『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP049-096

イヴォルギンのことだが、これが全身の熱情を傾けてナスターシヤを愛し、彼女の好感を得るという単なる希望のためでも、命を半分なげ出しても惜しくないと思っている。これはずっと以前ガヴリーラが自分でトーツキイに、純なる青年の心から隠さず白状したことで、この青年の面倒を見てやっているエパンチン将軍も、すでに前から承知している。そして、トーツキイの観察にして誤りがなければ、青年の愛はずっと前から当のナスターシヤに知れているのみならず、彼女もそれをかなりへりくだった心持ちでながめているらしい。もちろん、こんな話をするのはだれよりもトーツキイにとって、最も苦しいことなのである。けれど、もしナスターシヤが彼の心中に利己主義とか、自分の生涯を幸福にしようとかいう希望以外、いくぶんたりとも彼女の幸福にたいする憂慮の念を発見することができたならば、彼女の淋しい生活をながめるトーツキイの心持ちが、どんなに奇妙でありどんなに苦しいものであるかを、彼女もさとることができるだろう。トーツキイにいわせると、ナスターシヤの生活の中には、ただ漠然として取りとめのない暗黒と、愛と家庭の中にりっぱによみがえって新しい目的を与えてくれるかもしれない生活の更新に対する深い懐疑と、それに伴うおそらくはまばゆいばかりの才能の枯死と、われとわが苦悶を好きこのんで愛《め》でる心持ちと、――つまりひと口にいえばナスターシヤほどの健全な才知や高潔な情操に価しない、一種のロマンチズムが、潜在している。『こんなことをいうのは、だれよりも自分にとっていちばんつらいのだが』をもう一度くりかえして、彼はこう結んだ、――自分はナスターシヤの将来の運命を安全にしたいという希望から、彼女に七万五千ルーブリの金額を提供しようと思うが、ナスターシヤもおそらく冷笑をもってそれに答えはしまいと信ずる。それからまたつけ足して、この金額は、もうどうせ遺言状の中に指定してあるのだから、つまりけっしてお礼とかなんとかいう意味ではない……じっさいどうかして良心の呵責を軽くしよう、という願いなのだから、それをいれぬ許さぬといわれては困るうんぬん、と説明した。つまり、こんな場合にだれしもいいそうなことばかしである。トーツキイは長々と弁舌さわやかに述べ立てたが、そのさいこの七万五千ルーブリのことは今はじめて口外したばかりで、ついそこにすわっている将軍すらそのことを知らなかったのだ。つまり、まだだれも[#「だれも」に傍点]知るものがないというきわめておもしろい事実を、話のついでにちょっとほのめかした。
 ナスターシヤの返答はふたりの親友を驚かした。
 彼女の態度には以前の冷笑、以前の敵意、それから思い出しただけでもトーツキイが背中に冷水を浴びせられるような心持ちになる以前の傍若無人な高笑い、そんなものがすこしも見られなかったばかりでなく、むしろ反対に、相手はだれにもあれ、とうとううち明けて話をする機会が来たのを、喜んでいるようにさえ思われた。彼女は、自分のほうからもとっくに隔てのない意見が聞きたいと思っていたが、ただプライドがそれを妨げていた。しかし、いったんこうして皮切りがすんだ以上、それより結構なことはないと白状した。はじめのうちは沈んだ微笑を帯びていたが、のちには楽しそうにはしゃいだ笑いかたをしながら、彼女はいうのであった、――もう以前のような嵐はけっしておこるべきはずがない、自分はもう前から物にたいする見かたを改めた、もっとも、胸の中はちっとも変わっていないかもしれないが、たいてい’のことは既往の事実として許さねばならぬはめになってしまった。できたことはできたこと、過ぎたことは過ぎたこと、こう思っているから、トーツキイがいつまでもびくびくしてばかりいたのが、かえって不思議なくらいだ。それから彼女はエパンチン将軍のほうを向いて、深い深い尊敬のさまを示しながら、三人の令嬢のうわさはとうからいろいろ聞いているので、心の底からゆかしい人たちだと敬いつづけている。それゆえ、自分がその人たちのためになにか役に立つ、とただそう思ったばかりで、自分は仕合わせであり、かつそれを誇りとする旨を述べた。彼女は目下非常に苦しく淋しい、じつに淋しい、それは真実である、トーツキイは彼女の胸に描いている空想を見抜いてしまった。彼女はなにか新しい目的を自覚して、愛というものに望みがないならば、せめて家庭の人として復活したいと考えているのだ。
 けれども、ガヴリーラのことについては、彼女もほとんど返事のしようがなかった。彼がナスターシヤを恋しているのは事実らしい。また彼女にしても男の恋の真実さを確かめたならば、自分のほうからもいとしいという心にならぬものでもない。しかし、彼はよしんば誠意誠情を持っているとしても、あんまり年が若すぎる、それが決心を面倒にする。とはいえ、彼が自分で働いて一家を支えているという事実は、なにより彼女の頼もしく思うところである。彼が精力と矜持《きょうじ》の人で、立身出世をして苦境を切り抜けようと努めることも、聞き知っている。またニーナ・アレタサンドロヴナ・イヴォルギナ、――ガヴリーラの母親というのは、りっぱな敬うべき婦人であることも、妹のヴァルヴァ-ラが人なみすぐれた精力家だということも、彼女はプチーツィンから聞いてよく知っている。それから、彼女はこのふたりの女が、男々しくも重なる不幸を堪え忍んでいる由をも聞き伝えて、衷心《ちゅうしん》から近しく交わりたいと思っているが、ただ向こうのほうで喜んで家庭に迎えいれてくれるかどうかが疑問である。とにかく彼女は、この結婚が頭から不可能だとはけっしていわないが、まだもっともっと考えなければならぬから、あまり返事をせき立ててくれぬように、と頼んだ。七万五千ルーブリの件にいたっては、トーツキイもそれを切り出すのに、あれほどびくびくすることはなかった、彼女も金の値うちは水知しているから、もちろん、受納する由を答えて、このことをガヴリーラばかりか将軍にさえも知らさなかったトーツキイの周到な用意を感謝した。が同時に、なぜあらかじめガヴリーラに知らしては悪いのか、彼女がもし彼と一つ家庭の人となるならば、なにもそんな金を恥ずかしがる必要はないのだから、とこうもいった。しかし、いずれにしても、自分はだれにも謝罪しようというつもりはないから、それは前から心得ていてほしい、こういって彼女はふたりに頼んだ。なにはともあれ、ガヴリーラにもまたその家族にも、ナスターシヤにういて隠れた思わくがないことを見きわめるまでは、けっして彼と結婚はせぬと断言した。なににもせよ、彼女はけっして自分が悪いと思っていないのだから、自分がどういう条件のもとにこの五年をペテルブルグに過ごしたか、トーツキイとはいかなる関係にあるか、また財産は十分ためているかどうか、こんなことをよくガヴリーラに知ってもらいたい。それから最後に、自分が金を受けとるのは、自分自身すこしも罪のない、けがされたる処女の純潔のためなどではなく、ただただゆがめられた運命に対する賠償とするにすぎない由を述べた。
 彼女はこれだけのことをうち明けるに当たって、おそろしく興奮していらだたしい様子を示したので(それはきわめて自然な道理である)、将軍はすっかり安心して、もう話がまとまったような気がした。しかし、一度おどしつけられたトーツキイは、今度もまるごと信じきることができず、もしや花のかげに蛇が隠れていはしないかと、長いあいだびくびくしていた。いよいよ交渉がはじまった。ふたりの親友の魂胆となっているかんじんの点、つまり、ナスターシヤの心をガーニャのほうになびかせうるや否やが、だんだんはっきりわかってくるようになり、トーツキイさえもどうかすると成功を信ずるような心持ちになった。その間にナスターシヤはガーニャとじか談判をした。もっとも、あまり口数はきかなかったので、なんだか彼女の処女らしい羞恥心が、そのさい、一種の苦痛を感じたのかとも思われた。彼女は男の愛を認め許したが、しかしなににもせよ、自分の自由を制限されるのはいやだと念を押して、結婚のまぎわまで(もし結婚が成立するとしたら)、最後の一時間までも、否という権利を保有することを約し、ガーニャにもそれと同じ権利を与えた。間もなく偶然の機会からガーニヤの耳にすっかり入ったことだが、彼の家族一同がこの結婚に対し、またナスターシヤという人物に対して、こころよからぬ感情をいだいているために、家の中でしょっちゅう、いざこざのおこるということが、はや細大もらさずナスターシヤに知れていたのである。で、彼は今にもそのことをいいだされるかと、毎日毎日待ちうけていたが、彼女は自分の口からはおくびにも出さなかった。
 こんな具合で、この結婚談に関連して生じたさまざまの事情やできごとを話せばきりがないが、しかしわれわれはあまりにさきを急ぎすぎたきらいがあるし、それに以上記述した事実のあるものは、単に漠とした風説にすぎないものさえある。たとえば、ナスターシヤがエパンチン家の令嬢たちと、人に隠してある不可解な交際をはじめたのを、トーツキイがどこからかかぎだしたなどというにいたっては、ぜんぜん信をおくにたらぬうわさである。そのかわり、彼トーツキイも今ひとつの風評には、心ならずも信をおかないわけに行かず、悪い夢でも見せられたように恐れていた。それはこうである。ガーニャの結婚はただ金が欲しさの策略だということも、ガーニャは腹黒で欲っぱりで、かんしゃく持ちのうらやましがりで、おまけに、何ものともつり合いのとれぬほど自尊心が強いということも、ナスターシヤは知りすぎるほど知り抜いているのであった。ガーニャはじっさい、はじめのうちこそ夢中になって、ナスターシヤをわがものにしようとあせっていたが、ふたりの親友が、この両方からちょろちょろ燃え出した情火を利用して、ナスターシヤを正妻に売りつける手段でガーニャを買収しようとかかったとき、今度はガーニャが、ナスターシヤを悪夢のように憎みはじめた。彼の心中には恋と憎しみとが、怪しくからみ合っているかのようであった。で、いろいろ煩悶動揺の末、とうとうこの『けがらわしい女』と結婚するように承諾は与えたが、心の中では、そのかわりあとであいつを『とっちめてやるぞ』(これは彼白身のいった言葉だそうである)と誓った。こういういきさつをことごとくナスターシヤは承知していて、なにかしら秘密に準備している様子であった。トーツキイはすっかり気おくれがしてしまい、エパンチン将軍にさえも心中の不安を伝えなくなった。しかし、気の弱いものの常として、また急に気負って勢いづくことがあった。たとえば、最後にナスターシヤがふたりの親友に向かって、今度いよいよ誕生日の晩に、否か応かの返答を与えるといったとき、彼はなみなみならず元気づいた。しかし、尊敬すべきエパンチン将軍に関す名きわめて奇怪な、ほとんど信ずべからざる風説は、悲しいかな! しだいしだいにほんとうらしくなってきた。
 それは一見したところ、まったくばかげきったことのように思われた。エパンチン将軍のような、人から敬われる年配’になって、りっぱな分別もあれば、世の中の酸いも甘いも噛みわけたといったような人でありながら、自分からナスターシヤの色香に迷い、それもまあ度を越して、一時の出来心が真の情欲に近くなったというにいたっては、ほとんど信ずることができないくらいであった。この場合、彼が何を目あてにしているか見当もつかなかった。ことによったら、ガーニャ自身の手伝いまで当てにしていたのかもしれない。トーツキイの目から見ると、すくなくもなにかそうしたふうの事情があって、将軍とガーニャのあいだに一種の黙契《もっけい》が成立しているらしく思われた。けれども、すっかり迷いこんでしまった人間は、ことにそれが年とってからでもあると、まるで盲になってしまい、けっしてありうるはずのないところに希望を認めたがるし、それに理性というものを失って、たとえソロモンほどの知恵があっても、愚かな子供じみた真似をするものである。将軍はナスターシヤの誕生祝いに、莫大な価格にのぼるりっぱな真珠をととのえて、ナスターシヤが欲のない女なのは百も承知しているくせに、その結果を予想して楽しみにしていたが、これまた一同の知るところであった。誕生日の前日、たくみにおし隠してはいたが、彼はまるで熱病にでもかかったようであった。ほかでもない、この真珠の一件が将軍夫人の耳に入った。じじつ、リザヴェータ夫人はかなり前から夫の移り気に気づいていたから、いくぶんなれっこになったくらいであるが、今度のことばかりは見て見ぬふりをするわけにゆかない。真珠のうわさはいたく夫人の好奇心をそそった。将軍はまた将軍で、いち早くそれをかぎつけたのである。前の日にもふたこと三こと当てつけがましいことを聞かされたので、きっとうるさく口説かれるものと感づいて、それがこわくてならなかった。これがためにわれらの物語がはじまった朝、将軍は家庭のふところに入って食事をするのが、ひどく進まなかったのである。彼はもう公爵が来るまでに、仕事にかこつけ避けようと腹をきめていた。将軍の避けるというのは、どうかすると、てもなく逃げ出すことになるのであった。彼はせめてきょう一日だけでも、ことに今夜ひと晩だけでも不快なことなしに、うまくやりおおせたかった。ところが、いい都合に公爵がひょっこりやって来た。『まるで神さまがよこしてくだすったようなものだ!』と将軍は夫人のところへ行きながら、心の中で考えた。

      5

 将軍夫人は自分の家柄を大切に思う人であった。それゆえ、自分でもうすうす聞き知っている、一門の中で最後にひとり生き残ったこのムイシュキン公爵が、ほとんど一種の哀れむべき白痴で、乞食同様の人間で、人のあわれみを受けんばかりだとなんの心の用意もなくいきなり聞かされたとき、彼女の心持ちはどんなであったか、想像するに難くない。将軍は一挙にして夫人の興味を呼びさまし、夫人の注意をどこかあらぬかたへ誘っておいて、どさくさまぎれに真珠の問題をのがれようとして、首尾よく図星に当たったのである。
 夫人はいつも非常に驚いた場合には、思いきって目を大きくむきだし、こころもち上半身をうしろへ引いて、ひと口もものをいわずに、どこともなく前のほうをながめるのが癖であった。夫人は背丈の大きな女で、年は夫とおない年、暗色《あんしょく》の毛はだいぶ白髪がひどいけれど房々としている。全体に痩せぎすのほうで、鼻はかぎ鼻、黄色い頬はこけて、薄い唇《くち》もとが落ち込んでいる。額は高いがやや迫って、かなり大きな灰色の目は、ときとすると、まことに思いがけない表情を示すことがある。昔、彼女は、自分のまなざしは非常に魅力に富んでいる、と信じたがる弱点があったが、この自信は今でも消されずに残っている。
「会えですって? あなたはそんなものに会えとおっしゃるんですか、今、すぐ?」こういって、夫人はこんかぎり目を大きく見張り、前でもじもじしている将軍のほうへ向けた。
「なんの、そのことについてはなんの遠慮もいらないよ、ただお前が会いたかったら、というのさ」と、将軍はせかせかと弁解した。「まったくの子供で、おまけにみじめな子供なのさ。なんでも病気の発作があるそうだ。今スイスから帰って汽車からおりたばかりでな、奇妙なドイツふうの身なりをしている。それに、金は正真正銘の一文なし、もう泣きださんばかりのていたらくだ。わしは二十五ルーブリやっといたが、なにか書記の口でも、役所のほうでさがしてやろうと思っているMesaames《メダーム》(お嬢さんがた)おまえさんがた、ひとつあれにごちそうしてやってくれ、だいぶかつえてもいるようだから……」
「あなたったら、わたしをびっくりおさせなさる」と夫人は前と同じ調子でつづけた。「かつえてるだの、発作だのって! いったいどんな発作ですの?」
「おお、発作といってもそうたびたびあるわけではない。それにまだほんの子供なんだから……もっとも、子供といっても教育のある子供だがな。わしはね、mesdames」と彼はふたたび娘たちのほうを向いて、「おまえさんがたにひとつあれを試験してもらおうと思ってたんだ。どんな方面に才があるか、なんといってもよく知っておく必要があるからな」
「し、け、ん、を?」と夫人は一句一句引き伸ばすようにいい、またもや驚き入ったというふうに目をむきだして、娘たちから夫のほうへ、夫から娘たちのほうへと、かわるがわる視線を転ずるのであった。
「ああ、これ、そんなにぎょうさんに考えちゃ困る。しかし、どうともおまえの都合のいいように。わしはただあれをいたわって、われわれの仲間に入れてやろうと思っただけなのさ。じっさいそれはいいことだからな」
「わたしたちの仲間に入れるんですって? わざわざスイスから?」
「スイスだってべつにさしつかえないじゃないか。しかし、かさねていうが、どうともおまえのいいように。わしが思うには、第一、同姓の人で、ことによったら、親類に当たるかもしれないんだし、第二には、どこへ落ちついていいやらとほうに暮れてるところだからさ。なにせ同族ということだけでも、おまえにとっていくぶん興味があろうと、こうわしは考えていたよ」
「そうですとも、おかあさま、もし遠慮のいらない人でしたらね。それに、旅行あげくでなにか食べたがってらっしゃるんでしょう。どこに落ちついていいかわからないといってるような人に、ごちそうしてあげないって法はないわ」と長女のアレクサンドラがいった。
「おまけに、まったくの赤ん坊なんだからな、いっしょに目隠しをして遊んでもいいくらいだ」
「目隠しをして遊ぶんですって? まあ、どんなにして」
「まあ、おかあさま、お願いですから、わざとらしい真似はよしてちょうだい」とアグラーヤがいまいましそうにさえぎった。
 中のアデライーダはよく笑うたちなので、たまりかねて笑いだした。
「おとうさま、呼んでちょうだい、おかあさまはいいっていってらっしゃるんですよ」とアグラーヤがきめてしまった。
 将軍は呼鈴を鳴らし、公爵を呼んでくるように命じた。
