ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP265-288

馳せ行くときにわが騎士は
声ものすごく叫びける。Lumen coeli, sancta Rosa!
(み空の光、聖なる薔薇!)
いかずちに似る雄たけびに
邪教のやからはおののきぬ。
遠き国なるわが城に
帰りし騎士はたれこめて
ひと間の中に言葉なく
いと悲しげに暮らせしが
狂者のごとくついに死にたり。

 後日このときのことを思い出すたびに、公爵は自分として解釈のできないある疑問に悩まされ、ひとかたならぬ惑乱を感じた。それは、どうしてあのような美しい真摯な心持ちと、あのような一見して明瞭な毒々しいあざけりとをいっしょにすることができたか、である。そこにあざけりの分子があったのは疑うべからざる事実であった。公爵はそれがはっきりわかっていたばかりでなく、そう考えるべき理由を持っていた。ほかでもない、アグラーヤは朗読のさい、A、N、Dの文字をば、N、F、B(ナスターシヤ・フィリッポヴナ・バラシュコヴァの頭文字)に替える大胆を、あえてした。これは確かなことである、自分のほうに聞き違いなどのなかったのは、疑う余地もない(これが事実そうであったことはのちに証明された)。とまれ、アグラーヤの行為は、――もちろん、冗談であるが、ただしあまりに激しい軽はずみな冗談ではある――前もってもくろんだものに相違ない。『貧しき騎士』のことは、ひと月も前から一同が話して(そして『笑って』)いたのである。しかし、のちになって公爵の追憶したところによると、あの頭文字をアグラーヤはすこしも冗談らしい様子を見せず、またばかにした様子もなく、そこに潜んだ意味をはっきり浮き出させるためことさらその文字に力を入れるというでもなく、ただ前と変わらぬまじめさと無邪気な罪のない単純さをもって発音した。そのために、これらの文字がほんとうに詩の中にあったのではないか、まったく書物にそう印刷してあったのではないかと思われるほどであった。なにかしら重苦しい不快なものが、公爵の胸を刺したように感じられた。リザヴェータ夫人は、むろん文字の変わったことにも、当てこすりにも気がつかなかった。イヴァン将軍はただ詩を朗読したということ以外、てんでなんにもわからなかった。それ以外の人々の多くは事の真相を解して、アグラーヤの大胆なやりかたと企らみに一驚を喫したが、みんな黙って色に出すまいと努めた。ただエヴゲーニイのみは、単に了解したばかりでなく、その了解したことを色に出そうとさえ努めた(それは公爵が誓ってもいいと思ったくらいである)。彼はあまりにも冷笑的な笑いかたをしたのであった。
「まあ、いいこと!」朗読が終わるやいなや、夫人は心から感に堪えたように叫んだ。「だれの詩だえ?」
プーシキンですわ、おかあさま。あたしたちに恥をかかせちゃいやですよ、まったく恥だわ!」とアデライーダが叫ぶように言った。
「ああ、おまえさんたちといっしょにいると、こんなことくらいじゃない、まだまだばかになってしまいますよ」とリザヴェータ夫人は、情けなそうに答えた。「ほんとうに恥です! 帰ったらすぐ、そのプーシキンの詩を見せておくれ」
「でも、家にはプーシキンなぞ一冊もなさそうだわ」
「いつの昔からだが」とアレクサンドラがつけ足した。「ばらばらになった本が二冊ばかりころがってますよ」
「すぐにフョードルかアレクセイかを、次の列車で町へ買いにやりましょう。いえ、アレクセイのほうがよかろう。アグラーヤ、ここへおいで! さ、わたしを接吻しておくれ、おまえの朗読はほんとうにりっぱだったよ、けれど、――もしおまえがまじめで読んだのなら」と彼女はほとんどささやくようにいいたした。「わたしおまえがかわいそうです。もしあの人を冷やかすつもりで読んだのなら、わたしはおまえの考えに賛成しませんね。だから、どちらにしても、はなから読まないほうがよかったんだよ。わかったかえ? さ、いらっしゃい、お嬢さん、またあとでふたりで話しましょう。だけど、ずいぶんながいことすわりこんでしまったね」
 その間に公爵はイヴァン将軍に挨拶した。すると、将軍は彼にエグゲーニイを引き合わせた。
「途中で会ったからひっぱって来たんです。この人はたったいま汽車で着いたばかりのところでしたよ。わたしもここへ来るし、うちの者もみんなこちらへ来ていることを知ったのでね……」
「それに、あなたもここにいらっしゃるってことを聞いたもんですから」とエヴゲーニイも言葉を添えた。「わたしはももずうっと前からあなたのお近づきを、いや、お近づきばかりではなく、ご友誼を求めたいと考えてましたので、じつはこの機会を逸してはならぬと思いまして。あなたはお加減が悪いそうですね。たった今うかがったのですが……」
「いえ、もうすっかりよろしいのです。あなたとお目にかかってたいへんうれしく存じます。おうわさはかねがねうかがっておりましたし、またばく自身もS公爵とあなたのおうわさをしたこともございます」とムイシュキン公爵は、手をさし仰べながら答えた。
 双方の挨拶も済んで、ふたりはたがいに握手をし、たがいにじっと目と目を見合わした。たちまち会話は全体に行きわたった。エヴゲーニイの文官服は一同に何か非常に激しい驚愕を与え、その他の印象はすべてしばらく忘れられ、姿を潜めたくらいである。公爵はこれに気がついた(彼はいま貪婪なくらい何にでも早く気がついた。あるいは、ぜんぜんありもせぬことにまで気がついたかもしれぬ)。この服装の変化の中に、なにかひどく重大な事件が含まれてるのではなかろうか、とさえ考えられるのであった。アデライーダとアレクサンドラは、不審そうに根掘り葉掘りエヴゲーニイにきいていた。親族のS公爵はひどく不安の色さえ浮かべた。将軍の声には胸騒ぎのしているような響きがあった。ただひとりアグラーヤのみは、文官服と武官服とどちらがよく似合うか比べて見るかのように、ちょっとエヴゲーニイの顔をもの珍しそうに、とはいえまったく冷静にながめていたが、やがてつと向きをかえて、それきり彼を見ようとしなかった。リザヴェータ夫人もやはりいくぶん心配らしい様子であったが、同じくなにひとつきいてみようともしなかった。エヴゲーニイはあまり夫人のお覚えめでたくないように、公爵には見受けられた。
「いや、びっくりした、まったく驚きましたよ」とイヴァン将軍は人々の問いに応じていった。「わたしはさっきペテルブルグで会ったときから、ほんとうとは思われなかった。おまけに、なぜふいにそんなことをされたのかそれがわかりませんて。会うとすぐいきなり、もうお役所のいすをこわすのはたくさんだ、とこうなんですからね」
 いろいろとその場で取り交わされた会話を総合してみると、エヴゲーニイはもうずっと前から退職のことを披露していたのだが、いつもそのいいかたがなんとなくふざけたように聞こえたので、とてもほんとうにするわけにいかなかったものと見える。それに、彼はいつもまじめなことを話すにも、妙にふざけた様子をしてみせるので、真偽のほどが曖昧であった。ことに、自分でもはっきりわかってもらいたくないと思ったときには、なおさらなのである。
「なに、ぼくはちょっと三、四か月、長くも一年くらい休職で暮らしてみるだけなんですよ」とエヴゲーニイは笑いながらいった。
「だが、わたしの知ってるかぎりでは、あなたの目下の事情はすこしもそんなことを必要としないじゃありませんか」となおも将軍は憤慨した。
「ですが、領地を乗りまわすのはどうです? あなたもご自分で勧めてくだすったじゃありませんか。それにぼく、外国旅行もしてみたいんですよ……」
 とはいえ、話題は間もなくほかへ移った。しかし、傍観者たる公爵の見るところでは、あまりにも激しく度を超えた不安はやはりいつまでもつづいて、その中にはたしかに何かある特殊なものがあった。
「じゃ、なんですか、『貧しき騎士』がまた舞台へ出たんですか?」とエヴゲーニイはアグラーヤに近寄りながら問いかけた。
 ところが、そばで見ていた公爵の驚いたことには、アグラーヤは、けげんな顔をして、不審そうに相手をながめた。まるでふたりの間に、『貧しき騎士』などの話が取り交わされたはずがない、あなたのおっしゃることはなんだかわかりませんよ、といいたそうな具合であった。
