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フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第七章 イリューシャ

  第七 イリューシャ

 医師はまた毛皮の外套にくるまり、帽子をかぶって出て来た。彼は腹だたしそうな気むずかしい顔つきをしていた。それは何か汚いものに触れるのを恐れているようであった。彼はちらりと玄関のほうへ視線を投げ、その拍子にいかつい目つきで、アリョーシャとコーリャを見た。アリョーシャは戸口から馭者を手招きした。と、医師を乗せて来た馬車は、入口に寄せられた。二等大尉は医師のあとからまっしぐらに飛び出して来て、謝罪でもするようにその前に腰をかがめながら、最後の宣告を聞こうと、引き止めた。哀れな大尉の額は死人の顔そのままで、その目は慴えたようであった。
「先生さま、先生さま……一たいもう?」彼はこう言いさしたが、まだ言い終らぬうちに、絶望のていで両手を拍った。彼は医師がもう一こと何とか言ってくれたら、不幸な子供の容態が実際もち直すとでも思っているもののように、最後の哀願の色をうかべて、医師を見つめるのであった。
「どうも仕方がないね! 私は神様じゃないから。」医師は馴れきった、さとすような声で、無造作にこう答えた。
「ドクトル……先生さま……それはもうすぐでございましょうか……すぐで?」
「万一の覚悟……をしておいたが、いいでしょう。」医師は一こと一こと、力を入れながらこう言うと、視線をわきへそらし、馬車のほうをさして、閾を跨ごうと身構えした。
「先生さま、お願いでございます!」二等大尉はびっくりしたように、医師を引き止めた。「先生さま!………では、どうしても、もうどうしても、今ではどうしても助からないのでございましょうか?………」
「もう私ではどうにも……ならん!」と医師はじれったそうに言った。「だが、ふむ、」彼は急に立ちどまった。「でも、もしお前さんが今すぐ、一刻も猶予せずに(医師は『今すぐ、一刻も猶予せずに』という言葉を、いかついところを通り越して、ほとんど腹立たしいばかりに言ったので、二等大尉はびくりと身ぶるいしたほどであった)……患者を………シ―ラ―ク―サヘ……連れて……行けば……温―暖な気―候―のために、ことによったら……あるいは―……」
シラクサですって!」言葉の意味を解しかねるらしく、二等大尉はこう叫んだ。
シラクサというと、――それはシシリイにあるのです。」コーリャは説明のために、とつぜん大きな声で投げつけるように言った。
 医師は彼を見やった。
「シシリイヘ! 旦那さま、先生さま、」二等大尉は茫然としてしまった。「まあ、ごらんのとおりでございます!」彼は自分の家財道具を指さしながら、両手で円を描いた。「あのおっ母さんや、家族のものはどうなるのでございましょう?」
「い、いや、家族はシシリイヘ行くんじゃない、お前さんの家族はコーカサスへ行くんだ、春早々にね……娘さんはコーカサスへやって、細君は……あの人もレウマチをなおすために、やはりコーカサスで規定の湯治をすますと……それから、すぐパリヘ―出かけて、精―神―病科専門のレペル―レティエの治療院へはいるんだねえ。私がその人へ添書を書いてもいい、そうすれば……あるいは……」
「先生、先生! でもこのとおりじゃありませんか!」何も貼ってない玄関の丸太壁を、絶望的に指さしながら、二等大尉はまたとつぜん両手を振った。
「いや、それはもう私の知ったことじゃないんだ。」医師は薄笑いをもらした。「私はただ、最後の方法をどうかというお前さんの質問に対して、科学の示し得るところを言ったにすぎん。だから、それ以外のことは……残念ながら……」
