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フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第九章 悪魔 イヴァンの悪夢

   第九 悪魔 イヴァンの悪夢

 筆者《わたし》は医者ではないが、しかしイヴァンの病気がどういう性質のものか、読者にぜひ少し説明しなければならぬ時期が来たような気がする。少し先廻りをして、一ことだけ言っておこう。彼はきょう今晩、譫妄狂にかかる一歩手前まで来ていたのである。この病気は、とくから乱れていながらも、頑固に抵抗していた彼の肉体組織を、ついに征服しつくしたのである。筆者《わたし》は医学を一こう知らないが、大胆に想像してみると、彼はじっさい自分の意志を極度に緊張させて、一時病気を遠ざけていたものらしい。むろん、そのとき彼は、ぜんぜん病気を支配し得るものと、空想していたのである。彼は自分が健康でないことを知っていたが、こんな場合、自分の生涯における運命的な瞬間に、――つまり、ちゃんと出るべきところへ出て、大胆に断乎として言うべきことを言い、『自分で自分の濡衣を干す』べき時に、病気などにかかるのがたまらなく厭であった。もっとも、彼は一度、モスクワから来た新しい医師のところへ相談に出かけてみた。もう前章に述べたとおり、カチェリーナの空想のために招聘されたその医者は、イヴァンの容態を聞きとって、詳しく診察した後、彼が一種の脳病にかかっていると診断した。そして、イヴァンが嫌悪をいだきながら述べたある告白に、いささかも驚かなかったのである。『あなたのような状態にある人が、幻覚におちいるのはありがちのことですよ』と医者は断定した。『もっとも、よく試験してみなけりゃなりませんが……とにかく、時期を逸しないように、すぐ治療しなければいけませんね。でないと、大変なことになりますよ。』けれど、イヴァンは医者の賢明な勧告にしたがって、治療のために床につこうとはしなかった。『だって、まだ歩けるじゃないか。つまり、今のところ気力があるわけだ。倒れたらまたその時のことさ。誰でも好きな人が介抱してくれるだろう。』彼は片手を振って、こう決心した。
 で、すでに述べたとおり、彼は今も自分がうなされているのを、どうやら意識しながら、正面の壁のそばに据えた長椅子の上の何ものかを、頑固にじっと見つめていた。そこには突然、どうして入って来たものやら(イヴァンがスメルジャコフのところから帰って来た時には、部屋の中には誰もいなかったのである)、何者か腰をかけていた。それは一個の紳士であった、いや、一そう的確に言えば、ある特殊なロシヤのゼントルマンで、もうあまり若くない、フランス人の、いわゆる ”pui frisait la cinquantaine”(五十歳に近い人物)である。かなり長くてまだ相当に濃い黒い髪や、楔がたに刈り込んだ顎鬚には、あまり大して白髪も見えなかった。彼は褐色の背広風のものを着込んでいた。それも上手な仕立屋の手でできたものらしいが、もうだいぶくたびれた代物で、流行がすたってから、かれこれ三年くらいになるので、社交界のれっきとした人たちは、もはや二年も前から着なくなってしまっている。シャツも、ショールのような形をした長いネクタイも、みんな一流の紳士がつけるようなものではあったが、シャツは近くでよく見ると、だいぶ薄汚れているし、幅広のネクタイもよほど耗れていた。格子縞のズボンもきちんと落ちついていたが、これも今の流行にしては、やはり色合いが明かるすぎて、型が細すぎるから、今ではもうとっくに人がはかなくなっていた。白い毛のソフトも同様に、季節はずれなものだった。要するに、あまり懐ろのゆたかでない人が、みなりをきちんと整えている、といった恰好である。つまり、紳士は農奴制時代に栄えていた昔の白手《ホワイトハンド》、落魄した地主階級に属する人らしい様子であった。疑いもなく、かつては立派な上流社会にあって、れっきとした友達を持ち、今でも昔のままに、その関係を保っているかもしれないが、若い時の楽しい生活が終って、そのうち農奴制の撤廃にあって落魄するにしたがい、次第次第に善良な旧友の問を転々として歩く、一種のお上品な居候となりはてたのである。旧友がそうした人を自分の家へ入れるのは、当人のどこへでも落ちつきやすい、要領のよい性質を知っているからでもあり、またそういうきちんとした人は、むろん、下座ではあるが、どんな人の前にでも坐らせておけるからであった。そういう居候、すなわち要領のよい紳士は、面白い話をすることと、カルタの相手をすることが上手だけれど、もし人から用事など頼まれても、そんなことをするのは大嫌いなのである。彼らはふつう孤独な人間で、独身者かやもめである。時とすると、子供を持っているようなこともあるが、その子供はいつもどこか遠方の叔母さんか、誰かの家で養育されているにきまっている。紳士は、そういう叔母があることを、立派な社会ではおくびにも出さない。彼らはそういう親戚を持っているのを、いくぶん恥じてでもいるようである。そして、自分の子供から命名日や降誕祭などに、ときどき賀状をもらったり、またどうかすると、その返事を出したりしているうちに、いつとなくその子供を忘れてしまうのである。この思いがけない客の顔つきは、善良とは言えないまでも、やはり要領のいい顔で、あらゆる点から見て、いつでも、どんな愛嬌のある表情でもできそうな様子であった。時計は持っていなかったが、黒いリボンをつけた鼈甲縁の柄つき眼鏡をたずさえていた。右手の中指には、安物のオパールを入れた、大形の金指環がはめられていた。イヴァンは腹立たしげにおし黙って、話しかけようともしなかった。客は話しかけられるのを待っていた。ちょうど食客が上の居間から茶の席へ降りて来て、主人のお話相手をしようと思ったところ、主人が用事ありげなふうで、顔をしかめながら何やら考えているので、おとなしく黙っている、といったようなふうつきであった。が、もし主人のほうから口をききさえすれば、いつでもすぐに愛嬌のある話を始められそうであった。突然、彼の顔に何やら心配らしい色が浮んだ。
「ねえ、君」と彼はイヴァンに話しかけた。「こんなことを言ってははなはだ失礼だが、君はカチェリーナのことを聞くつもりで、スメルジャコフのところへ出かけて行ったくせに、あのひとのことは何も聞かずに帰って来たね。たぶん忘れたんだろう……」
「ああ、そうだった!」イヴァンは突然こう口走った。彼の顔は心配そうにさっと曇った。「そうだ、僕は忘れたんだ……だが、今ではもうどうでもいい、何もかも明日だ」と彼はひとりごとのように呟いた。「だが君」と彼はいらいらした語調で、客のほうに向って、「それは僕がいま思い出すべきはずだったんだ。なぜって、僕は今そのことで頭を悩まされてたんだからね。どうして君はおせっかいをするんだ? それじゃまるで、君が知らせてくれたので、僕が自分で思い出したんじゃない、というように、僕自身信じてしまいそうじゃないか!」
