ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP385-408

もって取り返しをつけるからいい』とこう考えるからだよ……」
 ラゴージンは聞き終わって、高らかに笑った。
「おい、どうだね、公爵、おめえも自分でなにかの拍子に、そんな女の手に落ちたことがないかい? おれはおめえのことでちょっと聞きこんだことがあるんだが、ほんとうだろうかな?」
「何を、何をきみは聞いたんだい?」公爵はぴくりとして、なみなみならぬ狼狽のさまを示しながら立ちどまった。
 ラゴージンはなおも笑いつづけた。彼はいくぶんの好奇心と満足を覚えたらしく、公爵の言葉を聞き終わった。公爵の喜ばしげな熱中した様子は、いたく彼を驚かしたが、また同時に元気をつけたのである。
「そうさ、聞いたところじゃねえ、今こそおめえの様子で、そのうわさがほんとうだってことがわかったよ」と彼はいい足した。「なあ、おめえが今のようにしゃべったことがこれまであるかい? あんな話はどうもおめえのいいそうなこってねえよ。しかし、おめえについて、ああしたうわさを聞かなかったら、こんなとこへやって来やしないさ。しかも、公園へ真夜中によ」
「ぼくはきみのいうことがちっともわからないよ、パルフェン」
「あいつがずっと以前におめえのことを話して聞かせたっけが、さっきおめえが楽隊を聞きながら、あの娘とすわってるところを見て、自分にもそれがよくわかったよ。あいつがおれに誓っていうんだ、――きのうもきょうも誓っていったよ、――公爵は、アグラーヤに猫っ子のようにほれこんでるとよ。だがな、公爵、それはおれにとっちゃ同じことさ。おれの知ったこっちゃねえ。よしんばおめえがあいつに飽きがきたからって、あいつはおめえに飽きがこねえんだからなあ。おめえも知ってるだろうが、あいつはどうしてもおめえをあの娘といっしょにしたいって、誓いまで立てたぜ、へへ!いいぐさがいいや、『それでなけりや、わたしはおまえさんといっしょにならない。あの人たちが教会へ行くと溥、わたしたちも教会へ行きましょう』だとさ。いったいこりゃなんのこったい? わけがわからない、今まで一度だってわかったことがねえ。首ったけおめえにほれてるのかしらん……もしほれるなら、なんだっておめえをほかの女といっしょにしたがるんだろう?『わたしは公爵の仕合わせなところを見たい』なんていうのを見りゃ、やっぱりほれてるんだよ」
「ぼくはこれまできみに口でもいえば、手紙にも書いたじゃないか、あれは……正気じゃないって」
 ラゴージンの言葉を、悩ましげな表情で聞き終わったとき、公爵はこういった。
「どうだかなあ! それはもしかしたら、おめえの考え違いかもしれないぜ!………もっとも、あいつはおれが楽隊からつれて帰ると、すぐいきなり結婚の日取りを自分で決めたよ。三週間たったら(もしかしたらそれよりも早く)、きっと婚礼しようというんだ。じっさいそういって誓いを立てたんだよ。胸から聖像をはずして接吻したんだからな。つまり、こういうわけだから、このことはおめえの了見ひとつできまるんだぜ。へへ!」
「それはみなうわごとだ! きみがぼくのことでいったよな、そんなことがけっしてあろう道理がない! あすぼくはきみのとこへ行って……」
「どうしてあいつが気ちがいなんだ?」ラゴージンはさえぎった。「なぜあいつはほかの人から見ると正気なのに、ただ おめえにばかり気ちがいに見えるんだい? どうしてあいつはあそこへ手紙を出してるんだろう? それに、もし気ちが いなら、あそこの人たちも、手紙の文面で気がつきそうなもんじゃねえか」
「手紙ってなんだね?」と公爵はびっくりしてきいた。
「あすこへ出してる手紙さ。あの娘によ。そして、あの娘が読んでるんだ。それとも知らないのか? ふん、それじゃ今に知れるよ。あの娘が見せてくれるから」
「そんなことほんとうになるものか!」公爵は叫んだ。
「おーい、おい! ほんとうに公爵、おめえはこの道にかけちや、まだまだ苦労が足りないぜ、ほんのひと足ふみこんだだけだよ。もうすこしたってみな、今に自分で警祭屋になって、女の一挙一動みんな探り出してしまうようになるよ。もしただ……」
「もうよしたまえ、パルフェン、そんなこともう二度といっちゃいけない!」と公爵は叫んだ。「ねえ、パルフェン、ぼくはいまきみの来るちょっと前に、ここをぶらぶらしていたが、急に大声で笑い出した。なにがおかしかったのか、ぼくもわからない。しかし、そのきっかけとなったのは、あすがわざとのようにちょうどぼくの誕生日に当たる、とこう思いついたからさ。が、もうかれこれ十二時だろう。いっしょに行こう。行って、その日を迎えよう! ぼくんとこに酒があるから、酒でも飲んで、そして、いま自分でも何を望んでるかわからないものを、ぼくのために望んでくれたまえ。ぜひきみから望んでもらいたいのだから。ぼくもきみのために十分な幸福を望むよ。だけど、十字架をもどしてくれなんていうのじゃないよ! またきみだってその翌日、ぼくに十字架を送り返しはしなかったじゃないか! 今もきみの胸にかかってるんじゃないか? かかってるだろう?」「かかってる」とラゴージンは答えた。「じゃ、出かけよう。ぼく、きみがいなくちゃ、新しい生活を迎える気になれない。まったくぼくの新しい生活がはじまったんだからね? きみ知ってるかい、パルフェン、ぼくの新しい生活がきょうはじまったんだよ?」「今こそおれの目にも見える。おれにもわかる。たしかにはじまったんだ。あいつ[#「あいつ」に傍点]にそう知らしてやろうよ。おめえはまったく夢中だぜ、公爵!」

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 ラゴージンとつれだって、自分の別荘に近寄ったとき、あかあかと燈火の輝く露台に多くの人々が集まって、がやがやと騒いでいるのを見て、公爵はひとかたならず驚いた。愉快げな一座は大声に話したり、笑ったりしている。どなるような声を立てて口論しているものさえあるらしい。ひと目見ただけで楽しいまどいのはじまっていることが察しられた。じっさい、彼が露台へあがって見ると、一同のものは酒を、しかもシャンパンを飲んでいるのであった。そして、多くの人人がもうかなり上機嫌になっているところを見ると、酒宴はだいぶまえからはじまったらしい。客はみんな公爵になじみのある人たちばかりだったが、だれも呼ばないのに。まるで招きに応じて来たかのように、一同うちそろって一時に集まったのは、いかにも奇妙だった。誕生日のことは彼自身も、ついさきほど偶然おもい出したばかりである。
「してみると、だれかにシャンパンを抜くっていったんだな。それであいつらすぐにかけつけたものと見える」と公爵のあとから露台に昇りながら、ラゴージンはつぶやいた。「おらあこのへんの呼吸をちゃんと心得てらあ。あいつらときたら、ちょっと口笛を鳴らしせえすりゃあ……」と彼はほとんど憎々しげにつけ加えた。もちろん、ついこのあいだまでの自分の生活を思い出したのである。
 一同は叫喚と祝辞をもって公爵を迎え、そのまわりをとり囲んだ。あるものはおそろしく騒々しかったが、またあるものはずっとおとなしかった。が、みんな誕生日のことを聞いて、急いで祝詞を述べるために、ひとりひとり自分の順番を待っていた。中にも二、三の人の同席は。公爵の好奇心を引いた。たとえば、ブルドーフスキイなどが、それである。が、なにより不審に思ったのは、この一座の中に思いがけなく、エヴゲーニイのまじっていることである。公爵は自分の目を信じられないような気がし、彼の姿を見たとき、ほとんど仰天せんばかりであった。
 その間に、真っ赤な顔をしたレーベジェフは、感きわまったような風つきをして、報告のため走り寄った。彼はもうだいぶいい機嫌[#「いい機嫌」に傍点]になっている。その饒舌からわかったことだが、一同はまったく自然な具合で、偶然に集まったのである。まず第一番にイッポリートが日暮れ前に到着して、非常に気分がいいからというので、露台で公爵を待つことにし、長いすに身を休めていた。つづいてレーベジェフが家族の者、すなわちイヴォルギン将軍と娘たちをつれておりて来た。ブルドーフスキイはイッポリートを送りがてら、いっしょについて来たのである。ガーニャとプチーツィンは、たぶんついさきほど通りすがりに寄ったものだろう(ふたりの来訪は、ちょうど停車場の椿事と同時刻であった)。それからケルレルが来て、公爵の誕生日のことを報告し、シャンパンを要求した。エヴゲーニイはかっきり三十分前にやって来た。シャンパンを抜いて祝賀会を開こうと極力主張したのは、コーリャであった。レーベジェフはおっと合点で、酒を出したのである。「けれど、自分のです。自分のです!」と彼はまわらぬ舌でいった。「お誕生日を祝うために自腹を切ったのです。それにまだご馳走が出ますよ、前菜《ザクースカ》があります。それは娘が世話を焼いてくれるはずです。しかし、公爵、まあいまどんな問題を論じていたとお思いなされます? そら、お覚えですか、ハムレットの『永らえるか永らえぬか?』と申すやつを?現代的の問題です、現代的の! 疑問を提出したり答えたり……チェレンチエフ氏(イッポリート)が音頭取りで……どうしても寢ようといわれません! ところで、シャンパンのほうはたったひと口、ひと口のまれたきりですから、からだにゃさわりませんよ……さ、公爵、こっちへ寄って、解決をつけてくださりませ! 皆あなたをお待ちしておりました、あなたのりっぱなお知恵を待っておりました……」