「いいえ、遅いです、今からプーシキンを買いに町へ行かせるのは遅いです、遅いですよ!」とコーリャは夢中になってリザヴェータ夫人といい合っていた。「さっきから幾度いってるかしれないじゃありませんか、遅いですよ」
「ええ、まったく今から町へ使いをやるのは遅いですよ」いち早くアグラーヤをはずしたエヴゲーニイが、ここへもすかさず割りこんだ。「ぼくの考えでは、ペテルブルグの店はもう戸を閉めたころですね、八時すぎですもの」彼は時計を引き出して、こう決めてしまった。
「今まで長いこと気がつかずにいたんですもの、あすまでくらい大丈夫、待てるわ」とアデライーダが口を挟んだ。
「それに、不似合いですよ」とコーリャがつけたした。「上流社会の人がそんな文学などに熱中するなんて。まあ、エヴゲーニイさんにきいてごらんなさい、それよか、赤い輪のついた黄色い散歩馬車に憂き身をやつしたほうが、どんなによく似合うかしれませんよ」
「またなにかの本の文句をひっぱり出したわね、コーリャ」とアデライーダが注意した。
「ええ、この人は本の文句を引き合いに出すよりほか、話のしかたを知らないんです」とエヴゲーニイが引き取った。「よく批評集かなにかの長たらしい句を、そのまま引用するんですからね。ぼくは前から、コーリャ君の話をうけたまわる光栄を有しましたが、今のは、しかし、本の文句じゃなかったようです。明らかにコーリャ君は、赤い輪のついたぼくの黄色い散歩馬車を、当てこすったんです。しかし、ぼくはもうほかのと取っ換えてしまいましたよ、少々おそまきでしたね」
 公爵はエヴゲーニイの話しぶりを聞いて、彼がいかにも控えめに、しかもりっぱな朗らかな態度で終始しているのを感じた。それに、自分に突っかかってくるコーリャに向かって、へだてなく親しげな調子で話すのが、とりわけ気に入ったのである。
「それは何?」と将軍夫人はレーベジェフの娘ヴェーラに問いかけた。娘は手に装幀の美しい、まだま新しい、大形の書物を幾冊か捧げて、夫人の前に立っていたのだ。
プーシキン、宅のプーシキンでございます」とヴェーラは答えた。「父が奥さまに進呈するように申しつけましたので」
「なんだってそんな? どうしてそんなことが?」とリザヴェータ夫人はびっくりした。
「進上いたすのではございません。進上いたすのではありません。けっしてそんな失礼なことは申しあげません!」娘の肩のかげからレーベジェフが飛び出した。「相当のお値段で、へえ! これはわたくしども家庭用のプーシキン、アンネンコフ版でして、今ほしいと申しても手に入る品ではございません、――まあ相当のお値段で、へえ! 謹んでお譲りいたしとうござります。それでもって、奥様のあっぱれな文学的感情のお渇きをうるおしていただけましたら、なにより満足のことに存じますので」
「ああ、売ってくれるんですか、そんならありがとう。とても損のいくようなことはおしでないだろうからね。だけど、そんな妙な恰好をするのだけはよしてちょうだい。わたしおまえさんがなかなかの学者だといううわさを聞いていましたが、いつかお話ししてみましょうよ。どうだね、きょうおまえさん自分で持って来てくれますかね!」
「謹んで……うやうやしく承知いたしました!」と娘の手から書物をひったくりながら、レーベジェフはたまらなく嬉しそうに身をくねらした。「結構、だがなくしちゃだめですよ、大切にもってらっしゃい。そんなに謹んだり、うやうやしくしたりしなくてもいいからね。だけど、条件つきですよ」と夫人は相手をじろじろ見まわしながら、いいたした。「しきいのとこまでは入れるけれど、きょうおまえさんを中へ通すつもりはないんだからね。けれど、娘のヴェーラさんは今すぐでもよこしなさい。あの娘はわたしすっかり気に入っちゃった」
「おとうさん、なぜあの人たちのことをおっしゃらないの?」と、こらえかねたようにヴェーラは父にいった。「そうこうしているうちに、あの人たちは自分で入って来てよ。ほら、あんなにがやがやいいだしたわ。公爵さま」このときもう自分の帽子を手に取っていた公爵のほうに向いて、彼女はこう告げた。「あちらへだれだが四人ばかりの人がまいりまして、わたしどものほうで待ちながら、乱暴なことばかりいっています。父はこちらへ通しちゃいけないと申すのですけれど」
「どんなお客さま?」と公爵がたずねた。
「用事で来たと申すのでございますけれど、もし今ここへ通さなかったら、途中で待伏せでもしかねないような人たちでございます。公爵さま、まあひとまず通してやって、それからいい加減なときに追っ払ってやるとよろしゅうございますよ。あちらでガヴリーラさんにプチーツィンさんが、いろいろいい聞かしてらっしゃるのですけど、なかなかはいといわないのでございます」
「パヴリーシチェフさんの息子です! パヴリーシチェフさんの息子です! なに、あんなやつ相手になさる値うちはありません」とレーベジェフは両手を振りまわしながら、「あんな者のいうことなど、聞いてやる値うちはありません。公爵さま、そんなことを気におかけなさるのも、ご身分にかかわるくらいです、それだけのことです。あいつらにはそれでたくさんです……」
「パヴリーシチェフさんの息子? ああ、なんということだ!」と公爵はひどく狼狽して叫んだ。『ぼく、知ってます……だけど、ぼくはその……この事件をすっかりガヴリーラさんに委任したんですが……たった今さきもガヴリーラさんがぼくにそういいました……」
 しかし、このときガヴリーラは早くも家の中から露台へ出て来た。そのあとからプチーツィンもつづいた。すぐ次の間からは、まるでいくたりかの声を圧倒せんとしているような、イヴォルギン将軍の大きな声が、騒々しい物音といっしょに響いた。コーリヤはすぐに物音のするほうへかけだした。
「こいつは大いにおもしろいぞ!」とエヴゲーニイが口に出していった。
『してみると、ちゃんと事情を知ってるんだな!』と公爵は腹の中で考えた。
「パヴリーシチェフさんの息子ってだれです? それに……パヴリーシチェフさんの息子なんて、あるはずがないじゃありませんか」イヴァン将軍は不審そうに一同の顔を見まわしたが、この新しい事件を知らないのは自分ひとりだけだと気がつくと、彼はけげんな顔をしてこうきいた。
 いかにも一同はこぞって胸をおどらせながら、どんなことが持ちあがるかと、待ち設けていたのである。公爵はまったく自分一個のみに関する事件が、かくまで激しく一同の興味をひくのを見て、深い驚きに打たれた。
「もしあなたが今すぐ、あなたおひとりで、この事件の片を付けておしまいなすったら、ほんとにおもしろうございましょうねえ」アグラーヤはなんだかいやにまじめくさった様子をして、公爵のほうへ近寄りながらいいだした、「そして、あたしたち一同はここにこうしていて、あなたの証人にならしていただきとうございますわ。ねえ公爵、今あなたの顔に泥をぬろうとするものがあるのですから、あなたはりっぱに身の明かしをお立てにならなくちゃなりませんわ。あたしは今から、それをあなたのためにお喜びしていますの」
「わたしも早くこのいまいましいゆすり事件の片をつけてもらいたいですね!」と将軍夫人も叫んだ。「そんなやつらはぴしぴしとやっつけておやんなさい、公爵、ちっとも容赦はいりませんよ。わたしこの話を耳にたこができるほど聞かされたので、あんたのためにどれだけ気をもんだかわからないんですよ。それに、どんなやつらだか見るのも一興ですからね、ここへ呼んでごらんなさい、わたしたちはじっとすわっていましょう。ほんにアグラーヤの思いつきはなかなかよかった。公爵、あなたはこのことについてなにかお聞きになりまして?」と彼女はS公爵に向かってたずねた。
「もちろん聞きました、やはりお宅で。が、わたしもやはり、おそろしくその若い連中の顔が見たいんですよ」とS公爵は答えた。
「いったいその連中てのはニヒリストなのですかねえ?」
