ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP121-144

ラーヤさん、あなたは家庭教師をつれないで、わたしのところへいらしたんですか?……なぜあなたはわたしのところへいらしたんでしょう? もしお望みなら……お望みならわたし今すぐ、飾りっ気なしに申しますわ。つまり、おじけがついたのです、それでいらしたんです」
「あたしがあなたを恐れるんですって?」この女がよくまあ自分に向かってこんな口がきけたものだという、子供らしい傍若無人な驚きのために、われを忘れてアグラーヤは叫んだ。
「もちろん、わたしをね! わたしのところへ来ようと決心なすった以上、わたしを恐れてらっしゃるんですよ。自分の恐れている人は軽蔑できないもんですよ。だけど、考えてみたばかりでもぞっとする、わたしたった今さっきまで、あなたを尊敬してたんですからね! ところで、どういうわけであなたがわたしを恐れてらっしゃるのか、またあなたのおもな目的がどういうところにあるか、ごぞんじですの? ほかでもありません、この人がわたしをあなたより余計に愛してらっしゃるかどうか、それを自分の目で確かめたかったのです。だって、あなたはおそろしいやきもちやきですものね……」
「この人はもうあたしにそういいました、あなたを憎んでるって……」やっとの思いで舌をまわしながら、アグラーヤがこういった。
「大きにね、大きにそうかもしれません。わたしにはこの人の愛を受ける値うちがありません。けれど……けれど、あなたうそをおつきになったようですね? この人はわたしを憎むことなんかできません、そんな言いかたをするはずがありません! もっとも、わたし深くとがめだてしません……あなたの情状を酌量しましてね……なにせ、わたしはあなたのことをもっとよく思ってましたわ、もっとお利口で、ご器量だってもすこしいいだろうと思ってました、まったくですの!………さあ、大切な人をつれてらっしゃい……ほらごらんなさい、この人はあなたをいっしょうけんめい見つめて、どうしても正気になれないんですよ。さあ、早く引きとってください。ただし条件つきですよ、――すぐにとっとと出て行ってもらいましょう! さあ今すぐ!………」
 彼女はひじいすに倒れて、さめざめと泣きだした。が、急になにかしら別種の光が、その目の中に輝きだした。彼女は食い入るように、執念《しゅうね》くアグラーヤを見つめていたが、つと席を立った。
「だけど、もしお望みなら、わたし今すぐにも……め、い、れ、い、してよ、よくって? ただ公爵にめ、い、れ、い、するのよ。すると、この人はさっそくおまえさんをすてて、永久にわたしのそばに居残るわ。そして、わたしと結婚してよ。おまえさんはひとりで家へ走って帰るんです、よくって? よくって?」と彼女は狂気のように叫んだ。おそらく、自分でもこんな言葉を発しえようとは、ほとんど信じていなかったであろう。
 アグラーヤはおびえて戸口のほうへかけだそうとしたが、釘づけにされたように、戸口のほとりに立ちどまって、聞いていた。
「よくって、わたしラゴージンを追ん出すわ! いったいおまえさんは、わたしがあんたをよろこばすために、ラゴージンと結婚したとでも思ったの? ところが、わたし今おまえさんの目の前でこういうわ、『出て行け、ラゴージン!』そして、公爵には『あんたわたしに約束したことを覚えてて?』とこういってやるわ。ああ! いったいなんのためにわたしはこの人たちの前で、あんなに自分を卑下したのでしょう? ねえ、公爵、あれは全体あんたじゃなかったの?『おまえの身の上にどんなことがおころうとも、かならずおまえのあとへついて行く、けっしておまえをすてやしない、ぼくはおまえを愛している、おまえのすることは何でもゆるしてやる、そしておまえを、そ……尊……』ええ、そうよ、あんたがそういったのよ! それだのに、わたしはあんたを自由にしてあげようと思って、いったんあんたのそばから逃げだした。けれど、もう今はいやです! あの娘はなんだってわたしを、淫売かなんぞのように扱ったんだろう? わたしが淫売かどうか、ラゴージンにきいてごらんなさい、あの男が証明するから! しかし、今はあの娘が、あんたの目の前でわたしの顔に泥を塗ったから、たぶんあんたもわたしに後足で砂をかけて、あの娘の手を引いて帰るんじゃなくって? もしそうなら、わたしがあんたひとりだけ信じていた義理でも、あんたはのろわれてよ。さあ、出て行け、ラゴージン、おまえに用はない!」
 彼女は顔をゆがめ、くちびるをからからにかわかして、やっと胸から言葉を絞り出すようにしながら、ほとんど前後を忘れて叫んだ。彼女はこうした自分のからいばりを、露ほども信じてはいなかったけれど、同時にせめて一秒間でも、自分をあざむいていたいと思った。それはわき目にも明瞭であった。こうした興奮があまりに激烈だったので、もしやこのまま死んでしまいはせぬかと、気づかわれるほどであった。すくなくとも公爵にはそう感じられた。
「ね、ごらんなさい、そこに公爵が立ってるでしょう!」ついに彼女は手で公爵のほうを指し示しながら、アグラーヤに向かって叫んだ。「もしこの人が今すぐわたしのそばへ寄って、この手をとらなかったら、――そしておまえさんをすてなかったら、そのときはおまえさん勝手にこの人をお取んなさい、譲ってあげるわ、こんな人に用はないから……」
 彼女もアグラーヤも、待ち設けるように立ちどまって、ふたりともきちがいのように公爵を見つめた。しかし、この挑戦の言葉が今どんな力を持っているか、彼にはよくわからなかったらしい。いや、たしかにそうと断定していい。彼はただ自分の目の前に捨て鉢になったもの狂おしい顔を見たのみである。それはかつてアグラーヤに口走ったとおり、ひと目みたばかりで『永久に心臓を刺し通された』ような気のする顔であった。彼はもうこのうえたえ忍ぶことができなかった。哀願と非難の色を浮かべて、ナスターシヤを指さしつつ、アグラーヤに向かって、
「ああ、こんなことがあっていいものですか! だって、このひとは……こんな不幸な身の上じゃありませんか!」
 しかし、公爵がアグラーヤの恐ろしい視線のもとに、身をしびらせながらいうことができたのは、たったこれだけであった。彼女の目の中には無量の苦痛と、同時に無限の憎悪が表われた。公爵は思わず両手をうって、叫び声を上げながら、彼女のほうへ飛んで行った、――が、もう遅かった。彼女は公爵の動揺の一瞬間をも、忍ぶことができなかった。両手で顔を隠しながら、『ああ、どうしよう』と叫ぶやいなや、ひらりと部屋の外へおどり出した。つづいてラゴージンが、往来へ抜ける戸のかんぬきをはずすためにかけだした。
