ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP361-384

などといって、からかうんでしょう? あなたそれを当然知ってらっしゃるはずですわ! あなたもやはりこの人たちと、なにか申し合わせていらっしゃるんでしょう!」
「だれもけっしてからかやしなくってよ!」とアデライーダはびっくりしてつぶやいた。
「だれひとりそんなこと考えたこともありません、それらしいことをいったものさえありませんよ!」とアレクサンドラは叫んだ。
「だれがこの子をからかったのです? いつこの子をからかったのです? だれが大胆にもこの子にそんなことをいったんです? この子は熱にでも浮かされてるんですか、どうですの?」と憤怒に身をふるわせつつ、リザヴェータ夫人は一同に向かっていった。
「みんながそういいました。ひとり残らずこの三日間からかったのです! あたしはけっしてこの人と結婚などしやしません!」
 こう叫んでアグラーヤは、いきなり苦い涙をはらはらとこぼし、ハンカチで顔をおおいながら、いすに身を投じた。
「公爵はまだおまえに……」
「ええ、ぼくはまだあなたに求婚したことはありません、アグラーヤさん」とふいに思わず公爵は叫んだ。
「なぁんですって!」驚愕と憤懣と恐怖の念に、リザヴェータ夫人は言葉じりを引きながら言った。「いったいなんですの?」
 彼女は自分の耳を信じたくないような気がした。
「ぼくはただその」と公爵はふるえあがりながら、「ぼくはただアグラーヤさんに言明したかったのです……つまり、ぼくがアグラーヤさんに結婚を申しこもう……などという意志をぜんぜんもっていなかったということを、申しあげたかったのです。さきになったらいつか……という考えすらありませんでした。何ごともぼくが悪いのではありません、誓ってぼくに罪はありません、アグラーヤさん! ぼくはけっしてそんなことを望みはしなかったのです、けっしてそんな考えをいだいたことはありません。またけっしてこのさきも望みはしません。それはあなたご自身で見ていてくださればわかります。どうぞぼくを信じてください! これはだれか悪い人間が、ぼくのことをあなたに讒謗したのです! どうぞ安心してください!」
 こういいながら、彼はアグラーヤに近づいた。彼女は今まで顔をおおっていたハンカチをのけて、ちらりと相手の顔とそのうろたえた様子を見やった。そして、しばらく彼の言栞の意味を思いめぐらしていたが、ふいに破裂するように公爵の鼻のさきで笑い出した、――それはじつに愉快でこらえきれないような、さもおかしそうな、同時に人をばかにした高笑いであった。で、第一に、アデライーダが、やはり公爵のほうをながめると同時に、がまんしきれなくなり、妹に飛びかかって抱きしめながら、同じくこらえきれないほど愉快らしい、小学生のような笑いかたで笑いくずれた。ふたりの様子を見ながら、とつぜん公爵までがにこにこ笑いはじめた。そして、嬉しそうな幸福らしい表情を浮かべて、
「いや、結構です、結構です!」とくりかえした。
 このときはもうアレクサンドラもがまんしきれなくなって、腹の底から笑い出した。この三人の無遠慮な高笑いは、いつ果てるともみえなかった。
「まるで気ちがいだねえ!」とリザヴェータ夫人はつぶやいた。「たったいま人をびっくりさせるかと思えば、今度はまた……」
 しかし、今はS公爵も笑えば、エヴゲーニイも笑いだした。コーリャはまた際限なしにからからと笑いつづけるのであった。一同の様子をながめながら公爵も笑っていた。
「散歩にまいりましょう、散歩にまいりましょう!」とアデライーダが叫んだ。「みんないっしょにね、そして、公爵もぜひわたしどもといっしょにいらっしゃらなくてはなりません。あなたが帰っておしまいになるって法はありません。あなたはわたしどもにとって大切な、かわいいかたなんですもの! ねえ、アグラーヤ、なんてかわいいかただろうねえ!そうじゃありません、おかあさん! それに、わたしはぜひとも公爵を接吻して、抱いてあげなくちゃなりませんわ……あの……今アグラーヤに説明してくだすったお礼にね。おかあさん、ねえ、わたし公爵を接吻してあげてよくって? アグラーヤ、わたしあんたの[#「あんたの」に傍点]公爵を接吻してもいい!?」といたずらっ子らしい調子で叫んで、ほんとうに公爵のほうへかけよると、その額に接吻した。
 こちらは彼女の手を取って、ぐっと握りしめたので、アデライーダはあやうく叫び声を立てようとしたほどである。公爵は限りない歓喜の色を浮かべて彼女を見つめたが、ふいにす早くその片手をくちびるへ持って行って、三度まで接吻した。
「さあ、まいりましょう!」とアグラーヤは呼び立てた。「公爵、あなたあたしの手を引いてくださいな。おかあさま、そうしてもいいでしょう、あたしを嫌った花婿さんだから? ね、あなたは永久にあたしを嫌って、拒絶なすったんでしょう、公爵? いいえ、そうじゃありません、そんな具合に女に腕を出すものじゃなくってよ。いったいあなたは女の手の引きかたをご存じないんですの? ええ、それでいいわ、まいりましょう。あたしたちが先頭になろうじゃありませんか、先頭に立つのはおいや、tete-a-tete(ふたりっきりで)は?」
 彼女はとめどなくしゃべりつづけるのであった、やはりときどき突発的に笑いながら。
『結構なことだ、ありがたい!』自分でもなぜやらわからぬながら、なんとなく嬉しくて、リザヴェータ夫人は腹の中でこうくりかえした。
『まったく奇妙な人たちだ!』とS公爵は考えた。ことによったら、彼がこう考えるのは、この家へ出入りしはじめてから、これでもう頁遍目ぐらいかもしれない。しかし……彼はこの奇妙な人たちが好きなのであった。ムイシュキン公爵はどうかというに、この人はあまりS公爵の気に入らないらしい。彼はいくぶん眉をひそめながら、なんとなく心配らしい様子で、一同とともに散歩に出かけた。
エヴゲーニイはこのうえなく愉快な気持ちになっているらしく、停車場までの道すがら、絶えずアレクサンドラとアデライーダを笑わせていた。しかし、ふたりともあまり容易に彼の冗談を聞いて笑うので、ついに彼はふたりがまるっきり自分のいうことを聞いていないのじゃないかと、ふと気をまわしてみたくらいである。こう考えると、彼はいきなりわけもいわずに、度はずれな真剣さで、からからと大きな声で笑い出した(じっさい、彼はこうした性格の男なのである!)。とはいえ、このうえなく浮き浮きした気分になっていたふたりの姉は、一同にさきだって行くアグラーヤと公爵のほうを、絶えずながめやった。見受けるところ、妹は彼女たちに大きな謎を投げかけたものらしい。S公爵はリザヴェータ夫人の気をまぎらすつもりか、つとめてよそごとのような話を仕向けながら、かえってひどく夫人にうるさがられていた。夫人はすっかり頭の中がめちゃめちゃになっているらしく、とんちんかんな返事ばかりして、どうかすると、まるっきり返事をしないことがあった。けれども、アグラーヤの謎はこの晩あれだけではすまなかった。いま一つ最後の謎が、今度はただ公爵ひとりだけの胸に落とされたのである。ほかでもない、別荘からおよそ百歩ばかりのところまで来たとき、アグラーヤは早口で半分ささやくように、しつこく押し黙っている自分の騎士《カヴァレール》に向かって、
「右のほうをごらんなさい」といった。
 公爵はそのほうを振りむいた。
「よくごらんなさい。あの公園にあるベンチがお見えになって、ほら、あの大きな木が三本あるところ……緑色のベンチ?」
 公爵は見えますと答えた。
「あなたここの場所がお気に入りました? あたし朝早く、七時っころ、みんながまだ寝ている時分に、ここへひとりで来て腰をかけるんですのよ」
 公爵はじつに美しい場所だとつぶやいた。
「さ、もうあたしのそばから離れて歩いてください、あたしもうあなたと手を組んで歩くのいやになりましたの。いえ、それよりいっそやはり手を組んでらっしゃい、そのかわりあたしにひと口もものをおっしゃっちゃいけませんよ。あたし自分ひとりだけで考えたいんですから……」
 しかし、なににしても、この注意は無駄なことであった。たしかに公爵はこの命令がなくても、はじめからしまいまでひとことも口をきかなかったに相違ない。緑色のベンチのことを聞いたとき、彼の心臓はおそろしく鼓動しはじめた。が、一瞬にして彼は考え直し、恥じ入りながら自分の愚かしい想像を追いのけた。
 パーヴロフスクの停車場には、一般に知られているとおり、すくなくも皆のいうところによれば、市から『あらゆる種類の人たち』が押し寄せて来る日曜や祭日よりも、かえって平日のほうに『選り抜き』の人々が集まってくる。それらの人々の装いは、あまりけばけばしくないけれど、あか抜けがしている。ここへ音楽を聞きに集まるということは、一般の慣わしになっていた。じっさい、オーケストラはたぶん公園楽隊としてなかなかすぐれており、しじゅう新しい曲を演奏しているのである。一般に内輪同士らしくうちとけた様子はあったが、礼節と整頓の重んぜられることは非常なものであった。おたがいにみな知り合った別荘住まいの人たちが、たがいの様子を見ようとして集まってきた。多くのものは真底から満足してこれを実行し、これ一つのために出かけてくるのであったが、中にはほんとうに音楽ばかり聞きにくる人もあった。見苦しい騒ぎはごくまれであったが、それでもどうかすると、平日にすら持ちあがることがあった。しかし、まったくそういう騒ぎがなくては、世の中のことはすまぬものである。
