『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP433-483

戸をたたく音がするので目をさました。もし九時すぎまでぼくが自分で戸をあけず、また茶をよこすように声をかけなかったら、マトリョーナが自分で戸をたたくことに規定してあるのだ。で、ぼくは彼女のために戸をあけてやったが、そのときすぐに、戸はこうしてちゃんと鍵をかけてあるのに、どうしてあの男が入って来たんだろう、という想念が浮かんできた。そこでぼくは家人に聞きただして、本物のラゴージンの入って来られるはずがない、ということを確信した。なぜなら、うちの戸は夜になると、すっかり錠をおろしてしまうからである。
『いま詳しく描写した奇怪なできごとこそ、ぼくが断固「決心した」原因である。したがって、この最後の決心を急がしたものは、論理でも演繹でもなく、ただ嫌悪の念のみである。かように奇怪な形式を採ってぼくを侮辱する人生に、このうえ踏みとどまってはいられない。あの幻覚がぼくを卑小なものにしてしまった。ぼくはふくろぐもの姿を借りている暗愚な力に、降伏することはとうていできなくなったのである。日暮れがたになって、十分断固たる決心を感得した刹那、はじめてぼくは軽々とした気持ちになった。これはほんの最初の一瞬間で、次の瞬間以後は、すでにパーヴロフスク行きの汽車中にあった。しかし、このことはもう十分説明しておいた。

      7

『ぼくは小さな懐中用のピストルを持っていた。それを買い
こんだのは、子供の時分で、決闘だとか強盗の襲撃だとか、もしくは決闘の申し込みを受けていさぎよくピストルで立つとか、そんな空想が急におもしろくなる、ばかげた年ごろのことだった。ひと月ぽかりまえ、ぼくはこのピストルを取り出して見て、ちゃんと用意をしておいた。これを入れてあった箱の中には、二発の弾丸があったし、薬筒には三発分の火薬もあった。このピストルは、やくざなしろもので、ひどく横のほうへそれるから、十五歩以上離れたら到底うてっこない。しかし、もちろんぴったりこめかみへ当てれば、頭蓋骨をひん曲げることができるのは、いうまでもない。
『ぼくは日の出と同時に、パーヴロフスクで死ぬことにきめた。それも別荘の人を驚かさないために、公園へおりて死ぬのだ。ぼくの「告白」は警察に対して、十分事件の真相を説明するだろう。心理学に興味を有する人や、その他必要を感ずる人たちは、この「告白」からなんとでも勝手に結論をくだされるがよい。とはいえ、ぼくはこの原稿が公けにされることを望まない。ねがわくは、公爵が一部の写しを手もとに蓄えておき、いま一部をアグラーヤ・エパンチナに渡してもらいたい。これがぼくの本志である。またぼくの遺骨は学術に貢献するため、医科大学へ寄付する。
『ぼくは自分に対して裁きを認めない、したがって、今あらゆる法権の外に立っている。いっそやこんなことを想像して、おかしくてたまらなかった。ほかでもない、もしぼくがとつぜんいまだれ彼の容赦なく、一度に十人くらい殺してみようと考えついたら――なんでもいい、とにかくこの世でいちばん恐ろしいとされていることを、実行してみようと考えついたら、わずか二週間か三週間の命と隕られて、拷問も折檻も役に立たないぼくを相手にする裁判官の窮境はどんなものだろう? ぼくは注意ぶかい医者のついているお上の病院で、楽々と目をつむるだろう。きっと自分の家より暖かくて、居心地がよいに相違ない。なぜぼくと同じ境遇にいる人たちにこんな考えが、せめて冗談にでも頭に浮かばないのだ? しかし、あるいは浮かぶかもしれない。ロシヤにはのんきな人たちもずいぶんいるようだから。
『が、たとえぼくが裁判を認めないといっても、やはり人々はぼくを裁判するであろう、それは承知している。しかし、そのときぼくは耳も聞こえなければ、口もきけない責任者となっているのだ。とはいえ、ぼくは答弁として、強制せられざる自由な言葉をひとことも吐かないで、この世を去ってしまうのはいやだ。けれど、それは申しわけのためではない――どうして、どうして! ぼくは何ごとについても、他人におわびを申すべき筋はない。ただ自分でそうしたいからである。
『ここにだいいち、奇妙な問題というのは、わずか二週間か三週間しか残っていないぼくの権利を、論駁し否定しようなんて了見をおこすのは、そもそもだれだろう? そしてなんのため、またいかなる動機からだろう? こうなってから、裁判なぞ何になるのだ? 単にぼくが宣告を受けただけで足りないで、その宣告の期限をいさぎよく守る必要なんかどこにあるのか? いったいそんなことがじっさいだれに必要なのか? あるいは世道人心のためとでもいうのか? もしぼくが健康と力のさかりにありながら、「同胞のために益をもたらしうべき」おのれの命を縮めようとするのだったら、世道人心は相談もなしに命を勝手に扱ってはならぬとか、また、その他なんとかふるくさい紋切り型をいってぼくをとがめるだろう? それならぼくにも得心がいく。しかし、今は? もう死刑の期日まで宣告されている今はどうだ? ただ命をほうり出したばかりで足りないで、おまけに公爵の気安めかなにかを聞きながら、生命の最後のアトムを神さまに返上するときに発する気味の悪いうめき声までが、世道人心に必要であろうというのか? 公爵といえば、あの人はきっと例のキリスト教的な論証で、じっさいおまえさんの死ぬのはけっこうなことだよ、つてなおめでたい結論に到着するにきまっている(あの人みたいなキリスト教徒は、いつでもこんな思想に到達する、これがあの連中の十八番なのだから)。いったい彼らはあのこっけいな「パーヴロフスクの木立」をもって、いったいどうしようという気なんだろう? ぼくの生涯の最後のいく瞬間かをやわらげようというのか? あの人たちは生と愛とのおぼつかない影をもって、ぼくの「マイェルの家の壁」や、露骨に正直な態度で書いてあるその上の文字を、すっかりぼくの目から隠してしまおうと思っているが、ぼくはそんな幻影を信じて夢中になればなるほど、ますます不幸になるということを、いったいあの人たちは会得しないのだろうか? 諸子が有するパーヴロフスクの自然、諸子の公園、諸子の日の出、日の入り、諸子の青空、諸子の満ち足りた顔、これらはすべて何するものぞ! こうした喜びの宴も、ぼくひとりを無用と数えることをもってその序開きとしているのではないか? こうした自然の美も、ぼくにとぅてなんの用があろう? ぼくのそばで日光を浴びて、うなっている微々たる一匹の蠅すらも、この宴とコーラスの喜びにあずかるひとりとして、自分のいるべき場所を心得かつ愛して、幸福を感じているのに、ぼくひとりきりのけものである――今はこういうことを分ごとに、いや秒ごとに切実に感じなければならぬ、いやでも無理無体に感じさせられる。今までは了見の狭いばかりに、このことを悟ろうとしなかったのである。おお、ぼくは知っている、公爵はじめその他すべての人は、ぼくがこんな「ずるい不貞腐《ふてくさ》れな」ことをいうかわりに、いさぎよく世道人心の勝利のためを思って、有名なミルヴォアの古典詩を朗吟すればいいと、望んでいるに相違ない。

“O, puissent voir votre beaute sacree
Tant d'amis sourds a mes adieux!
Qu'ils meurent pleins de jours, que leur mort soit
pleuree!
Qu'un ami leur ferme les yeux!”

「さらば」ちょうわが言の葉に
耳かさぬあまたの友に
見せまほしなれが聖《くす》しき美をば。
齢《よわい》みちてこの世を去るとき
人々に泣き惜しまれん
その死せる固き瞼を
蔽うべき人もありなむ。

『とはいえ、世のおめでたき人々よ、ぼくの言葉を信じたまえ、この道学的な詩の中にさえ、このフランスの詩のアカデミックな人生祝福の中にさえ、韻律の中でせめてもの憂さをやるような、あきらめられぬ毒念と、秘められたる無量の憤懣とが、濳んでいる。そのために詩人みずから迷路に入って、この憤懣の念を歓喜の涙と取り違えたまま死んでいったのである。まことにおめでたい話ではないか! ところで、人間の無価値、無気力の自覚にも一定の限界があって、それからさきへは踏み出すことができない。この限界を踏み出すと、人間は自分の醜態の中に、大いなる喜びを感じはじめるものである……もちろん、この意味においては、あきらめも異常な力である。それはぼくも肯定する――もっとも、宗教があきらめを力と考えるのとは、意味が違うけれど。
『宗教! 宗教といえばぼくは永生を認める、また今までも認めてきたかもしれない。意識が最高の力の意志によって点火されたとしてもいい。この意識が世界を振り返って、「われ有り!」といったとしてもかまわない。また最高の力によって、ちょっとこれこれの目的があるから――いや、目的も説明しないで、ただ必要があるから死んでしまえ、と命令されてもかまわない、そんなことはみんな平気である。しかし、それにしても、やはり「だからといって、なんのためにおれのあきらめが必要なんだ?」という、いつもおきまりの疑問がわいてくる。いったい自分の餌食《えじき》にしたものから賛辞なんか強請しないで、ひと口にあっさり食ってしまうわけにゆか『ないのかしら? ぼくがこの二、三週間をおとなしく待たないからといって、腹を立てる人がほんとうにだれかいるだろうか? そんなことは信じるわけにゆかない。それよりか、こう想像したほうがはるかに正確である。つまり、なにかしら全体としての宇宙のハーモニイとか、もしくはなんとかのプラスーマイナスとか、あるいはなにかの対照とか――そんなもののために、取るに足らぬぼくのアトムの生命が必要なのだろう。それはちょうど数百万の生物が残りの全世界を維持するために、毎日自分の生命を犠牲に供しているのと、同じ理屈である(もっとも、この思想もそれ自身としては、あまり度量の広いものでないことを指摘しなければならない)。しかし、それもよかろう! 絶え間なくたがいの肉を噛み合わなければ、世の中を形づくることが絶対に不可能だということは、ぼくもべつに異存はない。それどころか、一歩進んで、おまえはその宇宙の組織について、すこしも知るところがないのだといわれても、ぼくはべつに不服をとなえはしない。しかしそのかわり、次の事実はたしかにしっかり心得ている。いったん「われ有り」という自覚を与えられた以上、世の中があやまちだらけであろうと、またそのあやまちなしには世の中が立って行けまいと、そんなことはぼくにとってなんのかかわりもありゃしない。これが真実であるとすれぼ、だれだってぼくをかれこれ非難する筋は一つもないのだ! 人はなんといおうと、そんなことは不可能でもあり、不公平でもある。
『とはいうものの、ぼくは自分でいっしょうけんめい希望しているにかかわらず、来世も神もないということを、どうしても想像することができない。なによりも正確な言いかたは、来世も神もあるけれど、われわれは来世もその法則もてんで知らないということになる。もしそれを知るのが非常に困難な、というより、むしろぜんぜん不可能のことであるならば、ぼくがその不可能を解しえなかったからといって、そこにいかなる責任がありえようか! 世間の人たちは、むろん、公爵もその中にまじって、「つまり、そういう場合には服従が必要なのだ、理屈をぬきにして、単なる道義のために服従しなくちゃならん、その謙譲の徳はあの世でむくいられるから」といっている。ぜんたい人間というやつは、自分たちが神を了解できない腹立ちまぎれに、自分たちのけちな観念を神さまに押しつけて、神さまをつまらないものにしてしまうのだ。しかし、かさねていうが、神を了解できないとすれば、人間に理解を許されないことに対して、責任を持つわけにはいささかまいりかねる。してみると、ぼくが神の真の意志と法則を、理解することができないからって、ぼくをうんぬんするものはだれもないはずである。いや、もういっそ宗教談はよしにしたほうがいい。
『ああ、もうたくさんだ。ぼくがこのへんまで読み進むとき、もうきっと陽が昇って、「天に響きわたり」、偉大な量りしれない力が宇宙にみなぎるだろう。それもよかろう! ぼくはこの力と生の源泉を直視しながら死ぬのだ、生はほしくない! もしぼくが生まれない権利を持っていたら、こんな人をばかにしたような条件では、存在をがえんじなかったに違いない。しかし、ぼくはもう命数の定まった人間であるけれど、まだ死ぬ権利を持っている。権力も小さい、したがって叛逆もまた小さい。
『最後にひと言あきらかにしたいことがある。ぼくの死なんとするのは、けっしてこの三週間を耐え忍ぶ力がないからではない。おお、ぼくはかなりの力を持っている。もしその気にさえなれば、自分の受けた侮辱感だけでも十分な慰藉となったろう。しかし、ぼくはフランスの詩人でないから、そんな慰藉はほしくない。ところが、ついに誘惑が発見された。自然は例の三週間の宣告でもって、極端にぼくの行動を制限してしまったので、今のところぼくが自分の意志で、はじめるとともに片づけられる仕事は、自殺よりほかにないかもしれない。いや、まったくのところ、ぼくは最後の事業の可能を利用したいのかもしれない。反抗も時としては、大きな仕事になることがあるのだ……』
『告白』はついに終わった。イッポリートははじめて口をつぐんだ……
 こうした極端な場合には、破廉恥なやぶれかぶれの露骨さが、極限まで達するものだ。神経質の人間はむやみにいらだって自分を忘れ、果ては何ものをも恐れぬようになり、どんな醜態でも演じかねない心持ちになる。いや、それどころか、そんなことをするのが、かえって愉快にさえなり、人に飛びかかったりするものである。しかも、そのさい、漠としたものではあるが、しかし確固たる目的を心中にいだいている――つまり、その醜態を演じるとすぐ、高い塔から飛びおりて。もしなにか面倒ないざこざがおこったら、死をもっていっきょに解決してしまおうという目算なのである。こうした心的状態の兆候は、普通の場合、しだいにつのって来る肉体力の消耗である。今までイッポリートをささえていた異常な、ほとんど不自然な緊張は、この頂上に達した。ただうち見たところ、病気に腐蝕されたこの十八歳の少年は、枝からもがれてふるえている一枚の木の葉同然に弱々しかったが、一時間ばかりたって、はじめて傍聴者の群れを見まわすやいなや、なんともいえぬ高慢な、この上なく人をばかにした、腹立たしげな嫌悪の表情が、その目つきと微笑に浮かんできた。彼は急いで戦いを挑もうとしたが、聴衆はことごとく不平満々であった。人々はいまいましそうな様子で、騒々しくテーブルから立ちあがった。疲労と酒と興奮とは、一座のだらしない光景を、いな、いいうべくんば、けがらわしい光景を強めたかのようである。
 急にイッポリートは弾かれたようにいすを離れた。
「陽が昇った!」輝きそめた木立の頂きを見つけて、まるで奇跡ででもあるかのように公爵にさし示しながら、彼はこう叫んだ。「昇った!」
「きみは昇らないとでも思ったんですか?」とフヱルディシチェンコが注意した。
「また一日あつい目にあうんだ」とガーニャは帽子を手に、のびのびとあくびをしながら、気のない、いまいましそうな様子でつぶやいた。「まるひと月、こんな日照りだからたまらない!………プチーツィン、きみ出かけるかどうだね?」
 イッポリートは棒立ちになるほど驚いて、耳を澄ましていたが、急にものすごいくらい青くなって、全身をぶるぶるふるわせた。
「あなたはぼくを侮辱しようと思って、気のないふりをなさるけれど、どうもおそろしくまずいやりかたですね」と彼は穴のあくほどガーニャの顔を見つめながらいった。「あなたはやくざものです!」
「ちぇっ、なんてだらしのない恰好だ!」とフェルディシチェンコがわめいた。「なんてえ意気地のない恰好だろう!」
「なあに、ばかなのさ」とガーニャはいった。
 イッポリートは少々きっとなった。
「皆さん」と彼はいぜんとしてぶるぶるふるえながら、一語一語に声をとぎらしつついいだした。『ぼくがあなたがたから、個人としての恨みを買ったのは、よく承知しています。そして……この世迷言であなたがたを苦しめたのを悲しみます(と彼は原稿を指さした)。しかし、そいつがすこしも利かなくって残念です……(と彼は愚かしくにたりと笑った)。利いたでしょうか、エヴゲーニイ・パーヴルイチ?」ふいに彼は一足飛びにこんな質問を発した。「利いたか利かないか、いってください!」
「すこし冗漫でしたが、しかし……」
「すっかりいってください! せめて一生に一度だけでもうそをつかないでね!」とイッポリートは身をふるわせながら命令した。
「おお、ぼくはどうだってかまやしないです。お願いだから、うるさくしないでください」とエヴゲーニイはぶつくさいいながら、そっぽを向いた。
「じゃ、お休みなさい」とプチーツィンが公爵に近寄った。
「まあ、この人が今にも自殺しようとしているのに、あなたがたはいったいどうしたんです! ちょっとあの人を見てごらんなさい!」と叫んで、ヴェーラはイッポリートのほうへ飛んで行き、あわてふためいてその手をおさえた。「だって、この人は日の出といっしょに自殺するって、そういったじゃありませんか。それだのに、まあ、あなたがたは!」
「自殺するものか!」といくたりかの声が、意地悪い満足の調子でこうつぶやいたが、その中にはガーニャもまじっていた。
「皆さん、気をつけてください!」同様にイッポリートの手をおさえながら、コーリャがわめいた。「ちょっとこの人の様子を見たら、わかりそうなもんじゃありませんか! 公爵! 公爵、あなたはいったいどうしたんです!」
 イッポリートのまわりにはヴェーラ、コーリャ、ケルレル、ブルドーフスキイが集まった。この四人がいっしょになって、彼の手をつかまえるのであった。
「この男は権利を持っている……権利を……」とブルドーフスキイはいったが、こういう当人もやはりぼうっとしてしまっていた。
「失礼ですが、公爵、あなたはどういう処置をおとりになります?」とレーベジェフは公爵のそばへやって来たが、酔いくらって小面の憎いほど、ぷりぷり怒っている。
「どういう処置って?」
「つまりですな、失礼ですが、わたしはここの主人ですから……へへ、もっとも、あなたに対して尊敬を表わすのを怠るわけではさらさらございませんがね……まま、かりにあなたをここの主人公としましたところで、自分の持ち家の中でなんするなんて……わたしはいやですがね」
「自殺するものか、ただ小僧っ子がふざけてるんだ!」ふいにイヴォルギン将軍が不平そうな調子で、しかも泰然自若として叫んだ。
「ようよう、将軍さま!」とフェルディシチュンコがはやした。
「承知していますよ、将軍、自殺しないってことは承知してますがね、それでもやっぱり……だってわたしゃここの主ですからね」
「ちょっとチェレンチェフ君」とつぜんプチーツィンが公爵に暇を告げたあと、イッポリートに手をさし伸べながらこういいだした。「きみはたしかその手帳の中で、ご自分の遺骨のことを書いてましたね、大学へ寄付するとかって、あれはきみの遺骨のことですね、つまり、きみの骨を寄付されるんですね?」
「ええ、ぼくの骨です……」
