『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP193-240

常な興味をもって事件の成り行きをながめていたのである。しかし、彼はただ事件の実際方面についてのみ報告した。その話によると、彼は公爵のためを思って、公爵――ことにその指導者たるサラーズキンの行為を注視するように、モスクワのある方面で勢力のある信頼すべき二、三の人に委任したそうである。それで遺産に関する、『いや、その、遺産の事実に関する』すべてのうわさはほんとうであったが、遺産そのものははじめ喧ましく触れまわしたほど莫大なものでないということが結局判明した。その財政状態はなかば紛糾《ふんきゅう》して、負債が出てくる、ありもせぬことをいってかたりに来るやつがある、しかも公爵は人々の忠告をも顧みず、きわめて非事務的な行動をとるのであった。『まあ、それもいいさ』と将軍は『沈黙の氷』の破れた今、『誠心誠意』こういうのをはばからなかった。なぜなら、『あの男はすこし、その、なんだ[#「なんだ」に傍点]けれど』それでもやはり、その取りえがあるからである。が、とまれかくまれ、公爵はそのさいばかな真似をしでかした。たとえば、故人の債権者はてんでお話にならぬ怪しげな証文を持ってくるし、中にはただ公爵のことを嗅ぎつけて、まるっきり証文なしにやってくる者もあった。その結果はどうかというと、あんな債権者なんて連中はぜんぜんなんの権利を持っていないと、友人がさまざまに忠告するにもかかわらず、公爵はほとんどすべてのものに相当の目鼻をつけてやった。しかもそれは、じっさい彼らのあるものが非常に困っているということがわかったからにすぎないのである。
 夫人はこの報告に答えて、自分もペロコンスカヤから似寄りの報らせを受け取ったが、『ほんとにそれはばからしい、まったくばからしい。ばかにつける薬がない』と言葉するどくつけ足した。けれども、彼女の顔つきからして見ると、かえってこの『ばか』の行為をよろこんでいるらしかった。とどのつまり、将軍は、夫人が公爵にたいして、まるで親身の息子にでも向けるような関心を持っていること、そして急にアグラーヤをかわいがりはじめたことに気づいた。これを見たイヴァン将軍はしばらくのあいだ、おそろしく事務的な威厳のある態度をとっていた。
 とはいえ、この愉快な気分も長くはつづかなかった。わずか二週間も過ぎたとき、なにかしらまた局面が一変した。夫人はむずかしい顔をし、将軍は幾度か肩をすくめて、ふたたび『沈黙の氷』の中に閉じこもった。事情はいってみればこうである。二週間まえに将軍はある内密の報告を受け取った。それはごく短いのではっきりとはせぬが、そのかわり正確なことは正確である。ほかでもない、はじめモスクワで行くえをくらまして、すぐまた同じモスクワでラゴージンにさがし出され、その後またどこかへ逃げて、ふたたび彼にさがし出されたナスターシヤが、とどのつまり彼と結婚しようという固い約束を与えたのである。ところが、それからわずか二週間しかたたぬうちに、またもや一つの情報が閣下の手に届いた。ナスターシヤはまた三度目に、ほとんど結婚のまぎわになって逃げ出して、今度はどこか地方に姿を隠した。一方、ムイシュキン公爵も、いっさいの事務をサラーズキンに委任して、モスクワから姿を消したというのである。『ナスターシヤといっしょか、それとも単にその跡を追っかけて行ったのか、そこのところはわからんけれど、なにかいわくがありそうだ』と将軍は結んだ。リザヴェータ夫人自身もなにか不快な報知を握っていた。結局、公爵の出発後二か月のあいだに、ペテルブルグにおける彼のうわさもきれいに消え失せて、エパンチン家の『沈黙の氷』はもはや破れることがなかった。けれど、ヴァルヴァーラは相変わらず令嬢たちを訪問していた。
 これらのできごとや情報などの片をつけるために、もう一つつけくわえておこうと思う。春ちかいころ、エパンチン家にもいろいろの変化がたくさんあったので、自分のほうから便りもしなければ、またしようとも思わぬ公爵のことは、いきおい忘れないわけにいかなかった。そして、夏になったら外国へ出かけようという話が、冬のうちにしだいしだいに根を固めていった。もっとも、それはリザヴェータ夫人と令嬢たちだけで、将軍にはむろんそうした『くだらぬ物見遊山』に時を費やす余裕がなかった。この決定は、令嬢たちのおそろしく執拗な主張によって成り立ったのであって、自分たちを外国へやってくれないのは、両親がたえず婿選みに腐心しているからだ、とこう令嬢たちは信じて疑わなかった。あるいは両親のほうでも、婿選みは外国でもできる、ひと夏の旅行くらいすこしも事を破らぬのみか、かえって『助け』になるかもしれぬ、と考え直したのかもわからない。ついでに一言しておくが、かつて相談中であったトーツキイとエパンチン家の長女との結婚は、完全に破談になってしまい、正式の申し込みは、結局されずに済んだ。これはひとりでにそうなっていったので、いっさい相談もしなければ、家庭内の暗闘などいうものもおこらず、公爵の出発とともに双方からぱったりと話がやんでしまった。こうした事情もいくぶんは、当時エパンチン家にびまんしていた重苦しい気分の原因になったのである。もっとも、将軍夫人はそのとき口に出して、今こそ喜んで『両手で十字を切ります』(嬉しくてたまらぬ気持の表現)というにはいった。将軍は自分が悪かったと思って、不首尾を嘆じていたが、それでも長いあいだ、むっつりふくれていた。彼はトーツキイが惜しくてたまらなかった。『あれほどの財産! あれほど目はしのきく人間を!』と考えたのである。トーツキイが、ペテルブルグへやって来た上流のフランス婦人、ブルボン正統派の侯爵夫人にたらしこまれて、近々結婚式を挙げたのち、ひとまずパリに赴き、それからブルターニュかどこかへ行ってしまうということは、しばらくたって将軍の耳に入った。『ふん、フランス女とどろんを決めるそうだ』と将軍は吐き出すようにいった。
 で、エパンチン家では夏のはじめに出発するつもりで、その準備をしていた。すると、思いも寄らずある事情が生じて、なにもかもすっかり根本的に変更してしまったので、旅行は、将軍と夫人の望みどおりに延期された。モスクワからベテルブルグヘSという公爵がやって来たが、これは有名な、といっても、きわめてよい意味において有名な人で、まごころから意識的に有益な事業に従事することを望み、つねに働き、またいつどこにいてもなすべきことを見いだすという、珍しい仕合わせな性質をもった、いわゆる現代的な活動家のひとりである。むやみに出しゃばったり、政党的の偏屈な空論に陥ったり、自分をえらい人間と思ったりすることを避けている公爵は、瓧近おこりつつある事物の多くをきわめて根本的に理解した。最初、彼は官に勤めたが、その後ずっと地方自治の仕事に関係している。そのほか彼はいくつかの学会の有益な通信員でもあった。また知り合いの技師と協力して、すでに収集された報告や研究を基礎として、企画中の重要な鉄道に正確な方向をつけることにもあずかって力があった。年は三十五である。彼は『上流中の上流社会』の人であるばかりか、『りっぱな、しっかりした、争う余地のない』財産を持っているとは、将軍の評語である。将軍はかなり重大なある事件で、自分の長官である伯爵のところへ行ったとき、彼と落ち合って知己になったのである。公爵は一種特別な好奇心から、ロシヤの『事務的な人たち』と近づきになる機会をのがさなかったので、将軍の家族とも近づきになった。三人姉妹のうち、中のアデライーダがかなり強い印象を彼に与えた。春の近づくころ、公爵はおのれの希望をうち明けた。彼はたいへんアデライーダの気に入ったばかりか、リザヴェータ夫人の気にも入っていた。将軍はむろん大喜びであった。自然の勢いとして旅行は延期することになり、結婚式は春ときまった。
 とはいえ、旅行は離れ去ったアデライーダを思う憂愁をまぎらすために、リザヴェータ夫人とふたりの令嬢のちょいとした遊山といった体裁で、夏の中ごろか終わりに一、二か月の予定で実行されそうであった。ところへ、またしてもある新しい事情が出来《しゅったい》したのである。もう春も終わりに近いころ(アデライーダの結婚は少々手間どって、夏の中ごろまで延期されていた)、S公爵は遠い親類のひとり、といっても、彼とはごく親しいエヴゲーニイ・パーヴロヴィチ・Rなる人をエパンチン家へ紹介した。これはまだ若い、二十八くらいの侍従武官で『名門の生まれ』で、絵に描いたような美男子で、才知に富んだ、輝くばかりの『すばらしい学問のある』、なんだか聞いたこともないほどの財産を持った、しかも『新しい』男なのである。この財産という点に関しては、将軍はいつも大事をとった。彼はさっそく取り調べをした。『まったくどうもそうらしい、まだよく調べてみなけりゃならんが』。この若いしかも『未来』ある侍従武官は、モスクワにいるベロコンスカヤのお婆さんの手紙で、ひどくかつぎ上げられていた。ただ一つ彼に関してすこし尻こそばゆいような世評がある、つまりいくたりともなく関係した女があるうえに、不幸な心を『征服』した数も少なくないという話であった。アグラーヤを見てから、彼はエパンチン家にいつまでもすわりこむようになった。もちろん、何も口に出していったのでもなければ、謎めいた口もいっさいきいたことがないけれど、両親はこのさい、外国旅行などについて考える必要は、すこしもないような気がした。もっとも、本人のアグラーヤにはまた変わった意見があったかもしれない。
 このことはわれらの物語の主人公がふたたび舞台へ現われる、ほとんど直前におこったのである。一見したところ、当時ペテルブルグでは、不幸なムイシュキン公爵のことをきれいさっぱり忘れているらしかった。もし彼が今もとの知人のところへ姿を現わしたら、まるで天から降ったように思われたことであろう。それはともあれ、われわれはいま一つの事実を読者に伝えて、それをもってこの序説を終わろうと思う。
 コーリャ・イヴォルギンは公爵出立ののちも、やはり以前の生活をつづけていた。つまり、中学校へ通い、親友イッポリートを訪ね、将軍の監視を勤め、ヴァーリャの家政を助けて、つまり、走り使いをしていた。しかし、下宿人は間もなく消えてなくなった。フェルディシチェンコはナスターシヤの事件から三日後にどこへやら飛び出して、そのうちに姿を隠したので、彼に関するうわさはことごとく消えてしまった。あるものはどこかで酒をくらってるのさといったが、それも確かな話ではない。公爵はモスクワへたってしまった。これで下宿人の片はついたというものである。その後ヴァーリャがプチーツィンヘ嫁入ったとき、ニーナ夫人とガーニャも彼女といっしょにイズマイロフスキイ連隊のそばへ引っ越して行った。イヴォルギン将軍にいたっては、これと同時に、まったく思いもよらぬ一つのできごとがおこった。彼は債務監獄へ入れられたのである。彼をそこへ送ったのは友人である大尉夫人で、将軍が幾度となく彼女に渡した額面二千ルーブリばかりの証文がもとなのである。これは彼にとってまったく寝耳に水であった。つまり、将軍は『一般に人間の高潔心に対する自己の過信の犠牲』となったわけである。一時のがれに借金証文や手形に署名するのが習慣になっていた彼は、そんなものに効力がありえようとは、夢にも思わなかった。そして、いつも『まあちょっと』と安心していたのである。ところが意外にも、まあちょっとでなかった。『これからは他人を信用するのは、高潔なる信頼を示すのは、いいかげんにしなくちゃならん!』と将軍は債務監獄の新しい友達と並んですわりながら、慨嘆の調子で叫ぶのであった。そうして、酒壜を前にすえて、例のカルス包囲中の逸話や、蘇生した兵隊の物語などをして聞かせた。けれど、彼はのんきに日を暮らしていたので、プチーツィンとヴァーリャは、これこそ彼にとってほんとうの棲家だといった。ガーニャもぜんぜんそれを肯定した。ひとり不幸なるニーナ夫人のみは、陰へ入っては苦い涙にくれていた(それが家の人にはむしろ不思議であった)。そして、しょっちゅうぶらぶら炳みつづけながら、暇さえあればイズマイロフスキイ連隊の夫のところへ面会に出かけて行った。
 コーリャのいわゆる『将軍の事件』以来、というよりはむしろ姉の結婚以来、コーリャはまったく言うことをきかなくなって、最近にいたっては、夜の寝泊まりにさえあまり顔出しをしなくなった。うわさによると、彼はあらたに多くの人と交際を結んだそうである。そのほか債務監獄でも、知られすぎるほど顔を知られてきた。それはニーナ夫人がここへ来たとき、彼がいなくてはどうすることもできなかったからである。しかし、家ではものずき半分にもせよ、彼にうるさいことをいうものはなかった。もと彼にがみがみいっていたヴァーリャは、いま弟が方々ぶらついていることについて、ひとことも詰問してみようとしなかった。ここに家人にとって不思議でならなかったのは、ガーニャが例のヒポコンデリイにもかかわらず、友達同士のような態度でコーリャと話もすれば交わりもしたことである。こんなことは以前決して見られなかった図である。なぜなら、これまで二十七歳のガーニャは自然の勢いとして、十五歳の弟にいささかも親切らしい注意を向けず、彼にたいしては自分も粗暴な振舞をすれば、家の者からもただ厳格のみを要求して、いつも『耳をひっぱるぞ』とおどかしたもので、それがためにコーリャは、『人間が持てるだけの忍耐力』を失ってしまったのである。ところが、今はコーリャはガーニャにとって、どうかするとなくてかなわぬ人になったかとさえ思われた。ガーニャがあのとき金を突き返したということは、すくながらずコーリャを驚かした。このために、彼はたいていのことなら兄を許そうという気になったのである。
 公爵の出発後|三《み》月たって、イヴォルギン家の人々は、コーリャがにわかにエパンチン家の人だちと親しくなって、しかも令嬢たちから大いに優遇されるといううわさを聞いた。ヴァーリャはすぐにこのことをかぎつけた。つまり、コーリャは姉を通じて近づきになったのではなく、『自分自身』で推参したのである。しだいに彼はエパンチン家でかわいがられるようになった。将軍夫人ははじめのうち彼が来るのが不満であったが、間もなくその『遠慮のない、お世辞っけのない性質のため』に、彼をいたわるようになった。コーリャが世辞をいわないのは、まったく事実である。ときおり夫人に本や新聞を読んで聞かすこともあったが、彼はこの家で独立対等のつき合いをするだけの勇気があった。もっとも、いつも気をつけて働くことも働いた。しかし、二度ばかりリザヴェータ夫人とひどくいい合って、あなたは専制君主だ、もう二度とこんな家へ足踏みしないと宣言したことがある。最初の争論は『婦人問題』がもとで、二度目のは一年のうちいつ頃が鷽《うそ》をとるのにいちばんいいか、という問題からおこったのである。まことに奇態な話ではあるが、将軍夫人はそれから三日目に侍俟に手紙を持たして、ぜひ来てくれるように頼んだ。コーリヤはべつにかれこれ文句をいわず、すぐに出かけて来た。ただひとりアグラーヤばかりは、なぜかいつも彼を喜ばず、高いところから見くだすような態度をとった。しかし、コーリヤもいくぶん彼女を驚かすべき運命を持っていたのである。それはあるとき、――復活祭ちかくのことであった、――ふたりきりになったおりをえらんで、コーリヤがアグラーヤに一通の手紙を渡し、これはほかの人のいないときに渡してくれといいつかったのだとだけいった。アグラーヤはこわい顔をして、この『増長した小僧っ子』をねめつけたが、コーリヤはさっさと出て行った。彼女は手紙を広げて読みはじめた。『かつてあなたはわたしを信頼してくださいました。しかし、たぶんあなたはもうすっかり忘れておしまいになったかもしれません。どうしてあなたに手紙をさしあげるなどということになったのか、わたしは自分でもわかりません。けれども、あなたに、――ぜひともあなたに、わたしの存在を思い出していただきたいという、おさえがたい希望がわたしのこころにわきおこったのです。あなたがたお三方はわたしにとって必要な人だ、いくどわたしはこう思ったかしれません。しかし、わたしはお三方の中であなたばかりを見ていました。あなたはわたしにとって必要な人なのです。非常に必要な人なのです。自分の身については書くこともありません、話すこともありません。それに、そんなことをしたいとも思いません。ただあなたが幸福でいらっしゃることをせつに望みます。幸福でいらっしゃいますか? ただこれだけのことが申しあげたかったのです。
[#地付き]あなたの兄なるレフ・ムイシュキン公爵
 この短い、かなり無意味な手紙を読んで、アグラーヤはふいにまっかになって考えこんだ。彼女の思想の流れを伝えるのは困難である。やがて彼女は『だれに見せようかしら?』と考えたが、たんだか恥ずかしいような気がした。で、とうとう奇妙なあざけるような微笑を含んで、手紙を自分のテーブルの引き出しへほうりこんだ。あくる日、彼女はふたたびそれをひき出して、固い背皮に装幀された厚い本のあいだへ挾んだ(彼女は自分の書類を必要なとき、さがし出すのに、都合のいいようにいつもこうして処分した)。一週間もたったとき、ふとしたおりに、どんな本だったかちょっとのぞいて見ると、それは『ラマンチャドン・キホーテ』であった。アグラーヤはそれを見ておそろしく笑いだしたが、-なぜか理由はわからない。
 彼女がこの獲物をどちらかの姉に見せたかどうか、それもやっぱりわからない。
 けれども、彼女がこの手紙を読んだとき、ふとこういうことが頭に浮かんだ、いったい増長した威張りやの小僧っ子が、本当に公爵の通信員、おそらくこの土地における唯一の通信員に選ばれたのだろうか? 思いきりばかにしたような顔つきをしながら、とにかく彼女はコーリャをつかまえてこの点を詰問した。ところが、いつも怒りっぽい『小僧っ子』が、このときばかりは相手のばかにしたような顔つきに、いささかの注意をも向けなかった。彼がしごく簡単に、そしてかなりそっけない調子で説明したところによると、公爵がペテルブルグを去るに臨んで、彼は自分の一定した宿所を公爵に知らせ、用事があったらいいつけてくれといっておいたのであるが、これがはじめての使命でもあり、彼の受け取ったはじめての手紙でもある、こういって彼は自分の言葉を確証するために、自分にあてて寄越した手紙を出して見せた。アグラーヤは遠慮なしに読んでみた。コーリャにあてた手紙には次のようなことが書いてあった。
