『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP337-384

「あの女[#「あの女」に傍点]と結婚するためでないってことを、お誓いなさい」
「なんでもお望みのものにかけて誓います!」
「あんたのいうことをほんとうにします。さ、わたしに接吻してちょうだい。ああ、やっとこれで自由に息がつける。だけどね、アグラーヤはあんたを愛してなんかいませんよ、だから相当の方法をおつけなさいというんです。ええ、わたしがこの世に生きてるあいだは、アグラーヤをあんたにやりゃしないから! よござんすか」
「よござんす」
 公爵は夫人の顔を正視できないほど赤くなった。
「よく聞いてらっしゃい。わたしはあんたをまるで神さまみたいに待っていました(ところが、あんたはそんなにする値うちのない人でしたよ)。そして、わたしは毎晩毎晩、涙でまくらを濡らしました、――いいえね、あんたのことを思ってじゃありません、心配はご無用ですよ。わたしにはまるで別な、いつもいつも同じ絶えまのない悲しみがあるんですの。わたしがじりじりするような気持ちであんたを待ってたのは、あんたを親友か肉親の弟として、神さまがわたしに授けてくだすったのだと、今でもやはり信じてるからです。わたしの身近かにはペロコンスカヤのお婆さんのほかだれひとりいないのに、そのベロコンスカヤのお婆さんまでよそへ逃げてしまって、おまけに老いぼれて、羊のようなばかになってるんですからね。じゃ、もう一つ簡単に『はい』とか『いいえ』とか答えてちょうだい。おとといなぜあの女[#「あの女」に傍点]が馬車の中からどなったか、知ってますか?」
「誓って申します。ぼくあのことはすこしもあずかり知りません!」
「たくさん。わたしあんたを信じます。それを聞いて、あのことについてはわたしの考えも違って来ました。けども、まだきのうの朝あたりは、なにもかもエヴゲーニイさんひとりのせいにしてたんですよ、おとといの晩と、きのうの刺とまる一昼夜! 今はむろん、あの人たちのいうことに賛成しないわけにいきません。あの人はいちばん親しみやすいばかだというので、あのときからかわれたんです、よくわかってます。しかし、どういうわけやら、なんのためやら、どんな目的があってやら、皆目わからない。(ただこれ一つだけでもうさんくさい、そしてみっともないことですよ!)とにかく、なにしろあの人にアグラーヤはあげられない、このことはあんたにちゃんと言っておきます! よしんばあの人がいい人であろうとも、わたしの心は変わりません。わたしも以前はずいぶんまよいましたが、今度という今度はたしかに決心しました。『まあ、最初わたしを棺に入れて、土の中に埋めといて、それから娘をあの人にやってください』つて、こうわたしは夫《たく》にもきょう、きっぱりいっときました。え、わたしがどんなにあんたを信用してるかわかるでしょう?」
「ええ、よくわかっています」
 リザヴェータ夫人は刺すように公爵を見つめた。もしかしたら、夫人はエヴゲーニイに関するこの報告が公爵にどんな感銘を与えるかを、見きわめたかったのかもしれない。
「ガヴリーラのことをなんにも知らない?」
「その……たくさん知ってます」
「あの人、アグラーヤと交渉があるってこと、あんた知ってましたか、どう?」
「ちっとも知りませんでした」公爵は愕然と身ぶるいした。「なんですって、ガヴリーラ君がアグラーヤさんと交渉があるとおっしゃるんですか? そんなことありようがないです!」
「つい近ごろのこってすよ。それについては、妹があの男のためにこの冬じゅう鼠のように働いて、道をつけたんですよ」
「ぼくはほんとにしません」と公爵は、しばらく黙想と動揺ののち、断固としてくりかえした。「もしそんなことがあったら、ぼくはたしかにもうそれを知ってたはずです」
「たぶんあの人が自分のほうからあんたのとこへやって来て、あんたの胸に顔を埋めながら、涙を流して自白をすると思ってるんでしょう! ええ、あんたはなんておめでたいんでしょう! なんて! 皆があんたをだましている、まるで……まるで……それに、あんたはあの男なんぞを信川して、よくまあ恥ずかしくないことだ。あの男がいつもいつもあんたに一杯くわしてるのが、いったい目に入らないの?」
「あの人がときどきぼくをだますのは、ぼくもよく知ってます」と公爵は気乗りのしない調子で小声にいった。「それに、ぼくがそれを知ってるということは、あの人も心得ているんです」と彼はいい足したが、しまいまでいわず口をつぐんだ。
「知ってて信用するって! まあ、ごていねいなこと! だけどあんたにしてみれば、それがあたりまえなんですね。たにも驚くことなんぞなかったんだ。いつでもこのとおりの人なんだから! ちょっ! あ、ところでね、このガンカか、でなければヴァーリカが、あの子をナスターシヤに手引きしたんですよ」
「だれを?」と公爵は叫んだ。
「アグラーヤを」
「ぼくほんとにできません! そんなことがあるものですか! いったいどんな目的で?」公爵はいすからおどりあがった。
「わたしもほんとうにできません、ちゃんとした証拠はあるんだけれど。まったくわがままな、空想的な、気ちがいみたいな娘だ! 意地の悪い、ほんとうに意地の悪い娘だ! 千年でも万年でも、わたしは念を押していいますが、意地の悪い娘です! うちの子はどれもこれもそろってあんなになってしまった。あの濡れしょぼけた雌鶏までが、アレクサンドラまでがそうなんです。けれど、アグラーヤだけはもう箸にも棒にもかからない。が、なんといっても、わたしはそんなことほんとにしません。しかし、もしかしたら、ほんとにしたくないと思うから、ほんとにしないのかもしれない」と彼女はひとりごとのようにつけ足した。
「なぜあんたは家へ出向いて来なかったんです?」ふいに夫人はまた公爵のほうへ振り返って、「この三日間というもの、あんたはどうして家へ来なかったの?」と、もどかしげにたたみかけて叫んだ。
 公爵はそのわけを話しかけたが、夫人はまたしてもさえぎった。
「だれも彼もみんなあんたを阿呆あつかいにして、あんたをだましてるんです! あんたはきのうペテルブルグへ行ったんですってね。きっとあんたは両ひざをついて、ぜひともあの一万ルーブリを受け取ってくれって、あの悪党にさんざん頼んだに相違ない!」
「まるでうそです、そんなこと考えもしなかったです。ぼくはあの人に会いませんでした。それに、あの人は悪党じゃありません、ぼくあの人から手紙をもらいました」
「見せてちょうだい!」
 公爵は折り鞄から手紙を取り出し、リザヴェータ夫人に渡した。手紙には次のように書いてあった。
『拝啓、ぼくは世間の目から見たら、自尊心など持つ権利は毛頭ない人間です。公衆の意見によると、そんな権利を持つためには、ぼくはあまりにもやくざな人間なのです。しかし、これは単に公衆の見解でありまして、あなたのご意見ではありません。公爵、ぼくはあなたがおそらくほかのだれよりも、すぐれた人であることを確信しました。ぼくはこの確信のためにドクトレンコと合わず、ついに彼と決裂しました。ぼくはあなたから一コペイカも頂戴しません。ただあなたが母に扶助を与えてくだすったことについては、深く感謝すべき義務があります。ただし、これはぼくの性格の弱さから出たことではありますが、とにかく、いまぼくのあなたを見る目は変わっておりますので、それをお知らせする必要が
あると考えます。なお、ぼくとあなたのあいだには、今後なんの関係もありえないものと思っています。
アンチーブ・ブルドーフスキイ
 P・S あの二百ルーブリに足りなかった金額は、そのうちに間違いなくご返済します』
「まるで寝言だ!」とリザヴェータ夫人は手紙をほうりもどしながら、断ち切るように言った。「読むだけの値うちもなかった。なんだってあんたは、そんなに、にたにた笑いをしてるの?」
「しかし、あなただってそれを読んで、嬉しかったでしょう」
「なんですって? こんな虚栄心の餌食になったようなでたらめが! あの手合いはみんな虚栄と尊大で気がちがってるのに、あんたはそれがわからないの?」
「そりゃそうですが、しかしこの人は罪をわびて、ドクトレンコとも絶交したというじゃありませんか。この人の虚栄心が強ければ強いだけ、こういう決断はその虚栄心にとって高価なものだったに相違ありません。おお、あなたはなんてちっちゃな赤ちゃんなのでしょうね、奥さん!」
「まあ、あんたはほんとうに平手打ちでも頂戴したいの?」
「いいえ、けっしてそんなつもりはありません。ただあなたが手紙を読んで喜んでらっしゃるくせに、それを隠そうとなさるからです。なぜあなたは自分の感情を恥ずかしがりなさるんでしょう? 万事につけてあなたはそうなんですよ」
「もうひと足でもわたしのほうへ寄ったら、承知しませんよ」憤怒に顔を真っ青にして、リザヴェータ夫人はおどりあがった。「これからはけっしてあんたの匂いだって、わたしめそばにこさせやしないから」
「ところが、もう三日もしたら、自分でここへいらしって、うちへ来いとおっしゃるにきまっています。ほんとうによくまあ恥ずかしくありませんね! それはあなたの優れた感情じゃありませんか、どうしてそれを恥と思いなさるんでしょう? それではあなた、自分で自分を苦しめるようなもんじゃありませんか」
「死んだってあんたなんか呼びやしない! あんたの名前も忘れてしまう! いいえ、もう忘れてしまった!」
 夫人は公爵のそばを飛びのいた。
「ぼくはあなたのおっしゃるまでもなく、お宅へあがることをさしとめられています!」と公爵はそのあとから叫んだ。
「なんですって? だれがさしとめたの?」
 彼女はピンで刺されたように、一瞬にして振り返った。公爵はやや答えをためらった。なにごころなしとはいいながら、たいへんなことを口からすべらしたと思った。「だれがあんたにさしとめたんです?」と、いきおい猛にリザヴェータ夫人は叫ぶ。
「アグラーヤさんがさしとめてらっしゃるんです……」
「いつ? さあ、聞かしてちょうだいってば!!」
「けさぼくに、けっしてお宅へあがってはならぬといってよこされました」
 リザヴェータ夫人は棒のように突っ立っていたが、なにやら思いめぐらしている様子だった。
「何をよこしたの? だれをよこしたの? あの小僧っ子にことづけして?」と、だしぬけにまた叫んだ。
「ぼくは手紙をもらいました」と公爵がいった。
「どこに? お見せなさい! 早く!」
 公爵はちょっと考えたが、チョッキのかくしから無造作に畳んだ紙きれを取り出した。それには次のように書いてあった。
ムイシュキン公爵! ああしたできごとのあったあとで、もしあなたがわたしどもの別荘を訪問して、わたしを驚かそうというお考えでいらっしゃるなら、わたしはあなたを歓迎する仲間に入りませんから、そのおつもりでいてくださいまし。
アグラーヤ・エパンチナ』
 リザヴェータ夫人はしばらく思案していたが、やがてふいに公爵に飛びかかり、その手を握ってしょびきはじめた。
「さあ、すぐ! おいで! どうしても今すぐ、さあ、早く!」ひととおりならぬ興奮と焦躁の発作に襲われながら、彼女は叫ぶのであった。
「だって、あなたはぼくを……」
「なんです? ほんとに罪のないお人好しだこと! 男ともいえやしない! さあ、今度こそわたしがすっかり見抜いてしまってやる、この二つの目で……」
「まあ、せめて、帽子だけでも取らしてください……」
「さあ、これがあんたの腐れしゃっぽです、さあ、行きましょう! ほんとに流行のものさえろくすっぽ気の利いた見立てができないんだからねえ!………これはあの子が……これはあの子が、さっきのことがあってから……甄一に浮かされて」一瞬の間も手を放さず、ぐんぐんしょびきながら、リザヴェータ夫人はつぶやくのであった。「さっきわたしがあんたの肩を持って、あの人はばかだ、あれっきりやって来ない、とそういったからだ……それよりほかに、こんなでたらめな手紙を書くわけがない! こんなはしたない手紙を? ええ、はしたないですとも、上流の、教育のある、賢い、賢い令嬢の身分として……ふむ!」と夫人はしゃべりつづけた。「それとも……それとも、ひょっとしたら……ひょっとしたら、あんたのやって来ないのがくやしくなって、しでかしたことなのかしら。ただ無考えなものだから、ばかにこんなふうに書いて見せたら、言葉どおりに取るってことを考えなかったかもしれない。ところが、案の定そうだった。あんたは何を盗み聞きしてるの?」と、思わず口がすべったのに気づいて夫人は叫んだ。「あの子はあんたのような道化がほしいんですよ、しばらく会わなかったからね、それであんたにこんなことをするんです! あの子がこれからあんたを槍玉にあげるのが、わたしも嬉しい、まったく嬉しい! あんたはそうされるのがあたりまえだ。あの子はまたそうするだけの腕があります、ええ、腕がありますとも!」

第三編

      1

 わが国には実際的な人間がいない、こういう嘆声がひっきりなしに聞かれる。たとえば政治方面の人物も多ければ、将‐軍などという人たちもたくさんいる。またさまざまな支配人など、どれだけ需要があろうと、すぐにどんな人でも見つけ出すことができる――が、実際的な人物はいない。すくなくとも、みながそういって嘆じている。人々のいうところによれば、いくつかの鉄道では駅員にさえ、しっかりしたのがないとのことである。なにか汽船会社あたりで、小才の利いた幹部を編成しようと思っても、それさえぜんぜん不可能である。どこそこでは新開通線の汽車が衝突したとか、鉄橋から転落したといううわさを聞くかと思えば、また別のところでは、列車があやうく雪の広野に冬ごもりしかけたという新聞記事が見あたる。それはなんでも列車が数時間の予定で出発したところが、五日も雪の中に立ち往生したのである。またあるところで何万貫という貨物が、ふた月も、三月も一つところに停滞し、きょうかあすかと発送を待っているうちに、腐りはじめたという話があるかと思えば、またあるところでは(もっとも、この話はほんとうにしかねるくらいだが)ある行政官-といっても、つまりなにかの監督が、さる商店の手代に貨物の発送をうるさく哀願されて、発送のかわりに、その手代の頬桁を処分した、といううわさが伝えられる。しかも、その監督はそういった行政的行為を、ただ『ちょっとかんしゃくをおこした』からだと説明して、済ましているそうである。目下、官途における役所の数はたいへんなもので、考えるのも恐ろしいくらいである。そして、多くのものが勤めてもいたし、現に勤めてもいるし、また勤めようと望んでもいるのだから――これだけの素材があれば、なにか相当の汽船会社を組織できそうに思われるではないか? この疑問に対して、どうかすると非常に単純な、ほとんど信ずることもできぬぐらい単純な答えをする人がある。その人たちにいわせると、じっさいわが国では多くのものが勤めてもいたし、勤めてもいる。そして、もうこの状態が二百年ばかり、曾祖父の時代から曾孫の代まで、最もすぐれたドイツ式にのっとってつづいている――が、こうした勤め人はまた最も非実際的な人たちで、その結果、抽象的な傾向と実際的知識の欠如が、勤め人自身の仲間において、しかもついさきごろ、ほとんど最もすぐれた長所美点であるかのごとく見なされるにいたった、というのである。しかし、筆者は益もないことに勤め人の話など始めてしまった。じつは単に実際的な人物のことを話したかったのである。まったく臆病と創意の完全な欠乏とが、今日までつねにわが国において、実際的人物の重要かつ最善の兆候と考えられていたし、なお今日でも考えられているのは、疑いもない事実である。しかし、たにもわがロシヤばかりを非難する必要は毫もない――ただし、以上の意見を非難と考えるならばだが。創意の欠乏ということは、世界各国いたるところにおいて、昔から今日に至るまでつねに事務的人物、実際的人物の第一の資格、最良の美点とされている。すくなくも九十九パーセントまでの人は(しかも、これはいちばん少なく見つもった数である)、つねにこうした思想のもとに行動しているので、ただ残りの百分の一が、いつも別様の見解をいだいていたし、またいだいてもいる。
