『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-192

くのことを悪く思うだろう。あるいは通してくれるにしても、面と向かってぼくを笑いぐさにするに違いない……えい、かまうもんか!』じっさい、彼はまだこんなことにはたいしてびくつきはしなかった。しかし、『中へ通されたときにはどうしたらよかろう、そしてぼくはいったい何用であの人を訪ねようというのだ?』この問いに対しては、どうしても得心の行くような答えが見つからなかった。がりに、なんとかおりをうかがって、ナスターシヤに『あの男と結婚しちゃいけません、それはわれとわが身を滅ぼすようなものです。あの男はあなたを愛しているのでなく、あなたの金を愛しているのです。これはあの男が自分でもいいましたし、アグラーヤさんもぼくに申されました。ぼくはそれをお伝えに来たのです』ということができたとしても、それがあらゆる点において正当な結果をうるだろうか? そのほかにも一つ解決のつかない問題があった。それは考えるのさえ恐ろしいほど重大な問題である。公爵は、あえてこれを自問するだけの勇気がなかった。またそれにいかなる形を与えていいかわからなかった。ただ意識がその問題に触れるごとに、赤くなってふるえていた。しかし結局、かかる不安や疑惑にもかかわらず、彼はやはり奥へはいって行って、ナスターシヤに面会をこうた。
 ナスターシヤ・フィリッポヴナはあまり大きくはないが、じっさいりっぱに飾られた住居を借りていた。彼女のペテルブルグ生活の五年間に、最初、トーツキイが彼女にとくに金を惜しまなかった時代があった。彼はまだそのころ彼女の愛に希望をいだいていたので、主として逸楽と奢侈で誘惑しようと考えた。それは奢侈の習慣は植付けやすく、その奢侈が少しずつ必要に変わったとき、それを離れるのが困難なことを心得ていたからである。このさい彼は、肉体が精神におよぼす影響の打ち勝ちがたい力を、無限に尊重していたので、そうした古いのんきな伝統を頭から信じきって、その内容はなんらの改訂を施そうともせず、そのまま踏襲したのである。ナスターシヤはそのぜいたくを拒まず、むしろ歓迎したくらいであったが、――不思議にも、けっしてそれにおぼれようとしなかった。いつでも敝履のごとくなげうつことができるかのごとく、トーツキイに不快な驚愕をいだかせるようなことを、幾度もわざとほのめかそうとさえ努めるのであった。とはいえ、トーツキイにこの不快な驚愕(のちにはかえって侮蔑)をいだかせるような点が、ナスターシヤにはずいぶんたくさんあった。彼女がときどき身辺に近づける人たち、したがって今後も近づける傾向をもっていた人たちの薄ぎたないことはいうもさらなりであるが、まだまだじつに奇妙な傾向が顔をのぞけた。つねに相反する二つの趣味が、一種の粗野な混合をなしているうえ、デリケートに発育した紳士にとっては、単なる存在さえも許しがたいような事物を大目に見、それに満足するという性質もあった。じっさい、もしナスターシヤが、思いがけなくなにかしら無邪気で上品な無知、――たとえば、百姓女は彼女の着ているような精麻布の肌着をつけることはできない、といったふうの無知を示すとしようか、そのときはトーツキイも大いに満足したことであろう。こうした結果に導くように、トーツキイは、初手からナスターシヤの教育を計画した。彼は、この辺の消息にはなかなかくわしい男なのである。けれども、悲しいかな! その結果はきわめて奇怪なものとなって現われた。にもかかわらず、ナスターシヤの性格の中にはなにかあるものが残っていて、それがときおりなみはずれて魅惑的な、一種奇抜な力となって、トーツキイ自身をさえ驚かし、どうかすると、ナスターシヤに対する以前の望みという望みがことごとく失われつくした今にいたるまで、彼を喜ばすのであった。
 公爵を迎えに出たのはひとりの小娘であった(ナスターシヤの家の召使は、いつでも女ばかりであった)。そして、驚いたことには、いっこうあやしむふうもなく、取り次いでほしいという客の頼みを聞き終わった。泥だらけの靴もつばの広い帽子も、袖なしマントも、当惑したような顔つきも、この娘にはなんの疑念もひきおこさなかった。彼女は客のマントを脱がせて、応接室に導き、さっそく取り次ぎに行った。
 ナスターシヤのもとに集まった一座は、ごくごく普通のもので、この家での定連みたいな人々から成り立っていて、以前のこうした夜会にくらべると、はるかに人数が少ないくらいであった。第一におもだった人としてトーツキイとエパンチン将軍が席につらなっていた。両人ともに愛想がよかったが、ふたりともいくぶん人知れぬ不安に悩まされていた。それは、ガーニャに関する約束の決答を待つ隠しきれぬ心持ちからであった。ふたりのほかには、いうまでもなくガーニャがいたが、――これも同じくふさぎこんで、『愛想』というものがほとんどひとかけもなく、やや離れたわきのほうに立って、黙りこんでいた。彼はヴァーリャを連れて来る決心がつかなかったが、ナスターシヤも彼女のことはおくびにも出さなかった。そのかわりガーニャに挨拶が済むと早々、きょう彼と公爵とのあいだにおこった一件をいいだした。まだその一件を知らぬ将軍は仔旧をたずねた。そのときガーニャはそっけない進まぬ調子で、とはいえ、すっかりあけっ放しにきょうのできごとを、――彼がすでに公爵のところへ謝罪に行ったことまで物語った。そのさい、彼は熱心に自分の意見を開陳して、人が公爵のことを『白痴』というのは不思議でわけがわからぬ、自分は公爵のことをまるで正反対に考えている、『あれはもちろん油断のできない人である』などといった。ナスターシヤは多大な注意を払ってこの人物評を聞き終わり、もの珍しそうにガーニャを見まもった。けれど、話題は間もなく、けさはどの事件に甚大な閃係のあるラゴージンのほうへ移っていった。これについてもトーツキイとエパンチン将軍は、非常な好奇心をもって仔細をただしはじめた。その結果、この男に関して最も特異な情報をもたらしうるものは、今夜の九時ごろまでも彼と種々の交渉をつづけたプチーツィンであることがわかった。ラゴージンはきょうじゅうに十万ルーブリ調達しろと、極力いい張ったのである。
「彼はむろん、酔っぱらっていました」とプチーツィンはいった。「しかし、十万の金は、たとえどんな困難があろうとも、たぶん調達するでしょう。ただし、はたしてきょうじゅうに、十万すっかり耳をそろえてくるか、それはわかりません。が、とにかくキンデルとか、トレパーロフとか、ビスクープという連中が、大勢がかりで奔走してます。利息はいくらでも出すってのですが、これももちろん、酔ったまぎれと嬉しさに目がくらんでのことです……」とプチーツィンは結んだ。
 これらの情報は興味をもって迎えられたが、その興味はいくぶん陰欝なものであった。ナスターシヤは、見うけたところ、自分の心中を外へもらしたくないといったふうで、どこまでもおし黙っていた。ガーニャもそれと同様であった。エパンチン将軍の心中はおそらくだれよりも不安に騒いでいた。もう朝のうちに贈った真珠が、あまりにそっけないお愛想と、なんとく奇妙なお世辞笑いで受納されたからである。
 ただフェルディシチェンコだけは一座の中にあって、のんきなにぎやかな気分を失わず、なんのためかわけもわからぬのに、いな、みずから進んで道化の役割を引き受けたばっかりに、ときどき大声で笑った。洗練された優雅な話し手として通っており、以前からこうした夜会ではおおむね会話の主導者となっていたトーツキイ自身も、明らかに機嫌がよくないらしく、この人には不似合いなまごつきかたをしている。他の客人たちにいたっては、といっても、その数はあまり多くなかったが、(なんのために呼ばれたのかわけのわからぬ、見すぼらしいよぼよぼの教師がひとり、むやみに臆してしまって、いっかな口を開かぬ得体の知れぬ青年、女優あがりの四十恰好の元気のいい女、そしてもうひとり非常に美しい。非常にりっぱなぜいたくななりをした、人なみはずれて黙りやの若い女などは)会話を活気づけることができないばかりか、ときとすると何を話していいやらそれさえわからないのであった。
 こういう具合だったので、公爵の来訪はかえって好都合であった。とはいえ、取次の言葉は人々のあいだに疑惑の念を呼びおこした。そして、ナスターシヤのびっくりしたような顔つきで、彼女が公爵を招待しようという考えのまったくないのを知ったとき、だれ彼のものは奇態な微笑を浮かべた。しかし、驚きののちにナスターシヤは、ふいに非常な満足の色を現わした。で、多くの人々はこの思いがけない客を、大浮かれに笑って迎えようと、すぐさまその心構えをした。
「これは察するところ、あの無邪気な性質から出たらしい」と将軍は結論をくだした。「しかし、なんにしても、こんな傾向を奨励するのはかなり危険ですが、今のところあの男が、よしんばこんな奇抜な方法を選んだにしても、ここへやって来ようと思いついたのは、じっさいわるくありませんな。おそらく座をにぎわしてくれるでしょう。すくなくとも、わたしの判断するところでは……」
「ましていわんや、自分から無理おしかけに来たんですからね?」とすかさずフェルディシチェンコが口をはさんだ。
「それがいったいどうしたんだね?」フェルディシチェンコを憎んでいる将軍は、そっけなくこうきいた。
「木戸銭を払わにゃならんからです」とこちらは説明した。
「ふん、ムイシュキン公爵はフェルディシチェンコとは違いますよ、なんていったってね」と、こらえかねて将軍はやり返した。彼は今まで、フェルディシチェンコと対等のつき合いで同席していると考えると、なんとしてもがまんができなかったのである。
「これはこれは、将軍、ちとお手柔らかに願います」と相手はにやりと笑いながら答えた。「だって、ぼくは特別の権利を持ってるんですからね」
「へえ、それはどんな権利かね?」
「このことはせんだって詳細に公衆に訴える光栄を有しました。が、閣下のために今一度くりかえすといたしましょう。すべての人は機知というものがあるのに、ぼくはその機知を持っていません。その代償として、ぼくは真実を口にしていいという許可を得ました。なぜかというに、だれでも知ってることですが、『真実を語るはただ機知なきものなり』ですからね。それに、ぼくは怨みの深い男ですが、それも同じく機知がないからです。ぼくはどんな侮辱でも甘んじて受けますが、それはただし侮辱するやつのやりそこなうときまでです。一度相手がやりそこなうやいなや、すぐに昔の無礼を思い出して、なんとかして敵討してやります。けっ飛ばしてやります。これは、今までむしろけっ飛ばしたことのないプチーツイン氏のぼくに対する評言です。閣下、あのクルイロフの寓意詩をご存じですか、『獅子と驢馬』? これはちょうどあなたとぼくのことをいったもんです」
「きみはまたしてもでたらめをいいだしたようだね。フェルゲイシチェンコ君」と将軍はかっとしていった。
「まあ、どうしたとおっしゃるんですか、閣下?」とフェルデイシチェンコはおさえた。彼はこんなふうに相手の言葉じりをおさえて、いっそうひっかきまわせることと待ち構えていたのだ。「ご心配にゃおよびません、閣下。ぼくはおのれの分を、ちゃんと心得てますよ。ぼくとあなたが、クルイロフの寓意詩の獅子と驢馬だと申す以上、驢馬の役はもうむろんのこと、ぼくが引き受けます。そして、閣下は獅子。ね、クルイロフの寓意詩にもいってあるじゃありませんか。

  『たけき獅子、森の中なる雷《いかずち》も
  年おいて、その力をば失いぬ』

そこでぼくは、閣下、驢馬でさあ」
「そのいちばんしまいにいったことは、至極わたしも同感だね」と将軍も不用意に口をすべらした。
 これらのことはもちろんすべて無作法で、あらかじめ細工されたことなのだが、フェルディシチェンコに道化の役割を勤めさせるということは、もはや一つの習慣になっていた。
「ぼくを追っぱらわないでここへ入れてくれるのは」と、あるときフェルディシチェンコはこう叫んだ。「ただただぼくにこんな調子でしゃべらせようがためなんです。じっさい、ぼくみたいな人間をこういう席に入れるなんて、ありうべきことですか? いいや、ぼくだって、そのくらいのことはわかりますよ。またぼくを、こんなフェルディシチェンコ風情を、トーツキイさんのような洗練された紳士と、列を同じゅうしてすわらせることができますか? やむなくして残る説明がただ一つあります。すなわち、それが想像もつかぬことだからです」
 しかし、粗暴なだけならまだしも、いくらなんでも、いやになるほどしつこいこともよくあった。ときとすると、それが極度にまで発揮される。それがナスターシヤの気に入ったらしいのである。で、どうしてもナスターシヤのところにいたいと望むものは、このフェルディシチェンコをがまんする覚悟でかがらねばならない。彼自身も、ナスターシヤが自分を招いてくれるようになったのは、はじめて会う早々からトーツキイにむしずが走るほどいやがられたからだ、と想像した。しかも、それは事実を底まで洞察したのかもしれぬ。ガーニヤはまたガーニヤで、彼のため千万無量の苦患を押しこらえねばならなかった。この点においてフェルディシチェンコは、大いにナスターシヤのお役に立つものといわなければならぬ。
「わたしは手はじめとして、まず公爵に流行の恋愛歌をうたわしてごらんに入れます」ナスターシヤが何をいいだすかに気をつけながら、フェルディシチェンコはこういって口を閉じた。
「どうですかねえ、フェルディシチェンコさん、そして後生ですから、そう熱くならないでちょうだい」と彼女はそっけなく注意した。
「ははあ?………あの人がそんな特別保護のもとにあるのなら、ぼくも少々手加減しなくちゃ……」
 しかし、ナスターシヤはろくすっぽ聞かずに立ちあがり、みずから公爵を迎えに行った。
「わたしね」ふいに公爵の前へ立ち現われながら、彼女はこうきり出した。「さっきあまり泡をくったものですから、あなたをご招待するのを忘れて、たいへん残念に存じていました。けれども、あなたがご自分のほうからわたしのために、あなたのご決断をおほめもしお礼も申しあげる機会を作ってくだすったので、ほんとに嬉しいんですのよ」
 こういいながら、彼女はじっと公爵を見つめた。いくぶんなりとも彼の行動の意味を解こうと努めながら。
 公爵はこの優しい言葉に対して、なにか返事をしようと思ったらしかったが、ひとことも口をきくことができないほど、彼女の美に目をくらまされ、心を打たれた。ナスターシヤは満足そうにそのさまをながめた。この晩、彼女はできるだけの粧《よそお》いをこらしていたので、なみなみならぬ印象を人に与えるのであった。彼女は公爵の手を取って、客人たちのほうへ導いた。今すぐ客間へ入ろうというまぎわに、公爵はふいに立ちどまり、激しく胸を躍らせながら、せきこんだ調予でささやいた。
「あなたの中にあるものは、何もかも完成されています………やせて色の青いところまでが……それよりほかのあなたを想像したくないくらい……ぼくどうしてもあなたのところへ来たくなって……失礼ですが……」
「あやまったりなんかなさんなよ」とナスターシヤは笑いだした。「それじゃ、せっかくの不思議なところも、奇抜なところも、すっかりふいになっちまうじゃありませんか。してみると、人があなたのことを奇妙なかただっていうのは、ほんとうなんですね。それじゃあなたは、なんですの、わたしを『完成』されたものとお考えなさるんですね、え?」
「ええ」
「あなたはなかなかあてごとがお上手でいらっしゃいますが、それはお考え違いですよ。わたしあすといわず今夜のうちに、そのことを思い当たらしてさしあげますわ……」
 彼女は公爵を客人たちに引き合わせたが、その過半はすでに彼と知り合いの間柄であった。トーツキイはさっそくなんとかお愛想をいった。一同はいくらか元気づいた様子で、一時に話したり笑ったりしはじめた。ナスターシヤは公爵を自分のそばへすわらせた。
「いや、しかし公爵がお見えになったのに、なにも驚くことはない」とだれよりも声高にフェルディシチェンコがどなった。「しごく明瞭な話です。事柄そのものがちゃんと理由を説明しています」
「事柄はあまりに明瞭で、あまりそれみずから理由を説明しすぎていますよ」今まで黙っていたガーニヤがそのあとを受けた。「わたしはきょう公爵がはじめてエパンチン将軍のテーブルの上で、ナスターシヤさんの写真を見た胯間から、ほとんど絶え間なしに公爵を観察していました。わたしはそのときちらと考えたことをよく覚えていますが、それをここですっかり確信してしまいました。ついでに申しますが、それは公爵自身もわたしに白状されたことなんです」
 これだけのことをガーニヤはおそろしくきまじめに、すこしの冗談げもなく、むしろ沈んだ調子で述べ終わったが、あまりまじめすぎて奇妙な感じがするくらいであった。
「ぼくは何も白状なんかしませんよ」と公爵はやや顔を赤らめて答えた。「ぼくはただあなたの問いに答えたばかりです」
「ブラヴォ、ブラヴォ」とフェルディシチェンコが叫んだ。「すくなくとも誠実ですね、そして狡猾ですね、そして誠実ですよ!」
 一同はどっと笑った。
「ほんとにどなるのはよしたまえ、フェルディシチェンコ」とプチーツィンが、いまいましそうに小声で注意した。
「あんたにこんな思いきったことができようとは、わたしも思いもよらんかったですよ、公爵」とエパンチン将軍がいいだした。「まったく、だれだって、あんまり感心したことでもないですからなあ。わたしはあんたを哲学者だと思っておりましたよ。このおとなしい坊っちゃん、なかなか味をやるわい」
「公爵がまるで罪のない娘さんのように、罪のない冗談を聞いて赤くなられるとこから見ると、公爵も世間の潔白な若い人たちのように、大いに賞賛すべき意回を心にいだいておられるかもしれませんな」とふいに、まったく思いがけなく、今まですこしも口をきかなかった七十歳の老教師が、歯のない口をもぐもぐさせながらいいだした。
