ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-120

つぜん彼はイヴァン将軍が隔てのないふうで、自分の肩をぽんとたたくのに気がついた。アングロマンも同様に笑っている。しかしそれよりもっと親切で気持ちのいい、同情のある態度を示したのは老政治家である。この人は公爵の手を取って軽く握りしめ、いま一方の手のひらでそっとたたきながら、まるで小さな子供かなんぞのように、しっかりしなさいといい聞かすのであった。これがおそろしく公爵の気に入った。やがてとうとう公爵を自分と並んですわらしてしまった。公爵は嬉しそうにその顔を見つめていたが、それでもまだ口がきけなかった。息がつまるような気持ちがするのであった。老政治家の顔がすっかり気に入ってしまったのだ。「え」と彼はやっとつぶやくようにいった。「ほんとうにゆるしてくださいますか? そして……奥さん、あなたも?」 笑い声はまた高まった。公爵の目には涙がにじんだ。彼はこの幸福を信じえなかった。彼はまるで魔法にかかったようである。
「それはもちろんりっぱな花瓶ではありましたがね……わたしはもう十五……そう十五年も前から覚えていましたよ」とアングロマンがいいかけた。
「まあ、まあ、なんて災難でしょう……人間一人が生きるか死ぬかの境目に立っているんですよ。しかも、それが土焼の瓶がもとなんですものねえ!」とリザヴェータ夫人が声高に言った。「ほんとうに、あんたそんなにびっくりしたの、ムイシュキンさん?」いくぶん危惧の念を帯びた調子で夫人はきいた。「たくさんですよ、あんた、もうたくさん。ほんとうに心配になるじゃありませんか」
「いっさいのこと[#「いっさいのこと」に傍点]をゆるしてくださいますか? 花瓶よりほかのこともいっさい[#「いっさい」に傍点]ゆるしてくださいますか?」公爵はとつぜん席を立とうとした。しかし、老政治家はすぐにまた彼の手を引っ張った。彼は公爵を放したくなかったのである。
「C'est tres curieux et c'est tres serieux!(これはじつに奇怪なことだ、そしてじつに重大なことだ)」と彼はテーブルごしにアングロマンにささやいた。が、それはかなり大きな声だった。あるいは公爵も耳に挟んだかもしれない。
「じゃ、ぼくはみなさんのどなたにも失礼なことをしなかったんですね? こう思うとぼくがどんなに嬉しいか、あなたがたにはとてもわかりますまい。けれど、それは当然なことなんです! じっさいぼくがここで、だれかに失礼な真似をするなんて、そんなことがいったいできるでしょうか? もしそんなことを考えたら、またもやみなさんを侮辱することになります」
「気をおしずめなさいよ、きみ、それは誇張です。それにきみがそんなに感謝することなんか、すこしもありませんよ。それは美しい感情ですけれど、誇張されています」
「ぼく、感謝なんかしません、ただその……あなたがたに見とれているのです。ぼくはあなたがたをながめていると、幸福な気持ちになってきます。あるいはぼくのいうことはばかげているかもしれませんが、しかし、――ぼく話さなくちゃなりません、説明しなくちゃなりません……ただ自分自身に対する尊敬のためだけでもね」
 彼の言行はすべて突発的で、混沌としていて、まるで熱に浮かされているようであった。あるいは彼の発する言葉の多くは、いいたいと思ったことと違っているかもしれない。彼は目つきでもって、『話してもいいですか?』とたずねるかのようであった。と、その視線はベロコンスカヤ夫人に落ちた。
「かまいませんよ、つづけてお話し、ただね、せいせい息をきらさないようになさいよ」と夫人は注意した。「おまえさんはさっき息をきらしながら話をはじめたもんだから、とうとうあんなことになったのですよ。けれども、口をきくのをこわがることはありません。ここにいるみなさまは、おまえさんよりまだまだ奇妙な人をしょっちゅう見てらっしゃるから、あれぐらいのことじゃびっくりなさらないよ。おまえさんはまだまだ変わったことをしでかさないとも限らないから。もっとも、いま花瓶をこわしたときには、だいぶ荒胆をひしがれたがね」
 公爵はほほえみながら、その言葉を聞き終わった。
「ときに、あれはあなたでしたね」彼はとつぜん老政治家のほうへふりむいた。「あのポドクーモフという大学生と、シヴァーブリンという役人を、三か月まえ流刑から救っておやりになったのは?」
 老政治家はちょっと顔をあからめて、「すこし落ちついたらいいでしょう」と、どぎまぎしながらいった。
「それから、ぼくの聞いたあのうわさはあなたのことでしょう」と彼はすぐまたアングロマンのほうへふり向いた。「××県であなたにさんざん迷惑をかけた百姓たちが、解放後まる焼けになったとき、家をたて直すために、ただで森を伐らしておやりになったそうですね?」
「いやあ、そりゃ――きみ、おーおげーさですよ」とアングロマンはうろたえぎみでいったが、それでもいい気持ちそうにぐっとそり身になった。
 しかし今度こそ「それはおおげさですよ」といった彼の言葉は、ぜんぜんほんとうであった。なぜというに、それは間違ったうわさが公爵の耳にはいったにすぎないので。
「ところで、公爵夫人、あなたは」とつぜん公爵は、はればれしい微笑を浮かべながら、ベロコンスカヤ夫人のほうへふり向いた。「あなたは半年まえモスクワで、ここの奥さんのお手紙一つで、まるで親身の息子かなんぞのように、ぼくをもてなしてくださいましたね。そして、まったく親身の息子に対するような忠告を与えてくださいましたね、ぼくはけっしてあのご忠言を忘れません。覚えてらっしゃいますか?」
「なんだっておまえさんはきちがいのように、あれからこれと話を変えるんです?」とベロコンスカヤはいまいましそうにいった。「おまえさんはいい人だけれど、すこしこっけいですよ。赤銭二つもやったら、まるで命でも助けてもらったようにお礼をいうんでしょう。おまえさんは、それをりっぱなことだと思ってるんだろうけれど、ほんとうはいやらしいこってす」
 夫人はもうすっかり腹を立ててしまうところだったが、急にからからと笑いだした。しかも、今度は善良な笑いかたであった。リザヴェータ夫人の顔ははればれとなった。イヴァン将軍の顔も輝きわたった。
「わたしもそういったことですよ、ムイシュキン公爵という人は……その……つまり、ただ息をきらしたりしなけりゃいいんですがね! いま公爵夫人のおっしゃったとおり……」将軍はベロコンスカヤの言葉に感じ入って、同じことをくりかえし、よろこびに満ちた感激の調子でこういった。
 ただアグラーヤひとりは、なんとなく沈みこんでいた。しかし、その顔はまだやはり燃えるようであった。それはことによったら、憤懣のためかもしれない。
「あの男はまったくかわいいところがあるよ」と老政治家はふたたびアングロマンにささやいた。
「ぼくは胸に苦しみをいだきながら、ここへはいって来ました」しだいにつのりゆく惑乱を声に響かせながら、いよいよ早口に、いよいよ奇妙な興奮した調子で、公爵は語りつづけた。「ぼくは……ぼくはあなたがたを恐れました。自分自身を恐れました。何よりも第一に、自分を恐れました。このペテルブルグへ帰って来るとき、ぼくはぜひともあなたがたを見よう、いわばロシヤの草分けともいうべき代表的な人々を見よう、と自分自身に誓いました。じっさいぼく自身もこういう人々の仲間なんです。家柄からいえば、第一流に伍すことができるんですからね。ね、ぼくはいま自分と同じような公爵たちと、席を同じゅうしてるんでしょう、そうじゃありませんか? ぼくはあなたがたが知りたかったんです、それはまったく必要なんです、ぜひぜひ必要なことです!………ぼくはいつもあなたがたに関して、あまりに多く悪いことを聞いていました、善いことよりもずっと余計にね。つまり、あなたがたの興味が瑣末で偏狭だとか、教育が浅薄で時世おくれだとか、習慣がこっけいだとか――だって、今あなたがたのことをずいぶん盛んに書き立て(当時教育ある中間階層の勃興とともに、地主である貴族階級の頽廃と無能が高唱されていた)たり、論じたりしてるじゃありませんか! ぼくはきょう好奇心と不安を胸にいだきながら、ここへ来ました。はたしてこのロシヤの上流社会は黄金時代を過ぎて、古い生命の泉をからしつくし、死ぬよりほかなんの役にも立たなくなってしまったのだろうか? はたして彼らは自分の死にかかっていることに気がつかないで、未来ある人々と軽薄な岡焼き半分の戦いをつづけて、彼らの進歩を妨げているのだろうか、――これをぼくは自分の目で見て、親しく検討したかったのであります。ぼくは以前もこんな意見を十分信じなかったのです。なぜって、わが国では制度とかその他の……偶然な契機によって集まった宮廷つきの階級を除くほか、上流階級というものがなかったからであります。ことに現今ではぜんぜん消滅してしまいました、ね、そうでしょう、そうでしょう?」
「どうしてどうして、そんなことはけっしてありません」とアングロマンは毒々しく笑った。「おや、またテーブルをたたいた!」ベロコンスカヤはこらえかねてこういった。