「じゃ、信じないがいいさ。」紳士は愛想よく笑った。「信仰を強要することはできないからね。それに、信仰の問題では証拠、ことに物的証拠なんか役にたちゃしないよ。トマスが信じたのは、よみがえったキリストを見たからじゃなくって、すでにその前から信じたいと思っていたからさ。早い話が、降神術者だがね……おれはあの先生方が大好きさ……考えてみたまえ、あの先生方は、悪魔があの世から自分たちに角を見せてくれるので、降神術は信仰のために有益なものだと思っている。『これは、あの世が実在しているという、いわゆる物的証拠じゃないか』と先生たちは言っている。あの世と物的証拠、何たる取り合せだろう! それはまあ、いいとしてさ、悪魔の実在が証明されたからって、神の実在が証明されるかね? 僕は理想主義者の仲間へ入れてもらいたい。そうすれば、その中で反対論を唱えてやるよ。『僕は現実主義者だが、唯物論者じゃないんだよ、へっ、へっ!』」
「おい、君」とイヴァンはふいにテーブルから立ちあがった。「僕は今まるでうなされてるような気がする……むろん、うなされてるんだ……まあ、かまわず勝手なことを喋るがいい! 君はこの前の時のように、僕を夢中に怒らすことはできまいよ。だが、何だか恥しいような気がする……僕は部屋の中を歩きたい……僕はこの前の時のように、おりおり君の顔が見えず、君の声が聞えなくなるけれど、君の喋ってることはみんなわかる。なぜって、それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの[#「それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの」に傍点]! ただわからないのは、このまえ君に会った時、僕は眠っていたか、それとも、さめながら君を見たかということなんだ。一つ冷たい水でタオルを濡らして頭へのせよう、そうしたら、おそらく君は消えてしまうだろう。」
 イヴァンは部屋の隅へ行って、タオルを持って来ると、言ったとおりに、濡れタオルをのせて、部屋の中をあちこち歩きだした。
「僕は、君が率直に『君、僕』で話してくれるのを嬉しく思うね」と客は話しだした。
「馬鹿。」イヴァンは笑いだした。「僕が君に『あなた』などと言ってたまるものか。僕はいま愉快だが、ただこめかみが痛い……額も痛い……だから、どうかこの前の時みたいに、哲学じみたことを喋らないでくれたまえ。もし引っ込んでいられなきゃ、何か面白いことを喋りたまえ、居候なら居候らしく、世間話でもしたほうがいいよ。本当に困った先生に取っつかれたものさ! だが、僕は君を恐れちゃいないぜ、いまに君を征服してみせる。瘋癲病院なんかへ連れて行かれる心配はないぞ!」
「居候はc'est charmant(おもしろいものだよ)だよ。さよう、僕はありのままの姿をしている。この地上で僕が居候でなくて何だろう?それにしても[#「何だろう?それにしても」はママ]、僕は君の言葉を聞いて少々驚いたね。まったくだよ、君はだんだん僕を実在のものと解釈して、このまえのように、君の空想と思わなくなったからね……」
「僕は一分間だって、お前を実在のものと思やしないよ。」イヴァンはほとんど猛然たる勢いで叫んだ。「お前は虚偽だ、お前は僕の病気だ、お前は幻だ。ただ僕には、どうしたらお前を滅ぼせるかわからない。どうもしばらくのあいだ苦しまなければなるまい。お前は僕の幻覚なんだ。お前は僕自身の化身だ、しかし、ただ僕の一面の化身……一番けがれた愚かしい僕の思想と感情の化身なんだ。だから、この点から言っても、もし僕にお前を相手にする暇さえあれば、お前は確かに僕にとって興味のあるものに相違ない……」
「失敬だがね、失敬だが、一つ君の矛盾を指摘さしてくれたまえ。君はさっき街灯のそばで、『お前はあいつから聞いたんだろう! あいつ[#「あいつ」に傍点]が僕のところへ来ることを、お前はどうして知ったんだ?』と言って、アリョーシャを呶鳴りつけたね。あれは僕のことを言ったんだろう。してみると、君はほんの一瞬間でも信じたんだ。僕の実在を信じたんじゃないか。」紳士は軽く笑った。
「ああ、あれは人間天性の弱点だよ……僕はお前を信ずることができなかった。僕はこのまえ眠っていたか覚めていたか、それさえ憶えていない。ことによったら、あの時お前を夢に見たので、うつつじゃないかもしれん……」
「だが、君はどうしてさっき、あんなにあの人を、アリョーシャをやっつけたんだね? あれは可愛い子だよ。僕は長老ゾシマのことで、アリョーシャに罪をつくったよ。」
「アリョーシャのことを言ってくれるな……下司のくせに何を生意気な!」イヴァンはまた笑いだした。
「君は呶鳴りながら笑ってるね、――これはいい徴候だ。今日はこの前よりだいぶご機嫌がいい。僕にはなぜだかわかっている、偉大なる決心をしたからだよ……」
「決心のことなんか言わないでくれ!」とイヴァンは猛然と呶鳴った。
「わかってる、わかってる、c'est noble, c'est charmant.(それは立派なことだよ。それはいいことだよ)君はあす兄貴の弁護に出かけて行って自分を犠牲にするんだろう……c'est chevaleresque……(それは義侠だよ)」
「黙れ、蹴飛ばすぞ!」
「それはいくぶん有難い、なぜって、蹴られれば僕の目的が達せられるからさ。蹴飛ばすというのは、つまり、君が僕の実在を信じている証拠だ。幻を蹴るものはないからね。冗談はさておき、僕はどんなに罵倒されても何とも思わないが、それにしても、いくら僕だからって、も少しは鄭重な言葉を使ってもよさそうなものだね。馬鹿だの、下司だのって、ちとひどすぎるね!」
「お前を罵るのは、自分を罵るんだ!」イヴァンはまた笑った。「お前は僕だ、ただ顔つきの違う僕自身だ。お前は僕の考えていることを言ってるんだ……少しも新しいことを僕に聞かすことができないんだ!」
「もし僕の思想が、君の思想と一致しているとすれば、それはただただ僕の名誉になるばかりだ」と紳士は慇懃な、しかも威をおびた調子で言った。
「お前はただ僕の穢らわしい思想、ことに馬鹿な思想ばかりとってるんだ。お前は馬鹿で、野卑だ。恐ろしい馬鹿だ。いや、僕は、たまらなくお前が厭だ! ああ、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ!」とイヴァンは歯ぎしりした。