 公爵は、同じく群集を押し分けて、彼のほうへ近寄ろうと急いでいるレーベジェフの娘ヴェーラの、可憐な優しい視線に気づいた。彼はだれよりもまっさきに、彼女のほうへ手をさし伸べた。ヴェーラは嬉しさのあまりぽっと赤くなって、「この日から[#「この日から」に傍点]あなたに幸福な生活がはじまりますように」と挨拶した。それから大急ぎで台所へかけ去った。彼女はそこで前菜《ザクースカ》の支度をしていたのであるが、公爵の帰って来る前に、ちょっと仕事の暇さえあれば、この露台へ出て来た。そして、ほろ酔い機嫌の客人たちの間に絶えまなく交換されるヴェーラにとっては奇態な抽象的な問題に関する熱した議論を、いっしょうけんめいに聞いていたのである。妹娘のほうは次の部屋の箱の上で、口をあけたまま寝入っている。が、レーベジェフの息子の少年は、コーリャとイッポリートのそばに立っていた。そのいきいきした顔の表情を見ただけでも、まだぶつ通し十時間ぐらいは人々の議論を聞きながら、喜んで一つところに立ち通すつもりでいることが察しられた。
「ぼくは特にあなたを待っていたのです。そして、あなたがいかにも仕合わせらしい様子でお帰りになったのを、非常に愉快に思います」公爵がヴェーラのすぐあとで、イッポリートのほうへ握手に進んだとき、彼はこういった。
「なぜぼくが『いかにも仕合わせらしい』ってことがわかりました?」
「顔つきでわかりますよ。さあ、皆さんに挨拶をすまして、早くぼくのそばへすわってください。ぼくは特にあなたを待っていましたよ」と彼は「待っていました」にかくべつ力を入れながら、いい足した。「こんなに遅くまで起きていてさわらないでしょうか?」という公爵の注意に対して、彼は三日前になぜああ死にたくなったのか不思議なくらいだ、そして今夜ほど気分のいいことは今までになかったと、答えた。
 ブルドーフスキイも座を飛びあがって、どもりながらきれぎれに、「ぼくはその……ぼくはイッポリートをつれていっしょに来ました。同様にとても嬉しいです。あの手紙にはつまらんことを書いちまいました。今はただもう嬉しいです……」としまいまで言い終わらぬうちに、かたく公爵の手を握って、いすに腰をかけた。
 最後に、公爵はエヴゲーニイのほうへも進んで行った。こちらはすぐに彼の手を取って、
「ちょっとひとこと、あなたにお話ししたいことがあるんです」彼は小さな声でささやいた。「そして、たいへん重要な事件に関するお話なんです。ちょっとあちらへまいりましょう」
「ちょっとひとこと」とまた別な声が公爵のまた一方の耳に
ささやいた。そして、別な手が別のほうから彼の手を取った。
 公爵は驚いてそのほうを見ると、おそろしく頭のぼうぼうした男が赤い顔をして、目をぱちぱちさせながら笑っている。それがフェルディシチェンコだとはすぐにわかった。いったいどこから出て来たものやら。
「フェルディシチェンコを覚えてますか?」と彼はきいた。
「きみはどこから来たんです?」と公爵は叫んだ。
「この男は後悔しているんです」とケルレルがかけよってわめいた。「この男は隠れてたんです。われわれのところへ出るのが恥ずかしいといって、隅っこへ隠れてたんです。公爵、この男は後悔しています。自分が惡かったと感じています」
「いったいなにが悪かったんです、なんですか?」
「じつはわが輩がついさっき会って、ここへひっぱって来たんです。まったく後悔してるんです」
「たいへん嬉しいです。皆さん、さあ、あっちへ行って、ほかの人たちといっしょにすわってください、ぼくは今すぐまいります」やっといい加減にあしらって、公爵はエヴゲーニイのほうへ急いだ。
「あなたのところはたいへんおもしろいですね」とエヴゲーニイが口を切った。「ぼくは三十分ばかりあなたをお待ちしていたあいだ、大いに愉快でした。ところでねえ、公爵、ぼくクルムイシェフのほうはうまく納めてしまいました。それで、あなたをご安心させるために、寄ってみたのです。あなたすこしもご心配はいりませんよ。あの男はたいへん、たいへん冷静に事件を判断してくれました。それに、ぼくなどにいわせれば、むしろあの男のほうが悪いんですからね」
「クルムイシェフつてだれですか?」
「ほら、あのさっきあなたが、手をおつかまえなすった……じつはたいへん腹を立てて、あすはあなたのところへ人をよこして、談判するつもりでいたんですがね」
「もうたくさんです、なんてばかばかしい!」
「もちろん、ばかばかしいこってす。しかし、かならずそのばかばかしい結果を見るはずだったんですが、こういうふうの人たちは……」
「ですが、あなたはたぶんまだなにかほかの用事でおいでになったのでしょう、エヴゲーニイ・パーヴルイチ?」
「おお、むろん、まだなにか用事があるんです」と、こちらはからからと笑った。「ぼくはねえ、公爵、あす引明け早々、あのとんでもない事件(それ、あの伯父のこと)でペテルブルグへ出かけます。まあ、どうでしょう。あれはすっかりほんとうで、ぼくひとりをどけたほか、みんなもう知ってるじゃありませんか。ぼくはじつにもう仰天してしまって、あそこ[#「あそこ」に傍点]へ、――エパンチン家へも行くすきがなかったくらいです。あすもやはり行きません、あすは向こうで滞在しますからね、そうでしょう? たぶん三日ばかり帰れないでしょう。てっとり早くいえば、ぼくの仕事に一頓挫きたしたんです。今度の事件はまったく重大なできごとではありますが、ぼくはある事柄についてきわめて露骨に、あなたとご相談しなければならん、しかも時を移さず、つまり、出発前に、――とこう考えたのです。もしご承知なら、ぼくはこの一座の散じるまで、じっとすわって待っています。それに、ぼくは今どこへも行くところがありません。すっかり気分がむしゃくしゃしちゃって、寝ることもできないのです。こんなに人を追いまわすのは失礼で済まないわけですが、遠慮なくうち明けて申しますとね、公爵、ぼくはあなたの友誼を求めに来たのです。あなたはじつに比類を絶したかたです。つまり、何をするにもまた、おそらくはぜんぜんうそをつかない人です。ところで、ぼくはある一つの事について、親友ともなり、忠告者ともなる人が必要なのです。なぜって、ぼくはまったく不幸な人間の仲間へ入ってしまいました……」
 彼はふたたび笑いだした。
「しかし、困ったことには」公爵はちょっと考えこんだ。「あなたはあの人たちが帰るまで待つとおっしゃるけれど、それはいつのことだがわかりませんよ。いっそふたりで公園のほうへおりて行きませんか。あの人たちは待ってくれますよ。ぼくはあやまって来ますから」
「そりゃいけません、ぼくはふたりが特別の目的をもって、なにかたいへんな話をしているように、あの人たちから思われたくないわけがあるんです。あすこには、われわれふたりの関係におそろしく興味を持ってる人がいるんですからね。あなた、それがおわかりになりませんか、公爵? ですから、たいへんな話どころではなく、まったくの親友らしい関係にすぎないことを、あの人たちから見てもらったほうが、非常に好都合です――ね? あの人たちは二時間もたったら別れて行きますから、そのときぼくは二十分ばかり、でなく
ば三十分ばかりおじゃまさしていただきましょう」
「どうとも、ご都合のよろしいように。そんなお話はなくとも、ぼくはしごく満足です。また友達づきあいというあなたのお言葉にたいして、心からお礼を申しあげます。きょうぼくがこんなにそわそわしているのをゆるしてください。じつは、ぼくどうしても注意を集中することができないんです」
「わかっています、わかっています」とエヴゲーニイは軽い嘲笑を浮かべてつぶやいた。
 彼は今晩なんでも無性におかしがった。
「何がおわかりなんですか?」と公爵はぴくりとした。
「ねえ、公爵、あなたはお気がつきませんか」と直接質問には答えず、エヴゲーニイは薄笑いをつづけた。「ぼくがここへ来たのは、あなたをだまして、そ知らぬ顔でなにか探り出そうと思ったからですよ、お気がつきませんか、え?」