「Laissez le dire.(勝手にいわしておおきなさい)からだじゅうぶるぶるふるわしてる」と老政治家はまた低い声でいった。
 公爵はもうすっかりわれを忘れていた。
「ところが、どうでしょう? ぼくは優美で淳朴な賢い人たちを見たのです。ぼくのような青二才をいつくしんで、そのいうことをまじめに聞いてくれる老人を見たのです。理解しかつゆるすことのできる人々、――ぼくがあちらで会った人人と同じような、ほとんど優劣のない、善良なロシヤ人を見たのであります。ぼくがいかによろこばしい驚きを感じたか、お察しを願います! おお、どうぞすっかりいわしてください! ぼく、今まで、いろいろ聞いてたものですから、自分でもすっかり信じきっていたのです。ほかでもない、社交界ではすべてのものがただのmaniere(型)で、古臭い形式で、本質は枯死してしまっているというのです。しかし、ぼくいまこそわかりました。そんなことがわが国にあってたまるものですか、それは、どこかほかの国のことで、けっしてロシヤのことじゃありません。いったいまあ、あなたがたがみんなジェスイットでうそつきでしょうか? さっき、N公爵のお話を聞きましたが、いったいあれが無邪気な感興の豊かなユーモアでないでしょうか、いったいあれが誠実な美しい心持ちでないでしょうか? いったいあんな言葉が……心情も才能も枯死してしまった死人の口から、出ることができましょうか? いまぼくに対してみなさんのとられたような態度を、はたして死人がとることができましょうか? これはじつに……未来に対する、希望に対する素材ではないでしょうか?・ こういう人々が理解を奪われて、退歩するなんてはずはありません!」
「もう一度お頼みしますが、きみ、気を落ちつけてください。その話はまたこの次にしよう、わたしも喜んで……」と『老政治家』は苦笑した。
 アングロマンはくっとのどを鳴らして、ひじいすの上で向きを変えてしまった。イヴァン将軍はもぞもぞ身動きしはじめた。長官の将軍は、もうすこしも公爵に注意を払わないで、政治家の夫人に話しかけていた。しかし、夫人のほうはしょっちゅう耳を傾けたり、視線を向けたりしていた。
「いや、もうすっかりいっちまったほうがいいです!」特になれなれしい信じきったような態度で、老政治家のほうを向きながら、新しい熱病やみのような興奮をもって、公爵は言葉をついだ。「きのうアグラーヤさんが、ぼくにものをいうことを禁じて、話してならないテーマさえ指定されました。そんなテーマに触れると、ぼくがこっけいに見えるということを、よく知ってらっしゃるからです! ぼく二十七ですが、まるで子供のようだってことは、自分でも承知しています。ぼくは自分の思想を語る権利を持っていません、これはずっと前からいってることです。ぼくはただモスクワで、ラゴージンとうち明けた話をしたばかりです……ぼくらはふたりで、プーシキンを読みました。すっかり読みました。その男はなんにも、プーシキンの名さえ知らないのです……ぼくはいつも自分のこっけいな態度で、自分の思想や大切な観念[#「大切な観念」に傍点]を、傷つけやしないかと恐れるのです。ぼくにはゼスチュアというものがありません。ぼくのゼスチュアはいつも反対になるもんですから、人の笑いを呼びさまして、観念を卑しいものにするのです。また適度という観念がありません、これがおもな点なのです、これがむしろ最もおもな点なのです……ぼくはいっそ黙ってすわってたほうがいいくらいです。それは自分でも知ってます。隅のほうにひっこんで黙っていると、かえってなかなか分別ありげに見えるくらいです。それに、熟考の余地がありますからね。しかし、今はいったほうがいいです。ぼくがいま口をきったのは、あなたがたがそんなに美しい目つきをして、ぼくをごらんになるからです。あなたがたは美しい顔をしてらっしゃいます! きのうぼくはひと晩じゅう黙っているって、アグラーヤさんに約束しました」
「Vraiment? (本当ですかね)」老政治家は微笑した。
「けれど、ぼくはときどき自分の考えが違ってやしないか、と思うことがあります。つまり、真摯というものは、ゼスチュアと同様の価値があるのではないでしょうか……そうでしょう? そうでしょう?」
「ときとするとね」
「ぼくはすっかりいってしまいたいのです、すっかり、すっかり、すっかり! ええ、そうですとも! あなたがたはぼくをユートピア論者だとお思いですか? 観念論者だとお思いですか? おお、誓ってそうじゃありません。ぼくの考えはすべて単純なものです……みなさんほんとうになさいませんか? なんだかにやにや笑ってらっしゃいますね? ところで、ぼくはときおりきたない根性になることがあります。それは信仰を失うからです。さっきもここへ来る途中、こんなことを考えました。『さあ、あの人たちに向かって、どんな具合にきりだそうかしら? どんな言葉からはじめたら、あの人たちがせめてすこしでも理解してくれるだろう?』ぼく自分のことも心配でしたが、なによりも一番にあなたがたのことを心配しました。おそろしく、おそろしく心配しました! ところが、ぼくにそんなことを心配する資格がありましたか、よくまあ恥ずかしくなかったことです。ひとりの卓越した人物に対して、無数の不良な人間がいるからって、それがいったい何でしょう? いや、これらは無数などというべきでなく、ことごとく生ける素材であると確信しているので、ぼくは嬉しくてたまらないのです! われわれはこっけいだからって、きまり悪がることはすこしもありません、そうじゃないですか? それはまったくほんとうです、われわれはこっけいで、軽薄で、悪い習慣だらけで、ものを見透かすことも理解することもできないで、ただぼんやりしている。われわれはみんなこんな人間なのです、あなたがたも、ぼくも、世間の人たちも! ほらね、いまぼくが面と向かって、あなたがたはこっけいですといっても、あなたがたはほんとうに腹をお立てにならないでしょう? してみると、つまり、みなさんはその素材じゃないでしょうか? ぼくの考えでは、こっけいに見えるということは、ときとして結構なくらいですよ、かえってよりいいくらいですよ、なぜって、おたがいに早くゆるし合って、早く和睦ができますからね。だって、一時になにもかも理解することはできませんし、またいきなり完全からはじめることもできませんものね! 完全に到達するためには、その前に多くのものを理解しないことが必要です! あまり早く理解しすぎると、あるいは間違った理解をしないとも限りませんからね。ぼくはみなさまにこんなことをいうのは、みなさんが多くのものを理解し、かつ……理解しないことに成功されたからです。いまぼくはもうあなたがたのことを心配しません。じっさいあなたがたは、こんな青二才がこんなことをいったからって、腹なんかお立てにならないでしょうね? もちろん、そんなことはありません! おお、あなたがたは自分を侮辱したものも、また侮辱しないものをも、忘れてゆるすことのできる人です。じっさい何よりも困難なのは、侮辱しないものをゆるすことです。なぜというに、侮辱しない[#「しない」に傍点]ものに対する不満は、根拠のないものだからです。つまり、こういうことをぼくは上流の人々から期待したので、ここへ来てからも、それをいおうと思ってあせりましたが、どういっていいかわからなかったのです……あなた笑ってらっしゃるんですか(と彼はアングロマンのほうを向いて)、あなたはぼくがあの人たち[#「あの人たち」に傍点](下級民)のことを心配していたとお思いですか? ぼくがあの人たちの弁護者で、デモクラートで、平等の演説家だとお思いですか?」と、彼はヒステリックに笑いだした(彼はひっきりなしに歓喜にあふれた短い笑い声を立てるのであった)。「ぼくはあなたがたのことを心配してるのです。あなたがたをみんな、みんなひっくるめて心配してるのです。ご承知のとおり、ぼく自身も古い家柄の公爵です。そして、いま多くの公爵たちと席を同じゅうしています。ぼくがこんなことをいうのは、われわれ一同を救わんがためであります。この階級が、なにひとつ悟ることなしに、なんだかだといって、いさかいばかりしながら、すべてのものを失って、暗闇のなかへ消えてしまわないためであります。りっぱな卓越した指導者として、踏みとどまっていられるのに、むざむざ暗闇へ消えてしまって、ほかのものに席をゆずる必要が、いったいどこにありましょう? 卓越した人間になりましょう、そして、指導者になりましょう。指導者となるために、しもべとなりましょう」
 彼は突発的にひじ掛けいすから立ちあがろうとしたが、考政治家はしじゅう彼をおさえていた、しだいにつのりゆく不安をいだいて彼を見つめながら。