「いえ、あいつらはニヒリストとは違いますので」これも同じく興奮のあまりぶるぶるふるえださんばかりのレーベジェフが、一足まえへしゃしゃり出た。「あいつらはそれとはまるで違う、特別な連中でござります。わたくしの甥にいわせますと、あいつらはニヒリストよりもっと上手なのです。あなたは、自分がそばにいたらあいつらがまごつくだろうとお思いのご様子ですが、なかなかどうして、あいつらはそれしきのことでまごつくような連中じゃありませんて。ニヒリストの中にはままもののわかった、学者とでもいいたいような人がおりますが、こいつらときたら、それどころの騒ぎでないのです。なぜと申すに、まずなにより実際的な連中だからです。これはつまりニヒリズムの結果でありましょうが、まっすぐな道を通って来たんでなくって、ほんの聞きかじりか、ただしはニヒリズムの前を横目ににらみながら通り抜けたくらいのところです。それに、雑誌に論文かなにか載せて意見を発表するなんて、まわりくどいことはいたしません。なんでもかでもじっさいにやって見せるのです。たとえば、やれ、プーシキンは無意味でござるの、やれ、ロシヤの国はいくつにも分裂しなくちゃならんのと、そんなことはまるでお話が違うのです。ただその、なにかひどく執心なことがあると、たとえそれがために八人の人を殺す必要ができても、むちゃくちゃにやりとおす権利があると思ってるのです。公爵、わたしはやはりどうも賛成いたしかねますが……」
 けれど、公爵はもう戸をあけに立って行った。
「レーベジェフ君、それはいいがかりというもんですよ」と彼はほほえみながらいいだした。「あの甥ごさんはだいぶきみをおどしつけたと見えますね。奥さん、どうかこの人のいうことを、ほんとうにしないでくだい。ゴールスキイやダニーロフ(当時新聞を賑わした殺人犯)などはほんの偶然の産物ですし、この人たちはただ思い違いをしてるまでのことです……ただ一つぼくはここで、皆さんの前でそんな話をしたくないですから、奥さん、まことに申しかねますが、あの人たちがやって来たら一応お目にかけて、それからあちらへ連れて行かしていただきます。さあ、皆さん、どうぞ!」
 しかし、それよりもむしろ別な種類の苫しい想念が彼を悩ますのであった。ほかでもない。もしやだれかが前から考えて、この事件がちょうど今このとき、こうした来客の前で持ちあがるように、しかも彼の勝利とならず、かえって大恥をかかされるのを予期して、こんな細工を企らんだのではなかろうか、といったふうの考えが、ちらっと心に浮かんだのである。けれども、彼は同時に、自分の『奇怪なほど意地わるく疑ぐりぶかい』性質が浅ましく、妙に沈んだ気持ちになった。自分の心中にこんな想念が潜んでいることをだれかに知られたら、彼はとても生きてはいられなかったであろう。で、ちょうど新しい客人たちがどやどやと入って来た瞬間、彼はここにいる人の中で、自分が道徳的に最も劣等な人間なのだと、真底から考えた。入って来たのは五人であった。四人は新顔で、最後のひとりはイヴォルギン将軍であった。彼はおそろしく激して興奮して、発作にかかったような雄弁をふるっていた。『この人はきっとぼくの味方だ!』と公爵はほくそえみながら考えた。コーリャも皆といっしょにすべりこんだ。そして、新来の客の中にまじったイッポリートと、なにやら一生懸命に話していた。イッポリートは耳を傾けながら、にやっと笑った。
 公爵は客をそれぞれ席に着かした。彼らはみなそろいもそろってなま若い、まだ一人前になりきらぬ青年ばかりなので、こんな連中のために、これほどものものしい接見の場を準備したのが、不思議なくらいであった。たとえば、この『新しい事件』について、なんの知るところもないエパンチン将軍は、こうしたなま若い連中を見て急にぶつぶついいだした。もし夫人が公爵の私的利害に関して、不思議なほどの熱心を示さなかったら、たしかになんとかぐずぐずいいだしたに相違ない。とにかく、彼はなかば好奇心、なかば人のいいためそこに居残った。なんといっても、自分は一座の権威として役に立つことができると信じたからなので。けれど、あとから入って来たイヴォルギン将軍が、遠くから会釈をしたとき、彼はまたいまいましい気持ちになった。彼は顔をしかめ、もう何ごとがおころうと、いっさい口をきくまいと腹を決めた。 四人の若い来客のうちにただひとり、もう三十くらいになるらしい男がいた。それは『旧ラゴージンー党』に属していた退職中尉で、望み手があれば十五ルーブリで拳闘の教授もする男であった。彼がほかの連中について来たのは、単に誠実なる親友として、仲間の元気を鼓舞しようというにすぎないらしい。ただし、いったん必要が生ずれば、庇護の役に当たるつもりなのはもちろんである。ほかの三人のうちで座頭役を勤めていたのは、かのパヴリーシチェフの息子と呼ばれる屶である。もっとも、自分ではアンチープ・ブルドーフスキイと名乗りを上げた。彼は身なりの貧乏くさく無精たらしい若者で、両ひじが油でてらてらと鏡のように光るフロックに、いちばんうえまでボタンをかけたべとべとのチョッキ、どこへ行ったか影も見えないワイシャツ、とても余人には真似ができそうもないほど脂じみて、よれよれになった黒い絹の襟巻を着けている。手はろくすっぽ洗わないらしく、顔にはものすごくにきびが吹き出し、髪は亜麻のように白っぽかった。それに目つきが、しいていってみれば、罪のない傲慢な表情をしている。年かっこうは二十二くらい、やせているが背丈はあまり低くないほうである。その顔には、いささかの皮肉も自己反省も映っていなかった。それどころか、おのれの権利に対する安全な(しかもいかにも遅鈍らしい)心酔の色と、また一方、つねに『自分は踏みつけにされてばかりいる』と考えたがる、一種不思議な欲望のかげが勁いている。彼はやたらに激昂してせきこみ、どもりどもり話をするので、言葉をひとつひとつはっきりしまいまでいわないのではないか、と思われる。まるでどもりでなければ、外国人そっくりであるが、そのくせ純粋のロシヤ生まれなので。 第一番に彼のあとからついて来たのは、読者にとって顔なじみのレーベジェフの甥で、その次はイッポリートであった。イッポリートはいたって年少の、十七か十八くらいの青年で、思慮ありげには見えるが、いつもいらいらしい表情を帯びた顔には、病気の恐ろしい痕跡を印している。からだは骸骨同然にやせさらばい、青ざめた黄いろみを呈し、両眼はぎらぎらと輝き、双の頬には二つのしみが燃えるように赤かった。彼は絶えまなくせきつづけるので、そのひとことひとこと、いな、その一呼吸一呼吸にぜいぜいという響きがまじっていた。ひと目みたばかりで、肺病が極度にまで達しているものと知れた。彼の寿命もここ二、三週より長くはないらしい。彼は疲れきったように、だれよりもさきにどかりといすへ身を投げ出した。ほかの連中は入って来るときにいくぶんまごついた様子で、妙に四角ばっていたが、それでも、尊大にあたりを見まわしながら、なにかの拍子で自分の威厳を落としはせぬかと、びくびくしていたので、そうした態度は、無益で瑣末な交際上の礼儀とか偏見とか、あるいは一歩すすめて、自分の利益以外ほとんど世界のいっさいを否定しているという定評に、妙に調和しないのであった。
「アンチープ・ブルドーフスキイです」とせきこみながら、どもりどもり、『パヴリーシチェフの息子』がきり出した。
「ヴラジーミル・ドクトレンコ」とレーベジェフの甥は、まるで自分がドクトレンコであることを自慢でもするように、明瞭にきっぱりと名乗りを上げた。
「ケルレルです」と退職中尉が口早にいった。
「イッポリート・チェレンチエフ」と最後に出しぬけに甲高い声が叫んだ。
 とかくして一同は、公爵にむかい合って、一列にいすを占めながら名を名乗ると、自分で自分に元気をつけるために、帽子を左右の手に持ち換え、眉をひそめて、今にも口をきろうと身構えていた。しかし、一同はなぜか黙りこんで『おい、やっこさんだめだよ、その手は食わんぞ!』といったような、挑戦的な顔つきをして、なにやら待ち設けていた。ただだれかひとり皮切りに、なにかひとこといいだしたら、彼らはそろって一時に、おたがい同士じゃまをしながら、競争でがやがやしゃべりだすに相違ない、といったふうの気配が感じられた。

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「皆さん、皆さんがここへおいでくださろうとは、思いもよりませんでした」と公爵は口をきった。「ぼく自身もついきょうの日まで病気してたもんですから。それにあなたのお話は(と、彼はブルドーフスキイのほうへ向いて)もうひと月も前から、ガグリーラーイヴォルギン氏に委託しました。そのことは当時あなたのほうへ通知しておきました。もっとも、ぼくだって自分で親しくお話しするのを避けるわけではありませんが、ごらんのとおり、時が時ですから……どうぞぼくといっしょに別室へお運びを願いたいのです。けっしてお手間はとらしません……今ここにはぼくの友人のかたがたがいられますから、その……」