「あなたがなにか探りだしにいらしったのは、そりゃ疑いもない事実です」とついに公爵も笑いだした。「それはまた少々ぼくをだましてやろうくらい、ご決心なすったかもしれません。しかし、そんなことはなんでもありません、ぼくはあなたを恐れないです、だいいち、ぼくはいまいっさいどうだってかまわないような気がするんです。まったくですよ。それに……それに、ぼくはまずなによりさきに、あなたがなんといってもりっぱな人だと信じてますから、そのうちにわれわれはほんとうに親友として、おつきあいねがうようなことになるかもしれません。エヴゲーニイ・パーヴルイチ、ぼくはあなたが気に入ったのです。あなたはたいへん、たいへん、しっかりしたかただと思います」
「いや、どんなときでも、またどんなことがらでも、あなたとお話しするのはじつに愉快ですよ」とエヴゲーニイは話を結んだ。「さ、まいりましょう。ぼくはあなたの健康のために一杯ほしますから。ですが、ぼくはわざわざあなたのところへお寄りしたのを、非常に満足に思います。あ!」と彼はにわかに足をとめて、「あのイッポリート君は、あなたのところへ逗留に来られたんですか?」
「そうです」
「あの人はまだきょうあすには死にませんね、ぼくはそう思いますよ」
「それがどうしたんですか」
「いや、その、なんでもありません。ぼくはさっき三十分ほど、あの人といっしょにすわっていたんですがね……」
 イッポリートはその間じっと公爵を待ちかねていた。そして、公爵とエヴゲーニイが脇のほうで話しているとき、絶えまなくそのふたりのほうを見やっていた。ふたりがテーブルに近寄ったとき、彼は熱病に浮かされたように活気づいてきた。しかし、なんとなく不安げで、わくわくしている。汗が額ににじみ出て、ぎらぎら光る目の中には、絶えまなく動揺しているような不安のほか、なにかはっきりしない焦躁が現われていた。その視線はあてもなく物から物、顔から顔へ移っていた。彼はいままで一座の騒々しい会話にまじって、おそろしく力を入れていたが、しかしその活気は単に熱病やみのようなものだった。それに、会話そのものにはなんの注意も払っていなかった。彼の論争はおそろしくつじつまが合わず、嘲笑的で、無考えな逆説にみちていた。たった一分前に、非常な熱をもって自分から論じはじめた問題さえ、彼は中途でほうり出してしまった。人々は、なみなみとシャンパンをついだ杯を二つまで飲みほすことを、いささかの反対もなく彼に許したのみならず、もうすこし口をつけた三つ目の杯が、彼の前に置いてあった。公爵はこれを聞いて驚きもし、悲しみもしたが、これを知ったのはずっとあとのことであった。彼は今のどころあまりものごとに気のつくほうでなかった。
「ねえ、公爵、ぼくはきょうという日があなたの誕生日に当たるのが、嬉しくてたまらないんですよ!」とイッポリートは叫んだ。
「なぜ?」
「今にわかりますよ。まあ、早くおかけなさい。第一の理由は、このとおりあなたの……お仲間が集まったからです。じつはぼくも大勢人が来るだろうと、内々あてにしてたんです。ぼく、生まれてはじめて目算が当たりましたよ! ただ残念なのは、誕生日ということを知らなかった一事です。そうと知ったら、お祝い物を持って来るんでしたのに……はは! いや、しかしぼくだってお祝いを持って来たかもしれませんよ! 夜明けまで間がありますか?」
「夜明けまで二時間もありませんよ」とプチーツィンは時計を見ながら言った。
「だが、今だって庭なら書物が読めるんですもの、夜明けもなにも要《あ》ったもんじゃありません」とだれやらこう注意した。
「しかし、ぼくはちょっと端っこだけでも太陽が見たいんですよ。太陽の健康を祝して飲んでもいいですか。公爵、いかがでしょう?」
 イッポリートはまるで号令でもくだすように、無遠慮に一同に向かって、言葉鋭くたずねるのであった。しかし、自分ではそんなことに気もつかないらしかった。
「飲みましょうかね。だけどきみ、もすこし落ちついたほうがいいでしょう、イッポリート君、ね?」
「あなたがたはのべつ、『寝ろ、寝ろ』ばかりいうんですね。公爵、あなたはぼくの乳母《ばあや》さんですか! 太陽が出て『空に響きそめ』たら、そのときすぐに寝るとしましょう――だれかの詩の中に『大空に太陽は響きそめたり』ってのがありました。無意味だが、いいですね! レーベジェフさん! 太陽はじっさい、生命の根源ですね? 黙示録の中では、『生命の根源』のことをなんといってあります? 公爵、あなたは『茵?の星』の話をお聞きになりましたか?」
「聞きましたよ、レーベジェフさんはこの『茵?の星』を、現今ヨーロッパにひろがっている鉄道の網のように解釈しているそうです」
「いいえ、失礼ですが、そんなふうにとってもらっちゃ困ります」とレーベジェフは、一座におこった笑い声を制しようとするかのごとく、飛びあがって両手を振りながら叫んだ。「失礼ですが、この人たちのように……この人たちは……」
と叫んだが、急に公爵のほうへ振りむいて、「ですが、それは、ある要点においては、その……」
 彼は無遠慮に二度までテーブルをとんとんたたいたが、そのため笑い声がますます高くなった。
 レーベジェフはごく普通ないつもの『晩酌的』機嫌でいるにすぎなかったが、今はさきほどの長い『学術的』論争のために、少々度をすごして興奮し、いらいらしていた。こういう場合、彼は非常な軽蔑を露骨にあらわして、論敵に向かうのであった。
「それはまったく思い違いです。公爵さま、わたしどもは三十分ばかり前に、こういうとりきめをしたのです。すなわち、だれかひとりものをいっているあいだは、けっして、横槍を入れない、大声で笑わない、というのは、その人に所信をことごとく自由に吐露させるためです。それがすんだあとなら、無神論者でもだれでも、思う存分弁駁するがいい、とこういうことにして、将軍を議長に選んだわけです。ところが、まあ、どうでしょう? これじゃどんなに高邁な思想、深遠な思想をいだいてる人でも、まごつかざるを得んじゃありませんか……」
「さあ、話したまえ、話したまえ、だれも横槍を入れてやしないから?」という人々の声が響いた。
「話したまえ、ただし、しどろもどろにならないように」
「いったい『茵?《いんちん》の星』ってなんですか?」とだれかがきいた。「なんのこったかちょっともわからん」いかにももったいぶ
つた様子で、さきほどまでしめていた議長の席に着きながら、イヴォルギン将軍が答えた。
「わが輩はこういう討論や興奮が大好きなんですよ、公爵。もっとも、学術的なのに限りますがね」とケルレルはたまらない嬉しさともどかしさに、いすの上で尻をもぞもぞさせながらつぶやいた。
「学術的かつ政治的なものに限るです」彼はふいに思いがけなく、自分のすぐ隣にすわっているエヴゲーニイのほうへねじ向いた。
「わが輩は新聞でイギリスの議会の記事を読むのが、たまらなく好きですよ。といっても、わが輩は政治家でないから、そこで何を論じているかということよりも、彼らが政治家としていかにふるまい、いかに議論しているかに興味があるんですよ。『反対窩に坐したる高潔なる子爵』とか、『余と意見をともにせる高潔なる伯爵』とか、『その提議をもってヨーロッパを驚かしたる高潔なる余の論敵』とか、つまりそういう表白法や、そういう自由なる国民の議員気質が、われわれにとってうらやましいです。公爵、わが輩はほとんど魅惑されるです。じつのところを申しますと、わが輩は内心の奥底において、つねに芸術的なところがありましてね、エヴゲーニイ・パーヴルイチ」
「で、それがいったいどうなんですか」とまた一方では、ガーニャが熱くなって叫んでいる。「つまり、きみの意見によると、鉄道はのろうべきものである、それは人類を滅ぼす、それは『生命の根源』を濁すために、地に堕ちた毒だというんですか?」
 ガーニヤは今夜ことに興奮して、公爵から見ると、ほとんど勝ちほこったような愉快な気分になっていた。彼はむろんレーベジェフをたきつけて、からかってみるつもりではじめたのだが、すぐに自分から熱してしまった。
「いや、鉄道じゃありません、違います!」とレーベジェフも同時に、夢中になって言葉を返した。彼はこのときなんともいえない快感を覚えたのである。「つまり、ただ鉄道のみが生命の根源を濁すのじゃありません、そういうふうのもの全体がのろうべきものです。最近、数世紀問の風潮全体、つまり科学や実際的方面の風潮が、あるいは……いや、じっさいのろうべきなのです」
「たしかにそれはのろうべきですか、それとも『あるいは』ですか。これは重大なる問題ですからね」とエヴゲーニイが聞きただした。
「のろうべきです、のろうべきです、たしかにのろうべきです!」とレーベジェフは熱くなってくりかえした。
「そんなにせきこむことはありませんよ、レーベジェフ君、きみはいつも朝のうちのほうが善良ですね」プチーツインがほほえみながら注意した。