「みなさん! ぼくも言説のよくないことは知っています。むしろ単に実例を示したほうがいいです。単に着手したほうがいいのです……ぼくはもう着手しました……それに……それに、不幸におちいるなんて、はたしてありうることでしょうか。おお、もしぼくに幸福になりうる力があれば、今の悲しみや禍なぞはなんでもありません! ぼくは一本の木のそばを通り過ぎただけで、それを見ることによって、自分を幸福にするすべを知っています。人と話をしただけで、自分はその人を愛しているという念によって、幸福を感じずにいられましょうか! おお、ぼくはただうまく言い表わすことはできませんが……じっさい、すっかりとほうにくれてしまった人でさえ、きれいだなと思うような美しいものが、一歩ごとにいくらでもあります。赤ん坊をごらんなさい、朝焼けの色をごらんなさい、のび行くひともとの草をごらんなさい、あなたがたを見つめ、あなたがたを愛する目をごらんなさい……」
 彼はもうとっくに立ちあがって弁じていた。老政治家も、今はおびえたような目つきで、彼を見つめていた。リザヴェータ夫人はまっさきに気がついて、『ああ、大変!』と叫びながら手をたたいた。アグラーヤは、つとかけよって、彼を両手に抱きとめた。そして、胸に恐怖をいだき、苦痛に顔をゆがめながら、不幸な青年を『震蕩させた悪霊』の野獣めいた叫びを聞いたのである。公爵は絨毯の上に横たわっていた。だれかがすばやくその頭の下へ枕をさし入れた。
 これはだれしも思いがけないことであった。十五分ののち、N公爵、エヴゲーニイ、老政治家などが、ふたたび夜会に活気をつけようと試みたけれど、三十分とたたないうちに、もう人々は辞し去った。いろいろの同情の言葉や、不平らしい訴えや、また二、三の意見などが吐かれた。中でもアングロマンは『このかたはスーラーヴ主義者か、あるいはそれに類したものですね。しかし、けっして危険なものじゃありません』といった。老政治家はなんにも口を出さなかった。もっとも、じつをいうと、翌日か翌々日ごろ、みんな少少ばかり腹を立てたのである。アングロマンは侮辱を感じたくらいであるが、それもほんのすこしばかりだった。長官の将軍はしばらくイヴァン将軍に対して、少々冷淡な態度を見せた。この一家の『保護者』たる老政治家も、やはり教訓的な調子で『一家のあるじ』になにやらくどくどいったが、そのさいアグラーヤの運命について『非常な、非常な』興味をいだいていると、おせじみたいなことを述べた。彼はほんとうのところ、少々好人物であった。夜会の席で、彼が公爵に対していだいた好奇心の原因は、たくさんあったろうけれど、いつかのナスターシヤ対公爵の一件が、その中でもおもなものであった。この事件については、ちょいちょい耳に挟んだこともあるので、彼は非常に興味をそそられて、いろいろと根掘り葉掘りきいてみたかったほどである。
 ベロコンスカヤは夜会から帰りしなに、リザヴェータ夫人をつかまえてこういった。
「どうもね、いいところもあるが、悪いところもあるねえ。もしわたしの意見が知りたいとすれば、まあ、悪いほうが勝ちですよ。あんたも自分で見て、どんな人かわかってるでしょう。病人ですよ!」
 リザヴェータ夫人もついに婿なんてことは『とてもだめだ』ときっぱり決めてしまった。そして、その夜のうちに、『わたしが生きてるうちは、公爵をうちのアグラーヤの婿にするわけにゆかない』と腹の中でかたく誓った。この決心をもって翌朝、床を出た。しかし、その朝十二時すぎに食事のとき、彼女は奇妙な自家撞着におちいったのである。
 姉たちの発したある一つの用心ぶかい質問に対して、アグラーヤが急に冷淡な、ほとんど高慢な調子で断ち切るように、「あたしはあの人に、一度も約束なんかしたことないわ。生まれてから一度も、あの人を未来の夫だと思ったことはなくってよ。あの人は、ほかのすべての人と同じような路傍の人よ」と答えたとき、母夫人は急にかっとなった。
「わたしはおまえの口から、そんなことを聞こうとは思わなかった」と夫人は悲しそうにいった。「婿として、とてもお話にならない人だってことは、わたしも承知しています。そしていいあんばいに、ああいうふうになってしまったけれど、おまえの口からそんな言葉を聞こうとは、思いがけなかった。おまえからは、もっと別なことを待ち受けていました。わたしはね、昨夜の連中をみな追ん出してしまっても、あの人ひとりだけは残しておきたい。あの人はそういうふうな人なんですよ!………」
 ここで彼女は、自分で自分のいったことに驚いて、急に言葉をきった。しかし、悲しいかな、夫人はこのとき自分が娘に対して、どんなに不公平なことをいったか、いっこう気がつかなかった。もうアグラーヤの頭の中では、いっさいのことが決せられていた。彼女も同様に、いっさいを解決してくれる最後の時が来るのを待っていたのである。そのために、ちょっとした暗示でも、ちょっとした不注意な言葉でも、彼女の心を深くえぐり傷つけるのであった。

      8

 公爵にとってもこの朝は、重苦しい予感に支配されたままであけ放たれた。この予感は、彼の心身の病的な状態でも説明できたけれど、それでも彼はあまりにも漠然とした憂愁にとらわれていた。これが彼にとって、なにより苦しかったのである。もちろん、公爵の眼前には、重苦しく毒々しい幾多の事実が、厳然として控えていたが、なおその憂愁は、彼の追想し商量しうる限度を越して、ずっとさきのほうへ飛んでいた。彼は自分ひとりの力で、安心を得るわけにいかないのを悟った。きょう自分の身の上に、なにかしら万事を決するような、異常な事件がおこるだろうという期待が、彼の心に漸次、根をおろしはじめた。昨夜の発作は、彼としては軽いほうであった。少々頭の重いのと、手足の痛いのと、ヒポコンデリーを除いたら、ほかにこれという異状は感じられなかった。心は重く悩んでいたけれども、頭はかなり明晰に働いていた。
 彼はかなり遅く床を出たが、すぐ昨夜のことをはっきりと思い出した。ごく明瞭にというわけには行かぬが、発作後三十分たって家へつれられて帰ったことも思い出した。もうエパンチン家から、容体を聞きに使いが来たことを知った。十一時半また第二の使いが来た。これが彼には嬉しかった。この家の娘ヴェーラが第一番に、見舞いかたがた用を勤めに来た。彼女は公爵を見ると、いきなり泣きだした。けれど、公爵に慰められて、すぐ笑いだした。この熱烈な同情に動かされて、彼は娘の手を取って接吻した。ヴェーラはさっと顔をあかくして、
「まあ、あなたは、あなたは何をなさいますの!」と急に自分の手を引きながら、おびえたように叫んだ。
 間もなく、彼女はなんだか妙に当惑したようなふうで出て行った。が、彼女はそのまえに、父がまだ夜の明けきらぬうちに『故人』(レーベジェフはイヴォルギン将軍のことをこういった)、『故人』が昨夜のうちになくならなかったかどうかを知るために、大急ぎで出て行ったことや、将軍はもうたしかに間もなくなくなるだろう、といううわさのあることなどを話して行った。十一時すぎ、当のレーベジェフも帰宅して、公爵のもとへ伺候した。しかし、それは『銭金に換えられないおからだの様子が知りたいためと、そしてちょっと「戸だな」の中の様子を見るために、ほんの一分間のつもりで』やって来たのである。彼はただ『ああ』だの『おお』だのと、ぎょうさんな溜息を吐くよりほかなんにも芸がないので、公爵はすぐに部屋から出してしまった。もっとも、相手はそれでも、昨夜の発作のことを、うるさくききたそうなふうであった、そのくせもう詳しくことの様子を承知しているのは、そぶりで察せられた。 それにつづいてコーリヤが、これも同様、ほんの一分間といってかけつけた。少年はまったくせかせかして、激しく暗い不安に襲われていた。彼はみなが隠している事件の説明を、ぜひとも聞かしてほしいと、いきなりしつこく公爵に頼みはじめた。彼は『きのうほとんどすべての事情を知ったのですから』といった。その様子はいかにも心の底まで、激しく震撼されたようなふうであった。
 公爵はできるだけの同情を表しながら、事実を正確に列挙して、いっさいの事情を語った。哀れな少年は、まるで雷に打たれたようであった。彼はひと言も発することができず、無言で泣きだした。これは少年の心に永久に影をとどめて、その生涯の回転期ともなるべき印象の一つである、と公爵は感じた。彼は急いでこの事件に対する自分の意見を述べ、老将軍の死は主としてあの過失ののち、心に投じられた恐怖のために呼びおこされたのかもしれない、こういう心理経過はだれでも容易に経験さるべきでない、といい足した。公爵の言葉を聞き終わったとき、コーリャの目は輝きだした。
「ガンカも、ヴァーリャも、プチーツィンも、みんなやくざものだ! ぼくはあんな人たちと喧嘩しようとは思わない。しかし今後、ぼくらの行くべき道はもう別れ別れだ! ああ、公爵、ぼくはきのうの日から、たくさん新しいことを感得しました。これがぼくの修行になったのです! ぼくはおかあさんも自分の双肩に背負ってるつもりなんです。もっともおかあさんは、いまツァーリャの世話になっていますけれど、そんなのとは意味が違うんです……」
 コーリャは、家の人が待っていることを思い出して飛びあがり、忙しそうに公爵の容体をたずねた。返事を聞き終わると、急にせかせかした調子でいい足した。
