『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-144

つぜん彼はイヴァン将軍が隔てのないふうで、自分の肩をぽんとたたくのに気がついた。アングロマンも同様に笑っている。しかしそれよりもっと親切で気持ちのいい、同情のある態度を示したのは老政治家である。この人は公爵の手を取って軽く握りしめ、いま一方の手のひらでそっとたたきながら、まるで小さな子供かなんぞのように、しっかりしなさいといい聞かすのであった。これがおそろしく公爵の気に入った。やがてとうとう公爵を自分と並んですわらしてしまった。公爵は嬉しそうにその顔を見つめていたが、それでもまだ口がきけなかった。息がつまるような気持ちがするのであった。老政治家の顔がすっかり気に入ってしまったのだ。「え」と彼はやっとつぶやくようにいった。「ほんとうにゆるしてくださいますか? そして……奥さん、あなたも?」 笑い声はまた高まった。公爵の目には涙がにじんだ。彼はこの幸福を信じえなかった。彼はまるで魔法にかかったようである。
「それはもちろんりっぱな花瓶ではありましたがね……わたしはもう十五……そう十五年も前から覚えていましたよ」とアングロマンがいいかけた。
「まあ、まあ、なんて災難でしょう……人間一人が生きるか死ぬかの境目に立っているんですよ。しかも、それが土焼の瓶がもとなんですものねえ!」とリザヴェータ夫人が声高に言った。「ほんとうに、あんたそんなにびっくりしたの、ムイシュキンさん?」いくぶん危惧の念を帯びた調子で夫人はきいた。「たくさんですよ、あんた、もうたくさん。ほんとうに心配になるじゃありませんか」
「いっさいのこと[#「いっさいのこと」に傍点]をゆるしてくださいますか? 花瓶よりほかのこともいっさい[#「いっさい」に傍点]ゆるしてくださいますか?」公爵はとつぜん席を立とうとした。しかし、老政治家はすぐにまた彼の手を引っ張った。彼は公爵を放したくなかったのである。
「C'est tres curieux et c'est tres serieux!(これはじつに奇怪なことだ、そしてじつに重大なことだ)」と彼はテーブルごしにアングロマンにささやいた。が、それはかなり大きな声だった。あるいは公爵も耳に挟んだかもしれない。
「じゃ、ぼくはみなさんのどなたにも失礼なことをしなかったんですね? こう思うとぼくがどんなに嬉しいか、あなたがたにはとてもわかりますまい。けれど、それは当然なことなんです! じっさいぼくがここで、だれかに失礼な真似をするなんて、そんなことがいったいできるでしょうか? もしそんなことを考えたら、またもやみなさんを侮辱することになります」
「気をおしずめなさいよ、きみ、それは誇張です。それにきみがそんなに感謝することなんか、すこしもありませんよ。それは美しい感情ですけれど、誇張されています」
「ぼく、感謝なんかしません、ただその……あなたがたに見とれているのです。ぼくはあなたがたをながめていると、幸福な気持ちになってきます。あるいはぼくのいうことはばかげているかもしれませんが、しかし、――ぼく話さなくちゃなりません、説明しなくちゃなりません……ただ自分自身に対する尊敬のためだけでもね」
 彼の言行はすべて突発的で、混沌としていて、まるで熱に浮かされているようであった。あるいは彼の発する言葉の多くは、いいたいと思ったことと違っているかもしれない。彼は目つきでもって、『話してもいいですか?』とたずねるかのようであった。と、その視線はベロコンスカヤ夫人に落ちた。
「かまいませんよ、つづけてお話し、ただね、せいせい息をきらさないようになさいよ」と夫人は注意した。「おまえさんはさっき息をきらしながら話をはじめたもんだから、とうとうあんなことになったのですよ。けれども、口をきくのをこわがることはありません。ここにいるみなさまは、おまえさんよりまだまだ奇妙な人をしょっちゅう見てらっしゃるから、あれぐらいのことじゃびっくりなさらないよ。おまえさんはまだまだ変わったことをしでかさないとも限らないから。もっとも、いま花瓶をこわしたときには、だいぶ荒胆をひしがれたがね」
 公爵はほほえみながら、その言葉を聞き終わった。
「ときに、あれはあなたでしたね」彼はとつぜん老政治家のほうへふりむいた。「あのポドクーモフという大学生と、シヴァーブリンという役人を、三か月まえ流刑から救っておやりになったのは?」
 老政治家はちょっと顔をあからめて、「すこし落ちついたらいいでしょう」と、どぎまぎしながらいった。
「それから、ぼくの聞いたあのうわさはあなたのことでしょう」と彼はすぐまたアングロマンのほうへふり向いた。「××県であなたにさんざん迷惑をかけた百姓たちが、解放後まる焼けになったとき、家をたて直すために、ただで森を伐らしておやりになったそうですね?」
「いやあ、そりゃ――きみ、おーおげーさですよ」とアングロマンはうろたえぎみでいったが、それでもいい気持ちそうにぐっとそり身になった。
 しかし今度こそ「それはおおげさですよ」といった彼の言葉は、ぜんぜんほんとうであった。なぜというに、それは間違ったうわさが公爵の耳にはいったにすぎないので。
「ところで、公爵夫人、あなたは」とつぜん公爵は、はればれしい微笑を浮かべながら、ベロコンスカヤ夫人のほうへふり向いた。「あなたは半年まえモスクワで、ここの奥さんのお手紙一つで、まるで親身の息子かなんぞのように、ぼくをもてなしてくださいましたね。そして、まったく親身の息子に対するような忠告を与えてくださいましたね、ぼくはけっしてあのご忠言を忘れません。覚えてらっしゃいますか?」
「なんだっておまえさんはきちがいのように、あれからこれと話を変えるんです?」とベロコンスカヤはいまいましそうにいった。「おまえさんはいい人だけれど、すこしこっけいですよ。赤銭二つもやったら、まるで命でも助けてもらったようにお礼をいうんでしょう。おまえさんは、それをりっぱなことだと思ってるんだろうけれど、ほんとうはいやらしいこってす」
 夫人はもうすっかり腹を立ててしまうところだったが、急にからからと笑いだした。しかも、今度は善良な笑いかたであった。リザヴェータ夫人の顔ははればれとなった。イヴァン将軍の顔も輝きわたった。
「わたしもそういったことですよ、ムイシュキン公爵という人は……その……つまり、ただ息をきらしたりしなけりゃいいんですがね! いま公爵夫人のおっしゃったとおり……」将軍はベロコンスカヤの言葉に感じ入って、同じことをくりかえし、よろこびに満ちた感激の調子でこういった。
 ただアグラーヤひとりは、なんとなく沈みこんでいた。しかし、その顔はまだやはり燃えるようであった。それはことによったら、憤懣のためかもしれない。
「あの男はまったくかわいいところがあるよ」と老政治家はふたたびアングロマンにささやいた。
「ぼくは胸に苦しみをいだきながら、ここへはいって来ました」しだいにつのりゆく惑乱を声に響かせながら、いよいよ早口に、いよいよ奇妙な興奮した調子で、公爵は語りつづけた。「ぼくは……ぼくはあなたがたを恐れました。自分自身を恐れました。何よりも第一に、自分を恐れました。このペテルブルグへ帰って来るとき、ぼくはぜひともあなたがたを見よう、いわばロシヤの草分けともいうべき代表的な人々を見よう、と自分自身に誓いました。じっさいぼく自身もこういう人々の仲間なんです。家柄からいえば、第一流に伍すことができるんですからね。ね、ぼくはいま自分と同じような公爵たちと、席を同じゅうしてるんでしょう、そうじゃありませんか? ぼくはあなたがたが知りたかったんです、それはまったく必要なんです、ぜひぜひ必要なことです!………ぼくはいつもあなたがたに関して、あまりに多く悪いことを聞いていました、善いことよりもずっと余計にね。つまり、あなたがたの興味が瑣末で偏狭だとか、教育が浅薄で時世おくれだとか、習慣がこっけいだとか――だって、今あなたがたのことをずいぶん盛んに書き立て(当時教育ある中間階層の勃興とともに、地主である貴族階級の頽廃と無能が高唱されていた)たり、論じたりしてるじゃありませんか! ぼくはきょう好奇心と不安を胸にいだきながら、ここへ来ました。はたしてこのロシヤの上流社会は黄金時代を過ぎて、古い生命の泉をからしつくし、死ぬよりほかなんの役にも立たなくなってしまったのだろうか? はたして彼らは自分の死にかかっていることに気がつかないで、未来ある人々と軽薄な岡焼き半分の戦いをつづけて、彼らの進歩を妨げているのだろうか、――これをぼくは自分の目で見て、親しく検討したかったのであります。ぼくは以前もこんな意見を十分信じなかったのです。なぜって、わが国では制度とかその他の……偶然な契機によって集まった宮廷つきの階級を除くほか、上流階級というものがなかったからであります。ことに現今ではぜんぜん消滅してしまいました、ね、そうでしょう、そうでしょう?」
「どうしてどうして、そんなことはけっしてありません」とアングロマンは毒々しく笑った。「おや、またテーブルをたたいた!」ベロコンスカヤはこらえかねてこういった。
「Laissez le dire.(勝手にいわしておおきなさい)からだじゅうぶるぶるふるわしてる」と老政治家はまた低い声でいった。
 公爵はもうすっかりわれを忘れていた。
「ところが、どうでしょう? ぼくは優美で淳朴な賢い人たちを見たのです。ぼくのような青二才をいつくしんで、そのいうことをまじめに聞いてくれる老人を見たのです。理解しかつゆるすことのできる人々、――ぼくがあちらで会った人人と同じような、ほとんど優劣のない、善良なロシヤ人を見たのであります。ぼくがいかによろこばしい驚きを感じたか、お察しを願います! おお、どうぞすっかりいわしてください! ぼく、今まで、いろいろ聞いてたものですから、自分でもすっかり信じきっていたのです。ほかでもない、社交界ではすべてのものがただのmaniere(型)で、古臭い形式で、本質は枯死してしまっているというのです。しかし、ぼくいまこそわかりました。そんなことがわが国にあってたまるものですか、それは、どこかほかの国のことで、けっしてロシヤのことじゃありません。いったいまあ、あなたがたがみんなジェスイットでうそつきでしょうか? さっき、N公爵のお話を聞きましたが、いったいあれが無邪気な感興の豊かなユーモアでないでしょうか、いったいあれが誠実な美しい心持ちでないでしょうか? いったいあんな言葉が……心情も才能も枯死してしまった死人の口から、出ることができましょうか? いまぼくに対してみなさんのとられたような態度を、はたして死人がとることができましょうか? これはじつに……未来に対する、希望に対する素材ではないでしょうか?・ こういう人々が理解を奪われて、退歩するなんてはずはありません!」
「もう一度お頼みしますが、きみ、気を落ちつけてください。その話はまたこの次にしよう、わたしも喜んで……」と『老政治家』は苦笑した。
 アングロマンはくっとのどを鳴らして、ひじいすの上で向きを変えてしまった。イヴァン将軍はもぞもぞ身動きしはじめた。長官の将軍は、もうすこしも公爵に注意を払わないで、政治家の夫人に話しかけていた。しかし、夫人のほうはしょっちゅう耳を傾けたり、視線を向けたりしていた。
「いや、もうすっかりいっちまったほうがいいです!」特になれなれしい信じきったような態度で、老政治家のほうを向きながら、新しい熱病やみのような興奮をもって、公爵は言葉をついだ。「きのうアグラーヤさんが、ぼくにものをいうことを禁じて、話してならないテーマさえ指定されました。そんなテーマに触れると、ぼくがこっけいに見えるということを、よく知ってらっしゃるからです! ぼく二十七ですが、まるで子供のようだってことは、自分でも承知しています。ぼくは自分の思想を語る権利を持っていません、これはずっと前からいってることです。ぼくはただモスクワで、ラゴージンとうち明けた話をしたばかりです……ぼくらはふたりで、プーシキンを読みました。すっかり読みました。その男はなんにも、プーシキンの名さえ知らないのです……ぼくはいつも自分のこっけいな態度で、自分の思想や大切な観念[#「大切な観念」に傍点]を、傷つけやしないかと恐れるのです。ぼくにはゼスチュアというものがありません。ぼくのゼスチュアはいつも反対になるもんですから、人の笑いを呼びさまして、観念を卑しいものにするのです。また適度という観念がありません、これがおもな点なのです、これがむしろ最もおもな点なのです……ぼくはいっそ黙ってすわってたほうがいいくらいです。それは自分でも知ってます。隅のほうにひっこんで黙っていると、かえってなかなか分別ありげに見えるくらいです。それに、熟考の余地がありますからね。しかし、今はいったほうがいいです。ぼくがいま口をきったのは、あなたがたがそんなに美しい目つきをして、ぼくをごらんになるからです。あなたがたは美しい顔をしてらっしゃいます! きのうぼくはひと晩じゅう黙っているって、アグラーヤさんに約束しました」
「Vraiment? (本当ですかね)」老政治家は微笑した。
「けれど、ぼくはときどき自分の考えが違ってやしないか、と思うことがあります。つまり、真摯というものは、ゼスチュアと同様の価値があるのではないでしょうか……そうでしょう? そうでしょう?」
「ときとするとね」
「ぼくはすっかりいってしまいたいのです、すっかり、すっかり、すっかり! ええ、そうですとも! あなたがたはぼくをユートピア論者だとお思いですか? 観念論者だとお思いですか? おお、誓ってそうじゃありません。ぼくの考えはすべて単純なものです……みなさんほんとうになさいませんか? なんだかにやにや笑ってらっしゃいますね? ところで、ぼくはときおりきたない根性になることがあります。それは信仰を失うからです。さっきもここへ来る途中、こんなことを考えました。『さあ、あの人たちに向かって、どんな具合にきりだそうかしら? どんな言葉からはじめたら、あの人たちがせめてすこしでも理解してくれるだろう?』ぼく自分のことも心配でしたが、なによりも一番にあなたがたのことを心配しました。おそろしく、おそろしく心配しました! ところが、ぼくにそんなことを心配する資格がありましたか、よくまあ恥ずかしくなかったことです。ひとりの卓越した人物に対して、無数の不良な人間がいるからって、それがいったい何でしょう? いや、これらは無数などというべきでなく、ことごとく生ける素材であると確信しているので、ぼくは嬉しくてたまらないのです! われわれはこっけいだからって、きまり悪がることはすこしもありません、そうじゃないですか? それはまったくほんとうです、われわれはこっけいで、軽薄で、悪い習慣だらけで、ものを見透かすことも理解することもできないで、ただぼんやりしている。われわれはみんなこんな人間なのです、あなたがたも、ぼくも、世間の人たちも! ほらね、いまぼくが面と向かって、あなたがたはこっけいですといっても、あなたがたはほんとうに腹をお立てにならないでしょう? してみると、つまり、みなさんはその素材じゃないでしょうか? ぼくの考えでは、こっけいに見えるということは、ときとして結構なくらいですよ、かえってよりいいくらいですよ、なぜって、おたがいに早くゆるし合って、早く和睦ができますからね。だって、一時になにもかも理解することはできませんし、またいきなり完全からはじめることもできませんものね! 完全に到達するためには、その前に多くのものを理解しないことが必要です! あまり早く理解しすぎると、あるいは間違った理解をしないとも限りませんからね。ぼくはみなさまにこんなことをいうのは、みなさんが多くのものを理解し、かつ……理解しないことに成功されたからです。いまぼくはもうあなたがたのことを心配しません。じっさいあなたがたは、こんな青二才がこんなことをいったからって、腹なんかお立てにならないでしょうね? もちろん、そんなことはありません! おお、あなたがたは自分を侮辱したものも、また侮辱しないものをも、忘れてゆるすことのできる人です。じっさい何よりも困難なのは、侮辱しないものをゆるすことです。なぜというに、侮辱しない[#「しない」に傍点]ものに対する不満は、根拠のないものだからです。つまり、こういうことをぼくは上流の人々から期待したので、ここへ来てからも、それをいおうと思ってあせりましたが、どういっていいかわからなかったのです……あなた笑ってらっしゃるんですか(と彼はアングロマンのほうを向いて)、あなたはぼくがあの人たち[#「あの人たち」に傍点](下級民)のことを心配していたとお思いですか? ぼくがあの人たちの弁護者で、デモクラートで、平等の演説家だとお思いですか?」と、彼はヒステリックに笑いだした(彼はひっきりなしに歓喜にあふれた短い笑い声を立てるのであった)。「ぼくはあなたがたのことを心配してるのです。あなたがたをみんな、みんなひっくるめて心配してるのです。ご承知のとおり、ぼく自身も古い家柄の公爵です。そして、いま多くの公爵たちと席を同じゅうしています。ぼくがこんなことをいうのは、われわれ一同を救わんがためであります。この階級が、なにひとつ悟ることなしに、なんだかだといって、いさかいばかりしながら、すべてのものを失って、暗闇のなかへ消えてしまわないためであります。りっぱな卓越した指導者として、踏みとどまっていられるのに、むざむざ暗闇へ消えてしまって、ほかのものに席をゆずる必要が、いったいどこにありましょう? 卓越した人間になりましょう、そして、指導者になりましょう。指導者となるために、しもべとなりましょう」
 彼は突発的にひじ掛けいすから立ちあがろうとしたが、考政治家はしじゅう彼をおさえていた、しだいにつのりゆく不安をいだいて彼を見つめながら。