「しかし、晩になると、そのかわり露骨です! 晩になると、真実で露骨です!」と夢中になってレーベジェフはそのほうへ振りむいた。「率直で正確で、潔白で立派です。これはつまり、自分の弱点をさらすことになるんですが、そんなことは平気です。わたしは今夜あなたがたをみんな、――無神論の人をみんな呼び出して、対決しましょう。さあ。皆さん、あなたがたはいったい何をもって世界を救おうとなさるんです、何において世界の歩むべき正当の路をさがし出しました?――あなたがたは、科学、工芸、協会、賃銀などの人ですが、何をもってこの問題を解決します? 信用ですか?そもそも信用とはなんです? 信用がわれわれに何を与えてくれますか?」
「いや、あなたはなかなか好奇心のさかんな人ですね!」とエヴゲーニイがいった。
「こういう問題に好奇心をいだかない人は、つまり、社交界のごろつき連中ぐらいなものです、わたしの意見はこうですね!」
「信用は一般人心の大同団結とか、利益の平均とかいう結果を与えてくれますよ」とプチーツィンが注意した。
「ただただそれだけです! なんらの精神的根拠も持たないで、ただ個人の利己心と物質的必要ばかり満足させようとするんですね? 一般の平和、一般の幸福は、ただ必要ということから割り出されるんですね? 失礼ですが、わたしの解釈は間違っておりませんでしょう、あなた?」
「そうです、じっさい生き、飲み、たべるという共通の要求と、それから万人の協力、お眞び利益の一致なしには、これらの必要を満足させることができないという、確固たる科学的信念、これなどは将来人類の依拠すべき見解となり『生命の源泉』となりうるに十分強固な思想だと思われますね」と熱中したガーニャはむきになって弁じた。
「飲んだり食ったりする必要は、単に自己保存の感情です……」
「しかし、いったい自己保存の感情は、そんなに小さなものでしょうか? 自己保存の感情は、人類のノーマルな原川ですよ……」
「あなたはだれからそんなことを聞きました?」ととつぜんエヴゲーニイが叫んだ。「原則ということは、そりゃほんとうです。しかし、ノーマルかもしれませんが、破滅の法則がノーマルなのと同程度です。あるいは自己破滅の法則かもしれません。ぜんたい、自己保存にばかり人類のノーマルな原則があるものでしょうか?」
「へえ!」す早くエヴゲーニイのほうへ振りむきながら、イッポリートはこう叫んで、無作法な好奇心をもって相手をながめた。しかし、エヴゲーニイの笑ってるのを見て、自分で もまた笑いだした。彼はそばに立っているガーニヤを突っついて、またしても何時かときいた。そして、コーリャの銀時計をわざわざ自分のほうへ引き寄せ、むさぼるように針を見 つめていた。やがてなにもかもみな忘れてしまったように、ぐったりと長いすに身を伸ばし、両手をうしろ頭にでいながら、天井をながめだした。三十秒ばかりたつと、彼はまた真っすぐに起き直って、テーブルに対坐し、極端に熱中したレーベジェフの饒舌に聞き入るのであった。
「人をばかにした狡猾な思想ですね。ぴりっとくる思想ですね!」レーベジェフは夢中になって、エヴゲーニイの逆説を追究した。「相手に喧嘩をしかけるつもりでいい出した思想です、―しかしほんとうのところをいってますよ! なぜって、あなたは交際じょうずな皮肉屋で、色事師ですから(といっても、まんざら才のないおかたでもありませんがね!)あなたがどれくらい深遠で正確な思想を吐露しなすったか、ご自分でもおわかりなさらんのです! さよう、自己保存の原則と自己破滅の原則は、人類に在って同じように強い力を持っております! 悪魔が神と同様な力で人類を支配しております、しかも、それがいつまでつづくか、われわれには際限が知れぬくらいです。あなたお笑いになりますか?あなた悪魔をお信じなさいませんか? 悪魔を信じないのはフランス思想で、軽薄な思想です。あなたは悪魔が何ものかごぞんじですかね? 悪魔の名前はなんというか、ごぞんじですかね? あなたがたは名前も知らないくせに、ヴォルテールのひそみにならって、ただ形式、-蹄だとか、尻尾だとか、角だとかいうものを冷笑しなさる。しかもそれは、みんなあなた自身で作り出したものじゃありませんか。悪魔は偉大な恐ろしい霊魂で、あなたがたの作り出した啼や、角などを持ってやしませんよ。しかし、いま論ずべき問題はこんなことじゃありません」
「どうしてそれがいま論ずべき問題でないってことがわかりました?」とにわかにイッポリートは叫んで、発作でもおこしたように笑いだした。
「なるほど巧妙で、暗示に富んだ質問ですよ!」とレーベジェフはほめそやした。「しかし、やはり問題はそんなことじゃありません。今のわれわれの問題は、はたして『生命の根源』は衰微しなかったか、というこってす、――その、なんの発達の影響を受けて……」
「鉄道の発達ですか?」とコーリャはどなった。
「鉄路交通発達のためじゃありません。怒りっぼいお若い衆。そうじゃない。全体の傾向をいうのです。鉄道などはただそれの縮図、もしくは芸術的表現の役目を勤めるだけです。人類の幸福のためとかいって、がやがや騒いだり、たたいたり、あわてたり、急いだりしているのです。そこでひとりの憂き世を捨てた思想家が、『人間社会がばかに騒々しく実利的になって、精神の平穏というものが少なくなってしまった』と訴えると、『そうかもしれん、しかし飢えた人類にパンを運ぶ荷車の響きは、精神的平穏よりいいかもしれない』と、いまひとりのどこへでもほうぼうへでかける思想家が、得意然として答え、虚栄満々たる顔つきをしながらそこを去ってしまう、という具合です。しかし、わたしは、――このいとうべき卑劣漢たるレーベジェフでさえ、この人類ヘパンを運ぶ荷車を信じません! なぜというに、精神的基礎なくして人類にパンを運ぶ荷車は、そのパンを運んでもらう一部の人々の快楽のために、人類の大部分をそっちのけにして、平然としているからです。それはもう前例もあることです……」
「それは、荷車が平然としてそっちのけにするんですか?」とだれかが揚げ足を取った。 「もう前例もあったことです」とそんな質問には注意も向けず、レーベジェフはくりかえした。「人類の友とかいうマルサスの例もあります。しかし、精神的基礎のぐらついた人類
の友は、人類を滅ぼす食人種です。そうした連中の虚栄心の強いことなぞは、いわずもがなです。今まで人類の友という連中は、数限りなくあったけれど、かりにだれかそのひとりの自尊心を傷つけてごらんなさい、その男はすぐ浅薄な復讐心のために、平気で四方からこの世界に火をつけますから、――もっとも、それはだれしも同じことで、われわれだってひとりひとりみなそうなんです。そして、ほんとうのところ、わたしもそうです。だれよりも卑怯なこのレーベジェフは、たぶん第一番に、薪を運んで来て、自分は遠いところへ逃げてしまいますよ。しかし、これもやはり当面の問題じゃありゃせん!」
「いったいまあ何が問題なんです?」
「あきあきしちゃった!」
「問題は何百年か前のある事件にあるのです。わたしはどうあっても、何百年か前の事件をお話しせにゃなりませんので。現今わが祖国において……皆さんはわたしと同様に、わが祖国を愛していらっしゃることと信じます。なぜと申しますと、わたしは祖国のためには、からだじゅうにありったけの血を流してしまおう、とさえ考えて……」
「それから? 早く!」
「いまできうるかぎりの統計と、記憶を基として考えてみますに、わが祖国においては西ヨーロッパにおけるごとく、全国一般にわたる恐るべき飢饉は、現今一世紀に四度、換言すれば、二十五年ごとに一度ぐらいしか見舞いません。この数字が正確かどうかは請け合いかねますが、しかし比較的きわめてまれであります」
「なんと比較して?」
「十二世紀およびその前後と比較して。なぜと申しますと、文学者たちの書いたものによると、全国にわたる大飢饉は二年に一度、すくなくも三年に一度は、わが国を見舞ったものです。かような次第で、人々は人間の肉を食うという、非常手段にさえ走りました。もっとも、それはかたく秘密を守っていたのです。こんな横着者のひとりが老年になってから、べつに大から責められたわけでもないのに、自分から進んで白状したんです。なんでも、長く貧しい生涯の中に、六十人の坊主と、普通の民家の赤ん坊を何人か、六人ほどで、それ以上ってことはない、これは非常に少ない、つまり坊さまの数に比べてですよ、ごくごく内証で手にかけて、ひとりで食っちまったそうですよ。世間普通の大人に対しては、そんな恐ろしいもくろみを実行したことがなかったそうです」
「そんなことがあってたまるもんか!」と議長自身、つまり将軍は、ほとんど憤慨にたえないような声でどなった。「みなさん、わたしはしょっちゅうこの男と議論したり、喧嘩したりします、いつもたいていおきまりの問題ばかりですがな。ところが、この男はときどき耳の痛くなるような、ほんとうらしいところのちっともない、あんなばか話を持ち出すのが、なによりも奸きなんですじゃ」