 このときは珍しい良夜であったから、群集も多く、演奏中の楽隊に近い席はすっかりふさがっていた。エパンチン家の一行はいくぶんわきに寄って、停車場の左入口のすぐそばにあるいすに座をしめた。群集と音楽はいくぶんリザヴェータ夫人を元気づかせ、令嬢たちの気をまぎらせた。彼女らはそのあいだに知り合いのだれ彼と視線をまじえ、だれ彼の人に愛想よくうなずいてみせた。またそのあいだには人の衣装をながめたり、ちょいちょい変なことを見つけてその話をしたり、冷やかすようにほほえんだりした。エグゲーニイも同様たびたび会釈していた。ここでもまだいっしょになっていたアグラーヤと公爵には、二、三の人が早くも注意を向けはじめた。やがてそのうちに母夫人と令嬢たちのそばへ、知り合いのだれ彼の若い人たちが近寄って来たが、その中の二、三人はいつまでも居残って話しこんでいた。それはみなエヴゲーニイの友人である。その人たちのあいだにひとり若い美しい士官がいた。これは快活で話ずきな男だったが、しきりにせきこんでアグラーヤに話しかけ、その注意を自分のほうへ向けさせようと、いっしょうけんめいに苦心していた。アグラーヤもこの男に対して非常に優しく、そしてひどくおもしろそうにしていた。エヴゲーニイはまた公爵に、この友人を紹介することを許してくれといった。公爵はこの人たちが自分に何を求めているのやら、よくわからない様子であったが、とにかく紹介もすんで、ふたりは会釈をし、たがいに于を握り合った。エヴゲーニイの友人はなにか質問を発したが、公爵はそれに対してぜんぜん返答しなかったらしい。あるいは返答したのかもしれぬが、なにやら口の中でぶつぶつつぶやいたばかりであった。その様子がいかにも奇妙だったので、士官はじっと彼の顔を見つめていたが、やがてエヴゲーニイのほうへ視線を転じた。と、その瞬間、なんのためにエヴゲーニイがこの紹介を思いついたかを察して、ほんの心持ちにっと薄笑いを浮かべ、ふたたびアグラーヤのほうへ振りむいた。このときアグラーヤが急に赤くなったのに気がついたのは、エヴゲーニイひとりだけである。
 公爵はほかのものがアグラーヤと話したり、機嫌をとったりしているのに、気のつかない様子であった。どうかすると、彼女のそばにすわっていることさえ忘れがちであった。ときおり彼は、どこかへ行って、ここからまったく姿を消してしまいたいような気がした。ただひとり自分の思想に没顫して、自分がどこにいるやら、だれひとり知るものもない、陰欝な淋しい場所が、好もしいようにさえ思われた。それもかなわないのなら、せめて自分の露台にでもすわっていたい。ただその場にはだれも、レーベジェフもその子供たちもいないほうがいい、あの長いすに身を投げかけ、枕に顔を埋め、そのまま昼も夜もまた次の日も、じっと横になっていたい。ときどきちらりと山のことも想像に浮かんだ。山といっても、その中でなじみの深いある一つの場所で、彼は好んでいつもその場所を思い浮かべた。それは、彼がまだスイスに暮らしていたころ、毎日のように出かけて、下の村を見おろしたところである。そこから下の方に、やっと見えるか見えないぐらいの白糸のような滝、白い雲、捨てて顧みられない古城の廃坑をながめるのがすきだった。おお、どんなにか彼は今この場所に立って、ただ一つのことばかり思いつづけていたかったろう、――おお! 一生このことばかり思いつづけていたい、――このこと一つだけで千年のあいだ考えとおすにも十分である! そして、ここの人たちが、自分のことを忘れてしまったってかまいはしない。いや、そうならねばならぬ、そのほうがかえって都合がいい。もしはじめからこの人たちがぜんぜん自分を知らずにいて、この恐ろしい幻影がただの夢であったなら。しかし、もう夢でもうつつでも、どちらでも同じことではないか! ときどき彼はふいにアグラーヤを見つめはじめる。そして、五分間ばかりその顔から目を放さなかったが、その目つきがじつに奇妙であった。まるで自分から二露里も離れている物体か、あるいは絵姿でもながめているようで、当のアグラーヤを見る目つきではなかった。
「なんだってあなたはあたしをそんなにごらんなさるの、公爵?」ふいに自分を取り巻く人々のにぎやかな会話と笑い声を断ち切って、アグラーヤはこう問いかけた。「あたしあなたがこわいわ。あたしなんだかあなたが今にも手を伸ばして、指であたしの顔をいじってごらんになりそうな気がして、しようがないんですのよ。そうじゃありませんか、ねえ、エヴゲーニイさん、公爵の目つきはそんなふうですわね?」
 公爵は、人が自分に話しかけたのを、びっくりしたように聞いていた。そして、なにやら思いめぐらすさまであったが、ほんとうによくわからなかったと見えて、返事をしなかった。が、みなが笑っているのを見ると、いきなり大きな口をあけて、自分でも笑い出した。あたりの笑い声はひとしお高くなった。士官はよほどおかしがりと見えて、いきなりぷっとふきだした。アグラーヤはふいに腹立たしげに口の中でつぶやいた。
「白痴《ばか》!」
「まあ! ほんとうにこの娘は、いったいこんなものに……いったい、この子はほんとに気がちがうのじゃないかしら」とリザヴェータ夫人は歯ぎしりしながらひとりごちた。
「あれは冗談ですよ。あれはさっきの『貧しき騎士』と同じような冗談ですよ」とアレクサンドラはしっかりした調子で、母夫人に耳打ちした。「それだけのこってすわ! あの子は今もまた自分一流のやり方で、公爵をからかったんですよ。ただこの冗談はあんまり薬がききすぎました。もうやめさせなくちゃなりませんわ、おかあさま! さっきはまたまるで女優みたいに変な真似をして、わたしたちをびっくりさせるかと思うと……」「まあ、それでも相手があんな削唹だからまだしもなんですよ」とリザヴェータ夫人はささやき返した。
 娘の解釈はとにかく大人の胸を軽くした。
 とはいえ、公爵は自分を白痴《ばか》と呼ぶ声を聞いて、身震いした。しかし、それは白痴といわれたためではない。『白痴』という言葉はすぐに忘れてしまった。が、群集の中に、自分のすわっている席からほど遠からぬどこか端のほうで、――公爵はどこのどのへんということを、的確に示すことができなかったけれども、一つの顔が、ちらとひらめいたからである。うずを巻いた暗色の毛、見覚えのある、じつによく見なれた微笑と目を持った青ざめた顔が、――ちらとひらめいて、消え去ったのである。あるいはただ気のせいだったかもしれぬ、大いにそうかもしれぬ。彼の心に残った印象は、ただひん曲がったような嘲笑と、目と、ちらと目に映ったひとりの屶の薄い緑色をした、しゃれたネクタイばかりであった。この人が群集の中にまぎれこんだのか、それとも停車場の中へ入ったのか、公爵はやはり明言することができなかった。
 しかし、一分間ののち、公爵はとつぜんそわそわと落ちつかぬ様子で、あたりを見まわしはじめた。あの第一の幻影が、つづいて来る第二の幻影の予言であり、先駆であったのかもしれぬ。それはたしかにそうだったのだ。いったい彼はここへ出かけて来るとき、もしかしたらある人に出くわすかもしれないということを、忘れていたのだろうか? それは事実である。彼がこの停車場へ向けて歩いて来るあいだ、自分で自分がどこへ行ってるのやら、まるっきり知らずにいたようなありさまだった。――それほど彼の心は暗く重かったのである。もし彼がいますこし注意して見ることができたら、まだそれより十五分ばかり前にアグラーヤが、なにか自分の周囲に潜むあるものをさがすような風つきをして、ときどき不安げにあたりを見まわしているのに、気がついたはずである。いま彼の不安が恐ろしく目立ってくると同時に、アグラーヤの不安と動揺もそれにつれて大きくなった。そして、彼がうしろを振りかえって見るやいなや、ほとんど同時に彼女もそのほうを振りむくのであった。しかし、不安は間もなく解決された。
