ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第五章 イリューシャの寝床のそばで

   第五 イリューシャの寝床のそばで

 もはやわれらにとって馴染みの深いその部屋には、同じく馴染みの深い休職二等大尉スネギリョフの家族が住まっていたが、このとき狭い部屋の中は大勢の人で一ぱいになって、息苦しいほどであった。幾たりかの子供たちも、イリューシャのそばに腰かけていた。彼らはみんなスムーロフと同じように、アリョーシャに曳きずられてイリューシャと仲直りしたことを、否定したいような心持でいたが、事実はやはりそうであった。この場合、アリョーシャの腕前は、『仔牛の愛情』をぬきにして、わざとらしくないように偶然をよそおいながら、子供たちを一人一人、イリューシャと和解させたことである。で、これはイリューシャの苦悶をやわらげるのに、あずかって力があった。以前敵であったこれらの子供たちが、自分に対して優しい友誼と同情を表してくれるのを見ると、イリューシャはひどく感動した、[#「感動した、」はママ]ただ一人クラソートキンのいないことが、彼の心中に恐ろしい重石となって横たわっていた。もしイリューシャの苦い追憶の中に、最も苦いものがあるとすれば、それは例のクラソートキンとの挿話であった。クラソートキンは彼にとって、唯一の親友でもあれば保護者でもあったのに、彼はあのとき、ナイフをふるってその人に飛びかかったのである。賢い少年スムーロフ(一ばん先にイリューシャと仲直りに来た)も、そう思っていた。けれど、スムーロフが遠廻しに彼に向って、アリョーシャが、『ある用事のために』訪ねて来ようと思っていると伝えた時、クラソートキンはすぐ、取りつく島もないように、きっぱりそれを拒絶して、自分がどんな行動をとるべきかは、自分でちゃんと知っているから、誰からも忠告などしてもらいたくない。もし病人のところへ行く必要があれば、自分には『自分の考え』があるから、いつ見舞いに行くか自分で決める、――とさっそく、こんなふうに『カラマーゾフ』に伝えるよう、スムーロフに依頼したのである。それは、まだこの日曜から二週間も前のことであった。こういうわけで、アリョーシャは自分でクラソートキンのところへ行く計画を断念してしまったが、しかしなお一両度、スムーロフをクラソートキンのところへ使いにやった。が、二度ながら、クラソートキンは恐ろしくいらいらした烈しい言葉で、断然その要求を拒絶してしまった。そして、もしアリョーシャが自分で来たら、決してイリューシャのところへ行かないから、この上うるさくしないでくれ、とアリョーシャに答えさせた。で、スムーロフさえこの最後の日まで、コーリャが今朝イリューシャ訪問を決したことを知らなかった。ところが、コーリャは前の晩スムーロフと別れる時、一緒にスネギリョフのところへ行くから、あす家で待っていてくれ、しかし、自分はだしぬけに行きたいのだから、決して誰にも知らせてはいけない、とこう突然に言いだしたのである。スムーロフは承知した。彼はある時クラソートキンが、『ジューチカがもし生きているとしたら、それを捜しだすことができなけりゃ、やつらはみんな驢馬だ』と何げなく言った言葉を根にもって、きっとクラソートキンは行方不明になったジューチカを連れて来るに違いない、と想像していた。けれど、スムーロフが折を見て、その犬に関する推察をおずおずとほのめかした時、クラソートキンは急にかんかんになって怒りだした。「僕にはペレズヴォンというものがあるのに、人の犬なんか町じゅう捜し廻るような馬鹿だと思うのかい、それにピンを呑み込んだ犬が生きてるなんて、そんなことがどうして考えられるものか。それは仔牛の愛情だよ、それっきりさ!」
 ところが、イリューシャはもうほとんど二週間も、片隅の聖像のそばにある小さな寝床から離れなかった。アリョーシャに逢って指に嚙みついて以来、学校へも行かないでいた。彼はその日から発病したのである。もっとも、当座一カ月ばかりはときどき寝床から起きて、部屋の中や玄関などをぶらつくこともできたが、今はすっかり弱ってしまって、もう父親に手つだってもらわなければ、身動きさえもできなかった。父親は心配しておどおどしていた。酒もすっかり断って、愛児が死にはしないかという懸念のために、ほとんど気ちがいのようになっていた。ことに、彼の腕をとって部屋の中を歩かせてから、寝床へ寝かしつけたあとなど、いきなり玄関の暗い片隅へ走り出て、額を壁に押しつけたまま、イリューシャに聞えぬように声を忍ばせ、身を慄わして、さめざめと啜り泣くこともたびたびあった。
 部屋へ帰ると、彼は愛児を楽しませ慰めるために、昔噺や滑稽談を聞かせたり、あるいは自分が見たおかしな人たちの真似をしたり、動物の滑稽な吠え声や啼き声まで真似てみせた。けれども、イリューシャは父親がそうした滑稽な、道化めいたことをするのをひどくいやがった。少年はその不快さを現わさないように努めたが、しかし、父親が世間から馬鹿にされているということを、心臓の痛いほど意識しては、しじゅう『糸瓜』のことや、例の『恐ろしい日』のことなどを、たえまなく思いうかべていた。しとやかで、つつましい、脚の悪い姉のニーノチカも、やはり父のおどけを好まなかった(ヴァルヴァーラ・ニコラエヴナはもうとっくにペテルブルグへ勉強に行っていた)。しかし、半気ちがいの母親はひどくそれを面白かって、自分の夫がもの真似をしたり、何か滑稽な身振りを始めたりすると、心底から笑いだすのであった。彼女を慰めるものはただこれだけなので、そのほかのときは、もうみんなに忘れられてしまったとか、誰も自分を尊敬してくれないとか、みんなに馬鹿にされてばかりいるとか言って、ひっきりなしにぼやいたり泣いたりしていた。が、近来彼女も急に何となく変ってきたように見える。そして、部屋の隅に寝ているイリューシャを見ては、ふかいもの思いに沈むのが常であった。ひどく沈んで無口になり、よしんば泣きだすにしても、聞かれないように低い声で泣いた。二等大尉は彼女のこの変化に気づいて苦しい疑惑を感じた。子供たちの訪問は、最初あまり彼女の気に入らず、ただ腹を立てさせるだけであったが、やがて、その快活な叫びや話し声は彼女の気をまぎらすようになり、とどのつまりは、すっかり気に入ってしまった。もし子供たちが来なくなったら、彼女はひどくふさぎ込んだに違いない。子供たちが何か話をしたり、遊戯でも始めたりすると、彼女はきゃっきゃっと笑って、手を拍つのであった。時には自分のそばへ呼び寄せて、接吻さえした。とりわけ少年スムーロフを愛した。