 発明家とか天才とかは、世に出てしばらくのあいだは(また大多数、晩年に至るまでも)、社会でばかとよりほかには見られないのが、ほとんど常態だった――これはもはやあまりにきまりきった見かたで、だれにもあれ知らないものはない。たとえば、数十年間、だれも彼もが自分の金を銀行へ運びこんで、四分の利息で、何十億かの金を積み上げているが、もし銀行というものがなく、みながてんでに自分で事業をはじめたなら、これら数百万の大部分は株式熱や、山師の手にかかって消えてしまったにちがいない――しかも、それさえ、礼譲と道義の要求ということになっていた。まったく道義がそれを要求したのである。かくのごとく、道義にかなった臆病と礼譲にかなった創意の欠乏とが、今日まで一般の意見どおり、しっかりした事務的人物に固有の資質だとすれば、あまり急に変わった人間になるのは、単に秩序を破ることになるのみならず、無作法なことにさえもなるだろう。
 たとえてみれば、わが子を愛する母親なら、息子か娘が軌道を踏みはずそうとするのを見て、だれしも驚きと恐れのあまり、病気にならないものはないだろう。『いや、もういっそ創意なんてものはなくても、幸福で満足に暮らしてくれたほうがいい』と自分の赤ん坊を揺りながら、すべての母親はこう考える。またわが国の乳母たちは赤ん坊を揺すりながら、開闢以来同じことをくりかえし歌っている。『黄金《こがね》をつけて歩かっしゃれ、将軍さまにならっしゃれ!』してみると、わが国の乳毋たちにさえも、将軍の位階がロシヤ人の幸福の限界と思われるのだから、したがって平穏でりっぱな幸福というものが、最も普及した国民的理想なのである。じっさい、中どころへんで試験に及第し三十五年間勤続したら、だれだってしまいには閣下にでもなって、相当な金高を銀行に積まないものはなかろう。こういうふうで、ロシヤ人はほとんどなんらの努力をも用いずに、とどのつまりは、事務的で実際的な人物という評判を獲得するのだ。まったく、ロシヤで閣下になれないのは、ただオリジナルな人、語を換えていえば、物騒な人ばかりである。ことによったら、いくぶん誤解もあるかしれないが、一般にいえば、それはほんとうである。そして、社会がそんなふうに実際的人物の理想を定義したのは、徹頭徹尾もっともなしだいである。が、とにかくずいぶん無駄なおしゃべりをしてしまった。というのも、われわれにとってなじみ深いエパンチンの家庭に関して、ふた言み言説明を加えようと思ったからである。この家の人々、というのが不正確ならば、この家庭で最も分別のある人たちは、この一族に共通な一つの性質のために絶えず苦しんでいた。その性質は上に述べたもろもろの徳性に正反対なものである。事実を正確に理解することができないくせに(じっさい、それはなかなかむずかしいことなのだから)、これらの人々は、自分の家におけるすべてのことが、よそとは違っているような気がしてならなかった。よそでは万事なめらかにいってるが、自分の家ではなんだかごそごそけば立っている。よそのものはみな軌道に沿うて走っているのに、自分たちは絶えまなしに脱線してばかりいる。みなの人はしじゅうお行儀よく小心翼々としているが、自分たちはそうでない。じつをいえば、リザヴェータ夫人はあまりびくびくしすぎるくらいであるが、それはよその夫人たちの翹望している道籏的社交的の臆病とは違う。もっとも、そんなに気をもんでいるのは、リザヴェータ夫人ひとりかもしれぬ。令嬢たちは洞察力の鋭い皮肉な人たちだけれども、まだ年が若いし、将軍もいくぶん洞察力は持っていたが(ただし、融通の利かぬものであった)、しかしことが面倒になった場合は、ふむ!といったきりで、とどのつまりは、リザヴェータ夫人にいっさいの希望をつなぐことになるのが、おきまりだった。こういうわけで、責任は自然と夫人の双肩に落ちて来た。いったいこの家庭は創意に富んでいるのでもなければ、みずから意識して奇を求め、それがために軌道から飛び出してばかりいるのでもない。もしそうだったら、まったく無作法な話であるが、いや、けっしてそうではない! じっさいそんなふうのことはなかった。つまり、なにか意識して定められた目的などはなかったのである。が、やはり結局、エパンチン家の家庭は非常に尊敬すべきものであるにかかわらず、一般にすべての尊敬すべき家庭として当然かくあらねばならぬ、と思われているのと違うところがあった。近ごろになって、リザヴェータ夫人は万事につけて自分ひとりに、――自分の『不仕合わせな』性格に罪を帰するようになり、そのために彼女の苦悶がいっそう大きくなって来たのである。彼女は絶えまなしに自分を『ばかで無作法な変人』と罵り、猜疑心のために苦しみ、ひっきりなしにあわて騒ぎ、なにかちょいとした事情の行き悩みさえ解決する方法を知らず、絶えず不幸を誇大視するのであった。
 まだこの物語の発端において、エパンチン家の人々が、しんから社会一般の尊敬を受けていることをいっておいた。卑しい身分から成りあがったイヴァン将軍自身すら、いたるところでまぎれもない尊敬をもって迎えられた。じっさい、彼は尊敬を受けるだけの値うちがあったのだ。だいいち、金持ちで「利口な」人として、第二には、たいして才にたけたほうではないが、しっかりした人物としてである。しかし、いくぶん感じの鈍いということは、ほとんどすべての事務家、というのが間違っているならば、すくなくとも、すべてのまじめな蓄財家の避くべからざる性質である。最後に、将軍は言語動作も礼にかなっているし、謙遜でもあるし、必要なときに沈黙する術も心得ていたし、そのうえ単に将軍としてのみならず。潔白にして高尚な一個の人間としても、自分の権威を他人に侵されるようなことをしなかった。しかし、なにより重要なのは、将軍が有力なる保護のもとに立っていることであった。
 リザヴェータ夫人はどうかというに、夫人はさきにも述べたごとく名門の生まれである。もっともロシヤでは門地などということでは、なにか特別な縁戚でもないかぎり、あまり注目をひくことができないらしい。しかし、夫人にもりっぱな縁戚があるので、人から尊敬もされればかわいがられもした。しかも、非常に勢力ある人たちがそうするので、自然とほかの人々もそれにつづいて夫人を尊敬し、かつ仲間にいれなければならぬようになった。疑いもなく、彼女の家庭に関する苦しみは根拠のないもので、原因といえばごくくだらないものであったが、彼女はそれをこっけいなほど誇張していた。けれども、もしだれか膵の上か額の真ん中にいぼがあるとすれば、なんだかみなが自分のいぼを見て笑うのを唯一無二の仕事にして、たとえアメリカ発見ほどの大功を立てても、このいぼのために人が自分を非難するような気がするものである。じじつ、世間でリザヴェータ夫人を『変人』扱いにしているのは、疑いもないことであるが、同時にまた確かに尊敬もした。しかし、ついに夫人は、自分が人から尊敬されているということさえ信じなくなった、――そこにいっさいの不幸が含まれているのである。娘たちを見ても、自分が絶えずその出世を妨げてるのではないかと思って煩悶したり、自分の性格がこっけいで無作法で、とてもやりきれないと悶えたりして、そのためにイヴァン将軍や令嬢たちを責め、毎日毎口喧嘩するのはいうまでもないことであった。そのくせ、同時に夫や娘たちを夢中になるまで熱愛していた。
 が、なにより夫人を苦しめたのは、令嬢たちが自分と同じような『変人』になってくる、という考えであった。あんな娘たちは世界にいやしない、またいるべきものでない。『ニヒリストができあがっているのだ、それきりだ!』と夫人はひっきりなしに胸の中で考えた。この一年間、ことについ近ごろになって、このうっとうしい思想がしだいしだいに、彼女の心にかたく根を張ってきたのである。
『だいいち、あの娘《こ》たちはどうしてお嫁に行かないんだろう』と夫人は絶えず自問自答した。『母親をいじめたいからだ、――あの娘たちはこれを一生の目的にしているのだ、それはもう決まりきってる。なぜって、こんなふうのことが新しい思想で、あのいまいましい婦人問題なのだから! 現にアグラーヤが半年ばかり前に、あのりっぱな髪を切ろうとしたじゃないか?(ほんとにわたしの若い盛りのときだって、あんな旻をしてはいなかった!)現に鋏を手に持っていたじゃないの、わたしは両ひざついて頼んで、やっと思いとどまってもらったっけ!………だけど、あの娘はただ母親をいじめてやろうという、意地の悪い量見から、あんなことをしたものらしい。まったくあの娘は意地の悪い、わがままな、甘やかされた女だから……いや、とにかく意地悪だ、意地悪だ、意地悪だ! だが、あの肥っちょのアレクサンドラまでが、同じようにあの娘のあとについて、自分の髪を切ろうとした
のはどうしたことだろう? このほうはけっして面当てでも気まぐれでもなく、甃がないと楽に寝られる。頭が屈まないと、アグラーヤにつつかれて、ばかばかしいそれを真に受けてしまったのだ。それにもうこの五年ばかりのあいだに、どれだけ、ほんとにどれだけ花婿の候補者があったかしれやしない。しかも、まったくその中にはいい人もあった、じつにじつにりっぱな人もあったのに! 何をあの娘たちは待ってるのかしら、なぜお嫁に行かないんだろう? ただ母親に蜩をおこさせたいばかりだ――ほかになんのわけもありやしない! あるものか! あるものか!』
 しかし、ついに彼女の母心に太陽が昇りかけた。せめてひとりの娘、アデライーダだけでも身が固まりそうである。『ああ、やっとひとりだけでも肩が抜かれます』とリザヴェータ夫人は、なにか機会があったときに、そう口に出していった(もっとも、夫人は胸の中では、もっともっと優しいいいかたをしたのだ)。しかも、万事はりっぱに、世間体も恥ずかしがらぬように取り運ばれたのである。社交界でもこのことについて、敬意を表しつつうわさし合ったぐらいである。婿は有名な人物で、公爵で、財産もあれば人となりもよく、そのうえに花嫁とは気がしっくり合っている。それよりうえに何を望むことがあろう? けれども、アデライーダのことは夫人も以前から、ほかのふたりほどには心配しなかったのである。彼女の芸術的傾向が、絶えず猜疑の目を光らしている夫人の心を、ときおり苦しめることもあったが、『そのかわり性質が快活で、それに分別も十分にあるから、あの娘が廃れものになるようなことはあるまい』と夫人は結局安心の胸をなでおろしていた。彼女がいちばんに恐れたのはアグラーヤである。
 ついでにいっておくが、長女のアレクサンドラに関しては、恐れていいのか悪いのか、夫人自身もどうしたものやらわからなかった。どうかすると、夫人はもうすっかり、『娘ひとり台なしにしてしまった』ような気がした。もう二十五といえば、――これからさきも老嬢でとおすに相違ない。『あれはどの器量を持ちながら!………』とリザヴェータ夫人は扠な夜な娘のために涙さえ流した。ところが、アレクサンドラのほうではそんな晩にもぐっすりと、おだやかな夢を見ながら眠っていたのである。
『いったいあれはどうだろう――ニヒリストかしら、ばか女かしら?』が、ばか女でないということは、リザヴェータ夫人にとって露ほども疑いがなかった。彼女は非常にアレクサンドラの意見を尊重して、相談相手にするのを好んでいた。しかし「意気地なし」だということは、疑いをいれる余地のないほど明白である。『まあ、落ちつき払っていることったら、突き飛ばしたって倒れやしない! だけど「意気地なし」はあんなに落ちついてるもんじゃないが、――ふっ!ほんとうにあの娘たちにかかったら、頭がぼうっとしてしまう!』
 リザヴェータ夫人はアレクサンドラに対して、秘蔵娘アグラーヤに対する以上に、ある説明しがたい悩ましい同惰をいだいていた。けれども、癇性らしい突飛な言行や(これが夫人の母としての心づかいと同情のおもなる表白である)、突っかかって行くような態度や、「意気地なし」などといったふうの悪口も、ただアレクサンドラを笑わせるばかりであった。で、しまいには、くだらない些細な事柄がおそろしくリザヴェータ夫人の腹を立てさせ、夢中にならせてしまうほどになった。例を挙げていうと、アレクサンドラはいつまでも寝ているのが好きで、よくいろんな夢を見た。ところが、その夢はおそろしくばかげていて、子供らしいのが常で、ちょうど七つぐらいの子供に似つかわしいものだった。で、この夢の子供らしいということが、なぜかお母さんの刪に触れはじめた。あるときアレクサンドラが、九羽の雌鶏を夢に見たところ、このために彼女と母とのあいだに、開き直っての口論がおこった。が、さて、なぜ? といわれると説明がむずかしい。
 あるとき一度、たった一度、彼女はちょっと奇抜な夢を具ることができた――それはどこかの暗い部屋の中に坊主がいて、彼女はそこへ入って行くのが、どうも恐ろしくてたまらなかったというのだ。この夢はすぐさまふたりの妹がぎょうさんに笑いながら、大威張りでリザヴェータ夫人に報告した。が、母夫人は、またもや腹を立てて、三人の娘をばかと呼んだ。『まったくばか娘らしく落ちつき払っている。まったく「意気地なし」に相違ない、突き飛ばしたって倒れやしない。だけど、なんだか沈んだところがある。どうかすると、まるっきり沈んだ様子をしているが! 何がいったい悲しいんだろう? 何が?』ときどきはこの疑問をイヴァン将軍にまで提出することがあった。しかも、彼女の癖として、ヒステリカルな、おどすような、即刻返事が聞きたいといったようなふうだった。イヴァン将軍はふむといって眉をしかめ、肩をすくめたのち、さておもむろに両手を広げながら、解決をくだす。
「婿さんがいるんだ!」
「ただし、あの子にはあなたのような夫を、神さまから授からないようにしたいものですね」とついにリザヴェータ夫人は、爆弾のように破裂した。「あなたのような判断や、宣告のしかたをしない夫が必要なんですよ、イヴァン・フョードロヴィチ。あなたのようにがさつな、乱暴者でない人が必要なんですよ、イヴァン・フョードロヴィチ……」
 イヴァン将軍はすぐに逃げ出すし、リザヴェータ夫人も破裂[#「破裂」に傍点]が済むと、やがて落ちついてくるのが常であった。そして、その日の夕がたにはきっと夫人はイヴァン将軍に対して――「がさつな乱暴者」に対して、非常に注意ぶかく、しとやかに、愛想よく、丁寧になるのはむろんであった。将軍は結局、善良にして愛すべく、かつ尊敬すべきイヴァンーフョードロヴィチであった。なぜなら、夫人は生涯将軍を愛していて、むしろほれこんでいたといっていいくらいであった。そのことは当のイヴァン将軍もよく知っていたので、リザヴェータ夫人を無限に尊敬していた。
 しかし、夫人の絶えまなき主なる苦悶は、アグラーヤであった。
『まったく、まったくわたしのとおりだ、何から何までそっくりわたしの姿絵だ』とリザヴェータ夫人はひとりごちた。『わがままでしようのない惡魔だ! ニヒリストで、変人で、きちがいで、意地悪だ。意地悪だ、意地悪だ! おお、あの娘はどんなに不仕合わせなものになるだろう!』
 けれども、前に述べたごとく、さし昇った太陽の光はちょっとの間、すべてを照らし柔らげるかのように見えた。リザヴェータ夫人がいっさいの心配事を離れて、ほんとうに息を抜いたのは、一生にこのひと月ばかりのあいだだけであった。近々に挙げられるべきアデライーダの婚儀に関連して、アグラーヤのことについても、いろいろと世間でうわさをし始めた。その間アグラーヤの挙動はじつにみごとで、落ちついて、賢く、揚々として、いくぶん高慢だというそしりもあったくらいだが、それが、また彼女にうつりがよかった。それに、まるひと月のあいだ母に対してじつに優しく、じつに親切であった! (「もっとも、あのエヴゲーニイという人はもっともっとよく観察して、底心底まで割って見なくちゃならない。それに、アグラーヤもほかの人より、特別にあの人を好いてるふうも見えないから!」)が、とにかくふいに、なんともいえぬほどいいお嬢さんになってくれた、――ほんとうになんという美人だろう、まったくなんという美人だろう、日ましに美しくなって行く! と思って喜んでいると、まあどうだろう……
 あのやくざな公爵が――あの手のつけられぬ白痴《ばか》が出て来てから、急になにもかもめちゃめちゃになって、うちじゅうがまるで引っくり返ったような具合になってしまった!
 いったい何がおこったというんだろう?
 ほかの人から見たら、きっと何ごともないように思われるだろうが、リザヴェータ夫人の他人と異なっているところは、じつに平々凡々たる事がらの入りまじり組み合わさったものの中に、いつも夫人の付きものになっている不安の眼鏡を透して、つねになにかしら病気でも引きおこしそうなほど、恐ろしいものを発見する性質であった。彼女はそのたびにたとえようもないほど疑ぐりぶかい、言葉にいい表わせない、したがってじつに重苦しい恐怖を感じるのであった。だから今こうした根拠もない笑うべきごたごたの紛糾したあいだから、なにやら真に重大らしい、真に不安や疑いを呼びおこしそうなあるものが顔をのぞけたとき、夫人の心持ちはどんなであったか?