「みなさん! ぼくも言説のよくないことは知っています。むしろ単に実例を示したほうがいいです。単に着手したほうがいいのです……ぼくはもう着手しました……それに……それに、不幸におちいるなんて、はたしてありうることでしょうか。おお、もしぼくに幸福になりうる力があれば、今の悲しみや禍なぞはなんでもありません! ぼくは一本の木のそばを通り過ぎただけで、それを見ることによって、自分を幸福にするすべを知っています。人と話をしただけで、自分はその人を愛しているという念によって、幸福を感じずにいられましょうか! おお、ぼくはただうまく言い表わすことはできませんが……じっさい、すっかりとほうにくれてしまった人でさえ、きれいだなと思うような美しいものが、一歩ごとにいくらでもあります。赤ん坊をごらんなさい、朝焼けの色をごらんなさい、のび行くひともとの草をごらんなさい、あなたがたを見つめ、あなたがたを愛する目をごらんなさい……」
 彼はもうとっくに立ちあがって弁じていた。老政治家も、今はおびえたような目つきで、彼を見つめていた。リザヴェータ夫人はまっさきに気がついて、『ああ、大変!』と叫びながら手をたたいた。アグラーヤは、つとかけよって、彼を両手に抱きとめた。そして、胸に恐怖をいだき、苦痛に顔をゆがめながら、不幸な青年を『震蕩させた悪霊』の野獣めいた叫びを聞いたのである。公爵は絨毯の上に横たわっていた。だれかがすばやくその頭の下へ枕をさし入れた。
 これはだれしも思いがけないことであった。十五分ののち、N公爵、エヴゲーニイ、老政治家などが、ふたたび夜会に活気をつけようと試みたけれど、三十分とたたないうちに、もう人々は辞し去った。いろいろの同情の言葉や、不平らしい訴えや、また二、三の意見などが吐かれた。中でもアングロマンは『このかたはスーラーヴ主義者か、あるいはそれに類したものですね。しかし、けっして危険なものじゃありません』といった。老政治家はなんにも口を出さなかった。もっとも、じつをいうと、翌日か翌々日ごろ、みんな少少ばかり腹を立てたのである。アングロマンは侮辱を感じたくらいであるが、それもほんのすこしばかりだった。長官の将軍はしばらくイヴァン将軍に対して、少々冷淡な態度を見せた。この一家の『保護者』たる老政治家も、やはり教訓的な調子で『一家のあるじ』になにやらくどくどいったが、そのさいアグラーヤの運命について『非常な、非常な』興味をいだいていると、おせじみたいなことを述べた。彼はほんとうのところ、少々好人物であった。夜会の席で、彼が公爵に対していだいた好奇心の原因は、たくさんあったろうけれど、いつかのナスターシヤ対公爵の一件が、その中でもおもなものであった。この事件については、ちょいちょい耳に挟んだこともあるので、彼は非常に興味をそそられて、いろいろと根掘り葉掘りきいてみたかったほどである。
 ベロコンスカヤは夜会から帰りしなに、リザヴェータ夫人をつかまえてこういった。
「どうもね、いいところもあるが、悪いところもあるねえ。もしわたしの意見が知りたいとすれば、まあ、悪いほうが勝ちですよ。あんたも自分で見て、どんな人かわかってるでしょう。病人ですよ!」
 リザヴェータ夫人もついに婿なんてことは『とてもだめだ』ときっぱり決めてしまった。そして、その夜のうちに、『わたしが生きてるうちは、公爵をうちのアグラーヤの婿にするわけにゆかない』と腹の中でかたく誓った。この決心をもって翌朝、床を出た。しかし、その朝十二時すぎに食事のとき、彼女は奇妙な自家撞着におちいったのである。
 姉たちの発したある一つの用心ぶかい質問に対して、アグラーヤが急に冷淡な、ほとんど高慢な調子で断ち切るように、「あたしはあの人に、一度も約束なんかしたことないわ。生まれてから一度も、あの人を未来の夫だと思ったことはなくってよ。あの人は、ほかのすべての人と同じような路傍の人よ」と答えたとき、母夫人は急にかっとなった。
「わたしはおまえの口から、そんなことを聞こうとは思わなかった」と夫人は悲しそうにいった。「婿として、とてもお話にならない人だってことは、わたしも承知しています。そしていいあんばいに、ああいうふうになってしまったけれど、おまえの口からそんな言葉を聞こうとは、思いがけなかった。おまえからは、もっと別なことを待ち受けていました。わたしはね、昨夜の連中をみな追ん出してしまっても、あの人ひとりだけは残しておきたい。あの人はそういうふうな人なんですよ!………」
 ここで彼女は、自分で自分のいったことに驚いて、急に言葉をきった。しかし、悲しいかな、夫人はこのとき自分が娘に対して、どんなに不公平なことをいったか、いっこう気がつかなかった。もうアグラーヤの頭の中では、いっさいのことが決せられていた。彼女も同様に、いっさいを解決してくれる最後の時が来るのを待っていたのである。そのために、ちょっとした暗示でも、ちょっとした不注意な言葉でも、彼女の心を深くえぐり傷つけるのであった。

      8

 公爵にとってもこの朝は、重苦しい予感に支配されたままであけ放たれた。この予感は、彼の心身の病的な状態でも説明できたけれど、それでも彼はあまりにも漠然とした憂愁にとらわれていた。これが彼にとって、なにより苦しかったのである。もちろん、公爵の眼前には、重苦しく毒々しい幾多の事実が、厳然として控えていたが、なおその憂愁は、彼の追想し商量しうる限度を越して、ずっとさきのほうへ飛んでいた。彼は自分ひとりの力で、安心を得るわけにいかないのを悟った。きょう自分の身の上に、なにかしら万事を決するような、異常な事件がおこるだろうという期待が、彼の心に漸次、根をおろしはじめた。昨夜の発作は、彼としては軽いほうであった。少々頭の重いのと、手足の痛いのと、ヒポコンデリーを除いたら、ほかにこれという異状は感じられなかった。心は重く悩んでいたけれども、頭はかなり明晰に働いていた。
 彼はかなり遅く床を出たが、すぐ昨夜のことをはっきりと思い出した。ごく明瞭にというわけには行かぬが、発作後三十分たって家へつれられて帰ったことも思い出した。もうエパンチン家から、容体を聞きに使いが来たことを知った。十一時半また第二の使いが来た。これが彼には嬉しかった。この家の娘ヴェーラが第一番に、見舞いかたがた用を勤めに来た。彼女は公爵を見ると、いきなり泣きだした。けれど、公爵に慰められて、すぐ笑いだした。この熱烈な同情に動かされて、彼は娘の手を取って接吻した。ヴェーラはさっと顔をあかくして、
「まあ、あなたは、あなたは何をなさいますの!」と急に自分の手を引きながら、おびえたように叫んだ。
 間もなく、彼女はなんだか妙に当惑したようなふうで出て行った。が、彼女はそのまえに、父がまだ夜の明けきらぬうちに『故人』(レーベジェフはイヴォルギン将軍のことをこういった)、『故人』が昨夜のうちになくならなかったかどうかを知るために、大急ぎで出て行ったことや、将軍はもうたしかに間もなくなくなるだろう、といううわさのあることなどを話して行った。十一時すぎ、当のレーベジェフも帰宅して、公爵のもとへ伺候した。しかし、それは『銭金に換えられないおからだの様子が知りたいためと、そしてちょっと「戸だな」の中の様子を見るために、ほんの一分間のつもりで』やって来たのである。彼はただ『ああ』だの『おお』だのと、ぎょうさんな溜息を吐くよりほかなんにも芸がないので、公爵はすぐに部屋から出してしまった。もっとも、相手はそれでも、昨夜の発作のことを、うるさくききたそうなふうであった、そのくせもう詳しくことの様子を承知しているのは、そぶりで察せられた。 それにつづいてコーリヤが、これも同様、ほんの一分間といってかけつけた。少年はまったくせかせかして、激しく暗い不安に襲われていた。彼はみなが隠している事件の説明を、ぜひとも聞かしてほしいと、いきなりしつこく公爵に頼みはじめた。彼は『きのうほとんどすべての事情を知ったのですから』といった。その様子はいかにも心の底まで、激しく震撼されたようなふうであった。
 公爵はできるだけの同情を表しながら、事実を正確に列挙して、いっさいの事情を語った。哀れな少年は、まるで雷に打たれたようであった。彼はひと言も発することができず、無言で泣きだした。これは少年の心に永久に影をとどめて、その生涯の回転期ともなるべき印象の一つである、と公爵は感じた。彼は急いでこの事件に対する自分の意見を述べ、老将軍の死は主としてあの過失ののち、心に投じられた恐怖のために呼びおこされたのかもしれない、こういう心理経過はだれでも容易に経験さるべきでない、といい足した。公爵の言葉を聞き終わったとき、コーリャの目は輝きだした。
「ガンカも、ヴァーリャも、プチーツィンも、みんなやくざものだ! ぼくはあんな人たちと喧嘩しようとは思わない。しかし今後、ぼくらの行くべき道はもう別れ別れだ! ああ、公爵、ぼくはきのうの日から、たくさん新しいことを感得しました。これがぼくの修行になったのです! ぼくはおかあさんも自分の双肩に背負ってるつもりなんです。もっともおかあさんは、いまツァーリャの世話になっていますけれど、そんなのとは意味が違うんです……」
 コーリャは、家の人が待っていることを思い出して飛びあがり、忙しそうに公爵の容体をたずねた。返事を聞き終わると、急にせかせかした調子でいい足した。
「まだほかになにか変わったことはありませんか? ぼくちょっと聞きましたが、きのう……(いや、ぼくはそんな権利を持っていません。)けれど、もしいつかなにかのことで、忠実なしもべが必要でしたら、あなたの前にいる男がそうです。どうもおたがいにふたりとも、あまり幸福でないようですね、そうでしょう? しかし……ぼくはうるさくききません、うるさくききません……」
 彼はついに立ち去った。公爵はいっそう考えこんでしまった。すべてのものが不幸を予言している。すべてのものがすでに結論をくだしてしまった。すべてのものが、なんだかお前の知らないことを知ってるぞ、というような目つきで自分をのぞきこむ、――レーベジェフはなにか探り出そうとするし、コーリャはむきつけに匂わすし、ヴェーラは泣きだす。ついに彼はいまいましげに手を振って、『またいやらしい病的な猜疑癖だ!』と思った。一時すぎ、『ほんの一分間』見舞いに入って来たエパンチン家の一行を見つけたとき、彼の顔は一時に晴れわたった。この人たちは、それこそほんとうに、『一分間』のつもりで寄ったのである。リザヴェータ夫人は食卓を立つやいなや、これからすぐみんなでいっしょに散歩に出るのだ、といいだした。この触れ出しはまるで命令のような具合に、何の説明もなくぶっきらぼうに発せられた。一同、すなわち母夫人と令嬢たち、それにS公爵は、うちそろって出かけた。夫人は、毎日の散歩とまるで反対の方角をさして歩きだした。一同はことの真相を悟ったので、母夫人の気をいらだたせるのを恐れ、黙々として従った。ところが、夫人はほかのものの非難や抗議を避けるかのように、うしろをふり向こうともせず、どんどん先に立って歩いた。とうとうアデライーダが『散歩のときになにもかけだすことはなくってよ、とてもあとからついて行かれやしない』と注意した。
「ちょっと」リザヴェータ夫人はとつぜんうしろを向いて、「ちょうどあの人の家の前へ来合わせたが、アグラーヤがどんなことを考えてるにもせよ、またあとでどんなことがおこるにもせよ、あの人はわたしたちにとって赤の他人ではありません。おまけにいま不仕合せな身になって、病気までしてるんですから、せめてわたしだけでも、ちょっと見舞いに寄って来ます。いっしょに来たい人はいらっしゃい、いやな人は通り過ぎたらいい、道に垣はしてありませんからね」
 むろん一同そろって中へはいった。公爵は礼儀の要求するとおり、もう一度きのうの花瓶と……不体裁について、急いでわびをいった。
「いいえ、あんなことはなんでもありません」と夫人は答えた。「花瓶は惜しくないけれど、あんたがかわいそうです。じゃ、なんですね、あんたも、今となって、不体裁だったと気がついたと見えますね。『ものごとは明くる朝まで待て』というのはこのことだ……だけど、そんなことはなんでもありません。あんたを責めたって仕方がないのは、もうだれでも承知してますからね。じゃ、さよなら、けれどね、元気が出て来たらすこし散歩して、それからまたおやすみ、これがわたしの忠告です。もし気が向いたら、もともとどおり遊びにいらっしゃい。とにかく、これだけはかたく信じてちょうだい、――よしやどんなことがおころうとも、またどんなことになろうとも、あんたは永久にうちの親友です。すくなくとも、わたしの親友ですよ。すくなくとも、自分の言葉に対しては責任が持てますから……」
 一同は、この挑発的な言葉に対して、母と感情を同じくしている旨をのべた。やがて一行は帰って行った。なにか元気をつけるような、優しいことをいおうとする、この人の好い性急な行為の中に、多くの残忍性が潜んでいたけれど、それにはリザヴェータ夫人も心づかなかったのである。『もともとどおり遊びに来い』とか、『すくなくともわたしの親友ですよ』とかいう言葉の中には、またしてもなにか予言めいたものが響いていた。公爵はアグラーヤのことが気になりはじめた。はいるときと出るときに、彼女がなんともいえない微笑をもらしたのは実際だが、しかし一同が友情を誓ったときでさえ、彼女はひとことも口をきかなかった。もっとも、二度ばかりじっと穴のあくように、公爵を見つめはしたけれど。彼女の顔は、ひと晩じゅうろくろく寝なかったように、いつもよりだいぶ青白かった。公爵は今晩にもかならず『もともとどおり』遊びに行こうと決心して、熱にでも浮かされたように、時計をながめるのであった。一行が去ってちょうど三分たったとき、ヴェーラがはいって来た。
「公爵、たった今アグラーヤさまから、ないしょでひとことあなたにおことづけがありました」
 公爵は思わずびくりとした。
「手紙ですか?」
「いいえ、口上だけ、それもやっと間に合ったのでございます。きょうの晩の七時か、それともできるなら九時ごろまで、ひと足も外へ出ないでくださいって……わたしもはっきり聞きわけられませんでしたけれど」
「え……なんのためにそんなこと? いったいどうしたわけでしょう?」
「そんなこと、わたしちっともぞんじません。ただ間違いなく伝えてくれ、というおいいつけでしたの」
「じゃ、そういわれたんですね、『間違いなく』って?」
「いいえ、そうはっきりおっしゃったわけではございません。ちょっとうしろをふり向いて、やっとこれだけおっしゃっただけですの。ちさフどわたしが自分でおそばへ走って行ったから、間に合ったのでございます。けれど、もうお顔つきを見ただけで『間違いなく』とおっしゃったかどうかわかりますわ。まるで心臓がしびれるような目をして、わたしをごらんになりましたもの……」
 なおいろいろたずねてみたが、公爵はもうそのうえ何ごとも聞き出せなかった。そしてただいよいよ不安を増したばかりである。ひとりきりになると、彼は長いすに横たわって、ふたたびもの思いにふけりはじめた。とどのつまり、『もしかしたら、今夜はあすこで九時ごろまで、だれか来客があるのかもしれない。であのひとは、ぼくがまた客の前で、なにか大いにばかなことをしやしないかと、心配してるのだ』と考えついた。彼はふたたびじれったそうに、晩の来るのを待ちかねて、時計ばかり眺めていた。
 しかし、この謎は晩よりもずっと早く、解決がついてしまった。その解決は同じく新しい来訪の形をとって現われた。が、それも要するに、別な悩ましい謎にすぎなかった。エパンチン一家の人が去ってちょうど三十分たったとき、イッポリートがやって来た。彼はすっかり疲れて、弱り果て、はいって来るといきなりひとことも口をきかないで、まるで正気を失ったもののように、文字どおりひじいすに倒れ、そのまま堪えきれぬようにせき入った。彼は咳いてせいて、血まで吐いてしまった。その目はぎらぎらと輝き、頬には赤いしみが染め出された。公爵はうろたえた様子でなにか口を出したが、こちらは返事もしなかった。そして、長いあいだ返事しないで、ただ片手を振りながら、しばらくこのままうっちゃっといてくれ、というこころを示した。ようやく正気づくと、
「ぼくは帰る!」ついに彼はしゃがれた声で、やっとの思いでこういった。
「なんなら、おくってあげますよ」といって、公爵は席を立とうとしたが、外へ出てはならぬというさっきの禁制を思い出して、ちょっと言葉をつまらした。
 イッポリートは笑いだして、
「ぼくここから帰るといったんじゃありません」絶えずせきやたんに妨げられながら、彼は言葉をついだ。「それどころか、ぼくは必要があってここへ来たんです、用談のためです……でなかったら、いきなりこうしてあなたを驚かすはずじゃなかったのです。ぼくが行くといったのは、あの世[#「あの世」に傍点]のことですよ。こんどこそはほんとうでしょう。ああ、おさらばか! しかし、なにも同情を強制するために言うんじゃありませんよ、いいですか……じつはぼくその時[#「その時」に傍点]が来るまでは、どうしても起きないつもりで、きょう十時から床についたのです。ところが、ひょいと考え直して、ここへ来るためにまた起きだしたんですよ……つまり、必要があるからです」
「きみを見てると、気の毒になってきますよ。自分でそんな苦しい目をするより、ちょっとぼくを呼んでくれたらよかったのにね」
「いや、もうたくさんです。ご憐憫にあずかりましたね。しかし、社交上の礼儀のためならたくさんですよ……ああ、忘れてたっけ、あなたのご健康はいかがです?」
「ぼくは達者です。昨夜はちょっと……しかし、たいしたことじゃありません」
「聞きました、聞きました。支那焼の花瓶こそいい面の皮でしたね。ぼくの居合わせなかったのが残念ですよ! ぼく用事で来たのです。第一に、ぼくはガヴリーラ君が緑色のペンチのそばで、アグラーヤさんとあいびきしてるところを、拝見の光栄を得ました。人間はどれほどまでばかげた顔ができるものかと、驚いてしまいましたよ。ぼくこのことをガーニャの帰ったあとで、アグラーヤさんにいいました……ところで、あなたはいっこうびっくりなさらない様子ですね、公爵」と彼は公爵の落ちつきすました顔を、疑わしげにながめながら言った。「何ごとにも驚かないのは、大智のしるしだそうですが、ぼくにいわせれば、それは同じ程度において、愚かさのしるしともなりますよ……もっとも、これはあなたに当てこすってるわけじゃありません、ごめんなさい……ぼくきょうはものの言いかたで、しくじってばかりいる」