 二等大尉にいたっては、イリューシャを慰めに来る子供たちの来訪を、最初から満身の歓喜をもって迎えていた。そのために、イリューシャがくよくよしなくなり、はやく回復に向うだろうという希望さえいだくのであった。彼はイリューシャの病状に不安を持っていたが、最後の瞬間まで、愛児が急によくなるに相違ないということを、つかの間も疑わないのであった。で、彼は小さい客たちをうやうやしく迎えて、そのそばを歩き廻ったり、世話をやいたりするばかりか、彼らを抱いて歩かないばかりであった。実際、一ど抱こうとしたことさえある。けれど、こんな冗談はイリューシャの気に入らなかったので、彼もすぐやめてしまった。彼は子供たちのために薑 餅《しょうがもち》や、胡桃などを買って来たり、お茶をわかしたり、サンドイッチを作ったりした。ここで言っておかなければならぬのは、彼はその時分、金廻りがよくなっていたことである。彼ははたしてアリョーシャの予言どおり、カチェリーナ・イヴァーノヴナからの二百ルーブリを受け取った。やがて、カチェリーナは彼らの事情や、イリューシャの病気などをくわしく知ったので、自分から彼らの住まいを訪れて、家族のもの全部と知合いになったうえ、巧みに半気ちがいの二等大尉夫人を魅惑してしまった。それ以来、彼女は金を惜しまなかった。息子が死にはしまいかという恐ろしい想念に圧倒された二等大尉は、以前の誇りを忘れて、おとなしくその施しを受けていた。そのころ医師のヘルツェンシュトゥベは、カチェリーナの依頼によって隔日に規則ただしく病人を見舞ったが、その診療の効果は、はかばかしく見えなかった。彼はただやたらに薬を病人につぎ込むばかりであった。が、そのかわり、この日、すなわち日曜日の朝、二等大尉の家では、モスクワから来たある一人の医師を待っていた。それはモスクワで非常に評判の医師で、カチェリーナがわざわざ手紙をやって招いたのである。それはイリューシャのためではなく、ほかにある目的があったのだけれど、それはあとで話すことにして、とにかく、せっかく医師が着いたので、彼女はイリューシャの診察をも依頼した。このことは二等大尉もあらかじめ知らせを受けていた。
 愛児イリューシャが、絶えず苦にしているコーリャの見舞いを、彼はとうから待ち望んでいたのだが、今だしぬけにやって来ようとは夢にも思わなかった。コーリャが戸を開けて部屋の中へ現われた瞬間、二等大尉も子供たちもみんな病人の寝床のそばに集って、たった今つれて来た小さなマスチフ種の仔犬を見ていた。それは昨日生れたばかりなのだが、行方不明になってむろんもう死んだはずのジューチカのことをしじゅう苦に病んでいるイリューシャを慰めて気をまぎらすために、一週間も前から二等大尉がもらう約束をしていたものである。で、もう三日も前から小さい仔犬、それもありふれたものでなく、純粋のマスチフ種(これがむろん非常に重要な点であった)の仔犬を持って来てくれるということを、ちゃんと聞いて知っていたイリューシャは、微妙な優しい心づかいのために、この贈物を喜ぶようなふりをして見せていたが、その新しい仔犬がかえって彼の心に、かつて苦しめた不幸なジューチカの思い出を一そう強めるかもしれぬということは、父親にも子供たちにもはっきりわかっていたのである。仔犬は彼のそばに横たわってうごめいていた。彼は病的な微笑をうかべながら、瘦せ細った青白い手で仔犬を撫でた。仔犬は確かに彼の気に入ったらしかったが……しかし、それでもやはりジューチカではなかった。やはりジューチカはいなかった。もしジューチカと仔犬が一緒にそこにいたなら、それこそ完全な幸福を感じたことであろうに!
「クラソートキンだ!」一番にコーリャの入って来るのを見つけた一人の子供が、突然こう叫んだ。と、室内には明らかに動揺が起った。子供たちはさっと道を開いて、寝床の両側に並んだので、途端に病床のイリューシャがすっかり見えた。二等大尉はまっしぐらにコーリャのほうへ駈け寄った。
「どうぞお入り下さい、どうぞお入り下さい……大事なお客さん!」と彼はコーリャに呟いた。「イリューシャ、クラソートキンさんがお前を見舞いに来て下すったよ……」
 しかし、クラソートキンは、まず彼に手を与えて、社交上の礼儀作法に関する驚くべき知識を示した。彼はまっさきに、安楽椅子に腰かけている二等大尉夫人のほうへ向いて(彼女はちょうどこの時ひどく不機嫌であった。そして子供たちがイリューシャの寝床を遮った、[#「遮った、」はママ]自分に新しい仔犬を見せてくれないと、ぶつぶつ小言をいっていた)、きわめて慇懃に足摺りをし、次にニーノチカのほうへ向きを換えて、一個の婦人として同様に会釈をした。この慇懃なふるまいは、病める夫人にきわめて快い印象を与えた。
「この人はお若いけれど、立派な教育のおあんなさることがすぐわかりますわ」と彼女は両手をひろげながら、大きな声で言った。「ところが、ここにいるほかのお客さんたちときたら、まあ、何ということでしょう、お互いに乗っかりっこなんかして入って来てさ。」
「何だよ、おっ母さん、お互いに乗っかりっこするなんて、一たいそれは何のことだね?」と二等大尉は愛想よく囁いたが、いくらか『おっ母さん』を心配しているふうであった。
「玄関のところで、お互いに肩に乗っかって入って来るんですよ。れっきとした家へ、肩車で入って来るなんて、何というお客さんでしょう?」
「では、誰が、誰がそんなことをして入って来たんだね、おっ母さん、誰が?」
「今日は、ほら、あの子はこの子の肩に乗ってるし、またこの子はあの子の上に乗ってさ……」