 公爵もかけだそうとしたが、しきいの上でだれかの手に抱きとめられた。ナスターシヤの絶望にゆがんだ顔が、じいっと彼を見つめていた?そして、紫色になったくちびるが動いて、こう問いかけた。
「あの娘につくの? あの娘につくの?………」
 彼女は感覚を失って、公爵の手に倒れかかった。彼はそれを抱きおこして、部屋の中へ運び入れ、ひじいすの上へ寝かした。そして、にぶい期待をいだきつつ、そのそばにじっと立っていた。小テーブルの上には、水の入ったコップが置いてあった。やがて引っ返して来たラゴージンは、それを取って彼女の顔にふりかけた。彼女は目を見開いたが、一分間ばかりは、何がなんだか皆目わからなかった。が、とつぜんあたりを見まわして、ぶるっと身をふるわすと、叫び声とともに公爵に飛びかかった。
「わたしのものだ! わたしのものだ」と彼女は叫んだ。「あの高慢ちきなお嬢さんは行っちゃったの? ははは!」とヒステリイの発作にからからと笑った。「ははは! わたしはあやうくこの人をあの娘に渡すとこだった! いったいなんのために? どういうわけで? ふん、きちがいだ!きちがいだ!………ラゴージン、さっさと行っておしまい、ははは!」
 ラゴージンはじっとふたりをながめていたが、ひとことも口をきかないで、自分の帽子を取って出て行った。十分ののち、公爵はナスターシヤのそばにすわって、寸時も目を放さずに彼女を見つめながら、まるで小さな子供を相手にするように、両手でなでさするのであった。彼は女の笑いに応じて笑い、その涙に応じて泣かんばかりであった。彼はなんにも口をきかなかったが、突発的な、歓喜に溢れた、取りとめのない言葉に、一心に耳を傾けた。そして、すこしも意味を察することができなかったが、ただ静かにほほえむのであった。そして、ちょっとでもナスターシヤが悲しんだり、泣いたり、とがめたり、訴えたりしはじめると、すぐにまたその頭をなでたり、両手で頬をさすったりして、子供でもあやすように慰めるのであった。

      9

 前章に物語ったできごとから二週間たった。そして、編中諸人物の境遇もいちじるしく変わった。したがって、特殊な説明なしに続きに取りかかるのは、ひとかたならず困難な仕事である。しかし、なるべく特殊な説明をぬきにして、単なる事実の記述にとどめる必要を感じる。しかも、その理由はきわめて簡単である。つまり、説話者自身、事件の説明に苦しむ場合が多いからである。説話者の立場にありながら、こんなことわりをいうのは、読者にとってまるでわけのわからぬ、奇怪なことと思われるに相違ない。なんとなれば、明瞭な理解も独自の意見もないことを、どうして他人に語りうるか、という疑問が生じるからである。これより以上いかがわしい位置に立たないために、むしろ実例について説明するように努めたほうがよさそうである。そうしたら、好意ある読者は、その困惑が那辺に存するかを悟るかもしれない。ことに、この実例というのが岐路にはいるのでなしに、直接物語の続きとなっているから、なおさらである。
 二週間後、つまりもう七月のはじめになって、またこの二週間のあいだに、本編の恋物語、とりわけこの恋物語の最後のできごとは、ほとんどほんとうにしかねるほど奇怪な、しかしまた非常にわかりのいい、きわめて愉快な世間話と化して、レーベジェフ、プチーツィン、ダーリヤ、エパンチン家などの別荘に近いすべての街々、てっとり早くいえば、町じゅうと近在ぜんたいへ、しだいしだいに広がっていった。ほとんど町じゅうの人がいっせいに、――土地の者も、別荘の人も、停車場の楽隊を聞きに来る人も、-同じ話に無数のヴァリェーションをこしらえて、騒ぎだした。その話はこうである。ひとりの公爵が、さる由緒ただしい名家で不体裁なことをしでかしたあげく、もう婚約までできているその家の令嬢をすてて、有名な曖昧女に夢中になり、以前の交遊をことごとくふり棄ててしまった。そして、人々の威嚇も、公衆の憤慨も、なにもかもいっさい顧みないで、近いうちにこのパーヴロフスクの町で、昂然と頭をそらしながら、人々の顔を見つめるような態度で、おおっぴらに公々然と、そのけがれた女と結婚するつもりでいる。その話は極端にいろんな醜聞で彩られ、その中にはまた各方面の名士がない交ぜられて、怪奇な謎めかしい陰影が加えられているうえに、一方から見て否定することのできない、明白な事実の上に建てられているので、町じゅうの者の好奇心もでたらめな陰口も、もちろん大目に見なければならない。中でも最も微妙な機知を弄した、そしていかにももっともらしい解釈は、少数のまじめな陰口屋の仕事なのである。これは理性の発達した階級の人で、どんな社会にあってもつねにまっさきかけて新しいできごとを、ほかのものに説明して聞かそうとあせり、これを自分の使命、――どころか、慰みと心得ている場合も珍しくない。
 彼らの解釈によると、この青年は名門の公爵で、金持ちで、ばかではあるけれど、ツルゲーネフ氏によって示されたタイプの、現代の虚無主義に血迷ったデモクラートで、ほとんどロシヤ語も話せない男である。これがエパンチン将軍の令嬢に迷って、ついに同家へ花婿の候補者として出入りするまでにこぎつけた。それは、つい最近、新聞に逸話を載せられたフランスの神学生に酷似している。この神学生はわざと身を僧職にゆだねようと決心し、自分で採用を哀願して、踝拝、接吻、誓言など、いっさいの儀式を行なっておきながら、すぐその次の日、主教に公開状を送って、自分は神を信じてもいないのに民衆をあざむいて、ただでその民衆のご厄介になるのは破廉恥と思うから、きのういただいた位は自分で剥奪してしまいます、といったような手紙を、二、三の自由主義の新聞に掲載した、――ちょうどこの無神論者と同じように、公爵は自己流の手品をしたのである。彼はわざと花嫁の家で催された盛大な夜会を、手ぐすね引いて待ちかまえていた(ここで彼はきわめて多数の名士に紹介された)。それはただ、一同の前で麗々しく自分の思想を披瀝して、尊敬すべき名士を罵倒し、自分の花嫁を公衆の面前で侮辱して、縁談を拒絶せんがためのみであった。そのさい、彼は自分を引っ張り出そうとする侍僕らに抵抗して、みごとな支那焼の花瓶をこわした。人々はこのうえにまだ現代|気質《かたぎ》の特徴といったような体裁で、こんなおまけまでつけた、――このわからずやの公爵は実際のところ、自分の花嫁である将軍令嬢を愛していたのだが、その縁談を拒絶したのは、ただニヒリズムから出たことで、今度の醜事件を目安に置いたのである。すなわち全社会を向こうへまわして、堕落した女と結婚するという満足を、棒にふりたくなかったからである。つまり、この行為によって、『自分の脳中には、堕落した女も淑徳高き令嬢もない、ただ自由な女があるばかりだ、自分は古い世間的な区別を信じない、ただ一個の「婦人問題」を信ずるのみだ』ということを証明したかったのである。それどころか、彼の目から見ると、堕落せる女は堕落しない女より、多少優れているようにさえ映じた。