「ぼくはもうきのうから知ってましたよ。ガヴリーラ君が…‥」公爵はうろたえたように言葉をとぎらした、――イッポリートが、なぜこの人はびっくりしないのだろうと、じりじりしているにもかかわらず。
「知ってたんですって?! これこそまったく珍聞だ! いや、しかし、いわないでおきなさい……ところで、きょうのあいびきの現場をごらんでしたか?」
「ぼくがその場に居合わさなかったのは、きみ自身知ってるでしょう……もしきみがそこにいたとすればね」
「でも、どこか藪のかげにでも、しゃがんでらしたかもしれませんさ。が、とにかく、ぼくはあなたのために嬉しいです。だって、ぼくはいよいよガーニャにくじが当ったな、と思いましたからね!」
「イッポリート君、お願いだから、ぼくの前でそんなことをいわないでください、おまけにそんな言いかたで」
「まして、もうすっかりごぞんじとあるからには」
「それはきみの考えちがいです。ぼくはほとんどなんにも知りません。アグラーヤさんも、ぼくがなんにも知らないってことを、たしかにご承知のはずです。ぼくはそのあいびきのことさえ、てんで知らなかったんですもの……きみはあいびきというんですね? いや、結構ですよ、それでもうこの話はやめましょう……」
「まあ、どうしたんです、知ってるといってみたり、知らないといってみたり? あなたは『結構です、それでもうこの話はやめましょう』といわれましたが、しかしそんなに人を信じるものじゃありません。ことに、なんにも知らないとおっしゃるならなおさらです。あなたが人を信じやすいのは、なんにもごぞんじないからですよ。ところで、あのふたりのあいだ――兄と妹とのあいだに、どんな思惑があるかご承知ですか? それぐらいのことはおそらく感づいておいででしょう?……よろしい、よろしい、やめておきましょう……」公爵のじれったそうな手ぶりに気がついて、彼はこういい添えた。「しかし、ぼくは自分の用向きで来たのですから、このことについて……相談したいのです。ほんとうにいまいましいこったが、ぼくはこの相談をしないでは、どうしても死ねないのです。まったくぼくはよく相談しますね。聞いてくれますか?」
「いってごらんなさい、ぼくは聞いてますよ」
「しかし、ぼくはまた考えを変えて、やはりガーニャのことから話をはじめましょう。じつはぼくも、きょう緑色のベンチへ来るように指定されてた、――といっても、あなたはおそらくほんとうになさらないでしょう。ところが、ぼくうそはつきません。むしろぼくが自分から進んで、会見を主張したのです、ある秘密を暴露するからという約束で、ねだりつけたんですもの。ぼくの来かたがあまり早すぎたかどうか知りませんが(じっさい早かったようです)、ぼくがアグラーヤさんのそばに席を占めるとすぐ、ガーニャとヴァーリャが手をつなぎ合って、ちょうど散歩のような体裁で現われました。ふたりともぼくの姿を見て、びっくりしたようです。まったく思いがけなかったので、まごまごしたくらいです。アグラーヤさんはぱっと顔をあかくして(ほんとうになさろうと、なさるまいとご勝手ですが)、すこしうろたえたようにさえ見えました。それはぼくがいたからか、それともガーニャの姿を見つけたからか、そこは知りません。じっさいガーニャの風采はふるったもんでしたからね。とにかく、顔じゅうまっかになって、一秒間に片をつけてしまいました。しかも、それがおそろしくこっけいなやり口なんですよ。ちょっと立ちあがって、ガーニャの会釈とヴァーリャの取入るような微笑に返しをすると、急に断ち切るような調子で、『あたしはただあなたがたの誠意ある友情に対して、自分からお礼を申したいと思いましたのでね。もしあなたがたの友情を必要とすることがありましたら、そのときはあたしを信じてください、かならず……』といって会釈しました。で、ふたりは帰っちまいました。ばかをみたと思ったか、勝ち誇ったような気になったか、そこのところはわかりません。ガーニャはむろんばかをみたと思ったのですよ。まるで狐につままれたようなふうで、えびみたいにまっかになっていました(ときどきあの男は驚くべき表情をすることがありますからね!)。しかし、ヴァーリャはすこしも早く逃げだすにしくはない、いくらアグラーヤでも、これはあんまりだと悟ったらしく、兄貴をしょっぴいて行っちまいました。あの女は兄貴より利口ですよ。で、いま大いに得意なんだとぼくは信じますね。ところで、ぼくがそこへ行ったのは、ナスターシヤさんとの会見について、アグラーヤさんと相談するためだったのです」
「ナスターシヤさんと!」公爵は叫んだ。
「ああ! やっとあなたは冷静な態度を棄てて、そろそろびっくりしだしましたね。そうして、人間らしくなりたいという気が出たのは、なにより結構なことです。ごほうびに、ひとつあなたを喜ばしてあげましょう。ところで、人格の高い若い令嬢のご機嫌をとるのも、なかなか骨の沂れるもんですね。ぼくはきょうあのかたから頬打ちを頂戴しました!」
「精……精神的のですか?」なぜか公爵はわれともなしに、こんな問を発した。
「ええ、肉体的のものじゃありません。どんな人だって、ぼくみたいな人間に、手を振り上げるようなことはしないでしょう。今は女でもぼくをなぐりゃしません。ガーニャさえなぐりません。もっともきのうなぞは、あの男がぼくに飛びかかりゃしないかと、ちょっとのま考えたんですがね……今あなたが何を思ってらっしゃるか、ぼくちゃんと知ってますよ、請け合ってもいいくらいです。今あなたは『よしこの男をなぐる必要はないとしても、そのかわり寝てるところを、まくらかぬれ雑巾で窒息させることはできる、――いや、できるどころじゃない、ぜひそうする必要がある』と考えてるんでしょう……あなたの顔にちゃんと書いてありますよ、今、この瞬間そう思ってらっしゃることがね」
「そんなことけっして考えたことありません!」と公爵は嫌悪の色を浮かべていった。
「どうですかね、しかしぼくゆうべ夢に見ました。ぼくをぬれ雑巾で圧し殺したやつがあるんですよ……あるひとりの男がね……え、だれだかいいましょうか、だれだと思います――ラゴージンなんですよ! あなたどうお思いです、いったい人間をぬれ雑巾で殺せるでしょうか?」
「知りません」
「できるそうですよ。しかし、まあいい、よしましょう。では、いったいどういうわけでぼくが告げ口屋なんです? なんだってあのひとはきょうぼくのことを、告げ口屋だなんて罵倒したんです? それもおまけに、ぼくのいうことを最後の一句まで聞いてしまって、ちょいちょい聞き返したりしたあげくなんですもの……女って皆そんなものなんですね!全体あのひとのために、ぼくはラゴージンと、――あのおもしろい男と、関係をつけたんじゃありませんか。あのひとの利害のために、ナスターシヤさんとの会見を斡旋したんじゃありませんか。『あなたはナスターシヤさんのお余りを喜んで頂戴してる』とほのめかして、あのひとの自尊心を傷つけたせいでしょうかね? しかし、ぼくはあのひとの利害に立ち入って、いろいろと勧めたうえ、ぼくはけっしてこの事実を否定しません、ああしたふうの手紙を二通かきました。きょうので三通目、そして会見です……ぼくはさっき口をきるといきなり、これはあなたとして、体面にかかわりますといったのです……それに『お余り』という言葉も、ぼくがいったんじゃありません、人の言葉です。すくなくともガーニャの家では、みんなそういってましたよ。それに、あのひと自身もそれを肯定したんですものね。さあ、こう考えてみると、ぼくあのひとに告げ口屋だなんて、いわれるわけがないじゃありませんか? わかりますよ、わかりますよ。あなたはいまぼくを見ながら、おかしくてたまらないでしょう。そして、請け合っておきますが、あのばかばかしい詩を、ぼくに当てはめてるんですよ。

愛はわが悲しき落日に
いまわの笑みもて輝かん(プーシキン

「ははは!」ふいに彼はヒステリックにからからと笑って、また激しくせき入るのであった。
「ときにね」と彼はせきの合間から、しゃがれ声を出した。
「ガーニャはなんてやつでしょう。人のことを『お余り』だなんていいながら、今はご自分で、それが頂戴したくてたまらないんですからね!」
 公爵は長いあいだ無言でいた。彼は恐怖に襲われていたのである。
「きみはナスターシャさんとの会見といいましたね?」やっと彼はこうつぶやいた。
「え、じゃ、あなたはほんとうに知らなかったんですか! きょうアグラーヤさんとナスターシヤさんの会見があるんですよ。それだからこそナスターシヤさんは、ぼくの骨折りに免じて、アグラーヤさんの招きに応じ、ラゴージンの手を経て、わざわざペテルブルグから呼び出されたのです。そして、今ラゴージンといっしょに、ここからごく近いところに、以前の家にいます。例の曖昧な婦人……ダーリヤという友達のところです。そこへ、その曖昧な家へ、アグラーヤさんが出向いて行かれるのです。ナスターシヤさんと隔てのない話をして、いろんな問題を解決したいんだそうでしてね。つまり、算術の勉強をしようってんでさあ。あなた知らなかったんですか? まったくですか?」
「そんなはずはありません!」
「はずがなければそれでよろしい。あなたに知れるわけがないですからね。この町では、たとえ蠅が一匹飛んでも、すぐみんなに知れちまうんですよ。そういう土地なんですからね! しかし、このことを前もってお知らせしたのはぼくだから、あなたはぼくに感謝していいんですよ。じゃ、さよなら、――こんどお目にかかるのはたぶんあの世でしょう。ああ、そうそう、も一ついうことがあった。いくらぼくがあなたに卑劣な真似をしたからって、――何のためにすべてを失わなくちゃならないんでしょう、お慈悲に考えてみてくださいな! いったいそれがあなたのためになるとでもいうんでしょうかねえ? ぼくはあのひとに『告白』を捧げたのです。(このことはご承知なかったでしょう?)おまけに、それを受け取ってくだすった具合ったらね! ヘヘ! しかし、あのひとに対しては、ぼくけっして卑劣な真似をしなかったのです、あのひとに対しては、けっして悪いことなんかしなかったです。それだのに、あのひとはぼくに恥をかかして、ぼくを困まらせたんです……もっともぼくはあなたに対しても、けっしてやましいことはないですよ。よし例の『お余り』とかなんとか、そんなふうのことをいったにしろ、そのかわり会見の日も、時も、場所も、すっかりお知らせしているでしょう、この芝居をすっかりぶちまけているでしょう……もっとも、これはむろんいまいましさのためで、寛大のためじゃありませんよ。さようなら、ぼくはほんとにおしゃべりだ、まるでどもりか肺病やみのようですね。いいですか。早くなんとか方法をお講じなさい、もしあなたが人間といわれる価値があるなら……会見はきょうの夕方です、それは間違いありません」
 イッポリートは戸口へ向けて歩きだしたが、公爵が大声で呼びかけたので、戸口で立ちどまった。
「じゃ、なんですね、きみの話でみると、きょうアグラーヤさんが自分で、ナスターシヤさんのところへ行くんですね?」と公爵はきいた。
 赤いしみが彼の頬にも額にも現われた。
「正確には知りませんが、たぶんそうでしょう」なかばふり返りつつイッポリートは答えた。「それにだいいち、ほかに仕方がないじゃありませんか。ナスターシヤさんが将軍家へ行くわけにはいかないでしさフ? またガーニヤのところでもないでしょう。あの男の家には、ほとんど死人同様の人がいるんですからね。だって、将軍の容体はどうです?」
「そのことだけで判断しても、とうていありうべからざる話です!」と公爵は受けた。「しかし、あのひとが自分から出たいと思ったにもせよ、どんなにして行くのでしょう? きみはあの家の習慣を……・』ぞんじないのです。あの人がひとりで、ナスターシヤさんのところへ出かけるわけに行きません。それはナンセンスです!」
「ですが、考えてごらんなさい、公爵、だれだって窓を飛び越す人はありません。しかし、いったん火事となってごらんなさい、そのときはおそらく第一流の紳士、第一流の貴婦人でも、窓を飛び越しますからね。もし必要ができたら、もう仕方がありません。わが令嬢も、ナスターシヤさんのところへ行きますよ。いったいあの人たちはどこへも家から出してもらえないんですか、あなたの令嬢は?………」
「いや、ぼくはそんなことをいってるのじゃありません……」
「そんなことでないとすれば、あのひとはただ玄関の階段をおりて、まっすぐに行きさえすりゃいいんですよ。そのさきは、もう家へ帰らなくたっていいんですからね。ときとすると、自分の船を焼いてしまって、家へ帰らないのをいとわん場合があります。人生は朝飯や、昼飯や、S公爵のような連中だけでなりたってるんじゃありませんからね。どうもぼくの見るところでは、あなたはアグラーヤさんをただのお嬢さんか、女学生かなんぞのように思ってらっしゃるようですね。ぼくはもうこのことをあのひとに話しましたが、あのひとも同意されたようです。では、七時か八時ごろ待ってらっしゃい……ぼくがあなただったら、あの家へ見張りをやって、ちょうどあのひとが玄関の階段をおりるところをおさえさせますよ。まあ、コーリャでもおやんなさい。あの子だったら、喜んでスパイをします。もっとも、ご安心なさい、それはあなたのためにするんですから……だって、これはみんなあなたに……なにがあるんですからね……ははは!」
 イッポリートは出て行った。公爵にとって、誰かをスパイにやるなどということは、よし彼にそんなことができるとしても、何の必要もないことである。いちんち家にいろというアグラーヤの命令も、今になってほとんど氷解された。おそらく彼女は公爵を誘いに寄るつもりだったろう。またあるいはじっさい、公爵に出しなをおさえられるのをきらって、それで家にじっとすわっていろと命令したのかもしれぬ……これもありうべきことである。彼は目まいがしはじめた。部屋がぐるぐるまわるように思われた。彼は長いすに横たわって、目を閉じた。
 どちらにしても、この事件はすべてを決定する重大なものである。いや、公爵はけっしてアグラーヤをただのお嬢さんだの、女学生だのと思ったことはない。彼はずっと以前から、なにかこんなことをしでかしはせぬかと恐れていたのが、今となって痛切に感じられる。しかし、何のために彼女はナスターシヤに会いたいのだろう? 悪寒が公爵の全身を伝って走った。彼はまた熱病やみの状態に落ちてしまった。
 いや、彼はけっしてアグラーヤを、子供あつかいにしてはいなかった! 最近、彼はときどき彼女の目つきや言葉に、ぞっとすることがあった。どうかすると、彼女があまりしっかりしてきて、あまり自分をおさえすぎるように思われ、なんだか気味の悪いことさえあった、――こんなことも彼は思い出した。まったくのところ、彼はこの三、四日間、こういうふうなことを考えまいとした、こういった重苦しい想念を追い払おうと努めた。しかし、何がいったいあの魂の中に潜んでいるのだろう。この魂を信じてはいながらも、ずっと前からこの疑問が彼を苦しめていた。ところが、きょうこそこれらすべての問題が解決され、暴露されるのだ。考えると恐ろしい! それにまたしても、『あの女なのだ!』あの女が最後の瞬間に現われて、彼の運命を朽ちた糸くずみたいに引きちぎってしまうだろう、――こんな観念がどうしていつも心に浮かぶのか? 彼はなかば人事不省の状態にあったけれど、この観念がいつも心に浮かんでいたのは、誓ってもいいくらいに思われた。もし彼が最近この女[#「この女」に傍点]のことを忘れようと努めたとすれば、それはただこの女を恐れていたからにほかならぬ。結局、自分はこの女を愛しているのか憎んでいるのか? 彼はこんな質問を今まで一度も、自分に発したことがない。この点、彼の心は純なものであった。彼は自分がだれを愛してるかを、よく知っていたからである……彼が恐れているのは、ふたりの女の会見そのものではない。その会見の奇怪な点でもなければ、わけのわからぬその原因でもない。またその結果ではむろんない、それはどうなろうと恐れはせぬ、――彼はナスターシヤその人を恐れているのであった。この悩ましい数時間のあいだほとんど絶え間なく、彼女の目がちらちらして、彼女の言葉、なにかしら奇妙な言葉が耳に聞こえたのを、あとで二、三日もたってから、公爵は思い出した。もっとも、熱に浮かされたような、悩ましいいく時間かが過ぎてのち、この幻覚はほとんど記憶に残ってはいなかった。たとえば、ヴェーラが食事を運んで来たことも、自分で食事をとったことも、食事ののち寝たか寝なかったか、そんなこともすっかりうろ覚えであった。この晩、彼がはっきりと明瞭にすべてを区別することができるようになったのは、とつぜんアグラーヤが彼の住まいの露台へあがって来たその瞬間からだ、これだけはわかっていた。彼は長いすからとびあがり、出迎えのため、部屋のまん中へ歩み出た。それは七時十五分であった。アグラーヤはたったひとりきりだった。取り急いだらしく、身なりもざっとしたもので、頭巾つきの薄手の外套を着ていた。顔は昨夜と同じように青白かったが、目は鋭いかわいた光を放って輝いていた。彼女がこんな目つきをしているのを、公爵は今まで見たことがなかった。彼女は注意ぶかく相手を見まわしながら、
「あなた、すっかり身支度ができてますわね」と、小声に落ちつきはらった調子でいった。「服も着換えてらっしゃるし、帽子まで手に持って。じゃ、なんですね。だれかさきまわりをして知らせたのね。あたしだれだか知っててよ、イッポリートでしょう」
「ええ、あの人がぼくにいうのに……」なかば死人のような公爵はこういいかけた。
「じゃ、まいりましょう。ご承知でしょうが、あなたはぜひついていらっしゃらなくちゃなりません。あなたは外出なさるくらいのご気力はおありのようですね?」
「ええ、気力はあります、しかし……いったいそんなことがあってもいいものですか?」