 けれど、コーリャはもうイリューシャの寝床のそばに立っていた。病人は見る見るさっと蒼くなった。彼は寝台の上に身を起して、じっとコーリャを見つめた。こちらはもう二カ月も、以前の小さい親友を見なかったので、愕然としてその前に立ちどまった。こんなやつれて黄いろくなった顔や、熱に燃えて何だかひどく大きくなったような目や、こんな瘦せ細った手などを見ようとは、想像することもできなかったのである。彼はイリューシャがおそろしく深い、せわしそうな息づかいをしているのや、唇がすっかり乾ききっている様子などを、悲痛な驚きをもってうちまもった。彼はイリューシャのほうヘ一歩あゆみ寄って手をさし伸べると、ほとんど喪心したような様子でこう言った。
「え、お爺さん……どうしたね?」
 けれども、その声は途切れて、磊落な調子が持ちきれなかった。彼の顔は突然ぴくりと痙攣し、唇のあたりで何かがわなわなと慄えた。イリューシャは病的ににこっとしたが、やはり言葉を出すことができなかった。コーリャは急に手を上げて、何のためかイリューシャの髪を掌で撫でた。
「なに……大……丈夫……だよ!」と彼は静かにイリューシャに囁いた。それは相手に力をつけるためというわけでもなく、自分でもなぜかわからずにそう言ったのである。二人はまたしばらくだまっていた。
「それは何だね、新しい仔犬かね?」コーリャはおそろしく無表情な声で、突然こう訊いた。
「そう……で……す」とイリューシャは息を切らせながら、囁くように長く声を曳いた。
「鼻が黒いから、こりゃ猛犬だよ、鎖に繋いでおくやつなんだよ。」いかにも仔犬とその黒い鼻だけが刻下の大問題であるかのように、コーリャはもったいらしく、きっぱりと言った。が、その実、彼は『ちっちゃな子供』のように泣きだすまいと、内部に起ってくる感情を抑えるため、しきりに努力しているのであったが、やはりどうしても抑えきれなかった。「大きくなったら、鎖に繋いでおかなきゃならないようになるよ。僕ちゃんとわかってる。」
「この犬は大きくなるよ!」むらがっている子供の一人がこう叫んだ。
「そりゃ、マスチフ種だもの、大きくなるにきまってるさ。こんなに、牛の仔くらいになるよ。」ふいに幾たりかの声が響き渡った。
「牛の仔くらいになりますとも、本当に牛の仔くらいになりますとも」と二等大尉はそばへ飛んで来た。「私はわざとそういう素敵な猛犬を捜したんです。そいつのふた親もやはり大きな猛犬でね、背の高さが床からこのくらいもありましたよ……どうかおかけ下さい、イリューシャの寝台の上か、でなければ、こちらのベンチへ。どうぞおかけ下さい、大事なお客さま、長いあいだ待ちこがれていたお客さま……アレクセイさんと一緒においで下さったんですな?」
 コーリャは、イリューシャの寝台の脚の辺に腰をおろした。彼はざっくばらんに話を始めようと思って、みちみち用意して来たのだけれど、今はすっかり糸口を失ってしまった。
「いいえ、僕ペレズヴォンと一緒に……僕は今ペレズヴォンという犬を飼っています。スラヴ流の名前なんです。あそこに待っていますが……僕が一つ口笛を鳴らすと、すぐ飛び込んで来ます。僕も犬を連れて来たんだよ。」彼はふいにイリューシャのほうに向った。「お爺さん、ジューチカを覚えてるかね?」彼はだしぬけにこう訊いて、イリューシャをぎょっとさせた。
 イリューシャの顔は歪んだ。彼は悩ましげにコーリャを見やった。戸口に立っていたアリョーシャは顔をしかめながら、ジューチカの名を口に出すなという意味を、そっと頭で合図したが、コーリャはそれに気がつかなかった、あるいは気がつこうとしなかったのかもしれない。
「ジューチカはどこにいるの?」とイリューシャは引っちぎったような声で訊いた。
「ちょっ、君のジューチカなんか、――駄目だよ! 君のジューチカは行方不明じゃないか!」
 イリューシャは口をつぐんだが、もう一度じいっとコーリャを見た。アリョーシャはコーリャの視線を捕えて、またしきりと頭を振って合図したが、コーリャはつと目をそむけて[#「コーリャはつと目をそむけて」はママ]、今度もやはり気がつかないようなふりをした。
「どこかへ駈け出して、行方不明になったんだ。あんなご馳走を食ったんだもの、いなくなるにきまってるじゃないか」とコーリャはなさけ容赦もなく、切って捨てるように言ってのけたが、自分もひどく息をはずませているらしかった。「そのかわり、僕にはペレズヴォンという犬がある……スラヴ流の名前でね……君のところへ連れて来たんだ……」
「いらない!」とイリューシャはいきなりそう言った。
「いや、いや、いるよ、ぜひ見たまえ……君も喜ぶよ。僕わざと連れて来たんだ……あの犬みたいに、やはり尨毛なんだよ……奥さん、ここへ僕の犬を呼んでいいですか?」彼は不思議にも極度の興奮を感じながら、突然スネギリョーヴァ夫人に向ってこう言った。
「いらない、いらない!」とイリューシャは悲しげな、引っちぎったような声で叫んだ。彼の目には非難の色が燃えていた。
「もしあなた………」二等大尉は、壁のそばにおいてある大箱に腰をかけようとしたが、急につと立ちあがった。「あなた……一つまた今度……」と彼は呟いたが、コーリャは無理ひたいに大尉の言葉を遮りながら、突然、「スムーロフ、戸を開けてくれっ!」と叫んだ。そして、スムーロフが戸を開けると同時に、ぴっと呼子を鳴らした。と、ペレズヴォンが一散に部屋の中へ駈け込んだ。
「跳ねるんだ、ペレズヴォン、芸だ! 芸だ!」とコーリャはいきなり席を立ちあがって叫んだ。犬は後脚で立って、イリューシャの寝床の前でちんちんをした。と、思いがけないことが起った。イリューシャはぶるぶると身ぶるいをして、急に力一ぱい体を前へ突き出し、ペレズヴォンのほうへかがみ込んで、茫然感覚を失ったようにその犬を見た。
「これは……ジューチカだ!」彼は苦痛と幸福にひび割れたような声で叫んだ。
「じゃ、君は何だと思ったんだね?」とコーリャはかん高い嬉しそうな声で、力一ぱいに叫んだ。そして、犬のほうへかがみ込んで摑まえると、イリューシャのほうへ抱き上げた。