「まだほかになにか変わったことはありませんか? ぼくちょっと聞きましたが、きのう……(いや、ぼくはそんな権利を持っていません。)けれど、もしいつかなにかのことで、忠実なしもべが必要でしたら、あなたの前にいる男がそうです。どうもおたがいにふたりとも、あまり幸福でないようですね、そうでしょう? しかし……ぼくはうるさくききません、うるさくききません……」
 彼はついに立ち去った。公爵はいっそう考えこんでしまった。すべてのものが不幸を予言している。すべてのものがすでに結論をくだしてしまった。すべてのものが、なんだかお前の知らないことを知ってるぞ、というような目つきで自分をのぞきこむ、――レーベジェフはなにか探り出そうとするし、コーリャはむきつけに匂わすし、ヴェーラは泣きだす。ついに彼はいまいましげに手を振って、『またいやらしい病的な猜疑癖だ!』と思った。一時すぎ、『ほんの一分間』見舞いに入って来たエパンチン家の一行を見つけたとき、彼の顔は一時に晴れわたった。この人たちは、それこそほんとうに、『一分間』のつもりで寄ったのである。リザヴェータ夫人は食卓を立つやいなや、これからすぐみんなでいっしょに散歩に出るのだ、といいだした。この触れ出しはまるで命令のような具合に、何の説明もなくぶっきらぼうに発せられた。一同、すなわち母夫人と令嬢たち、それにS公爵は、うちそろって出かけた。夫人は、毎日の散歩とまるで反対の方角をさして歩きだした。一同はことの真相を悟ったので、母夫人の気をいらだたせるのを恐れ、黙々として従った。ところが、夫人はほかのものの非難や抗議を避けるかのように、うしろをふり向こうともせず、どんどん先に立って歩いた。とうとうアデライーダが『散歩のときになにもかけだすことはなくってよ、とてもあとからついて行かれやしない』と注意した。
「ちょっと」リザヴェータ夫人はとつぜんうしろを向いて、「ちょうどあの人の家の前へ来合わせたが、アグラーヤがどんなことを考えてるにもせよ、またあとでどんなことがおこるにもせよ、あの人はわたしたちにとって赤の他人ではありません。おまけにいま不仕合せな身になって、病気までしてるんですから、せめてわたしだけでも、ちょっと見舞いに寄って来ます。いっしょに来たい人はいらっしゃい、いやな人は通り過ぎたらいい、道に垣はしてありませんからね」
 むろん一同そろって中へはいった。公爵は礼儀の要求するとおり、もう一度きのうの花瓶と……不体裁について、急いでわびをいった。
「いいえ、あんなことはなんでもありません」と夫人は答えた。「花瓶は惜しくないけれど、あんたがかわいそうです。じゃ、なんですね、あんたも、今となって、不体裁だったと気がついたと見えますね。『ものごとは明くる朝まで待て』というのはこのことだ……だけど、そんなことはなんでもありません。あんたを責めたって仕方がないのは、もうだれでも承知してますからね。じゃ、さよなら、けれどね、元気が出て来たらすこし散歩して、それからまたおやすみ、これがわたしの忠告です。もし気が向いたら、もともとどおり遊びにいらっしゃい。とにかく、これだけはかたく信じてちょうだい、――よしやどんなことがおころうとも、またどんなことになろうとも、あんたは永久にうちの親友です。すくなくとも、わたしの親友ですよ。すくなくとも、自分の言葉に対しては責任が持てますから……」
 一同は、この挑発的な言葉に対して、母と感情を同じくしている旨をのべた。やがて一行は帰って行った。なにか元気をつけるような、優しいことをいおうとする、この人の好い性急な行為の中に、多くの残忍性が潜んでいたけれど、それにはリザヴェータ夫人も心づかなかったのである。『もともとどおり遊びに来い』とか、『すくなくともわたしの親友ですよ』とかいう言葉の中には、またしてもなにか予言めいたものが響いていた。公爵はアグラーヤのことが気になりはじめた。はいるときと出るときに、彼女がなんともいえない微笑をもらしたのは実際だが、しかし一同が友情を誓ったときでさえ、彼女はひとことも口をきかなかった。もっとも、二度ばかりじっと穴のあくように、公爵を見つめはしたけれど。彼女の顔は、ひと晩じゅうろくろく寝なかったように、いつもよりだいぶ青白かった。公爵は今晩にもかならず『もともとどおり』遊びに行こうと決心して、熱にでも浮かされたように、時計をながめるのであった。一行が去ってちょうど三分たったとき、ヴェーラがはいって来た。
「公爵、たった今アグラーヤさまから、ないしょでひとことあなたにおことづけがありました」
 公爵は思わずびくりとした。
「手紙ですか?」
「いいえ、口上だけ、それもやっと間に合ったのでございます。きょうの晩の七時か、それともできるなら九時ごろまで、ひと足も外へ出ないでくださいって……わたしもはっきり聞きわけられませんでしたけれど」
「え……なんのためにそんなこと? いったいどうしたわけでしょう?」
「そんなこと、わたしちっともぞんじません。ただ間違いなく伝えてくれ、というおいいつけでしたの」
「じゃ、そういわれたんですね、『間違いなく』って?」
「いいえ、そうはっきりおっしゃったわけではございません。ちょっとうしろをふり向いて、やっとこれだけおっしゃっただけですの。ちさフどわたしが自分でおそばへ走って行ったから、間に合ったのでございます。けれど、もうお顔つきを見ただけで『間違いなく』とおっしゃったかどうかわかりますわ。まるで心臓がしびれるような目をして、わたしをごらんになりましたもの……」
 なおいろいろたずねてみたが、公爵はもうそのうえ何ごとも聞き出せなかった。そしてただいよいよ不安を増したばかりである。ひとりきりになると、彼は長いすに横たわって、ふたたびもの思いにふけりはじめた。とどのつまり、『もしかしたら、今夜はあすこで九時ごろまで、だれか来客があるのかもしれない。であのひとは、ぼくがまた客の前で、なにか大いにばかなことをしやしないかと、心配してるのだ』と考えついた。彼はふたたびじれったそうに、晩の来るのを待ちかねて、時計ばかり眺めていた。
 しかし、この謎は晩よりもずっと早く、解決がついてしまった。その解決は同じく新しい来訪の形をとって現われた。が、それも要するに、別な悩ましい謎にすぎなかった。エパンチン一家の人が去ってちょうど三十分たったとき、イッポリートがやって来た。彼はすっかり疲れて、弱り果て、はいって来るといきなりひとことも口をきかないで、まるで正気を失ったもののように、文字どおりひじいすに倒れ、そのまま堪えきれぬようにせき入った。彼は咳いてせいて、血まで吐いてしまった。その目はぎらぎらと輝き、頬には赤いしみが染め出された。公爵はうろたえた様子でなにか口を出したが、こちらは返事もしなかった。そして、長いあいだ返事しないで、ただ片手を振りながら、しばらくこのままうっちゃっといてくれ、というこころを示した。ようやく正気づくと、
「ぼくは帰る!」ついに彼はしゃがれた声で、やっとの思いでこういった。
「なんなら、おくってあげますよ」といって、公爵は席を立とうとしたが、外へ出てはならぬというさっきの禁制を思い出して、ちょっと言葉をつまらした。
 イッポリートは笑いだして、
「ぼくここから帰るといったんじゃありません」絶えずせきやたんに妨げられながら、彼は言葉をついだ。「それどころか、ぼくは必要があってここへ来たんです、用談のためです……でなかったら、いきなりこうしてあなたを驚かすはずじゃなかったのです。ぼくが行くといったのは、あの世[#「あの世」に傍点]のことですよ。こんどこそはほんとうでしょう。ああ、おさらばか! しかし、なにも同情を強制するために言うんじゃありませんよ、いいですか……じつはぼくその時[#「その時」に傍点]が来るまでは、どうしても起きないつもりで、きょう十時から床についたのです。ところが、ひょいと考え直して、ここへ来るためにまた起きだしたんですよ……つまり、必要があるからです」
「きみを見てると、気の毒になってきますよ。自分でそんな苦しい目をするより、ちょっとぼくを呼んでくれたらよかったのにね」
「いや、もうたくさんです。ご憐憫にあずかりましたね。しかし、社交上の礼儀のためならたくさんですよ……ああ、忘れてたっけ、あなたのご健康はいかがです?」
「ぼくは達者です。昨夜はちょっと……しかし、たいしたことじゃありません」
「聞きました、聞きました。支那焼の花瓶こそいい面の皮でしたね。ぼくの居合わせなかったのが残念ですよ! ぼく用事で来たのです。第一に、ぼくはガヴリーラ君が緑色のペンチのそばで、アグラーヤさんとあいびきしてるところを、拝見の光栄を得ました。人間はどれほどまでばかげた顔ができるものかと、驚いてしまいましたよ。ぼくこのことをガーニャの帰ったあとで、アグラーヤさんにいいました……ところで、あなたはいっこうびっくりなさらない様子ですね、公爵」と彼は公爵の落ちつきすました顔を、疑わしげにながめながら言った。「何ごとにも驚かないのは、大智のしるしだそうですが、ぼくにいわせれば、それは同じ程度において、愚かさのしるしともなりますよ……もっとも、これはあなたに当てこすってるわけじゃありません、ごめんなさい……ぼくきょうはものの言いかたで、しくじってばかりいる」