 公爵はじめエパンチン家の一行は、停車場の横手の出口に近く陣取っていたが、そこからにわかに一隊の群集、すくなくとも十人ぐらいの同勢からなる一群の人々が現われた。群集の先頭に三人の女が立っている。その中のふたりは驚くばかりの美人であったから、そのあとからこれぐらいのお供がやって来るのも、あながち不思議はなかった。けれど、そのお供も婦人たちも――すべてこれらの人たちは、音楽を聞きに集まっているその他の人々とはまるで変わった、一種特別のものであった。ほとんどすべての人々はこの一群に気がついたが、大部分は見て見ぬふりをしようと努めていた、ただ若い連中のだれ彼は、彼らの姿を見て微笑しながら、たがいに低い声でささやき合った。しかし、ぜんぜん彼らに気づかずにいるのは不可能であった。彼らはわざと自分の姿をひけらかして、大きな声で話したり、笑ったりしているのだ。彼らの多くが酔っぱらっているらしいということは、想像するにかたくなかった。もっとも二、三の者は、ハイカラなしゃれた身なりをしていたけれども、また思いきって奇妙な恰好をして、奇妙な服を着け、いやに興奮した顔つきのものも少なくなかった。彼らの中には軍人もあれば、あまり若くないのもあり、また、ゆったりと優英な仕立ての服を着こんで、指輪やカフスボタンを光らせ、漆のように黒いりっぱなかつらをかぶり、ほお髯を立て、顔に一種上品な、とはいえいくぶんしかつめらしい威厳を持たした、裕福らしい風采の人々もまじっていた。しかし、社会では、こういう人々をペストのように嫌って避けるようである。この町はずれの停車場に集まった公衆の中には、なみなみならずきちょうめんなので有名な人たちも、世間から特に尊敬されている評判のいい人たちもあった。しかし、どんな用心ぶかい人でも、ふいに隣家から落ちてくるれんがに、四六時中、気をつけているわけにはいかない。このれんがは音楽に集まったきちんとした公衆の上に、今しも落ちかかろうとしているのであった。
 停車場からいまオーケストラの陣取っている広場へ出るには、小さな段々を三つおりなければならなかった。この段々の上にかの一隊は立ちどまったが、思いきってそこからおりかねるふうであった。と、ひとりの女が平気で前へ進み出た。それにつづいて、ただふたりの男だけが思いきって進んだ。ひとりはかなりおとなしそうな顔つきをした中年男で、すべての点において、ひととおりの外貌を備えていたが、あからさまに風来坊といった風体であった。つまり、世間によくあるやつで、自分でもまるで人を知らなければ、人からもまるで知られないという連中のひとりなのである。いまひとり、女のそばを離れずにいるほうは、まったくごろつきで、気味の悪い風体をしている。それ以外、だれもこの突飛《とっぴ》な婦人についてこようとする者はなかったが、彼女は段々をおりながら、うしろを振りかえってみようともしなかった。さながら、人がついてこようとこまいと同じことだといわんばかりである。彼女は依然として声高《こわだか》に話したり、笑ったりしていた。その服装にはなみなみならぬ趣味も現われ、かつ金もかかっているけれど、普通のたしなみから見れば、多少けばけばしすぎるようである。彼女は楽隊のそばを横切って、広場の向こう側をさして進んで行った。そこには道ばたで、だれの馬車であろうか、人待ち顔に立っている。
 公爵はもう三か月以上も彼女[#「彼女」に傍点]を見なかった。今度ペテルブルグへ出てからこの数日間というもの、公爵は絶えず彼女を訪れようと心組んでいたが、なにか一種神秘な予感ででもあろうか、つねに彼を引き留めていたのである。すくなくとも、彼は近いうちに起こるべきこの女との再会の印象がどんなものであるか、どうしても想像することができなかった。彼は恐怖の念を覚えつつも、ときどきその場合の感じを心に描いてみようと努めた。ただ一つ的碓なのは、その感じが重苦しいものに相違ないということであった。まだ彼がはじめて写真に接したばかりのとき、彼女の顔が彼の心にひきおこしたあの最初の感銘を、彼はこの六か月のあいだにいくどとなく思い浮かべたのである。しかしこの写真から受けた印象の中にさえ、今おもいおこしてみると、多すぎるぐらい重苦しいあるものが潜んでいた。ほとんど毎日のようにこの女に会っていた田舎のひと月が、彼の心に恐ろしい作用を及ぼしていたので、この時分に関する単なる追想すらも、なるべく自分の脳裡から追い出すようにしていた。この女の顔そのものが、つねに彼にとって悩ましい何ものかを蔵していた。公爵はラゴージンと話し合ったときに、この感じを限りなき憐愍の情として説明した、それはほんとうである。この顔はまだ写真を見たばかりのときから、彼の心に激しい憐愍の苦痛を呼びおこした。この人物に対する同情と苦痛の感銘は、今まで一度も彼の心を離れたことがない、今でも離れないでいる。おお、それどころか、かえって余計に激しくなっているのだ。けれども、ラゴージンにいって聞かせただけの説明では、公爵はまだ不満足であった。ところが、たった今、思いがけなくこの女が姿を現わした刹那、おそらく一種の直覚の働きでもあろう、彼はラゴージンに話した自分の言葉に不足していたものを了解した。ああ、この恐怖をいい表わすには、人間の言葉はあまりに貧しい。そうだ、恐怖である! 彼は今、この瞬間にそれを完全に直覚した。彼は特別な理由によって、この女が気ちがいだと信じた。徹頭徹尾そう信じて疑わなかった。もしひとりの女を世界じゅうの何ものよりも深く愛し、あるいはそうした愛の可能を予感しつつある男が、突然その女が鎖につながれ、鉄の格子に閉じこめられ、監視人に棒で打たれているところを見つけたらどうか、――こうした感覚こそ、いま公爵の直感したところのものに、いくぶん似寄っているかもしれぬ。
「どうなすったの、あなた?」とアグラーヤは彼のほうを振りむいて、子供らしくその手をひっぱりながら、早口にささやいた。
 彼はそのほうに頭を向けて彼女をながめ、この瞬間合点のいかぬほどぎらぎら輝いていた黒い目を見つめながら、にっこり笑って見せようとしたが、ふっと一瞬の間にアグラーヤのことを忘れ果てたかのように、ふたたび目を右のほうへ転じ、またもやかの恐ろしい異常な幻影を追いはじめた。ナスターシヤはこの瞬間、令嬢たちの席のすぐそばを通り抜けていた。エヴゲーニイはなにか、ひどくおもしろおかしそうなことを、早口に生きいきした調子で、アレクサンドラに話しつづけている。公爵はのちのちまでも覚えていたが、アグラーヤはこのときふいになかばつぶやくような声で、『なんてまあ……』といった。
 このひとことはなんともつかない、しっぽの切れたもので終わった。彼女はすぐにはっと気がついて、それきり何もいい足さなかったが、しかしそれだけでも十分であった。ナスターシヤは今まで特にだれに目をつける様子もなく通り抜けていたが、急に一行のほうへ振りむいて、いまはじめてエヴゲーニイに気がついたかのごとく、
「あらまあ! この人はこんなところにいるんだわ!」と急に立ちどまって、彼女は叫んだ。「飛脚を使ってさがさしても、見つからないと思えば、こんな思いもよらないところに
すわってるのねえ、わざとのようだわ……わたしまたあんたはあの……伯父さんのところにいるのかと思ってたわ!」
 エヴゲーニイはかっとなって、ものすごい目つきでナスターシヤをながめたが、すぐにまた顔をそむけてしまった。
「おや! いったいあんた知らないの? この人はまだ知らないんだわ、まあどうでしょう! 死んだんですよ! けさがたあんたの伯父さんが、ピストルで死んじゃったんですよ! わたしついさっき、二時間ばかり前に聞いたわ、ええ、もうおおかた町の半数の人たちは知ってますよ。官金三十五万ルーブリつかいこんだんですって。中には五十万だっていう人もあるわ、わたしあんたがその伯父さんから遺産を貰うのだとばかり思って当てにしてたのに、――みんなほらだったのね。しようのない極道|老爺《おやじ》たったそうよ……じゃ、さようなら、bonne chance(ご幸福を祈ります)じゃ、あっちへ出かけないの? 道理で早く退職を願ったはずだわ、はしっこいこと! しかし、そんなばかなことってないわ。知ってたんだ、前から知ってたんだわ。たぶんもうきのうあたりから知ってたんでしょう……」
 こうした傲慢でうるさい、ありもしない近づきの押し売りには、なにかある目的が潜んでいた。それは今さらもうなんの疑いもないことである。エヴゲーニイははじめのうち、どうにかしてうまく受け流し、なにがあろうともこの無礼な女を気にかけないように努めていた。しかしナスターシヤの言葉は雷のごとく彼の頭上に落ちかかった。伯父の死ということが耳に入ると、彼はハンカチのように青くなって、思わずナスターシヤのほうを振りむいた。この瞬間リザヴェータ夫人は急に立ちあがって、ほかの人々を促しながら、ほとんど走るようにしてこの場を離れた。ただムイシュキン公爵のみは、しばらく決しかねたように、一秒ばかりその場に立ちすくんでいた。エヴゲーニイもやはり茫然自失したかのごとく、じっと立っていた。しかし、エパンチン家の一行がまだ二十歩と離れぬうちに、恐ろしい騒ぎが持ちあがったのである。
 さきほどアグラーヤと会話を試みていた士官は、エヴゲーニイと大の仲よしであったが、今や憤懣の極に達した。
「もうぶんなぐってくれなくちゃだめだ。それよりほかにこの売女《ばいた》をとっちめる法がない!」と大きな声でいい出した(この男は以前からエグゲーニイの腹心であったらしい)。