「見たまえ、お爺さん、ね、目が片っ方ないだろう、左の耳が裂けてるだろう、君が話して聞かせた目印と、寸分ちがわないよ。僕はその目じるしでこの犬を捜したんだ。しかも、あの時すぐに捜し出したんだ。この犬は誰のものでもなかったんでしょう。この犬は誰のものでもなかったんでしょう!」彼は二等大尉や、その細君や、アリョーシャや、それからまたイリューシャを見まわしながら、早口に説明した。「この犬はフェドートフの家の裏庭にいたんだ。そこに垂れ込もうとしたんだけど、あすこで食べものをやらなかったんだよ。ところが、先生、田舎から逃げ出した犬でね……僕はそれを捜し出したんだ……ね、お爺さん、この犬はあの時、君のパンを呑み込まなかったんだよ。もし、呑み込んでれば、むろんもう死んでいるはずだ、むろんそうだとも! いいあんばいに、早く吐き出したんだよ、――こうして、まだ生きてるところを見るとね。ところが、君は吐き出したのに気がつかなかったんだよ。吐き出しはしたが、やはり舌を突かれたんで、あの時きゃんきゃん鳴いたんだ。そして、鳴きながら駈け出したもんだから、君はすっかり呑み込んだものと思ったんだ。そりゃ鳴いたのも無理ないよ。だって、犬の口ん中の皮はとても華奢なんだもの……人間のより柔かいんだ、ずっと柔かいんだ!」とコーリャは猛烈な勢いで叫んだ。彼の顔は喜びのために燃えるように輝いていた。
 イリューシャは口をきくこともできなかった。彼は口をぽかんと開けて、布ぎれのように青ざめた顔をしながら、何だかひどく飛び出たような大きな目で、じっとコーリャを見つめていた。コーリャもこういう瞬間の病人に与える影響が、どれほどまでに恐ろしく、致命的なものであるかを知っていたら、決してこんなとっぴなことをしなかっただろう。が、そこにいるものでこれに気がついたのは、ただアリョーシャ一人だけだったかもしれない。二等大尉はというと、まるで小さな子供になりきったようであった。
「ジューチカ! では、これがジューチカですかい?」と彼は有頂天な声で叫んだ。「イリューシャ、これがジューチカだよ、お前のジューチカだよ! おっ母さん、これがジューチカだよ!」
 彼はもう泣きださないばかりであった。
「ああ、僕はこれに気がつかなかったんだからなあ」とスムーロフは悲しそうに叫んだ。「やっぱり、クラソートキンはえらいや! 僕はこの人がジューチカを捜し出すに相違ないって言ったが、本当に捜し出したよ。」
「本当に捜し出した!」とまた誰かが嬉しそうに応じた。
「クラソートキンはえらい!」ともう一人の声が響いた。
「えらい、えらい!」と子供たち一同は叫んで、拍手を始めた。
「まあ、待ちたまえ、待ちたまえ。」コーリャは一同を呶鳴り負かそうとやっきになった。
「僕は君らに事情を話そう、その事情が一番の山なんだよ、ほかのことなんかつまらないや! 僕はこの犬を捜し出すと、家へ連れてかえって、すぐに隠してしまったのさ。家の中へ、錠で閉じ籠めてしまったんだ。こうして、つい近頃まで、誰にも見せなかった、ただスムーロフ一人だけは、二週間ばかり前に知ったけれど、僕がこれはペレズヴォンだと言ってだましたので、スムーロフも気がつかなかったんだ。ところが、僕は合いの手にこのジューチカにいろんな芸当を教えた。いま君らに見せるがね、こいつがどんな芸当を覚えてるか見てくれたまえ! それはね、お爺さん、よく教え込まれて馴れきった時に、君んとこへ連れて来ようと思ったからだよ。『ほら、お爺さん、君のジューチカはこんな犬になったよ!』って、君に自慢しようってわけなんだ。ところで、あなたのところに何か牛肉の切れでもありませんかね、こいつが今あなた方に一つ芸当をやってお目にかけます。あなた方が腹をかかえて笑うようなやつをね。牛肉の切れ、一たいお宅にないんですか?」
 二等大尉は玄関を通り抜けて、自分たちの賄いをしてもらっている家主の住まいへ、一目散に駈け込んだ。コーリャは貴重な時間を失うまいと、むやみにせき込んで、『死ね!』とペレズヴォンに叫んだ。すると、犬は途端にくるくる廻ると、仰向けに寝ころんで、四つ足を上にしたまま、じっと死んだふりをしていた。子供たちは笑った。イリューシャは依然として、悩ましげな微笑をうかべながら眺めていた。しかし、ペレズヴォンの死んだ真似は、誰よりも一ばん『おっ母さん』の気に入った。彼女は犬を見て大声に笑いながら、指をぱちぱちと鳴らして呼んだ。
「ペレズヴォン、ペレズヴォン!」
「どんなにしたって起きやしませんよ、どんなにしたって。」コーリャは得意になって、勝ち誇ったように叫んだ。(もっとも、その自慢は正当なものであった)。「たとえ世界じゅうの人が呶鳴ったって、起きやしませんよ。ところが、僕が呼びさえすれば、すぐに飛び起きます! Ici, ペレズヴォン!」
 犬は飛び起きて、くんくん鳴きながら、嬉しそうに跳ねだした。二等大尉は煮た牛肉を一きれ持って駈けつけた。
「熱くはありませんか?」コーリャは肉を受け取りながら、事務的な調子で訊いた。「いや、熱くはない。犬は熱いものを好きませんからね。さあ、みなさん、ごらんなさい……イリューシャ、見たまえ、さあ、見たまえったら、お爺さん、見たまえ、どうして君は見ないんだね? 僕がわざわざ連れて来たのに、イリューシャは見てくれないんだからなあ!」
 新しい芸当というのはこうである。じっと立って顔を突き出している犬の鼻の真上に、うまそうな肉の切れをのせると、可哀そうに、犬は鼻の上に肉の切れをのせたまま、主人の命令がないかぎり、三十分間でも一時間でも身動き一つせず、じっと立っていなければならないのであった。
「それっ!」と、コーリャは叫んだ。すると、肉はたちまちペレズヴォンの鼻から口の中へ飛び込んだ。
 見物の人たちはもちろん、みな感嘆の声をもらした。
「じゃ、君はただ犬を教え込んでいたために、今まで来なかったんですか?」アリョーシャは思わず、なじるような調子になってこう叫んだ。
「むろんそうです!」とコーリャは思いきって平気な声で言った。「僕はこの犬の立派に仕あがったところを見せたかったんです。」
「ペレズヴォン! ペレズヴォン!」イリューシャは犬を招きながら、急にその瘦せ細った指をぱちぱちと鳴らした。