『かわいいコーリャさん、お願いですから、この中に同封した封書を、アグラーヤ・イヴァーノヴナに渡してください。ご健在を。
[#地付き]きみを愛する公爵レフ・ムイシュキン』
「なんぼなんでも、こんな小僧っ子を信用するなんてこっけいだわ」とアグラーヤは、手紙をコーリャに返しながらいまいましげにつぶやくと、軽蔑しきった態度で彼のそばを通り抜けてしまった。
 コーリャもこれにはもうがまんができなかった。彼はわざわざこのときねらったように、ガーニャからわけもいわずにねだって貰った、まだ真新しいグリーンの襟巻にくるまっていたのである。彼は、かんかんになって腹を立てた。

      2

 六月初旬のことであった。ペテルブルグには珍しく、もう一週間ばかりつづいて美しい日和であった。エパンチン家ではパーヴロフスクにぜいたくな別荘を持っていたが、リザヴェータ夫人がにわかに騒ぎだして、二日たらずごたくさしたあげく、そこへ越して行った。
 エパンチン家の人々が越して行った二日目か三日目に、モスクワ発の一番列卓で、公爵ムイシュキンがペテルブルグへやって来た。だれも彼を停車場に出迎えるものはなかったのに、公爵が車を出るとき、だれかの怪しい燃えるよう友二つの目が、その列車で到着した人々を取り囲む群集の中に、突如ちらりとひらめいたように思われた。彼が注意して見つめたときには、もはやそこには何もなかった。もちろん、ただちらりとしただけであるが、その目は不快な印象をとどめた。それでなくてさえ、公爵は沈みこんでふさぎがちで、なにやら心配らしい様子をしていたのである。
 辻馬車はリテイナヤ街からほど遠からぬとある宿屋へ彼を運んだ。宿屋は見すぼらしいものであった。公爵は粗末な道具類に飾られた薄暗い部屋を二つ借りて、顔を洗い着物を改め、何も注文せずにせかせかと外へ出た。さながら時間を失うのが惜しいか、あるいはだれか訪問しようと思っているさきの人が外出でもするのを恐れるようなふうであった。
 もし半年以前、彼がはじめてペテルブルグへ来た時に知り合いであった人が、いま彼をひと目見たならば、ずっと押し出しがよくなったと断言するであろう。しかし、それもそういえばそうだ、くらいのところである。ただ着つけだけはがらりと変わっている。服はモスクワで、しかもりっぱな服屋に縫わした仕立ておろしであった。けれど、服にもやはり欠点があった。というのは、仕立てがあんまり流行型すぎる(もっとも、正直ではあるがあまり上手でない仕立屋は、いつもこんなことをするものである)。おまけに、着る当人が流行などにいっこう気をつけない人であるから、よっぽどの笑い上戸がよくよく公爵をながめたら、あるいはなにかにやりと笑いたくなるようなところを見つけだすかもしれぬ。しかし、世の中にこっけいなことはけっして少なくないのだ。
 公爵は辻馬車を雇ってペスキーヘはしらせた。いく丁目かにわかれているロジェストヴェンスカヤ街の一つで、彼は間もなく一軒の大きからぬ木造の家をさがし出した。この家が案外きれいで小ざっぱりして、花の植わった前庭まで秩序整然としているのには、公爵もすくなからず一驚を喫した。往来に面した窓はあけ放されて、その中からほとんど叫んででもいるような声が、やみ問なしに聞こえた。ちょうどだれかが朗読しているか、もしくは演説でもしているような調子であった。ときどきその声はいくたりかの高らかな笑い声でさえぎられた。公爵は庭へ入って入口階段を昇り、レーベジェフ氏に面会を求めた。「ほらあそこにいらっしゃいます」袖をひじの辺までたくし上げた下女が、戸をあけながら『客間』をさした。
 この『客間』は暗青色の壁紙を張って、小ぎれいではあるがいくぶんきざな装飾を施してあった。というのは、丸テーブルや、長いすや、円いガラスの蓋をかぶせた青銅の時計や、窓の間にかけられた細長い鏡や、青銅の鎖で天井からつるされたガラス玉のいくつもはまった小形の古いシャンテリヤの類である。部屋の真ん中には、夏らしく上着なしでチョッキ一枚のレーベジェフが、はいって来る公爵に背を向けて立っており、自分の胸をたたきながら、どんな演題か知らぬが悲痛な雄弁をふるっていた。傍聴者としては、手に書物を持った快活で利口そうな顔つきの十五歳前後の少年がひとりと、両手に乳呑児をかかえ、全身喪服につつまれた二十歳ぐらいの若い娘と、同じく喪服を着て、大きく口をあけながらきゃっきゃっと笑っている十三ばかりの女の子であった。最後にもうひとりきわめて奇態な聴き手というのは、髪の濃く長い、目の大きく黒い、あご鬚ほお髯の卵とでもいいたいようなものをしょぼしょぼと生やした、色は浅黒いが、かなり美しい、二十歳恰好の青年で、これは長いすの上にねそべっていた。この聴き手は、しじゅうレーベジェフの演説に横槍を入れたり、反対したりしていたらしい。ほかの連中が笑っていたのはこれがためと見えた。「ルキヤン・チモフェーヴィチ、もし、ルキヤン・チモフェーヴィチ! まあほんとうに! ちょっとこっちをごらんなさいな! ほんとうにあきれかえっちまう!」と下女は両手をひと振りし、真っ赤になって怒りながら出て行った。
 レーベジェフはふりかえったが、公爵の姿が目にはいると、彼はいっとき雷に打たれたもののように棒立ちになっていた。と、ふいに下劣な微笑を浮かべて客のほうへかけだしたが、また途中でおじけづいたらしくぐずぐずしていた。でも「こ、こ、これはこれは、公爵さま!」とだけは、やっということができた。 けれども、まだやはり落ちつきを取りもどすことができなかったと見えて、ふいになんのわけもないのに、赤児を抱えている喪服の娘に飛びかかった。こっちは不意をくらって、ちょっとたじたじとなったが、すぐにそのほうはよして、今度は次の間のしきいの上に突っ立って、さきほどの名ごりの微笑をまだ浮かべつづけている十三ばかりの女の子を襲った。女の子は思わずきゃっと叫んで、まっしぐらに台所へ逃げ出した。レーベジェフはそのうえにもおどしのきくように、逃げて行く子供のうしろから地団太を踏んで見せたが、ふと公爵のまごまごしたような視線に出くわすと、申しわけのようにこういった。
「その……あなたに敬意を表するためで……へへへ!」
「きみそんなことをしなくったって……」と公爵がなにかいいだしそうにすると、
「ただ今、ただ今、ただ今……ちゃっとつむじ風のように!」とレーベジェフはすばやく部屋のそとへ消えてしまった。
 公爵は、びっくりした娘の顔、少年の顔、長いすにねそべっている若者の顔を見くらべた。すると、みんなが笑っていたので、公爵も笑いだした。
「燕尾服を着にいったんです」と少年がいった。
「なんていまいましい話だろう」とまた公爵はいいかけた。「ぼくはまた、その……ねえ、あの人は……」
「酔っぱらってるとお思いですか」と叫ぶ声が長いすからおこった。「なあに、これっからさきも! さよう、盃に三杯か四杯――まあ、五杯ぐらいやったかな、しかしそんなことはもう定式になってまさあ」
 公爵は長いすのほうへふり向こうとした。が、そのとき娘がかわいい顔にこのうえもなくうち解けた表情を浮かべていいだした。
「父は毎朝あまりたんとはいただきませんの。あなたもしなにかご用でいらっしたのでしたら、今おっしゃいましな。ちょうどいいおりですの。夕方帰って参りますと、もう酔っぱらってますから。それに、このごろではおもに夜分寝る前に泣きながら、わたしたちに聖書を読んで聞かしてくれますの。と申しますのは、五週間まえにうちのかあさんがなくなったもんですから」
「あいつが逃げだしたのは、あなたに受け答えするのがむずかしくなったからでさあ」長いすの若者は笑いだして、「わっしゃあ賭でもしますよ、あいつはあなたをごまかそうとしています、今その腹案を立ててるんですよ」
「たった五週間にしかなりません! たった五週間にしか!」
ともう燕尾服を着こんだレーベジェフが、目をしょぼしょぼさせ、ポケットからハンカチを出して涙を拭く用意をしながら、部屋へ帰って来て、こういった。「みんなみなし児でございます」
「おとうさん、なんだってそんな穴だらけの物を着て出たんですの」と娘がいった。「だって、あの戸の向こうに、新しいフロックがあるじゃありませんか、見えないんですの、いったい」
「やかましい、ばった!」レーベジェフはどなりつけた。「ほんとにきさまは!」と地団太を踏みそうにした。
 けれど、今度は娘はただ笑っていた。
「なにをおとうさんおどかしてらっしゃるの。あたしはターニャじゃないから、逃げ出しなんかしなくってよ。ただこのリューボチカが目をさますばっかりだわ。それに、驚風《きょうふう》でもおこしたら、どうなさるの……大きな声をして!」
「め、め、めっそうな! 舌がはれっちまうぞ、とんでもない……」とレーベジェフはおそろしく面くらって、娘の腕に眠っている赤ん坊のほうへ飛んで行き、頓狂な様子をして二、三度、十字を切った。
「神よ、守りたまえ、神よ、守護したまえ! これはわたしのじつの赤ん坊で、リュボーフイという娘です」と彼は公爵に向かって「このあいだなくなった、――難産で死んだ家内のエレーナと、正当な法律上の結婚でできた児です。このやせっぽちは、わたしの娘でヴェーラ、喪服を着ています……ところで、こいつは、こいつは、おお、こいつは……」
「なんだっていいさしにしてよすんだい?」と若者が叫んだ。「さあ、次をいいな、きまり悪がるこたあないぜ」
「公爵さま!」となにやら急に感きわまったようにレーベジェフが叫んだ。「ジェマーリンの一家がみな殺しにされたことを、新聞でごらんになりましたか?」
「読みましたよ」と、いささか驚いたように公爵は答えた。
「さようで、じつはこの男がジェマーリン殺しのほんとうの下手人です、こいつがそうなんで」
「きみ、なにをいうんです?」と公爵はいった。
「つまり諷喩的に申しまして、第二のジェマーリン一家の第二の下手人です、もしそんなものがこのさきあるとすればですがね。こいつはそれを手ぐすね引いて待ってますよ……」
 一同は笑いだした。公爵はふと気がついた、もしかしたら、レーベジェフはほんとうに自分がいろんなことをたずねるだろうと感づいて、それになんと答えていいやらわからぬものだから、どうかして時を移そうがためばかりに、こうして苦しまぎれの駄じゃれを言ってるのではあるまいか。
「謀叛をおこしてるんです! 陰謀をたくらんでるんです!」レーベジェフはもうがまんができぬといったふうにわめいた。「ねえ、いったいわたしはこの口悪を、こんな、その放蕩者の悪党を、たったひとりの甥と思わねばならんのでしょうか、死んだ姉のアニーシヤのひとり息子と思わねばならんのでしょうか?」
「よせよ、おまえさんは酔っぱらってるんだ! ねえ、公爵、どうでしょう、この人は弁護士商売をはじめて、訴訟事件をあさって歩こうと思い立ったんですぜ。雑弁筰の研究とやらをおっぱじめて、家でも子供たちをつかまえて、しかつめらしい言葉づかいばかりしてるんでさあ、五日前にも治安判事の前でしゃべったんですが、まあいったいだれを弁護したとお思いなさいます。拝んだり祈ったりしたかいもなく、身上ありったけの五百ルーブリを高利貸の畜生にはぎ取られたお婆さんじゃなくって、そのザイドレルとかいうジュウの高利貸を、五十ルーブリという礼金に目がくれて弁護したんですよ……」
「五十ルーブリてのは勝ったときの話で、負けたらたった五ルーブリです」と、今までけっしてわめいたりなんかしたことはありませんといったような、がらりとうって変わった声で、レーベジェフは説明した。
「むろん、くだらんことをしゃべったばかりでさあ、だって昔とは違いますからね、みんなのお笑いぐさになっただけですよ。けれど、やっこさんすっかり大満足だからおかしい。まあ、こんな具合ですぜ、公平無私なる裁判官諸賢よ。潔白なる労働によって口を糊している足なしの老人が、最後のパンの一片を失おうとしている事実を想起せられんことを。『法廷ニオイテハ仁慈ヲ旨トスベシ』という、立法者の賢明なる一語を想起せられんことを、だそうです。とてもほんとうにゃなさるまいが、先生この演説を法廷でやったのと寸分たがえず、毎朝そのままわっしたちにしゃべって聞かすんですぜ。キーうでもう五へん目、あなたのいらっしゃるちょうどまえまでやってたんです。それくらい、まあお気に召したもんでさあ。自分ひとりで恐悦がってるんですからね。それに、まただれやらを弁護しようと思ってるんですよ。あなたはムイシュキン公爵らしゅうござんすね。コーリヤがわっしにあなたの話をしましたよ、世界じゅうであなたほど賢い人にはまだ出会ったことがないって……」
「ないとも! ないとも! これ以上賢い人はこの世の中にありゃしない!」とすぐレーベジェフが相づちを打った。
「しかし、こりゃまあほらだとしましょうよ。あるものはあなたを好いていようし、またあるものはおべっかを使ってもいるでしょう。ところが、わっしはあなたにお世辞をいおうなんて気は、さらさらありませんからね、このことは前もってご承知を願います。だが、あなたもまんざら分別のないかたじゃありません。ねえ、ひとつこの男とわっしを裁いてくださいませんか。おい、いやかね、公爵がわれわれを裁いてやろうとおっしゃるが」と彼は叔父に声をかけた。「あなたがおりよく来合わせてくだすったんで、わっしゃ、とても嬉しゅうござんすよ」
「結構!」とレーベジェフはぎょうさんに叫んだが、いつの問にかまた押し寄せて来た人たちのほうを、われともなしにふり返って見た。
「きみがたはいったいどうしたんですか!」と公爵は顔をしかめながらいいだした。
 彼はほんとうに頭痛がしてきた。それに、レーベジェフが自分をごまかして、用件がのびのびになるのを喜んでいることが、しだいに明瞭になってきた。
「まず事態を陳述しておきます。わっしゃこの男の甥です。いつもうそばかりついているやつですが、こりゃほんとうをいってますよ。わっしゃ学校を卒業しなかったけれど、卒業したいとは思っています。そして、あくまで初志を貫徹します。なぜってば、わっしにや意地ってものがありまさあ。が、当分生存をつづけるべく、二十五ルーブリで鉄道のある仕事をしようと思ってます。そのほか、白状しますが、この男が二、三度わっしに助力してくれましたよ。わっしは二十ルーブリの金を持ってましたが、そいつをすっかりすっちまったんです。ねえ、どうです。公爵、わっしはその金を博奕で負けっちまうような、そんなやくざな、下司な野郎なんですぜ!」
「おまけに相手はならずものです、金なんか払ってやる必要のないならずものです」とレーベジェフが叫んだ。
「そうだ、ならずものだ! しかし払う必要のあるならずものだったのさ」と若者は言葉をついだ。「だが、やつのならずものだってことは、わっしが証明しまさあ。しかし、叔父さん、こりゃなにもあいつがおまえをぶちのめしたからってわけじゃないぜ。これはねえ、公爵、これは以前ラゴージンの仲間に入ってたお払い箱の士官、退職中尉のことなんですよ。いま拳闘を教授してまさあ。あの連中はラゴージンに追っぱらわれてから、あっちこっちぶらぶらしてますよ。だが、なにより悪いのは、やつがならずものでやくざもので、こそ泥だってことを承知しながら、それでもやつを相手に勝負をやったことなんでさあ。それから、最後の一ルーブリまで吐き出そうというときに(わたしたちは『パルキ』をやったんです)、負けちまったら叔父さんのところへ行って頼もう、――まんざら没義道なこともいうまい、とこう腹の中で考えたことなんでさあ。これはじつになんともはや下劣です!まったく下劣です! こりゃまったく意識的の下司根性でさあ!」
「いや、こりゃまったく意識的の下司根性だ!」とレーベジェフが同じことをくりかえした。 「まあ、そう威張るなよ、ちょっくら待ちな」といまいましそうに甥は叫んで、「あいつ喜んでやがる。わっしはねえ、公爵、こいつのところへ来て、なにもかも洗いざらい白状に及んだんですよ。わっしの行動はりっぱなもんでした、わっしは自分にすこしも容赦しなかったんです。わっしはこいつの前で、できるだけわれとわが悪口をつきました、ここにいる者がみんな証人でさあ。その鉄道の勤めへ出るにゃ、どうしてもなんとかなりをこさえなきゃなりませんや。だってこのとおりのぼろ衣装ですからね。まあ、ちょいとこの靴を見てください! このなりじゃ、とても勤めに出るわけに行かないじゃありませんか。ところが、決められた時までに出頭しなかったら、ほかのやつに口を取られてしまいまさあ。そしたら、わっしゃまた一文なしになって、いつほかの勤め口が見つかるかわかりゃしませんや。今わっしが無心するのはたった十五ルーブリですぜ。そのうえに、以後けっして無心は申しませんし、この借金も向こう三か月のあいだに、一コペイカ残さずきれいさっぱり返済もします、と約束してるんですよ。なに、わっしだっていったことをたがえやしません。わっしゃパンとクヴァス(国民的な清涼飲料)だけで、ふた月や三月は平気でやって行けまさあ。なぜってば、わっしにも、意地ってものがありますからな。ねえ、三か月のあいだの俸給が七十五ルーブリになるでしょう。ところで、わっしがこの男に借りる金は、以前の分と合して三十五ルーブリだから、十分返済できるわけじゃありませんか。利息なんかいくらでも取るがいい、こんちくしょう! この男にゃおれの気性がわからないのかしらん? ひとつきいてみてくださいよ、公爵。以前わっしに貸してくれた金を、返済したかしなかったか、きいてみてください。今度なぜ貸してくれないかってば、わっしがあの中尉に金を捲き上げられちまったのが、しゃくにさわるからです。ほかにわけのありようがない! まったくこういう野郎なんですからね。始末におえやしない!」