 ナスターシヤはたちまち彼のほうへ振りむいた。その目はものすごく輝いていた。彼女は、二歩ばかり隔てて立っている、まるっきり兄覚えのないこの青年のほうへおどりかかった。士官はつるを編んだ細いステッキを携えていたが、ナスターシヤはやにわにそれを引ったくって、この無礼者の顔を斜《はす》かいに力任せに打ちすえた。それはほんの一瞬のできごとであった……士官はわれを忘れて彼女にとびかかった。ナスターシヤの周囲にはもう取り巻きがいなかった。取り済ました中年の紳士はいつの間にやら姿を隠し、一杯機嫌の紳士のほうはすこし離れたところに立って、いっしょうけんめいに笑っている。もう一分ののちには、警官も飛んで来たに相違ないが、今この瞬間、ナスターシヤは恐ろしい目を見るところであった。が、そこへ思いがけない助けが入った。やはり二歩ばかり間をおいてたたずんでいた公爵が、うしろから士官の両腕をとらえたのである。その手を振り放そうとして、士官は激しく公爵の胸を突き飛ばした。公爵は三足ばかりよろよろとして、いすの上に倒れた。けれども、このときすでにナスターシヤのそばへふたりの保護者が現われていた。今にもおどりかかろうと身構えしている士官の前に、ぬっと拳闘の先生が立ちはだかっていた。例の新聞記事の作者で、以前のラゴージンの徒党の一員である。
「ケルレルです! 退職中尉です」と彼は力みかえって名乗りを上げた。「もし腕ずくの勝負がお望みでしたら、わが輩が弱い女性に代わってお相手になりましょう。イギリス式拳闘はすっかり卒業しました。そんなに突くのはおよしなさい。あなたの血のにじむような[#「血のにじむような」に傍点]憤慨は同情に堪えんですが、一婦人に対して公衆の面前で腕力沙汰は許すわけにはいきません。もし高潔な人士にふさわしい他の方法に訴えようとおっしゃるなら、――あなたはもちろん、わが輩の言を了解してくださらねばならんです……」
 しかし、士官はやっとわれに返って、もう彼の言葉を聞いていなかった。このとき群集の中から現われ出たラゴージンは、す早くナスターシヤの手を取って、ぐんぐんしょっぴいて行った。ラゴージン自身もおそろしく気を転倒さしているらしく、青い顔をしてふるえていた。しかし、ナスターシヤを連れ去る前に、彼は士官にむきつけて毒々しく笑いながら、勝ちはこった市場商人のような顔つきをしていった。
「ちょっ! とんだ目にあったね! しゃっ面《つら》あ血だらけだ! ちょっ!」
 すっかりわれに返って、相手がどんな人間かを悟った士官は、丁寧に(とはいえハンカチで顔をおおいながら)もういすから立ちあがった公爵に向かって、
「あなたはムイシュキン公爵でしたね、さきほどお近づきの栄を得た?」
「あの女は気ちがいです! 狂人です! ほんとうです」となんのためやら、わななく両手を相手のほうにさし伸べながら、公爵はふるえ声で答えた。
「ぼくは残念ながら、そういううわさを聞いていないのでしてな。ぼくはただあなたのお名前を知ればいいのです」
 彼はちょっとうなずいて立ち去った。警官は、このできごとに関係した最後の人たちが隠れてしまってから、ちょうど五杪たったときかけつけた。とはいえ、この騒ぎはせいぜい二分より長くはつづかなかった。群集のだれ彼は席を立って行ったし、あるものは席を移しただけだし、あるものは非常にこの騒ぎを興がっていたし、またあるものはむきになって、かしましくこのことを問題にしていた。手短かにいえば、事件はごく平凡に終わりを告げたのである。楽隊はさらに演奏をはじめた。公爵もエパンチン家の一行を追って行った。もし彼が士官に突き飛ばされていすに倒れたとき、自分で思い当たるか、それともなにかの拍子で右のほうをながめたら、二十歩ばかり離れたところでアグラーヤが、この見苦しい光景をながめるために、もうずっとさきのほうへ行っている母や姉の呼び声を、耳にも入れずたたずんでいるのに気づいただろう。このときS公爵が彼女のそばへ走ってきて、早くここを去るようにすすめたのである。アグラーヤが一行に追いついたときは、興奮のあまり人々の言葉もほとんど耳に入らぬ様子だったのを、リザヴェータ夫人はよく覚えていた。しかし二分ののち、一同が公園に入るやいなや、アグラーヤはいつもの平然とした気まぐれな声で、「あたしあの喜劇がどんなふうで幕になるか、それが見たかったのよ」といりた。

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 停車場のできごとは、母夫人と令嬢たちにとって驚きというよりも、ほとんど恐怖であった。リザヴェータ夫人は不安と動乱に、停車場から家へ着くまで、文字どおりかけださんばかりに、娘たちをせき立てた。夫人の観察と見解に従うと、この事件のために非常に多くのことが発生し、暴露されたのである。そのためにすっかり仰天して、何が何やらわからなくなってしまったにもかかわらず、彼女の頭の中に一つの想念がくっきりと浮かんで来た。しかし、みなのものも、なにかしら特殊な事がおこって、おそらくは、さいわいにも、ある重大な秘密が暴露されはじめた、ということを悟った。以前、S公爵がいろいろに弁解したり、説明したりしたものの、エヴゲーニイは『今という今、明るみへひきだされて』、仮面を引きはがされ、『あの売女《ばいた》との関係をりっぱに暴露された』に相違ない、とこうリザヴェータ夫人も、そしてふたりの姉さえも考えたのである。しかし、この結論から得た賜物《たまもの》は、なおいっそう不思議な謎が謎の上に重なっただけのことだった。令嬢たちは、あまりにもはなはだしい母夫人の驚きようと、あまりにも見えすいた逃げようを、いくぶんこころの中で苦々しく思っていたけれども、こんな騒ぎが持ちあがったばかりのときに、いろいろな問題で母を苦しめる気になれなかった。そのうえ、ふたりはなぜか知らないが、妹のアグラーヤが、もしかしたらこの事件に関して、自分たちや母親などより余計に知っているかもしれぬ、といったような気がしたのである。S公爵もやはり夜のように暗い顔をして、ひどく考えこんでいた。リザヴェータ夫人は途中ひとことも彼に口をきかなかったが、彼のほうでもそれに気のつかない様子であった。アデライーダは彼に向かって、『あの伯父さんてだれのことですの、そしてペテルブルグで何があったんでしょう?』ときいてみたが、彼はその答えとして、思いきり渋い顔をしながら、なにかの調査をどうとかしたと口の中でつぶやき、それはみんなもちろんつまらないばかげたことだといった。『それはそうに決まってますわ!』とアデライーダは答えたが、もうそれっきりなにもきかなかった。アグラーヤはなにかまた非常に落ちつき払っていて、ただ途中みんなあまり早く走りすぎると注意したばかりである。一度彼女はうしろを振りかえって、自分たちを追って来る公爵を見つけた。そのいっしょうけんめいに追いつこうとする努力を見て、彼女はあざけるように笑ったが、もうそれから彼を振りかえって見ようともしなかった。
 ついに別荘のほとんどすぐそばで、一行を迎えにやって来るイヴァソ将軍に出会った。将軍はつい今しがたペテルブルグから帰ったばかりである。彼はすぐさま第一番に、エヴゲーニイのことをたずねた。けれど、夫人は返事しないばかりか、そのほうへは目もくれずに、こわい顔をしてすっと通り抜けてしまった。娘たちやS公爵の目つきからして、彼はたちまち家のなかへ雷雨が襲って来たことを察した。がそれ以外、彼自身の顔にもなにかしらなみなみならぬ不安の色が映っていた。彼はすぐS公爵の手を取って、家の入口のところへ引きとめ、ほとんどささやくような声で、ふたことみこと言葉を交わした。やがて、露台へあがって、リザヴェータ夫人のところへ行ったとき、ふたりの心配そうな顔つきから察して、なにかひととおりでない知らせに接したことが想像された。だんだんと一同のものが、二階のリザヴェータ夫人のもとへ集まっていったので、とうとう露台には公爵ひとりだけが取り残されてしまった。彼は何ごとかを期待するように、とはいえ、自分でもなんのためやらわからず、片隅に腰かけていた。彼は家内のごたついているのを兄ながら、帰ろうという考えはすこしもおこらなかった。見受けたところ、彼はいま全宇宙を忘れ去って、どこにすわらされようと、そのまま二年くらいふっとおしに、平気ですわっていかねない様子であった。
 二階からは、ときどき心配そうな話し声が聞こえてきた。彼はどれくらいそこにすわっていたか、自分でも覚えていな
かった。もうだいぶおそいらしく、あたりはすっかり暗くなっていた。そのとき、ふいにアグラーヤが露台へ出て来た。見たところ、彼女はきわめて落ちついていたが、顔色はいくぶん青かった。アグラーヤは、こんな隅っこに公爵がいすにかけていようとは「思いもよらなかった」らしく、公爵の姿を見ると、けげんな様子で微笑した。
「あなたそんなとこで何してらっしゃるの?」と彼のそばへ近づいた。
 公爵はあわてて、口の中でなにやらもぞもぞいいながら、いすから飛びあがった。けれども、アグラーヤがすぐそのそばのいすに腰をおろしたので、彼もまた席に着いた。彼女は急に、そして注意ぶかく公爵を見つめたが、今度はさらになんの考えることもないようなふうで窓のそとを眺め、それからまた公爵のほうへ顔を向けた。『おおかた、ぼくのことを笑ってやろうと思ってるんだろう』と公爵は考えたが、『しかし、そうじゃない、笑うならあのとき笑ったはずだ』
「あなたお茶があがりたいんでしょう、そうだったらあたし持って来させますわ」としばらく無言ののち、彼女は言った。