「友人のかたがた……ええ、ええ、お幾人でも、しかし失礼ですが」とふいにレーベジェフの甥が、まだあまり声は張らないけれど、おそろしく高飛車な調子でさえぎった。「失礼ですが、わたしのほうにも少々いい分がありますよ。あなたはわれわれを遇するに、もすこし丁寧であってもよかったようですね。人をボーイ部屋に二時間も待たせるなんて、あんま力でさあ……」
「それに、もちろん、ぼくだって……それに、あんなのをお華族式というんですか! それに、あんなことは……つまり、あなたは将軍気取りなんですね! ぼくだってなにもあなたのボーイじゃありまぜんよ! それにぼくは、ぼくは……」といきなりアンチプ・ブルドーフスキイが、なみはずれた興奮のていでいいだした。屈辱に堪えぬかのごとく声をふるわし、くちびるをぴくぴく動かし、口から泡を飛ばす様子は、まるでからだが破裂するか、あるいは、ちぎれてけし飛びでもしたようである。しかし、にわかにかっとせきこんだので、もう十こと目くらいから、何をいってるやらわからなかった。
「それがお華族流というのだ!」甲高いひびの入ったような声でイッポリートが叫んだ。
「もしこれがわが輩のことだったら」と拳闘の先生もどなりだした。「その、つまり、直接わが輩の身に関したことだったら、わが輩がブルドーフスキイの位置に立たされたら、わが輩は身分ある紳士として……」
「皆さん、ぼく皆さんのいらしったことを、たったいま知ったばかりなんです。うそじゃありません」と公爵はふたたびくりかえした。
「公爵、われわれはあなたの友人がどんな人だろうと、けっして恐れやしませんよ。われわれにはちゃんとりっぱな権利があるんだから」とまたしてもレーベジェフの甥がいった。
「しかし、ちょっとうかがいますが、あなたはいかなる権利があって」イッポリートが今度はおそろしくぶりぶりして金切声をだした。「ブルドーフスキイの事件を、自分の友人たちに審判させようとなさるんです? われわれはあなたの友人の審判なんか、望まないかもしれないじゃありませんか。あなたの友人の審判にどれだけの価値があるかってことは、あんまりよくわかりすぎてます!………」
「ですが、ブルドーフスキイさん、もしここで話すのがおいやでしたら」と相手のこうした出かたにすくなからず驚かされた公爵は、やっと口をいれることができた。「先刻から申すように、さっそく別間へご案内しましょう。あなたがたのことはまったくのところ、たったいま聞いたばかりなんです……」
「しかし、そんな権利はありません、そんな権利はありません、そんな権利はありません!………あなたの友人なんか……もう!………」粗暴な、しかもおずおずした目つきであたりを見まわしながら、ブルドーフスキイはたどたどしくいいだした。彼は他人を信ずる心が少なく、忌避の念がつのるに従ってますます熱中し、前後を忘れてゆくのであった。「あなたにそんな権利はありません!」
 こういってしまってから、彼はぷつりと引きちぎったように口をつぐみ、赤い太い筋の浮いた、おそろしく飛び出した近視の目を丸くしながら、全身を前へ乗り出すようにし、もの問いだけに公爵を見すえた。公爵はこれにすっかり面くらって、自分まで黙りこんでしまい、同じく一語も発せず、目を丸くして相手をながめていた。
「公爵!」ふいにリザヴェータ夫人が呼びかけた。「さあ、これを今ここで読んでごらんなさい、今すぐに、これはあんたに直接関係があります」
 彼女はせかせかと一枚の週刊滑稽新聞を突き出して、とある文章を指さした。これはまだ客人たちが入ったばかりのとき、レーベジェフが前からなんとかしてご機嫌をとろうと苦心していた将軍夫人のそばへ、そっと横のほうから馳せ寄って、ひとことも口をきかずにポケットからこの新聞を引き出し、しるしの付けてある一欄を指さしながら、夫人の目の前へ突きつけたのである。リザヴェータ夫人は手早く目を通して見たが、ひとかたならず驚いて激昂した。
「ですが、音読でないほうがよかありませんかしら」と公爵は狼狽して、おどおどいいだした。「ぼくひとりで読みたいんですが……のちほど……」 
「じゃ、いっそおまえさん読みなさい。今すぐ、声を出して!」夫人は、いらだたしげに、公爵がやっと手を触れたばかりの新聞をひったくると、コーリヤに向かってこういった。「さあ、大きな声で、ひとりひとりにきこえるように」
 リザヴェータ夫人は熱して夢中になりやすいたちの人であったから、どうかするとろくろく考えもせずにばたばたと、まるで天気模様も調べずに錨を上げて大海へ乗り出すようなことをするのも、珍しくなかった。イヴァン将軍は不安そうにもじもじしていた。しかし、ちょっといっとき、一同はわれともなく静まりかえって、不思議そうに待ち設けていた。コーリヤは新聞を広げて読みにかかった。レーベジェフはかけよって場所を教えてやった。

『プロレタリヤと成金』
  連日白昼に行なわれる強盗事件の一実話!
  進歩! 改革! 正義! 公平!

「奇々怪々なる事件が、いわゆるわが神聖なるロシヤにおいて、行なわれつつある。しかも、それは現代改革のとき、会社企業の盛んなるとき、国民的自覚のとき、年々数億の正貨が外国へ流出するのとき、工業奨励のとき、労働者の手を必要とせざるとき等々、……いや、いくら数えても数えきれることでない。読者諸君のお許しを得て、いざ本題にとりかかろう。
「今回ここに生じた一つの奇談というのは、ほかでもない、わが国では、もはや過去の遺物たる地主仲間(de profundis!)(深き底より――ラテン語)の子孫のひとりに関するものである。もっとも、地主仲間の子孫とはいい条、これはなかなか曰くつきな代物で、祖父はルーレットできれいに財布の底をはたき上げ、おやじは仕方なしに軍隊に入って、見習士官か少尉を勤めたあげく、罪のない官金費消かなにかで裁判に付せられ、営倉の中でおだぶつになってしまう。すると、子供らはこの物語の主人公と同様印館でなければ、刑法上の罪に問われるようなとんでもないことをしでかす(しかし、こんなのは陪審員たちが、大いに啓発して改心させたらいい、などと弁護してくれるが)。それから、さらにひどいのになると、めくらめっぽうなことをしでかして世間の人の度胆を抜き、それでなくてさえいいかげんけがらわしい現代に恥の上塗りをする、とまあいったふうな連中のひとりなのである。
「この話の主人公は半年ばかり前、足には外国ふうのゲートルをはき、寒中に裹もついてない外套にくるまってぶるぶるふるえながら、今まで白痴の療治(sic!)に滞在していたスイスから、ロシヤの国へと帰って来た。うち明けたところ、先生なかなか運のいい男である。というのは、例のスイスで癒して来た、と称するおもしろい病気(が、いったいばかを直すことができるものかどうか、諸君、考えてみたまえ?!!)のことはいうにも及ばず、『ある種の人々はつねに幸福なり(馬鹿には幸運がめぐって来る)』というロシヤの格言を、一身に体現したと申すも過言ではない。思ってもみたまえ、おやじは中尉であったが、中隊の金をちょろりとカルタにつぎこんだせいか、あるいは余計に部下のものをなぐりつけたためか(ご承知のとおり、昔はみなそんなものだった)、なにかの事件で裁判沙汰になっているうちに死んでしまった。ところが、この男爵はほんの赤ん坊のころおやじに死に別れてから、あるロシヤの富裕な地主におなさけで引き取られることになった。
「このロシヤの地主は、――かりにPと呼んでおこう、――以前の黄金時代には四千人の農奴の持ち主だったが(農奴!この言葉の意味がわかりますか、諸君! ぼくにはわからん。ひとつ詳しい辞書でも調べてみなくちゃならん。『神代の話じゃないけれど、やはりほんとうになりかねる』(クリポエードフ『知恵の悲しみの中の句』)だ)、察するところ、夏は温泉、冬はパリの花屋敷で、のんき至極な暮らしをし、そんなところに数えきれぬほどの金をまき散らす、ロシヤ式のらくら者の仲間らしい、すくなくとも、農奴の年貢の三分の一はシャトー・ド・フルールの経営者のふところへ収まった、とだけはたしかにいいきることができる(シャトー・ド・フルールの持ち主こそあやかり者なれだ!)