「ねえ、君、僕はやはりゼントルマンとして身を処し、ゼントルマンとして待遇されたいんだがね。」客は一種いかにも食客らしい、はじめから譲歩してかかっているような、人のいい野心を見せながら、言いはじめた。「僕は貧乏だが、しかし、非常に高潔だとは言うまい。が……世間では一般に僕のことを堕落した天使だというのを、原則のように見なしている。実際、僕は自分がいつ、どうして天使だったか思い出せない。よしまたそういう時があったとしても、もう忘れたって罪にならぬくらい昔のことなんだろう。で、今じゃ僕はただ身分ある紳士とりつ評判だけを尊重し、何でも成行きにまかせて、できるだけ愉快な人間になろうと努めているんだ。僕は心底から人間が好きだ、――ああ、僕はいろんな点で無実の罪をきせられているよ! 僕がときどきこの地上へ降りて来ると、僕の生活は何かしら一種の現実となって流れて行く。これが僕には何よりも嬉しいんだ。僕自身も君と同じく、やはり幻想的なものに苦しめられているので、それだけこの地上の現実を愛している。この地上では、すべてが輪郭を持っており、すべてに法式[#「法式」はママ]があり、すべてが幾何学的だ。ところが、僕らのほうでは、一種漠然とした方程式のほか何もないんだ。で、僕はこの地上を歩きながら、空想している。僕は空想するのが好きなんだ。それに、この地上では迷信ぶかくなる、――どうか笑わないでくれたまえ。僕はつまり、この迷信ぶかくなるのが好きなんだ。僕はここで、君らのあらゆる習慣にしたがっている。僕は町のお湯屋に行くことが好きになってね、君は本当にしないだろうが、商人や坊さんなどと一緒に、湯気に蒸されるんだよ。僕の夢想してるのは、七フードもあるでぶでぶ肥った商家の内儀に化けることだ、――しかも、すっかり二度ともとへ戻らないようになりきって、そういう女が信じるものを残らず信じたいんだ。僕の理想は会堂へ入って、純真な心持でお蠟燭を供えることだ、まったくだよ。その時こそ、僕の苦痛は終りを告げるのだ。それから、やはり君らと一緒に、医者にかかることも好きだね。この春、天然痘が流行った時、養育院へ出かけて行って、種痘をうえてもらった。その日、僕はどんなに満足だったかしれない。お仲間のスラヴ民族たちの運動に、十ルーブリ寄付したくらいだよ……だが、君は聞いていないんだね。え、君、君は今日どうもぼんやりしてるよ。」紳士はしばらく口をつぐんだ。「僕はね、きのう君があの医者のところへ行ったことを知ってるよ……どうだね、君の健康は? 医者は君に何と言ったね?」
「馬鹿!」とイヴァンは一刀両断にこう言った。
「だが、その代り、君はお利口なことだよ。君はまた呶鳴るんだね? 僕はべつに同情を表したわけじゃないんだから、答えなけりゃ答えなくたっていい。この頃はまたレウマチスが起ってね……」
「馬鹿!」とイヴァンはふたたび繰り返した。
「君はしじゅう同じことばかり言ってるが、僕は去年ひどいレウマチスにかかってね、いまだに思い出すよ。」
「悪魔でもレウマチスになるかな?」
「僕はときどき人間の姿になるんだもの。レウマチスぐらいにはかかるさ。人間の肉を着る以上、その結果も頂戴するのは仕方があるまいて。Satan sum et nihil humanum a me alienum puto.(わたしは悪魔だから一切人間的なものはわたしにとって縁があるのだ―ラテン語)」
「なに、なに? Satan sum et nihil humanumだって……これは悪魔の言葉としちゃ気がきいてるな?」
「やっと御意に召して嬉しいよ。」
「だが、お前その言葉は僕から取ったものじゃないな。」イヴァンはびっくりしたように、急に開き直った。「僕はそんなことを一度も考えたことはないんだが。不思議だなあ……」
「C'est du nouveau, n'est-ce pas?」こうなりゃいっそのこと、いさぎよく綺麗に君に打ち明けてしまおう。一たいねえ、君、胃の不消化や何やらで夢を見ている時や、ことにうなされている時など、人間はどうかすると非常に芸術的な夢や、非常に複雑な現実や、事件や、あるいは筋の通った一貫した物語などを、最も高尚な現象からチョッキのボタンの果てにいたるまで、びっくりするほどこまごまと見ることがあるものだ。まったくのところ、レフ・トルストイでも、これほど細かくは書けまいと思うくらいにね。しかも、どうかすると、文士じゃなくって、きわめて平凡な人、――役人や、雑報記者や、坊さんなどが、そういう夢を見ることがあるもんだよ……これについては、大きな問題があるんだ。ある大臣が僕に自白したことだがね、何でも彼の立派な思想は、ことごとく眠っている時に思いつくんだってさ。現に今だって、やはりそうだよ。僕は君の幻覚なんだけれど、ちょうどうなされている時みたいに、僕の言うことはなかなか独創的だろう。こんなのは、今まで考えたこともあるまい。だから、僕は決して、君の思想を反復してるんじゃないよ。しかも、僕はやはり君の悪夢にすぎないんだ。」
「嘘をつけ。お前の目的は、お前が独立の存在で、決して僕の悪夢じゃないってことを、僕に信じさせるにある[#「信じさせるにある」はママ]んだ。だから、今お前は僕の夢だなどと言ってるんだ。」
「ねえ、君、きょう僕は特別の研究方法を持って来たんだ。あとで君に説明してあげよう。待ちたまえ、僕はどこまで話したかしら? そうだ、僕はそのとき風邪を引いたんだよ。ただし、君らのところじゃない、あそこで……」
「あそこって、どこだ? え、おい、お前は僕のところに長くいるつもりかね? 帰るわけにゆかないのかね?」とイヴァンはほとんど絶望したように叫んだ。
 彼は歩きやめて、長椅子に腰をおろし、ふたたびテーブルに肱をついて、両手でしっかりと頭を抑えた。彼は頭から濡れタオルを取って、いまいましそうに抛り出した。タオルは何の役にも立たなかったものと見える。
「君の神経は破壊されてるんだ」と紳士はうちとけた口調で、無造作に言った。が、その様子はいかにも親しそうであった。「君は、僕でも風邪を引くことがあるといって怒っているが、しかしそれはきわめて自然な出来事なんだからね。何でも、大急ぎである外交官の夜会へ出かけたと思いたまえ。それは、つねづね大臣夫人になりたがっているペテルブルグの上流の貴婦人が催した夜会だがね、そこで、僕は燕尾服に白いネクタイと手袋をつけたが、その時はまだとんでもないところにいたんだからね。君らのこの地上へおりて来るには、まだ広い空間を飛ばなけりゃならなかったのさ……むろん、それもほんの一瞬間に飛べるんだが、なにしろ太陽の光線でさえ八分間かかるのに、考えてみたまえ、僕は燕尾服と胸の開いたチョッキを着てるんだろう。霊体というものは凍えないけれど、人間の肉を着た以上はどうも……つまり、僕は軽はずみに出かけたんだ。ところが、この空間のエーテル、つまり、この天地の間を充たしている水の中は、途方もなく寒かったんだ……その寒さと言ったら、――もう寒いなどという言葉では現わせないねえ。考えてもみたまえ、氷点下百五十度だぜ! ねえ、田舎の娘どもはよくこんないたずらをするだろう、零下三十度の寒さの時、馴れないやつに斧を甜めさせるんだ。すると、たちまち舌が凍りつくので、馬鹿め、舌の皮を剥がして血みどろになってしまう。しかも、これは僅か三十度の話さ。ところが、百五十度となってみたまえ、斧に指がくっつくが早いか、さっそく、ちぎれてしまうだろうと思うよ、ただし……そこに斧があればだがね……」
「でも、そんなところに斧があるだろうか?」イヴァンはぼんやりと、しかも忌わしそうな調子で、突然、こう口をはさんだ。