「わかりました。よく聞いとかんと、間違いがおこるかもしれませんからね。なんでも、一度そんな場合があったそうですよ」
「なんだってあなたは、この人をからかうんです?」急に公爵が叫んだ。
「とうとう泣かせちゃった」とフェルディシチェンコがいい添えた。
 しかし、イッポリートはけっして泣きはしなかった。彼はちょっと席を離れようとしたが、周囲を取り巻いている四人のものが、いっせいにその手をつかんだ。すると、どっと笑い声がおこった。
「つまり、手をつかませるように仕向けたんだ。そのために手帳を読んだのさ」とラゴージンがいった。「あばよ、公爵! やれやれ、長っ尻をすえちゃって、骨が痛いや」
チェレンチエフ君、よしきみがほんとうに自殺するつもりだったにしても」とエヴゲーニイは笑いながらいった。「あんなご挨拶を受けた以上、みんなをからかうために、わざと自殺をやめるのが順当ですな。ぼくだったらそうしますよ」
「あの連中は、ぼくが自殺するのを、見たくってたまらないんだ!」とイッポリートは彼を目がけて飛びかかった。
 彼はまるではねあがるような調子でものをいった。「あの連中はそれが見られないもんだから、いまいましくてたまらないんだ」
「じゃ、あなたは見られないと思うんですか?」
「ぼくはけっしてきみに油をかけたりなんかしませんよ。それどころか、ぼくはたしかにきみが自殺されるだろうと思って、大いに心配してるんです。しかしまあ、とにかく怒んなさんな……」とエヴゲーニイは保護者らしい口調で、言葉じりを引きながらこういった。
「ぼく、いまはじめてわかった。この人たちに原稿を読んで聞かしたのは、ぼくの一生の誤りだった」といいながら、イッポリートは思いがけなく、まるで親友としての忠言でも求めるような信頼の表情を浮かべて、エヴゲーニイをながめた。
「きみの立場はまったくこっけいなものですが、しかし……ほんとうにどんな忠言を呈していいやら、わかりませんなあ」エヴゲーニイはほほ笑みながら答えた。
 イッポリートはまたたきもせずに、きびしい顔つきで相手をながめながら無言でいた。ときおり、まったく意識を失ったのかと思われるくらいであった。
「じつにけしからん話です、なんというやり口でしょう!」とレーベジェフがいった。「『何びとをも驚かさないように公園で自殺する』なんていって置きながら、梯子段をおりて三足ばかり庭へ出たら、だれも驚かさないことになる、と思ってるんですからね」
「皆さん……」と公爵がなにかいいかけた。
「いいえ、失礼でござりますが、公爵さま」とレーベジェフは勢い猛にいった。「あなたもご自分でごらんですから、おわかりでもござりましょうが、これはけっして冗談じゃありません。お客人がたの少なくとも半数は、わたしと同意見でいらっしゃることと思いますが、ここであんなことをいいきった以上、もう自分の体面を保つためにでも、かならず自殺するはずです。してみると、わたしはここの主人として、あなたにご加勢を願いたいということを、証人の聞いている前で、公然と申しあげねばなりませんので」
「どうしようというんです、レーベジェフ君? わたしはよろこんで加勢しますよ」
「こうでござります。第一に、あの人がたったいまわたしどもに向かって自慢したピストルを、付属品もろともに引き渡させなけりゃなりませんて。もし引き渡したら、病気に免じてこの家で一夜を明かさせることを承知します。しかし、それはむろん、わたしのほうから監視を置くという条件つきで。けれど、あすになったら、ぜひとも勝手に、どこなと出ていってもらいます。どうか、公爵、暴言をおゆるしください。もしその武器を渡さないなら、わたしは今すぐあの男の手を取って――わたしが片手を取れば、将軍が片手を取ってくれます――さっそく警察へ知らせにやります。そしたら、もうこの事件は警察の審理に移るのです。フェルデイシチェンコ君が友達のよしみで、ひと走りいって来てくれます」
 ひと騒ぎ持ちあがった。レーベジェフはもう熱くなって、常規を逸してしまった。フェルディシチェンコは警察へ出かける身仕度をするし、ガーニャはむきになって、だれも自菻なんかしやしないと主張する。エヴゲーニイは黙っていた。
「公爵、あなたはいつか塔から飛びおりたことがありますか?」とふいにイッポリートがささやいた。
「い、いいえ……」と公爵は無邪気にこう答えた。
「あなたはぼくが皆のこうした憎しみを、見とおしていなかったと思いますか?」目をぎらぎら輝かしつつ、ほんとうに相手から答えを待ち設けるかのごとく、公爵を見つめながら、イッポリートはふたたびささやいた。「たくさんです!」とつぜん彼は一同に向かって叫んだ。「ぼくが悪かったのです……だれよりいちばん悪かったです! レーベジェフさん、ここに鍵があります(と彼は金入れを取り出し、その中から三つ四つ小さな鍵のついた鋼《はがね》の環を抜き出した)。このしまいから二つ目のです……コーリャが教えてくれますよ……コーリャ! コーリャはどこにいるの?」彼はコーリャを見ていながら、しかもそれと気づかないでこう叫んだ。『ああ……この子があなたに教えてくれます。さっき、この子といっしょに袋を片づけたんですから、コーリャ、きみ案内してあげてくれ。公爵の書斎のテーブルの下にぼくの袋がある……この鍵であけるんだよ。下のほうの箱の中にピストルと火薬筒があるからね。レーベジェフさん、さっきこの子が自分で片づけたんだから、この子に教えておもらいなさい。しかし、ぼくはあすの朝早くペテルブルグへ行くから、そのときピストルを返してください、いいですか? ぼくがこんなことをするのは公爵のためで、あなたのためじゃありませんよ」
「なるほど、そのほうがよさそうだ」とレーベジェフは鍵を引ったくって、毒々しい薄笑いを浮かべつつ、次の間へかけだした。
 コーリャは立ちどまって、なにやらいいたそうにしたが、レーベジェフはかまわずしょっぴいて行ってしまった。
 イッポリートは笑い興ずる客人たちを見まわした。公爵は彼の歯が激しい悪寒に襲われたように、がちがちと響いているのに心づいた。
「あの連中はみんな、なんてやくざ者でしょう!」とふたたびイッポリートは憤懣にたえぬ面持ちで、公爵にささやいた。
 彼が公爵にものをいうときには、いつも屈みかかってささやくのであった。
「あんな人たちはうっちゃっておおきなさい。きみは非常に弱ってるんですから……」
「すぐです、すぐです……すぐに行きます」
 ふいに彼は公爵を抱きしめた。
「あなたはきっとぼくをきちがいだとお思いでしょうね?」と奇妙な笑いかたをしながら、彼はじっと相手を見つめた。
「そんなこと……しかしきみは……」
「すぐです、すぐです、黙っててください。なんにもいわんでいてください。そして、じっと立っててください……ぼくはあなたの目を見たいのです……そうして立っててください、ぼく、見るんですから。ぼく『人間』と暇ごいをするんですから」
 彼はじっと立ったまま、公爵を見つめていた。そして、汗のためにこめかみの毛をめちゃめちゃに乱したまま、まるで逃がしては一大事とでもいうように、なんだか妙な恰好をして公爵をつかまえながら、十秒間ばかりまっさおな顔をして
黙りこんでいた。
「イッポリート、イッポリート、きみはいったいどうしたのです?」と公爵は叫んだ。
「すぐです……もうたくさん……ぼくよこになります。しかし、太陽の健康のためひと口飲みたいですなあ……ぼく、飲みたいんです、飲みたいんです、放してください!」
 彼は手早く卓上の杯を取って、脱兎のごとく席を離れ、一瞬の間に露台の昇降口へ近づいた。公爵はそのあとを追おうとしたが、あいにくわざとねらったように、ちょうどこの瞬間エヴゲーニイが暇を告げるため、公爵に手をさし伸べたのである。一秒が過ぎた。と、ふいに露台で一同の叫び声がおこった。つづいてたとえようもない混乱の一瞬が来た。
 そのわけはこうである。
 露台の入口へ近寄ると、イッポリートは左手に杯を持ったまま立ちどまって、右手を外套の右側のポケットヘ突っこんだ。あとでケルレルの主張するところによると、イッポリートはまだ公爵と話しているときから、ずっと続けて右手をこのかくしへ入れたままで、公爵の肩や襟をおさえたのも左手だったとのことである。こうしてポケットへ突っこんだままの右手が、まずだいいち、自分の心に疑念を呼びさましたと、ケルレルは言い張った。それはどうでもいいとして、妙な不安にかられた彼は、イッポリートのあとを追ってかけだした。が、もう間に合わなかった。彼はただとつぜんイッポリートの右手に、なにやらひらめいたのを見たばかりである。その一瞬間、小さな懐中用のピストルが彼のこめかみにぴったり押し当てられていた。ケルレルはその手をおさえようとおどりかかったが、その一刹那イッポリートは引金をひいた。と、鋭いかわいたような引金の音がかちりと響いたが、発射の音は聞こえなかった。ケルレルが抱きとめたとき、イッポリートは感覚を失ったかのごとく、その腕に倒れかかった。もうほんとうに死んだと思ったのだろう。ピストルは早くもケルレルの手にあった。人々はイッポリートを捕えていすを置き変え、その上に腰をかけさせた。一同はそのまわりにむらがって、がやがやとわめきながら事情をたずねた。引金のかちりという音は聞こえたけれど、当人は生きているのみか、かすり傷さえ負っていないのである。当のイッポリートは、どうしたことかわからないで、ぼんやりとすわったまま、無意味な目つきで人々を見まわした。このときレーベジェフとコーリャがかけこんだ。
「不発だったんですか?」という質問が周囲からおこった。
「あるいは装填してなかったのかもしれない」と臆測をたくましゅうするものもあった。
「装填してありますよ!」とケルレルがピストルをあらためながら叫んだ。「しかし……」
「いったい不発だったんですか?」
「雷管がまるでなかったです」とケルレルが告げた。
 引きつづいておこったあわれな光景は、話にもできないぐらいであった。人々の最初の驚愕は、とたんに笑いに変わって来た。中にはこのできごとに意地悪い喜びを感じて、大声に笑いだすものさえあった。イッポリートはヒステリーでもおこしたように、しゃくりあげて泣きながら、自分の手を激しくねじまわした。そして、だれ彼の差別なしに、フェルディシチェンコにさえ、飛びついて、その両手をおさえながら、雷管を入れ忘れたのだ、「ついうっかりして忘れたんです、わざとしたのじゃありません。雷管はすっかり、ほら、このチョッキのかくしの中にあります、十ばかりあるんです」(彼はあたりの人にそれを出して見せた)、はじめから入れなかったのは、万一ポケットの中で発射しやしないかと恐れたからで、必要なときにはいつでも間に合わすことができると考えていたのに、うっかり忘れしまったのだ、などと誓うのであった。彼は公爵やエヴゲーニイに飛びかかったり、ケルレルに泣きついたりして、ピストルを返してくれ、「ぼくは廉恥心、廉恥心がある」ことをすぐにも証明して見せる……、ぼくは「永久に恥辱を受けた!」などと訴えるのであった。
 彼はついに意識を失って倒れた。人々は彼を公爵の書斎へ運んで行った。すっかり酔いのさめ果てたレーベジェフは、さっそく医師を迎えに使いをやってから、娘や息子やブルドーフスキイや将軍といっしょに、自分で病床に付き添うことにした。人事不省に陥ったイッポリートのからだが運び出されたとき、ケルレルは部屋の真ん中に仁王立ちになって、ひとことひとことはっきり発音しながら、おそろしく感激した様子で一同に向かって宣言した。
「諸君、もし諸君のうちだれにせよ、いま一度ぼくのいる前で、わざと雷管を忘れたんだとか、またはあの不仕合わせな
青年が一場の喜劇を演じたにすぎんとか、かりにもそんなことを口外されたら、その人の相手はぼくが代わっていたしますぞ」
 しかし、だれひとりそれに答えるものはなかった。やがて客は急にあわてて、どやどやと散りはじめた。プチーツィン、ガーニャ、ラゴージンは、つれ立って出て行った。
 公爵はエヴゲーニイが計画を変更して、べつになんの相談もせずに帰ろうとするので、非常に驚いた。
「さっきあなたはみんな帰ったあとで、わたしに話したいことがあるとおっしゃったじゃありませんか?」彼はきいてみた。
「ええ、そうなんですよ」とエヴゲーニイはとつぜんいすに腰をおろして、公爵をそばにすわらせながらいった。
「しかし、わたしはさしむきこの計画を変更しました。じつ。のところ、わたしは少々まごつかされたんですよ。あなたもやはりそうでしょう? わたしは、考えがすっかりこんぐらかってしまいました。それに、わたしのご相談したいこと‘は、自分として非常に重大なことなんです。いや、わたしばかりでなく、あなたにとっても重大なことです。じつはねえ、公爵、わたしは一生にせめて一度だけでも公明正大に、つまりぜんぜん底意なしに、ことをしてみたいと思ったのですが、今、この瞬間はどうもぜんぜん公明正大なことをする能力がなさそうなんです。あなたもやはりそうでしょう……そこで、あの……いや、またあとでご相談しましょう。わたしは今度三日ばかりペテルブルグヘ行って来ますが、そのあいだ待っていたら、わたしにもあなたにもことの真相がはっきりしてくるかもしれませんよ」
 彼はふたたびいすから立ちあがったので、はじめなんのために腰をかけたのかと、おかしな気がするほどだった。エヴゲーニイがなにか不満らしい、いらいらした様子で、敵意ありげに自分をながめているのは、公爵にもやはりそれとなく感じられた。彼の目つきはさきほどとはすっかり違っている。
「ところで、あなたはこれから病人のほうへ?」
「ええ………しかし、ぼくが心配なのは……」と公爵はいいかけた。
「心配することはありませんよ。きっと六週間くらいは生きのびますよ。あるいはここですっかりなおるかもしれないくらいです。しかしなによりも、あす追ん出してしまうのが一番ですよ」
「ひょっとしたら、まったくぼくは暗黙の中に、あの人を突っついたかもしれません、なぜって……ぼくひとことも口をきかなかったんですからね。ことによったら、あの人はぼくがあの自殺を疑ってる、とでも思ってるかもしれませんね。あなたどうお考えです、エヴゲーニイ・パーヴルイチ?」
「けっしてけっして。あなたまだそんなことで心配するなんて、どうもじつにお人好しですね。よく人はほめてもらいたさに、あるいはほめてくれない面あてに、わざと自殺するものだって話は聞いていましたが、ほんとうに見たのははじめてです。しかし、なによりもほんとうにしかねるのは、あの
正味まる出しの意気地なさですよ! とにかく、あすあいつを追ん出したほうがいいですよ」
「あなたはあの人がもう一度自殺すると思いますか?」
「いや、もうやりません。しかし、ああした自家製のロシヤ式ラセネール(パリを騒がせた凶悪犯人)に気をおつけなさい。くりかえして申しますが、あんな才能のない、気短かな、そして欲の深いうじ虫にとっては、犯罪がなによりいちばん普通の避難所ですからね」
「いったいあれがラセネールでしょうか?」
「筋道はいろいろあるでしょうが、本質は同じです。さっき、あいつが自分から『告白』の中でいってましたが、見てらっしゃい、まったくあのとおりただの「慰み」のために、あの男が十人の人を殺すことができるかできないか。ぼくはあんなことを聞いたので、今夜寝られそうもありません」
「しかし、それは案じすごしかもしれませんね」
「あなたはじつに感心ですね、公爵。いったいあなたは、今あいつが十人殺しをしそうだと、そう思いませんか?」
「ぼくはその返事をするのが恐ろしいです。まったく何もかも万事奇妙ですけれど、しかし……」
「まあ、ご勝手に、ご勝手に!」とエヴゲーニイはいらだたしげに言葉を結んだ。「おまけに、あなたはそんな勇者なんですからねえ。ただし、ご自分でその十人の数に入らないようにご用心なさい」
「しかし、まあ、おそらくあの人はだれも殺しゃしますまいよ」もの思わしげに相手を見つめながら、公爵はそういった。
 こちらは憎々しげに笑いだした。
「さようなら、もうだいぶおそいです! ところで、あなたはあいつが例の『告白』の写しを、一部アグラーヤさんへと遺言したのに、お気がつきましたか?」
「ええ、つきました、そして……そのことを考えてるんです」
「なるほど、十人殺しの場合にはね……」とエヴゲーニイはまた笑って、出て行った。
 それから一時間たって三時すぎに、公爵は公園へおりて行った。彼はわが家で寝に就こうと試みたが、胸の動悸が激しくてだめだった。もっとも、家の中はすっかり片づいて、また、かなり落ちついてもきた。病人は寝入ったし、来診の医師は、さしむきどうという危険もないと見たてた。レーベジェフとコーリャとブルドーフスキイは、交代で当番をするというので、病人の部屋で横になった。こういうわけで、もう心配することはすこしもなかった。
 しかし、公爵の不安は一刻一刻とつのって行った。彼はぼんやりした目つきであたりを見まわしながら、公園をさまよっていたが、とつぜんびっくりして立ちどまった。いつしか停車場前の広場までたどりついて、聴衆席のベンチや、奏楽席の譜面台の列が目に映じたのである。この場所は彼の心をおびやかし、なぜかしら非常に醜いもののように思われたので、彼はもと来たほうへ引っ返し、昨タエパンチン家の人々とともに停車場へ行ったときと同じ道をたどって、密会に指定された緑色のペンチに近寄り、どっかとばかり腰をおろすと、いきなりからからと笑いだしたが、すぐにそうした自分自身に対して、たまらない憤怒を感じるのであった。もの淋しい心持ちはなおつづいていた。彼はどこかへ行ってしまいたかった……しかし、どこへ行ってしまいたいのかはわからなかった。頭の上の木の間では小鳥がさえずっていた。彼は木の葉の茂みを透して、小鳥を探しはじめたが、小鳥はふいに木を離れて飛び立った。その刹那どういうわけか、例のイッポリートの書いた『熱い日光を浴びている一匹の蠅』が彼の心に浮かんできた。『この蝿すらも宇宙のコーラスの一員として、自分のいるべき場所をちゃんと心得ているのに、ぼくひとりきりのけものである』という一句は、さきほども彼の心を打ったが、今またさらにこのことが思い出された。とっくの昔に忘れていた一つの記憶が彼の心中をうごめきだして、急にとつぜんはっきりしてきたのである。