閑話休題、裕福なPはみなし児の男爵を王子同様に育てた。家庭教師や女教師を(それもむろん、渋皮のむけたのばかりに相違ない)、ついでのときに自分でパリから連れて来た。が、一門のうち最後にひとり生き残った華族の忘れがたみは白痴であって、シャトー・ド・フルール式家庭教師はいうこうお役に立たず、わが男爵は二十の年まで、どこの国語でも話一つすることができなかった。わがロシヤ語もむろんその例外とはならぬのだ。もっとも、ロシヤ語の件はとがめだてすることもない。ついにP氏の地主らしい胸に一つの妄想が浮かんで来た。つまり、スイスでなら白痴に知恵をつけることができるというのであった。しかし妄想とはいえ、なかなかこれは論理的で、なまけ者の物持ちが、金さえ出せば知恵だって市場で買える、ましてスイスでなら買えないはずはないと思ったのは、まことに自然なことである。スイスのさる博士のもとで五年ばかり療治してもらったが、もちろん白痴が利口になるはずはない、その間には幾千という金が出て行った。一説には、それでもどうやら人間に似て来たということだが、いいかげんなできそこないなのは申すまでもない。
「ところが、ふいにP氏が頓死した。遺言なぞはむろんない。あとはお定まりの乱脈、山ほどの相続人がてんやわんやに名乗り出たがその連中にしてみれば、おなさけで、スイスくんだりまで行って療治してもらっている一門最後の忘れがたみなどは、どうなろうとかまったことではない。忘れがたみ先生、ばかとはいい条、博士を欺して恩人の死去を隠し、二年間ただで療治をしてもらったという。さりながら、この博士というのがしたたかな食わせ者だから、とうとう金のないのに、というより、二十五歳の居候の健啖に恐れをなして、自分の古いゲートルをはかせ、よれよれの外套を着せ、お慈悲に三等の汽車賃をくれてnach Russland(ロシヤヘ向けて――ドイツ語)スイスから『おととい来い』とほうり出した。
「どうやら運というやつが、わが主人公に背中を向けた塩梅式だが、おっとどっこい、さにあらず。飢饉をもって数県の人民を瀕死の状態におとしいれた運命は、自分の贈り物を一時にこの男爵の上へ浴びせかけた。例のクルイロフの寓意詩の夕立雲が、からからにかわいた野の上を走り過ぎて、大洋の上にくずれ落ちた、というのにさも似たりではないか。この男がスイスからペテルブルグへ出て来るとほとんど同時に、モスクワにいる母かたの親戚が死にかかっていた(母親というのは、もちろん、商家の出たので)。それは年寄った子供のない商人で、髯むくじゃらな分離派教徒だが、これが正真正銘のりっぱな現金で、何百万という遺産を置き土産にして行こうというのだ(読者諸君、おたがいにあやかりたいものではないか!)この金がそっくり例の忘れがたみ先生のものとなった、この金が、スイスで削綰の療治をしてもらった男爵殿のものになったのだ! すると、早速、まわりの人たちの調子がころりと違って来た。かつてはゲートルばきで、ある有名な美人妾のあとを追っかけようとした男爵のまわりに、とたんに友人や親友がうようよ集まって、親戚と名乗る者さえ出て来た。それに、なによりうらやましいのは名門の令嬢たちが結婚を求めて、山のごとくに慕い寄るという一条である。じつに結構なることどもで、貴族、百万長者、白痴、にうした特質をことごとく一身に具備している花婿は、提灯つけてさがしても見つかるまい、別あつらえでも作れまい……」
「それは……それはいったいなんのことです? わたしにゃさっぱりわからん」とイヴァン将軍は極度の憤慨にがられて叫んだ。
「コーリャ君、よしてください!」公爵は哀願するような声でいった。
 叫び声が四方からおこった。
「読みなさい! どうあっても読まなくちゃなりません!」
 一生懸命に自分をおさえようとするかのさまで、リザヴェータ夫人はこうさえぎった。「公爵、もしあんたが読むのをやめさせれば、わたし喧嘩しますよ」
 いかんともせんすべがないので、コーリャは興奮してわくわくしながら、顔を赤くして、ふるえ声で読みつづけた。「さてわが一夜漬けの大富豪が、いわゆる天にも昇ったような心持ちでいる間に、まったく寝耳に水とでもいうべき一事が出来した。ある日、とつぜんひとりの紳士が彼のもとへ訪れた。この紳士は落ちつき払った厳めしい顔つきをし、服装はあえて流行を追わぬ上品なものであった。慇懃で威厳かあり、しかも道理にかなった言葉には、明らかに進歩的な思想のかげがひらめいていた。紳士はごく手短かに来意を告げた。それによると、この紳士はある有名な弁護士で、ひとりの青年に一事を託され、その代理として訪問したのだ。この青年というのは、別な苗字を名乗ってはいれど、亡きP氏の正真正銘の息子にほかならぬのだ。
「多情なるP氏は若気のあやまちで、正直な貧しい召使の一少女をそそのかしたことがある。召使といってもヨーロッパふうの教育は受けていた(もちろん、農奴制時代の地主さまの威光でできたことだが)。けれども、この関係がたちまちにして例の避くべがらざる結果をもたらしたのを認めると、P氏は娘をさる職人、というよりは、むしろ某処の勤め人に大急ぎで縁づけてしまった。これは生来正直な男で、もうずっと前からその娘に恋していた。はじめのうちは、P氏も新夫婦に扶持をやっていたが、正直な亭主は間もなくその助力を断わった。しばらくたつうち、P氏はだんだんとその娘のことも、その娘に生ませたわが子のことも、とんと忘れてしまって、その後なんらの処置をも取らず亡き人となったのである。
「そうこうしているうちに、その子供は、正当な結婚をした夫妻のあいだに生まれ、夫なる人の寛大な性質のおかげで、本当の息子ということにしてもらって、他姓を名乗って大きくなったのである。とかくするうち、義理ある父はあの世の人となったので、彼は貧しい財産と足の立たぬ病身な母親をかかえて、遠い田舎に取り残された。彼は憤然起って都へ赴き、商人の家の家庭教師となってその日その日の糧を儲け、最初は中学に、やがてある有益なる講義の傍聴生となって、高遠の目的に資したのである。しかし、ロシヤ商人の家庭教師を勤めて、一回十コペイカくらいもらったところで、どれだけの収入があろう。それに、遠い田舎には病身な母親がいて、これも容易に死んで息子の足手まといをとこうとはせぬ。ここで一つの問題というのは、かの忘れがたみ先生は道義上なんと判断すべきであるか? 読者諸君、諸君はもちろん、このにわか分限が次のように独りごちたと考えられるであろう。
『おれは一生涯、P氏からあらゆるものを賦与せられた。教育、家庭教師の招聘、スイスでの白痴療法などのために幾万という金を費やした。ところで、おれはいま数百万の財産の所有者であるのに、P氏の高潔なる息子は、自分では毛頭あずかり知らぬ軽薄にして忘れっぽい父の所行のために、家庭教師などをして飢えに瀕している。おれのために費やされたものの全部は、道義上ことごとくその息子に返さねばならぬ。おれのために浪費されたかの莫大な金高は、じっさいのところおれのものではない。これは単に運命の神の錯誤であって、あの金は当然P氏の息子に属すべきだ。この人のために使用されるべきものだったのだ。それがおれのために費消されたのは、要するに、軽薄にして忘れっぽいP氏の空想的な欲望の所産にすぎない。で、もしおれが非常に高潔でデリケートで正直な男だったら、おれは自分の財産を等分して、この息子にやるのがほんとうだろう、けれども、おれはあまりに打算的な人間だし、それにこの事件があまり法律的でないことが見えすぎるから、財産の半分をやるわけにはゆかぬ。けれど、P氏がおれの白痴に費消してくれた幾万ルーブリかの金すら返さないのは、こりゃまたあまり卑劣で恥しらずというものだ(成金君は「あんまり打算的でなさすぎる」とつけたすのを忘れたのだ)。じっさい、この問題はただ良心と道義の問題だ。もしP氏がおれを引き取って養ってくれず、そのかわりに自分の息子のことを心配したとすれば、おれはそもそもどうなったか?』と。