 彼は一瞬、言葉を切ったが、もうそれ以上なんにも口をきくことができなかった。これがなかば狂気した少女を引きとめようとする、唯一の試みであった。やがて彼は囚人《めしゅうど》のごとく、自分で彼女につづいて歩きだした。いま彼の思想は溷濁《こんだく》しきっているけれど、アグラーヤはひとりでもあすこへ[#「あすこへ」に傍点]行くにきまっている、して見ると、どうあってもいっしょについて行くのが当然であることは、彼も会得していた。アグラーヤの決心がいかに強いかを見抜いたのである。彼の力でこのもの狂おしい衝動をとめることは不可能であった。彼らは黙りがちで、途中ほとんどものをいわずに歩いた。ただ公爵は、彼女がよく道筋を知っているのに気づいた。一つ手前の迸がすこし淋しいので、彼が横町を一つだけ遠まわりしようと思って、それをアグラーヤにすすめたとき、彼女はいっしょうけんめい、注意力を集中させるようにして聞き終わると、引きちぎるような調子で、「おんなじこったわ!」と答えた。
 ふたりがダーリヤの家(大きな古い木造の家)へ近寄ったとき、正面の階段から、ひとりのけばけばしい粧《つく》りの婦人が、若い娘をつれておりて来た。ふたりは、階段のそばで待っている幌馬車に乗って、大きな声で笑ったり話したりしな。がら、近づいて来るふたりには気のつかないふうで、一度も自をくれなかった。馬車が出てしまうと、ふたたび戸があいで、待ちかまえていたラゴージンが、公爵とアグラーヤを通して、すぐ戸をしめた。
「いま家じゅうにおれたち四人のほか、だれもいねえんだ」と大きな声でこういうと、彼は妙な目つきで公爵を見やった。
 すぐ次の間でナスターシヤが待っていた。やはりごくじみな粧《つく》りで、黒い着物を着ている。彼女は出迎えのために立ちあがったが、にこりともしなかったのみか、公爵に手をさし伸ばそうともしなかった。
 不安げな吸いつくような彼女の瞳は、いらだたしそうにアグラーヤにそそがれた。ふたりはすこし離れ合って座をしめた、――アグラーヤは片隅の長いすに、ナスターシヤは窓のそばに。公爵とラゴージンはすわらなかった。それにナスグーシヤは、ふたりにすわれともいわなかったのである。公爵はためらいと苦痛の色を浮かべながら、ふたたびラゴージンを見やった。が、こちらはやはり以前と同じ薄笑いを浮かべていた。沈黙はなおいく秒かつづいた。
 ついに一種兇悪な感じが、ナスターシヤの顔をさっと走った。その目は執拗な確固たる決心の色、ほとんど憎悪の念さえ浮かべて、瞬時も相手の顔から離れようとしなかった。アグラーヤは少々まごついたらしかったが、おじけづいた様子は見えなかった。はいりしなにちょっと相手の顔に視線を投げたが、今はなにかもの思いにでもふけるように、しじゅう伏し目になって控えていた。二度ばかりなにかの拍子に、彼女は部屋の中を見まわしたが、まるでこんなところにいてはからだがよごれるといったような、嫌悪の色がその顔に描かれた。彼女は機械的に自分の着物を直していたが、一度などは不安げに席を移して、長いすの片隅へにじり寄ったほどである。しかも、こうした動作を、自分でもほとんど意識していないらしかった。しかし、この無意識ということが、なお相手を侮辱するのであった。ついに彼女はナスターシヤの顔を、まともにしっかりと皃つめた。と同時に、相手の毒々しい目に輝いているものを、すっかり明瞭に読み取った。女が女を見抜いたのである。アグラーヤは愕然としておののいた。
「あなたはむろんごぞんじでしょうね、何のためにあたしがあなたをお招きしたか」とうとう彼女はこうきりだした。しかしおそろしく声が低いうえに、こんな短い句の中で二度まで言葉を切った。
「いいえ、なんにも知りませんよ」とナスターシヤはそっけたい、断ち切るような調子で答えた。
 アグラーヤは顔をあからめた。おそらく彼女はいま自分がこの女と対坐して、しかも『この女』の家で、この女の返答を求めているということが、おそろしく奇怪な、ありうべからざることに思われたのだろう。ナスターシヤの声の最初の響きと同時に、戦慄が彼女のからだを流れたような気がした。こうした心持ちの変化を『この女』はもちろんすっかり見て取ったのである。
「あなたはすっかりご承知のくせに……わざとわからないふりをしてらっしゃるんです」とアグラーヤは渋い顔をして床を見つめながら、ほとんどささやくようにいった。
「そんなことをして何になるんでしょう?」ナスターシヤはにっとかすかに笑った。
「あなたは、あたしの位置を利用しようと思ってらっしゃるのです……あたしがあなたの家にいるもんですから」こっけいなまずい調子で、アグラーヤは語をついだ。
「その位置はわたしの知ったことじゃありません、あなたのせいですよ!」急にナスターシヤはかっとなった。「あなたがわたしに招かれたのじゃなくって、わたしがあなたに招かれたんですからね。しかも、何のためやら、わたし今だにわかりませんの」
 アグラーヤは昂然とかしらをあげた。
「その舌をお控えなさい。あたしはそんな武器でもって、あなたと闘うために来たんじゃありませんからね……」
「ああ! じゃ、やはりあなたは『闘う』ためにいらしったんですね? まあ、どうでしょう、わたしあなたはなんといっても……もすこし利口なかたかと思ってましたわ……」
 ふたりはもうたがいに憎悪の念を隠そうともしないで、にらみ合っていた。このふたりの中のひとりがついこのあいだまで、いまひとりにあんな手紙を書いていた当人なのである。ところが、最初の会見、最初の発言とともに、いっさいが霧のように散り失せた。いったいどうしたというのだろう? しかし、この部屋に居合わす四人のものは、だれひとりとして、この瞬間こうした事実を、不思議とも思わない様子であった。ついきのうまで、こんなことは夢にさえ見られないと信じていた公爵も、今はもうとうからこれを予感していたかのごとく、ぼんやり突っ立ったまま、ふたりの顔を見くらべながら聞いていた。奇怪きわまる夢が今や忽然として、まざまざと形を備えた現実に化したのである。このときひとりのほうは、いま一方を極度まで軽侮していて、しかもそれをむきつけにいってやりたくてたまらなかったので(ことによったら、ただそれ一つのためにやって来たのかもしれない、――こう翌日ラゴージンがいったくらいである)、いま一方も随分とっぴな女ではあるけれども、頭は乱れ、心は病的になっているから、よし前からそのつもりで心構えをして来たとしても、自分の競争者の毒々しい純女性的な侮蔑を、防ぎきることができなかったろう。公爵はナスターシヤが自分のほうから、あの手紙のことをいいだす気づかいはないと信じていた。今あの手紙が彼女にとってどんな意味をもっているか、それは怪しく輝く目つきから推して、察するにかたくなかった。公爵はアグラーヤが、あの手紙のことをいわないようにするためには、自分の命を半分なげ出しても惜しくなかった。
 けれど、アグラーヤは急にしっかりと落ちついてきたらしく、たちまち感情をおさえて、
「それはあなたの勘違いですよ」といった。「あたしはあなたと……暗一嘩しに来たのじゃありません。もっとも、あたしはあなたを好きませんけども。あたしが……あたしがここへ来たのは……人間らしいお話のためですの。あなたをお招きするとき、あたしはもうどんなお話をしようかってことを、すっかり決めていたんです。そして、その決心はどうしてもひるがえしません。よしんばあなたがまるっきり、あたしの真意を解してくださらないにしてもね。それはあなたのおためにならないばかりで、あたしの知ったことじゃありませんから。あたしは、あなたのお手紙にご返事しよう、自分の口からご返事しようと思ったのです。そのほうが都合がよかろうと思いましたからね。あなたのお手紙に対するあたしの返事を聞いてください。あたしは、はじめて公爵とお目にかかったその日から、あなたの夜会でおこった事件をあとで聞いたそのときから、公爵がお気の毒になったのです。お気の毒になったというわけは、公爵がああいう人のいいおかたですから、その人のいいところから……そうした性格のご婦人と……いっしょになって、幸福になれると信じておしまいになったからですの。あたしの心配は事実となって現われました。あなたは公爵を愛することができなくって、さんざんいじめたあげく、すてておしまいになりました。あなたが公爵を愛することができなかったのは、あなたがあまり高慢だからです……いいえ、高慢なのじゃありません、あたしの言い間違いです。つまり、あなたの虚栄心がさかんなためです。いえ、これでもまだ違っています。あなたはまるで……正佩の沙汰といえないほど、利己心が強いのです。その証拠は、あのあたしにあてた手紙です。あなたは公爵のような、あんな単純な人を愛しえないばかりか、腹の中でばかにして笑ってらしたのです。ただ自分の汚辱だけしか愛することができなかったのです。自分はけがされた、自分は辱しめられた、という考えだけしか、愛することができなかったのです。もしあなたの汚辱がもっと少ないか、それともぜんぜんなかったとすれば、あなたはまだまだ不幸だったでしょうよ……」(アグラーヤは、あまりにも性急にほとばしり出るこれらの言葉を、さもこころよげに吐き出すのであった。これらの言葉はもうとうから、――今の会見をまだ夢にも想像しなかったころから、すでに準備され、推敲されていたのである。彼女は毒々しい目つきで、自分の言葉の効果を、ナスターシヤのゆがんだ顔の上に追求していた)「あなた覚えてらっしゃるでしょう」と彼女はつづけた。「あの当時、公爵はあたしに手紙をくださいました。公爵の話では、あなたもこの手紙のことをごぞんじなんですってね。それどころか、お読みになったことさえあるそうですね? この手紙で、あたしはすべての事情を悟りました。しかも正確に悟りました。ついこのあいだ公爵がご自身で、それを確かめてくださいました。つまり、あたしが今あなたにいっていることですの。しかも、ひとことひとこと、そっくりそのままといっていいくらいです。手紙を読んでから、あたしは待ち受けていました。つまり、あなたがこちらへいらっしゃるに相違ない、と見抜いたのです。だって、あなたはペテルブルグなしじゃいられない人なんですもの。あなたは田舎でくすぶっているにはまだあまり若くって、おきれいですわ……もっとも、これもやはりあたしのいったことじゃありませんよ」と彼女はおそろしく赤くなって、こういい足した。この瞬間から最後の言葉の切れるまで、くれないは彼女の顔から引かなかった。「それから、二度目に公爵を見たとき、あたしはあの人のためにおそろしいまで苦しく、腹が立ってきました。笑わないでください。もしあなたがお笑いになれば、それはあなたにこの心持ちを理解する資格がない、ということになるのです
「ごらんのとおりわたしは笑ってやしません」とナスターシヤは沈んだ厳しい声でいった。
「もっとも、あたしはどうだってかまわないのです。ご勝手にお笑いなさい。で、あたしが自分の口からあの人にたずねるようになってから、公爵はこういいました。『わたしはもう前からあのひとを愛してはいません。あのひとに関する追憶さえも、わたしにとって苦しいくらいです。ただわたしはあのひとがかわいそうです。あのひとのことを思い出すと、まるで永久に心臓を刺し通されたような気がします』ところで、あたしは当然、あなたにもう一ついわなくちゃなりません、あたしは生まれてからまだ一度も、高潔な単純さという点で、また他人に対する無限の信頼という点で、公爵に匹敵するような人を、見たことがありません。あたしは公爵の話を聞いたあとで、すぐと悟りました。どんな人でもその気にさえなれば、わけなくこの人をだますことができます。ところが、公爵はそのだまし手がだれであろうと、あとでみんなゆるしておしまいになります。つまり、この性質のために、あたしは公爵を愛するようになったのです……」
 アグラーヤは自分で自分におどろいたように、――こんな言葉を口にすることができるなどとは、自分でも信ずることができないように、ちょっとのあいだ言葉をおさえた。しかし、それと同時に、ほとんど量りしれないプライドが、その目の中に輝きだした。もうこうなったら、つい口をすべり出た今のひとことを、『この女』が笑おうと笑うまいと、どうだって同じことだ、といいたげな様子であった。「あたしはあなたになにもかも申しました。ですから、もちろん、あなたもあたしの希望をお察しなすったでしょう?」
「察したかもしれません。だけど、ご自身でいってごらんなさい」とナスターシヤは低い声で答えた。
 憤怒の色がアグラーヤの顔に燃え立った。
「あたしはね」しっかりした声で、一語一語、明瞭に彼女はきりだした。「あなたにどんな権利があって、あたしに対する公爵の感情に干渉なさるのか、それがききたいのです。どんな権利があって、大胆にもあたしに手紙をよこしました?どんな権利があって、あなたがこの人を愛してるってことを、わたしやこの人にうるさく広告なさるんです? あなたは自分でこの人を棄てたのじゃありませんか。そして、ひどい侮辱と……汚名を浴びながら、逃げだしたじゃありませんか!」
「あたしが公爵を愛してるなんて、ご当人にもあなたにも広告したことなんかありません」やっとの思いでナスターシヤはこういった。「けども、わたしがこの人を棄てて逃げだしたのは……あなたのおっしゃるとおりですわ……」やっと聞こえるぐらいの声でいい足した。
「どうして『ご当人にもわたしにも』広告したことなんかないのです?」とアグラーヤは叫んだ。「じゃ、あなたの手紙はいったいなんですの? だれがわたしたちの仲人役を買って出て、この人と結婚しろとあたしに勧めたんです? それが広告でないでしょうか? 何のためにあたしたちのあいだへ割りこんでくるのです? あたしは、はじめのうち反対にこう考えたのです。『あのひとはかえってあんな干渉をして、公爵に対する嫌悪の種を蒔いて、公爵を棄てさせようというのじゃあるまいか』ところが、のちになって、そのわけがわかりました。あなたはそのいやらしいやり口でもって、なにかたいした手柄でもしてるような気がしたんでしょう……それほど自分の虚栄心を愛してらっしゃるあなたに、公爵を愛することができましたか? あんなばかばかしい手紙を書く暇に、なぜきれいにここを立ってしまわなかったのです? またあんなにまであなたを慕って、あなたに求婚の名誉を与えたりっぱな青年と、どうして結婚しようとなさらないんです? その理由はあまりに明々白々です。もしラゴージンさんと結婚すれば、汚辱などはすこしも残らないからです。かえってあなたの得る名誉が多すぎるからです! あなたのことをエヴゲーニイさんがそういいました、『あなたはあまりたくさん詩を読みすぎたものだから、あなたの……身分としてはあまり教育がありすぎる』、あなたは小説の女で、有閑婦人ですって。これにあなたの虚栄心を加えると、理由がすっかりそろうわけです……」
「じゃ、あなたは有閑婦人でないんですね」
 事件はあまり急激に、あまり露骨に、こうした思いがけないところまで行き着いてしまった。まことに思いがけないことである。なぜなら、ナスターシヤはこのパーヴロフスクヘ来る途中、むろん、いいことよりむしろ悪いことを予想してはいたが、それでもまだなにか、別なことを空想していたからである。アグラーヤにいたっては、もう一瞬のあいだに憤怒の浪にさらわれて、まるで坂からころがり落ちるように、恐ろしい復讐の快感の前にみずからを制することができなかった。こうしたアグラーヤを見るのは、ナスターシヤにとってむしろ不思議なくらいであった。彼女は相手を見つめながらも、われとわが目を信じかねるような風情であった。最初の瞬間、彼女はまるで何をいっていいかわからなかった。彼女は、あるいは、エヴゲーニイの想像したように、多くの詩を読破した女かもしれない、またあるいは公爵の信じているように、ただのきちがいかもしれない。が、いずれにして も、この女は、――ときとすると、ああした皮肉で暴慢な態 度をとることもあるが、――実際において人々が結論をくだすよりも、はるかにはにかみやで、優しい信じやすいたちなのである。もちろん彼女には小説的な、空想的な、自分自身の中に閉じこもったような、突飛な分子が多分にある。しかし、そのかわり、力強い深いところもずいぶんある……公爵はそれを了解していた。苦痛の表情が彼の顔に浮かんだ。アグラーヤはこれに気がついて、憎悪の念に身をふるわせた。
「あなたあたしに向かって、よくそんな口がきけますね!」言葉につくせぬ暴慢な態度で、彼女はナスターシヤの言葉に答えた。
「それはあなたのお聞き損じでしょう」とナスターシヤは驚いて、「わたしがあなたにどんな口をききました?」
「もしあなたが清浄な婦人になりたかったら、なぜご自分の誘惑者を――トーツキイをあっさりと……芝居めいた真似をしないで、棄ててしまわなかったのです?」とつぜんこちらは藪から棒にいった。
「そんな失礼な批評をなさるについて、あなたはどれだけわたしの境遇を知ってらっしゃるんです?」ナスターシヤはまっさおになって、身震いした。
「ええ、あなたが労働につかないで、堕天女《だてんにょ》きどりで金持ちのラゴージンと逃げだした、――これだけのことを知っています。トーツキイが堕天女のために、ピストルで自殺しかけたと聞いても、べつに驚きゃしませんよ!」
「およしなさい!」とナスターシヤは痛みを忍ぶように、嫌悪の色を浮かべながらいった。「あなたはまるで……ついこのあいだ自分の許嫁《いいなずけ》どいっしょに治安判事の判決を受けペダーリヤさんの小間使と同じような解釈をなさいますのね。それどころか、まだその小間使のほうが気が利いてるくらいですわ……」
「それはたぶん潔白な娘さんでしょう、自分の労働で生活してるのでしょう。なぜあなたは小間使に対して、そんな軽蔑した態度をおとんなさるの?」
「わたしは労働に対して、軽蔑の態度をとるのじゃありません、労働を口になさるあなたに対してです」
「あたしは潔白なからだになりたかったら、洗濯女にでもなりますわ」
 ふたりは立ちあがり、まっさおな顔をしながら、たがいににらみ合っていた。
「アグラーヤ、およしなさい! それは公正を欠いていますよ」と公爵は度を失ったもののように叫んだ。
 ラゴージンはにたにた笑いをやめて、くちびるをくいしばり、腕を組んで聞いていた。
「ねえ」とナスターシヤは憤怒のためにがたがた身をふるわせながらいった。「このお嬢さんをごらんなさい。今までわたしはこの人を天女とあがめていたんですよ! ねえ、アグラーヤさん、あなたは家庭教師をつれないで、わたしのところへいらしたんですか?……なぜあなたはわたしのところへいらしたんでしょう? もしお望みなら……お望みならわたし今すぐ、飾りっ気なしに申しますわ。つまり、おじけがついたのです、それでいらしたんです」