 この人が今晩なにか口をきこうなどとは、だれひとり思いもよらなかったので、一同はまたさらに声高に笑いだした。自分の皮肉のために人が笑うのだと思ったらしく、老人は一同の顔を見まわしつつ、またひとしきり笑いにかかったが、その拍子に痛々しいほどせき入るのであった。なぜか、こうした風変わりな老人老女、おまけに信心きちがいのようなものまでかわいがっていたナスターシヤは、すぐさま彼の背をなでて接吻してやり、もう一杯お茶を出してやるように命じた。彼女は入って来た女中にケープを取り寄せさせ、その中       に身をくるみ、壁炉《カミン》に薪を足すようにいいつけた。いま何時かという問いに答えて、女中は、もう十時半と告げた。
「皆さん、シャンパンはいかがでございます?」と、にわかにナスターシヤがたずねた。「わたし用意しておきましたの。たぶんもっとおにぎやかになるでしょう。どうぞご遠慮なく」
 酒を飲めというこのすすめは、ことにこうした率直な言い現わしかたは、ナスターシヤとしてはなはだ奇怪なことであった。これまで彼女が催していた夜会の席が、ひとかたならず整然として一糸みだれなかったのを、だれもがよく承知していたからである。とにかく、夜会はしだいに陽気になっていったが、しかしいつものような具合ではなかった。酒を辞退しなかった者は、第一に将軍、第二に元気のいい奥さん、老先生、フェルディシチェンコ、そして一同がそれにつづいた。トーツキイは一座を訪れようとしている新しい調子に、できるだけ無邪気な冗談らしい性質を帯びさせようというつもりで、これも自分の杯を挙げた。ただガーニャばかりは、なにひとつのどへ通さなかった。ナスターシヤは同じく杯を取って、今夜は三ばい飲みほすといったが、その奇妙な、ときとするとおそろしく鋭い早口な皮肉や、たった今なぜともわからないヒステリイ性の笑いをあげるかと思うと、すぐにふと、おし黙って、気むずかしそうに考えこむ変わりやすい態度の中に、いかなる意味がかくされているのか、おし量ることができなかった。熱に冒されていたのではないかと想像する者もあったが、そのうちに人々もやっと気がついた。彼女自身も、なにかあるものを待ちうけているらしく、幾度も幾度も時計を見やって、もどかしげにそわそわしはじめた。
「あなた、なんだかすこし熱でもおあんなさる様子ねえ」と元気のいい奥さんがたずねた。
「いいえ、大熱ですの、すこしどころじゃありません、だからケープにくるまったんですのよ」とナスターシヤが答えた。じじつ、彼女は顔色がますます青ざめて、ときどき身うちの激しい胴ぶるいをおし隠そうとしているらしい。
 人々は心配してざわつきはじめた。
「女主人に休んでいただきましょうかねえ?」エパンチン将軍の様子をうかがいながら、トーツキイは意見を述べた。
「けっしてそのご心配にはおよびません、皆さん! わたしぜひ皆さんにいていただきたいのでございます。皆さまのご同席は、ことに今晩、わたしのために必要なんでございますから」とふいにナスターシヤは念を押すように、意味ありげにいいだした。
 すでにほとんどすべての人が、今夜重大な決答を与えるという約束のあることを知っていたので、これらの数語は千|鈞《きん》の重みをもって響いた。将軍とトーツキイは今一度目くばせした。ガーニヤは痙攣的にぴくりとからだを動かした。
「なにかプチジョー(遊戯の名)でもして遊ぶと、よござんすね」と元気のいい奥さんがいった。
「ぼくは一つ、ふるった新奇なプチジョーを知っています」とフェルディシチェンコが口をはさんだ。「すくなくとも、それは開闢《かいびゃく》以来たった一度やって見ただけで、それさえうまく行かなかったプチジョーです」
「いったいなんですの?」と元気な奥さんはたずねた。
「あるとき、ぼくたちの仲間が集まったところ、もっとも、やはりこいつを飲んでましたがね、ふと、こんな提議をする者がありました、――めいめいひとりがテーブルを立たずに、なにか自分に関連したことを大きな声で話そう、しかし話は、自分が誠心誠意、一生涯中に犯した悪い行為の中でも、いちばん悪いと思ったことでなければならぬ、とこういやつのです。ただし卜その条件としては真実でなければならん、たによりもまず真実でなければならん、うそをついてはいかん」
「奇態な思いつきだね」と将軍がいった。
「でも、奇態なほど、なおおもしろいんですよ、閣下」
「こっけいな思いつきですよ」とトーツキイがいった。「だが、よくわかっています、一種変態の自慢ですよ」
「ことによったら、それが必要なのかもしれませんよ、アファナーシイ・イヴァーノヴィチ」
「ほんとにそんなプチジョーなら、笑うより泣きだすほうが勝ちでしょうよ」と元気のいい奥さんが注意した。
「まるで問題にならないばかげた話だ」とプチーツィンが応じた。「で、うまく行きました?」とナスターシヤがたずねた。「そ、そこが残念なんですよ。変ちきりんな具合になっちまったんです。めいめいがじっさいに何か彼か話しました。まあ、ほんとうのことをいったものもずいぶんありました。それにどうでしょう、中には得意になって話したものもあったくらいですよ。ところが、しばらくたって、だれも彼も恥ずかしくなりました。持ちこたえられなかったんですな! とはいっても、全体としては、じつにおもしろかったです。むろん、一種特別のおもしろさですがね」
「あ、それはほんとうにおもしろいでしょうよ!」とナスターシヤは急に元気づいていいだした。「ほんとうにやってみようじゃありませんか、皆さん! まったくのところ、なんだか座が白けたようですわ。わたしたちがひとりずつ、てんでになにか話したらどうでしょう……いま説明のあったようなことを……もちろん、皆さんの同意を得てからですわ、意志の自由は許さなくちゃなりません、いかが? わたしたち、たいてい持ちこたえられるでしょう? とにかく、とても奇抜ですわね」
「奇想天外ですよ!」とフェルディシチェンコが口をはさんだ。「もっとも、婦人がたは除外例です、男連からはじめます。順番は以前のように籖《くじ》で決めましょう。ぜひとも、ぜひともやりましょう! もっとも、あまり進まぬ人は、もちろん、話さなくっていいですが、非常な失礼に当たるのは覚悟していただきます。皆さん、籖をこちらへ、ぼくの帽子の中へ入れてください、公爵がひいてくださるから。なに、わけのないこってす。自分の生涯でいちばん悪い行為を話して聞かせるのです、――じっさいわけのないこってすよ、皆さん! まあ、やってみればすぐわかりますよ! もしだれかお忘れになったかたがあれば、ぼくがさっそくおもい出させてあげます!」
 このなみはずれて奇怪な思いつきは、ほとんどだれの気にも入らなかった。あるものは眉をしかめ、あるものは狡猾な薄笑いをした。中には反対したものもあるが、それもあまり手ごわくではなかった。たとえばエパンチン将軍のごとき、ナスターシヤがこの奇怪な思いつきに夢中になっているのを見て、その意に逆らっては悪いと考えた。彼女が夢中になったのは、ほかでもない、つまりこの思いつきが奇怪で、ほとんど不可能だったかららしい。ナスターシヤはいったん自分の欲望を言明すると、よしそれが思いきって気まぐれな、しかも彼女自身にとって不利なことであろうとも、その欲望を貫徹するためには、つねに頑固で容赦というものがなかった。今も彼女はまるでヒステリーに襲われたように気をもんで、痙攣的に笑うのであった。気が気でなくなった。トーツキイが言葉を返すとき、特にそれが激しかった。暗色の目はぎらぎらと輝き、青白い双の頬にはふたつの赤い点がにじみ出た。客人たちのしょげたような、むっつりしたような顔つきは、彼女の冷笑的な欲望にひとしお油をそそいだらしい。つまり、彼女の気に入ったのは、ほかでもないこの思いつきの皮肉で、残酷なところであるらしい。中には、彼女の胸中になにかもくろみがあるに相違ない、と信じきっているものさえあった。けれども、そのうちに人々は同意しはじめた。なんといってももの珍しい、それに多くのものは強く好奇心をそそられたのである。フェルディシチェンコはだれよりも気をもんだ。
「もしも、その……婦人がたのまえで……話すこともできないような事件でしたら……」今まで無言でいた青年は、こうおずおずとたずねた。
「じゃ、そんなこと話さなきゃいいじゃありませんか、それよりほかに悪いことをした覚えがないじゃあるまいし」とフェルディシチェンコが答えた。「ほんとに若い人には困りますなあ」
「ところで、自分のしたことの中で、どれがいちばん悪いか、わたしはわかりませんわ」と元気のいい奥さんは横槍を入れた。
「婦人がたは義務を免除されています」とフェルディシチェンコはくりかえした。
「しかし単に免除されてるというだけですから、自分から感興をわかして告白しようというかたは、むろん、さしつかえありません。男のかたでもあまりいやがる人は免除していいです」
「しかし、ぼくがうそをつかないってことは、どうして証明するんだね」とガーニヤがきいた。「もしうそをついたら、せっかくの趣向も台なしだからね。ところで、だれがうそをつかずに済ますだろう? きっと皆が皆うそをつくに決まってる」
「なに、どんな具合にうそをつくか、それ一つだけでも大いにおもしろいじゃないか。もっともね、ガーニャ、きみはうそをつくつかないで心配することはないよ。なぜって、きみのいちばん悪い行為はもうとっくに知れわたってるからね。そこでですね、皆さん、まあ渮えてごらんなさい」フェルディシチェンコはまるで夢中になったように叫んだ。「われわれはどんな顔をして、あす、すなわち話をした翌日、おたがい同士、顔を合わすでしょう。まあ考えてもごらんなさい!」
「いったいこれができることだとお思いですか? じっさいこれはまじめな話なんですか、ナスターシヤさん?」とトーツキイは声に重みを持たしてたずねた。
「狼がこわけりゃ森に入らないがようござんす」とあざけるようにナスターシヤがいった。
「しかし、失礼ですが、フェルディシチェンコ君、いったいそんな方法でプチジョーができるもんでしょうか?」しだいしだいに心配しながら、トーツキイは言葉をつづけた。「わたしは誓っていいます、そんなこと社けっしてうまく行くもんじゃありません。きみもいったでしょう、もう一度失敗したって」「失敗したんですって? ぼくはこのまえ、りっぱに話しましたよ、三ルーブリ盗んだいきさつを、いきなりぶちまけて話してしまいましたよ!」
「あるいはそうかもしれんです。しかしきみだって、いかにもほんとうらしく人を信じさせるように話すことは不可能でしたろう? ガヴリーラ君のいわれたのは、まったくじっさいです。ほんのすこしでもうそらしいところがあったら、この趣向のやまがすっかりくずれてしまいます。この場合、人がほんとうをいうってことは、ただ偶然に、その、一種特別な、粗野な調子を帯びた自負心をもったときに、はじめて可能なことなんですからね。しかもその心持ちは、この席上では夢にも考えることのできない、無作法しごくなものです」
「けれど、トーツキイさん、あなたは、なんて繊細な神経を持ったかたでしょう。まったく驚いてしまいました!」とフェルディシチェンコが叫んだ。「どうです、皆さん、トーツキイさんはぼくが自分の泥棒談をほんとうらしく話すことができんという理由でもって、ぼくにじっさい盗みができないと(なぜなら、大きな声で話すのも無作法なくらいですからね)、きわめて婉曲にほのめかされました。もっとも、心の中じゃ、フェルディシチェンコめ、盗みぐらい平気でしそうだと、考えていらっしゃるかもしれませんがね! しかし、もう仕事にかかりましょう、皆さん、仕事にかかりましょう。籤も集まりました。それにあなたも、――トーツキイさんもお入れになったんですね。してみると、だれも反対なしですか。じゃ、公爵ひいてください!」
 公爵は無言に手を帽子へ突っこんで、籖をひき出した。一番フェルディシチェンコ、二番プチーツィン、三番将軍、四番トーツキイ、五番公爵自身、六番ガーニャ等々であった。婦人たちは籖を入れなかった。
「おやおや、なんたる不仕合わせだ!」とフェルディシチェンコが叫んだ。「ぼくは一番が公爵で、二番が将軍かと思ってました。しかし、まあ、ありがたいことには、プチーツィン君がぼくのしんがりに控えてるから、とにかく満足ですよ。ところで、皆さん、ぼくは義務として、りっぱなお手本を示さねばならんのですが、ただ今のところぼくにとってなにより残念なのは、ぼくがまことにつまらん人間で、なんらの特色も持っていないということであります。官等のほうからいっても、ぼくはじつに哀れなぺいぺいですから、こんな男が悪いことをしたからって、じっさいどこに面白味がありましょう。それに、ぼくのいちばん悪い行為というのはどれでしょう。まったくembarras de richesse(富める人の困惑)ですね。それとも、また例の泥棒談をやりますかな、泥棒でなくても、物を盗むことができるもんだってことを、トーツキイさんの腑に落ちるようにね」「いや、フェルディシチェンコ君、おかげで腑に落ちましたよ、人間てものは、頼まれもしないのに、自分のさもしい行為の話をして、夢中になるほど満足を感じるものだってことがね……いや、しかし、ごめんなさい、フェルディシチェンコ君」
「フェルディシチェンコさん、おはじめなさいよ。あなたはおそろしく無駄口ばかりきいて、そのくせいつもしっぽがないのよ!」といらだたしげに、もどかしげにナスターシヤが命令した。
 さきほどの発作的な笑いが過ぎたあとで、彼女がにわかに気むずかしく、怒りっぽく、いらだたしげになったのは、人人の気づいたところである。何はともあれ、彼女は執拗に専制的に、自分の突拍子もない欲望を主張してやまなかった。トーツキイはひとかたならず苦しんだ。それに、将軍までが彼の憤懣に油をそそいだ。将軍は平然とシャンパンに向かっているばかりか、ことによったら順番の来るのを待って、なにか話すつもりらしく見受けられたからである。

      4

「機知がないのですよ、ナスターシヤさん、それだから無駄口ばかりたたくんです」と叫んで、フェルディシチェンコは自分の物語をはじめた。「もしトーツキイさんやエパンチン将軍と同じくらい機知があったら、ぼくはきょう、はじめからしまいまで、トーツキイさんやエパンチン将軍と同じように、黙ってすわってたでしょうよ。公爵、ひとつうかがいたいことがあります。きみ、どうお考えですか、ぼくはこの世に泥棒のほうが非泥棒よりずっと多い、いや、それどころか、生涯に一度も盗みをしないなんて、そんなりっぱな潔白な人はひとりもないと思うのです、これがぼくの思想ですが、それかといって、だれも彼もひとりのこらず泥棒だと、結論するつもりではさらさらありません。もっともどうかすると、おそろしくこの結論がくだしたくなるんですが、どう考えますか」
「ふう、なんてばかなことをおっしゃるんでしょう」とダーリヤ・アレクセーエヴナ(元気のいい奥さん)が口をはさんだ。「なんてくだらないことを! 皆がみななにか盗むなんて、そんなことがあるはずはないじゃありませんか。わたしなんかけっして何も盗んだことありませんよ」
「あなたは一度も盗みをなすったことなどありませんよ、ダーリヤさん。しかし、にわかにまっかになった公爵はなんとおっしゃるかしらんて」
「ぼくはあなたのおっしゃることがほんとうだと思いますが、でも、あまり誇張しすぎます」じっさいなぜか顔を赤くして公爵は答えた。
「で、公爵、きみなにか自分で盗んだ覚えはありませんか?」
「ふう、なんというこっけいなこった! 気をつけたまえ、フェルディシチェンコ君」と将軍が割って入った。
「えーえ、わかりきってますわ。いよいよとなると話すのが恥ずかしくなったもんだから、ああして公爵を仲間に引きずりこもうとしているんでしょう。公爵がおとなしいのをいいことにして」とダーリヤは、きっぱりいった。
「フェルディシチェンコさん、お話しするか黙ってるか、どっちかに決めてちょうだい。人のことなんかどうだってよござんすよ。もうあなたにはがまんできなくなりました」とナスターシヤは鋭く、いまいましそうにいいだした。
「ただ今、ナスターシヤさん。しかしですね、もし公爵が自白されたとして、ぼくはどうしても公爵が自白されたものと主張します、だれかほかの人が(べつにだれとさすわけでもありませんよ)、いつかほんとうのことをいおうという気になったら、まあ、どんなことを聞かしてくれるでしょう。ぼくのことにいたっては、もうこのうえ話すことなんかありません。しごく簡単で、ばかばかしくって、そして卑劣なことです。が、ぼくは皆さんに誓います。ぼくはけっして泥棒じゃありません。盗みはしたが、自分ながらなぜあんなことをしたか、不思議でなりません。これは一昨年のある日曜目に、セミョーン・イヴァーノヴィチ・イシチェンコ氏の別荘であったことです。この人のところへ客が集まって、食事のご馳走になりました。食事が済んで、男連中は酒を飲むために席に残りました。ぼくはふとマリヤ・セミョーノヴナ、この家の娘さんに、なにかピアノでも弾いて聞かせてもらうつもりで、わきの方の部屋を通り抜けて行くと、マリヤ・イヴァーノヴナの仕事づくえの上に、三ルーブリの青い紙幣《さつ》がのってるじゃありませんか、なにか家事の払いでもするつもりで。出してあったものとみえます。部屋の中には猫の子一匹いないのです。ぼくは紙幣を取ってポケットへしまいました、なんのためやらわからない。なんであんな気持ちになったのか合点が行かないです。ただぼくは大急ぎで元の座へもどって、腰を掛けました。じっとすわったまま、かなり強い不安を感じながら、のべつしゃべったり笑話をしたり、笑ったりしていました。それから婦人たちのほうへ行ってすわってもみました。三十分もたったころ気がついたと見えて、女中たちにききはじめましたが、そのうちダーリヤという女に嫌疑がかかったのです。そこでぼくはなみなみならぬ好奇心と同情を表わして、今でも覚えていますが、ダーリヤがすっかりとほうにくれてしまったとき、マリヤ・イヴァーノヴナは優しい人だからだいじょうぶだと、首をかけて請け合いながら、ダーリヤに自白をすすめました、しかも皆のいる前で声高にいったのです。みんなぼくのほうを見ていました。ぼくは自分がこうしてお説教しているのに、紙幣はちゃんとポケットに潜んでいるということが、嬉しくて嬉しくてたまらなかったです。この三ルーブリはその晩すぐ、料理屋で飲んでしまいました。入って行くと、いきなりラフィートをひと壜命じたものです。ぼくはそれまで肴なしに、酒ばかりあつらえたことはなかったんですが、そのときはすこしも早くつかってしまいたかったんです。特に良心の呵責《かしゃく》といっては、そのときもその後もべつに感じませんでしたね。しかし、もう二度とそんなことはしません。皆さんがほんとうになさるかどうか、そんなことは気にもかけませんがね。さあ、これでおしまいです」