「ところが、読者諸君よ、大違い! わが忘れがたみ先生は、そんなふうの考えかたをしない。この青年の弁護士は単に友誼のため、進まぬ青年を無理やりに説き伏せて、事件を引き受けたのだが、弁護士が、どんなに名誉、廉潔、道義、さては単なる利害関係からして、彼の果たすべき義務を諄々と説き諭しても、スイスがえりの成金先生は、いっかな耳を傾けようとしない。が、これはまあ仕方がないとしても、ここに一つ、じっさいなんとしても、ゆるすべからざる、またいかなる奇病を楯にとっても許すべからざる事実がある。やっと恩師のゲートルを脱いだばかりの百万長者は、家庭教師の勤めに骨身を削っている高潔な青年が、けっしてなにもお恵みや扶助金をこうているのではなく、ただただ法律的ではないまでも自己の当然の権利を請求している、――いな、自分から請求しているのではなくて、友人たちが彼にかわって奔走しているにすぎないという、きわめて単純な事情さえも会得しないではないか。
「自分の譲り受けた何百万かのおかげで、人からうしろ指さされず弱い者を金で圧しつけることができるようになったのが、嬉しくてたまらぬといったふうな、さもえらそうな顔つきで、成金公爵は五十ルーブリ紙幣を取り出して、傲慢にも贈り物という体裁で心情高潔なる青年に突きつけたのだ。読者諸君、なんとこれがほんとうと思われようか! 諸君はさだめし悩乱憤怒して、憤怒の叫びを挙げられることだろう。けれど、じじつこの成金はそれをあえてしたのだ。むろん、金はすぐに返してしまった。いわゆる、しゃっ面へたたきつけたのである。ああ、いかにこの事件は解決されるだろうか? もちろん、これは法律上の問題で。はないから、残るところただ公衆の批判を仰ぐばかりだ。われわれはこの奇談をおおかた諸賢に訴うるに当たって、その正確を保証するにはばからぬ。うわさによれば、現今名声嘖々たるユーモア作家がこの事件を驚嘆すべき一つの寸鉄詩に作って、自分の意見を発表したそうである。しかも、その詩たるや、単に地方のみならず、都会新聞の風俗欄において、顕著なる位置を占むべき価値があるとのことである。左に紹介する。

  『レフはシナイデルの外套を
  五年のあいだおもちゃにし
  月なみしごくな紋切り型で
暇をつぶしていたりけり
窮屈そうなゲートルで
帰ればすぐに百万の
金が手に入る嬉しさに
ロシヤ語で祈りは上げたれど
貧乏書生の金ぬすむ』」
 *原注=忘れがたみの君の名 **原注=スイスの医者の名

 コーリャは読み終わるやいなや、大急ぎで新聞を公爵に波して、ひとことも口をきかずに片隅へ走って行き、ぴたりと壁に身を押しつけ、両手で顔を隠した。まだ世の中のけがれになれない、子供らしく感じやすい彼の心は、過度にかき乱されたのである。彼はなにかしら恐ろしい、いっさいのものを転倒してしまうようなことがおこったのを感じ、しかもいま自分が声高にこの記事を朗読しただけで、りっぱに自分がその事件の原因を構成したもののように思われた。
 しかし、一座の人もことごとく、それに似通った気持ちを感じたらしかった。
 令嬢たちはおそろしくばつの悪い、恥ずかしい思いをした。リザヴェータ夫人は心中の激しい憤怒をおさえつけながら、同じくこんな事件に口を入れたのを、ひどく後悔している様子であった。もう彼女はかたく口をつぐんでしまった。公爵はどうかというに、あまり遠慮ぶかすぎる人がこうした場合に経験すると同じ感じを味わわされた。他人の行動、若い客人たちのふるまいを、わがことのように深く恥じ入った彼は、最初その人たちの顔を見るのさえ恐ろしかった。プチツィーン、ヴァーリャ、ガーニャ、おまけにレーベジェフまでが、なんとなくとほうにくれたような顔つきをしていた。が、なにより不思議なことに、イッポポリートと『パヴリーシチェフの息子』さえも同様に、なにかびっくりしたように見受けられたし、それにレーベジェフの甥もなにやら不満げな風つきであった。ただひとり拳闘の先生だけは、鹿爪らしい顔をして髭などひねりながら、落ちつき払って構えこんでいた。いくぶん伏目がちにしているのも、けっしてきまりが悪いからではなく、味方の大勝利があまりに見えすいているので、敵を気の毒に思う上品な慎しみのためらしかった。この記事がおそろしく彼の気に入ったことは、万事につけてありありと見えている。
「これはまあ、いったいなんというこった」とイヴァン将軍は低い声でぶつぶついいだした。「まるで下司なボーイ連が五十人も集まって、いっしょに作ったような文章だ」
「閣下、失礼ですが、ちょっとうかがいます。あなたはそんな想像をたくましゅうして、ぼくらを侮辱しようとなさるんですね」こうきいたイッポリートは、体じゅうぴりぴりふるわした。
「それは、それは品位ある紳士のご身分として……ね、そうじゃありませんか、将軍、かりにも品位ある紳士の言として、あんまり無礼じゃないですか!」となぜか同様に身震いして、口髭をひねり上げたり、両肩から胴体までぴくぴく動かしながら、拳闘の先生はうなるようにいいだした。
「だいいち、わたしはきみがたに閣下などといわれる覚えがない。また第二に、わたしはきみがたに一言たりとも弁明の労をとろうと思わん」おそろしく激昂したイヴァン将軍は、ぶっきらぽうにこう答えて席を立ち、一語も発せず露台の出口のところまで身をひくと、一同に背を向けて階段の一番上に立ちどまった。彼はリザヴェータ夫人が座を動こうともしないのを、たまらなく腹立たしく思った。
「皆さん、皆さん、どうぞいいかげんにして、ぼくにひと口いわしてください」胸の憂悶と擾乱を声に響かせつつ公爵が叫んだ。「そして、お願いですから、おたがいにとっくり了解し合うことができるように、話をしようじゃありませんか。皆さん、あの新聞記事のことについては、ぼく平気です、かまいません。ですが、あの中に書いてあることは、すっかりでたらめです。ぼくは、皆さんもそのことをよくご承知だからこういうのです。まったく恥ずかしいくらいじゃありませんか。こういうわけですから、もし万一この文章を、皆さんのうちどなたかがお書きになったとしたら、ぼくはただ驚くほかありません」
「ぼくはたった今のいままで、この記事のことを知らなかったのです」とイッポリートは明言した。「ぼくもこの記事には感服できません」
「わっしゃ書いたのは知っていましたがね、しかし……やはり印刷するということには賛成したくなかったですよ、まだ時期が来ないからなあ」とレーベジェフの甥はつけ足した。
「ぼくは知っていました。けれどもぼくには権利があります……ぼくは……」と『パヴリーシチェフの息子』は早口にいいだした。
「え! じゃ、これはすっかりきみが自分で作ったのですか」と公爵は好奇の色を浮かべながら、ブルドーフスキイを見つめた。「まさか、そんなことが!」
「しかし、あなたはそんなことをきく権利があるんですかね?」とレーベジェフの甥が割りこんだ。
「だって、じっさいおどろかずにいられないじゃありませんか、ブルドーフスキイ君がこんな思いきった……いや……その、ぼくのいいたいのは、あなたがたがこの事件をこうして世論に訴えられた以上、さっきぼくが友人がたの前でそのことをいいだしたとき、なんだってあんなに腹をお立てになったのです?」
「そこですよ!」とリザヴェータ夫人はいまいましそうに叫んだ。
「もし、公爵、しっかりしてくださいまし」もうたまりかねたレーベジェフは、まるで熱にでも浮かされたような調子でこういいながら、いすのあいだを縫って前へ出た。「お忘れなすっちゃいけませんよ、あいつらをここへ通して、言い分を聴いておやりになっただけでも、やつらには過ぎた好意だったのです。なんの、あいつらに権利なぞあってたまるもんですか。まして、この事件をガヴリーラさんにすっかり委任なすったとおっしゃいましたが、そうしてみれば、なおさらもって不都合なことです。それだって、公爵さまがなみなみならんおなさけでそうしてくだすったのだと、ありがたく思わなけりゃならんはずだのに。さあ、公爵さま、せっかくりっぱなお客さまがたがいらっしゃいましたのに、こんな連中のために時間をおつぶしなさるという法はありません。こんな連中はどしどし玄関口からつまみ出したらいいじゃありませんか。わたくしは亭主役にひとつよろこんで……」
「まったくそうだよ!」と家の奥のほうからイヴォルギン将軍の声が響きわたった。
「レーベジェフさん、たくさんですよ、たくさんですよ……」と公爵がいいだしたが、憤懣の声が破裂するようにおこり、彼の言葉をもみ消してしまった。