「あたしがあなたを恐れるんですって?」この女がよくまあ自分に向かってこんな口がきけたものだという、子供らしい傍若無人な驚きのために、われを忘れてアグラーヤは叫んだ。
「もちろん、わたしをね! わたしのところへ来ようと決心なすった以上、わたしを恐れてらっしゃるんですよ。自分の恐れている人は軽蔑できないもんですよ。だけど、考えてみたばかりでもぞっとする、わたしたった今さっきまで、あなたを尊敬してたんですからね! ところで、どういうわけであなたがわたしを恐れてらっしゃるのか、またあなたのおもな目的がどういうところにあるか、ごぞんじですの? ほかでもありません、この人がわたしをあなたより余計に愛してらっしゃるかどうか、それを自分の目で確かめたかったのです。だって、あなたはおそろしいやきもちやきですものね……」
「この人はもうあたしにそういいました、あなたを憎んでるって……」やっとの思いで舌をまわしながら、アグラーヤがこういった。
「大きにね、大きにそうかもしれません。わたしにはこの人の愛を受ける値うちがありません。けれど……けれど、あなたうそをおつきになったようですね? この人はわたしを憎むことなんかできません、そんな言いかたをするはずがありません! もっとも、わたし深くとがめだてしません……あなたの情状を酌量しましてね……なにせ、わたしはあなたのことをもっとよく思ってましたわ、もっとお利口で、ご器量だってもすこしいいだろうと思ってました、まったくですの!………さあ、大切な人をつれてらっしゃい……ほらごらんなさい、この人はあなたをいっしょうけんめい見つめて、どうしても正気になれないんですよ。さあ、早く引きとってください。ただし条件つきですよ、――すぐにとっとと出て行ってもらいましょう! さあ今すぐ!………」
 彼女はひじいすに倒れて、さめざめと泣きだした。が、急になにかしら別種の光が、その目の中に輝きだした。彼女は食い入るように、執念《しゅうね》くアグラーヤを見つめていたが、つと席を立った。
「だけど、もしお望みなら、わたし今すぐにも……め、い、れ、い、してよ、よくって? ただ公爵にめ、い、れ、い、するのよ。すると、この人はさっそくおまえさんをすてて、永久にわたしのそばに居残るわ。そして、わたしと結婚してよ。おまえさんはひとりで家へ走って帰るんです、よくって? よくって?」と彼女は狂気のように叫んだ。おそらく、自分でもこんな言葉を発しえようとは、ほとんど信じていなかったであろう。
 アグラーヤはおびえて戸口のほうへかけだそうとしたが、釘づけにされたように、戸口のほとりに立ちどまって、聞いていた。
「よくって、わたしラゴージンを追ん出すわ! いったいおまえさんは、わたしがあんたをよろこばすために、ラゴージンと結婚したとでも思ったの? ところが、わたし今おまえさんの目の前でこういうわ、『出て行け、ラゴージン!』そして、公爵には『あんたわたしに約束したことを覚えてて?』とこういってやるわ。ああ! いったいなんのためにわたしはこの人たちの前で、あんなに自分を卑下したのでしょう? ねえ、公爵、あれは全体あんたじゃなかったの?『おまえの身の上にどんなことがおころうとも、かならずおまえのあとへついて行く、けっしておまえをすてやしない、ぼくはおまえを愛している、おまえのすることは何でもゆるしてやる、そしておまえを、そ……尊……』ええ、そうよ、あんたがそういったのよ! それだのに、わたしはあんたを自由にしてあげようと思って、いったんあんたのそばから逃げだした。けれど、もう今はいやです! あの娘はなんだってわたしを、淫売かなんぞのように扱ったんだろう? わたしが淫売かどうか、ラゴージンにきいてごらんなさい、あの男が証明するから! しかし、今はあの娘が、あんたの目の前でわたしの顔に泥を塗ったから、たぶんあんたもわたしに後足で砂をかけて、あの娘の手を引いて帰るんじゃなくって? もしそうなら、わたしがあんたひとりだけ信じていた義理でも、あんたはのろわれてよ。さあ、出て行け、ラゴージン、おまえに用はない!」
 彼女は顔をゆがめ、くちびるをからからにかわかして、やっと胸から言葉を絞り出すようにしながら、ほとんど前後を忘れて叫んだ。彼女はこうした自分のからいばりを、露ほども信じてはいなかったけれど、同時にせめて一秒間でも、自分をあざむいていたいと思った。それはわき目にも明瞭であった。こうした興奮があまりに激烈だったので、もしやこのまま死んでしまいはせぬかと、気づかわれるほどであった。すくなくとも公爵にはそう感じられた。
「ね、ごらんなさい、そこに公爵が立ってるでしょう!」ついに彼女は手で公爵のほうを指し示しながら、アグラーヤに向かって叫んだ。「もしこの人が今すぐわたしのそばへ寄って、この手をとらなかったら、――そしておまえさんをすてなかったら、そのときはおまえさん勝手にこの人をお取んなさい、譲ってあげるわ、こんな人に用はないから……」
 彼女もアグラーヤも、待ち設けるように立ちどまって、ふたりともきちがいのように公爵を見つめた。しかし、この挑戦の言葉が今どんな力を持っているか、彼にはよくわからなかったらしい。いや、たしかにそうと断定していい。彼はただ自分の目の前に捨て鉢になったもの狂おしい顔を見たのみである。それはかつてアグラーヤに口走ったとおり、ひと目みたばかりで『永久に心臓を刺し通された』ような気のする顔であった。彼はもうこのうえたえ忍ぶことができなかった。哀願と非難の色を浮かべて、ナスターシヤを指さしつつ、アグラーヤに向かって、
「ああ、こんなことがあっていいものですか! だって、このひとは……こんな不幸な身の上じゃありませんか!」
 しかし、公爵がアグラーヤの恐ろしい視線のもとに、身をしびらせながらいうことができたのは、たったこれだけであった。彼女の目の中には無量の苦痛と、同時に無限の憎悪が表われた。公爵は思わず両手をうって、叫び声を上げながら、彼女のほうへ飛んで行った、――が、もう遅かった。彼女は公爵の動揺の一瞬間をも、忍ぶことができなかった。両手で顔を隠しながら、『ああ、どうしよう』と叫ぶやいなや、ひらりと部屋の外へおどり出した。つづいてラゴージンが、往来へ抜ける戸のかんぬきをはずすためにかけだした。
 公爵もかけだそうとしたが、しきいの上でだれかの手に抱きとめられた。ナスターシヤの絶望にゆがんだ顔が、じいっと彼を見つめていた?そして、紫色になったくちびるが動いて、こう問いかけた。
「あの娘につくの? あの娘につくの?………」
 彼女は感覚を失って、公爵の手に倒れかかった。彼はそれを抱きおこして、部屋の中へ運び入れ、ひじいすの上へ寝かした。そして、にぶい期待をいだきつつ、そのそばにじっと立っていた。小テーブルの上には、水の入ったコップが置いてあった。やがて引っ返して来たラゴージンは、それを取って彼女の顔にふりかけた。彼女は目を見開いたが、一分間ばかりは、何がなんだか皆目わからなかった。が、とつぜんあたりを見まわして、ぶるっと身をふるわすと、叫び声とともに公爵に飛びかかった。
「わたしのものだ! わたしのものだ」と彼女は叫んだ。「あの高慢ちきなお嬢さんは行っちゃったの? ははは!」とヒステリイの発作にからからと笑った。「ははは! わたしはあやうくこの人をあの娘に渡すとこだった! いったいなんのために? どういうわけで? ふん、きちがいだ!きちがいだ!………ラゴージン、さっさと行っておしまい、ははは!」
 ラゴージンはじっとふたりをながめていたが、ひとことも口をきかないで、自分の帽子を取って出て行った。十分ののち、公爵はナスターシヤのそばにすわって、寸時も目を放さずに彼女を見つめながら、まるで小さな子供を相手にするように、両手でなでさするのであった。彼は女の笑いに応じて笑い、その涙に応じて泣かんばかりであった。彼はなんにも口をきかなかったが、突発的な、歓喜に溢れた、取りとめのない言葉に、一心に耳を傾けた。そして、すこしも意味を察することができなかったが、ただ静かにほほえむのであった。そして、ちょっとでもナスターシヤが悲しんだり、泣いたり、とがめたり、訴えたりしはじめると、すぐにまたその頭をなでたり、両手で頬をさすったりして、子供でもあやすように慰めるのであった。

      9

 前章に物語ったできごとから二週間たった。そして、編中諸人物の境遇もいちじるしく変わった。したがって、特殊な説明なしに続きに取りかかるのは、ひとかたならず困難な仕事である。しかし、なるべく特殊な説明をぬきにして、単なる事実の記述にとどめる必要を感じる。しかも、その理由はきわめて簡単である。つまり、説話者自身、事件の説明に苦しむ場合が多いからである。説話者の立場にありながら、こんなことわりをいうのは、読者にとってまるでわけのわからぬ、奇怪なことと思われるに相違ない。なんとなれば、明瞭な理解も独自の意見もないことを、どうして他人に語りうるか、という疑問が生じるからである。これより以上いかがわしい位置に立たないために、むしろ実例について説明するように努めたほうがよさそうである。そうしたら、好意ある読者は、その困惑が那辺に存するかを悟るかもしれない。ことに、この実例というのが岐路にはいるのでなしに、直接物語の続きとなっているから、なおさらである。
 二週間後、つまりもう七月のはじめになって、またこの二週間のあいだに、本編の恋物語、とりわけこの恋物語の最後のできごとは、ほとんどほんとうにしかねるほど奇怪な、しかしまた非常にわかりのいい、きわめて愉快な世間話と化して、レーベジェフ、プチーツィン、ダーリヤ、エパンチン家などの別荘に近いすべての街々、てっとり早くいえば、町じゅうと近在ぜんたいへ、しだいしだいに広がっていった。ほとんど町じゅうの人がいっせいに、――土地の者も、別荘の人も、停車場の楽隊を聞きに来る人も、-同じ話に無数のヴァリェーションをこしらえて、騒ぎだした。その話はこうである。ひとりの公爵が、さる由緒ただしい名家で不体裁なことをしでかしたあげく、もう婚約までできているその家の令嬢をすてて、有名な曖昧女に夢中になり、以前の交遊をことごとくふり棄ててしまった。そして、人々の威嚇も、公衆の憤慨も、なにもかもいっさい顧みないで、近いうちにこのパーヴロフスクの町で、昂然と頭をそらしながら、人々の顔を見つめるような態度で、おおっぴらに公々然と、そのけがれた女と結婚するつもりでいる。その話は極端にいろんな醜聞で彩られ、その中にはまた各方面の名士がない交ぜられて、怪奇な謎めかしい陰影が加えられているうえに、一方から見て否定することのできない、明白な事実の上に建てられているので、町じゅうの者の好奇心もでたらめな陰口も、もちろん大目に見なければならない。中でも最も微妙な機知を弄した、そしていかにももっともらしい解釈は、少数のまじめな陰口屋の仕事なのである。これは理性の発達した階級の人で、どんな社会にあってもつねにまっさきかけて新しいできごとを、ほかのものに説明して聞かそうとあせり、これを自分の使命、――どころか、慰みと心得ている場合も珍しくない。
 彼らの解釈によると、この青年は名門の公爵で、金持ちで、ばかではあるけれど、ツルゲーネフ氏によって示されたタイプの、現代の虚無主義に血迷ったデモクラートで、ほとんどロシヤ語も話せない男である。これがエパンチン将軍の令嬢に迷って、ついに同家へ花婿の候補者として出入りするまでにこぎつけた。それは、つい最近、新聞に逸話を載せられたフランスの神学生に酷似している。この神学生はわざと身を僧職にゆだねようと決心し、自分で採用を哀願して、踝拝、接吻、誓言など、いっさいの儀式を行なっておきながら、すぐその次の日、主教に公開状を送って、自分は神を信じてもいないのに民衆をあざむいて、ただでその民衆のご厄介になるのは破廉恥と思うから、きのういただいた位は自分で剥奪してしまいます、といったような手紙を、二、三の自由主義の新聞に掲載した、――ちょうどこの無神論者と同じように、公爵は自己流の手品をしたのである。彼はわざと花嫁の家で催された盛大な夜会を、手ぐすね引いて待ちかまえていた(ここで彼はきわめて多数の名士に紹介された)。それはただ、一同の前で麗々しく自分の思想を披瀝して、尊敬すべき名士を罵倒し、自分の花嫁を公衆の面前で侮辱して、縁談を拒絶せんがためのみであった。そのさい、彼は自分を引っ張り出そうとする侍僕らに抵抗して、みごとな支那焼の花瓶をこわした。人々はこのうえにまだ現代|気質《かたぎ》の特徴といったような体裁で、こんなおまけまでつけた、――このわからずやの公爵は実際のところ、自分の花嫁である将軍令嬢を愛していたのだが、その縁談を拒絶したのは、ただニヒリズムから出たことで、今度の醜事件を目安に置いたのである。すなわち全社会を向こうへまわして、堕落した女と結婚するという満足を、棒にふりたくなかったからである。つまり、この行為によって、『自分の脳中には、堕落した女も淑徳高き令嬢もない、ただ自由な女があるばかりだ、自分は古い世間的な区別を信じない、ただ一個の「婦人問題」を信ずるのみだ』ということを証明したかったのである。それどころか、彼の目から見ると、堕落せる女は堕落しない女より、多少優れているようにさえ映じた。
 この説明は、きわめてまことしやかに思われるので、別荘住まいの大多数に承認された。ことに、毎日のできごとがこれを裏書するのであった。もっとも、ちょいちょいした事情はいぜんとして未解決のままであった、たとえば、哀れな令嬢は真から婚約の男、ある人にいわせれば『誘惑者』を愛していたので、絶縁を宣告された次の日、男が情婦とさし向かいでいるところへかけこんだ、というものもあれば、またあるものはその反対に、令嬢はわざと男に誘われて情婦の家へ行ったのだ、しかもそれはただただ虚無主義から出たことで、汚辱と侮蔑を与えたいためなのだ、と説くものもあった。いずれにもせよ、事件の興味は日ごとに膨張していった。まして、けがらわしい結婚がほんとうに挙行されるという事実には、いささかも疑惑の余地がないから、なおさらである。
 もしここで吾人に事件の説明を求める人があったら、――事件の虚無主義的色彩に関してではない、けっしてそうではない。ただ今度の結婚がいかなる程度まで、公爵の真の要求を満足させているか? またその要求とは今のところどんなものか? 目下の公爵の心境をなんと断定したものか、等々といったような説明を求める人があったら、吾人は、白状するが、非常に答に窮するだろう。吾人がいま知っているのは、ただ結婚がほんとうに成立して、公爵が教会や家事向きの面倒を、いっさいレーベジェフとケルレルと、それにこんど公爵に紹介されたレーベジェフの知人と、この三人にすっかり委任してしまったこと、金に糸目をかけるなという命令の出ていること、結婚を主張してせかしたのはナスターシヤであるということ、公爵の付添いには、ケルレルが熱心なこいによって指定されたこと、ナスターシヤつきとしてはブルドーフスキイが、歓喜の声を上げて依頼を承諾したこと、そして式は七月のはじめと決まったこと、――まず、こんなものである。
 けれど、こういうきわめて正確な事実のほかに、まるでわれわれを五里霧中に彷徨させるような、二、三のうわさが耳にはいっている。つまり、前述の事実と撞着するようなうわきである。たとえば、レーベジェフその他のものにいっさいの面倒を委任しておきながら、公爵は自分に儀式執行係や結婚の付添人があることも、自分が結婚しようとしていることも、さっそくその日のうちに忘れたという話である。彼が大急ぎで、万端の世話を他人に委せてしまったというのも、単に自分でこのことを考えないため、いな、むしろ一刻も早くこのことを忘れてしまいたいからではないか、――こう吾人は深く疑わざるを得ない。もしそうとすれば、彼自身なにを考えているのだろう? 何を思い出そうとしているのだろう? 何に向かって急いでいるのだろう? また彼に対して、何びとの(たとえばナスターシヤなどの)強制もなかったということは、これまた疑いの余地がない。まったくナスターシヤは、ぜひにといって結婚を取り急ぎ、自分からこれを考えだしたので、けっして公爵から持ち出したのではないが、しかし公爵はぜんぜん自由意志をもって承諾したのだ。かえって、なにかごくありふれたものでもねだられたように、そわそわした手軽な態度で承諾したくらいである。こういう奇怪な事実は吾人の手近にたくさんある。こんなのをいくら引き合いに出したところで、すこしも真相を明らかにしないのみか、吾人の考えでは、かえって不明瞭にしてしまうくらいである。けれど、今一つの例を引いてみよう。
 次のような事実も一般に知れわたっている。ほかでもない、この二週間、公爵はいく日もいく晩も、ナスターシヤといっしょに時を送った。そして、彼女はよく公爵を散歩へ誘ったり、奏楽を聞きに連れ出したりした。また公爵は毎日彼女と連れ立って、ほうぼう幌馬車で乗りまわした。たった一時間でも彼女の姿が見えないと、公爵はもうすぐ心配しはじめた(つまり、すべての兆候から推して、公爵が彼女を真底から愛していたことがしれる)。公爵はいく時間もいく時間もぶっとおしに、穏かなつつましい笑みを浮かべながら、自分のほうからはほとんど口をきかないで、どんなことでも彼女の話なら、じいっと耳を傾けて聞いている。 しかし、われわれは同様に次の事実をも知っている。ほかではない、この数日間に彼はいく度も、というよりはしょっちゅう、出しぬけにエパンチン家へ出かけた、しかも、それをナスターシヤに隠そうとしないので、彼女はそのたびにほとんど絶望の極に達した。ところで、エパンチン家ではパーヴロフスク滞在中、けっして公爵を上へあげなかった。そして、アグラーヤに会わしてくれという彼の願いは、いつもびしびしはねつけられた。彼は一語も発しないで立ち去ったが、すぐ次の日になると、きのう拒絶されたことはけろりと忘れたように、またぞろ将軍家を訪れ、むろん、またぞろ拒絶の憂き目を見るのであった。