「い、いいえ。ぼく知りません……」
「まあ、それがわかんないはずはありませんわ! ああ、そうだ、ねえ、公爵、もしだれかがあなたに決闘を申しこんだら、あなたそのときどうなすって? あたしさっきからききたかったんですのよ」
「だって……いったいだれが……だれもぼくに決闘なんか申しこみゃしません」

「いいえ、もし万一申しこんだら? あなたひどくびっくりなさる?」
「そうですね、ぼくはひどく恐れるでしょうね」
「ほんとう? じゃ、あなたは臆病者だわね?」
「いいえ、たぶんそうじゃないでしょう。臆病者というのは恐れて逃げるもののことです。恐れても逃げないものは、まだ臆病じゃありません」と公爵はちょっと考えてから、微笑しながら言った。
「あなたお逃げにならない?」
「たぶん逃げないでしょう」と言って、公爵はとうとうアグラーヤの質問ぶりに笑わされてしまった。
「あたしはね、たとえ女でも、けっして逃げ隠れはしません」と腹立たしそうに彼女は言いだした。「ですが、あなたはあたしをばかにしてらっしゃるんですね、例の癖で自分を興味のある人間と思わすために、わざとそらっとぼけてらっしゃるんでしょう。ねえ、ひとつうかがいますが、普通決闘では二十歩か十歩の距離で射ち合うんですから、――つまり、どうしても殺されるか、傷をつけられるかにきまってますわねえ?」
「決闘ではめったに当たらないはずですが」
「なぜですの? だってプーシキンは殺されましたよ」
「それはおそらく偶然でしょう」
「ちっとも偶然じゃありません。死ぬか生きるかの決闘ですもの、それで殺されたんですわ」
「あのときの弾丸は非常に低いところへ当たりましたから、きっとダンテス(プーシキンを決闘で殺したフランス生まれの青年将校)がどこかすこし高いところ、胸か頭かをねらったんでしょう。そんなねらいかたはだれもしません。してみると、プーシキンに弾丸が当だったのは、偶然の過失だったんでしょう。それはぼく、信頼すべき人たちから聞いたんです」
「あたしはいつかある兵隊と話しましたが、その人はそういいました。軍隊では操典にちゃんと規定されてるんですって、散兵で射撃のときには半身をねらえ、『半身』とはっきり書いてあるんですとさ。ほら、してみるとけっして胸や頭ではなくって、半身を射つように命令が出てるんですからね。あたしその後、ある将校に聞いてみたら、まったくそうに違いないっていいましたわ」
「それはそうですとも、距離が遠いんですからね」
「あなた射撃がおできになって?」
「ぼくは一度も射ってみたことがありません」
「じゃ、ピストルを装填することもできません?」
「できません。いや、そのやりかたはわかっていますが、自分ではまだ一度もやったことがないのです」
「では、やっぱりできないんですわ、だってそれには実習がいりますからね。ねえ、よく聞いて覚えてお置きなさいよ。第一に湿りけのない、ピストル用のいい火薬を買うんですの(なんでも湿りけのない、かわいたのがいいんですって)。そして、なんでも細かいのでなくちゃならないそうよ。あなたそんなふうのをお買いなさい、大砲を射つようなのじゃだめよ。なんでも弾丸を自分で造る人もあるんですって。あな
たピストルを持ってらっしゃる?」
「いいえ、それにいりもしません」と公爵はにわかに笑いだした。
「あら、なんてつまんないことを! ぜひお買いなさいよ。いいのをね、フランス驍かイギリス驍、これがいちばん上等だそうですよ。それから、火篆を雷管一本分か二本分ぐらい出して、それをつめるんですの。もっと多いほうがいいかもしれないわ。そして毛氈《もうせん》をおつめなさい(どういうわけだか、かならず毛氈でなくちゃならないそうよ)。これはどこかから、――なにかふとんのようなものからでも取れるでしょうし、また扉にもときどき毛氈が打ちつけてありますからね。そこで毛氈のきれをつめてから、弾丸をお入れなさいな、――ようござんすか、弾丸はあとからで、火薬がさきなんですよ。でないと射てないわ。なんだってお笑いになるの?あたしね、あなたが毎日二、三度ずつ射撃の稽古をして、ぜひ的に当たるようになっていただきたいの。おできになって?」
 公爵はただ笑っていた。アグラーヤはくやしそうに足を踏み。暘らした。こんな話題にもかかわらず、彼女の様子のまじめなのが、いくぶん公爵を驚かした。彼もなにか確かめておかねばならぬ、なにかきいておかねばならぬ、――すくなくとも、ピストルの装填法よりもっとまじめな事柄について、きいてみなければならぬということは、多少感じないでもなかった。けれども、そんなことは頭の中からすっ飛んでしまって、ただ自分の前にアグラーヤがすわっている、そして自分はその顔を見ている、ということだけしか考えられなかった。彼女がどんなことを話そうと、このとき彼にとってはほとんど風馬牛であった。
 ついに二階から露台ヘイヴァン将軍がおりて来た。彼はどこかへ外出の身支度をしていたが、うっとうしい、心配げな、しかし断固たる顔つきであった。
「ああ、ムイシュキン公爵、きみでしたか……そして、今どちらへ?」公爵が席を動こうとも考えていないのに、彼はこうたずねた。「出かけませんかね。わたしはきみにひとこといいたいことがあるから」
「さようなら」といって、アグラーヤは公爵に手をさし伸べた。
 露台はもうだいぶ暗くなったので、公爵はこの瞬問、彼女の顔をはっきり見分けることができなかった。一分ののち将軍といっしょに別荘のそとへ出たとき、彼は急におそろしく赤くなって、強く自分の右手を握りしめた。
 聞いてみると、イヴァン将軍も彼と同じ道筋であった。イヴァン将軍はこの夜遅いのに、何ごとかでだれかと会談に急いでいるのであった。にもかかわらず、とつぜん公爵に向かって、早口に心配らしい調子で、かなりまとまりのつかないことを話しだした。そして、いくどもリザヴェータという名をはさんだ。もし公爵がこのときもうすこし注意していたら、将軍が話のあいだになにか自分から探り出そう、というよりは、むしろ直接露骨に何ごとかたずねようとしながら、どうもこのかんじんな点に触れかねているのを察したろう。
ところが、恥ずかしいことに、公爵は非常に心がざわついていたので、はじめのほうはなんにも聞いていなかった。で、将軍がなにかある質問を提出して、彼の前に立ちどまったとき、彼は仕方なしに、なにもわからない、と白状しなければならなかった。
 将軍は肩をすくめた。
「きみがたはだれも彼もなんだか奇妙な人間になってしまったね」と彼はまた急いで話しだした。「じっさいのところをいうが、わたしはリザヴェータの考えや心配がさっぱり腑に落ちん。あれはまたヒステリーをおこして、われわれは恥をかかされた、顔に泥を塗られた、といって泣くんだよ。だが、いったいそれはだれだ? どんなふうにして? だれといっしょに? いつ、どういうわけで? ちっともわからん。わたしもじっさいのところ悪かった(それは自分でも認めている)。重々悪かった。しかし……あの厄介な(おまけに不身持ちな)女の不敵な行為は、もうやがて、警察の手を借りて抑制することができる。じつは、わたしもこれから二、三の人に会って、注意しておこうと思っておる。万事は年来の友誼を利用して、しずかに、おとなしく、いや、愛想よくといってもいいぐらいうまくやって見せる。けっして騒動などもちあがるようなことはしない。そうはいうものの、このさきさまざまな事件もおころうし、また今までもいろいろわけのわからんことが多いのは承知しています。これにはなにか秘密な企みがあるに相違ない。しかし、ここでなんにも知らんといえば、またあそこでもやはり、知らぬという。わたしも聞かぬ、きみも聞かぬ、あの人もこの人もやはりなんにも聞きません、ではしようがない。ほんとうにいったいだれが知ってるんだろう、え? いったいきみはこの事件をなんと説明しますかね、この事件は半分蜃気楼だ、たとえば月の光とか……あるいはその他の幻影のように、じっさいにおいて存在しておらんものだ、ということ以外に?」
「あれはきちがいです」ふいに公爵は、さきほどのできごとのすべてを悩ましく思いだして、つぶやくように答えた。
「もしきみがあの女のことをいってるのなら、ぴったり符合してるね。わたしも多少そうした観念が浮かんでくるので、今まで安心して眠られたんですよ。ところが、いま見ると、あの女の考えてることは案外正確で、どうもきちがいとは信じられない。かりにあれがつまらん女にしても、それでもやはり綿密な女です、けっしてきちがいどころの段じゃない。きょうカピトン・アレクセイチについていったことなぞは、りっぱにそれを証明してますよ。あの女のほうからいっても、きょうのできごとは詐欺師的だ、すくなくとも、なにか特殊な目的のためにこしらえた狡猾な所作です」
「カピトン・アレタセイチってだれです?」
「おや、これはどうだ、きみはなんにも聞いてなかったんだね。わたしはまず第一にカピトン・アレクセイチのことから、話を切り出したんじゃありませんか。おそろしい報知で、いまだに手足がふるえるぐらいだ。そのためにきょうペテルブルグで遅くなったんですよ。カピトン・ラドームスキイはエヴゲーニイの伯父だよ……」