「けれど、ことわっておきますが、食卓についたとき、どうしても首にナプキンを結えつけさせるんですよ」と夫人はひとりできめてしまった。「それから、フョードルか……それとも、マーブルでもいいから呼んで来て、食事のときその人のうしろに立って気をつけさせましょう。それはそうと、発作がおこったとき、おとなしくしてるでしょうか。なにかへんな手振りでもしませんかねえ?」
「それどころか、なかなかかわいくしつけがついてるよ。立ち居ふるまいも鮮かなもんだ。ただどうかすると、あんまり単純すぎるようだがな……ああ、あれがそうだ! さあ、紹介しよう、ムイシュキン公爵、一門の中でたったひとり残っていられるかた、同姓の人で、ことによったら、親戚に当たられるかもしれない。隔てなくいたわってかわいがってあげておくれ。公爵、今すぐ朝飯を食べに行くから、どうぞなにぶんよろしく……わたしはだいぶ遅れたから、失礼ですが、急がなきゃなりません」
「どこへお急ぎになるか、ちゃんとぞんじています」と夫人はものものしくいいだした。
「いや、急ぐんだよ、急ぐんだよ。すっかり遅れちゃった!ああ、mesdmes おまえさんたちはアルバムを出して、公爵になにか書いてもらうといい、じつに能書家だよ、まったく珍しい! うまいもんだ! 先刻あちらで、『僧院の長パフヌーチイ手ずからこれに名を署したり』と昔ふうの書体で書いてくだすったよ……じゃ、さようなら」
「パフヌーチイ? 僧院の長? まあ、お待ちなさい、あなたどこへいらっしゃるの、そしていったいパフヌーチイってなんですか?」夫人は執念ぶかいくやしさの色を現わして、逃げ出して行く夫のあとがらほとんど心配そうにたずねた。
「いや、なに、おまえ、それは昔、そんな坊さまがあったんだよ……だが、わしは伯爵のところへ行かなけりゃならん、もうとうから待っておられるから……それに、だいいち、先方から時間を決めてくださったんだからな……公爵、またこんど!」
 と将軍は急ぎ足に出て行った。
「どんな伯爵のところだかちゃんとわかってます!」とリザヴェータ夫人は言葉鋭くいい放ち、いらいらした目を公爵のほうへ向けた。「ええと、なんでしたっけね!」急に思いついたように、不機嫌な腹立たしげな調子でたずねた。「え、なんとかいいましたね! ええと、そうそう、僧院の長《おさ》っていったいなんですか?」
「おかあさま」とアレクサントラがたまりかねて口を出した。アグラーヤはとんと床さえ踏み鳴らした。
「アレクサンドラ・イヴァーノヴナ(娘に父称をつけたのは、わざと改まって言ったのである)、わたしの話すじゃまをしないでちょうだい」と夫人は切り口上でいった。「わたしだって知りたいじゃありませんか。公爵、そこへすわってください、それそのひじ掛けいす、わたしの真向かいにある。いいえ、もっとこちらへ、陽のさしてるほうへ、わたしのよく見えるように、なるべく明るいほうへ寄ってください。それで、いったいどんな僧院の長ですの?」
「僧院長パフヌーチイです」と公爵はまじめに、注意ぶかく答えた。
「パフヌーチイ? それはおもしろそうですこと、で、その人がどうしました?」
 夫人は公爵の顔からすこしも目をそらさず、せかせかと忙しそうに鋭い調子できいた。そして公爵が答えはじめると、そのひとことひとことにうなずくのであった。
「僧院長パフヌーチイは、十四世紀の人で」と公爵は説明をはじめた。「今のコストロマ県に当たる、ヴォルガ河畔の修道院の管理をしていました。崇高な生活をもって知られた人でして、金帳汗国《きんちょうかんこく》へも出かけて行ったり、いろいろな仕事の整理を助けたりなんかしています。この人が教令に署名したのを写真で見たのですが、手蹟がたいへん気に入ったものですから、覚えこんでしまったんです。さっきも将軍がなにか仕事を世話してやるから、どれくらい書けるか手を見せてくれといわれましたので、ぼくはいくつかの文句をいろいろな書体で書いてみましたが、その中に『僧院の長パフヌーチイ手ずからこれに名を署したり』というのを、パフヌーチイの筆蹟そのままで書いたのです。それがたいへん将軍のお気に入って、今も思い出しなすったんです」
「アグラーヤ」と夫人が言った。「覚えてておくれ、パフヌーチイですよ。それとも、いっそ書き留めといてもらおうかしら、そのほうがいい。わたしはなんでも忘れてしようがないから。だけど、わたし、もっとおもしろいことかと思った。どこにその署名はあるんでしょう?」
「将軍の書斎のテーブルに残ってるはずです」
「じゃ、今すぐ取りにやりましょう」
「ですが、なんなら、ぼくもう一度書いてさしあげましょう」
「そりゃそれがいいわ、おかあさま」とアレクサンドラが口をはさんだ。「今はご飯にしたほうがいいじゃありませんか。わたしたちおなかがすいてるんですもの」
「それもそうだね」と夫人は賛成した。「参りましょう、公爵。あなたずいぶんおなかがすいてらっしゃいますか?」
「ええ、今ごろ大分、まったくありがとうございます」
「あなたはほんとうにていねいでいらっしゃるから結構ですね。それに、お見受けしたところ、皆のいうような、そんな……変人じゃけっしておあんなさらない。さあ、参りましょう。どうぞそこへおすわりください。わたしの真向かいへ」一同が食堂へ来たとき、彼女は公爵を席に着かせなどして、小まめに世話を焼いた。「わたしあなたの顔が見ていたいんですから。アレクサンドラ、アデライーダ、おまえたちふたりして公爵をもてなしてあげておくれ。ねえ、そうだろう、公爵はまったくそんな……病身なかたじゃないねえ。おおかたナプキンなんかもいるまいよ……ねえ、公爵、あなた食事のときにナプキンを結えてもらいなさいますか?」
「以前、七つくらいのときには結えてもらいましたが、このごろは食事のときたいていナプキンをひざに載せています」
「そうあるべきです。それで、発作は?」
「発作?」と公爵はいささか驚いて、「発作はごくたまにしかありません。けれど、よくはわかりません。ここの気候はぼくのからだに惡いっていいますから」
「この人のおっしゃることはなかなかりっぱだね」たえず公爵のひとことひとことにうなずいてみせながら、夫人は娘たちのほうを向いてこういった。「思いもかけないくらいだ。してみると、例によっていいかげんなでたらめだったんだ。公爵おあがんなさい。そして、どこで生まれて、どこで大きくおなんなすったか聞かしてください。わたし、すっかり知りたいんですよ。あなたはほんとうにおもしろいかたですねえ」
 公爵は謝辞を述べて、さもうまそうに食事しながら、けさから幾度となく話したことをさらに物語りはじめた。夫人はしだいしだいに満足のさまを示してきた。令嬢たちもかなり注意ぶかく耳を傾けた。親族の関係も調べてみた。その結果、公爵がかなり詳しく自分の系図を知っていることはわかったが、どんなに引き比べてみても、彼と夫人とのあいだには、ほとんどなんの親族関係も出て来なかった。ただ両方の祖父母のあいだに、いくぶん遠縁の関係があるくらいのものであった。この無味乾燥な研究はことに将軍夫人の心にかなった。というのは、夫人はどうかして自分の系図の話をしたいと、かねがね望んでいるにもかかわらず、今までかつてそういう機会がこなかったからである。彼女は興奮した心の状態で食卓から立ちあがった。
「さあ、みんなそろって家の集まり部屋へ行きましょう。コーヒーはそこへ持って来させますから。あのね」と夫人は公爵を案内しながらいった。「わたしのとこには、皆で使ってるちょっとした部屋がありますの。まあ、つまりわたしの小さな客間のようなものでしてね、たくが留守のときなど、いつもこの人たちといっしょにそこへ集まって、てんでに自分勝手なことをするんですよ。アレクサンドラ、ってのはこの人です、わたしのいちばん上の娘ですが、この人がピアノをひいたり、本を読んだり、刺繍をしたりすると、アデライーダは景色だの人物だのを描きます(そのくせ、なんにも仕上げたことはありませんの)。そして、アグラーヤはすわってばかりいてなんにもいたしません。わたしもとかく仕事が手につかなくって、いっこうなにもできあがらないんですの。さあ、参りました。公爵、もっとこちらの壁炉《カミン》に近いほうへおすわんなさい、そしてお話を聞かしてくださいね。あなたがどんなふうにお話しなさるか、わたし聞きたいんです。そして、すっかりあなたのことを知りぬいて、今度ベロコンスカヤ公爵のお婆さんに会ったとき、あなたのことをみんな聞かしてあげたいのですから。わたしはね、あなたがあの人たちをみんな感心さしておやりになればいいと思いますの。さ、お話しなさいよう」
「おかあさま、だってそんなにおっしゃっては、公爵がお話しなさるのに、なんだか変じゃありませんか」とアデライーダは注意した。彼女はさきほどから自分の画架を直して画筆とパレットを取り、久しい以前からいじくりまわしている風景画を、版画から模写しはじめたのである。
 アレクサンドラとアグラーヤはいっしょに小さな長いすへすわって、両手を組みながら話を聞く身構えをした。公爵は、四方から自分のほうヘー種とくべつな注意を向けられているのを感じた。
「あたしなんかあんなにいわれたら、なんにも話しゃしないわ」とアグラーヤはいった。
「なぜ? なにが変なの? なんだってあのかたにお話ができないんです? 舌がおあんなさるじゃないか。わたしは公爵がどれくらいお話ができるか知りたいんです。さあ、なにか聞かしてください。スイスはお気に召しましたか、第一印象はいかがでした? おまえたち見ててごらん、公爵は今におはじめなさるから、りっぱにお話をはじめなさるから」
「印象は強烈なものでした……」と公爵は口を開いた。
「そらごらん」とせっかちなリザヴェータ夫人は、娘たちのほうを向いて、すかさず口を入れた。
「おはじめなすったろ「まあ、おかあさま、お話のじゃまじゃありませんか」とアレクサンドラがさえぎった。そして、アグラーヤに向かって、「公爵はことによったら、まるっきりばかじゃなくって、ひどい悪党かも知れなくってよ」とささやいた。
「きっとそうよ、あたしさっきからそう思ってたの」とアグラーヤも答えた。「こんな芝居を打つなんて、あの人もずいぶん卑劣だわ。そして、いったいどうしようってんでしょうね、なにか当てにしてることがあるのかしら?」
「最初の印象は、じつに強烈なものでした」と公爵はくりかえした。「ロシヤを出ていろいろなドイツの町を通りすぎたとき、ぼくはただ黙って見てばかりいました。今でも覚えてますが、なにひとつたずねてみようともしませんでした。それは持病がつのって、激しい苦しい発作が引きつづきおこったあとでした。ぼくは病気がひどくなって、発作が引きつづいていくどもおこると、いつも脳の働きがまるっきり鈍くなって、記憶がすっかりなくなってしまったものです。それでも頭はどうにか働いていますが、思想の論理的流れというものが跡絶えがちなのでした。二つか三つ以上の観念を順序を追って結び合わすってことが、ぼくにはできなかったのです。まあ、そんな具合だったと思います。しかし、発作がしずまると、また健康も回復すれば元気も出て、今と変わりはありませんでした。今でも覚えていますが、そのときぼくの心の憂欝はやりきれないほどでした。もう泣き出したいくらいでした。ぼくはしじゅうびっくりしたり、心配したりしてばかりいました。それは見なれぬ異国のもの[#「異国のもの」に傍点]が、おそろしくぼくの神経に作用したのです。それはわかりました。見なれぬものがぼくを苦しめたのです。その暗黒状態からはっきり目がさめたのは、ある夕方、スイスの入口にあるバーゼルの町に入ったときでした。町の市場にいる一匹の驢馬がぼくを呼びさましてくれたのです。この驢馬がひどくショックを与えて、ぼくはそれがすっかり気に入ってしまいました。それと同時に、ぼくの頭の中も一時にからりとなったような気持ちがしました」
「驢馬? それは不思議ですね」と夫人がいった。「けれど。べつに不思議もありませんねえ、だれやらさんなどは駿馬にほれこんでさえいらっしゃるから」と彼女は、きゅっきゅっ笑っている娘たちを腹立たしげににらんだ。「それはまだ神話時分のことだったのねえ。それから次は、公爵?」
「そのときからぼくは無性に驢馬が好きになってしまいました。それはぼくにとって特殊な愛情なんです。ぼくはそれまで驢馬ってもの見たことがありませんでしたから、いろいろ根掘り葉掘りしてききましてね、すぐに固く思いこんでしまいました。これはよく働いて力があり、辛抱が強くて安い、じつに有益な動物だと感じたのです。この驢馬のためにスイス全体が気に入って、以前のふさぎの虫は、にわかにどこへやらいってしまいました」
「どうも不思議なお話ばかりですね。けれども、驢馬のお話は抜きにしたって結構ですから、なにかほかのことに移りましょう。おまえは何をそう笑ってばかりいるんだえ、アグラーヤ? おまえもですよ、アデライーダ。公爵は驢馬のお話をりっぱになすったじゃありませんか。公爵は自分でちゃんとごらんなすったんですよ。おまえはいったい何を見ました? 外国へなんか行ったこともないじゃありませんか」
「おかあさま、わたし驢馬を見てよ」とアデライーダが言った。
「あたし声だって聞いたことがあるわ」とアグラーヤが引きとった。
 三人はまたそろって笑いだした。公爵もいっしょになって笑った。
「おまえたちはほんとにいけないよ。公爵、あなた堪忍してやってくださいましね」と夫人が言った。「あれでも心はいい人間なんですから。あたし、あの子たちと喧嘩ぽかりしどおしていますけれど、かわいいにはまったくかわいいんですの。ただあの人たちは軽はずみで、そそかしくて、おまけにきちがいなんです」
「なぜですか?」と公爵は笑って、「ぼくだってお嬢さんたちの位置にあったら、やっぱり笑わずにいられなかったでしょう。ですが、ぼくはあくまで驢馬の味方です。驢馬は善良で有益な人間です」
「じゃ公爵、あなたは善良な人間ですか? いえ、わたしはただ物好きにきいてみるだけなんですよ」と夫人がたずねた。
 一同はまたしてもどっと笑った。
「またあのばからしい驢馬の話になっちまいましたね、わたしそんなこと思いもよらなかったのに!」と夫人は叫ぶようにいった。「まったくなんですよ、公爵、わたしはけっしてべつに……」
「当てこするつもりじゃなかった、ですか? ええ、そうでしょうとも、よくわかっています!」
 公爵はとめどなしに笑った。
「ほんとにあなたが笑ってくださるので安心しました。お見受けしたところ、あなたはまったくいいおかたですね」と夫人はいった。
「ときどきよくないことがあります」と公爵は答えた。
「ですが、わたしはいい人間ですよ」と思いもかけず夫人が口をはさんだ。「いいえ、ことによったら、わたしはいつでもいい人間かもしれません。これがわたしのただ一つの欠点ですの。なぜって、年がら年じゅういい人間でいる必要はありませんからね。わたしはしょっちゅうこの人たちや、とりわけ夫などに食ってかかります。ところが、まことに情けないことには、わたし怒るときがいちばん人のいいときなんです。さっきもあなたがお見えになるちょっと前に、何が何やらちっともわからない、わかるはずがないといって、さんざ腹を立てて当たり散らしたんですよ、まるで赤ん坊同様ですねえ。それでアグラーヤが叱って教えてくれましたの。アグラーヤ、ありがとうよ。ですが、それもこれもみんなばかげたことです。わたしはまだ見かけほどには、娘たちの考えるほどばかじゃありません。わたしは意気地もあるし、またたいして含羞《はにかみ》やでもありませんからねえ。でも、わたし皮肉でこんなこというのじゃありませんよ。アグラーヤ、ここへおいで、そしてわたしをキッスしてちょうだい、そうそう……でも、もうこんな甘ったるいことはたくさん」アグラーヤが情をこめてくちびると手に接吻したとき、夫人はこう注意した。「公爵、さ、もっとつづけて話してください。もしかしたら、驢馬よりもすこしおもしろい話を思い出しなさるでしょう」
「だけど、わたしやっぱりわかりませんわ、どうしていきなりそんなふうにお話が出るのでしょう」と、またアデライーダがいいだした、「わたしだったら、まごついちまうわ」
「公爵はまごつきなんかなさいませんよ。公爵は珍しく賢いおかたなんだから。おまえなんかよりは少なくとも十倍も賢いかたなんだよ。ことによったら十二倍もね。どうかあとになって、おまえこのことに気がついてくれるといいがね。公爵、どうかあの子たちにその証拠を見せてやってくださいな。さ、今のつづきを、でも驢馬はもうほんとにやめにしてもようござんすね。それであなた、驢馬のほかに何をあちらでごらんになりました?」
「ですけど、驢馬の話もおもしろうございましたわ」とアレクサンドラがいいだした。「公爵はたいへんおもしろくご自分の病的な場合をお話しなさいましたわ。ちょいとした外部の刺激のために、なにもかもみんな好きにおなんなすったというのも、おもしろうございました。わたし人がきちがいになって、それからまた元のように瘋ってしまう、そういったふうなお話ならいつでも結構ですわ。とりわけ、とつぜんそんなふうになったのですとね」
「まったくでしょう? まったくでしょう?」と夫人はとびあがらんばかりにいった。「おまえでもときどきは賢いことをいうらしいね。さ。もう笑うのはたくさん、あなたたしかスイスの景色のところまでお話しになりましたね、公爵、さあ?」
「ぼくたちはリュツェルンヘ着きました、それからぼくは湖の上をひっぱりまわされたのです。湖はじつにいいと思って感心したのですが、同時に恐ろしく苦しいような心持ちがしました」と公爵は語りはじめた。
「なぜでしょう?」とアレクサンドラがきいた。
「わかりません。ぼくはいつでもああいう自然に対すると。はじめは重苦しい不安な心持ちになるのです。いい気持ちでそして不安なのです。もっとも、その時分まだやはり、病気の最中でしたからね」
「そう、だけど、わたし行ってみたくてたまりませんわ」とアデライーダがいった。「でもね、わたしたちいつ外国へ行けるかわからないんですの。そうそう、わたし絵の題材を、二年このかたさがしてるんですけど、どうしてもみつかりませんの。

  『南も東もとく描かれぬ……』

 ねえ公爵、なにかわたしに題材をみつけてくださいません」
「そんな方面のことはぼくなんかにわかりません。ぼくなんかただ見て描きさえしたら、それでよさそうに思われますがね」