 同様にわれわれはこういうことを知っている――アグラーヤがナスターシヤのもとを走り出てから、一時間ののち、あるいはすこし早かったかもしれない、公爵は早くもエパンチン家に姿を現わした。むろんここでアグラーヤに会えることと信じながら。ところが、彼の出現はそのとき同家に非常な恐慌と、騒動をひきおこした。なぜというに、アグラーヤはまだ帰宅していなかったうえに、同家では娘が彼といっしょにナスターシヤの家におもむいたことを、公爵からはじめて聞いたからである。うわさによると、リザヴェータ夫人も姉たちも、――おまけにS公爵までが、そのとき公爵に冷淡な敵意に満ちた態度をとり、即座に激しい言葉を使って、知人としてかつ友達としてのつきあいをことわった。ことに、とうぜんそこヘヴァルヴァーラがはいって来て、アグラーヤはもう一時間ばかり前から自分の家へ来て、恐ろしい状態に落ちている、そして家へは帰りたくない様子だと知らせたとき、さらにその態度が露骨になった。
 この最後の報告は、なによりも激しくリザヴェータ夫人を震撼した。しかも、それがまったく事実だったのである。ナスターシヤのところから出たとき、アグラーヤは今さらのめのめ家の人に顔をさらすより、いっそ死んだほうがましだと思って、いっさんにニーナ夫人のところへかけこんだのである。ヴァルヴァーラは今すぐ一刻の猶予もなく、このことをすっかりリザヴェータ夫人に報告する必要がある、と感じた。母とふたりの姉をはじめ、一同ただちにニーナ夫人のもとへかけつけた。たったいま帰宅したばかりのイヴァン将軍、一家のあるじも、みんなのあとにつづいた。またそのあとからムイシュキン公爵も、人々がそっけない言葉で追い払うのもかまわず、おぼつかない足どりでかけだした。しかし、ヴァルヴァーラの取り計らいで、彼はここでもアグラーヤのそばへ通してもらえなかった。アグラーヤは、母や姉たちが自分に同情して泣きながら、いささかもとがめだてしないのを見て、いきなりみんなに飛びかかって抱き合った。そして、おとなしく一同とともに家へ帰ったので、事件はひとまずこれで落着した。
 もっとも、あまり確かではないが、こんなうわさも人々の口にのぼった。ほかでもない、ガーニャがここでもさんざんな目に合ったのである。ヴァルヴァーラがリザヴェータ夫人のもとへ走って行ったすきをねらって、彼はアグラーヤとさし向かいで、自分の恋をうち明ける気になった。その言葉を聞くやいなや、アグラーヤは自分の悲しみも涙も忘れ、急にからからと笑いだした。そして、とつぜん奇妙な質問を持ち出した。それは愛の証明のために、今すぐ指をろうそくの火で焼くことができるか、というのであった。ガーニャはその要求に度胆を抜かれて、なんと答えていいかわからず、たとえようもないけげんな表情を顔に浮かべたので、アグラーヤはヒステリイのようにきゃっきゃっ笑いながら、二階にいるニーナ夫人のところへ走って行った。そこで彼女は自分の両親に会ったのである。
 この挿話は、翌日イッポリートを経て公爵の耳にはいった。彼はもう床から起きられなかったので、このことを知らせるために、わざわざ公爵に使いをやった。どうしてこのうわさが耳にはいったかわからないが、公爵はろうそくと指の話を聞いたとき、イッポリートさえびっくりするほど笑いだした。が、急にぶるぶるふるえだして、さめざめと涙を流しはじめた……概して彼はこの数日間、恐ろしい不安と非常な動乱につかまれていた。しかも、それが漠として悩ましいものであった。イッポリートは、公爵のことを正気でないと断言したが、そこはまだなんともはっきりしたことは言われない。
 こうした事実を列挙して、その説明を拒みながらも、われわれはけっして本編の主人公を読者の眼前で、弁護しようと望んでいるわけではない。そればかりか、公爵が親友のあいだに呼びさました憤懣をわかつことすら、あえていとわないつもりである。ヴェーラさえもしばらくのあいだ、公爵の行為に憤慨していた。コーリャまで憤慨していた。ケルレルすら、付添人に選ばれるまでは、ぷりぷりしていた。レーベジェフのことはいうまでもない。彼はやはり憤慨のあまり、公爵に対してなにやら策をめぐらしはじめた。その憤慨はきわめて真摯なものといっていいくらいである。しかし、このことはあとでいおう。概してわれわれはエヴゲーニイの言葉、――心理的に深刻かつ強烈な言葉に、ぜんぜん同意を表するものである。それは、ナスターシヤの家でおこったできごとののち六日か七日目に、彼が公爵と隔てのない談話をまじえたとき、無遠慮に述べた言葉なのである。
 ついでにことわっておくが、エパンチン家の人々ばかりでなく、直接間接、同家に属しているすべての人は、公爵との関係を断ってしまわねばならぬ、と感じた。たとえば、S公爵などは、公爵に出会。ても、ぷいと横を向いてしまって、会釈さえしようとしなかった。けれど、エヴゲーニイは自分の立場を傷つけるのも意に介しないで、また、毎日のようにエパンチン家へ出入りをはじめ、前にも増した歓待を受けるようになったにもかかわらず、あるとき公爵を訪問したのである。それはエパンチン一家が当地を去った翌日だった。ここへ来るときも、彼は町じゅうに広がったうわさを、すっかり知っているばかりでなく、ことによったら、自分でもすこしぐらいその手伝いをしたかもしれない。公爵はおそろしく彼の来訪をよろこんで、すぐさまエパンチン家のことをいいだした。こうした子供らしいさっぱりした話のきりだしに、エヴゲーニイはすっかりくだけた調子になり、まわりくどいことはぬきにして、すぐ要件にとりかかった。
 公爵は、エパンチン一家の出立をまだ知らずにいた。彼はぎっくりしてまっさおになった。しかし、しばらくたつと、当惑したような考え深い様子で首を振りながら、『そうあるべきだったのです』と自白した。それから、せかせかとした調子で、『どこへ行かれたのでしょう?』とたずねた。
 エヴゲーニイはそのあいだ、じいっと公爵を観察していた。せかせかした質問、その質問の無邪気な調子、きまりの悪そうな、同時になんだか奇妙に露骨な態度、不安げな興奮した様子、――こういう点はすくなからず彼を驚かした。けれども、彼は愛想のいい調子で、すべてを詳しく公爵に報告した。こちらはいろいろの事実を知らなかった。たにしろ、これが将軍家から出たはじめての便りであった。彼はアグラーヤがほんとうに病気して、三週間ばかりぶっとおし熱に悩まされ、夜もほとんど眠らなかったといううわさを確かめた。しかし、今はだいぶよくなって、心配なことはすこしもないが、神経的なヒステリックな状態にある……『でも、家の中がすっかり穏かになったから、まだそれでも結構なんですよ! 過去のことは、アグラーヤさんの前だけでなく、おたがい同士のあいだでも、匂わせないようにしています。ご両親は、秋に入って、アデライーダさんの結婚がすみ次第、外国旅行をすることに決められました。アグラーヤさんは、はじめてこの話を持ちかけられたときも、ただ黙って聞いておられましたよ』
 彼エヴゲーニイも、やはり外国へ出かけるかもしれない。S公爵さえも、もし事情が許すならば、アデライーダといっしょにふた月ばかりの予定で、行って来るといっている。当の将軍はこちらに居残るはずである。こんど一同が引き移ったのはコルミノ村といって、ペテルブルグから二十露里ばかり離れた同家の領地で、そこには広い地主邸がある。ペロコンスカヤ夫人はまだモスクワへ帰らないが、どうやらわざと踏みとどまっているらしい。リザヴェータ夫人はあんなことのあったあとで、当地に居残るのはどうあっても不可能だと主張した。それはエヴゲーニイが、毎日市中のうわさを夫人に伝えたからである。エラーギン島の別荘に住まうのも、やはりできないことであった。
「ねえ、まあ、じっさい」とエヴゲーニイは言い添えた。「考えてもごらんなさい、どうして辛抱ができるものですか……それに、ここで、あなたの家で毎時運んでいることをすっかり聞かされるうえに、ことわっても、ことわっても、あなたが毎日あそこ[#「あそこ」に傍点]を訪問なさるんですものね……」
「そうです、そうです、そうです、おっしゃるとおりです。ぼくはアグラーヤさんに会いたくって」と彼はふたたび首を振った。
「ああ、公爵」とつぜんエヴゲーニイは、興奮と憂愁を声に響かして叫んだ。「どうしてあなたはあのとき……あんなできごとをみすみすうっちゃっておいたのです? もちろん、もちろん。あんなことはあなたにとって、じつに意想外でしたろう……ぼくも、あなたが度を失ったのは、当然だと認めます。それに、あのきちがいじみた娘さんを引きとめることは、あなたにできなかったでしょう、まったくあなたの力に合いませんよ! しかし、あの娘さんがいかなる程度まで、まじめにかつ強烈に……あなたに対していたかを、あなたはとうぜん理解すべきだったんですよ。あのひとはほかの女と愛をわかつのがいやだったのです。それなのにあなたは……あなたはあれほどの宝を抛《なげう》って、こわしてしまうなんて!」
「ええ、ええ、おっしゃるとおりです、ぼくが悪かったのです」と公爵はまた恐ろしい哀愁に沈みながらいいだした。「それにねえ、ナスターシヤさんに対してあんな見かたをしたのは、あのひとひとりです、アグラーヤさんただひとりですよ……ほかの人はだれもあんな見かたをしませんでした」
「おまけに、事件ぜんたいが悲惨なのは、真剣なところがすこしもなかったからですよJとエヴゲーニイはすっかり夢中になって叫んだ。「失礼ですが、公爵、ぼくはこのことについて考えたのです、いろいろ考え抜いたのです。ぼくは以前のことをすっかり承知しています。半年まえのことをすっかり知っています。――あれはけっして真剣ではなかったのです! あれはすべて単なる頭脳の沈溺だったのです、絵です、幻想です、煙です。あれをなにか真剣なことのように考えうるのは、ぜんぜん無経験な少女の嫉妬から出た危惧です!………」
 ここでエヴゲーニイはもうすっかり遠慮会釈なしに、自分の憤激を吐露してしまった。合理的に明晰に、そしてくりかえしていうが、異常な心理解剖さえ試みながら、彼は公爵とナスターシヤの以前の関係をことごとく、一幅の絵画のように公爵の前に広げて見せた。エヴゲーニイはいつも言葉の才能を賦与されていたが、今はもう雄弁の域にさえ達したのである。
「ずっと最初から」と彼は声を励ましていった。「あなたがたの関係は虚偽ではじまりました。虚偽ではじまったものは、また虚偽に終わるべきです、それが自然の法則です。ぼくは人があなたを、――いや、まあだれにせよ、――白痴《ばか》だなんていっても、同意することができません。いや、憤慨したくなるくらいです。あなたはそんな名前を受けるべく、あまりに賢すぎます。しかし、あなたは並みの人と違う、といわれても仕方がないほど、いっぷう変っています、ねえ、そうでしょう。ぼくの断定では、過去の事件ぜんたいの基礎は、第一にあなたの……そうですねえ……生まれつきの無経験と(この『生まれつき』という言葉に気をつけてください)、それから、あなたのなみはずれてナイーヴな性質と、適度という観念の極端な欠乏と(それはあなたがご自分でもいく度か告白なすった)、それから頭の中で作りあげた信念の雑然たる累積と、こういうものから成り立っているのです。あなたはご自分の高潔な性情からして、これらの信念を偽りのない生粋なものだと、今の今まで信じていらっしゃるのです! ねえ、そうじゃありませんか、公爵、あなたのナスターシヤさんに対する関係には、はじめっからその条件的民主主義[#「条件的民主主義」に傍点](これは簡潔をたっとぶためにいったのです)とでもいうようなものが潜んでいました。(なお簡潔にいえば)『婦人問題』の崇拝ですよ。ぼくは、ラゴージンが十万ルーブリの金を持って来たときの、不体裁きわまる、奇怪千万な、ナスターシヤさんの夜会の顛末を、すっかり正確に知っています。お望みなら、まるでたなごころをさすように、あなた自身を解剖して見せますよ。まるで鏡にかけたように、あなた自身をお目にかけますよ。それぐらいぼくは正確にことの真相と、その転換の原因をきわめているのです! 青春の血に燃えるあなたは、スイスに住んで、父祖の国にあこがれていました。まだ見たことのない約束の土地かなんぞのように、まっしぐらにロシヤヘ帰っていらしったのです。あなたはあちらで、ロシヤに関する本を、たくさんお読みになったでしょう。その本は優れたものだったかもしれませんが、あなたにとっては有害なものだったのです。とにかく、あなたは若々しい熱情に満ちた実行欲をいだいて、われわれの中へ現われて来ました。そして、いきなり実行におどりかかったのです! ちょうど到着の日に、あなたはさっそく悲しい胸を躍らすような話、辱しめられた婦人の話を聞かされたのです。聞き手はあなたという童貞のナイト、話は女の話ときたんです、その日のうちに、あなたはその婦人に会って、その美に魅せられました、――幻想的な、悪魔的な美に魅せられました(まったくぼくはあのひとが美人だってことを承認しますよ)。それにあなたの神経と、あなたの持病と、そして人の神経をかき乱さずにおかぬわがペテルブルグの雪解けの気候を加えてごらんなさい。あなたにとっていくぶん幻想的な未知の町におけるこの一日を加えてごらんなさい。いくたの邂逅や、芝居めいた事件や、思いがけない知り合いや、意想外な現実や、エパンチン家の三人の美人や、その中にはアグラーヤさんもはいってるんです、こういうものに満ちたあの一日を加えてごらんなさい。疲労と眩暈《めまいお》を加えてごらんなさい。ナスターシヤさんの客間と、客間の調子を加えてごらんなさい……こついう瞬間に、あなたは自分がどうなると考えます、いったい?」
「そうです、そうです、ええ、ええ」と公爵は、しだいに顔をあからめながら、首を振った。「ええ、それはほとんどそのとおりなのです。そのうえに、ぼくは前の晩も汽車の中だったので、まるですこしも寝なかったんです。それですっかり頭の調子が狂ったものですから……」
「ええ、そうですとも、もちろんですよ。ぼくもそのほうへ議論を進めてるんです」とエヴゲーニイは熱くなって、言葉をつづけた。「わかりきった話です。あなたはいわゆる歓喜の情に陶酔して、おれは昔からの公爵だ、潔白な人間だというりっぱな感情を、大勢の前で発表しうる最初の機会に飛びかかったのです。つまり、自分の罪ではなく、いまわしい放埒紳士の罪のためにけがされた女は、けっして堕落したものと思わない、こういうことを知らせたかったのです。おお、そりゃもうわかりきった話です! しかし、それはかんじんな点じゃありませんよ、公爵。かんじんな点は、あなたの感情に真実性があったか、自然性があったかということなんです。それは単に、あなたが頭の中で作りあげた感激ではなかったか、ということなんです。公爵、あなたはなんとお考えになります、――かつてああいう種類の婦人が、教会でゆるされたこともありますが、しかしその婦人の行為はりっぱなものだ、あらゆる尊敬を受ける価値がある、―とはいってありませんよね? だから、三か月たったのち、常識があなた自身にことの真相を教えてくれたじゃありませんか。今あのひとが無垢なら無垢でいいです。ぼくは好まないことだから、しいて争おうとはしません。しかし、はたしてあのひとの行為が、あのお話にならない悪魔のような傲慢な態度や、あの、人を人とも思わぬ貪婪なエゴイズムを、弁護しうるでしょうか? いや、ごめんなさい、ぼくあんまり夢中になったもんですから……」
「そうですね、それはみんなほんとうかもしれませんよ。あるいはあなたのおっしゃるとおりかもしれませんよ……」とふたたび公爵はつぶやくようにいった。「あの女はまったく非常にいらいらしていました、もちろん、おっしゃるとおりです。しかし……」
「同情を受ける価値はある……でしょう? そうおっしゃるつもりでしょう、ね、公爵?『しかし、単なる同情のために、あのひとの満足のために、いま一方の高潔な令嬢をけがしでもいいの。ですか? あの[#「あの」に傍点]暴慢な、あの憎悪に輝く目のまえで、その令嬢を辱しめてもいいのですか? そんなことをいったら、同情というやつはどこまで行くかわかりませんよ! それはありうべからざる誇張です! あなた自身、公明正大な申込みをして、しかも真底から愛している令嬢を、競争者の前でああまで辱しめたうえに、競争者の見てるところでその女に見変えるなんて、いったいできることでしょう。が……あなたはまったくアグラーヤさんに申込みをしたのでしょう、両親や姉さんたちの前でりっぱにおっしゃったのでしょう! これでもあなたは潔白な人なんでしょうか? 公爵、失礼ですが、ひとつうかがいましょう。それでも……それでも、あなたは神さまのような少女に向かって、『わたしはあなたを愛しています』といったのが、うそをついたことにならないでしょうか!」
「そうです、そうです、おっしゃるとおりです、ああ、ぼくはしみじみ自分が悪かったと思います!」公爵は言葉に現わせぬ憂愁をいだきつつこういった。
「いったいそれでことは足りるんですか?」エヴゲーニイは憤激のあまりに叫んだ。「いったい『ああ、自分が悪かった!』と叫んだら、それでことは済むんですか? 悪かったといいながら、やはり強情を通してるじゃありませんか! 全体あなたの心は、『キリスト教的』な心はどこにあったのです? あのときのアグラーヤさんの顔をごらんになったでしょう? いったいあのひとはもうひとり[#「もうひとり」に傍点]のほうより、――ふたりの中を引き裂いたあなたの女[#「あなたの女」に傍点]より、苦しみかたが少なかったとでもいうんですか? どうしてあなたは現に見ていながら、うっちゃっといたんです、え?」
「だって……ぼく、うっちゃったといたわけじゃないんです……」と不幸な公爵はつぶやいた。
「なぜうっちゃっといたわけでないのです?」
「けっしてうっちゃっときゃしなかったのです。どうしてあんなことになったのか、ぼくはいまだにわかりません……ぼくは……ぼくはアグラーヤさんのあとを追ってかけだしたのです。ところが、ナスターシヤが卒倒したもんですから……その後ずっと今まで、アグラーヤさんに会わしてもらえないのです」