 それはスイスにおける治療の第一年目、というよりも最初の三、四か月目のことであった。そのころ彼はまだぜんぜん白痴の状態で、ろくすっぽ話もできなければ、人が何を要求するかもわがらなかった。あるとき太陽の輝かしい日に山へ登って、言葉に言い表わせない悩ましい思いをいだきつつ、長いあいだあちこち歩きまわったことがある。目の前には光り輝く青空がつづいて、下の方には湖水、四周には果てしもしらぬ明るい無窮の地平線がつらなっていた。彼は長いことこの景色に見入りながら、もだえ苦しんだ。この明るい、無限の青空にむかって両手をさしのべ、泣いたことが、今思いだされたのである。彼を悩ましたのは、これらすべてのものに対して、自分がなんの縁もゆかりもない他人だという考えであった。ずっと以前から――子供の時分から、つねに自分をいざない寄せているくせに、どうしてもそばへ近づくことを許さないこの歓宴、この絶え間なき無窮の大祭は、そもいかなるものだろう? 毎朝これと同じ輝かしい太陽が昇り、毎朝滝のおもてが虹にいろどられ、遠いかなたの大空の果てに立ついちばん高い雪の峰は、毎晩むらさき色の焔に燃え立つ。『自分のそばで、熱い太陽の光を浴びている微々たる蠅は、どれもどれも宇宙のコーラスの一員として、おのれのい応べき場所を心得、愛し、そして幸福なのである』。一本一本の草もつねに成長し、かつ幸福である。いっさいのものにおのれの道があり、いっさいのものがおのれの道を心得ている。そして唄とともに去り、唄とともに来る。しかるに、自分ひとりなんにも知らなければ、なんにも理解できない、人向もわからない、音響もわからない、すべてに縁のないのけものである。ああ、もちろん彼はこうした疑惑を言葉に現わすことはできなかった。彼はつんぼのように、おしのように苦しんだのである。しかし、いま彼は当時の自分がこうした考えを、すっかり同じ言葉で語ったことがあるように思われた。で、あの『蝿』のことも、イッポリートが当時の自分の言葉と涙の中から取って来たような思いがした。彼はそうと固く信じきっていたので、そのためになぜかしら心臓の鼓動が激しくなってきた……
 彼はペンチの上で眠りに落ちたが、その不安は夢の中でもいぜんとしてつづいた。眠りに入るちょっと前に、イッポリートの十人殺しという言葉を思い出し、その想像のばかばか
しさに苦笑した。あたりには快いさわやかなしじまが立ちこめて、聞こえるものとては木の葉のすれ合う響きのみであったが、そのためにかえってあたりがいっそうしんと、もの淋しくなるのであった。彼はとてもたくさん夢を見た。それはみんな不安の気に充ちたもので、彼は絶え間なしにぶるぶると身をふるわした。ついにひとりの女がそばへ寄って来た。彼はその女を知っている、胸苦しいほどよく知っている。いつでも名を呼んで、指さし示すことができるくらいである、――けれど、不思議にも今の女の顔は、いつも見なれている顔とまるっきり違うようである。彼はそれをこの女の顔だと承認するのが、もの狂おしいほどいやであった。この顔には、悔悟と恐怖の色がみちみちて、たったいま恐ろしい罪を犯した大罪人かと思われるばかりであった。涙はその青ざめた頬にふるえていた。彼女は公爵を小手招ぎして、そっと自分のあとからついて来いと知らせるように、指をくちびるに当てて見せた。彼の心臓は凍ったようになった。たとえどんなことがあろうとも、この女を罪びとと見るのはいやだった。けれども、彼は今すぐなにかしら恐ろしい、自分の生涯に大影響を与えるようなことが、おこりそうな気がしてならなかった。見受けたところ、この女は公園のほど遠からぬところにある何ものかを、公爵に見せたいようなふうであった。彼は女のあとについて行くつもりで立ちあがった。と、にわかに彼のそばで、だれやらの明るい生き生きした笑い声が響き、だれかの手が彼の手の上に置かれてあった。彼はこの手を取って、固く握りしめると、はじめて目がさめた。目の前にはアグラーヤが突っ立って、声高に笑っていたのである。

      8

 彼女は笑っていたけれど、同時に不平そうでもあった。
「寝てらっしやるんだわ! あなた寝てらしたのね!」と彼女はばかにしたような驚きの調子で叫んだ。
「ああ、あなたですか!」と、まだはっきりと目がさめきらないで、不審そうに相手を見ながら、公爵はつぶやいた。「ああ、そうだった! お約束したんですね……ぼくここで眠ってたんです」
「拝見しましたわ」
「だれもあなたのほかにぼくをおこしたものはありませんか? あなたのほかだれもここへ来ませんでしたか? ぼくはここに……別な女が来たと思いましたが……」
「ここへ別な女が来ましたって……」
 やっと彼ははっきりわれに返った。
「いや、なに、ちょっと夢を見ただけです」と公爵はもの思わしげにいった。「しかし、妙だな、こんなときにこんな夢を見るなんて……まあ、おすわんなさい」
 彼はアグラーヤの手を取ってベンチにすわらせた。そして、自分もそのそばに腰をおろしながら、考えこんでしまった。アグラーヤは話をはじめないで、ただじっと穴のあくほど相手を見つめるのみであった。公爵も同様に相手をながめていたが、どうかすると、彼女が自分の前にいるのに気のつかないようなふうであった。彼女は顔をあからめた。
「ああ、そうそう!」と公爵はぶるっと身震いしながら、「イッポリートがピストルで自殺しかけましたよ!」
「いつ? あんたのとこで?」彼女はたずねたが、べつに、たいして驚いた様子もない。「だって、昨晩はどうやらまだ生きてたようじゃありませんの? それにしても、あなたはそんなことのあったあとで、よくまあ眠られましたわねえ!?」急に元気づきながら、彼女は叫んだ。
「ですが、あの人は死にゃしないんですよ、ピストルが発射しなかったもんですからね」
 アグラーヤの強請によって公爵は昨夜のできごとを、さっそく詳しく話さなければならなかった。彼女はひっきりなしに話のさきを急がしたが、そのくせ、絶えずいろんな質問で――しかも本筋に関係のない質問で、話をさえぎってばかりいた。中でも彼女がいちばん注意を払って聞いたのは、エヴゲーニイのいった言葉で、いく度も聞き返したほどである。
「もうたくさんですわ、急がなくちゃなりませんもの」
 いっさいの事情を聞き終わってから、彼女はこう結んだ。
「あたしたちはたった一時間、八時までしかここにいられませんの。だって、あたしここに来たことを人に知られないように、八時にはぜひ家へ帰ってなくちゃならないんですからね。あたし、用事があって来たんですもの。あなたにたくさんお知らせしたいことがありましてね。ところが、あなたは今すっかりあたしをまごつかしてしまいましたわ。イッポリートのことなら、あたしそう思いますわ、あの人のピストルは発射しないのがあたりまえですよ。そのほうがよっぽどあの人に似合ってよ。だけどあなた、あの人はほんとうに自殺するつもりだった、この事件にはなんのごまかしもないと信じてらっしゃる?」
「けっしてごまかしなんかありません」
「それはそうでしょうね。ですが、ほんとうにそう書いてあうたんですの――あたしにその『告白』を届けるように、あなたに頼むって? なぜあなた届けてくださらなかったんですの?」
「でも、死ななかったじゃありませんか。ぼくあの人にきいて見ましょう」
「ぜひ届けてください、なにもきくことなんかありませんわ。あの人は、きっとそうしてもらうのが嬉しいのよ。なぜって、あの人が自殺しようとしたのは、あとであたしに『告白』を読んでもらうためかもしれないわ。公爵、どうぞあたしのいうことを笑わないでください、だってほんとうにそうかもしれないんですもの」
「ぼく、笑やしません。なぜってぼく自身もいくぶんそんな傾きがあるかもしれないと信じてるんですから」
「信じてらしって? ほんとうにあなたもやっぱりそうお思いになって?」とアグラーヤはふいに驚いたようにこういった。
 彼女は早口に聞き返したり、せかせかとものをいったりしているが、ときどき妙にまごついて、しまいまでいいきらないこともあった。そして、絶えずなにか知らせようとあせっていた。概して、彼女は異常な不安をいだいているらしく、目つきはきわめて大胆で、挑むように見えるけれど、いくぶんおじけづいているらしくもあった。彼女はきわめて平凡な普段着をまとっていたが、それがたいへんうつりがよかった。彼女はベンチの端に腰かけたまま、しょっちゅう身震いしながら顔をあかくしていた。イッポリートが自殺しかけたのは、アグラーヤに『告白』を読んでもらいたいためかもしれぬという公爵の答は、ひどく彼女を驚かした。
「それはもちろん」と公爵は弁解した。「あなたばかりでなく、みんなにほめてもらいたかったのですが……」
「ほめてもらいたいって、どういうことですの?」
「つまりそれは……なんといったらいいでしょう? どうもお話しにくいですね。ただ一つ確かなことは、あの人はみなが自分を取り巻いて、『われわれはあなたを愛しかつ尊敬しています。どうぞ生き残ってください』といってくれるのを、望んでいたに相違ありません。しかし、あの人がだれよりもいちばんあなたを目安においていた、というのは大いにありうべきことです。なぜって、あんなときにあなたのことをふいといいだすんですものね……もっとも、自分ではあなたを目安においてることを知らなかったかもわかりませんが」
「そうなると、もうあたしなんのことやらちっともわかりませんわ。目安において、そして目安においたことを知らなかったなんて。もっとも、わかるような気もしますわ。あのね、あたしだってまだ十三、四の娘時代に、何べんとなしに考えたのよ――両親に書置きをして毒をのむ、そして棺の中に寝ていると、みんなが涙を流しながら、あたしに惨酷なことをしたのを後悔するってなことを、やっぱし考えましたわ……なんだってあなた、にたにた笑うんです」と眉をひそめながら、口ばやにつけ足した。「あなたなんかひとりで空想するときに、どんなことを考えるか、しれたもんじゃなくってよ。きっとご自分が元帥にでもなって、ナポレオンを征伐するところなんか空想なさるんでしょう?」
「ええ、まったくですよ、ほんとうのところ、ぼくはそんなことを考えてますよ、ことにうとうとと寝入りかけたときにね」と公爵は笑いだした。「ただしぼくはナポレオンでなく、いつもオーストリヤ人ばかり征伐するんです」
「公爵、あたしはちっとも、あなたと冗談なぞいいたくありませんの。イッポリートにはあたし自分で会いますから、前もって知らせといてくださいな。ところで、あなたとしては、どうもたいへんよくないことだと思いますわ。だって、今あなたがイッポリートに対してなすったように、人の魂をながめて批評するのは、とても失礼なこってすわ。あなたには優しみというものがなくって、ただ真理一点ばりね――つまり、不公平だということになりますわ」
 公爵は考えこんだ。
「あなたこそぼくに不公平なように思われますよ」と彼はいった。「だって、あの人がそんなふうに考えたからって、べつだん悪いところはないように思われますがねえ。なぜって、だれもそういうふうに考える傾向を持っていますもの。おまけに、あの人はぜんぜんそんなことを考えないで、ただそうしたいと感じただけかもしれませんよ……あの人はこの世の名ごりに人間にぶつかって、みんなの尊敬と愛を得たいと願ったのです。まったくこれはりっぱな感情です。ただあの場合、妙な結果になってしまったんですよ、病気のせいでもありましょうが、まだなにかほかにじゃまをするものがあったのです! それに、ある人は何をしてもうまく運ぶのに、またある人は何をやっても、めちゃめちゃになるものでしてね……」
「それはきっと、ご自分のことをつけ足しにおっしゃったのでしょう?」とアグラーヤが口を入れた。
「ええ、自分のことです」公爵はこの問の皮肉な調子には、すこしも気づかずに答えた。
「けれど、なんといっても、あたしがあなただったら、この場合、けっして眠ったりなんかしませんね。してみると、あなたはどこへいらっしっても、すぐ寝ておしまいになるのね。これはどうもあなたとしてたいへんわるいこってすわ」
「でも、ぼくはひと晩じゅう寝なかったのですもの。そのうえ、さんざん歩いて歩きまわって、音楽隊へ行ったりなぞしたんですからね」
「音楽隊ってどんな?」
「あのゆうべ演奏のあったところです。それからここへ来て腰をおろすと、いろんなことを考えてるうちに寝入ってしまったんです」
「ああ、なるほどそうですの! そういうわけなら、状況があなたのために有利になって来ますわ……ですが、なんのために奏楽堂なんかへいらしったんですの?」
「わかりません、ただちょっと……」
「いいわ、いいわ、あとでまた。あなたは、あたしの話に横槍ばかり入れてらっしゃるのよ。あなたが奏楽堂へいらっしゃろうと、いらっしゃるまいと、あたしの知ったことじゃありませんからね。ところで、あなたどんな女の夢をごらんなすって?」
「それは……あの……あなたもごらんになった……」
「わかりましたわ、よくわかりましたわ。あなたはたいへんあの女を……あの女をどんなふうに夢に見ました、どんな恰好をしてるところを? いいえ、あたしそんなことなんかちっとも知りたかないわ」といきなりいまいましそうに、断ち切るようにいった。「あたしの話に横槍を入れないでください……」
 彼女はじっとこらえて、いまいましさを追いやろうとするかのごとく、しばらく黙って控えていた。
「じつはね、あたしがあなたをお呼びしたのは、こういうわけなんですよ。あたしあなたに親友になっていただきたいんですの。なんだってあなた急に目を丸くなさるんです?」彼女はほとんど憤怒の色を浮かべながらこういった。
 公爵は、彼女がまたおそろしくあかくなったのに気がついて、このとき、しんから、いっしょうけんめいに彼女を見つめたのである。こういう場合、彼女はあかくなればなるほど、いよいよ自分に腹を立てるらしかった。それはぎらぎらと輝く目に読まれるのであった。ところが、一分間もたつと、おおむねその憤怒を相手のほうへ持って行く。しかも、その相手に罪があろうとなかろうとおかまいなく、すぐに喧嘩をおっぱじめるのであった。彼女はこういう粗暴な、同時に恥ずかしがりな自分の性質を承知しているので、ふだんあまり話の仲間入りをしなかった。そしてふたりの姉に比べると無口なほうで、むしろ無口すぎるくらいであった。特にこういう尻くすぐったい場合に、ぜひ口をきかなければならないときは、おそろしく高慢な、まるで喧嘩を吹きかけるような調子で話しだすのであった。彼女はいつでも、自分が顔をあかくしかけるか、もしくはあかくしそうなときには、もう前もって予感を覚えるのであった。
「あなたはたぶんこの申し込みに応じないでしょうね」と彼女は高慢げに公爵を見つめた。
「おお、けっして、応じますとも。だけど、そんなことはまるで必要がないじゃありませんか……つまり、その、そんな申し込みをなさる必要があろうとは、思いもかけなかったんですものね」と公爵はまごまごしてしまった。
「あら、それじゃどう思ってらしったの? いったいなんのためにあなたをここへ呼んだと思って? いったいあなたの胸の中にはどんな考えがあるんでしょう? もっとも、あなたはあたしのことを、かわいいおばかさんだと思ってらっしゃるのかもしれませんね。うちの人たちと同じように」
「みながあなたをおばかさんだと思ってるなんて、ぼくそんなこと知らなかった。ぼく……ぼくは思いませんよ」
「お思いなさらないって? あなたとしてはとても、とても上出来ですわね。特別お利口ないいかたですわ」
「ぼくの考えでは、あなたこそどうかすると、非常にお利口なことがありますよ」と公爵はつづけた。「さっきなんかとつぜんじつに利口なことをおっしゃいましたよ。ぼくのイッポリートに関する臆測に対して、『真理一点ばりだから、したがって不公平だ』とおっしゃいましたね。ぼくはこのひとことを覚えていて、いろいろ考えてみるつもりです」
 アグラーヤはふいに嬉しさのあまり、ぱっと顔をあからめた。彼女のこうした変化はいつもきわめて露骨にきわめて急激に生じるのであった。公爵も同様に喜んだ。相手の顔を見ながら、嬉しさのあまり笑いだしたほどである。
「ねえ、公爵」彼女はふたたびいいだした。「あたしはね、あなたにいろんなことをすっかりお話ししようと思って、長いあいだ待ってたんですよ。ほら、あなたがあちらから手紙をくだすったでしょう、あのとき以来、いえ、もっと前からよ……半分はもう昨夕あたしからお聞きなすったでしょう。あたしはあなたをいちんば[#「いちんば」はママ]潔白で、正直なかただと思ってますの。なによりいっとう潔白で、正直なかたですわ。で、もし人があなたのことを知恵のすこし……いえ、なに、ときどき脳の病気をおわずらいになるなんていいましたら、それは大違いですわ。あたしそうきめて、人と喧嘩までしましたのよ。なぜって、よしんばあなたがほんとうに脳の病気をおわずらいになるとしても(こういったからって、あなたはもちろん腹を立てはなさらないでしょう。あたしは一段たかい見地に立っていってるんですもの)、そのかわり、あなたはいっとう大切な知恵にかけては、世問の人たちのだれよりも、ずっとすぐれていらっしゃいますわ。まったく世間の人たちの夢にも見たことのないようなものですの。だって、人間の知恵には、大切なのと大切でないのと、ふたとおりありますものね。そうでしょう? そうじゃなくって?」
「ひょっとしたら、そうかもしれませんね」と公爵はやっとの思いでこれだけいった。彼の胸はおそろしくふるえて、波うつのであった。
「あたしも、あなたはわかってくださると思ってたわ」と彼女はものものしげな調子でいった。「S公爵やエヴゲーニイさんは、このふたとおりの知恵のことが、ちっともわからないんですよ。アレクサンドラだってやっぱしそうよ。ところが、どうでしょう、おかあさまはわかるんですの」
「あなたはおかあさんによく似てらっしゃいますからね」
「なぜですの? ほんとうに?」とアグラーヤはびっくりしてたずねた。
「おお、ほんとうですとも」
「どうもありがとうございます」と彼女はちょっと考えてからいった。「おかあさまに似ているなんて、あたしほんとに嬉しいわ。してみると、あなたはおかあさまをよっぽど尊敬してらっしゃいますね?」この間の無邪気なことにはすこしも気がつかず、彼女はこういい足した。
「しますとも、尊敬しますとも。そして、あなたがそうして直覚的に悟ってくだすったのを、ぼくはたいへん嬉しく思います」
「あたしも嬉しいんですよ。なぜって、ときおり人がおかあきまを……ばかにするのに気がついたからなの。でねえ、これからがかんじんなお話なのよ。あたしは長いこと考えつづけて、とうとうあなたを選び出したんです。あたしは家の人にばかにされるのいやですわ。かわいいおばかさん扱いにされるなんて、いやなこったわ。人にからかわれるのも大嫌い……あたしはこういうことにすぐ気がつくたちだから、エヴゲーニイさんもきっぱりことわってしまったんですの。だって、みながあたしを嫁にやりたがるのが、あたしいやで仕方がないんですもの! あたしはね……あたしはね……あの、あたしは家を飛び出したいの。その加勢をしてもらおうと思って、それであなたをお呼びしたんですよ」
「家を飛び出すうて?」と公爵は叫んだ。