『それになんて厚かましい。わたしに無名の手紙をよこして、あの売女[#「売女」に傍点]のことを――アグラーヤがあの売女と関係を結んでるなどと知らせてくるなんて、ほんとうにどこまで図々しいんだろう?』リザヴェータ夫人は公爵を引き立ててくるみちすがら、ひとり心の中でくりかえすのであった。家へ着いて、おりから家族全体が団欒していた円テーブルの前に、公爵をすわらせながらも、やはり考えつづけた。『ほんとうに、そんなことを考えつくだけでも厚かましいじゃないか!たとえちょっとでもそんなことをほんとうにして、アグラーヤにあの手紙を見せたりなどするくらいなら、恥ずかしくて死んでしまったほうがましだ! これはまったくわたしたちエパンチン家のものを嘲弄しようという企みだ! これというのもみんなイヴァン・フョードロヴィチのおかげだ。みなあなたのおかげですよ、イヴァン・フョードロヴィチ! ああ、なぜエラーギン(ネヴァ河口の小島、別荘地)へ越して行かなかったろう。だから、わたしエラーギンがいいといったんだに! これはもしかしたら、ヴァーリカ(ヴァーリャの侮辱的な呼び方)がよこしたのかもしれない、それとも、ひょっとしたら……ええ、なにもかもイヴァン・フョードロヴィチが悪いんだ! これはあの売女が将軍を目当てにこしらえた狂言に違いない。あの人に赤恥をかかせようとして以前の関係を思い出して企んだことだ。いつか将軍があの女のとこへ真珠を持って行ったとき、まるでばか者扱いにして、将軍の膵つらを取って引きまわしたあげく、腹さんざん嘲弄したそうだが、今度もあの時とすっかり同じことをしでかすつもりなのだ……しかし、なんといっても、わたしたちはこの事件に巻きこまれてしまったのだ。あなたの娘たちもやはり巻きこまれてるんですよ、イヴァン・フョードロヴィチ。処女ですよ、令嬢ですよ、上流社会の令嬢ですよ、近いうちに嫁入しようという若い娘たちですよ。それがあんな場所に居合わせて、あんな場所に立っていて、みんなすっかり聞いてしまったじゃありませんか。あんな小僧っ子連といっしょに巻きこまれたじゃありませんか。ねえ、あなた、お喜びなさい、同じ場所に立って聞いてたんですよ! それに、わたしはこの公爵のやつも勘弁しやしない、どうして勘弁するものか! それに、なんだってアグラーヤが三日ばかりヒステリーをおこして、姉たちと喧嘩せんばかりの様子を見せたのだろう。ふだん手を接吻したりなんかして、母親のように敬っていたアレクサンドラにまで、食ってかかったではないか。なんだってあの娘は三日のあいだ、みんなに謎をかけるようなことばかりいうのだろう? それから、またガーニャはこのことにどんな関係があるのだろう?なぜあの娘はきのうからきょうにかけて、ガーニャの肩を持ってほめちぎったあげく、しまいに泣き出したんだろう?またアグラーヤは、公爵からもらった手紙を、姉たちにも見せないようにしていたのに、あの無名の手紙にいまいましい「貧しき騎士」のことなど書いてあったのは、どういうわけだろう? それに、どうして……なんのためにわたしは公爵のところへ気ちがい猫のように、夢中になってかけつけて、自分からわざわざあの男をここへひっぱってきたんだろう? ああ、わたしは気がちがったのだ、なんてことをしでかしたんだろう! 若い男をつかまえてわが娘の秘密をうち明けるなんて、それも……その当人に関係している秘密ではないか! まだしもこの男が白痴《ばか》で……そして、うち全体の親友だからいいようなものの……だけど、いったいアグラーヤはこんな片輪者が気に入ったのかしら! おやまあ、わたしとしたことが、何を考えてるんだろう! ちょっ! ほんとうにわたしたちは突飛な人間ばかりそろったものだ……わたしたちはみんな、ことにまずわたしなんかは、ガラス戸棚の中へ入れて見世物にでもするといいかもしれない、入場料十コペイカぐらいでね。あなた、わたしはけっして勘弁しませんよ、イヴァン・フョードロヴィチ、どうあってもあなたを勘弁しませんからね! ところで、あの娘はなぜ公爵をいじめないんだろう? いじめてやるって約束したくせに、今となると、いじめようともしない!・ ほら、ほら、いっしょうけんめいに公爵のほうを見つめたまま黙っている。出て行こうともしないで、じっと立っている! そのくせ、自分からあの人に来ちゃいけないといってやったじゃないか……公爵はまた顔を真っ青にして腰かけてる。ああ、いまいましい。あのエヴゲーニイのおしゃべりがひとりこの座をあやつっている! まあ、しゃべることしゃべること、ちっとも口をいれさしやしない。わたしどうかして話をうまく持ちかけて、すっかり探り出してやりたいんだけど……』
 公爵はいかにも真っ青といってもいいくらいの顔色をして、円テーブルの前にすわっていた。彼は激しい恐怖に襲われていたが、ときどき自身にさえわけのわからぬ、胸のつまるような感激に包まれるのであった。ああ、彼にとってなじみの深い二つの黒い目が、自分のほうをながめている部屋の一隅に視線を転じるのが、どんなに恐ろしいことだったろう。が、同時に、アグラーヤからああした手紙をもらったのちに、ふたたびこういう人々のあいだにすわって、彼女の聞きなれた声を耳にすることができたと思うと、幸福感に胸もしびれるような気持ちがした。『ああ、あのひとは今なんといいだすだろう!』と思いながら、自分は一語も発しないで、いっしょうけんめいにエヴゲーニイの「おしゃべり」を聞いていた。エヴゲーニイはまたこの日この晩ほど興奮して、満足な心持ちになったことは珍しかった。公爵は長いことその話を聞いていたが、そのくせ、ひとこともわからなかった。まだペテルブルグから帰って来ないイヴァン将軍のほかは、一同うちそろっていた。S公爵も、席に居合わせた。人々はもすこしたったら、茶の支度のできるまで、オーケストラを聞きに行くことになっているらしかった。今の会話は、公爵の来るちょっと前にはじまった様子である。間もなく、とつぜんどこからかコーリャがやって来て、露台へすべりこんだ。『してみると、以前どおりこの家へ出入りを許されてるんだな』と公爵は心の中で考えた。
 エパンチン家の別荘は、スイスの田舎家のおもむきを取り入れ、四方から花と青葉で飾られた、贅沢なものであった。あまり大きくはないが、みごとな花園がずっとまわりを取り囲んでいた。人々はみんな公爵の家と同じように、露台に腰をかけていた。ただその露台がすこし広くて、気どった造りであった。
 いま進行している会話のテーマは、多くの人の気に入らないらしかった。察するところ、この会話は激しい議論の結果はじまったものらしく、一同は話題を転じようと思っている様子だったが、エヴゲーニイはかえって余計にがんばって、自分の議論が人々に与える印象などてんでかまおうとしなかった。公爵の来訪はなお彼を興奮させたらしい。リザヴェータ夫人はよくわからぬなりに顔をしかめていた。アグラーヤはすこし片寄って、というよりほとんど隅っこにすわっていたが、その場を去ろうともせず、強情に黙りこんだまま聞いていた。
「失礼ですが」とエヴゲーニイは熱して言葉を返した。「わたしはべつに自由主義に反対するわけじゃありません。自由主義はけっして悪いものでないどころか、統一体を組織するに必要な一部分で、これがなかったら、その統一体はばらばらになるか、滅びるかしてしまいます。自由主義はもっとも穏健な保守主義と同様に、存在の権利を持っています。しかし、わたしの攻撃するのはロシヤの自由主義です。つまり、ロシヤの自由主義者は、ロシヤ的[#「ロシヤ的」に傍点]自由主義者でなくして、非ロシヤ的[#「非ロシヤ的」に傍点]自由主義者だから、それをわたしは攻撃するのです。どうかわたしにロシヤ的自由主義者を見せてください。そしたら、わたしはすぐあなたがたの目の前で、その男を接吻しますよ」
「もしその人があなたに接吻する気になればでしょう」なみはずれて興奮したアレクサンドラがこういった。頬の色までがいつもより赤くなっていた。
『おや、まあ』とリザグェータ夫人は胸の中で考えた。『いつも食べて寝てばかりいて、てこでも動きそうにない恰好をしていながら、一年に一度ぐらいふいにひょっこり立って、びっくりするようなことをいいだすんだからね』
 公爵はふと気がついた。エヴゲーニイのこうしたまじめな問題を論ずる調子があまりに快活で、夢中になって熱しているのか、それとも冗談をいってるのかわからないような態度が、アレクサンドラの気に入らなかったらしい。
「わたしはね、公爵、あなたのいらっしゃるちょっと前に、こういうことを断言したのです」とエヴゲーニイは語りつづけた。「わが国の自由主義者は、今までただ二つの階層からのみ出て来ました。すなわち以前の地主(今なくなっている)と神学生とこの二つの階層です。ところが、それはいま両方とも一種特別な、国民からぜんぜん独立した階級に変化してしまいました。それはさきへ進むにしたがって、世代より世代を追って、はなはだしくなっていきます。だから、彼らはいろんなことをしたし、またしてもいますが、それはみな非国民的です……」
「なんだって? じゃ。今まで行なわれたことは、みんな口シヤ的でないというのかね?」とS公爵が抗言した。
「非国民的だよ。よしロシヤ式であるとしても、国民的ではないよ。自由志峩者もロシヤ的でなければ、また保守主義者もロシヤ的でない、なにもかもそうだ……だから、ぼく断言するが、国民は地主や神学生のすることを、なにひとつ承認しやしない、今日だって、また今後だってね……」
「これはおもしろい! どうしてきみはそんな逆説を断定できるのだろう、もしそれがまじめだとすれば。ロシヤの地主に対するそんな突飛な議論を、ぼくは黙過することができない。きみ自身だってロシヤの地主じゃないか」とS公爵は熱して言葉を返した。
「いや、ぼくはきみの解《と》るようなふうに、ロシヤの地主を論じたんじゃない。ぼくがその中に属してるということだけからいっても、地主の身分は尊敬すべきものさ。まして今日では、階級としては存在しなくなったんだからね……」
「それに、文学にだって、ちっとも国民的のものはなかったんでしょうか?」とアレクサンドラがさえぎった。
「わたしは文学のほうはあまり得手じゃないんですが、わたしの意見では、ロモノーソフプーシキンゴーゴリを除くのほか、ロシヤ文学はぜんぜんロシヤ文学でないですよ」 「第一、それだけあれば少ないとはいえません。第二に、ひとり(ロモノーソフ)は民衆の中から出ていますが、あとのふたりは地主ですよ)とアデライーダが笑いだした。
「たしかにそうです、が、そう得意にならないでください。つまり、今までのロシヤ文学者中、ただこの三人だけがそれぞれなにかしらほんとうに自分の[#「自分の」に傍点]言葉、だれの借り物でもない自分自身の言痢をいうことができたものですから、それでこの三人がたちまち国民的になったのです。ロシヤ人のうちだれにもあれ、なにか自分の言葉、借り物でないほんとうに自分の言葉をいうなり書くなり、実行するなりしたら、そのものはかならず国民的になります。よしそのものがロシヤ語さえ満足に話せないとしてもです。これがわたしの原川です。しかし、わたしどもは文学の話をはじめたのじゃありません。社会主義者の話から脇道へそれたのです。で、わたしは確信しますが、わが国にはひとりの社会主義者もありません。かつてもなかったし、現在もありません。なぜって、口シヤの社会主義者はだれもご同様に、地主か神学生ばかりだからです。わが国の有名な折紙つきの社会主義者は、内地にいるのにしろ外国にいるのにしろ、みな農奴制時代の地主から出た自由主義者にほかならぬのです。あなたがたはお笑いになりますか? まあ、わたしにあの連中の書物を貸してください、あの連中の教義か手記を貸してごらんなさい。わたしは文学批評家じゃありませんが、ひとつ権威ある文学的な批評文を書いてお目にかけましょう。そして彼らの書物、小冊子、回想録の一ページ一ページが、以前のロシヤの地主によって書かれたものであるということを、白日のごとく明瞭に証明します。彼らの憤怒、不平、皮肉はことごとく地主的です(おまけにファームソフ(クリポエードフの喜劇「知恵の悲しみ」)以前の地主です!)。彼らの歓喜、涕泣は、あるいはほんとうの誠実な歓点にてあり、涕泣であるかもしれませんが、やはり地主的です! 地主的でなければ神学生的です……あなたがたはまたお笑いなさるんですね。おや、あなたも笑ってらっしゃいますね、公爵、やはりご異存がありますか?」
 まったく一同のものが笑っていた。公爵も薄笑いをしたのである。
「ぼくは、その、異存があるかないか、すぐ申しあげるわけにいきませんが」と公爵はふいに笑いやめて、いたずらを見つけられた小学生のような顔つきをしながら、こういった。「しかし、あなたのお説をうかがいながら、非常な満足を感じていることだけは、信じていただきたいのです……」
 こういいながらも、彼はほとんど息がつまらんぽかりであった。額に冷汗すらにじみ出た。彼がここに来てすわって以来、今のが彼の発した最初の言葉であった。彼はあたりを見まわそうと試みたが、気がひけてできなかった。エヴゲーニイはそのそぶりを見てとって、微笑した。
「皆さん、わたしはあなたがたに一つの事実をお話ししまし、よう」と彼は以前の調子、つまりおそろしく熱して夢中になっているのか、あるいは自分自身の言葉をあざけっているのか、わからないような調子でつづけた。「その事実、その観察、むしろ発見の名にさえ価するものは、わたしのもの、ただわたしだけのものとすることができるのです。すくなくとも、このことについてはどこにも語られていず、また書かれていません。この事実の中に、わたしのいわゆるロシヤの自由主義の全貌が現われています。第一に自由主義を現存する社会状態に対する攻撃と見ないで(理性にかなったものか、間違ったものかは別問題として)、とにかく、そんなふうの攻撃と見ないで、一般にいったならば、自由主義とはいったいなんでしょう? で、わたしのいう事実とは、ほかでもありません、ロシヤの自由主義は、現存せる生活秩序に対する攻撃ではなく、わが国の生活秩序の本質に対する攻撃です。単なる生活秩序、ロシヤの生活秩序に対する攻撃ではなくして、ロシヤそのものに対する攻撃です。わが自由主義者は口シヤを否定する、すなわち自分の母親をのろい鞭打つまでにいたったのです、ロシヤになにか不幸があったり、失敗があったりするたびに、彼らはそれをあざけり、それに対して歓喜の情を覚えるのです。彼らは国民的習俗、歴史、その他あらゆるものを憎んでいます。彼らのためになにか弁護の辞があるとすれば、それはただ彼らが自分のしていることを知らないで、ロシヤに対する憎悪が最も有益な自由主義だと感違いしていることです。(じっさい、ほかの人たちから、喝采を受けているものの、ご当人は本当のところおそろしく間の抜けた、鈍い、そして危険な保守主義者で、しかも自分自身それを知らずにいるのんきな自由主義者を、あなたがたもしばしば見かけられることでしょう!)つい近ごろまで、わが国の自由主義者のあるものは、このロシヤに対する憎悪を、ほとんど祖国に対する真摯な愛であるかのように思いこみ、その祖国に対する愛の本質を、他人よりよく知ってるのを誇っていました。ところが、今ではまだまだずっと露骨になって、『祖国に対する愛』という言葉さえ恥ずべきものとみなし、その観念までも有害な、つまらないものとして、頭の中から追いのけ、隅っこのほうへ押しこんでしまいました。この事実は正確なものです、わたしはそれを主張します……まったくいつかはほんとうのことを十分に、ざっくばらんに、露骨にいってしまわなければなりませんからね。しかし、それとともに、またこの事実は、いずこにおいても、開闢以来かつていかなる国民のあいだにも見られなかったものです。したがって、この事実は偶発的のもので、いつかは過ぎ去ってしまうかもしれません、それには異論ありません。じっさい、自分の祖国を憎むなんていう自由主義は、どこだってありうるものでないですからね。この問題をわが国ではなんと説明しますか? まあ、以前もやはりそんなものがあったとか、あるいはロシヤの自由主義は目下ロシヤ的自由主義ではないから、とかいって説明するんですね、――ほかには方法がありませんよ、わたしの考えでは」
「ぼくはきみのいったことを、みんな冗談とみなすよ、エヴゲーニイ君」とS公爵はまじめにいった。
「わたしは自由主義者を残らず見たわけでありませんから、なんとも判決めいたことは申しません」とアレクサンドラがいった。「けれど、あなたのご意見をうかがって、たいへん不平でございました。あなたは部分的な場合を取って来て、一般の原則に当てはめようとなさいました。したがって、誹謗なすったわけですわ」
「部分的な場合! ははあ! ひどいことをおっしゃいますね」とエヴゲーニイはすぐに引き取った。「公爵、あなたはなんとお考えになります、これは部分的な場合でしょうか、どうでしょう?」
「ぼくはやはり見聞が少ないし……自由主義者とのつきあいも少ないから、といわなければなりません」と公爵は答えた。「しかしぼくには、あなたのおっしゃることが、いくぶんごもっとものように思われます。たぶんあなたのおっしゃったような自由主義は、じっさいわが国の生活状態のみならず、ロシヤそのものを憎むという傾向があるらしいですね。が、それはむろん、多少というぐらいのことで……むろん、万人にとって真理だとはいわれますまい……」
 彼は急にまごついて、しまいまでいい終わらなかった。彼はひどくわくわくしていたけれど、それでもこの会話によほど興味をいだいていたのである。公爵には一つの癖があった。それは興味を感じた話を聞くときと、また人からたずねかけられて答えるときに示す、注意のなみなみならぬ子供らしさであった。彼の顔にもそのからだの姿勢にも、諷刺や諧謔にすこしも気のつかぬ子供らしさと、相手を信じきった心持ちが現われていた。エヴゲーニイは一種特別の嘲笑をもって、ずっと前から公爵に対していたが、今この答えを聞くとともに、おそろしくまじめになって彼をながめた。あたかも彼からこんな答えを聞くのが、思いがけないという様子であった。
「ははあ……しかし、なんだかあなた変ですね」とエヴゲーニイはいいだした。「まったくのところ、あなたはまじめでお答えになったのですか、公爵?」
「じゃ、あなたはまじめでおききになったのじゃないんですか?」とこちらは筮いて問い返した。
 一同は笑いだした。