 彼は全力を挙げて、自分の悪夢を信じないように、気ちがいにならないように抵抗していた。
「斧が?」と客はびっくりして問い返した。
「そうさ、一たいそんなところで斧がどうなるんだろう?」イヴァンはいきなり、狂猛な調子で、執念く、むきになって叫んだ、
「空間では斧がどうなるかって? Quelle idee!(何という考えだろう!)もしずっと遠くのほうへ行けば、衛星のように何のためとも知らず、地球のまわりを廻転しはじめるだろうと思うね。天文学者たちは、斧の出没を計算するだろうし、ガッツークはそれを暦の中へ書き込むだろうよ。それだけだよ。」
「お前は馬鹿だ、恐ろしい馬鹿だ!」とイヴァンは反抗的に言った。「嘘をつくなら、もっとうまくやれ。でないと、もう僕は聞かんぞ。お前は僕を実在論で説破して、お前の実在を僕に信じさせるつもりなんだろう。だが、僕はお前の存在を信じたくない! 僕は信じやしない!」
「いや、僕は嘘を言ってやしない。みんな本当なんだ。遺憾ながら、真実はほとんどすべての場合、平凡なものだからね。君ほどうも僕から何か偉大なもの、もしくは美しいものを期待しているらしい。どうもお気の毒さま。だって、僕は、自分の力のおよぶだけのものしか、君にさしあげられないから……」
「馬鹿、哲学じみたことを喋らないでくれ!」
「どうして、哲学どころじゃないんだよ。僕は体の右側がすっかりきかなくなっちまって、うんうん唸りだすという騒ぎだ。医者という医者にすっかりかかってみたがね、立派に診察して、まるで掌《たなごころ》を指すがごとくに、症状を残らず話して聞かせるが、どうも癒すことができないんだ。ちょうどそこに、一人の若い感激家の学生がいて、『たとえあなたはお死にになっても、自分がどんな病気で死んだか、すっかりおわかりになるわけですからね!』と言ったもんだ。それに、例の彼らの癖として、すぐ専門家へ患者を送ってしまうのだ。曰く、われわれは診察だけしてあげるから、しかじかの専門家のところへ行くがいい、その人が病気を癒してくれるから、とこう言うじゃないか。なにしろ、今ではどんな病気でも癒すような、そんな旧式な医者はなくなってしまって、ただ専門家だけがいつも新聞に広告してるんだ。もし鼻の病気にかかるとすると、パリヘ行けと言われる。そこへ行けば、ヨーロッパの鼻科専門の医者が癒してくれるというので、パリヘ出かけて行くと、その専門医は鼻を診察して、私はあなたの右の鼻孔だけしか癒せない、左の鼻孔は私の専門外だから、ウィーンへおいでなさい。そこには左の鼻孔を癒してくれる特別な専門医がありますよ、とこうくる。どうも仕方がないから、一つ家伝療治でもやってみることにしたよ、あるドイツ人の医者が、お湯屋の棚へ上って、塩をまぜた蜂蜜で体を拭けばいいと勧めたので、一ど余分に風呂へ入ったつもりで、お湯屋へ行って体じゅうを塗りたくってみたが、何の役にも立たなかったよ。がっかりして、ミランのマッティ伯爵に手紙を出してみると、伯爵は一冊の書物と水薬を送ってよこしたがね、やはり駄目さ。ところが、どうだろう、ホップの麦芽精でなおっちまったじゃないか! 偶然に買い込んだやつを一瓶半も飲むと、立派に癒ってしまったんだ。ぜひ『有難う』を新聞にのせようと決めた。感謝の念が勵いてやまないんだ。ところが、どうだろう、またぞろ厄介なことが起きてきた。どこの編集局でも受けつけてくれないじゃないか。『どうもあまり保守的じゃありませんか。だれが本当にするものですか、le diable n'existe point.(悪魔がいるなんて)』と言って、『匿名でお出しになったほうがいいでしょう』と勧めるのさ。だが、匿名じゃ『有難う』も何もあるものかね。僕は事務員たちにそう言って、笑ってやった。『いまどき神様を信ずるのは保守的だろうが、僕は悪魔だから、僕なら信じられるはずじゃないか。』『まったくそうですね』と彼らは言うのだ。『誰だって悪魔を信じないものはありません。だが、それでもやはりいけません。根本主張を害しますからな。冗談という体裁ならいいですが。』だが、考えてみると、冗談としちゃ、あまり気がきいた話じゃない。こういうわけで、とうとう掲載してくれなかったよ。君は本当にしないかもしれんが、今でも僕はそのことが胸につかえているのだ! 僕の最も立派な感情、――例えば、感謝の念さえも、単に僕の社会的境遇によって、表面的に拒絶されるんだからね。」
「また哲学を始めたな?」とイヴァンはにくにくしげに歯ぎしりした。
「とんでもないことを。しかし、時によると、ちっとは不平を言わずにゃいられないよ。僕は無実の罪をきせられた人間だからね。第一、君でさえ、しょっちゅう僕をばかばかと言ってるじゃないか。まったく君がまだお若いってことがすぐわかるよ。君、ものごとは知恵ばかりじゃゆかない! 僕は生れつき親切で、快活な心の持ち主なんだ。『私もやはりいろんな喜劇を作ります(ゴーゴリの喜劇『検察官』の主人公フレスタコーフの台詞)。』君は僕をまるで老いぼれたフレスタコーフだと思っているらしいね。だが、僕の運命はずっと真剣なんだ。僕はとうてい自分でもわからない一種の宿命によって『否定』するように命ぜられてる。ところが、僕は本来好人物で、否定はしごく不得手なんだ。『いや、否定しろ、否定がなければ批評もなくなるだろう。〈批評欄〉がなければ雑誌も存在できない。批判がなければ〈ホザナ〉ばかりになってしまう。ところが、〈ホザナ〉ばかりじゃ人生は十分でない。この〈ホザナ〉が懐疑の鎔炉を通らなけりゃならない』といったようなわけなんだよ。けれど、僕はそんなことにおせっかいはしない。僕が作ったんじゃなし、僕に責任はないんだ。贖罪山羊《みがわりやぎ》を持って来て、それに批評欄を書かせると、それで人生ができるのだ。われわれはこの喜劇がよくわかっている。例えば、僕は率直に自分の滅亡を要求してるんだが、世間のやつらは、いや、生きておれ、君がいなくなれば、すべてがなくなる。もしこの世のすべてが円満完全だったら、何一つ起りゃしまい、君がいなけりや出来事は少しもあるまい、しかも出来事がなくちゃ困る、とこう言うんだ。で、僕はいやいや歯を食いしばりながら、出来事をつくるため、注文によって不合理なことをやってるんだ。ところで、人間は、そのすぐれた知力にもかかわらず、この喜劇を何か真面目なことのように思い込んでる。これが人間の悲劇なのさ。そりゃむろん、苦しんでいる。けれども……その代り、彼らは生きている、空想的でなしに、現実的に生活している。なぜなら、苦痛こそ生活だからね。苦痛がなければ、人生に何の快楽があるものか、すべてが一種無限の祈禱に化してしまう。すべては神聖だが、少し退屈だ。ところが、僕はどうだ? 僕は苦しんでいるが、しかし生活しちゃいない。僕は不定方程式におけるエッキスだ。僕は一切の初めもなく、終りをも失った人生の幻影の一種だ。自分の名前さえ忘れてしまってるんだよ。君は笑ってるね……いや、笑ってるんじゃなくって、また怒ってるんだろう、君はいつでも怒ってるからな。君はしじゅう賢くなろうと骨折ってるが、僕は繰り返して言う、星の上の生活や、すべての位階や、すべての名誉を捨ててしまって、七プードもある商家のかみさんの体に宿って、神様にお蠟燭を捧げてみたいと思うね。」