「ははあ!」と公爵は叫んだ。「この人がけさ未明に……七時ごろにピストル自殺をしたんです。もう七十ぐらいで、人から尊敬を受けている老人だが、なかなかの享楽主義者でね。万事すっかりあの女のいうとおり、――官金費消、しかも莫大な額です!」 
「あれはまたどこから……」
「聞いたかって? は、は! だってきみ、あの女はこの町に姿を現わすと同時に、一小隊ぐらいの崇拝者を作ってしまったじゃありませんか。きみは知らないかもしらんが、じつにとんでもない人たちが、あの女の『知己たる光栄』を求めに訪ねて行くんだからなあ。だから、自然の道理として、さっきあの女はだれかペテルブルグから来た人に、なにか教えてもらったんですよ。なぜといって、あちらではもう町じゅうの人が知ってるし、このパーヴロフスグでも町の半分、いや、町ぜんたいが承知してるんだものな。だが、しかし話を聞いてみると、あの女が文官服のこと、――つまり、エヴゲーニイ君がうまい時を見計らって退職したって批評したのは、じつにうがってるじゃないか! なんという性《しょう》わるな当てこすりだ! いいや、なかなかどうして、これなんぞはけっしてきちがいのいえることじゃないよ。しかし、わたしだって、エヴゲーニイ君があらかじめこの騒動を知っていた、つまり、何月の何日午前七時なんていうことを知っていたとは、けっして信じたくない。けれども、あの人はすくなくとも、それを予感することはできたはずだからね。わたしは、いやわたしたちは、S公爵などといっしょに、カピトン・アレタセイチはあの人にいくらか遺産を渡すことになると、あてにしていたんだよ。恐ろしいこった! 恐ろしいこった!だがね、これだけはよく会得してくれたまえ、わたしはいかなる点においても、エヴゲーニイ君を責めはしない。これは取りあえずきみにいっとくがね、しかし、それにしても、やはり疑わしいて。S公爵はおそろしく転倒してしまってるよ。たんだかいろんなことがいっしょに落ちかかったようでね」
「ですが、エヴゲーニイ・パーヴルイチの行為のどこが疑わしいんですか?」
「何もないさ! あの人の挙動はじつにりっぱなものだ。わたしはなにもそんな意味でいったんじゃない。あの人自身の財産はきずつかずと思うよ。リザヴェータはむろん、そんなことを耳にも入れようとせんがね……が、なにより厄介なのは、家庭にいろんな騒動、というよりか、むしろいろんなごたごた……いや、もうなんといっていいか、名のつけようもないことが、つぎつぎ持ちあがるんでね……きみはまったくのところ、うち全体の親友だから、うち明けていうけれど、考えてもみてくれたまえ、もっとも、これは確かな話じゃないが、なんだかエヴゲーニイ君がひと月以上も前に、アグラーヤとじか談判をして、あれからきっぱりことわられたらしいんですよ」
「そんなことがあるもんですか!」と公爵は熱して叫んだ。
「だが、きみすこしはなにか知ってるだろう? いやね、きみ」と将軍は愕然とふるえあがりながら、釘づけにされたようにその場へ立ちどまった。「わたしはあるいは役にも立たんことを、無考えにきみにしゃべったかもしれないが、それというのも、きみが……きみが……そのまあ……そんなふうな人だからなんですよ。しかし、おおかたきみは、なにか、特別な事情を知ってるだろうね?」
「ぼくなにも知りません……エヴゲーニイ君のことは」公爵はへどもどしながら言った。
「わたしも知らないんだよ! わたしは……きみ、みなのものが寄ってたかって、めちゃめちゃにわたしを土の中に埋めて葬ってしまおうとしてる。そして、生きた人間にとってそんなことは苦しみだ、とても堪えうるものでないってことを、考えようともしないんだからね。たった今もひどい芝居を打ったが、じつに恐ろしい! わたしは親身の息子として、きみにこんなことも話すんだよ。なにより困ったのは、アグラーヤがおかあさんを嘲弄することなんだ。あの娘がひと月ばかり前に、エヴゲーニイ君の申し込みを拒絶したらしい、ふたりのあいだになにか交渉があったらしいということは、姉たちがちょっと謎といったふうの体裁で知らしてくれたのです……もっとも謎といっても、しっかりした謎だがね。しかし彼女《あれ》はじつにわがままで、しかも空想的な女でね、とてもお話にならんくらいですよ! 情や知の方面で、いろんなりっぱな資質とか寛大な心持ちとか、それらのものは持っているかもしれんが、にもかかわらずあの気まぐれ、冷笑-なんのことはない悪魔のような性質だ、おまけに空想が強いときてるんだからね。たった今も、おかあさんを面と向かって愚弄する。ねえさんたちもS公爵もむろん槍玉に上げるという始末です。わたしなんぞときたらいうまでもないことさ。あの娘がわたしを嘲弄するのは珍しくないからね。だが、わたしなんぞは平気だ、わたしはねきみ、あれがかわいい、あれがわたしを嘲弄するのが、かえってかわいいぐらいだ。そして、どうもあの子悪魔は、そのためにわたしを特別に好いておるらしい。請け合っておくが、あれはきみもなにかのことで嘲弄したに相違ない。わたしは今さき、あの二階で大騒ぎのあったあとで、きみと話してるところへ行き合わせたが、あれはまるでなんの気《け》もなかったように、けろりとして腰をかけておったね」
 公爵はおそろしく赤面して右手を握りしめたが、それでもやはり黙っていた。
「ねえ、きみ、公爵!」とつぜん将軍は感激したような、熱心な調子でいいだした。「わたしは……いや、わたしばかりじゃない、妻《さい》でさえも……(あれはまたこのごろ急にきみをもちゃげ出してね、おかげでわたしにまで風向きがいいのだ、しかしどうしたわけか見当がつかない)。そこで、わたしら夫婦はなんといっても、きみを真底から愛している、そしてどんなことがあろうとも、いや、つまり外見上どんなふうであろうとも、きみを尊敬しますよ。しかしね、きみ、察してもくれたまえ、まったく考えてもみてくれたまえ、あの落ちつき払った子悪魔が(だってじっさい、子悪魔じゃないかね。われわれが何をたずねたって、ばかにしきったような顔つきをして、おかあさんの前に棒立ちになってるんだから
なあ。ことにわたしのきくことなんか、てんで鼻のさきであしらうんだよ。それというのも、わたしが『おれは一家の長だからひとつ威厳を示してやれ』などというばかげた考えをおこしたからさ――いや、まったくばかなことをした)。ところで、あの子悪魔め、とつぜん冷笑の色を浮かべながら、こんなことをいうじゃないか、『あの気ちがい女は(あれもそういいましたよ、で、わたしはきみのいったことと符合してるのが、不思議でならない)、あの気ちがい女が、どうあろうとも、あたしをムイシュキン公爵と結婚させたい、などという考えをおこして、そのためにエヴゲーニイさんを家からいびり出そうとしてるのに、あなたがたはいったい気がつかないの?』……これを聞いたときの狐につままれたような気持ちといまいましさ、まあきみ、察してくれたまえ。ところが、あれはそういったきり、わけはひと口も説明しないで、ひとりできゃっきゃっ笑っておるじゃないか。われわれがあいた口もふさがらないうちに、戸をばたんと閉めて出て行ってしまった。そのあとで、さっきあれときみとの間におこった一件を聞いたもんだから……で……で……ね、いいかね、公爵、きみはそんな怒りっぽい人でもないし、分別もある人だから――いや、まったくきみにその資質があることは、わたしも認めている……しかし、……きみ、怒らないでくれたまえ、まったくのところ、娘はきみをばかにしてるよ。だが、ちょうど子供がふざけているようなもんだから、きみあれのことを怒ったりしちゃいけない。しかし、それはたしかにそうなんだ。なにもぎょうさんに考えないでくれたまえ――あれはただもう退屈まぎれに、きみだのわれわれだのをからかってるんだからね。じゃ、失敬! きみはわれわれの心情を知ってくれるだろうね? きみに対するわれわれのまごころをさ? それはもうどんなことがあっても、いかなる点においても、永久に変わることはないよ……ところで……わたしはこれからこっちのほうへ行かなきゃならん、さようなら! ほんとうに、こんないやな気持ちになることは、めったにないこった……もうこうなると別荘住まいもなあ!」
 四辻でひとり取り残された公爵は、あたりを見まわして、急ぎ足に通りを横切り、とある別荘のあかりのさした窓に近寄って、将軍との会話のあいだじゅう、しっかりと右手に握りしめていた小さな紙きれを広げ、弱々しい光をぬすむようにしながら読みはじめた。
『明朝七時、あたしは公園の緑色のベンチで、あなたをお待ちしています。ある重大な件について、あなたとお話ししようと決心しましたの。それはつまり、あなたに関係したことなんです。
『P・S・あなたはこの手紙をだれにもお見せにならないことと存じます。こんな注意をするのは心苦しいのですけど、あなたに対しては、そうするのが当然だと考えましたから、書き添えました――あなたのこっけいな性質に対して、羞恥の情に顔を赤らめながら。
『PP・SS・緑色のベンチというのは、さっきあたしがあなたにお教えした、あれのことですよ。ほんとうにはずかしいとお思いなさい! あたしはこれをも書き添えなければな
