『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP385-432

もって取り返しをつけるからいい』とこう考えるからだよ……」
 ラゴージンは聞き終わって、高らかに笑った。
「おい、どうだね、公爵、おめえも自分でなにかの拍子に、そんな女の手に落ちたことがないかい? おれはおめえのことでちょっと聞きこんだことがあるんだが、ほんとうだろうかな?」
「何を、何をきみは聞いたんだい?」公爵はぴくりとして、なみなみならぬ狼狽のさまを示しながら立ちどまった。
 ラゴージンはなおも笑いつづけた。彼はいくぶんの好奇心と満足を覚えたらしく、公爵の言葉を聞き終わった。公爵の喜ばしげな熱中した様子は、いたく彼を驚かしたが、また同時に元気をつけたのである。
「そうさ、聞いたところじゃねえ、今こそおめえの様子で、そのうわさがほんとうだってことがわかったよ」と彼はいい足した。「なあ、おめえが今のようにしゃべったことがこれまであるかい? あんな話はどうもおめえのいいそうなこってねえよ。しかし、おめえについて、ああしたうわさを聞かなかったら、こんなとこへやって来やしないさ。しかも、公園へ真夜中によ」
「ぼくはきみのいうことがちっともわからないよ、パルフェン」
「あいつがずっと以前におめえのことを話して聞かせたっけが、さっきおめえが楽隊を聞きながら、あの娘とすわってるところを見て、自分にもそれがよくわかったよ。あいつがおれに誓っていうんだ、――きのうもきょうも誓っていったよ、――公爵は、アグラーヤに猫っ子のようにほれこんでるとよ。だがな、公爵、それはおれにとっちゃ同じことさ。おれの知ったこっちゃねえ。よしんばおめえがあいつに飽きがきたからって、あいつはおめえに飽きがこねえんだからなあ。おめえも知ってるだろうが、あいつはどうしてもおめえをあの娘といっしょにしたいって、誓いまで立てたぜ、へへ!いいぐさがいいや、『それでなけりや、わたしはおまえさんといっしょにならない。あの人たちが教会へ行くと溥、わたしたちも教会へ行きましょう』だとさ。いったいこりゃなんのこったい? わけがわからない、今まで一度だってわかったことがねえ。首ったけおめえにほれてるのかしらん……もしほれるなら、なんだっておめえをほかの女といっしょにしたがるんだろう?『わたしは公爵の仕合わせなところを見たい』なんていうのを見りゃ、やっぱりほれてるんだよ」
「ぼくはこれまできみに口でもいえば、手紙にも書いたじゃないか、あれは……正気じゃないって」
 ラゴージンの言葉を、悩ましげな表情で聞き終わったとき、公爵はこういった。
「どうだかなあ! それはもしかしたら、おめえの考え違いかもしれないぜ!………もっとも、あいつはおれが楽隊からつれて帰ると、すぐいきなり結婚の日取りを自分で決めたよ。三週間たったら(もしかしたらそれよりも早く)、きっと婚礼しようというんだ。じっさいそういって誓いを立てたんだよ。胸から聖像をはずして接吻したんだからな。つまり、こういうわけだから、このことはおめえの了見ひとつできまるんだぜ。へへ!」
「それはみなうわごとだ! きみがぼくのことでいったよな、そんなことがけっしてあろう道理がない! あすぼくはきみのとこへ行って……」
「どうしてあいつが気ちがいなんだ?」ラゴージンはさえぎった。「なぜあいつはほかの人から見ると正気なのに、ただ おめえにばかり気ちがいに見えるんだい? どうしてあいつはあそこへ手紙を出してるんだろう? それに、もし気ちが いなら、あそこの人たちも、手紙の文面で気がつきそうなもんじゃねえか」
「手紙ってなんだね?」と公爵はびっくりしてきいた。
「あすこへ出してる手紙さ。あの娘によ。そして、あの娘が読んでるんだ。それとも知らないのか? ふん、それじゃ今に知れるよ。あの娘が見せてくれるから」
「そんなことほんとうになるものか!」公爵は叫んだ。
「おーい、おい! ほんとうに公爵、おめえはこの道にかけちや、まだまだ苦労が足りないぜ、ほんのひと足ふみこんだだけだよ。もうすこしたってみな、今に自分で警祭屋になって、女の一挙一動みんな探り出してしまうようになるよ。もしただ……」
「もうよしたまえ、パルフェン、そんなこともう二度といっちゃいけない!」と公爵は叫んだ。「ねえ、パルフェン、ぼくはいまきみの来るちょっと前に、ここをぶらぶらしていたが、急に大声で笑い出した。なにがおかしかったのか、ぼくもわからない。しかし、そのきっかけとなったのは、あすがわざとのようにちょうどぼくの誕生日に当たる、とこう思いついたからさ。が、もうかれこれ十二時だろう。いっしょに行こう。行って、その日を迎えよう! ぼくんとこに酒があるから、酒でも飲んで、そして、いま自分でも何を望んでるかわからないものを、ぼくのために望んでくれたまえ。ぜひきみから望んでもらいたいのだから。ぼくもきみのために十分な幸福を望むよ。だけど、十字架をもどしてくれなんていうのじゃないよ! またきみだってその翌日、ぼくに十字架を送り返しはしなかったじゃないか! 今もきみの胸にかかってるんじゃないか? かかってるだろう?」「かかってる」とラゴージンは答えた。「じゃ、出かけよう。ぼく、きみがいなくちゃ、新しい生活を迎える気になれない。まったくぼくの新しい生活がはじまったんだからね? きみ知ってるかい、パルフェン、ぼくの新しい生活がきょうはじまったんだよ?」「今こそおれの目にも見える。おれにもわかる。たしかにはじまったんだ。あいつ[#「あいつ」に傍点]にそう知らしてやろうよ。おめえはまったく夢中だぜ、公爵!」

      4

 ラゴージンとつれだって、自分の別荘に近寄ったとき、あかあかと燈火の輝く露台に多くの人々が集まって、がやがやと騒いでいるのを見て、公爵はひとかたならず驚いた。愉快げな一座は大声に話したり、笑ったりしている。どなるような声を立てて口論しているものさえあるらしい。ひと目見ただけで楽しいまどいのはじまっていることが察しられた。じっさい、彼が露台へあがって見ると、一同のものは酒を、しかもシャンパンを飲んでいるのであった。そして、多くの人人がもうかなり上機嫌になっているところを見ると、酒宴はだいぶまえからはじまったらしい。客はみんな公爵になじみのある人たちばかりだったが、だれも呼ばないのに。まるで招きに応じて来たかのように、一同うちそろって一時に集まったのは、いかにも奇妙だった。誕生日のことは彼自身も、ついさきほど偶然おもい出したばかりである。
「してみると、だれかにシャンパンを抜くっていったんだな。それであいつらすぐにかけつけたものと見える」と公爵のあとから露台に昇りながら、ラゴージンはつぶやいた。「おらあこのへんの呼吸をちゃんと心得てらあ。あいつらときたら、ちょっと口笛を鳴らしせえすりゃあ……」と彼はほとんど憎々しげにつけ加えた。もちろん、ついこのあいだまでの自分の生活を思い出したのである。
 一同は叫喚と祝辞をもって公爵を迎え、そのまわりをとり囲んだ。あるものはおそろしく騒々しかったが、またあるものはずっとおとなしかった。が、みんな誕生日のことを聞いて、急いで祝詞を述べるために、ひとりひとり自分の順番を待っていた。中にも二、三の人の同席は。公爵の好奇心を引いた。たとえば、ブルドーフスキイなどが、それである。が、なにより不審に思ったのは、この一座の中に思いがけなく、エヴゲーニイのまじっていることである。公爵は自分の目を信じられないような気がし、彼の姿を見たとき、ほとんど仰天せんばかりであった。
 その間に、真っ赤な顔をしたレーベジェフは、感きわまったような風つきをして、報告のため走り寄った。彼はもうだいぶいい機嫌[#「いい機嫌」に傍点]になっている。その饒舌からわかったことだが、一同はまったく自然な具合で、偶然に集まったのである。まず第一番にイッポリートが日暮れ前に到着して、非常に気分がいいからというので、露台で公爵を待つことにし、長いすに身を休めていた。つづいてレーベジェフが家族の者、すなわちイヴォルギン将軍と娘たちをつれておりて来た。ブルドーフスキイはイッポリートを送りがてら、いっしょについて来たのである。ガーニャとプチーツィンは、たぶんついさきほど通りすがりに寄ったものだろう(ふたりの来訪は、ちょうど停車場の椿事と同時刻であった)。それからケルレルが来て、公爵の誕生日のことを報告し、シャンパンを要求した。エヴゲーニイはかっきり三十分前にやって来た。シャンパンを抜いて祝賀会を開こうと極力主張したのは、コーリャであった。レーベジェフはおっと合点で、酒を出したのである。「けれど、自分のです。自分のです!」と彼はまわらぬ舌でいった。「お誕生日を祝うために自腹を切ったのです。それにまだご馳走が出ますよ、前菜《ザクースカ》があります。それは娘が世話を焼いてくれるはずです。しかし、公爵、まあいまどんな問題を論じていたとお思いなされます? そら、お覚えですか、ハムレットの『永らえるか永らえぬか?』と申すやつを?現代的の問題です、現代的の! 疑問を提出したり答えたり……チェレンチエフ氏(イッポリート)が音頭取りで……どうしても寢ようといわれません! ところで、シャンパンのほうはたったひと口、ひと口のまれたきりですから、からだにゃさわりませんよ……さ、公爵、こっちへ寄って、解決をつけてくださりませ! 皆あなたをお待ちしておりました、あなたのりっぱなお知恵を待っておりました……」
 公爵は、同じく群集を押し分けて、彼のほうへ近寄ろうと急いでいるレーベジェフの娘ヴェーラの、可憐な優しい視線に気づいた。彼はだれよりもまっさきに、彼女のほうへ手をさし伸べた。ヴェーラは嬉しさのあまりぽっと赤くなって、「この日から[#「この日から」に傍点]あなたに幸福な生活がはじまりますように」と挨拶した。それから大急ぎで台所へかけ去った。彼女はそこで前菜《ザクースカ》の支度をしていたのであるが、公爵の帰って来る前に、ちょっと仕事の暇さえあれば、この露台へ出て来た。そして、ほろ酔い機嫌の客人たちの間に絶えまなく交換されるヴェーラにとっては奇態な抽象的な問題に関する熱した議論を、いっしょうけんめいに聞いていたのである。妹娘のほうは次の部屋の箱の上で、口をあけたまま寝入っている。が、レーベジェフの息子の少年は、コーリャとイッポリートのそばに立っていた。そのいきいきした顔の表情を見ただけでも、まだぶつ通し十時間ぐらいは人々の議論を聞きながら、喜んで一つところに立ち通すつもりでいることが察しられた。
「ぼくは特にあなたを待っていたのです。そして、あなたがいかにも仕合わせらしい様子でお帰りになったのを、非常に愉快に思います」公爵がヴェーラのすぐあとで、イッポリートのほうへ握手に進んだとき、彼はこういった。
「なぜぼくが『いかにも仕合わせらしい』ってことがわかりました?」
「顔つきでわかりますよ。さあ、皆さんに挨拶をすまして、早くぼくのそばへすわってください。ぼくは特にあなたを待っていましたよ」と彼は「待っていました」にかくべつ力を入れながら、いい足した。「こんなに遅くまで起きていてさわらないでしょうか?」という公爵の注意に対して、彼は三日前になぜああ死にたくなったのか不思議なくらいだ、そして今夜ほど気分のいいことは今までになかったと、答えた。
 ブルドーフスキイも座を飛びあがって、どもりながらきれぎれに、「ぼくはその……ぼくはイッポリートをつれていっしょに来ました。同様にとても嬉しいです。あの手紙にはつまらんことを書いちまいました。今はただもう嬉しいです……」としまいまで言い終わらぬうちに、かたく公爵の手を握って、いすに腰をかけた。
 最後に、公爵はエヴゲーニイのほうへも進んで行った。こちらはすぐに彼の手を取って、
「ちょっとひとこと、あなたにお話ししたいことがあるんです」彼は小さな声でささやいた。「そして、たいへん重要な事件に関するお話なんです。ちょっとあちらへまいりましょう」
「ちょっとひとこと」とまた別な声が公爵のまた一方の耳に
ささやいた。そして、別な手が別のほうから彼の手を取った。
 公爵は驚いてそのほうを見ると、おそろしく頭のぼうぼうした男が赤い顔をして、目をぱちぱちさせながら笑っている。それがフェルディシチェンコだとはすぐにわかった。いったいどこから出て来たものやら。
「フェルディシチェンコを覚えてますか?」と彼はきいた。
「きみはどこから来たんです?」と公爵は叫んだ。
「この男は後悔しているんです」とケルレルがかけよってわめいた。「この男は隠れてたんです。われわれのところへ出るのが恥ずかしいといって、隅っこへ隠れてたんです。公爵、この男は後悔しています。自分が惡かったと感じています」
「いったいなにが悪かったんです、なんですか?」
「じつはわが輩がついさっき会って、ここへひっぱって来たんです。まったく後悔してるんです」
「たいへん嬉しいです。皆さん、さあ、あっちへ行って、ほかの人たちといっしょにすわってください、ぼくは今すぐまいります」やっといい加減にあしらって、公爵はエヴゲーニイのほうへ急いだ。
「あなたのところはたいへんおもしろいですね」とエヴゲーニイが口を切った。「ぼくは三十分ばかりあなたをお待ちしていたあいだ、大いに愉快でした。ところでねえ、公爵、ぼくクルムイシェフのほうはうまく納めてしまいました。それで、あなたをご安心させるために、寄ってみたのです。あなたすこしもご心配はいりませんよ。あの男はたいへん、たいへん冷静に事件を判断してくれました。それに、ぼくなどにいわせれば、むしろあの男のほうが悪いんですからね」
「クルムイシェフつてだれですか?」
「ほら、あのさっきあなたが、手をおつかまえなすった……じつはたいへん腹を立てて、あすはあなたのところへ人をよこして、談判するつもりでいたんですがね」
「もうたくさんです、なんてばかばかしい!」
「もちろん、ばかばかしいこってす。しかし、かならずそのばかばかしい結果を見るはずだったんですが、こういうふうの人たちは……」
「ですが、あなたはたぶんまだなにかほかの用事でおいでになったのでしょう、エヴゲーニイ・パーヴルイチ?」
「おお、むろん、まだなにか用事があるんです」と、こちらはからからと笑った。「ぼくはねえ、公爵、あす引明け早々、あのとんでもない事件(それ、あの伯父のこと)でペテルブルグへ出かけます。まあ、どうでしょう。あれはすっかりほんとうで、ぼくひとりをどけたほか、みんなもう知ってるじゃありませんか。ぼくはじつにもう仰天してしまって、あそこ[#「あそこ」に傍点]へ、――エパンチン家へも行くすきがなかったくらいです。あすもやはり行きません、あすは向こうで滞在しますからね、そうでしょう? たぶん三日ばかり帰れないでしょう。てっとり早くいえば、ぼくの仕事に一頓挫きたしたんです。今度の事件はまったく重大なできごとではありますが、ぼくはある事柄についてきわめて露骨に、あなたとご相談しなければならん、しかも時を移さず、つまり、出発前に、――とこう考えたのです。もしご承知なら、ぼくはこの一座の散じるまで、じっとすわって待っています。それに、ぼくは今どこへも行くところがありません。すっかり気分がむしゃくしゃしちゃって、寝ることもできないのです。こんなに人を追いまわすのは失礼で済まないわけですが、遠慮なくうち明けて申しますとね、公爵、ぼくはあなたの友誼を求めに来たのです。あなたはじつに比類を絶したかたです。つまり、何をするにもまた、おそらくはぜんぜんうそをつかない人です。ところで、ぼくはある一つの事について、親友ともなり、忠告者ともなる人が必要なのです。なぜって、ぼくはまったく不幸な人間の仲間へ入ってしまいました……」
 彼はふたたび笑いだした。
「しかし、困ったことには」公爵はちょっと考えこんだ。「あなたはあの人たちが帰るまで待つとおっしゃるけれど、それはいつのことだがわかりませんよ。いっそふたりで公園のほうへおりて行きませんか。あの人たちは待ってくれますよ。ぼくはあやまって来ますから」
「そりゃいけません、ぼくはふたりが特別の目的をもって、なにかたいへんな話をしているように、あの人たちから思われたくないわけがあるんです。あすこには、われわれふたりの関係におそろしく興味を持ってる人がいるんですからね。あなた、それがおわかりになりませんか、公爵? ですから、たいへんな話どころではなく、まったくの親友らしい関係にすぎないことを、あの人たちから見てもらったほうが、非常に好都合です――ね? あの人たちは二時間もたったら別れて行きますから、そのときぼくは二十分ばかり、でなく
ば三十分ばかりおじゃまさしていただきましょう」
「どうとも、ご都合のよろしいように。そんなお話はなくとも、ぼくはしごく満足です。また友達づきあいというあなたのお言葉にたいして、心からお礼を申しあげます。きょうぼくがこんなにそわそわしているのをゆるしてください。じつは、ぼくどうしても注意を集中することができないんです」
「わかっています、わかっています」とエヴゲーニイは軽い嘲笑を浮かべてつぶやいた。
 彼は今晩なんでも無性におかしがった。
「何がおわかりなんですか?」と公爵はぴくりとした。
「ねえ、公爵、あなたはお気がつきませんか」と直接質問には答えず、エヴゲーニイは薄笑いをつづけた。「ぼくがここへ来たのは、あなたをだまして、そ知らぬ顔でなにか探り出そうと思ったからですよ、お気がつきませんか、え?」
「あなたがなにか探りだしにいらしったのは、そりゃ疑いもない事実です」とついに公爵も笑いだした。「それはまた少々ぼくをだましてやろうくらい、ご決心なすったかもしれません。しかし、そんなことはなんでもありません、ぼくはあなたを恐れないです、だいいち、ぼくはいまいっさいどうだってかまわないような気がするんです。まったくですよ。それに……それに、ぼくはまずなによりさきに、あなたがなんといってもりっぱな人だと信じてますから、そのうちにわれわれはほんとうに親友として、おつきあいねがうようなことになるかもしれません。エヴゲーニイ・パーヴルイチ、ぼくはあなたが気に入ったのです。あなたはたいへん、たいへん、しっかりしたかただと思います」
