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フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第十章 『それはあいつが言ったんだ!』

   第十 『それはあいつが言ったんだ!』

 アリョーシャは入って来るといきなり、一時間ほど前に、マリヤが自分の住まいへ駈け込んで、スメルジャコフの自殺を告げたと、イヴァンに話した。『わたしがね、サモワールをかたづけにあの人の部屋へ入ると、あの人は壁の釘にぶら下ってるじゃありませんか』とマリヤは言った。『警察へ知らせましたか?』というアリョーシャの問いに対して、彼女は、まだ誰にも知らせない、『いきなりまっさきに、あなたのとこへ駈けつけたんですわ、途中駈け通しでね』と答えた。彼女はまるで気ちがいのようになり、木の葉のようにふるえていたということである。アリョーシャが、マリヤと一緒に彼らの小屋へ駈けつけてみると、スメルジャコフはまだやっぱり、ぶら下ったままであった。テーブルの上には遺書がのっていた。それには、『余は何人にも罪を帰せぬため、自分自身の意志によって、甘んじて自己の生命を断つ』と書いてあった。アリョーシャはこの遺書をテーブルの上にのせておいたまま、すぐさま警察署長のもとへ行って、一切の始末を報告した。『そして、そこからすぐ兄さんのとこへ来たんです。』イヴァンの顔をじっと眺めながら、アリョーシャは言葉を結んだ。彼はイヴァンの顔色にひどく驚かされたように、話の間じゅう一度もイヴァンから目を離さなかった。
「兄さん、」とつぜん彼は叫んだ。「あなたは大へん加減が悪いんでしょう! あなたは私を見てるだけで、私の言うことがわからないようですね。」
「よく来てくれた。」アリョーシャの叫び声が少しも耳に入らないらしく、イヴァンはもの思わしげにこう言った。「だが、僕はあいつが首を縊ったのを知っていたよ。」
「誰から聞いたんです?」
「誰からかしらないが、しかし知っていた。待てよ、僕は知っていたんだろうか? そうだ、あいつが僕に言ったんだ。あいつがつい今しがた僕に言ったんだ……」
 イヴァンは部屋の真ん中に突っ立って、依然もの思わしげにうつ向きながら、こう言った。
「あいつって誰です?」アリョーシャはわれ知らず、あたりを見まわしながら訊ねた。
「あいつはすべり抜けてしまった。」
 イヴァンは頭を持ちあげて、静かに微笑を浮べた。
「あいつはお前を、――鳩のように無垢なお前を恐れたんだ。お前は『清い小天使』だ。ドミートリイはお前を小天使と呼んでいる。小天使……大天使の歓喜の叫び! 一たい大天使とはなんだ? 一つの星座かな。だが、星座ってものは、何かの化学的分子にすぎないんだろう……獅子と太陽の星座ってものがある。お前は知らないかね?」
「兄さん、腰をかけて下さい!」とアリョーシャはびっくりして言った。「どうか後生だから、長椅子に腰をかけて下さい。あなたは譫言を言ってるんです。さ、枕をして横におなんなさい。タオルを濡らして頭にのせてあげましょうか? いくらかよくなるかもしれませんよ。」
「タオルを取ってくれ。そこの長椅子の上にある。さっきそこへ抛っておいたんだ。」
「ありませんよ。まあ、落ちついてらっしゃい。タオルのあるところは知っていますから、そら、そこだ。」部屋の片隅にある化粧台のそばから、まだ畳んだままで一度も使わない、きれいなタオルを捜し出して、アリョーシャはこう言った。
 イヴァンは不思議そうな顔つきをしてタオルを見た。記憶はたちまち彼の心によみがえったように見えた。
「ちょっと待ってくれ。」彼は長椅子の上に起きあがった。「僕はさっき一時間まえに、このタオルをあすこから持って来て、水で濡らして頭にのせて、またあすこへ抛っておいたんだがな……どうして乾いているんだろう? ほかにはもうなかったのに。」
「兄さんこのタオルを頭にのせたんですって?」とアリョーシャは訊いた。
「そうだ。そして、部屋の中を歩いたんだ、一時間まえにさ……それに、どうしてこんなに蠟燭が燃えたんだろう? 何時だね?」
「まもなく十二時になります。」