「だって、お前は神を信じないのじゃないか?」とイヴァンはにくにくしげに、にやりと笑った。
「何と言ったらいいかなあ、君がもし真面目なら……」
「神はあるのかないのか?」とイヴァンはまた執念く勢い猛に叫んだ。
「じゃ、君は真面目なんだね? だがねえ、君、まったく僕は知らないんだよ、これは真っ正直な話だ!」
「知らなくっても、神を見だろう? いや、お前は実在のものじゃなかった。お前は僕自身なんだ。お前は僕だ、それだけのものだ! お前はやくざ者だ、お前は僕の空想なんだ!」
「もしお望みなら、僕も君と同じ哲学を奉じてもいいさ。それが一ばん公平だろう。Je pense, done je suis.(われ考う、ゆえにわれ在り)これは僕も確かに知っている。が、僕の周囲にあるその他のすべては、つまり、この世界全体も、神も、サタンさえも、――こういうものが、みんなはたして実在しているか、それとも単に僕自身の発散物で、無限の過去からただひとり存在している『自我』の漸次発展したものかということは、僕に証明されていない……だが、僕は急いで切り上げるよ。なぜって、君はすぐに飛びあがって、摑みかかりそうだからね。」
「お前、何か滑稽な逸話でも話したらいいだろう!」とイヴァンは病的な調子で言った。
「逸話なら、ちょうどわれわれの問題にあてはまるやつがあるよ。いや、逸話というより伝説だね。君は『見ているくせに信じない』と言って、僕の不信を責めるがね、君、それは僕一人じゃないよ。僕らの仲間は今みんな苦しんでいる。それというのも、みんな君らの科学のためなんだ。まだ、アトムや、五感や、四大などの時代には、どうかこうか纒っていた。古代にもアトムはあったのだからね。ところが、君らが『化学的分子』だとか、『原形質《プロトプラズム》』だとか、その他さまざまなものを発見したことがわかると、僕らはすっかり尻尾を巻いてしまった。ただもうめちゃくちゃが始まったんだ。何よりいけないのは、迷信だ、愚にもつかん風説なんだ。そんな噂話は、君らの間でもわれわれの間でも同じだ、いや、少し多いくらいだよ。密告も同じことで、僕らのところには、ある種の『報告』を受けつける役所さえあるくらいだ。そこで、この不合理な物語というのは、わが中世紀のもので、――君らのじゃなくって、われわれの中世紀だよ、――七プードもある商家のかみさんのほか、誰一人として信じる者がないくらいだ。ただし、これもやはり人間界のかみさんじゃなくって、われわれのかみさんだがね。ところで、君らの世界にあるものは、みんなわれわれの世界にもあるんだよ。これは禁じられているんだけれど、君一人にだけ、友達のよしみで秘密を打ち明けるんだ。その物語というのは天国に関することで、何でもこの地上に、一人の深遠な思想を持った哲学者がいたそうだ。彼は『法律も、良心も、信仰も一切否定した』が、とりわけ未来の生活を否定したのさ。ところが、やがて死んだ。彼はすぐ、闇黒と死へ赴くものと思っていたのに、どっこい、目の前に突如として、未来の生活が現われた。彼はびっくりもし憤慨もした。『これは、おれの信念に矛盾している』と言ったものだ。これがために彼は裁判されて……ねえ、君、咎めないでくれ、僕はただ自分で聞いたことを話してるだけなんだから。つまり、伝説にすぎないのさ……ところで、裁判の結果、暗闇の中を千兆キロメートル(僕らの世界でも、今じゃキロメートルを使っているからね)歩いて行くように宣告された。この千兆キロメートルの暗闇を通り抜けてしまうと、天国の門が開かれて、すべての罪が赦されるというわけなんだ……」
「だが、その君らの世界では、千兆キロメートルの闇のほかに、どんな拷問があるんだね?」イヴァンは異様に活気づきながら遮った。
「どんな拷問だって? ああ、それを訊かないでくれたまえ。以前はまあ、何やかやあったが、今じゃだんだん道徳的なやつ、いわゆる『良心の呵責』といったような、馬鹿げたことがはやりだした。これもやはり君らの世界から、『君らの人心の軟化』から来たことなんだ。だから、とくをしたのは、ただ良心のないものだけだ。なぜって、良心が全然ないんだもの、良心の呵責ぐらい何でもないじゃないか。その代り、まだ良心と名誉の観念をもっている、れっきとしたものは苦しんだね……実際、まだ準備されていない地盤に、よその制度からまる写しにした改革なんか加えるのは、ただ害毒を流すほか何の益もあるもんじゃない! 昔の火あぶりのほうが、かえっていいくらいだ。まあ、そこで千兆キロメートルの暗闇を宣告された例の先生は、突っ立ったまま、しばらくあたりを見まわしていたが、やがて路の真ん中にごろりと横になって、『おれは歩きたくない。主義として行かない!』と言ったものだ。かりにロシヤの教養ある無神論者の魂と、鯨の腹の中で三日三晩すねていた予言者ヨナの魂を混ぜ合せると、――ちょうど、この路ばたへ横になった思想家の性格ができあがる。」
「一たい、何の上へ横になったんだろう?」
「たぶん何かのっかるものがあったんだろう。君は冷やかしてるんじゃないかね?」
「えらいやつだ!」イヴァンは依然として、異様に興奮しながら叫んだ。彼は今ある思いがけない好奇心を感じながら聞いていた。「じゃ、何かい、今でも横になってるのかね?」
「ところが、そうでないんだ。ほとんど千年ばかり横になっていたが、その後、起きあがって歩きだした。」
「何という馬鹿だ!」イヴァンは神経的にからからと笑って、こう叫んだが、何か一心に考えているようなふうであった。「永久に横になっているのも、千兆キロメートル歩くのも同じことじゃないか? だって、それは百万年も歩かなくちゃならないだろう?」
「もっとずっと永くかかるよ。あいにく鉛筆もないけれど、勘定してみればわかるよ。だが、その男はもうとっくに着いたんだ。そこで話が始まるのさ。」
「なに、着いたって? どこから百万年なんて年を取って来たんだ?」
「君はやはりこの地球のことを考えてるんだね! だが、この地球は、百万度も繰り返されたものかもしれないじゃないか。地球の年限が切れると、凍って、ひびが入って、粉微塵に砕けて、こまかい構成要素に分解して、それからまた水が黒暗淵《やみわた》を蔽い、次にまた彗星が生じ、太陽が生じ、太陽から地球が生ずるのだ、――この順序は、もう無限に繰り返されているかもしれない。そして、すべてが以前と一点一画も違わないんだ。とても不都合な我慢のならん退屈な話さ……」
「よしよし、行き着いてから、どうなったんだね?」