「いや、どんなときでも、またどんなことがらでも、あなたとお話しするのはじつに愉快ですよ」とエヴゲーニイは話を結んだ。「さ、まいりましょう。ぼくはあなたの健康のために一杯ほしますから。ですが、ぼくはわざわざあなたのところへお寄りしたのを、非常に満足に思います。あ!」と彼はにわかに足をとめて、「あのイッポリート君は、あなたのところへ逗留に来られたんですか?」
「そうです」
「あの人はまだきょうあすには死にませんね、ぼくはそう思いますよ」
「それがどうしたんですか」
「いや、その、なんでもありません。ぼくはさっき三十分ほど、あの人といっしょにすわっていたんですがね……」
 イッポリートはその間じっと公爵を待ちかねていた。そして、公爵とエヴゲーニイが脇のほうで話しているとき、絶えまなくそのふたりのほうを見やっていた。ふたりがテーブルに近寄ったとき、彼は熱病に浮かされたように活気づいてきた。しかし、なんとなく不安げで、わくわくしている。汗が額ににじみ出て、ぎらぎら光る目の中には、絶えまなく動揺しているような不安のほか、なにかはっきりしない焦躁が現われていた。その視線はあてもなく物から物、顔から顔へ移っていた。彼はいままで一座の騒々しい会話にまじって、おそろしく力を入れていたが、しかしその活気は単に熱病やみのようなものだった。それに、会話そのものにはなんの注意も払っていなかった。彼の論争はおそろしくつじつまが合わず、嘲笑的で、無考えな逆説にみちていた。たった一分前に、非常な熱をもって自分から論じはじめた問題さえ、彼は中途でほうり出してしまった。人々は、なみなみとシャンパンをついだ杯を二つまで飲みほすことを、いささかの反対もなく彼に許したのみならず、もうすこし口をつけた三つ目の杯が、彼の前に置いてあった。公爵はこれを聞いて驚きもし、悲しみもしたが、これを知ったのはずっとあとのことであった。彼は今のどころあまりものごとに気のつくほうでなかった。
「ねえ、公爵、ぼくはきょうという日があなたの誕生日に当たるのが、嬉しくてたまらないんですよ!」とイッポリートは叫んだ。
「なぜ?」
「今にわかりますよ。まあ、早くおかけなさい。第一の理由は、このとおりあなたの……お仲間が集まったからです。じつはぼくも大勢人が来るだろうと、内々あてにしてたんです。ぼく、生まれてはじめて目算が当たりましたよ! ただ残念なのは、誕生日ということを知らなかった一事です。そうと知ったら、お祝い物を持って来るんでしたのに……はは! いや、しかしぼくだってお祝いを持って来たかもしれませんよ! 夜明けまで間がありますか?」
「夜明けまで二時間もありませんよ」とプチーツィンは時計を見ながら言った。
「だが、今だって庭なら書物が読めるんですもの、夜明けもなにも要《あ》ったもんじゃありません」とだれやらこう注意した。
「しかし、ぼくはちょっと端っこだけでも太陽が見たいんですよ。太陽の健康を祝して飲んでもいいですか。公爵、いかがでしょう?」
 イッポリートはまるで号令でもくだすように、無遠慮に一同に向かって、言葉鋭くたずねるのであった。しかし、自分ではそんなことに気もつかないらしかった。
「飲みましょうかね。だけどきみ、もすこし落ちついたほうがいいでしょう、イッポリート君、ね?」
「あなたがたはのべつ、『寝ろ、寝ろ』ばかりいうんですね。公爵、あなたはぼくの乳母《ばあや》さんですか! 太陽が出て『空に響きそめ』たら、そのときすぐに寝るとしましょう――だれかの詩の中に『大空に太陽は響きそめたり』ってのがありました。無意味だが、いいですね! レーベジェフさん! 太陽はじっさい、生命の根源ですね? 黙示録の中では、『生命の根源』のことをなんといってあります? 公爵、あなたは『茵?の星』の話をお聞きになりましたか?」
「聞きましたよ、レーベジェフさんはこの『茵?の星』を、現今ヨーロッパにひろがっている鉄道の網のように解釈しているそうです」
「いいえ、失礼ですが、そんなふうにとってもらっちゃ困ります」とレーベジェフは、一座におこった笑い声を制しようとするかのごとく、飛びあがって両手を振りながら叫んだ。「失礼ですが、この人たちのように……この人たちは……」
と叫んだが、急に公爵のほうへ振りむいて、「ですが、それは、ある要点においては、その……」
 彼は無遠慮に二度までテーブルをとんとんたたいたが、そのため笑い声がますます高くなった。
 レーベジェフはごく普通ないつもの『晩酌的』機嫌でいるにすぎなかったが、今はさきほどの長い『学術的』論争のために、少々度をすごして興奮し、いらいらしていた。こういう場合、彼は非常な軽蔑を露骨にあらわして、論敵に向かうのであった。
「それはまったく思い違いです。公爵さま、わたしどもは三十分ばかり前に、こういうとりきめをしたのです。すなわち、だれかひとりものをいっているあいだは、けっして、横槍を入れない、大声で笑わない、というのは、その人に所信をことごとく自由に吐露させるためです。それがすんだあとなら、無神論者でもだれでも、思う存分弁駁するがいい、とこういうことにして、将軍を議長に選んだわけです。ところが、まあ、どうでしょう? これじゃどんなに高邁な思想、深遠な思想をいだいてる人でも、まごつかざるを得んじゃありませんか……」
「さあ、話したまえ、話したまえ、だれも横槍を入れてやしないから?」という人々の声が響いた。
「話したまえ、ただし、しどろもどろにならないように」
「いったい『茵?《いんちん》の星』ってなんですか?」とだれかがきいた。「なんのこったかちょっともわからん」いかにももったいぶ
つた様子で、さきほどまでしめていた議長の席に着きながら、イヴォルギン将軍が答えた。
「わが輩はこういう討論や興奮が大好きなんですよ、公爵。もっとも、学術的なのに限りますがね」とケルレルはたまらない嬉しさともどかしさに、いすの上で尻をもぞもぞさせながらつぶやいた。
「学術的かつ政治的なものに限るです」彼はふいに思いがけなく、自分のすぐ隣にすわっているエヴゲーニイのほうへねじ向いた。
「わが輩は新聞でイギリスの議会の記事を読むのが、たまらなく好きですよ。といっても、わが輩は政治家でないから、そこで何を論じているかということよりも、彼らが政治家としていかにふるまい、いかに議論しているかに興味があるんですよ。『反対窩に坐したる高潔なる子爵』とか、『余と意見をともにせる高潔なる伯爵』とか、『その提議をもってヨーロッパを驚かしたる高潔なる余の論敵』とか、つまりそういう表白法や、そういう自由なる国民の議員気質が、われわれにとってうらやましいです。公爵、わが輩はほとんど魅惑されるです。じつのところを申しますと、わが輩は内心の奥底において、つねに芸術的なところがありましてね、エヴゲーニイ・パーヴルイチ」
「で、それがいったいどうなんですか」とまた一方では、ガーニャが熱くなって叫んでいる。「つまり、きみの意見によると、鉄道はのろうべきものである、それは人類を滅ぼす、それは『生命の根源』を濁すために、地に堕ちた毒だというんですか?」
 ガーニヤは今夜ことに興奮して、公爵から見ると、ほとんど勝ちほこったような愉快な気分になっていた。彼はむろんレーベジェフをたきつけて、からかってみるつもりではじめたのだが、すぐに自分から熱してしまった。
「いや、鉄道じゃありません、違います!」とレーベジェフも同時に、夢中になって言葉を返した。彼はこのときなんともいえない快感を覚えたのである。「つまり、ただ鉄道のみが生命の根源を濁すのじゃありません、そういうふうのもの全体がのろうべきものです。最近、数世紀問の風潮全体、つまり科学や実際的方面の風潮が、あるいは……いや、じっさいのろうべきなのです」
「たしかにそれはのろうべきですか、それとも『あるいは』ですか。これは重大なる問題ですからね」とエヴゲーニイが聞きただした。
「のろうべきです、のろうべきです、たしかにのろうべきです!」とレーベジェフは熱くなってくりかえした。
「そんなにせきこむことはありませんよ、レーベジェフ君、きみはいつも朝のうちのほうが善良ですね」プチーツインがほほえみながら注意した。
「しかし、晩になると、そのかわり露骨です! 晩になると、真実で露骨です!」と夢中になってレーベジェフはそのほうへ振りむいた。「率直で正確で、潔白で立派です。これはつまり、自分の弱点をさらすことになるんですが、そんなことは平気です。わたしは今夜あなたがたをみんな、――無神論の人をみんな呼び出して、対決しましょう。さあ。皆さん、あなたがたはいったい何をもって世界を救おうとなさるんです、何において世界の歩むべき正当の路をさがし出しました?――あなたがたは、科学、工芸、協会、賃銀などの人ですが、何をもってこの問題を解決します? 信用ですか?そもそも信用とはなんです? 信用がわれわれに何を与えてくれますか?」
「いや、あなたはなかなか好奇心のさかんな人ですね!」とエヴゲーニイがいった。
「こういう問題に好奇心をいだかない人は、つまり、社交界のごろつき連中ぐらいなものです、わたしの意見はこうですね!」
「信用は一般人心の大同団結とか、利益の平均とかいう結果を与えてくれますよ」とプチーツィンが注意した。
「ただただそれだけです! なんらの精神的根拠も持たないで、ただ個人の利己心と物質的必要ばかり満足させようとするんですね? 一般の平和、一般の幸福は、ただ必要ということから割り出されるんですね? 失礼ですが、わたしの解釈は間違っておりませんでしょう、あなた?」
「そうです、じっさい生き、飲み、たべるという共通の要求と、それから万人の協力、お眞び利益の一致なしには、これらの必要を満足させることができないという、確固たる科学的信念、これなどは将来人類の依拠すべき見解となり『生命の源泉』となりうるに十分強固な思想だと思われますね」と熱中したガーニャはむきになって弁じた。
「飲んだり食ったりする必要は、単に自己保存の感情です……」
「しかし、いったい自己保存の感情は、そんなに小さなものでしょうか? 自己保存の感情は、人類のノーマルな原川ですよ……」
「あなたはだれからそんなことを聞きました?」ととつぜんエヴゲーニイが叫んだ。「原則ということは、そりゃほんとうです。しかし、ノーマルかもしれませんが、破滅の法則がノーマルなのと同程度です。あるいは自己破滅の法則かもしれません。ぜんたい、自己保存にばかり人類のノーマルな原則があるものでしょうか?」
「へえ!」す早くエヴゲーニイのほうへ振りむきながら、イッポリートはこう叫んで、無作法な好奇心をもって相手をながめた。しかし、エヴゲーニイの笑ってるのを見て、自分で もまた笑いだした。彼はそばに立っているガーニヤを突っついて、またしても何時かときいた。そして、コーリャの銀時計をわざわざ自分のほうへ引き寄せ、むさぼるように針を見 つめていた。やがてなにもかもみな忘れてしまったように、ぐったりと長いすに身を伸ばし、両手をうしろ頭にでいながら、天井をながめだした。三十秒ばかりたつと、彼はまた真っすぐに起き直って、テーブルに対坐し、極端に熱中したレーベジェフの饒舌に聞き入るのであった。
「人をばかにした狡猾な思想ですね。ぴりっとくる思想ですね!」レーベジェフは夢中になって、エヴゲーニイの逆説を追究した。「相手に喧嘩をしかけるつもりでいい出した思想です、―しかしほんとうのところをいってますよ! なぜって、あなたは交際じょうずな皮肉屋で、色事師ですから(といっても、まんざら才のないおかたでもありませんがね!)あなたがどれくらい深遠で正確な思想を吐露しなすったか、ご自分でもおわかりなさらんのです! さよう、自己保存の原則と自己破滅の原則は、人類に在って同じように強い力を持っております! 悪魔が神と同様な力で人類を支配しております、しかも、それがいつまでつづくか、われわれには際限が知れぬくらいです。あなたお笑いになりますか?あなた悪魔をお信じなさいませんか? 悪魔を信じないのはフランス思想で、軽薄な思想です。あなたは悪魔が何ものかごぞんじですかね? 悪魔の名前はなんというか、ごぞんじですかね? あなたがたは名前も知らないくせに、ヴォルテールのひそみにならって、ただ形式、-蹄だとか、尻尾だとか、角だとかいうものを冷笑しなさる。しかもそれは、みんなあなた自身で作り出したものじゃありませんか。悪魔は偉大な恐ろしい霊魂で、あなたがたの作り出した啼や、角などを持ってやしませんよ。しかし、いま論ずべき問題はこんなことじゃありません」
「どうしてそれがいま論ずべき問題でないってことがわかりました?」とにわかにイッポリートは叫んで、発作でもおこしたように笑いだした。
「なるほど巧妙で、暗示に富んだ質問ですよ!」とレーベジェフはほめそやした。「しかし、やはり問題はそんなことじゃありません。今のわれわれの問題は、はたして『生命の根源』は衰微しなかったか、というこってす、――その、なんの発達の影響を受けて……」
「鉄道の発達ですか?」とコーリャはどなった。
「鉄路交通発達のためじゃありません。怒りっぼいお若い衆。そうじゃない。全体の傾向をいうのです。鉄道などはただそれの縮図、もしくは芸術的表現の役目を勤めるだけです。人類の幸福のためとかいって、がやがや騒いだり、たたいたり、あわてたり、急いだりしているのです。そこでひとりの憂き世を捨てた思想家が、『人間社会がばかに騒々しく実利的になって、精神の平穏というものが少なくなってしまった』と訴えると、『そうかもしれん、しかし飢えた人類にパンを運ぶ荷車の響きは、精神的平穏よりいいかもしれない』と、いまひとりのどこへでもほうぼうへでかける思想家が、得意然として答え、虚栄満々たる顔つきをしながらそこを去ってしまう、という具合です。しかし、わたしは、――このいとうべき卑劣漢たるレーベジェフでさえ、この人類ヘパンを運ぶ荷車を信じません! なぜというに、精神的基礎なくして人類にパンを運ぶ荷車は、そのパンを運んでもらう一部の人々の快楽のために、人類の大部分をそっちのけにして、平然としているからです。それはもう前例もあることです……」
「それは、荷車が平然としてそっちのけにするんですか?」とだれかが揚げ足を取った。 「もう前例もあったことです」とそんな質問には注意も向けず、レーベジェフはくりかえした。「人類の友とかいうマルサスの例もあります。しかし、精神的基礎のぐらついた人類
の友は、人類を滅ぼす食人種です。そうした連中の虚栄心の強いことなぞは、いわずもがなです。今まで人類の友という連中は、数限りなくあったけれど、かりにだれかそのひとりの自尊心を傷つけてごらんなさい、その男はすぐ浅薄な復讐心のために、平気で四方からこの世界に火をつけますから、――もっとも、それはだれしも同じことで、われわれだってひとりひとりみなそうなんです。そして、ほんとうのところ、わたしもそうです。だれよりも卑怯なこのレーベジェフは、たぶん第一番に、薪を運んで来て、自分は遠いところへ逃げてしまいますよ。しかし、これもやはり当面の問題じゃありゃせん!」
「いったいまあ何が問題なんです?」
「あきあきしちゃった!」
「問題は何百年か前のある事件にあるのです。わたしはどうあっても、何百年か前の事件をお話しせにゃなりませんので。現今わが祖国において……皆さんはわたしと同様に、わが祖国を愛していらっしゃることと信じます。なぜと申しますと、わたしは祖国のためには、からだじゅうにありったけの血を流してしまおう、とさえ考えて……」
「それから? 早く!」
「いまできうるかぎりの統計と、記憶を基として考えてみますに、わが祖国においては西ヨーロッパにおけるごとく、全国一般にわたる恐るべき飢饉は、現今一世紀に四度、換言すれば、二十五年ごとに一度ぐらいしか見舞いません。この数字が正確かどうかは請け合いかねますが、しかし比較的きわめてまれであります」
「なんと比較して?」
「十二世紀およびその前後と比較して。なぜと申しますと、文学者たちの書いたものによると、全国にわたる大飢饉は二年に一度、すくなくも三年に一度は、わが国を見舞ったものです。かような次第で、人々は人間の肉を食うという、非常手段にさえ走りました。もっとも、それはかたく秘密を守っていたのです。こんな横着者のひとりが老年になってから、べつに大から責められたわけでもないのに、自分から進んで白状したんです。なんでも、長く貧しい生涯の中に、六十人の坊主と、普通の民家の赤ん坊を何人か、六人ほどで、それ以上ってことはない、これは非常に少ない、つまり坊さまの数に比べてですよ、ごくごく内証で手にかけて、ひとりで食っちまったそうですよ。世間普通の大人に対しては、そんな恐ろしいもくろみを実行したことがなかったそうです」
「そんなことがあってたまるもんか!」と議長自身、つまり将軍は、ほとんど憤慨にたえないような声でどなった。「みなさん、わたしはしょっちゅうこの男と議論したり、喧嘩したりします、いつもたいていおきまりの問題ばかりですがな。ところが、この男はときどき耳の痛くなるような、ほんとうらしいところのちっともない、あんなばか話を持ち出すのが、なによりも奸きなんですじゃ」
「将軍! ご自身のカルス包囲の話はどうなすったんですな。皆さん、わたしのいま申した話は赤裸々の真実です。さようご承知ください。わたし一個としても注意いたしておきますが、ほとんどすべての真実は、つねに不変の法則を持っているものの、ほとんどつねにほんとうらしくない、信じることのできないようなものです。どうかすると、現実的であればあるだけ、いよいよほんとうらしくなくなるものでしてな」
「だけど、いったい六十人の坊さんが食べられるもんですかね?」とあたりに笑い声がおこった。
「それは、いっときにいきなり食べてしまったのではありますまい、それは明瞭なことです。たぶん十五年か二十年のあいだにやったものらしいですね。それはわかりきった自然のことです……」