「同じこってすよ! ナスターシヤさんが卒倒したにしろ、あなたはやはりアグラーヤさんのあとを追って行くべきだったのです!」
「そう……そう、ぼくは追って行くべきだったのです……しかし、うっちゃっといたら、死んでしまったかもしれないんですもの! あなたはあの女をごぞんじないですが、きJと自殺したに相違ありません、それに……いや、どうでもよろしい、ぼくあとでアグラーヤさんにすっかり話します、そして……ねえ、エヴゲーニイ・パーヴルイチ、お見受けしたところ、あなたは事件の全貌がよくおわかりでないようですね。いったいなんだってぼくをアグラーヤさんに会わしてくれないのでしょう? ぼくあのひとにすっかり説明したいんですがねえ。まったくふたりともあのとき見当ちがいのことばかりいってたのです。すっかり見当ちがいのことでした。だから、あんなことになってしまったのです……ぼくはどうしてもあなたにこのことが説明できません、けれど、アグラーヤさんにはうまく説明できるかもしれません……ああ、たまらない、たまらない! あなたは、あのひとがかけだした瞬間の顔といいましたね……ああ、どうしたらいいだろう、ぼくおぼえています!………行きましょう、さあ行きましょう!」とつぜん彼はせかせかと椅子から飛びあがりながら、エヴゲーニイの袖を引っ張るのであった。
「どこへ?」
「アグラーヤさんのところへ行きましょう、行きましょう!……」
「だって、もうここにいないといったじゃありませんか。それに、なんのために?」
「あのひとは理解してくれます、あのひとは理解してくれます!」公爵は祈るように手を組みながらいった。「あのひとは、なにもかもすっかり間違っている[#「間違っている」に傍点]、ぜんぜん別な事情だってことを、理解してくれます!」
「どうぜんぜん別なんです? でも、あなたはやはり、結婚しようとしているじゃありませんか。してみると、強情を通していらっしゃるのです……結婚なさるんですか、なさらないんですか?」
「え、さよう……結婚します。ええ、しますとも!」
「じゃ、なぜ別なんです?」
「おお、別ですとも、別です、別です! ぼくが結婚しようとしまいと、それは、それは同じことです、なんでもありません!」
「どう同じことなんです、どうなんでもないのです? だって、これは些細なことじゃありませんよ。あなたは好きな女と結婚して、その人に幸福を与えようとしてらっしゃる。ところが、アグラーヤさんはそれを見て、知っているのですよ。それだのに、どうして同じことなんでしょう?」
「幸福ですって? おお、違います! ぼくはただなんということなしに結婚するのです。あれの望みでね。それに、ぼくが結婚するということが、いったいなんでしょう。ぼくは……いや、これもやはりどうだってかまいません! ただあのままうっちゃっておいたら、あれはきっと死んだのです。今こそすっかりわかりました。ラゴージンと結婚しようなんて考えは、まったく狂気の沙汰だったのです! いまぼくは、以前わからなかったことまで、すっかりわかります。ところでね、あのときふたりが顔と顔を突き合わして立ったとき、ぼくはナスターシヤの顔を見るに堪えなかったのです。あなたはごぞんじないでしょう(と秘密でもうち明けるように声をひそめて)、ぼくこれは今までだれにも、アグラーヤさんにもいわなかったのですが、ぼくはいつもナスターシヤの顔を見るに堪えないのです……あなたがさっきナスターシヤの夜会についておっしゃったことは、ぜんぜん正鵠を得ています。しかし、たった一ついい落とされたことがあります。つまり、ごぞんじないからです。ほかでもありません、ぼくはあれの顔[#「あれの顔」に傍点]を見つめていたのです! もうあの朝、写真で見たときから、たまらないような気持ちがしました……ほら、あのヴェーラ・レーベジェヴァなんかの目は、まるっきり違うじゃありませんか。ぼく……ぼくはあれの顔が恐ろしいのです!」彼は異常な恐怖を現わしながらこういい足した。
「恐ろしいんですって?」
「ええ、あれは――気がちがってるんです!」と彼は青い顔をしながらささやいた。
「あなたはたしかに知っておいでなんですか?」ひとかたならぬ好奇の色を浮かべて、エヴゲーニイはたずねた。
「ええ、たしかに、今こそもうたしかに知りました。今度、この四、五日のあいだに、もうたしかに突きとめました!」
「まあ、あなたは自分をどうしようとしてるんです?」とエヴゲーエイはおびえたように叫んだ。「じゃ、あなたはなにか恐ろしくって結婚されるんですね? なにがなんだかわけがわからん……じゃ、愛もないくせに?」
「おお、違います。ぼくは全心を傾けてあれを愛しています! だって、あれは……まるで子供ですものね。今あれは子供です。まるっきり子供です! ええ、あなたはまるでごぞんじないんですよ!」
「それだのに、あなたはアグラーヤさんに愛を誓ったんですか?」
「おお、そうです、そうです!」
「なんですって? じゃ、両方とも愛したいんですか?」
「おお、そうです、そうです!」
「冗談じゃありませんぜ、公爵、なにをおっしゃるんです、しっかりなさいよ!」
「ぼくアグラーヤさんがなくては……ぼくはぜひあのひとに会わなきゃなりません! ぼく……ぼくは間もなく、寝てる間に死んでしまいます。ぼくは今夜にも、寝てる間に死にそうな気がします。ああ、アグラーヤさんが知ってくれたらなあ。いっさいのことを、――ええ、ほんとうにいっさいのことを知ってくれたなら。だって、この場合、いっさいを知ることが必要なんです。それが第一の急務です! ぼくらは他人に罪がある場合、その他人に関するいっさい[#「いっさい」に傍点]のことを知る必要があるにもかかわらず、どうしてそれができないんでしょう!………とはいうものの、ぼく自分でも何をいってるかわかりません、あなたがあまりぼくをびっくりさせたものですから……ところで、いったいあのひとは今でも、あの部屋をかけだしたときのような顔をしていますか? おお、じっさいぼくが悪かった! すべてぼくが悪い、というのがいちばん確かです。はたして何が悪かったか、それはまだわかりませんが、とにかくぼくが悪いのです……この事件にはなにかしら、あなたに説明できないようなものが、説明の言葉のないようなものがあります、しかし……アグラーヤさんは悟ってくれます! ええ、ぼくはいつも信じていました、あのひとは悟ってくれます」
「いや、公爵、悟りゃしません! アグラーヤさんは女として、人間として恋したので、けっして……抽象的な精霊として恋したんじゃありませんからね。公爵、あなたどう思います。あなたはけっしてどちらも愛したことがないと考えるのが、いちばんたしかじゃないでしょうか?」
「ぼくにゃわかりません……そうかもしれません、そうかもしれません。多くの点において、あなたのお説は当たっていますからね。エヴゲーニイさん、あなたは非常に賢いかたです。ああ、ぼくまた頭が痛みだした。さあ、あのひとのとこへ行きましょう! 後生です、後生ですから!」
「ぼくそういってるのじゃありませんか、あのひとはここにいません、コルミノ村です」
「じゃ、コルミノ村へ行きましょう、さあ、すぐ!」
「それは不ー可ー能です!」エヴゲーニイは立ちあがりながら、言葉じりを引いていった。
「じゃね、ぼく、手紙を書くから届けてください」
「いけません、公爵、いけません! そんなお使いはごめんをこうむります、できません!」
 ふたりは別れた。エヴゲーニイは奇妙な確信を得て立ち去った。彼の考えによると、公爵は少々気が触れているのであった。『あの男があんなに恐れながら、しかも愛しているあの顔というのは、いったいなんのことだろう! それはそうと、あの男はアグラーヤさんがいなかったら、ほんとうに死んでしまうかもしれない。そしたら、アグラーヤさんも、あの男があれほどまで自分を愛してることを、一生知らずに過ごしてしまうかもしれないぞ! はは! しかし、ふたりを同時に愛するなんて、いったいどんなふうなんだろう? なにか別別な二つの愛で……ふん、なかなかおもしろい……しかし、かわいそうな白痴だ! いったいあの男はこれからどうなるのだろう?』

      10

 とはいえ、公爵は結婚式の日まで、エヴゲーニイに予言したとおり、『寝てる間』にも、さめてるときにも死ななかった。じじつ、彼は夜よく寝られないで、悪い夢ばかり見ていたかもしれぬが、昼間、人の前へ出ると、なかなか親切で、満足そうにさえ見えた。ときどきひどく沈みこむこともあったが、それはただひとりでいたときに限った。式は取り急がれて、エヴゲーニイの来訪後、約一週間ということになった。公爵がこんなに急いでいるので、最も親しい友達さえ(かりにそういうものがあるとすれば)、この不幸なわからずやを『救おう』という努力について、失望を嘗めなければならなかったろう。こんなうわさもあった。エヴゲーニイ来訪の責任は、いくぶんエパンチン将軍夫妻が負うているというのだ。しかし、たとえ彼らが底の知れぬ優しい心持ちから、深い淵に沈もうとしている哀れな狂人の救助を望んだにしろ、このおぼつかない試み以上、踏みだすわけに行かなかった。将軍夫妻の地位も心持ちも、これ以上真剣な助力を許さなかった(それはきわめて自然なことである)。前にも述べたとおり、公爵を取り巻いている人々も、いくぶん彼に反抗的態度をとったが、ヴェーラは人のいないところで涙をこぼすとか、またはおもに自分の部屋に引きこもって、以前のようには公爵のところへ顔出しをしないとか、それくらいなことにとどまっているし、コーリャはこの当時、父の野辺送りをしていた。老将軍は最初の発作後八日目に、二度目の発作で死んだのである。公爵は一家の悲しみに深厚な同情を表し、はじめの二、三日はニーナ夫人のもとでいく時間も、いく時間も過ごしたほどである。葬送のときには教会へも行った。教会に居合わせた群集が、われともなしに発するささやきの声で公爵を送迎したのに、多くのものは心づいた。それと同じことが往来でも、公園でもくりかえされた。公爵が徒歩にしろ、馬車にしろ、通り過ぎるたびに、がやがやと話し声がおこって、彼の名を呼んだり、指さしたりした。ときには、ナスターシヤの名まで聞こえた。人々は葬式でも、ナスターシヤを目つけ出そうとしたが、葬式にも彼女は居合わせなかった。例の大尉夫人も葬式に来なかった。それはレーベジェフが前もって、言葉をつくして思いとどまらせたからである。この葬式は公爵に強い病的な印象を与えた。彼はまだ教会にいるとき、レーベジェフのある問に答えて、自分が正教の葬式に列するのは、これがはじめてだ、ただ子供の時分、どこか田舎の教会であった葬式を、一つ覚えているばかりだとささやいた。
「さよう、なんだかわたしたちがついこのあいだ議長に推挙した、ねえ、お覚えでしょう、あれと同じ人が、棺の中にはいってるとは思えませんよ」とこちらは公爵にささやいた。「あなただれをさがしておいでです?」
「いや、なに、ただちょっと妙な気がしたので……」
「ラゴージンじゃありませんか?」
「いったいあの人がここにいるんですか?」
「はい、教会の中に」
「ははあ、道理で、なんだかあの人の目がちらっとしたようだった」と公爵はあわてたようにつぶやいた。「だが、いったい……なぜここにいるんです? 招待を受けたんですか?」
「思いもよらぬことです。まるっきり縁故がないじゃありませんか。ここにはどんな人だっています、物見だかい連中ですからね、いったいなにをそんなにびっくりなさりますので? わたしはこのごろ、しょっちゅうあの男に出会いますよ。もう先週四度ばかりも、このパーヴロフスクで出くわしました」
「ぼくは一度も会いません……あのとき以来ね」と公爵はつぶやくのであった。
 ナスターシヤも『あのとき以来』ラゴージンに会ったなどという話を一度もしないので、公爵は、ラゴージンがなぜかわざと顔を見せないのだと、このごろひとりでそう決めていた。この日いちんち彼はひどく考えこんでしまった。ところが、ナスターシヤはその日、夜になっても、おそろしくはしゃいでいた。
 父の死に先立って、公爵と和解したコーリャは、ケルレルとブルドーフスキイを付添人に頼めと勧めた(それは目前に迫った急務だったから)。彼はケルレルが不都合な行為をしないどころか、あるいはかえって『適任者』かもしれないと請け合った。ブルドーフスキイのほうはなにもいうことはない。あのとおりの静かなおとなしい人間である。ニーナ夫人とレーベジェフは公爵に忠告して、よしんば結婚が決まったにもせよ、なぜパーヴロフスクで、おまけに人の集まる避暑季節に、ぎょうぎょうしいことをする必要があるのだろう、すくなくともペテルブルグで、なんならいっそ内輪でしたほうがよくはないかといった。こうした杞憂が何を意味するかは、公爵にとってあまりに明瞭なことであった。しかし、彼は手短に、ナスターシヤがたっての望みだから、と答えた。
 次の日、付添人に選ばれたという報告を受けたケルレルが、公爵のもとへ出頭した。はいる前に、彼はちょっと戸口で立ちどまった。そして、公爵の姿が目に入るやいなや、人さし指を立てながら、右手を高くさし上げて、晢いでもするように叫んだ。
「もう飲まんです!」。
 それから公爵に近寄って、両の手を握りしめながらひと振りした。そして「わが輩もはじめのうちは、ご承知のとおりあなたの敵でした。これはわが輩自身、玉突屋で宣言したことです。しかし、これというのも、わが輩があなたのことを心配して、一日も早く公女ドーロアンか、すくなくともドーシャボぐらいの人を、あなたの夫人として見たいと、毎日毎日、親友の焦躁をもって待ちこがれていたからです。しかし、今はあなたがわが輩たちを十二人ぐらい『束にした』より、はるかに高尚な考えを持っておいでになることを悟りました! なんとなれば、あなたは光彩も、富も、また名誉すら必要としないで、ただ真実のみを求めていられるからです! 高尚な人の同情に篤《あつ》いことは、わかりきった話です。ところが、公爵のあまりに高尚なる教育をもっては、高尚な人たらざらんとするも、豈《あに》うべけんやです。全体から見ましてね! しかし、意地のきたないごみごみした連中は、また別な考えかたをしています。町じゅうのものが家の中でも、集会の席でも、別荘でも、奏楽堂でも、酒場でも、玉突屋でも、今度の式のことばかり話したり、わめいたりしています。なんでも、窓の下で大騒ぎをするつもりだ、とかいう話ですよ。しかも、それが結婚の当夜なんですからなあ! 公爵、もし潔白な人間のピストルが必要でしたら、わが輩はあなたがあくる朝『蜜の床』からお起きにならぬうちに、正義の弾丸の半ダースやそこらは射つ覚悟です」彼はなお教会を出たのち、かつえた連中が雪崩をうって押し寄せる場合を気づかって、おもてにポンプを用意するように勧めた。しかしこれはレーベジェフが反対した。『ポンプなんか用意したら、うちを木っぱにして持って行かれますよ』
「あのレーベジェフは、あなたに対して陰謀を企てています、ええ、実際です! あの連中は、あなたを禁治産あつかいにしようと思ってるのです、しかも、どうでしょう、自由意志も、財産も、なにもかもですよ。各人を四つ足と区別するこの二つのものを奪おうというんだからなあ! わが輩、聞きました、たしかに聞きました、間違いなしの事実です!」
 公爵はいつだったか自分でも、こんなふうの話を聞きこんだことを思い出した。が、そのときはむろん、なんの注意も払わなかったのである。彼は今もただからからと笑ったのみで、すぐにまた忘れてしまった。レーベジェフはまったくしばらくのあいだあくせくしたのである。この男の心算は、いつも感激といったようなものから生まれるが、あまり熱中しすぎるため、こみ入ってきて、ほうぼうへ枝葉がわかれ、最初の出発点からすっかり離れてしまうのであった。つまりこれが、彼の生涯でたいした成功を見なかったゆえんである。その後ほとんど結婚の当日になって、彼が悔悟の念を表するため公爵のところへやって来たとき(彼はいつも人に対して陰謀を企てるたびに、悔悟の念を表するためその人のところへでかけた、それはおもに陰謀の成功しなかったときなので)、自分は元来タレイラン(仏の外交家、一七五四―一八三八年)として生まれたのに、どういう間違いか、ただのレーベジェフでまごまごしているのだ、と前置きして、自分の企みの一条をすっかり暴露して見せた。公爵は非常な興味をいだきながら傾聴した。彼は第一着手として、必要のさいたよりになるような名士の保護を求めた。イヴァン将軍のもとへおもむいたところ、将軍は合点の行かない様子で、自分は心から公爵のためよかれと祈っているから、『助けてやりたいのは山々であるけれども、ここでそんな運動するのは、どうも感心しない』といった。リザヴェータ夫人は彼に会うのも、話を聞くのもいやだといった。エヴゲーニイも、S公爵も、ただ当惑そうに両手をふったばかりである。しかし、レーベジェフは落胆しないで、ある敏腕な法律家と相談した。これは相当の地位を占めた老人で、彼のもとの友人、というよりほとんど恩人なのであった。この人の結論によると、それはできない相談ではないが、ただ相当な人が公爵の智能錯乱と完全な発狂の証明さえすればよい、しかしそのほか名士の保護というのがかんじんなことである。レーベジェフはこのときもけっしてしょげなかった。それどころか、あるとき公爵のところへ医者をつれて来たことさえある。これもやはり相当の地位ある老人で、アンナ勲章を首にかけていようという別荘持ちであった。その目的はただ、その、まあ場所を見て、公爵と近づきになり、当日は公式でなしに親友として自分の診断を告げるためであった。
 公爵はこの医師の来訪を覚えている。その前の晩レーベジェフは、彼の健康がすぐれないといって、うるさく付きまとったあげく、公爵がだんぜん医薬をしりぞけたとき、彼はとつぜんこうして医師をつれて来たのである。その口実はつい今しがたふたりして、非常に容体の悪くなったチェレンチエフ氏を訪問して来たので、医師の口から公爵に病人の容体を知らせるために来訪した、というのであった。公爵はレーベジェフの思いつきをほめて、ねんごろに医師を歓待した。すぐにイッポリートの話がはじまった。医師は、あの自殺当時の光景を詳しく聞きたいと頼んで、公爵の話や説明ぶりにうっとりと聞きとれてしまった。それからペテルブルグの気候や、公爵自身の病気や、スイスや、シュナイデルのことなどに話題が移った。シュナイデルの治療方法の説明や、その他いろいろの話に、医師はすっかり酔わされてしまい、二時間も尻をすえていた。そのあいだに、彼は公爵の飛びきり上等のシガーをふかし、レーベジェフのもてなしとしては、ヴェーラの持って来たすてきな果実酒を飲んだ。このとき妻もあれば家族もある医師が、一種特別なお世辞をヴェーラにふりまいたので、彼女はすっかり憤慨してしまった。ふたりは親友として別れた。