 この説明は、きわめてまことしやかに思われるので、別荘住まいの大多数に承認された。ことに、毎日のできごとがこれを裏書するのであった。もっとも、ちょいちょいした事情はいぜんとして未解決のままであった、たとえば、哀れな令嬢は真から婚約の男、ある人にいわせれば『誘惑者』を愛していたので、絶縁を宣告された次の日、男が情婦とさし向かいでいるところへかけこんだ、というものもあれば、またあるものはその反対に、令嬢はわざと男に誘われて情婦の家へ行ったのだ、しかもそれはただただ虚無主義から出たことで、汚辱と侮蔑を与えたいためなのだ、と説くものもあった。いずれにもせよ、事件の興味は日ごとに膨張していった。まして、けがらわしい結婚がほんとうに挙行されるという事実には、いささかも疑惑の余地がないから、なおさらである。
 もしここで吾人に事件の説明を求める人があったら、――事件の虚無主義的色彩に関してではない、けっしてそうではない。ただ今度の結婚がいかなる程度まで、公爵の真の要求を満足させているか? またその要求とは今のところどんなものか? 目下の公爵の心境をなんと断定したものか、等々といったような説明を求める人があったら、吾人は、白状するが、非常に答に窮するだろう。吾人がいま知っているのは、ただ結婚がほんとうに成立して、公爵が教会や家事向きの面倒を、いっさいレーベジェフとケルレルと、それにこんど公爵に紹介されたレーベジェフの知人と、この三人にすっかり委任してしまったこと、金に糸目をかけるなという命令の出ていること、結婚を主張してせかしたのはナスターシヤであるということ、公爵の付添いには、ケルレルが熱心なこいによって指定されたこと、ナスターシヤつきとしてはブルドーフスキイが、歓喜の声を上げて依頼を承諾したこと、そして式は七月のはじめと決まったこと、――まず、こんなものである。
 けれど、こういうきわめて正確な事実のほかに、まるでわれわれを五里霧中に彷徨させるような、二、三のうわさが耳にはいっている。つまり、前述の事実と撞着するようなうわきである。たとえば、レーベジェフその他のものにいっさいの面倒を委任しておきながら、公爵は自分に儀式執行係や結婚の付添人があることも、自分が結婚しようとしていることも、さっそくその日のうちに忘れたという話である。彼が大急ぎで、万端の世話を他人に委せてしまったというのも、単に自分でこのことを考えないため、いな、むしろ一刻も早くこのことを忘れてしまいたいからではないか、――こう吾人は深く疑わざるを得ない。もしそうとすれば、彼自身なにを考えているのだろう? 何を思い出そうとしているのだろう? 何に向かって急いでいるのだろう? また彼に対して、何びとの(たとえばナスターシヤなどの)強制もなかったということは、これまた疑いの余地がない。まったくナスターシヤは、ぜひにといって結婚を取り急ぎ、自分からこれを考えだしたので、けっして公爵から持ち出したのではないが、しかし公爵はぜんぜん自由意志をもって承諾したのだ。かえって、なにかごくありふれたものでもねだられたように、そわそわした手軽な態度で承諾したくらいである。こういう奇怪な事実は吾人の手近にたくさんある。こんなのをいくら引き合いに出したところで、すこしも真相を明らかにしないのみか、吾人の考えでは、かえって不明瞭にしてしまうくらいである。けれど、今一つの例を引いてみよう。
 次のような事実も一般に知れわたっている。ほかでもない、この二週間、公爵はいく日もいく晩も、ナスターシヤといっしょに時を送った。そして、彼女はよく公爵を散歩へ誘ったり、奏楽を聞きに連れ出したりした。また公爵は毎日彼女と連れ立って、ほうぼう幌馬車で乗りまわした。たった一時間でも彼女の姿が見えないと、公爵はもうすぐ心配しはじめた(つまり、すべての兆候から推して、公爵が彼女を真底から愛していたことがしれる)。公爵はいく時間もいく時間もぶっとおしに、穏かなつつましい笑みを浮かべながら、自分のほうからはほとんど口をきかないで、どんなことでも彼女の話なら、じいっと耳を傾けて聞いている。 しかし、われわれは同様に次の事実をも知っている。ほかではない、この数日間に彼はいく度も、というよりはしょっちゅう、出しぬけにエパンチン家へ出かけた、しかも、それをナスターシヤに隠そうとしないので、彼女はそのたびにほとんど絶望の極に達した。ところで、エパンチン家ではパーヴロフスク滞在中、けっして公爵を上へあげなかった。そして、アグラーヤに会わしてくれという彼の願いは、いつもびしびしはねつけられた。彼は一語も発しないで立ち去ったが、すぐ次の日になると、きのう拒絶されたことはけろりと忘れたように、またぞろ将軍家を訪れ、むろん、またぞろ拒絶の憂き目を見るのであった。
 同様にわれわれはこういうことを知っている――アグラーヤがナスターシヤのもとを走り出てから、一時間ののち、あるいはすこし早かったかもしれない、公爵は早くもエパンチン家に姿を現わした。むろんここでアグラーヤに会えることと信じながら。ところが、彼の出現はそのとき同家に非常な恐慌と、騒動をひきおこした。なぜというに、アグラーヤはまだ帰宅していなかったうえに、同家では娘が彼といっしょにナスターシヤの家におもむいたことを、公爵からはじめて聞いたからである。うわさによると、リザヴェータ夫人も姉たちも、――おまけにS公爵までが、そのとき公爵に冷淡な敵意に満ちた態度をとり、即座に激しい言葉を使って、知人としてかつ友達としてのつきあいをことわった。ことに、とうぜんそこヘヴァルヴァーラがはいって来て、アグラーヤはもう一時間ばかり前から自分の家へ来て、恐ろしい状態に落ちている、そして家へは帰りたくない様子だと知らせたとき、さらにその態度が露骨になった。