「その見ることができないんですの」
「まあ、あなたがたは謎なぞ問答でもしてるの? 何が何だかちっともわからないじゃありませんか!」と夫人はさえぎった。「見ることができないなんて、いったいなんのことだえ? ちゃんと目が二つあるんだもの、見たらいいじゃありませんか。ここで見ることができないくらいなら、外国へ行ったって急にできるようになれやしません。それよりか、公爵、あなたご自身なにをごらんになったか、それを聞かしてくださいな」
「ああ、それがよござんすわ」とアデライーダも言葉を添えた。「公爵は外国で物の見かたを習っていらしったのですから」
「知りませんね、ぼくはただ健康回復に行ったのですから、物の見かたを習ったかどうか、そんなことは知りませんよ。しかしぼくはほとんどしじゅう幸福でした」
「幸福で! まあ、あなたは幸福になることがおできになって?」とアグラーヤは叫んだ。「そんなら、なぜあなたは物の見かたを習わなかったなどとおっしゃるんですの! それどころか、あたしどもに教えてくださることだってできますわ」
「教えてちょうだい、後生ですから」とアデライーダは笑った。
「ぼくになにがお教えできるものですか」と公爵も笑った。
「ぼくは外国にいるあいだ、ほとんどいつも同じスイスの片田舎に暮らして、ほんのときおり、どこかあまり遠くないところへ出かけるだけでしたもの、何をお教えできるもんですか。はじめのうちは、ただ退屈しないというまででしたが、からだのほうはずんずんよくなりました。そのうちに、ぼくは毎日の日が貴く思われだしました。日がたつにつれていよいよ貴くなってくるのが、ぼく自身にも気がつきました。毎晩、満足しきって床に入るのですが、朝目がさめたときは、もっともっと幸福なのでした。なぜそうなのか、――それはかなり説明が困難です」
「それで、あなたどこへもいらっしゃらなかったんですね、どこへも行きたいとはお思いにならなかったんですね?」とアレクサンドラが問いかけた。
「はじめのうち、ごくはじめのうちは、まったく行きたいと思いました。そしてぼくは激しい不安に陥りました。どんなふうに暮らしたものかと考えたり、自分の運命を試してみたかったりして、ときおり非常に煩悶したものです。あなたがたもおわかりでしょうが、よくそんなときがあるものです、ことにひとりきりでいるとなおさらね。ぼくのいたその村に滝が一つありました。あまり大きくはなかったが、白い泡を立てながら騒々しく、高い山の上から細い糸のようになって、ほとんど垂直に落ちてくるのです。ずいぶん高い滝でありながら、妙に低く見えました。そして、家から半露里もあるのに、五十歩くらいしかないような気がする。ぼくは毎晩その音をきくのが好きでしたが、そういうときによく激しい不安に誘われたものです。それからまた、よく真っ昼間にどこかの山にのぼって、大きな樹脂《やに》の多い老松に取り巻かれながら、ただひとり山中に立っていますと、やはりそうした不安が襲ってきます。頂上の岩の上には中世紀ごろの古い城の廃址があって、はるか下のほうにはぼくのいる村が、見えるか見えないくらいにながめられます。太陽はぎらぎら光って、空は青く、すごいような静けさがあたりを領している。そのときです、そのときぼくはどこかへ行きたいという気持ちになりました。もしこれをまっすぐにいつまでもいつまでも歩いて行って、あの地と空が相接している線の向こうまで行ったら、ありとある謎はすっかり解けてしまって、ここでわれわれが生活しているより百倍も千倍も強健で、にぎやかな。新しい生活を発見することができるのだ、というような気がしました。それから、しじゅうナポリみたいな大きな町が空想に浮かんできました。その中には宮殿、喧騒、轟音、生命……なんでもあるといった具合に……ほんとうに、なにやかやいろんなことを空想しました! それからのちになって、ぼくは牢屋の中でも偉大な生活を発見できると考えるようになりました」
「いちばんしまいにおっしゃったのはなかなかりっぱなお考えですが、あたしまだ十二くらいのときに、教科書で読んだことがありますわ」とアグラーヤがいった。
「それはみんな哲学ですわ」とアデライーダも口をはさんだ。「あなたは哲学者ね、そしてわたしどもを教えにいらしたのでしょう」
「あるいはあなたがたのおっしゃるとおりかもしれません」と公爵はほほえんだ。「おそらくぼくは、まったく哲学者なんでしょう。それにまたじじつ、ぼくが教えようという考えを持っているかどうか、たぶんだれにも分からないことですからね……いや、まったくそうかもしれません、そうかもしれません」
「そうして、あなたの哲学はエグラムピヤさんなどと同じようですわね」とまたアグラーヤが引きとった。「エヴラムピヤさんてのは、ある官吏の後家さんで、居候かなにかみたいに、よく家へやってくる人ですの。この人の人生における唯一の問題は安直ということでしてね、ただもうどうしたらもっと安く暮らしていけるだろうかってね、一コペイカ二コベイカのこまごましたことばかりいってますの。そのくせどうでしょう、おあしはちゃんと持ってるんですよ、つまりずるいんですわ。あなたのおっしゃる牢獄のなかの偉大な生活も、ちょうどそんなふうですわ、それから四年間の田舎住まいの幸福もね。だって、あなたはそのために、ナポリの都も売っておしまいになったじゃありませんか。おまけに、幾コペイカというはした金ではありますが、利潤までとって……」
「牢獄の生活に関してはまだ反対の余地があると思います」と公爵はいいだした。「ぼくは、牢屋の中に十二年はいっていた男の話を聞きました。それはぼくの先生の患者で、いっしょに治療を受けていた男です。癲癇の発作がありましてね、ときどき落ちつかなくなって、泣くんです。一度なんか自殺しようとまでしました。その男の牢獄内の生活はじつに陰惨なものでしたが、もちろん銅貨式のけちけちしたものでないことは、誓ってもよろしゅうございます。その男のなじみといってはただくもと、窓の外に生えている小さな木だけだったのです……でも、それよりか、いっそぼくが去年別の男と会ったときのことを話したほうがよさそうです。それには一つじつに奇妙なできごとがあるんです。奇妙だというのは、つまり、あまり類のないお話だからです。この男はあるときほかの数名の者といっしょに処刑台にのぼらされました、国事犯のかどで銃殺刑の宣告を読み上げられたのです。ところが、それから二十分ばかりたって特赦の勅令が読み上げられ、罪一等を減じられました。けれど、この二つの宣告のあいだの二十分、すくなくとも十五分というもの、その人は自分が幾分かののちにはぽかりと死んでしまうものと信じて疑わなかったのです。この人が当時の印象をおりおり話して聞かせましたが、それがおそろしくぼくの心をひいで、ぼくは幾度となく、はじめから根掘り葉ほりしてききかえしました。その人はおそろしいほどはっきり覚えていて、この数分間のできごとはけっしてけっして忘れはしない、といっていました。群集や兵隊に取りまかれた処刑台から、二十歩ばかり離れたところに、柱が三本立ててあったそうです、犯人がいくたりもいたからです。まず三人の者をひっぱっていって柱へしぼりつけ、死刑服(だぶだぶした長い白い着物)を着せ、それから銃の見えないように、白い頭巾を目の上までかぶせました。次におのおのの柱のまえに数人ずつの兵士が整列しました。ぼくの知人は八番目に立っていましたから、したがって三度目に柱のほうへ呼び出されることになっていたわけです。ひとりの憎が十字架を手にしてひとりひとり回って歩きました。いよいよ残り五分ばかりで、それ以上命はないというときになりました。当人のいうところによりますと、この五分間が果てしもなく長い期限で、莫大な財産のような思いがしたそうです。最後の瞬間のことなど思いわずらう必要のないほど多くの生活を、この五分間に生活できるような気がして、さまざまな処置を取りきめました。すなわち、時間を割りふって、二分間を友達との告別に、いま二分間をこの世の名ごりに自分のことを考えるため、また残りの一分間は最後に周囲の光景をながめるため、というふうにしたのです。その人はこの三つの処置を取りきめて、こんな具合に時間を割りあてたのをよく覚えていました。当人は当時二十七歳、強壮な青年でした。友達に別れを告げながら、中のひとりにかなりのんきな質問を発して、その答えにまで興味を持ったということです。さて、友達との告別がすむと、今度は自分のことを考えるため[#「自分のことを考えるため」に傍点]に割りあてた二分が参りました。当人はどんなことを考えたらいいか、あらかじめ承知していました。いま自分はこうして存在し生活しているのに、もう二分か三分たったら一種のあるもの[#「あるもの」に傍点]になる。すなわちだれかに、でなければ何かになるのだ。これはそもそもなぜだろう、――この問題をできるだけ速く、できるだけ明瞭に解決しようと思ったのです。だれかになるとすればだれになるのか、そしてそれはどこであろう? これだけのことをすっかり、この二分間に知りつくそうと考えたのです! 刑場からほど遠からぬところに教会堂があって、その金色の屋根の頂きが明らかな日光に輝いていたそうです。彼はおそろしいほど執拗にこの屋根と、屋根に反射して輝く日光をながめていて、その光線から目を離すことができなかったと申します。この光線こそ自分の新しい自然である。いま幾分かたったら、なんらかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、という気持ちがしたそうです……今にも到来すべき新しい未知の世界と、それにたいする嫌悪の念は、じつに恐ろしいものでした。けれど、当人にいわせると、このときもっと苦しかったのは、絶え間なく浮かんでくる一つの想念だったそうです、――『もし死ななかったらどうだろう? もし命を取りとめたらどうだろう? それは無限だ! しかも、その無限の時がすっかりおれのものになるんだ! そうしたら、おれは一つ一つの瞬間を百年に延ばして、一物たりともいたずらに失わないようにする。そして、おのおのの瞬間を『いちいち算盤《そろばん》で勘定して、どんな物だって空費しやしない!』この想念がしまいには激しい憤懣の情に変わって、もう片時も早く撃ち殺してもらいたい気持ちになったそうです」
 公爵はとつぜん口をつぐんだ。人々は彼がまだそのつづきを話して、結論でもつけくわえることと思って待ち構えていた。
「それでおしまい?」とアグラーヤがたずねた。
「え? そうです、おしまいです」束の間の黙想からわれに返って、公爵はこういった。
「なんのためにそんな話をなすったの?」
「その、ちょっと思い出したもんですから……まあ、座興のために……」
「あなたはまったくまとまりのないお話をなさる方ですわ。公爵」とアレクサンドラが注意した。「あなたはきっとこうおっしゃりたかったのでしょう。ただの一瞬間でも一コペイカや二コペイカに僖をつけるわけにはゆかない。そしてわずか五分間でも、ときとしてはいかなる宝にもまさるものだって、ね? まことにりっぱなお考えですわ。けれども、失礼ですが、そんな恐ろしい話をなすったお友達はどうなさいましたろう……だって、そのかたは減刑になったでしょう。つまり、その『無限の生活』を恵まれたのでしょう。で、それからのち、その莫大な富をどうなすったでしょう。『算盤をはじきながら』一つ一つの瞬間を生活なさいましたか?」
「おお、違います。その人は自分でいっていましたが、――もうその事はぼくがとっくにきいたのです、――まるっきり違った生活をして、多くの瞬間を空費したそうです」
「じゃ、つまり、あなたにとっていい経験でしたのね。つまり『算盤をはじきながら』生活するってことは、じっさいはできないことなんですね。どういうわけだか、とにかくできないことなんですね」
「そうです、どういうわけだか不可能なんです」と公爵は同じことをいった。「ぼく自身にもそう思われました……が、それでもやはり、なにかそうとばかりも信じられないので……」
「それじゃ、あなたはだれよりも賢い生活ができると考えてらっしゃいますの?」アグラーヤがそうきいた。
「ええ、ぼくときどきそんな気もしました」
「今でもしますの?」
「今でも……します」以前どおりの静かな、というより、むしろ臆病な笑みをふくんで公爵は答えた。けれど、すぐにまたからからと笑って、おもしろそうにアグラーヤをながめた。
「おつつしみぶかいこと!」アグラーヤはむかつ腹を立てながらいった。
「ですが、あなたがたはまったく度胸がいいですね。そんなにして平気で笑っていらっしゃる。ところが、ぼくはこの友達の話におそろしいショックを受けて、あとで夢にまで見ましたよ。その五分間の姿を見たのです」
 彼はまじめな探るような目つきで、もう一度聞き乎の顔を見まわした。
「あなたがたはなにかぼくに腹を立てていらっしゃるのじゃありません?」なんとなくどぎまぎした様子ではあったが、それでも一同の目をひたとながめながら、ふいに公爵はこう問いかけた。
「なぜですの?」と三人の令嬢はびっくりして、一時に叫んだ。
「その、じつは、ぼくがしじゅう教訓でもしてるような具合ですから……」
 一同は笑いだした。「もし怒っていらっしゃるのでしたら、どうかお怒りにならないでください」と彼はいった。「ぼくはだれよりも少なく生活してきたから、だれよりも人生のことを知りません。それはぼく自分でもよくわかってるんです。ぼくはときどきじつに変なことをいうでしょう……」
 といって、彼はすっかりまごついてしまった。
「だって、あなたご自分で幸福だったとおっしゃる以上、あなたは人よりも少なく生活なすったどころじゃなく、かえって余計に生活してらっしゃるんですわ。なぜあなたはわざと謙遜ぶって、あやまったりなどなさるんでしょう?」アグラーヤが突っかかるような厳しい調子でいった。「それから、あなたがあたしどもに教訓を垂れてくださることについては、どうぞご心配なさいませんように。あなたの態度にはちっとも高慢そうなとこが見えませんから。まったくあなたみたいな静寂教《クワイエチズム》の信者だったら、たとえ百年生きていらっしても、幸福に満ちた生涯が送れますわ。あなたは死刑を見せられても指を一本見せられても、どちらからも同じようにりっぱな思想を引き出して、しかも大満足でいらっしゃるかたなんですもの。そんなふうなら長生きもできましょうよ」
「なんだっておまえはそう憎まれ口をきくんです、合点が行かない」前から無言で、話している人たちの顔を観察していた夫人はこう引きとった。「そして、おまえさんたちのいうことからして、なんのこったかわからないじゃありませんか。指とはいったいなんのことだえ、ばかばかしい。公爵のおっしゃることはなかなかりっぱですよ、もっとも、少々陰気すぎるけれど。なんだっておまえは話の腰を折るんです? 公爵は話の始まりごろには笑っていらっしったのに、今はすっかりしょげこんでおしまいなすったじゃないか」
「いいのよ。おかあさま。ねえ、公爵、あなた死刑をごらんにならなかったのが残念ですわ。あたしひとつうかがいたいことがあるんですけど」
「ぼく、死刑を見たことがありますよ」と公爵が答えた。
「ごらんになって?」アグラーヤは叫んだ。「あたし、どうして察しがつかなかったのでしょう? それで何もかもそろったことになりますわ。ですけど、もしごらんになったのなら、しじゅう幸福に暮らしてきたなんておっしゃられないはずですがね。え、あたしのいうこと違っていまして?」
「また、いったいあなたのいらしった村で死刑なんかするんですの?」とアデライーダがたずねた。
「ぼくはリヨンで見たのです。シュナイデル先生といっしょにリヨンへ行きましたから、先生がいっしょにつれて行ってくだすったんです。着くとすぐ死刑にぶつかりました」
「いかがでございました、さぞお気に召したでしょうね? いろいろ教訓になる有益なことがありましたでしょう?」アグラーヤは問いかけた。
「ちっとも気に入りませんでした。おまけに、そのあとで病気したくらいです。けれど、じつのところ、まるで釘づけにでもされたように、じっと立ったまま見つめていました。どうしても目を離すことができなかったのです」
「あたしたって、やはり目を離すことができなかったでしょうよ」とアグラーヤがいった。
「あちらでは婦人が見物に行くのをひどく嫌います。そういう女のことはあとで新聞にまで書き立てるのです」
「つまり、女の見るべきものでないとわかると、それはすなわち男の見るべきものだって言いたいんですわ(したがって、それを肯定しようというのでしょう)。結構なロジックね、おめでとう。それで、むろん、あなたもそう考えていらっしゃるんでしょう」
「死刑のお話を聞かしてくださいましな」とアデライーダがおさえた。
「ぼくは今どうも気が進まないのですが……」と公爵はどぎまぎして、顔でもしかめるような様子をした。
「あなた、まるであたしどもに話してくださるのが、惜しくていらっしゃるようですわね」とアグラーヤがちくりと刺した。
「いいえ、ただね、この死刑の話はもうさっきしたばかりですから」
「だれにお話なさいまして?」
「さっき待っていたとき、お宅の取次に話しました」
「取次って、だれのことですの?」と四方から一時に問いかけた。「あの控室にすわっている、顔の赤い、ごま塩頭の人です。ぼく、ご主人をお待ちしながら、控室にすわっていましたから」
「それは奇妙ですこと」と夫人が口を入れた。
「公爵はデモクラットですもの」とアグラーヤがさえぎった。
「ね、公爵、アレクセイにお話しなすったくらいなら、あたしたちに聞かしてくださらないって法はありませんわ」
「わたしぜひうかがいとうございますわ」とアデライーダはくりかえした。
「さっきはまったく」と公爵はまたいくぶん元気づいて(公爵は非常に早くそして正直に元気づく入らしかった)、アデライーダのほうへ向いた。「まったくあなたのおたずねになった画題に関して、ご助言しようという考えがあったんです。どうですか、ギロチンの落ちて来る一分前の死刑囚の顔をお描きになっては。まだ処刑台の上に立っていて、これから板の上へ横になろうとしているときです」