「どうするんだね! それよか、こつい[#「こつい」はママ]を君の蒲団の上へ飛びあがらせたらいいじゃないか。Ici, ペレズヴォン!」コーリャは掌で蒲団の上をぽんと叩いた。
 すると、ペレズヴォンは矢のようにイリューシャのそばへ飛びあがった。イリューシャはやにわに犬の頭を両手で抱いた。と、ペレズヴォンはすぐそのお礼に彼の頬を舐めまわした。イリューシャは犬を抱きしめて、寝床の上に身を横たえ、その房房とした毛の中に頭を埋めてしまった。
「おお、おお!」と二等大尉は叫んだ。
 コーリャはまたイリューシャの寝床の上に腰をおろした。
「イリューシャ、僕はもう一つ君に見せるものがあるんだ。僕は君に大砲を持って来たんだよ。君、憶えてるだろう! あのとき君にこの大砲のことを話したら、君は『ああ、僕にもそれを見せてもらいたいなあ!』と言ったろう。だから、きょう僕が持って来たんだ。」
 この[#「この」はママ]言って、コーリャはせき込みながら、自分の鞄の中から銅の大砲を取り出した。彼がせき込んだのは、自分でも非常な幸福を感じていたからである。ほかの時なら、彼はきっと、ペレズヴォンによって惹起された効果が鎮まるのを、じっと待っていたであろうが、しかし、このときは、『それだけでもお前は幸福なんだが、まだその上に、ほら、もっと幸福を授けてやるよ!』とでもいうような気持で、一切の自己制御を無視しな がら、ひどくせき込んでしまったのである。彼自身もすっかり酔ったようになっていた。
「僕はこの大砲をね、もうずっと前からモローゾフという官吏の家で見ておいたんだ、[#「見ておいたんだ、」はママ]――君のためにさ、お爺さん、君のものだよ。これはあの人の家にあったって、何にもなりゃしないんだ。あの人はこれを兄弟からもらったんだからね。そこで、僕は親父の戸棚から、『マホメットの親戚、一名馬鹿霊験記』という本を引き出して、この大砲と取っ換えっこしたんだ。それは、百年からたったものなんだ、とても大変な本でね、まだ検閲がなかった時分、モスクワで発行されたものさ。ところが、モローゾフはそういうものが大好きなんでね。その上お礼まで言ったよ……」
 コーリャは、みんなで見て楽しまれるように、大砲を手にのせて、一同の前へさし出した。イリューシャも身を起した。そして、やはり右手でペレズヴォンを抱いたまま、狂喜の色をうかべてこの玩具を眺めた。コーリャが自分は火薬を持っているから、『もしご婦人がたを驚かせるようなことがなければ』今ここで撃つこともできると説明した時、一同の興味は極度に達した。『おっ母さん』はすぐに、もっと近くでその玩具を見せてもらいたいと頼んだ。その願いはすぐにいれられた。彼女は車のついた青銅の大砲がむしょうに気に入って、それを自分の膝の上で転がしはじめた。大砲を発射させてもらいたいという乞いを、彼女は喜んで承諾したが、そのくせ何のことか、まるっきりわからないのであった。コーリャは火薬と散弾を出して見せた。もと軍人であった二等大尉は、自分で指図して、ごく少量の火薬を塡めたが、散弾は次の時まで延期するように頼んだ。大砲は筒口を人のいないほうへ向けて、床の上におかれた。人々は三本の導火線を火門へさし込んで、マッチで火をつけた。すると、この上なく見事に発射した。『おっ母さん』はぶるっと身慄いしたが、すぐ愉快そうに笑いだした。子供たちは無言の荘重を保って見物していたが、誰よりも一ばん面白がったのは、イリューシャをうちまもっていた二等大尉である。コーリャは大砲を取り上げ、散弾や火薬を添えて、すぐさまイリューシャに渡した。
「これは君のためにもらったんだよ、君のためなんだよ! もう、とうから用意していたんだ。」彼は幸福感に満ち溢れながら、また繰り返した。
「あら、わたしにちょうだいよ! ねえ、その大砲はわたしにくれたほうがいいわ!」と『おっ母さん』は小さい子供のように、ねだり始めた。
 彼女の顔は、もしもらえなかったらという危惧のために、悲しげな不安の表情をたたえた。コーリャはどぎまぎした。二等大尉は不安らしく騒ぎだした。
「おっ母さん、おっ母さん!」と彼は妻のほうへ駈け寄った。「大砲はお前のものだよ、お前のものだよ、お前のものだよ。けれど、イリューシャに持たせておこうね。なぜって、これはイリューシャがいただいたんだものな。でも、やはりこの大砲はお前のものだよ。イリューシャはいつでもお前にもって遊ばしてくれる。つまり、お前とイリューシャとおもあいにするんだ、おもあいに……」
「いやです、おもあいにするのはいやです。イリューシャのじゃない、すっかりわたしのものになってしまわなけりゃいやです。」今にも本当に泣きだしそうな調子で、『おっ母さん』は言いつづけた。
「おっ母さん、お取んなさい、さあ、お取んなさい!」とにわかにイリューシャは叫んだ。「クラソートキン、これをおっ母さんにやってもいいでしょう?」彼は哀願するような表情で、クラソートキンのほうへ向いた。それはせっかくの贈物を人にやるのを、コーリャに怒られはしないかと、心配するようなふうつきであった。
「いいとも!」とコーリャはすぐに同意し、大砲をイリューシャの手から取って、きわめて慇懃に会釈しながら『おっ母さん』に渡した。
 おっ母さんは感きわまって泣きだした。
「可愛いイリューシャ、お前のようにおっ母さんを大切にするものはないよ!」と彼女は感激して叫んだ。そして、さっそくまた膝の上で大砲を転がしはじめた。
「おっ母さん、お前の手を接吻させておくれ。」こう言って夫は彼女のそばへ駈け寄ると、さっそく自分の計画を実行した。
「それからもう一人、本当に優しい若い人は誰かと言ったら、ほら、このいい子供さんよ!」感謝の念に満ちた夫人は、クラソートキンを指さしながらこう言った。
「でね、イリューシャ、火薬はこれからいくらでも持って来てやるよ。僕らは今じゃ自分で火薬を造ってるんだ。ボロヴィコフが分量を知ったんだよ。硝石二十四分に、硫黄十分と、白樺の炭六分、それを一緒に搗きまぜて、水で柔かく捏ね合せてから、太鼓の皮で瀘《こ》すのさ……それでちゃんと火薬ができるんだよ。」
「僕はスムーロフから君の火薬のことを聞いたけれど、お父さんはそれは本当の火薬じゃないって言っていますよ」とイリューシャは答えた。