「出て行かないのです!」とレーベジェフも叫ぶ。「ここへ寝たきり出て行かないのです」
「だからおれがそういったじゃないか! 金をよこさないうちは、けっして行きゃしないって。公爵、あなたはたんだかにたにた笑ってらっしゃるようですな。おおかたわっしの言いぶんがまっとうでないと思っていなさるんでしょう」
「ぼくはべつに笑ってやしないですが、ぼくの考えではまったくあなたのいいぶんは少々まっとうでない」といやいやらしく公爵は答えた。「もういっそのこと、ぜんぜんまっとうでないと、まっすぐ
にいってください、お世辞なんかいりませんよ。『少々』たあなんですかい!」
「お望みならば、ぜんぜんまっとうでありません」
「お望みならですって? ちゃんちゃらおかしい! こんなことをするのは、なんだかうしろめたい、それにまた金もこの男のものなら、意志もこの男のものだから、わっしのほうからいえば、ゆすりにひとしいことをしてるのだくらい、知らないでいるとお思いですか。はばかりながらぞんじています。しかしね、公爵、あなたは……世の中をごぞんじないのですよ。こんな連中はうんと教えこんでやらなきや、話のわかりっこありませんぜ。こんな連中は教えてやらなきゃしようがないんでさあ。わっしの良心ははばかりながらきれいなもんですぜ。わっしは良心に誓ってこの男に損はかけさせません、利子を付けて返済しますよ。そのうえ、この男はわっしからもう精神的賠償を得てるんじゃありませんか。だって、わっしはこの男の前で卑下したんですから、そのうえいったいなにが入り用なんですかい? この男こそなにひとつためになることもしない、しようのないやくざものじゃありませんか。ほんとうにこいつが何をしてるかごぞんじですかね? こいつが他人に何をし向けて、どんなふうに人をだましてるか、ちょっときいてごらんなさい。いったいこの家をどうして手に入れたとお思いですかい? もしこの男がまたあなたをだましたり、この先もどうしてだまそうかと工夫をめぐらしていなかったら、わっしは首でも切ってさしあげまさあ! あなた、にたにた笑っておいでですな、ほんとうになさいませんか?」
「しかし、ぼくなんだかきみのいうことはどうも、きみの立場に似合わないような気がしますよ」と公爵はいった。
「わっしはここにもう三日寝てますから、なにもかもみんなこの目でにらんどきましたよ!」と若者は、相手の言葉には耳もかさぬ様子で叫んだ。「まあ、考えてもごらんなさい。こいつはこの天使みたいな娘に、わっしの従妹にあたるこの母なし児に濡れ衣を着せて、毎晩毎晩いい人でも来やしないかと、現在自分の娘の探偵をするじゃありませんか。それから、わっしのところへもこっそりやって来て、この長いすの下なんかごそごそさがしやがるんですぜ。あまり疑ぐり深いんで気でもちがったんでしょうよ。どこにもかしこにも泥棒が隠れてるような気がするんですね。ひと晩じゅうひっきりなしに飛び起きて、窓がよくしまってるかどうかのぞいてみたり、戸口を調べてみたり、ペチカの蓋をあけてみたりして、毎晩七へんずつくらいがお決まりなんでさあ。法廷じゃかたりの弁護をしておきながら、大将自身はひと晩に三度も起きだして、お祈りをするじゃありませんか。この広間にひざをついて、ものの三十分も頭を床にこつこつ打ち当てながら、だれでも彼でも思いつき次第、息災を祈ってやって、ありったけのお祈りをすっかり読んじゃうんでさあ、それも酔っぱらった勢いでやるんですからね。いつだったか、デュバルリ伯爵夫人(ルイ十五世の寵妃)の魂が安らかに眠りますようにって祈祷してるのを、わっしゃこの耳でちゃんと聞きました。コーリャも知ってます。まるで気ちがいだ!」
「まあ、ごらんください、お聞きください。こいつめがわたしに恥をかかそうとします、公爵!」とレーベジェフは真っ赤になり、真剣にわれを忘れてわめいた。「たぶんわたしは酔っぱらいで、ごろつきで、泥棒で、悪党に相違ござんすまい。けれども、わたしがこの口わるを、ほんの赤ん坊の時からおむつにくるんだり、たらいで洗ってやったりしたのを、忘れていやがるんです。乞食同然のやもめ暮らしをしている姉のアニーシヤのとこへ、同様に乞食ぐらしのわたしが出かけて行って、毎晩毎晩ふっとおしに、まんじりともせずすわったまま、親子ふたりの病人を介抱したり、下にいる庭番のところから薪を盗んで来たり、こいつに歌をうたって聞かしたり、指をぱちぱち鳴らしてみせたり、すき腹をかかえていろいろ守《もり》をしてやったものです。ところが、今、こいつ人を愚弄しくさるじゃござんせんか。それに、やい、よしんばおれがほんとうにいつか一度、デュバルリ伯爵夫人の魂が安らかなようにって、額に十字を切ったにしてからが、そんなことは何もてめえの知ったこっちゃないじゃないか。じつは、公爵、四日ばかり前に、生まれてからはじめて、伯爵夫人の伝記を辞典で読んだのです。こら、てめえは全体そのかたか、デュバルリ夫人が、どんなかたであったか知ってるか?さあ、知ってるか知ってないかいってみろ」
「ふん、そんなこと知ってるなあ、おまえばかりだろうよ!」とあざけり気味ではあるが、あまり気のない声で若者はつぶやいた。
「この伯爵夫人というのはな、賤しいところから出た人だが、のちには女王さまに代わって政治をなすったえらいかただぞ。ある皇后さまがこのかたにあてた手紙に『ma cousine(わが従妹よ)』と書かれたくらいだ。枢機卿というのはローマ法王の使者だが、これがレヴェ・デュ・ロア(朝の着衣式)のときに(てめえ、レヴェ・デュ・ロアてのはなんだか知りゃすまい)自分から申し出て、このかたの素足に絹の靴下をほかしてあげたということだぞ。しかも、それを身に余る光栄に思ったというんだから、たいしたものさ。まあ、万事こういうふうに高貴なありかたいおかたなんだぞ! てめえそれを知ってるか? どうも顔つきから見ると知らんらしいて! それから夫人のおかくれになった時のことを知ってるか? 知ってるならいってみろ!」
「ひっこんでろ! 小うるさい!」
「それはこうなんだ。そういう名誉なことのあったのちに、首斬人のサムソンという男が、一時は飛ぶ鳥をも落とすような勢いであったこのおかたを、なんの罪もないのに、ただパリの女商人どもの慰みに、ギロチンへひっぱり出したんだよ。夫人は、恐ろしさに、自分の身がどうなっているかもわからない。やがて、首斬人が自分のくびをつかんで、刀のほうへ押しつけながら、足げにしているのに気がつくと、――ほかのものはそれを見て笑ってるのだ、――夫人はこう叫ばれたと思え。 "Encore un moment, monsieur le bourreau, encore un moment!"このわけは、『もう一分間のばしてください、首斬人さん、たった一分間だけ!』ということになるんだ。つまり、この一分間に、神さまが夫人をゆるしてくださるわけなんだ。なぜって見ろ、人間の魂をそれ以上ミゼラブルな目にあわせるなんて、考えることもできないじゃないか。てめえミゼラブルという言葉がどんな意味か知ってるか。つまりこんなことをミゼラブルっていうのさ。この『もう一分間』という夫人の叫び声のくだりを読んだとき、おれはちょうど心の臓を火箸で挾まれたような気がした。やい、うじ虫、おれがこのえらい罪びとのために、ひと晩ねる前にお祈りをしたからって、それがいったいてめえにとってどうだというのだ。それに、おれがこのかたのためにお祈りしたわけは、開闢以来だれひとり、このかたのために十字を切ったものもないからだ。またそんなことをしようと、考えたものさえないからかもしれん。ことによったら、あの世にいられるデュバルリ夫人も、自分と同じような罪の深い男が出て来て、ただの一度だけでも自分のために、地べたに額をつけてお祈りしたと思うと、きっと嬉しい気持ちがするに相違ない。てめえは何がおかしいんだ? 本当にならんか、極道め。てめえたちに何がわかってたまるものか。それに、てめえがほんとうに立ち聞きしたのなら、てめえはさっそくもううそをついてる。なぜって、おれはデュバルリ夫人ひとりのためにお祈りしたんじゃない。おれはこういってお祈りを上げたんだぞ。『神よ、偉大なる罪びとデュバルリ伯爵夫人と、彼女と同じき人々の魂を安らかにいこわせたまえ』こういえばすっかりわけ合いが違うからな。じっさい、そんなふうのえらい罪びとだの、どかりと運の狂った人だの、不仕合わせを堪え忍んで来た人だのがずいぶんたくさんあって、それが今あの世でもがいたりうめいたりして、人が冥福を祈ってくれるのを待ってるんだからなあ。もしおれの祈祷しているときに、てめえが立ち聞きなんかしたのなら、おれはおまえやおまえと同じような生意気なやつらのためにも、やはり……」
「もうたくさん、けっこう、だれのためにでも勝手に祈祷するがいい、こんちくしょう、ぎょうさんな声ばかり立てやがって!」と甥はいまいましそうにさえぎった。「ねえ、この男はわれわれの仲間でいちばんの学者なんですよ、公爵、ごぞんじなかったのですか?」と何か間の悪そうな冷笑を浮かべながら、つけくわえるのであった。「今でも現にいろんな本や回想録なんかを読んでまさあ」
「きみの叔父さんはまんざら……まごころのない人じゃありませんからね」と気のない調子で公爵はいった。
 彼はこの若者がたまらずいやになってきた。
「あなたはいやに家の叔父きをおほめになりますね! ところが大将、手を殊勝らしく胸のあたりへ当てかって、口をへの字なりに結んでいるが、すぐにがまんができなくなるんでさあ。おそらくまごころは持ってるんでしょうが、しかしかたりでしょうな。これがどうも残念ですよ。おまけに酒のみでしてね。だれでも長の年月、酒ばかり飲みくらってるやつはそうなんですが、からだじゅうのぜんまいがすっかりゆるんじゃって、どこもかしこもぎしぎしいってるんですぜ。まあ、かりにこの男が自分の子供たちをかわいがり、なくなった叔母さんを尊敬したとしましょう……もっとも、この人はわっしたちもかわいがってくれましてね、ちゃんと遺言状にも(ええ、うそじゃありません)わっしに財産のいくぶんか譲ると書いてまさあ」
「何を譲るもんか?」とレーベジェフはかみつくように叫んだ。
「ねえ、レーベジェフ君」と公爵は、若者にくるりと背を向けて、固く決心したようにいいだした。「ぼくは今までの経験で知ってるが、きみは自分でその気にさえなれば、なかなか事務的の人なんです……ぼくはいま非常に胯間が少ないから、もしきみが……失礼ですが、きみの名と父称は何といいましたっけね、ぼくわすれちゃった」
「チ、チ、チモフェイ」
「そして?」
「ルキヤーノヴィチ」
 部屋に居合わせたものはまたしても笑いこけた。
「うそつけ!」と甥はどなった。「また今もうそをつきやがった。公爵、こいつはけっしてチモフェン・ルキヤーノヴィチなんていいやしません。ルキヤン・チモフェーエヴィチでさあ。おい、ルキヤンだろうがチモフェイだろうが、おまえにとって損も得もなけりゃ、公爵にだってなんのかかわりもないこっちゃないか。こいつはもううそをつくのが癖になってるんでさあ、いや、まったくですぜ!」
「ほんとうですか、いったい?」と公爵はじりじりしながらきいた。
「ルキヤン・チモフェーエヴィチ、まったくです」と白状したレーベジェフはもじもじして、おとなしく目を伏せ、ふたたび手を胸のうえにおいた。
「まあ、いったいなんのためです、ほんとうに困った人だ!」
「ただ自分を卑下しようと思ったので」とややおとなしく頭を垂れながら、レーベジェフがつぶやいた。
「ええ、そんな卑下があってたまるもんですか! ああ、コーリヤがどこにいるか、それさえわかってたらなあ!」といい、公爵はきびすを返して出て行きそうにした。
「コーリヤのいどころはわたしが教えてあげましょう」とふたたび若者がしゃしゃり出た。
「め、め、めっそうもない!」とレーベジェフは飛びあがって、急にうろたえだした。
「コーリヤはゆうべここへ泊まったんですが、朝になって、おとうさんの将軍をさがしに出かけましたよ。公爵、あなたはいったいなんだって金なんか出して、将軍を監獄から引き抜いてやったんです。将軍はゆうべここへ泊まりに来ると約束したのに、やって来ませんでしたよ。きっとここからあまり遠くない『衡屋』という宿屋に泊まったんでしょう。だからコーyラはそこにいるか、でなければ、パーヴロフスタのエパンチン家にいるんです。あの男すこし金を持ってたから、きのうから行きたいっていってましたよ。だから、つまるところ、『衡屋』でなければパーヴロフスクでさあ」
「パーヴロフスクです、パーヴロフスクです! ときに、ふたりであちらのほうへ参ろうじゃございませんか……庭のほうへ……コーヒーでもさしあげます」
 こういってレーベジェフは、公爵の手を取って引き立てた。ふたりは部屋を出て、ちょいとした空地を横切り、くぐりの中へ入った。そこにはじっさい、いたってささやかな、いたってかわいい庭があり、天気つづきのおかげで、木立ちがみんなもう芽を出している。レーベジェフは公爵を緑色の木造ベンチにかけさした。その前には、同じ緑色のテーブルが地べたに打ちこまれていた。レーベジェフは向き合って席をとった。ほどなくほんとうにコーヒーも出て来た。公爵はべつに辞退もしなかった。レーベジェフはいかにも卑劣そうな顔つきで、むさぼるように公爵の目色をうかがっている。
「きみがこんな世帯を持っていようとは、思いもよらなかったですよ」まるっきりほかのことを考えている人のような顔つきで、公爵はこういった。
「み、みなし児がおりまして……」レーベジェフはからだをひねりながらいいかけたが、ふいとまた口をつぐんだ。
 公爵はそわそわと自分の前のほうをながめたが、いうまでもなく、いま自分のたずねたことを早くも忘れていた。またいっときたった。レーベジェフはじっと相手を見つめたまま待ち受けていた。
「ええと、なんだっけ?」ふと気づいたように公爵は口をきった。「ああ、そうだ! ねえ、レーベジェフ君、きみはもう、ぼくが何用で来たかわかってるでしょう。ぼくはきみの手紙のことでやって来たんですよ。早く聞かしてください」
 レーベジェフはもじもじしながら、何かいいたそうにしたが、ちょっとどもるような音を発しただけで、ひとことも言葉は出なかった。公爵はしばらく待っていたが、やがて淋しい微笑をもらした。
「ぼくにはきみの心持ちがよくわかるようです、ルキヤン・チモフェーエヴィチ。きっとぼくが来ようなぞとは思いがけなかったんでしょう。きみはたった一度知らせたくらいでは、ぼくがあんな田舎からわざわざ尻を持ちあげなんかすまいと思って、ただ良心に対する申しわけに手紙をよこしたんでしょう。ところが、ぼくはこのとおりやって来ましたよ。ねえ、もうたくさんです。うそつくのはおよしなさい。二君に仕えるのはたくさんです。ラゴージンがこのペテルブルグへ来てもう三週間になるのは、ぼくだって知ってますよ。きみはいつかのように、あのひとをラゴージンに売りつけたんですか、どうです? ほんとうのことをいってください」
「あの極道め、自分でかぎつけたんです、自分で」
「あの人に毒づくのはおよしなさい。そりゃあの人もきみに対してよくないことをした……」
「ぶんなぐったのです、ぶんなぐったんで!」とおそろしく熱くなって、レーベジェフは言葉じりを押えた。「モスクワじゃ町じゅうで犬をけしかけました、牝の猟犬を、恐ろしい犬でしたよ」
「レーベジェフ君、きみは、ぼくを子供あつかいにするんですか。まじめに話してくださいよ、あのひとは今度もまたモスクワでラゴージンを振り捨てたんですか?」
「まじめです、まじめです、今度も式のまぎわになってです。こっちはいま一分二分と数えて待っているのに、あのひとはまっすぐにわたしのとこをさして、ペテルブルグへやった来ました。『助けてちょうだい、ルキヤン、かくまってちょうだい、そして公爵にもいわないでちょうだい』……とこうなんです。公爵、あのかたはラゴージンよりもっとあなたを恐れてぃなさりますよ。それにここの――じつによくできた人でしてな」とレーベジェフはこすぃ目つきをして、指を一本額に当ててみせた。
「で、きみはまたあのふたりを引き合わしたんですね?」
「ご前、公爵、どうして……どうしてそうせずにいられますか?」
「いや、もうたくさん、ぼく自分で調べる。しかし、たった 一つ聞いときたいんだが、今あのひとはどこにいるんです、ラゴージンのとこですか?」
「いや、いや、違います! けっしてけっして! あのひとは、まだ一本立ちでおられます。あのひとのおっしゃるに、わたしは自由だ、わたしはまったく自由なからだだって、くりかえしくりかえしいわれるんですよ、公爵。今でもやはりペテルブルグ区(ネヴァ河のデルタ地帯の島々からなる地域)におられます。先日手紙でお知らせ申したように、家内の妹の家にいらっしゃるのです」
「今でもそこにいるんですね?」
「そこにいます。それともあまりお天気がいいから、ハープ ロフスクにあるダーリヤさんの別荘においでかもしれません。まったくぁのひとは、わたしは自由だ、わたしは自由だって、よくぉっしゃいますよ。きのうもコーリャさんに自分 が自由なからだだってことを、ずいぶんご自慢なさいました。どうもよくないしるしですよ!」
 とレーベジェフは作り笑いをした。「コーリャはしょっちゅう、あのひとのとこへ行くんですか?」
「どうもあれは軽はずみで、おしゃべりで、秘密の守れない人です」
「きみはもう長くそこへ行ってみないんですね?」
「毎日まいります、毎日」
「じゃ、きのう行ったんですか?」
「い、いえ、さきおとといです」
「レーベジェフ君、きみは少々酔ってますね。じつに残念だ! でなければ、いろいろ聞きたいことがあるんだけれど」
「め、め、めっそうもない、酒なんぞこれっぱかりも!」
 レーベジェフはぐいと身をそらした。
「ねえ、きみが会って来たとき、あのひとはどんな様子でした?」
「捜索的でした……」
「捜索的って?」