「え、顔ですって? 顔ばかり?」とアデライーダがたずねた。
「ずいぶん妙な画題ですことね。それじゃ、まるで絵にならないじゃありませんか」
「わかりませんね、なぜでしょう?」と公爵は熱心にいいはった。「ぼくは近ごろパーセルで絵をひとつ見ました。その話がしたくてたまらないんです……またいつかお話ししましょう……じつに感動させられました」
バーゼルの絵のお話はのちほどぜひうかがいとうございますが」アデライーダが受けた。「今はどうかその死刑の絵のことを、もっとくわしく説明してくださいましな。あなたが心の中で考えてらっしゃるように伝えていただけるでしょうかしら? どういうふうにその顔を描くんですの。それで、顔ばかり? いったいどんな顔でございますの?」
「それは殺されるちょうど一分まえです」まるで前から用意でもしていたように、彼はさっそく話しだした。それはただこの思い出ひとつに没頭しつくして、ほかのことはいっさい忘れ果てたような具合である。「犯人が梯子段を登りつくして、処刑台に足を踏みこんだその瞬間なのです。そのとき、男はふとぼくのほうへ向いたので、こちらもその顔をちらとながめ、何もかもがわかりました……ですが、まあどんなふうにこれを話したらいいでしょう! ぼくはあなたにしろだれにしろ、そいつを絵に描いてもらいたくてもらいたくてたまらないんです! あなただったら申し分ありません! ぼくはもうそのときから、有益な絵になるだろうと考えていました。しかし、その中には、前にあったことを残らず現わしていなくちゃいけないんです。その男は牢屋に押しこめられて、刑の執行を待っていましたが、すくなくとも一週間くらいは間があると思っていたのです。つまり、ありふれた形式的な順序を当てにしていたんでしょう。書類はまだどこかほかへ回されて、やっと一週間もたったころにやって来るだろう、くらいのつもりでいました。ところが、思いがけなくある事情からして、その手続きが短縮されたのです。ある朝の五時ごろ、男はまだ寝ていました。もう十月の末でしたから、朝の五時はまだ暗くて寒いのです。典獄が看守といっしょにそうっと入って来て、用心ぶかく男の肩に触りました。こちらは片ひじついて起き直ると、-灯が見えるじゃありませんか。『どうしたんです?』『九時に死刑だ』男は半分寝ぼけてほんとうにしないで、書類はもう一週間たたなければやって来ないのだ、といい争おうとしましたが、やがてすっかり目がさめてしまうと、もう争うのをよして口をつぐみました、――これはあとで人から聞いたことです、――しばらくたってから、『だって、それにしても、こんなに急じゃやりきれない……』と言い、また黙ってしまいました。そして、もう何もいおうとしなかったそうです。それから、三、四時間ばかりはお定まりの手順に過ぎてしまう、――神父、ぶどう酒とコーヒーと牛肉の出る朝飯(ねえ、これじゃまるでひやかしじゃありませんか。考えただけでもじつに残酷な話でしょう。ところが一方から見ると、ああした無邪気な連中は、まったく清い心持ちからそういうこともするので、これをりっぱな博愛だと信じて疑わないんですからね)。その次に身じまい(あなた、囚人の身じまいってどんなものかご存じですか?)、それから最後に、処刑台まで町じゅう引きまわすのです……ぼくはここでもやはり同じように、こうして町じゅう引きまわされているあいだ、まだまだ長く生きていられるような気持ちがするだろうと思います。その男は道道こんなことを考えたに相違ありません。『まだ長いぞ、まだ通り三つだけ命が残っているぞ。こいつを通ってしまっても、その次にまだあれが残っている、それから右側にパン屋のある通りが残っている。まだまだパン屋まで行きつくのは、いつのことかわかりゃしない!』まわりには、群集、叫喚、喧騒、幾万の顔、幾万の目……これをすっかり押しこたえねばならないのです。が、なによりも苦しいのは、『ここに幾万という人間がいる、あの中でだれも死刑になる者はないのに、おればかりが死刑になるんだ!』という想念です。まあ、ここまでが前置きです。処刑台へは小さな梯子がかかっています。その梯子の前でふいに泣きだしました。そのくせ、ずいぶん力の強そうな男らしい男で、大変な悪党だといううわさでした。男のそばにはたえず神父がついていました。馬車の中へもいっしょに乗り込んで、のべつなにやらいっていましたが、――男の耳にはろくすっぽ入りゃしません。ちょっと聞きはじめでも、三こと目から、もうわからなくなるのです。そうに違いありません。とうとう梯子を登りはじめましたが、足がしばってあるものだから、小刻みに動くのです。神父はきっと賢い人だったんでしょう。もうそのとき話をよして、絶え間なしに十字架を接吻さしていました。梯子の下にいるとき、男はひどく青い顔をしていましたが、登りつくして台の上に立ったときは、紙のように――まるで白い用箋のように、急にまっ白になってしまいました。きっと両足が弱って棒のようになって、吐き気まで催してきたのでしょう、たんだかのどをしめられて、それがためにくすぐったいような心持ち、――あなたがたもそんな経験がおありになりませんか? なにかでびっくりしたあととか、さもなくば非常に恐ろしいと思った瞬間、理性はそっくりそのまま残っていながら、なんの支配力を持っていないようなときなんかに。ぼくは思いますね、もしたとえば、上から家が倒れかかるとかいったような、避くべからざる滅亡が襲ってきたら、ふいにそのままべったりすわりこんで、――どうなとなるようになれ! と目を閉じながら、じっと待っているような気持ちになりはしないでしょうか……ちょうどこうした気の弱りがおこりかけた瞬間に、神父はせかせかした手つきでふいに無言のまま、男のすぐ口もとへ十字架を当てがいました。こんな小さな銀の十字架でした、――それを幾度も幾度も、一分ごとに当てがうのです。十字架が唇にふれると、男は目を見ひらいて、幾秒かのあいだなんとなく元気づいて、足もずんずん動きました。そして、むさぼるように十字架を接吻する、急いで接吻するのです。まるでなにか万一の用心に忘れずにしまっておこうとして、急いでつかみとるような具合に。しかしこのさい、宗教的な自覚はほとんどなかったようです。こういうふうにして板のそばまでつづけて行きました……が、妙なことには、こういうつきつめた場合に、人はあまり気絶しませんね! それどころか、反対に頭がおそろしくはっきりして、運転中の機械のように、強く、強く、強く働いてるに相違ありません。ぼくは思いますね、そんな場合いろいろな思想が、――どれもこれも尻きれとんぼで、ひょっとするとこっけいで、この場合とはとてつもなく飛び離れた思想が、たがいにぶつかりっこしているのです。たとえば、『おや、だれだかこっちをにらんでるぞ、――あいつの額にはいぼがある。ほい、この首斬人のいちばんしたのボタンがさびてらあ……』といった調子なんです。しかし、それと同時にいっさいのことを覚え、いっさいのことを知っているのです。なにかある一点があって、それがどうしても忘れられない、またそれがあるために気絶することもできません。そして、あらゆるものはこの点の周囲をめぐり、回転しているのです。どうでしょう、考えてもごらんなさい、もう頭を丸太ん棒の上に載っけてじっと待ちながら……次に来るものを明瞭に意識している[#「意識している」に傍点]、最後の四分の一秒となっても、こういう状態がまだつづくのです。と、不意に頭の上を鉄のすべる音が聞こえる! これはどうしたって聞こえるに相違ありません! もしぼくだったら、ぼくがそんなふうに板の上に寢てるのだったら、ぼくはわざと耳を澄ましてその音をとらえたでしょう! それはおそらく一瞬間の十分の一くらいしがないでしょうが、かならず聞こえるに相違ありません! それに考えてもごらんなさい、今でも世間で議論してるではありませんか。頭が切り離されたときでも、一秒くらいのあいだは、切り離されたことを知ってるかもしれないって――なんて物の考えかたでしょう! もしそれが五秒間だったら、どうだというのでしょう!………そこでね、あなた、梯子のいちばんうえの段がたった一つ、近いところにはっきり見えるように、断頭台をお描きなさい。いま罪人がそれに片足かけたところで、紙のように白い顔と頭とが見えます。神父が十字架をさし伸ばすと、こちらは餓えたもののように青いくちびるを突き出しながら、それをながめています。そして、――何もかも知ってるのです[#「何もかも知ってるのです」に傍点]。十字架と首、これが絵の主眼です。神父の顔、首斬人、ふたりの助手、それから下のほうに見えるいくつかの頭や目は、霧の中にでもあるようにぼんやり描いたらいいでしょう、点景としてね……これが絵の全幅です」
 公爵は口をつぐんで一座を見まわした。
「これじゃあんまり静寂教《クワイエチズム》らしくないわ」とアレクサンドラはひとり言のようにいった。
「ね、公爵、今度はあなたの恋物語を聞かしてくださいな」とアデライーダがいいだした。
 公爵はびっくりしたようにその顔をながめた。「と申しますのはね」アデライーダは、なんとなく、せきこんだ調子で、「あなたからはまだバーセルの絵のお話もうかがわなくちゃならないんですが、わたしそれよりさきに、あなたの恋物語を聞かしていただきとうございますの。強情をお張りになってもだめ、あなたは恋をなさいました。それにまた、そのお話をおはじめになるとすぐに、哲学者ぶるのをおやめになりましょうから」
「あなたはなんでも話しておしまいになると、すぐにその話したことを、恥ずかしがりなさいますわね」とふいにアグラーヤが口を入れた。「それはいったいなぜですの?」
「まあ、なんてばかなことを」不満足げにアグラーヤを見すえながら夫人がさえぎった。
「あんまり気がきいてもいないわね」とアレクサンドラも相づちを打った。
「公爵、この子のいうことを正直にお取んなすってはいけませんよ」と夫人は公爵に向かっていった。「なにかしら意地わるでわざとあんなことをしてるんですから。あの子はけっしてあんなばかにしつけたのではございません。どうぞね、あなた、あの三人があなたをいじめようとかかっている、などとお思いにならないでください。それはまったくなにやら企らみはあるに相違ないでしょうが、もう三人ともあなたが好きになっているのですよ。わたしはあの子たちの顔をよく知っております」
「ぼくもあの人たちの顔をよく知っております」と公爵は妙に言葉に力を入れてこういった。
「それはどういうわけですの?」とアデライーダが好奇心に満ちた声でたずねた。
「いったいどうわたしたちの顔をごぞんじなんです?」と他のふたりも興ありげに問いかけた。
 けれども、公爵は黙ってまじめな様子をしていた。一同は彼の答えを待ちもうけていた。
「あとで申しましょう」と彼は低いまじめな調子でいった。
「あなたはどこまでもあたしたちの興味を釣ろうとなさるんですわ」とアグラーヤが叫んだ。「それに、なんてもったいぶった言いかたでしょう!」
「ま、よございます」とアデライーダはまたせきこんで、「もしあなたがそんなに顔の鑑定の大家でしたら、たしかに、恋をなすったに相違ありません。つまり、わたしの言うことが当たったわけですわ。話してくださいましよ」
「ぼく、恋したことなんかありません」公爵はまた前と同じ、低い、まじめな調子で答えた。「ぼくが……幸福だったのは、ほかにわけがあるのです」
「どうして、なぜですの?」
「いいです、ひとつお話ししましょう」と公爵はいいきった
が、なんとなく深いもの思いに沈んでいるかのようであった。

      6

「皆さんは今おそろしい好奇心をもって、ぼくをながめておいでになります」と公爵ははじめた。「もしその好奇心を満足させなかったら、あなたがたはかんかんになってぼくに食ってかかりもしかねないでしょう。いや、これは冗談ですよ」と彼は微笑を浮かべながら、大急ぎでこうつけたした。「あちらには……あちらには子供がどっさりいました。で、ぼくはいつも子供と、――子供ばかりといっしょにいました。一小隊くらいいるのが、みんなぼくの村の子供たちで、学校通いの連中ばかりでした。ぼくがこの連中に教えていたわけではありません。そのためには、ちゃんとジュール・ティボーという学校の先生がいました。こうはいっても、ぼくもちっとはなにかと教えたかもしれませんが、たいていの場合、なんということなくいっしょに遊んでいました。こうしてぼくの四年間はたったのです。ぼく、ほかのものはなんにもいりませんでした。ぼくはこの子供らに何もかもみんなうち明けて、なにひとつ隠しだてしなかったのです。しまいには子供たちがいつもぼくのまわりに集まって来て、ぼくでなければ夜が明けぬようになったので、親たちや親類のものはぼくのことを憤慨しだすし、学校の先生はぼくにとっていちばんの敵になってしまいました。ぼくはあちらでずいぶん敵を作りましたが、みんな子供がもとなんです。ついにはシナイデル氏さえ強《こわ》意見をするようになりました。いったいみんな何が恐ろしいのでしょう? 子供にはどんなことだって話して聞かせてかまいません。――なにもかもね。一般の大人が子供を理解しないのはもちろん、両親でさえ自分の子供をろくろく知らないのだと考えると、ぼくはいつも不思議でたまりません。まだ年がゆかぬからとか、まだ時期が早いからといって、子供に物を隠す必要はちっともありません。そんなことはじつに悲しむべき不幸な考えかたです! 子供ってものはなんでもわかるのに、親は子供をなんにもわからぬ、ほんの赤ん坊あつかいにしているのを、じつによく心得ています。どんな小さな子供でもきわめて困難な事件に対して、驚くほどりっぱな忠告を与えうるものだってことを、大人は夢にも知らずにいるのです。ああ! ほんとにあのかわいい小鳥が、さも嬉しそうに信じきった様子をして自分のほうを眺めていると、小鳥をだますのが恥ずかしくなるでしょう! ぼくが子供たちを小鳥と言ったのは、世の中に小鳥よりかわいいものはないからです。それはそうとして、村の者がぼくに腹を立てるようになったのは、おもにある偶然のできごとからです……ティボーなどはもうぼくをうらやましがっていました。はじめのうちは、子供たちがぼくのいうことをなんでもよく聞きわけるのに、先生のいうことがいっこうにわからないのを不思議がって、しきりに首をひねっていましたが、その後、ぼくがこの人に向かって、われわれはおたがいになにひとつ子供らに教えることなんかできない、かえって子供らに教えられるのだといったら、先生はそれからぼくをばかにしだしました。ほんとうに、自分で子供らといっしょに暮らしていながら、どうしてあんなにぼくを嫉妬|讒謗《ざんぼう》するんでしょう! 子供に接していると魂が癒されるものですがねえ……例のシュナイデル先生の病院にひとりの病人がいましたが、それはじつに不仕合わせな男でした。不仕合わせといって、またと類のないような惨憺たるものです。この男は精神錯乱の治療に病院へ入れられたのですが、ぼくの考えではきちがいというよりは、むしろ非常に苦しんだ男というべきです、それが彼の病気の全部だったんです。ところで、ぼくの子供たちがしまいにはこの男にとってどんなに大切になったかは、とてもあなたがたにおわかりにならないでしょう……しかし、この病人のことはあとにしたほうがいいでしょう。ぼくはとりあえずいっさいの事の起こりからお話ししましょう。はじめのうち子供たちはぼくを好きませんでした。ぼくはこんな大人だし、そのうえいつも袋みたいにもっさりしてるんですからね。おまけに顔まであまり見っともよくないってことを、ぼくは自分でよく知っています……それから今ひとつ、ぼくが外国人だということもありました。子供たちははじめぼくをからかっていましたが、のちにぼくがマリイを接吻してるとこを見たとき、石をほうりつけさえしました。しかし、ぼくは後にも先にも、たった一度この女に接吻したっきりなんです……いえ、笑っちゃいけません」と公爵は急いで、聞き手のくすくす笑いを押しとどめた。「それはけっして色や恋じゃないのです。もしこの女の不仕合わせな身の上をお聞きになったら、あなたがたもぼくと同じように、かわいそうだとお思いになるに違いありません。この女は、ぼくのいた村の生まれで、母親というのはもうよぼよぼのお婆さんでした。この老婆のちっぽけな、すっかり古ぼけてしまった家に、窓が二つついていましたが、村役場の許しをえてその一つの扉や框《かまち》をはずし、この窓口から真田紐《さなだ》だの縫糸だの、たばこ、石鹸などというがらくたを売って、ようやく口すぎをしていました。そのうえに、女は病身で、両足とも、すっかりはれていたもんですから、いつもじっと家にばかりすわっておりました。マリイはこの老婆の娘なんです。年ごろ二十歳ばかりの、ひ弱そうなやせひょろけた女でした。もうずっと前から肺病にかかっていましたが、それでも毎日苦しい日傭仕事に雇われて、家から家へと回り歩いていたものです、――つまり床を洗うとか、洗濯物をするとか、庭を掃除するとか、牛馬を追いこむとかです。ところが、あるとき村へやって来たフランス人の手代《コミ》が、このマリイをかどわかして連れ出しましたが、一週間たつかたたぬかに、たったひとり大道へおいてきぼりにして、こっそり逃げ出してしまいました。女は汚れ腐ったぼろを下げ、破れ靴をはいて、道々人の袖にすがりながら家へ帰りました。なにしろ一週間というもの徒歩で歩き通して、夜は野に寝たものですから、ひどい風邪をひいて、足は傷だらけ、手はむくんで、あかぎれだらけという有様でした。もっとも、マリイは前だって、けっして美しい女ではありませんでした。ただ目がしっとりとして人が好さそうで、罪がないというだけ、おそろしく無口な女でした。いつだったかずっと前に、仕事をしながら不意となにやらうたいだしたんです。ぼくは今でも覚えていますが、そばにいる者はみんなびっくりして、きゃっきゃっ笑いだしたものです。『マリイが歌をうたったぞ! なに、マリイが歌をうたった?』と騒ぎ立てるので、当人はひどくまごついて、それからあとというもの、永久に黙りこんでしまいました。そのころはまだみんなマリイをかわいがっていましたが、その後やみ疲れ責めさいなまれて村へ帰って来たとき、だれひとり同情を寄せてやる者がないのです。