天国の門が開かれて、彼がその中へ踏み込むやいなや、まだ二秒とたたないうちに、――これは時計で言うんだよ、時計で(もっとも、彼の時計は、僕の考えるところでは、旅行中にかくしの中で、もとの要素に分解しているはずだが)、――彼はこの僅か二秒の間に、千兆キロメートルどころか、千兆キロメートルを千兆倍にして、さらにもう千兆倍ぐらいも進めたほど歩けると叫んだ。一口に言えば、彼は『ホザナ』を歌ったんだ。しかも、その薬がききすぎたんだ。それで、そこにいる比較的高尚な思想をもった人たちは、最初のうち、彼と握手をすることさえいさぎよしとしなかったくらいだ。あんまり性急に保守主義に飛び込んでしまった、というわけでね。いかにもロシヤ人らしいじゃないか。繰り返して言うが、これは伝説なんだよ。僕はただ元値で卸すだけのこった。僕らのほうじゃ、今でもまだこうした事柄について、こういう考え方を持っているんだよ。」
「やっとお前の正体を摑まえたぞ!」何やらはっきり思い出すことができたらしく、いかにも子供らしい喜びの声で、イヴァンはこう叫んだ。「この千兆年の逸話は、それは僕が自分で作ったんだ! 僕はその時分、十七で中学に通っていた……僕はその時分、この逸話を作って、コローフキンという一人の友達に話した。これはモスクワであったことだ……この逸話は、非常に僕自身の特徴を出しているもので、どこからも種を取って来ることができないくらいだ。僕はすっかり忘れてしまっていたが……いま無意識に頭へ浮んできた、――まったく僕自身が思い出したので、お前が話したんじゃない! 人間はどうかすると、無数の事件を無意識に思い出すことがある。刑場へ引かれて行く時でさえそうだ……夢で思い出すこともある。お前はつまり、この夢だ! お前は夢だ、実在してなんかいやしない!」
「君がむきになって、僕を否定するところから考えると、」紳士は笑った。「君はまだ確かに僕を信じてるに相違ないな。」
「ちっとも信じちゃいない! 百分の一も信じちゃいない!」
「でも、千分の一くらいは信じてるんだ。薬も少量ですむやつが、一ばん強いものだからね。白状したまえ、君は信じてるだろう、たとえ万分の一でも……」
「一分間も信じやしない。」イヴァンは猛然としてこう叫んだ。「だが、信じたいとは思っている!」と彼はとつぜん異様につけたした。
「へっ! でも、とうとう白状したね! だが、僕は好人物だからね、今度もまた君を助けてあげるよ。ねえ、君、これは僕が君の正体を摑まえた証拠で、君が僕を摑まえたんじゃない! 僕はわざと君の作った逸話を、――君がもう忘れていた逸話を君に話したんだ。君がすっかり僕を信じなくなるようにね。」
「嘘をつけ! お前が現われた目的は、お前の実在を僕に信じさせるためなのだ。」
「確かにそうだ! だが、動揺、不安、信と不信の戦い、――これらは良心のある人間にとって、例えば、君のような人間にとって、どうかすると、首を縊ったほうがましだと思われるほど、苦痛を与えることがあるものだ。僕はね、君がいくらか僕を信じていることを知ったので、この逸話を話して、君に不信をつぎ込んだんだよ。君を信と不信の間に彷徨させる、そこに僕の目的があるんだ。新しい方法《メソード》だよ。君は僕をすっかり信じたくなったかと思うと、すぐまた、僕が夢でなくって実在だということを信じはじめるのだ。ちゃんとわかっているよ。そこで僕は目的を達するんだ。だが、僕の目的は高潔なものだ。僕は君の心にきわめて小さい信仰の種を投げ込む。と、その種から一本の樫の木が芽生えるが、その樫といったら大変なもので、君はその上に坐っていると、『曠野に行いすましている神父や清浄な尼たち』の仲間入りをしたくなるほどの大きさなんだ。なにしろ、君は内心大いに、曠野に隠遁して、蝗を食いたがっているからね!」
「悪党め、じゃ、お前は僕の魂を救おうと思って骨折ってるのか?」
「時にはいいこともしなければならんじゃないか。君は怒っているね。どうやら君は怒っているようだね!」
「道化者! だが、お前はいつかその蝗を食ったり、十七年も、苔の生えるまで、曠野で祈ったりした聖者を、誘惑したことがあるだろう?」
「君、そればかり仕事にしていたんだよ。宇宙万物も忘れて、そんな聖者ひとりに拘泥していたくらいだよ。なぜなら、聖者というものは、非常に高価なダイヤモンドだからね。こういう一人の人間は、時によると、一つの星座ほどの値うちがあるよ、――われわれの世界には特殊な数学があってね、――そんな勝利は高価なものだよ! だが、彼らの中のあるものはね、君は信じないかもしれないが、まったく発達の程度が君にも劣らないくらいだ。彼らは信と不信の深淵を同時に見ることができる。時によると、俳優のゴルブノーフのいわゆる、『真っ逆さま』に飛び込むというような心境と、まったく髪の毛一筋で隔てられるようなことがあるからね。」
「で、お前どうだね、鼻をぶら下げて帰ったかね?(失敗してしょげることを言う)」
「君」と客はものものしい調子で言った。「そりゃ何といっても、まるで鼻を持たずに帰るより、やはり鼻をぶら下げて引きさがったほうがいいこともあるよ。ある病気にかかっている(これもいずれ、きっと専門家が治療するに相違ない)侯爵が、つい近頃、ゼスイット派の神父に懺悔する時に言ったとおりさ。僕もそこに居合せたが、実に面白かったよ。『どうか私の鼻を返して下さい!』と言って、侯爵が自分の胸を打つ。すると、『わが子よ、何事も神様の測るべからざる摂理によって行われるので、時には大なる不幸も、目にこそ見えないけれど、非常に大きな益をもたらすことがあるものじゃ。たとえ苛酷な運命があなたの鼻を奪ったとしても、もう一生涯、ひとりとしてあなたのことを、鼻をぶら下げて引きさがった、などと言うことはできない、その点にあなたの利があるわけですじゃ』と神父はうまく逃げてしまう、『長老、それは慰めになりません!』と侯爵は絶望して叫ぶ。『私は、自分の鼻があるべきところにありさえすれば、一生涯のあいだ、毎日鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んでいますよ。』『わが子よ、あらゆる幸福を一時に求めることはできません。それはつまり、こんな場合にすら、あなたのことを忘れたまわぬ神様を怨むことにあたりますでな。なぜかと言えば、もしあなたが、今おっしゃったように、鼻さえあれば、一生涯鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んで暮すおつもりならば、あなたの希望は、現在もう間接に満たされておるわけですじゃ。というわけは、あなたは鼻をなくしたために、一生鼻をぶら下げて引きさがるような形になりますでな』と言って、神父はため息をつくじゃないか。」
「ふっ! 何というばかばかしい話だ!」とイヴァンは叫んだ。