 この最後の報告は、なによりも激しくリザヴェータ夫人を震撼した。しかも、それがまったく事実だったのである。ナスターシヤのところから出たとき、アグラーヤは今さらのめのめ家の人に顔をさらすより、いっそ死んだほうがましだと思って、いっさんにニーナ夫人のところへかけこんだのである。ヴァルヴァーラは今すぐ一刻の猶予もなく、このことをすっかりリザヴェータ夫人に報告する必要がある、と感じた。母とふたりの姉をはじめ、一同ただちにニーナ夫人のもとへかけつけた。たったいま帰宅したばかりのイヴァン将軍、一家のあるじも、みんなのあとにつづいた。またそのあとからムイシュキン公爵も、人々がそっけない言葉で追い払うのもかまわず、おぼつかない足どりでかけだした。しかし、ヴァルヴァーラの取り計らいで、彼はここでもアグラーヤのそばへ通してもらえなかった。アグラーヤは、母や姉たちが自分に同情して泣きながら、いささかもとがめだてしないのを見て、いきなりみんなに飛びかかって抱き合った。そして、おとなしく一同とともに家へ帰ったので、事件はひとまずこれで落着した。
 もっとも、あまり確かではないが、こんなうわさも人々の口にのぼった。ほかでもない、ガーニャがここでもさんざんな目に合ったのである。ヴァルヴァーラがリザヴェータ夫人のもとへ走って行ったすきをねらって、彼はアグラーヤとさし向かいで、自分の恋をうち明ける気になった。その言葉を聞くやいなや、アグラーヤは自分の悲しみも涙も忘れ、急にからからと笑いだした。そして、とつぜん奇妙な質問を持ち出した。それは愛の証明のために、今すぐ指をろうそくの火で焼くことができるか、というのであった。ガーニャはその要求に度胆を抜かれて、なんと答えていいかわからず、たとえようもないけげんな表情を顔に浮かべたので、アグラーヤはヒステリイのようにきゃっきゃっ笑いながら、二階にいるニーナ夫人のところへ走って行った。そこで彼女は自分の両親に会ったのである。
 この挿話は、翌日イッポリートを経て公爵の耳にはいった。彼はもう床から起きられなかったので、このことを知らせるために、わざわざ公爵に使いをやった。どうしてこのうわさが耳にはいったかわからないが、公爵はろうそくと指の話を聞いたとき、イッポリートさえびっくりするほど笑いだした。が、急にぶるぶるふるえだして、さめざめと涙を流しはじめた……概して彼はこの数日間、恐ろしい不安と非常な動乱につかまれていた。しかも、それが漠として悩ましいものであった。イッポリートは、公爵のことを正気でないと断言したが、そこはまだなんともはっきりしたことは言われない。
 こうした事実を列挙して、その説明を拒みながらも、われわれはけっして本編の主人公を読者の眼前で、弁護しようと望んでいるわけではない。そればかりか、公爵が親友のあいだに呼びさました憤懣をわかつことすら、あえていとわないつもりである。ヴェーラさえもしばらくのあいだ、公爵の行為に憤慨していた。コーリャまで憤慨していた。ケルレルすら、付添人に選ばれるまでは、ぷりぷりしていた。レーベジェフのことはいうまでもない。彼はやはり憤慨のあまり、公爵に対してなにやら策をめぐらしはじめた。その憤慨はきわめて真摯なものといっていいくらいである。しかし、このことはあとでいおう。概してわれわれはエヴゲーニイの言葉、――心理的に深刻かつ強烈な言葉に、ぜんぜん同意を表するものである。それは、ナスターシヤの家でおこったできごとののち六日か七日目に、彼が公爵と隔てのない談話をまじえたとき、無遠慮に述べた言葉なのである。
 ついでにことわっておくが、エパンチン家の人々ばかりでなく、直接間接、同家に属しているすべての人は、公爵との関係を断ってしまわねばならぬ、と感じた。たとえば、S公爵などは、公爵に出会。ても、ぷいと横を向いてしまって、会釈さえしようとしなかった。けれど、エヴゲーニイは自分の立場を傷つけるのも意に介しないで、また、毎日のようにエパンチン家へ出入りをはじめ、前にも増した歓待を受けるようになったにもかかわらず、あるとき公爵を訪問したのである。それはエパンチン一家が当地を去った翌日だった。ここへ来るときも、彼は町じゅうに広がったうわさを、すっかり知っているばかりでなく、ことによったら、自分でもすこしぐらいその手伝いをしたかもしれない。公爵はおそろしく彼の来訪をよろこんで、すぐさまエパンチン家のことをいいだした。こうした子供らしいさっぱりした話のきりだしに、エヴゲーニイはすっかりくだけた調子になり、まわりくどいことはぬきにして、すぐ要件にとりかかった。
 公爵は、エパンチン一家の出立をまだ知らずにいた。彼はぎっくりしてまっさおになった。しかし、しばらくたつと、当惑したような考え深い様子で首を振りながら、『そうあるべきだったのです』と自白した。それから、せかせかとした調子で、『どこへ行かれたのでしょう?』とたずねた。
 エヴゲーニイはそのあいだ、じいっと公爵を観察していた。せかせかした質問、その質問の無邪気な調子、きまりの悪そうな、同時になんだか奇妙に露骨な態度、不安げな興奮した様子、――こういう点はすくなからず彼を驚かした。けれども、彼は愛想のいい調子で、すべてを詳しく公爵に報告した。こちらはいろいろの事実を知らなかった。たにしろ、これが将軍家から出たはじめての便りであった。彼はアグラーヤがほんとうに病気して、三週間ばかりぶっとおし熱に悩まされ、夜もほとんど眠らなかったといううわさを確かめた。しかし、今はだいぶよくなって、心配なことはすこしもないが、神経的なヒステリックな状態にある……『でも、家の中がすっかり穏かになったから、まだそれでも結構なんですよ! 過去のことは、アグラーヤさんの前だけでなく、おたがい同士のあいだでも、匂わせないようにしています。ご両親は、秋に入って、アデライーダさんの結婚がすみ次第、外国旅行をすることに決められました。アグラーヤさんは、はじめてこの話を持ちかけられたときも、ただ黙って聞いておられましたよ』
 彼エヴゲーニイも、やはり外国へ出かけるかもしれない。S公爵さえも、もし事情が許すならば、アデライーダといっしょにふた月ばかりの予定で、行って来るといっている。当の将軍はこちらに居残るはずである。こんど一同が引き移ったのはコルミノ村といって、ペテルブルグから二十露里ばかり離れた同家の領地で、そこには広い地主邸がある。ペロコンスカヤ夫人はまだモスクワへ帰らないが、どうやらわざと踏みとどまっているらしい。リザヴェータ夫人はあんなことのあったあとで、当地に居残るのはどうあっても不可能だと主張した。それはエヴゲーニイが、毎日市中のうわさを夫人に伝えたからである。エラーギン島の別荘に住まうのも、やはりできないことであった。