「ええ、ええ、家を飛び出すのよ!」異常な憤怒の情に燃えながら、彼女はふたたびこう叫んだ。「あたしはいつまでもいつまでも、あかい顔をさせられるのはいやですわ。あたしはあの人たちの前で――S公爵やエヴゲーニイさんの前で、あかい顔をするのはいや、だれの前でもいやよ。だから、あなたを選び出したんですの。あなたになら、なんでもすっかり話してしまいたいわ。いったんこうと思ったら、いっとう大切なことでもね。だから、あなたのほうでも、なにひとつあたしに隠しちゃだめよ。あたしはね、自分自身に話すような具合に、なんでも話すことのできる人が、せめてひとりだけでもほしいんですの。みんなが急にこんなことをいいだしたんですよ――あたしがあなたを恋して、待ちこがれてるなんてね。それはまだあなたがお帰りにならない前のことだったんですの。だから、あたしあの人たちにあなたの手紙を見せなかったわ。ところが、今ではみんなそんなことをいってるでしょう。だけど、あたしは勇敢な女になって、何ものをも恐れたくないと思ってますの。あたし、社交界の舞踏会なんか回って歩きたくない。あたしはなにか人類に貢献したい。で、もうずっと前から家出しようと思ってましたの。だって二十年のあいだ、まるで壜の中で栓でもされたような暮らしをしてるんですもの。そして、親たちは私をお嫁にやりたくって困ってるじゃありませんか。あたしは十四の年に、家出をしようと思ったことがあるのよ。もっとも、その時分はほんとうのおばかさんだったけど、今はすっかり計画ができあがってしまったから、よく外国のことを聞こうと思って、あなたを待ってましたのよ。だって、あたしまだ一つもゴシック式の教会堂を見たことがないんですもの。あたしローマにも行きたいし、学者の書斎も見たいし、パリで勉強もしたいわ。この一年間、準備のつもりで勉強して、ずいぶん本を読んだのよ、禁制の本をすっかり読んでしまったわ。アレクサンドラもアデライーダも、どんな本を読んだってかまわないけど、あたしはどれでもってわけに行かないの。あたしには監視がついてるんですもの。あたし、姉たちとは喧嘩したくないけれど、両親にはもうとっくに宣言してあるんですよ――もうこれからはあたしの社会上の位置をすっかり変えてしまいますってね。あたしは教育事業に従おうと決心して、あなたを当てにしてるんですよ。なぜって、あなたは子供が好きだっておっしゃったからですの。ねえ、あたしたち、いっしょに教育に従事することができるでしょうか?今すぐでなくって、さきになってからよ。いっしょに社会に貢献しようじゃありませんか。あたし将軍の娘でいたくないんですもの……ねえ、あなたは大学者でしょう?」
「おお、まるっきり違います」
「それは残念ですこと、あたしはまたそう思ってたんですよ……なんだってあんなことを考えたのかしら? でも、あなたはやはりあたしを指導してくださるでしょうね、あたしあなたを選んだのですから」
「それはばかばかしいこってすよ、アグラーヤさん」
「あたしどうしても、どうしても家を飛び出すわ!」と彼女は叫んだ。その目はふたたび輝きはじめた。「もしあなたが承知してくださらなければ、あたしガーニャと結婚するわ。家の人が私のことを、けがらわしい女だと思って、とてつもないことで非難をかぶせたりするのは、あたしいやです」
「あなたはいったい正気なんですか?」公爵はほとんど席から飛びあがらんぽかりであった。「どんな非難です、だれが非難するのです?」
「家の人みんなです、おかあさまも、姉ふたりも、父も、S公爵も、あのけがらわしいコーリャまでいっしょになって! よしむきだしにいわないまでも、腹の中でそう考えててよ。あたしあの人たちみんなに――父にも母にも面とむかって、そういってやったわ。するとおかあさまはその日一日、病人のようになってしまったのよ。そして、次の日アレクサンドラとお父さんがあたしに向かってね、おまえは自分でどんなでたらめをしゃべったかわからないのだっていうから、あたしその場で、いきなりつけつけといってやったわ――あたしもう子供じゃないから、なんでも、どんな言葉でもわかっています。もう二年も前からいろんなことを知るために、わざとポールードーコックの小説を二冊も読みました、つて。おかあさまはこれを聞くと、あやうく気絶するほどだったわ」
 公爵の頭には急に奇妙な考えが浮かんだ。彼はアグラーヤの顔をじっと見つめて微笑した。彼は自分の前にすわっているのが、かつてガーニャの手紙を高慢な調子で読んで聞かした、あの気取った尊大な娘と同じ人だと、どうしても信じられなかった。あの尊大で峻厳な美人の中に、じっさい今[#「今」に傍点]でもすべての言葉[#「すべての言葉」に傍点]はわからないらしいねんねえが、どうして潜んでいるかしらと、不思議でならなかった。
「あなたはいつも家でばかり暮らしてらしったのですか?」と彼はきいた。「つまり、ぼくのいうのは、どこかの学校へお通いにならなかったかってことなんです。どこかの専門学校で勉強なさらなかったんですか?」
「どこへも一度も通ったことはありません。いつもいつも壜の中に栓をされたようにして、家にばかりすわってましたわ。そして、壜の中からすぐお嫁に行こうというんですよ。なんだってまたお笑いになるの? どうも見たところ、あなたもやはりあたしをばかにしてらっしゃるんですね? そして、あの人たちの肩を持つんですね?」と彼女はいかつく眉をしかめてつけ足した。「あたしに腹を立てさせないでちょうだい。それでなくってさえ、自分がどうなってるかわからないんですから……あなたはきっとあたしがあなたにほれこんで、あいびきに呼び出したものと信じきって、ここへいらしったに相違ないわ」と彼女はいらだたしげにいった。
「ぼくはほんとうに昨夜そう思って、心配したんですよ」と公爵は無邪気につぶやいた(彼はおそろしく狼狽していた)。「しかしきょうはけっして……」
「えっ!」とアグラーヤは叫んだ。下くちびるが急にふるえだした。「心配したんですって! とんでもない……あたしがあんたに……まあ、とんでもない! あなたはたぶんこんなことを考えたんでしょう――あたしがあなたをここへ呼んで、網にかける、するとだれかに見つけられて、あなたといやでも応でも結婚しなければならなくなる……」
「アグラーヤさん、よくまあ恥ずかしくないこってすねえ。あなたの清い無邪気な胸に、どうしてそんなけがらわしい考えがわいたのです? ぼく、誓って申しますが、あなたは自分でおっしゃったことを、ひとことだってほんとうにはしていないんです……あなたは自分で自分のいったことが何だかわからないんです!」
 アグラーヤは自分で自分の言葉に驚いたかのように、しつこく目を伏せたまますわっていた。
「あたしちっとも恥ずかしくないわ」と彼女はつぶやいた。「なぜわたしの胸が無邪気だってことがわかるんですの? じゃ、どうしてあのときあたしに恋文なんかよこしたんです?」
「恋文? ぼくの手紙が恋文ですって? あの手紙は非常に敬意のこもったものなんですよ。あの手紙はぼくの生涯で最も苦しい瞬間に、ぼくの心から自然にあふれでたんです! ぼくはあのときなにかの光明のようにあなたのことを思い出したんです、ぼくは……」
「ま、よござんす、よござんす」と彼女は急にさえぎったが、その調子はもう前とちがって、すっかり後悔したような、というよりむしろおびえたようなふうであった。そして、やはりまともに彼の顔を見ないようにしながら、すこし寄りかかりぎみで、どうか怒らないでくれと頼むかのごとく、彼の肩にちょっとさわろうとさえした。「よござんすよ」と彼女はおそろしく恥じ入りながらつけ加えた。「あたしどうやらとてつもないばかげたいいかたをしたようね。あれはその……あなたを試してみるためなんですの。どうぞはじめからいわなかったことにしてくださいね。もしお気にさわったらゆるしてください。そんなに真正面からあたしの顔を見ちゃいや、横を向いててくださいな。あなたはけがらわしい考えだとおっしゃいましたが、あれはね、あなたをひと針つこうと思って、わざといったことたんですよ。あたしどうかすると、自分でも恐ろしいようなことがいいたくなって、ぷいと口に出してしまうのよ。ところであなたはたった今、あの手紙は自分の生涯でいっとう苦しい瞬間に書いたとおっしゃいましたね……あたしどんな瞬間だが知ってますわ」ふたたび地上を見つめながら、彼女は低い声でいい足した。
「ああ、あなたにいっさいの事情がわかったらなあ!」
「あたしすっかり知ってるわ!」と彼女はさらに興奮して叫んだ。「当時あなたはあの卑しい女といっしょに駆落ちして、まるひと月のあいだ同じ部屋で暮らしてたんです……」
 彼女がこういったとき、その顔はあかくならないで青ざめてきた。そして、まるでわれを忘れたかのように、いきなり席を立ったが、すぐまた気がついて座にかえった。くちびるはまだ長いことふるえつづけていた。公爵はこの思いがけない言行にすっかり面くらって、どういうわけか考える暇もなかった。
「あたしあなたが大嫌いよ」とつぜん彼女はぶち切るようにこう言った。
 公爵は返事しなかった。ふたりはまた一分間ほど黙っていた。
「あたしはガーニャさんが好き……」と首をかしげつつ早口にいったが、その声はやっと聞こえるか聞こえないかであった。
「それはうそです」同様にささやくような声で公爵はいった。
「とおっしゃると、つまり、あたしがうそつきだってことになりますね。いいえ、ほんとうです。あたしは、おとといこのベンチの上であの人に誓ったのよ」
 公爵はびっくりして、いっとき考えこんだ。
「それはうそです」と彼は断固としていった。「そんなことはみんなあなたが考え出したんです」
「まあ、おそろしくていねいな口のききかたですこと! だってね、あの人は生まれ変わったようにいい人になりました。そして、あたしを自分の命より以上に愛してるんです。あの人はそれを証明するために、あたしの前で自分の于を焼いて見せました」
「自分の手を焼いたんですって?」
「ええ、自分の手を。ほんとうになさろうとなさるまいと、あたしにとっては同じことだわ」
 公爵はふたたび黙りこんだ。アグラーヤの言葉に冗談|気《け》はなかった。彼女はぷりぷりしていた。
「じゃ、なんてすか。もしそんなことがここであったとすると、あの人はここへろうそくでも持って来たんですか? さもなくば、ぼく考えがつきません……」
「ええ、ろうそくをね。それがどうしたんです」「丸のままのですか、それとも燭台に立ってるのですか?」
「ええ、あの……いいえ……半分ばかりよ……燃えさしよ……いいえ……丸のまんまの――まあ、そんなことどうでもいいわ、よしてちょうだい……そしてお望みなら、マッチも持って来たことにしましょうよ。ろうそくをともして、まる三十分もその中に指を突っこんでたの。こんなことほんとうらしくなくって?」
「ぼくきのうあの人に会ったけれど、指はなんともなかったですよ」
 アグラーヤは急に子供のようにふっと吹き出した。
「ねえ、今あたしが何のためにうそをついたかわかって?」とつぜん彼女はまだくちびるに微笑をただよわせつつ、子供らしい心安さで公爵の方へふり向いた。「それはね、うそをつくときに、なにかしらとても珍しい奇抜な……つまり、その、なんですわ、とても類の少ない……というより、まるで類のないようなことを、ちょいと上手に挟むと、そのうそが、たいへんほんとうらしくなるものよ! あたしそれに気がついて応用してみたけど、まずかったわねえ。だって、あたし上手にできないんですもの……」
 ふと彼女は心づいたように、また眉をしかめた。
「あのときあたしが」まじめなというよりむしろ愁わしげな目つきで、公爵をながめながら、彼女はこういい足した。「あのときあたしが『貧しき騎士』をあなたに読んで聞かしたのはね、あれでもって、あなたのある一つの性質を、賛美しようと思ったんですけど、またそれといっしょにあの行状について、あなたの面皮をはいであげようと思ったんですの。そして、あたしが何もかもすっかり知ってるってことを、あなたに知らせてあげたかったの……」
「あなたはぼくに対しても……また今あなたが恐ろしい言いかたをなすった不仕合わせな女に対しても、不公平な考えを持っていらっしゃいますよ、アグラーヤ」
「そのわけはね、あたしが何もかも承知してるからですよ、だから、あんないいかたをしたんですよ! あたしは、半年前にあなたが大勢の前で、あの女に結婚を申し込んだことを知ってますよ。口を出さないでちょうだい、このとおりあたし注釈ぬきで話しますから、そのあとで、あの女はラゴージンといっしょに逃げました、それからあなたはあの女といっしょに、どこかの村とか町とかで暮らしたでしょう。すると、そのうちにあの女はなんとかいう男のところへ逃げていったのよ(アグラーヤはおそろしく顔をあからめた)。そののち、女はまるで……まるで気ちがいみたいに自分を愛してくれるラゴージンのところへ、またぞろ戻って来たんです。それからまたまた、あなたはやはりたいへん利口なおかただから、あの女がペテルブルグへ帰ったと聞くとすぐ、そのあとを追って、今度ここへかけつけていらしったのよ。ゆうべもあの女をかばおうとして飛び出しなさるし、今も今で夢にまでごらんになる……ほらね、あたしすっかり知ってるでしょう。ほんとうにあなたはあの女のために、あの女のためにここへおいでになったんでしょう」
「ええ、あの女のためです」と公爵は小さな声で答えた。彼はもの思わしげな沈んだ様子で首を傾げていたので、アグラーヤがどんなに目を輝かしつつ自分を見つめているか、まるっきり気がつかなかった。「あの女のためですが、ただちょっと……知りたいことがあって……ぼくはあの女がラゴージンといっしょになって、幸福を得ようとは信じられないものですから……そのう、あの女のためにどんなことをしてやれるか、どうして助けることができるか、自分でもわからないくせにやって来たんです」
 彼は身震いしてアグラーヤを見やった。こちらは憎悪の色を浮かべながら、彼の言葉を聞いていた。
「何のためかわからないくせにいらしったのなら、つまりあなたはあの女に首ったけなんでしょう」とうとう彼女はこういった。
「いいえ」と公爵は答えた。「いいえ、すこしも愛してはいません。おお、ぼくがあの女といっしょに暮らした時分のことを追想して、どんな恐怖を感じるか、それがあなたにわかったら!」
 こういったとき、彼の身内を戦慄が流れたほどである。
「すっかりいってごらんなさい」とアグラーヤはいった。
「あの事件について、あなたにお聞かせできないようなことは、一つもないのです。なぜあなたに――あなたひとりだけに、あのことをすっかりお話ししたくなったのか、ぼく自身にもわかりません。もしかしたら、ほんとうにあなたをいっしょうけんめいに愛していたのかもしれません。あの不仕合わせな女は自分が世界じゅうでいちばん堕落した、罪ぶかい人間だと、深くふかく信じきっているのです。ああ、あの女を辱しめないでください、石を投げないでください。あの女はいわれなくけがされたという自覚のために、過度に自分を苦しめているのです。しかも、どんな罪があるんでしょう。ああ、まったくそら恐ろしい! あの女はひっきりなしに逆上して叫んでいます、『わたしは自分の罪を認めるわけに行かない、わたしは世間の人の犠牲だ、放蕩者の悪党の犠牲だ』と叫んでいます。しかし、人にはどんなことをいうにもせよ、あの女は自分からさきに立って、自分のいうことを信じていないのです。それどころか、心の底から自分を……に非ぶかい人間だと思いこんでるのです。ぼくがこの迷妄を追っ払おうとしたとき、あの女の苦痛はじつに極度にまで達して、ぼくの心はあの恐ろしい時代のことを覚えているあいだは、とうていいやされそうもないほど傷つけられてしまいました。まるでぼくの心は永遠に突き剌されてしまったみたいなのです。あの女がぼくのところから逃げ出したのは、なんのためかごぞんじですか? つまり、自分が卑しい女だってことを証明するためなんですよ。しかし、なにより恐ろしいのは、-あの女がそれを自分でも知らないで、ただたんとなく卑劣な行為をしでかして、『ほら、おまえはまた新しく卑劣なことをした、してみると、おまえはやっぱり卑劣な動物なんだ!』と『自分で自分をののしりたい、必然的な心内の要求を感じたために逃げ出した――その事実なんです。おお、アグラーヤ、あなたにはこんなこと、おわかりにならないかもしれませんね! しかし、こうして絶え間なく自分のけがれを自覚するのが、彼女にとってはなにかしら不自然な、恐ろしい愉楽かもしれないんです。ちょうどだれかに復讐でもするような快楽なんですね。ときどきぼくはあの女が、周囲に光明をみるようになるまで導いてやりましたが、すぐにまたむらむらと取りのぼせて、果てはぼくが一段たかくとまって澄ましてるといって、ひどくぼくを責めるようになりました(ところが、ぼく、そんなこと考えてもいなかったですよ)。そして、ぼくの結婚申し込みに対して、こんなことをむきつけていうんです――わたしは高慢ちきな同情や、扶助や、ないしは「ご自分と同じように偉くしてやろうという親切」なんか、けっしてだれからも要求しません、なんてね。あなたはゆうべあの女をごらんになりましたが、いったいあんな仲間といっしょになって、幸福を感じてるとお思いですか、いったいあれがあの女の伍すべき人たちでしょうか? あなたはごぞんじないでしょうが、あの女はなかなか頭が進んでるんですよ、なんでも理解できるんですよ! ときどきぼくもびっくりさせられることがあるくらいです!」
「あなたは、あちらでもやはりそんな……お説教をなすったんですの?」
「おお、どういたしまして」と公爵は、質問の語気に気もつかず、考えぶかそうに答えた。「ぼくはほとんどしじゅう黙ってばかりいました。実際はときおりいいたいと思ったんですけれど、なんといっていいかわからないことが多かったのです。ねえ、そうでしょう、まるで口をきかないほうがいいような場合右あるでしょう。ああ、ぼくはあの女を愛しました。非常に愛しました……けれど、あとになって……あとになって、あの女はすっかり察してしまいました」
「何を察したんですの?」
「つまり、ぼくがあの女を憐れんでるだけで、もう……愛してはいないことを」
「けれど、もしかしたらあの女は、いつかいっしょに逃げ出したあの地主に、ほんとうにほれこんでたのかもわかりゃしないわ」
「いや、ぼくにはすっかりわかっています、あれはその地主を冷笑したばかりです」
「で、あなたのことはけっして冷笑しませんでした?」
「いいえ、あの女は面あてに冷笑しました。おお、あの時分は腹立ちまぎれに、おそろしくぼくに食ってかかって――そして自分でも苦しんでいました! けれど……あとで……ああ、もうあのことを思い出させないでください、田心い出させないで!」
 彼は両手で顔をおおった。
「あなたはごぞんじないんですの、あの女がほとんど毎日あたしに手紙をよこすのを?」
「じゃ、ほんとうなんだ!」と公爵は不安げに叫んだ。「ぼくちらと小耳に挟んだけれど、それでもほんとうと思いたくなかったのです」
「だれから聞きました?」アグラーヤはおびえたようにぴくりとなった。
「ラゴージンがきのうぼくにそういいました。はっきりしたいいかたじゃなかったけれど」
「きのう? きのうの朝ですの? きのうのいつごろ、音楽隊ゆきの前? あと?」
「あとです、晩の十一時すぎでしたから」
「ははあ、なるほどね、もしラゴージンが……ところで、その手紙にどんなことが書いてあるかごぞんじ?」
「ぼくはどんなことだって驚きゃしません。あの女は気ちがいですからね」
「これがその手紙ですの(アグラーヤはポケットの中から、封筒に入った三通の手紙を取り出して、公爵の前へほうり出した)。もうこれで一週間というもの、あたしにあなたと結婚しろといって、泣きつくように頼んだり、おだてたり、誘惑したりしてるんですよ。あの女は……ええ、そうね、あの女は気ちがいとはいい条、利口なんですよ、あなたがあたしよりずっと利口だ、とおっしゃったのは、まったくですわ……あの女はこんなことを書いてよこすんですの――、わたしはあなたを慕わしく思っています、せめて遠くからでもお顔が見たいと思って、機会を求めてるんですとさ。それからね、公爵はあなたを愛していらっしゃる、わたしはそれを知っています、ずっと前から気がついています、わたしはあちらにいる時分から、公爵とあなたのことをおうわさしていました。わたしは公爵が幸福になられるのを見とうございます、そして、その幸福はすなわちあなただということを、かたく信じていますですって……あの女の手紙の書きかたは……ぞんざいで奇態だわ……あたしはだれにもこの手紙を見せないで、あなたを待ってたんですのよ。いったいなんの意味かあなたごぞんじ? ちっとも見当がおつきになりません?」
