、それは僕の知ったことで、君のことじゃないんだ。僕は自分で勝手に行くんだ。それが僕の意志なんだから。君たちはみんな、アレクセイ・カラマーゾフに引っ張られて行ったんだろう、そこに違いがあるんだよ。それに、僕が行くのは、決して仲直りのためじゃないかもしれないんだよ、仲直りなんてばかばかしいじゃないか。」
「いいえ、アレクセイに引っ張られて行ったんじゃないんです、決して、そうじゃありません。僕らは自分で勝手に行ったんですよ。むろん、初めはアレクセイと一緒に行ったけど、決して何もそんな馬鹿なことをしやしないんですよ。最初に一人、次にもう一人といったふうにね、僕らが行ったら、親父はひどく喜びましたよ。ねえ、君、もしイリューシャが死にでもしたら、親父は本当に気ちがいになりますよ。親父はイリューシャが死ぬことを見抜いているんです。だから、僕らがイリューシャと仲直りしたとき、喜んだの喜ばないのって。イリューシャはちょっと君のことを訊いただけで、ほかに何も言やしませんでした。訊いてしまうと、それっきり黙り込むんですよ。だが、親父さんはきっと気ちがいになるか、それとも頸をくくるかどっちかに違いないんです。あの人は前も気ちがいのようだったんですからね。ねえ、あの人は潔白な人なんですよ、あの時はただ間違いが起ったんですよ。あの親殺しがあの時あの人をあんなにぶったのは、やはりあの親殺しが悪かったんです。」
「だが、どっちにしても、カラマーゾフは僕にとって謎だね。僕はとうからあの男と知合いになれたんだけれど、僕は場合によると傲慢にするのが[#「傲慢にするのが」はママ]好きでね。それにあの男については、僕もある意見を纏め上げたんだが、しかしそれはも少し研究して、闡明しなきゃならない。」
 コーリャはもったいらしく口をつぐんだ。スムーロフも口をつぐんだ。むろん、スムーロフはコーリャを崇拝しきっているので、彼と同等になろうなどとは、考えさえしなかった。今も彼はコーリャにひどく興味をもちはじめた。それは、コーリャが『自分の勝手で』行くのだと説明したからである。してみると、コーリャがきょう突然、行こうと思い立ったについては、きっと何かわけがなければならぬと考えたのである。二人は市《いち》の広場を歩いていた。広場には、近在から来た荷車がたくさん置いてあって、追われて来た鵞鳥ががやがや集っていた。町の女連はテントの中で、輪形のパンや糸などを売っていた。日曜日のこうした集りを、この町では無邪気にも定期市と呼んでいた。この定期市は一年間に幾度もあった。ペレズヴォンはどこかで何かの匂いを嗅ごうとして、ひっきりなしに右左へそれながら、極上の機嫌で走っていた。ほかの犬に出くわすと大乗り気のていで、犬のあらゆる法則にしたがって、互いに嗅ぎ廻すのであった。
「スムーロフ君、僕はリアリズムを観察することが好きでね。」コーリャは突然こう言いはじめた。「君は犬が出くわした時、お互いに匂いを嗅ぎ合うのに気がついたろう? それにはある共通な天性の法則があるんだよ。」
「そう、何だかおかしな法則がね。」
「ちっともおかしかないよ。そりゃ君が間違ってるよ。たとえ偏見に充ちた人間の目からどう見えたって、自然の中にはおかしいものなんか少しもないんだよ。もし君、犬が考えたり、批評したりできるものとしてみたまえ、彼らもその命令者たる人間相互の社会関係に、ほとんどこれと同じくらい、いや、かえってもっとよけいに、滑稽な点を見いだすに違いないよ、――ああ、かえってもっとよけいあるよ。僕がこんなに繰り返して言うのは、われわれ人間のほうがずっとよけいに、馬鹿らしい癖を持っているのを、かたく信じているからだよ。これはラキーチンの意見だが、実際ずぬけた思想だ。スムーロフ君、僕は社会主義者なんだよ。」
社会主義者って何?」とスムーロフは訊いた。
「それはね、もしすべての人が平等で、一つの共通な意見を持っているとすれば、結婚なんてものはなくなってしまって、宗教や法律などは誰でも勝手ということになるんだ。まあ、万事そういった調子さ。だが、君はまだこれがわかるほど、十分大きくなっていない、君にはまだ早い……だが、寒いね。」
「そうですね。十二度ですもの。さっきお父さんが寒暖計を見たんです。」