「自然のことですって?」
「自然のこってすよ!」と衒学的な執拗さをもって、レーベジェフはいい張った。「いろんな理由もありますが、だいいち、カトリックの坊さまは生来おせっかいでもの好きですから、森だとかなんだとか、人目の少ないところへおびき出して、まえ申したようなことをするのは、いとやすいこってすからね。しかし、その男にとって食われた人の数が、ほんとうにできないほど非常なものだったということは、どこまでも否認するわけにいきませんよ」
「それはまったくほんとうかもしれませんよ、みなさん」とふいに公爵がこういった。
 このときまで彼は無言に人々の争論を聞いていて、あえて口をいれなかった。ただしょっちゅう皆がどっと笑いくずれるあとについて、真底からおかしそうに笑っていた。見たと
ころ、彼は周囲の陽気で、騒々しいのが、嬉しくてたまらないらしかった。そればかりか、人々がむやみに酒をあおるのさえ、嬉しそうなふうであった。彼は、夜っぴてひとことも口をきかずにすわっているつもりではないかとも思われたが、とつぜんなんと思ったか口をきったのである。しかも、その口のきりかたがおそろしくまじめだったので、一同はにわかに好奇の。心をいだきながら、彼のほうをふりむいた。
「ぼくがいいたいのは、じっさいその時分、大飢饉が多かったということです。このことはぼくも聞いています。もっとも歴史はあまりよく知らないんですけれど。きっとそうだったでしょう。ぼくがスイスの山へ入ったとき、非常に驚いたのは、岩石ががたる山の坂道に建てられた古い騎士時代の城の廃墟でした。その岩は非常にけわしくて、すくなくとも垂直半露里の高さはありました(それは、つまり、小道づたいに昇ると、幾露里かあるのです)。城がどんなものであるかは、わかりきったことです。なんのことはない、石の山です。じつに想像もつかない恐ろしい工事です! そして、これはみんな当時の貧しい人たち、家来どもが建てたんです。そのうえに、こういう人たちはいろんな税を払ったり、坊さんたちを養っていったりしなければならなかったんでしょう。それにまあ、どうして自分の口すぎをして、畑を耕作することができますか! そういう人たちは、そり当時ごく人数が少なかったのですが、それはきっとかつえて死んだからに相違ありません。そして、おそらく文字どおりに、なにも食べるものがなかっただろうと思います。ぼくはこの種の人民がぜんぜん絶滅してしまうとかなんとか、そんな変事がどうしておこらなかったろう、と時おり考えることがありました。じっさいどんなふうに踏ん張って、押しこたえたんでしょうねえ? 人食いもいたでしょう、しかも大勢いたかもしれません。この点、レーベジェフさんのいうことはほんとうに違いありません。ただどういうわけで坊さまを引合いに出したのか、またそれで何をいおうとしたのか、それだけはぼくにはわかりませんが」
「たぶん十二世紀ごろには、坊さんよりほかに食べられるような者がいなかったんでしょう。なぜって、その時分は、坊さんばかり脂ぎってたんでしょうからね」とガーニャがいった。
「いやじつにりっぱな、そして正しいご意見です!」とレーベジェフは叫んだ。「まったくその男は娑婆の人間には、けっして手を出さなかったんですからね。六十人の坊主に対して、一人も娑婆の人がいなかったんですよ。まったくそれは恐ろしい歴史的な、しかも統計的な思想です。こういう事実からして、才能のある人はりっぱな文明史をこしらえあげますよ。なぜと申すに、坊主たちのほうがその当時の人類全体よりか、すくなくとも六十倍しあわせで、自由な暮らしをしていたってことが、数学的に正確になってきますので。そして、たぶん自分以外の人類ぜんたいより、すくなくも六十倍脂ぎっていたのでしょう……」
「こじつけ、こじつけ、レーベジェフさん!」とあたりの人人が声高に笑いだした。
「歴史的の思想だということも賛成ですが、しかしきみは何を結論しようというんですか?」と公爵は真顔に質問をつづけた(彼の話しぶりはおそろしくまじめで、冗談らしいところや、レーベジェフに対するあざけりは、影さえ見えなかった。で、彼の調子はこの一座のあいだにまじって、自然こっけいなものとなった。それがもうすこし激しくなったら、一同はさらにその嘲笑を彼の上に転じたかもしれぬ。けれども、彼はそれに気がつかなかったのである)。
「いったいあなたにはおわかりにならないんですか。この男は気ちがいなんですよ」エヴゲーニイは公爵のほうへかがみこんでささやいた。「ぼくはさっきここで聞きましたが、この男は弁謾士気ちがいで、弁論に夢中なんです。そして、試験を受けるつもりなんですって。見てごらんなさい、今に素敵なもじり弁論が出て来ますから」
「わたしはいま、大事件を論結しようとしてるのです」と、そのあいだにレーベジェフがどなりはじめた。「しかし、まず最初に、罪人の心理的かつ法律的状態を明らかにしましょう。まず吾人の気のつくことは、犯人が、すなわちわたしの被弁護者が、かの奇怪な行動をつづけているあいだに、ほかの食料を発見することのほとんど不可能なるにもかかわらず、この興味深い犯行の最中、いくどか後悔の念を表して、僧族を避けようとした事実があります。それはいろいろな事件に徴しても明らかであります。とにかく、彼は赤ん坊を五人か六人食べたという話です。これは数字から見れば、比較的些細なものでありますが、そのかわり別な観点からすると、重大な意味をもっています。察するところ、恐ろしい良心の呵責に苦しめられて(なぜと申しますに、わたしの被弁護者は宗教心の厚い、良心を有した男ですからね。それはわたしが証明します)、そこで、できるだけ自分の罪障を軽くするために、一種の試験として、坊主の肉に代えるに俗界の肉をもってしました。単に試験としてやってみたということ、これまた疑う余地がありません。美食的《ガストロノミック》な変化を求めたものにしては、六という数字があまりに些細にすぎるのであります。いったいどういうわけで六人にとどまって、三十人でないのでありましょう?(わたしは半数をとったのです、つまり半分半分と見たのですがね)これが単に涜神罪、すなわち教会付属物に対する侮辱の恐怖から生じた自棄的の試みであったとすれば、六という数字はじつによくわかって来るのであります。なぜならば、良心の呵責を満足させるための試みならば、六人という数は十分すぎるのであります。そのわけはこうした試験の成功しようはずがないからであります。わたしの考えまするに、赤ん坊はあまり小さくて、その、つまり大きくないもんですから、一定期間のあいだに必要な赤ん坊の数は、坊主よりも二倍、あるいは三倍になるはずであります。かような次第ですから、罪はよし一方から見て小さくなるとしても、結局、他の一方から見て、大きくなって行きます。すなわち、質でなくして、量ですね。諸君、こう論ずるに当たって、むろんわたしは十二世紀の犯人の心理に潜入しているので、わたし一個人、すなわち十九世紀の人間として見ると、あるいはまた別様な意見があるかもしれません。でありますから、皆さん、なにもわたしにそんな白い歯をお見せになる必要はないのです。将軍、あなたときたら、もうまったく無作法なくらいですよ。第二に、わたし一個人の意見としては、赤ん坊はたいして滋養になりません。そして、あるいはあまり甘ったるすぎて、自然の要求をみたすことができないうえに、あとでただ良心の呵責を残すだけかもしれません。で、今度は結論であります。この結論の中には、当時および現代において、最も大なる問題の解決が含まれているのであります。犯人は最後に坊主たちのところへ出かけて自訴をし、自分を政府《かみ》の手へわたしたのであります。したがって、当時の規定によれば、いかなる苦痛、――いかなる拷問が、――いかなる歯車や水火の責めが彼を待ち設けていたかという疑問がおこります。だれが強いて彼をして自訴するにいたらしめたか? なぜ彼は六十という数字に自分の手をとどめて、死ぬまで秘密を守らなかったか? なぜ彼は教会を棄てて、隠遁者として悔悟の生活を送らなかったか? あるいはまた、なぜ彼自身も僧門に入らなかったか? つまり、ここに謎の偉大なる解明があるのであります! つまり、これにはなにか水火の責めよりも、また二十年来の習慣よりも、もっと強いあるものがあったのです! すなわち、どんな不幸よりも、どんな凶作よりも、どんな拷問よりも、癩病よりもペストよりも、ずっと強い思想があった砂です! もしこの人心を制縛し、匡正し、生命の根源を豊富にするところの思想がなかったら、人類はとうていこれらの不幸災厄を耐えしのぐことができません! 諸君、そんなふうの強い力が、悪行と鉄道の時代たる現代にあったら、ひとつわたしに見せてください……いや、汽船と鉄道の現代といわなくちゃならんようですが、わたしは悪行と鉄道の現代といいます。なぜならわたしは酔っぱらってはおりますが、いうことに間違いはないからです。せめてあの時代の半分でも、全人類を掣肘するような力があれば、ひとつわたしに見せてくださいませんか。この『星』のもと、人間を迷わせるこの鉄道の網のもとにおいても、生命の根源はかれもにごりもしなかった、などと大胆なことをおっしゃるわけにはまいりませんよ! また、皆さんの裕福な暮らしや、財産や、飢饉の少ないことや、交通の完備などをもって、わたしを脅かすわけにもいきませんよ! 財産は多くても力は少ない、人を制縛する思想もない。なにもかもぐたぐたになってしまった、なにもかももろくなってしまったのです。そして、だれも彼ももろくなってしまったのです! われわれは、みんなみんなもろくなってしまいました!………しかし、当面の問題はこれでもありません。問題はこうなんです。公爵さま、皆さんのために用意した前菜《ザクースカ》を、こちらへ運びましてもよろしゅうござりますか?」
 レーベジェフの詭弁に、聞き手の中のある人は、もうむきになって憤慨していたが、思いがけぬ前菜の結論を聞いて、とたんにすっかり機嫌を直した。彼自身もこんな結論を、『巧妙な弁護士的事態転換』と名づけていた。またもや愉快そうな笑い声がおこり、客人たちは元気づいてきた。一同は手足を伸ばして、露台を散歩するためにテーブルを離れた。ただひとりケルレルはレーベジェフの演説に大不平で、ひとかたならぬ興奮の様子であった。
「あの男は文化を攻撃して、十二世紀時代の信心気ちがいを鼓吹してるんです。しかも、なんら無邪気な心持ちなしに詭弁を弄してる。いったいあの男自身は何をしてこの家を手に入れたんだろう? ちょっとうかがいたいもんですよ」と彼はひとりひとりの袖を引きながら声高にいった。
「わたしはほんとうの黙示録の説明家を見ましたよ」とイヴォルギン将軍がまた別なほうで、別な聞き手に向かっていっていたが、そのうちプチーツィンが上衣のボタンをつかまえられて、聴聞の役目を強いられたのである。「それは故人になったグリゴーリイ・セミョーノヴィチーブルミストロフですが、じっさい、もうなんといっていいか、まるで心臓に火をつけられるような気持ちでしたな。だいいち、この人は眼鏡をかけて、時代のついた黒い革表紙の大きな本を繰っとりましたよ。そのうえ白い鬚を生やして、寄付金の礼に贈られたメダルが二つあったのです。その話しぶりが荘重で厳格で、りっぱな将軍たちでもその前に出ると、ひとりでに頭がさがりましたよ、婦人たちとなると、よく気絶する人もあったほどでな。まったく――ところが、この男は前菜で結論をつけとる! じつにお話にならん!」
 将軍の話を聞きながら、プチーツィンは微笑して、帽子に手をかけそうにした。しかし、なにやら心を決しかねているのか、それとも帰ろうと考えたことを忘れたのか、どっちとも見当がつかなかった。ガーニャは人々がテーブルを離れるちょっと前から、杯をわきのほうへ押しのけて、飲みやめてしまった。なんとなく沈んだような影が彼の顔をかすめたのである。一同が席を立ったとき、彼はラゴージンのそばへ近寄り、並んで腰をおろした。その様子から見ると、ふたりは非常に仲のいい友達同士のように思われた。ラゴージンもはじめのうちはやはり何遍も、そっと出て行きたそうにしていたが、これまた出て行こうと思ったのを忘れてしまったように、今は頭を垂れて、身動きもせずにすわっていた。彼は今夜ははじめからしまいまで一滴の酒も飲まないで、おそろしく考えこんでいる。ただときどき目を上げて、一同のものをひとりひとりながめるだけであった。なにか彼は自分にとって非常に大切なことを待ち設けていて、それまではどうしても帰るまいと決心しているようにも、今は想像されるのであった。
 公爵はみんなで二杯か三杯はしたばかりだが、だいぶ愉快そうであった。テーブルから立って、エヴゲーニイと視線を合わしたとき、彼はふたりのあいだに約束された相談を思い出した。そして、愛想よく微笑して見せた。エヴゲーニイはちょっとうなずいたが、ふいにイッポリートをさして、じっとその顔を見守るのであった。イッポリートは長いすの上に横になって、眠っていた。
「ねえ、いったいなんのためにこの小僧っ子は、あなたのところへ入りこんだんです、公爵?」といきなり彼は公爵がびっくりするほど、憤懣と憎悪をあらわに見せながら、こういい出した。「ぼく請け合っていいますが、この小僧なにか悪いことを腹の中で企んでますよ!」
「この人は」と公爵はいった。「きょう非常にあなたの興味をひいてるように、ぼくはお見受けしました。すくなくとも、そう思われましたよ、エヴゲーニイ・パーヴルイチ。そうでしょう?」
「それに、こういい添えてください。ぼくの今の状態として、自分でもいろいろ考えるべきことがあるにもかかわらず、ってね。じっさい、自分でも驚いてるぐらいですよ、今夜ははじめからずっと、このいやな配から、目を放すことができないんですからね!」
「イッポリート君の顔は美しいじゃありませんか……」
「ちょいと、ちょいとごらんなさい!」エヴゲーニイは公爵の手を引きながら、こう叫んだ。「ちょいと!………」
 公爵はまたしてもびっくりして、エヴゲーニイを振りかえった。

       5

 レーベジェフの弁論の終わるころ、ふいに長いすの上で眠りに落ちたイッポリートは、まるでだれかに横腹を突かれたかのように、ひょいと目をさまして、ひとつ身震いをし、起きあがってあたりを見まわすと、真っ青になった。彼はほとんど一種の驚きをもって人々をながめていたが、ようやくいっさいのことを思いおこしたとき、彼の顔にはほとんど恐怖ともいうべきものが現われた。
「どうしたんです、みんな帰るんですか? すんじゃったんですか? 何もかもすんじゃったんですか? 太陽は出ましたか?」と公爵の手をつかまえながら、彼は不安げにたずねた。「なん時です? 後生だから教えてください、一時ですか? ぼく、寝すごしちゃった。ぼく、長いこと寝てましたか?」ほとんどやけ気味の調子で彼はつけ足した。その様子はすくなくとも、彼の運命の浮沈にかかわる大事の時を寢すごしたようであった。
「きみが寝たのは七、八分ぐらいのものですよ」とエヴゲーニイが答えた。
 イッポリートはむさぼるように彼を見つめながら、しばらくなにやら思いめぐらしていた。
「ああ……それだけですか! してみると、ぼくは……」と彼は大変な重荷でもほうり出すように、深い深い息をついた。彼はやっとのことで察しがついた。なにも『すんじまい』はしない、まだ夜は明けない、客人たちがテーブルを立うたのは前菜のご馳走になるためであり、たった今レーベジェフの饒舌が終わったばかりなのだ、とこう考えついて、彼は微笑した。結核性の潮紅が、二つの濃いしみのように双頬に踊りはじめた。
「ああ、あなたはぼくが寝てる間に、もうすっかり分秒の勘定までしてくだすったんですね、エヴゲーニイさん」と彼は冷笑的にあげ足をとった。「あなたはこのひと晩じゅう。ぼくから目を放しませんでしたね。ぼく、ちゃんと見てましたよ……ああ! ラゴージン! ぼく、たった今あの男を夢に見ましたよ」眉をひそめながら、テーブルに向かってすわっているラゴージンをあごでしゃくって、彼は公爵にささやいた。「ああ、そうだ」と彼はまたしても別なほうへ注意を飛ばしてしまった。「弁士はどこです、レーベジェフはどこです? してみると、レーベジェフは弁論をすましたんですね。あの男は何をいいました? 公爵、いったいあれはほんとうですか、世界を救うものはただ『美』あるのみだとおっしゃったてえのは? 諸君」と彼は大きな声で、一同に向かって叫んだ。「公爵は美が世界を救うといっておられます!ところで、ぼくはこういいます、公爵がそんな遊戯的な思想をいだいているのは、恋をしてるからです。諸君、公爵は恋をしていられます。ぼくは、さっき公爵がここへ入って来ると同時に、こう信じて疑いませんでした。あかい顔なんぞしないでください、公爵、ぼくあなたがお気の毒になりそうですから。いったいどんな美が世界を救うんです? コーリャがぼくにそういいましたよ……あなたは熱心なキリスト信者ですって? あなたが自分でキリスト信者だとおっしゃったって、コーリャが話しましたよ」
 公爵は注意ぶかく彼を見まわしたが、返事はしなかった。
「あなた、ぼくに返事してくれないんですか? あなたはたぶん、ぼくが非常にあなたを奸いていると、そう思ってらっしゃるんでしょう?」ととつぜんイッポリートは、ちぎってほうりつけるようにいい足した。
「いいえ、そうは思いません。きみがぼくを好いていられないのは、ぼくも知っています」
「え! きのうのことがあってもですか? ぼくはきのうあなたに対して誠実でした」
「ぼくはきのうもやはり知っていました、きみがぼくを好いでいられないのを」
「というのは、つまりぼくがあなたをうらやんでるからですか? うらやんでるとおっしゃるんですか? あなたはいつでもそう考えておいでになりました、今でも潯えていらっしゃるんです。しかし……しかし、なんのためにぼくはこんなことをあなたにいってるんだろう? ぼく、もう少しシャンパンが飲みたくなった。ケルレル君、ついでくれたまえな」