「いや、いや、いや!」とイヴァンは急に叫びだした。「あれは夢じゃない! あいつは来ていたんだ。そこに腰かけてたんだ、その長椅子の上に。お前が窓をたたいた時、僕はあいつにコップを投げつけたんだ……このコップを……いや、待てよ、僕はその前にも眠っていたのかな。だが、この夢は夢じゃない。前にもこんなことがあった。アリョーシャ、僕は近頃よく夢を見るよ……だが、それは夢じゃない、うつつだ。僕は歩いたり、喋ったり、見たりしている……が、それでいて眠ってるんだ。だが、あいつはそこに腰かけてたんだ、ここにいたんだ、この長椅子の上にさ……あいつは恐ろしい馬鹿だよ。アリョーシャ、あいつは恐ろしい馬鹿だよ。」イヴァンは突然からからと笑って、部屋の中を歩きはじめた。
「誰が馬鹿ですって? 兄さん、あなたは誰のことを言ってるんです?」とアリョーシャはまた心配らしく訊いた。
「悪魔だよ! あいつはよく僕のところへ来るようになってね、もう二度も来た、いや、三度も来た、いや、三度だったかな。あいつはこんなことを言って、僕をからかうんだ。『あなたは、私がただの悪魔で、焔の翼を持って雷のように轟き、太陽のように輝く大魔王でないので、腹を立てていらっしゃるのでしょう』なんてね。だが、あいつは大魔王じゃないよ。あいつは嘘つきだ。あいつは自称大魔王だ。あいつはただの悪魔だ。やくざな小悪魔だ。あいつは湯屋にも行くんだからな。あいつの着物をひんむいたら、きっと長い尻尾が出るに相違ない、ちょうどデンマーク犬みたいに、一アルシンくらいも長さのある、滑っこい茶色の尻尾が……アリョーシャ、お前は寒いだろう、雪の中を歩いて来たんだからね。お茶を飲みたくないかね? なに? 冷たいって? なんなら、サモワールを出させようか? C'est a` ne pas mettre un chien dehors……(犬だって外に出しちゃおけないのに……)」
 アリョーシャは急いで洗面台のそばへ駈け寄って、タオルを濡らし、無理にイヴァンを坐らせ、その頭にのせた。こうして、自分もそのそばに腰かけた。
「お前はさっき、リーザのことを何とか僕に言ったね?」イヴァンはまた始めた(彼は非常に饒舌になった)。「僕はリーザが好きだ。僕はあれのことで、何かお前に失敬なことを言ったが、あれは嘘だよ。僕はあれが好きなんだ……僕は明日のカーチャが心配だ。何よりも一ばん心配だ。将来のことが心配だ。あの女はあす僕を投げ飛ばして、足で踏みにじるだろう。あの女はね、僕が嫉妬のためにミーチャをおとしいれると、そう思ってる。そうだ、確かにそう思っているんだ! ところが、そうじゃない! 明日は十字架だ、絞首台じゃない。なに、僕が首なんか縊るものか。アリョーシャ、僕がどうしても自白できないってことを、お前は知ってるかい! 一たいそれは卑屈のためだろうか? 僕は臆病者じゃない、つまり、貪婪な生活愛からだ! スメルジャコフが首を縊ったことを、どうして僕は知ったんだろう? そうだ、あれはあいつ[#「あいつ」に傍点]が言ったんだ……」
「では、誰かそこにいたものと、信じきってるんですね?」とアリョーシャは訊いた。
「その隅の長椅子に腰かけていたよ。お前あいつを追っ払ってくれればいいんだがなあ。そうだ、実際お前が追っ払ったんだ。あいつはお前が来ると、すぐに消えてしまった。アリョーシャ、おれはお前の顔が好きなんだ。ねえ、僕はお前の顔が好きなんだよ。だが、あいつはね、僕なんだよ、アリョーシャ。僕自身なのさ。みんな僕の下等な、下劣な、軽蔑すべきものの現われなんだ! そうだ! 僕は『浪漫派』だ。あいつもそれに気がついたんだよ……もっとも、これは根もない讒誣だがね。あいつは呆れた馬鹿だよ。だが、それがつまり、あいつの強みなのさ。あいつは狡猾だ、動物的に狡猾だ。あいつは僕の癇癪玉を破裂させるすべを知っていた。あいつときたら、僕があいつを信じてるなどとからかって、それで僕に傾聴させた。あいつは僕を小僧っ子同然に翻弄した。しかし、あいつが僕について言った言葉の中には、本当のことがたくさんあった。僕は自分自身に向って、とてもあんなことは言えない。ねえ、アリョーシャ、アリョーシャ。」
 イヴァンはひどく真面目になって、いかにも、腹蔵なく打ち明ける、と言ったような語調でつけ加えた。
「僕はね、あいつ[#「あいつ」に傍点]が実際あいつで、僕自身でなかったら、本当に有難いんだがなあ!」
「あいつはずいぶん兄さんを苦しめたんですね。」アリョーシャは同情にたえぬもののように、兄を見やりながらこう言った。
「僕をからかったんだよ! しかも、それがね、なかなかうまいんだ。『良心! 良心って何だ? そんなものは、僕が自分でつくりだしてるんじゃないか。なぜ僕は苦しむんだろう? 要するに、習慣のためだ、七千年以来の全人類的習慣のためだ。そんなものを棄ててしまって、われわれは神になろうじゃないか』――それはあいつが言ったんだ。それはあいつが言ったんだ!」