「だめですよ」とアデライーダがいった。「エヴゲーニイさんはいつも相手かまわずからかいなさるんですよ! あなたごぞんじないでしょうけれど、このかたはときどきとんでもないことを、まじめくさってお話しなさるんですからね!」
「なんだか重っ苦しいお話ですことね、もうさっぱりとよしたらいかがでしょう」とアレクサンドラが言葉鋭くいった。「散歩に行くはずだったんですのにねえ……」
「まいりましょうとも、こんな気持ちのいい晩ですもの!」エヴゲーニイは叫んだ。「しかし、今度こそ、わたしがまじめにいったってことを証明するために、――だれよりもまず公爵に証明するために、(ねえ、公爵、あなたは非常にわたしの興味を喚起なさいました。そして、誓って申しますが、わたしはけっして見かけほどからっぽな人間ではありません、――もっとも、じっさいのところ、わたしはからっぽな人間ですがね!)……皆さん、もし皆さんがお許しくださるなら
ば、わたしは単に自分一個の好奇心を満足させるために、ひとつ公爵に最後の質問を捉出しようと思います。それでもって打ち切りとしましょう。この疑問はまるでわざとのように、二時間ぽかりまえ、わたしの胸に浮かんできたのです(ねえ、公爵、わたしだってどうかすると、まじめなことも考えるんですよ)。わたしはこの疑問を自分で解決しましたが、公爵がどんなふうにおっしゃるか拝聴したいもんですね。たった今『部分的な場合』というお説が出ましたが、この言葉はいまわが国で意味深長なもので、ちょいちょい耳にします。つい近ごろだれでも彼でも例の恐ろしい六人殺し……あの若い男の犯罪と、そのときの弁護士の奇態な弁論のことをうわさしたり、新聞雑誌に掲載したりしていました。その弁論というのは、被告の貧困状態において、これら六人のものを殺そうという考えの浮かぶのは、自然のこと[#「自然のこと」に傍点]であるという論旨なんです。これは弁謾士のいったとおりではありませんが、意味はこのとおりか、もしくはこれに近いのです。わたし一個の考えでは、弁護士はこの奇態な意見を公けにしながら、自分では現代における最も自由主義的な、最も人道的な、最も進歩的な、思想を述べているものと、信じて疑わなかったのでしょう。で、あなたのご意見はいかがでしょうか?理解信念の上におけるこうした歪曲や、こうしたいびつなばかばかしい観察の存在しうるということですね、これは部分的な場合でしょうか。それとも一般的なものでしょうか?」
 一同はからからと笑った。
「部分的です、むろん部分的ですわ!」といって、アレクサンドラとアデライーダが笑いだした。
「失礼だが、も一度注意するよ、エヴゲーエイ君」とS公罸がいった。「きみの冗談もだいぶ膵についてきたよ」
「あなたどうお考えです、公爵」そんな注意はろくすっぽ聞かずに、ムイシュキン公爵の好奇心に輝くまじめなまなざしを見て取って、エヴゲーニイはこういった。「あなたにはなんと思われますか、これは部分的な場合ですか、それとも一般的なものですか? じつのところ、わたしはあなたのためにこの質問を考え出したのです」
「いいえ、部分的ではありません」と、小さいけれどしっかりした声で、公爵は答えた。
「まあ、どうしたんです、ムイシュキン公爵」と、いくぶん歯がゆそうな調子でS公爵は叫んだ。「いったいあなたはこの人がからかってるのが見えないんですか。この人はまるで頭からふざけてかかって、あなたを槍玉に上げようと考えてるんですよ」
「ぼくはエヴゲーニイ・パーヴルイチがまじめにいってらっしゃると思ったんです」と公爵は顔を赤らめて、伏し目になった。
「ねえ、公爵」とS公爵はつづけた。「いつか三か月ばかり前に、ふたりで話したことを思い出してください。わたしたちはそのとき、まだ新しいロシヤの法曹界に多くのりっぱな才能ある弁護士を発見することができるって、話し合ったじゃありませんか! また陪審員の判決にも、大いに注目すべきものが、いくらもありますからね! あなたはそのとき、たいへんよろこんでいらしったから、わたしもあなたの喜びを見て嬉しく思ったのです……わたしたちはそのとき、わがロシヤの誇りだといい合ったもんですよ……ところで、このまずい弁護は、この奇妙な弁論は、むろん偶然のものです、千に一つぐらいの例外です」
 ムイシュキン公爵はしばらく考えこんでいたが、やがて信念に満ちみちた、とはいえ、低い、むしろ臆病な訓子で答えた。
「ぼくがいおうと思ったのは、エヴゲーニイ・パーヴルイチの言葉を借りていえば、思想および理解の上における歪曲が、あまりにもしばしば見うけられるので、残念ながら部分的というよりは、むしろ一般的といったほうが近いくらいです。もしこうした歪曲が一般的な場合でなかったら、今度のようなありうべからざる犯罪も、おこらなかったでしょう……」
「ありうべがらざる犯罪? ですが、わたしはたってこういいます。こんなふうの犯罪、いな、あるいはもっと恐ろしい犯罪は前にもありました、つねにありました。そして、単にわが国ばかりでなく、いたるところに行なわれました。まだまだ良いあいだ、この種の犯罪はくりかえし演ぜられるでしょう。ただ相違している点は、ロシヤには今日まであまり公けに口にするものがなかったのに、このごろでは多くのものが口に出していうばかりか、文章にまで書くようになったことです。それがために、こうした犯人が今日はじめて現われたように思われるのです。この中にあなたの誤解、きわめてナイーヴな誤解があるのですよ、公爵」とS公爵はあざけるように微笑した。
「それはぼく自身にしても、こうした恐ろしい犯罪が前にもたいへん多かったのを知っています。ぼくはせんだって監獄へ行き、いくたりかの犯人と未決囚に接することができました。その中には、今度のよりもっと恐ろしい、まるきり後悔の念なしに十人の人を殺したような犯人などもいました。しかし、ぼくはそのさいこういうことに気がつきました。それはすこしも後悔しないで人を殺すような、骨の髄まで悪者根性のしみこんだ者でも、やはり自分が犯人[#「犯人」に傍点]であるということを知っています。つまり、まるきり後悔の念を感じないにしろ、良心的に悪いことをしたと考えているのです。しかも、彼らのひとりひとりがみなそうなんです。ところが、今エヴゲーニイ・パーヴルイチのおっしゃった人たちは、自分を犯人と考えようとしないで、そうする権利を持っていたのだ……善いことをした……とまあ、ほぼそんなふうに考えるんですからね。つまり、この点に恐ろしい相違が含まれていると、ぼくは思います。なお注意すべきは、それがみな若い人たちであるということです。この年ごろが最も思想の歪曲におちいりやすい危険な年齢なんでね」
 S公爵はもう笑いやめて、けげんそうに公爵のいうことを聞き終わった。もう前からなにやらいいたそうにしていたアレクサンドラは、急になにか特別な考えに押しとどめられたかのごとく、開きかけた口をつぐんだ。エヴゲーニイにいたってはもうすっかり度胆を抜かれて、いっさい嘲笑のほこ先を収めて公爵をながめた。
「いったいあなた、なんだってそんなに、あの人のいうことにびっくりなさるんです……?」思いがけなくリザヴェータ夫人が割って入った。「いったいあの人があなたよりも知恵が足りなくって、あなたみたいに物事を判断することができない、とでも思ってらしたんですか?」
「いいえ、そんなわけじゃないのです」とエヴゲーニイがいった。「失礼なお尋ねですが、それだけのご見識がおあんな さるのに、どうしてあなたは(どうぞわたしのぶしつけをお 許しください、公爵)、どうしてあなたはあの奇怪な事件……ほら、二、三日前におこった……ブルドーフスキイとかいいましたね……あの事件のときに、どうしてあなたは思想 信念の歪曲にお気がつかなかったのですか! だってあれは まったくさっきいったのと同じじゃありませんか? あのときあなたはちっともお気がつかなかったように見受けましたがねえ」
「ねえ、あなた」とリザヴェータ夫人は熱くなっていった。「わたしどもは皆ちゃんと『気がついて』、得意になって公爵にそれを自慢していましたがね、この人は今日、あの連中のひとりから手紙を受け取りました。あの中の頭分でにきびだらけの……覚えておいでだろう、アレクサンドラ? その男が公爵にわびをして、その文句はあの連中相応のものだったけれど、あのときその男をたきつけたあの友達と絶交したって、知らせてよこしたんですよ。ね、覚えてるだろう、アレクサンドラ? そして、今ではだれよりも公爵を信じるっていってますよ。いかがです、わたしたちは今この人の前で鼻高々でいるけど、こんな手紙はまだ受け取ったことがありませんよ」
「それに、イッポリートもやはりこのかたの別荘へ引っ越して来ましたよ!」とコーリャが叫んだ。
「え! もうここヘ!」と公爵は心配しはじめた。
「あなたが奥さんとお出かけになったすぐあとに来たんです。ぼくつれて来たんです」
「ふん、わたしが請け合いますよ」リザヴェータ夫人はたったいま公爵を賛めたことを忘れて、とたんに怒り出した。「わたしが請け合いますよ、この人は昨日あの男の屋根部屋へ出かけて行って、あの意地悪の性悪男に、お慈悲でここへ引っ越すようにって、両ひざついて頼んだに相違ありません。公爵、あんたきのう行ったんでしょう? だって、さっき自分で白状したじゃありませんか。そうですか、そうでないのですか? 両ひざつきましたが、つきませんか?」
「けっしてつきはなさらなかったです」コーリャは叫んだ。「まるっきり反対です。イッポリートがきのう公爵の手を取って、二度接吻したんです。ぼく自分で見ましたよ。それでいっさい話が片づいちまいました。それから公爵はただイッポリートに別荘へ来たほうが楽じゃないがっておっしゃったら、イッポリートがさっそく承知して、すこしよくなったらすぐ引っ越すっていったのです」
「きみだめですよ、コーリャ……」と公爵は席を立って、帽子を取りながら、つぶやくようにいった。「なんだってきみ、みんなしゃべってしまうんです、ぼくは……」
「あんたいったいどこへ?」とリザヴェータ夫人がひきとめ
た。
「公爵、ご心配には及びませんよ」とコーリャは興奮して言葉をついだ。「今いらっしては、あれを心配させるばかりですよ。あれは旅疲れで寝入ってしまいました。とても喜んでいましたよ。ぼくは今お会いにならないほうがずっといいと思いますよ。いっそあすまでうっちゃってお置きなさいな。でないと、またまごつきますから。さっきもいってましたが、もうこの半年のあいだ、今日ほど気持ちがよくて元気なことはないって。おまけにせきもずっとずっと少ないんですよ」
 このとき公爵は、アグラーヤがふいに片隅から出て来て、テーブルに近寄ったのに気づいた。彼はその顔をながめる勇気がなかったけれども、この瞬間、彼女が自分のほうを見ていたことを、からだぜんたいで直覚した。おそらくそのまなざしはものすごく、その黒い目の中にはきっと憤懣の炎が燃えて、顔にはくれないがそそいでいたに相違ない。
「ですが、ニコライ・アルダリオーノヴィチ(これはコーリャに対する冷やかし半分の敬称)、わたしの考えでは、あなたがその人を連れて来られたのは、無駄なことらしいですな。もしその人があのとき泣いてわたしたちを自分の葬儀に招待した、肺病やみの子供であるならばですね」とエヴゲーニイが注意した。「あの人は、隣家の壁のことを、じつにみごとに話しましたが、きっとこちらへ来ても、その壁を思って憂欝症にかかりますね、それはもうたしかです」
「まったくですよ。あの男はかならずあんたといい合いをして、つかみ合いをして、そして飛び出すにきまっている、――それくらいのこってすよ!」
 こういってリザヴェータ夫人はものものしい様子をして、縫い物のはいっている小寵を引き寄せた。彼女は、もう一同が散歩にと席を立ったのを、忘れていた。
「いま思い出しましたが、あの人は例の壁をたいそう自慢していましたね」とまたもやエヴゲーニイが口を出した。「この壁がなかったら、あの人は雄弁な死様《しによう》ができないでしょうよ。あの人はまったく、雄弁な死様がしたくてたまらないんですからね」
「それでどうなんですか?」と公爵はつぶやいた。「もしあなたが、あの人をゆるしてやりたくないとおっしゃるのでしたら、あの人もあなたにはかまわず死ぬでしょう。あの人は今度ただ木立ちがながめたくてやって来たのです」
「おお、何をおっしゃるのです、わたしのほうからは、なにもかもゆるしてあげますとも。どうぞあの人にそうお伝えください」
「それをそんなふうにとってくだすっては困ります」依然として床の一点を眺めつづけながら、目を上げようともせずに、静かな気のない調子で公爵が答えた。「ぼくのつもりは、あなたもあの人からゆるしを受けることを承知なさればいいに、とそう思ったのです」
「わたしにこの場合なんの関係があります? わたしがあの人にどんな悪いことをしたのでしょう」
「もしおわかりにならなければ、まあ……しかし、あなたわかっていらっしゃるじゃありませんか。あの人はあのとき……あなたがたみなさんを祝福して、あなたがたからも祝福を受けたかったのです。それだけのことです……」
「ねえ、公爵」とS公爵は、同席のだれかれと目まぜをしてから、なんとなく危ぶむようなふうに急いで引き取った。「地上の楽園は容易に得られるものじゃありません。ところが、あなたはそれにもかかわらず、多少天国というものを期待していらっしゃる。地上の天国はなかなかむずかしいものです。あなたの美しい心でお考えになるよりも、はるかにむずかしいものですよ。それよりか、いっそよしてしまいましょう。でないと、またおたがいに間の悪い思いをしないとも限りませんから、そのとき……」
「オーケストラを聞きに行きましょう」リザヴェータ夫人は腹立たしげに起ちあがりながら、言葉鋭くこういった。
 つづいて一同席を立った。

      2
 このとき、公爵はふいにエヴゲーニイに近寄った。
「エヴゲーニイ・パーヴルイチ」と彼は相手の両手を取って、不思議な熱を帯びた訓子でいいだした。「どうぞぼくを信じてください、ぼくはどんなことがあろうとも、あなたを最も高潔な、最も善良なおかたと思います。どうぞこのことを信じてください……」
 エヴゲーニイは驚きのあまり一歩うしろへ退ったほどであった。その一瞬問、彼は堪えがたい笑いの発作をかろうじて押しこたえたのである。しかし、よく見つめているうちに、彼は公爵が前後をわきまえずにいるのではないか、すくなくもなにか特別な心の状態になっているのではないか、とこころづいた。
「誓っていいますが」と彼は叫んだ。「あなたは、まるっきり違ったことをいおうとしていられたのです。そして、おそらくわたしではなく、ほかの人におっしゃりたかったのでしょう……しかし、あなたはまあどうなすったんです? お気分でも悪くはないのですか?」
「そうかもしれません、大いにそうかもしれません。あなたの観察は当たったかもしれません、ぼくはまったくあなたとは違った人のほうへ近寄りたかったのでしょう!」
 こういって、彼はなんとなく奇妙な、こっけいにさえ感じられる微笑を浮かべた。が、急に激したように叫んだ。
「どうかあの三日前のぼくの行為を、もう思い出させないでください! ぼくはこの三日間、恥ずかしくてたまらなかったのです……ぼくは自分が悪かったということを、よく承知しています……」
「まあ……いったい、なにをそんなに恐ろしいことをなすったんです?」
「ぼくにはわかっています、エヴゲーニイ・パーヴルイチ。あなたはだれよりもいちばん余計ぼくのために、恥ずかしい思いをしてらっしゃる。あなたは顔を赤くしていられますね。それは美しい心の特質です。ぼくは今すぐ帰りますから、どうか安心してください」
「まあいったいこの人はどうしたんだろう! 発作でも始まったのかしら?」とリザヴェータ夫人はびっくりしてコーリャにたずねた。「心配しないでください、奥さん、いま発作などありません。ぼくもうすぐ帰ります。ぼく、自分でよく知っています。ぼくは……自然にしいたげられた男です。ぼくは二十四年間、生まれてから二十四の歳まで病人でした。どうぞ今も病人の言葉として聞いてください。ぼくはいますぐ帰ります、今すぐ。安心してください。ぼくは赤い顔などしません――だって、こんなことのために赤い顔をするのは変ですものね、そうじゃありませんか?――しかし、ぼくは社会における無用人です……といったって、それはけっして自尊心から申すのではありません……ぼくはこの三日間いろいろに渮えたすえ、どうしてもあなたがたに会ったら、おりを見つけて、まじめな高潔な態度で申しあげようと決心したのです。ほかでもありませんが、どうしてもぼくの口にのぼすことのできないような理想、しかも高遠なる理想がこの世にあるということです。なぜ口にのぼしてはいけないかというと、ぼくの口にのぼると、それがみなこっけいなものになってしまうからです、S公爵もたった今このことをぼくに注意してくださいました……ぼくには礼にかなった身振りがありません、感情の中庸というものがないのです。ぼくの持っている言葉はことごとく見当ちがいで、思想に相当したものがありません。これはその思想に対する侮辱です。こういうわけですから、ぼくには権利がなにもありません……おまけに、ぼくは疑ぐりぶかい性分です。ぼくは……ぼくはこの家の皆さんがぼくを侮辱なさるはずがない、むしろ真価以上に愛してくださると信じていますけれど、それでもやはりわかっています(ぼくはたしかにわかっています)、二十年も病気したあげくですから、どうしても人から冷笑されずにいられないようなものが、なにか残っているに相違ありません……ときとしてはね……、そうでしょう?」
 彼は返答か決定でも求めるような風つきで、あたりを見まわした。この思いがけない病的な、どうしてもいわれがあるとは思われない公爵の興奮に、一同は重苦しいためらいの念にとらわれて突っ立っていた。が、この公爵の言葉は、一つの奇怪な挿話の原因となったのである。
「なんのためにあなたはそれを今ここでおっしゃるんです?」ふいにアグラーヤが叫んだ。「なんのためにあなたはそれをこの人たち[#「この人たち」に傍点]におっしゃるんです? この人たちに! この人たちに!」
 見たところ、彼女は憤懣の頂点に達しているらしかった。その両眼は激しい火花を散らしていた。公爵はその前におしのように、声もなく突っ立っていた。と、急に真っ青になった。