「きみはもう飲んじゃいけません、イッポリート君、きみにはあげられません……」と公爵は彼のそばから杯を押しのけた。
「いや、まったく……」と彼はすぐに同意した、なにやら思案しているかのように。「たぶん、あの連中はいろんなことをいうだろうなあ……いや、あの連中がとやかくいうからって、ぼくにとってそれがどうしたってんだ? そうじゃありませんか、そうじゃありませんか? あとであの人たちに勝手なことをいわしたらいいんですよ、ねえ、公爵? それに、あとで何があろうと、そんなことは、われわれにとってなんの関係もないこってす! もっとも、ぼくは寝ぼけ半分にでたらめをいってるんですよ。だが、ぼくはなんて恐ろしい夢を見たんだろう、たった今、思い出した……あなた、どうかこんな夢をごらんにならないように、公爵。ぼく、じっさいあなたを好いていないかもしれませんがね。もっとも、好いていないからって、なにもその人に対して、悪いことを祈るにゃ当たりませんからね、そうじゃありませんか? だが、なんだって、ぼくはこんなことをきいてばかりいるんだろう。ほんとうに、ぼくはいろんなことをきいてばかりいる! さ、あなた、手をお出しなさい、ぼくしっかり握ってあげましょう、ほら、こんなにね……だけど、あなたはよくまあぼくに手を出してくれましたねえ! してみると、ぼくがその手を真底から握りしめるってことを、あなたはもうちゃんと知っておいでなんですね?……たぶん、ぼくはもう酒を飲まないでしょう。なん時ですか? いや、まあいい、ぼく、なん時だか知ってますよ。時間が来た! 今がちょうどいい時だ。なんですあれは? あちらの隅のほうで前菜《ザクースカ》を並べてるんですか? すると。このテーブルはあくんですね? けっこう! 諸君、ぼくは……しかし、あの人たちははじめっから聞いちゃいないんだ……公爵、ぼくはある一つの文章を読もうと思っています。前菜《ザクースカ》のほうがむろんずっとおもしろいに相違ありませんが……」といいながら、ふいにまったく思いがけなく、彼は上衣のかくしから大形の紙包みを取り出した。それには大きな赤い印を捺して、封がしてある。彼はそれを自分の前のテーブルに載せた。
 この思いがけない一物《いちもつ》は、不用意な、というよりも、それとは別なものに対して心構えしていた一座の人々に、なみなみならぬ印象を与えた。エヴゲーニイはいすから伸びあがるし、ガーニャはいち早くテーブルのほうへ寄って来た。ラゴージンもそれと同じことをしたが、ことの真相はわかっているよといったような、なんとなく不機嫌らしい、腹立たしげな様子であった。すぐそばに居合わせたレーベジェフは、好嵜の目を光らせながら近づいて、ことの真相を洞察しようとするかのごとく、いっしょうけんめいに包みをながめていた。
「それはなんですか?」と公爵は心配げにたずねた。
「太陽がちょっと端をのぞけるといっしょに、ぼくも床につきます。公爵、ぼくがいったことは間違いありません、見てらっしゃい!」とイッポリートは叫んだ。「しかし……しかし……あなたがたはぼくにこの包みの封を切ることができないとお考えですか?」彼はなんだか撓みかかるような目つきをして一同を見まわしながら、べつにだれに向かってともなくこういい足した。
 公爵は、彼が全身をぶるぶるふるわしているのに気づいた。
「われわれはだれもそんなことを考えやしません」と彼は一向に代わって答えた。「だいいち、だれかがそんな考えを持ってるなんて、どうしてそんなことを邪推するんです? それに、いま時分なにか読むなんて、ずいぶんへんな思いつきじゃありませんか。いったい、きみそれはなんですか、イッポリート君?」
「なんです、いったい? この人はまあどうしたのです?」ときく声があたりに起こった。 
 一同はイッポリートのほうへ寄って来た。中にはまだ前菜をむしゃむしゃやりながら、のぞきにくるものもあった。赤い封印を捺した紙包みは、磁石のように人々を引き寄せるのであった。
「これはぼく、きのう自分で書いたんですよ、公爵。あなたのところでごやっかいになりますと約束したすぐあとでした。ぼくはきのういちんち書いて、夜から朝にかけてやっと終わったのです。ゆうべ明けがたちかくに一つ夢を見ましたが……」
「いっそあすにしたらどうです?」と公爵はおずおずさえぎった。
「あすはもう『そののち時を延ばすべからず』ですよ」とイッポリートはせせら笑った。「しかし、ご心配はいりません。
 ぼく四十分か、一時間で読んじまいます……それに、ごらんなさい。みんなが不思議そうな様子をしてるじゃありませんか。みんなこっちへやって来て、みんなこの封を見ています。まったくのところ、ぼくがもし、この文章に封をしなかったら、なんの感銘を与えることもできなかったでしょう! はは! 神秘というものはこんなところに存するんですよ! 封を切りましょうか、どうしましょう、皆さん?」と彼は奇 怪な笑いかたをし、両眼を輝かしつつわめいた。「神秘! 神秘! ところで公爵、『そののち時を延ばすべからず』と告げたのはだれだか、覚えていらっしゃいますか? それは 黙示録の中の偉大な、力強い天使が告げたんですよ」
「読まないほうがいいです!」とふいにエヴゲーニイが叫んだが、その様子が彼としては思いも設けぬ不安の色を帯びているので、多くの人には奇妙に思われたくらいである。
「読むのはおよしなさい!」と公爵も紙包みに手をかけて叫んだ。
「なにも読むことはない。いま前菜《ザクースカ》が出るんだから」とだれかがいった。
「文章ですって? 雑誌にでも載せるんですか?」といまひとりがきいた。「でも、つまんないかもしれませんね?」とまたひとりいい足した
「まあ、いったいなんです?」とその他の人々はたずねた。
 しかし、公爵のびっくりしたようなみぶりは、当人のイッポリートまで驚かしたようであった。
「じゃ……読まないんですね?」紫色になったくちびるに歪んだ微笑を浮かべて、彼はなんとなくあやぶむように公爵に向かってささやいた。「読みますまいね?」とまた以前の、まるで一同に食ってかかるような目つきで、ひとりひとりの目、顔を順々に見まわしながら、彼はつぶやいた。「あなた、こわいんですか?」とまた彼は公爵のほうを振りむいた。
「何を?」こちらはだんだん顔色を変えながら、問い返した。
「だれか二十コペイカのお持ち合わせはありませんか?」とイッポリートはだれかに突かれたように、とつぜんいすから飛びあがった。「なんでも銀貨ならいいです」
「さあ。これ!」とレーベジェフがさっそくさし出した。
 ひょっとしたら、病身のイッポリートがとうとう発狂したのではないかという考えが、ちらと彼の頭に浮かんだ。
 「ヴェーラさん?」とイッポリートは忙しげに呼んだ。「さあ、これを取ってテーブルの上へ投げてみてください。鵞が出るか格子が出るか? 鷲だったら読むんです!」
 ヴェーラはびっくりしたように金とイッポリート、それから父親の顔を見くらべたが、やがて妙に無器用な恰好をして、もう自分は金を見てはならないと信じたかのように、頭を上のほうに振りむけながら、金をテーブルの上に投げた。鷲の絵が上を向いて落ちた。
「読むんだ!」とイッポリートは、あたかも運命の判決に圧しひしがれたようにつぶやいた。彼はたとえ死刑の宣告を読み上げられても、これ以上ではあるまいと思われるほど青くなった。「だがしかし」ややしばらく無言ののちに、彼はとつぜん身震いしてこういった。「これはいったいなんだろう?ほんとうにぼくはいま運命のくじを引いたのかしら?」いぜんとして露骨な押しつけがましい態度で、彼は一同を見まわした。「しかし、これはまったく驚くべき心理的特性じゃありませんか」と真底からの驚愕を現わしながら、彼はふいに公爵に向かって叫んだ。「これは……これはじつに不可思跟な特性ですよ、公爵!」ようやくわれに返って勢いづきながら彼はぐりかえした。「あなたこれを書きとめておきなさいな、公爵、そしてよく覚えておきなさい。だって、あなたは死刑に関する材料を収集してらっしゃるそうじゃありませんか……ぼく、人から聞きました、はっは! おお! ぼくはなんてわけのわからんばかげたことをいってるんだろう!」そういって彼は長いすに腰をおろし、テーブルに両ひじついて自分の頭をつかんだ。「むしろ恥ずべきこった!………いや、しかし、恥ずかしいということが、ぼくにとっていったいどうなんだ」と彼はすぐに頭を上げて、「諸君! 諸君、ぼくはこの包みを開封します」と一種おもいがけない決意を帯びた調子で披露した。「ぼくは……ぼくはしかし、しいて聞いてくださいとはいいません!………」
 興奮のあまりふるえる手で彼は包みの封を切り、細かい字で書きつめたいく枚かの書簡箋を中から取り出し、前に置いて整理しはじめた。
「いったいあれはなんです? いったい、これはどうしたというんです? 何を読もうというんですか?」とあるものは沈んだ声でつぶやいたが、その他のものは黙っていた。
 しかし、一同は席について、好奇の目を輝かせながらながめた。じっさい、彼らはなにかなみなみならぬものを待ち設けていたのかもしれぬ。ヴェーラは父のいすにしがみついて、ほとんど泣きださんばかりにぎょうてんしていた。コーリャもほとんどそれと同じくらいにびっくりしている。レーベジェフはもう席についていたが、急に立ちあがってろうそくを取り、読みやすくするためにイッポリートのそばへ立てた。
「諸君、これは……いや、これが何ものだかということは、今すぐ合点がおいきになります」イッポリートはなんのためにやらこういい添えて、ふいに読みはじめた。「『わが必要なる告白』題銘。"Apres moi le deluge"(わが死後はよしや洪水あるとも――あとは野となれ山となれの意)ふっ、こんちくしょう」にわかに彼はまるでやけどでもしたようにどなった。「よくまあまじめにこんなばかばかしい題銘が入れられたもんだ!………さあ、聞いてください、諸君!………しかしおことわりしておきますが、つまるところ、これはぜんぜん恐ろしいナンセンスで終わるかもしれません! ただこの中にいくらかでもぼくの思想が……もし皆さんがこの中になにか秘密なものとか……もしくは……国禁的なものがあるように考えていらっしゃるならば……ひと口にいうと……」
「前置きをぬきにして、読んでもらいたいもんですね」とガーニャがさえぎった。
「ごまかしてるんだ!」だれやらがいい添えた。
「文句が多すぎらあ!」としじゅう黙っていたラゴージンが口をいれた。
 イッポリートは、きっとそのほうを見た。ふたりの視線がぴったりと合ったとき、ラゴージンは苦々しく、また腹立たしげに歯をむいて、ゆっくりとした調子で奇妙な言葉を発した。
「こういうことはそんなふうに細工するもんじゃねえ、若い衆、それじゃ違うぜ……」
 何をラゴージンがいおうと思ったかは、むろんだれも知らなかった。けれども、これらの数語は一同にかなり奇怪な印象を与えた。ある同じような観念が、ちらと一同の心の端をかすめたのである。イッポリートに対しては、この数語が恐ろしい作用をもたらした。彼は公爵が手を伸ばして支えようとしたほど、にわかに激しくふるえ出し、あやうく声を出して叫びかけたが、急にのどがつまって声が出なかったらしい。まる一分間、彼はものをいうことができないで、重々しい息をつきながら、じっとラゴージンを見つめていた。ついに彼は息をきらせながら、いっしょうけんめい力を出して、
「そんなら、あれはきみ……きみだったんですか……きみですか?」といいだした。
「いったいどうしたんだね? おれがどうしたってえんだい?」とラゴージンはけげんそうに答えた。
 しかし、イッポリートはかっとなって、ふいに狂暴な調子で鋭く激しく叫んだ。
「きみは先週、ぼくが朝のうち、きみんとこへ行ったちょうどあの日の夜、一時すぎにぼくのとこへ来たんだ、あれはきみ[#「きみ」に傍点]だ!! 白状しなさい、きみでしょう?」
「先週の夜? ほんとうにおめえはすっかり気がちがったんじゃねえかい、若い衆?」
『若い衆』はなにやら思いめぐらすように、人さし指を額に当てながら、ふたたび一分間ばかり無言でいたが、やはりまだ恐ろしさに歪んだような青ざめた微笑の中に、とつぜんなにやら狡猾らしい、勝ちほこったようにすら見えるものが、ちらとひらめいた。
「あれはきみだったんです!」ついに彼はささやくように、とはいえ非常に確信の色を示しながらくりかえした。「きみはあのときぼくんとこへ来て、一時間ばかり――いや、もっと長く窓ぎわのいすに黙ってすわってたんです。あれは夜中の十二時すぎか、一時すぎごろだった。それから二時すぎに、きみは立って出て行ったのでしょう……あれはきみだったんです、きみだったんです! なぜきみがぼくをおびやかしたのやら、またなぜぼくを苦しめに来たのや――それはわかんないけれど、しかしあれはきみだったんです!」
 こういった彼のまなざしの中には、ふいに限りない憎悪がひらめいた。恐怖の戦慄はいまだに静まらなかったけれど。
「諸君、このことは今にすっかりおわかりになります、ぼく……ぼく……さあ、聞いてください……」
 彼はまたしてもおそろしくあわてながら、紙に手をかけた。紙はすべってばらばらに乱れた。彼はそれを整えるのに努力した。紙片は彼のふるえる手の中でおののいていた。彼は長いあいだ平静に返れなかったのである。
「気がちがったのか、それとも熱にでも浮かされてるのか?」と聞こえるか聞こえないほどの声で、ラゴージンはつぶやいた。
 朗読はついにはじまった。はじめのうち五分ばかり、この思いがけない『文章』の作者は、やはりせいせい息をきらしながら、緩急のととのわぬ乱れた読みかたをした。が、そのうちに声がしっかりしてきて、内容の意味をはっきりと伝えるようになった。ただときどきかなり強いせきがその進行をさえぎるのみであった。文章のなかばごろから彼はだいぶ声をからしたが、朗読が進むにつれて、しだいに激しく彼を領してきた恐ろしい感激は、聴者に与える病的な印象とともに、終わりに近づくにしたがって頂点に達した。以下、つぎに掲げるのはこの『文章』の全部である。

   わが必要なる告白
"Apres moi le deluge"
『きのうの朝、公爵が来た。いろんな話の中に、彼は自分の別荘へ引っ越してくるようにと勧めた。ぼくは、彼がかならずこのことを主張するだろうと、前から思っていたし、また彼のいつもの口癖で、「別荘の人たちや木立のあいだで死ぬほうが楽だから」と真正面からやっつけることとかたく信じていた。ところが、きょう彼は死ぬ[#「死ぬ」に傍点]とはいわないで、「暮らすほうが楽だろう」といった。しかし、ぼくの境遇にあっては、どっちにしても同じようなものだ。ぼくは、彼がしょっちゅう木立木立というのは、はたして何を意味するか、またなぜそんなに木立を押しつけようとするのか、と聞いたら、なんでもあの晩、ぼく自身が、この世の名ごりに、木立を見にパーヴロフスクヘ来たと、こういったのだと聞いて、非常に驚いた。しかし、木立の下で死ぬのも、窓外のれんがを見ながら死ぬのも、同じことではないか、残り二週間という今となっては、たにも騒ぐに当たらないと、ぼくは公爵に向かっていった。すると、彼はすぐさま同意を表したが、しかし彼の意見によると、緑の色と清浄な空気は、ぼくのからだに生理的転化を呼びおこして、ぼくの興奮もぼくの夢も変わってき、あるいはしのぎよくなるかもしれぬ、とのことであった。
『ぼくはまた笑いながら、彼のいうことはまるでマテリアリストのようだ、といってやった。すると、彼は持ち前の微笑を浮かべて、彼はつねにマテリアリストであると答えた。彼はけっしてうそをつくことがないから、この言葉も何かの意味を蔵しているかもしれぬ。彼の微笑はじつに気持ちよかったので、ぼくはいまさら注意して彼の顔をながめた。ぼくはいま自分が彼を愛しているかいないか、それは知らぬ(今そんなことにかまっている暇がない。が、注意すべきことは、五か月間の彼に対するぼくの憎悪は、最近一か月間にいちじるしくやわらいできた。もしかしたら、ぼくがあのときパーヴロフスクヘ行ったのは、主として彼を見るためだったかもしれない)。とはいえ……なぜぼくはあのときこの部屋を捨てて出たのだろう? 死刑を宣告されたものが、自分の巣を捨てて出るという法はない。だから、もし今度ぼくがこうして確たる決心を採らず、かえってじっと最後の時を待つことに決めていたら、そのときはもちろん、パーヴロフスクヘ「死にに」来いなどという、彼の申し出を許容しなかったに、きまっている。
『しかし、ぼくは急いでこの「告白」をかならずあすまでにぜんぶ仕上げねばならぬ。してみると、読み返して訂正している暇がない。で、ぼくは公爵およびそこに居合わせるらしく思われる二、三の人に読んで聞かせるとき、はじめて読み返すことになる。この中にはひと言たりとも虚偽はなく、こととごとく誇るに足る最後の真理のみであるから、ぼくがこれを読み返すときに、その真理がぼく自身にいかなる感銘を与えるだろうか、それが今から楽しみである。けれども「誇るに足る最後の真理」とは、ぼくもくだらんことを書いたものだ。それでなくてさえ、あますところわずか二週間の今となって、うそなどつく価値はないのだ。なぜならば、二週問などという日数は、生きるべき価値がないからである。これこそぼくの書くことが、まったくの真実であるという最良の証明である(N・B・ここに一つ忘るべからざる想念がある。ほかでもない、ぼくはこのとき、いや、ときおり狂人ではあるまいか、ということである。極度に達した結核病者はどうかすると、ときとしてわずかのあいだ発狂することがあるとは、しばしば聞くところである。これはあす朗読の際、聴き手の表情によって、実否を確かめなければならない。この問題はかならず完全に解決する必要がある。でなければ、何ごとにも着手するわけにいかない)。