「それは狂気の沙汰です、あの女が気ちがいだって証拠です」公爵はいったが、そのくちびるはふるえていた。
「あなたもう泣いてるんじゃありません?」
「いいえ、アグラーヤ、ぼく泣いてやしません」と公爵は相手を見つめた。
「この場合どうしたらいいでしょう。なんとか意見を聞かしてくださいな、あたしこんな手紙をもらうのはいやですわ!」
「おお、うっちゃっておおきなさい、お願いです!」と公爵は叫んだ。「こんな暗黒の中であなたに何ができましょう。あの女がもう手紙なんかよこさないように、全力をそそぎます」 「もしそうなら、あなたは不人情な人よ!」とアグラーヤが叫んだ。「あの女はけっしてあたしなんか慕ってるんじゃなくって、あなたを、あなたひとりを愛してるってことが、いったいあなたはおわかりにならないんですの! いったいあなたはあの女の全部を見透かしてしまったくせに、これだけが目にとまらないんですの? これがどんなことだか、この手紙がどんな意味を含んでるか、あなたご存じ? これは嫉妬です。いいえ、嫉妬以上です! あの女は……あなたはこの手紙に書いてあるとおり、ほんとうにあの女がラゴージンと結婚するとお思いなすって? あの女はあたしたちが式を挙げたら翌日、自害してしまいますI」 公爵はぴくりと身をふるわした。彼は心臓の凍るような思いであった。けれども、また驚きの念をもってアグラーヤを見つめた。このねんねえがもうとうから一人前の女になっているのだと考えると、妙な心持ちがした。
「アグラーヤ、ぼくは神さまにでも誓います。あの女の心を静めて、幸福な身の上にするためには、ぼくは命を投げ出しても惜しくないと思っています。しかし……ぼくはもうあの女を愛するわけに行きません。あの女もそれをよく承知しています!」
「じゃ、ご自分を犠牲になさるがいいわ、それがあなたによく似合ってよ! ほんとうにあなたは偉い慈善家ねえ。それからね、あたしのことを『アグラーヤ』なんていわないでちょうだい……あなたはさっきあたしのことを『アグラーヤ』と呼び捨てにしたでしょう……ええ、あなたはぜひとも、かならずあの女を復活させなくちゃならないわ。そして、その心を鎮めて落ちつかせるために、またいっしょに駆落ちしなくちゃならないわ。だって、あなたはほんとうにあの女を愛してらっしゃるんですもの!」
「ぼくはそんなふうに自分を犠牲にすることができなかったのです。もっとも、一度そうしたいと思ったことがあるけれど……いや、ことによったら、今でもそう思ってるかもしれませんがね。しかし、ぼくといっしょになったら、あの女の身の破滅だってことは、ぼくたしかに[#「たしかに」に傍点]知っています。だから、うっちゃっておくんです。ぼくはきょうの七時に、あの女に会わなくちゃならなかったんですが、たぶんもう行きますまい。ああした誇りの強い女ですから、ぼくの愛なんかけっしてけっして許しゃしません――そうして、ぼくらはふたりとも身を滅ぼしてしまうのです。これは不自然なようですが、この事件ではいっさいがことごとく不自然なんですからね。あなたは、あの人がぼくを恋してるっていいますが、あれがいったい恋でしょうか? ぼくがあんな苦痛を受けた以上、あれを恋というわけにはゆきません。ええ、まったく別なものです。恋じゃありません!」
「まあ、なんて青い顔でしょう!」と、ふいにアグラーヤはびっくりして、こういった。
「なんでもありません。あまり眠らなかったので、からだが弱ったのでしょう。ぼくは……ぼくたちはあのときほんとうにあなたのことをうわさしたんですよ、アグラーヤ……」
「じゃ、あれはほんとうなんですね? あなたはほんとうにあの女とあたしのうわさをすることができたんですか[#「あの女とあたしのうわさをすることができたんですか」に傍点]? それに、どうしてあなたはあたしを愛したりなんかできたんですの? あのときたった一度、あたしをごらんになったきりじゃありませんか」
「どういうわけか自分でもわかりません。あの当時のぼくの真っ暗な心の中に、新しい曙が空想されたのです……あるいはほんとうにひらめいたのかもしれません。どうしてあなたのことを第一番に考えたのか、自分でもわかりません。あの手紙にわからないと書いたのは、ほんとうのことなんです。それはみんな、あの当時の真っ暗な心から生じた空想なんです……その後、ぼくは仕事をはじめました。で、三年間こちらへ来ないはずだったんです……」
「じゃ、つまりあの女のためにいらしったんですね?」
 アグラーヤの声の中には、なにかふるえるようなものがあった。
「ええ、あの女のためです」
 暗澹たる沈黙の二分間が過ぎた。アグラーヤは席を立った。
「もしあなたのおっしゃるように」と彼女はふるえ声でいいだした。「もしあなたの信じてらっしゃるように、あの……あなたの女が……気ちがいだとすれば、そんな気ちがいの空想に用はありませんからね……公爵、お願いですから、この三本の手紙を持って行って、あたしからだといってあの女にたたきつけてください! もしあの女が」とアグラーヤは急に調子を張って、「もしあの女がいま一度あたしのところへほんの一行でも書いてよこしたら、あたしはおとうさんにいいつけて、懲治監へ入れさせるからって、あの女にそういってください……」
 公爵は驚いて飛びあがり、思いがけないアグラーヤのものすごい顔をながめていた。すると、とつぜん目の前に霧がかかったような気がしてきた。
「あなたがそんなことを感じるはずはありません……それはうそです!」と彼はつぶやいた。
「いいえ、ほんとうです! ほんとうです!」ほとんどわれを忘れて、アグラーヤは叫んだ。
「なにがほんとうなんだって、どうほんとうなの?」ふたりのそばでだれかのおびえたような声が響いた。ふたりの前にはリザヴェータ夫人が立っていた。
「ほんとうというのはね、あたしがガーニャのお嫁さんになるってことなのよ! あたしがガーニャに恋して、あすにもいっしょに駆落ちしようってことなのよ!」とアグラーヤは母にくってかかった。「わかって? おかあさまの好奇心はそれで満足して? そして、このことに賛成してくだすって?」
 こういい捨てて、彼女はわが家をさしてかけだした。
「いけません、あんたは帰らないでください」と夫人は公爵を引きとめた。「お願いですから、家へちょっと相談に寄ってくださいな……ああ、なんという苦しみだろう、わたしは夜っぴて眠らなかったんですよ」
 公爵は夫人のあとからついて行った。

      9

 自分の家へ入ると、リザヴェータ夫人は、いきなり取っつきの部屋に足をとめた。もうそれよりさきへ進む元気がなかったので、すっかり力ぬけがしたように、長いすにどっかり身を落として、公爵に席をすすめることさえ忘れていた。それはかなり大きなホールで、真ん中には円テーブルがすえてあり、壁炉《カミン》の設備もでき、窓のそばのかさねだなには花がたくさんおいてあって、うしろの壁には庭への出入り口になっている別のガラス戸があった。すぐにアレクサンドラとアデライーダが入って来て、けげんなもの問いたげな様子で公爵と母をながめていた。
 令嬢たちは別荘へ来てから、たいてい朝九時ごろに起床した。ただアグラーヤがこの二、三日、すこし早く起き出して、庭へ散歩に出るようになったが、それにしても七時などという時刻ではなく、八時か、さもなければもうすこし遅かった。さまざまな心づかいのため、ほんとうにひと晩じゅう眠られなかった夫人は、もうアクラーヤが起きたころだと考えたので、娘と庭で出会うつもりで、わざわざ八時ごろに床を出た。が、庭にも寝室にも彼女はいなかった。そこで大人はすっかり心配になって、姉たちを呼びおこした。アグラーヤがもう六時すぎに公園へ出たということを下女から聞くと、姉たちは空想家の妹の新しい空想を冷笑しながら、アグラーヤをさがしに公園に行ったら、あの娘はよけいおこりだすだろうと母に注意した。そして、今ごろはたぶん本を持って、緑色のペンチにすわってるだろう、なぜなら、三日前にS公爵があのベンチの辺の景色にはなんの奇もないといったために、あやうくアグラーヤと口論せんばかりであったから、といい添えた。
 ふたりのあいびきを見つけたうえに、娘の奇態な言葉を聞くと、リザヴェータ夫人はいろいろとわけがあって、おそろしくぎょうてんした。しかし、こうして公爵をひっぱって来てみると、急にみずから事をおこしたのを感じて、おじけづいた。『アグラーヤが公園で公爵に出会って話しこんだからって、なにが悪いんだろう。よしんば前から約束した出会いであったにせよ、なにもかまったことはないはずだ』
「ね、公爵」彼女はついに気を取り直して、「わたしがあんたをここへひっぱって来たのを、訊問のためだなんて思わないでちょうだい……きのうの晩のこともあったしするから、当分のあいだ、あんたとは会いたくなかったくらいなんですからね……」
 彼女はちょっと言葉につまった。
「しかし、それにしても、きょうぼくがアグラーヤさんに会ったのは、どういうわけだか聞きたくてたまらないのでしょう?」と公爵は落ちつきはらって、いいきった。
「そりゃあ、まあ、知りたいですとも!」と夫人はすぐにかっとなった。「歯にきぬ着せない言葉も、べつに恐れやしませんよ。なぜって、だれひとりばかにしたこともなければ、またばかにしようと思ったこともありませんからね……」
「とんでもないことを、ばかにするしないは別にして、知りたいのがあたりまえです。あなたは母親ですもの。ぼくたちが正七時に、緑色のベンチのそばで会ったのは、きのうアグラーヤさんからお招きを受けたからです。お嬢さんはゆうべ手紙で、ぜひぼくに会ったうえ、重大な件について話したいと。こういう意志をお伝えなすったのです。ぼくたちは約束どおり会見して、まる一時間、もっぱらお嬢さんおひとりの一身に関することで話をしました、それっきりです」
「もちろん、あなた、疑いもなくそれっきりです」と夫人は威を帯びた調子でいった。
「りっぱですわ、公爵!」アグラーヤがとつぜん部屋へ入って来て、こういった。「あたしのことを、卑劣なうそなんかつけない女だと思ってくだすったのね。真底からお礼を申しますわ。おかあさま、もうたくさんよ。それともまだなにか訊問なさるつもり?」
「これ、アグラーヤ、わたしはこれまでまだ一度もおまえのまえで、あかい顔をするようなことはありませんでした。もっともおまえは、わたしにあかい顔をさせたほうが嬉しかったのかもしれないがね」と教訓じみた調子で夫人はいった。「さようなら、公爵、お騒がせしてすみませんでした。どうぞわたしは変わりなくあなたを尊敬しているものと信じてください」
 公爵はすぐに両方へ会釈して、無言のまま出て行った。アレクサンドラとアデライーダはにたりと笑って、なにやらふたりでささやき合った。夫人はいかつい目つきをしてふたりをにらんだ。
「おかあさま、あれはね」とアデライーダが笑いだした。「ただ公爵があんなにりっぱなお辞儀をなすったからよ。どうかすると、まるで粉袋みたいな恰好をしてるくせに、今なんぞは思いがけなく、まるで……まるでエヴゲーニイさんかなんぞのような……」
「礼儀や品格を教えるのは心そのもので、踊りの先生じゃありません」と夫人はものものしくこういって、アグラーヤのほうをふり向きもせずに、二階の居間へ行ってしまった。
 公爵が九時ごろに家へ帰ってみると、露台に娘のヴェーラと女中がすわっていた。ふたりはいっしょにきのうの騒ぎのあと始末をして、片づけたり掃いたりしていた。
「まあ、いいあんばいにお帰りまでに片づいたわ」とヴェーラが嬉しそうにいった。
「お早う。ぼくは少々目まいがしましてね。寝か足りないもんだから。ひと寝入りしたいものですな」
「きのうのように露台で? よろしゅうございます。あたしお起こししないように、みなに申しつけて置きますわ。おとうさんはどこかへ出かけました」
 女中は出て行った。ヴェーラもそのあとからついて行こうとしたが、なにを思ったか引っ返して、心配そうに公爵に近づいた。
「公爵、どうかあの……不仕合わせな人をかわいそうだと思ってくださいまし。そして、きょうあの人を追い出さないでくださいまし」
「けっして追い出しなんかしません。あの人の思いどおりにします」
「もうなんにも仕でかしゃしませんから……あまり厳重に取り扱わないでくださいましね」
「おお、どうしてそんなことを、なんの必要があります?」
「それから……あの人をからかわないでくださいまし、それが一番のお願いでございますわ」
「おお、けっしてけっしてそんなことはしません!」
「あなたみたいなおかたにこんなことをいうなんて、あたしほんとうにばかですわねえ」とヴェーラは真っ赤になった。「あなたはお疲れでいらっしゃいますけど」もう出て行きそうにして、半分向きを変えながら、彼女は急に笑いだした。「でも、今あなたは美しい目つきをしてらっしゃいますわ……いかにも仕合わせらしい……」
「ほんとうに仕合わせらしいですか?」と公爵はいきいきした調子でたずね、嬉しそうに笑いだした。
 しかし、いつも男の子みたいに無邪気で、遠慮のないヴェーラが、急になにかきまりわるそうな様子をして、ますます顔をあからめながら、いつまでも笑いやまずに、いそいそと部屋を出て行った。
『なんという……かわいい娘だろう……』と公爵は考えたが、すぐに彼女のことを忘れてしまった。彼は柔らかい長いすとテーブルのすえてある露台の片隅へ行って腰をおろすと、両手で顔をおおって、十分ばかりじっとしていた。と、ふいにせかせかと心配らしい様子でかくしへ手を突っこみ、三通の手紙を取り出した。
 けれどもふたたび戸が開いて、コーリャが入って来た。公爵は手紙をもとへ戻して、またその時を遠ざけることができたのを喜ぶように彼を迎えた。
「どうも大変でしたね!」とコーリャは長いすにすわるが早いか、こういう性質の人の常として、いきなり本題に入った。「あなたは今イッポリートをどう見ていらっしゃいます? 尊敬しませんか?」
「どうしてそんなことが……しかしコーリャ、ぼくは疲れているんですよ……それに、あの話をまた持ち出すのはあまり気が進まないんでね……しかし、あの人はどんなです?」
「寝ていますよ、それにまだ二時間ぐらい寝通しでしょうよ。あなたが家で寝ないで、公園を散歩なすったのはよくわかります……もちろん興奮なさるのはあたりまえですよ!」
「ぼくが公園を散歩して家で寝なかったのを、どうして知ってるんです?」
「ヴェーラがいま教えてくれたんです。そして、ぼくに入っちゃいけないってとめたんですが、がまんしきれなくって、ちょっと……ぼくはこの二時間、ベッドのそばで寝ずの番をして、たった今コスチャ(レーベジェフの息子)を代わりにすわらしたところなんです。ブルドーフスキイは出かけました。じゃ、公爵、おやすみなさい。グッドナイト……じゃないグッドデイ! ときに、ぼくは驚いちまいましたよ」
「そりゃもちろん、ああした……」
「いいえ、公爵、違います。ぼくは『告白』に驚いたのです。ことに神と来世を説いたあたりにね。あすこにはいだーいな思想が含まれています!」
 公爵は愛想のいい目つきでコーリャをながめた。彼はむろん、すこしも早くこの偉大な思想を話したくて来たのである。
「だけど、大切なのは、単に思想ばかりじゃなくって、ぜんたいの背景なんです! もしあれをヴォルテールや、ルソーや、プルードンが書いたなら、一読して注目はしますけれど、あれほどまで驚嘆しなかったでしょう。ところが、生きてる間がもう十分しか残ってないことを、正確に心得てる人間がこんなことをいうのは――じつに雄々しいじゃありませんか? じつにこれは人間品位が示しうる最高の独立じゃありませんか、じつに勇壮じゃありませんか……いや、ほんとうに偉大な精神力です! ところが、それにもかかわらず、雷管をわざと入れなかったなんて断言するのは、――卑劣です、不自然です! ねえ、公爵、ゆうベイッポリートはずるいことをいってぼくをだましたでしょう。ぼくは一度もあの男といっしょに袋をつめたこともなければ、ピストルを見たこともないのです。あの男がみんな自分でこめたんです。だからぼく、ふいをうたれて、面くらっちゃったんですよ。ヴェーラの話だと、あなたはあの男をここへ置いてくださるそうですね。まったく請け合います、けっして危険はありません。それに、ぼくらがそばを離れずに付いてるんですものね」
「きみがたの中でだれが昨夜あっちにいたんです?」
「ぼくに、コスチャに、レーベジェフに、ブルドーフスキイ。ケルレルはしばらく来ていましたが、すぐレーベジェフの部屋へ寝に行きました。だって、あの部屋にはもう寝る場所なんかないんですもの。フェルディシチェンコもやはりレーベジェフのところで寝て、けさ七時に帰って行きました。将軍はいつもレーベジェフのところにいるんですが、今はやはりちょっと出ています……レーベジェフはたぶんここへやって来ますよ。何用か知らないけれど、あなたをさがしているようですよ、二度もたずねましたもの。あなたおやすみになるんでしたら、あのひとを入れたもんでしょうか、どうでしょう? ぼくも行って寢ようや。ああ、そうそう、ひとつあなたにお話ししたいことがあった。ぼく、さっきおとうさんに面くらっちゃったんですよ、ブルドーフスキイが交代のために六時すぎ、いや、ほとんど六時にぼくをおこしたでしょう。ぼくがちょっと外へ出て見ると、おとうさんに出会ったんです。おそろしく酔っぱらって、人の見分けがつかないくらいなんです。まるで棒みたいにぼくの前に立っていましたが、ひょいと気がつくと、いきなり飛びかかって、『病人はどうだ? おれは病人の様子を見にきたところなんだぞ』というじゃありませんか。ぼくはこうこうだと教えてやったのです。『それはいい具合だ。しかし、おれがこうして歩いているのは、ひとつおまえに注意しておきたいことがあるからだ。そのためにおきて来たんだよ。ほかでもない、フェルディシチェンコの前では、なにもかもべらべらしゃべってしまうわけに行かんぞ……控え目にするんだぞ』つていうのです。公爵なんのことだがわかりますか?」
「へえ! しかし……われわれにとってはどうだっていいことです」
「ええ、そりゃそうですとも、ぼくたちはマソンじゃありませんからね。だから、ぼくはおとうさんがこれしきのことで、よる夜中わざわざおこしに来たというので、びっくりしちゃったんです」
「フェルディシチェンコは帰ったっていいましたね?」
「ええ、七時に。ぼくんとこへちょっと寄って行きました。ぼくはそのとき寝ずの番をしてましたからね。なんでもヴィルキンのところで、またひと寝入りするんだとかいいました――ええ、ヴィルキンという飲んべがいるんですよ。さあ、行こうっと! おや、レーベジェフさん……公爵は眠いとおっしゃるから、帰った、帰った!」