「ただし、むろん、それがあなたのいちばん悪い行ないじゃござんすまいよ」といとわしげにダーリヤがいった。
「これは心理的の偶然で、行為とは言われない」とトーツキイが口をはさんだ。
「それで女中は?」なんともいえぬ気むずかしげな嫌悪の情を隠そうともせずに、ナスターシヤはこうたずねた。
「女中は翌日おん出されました、むろん! やかましい家ですからね」
「あなたはそれを知らん顔して見てたんですか?」
「こりゃ驚いた! だって、ぼくがのこのこ出かけて行って、白状しなきゃならなかったのでしょうか?」とフェルディシチェンコはひひと笑ったが、それでも、自分の物語がすべての人にあまりに不愉快な印象を与えたのに、いくぶん驚かされた様子であった。「なんてけがらわしい話でしょう!」とナスターシヤは叫んだ。
「ナスターシヤさん、あなたは人のいちばん悪い行ないを聞きたがってらっしゃるくせに、そのうえに光彩を要求なさるんですね! いちばん悪い行為はいつも非常にきたないものです。これは今にプチーツィン君の話を聞けばわかります。それに、世間には上べから見ると光彩陸離として、りっぱに見えるものがずいぶん多いですよ、それってのが、おかかえの馬車を乗りまわしてるからでさあ。ところで、おかかえの馬車を乗りまわす手合はざらにありますよ。それに、どういうわけで……」
 てっとり早くいえば、フェルディシチェンコはまったくがまんしきれなくなって、ふいにわれを忘れるほど腹を立てたのである。その腹立ちも度を越えて、顔までがすっかり歪んだほどである。ずいぶん不思議なことだが、じっさいよくあるやつで、彼は自分の物語が当然別種の成功をもたらすことと予期していたのである。こうした低級気取りの失敗や、『変態の自負』、――これはトーツキイのいったことで、――などは、しばしばフェルディシチェンコの経験するところであって、いかにも彼の性情にふさわしかった。
 ナスターシヤは憤怒の情にからだまでふるわせ、穴のあくほどフェルディシチェンコを見つめた。こちらはたちまちおじけづいて口をつぐんだ、びっくりしてからだじゅうが冷たくなるくらいであった。あんまり口がすべりすぎたのである。
「もういっそやめてしまったらどうです」とトーツキイは抜け目なくたずねた。
「今度はわたしの番ですが、わたしは特権を利用して、ごめんをこうむります」きっぱりとプチーツィンがいった。
「あなたおいやなんですの?」
「できないのです、ナスターシヤさん。それに、全体からいうても、こんなプチジョーは不可能だと思います」
「将軍、今度はあなたの番のようですが」ナスターシヤが将軍に向かっていった。「もしあなたまでがいやだとおっしゃれば、せっかくの催しがめちゃめちゃになってしまいます、それではわたしたいへん残念でございますわ。なぜって、わたしもいちばんおしまいに、『自分自身の生涯の中から』一つの行為をお話ししようと思ってたんですもの。ただし、それはあなたとトーツキイさんのあとと、こう思っていましたの。と申すのは、おふた方に元気をつけていただきたいからですわ」といい終わってナスターシヤは笑った。
「おお、もしあなたが約束なさるんでしたら」と将軍は熱心に叫んだ。「わたしはあなたに自分の全生涯をお聞かせしてもいいです。しかしじっさいのところ、わたしは順番を待つうちに、一つの逸話を準備しましたよ……」
「いや、もう閣下のご様子を見ただけで、閣下がどんな優れた文学的興味をもって、その逸話とやらを推敲《すいこう》なすったかがわかります」やはりまだいくぶんまの惡そうなフェルディシチェンコは、毒々しく笑いながら思いきって口をはさんだ。
 ナスターシヤはちらと将軍をながめて、同じく心の中でほほえんだ。けれども、彼女の憂愁と焦慮とは、いやましにつのって行く様子であった。彼女が物語をするとの約束を聞いて、トーツキイは二度びっくりした。
「皆さん、わたしもすべての人と同じように、一生のうちにはあまり床しからぬ行為をしたことがあります」と将軍がはじめた。「しかし、なによりも奇妙なのは、わたしがこれからお話しする逸話を、全生涯中もっとも悪い行為と考えていることです。が、それはもう三十五年も昔の話ですよ。わたしはそれを追懐するごとに、一種の、なんといったらいいか、胸をかきむしられるような心持ちを、どうすることもできないのであります。とはいうものの、じっさいはばかげた話なのです。そのときやっと少尉補になったばかりだから、地方の隊でこつこつやっていたものです。ご承知のとおり、少尉補といえば血は煮えくり返っているが、ふところはぴいぴいです。そのときニキーフォルという従卒がついていましたが、克明にわたしの世帯むきの世話を焼いてくれて、縫い物から拭き掃除、おまけにいたるところで盗めるものならなんでも、泥棒までしてきて、ただ家のものが多くなりさえすればいいというふうでした。忠実で、正直なこと無類の男でした。わたしはもちろん、厳格で曲がったことが大嫌いでした。あるときしばらくのあいだ、とある小さな町に駐屯したことがありました。町はずれに住んでいる退職中尉夫人、しかも後家さんのところへ、宿舎を割り当てられました。年は八十か、すくなくともそれに近いお婆さんでした。家といったら、古ぼけてぼろぼろの木造で、おまけに貧乏で女中もおけないというありさまでした。しかし、なによりも変わっているのは、このお婆さんかつては大人数の家族や、親族を持っていたということです。ところが、長い生涯の中に、あるものは死に、あるものは行きがた知れず、あるものはお婆さんのことなど忘れてしまったのです。それに、亭主を見送ったのはもう四十五年前のことでした。その四十五年くらい前まで、この女の家に姪が住んでいたそうです。せむしで、鬼婆のような意地悪で、一度なぞはお婆さんの指を噛んだほどだといいますが、それさえ死んでしまったので、お婆さんはもうかれこれ三年ばかりまったくのひとりぼっちで、その日その日を過ごしていたのです。わたしはその家にいるのが退屈でたまらなかった。まるでからっぽのようなお婆さんで、気をまぎらすことがすこしもないんです。やがてとうとう、この女がわたしの鶏を一羽盜みました。これはいまだによくわからないのですが、なにぶんこの女よりほかに盗むものがないのですからね。鶏のことからわれわれは喧嘩しました、それもずいぶんひどかったのです。ところが、ちょうどそのとき、たった一度出願したばかりだのに、わたしは別の宿舎へ移転を命ぜられました。それは町の反対に当たる郊外で、おそろしく大人数の家族を持った商人の家でした。その商人は、今でも覚えておりますが、髯の大きな男でした。わたしとニキーフォルは大喜びで引っ越しました。お婆さんをひとりぼっちにしてやるのがいい気味だったのです。三日ばかりたって教練から帰って来ると、ニキーフォルが報告するのに、『少尉補殿、家の皿を前のお婆さんのとこへ置いて来て、つまらんことをなさいました。スープを入れてさしあげるものがありません』わたしはもちろんびっくりして、『なに、どうして家の皿があのお婆さんのとこへ残っとるのか?』ときくと、ニキーフォルは驚いたような顔をして、報告をつづけるのです。それによってみると、引っ越しのときにお婆さんが家の皿を渡さなかったのは、わたしがお婆さんの壺をこわしたので、そのかわりわれわれの皿をさし押えている、つまりお婆さんのいい分によると、わたしが自分からそれを申し出たんだそうです。こんな卑劣千万な仕打を聞いて、わたしはむらむらっとなりました。少尉補の血は一度に沸き立って、いすを飛びあがるやかけだしました。もう、その、夢中になってお婆さんのとこへ来てみると、お婆さんは玄関の片隅にしょんぼりすわって、まるで太陽に見つけられまいと、小さくなってるような具合です。片手で頬杖ついていました。わたしはその、恐ろしい雷さまのようなやつを、頭から浴びせかけたものです。『じつにきさまはああだ、こうだ』って、すっかりロシヤ式にやっつけたのです。しかし、見てると、様子がどうも変なんですね。お婆さんはじっとすわって顔をわたしのほうへ向けたまま、目をむき出して、ひとことも返事しないじゃありませんか、その目つきがじつになんとも変で、おまけにからだがふらふらと揺れてるようなんです。とうとうわたしは気が落ちついて、じっと見つめながら問いかけたが、やはりひとことの返事もない。わたしは狐疑逡巡のていで立っていました。その辺を蝿がぶんぶんうなって、日はまさに没せんとし、ただひっそりと静まりかえっているのです。わたしはすっかりきまりが悪くなって、そこを立ち去りました。まだ家まで行き着かないうちに、少佐のところへ召喚されました。それから、また中隊まで行かねばならぬこととなり、家へ帰ったのは日がとっぷり暮れたころでした。すると、ニキーフォルの最初の言葉として、『少尉補殿、あのお婆さんが死にましたよ』『いつ?』『きょう晩がた 一時間半ばかり前でありました』してみると、ちょうどわたしがあの女をぎゅうぎゅうやっつけている時分に、往生をとげつつあったのです。わたしはじつにぎょうてんしてしまって、うそじゃありません、あやうく気を失わんばかりでした。それからはこのことばかりが思い出されて。夜は夢にまで見るようになりました。わたしはむろん、迷信などにとらえられたわけではありませんが、三日目に葬送に列するために教会へ行きました。ひと口にいえば、時がたつに従って、思い出すことが多くなって行く。べつにとりとめてどうというのではないが、ときどき考えていると、気分が悪くなるんです。とうとうわたしは考えつきましたが、この事件のおもなる意味ははたしてなんであるか? 第一に、ひとりの女が、――今の人道的になった時代が人間的存在と呼ぶところの女がですね、長い長い生活をつづけて、結局、長生きしすぎたということなんです。かつては子供も夫も親戚もあって、彼女を取り巻きながら、おし合いへし合いしていた、その笑顔がみんな一時にばたばたと消えてなくなって、彼女ひとりがまるで……生まれ落ちるとともに与えられたのろいを背負っている蠅かなんぞのように、たったひとりとり残された。そして、あげくの果てに、神さまのところへ呼び寄せられたわけなんです。静かな夏の夕方、落日とともに、わがお婆さんの魂も飛び去ってしまった、そこにはいくぶん、教訓的な意味がないでもありません。その瞬間にですね、若い向こう見ずの少尉補が、名ごりを惜しむ涙のかわりに、両手を腰へ当ててさも偉そうな恰好をしながら、ロシヤ人気質の一要素たる乱暴な罵詈の言葉で、この老婆を地球の表面から追っぱらったのです、それもたった一枚の且がなくなったというだけのことですからね! じっさい、疑いもなくわたしが悪かったのです。もう違い以前のことでもあるし、またわたしの性格も変わってきたので、とっくの昔にこの行為を人ごとのように考えてはおりますが、それでもやはり気の毒と思う心は失せません。そこで、くりかえして申しますが、むしろ不思議なくらいなんです。なぜといってごらんなさい、よしんばわたしが悪いにもせよ、ぜんぜん悪いとはいえないからです。だって、なぜお婆さんはちょうどそのとき死のうなぞと思いついたのでしょう。むろん、そこには一ついいわけの道があります、すなわち、この行為はいくぶん心理的なものである、ということです。しかし、それでもやはり気が済まないので、十五年ばかり前に、自費でもって、ふたりの病身な老婆を養老院へ入れてやりました。というのは、人なみの暮らしをもって彼らの地上における最後の日を、すこしなりとも穏かにしてやりたいがためでした。今でも一部の財をさいて永遠のことに捧げたいと思っています。これでおしまいです、全部です。くりかえして申しますが、わたしはおそらくいろいろな点において過ちを犯しているかもしれない。しかし、誠心誠意、この事件をもってわたしの全生涯中、最も卑劣なものと考えます」
「閣下は最も卑劣なもののかわりに、ご自分の生涯中でりっぱな行為の一つをお話しになりました。フェルディシチェンコに一杯お食わせなすった!」とフェルディシチェンコが結論をくだした。「まったくのところ、あなたにそんな親切な心持ちがあろうとは、わたしもぞんじませんでしたわ。少々残念なくらいですわ」ナスターシヤが投げやりな調子でいいだした。
「残念ですって? なぜですか?」将軍は愛想のいい笑いをもってたずねたが、やや誇らしげなさまで、ぐいとシャンパンを飲みほした。
 が順番は、同じく用意のできていたトーツキイに当たった。彼がエパンチン将軍と同様に、話を拒まないだろうとは、人々も察していた。のみならず、彼の物語も、一種の好奇心をもって待ちもうけられていたので、人々は同時にナスターシヤの様子をもそっとうかがった。トーツキイはその押出しのりっぱな外貌にふさわしい、なみなみならぬ威厳を保たせながら、静かな愛想のいい声で、自分の『愛すべき秘話』の一つをはじめた。(ついでにいっておくが、彼は人の目をひくほど押出しがりっぱで、丈が高かった。すこしばかり頭がはげて、すこしばかりごま塩で、かなりでっぷり肥えたほうである。頬は柔らかそうに紅みがかって、いくぶん垂れ気味で、口には入歯をはめている。ゆったりした優美な服装で、驚くばかり見事なシャツをつけている。彼のふっくらした白い手を見ると、いつまでもじっと見つめていたくなるほどである。右手の人差指には高価なダイヤ入りの指輪がはめてあった)。ナスターシヤはその話のあいだじゅう、自分の袖口に付いているレース飾りを、いっしょうけんめいに見つめながら、左手の二本指でいじりまわして、一度も話し于の顔を見なかった。「何がこの場合もっともわたしの務めを軽くしてくれるかというと」こうトーツキイは口をきった。「ほかではない、わたしの全生涯中もっとも悪い行ないを皆さんにお話しするという義務です。こうなってみると、もはやためらうことはない。わたしの良心と記憶とが、何を話すべきかを助言してくれます。悲痛の情をもって自白しなければなりませんが、数限りないわたしの軽率……浮薄な行為の中で、わたしの胸にあまりにも重苦しい印象を残した一つのできごとがあります。それはかれこれ二十年前におこったことです。わたしはそのとき田舎にいたプラトンーオルディンツェフのところへ立ちよりました。彼はそのとき、地方貴族団長に選挙せられたばかりなので、若い細君といっしょに冬の祭日を過ごすつもりで、田舎へ来ていたのです。それに、ちょうどアンフィーサ・アレクセーエヴナ(細君の名)の誕生日も近づいたので、舞踏会がふたつ催されることになっていました。その時分、小デュマの美しい小説La dame aux camelias(椿姫)がおそろしく流行して、上流社会にその名がとどろきわたったばかりのころでした。この叙事詩は、わたしにいわせると、不老不死のものですが、地方の婦人たちはみんな夢中になってしまいました――すくなくとも一度読んだ人はですね。物語の美しさ、主人公の境遇の奇警なこと、微細な点まで研究されたあの魅力に富める世界、それから巻中に満ちみちた魅惑的な部分的描写(たとえば、白とばら色の椿の花束をかわるがわる使う、というくだりです)、ひと言にしてつくせば、これらの美しいデテールがいっしょになって、ほとんど天下を震撼したものです。椿の花は、めちゃめちゃに流行しけじめました。だれも彼もが椿を要求し、だれも彼もが椿をさがしました。こころみにおたずねしますが、ある地方で、あらゆる人が舞踏会用に椿を求めているとき、たやすくそれを手に入れることができますか? もっとも、舞踏会は、そう多くありませんでしたがね。ペーチャ・ヴォルホフスコイはそのときかわいそうに、アンフィーサ夫人を慕って、身もやせるばかり苦しんでいました。じっさい、わたしはふたりのあいだに何かあったか、――その、つまり男のほうに何か確かな希望があったか、そのへんはどうか知りませんが、とにかくペーチャはアンフィーサ夫人のために、舞踏会の晩までに椿を手に入れようと、気も狂わんばかりでした。それというのが、ペテルブルグから県知事夫人のところへお客に来る伯爵夫人のソーツカヤだの、ソフィヤ・ベスパーロヴァだのという人たちが、白の花束を持ってやって来ることが確実にわかっていたのです。ところで、アンフィーサ夫人は、ある特殊の効果をあげようと思って、赤い椿をほしがっていました。そして、かわいそうに、プラトン氏を追っ立てんばかりにして頼むのです。しかし、そこはなんといっても犬ですから、きっと花束は子に入れてやると請け合ったわけたんです。ところが、どうでしょう。その前の晩になって、ムイチーシチェヴァ(カチェリーナ・アレタサンドロヴナ)という、万事につけてアンフィーサ夫人にとって恐るべき競争者になっている女が、すっかり一手に買い占めてしまったのです。なにしろこのふたりの女は、おたがいに斬合いもしかねまじい間柄だったのですからね。アンフィーサ夫人のほうはヒステリーをおこすやら、気絶するやら大騒ぎ。プラトン氏は面目玉をつぶしてしまいました。申すまでもなく、このきわどい瞬間に、ペーチャがどこからでも、花束を手に入れて来ることができたら、彼の心願も大いに歩を進めたかもしれません。こんな場合、女の感謝の情というものはほとんど無際限ですからね。ペーチャはきちがいのようにほうぼうかけずりまわったが、もともとできない相談なんだからなんともしようがありません。誕生日の前の晩、あすは舞踏会があるという夜の十一時ごろ、オルディンツェフ氏の隣人のマリヤ・ペトローヴナーズブコーヴァのところでぱったりペーチャに出くわしました。見ると、にこにこものなんです。『きみ、どうしたんだね?』『見つけたよ! エヴリカ(ギリシャ語、私は見つけた)』!』『まあ、きみ、いきなりびっくりするじゃないか! どこで?どうして?』