「ぼくはもうきのうから知ってましたよ。ガヴリーラ君が…‥」公爵はうろたえたように言葉をとぎらした、――イッポリートが、なぜこの人はびっくりしないのだろうと、じりじりしているにもかかわらず。
「知ってたんですって?! これこそまったく珍聞だ! いや、しかし、いわないでおきなさい……ところで、きょうのあいびきの現場をごらんでしたか?」
「ぼくがその場に居合わさなかったのは、きみ自身知ってるでしょう……もしきみがそこにいたとすればね」
「でも、どこか藪のかげにでも、しゃがんでらしたかもしれませんさ。が、とにかく、ぼくはあなたのために嬉しいです。だって、ぼくはいよいよガーニャにくじが当ったな、と思いましたからね!」
「イッポリート君、お願いだから、ぼくの前でそんなことをいわないでください、おまけにそんな言いかたで」
「まして、もうすっかりごぞんじとあるからには」
「それはきみの考えちがいです。ぼくはほとんどなんにも知りません。アグラーヤさんも、ぼくがなんにも知らないってことを、たしかにご承知のはずです。ぼくはそのあいびきのことさえ、てんで知らなかったんですもの……きみはあいびきというんですね? いや、結構ですよ、それでもうこの話はやめましょう……」
「まあ、どうしたんです、知ってるといってみたり、知らないといってみたり? あなたは『結構です、それでもうこの話はやめましょう』といわれましたが、しかしそんなに人を信じるものじゃありません。ことに、なんにも知らないとおっしゃるならなおさらです。あなたが人を信じやすいのは、なんにもごぞんじないからですよ。ところで、あのふたりのあいだ――兄と妹とのあいだに、どんな思惑があるかご承知ですか? それぐらいのことはおそらく感づいておいででしょう?……よろしい、よろしい、やめておきましょう……」公爵のじれったそうな手ぶりに気がついて、彼はこういい添えた。「しかし、ぼくは自分の用向きで来たのですから、このことについて……相談したいのです。ほんとうにいまいましいこったが、ぼくはこの相談をしないでは、どうしても死ねないのです。まったくぼくはよく相談しますね。聞いてくれますか?」
「いってごらんなさい、ぼくは聞いてますよ」
「しかし、ぼくはまた考えを変えて、やはりガーニャのことから話をはじめましょう。じつはぼくも、きょう緑色のベンチへ来るように指定されてた、――といっても、あなたはおそらくほんとうになさらないでしょう。ところが、ぼくうそはつきません。むしろぼくが自分から進んで、会見を主張したのです、ある秘密を暴露するからという約束で、ねだりつけたんですもの。ぼくの来かたがあまり早すぎたかどうか知りませんが(じっさい早かったようです)、ぼくがアグラーヤさんのそばに席を占めるとすぐ、ガーニャとヴァーリャが手をつなぎ合って、ちょうど散歩のような体裁で現われました。ふたりともぼくの姿を見て、びっくりしたようです。まったく思いがけなかったので、まごまごしたくらいです。アグラーヤさんはぱっと顔をあかくして(ほんとうになさろうと、なさるまいとご勝手ですが)、すこしうろたえたようにさえ見えました。それはぼくがいたからか、それともガーニャの姿を見つけたからか、そこは知りません。じっさいガーニャの風采はふるったもんでしたからね。とにかく、顔じゅうまっかになって、一秒間に片をつけてしまいました。しかも、それがおそろしくこっけいなやり口なんですよ。ちょっと立ちあがって、ガーニャの会釈とヴァーリャの取入るような微笑に返しをすると、急に断ち切るような調子で、『あたしはただあなたがたの誠意ある友情に対して、自分からお礼を申したいと思いましたのでね。もしあなたがたの友情を必要とすることがありましたら、そのときはあたしを信じてください、かならず……』といって会釈しました。で、ふたりは帰っちまいました。ばかをみたと思ったか、勝ち誇ったような気になったか、そこのところはわかりません。ガーニャはむろんばかをみたと思ったのですよ。まるで狐につままれたようなふうで、えびみたいにまっかになっていました(ときどきあの男は驚くべき表情をすることがありますからね!)。しかし、ヴァーリャはすこしも早く逃げだすにしくはない、いくらアグラーヤでも、これはあんまりだと悟ったらしく、兄貴をしょっぴいて行っちまいました。あの女は兄貴より利口ですよ。で、いま大いに得意なんだとぼくは信じますね。ところで、ぼくがそこへ行ったのは、ナスターシヤさんとの会見について、アグラーヤさんと相談するためだったのです」
「ナスターシヤさんと!」公爵は叫んだ。
「ああ! やっとあなたは冷静な態度を棄てて、そろそろびっくりしだしましたね。そうして、人間らしくなりたいという気が出たのは、なにより結構なことです。ごほうびに、ひとつあなたを喜ばしてあげましょう。ところで、人格の高い若い令嬢のご機嫌をとるのも、なかなか骨の沂れるもんですね。ぼくはきょうあのかたから頬打ちを頂戴しました!」
「精……精神的のですか?」なぜか公爵はわれともなしに、こんな問を発した。
「ええ、肉体的のものじゃありません。どんな人だって、ぼくみたいな人間に、手を振り上げるようなことはしないでしょう。今は女でもぼくをなぐりゃしません。ガーニャさえなぐりません。もっともきのうなぞは、あの男がぼくに飛びかかりゃしないかと、ちょっとのま考えたんですがね……今あなたが何を思ってらっしゃるか、ぼくちゃんと知ってますよ、請け合ってもいいくらいです。今あなたは『よしこの男をなぐる必要はないとしても、そのかわり寝てるところを、まくらかぬれ雑巾で窒息させることはできる、――いや、できるどころじゃない、ぜひそうする必要がある』と考えてるんでしょう……あなたの顔にちゃんと書いてありますよ、今、この瞬間そう思ってらっしゃることがね」
「そんなことけっして考えたことありません!」と公爵は嫌悪の色を浮かべていった。
「どうですかね、しかしぼくゆうべ夢に見ました。ぼくをぬれ雑巾で圧し殺したやつがあるんですよ……あるひとりの男がね……え、だれだかいいましょうか、だれだと思います――ラゴージンなんですよ! あなたどうお思いです、いったい人間をぬれ雑巾で殺せるでしょうか?」
「知りません」
「できるそうですよ。しかし、まあいい、よしましょう。では、いったいどういうわけでぼくが告げ口屋なんです? なんだってあのひとはきょうぼくのことを、告げ口屋だなんて罵倒したんです? それもおまけに、ぼくのいうことを最後の一句まで聞いてしまって、ちょいちょい聞き返したりしたあげくなんですもの……女って皆そんなものなんですね!全体あのひとのために、ぼくはラゴージンと、――あのおもしろい男と、関係をつけたんじゃありませんか。あのひとの利害のために、ナスターシヤさんとの会見を斡旋したんじゃありませんか。『あなたはナスターシヤさんのお余りを喜んで頂戴してる』とほのめかして、あのひとの自尊心を傷つけたせいでしょうかね? しかし、ぼくはあのひとの利害に立ち入って、いろいろと勧めたうえ、ぼくはけっしてこの事実を否定しません、ああしたふうの手紙を二通かきました。きょうので三通目、そして会見です……ぼくはさっき口をきるといきなり、これはあなたとして、体面にかかわりますといったのです……それに『お余り』という言葉も、ぼくがいったんじゃありません、人の言葉です。すくなくともガーニャの家では、みんなそういってましたよ。それに、あのひと自身もそれを肯定したんですものね。さあ、こう考えてみると、ぼくあのひとに告げ口屋だなんて、いわれるわけがないじゃありませんか? わかりますよ、わかりますよ。あなたはいまぼくを見ながら、おかしくてたまらないでしょう。そして、請け合っておきますが、あのばかばかしい詩を、ぼくに当てはめてるんですよ。

愛はわが悲しき落日に
いまわの笑みもて輝かん(プーシキン

「ははは!」ふいに彼はヒステリックにからからと笑って、また激しくせき入るのであった。
「ときにね」と彼はせきの合間から、しゃがれ声を出した。
「ガーニャはなんてやつでしょう。人のことを『お余り』だなんていいながら、今はご自分で、それが頂戴したくてたまらないんですからね!」
 公爵は長いあいだ無言でいた。彼は恐怖に襲われていたのである。
「きみはナスターシャさんとの会見といいましたね?」やっと彼はこうつぶやいた。
「え、じゃ、あなたはほんとうに知らなかったんですか! きょうアグラーヤさんとナスターシヤさんの会見があるんですよ。それだからこそナスターシヤさんは、ぼくの骨折りに免じて、アグラーヤさんの招きに応じ、ラゴージンの手を経て、わざわざペテルブルグから呼び出されたのです。そして、今ラゴージンといっしょに、ここからごく近いところに、以前の家にいます。例の曖昧な婦人……ダーリヤという友達のところです。そこへ、その曖昧な家へ、アグラーヤさんが出向いて行かれるのです。ナスターシヤさんと隔てのない話をして、いろんな問題を解決したいんだそうでしてね。つまり、算術の勉強をしようってんでさあ。あなた知らなかったんですか? まったくですか?」
「そんなはずはありません!」