「スムーロフ君、君は十五度、十八度という冬のまっ最中よりも、たとえばこの頃みたいに、とつぜん十二度の寒さがどかっと来る冬の初め、まだ雪も降ってない冬の初めのほうが、かえって寒いってことに気がついたかい。それはつまり、僕らがまだ寒さに慣れないからだよ。人はとかく慣れやすいものだ。国家的、政治的関係でも何でもそうだ。習慣がおもなる原動力なんだ。だが、あいつは滑稽な百姓だねえ。」
 コーリャは、毛裏の外套を着た背の高い一人の百姓を指さした。彼は人のよさそうな顔つきをして、寒さを防ぐために自分の荷車のそばで、手袋をはめた手をぱたぱたと打ち合せていた。長い亜麻色の顎鬚は、すっかり霜におおわれていた。
「この百姓の顎鬚は凍ってらあ!」コーリャはそのそばを通り過ぎながら、大きな声で意味ありげに叫んだ。
「誰のでも凍ってるだよ。」百姓は落ちつきはらって、ものものしく呟くように答えた。
「からかうのはおよしなさい」とスムーロフは注意した。
「なに、怒りゃしない。あいつはいい男だから、さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら。」
「おや、お前は一たいマトヴェイなのかい?」
「マトヴェイだよ。お前さん知らなかっただかね?」
「知らなかった。僕はあてずっぽに言ってみたんだ。」
「へえ、なんて子供だ。おめえ学校生徒かね?」
「生徒だよ。」
「じゃ、先生にぶたれるかね?」
「ぶたれるというわけでもないが、ちょっとその。」
「痛いかね?」
「痛くないこともないさ!」
「おお、可哀そうに!」百姓は心の底からため息をついた。
「さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら、おめえは可愛らしい若え衆だのう、ほんに。」
 二人の少年はさらに歩みつづけた。
「あいつはいい百姓だよ」とコーリャはスムーロフに話しかけた。
「僕は民衆と話をするのが好きでね、いつでも喜んで彼らの美点を認めてやるんだよ。」
「なぜ君は僕らがぶたれてるなんて、あの男に嘘をついたんです?」とスムーロフは訊いた。
「だって、あいつも少しは慰めてやらなきゃならないじゃないか!」
「なぜ?」
「スムーロフ、僕は一ことですぐわからないで、訊き返されるのが嫌いなんだ、なかにはどんなにしても、合点させることのできないようなやつがいるからね。百姓たちの考えによれば、生徒はぶたれるものなんだ、ぶたれなきゃならないものなんだ。もし、生徒がぶたれなきゃ、そりゃ生徒じゃありゃしない。だから、僕がぶたれないと言ってみたまえ。あいつ悲観しちゃうに違いないよ。だが、君にゃそんなことわからない。民衆と話をするには呼吸がいるよ。」
「だけど、後生だから、突っかかるのをよして下さい。でないと、またあの鵞鳥の時みたいなことがもちあがるから。」
「じゃ、君はこわいんだね?」
「笑っちゃいけませんよ、コーリャ、僕まったくこわいんです。お父さんがひどく怒りつけるに相違ないんだもの。僕は君と一緒に歩いちゃいけないって、厳しく止められてるんですよ。」
「心配することはないよ。こんどは何にも起りゃしない。やあ、こんにちは! ナターシャ。」彼は掛小屋の中の物売り女の一人にこう声をかけた。
「わたしはナターシャじゃない、マリヤだよ」と物売り女は、呶鳴るように言った。彼女はまだ年よりというほどでなかった。
「マリヤというのかい、そりゃいいね、さようなら。」
「ええ、この生意気小僧め、どこにいるか目にも入らないちびのくせに、人並みのことを言やがる。」
「そんな暇あないよ、お前なんかと話をする暇は。この次の日曜日にでも話をしようよ。」まるでこっちからではなく、先方から話しかけでもしたように、コーリャは手を振った。
「日曜日にお前と何の話をするんだい? 自分で突っかかって来やがったくせに、ごろつき!」とマリヤは呶鳴りたてた。「ぶん撲ってやるぞ、本当に、人を馬鹿にしくさって!」
 マリヤと並んで、てんでに屋台で商いをしていた物売りの女の間には、どっと笑い声が鳴り渡った。と、いきなり今までの話に腹をたてた一人の男が、町のアーケードの中から跳び出して来た。彼は番頭風をしていたが、この町の商人ではなく渡り者であった。青い裾長の上衣《カフタン》を着て、廂のついた帽子をかぶり、濃い亜麻色の縮れ毛に、長い蒼ざめたあばた面をした、まだ若そうなその男は、ばかばかしく興奮しながら、拳を振ってコーリャを嚇しはじめた。