『エクシャイスクに(そういう町があるんです、二十露里ばかり離れていて、郡は別になっています)、トレパーロフという商人がいるんだ。髯むくじゃらな金持ちのお爺さんで、お婆さんとふたり暮らし、子供のかわりにカナリヤがうんといる。ふたりとも花きちがいで、椿を持ってるんだ』『とんでもない、そんなことは不確かな話だ。それに、もしくれなかったらどうする?』『両ひざついて、くれるまで地べたをはいまわるさ、それまではけっして帰らん』『いつ出かけるかね?』『あす、夜の引き明け、五時にたつ』『じゃ、成功を!』そこでわたしはペーチャのために喜びながら、オルディンツェフの家へ帰りました。しかし、どうもそのことがしきりに胸に浮かんで、とうとう一時ごろまで起きていました。もう寝ようと思って床に入りかけると、すばらしい奇抜な考えが浮かんだのです! そうっと台所へ忍びこんで、馭者のサヴェーリイをたたきおこし、『三十分のうちに馬車の支度をしてくれ!』といって、十五ルーブリくれてやりました。三十分後、馬車はむろん門のそばに立ってました。なんでもその晩、アンフィーサ夫人は頭痛がするやら、熱が出るやら、うわごとをいうやら、たいへんだったそうです、――わたしは馬車に乗りこんで出かけました。四時過ぎには早くもエクシャイスクの宿屋に着いて、夜明けを待っていました。しかし、待っていたのは本当の夜明けまでで、六時過ぎにはもう、トレパーロフの家にいました。『かようかようのわけですが、椿はございませんか。どうぞあなた、命の親とも思います、助けてください、救ってください。おみ足に頭をすりつけでもいたします!』てなことをいいながら見ると、老人は背の高い、ごま塩頭の、むずかしい顔をした、――つまり恐ろしいお爺さんでした。『ど、ど、どうして! お聞きするわけにはまいらん!』わたしはいきなり、がばとその足もとに身を投げだしました。まったくこんなふうに長くなったのです。『どうです、あなた、どうです、お爺さん?』という調子にやったのです。先方じゃ度胆を抜かれたらしい。『だって、人間ひとりの命にかかわることじゃありませんか』とどなってやったら、『じゃ、あげましょう、そんなわけならなんともいたしかたがない』と出ました。そこで、わたしはすぐさま赤い椿をうんとこさきり取りました。その家の小さい温室いっぱいに咲き満ちて、じつに美妙絶妙とでもいいたいくらいでした。お爺さんはほっと溜息をついている。わたしが百ルーブリをさし出すと、『いいや、あんた、そんな真似をして、このうえ年寄りに恥をかかせるものじゃない』そこでわたしは、『そういうことなら、この百ルーブリを、土地の病院へ食料施設改善費として寄付してください』『ははあ、それなら話がまったく別で、美しいりっぱなことだ。神さまのみ旨にもかなっている。あなたの息災を祈って寄付しましょうわい』ということでけりがつきました。わたしはこのロシヤ式老人が気に入ってしまいました。なんといいますか、純粋のロシヤ気質de la vraie souche(本当に朴直な人)ですね。わたしは成功のため有頂天になって、すぐさまもと来た道へ引っ返しました。それも途中ペーチャと行き会わないように、わざわざまわり道をして帰ったのです。家へ着くやいなや、アンフィーサ夫人のお目ざに花束を贈りました。夫人の歓喜、感謝、感激の涙は、よろしくご賢察に任せます。プラトン氏は、-昨夜いじめられ抜いて死人のようになっていたプラトン氏は、わたしの胸に顔を埋めて、感泣するじゃありませんか。哀れむべし、世の夫なるものは、開闢以来、……正式の結婚以来、みんなこうしたものです! これ以上、あえて何もつけくわえますまい。かわいそうに、ペーチャの恋は、このエピソードとともに画餅に帰してしまいました。わたしははじめのうち、ペーチャがこの件を聞きつけるやいなやわたしを殺すに相違ないと思って、ちゃんとその用意までしていました。ところが、とてもほんとうにしかねるようなことが持ちあがりました。彼は卒倒したのです。夕方には譫語《うわごと》、朝になると熱、そしてからだじゅうぴくぴく引っつらせながら、子供のようにしゃくりあげて泣くのです。ひと月ばかりたって健康を回復すると同時に、無理に願ってコーカサスへやってもらいました。とんでもない小説ができあかってしまったのです。そして、とどのつまりは、クリミヤで戦死しました。そのころはまだ兄のスチェパン・ヴォルホフスコイが連隊の指揮をして、殊勲を立てたものです。白状しますが、わたしはそれから長いこと良心の呵責を受けました。なぜ、なんの目的があって、わたしは彼をそんなひどい目にあわせたんでしょう。そのときわたしがアンフィーサ夫人に恋していたとでもいうなら、まだしもですが、ただほんのふざけ半分に、くだらんいたずらをしただけ、ただそれだけなのです。もしわたしがこの男の花束を横取りしなかったら、彼も今まで幸福に暮らして、はなばなしい成功をして、トルコ人の刃にたおれようなどとは、夢にも思わなかったでしょうに」
 トーツキイは、話に取りかかったときと同じ物々しい、気取った様子で口をつぐんだ。人々はナスータシヤの目が怪しく輝いて、くちびるまでがぴりぴりとふるえるのに気がついた。一同は好奇心をあおられながらふたりをながめた。
「フェルディシチェンコをおだましなすった! ああいうだましようをなさる! いいえ、あれはもうだましたというよりほかはありません!」もう口を入れてもいい、いや、入れねばならぬと悟って、フェルディシチェンコは泣くような声でどなった
「あなたは、いったいだれにいいつかってそう悟りが悪いんです。すこし賢い人を見習いなさいよ!」とほとんど勝ち誇ったような調子でダーリヤ(トーツキイの古い友達で、その一味である)がさえぎった。
「トーツキイさん、あなたのおっしゃるとおりでした。プチジョーはまったく退屈なばかりですわ、早く切りあげてしまいましょう」とナスターシヤが無造作にいいだした。「さっきお約束したことを自分で話しますわ。それからみんなでカルタでもして遊びましょう」
「しかし、お約束の逸話はぜひとも一番に!」と将軍は熱心に賛成の意を表した。
「公爵」とふいに鋭く、思いがけずナスターシヤは呼びかけた。「ここにおいでの将軍とトーツキイさんは、わたしの古いお友達ですが、しきりに結婚しろ、結婚しろとおすすめなさるんですの。ねえ、公爵、なんとお考えなさいます。わたし結婚したものでしょうか、どうでしょう。わたし、あなたのおっしゃるとおりにいたしますわ」
 トーツキイはまっさおになり、将軍は棒立ちになった。一同は目をすえ、首を前へ突き出した。ガーニャは固くなってすわっていた。
「だ……だれと?」今にも消えそうな声で、公爵はたずねた。
「ガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ・イヴォルギン」いぜんとして鋭く強くはっきりと、ナスターシヤは答えた。
 沈黙の幾秒かが過ぎた。あたかも恐ろしい重荷がその胸を圧しているかのごとく、公爵はなにかいいだそうと努めたけれど、だめだった。「い、いけません……結婚しちゃいけません!」かろうじてこれだけささやくと、彼は苦しげに息をついた。
「じゃ、そうしましょう! ガヴリーラさん!」と彼女はおごそかに、勝ち誇ったもののように呼びかけた。「あなた、公爵のおっしゃったのをお聞きなすって、え? ではあれがわたしのご返事です。これでこの話もきっぱりとおしまいにしたいものですわね!」
「ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」ふるえ声でトーツキイがいいだした。「ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」さとすような、しかし不安げな声で将軍が呼びかけた。
 一同は心配してざわざわ動きはじめた。
「まあ、皆さん、いったいどうなすったのです?」と、びっくりしたように客の顔に見入りながら、彼女は言葉をついだ。「何をそんなにびっくりなさいますの? それにみなさん、なんて顔つきをしてらっしゃるんでしょう」
「しかし………覚えておいでですか……ナスターシヤ・フィリッポヴナ」と、どもりどもりトーツキイがつぶやいた。「あなたは非常に好意のある……約束をしてくだすったじゃありませんか。それに、いくぶんは気の毒くらいに思ってくだすってもいいはずです……わたしは困っています……そしてもちろん、当惑しています。しかし……まあ、つまり今、こんな場合に、そのうえ……お客さまの前でこの事件を……この潔白と誠意とを要すべきまじめな事件を、こんなプチジョーで決めてしまうなんて……この事件の結果いかんでもって……」
「わかりませんね、トーツキイさん。あなたはほんとうにすっかりうろたえておしまいなさいましたのね。だいいち、『お客さまの前で』とはなんです? わたしたちは隔てのない親密なお友達同士じゃありませんか。そして、なぜプチジョーなどとおっしゃるの? わたしほんとうに自分の逸話を話したいと思ったから、こうしてお話ししたんですよ。ほんとに、おもしろくなくって? それから、なぜ『まじめでない』んでしょう? あれがまじめでないんでしょうか? あなた、わたしが公爵にいったことをお聞きになって?『わたしはあなたのおっしゃるとおりにいたします』と申したんですよ。あの人が『イエス』といったら、わたしもすぐに承諾したでしょう。けれども、あの人は『ノー』とおっしゃったから、わたしもおことわり申しあげたんですわ。これでもまじめでないとおっしゃるんですの? わたしの生涯は一筋の髪の毛にかかっていたんじゃありませんか。これより真剣な話がありますか?」
「しかし、公爵公爵って、なぜこの場合公爵がそんなにありがたいんですか? いったい公爵ってなんです?」しゃくにさわる公爵の権威に対する不平をこらえかねて、将軍はとうとうこうつぶやいた。「公爵は心からわたしに服した人として、わたしが生まれてはじめて信用したたったひとりのかたです。あのかたはひと目見ただけで、わたしを信じてくださいました。それで、わかしもあのかたを信じるんですの」
「わたしはただ、ナスターシヤさんの……なみなみならぬ優しい心づかいを、あつくお礼申しさえすればいいのです」くちびるを歪めて青い顔をしたガーニャが、とうとうこういいだした。「それはもちろん、そうあるべきはずだったのです。が、公爵は……公爵はこの事件について……」
「七万五千ルーブリをねらっているとでもおっしゃるんですか」とふいにナスターシヤがさえぎった。「あなたはそういおうとしてらしたんでしょう? ごまかさなくたっていいじゃありませんか、あなたはきっとそういおうとしてらしたんですわ! トーツキイさん、わたし申し忘れていました。あの七万五千ルーブリはあなたお持ちください、わたしはただであなたを自由なからだにしてあげますから、そう思ってくださいな。もうたくさん! あなただって、息をつかなくちゃなりませんからねえ! 九年と三か月ですもの! あすからすっかり新規まき直しですが、きょうはまだわたし誕生日の主人公ですから、思う存分のことをしますよ。一生にたった一度ですわ! 将軍、あなたもきょうの真珠を持って帰って、奥さんにあげてちょうだい、これがそうです。あす、わたしもこの家を出て行きますから、もう夜会というものはありませんよ、皆さん!」
 こういい終わったナスターシヤは、早くも出て行きそうに立ちあがった。
「ナスターシヤさん! ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」という声が四方からおこった。
 一同は胸を躍らせながら窩を立って、彼女を取り囲んだ。一同は不安の念をいだきながら、このとぎれとぎれの、熱に浮かされたような、興奮した言葉を聞いた、一同はなにかしら混乱したあるものを感じたけれど、だれもその意味をつかむことができなかった、だれも、何が何やらわけがわからなかった。この瞬間、ふいにけたたましく、激しくベルを打つ音が響きわたった。それはきょうガーネチカのまで聞いたのと、寸分たがわぬ響きであった。
「あ! あ! これで大団円だ! とうとう来た! ちょうど十一時半だ!」とナスターシヤが叫んだ。「皆さん、どうぞおすわりください、これで大団円ですから!」
 そういって、彼女は自分から席に着いた。怪しい微笑がそのくちびるの上におののいていた。彼女は病的な期待のうちに、言葉もなくすわったまま戸口のほうをながめていた。
「ラゴージンだ、十万ルーブリだ、違いない」とプチーツィンはひとりごとのようにつぶやいた。

      15

 小間使のカーチャが入って来た。ひどくおびえている。
「ナスターシヤさま、あそこになんだかぞんじませんが、十人ばかりの男がどやどやと入りまして、こちらへ来ようとしているのでございます。みんなそろって酔っぱらっております。ラゴージンとかで、あなたがよくごぞんじだと申すのでございます」
「そうなんだよ、カーチャ、すぐみんな通しておくれ」
「まあ!………みんなでございますって、ナスターシヤさま?だって、ほんとにだらしのない人たちでございますよ。なんともいえない!」
「みんなだよ、みんな通しておくれ、カーチャ、こわがることはありません。みんなひとり残さず。それに、おまえが案内しなくたって、勝手に入って来るよ。あ、けさと同じように騒々しい物音がする。皆さん、わたしがあんな人たちを、皆さんのいらっしゃるところへ通したりなんかするので、お気にさわるかもしれませんねえ」と彼女は客人たちのほうへ振り向いた。「わたしもそれはまことに残念で、いく重にもおわびいたしますが、どうもそうしなければならないんですの。それから皆さんにぜひぜひお願いしなければなりませんのは、皆さんご一同わたしのために大団円の証人になっていただきたいのですが、それはあなたがたのご都合次第でございます……」
 客人たちはいつまでも驚いたり、ひそひそ話をしたり、目まぜをしたりしていた。が、これらのことはすべて前から用意し、組み立てられてあるので、ナスターシヤを説き伏せることは(もちろん、彼女は気が狂ってはいるのだが)、しょせん不可能だということが、いよいよ明瞭になってきた。一同はいても立ってもいられぬ好奇心に悩まされた。それに、格別おどろきそうな人はいなかった。婦人客はたったふたりしかいなかった。ひとりはダーリヤ、これは酸いも廿いも噛み分けた、たやすくものに動じない元気のいい女であり、いまひとりは顔なじみのない黙りがちの女、このなじみのない婦人は、ほとんど何もわかりそうなはずがなかった。これは近ごろやって来たドイツ女でロシヤ語をちっとも知らなかったし、そのうえ見受けたところ器量のいいのと同じ程度に知恵が足りないらしかった。この女はまだ来たばかりで珍しいので、ショウにでも出すようなけばけばしい着物をきて、旻を美しくなでつけたところを、ほうぼうの夜会へ招待し、ただほんの席を飾るだけのために、見事な絵かなんぞのようにすえつけておくのが慣わしになっていた。ちょうどある種の人が自分の夜会に使うために、ただひと晩だけ知人から絵や、花瓶や、彫像や、衝立などを借りるのと同じ具合であった。
 男連中にいたっては、たとえばプチーツィンのごとき、ラゴージンとはもともと知り合いの間柄であるし、フェルディシチェンコはまるで魚が水に放されたようなものである。ガーネチカはまだ容易に人ごこちはつかなかったが、それでもやはり、自分にとって曝《さら》し台のようなこの場所に最後まで立ち通さなければならぬというおさえがたい要求を、ぼんやりながらも心に感じていた。老先生はまた何ごとがおこったやらよくわからぬので、ただもう泣き出さないというばかり、日ごろ親身の孫のように敬愛するナスターシヤをはじめ、あたり全体にみなぎっている容易ならぬ不安の色を見て、恐ろしさのあまり文字どおりふるえていた。しかし、この場合彼女を見捨てることは、彼にとって死ぬよりもつらかったのである。またトーツキイはどうかというに、もちろん、彼としてはこんな事件にかかずらって自分の体面をけがすわけに行かなかったけれど、このきちがいじみた調子を帯びて来た事件の成り行きが、立ち去るにはあまりに興味深かった。それにナスターシヤも、彼に当てつけてふたことみこと皮肉をいったので、すっかり事件の見きわめをつけずにはどうにも帰れなかった。で、まったくひとことも口をきかず、単なる傍観者としてしまいまですわっていようと決心した。それはむろん、彼の威厳の要求するところだったのである。しかしただひとり、たったいま自分の贈り物を無作法に、喜劇じみたやりかたでつき返されて、はなはだしく侮辱を感じたエパンチン将軍は、またさらにラゴージンとの対面といったふうな、突飛をきわめたできごとによって、いっそうの屈辱を感じないではいられないはずである。それに、彼のような人間にとっては、プチーツィンや、フェルディシチェンコなどと同席するということが、すでにすでになみなみならぬ忍辱であった。いかなる欲情の力といえども、ついには義務の感情、官位職分の観念、および自尊の心によって克服されるものである。したがって、閣下の面前ヘラゴージンの徒党が現われるということは、いずれにしてもあるまじき話であった。
「あら、将軍」彼がそのことをいいだそうとして向き直ったとき、ナスターシヤはすぐにそれをさえぎった。「わたしも気がつきませんでした! けれど、まったくのところ、あなたのことはわたし、前から心配していましたの。もしそんなにお腹立ちでしたら、わたしもたっておとめはいたしません。それはもうこの場合あなたに、特にあなたにいていただきたいのは山々でございますけれど。とにかく、これまで、あなたがご交際してくだすったうえ、いろいろご親切に気をおつけくださいましたのは、まことにありがとうぞんじます。けれど、もしひどくご心配でしたら……」