『ぼくはいま恐ろしいばかなことを書いたような気がしてならぬ。しかし、さきほどいったとおり、訂正している暇がない。それに、たとえ五行目ごとに、自家撞着をしているのにみずから気づいても、この原稿を一行たりとも訂正しないことを誓っておく。つまり、自分の思想の論理的展開がはたして正確であるかいなかを、あす決定したいのである。ぼくははたして誤謬を発見するだろうか、したがって、ぼくがこの六か月間この部屋の中でくりかえし考えたことは、ことごとく正確だろうか、あるいは単に一種のうわごとにすぎないだろうか。
『もしぼくが二か月前に、今のようにぜんぜんこの部屋を見捨てて、マイエルの家のれんが壁とも別れを告げることになったら、ぼくはかならずもの悲しさを覚えたに相違ない。が、いまはなにひとつ感じない。しかるに、ぼくはあす部屋も壁も永遠に[#「永遠に」に傍点]見捨てようとしているのだ! してみると、二週間ぐらいのためには何ごとも惜しむに当たらないし、いかなる感動にも没頭する価値がない、というぼくの信条はぼくの自然性を征服し、ぼくの全感覚を支配することができるのだ。しかし、これは真実だろうか? ぼくの自然性が今やことごとく征服されたのは、はたして真実だろうか。もしいま人がぼくを拷問にかけはじめたら、ぼくはたしかに悲鳴を上げるに相違ない。そして、二週間しか生活の日が残っていないから、痛みを感じたりわめいたりする価値がない、とはいわないだろう。
『しかしぼくの生活の日は二週間きりで、それ以上のこっていないというのは、真実だろうか? あのときパーヴロフスクでああいったのはうそだ。Bはぼくに何もいいはしない、そして一度もぼくと逢ったこともない。しかし、一週間ばかり前に、ぼくは大学生のキスロロードフを連れて来てもらった。彼自身の確信によれば、彼はマテリアリストで、アテイストで、ニヒリストだとのことである。ぼくはそのため特にこの男を呼んだのだ。ぼくはもう今度こそいささかの容赦もなく無遠慮に、赤裸々の真実をぶちまけてくれる人が望ましかったのである。そして、彼はそのとおりにしてくれた。しかも、単に平気で無遠慮だったのみならず、さもさも満足そうにそれを実行した(ぼくにいわせれば、これなどはもう余計なことだ)。彼は真正面から、ぼくの余命はほぼひと月ぐらいだとやっつけた。しかし、周囲の事情が良かったら、あるいはもっと長いかもしれないが、また、あるいはそれよりずっと早いかもしれぬ、とのことであった。彼の意見にしたがえば、ぼくは急にあすにも死ぬかもしれないそうである。こういうことはよくあるやつで、つい三日ばかり前、あるひとりの若い女で、やはり肺病のため、ぼくと同じような境遇にあったコロムナの人が、市場へ買出しに行く支度をしているうちに、とつぜん気分が悪くなって、長いすに倒れ、それきり息を引き取ってしまった。こんなことをキスロロードフは、自分の無感覚と不注意を誇るような調子さえ示しながら、すっかりぼくに話して聞かせた。そして、まるでそれがぼくにとって、光栄ででもあるかのように思っているのだ。つまり、ぼくを自分と同じような人間、――死ぬということなぞにはなんの価値をも付与しないで、いっさいを否定する高等な人間と見なしていることを、その話で知らせようとしたのだ。が、とにかく事実は結局、明瞭になった。一か月だけで、けっしてそれ以上ながくはない! 彼の見立てちがいでないことは、ぼくもぜんぜん信じている。
『ぼくが非常に驚いたのは、なぜさきほど公爵がぼくの「悪い夢」を、ああまで見透かしてしまったか、ということである。パーヴロフスクヘ来たら、ぼくの興奮もぼくの夢も変わるだろう、と彼は文字どおりにそういった。それに、なぜ夢なんて言葉を持ち出したんだろう? 彼は医学者か、それともじっさい非凡な知恵をもっていて、多くの事物を洞察することができるのだろうか(しかし、なんといっても、彼が「白痴」であることは、なんら疑いない)。ぼくは彼の来訪のちょっと前に、まるであつらえたように一ついい夢を見た(といっても、それは近ごろしょっちゅう見るような夢の一つである)。
『ぼくは、ふと眠りにおちた、――おそらく彼の来訪の一時間まえだったと思う、――と見ると、ぼくはある部屋の中にいる(しかし、ぼくの部屋ではない)。それはぼくの部屋より大きくて高く、道具も上等で、全体に明るかった。戸だな、たんす、長いす、そして大きな広い寝台には、緑色の、綿のはいった絹夜具がかかっている。しかし、ぼくはこの部屋に一つの恐ろしい動物、一種の怪物を見つけた。それは蝎みたいなものであったが、蝎とも違う。さらにいとわしく、さらに恐ろしかった。そのわけは、たぶんそんな動物が自然界にいないのと、またそれがことさら[#「ことさら」に傍点]ぼくのところへ現われたのと、その中になにかの神秘が潜んでいるらしいのと、この三つが原因であろう。ぼくはとくとこの怪物を見定めた。それは鳶色をして、殼のようなものに包まれた爬虫類で、長さ七インチばかり、頭部の厚みは指二本ならべたくらいで、尾っぽに近づくにつれてしだいに細くなっている。で、尾の先端は厚さ五分の一インチぐらいしかない。頭から一・七インチばかり離れたところに、長さ三インチ半ぐらいの足が、胴の両側から一本ずつ、四十五度角をなして出ている。で、上から見ると、この動物全体が三叉の戟《ほこ》の形を呈している。頭はよく見きわめなかったが、あまり長くない、堅い針の形をした二本の触角が見えた。同じく鳶色をしている。そんなふうの触角が尻の先にも、両足の先にも二本ずつ出ている。都合みなで八本ある。この動物は足と尻尾で身を支えながら、非常な速度で鄒屋じゅうをはいまわるのであった。そして、走るときには、その胴体と両足が、固そうな殼で包まれているにもかかわらず、恐ろしい速さで小蛇のようにうねるので、見ていると胸が悪くなってくる。ぼくは刺されはせぬかと非常に恐ろしかった。このものが有毒動物であるということは、前から聞いていた。しかし、ぼくを最も苦しめたのは、だれがこれをぼくの部屋へ追いこんだのか、ぼくをどうしようというのか、これにはどんな秘密があるのか、という想念であった。怪物はたんすや戸だなの下に隠れたり、隅にはいこんだりする。ぼくはいすの上に両足を引き上げ、ひざの下へ敷いてしまった。怪物は部屋を斜めに横切って、どこかぼくのいすのへんに消えて見えなくなった。ぼくは恐ろしさにあたりを見まわした。が、足をひざの下に敷いてあるから、よもやいすの上にあがりはしないだろうと、そんなことを頼みにしていた。と、ふいにうしろのほうで、ほとんどぼくの頭の辺で、がさがさという響きを耳にした。振りかえって見ると、毒虫は早くも壁を伝わって、ぼくの顔と同じくらいのところへはい昇っている。そして、恐ろしい速度でうねりまわっている尻尾が、ぼくの髪の毛にさえ触れているではないか。ぼくが飛びあがると、毒虫も姿をくらました。ぼくは毒虫にまくらの下へはいこまれはしないかと思うと、寝台に横になるのがこわかった。やがて部屋の中へ母と、もうひとり母の知り合いがはいって来た。ふたりは毒虫をつかまえにかかったが、ぼくから見るとはるかに落ちついて、おそれもしなかった。ふたりはなんにも合点がいかなかったのである。ふいにまた毒虫は姿を現わした。今度はきわめて静かに、なにか特別な考えでもあるかのように、静かにからだをうねらせつつ(それがまた特にいとわしく見えた)、またしても部屋をはすかいに横切って、戸口のほうへ歩いて行った。そのとき母は戸をあけて、ノルマという家の飼犬を呼んだ――それは黒いむく毛の大きなテルニョフ種(ニュウファウンドランド・ドッグ)であったが、もう五年まえに死んでいた。ノルマは部屋へかけこんだが、まるで釘づけにされたように、毒虫の前に立ちどまった。毒虫も立ちどまった。が、やはりいつまでもからだをうねらして、両足としっぽの先で床をこつこつたたいていた。もしぼくの観察に誤りないならば、一般に動物というものは、神秘的な驚愕を感じないものである。しかし、この瞬間、ノルマの驚愕の中にはなにか一種異常な、ほとんど神秘的ともいうべきものがあった。そしてノルマはぼくと同様、この動物の中になにか全運命をくつがえすような、恐ろしい神秘が潜んでいることを、直覚したかのように思われた。毒虫が静かに用心ぶかくノルマのほうへはい寄ると、ノルマはそっとあとへしさって行く。毒虫はふいに相手におどりかかって、剌そうと思ったらしい。しかし、極度の恐怖にもかかわらず、ノルマは憎々しそうな様子で毒虫を見つめていた。が、その肢はふるえていた。やがて、彼はおもむろにその恐ろしい歯をむいて、大きな赤い口をかっと開き、すきをうかがいながら身構えしていたが、やがて心を決してふいに毒虫をくわえた。きっと毒虫はすべり抜けようとして、激しく暴れたに相違ない。ノルマはも一度落ちかけた敵を宙で捕えた。それから、また二度までも大きな口で、あたかもひと呑みにするような勢いでくわえこんだ。殼は歯に当たってかちかちと鳴り、口からはみ出ている尾や足のさきは、恐ろしい速度で顫動するのであった。とつぜんノルマは悲しげに叫んだ。毒虫はその間にとうとう彼の舌を刺したのである。ノルマは痛みに耐えかねて、叫んだりうなったりしながら口をあけた。咬《か》みつぶされた毒虫はその半崩れの胴体から、白い液をおびただしく彼の舌に絞り出しつつ、口の中に横たわって、まだうごめいているのが見えた。その液は踏みつぶされた油虫のそれのようであった。……そのとたんにぼくは目をさました。公爵がやってきたのだ』
「諸君」とイッポリートはふいに朗読をやめて、みずから恥ずるもののごとくいった。「ぼくは一度も読み返して見なかったのですが、なんだか実際あんまり無駄なことを書きすぎたようです。この夢は……」
「そんな傾向がありますね」ガーニャは急いで口をはさんだ。
「あの中にはまったく個人的なことが多すぎるんです。つまり、ぼく自身のことが……」
 こういったイッポリートは、疲れた弱々しい様子で、額の汗をハンカチでぬぐった。
「そうですな。あんまりご自分のことにばかり、興味を持ちすぎてるようですな」とレーベジェフがしわがれ声でいった。
「諸君、ぼく、くりかえして申しますが、どなたにも無理に聞いてくださいとはいいませんよ。おいやなかたは遠慮なく、あちらへいらしってください」
「追い立てやがる……自分の家でもないくせに」やっと聞こえるぐらいの声で、ラゴージンがつぶやいた。
「どうです、ひとつわれわれがみんな一ときに立って、あちらへ行ってしまったら?」今までさすがに大きな声でものをいいかねていたフェルディシチェンコが、とつぜんこういいだした。
 イッポリートはふいに目を伏せて、原稿をつかんだ。が、それと同時にまた目を上げて、双頬に赤い斑点を染め出し、目を輝かせ、執念ぶかくフェルディシチェンコを見つめながら、「きみはまったくぼくを好いていないんですね!」といった。
 同時に笑い声がおこった。とはいえ、多くのものは笑わなかった。イッポリートはおそろしくあかくなった。
「イッポリート君」と公爵がいった。「その原稿を閉じて、ぼくにおよこしなさい。そして、きみはぼくの部屋でおやすみなさい。寝る前にふたりで話しましょう、そして、あすの朝もね。しかし、もうこの原稿はけっして開かないという条件つきですよ。いやですか?」
「そんなことできるもんですか?」イッポリートはすっかり驚いて、彼の顔を見た。「諸君」彼はふたたび熱に浮かされたように元気づきながら叫んだ。「とんだばかな挿話で、ぼくは自己制御の不能を暴露しました。もうけっして朗読を中絶しません。聞きたい人は、――お聞きなさい……」
 彼は忙しげにコップの水をひとのみして、人々の視線を避けるためにテーブルにひじをつきながら、強情に朗読をつづけた。とはいえ、羞恥はたちまち失せた。
『わずか数週間ぐらいの生活は(と彼は読みつづけた)、生きるだけの価値がないという観念が、ほんとうにぼくの心を征服しはじめたのは、ぼくの余生がまだ四週間あるという、ひと月ばかり前のことだったと思う。それが完全にぼくを征服しつくしたのは、あの晩パーヴロフスクからもどって来たとき、すなわちわずか三日前である。この観念とぴったり直面した瞬間は、公爵の家の露台であった。それは、ぼくが生涯における最後の試みをなそうと思って、人と木立が見たいといいながら(まったくぼくがこういったものとしておこう)、熱くなってブルドーフスキイの、ぼくの「隣人」の権‘利を主張した、その一瞬間におこったのだ。あのときぼくは、人々がふいに驚いて両手を広げ、ぼくをその胸に抱きしめて、なんのためか知らぬが、彼らはぼくに、またぼくは彼らに、許しをこうにちがいない、と想像したのである。しかし、とどのつまり、ぼくはくだらないまぬけの役を演じてしまった。つまりこのとき、ぼくの心中に「最後の確信」が燃えあがったのだ。どうしてぼくはこの六か月間この「確信」なしに生きていられたのか、今はただ驚くほかはない! ぼくは自分が肺病にかかっている、しかもそれは不治の難病だと確実に知っている。ぼくは今までみずからあざむくことなく、明晰にことの真相を予知していた。しかし、それがはっきりわかればわかるほど、ぼくは生きたいという痙攣的な欲望を感ずるのであった。ぼくは生にしがみついて、どんなことがあろうとも生きたいと思った。あのときぼくを蝿のごとくおしつぶせと命令した(むろんなんのためともわからない)暗黒な、陰惨な運命のくじに対して、ぼくが腹を立てたのは当然だということ、それは自分でも承認する。しかし、なぜぼくは単に腹を立てるだけで済まさなかったのか? みすみす不可能と知りながら、どうしてぼくはほんとうに生きることをはじめた[#「はじめた」に傍点]のか? もはや試みるべき必要のないことを知りつつ、どうして試みたのか? とはいえ、書物を読むことすらできず、ためにいっさい読書をやめた。なんのために読むのだ。なんのために六か月のあいだにものを知ろうとするのだ? こうした観念は一度ならず、書物を投ぜしめた。
『そうだ、あのマイエルの家の壁は、さまざまな事実を諸君に伝えることができる! ぼくはあの壁の上にいろんなことを書きつけた。あのきたない壁の斑点で、の暗記していないものは一つもない。おお、のろわれたる壁よ! が、それにしても壁は、パーヴロフスクの木立のいっさいよりも、ぼくにとって高価である。いや、もしぼくが今日すべてのものに対して没交渉でなかったら、あの壁は何よりも高価であらねばならぬ。
『今となって思い出すが、ぼくは一時なんという貪婪《どんらん》な興味をもって、世人[#「世人」に傍点]の生活に注目しはじめたろう。あのような激しい興味は、以前かつてなかったことだ。ぼくは病勢がつのって、自身で部屋の外へ出ることができないとき、どうかすると、耐えがたい焦躁をもってコーリャを待ちながら、その来ようが遅いのをののしったものである。ぼくはむやみにいろんな些事に没頭し、あらゆる風説に興味を動かして、ほとんどりっぱな告げ口屋になりおおせたかと思われるほどであった。ぼくにとってどうしても合点のいかなかったのは、なぜ世間の人たちはあれだけ長い生涯を与えられていながら、金持ちになることができないのか、という疑問であった(とはいえ、今でもやはり合点がいかない)。ぼくの知人にひとりの貧乏人がいたが、あとで人の話を聞けば、飢え死にしたとのことである。この事実はほとんどぼくを狂憤せしめた。ほんとうにもしこの貧乏人をよみがえらすことができたら、ぼくはきっとこの男に刑罰を加えねばおかないところだった。どうかすると、二、三週間もつづけて気分の軽いことがあった。そんなときぼくは通りへ出てみたが、その通りがまた激しい憤懣の念をよびおこして、ぼくは人なみに外へ出ることができたにもかかわらず、わざと二日も三日も部屋の中に閉じこもっていた。歩道に沿って人のそばをあちこちと、いつも心配そうなむずかしい顔をしながら、さも忙しそうにそわそわして、どこへでも臆面なしに鼻を突っこむ世間の連中が、いやでいやでたまらないのである。なんのためにあの連中は年がら年じゅう、悲しい、心配そうな、忙しげな顔つきをしているのだろう、なんのために年がら年じゅう、小むずかしく意地悪なのだろう?(そうだ、あいつらはまったく意地悪だ、意地悪だ、意地悪だからだ)。あいつらがめいめい前途に六十年ずつも長い生涯をかかえていながら、いつも不仕合わせで、生活らしい生活ができないからって、いったいだれの知ったことか? なぜザルニーツィンは前途に六十年の生を有しながら、飢餓に身を滅ぼしたのか? あいつらはめいめい自分のぼろや、下等らしい両手をひけらかしながら、怒ったりわめいたりしているのだ。「われわれは牛のように働いて働いて、働きぬいて、それで犬のように飢えて貧乏してる! ところが、ほかのものは働きも稼ぎもしないのに金を持ってる!」(ふむ、いつものきまり文句だ!)こんな連中の仲間にイヴァン・フォミッチ・スーリコフという、もとは「由緒ある家から出た」と自称する貧乏な意気地なしがいた。――これはぼくと同じまで、ぼくより一段うえに住んでいる、――いつもひじが抜けてボタンのちぎれた服を着、いろんな人の走り使いに頼まれて、朝から晩まで忙しそうにかけずりまわっている。一度だれかこの男と話してみたまえ。「もう貧乏で乞食のような暮らしをしております。女房が死んだときも、薬を買うおあしさえなかったのでございます。それに今年の冬は、赤ん坊をひとりこごえ死にさせてしまいました。はい、いちばん上の娘はよそへ妾奉公に出てしまいましてございます」……年じゅうめそめそしている、年じゅう泣きごとをならべている! おお、ぼくはけっして、――今も以前も、こんなばかものどもに対して、なんら憐憫の情をも感じたことがない。ぼくはこういうのを誇りとする! なぜあいつらは自分でロスチャイルドにならないのだ! あいつらがロスチャイルドのように、何百何千万という金がないからって、だれの知ったことだろう? あいつらが、まるで謝肉祭の見世物小屋の中にあるようなインペリアルや、ナポレオンドル(金貨の名)の山、高いすてきな山を積まないからって、だれの知ったことだろう? あいつらが生きてる以上、すべてはあいつらの権力内にあるのではないか!あいつらにこの道理がわからないからって、だれにも責任はありゃしない! 