「ご心配はいりません、お医者さん、僕の犬はあなたに嚙みつきゃしません。」
 医師が、閾の上に立っていたペレズヴォンにいくぶん不安げな目をそそいでいるのに気づいたので、コーリャは大声にこう遮った。
 コーリャの声には怒りの調子がこもっていた。彼は先生と言わずに、わざと『お医者さん』と言ったのである。それは、彼があとで白状したとおり、『侮辱のために言った』のである。
「な―ん―で―すって?」医者は驚いたようにコーリャの方へ目を据えて、ぐいと頭をしゃくった。「こ……この子は何ものだね?」医者は、アリョーシャに責任を求めようとでもするように、とうぜん彼のほうへふり向いた。
「この子はペレズヴォンの主人ですよ。お医者さん、僕の人物については心配ご無用ですよ。」コーリャはまたきっぱりこう言った。
「ズヴォン?」と医師は鸚鵡返しに言った。ペレズヴォンが何ものかわからなかったのである。
「やっこさん自分がどこにいるか知らないんだ。さようなら、お医者さん、またシラクサでお目にかかりましょう。」
「何ものです、こ……この子は? 何ものです、何ものです?」医師は、にわかにやっきとなってこう言った。
「先生、あれはここの学生です。やんちゃ者なんです。お気にとめないで下さい」とアリョーシャは眉をしかめながら、早口に言った。「コーリャ、もうおやめなさい!」と彼はクラソートキンに叫んだ。「先生、気におとめになっちゃいけませんよ」と今度はいくぶんいらいらしながら繰り返した。
「引っぱたいて……引っぱたいてやるぞっ……引っぱたいて!」なぜか度はずれにいきり立った医師は、どしんどしんと地団駄を踏んだ。
「だがね、お医者さん、僕のペレズヴォンは、ことによったら、本当に嚙みつくかもしれませんよ!」コーリャは真っ蒼になって目を光らせながら、声をふるわしてこう言った。「Iic[#「Iic」はママ], ペレズヴォン!」
「コーリャ、もう一度そんなことを言ったら、私は永久に君と絶交しますよ!」とアリョーシャは威をおびた調子で叫んだ。
「お医者さん、ニコライ・クラソートキンに命令することのできるものが、世界じゅうにたった一人あるんです、それはこの人なんです(と、コーリャはアリョーシャを指さした)。僕はこの人にしたがいます、さようなら!」
 彼はいきなりそこを離れると、戸をあけて、急ぎ足に部屋へ入った。ペレズヴォンも彼のあとから駈け出した。医師はアリョーシャをうちまもりながら、化石したように五秒間ばかり立ちすくんでいたが、やがて突然ぺっと唾をして、「一たい、一たい、一たい、一たいこれは何事だ!」と大声に繰り返しながら、急ぎ足に馬車のほうへ行った。二等大尉は医師を馬車へ乗せるために、急いで駈けだした。アリョーシャはコーリャにつづいて部屋へ入った。コーリャはもうイリューシャの寝床のそばに立っていた。イリューシャは彼の手を握って、お父さんを呼んだ。やがて二等大尉も帰って来た。
「お父さん、お父さん、ここへ来てちょうだい……僕たちはね……」とイリューシャは非常な興奮のていで呟いたが、あとをつづけることができないらしく、とつぜん瘦せた両手を前へさし伸べて、力のかぎり彼ら二人、コーリャと父親を一度に強く抱きしめ、彼らにぴったり身を寄せた。
 二等大尉はにわかにぶるぶると全身を慄わしながら、忍び音にすすり泣きをはじめた。コーリャの唇と顋が慄えだした。
「お父さん、お父さん! 僕お父さんが可哀そうでならないの!」とイリューシャは声高に、呻くように言った。
「イリューシャ……ね、これ……いま先生が言われたが……お前たっしゃになるよ……そして、私たちは仕合せになるよ……先生は……」と二等大尉が言いかけた。