この方面のことになると、じっさい、世間の人は残忍なものですね! じつに酷薄な見解をいだいています! 母親がさきに立って、憎悪と侮蔑の目でマリイを迎えました。『おまえはわしの顔に泥を塗った』とこうなんです。そうして、母親は娘を村じゅうの悪口嘲罵に任せました。マリイが帰ったと聞きつけると、ほとんど村じゅうの者がマリイを見ようと老婆の小屋へ馳せ集まりました。年寄も、子供も、女房も、娘も群をなして、貪婪な目を光らせながら急いで行ったものです。マリイは老母の足もとの床の上に、餓えつかれて、ぼろぼろの着物にくるまったからだをなげ出して、しくしく泣いていました。人々がかけ集まったときは、おどろに振り乱れた髪の毛に身を包むようにして、ひたとうつぶせに床に吸いついていました。まわりに立っているものはみんな、なにかけがらわしいもののようにそれをながめているのです。年寄はマリイの罪を数えてののしる。若い連中は笑う、女たちは責めたり悪口をいったりして、まるでくもかなにかでも見るように、軽蔑しきっているのです。母親も母親でそれをとがめようともせず、そばにすわってみながらしきりにうなずいてみせ、調子を合わせていました。母親はその時分たいへん病気が重って、ほとんど死にかけていましたが、ふた月してほんとに死んでしまいました。自分でも死期の近いことを知っていたのですが、それでも死ぬまで娘をゆるそうとはしませんでした。それどころか、ひとこととして口をきかず、寝るときも戸口の廊下へ追いやって、食べる物も満足に食べさせなかったのです。母親は病中にしじゅう腰湯をしなければならなかったので、マリイは毎日湯を立てて足を洗ってやるなど、さまざまに看病してやりました。けれど、母親はその親切な介抱を黙って受けるばかりで、ひと口も優しい言葉をかけてやらない。マリイはそれをじっと辛抱していました。その後、ぼくはこの娘と近づきになったとき気がつきましたが、マリイはそれをあたりまえのように思って、自分という人間を世界じゅうでいちばんいやしいものみたいに考えているのです。老母がすっかり床についてしまったとき、村のお婆さんたちが順番で、かわるがわる介抱にやって来ました。そういう村の規則なんです。そのときマリイは、まったく食べ物を貰えなくなり、村じゅうどこへいっても追い払われ、だれひとり以前のように仕事をさしてやろうという者もありません。まるで唾を引っかけんばかりでした。男たちはマリイを女の数にも入れなくなって、とてもひどい悪口を浴びせとおしていました。あまりたびたびではありませんが、ときとして、それもごくたまに、日曜なぞ酒に酔っぱらった連中が、お慰みにわずかばかりの小銭をいきなり地べたにほうりつけると、マリイは黙ってそれを拾い上げるのでした。彼女はもうそのころからせきのたびに血を吐くようになっていました。しまいには身につけていたぼろ着もすっかりかんではいたようになって、村へ姿を現わすのにも気が引けるくらいでした。彼女は帰って来たそもそもからはだしで歩いていました。そこへもってきて、子供たちが組を作って(みんな小学校の生徒で、四十人以上もありましたろう)、マリイをからかったり、むさい物を投げたりするではありませんか。彼女は牛飼のところへ行って、牛番に雇ってくれるように頼みましたが、さっそく追っ払われてしまいました。すると、マリイはことわりなしに牛の群をつれて、毎日朝から晩まで家を出ていきました。それがたいへん手助けになるのに牛飼も気がついたので、それからは来てもあまり追い立てずに、ときおり食べ残しのチーズやパンをくれてやるようになりました。彼は自分でそれを大きな慈善でもしたように考えていました。母親が死んだとき、村の牧師は恥ずかしげもなく教会で、マリイを大勢の前で侮辱しました。マリイがいつもどおり、ぼろぼろのなりをして、棺のうしろに立つたまま泣いていると、その泣き泣き棺について行く姿を見ようというので、大勢の人が教会へ集まって来たのです。そのとき牧師が、――この男はまだ年が若くて、偉い説教者になろうという野心に燃えていました、マリイを指しながら、――一同に向かっていいますには、『この女こそ、かの尊敬すべき婦人の死なれた原因であります(これはまっかなうそなのです。なぜって、母親はもう二年も前からわずらっていたのですから)、こうして、今みなさんの前に立つたまま、顔も上げることができないでおります。なんとなれば、神さまのみ心によって運命を定められたからであります。ごらんのとおり、身にはぼろをまとい、足ははだしであります。なんと善行を失った人たちのよい見せしめではありませんか! この女はそもそも何者でありましょうか? なくなられたかたの娘なのです!』と、どこまでいってもこういった調子なのです。しかも、どうでしょう、この卑劣きわまる言葉がみんなの気に入ったのです。ところが、……そこへひとつ変わったことがおこりました。そこへ子供たちが割りこんだのです。子供たちはもうその時分みんなぼくの味方で、マリイが好きになっていました。それはこういうわけなのです。じつは、ぼくマリイのために何かしてやりたくってたまらなかったのです。マリイは金がなくてさぞ困るだろうと思ったけれど、あちらにいる時分のぼくは、いつだって一文なしでした。ところが、ちょうど小さなダイヤのピンがあったので、村から村へ渡り歩いて古着など売買する商人にそれを払って、ハフランの金をこさえました。もっとも、ピ冫はたしかに四十フランの値うちがありました……ぼくはたったふたりきりのところでマリイに会おうと思って、長いあいだ苦心しましたが、とうとうある日のこと、村はずれの生垣のそばで、――坂になった裏道のとある木の下で会いました。そこでぼくは例の八フランを渡し、もうこれ以上一文も金はないのだから、大切にしまってお置きといって接吻しました。そして、ぼくがこんなことをするからって、なにか好くない目的でもあるようにとってはいけない、ぼくがおまえに接吻するのはおまえにほれたからじゃない、ただおまえを気の毒に思うからだ、ぽくはそもそもの始まりから、けっしておまえが悪いとは思っていなかった、ただ、不仕合わせな女だと同情しているだけだ、とそういって聞かせました。それからぼくはいろいろ慰めてやって、おまえはそんなふうに自分を人と比べていやしいものだと思ってはいけない、とこうも言ってさとしてやりたかったのですが、マリイはそれがわからなかった様子でした。マリイは始めからしまいまで伏し目になって、無性に気まり悪がりなから、黙ってぼくの前に立っていましたが、それでもぼくはすぐに、よくわからなかったんだなと気がつきました。こちらがすっかりいってしまったとき、マリイはぼくの手を取って接吻しました。ぼくもすぐさまその手を握って接吻しようとしましたが、マリイは急いで引っこめてしまいました。そのときふいに、子供らの一隊がぼくたちふたりを目つけたのです。あとでわかったことですが、子供らはずっと前からぼくの跡をつけまわしていたそうです。で、この連中が口笛を鳴らすやら、手をたたくやら、笑うやら、大変な騒ぎなんで、マリイは逃げ出しました。ぼくがなにかいおうとすると、子供らは石をほうったりなんかするんです。すぐその日に、村じゅうの者がみんな知ってしまいました。そして、そのお尻はまたもやすっかりマリイのほうへまわって、彼女はもっともっと嫌われるようになりました。一時なにか罰を食わすなどといううわさもありましたが、まあ運よくそのまますんでしまいました。そのかわり、子供たちはマリイを見ると通せん坊をしたり、泥をぶっつけたりして、前より余計にからかうのです。よくマリイは子供らに追っかけられて逃げていましたが、元来胸の弱いからだですから、はあはあ息を切らして苦しんでいると、子供たちはうしろからわめいたり悪口をついたりする。一度なぞはぼくが飛び出して、その連中を相手に喧嘩したことさえあります。それからぼくは子供たちに向かって、毎日ひまさえあればお説教をはじめました。すると、子供らもときどき立ちどまって、耳を傾けるようになりました。もっとも、悪口はまだやめませんでしたがね。マリイがどんなに不仕合わせな女かってことを、ぼくは話して聞かせたのです。まもなく彼らは悪口をつくのをやめて、黙ってマリイをよけるようになりました。しだいしだいにぼくらは話などするようになりました。ぼくは子供らになにひとつ隠さず、すっかりうち明けて話しました。彼らはたいへん珍しそうに聞いていましたが、まもなくマリイを気の毒がるようになってきました。ある者はマリイに出くわすと、愛想よく挨拶するんです。あちらでは人が途中で行き会うと、――知り合いであってもなくっても、――お辞儀をして『こんにちは』といい合う習慣でした。そのときマリイはどんなにかびっくりしたことでしょう。あるとき、ふたりの娘が食べ物を手に入れて、マリイに持ってってやったあとで、ぼくのとこへ来て話すのです。マリイがひどく嬉しがって泣いたから、自分たちも今ではあの人が好きでたまらなくなった、というじゃありませんか。まもなく、子供たちがみんなマリイをかわいがるようになりましたが、それと同時にぼくまで急に好いてくれだしました。彼らはしょっちゅうぼくのところへ来て、なにか話して聞かせろとねだるのでした。子供たちがおそろしく聞きたがったところから見ると、ぼくもなかなか話が上于だったらしいのです。のちには、ただもうその連中に話して聞かせてやるために、勉強もすれば本も読むようになりました。こうして、三年のあいだというもの、ぼくはしじゅう話しつづけていました。なぜ大人にするような話を子供にして聞かせるかだの、なぜ子供たちになにひとつ隠そうとしないか、などという人々の非難にたいして、――その中にシュナイデル先生もまじっていました、――ぼくはこう答えました。子供にうそをつくのは恥ずべきことだ、大人がどんなに隠しても子供は心得ている、それにひとりで知ったことは、悪いほうに解釈するかもしれないが、ぼくが教えればそんなおそれはない。とにかくどんな人でも、自分が子供だったときのことを思い出してみたら、それでいいのだといいましたが、だれも同意しませんでしたっけ……ぼくがマリイに接吻したのは、母親の死ぬ二週間まえでした。例の牧師がお説教したときは、子供たちがみんなぼくの味方になっていましたから、ぼくはすぐに牧師の仕打ちを話して、よく合点の行くように説明してやりました。すると、一同大いに憤慨して、中には石をほうって窓ガラスをこわす者さえありました。ぼくはそれはいけないといってよさせましたが、村の者はさっそくそれを聞いて、子供を惡くしてしまうといってぼくを責めたものです。あとで、子供たちが、マリイを好いていると聞いたときは、みんなびっくりしたような始末です。しかし、マリイはもう幸福に暮らしていました。子供たちは道で会うことさえ禁じられていましたが、それでもこっそりと村から半露里も離れている、かなり遠い牧場へ走って行きました。たいていなにかみやげを届けてやるのですが、中にはただマリイを抱いて接吻して"Je vous aime, Marie! "(マリイ、わたしはおまえが好きだ)といいたいばかりにわざわざ走って行って、すぐにまた韋駄天《いだてん》走りに帰って来るものもありました。マリイは思いもかけぬこの幸福に、ほとんど気が狂わんばかりでした。まったくこのようなことは夢にも見なかったんですものね。それで、嬉しくもあれば恥ずかしくもありといった様子でした。しかし、それよりも子供たち、ことに女の子は、マリイのところへ走って行き、ぼくがとても彼女を愛していて、しじゅう子供たちに彼女のうわさばかりするということを、当人のマリイに知らせたくてたまらなかったらしいのです。子供たちはマリイに向かって、これはみんな小父さんのいったことだ、そして今はあなたが好きで気の毒になった、これからさきも好いてあげる、などというのです。それからまたぼくのとこへかけもどって、嬉しそうなせわしない顔つきをしながら、たった今マリイに会って来たことや、マリイがぼくによろしくいったことなどを伝えるのです。毎晩、夕方、ぼくは滝へ散歩に出かけました。そこには村のほうからすこしも見えない場所がひとつあって、まわりにポプラが生えていました。子供たちは毎晩ここへぼくに会いに来るのです。なかには、家をそっと抜け出してまで来るのもありました。彼らにとっては、マリイに対するぼくの愛がたまらなく愉快だったと見えます。そこにいるあいだじゅうぼくが彼らをあざむいたのは、前後を通じてこれがたった一つでした。‘ぼくは決してマリイを愛してはいない、つまり恋してはいない、ただ非常にあわれに思ってるだけだなどといって、彼らを失望させることはしませんでした。彼らは自分たちが想像し、自分たちのあいだで勝手に決めたようであってほしいと、いっしょうけんめいに望んでいるのですから(それはいろいろの点からよくわかるのです)、ぼくも黙っていて、うまく図星を指されたような顔をしていました。しかし、この子供たちの小さな心のデリカで、優しいことはどうでしょう。子供らにとって好きなレオン(レフのフランスよみ)のおじさんが、それほどまでにマリイを愛しているのに、マリイは見すぼらしいなりをして、靴さえ持たないということが、有りうべからざることのように思われたらしいのです。それでまあ、どうでしょう! 彼らはマリイに靴だの、靴下だの、シャツだの、おまけになにやらちょいとした着物まで持って来てやったではありませんか。いったいどんなにして小さな知恵をしぼったのか分かりませんが、とにかく、何十人かのものが一致協力しての仕事です。ぼくがそいつをたずねると、彼らはただ愉快そうに笑うばかり、女の子は手をたたいて喜びながらぼくに接吻するのでした。ぼくもときどきやはりそっとマリイに会いに行きました。彼女はもうよほど病気がひどくなって、ろくろく歩けなくなっていました。しまいには牛飼にとってすこしも手助けにならなかったのですが、それでも彼女は相も変わらず毎朝牛をつれて外へ出ました。牧場でも隅っこのほうにばかりすわっていました。そこには大きな岩がほとんど垂直に立っていて、その角がひとところ飛び出している。マリイはだれにも見えないそのいちばん奥に隠れて、捨石に腰をかけたまま、朝早くから牛の群が帰ってしまうころまで、一日じゅうほとんど身動きもせずにすわりとおしていました。彼女はもう肺病でおそろしく衰弱しているので、頭を岩にもたせて目をふさいだまま、じっとすわっているときのほうが多いくらいでした。よく重苦しく息をつきながら、うとうと、眠っているのも見かけました。顔は骸骨そっくりにやせて、汗が額にもこめかみにもにじみ出していました。来てみると、いつもこんな様子でした。ぼくがここへ会いに来るのはほんのちょっとのあいだでした、やはり人に見られるのはいやですから。ぼくが姿を見せるや否や、マリイはぶるぶるとからだをふるわして目を見開き、ぼくのほうへ飛んで来て両手を接吻するのでした。それがこの女にとって一つの幸福なんですから、ぼくは手を引きのけようとしませんでした。ぼくがそばにすわっているあいだ、彼女はふるえたり泣いたりしていました。また幾度か口を開いて、物をいいかけもしましたが、いうことがよくわからないのです。もうなんのことはない、まるできちがいで、おそろしい興奮と歓喜とで夢中なんです。ときとすると、子供たちがいっしょに来ることもありましたが、そんなとき彼らはぼくたちふたりからすこし離れたところに立って、なにかから、だれかからぼくたちを護るような態度をとってくれました。子供たちにとっては、それがまたひとかたならず愉快なんです。われわれが帰って行くと、マリイはまたひとりぼっちになって、岩に頭を寄せかけたまま目をつぶり、前のように身動きもしないでいる。おそらくなにかの夢でも見ていたのでしょう。ある日の朝、マリイはいよいよ牧場へ出かけることがかなわなくなって、がらんとした自分の家に寝ていました。子供たちはすぐさまそのことを聞きつけて、その日はほとんどみんなが代わりばんこ、見舞に行きました。彼女は床の中にそれこそひとりっきりで寝ていたのです。二日の間というものは、ただ子供たちばかりが代わるがわる走って来ては、介抱していましたが、その後、村でも、ほんとうにマリイが死にかけているということが知れると、お婆さんたちがやって来て、そばに付き添ってみとることになりました。村の人たちもマリイをかわいそうに思うようになったらしいのです。すくなくとも、前のように子供たちをとめたり、叱ったりしなくなったのは確かです。マリイはいつもうとうとしてばかりいました。その寝ている間も苦しげで、おそろしくせき入るのでした。お婆さんたちは子供が来ると、しじゅう追っ払っていましたが、子供のほうは窓の下まで走って来て、様子を見て行くのでした。ときとすると、たったひとこと、"Bonjour, notre bonne Marie"(おはよう、わたしの好きなマリイ)といいたいばかりに、わざわざやってくるものもありました。マリイはその声を聞くか、それとも顔を見るばかりで、もう非常に元気づいて、年寄が止めるのも聞かず、無理に片ひじついて起きあがり、こっくりこっくりをして礼をいっていました。子供たちは相変わらずさまざまなみやげを持って行きましたが、彼女はほとんど何も食べませんでした。しかし、誓って申しますが、彼女は子供らのおかげでほとんど幸福に死にました。子供らのおかげで自分の薄命を忘れました。つまり、マリイは死ぬまで自分をこの上ない罪人《つみびと》と感じていたので、子供たちから赦免の言葉を聞いたような気持ちになったのです。彼らは、まるで小鳥みたいに毎朝マリイの家の窓へ来て、羽をばたばた鳴らしながら"Nous t'aimons, Marie"(マリイ、わたしはおまえが好きだ)とわめいたものです。マリイはじきに死にました。ぼくは、もっと生きてるだろうと思ったのですけれど。彼女が死ぬ前の晩、まだ陽の入らぬさきに、ぼくはちょっと見舞に寄りました。彼女はぼくを見わけたようでした。で、ぼくはお名ごりに手を握りしめてやりましたが、その手のやせようといったらありませんでした! ところが、あくる朝、人が来て、マリイが死んだっていうじゃありませんか。