らないんですからね』
 手紙は大急ぎの走り書きで、たしかにアグラーヤが露台に出て来るすぐ前に、やっとどうやらこうやら畳んだものらしい。驚きに近い、ほとんどいいがたい惑乱を覚えつつ、公爵はふたたび手紙をかたく握りしめ、まるでおどしつけられた泥棒のように、あかりのさす窓際を飛びのいた。この動作とともに、すぐ自分の肩のところに立っていたひとりの男に、ばったり突き当たった。
「わが輩はあなたのあとをつけてるんですよ、公爵」とその男は言った。
「ああ、きみはケルレル君?」と公爵はびっくりして叫んだ。
「あなたをさがしてたんです。じつは、エパンチン家の別荘のそばで待ち受けてました。むろん、入るわけにゃ行きませんからなあ。あなたが将軍といっしょに歩いておいでなさるあいだ、あとからついておったのです。公爵、わが輩はあなたの御意のままです、どうぞケルレルに指図してください。もし必要があったら、喜んで犠牲になりましょう。いや、死んでもかまやせんです」
「だが……なぜですか?」
「でももう、たしかに申し込み状が来るに相違ないじゃありませんか。あのマラフツォフ中尉は――わが輩あの人をよく知っとりますが――といっても、個人的にじゃないです……あの人はけっして人から侮辱を受けて黙ってなんかいやせんです。われわれの仲間、というのは、わが輩やラゴージンなどは、あの男の目には、ごろつきぐらいにしか見えないんですから、それは当然かもしれませんがね、そんな具合で、しぜんあなたひとりが責任を負うようになるかもしれません。公爵、あなた酒代《さかて》を払わなきゃならんですよ。あの男があなたのことをたずねてたのは、わが輩も聞いていました。だから、もうあすにもあの男の友人が、あなたのところへやってくるでしょう、いや、もう現に来て待ってるかもしれんですよ。もしわが輩を介添人に選んでくださるならば、わが輩はあなたのために水火の中をも辞さんつもりです。そのためにわが輩はあなたをさがしたんです」
「そんなら、きみもやはり決闘のことをいってるんですか?」と公爵はふいに声高に笑いだした。ケルレルはすっかり面くらった。
 彼の笑いかたは非常なものであった。ケルレルは、介添人になりたいという自分の希望がもしいれられなかったらと、今まで針の上にすわったようにじりじりしていたので、いま公爵の度はずれに愉快らしい笑いようを見て、ほとんど侮辱を感じたほどである。
「ですが、公爵、あなたはさっきあの男の手をおつかまえになったでしょう。名誉ある紳士にとってそんなことは、しかも衆人環視の中では、とうてい忍びうるところでないです」
「だって、あの人はぼくの胸を突きとばしましたよ」と笑いながら公爵は叫んだ。「ぼくらはなにも喧嘩なぞすることはないのです! ぼくあの人におわびをします、それだけのこってす。もしどうしても喧嘩しろとならば、喧嘩もしましょう! 鉄砲の射ちっこもいいでしょう。ぼくもむしろ希望するところです。はは! ぼくはもうピストルの装填法を知ってますよ! ねえ、きみ、ぼくにピストルのつめかたを教えてくれた人があるんですよ! ケルレル君、きみピストルの装填法を知ってますか? まず最初にピストル用の火薬を買うんです。湿ってない、そして大砲に使う火薬のように荒くないのが要るんです。それから、さきに火薬を入れて、どこかの扉から毛氈を取って来て、さてその後はじめて弾をこめるんです。弾を火薬よりさきにこめちゃいけません。そうすると発射しないんですって。いいかね、ケルレル君、そうすると発射しないんですって。はは! まったくこれはりっぱな理由じゃありませんか、ケルレル君! おお、そうだ、ケルレル君、ぼくはいまきみを抱いて接吻しますよ。ははは!きみはどうしてあのとき、あの士官の前へ来たんです? きみ、大急ぎでぼくのところヘシャンパンを飲みにいらっしゃい。皆で酔い倒れるまで飲みましょう! じつはね、ぼくシャンパンの壜を十二本もってるんです、レーベジェフの穴蔵にあります。ぼくがあの人の家へ移って行ったらすぐあくる日――おととい、レーベジェフがなにかの『ついでに』売ってくれたんですよ。で、ぼくみんな買っちまいました! ぼくはありったけの人数を集めて騒ぐんだ! ときに、きみは今夜寝ますか?」
「むろん、いつもの夜と同じように寝ますよ、公爵」
「ははあ、それじゃ安らかにお休みなさい! はは!」
 公爵は、いくぶん面くらったらしいケルレルの思案顔を見捨てて、往来を横切り、公園の中に消えてしまった。ケルレルは公爵がこんな奇妙な気分になったのを、いままで見たこともなければ、また単に想像することさえできなかった。
『たぶん熱病だろう。もともと神経質の人だからな。それにいろいろなことがおこったので、からだにさわったんだ。しかし、けっしておじけがついたわけじゃない。あんなふうの連中はなかなかおじけなどつくこっちゃない、どうしてどうして!』とケルレルは心に思った。『ふむ、シャンパン――なかなかしゃれたご報告だわい。十二本、一ダースだな。結構、しっかりした予備隊だ。が、請け合ってもいい、このシャンパンはレーベジェフが、だれかから抵当に取ったものに相違ない。ふむ……! しかし、やつはなかなかかわいい男だ、あの公爵は。じっさいわが輩はあんなふうの男が好きだ。だが、いたずらに時を空費するには当たらんて……それにシャンパンがあるとすれば、これこそ本当の「時」というものだ……』
 公爵がまるで熱に浮かされていたというのは、もちろんほんとうであった。
 彼は長いこと暗い公園をさまよいまわったが、ついに、とある並木道を低徊している『自分を発見した』。例のベンチから、高く目立ちやすい一本の老木まで百歩ばかりのあいだ、もう三十度か四十度ぐらい、この並木道を行きつもどりつした記憶が、彼の意識の中に残っていた。この少なく見つもっても一時間のあいだに、彼が公園で考えたことを思い出すのは、とうてい、望んでもできないことであった。とはいえ、ある一つの考えに没頭している自分自身にふと気がついたとき、彼はとつぜん腹をかかえて笑いだした。その考えはかくべつ笑うようなことではなかっだけれど、彼はなんだかに無性に笑いたかったのである。彼はこんなことを考えてみた。決闘に関する想像は、単にケルレルの頭にのみ浮かびうることではなく、したがって、ピストルの装填法に関する説明も、あながち偶然ではない……『おや』と彼はまた急に別な想念に心を照らされて立ちどまった。『さっきぼくが隅っこのほうに腰かけていたとき、あのひとが露台へおりて来た。そしてぼくがいるのを見ておそろしくびっくりして、――そして急に笑いながら……茶のことなんか言いだしたっけ。だが、このときもうあのひとの手の中に手紙があったんだから、してみるとあのひとは、かならずぼくが露台にいることを知ってたに違いない。じゃ、ぜんたい、なんだってあんなにびっくりしたんだろう? ははは!』
 彼は手紙をポケットから取り出して、ちょっと接吻したが、すぐにそれもよして考えこんだ。
『じつに奇態だ! じつに奇態だ!』と彼は一種のわびしさを胸にいだきつつ、一分ほどたってこういった。強い感激を覚えた瞬間に、彼はいつもわびしい気持ちになり、自分でもなぜか知らないのであった。彼はじっとあたりを見まわして、いつの間にかこんなところへ来ているのに驚いた。へとへとに疲れていた。彼はベンチに近づいて、腰をおろした。なみなみならぬ静けさがあたりを領している。停車場の奏楽はもうやんでいた。公園にはもはやだれひとりいないらしい。もちろん十一時半より早いことはない。夜は静かで、暖かで、明るかった――六月はじめによくあるペテルブルグ付近の夜である。しかし、茂った本陰の多い公園の、彼が今歩いている並木道は、もうまったく暗かった。
 もしだれかがこの瞬間、彼に向かって、おまえは恋している、熱烈な恋をしているといったら、彼は驚いてそうした観念を否定するであろう、ことによったら、腹を立てるかもしれない。またもしだれかその男が、アグラーヤの手紙は恋文だ、あいびきの申し出だとつけ足したら、彼はその男に対する羞恥のために、顔から火が出るような思いをして、あるいはその男に決闘を申し込むかもしれない。が、それはまったく真剣である。彼は一度だって、そんな疑念をさし挟んだこともなければ、この令嬢が彼に恋するとか、あるいは彼がこの令嬢に恋するかもしれぬといったような、『二重人格的』な考えを許容したことがないのである。こんな考えがおこったら、彼は恥ずかしくてたまらなかったに相違ない。彼に対する、彼のような男に対する恋愛の可能性は、彼にとって奇怪事と思われた。もしこの場合、じっさいなにかあるとしたら、それは彼女のいたずらぐらいのものだ、と彼はこんなふうに考えた。しかし、彼自身としては、この考えに対して格別の注意も払わず、当たり前のことと思っていた。それよりもまったく別なことに彼は気を取られ、かつ心配していたのである。
 さきほど将軍が興奮のあまりちょっと口をすべらした言葉、すなわちアグラーヤが一同のもの、ことに公爵を嘲弄しているということは、彼も信じて疑わなかった。が、それで