「公爵、ほんのちょっとのあいだ、わたしの目から見てすこぶる重大な件について、お話ししたいことがござりまして」と入ってきたレーベジェフはささやき声で、妙に恃むところありげな調子で、目苦しそうにこういうと、ものものしく会釈した。 彼はいま外から帰って来たばかりで、自分の住まいへも寄らなかったので、帽子を手に持っていた。その顔は一種とくべつなぎょうぎょうしい威厳を帯びて、しかもだいぶ心配そうであった。公爵はすわるようにいった。
「きみは二度もぼくを訪ねてくれたそうですねえ? おおかた、ゆうべのことで、まだ気をもんでるんでしょう?………」
「あの昨夜の小僧のことをおっしゃってるんですか、公爵?いいや、いや、きのうはすっかり頭がめちゃめちゃになっておりましたが……きょうは何ごとにつけても、あなたのご意見に『コントレカールしよう』とはぞんじませぬ」
「コントレカール……きみなんといったんです?」
「はい、コントレカールするといいましたので、これは今日よくあるように、ロシヤ語系の中へはいったフランス語(コントルカレ――さからう)でござります。しかし、たって間違ってないとは申しません」
「なんだってきみはきょうそんなに澄ましこんで、取りつくろってるんです。そして口をきくにも、一音一音つづるようないいかたをして……」と公爵は薄笑いを浮かべた。
「ニコライ君!」とレーベジェフは、感に堪えたような調子で、コーリャに向かっていい出した。「わたしは公爵にある大切なこと……」
「いや、わかってます、わかってます、ぼくの知ったことじゃありません! さよなら、公爵!」コーリャはすぐに立ち去った。
「あの子はさとりがいいから好きですな」とレーベジェフはあとを見送りながらいった。「なかなか活発な子ですよ、公爵、大変な災難に出会いました、ゆうべかそれともきょう明けがたか……はっきりした時刻はまだ決めかねますけれど」
「どうしたのです?」
 「公爵、四百ルーブリの金がわきポケットから失くなったのです。ひどい目にあいましたよ!」とレーベジェフは苦笑いをしながら、いい足した。
「きみが四百ルーブリなくしたんですって? それはお気の毒でしたね」
「とりわけ自分の労働で、正直に暮らしている貧しい人間にとりましてはね」
「もちろん、もちろんですとも、いったいどうして?」
「酒のためです。わたしはあなたを神さまと思ってご相談しますので。きのうの五時に、ひとりの債務者から四百ルーブリの金額を受け取って、汽車でここへ帰りました。紙入れはかくしへしまって置いたのです。略服をプロッタに代えるとき、金は自分の手に持っていたいと思って、フロックのほうへ入れ換えて置きました。それはある人に頼まれていたので……代理人の来るを待って、渡そうと考えたのです……」
「お話し中ですが、きみが貴金属品を抵当にして金を貸すって、新聞に広告してるというのはほんとうですか?」
代理人に任してるのです。所書きの下に自分の名は書いておりませんので。わずかばかりの金しか持ってないうえに、家族がふえたもんですから、お察しください、正当な利子でもって……」
「いいです、いいです、ぼくはただきいてみただけなんですよ、話の腰を折って失礼しましたね」
代理人はやって来ませんでした。そうこうしているうちに、あの不仕合わせな若い人をつれて来ました。ちょうど食事のあとでしたから、わたしはもうそのときから、いい心持ちになっていたのです。それから、あのお客人たちが見えて……お茶を飲みましたろう。で……わたしは身の破滅も知らないで浮かれだしたのです。もうだいぶおそくなって例のケルレルが入って来て、あなたの誕生日のことと、シャンパンを出せというお指図のことを知らせたとき、わたしは心というものを持っていますので(それは、公爵、あなたも認めてくださいましょう、それだけのことはしているのです)、もっともセンチメンタルな心とは申しませんが、恩を知る心なのです。それを自慢にしているので――とにかく心というものを持っておりますので、わたしはお出迎えを一倍荘厳にするためと、また親しくお祝いを申しあげる用意のために、わたしはちょうど着ていたぼろを、帰宅のさいぬぎ捨てたばかりの略服に換えようと思い立ちましてな、さっそくそれを実行しました。わたしがひと晩じゅう略服を着ていたのは、たぶんお気づきのこととぞんじます。服を着換えるときに、フロックのほうへ金入れを忘れたのでございます……神さまが罰を当てようとお思いなさるとき、まず一番に知恵を取り上げるというのは、ほんとのことでございます。で、やっとけさ七時ごろ目をさましたとき、気ちがいのように飛びあがって、第一番にフロックに手をかけて見ましたが、――ポケットはからっぽ! 紙入れは影も見えません!」
「ああ、それは不快なことですね!」
「まったく不快なので、いや、あなたはいまさっそくの機転で、ほんとうのいいまわしを発見なさいました」いくぶんずるいところのある調子でレーベジェフがおさえた。
「なんですって、しかし……」と公爵はもの思わしげな気づかわしそうな声でこういった。「だって、まじめな話なんですよ」
「まったくまじめな話なんで――それから、いま一つあなたの発見なすった言葉で……」
「ああ、もうたくさんですよ、いったい何を発見するんです? 大切なのは言葉じゃありません……もしやきみは酔ったまぎれにポケットから落としたような気はしませんか?」
「そうかもしれません。あなたが誠意をこめておっしゃったとおり、酔ったまぎれには何をするかしれたもんじゃございません、公爵! けれど、考えてもくださいまし。もしフロックを着かえるとき、ポケットから落としたとしたら、落とした品はそこの床の上にあるはずじゃありませんか。ところで、その品がどこにござります?」
「どこかテーブルのひきだしへでも入れなかったのですか?」
「すっかりさがしました。どこもかしこもひっくり返して見ました。まして、どこへも隠さず、どのひきだしもあけなかったのは、よく覚えとりますから仕方がありません」
「戸だなを見ましたか?」
「第一番に。それどころか、きょう何べんも見ました――おまけに、どうしてわたしが戸だなの中へ入れるはずがありましょう、公爵さま?」
「正直なところ、ぼくはおそろしく気がかりです。してみると、だれか床の上から拾ったんですね!」
「それとも、ポケットから盗み出したか、二つに一つです」
「ぼく、気になってたまらない。だって、だれかひとり……これが疑問ですからね!」
「まったく間違いのないところ、それが一番の問題なのです。いや、あなたが言葉や考えを正確に発見して、状況をはっきりお決めになる手際には驚き入りました……」
「ええ、冗談はよしてください。それどころか……」
「冗談ですって!」とレーベジェフは両手をうって叫んだ。
「ま、ま、ま、よろしい、ぼくおこってるんじゃありません、話がまるで違うので……ぼくはほかの人たちのことが心配になるんです。きみはだれを疑います?」
「それはしごく困難な……しごく複雑なことですて! 下女を疑うわけにはまいりません。あれは台所にばかりすわっとりましたからね。自分の子供らもはや……」
「あたりまえです!」
「してみると、客の中のだれかです」
「しかし、そんなことがありうるでしょうか?」
「ぜんぜん絶対的にありえないことです。しかし、ぜひそうでなくちゃなりません。とはいうものの、もし泥棒があったとしても、それはゆうべ大勢あつまってたときでなく、夜中か明けがたにここへ泊まった人が、だれかやったものと考えなくちゃなりませんて」
「ああ、なんということだ!」
「ブルドーフスキイとコーリャはとうぜん除外しますよ。ふたりともわたしの部屋はのぞきもしないですからね」
「むろんですよ、よしんば入ったところで! きみのところへ泊まったのはだれだれです?」
「わたしを入れて四人が、隣り合わせの部屋で寝ました。わたしと、将軍と、ケルレルと、フェルディシチェンコです。つまりわれわれ四人のうちひとりです」
「三人のうちひとりでしょう。しかし、だれでしょう?」
「わたしは公平を重んずるために、また順序として自分を勘定に入れたんですが。けれど、公爵、わたしは自分のものを盗むことなんかできませんからね。もっとも、そんなためしはよく世間にありますけれど……」
「ええ、じれったいなあ!」と公爵は堪えかねて叫んだ。「早く本題にお入んなさい、なにをだらだらやってるんです……」 
「してみると、残るところ三人です。まず第一に、ケルレル氏は一所不住の酔っぱらいで、ときとしては自由主義者、といっても、財布の点に限ってです。その他の点については自由主義的というより、古武士的傾向を持っております。はじめここで病人の部屋に寝とりましたが、床の上へじかべたではごつごつするといって、もう夜中になって、わたしどものほうへ引っ越して来ました」
「きみはあの人を疑うのですか?」
「疑いましたよ。わたしが七時すぎに、気ちがいのように飛びおきて、額に手を当てたとき、すぐに泰平の夢を見ている将軍をおこしました。フェルディシチェンコの奇妙な消えかたを頭に入れて置いて(これひとつだけでも、われわれの疑いをひきおこすのに十分ですからね)、ふたりはまず、ちょうど……ちょうど釘かなんぞのように寝そべっているケルレルを捜索することに決めました。すっかりさがしてみましたが、ポケットには一サンチームもありません、おまけに、一つとして穴のあいてないポケットはないというていたらくなんで。ただ青い格子縞の木綿ハンカチがありましたが、これも尾籠な有様でしてな。それから、いまひとつどこかの小間使から来た色文、これには金の請求と、なんだか妙なおどし文句が並べてありました。それから、あなたもごぞんじの三面記事の切抜きです。将軍は無罪と決めました。なお手落ちなく調べるために、本人をおこして、無理にゆさぶりおこしてみましたが、なんのことやらろくろく合点がゆかないふうで、口をぽかんとあけて、酔っぱらった顔の表情といったら、まがぬけて罪がなくって、いっそうばかげていました、この男じゃないです!」
「ああ、それで安心した!」と公爵は嬉しそうに溜息をついた。「ぼくもこの人を心配してたんですからね!」
「心配してらしった? してみると、何かよりどころがありましたんで?」レーベジェフは目を細めた。
「いやいや、どうして、ぼくはただ」と公爵は口ごもった。「心配してたなんて、とてつもないばかないいかたをしたもんですよ。お願いだからきみ、だれにもいわないでください 「公爵、公爵! あなたのお言葉はわたしの胸の中に納めときます……胸の底に! ここは墓の中同様に大丈夫でござい
ます!………」帽子を胸に押しつけながら、レーベジェフは感激の調子でこういった。
「よろしい、よろしい……そこで、今度はフェルディシチェンコですね? いや、つまり、フェルディシチェンロを疑うんですね、というつもりだったんですよ」
「ほかにだれがありましょう?」じっと公爵を見つめながら、レーベジェフは低い声でいった。
「そう、むろん……ほかにだれを……いや、その……なにか証拠がありますか?」
「証拠はあります。第一に七時、いや、六時すぎに消えてしまったこと」
「知ってます、さっきコーリャがいいましたよ、コーリャのところへ寄って、だれやらの家へ……名を忘れましたが、友達のところへもうひと寝入りしに行く、とかいったそうですね」 「ヴィルキンの家でしょう。じゃ、ニコライさんがもう話したのですか?」
「しかし、盗みのことなんかいわなかったですよ」
「あの子は知らないのです。なぜといって、わたしはしばらく事件を秘密にしておくつもりなんで。そこで、ヴィルキンのところへ行く、というのになにも不思議はないように思われますね。酔っぱらいが、自分と同じような酔っぱらいのところへ行くんですものね。もっとも、夜明け前ではあるし、これという用向きもないのですけれど……しかし、ここで于がかりが出て来るので。あの男は行きしなに所書きを置いて帰りました……ね、公爵、とくとこの問題を研究してごらんなさりませ。いったいなんのために居所を知らせたのでしょう?………なんのためにわざわざまわり路をして、ニコライさんの部屋へ寄って、『ヴィルキンのところへひと寢入りしに行って来る』なんていうのでしょう? よしやヴィルキンのところだろうと、どこだろうと、あんな男が出かけて行くのを、だれが知りたがるもんですか? なんのために報告するのでしょう? そこがすなわち企んだところなんです、盗人式に企んだところなんですよ! それはつまり『わざわざ自分の行く先をくらまさない以上、おれが泥棒だなんていわれるはずがないじゃないか。いったい泥棒が自分の行く先を知らせるだろうか?』という、つまり嫌疑を避けて砂の上の足跡を消すための、余計な心配なんです……おわかりになりましたか、公爵?」
「わかりました、よくわかりました、しかし、それだけじゃ不十分じゃありませんか?」
「第二の証拠は、足跡がうそだったということです。つまり、言い残した所書きがほんとうでなかったので。一時間たった八時ごろに、わたしはヴィルキンの家を訪ねてみました。ついそこの五番町に住んでいて、わたしとも知り合いの仲ですのでな。ところが、フェルディシチェンコは影も形も見えません。まるっきりかなつんぼの婆さんをつかまえて、やっとのこと聞いてみますと、一時間ばかりまえほんとうにだれか戸をたたいた、しかもかなり猛烈にたたいて、呼鈴までこわしたものがあるけれど、婆さんはだんなさまをおこしたくなかったので、戸をあけなかったそうです。もっとも、婆さんもおきたくなかったのかもしれません。そんなことはよくありますでな」
「それできみの証拠はみんなですか? それじゃまだ不十分ですよ」
「公爵、それではだれを疑ったらよろしいのです。考えてもごらんください!」とレーベジェフは感に堪えたような調子でこう結んだ。なにやらずるそうな色が、その薄笑いの中からのぞいていた。
「もう一度部屋の中やひきだしを見たらいいでしょう」ややしばらく考えこんだのち、公爵は心配そうにいった。
「見ましてござります!」なおいっそう感に堪えたようなふうで、レーベジェフは嘆息した。 「ふむ!………だが、何のために、何のためにきみはフロックを着換える必要があったのです?」と公爵は残念そうにテーブルをたたいて叫んだ。
「古い喜劇にあるようなおたずねですね。けれど、公爵、あなたはわたしの災難をあまり苦に病んでくださりすぎます! わたしにはそれだけの値うちはありはせんです。いえ、なに、わたしひとりだけはその価値がないのでございます。ところが、あなたは犯人のことを……あのやくざなフェルディシチェンコ氏のことを心配して、苦しんでいらっしゃいますから……」
「いや、よろしい、よろしい、きみはほんとうに心配させましたよ」不興げなそわそわした声で公爵はさえぎった。「で、どうしようというつもりなんです? もしきみがフェルデイ
ジチェンコに相違ないと、信じておられるとすればですね……」
「公爵、公爵、だれがほかにありましょう?」とレーベジェブはしだいに感激の度を加えながら、身をもむようにしていった。「さしむき疑いをかけるような人がいないのは、――フェルディシチェンコ氏以外の人を疑うのが、ぜんぜん不可能だということは、これまた有力な証拠です。つまり、証拠が三つあるわけです! だといって、しつこいようですが、ほかにだれがおります? プルドーフスキイ氏を疑うわけにゆかないじゃありませんか、へへへ!」
「ああ、また、なんてばかげたことだろう!」
「また将軍でもありますまい、へへへ!」
「なんて乱暴な!」こらえきれずに、座の上で身をもだえるようにしながら、公爵はほとんど腹立たしげな調子でこういった。
「もちろん乱暴です! ヘヘヘ! ところであの男、ではない将軍は、わたしを笑わせましたよ! こうなんです、わたしが先刻あの人といっしょに、ヴィルキンのところへあとをつけて行ってますと……ちょっとおことわりしておかなくちゃなりませんが、わたしが紛失に気づいて第一番にあの人をたたきおこしたとき、わたしよりもはるか以上に驚いて、顔色が変わったくらいです。赤くなったり、青くなったりしていましたが、とうとういきなりものすごいほど憤慨しだしました。わたしもそれほどまでとは思いもよらなかったくらい。じつにどうも高尚な人ですね! もっとも、のべつうそばかりつくという弱点はありますが、見上げた心持ちの人です。そのうえ取りとめのない人ですから、罪のないところですっかり人を信用させます。もう、一度申しあげましたが、わたしはあの人に弱味ばかりでなく、愛情さえも感じておりますので。さて、将軍は急に往来の真ん中に立ちどまって、プロッタをぱっと広げて、胸をあけて見せるじゃありませんか。『さあ、わしを検査してくれ、きみはケルレルを検査した以上、わしを検査せんという法はない! 公平という点から見ても、それが当然のことなんだ!』というのです。そういう当人は手も足もふるえて、真っ青な顔をして、その様子のものすごいこと。わたしはからからと笑って、こういいました。『ねえ、将軍、もしだれかほかの人間がおまえさんのことをそういったら、わたしは即座にこの手で自分の首をねじきって、それを大きな皿の上へ載っけて、そんな嫌疑をかけるやつのところへ、自分で持って行って、こういってやりますよ。余ほら、ごらんない、この首でもってわたしはあの人の潔白を保証しますよ。いや、首ばかりじゃない、火の中へでも飛びこみます》こんなにしてまで、あんたを保証する覚悟なんですよ』というわけで。するとあの人は飛びかかって、わたしにしがみついて、――それもやはり往来の真ん中なんですよ、――涙を流してふるえながら、せきもできないほど強くわたしを自分の胸へしめっけましてね、『今の不幸な境遇に落ちてから、残っている親友はきみひとりだ!』というじゃありませんか。センチメンタルな人ですよ! ところが、もちろん例のお得意の『逸話』をことのついでに話
しました。それはなんでも若い時分に、やはり一度五万ルーブリ紛失の嫌疑を受けたことがある、というのです。しかし、次の日、さっそく火事で焼けている家の中へとびこんで、嫌疑をかけた伯爵と、当時生娘でいたニーナさんを火焔の中から引き出した。すると、伯爵がいきなりあの人に抱きついて、そこですぐニーナさんとの結婚が成立したんだそうで。ところが翌日、紛失した金の入った小箱が、火事跡に見つかりました。それは鉄で作った英国式ので、秘密錠がかかっていたそうですが、どうかして床下へ落ちたのに、だれも気がつかないでいたところ、やっと火事のおかげでめっかったということです。なに、真っ赤なうそですよ。しかし、ニーナさんのことをいうときには、しくしく泣きだしましたよ。ニーナさんはじつに貞淑な奥さまでござりますね。もっとも、わたしに対しては、腹を立てておいでなさりますけれど」
「きみは知り合いじゃないんですか?」