「じゃ、あなたじゃないんですね、あなたじゃないんですね?」澄み渡った目で兄を見つめながら、アリョーシャはこらえきれなくなって、思わずこう叫んだ。「なあに、勝手なことを言わせておいたらいいでしょう。あんなやつはうっちゃっておしまいなさい、忘れておしまいなさい! あなたがいま呪っているものを、残らずあいつに持って行かせておやんなさい、もう決して二度と帰って来ないように!」
「そうだ。だが、あいつは意地が悪いよ。あいつは僕を冷笑したんだ。アリョーシャ、あいつは失敬なやつだよ」とイヴァンは口惜しさに声を慄わせながら言った。「僕に言いがかりをした、いろいろと言いがかりをしたんだ。面と向って僕を誹謗したんだ。『ああ、君は善の苦行をしようと思っているんだろう。親父を殺したのは私です、下男が私の差金で殺したのです、とこう言いに行くんだろう……』なんてね……」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。「お控えなさい。あなたが殺したんじゃありません。それは嘘です!」
「あいつはこう言うんだ、あいつがさ。あいつはよく知っているからね。『君は善の苦行をしようと思ってるんだろう。ところが、君ば善行を信じていない、――だから君は怒ったり、苦しんだりしているんだ、だから君はそんなに復讐的な気持になるんだ』とこう、あいつは僕に面と向って言うんだ。あいつは自分で自分の言うことを、よく承知しているよ……」
「それは、兄さんの言ってることで、あいつじゃありませんよ!」とアリョーシャは悲しそうにそう叫んだ。「あなたは病気のせいで譫言を言って、自分で自分を苦しめてるんですよ!」
「いいや、あいつは自分で自分の言うことをよく知っているんだ。あいつが言うのには、君が自白に行くのは自尊心のためだ、君は立ちあがって、『殺したのは私です。どうしてあなた方は、恐ろしそうに縮みあがるんです? あなた方は嘘を言っています! 私はあなた方の意見を軽蔑します! あなた方の恐怖を軽蔑します!』と言うつもりだろう、なんて、――あいつは僕のことをこんなふうに言うんだよ。それから、まただしぬけに、『だがね、君、君はみなから褒めてもらいたいのさ。あれは犯人だ、下手人だ、けれど何というえらい人だろう。兄を救おうと思って、自白したんだというわけでね。』こんなことも言ったよ。だが、アリョーシャ、これこそもうむろん嘘だよ!」とイヴァンは急に目をぎらぎらと光らせながら叫んだ。「僕はくだらないやつらに褒められたくない! それはあいつが嘘をついたんだ、アリョーシャ、それは誓って嘘だよ。だから、僕あいつにコップを投げつけてやったところ、コップがあいつのしゃっ面で粉微塵に砕けたよ。」
「兄さん、落ちついて下さい、もうよして下さい!」とアリョーシャは祈るように言った。
「いや、あいつは人を苦しめることがうまいよ。あいつは残酷だからな。」イヴァンはアリョーシャの言葉には耳をかさずに言いつづけた。「おれはいつでも、あいつが何用で来るか直覚していたよ。『君が自尊心のために自白に行くのはいいとしても、やはりその実こころの中で、スメルジャコフ一人だけが罪に落されて、懲役にやられ、ミーチャは無罪になる。そして、自分はただ精神的に裁判されるだけで(いいかい、アリョーシャ、あいつはこう言いながら笑ったんだよ)、世間の人から褒められるかもしれないと、こういう望みをいだいていたんだろう、だがもうスメルジャコフは死んだ、首を縊ってしまった、そうしてみると、あす法廷で君ひとりの言うことなんか、誰が本当にするものか! しかし、君は行こうとしている、ね、行こうとしているだろう、君はやはり行くに相違ない、行こうと決心している、もうこうなってしまったのに、一たい君は何しに行くんだね?』と、こうあいつは言うじゃないか。恐ろしいことを言うやつだ。アリョーシャ、僕はこんな問いを辛抱して聞いていられない。こんなことを僕に訊くなんて、何という失敬千万なやつだ!」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。彼は恐ろしさに胸を痺らせながらも、やはりまだ、イヴァンを正気に返すことができると思っているらしかった。「誰もまだ、スメルジャコフの死んだことを知らないのに、また誰ひとり知る暇もないのに、よくあいつは私の来る前に、そんなことを言ったものですね!」