「将軍! ご自身のカルス包囲の話はどうなすったんですな。皆さん、わたしのいま申した話は赤裸々の真実です。さようご承知ください。わたし一個としても注意いたしておきますが、ほとんどすべての真実は、つねに不変の法則を持っているものの、ほとんどつねにほんとうらしくない、信じることのできないようなものです。どうかすると、現実的であればあるだけ、いよいよほんとうらしくなくなるものでしてな」
「だけど、いったい六十人の坊さんが食べられるもんですかね?」とあたりに笑い声がおこった。
「それは、いっときにいきなり食べてしまったのではありますまい、それは明瞭なことです。たぶん十五年か二十年のあいだにやったものらしいですね。それはわかりきった自然のことです……」
「自然のことですって?」
「自然のこってすよ!」と衒学的な執拗さをもって、レーベジェフはいい張った。「いろんな理由もありますが、だいいち、カトリックの坊さまは生来おせっかいでもの好きですから、森だとかなんだとか、人目の少ないところへおびき出して、まえ申したようなことをするのは、いとやすいこってすからね。しかし、その男にとって食われた人の数が、ほんとうにできないほど非常なものだったということは、どこまでも否認するわけにいきませんよ」
「それはまったくほんとうかもしれませんよ、みなさん」とふいに公爵がこういった。
 このときまで彼は無言に人々の争論を聞いていて、あえて口をいれなかった。ただしょっちゅう皆がどっと笑いくずれるあとについて、真底からおかしそうに笑っていた。見たと
ころ、彼は周囲の陽気で、騒々しいのが、嬉しくてたまらないらしかった。そればかりか、人々がむやみに酒をあおるのさえ、嬉しそうなふうであった。彼は、夜っぴてひとことも口をきかずにすわっているつもりではないかとも思われたが、とつぜんなんと思ったか口をきったのである。しかも、その口のきりかたがおそろしくまじめだったので、一同はにわかに好奇の。心をいだきながら、彼のほうをふりむいた。
「ぼくがいいたいのは、じっさいその時分、大飢饉が多かったということです。このことはぼくも聞いています。もっとも歴史はあまりよく知らないんですけれど。きっとそうだったでしょう。ぼくがスイスの山へ入ったとき、非常に驚いたのは、岩石ががたる山の坂道に建てられた古い騎士時代の城の廃墟でした。その岩は非常にけわしくて、すくなくとも垂直半露里の高さはありました(それは、つまり、小道づたいに昇ると、幾露里かあるのです)。城がどんなものであるかは、わかりきったことです。なんのことはない、石の山です。じつに想像もつかない恐ろしい工事です! そして、これはみんな当時の貧しい人たち、家来どもが建てたんです。そのうえに、こういう人たちはいろんな税を払ったり、坊さんたちを養っていったりしなければならなかったんでしょう。それにまあ、どうして自分の口すぎをして、畑を耕作することができますか! そういう人たちは、そり当時ごく人数が少なかったのですが、それはきっとかつえて死んだからに相違ありません。そして、おそらく文字どおりに、なにも食べるものがなかっただろうと思います。ぼくはこの種の人民がぜんぜん絶滅してしまうとかなんとか、そんな変事がどうしておこらなかったろう、と時おり考えることがありました。じっさいどんなふうに踏ん張って、押しこたえたんでしょうねえ? 人食いもいたでしょう、しかも大勢いたかもしれません。この点、レーベジェフさんのいうことはほんとうに違いありません。ただどういうわけで坊さまを引合いに出したのか、またそれで何をいおうとしたのか、それだけはぼくにはわかりませんが」
「たぶん十二世紀ごろには、坊さんよりほかに食べられるような者がいなかったんでしょう。なぜって、その時分は、坊さんばかり脂ぎってたんでしょうからね」とガーニャがいった。
「いやじつにりっぱな、そして正しいご意見です!」とレーベジェフは叫んだ。「まったくその男は娑婆の人間には、けっして手を出さなかったんですからね。六十人の坊主に対して、一人も娑婆の人がいなかったんですよ。まったくそれは恐ろしい歴史的な、しかも統計的な思想です。こういう事実からして、才能のある人はりっぱな文明史をこしらえあげますよ。なぜと申すに、坊主たちのほうがその当時の人類全体よりか、すくなくとも六十倍しあわせで、自由な暮らしをしていたってことが、数学的に正確になってきますので。そして、たぶん自分以外の人類ぜんたいより、すくなくも六十倍脂ぎっていたのでしょう……」
「こじつけ、こじつけ、レーベジェフさん!」とあたりの人人が声高に笑いだした。
「歴史的の思想だということも賛成ですが、しかしきみは何を結論しようというんですか?」と公爵は真顔に質問をつづけた(彼の話しぶりはおそろしくまじめで、冗談らしいところや、レーベジェフに対するあざけりは、影さえ見えなかった。で、彼の調子はこの一座のあいだにまじって、自然こっけいなものとなった。それがもうすこし激しくなったら、一同はさらにその嘲笑を彼の上に転じたかもしれぬ。けれども、彼はそれに気がつかなかったのである)。
「いったいあなたにはおわかりにならないんですか。この男は気ちがいなんですよ」エヴゲーニイは公爵のほうへかがみこんでささやいた。「ぼくはさっきここで聞きましたが、この男は弁謾士気ちがいで、弁論に夢中なんです。そして、試験を受けるつもりなんですって。見てごらんなさい、今に素敵なもじり弁論が出て来ますから」
「わたしはいま、大事件を論結しようとしてるのです」と、そのあいだにレーベジェフがどなりはじめた。「しかし、まず最初に、罪人の心理的かつ法律的状態を明らかにしましょう。まず吾人の気のつくことは、犯人が、すなわちわたしの被弁護者が、かの奇怪な行動をつづけているあいだに、ほかの食料を発見することのほとんど不可能なるにもかかわらず、この興味深い犯行の最中、いくどか後悔の念を表して、僧族を避けようとした事実があります。それはいろいろな事件に徴しても明らかであります。とにかく、彼は赤ん坊を五人か六人食べたという話です。これは数字から見れば、比較的些細なものでありますが、そのかわり別な観点からすると、重大な意味をもっています。察するところ、恐ろしい良心の呵責に苦しめられて(なぜと申しますに、わたしの被弁護者は宗教心の厚い、良心を有した男ですからね。それはわたしが証明します)、そこで、できるだけ自分の罪障を軽くするために、一種の試験として、坊主の肉に代えるに俗界の肉をもってしました。単に試験としてやってみたということ、これまた疑う余地がありません。美食的《ガストロノミック》な変化を求めたものにしては、六という数字があまりに些細にすぎるのであります。いったいどういうわけで六人にとどまって、三十人でないのでありましょう?(わたしは半数をとったのです、つまり半分半分と見たのですがね)これが単に涜神罪、すなわち教会付属物に対する侮辱の恐怖から生じた自棄的の試みであったとすれば、六という数字はじつによくわかって来るのであります。なぜならば、良心の呵責を満足させるための試みならば、六人という数は十分すぎるのであります。そのわけはこうした試験の成功しようはずがないからであります。わたしの考えまするに、赤ん坊はあまり小さくて、その、つまり大きくないもんですから、一定期間のあいだに必要な赤ん坊の数は、坊主よりも二倍、あるいは三倍になるはずであります。かような次第ですから、罪はよし一方から見て小さくなるとしても、結局、他の一方から見て、大きくなって行きます。すなわち、質でなくして、量ですね。諸君、こう論ずるに当たって、むろんわたしは十二世紀の犯人の心理に潜入しているので、わたし一個人、すなわち十九世紀の人間として見ると、あるいはまた別様な意見があるかもしれません。でありますから、皆さん、なにもわたしにそんな白い歯をお見せになる必要はないのです。将軍、あなたときたら、もうまったく無作法なくらいですよ。第二に、わたし一個人の意見としては、赤ん坊はたいして滋養になりません。そして、あるいはあまり甘ったるすぎて、自然の要求をみたすことができないうえに、あとでただ良心の呵責を残すだけかもしれません。で、今度は結論であります。この結論の中には、当時および現代において、最も大なる問題の解決が含まれているのであります。犯人は最後に坊主たちのところへ出かけて自訴をし、自分を政府《かみ》の手へわたしたのであります。したがって、当時の規定によれば、いかなる苦痛、――いかなる拷問が、――いかなる歯車や水火の責めが彼を待ち設けていたかという疑問がおこります。だれが強いて彼をして自訴するにいたらしめたか? なぜ彼は六十という数字に自分の手をとどめて、死ぬまで秘密を守らなかったか? なぜ彼は教会を棄てて、隠遁者として悔悟の生活を送らなかったか? あるいはまた、なぜ彼自身も僧門に入らなかったか? つまり、ここに謎の偉大なる解明があるのであります! つまり、これにはなにか水火の責めよりも、また二十年来の習慣よりも、もっと強いあるものがあったのです! すなわち、どんな不幸よりも、どんな凶作よりも、どんな拷問よりも、癩病よりもペストよりも、ずっと強い思想があった砂です! もしこの人心を制縛し、匡正し、生命の根源を豊富にするところの思想がなかったら、人類はとうていこれらの不幸災厄を耐えしのぐことができません! 