「いつもなんだかさがしていられるようたんです、まるで何かなくなったという様子でね。結婚が目の前に迫っている、と思っただけでも胸が悪くなり、腹が立つらしいんです。あの男のことはまるでみかんの皮くらいにしか思っておられません。まったくそれっきりです。いや、それっきりじゃない。こわい恐ろしいという気もたしかにあります。あの男のことは、話をするのさえ禁物になっていまして、顔を合わすのは、よくよくのっぴきならん用事のときだけです。あの男もそれに気がついてるから、またひと騒動なくちゃ済みますまい! 元来がそわそわと落ちつきのない、人をばかにしたような、よく二枚舌を使う、ちょいとしても人に突っかかってゆこうというふうのひとですからね……」
「二枚舌を使う、人に突っかかってゆく?」
「さよう、突っかかってきたがる人です。せんだってもある話からして、あやうくわたしの旻をつかまんばかりでしたよ。わたしは『黙示録』でお説教をしようとしたところ……」
「なんですって?」公爵は何か聞きちがえたと思って、こう問い返した。
「『黙示録』を読んだんです。まったくあのかたは物騒なことを空想する人でしてな、ヘヘ! それにまじめな問題なら、自分に関係のないことにでも、ずいぶん夢中になるひとだということを、ちゃんと見抜きました。好きですね、まったく好きなんですね。それがために、自分を図抜けてえらいもののように思っておられますよ、さよう。そこでわたしは『黙示録』の講釈にかけちゃなかなか大家でして、もう十五年も講釈をしています。人間というものは『第三の活物』の黒馬と、その上にのって手に衡《はかり》を持った人といっしょに暮らしているのだ、とこうわたしが申しますと、あのひとも賛成してくれましたよ。なぜってごらんなさい、今の世の中はなんでもかでも衡と談判で持ちきり、人間はただ自分の権利ぽかりさがしているじゃありませんか。『銀一ディナールに小麦一|升《ます》、銀一ディナールに大麦三|升《ます》なり』でさあ……そのうえに自由な精神だの、清き真心だの、健全なる身体だの、ありたけの神さまの賜物を大切にしまっておこうというのだから、やりきれませんよ。しかし、権利一点ばりでそんなものがしまえるはずがないから、すぐそのあとから『死』と呼ばれる青ざめた馬がやってくる、そのまたあとから地獄……まあ、こんなふうのことを話して、意見が合ったのです、――そしてなかなかききめがありましたよ」
「きみ自身それを信じてるんですか?」と不思議そうな目つきでレーベジェフをながめながら、公爵はたずねた。
「信ずればこそ講釈もするんです。なぜと申して、わたしは貧乏で裸一貫で、輪廻の原子《アトム》にすぎないのですものな。いったいだれがレーベジェフなぞを敬ってくれます? だれも彼もわたしを愚弄して、ほとんど足げにせんばかりです。けれど、この講釈ではわたしも高位高官の人と同等です。それも知恵のおかげでな! ある高位のお方は叡知でそれを感じて、ひじいすにすわったままふるえだしたもんです。一昨年-わたしがまだ役所に勤めておったころ、ニールーアレクセーエヴィチ閣下が、復活祭の前週にわたしのうわさをお聞きこみになり、ピョートル・ザハールイチを通じて、わざわざわたしを当番室からご自分の書斎へお呼び寄せになりまして、ふたりきりにさし向かいになったとき、『きさまは反基督の先生だというが事実か?』とこう問われました。で、わたしはべつに隠し立てもせずに、『いかにもさようでござる』と答えて、おめず臆せず申し立てたばかりか、わざわざ諷刺画の巻物や数字まで出して見せたものです。閣下はふふんと鼻であしらっておられたが、諷刺画や数字を見ると、さすがにぞっとして、もういいから本を閉じてあっちへ行け、と申されましたよ。復活祭の前週には褒美をやるという約束でしたが、その二週間後に魂を神さまに返上してしまわれました」
「レーベジェフ君、何をいってるんです?」
「いえ、ありのままをお話しするのです。ご飯を食べてすぐあとに馬車からおっこちて……小さい棒杭にこめかみを打ち当てて……そのまま子供のように、まるで子供のように、あの世へいってしまわれました。職員名簿には七十三歳としてありましたが、顔の赤い、頭の白い人で、からだじゅう香水をぷんぷん匂わして、いつ見てもにこにこ笑っていなさる、まるっきり子供みたいなかたでした。当時、ピョートル・ザハールイチが、『なるほどおまえの予言したとおりだった』と思い出しては、言い言いなされました」
 公爵はそろそろ立ちあがりかけた。レーベジェフはそれを見るとびっくりし、へどもどしはじめた。
「たいそうそっけなくおなんなさいましたねえ、ヘヘ!」と彼は卑屈らしい調子でおずおずといった。
「いや、じっさい、ぼくはなんだか気分が悪いんです。妙に頭が痛くって、旅づかれかしら」と公爵は顔をしかめながら答えた。
「別荘にでもいらしってはいかがで?」とレーベジェフはおずおずと遠まわしに持ちかけた。
 公爵は立ったまま考えこんでいた。
「わたしも三日ばかりたったら、うちのものをみんな連れて、別荘へ出向こうと思っております。こんどできたひなっ子(リューボチカをさす)のからだのためにもなるし、その間にこの家の手入れもすこしできますしするから……別荘というのはやはりパーヴロフスクにあるので」
「きみもやはりパーヴロフスクヘ?」とふいに公爵が問いかけた。「いったいまあ、どうしたっていうんです。ここの人はみんなパーヴロフスクヘ行くんですか? そして、きみもあすこに自分の別荘を持ってるんですか?」
「みんなパーヴロフスクヘ行くわけではありませんが、プチーツィンさんが安く手に入れた、いくつかの別荘のうち、一軒をわたしに譲ってくださったのです。あすこはなかなかいいところですよ。土地が高くって、青いものが多くって、暮らし向きが安あがりで、上品で音楽的なもんだから、それでみんなパーヴロフスタヘ行きたがるんです。もっとも、わたしは離れに入って、ほんとうの別荘のほうは……」
「貸してしまったんですか」
「い、いえ、貸して……しまったというわけじゃござんせん」
「ぼくに貸してください」と、いきなり公爵がいいだした。
 レーベジェフは、ただこれを目あてにして、遠まわしに持ちかけたものらしい。じっさい、この思いつきは、三分ばかり前に彼の頭に浮かんだことなのである。とはいうものの、彼はほんとうに借り手を求めているのではなかった。もう望み手ができて、たぶん借りるだろうと通知をよこしたくらいである。それに、レーベジェフは『たぶん』でなく、きっと借りるだろうと確信していた。ところが、今ふとうまい思案が浮かんだので、前の希望者の約束がしっかりしてないのを利用し、別荘を公爵に渡してしまおうと決心した。彼の算用によると、そのほうがだいぶもうけが多そうなのであった。
『これからうんといろんな衝突だの、局面展開だのがあるぞ』と想像した。彼は公爵の申し込みを大喜びで承諾し、家賃に関する公爵の問いなどはてんで取り合わなかった。
「いや、そんなら好きなように、ぼくも聞き合わせてみます。損のゆかないようになさい」
 このときふたりはもう庭を出かかっていた。
「わたしはあなたに……わたしはあなたに……もしお望みでございましたら、ご前さま、めっぽうおもしろいことを一つお知らせしますが、例の一件に関係したことで……」嬉しさのあまり公爵のそばにちかぢかと身をすりよせながら、レーベジェフはこうささやいた。
 公爵は立ちどまった。
「ダーリヤさんもやっぱりパーヴロフスクに別荘を持っておられます」
「それで?」
「それから、例のひとはこのダーリヤさんと仲よしだから、しょっちゅうパーヴロフスクヘ遊びに来るつもりらしいのです。何かあてがあって」「それで?」
「アグラーヤさん……」
「ああ、もうたくさん!」何か不快な感じを声に響かせながら、公爵はさえぎった。まるで痛いところにさわられでもしたような具合であった。「そんなことは……まるで違ってる。それよりかきみはいつ引っ越すんです? ぼくは早けりや早いだけ都合がいいのです。なにぶん宿屋ずまいですからね……」
 こうした会話を交えながらふたりは庭を出て、家へは入らずに空地を横切り、くぐりへ近づいた。
「こうなすっちゃいかがでしょう」とうとうレーベジェフが考えついた。「きょうすぐにも、宿屋を引き払って、わたしどものほうへいらっしゃいまし。そして、あさってごいっしょにパーヴロフスクヘお伴いたしましょう」
「考えてみましょう」と公爵は考えこんだような調子でいい、門を出て行った。
 レーベジェフはそのあとを見送った。公爵が急にそわそわしだしたのにびっくりしたのだ。彼は出て行くときに『さようなら』ともいわなければ、首を振って会釈することさえ忘れてしまった。いつも公爵がていねいで注意ぶかいのを知っているレーベジェフには、それがいかにも奇妙に思われた。

      3

 もう十一時すぎていた。エパンチン家へ出かけたところで、ただ勤め向きの仕事に忙しい将軍に会えるきり、しかもそれさえたしかでないということは、公爵も承知していた。もっとも、将軍ならすぐに会ってくれたうえに、パーヴロフスクヘ連れて行ってくれるかもしれぬと考えたが、公爵はそれまでにもう一軒訪問したいところがあった。エパンチッ家へ行くのが遅れて、パーヴロフスク行きをあすに延ばすようになってもかまわぬ気で、急に寄ってみたくてたまらなくなったある一軒の家をさがし出そうと決心した。
 とはいえ、この訪問は彼にとって、いくぶん冒険的な性質を帯びていた。彼はしばらく思い迷ってちゅうちょした。この家について彼の知っているのは、サドーヴィヤ街に近いゴローホヴァヤ街にあるということだけである。彼はそのそばまで行ったら、寄るとも寄らないとも最後の決心がつくだろう。こう思ってそのほうへ歩みだした。
 サドーヴァヤとゴローホヴァヤの四辻に近寄りつつ、公爵はなみなみならず波立ち騒ぐ胸に、自分ながらびっくりした。心臓がこんなに痛いほど動行するとは思いも設けなかった。とある家が、いっぷう変わった外形のためでもあろうか、もう遣いところから、彼の注意をひきはじめた。これは公爵がのちになって思い山したことだが、彼はひとりごとのように「きっとその家に相連ない」といった。そして、自分の推量が当たったか当たらないか調べるために、なみなみならぬ好奇心をいだいてその家へ近づいて行った。彼はもし自分の推量が当たっていたら、非常に不愉快になるにちがいない、となぜかそう感じた。
 この家はどす黒い緑色に塗られて、いっさい装飾というもののない、暗欝な感じのする大きな三階建てであった。はなはだ数は少ないが、前世紀の終わりごろに建てられたこの種の家は、移り変わりの激しいペテルブルグにありながら、このあたりの街々ではすこしも旧状を変えずに残っている。これらの家々はみな頑丈な建てかたで、壁は厚く、窓は思いきって少ない。いちばん下の窓にはどうかするとよく格子がはまっている。そして最下層は多く両替屋になっていて、上には、両替屋の厄介になってるスコペッツ(去勢禁欲の一宗派)が借りている。外側から見ても内へ入っても、なんだかぱさぱさにかわききって愛想がないようで、しじゅう物かげへ姿を潜めようとでもしているよう。なぜ家の外形を見ただけでそんな気がするかといっても、――それはちょっと説明しにくい。もちろん、建築上の線なるものが特殊の秘密を持っているのであろう。これらの家に住まっているのはもっぱら商人である。門に近寄って標札を振りあおいだ公爵は、『世襲名誉市民ラゴージZの家』と読みくだした。
 もう、とつおいつ考えないことにして、公爵はガラス戸をあけた。戸は騒々しい音を立てて、彼のうしろでぱたりとしまった。彼は正面階段を二階へさして登りはじめた。暗い石の階段は粗雑な組み立てで、その両側の壁は赤いペンキで塗ってある。ラゴージンが母と弟といっしょにこの陰気な家の二階ぜんたいを住まいとしていることは、彼も聞いて知っていた。公爵のために戸をあけた召使は、取り次ぎもせずすぐに案内をはじめ、長いことあちらこちらと引きまわした。ふたりはあるりっぱな広間を通り抜けた。それは壁が『大理石』まがいの模様に塗られ、床は槲材のはめ木で二十年代の粗野な作りの、重々しそうないすテーブルで飾られてあった。それからまたあっちへ曲がり、こっちへうねりしながら、小さな檻のような部屋をもいくつか通り抜けた。なんべんも二段か三段の階段をあがったりおりたりして、ようやくとある部屋の戸をたたいた。戸を開いたのは、主人公のパルフェン・セミョーヌイチであった。公爵の姿が目に入ると、彼はまっさおになって、びっくりしたように視線をじっとひとところにすえ、口をゆがめて、なにかしら極度の疑惑に襲われたかのような薄笑いを浮かべながら、しばらくのあいだ石彫りの像のごとくにその場へ棒立ちになった。さながら公爵が訪問しようなどとは、ぜんぜんありうべからざる奇跡的なことのように思われたらしい。公爵もなにかこんなふうのことを予期していたが、それでもあまりのことに面くらったほどである。
パルフェン、ぼくなんだが悪いとこへ来合わせたようだね、なんならぼく、帰るよ」公爵はもじもじしながら、とうとうこう口をきった。
「いや、いいおりなんだ! いいおりなんだ!」とパルフェンはやっとわれに返った。「さあ、どうぞ、入んな!」
 彼らはおたがいにうち解けた口をきき合った。モスクワではいっしょに落ち合って、しばらく話しこむような機会がしょっちゅうあって、たまにはたがいの胸の中に忘れることのできない感銘を印した瞬間《とき》も、幾度かあったのである。しかし、今はもはや三か月以上もうち絶えて会わずにいた。
 ぴくりぴくりと走るかすかな痙攣と青白い色は、いつまでもパルフェンの顔から去らなかった。彼は客を招じ入れるには入れたものの、なみなみならぬ惑乱の状態はまだいぜんとしてつづいていた。彼が公爵をひじいすに導き、テーブルに向かって座につかしたとき、公爵はふと何ごころなく彼を見返ったが、たとえようもなく奇怪な、重苦しい視線に射すくめられて立ちどまった。何かあるものが彼の胸を突き剌したような気がしたが、同時に別なあるものが思いおこされた、――それはけさほどの重苦しい暗欝な印象である。彼はすわろうとせずにじっと立ったまま、しばらくラゴージンの目を見つめていた。その目は最初の瞬間、ひとしお鋭く輝いたように思われた。とうとうラゴージンはにたりと笑ったが、まだいくらか度を失ったようにどぎまぎしていた。
「なんだっておめえ、そんなに穴のあくほど人の顔を見るんだ?」と彼はつぶやいた。「腰をかけな!」
 公爵は座についた。
パルフェン」と彼はいいだした。「きみ隠さずにうち明けてくれたまえ、きみはぼくがペテルブルグへ来るってことを、前から知ってたのかい?」
「おめえがやって来るだろうとは、おれも考えてたよ、みな、当たったじゃないか」とこちらは毒々しく笑いながらつけ足した。「しかし、おめえがかならずきょう来るなんて、どうしておれが知るものか!」
 この答えの中に含まれた鋭い、突発的な、それでいて妙にいらいらした疑問の調子は、さらに公爵を驚かした。「たしかにきょうと知ってたにしろ、なにもそんなにいらいらすることはないじゃないか」と公爵はもじもじしながらそういった。
「じゃ、おめえはなんだってあんなことをきいたんだ」
「さっき汽車からおりたときに見た二つの目が、いまきみがぼくをうしろから見ていた目つきに、そっくりそのままたんだもの」
「へえ! いってえだれの目だったんだろう?」とラゴージンはいぶかしげにつぶやいた。公爵は、彼がぴくりとふるえたような気がした。
「もっとも、人込みの中だったから、ただそんな気がしたばかりかもしれないよ。ぼくはこのごろよくそんなことがあるようになった。ねえ、パルフェン、ぼくはなんだかしだいしだいに、五年前よく発作のおこってたときと、同じような心持ちになって行くみたいだ」
「ふん、そうかなあ、じゃ、そんな気がしただけかもしれないぜ。おれは知らんよ……」とパルフェンはつぶやいた。
 彼は愛想のいい微笑をもらしたが、この場合それが彼の顔にすこしも似つかなかった。たとえて言えば、その微笑はどこかこわれていて、パルフェンはどんなに苦心しても、うまく継ぎ合わすことができないという様子であった。
「どうだい、また外国へでも行くのかね!」と彼はたずねたが、ふいにまたつけ足した。「おめえ覚えてるかね、去年の秋ふたりいっしょに、プスコフから汽車に乗って来たときのことを? おれはここへ来るし、おめえは……マントにくるまってね、ゲートルをはいてさ?」
 こういってラゴージンは、いきなりからからと笑いだし
た。しかも、今度は一種の憎悪を隠そうともしなかったばかりか、かえってやっとのことでそれをぶちまけてしまう機会が来たのを、喜ぶような調子であった。
「きみはいよいよここへ落ちつくことにしたんだね?」と公爵は書斎を見まわしながらきいた。
「ああ、これがおれの家だ。ここよりほかにおれの行くとこがあるかい」
「ずいぶんながいこと会わなかったね。きみについてはいろんなうわさがあるよ、これがきみのすることかと思うようなうわさが」
「世間のやつらあ、どんなことだっていわあね」とラゴージンはそっけなく答えた。
「しかし、例の連中をすっかり追っぱらってしまって、親の家にひっこんでるんだから、あまりふざけることもできまいねえ。だが、結構だよ。この家はきみのもの、それとも共同の?」
「うちはおふくろのものだ。おふくろは廊下を越してこっちにいらあ」
「きみの弟さんはどこにいるんだえ?」
「弟のセミョーンは離れに寝起きしてる」
「家族はあるの?」
「やもめだ。が、いったい、おめえはそんなことを聞いてどうするんだい?」
 公爵は、ちらりとその顔をながめたが、返事をしなかった。彼はにわかに考えこんでしまい、相手の問いも耳に入らなかったらしい。ラゴージンはべつに追究しようともせず控えていた。ふたりはしばらく無言でいた。
「ぼくはここへ来るときに、百歩くらい向こうから、ちゃんときみの家がわかっちまったよ」と公爵がいいだした。
「そりゃなぜだい?」