「いや、公爵、失礼ですが、今はけっしてたくさんどころの騒ぎじゃありませんぜ」ほとんど一同の声を圧倒するくらいな高調子で、レーベジェフの甥がどなった。「このさい、大いに事件をはっきりと、そしてしっかりと確定する必要がある。どうも合点がまいらないようですからね。まったくこの事件には、法律的に引っかかるところがあるもんだから、そこをつけこんで、わっしたちを玄関口からたたき出そうというんですね! 公爵、あなたはいったい、この事件がぜんぜん非法律的で、もし法律的にせんさくしたら、われわれは一ルーブリたりとも、あなたから請求する権利がない、というくらいなことがわからないような間抜けだと考えてるんですか? はばかりながら心得てまさあ。けれどもね、よしんば法律上の権利はないにしてからが、そのかわりにゃ人道的、自然的な権利を持ってますよ、常識の権利、良心の声があるんでさ。こうしたわれわれの権利は、人間のこしらえたけがらわしい法典なんかにゃ、けっして載ってはいますまいよ。しかし、清廉潔白な人士、言葉をかえていえば、つまり常識ある人士は、法令に書いてないような点においても、つねに清廉潔白たるべき義務があります。わっしたちが玄関口からつまみ出される(あなたは今こういっておどかしなすった)のも恐れず、また、こんなに遅くお訪ねするのは重々失礼だと知りながら(もっとも、わっしたちは、そう遅く来たわけじゃないんですがね、あなたがボーイ部屋へお待たせなすったんですよ)、わざわざこちらへやって来たのは、ただわれわれが無心などしてるのじゃなくって、要求すべきものを要求しているのだ[#「無心などしてるのじゃなくって、要求すべきものを要求しているのだ」に傍点]と思うからです。くどいようですが、わっしたちが何ものも恐れずにやって来たのは、あなたを常識のある人、すなわち良心と廉恥のある人だと敬うからこそですよ。じっさいわっしたちはさっき、居候か無心者みたいに、びくびくもので入っては来なかった、自由不羈の人間として昂然と入って来ました。けっしてけっして無心なんかに来やしませんよ、誇りに満ちた自由な要求を持って来たんです(ようござんすか、無心じゃなくて要求に来たんですぜ、よく頭の中へたたきこんでください!)われわれは品位ある人間として、あなたに手づめの問題を提出します。あなたはこのブルドーフスキイの件について自分を正当と思いますか、不正と思いますか?・ あなたは自分がパヴリーシチェフ氏に恩を受けた、いや、あるいは死ぬところを助けてもらったことを認めますか?・ もし認めるとすればですね(わかりきったことですが)、あなたがすでに巨万の富を得た今日、貧困に苦しんでるパヴリーシチェフ氏の子息に(目下ブルドーフスキイと名乗ってはいるけれど)、故人の恩に報いようというお考えですか、いや、良心に照らして、そうするのを正当とお思いですか? 諾か否か? もし諾[#「諾」に傍点]ならば、つまり、あなたがたの言葉で名誉とか良心とかいい、わっしたちが、もういっそう正確な『常識』なる名称によっていい表わすものが、あなたの心中にあるならばですね、すぐわれわれの要求をおいれなさい、それでけりがついちまいまさあ。しかし、いれなすったからって、わっしたちはなにも強いてお願いするんじゃないから、べつにお礼なんかいいませんぜ。そんなものをあてにしてもらっちや困りますよ。なぜって、あなたがそうするのは、けっしてわっしたちのためじゃなくって、正義のためですからね。もしあなたがわれわれの要求をいれぬとおっしゃれば、つまり否[#「否」に傍点]とおっしゃればですね、われわれはすぐに帰ります、それでこの事件もおしまいでさあ。しかし、われわれはあなたの友人がたがおいでの目の前で、あなたのことを頭脳の粗笨《そほん》な、発達の低級な人だといいますぜ。そしたら、今後あなたは、廉恥あり良心ある人間と名乗るわけにいきませんよ、そんな権利はありませんよ。この権利を安あがりで手に入れようたって、そうは問屋がおろしませんさ。わっしのいい分はこれっきりです。問題はこれで確定しました。もし元気があれば、玄関口から追ん出しなさい。しようと思えば、それくらいのことできますよ、あなたは権利を持ってます。ですが、いずれにしても覚えててください、わっしたちは要求するので、無心とは違いますぜ。要求するんです、無心じゃありません」 レーベジェフの甥はすっかりのぼせあがって、こう言葉を結んだ。
「要求するんです、要求するんです。要求するんです。無心じゃありません……」ブルドーフスキイはまわらぬ舌を動かして叫び、蝦のように真っ赤になった。 レーベジェフの甥が気焔を吐き終わったとき、一座の人々はなんとなく色めきわたって、中には憤慨の語気をもらす者さえあった。しかし一同はそれでもやはり、かかり合いになるのを避けようとしているらしかったが、レーベジェフだけは例外で、彼はまるで熱にでも浮かされているようであった。(不思議なことに、レーベジェフは、疑いもなく公爵に味方しているにもかかわらず、いま甥の演説を聞いて、なんとなくこんな場合に身内の人がよくいだくような、一種の誇りがましい満足を味わった。たとえそうでないまでも、すくなくとも、なみなみならぬ満足らしい顔つきで、一同を見まわしたのである)。
「ドクトレンコ君」と公爵はかなり穏かな調子で言いだした。「ぼくの考えでは、きみのいまいわれたことは、半分くらいぜんぜん事実です、いや、大半事実だといってもいいくらいです。で、もしきみのお言葉になにか抜けたとこがなかったら、ぼくはまったくきみと同意見なのでした。しかし、いったい何が抜けていたかときかれたら、ぼくも的確にそれをいい表わすことができません。しかし、ぜんぜん真実だと言うには、きみの言葉にはもちろん、なにか不十分なところがある。が、いっそてっとり早く仕事にかかりましょう。ひとつ皆さんにおたずねしたいのは、なぜこんな記事を新聞に載せたんです。だって、この中の一語一語みんな罵詈讒謗じゃありませんか。ぼくに言わせれば、あなたがたのやりかたは、はなはだ陋劣です」
「ちょっとお待ちなさい……」
「あなた!………」
「それは……それは……それは……」などという声が、激昂した若い客人たちの間からいっせいにおこった。
「その記事のことなら」と、イッポリートが甲高い声で口を入れた、「その記事のことなら、ぼくもほかの連中もけっして賛成しないって、もうさっき申しあげたじゃありませんか。それを書いたのは、ほら、この男です(と彼はならんですわっている拳闘家を指さした)。書きかたはいかにも無作法千万です。この男と同じ退職士官の使いそうな文句をいっぱいいれて、いかにも無学らしい書きかたです。この男がばかのうえに職人根性だってことは、ぼくも異存ありません、それは毎日むきつけにいってやることです。が、それにしても、やはりこの男にもいくぶんの権利はあります。公開ということは法によって認可された各人の、したがってブルドーフスキイの権利です。また愚にもつかんことを書き立てたのは、この男が自分で責任を負いましょうよ。それから、ぼくがさっき一同を代表して、あなたの友人がたの同席を拒んだ件に関しては、ぜひとも皆さんがたに申し開きしなけりゃなりません。ぼくが抗議を申しこんだのは、単にわれわれの権利を主張するためにすぎなかったのです。じっさいをいえば、われわれはむしろ立会人のあるほうを望みます。それはまだここへ入る前から、皆で決めたんです。あなたの立会人がだれであろうと、よしや友人であろうと、かならずやブルドーフスキイの権利を認めないわけに行かんでしょうからね(じじつ、それは数学的に明瞭なんですもの)。その立会人があなたの友人だとすれば、なおさら結構です。事実の真相がますますあきらかになるわけですからなあ」
「ほんとうですよ、わっしたちは、そう決めてたんでさあ」とレーベジェフの甥は念を押すようにいった。
「じゃ、なんだってさっき口をきるかきらぬうちに、ああどなったり騷いだりしたんです、そうきめてやったのなら!」と公爵はあきれてきいた。