諸君、そんなふうの強い力が、悪行と鉄道の時代たる現代にあったら、ひとつわたしに見せてください……いや、汽船と鉄道の現代といわなくちゃならんようですが、わたしは悪行と鉄道の現代といいます。なぜならわたしは酔っぱらってはおりますが、いうことに間違いはないからです。せめてあの時代の半分でも、全人類を掣肘するような力があれば、ひとつわたしに見せてくださいませんか。この『星』のもと、人間を迷わせるこの鉄道の網のもとにおいても、生命の根源はかれもにごりもしなかった、などと大胆なことをおっしゃるわけにはまいりませんよ! また、皆さんの裕福な暮らしや、財産や、飢饉の少ないことや、交通の完備などをもって、わたしを脅かすわけにもいきませんよ! 財産は多くても力は少ない、人を制縛する思想もない。なにもかもぐたぐたになってしまった、なにもかももろくなってしまったのです。そして、だれも彼ももろくなってしまったのです! われわれは、みんなみんなもろくなってしまいました!………しかし、当面の問題はこれでもありません。問題はこうなんです。公爵さま、皆さんのために用意した前菜《ザクースカ》を、こちらへ運びましてもよろしゅうござりますか?」
 レーベジェフの詭弁に、聞き手の中のある人は、もうむきになって憤慨していたが、思いがけぬ前菜の結論を聞いて、とたんにすっかり機嫌を直した。彼自身もこんな結論を、『巧妙な弁護士的事態転換』と名づけていた。またもや愉快そうな笑い声がおこり、客人たちは元気づいてきた。一同は手足を伸ばして、露台を散歩するためにテーブルを離れた。ただひとりケルレルはレーベジェフの演説に大不平で、ひとかたならぬ興奮の様子であった。
「あの男は文化を攻撃して、十二世紀時代の信心気ちがいを鼓吹してるんです。しかも、なんら無邪気な心持ちなしに詭弁を弄してる。いったいあの男自身は何をしてこの家を手に入れたんだろう? ちょっとうかがいたいもんですよ」と彼はひとりひとりの袖を引きながら声高にいった。
「わたしはほんとうの黙示録の説明家を見ましたよ」とイヴォルギン将軍がまた別なほうで、別な聞き手に向かっていっていたが、そのうちプチーツィンが上衣のボタンをつかまえられて、聴聞の役目を強いられたのである。「それは故人になったグリゴーリイ・セミョーノヴィチーブルミストロフですが、じっさい、もうなんといっていいか、まるで心臓に火をつけられるような気持ちでしたな。だいいち、この人は眼鏡をかけて、時代のついた黒い革表紙の大きな本を繰っとりましたよ。そのうえ白い鬚を生やして、寄付金の礼に贈られたメダルが二つあったのです。その話しぶりが荘重で厳格で、りっぱな将軍たちでもその前に出ると、ひとりでに頭がさがりましたよ、婦人たちとなると、よく気絶する人もあったほどでな。まったく――ところが、この男は前菜で結論をつけとる! じつにお話にならん!」
 将軍の話を聞きながら、プチーツィンは微笑して、帽子に手をかけそうにした。しかし、なにやら心を決しかねているのか、それとも帰ろうと考えたことを忘れたのか、どっちとも見当がつかなかった。ガーニャは人々がテーブルを離れるちょっと前から、杯をわきのほうへ押しのけて、飲みやめてしまった。なんとなく沈んだような影が彼の顔をかすめたのである。一同が席を立ったとき、彼はラゴージンのそばへ近寄り、並んで腰をおろした。その様子から見ると、ふたりは非常に仲のいい友達同士のように思われた。ラゴージンもはじめのうちはやはり何遍も、そっと出て行きたそうにしていたが、これまた出て行こうと思ったのを忘れてしまったように、今は頭を垂れて、身動きもせずにすわっていた。彼は今夜ははじめからしまいまで一滴の酒も飲まないで、おそろしく考えこんでいる。ただときどき目を上げて、一同のものをひとりひとりながめるだけであった。なにか彼は自分にとって非常に大切なことを待ち設けていて、それまではどうしても帰るまいと決心しているようにも、今は想像されるのであった。
 公爵はみんなで二杯か三杯はしたばかりだが、だいぶ愉快そうであった。テーブルから立って、エヴゲーニイと視線を合わしたとき、彼はふたりのあいだに約束された相談を思い出した。そして、愛想よく微笑して見せた。エヴゲーニイはちょっとうなずいたが、ふいにイッポリートをさして、じっとその顔を見守るのであった。イッポリートは長いすの上に横になって、眠っていた。
「ねえ、いったいなんのためにこの小僧っ子は、あなたのところへ入りこんだんです、公爵?」といきなり彼は公爵がびっくりするほど、憤懣と憎悪をあらわに見せながら、こういい出した。「ぼく請け合っていいますが、この小僧なにか悪いことを腹の中で企んでますよ!」
「この人は」と公爵はいった。「きょう非常にあなたの興味をひいてるように、ぼくはお見受けしました。すくなくとも、そう思われましたよ、エヴゲーニイ・パーヴルイチ。そうでしょう?」
「それに、こういい添えてください。ぼくの今の状態として、自分でもいろいろ考えるべきことがあるにもかかわらず、ってね。じっさい、自分でも驚いてるぐらいですよ、今夜ははじめからずっと、このいやな配から、目を放すことができないんですからね!」
「イッポリート君の顔は美しいじゃありませんか……」
「ちょいと、ちょいとごらんなさい!」エヴゲーニイは公爵の手を引きながら、こう叫んだ。「ちょいと!………」
 公爵はまたしてもびっくりして、エヴゲーニイを振りかえった。

       5

 レーベジェフの弁論の終わるころ、ふいに長いすの上で眠りに落ちたイッポリートは、まるでだれかに横腹を突かれたかのように、ひょいと目をさまして、ひとつ身震いをし、起きあがってあたりを見まわすと、真っ青になった。彼はほとんど一種の驚きをもって人々をながめていたが、ようやくいっさいのことを思いおこしたとき、彼の顔にはほとんど恐怖ともいうべきものが現われた。
「どうしたんです、みんな帰るんですか? すんじゃったんですか? 何もかもすんじゃったんですか? 太陽は出ましたか?」と公爵の手をつかまえながら、彼は不安げにたずねた。「なん時です? 後生だから教えてください、一時ですか? ぼく、寝すごしちゃった。ぼく、長いこと寝てましたか?」ほとんどやけ気味の調子で彼はつけ足した。その様子はすくなくとも、彼の運命の浮沈にかかわる大事の時を寢すごしたようであった。
「きみが寝たのは七、八分ぐらいのものですよ」とエヴゲーニイが答えた。
 イッポリートはむさぼるように彼を見つめながら、しばらくなにやら思いめぐらしていた。
「ああ……それだけですか! してみると、ぼくは……」と彼は大変な重荷でもほうり出すように、深い深い息をついた。彼はやっとのことで察しがついた。なにも『すんじまい』はしない、まだ夜は明けない、客人たちがテーブルを立うたのは前菜のご馳走になるためであり、たった今レーベジェフの饒舌が終わったばかりなのだ、とこう考えついて、彼は微笑した。結核性の潮紅が、二つの濃いしみのように双頬に踊りはじめた。
「ああ、あなたはぼくが寝てる間に、もうすっかり分秒の勘定までしてくだすったんですね、エヴゲーニイさん」と彼は冷笑的にあげ足をとった。「あなたはこのひと晩じゅう。ぼくから目を放しませんでしたね。ぼく、ちゃんと見てましたよ……ああ! ラゴージン! ぼく、たった今あの男を夢に見ましたよ」眉をひそめながら、テーブルに向かってすわっているラゴージンをあごでしゃくって、彼は公爵にささやいた。「ああ、そうだ」と彼はまたしても別なほうへ注意を飛ばしてしまった。「弁士はどこです、レーベジェフはどこです? してみると、レーベジェフは弁論をすましたんですね。あの男は何をいいました? 公爵、いったいあれはほんとうですか、世界を救うものはただ『美』あるのみだとおっしゃったてえのは? 諸君」と彼は大きな声で、一同に向かって叫んだ。「公爵は美が世界を救うといっておられます!ところで、ぼくはこういいます、公爵がそんな遊戯的な思想をいだいているのは、恋をしてるからです。諸君、公爵は恋をしていられます。ぼくは、さっき公爵がここへ入って来ると同時に、こう信じて疑いませんでした。あかい顔なんぞしないでください、公爵、ぼくあなたがお気の毒になりそうですから。いったいどんな美が世界を救うんです? コーリャがぼくにそういいましたよ……あなたは熱心なキリスト信者ですって? あなたが自分でキリスト信者だとおっしゃったって、コーリャが話しましたよ」
 公爵は注意ぶかく彼を見まわしたが、返事はしなかった。
「あなた、ぼくに返事してくれないんですか? あなたはたぶん、ぼくが非常にあなたを奸いていると、そう思ってらっしゃるんでしょう?」ととつぜんイッポリートは、ちぎってほうりつけるようにいい足した。