「どうして本当でないんだって?」とコーリャは顔を赤らめた。「僕らが造るものだって、ちゃんと発火するよ。だが、僕も知らない……」
「いいえ、そうじゃないんです。」二等大尉はすまないような様子をして、あわてて飛び出した。「いや、本当の火薬はそんな造り方じゃない、とまあ言うには言いましたがね、しかし、そうでもかまわないんで。」
「僕知らないんです。あなたのほうがよく知ってらっしゃるでしょう。僕らは瀬戸で作ったポマードの罎に入れて火をつけたんですが、よく発火しましたよ。すっかり燃えてしまって、ほんのぽっちり煤が残っただけです。けれど、これは柔かく混ぜた塊りで、もし皮で濾《こ》したら……だけど、あなたのほうがよく知っていらっしゃるでしょう。僕じっさい知らないんですから……だが、ブールキンはこの火薬のためにお父さんに撲られたそうだが、君聞いた?」彼は突然イリューシャのほうへ向いた。
「聞きました」とイリューシャは答えた。彼は限りない興味と享楽を感じながら、コーリャの話を聞いていた。
「みんなで罎に一ぱい火薬を造って、それをブールキンが寝台の下に隠しておいたのを、親父に見つけられたんだ。爆発でもしたらどうすると言って、その場でひっぱたいたのさ、そのうえ僕のことを学校へ訴えようとしたんだ。今じゃブールキンは、僕と一緒に遊ぶのを禁《と》められてる。ブールキンばかりじゃない、誰もみんな僕と遊ぶことを禁められてね、スムーロフもやはり、僕のところへ来さしてもらえないんだ。僕はもう評判者になっちまったよ、――何でも『向う見ず』なんだそうだ。」コーリャは軽蔑するように、にたりと笑った。「これはみんなあの鉄道事件から始まったのさ。」
「ああ、私たちもあなたのその冒険談を聞きましたよ!」と二等大尉は叫んだ。「あなたはそこに寝ていて、どんな気持がしました? 汽車の下になった時も、あなたは本当にちっともびっくりしなかったんですか。恐ろしかったでしょうな?」
 二等大尉はしきりにコーリャの機嫌をとった。
「な……なに、それほどでもありませんでしたね!」とコーリャは無造作に答えた。「だが、ここで一ばん僕の名声をとどろかしたのは、あのいまいましい鵞鳥だったよ」と彼はふたたびイリューシャのほうへ向いた。彼は話に無頓着の態度をよそおうていたが、やはり十分もちきれないで、[#「十分もちきれないで、」はママ]ときどき調子をとりはずすのであった。
「ああ、僕は鵞鳥のことも聞いた!」イリューシャは満面を輝かしながら笑いだした。「僕、話を聞いたけど、よくわからなかった。君、ほんとに裁判官に裁判されたんですか?」
「ごくばかばかしい、つまらないことなんだよ。それをここの人たちの癖で、針小棒大に言いふらしたんだ」とコーリャは磊落に言いはじめた。「僕ある時、あの広場を通っていたんだよ。ところが、ちょうどそこへ、鵞鳥が追われて来たんだ。僕は立ちどまって鵞鳥を見ていると、そこに一人、土地の若い者がいた。そいつはヴィシニャコフと言って、いまプロートニコフの店で配達をやっているんだが、僕を見て『お前は何だって鵞鳥を見てるんだ?』と言やがるじゃないか。僕はそいつを見てやった。丸いばかばかしい面をした、二十歳ばかりの若い者なんだ。僕はご存じのとおり、決して民衆をしりぞけない、僕は民衆との接触を愛しているんだからね……僕らは全体から離れてしまってる、――これは明白な原理だ、――カラマーゾフさん、あなたはお笑いになったようですね?」
「いや、とんでもない、私は謹聴していますよ。」アリョーシャは、この上ない無邪気な態度で答えた。で、疑い深いコーリャもたちまち元気づいた。
カラマーゾフさん、僕の議論は明白単純なんです」と彼は嬉しそうに口早に言いだした。
「僕は民衆を信じていて、いつも喜んで彼らの長所を認めます、が、決して彼らを甘やかすようなことはしない。これはsine qua non(必須条件)です……だけど、いま鵞鳥の話をしてたんですね。そこで、僕はその馬鹿野郎のほうへ向いて、『実は鵞鳥が何を考えているだろうと、僕は今それを考えてるんだ』と答えた。ところが、やっこさん、馬鹿げきった顔つきをして僕を見ながら、『鵞鳥が何を考えてるかって?』と言いやがるんだ。で、僕は『まあ、見ろ、そこに燕麦を積んだ馬車があるだろう。袋から燕麦がこぼれている。ところが、鵞鳥が一羽、車の真下に頸を伸ばして麦粒を食ってるだろう、――え、そうだろう?』と言った。『そりゃおれだってよく知ってらあ』とやつが言うんだ。でね、僕はこう言ったのさ。『じゃ、今もしこの馬車をちょっと前へ押せば、車で鵞鳥の頸を轢き切るかどうだ?』するとやつ、『そりゃきっと轢くよ』と言って、顔じゅう口にして笑いながら大恐悦なんだ。『じゃ、君一つ押してみようじゃないか』と僕が言うと、『押してみよう』ときた。僕らは長いこと苦心する必要なんかなかったよ。やつはそっと轡のそばに立つし、僕は鵞鳥を車の下へやるように脇へ行った。が、ちょうどその時、百姓がぼんやりして、誰かと話を始めたので、何も僕がわざわざ車の下へ追うことはいらなかった。つまり、鵞鳥が自分で燕麦を食うために、ちょうど車の下へ頸を伸ばしたんだ。僕が若い者に目まぜをすると、やつは馬を引いた。そして、クワッといったかと思うと、もうちゃんと車は鵞鳥の頸を真っ二つに轢き切ってしまってるんだ! ところがね、ちょうど折わるくその瞬間に、百姓たちが僕らを見つけて、『お前わざとしたんだろう!』と言って、たちまちわいわい騒ぎだすんだ。『いいや、わざとじゃない。』『いや、わざとだ!』そして『判事のところへ連れて行け!』と言って騒ぎだす。とうとう僕もつかまってしまった。『お前も、あそこにおったから、きっと手つだったんだろう。市場じゅうのものがみなお前を知っている』と言うんだ。実際なぜか市場のものはみんな僕を知ってるんだよ」とコーリャは得意らしくつけ加えた。「僕らはぞろぞろ治安判事のところへ押しかけて行った、鵞鳥も持ってね。見ると、例の若い者は怖がって泣きだすじゃないか。まるで女のように喚くんだ。だが、鳥屋は『あんな真似をされちゃたまらねえ、鵞鳥はいくらでも殺されっちまう!』