「ねえ、まあ、じっさい」とエヴゲーニイは言い添えた。「考えてもごらんなさい、どうして辛抱ができるものですか……それに、ここで、あなたの家で毎時運んでいることをすっかり聞かされるうえに、ことわっても、ことわっても、あなたが毎日あそこ[#「あそこ」に傍点]を訪問なさるんですものね……」
「そうです、そうです、そうです、おっしゃるとおりです。ぼくはアグラーヤさんに会いたくって」と彼はふたたび首を振った。
「ああ、公爵」とつぜんエヴゲーニイは、興奮と憂愁を声に響かして叫んだ。「どうしてあなたはあのとき……あんなできごとをみすみすうっちゃっておいたのです? もちろん、もちろん。あんなことはあなたにとって、じつに意想外でしたろう……ぼくも、あなたが度を失ったのは、当然だと認めます。それに、あのきちがいじみた娘さんを引きとめることは、あなたにできなかったでしょう、まったくあなたの力に合いませんよ! しかし、あの娘さんがいかなる程度まで、まじめにかつ強烈に……あなたに対していたかを、あなたはとうぜん理解すべきだったんですよ。あのひとはほかの女と愛をわかつのがいやだったのです。それなのにあなたは……あなたはあれほどの宝を抛《なげう》って、こわしてしまうなんて!」
「ええ、ええ、おっしゃるとおりです、ぼくが悪かったのです」と公爵はまた恐ろしい哀愁に沈みながらいいだした。「それにねえ、ナスターシヤさんに対してあんな見かたをしたのは、あのひとひとりです、アグラーヤさんただひとりですよ……ほかの人はだれもあんな見かたをしませんでした」
「おまけに、事件ぜんたいが悲惨なのは、真剣なところがすこしもなかったからですよJとエヴゲーニイはすっかり夢中になって叫んだ。「失礼ですが、公爵、ぼくはこのことについて考えたのです、いろいろ考え抜いたのです。ぼくは以前のことをすっかり承知しています。半年まえのことをすっかり知っています。――あれはけっして真剣ではなかったのです! あれはすべて単なる頭脳の沈溺だったのです、絵です、幻想です、煙です。あれをなにか真剣なことのように考えうるのは、ぜんぜん無経験な少女の嫉妬から出た危惧です!………」
 ここでエヴゲーニイはもうすっかり遠慮会釈なしに、自分の憤激を吐露してしまった。合理的に明晰に、そしてくりかえしていうが、異常な心理解剖さえ試みながら、彼は公爵とナスターシヤの以前の関係をことごとく、一幅の絵画のように公爵の前に広げて見せた。エヴゲーニイはいつも言葉の才能を賦与されていたが、今はもう雄弁の域にさえ達したのである。
「ずっと最初から」と彼は声を励ましていった。「あなたがたの関係は虚偽ではじまりました。虚偽ではじまったものは、また虚偽に終わるべきです、それが自然の法則です。ぼくは人があなたを、――いや、まあだれにせよ、――白痴《ばか》だなんていっても、同意することができません。いや、憤慨したくなるくらいです。あなたはそんな名前を受けるべく、あまりに賢すぎます。しかし、あなたは並みの人と違う、といわれても仕方がないほど、いっぷう変っています、ねえ、そうでしょう。ぼくの断定では、過去の事件ぜんたいの基礎は、第一にあなたの……そうですねえ……生まれつきの無経験と(この『生まれつき』という言葉に気をつけてください)、それから、あなたのなみはずれてナイーヴな性質と、適度という観念の極端な欠乏と(それはあなたがご自分でもいく度か告白なすった)、それから頭の中で作りあげた信念の雑然たる累積と、こういうものから成り立っているのです。あなたはご自分の高潔な性情からして、これらの信念を偽りのない生粋なものだと、今の今まで信じていらっしゃるのです! ねえ、そうじゃありませんか、公爵、あなたのナスターシヤさんに対する関係には、はじめっからその条件的民主主義[#「条件的民主主義」に傍点](これは簡潔をたっとぶためにいったのです)とでもいうようなものが潜んでいました。(なお簡潔にいえば)『婦人問題』の崇拝ですよ。ぼくは、ラゴージンが十万ルーブリの金を持って来たときの、不体裁きわまる、奇怪千万な、ナスターシヤさんの夜会の顛末を、すっかり正確に知っています。お望みなら、まるでたなごころをさすように、あなた自身を解剖して見せますよ。まるで鏡にかけたように、あなた自身をお目にかけますよ。それぐらいぼくは正確にことの真相と、その転換の原因をきわめているのです! 青春の血に燃えるあなたは、スイスに住んで、父祖の国にあこがれていました。まだ見たことのない約束の土地かなんぞのように、まっしぐらにロシヤヘ帰っていらしったのです。あなたはあちらで、ロシヤに関する本を、たくさんお読みになったでしょう。その本は優れたものだったかもしれませんが、あなたにとっては有害なものだったのです。とにかく、あなたは若々しい熱情に満ちた実行欲をいだいて、われわれの中へ現われて来ました。そして、いきなり実行におどりかかったのです! ちょうど到着の日に、あなたはさっそく悲しい胸を躍らすような話、辱しめられた婦人の話を聞かされたのです。聞き手はあなたという童貞のナイト、話は女の話ときたんです、その日のうちに、あなたはその婦人に会って、その美に魅せられました、――幻想的な、悪魔的な美に魅せられました(まったくぼくはあのひとが美人だってことを承認しますよ)。それにあなたの神経と、あなたの持病と、そして人の神経をかき乱さずにおかぬわがペテルブルグの雪解けの気候を加えてごらんなさい。あなたにとっていくぶん幻想的な未知の町におけるこの一日を加えてごらんなさい。いくたの邂逅や、芝居めいた事件や、思いがけない知り合いや、意想外な現実や、エパンチン家の三人の美人や、その中にはアグラーヤさんもはいってるんです、こういうものに満ちたあの一日を加えてごらんなさい。疲労と眩暈《めまいお》を加えてごらんなさい。ナスターシヤさんの客間と、客間の調子を加えてごらんなさい……こついう瞬間に、あなたは自分がどうなると考えます、いったい?」
「そうです、そうです、ええ、ええ」と公爵は、しだいに顔をあからめながら、首を振った。「ええ、それはほとんどそのとおりなのです。そのうえに、ぼくは前の晩も汽車の中だったので、まるですこしも寝なかったんです。それですっかり頭の調子が狂ったものですから……」