「はずがなければそれでよろしい。あなたに知れるわけがないですからね。この町では、たとえ蠅が一匹飛んでも、すぐみんなに知れちまうんですよ。そういう土地なんですからね! しかし、このことを前もってお知らせしたのはぼくだから、あなたはぼくに感謝していいんですよ。じゃ、さよなら、――こんどお目にかかるのはたぶんあの世でしょう。ああ、そうそう、も一ついうことがあった。いくらぼくがあなたに卑劣な真似をしたからって、――何のためにすべてを失わなくちゃならないんでしょう、お慈悲に考えてみてくださいな! いったいそれがあなたのためになるとでもいうんでしょうかねえ? ぼくはあのひとに『告白』を捧げたのです。(このことはご承知なかったでしょう?)おまけに、それを受け取ってくだすった具合ったらね! ヘヘ! しかし、あのひとに対しては、ぼくけっして卑劣な真似をしなかったのです、あのひとに対しては、けっして悪いことなんかしなかったです。それだのに、あのひとはぼくに恥をかかして、ぼくを困まらせたんです……もっともぼくはあなたに対しても、けっしてやましいことはないですよ。よし例の『お余り』とかなんとか、そんなふうのことをいったにしろ、そのかわり会見の日も、時も、場所も、すっかりお知らせしているでしょう、この芝居をすっかりぶちまけているでしょう……もっとも、これはむろんいまいましさのためで、寛大のためじゃありませんよ。さようなら、ぼくはほんとにおしゃべりだ、まるでどもりか肺病やみのようですね。いいですか。早くなんとか方法をお講じなさい、もしあなたが人間といわれる価値があるなら……会見はきょうの夕方です、それは間違いありません」
 イッポリートは戸口へ向けて歩きだしたが、公爵が大声で呼びかけたので、戸口で立ちどまった。
「じゃ、なんですね、きみの話でみると、きょうアグラーヤさんが自分で、ナスターシヤさんのところへ行くんですね?」と公爵はきいた。
 赤いしみが彼の頬にも額にも現われた。
「正確には知りませんが、たぶんそうでしょう」なかばふり返りつつイッポリートは答えた。「それにだいいち、ほかに仕方がないじゃありませんか。ナスターシヤさんが将軍家へ行くわけにはいかないでしさフ? またガーニヤのところでもないでしょう。あの男の家には、ほとんど死人同様の人がいるんですからね。だって、将軍の容体はどうです?」
「そのことだけで判断しても、とうていありうべからざる話です!」と公爵は受けた。「しかし、あのひとが自分から出たいと思ったにもせよ、どんなにして行くのでしょう? きみはあの家の習慣を……・』ぞんじないのです。あの人がひとりで、ナスターシヤさんのところへ出かけるわけに行きません。それはナンセンスです!」
「ですが、考えてごらんなさい、公爵、だれだって窓を飛び越す人はありません。しかし、いったん火事となってごらんなさい、そのときはおそらく第一流の紳士、第一流の貴婦人でも、窓を飛び越しますからね。もし必要ができたら、もう仕方がありません。わが令嬢も、ナスターシヤさんのところへ行きますよ。いったいあの人たちはどこへも家から出してもらえないんですか、あなたの令嬢は?………」
「いや、ぼくはそんなことをいってるのじゃありません……」
「そんなことでないとすれば、あのひとはただ玄関の階段をおりて、まっすぐに行きさえすりゃいいんですよ。そのさきは、もう家へ帰らなくたっていいんですからね。ときとすると、自分の船を焼いてしまって、家へ帰らないのをいとわん場合があります。人生は朝飯や、昼飯や、S公爵のような連中だけでなりたってるんじゃありませんからね。どうもぼくの見るところでは、あなたはアグラーヤさんをただのお嬢さんか、女学生かなんぞのように思ってらっしゃるようですね。ぼくはもうこのことをあのひとに話しましたが、あのひとも同意されたようです。では、七時か八時ごろ待ってらっしゃい……ぼくがあなただったら、あの家へ見張りをやって、ちょうどあのひとが玄関の階段をおりるところをおさえさせますよ。まあ、コーリャでもおやんなさい。あの子だったら、喜んでスパイをします。もっとも、ご安心なさい、それはあなたのためにするんですから……だって、これはみんなあなたに……なにがあるんですからね……ははは!」
 イッポリートは出て行った。公爵にとって、誰かをスパイにやるなどということは、よし彼にそんなことができるとしても、何の必要もないことである。いちんち家にいろというアグラーヤの命令も、今になってほとんど氷解された。おそらく彼女は公爵を誘いに寄るつもりだったろう。またあるいはじっさい、公爵に出しなをおさえられるのをきらって、それで家にじっとすわっていろと命令したのかもしれぬ……これもありうべきことである。彼は目まいがしはじめた。部屋がぐるぐるまわるように思われた。彼は長いすに横たわって、目を閉じた。
 どちらにしても、この事件はすべてを決定する重大なものである。いや、公爵はけっしてアグラーヤをただのお嬢さんだの、女学生だのと思ったことはない。彼はずっと以前から、なにかこんなことをしでかしはせぬかと恐れていたのが、今となって痛切に感じられる。しかし、何のために彼女はナスターシヤに会いたいのだろう? 悪寒が公爵の全身を伝って走った。彼はまた熱病やみの状態に落ちてしまった。
 いや、彼はけっしてアグラーヤを、子供あつかいにしてはいなかった! 最近、彼はときどき彼女の目つきや言葉に、ぞっとすることがあった。どうかすると、彼女があまりしっかりしてきて、あまり自分をおさえすぎるように思われ、なんだか気味の悪いことさえあった、――こんなことも彼は思い出した。まったくのところ、彼はこの三、四日間、こういうふうなことを考えまいとした、こういった重苦しい想念を追い払おうと努めた。しかし、何がいったいあの魂の中に潜んでいるのだろう。この魂を信じてはいながらも、ずっと前からこの疑問が彼を苦しめていた。ところが、きょうこそこれらすべての問題が解決され、暴露されるのだ。考えると恐ろしい! それにまたしても、『あの女なのだ!』あの女が最後の瞬間に現われて、彼の運命を朽ちた糸くずみたいに引きちぎってしまうだろう、――こんな観念がどうしていつも心に浮かぶのか? 彼はなかば人事不省の状態にあったけれど、この観念がいつも心に浮かんでいたのは、誓ってもいいくらいに思われた。もし彼が最近この女[#「この女」に傍点]のことを忘れようと努めたとすれば、それはただこの女を恐れていたからにほかならぬ。結局、自分はこの女を愛しているのか憎んでいるのか? 彼はこんな質問を今まで一度も、自分に発したことがない。この点、彼の心は純なものであった。彼は自分がだれを愛してるかを、よく知っていたからである……彼が恐れているのは、ふたりの女の会見そのものではない。その会見の奇怪な点でもなければ、わけのわからぬその原因でもない。またその結果ではむろんない、それはどうなろうと恐れはせぬ、――彼はナスターシヤその人を恐れているのであった。この悩ましい数時間のあいだほとんど絶え間なく、彼女の目がちらちらして、彼女の言葉、なにかしら奇妙な言葉が耳に聞こえたのを、あとで二、三日もたってから、公爵は思い出した。もっとも、熱に浮かされたような、悩ましいいく時間かが過ぎてのち、この幻覚はほとんど記憶に残ってはいなかった。たとえば、ヴェーラが食事を運んで来たことも、自分で食事をとったことも、食事ののち寝たか寝なかったか、そんなこともすっかりうろ覚えであった。この晩、彼がはっきりと明瞭にすべてを区別することができるようになったのは、とつぜんアグラーヤが彼の住まいの露台へあがって来たその瞬間からだ、これだけはわかっていた。彼は長いすからとびあがり、出迎えのため、部屋のまん中へ歩み出た。それは七時十五分であった。アグラーヤはたったひとりきりだった。取り急いだらしく、身なりもざっとしたもので、頭巾つきの薄手の外套を着ていた。顔は昨夜と同じように青白かったが、目は鋭いかわいた光を放って輝いていた。彼女がこんな目つきをしているのを、公爵は今まで見たことがなかった。彼女は注意ぶかく相手を見まわしながら、
「あなた、すっかり身支度ができてますわね」と、小声に落ちつきはらった調子でいった。「服も着換えてらっしゃるし、帽子まで手に持って。じゃ、なんですね。だれかさきまわりをして知らせたのね。あたしだれだか知っててよ、イッポリートでしょう」
「ええ、あの人がぼくにいうのに……」なかば死人のような公爵はこういいかけた。
「じゃ、まいりましょう。ご承知でしょうが、あなたはぜひついていらっしゃらなくちゃなりません。あなたは外出なさるくらいのご気力はおありのようですね?」
「ええ、気力はあります、しかし……いったいそんなことがあってもいいものですか?」