そのとき、子供たちはどんなにとめられてもいうことを聞かずに、棺をすっかり花で飾って、彼女の頭に花輪をかぶせました。教会の牧師も死んだものまで辱しめようとはしませんでしたが、葬式に立ち会う人はごく少なくて、ただわずかな人がもの好きにやって来たばかりでした。いざ棺をかつぐというときになると、子供たちは自分でかつぐといって、一時に棺に飛びかかりました。しかし、しょせんかつぎおおせるものではないので、加勢してもらいましたが、みんな棺のあとについて走りながら泣きました。それ以来マリイの墓守をしたのはいつも子供たちでした。彼らは毎年花をもって来て墓を飾り、まわりにばらなどを植えこみました。しかし、この葬式があって以来、子供のことから村じゅうこぞってぼくを迫害しはじめました。おもだった煽動者は牧師と、小学教師のティボーでした。子供たちはぼくの顔を見ることすら禁じられ、シュナイデル先生はそれを監督するという役目を負わされました。けれど、ぼくたちはやっぱり会っていました。遠いところから信号で話しあったものです。子供のほうからもよくかわいい手紙などよこしました。のちになってすっかりうまく納まりましたが、そのころはじつにおもしろかった。この迫害のおかげで、ぼくと子供たちはかえって仲良くなったくらいです。ぼくの帰るという年には、ティボーとも牧師とも仲直りしました。シュナイデル先生はぼくにいろんなことをいって、子供に対するぼくの有害な『システム』を攻撃なさいました。ばかばかしい、ぼくにどんなシステムがあるものですか! とうとうしまいに、シュナイデル先生がひとつ奇妙なことをいわれました、――それはぼくがいよいよたつというときでした、――先生のいわれるには、おまえはじつに完全な赤ん坊だ、つまりまったくの赤ん坊だ。おまえは顔や背丈ばかり大人に似ていても、発育とか情操とか性格とか、ことによったら知力の点から見ても、けっして大人じゃない。そして、たとえおまえが六十まで生きているとしても、やはりいつまでもそのとおりだ、おれはそう信じて疑わない、とこうなんです。ぼくはそれを聞いて大笑いしました、先生のいうことはもちろん、うそなんですものね。だって、ぼくみたいな子供があったら大変じゃありませんか。しかし、たったひとつうそでないことがあります。ぼくはじっさい、大人と、普通の世界の人と交わるのをあまり好まないんです。それはもう前から気がついていました。嫌いだというのも、つまりできないからなんです。大人といっしょにいると、相手がどんなことを話しても、どんなにいい人であっても、なぜか窮屈でしょうがないので、いいかげんにそこを逃げ出して、友達のところへ行けたときは、もう嬉しくてたまりません。その友達というのはいつでも子供です。でも、それはぼくが赤ん坊だからじゃありません、ただなんとなしに子供のほうへ引きつけられるのです。ぼくがまだその村へ移ったばかりのころ、――そら、たったひとり山に登って、うら寂しいもの思いに沈んでいたときです、その辺をぶらぶら散歩していると、ときどき、といってもおもに学校のひけるお午《ひる》時分、子供たちがひとかたまりになってやって来るのに出会いました。袋をぶらさげて石盤を抱いた連中が、わめいたり、笑ったり、ふざけたりしながら、騒々しく走って来るのです。すると、ぼくの心は一時に彼らのほうへまっしぐらに飛んでいくのです。なぜだか知りませんが、こうして彼らの群に会うたびに、非常に強烈な幸福な感じを覚えました。ぼくはそこへ立ちどまって、幸福のあまり笑いながら、絶え間なく走りつづける子供たちの、小さな足がちらちらする有様や、つれ立って走る少年少女や、彼らの笑ったり泣いたりする光景を(なぜ泣くかというと、子供たちの多くは学校から家へ帰るまでの道も、もう喧嘩をおっぱじめて、泣いたり泣かしたりするからです。けれど、すぐまた仲直りをして、ふざけるのです)ながめているうちに、いつの間にやら胸のもやもやを忘れてしまいます。その後まる三年のあいだ、世間の人はなぜ、どういうわけでくよくよもの[#「もの」に傍点]案じばかりしているのかしらと、不思議でたまりませんでした。ぼくの全生涯は彼らのために捧げつくしたのです。ぼくはその村を棄てようなぞとは夢にも思ったことがなく、いつかこの口シヤヘ来ようなぞとは、考えたことさえありません。一生そこで暮らすものとばかり思っていました。けれども、とうとうシュナイデル先生も世話がしきれなかったらしいところへ、ちょうどある一つの事件がおこったのです。それがなかなか重大なことと見えて、先生もしきりにぼくをせき立てて、ここまでの旅費を負担してくだすったのです。ぼくは事の真偽を正すために思案し、だれかと相談しようとしてるんです。ひょっとしたら、ぼくの運命が一変してしまうかもしれません。が、それはあえて重要な問題ではありません。もっと重要なのは、ぼくの全生涯がすでに一変してしまったことです。ぼくはあちらへ多くのものを、多すぎるくらいいろんなものを残して来ました。何もかも消えてしまったのです。ぼくは汽車に乗って考えましたね、『おれはこれから人間の中へ出て行くのだ。もしかしたら、おれはなにひとつ知っていないかもしれない。それだのに、もう新しい生活がやってきた』ぼくは自分のなすべきことを潔白に、そして堅固に遂行しようと決心しました。世の中へ出たら退屈で苦しいことが多いかもしれない。が第一段として、ぼくはすべての人に対して慇懃に、正直でありたいと思いました。まったくそれ以上のものを、ぼくから要求する人はないでしょう。あるいはここでも、人がぼくのことを子供だと言うかもしれません、――それならそういわしておきます! それから、なぜかぼくのことをみんな、ばかだばかだといいます。じっさい、ぼくも一時は白痴に近いくらいひどく健康を害したこともあります。しかし自分がばかだといわれていることを、ちゃんと知ってるんだから、ぼくはばかじゃありますまいよ。ここへはいって来るときにも、考えました、『ああしてみんながひとをばかあつかいにする、しかしなんといったっておれは賢い人間だ、ただ人はそれを悟らないだけなんだ……』これはぼくしょっちゅう考えることなんです。ベルリンへ着いたとき、子供らがもう手まわしよく書いてよこしたかわいい手紙を受け取ったとき、ぼくはどれだけ彼らを愛していたかわかりました。まず最初の一通を手にしたときは、じつに辛うございました。子供たちはぼくと別れるのをどんなに悲しがったでしょう! もうひと月も前からお別れをしていました。"Leon s'en va, Leon s'en va pour toujours!"(レオンが行ってしまう、レオンが永久に行ってしまう)というのです。われわれは毎晩、例のごとく滝のそばへ集まって、別れる時のことばかり話しあっていました。どうかすると、以前と同じように愉快な晩もありましたが、ただいよいよ家へ寢に帰るという段になると、みんなぼくを熱心に固く抱きしめるのです。そんなことは以前ありませんでした。ある者なぞは、みんなのいないふたりきりのところで、ぼくを抱きしめて接吻したいばかりに、ほかの者に知れないようにそっと走って来るのです。ぼくがいよいよ出発するというときには、子供たち一同うちそろって停車場まで見送ってくれました。停車場は村からちょっと一露里ばかりありました。みんな泣くまいといっしょうけんめいにがまんしていましたが、なかにはたまらなくなって声をたてて泣きだしたのも大勢いました。ことに女の子がそうでした。ぼくたちは時間に遅れまいとして急いでいましたが、にわかに子供の中のひとりが道の真ん中で、群を離れてぼくに飛びつき、小さな手でぼくを抱きしめて、接吻するじゃありませんか。ただそれだけのことにみんなの足をとめさせるのです。われわれは先を急いではいましたが、一同足をとめて、その子が別れを告げてしまうのを待っていました。ぼくが汽車に乗りこんで、汽車がいよいよ動き出すと、彼らはいっせいに『万才』を叫んで、汽車がすっかり見えなくなってしまうまで、じっと一つところに立ちつくしていました。ぼくも同様そのほうをながめていました……ああ、そうそう、さっきぼくがここへはいって、あなたがたの美しいお顔を見たとき、――ぼくこのごろいっしょうけんめいに人の顔を見てるんです、――あなたがたから最初のお言葉を聞いたとき、ぼくの心はあのとき以来、はじめて軽くなったような思いがしました。さっきもちょっと考えたことなんですが、ぼくはじっさい幸福な人間かもしれませんよ。ひと目見てすぐ好きになるような人は、容易に出くわすものじゃないのですが、ぼくは汽車をおりるとすぐ、あなたがたという人に出くわしました。他人に自分の感情を語るのは恥ずかしいくらいのことは、ぼくだってよく知っています。ところで、今こうしてすっかりうち明けたお話をしていますが、あなたがたの前だとぼくちっとも恥ずかしいなんて思いません。ぼくはいったい人づきの悪いたちですから、こちらへも当分あがらないかもしれません。けれども、こういったからって、悪い意味にとってくだすっては困ります。ぼくはけっしてあなたがたをばかにするとか、またはなにかで気を悪くしてるとか、そんなつもりで申したのじゃありません。ところで、ぼくがあなたがたの顔についてどう感じたかっておたずねが先刻ありましたが、いま喜んでこれにお答えしましょう。アデライーダさん、あなたの顔は幸福そうな顔です。お三人の中でいっとう感じのいい顔です。それにあなたはたいへんご器量がよろしゅうございます、あなたの顔を見ていると、『この人の顔は親切な妹の顔のような気がする』とでもいいたくなります。あなたはざっくばらんに、快活に他人に接近なさいますが、同時に相手の胸の奥まですぐ見抜いてしまう力をもっていらっしゃいます。あなたのお顔を見ていると、こういう気がします。さて、アレクサンドラさん、あなたの顔もやはり美しくて優しい顔です。しかし、あなたはなんだか秘めたる悲しみとでもいうようなものをもってらっしゃる。あなたのお心もまたじつに美しいに相違ありません、があまり快活とは申されません。ちょうどドレスデンにあるホルバインのマドンナに似た、ある種の影があなたの顔に現われています。これがあなたの顔の印象です。よく当たったでしょう。あなたはご自分でぼくのことを察しのいい人間だとおっしゃったんですものね。ところで、奥さん、あなたの顔については、と公爵はふいに将軍夫人のほうへふり向いて、ぼく、単にそう思われるというばかりでなく、固く心から信じています。あなたはお年こそ召しておいでですが、ありとあらゆる点において、いいところも悪いところもひっくるめて、まったくの赤ん坊です。こう申したからって、腹なぞ立てはなさいませんね。あなたは子供に対するぼくの見解を先刻ご承知なんですから。それからまた、ぼくが無考えにあなたがたの顔を今のようにいったのだと、お思いにならないように願います。おお、違います。まるっきり違います! もしかしたら、なにか特別な考えがあったのかもしれませんよ」

      7

 公爵が口をつぐんだとき、一同のものは、アグラーヤまでが愉快そうに彼をながめた。リザヴェータ夫人はことに機嫌がよかった。
「あなたはすっかり試験をなさいましたね!」と夫人が叫んだ。「いかがですね、淑女がた、あなたがたは公爵をみじめな子供かなんぞのように、保護でもしてあげるおつもりでしたね、ところが公爵ご自身が、やっとおまえさんがたを仲間に入れてくだすったじゃありませんか。おまけに、ときどきしか来られないという条件つきでさ。わたしたちはとんだばかを見たというもんですが、それでもわたしは結局うれしいんですよ。けれど、だれよりいっとうばかばかしく見えるのはエパンチンです。じつはね公爵、さっきあなたを試験しろといいつけた人があるんですの。それはそれとして、あなたがわたしの顔についておっしゃったのは、まったく当たっています。わたしが赤ん坊だってことは、自分でもよく知っています。わたしはあなたの評を聞かないさきから、そのことがわかっていたのですが、あなたはわたしの考えていることを、たったひとことでいい現わしてくださいました。あなたの性質はわたしとそっくりだと思います。そしてそれがたいそううれしいんですよ、まるで瓜ふたつですね。ただあなたが男で、わたしが女、そしてスイスへ行ったことがない、違ってるのはそれっきりです」
「おかあさま、そうさきを急がないでよ」とアグラーヤが叫んだ。「公爵がああおっしゃったのには、特別なお考えがあったので、無意味なおしゃべりではないって、おことわりになったじゃありませんか」
「そうだわ、そうだわ」とほかのふたりも笑った。
「そんなにからかわないでちょうだい。もしかしたら、公爵はおまえたち三人がかりよりか、もっともっとずるいかたかもしれないからね。けれど、公爵、あなたはなぜアグラーヤのことをなんともおっしゃらなかったんですの? アグラーヤも待ってますし、わたしも待ってるんですよ」
「ぼく、今のところなんとも申しあげられません。またあとで申します」
「なぜでしょう? 目に立つほうでしょう?」
「ええ、目に立ちますとも。アグラーヤさん、あなたは非常な美人です。あなたはながめているのが恐ろしいほど美しいかたです」
「ただそれだけですの? 変わったところはありません?」と大人は追究した。
「美を批評するのはむずかしいことです。ぼくにはまだ準備がありません。美は謎ですからね」
「それはつまり、あなたがアグラーヤに謎をおかけになったことになりますわ」と、アデライーダがいった。「アグラーヤ、解いてごらんなさい。でも、美人でしょう、ね、公爵、美人でしょう?」
「非常な美人です!」吸い寄せられるようにアグラーヤをみつめながら、公爵は熱を帯びた調子で答えた。「ほとんどナスターシヤ・フィリッポヴナと同じです。もっとも顔のたちはまるで別ですが……」
 一同は愕然として顔を見合わした。
「え、だれのようですってえ?」と夫人は言葉じりを長くひっぱった。「まあ、ナスターシヤ・フィリッポヴナですって? あなたはどこでナスターシヤをごらんになりました? いったいどのナスターシヤですの?」
「さっきガヴリーラさんが、写真を将軍にお目にかけていたんです」
「なんですって、主人のところへ写真を持って来たのですって?」
「ええ、将軍のお目にかけるって。きょうナスターシヤ・フィリッポヴナがガヴリーラさんに写真を贈ったんだそうで、それをガヴリーラさんが見せに持ってみえたのです」
「わたしはそれが見たい!」と、夫人は叫んだ。「どこにその写真はあるのです? あの人がもらったのなら、あの人のとこにあるはずだ。もちろん、あの人はまだ書斎で仕事をしているにちがいない。毎週、水曜日には仕事に来て、いつも四時より早く帰ったことがないのだから。今すぐにガヴリーラを呼びましょう! いいえ、よそう。そんなにあの人を見たくてたまらないというわけでもないのだから。ねえ、公爵、あなたお願いですから、ちょっと書斎まで行ってくださいな。そして、ガヴリーラに写真を借りて、ここへ持って来てくださいませんか。ちょっと見たいからって、そうおっしゃればようござんす。どうぞ」
「いい人ね。でも、あんまり人がよすぎるわ」公爵が出て行ったあとで、アデライーダはこういった。
「ええ、ほんとになんだかあんまりのようね」とアレクサンドラも相づちを打った。「ちっとばかりこっけいなくらい」
 ふたりとも、自分の考えをみなまでいわなかったらしい。
「だけど、わたしたちの顔のことでは、なかなか上手にいい抜けたわけねえ」とアグラーヤはいった。「みんなの気に入るようにお世辞をいうんですもの。おかあさまにまで……」
「後生だから、生意気なこといわないでちょうだい!」と夫人は叫ぶようにいった。「あれは、公爵がお世辞を使ったんじゃなくって、わたしがお世辞に乗せられたんですよ」
「あんたはあの人がうまくいい抜けたのだと思って?」とアデライーダがたずねた。
「そう思うわ、あの人そんなにお人好しじゃなくってよ」
「ふん、またはじめた!」夫人は怒りだした。「わたしなんかから見ると、あんたたちのほうがもっとこっけいに見えます。とぼけたように見えても、腹に一物あるんですよ。むろん、これはごく高尚な意味でいうんだけれどね。そうですとも、そっくりわたしにそのままだ」
『むろん、写真のことなど口をすべらしたのは、ぼくが悪かったんだ』公爵は、書斎へ近づくにしたがって、いくぶん気がとがめだし、胸の中でこんなことを考えるのであった。『……が、もしかしたら、口をすべらしたのが結局よかったかもしれない……』
 彼の脳中を一つの不思議な観念がひらめきはじめた、とはいえ、それはまだはっきりしていなかった。
 ガヴリーラはまだ書斎にこもって、書類の整理に余念なかった。じっさい、彼は株式会社のほうでも月給のただ取りをしているのではないらしかった。公爵に写真を貸してほしいと頼まれ、奥の人たちが写真のことをかぎつけたわけを聞いたとき、彼はおそろしく狼狽した。
「ええっ! なんだってあなたはそんなおしゃべりをする必要があったんです!」と彼はいまいましげに叫んだ。「なんにもわからないくせに……白痴《ばか》!」と最後の一句を口の中でつぶやいた。
「ごめんなさい。まったくぼく、なんの気なしにいったんですから。話の拍子についうっかり出てしまったのです。じつはアグラーヤさんが、ナスターシヤさんと同じくらい美しいっていったんです」
 ガーニャはもっと詳しく様子を話すように頼んだ。公爵は話して聞かせた。ガーニャはさらにあざけるごとく彼の顔をながめた。
「ナスターシヤもとんでもない人に覚えられたものだ……」彼はこうつぶやいたが、いいも終わらぬさきに考えこんでしまった。彼は、よそ目にもそれと見えるほどの心配ごとがあるらしかった。公爵が写真のことを促すと、「ねえ、公爵」と、あたかも思いがけない思案がひらめいたかのように、いきなり、ガーニャはこうきりだした。「ひとつあなたに大変なお願いがあるんですが……しかし、わたしはじっさいどういっていいか……」
 彼はまごついて、しまいまでいいきれなかった。なにかある事を決行しようとして、おのれ自身と戦っているかのようであった。公爵は無言のまま控えている。ガーニャは今一度ためすような目つきでじっと相手をながめた。