「ええ、そうですとも、もちろんですよ。ぼくもそのほうへ議論を進めてるんです」とエヴゲーニイは熱くなって、言葉をつづけた。「わかりきった話です。あなたはいわゆる歓喜の情に陶酔して、おれは昔からの公爵だ、潔白な人間だというりっぱな感情を、大勢の前で発表しうる最初の機会に飛びかかったのです。つまり、自分の罪ではなく、いまわしい放埒紳士の罪のためにけがされた女は、けっして堕落したものと思わない、こういうことを知らせたかったのです。おお、そりゃもうわかりきった話です! しかし、それはかんじんな点じゃありませんよ、公爵。かんじんな点は、あなたの感情に真実性があったか、自然性があったかということなんです。それは単に、あなたが頭の中で作りあげた感激ではなかったか、ということなんです。公爵、あなたはなんとお考えになります、――かつてああいう種類の婦人が、教会でゆるされたこともありますが、しかしその婦人の行為はりっぱなものだ、あらゆる尊敬を受ける価値がある、―とはいってありませんよね? だから、三か月たったのち、常識があなた自身にことの真相を教えてくれたじゃありませんか。今あのひとが無垢なら無垢でいいです。ぼくは好まないことだから、しいて争おうとはしません。しかし、はたしてあのひとの行為が、あのお話にならない悪魔のような傲慢な態度や、あの、人を人とも思わぬ貪婪なエゴイズムを、弁護しうるでしょうか? いや、ごめんなさい、ぼくあんまり夢中になったもんですから……」
「そうですね、それはみんなほんとうかもしれませんよ。あるいはあなたのおっしゃるとおりかもしれませんよ……」とふたたび公爵はつぶやくようにいった。「あの女はまったく非常にいらいらしていました、もちろん、おっしゃるとおりです。しかし……」
「同情を受ける価値はある……でしょう? そうおっしゃるつもりでしょう、ね、公爵?『しかし、単なる同情のために、あのひとの満足のために、いま一方の高潔な令嬢をけがしでもいいの。ですか? あの[#「あの」に傍点]暴慢な、あの憎悪に輝く目のまえで、その令嬢を辱しめてもいいのですか? そんなことをいったら、同情というやつはどこまで行くかわかりませんよ! それはありうべからざる誇張です! あなた自身、公明正大な申込みをして、しかも真底から愛している令嬢を、競争者の前でああまで辱しめたうえに、競争者の見てるところでその女に見変えるなんて、いったいできることでしょう。が……あなたはまったくアグラーヤさんに申込みをしたのでしょう、両親や姉さんたちの前でりっぱにおっしゃったのでしょう! これでもあなたは潔白な人なんでしょうか? 公爵、失礼ですが、ひとつうかがいましょう。それでも……それでも、あなたは神さまのような少女に向かって、『わたしはあなたを愛しています』といったのが、うそをついたことにならないでしょうか!」
「そうです、そうです、おっしゃるとおりです、ああ、ぼくはしみじみ自分が悪かったと思います!」公爵は言葉に現わせぬ憂愁をいだきつつこういった。
「いったいそれでことは足りるんですか?」エヴゲーニイは憤激のあまりに叫んだ。「いったい『ああ、自分が悪かった!』と叫んだら、それでことは済むんですか? 悪かったといいながら、やはり強情を通してるじゃありませんか! 全体あなたの心は、『キリスト教的』な心はどこにあったのです? あのときのアグラーヤさんの顔をごらんになったでしょう? いったいあのひとはもうひとり[#「もうひとり」に傍点]のほうより、――ふたりの中を引き裂いたあなたの女[#「あなたの女」に傍点]より、苦しみかたが少なかったとでもいうんですか? どうしてあなたは現に見ていながら、うっちゃっといたんです、え?」
「だって……ぼく、うっちゃったといたわけじゃないんです……」と不幸な公爵はつぶやいた。
「なぜうっちゃっといたわけでないのです?」
「けっしてうっちゃっときゃしなかったのです。どうしてあんなことになったのか、ぼくはいまだにわかりません……ぼくは……ぼくはアグラーヤさんのあとを追ってかけだしたのです。ところが、ナスターシヤが卒倒したもんですから……その後ずっと今まで、アグラーヤさんに会わしてもらえないのです」
「同じこってすよ! ナスターシヤさんが卒倒したにしろ、あなたはやはりアグラーヤさんのあとを追って行くべきだったのです!」
「そう……そう、ぼくは追って行くべきだったのです……しかし、うっちゃっといたら、死んでしまったかもしれないんですもの! あなたはあの女をごぞんじないですが、きJと自殺したに相違ありません、それに……いや、どうでもよろしい、ぼくあとでアグラーヤさんにすっかり話します、そして……ねえ、エヴゲーニイ・パーヴルイチ、お見受けしたところ、あなたは事件の全貌がよくおわかりでないようですね。いったいなんだってぼくをアグラーヤさんに会わしてくれないのでしょう? ぼくあのひとにすっかり説明したいんですがねえ。まったくふたりともあのとき見当ちがいのことばかりいってたのです。すっかり見当ちがいのことでした。だから、あんなことになってしまったのです……ぼくはどうしてもあなたにこのことが説明できません、けれど、アグラーヤさんにはうまく説明できるかもしれません……ああ、たまらない、たまらない! あなたは、あのひとがかけだした瞬間の顔といいましたね……ああ、どうしたらいいだろう、ぼくおぼえています!………行きましょう、さあ行きましょう!」とつぜん彼はせかせかと椅子から飛びあがりながら、エヴゲーニイの袖を引っ張るのであった。
「どこへ?」
「アグラーヤさんのところへ行きましょう、行きましょう!……」
「だって、もうここにいないといったじゃありませんか。それに、なんのために?」
「あのひとは理解してくれます、あのひとは理解してくれます!」公爵は祈るように手を組みながらいった。「あのひとは、なにもかもすっかり間違っている[#「間違っている」に傍点]、ぜんぜん別な事情だってことを、理解してくれます!」
「どうぜんぜん別なんです? でも、あなたはやはり、結婚しようとしているじゃありませんか。してみると、強情を通していらっしゃるのです……結婚なさるんですか、なさらないんですか?」
「え、さよう……結婚します。ええ、しますとも!」
「じゃ、なぜ別なんです?」
「おお、別ですとも、別です、別です! ぼくが結婚しようとしまいと、それは、それは同じことです、なんでもありません!」
「どう同じことなんです、どうなんでもないのです? だって、これは些細なことじゃありませんよ。あなたは好きな女と結婚して、その人に幸福を与えようとしてらっしゃる。ところが、アグラーヤさんはそれを見て、知っているのですよ。それだのに、どうして同じことなんでしょう?」