と言って呶鳴る。むろん、証人も呼ばれたさ。ところが、判事は立ちどころに片づけてしまった。つまり、若い者に鵞鳥の代として鳥屋ヘ一ルーブリ払わせ、鵞鳥は若い者がもらうことにして、将来必ずこんないたずらしちゃいかんというわけなんだ。若い者はやはり、『そりゃわっしじゃない、あいつがわっしをそそのかしたんだ』と言って、女のように喚きながら、僕をさすじゃないか。僕はすっかり冷静にかまえこんで、決してそそのかしなんかしない、ただ根本思想を話して、計画として述べたまでだと答えた。判事のネフェードフはにたりと笑ったが、すぐ自分で自分の笑ったのに腹を立てて、『私はあなたが将来こんな計画をやめて、家にひっこんで本を読んだり、学課を勉強したりするように、今すぐ学校当事者に訴える』と言うんだ。しかし、やっこさん訴えはしなかった、それは冗談だったが、この事件はすぐ評判になって、とうとう学校当事者の耳に入ってしまった。学校のものは耳が早いからね! ことにやっきとなったのは、古典語教師のコルバースニコフさ。だが、ダルダネーロフがまた弁護してくれた。コルバースニコフはまるで緑いろの驢馬みたいに、誰にでも意地わるく食ってかかるんだよ。イリューシャ、君、聞いたかい、あいつは結婚したよ。ミハイロフのところから、千ルーブリの持参金つきでもらったんだが、花嫁は古今未曾有の化物なんだ。で、三年級の連中はすぐにこういう諷詩を作ったんだ。

  引きったれのコルバースニコフさえ嫁をとる
  これにはさすがの三年級もびっくり仰天驚いた

 こういう調子でまだそのさきがあるが、素敵に滑稽なんだ。あとで持って来て見せるよ。ダルダネーロフのことは僕なにも言わない。学識のある、――立派な学識のある人だよ。僕はああいう人を尊敬するね。しかし、決して自分が弁護してもらったからじゃない……」
「でも、君はトロイの創建者のことで、あの人をやりこめたことがありますね!」この時スムーロフは、クラソートキンを自分のことのように、心から自慢しながら口を入れた。鵞鳥の話がすっかり彼の気に入ったのであった。
「へえ、そんなにやりこめたんですかね!」と二等大尉は媚びるように調子を合せた。「それは、誰がトロイを創建したかということでしょう? もう私たちも、そのやりこめなすった話を聞きましたよ。イリューシャがその時さっそく話して聞かせたんで……」
「お父さん、あの人は何でも知ってるんです、誰よりかも[#「誰よりかも」はママ]一等よく知ってるんですよ!」イリューシャも相槌を打った。「あんなふりをしてるけど、その実なんの学課にかけても、僕たちの仲間で一等よくできるんですよ……」
 イリューシャは無限の幸福を感じながらコーリャを見た。
「なに、トロイのことなんかばかばかしい、つまらない話ですよ。僕自身その問題を空虚なものだと思っていますよ」とコーリャは謙遜しながらも、誇らしげに答えた。
 彼はもうすっかり調子づいていたが、しかしまだいくらか不安を感じていた。彼は自分が非常に興奮していて、たとえば鵞鳥の話などもあまり熱心にやりすぎたと感じていた。しかも、アリョーシャがその話の間じゅう黙りこんで、きまじめな様子をしていたので、自尊心の強い少年は、『先生が黙ってるのは、僕を軽蔑してるからじゃなかろうか。僕が先生の賞讃を求めてると思ってるからじゃあるまいか? もし、そんな生意気なことを考えてるなら、僕は……』こう考えると、だんだんと心を掻きむしられるような気がしはじめた。
「僕は、あの問題をごくつまらないものと思ってるんだ。」彼はふたたび誇らしげに、断ち切るようにこう言った。
「だけど、誰がトロイを建てたか、僕、知ってますよ。」その時までほとんど一ことも口をきかなかった一人の子供が、だしぬけにこう言った。それはだんまりやで、非常なはにかみやの、ごく可愛い顔をした十一になる少年で、姓をカルタショフと言った。
 彼は戸のすぐそばに腰かけていた。コーリャはびっくりしたような、ものものしい様子をして彼を見やった。ほかでもない、『誰がトロイを建てたか?』という問題は、まったくクラス全体にとって秘密になっていて、その問題を解くには、スマラーグドフの本を読まなければならなかったのである。けれど、コーリャのほかには、誰もスマラーグドフを持っているものがなかった。ところが、ちょうどあるとき少年カルタショフは、コーリャがよそを向いたすきに、ほかの書物の間にまじっていたスマラーグドフを、そっと手ばやく開いた。すると、トロイの創建者のことを書いたところにぴたりと出くわした。これはもうずっと前のことであったが、彼はやはり何かしらきまりがわるく、自分もそれを知っていると公表するのを躊躇していた。もしひょっと何かことが起りはしないか、どうかしてコーリャが恥をかかせはしないか、とこう懸念していたからである。けれど、今は我慢しきれなくなって、とうとう口をすべらしてしまった。彼はさっきから、言いたくて言いたくてたまらなかったのである。
「じゃ、誰が建てたんだ?」コーリャは傲然と、見おろすように彼のほうへ振り向いた。そして、カルタショフの顔いろで、これは本当に知っているなと見抜いたので、すぐその結果に対する心構えをしていた。人々の気分の中には、何かしら不調和《ディスソナンス》ともいうべきものが生じた。
「トロイを建てたのは、テウクルとダルダンとイルリュスとトロスです」と彼は一息に言ったが、その瞬間、顔を真っ赤にしてしまった。あまり真っ赤になったので、見るのも気の毒なくらいであった。けれど、子供たちはみんなじっと、穴のあくほど彼を見つめた。まる一分間見つづけていたが、やがてその目は一せいにコーリャのほうへ向けられた。こちらは冷静な軽蔑の色をうかべながら、この不敵な少年をじろじろうちまもっていた。
「じゃ、その人たちがどういう工合にして建てたんだ?」彼はやっとお情けでこういう問いを与えた。「町とか国とかを建てるということは、一たいどういう意味なんだね? その人たちはどうしたんだね、そこへやって来て煉瓦でも一枚ずつおいたのかい?」