「どういたしまして、ナスターシヤ・フィリポヴナ」と将軍は騎士的な寛仁大度のこみあげるままに叫んだ。「あなたはだれにそんなことをおっしゃるんです。よろしい、わたしはただただあなたにたいする心服の念を示すために、この場に残っていましょう。そしてまた、なにか危険なことがおこったら……それに、じつのところ、わたしは非常な好奇心を感じていますから。ただわたしが心配したのは、あいつらが絨毯《じゅうたん》をよごしたり、なにか物をこわしたりしやせんかと思いましてな……しかし、あんな連中なぞぜんぜん入れないほうがいいと、わたしは考えますがなあ、ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」
「やあ、ラゴージンだ!」とフェルディシチェンコが呼ばわった。
「あなたなんとお思いです、トーツキイさん」と将軍はすきをみて急いでささやいた。「あの女は気がちがったのじゃないでしょうか。つまり、その、譬喩《ひゆ》でなしに、本当の医学的の意味で、え?」
「だから、わたしもそういったじゃありませんか、あの女はいつもその傾向があったんですよ」トーツキイはこすい調子でこうささやき返した。
「それに、熱に浮かされてる……」
 ラゴージンの徒党はほとんどけさと同じ顔ぶれであった。ただ新たに加わったのはなんだかだらしのない老人で、かつてある猥雑なゆすり新聞の編集者をつとめたことがあり、金の入歯を質に入れて飲んだという奇談を持っている男と、それにひとりの退職少尉とである。この男は職分からいっても仕事からいっても、けさほどの拳固先生の恐ろしい競争者であった。党の中でだれもこの男を知ったものはなかったのだが、ネーフスキイの大通りで、日向ぼっこをしながら通行人の袖をひき、マルリンスキイ(詩人、本名ベストゥージェフ)の一句を引いて、喜捨をこうているところを拾い上げられたものである。その袖ごいの言いぐさは、『わたしだって得意の時代には、無心者に十五ルーブリずつくれてやったもんですよ』という、人を食ったものであった。ふたりの競争者はさっそくたがいに敵視しはじめた。例の拳固先生は『無心者』が党に入って以来、侮辱されたようにすら感じたが、生来無口のほうなので、彼はただときおり熊のようにうなるばかりであった。そして、深い軽蔑の目をもって『無心者』がおべっかを使った。り、ふざけまわったりするのをながめていた。ところが、少尉は案外世なれた政略家で、腕力よりも主として円転滑脱な手口で、『ことに当たろう』としているらしかったし、それに背丈も拳固先生よりだいぶひくかった。あまり露骨な喧嘩をさけて婉曲に、もういくどとなくイギリス式拳闘の特徴を、おそろしく得意そうにほのめかした。要するに、この男は純粋の西欧派であることがわかった。この拳闘という貢栞を聞くたびに、拳固先生はただばかにしたような腹立たしげな微笑を浮かべ、自分のほうからは開き直って口論する価値がないといわんばかりに、ときどき無言のまま不意にぜんぜん国民的な一物、――筋の浮いた、節だらけな、なんだか赤毛のいっぱいはえた大きな拳固を見せた、というよりは、これ見よがしに突き出したので、このおそろしく国民的な一物が、あやまたず対象に一下したならば、いいかげんまいってしまうだろうということが、一同のものにはっきりわかった。
 最上級の意味で『覚悟』をきめたものは、今度も彼らの中にひとりもいなかった。というのは、きょういちんちナスターシヤ訪問を心にかけていた御大ラゴージンの努力のおかげである。彼自身も、今はほとんど正気に返っていたが、そのかわり、このけがらわしい、彼の一生を通じて何ものにも譬えようのない一日のあいだに受けたさまざまな印象のために、ほとんど腑抜け同然になっていた。しかし、たった一つのことだけが一分ごと、一瞬間ごとに彼の胸、記憶、心の中で勁いていた。この一事[#「一事」に傍点]のために、彼は五時から十一時までを無限の痛苦憂悶のうちに、キンデルだのビスタープなどという連中を相手に過ごした。またこれらの連中もやはりきちがいのようになって、ラゴージンの要求をみたすために、まるで火がついたように飛びまわったのである。こうして、ナスターシヤが話のついでにぼんやりと、あざけるようにほのめかした十万ルーブリの現金がようやく調達されたが、その利息は、ビスクープ自身さえ恥ずかしさに大きな声ではいいかねて、キンデルとこそこそ話し合ったほどの歩合であった。
 前と同じようにラゴージンがまっさきに進んだ。その他の連中はいくらかびくびくものながらも、自分たちのえらさを十分に自覚してそのあとにつづいた。しかし、ここに注意すべきは、どうしたわけかナスターシヤを恐れたことである。中には、仲間の者が今にもみんな『階段から突き落とされ』はしたいかと、心配したものさえある。そういった連中には、例のしゃれもので女殺しのザリョージェフがいた。が、またあるものは、ことに拳固先生などは、口にこそ出さぬが、心の中では深い軽侮と憎悪の念さえいだいてナスターシヤをながめ、さながら包囲攻撃でもするように彼女のほうへ進んだ。とはいえ、殼初のふた部屋の華麗な装飾や、聞いたことも見たこともない品々や、珍奇な家具調度や、絵や、大きなヴィーナスの彫像や、――これらのすべてのものは、彼らにいかんともしがたい尊敬と、ほとんど恐怖ともいうべき印象を与えたのである。が、それにもかかわらず、しだいしだいに図々しい好奇心が恐怖を圧倒して、彼らはラゴージンのあとから押し合いへし合い客間に入った。しかし拳固先生、。『無心者』、その他の数名が、客間にエパンチン将軍の姿を見つけたとき、最初の一瞬間すっかり度胆を抜かれてしまって、じりじりとすこしずつあとずさりしながら、次の間へ退却したほどである。ただレーベジェフばかりは、だれよりか胆力も碩信もあったので、ほとんどラゴージンと肩をならべながら進み出た。現金百四十万と現在手にある十万の金が、じじついかなる意味を有するかを心得ていたのである。しかし、これだけのことはいっておかねばならぬが、このもの知り先生のレーベジェフさえひっくるめて、一同は自分たちの優越権がどのへんで制限され、境界線をおかるべきかについて、いささか迷わざるを得なかった。じっさい自分たちにはいっさいが許されているかどうか? レーベジェフもある瞬問には、許されていると誓いかけたが、またある瞬間には、万一の用心に、主として自分を励まし安心させるような条項を「法規大全」の中から思い出すべき痛切なる要求を感じた。
 本人のラゴージンはナスターシヤの客問から、その徒党のものとは正反対の印象を与えられた。彼がとばりを上げてナスターシヤを認めると同時に、――そのほかのものは彼にとって存在しなくなった。それはけさも同じことであるが、けさよりもいっそう激しかった。彼は青くなって、ちょっと立ちどまった。彼の心臓が激しく鼓動しだしたのは、たやすく察することができた。おずおずと気抜けしたように、彼は幾秒かのあいだ目をそらさずにナスターシヤをながめた。とふいにぜんぜん理性の判断を失ったかのごとく、よろよろした足どりでテーブルに近寄った。途中プチーツィンのいすに突き当たり、黙りこんだドイツ美人の見事な水色の服につけたレースを、大きな泥靴で踏んづけたりしたが、あやまりもせねば気もつかなかった。テーブルに近寄ると、客間に入るときから両手に捧げていた奇妙な一物をその上に置いた。それは高さ五インチ長さ七インチばかりの大きな紙包みで、かたくぴったりと『取引報知』にくるみ、砂糖の塊りをしばるのに使うような紐で、ひしひしと二重に四方から十文字にしばり上げてある。それから彼はひと言も発せず、宣告の読み上げを待つ罪人よろしく、両手を垂れてたたずんでいた。彼の服装は、ただ、濃い緑に赤のまじった真新しい絹の襟巻と、甲虫を形どった大きなダイヤのピンと、右手のきたない指にはめたすばらしいダイヤの指輪を除くと、何から何までけさと同じであった。レーベジェフはテーブルから三歩手前までしか進みえなかった。ほかの連中は前に述べたごとく、しだいしだいに客間へ入って来た。小間使のカーチャとパーシャとは同じくこの場へかけつけて、深い驚きと恐れをもって、もたげられた牲のかげからのぞいていた。
「これはいったいなんなの?」もの珍しげにじっとラゴージンを見つめて、『一物』をさしながら、ナスターシヤがたずねた。「十万ルーブリ!」と、こちらはほとんどささやくように答えた。「まあ、やっぱり約束をたがえなかったわね、感心だこと! おかけなさいよ、どうぞ、ほらそこへ、このいすへ。わたしあとであなたになんとかいいますよ。だれ、ごいっしょのかたは? みんなさっきと同じ連中? じゃ、入ってすわったらいいわ。そら、あそこんとこの長いすにかけてよござんすよ。それから、まだ一つここにあります。それから、あすこにひじいすが二つ……あの人たちどうしたの、いやなのがしまったく中にはひどく泡を食って次の問へひっこみ、そこに尻を落ちつけて待っているものもあった。しかし、また中には居残って、いわれるままに腰をおろしたものもあるが、なるべくテーブルから遠のくようにして、多くは隅っこのほうに陣取った。その連中のうちにもふたとおりあって、あるものはやはりまだ、多少かくれるようにしているし、あるものは遠くなるにしたがって、なんだか不自然なほど早く元気づいた。ラゴージンは同じく示されたいすにすわったが、それも長くはなかった。間もなく立ちあがって、もうそれきり腰をおろさなかった。だんだんと彼は、客の見わけがつくようになった。ガーニャを見つけると、毒々しく微笑して『ちぇっ!』とひとりごとのようにつぶやいた。将軍やトーツキイなどを見ても、彼はかくべつ狼狽もせず、また特に珍しそうな様子もなくながめた。けれど、ナスターシヤのそばに公爵の姿を認めた時、彼はひとかたならず驚愕して、長いあいだ目を放すことができず、このめぐりあいをなんと解釈していいかわからぬふうであった。ときどき、まったく前後がわからなくなるのではないか、とも疑われた。心神を震撼させるようなこの一日のできごとを別としても、彼はゆうべ夜どおし汽車に揺られたし、それにもうほとんど二昼夜というもの、まんじりともしていなかった。
「皆さん、これが十万ルーブリです」とナスターシヤはなんだか熱に浮かされたような、戦いをいどむような、もどかしげな様子をして、一同に向かいこういった。「ほら、このきたならしい包みの中に入ってます。きょうこの人がきちがいのようになって、晩までにわたしのところへ十万ルーブリ持って来るといったので、わたしはこの人を心待ちにしていたのです。つまり、わたしをせり落としたんです。一万八千ルーブリからはじまって、急に四万ルーブリにせり上げ、そうしてとうとうこの十万ルーブリということになりました。でも、やはり約束をたがえずに持って来ましたよ。まあ、この人はなんて青い顔をしてるんでしょう!………じつはね、これはけさガーニャさんのところでおこったことなんですの。わたしがあの人のおかあさんのところへ、つまり、わたしの未来の家庭へ訪問に行きますと、妹さんが、わたしの目の前で、『だれもこの恥知らずをここから追い出す人はないんですか!』とわめくじゃありませんか。そして、おまけにガーニャさんの、自分の兄さんの顔へ唾をひっかけるんですよ。なかなかしっかりした娘さんですことねえ!」
 「ナスターシヤ・フィリッポヴナ」と将軍はなじるようにいった。彼はいくらか事の真相を理解しはじめた、ただし、自分一流の考えかたで。
「なんですの将軍? 無作法だとでもおっしゃるんですの?いえ、もう気取るのはたくさんですわ! わたしがフランス芝居の特等|桟敷《さじき》に、まるでそばへも寄りつけないほど徳操の高い貴婦人顔をしてすわっていたり、五年のあいだわたしを追いまわす人たちから野育ちの娘のように逃げまわって、わたしは清浄無垢な女ですといったふうな、傲慢な顔をしてその人たちを見おろしていたのは、みんな魔がさしたからです。ところが、清浄無垢の五年が過ぎたきょう、この人がやって来て、あなたの目の前で十万ルーブリの金をテーブルの上に載せました。きっと外には三頭立橇《トロイカ》が立って、わたしを待ってるんでしょう。ああ、わたしを十万ルーブリに値ぶみしてくれたんですね! ガーネチカ、どうやらあなたは今でもわたしに腹を立ててる様子ね? いったいあなたはわたしを自分の家へ入れる気だったんですの? わたしを? ラゴージンの思いものを? 公爵がさっきなんといいました?」
「ぼくはあなたのことをラゴージンの思いものだとはいいませんでした、あなたはラゴージンのものじゃありません!」と公爵はふるえ声でいいだした。
「ナスターシヤさん、たくさんですよ、あなた、たくさんですってば」ふいにダーリヤはこらえかねて、こういった。「そんなにあの人たちといっしょにいるのがいやなら、ただあの人たちを見さえしなければいいじゃありませんか! そしてあなた、いくら十万ルーブリほしいたって、ほんとうにあの男について行くつもりなの? そりゃもうねえ、――十万ルーブリといえば! じゃね、あなた十万ルーブリを取り上げてから、あいつを追っぱらってやんなさいよ。えーえ、あんなやつらにはそれくらいのところでたくさんだわ。わたしがあんただったら、あいつらを……ああ、ほんとうにどうしたっていうんだろう!」
 ダーリヤは、ついに憤怒をさえ感じた。彼女は人のよい、そして非常に感じやすい女であった。
「ダーリヤさん、そんなに怒ることないわ」とナスターシヤはにっこりしながら受けた。「わたしだってあの男に怒らないで口をきいたじゃなくって? それとも、責めつけるようにでもいったかしら。なんだってりっぱな家庭に入ろうなんて、ばかな考えがわいてでたのやら、わたし自分ながらまるっきりわからないの。わたしあの人のおかあさんを見て、手に接吻しましたわ。さっきわたしがあんたのとこで皆さんをからかったのはね、ガーネチカ、あれはね、あんたにどれくらいの辛抱ができるか、ひとつお名ごりにためしてみたかったんですの。ところが、わたしあんたという人に驚きましたよ、まったく。ずいぶんひどいことも覚悟していたけれど、あれまでとは思いがけなかったわ! ほら、あのあすこにいる人が、あんたの結婚の前日といってもいいような日に、こんな真珠をわたしに贈って、しかもそれをわたしが受け取ったということを知りながら、あなたはわたしを引き取るつもりでいたんですの? それからまたラゴージンはラゴージンで、あんたの家の中で、あんたのおかあさんや妹のいる前で、わたしを商品あつかいにしたじゃありませんか。それでもあんたはやはりわたしと縁組みするつもりで、のこのこやってくるんですからね、しかも妹までつれて来ようという意気ぐみで! ラゴージンがあんたのことを、三ルーブリのためには、ヴァシーリエフスキイ島まで四つんばいにはって行くっていったのは、ありやほんとうなんでしょうか?」
「はって行くとも」とふいにラゴージンが低い声でいったが、その顔つきには深い確信が現われていた。
「それもあんたが飢え死にしかけているとでもいうのならまだしも、うわさによると、あんたはだいぶいい月給をとってるそうじゃありませんか! それにかてて加えて、その厚かましさが足りないで、自分の憎んでいる女を家へ入れようというんですの!(だって、あんたはわたしを憎んでいます。わたしよく知っていますわ!)そうですとも、わたし今こそ信じます。こんな男は金のためなら人殺しでもします。ごらんなさい、今どきの人はみんな欲に渇《かわ》いて、金に心を奪われ、まるでばかみたいになってしまってるじゃありませんか。あんな小僧っ子同然の人までが、もう高利貸の真似をしてるんですからね。それでなければ剃刀を絹でくるんで、しっかりしばったうえで、そうっとうしろから自分の友達を羊かなんぞのように斬り殺すんです。わたしこんな話をこのあいだ、読みました。ええ、あんたは恥知らずです! わたしも恥知らずだけど、あんたはもっとたちが悪いんです! あの花束屋さんのことは、わたしはもう今さらなんにもいわな
いけれど……」
「それはあなたの口にすることですか、それはあなたのおっしゃることですか、ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」将軍は衷心から悲しみにうたれて、両手を打ち鳴らした。「あなたのように優美な、あなたのようにデリケートな思想を持っていられるかたが、今のような!………なんという口でしょう! なんという言葉づかいでしょう!」
「わたしいま酔ってるんですの、将軍」とにわかにナスターシヤは笑いだした。「わたし少々浮かれたいんですの! きょうはわたしのかき入れ日ですの、わたしの休日ですの、わたしは長いあいだこれを待ちかねていましたわ。ダーリヤさん、ちょっとこの花束屋をごらんなさい、このMonsieuraux camelias(椿紳士)をごらんなさい。ほら、あすこにすわって、わたしたちを笑っています……」
「わたしは笑っちゃいませんよ、ナスターシヤ・フィリッポヴナ、わだしはただ非常に注意して聞いているだけです」とトーツキイはものものしく答えた。
「さてと、いったいなぜわたしはまる五年というものあの人をいじめて、自分のそばから放さなかったのでしょう、ダーリヤさん? あの人はそうされるだけの値うちがあると思って? たに、あの人は当然もつべき性質を持った人なんですよ……それどころかあの人は、わたしのほうがあの人に悪いことでもしたように思うでしょうよ。だってね、教育も授けてくれたでしょう、暮らし向きも伯爵夫人そこのけにしてくれて、お金もずいぶんかけましたからね。おまけに、まだ田舎にいるときからりっぱな夫をさがしてくれました。ここではガーネチカをね。それで、あなたはどう思うか知らないけれど、わたしはこの五年間あの人と同棲もしないで、お金だけあの人から取ったでしょう、そしてちっとも間違っていないと思ってたんですからね、まったくわたし分別ってものをなくしていたんだわ! あなたは、いやなら十万ルーブリだけ取って、あいつを追っぱらっちまえといいましたね。ええ、それはまったくいやに相違ないわ……わたしたって、とうの昔に結婚くらいできたんだけど(ただしガーネチカとじゃありません)、それはもう、なおのこといやなの。まあ、なんのためにわたしはこの五年の月日を、そんなひねくれた心持ちで過ごしたんでしょう! ところでねえ、ほんとうにするもしないもあんたの勝手だけれど、四年ばかりまえ時おりわたしは、いっそ家のトーツキイさんのとこへお嫁入りしようかしら、てなことを考えました。それはただ、つらあて半分に考えただけなの。まあ、なんだかかだか、いろんなことをその時分考えたわ。だって、無理やりにもそうさせることができたんですからね。もっともね、ダーリヤさん、あなたはほんとうにしないかもしれませんが、あの人も自分のほうからそのことをずいぶん頼んだものなの。もっとも、それはうそでした、なにぶん意地のきたない人ですから、辛抱ができなかったんですよ。その後ありがたいことには、『あの人にはそれほどの面当てをする値うちがあるかしら?と考えつきました。するとふいに、あの人が虫唾《むしず》の走るほどいやで、よしんばあの人が本気に頼んでも結婚しまいと思ったの。そして、まる五年というもの、わたしはああして虚勢を張って来たんです! もういやだ、いっそ往来でのたれ死にしたほうがましだ、わたしはそのほうがほんとうなんだ! ラゴージンといっしょに騒ぎまわるか、でなければあすにも洗濯屋に雇われるか! なぜって、わたしのものといっては一つもないじゃないの。行くとなれば、なにもかもあの人にたたき返してやります、ぼろきれ一枚だって持って行きゃしないわ。そうして一文なしになったわたしを、いったいだれがもらい手がありましょう。まあ、このガーニャにきいてごらんなさい、引き取ってくれるかくれないか? ええ、わたしなんかフェルディシチェンコだって引き取ってくれやしません!………」