おお! 今こそぼくはもうどうなってもかまいはしない、今はもう腹を立ててる暇がない。しかし、あの時分、あの時分ぼくは毎夜狂憤のあまりまくらを咬《か》んだり、夜着を裂いたりしたものだ。あの時分ぼくは世間の人が、ほとんど着るものもかぶるものもない十八の少年を、――ぼくを、いきなり往来へ追ん出して、まるっきりひとりぼっちにしてくれればいい、などと空想した、いっしょうけんめいに望んだ、わざとそんなことを望んだのである。家もなく、仕事もなく、一片のパンもなく、親族もなく、広い世界にひとりの知己もなく、飢えて、へとへとになっていてもいい(そのほうが結局しあわせだ!)、ただ健康でさえあればいい。そしたら、ぼくは世間のやつらをあっといわせてやろうものを……
『どうしてあっといわせるのだ? と諸君は聞かれるかもしれない。
『ああ、いったい諸君はぼくがそれでなくてさえ、この「告白」でもってみずから辱しめたのを、知らずにいると思考されるのか? しかし、たいていの人はもはやぼくは十八歳の
少年でない、ぼくがこの六か月間に生きて来たような生きかたをするのは、つまり、髮の白くなるまで生きたのと同じことであるのを忘れてしまい、ぼくを目して人生を知らぬ小僧っ子であるというだろう。けれども、笑いたいものは勝手に笑わしておけ、ぼくの言葉を作り話だというのならいわしておけ。それにまたじっさい、ぼくは自分で作り話をこしらえてひとりで話していたのだ。そして、それらの物語で自分の夜な夜なをみたしていたのだ。今でもぼくはそれをすっかり覚えている。
『しかし、今となって、ぼくはそのような作り話をふたたびくりかえすべきだろうか、-今のぼくにとって作り話の時代は過ぎ去ったのではないか? それに、話して聞かせる人もない! ぼくがそうした物語でみずから慰めていたのは、ぼくがギリシャ文法を学ぶことさえ禁じられている、ということを明瞭に悟ったときである。ふと「文章論《シンタクシス》までもゆかないうちに死んでしまうだろう」という考えが、最初の一ページから頭に浮かんだので、ぼくは書物をテーブルの下へほうり出してしまった。今でもやはり同じところにころがっている。ぼくはマトリョーナ(下女)に、それを拾ってはいけない、といいつけたのである。
『ぼくの「告白」を手に入れて、辛抱づよく通読してくれる人があったら、その人はぼくを狂人か、さもなくば単なる中学生と考えるだろう。あるいはまた、死刑を宣告されたために、自分以外の人がみんな命を粗末に安価に浪費し、懶惰《らんだ》に鉄面皮にその特権を利用しているように、つまり、皆が皆ひとり残らず生をうくる価僖のないもののように見えだしたのだ、とこういうふうにとるかもしれぬ。しかし、それがどうだというのだ? ぼくは宣言する、その人の考えは間違っている、ぼくの信念は、ぼくが受けた死刑の宣告にぜんぜんなんの関係もない、と。かりに世間の人たちにたずねてみるがよい、――幸福は那辺に存するかという問題について、世間の人たちの百人が百人までいかなる見解を有しているか?このことに関して、ぼくは確信をもっていう、コロンブスが幸福を感じたのは、彼がアメリカを発見したときではなくして、それを発見しつつあったときである、と。ぼくは確信する、彼の幸福の最も高潮した瞬間は、おそらく新世界発見のちょうど三日前であったろう。すなわち乗組員が一揆を起こして、絶望のあまり船をヨーロで(のほうへ返そうとしたときであろう! このさい、問題は新世界にあるのではない、そんなものはなくたってかまいはしない! じっさいコロンブスは、ほとんど新世界を見ずに死んでしまったようなものだ。じじつ、自分が何を発見したのかも知らずに死んでしまった。つまり、問題は生活にあるのだ、ただ生活のみにあるのだ、――絶え間なき永久の探求にあるので、けっして発見にあるのではない! しかし、何をしゃべっているのだろう! ぼくのいまいったことのすべては、あまり世間普通のきまり文句に似ているので、あるいはぼくを目して少年雑誌に文章を投稿している中学の下級生とするかもしれぬ。でなければ、「じっさいこの男はなにかいおうとしたものらしいが、心ばかり逸《はや》っても、やはり……『告白』ができなかった
のだ」というかもしれぬ、ぼくはこれを恐れる。とはいえ、ぼくはひと言こうつけくわえたいと思う。あらゆる天才の思想、もしくは新人の思想、いな、むしろどんな人間の頭脳に生じたものにしろ、あらゆるまじめな思想の中には、どうしても他人に伝えることのできないようなあるものが残っている。これがために幾巻の書をかきつづっても、三十五年間自分の思想を講義しても、つねにどうしても自分の頭蓋の中から出て行こうともせず、永久に自分の内部にとどまっているような何ものかがある。そうして、人々は自分の思想中もっとも重要なものを、だれにも伝えないで死んでしまうかもしれないのだ。しかし、ぼくもまたこれと同様に、六か月間自分を苦しめたものをことごとく伝えることができなかったら、ぼくはかの「最後の信念」を獲得したとはいえ、それに対してあまりに高い価を払ったのである。このことをこの「告白」の中に明らかにしておくのは、それがある目的のために必要なことと考えたからである。
『けれども、次へ移らねばならぬ。

      6

『ぼくはうそをつきたくない。正直なところ、現実はこの六か月間、ぼくをかぎにかけて捕えていた。そして、どうかすると、恐ろしい宣告をも忘れて、というより、むしろそのことを考えようとしないで、事務をとる気にさえなるほど、ぼくの心をまぎらすことがあった。ついでだから、当時のぼくの周囲を語るとしよう。八か月ぽかりまえ病勢がとみに進んだとき、ぼくはすべての交渉を絶ち、以前の交友をも捨ててしまった。ぼくはいつもかなり気むずかしい人間であったから、友達のほうでも苦もなしにぼくを忘れた(もっとも、こんないきさつがなくとも、彼らは容易にぼくを忘れたに相違ない)。家にいるとき、つまり家庭におけるぼくの状態も、やはり孤独であった。五か月ばかり前から、ぼくは永久に内部からしめきった一室にこもり、自分というものを家庭の住まいから、ぜんぜんきり放してしまった。ほかのものも、ぼくのいうことはいつでも聞いてくれたから、一定の時間に部屋の片づけと、食物を持ち運びする以外、だれもぼくの部屋へはいることができなかった。母はぼくの命令を戦々恐々と守った。そして、ぼくがときどき部屋へはいることを許してやっても、ぼくの前でぐちをこぼすのを遠慮した。ふさい子供らも騒々しくして、ぼくに迷惑をかけるといっては、のべつ折檻されていた。ぼくも子供らのわめき声がやかましいといって、よく訴えたものだ。とにかく、みなのものは今のところ、ぼくを愛しているに相違ない。ぼくのいわゆる「忠実なるコーリャ」も、同様にかなり悩まされたらしい。このごろ、彼もぼくを悩ますようになったが、それはきわめて自然なことだ。人間というものは、たがいに悩まし合うように作られているのだもの。しかし、気がついて見ると、彼は「病人だから容赦してやらなくちゃ」と、前もって誓ったかのように、ぼくのかんしゃくをがまんしているらしい。それがぼくをいらいらさせたのはあたりまえである。けれども、彼はどうやら公爵の「キリスト教的忍従」を模倣しだしたらしい。これは少々こっけいである。彼は若い熱性の少年であるから、何ごとでも模倣するのは当然だが、もういいかげん、自分自身の理性で生活してもいいころだ、とこうぼくはときに考える。が、ぼくはこの少年がとても好きだ。
『ぼくは同じようにスーリコフをも苦しめた。これはぼくらよりも一階上に住んでいて、朝から晩までだれかの用使いに走りまわる男である。ぼくはしじゅう彼に向かって、おまえの貧乏はおまえ自身が悪いのだ、といって聞かせるものだから、しまいにはびっくりして来なくなってしまった。彼はすこぶるあきらめのいい男である、世界じゅうでいちばんあきらめのいい存在といってもいいほどである(N・B・忍従は力なりというが、これは公爵にただしてみなくちゃならぬ、公爵自身のいったことなんだから)。それはとにかく、三月の月にこの男が自分の赤ん坊を「凍《しば》れ死《し》に」さした(これは彼のいいぐさなので)、という話を聞いて、様子を見るために階上へあがって行ったことがある。ぼくはそのとき何心なく赤ん坊の死骸に冷笑をもらしてしまったので、またしてもおまえ「自身が悪いのだ」とスーリコフに説明しはじめた。すると、急にこの蕈《きのこ》おやじのくちびるがぴりりとふるえた。彼は片手でぼくの肩をおさえ、片手で戸口を指しながら、小さな、ほとんどささやくような声で、「出てください!」といった。で、ぼくは外へ出た。しかし、このできごとが気に入ってしまった。彼がぼくを戸口から送り出した瞬間すら、嬉しくてたまらなかった。けれど、あとになって、彼の言葉はぼくに奇妙な、重苦しい侮蔑とまじった憐憫の印象を残した(そんな感じは、すこしも味わいたくなかったのだが)。ああした侮辱を受けたときでさえ(ぼくはそんなつもりではなかったのだが、自分でも彼を侮辱したという感じがする)、ああいうときでさえ、この男はかんしゃく玉を破裂させることができないのだ!・ あのときくちびるがぴりっとふるえたのは、けっして憤怒のためでない、それは、ぼくが誓っておく。ぼくの手を取って、あのりっぱな「出てください」をいったのも、けっして腹立ちまぎれではない。品格はあった、しかも十分にあった。それはぜんぜん彼に似つかわしくないほどだった。(だから、正直なところ、コミックな要素もたくさんあった)が、憤怒はなかった。しかし、彼は急にぼくをばかにしはじめたのかもしれない。そのとき以来、二、三度階段で出会ったことがあるが、彼はなんと思ったか、急に今までになく帽子をぬぎはじめた。けれど、もう前のように立ちどまらず、間の悪そうな様子でこそこそ走り抜ける。かりにぼくを軽蔑しているとしても、やはり独特のやりかたである。つまり、彼は「忍従的[#「忍従的」に傍点]に軽蔑」しているのだ。しかし、彼が帽子を取るのは、あるいは単に債権者の息子に対する恐怖のためかもしれぬ。というわけは、彼はいつも母に借金していて、どうしても肩を抜くことができないからである。それはなによりもいちばん確かなことだ。ぼくは彼によくわけを話そうかと思った。そうしたら先生、十分もたたないうちに、ゆるしをこうに相違ないと、信じていたからである。しかし、もうあの男にさわらないでおくほうがいい、と考え直した。
『ちょうどそのころ、つまり、スーリコフが子供を「凍《しば》れ死《し》に」さしたときだから、三月のなかばごろであった。ぼくはなぜか急にからだの具合がよくなって、その状態が二週間ばかりつづいた。で、しょっちゅう外出するようになったが、それも主としてたそがれ時だった。ぼくはあの空気がしだいに凍ってきて、ガスのともりはじめる三月のたそがれ時が好きなので、どうかすると、ずっと遠方まで歩きまわることがあった。そのときシェスチラーヴォチナヤで暗がりの中を、ひとりの「お上品」な仲間らしい男が、ぼくを追い越した。よく兄わけることができなかったが、なにやら紙に包んだものをさげて、なんだか妙につんつるてんの、季節はずれに薄い、ぶざまな外套を着ていた。彼がぼくの前方十歩ばかりの街燈のそばまで来たとき、ぼくはそのかくしからなにかばたりと落ちたのに気がついた。ぼくは急いで拾い上げた――それはちょうどいい時であった。なぜというに、もうだれやら長い上衣《カフタン》を着た男が、横合いから飛び出したからである。しかし、その男は一物がぼくの手に入ったのを見て、べつにあらがおうとせず、じろりとぼくの手中をのぞいてから、そばをすり抜けてしまった。この一物は大きな、モロッコ皮で作った、旧式の、ぎっちりつまった紙入れだった。けれども、ぼくはひと目見るなり、この中にはなんでもお好みしだいのものが入っていようが、ただ金の入ってる心配だけはないということを、なぜかすぐに察してしまった。落とし主はもう四十歩も前のほうを歩いていたが、間もなく群集にまぎれて見失った。ぼくはあとを追って走りながらわめきはじめた。しかし、「おうい!」とよりほかに呼びかたがないので、向こうは振りかえろうともしなかった。急に彼は左手にある一軒の家の門内へ吸いこまれた、ぼくがひどく暗い門の下へかけこんだとき、彼はもうそこにいなかった。その家の大きさはすばらしいもので、よくごみごみした住居のために山師どもの建てるようなものであった。そんな家の中には、どうかすると百軒ぐらいまでに割られたのもある。ぼくが門内へかけこんだとき、大きな庭の右手に当たる裏の片隅に、どうやら人間らしいものが歩いているように思われた。もっとも、暗やみのことゆえ、ようやく物のあやめが見えるだけであった。そこまでかけつけて、ぼくはようやく階段の入口を見つけた。階段は狭いうえにおそろしくよごれて、あかりはまるでついていなかった。しかし、まだ高いところで一段ずつ、ことことと人の登ってゆく足音が聞こえた。ぼくは、どこかで彼が戸をあけている暇に、追いつくことができると胸算用しながら、一散に階段をかけのぼった。はたして思うつぼであうた。ごくごく短い階段が数えきれないほどつづいているので、ぼくは非常に息切れがしはじめた。すると、五階で戸があいて、またすぐにしまる音がした。五階だということは、階段を三つも隔てた下のほうから、もうちゃんと察しがついた。ぼくが上へかけのぼって、踊り場で息を休め、呼鈴のありかをさがしたりなどしているうちに、幾分か時が過ぎた。やっとぼくのために戸をあけてくれたのは、穴のような台所で湯沸《サモワール》の火を吹いている女房《かみさん》だった。彼女は無言でぼくの質問を聞いていたが、もちろん、すこしも合点がゆかなかった。で、無言のまま次の間へ通ずる戸をあけてくれた。それは同様に小さな、おそろしく天井の低い部屋で、ぜひなくてはならないひどい道具類と、たれを下ろした大きな広い寝台がすえてあって、その上には「チェレンチッチ」(と、かみさんは声をかけたので)が横になっている。その様子がどうも酔っぱらっているらしかった。テーブルの上にはろうそくの燃えさしが、鉄の燭台の上でまさに燃えつきんとしているし、おおかたからになったウォートカの小尽か立っていた。チェレンチッチは寝たまま、なにやらうなるようにいって、次の戸のほうをさして手を振った。かみさんはもう元の部屋へ行ってしまったので、ぼくはいやでもこの戸をあけるよりほかに仕方がなかった。で、ぼくは戸をあけて、また次の間へ入った。
『この部屋は前よりもっと狭く、向きを変えることさえできないほどだった。片隅にある幅の狭いひとり寝の寝台が、むやみに場所を取っていたのである。このほかの家具といっては、いろいろなぼろを載せた飾りのないいすが合計三脚と、思いきり粗末な台所用のテーブルと、その前にある古い油布張りの長いすと、それっきりであったけれども、テーブルと寝台とのあいだはほとんど通り抜けができなかった。テーブルの上には前の部屋と同じような燭台があった。寝台の上では小さな赤ん坊が泣いていたが、その泣き声から察すると、まるまる三週間ぐらいしかたたぬらしい。病みあがりの青い顔をした女がおむつを換えている。女はまだ若そうなふうであったが、丸裸といってもいいくらいな身なりをしている。おそらく産後でやっと床上げをしたばかりだろう。赤ん坊は容易に機嫌を直さないで、やせさらばえた母の乳を待ちかねて、泣き立てるのだった。長いすの上にはもうひとりの子供、三つばかりの女の子が、燕尾服ようのものにくるまって寝ていた。テーブルのそばには例の「紳士」が、くたびれきったフロックを着て(彼はもう外套を脱いでいた、脱ぎ捨ては寝台の上に投げ出されてあった)、立ったまま、青い紙の包みを解いて、二斤ばかりの白パンと二きれのちっぽけな腸詰を取り出した。テーブルの上にはそのほか茶の入った急須があるし、黒パンのきれがごろごろしている。寝台の下には、鍵のかかっていない鞄がのぞいているほか、なにかぼろきれの入った包みが二つころがっている。
『てっとり早くいえば、恐ろしい乱脈であった。ひと目見たところ、ふたりとも、「紳士」も「夫人」も、れっきとした人だったのが、貧のためにこうした下賤の身の上に落とされ、ついには乱脈に征服されて、それと戦おうという気力も尽き果て、日に日につのるこの乱脈の中に、なにか復讐的な苦しい満足感を発見するといったふうな、苦い要求を覚えるまでに立ちいたったらしい。
『ぼくが入ったとき、やはりちょっと前に入って来て、食料を広げはじめたばかりの「紳士」は、なにやら早口に熱した調子で妻と言葉を交わしていた。妻はまだおむつを換え終わらないうちから、もうぐずぐずぐちをこぼしはじめた。夫の一もたらした報告が、例によって、あまり思わしくなかったに相違ない。年のころ二十八ばかりと思われるこの紳士の顔は、浅黒くかわききって、黒いほお髯にふちどられ、あごはつやつやするほどきれいに剃り上げてあった。ぼくはこの顔がかなり上品に、気持ちよく思われるくらいだった。気むずかしい目つきをした、気むずかしい顔ではあるが、なにかというとすぐむらむらとなるような、病的な誇りの影を帯びていた。ぼくが入ったとき、奇妙な一場の芝居が持ちあがった。
『世の中には、自分のいらいらした怒りっぽい性質の中に異常な快感を見いだす人間がある。この快感は憤怒が絶頂に達したとき(こんな人はすぐそんなふうになるものだが)、ことに強く感じられる。こういう瞬問には侮辱されたほうが、侮辱されないよりも、痛快に思われるくらいである。これらの怒りっぽい人間は、あとで慙愧のためにおそろしく苦しめられるものだが、しかしそれは彼らが利口な人間であって、自分が適度を十倍も越えて腹を立てたことを了解することができる場合に限る。この「紳士」はいっとき、驚いたようにぼくを見つめているし、細君のほうはすっかりおびえあがっていた。まるで自分らのところへ、だれにもせよ他人が入って来るというのが、とほうもない大異変ででもあるかのようだ。と、急に彼はほとんどもの狂おしいほどの怒りを現わして、ぼくに飛びかかった。ぼくがやっと口を開くか開かないかに、彼はぼくのきちんとした身なりを見て、なお侮辱されたように感じたのである。つまり、ぼくが無作法にも他人の隠れ家へ踏みこんで、彼自身さえ恥ずかしく思っている見苦しい部屋の様子を見たのが悪かったのだ。もちろん彼は自分の失敗に対するうっぷんを、だれでもかまわず浴びせかける機会のきたのが、なにより嬉しかったのだろう。最初の瞬間、つかみかかって来るのではないかと思った。彼はまるで女がヒステリーでもおこした吩のように、細君さえおびえるほど真っ青になった。