「幸福ですって? おお、違います! ぼくはただなんということなしに結婚するのです。あれの望みでね。それに、ぼくが結婚するということが、いったいなんでしょう。ぼくは……いや、これもやはりどうだってかまいません! ただあのままうっちゃっておいたら、あれはきっと死んだのです。今こそすっかりわかりました。ラゴージンと結婚しようなんて考えは、まったく狂気の沙汰だったのです! いまぼくは、以前わからなかったことまで、すっかりわかります。ところでね、あのときふたりが顔と顔を突き合わして立ったとき、ぼくはナスターシヤの顔を見るに堪えなかったのです。あなたはごぞんじないでしょう(と秘密でもうち明けるように声をひそめて)、ぼくこれは今までだれにも、アグラーヤさんにもいわなかったのですが、ぼくはいつもナスターシヤの顔を見るに堪えないのです……あなたがさっきナスターシヤの夜会についておっしゃったことは、ぜんぜん正鵠を得ています。しかし、たった一ついい落とされたことがあります。つまり、ごぞんじないからです。ほかでもありません、ぼくはあれの顔[#「あれの顔」に傍点]を見つめていたのです! もうあの朝、写真で見たときから、たまらないような気持ちがしました……ほら、あのヴェーラ・レーベジェヴァなんかの目は、まるっきり違うじゃありませんか。ぼく……ぼくはあれの顔が恐ろしいのです!」彼は異常な恐怖を現わしながらこういい足した。
「恐ろしいんですって?」
「ええ、あれは――気がちがってるんです!」と彼は青い顔をしながらささやいた。
「あなたはたしかに知っておいでなんですか?」ひとかたならぬ好奇の色を浮かべて、エヴゲーニイはたずねた。
「ええ、たしかに、今こそもうたしかに知りました。今度、この四、五日のあいだに、もうたしかに突きとめました!」
「まあ、あなたは自分をどうしようとしてるんです?」とエヴゲーエイはおびえたように叫んだ。「じゃ、あなたはなにか恐ろしくって結婚されるんですね? なにがなんだかわけがわからん……じゃ、愛もないくせに?」
「おお、違います。ぼくは全心を傾けてあれを愛しています! だって、あれは……まるで子供ですものね。今あれは子供です。まるっきり子供です! ええ、あなたはまるでごぞんじないんですよ!」
「それだのに、あなたはアグラーヤさんに愛を誓ったんですか?」
「おお、そうです、そうです!」
「なんですって? じゃ、両方とも愛したいんですか?」
「おお、そうです、そうです!」
「冗談じゃありませんぜ、公爵、なにをおっしゃるんです、しっかりなさいよ!」
「ぼくアグラーヤさんがなくては……ぼくはぜひあのひとに会わなきゃなりません! ぼく……ぼくは間もなく、寝てる間に死んでしまいます。ぼくは今夜にも、寝てる間に死にそうな気がします。ああ、アグラーヤさんが知ってくれたらなあ。いっさいのことを、――ええ、ほんとうにいっさいのことを知ってくれたなら。だって、この場合、いっさいを知ることが必要なんです。それが第一の急務です! ぼくらは他人に罪がある場合、その他人に関するいっさい[#「いっさい」に傍点]のことを知る必要があるにもかかわらず、どうしてそれができないんでしょう!………とはいうものの、ぼく自分でも何をいってるかわかりません、あなたがあまりぼくをびっくりさせたものですから……ところで、いったいあのひとは今でも、あの部屋をかけだしたときのような顔をしていますか? おお、じっさいぼくが悪かった! すべてぼくが悪い、というのがいちばん確かです。はたして何が悪かったか、それはまだわかりませんが、とにかくぼくが悪いのです……この事件にはなにかしら、あなたに説明できないようなものが、説明の言葉のないようなものがあります、しかし……アグラーヤさんは悟ってくれます! ええ、ぼくはいつも信じていました、あのひとは悟ってくれます」
「いや、公爵、悟りゃしません! アグラーヤさんは女として、人間として恋したので、けっして……抽象的な精霊として恋したんじゃありませんからね。公爵、あなたどう思います。あなたはけっしてどちらも愛したことがないと考えるのが、いちばんたしかじゃないでしょうか?」
「ぼくにゃわかりません……そうかもしれません、そうかもしれません。多くの点において、あなたのお説は当たっていますからね。エヴゲーニイさん、あなたは非常に賢いかたです。ああ、ぼくまた頭が痛みだした。さあ、あのひとのとこへ行きましょう! 後生です、後生ですから!」
「ぼくそういってるのじゃありませんか、あのひとはここにいません、コルミノ村です」
「じゃ、コルミノ村へ行きましょう、さあ、すぐ!」
「それは不ー可ー能です!」エヴゲーニイは立ちあがりながら、言葉じりを引いていった。
「じゃね、ぼく、手紙を書くから届けてください」
「いけません、公爵、いけません! そんなお使いはごめんをこうむります、できません!」
 ふたりは別れた。エヴゲーニイは奇妙な確信を得て立ち去った。彼の考えによると、公爵は少々気が触れているのであった。『あの男があんなに恐れながら、しかも愛しているあの顔というのは、いったいなんのことだろう! それはそうと、あの男はアグラーヤさんがいなかったら、ほんとうに死んでしまうかもしれない。そしたら、アグラーヤさんも、あの男があれほどまで自分を愛してることを、一生知らずに過ごしてしまうかもしれないぞ! はは! しかし、ふたりを同時に愛するなんて、いったいどんなふうなんだろう? なにか別別な二つの愛で……ふん、なかなかおもしろい……しかし、かわいそうな白痴だ! いったいあの男はこれからどうなるのだろう?』

      10