「おお、お父さん! 僕こんどのお医者さんが何と言ったか知ってるの……僕見たんだもの!」と、イリューシャは叫んで、父の肩に顔を埋めつつ、二人をしっかりと抱きしめた。
「お父さん、泣かないでちょうだい……僕が死んだら、ほかのいい子をもらってちょうだい……あの人たちみんなの中から自分でいいのを選って、イリューシャという名をつけて、僕の代りに可愛がってちょうだい……」
「よせよ、お爺さん、なおるよ!」とクラソートキンは怒ったように叫んだ。
「でも、僕をね、お父さん、決して僕を忘れないでちょうだい」とイリューシャは言葉をつづけた。「僕のお墓に詣ってね……ああ、それからお父さん、いつも一緒に散歩してたあの大きな石のそばに葬ってちょうだい……そして、夕方になったら、クラソートキン君と一緒にお詣りに来てちょうだい……ペレズヴォンもね、僕待ってるから……お父さん、お父さん!」
 イリューシャの声はぷつりときれた。三人は抱き合ったまま黙ってしまった。ニーノチカは安楽椅子に腰かけたまま、忍び音に泣いていたが、『おっ母さん』もみんなが泣いているのを見ると、急にさめざめと涙を流しはじめた。
「イリューシャ、イリューシャ!」と彼女は叫んだ。
 クラソートキンは突然、イリューシャの手から身をもぎ放した。
「さようなら、お爺さん、ご飯時分だから、お母さんが僕を待ってるだろう」と彼は早口に言った。「お母さんに断わって来なくて、本当に残念だった! きっと心配するだろう……だが、ご飯をすましてからすぐ来るよ、一日じゅう来ているよ、一晩じゅう来てるよ、そしてうんと話すよ。うんと話すよ。ペレズヴォンも連れて来るよ、しかし、今は連れて帰ろう。だって、僕がいないと、こいつ吠えだして君の邪魔をするからさ。さようなら!」
 こう言って、彼は玄関へ走り出た。彼は泣きたくなかったが、玄関へ出ると、やはり泣いてしまった。こうしているところを、アリョーシャが見つけた。
「コーリャ、君はきっと約束どおり来てくれるでしょうね。でないと、イリューシャはひどく力を落しますよ」とアリョーシャは念を押した。
「きっと来ます! ああ、残念だ、どうしで[#「どうしで」はママ]僕はもっと前に来なかったんだろう。」
 コーリャは泣きながら、しかもその泣いていることを恥じようともせずに呟いた。
 ちょうどこの時、とつぜん部屋の中から、二等大尉が転げるように駈け出して、すぐにうしろの戸を閉めた。彼は気ちがいのような顔つきをして、唇を慄わせていた。そして、二人の若者の前に立って、ぐいと両手を上へあげた。
「どんないい子もほしくない! ほかの子なんか、ほしくない!」と彼は歯ぎしりしながら、気うとい声で囁いた。「もしわれなんじを忘れなば、エルサレム、われを罰せよ……」
 彼は涙にむせんだようなふうで、しまいまで言うことができなかった。ぐったりと木製のベンチの前に跪き、両の拳でわれとわが頭をしめつけて、たわいもなく泣きじゃくりをはじめた。が、自分の泣き声が部屋の中に聞えないようにと、懸命に声を抑えていた。コーリャは往来へ飛び出した。
「さようなら、カラマーゾフさん! あなたも来ますか?」彼は鋭い声で、腹立たしそうにアリョーシャに叫んだ。
「きっと晩に来ますよ。」
「あの人はエルサレムがどうとか言ったが……あれは一たい何でしょう?」
「あれは聖書の中にあるんです、『エルサレムよ、もしわれなんじを忘れなば』、つまり、私が自分の持っている一ばん尊いものを忘れたら、何かに見かえてしまったら、私を罰して下さい、というのです……」
「わかりました、たくさんです! じゃあ、あなたもおいでなさい! Ici, ペレズヴォン!」と彼はあらあらしい声で犬を呼び、大股にわが家をさして急いだ。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社