「じつは、公爵」とふたたびいいだした。「いま奥の人たちはわたしのことを……あるきわめて奇怪な……そしてこっけいな事情のために……それもわたしになんの罪もないのに……いや、もうこんなことは冗談です――奥の人たちはなんだかわたしに対して、少々腹を立てていられるらしいのです。そこでわたしは、当分よばれないかぎりあちらへ行きたくないのです。ところが、わたしはいま非常に、アグラーヤさんとお話しする必要を感じているんですが、万一の時をおもんぱかって、一筆手紙に書いておきました(彼の手の中には小さく畳んだ紙片がはいっていた)。――けれど、その、どうしてお渡ししていいやらわからないのです。ねえ、公爵、ひとつこれをアグラーヤさんに今すぐ渡してくれませんか。ただし、アグラーヤさんひとりだけにですよ、つまり、その、だれの目にもかからないように、ようござんすか? これはもう誓って秘密のなんのってわけじゃありません。そんなことはけっしてないのです……がしかし……ご承知ですか?」
「ぼくこんなことはあまり気持ちよくありませんから」と公爵は答えた。
「いや、公爵、それはわたしにとって、ごくごくさし迫った用向きなんです!」とガーニャは嘆願しはじめた。「アグラーヤさんもおそらく返事をくださるでしょうから……お察しください、わたしだってせっぱつまればこそ、じつにせっぱつまればこそお頼みするんです……ほかにだれひとりことづける者がないんですから……これは非常に重大なことなんです……わたしにとってそれはそれは重大なことなんです……」
 ガーニャは、公爵が承知してくれなかったらとびくびくして、臆病らしく哀願するような目つきで、相手の顔をのぞきこむのであった。「それじゃ、まあ、渡してあげましょうよ」
「ですが、ただだれにも見つからないようにですよ」ガーニャはほくほくしながら念を押した。「ああ、それからね、公爵、まさかだれにもおっしゃりはしないだろうと思いますが、よろしゅうございますね?」
「ぼくはだれにも見せやしません」と公爵はいった。
「この書付は封がしてありませんが、しかし……」あくせくしすぎたガーニャは、こういいかけたが、うろたえて句を切った。
「おお、ぼくはけっして読みませんよ」とこともなく答えて、公爵は写真を取ると、そのまま書斎の外へ出て行った。
 ガーニャはひとりきりになると、両手で頭をかかえた。
「あの人のひと言で、おれはまったく破談にしてしまうかもしれない!………」
 彼はもう興奮と期待の情のあまり、ふたたび書類に向かう気になれなかったので、隅から隅へと書斎を徘徊しはじめた。
 公爵はもの思いに沈みつつ、歩みを運んだ。依頼の件も不愉快なら、ガーニャがアグラーヤに手紙を送るということも、不快なショックを与えた。けれど、客間までまだ二間と通り抜けないうちに、彼はなにやら思い出したように立ちどまり、あたりを見まわしながら、明りに近い窓へ寄って、ナスターシヤの写真を見つめはじめた。
 彼はこの顔の中に隠れているあるもの、さっき自分の心を打ったあるものの跿を解きたい気がした。さきほど受けた印象がほとんど寸時も心を去らぬので、急いで何ものかをふたたび確かめようとする、といったような具合である。美しいがためばかりでなく、まだなにかしらあるもののために世の常ならず見えるこの顔は、今やいっそう強い力をもって彼に迫った。まるで量りしれぬ矜持と侮蔑――ほとんど憎悪に近い――の色が、この顔の中にあるように思われた。が、またそれと同時に、なんとなく人を信じやすいような、驚くばかり醇朴《じゅんぼく》な何ものかがあった。この二つのもののコントラストは、見る人の胸になんとなく憐憫《れんびん》の情をそそるように思われる。このまばゆいばかりの美しさが、見るに堪えないようにさえ感じられる。落ちくぼんだといいたいくらいやせた頬や、燃えたつような双の目や、青白い顔の持っている美しさ、不思議な美しさである! 公爵は一分間ばかりながめていたが、やがてふいに心づいて、あたりを見まわし、急がしげに写真をくちびるへ持っていって接吻した。一分ののち、客間に入って行った彼の顔は、すっかり落ちついていた。
 しかし、彼が食堂へ足を入れたとき(客間へはまだ一部屋あいだがあった)、ちょうど向こうから出て来るアグラーヤに、あやうく戸口で突き当たろうとした。彼女はひとりきりであった。
「ガヴリーラさんが、あなたにこれを渡してくれということでした」公爵は彼女に書付を渡しながらいった。
 アグラーヤは立ちどまって、書付を受け取ると、なにか不思議そうに公爵をながめた。その目つきには微塵も気まり悪そうな様子はなく、ただいくぶんびっくりしたらしい気持ちがうかがわれたが、それも察するところ、公爵ひとりに関連したものらしかった。なぜ公爵がガーニャといっしょになってこの事件にかかり合っているのか、――これに対する説明を、まるでアグラーヤはその目つきで公爵から要求しているようであり、おまけにその要求の仕方が落ちつきはらって、高飛車なのである。ふたりは二、三秒間むき合ったまま突っ立っていた。ついになにかしらあざ笑うような影がアグラーヤの顔に浮かぶと、彼女はにっと笑ってそばを通り過ぎた。
 将軍夫人はしばらくのあいだ無言のまま、いくぶんさげすむような顔つきを見せて、ナスターシヤ・フィリッポヴナの写真を見つめていた。夫人は写真を大ぎょうに気取って目から離し、ぐっとさし伸べた手に支えていた。
「そう、美人だね」夫人はとうとう口をきった。「なかなか美人だ。わたしは二度この人を見たけれど、遠くからだったから……では、あなたこういうふうな美人に感心なさるんですの?」とふいに彼女は公爵に問いかけた。
「ええ……そういうふうの……」と公爵はいくぶん苦しそうに答えた。
「では、つまり、ちょうどこんなふうのをですか?」
「ちょうどこんなふうのをです」
「どういうわけで?」
「この顔の中には……じつに多くの苦悩があります……」公爵はわれともなしにこういった、人に問われて答えるのではなく、ひとり言でもいうかのように。
「ですが、それはあなたの気の迷いかもしれませんよ」と夫人は決断をくだし、大ふうな手つきで写真をほうり出した。アレクサンドラはそれを拾った。すると、そのそばヘアデライーダがやって来て、ふたりならんでながめはじめた。この瞬間、アグラーヤが客間へもどって来た。
「なんて力でしょう!」姉の肩越しに貪るごとく写真をながめこんでいたアデライーダが、いきなりこう叫んだ。
「どこに? どんな力が?」とリザヴェータ夫人は鋭くきき返した。
「こういう美は力ですわ」と熱心にアデライーダがいった。
「こんな美があったら、世界じゅうをひっくり返すことができるわ!」
 彼女はもの思うさまで画架のほうへ退いた。アグラーヤはただちらりと写真をのぞいて、ちょいと目を細め、下唇を突き出してそばを離れ、両手を組んで、脇の方へ腰をおろした。
 夫人はベルを鳴らした。
「ガヴリーラさんを呼んで来ておくれ、書斎にいなさるから」と彼女ははいって来た従僕に命じた。
「おかあさま!」と意味ありげにアレクサンドラが叫んだ。
「わたしはあの人にたったひとこといいたいことがある、それだけでたくさんなんです」と夫人は手早くさえぎって抗議を退けた。彼女はよそ目にもそれとわかるほどいらいらしていた。
「あのね、公爵、今わたしどものほうではね、なんでもかんでも秘密、秘密の一点張りなんですよ! そうしなくてはいけないんだそうです。それがなにかのエチケットなんですって、ばかばかしい。おまけに、それがなによりもいちばん公明正大の必要な事柄なんですからね。いま縁談が始まりかかってるんですが、わたしはその結婚が気に入らないんです……」
「おかあさま、なんだってそんなことを?」とふたたびアレクサンドラはあわてて母をとめた。
「なんだえ、おまえ? いったいおまえまであの縁談が気に入ったとでもいうのかえ? 公爵が聞いていらっしゃるって、公爵はわたしどものお友達じゃありませんか。すくなくともわたしにはそうなんだよ。神さまは善い人間をさがしておいでなさるので、悪い人間や気まぐれな人間にご用はおあんなさらないとさ。とりわけ、きょうこうだといっておきながら、あすはまたああだというような気まぐれ者はおいやだって。わかりましたか、アレクサンドラさん? この人たちはね、公爵、わたしのことを恋人だというんですよ。けれど、わたしだって物の差別はつきます。なぜって、心というものがかんじんなので、あとはみんなくだらないものです、もちろん、分別も必要です……ことによったら、分別がいっとうかんじんかもしれません。お笑いでない、アグラーヤ、わたしちっとも矛盾したことなどいいやしないから。心があって分別のないばか者も、分別があって心のないばか者も、どちらも不仕合わせです。これは古い真理だからね。ところで、わたしは心があって分別のないばか者、おまえは分別があって心のないばか者、わたしたちはどちらも不仕合わせ、どちらも苦労するのです」
「なんだっておかあさま、あなたはそんな不仕合わせなんですの?」一座の中でひとりだけ陽気な心持ちを失わぬアデライーダは、がまんしきれないでこうたずねた。
「第一に学問のある娘のためにさ」と断ち切るように夫人が答えた。「もうそれ一つだけでもたくさんだから、ほかのことはかれこれ無駄口をききますまい。口数の多いのには飽きあきした。見ていましょうよ、知恵があって、口数の多いおまえたちふたりが(わたしアグラーヤは数に入れません)、どうしてうまくこのさきこぎ抜けて行くか、そしてえらいえらいアレクサンドラさん、あなたがあの尊敬すべき紳士といっしょになって仕合わせだかどうか……ああ……!」と夫人は入って来るガーニャを見て叫んだ。「ここにもひとり結婚同盟のかたがお見えになった。ご機嫌よう!」彼女はすわれとも言わずガーニャの会釈に答えた。「あなたはいま結婚しようとしてらっしゃるでしょう?」
「結婚を? なぜ? どんな結婚……」ガーエヤは不意をくらってこうつぶやいた。彼はおそろしく転倒してしまった。
「じゃ、あなた奥さんをおもらいなさるんですか、とおたずねしましょう。もしこんなふうのいいかたがあなたのお好みとあれば」
「いいえ……わたしは……い、いいえ」とガヴリーラはうそをついた。そして、羞恥の念に顔を真っかにした。彼はわきのほうにすわっているアグラーヤをちらっと見やったが、そのまますばやく目をそらした。アグラーヤは冷やかに落ちつきはらってじっと彼を見つめながら、目を放さずにその当惑のさまを見守るのであった。
「いいえですか? あなた『いいえ』といいましたね?」ときかぬ気の夫人は執念《しゅうね》く追いつめた。「結構、わたし覚えていましょうよ。きょう、水曜の朝、わたしの問いに対して、あなたは『いいえ』といいました。きょう何曜だえ、水曜?」
「たしか水曜ですわ、おかあさん」とアデライーダが答えた。
「いつも日にちがわからない。何日?」
「二十七日です」とガーニャが答えた。
「二十七日? それはいいですね、ある点から見て。さようなら、あなたまだどっさり仕事がおありでしょう。わたしも、これから着替えをして出かけなければなりません。あなたの写真を持ってらっしゃい。あのお気の毒なニーナさんによろしく。公爵、またお目にかかりましょう。お坊っちゃん! せいぜいお遊びに寄ってちょうだい、わたしはこれからわざわざあんたのことを話しに、ベロコンスカヤのお婆さんのところへ行って来ます。そしてねえ、公爵、あんたがスイスからペテルブルグヘいらしたのは、つまりあなたをわなしに引き合わせてやろうという、神さまのおぼしめしなんだと信じます。あんたほかにもいろいろ用事はあるでしょうけれど、わたしのためというのがおもなんですよ。神さまがそう考えてなすったことにちがいありません。さようなら、お嬢さんがた。アレクサンドラ、ちょっとわたしのとこへ来てちょうだい」
 将軍夫人は出て行った。ガーニャは気も転倒してぼんやりしていたが、毒々しい顔つきをしてテーブルから写真を取り、へし曲げたような微笑を浮かべながら公爵に向かって。
「公爵、わたしはすぐに帰宅しますが、もしわたしどもへ住まおうという意志をお変えにならなかったら、お供しましょう。でないと、あなたは所もごぞんじないんですから」
「公爵、少々お待ちください」と、アグラーヤはいきなりひじ掛けいすから身をおこしながらいった。「あなたはまだあたしのアルバムに、なにか書いてくださらなくちゃなりませんわ。おとうさまがあなたのことを書家だと申したんですもの。あたしすぐに持ってまいります」
 といって、彼女は部屋を出た。
「さようなら、公爵、わたしも失礼します」とアデライーダがいった。
 彼女はしっかりと公爵の手を握って、優しく愛想よく笑いかけて出て行った。ガーニャのほうは見向きもしなかった。
「あれはあなたが」皆が行ってしまうやいなや、ガーニャは歯ぎしりしながら、公爵に食ってかかった。「あれはあなたがしゃべったんですな、わたしが結婚するなんて?」彼はものすごい顔つきをして、毒々しく目を光らせつつ、なかばささやくように早口につぶやいた、「あなたはじつに恥知らずのおしゃべりだ!」
「けっしてそうじゃありません、あなたは思い違いをしていらっしゃる」と公爵はもの静かに、慇懃に答えた。「ぼくはあなたが結婚なさるということさえ知らなかったのです」
「あなたはさっき将軍が、今晩ナスターシヤの家でいっさいが解決されるといったのを聞いて、それをしゃべりなすったんだ! うそおつきなさい! あの人たちがどこからかぎつけると思います? だれがあなたのほかに告げ口をする者がありますか、いまいましい! いま婆さんが、わたしに当てこすったじゃありませんか?」
「それほど当てこすられたような気がするなら、だれが告げ口したかということを、あなたのほうこそよくご承知でしょう。ぼくはひと口だってそんなこといった覚えはありません」
「手紙を渡してくだすった? 返事は?」逆上したような焦躁の調子でガーニャはさえぎった。
 しかし、ちょうどこの瞬間、アグラーヤが帰って来たので、公爵はなんとも答える暇がなかった。
「さ、公爵」テーブルの上に自分のアルバムを置きながら、アグラーヤがいった。「どこかよさそうなページを選り出して、なにか書いてくださいな。はい、ペン、まだ新しゅうございますよ。鉄のでかまいません? 書家は鉄ペンでは書かないって聞きましたが」
 こうして公爵と会話を交じえているあいだにも、彼女はガーニャがすぐそこにいることに気づかないようなふうであった。けれど、公爵がペンを直したり、ページを繰ったりして、用意をしているひまに、ガーニャは公爵のすぐ右側に当たるアグラーヤの立っている壁炉《カミン》に近寄り、とぎれとぎれのふるえ声で耳打ちせんばかりにいいだした。
「ひとこと、たったひとこと聞かしてくだされば、わたしはそれで救われます」
 公爵は急に振りかえってふたりを見た。ガーニャの顔には真に絶望の色が浮かんでいた。彼はもう夢中になって、何も考えずにこれだけのことを口走ったものらしい。アグラーヤはさっき公爵に見せたとまったく同様な、落ちつきはらった驚きの色を浮かべて、二、三秒のあいだ彼をながめていた。相手の言い分がまるでわからないために生じたようなこの不審顔、この落ちつきはらった驚きの表情は、この瞬間のガーニャにとって、どんな強い侮蔑よりも恐ろしいようであった。
「いったいどう書けばいいのでしょう?」と公爵がたずねた。
「今あたしが申します」とアグラーヤは振りかえりながらいった。「ようございますか? 書いてください……『駈け引きの相談には乗りませぬ』そして月日を書いてくださいな。拝見」
 公爵はアルバムを渡した。
「まあ、おりっぱですこと? まったくきれいに書いてくださいましたねえ。なんという見事なお手でしょう! ありがとうございました。ではさようなら……あ、ちょっと待ってくださいな」彼女はふいになにか思い浮かべたようにいいたした。「あちらへまいりましょう。あたし記念としてなにかあなたにさしあげたいんですから」
 公爵は彼女のあとについて行った。しかし、ふたりが食堂に入ったとき、アグラーヤは立ちどまった。
「これを読んでごらんなさい」と彼女はガーニャの手紙を渡しながらいった。
 公爵はそれを受け取ったが、不審げにアグラーヤを見返した。
「ええ、あたしにはよくわかっていますの、あなたはこの手紙をごらんなさらなかったでしょう。それじゃ、とてもあの男の腹心になる資格がありません。お読みなさいな、あたしはあなたに読んでいただきたいんですの」
 手紙はよほど泡をくって書いたものらしかった。
『きょうはわたしの運命が決せられる日でございます、なぜかはあなたもごぞんじのはずです。きょうわたしは、生涯とり返しのつかぬ決答を与えねばなりません。もちろん、わたしはあなたのご同情をこうべきなんらの権利をも持っていません。またあえてなんらの希望をもいだこうとはいたしません。けれどいつでしたか、あなたがおっしゃってくださいましたひとこと、たったひとこと、あのひとことがわたしの生涯の暗夜を照らす燈台となりました。どうか今一度同じようなお言葉をかけてくださいまし、――そうすれば、あなたはわたしを滅亡の淵から救ってくださることになります! どうぞわたしにいっさいを破れ[#「いっさいを破れ」に傍点]といってください。そうすれば、わたしはきょうにもいっさいを破棄してしまいます。これだけのことをおっしゃるのが、あなたにとってどれほどの労でございましょう! この言葉の中に、わたしに対するあなたの同情と憐憫を、せめてしるしだけでも捜し出しとうございます、――それだけのこと、ただそれだけ[#「ただそれだけ」に傍点]のことです!ほかに何もありません、けっしてありません[#「けっしてありません」に傍点]! わたしはその他になにか希望をいだこうなぞという、大それた考えは持ちません。わたしにはそれだけの値うちがありません。しかし、あなたのひとことさえ聞かしていただければ、わたしはふたたび貧困に甘んじ、絶望すべき現在の境遇をもよろこんで堪え忍びましょう。悪戦苦闘をも欣然として迎えましょう。そしてその中に新しき力をもってよみがえりましょう!