「いいえ、そうは思いません。きみがぼくを好いていられないのは、ぼくも知っています」
「え! きのうのことがあってもですか? ぼくはきのうあなたに対して誠実でした」
「ぼくはきのうもやはり知っていました、きみがぼくを好いでいられないのを」
「というのは、つまりぼくがあなたをうらやんでるからですか? うらやんでるとおっしゃるんですか? あなたはいつでもそう考えておいでになりました、今でも潯えていらっしゃるんです。しかし……しかし、なんのためにぼくはこんなことをあなたにいってるんだろう? ぼく、もう少しシャンパンが飲みたくなった。ケルレル君、ついでくれたまえな」
「きみはもう飲んじゃいけません、イッポリート君、きみにはあげられません……」と公爵は彼のそばから杯を押しのけた。
「いや、まったく……」と彼はすぐに同意した、なにやら思案しているかのように。「たぶん、あの連中はいろんなことをいうだろうなあ……いや、あの連中がとやかくいうからって、ぼくにとってそれがどうしたってんだ? そうじゃありませんか、そうじゃありませんか? あとであの人たちに勝手なことをいわしたらいいんですよ、ねえ、公爵? それに、あとで何があろうと、そんなことは、われわれにとってなんの関係もないこってす! もっとも、ぼくは寝ぼけ半分にでたらめをいってるんですよ。だが、ぼくはなんて恐ろしい夢を見たんだろう、たった今、思い出した……あなた、どうかこんな夢をごらんにならないように、公爵。ぼく、じっさいあなたを好いていないかもしれませんがね。もっとも、好いていないからって、なにもその人に対して、悪いことを祈るにゃ当たりませんからね、そうじゃありませんか? だが、なんだって、ぼくはこんなことをきいてばかりいるんだろう。ほんとうに、ぼくはいろんなことをきいてばかりいる! さ、あなた、手をお出しなさい、ぼくしっかり握ってあげましょう、ほら、こんなにね……だけど、あなたはよくまあぼくに手を出してくれましたねえ! してみると、ぼくがその手を真底から握りしめるってことを、あなたはもうちゃんと知っておいでなんですね?……たぶん、ぼくはもう酒を飲まないでしょう。なん時ですか? いや、まあいい、ぼく、なん時だか知ってますよ。時間が来た! 今がちょうどいい時だ。なんですあれは? あちらの隅のほうで前菜《ザクースカ》を並べてるんですか? すると。このテーブルはあくんですね? けっこう! 諸君、ぼくは……しかし、あの人たちははじめっから聞いちゃいないんだ……公爵、ぼくはある一つの文章を読もうと思っています。前菜《ザクースカ》のほうがむろんずっとおもしろいに相違ありませんが……」といいながら、ふいにまったく思いがけなく、彼は上衣のかくしから大形の紙包みを取り出した。それには大きな赤い印を捺して、封がしてある。彼はそれを自分の前のテーブルに載せた。
 この思いがけない一物《いちもつ》は、不用意な、というよりも、それとは別なものに対して心構えしていた一座の人々に、なみなみならぬ印象を与えた。エヴゲーニイはいすから伸びあがるし、ガーニャはいち早くテーブルのほうへ寄って来た。ラゴージンもそれと同じことをしたが、ことの真相はわかっているよといったような、なんとなく不機嫌らしい、腹立たしげな様子であった。すぐそばに居合わせたレーベジェフは、好嵜の目を光らせながら近づいて、ことの真相を洞察しようとするかのごとく、いっしょうけんめいに包みをながめていた。
「それはなんですか?」と公爵は心配げにたずねた。
「太陽がちょっと端をのぞけるといっしょに、ぼくも床につきます。公爵、ぼくがいったことは間違いありません、見てらっしゃい!」とイッポリートは叫んだ。「しかし……しかし……あなたがたはぼくにこの包みの封を切ることができないとお考えですか?」彼はなんだか撓みかかるような目つきをして一同を見まわしながら、べつにだれに向かってともなくこういい足した。
 公爵は、彼が全身をぶるぶるふるわしているのに気づいた。
「われわれはだれもそんなことを考えやしません」と彼は一向に代わって答えた。「だいいち、だれかがそんな考えを持ってるなんて、どうしてそんなことを邪推するんです? それに、いま時分なにか読むなんて、ずいぶんへんな思いつきじゃありませんか。いったい、きみそれはなんですか、イッポリート君?」
「なんです、いったい? この人はまあどうしたのです?」ときく声があたりに起こった。 
 一同はイッポリートのほうへ寄って来た。中にはまだ前菜をむしゃむしゃやりながら、のぞきにくるものもあった。赤い封印を捺した紙包みは、磁石のように人々を引き寄せるのであった。
「これはぼく、きのう自分で書いたんですよ、公爵。あなたのところでごやっかいになりますと約束したすぐあとでした。ぼくはきのういちんち書いて、夜から朝にかけてやっと終わったのです。ゆうべ明けがたちかくに一つ夢を見ましたが……」
「いっそあすにしたらどうです?」と公爵はおずおずさえぎった。
「あすはもう『そののち時を延ばすべからず』ですよ」とイッポリートはせせら笑った。「しかし、ご心配はいりません。
 ぼく四十分か、一時間で読んじまいます……それに、ごらんなさい。みんなが不思議そうな様子をしてるじゃありませんか。みんなこっちへやって来て、みんなこの封を見ています。まったくのところ、ぼくがもし、この文章に封をしなかったら、なんの感銘を与えることもできなかったでしょう! はは! 神秘というものはこんなところに存するんですよ! 封を切りましょうか、どうしましょう、皆さん?」と彼は奇 怪な笑いかたをし、両眼を輝かしつつわめいた。「神秘! 神秘! ところで公爵、『そののち時を延ばすべからず』と告げたのはだれだか、覚えていらっしゃいますか? それは 黙示録の中の偉大な、力強い天使が告げたんですよ」
「読まないほうがいいです!」とふいにエヴゲーニイが叫んだが、その様子が彼としては思いも設けぬ不安の色を帯びているので、多くの人には奇妙に思われたくらいである。
「読むのはおよしなさい!」と公爵も紙包みに手をかけて叫んだ。
「なにも読むことはない。いま前菜《ザクースカ》が出るんだから」とだれかがいった。
「文章ですって? 雑誌にでも載せるんですか?」といまひとりがきいた。「でも、つまんないかもしれませんね?」とまたひとりいい足した
「まあ、いったいなんです?」とその他の人々はたずねた。
 しかし、公爵のびっくりしたようなみぶりは、当人のイッポリートまで驚かしたようであった。
「じゃ……読まないんですね?」紫色になったくちびるに歪んだ微笑を浮かべて、彼はなんとなくあやぶむように公爵に向かってささやいた。「読みますまいね?」とまた以前の、まるで一同に食ってかかるような目つきで、ひとりひとりの目、顔を順々に見まわしながら、彼はつぶやいた。「あなた、こわいんですか?」とまた彼は公爵のほうを振りむいた。
「何を?」こちらはだんだん顔色を変えながら、問い返した。
「だれか二十コペイカのお持ち合わせはありませんか?」とイッポリートはだれかに突かれたように、とつぜんいすから飛びあがった。「なんでも銀貨ならいいです」
「さあ。これ!」とレーベジェフがさっそくさし出した。
 ひょっとしたら、病身のイッポリートがとうとう発狂したのではないかという考えが、ちらと彼の頭に浮かんだ。
 「ヴェーラさん?」とイッポリートは忙しげに呼んだ。「さあ、これを取ってテーブルの上へ投げてみてください。鵞が出るか格子が出るか? 鷲だったら読むんです!」
 ヴェーラはびっくりしたように金とイッポリート、それから父親の顔を見くらべたが、やがて妙に無器用な恰好をして、もう自分は金を見てはならないと信じたかのように、頭を上のほうに振りむけながら、金をテーブルの上に投げた。鷲の絵が上を向いて落ちた。
「読むんだ!」とイッポリートは、あたかも運命の判決に圧しひしがれたようにつぶやいた。彼はたとえ死刑の宣告を読み上げられても、これ以上ではあるまいと思われるほど青くなった。「だがしかし」ややしばらく無言ののちに、彼はとつぜん身震いしてこういった。「これはいったいなんだろう?ほんとうにぼくはいま運命のくじを引いたのかしら?」いぜんとして露骨な押しつけがましい態度で、彼は一同を見まわした。「しかし、これはまったく驚くべき心理的特性じゃありませんか」と真底からの驚愕を現わしながら、彼はふいに公爵に向かって叫んだ。「これは……これはじつに不可思跟な特性ですよ、公爵!」ようやくわれに返って勢いづきながら彼はぐりかえした。「あなたこれを書きとめておきなさいな、公爵、そしてよく覚えておきなさい。だって、あなたは死刑に関する材料を収集してらっしゃるそうじゃありませんか……ぼく、人から聞きました、はっは! おお! ぼくはなんてわけのわからんばかげたことをいってるんだろう!」そういって彼は長いすに腰をおろし、テーブルに両ひじついて自分の頭をつかんだ。「むしろ恥ずべきこった!………いや、しかし、恥ずかしいということが、ぼくにとっていったいどうなんだ」と彼はすぐに頭を上げて、「諸君! 諸君、ぼくはこの包みを開封します」と一種おもいがけない決意を帯びた調子で披露した。「ぼくは……ぼくはしかし、しいて聞いてくださいとはいいません!………」