も、彼はなんの侮辱をも感じなかった。彼にいわせれば、むしろそれが当然であった。ただ彼にとって肝要なことは、あすの朝早く彼女に会える、彼女といっしょに緑色のベンチに巫って、ピストルのつめかたを聞きながら、彼女をながめることができる、ただそれだけである。それ以外なにもいらない。また彼女が何を話すつもりなのか、直接自分の身に関する重大な事件とは何ごとか、――という疑問もやはり、一、二度彼の頭にひらめいた。しかし、わざわざ自身を呼び出そうというような『重大事件』が。はたして存在するかどうかという疑いは、ただの一分間も彼の胸にわかなかった。いな、むしろ彼は、ほとんどこの重大事件のことを考えなかった。そんなことを考えるべき衝動を、すこしも感じなかったのである。
 並木道の砂にきしむ静かな足音は、彼の頭を上げさした。闇の中に顔をはっきり見わけることのできなかったその男は、ペンチに近寄り、彼と並んで腰をかけた。公爵はすばやくそのほうへ身をよせ、ほとんどぴったりと寄り添うた。と、青白いラゴージンの顔が見わけられた。
「きっとどこかこのへんをうろついてるだろうと思ったよ。さがすのにあまり手間を取らなかった」ラゴージンは歯のあいだから言葉を押し出すようにつぶやいた。
 彼らがこうして落ち合ったのは、かの料理屋の廊下以来はじめてだった。思いがけないラゴージンの出現に驚かされで、公爵はしばらく自分の思想を集中することができなかった。そして、悩ましい感触が彼の心によみがえったのである。見受けたところ、ラゴージンは自分の公爵に与えた印象を、よく了解していたらしい。彼ははじめのあいだ、妙につじつまの合わぬことをいっていたが、やがてなんとなくわざとらしい、くだけた調子で話しだした。けれども、公爵はまもなく、相手の言葉にすこしもわざとらしいところはなく、またべつにたいしてまごついている様子もない、と思いかえした。もし彼の身ぶりや話しぶりに、なにか間の悪そうなところがあるとすれば、それはただうわべだけであった。内面的には、この男はけっしてなんとも変化するはずがないのである。
「どうしてきみ……ぼくがこんなところにいるのをさがし出したんだい?」と公爵はなにか口をきくためにそうきいてみた。
「ケルレルから聞いたんだ(おれはおめえのとこへ寄ってみたよ)。『公園へ行かれました』というから、ふん、そりゃそうだろうと考えたさ」
「何が『そうだろう』なんだね」と心配そうに公爵は、相手が何げなしにすべらした言葉じりをおさえた。
 ラゴージンはにやりと笑ったが、説明はしなかった。
「おれはおめえの手紙を受け取ったよ、公爵。おめえあんなこといったって、しようがないじゃないか……ほんとうにいい好奇《すき》だなあ!………ところで、いまおれはあれ[#「あれ」に傍点]のとこからやって来たんだが、ぜひおめえを呼んで来てくれっていうのさ。なにかどうしてもおめえに話さなくちゃならんことがあるそうだ。きょうにもすぐといってるんだがな」
「ぼくあす行くよ。きょうはもう、家へ帰らなくちゃならないから。きみ……ぼくのとこへ来る?」
「なんのために? おれはもういうだけのことをいっちまった。あばよ!」
「よらないで行くのかい、いったい?」と公爵は低い声でたずねた。
「奇態な人間だなあ、おめえは。まったく面くらっちまうぜ、公爵」
 ラゴージンは毒々しく薄笑いした。
「なぜ? いったいどういうわけで、いまきみはぼくにそう腹を立ててるんだね?」憂わしげに、しかも熱を帯びた訓子で公爵はさえぎった。「だって、きみの考えてたのがみんなうそだってことは、現に自分で悟ってるじゃないか。しかし、ぼくにたいするきみの憎しみが今まで消えずにいるということは、ぼく自身でも考えていた。それはなぜか知ってる? なぜというに、きみはかつてぼくの命を図ろうとした、そのためにきみの憎しみはまだ消えずにいるのだよ。が、ぼくは誓っていう。ぼくはあの日、十字架を交換して兄弟の誓いを立てた、あのパルフェン・ラゴージンひとりを覚えてるだけだ。ぼくはきみがこの悪い夢をすっかり忘れてしまって、今後けっしてその話をぼくにしかけないようにと思って、きのうの手紙にもそのことを書いておいたんだ。なんだってそんなにじりじりのくんだい? なんだって手をそんなに隠すんだい? くり返していうが、あのときのことはいっさい悪い夢だと思っている。ぼくはあの日いちんちのきみを、ぼく自身のことと同じようにそらで知ってる。きみの考えていたことは、けっして存在していなかったし、また存在するはずもないのだよ。いったいなんのためにわれわれの憎しみは存在するんだろう?」
「われわれのって、いったいおめえの憎しみがあるのかい!」公爵の思いがけない熱烈な言葉に対する答えとして、ラゴージンはまたもや笑いだした。
 彼はじっさい、公爵をよけるようにして、二、三歩隘れたところに立って、両手を隠していた。
「もう今となっちゃ、おれはどうしたっておめえんとこへ出入りするわけに行かねえ、公爵」と彼はゆっくりと重みをつけながら、こういい足して言葉を結んだ。
「それほどにぼくを憎などでもいうのかい?」
「おれはおめえを好かねえよ、公爵、だからおめえのとこへ出かけるわけもねえさ。おめえはまるで子供が玩具をほしがってるのと同じだよ、――是が非でもよこせ、というやつさ、ところが、ほんとうのことはなんにもわかっちゃいないんだ。おめえのいまいってるのも、手紙に書いてるのも一つことだ、おれはおめえを信じてるよ。おめえのいうことをひとことひとこと信じてる。そして、おめえが一度もおれをだまさなかったし、また今後もだましたりしないことを、ようく知ってるよ。が、それでもやはりおれはおめえを好かねえ。ところが、おめえはなにもかもすっかり忘れちまって――あのときおめえに匕首を振り上げたラゴージンを忘れちまって、ただ十字架の兄弟のラゴージンを覚えているばかりだって、こう手紙に書いてるだろう、だが、おめえどうしておれの心持ちがわかるかい?(ラゴージンはまたしてもにやりと笑った)。おれはあのことについちゃ、その後、一度も後悔したことがないかもしれんぜ。それだのにおめえは気早にも、兄弟としてゆるしの手紙をよこすなんて。ひょっとしたら、おれはあの晩まるっきり別なことを考えていて、あのことなぞは……」
「考えることさえ忘れたんだろう!」と公爵が受けた。「そりゃそうとも! ぼく、請け合っていうが、きみはあのときすぐに汽車に乗って、このパーヴロフスクヘやって来て、ちょうど今晩と同じように、音楽場の人ごみの中であれをつけまわし、見張ってたんだろう。そんなことをいったって、びっくりしやしないよ! あのとききみがあんなふうに、たった一つのこと以外、何も考えることのできないような状態に落ちてなかったら、たぶんぼくに匕首を振りかざすこともなかったろうになあ。ぼくはあの日、朝からきみを見てるうちに、そんなふうの予感をいだかされたよ。きみにはわかるまいが、あの時のきみの様子はどうだったろう? 十字架を交換したときにも、そうした考えがぼくの心に動いたよ。いったいきみはなぜぼくをおっかさんのところへ連れて行ったんだい? あれでもって自分の手をおさえようと思ったんだろう? いや、しかしきみがそんなことを考えるなんて、ありうべからざるこった。たぶんぼくと同様にただそう感じたんだね……ぼくたちはあのときと同じことを感じていたからね。もしきみがあのとき、ぼくに手を上げなかったら(もっとも、その手は神さまが引きのけてくだすったが)、ぼくは
いまきみに対してどんな位置に立つだろう? だって、ぼくはどっちにしても、きみにこの嫌疑をかけたんだから、罪はふたりとも同一だ。つまりそうなるんだよ!(まあ、そんなに顔をしかめるのをよしたまえ? え、なんだってきみは、そんなに笑うんだね?)『後悔しなかった!』って? そりゃそうだろう。たとえしたいと思っても、おそらく後悔することができなかったろう。なぜって、きみはおまけにぼくを好いていないんだものね。それに、あれがぼくを愛して、きみを愛してないという考えを棄てないかぎり、たとえぼくが天使のごとく無垢な身であったにしろ、きみはぼくがいやでたまらないだろう。つまりは嫉妬なんだよ。しかし、ぼくはついこの週になって、こんなことを考えついたから、きみに話してみよう。ねえ、パルフェン、あれはいまきみをだれよりも、いちばん余計に愛しているのかもしれないよ。で、愛すれば愛するだけ、いっそう、きみを苦しめるんだ。あれはそんなことをきみにいいやしないから、それを洞察しなくちゃいけない。なんのために、とどのつまりはきみと結婚するのかってことは、やがてあれがきみ自身にいうだろう。ある種の女はこんなふうに愛されるのを好くもので、あれはまさにそうした性格たんだよ! またきみの性格ときみの愛は、かならずあれを勁かさずにはおかない! きみは知らないかもしれんが、女ってものは惨忍な行為と冷笑で男を苦しめて、それですこしも良心の呵責を受けずにいられるんだよ。そのわけは、いつも男を見ながら心の中で、『今こそわたしは、この人を死ぬほど苦しめているけれど、そのかわりあとで愛を