「なぜかさっぱりわからない。きみの家はきみの家族ぜんたいの、ラゴージン家の生活ぜんたいの外貌を持っている。といっても、なぜそうかときかれると、なんとも説明のしようがないのだ。むろん、くだらん妄想さ。ぼくはこんなことが気にかかるのが、自分で恐ろしいくらいだよ。以前なら、きみがこんな家に住まってるなんて考えもしなかったんだけど、きょうはじめて見るとすぐこう思った、『あの男の家はきっとこんなふうに相違ない』って」
「なあんだ!」ラゴージンは公爵の漠然たる心持ちが腑に落ちないので、なんともつかぬ薄笑いをした。「この家はまだ祖父《じい》の時代に建てたんだがいつもスコペッツ派のフルジャコフー家が住んでいたものだ。今でもやはり間借りをしてらあ」
「まったく暗いねえ。それに、きみも薄暗いような風つきをしてるよ」と書斎を見まわしつつ公爵はこういった。
 それは天井の高い、薄暗い、大きな部屋で、ありとあらゆる道具類が所せまく並べてあった。多くは大形の事務机や、ビューローや、事務用の書籍書類の入った戸棚などである。幅の広い赤いモロッコ皮の長いすは、明らかにラゴージンの寝台に代用されているらしかった。すすめられるままに席についた公爵は、自分の前にあるテーブルの上に二、三冊の書物を見た。その中の一冊はソロヴィヨフの歴史で、読みさしにしたところを広げたまま、しおりが挟んであった。四方の壁にははげた金箔の額縁の中に、黒くすすけて何が何やらわけのわからない油絵がいくつかかかっている。その中の一つで、全身の肖像が公爵の注意をひいた。それは五十歳ばかりの男で、ドイツ仕立てではあるが裾の長いフロックを着、首のあたりに二つのメダルをつけており、しょぼしょぼしたごま塩の短いあご鬚を生やし、しわだらけの黄色い顔に、疑りぶかい、秘密の多そうな、もの悲しい目を光らしている。
「これはきっときみのおとうさんだろう?」と公爵がきいた。
「ああ、そうだよ」とラゴージンは不快な微笑をもらした。さっそくなくなった親に対して、なにか無遠慮な冗談をいってやろうと、その心がまえでもするように。
「この人は旧教派じゃなかったんだろうな?」
「そうじゃない。教会へ通ってた。もっとも、旧教派のほうによけい道理があるとはいってたがな。そして、スコペッツ派もずいぶんありがたがってたよ。これが親父の居間だった。しかし、おめえなんだってきくんだ、おめえ旧教派なのかい?」
「結婚の式をここで挙げるつもりなの?」
「こ、ここだ」思いもよらぬ問いにぴりりとからだをふるわせて、ラゴージンは答えた。
「もうすぐ?」
「そりゃおめえだって知ってるんじゃないか。おれの考えで決まるこっちゃあるまいし」
パルフェン、ぼくはきみの敵じゃないから、何ごともきみのじゃまをしようという気は毛頭ない。これは前にも一度、ほとんどこれと同じような場合にいったことだが、もう一度くりかえして断言しておく。モスクワできみの結婚の支度が進んでいたときにも、ぼくはじゃまなぞしなかった。これはきみも自分で知ってるだろう。最初あの人はほとんど結婚のまぎわになって、ぼくのとこへ身を投じて来て、『助けてくれ』といった。ぼくはあの人のいったことをそのままくりかえしてるんだから、そのつもりで聞いてくれ。その後またぼくのところから逃げ出して行った。それをきみがさがし出して、また結婚の運びをつけたんだね。ところが、話に聞いてみると、あの人はまたぞろきみのとこから逃げ出して、ここへ来たそうじゃないか。これはまったくたんだね? じつはレーベジェフが知らせてくれたので、それでぼくも出かけて来たのさ。ところが、またここでうまく折り合いがついたって話は、ついきのう汽車の中できみの以前の友達から聞いたばかりなんだ。知りたければいうが、あのザリョージェフさ。ぼくがここへ出向いて来たのは、こういうつもりだったのだ。つまり、あの人を説いて、健康回復のために外国へでも行かせようと思ったんだ。あの人はからだも精神も、ことに脳がひどく錯乱しているから、ぼくの考えでは、よほど親切に介抱してやる人間が必要だよ。ぼくは自分であの人を外国へ連れて行こうなんて気はさらさらない。万事ぼくからは口を入れずに運びたいと思っている。まったくぼくはほんとうのことをいってるんだよ。もしきみの縁談がうまく折り合ったといううわさがほんとうなら、ぼくはけっしてあの人の前へ出やしない。きみのとこへもこれきりやって来もすまい。ぼくはきみに対していつも明けっぴろげだから、きみをだましたりなんかしないことは、きみ自身で知ってくれるだろう。この事件について考えてることを、きみに隠し立てなどしなかった、そしていつもきみといっしょになるのは、とりも直さずあの人の身の破滅だといってきた。きみのほうからいってもやはり身の破滅だ……もしかしたら、あの人よりかもっとひどいやつが来るかもしれない。もしきみたちふたりが別れ話になったら、ぼくは大いに満足する。しかし、きみたちの話にじゃまを入れようだの、こわしてやろうだのと、そんな気持ちはけっしてない。だから安心して、ぼくを疑ぐるのはよしてくれたまえ。それに、きみだって知ってるじゃないか、いったいぼくがほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]きみの競争者になったことがあるかね? あの人がぼくのところへ逃げだして来たときだってさ。おや、きみは笑ったね。知ってるよ、何を笑ったのか。それに、ぼくはあのとき別々な町へ別れて暮らしてたことも、きみは確実に[#「確実に」に傍点]知ってるはずだ。前にもいったことだが、ぼくはあの人を[#「あの人を」に傍点]、『恋で愛してるのじゃなくて、憐憫で愛して』るんだよ。ぼくはこの定義がぴたりと合っていると思う。きみはあのとき、このぼくの言葉がよくわかったといったろう、ねえ? わかったんだろう? ああ、なんて憎憎しそうな目つきをしてぼくをにらむんだろう。ぼくはきみを安心させに来たんだよ。きみもぼくにとって大切な人だからね。ぼくはきみが大好きなんだよ、パルフェン。が、もう出かけよう、そしてこれからけっしてやって来ないよ。失敬」
 公爵は立ちあがった。
「もっといっしょにいてくんな」とラゴージンは席を立たずに、右手で頬杖をつきながら、小さな声でいった。「もう久しくおめえに会わなかったもんなあ」
 公爵は腰をおろした。またふたりともしばらく黙っていた。
「おれはな、おめえが目の前からいなくなると、すぐにおめえが憎くてたまらなくなるんだよ、レフ・ニコラエヴィチ。おめえに別れてから三か月のあいだ、おれはのべつおめえのことで腹を立てとおしていた、ほんとのこった。もうおめえをひっつかまえて、何か毒でもくらわしてやりたかった。そんなふうだったよ。ところが、いま十五分といっしょにいないうちに、いつの間にやら腹の虫が納まっちまった。そして、おめえがもともとどおりかわいくなっちまったよ。もっといてくんな……」
「ぼくがきみの前にいると、きみはぼくを信じてくれるが、ぼくがいなくなると、すぐ信ずるのをよして疑ぐりだすんだ。きみはおとうさん似なんだね!」と親しげにほほえみつつ自分の感情を隠すようにしながら、公爵は答えた。
「おれはおめえと話をしてると、おめえの声を信じたくなってくるんだ。そりゃおれだって、おめえとおれを同じように見るわけに行かねえってことは、万々承知してるんだけど……」
「なんだってそんな余計なことをいうんだい。またかんしゃくがおこってきたね」と公爵はラゴージンの様子に驚かされてこういった。
「なに、おめえ、このことについちゃ、われわれの考えなんてきいてやしないんだ」と相手は答えた。「いっさいわれわれにはおかまいなしで、さきが決めっちまうんだからね。そこでふたりがあの女にほれるのだって、やり口がまるっきり別だろう、つまり何事についても違いがあるんだ」彼はちょっと言葉を切り、さらに低い声で語りつづけた。「たとえば、おめえはかわいそうだから好きだというが、おれにゃそんなものはかけらほどもない。それに、あの女はおれをこんかぎり憎んでるんだからなあ。おれは毎晩あの女の夢を見る。いつもあの女がほかの男といっしょに、おれのことを笑ってるような気がするんだ。またじっさいそうなんだからな。おれと結婚の約束しておきながら、おれのことなんざすっかり忘れちまってらあ。まるで靴でも取っ替えるようなつもりでいやがる。おめえはほんとうにしねえかしらんが、もう五日ばかりというもの、あれんとこへ行かないんだぜ。どうも思いきって行く元気がないんだ。『何用でいらしたの?』なんてきかれるかと思うとな。まったくあの女にはずいぶん赤恥をかかされたものなあ……」
「恥をかかされたって? きみはまあ何を!」
「知らんふりなんかしてる! だって、あれが式のまぎわにおめえといっしょに逃げだしたってこたあ、たった今おめえがいったばかりじゃねえか」
「しかし、きみ、自分だってほんとうにはしないだろう……」
「だが、あの女はモスクワで、士官のゼムチュージニコフといっしょになって、おれに恥をかかせたじゃねえか。いや、わかってる、恥をかかせたんだ。しかも、自分のほうから式の日どりを決めたすぐあとでよ」
「そんなことがあるもんかね!」と公爵は叫んだ。
「いや、たしかにわかってる」とラゴージンは信じきったようにいいきった。「なにかね、そんな女じゃない、とでもいうのかい。そりゃもう、おめえ、そんな女でないってことはわかりきってらあね。今いったようなことは、みな心にもないでたらめさ。おめえといっしょにいるときは、あれもそんな女じゃなかろう。かえって人がそんなことをするのを見たら、恐ろしがるくらいかもしれん。ところが、おれにたいしては『そんな女』なんだ。だって、ほんとうにそうたんだからなあ。あれはおれを人間の中のくずみてえに思ってやがる。ケルレル、あの拳闘のうまい士官の一件だって、ただおれをばかにしたいばっかりにこさえたことたんだ。おれはちゃんと知ってる。まあとにかく、モスクワであの女がおれにどんなことを仕向けたか、おめえはまだよく知らないだろう? それに金、金をどれだけつぎこんだか……」
「それだのに……きみはどうしてまた結婚しようというのだ!………さてどんなことになるやら……」公爵は恐怖に襲われてこうたずねた。
 ラゴージンは重々しくものすごい目を公爵に向けたが、なんとも答えなかった。
「あれんところへ行かないのは、もうこれで五日目だ」としばらく黙っていたラゴージンは言葉をつづけた。「いつも追い立てられやしないかと思って、びくびくしてるんだ。あれはいつもそういう、―わたしはまだ今のところ自分の心のご主人さまだから、もしその気にさえなれば、いつだっておまえさんを追っ払って、ひとりで外国へ行きます、ってよ(『この外国へ行くってのは、あれがおれに向いてそういったんだよ』と彼はなんだか一種特別な目つきで公爵を見つめながら、注でも入れるようにいった)。そうかと思えば、またひとをからかってばかりいることがある。なぜか知らないが、あの女はおれを見てると、おかしくてたまらないらしいんだ。かと思うと、また顔をしかめて、眉を八の字にして、ひとことも口をきかねえ、これがおれにや恐ろしいんだ。あるときふと気がついて、いつも空手でくるから悪いんだと悟ったのさ。――ところが、あれははじめのうちただ笑っていたが、しまいにはとうとう怒りだしちゃった。一度こんなことがあったっけ、あの女は以前ずいぶんぜいたくな暮らしをしていたが、それでもまだこんなのは見たことがあるまいと思われるようなショールを持ってったところ、さっそく小間使のカーチャにくれちまった。いつ結婚するかってことについちゃ、おくびにも出しゃしねえんだ。ほんとに女のところへ出かけて行くのを恐れるような花婿が、どこの世界にあるもんか。こうしてすわっててもがまんしきれなくなると、そっとこっそり、あれの家の前を往ったり来たりするか、でなければ、どこか隅のほうに隠れてる。ふっと気がついて見ると、かれこれ夜明けごろまで門のそばに見張りしてることがあった。そのときちらと目に入ったものがあるので、上のほうをふり向いて見ると、どうだろう、あの女が窓からのぞいてるじゃねえか。そして、『もしわたしがおまえさんをだましてるってことがわかったら、いったいわたしをどうするつもり?』ってきくから、おれは辛抱しきれなくなって『そりゃ自分でわかってるだろう』といってやった」
「わかってるって何を?」
「なんでおれがそんなことを知るもんか?」とラゴージンが毒々しく笑った。「おれはあのころモスクワでいっしょうけんめいに探りを入れたんだが、だれも男らしいものを挙げることができなかった。一度あの女をおさえてきいたことがあるんだ。『おめえは今におれと結婚して、堅気な家に入ろうというのに、今のおめえの仕打ちはなんだ。ほんとうにしようのないやつだ!』」
「きみそんなことをあの人にいったのかい?」
「いったよ」
「で?」
「ところが、あれのいうには、『わたしは今おまえさんをボーイにだって使いたくない、ましておまえさんの女房になるなんて』そこでおれは、『生意気なことをいうな。おれはここから出て行きゃしねえ、成り行く果てはわかってるんだ!』回わたしは今すぐケルレルを呼んで、おまえさんを門のそとへほうり出させるから』とぬかしやがる。そのときおれはあ
いつに飛びかかって、紫ばれになるほど引っぱたいてやったあ」
「そんなことがあってもいいものか!」と、公爵は叫んだ。
「ところがあったのさ」と静かな調子ではあったが、目を光らせながらラゴージンが答えた。「それからちょうど二日一晩、寝もせねば食べも飲みもせずに、部屋から一足も出ずに、あの女の前にひざをついて、『もしおれをゆるしてくれなけりゃ、死んでしまう。出てなんか行くもんか。無理に引きずり出させようとすりゃ、身を投げっちまう。おれはおめえがいなくちゃ生きてるかいがない』てなことをいったのだ。あれはその日いちんち、まるできちがいみてえだった。泣いているかと思うとナイフでおれを殺そうとしたり、悪口をついたりするんだ。それからザリョージェフ、ケルレル、ゼムチュージニコフなんて連中を呼び寄せて、おれのほうを指さしながら、つらの皮をひんむくようなことをぬかすじゃねえか。『皆さん、いっしょにそろってこれから芝居へ行きましょう。この人はそとへ出たくないっていうから、ここへうっちゃっときましょう、わたしゃこの人のためにしばられるわけはないんだから。パルフェンさん、わたしがいなくてもお茶を出させますよ、きょうはきっとおなかがすいたでしょう』芝居からはひとりきりで帰って来た、そしていうことに、『あいつら臆病者の意気地なしだから、おまえさんをこわがってるんだよ。そうして、あの様子じゃとても帰って行きそうにない、もしかしたら、あなたを殺そうとするかもしれない、なんて人をおどかすんだ。わたしはこれから寝間へ行くけれど、戸締まりなんかしませんよ。わたしがどれだけおまえさんを恐れてるか、よく見て覚えといてもらいましょう! おまえさんお茶を飲んだ?』『いいや、なんで飲むもんか』『それはえらいとほめてあげたいが、おまえさんにはちっとも似合わなくってよ』ところが、あの女ははたしていったとおりに、部屋の戸を締めないで寝たもんだ。あくる朝、出て来て笑いながら、『おまえさんまあいったい気でもちがったの。だって、そんなにしてたら飢え死にしちまうじゃないの?』で、おれが『勘弁してくんな』というと、『勘弁するのはいや、もうおまえさんの女房にゃならないといったじゃないか。だが、いったいおまえさんはこのひじいすにすわったまんま、夜っぴてまんじりともしなかったの?』『ああ、寢なかった』『なんて賢い人だろう! 茶を飲んでご飯を食べるのは、やはりいや?』『いやだっていったじゃないか、――よ、勘弁してくんな!』『それはまったくおまえさんの柄にないわ、考えてもごらんよ、まるで牛に鞍を置いたようじゃなくって。ほんとうにおまえさんわたしをおどかそうと考えついたんじゃないの、おまえさんがそんなにおなかをすかしてすわりこんでると、ああ、なんて困ったこったろう、とかなんとかいうだろうと思ったの? へっ、ほんとうにおどかされるわねえ!』ってぷりぷり怒りだしたが、それも長いこっちゃねえ、すぐにまたおれをからかいだした。そのときおれがびっくりしたのは、あれがおれをてんで憎んでもいなけりや、うらんでもいないってことだ。ところで、あの女は執念ぶかいほうだろう、いつまでたっても執念ぶかく人を恨む女だろう! そこでおれはふと考えたね、あの女は、おれに対して深い恨みをいだく気にもなれないほど、ひとを安く見くびっちまってるんだ。いや、まったくの話なんだ。あれのいうことに、『ねえ、おまえさん、ローマ法王てなんだか知ってる?』『聞いたことはある』『いったい、パルフェンさん、おまえさんはまだ一度も世界歴史を習ったことないの!』『おれはなんにも習ったことはねえ!』と返答すると、『じゃ、今わたしが教えてあげよう、あるときひとりの法王があって、それがある皇帝に対して腹を立てたのよ。すると、その皇帝は三日のあいだ、飲まず食わずはだしのままで、法王のご殿の前にひざをついて立ちつづけて、やっとゆるしが出たって話がある。おまえさんどう思って?この皇帝が三日間、ひざをついて立っているときに、何を考えてどんな誓いを立てたかわかって?……いえ、待ってちょうだい、これはわたしが自分でおまえさんに読んで聞かしてあげるわ』とこういって、立ちあがったかと思うと、本を持って来た。『これは詩よ』といって、この皇帝が三日間にかならず法王に讐《あだ》を報いずにゃおかぬと誓った、という詩のひとくさりを読んで聞かした。『このお話はおまえさんの気に入って?』ときくから、おれは、『おめえのいま読んだのは、まったくうがってるな』と返事した。『ああ、うがってるなんてとこをみると、おまえさんもきっと、なにか誓いを立てたんだね、――あれがおれの女房になったら、すっかりこの仕返しをして、匳をいやさなくちゃ承知しないぞ、なんてね!』『なんだかわからん、ひょっとしたら、そんなことを考えてるかもしれん』『わからないってどうなの?』『わからん、おれはそんなことをいま考える気がしねえのだ』『じゃ、いま何を考えてるの?』『おめえが席を立って、おれのそばを通って行くときに、おれはおめえをながめておめえを見送る。おめえの服がしゅっしゅっと鳴ると、おれは心臓が下のほうへ落ちて行くような気がする。おめえが部屋を出て行くと、おれはおめえのいったひと言ひと言を思い出して、どんなふうにしてどんな声でいったか、ということまで考えてみる。ゆうべなぞはひと晩じゅう何も考えずに、ただおめえの寝息ばかり聞いていた。二度ばかり寝返りをうったのも知ってる』するとあの女は笑いだして、『まあ、おまえさんは、それじゃおおかたわたしをぶったことなんぞは、考えもしなけりゃ思い出しもしないんだろうねえ?』『いや、考えてるかもしれねえ、わからん』『じゃ、もしわたしがどこまでも勘弁しないといって、おまえさんの女房にならなかったら?』『もう一度いったよ、身い投げて死ぬんだ』『だけど、たぶんその前にわたしを殺すだろうね』……といって考えこんだものだ、それからまた腹を立てて出て行っちまった。一時間ばかりたって、またおれのところへひどくふさぎこんだ顔つきをしてやって来た。『パルフェンさん、わたしはおまえさんといっしょになります。けれど、なにもおまえさんがこわいからってわけじゃない、ただどうしてみたって、すたれたからだだもの、どこへ行ったところで、いいことなんかありゃしない。おすわんなさい、いまご飯をあげますから。おまえさんといっしょになるといったからには、わたしはおまえさんの貞節な女房ですよ、もう疑ったりすることはないわよ』とこうきた。そして黙っていたが、またしばらくして、『やはりなんてたって、おまえさんは下男じゃないからねえ。わたし以前おまえさんのことをまったくおあつらえ向きの下男だと思ってたの』まあ、こういうわけで、即座に式の日取りを決めたのさ。ところが、一週間たつとまたおれんとこから抜け出して、ここにいるレーベジェフのとこへやって来た。そして、おれがここへ来たときに、あれはこんなことをいうんだ。『わたしはどうしてもおまえさんがいやだというのじゃありません。ただ自分の堪能するだけ待ってもらいたいの、なぜって、まだまだわたしの自由だから。もしどこまでもわたしが望みなら、おまえさんも待たなくちゃなりませんよと』とまあ、こういったようなのが現在の姿なんだ……公爵、おめえはこれをなんと考える?」