「ここにはそんな言葉を聞くだけの値うちのある人が、ひとりもいないのです!」といったアグラーヤの言葉は、暴風の吹きおこるようであった。「ここにいる人はみんなだれも彼も、あなたの小指一本にさえ当たりません。あなたの知、あなたの情の分与に参ずる資格がありません! あなたはだれよりも潔白です、だれよりも高尚です、だれよりもりっぱです、だれよりも善良です、だれよりも賢者です!………ここには、あなたのいま落としたハンカチをこごんで拾う値うちすらないような人たちもいるんですからね……なんのためにあなたは自分を侮辱して、だれよりも低いところに自分をお置きになるのです? なぜあなたは自分の中にあるものを、すっかりこじれさしてしまったのです、なぜあなたは誇負の心がないのです?」
「まあ、ほんとうに思いもよらなかった!」とリザヴェータ夫人は思わず両手を拍った。
「貧しき騎士、万歳《ウラー》!」とコーリヤは有頂天になって叫んだ。
「お黙んなさい! なんだってみんなあたしに恥をかかせようとするんです。しかも、あたしたちの家で!」とアグラーヤはいきなり、リザヴェータ夫人に突っかかって行った。彼女はもういっさいのものに目をくれず、あらゆる障害物を乗り越して行こうとする、ヒステリックな心の状態になっていた。「なぜ皆がそろっていじめるんです? 公爵、なんだってこの人たちはこの三日間、あなたのことでうるさくあたしをいじめるんでしょう? あたしはどんなことがあったって、あなたと結婚しやしません! ようござんすか、どんなことがあろうとけっして結婚しません! よく覚えててちょうだい! ほんとうにあなたみたいなこっけいな人と結婚できるもんですか? まあ、ちょっと鏡の前へ行って、そうしてぼんやり立ってらっしゃる様子をごらんなさい! なんだって、なんだってこの人たちは、あたしがあなたと結婚するなどといって、からかうんでしょう? あなたそれを当然知ってらっしゃるはずですわ! あなたもやはりこの人たちと、なにか申し合わせていらっしゃるんでしょう!」
「だれもけっしてからかやしなくってよ!」とアデライーダはびっくりしてつぶやいた。
「だれひとりそんなこと考えたこともありません、それらしいことをいったものさえありませんよ!」とアレクサンドラは叫んだ。
「だれがこの子をからかったのです? いつこの子をからかったのです? だれが大胆にもこの子にそんなことをいったんです? この子は熱にでも浮かされてるんですか、どうですの?」と憤怒に身をふるわせつつ、リザヴェータ夫人は一同に向かっていった。
「みんながそういいました。ひとり残らずこの三日間からかったのです! あたしはけっしてこの人と結婚などしやしません!」
 こう叫んでアグラーヤは、いきなり苦い涙をはらはらとこぼし、ハンカチで顔をおおいながら、いすに身を投じた。
「公爵はまだおまえに……」
「ええ、ぼくはまだあなたに求婚したことはありません、アグラーヤさん」とふいに思わず公爵は叫んだ。
「なぁんですって!」驚愕と憤懣と恐怖の念に、リザヴェータ夫人は言葉じりを引きながら言った。「いったいなんですの?」
 彼女は自分の耳を信じたくないような気がした。
「ぼくはただその」と公爵はふるえあがりながら、「ぼくはただアグラーヤさんに言明したかったのです……つまり、ぼくがアグラーヤさんに結婚を申しこもう……などという意志をぜんぜんもっていなかったということを、申しあげたかったのです。さきになったらいつか……という考えすらありませんでした。何ごともぼくが悪いのではありません、誓ってぼくに罪はありません、アグラーヤさん! ぼくはけっしてそんなことを望みはしなかったのです、けっしてそんな考えをいだいたことはありません。またけっしてこのさきも望みはしません。それはあなたご自身で見ていてくださればわかります。どうぞぼくを信じてください! これはだれか悪い人間が、ぼくのことをあなたに讒謗したのです! どうぞ安心してください!」
 こういいながら、彼はアグラーヤに近づいた。彼女は今まで顔をおおっていたハンカチをのけて、ちらりと相手の顔とそのうろたえた様子を見やった。そして、しばらく彼の言栞の意味を思いめぐらしていたが、ふいに破裂するように公爵の鼻のさきで笑い出した、――それはじつに愉快でこらえきれないような、さもおかしそうな、同時に人をばかにした高笑いであった。で、第一に、アデライーダが、やはり公爵のほうをながめると同時に、がまんしきれなくなり、妹に飛びかかって抱きしめながら、同じくこらえきれないほど愉快らしい、小学生のような笑いかたで笑いくずれた。ふたりの様子を見ながら、とつぜん公爵までがにこにこ笑いはじめた。そして、嬉しそうな幸福らしい表情を浮かべて、
「いや、結構です、結構です!」とくりかえした。
 このときはもうアレクサンドラもがまんしきれなくなって、腹の底から笑い出した。この三人の無遠慮な高笑いは、いつ果てるともみえなかった。
「まるで気ちがいだねえ!」とリザヴェータ夫人はつぶやいた。「たったいま人をびっくりさせるかと思えば、今度はまた……」
 しかし、今はS公爵も笑えば、エヴゲーニイも笑いだした。コーリャはまた際限なしにからからと笑いつづけるのであった。一同の様子をながめながら公爵も笑っていた。
「散歩にまいりましょう、散歩にまいりましょう!」とアデライーダが叫んだ。「みんないっしょにね、そして、公爵もぜひわたしどもといっしょにいらっしゃらなくてはなりません。あなたが帰っておしまいになるって法はありません。あなたはわたしどもにとって大切な、かわいいかたなんですもの! ねえ、アグラーヤ、なんてかわいいかただろうねえ!そうじゃありません、おかあさん! それに、わたしはぜひとも公爵を接吻して、抱いてあげなくちゃなりませんわ……あの……今アグラーヤに説明してくだすったお礼にね。おかあさん、ねえ、わたし公爵を接吻してあげてよくって? アグラーヤ、わたしあんたの[#「あんたの」に傍点]公爵を接吻してもいい!?」といたずらっ子らしい調子で叫んで、ほんとうに公爵のほうへかけよると、その額に接吻した。
 こちらは彼女の手を取って、ぐっと握りしめたので、アデライーダはあやうく叫び声を立てようとしたほどである。公爵は限りない歓喜の色を浮かべて彼女を見つめたが、ふいにす早くその片手をくちびるへ持って行って、三度まで接吻した。
「さあ、まいりましょう!」とアグラーヤは呼び立てた。「公爵、あなたあたしの手を引いてくださいな。おかあさま、そうしてもいいでしょう、あたしを嫌った花婿さんだから? ね、あなたは永久にあたしを嫌って、拒絶なすったんでしょう、公爵? いいえ、そうじゃありません、そんな具合に女に腕を出すものじゃなくってよ。いったいあなたは女の手の引きかたをご存じないんですの? ええ、それでいいわ、まいりましょう。あたしたちが先頭になろうじゃありませんか、先頭に立つのはおいや、tete-a-tete(ふたりっきりで)は?」
 彼女はとめどなくしゃべりつづけるのであった、やはりときどき突発的に笑いながら。
『結構なことだ、ありがたい!』自分でもなぜやらわからぬながら、なんとなく嬉しくて、リザヴェータ夫人は腹の中でこうくりかえした。
『まったく奇妙な人たちだ!』とS公爵は考えた。ことによったら、彼がこう考えるのは、この家へ出入りしはじめてから、これでもう頁遍目ぐらいかもしれない。しかし……彼はこの奇妙な人たちが好きなのであった。ムイシュキン公爵はどうかというに、この人はあまりS公爵の気に入らないらしい。彼はいくぶん眉をひそめながら、なんとなく心配らしい様子で、一同とともに散歩に出かけた。
エヴゲーニイはこのうえなく愉快な気持ちになっているらしく、停車場までの道すがら、絶えずアレクサンドラとアデライーダを笑わせていた。しかし、ふたりともあまり容易に彼の冗談を聞いて笑うので、ついに彼はふたりがまるっきり自分のいうことを聞いていないのじゃないかと、ふと気をまわしてみたくらいである。こう考えると、彼はいきなりわけもいわずに、度はずれな真剣さで、からからと大きな声で笑い出した(じっさい、彼はこうした性格の男なのである!)。とはいえ、このうえなく浮き浮きした気分になっていたふたりの姉は、一同にさきだって行くアグラーヤと公爵のほうを、絶えずながめやった。見受けるところ、妹は彼女たちに大きな謎を投げかけたものらしい。S公爵はリザヴェータ夫人の気をまぎらすつもりか、つとめてよそごとのような話を仕向けながら、かえってひどく夫人にうるさがられていた。夫人はすっかり頭の中がめちゃめちゃになっているらしく、とんちんかんな返事ばかりして、どうかすると、まるっきり返事をしないことがあった。けれども、アグラーヤの謎はこの晩あれだけではすまなかった。いま一つ最後の謎が、今度はただ公爵ひとりだけの胸に落とされたのである。ほかでもない、別荘からおよそ百歩ばかりのところまで来たとき、アグラーヤは早口で半分ささやくように、しつこく押し黙っている自分の騎士《カヴァレール》に向かって、
「右のほうをごらんなさい」といった。
 公爵はそのほうを振りむいた。
「よくごらんなさい。あの公園にあるベンチがお見えになって、ほら、あの大きな木が三本あるところ……緑色のベンチ?」
 公爵は見えますと答えた。
「あなたここの場所がお気に入りました? あたし朝早く、七時っころ、みんながまだ寝ている時分に、ここへひとりで来て腰をかけるんですのよ」
 公爵はじつに美しい場所だとつぶやいた。
「さ、もうあたしのそばから離れて歩いてください、あたしもうあなたと手を組んで歩くのいやになりましたの。いえ、それよりいっそやはり手を組んでらっしゃい、そのかわりあたしにひと口もものをおっしゃっちゃいけませんよ。あたし自分ひとりだけで考えたいんですから……」
 しかし、なににしても、この注意は無駄なことであった。たしかに公爵はこの命令がなくても、はじめからしまいまでひとことも口をきかなかったに相違ない。緑色のベンチのことを聞いたとき、彼の心臓はおそろしく鼓動しはじめた。が、一瞬にして彼は考え直し、恥じ入りながら自分の愚かしい想像を追いのけた。
 パーヴロフスクの停車場には、一般に知られているとおり、すくなくも皆のいうところによれば、市から『あらゆる種類の人たち』が押し寄せて来る日曜や祭日よりも、かえって平日のほうに『選り抜き』の人々が集まってくる。それらの人々の装いは、あまりけばけばしくないけれど、あか抜けがしている。ここへ音楽を聞きに集まるということは、一般の慣わしになっていた。じっさい、オーケストラはたぶん公園楽隊としてなかなかすぐれており、しじゅう新しい曲を演奏しているのである。一般に内輪同士らしくうちとけた様子はあったが、礼節と整頓の重んぜられることは非常なものであった。おたがいにみな知り合った別荘住まいの人たちが、たがいの様子を見ようとして集まってきた。多くのものは真底から満足してこれを実行し、これ一つのために出かけてくるのであったが、中にはほんとうに音楽ばかり聞きにくる人もあった。見苦しい騒ぎはごくまれであったが、それでもどうかすると、平日にすら持ちあがることがあった。しかし、まったくそういう騒ぎがなくては、世の中のことはすまぬものである。
 このときは珍しい良夜であったから、群集も多く、演奏中の楽隊に近い席はすっかりふさがっていた。エパンチン家の一行はいくぶんわきに寄って、停車場の左入口のすぐそばにあるいすに座をしめた。群集と音楽はいくぶんリザヴェータ夫人を元気づかせ、令嬢たちの気をまぎらせた。彼女らはそのあいだに知り合いのだれ彼と視線をまじえ、だれ彼の人に愛想よくうなずいてみせた。またそのあいだには人の衣装をながめたり、ちょいちょい変なことを見つけてその話をしたり、冷やかすようにほほえんだりした。エグゲーニイも同様たびたび会釈していた。ここでもまだいっしょになっていたアグラーヤと公爵には、二、三の人が早くも注意を向けはじめた。やがてそのうちに母夫人と令嬢たちのそばへ、知り合いのだれ彼の若い人たちが近寄って来たが、その中の二、三人はいつまでも居残って話しこんでいた。それはみなエヴゲーニイの友人である。その人たちのあいだにひとり若い美しい士官がいた。これは快活で話ずきな男だったが、しきりにせきこんでアグラーヤに話しかけ、その注意を自分のほうへ向けさせようと、いっしょうけんめいに苦心していた。アグラーヤもこの男に対して非常に優しく、そしてひどくおもしろそうにしていた。エヴゲーニイはまた公爵に、この友人を紹介することを許してくれといった。公爵はこの人たちが自分に何を求めているのやら、よくわからない様子であったが、とにかく紹介もすんで、ふたりは会釈をし、たがいに于を握り合った。エヴゲーニイの友人はなにか質問を発したが、公爵はそれに対してぜんぜん返答しなかったらしい。あるいは返答したのかもしれぬが、なにやら口の中でぶつぶつつぶやいたばかりであった。その様子がいかにも奇妙だったので、士官はじっと彼の顔を見つめていたが、やがてエヴゲーニイのほうへ視線を転じた。と、その瞬間、なんのためにエヴゲーニイがこの紹介を思いついたかを察して、ほんの心持ちにっと薄笑いを浮かべ、ふたたびアグラーヤのほうへ振りむいた。このときアグラーヤが急に赤くなったのに気がついたのは、エヴゲーニイひとりだけである。
 公爵はほかのものがアグラーヤと話したり、機嫌をとったりしているのに、気のつかない様子であった。どうかすると、彼女のそばにすわっていることさえ忘れがちであった。ときおり彼は、どこかへ行って、ここからまったく姿を消してしまいたいような気がした。ただひとり自分の思想に没顫して、自分がどこにいるやら、だれひとり知るものもない、陰欝な淋しい場所が、好もしいようにさえ思われた。それもかなわないのなら、せめて自分の露台にでもすわっていたい。ただその場にはだれも、レーベジェフもその子供たちもいないほうがいい、あの長いすに身を投げかけ、枕に顔を埋め、そのまま昼も夜もまた次の日も、じっと横になっていたい。ときどきちらりと山のことも想像に浮かんだ。山といっても、その中でなじみの深いある一つの場所で、彼は好んでいつもその場所を思い浮かべた。それは、彼がまだスイスに暮らしていたころ、毎日のように出かけて、下の村を見おろしたところである。そこから下の方に、やっと見えるか見えないぐらいの白糸のような滝、白い雲、捨てて顧みられない古城の廃坑をながめるのがすきだった。おお、どんなにか彼は今この場所に立って、ただ一つのことばかり思いつづけていたかったろう、――おお! 一生このことばかり思いつづけていたい、――このこと一つだけで千年のあいだ考えとおすにも十分である! そして、ここの人たちが、自分のことを忘れてしまったってかまいはしない。いや、そうならねばならぬ、そのほうがかえって都合がいい。もしはじめからこの人たちがぜんぜん自分を知らずにいて、この恐ろしい幻影がただの夢であったなら。しかし、もう夢でもうつつでも、どちらでも同じことではないか! ときどき彼はふいにアグラーヤを見つめはじめる。そして、五分間ばかりその顔から目を放さなかったが、その目つきがじつに奇妙であった。まるで自分から二露里も離れている物体か、あるいは絵姿でもながめているようで、当のアグラーヤを見る目つきではなかった。
「なんだってあなたはあたしをそんなにごらんなさるの、公爵?」ふいに自分を取り巻く人々のにぎやかな会話と笑い声を断ち切って、アグラーヤはこう問いかけた。「あたしあなたがこわいわ。あたしなんだかあなたが今にも手を伸ばして、指であたしの顔をいじってごらんになりそうな気がして、しようがないんですのよ。そうじゃありませんか、ねえ、エヴゲーニイさん、公爵の目つきはそんなふうですわね?」
 公爵は、人が自分に話しかけたのを、びっくりしたように聞いていた。そして、なにやら思いめぐらすさまであったが、ほんとうによくわからなかったと見えて、返事をしなかった。が、みなが笑っているのを見ると、いきなり大きな口をあけて、自分でも笑い出した。あたりの笑い声はひとしお高くなった。士官はよほどおかしがりと見えて、いきなりぷっとふきだした。アグラーヤはふいに腹立たしげに口の中でつぶやいた。
「白痴《ばか》!」
「まあ! ほんとうにこの娘は、いったいこんなものに……いったい、この子はほんとに気がちがうのじゃないかしら」とリザヴェータ夫人は歯ぎしりしながらひとりごちた。
「あれは冗談ですよ。あれはさっきの『貧しき騎士』と同じような冗談ですよ」とアレクサンドラはしっかりした調子で、母夫人に耳打ちした。「それだけのこってすわ! あの子は今もまた自分一流のやり方で、公爵をからかったんですよ。ただこの冗談はあんまり薬がききすぎました。もうやめさせなくちゃなりませんわ、おかあさま! さっきはまたまるで女優みたいに変な真似をして、わたしたちをびっくりさせるかと思うと……」「まあ、それでも相手があんな削唹だからまだしもなんですよ」とリザヴェータ夫人はささやき返した。
 娘の解釈はとにかく大人の胸を軽くした。
 とはいえ、公爵は自分を白痴《ばか》と呼ぶ声を聞いて、身震いした。しかし、それは白痴といわれたためではない。『白痴』という言葉はすぐに忘れてしまった。が、群集の中に、自分のすわっている席からほど遠からぬどこか端のほうで、――公爵はどこのどのへんということを、的確に示すことができなかったけれども、一つの顔が、ちらとひらめいたからである。うずを巻いた暗色の毛、見覚えのある、じつによく見なれた微笑と目を持った青ざめた顔が、――ちらとひらめいて、消え去ったのである。あるいはただ気のせいだったかもしれぬ、大いにそうかもしれぬ。彼の心に残った印象は、ただひん曲がったような嘲笑と、目と、ちらと目に映ったひとりの屶の薄い緑色をした、しゃれたネクタイばかりであった。この人が群集の中にまぎれこんだのか、それとも停車場の中へ入ったのか、公爵はやはり明言することができなかった。
 しかし、一分間ののち、公爵はとつぜんそわそわと落ちつかぬ様子で、あたりを見まわしはじめた。あの第一の幻影が、つづいて来る第二の幻影の予言であり、先駆であったのかもしれぬ。それはたしかにそうだったのだ。いったい彼はここへ出かけて来るとき、もしかしたらある人に出くわすかもしれないということを、忘れていたのだろうか? それは事実である。彼がこの停車場へ向けて歩いて来るあいだ、自分で自分がどこへ行ってるのやら、まるっきり知らずにいたようなありさまだった。――それほど彼の心は暗く重かったのである。もし彼がいますこし注意して見ることができたら、まだそれより十五分ばかり前にアグラーヤが、なにか自分の周囲に潜むあるものをさがすような風つきをして、ときどき不安げにあたりを見まわしているのに、気がついたはずである。いま彼の不安が恐ろしく目立ってくると同時に、アグラーヤの不安と動揺もそれにつれて大きくなった。そして、彼がうしろを振りかえって見るやいなや、ほとんど同時に彼女もそのほうを振りむくのであった。しかし、不安は間もなく解決された。