 どっと笑い声が起った。悪いことをした少年の顔は、ばら色からさらに火のようになった。彼はおしだまってしまい、もう今にも泣きだしそうな顔をした。コーリャはまだしばらくの間、彼をそのままにして試験した。
「国民の基礎というような歴史上の事件を説明するには、まずそれがどんな意義をもっているか理解しなけりゃ駄目だよ」と彼はさとすような調子で厳めしく言った。「もっとも、僕はそういうことなんか、女の作り話なんか、重大視していないのだ。それに、一たい僕は世界歴史なんてものをあまり尊敬していないんだ。」彼はみんなに向いて、とつぜん無造作にこうつけたした。
「え、世界歴史を?」と急に二等大尉はびっくりしたように訊いた。
「そうです、世界歴史です。それは滔々たる人間どもの、無知な所業を研究するにすぎないですからね。僕の尊敬するのはただ数学と自然科学だけです」とコーリャはきっぱり言い切って、ちらとアリョーシャを見やった。彼はこの場で、ただアリョーシャ一人の意見を恐れていたのである。
 が、アリョーシャは依然としておしだまったまま、真面目な顔をしていた。もしアリョーシャが何か一口言えば、それでことはすんだのであろうが、アリョーシャは何も言わなかった。彼の『沈黙は軽蔑の沈黙かもしれない』と思って、コーリャはもうすっかりいらいらしてしまった。
「僕らの学校では、このごろまた古典語を始めましたがね、まるで狂気の沙汰です、それっきりです……カラマーゾフさん、あなたは僕の考えに反対ですか?」
「同意しませんね。」アリョーシャは控え目ににっこりした。
「古典語はですね、もしお望みとあれば、僕の意見を述べますが、あれば秩序取締りの政策なんですよ。ただそのために始めたんです」とコーリャは急にまた息をはずませた。「古典語を入れたのは退屈させるためです。才能を鈍らせるためです。すでに退屈であるが、それをさらにより退屈させるためにはどうしたらいいか? すではノンセンスであるが、[#「すではノンセンスであるが、」はママ]それをさらにより以上ノンセンスにするにはどうしたらいいか? こういうわけでこの古典語を考えついたんです。これが古典語に関する僕のありのままの意見です。そして、僕はこの意見を決して変えないことを希望しています」とコーリャは鋭く言葉を結んだ。
 彼の両頬には赤いしみが現われた。
「それはまったくそうだ。」熱心に聞いていたスムーロフは、確信したように、かん走った声で同意を表した。
「そのくせ、コーリャはラテン語じゃ一番なんですよ!」群の中の一人がふいにこう叫んだ。
 「そうなのよ、お父さん、自分であんなことを言ってるけど、ラテン語じゃ僕たちのうちで一番できるのよ」とイリューシャも相槌を打った。
「それがどうだって?」コーリャは賞められたのも非常に愉快であったが、それでもやはり弁解の必要を感じた。「そりゃ僕もラテン語をこつこつ暗記しています。つまりそうしなけりゃならないからですよ。なぜって、無事に学校を卒業するように、お母さんと約束したからです。僕の考えじゃ、一たんはじめた以上、立派にやり遂げたほうがいいと思うんです。けれど内心、僕はふかく古典主義なんて下劣なものを軽蔑しています……カラマーゾフさん、あなたはいかがですか?」
「でも、どうして『下劣なもの』なんです?」とアリョーシャはふたたび微笑した。
「だって、そうじゃありませんか、古典は残らず各国語に翻訳されてるから、古典研究のためにはラテン語なんかちっとも必要ありません。ただ政策として、人の才能を鈍らせるために必要とされたのです。どうしてこれが下劣でないと言えますか?」
「まあ、誰が君にそんなことを教えたんです?」とうとうアリョーシャはびっくりしたように叫んだ。
「第一に教わらなくたって、僕は自分でちゃんとわかります。それから第二として、僕がいま古典はぜんぶ翻訳されてると言ったのは、コルバースニコフ教授が三年級ぜんたいに向って、公然と言ったことなんです」
「お医者さんがいらしてよ!」それまで黙っていたニーノチカは、突然こう叫んだ。
 実際その時、ホフラコーヴァ夫人の箱馬車が門へ近づいた。朝から待ちかねていた二等大尉は、一目散に門のほうへ、出迎えに駈け出した。『おっ母さん』は身づくろいして、もったいらしい様子をした。アリョーシャはイリューシャのそばへ寄って、枕を直しはじめた。ニーノチカは自分の安楽椅子に腰かけたまま、気づかわしそうにそのほうを見やるのであった。少年たちはあわててさよならをしはじめた。中には晩にまた来ると約束するものもあった。コーリャはペレズヴォンを呼んだ。すると、犬は寝床の上から飛びおりた。
「僕、帰りゃしないよ、帰りゃしないよ!」とコーリャはあわててイリューシャに言った。「僕は玄関で待ってて、医者が帰ったらまたすぐ来るよ、ペレズヴォンを連れて来るよ。」
 しかし、医師はもう入って来た。熊の毛皮の外套を着、長い暗黒色の頬髯を生やし、顎をつやつやと剃ったその姿は、いかにもものものしかった。閾を跨ぐと、彼は度胆を抜かれたようにぴったり立ちどまった。入るところを間違えたような気がしたのである。で、彼は外套も脱がなければ、ラッコ皮の廂のついた同じものの帽子を取ろうともしないで、『これはどうしたことだ? ここはどこだ?』と呟いた。人ががやがやしていることや、部屋の粗末なことや、片隅の繩に洗濯物のかけ並べてあることなどが、彼を面くらわせたのである。二等大尉は彼に向って、丁寧に低く腰をかがめた。 
「ここでございます、ここでございます」と彼はすっかり恐縮しながら呟いた。「ここでございます。わたくしのところでございます。あなたさまはわたくしのところへ……」
「スネ……ギ……リョフですか?」と医師はもったいらしく大声で言った。「スネギリョフさんは、あなたですか?」
「わたくしでございます!」
「ああ!」
 医師はもう一ど気むずかしそうに部屋を見まわし、外套を投げ出した。頸にかかっている厳めしい勲章が、一同の目にぎらりと光った。二等大尉は外套を宙で受けとめた。医師は帽子を脱いで、「患者はどこです?」と大きな声で催促するように訊いた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社