「きみは自分でなんと考えてるの?」沈んだ目つきでラゴージンの顔をながめつつ、公爵は問い返した。
「おれがいったい何を考えるというんだ!」われともなくこちらはこう叫んだ。彼はまだ何かいい足そうとしたが、やるせない淋しさにおされて口をつぐんだ。
 公爵はふたたび立ちあがり、出て行きそうにした。
「ぼくはなんといってもきみのじゃまはしないよ」心内に秘めた自分の思いに答えるような調子で、彼は小さな声でそう言った。
「ね、一つおめえに言いぶんがある!」ラゴージンはふいに元気づいて、双の目がきらきら光りだした。「なんだっておめえはそんなにおれに譲ろう譲ろうとするんだ、わかんねえな、それとも、もうすっかり恋が冷めちまったとでもいうのかい? だって、以前はやっぱりあれのことで、ふさいでばかりいたじゃねえか。おれはちゃんと知ってるよ。それに、今度もなんだって気ちがいみたいにこのペテルブルグへかけつけたんだろう。憐憫とやらのためかね?(こういう彼の顔は毒々しい冷笑にゆがんで見えた)ヘヘ!」
「きみはぼくがだましてると思うの?」と公爵がきいた。
「いいや、おれはおめえを信じてる、だが何がなんだかいっさいわけがわからん。まあ、何よりいちばんたしかなのは、おめえの『憐憫』のほうがおれの恋よかも強いってことだ!」
 なにかしら毒々しい、今にもそとへあぶれだしそうなあるものが、彼の顔に燃え立った。
「だけど、きみの恋は、憎しみとすこしも区別がつかないんだものね」と公爵はほほえんだ。「もしその恋がなくなったら、もっともっと恐ろしいことがおこるに相違ない。きみ、パルフェン、ぼくは、こういいきっておく……」
「じゃ、なんだね、おれが斬り殺すってえんだね?」
 公爵はふるえあがった。
「きみは現在の恋のために、現在うけている苦しみのために、あの人を無性に憎みだすに相違ない。あの人がまたしてもきみと結婚しようという気になったのが、何よりも不思議でたまらない。きのうはじめて聞いたときには、ほとんど信じることができなくって、じつに重苦しい心持ちになった。じじつ、あの人が二度までもきみをきらって、式のまぎわに逃げだしたのも、やはり虫が知らせたんだ。いったいあの人はいまきみから何を望んでるんだろう? きみの金だろうか? そんなばかげたことはない。それに、きみも金なら今までにずいぶんつかって見せたはずだからね。してみると、ただつれあいがほしいためだろうか? そんなら、きみのほかに、いくらでも見つかりそうなものだ。どんな男でもあのひとにとっては、きみよりいいにちがいない。なぜって、きみはたぶんもうとたんに殺してしまうからさ。きっとあのひとも今そのことをりっぱにさとってるんだろう。え、きみはそれほど強くあの人を愛してるの? じっさいこんなことはその……世間には変わった女もあって、こういうふうの恋を求めているそうだが……しかし、それは……」
 公爵は言葉をきって考えこんだ。
「おや、おめえはまたおれのおやじの絵を見て、にやりと笑ったようだな?」とラゴージンがたずねた。彼は穴のあくほど、公爵の顔色の変化を、その一本の筋肉の微動をものがさじと見まもっていたのである。
「何をぼくが笑ったかって? ぼくは、ただこう思ったのさ、もしこの事件が、この恋がおこらなかったら、きっときみはこのおとうさんと寸分の相違もない人になったろう、それもごく近いうちにだね。おとなしい無口な細君とたったふたり、この家にむっつりとすわったまま、ときたま出す言葉も四角ばって、だれひとり信用もせず、それに、そんな必要も感ぜず、ただ黙ってむずかしい顔をして、金ばかりふやしていたろうね。まあせいぜい、ときおり古臭い本に感心して、いっしょうけんめいほめちぎったり、二本指で十字を切る(旧教派のやりかた)ことに興味を持つようになる。もっとも、これは、だいぶ年が寄ってからだけれど……」
「たんと冷やかすがいい。だが、あれもつい近ごろこの絵を見たとき、それとそっくり同じことをいったっけ? 不思議だなあ、おめえたちふたりは何から何まで同じような……」
「じゃ、あの人はきみのとこへ来たことがあるの?」と好奇の念にかられながら公爵はたずねた。
「ある。この絵を長いあいだながめて、おやじのこともいろいろとたずねたよ。それからしまいに、にやにや笑いながら、こういったんだ。『おまえさんもちょうどこれと同じようになるべき人だったのよ、パルフェンさん。おまえさんは強い欲情を持っているから、もしおまえさんに分別というものがなかったら、シベリアへ懲役にでも行きかねなかったかもしれない。でも、おまえさんには大きな分別があるのでよかったわ』とこうなのだ(いや、おめえほんとうにしないかもしれんが、まったくこうだったんだ。おれだってあれがこんなことをいうのは、はじめて聞いたんだものなあ!)。それから、『もしおまえさんが今みたいな物好きをよしてしまったら、おまえさんみたいに教育のない人は、お金を貯めにかかるだろうねえ。そして、おとうさんと同じように、スコペッツ派の連中に取り巻かれて、ぽつねんとすわってたに違いないわ。もしかしたら、その人たちのほうへ宗旨がえくらいしたかもわからないわ。だけど、お金はめちゃめちゃに好きになって、それこそ二百万どころか、千万くらい貯めこんで、おしまいにはその金袋のあいだで、かつえ死にするのが落ちだ。なぜって、おまえさんは何事につけても欲情が激しいから、なんでもきちがいじみたところまで持ってかなくちゃ承知しない人なんだわ』こんな具合にいった、まったく言葉もこれと寸分違いなしなんだよ。その前までは一度だって、おれにこんな言いかたをしたことがなかった! いつでもばかげた話をするか、でなければ、冷やかしてばかりいたもんだ。いや、そのときだってはじめは笑い笑いいってたんだが、そのうちにおそろしく様子が沈んできたのさ。それから、この家をずっとひとまわりして見たが、なんだかびくびくしてるようなふうだったよ。『おれはこいつをすっかり建てかえて手入れをする。でなけりや、式までにほかの家を買ってもいい』というと、『なんのなんの、なにも変えることないわ。このまんまで暮らしましょう。わたしおまえさんのおかみさんになったら、おまえさんのおっかさんのそばへすわっていたいの』という返答だ。そこで、おれはあれをおふくろのとこへ連れてってやったが、まるで実の娘みたいにていねいなんだ。おふくろは以前から、もう二年越しに半分あほうのようになっているんだが(病気なんだ)、おやじが死んでからは、なんのこたあない、まるで赤ん坊だあ。じっとすわったまんま、立つこともできないで、ただ人さえ見れば、だれにでも彼にでもお辞儀をするのさ、やはりすわったままでな。飯を食べさせないでいても、三日くらいは大丈夫気がつかないでいそうだよ。おれはおふくろの右手をとって重ねてやった。『おかあさん、祝福をしておくれよ、この人はおれの女房になってくれようというんだ』とおれがいうと、あれは情をこめておふくろの手に接吻をしたが、あとで『おまえさんのおっかさんはきっといろんな悲しい目にあって来なすったんだね』といったっけ。この本を見つけたときには、『これはおまえさんどうしたの、ロシヤ歴史を読みだしたのね?』ときいた。(もっとも、モスクワにいるとき、いつだったかおれに向かって、『おまえさん、なんとかして自分に教養をつけたらどう? せめてソロヴィヨフの「ロシヤ歴史」でも読むといいんだわ。だっておまえさんてばなんにも知らないんだもの』といったことがあった)『結構だわ、そんなふうにして読むといいわ。わたしおまえさんに最初どんな本を読んだらいいか、目録みたいなものをこさえてあげてよ。ほしくって? いや?』あれがこんなふうなもののいいかたをしたことは、今までけっしてなかったから、おれはかえってびっくりしたくらいだ。おれはそのときはじめて人心地がついて、ほっと安心したようなわけさ」
「それはほんとうに結構だ、パルフェン」と公爵は真心こめていった。「じつに結構だ。ことによったら、神さまがきみたちふたりのあいだをまるく納めてくださるのかもしれないよ」
「そんなことは金輪際ありゃしねえ!」とラゴージンはすごい剣幕で叫んだ。
「ねえ、パルフェン、もしきみがそんなにあの人を愛してるなら、どうかしてあの人に尊敬されるようになりたいと思わない? もしそういう望みがあれば、なにもそんなに落胆するにゃ及ばないさ。さっきもいったとおり、なぜあの人がきみといっしょになろうとしているかってことが、ぼくには非常に興味ある問題なんだ。ぼくはむろん、そいつを解くことができないけれど、そこにはかならずなにか十分な、理知的な理由がなければならん、それだけはなんといっても疑えない。あの人はきみの愛情を見抜いているのはもちろんだが、きみにいろいろ長所があるということも、またりっぱに見抜いていた。それはそうにちがいない! きみのいまいったことは、ちゃんとそれを説明してるじゃないか。あの人が今まで仕向けたり、いったりしたのとは、がらりとちがった態度できみに接することもありうるって、きみがいま自分の口からいったばかりじゃないか。きみは疑ぐり深くて嫉妬心が強いから、悪いほうばかり見て、それを誇張して考えるのだ。じっさい、あの人はもちろん、きみのいうように、きみのことを悪く思ってやしないよ。でなかったら、あの人がきみと結婚するのは、意識的に水の中へ飛びこむか、白刃《しらは》の下をくぐると同じことになるじゃないか。いったいそんなことがあるものかね? だれが意識しながら水の中へ飛びこんだり、白刃の下をくぐったりするものか!」
 ラゴージンは苦い嘲笑を浮かべながら、熱誠にあふれる公爵の言葉を聞き終わった。彼の信念はもはや揺るがすことのできぬほど、しっかり決まってしまったようであった。
「なんだってきみはそんないやあな目つきをしてぼくをにらむの?」公爵は重苦しい心持ちで覚えずこうきいた。
「水の中か白刃の下!」とこちらはやっとのことで口をきった。「へっ! あの女がおれんとこへ来ようってのは、つまり、おれのうしろに白刃が待ち伏せてるからなんだ! 公爵、おめえは今まで、ことの入りわけをほんとうに気がつかなかったのかい?」
「ぼくはきみのいうことがわからない」
「しようがねえなあ、じゃ、ほんとうになんにもわかんないのかなあ、ヘヘ! よく人がおめえのことをあれ[#「あれ」に傍点]だっていうが……あの女はほかの男にほれてるんだよ、わかったかい?おれが今あれにほれてると同じくらいに、あれは今そのほかの男にほれてるのさ。そのほかの男っていうのは、おめえだれか知ってるか? おめえ[#「おめえ」に傍点]なんだよ! おい、知らなかったのかい、え?」
「ぼく?」
「おめえさ。あれはあの命名日のそもそもから、おめえにほれこんじまったんだ。しかし、あれはおめえと夫婦になるわけにゃゆかねえと思ってる。なぜって見な、そうすればあれはおめえの顔に泥を塗って、おめえの一生を台なしにしちゃうわけだろう。『わたしがどんな女かってことは、わかりきってるじゃありませんか』とよく言い言いしてたよ。このことは今までくりかえしくりかえしいってる。こりゃみんなあの女が自分の口から、おれに面と向かってぶちまけたんだよ。つまり、おめえの顔に泥を塗ったり、一生を台なしにするわけにゃゆかねえが、おれなんざ大丈夫、かまうこたあねえからいっしょになれ、-とまあ、こんなふうにあれはおれのことを考えてるのさ。これもやはり知っといてもらおうよ!」
「じゃ、なんだってあのひとはきみんとこから、ぼくのとこへ逃げだしたんだろう……そして、ぼくのとこから……」
「おめえんとこからおれのとこへ! へっ! あれが何か出しぬけに突拍子もないことを思いつくのは、珍しくもありゃしねえさ! あれは今まるで熱に浮かされてるようなもんだ。どうかすると、『おまえさんのとこへ行くのは、水の中へ飛びこむつもりで行くんだ。早く式をしましょう!』とわめきながら自分からせき立てて日取りを決めたりなんかするんだが、その日がだんだん近づいて来ると、気がついてこわくなるのか、それとも何かほかに思案でも浮かぶのか、どうだか知らねえが、おめえも見て知ってるだろう、泣く、笑う、熱に浮かされて騒ぐ、めちゃめちゃだあ。それから、あれがおめえのとこから逃げだしたのも、べつに不思議なことはありゃしねえ。あれがあのときおめえのとこから逃げだしたのは、自分がどんなにひどくおめえにほれこんでるかってことに、自分で急に気がついたからなんだよ。そして、おめえのとこにもいたたまれなくなったんだよ。おめえはさっき、モスクワでおれがさがし出したといったね。うそだよ、それは、――あれが自分からおれんとこへ走って来て、『日を決めてちょうだい、わたし、もう腹をすえてしまった! シャンパンをちょうだい! ジプシイ女のとこへ遊びに行きましょう!』とわめいたんだよ……まったくおれという人間がいなかったら、あれはとっくに身を投げてしまってたろうよ。いや、ほんとのこった。いまだに身を投げずにいるのは、たぶんおれが水よりもまだ恐ろしいからなんだろう。おれといっしょになるというのも、一つの面当てなのさ。もしほんとうにいっしょになったら、それこそ間違いなしだ、面当てにするこったよ」
「きみはまあ何を……きみはまあ何を……」と公爵は叫んだが、しまいまでいいきることができなかった。彼は恐ろしげにラゴージンをながめた。
「なんだってしまいまでいっちまわないんだ?」とラゴージンはにやりと笑いながらいった。「なんならおれがいってやろうか。おめえはいま腹ん中でこんなふうに思ってるだろう、――ああ、こうなってしまっては、この男をあのひとといっしょにするわけにいかん。どうしてあのひとにそんなことをさせられるものか! へん、何を考えてるかちゃんとわかってらあ……」
「ぼくはそんなことのために来たんじゃないよ、パルフェン、そんなことは考えてもいなかった」
「そりゃたぶんそんなことのためじゃなかったろう、またそんなことは考えてもいなかったろうよ。しかし、たった今たしかにそうなったのさ、ヘヘ! だが、もうたくさんだ!いったいおめえはなんだってそんなにおったまげるんだい?いったいまるっきりそれに気がつかねえでいたのかい? ほんとにびっくりさせるじゃねえか!」
「それはみんな嫉妬だよ、パルフェン、それはみんな病気のせいだよ、それはみんなきみがやたらに誇張して考えてるんだよ……」と公爵は度はずれにわくわくしてつぶやいた。「きみどうしたの?」
「よしなよ」とラゴージンがいって、手早く公爵の手からナイフを取り、もとの場所へ置いた。ナイフはもと本のそばにあったのを、公爵が何ごころなくテーブルの上から取りあげたのである。
「ぼくはさっきペテルブルグに入る時から、なんだか虫が知らせるような気がした……」と公爵は言葉をついだ。「それでぼくはここへ来るのに気が進まなかったんだ。ぼくはこの土地であったことをすっかり忘れてしまいたかった、胸の中からむしり取ってしまいたかった。じゃ、失敬……おや、きみはどうしたんだい!」
 気の落ちつかぬような調子でこんなことをいいながら、公爵はまたしても例のナイフを取り上げようとした。すると、ラゴージンはまたそれを彼の手からもぎ取って、テーブルの上へほうり出した。それはありふれた形をしたナイフで、折り畳みのできない鹿角の柄が付けてあり、身は長さ三寸五分ばかり、幅もそれに相当している。
 公爵が二度までもこのナイフをもぎ取られたのに特殊の注意を払っているのを見たラゴージンは、毒々しい憤懣の色を現わしてそれを引っつかみ、本のあいだへ挾んで、ぽんとほかのテーブルへほうり出した。
「きみはあれでページでも切るのかね」とたずねた公爵の声音《こわね》はなんとなくぼんやりして、やはりまだ深いもの思いの影が響いていた。
「うん、ページを……」
「でも、これは庭作りのナイフじゃないか」
「うん、庭作りのだ。だが、庭作りのナイフでページを切っちゃならねえって法があるかい?」
「それに、あれは……ま新しいぜ」