「あいつは言ったよ」とイヴァンはきっぱり言い切った。そこには一点の疑いを挿むことすら許さなかった。「実際なんだよ、あいつは、そればかり言ってたくらいだよ。『もし君が善行を信じていて、誰も自分を信じなくなってもかまわない、主義のために行くのだ、というならしごく結構だが、しかし君はフョードル同様の豚の仔じゃないか。善行なんか君にとって何だ?もし[#「何だ?もし」はママ]君の犠牲が何の役にも立たないとすれば、一たい何のために法廷へ出かけるんだ? ほかでもない、何のために行くのか、君自身でも知らないからさ! それに、君は一たい決心したのかね? まだ決心していないじゃないか? 君は夜どおし腰かけたまま、行こうか行くまいかと思案するだろうよ。だが、結局、行くだろう、君は自分の行くことを知っている。君はどちらへ決めるにしろ、その決定が自分から出たのでないってことを知ってるのだ。君は行くだろう。行かずにいる勇気がないからね。なぜ勇気がないか、――それは君自身で察しなきゃならんね。これは君にとって謎としておこう!』こう言ったかと思うと、あいつはぷいと立ちあがって、出て行った。あいつお前が来たので、出て行ったんだ。アリョーシャ、あいつは僕を臆病者と言ったよ! Le mot de l'enigme (あの謎)は、つまり僕が臆病者だっていうことさ!『そんな鷲に大空は飛べないよ!』あいつはこう言いたしたよ、あいつが! スメルジャコフもやはりそう言ったっけ。あいつは殺してやらなけりゃならん! カーチャは僕を軽蔑している、それは一カ月も前からわかってる。それにリーザまで軽蔑しだした!『ほめられたさに行く』なんて、それは残酷な言いがかりだ! アリョーシャ、お前も僕を軽蔑してるだろう。僕はいま、またお前を憎みそうになってきた! 僕はあの極道者も憎んでいる、あの極道者も憎いのだ! あんな極道者なんか助けてやりたくない、勝手に監獄の中で腐ってしまうがいい! あいつめ、頌歌《ヒムン》を歌いだしやがった! ああ、僕はあす行って、やつらの前に立って、みんなの顔に唾を吐きかけてやる!」
 彼は激昂のあまり前後を忘れたように跳りあがり、頭のタオルを投げ棄てて、また部屋の中を歩きはじめた。アリョーシャはさっきの、『僕はうつつで眠っている……歩いたり、喋ったり、見たりしているが、そのくせやっぱり眠っているんだ』というイヴァンの言葉を思い出した。今の様子がまさしくそれであった。アリョーシャはイヴァンのそばを離れなかった。一走り走って行って、医者を連れて来ようかという考えが、ちらと彼の頭にひらめいたが、兄を一人残して行くのは不安心であった。さればとて、兄のそばについていてもらえる人もなかった。やがて、イヴァンは次第に正気を失って行った。彼は依然として喋りつづけていた、――ひっきりなく喋りつづけていたが、その言うことはしどろもどろで、舌さえ思うように廻らなかった。突然、彼はよろよろと激しくよろめいた。アリョーシャはすばやく彼をささえ、べつに手向いもしないのをさいわい寝床へ連れて行き、どうにかこうにか服を脱がし、蒲団の中へ寝かした。アリョーシャはその後二時間も、イヴァンのそばに腰かけていた。病人は静かにじっとして、穏やかに呼吸しながら熟睡した。アリョーシャは枕を持って来、着物を脱がないで、長椅子の上に横になった。彼は眠りに落ちる前、ミーチャのため、イヴァンのため、神に祈った。彼にはイヴァンの病気がわかってきた。『傲慢な決心の苦しみだ、深い良心の呵責だ!」兄が信じなかった神とその真実が、依然として服従をこばむ心に打ち勝ったのだ。『そうだ、』もう枕の上におかれているアリョーシャの頭に、こういう想念がひらめいた。『そうだ、スメルジャコフが死んでしまったとすれば、もう誰もイヴァンの申し立てを信じやしまいけれど、イヴァンは行って申し立てをするだろう!』アリョーシャは静かにほお笑んだ。『神様が勝利を得なさるに相違ない!』と彼は思った。『イヴァンは真理の光の中に立ちあがるか、それとも……自分の信じないものに奉仕したがために、自分を初めすべての人に復讐しながら、憎悪の中に滅びるかだ』とアリョーシャは悲痛な心持でこうつけ加えて、またもやイヴァンのために祈りをあげた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社