「いや、君、これはただ君を笑わせたいばかりに話したことさ。が、これはまったくゼスイットの詭弁だよ。しかも、まったく一句たがわず、いま君に話したとおりなんだ。つい近頃の出来事で、ずいぶん僕に面倒をかけたものだ。この不仕合せな青年は家へ帰ると、その夜のうちに自殺してしまった。僕は最後の瞬間まで、そのそばを離れなかったよ……このゼスイットの懺悔堂は、まったく僕の気のふさいでいる時なんか、何より面白い憂さばらしなんだ。そこでもう一つの事件を君に話そう。これこそ、つい二三日前の話なんだ。二十歳になるブロンドのノルマン女、――器量なら、体つきなら、気だてなら、――実に涎が流れるほどの女だがね、それが年とった神父のところへ行ったんだ。女は体をかがめて、隙間ごしに神父に自分の罪を囁くのだ。『わが子よ、どうしたのだ。一たい、また罪を犯したのか?………』と神父は叫んだ。『ああ、聖母《サンタマリヤ》さま、とんでもない! 今度はあの人ではございません。』『だが、いつまでそんなことがつづくのだろう、そしてお前さんはよくまあ、恥しくないことだのう!』『Ah, mon pe're(ああ神父さま)』罪ふかい女は懺悔の涙を流しながら答える。『C,a lui fait tant ee plaisir et a` moi si peu de peine!(あの人は大そう楽しみましたし、わたしも苦しくはなかったのですもの!)』まあ、一つこういう答えを想像してみたまえ! そこで、僕も唖然として引きさがった。これは天性そのものの叫びだからね。これは、君、清浄無垢よりもまさっているくらいだよ。僕はその場ですぐ彼女の罪を赦し、踵を転じて立ち去ろうとしたが、すぐにまたあと戻りをせずにいられなかった。聞くとね、神父は格子ごしに、女に今晩の密会を約束しているじゃないか、――実際、燧石のように堅い老人なんだが、こうして、見るまに堕落してしまったんだね。天性が、天性の真理が勝利を占めたんだ! どうしたんだ、君はまた鼻を横っちょへ向けて、怒ってるじゃないか? 一たいどうすれば君の気に入るのか、もうまるでわけがわからない……」
「僕にかまわないでくれ。お前は僕の頭の中を、執念ぶかい悪夢のように敲き通すのだ」と、イヴァンは病的に呻いた。彼は自分の幻影に対して、ぜんぜん無力なのであった。「僕は、お前と一緒にいるのが退屈だ。たまらなく苦しい! 僕は、お前を追っ払うことができさえすれば、どんなことでもいとわないんだがなあ!」
「繰り返して言うが、君は自分の要求を加減しなけりゃいけないよ。僕から何か『偉大なるもの、美しきもの』を要求しては困る。なに、見たまえ、僕と君とは、お互いに親密に暮してゆけるからね」と紳士はさとすように言った。「まったく、君は僕が焔の翼をつけ、『雷のごとくはためき、太陽のごとく真紅に光り輝きながら』君の前に現われないで、こんなつつましやかな様子で出て来たのに、腹を立てているんだろう。第一に、君の審美感が侮辱され、第二に、君の誇りが傷つけられたんだ。自分のようなこんな偉大な人間のところへ、どうしてこんな卑しい悪魔がやって来たんだろう、というわけでね。実際、君の中には、すでにベリンスキイに嘲笑された、あのロマンチックな気分が流れているんだ。現に僕は、さっき君のところへ来る時に、冗談半分、コーカサスで勤めている四等官のふうをして、燕尾服をつけ、獅子と太陽の勲章(ペルシャの勲章)をつけて現われようかとも思ったが、せめて北極星章か、あるいはシリウス章くらいならまだしも、獅子と太陽なんか燕尾服につけて来たというので、君が殴りはしないかと危ぶんだのだ。君はしきりに僕を馬鹿だと言うね。だが、僕は知力の点においては、君と同一視されたいなどと、そんなとんでもない大それた野心は持っていないよ。メフィストフェレスファウストの前に現われて、自分は悪を望んでいながら、その実いいことばかりしていると、自己証明をしたね。ところが、あいつは何と言おうと勝手だが、僕はまったく反対だよ。僕はこの世界において真理を愛し、心から善を望んでいる唯一人かもしれない。僕は、十字架の上で死んだ神の言《ことば》なる人が、右側に磔けられた盗賊の霊を自分の胸に抱いて天へ昇った時、『ホザナ』を歌う小天使の嬉しそうな叫び声と、天地を震わせる雷霆のごとき大天使の歓喜の叫喚を聞いた。そのとき僕は、ありとあらゆる神聖なものにかけて誓うがね、実際、自分もこの讃美者の仲間に入って、みなと一緒に『ホザナ』を歌いたかったよ! すんでのことに[#「すんでのことに」はママ]、讃美の歌が僕の胸から飛び出そうとした……僕は、君も知ってのとおり、非常に多感で、芸術的に敏感だからね。ところが、常識が、――ああ、僕の性格の中で最も不幸な特質たる常識が、――僕を義務の限界の中に閉じ籠めてしまった。こうして僕は、機会を逸したわけだ! なぜなら、僕はその時、『おれがホザナを歌ったら、どんなことになるだろう? すべてのものはたちまち消滅してしまって、何一つ出来事が起らなくなるだろう』とこう考えたからだ。で、僕はただただおのれの本分と、社会的境遇のために、自分の心に生じたこの好機を圧伏して、不潔な仕事をつづけるべく余儀なくされたのだ。誰かが善の名誉を残らず独占して、僕の分けまえにはただ不潔な仕事だけ残されてるのさ。けれど、僕は詐欺的生活の名誉を嫉むものじゃない。僕は虚栄を好かないからね。宇宙におけるあらゆる存在物の中で、なぜ、僕ばかりが身分のあるすべての紳士から呪われたり、靴で蹴られたりするような運命を背負ってるんだろう? だって、人間の体にはいった以上、時にはこういう結果にも出くわさなければならないからね。僕はむろん、そこにある秘密の存することを知っている。けれど、人はどうしてもその秘密を僕に明かそうとしない。なぜかと言えば、僕が秘密の真相を悟って、いきなり『ホザナ』を歌いだしてみたまえ、それこそたちまち大切なマイナスが消えてしまって、全宇宙に叡知が生ずる、それと同時に、一切は終りを告げて、新聞や雑誌さえ廃刊になるだろう。だって、そうなりゃ、誰が新聞や雑誌を購読するものかね、だが、僕は結局あきらめて、自分の千兆キロメートルを歩いて、その秘密を知るよりほか仕方がないだろうよ。しかし、それまでは僕も白眼で世を睨むつもりだ、歯を食いしばって、自分の使命をはたすつもりだ、一人を救うために数千人を亡ぼすつもりだ。むかし一人の義人ヨブを得るために、どれだけの人を殺し、どれだけ立派な人の評判を台なしにしなけりゃならなかったろう! おかげで、僕はずいぶんさんざんな目にあったよ。そうだ、秘密が明かされないうちは、僕にとって二つの真実があるんだ。一つはまだ少しもわかっていないが、あの世の人々の真実で、それからもう一つは僕自身の真実だ。しかし、どっちがよけい純なものか、そいつはまだわからない……君は眠ったのかね?」
「あたりまえよ」とイヴァンは腹だたしそうに唸った。「僕の天性の中にある一切の馬鹿げたものや、もうとっくに生命を失ったものや、僕の知恵で咀嚼しつくされたものや、腐れ肉のように投げ捨てられたものを、お前はまるで何か珍しいもののように、今さららしくすすめてるんだ!」
「またしくじったね! 僕は文学的な文句で君を惑わそうと思ったんだがね。この天上の『ホザナ』は、実際のところ、まんざらでもなかったろう? それから、今のハイネ風な諷刺的な調子もね、そうじゃないか?」
「いいや、僕は一度も、そんな卑劣な下司になったことはない! どうして僕の魂が貴様のようなそんな下司を生むものか!」