「まあ、ないといってもいいくらいです。しかし、真底から、お近づきになりたいと思っております。せめてあのかたの前で、申し開きでもしたいとぞんじましてね。ニーナさんはわたしがおつれあいを酒飲みに仕込むといって、不平を持っていらっしゃるのです。ところが、道楽を仕込むどころじゃない、どちらかというと、おとなしくしてあげてるのですよ。ことによったら、わたしはあの人をためにならない仲間から、遠のけてあげてるのかもしれません。それに、わたしにとっては莫逆の友ですから、正直なところ、もうもうけっしてあの人を手放しなんかしません。つまり、あの人の行くところへはわたしもついて行く、というふうなんです。なぜというに、あの人を抱きこむ方法はセンチメンタルな話よりほかにないのでしてな。このごろでは、もうあの大尉夫人のところへは、ちっとも足踏みしません。もっとも心の中では、行きたくてたまらないんですがね。どうかすると、あの女のことを思ってうなりだすことさえあります。それも朝、床を出て、靴をはくときがいちばん激しいんで。なぜか知りませんが、この時刻に限ります。金はすこしも持っていません、そこが困ったところなんで。金を持たないじゃ、あの女のところへ出かけるわけに行きません。公爵、あなたに金の無心を申しませんでしたか?」
「いいえ、申されませんよ」
「きっと恥ずかしいんですよ。借りたいのは山々なんですがね。わたしにも、公爵をわずらわしたいようにいってましたからね。つまり、恥ずかしいのです。ついこのあいだあなたから借りたばかりではあり、またしょせん貸してもくださるまいと思うからですよ。あの人が親友としてわたしにうち明けました」
「きみはあの人に金を貸さないんですか?」
「公爵、公爵、金どころじゃありません、わたしはあの人のためなら命さえも……いや、しかし大げさなことはいいますまい――命とは申しませんが、熱病でも、はれものでも、せきでも、大丈夫、がまんする覚悟です。ただし、それもせっぱつまった必要があるときに限りますので。なぜといって、あの人を偉いとは思っておりますが、もうさきの見こみのない人ですからね。こういうわけで、けっしてお金だけじゃありません!」
「してみると、金を貸すんですね?」
「いいえ、金を貸したことはございません。またあの人もわたしが貸さないってことを、自分でよく承知しています。しかしそれも、あの人が品行をつつしんで改心するように、と思ってのことです。今度もわたしのペテルブルグ行きに、ねだってくっついて行くことになりました。じつは、わたしはフェルディシチェンコ氏のあとを追って、さっそくペテルブルグへ行こうと思っているのです。なぜって、あの男がもうあちらへ行ってるのは、たしかにわかってるからです。将軍はもう夢中になって、勇み立っております。しかし、ペテルブルグへ行ったら、わたしを出し抜いて、大尉夫人を訪問しやしないかと、懸念しておりますので。白状しますが、わたしはわざとあの人を放してやろうか、とさえ思っています。じっさい、ペテルブルグへ行ったら、フェルディシチェンコ氏をさがすに都合のいいように、着くとすぐてんでんに別れようと約束したのですよ。こうして、あの人を放しておいて、とつぜん寝耳に水で、大尉夫人のところへ行っておさえてやろう、とこう思っておりますよ、――つまり家庭の人として、いや、一般に人として、将軍を辱しめてやろうというのです」
「ただあまり騒々しくしないでください、レーベジェフ君。お願いだから、騒々しくしないでくださいよ」と公爵は激しい不安の色を浮かべて、小声でこういった。
「なんの、けっして、ただあの人を辱しめて、どんな顔をするか見たいからです、――なぜといって、公爵、顔色でいろんなことを帰納することができますからね、ことに、ああいう人はなおさらです。ねえ、公爵、わたしは自分で大きな災難を背負っていながら、今でもあの人のことを、あの人の品行匡正を、考えずにいられないのです。じつは、公爵、ひとつ大変なお願いがござります。正直なところ、そのためにおじゃまに来ましたので。あなたはあそこの家とお知り合いで、いっしょに暮らしたことさえおありですから、もしあなたが将軍のために、あの人の幸福のために、助力してやろうと決心なさりましたら……」
 レーベジェフは祈祷でもするように、手まで合わして見せた。
「なんですって? 何を助力するんです! レーベジェフ君、まったくのところ、ぼくはきみのいうことをはっきり知りたいんですから……」
「わたしはただもうこの決心をもって、おじゃまにあがりましたので! ニーナ夫人のお手を借りたら、ききめがあるかと思いましてな。自分の家庭のふところの中で将軍を観察……というより常時監視したらと思うのですが、不幸にして、わたしは夫人と知り合いでありませんので……それに、いわゆる満腔の熱情をもってあなたを尊敬しているニコライさんという人もありますから、またなにかの役に立つかもしれません……」
「とんでもない! ニーナさんをこんな事件へ引きこむなんて……きみはなんてばかなことを! それにコーリャ君まで……もっとも、ぼくはまだきみのいうことが、ほんとうにわからないのかもしれませんね、レーベジェフ君」
「いや、なに、わかるもわからないもございません!」とレーベジェフは、いすから飛びあがらんばかりにあわてた。「ただただセンチメンタルな同情と優しい言葉、これがあの病人に対する唯一の薬です、公爵、あの人を病人と見ることを、あなたは許してくださりますか?」
「それはかえって、きみのこまやかな知性を証明していますよ」
「このことをいっそう明瞭にするため、実地から取ってきた例を引いてお話ししますと、将軍はこういう人なんです。あの人にはいま、金を持たずに訪ねることのできない大尉夫人という病があります。きょう将軍を現場でおさえようと思っているのは、この女の家です。もっとも、それはただただあの人の幸福のためにするのですよ。しかし、かりに大尉夫人ばかりでなくほんとうの犯罪を、いや、その、なにかまあ、非常に破廉恥な間違いを仕でかしたとしても(もっとも、あの人にそんなことができるわけはないのですけれど)、それでもやはり、高尚な優しい行ないでもって、どんなふうにでもあの人を操っていけます。まったくセンチメンタルな男でございますからな! ごらんなさい、とても五日と辛抱できないで、泣きながら自分のほうからいいだして、すっかり白状してしまいます、――ことに家族のかたやあなたなどの助けを借りて、あの人の一挙一動を監督するというように、上手にしかも高尚に仕かけていったら、なおたしかです……もし公爵さま!」なにか感激したように、レーベジェフは急に飛びあがった。「なにもわたしはあの人がたしかに……なにしたというのではありません。わたしはあの人のためには今すぐでも、その、なんですよ、からだじゅうの血をすっかり流してもいいくらいに思っておるのです。しかし、不節制と、酒と、大尉夫人と、こういうものがいっしょになったら、どんなことだってやりかねませんからね、そうじゃありませんか?」
「そういう目的なら、ぼくはもちろんいつでも助力しますがね」公爵は立ちあがりながらこういった。「ただ白状すると、ぼくは心配でたまらないんですよ。だって、きみはやはりまだ将軍を……いや、つまりフェルディシチェンコを疑ってると、自分でいったじゃありませんか」
「ええ、ほかにだれを、ほかにだれを疑いましょう。公爵さま?」とレーベジェフは感に堪えたように微笑しながら、祈るように両手を合わした。
 公爵は眉を寄せつつ席を立った。
「ねえ、レーベジェフ君、ここに一つ誤解されている大事件があるんですよ。あのフェルディシチェンコですね……ぼくはあの人のことを悪くいいたくはないけれど……しかしあのフェルディシチェンコが……その、なんですね、ことによったら、そうかもしれませんよ!………つまり、ぼくのいいたいのは、ほんとうにあの人がほかのだれよりも、いちばんそういうふうに思われる、つてことなんですよ」
 レーベジェフは目を丸くして、耳を立てた。
「じつはね」公爵は部屋の中をあちこちと歩きまわって、レーベジェフのほうを見ないようにしながら、だんだん深く眉をひそめて、よどみがちにこういった。「ぼくはこういうことを知らせてもらったんですよ……あのフェルディシチェンコの前では何ごとも控え目にして……余計の口をきかないほうがいい、とこういう話を聞いたんです――いいですか、ぼくがこんなことを引き合いに出したのは、ことによったら、あの人がだれよりもいちばんそういうことをしそうだ……それが割合に間違いのない考えかもしれない、といおうと思ったからなんです。そこがかんじんなところなんですよ、わかりました?」
「そのフェルディシチェンコのことを、だれがあなたに知らせましたか?」レーベジェフはおどりあがらんばかりであった。
「ちょっと内密で聞かしてもらったんです。しかし、ぼく自身はそんなことをほんとうにしやしません……こんなことを知らせなくちゃならなくなったのが、じつに残念でたまらないけれど、まったくのところ、ぼくはそんなことをほんとうにしやしません……ばかばかしい話です……ちょっ、ぼくはなんてばかな真似をしたんだろう!」
「もし、公爵」と、レーベジェフは身震いさえしながら、「それは重大なことです、今という場合、ことに重大なことです。しかし、それはフェルディシチェンコ氏の一身に関してでなく、どういう具合でそれがあなたのお耳に入ったか、ということが重大なところなんです(こういいながら、レーベジェフは公爵に歩調を合わそうと骨を折って、あとからちょこちょこかけまわるのであった)。じつは、公爵、こうなると、わたしもひとつお知らせしたいことがござりますので。さっき将軍がわたしといっしょにヴィルキンの家へ行く途中、もう例の火事の話をしてしまったあとで、急におそろしく憤慨しながら、フェルディシチェンコ氏について、それと同じことを匂わしたのです。ところが、そのいいかたがごたごたして辻褄が合わんので、わたしは何げなく二つ三つ問い返してみたのです。その結果、この知らせも要するに、『閣下』の感激が生み出したものにすぎない、つてことを見抜いてしまいました。なぜと申して、あの人がうそをつくのは、ただ感激を包みかねるからです。が、おたずねしたいのは、よしんば将軍がうそをついたとしても(それはうそに決まってますが)、どうしてこれがあなたの耳に入ったか、ということです? ね、そうでしょう、あれは将軍のほんの一時の感激なのでしょう、それをだれがあなたに知らせたのです? これは重大なことです、これは……これは非常に重大なことです……いわば……」
「ぼくはたった今コーリャから、またコーリャはおとうさんから聞いたのです。なんでも、あの子がけさ六時か六時すぎに、なにかの用で外へ出たとき、将軍に出会ったんだそうですよ」
 公爵はこの一件をくわしく語った。
「ははあ、なるほど、これこそいわゆる証跡ですな!」とレーベジェフは手をこすりながら、聞こえるか聞こえないかぐらいに笑った。「わたしの思ったとおりですよ! してみると、つまり『閣下』は五時すぎに、わざわざご自分の無邪気な夢を破って、最愛のわが子をゆりおこし、フェルディシチェンコ氏と室を接するのはこのうえもない剣呑なことだと、知らせに行ったんですね! これでもって判じると、フェルディシチェンコはじつに大変な危険人物で、また『閣下』の慈愛は計りしれないほどですなあ、へへへ!………」
「まあまあ、レーベジェフ君」と公爵はすっかりあわてていった。「お願いだから、穏便にやってください! 騒動をおこしちゃいけませんよ! 頼みます、レーベジェフ君、後生です……そんなわけなら、ぼくも誓って助力をしますが、ただだれにも知れないようにね、だれにも知れないように……」
「ご安心くださいまし、公爵さま、ご前さま」とレーベジェフはすっかり夢中になって叫んだ。
「ご安心くださいまし、これは万事わたしのこの高潔なる胸一つにおさめてしまいます! ごいっしょにそろっと抜き足でね! 抜き足でごいっしょにね! わたしはからだじゅうの血をすっかり……ご前さま、わたしは精神の卑劣なやつでござります。けれど、どんな卑劣なやつでも、――というより、いっそ人非人でもよろしい、つかまえて聞いてごらんなさりませ。自分と同じような人非人か、あなたみたいな高潔このうえないおかたか、いったいどちらとともに仕事をしたいかってね。すると、そいつはきっと、高潔なおかたといっしょに働きたいと申しますよ。そこがそれ、徳の力というものでござります! では、公爵さま、ごめんくださいませ! そろっと抜き足で……そろっと抜き足で……ごいっしょにね」

      10

 公爵はなぜあの三通の手紙に触れるたびに身内が寒くなるのか、またなぜ日暮れがたまでこの手紙を読むのを延ばし延ばししたかがやっとわかった。けさほどこの三通の中でどれをあけて見ようかと、決心しかねているうちに、いつしか長いすの上で重苦しい夢の中へ引きずりこまれてしまったが、そのときにまた例の『罪の女』がそばへ寄って来た。彼女はまたもや長いまつげに涙の玉を光らせながら、あとからついて来いと、彼をさし招くのであった。彼は前と同じように、悩ましい気持ちで女の顔を思い浮かべながら、目をさました。すぐにも彼女のところへ出かけたかったけれど、それもできない。ついにほとんど絶望の状態で、手紙を開いて読みはじめた。
 この手紙もまた夢のようであった。
 人はよく奇妙な、とうていありえないほど不自然な夢を見るものである。そんなとき目がさめてから、その夢をありありと思いおこしているうちに、一つの奇怪な事実に逢着して、驚かされることがしばしばである。まずなにより第一に心に浮かぶのは、夢を見ているあいだじゅう、理性がしばしも心を去らないという一事である。むしろそのあいだじゅう、異常な狡知と論理をもって終始した記憶さえ残るものである。よく殺人者がわれわれを取り巻いて、刃物を逆手に持って用意をしているくせに、奸知を弄して底意を隠し、さもなれなれしそうに話しかけてくる。そうしてただなにかの合図があるのを待っている。ところが、われわれは逆に彼らの裏をかいて身を隠す。すると、またあとになって、彼らもこちらの計略をちゃんと承知しているくせに、ただわれわれの隠れ家《が》を知ったふりを見せないだけなのだ、ということに気がつく。けれども最後に、またわれわれは彼らを計略であざむきおおせる、――とこんな筋道をうつつにまざまざと思いおこすことがある。けれど、それと同時にわれわれの理性は、夢の中でひっきりなしに現われて来るこういう無数のわかりきった背理や、荒唐無稽と妥協することができるのは、そもそもどういうわけだろう? たとえば、ひとりの殺人犯がわれわれの目前で忽然と女にばける。と、また女から悪ごすそうな、いやらしい一寸法師になる、――こんなことをわれわれは既成の事実として、なんらの疑惑もなく即座に承認してしまう。しかるに、一方においては、理性が極度に緊張しきって、異常な力と、狡知と、聡明と、論理を示しているではないか。またこれと同じく、夢からさめて、すっかり現実界へ入ってしまったあとで、なにかしら自分にとって解くことのできない謎を残して来たような気が、いつもほのかにするものである。いや、ときとしては、それがなみなみならぬ力をもって迫ることすらある。われわれは夢そのものの愚かしさを笑いながら、それと同時に、こうした愚かしさのこぐらかったところに、なにかしら一種の思想が含まれているのを感
ずる。しかも、その思想はすでに現実のものである。自分の生活に即したあるものである。自分の心の中につねに潜んでいるあるものである。それは、夢によってなにか新しい予言的な、待ちこがれていたものを聞かされたような気持ちである。この印象は非常に嬉しいか、非常に悲しいか、とにかくじつに強烈である。しかし、その本質はどこにあるか、意味はどうであるか、――そんなことは理解も追想もできない。
 ほとんどそれと同じことが、この手紙の読後に感じられた。まだあけて見ぬさきから、公爵はこの手紙の存在する、存在しうるという事実そのものが、すでに悪夢のように感じられた。夕方ひとりでそこはかとなくさまよいつつ(どうかすると、自分で自分がどこを歩いているか、わからなくなることがあった)、公爵は心の中で自問自答するのであった。どうして彼女が彼女に[#「彼女が彼女に」に傍点]手紙をやろうなどと決心したのだろう?どうして彼女にあのこと[#「あのこと」に傍点]が書けたのだろう? そして、またどうしてそんな気ちがいじみた空想が、彼女の頭に生じたのだろう? しかし、もうこの空想は実現せられた。しかも、公爵にとってなにより意外であったのは、彼がこの手紙を読んでいるあいだ、ほとんど自分から先に立って、この空想の可能を信じ、この空想の正当なことさえ信じたという一事である。むろん、これは夢である。悪夢である、狂気の沙汰である。しかし、その中になにやら悩ましいほど真実な、受難者のように正しいあるものがあって、それが『悪夢』も『狂気の沙汰』をも、ことごとくあがないつくしている。数時間のあいだ、彼はその手紙にうなされているような具合であった。絶え間なく切れぎれの文句を思い出して、その中に注意を集中しては、考えこむのであった。どうかすると、こんなことは以前からすっかり予期し洞察していた、とひとりごちたいような気持ちにさえなった。それのみか、こんなことはもういつかずっとずっと前に読んだことがある、とさえ思われた。あのとき以来、彼がこがれ抜き苦しみ抜き、しかも恐れていたものがことごとく、すでに一度読んだことのある三通の手紙につくされているではないか。
『この手紙をご披兄のさい(とこう第一の手紙は書き出されてあった)、まず最初に署名をごらんくださいまし。この署名はあなたにいっさいの事情を説明するでございましょう。それゆえ、わたしはあなたに向かってひと言も申しわけや、説明をいたしません。もしわたくしがいささかでも、あなたと対等に近い圸位にありましたら、あなたはこういう失礼な仕方に、廐をお立てなされたかもしれません。けれども、わたくしは何者でしょう、そしてあなたはどういうご身分でしょう? わたくしたちふたりはまったく両極端を示しています。あなたの前へ出ると、わたくしはものの数にも入らぬはしためでございます。それゆえ、たとえわたくしがあなたを侮辱しようと思ったとて、とてもできることではございません』 進んで別なところで、彼女は次のように書いている。 『わたくしの言葉を病める心の病める感激とお思いなさらないでくださいまし。あなたはわたくしにとって完全そのものでございます! わたくしは毎日あなたを見ました、今でも
見ています。けれども、わたくしはあなたを批判なぞいたしません。批判などで、あなたが完全そのものであるという信念に達したのではございません。わたくしはただ信じたのでございます。けれど、わたくしはあなたに対して申しわけないことがあります。ほかでもございません、わたくしはあなたを愛しているのでございます。じっさい、完全というものは愛されるはずのものではございません。ただ完全としてながめるべきものでございます。そうではありませんか? ところが、わたくしはあなたにほれこんでしまいました。愛は人間を平等にすると申しますけれど、ご心配くださいますな、わたくしは人に見せない心の底ですらも、あなたを自分と等《ひと》しなみには考えていません。今わたくしは「ご心配くださいますな」と申しましたが、ほんとうにあなたを心配させることができるでしょうか?……ああ、もしできることなら、わたくしはあなたの足跡を接吻したでしょう。おお、けっしてわたくしはあなたと肩を並べはいたしません……どうぞ署名をごらんください。早く署名をごらんくださいまし!