 彼は一瞬、言葉を切ったが、もうそれ以上なんにも口をきくことができなかった。これがなかば狂気した少女を引きとめようとする、唯一の試みであった。やがて彼は囚人《めしゅうど》のごとく、自分で彼女につづいて歩きだした。いま彼の思想は溷濁《こんだく》しきっているけれど、アグラーヤはひとりでもあすこへ[#「あすこへ」に傍点]行くにきまっている、して見ると、どうあってもいっしょについて行くのが当然であることは、彼も会得していた。アグラーヤの決心がいかに強いかを見抜いたのである。彼の力でこのもの狂おしい衝動をとめることは不可能であった。彼らは黙りがちで、途中ほとんどものをいわずに歩いた。ただ公爵は、彼女がよく道筋を知っているのに気づいた。一つ手前の迸がすこし淋しいので、彼が横町を一つだけ遠まわりしようと思って、それをアグラーヤにすすめたとき、彼女はいっしょうけんめい、注意力を集中させるようにして聞き終わると、引きちぎるような調子で、「おんなじこったわ!」と答えた。
 ふたりがダーリヤの家(大きな古い木造の家)へ近寄ったとき、正面の階段から、ひとりのけばけばしい粧《つく》りの婦人が、若い娘をつれておりて来た。ふたりは、階段のそばで待っている幌馬車に乗って、大きな声で笑ったり話したりしな。がら、近づいて来るふたりには気のつかないふうで、一度も自をくれなかった。馬車が出てしまうと、ふたたび戸があいで、待ちかまえていたラゴージンが、公爵とアグラーヤを通して、すぐ戸をしめた。
「いま家じゅうにおれたち四人のほか、だれもいねえんだ」と大きな声でこういうと、彼は妙な目つきで公爵を見やった。
 すぐ次の間でナスターシヤが待っていた。やはりごくじみな粧《つく》りで、黒い着物を着ている。彼女は出迎えのために立ちあがったが、にこりともしなかったのみか、公爵に手をさし伸ばそうともしなかった。
 不安げな吸いつくような彼女の瞳は、いらだたしそうにアグラーヤにそそがれた。ふたりはすこし離れ合って座をしめた、――アグラーヤは片隅の長いすに、ナスターシヤは窓のそばに。公爵とラゴージンはすわらなかった。それにナスグーシヤは、ふたりにすわれともいわなかったのである。公爵はためらいと苦痛の色を浮かべながら、ふたたびラゴージンを見やった。が、こちらはやはり以前と同じ薄笑いを浮かべていた。沈黙はなおいく秒かつづいた。
 ついに一種兇悪な感じが、ナスターシヤの顔をさっと走った。その目は執拗な確固たる決心の色、ほとんど憎悪の念さえ浮かべて、瞬時も相手の顔から離れようとしなかった。アグラーヤは少々まごついたらしかったが、おじけづいた様子は見えなかった。はいりしなにちょっと相手の顔に視線を投げたが、今はなにかもの思いにでもふけるように、しじゅう伏し目になって控えていた。二度ばかりなにかの拍子に、彼女は部屋の中を見まわしたが、まるでこんなところにいてはからだがよごれるといったような、嫌悪の色がその顔に描かれた。彼女は機械的に自分の着物を直していたが、一度などは不安げに席を移して、長いすの片隅へにじり寄ったほどである。しかも、こうした動作を、自分でもほとんど意識していないらしかった。しかし、この無意識ということが、なお相手を侮辱するのであった。ついに彼女はナスターシヤの顔を、まともにしっかりと皃つめた。と同時に、相手の毒々しい目に輝いているものを、すっかり明瞭に読み取った。女が女を見抜いたのである。アグラーヤは愕然としておののいた。
「あなたはむろんごぞんじでしょうね、何のためにあたしがあなたをお招きしたか」とうとう彼女はこうきりだした。しかしおそろしく声が低いうえに、こんな短い句の中で二度まで言葉を切った。
「いいえ、なんにも知りませんよ」とナスターシヤはそっけたい、断ち切るような調子で答えた。
 アグラーヤは顔をあからめた。おそらく彼女はいま自分がこの女と対坐して、しかも『この女』の家で、この女の返答を求めているということが、おそろしく奇怪な、ありうべからざることに思われたのだろう。ナスターシヤの声の最初の響きと同時に、戦慄が彼女のからだを流れたような気がした。こうした心持ちの変化を『この女』はもちろんすっかり見て取ったのである。
「あなたはすっかりご承知のくせに……わざとわからないふりをしてらっしゃるんです」とアグラーヤは渋い顔をして床を見つめながら、ほとんどささやくようにいった。
「そんなことをして何になるんでしょう?」ナスターシヤはにっとかすかに笑った。
「あなたは、あたしの位置を利用しようと思ってらっしゃるのです……あたしがあなたの家にいるもんですから」こっけいなまずい調子で、アグラーヤは語をついだ。
「その位置はわたしの知ったことじゃありません、あなたのせいですよ!」急にナスターシヤはかっとなった。「あなたがわたしに招かれたのじゃなくって、わたしがあなたに招かれたんですからね。しかも、何のためやら、わたし今だにわかりませんの」
 アグラーヤは昂然とかしらをあげた。
「その舌をお控えなさい。あたしはそんな武器でもって、あなたと闘うために来たんじゃありませんからね……」
「ああ! じゃ、やはりあなたは『闘う』ためにいらしったんですね? まあ、どうでしょう、わたしあなたはなんといっても……もすこし利口なかたかと思ってましたわ……」
 ふたりはもうたがいに憎悪の念を隠そうともしないで、にらみ合っていた。このふたりの中のひとりがついこのあいだまで、いまひとりにあんな手紙を書いていた当人なのである。ところが、最初の会見、最初の発言とともに、いっさいが霧のように散り失せた。いったいどうしたというのだろう? しかし、この部屋に居合わす四人のものは、だれひとりとして、この瞬間こうした事実を、不思議とも思わない様子であった。ついきのうまで、こんなことは夢にさえ見られないと信じていた公爵も、今はもうとうからこれを予感していたかのごとく、ぼんやり突っ立ったまま、ふたりの顔を見くらべながら聞いていた。奇怪きわまる夢が今や忽然として、まざまざと形を備えた現実に化したのである。このときひとりのほうは、いま一方を極度まで軽侮していて、しかもそれをむきつけにいってやりたくてたまらなかったので(ことによったら、ただそれ一つのためにやって来たのかもしれない、――こう翌日ラゴージンがいったくらいである)、いま一方も随分とっぴな女ではあるけれども、頭は乱れ、心は病的になっているから、よし前からそのつもりで心構えをして来たとしても、自分の競争者の毒々しい純女性的な侮蔑を、防ぎきることができなかったろう。公爵はナスターシヤが自分のほうから、あの手紙のことをいいだす気づかいはないと信じていた。今あの手紙が彼女にとってどんな意味をもっているか、それは怪しく輝く目つきから推して、察するにかたくなかった。公爵はアグラーヤが、あの手紙のことをいわないようにするためには、自分の命を半分なげ出しても惜しくなかった。
 けれど、アグラーヤは急にしっかりと落ちついてきたらしく、たちまち感情をおさえて、
「それはあなたの勘違いですよ」といった。「あたしはあなたと……暗一嘩しに来たのじゃありません。もっとも、あたしはあなたを好きませんけども。あたしが……あたしがここへ来たのは……人間らしいお話のためですの。あなたをお招きするとき、あたしはもうどんなお話をしようかってことを、すっかり決めていたんです。そして、その決心はどうしてもひるがえしません。よしんばあなたがまるっきり、あたしの真意を解してくださらないにしてもね。それはあなたのおためにならないばかりで、あたしの知ったことじゃありませんから。あたしは、あなたのお手紙にご返事しよう、自分の口からご返事しようと思ったのです。そのほうが都合がよかろうと思いましたからね。あなたのお手紙に対するあたしの返事を聞いてください。あたしは、はじめて公爵とお目にかかったその日から、あなたの夜会でおこった事件をあとで聞いたそのときから、公爵がお気の毒になったのです。お気の毒になったというわけは、公爵がああいう人のいいおかたですから、その人のいいところから……そうした性格のご婦人と……いっしょになって、幸福になれると信じておしまいになったからですの。あたしの心配は事実となって現われました。あなたは公爵を愛することができなくって、さんざんいじめたあげく、すてておしまいになりました。あなたが公爵を愛することができなかったのは、あなたがあまり高慢だからです……いいえ、高慢なのじゃありません、あたしの言い間違いです。つまり、あなたの虚栄心がさかんなためです。いえ、これでもまだ違っています。あなたはまるで……正佩の沙汰といえないほど、利己心が強いのです。その証拠は、あのあたしにあてた手紙です。あなたは公爵のような、あんな単純な人を愛しえないばかりか、腹の中でばかにして笑ってらしたのです。ただ自分の汚辱だけしか愛することができなかったのです。自分はけがされた、自分は辱しめられた、という考えだけしか、愛することができなかったのです。もしあなたの汚辱がもっと少ないか、それともぜんぜんなかったとすれば、あなたはまだまだ不幸だったでしょうよ……」(アグラーヤは、あまりにも性急にほとばしり出るこれらの言葉を、さもこころよげに吐き出すのであった。これらの言葉はもうとうから、――今の会見をまだ夢にも想像しなかったころから、すでに準備され、推敲されていたのである。彼女は毒々しい目つきで、自分の言葉の効果を、ナスターシヤのゆがんだ顔の上に追求していた)「あなた覚えてらっしゃるでしょう」と彼女はつづけた。「あの当時、公爵はあたしに手紙をくださいました。公爵の話では、あなたもこの手紙のことをごぞんじなんですってね。それどころか、お読みになったことさえあるそうですね? この手紙で、あたしはすべての事情を悟りました。しかも正確に悟りました。ついこのあいだ公爵がご自身で、それを確かめてくださいました。つまり、あたしが今あなたにいっていることですの。しかも、ひとことひとこと、そっくりそのままといっていいくらいです。手紙を読んでから、あたしは待ち受けていました。つまり、あなたがこちらへいらっしゃるに相違ない、と見抜いたのです。だって、あなたはペテルブルグなしじゃいられない人なんですもの。あなたは田舎でくすぶっているにはまだあまり若くって、おきれいですわ……もっとも、これもやはりあたしのいったことじゃありませんよ」と彼女はおそろしく赤くなって、こういい足した。この瞬間から最後の言葉の切れるまで、くれないは彼女の顔から引かなかった。「それから、二度目に公爵を見たとき、あたしはあの人のためにおそろしいまで苦しく、腹が立ってきました。笑わないでください。もしあなたがお笑いになれば、それはあなたにこの心持ちを理解する資格がない、ということになるのです