「フェルディシチェンコは、もしかしたら引き取らないかもしれません、ナスターシヤさん」とフェルディシチェンコがさえぎった。「ぼくはむき出しの人間ですからね。そのかわり公爵が引き取ってくれます! あなたはそうしてじっとすわったまま、泣いてばかりいらっしゃるが、まあ、ちょっと公爵をごらんなさい! ぼくはさっきから観察してるんです」
 ナスターシヤは好奇の目を向けて公爵をながめた。
「ほんとう?」と彼女はたずねた。
「ほんとうです」と公爵はつぶやいた。
「このまま、一文なしで引き取って?」
「引き取ります、ナスターシヤさん……」
「そら、またとんでもないことが持ちあがった!」と将軍はつぶやいた。「まんざら思いがけないでもなかったが!」
 公爵はなおも自分をながめつづけているナスターシヤを、悲しげな、刺し通すような、きびしい目つきで見つめた。
「またもうひとり出て来た!」ダーリヤのほうへ向きながら、ふいに彼女はこういいだした。「あれはまったく正直な心の底からいってるのよ。わたしにはよくあの人がわかってるわ。まあ、とんだ慈善家をめっけたもんだ! けれど、あの人のことを……なんだっていうのは……ほんとうかもしれないわねえ。公爵、あんたがラゴージンの思いものを引き取ろうというほどほれこんじまったのはいいとしても、いったいどうして暮らしてゆくおつもり? それに、あんたはわたしをご自分の、公爵の奥さんにする気なの?」
「ぼくは純潔なあなたを引き取るので、ラゴージンの思いものじゃありません、ナスターシヤさん」と公爵はいった。
「まあ、わたしが純潔ですって?」
「ええ」
「なんの、そんなことは、ほら……小説のお話ですよ、それはね、公爵、坊っちゃん、昔の寝ごとよ、今じゃ世間が利口になってきたから、そんなことはいっさいお取り上げになりませんよ! それにまだご自分からして乳母さんがいるくせに、結婚なんかしてどうするの?」
 公爵は立ちあがり、臆病そうなふるえ声ではあるが、深い信念を持った人のような表情で口をきった。
「ぼくはなにも知りません、ナスターシヤさん、ぼくはなんにも見ませんでした、おっしゃるとおりです、しかしぼくは
……ぼくはそう考えます、この結婚によってぼくがあなたに対してでなく、あなたがぼくに光栄を与えてくださるのです。ぼくはなんの価値もない男です。が、あなたは艱難辛苦して、その地獄の中から清い人間として出て来られました、これだけでたくさんです。それなのに、あなたは何を恥ずかしがって、ラゴージンといっしょに行こうなどとお考えなさるんでしょう? それはただ熱のせいです……あなたは、トーツキイに七万ルーブリを突き返して、ここにあるものをすっかり棄てて行くとおっしゃいましたが、ここにそういうことのできる人はだれもいません。ぼくは……ナスターシヤさん……あなたを愛します。あなたのためなら死んでもいいです、ナスターシヤさん。ぼくはだれにもひとことだってあなたの陰口はきかせません、ナスターシヤさん……もしぼくらが貧乏したら、ぼく自分で稼ぎます、ナスターシヤさん……」
 この最後の言葉とともに、フェルディシチェンコとレーベジェフのくすくす笑いが聞こえた。将軍までがだいぶにがにがしそうに、あひるのような声を立てた。プチーツィンとトーツキイも、微笑せずにはいられなかったが、やっとのことで押しこらえた、その他の人々はびっくりして、ただもうあいた口がふさがらなかった。
「……でも、ぼくたちは貧乏しないで、かえって大金持ちになるかもしれませんよ、ナスターシヤさん」と例のふるえ声で公爵はつづけた。「でも、確かなことはぼくにもわかりません、そしてきょういちんち、なにひとつ知ることができないでしまったのは残念です。しかし、ぼくはスイスでサラーズキンとかいうモスクワの人から手紙を受け取りましたが、それでみると、なんだかぼくはたいへん大きな遺産を受け取る様子なんです。これがその手紙です……」
 公爵はじじつポケットから手紙を取り出した。
「あの男、夢でも見てるんじゃないか?」と将軍がつぶやいた。「まるでほんとうの気ちがいだ!」
 ちょっとの間、一種の沈黙が襲った。
「公爵、あなた今サラーズキンから手紙が来たとおっしゃったようですね」とプチーツィンがきいた。「この男は仲間内ではずいぶん有名な男です。いろいろな事件の周旋をして歩く有名な男ですから、――もしじっさいこの男が知らせて来たのなら、ぜんぜん信用していいです。いいあんばいにわたしが手蹟を知っていますから、――というのは、ついこのあいだある事件で手紙の往復をしたのです……わたしにひと目見さしてくだされば、何かあなたにお知らせできるかもしれません」
 公爵は無言のまま、ふるえる手で手紙をさし出した。
「いったいなにごとです、なにごとです?」将軍は失心したもののように人々をながめていたが、ふと気がついてこういった。「ほんとうに遺産ですか?」
 一同は手紙を読んでいるプチーツィンに視線をそそいだ。一座の好奇心はさらに新しく異常な衝動を与えられた。フェルディシチェンコはもうじっとしていられなかった。ラゴージンは恐ろしい不安と疑惑に包まれながら、公爵とプチーツィンの上にかわるがわる視線を転じた。ダーリヤは針のむしろにすわっているような期待の情に苦しめられた。レーベジェフがこらえきれずに片隅から出て来て、プチーツィンの肩ごしに腰をまっ二つに折って手紙をのぞきこんだが、その様子は今にもどやしつけられはしないかと、心配しているもののようであった。

      16

「間違いありません」手紙をたたんで、公爵に渡しながら、とうとうプチーツィンはこういいきった。「あなたは伯母さんの確かな遺言によって、すこしも骨折らずに莫大な遺産を譲り受けることができますよ」
「そんなことがあろうはずはない!」と将軍は鉄砲の火蓋でもきったように叫んだ。
 人々はまたしてもあいた口がふさがらなかった。
 プチーツィンは、主としてエパンチン将軍に向かって説明した、――公爵の今までかつて知らなかった伯母というのが、五か月前になくなったが、それは公爵の母の姉で、破産して貧困の中に死んだパプーシンというモスクワの三等組合の商人の娘である。ところで、同じくつい近ごろなくなったこのパプーシンの実兄が、人に知られた富裕な商人であった。一年ばかり前、たったふたりしかないこの男の息子が、ほとんど同じ月にばたばたと淀ってしまった・老人の落胆は非常なもので、しばらくたってから自分もわずらいついて、世を去った。男やもめであったこの男には、かの公爵の伯母よりほかだれひとり相続人がなかったが、このパプーシンの肉親の姪はいたって貧しい女で、他人の家に居候をしており、遺産を譲り受けたころは、水腫のためにほとんど死にかかっていた。しかし、彼女はさっそくサラーズキンに依頼して、公爵の捜索をはじめ、遺言状も作成しておいた。察するところ、公爵もその世話をしたスイスの医師も、正式の報知を待つなり照会をするなりという方法も採らずに、公爵自身サラーズキンの手紙を携えて、出発することに決めたらしい……
「しかし、これだけはあなたに申しておくことができます」とプチーツィンは公爵に向かって、言葉を結んだ。「この事件はぜんぜん争う余地のないほど正碓なものに相違ありませんから、サラーズキンがこの件を法律上確実なものと保証している以上、あなたはポケットに現金が入った気でいらしてもいいのです。ほんとにおめでとう、公爵! もしかしたら、あなたもやはり百五十万、あるいはそれ以上の金が手に入るかもしれませんよ。パプーシンはなかなかの金持ちでしたからね」
「ようよう、一門中の最後の人ムイシュキン公爵!」とフェルディシチェンコが泣くような声を出した。
「ウラー!」とレーベジェフが酔いどれ声でどなった。
「ところが、わたしはさっきこの人に二十五ルーブリ貸したんですよ、かわいそうに、ははは! まるで回り燈籠だ、ほかにいいようがない!」驚きのあまりぼっとしてしまった将軍はこういった。「いや、おめでたい、おめでたい!」
 こういいながら席を立って、公爵を抱きに行った。それにつづいてだれ彼のものが立ちあがり、公爵のそばへ寄って行った。とばりのかげへ隠れたものまでが、のこのこ客間へ出て来た。がやがやと話し合ったり、叫んだりする声が聞こえ、シャンパンを呼ぶ声さえ響きわたった。すべてのものがぶっつかったり、ざわついたりしはじめた。人々はしばしのあいだナスターシヤのことを、――なんといってもナスターシヤがこの夜会のあるじであることを、ほとんど忘れかけていた。しかし、そのうちに一同はほとんど同時に、たったいま公爵が彼女に申し込みをしたばかりだということを思い出した。してみると、事件は前よりも二倍も三倍も、きちがいじみた突飛な性質を帯びてきたのだ。深い驚愕に打たれたトーツキイは、ただ肩をすくめすくめしていた。こうして、じっと席に着いていたのはこの人ひとりくらいのもので、その他の人々はみな入り乱れてテーブルのまわりをひしめき合った。ナスターシヤの気が狂ったのはこの瞬間からだと、一同はのちになってはっきりいいきった。彼女はいぜんとして腰を掛けたまま、なんとなく奇妙な、びっくりしたような目つきで人々を見まわしながら、何ごとがおこったのやらわからないので、とくと思い合わそうと努めているかのようであった。やがて彼女はふいと公爵のほうへ向いて、眉をものすごくしかめながら、ひたと彼をながめた。しかし、これはただのひとときであった。おそらく彼女にはこれらすべてのことが、冗談か嘲笑のように思われたのであろう。けれども、公爵の顔つきはただちにこの疑いを解いた。彼女はちょっと考えこんだが、またすぐにっこりと笑った。自分でもなぜ笑ったかという意識はないらしい様子で……
「じゃ、いよいよ公爵夫人だ!」とあざ笑うように彼女はひとりごちたが、ふとダーリヤが目に入ると、いきなり笑いだした。『思いがけない大団円だったこと……わたし……こんなふうになろうとは思いも寄らなかった……どうなすったの、皆さん、ぼんやり突ったって。後生ですからすわってください、そして公爵夫人のお祝いをいってちょうだいな!だれやらシャンパンといってらしたようですね。フェルディシチェンコさん、行っていいつけてちょうだい。カーチャ、パーシャ」にわかに彼女は戸口に立っている小間使を見つけた。「こっちへおいで、わたしはお嫁入りするよ、聞いたかえ? 公爵のところへ、あの人には百五十万の財産があるって、あの人はムイシュキンという公爵でね、わたしを引き取ってくださるとさ!」
「そうしたがいいわ、もういいかげん見きりどきよ、運をのがしちゃいけませんよ!」と、このできごとに深く心を掻き乱されたダーリヤが叫んだ。
「さあ、わたしのそばへすわってちょうだい、公爵」とナスターシヤは言葉をついだ。「ええ、そう。おお、お酒が来ました、皆さん祝ってください!」
「ウラー!」と大勢が声を合わして叫んだ。
 多くのものは酒のほうへ集まったが、その中にはラゴージンの連中がほとんど残らず入っていた。こうしてわいわい騒ぎながら、もしくは騒ごうと心組みながらも、多くのものは奇怪な状態にもかかわらず、この場の背景が一変したのを感じた。中には当惑して、疑わしげに控えているものもあったが、しかしたいていのものは、こんなことなどきわめてありふれたもので、公爵などといわれる人がとんでもない女と結婚したり、ジプシイの女を引き取ったりするのは、珍しくないなどとささやき合った。当のラゴージンは、凍ったような腑に落ちかねるような微笑に顔をゆがめながら、じっと突っ立ってながめていた。
「公爵、ねえきみ、しっかりしたまえ!」と将軍は恐怖のあまりわきのほうからそばへ寄って、公爵の袖を引きながらささやいた。
 ナスターシヤは目ざとく見つけて、からからと笑いだした。
「いいえ、将軍! わたしはもう公爵夫人ですよ、わかりましたか、――公爵はわたしに恥なんかかかせやしません! トーツキイさん、あなたこそわたしを祝ってちょうだい。わたしはもうどこへ行っても、あなたの奥さんと並んで腰をかけられるんですよ。いかがです、こういう夫を持つのは得じゃありませんか。百五十万ルーブリ、そのうえに公爵、そのうえに白痴だそうですからね、このうえなしだわ! 今からほんとうの生活が始まるんです! 遅れたわね、ラゴージンさん! その包みをおしまいなさい、わたしは公爵にお嫁入りして、おまえさんよりかもっと金持ちになるんだから!」
 ラゴージンは事のなんたるやを悟った。なんともいいようのない苦悶がその顔に印せられた。彼は両手をはたと打って、胸の底からのうめきをもらした。
「どけ!」と彼は公爵に叫んだ。
 あたりでどっと笑い声がくずれた。
「どくのはおまえさんのことじゃないか?」と勝ち誇ったようにダーリヤが言葉じりを押えた。「なんだろう、おあしをテーブルの上へほうり出して、まるで百姓だ! 公爵はりっぱに奥さまとして引き取りなさるのだけれど、おまえさんは乱暴を働きに来たのだ!」
「おれだって引き取る! いま引き取る、今すぐ! 何もかもやっちまう!………
「あれまあ、居酒屋から来た酔っぱらいだわ、おまえなんか追い出してしまわなくちゃならないんだよ!」とダーリヤは憤然としてくりかえした。
 笑い声はいっそう高くなった。
「あれを聞いて、公爵」とナスターシヤは問いかけた。「ああして土百姓があんたの許嫁をせってますよ」
「あの人は酔ってるんですよ」と公爵がいった。「あの人はたいへんあなたを愛してるんです」
「あんたはあとで恥ずかしくなりゃしない? あんたの許嫁がよっぽどラゴージンと駆落ちしようとしたんですよ」
「それはあなたが熱に浮かされたからです、今でもあなたは熱に浮かされています、まるでうなされてるようなものです」
「けれど、あとになって、おまえの女房はトーツキイの妾だったといわれたとき、あんた恥ずかしいとは思わなくって?」
「いえ、恥ずかしいなんて思いません……あなたは自分の意志でトーツキイさんのとこにいたのじゃないから」
「じゃ、けっして責めませんね!」
「責めません」
「でもよくって、一生涯の請け合いはできないことよ!」
「ナスターシヤさん!」と公爵は静かに、あたかもあわれむがごとく呼びかけた。「さっきもいったとおり、ぼくはあなたの承諾を名誉に思います、名誉を与えるのはぼくじゃなくて、あなたです。あなたはこの言葉に対して冷笑をもらしました、そしてまわりの人も笑ったようです。もしかしたら、ぼくの言いかたがこっけいだったかも、いや、ぼく自身がこっけいなのかもしれません、けれど、ぼくは……名誉が何に存するかを知ってるような気がします、ぼくは自分のいったことが真理だと信じています。あなたは今、とりかえしのつかぬように自分の身を滅ぼそうとしました。なぜって、あなたは後日そんなことをした自分をけっしてゆるす気づかいがないからです。あなたはなんの罪もないのです。あなたの生涯がもうすっかりだめになったなんて、そんなことがあってよいものですか。あなたのとこヘラゴージンが来たことや、あなたをガヴリーラ君がだまそうとしたことがそもそもなんだというのでしょう? なんだってあなたはひっきりなしに、そのことばかり気になさるんです! あなたのなすったことは、だれでも容易にできることじゃありません、これはぼくくりかえしていいます。またあなたがラゴージンといっしょに行こうとなすったのは、あなたの病的な発作が決めさせたことです。あなたは今もやはり発作に襲われています、だから早く寝床へ入ったほうがいいのです。あなたはあすにも洗濯女におなんなさるかもしれない。けれど、ラゴージンと同棲なんかけっしてなさらないです。あなたには誇りがあります、ナスターシヤさん、けれどあなたは不幸のあまり、じっさい、自分が悪いと思っていらっしゃるかもしれません。あなたは、よほど親切に介抱する人がなくちゃなりません、ナスターシヤさん、ぼくがその介抱をします。ぼくはけさあなたの写真を見て、まるで昔なじみの顔に出会ったような気がしました。ぼくはすぐにそのとき、あなたがぼくを呼んでるように感じました……ぼくは……ぼくは、生涯あなたを尊敬します、ナスターシヤさん」自分がどんな人たちの前でしゃべっているかに心づくと、われに返って赤くなり、公爵はふいに口をつぐんだ。
 初心なプチーツィンは思わず首をたれて、下のほうをながめた。トーツキイは心の中で『白痴《ばか》だ、しかしお世辞が何よりききめのあることだけは知ってる、生まれつきかなあ!』と考えた。公爵はまた片隅にぎらぎら光るガーニャの目に気づいた。彼はその目で公爵を焼きつくそうとしているようであった。
「ほんとになんていい人なんでしょう!」とダーリヤは感動して叫んだ。
「教育はあるんだが、とうてい見込みのない男だ!」と将軍は小声でささやいた。
 トーツキイは帽子を取って、そっと抜け出すように席を立つ身構えをしていた。彼はいっしょに出て行こうと、将軍に目まぜをした。