「新しけりゃどうしたってんだ? いったいおれにいま新しいナイフを買う金がねえとでもいうのかい?」とラゴージンはなぜか妙に激昂して、一語一語にいらいらしながら叫んだ。
 公爵は、ぴくりとして、じっと、ラゴージンを見つめた。が、やがてふいにすっかりわれに返ったかのごとく、笑いだした。「いったいまあふたりともどうしたんだろうね? 勘弁してくれたまえ、ぼくは頭が重くなると、今みたいなことをいったりするんだ。それに、あの病気が……ぼくはだんだんあんなふうにぼんやりして来て、ばからしいことをいうようになったよ。ぼくまったく、あんなことをきこうなんて気はなかったんだよ。……何をいったか覚えてもいないくらいだもの。じゃ、さようなら……」
「そっちじゃないよ」とラゴージンがいった。
「忘れちゃった」
「こっちだ、こっちだ、おれがいっしょに行って教えてやろう」

      4

 公爵がさっき通ったと同じ部屋部屋を、ふたりは抜けて行った。ラゴージンがすこしさきに立ち、公爵はそのあとからつづいた。やがて大きな広間に入った。ここは四方の壁にいくつかの絵がかかっていたが、みな高僧の肖像でなければ風景画で、何を描いたものやらみわけがつかない。次の間に通ずるドアの上に、奇妙な形をした絵が一枚かかっていた。長さが六尺ちかくもあるのに、高さはせいぜい一尺を出ない。これには、つい今しがた十字架からおろされたばかりのキリスト像が描いてある。公爵はちらと見上げて、なにやら思い出したかのようであったが、べつに立ちどまろうともせず、そのまま扉をくぐって向こうへ行きかけた。彼はなんとなく気分が重いので、早くこの家を出てしまいたかった。ところが、ラゴージンはふいに絵の前に歩みをとめた。
「ほら、ここにある絵はみんな一ルーブリかニルーブリで、おやじがせり売りで買って来たものなんだ。おやじは絵が大好きだったのさ。この絵をもののわかったある人が見て、皆がらくただといったが、こいつは――この扉の上にかかっている絵さ、――やはり二ルーブリで買ったもんだが、こいつばかりはがらくたでないといったそうだ。まだおやじが生きてる時分から、この絵を三百五十ルーブリで譲ってくれというものがあったが、サヴェーリェフ、イヴァン・ドミートリチといってやはり商人だけれど、非常にこのほうの好きな人が、四百ルーブリまでせり上げたんだ。ところが、つい先週だったっけ、弟のセミョーンに五百ルーブリだすと申し込んだものがあった。しかし、おれは、いるからって売らせなかった」
「ああ、これは――ハンス・ホルバインの模写だね」ようやく絵を見わけた公爵はこういった。「ぼくはそんなにえらい鑑定家じゃないけれど、りっぱな模写らしい。この絵は一度外国で見たけれども、いまだに忘れられないよ。だが……きみはなんだって……」
 ラゴージンはふいに絵をうっちゃらかして、以前の道をさきへ進んで行った。もちろん、ふいにラゴージンの様子に現われた怪しくいらだたしげな気分や、茫然と落ちつかぬようなそぶりは、いくぶんかこの突飛な振舞の原因を説明してはいるものの、それにしても、ラゴージンが自分ではじめた会話をぶつりと切って、公爵にろくろく返事もしないのが、なんとなく公爵には変に思われた。
「ねえ、レフーニコラエヴィチ、おれはせんからおめえにききたいことがあったんだ、おめえは神さまを信じるかどうだい?」二、三歩歩くと、いきなりまたラゴージンが口をきった。
「きみはほんとうに変なことをきくねえ、それに……きみの目つきったらないぜ!」われともなしに公爵はこう注意した。
「おれはあの絵を兄てるのが大好きだ」しばらく黙っていたあと、またしても自分の質問を忘れ果てたかのように、ラゴージンはつぶやいた。
「あの絵を!」思いがけなく心に浮かんだある思想に圧されて、公爵はふいにこう叫んだ。「あの絵を! いや、あの絵を見ていると、中には信仰をなくす人さえあるかもしれない
「まったくなくしてしまうよ」と思いもよらずラゴージンが相づちを打った。
 ふたりは出口のすぐそばまで来ていた。
「なんだって?」公爵はいきなり立ちどまった。「まあ、きみはどうしたんだろう! ぼくちょっと冗談にいったことを、きみはもうまじめになってさ! だが、ぼくが神さまを信ずるかなんて、どういうつもりできいたの?」
「なあに、なんでもない、ちょっと、その。おれは以前からきいてみたいと思ってたんだ。だって、見な、今どきのやつら、たいてい信じてないじゃないか。ところで、どうだろう。ほんとうだろうか(おめえは外国で暮らしたってえから、きいてみるんだが)、――ある男がおれに酔った勢いでいったことがある。このロシヤにゃ、ほかのどの国よりも、神さまを信じねえ人間が多いって。その男の言いぐさでみると、ロシヤではそうするのがよその国よりかやさしい、そのわけはロシヤのほうが一足さきへ出てるからだ、とこういうんだ……」
 ラゴージンは、厚かましい薄笑いをもらした。いうだけのことをいってしまうと、彼はにわかに戸をあけて、公爵の出て行くのを待つように、とってを握っていた。公爵はびっくりしたが、そのままそとへ出た。相手はそれにつづいて階段の上の踊場へ出、うしろ手に戸をしめた。両人は顔と顔を突き合わして立っていた。まるでふたりとも自分がどこへ来たのか、さしあたり何をしたらいいのか、忘れてしまったように。
「失敬」と公爵は手をさし伸べながらいった。
「失敬」とラゴージンは応えて、固く、とはいえまったく機械的に、さし伸べられた手を握った。
 公爵は一段おりてからまたふり返った。
「あの信仰の話だがね」と彼は笑いを含みながらいいだした(明らかに、彼はこんな具合でラゴージンと別れたくなかったらしい)。それに、ふとあることを思い出して、急に元気づいたのである。「あの信仰の話だがね、ぼくは先週二日ばかりのあいだに、四人ほど変わった人に出くわしたよ。朝のうちに新設の鉄道でやって来る途中、車の中でSというひとと近づきになって、四時間ばかり話をした。ぼくはこの人について前からいろいろ聞いてはいたが、無神論者だっていう評判だった。この人はじっさいえらい学者だったから、ぼくはほんとうの学者と話ができると思って、たいへんうれしかった。そのうえ、この人は学者には珍しい修養の積んだ人で、ぼくなんかにたいしても、知識や理解の程度をぜんぜんおなじゅうしたもののように話してくれた。この人はもちろん、神を信じないっていうんだけれど、ぼくはなんだかはじめからしまいまで、見当ちがいの話を聞かされてるみたいな気がしてびっくりした。というのは、ぼくその前からいろんな無神論者の話も聞き、本もずいぶん読んだけれど、そういう人たちのいうことも、本に書いてあることも、ちょっと見にはもっともらしいが、みんなまるっきり見当ちがいみたいな気がするからさ。ぼくはそのとき、このことを正直にいったけれども、きっと言いかたがはっきりしなかったのか、それともまずかったんだろう、その人は少しもわかってくれなかった……。それから、夕方にぼくはある郡部の宿屋に泊ったところ、そこではほんの昨夜、人殺しがあったばかりだというのだ。で、ぼくが着いたときには、だれも彼もみんなその話ばかりしていた。ふたりの百姓が、しかも分別ざかりの男で、酒の気はすこしもなく、おたがいにずっと前から知り合いの仲だった友達なんだがね、それがいっしょにお茶を飲んで、同じ部屋で床に入ろうとしたそうだ。ところが、ひとりのほうが、黄色い南京玉の紐のついた錣の時計を持ってたのさ。もひとりのほうはその以前、つれの男がそんなものを持っていることを知らなかったらしいんだが、事件のおこる二日ばかりのあいだに、こいつが目にとまったものと見える。この男はけっして泥棒じゃない、それどころか、むしろ正直なくらいだし、百姓たちの常として、暮らしにも困るほうではなかった。しかし、この時計がぞっこん気に入っちまって、迷いこんじまって、とうとうがまんできなくなったんだ。そっとナイフを取り出して、つれの男が向こうをむいたときに、そろそろとうしろから近寄って、ねらいを定め、空を見上げて十字を切りながら、心の中で悲痛な祈祷を捧げたそうだ。『神よ、イエス・キリストのためにゆるしたまえ!』とこういって、ただひとうちに自分の友達を、羊かなんぞのように斬り殺して、時計を引き出したそうだよ!」
 ラゴージンは笑いくずれた。彼はまるでなにかの発作にでも襲われたように、大きな声を立てて笑った。ついさきほどまで沈みがちでいたものが、急にこんなに笑いだすのを見ていると、なんだか奇異な感じがするほどであった。
「いや、おれはまったくそんなやり口が好きだ! ほんとうに何よりおもしろいよ!」と彼は大声で息がつまるかと思われるほど、痙攣的にどなるのであった。「ひとりのほうは、神を信じないっていうかと思えば、もうひとりのほうは、人を殺すのにもお祈りを上げるほど信心が深いんだ……いや、じっさい、おめえ、こんな話はとても思いつこうたってできやしねえぜ! ははは!………ほんとうに、こいつぁめっぽうおもしろいや!………」
「あくる朝、すこし町をぶらつこうと思ってそとへ出た」と公爵は、ラゴージンが笑いやむやいなや、言葉をつづけた。もっとも、ラゴージンはまだやはり笑いの名ごりか、くちびるを痙攣したように発作的にふるわせていた。「ふと見ると、木をしいた歩道の上を、まるでぼろぼろの身なりをした酔っぱらいの兵隊が、ふらふらと歩いて来るじゃないか。それがぼくのそばへやって来て、『旦那さま、銀の十字架を買っておくんなさい、たった二十コペイカでお譲りしますよ、銀ですぜ!』というんだ。見ると、その男の手の中に、たったいま廁からはずしたばかりらしい十字架が、ひどく使い古した水色のリボンつきのまま載っかっている。しかし、ひと目見ただけで、まがいもない錫《すず》だってことはすぐわかる。ピザンチンふうの模様のいっぱいある、上下に短い腕木がついた、大形のやつだった。ぼくはさっそく二十コペイカ玉を一つ取り出して、その兵隊にくれてやり、十字架は即座に自分の胸にかけた、――すると、兵隊は間抜けなだんなをだましてやって大満足という様子をして、自分の十字架を売りとばした金で一杯ひっかけに出かけた。これはもう正直、間違いないとこだ。ぼくはそのとき、ロシヤに来て以来どっとわきおこったさまざまな印象で胸がいっぱいになっていた。以前はこのロシヤって国が、まるで口をきかないスフィンクスみたいな気がして、さっぱりわからなかった。それで、外国にいる五年間もこの国について、突拍子もない空想をたくましゅうしていたのだ。そこで、ぼくは道すがら、いや、このキリストを売った男を非難するのは、もう少々待たなくちゃならぬ、こうした酔っぱらいの弱々しい心の中にどんなものが含まれてるかは、神さまがよくごぞんじだ、こんなに考えながら、一時間ほどたって宿へ帰りかけていると、乳呑児をかかえたひとりの女房に行き会った。この女房はまだ若い女で、赤ん坊は生まれてやっと六週間くらいにしかならない様子だった。すると、赤ん坊が生まれてはじめて笑顔を見せたのに、気がついたらしいんだ。そのとき女はさもさも信心ぶかそうな顔つきをしてふいと十字を切るじゃないか。『おかみさん、いったいどうしたの?』ときくと(ぼくはその時分なんでもかでもたずねてみたものなんだ)『いえ、まあ、あなた、はじめて赤ん坊の笑顔を見た母親の嬉しさは、菲びとが真心こめてお祈りするのを天の上からごらんあそばすたびに神さまがいだかれる嬉しさと、まったく同じなんでございますよ』と答えた。その女房の言葉はこれとほとんど同じだったよ。じつに深い、こまやかな、ほんとうの意味での宗教的な思想じゃないか。この思想の中にはキリスト教の全本質が、一語にして尽くされている。人間の生みの親としての神にたいする解釈、また親が生みの子を思うと同じような神の人間を思う喜び、こういうものにたいする解釈が、すべてことごとくこの中に言い表わされている。じっさい、これがキリストの最も重要な思想なんだ! しかも、それを道破したのが、無教育な一婦人なんだからね! まったく、母親というものはねえ……それに、もしかしたら、この女があの兵隊の女房かもしれやしない。ねえ、パルフェン、きみはさっきぼくにたずねたが、これがぼくの返答だ。宗教的感情の本質というものは、いかなる論証、いかなる過失や犯罪、いかなる無神論の尺度にも当てはまるものじゃない。こんなものの中には、なにか見当ちがいなところがある。またいつまでたっても見当ちがいだろう。それは永久に無神論などがすべってはずれて、つかむことのできない、また永久に人々が見当ちがい[#「見当ちがい」に傍点]な解釈をくだすような、あるものなのだ。しかし、何より大切なのは、このあるものがロシヤの人の心に、最も多く見られるということなのだ。これがぼくの結論だ! これこそぼくがわがロシヤの中からつかむことのできる、最も価値ある信念の一つだ。パルフェン、なすべきことはずいぶんあるよ! このロシヤの国にいて、なすべきことはずいぶんあるよ、ぼくのいうことを信用してくれ。一時モスクワでよく落ち合って話しこんだころのことを、思い出してくれたまえ……それに、今度もぼくはこの土地へ帰って来ようなんて気は、毛頭なかったんだけどなあ! そして、まったく、まったくこんな具合にしてきみに会おうとは思わなかった! いや、しかし、しようもないさ!………さようなら、失敬するよ! 無事でいてくれたまえな!」
 彼は踵をめぐらして階段をおりて行った。
「レフ・ニコラエヴィチ!」公爵が最初の踊場までおりたとき、パルフェンは上から声をかけた。「おまえが兵隊から買った十字架は、今ここにあるのかい」
「ああ、いま掛けてる」
 公爵はふたたび立ちどまった。
「ちょいと見せてくんな」
 ふたたび奇怪な場面が現われた。彼はちょっと考えて上へあがり、首に掛けたままはずさずに自分の十字架を示した。
「おれにくれねえか」ラゴージンがいった。
「なんだって? きみはもしや……」
 公爵はこの十字架と別れたくなかった。
「おれが掛けたいんだ。そのかわりおれのをはずすから、おまえかけな」
「取っかえっこしようってのかい。そんならそうしたまえ、ぼくは嬉しいよ。兄弟の誓いをたてよう!」
 公爵は自分の錫の十字架、ラゴージンはその黄金《きん》の十字架をはずして、交換した。パルフェンは押し黙っていた。以前の疑惑の色や、以前の苦々しい、冷笑的とさえいいたいような薄笑いが、この新しい義兄弟の顔から消えずに、少なくともときおり激しく目に立つのを見て、公爵は重苦しい驚きの念を覚えた。やがて、ラゴージンは無言のまま公爵の手を取って、しばらく何事をか決しかねるていで、じっとたたずんでいた。と、ふいに彼は相手を引き立てるようにしながら、やっと聞こえるか聞こえないかの声で、『行こう』といった。一階の踊場を通り過ぎると、さっき出て来た扉と真向かいになっている戸口で、ラゴージンは呼鈴を鳴らした。戸はすぐに開かれた。
 すっかり背中の曲がった、頭に布を巻いた黒衣の老女が、黙ってていねいにラゴージンに会釈した。こちらはなにやら早口に彼女にたずねたが、返事を待とうともせず、さらに公爵を導いていくつかの部屋を通って行った。部屋部屋は薄暗く、寒い感じがするほどきちんとして、白い清潔な蔽布をかけた昔ふうの道具類を、いかめしくそっけなく並べてあった。ラゴージンは取り次ぎを待たずに、すぐさま公爵を客間らしい小さな部屋に導いた。部屋は、つやつやしいマホガニーで造った、両端に戸のある板壁で仕切られてあったが、その向こうは見たところ寝室にでもなっているらしかった。客間の片隅の暖炉に近く、ひとりの小柄な老女がひじいすに腰かけていた。まだ一見して、そんなにひどくよぼよぼしていない、それどころかずいぶん達者そうな、気持ちのいい、丸つこい顔をしているが、頭の毛はすっかり白くなっているうえに、気持ちがまったくの赤児に返っているということは、ひと目でそれと知ることができた。彼女は黒い毛織の着物をきて、同じく黒の大きな布を首に捲き、黒リボンの付いた白いさっぱりした室内帽子をかぶっている。足は前に置いた小さな台に支えられていた。そのそばには、もうひとり小ざっぱりとした老婆がいた。これはさらに年をとっている様子で、同様に黒い喪服を着け、同様に白い室内帽子をかぶっていたが、察するところ、なにか食客ででもあるらしく、黙って靴下を編んでいた。ふたりの老女はこうしていつも黙りこんですわっているのであろう。ひじいすのほうの老女は、ラゴージンと公爵の姿を見ると、ふたりに微笑《ほほえ》みかけ、幾度となく頭を下げて満足の意を表した。
「おっかさん」とラゴージンはその手を接吻しながらいった。「この人はおれの大の仲好しで、レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵って人なんだよ。おれはこの人と十字架の取っかえっこをしたんだ。モスクワではおれのために、親身の兄弟同様につくしてくれた。ね、おっかさん、この人に祝福をしてくんな、親身の息子と同じように、いや、ちょっと待ちな、おれがうまくおっかさんの指を組み合わしてやるから……」
 しかし老母は、パルフェンが手をくだすよりさきに、自分で右の手を挙げて指を三本くみ合わし、うやうやしげに公爵に十字を切った。それから、またもう一度やさしく愛想よくうなずいてみせた。
「じゃ、出かけよう、公爵」とパルフェンはいった。「おれがおめえを連れて来たのは、ただこれだけの用なんだよ……」
 ふたたび階段のところへ出た時、彼はいい足した。
「じつは、おふくろは人のいうことがなんにもわからないんだ。だから、おれの言ったことだって、なにひとつわかりゃしなかったんだ。それだのに、おめえを祝福したのを見ると、おふくろが自分で望んでしたことなんだよ……じゃ、さようなら。おれもおめえももう別れていい時分だ」
 こういって、彼は自分の部屋の戸をあけた。
「でも、お別れに一度抱かしてくれたっていいじゃないか、おかしな人だなあ!」と公爵はもの優しい非難の目をもって彼をながめながらこう叫び、相手を抱きしめようとした。