 公爵はじめエパンチン家の一行は、停車場の横手の出口に近く陣取っていたが、そこからにわかに一隊の群集、すくなくとも十人ぐらいの同勢からなる一群の人々が現われた。群集の先頭に三人の女が立っている。その中のふたりは驚くばかりの美人であったから、そのあとからこれぐらいのお供がやって来るのも、あながち不思議はなかった。けれど、そのお供も婦人たちも――すべてこれらの人たちは、音楽を聞きに集まっているその他の人々とはまるで変わった、一種特別のものであった。ほとんどすべての人々はこの一群に気がついたが、大部分は見て見ぬふりをしようと努めていた、ただ若い連中のだれ彼は、彼らの姿を見て微笑しながら、たがいに低い声でささやき合った。しかし、ぜんぜん彼らに気づかずにいるのは不可能であった。彼らはわざと自分の姿をひけらかして、大きな声で話したり、笑ったりしているのだ。彼らの多くが酔っぱらっているらしいということは、想像するにかたくなかった。もっとも二、三の者は、ハイカラなしゃれた身なりをしていたけれども、また思いきって奇妙な恰好をして、奇妙な服を着け、いやに興奮した顔つきのものも少なくなかった。彼らの中には軍人もあれば、あまり若くないのもあり、また、ゆったりと優英な仕立ての服を着こんで、指輪やカフスボタンを光らせ、漆のように黒いりっぱなかつらをかぶり、ほお髯を立て、顔に一種上品な、とはいえいくぶんしかつめらしい威厳を持たした、裕福らしい風采の人々もまじっていた。しかし、社会では、こういう人々をペストのように嫌って避けるようである。この町はずれの停車場に集まった公衆の中には、なみなみならずきちょうめんなので有名な人たちも、世間から特に尊敬されている評判のいい人たちもあった。しかし、どんな用心ぶかい人でも、ふいに隣家から落ちてくるれんがに、四六時中、気をつけているわけにはいかない。このれんがは音楽に集まったきちんとした公衆の上に、今しも落ちかかろうとしているのであった。
 停車場からいまオーケストラの陣取っている広場へ出るには、小さな段々を三つおりなければならなかった。この段々の上にかの一隊は立ちどまったが、思いきってそこからおりかねるふうであった。と、ひとりの女が平気で前へ進み出た。それにつづいて、ただふたりの男だけが思いきって進んだ。ひとりはかなりおとなしそうな顔つきをした中年男で、すべての点において、ひととおりの外貌を備えていたが、あからさまに風来坊といった風体であった。つまり、世間によくあるやつで、自分でもまるで人を知らなければ、人からもまるで知られないという連中のひとりなのである。いまひとり、女のそばを離れずにいるほうは、まったくごろつきで、気味の悪い風体をしている。それ以外、だれもこの突飛《とっぴ》な婦人についてこようとする者はなかったが、彼女は段々をおりながら、うしろを振りかえってみようともしなかった。さながら、人がついてこようとこまいと同じことだといわんばかりである。彼女は依然として声高《こわだか》に話したり、笑ったりしていた。その服装にはなみなみならぬ趣味も現われ、かつ金もかかっているけれど、普通のたしなみから見れば、多少けばけばしすぎるようである。彼女は楽隊のそばを横切って、広場の向こう側をさして進んで行った。そこには道ばたで、だれの馬車であろうか、人待ち顔に立っている。
 公爵はもう三か月以上も彼女[#「彼女」に傍点]を見なかった。今度ペテルブルグへ出てからこの数日間というもの、公爵は絶えず彼女を訪れようと心組んでいたが、なにか一種神秘な予感ででもあろうか、つねに彼を引き留めていたのである。すくなくとも、彼は近いうちに起こるべきこの女との再会の印象がどんなものであるか、どうしても想像することができなかった。彼は恐怖の念を覚えつつも、ときどきその場合の感じを心に描いてみようと努めた。ただ一つ的碓なのは、その感じが重苦しいものに相違ないということであった。まだ彼がはじめて写真に接したばかりのとき、彼女の顔が彼の心にひきおこしたあの最初の感銘を、彼はこの六か月のあいだにいくどとなく思い浮かべたのである。しかしこの写真から受けた印象の中にさえ、今おもいおこしてみると、多すぎるぐらい重苦しいあるものが潜んでいた。ほとんど毎日のようにこの女に会っていた田舎のひと月が、彼の心に恐ろしい作用を及ぼしていたので、この時分に関する単なる追想すらも、なるべく自分の脳裡から追い出すようにしていた。この女の顔そのものが、つねに彼にとって悩ましい何ものかを蔵していた。公爵はラゴージンと話し合ったときに、この感じを限りなき憐愍の情として説明した、それはほんとうである。この顔はまだ写真を見たばかりのときから、彼の心に激しい憐愍の苦痛を呼びおこした。この人物に対する同情と苦痛の感銘は、今まで一度も彼の心を離れたことがない、今でも離れないでいる。おお、それどころか、かえって余計に激しくなっているのだ。けれども、ラゴージンにいって聞かせただけの説明では、公爵はまだ不満足であった。ところが、たった今、思いがけなくこの女が姿を現わした刹那、おそらく一種の直覚の働きでもあろう、彼はラゴージンに話した自分の言葉に不足していたものを了解した。ああ、この恐怖をいい表わすには、人間の言葉はあまりに貧しい。そうだ、恐怖である! 彼は今、この瞬間にそれを完全に直覚した。彼は特別な理由によって、この女が気ちがいだと信じた。徹頭徹尾そう信じて疑わなかった。もしひとりの女を世界じゅうの何ものよりも深く愛し、あるいはそうした愛の可能を予感しつつある男が、突然その女が鎖につながれ、鉄の格子に閉じこめられ、監視人に棒で打たれているところを見つけたらどうか、――こうした感覚こそ、いま公爵の直感したところのものに、いくぶん似寄っているかもしれぬ。
「どうなすったの、あなた?」とアグラーヤは彼のほうを振りむいて、子供らしくその手をひっぱりながら、早口にささやいた。
 彼はそのほうに頭を向けて彼女をながめ、この瞬間合点のいかぬほどぎらぎら輝いていた黒い目を見つめながら、にっこり笑って見せようとしたが、ふっと一瞬の間にアグラーヤのことを忘れ果てたかのように、ふたたび目を右のほうへ転じ、またもやかの恐ろしい異常な幻影を追いはじめた。ナスターシヤはこの瞬間、令嬢たちの席のすぐそばを通り抜けていた。エヴゲーニイはなにか、ひどくおもしろおかしそうなことを、早口に生きいきした調子で、アレクサンドラに話しつづけている。公爵はのちのちまでも覚えていたが、アグラーヤはこのときふいになかばつぶやくような声で、『なんてまあ……』といった。
 このひとことはなんともつかない、しっぽの切れたもので終わった。彼女はすぐにはっと気がついて、それきり何もいい足さなかったが、しかしそれだけでも十分であった。ナスターシヤは今まで特にだれに目をつける様子もなく通り抜けていたが、急に一行のほうへ振りむいて、いまはじめてエヴゲーニイに気がついたかのごとく、
「あらまあ! この人はこんなところにいるんだわ!」と急に立ちどまって、彼女は叫んだ。「飛脚を使ってさがさしても、見つからないと思えば、こんな思いもよらないところに
すわってるのねえ、わざとのようだわ……わたしまたあんたはあの……伯父さんのところにいるのかと思ってたわ!」
 エヴゲーニイはかっとなって、ものすごい目つきでナスターシヤをながめたが、すぐにまた顔をそむけてしまった。
「おや! いったいあんた知らないの? この人はまだ知らないんだわ、まあどうでしょう! 死んだんですよ! けさがたあんたの伯父さんが、ピストルで死んじゃったんですよ! わたしついさっき、二時間ばかり前に聞いたわ、ええ、もうおおかた町の半数の人たちは知ってますよ。官金三十五万ルーブリつかいこんだんですって。中には五十万だっていう人もあるわ、わたしあんたがその伯父さんから遺産を貰うのだとばかり思って当てにしてたのに、――みんなほらだったのね。しようのない極道|老爺《おやじ》たったそうよ……じゃ、さようなら、bonne chance(ご幸福を祈ります)じゃ、あっちへ出かけないの? 道理で早く退職を願ったはずだわ、はしっこいこと! しかし、そんなばかなことってないわ。知ってたんだ、前から知ってたんだわ。たぶんもうきのうあたりから知ってたんでしょう……」
 こうした傲慢でうるさい、ありもしない近づきの押し売りには、なにかある目的が潜んでいた。それは今さらもうなんの疑いもないことである。エヴゲーニイははじめのうち、どうにかしてうまく受け流し、なにがあろうともこの無礼な女を気にかけないように努めていた。しかしナスターシヤの言葉は雷のごとく彼の頭上に落ちかかった。伯父の死ということが耳に入ると、彼はハンカチのように青くなって、思わずナスターシヤのほうを振りむいた。この瞬間リザヴェータ夫人は急に立ちあがって、ほかの人々を促しながら、ほとんど走るようにしてこの場を離れた。ただムイシュキン公爵のみは、しばらく決しかねたように、一秒ばかりその場に立ちすくんでいた。エヴゲーニイもやはり茫然自失したかのごとく、じっと立っていた。しかし、エパンチン家の一行がまだ二十歩と離れぬうちに、恐ろしい騒ぎが持ちあがったのである。
 さきほどアグラーヤと会話を試みていた士官は、エヴゲーニイと大の仲よしであったが、今や憤懣の極に達した。
「もうぶんなぐってくれなくちゃだめだ。それよりほかにこの売女《ばいた》をとっちめる法がない!」と大きな声でいい出した(この男は以前からエグゲーニイの腹心であったらしい)。
 ナスターシヤはたちまち彼のほうへ振りむいた。その目はものすごく輝いていた。彼女は、二歩ばかり隔てて立っている、まるっきり兄覚えのないこの青年のほうへおどりかかった。士官はつるを編んだ細いステッキを携えていたが、ナスターシヤはやにわにそれを引ったくって、この無礼者の顔を斜《はす》かいに力任せに打ちすえた。それはほんの一瞬のできごとであった……士官はわれを忘れて彼女にとびかかった。ナスターシヤの周囲にはもう取り巻きがいなかった。取り済ました中年の紳士はいつの間にやら姿を隠し、一杯機嫌の紳士のほうはすこし離れたところに立って、いっしょうけんめいに笑っている。もう一分ののちには、警官も飛んで来たに相違ないが、今この瞬間、ナスターシヤは恐ろしい目を見るところであった。が、そこへ思いがけない助けが入った。やはり二歩ばかり間をおいてたたずんでいた公爵が、うしろから士官の両腕をとらえたのである。その手を振り放そうとして、士官は激しく公爵の胸を突き飛ばした。公爵は三足ばかりよろよろとして、いすの上に倒れた。けれども、このときすでにナスターシヤのそばへふたりの保護者が現われていた。今にもおどりかかろうと身構えしている士官の前に、ぬっと拳闘の先生が立ちはだかっていた。例の新聞記事の作者で、以前のラゴージンの徒党の一員である。
「ケルレルです! 退職中尉です」と彼は力みかえって名乗りを上げた。「もし腕ずくの勝負がお望みでしたら、わが輩が弱い女性に代わってお相手になりましょう。イギリス式拳闘はすっかり卒業しました。そんなに突くのはおよしなさい。あなたの血のにじむような[#「血のにじむような」に傍点]憤慨は同情に堪えんですが、一婦人に対して公衆の面前で腕力沙汰は許すわけにはいきません。もし高潔な人士にふさわしい他の方法に訴えようとおっしゃるなら、――あなたはもちろん、わが輩の言を了解してくださらねばならんです……」
 しかし、士官はやっとわれに返って、もう彼の言葉を聞いていなかった。このとき群集の中から現われ出たラゴージンは、す早くナスターシヤの手を取って、ぐんぐんしょっぴいて行った。ラゴージン自身もおそろしく気を転倒さしているらしく、青い顔をしてふるえていた。しかし、ナスターシヤを連れ去る前に、彼は士官にむきつけて毒々しく笑いながら、勝ちはこった市場商人のような顔つきをしていった。
「ちょっ! とんだ目にあったね! しゃっ面《つら》あ血だらけだ! ちょっ!」
 すっかりわれに返って、相手がどんな人間かを悟った士官は、丁寧に(とはいえハンカチで顔をおおいながら)もういすから立ちあがった公爵に向かって、
「あなたはムイシュキン公爵でしたね、さきほどお近づきの栄を得た?」
「あの女は気ちがいです! 狂人です! ほんとうです」となんのためやら、わななく両手を相手のほうにさし伸べながら、公爵はふるえ声で答えた。
「ぼくは残念ながら、そういううわさを聞いていないのでしてな。ぼくはただあなたのお名前を知ればいいのです」
 彼はちょっとうなずいて立ち去った。警官は、このできごとに関係した最後の人たちが隠れてしまってから、ちょうど五杪たったときかけつけた。とはいえ、この騒ぎはせいぜい二分より長くはつづかなかった。群集のだれ彼は席を立って行ったし、あるものは席を移しただけだし、あるものは非常にこの騒ぎを興がっていたし、またあるものはむきになって、かしましくこのことを問題にしていた。手短かにいえば、事件はごく平凡に終わりを告げたのである。楽隊はさらに演奏をはじめた。公爵もエパンチン家の一行を追って行った。もし彼が士官に突き飛ばされていすに倒れたとき、自分で思い当たるか、それともなにかの拍子で右のほうをながめたら、二十歩ばかり離れたところでアグラーヤが、この見苦しい光景をながめるために、もうずっとさきのほうへ行っている母や姉の呼び声を、耳にも入れずたたずんでいるのに気づいただろう。このときS公爵が彼女のそばへ走ってきて、早くここを去るようにすすめたのである。アグラーヤが一行に追いついたときは、興奮のあまり人々の言葉もほとんど耳に入らぬ様子だったのを、リザヴェータ夫人はよく覚えていた。しかし二分ののち、一同が公園に入るやいなや、アグラーヤはいつもの平然とした気まぐれな声で、「あたしあの喜劇がどんなふうで幕になるか、それが見たかったのよ」といりた。

      3

 停車場のできごとは、母夫人と令嬢たちにとって驚きというよりも、ほとんど恐怖であった。リザヴェータ夫人は不安と動乱に、停車場から家へ着くまで、文字どおりかけださんばかりに、娘たちをせき立てた。夫人の観察と見解に従うと、この事件のために非常に多くのことが発生し、暴露されたのである。そのためにすっかり仰天して、何が何やらわからなくなってしまったにもかかわらず、彼女の頭の中に一つの想念がくっきりと浮かんで来た。しかし、みなのものも、なにかしら特殊な事がおこって、おそらくは、さいわいにも、ある重大な秘密が暴露されはじめた、ということを悟った。以前、S公爵がいろいろに弁解したり、説明したりしたものの、エヴゲーニイは『今という今、明るみへひきだされて』、仮面を引きはがされ、『あの売女《ばいた》との関係をりっぱに暴露された』に相違ない、とこうリザヴェータ夫人も、そしてふたりの姉さえも考えたのである。しかし、この結論から得た賜物《たまもの》は、なおいっそう不思議な謎が謎の上に重なっただけのことだった。令嬢たちは、あまりにもはなはだしい母夫人の驚きようと、あまりにも見えすいた逃げようを、いくぶんこころの中で苦々しく思っていたけれども、こんな騒ぎが持ちあがったばかりのときに、いろいろな問題で母を苦しめる気になれなかった。そのうえ、ふたりはなぜか知らないが、妹のアグラーヤが、もしかしたらこの事件に関して、自分たちや母親などより余計に知っているかもしれぬ、といったような気がしたのである。S公爵もやはり夜のように暗い顔をして、ひどく考えこんでいた。リザヴェータ夫人は途中ひとことも彼に口をきかなかったが、彼のほうでもそれに気のつかない様子であった。アデライーダは彼に向かって、『あの伯父さんてだれのことですの、そしてペテルブルグで何があったんでしょう?』ときいてみたが、彼はその答えとして、思いきり渋い顔をしながら、なにかの調査をどうとかしたと口の中でつぶやき、それはみんなもちろんつまらないばかげたことだといった。『それはそうに決まってますわ!』とアデライーダは答えたが、もうそれっきりなにもきかなかった。アグラーヤはなにかまた非常に落ちつき払っていて、ただ途中みんなあまり早く走りすぎると注意したばかりである。一度彼女はうしろを振りかえって、自分たちを追って来る公爵を見つけた。そのいっしょうけんめいに追いつこうとする努力を見て、彼女はあざけるように笑ったが、もうそれから彼を振りかえって見ようともしなかった。
 ついに別荘のほとんどすぐそばで、一行を迎えにやって来るイヴァソ将軍に出会った。将軍はつい今しがたペテルブルグから帰ったばかりである。彼はすぐさま第一番に、エヴゲーニイのことをたずねた。けれど、夫人は返事しないばかりか、そのほうへは目もくれずに、こわい顔をしてすっと通り抜けてしまった。娘たちやS公爵の目つきからして、彼はたちまち家のなかへ雷雨が襲って来たことを察した。がそれ以外、彼自身の顔にもなにかしらなみなみならぬ不安の色が映っていた。彼はすぐS公爵の手を取って、家の入口のところへ引きとめ、ほとんどささやくような声で、ふたことみこと言葉を交わした。やがて、露台へあがって、リザヴェータ夫人のところへ行ったとき、ふたりの心配そうな顔つきから察して、なにかひととおりでない知らせに接したことが想像された。だんだんと一同のものが、二階のリザヴェータ夫人のもとへ集まっていったので、とうとう露台には公爵ひとりだけが取り残されてしまった。彼は何ごとかを期待するように、とはいえ、自分でもなんのためやらわからず、片隅に腰かけていた。彼は家内のごたついているのを兄ながら、帰ろうという考えはすこしもおこらなかった。見受けたところ、彼はいま全宇宙を忘れ去って、どこにすわらされようと、そのまま二年くらいふっとおしに、平気ですわっていかねない様子であった。
 二階からは、ときどき心配そうな話し声が聞こえてきた。彼はどれくらいそこにすわっていたか、自分でも覚えていな
かった。もうだいぶおそいらしく、あたりはすっかり暗くなっていた。そのとき、ふいにアグラーヤが露台へ出て来た。見たところ、彼女はきわめて落ちついていたが、顔色はいくぶん青かった。アグラーヤは、こんな隅っこに公爵がいすにかけていようとは「思いもよらなかった」らしく、公爵の姿を見ると、けげんな様子で微笑した。
「あなたそんなとこで何してらっしゃるの?」と彼のそばへ近づいた。