「おれは手前を知ってるぞ」と彼はいらだたしげに叫んだ。
「おれは手前を知ってるぞ?」
 コーリャはじっと彼を見つめた。が、その男といつどんな喧嘩をしたのか、どうも思い出すことができなかった。往来で喧嘩をしたことは一度や二度でないので、それを一々思い出すことはできなかった。
「知ってる?」と彼は皮肉に訊いた。
「おれは手前を知ってるんだ! おれは手前を知ってるんだ!」若い男は馬鹿の一つ覚えに、同じことばかり繰り返した。
「そりゃ結構だね。だが、僕は今いそがしいんだ、失敬するよ!」
「何だって生意気なことを言うんだ?」と町人は叫んだ。「またしても生意気なことを言やがって! おれは貴様を知ってるぞっ! しじゅう生意気なことばかり言やがって!」
「おい君、僕が生意気なことを言おうと言うまいと、この場合、君の関係したことじゃないよ。」コーリャは依然として彼を見つめながら、立ちどまってこう言った。
「どうしておれの関係したことでないんだ?」
「なに、ただ君の関係したことでないんだよ!」
「じゃ、誰の関係したことだ? 誰のことだ? え、誰のことだ?」
「そりゃね、今のところ、トリーフォン・ニキーチッチに関係したことで、君のことじゃないよ。」
「トリーフォン・ニキーチッチたあ、誰のことだ?」やはり熱してはいたが、馬鹿のような驚き方をして、若者はコーリャに詰め寄った。コーリャは、もったいらしく、じろじろ彼を見まわした。
「昇天祭に行ったかね?」突然きっとした調子で熱心に訊いた。
「昇天祭たあ何だ? 何のために? いや、行かなかった。」若者はいささか毒気を抜かれた。
「君はサバネーエフを知ってるかね?」とコーリヤは一そう熱心に、一そうきっとした調子でつづけた。
「サバネーエフたあ誰だ? いや、知んない。」
「ふん、それじゃお話になりゃしない!」コーリャはいきなり言葉を切って、くるりと右のほうへ向きを変えた。そしてサバネーエフさえ知らないようなたわけとは、話をするのもばかばかしいといったふうに、すたすた歩きだした。
「おい、こら、待てっ! サバネーエフって誰のことだ?」若者はわれに返って、また興奮しながらこう言った。
「あいつは一たい何を言ったんだ?」彼はにわかに物売り女たちのほうへ振り向いて、愚かしい顔つきをしながら、一同を見た。
 女房たちは笑いだした。
「変った子だよ」と一人が言った。
「誰のことだい、一たい誰のことだい、あいつがサバネーエフと言ったのは!」若者は右の手を振りながら、いきおい猛に繰り返した。
「ああ、そりゃきっと、クジミーチェフのとこで使われていた、あのサバネーエフのことだよ。きっとそうだよ。」だしぬけに一人の女が推察を下した。
 若者はきょとんとした目をじっとその女に据えた。
「クジ……ミー……チェフ?」もう一人の女が鸚鵡返しにこう言った。「じゃ、なんのトリーフォンなものか? あれはクジマーで、トリーフォンじゃありゃしないよ。ところが、あの子はトリーフォン・ニキーチッチと言ってたから、つまりあの男たあ違うんだよ。」
「なあに、そりゃトリーフォンでもサバネーエフでもなくって、チジョフっていうんだよ。」それまで黙って真面目に聞いていたもう一人の女が、とつぜん口を入れた。「あの人は、アレクセイ・イヴァーヌイチていうんだよ。チジョフさ、アレクセイ・イヴァーヌイチさ。」
「そうそう、本当にチジョフって言ったよ。」さらにいま一人の女が熱心にこう言った。
 若者は呆気にとられて、女たちの顔をかわるがわる見まわした。
「じゃ、あいつ何だってあんなことを訊いたんだ、おい、なぜ訊いたんだ?」と彼はほとんどやけに叫んだ。「『サバネーエフを知ってるかい?』だってさ。馬鹿にしてやがらあ、一たいそのサバネーエフていうなあ、誰のことなんだ?」
「お前さんも血のめぐりの悪い人だね。それはサバネーエフじゃない、チジョフだって言ってるじゃないか、アレクセイ・イヴァーヌイチ・チジョフだよ、そうなんだよ!」と一人の物売り女が嚙んで含めるように言った。
「チジョフってどんな男だね? どんな男だね? 知ってるなら聞かせてくれ。」
「何でも背のひょろ長い、鼻っ垂らしの、夏分市場にいた男だよ。」
「だが、そのチジョフがおれに何だって言うんだ、え、みなの衆?」
「チジョフがお前さんに何だろうと、そんなことわたしが知るものかね。」