『――どうしてきみはそんな入りかたをするんです、失敬な! お出なさい!^^と彼はぶるぶるふるえながら、やっとのことでこれだけの言葉を発した。しかし、ふと彼はぼくの手にしている紙入れに目をとめた。
『――たぶんあなたがお落としなすったんでしょうね。――とぼくはできるだけ落ちついて、そっけなく言った(もっとも、当然そうすべきではあったのだが)。
『相手はすっかり度胆を拉かれて、ぼくの前に突っ立ったまま、しばらくのあいだは、何がなんだか合点の行かないようなふうであった。それから急に自分のかくしをおさえてみて、恐ろしさのあまり口をぽかんとあけながら、片手で自分の額をたたいた。
『――やっ、これはしたり! どこで見つけてくださいました。そしてどんな具合に?――
『ぼくはできるだけそっけない調子で、紙入れを拾った時の様子から、彼のあとを追っかけてわめいたことや、とうとう当てずっぽに手探りで、階段をかけのぼったことなどを、できるだけ手短かに、しかもこのうえなくそっけなく話して聞かせた。
『――おやおや、どうも!――と彼は妻のほうを向いて叫んだ。――あの中にはうちの証書だの、わたしのなけなしの医療器具だの、何もかもみんな入ってたんだよ……いや、どうもありがとうござんした。まったく、あなたのしてくだすったことが、わたしたちにとって、どういう意味を持っているか、おそらくごぞんじありますまい? じっさいわたしは破滅してしまうところだったんです!――
『ぼくはその間に戸のハンドルをつかみ、返事もしないで立ち去ろうとした。と、急に息がつまってきた。ぼくの興奮はついに急激なせきの発作となって破裂したので、ぼくはじっと立っていることもできなくなった。見ると、「紳士」はぼくのためにあいたいすを見つけようとして、四方八方とびまわりはじめた。とうとう一つのいすからぼろを取って床へ投げ、あわててそれを持ち出して、そろっと腰かけさした。けれど、せきはひきつづき三分間ばかりも鎮まらなかった。やっとぼくが人心地のついたとき、彼はもうぼくのそばへ別ないすを置いてすわっていた。たぶんこれに載せてあったぼろも床へほうり出したのだろう。彼は一心にぼくを見つめていた。
『――あなたは、その……お悪いようですな?――よく医者が患者に接するさいに使うような訓子で、彼はこういった。――わたしは、その……医学の研究者で(彼は医者といわなかった)。――こういってから、なんのためやら指で部屋の様子をさし示した。それはちょうどいまの境遇に対して、抗議を申し込むようなふうつきであった。――お見受けしたところあなたは……――
『――ぼくは肺病です。――できるだけ手短かにいって、ぼくは立ちあがった。
『と、相手もすぐさまとぶように薬を立った。
『――もしかしたら、あなたはぎょうさんに考えておいでかもしれませんよ……薬を飲んでから……――
『彼はすっかりまごついてしまって、いつまでもわれに返ることができないようであった。紙入れはいぜんとして、彼の左手に幅をきかしている。
『――おお、心配しないでください。――ふたたびドアのハンドルに手をかけながら、ぼくはさえぎった。――ぼくは先週Bに見てもらいましたが(ぼくはここでもまたBのことを持ち出した)、大勢はすでに定まっているんだそうです。ごめんなさい……――
『ぼくはふたたびドアをあけ、恥ずかしさに圧されてまごまごしながら、感謝の色を浮かべている医師を見捨てようとしたが、いまいましいせきがちょうどねらったように込みあげてきた。すると医師はまた、すわって休めと主張してやまなかった。彼は妻に目くばせした。と、妻は席を立たないで、ふたことみことお礼と挨拶の言葉を述べた。そのとき彼女は非常にどきまぎして、青黄いろいかわききった頬にくれないが踊りだすほどであった。ぼくは居残ったけれど、しじゅうふたりに窮屈な目をさせるのが、気がかりでたまらないといった様子をして見せた(またそうするのがあたりまえである)。慙愧の念が医師を悩ましはじめた。ぼくはそれに気がついた。
『――もしわたしが……と彼はのべつ言葉をとぎらせ、飛躍しながらいいだした。――わたしはあなたに深く感謝していますが、また同時に、あなたに対して申しわけないことです……わたしは……ごらんのとおり……――と彼はまた室内を指さした。――目下のところ、こんな状態でいますから……
『――おお――とぼくはいった――なにも見ることなんかありませんよ。わかりきった話でさあ。あなたはきっと職を失ったものだから、事情を話して口を求めに、首都へ出て来られたんでしょう!――
『――どうして……あなたは知ってらっしゃるんです?――と彼は驚いてたずねた。
『――ひと目見ればわかりますよ。――ぼくは心にもない冷笑的な調子で答えた。――ここへはいろんな人が希望をいだいて地方から出て来て、あちこち奔走してまわりながら、これと同じような生活をしていますからね。――
『彼は急に熱くなって、くちびるをふるわせながら、訴えるように身の上話をはじめた。そして、正直なところ、ぼくの興味をひいた。ぼくはかれこれ一時間ばかりここに腰をすえていた。しかし、彼の話した身の上話というのは、ありふれたものであった。彼はさる県庁の官医であったが、あるときなにかいやなごたごたがはじまって、細君までがその中へ巻きこまれてしまった。彼は男性のプライドを示し、熱くなって憤慨した。ところが、県知事の更迭《こうてつ》とともに、形勢は敵方へ有利になった。彼は敵の陥穽に陥って讒訴され、ついに職を失った。で、最後の金を投じて、身の明かしを立てるためにペテルブルグへやって来た。ペテルブルグは人も知るごとく、こんな人閧のいうことを長く聞いている所ではない、ひととおり聞き終わると、ぽんとはねつける。それからまたいろいろな約束でつっておいて、その次にはなにかおそろしくやかましいことをいいだし、始末書をかけと命令する。そして最後に、その書いたものを採用するわけには行かないから、願書を差し出せという、――こんなふうで、彼はもう五か月も走りまわって、持ち物はすっかり売り食いしてしまった。わずかぽかり残った妻の衣類まで、質に入れてあるような始末、そのうちに子供が生まれた。ところが……「きょうはさし出した願書を、きっぱり突き返されてしまいました。そして、わたしはパンすらもっていません、ほんとうの無一物です。おまけに赤ん坊は生まれるし、わたしは、わたしは……」
『彼はいすからとびあがって、そっぽを向いてしまった。妻は片隅で泣いているし、赤ん坊はまたもや悲しげに叫びだした。ぼくは手帳を取り出して書きとめた。書き終えて座を立ったとき、彼はぼくの前に突っ立って、不安げな好奇心をもってながめていた。『ぼくはこれにあなたのお名と――こうぼくは彼に向かっていった。――そのほか勤務してらした土地とか、県知事の名とか、月日とかを書きとめておきました。じつはぼくの学校時代からの友達で、バフムートフというのがありますが、この男の叔父さんでピョートル・バフムートフてのは、はぶりのいいりっぱな官吏で、某局の長官をしていますから……――
「ピョートル・バフムートフですって?――医師は身震いせんばかりに叫んだ。-わたしの事件はほとんどあの人の意志ひとつで、どうともなるんですよ!――
『実際において、たまたまぼくが助力することとなったこの医師の事件とその解決は、万事とんとん拍子にうまく運んでいった。まるで小説かなんぞのように、わざとはじめから用意してあるようだった。ぼくはこの哀れな人々に向かってこういった、――ぼくに対してなんの希望をもかけないようにしてほしい、ぼく自身あわれな中学生だから(ぼくは自分の零落をわざと誇大した。なぜなら、ぼくはもう学校を卒業しているから、中学生ではないのである)、ぼくの名前なんか知らせるほどのことはない、ぼくはこれからすぐヴァシーリエフスキイ島の友人、バフムートフのところへ出かけようと思う。ぼくの確聞するところによれば、叔父の四等文官は独身もので子がないところから、甥を自分の一族における最後のひとりとして無性にあがめたてまつって、ばかばかしいほどかわいがっているから、「もしかしたら、この友達があなたがたのため、またぼくのために、なんとかしてくれるかもしれません、もちろん叔父さんの力を借りてですよ……」といった。
『――もうただ閣下に事情を話すことさえ許してもらえたら……ただもう口頭で弁明する光栄さえ得るならば!――と彼は熱病やみのようにふるえながら、目をぎらぎら光らせて叫んだ。
『彼はじっさい「光栄」といったのである。ぼくは最後にもう一度、事件はきっとこわれてしまって、何もかも無意味な努力となるに相違ないから、もしぼくが明朝ここへやって来なかったら、すなわち万事休したものと見て待たないでくれ、こうくりかえして辞し去った。ふたりはいっしょうけんめいに頭を下げながら、ぼくを見送った。ふたりともほとんど正気を失っていた。ぼくはこの時のふたりの顔の表情をけっして忘れはしない。ぼくは辻馬車を雇ってすぐヴフンーリエフスキイ島さして出かけた。
『ぼくは中学時代にはこのバフムートフと、いく年かのあいだつねに敵対関係にあった。クラスでも彼は貴族組であった。すくなくともぼくはそう呼んでいた。りゅうとしたなりでおかかえの馬車に乗って来たものだ。しかし、いささかも高ぶるようなことはなく、いつも優れたクラスメートで、いつも思いきってのんきなほうで、どうかするとおそろしく気の利いたことをいうこともあった。しかし、つねにクラスの首席を占めていたにもかかわらず、けっして才気縦横というたちではなかった。ぼくにいたっては何にかけても、第一番の成績など取ったことがなかった。ぼくひとりを除けば、学友はすべてこの男を愛していた。このいく年かのあいだに、彼は何べんもぼくに接近しようとしたが、ぼくはそのたびに気むずかしい、いらいらした調子でそらしてしまうのであった。今はもうかれこれ一年ばかりも彼に会わない。彼は目下、大学に籍をおいている。八時すぎにぼくが彼の寓居を訪れたとき(侍僕がぼくの来訪を取り次いだりなんかして、すつかり本式である)、彼ははじめびっくりしたように、てんで愛想を見せようともしないでぼくを迎えたが、すぐにはしゃぎ出して、ぼくの顔をながめながら、急にからからと笑いだした。
『――チェレンチエフ君、なんだってきみはぼくんとこへやって来たんだね?――彼はいつも持ち前の少々失礼なくらいだが、けっして人を怒らせることのない、愛嬌のいいうち解けた調子でこう叫んだ。ぼくはこのたくみな調子を愛しもすれば、また憎みもしたのである。――しかし、いったいどうしたんだい?――と彼はおびえたように叫んだ。――きみ、病気でもしてるのかい?――
『せきはまたしてもぼくを悩ましはじめた。ぼくはいすの上へ倒れかかったまま、息を継ぐのがやっとだった。
『――心配しないでくれたまえ、ぼくは肺病なんだから、――とぼくはいった。――ところで、今夜はお願いがあって来たんだがね。――
『彼はびっくりしたように席に着いた。で、ぼくはさっそく例の医師の一件を物語って、きみは叔父に対してたいへん勢力を持っていることだから、なんとかしてもらえるだろうと思って来たのだ、といった。
『――そりゃするとも、きっとするよ、あすにもすぐ叔父のところへ行って来よう。ぼくはかえって嬉しいくらいだよ。それに、きみの話があんまりうまいもんだから……だが、きみ、それにしても、どうしてぼくんとこへ来ようなんて思いついたんだね?――
『――それはこの事件が、きみの叔父さんの考えひとつで、どうでもなるんだものね。そのうえに、きみとぼくとはいつも敵同士だったろう。ところが、きみは高潔な人だから、敵の頼みをはねつけるようなことはすまいと思ったのさ。――とぼくは皮肉を含んだ調子でいった。
『――ナポレオンがイギリスに対したごとくにかね?――と彼は哄笑一番しながら叫んだ。――するとも、するとも! できうるならば今すぐでも行くよ!――ぼくがまじめな、いかつい様子をして立ちあがるのを見て、彼はあわててこうつけ足した。
『はたしてこの事件は思いがけなく、それ以上は望めないほどうまく運んだ。一か月半ののち、医師は別の県で職を授けられ、旅費のほかに補助金までもらうことになった。ぼくのひそかに見るところによれば、バフムートフは非常に足しげく医師のもとへかよって(そのくせ、ぼくはそのとき以来わざと彼の家を遠ざかって、彼がときどきぼくのもとへかけつけて来ても、ほとんど木で鼻をくくったようにあしらった)、医師が金を借りるまでに仕向けたらしい、ぼくはこの六週間のあいだ、バフムートフと二度ばかり会ったが、三度目に会ったのは医師の送別会の席であった。この送別会はバフムートフが自分の家で催したので、シャンパンつきの正式な宴会であった。医師の妻も出席したが、赤ん坊が気にかかるので、すぐ帰ってしまった。それは五月はじめの明るい夕方だった。大きな太陽の玉が入海に没せんとしていた。バフムートフはぼくを家まで送ってくれた。ぼくたちはニコラーエフスキイ橋を渡って行った。ふたりともかなり酔っていた。パフムートフは事件がりっぱにおさまって、嬉しいかぎりだといい、ぼくに感謝を表した。そして、ああいう善根を施したあとの今は、非常に愉快だということをうち明けて、この手柄もみんなぼくのものであると主張し、現今多くの人が個人的の善行を無意味だと教えるが、あれは間違った説である、と気焔を吐いた。ぼくも無性にしゃべりたくなってきたので。
『――個人的な慈善をそしるのは、――といいだした。――つまり人間の自然性をそしり、個人的自由を侮蔑することになる。しかし、組織だった「社会的慈善」と、個人の自由に関する問題は、二つの異なれる、とはいえ、たがいに相反撥することのない問題なんだ。個人としての善行は、いつまでも存在を絶たないだろう。なぜなら、それは人性の要求なんだから。一つの個性が他の個性に直接の感化を与えようとする、いきた要求なのだからね。モスクワにひとりのおじいさんがいた。「将軍」といわれているが、ほんとうはドイツふうの名前を持った四等文官なのさ。この人は一生涯、監獄や犯罪人のあいだをかけずりまわっていた。どんなシベリア行きの囚徒の組でも、この「おじいさんの将軍」が、|雀が丘《ヴォロビョーヴィエ・ゴールイ》へ自分らを訪問に来るってことを、あらかじめちゃんと承知していたものだ。この人はこういう仕事をきわめてまじめに、敬虔な態度でやったそうだ。まず囚徒の列前に現われて、しずしずとそのそばを通って行く。囚徒らが四方から取り巻くと、おじいさんはひとりひとりの前にとまって、その欲するところを聞いてやる。しかも、訓示めいたことはけっしてだれにもいわず、みなの者に「いい子だ」てなことをいってやるんだそうだ。そして、金を恵んでやったり、日常の必需品――靴下代用布《ポルチャンカ》だの、巻き脚絆だの、麻布だのを送ってやったり、ときとすると聖書を持って行って、字の読めるもののあいだに分けてやることもある。それで、字の読める連中はみちみち自分で読むし、また読めない連中は読めるものから聞かしてもらうだろう、と信じきって疑わないのさ。囚人が自分から話しだせば、とっくり聞いてやったが、自分から囚人の罪を問いただすようなことはめったにしなかった。この人の前へ出ると、あらゆる囚徒は対等で応対して、すこしも上下の差別がないんだ。こっちから兄弟かなんぞのように話しかけるものだから、囚徒のほうでもしまいには、自然おとうさんのように思われてくるのさ。もし囚徒の中に赤ん坊を抱いた女でもいると、おじいさんはそばへやって来て子供をあやし、子供が笑いだすまで指をぱちぱち鳴らすんだそうだ。永年のあいだ死ぬまぎわまで、こういうふうにやりつづけたので、しまいにはロシヤぜんたい、シベリアぜんたい――つまり囚人仲間ぜんたいが、この人のことを知るほどになった。シベリアへ行ったことのあるひとりの男が、自分で見たといってぼくに話して聞かせたが、はらわたまで悪党根性のしみこんだ囚徒が、ときどきこの「将軍」を思い出すことがあるそうだ。そのくせ「将軍」は流刑隊を訪ねて行っても、ひとりあたま二十コペイカ以上わけてやることはほとんどなかったそうだ。そりゃもちろん熱烈とかまじめとか、そんな思い出しかたじゃないけれど、あるとき、いわゆる「不仕合わせな連中(無期徒刑囚を指すロシヤ民間の言葉)』のひとりで、ただただ自分の慰みのためのみに二十人ばかりの人を殺し、六人の子供を斬ったとかいう男が(こんなのもよくいるそうだ)、とつぜんなんのためというでもないのに、二十年のあいだあとにもさきにもたった一度、「なあ、あのおじいさんの将軍はどうしたろう、まだ生きてるかしらん?」と溜息をつきながらいったそうだ。そのときたぶん、にたりと笑ったくらいのことだろう――ただそれだけのことなんだ。しかし、この男が二十年間忘れないでいた「おじいさんの将軍」によって、いかなる種子がこの男の胸へ永久に投じられたか、きみにはしょせんわからないだろう? こうした人と人との交流が、交流を受けた人の運命にいかなる意味を有しているか、きみにはとてもわからないだろう?………そのあいだには、ほとんど一個の独立の人生が含まれている、われわれの目には見えない無数の脈が分派しているのだ。非常に優れた、非常に鋭敏な将棋さしでさえ、勝負の道筋はたった五つか、六つしか予察することはできない。あるフランスの将棋さしが勝負の道筋を十も予察することができるといって、奇跡みたいに書いたものを読んだことがあるが、しかしわれわれに知れない道筋は、いくつあるかわかりゃしない。人は自分の種子を、自分の善行を、自分の慈善を(いかなる形式でもかまわない)、他人に投げ与えるとき、その相手は自分の人格の一部を受けいれることになるんだ。つまり、その人たちは相互に交流することになるんだ。いますこし注意を払ったなら、りっぱな知識というより、むしろ思いがけない発見をもって報いられる。つまり、その人はついにかならず自分の仕事を、一種の学問として取り扱うようになる。そして、その仕事はその人の全生涯をのみつくし、かつ充実させるに相違ない。また一方から見ると、その人のいっさいの思想-その人によって投じられたまま忘れられていた種子が、ふたたび血肉を付せられて生長する。なぜなら、授けられたものが、さらに別な人間にそれを伝えるからだ。もしこうしたふうの多年の労苦や知識が積もって、その人が偉大な種子を投げるようになったら、つまり、偉大な思想の遺産を、世界に残すことができるようになったら……――こんなふうのことを長々とぼくはそのときしゃべった。