 公爵はあわてて、口の中でなにやらもぞもぞいいながら、いすから飛びあがった。けれども、アグラーヤがすぐそのそばのいすに腰をおろしたので、彼もまた席に着いた。彼女は急に、そして注意ぶかく公爵を見つめたが、今度はさらになんの考えることもないようなふうで窓のそとを眺め、それからまた公爵のほうへ顔を向けた。『おおかた、ぼくのことを笑ってやろうと思ってるんだろう』と公爵は考えたが、『しかし、そうじゃない、笑うならあのとき笑ったはずだ』
「あなたお茶があがりたいんでしょう、そうだったらあたし持って来させますわ」としばらく無言ののち、彼女は言った。
「い、いいえ。ぼく知りません……」
「まあ、それがわかんないはずはありませんわ! ああ、そうだ、ねえ、公爵、もしだれかがあなたに決闘を申しこんだら、あなたそのときどうなすって? あたしさっきからききたかったんですのよ」
「だって……いったいだれが……だれもぼくに決闘なんか申しこみゃしません」

「いいえ、もし万一申しこんだら? あなたひどくびっくりなさる?」
「そうですね、ぼくはひどく恐れるでしょうね」
「ほんとう? じゃ、あなたは臆病者だわね?」
「いいえ、たぶんそうじゃないでしょう。臆病者というのは恐れて逃げるもののことです。恐れても逃げないものは、まだ臆病じゃありません」と公爵はちょっと考えてから、微笑しながら言った。
「あなたお逃げにならない?」
「たぶん逃げないでしょう」と言って、公爵はとうとうアグラーヤの質問ぶりに笑わされてしまった。
「あたしはね、たとえ女でも、けっして逃げ隠れはしません」と腹立たしそうに彼女は言いだした。「ですが、あなたはあたしをばかにしてらっしゃるんですね、例の癖で自分を興味のある人間と思わすために、わざとそらっとぼけてらっしゃるんでしょう。ねえ、ひとつうかがいますが、普通決闘では二十歩か十歩の距離で射ち合うんですから、――つまり、どうしても殺されるか、傷をつけられるかにきまってますわねえ?」
「決闘ではめったに当たらないはずですが」
「なぜですの? だってプーシキンは殺されましたよ」
「それはおそらく偶然でしょう」
「ちっとも偶然じゃありません。死ぬか生きるかの決闘ですもの、それで殺されたんですわ」
「あのときの弾丸は非常に低いところへ当たりましたから、きっとダンテス(プーシキンを決闘で殺したフランス生まれの青年将校)がどこかすこし高いところ、胸か頭かをねらったんでしょう。そんなねらいかたはだれもしません。してみると、プーシキンに弾丸が当だったのは、偶然の過失だったんでしょう。それはぼく、信頼すべき人たちから聞いたんです」
「あたしはいつかある兵隊と話しましたが、その人はそういいました。軍隊では操典にちゃんと規定されてるんですって、散兵で射撃のときには半身をねらえ、『半身』とはっきり書いてあるんですとさ。ほら、してみるとけっして胸や頭ではなくって、半身を射つように命令が出てるんですからね。あたしその後、ある将校に聞いてみたら、まったくそうに違いないっていいましたわ」
「それはそうですとも、距離が遠いんですからね」
「あなた射撃がおできになって?」
「ぼくは一度も射ってみたことがありません」
「じゃ、ピストルを装填することもできません?」
「できません。いや、そのやりかたはわかっていますが、自分ではまだ一度もやったことがないのです」
「では、やっぱりできないんですわ、だってそれには実習がいりますからね。ねえ、よく聞いて覚えてお置きなさいよ。第一に湿りけのない、ピストル用のいい火薬を買うんですの(なんでも湿りけのない、かわいたのがいいんですって)。そして、なんでも細かいのでなくちゃならないそうよ。あなたそんなふうのをお買いなさい、大砲を射つようなのじゃだめよ。なんでも弾丸を自分で造る人もあるんですって。あな
たピストルを持ってらっしゃる?」
「いいえ、それにいりもしません」と公爵はにわかに笑いだした。
「あら、なんてつまんないことを! ぜひお買いなさいよ。いいのをね、フランス驍かイギリス驍、これがいちばん上等だそうですよ。それから、火篆を雷管一本分か二本分ぐらい出して、それをつめるんですの。もっと多いほうがいいかもしれないわ。そして毛氈《もうせん》をおつめなさい(どういうわけだか、かならず毛氈でなくちゃならないそうよ)。これはどこかから、――なにかふとんのようなものからでも取れるでしょうし、また扉にもときどき毛氈が打ちつけてありますからね。そこで毛氈のきれをつめてから、弾丸をお入れなさいな、――ようござんすか、弾丸はあとからで、火薬がさきなんですよ。でないと射てないわ。なんだってお笑いになるの?あたしね、あなたが毎日二、三度ずつ射撃の稽古をして、ぜひ的に当たるようになっていただきたいの。おできになって?」
 公爵はただ笑っていた。アグラーヤはくやしそうに足を踏み。暘らした。こんな話題にもかかわらず、彼女の様子のまじめなのが、いくぶん公爵を驚かした。彼もなにか確かめておかねばならぬ、なにかきいておかねばならぬ、――すくなくとも、ピストルの装填法よりもっとまじめな事柄について、きいてみなければならぬということは、多少感じないでもなかった。けれども、そんなことは頭の中からすっ飛んでしまって、ただ自分の前にアグラーヤがすわっている、そして自分はその顔を見ている、ということだけしか考えられなかった。彼女がどんなことを話そうと、このとき彼にとってはほとんど風馬牛であった。
 ついに二階から露台ヘイヴァン将軍がおりて来た。彼はどこかへ外出の身支度をしていたが、うっとうしい、心配げな、しかし断固たる顔つきであった。
「ああ、ムイシュキン公爵、きみでしたか……そして、今どちらへ?」公爵が席を動こうとも考えていないのに、彼はこうたずねた。「出かけませんかね。わたしはきみにひとこといいたいことがあるから」
「さようなら」といって、アグラーヤは公爵に手をさし伸べた。
 露台はもうだいぶ暗くなったので、公爵はこの瞬問、彼女の顔をはっきり見分けることができなかった。一分ののち将軍といっしょに別荘のそとへ出たとき、彼は急におそろしく赤くなって、強く自分の右手を握りしめた。
 聞いてみると、イヴァン将軍も彼と同じ道筋であった。イヴァン将軍はこの夜遅いのに、何ごとかでだれかと会談に急いでいるのであった。にもかかわらず、とつぜん公爵に向かって、早口に心配らしい調子で、かなりまとまりのつかないことを話しだした。そして、いくどもリザヴェータという名をはさんだ。もし公爵がこのときもうすこし注意していたら、将軍が話のあいだになにか自分から探り出そう、というよりは、むしろ直接露骨に何ごとかたずねようとしながら、どうもこのかんじんな点に触れかねているのを察したろう。
ところが、恥ずかしいことに、公爵は非常に心がざわついていたので、はじめのほうはなんにも聞いていなかった。で、将軍がなにかある質問を提出して、彼の前に立ちどまったとき、彼は仕方なしに、なにもわからない、と白状しなければならなかった。
 将軍は肩をすくめた。
「きみがたはだれも彼もなんだか奇妙な人間になってしまったね」と彼はまた急いで話しだした。「じっさいのところをいうが、わたしはリザヴェータの考えや心配がさっぱり腑に落ちん。あれはまたヒステリーをおこして、われわれは恥をかかされた、顔に泥を塗られた、といって泣くんだよ。だが、いったいそれはだれだ? どんなふうにして? だれといっしょに? いつ、どういうわけで? ちっともわからん。わたしもじっさいのところ悪かった(それは自分でも認めている)。重々悪かった。しかし……あの厄介な(おまけに不身持ちな)女の不敵な行為は、もうやがて、警察の手を借りて抑制することができる。じつは、わたしもこれから二、三の人に会って、注意しておこうと思っておる。万事は年来の友誼を利用して、しずかに、おとなしく、いや、愛想よくといってもいいぐらいうまくやって見せる。けっして騒動などもちあがるようなことはしない。そうはいうものの、このさきさまざまな事件もおころうし、また今までもいろいろわけのわからんことが多いのは承知しています。これにはなにか秘密な企みがあるに相違ない。しかし、ここでなんにも知らんといえば、またあそこでもやはり、知らぬという。わたしも聞かぬ、きみも聞かぬ、あの人もこの人もやはりなんにも聞きません、ではしようがない。ほんとうにいったいだれが知ってるんだろう、え? いったいきみはこの事件をなんと説明しますかね、この事件は半分蜃気楼だ、たとえば月の光とか……あるいはその他の幻影のように、じっさいにおいて存在しておらんものだ、ということ以外に?」
「あれはきちがいです」ふいに公爵は、さきほどのできごとのすべてを悩ましく思いだして、つぶやくように答えた。
「もしきみがあの女のことをいってるのなら、ぴったり符合してるね。わたしも多少そうした観念が浮かんでくるので、今まで安心して眠られたんですよ。ところが、いま見ると、あの女の考えてることは案外正確で、どうもきちがいとは信じられない。かりにあれがつまらん女にしても、それでもやはり綿密な女です、けっしてきちがいどころの段じゃない。きょうカピトン・アレクセイチについていったことなぞは、りっぱにそれを証明してますよ。あの女のほうからいっても、きょうのできごとは詐欺師的だ、すくなくとも、なにか特殊な目的のためにこしらえた狡猾な所作です」
「カピトン・アレタセイチってだれです?」
「おや、これはどうだ、きみはなんにも聞いてなかったんだね。わたしはまず第一にカピトン・アレクセイチのことから、話を切り出したんじゃありませんか。おそろしい報知で、いまだに手足がふるえるぐらいだ。そのためにきょうペテルブルグで遅くなったんですよ。カピトン・ラドームスキイはエヴゲーニイの伯父だよ……」
「ははあ!」と公爵は叫んだ。「この人がけさ未明に……七時ごろにピストル自殺をしたんです。もう七十ぐらいで、人から尊敬を受けている老人だが、なかなかの享楽主義者でね。万事すっかりあの女のいうとおり、――官金費消、しかも莫大な額です!」 
「あれはまたどこから……」
「聞いたかって? は、は! だってきみ、あの女はこの町に姿を現わすと同時に、一小隊ぐらいの崇拝者を作ってしまったじゃありませんか。きみは知らないかもしらんが、じつにとんでもない人たちが、あの女の『知己たる光栄』を求めに訪ねて行くんだからなあ。だから、自然の道理として、さっきあの女はだれかペテルブルグから来た人に、なにか教えてもらったんですよ。なぜといって、あちらではもう町じゅうの人が知ってるし、このパーヴロフスグでも町の半分、いや、町ぜんたいが承知してるんだものな。だが、しかし話を聞いてみると、あの女が文官服のこと、――つまり、エヴゲーニイ君がうまい時を見計らって退職したって批評したのは、じつにうがってるじゃないか! なんという性《しょう》わるな当てこすりだ! いいや、なかなかどうして、これなんぞはけっしてきちがいのいえることじゃないよ。しかし、わたしだって、エヴゲーニイ君があらかじめこの騒動を知っていた、つまり、何月の何日午前七時なんていうことを知っていたとは、けっして信じたくない。けれども、あの人はすくなくとも、それを予感することはできたはずだからね。わたしは、いやわたしたちは、S公爵などといっしょに、カピトン・アレタセイチはあの人にいくらか遺産を渡すことになると、あてにしていたんだよ。恐ろしいこった! 恐ろしいこった!だがね、これだけはよく会得してくれたまえ、わたしはいかなる点においても、エヴゲーニイ君を責めはしない。これは取りあえずきみにいっとくがね、しかし、それにしても、やはり疑わしいて。S公爵はおそろしく転倒してしまってるよ。たんだかいろんなことがいっしょに落ちかかったようでね」
「ですが、エヴゲーニイ・パーヴルイチの行為のどこが疑わしいんですか?」
「何もないさ! あの人の挙動はじつにりっぱなものだ。わたしはなにもそんな意味でいったんじゃない。あの人自身の財産はきずつかずと思うよ。リザヴェータはむろん、そんなことを耳にも入れようとせんがね……が、なにより厄介なのは、家庭にいろんな騒動、というよりか、むしろいろんなごたごた……いや、もうなんといっていいか、名のつけようもないことが、つぎつぎ持ちあがるんでね……きみはまったくのところ、うち全体の親友だから、うち明けていうけれど、考えてもみてくれたまえ、もっとも、これは確かな話じゃないが、なんだかエヴゲーニイ君がひと月以上も前に、アグラーヤとじか談判をして、あれからきっぱりことわられたらしいんですよ」
「そんなことがあるもんですか!」と公爵は熱して叫んだ。
「だが、きみすこしはなにか知ってるだろう? いやね、きみ」と将軍は愕然とふるえあがりながら、釘づけにされたようにその場へ立ちどまった。「わたしはあるいは役にも立たんことを、無考えにきみにしゃべったかもしれないが、それというのも、きみが……きみが……そのまあ……そんなふうな人だからなんですよ。しかし、おおかたきみは、なにか、特別な事情を知ってるだろうね?」
「ぼくなにも知りません……エヴゲーニイ君のことは」公爵はへどもどしながら言った。
「わたしも知らないんだよ! わたしは……きみ、みなのものが寄ってたかって、めちゃめちゃにわたしを土の中に埋めて葬ってしまおうとしてる。そして、生きた人間にとってそんなことは苦しみだ、とても堪えうるものでないってことを、考えようともしないんだからね。たった今もひどい芝居を打ったが、じつに恐ろしい! わたしは親身の息子として、きみにこんなことも話すんだよ。なにより困ったのは、アグラーヤがおかあさんを嘲弄することなんだ。あの娘がひと月ばかり前に、エヴゲーニイ君の申し込みを拒絶したらしい、ふたりのあいだになにか交渉があったらしいということは、姉たちがちょっと謎といったふうの体裁で知らしてくれたのです……もっとも謎といっても、しっかりした謎だがね。しかし彼女《あれ》はじつにわがままで、しかも空想的な女でね、とてもお話にならんくらいですよ! 情や知の方面で、いろんなりっぱな資質とか寛大な心持ちとか、それらのものは持っているかもしれんが、にもかかわらずあの気まぐれ、冷笑-なんのことはない悪魔のような性質だ、おまけに空想が強いときてるんだからね。たった今も、おかあさんを面と向かって愚弄する。ねえさんたちもS公爵もむろん槍玉に上げるという始末です。わたしなんぞときたらいうまでもないことさ。あの娘がわたしを嘲弄するのは珍しくないからね。だが、わたしなんぞは平気だ、わたしはねきみ、あれがかわいい、あれがわたしを嘲弄するのが、かえってかわいいぐらいだ。そして、どうもあの子悪魔は、そのためにわたしを特別に好いておるらしい。請け合っておくが、あれはきみもなにかのことで嘲弄したに相違ない。わたしは今さき、あの二階で大騒ぎのあったあとで、きみと話してるところへ行き合わせたが、あれはまるでなんの気《け》もなかったように、けろりとして腰をかけておったね」
 公爵はおそろしく赤面して右手を握りしめたが、それでもやはり黙っていた。
「ねえ、きみ、公爵!」とつぜん将軍は感激したような、熱心な調子でいいだした。「わたしは……いや、わたしばかりじゃない、妻《さい》でさえも……(あれはまたこのごろ急にきみをもちゃげ出してね、おかげでわたしにまで風向きがいいのだ、しかしどうしたわけか見当がつかない)。そこで、わたしら夫婦はなんといっても、きみを真底から愛している、そしてどんなことがあろうとも、いや、つまり外見上どんなふうであろうとも、きみを尊敬しますよ。しかしね、きみ、察してもくれたまえ、まったく考えてもみてくれたまえ、あの落ちつき払った子悪魔が(だってじっさい、子悪魔じゃないかね。われわれが何をたずねたって、ばかにしきったような顔つきをして、おかあさんの前に棒立ちになってるんだから
なあ。ことにわたしのきくことなんか、てんで鼻のさきであしらうんだよ。それというのも、わたしが『おれは一家の長だからひとつ威厳を示してやれ』などというばかげた考えをおこしたからさ――いや、まったくばかなことをした)。ところで、あの子悪魔め、とつぜん冷笑の色を浮かべながら、こんなことをいうじゃないか、『あの気ちがい女は(あれもそういいましたよ、で、わたしはきみのいったことと符合してるのが、不思議でならない)、あの気ちがい女が、どうあろうとも、あたしをムイシュキン公爵と結婚させたい、などという考えをおこして、そのためにエヴゲーニイさんを家からいびり出そうとしてるのに、あなたがたはいったい気がつかないの?』……これを聞いたときの狐につままれたような気持ちといまいましさ、まあきみ、察してくれたまえ。ところが、あれはそういったきり、わけはひと口も説明しないで、ひとりできゃっきゃっ笑っておるじゃないか。われわれがあいた口もふさがらないうちに、戸をばたんと閉めて出て行ってしまった。そのあとで、さっきあれときみとの間におこった一件を聞いたもんだから……で……で……ね、いいかね、公爵、きみはそんな怒りっぽい人でもないし、分別もある人だから――いや、まったくきみにその資質があることは、わたしも認めている……しかし、……きみ、怒らないでくれたまえ、まったくのところ、娘はきみをばかにしてるよ。だが、ちょうど子供がふざけているようなもんだから、きみあれのことを怒ったりしちゃいけない。しかし、それはたしかにそうなんだ。なにもぎょうさんに考えないでくれたまえ――あれはただもう退屈まぎれに、きみだのわれわれだのをからかってるんだからね。じゃ、失敬! きみはわれわれの心情を知ってくれるだろうね? きみに対するわれわれのまごころをさ? それはもうどんなことがあっても、いかなる点においても、永久に変わることはないよ……ところで……わたしはこれからこっちのほうへ行かなきゃならん、さようなら! ほんとうに、こんないやな気持ちになることは、めったにないこった……もうこうなると別荘住まいもなあ!」
 四辻でひとり取り残された公爵は、あたりを見まわして、急ぎ足に通りを横切り、とある別荘のあかりのさした窓に近寄って、将軍との会話のあいだじゅう、しっかりと右手に握りしめていた小さな紙きれを広げ、弱々しい光をぬすむようにしながら読みはじめた。
『明朝七時、あたしは公園の緑色のベンチで、あなたをお待ちしています。ある重大な件について、あなたとお話ししようと決心しましたの。それはつまり、あなたに関係したことなんです。