「公爵、あの記事のことですな」と拳闘の先生が割って入った。見受けたところ、さきほどからひと言なかるべからずとむずむずしていたらしく、元気のいい愉快そうな訓子であった(それは婦人たちの同席がだいぶきいたのではないかとも疑われた)。「あの記事はじつのところ、わが輩が作者です。イッポリートは今あれをくそみそに罵倒したですが、なに、わが輩はあの男が病気で衰弱しきってる事情を酌量して、なんといっても黙許してやることに決めてるです。しかし、わが輩はこの文章を自分で作って、莫逆《ばくぎゃく》の友のやってる雑誌に通信という体裁で掲載しました。ただ詩だけはじっさいわが輩の作じゃなくって、ある有名なユーモア作家の筆にかかるものです。プルドーフスキイにはたった一度通読して聞かせ
たが、それも全部じゃありません。そして、すぐに掲載の同意を得たんです。ただし、ちょっとご承知を願いたいのは、たとえ同意がなくたって、わが輩は掲載を断行する決心でいたです。公開ということは一般に認められたりっぱな高尚な権利です。ねがわくば公爵ご自身も進歩的な人であって、この事実を否定しないでいただきたいものですな」
「ぼくなんにも否定などしやしません。けれど、考えてもごらんなさい、あなたの文章は……」
「猛烈だとおっしゃるんですか? だが、あの文章は、いわゆる社会の利益ということを眼目にして書いたもんだから、こういう機会を逸するわけにいかないじゃありませんか?もちろん、それは悪いことをした当人にとっては、大いに都合がわるいに相違ないが、社会の利益ということがまず第一ですからなあ。またあの記事の中にある若干の誤謬、といっても一種の誇張法にすぎんですが、あれはつまり、当然ながら、一文の動機たる主旨目的に重きをおいたからです。大切なのはその公明正大なる態度にあるんだから、瑣末な枝葉の点はあとでゆっくり調べたらいいです。それに、いま一つ文章の調子というものがあるし、また、なんといったらいいか、諧謔という別途な目的もあるし、それに――、だれでも皆あんなふうに書くじゃありませんか、ねえ、そうでしょう! はは!」
「しかし、その方法がぜんぜんまちがっていますよ! 皆さん、ぼくは誓って申します」と公爵は声を励ました。「あなたがたは、ぼくがどうあってもブルドーフスキイ君の要求を
いれぬものとして、あの記事を掲載されたのです。つまり、それでもってぼくをおどかして、腹いせしようがためなんです。しかし、何を根拠としてそんなことを決めました? もしかしたら、ぼくはブルドーフスキイ君の要求をいれようと、とっくに決心してるかもしれないじゃありませんか。いや、今こそばくは皆さんの前で宣告しますが、ぼくはじっさいそうするつもりです……」
「ああ、それでこそ、もののわかった潔白な人の言葉です。潔白なもののわかった言葉です!」と拳闘の先生が歓呼の声を上げた。
「まあ、なんという!」とリザヴェータ夫人が覚えず叫んだ。
「もうお話にならん!」とイヴァン将軍はつぶやいた。
「お静かに、皆さん、お静かに、ぼくがことの顯末をお話ししますから」と公爵は哀願するように言った。「五週間ぽかりまえ、ぼくがZにいる時、チェバーロフというブルドーフスキイ君の代人がやって来ました。ケルレル君、きみはたいへんひいき目にあの男の描写をなすったが」ふいに笑いだしながら、公爵は拳闘の先生に向かっていった。「しかし、ぼくはまったくあの男がいやでした。ひと目見たばかりで、このチェバーロフが事件の張本人で、それに、少々ぶしつけないいかたですが、この男がブルドーフスキイ君の正直なのを利用して、こんな事件をはじめるように知恵をつけたのかもしれない、とこう見てとりました」 「あなたはそんなことを口にする権利はありません……ぼくは正直じゃない……それは……」とブルドーフスキイは興奮して、どもりどもりいいだした。
「あなたにそんな臆測をする権利はすこしもありませんよ」とレーベジェフの甥が諭《さと》すような調子でくちばしをいれた。
「これはじつに無礼きわまる!」とイッポリートが黄いろい声で叫んだ。「じつに無礼な、見当ちがいな臆測だ」
「ごめんなさい、皆さん、ごめんなさい」と公爵はあわててわびをした。「どうぞおゆるしください。これは、ただおたがいにすっかり胸襟を開いてしまったほうがよくないかと思ったから、いってみたまでのことです。しかし、どうともご随意に。で、ぼくはチェバーロフに向かって、自分はこのとおりいまペテルブルグの町にいないのだから、さっそく友達に頼んでこの事件を処理してもらいましょう、といったのです。で、ブルドーフスキイ君、その結果は今お知らせしますよ。うち明けたところを申しますとね、皆さん、ぼくはこの事がひどく詐欺じみたものに思われたのです。なぜなら、そのときチェバーロフが……ああ、そうご立腹じゃ困りますよ、皆さん、後生だから腹を立てないでください!」と公爵はびっくりして叫んだ。またしてもブルドーフスキイが憤懣の色を示し、仲間の人たちも気色ばんでがやがや騒ぎだしたのである。「ぼくがこの事件を詐欺じみてるといったからって、なにも皆さんに直接の関係はないじゃありませんか!まったくそのときぼくは皆さんのうちどなたにも、親しくお目にかかったことはなく、おまけに名前すら知らなかったんですものね。ぼくはただチェバーロフひとりについて判断したんですよ。ぼくのいうのは一般的なことなんです。というわけは、皆さんご承知ないかもしれませんが、あの遺産を譲り受けてからというもの、ぼくはずいぶん人からだまされました!」
「公爵、あなたはおそろしく正直ですね」とレーベジェフの甥は注意した。
「それでいて、公爵で百万長者だとさ! ねえ、公爵、あなたは、ほんとうに善良で正直な心を持っておいでかもしれませんがやはり、万人共通の法則を免れることは、むろんできませんよ」とイッポリートは宣告するように言った。
「かもしれません、大きにそうかもしれません」と公爵はせきこんで、「もっとも、きみのおっしゃる万人共通の法則とは、はたしてどんなものか、よくわからないですがね。しかし、つづけてさきを申します。ただし、つまらんことに腹を立てないでください。誓って申しますが、ぼくは微塵もあなたがたを侮辱しようなんて気はないんですからね。ですが、皆さんはまあいったいどうしたというのでしょう。あなたがたは、ひと口でもほんとうのことをいおうもんなら、すぐ腹をお立てになるんですもの! ところで、まず第一に、ぼくが驚いたのは、『パヴリーシチェフ氏の息子』なるものが存在しているということ、しかも、チェバーロフの言によると、いやはや、恐ろしい境遇で存在しているということです。パヴリーシチェフ氏はぼくの恩人であり、ぼくの父の友人であります(ああ、ケルレル君、きみはあの記事の中でひどいでたらめを書きましたね、ぼくの父のことで! 中隊の仝を費いこんだとか、部下の者を凌辱したとか、そんなことはけっしてありません。それはぼくうけ合います。よくまあ、あんな中傷を平気で書く気になりましたね!)。それもいいとして、パヴリーシチェフ氏に関するきみの記事にいたっては、じつに言語道断です。きみはあの高潔無比な人を、淫乱な軽薄漢にしてしまいましたね。しかも、きみはまるで正真正銘の真実でも語るように、思いきって大胆な、思いきって独断的な書きかたをしましたね。ところが、この人は世にも珍しい純潔なかたでした。そして、りっぱな学者でした。この人は、科学界における多くの尊敬すべき人たちのために通信員の役をつとめ、科学奨励のために莫大な金を投じたのです。またその情愛や善行にいたっては、ぜんぜんきみの書かれたとおりです。ぼくはそのころ、ほとんど白痴同様で、なんにもわからなかった(もっとも、そうは言うものの、ロシヤ語は自分で話すこともでき、人の言うのを聞きわけることくらいはできましたがね)。しかし、いま思いおこすことの数々は、ちゃんと評価することができます……」
「ちょっと失礼ですが」とイッポリートは甲高い声で、「あなたのおっしゃることは、あんまりセンチメンタルすぎはしないでしょうか。ぼくらは子供じゃありませんからね。あなたはてっとり早く事件にかかるとおっしゃいましたよ。もう九時すぎですよ、それをご承知ねがいます」
「失礼、失礼」と公爵はさっそく同意した。「最初ちょっと疑ってもみましたが、いやいや、自分だって思い違いをしたいともかぎらん、パヴリーシチェフ氏にはまったく息子さんがあったかもしれぬ、とこう考え直しました。しかし、どら