「ありがとう、公爵、今までだれもわたしにそういってくれるものはなかったわ」とナスターシヤがいいだした。「わたしはいつも売り買いされるばかりで、まだだれひとり身分のある人から、結婚の世話をしてもらったことはありません。あなたお聞きなすって、トーツキイさん? いま公爵のおっしゃったことを、あなたはなんとお思いになって? ずいぶん無作法だと思ったでしょう……ラゴージン、おまえさん行くのをしばらく見合わせておいで。もっとも、行っちまうなんてことは、おまえさんにできそうもないがね。ひょっとしたら、わたしおまえさんといっしょに出かけるかもしれないよ。おまえさんいったいどこへ連れてくつもりなの?」
「エカチェリンゴフですよ」とレーベジェフが片隅から得々としていった。が、ラゴージンは自分の耳を信じかねるように、ただぶるっと身震いして、目をいっぱいに見ひらきながらながめていた。彼はあたかも恐ろしい打撃を頭に受けたもののように、まるきり感覚を失ってしまった。
「まあ、どうしたの、あなた、どうしたの、あなた! ほんとに発作でもおこったのじゃなくって? あなたは気でもちがったの?」とダーリヤはぎょうてんして叫んだ。
「まあ、あなたは今までまじめに取ってたの?」声高に笑いながら、ナスターシヤは長いすから飛びあがった。「こんな坊っちゃんの一生を台なしにするなんて? それはトーツキイさんにゃ恰好な仕事だわ、あの人は赤ん坊が大好きなんだから! ラゴージン、出かけましょう! その包みをお片づけなさい! なあに、おまえさんがわたしと夫婦になる気だつてかまやしない、お金だけはとにかくおよこしなさい。まだおまえさんと夫婦にならないかもしれないんだから。おまえさんは自分が夫婦になりたいと思ったら、すぐにお金の束も自分の手にもどると考えてたの?ご冗談でしょうよ! わたしは恥知らずですからね! トーツキイの妾だったんだからね……公爵! 今あんたに入り用なのはアグラーヤ・エパンチナさんで、ナスターシヤ・フィリッポヴナじゃありません。でないと、ほら、――フェルディシチェンコにうしろ指をさされるわ! あんたはすこしも恐れないけれど、わたしはあんたの一生を廃れ者にして、あとであんたに責められるのがこわいの! あんたはわたしのほうが、あんたに名誉を授けるというけれど、それがうそかほんとうか、トーツキイさんがよく知ってます。ガーネチカ、あんたはアグラーヤさんを見そこなったのね、あんたそれを知ってて? あんたがかけ引きなんかしなかったら、あのひとはきっといっしょになったのにねえ! あんたたちはみんなそういうふうな人なのよ。浮いた女だろうと地道の女だろうと、女を杓手にするには、いつでも同じ気持ちでかからなくちゃだめ! でなかったら、きっと迷ってしまうわ……おや、将軍の顔つきったらどうでしょう、口をぽかんとあけて……」
「こりゃもうソドム(淫縦のため天火に焼かれた町)だ、ソドムだ!」将軍は両肩を突き上げ突き上げしながら、こうくりかえした。
 彼も同じく長いすから立ちあがった。一同はふたたびいつの間にか総立ちになっていた。ナスターシヤは前後を忘れているらしかった。
「まさかそんなこと!」ねじきるようにわれとわが手を握りしめつつ、公爵はうめくようにいった。
「こんなことにならないと思ってたの? わたしはたぶん高慢ちきな女でしょう、むろん恥知らずよ! さっきあんたはわたしのことを、『完成』されたものだっていったわね。結構な完成だこと、ただのからいばりのために、百万ルーブリと爵位を踏みにじって、路地うらへ入って行くのだからね! さ、これじゃあんたの奥さまなぞになれっこないわ。トーツキイさん、さあ、わたしほんとに百万ルーブリを窓のそとへほうり出しましたよ! ガーネチカと結婚するのを、――いえさ、あなたの七万五千ルーブリと結婚するのを、わたしが幸福と思うなんて、あなたはよくもそんなことが考えられたもんねえ。七万五千ルーブリはどうぞひっこめてちょうだい、トーツキイさん(十万とまでは思いきれなかったと見えるわね、ラゴージンのほうがだいぶ気前を見せたわけね!)ところで、ガーネチカはわたしが自分で慰めてあげます。――ついい思案が浮かんだから。やれやれ、すこしぶらつきたくなった。どうせわたしは街の女ですからね。十年牢屋にすわっていたが、今こそわたしの仕合わせがまわってきたんだ!おまえさんどうしたの、ラゴージン、支度おしよ、出かけるんだから!」
「出かけよう!」嬉しさのあまり、ほとんど夢中になって、ラゴージンはほえるようにいった。「おい、てめえたち……みんな……酒だ! ウーフ!」
「酒を用意してお置き、わたしも飲む。そして、楽隊はあるの?」
「あるとも、あるとも! 寄っちゃいけねえ!」ふとダーリヤがナスターシヤのほうへ近よろうとするのを見ると、彼は夢中になって叫んだ。「おれのもんだ! みんなおれのもんだ! 女王さまだ! おしまいだあ!」
 彼は狂喜のあまり息をはずましていた。そして、ナスターシヤのまわりをぐるぐるまわりながら、だれ彼の容赦なく、『寄っちゃいけねえ!』とどなった。彼の仲間は、もうすっかり客間へつめ寄せて、あるいは飲み、あるいは叫び、あるいは笑って、すっかり興奮しきった無礼講気分になっていた。フェルディシチェンコは、彼らの仲間に入ろうと策をめぐらしはじめた。将軍とトーツキイはすこしも早く姿をくらまそうと、またしても、もじもじ動きだした。ガーニャも同じく帽子を手にしていたが、それでも黙ったまま、限前に展開する怪しい絵巻物から、どうしても目を離すことができぬというような具合であった。
「寄っちゃいけねえ!」とラゴージンは叫ぶ。
「何をおまえさんはどなってるんだえ!」とナスターシヤは、彼の頭に哄笑を浴びせかけた。「わたしはまだこの家のあるじだからね、もしその気になったら、おまえさんを突き出すこともできるんですよ。ああ、わたしはまだおまえさんからお金を受け取らなかった、あすこにある、あれを取ってちょうだい、包みごとすっかり! この中に十万ルーブリ入ってるんだね? ふう、なんていやらしい! あなたどうしたの、ダーリヤさん、いったいわたしはこの人を廃《すた》れ者にれすばよかったの?(彼女は公爵を指さした)この人に、どうして結婚なんかできるもんかね、ご自分にまだ乳母《おんば》さんがいるようなからだじゃないの? ほら、あそこにいる将軍がこの人の乳母さんをなさるでしょうよ! ね、いっしょうけんめいに公爵をすかしてるでしょう! 公爵、ごらんなさい、あんたの花嫁ごはあばずれ女だから、このとおり金を取りましたよ。それだのに、あんたはそんな女を奥さんにしようとしたわねえ! まあ、どうしたって泣くの? 悲しいとでもいうの?くだらない、お笑いなさいよ、わたしみたいに(と語りつづけるナスターシヤ自身の両頬にも、大きなふたしずくの涙が輝いた)。時というものをお信じなさい、――なんでもなくなってしまうわ! あとになってよりか、いま考え直しとくほうがいいのよ……まあ、なんだってみんな泣きだすんだろうねえ、――あら、カーチャまで泣いてるよ! カーチャ、いい子、何が悲しいんだえ。わたしはね、おまえとパーシャにどっさりいろんなものを残しておいたよ、ちゃんと指図してあるからね。でも、今はこれでお別れよ! おまえのような正直な子に、こんなあばずれ女の世話をよくさせたわねえ……公爵、こうなるほうがいいのよ、まったくいいの。いっしょになったところで、あんたはすぐわたしをさげすみだして、幸福になんかなれやしなくってよ! いいえ、誓ったってだめ、わたしほんとうにしないから! きっとばかばかしい目を見るに相違ないわ!………ねえ、いっそきれいに別れましょう。でないと、わたしも空想家だから、どんな業《ごう》をさらさないともかぎらないわ! じつをいえば、わたしだってあんたのことを空想しなかったわけでもないの。それはあんたのいうとおりなの。わたしがまだあの男に養われて、五年のあいだほんとのひとりぼっちで田舎で暮らしていたころ、わたしよくあんたのことを空想したわ。考えて考えて考え抜き、空想して空想し抜くことがあるでしょう。すると、正直で、人のいい、親切な、そしてやっぱり少々のろまな人を想像するの。そんな人がやって来て『ナスターシヤさん、あなたには罪なんかない、ぼくはあなたを尊敬します』といいそうな気がしてならなかった。よくそうした空想に苦しめられて、気がちがいそうになることもあったわ……ところへこの男がやって来て、年にふた月ずつ泊っていって、けがらわしい、恥ずかしい、腹の立つ、みだらなことをして帰って行くんです、――わたしはなんべんか池へ身を投げようと思ったけれど、未練なために思いきれなかったの。さあ、もう……ラゴージン、用意はできた?」
「できた! 寄っちゃいけねえ!」
「用意はできた!」といくたりかの声が響いた。
「三頭立箍が待っています、鈴のついたのが」
 ナスターシヤは金包みを手に取った。
「ガーンカ、わたしはいいことを考えついたわ。わたしあんたにご褒美をあげようと思うの。なんぼなんでも、みんななくしてしまっちゃかわいそうだものね。ラゴージン、あの男は三ルーブリのためにヴァシーリエフスキイ島まではって行くんだね?」
「はって行くとも!」
「そう、じゃあね、ガーニャさん、わたしはお名ごりにもう一度、あんたの根性が見たくなったの。あんたはまる三月のあいだわたしをいじめたんだもの、今度はわたしの番よ。この包みをごらんなさい。この中に十万ルーブリ入ってるんですよ! 今わたし皆さんの前でこれを暖炉の火ん中へほうりこみます。みんな証人です! この包みぜんたいに火がまわるとすぐ、暖炉の中へ手をお突っこみなさい。ただし手袋なしで、そして袖をたくしあげとくんですよ。それから素手でこの包みを火の中から引き出しなさい。うまくいったらあんたのものよ。十万ルーブリすっかりあんたのものになるのよ。ちっとばかり指を火傷《やけど》もしましょうが、-なにしろ十万ルーブリですからね、よくお考えなさい! つかみ出すのにそう手間ひまかかりゃしません! わたしそうしてあんたの根性を見るんだから。あんがわたしのお金を取りに、火の中へ手を突っこむ様子が見たいの。みんなが証人だわ、包みはあんたのものになります! もし取り出さなかったら、それっきり燃えてしまってよ、ほかの人はだれにも許しません。どいてちょうだい! みんなどいてちょうだい! わたしの金だから。わたしがひと晩でラゴージンから取ったお金だ。わたしのお金だね、ラゴージン?」
「おまえさんのだ、女王さん、おまえさんのだ!」
「じゃ、みんな、どいてちょうだい、わたしはしたいようにするんだ! じゃまをすることはなりません! フェルディシチェンコ、火を直してちょうだい!」
「ナスターシヤさん、手が動きません!」と度胆を抜かれた
フェルディシチェンコは答えた。
「えいっ!」とナスターシヤは叫んで炉火箸を取り、二つばかり、とろとろ燃えている薪をかきおこした。そして、やっと火が燃えだすやいなや、その上に金包みを投げこんだ。
 一時に叫び声がおこった。多くのものは十字さえ切った。
「気がちがった! 気がちがった!」という叫びが四方からおこった。
「あの……あの……あの女をしばらなくていいだろうか?」と将軍がプチーツィンにささやいた。「でなければ気ちがい病院へ……だって気がちがったんじゃないか、だって気がちがったんじゃないか、気が?」
「い、いや、これは本当の発狂じゃないかもしれません」ちょろちょろ燃えていく包みから目を放すことができないで、プチーツィンはハンカチのように青ざめふるえながら、将軍にささやいた。
「気ちがいだね? ねえ、気ちがいだね?」と将軍はトーツキイに迫った。
「わたしはそういったじゃありませんか、多彩な女だって」と同様にいくぶん青ざめたトーツキイがつぶやいた。
「しかし、なにしろ十万ルーブリだからね……」
「大変だ、大変だ!」などと叫ぶ声も聞こえた。一同は暖炉のまわりに押しひしめき、恐怖の叫びを上げた……中には人の頭ごしに見ようと、いすに飛びあがるものさえあった。ダーリヤは次の間へかけだし、カーチャとパーシャとなにやら恐ろしげにささやき合った。ドイツ美人は逃げだしてしまった。
「奥さん! 女王! 万能の女神さま!」とレーペジェフは、ナスターシヤの前をひざ立ちになってはいまわりながら、暖炉のほうへ両手をさし伸べ、泣くような声を出していった。「十万ルーブリ! 十万ルーブリ! わたしが自分で見ました! わたしの目の前で包んだんです、奥さま! お慈悲ぶかい奥さま! わたしにいいつけてくださいまし。からだごと暖炉の中へもぐりこみます、このごま塩頭をすっかり火の中へ突っこみます!………足なえの女房に子供が十三人、――みんなみなし児でございます、前週に親父を埋葬したばかりでございます、かつえ死にせんばかりでございます、ナスターシャさま!」こうわめきながら暖炉へはいこもうとした。
「おどき!」とナスターシヤは叫んで、彼を突き飛ばした。「みんなうしろへ引いてください! ガーニャ、あんた何をぼんやり突っ立ってるの。恥ずかしがることはありません、手をお突っこみなさい! あんたの福徳よ!」
 けれども、この一日このひと晩、あまりに多くの苦痛を堪え忍んだガーニャも、思いがけないこの最後の拷問にたいしては、心の準備ができていなかった。群集はふたりを前にして両方へ引き別れたので、彼はナスターシヤと顔を突き合わして立つことになり、ふたりのあいだには三歩しかへだたりがなかった。彼女は暖炉のすぐそばに立って、火のような凝視をつづけながら待ちかまえていた。ガーニャは燕尾服を着て手に帽子と手袋を持ち、両手を組み合わせて、火の方を見まもりつつ、答えもなく黙然として女の前に立っていた。気ちがいじみた微笑が、そのハンカチのように白い顔にただよった。じっさい、彼はその目を焰から、ちょろちょろと燃えていく包みから、放すことができなかったのである。しかし、なにかしら新しいあるものが、彼の心にわきあがってくるように思われた。まるでこの拷問を忍受しようと誓ったかのごとく、彼はその場を動こうともしなかった。幾瞬間か過ぎたとき、彼が包みを取りに行かぬということが、一同にはっきりわかった。
「ええ、焼けちまうじゃないの。あとで人に笑われてよ」とナスターシヤが彼に叫んだ。「あとで首をくくらなくちゃならなくってよ、冗談じゃない!」
 くすぶっていた二本の新のあいだにはじめぱっと燃えあがった火は、包みが落ちかかって蓋をしたとき、ちょっと消えそうになった。しかし、小さな青い焰は裾のほうから、下積みになった薪の一角にまたからみついた。ついに細長い焙の舌は包みをもなめ、火はさらに四隅の紙にからんで上のほうへ走った。と、不意に包みぜんたいが暖炉の中でぱっと燃え立ち、明るい焰が上へ向かって流れだした。一同はあっと叫んだ。
「奥さま!」とレーベジェフは、まだやはり泣き声を出しながら、前のほうへ潜り出ようとするのを、またぞろラゴージンが引きもどし突き飛ばした。
 ラゴージン自身はただ一つの動かざる凝視に変じた。彼はナスターシヤから目を放すことができなかった。彼は夢中であった、彼は九天の高みに登ったようなありさまであった。
「これがほんとうの女王さまだ!」と彼はだれ彼の差別なく手当たりしだいにつかまえては、ひっきりなしにこうくりかえした。「これがおれたちのやり口だ!」と彼はわれを忘れて叫ぶのであった。「やいうじ虫めら、てめえたちにこれだけの芸当ができるかい、うん?」
 公爵は愁わしげに黙ってながめていた。
「ぼくはたった千ルーブリでもいいから歯でもってくわえ出して見せる!」とフェルディシチェンコがいいかけた。
「歯でくわえ出すくらいわが輩でもできるぞ!」恐ろしい絶望の発作に襲われた拳固先生は、いちばんうしろのほうから歯ぎしりした。「こ、こんちくしょう! 焼ける、みんな焼ける!」と彼は焙を見てどなった。
「焼ける、焼ける!」と一同はおなじく暖炉のほうへ身を乗り出しながら、異口同音に叫んだ。
「ガーニャ、気取るのはおよしなさい。わたしもういっぺんだけいうわ!」
「やれ、やれ!」フェルディシチェンコはまったく夢中になってガーニャにとびかかり、その袖をしょびきながらうなった。「やれってば、から威張り野郎! 焼けちまうじゃないか! ええ、ばか野郎!」
 ガーニャは力の限りフェルディシチェンコを突き放し、くるりと身を転じて戸口のほうへ歩みだした。が、二足と歩かぬうちに、よろよろとよろめいて、床にどうと倒れた。
「気絶だ!」と叫ぶ声があたりにおこった。
「奥さま! 燃えてしまいます!」とレーベジェフが悲鳴をあげた。
「くだらなく燃えてしまうんだ!」人々は四方からうなった。
「カーチャ、パーシャ、あのひとに水を、そしてアルコールを!」とナスターシヤは声高に命じて、炉火箸を取り、金包みをつかみ出した。
 ほとんど紙包みの全部は焼けただれていたが、中身はすこしもさわりのないことがすぐにわかった。金は新聞紙で三重にくるんであったので、なんの傷もつかなかった。人々はやっと自由に息をついた。
「わずか千ルーブリくらいは、ひょっとしたら、少々いたんだかもしれないが、そのほかはみんな無事だ!」とレーベジェフは歓喜の声を上げた。
「みんなあの人のものです! この包みはすっかりあの人のものです? よござんすか、皆さん!」とナスターシヤは、包みをガーニャのそばへ置きながら宣告した。「取りに行かなかった、こらえおおせた! してみると、まだ自尊心が金の欲より強いのかしら? なに、かまいません、今に息を吹き返しますよ! もし気絶しなかったら、たぶんわたしに斬ってかかったでしょう……ほら、もう気がつきかかった。将軍、プチーツィンさん、ダーリヤさん、カーチャ、パーシャ、ラゴージン、よござんすか? 包みはあの人のものですよ、ガーニャのものですよ。わたしはあの人にご褒美として、完全な所有権を提供するんです……ええ、それからさきはどうなったってかまやしないわ! あの人にそういってちょうだい。包みはあの人のそばへ置いとくのよ……ラゴージン、出かけましょう! さようなら、公爵、生まれてはじめて人間を見ました!さようなら、トーツキイさん、mercii! ラゴージンの徒党は、ラゴージンとナスターシヤにつづいて、騒々しい叫び声を立てながら、いくつかの部屋を抜けて出口のほうへどやどやと駆け出した。ホールで小間使たちが主人に毛皮外套を渡した。下女のマルファも台所から馳せつけた。ナスターシヤは彼ら一同をかわるがわる接吻した。