『P・S・あなたはこの手紙をだれにもお見せにならないことと存じます。こんな注意をするのは心苦しいのですけど、あなたに対しては、そうするのが当然だと考えましたから、書き添えました――あなたのこっけいな性質に対して、羞恥の情に顔を赤らめながら。
『PP・SS・緑色のベンチというのは、さっきあたしがあなたにお教えした、あれのことですよ。ほんとうにはずかしいとお思いなさい! あたしはこれをも書き添えなければな
らないんですからね』
 手紙は大急ぎの走り書きで、たしかにアグラーヤが露台に出て来るすぐ前に、やっとどうやらこうやら畳んだものらしい。驚きに近い、ほとんどいいがたい惑乱を覚えつつ、公爵はふたたび手紙をかたく握りしめ、まるでおどしつけられた泥棒のように、あかりのさす窓際を飛びのいた。この動作とともに、すぐ自分の肩のところに立っていたひとりの男に、ばったり突き当たった。
「わが輩はあなたのあとをつけてるんですよ、公爵」とその男は言った。
「ああ、きみはケルレル君?」と公爵はびっくりして叫んだ。
「あなたをさがしてたんです。じつは、エパンチン家の別荘のそばで待ち受けてました。むろん、入るわけにゃ行きませんからなあ。あなたが将軍といっしょに歩いておいでなさるあいだ、あとからついておったのです。公爵、わが輩はあなたの御意のままです、どうぞケルレルに指図してください。もし必要があったら、喜んで犠牲になりましょう。いや、死んでもかまやせんです」
「だが……なぜですか?」
「でももう、たしかに申し込み状が来るに相違ないじゃありませんか。あのマラフツォフ中尉は――わが輩あの人をよく知っとりますが――といっても、個人的にじゃないです……あの人はけっして人から侮辱を受けて黙ってなんかいやせんです。われわれの仲間、というのは、わが輩やラゴージンなどは、あの男の目には、ごろつきぐらいにしか見えないんですから、それは当然かもしれませんがね、そんな具合で、しぜんあなたひとりが責任を負うようになるかもしれません。公爵、あなた酒代《さかて》を払わなきゃならんですよ。あの男があなたのことをたずねてたのは、わが輩も聞いていました。だから、もうあすにもあの男の友人が、あなたのところへやってくるでしょう、いや、もう現に来て待ってるかもしれんですよ。もしわが輩を介添人に選んでくださるならば、わが輩はあなたのために水火の中をも辞さんつもりです。そのためにわが輩はあなたをさがしたんです」
「そんなら、きみもやはり決闘のことをいってるんですか?」と公爵はふいに声高に笑いだした。ケルレルはすっかり面くらった。
 彼の笑いかたは非常なものであった。ケルレルは、介添人になりたいという自分の希望がもしいれられなかったらと、今まで針の上にすわったようにじりじりしていたので、いま公爵の度はずれに愉快らしい笑いようを見て、ほとんど侮辱を感じたほどである。
「ですが、公爵、あなたはさっきあの男の手をおつかまえになったでしょう。名誉ある紳士にとってそんなことは、しかも衆人環視の中では、とうてい忍びうるところでないです」
「だって、あの人はぼくの胸を突きとばしましたよ」と笑いながら公爵は叫んだ。「ぼくらはなにも喧嘩なぞすることはないのです! ぼくあの人におわびをします、それだけのこってす。もしどうしても喧嘩しろとならば、喧嘩もしましょう! 鉄砲の射ちっこもいいでしょう。ぼくもむしろ希望するところです。はは! ぼくはもうピストルの装填法を知ってますよ! ねえ、きみ、ぼくにピストルのつめかたを教えてくれた人があるんですよ! ケルレル君、きみピストルの装填法を知ってますか? まず最初にピストル用の火薬を買うんです。湿ってない、そして大砲に使う火薬のように荒くないのが要るんです。それから、さきに火薬を入れて、どこかの扉から毛氈を取って来て、さてその後はじめて弾をこめるんです。弾を火薬よりさきにこめちゃいけません。そうすると発射しないんですって。いいかね、ケルレル君、そうすると発射しないんですって。はは! まったくこれはりっぱな理由じゃありませんか、ケルレル君! おお、そうだ、ケルレル君、ぼくはいまきみを抱いて接吻しますよ。ははは!きみはどうしてあのとき、あの士官の前へ来たんです? きみ、大急ぎでぼくのところヘシャンパンを飲みにいらっしゃい。皆で酔い倒れるまで飲みましょう! じつはね、ぼくシャンパンの壜を十二本もってるんです、レーベジェフの穴蔵にあります。ぼくがあの人の家へ移って行ったらすぐあくる日――おととい、レーベジェフがなにかの『ついでに』売ってくれたんですよ。で、ぼくみんな買っちまいました! ぼくはありったけの人数を集めて騒ぐんだ! ときに、きみは今夜寝ますか?」
「むろん、いつもの夜と同じように寝ますよ、公爵」
「ははあ、それじゃ安らかにお休みなさい! はは!」
 公爵は、いくぶん面くらったらしいケルレルの思案顔を見捨てて、往来を横切り、公園の中に消えてしまった。ケルレルは公爵がこんな奇妙な気分になったのを、いままで見たこともなければ、また単に想像することさえできなかった。
『たぶん熱病だろう。もともと神経質の人だからな。それにいろいろなことがおこったので、からだにさわったんだ。しかし、けっしておじけがついたわけじゃない。あんなふうの連中はなかなかおじけなどつくこっちゃない、どうしてどうして!』とケルレルは心に思った。『ふむ、シャンパン――なかなかしゃれたご報告だわい。十二本、一ダースだな。結構、しっかりした予備隊だ。が、請け合ってもいい、このシャンパンはレーベジェフが、だれかから抵当に取ったものに相違ない。ふむ……! しかし、やつはなかなかかわいい男だ、あの公爵は。じっさいわが輩はあんなふうの男が好きだ。だが、いたずらに時を空費するには当たらんて……それにシャンパンがあるとすれば、これこそ本当の「時」というものだ……』
 公爵がまるで熱に浮かされていたというのは、もちろんほんとうであった。
 彼は長いこと暗い公園をさまよいまわったが、ついに、とある並木道を低徊している『自分を発見した』。例のベンチから、高く目立ちやすい一本の老木まで百歩ばかりのあいだ、もう三十度か四十度ぐらい、この並木道を行きつもどりつした記憶が、彼の意識の中に残っていた。この少なく見つもっても一時間のあいだに、彼が公園で考えたことを思い出すのは、とうてい、望んでもできないことであった。とはいえ、ある一つの考えに没頭している自分自身にふと気がついたとき、彼はとつぜん腹をかかえて笑いだした。その考えはかくべつ笑うようなことではなかっだけれど、彼はなんだかに無性に笑いたかったのである。彼はこんなことを考えてみた。決闘に関する想像は、単にケルレルの頭にのみ浮かびうることではなく、したがって、ピストルの装填法に関する説明も、あながち偶然ではない……『おや』と彼はまた急に別な想念に心を照らされて立ちどまった。『さっきぼくが隅っこのほうに腰かけていたとき、あのひとが露台へおりて来た。そしてぼくがいるのを見ておそろしくびっくりして、――そして急に笑いながら……茶のことなんか言いだしたっけ。だが、このときもうあのひとの手の中に手紙があったんだから、してみるとあのひとは、かならずぼくが露台にいることを知ってたに違いない。じゃ、ぜんたい、なんだってあんなにびっくりしたんだろう? ははは!』
 彼は手紙をポケットから取り出して、ちょっと接吻したが、すぐにそれもよして考えこんだ。
『じつに奇態だ! じつに奇態だ!』と彼は一種のわびしさを胸にいだきつつ、一分ほどたってこういった。強い感激を覚えた瞬間に、彼はいつもわびしい気持ちになり、自分でもなぜか知らないのであった。彼はじっとあたりを見まわして、いつの間にかこんなところへ来ているのに驚いた。へとへとに疲れていた。彼はベンチに近づいて、腰をおろした。なみなみならぬ静けさがあたりを領している。停車場の奏楽はもうやんでいた。公園にはもはやだれひとりいないらしい。もちろん十一時半より早いことはない。夜は静かで、暖かで、明るかった――六月はじめによくあるペテルブルグ付近の夜である。しかし、茂った本陰の多い公園の、彼が今歩いている並木道は、もうまったく暗かった。
 もしだれかがこの瞬間、彼に向かって、おまえは恋している、熱烈な恋をしているといったら、彼は驚いてそうした観念を否定するであろう、ことによったら、腹を立てるかもしれない。またもしだれかその男が、アグラーヤの手紙は恋文だ、あいびきの申し出だとつけ足したら、彼はその男に対する羞恥のために、顔から火が出るような思いをして、あるいはその男に決闘を申し込むかもしれない。が、それはまったく真剣である。彼は一度だって、そんな疑念をさし挟んだこともなければ、この令嬢が彼に恋するとか、あるいは彼がこの令嬢に恋するかもしれぬといったような、『二重人格的』な考えを許容したことがないのである。こんな考えがおこったら、彼は恥ずかしくてたまらなかったに相違ない。彼に対する、彼のような男に対する恋愛の可能性は、彼にとって奇怪事と思われた。もしこの場合、じっさいなにかあるとしたら、それは彼女のいたずらぐらいのものだ、と彼はこんなふうに考えた。しかし、彼自身としては、この考えに対して格別の注意も払わず、当たり前のことと思っていた。それよりもまったく別なことに彼は気を取られ、かつ心配していたのである。
 さきほど将軍が興奮のあまりちょっと口をすべらした言葉、すなわちアグラーヤが一同のもの、ことに公爵を嘲弄しているということは、彼も信じて疑わなかった。が、それで
も、彼はなんの侮辱をも感じなかった。彼にいわせれば、むしろそれが当然であった。ただ彼にとって肝要なことは、あすの朝早く彼女に会える、彼女といっしょに緑色のベンチに巫って、ピストルのつめかたを聞きながら、彼女をながめることができる、ただそれだけである。それ以外なにもいらない。また彼女が何を話すつもりなのか、直接自分の身に関する重大な事件とは何ごとか、――という疑問もやはり、一、二度彼の頭にひらめいた。しかし、わざわざ自身を呼び出そうというような『重大事件』が。はたして存在するかどうかという疑いは、ただの一分間も彼の胸にわかなかった。いな、むしろ彼は、ほとんどこの重大事件のことを考えなかった。そんなことを考えるべき衝動を、すこしも感じなかったのである。
 並木道の砂にきしむ静かな足音は、彼の頭を上げさした。闇の中に顔をはっきり見わけることのできなかったその男は、ペンチに近寄り、彼と並んで腰をかけた。公爵はすばやくそのほうへ身をよせ、ほとんどぴったりと寄り添うた。と、青白いラゴージンの顔が見わけられた。
「きっとどこかこのへんをうろついてるだろうと思ったよ。さがすのにあまり手間を取らなかった」ラゴージンは歯のあいだから言葉を押し出すようにつぶやいた。
 彼らがこうして落ち合ったのは、かの料理屋の廊下以来はじめてだった。思いがけないラゴージンの出現に驚かされで、公爵はしばらく自分の思想を集中することができなかった。そして、悩ましい感触が彼の心によみがえったのである。見受けたところ、ラゴージンは自分の公爵に与えた印象を、よく了解していたらしい。彼ははじめのあいだ、妙につじつまの合わぬことをいっていたが、やがてなんとなくわざとらしい、くだけた調子で話しだした。けれども、公爵はまもなく、相手の言葉にすこしもわざとらしいところはなく、またべつにたいしてまごついている様子もない、と思いかえした。もし彼の身ぶりや話しぶりに、なにか間の悪そうなところがあるとすれば、それはただうわべだけであった。内面的には、この男はけっしてなんとも変化するはずがないのである。
「どうしてきみ……ぼくがこんなところにいるのをさがし出したんだい?」と公爵はなにか口をきくためにそうきいてみた。
「ケルレルから聞いたんだ(おれはおめえのとこへ寄ってみたよ)。『公園へ行かれました』というから、ふん、そりゃそうだろうと考えたさ」
「何が『そうだろう』なんだね」と心配そうに公爵は、相手が何げなしにすべらした言葉じりをおさえた。
 ラゴージンはにやりと笑ったが、説明はしなかった。
「おれはおめえの手紙を受け取ったよ、公爵。おめえあんなこといったって、しようがないじゃないか……ほんとうにいい好奇《すき》だなあ!………ところで、いまおれはあれ[#「あれ」に傍点]のとこからやって来たんだが、ぜひおめえを呼んで来てくれっていうのさ。なにかどうしてもおめえに話さなくちゃならんことがあるそうだ。きょうにもすぐといってるんだがな」
「ぼくあす行くよ。きょうはもう、家へ帰らなくちゃならないから。きみ……ぼくのとこへ来る?」
「なんのために? おれはもういうだけのことをいっちまった。あばよ!」
「よらないで行くのかい、いったい?」と公爵は低い声でたずねた。
「奇態な人間だなあ、おめえは。まったく面くらっちまうぜ、公爵」
 ラゴージンは毒々しく薄笑いした。
「なぜ? いったいどういうわけで、いまきみはぼくにそう腹を立ててるんだね?」憂わしげに、しかも熱を帯びた訓子で公爵はさえぎった。「だって、きみの考えてたのがみんなうそだってことは、現に自分で悟ってるじゃないか。しかし、ぼくにたいするきみの憎しみが今まで消えずにいるということは、ぼく自身でも考えていた。それはなぜか知ってる? なぜというに、きみはかつてぼくの命を図ろうとした、そのためにきみの憎しみはまだ消えずにいるのだよ。が、ぼくは誓っていう。ぼくはあの日、十字架を交換して兄弟の誓いを立てた、あのパルフェン・ラゴージンひとりを覚えてるだけだ。ぼくはきみがこの悪い夢をすっかり忘れてしまって、今後けっしてその話をぼくにしかけないようにと思って、きのうの手紙にもそのことを書いておいたんだ。なんだってそんなにじりじりのくんだい? なんだって手をそんなに隠すんだい? くり返していうが、あのときのことはいっさい悪い夢だと思っている。ぼくはあの日いちんちのきみを、ぼく自身のことと同じようにそらで知ってる。きみの考えていたことは、けっして存在していなかったし、また存在するはずもないのだよ。いったいなんのためにわれわれの憎しみは存在するんだろう?」
「われわれのって、いったいおめえの憎しみがあるのかい!」公爵の思いがけない熱烈な言葉に対する答えとして、ラゴージンはまたもや笑いだした。
 彼はじっさい、公爵をよけるようにして、二、三歩隘れたところに立って、両手を隠していた。
「もう今となっちゃ、おれはどうしたっておめえんとこへ出入りするわけに行かねえ、公爵」と彼はゆっくりと重みをつけながら、こういい足して言葉を結んだ。
「それほどにぼくを憎などでもいうのかい?」
「おれはおめえを好かねえよ、公爵、だからおめえのとこへ出かけるわけもねえさ。おめえはまるで子供が玩具をほしがってるのと同じだよ、――是が非でもよこせ、というやつさ、ところが、ほんとうのことはなんにもわかっちゃいないんだ。おめえのいまいってるのも、手紙に書いてるのも一つことだ、おれはおめえを信じてるよ。おめえのいうことをひとことひとこと信じてる。そして、おめえが一度もおれをだまさなかったし、また今後もだましたりしないことを、ようく知ってるよ。が、それでもやはりおれはおめえを好かねえ。ところが、おめえはなにもかもすっかり忘れちまって――あのときおめえに匕首を振り上げたラゴージンを忘れちまって、ただ十字架の兄弟のラゴージンを覚えているばかりだって、こう手紙に書いてるだろう、だが、おめえどうしておれの心持ちがわかるかい?(ラゴージンはまたしてもにやりと笑った)。おれはあのことについちゃ、その後、一度も後悔したことがないかもしれんぜ。それだのにおめえは気早にも、兄弟としてゆるしの手紙をよこすなんて。ひょっとしたら、おれはあの晩まるっきり別なことを考えていて、あのことなぞは……」
「考えることさえ忘れたんだろう!」と公爵が受けた。「そりゃそうとも! ぼく、請け合っていうが、きみはあのときすぐに汽車に乗って、このパーヴロフスクヘやって来て、ちょうど今晩と同じように、音楽場の人ごみの中であれをつけまわし、見張ってたんだろう。そんなことをいったって、びっくりしやしないよ! あのとききみがあんなふうに、たった一つのこと以外、何も考えることのできないような状態に落ちてなかったら、たぶんぼくに匕首を振りかざすこともなかったろうになあ。ぼくはあの日、朝からきみを見てるうちに、そんなふうの予感をいだかされたよ。きみにはわかるまいが、あの時のきみの様子はどうだったろう? 十字架を交換したときにも、そうした考えがぼくの心に動いたよ。いったいきみはなぜぼくをおっかさんのところへ連れて行ったんだい? あれでもって自分の手をおさえようと思ったんだろう? いや、しかしきみがそんなことを考えるなんて、ありうべからざるこった。たぶんぼくと同様にただそう感じたんだね……ぼくたちはあのときと同じことを感じていたからね。もしきみがあのとき、ぼくに手を上げなかったら(もっとも、その手は神さまが引きのけてくだすったが)、ぼくは
いまきみに対してどんな位置に立つだろう? だって、ぼくはどっちにしても、きみにこの嫌疑をかけたんだから、罪はふたりとも同一だ。つまりそうなるんだよ!(まあ、そんなに顔をしかめるのをよしたまえ? え、なんだってきみは、そんなに笑うんだね?)『後悔しなかった!』って? そりゃそうだろう。たとえしたいと思っても、おそらく後悔することができなかったろう。なぜって、きみはおまけにぼくを好いていないんだものね。それに、あれがぼくを愛して、きみを愛してないという考えを棄てないかぎり、たとえぼくが天使のごとく無垢な身であったにしろ、きみはぼくがいやでたまらないだろう。つまりは嫉妬なんだよ。しかし、ぼくはついこの週になって、こんなことを考えついたから、きみに話してみよう。ねえ、パルフェン、あれはいまきみをだれよりも、いちばん余計に愛しているのかもしれないよ。で、愛すれば愛するだけ、いっそう、きみを苦しめるんだ。あれはそんなことをきみにいいやしないから、それを洞察しなくちゃいけない。なんのために、とどのつまりはきみと結婚するのかってことは、やがてあれがきみ自身にいうだろう。ある種の女はこんなふうに愛されるのを好くもので、あれはまさにそうした性格たんだよ! またきみの性格ときみの愛は、かならずあれを勁かさずにはおかない! きみは知らないかもしれんが、女ってものは惨忍な行為と冷笑で男を苦しめて、それですこしも良心の呵責を受けずにいられるんだよ。そのわけは、いつも男を見ながら心の中で、『今こそわたしは、この人を死ぬほど苦しめているけれど、そのかわりあとで愛を