「誰が知るものかね」ともう一人の女が口を入れた。「お前さんこそ、そんなに騒ぎたてるくらいなら、自分で知ってそうなもんじゃないか。あの子はお前さんに言ったんで、わたしたちに言ったんじゃないからね。お前さんもよっぽど阿呆だよ。でも、本当に知らないのかね!」
「誰を?」
「チジョフをさ。」
「チジョフなんかくそ食らえだ、ついでに手前も一緒によ! 見ろ、あいつぶち殺してやるから! おれを馬鹿にしやがったんだ。」
「チジョフをぶち殺すって? あべこべにお前のほうがやられらあ! お前は馬鹿だよ、本当に!」
「チジョフじゃない、チジョフじゃないってば、ろくでなしの悪党婆め、餓鬼をぶち殺してやると言ってるんだよう! あいつをつれて来てくれ、あいつをここへつれて来てくれ。あいつしと[#「しと」に傍点]をなぶりゃがったんだ!」
 女たちは大声を上げて笑った。が、コーリャはそのとき勝ち誇ったような顔つきで、もうずっと向うのほうを歩いていた。スムーロフは、うしろに叫ぶ人々の群を顧みながら、コーリャについて歩いた。彼はコーリャの巻き添えになりはせぬかと危ぶみながらも、やはり大いに愉快なのであった。
「君があの男に訊いたサバネーエフっていうのは、一たいどんな男なの?」彼はもう答えを予感しながら、コーリャに訊いた。
「どんな男か僕が知るものかい! あいつらはああして晩まで呶鳴り合ってるだろう。僕はね、こうして社会の各階級の馬鹿者どもを、揺ぶってやるのが好きなんだよ。そら、またのろま野郎が立ってる。ほら、あの百姓だよ。ねえ君、『馬鹿なフランス人より馬鹿なものはない』とよく言うが、しかしロシヤ人のご面相は、すっかり本性を現わしているよ。ねえ、あいつの顔には、この男は馬鹿なり、と書いてあるだろう、あの百姓の顔にさ、え?」
「よしなさい、コーリャ、かまわずに行きましょうよ。」
「どうしてかまわずにいられるものか。さあ、僕は始めるよ。おい! 百姓、こんにちは!」
 頑丈な百姓がすぐそばをのろのろと歩いていた、一杯ひっかけたものらしい。丸っこい、おめでたそうな顔で、顎鬚は胡麻塩になっていた。彼は頭を持ちあげて少年を見た。
「やあ、もしふざけるんでなけりゃ、こんにちは!」彼はゆるゆるとした調子でこう答えた。
「じゃ、もしふざけてるんだと?」コーリャは笑いだした。
「なあに、ふざけるならふざけるがええ、そりゃおめえの勝手だあ。そんなこたあちっともかまやしねえ。いつでも勝手にふざけるがええだ。」
「君どうも失敬、ちょっとふざけたんだよ。」
「なら、神様が赦して下さるだ。」
「お前も赦してくれるかね?」
「そりゃあ赦すとも。まあ、行きなせえ。」
「ほんとにお前は! だが、お前は利口な百姓かもしれないね。」
「お前よりちっとんべえ利口だよ。」百姓は思いがけなく、依然としてもったいらしい調子で、こう答えた。
「まさか」とコーリャは、ちょっと度胆を抜かれた。
「本当の話だよ。」
「いや、そうかもしれないな。」
「そうだとも、お前。」
「さようなら、百姓。」
「さようなら。」
「百姓もいろいろあるもんだね。」しばらく黙っていたあとで、コーリャはスムーロフに言った。「僕もまさか、こんな利口なやつにぶっ突かろうとは思わなかったよ。僕はどんな場合でも、民衆の知恵を認めるに躊躇しないね。」
 遠い会堂の時計は十一時半を打った。二人の少年に急ぎだした。そして、二等大尉スネギリョフの家までだいぶ遠い路を、ほとんど話もせずにぐんぐん歩いて行った。もう家まで二十歩ばかりというとき、コーリャはぴったり足をとめ、一あし先に行って、カラマーゾフを呼び出すように、とスムーロフに言いつけた。
「まず当ってみる必要があるんだ」と彼はスムーロフに言った。
「だって、なぜ呼び出すの」とスムーロフは言葉を返した。
「このまま入っても、みんな君が来たのをひどく喜ぶよ。それに、なぜこんな寒い外なんかで、近づきになるんだろう?」
「あの男をこの寒いところへ呼び出さなけりゃならないわけは、僕もう自分でちゃんと心得てるんだ。」コーリャは高圧的に遮った(これはこの『小さい子供たち』に対して、彼がとくに好んでやる癖であった)。スムーロフは命令をはたすべく駈けだした。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社