『けれども、わたくしは(と彼女はまた別の手紙にこう書いている)、いつもあなたをあの人といっしょにしようと努めているのに、自分でもそれと気がつきます。今までついぞ一度も、あなたがあの人を愛してらっしゃるかしら? などという問いを発したことはありません。あの人はひと目みるなりあなたを恋しました。そして、あなたのことを「光」かなんぞのように思いおこしていました。これはあの人の自分でいった言葉でございます。わたくしがあの人の口から聞いたのでございます。けれども、あなたがあの人にとって光だということは、あの人の言葉を聞かなくともわかります。わたくしはあの人のそばにひと月暮らして、あなたもあの人を愛していらっしゃることを、はじめて悟りました。あなたもあの人も、わたくしにとっては一つでございます。『あれはどういうわけでございましょう?(と彼女はさらにこう書いている)きのうわたくしがあなたのおそばを通ったとき、あなたは顔をあかくなすったようでございますね?あれがわたくしの思い違いだった、などというはずはございません? よしあなたをこの世でいちばんけがらわしい洞穴のような社会へつれて行って、恐ろしい悪行をむき出しにお目にかけたとしても、あなたがあかい顔をなさるはずはありません。あなたが侮辱を感じて、腹をお立てになるはずはありません。それはむろん、卑しいけがれた人間をお憎みになることはありましょう。けれども、それはご自分のためではなくて、その侮辱を受けた人のためでございます。しかし、あなたを侮辱することは、だれしも不可能でございます。じつのところ、あなたはわたくしのようなものさえも愛してくださるような気がしてならないのでございます。あなたはわたくしにとっても、あの人のいうように、天使同様でございます。ところで、天使は人を憎むことができません、また人を愛しないでもいられません。いったいすべての人を、すべての同胞を愛するってことができるでしょうか? この問いをわたくしはよく自分で自分にかけてみました。むろん、否です、むしろ不自然なくらいでございます。人類に対する抽
象的な愛においては、ほとんどつねに自分ひとりを愛するものでございます。これはわたくしたちにはできない相談ですが、あなたは別でございます。あなたはだれひとりくらべるもののないかたです。あなたはあらゆる侮辱や個人的怨恨の上に超越してらっしゃるかたですもの、せめてだれかひとりぐらい愛さずにいられましょうか? あなただけはエゴイズムのためでなく、――自分自身のためでなく、あなたの愛してらっしゃる人のために、愛することがおできになります。こう思っている矢先、あなたがわたくし風情のために、羞恥や憤怒をお感じになると知って、どんなにか痛ましかったでしょう! ここにあなたの破滅が潜んでいます、つまり、あなたはわたくしと同列になるのでございますもの……
『きのうあなたにお目にかかってから、家へ帰って一つの絵を考えつきました。キリストを描くのに、画家はたいてい聖書の言い伝えによるようですが、わたくしだったらいっぷうかえてみますわ、わたくしはキリストをひとりっきり描きます。だって、弟子たちもときどきは先生を、ひとりぼっちにして置くこともあったでしょうからねえ。わたくしの絵では、キリストがひとりの小さな子供と、さしむかいで残っているのでございます。子供はキリストのそばで遊んでいます。もしかしたら、子供らしい言葉で話しかけるのを、キリストもじっと聞いていたかもしれません。しかし、今は黙ってなにやら考えこんでいます。その手は置き忘れたかのように、子供のつやつやした頭の上に、うっとりと載ったままでございます。キリストは遠い地平の方をながめています。その目の中には思想が、全世界のように偉大な思想が宿って、その顔は沈みがちでございます。子供は口をつぐんで、師のひざによりかかり、小さな手で頬杖つきながら、首を上げて考えぶかそうな目つきで(どうかすると、子供もじっと考えこむことがございます)、キリストを見つめています。太陽はしだいにかたむいて行く……これがわたくしの絵のすべてでございます。あなたは無垢なおかたです。そして、その無垢の中にあなたの完全がそっくりふくまれています。おお、どうかこのこと一つだけ覚えていてくださいまし! あなたに献げているわたくしの熱情なんか、あなたになんの興味がありましょう? しかし、あなたはもうわたくしのものでございます、わたくしは一生涯あなたの影身に付き添います……わたくしはすぐに死ぬのですもの』
 最後に三つ目の手紙にはこう書いてあった。
『後生ですから、わたくしのことはなんにも思わないでくださいまし。またわたくしがこうして、あなたに手紙をさしあげることによって、自分で自分を貶しめているなどと思わないでください、またよしや自尊心からにせよ、自分を貶しめて、それを快しとするような女だなどと、わたくしのことを考えてくださいますな。いいえ、わたくしにはわたくしの慰藉がございます。けれども、それをはっきりお話しすることはできません。だって、わたくしは自分にさえはっきり説明できないんですもの、そのためにいろいろ苦しんでいるのですけれど。けれども、たとえ自尊心の発作のためであろうと、自分を貶しめるなんてことはとうていできません。また心の浄く美しいために自分を貶しめることも、わたくしにはできない芸でございます。つまり、わたくしはまるっきり自分を貶しめていないということになります。 『なぜわたくしはあなたを味方にしようとするのでしょう、あなたのためでしょうか、それともわたくしのためでしょうか? もちろん、わたくしのためでございます。この中にわたくしの問題の解決が、ことごとく含まれています。わたくしはとうからひとりでそう考えておりますの……承りますれば、おねえさまのアデライーダさまがあの当時わたくしの写真を見て、こんな美貌があったら全世界を傾けることができる、とおっしゃったそうでございますね。けれども、わたくしは浮世を思いきってしまいました。あなたは、レースやダイヤモンドに身を飾って、酔っぱらいややくざ者に取り巻かれてるわたくしをごらんになったので、こんな言葉をわたくしの口からお聞きなすったら、さぞおかしくお思いでございましょう。どうぞこのことには目を向けないでください。わたくしはもうほとんど存在してないのでございます、わたくしは自分でよく承知しています。わたくしのからだの中には、わたくしのかわりにどんなものが棲んでいるか、神さまよりほかにはだれも知りません。絶えずわたくしを見つめている恐ろしい二つの目の中に、この事実を読み取ることができます。この目はわたくしの前にいないときでも、わたくしを見つめているのです。この目がいま黙っています[#「黙っています」に傍点](いつでも黙っているのです)、けれども、わたくしはこの目の秘密を知っています。あの男の家は陰気くさい淋しいもので、その中にも秘密があります。あの人はきっといつかのモスクワの人殺しみたいに、絹のきれで包んだかみそりを、箱の中に隠してるに相違ありません。その下手人もやはりある家に母親といっしょに住んでいて、ある女ののどを斬るために、絹でかみそりを包んでいたのです。あの男の家にいるあいだじゅう、わたくしはこんな気がしました。どこか床下あたりに、親父さんがまだ生きている時分にかくした死骸が、やはりモスクワの人殺しみたいに油布でおおわれて、まわりに防腐剤の壜が並べてあるかもしれない。わたくしはその死骸の端のほうを、ちょっとあなたのお目にかけることさえできるような思いが致します。あの男はしじゅう黙っています。けれども、あの男がわたくしを憎まずにいられないほど愛しているのを、わたくしはよく知っています。あなたがたの結婚とわたくしたちの結婚は同時に致しましょう、-わたくしはあの男にすこしも隠しだてはしません。わたくしはほんとうに恐ろしさのあまり、あの男を殺しやしないかと思います……けれど、向こうのほうがさきにわたくしを殺すでしょう……あの男はたったいま笑いながら、おまえさんはうわごとをいってるのだ、と申しました。あの男は、わたくしがこうしてあなたに手紙をさしあげるのを、ちゃんと知っているのでございます』
 こうした夢にうなされているような言葉が、まだまだこの手紙の中にたくさんあった。その中の一通、第二の手紙は、大形の書簡箋二枚にいっぱい細かく書きつめてあった。
 ついに公爵はきのうと同じように、長いあいださまよい歩いたすえ、暗い公園の外へ出た。明るい透き通ったような夜は、いつもよりひとしお明るいように思われた。『まだそんなに早いのかしら?』と彼は考えた(時計は家へ忘れてきたのである)。どこかで違い奏楽の音が聞こえるような気がした。『きっと停車場だろう』と彼はふたたび考えた。『しかしむろん、きょうはあの人たちも、あすこへ出かけなかったろう』彼はこんなことを想像しているうちに、自分がその人たちの別荘のすぐそばに立っているのに心づいた。結局ここへやって来るに相違ないと信じていたので、胸のしびれるような心持ちで露台へあがった。が、だれひとり出迎えるものもなかった。露台はがらんとしていた。彼はしばらく待ってから、広間へ通ずる戸を開いた。『この戸はいつもしめてあったことがないのだが』という考えがちらとひらめいた。けれど、広間もがらんとして薄暗かった。彼はけげんな様子をして、部屋の真ん中に突っ立っていた。とつぜん戸があいて、アレタサンドラがろうそくを手に入って来た。公爵を見るとびっくりして、不審そうにその前に立ちどまった。察するところ、彼女はただ一方の戸へ抜けるために、この部屋を通りすがったばかりなので、こんなところにだれかいようとは、思いも設けなかったらしい。
「まあ、どうしてあなたは、こんなところにいらうしゃいますの?」と彼女はようやく口をきった。
「ぼくちょっとお寄りして……」
「おかあさまは少々気分がすぐれませんでねえ。アグラーヤもやはりそうですの。アデライーダはいま寝支度をしています。わたしもやはりこれから行って休むとこなんですの。わたしたちは今夜ひと晩じゅう家でぼんやりしていました。おとうさまとS公爵はペテルブルグへ……」
「ぼくが来ましたのは……ぼくがお宅へまいりましたのは……今……」
「あなたいまなん時かごぞんじですの?」
「いいえ……」
「十二時半ですよ。わたしたちいつも一時に臥《ふ》せりますから」
「え、ぼくは……九時半ぐらいかと思ったんです」
「いいえ、かまいませんわ!」と彼女は笑いだした。「なぜもっと早くいらっしゃらなかったんですの? ことによったら、あなたをお待ちしていたかもしれなかったんですのに」 「ぼくはまた……思ったんです……」彼は帰りぎわに、どもりどもりこういった。
「さよなら! あす、わたしみなを笑わしてやりますわ」
 彼は公園に沿ってまがる道を、わが家のほうへ歩きだした。心臓はどきどきと早鐘をついて、思いは糸のごとく乱れ、まわりのものはすべて夢に似ていた。と、ふいに、――かつて二度まで夢の切れ目となったかの幻が、ふたたび彼の前に立ち現われた。あのときと同じ女が公園の中から出て来て、ここに彼を待ち伏せていたかのように、目の前に立ちどまったのである。彼は身震いして足をとめた。女はその手を取って、かたく握りしめた。『いや、違う、これは幻じゃない?』
 ついに彼女は半年まえの別離以来はじめて、公爵に顔と顔を突き合わして立ったのである。彼女はなにやらいいだしたが、彼は黙ってその顔を見つめていた。胸がいっぱいになって、しくしく痛みはじめたのである。彼はその後どうしても、この時のめぐりあいを忘れることができなかった。そして、思い出すたびに、いつも同じ心の痛みを感ずるのであった。彼女は夢中になったもののように、いきなり往来の上にひざをついた。公爵は驚いて一歩すさった。と、彼女は男の手を取って、接吻しようとした。さっきの夢と同じように、今も涙が長いまつげの上に光っている。
「お起きよ、お起きよ!」と彼は女を抱きおこしながら、おびえたような声でささやいた。「早くお起きよ!」
「あなたは仕合わせでいらしって? 仕合わせ?」と彼女は聞いた。「たったひと言いってちょうだい、あなたいま仕合わせ? きょう、いま? あのひとのとこへ行って? あのひとはなんていって?」
 彼女は身をおこさなかった、そうして相手のいうことを聞こうともしなかった。ただ早口に畳みかけてたずね、早口に語るさまは、あとから追っ手でも来ているか、と思われるほどであった。
「わたし、あしたはあなたのおいいつけどおり出発します。わたしもうけっして……これであなたにお目にかかるのもお名ごりね、お名ごりねえ! 今度こそは、もうほんとうの見納めだわね!」
「気を静かに持って、早くお起き!」と公爵は絶望したようにいった。
 彼女はその両手を取って、むさぼるように公爵を見つめるのであった。
「さようなら!」こういってついに彼女は立ちあがり、急ぎ足にほとんど走るようにして、彼のそばを離れた。と、出しぬけにラゴージンの姿が彼女のそばに現われて、その手を取って引き立てて行くのが、公爵の目に入った。「ちょっと待ってくんな、公爵」とラゴージンがわめいた。「五分たったら、間違いなく帰って来るから、ちょっとの間だけな」
 五分たってから、ほんとうに彼は引っ返してきた。公爵は一つところにじっと立って待っていた。
「馬車に乗せて来た」と彼はいった。「あすこの隅んとこで、もう十時ごろから馬車が待たせてあったんだ。あいつはな、おめえが今夜ひと晩じゅうあのひとのところで遊んで来るってことを、ちゃんと知ってたもんだからね。さっきおめえが書いたものは、たしかにあいつに渡したよ。あのお嬢さんのところへ手紙をやるようなことは、もうけっしてしまいよ。あいつが自分で誓ったんだからね。そして、この土地もおめえの望みどおり、あす引き払うそうだ。そのお別れに、ひと目おめえに会いたいってんで、おめえはことわったけれど、ここでおめえを待ち伏せしてたのさ。ほら、ちょっとあのほうへ引っ返すと、ベンチがあらあな、あの上でよ」
「あのひとが自分できみをつれて来たのかね?」
「へん、なんだって?」とラゴージンは白い歯をむいて、
「わかってるよ、自分でちゃんと知ってるくせに。で、おめえ手紙を読んだかい?」
「ああ、そうそう、きみこそほんとうにあの手紙を読んだのかい?」公爵はふいとこのことを思い出して、ぎょっとしながらたずねた。
「あたりまえよ。どんな手紙でも、あいつが自分で見せてくれるんだ。かみそりのことを知ってるかね、へへ!」
「気ちがいだ!」公爵は両手をもみながら叫んだ。
「そんなことがだれにわかるもんか。ことによったら、そうでないかもしれないぜ」ひとりごとのようにラゴージンは小さな声でいった。
 公爵は答えなかった。
「じゃ、あばよ」とラゴージンがいった。「おれもあす立つ。てくんだから、あとで悪くいわないでくんな! おい、ところでね」と急に振り返りつつ、彼はいい足した。「なぜおめえはあいつの聞くことに返事しなかったんだ。おめえは仕合わせかい、どうだい?」
「いや、いや、いや!」と公爵は無限の悲哀を帯びた声で叫んだ。
「『うむ』というはずなんかないやね!」とラゴージンは憎憎しげに笑って、振り返りもせずに立ち去った。