「君、僕はある一人の実に可愛い、実に立派なロシヤの貴族の息子を知っているがね、若い思想家で、文学美術の人の愛好家で、『大審問官』と題する立派な詩の作者だ……僕はただこの男一人のことを頭においてたんだ!」
「『大審問官』のことなんか口にすることはならん。」イヴァンは恥しさに顔を真っ赤にして叫んだ。
「じゃ、『地質学上の変動』にしようかな? 君おぼえているかね? これなんか、もう実に愛すべき詩だよ!」
「黙れ、黙らないと殺すぞ!」
「僕を殺すと言うのかね? まあ、そう言わないで、すっかり言わせてくれたまえ。僕が来たのも、つまりこの満足を味わうためなんだからね。ああ、僕は、生活に対する渇望にふるえているこうした若い、熱烈な友人の空想が大好きなんだ! 君はこの春ここへ来ようと思いついた時、こう断定したじゃないか。『世には新人がある、彼らはすべてを破壊して食人肉主義《カンニパリズム》から出直そうと思っている。馬鹿なやつらだ! おれに訊きもしないで! おれの考えでは、何も破壊する必要はない、ただ人類の中にある神の観念さえ破壊すればいいのだ。まずこれから仕事にかからなけりゃならない! まずこれから、これから始めなけりゃならないのだ、――ああ、何にもわからないめくらめ!一たん[#「らめ!一たん」はママ]人類がひとり残らず神を否定してしまえば(この時代が、地質学上の時代と並行してやってくることを、おれは信じている)、その時は、以前の世界観、ことに以前の道徳が、食人肉主義をまたなくとも自然に滅びて、新しいものが起ってくる。人間は、生活の提供し得るすべてのものを取るために集まるだろう。しかし、それはただ現在この世における幸福と歓びのためなんだ。人間は神聖な巨人的倨傲の精神によって偉大化され、そこに人神が出現する、人間は意志と科学とによって、際限もなく刻一刻と自然を征服しながら、それによって、以前のような天の快楽に代り得るほどの、高遠なる快楽を不断に感じるようになる。すべての人間は自分が完全に死すべきもので、復活しないことを知っているが、しかも神のように傲然として悠々死につく。彼はその自尊心のために、人生が瞬間にすぎないことを怨むべきでないと悟って、何の酬いをも期せずに自分の同胞を愛する。愛は生の瞬間に満足を与えるのみだが、愛が瞬間的であるという意識は、かえって愛の焔をますますさかんならしめる。それはちょうど、前に死後の永遠なる愛を望んだ時に、愛の火が漫然とひろがったのと同じ程度である云々……』とこんなことだったよ。実にうまいことを言ったものだね!」
 イヴァンは両手で自分の耳をおさえ、じっと下を見ながら腰かけていたが、急に体じゅうがびりびり慄えだした。紳士の声はつづいた。
「で、この場合、問題は次の点にある、――とわが若き思想家は考えた、――ほかでもない、はたしてそんな時代がいつか来るものかどうか? もし来るとすれば、それですべては解決され、人類も永久にその基礎を得るわけだ。しかし、人類の無知が深く根をおろしているから、ことによったら、千年かかってもうまくゆかないかもしれない。だから、今この真理を認めたものは、誰でもその新しい主義の上へ、勝手に自分の基礎を建てることができる。この意味において、人間は『何をしてもかまわない』わけだ。それに、もしこの時代がいつまでも来なくたって、どうせ神も霊魂の不死もないんだから、新しい人はこの世にたった一人きりであろうとも、人神となることができる。そして、人神という新しい位についた以上、必要な場合には、以前の奴隷人の道徳的限界を平気で飛び越えてもさしつかえないはずだ。神のためには法律はない! 神の立つところは、すなわち神の場所だ! おれの立つところは、ただちに第一の場所となる……『何をしてもかまわない、それっきりだ!』これははなはだ結構なことだよ。だが、もし詐欺をしようと思うくらいなら、なぜそのために、真理の裁可を要するのだろう? しかし、これがわがロシヤの現代人なんだ。ロシヤの現代人は、真理の裁可なしに詐欺一つする勇気もない。それほど彼らは真理を愛しているんだ……」
 客は自分の雄弁で調子に乗ったらしく、ますます声を高め、あざむがごとく主人を眺めながら、滔々と弁じたてた。しかし、彼がまだ論じ終らないうちに、イヴァンはいきなりテーブルの上からコップを取って、弁士に投げつけた。
「Ah, mais c'est be'te enfin!(ああ、だがそれは要するに馬鹿げてる!)」客に長椅子から飛びあがって、茶のとばっちりを指で払いおとしながら、こう叫んだ。「ルーテルのインキ壺を思い出したんだね! 自分で僕を夢だと思いながら、その夢にコップを投げつける! まるで女のような仕打ちだ! 君が耳をふさいでいるのは、ただ聞かないようなふりをしているばかりだろうと思ったが、はたしてそうだった……」
 途端に、外からどんどんと激しく、執拗に窓をたたく音がした。イヴァンは長椅子から跳りあがった。
「ほら、窓をたたいてるよ。開けてやりたまえ」と客は叫んだ。「あれは君の弟のアリョーシャが、きわめて意外な面白い報告を持って来たんだ。僕が受け合っておく!」
「黙れ、詐欺師、アリョーシャが来たってことは、僕のほうがお前よりさきに知っている。前からそんな気がしていたのだ。弟が来たとすりゃ、むろん空手じゃない、むろん『報告』を持って来たにきまってる!」とイヴァンは夢中になって叫んだ。
「開けてやりたまえ、開けてやりたまえ。外は吹雪だ。君の弟が来てるんじゃないか。Mr, sait-il le temps qu'il fait? C'est a` ne pas mettre un chien dehors……(君、こんなお天気じゃないか。犬だって外に出しちゃおけないのに……)
 窓をたたく音はつづいた。イヴァンは窓のそばへ駈け寄ろうとしたが、急に何かで手足を縛られたように思われた。彼は力一ぱいその桎梏を断ち切ろうと懸命になったが、どうすることもできなかった。窓をたたく音はますます強く、ますます激しくなった。ついに桎梏は断ち切れた。イヴァンは長椅子の上に飛びあがった。彼はけうとい目つきであたりを見まわした。二本の蠟燭はほとんど燃え尽きそうになっているし、たったいま客に投げつけたはずのコップは、前のテーブルの上にちゃんとのっていて、向うの長椅子の上には誰もいなかった。窓をたたく音は依然やまなかったが、いま夢の中で聞えたほど激しくはなく、むしろきわめて控え目であった。
「今のは夢じゃない! そうだ、誓って今のは夢じゃない。あれはいま実際あったのだ!」とイヴァンは叫んで、窓ぎわに駈け寄り、通風口を開けた。
「アリョーシャ、僕は決して来ちゃならんと言ったじゃないか!」と彼は狂暴な調子で弟を呶鳴りつけた。「さ、何用だ、一口で言え、一口で、いいか?」
「一時間まえにスメルジャコフが首を縊ったんです」とアリョーシャは外から答えた。
「玄関のほうへ廻ってくれ、今すぐ開けるから。」イヴァンはこう言って、アリョーシャのために戸を開けに行った。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社