 どうか、この憐憫の言葉をわたしに送ってくださいまし(ただただ憐憫のみ[#「のみ」に傍点]です。誓って申し上げます!)滅亡の淵よりおのれを救わんがために、最後の努力をあえてした無謀なる破船者の大胆をば、お腹立ちのないようくれぐれもお願いします。
G・I』
「この男は」公爵が読み終わったとき、アグラーヤは鋭く口をきった。「この男は『いっさいを破れ』という言葉が、けっしてあたしに迷惑をかけない、断じてあたしを束縛しないと誓っています。そして、自分のほうからこうして、ごらんのとおり、証書としてこの手紙を渡しているのです。ねえ、大人げもない泡を食って、いろんな言葉にばか念を押したものじゃございませんか、そしてなんて無遠慮に底の企みが陰からのぞいていることでしょう。この男が、もし自分のひとり考えで、あたしの言葉など当てにせずに、いえ、そんなことはあたしの耳にも入れず、いっさいあたしというものに希望をおかずに、すべてを破棄してしまったら、そのときはあたしあの人に対する感情を改めて、あの人と親友になってあげたかもしれません。あの人はそれを知っているのです。ええ、たしかに知っていますとも! ところが、あの人の腹がきたないじゃありませんか、知っていながら思いきれないんです。知っていながら、まだ、やっぱり担保がほしいのです。あの人は信用で実行することができないんです。十万ルーブリのかわりに、あたしから希望をとっておきたいんです。それからあの人がこの手紙であの人の生涯を照らしたとかいっているあたしの以前のひとこと、あれはこの男がずうずうしくうそをついてるんですの。もっとも、あたし一度だけあの男に、ただ気の毒だといってやったことがあります。それをあの男が厚かましい恥しらずだもんですから、すぐに一縷の希望のありうることが頭に浮かんだとみえます。あたしはじきそのことに気がつきました。そのときからあたしを釣ろうとしだしたのです。今でも釣ろうとしています。けれど、もうたくさんですわ、この手紙を持ってって、あの人に返してくださいな、あなたがたが家をお出になるとすぐね、それより早くちゃいけませんよ」
「返事はなんともうすしましょう?」
「むろん、なんにもありません。これがいっとういい返事ですわ。では、あなたあの人の家に下宿なさるおつもり?」
「さっき将軍が紹介してくだすったものですから」と公爵は答えた。
「それじゃ、ご用心なさい。あたし前もって申しあげておきますが、こうなってはあの人もあなたをただでは済ましませんよ。だって、あなたこの手紙をお返しなさるんですもの」
 アグラーヤは軽く公爵の手を握って出て行った。眉をひそめたその顔は妙にきまじめで、別れのしるしに公爵にうなずいて見せたときでさえ、にっこりともしなかった。
「ぼくちょっと、包みを取って来ますから」と公爵はガーニャにいった。「それから出かけましょう」
 ガーニャはもどかしさに地団太を踏んだ。その顔は狂憤のために黒ずんでさえ見えた。ついにふたりは往来へ出た。公爵は両手に包みをかかえて。
「返事は? 返事は?」とガーニャはとびかからんばかりの勢いで、公爵に問いかけた。「アグラーヤさんはなんといいました? あなた手紙を渡してくれましたか」
 公爵は黙って手紙を返した。ガーニャは棒立ちになった。
「えっ! こりゃわたしの手紙!」と彼は叫んだ。「こいつ渡しもしなかったんだな! おお、このことに気がつかなかったのはこっちの手ぬかりだった、ちえ、こ、こんちく……そうだ、あの人にさっき何をいっても通じなかったのは当たり前だ! え、どうして、どうして、どうしてあなた渡してくれなかったんです? ちえ、こんちく……」
「失礼ですが、まるであべこべです。ぼくはあなたがお頼みになるとすぐ、お手紙を渡すことができました、しかもご注意のあったと同じ方法で渡したのです。それがまたぼくの手もとにあるのは、アグラーヤさんがたったいまぼくにお戻しなすったからです」
「いつです、いつです?」
「ぼくがアルバムに書き終えるとすぐ、アグラーヤさんがぼくをお呼びになった(あなたも聞いていられたでしょう)、あのときです。ふたりが食堂に入ると、あの人はぼくにこの手紙を渡して、読んでみろといわれました。そしてあなたの手に戻してくれとのいいつけでした」
「よーんでみろ!」ガーニャはほとんどありったけの声を張り上げて叫んだ。「読んでみろって! で、あなた読みましたか?」
 こういって、ふたたび彼は全身麻痺したかのごとく、歩道の真ん中に棒立ちになった。けれど、すっかり度胆を抜かれて、あいた口がふさがらなかった。
「ええ、読みました、たった今」
「で、あの人が自分で、自分であなたに読ましたのですか?自分で?」
「ええ、自分で。ご安心なさい、ぼくはあの人の許しがなかったら、けっして読みゃしなかったはずです」
 ガーニャはいっとき言葉もなく、苦しい努力をしてなにやら思いめぐらしていたが、ふいにどなりだした。
「そんなことがあってたまるものか! あの人があなたに読めといいつけるはずがありません。うそです! あなたが勝手に読んだのです!」
「ぼくは本当のことをいっています」と公爵は以前と同じ、まったく平気な調子で答えた。「ぼくを信じてください、このことがあなたにそれほど不快な印象を与えるかと思うと、ぼくはお気の毒でなりません」
「ちぇっ、情けない人だ、しかしそのときちょっとくらいなにかあなたにいったでしょう? なにか返事があったでしょう?」
「そりゃ、むろんです」
「聞かしてください、さあ、聞かしてくださいったら、こんちくしょう……」
 こういいながら、ガーニャはオーバーシューズをはいた右足で、二度までも人道で地団太を踏んだ。
「ぼくがその手紙を読んでしまうやいなや、アグラーヤさんはこういいました。――あの人はわたしをつろうとしている、あの人はわたしを丸めこんで、そこに希望をつなごうとしている、そしてこの希望にすがってなんの損失もなしに、十万ルーブリに対するもう一つの希望を破り棄てようとしている、もしあの人がわたしにかけ引きなどせずに、自分の一存でそれだけのことをしたら、前もってわたしから担保を取ろうなどとしないで、――自分ひとりでいっさいを破棄したら、そのときはわたしもあの人の親友になったかもしれない、とこんな具合だったと思います。ああ、まだある。ぼくがもう手紙を受け取ってから、なんと返事をしますときくと、あのかたのいわれるに、返事なしがいっとういい返事です、とこういうようなことでした。もしぼくがアグラーヤさんの正確な言い表わしかたを忘れて、自分勝手に解釈したとおりをお伝えしていたら、どうかごめんなさい」
 今やガーニャははかり知れぬ毒念のとりことなって、憤怒の情は堰《せき》を破ってほとばしり出るのであった。
「ああ! なるほどそうですか!」彼はぎりぎりと歯を鳴らした。「それじゃ、わたしの手紙なんぞは、窓の外へほうってしまやいいんだ! ふん、かけ引きの相談には乗りませぬか、――しかし、わたしは乗りますよ! まあ見ていましょう! こっちにはまだたくさん……見ていようよ!………ぎゅうぎゅういう目にあわしてやるんだから!………」
 彼の顔は歪み青ざめ、口からは泡を吹いた。彼は拳を固めて、威嚇するような身ぶりをするのであった。こうして、ふたりは幾足か歩いた。公爵などにはいささかの遠慮もなく、彼はさながらひとりきり自分の部屋にいるようにふるまった。公爵などはまるっきり取るにたらぬ、うじ虫かなんぞのように思っていたからである。と、彼はにわかになにやら思いついて、われに返った。
「でも、いったいどうしたわけで」と出しぬけに彼は公爵に向かっていいだした。「どうしたわけであなたのような(白痴《ばか》が! と口の中でいいたして)人が、はじめて近づきになってから、わずか二時間ばかりのうちに、それほどまで信用されるようになったんです? どうしたというんですか?」
 今までの苦しみにはまだ羨望が不足していた。それがいま急に彼の心臓のただ中を刺したのである。
「それはなんともお答えができませんね」と公爵は答えた。
 ガーニャは毒々しく相手をながめた。
「だって、あの人がなにかやると言ってあなたを食堂へ呼んだのは、信用を授けるつもりだったのじゃありませんか。じっさいアグラーヤさんはなにかあなたに贈るつもりだったんでしょう」
「でなければ、どうもほかに取りようがありません」
「じゃ、なんのためです。くそ、じれったい! あすこでぜんたい何をしたんです。どういうところがあの人たちの気に入ったんです。そうだ、ねえ、きみ」と彼はいっしょうけんめいに気をもみだした。(このとき彼の内部のものがすっかりばらばらになって、もつれからみつ沸き立っているように思われた。彼は思想をまとめることさえできなかった)「ねえ、きみ、きみがあすこで話したことをひとことももらさずに思い出して、順序だって話すことはできませんか、そもそもの始まりから? なにか気のついたことはありませんか、思い出しませんか?」
「おお、それはできますとも」と公爵は答えた。「ぼくは入って行って、挨拶をすますと、いちばんはじめにスイスの話をしました」
「ええ、スイスなんかどうでもいいです」 。「それから死刑の話を……」
「死刑の話?」
「ええ、ちょいとしたことから……それから、ぼくはあちらで三年間どうして暮らしたかということだの、あるあわれな村の娘の身の上話だの……」
「ええ、あわれな村の娘なんかうっちゃってください! それから!」ガーニャはいらだたしさに身をもがいた。
「それから、シュナイデルさんがぼくの性質について意見を述べて、ぼくを攻撃したことを話しました」
「シュナイデルなんか消えてなくなれ、そんな男の意見なんかくそくらえだ! それから!」
「それから、ふとしたことから顔の話をはじめました、というのは、つまり顔の表情についてですね。そして、アグラーヤさんが、ほとんどナスターシヤさんと同じように美しいといいました。そのときです、ぼくが写真のことをいいだしたのは……」
「しかし、あなたはしゃべりはしなかったですか、あの書斎で聞いたことをしゃべりはしなかったですか?え?え?」
「くりかえしていってるんですよ、そんなことはありませんとも」
「ほんとにどこからいったい、ちくしょう……ああ! アグラーヤは手紙をお婆さんに見せはしなかったですか?」
「そのことならぼくがりっぱに保証します、見せはしなかったです。ぼくしじゅういっしょにいたんですから、それにそんな暇もありませでした」
「それに、きみ自身なにか見落としたかもしれやしない……ほんとに、なんて情けないばか者だ」と彼はもうすっかりわれを忘れて叫んだ。「なにひとつ話すこともできないんだ!」
 一度悪口をはじめて、しかもなんの抵抗も受けなかったガーニャは、ある種の人によく見受けられるように、だんだんと自制力を失っていった。彼はもうすっかり逆上してしまって、今すこしそのままにしておいたら、つばきを吐きかけはせぬかとさえ思われた。しかし、つまりこの逆上のために、彼は目がくらんでしまったのである。でなかったら、自分が歯牙にもかけないでいるこの『ばか者』が、どうかすると驚くほど早く、しかもデリケートに万事を了解し、またなみなみならず巧妙にそれを人に伝える能力をもっていることに、早くから気がついていなければならぬはずである。しかし、ふいにそのとき、まことに思いも寄らぬことが生じた。
「ガグリーラ・アルダリオーノヴィチ、ぼくちょっとおことわりしたいことがあります」とにわかに公爵がきりだした。「ぼくも以前はじっさい病身で、ほとんどばかといってもいいくらいでしたが、今ではもうとっくに健康を回復しています。ですから、面と向かって自分のことをばかばかといわれるのは、少々不愉快なんです。それはもうあなたの失敗をお察しすれば、勘弁できなくもありませんが、あなたはくやしまぎれにもう二度ばかりもぼくの悪口《あっこう》をつかれました。こんなことはぼくにとってあまり好ましくありません、ことに、あなたのように初対面早々からではね。そこで、われわれは今ちょうど四つ角まで来ましたから、ここでお別れしたほうがよかありますまいか。あなたは右へいらっしゃい、ぼくは左へまいりましょう。ここに二十五ルーブリ持ってますから、だいじょうぶどこか旅館が見つかりましょう」
 ガーニャはおそろしく面くらった。そして、思いもよらず不意打ちをくらった恥ずかしさに、さっと顔を真っかにした。
「ごめんください、公爵」にわかに罵詈の調子をおかしいほど慇懃な言葉に変えながら、彼は熱くなって叫ぶのであった。「後生ですからごめんなすってください! わたしがどんな不幸に陥ってるか、あなたもごぞんじでしょう。じっさい、あなたはほとんどなんにもご承知ないのですが、もし事情をすっかり知ってくだすったら、かならずいくぶんたりともおゆるしくださるに相違ありません。それはむろん、おわびのかなうわけではありませんけれど……」
「おお、ぼくそんな大ぎょうなわび言など、していただかなくてもいいのです」と公爵は急いで答えた。「それは、ぼくだって知っています。あなたには今たいへん不愉快な事情がおありになるから、それでそんなに悪口をつきなさるんです。じゃ、あなたのお宅へまいりましょう。ぼくは喜んで」
『いや、もうこいつをのがすことはできん』ガーニャは憎々しげに公爵をながめつつ、道すがら心の中で考えた。『こんちくしょう、洗いざらい人の秘密を探り出しておいて、いきなり仮面《めん》をとりやがるのだ……これにはなにか仔細がある。今に見ろ、何もかも決着してしまうから、何もかもいっさい! きょうじゅうにだ!」
 ふたりはもう家のすぐそばまで来ていた。

      8

 ガーネチカの住居はきわめて清潔な、明るく広い階段を昇って行った三階にあった。六つか七つのいたってありふれた大小の部屋からなっていたが、さりとて、その住居はどんなことがあっても、二千ルーブリ取っている家族持ちの官吏でさえ、少々ふところ都合が悪かろうと思われる。しかし、それは賄いと召使付きの下宿人をおくために、ふた月ばかりまえ、ガーニャとその家族が借り受けたものである。というのは、母のニーナ・アレクサンドロヴナと妹のヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナが、いくぶんたりとも家の収入をふやして自分たちも戸主の助けになりたいという希望から、たって主張し懇願したものである。しかし、ガーニャはそれが不快でたまらなかった。彼はいつもむずかしい顔をして、下宿人をおくなんてじつにみっともないことだと言い言いしていた。こうしたことがあってから、ガーニャは自分が未来ある青年として、多少の光彩をも背負って出入りしなれた社会に対し、なんとなく気恥ずかしくなったのである。運命に対するこうしたさまざまの譲歩と、このいまいましいせせこましさ、-これらはすべて彼にとって深い心の傷手であった。いつのころからか、彼はなんでもない些細なことで、やたら無性にかんしゃくをおこすようになった。もし彼が一時なりとも譲歩し忍耐する気になったとすれば、それは単にほんのしばらくの間にこういう状態をいっさい変革し改造しようと、決心したからにすぎない。とはいえ、改造それ自体、彼の選んだ方法それ自身が、すでに小さがらぬ問題で、まぢかに迫ったその解決は、過去のすべての苦痛を合わしたより、もっともっと困難で厄介なことになりそうであった。
 ひと筋の廊下が玄関からはじまって、まっすぐに住居を両断している。一方の側には部屋が三つあって、『特に紹介された下宿人』の用に当てられてある。そのほか同じ側のいちばんはじ、台所と隣り合わせになったところに、ほかのよりやや狭い第四の部屋があった。そこには一家の父たる退職将軍イヴォルギンが住まっており、幅の広い長いすの上で寝起きしていた。家を出入りするにはかならず台所を抜けて、裏階段から上り下りするという決めになっていた。この同じ小部屋にはもうひとりガーニャの弟でコーリャという、十三になる中学生も同室していた。これも父同様、この中で窮屈な患いをしながら勉強して、古びきった狭い短い長いすの上に、穴だらけの敷布をのべて睡り、そのうえ(これがおもな役目なのであるが)、父の世話を焼き監督[#「監督」に傍点]しなければならなかった。じっさい、父将軍はしだいしだいにこうしなくては始末におえなくなるのであった。
 公爵は三つのうち真ん中の部屋を当てがわれた。右手にあたる第一の部屋はフェルディシチェンコが占領し、左手の第三室はまだあいていた。けれど、ガーニャはまず公爵を家庭用の側へ案内した。このほうには、必要に応じて食堂ともなる広間と、朝のうちだけ客間で、夜はガーニャの書斎兼寝室に早変わりする客間と、それから、いつも閉めきってある狭苦しい第三の部屋、ニーナ夫人とヴァルヴァーラの寝室があった。手っとり早くいえば、この家の中は何もかも、みんな窮屈そうに、目白押しをしているのであった。ガーニャはただ心の中で歯噛みをし、くやしがるのみであった。彼も母には礼儀ただしくしようと努めてはいたが、この家に一歩踏みこんだものは、だれでもすぐにこの男が家庭内のたいした暴君であることに気がつくのであった。
 客間にいたのはニーナ夫人ばかりでなく、そのそばにはヴァルヴァーラが腰をかけて、ふたりでなにか編物をしながら、客のイヴァン・ペトローヴィチ・プチーツィンと話をしていた。ニーナ夫人は、年のころ五十前後らしく、やせた顔は頬がこけて、目の下がおそろしく黒い。全体の様子が病的で、多少憂欝であるが、その顔と目つきはかなり感じがいい。ふたことみこと口をきいただけで、まぎれもない品位に満ちたまじめな性格が現われて、憂欝な顔に似合わぬ堅固さ、というよりむしろ強い決断力が感じられるのであった。