 公爵のもとを辞した医師はレーベジェフに向かって、もしあんな人を禁治産あつかいにするなら、いったいだれを後見人にしようというのか、といった。レーベジェフが目前に迫っているできごとを、悲劇的な態度で述べたのに対して、医師はこすそうな様子で頭を獗っていたが、とうとうしまいに、『人はどんな女とでも結婚しかねないもんですよ。が、それはしばらくおいても、すくなくともわたしの聞くところでは、あの魅力に富んだ婦人は、一世に絶した美貌のほかに、それ一つだけでも、優に身分ある男をひきつけるに足りますがね、そのほかにトーツキイや、ラゴージンからもらった財産をもっています。真珠とか、ダイヤモンドとか、ショールとか、家具類とかいったものをね。だから今度の結婚は公爵として、さして目立つほどの愚昧を証明しないばかりか、かえってずるくて細かい、世なれた勘定だかい頭脳を示しています。してみると、ぜんぜん正反対の、公爵にとって有利な結論を促すわけになるじゃありませんか……』この言葉にレーベジェフもまた感心してしまい、彼もそのまま手をひいてしまった。で、いま公爵に向かって、『もう今度こそは、血を流してもいとわないほどの信服の念のほか、何ものもわたくしの腹中にござりません。そのためにやってまいりましたので』といい足した。
 この四、五日のあいだ、イッポリートも公爵をまぎらしてくれた。彼はうるさいほどしげしげ使いをよこすのであった。彼の一族は、ほど遠からぬ小さな家に住んでいた。小さい子供ら、――イッポリートの弟と妹は、病人を避けて庭へ出られるというだけでも、別荘住まいが嬉しかった。が、哀れな大尉夫人は、まったく彼のいうままになって、まるで彼の犠牲であった。公爵は毎日親子を引き分けたり、仲直りさせたりしなければならなかった。で、病人はいつも彼のことを自分の『保母』と呼んでいたが、それでもその仲裁人の役まわりを軽蔑せずにいられなかった。病人は無性にコーリャに会いたがっていた。それはこの少年がはじめは瀕死の父、のちにはやもめになった母のそばに付き添って、ほとんど顔を見せなかったからである。ついに彼は、目前に迫った公爵とナスターシヤの結婚を冷笑の対象に選んだが、とどのつまりは公爵を侮辱し、怒らしてしまった。公爵はぱったり来なくなった。二日たった朝、大尉夫人がとぽとぽとやって来て、涙ながら公爵においで願いたいと頼んだ。『でないと、わたしはあれ[#「あれ」に傍点]に咬み殺されてしまいます』それから、息子が公爵に大秘密をうち明けたがっている、とつけ加えた。で、公爵は行ってみた。
 イッポリートは和睦を求めて、泣きだした。涙をおさめてから、いっそう腹を立てたのはもちろんながら、ただその怒りを外へ出すのを恐れていた。彼の容体は非常に悪く、もう今となっては死ぬるのに間がないことは、すべての様子から察せられた。秘密などはすこしもなかった。ただ興奮のために(それもあるいはこしらえごとかもしれない)せいせい息をきらしながら、『ラゴージンを警戒なさい』と頼んだくらいのものである。『あの男はけっして我を折るようなやつじゃありません。公爵、あれはわれわれの仲間じゃないですよ。あの男はいったんこうと思ったら、なにひとつ恐ろしいものはないんですからね……』といろいろこれに類したことをいった。公爵はなにやかや詳しくたずねてみて、なにか事実を掘り出そうとしたが、イッポリートの個人としての感じと印象のほか、なんの事実も伏在していなかった。イッポリートはあげくの果てに公爵をびっくりさせたので、無性によろこんで、それきり話をやめてしまった。はじめ公爵は、彼の特殊な質問に答えたくなかったので、『せめて外国へでもお逃げなさい。ロシヤの坊主はどこにでもいますから、むこうで結婚することもできますよ』などという忠告に対して、ただ微笑するのみであった。しかし、イッポリートは次のような考えを述べて、きりあげた。『ぼくはただアグラーヤさんの身の上を心配するのです。あなたがあのお嬢さんを恋してるのを、ラゴージンはよく知っていますから、恋にむくいるに恋を以てすです。あなたがあの男からナスターシヤさんを奪ったから、あの男はアグラーヤさんを殺します。もっとも、アグラーヤさんは今あなたのものじゃないけれど、それでもやはりあなたは苦しいでしょう、そうじゃありませんか?』彼はついに目的を達した。公爵は人心地もなく辞し去った。
 ラゴージンに関するこの警告は、もはや結婚の前日に当たっていた。この晩、公爵がナスターシヤに会ったのは、結婚前最後の会見であった。しかし、ナスターシヤは彼を慰めることができなかった。そればかりか、このごろではしだいに彼の不安を増す一方であった。以前、といっても四、五日まえまで、彼女は公爵と会うたびに、全力をつくして彼の気をまぎらそうとした。公爵の沈んだ様子を見るのが恐ろしかったので、ときには歌をうたって聞かせることさえあった。しかし、おおむね、思い出せるかぎりのこっけいな話を公爵にして聞かせることがいっとう多かった。公爵はたいていいつも笑うようなふりをして見せたが、ときにはほんとうに笑うこともあった、――彼女が夢中になって話すときの、はなばなしい機知と明るい感情につりこまれるのであった。じじつ、彼女はよく夢中になった。公爵の笑顔を見、自分が公爵に与えた感銘を見ると、有頂天になって自慢するのであった。しかし、このごろ彼女の懊悩《おうのう》ともの思いは、ほとんど一時間ごとにつのっていった。
 公爵のナスターシヤに関する意見は、ちゃんと決まっていた。それでなかったら、いま彼女の持っているすべてのものが、謎めいて不可解に感じられたに相違ない。しかし、ナスターシヤはまだ蘇生しうるものと、彼は信じて疑わなかった。彼がエヴゲーニイに向かって、真底から彼女を愛しているといったのは、まったく事実である。じっさい彼の愛の中には、なにかしら哀れな、病身な子供にひかされるようなものが潜んでいた。そんな子供の勝手に任せておくのは、情において忍びがたいような、いな、不可能のような気がするのであった。彼は彼女に対する心持ちを、けっして人にうち明けなかった。そういう話を避けられないような場合ですら、口にすることを好まなかった。当のナスターシヤとは、差し向いの席でも、自分たちの『心持ち』を一度も話し合ったことがない。まるでふたりとも、そんな誓いでも立てたようであった。ふたりの愉快な、いきいきした日々の談話には、だれでも仲間入りができた。ダーリヤはのちになって、『あの当時のふたりをながめていると、ひとりでに嬉しくなって、ほれぼれするくらいでした』と話していた。
 しかしナスターシヤの精神的、ならびに智的状態に関する彼のこうした見かたは、そのほかのさまざまな疑惑をまぎらすのにいくぶん力があった。今のナスターシヤは、三か月ばかり前に知っていたころとは、まるで別人のようになっている。彼も今はもう、『あのとき自分との結婚をいとって、涙とのろいと非難とともに逃げだした女が、どうして今度はかえって自分のほうから、結婚を主張するようになったのか?』などと考えこまなくなった。『つまり、もうあのときのように、この結婚がぼくの不幸になるなどと心配しなくなったんだ』と公爵は考えた。かくも急激に生じた自信は、どうしても自然なものであるはずがない、と彼の目には感じられた。アグラーヤに対する憎しみばかりが、かほどの自信を生むわけがない。ナスターシヤはもうすこし深い直感をもっていろ。ラゴージンといっしょになった時を思う恐怖のためでもあるまい。手短にいえば、これらの原因が、さまざまなほかの事情といっしょになっているのだ。けれど、なにより明瞭なのは、彼が以前から疑っている事実、――哀れな病める心に堪えられないような事実が、この間《かん》に伏在しているということである。
 これらの推論はじじつ、いろいろの疑惑に対して、一種の避難所を作ってくれたけれど、この数日間、彼に安心も休息も与えることができなかった。ときには、彼はなんにも考えまいと努めた。じじつ、彼はこの結婚を、些細な形式かなんぞのように見ているらしかった。自分の運命をも、あまりに安く評価しているのであった。エヴゲーユイの会話に類するような会話や、その他いろいろの抗議に対しては、ぜんぜん返答ができなかったし、またその資格があるとも思えなかった。で、すべてこの類の会話を避けるようにした。
 とはいえ、彼は気がついた、アグラーヤが公爵にとっていかなる意味をもっているかを、ナスターシヤはあまりによく知り、かつ了解していた。彼女は口にこそ出していわないが、まだはじめのうち公爵が、エパンチン家へ出かけようとしているのを見つけたとき、彼は彼女の『顔』を見た。将軍一家が出発したとき、彼女はさながら喜びに輝きわたるようであった。公爵はずいぶん気のつかない、察しの悪いほうであったが、それでも、ナスターシヤが自分の恋敵をパーヴロフスクからいびり出すために、なにか非常な行動を決行しそうだという考えは、急に彼の心を騒がしはじめた。結婚に関する別荘じゅうの騒がしいうわさも、むろんナスターシヤが恋敵をいらだたせるために、ひきつづいて種を供給したのである。エパンチンー家の人に会うのがむずかしかったので、ナスターシヤはあるとき自分の馬車に公爵を乗せて、相乗りで将軍家の窓際を通るように指図した。それは公爵にとって思いもよらぬ驚きであった。彼はいつものくせで、もう取り返し以つかない時になって、――もう馬車が窓際を通っている時に、はじめてはっと気がついた。彼はなんにもいわなかったが、その後二日ばかり引きつづいて病気した。ナスターシヤも、以後そんな実験をくりかえさなかった。
 結婚の二、三日まえから、彼女はひどく考えこむようになった。いつもしまいにはふさぎの虫を征服して、また陽気になるのが常であったが、そのはしゃぎかたが前よりも静かで、ついこの間ほど騒々しくもなければ、それほど幸福らしい快活さもない。公爵は注意を二倍にした。ナスターシヤが一度もラゴージンのことを口にしないのも、変に思われた。ただ一度、結婚の五日ぽかりまえ、急にダーリヤから、ナスターシヤが非常に悪いからすぐ来いという使いがあった。行って見ると、まるできちがい同然の有様である。彼女は悲鳴をあげたり、ふるえたりしながら、ラゴージンが家の庭に隠れている、たったいま自分で見た、夜になったら、あの男がわたしを殺す……刃物で斬る! と叫ぶのであった。まる一日、彼女は気がしずまらなかった。しかし、その晩、公爵がちょっとイッポリートのところへ寄ったとき、きょう用向きでペテルブルグへ行って、たったいま帰ったばかりの大尉夫人が、きょうあちらの住居ヘラゴージンが寄って、パーヴロフスクのことをいろいろたずねた、という話をした。それはちょうどいつごろかという公爵の問に対して、大尉夫人の答えた時刻は、ナスターシヤがきょう自分の家で、ラゴージンを見たという時刻に符合した。で、あれはほんの蜃気楼だということで謎が解けた。ナスターシヤはなお自分で詳しく聞くために、大尉夫人のところへ行って、すっかり安心したのである。
 結婚の前夜、公爵と別れたときのナスターシヤは、珍しく元気づいていた。ペテルブルグの婦人服屋からあすの衣装、――式服、頭飾り、その他さまざまなものが届いたのである。公爵は、彼女がそれほどまで衣装のことで騒ごうとは、思いがけなかった。彼は自分でも、いっしょうけんめいにほめそやしてやった。そのほめ言葉を聞いて、彼女はなおさら仕合せらしい様子であった。ところが、彼女はちょっと余計な口をすべらした。彼女は町の人がこの結婚を憤慨していることも、五、六人の暴れ者がわざわざ作った諷刺詩に音楽までつけて、家のそばでひと騒ぎしようと企んでいることも、またその企みが町民の応援を受けんばかりのありさまだ、などということを聞きこんでいた。で、今はなおさらこの連中の前に昂然と頭をそらして、自分の衣装のぜいたくな趣味でみなを煙にまいてやろう、という気になったのである。
『もしできるなら、どなるなと、口笛を吹くなとしてみるがいい!』こう思っただけで、彼女の目はぎらぎら光りだすのであった。
 彼女はもう一つの空想をいだいていたが、口に出してはいわなかった。ほかでもない、アグラーヤか、さもなくばそのまわしものが、わからないように群集にまじって、自分を見に来るに相違ない、というふうに空想された。で、彼女は心の中でその準備をしていた。こういう想念を胸いっぱいにいだきながら、夜十一時ごろ彼女は公爵と別れた。しかし、まだ十二時も打たないうちに、公爵のところヘダーリヤの使いが走って来て、『たいへん惡いから来てください』と告げた。行って見ると、花嫁は寝室に閉じこもって、ヒステリイの発作に絶望の涙を流していた。彼女はみんな鍵のかかった扉ごしにいうことを、長いあいだ聞こうともしなかったが、やっとしまいに戸をあけて、公爵ひとりだけ中へ入れると、すぐそのあとから戸をしめてしまった。そして、公爵の前にひざをつきながら(すくなくとも、ダーリヤはそういっていた。彼女はちらとのぞき見したのである)。
「わたしはなんてことをしてるんでしょう! なんてことを! あなたの身をどうしようと思ってるんでしょう!」痙攣的に公爵の両足をかきいだきつつ、彼女はこう叫んだ。
 公爵はまる一時間、彼女と対坐していた。ふたりがどんな話をしたかは、知る由もない。ただダーリヤの話によると、ふたりは一時間ののちすっかり穏かな、幸福らしい様子で別れたとのことである。公爵はこの夜もう一度使いをやって様子をたずねたが、ナスターシヤはもう寝入っていた。翌朝まだ彼女の起きないさきに、早くもふたりの使いが公爵のところからダーリヤの家へやって来た。三度目の使いは、こんなことづけを持って帰った。『今ナスターシヤのまわりには、ペテルブルグから来た婦人服屋や、髪結が一小隊ほど集まって、昨夜のことは跡かたもない。ああした美人の結婚前にしか見られないような意気込みで、化粧に夢中になっている。いまちょうどどのダイヤモンドをつけようか、またどんなふうにつけようかというので、特別会議が行なわれているところだ』で公爵はすっかり安心してしまった。
 この結婚に関する最後の逸話は事情に通じた人によって、次のごとく語られている。それはおそらく正確な話らしい。
 式は午後八時ということになっていた。ナスターシヤは、もう七時ごろに支度を済ましていた。もう六時ごろから、すこしずつ閑人《ひまじん》の群れがレーベジェフの別荘、ことにダーリヤの家のまわりに集まりだした。七時ごろからは、教会もだんだんつまって来た。ヴェーラとコーリャは、公爵の身の上をむやみに心配していた。とはいえ、ふたりとも家事の用向きが山ほどあった。公爵の住まいで受付や、接待の指図役に当たっていたのである。もうとも式のあとでは、招待をしないことになっていた。式に列するために必要な人々をのけると、プチーツィン夫妻、ガーニャ、アンナ勲章を首にかけた医師、それからダーリヤ、こんな人が、レーベジェフから招待を受けたくらいなものである。公爵が、なぜ、『ほとんど他人同様の』医師を呼ぶ気になったか、とたずねたとき、レーベジェフは得意然として答えた。『首に勲章なんかかけたりっぱな人ですから、ちょっと体裁のために……』といって公爵を笑わした。燕尾服に手袋をつけたケルレルとブルドーフスキイも、なかなか恰幅よく見えた。ただケルレルは、家のまわりに集まっている閑人どもを、おそろしくすごい目つきでにらみながら、喧嘩ならいつでもこいという様子が、ありありと見えるので、公爵はじめその他の彼を推薦した人々を当惑させた。
 ついに七時半、公爵は箱馬車に乗って、教会へおもむいた。ついでにいっておくが、公爵自身も在来のしきたりや風習を、一つも略したくないと特に決めたので、すべてのことが公然とあからさまに、『式《かた》のごとく』取り行なわれたのである。教会では、絶え間ない群集のささやきや、叫び声の中を縫いながら、左右へじろじろと恐ろしい視線を投げるケルレルに手をひかれて、公爵はしばらく祭壇の中へ隠れた。ケルレルはナスターシヤを迎いに行った。と見ると、ダーリヤの玄関先に集まった群集は、公爵の家より二倍も三倍も多いばかりでなく、二倍も三倍もずうずうしいようなふうだった。階段を昇っていると、とてもがまんできないような言葉が耳にはいったので、ケルレルはもう相当の言葉を返してやるつもりで、群集のほうをふり向いた。しかし、さいわいブルドーフスキイと、玄関から飛びだしたあるじのダーリヤがおしとどめて、無理やりにつかまえて中へ引っ張りこんでしまった。ケルレルはいらいらして、やたらに急いでいた。ナスターシヤは立ちあがって、もう一度鏡を見ながら、『ひん曲がったような』微笑を浮かべて(これはあとでケルレルの話したことだが)『青い顔、まるで死人のようね』といった。それからうやうやしく聖像を拝んで、玄関口へ出た。わっというどよめきが、彼女の出現を迎えた。もっとも、最初の一瞬間は笑い声や、拍手や、口笛すらも聞こえたが、すぐにもう別な声が響きわたった。
「なあんて美人だろう!」という叫びが群集の中で聞こえた。
「なあに、なにもこの女ひとりきりじゃないさ!」
「婚礼でなにもかも隠そうてんだ、まぬけめ!」
「黙れ、きさまひとつあんな別嬪を目っけてみろ、わあい!」いちばんそばの連中がわめいた。
「よう、公爵夫人! こういう美人のためなら、命でも売って見せらあ!」とどこかの書記らしいのが叫んだ。「『命もてあがなわん一夜のなさけ』(プーシキン)……か!」
 ナスターシヤはまったくハンカチのように青い顔をして出て来た。しかし、その黒い目は赤熱した炭火のように、群集に向かって輝いた。この視線に群集はかぶとをぬいだのである。憤慨は歓呼の声と変わった。もう馬車の戸が開いて、ケ