「ごらんのとおりわたしは笑ってやしません」とナスターシヤは沈んだ厳しい声でいった。
「もっとも、あたしはどうだってかまわないのです。ご勝手にお笑いなさい。で、あたしが自分の口からあの人にたずねるようになってから、公爵はこういいました。『わたしはもう前からあのひとを愛してはいません。あのひとに関する追憶さえも、わたしにとって苦しいくらいです。ただわたしはあのひとがかわいそうです。あのひとのことを思い出すと、まるで永久に心臓を刺し通されたような気がします』ところで、あたしは当然、あなたにもう一ついわなくちゃなりません、あたしは生まれてからまだ一度も、高潔な単純さという点で、また他人に対する無限の信頼という点で、公爵に匹敵するような人を、見たことがありません。あたしは公爵の話を聞いたあとで、すぐと悟りました。どんな人でもその気にさえなれば、わけなくこの人をだますことができます。ところが、公爵はそのだまし手がだれであろうと、あとでみんなゆるしておしまいになります。つまり、この性質のために、あたしは公爵を愛するようになったのです……」
 アグラーヤは自分で自分におどろいたように、――こんな言葉を口にすることができるなどとは、自分でも信ずることができないように、ちょっとのあいだ言葉をおさえた。しかし、それと同時に、ほとんど量りしれないプライドが、その目の中に輝きだした。もうこうなったら、つい口をすべり出た今のひとことを、『この女』が笑おうと笑うまいと、どうだって同じことだ、といいたげな様子であった。「あたしはあなたになにもかも申しました。ですから、もちろん、あなたもあたしの希望をお察しなすったでしょう?」
「察したかもしれません。だけど、ご自身でいってごらんなさい」とナスターシヤは低い声で答えた。
 憤怒の色がアグラーヤの顔に燃え立った。
「あたしはね」しっかりした声で、一語一語、明瞭に彼女はきりだした。「あなたにどんな権利があって、あたしに対する公爵の感情に干渉なさるのか、それがききたいのです。どんな権利があって、大胆にもあたしに手紙をよこしました?どんな権利があって、あなたがこの人を愛してるってことを、わたしやこの人にうるさく広告なさるんです? あなたは自分でこの人を棄てたのじゃありませんか。そして、ひどい侮辱と……汚名を浴びながら、逃げだしたじゃありませんか!」
「あたしが公爵を愛してるなんて、ご当人にもあなたにも広告したことなんかありません」やっとの思いでナスターシヤはこういった。「けども、わたしがこの人を棄てて逃げだしたのは……あなたのおっしゃるとおりですわ……」やっと聞こえるぐらいの声でいい足した。
「どうして『ご当人にもわたしにも』広告したことなんかないのです?」とアグラーヤは叫んだ。「じゃ、あなたの手紙はいったいなんですの? だれがわたしたちの仲人役を買って出て、この人と結婚しろとあたしに勧めたんです? それが広告でないでしょうか? 何のためにあたしたちのあいだへ割りこんでくるのです? あたしは、はじめのうち反対にこう考えたのです。『あのひとはかえってあんな干渉をして、公爵に対する嫌悪の種を蒔いて、公爵を棄てさせようというのじゃあるまいか』ところが、のちになって、そのわけがわかりました。あなたはそのいやらしいやり口でもって、なにかたいした手柄でもしてるような気がしたんでしょう……それほど自分の虚栄心を愛してらっしゃるあなたに、公爵を愛することができましたか? あんなばかばかしい手紙を書く暇に、なぜきれいにここを立ってしまわなかったのです? またあんなにまであなたを慕って、あなたに求婚の名誉を与えたりっぱな青年と、どうして結婚しようとなさらないんです? その理由はあまりに明々白々です。もしラゴージンさんと結婚すれば、汚辱などはすこしも残らないからです。かえってあなたの得る名誉が多すぎるからです! あなたのことをエヴゲーニイさんがそういいました、『あなたはあまりたくさん詩を読みすぎたものだから、あなたの……身分としてはあまり教育がありすぎる』、あなたは小説の女で、有閑婦人ですって。これにあなたの虚栄心を加えると、理由がすっかりそろうわけです……」
「じゃ、あなたは有閑婦人でないんですね」
 事件はあまり急激に、あまり露骨に、こうした思いがけないところまで行き着いてしまった。まことに思いがけないことである。なぜなら、ナスターシヤはこのパーヴロフスクヘ来る途中、むろん、いいことよりむしろ悪いことを予想してはいたが、それでもまだなにか、別なことを空想していたからである。アグラーヤにいたっては、もう一瞬のあいだに憤怒の浪にさらわれて、まるで坂からころがり落ちるように、恐ろしい復讐の快感の前にみずからを制することができなかった。こうしたアグラーヤを見るのは、ナスターシヤにとってむしろ不思議なくらいであった。彼女は相手を見つめながらも、われとわが目を信じかねるような風情であった。最初の瞬間、彼女はまるで何をいっていいかわからなかった。彼女は、あるいは、エヴゲーニイの想像したように、多くの詩を読破した女かもしれない、またあるいは公爵の信じているように、ただのきちがいかもしれない。が、いずれにして も、この女は、――ときとすると、ああした皮肉で暴慢な態 度をとることもあるが、――実際において人々が結論をくだすよりも、はるかにはにかみやで、優しい信じやすいたちなのである。もちろん彼女には小説的な、空想的な、自分自身の中に閉じこもったような、突飛な分子が多分にある。しかし、そのかわり、力強い深いところもずいぶんある……公爵はそれを了解していた。苦痛の表情が彼の顔に浮かんだ。アグラーヤはこれに気がついて、憎悪の念に身をふるわせた。
「あなたあたしに向かって、よくそんな口がきけますね!」言葉につくせぬ暴慢な態度で、彼女はナスターシヤの言葉に答えた。
「それはあなたのお聞き損じでしょう」とナスターシヤは驚いて、「わたしがあなたにどんな口をききました?」
「もしあなたが清浄な婦人になりたかったら、なぜご自分の誘惑者を――トーツキイをあっさりと……芝居めいた真似をしないで、棄ててしまわなかったのです?」とつぜんこちらは藪から棒にいった。
「そんな失礼な批評をなさるについて、あなたはどれだけわたしの境遇を知ってらっしゃるんです?」ナスターシヤはまっさおになって、身震いした。
「ええ、あなたが労働につかないで、堕天女《だてんにょ》きどりで金持ちのラゴージンと逃げだした、――これだけのことを知っています。トーツキイが堕天女のために、ピストルで自殺しかけたと聞いても、べつに驚きゃしませんよ!」
「およしなさい!」とナスターシヤは痛みを忍ぶように、嫌悪の色を浮かべながらいった。「あなたはまるで……ついこのあいだ自分の許嫁《いいなずけ》どいっしょに治安判事の判決を受けペダーリヤさんの小間使と同じような解釈をなさいますのね。それどころか、まだその小間使のほうが気が利いてるくらいですわ……」
「それはたぶん潔白な娘さんでしょう、自分の労働で生活してるのでしょう。なぜあなたは小間使に対して、そんな軽蔑した態度をおとんなさるの?」
「わたしは労働に対して、軽蔑の態度をとるのじゃありません、労働を口になさるあなたに対してです」
「あたしは潔白なからだになりたかったら、洗濯女にでもなりますわ」
 ふたりは立ちあがり、まっさおな顔をしながら、たがいににらみ合っていた。
「アグラーヤ、およしなさい! それは公正を欠いていますよ」と公爵は度を失ったもののように叫んだ。
 ラゴージンはにたにた笑いをやめて、くちびるをくいしばり、腕を組んで聞いていた。
「ねえ」とナスターシヤは憤怒のためにがたがた身をふるわせながらいった。「このお嬢さんをごらんなさい。今までわたしはこの人を天女とあがめていたんですよ! ねえ、アグ