 しかし、パルフェンは両手を挙げたかと思うと、すぐにまたおろしてしまった。彼はなんとなく決しかねたていで、公爵を見まいとするもののように顔をそむけた。彼は公爵を抱擁したくなかったのである。
「心配するこたあねえ。おれはおめえの十字架をもらった以上、けっして『時計』のためにおめえを殺したりなんかしやあしねえ!」と彼はあいまいな調子でいって、ふいに一種奇妙な笑い声を立てた。
 と、にわかに彼の顔は一変した。おそろしいほど色青ざめて、くちびるはふるえ、双の目はぎらぎら燃えだした。彼は両手を挙げてしかと公爵を抱きしめ、息を切らしながら、
「もうそうした前世の約束なら、あの女は、おめえとるがいい! あれはおめえのもんだ! おれはおめえに譲った!……ラゴージンを忘れないでくんな」
 といいざま、彼は公爵を突き放し、あとをも見ずに自分の部屋へ入るや、ぱたりと戸を閉《た》てきった。

      5

 もうだいぶ遅くなって、かれこれ二時半に近かった。で、公爵が訪ねて行ったとき、エパンチ冫将軍は不在であった。彼はそこへ名刺をおくと、これからすぐ『衡星』へ出かけてコーリャを訪い、もし留守だったら置き手紙でもしようと決心した。『衡屋』へ行ってみたら、宿のものが出て来て、『ニコライ・アルダリオーノヴィチ(コーリャをさす)は朝からお出かけになりました。そして、もしも万一だれか訪ねて来たら、たぶん三時ごろに帰るだろうといってくれ、もし三時半になっても帰って来なかったら、汽車でパーヴロフスクヘ出向いて、エパンチン将軍夫人の別荘でご馳走になっているものと思ってくれ、とかようにお言い残しでございました』といった。公爵は腰を落ちつけて待つことにし、ついでに何か食べるものを命じた。
 三時半はおろか四時になっても、コーリャは姿を見せなかった。公爵はそとへ出て、行き当たりばったり、機械的に歩きだした。初夏のペテルブルグには、ときどきうららかな日和がある、――明るい、暑い、そして静かな日和がある。その日もちょうどあつらえたように、こうした珍しい日和であった。
 しばらくのあいだ公爵は、あてもなくぶらぶらさ迷い歩いた。彼は町にあまりなじみもないので、ときどき方々の家の前や、四辻や、広場や、橋の上などに立ちどまってもみた。また一度は、とある菓子ホールへ休息に入ってもみた。ときとすると、もの珍しそうに通行人をきょときょと見まわしもした。しかし、多くは通行人にも気がつかねば、自分でどこを歩いているかさえ知らずにいた。彼は苦しいほど緊張した不安な状態に陥っていたが、それと同時に、矢も楯もたまらぬ隠遁の要求を感じるのであった。彼は自分ひとりだけになって、この悩ましい緊張感の中に、すこしの出口も求めず、受身の態度で没入していたい気がした。自分の心になだれかかるさまざまの問題が、ただただいまわしく、それを解決しようという気にもなれなかった。『仕方がないさ、なにも自分が悪いわけじゃないんだもの』と彼はほとんど無意識に心の中でつぶやくのであった。
 六時に近いころ、彼はツァールスコエ・セロー鉄道のプラットホームに立っていた。孤独の状態はまもなく彼に堪えがたくなったのである。新しい熱情の潮が彼の心にみなぎりあふれ、魂を包んで苦しめていた暗闇は、一瞬にして輝かしい光明に照らし出された。彼はパーヴロフスク行きの切符をもとめて、堪えがたい焦躁の心持ちで早くそこへ行ってしまおうとあせった。が、あるものが彼を追究していたのはもちろんである。しかも、そのあるものは、一つの現実世界で、けっして幻想ではない。もっとも、彼は、幻想であると考えたかったのかもしれないけれど。
 汽車の中へ座を構えたとき、彼はにわかにたったいま買ったばかりの切符を床へたたきつけ、当惑したような沈みこんださまで、停車場を出た。幾分かたったのち彼は往来の上で、ふいに何事か思い出したようなそぶりをした。長いこと自分を苦しめていたある不思議なものを思いおこしたのだ、自分がいっしょうけんめいある仕事に没頭していることを、ふいにはっきりと意識したのだ。それはもうずっと以前から継続していたが、今この瞬間まですこしも気づかないでいたのだ。もう幾時間も前から、まだ『衡屋』にいるころから、いや、ことによったら『衡屋』へ行く前から、彼はともすれば自分の周囲に、あるものをさがしはじめたのであった。ときおり長く、半時間も忘れていることもあったが、やがてふたたび不安げにあたりを見まわして、なにやらさがしているのであった。
 しかし、自分の心内にだいぶまえから生じていながら、しかも今まですこしも自覚せずにいたこの病的な働きに気がつくやいなや、たちまちさらに一つの事柄が記憶の底からよみがえって、異常な興味をそそった。というのはほかでもない、彼が絶えまなく周囲を見まわして、なにやらさがし求めている自分に心づいたちょうどそのとき、彼はとある小店の窓に近い歩道に立って、そこに並べてある一つの品を一心にながめていたことを思いだしたのである。自分がたった今、わずか五分間ばかり前にこの店の窓ぎわに立っていたのは、はたして現実であったのか、ただの幻想ではなかろうか、なにか別のことといっしょにして考えているのではなかろうか、彼はどうしても今すぐに実否をただしたい気がした。ほんとうに、この店とこの品は、この世に存在しているのか?彼はきょう自分がことに病的な気持ちにとらえられているのを感じた。それは以前病気の激しかったとき、発作の襲おうとするまぎわによく経験したのと、ほとんど同じ気持ちであった。こうした発作のおこりそうなときの彼は、自分でも知 っていたが、おそろしくぼんやりしてしまって、よくよく注意を緊張させて見ないことには、人の顔やその他のものをいっしょくたにして、間違えることが多かった。
 けれども、はたして自分がそのとき、その店の前に立ったかどうか、じっさいのところを突きとめたいとあせったのには、特別な原因があった。店の飾り窓に並べてある商品の中に一つの品物があった。彼はそれを見つめて、銀貨で六十コペイカと値をふんだことさえ、ぼんやりした不安な状態に陥っていたにもかかわらず、よく覚えていた。もしこの店が真に存在していて、この一品がほかの品物といっしょに並べてあったとすれば、当然彼はただこの一品のためにのみ、ここへ足をとめたことになる。してみると、この一品は、彼が停車場を出たばかりで重苦しい惑乱を感じているときでさえ、その注意を向けさせるだけの強い力を持っているものといわねばならぬ。彼は悩ましげに右手のほうをながめながら歩みを運んだが、心臓は不安な、もどかしい気持ちにどきどきしていた。しかし、やがてその店が現われ、彼はついにそれを見つけ出したのだ! ここへ引っ返して見ようと思いついたとき、彼はまだ五百歩ばかりしか隔ててないところにいたのである。
 はたして、ここに六十コペイカの例の一品がある。『むろん、六十コペイカくらいのもんだ、それ以上の値うちはない!』と彼は腹の中で念を押すようにいって、笑いだした。しかし、その笑い声は妙にヒステリックであった。彼はひどく重苦しい気分になった。今こそはっきりと思い出される。さっきこの窓ぎわに立っているとき、彼は急にうしろを振り返って見た。ちょうどけさほど停車場で、ラゴージンの凝視を背中に感じたときと同じように。彼は思い違いでなかったことを確めると(もっとも、その前から確実に信じてはいたのだが)、この店をついと離れ、大急ぎで立ち去った。これらすべてのことはさっそく、ぜひとっくりと考えてみなければならぬ。あの停車場のことも幻覚ではない、なにかしらしっかりと現実に根ざしたものが彼の身におこったので、以前から彼を苦しめている不安の念も、かならずやこれと関連しているに違いない、これはもはや疑う余地のないほど明瞭になってきた。けれども、心内に巣くう堪えがたい嫌悪の情がまた力を増してきて、彼はなんにも考えたくなくなった。彼はこのことを考えるのはよして、まるっきり別なもの思いにふけりはじめた。
 さまざまなもの思いのうちに、彼はまたこういうことも思って見た、彼の癲癇に近い精神状態には一つの段階がある(ただし、それは意識のさめているときに発作がおこった場合のことである)。それは発作の来るほとんどすぐ前で、憂愁と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。生の直覚や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の問で、たちまち稲妻のごとくに過ぎてしまうのだ。そのあいだ、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に、忽然と溶けこんでしまうかのように思われる。しかし、この瞬聞、この光輝は、発作がはじまる最後の一秒こ秒である、けっしてそれより長くはない)の予感にすぎない。この一秒が堪えがたいものであった。彼はすでに健康なからだに返ってから、この最後の一瞬のことを回想して、よく自問自答するのであった。すなわち、この尊い自己直感、自己意識――つまり『尊い至純な生活』――の明光もひらめきも、要するに一種の病気であり、ノーマルな肉体組織の壊滅にすぎないのだ。とすれば、これはけっして尊い至純な生活どころではなく、かえって最も低劣な生活とならなければならぬ。こうも考えたけれど、彼はやはり最後には、きわめて逆説的な結論に達せざるをえなかった。『いったいこの感覚がなにかの病気ならどうしたというのだ?』彼はとうとうこんなふうに断定をくだした。『この感覚がアブノーマルな緊張であろうとなんであろうと、すこしもかまうことはない。もし結果そのものが、感覚のその一刹那が、健全なときに思い出して仔細に点検してみても、いぜんとして至純な諧調であり、美であって、しかも今まで聞くことは愚か、考えることさえなかったような充溢の中庸と和解し、至純な生の総和に合流しえたという、祈祷の心持ちに似た法悦境を与えてくれるならば、病的であろうとアブノーマルであろうと、すこしも問題にならない!』
 漠としたこの思想は、まだまだきわめて脆弱なものであったが、彼自身にはこのうえなく明瞭であった。とまれ、これが真に『美であり祈祷』であり、また至純なる生の総和であることについて、彼はつゆ疑うことができなかった、またそのような疑念をさし挟む余地がないように思われた。じっさいこれは、理性を腐蝕させ霊魂を賎劣にするハッシュ(麻薬の一種)や阿片や酒が原因となったアブノーマルな非実在的なある種の幻影が、夢のように彼を襲うたのとはわけが違う。これは病的な状態が終わったのちに健全な頭脳をもって、彼が判断しえたところである。つまり、こうした一刹那の感じは、自己意識の――もしそれを一語で言い表わす必要があるならば、自己意識であると同様に、最高の程度における直截端的な自己直観のI異常な緊張としかいいようがない。もしその一刹那に、つまり発作前、意識の残っている最後の瞬間に、『ああ、この一瞬間のためには一生涯を投げ出しても惜しくない!』とはっきり意識的にいういとまがあるとすれば、もちろん、この一刹那それ自体が全生涯に価するのである。
 もっとも、自分の議論の弁証法的方面には、彼もあまり力を入れようとしなかった。ただ心内の暗くにぶくなったような痴愚《イジオチズム》の感じが、この『至高なる刹那』の明白な結果として、彼の前に立ちふさがるのであった。むろん、彼とても、むきになってこんなことを人と議論などしないだろうが、しかし彼の結論には、つまりこの一刹那の評価には、疑いもなく誤謬があったに相違ない。が、やはりなんといっても、この感触の現実的なことはいくぶんかれを当惑させたのである。まったく現実に対してはなんとも仕方がないではないか? なんといっても、これはじっさいにあったことなのだ。なんといっても、彼はじっさいそうした一刹那に、『いま自分がはっきりと感じるかぎりなき幸福のためには、この一刹那を全生涯に代えてもいい』というだけの暇があったではないか。
 彼は一時モスクワで仲のよかったラゴージンに、こういったことがある。『この一刹那に、ぼくはあの時はもはやなかるべし[#「時はもはやなかるべし」に傍点]という警抜な言葉が、なんだかわかってくるような気がした』それから、ほほえみながらつけ足して、『あの癲癇もちのマホメットが引っくり返した水瓶から、まだ水の流れ出さぬさきに、すべてのアラーの神の棲家を見つくしたというが、おそらくこれがその瞬間なのだろう』もっとも、彼はモスクワではラゴージンとよく落ち合って、こればかりでなくいろいろな話をしたものである。
『さっきラゴージンは、あの当時ぼくを兄弟同様に思ってたといったが、きょうはじめて、ぼくにうち明けたんだな』と公爵は腹の中で考えた。
 彼がこんなことを考えていたのは、夏の園《レートニイ・サード》のとある木陰のベンチの上であった。もうかれこれ七時ごろで、公園はがらんとしていた。なにかしら暗欝な影がちらとつかのま落日のおもてをかすめた。空気は息苦しく、かすかに雷雨の襲来を知らせるような何ものかがあった。彼は今のこうした瞑想的な気分の中に、一種の快い誘惑を感じた。あらゆる外物に対し、回想や批判をもってからみついていったが、これがなんとなく好もしかった。彼はしじゅうなにかしら目前にさし迫ったほんとうのことを忘れたい気がしたが、ちょっとあたりを見まわすたびに、どうかしてもぎ放したいもぎ放したいと思っている暗い自分の想念を、すぐさま思い出すのであった。さきほど酒場で食事のときに、近ごろ非常にやかましい騒ぎになっているきわめて奇怪な殺人事件について、ボーイを相手に話したことを思い出したが、このことを思い出すやいなや、ふいに彼の心内に不思議な変化が現われてきた。 ほとんど一種の誘惑ともいうべき、激しいおさえがたいある欲望が、がぜんかれの意志を完全に麻痺さしたのである。彼はベンチを立ちあがり、公園からすぐにペテルブルグ区へ出かけた。さきほどネヴァ河の河岸通りでだれか通行人を捕まえて、ペテルブルグ区の見当を川越しに教えてくれと頼んだとき、その人はさっそく教えてくれた。が、彼はそのとき出かけて行かなかった。それに、どうしてもきょうゆかねばならぬ必要はないのだった。それは彼も自分でよく知っている。所書きはちゃんと持っているのだから、レーベジェフの親戚の女というのをさがし出すのは、きわめてたやすいことであったが、彼はその女が家にいないことを的確に信じていた。『きっとパーヴロフスクヘ行ったに相違ない。でなければ、コーリャも約束どおり「衡屋」に何か書き残しておくはずだ』こういうわけであるから、彼がいま出かけて行ってるのも、もちろんその女に会おうがためではなく、暗い悩ましい別の好奇心が彼をそそのかしていたのである。あるあらたな思いがけない観念が彼の頭に浮かんだのだ……
 しかし、自分が歩きだし、そして、どこへ向けて歩いてるかちゃんとわかっている、この自覚だけで彼を苦しめるのにはもう十分すぎるくらいであった。一分もたたぬうちに、ふたたび彼はほとんど自分の行く道に気づかず歩いていた。自分の『思いがけない想念』を吟味しているのが、にわかにいまわしく、とうていやりきれないような気がして来た。彼は苦しいほど張りきった注意を払って、目に映ずるすべてのものに見入った、空もながめた、ネヴァ河もながめた。ふと行きあった小さな子供に話しかけようともした。ことによったら、持病の癲癇の症状がしだいしだいにつのってゆくのかもしれぬ。雷雨は速度こそにぶいが、じじつ、近くなりまさってくるようである。もう遠雷の轟が聞こえはじめた。おそろしく息苦しくなってくる……
 よくばからしいほどあきあきした音楽の一節が、うるさく心に浮かんでくるように、なぜかさっき見たレーベジェフの甥の姿が、ひっきりなく思いおこされる。しかも、不思議なことには、あのときレーベジェフが甥を公爵に紹介しながら、自分の口から話して聞かせた人殺しの下手人の姿となって、この甥は公爵の記憶によみがえった。それに、この記憶を新聞で読んだのは、ごく最近のことであった。こうしたふうの話は、彼もロシヤヘ入ってからどれだけ読んだり聞いたりしたかしれぬ。彼は執念《しゅうね》くこういう種類のできごとに注意を払っていたのである。さきほどのボーイとの対話の中でも、彼はこのジェマーリンー家の殺人事件に異常な興味を示したものである。彼は、ボーイまでも自分の説に賛成してくれたことを思い出した。と、またつづいてボーイの姿をも思い出した。それは小利口そうなもったいぶった、用心ぶかそうな若者であった。『しかし、あれだってどんな人間だかわかりゃしない。新しい土地で、新しい人たちの心持ちを洞察するのはむずかしいものだから』と思った。とはいえ、彼はロシヤ人の魂を熱狂的に信じはじめたのである。ああ、彼はこの六か月のあいだに、自分にとってまったく新奇な、かつて聞いたこともないような、思いがけない、謎のような多くのできごとに接してきた! けれども、人の心は暗闇である。そして、ロシヤ人の心も同じく暗闇である。すくなくとも、多数のものにとって暗闇である。早い話がラゴージンだ。公爵は彼と親しくしている、ごくごく親しくしている、『兄弟同様』に親しくしている、――ところで、いったいかれはラゴージンを知っているだろうか? けれども、どうかするとすべてのものが渾沌として、でたらめで、醜陋をきわめることがある。それにあの先刻のレーベジェフの甥、なんといういまいましいにきび野郎だろう、あのすっかり納まり返っている様子が憎々しい。が、おれはぜんたいどうしたのだろう?(と公爵はとりとめのない妄想をつづけるのであった)なにもあの男が六人殺しの下手人というわけでもないのに、なんだかそれといっしょにして考えているようだ……なんて奇態なことだ! ああ、なんだか頭がぐらぐらする……ところで、レーベジェフの姉娘、あの赤ん坊を抱いて立っていた娘は、なんて思いやりの深そうなかわいい顔をしていることか。それに、あの子供らしい表情、子供らしい笑いかた! 今までこの顔のことを忘れていて、やっと今おもい出したのが不思議なくらいである。レーベジェフはこの子供らに地団太を踏んだりしながらも、やはり皆のものを尊敬しているらしい。しかし、二二が四というほど