 興奮のあまりふるえる手で彼は包みの封を切り、細かい字で書きつめたいく枚かの書簡箋を中から取り出し、前に置いて整理しはじめた。
「いったいあれはなんです? いったい、これはどうしたというんです? 何を読もうというんですか?」とあるものは沈んだ声でつぶやいたが、その他のものは黙っていた。
 しかし、一同は席について、好奇の目を輝かせながらながめた。じっさい、彼らはなにかなみなみならぬものを待ち設けていたのかもしれぬ。ヴェーラは父のいすにしがみついて、ほとんど泣きださんばかりにぎょうてんしていた。コーリャもほとんどそれと同じくらいにびっくりしている。レーベジェフはもう席についていたが、急に立ちあがってろうそくを取り、読みやすくするためにイッポリートのそばへ立てた。
「諸君、これは……いや、これが何ものだかということは、今すぐ合点がおいきになります」イッポリートはなんのためにやらこういい添えて、ふいに読みはじめた。「『わが必要なる告白』題銘。"Apres moi le deluge"(わが死後はよしや洪水あるとも――あとは野となれ山となれの意)ふっ、こんちくしょう」にわかに彼はまるでやけどでもしたようにどなった。「よくまあまじめにこんなばかばかしい題銘が入れられたもんだ!………さあ、聞いてください、諸君!………しかしおことわりしておきますが、つまるところ、これはぜんぜん恐ろしいナンセンスで終わるかもしれません! ただこの中にいくらかでもぼくの思想が……もし皆さんがこの中になにか秘密なものとか……もしくは……国禁的なものがあるように考えていらっしゃるならば……ひと口にいうと……」
「前置きをぬきにして、読んでもらいたいもんですね」とガーニャがさえぎった。
「ごまかしてるんだ!」だれやらがいい添えた。
「文句が多すぎらあ!」としじゅう黙っていたラゴージンが口をいれた。
 イッポリートは、きっとそのほうを見た。ふたりの視線がぴったりと合ったとき、ラゴージンは苦々しく、また腹立たしげに歯をむいて、ゆっくりとした調子で奇妙な言葉を発した。
「こういうことはそんなふうに細工するもんじゃねえ、若い衆、それじゃ違うぜ……」
 何をラゴージンがいおうと思ったかは、むろんだれも知らなかった。けれども、これらの数語は一同にかなり奇怪な印象を与えた。ある同じような観念が、ちらと一同の心の端をかすめたのである。イッポリートに対しては、この数語が恐ろしい作用をもたらした。彼は公爵が手を伸ばして支えようとしたほど、にわかに激しくふるえ出し、あやうく声を出して叫びかけたが、急にのどがつまって声が出なかったらしい。まる一分間、彼はものをいうことができないで、重々しい息をつきながら、じっとラゴージンを見つめていた。ついに彼は息をきらせながら、いっしょうけんめい力を出して、
「そんなら、あれはきみ……きみだったんですか……きみですか?」といいだした。
「いったいどうしたんだね? おれがどうしたってえんだい?」とラゴージンはけげんそうに答えた。
 しかし、イッポリートはかっとなって、ふいに狂暴な調子で鋭く激しく叫んだ。
「きみは先週、ぼくが朝のうち、きみんとこへ行ったちょうどあの日の夜、一時すぎにぼくのとこへ来たんだ、あれはきみ[#「きみ」に傍点]だ!! 白状しなさい、きみでしょう?」
「先週の夜? ほんとうにおめえはすっかり気がちがったんじゃねえかい、若い衆?」
『若い衆』はなにやら思いめぐらすように、人さし指を額に当てながら、ふたたび一分間ばかり無言でいたが、やはりまだ恐ろしさに歪んだような青ざめた微笑の中に、とつぜんなにやら狡猾らしい、勝ちほこったようにすら見えるものが、ちらとひらめいた。
「あれはきみだったんです!」ついに彼はささやくように、とはいえ非常に確信の色を示しながらくりかえした。「きみはあのときぼくんとこへ来て、一時間ばかり――いや、もっと長く窓ぎわのいすに黙ってすわってたんです。あれは夜中の十二時すぎか、一時すぎごろだった。それから二時すぎに、きみは立って出て行ったのでしょう……あれはきみだったんです、きみだったんです! なぜきみがぼくをおびやかしたのやら、またなぜぼくを苦しめに来たのや――それはわかんないけれど、しかしあれはきみだったんです!」
 こういった彼のまなざしの中には、ふいに限りない憎悪がひらめいた。恐怖の戦慄はいまだに静まらなかったけれど。
「諸君、このことは今にすっかりおわかりになります、ぼく……ぼく……さあ、聞いてください……」
 彼はまたしてもおそろしくあわてながら、紙に手をかけた。紙はすべってばらばらに乱れた。彼はそれを整えるのに努力した。紙片は彼のふるえる手の中でおののいていた。彼は長いあいだ平静に返れなかったのである。
「気がちがったのか、それとも熱にでも浮かされてるのか?」と聞こえるか聞こえないほどの声で、ラゴージンはつぶやいた。
 朗読はついにはじまった。はじめのうち五分ばかり、この思いがけない『文章』の作者は、やはりせいせい息をきらしながら、緩急のととのわぬ乱れた読みかたをした。が、そのうちに声がしっかりしてきて、内容の意味をはっきりと伝えるようになった。ただときどきかなり強いせきがその進行をさえぎるのみであった。文章のなかばごろから彼はだいぶ声をからしたが、朗読が進むにつれて、しだいに激しく彼を領してきた恐ろしい感激は、聴者に与える病的な印象とともに、終わりに近づくにしたがって頂点に達した。以下、つぎに掲げるのはこの『文章』の全部である。

   わが必要なる告白
"Apres moi le deluge"
『きのうの朝、公爵が来た。いろんな話の中に、彼は自分の別荘へ引っ越してくるようにと勧めた。ぼくは、彼がかならずこのことを主張するだろうと、前から思っていたし、また彼のいつもの口癖で、「別荘の人たちや木立のあいだで死ぬほうが楽だから」と真正面からやっつけることとかたく信じていた。ところが、きょう彼は死ぬ[#「死ぬ」に傍点]とはいわないで、「暮らすほうが楽だろう」といった。しかし、ぼくの境遇にあっては、どっちにしても同じようなものだ。ぼくは、彼がしょっちゅう木立木立というのは、はたして何を意味するか、またなぜそんなに木立を押しつけようとするのか、と聞いたら、なんでもあの晩、ぼく自身が、この世の名ごりに、木立を見にパーヴロフスクヘ来たと、こういったのだと聞いて、非常に驚いた。しかし、木立の下で死ぬのも、窓外のれんがを見ながら死ぬのも、同じことではないか、残り二週間という今となっては、たにも騒ぐに当たらないと、ぼくは公爵に向かっていった。すると、彼はすぐさま同意を表したが、しかし彼の意見によると、緑の色と清浄な空気は、ぼくのからだに生理的転化を呼びおこして、ぼくの興奮もぼくの夢も変わってき、あるいはしのぎよくなるかもしれぬ、とのことであった。
『ぼくはまた笑いながら、彼のいうことはまるでマテリアリストのようだ、といってやった。すると、彼は持ち前の微笑を浮かべて、彼はつねにマテリアリストであると答えた。彼はけっしてうそをつくことがないから、この言葉も何かの意味を蔵しているかもしれぬ。彼の微笑はじつに気持ちよかったので、ぼくはいまさら注意して彼の顔をながめた。ぼくはいま自分が彼を愛しているかいないか、それは知らぬ(今そんなことにかまっている暇がない。が、注意すべきことは、五か月間の彼に対するぼくの憎悪は、最近一か月間にいちじるしくやわらいできた。もしかしたら、ぼくがあのときパーヴロフスクヘ行ったのは、主として彼を見るためだったかもしれない)。とはいえ……なぜぼくはあのときこの部屋を捨てて出たのだろう? 死刑を宣告されたものが、自分の巣を捨てて出るという法はない。だから、もし今度ぼくがこうして確たる決心を採らず、かえってじっと最後の時を待つことに決めていたら、そのときはもちろん、パーヴロフスクヘ「死にに」来いなどという、彼の申し出を許容しなかったに、きまっている。
『しかし、ぼくは急いでこの「告白」をかならずあすまでにぜんぶ仕上げねばならぬ。してみると、読み返して訂正している暇がない。で、ぼくは公爵およびそこに居合わせるらしく思われる二、三の人に読んで聞かせるとき、はじめて読み返すことになる。この中にはひと言たりとも虚偽はなく、こととごとく誇るに足る最後の真理のみであるから、ぼくがこれを読み返すときに、その真理がぼく自身にいかなる感銘を与えるだろうか、それが今から楽しみである。けれども「誇る