「まあ、奥さま、ほんとうにわたくしどもを捨ててしまうおつもりでございますか。そして、どこへおいでなさいますの? しかもお誕生日というおめでたい日に!」とさんざん泣いた娘たちは、彼女の手を接吻しながらたずねた。
「往来へ行きます、カーチャ、おまえも聞いたろう、往来がわたしのいるべき場所なんです。さもなければ、洗濯女にでも雇われます! もうトーツキイさんといっしょにいるのはたくさん! あの人によろしくいっておくれ。まあ、わたしのことを悪くいわないでね……」
 公爵はまっしぐらに車寄せに向かって突進した。そこでは一同が鈴のついた四台の三頭立橇《トロイカ》にそれぞれ分乗していた。将軍はまだ階段の上で公爵に追いつくことができた。
「ねえ、公爵、しっかりしたまえ!」彼は相手の片手を握ってこういった。「うっちゃってしまうさ! あんな女じゃないか! わたしはきみの父親としていうのだよ……」
 公爵はちらとその顔を見たが、ひとことも口をきかず、とられた手を振りきって、下へかけおりた。
 たったいま三頭立橇《トロイカ》がすべり出したあとの車寄せへ出た将軍は、公爵が行き当たりばったり辻待ち罐をつかまえて、「エカチェリンゴフ、あの三頭立橇《トロイカ》の跡を追っかけるんだ」と叫んでいる姿を見わけた。やがて、灰色の駿馬をつけた将軍の馬車が走りだして、新しい希望と、もくろみと、さっきの真珠(将軍はそれでも、この真珠を取って来ることを忘れなかった)とともに、彼をわが家のほうへ運んで行った。そのさまざまなもくろみのあいだに、二度ばかり、ナスターシヤの魅するような姿が目の前をかすめて通ったのである。将軍は溜息をついた。
「残念だ! じっさい、残念だ! 滅びたる女だ! 気の狂った女だ!………しかし、もう今となっては、公爵に必要なのはナスターシヤではない……かえって、あんなふうに局面一変したのは好都合だったよ」
 これに類似した教訓的なはなむけの言葉が、ナスターシヤの客のふたりによって取りかわされた。このふたりはすこしのあいだ徒歩で行くことに相談したのである。
「ねえ、トーツキイさん、これはちょうど、日本人のあいだによくあるという話に似ていますね」とプチーツィンがいった。「恥辱を受けたものが当の相手のところへ行って、いうじゃありませんか。『おまえはおれに恥辱を与えた、だからおれはおまえの目のまえで腹を切って見せる』こういうといっしょに、ほんとうに相手の目の前で自分の腹をかっさばいて、それでほんとうに仇討ができたような気がして、非常な満足を感じるらしいんですね。世の中には奇態な性質もあればあるものですねえ、アファナーシイ・イヴァーノヴィチ!」
「じゃ、きみはこの事件にそんなところがあったとお思いなんですか?」と微笑を含んでトーツキイが答えた。「ふむ! しかし、きみはなかなか皮肉な……おもしろい比較を引いて来ましたよ。ですがね、プチーツィン君、わたしができるだけのことをしたのは、察してくださるでしょうね。わたしだって可能以上のことはできませんからね、そうでしょう? しかし、いま一つご同感を願いたいのは、あの女になかなかりっぱな美点が……目ざましい特質があるということなんです。もしあの乱脈《ソドム》の仲間入りする気になったら、わたしはあの女に声をかけたかもしれない。あの女がわたしに浴びせかけたいろいろな非難にたいするいちばんいい弁明は、あの女自身なんですからね。そうでしょう、だれだってどうかした拍子に、理性の判断も……なにもかも失うほど、あの女のとりこになろうじゃありませんか! その証拠にはごらんなさい、あの百姓のラゴージンが、十万ルーブリという金を持って来たじゃありませんか! よしんばかりに、きょうあすこでおこったことがことごとく夢のようにはかない、ロマンチックな、ぶしつけなものであるとしても、そのかわり多彩です、そのかわり独創的です、ね、そうでしょう。あーあ、あれだけの気性と、あれだけの美貌があったら、どんなことでもできたものを! あれほど骨を折って教育まで施したのも、――すっかり水の泡になっちまった! 磨かれざるダイヤモンド、――わたしは幾度そういったかしれませんよ……」
 トーツキイは深い溜息をついた。

第二編

      1

 われらがこの物語第一編の終結とした、ナスターシヤ・フィリッポヴナの夜会における奇怪なできごとののち二日たって、ムイシュキン公爵は例の思いがけない遺産譲り受けのため急きょモスクワへ向けて出発した。こうしたあわただしい出発には、なにかまだほかに原因がなければならぬ。といううわさもそのころあった。しかし、このことについても、また公爵がペテルブルグを離れてモスクワに暮らしているあいだにとった行動についても、われわれはあまり多くの情報を伝えることができない。公爵はかっきり六か月、都を離れていたが、そのあいだに彼におこったことは、彼の運命に興味を持つべき多少のいわれのある人さえも、知りうるところはきわめて少なかった。もっとも、中にはごくたまであったが、たにかのうわさを小耳にはさまぬでもなかったけれど、それとても大部分は奇怪なもので、概してたがいに矛盾しがちであった。だれよりも公爵に対して興味をいだいていたのは、いうまでもなく、彼が出立の前に暇ごいにも行きえなかったエパンチン家の人々である。もっとも、将軍はそのとき一度ならず二度三度まで彼に会って、なにやら重大な事柄について相談した。しかし、将軍が彼に会ったとしても、家族の者にはそのことをおくびにも出さなかった。というのは、はじめのあいだ、つまり、公爵の出発後一が月ばかりのあいだ、彼の話をすることはエパンチン家で禁制同様のありさまだったからである。ただひとり将軍夫人のリザヴェータ・プロコーフィエヴナは、いちばんはじめに『公爵という人について大変な考え違いをしていた』といったが、やがて二、三日たってから、今度はもう公爵と名ざさずに、だれということもなく、『わたしの生涯でいちばん目に立つ特徴は、ひっきりなしに眼鏡違いをしていることだ』とつけ足した。そして、最後に十日ばかりもたったとき、なにか娘たちにかんしゃく玉を破裂さして、『もう考え違いはたくさんだ! もうそんなことがあったら承知しない』と宣言めいた口調で結論をくだした。この一家にもうだいぶまえから、なんとなく不快な気分の存在していることは、このさい気づかずにいられなかった。なにかしら重苦しい、緊張した、腹にわだかまりのあるような、いさかいの種になるようなあるものがあって、みんなそろってむっつりとしていた。将軍は昼も夜も忙しそうにして、仕事にかかっていた。彼がこれほど忙しそうに、事務家らしくせかせかしているのは、――ことに勤め向きのことで、――あまり見られない図であった。家の人さえ、彼の姿を見る機会は少ないくらいであった。令嬢たちはどうかというと、もちろんこの人たちが口に出してなにかいうことは、ほとんどなかった。ことによったら、自分たちおたがい同士だけのあいだでも、少なすぎるくらい口数は少なかったかもしれない。この令嬢たちは誇りが強くて、高慢なくらいであるから、おたがい同士のあいだでも、どうかすると恥ずかしがり合うことさえあった。しかし最初のひと言どころか、最初のひと目でたがいの胸の中まで了解し合うという間柄であって見れば、あまり多弁を費やすのは無用のことかもしれぬ。
 しかし、もしここに局外の観察者があったとすれば、ただ一つ次のようにいうことができたであろう、――以上述べた僅少の材料から察するところ、公爵はたった一度、ほんのちょっと顔出しをしたにすぎないけれど、なんといってもエパンチン家に特殊な印象を残して行った。あるいはこれとても、公爵の突飛な行動をもって説明のできる、単なる好奇心にもとづく印象であったかもしれないが、それはなんであろうとも、とにかく印象は残された。 市中へ広がったさまざまなうわさもしだいしだいに不明の闇に包まれてしまった。もっとも、一時こんなこともうわさにのぼった。ある薄のろの公爵が(だれも正確にその名前を知ってるものはなかった)思いがけなく莫大な遺産を譲り受けて、パリの花屋敷《シャトー・ド・フルール》に出ていた有名な踊子と結婚した、とあるものがいうと、またあるものは、いや、遺産を譲り受けたのはどこかの将軍で、目下来朝中のフランスの有名なカンカン踊りの踊子と結婚したのは、ロシヤのおそろしい物持もの商人で、結婚の席上でつまらない見得のために、酒の勢いを借りて、最近の割増金付き債券でかっきり七十万ルーブリの金を、ろうそくにかざして焼いてしまった、などと語るのであった。これらすべての風説はたちまち消え失せたが、それは事情のしからしむるところもあった。たとえば、この事件について何かのことを知ったものの多いラゴージンの徒党は、エカチェリンゴフの停車場で恐ろしいばか騒ぎがあってからちょうど一週間目に、ラゴージン自身を頭に大挙してモスクワへ発足した。エカチェリンゴフのばか騒ぎには、ナスターシヤも同席していた。事件に関心をもっている少数のだれ彼は、いろいろのうわさによって、ナスターシヤがエカチェリンゴフでできごとのあった翌日、逃げ出して姿をくらましたこと、その後彼女がモスクワへたった事実を突きとめたこと、などを確かめた。ラゴージンがモスクワへ出発したという事実には、この風説と符合するところがあった。
 仲間うちにかなり顔を知られている、ガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ・イヴォルギンに関しても、また風説が行なわれかけたが、そこに一つの事情が生じて、それがために彼に関するすべての悪評は熱を冷まされ、しばらくたつうちに、すっかり跡かたもなくなった。彼は重い病気にかかって、社交界はもちろん、勤めのほうへも出ることができなくなったのである。ひと月ばかり病み通して、ようやく全快はしたものの、彼はなぜか株式会社の勤め口をことわったので、ほかの人が代わって彼のいすをしめることになった。エパンチン家へも彼は一度も顔出ししなかった。で、将軍のところへも別の官吏が出入りしはじめた。ガヴリーラを憎む人たちは、なに、あの男は例のできごとのためにおそろしくしょげこんで、往来へ出るのさえ恥ずかしいのだ、と想像をたくましゅうしたかもしれぬ。しかし、彼はじっさい、なにかわずらって、ヒポコンデリイにさえかかり、じっとふさぎこんではかんしゃくをおこすのであった。ヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナは、この冬プチーツィンのもとへ嫁した。彼らを知っている連中はみなこの結婚の原因を説明して、ガーニャが旧職に復したがらず、家族を養うことをよしてしまったのみか、かえって他人の助力や看護を必要とするようになったという事実に帰着させた。
 ちょっとついでに言っておくが、エパンチン家ではかつて一度も、ガヴリーラのことを口にのぼしたことがない。まるでそんな人間はエパンチン家のみならず、この世にいなかったかのような具合である。けれど、この家の人一同は彼について(しかもきわめて早く)一つの興味あるできごとを聞きだした。というのはほかでもない、彼にとってのるかそるかというあの夜、ナスターシヤの夜会でいまわしいできごとがおこったあと、ガーニャは家へ帰っても床につかず、熱病やみのようないらいらした心持ちで、公爵の帰宅を待っていた。エカチェリンゴフヘ赴いた公爵は、朝の五時過ぎにそこから帰って来た。そのときガーニャは彼の部屋へ入って、その前のテーブルに半焼けの紙包みを置いた。彼が気絶して倒れているとき、ナスターシヤが贈り物にした十万ルーブリの金である。彼は、この贈り物を機会のあり次第ナスターシヤに返してくれとうるさいほど公爵に頼んだ。ガーニャは公爵のところへ入ったとき、仇敵にたいするような自暴自棄の心持ちをいだいていたが、ふたりのあいだに何かある種の言葉が交わされてから、ガーニャは公爵の部屋に二時間もすわりこんで、そのあいだたえず激しく慟哭した。別れるときには、ふたりはすでに友達同士のような間柄になっていたとかである。
 エパンチン家の耳へ入ったこの風説は、のちになってぜんぜん確実だということに決まった。こんな性質の報知がかくまで早く人の耳に入って知れわたるのは、もちろんふしぎなことに相違ない。たとえば、かのナスターシヤのもとでおこったことの一部始終は、ほとんどその翌日しかもかなり詳細に、エパンチン家の人々に知られてしまった。ガヴリーラに関する報告は、ヴァルヴァーラがエパンチン家へもたらしたものと想像することができる。彼女はなぜか急にエパンチン家の令嬢たちのもとへ出入りを始めたのみか、ほどなくリザヴェータ夫人と驚くほど、親密な間柄になったのである。とはいえヴァルヴァーラは、なぜかエパンチン家の人たちと交わるのを必要なことと考えはしたものの、自分の兄のことは金輪際話そうとしなかった。彼女は、兄をほとんど追い出さんばかりにした家と交際はしているが、これも同様にかなり誇りの高い(ただし一種特別なものである)女であった。その以前、彼女はエパンチン家の令嬢たちと知り合いではあったけれど、顔を合わす機会はあまりなかった。もっとも、今でも彼女は公然と客間の人になるのではなく、まるで逃げこむようにして裏口から入って来た。リザヴェータ夫人は、ヴァルヴァーラの母親のニーナ夫人を非常に尊敬してはいたけれど、ヴァルヴァーラを招待したことはかつてなかった。彼女は驚きもし怒りもして、ヴァーリャとの交際を娘たちの気まぐれと権勢欲のせいにし、『あの子らはもうわたしに逆らう方法が尽きたもんだから……』と言っていた。しかし、ヴァルヴァーラはいぜんとして、結婚前もまたその後も、令嬢たちを訪問することをやめなかった。
 しかし、公爵の出発後ひと月ばかりたったとき、将軍夫人はベロコンスカヤ老公爵夫人から手紙を受け取った。このひとはこの手紙より二週間ばかり前、某家に嫁入りしている長女を訪ねに、モスクワへ行ったのである。この手紙は将軍夫人に強い印象を与えたらしい。彼女はこの手紙のことを娘たちにも、またイヴァン将軍にもなにひとつ知らせなかったが、彼女がひどく激して興奮していることは、多くの兆候に照らして家内のものも気がついた。彼女は娘たちをつかまえて、奇妙な調子でとんでもないことを話すようになった。察するところ、彼女は何かうち明けたくてたまらないのを、どうしたわけか押しこたえているらしかった。手紙を受け取った当日、彼女は三人の娘をいたわって、アグラーヤとアデライーダには接吻までしてやった。娘らにたいして後悔するところがあるらしかったが、それがはたしてなんであるかは、令嬢たちにもわからなかった。まるひと月のあいだ、つんけん当たり散らしてばかりいたイヴァン将軍にさえも、夫人は急に大まかな態度をとった。しかしもちろんすぐ翌日、夫人は自分がきのうあまり感情的だったのに向かっ腹を立てて、昼食前にはもうみなといいあいをしたが、夕方にはまた天気模様がよくなってきた。とにかく、概してこの一週間ばかり、彼女は珍しく晴ればれした気分で過ごしたのである。
 ところが、一週間たって、ベロコンスカヤ夫人から第二の手紙が着いた。今度は将軍夫人もみんなにうち明けることに決心した。彼女は勝ち誇ったような調子で、『ペロコンスカヤのお婆さん』が(彼女はかげで話すときに、公爵夫人のことをこうよりほかに呼ばなかった)あの……『恋人さん、ほら、例の公爵のこと』について、たいへん安心させるような事実を報告してきた、と披露した。お婆さんはモスクワで彼をさがし出し、彼のことを取り調べて、なにか非常にいいことを聞きこんだそうである。そして最後に、公爵も自分から老夫人のもとへ出かけて行って、なみなみならぬ印象を与えた。これは老犬人が、彼に毎日一時から二時までの間に訪問を許し、かつ彼も『毎日ご機嫌うかがいに出かけているけれども、いまだに飽かれないでいる』ということからして推測される、こう結論をくだしておいて、将軍夫人はさらにつけくわえた。公爵は『お婆さん』の紹介で二、三のりっぱな邸へ出入りするようになっている。『それに、いつまでも長っちりをすえもせず、ばかにありがちの恥ずかしがりもないからいい』これらの報告を聞いた令嬢たちは、母親がまだまだこの手紙について、いろいろ隠していることがあるに違いない、と気がついた。もしかしたら、令嬢たちはこのことをヴナルヴァーラから聞き出したのかもしれない。彼女は公爵のことや、公爵のモスクワ滞在中のできごとについて、プチーツィンの知ってるだけは残らず知ることができるし、むろん、じっさい知ってもいたからである。しかも、プチーツィンはだれよりも詳しく知っていなければならぬはずである。もっとも、彼は実際的な方面では、おそろしく口数の少ない男であったが、ヴァーリャにはもちろん知らせたに相違ない。将軍夫人はこれに気づくと、とたんに以前に倍してヴァルヴァーラを嫌うようになった。
 しかし、なんといっても、沈黙の氷は破れてしまったので、急に大きな声で公爵の話をしてもかまわなくなった。のみならず、彼がエパンチン家へ残して行った異常な印象となみはずれて激しい好奇心とが、いまひときわはっきりとその本体を現わしたのである。将軍夫人は、モスクワからの報告が娘たちに与えた印象のあまり大きいのに、一驚を喫したくらいである。ところで、令嬢たちもまた母の態度にびっくりさせられた。というのは、将軍夫人は、『わたしの生涯でいちばん目に立つのは、人のことでひっきりなしに思い違いをしていることだ』などとしかつめらしくいっておきながら、同時にモスクワで公爵のことに気をつけてくれるようにと『勢力家』のベロコンスカヤのお婆さんに依頼している、しかもこの『お婆さん』は、場合によっては、ずいぶん尻の重い人であるから、この人に気をつけてもらうには、いっしょうけんめいおがむようにして頼まなければならないのである。
 さて、沈黙の氷が破れて、新しい風が吹きはじめるやいなや、将軍も急にうち明けた話をした。聞いてみると、彼も非