『――それだのに、もしきみは現世において、それを行なうことを拒絶されてるのだと考えると、じつに!――だれかをなじるような調子で、バフムートフは熱くなって叫んだ。
『このときぼくらは橋の上に立って、欄干にもたれなからネヴァ河をながめていた。
『――ねえきみ、いまぼくの頭に浮かんできたことがわかるかね?――とぼくはなお低く欄干の上に屈みかかりながらいった。
『――いったいきみは川ん中へ飛びこもうとでも思ってるのかい?――とバフムートフはほとんどぎょうてんせんばかりに叫んだ。たぶんぼくの思想を顔色に読んだのであった。『――いや、今のところ、まだこう考えてるだけなんだ。ぼくの余命は目下二、三か月、あるいは四か月かもしれないが、かりに二か月しかないとして、ぼくが一つの善根――非常な労苦やわずらわしい奔走を要求する、いわば今度のドクトル事件のようなのを、施したくてたまらなくなるとする。ところが、そんな事情であってみれば、余命の不足なためにこの仕事を断念して、自分の手に合った[#「手に合った」に傍点]すこし小ぶりな「善根」をさがさなくちゃならない(もちろん、それは慈善をしたくてたまらなくなったときの話だがね)。ね、じっさいおもしろい考えじゃないか!――
『かわいそうに、バフムートフはひどくぼくのことを心配して、家まで送り届けてくれた。そして、どこまでも気をきかして、一度も慰藉の言葉を口にせず、ほとんどしまいまで黙りきりだった。別れるまぎわに、彼は熱意をこめてぼくの手を握りしめ、ぼくを見舞うことを許してくれとこうた。ぼくはそれに答えて、もし彼が「慰問者」としてぼくを訪ねるのなら(なぜというに、よし彼が黙っているとしても、やはり彼はぼくを慰めるために来るに相違ない)、その行為によってますます痛切に死を自覚させることになる。こういってやったら、彼はあきれたように肩をすくめたが、それでもぼくの説に同感した。ふたりは自分でも思いがけないほど、慇懃に別れを告げたのである。
『けれどこの晩、ぼくの「最後の信念」の最初の種子が投じられた。ぼくは渇したもののように、この新しい[#「新しい」に傍点]思想に飛びかかって、むさぼるようにその思想のあらゆる陰影、あらゆる形態を研究し、ひと晩じゅうまんじりともしなかった。そして、より深くその思想に沈潜し、より多く自分の心へ吸収するにしたがって、ぼくはますます寒心せざるを得なかった。ついに恐ろしい畏怖の念がぼくを襲って、その後、いく日か心を去らなかった。この絶え間なき畏怖の念を凝視しているうちに、ときどきぼくは別な恐怖のため、全身氷のようになることがあった。なぜというに、この畏怖の念から推して、ぼくの「最後の信念」があまりに深く心内に食い入って、かならず解決を得なければやまぬだろうと論結することができたからである。しかし、解決のためには決断力が欠けていた。ところが、三週間たって、いっさいのことはきれいに片がついた、決断力も生じた。けれども、それはきわめて奇怪な事情のおかげだったのである。
『ここですべての原因を、数学的な正確さをもって述べておこう。もちろん、ぼくにとってはどうだって同じようなものの、しかし今[#「今」に傍点](もしかしたら、この刹那だけかもしれないが)、すべてぼくの行動を批評する人たちに、この「最後の信念」がいかなる論理の演繹《えんせき》から生じたかを知らせたいのである。ぼくはたった今こう書いておいた。すなわち、ぼくの「最後の信念」を実行するに欠けていた断固たる決心は、ぜんぜん論理的演繹のためでなく、なにかしら奇怪な衝動のために――事件の進行とはなんの関連もない、偶然な事情のために生じた、と書いておいた。十日ばかり前、ラゴージンがちょっとした用事でぼくを訪問した。どんな用事か、くだくだしく書くのも無駄である。ぼくはその前ラゴージンに会ったことはないが、うわさはずいぶん聞いていた。自分に必要なことを聞いてしまうと、彼は間もなく帰って行った。つまり、彼が来たのは、ただ聞き合わせのためであるかち、ぼくらふたりの関係はそれきり絶えてしまったわけである。しかし、彼は非常にぼくの興味をそそったので、ぼくはその日いちんち奇妙な思想に支配されていた。ついに翌日、自分のほうから彼のところへでかけ、訪問をかえそうと決心するに至った。ラゴージンはあまりぼくを好まないと見えて、もうこのうえの交際をつづける必要はないと、「婉曲に」ほのめかしたほどである。が、それにしても、ぼくは非常におもしろい一時間を過ごした。おそらく彼も同様であったろう。
『ぼくらふたりはたがいに(ことにぼくの目から見れば)、心づかずにいられないほど激しいコントラストをなしている。ぼくはすでに自分の日を数えつくした人間であり、彼は最も充実した生活をし、現在の刹那に生きている男である。彼はけっして「最後の演繹」であろうとなんであろうと、自分の……自分の……まあ、狂熱とでもいっておこうか……自分の狂熱の原因に関係のないことは、考えようともしない。無礼な表現であるが、自分の思想を表白することのできない三文文士として、ラゴージン君にゆるしてもらわなければならぬ。彼はいたって無愛想であるにもかかわらず、賢い人間のように思われた。そして、「例のひと」以外のものには、すこしも興味を感じないけれど、いろんなことを理解しうるらしい。ぼくは自分の「最後の信念」を彼に匂わしたわけではないが、なんだかぼくの話を聞いているうちに、ほぼ察したらしかった。彼はしじゅう黙りこんでいた、じつにおそろしい無口な男である。ぼくは彼に向かって、ふたりのあいだには大変な相違があるし、性質も両極端をなしているにかかわらず Les extremites se touchent(両極端は相一致す)ということもあるから(ぼくはこれをロシヤ語で説明してやった)、彼も見受けるところ、ぼくの「最後の信念」にさして縁遠くないらしい、というふうなことをほのめかしてやった。その言葉に対する返事として、彼は気むずかしい渋い顔をしながら立ちあがって、まるでぼくが辞し去ろうとでもいったかのように、自分でぼくの帽子をさがし出し、礼儀のために見送るようなふりをして、ていよく自分の陰気な家からぼくを追ん出してしまった。ところで、彼の家はぼくに一驚を喫せしめた。まるで墓場である。彼はそれがかえって気に入ってるらしい。しかし、これはもっともな話である。彼のいま経験している生活は、家の装飾などを必要とするには、あまりに充実しすぎているからである。
『このラゴージン訪問は非常にぼくを疲れさした。それでなくとも、ぼくは朝のうちから気分が悪かったので、夕方になるとひどく力抜けがして、寝台に横たわった。ときおり激しい熱がして、どうかすると、うわごとさえいうほどになった。コーリャは十一時までそばにいてくれた。とはいえ、ぼくは彼のいったことも、ふたりで話したこともすっかり覚えている。しかし、ほんのしばらくのあいだ目を閉じていると、すぐ例のスーリコフが何百万という金をもらった夢を見るのであった。彼はこの金をどこへ置いていいかわからないで、しきりに頭を悩ましている。もしや盗まれやしないかと思って、びくびくものなのである。で、とうとう土の中へ埋めることに決めた。ぼくはそんな大金をむなしく土中に埋めるよりも、その金貨で凍え死んだ赤ん坊のために金の棺を鋳たらよかろう、そして、そのためには、赤ん坊を掘り出さなければならぬ、と忠告した。スーリコフはこの冷やかしを感涙にむせびながら受けいれて、すぐさま実行に着手した。ぼくはぺっと唾を吐いて、そのかたわらを立ち去った。ふとわれに返ったとき、コーリャの確言するところによると、ぼくはこのあいだずっと、すこしも眠らないで、彼を相手にスーリコフの話をしていたそうである。ときどきぼくは非常に悩ましく、もの狂おしい気持ちになったので、コーリャはひどく心配しながら帰って行った。ぼくがそのあとで、自分で戸に鍵をかけようと思って立ちあがったとき、とつぜん一つの画面が脳裏に浮かんだ。それはきょうラゴージンの家でもいちばん陰気な広間の鴨居にかかっていたものである。そばを通り過ぎるとき、主人公みずから指さしてくれたので、ぼくは五分ばかり、その前に立っていた。それは芸術的に見て、べつにいいと思うところはすこしもなかったが、しかしなにかしら妙な不安を、ぼくの心中に呼びさました。
『この絵には、たったいま十字架からおろされたばかり[#「ばかり」に傍点]の、キリストが描かれてあった。画家がキリストを描くときには、十字架に乗っているのでも、十字架からおろされたのでも、どちらも同じように、顔面に異常な美の影をとどめるのが、常套手段となっているようである。彼らはキリストが最も恐ろしい苦痛を受けているときでも、この美を保存しようと努めている。ところが、ラゴージンの家にある絵は、美なんてことはおくびにも出していない。これは十字架にのぼるまでにも、十字架を背負ったり、十字架の下になって倒れたり、傷や拷問や番人の鞭や愚民の笞《しもと》を受けたりしたあげく、最後に六時間の十字架の苦しみ(すくなくとも、ぼくの勘定ではそれぐらいになる)を忍んだ、一個の人間の死骸の赤裸裸な描写である。それにじっさい、たったいま十字架からおろされたばかり[#「ばかり」に傍点]の、まだ生きた温みを多分に保っている人間の顔である。まだどの部分も硬直していないから、いまでもまだ死骸の感じている苦痛が、この顔にのぞいているようにさえ見える(この感じは画家によってたくみにつかまれていた)。そのかわり、顔は寸毫の容赦もなしに描かれてある。そこには自然があるのみだ。まったくどんな人にもせよ、ああした苦しみのあとでは、あんなふうになったに相違ない。ぼくの知るところによると、キリスト教会では教祖の苦痛は形式的のものでなく、実際的のものだと古代から決定しているそうである。したがって、彼のからだも十字架の上で十分、完全に、自然律に服従させられたに相違ない。この絵の顔は鞭の打擲《ちょうちゃく》でおそろしくくずれ、ものすごい血みどろな打ち身のためにはれあがって、目は開いたままで、瞳をやぶにしている。大きな白目はなんだか死人らしい、ガラスのような光を帯びていた。しかし、不思議なことに、この責めさいなまれた人間の死骸を見ているうちに、一つの興味ある風変わりな疑問が浮かんでくる。もしちょうどこれと同じような死骸を(またかならずこれと同じようだったに相違ない)、キリストの弟子一同や、未来のおもなる使徒たちや、キリストを慕って十字架のそばに立っていた女たちや、その他すべて彼を信じ崇拝した人々が見たとしたら、現在、こんな死骸を目の前に控えながら、どうしてこの殉教者が復活するなどと、信ずることができようか? もし死がかように恐ろしく、また自然の法則がかように強いものならば、どうしてそれを征服することができるだろう、こういう想念がひとりでに浮かんでくるはずだ。生きているうちには「タリタ・クミ(娘よ、われ汝に命ず、起きよ)」と叫んで、死せる女を立たせ、「ラザロよ来たれ」といって死者を歩ましなどして、自然を服従させたキリストさえ、ついには破ることのできなかった法則である。それをどうして余人に打ち破ることができようぞ! この絵を見ているうちに、自然というものがなにかしら巨大な、貪婪あくなき唖の獣のように感じられる。いや、それよりもっと正確な――ちょっと妙ないいかただが、はるかに正確なたとえがある。ほかでもない、最新式の大きな機械が、無限に貴く偉大な創造物を、無意味にひっつかんで、こなごなに打ち砕き、なんの感動もなしににぶい表情でのみこんでしまった、というような感じが、この絵に現われた自然である。ああ、この創造物こそは自然ぜんたいにも、その法則ぜんたいにも、地球ぜんたいにも換えがたいものなのである。いや、かえって地球はただただこの創造物の出現のためにのみ、作られたのかもしれない。この絵によって表現されているものは、つまり、いまいったようないっさいのものを征服しつくす、暗愚にして傲慢な、無意味にして永久な力の観念であるらしい。この観忿はおのずと見ているものの心に伝わってくる。絵の中にはひとりも出ていないが、この死骸を取り巻いていたすべての人は、自分の希望、いな、表現ともいうべきものを、ことごとく一時に粉砕されたこの夕べ、恐ろしい悩みと動乱を心に感じたに相違ない。もちろん、みんなめいめい、どうしても奪うことのできない偉大な思想を得たでもあろうが、しかし彼らは言語に絶した恐怖をいだきつつ、その場を去ったに違いない。もし教祖自身もこうした姿を刑の前夜に見ることができたなら、はたしてあれと同じ態度で十字架にのぼり、あのとおり従容《しょうよう》として死についたろうか? こうした疑念も、この絵を見ているうちに、しぜんと心に浮かんでくる。
『あるいはまったく悪い夢にうなされたのかもしれないが、こんなことがちぎれちぎれに浮かんできて、ときにはまざまざと姿まで目に映るのだった。こんなことがコーリャの帰ったのち、一時間半もつづいた。姿なきものが姿を現わして、心に浮かぶことがありうるのだろうか? しかしぼくはときとすると、あの限りなき暴虐の力が――あの唖つんぼの暗愚なあるものが、奇怪な想像もできないような形を帯びているのを、目に見るように思われた。だれだかろうそくを持った男がぼくの手を引いて、大きないやらしいふくろぐもみたいなものを指さしながら、これがその暗愚にして万能なあるものだと言い張って、憤るぼくを冷笑した、そんなこともあったと覚えている。ぼくの部屋の聖像の前には、あかしが毎晩ともされる、――その光はもうろうとして弱々しいけれど、なんでも物のけじめはつくし、すぐ下なら本を読むことさえできる。かれこれ十二時すぎたころらしかった。ぼくはすこしも眠くないので、目をあけて横になっていると、急に部屋の戸があいて、ラゴージンが入って来た。
『彼は部屋に入ると戸をしめて、無言のままじろりとぼくをながめ、燈明のほとんど真下にある、片隅のいすのほうへ、静かに歩き出した。ぼくは非常に驚いて、ながめていた。ラゴージンはテーブルにひじをついて、だんまりでぼくを見つめはじめた。こうして二分か三分たった。彼の沈黙はおそろしくぼくを侮辱し、いらだてたように覚えている。なぜ彼はものをいおうとしないのか? もちろん、彼がこんなに遅くやって来たのは、妙に思われぬでもなかったが、どういうわけか、このことではさほど驚かなかった。それどころか、けさぼくは自分の思想をはっきりいわなかったけれど、彼がそれを悟ったのはよくわかっている。ところで、この思想たるや、いかに夜がふけようとも、いま一度そのことについて、ぜひ話しに来なくてはならないような性質のものである。そこで、ぼくは彼がそのために来たのだなと思った。この朝、ぼくらふたりはいくぶんにらみ合いの姿で別れた。そして、彼が二度ばかり非常に冷笑的な目つきで、ぼくをながめたのさえ覚えている。この冷笑を今も彼の目つきに読むことができた。それがぼくをいらだたしたのである。しかし、これがほんとうのラゴージンであって、幻覚でも夢でもないということは、はじめから毛頭《もうとう》疑いをはさまなかった。そんな考えさえもおこらなかった。
『そのあいだ彼はやはりじっとすわったまま、いぜんたる嘲笑を浮かべて、ぼくを見つめている。ぼくは憎々しげに床の中でくるりと向きを変え、同じように枕にひじをつきながら、たとえしまいまでこうしていてもかまわない、やはりだんまりでいてやろうと腹を決めた。なぜかしらぬが是が非でも、彼のほうからさきに口をきらせたかったのである。なんでもこんなふうで二十分ばかりたったらしい。ふと、これはことによったらラゴージンでなく、ただの幽霊ではあるまいか、という考えがとつぜん頭に浮かんだ。
『ぼくは病中にもまたその前にも、いまだかつて幻覚を見たことがない。しかし、ぼくは子供の時分から、また今でも、ついちかごろでも、もしただの一度でも幻覚を見たら、即座に死んでしまうような気持ちがした。ぼくはいかなる幻覚をも信じないが、それでもこんな感じがするのであった。しかし、これはラゴージンでなくて、ただの幻にすぎないという考えが、脳中にひらめいたとき、ぼくはすこしも驚かなかったように覚えている。それのみか、むしろかんしゃくをおこしたくらいである。まだ不思議なことには、はたして幻覚であるか、もしくはラゴージン自身であるかという問題の解決は、なぜかすこしもぼくの興味をひかないうえに、当然感じそうな不安をもよびおこさなかった。ぼくはあのときなにか別のことを考えていたような気がする。それよりか、けさほど部屋着に上靴をはいていたラゴージンが、なぜ今は燕尾服に白いチョッキをきて、白いネクタイをしてるのかしら、といったような疑問のほうが、はるかに強くぼくの心をしめた。またこんな想念も心をかすめた。もしこれが幻であって、しかもぼくがそれを恐れないとすれば、ぼくはどうしても立ってそばへ近寄り、自分で真偽を確かめなければならない。しかし、ぼくは勇気が足りず、こわがっていたのかもしれない。ところが、ややあって「おれはほんとうにこわがっているな」と考えつくやいなや、とつぜん総身を氷でなでられる思いがした。ぼくは背筋に寒けを感じ、ひざがわなわなふるえだした。この瞬間、ぼくの恐怖を察したかのように、ラゴージンは今までひじつきでいた手を引いて身を伸ばし、今にも笑いだしそうに口を動かしはじめた。そして、しつこくぼくを見つめるのであった。憤怒の念はぼくの全身を襲った。で、憤然として飛びかかろうとしたが、はじめ自分からさきに口をきるまいと誓ったので、そのまま寝台の上でじっと辛抱していた。そのうえ、これがはたして本物のラゴージンかどうか、まだやはり確かでなかった。
『この状態がどれくらいつづいたか、正確に覚えていない。またときおり意識を失ったかどうか、これもはっきり記憶していない。ただ一つ覚えているのは、ついにラゴージンが立ちあがって、さっき入ったときと同じように、そうっと注意ぶかくぼくを見つめたのち(もうにたにた笑いはやめてしまった)、ほとんど爪立《つまだ》ちといっていいくらい静かに出口に近寄り、戸をあけてしめ、そのまま出て行ったことだけである。ぼくは寝床から起きださなかった。ぼくは長く目を見張ったままじっと横になって、しきりに考ていた[#「考ていた」はママ]が、それが時間にしてどのくらいであったか、覚えていない。いったいなにを考えていたのやらかいもくわからない。またどういうふうに意識を失ったか、これも覚えがない。翌朝九時すぎに、