 とはいえ、公爵は結婚式の日まで、エヴゲーニイに予言したとおり、『寝てる間』にも、さめてるときにも死ななかった。じじつ、彼は夜よく寝られないで、悪い夢ばかり見ていたかもしれぬが、昼間、人の前へ出ると、なかなか親切で、満足そうにさえ見えた。ときどきひどく沈みこむこともあったが、それはただひとりでいたときに限った。式は取り急がれて、エヴゲーニイの来訪後、約一週間ということになった。公爵がこんなに急いでいるので、最も親しい友達さえ(かりにそういうものがあるとすれば)、この不幸なわからずやを『救おう』という努力について、失望を嘗めなければならなかったろう。こんなうわさもあった。エヴゲーニイ来訪の責任は、いくぶんエパンチン将軍夫妻が負うているというのだ。しかし、たとえ彼らが底の知れぬ優しい心持ちから、深い淵に沈もうとしている哀れな狂人の救助を望んだにしろ、このおぼつかない試み以上、踏みだすわけに行かなかった。将軍夫妻の地位も心持ちも、これ以上真剣な助力を許さなかった(それはきわめて自然なことである)。前にも述べたとおり、公爵を取り巻いている人々も、いくぶん彼に反抗的態度をとったが、ヴェーラは人のいないところで涙をこぼすとか、またはおもに自分の部屋に引きこもって、以前のようには公爵のところへ顔出しをしないとか、それくらいなことにとどまっているし、コーリャはこの当時、父の野辺送りをしていた。老将軍は最初の発作後八日目に、二度目の発作で死んだのである。公爵は一家の悲しみに深厚な同情を表し、はじめの二、三日はニーナ夫人のもとでいく時間も、いく時間も過ごしたほどである。葬送のときには教会へも行った。教会に居合わせた群集が、われともなしに発するささやきの声で公爵を送迎したのに、多くのものは心づいた。それと同じことが往来でも、公園でもくりかえされた。公爵が徒歩にしろ、馬車にしろ、通り過ぎるたびに、がやがやと話し声がおこって、彼の名を呼んだり、指さしたりした。ときには、ナスターシヤの名まで聞こえた。人々は葬式でも、ナスターシヤを目つけ出そうとしたが、葬式にも彼女は居合わせなかった。例の大尉夫人も葬式に来なかった。それはレーベジェフが前もって、言葉をつくして思いとどまらせたからである。この葬式は公爵に強い病的な印象を与えた。彼はまだ教会にいるとき、レーベジェフのある問に答えて、自分が正教の葬式に列するのは、これがはじめてだ、ただ子供の時分、どこか田舎の教会であった葬式を、一つ覚えているばかりだとささやいた。
「さよう、なんだかわたしたちがついこのあいだ議長に推挙した、ねえ、お覚えでしょう、あれと同じ人が、棺の中にはいってるとは思えませんよ」とこちらは公爵にささやいた。「あなただれをさがしておいでです?」
「いや、なに、ただちょっと妙な気がしたので……」
「ラゴージンじゃありませんか?」
「いったいあの人がここにいるんですか?」
「はい、教会の中に」
「ははあ、道理で、なんだかあの人の目がちらっとしたようだった」と公爵はあわてたようにつぶやいた。「だが、いったい……なぜここにいるんです? 招待を受けたんですか?」
「思いもよらぬことです。まるっきり縁故がないじゃありませんか。ここにはどんな人だっています、物見だかい連中ですからね、いったいなにをそんなにびっくりなさりますので? わたしはこのごろ、しょっちゅうあの男に出会いますよ。もう先週四度ばかりも、このパーヴロフスクで出くわしました」
「ぼくは一度も会いません……あのとき以来ね」と公爵はつぶやくのであった。
 ナスターシヤも『あのとき以来』ラゴージンに会ったなどという話を一度もしないので、公爵は、ラゴージンがなぜかわざと顔を見せないのだと、このごろひとりでそう決めていた。この日いちんち彼はひどく考えこんでしまった。ところが、ナスターシヤはその日、夜になっても、おそろしくはしゃいでいた。
 父の死に先立って、公爵と和解したコーリャは、ケルレルとブルドーフスキイを付添人に頼めと勧めた(それは目前に迫った急務だったから)。彼はケルレルが不都合な行為をしないどころか、あるいはかえって『適任者』かもしれないと請け合った。ブルドーフスキイのほうはなにもいうことはない。あのとおりの静かなおとなしい人間である。ニーナ夫人とレーベジェフは公爵に忠告して、よしんば結婚が決まったにもせよ、なぜパーヴロフスクで、おまけに人の集まる避暑季節に、ぎょうぎょうしいことをする必要があるのだろう、すくなくともペテルブルグで、なんならいっそ内輪でしたほうがよくはないかといった。こうした杞憂が何を意味するかは、公爵にとってあまりに明瞭なことであった。しかし、彼は手短に、ナスターシヤがたっての望みだから、と答えた。
 次の日、付添人に選ばれたという報告を受けたケルレルが、公爵のもとへ出頭した。はいる前に、彼はちょっと戸口で立ちどまった。そして、公爵の姿が目に入るやいなや、人さし指を立てながら、右手を高くさし上げて、晢いでもするように叫んだ。
「もう飲まんです!」。
 それから公爵に近寄って、両の手を握りしめながらひと振りした。そして「わが輩もはじめのうちは、ご承知のとおりあなたの敵でした。これはわが輩自身、玉突屋で宣言したことです。しかし、これというのも、わが輩があなたのことを心配して、一日も早く公女ドーロアンか、すくなくともドーシャボぐらいの人を、あなたの夫人として見たいと、毎日毎日、親友の焦躁をもって待ちこがれていたからです。しかし、今はあなたがわが輩たちを十二人ぐらい『束にした』より、はるかに高尚な考えを持っておいでになることを悟りました! なんとなれば、あなたは光彩も、富も、また名誉すら必要としないで、ただ真実のみを求めていられるからです! 高尚な人の同情に篤《あつ》いことは、わかりきった話です。ところが、公爵のあまりに高尚なる教育をもっては、高尚な人たらざらんとするも、豈《あに》うべけんやです。全体から見ましてね! しかし、意地のきたないごみごみした連中は、また別な考えかたをしています。町じゅうのものが家の中でも、集会の席でも、別荘でも、奏楽堂でも、酒場でも、玉突屋でも、今度の式のことばかり話したり、わめいたりしています。なんでも、窓の下で大騒ぎをするつもりだ、とかいう話ですよ。しかも、それが結婚の当夜なんですからなあ! 公爵、もし潔白な人間のピストルが必要でしたら、わが輩はあなたがあくる朝『蜜の床』からお起きにならぬうちに、正義の弾丸の半ダースやそこらは射つ覚悟です」彼はなお教会を出たのち、かつえた連中が雪崩をうって押し寄せる場合を気づかって、おもてにポンプを用意するように勧めた。しかしこれはレーベジェフが反対した。『ポンプなんか用意したら、うちを木っぱにして持って行かれますよ』
「あのレーベジェフは、あなたに対して陰謀を企てています、ええ、実際です! あの連中は、あなたを禁治産あつかいにしようと思ってるのです、しかも、どうでしょう、自由意志も、財産も、なにもかもですよ。各人を四つ足と区別するこの二つのものを奪おうというんだからなあ! わが輩、聞きました、たしかに聞きました、間違いなしの事実です!」
 公爵はいつだったか自分でも、こんなふうの話を聞きこんだことを思い出した。が、そのときはむろん、なんの注意も払わなかったのである。彼は今もただからからと笑ったのみで、すぐにまた忘れてしまった。レーベジェフはまったくしばらくのあいだあくせくしたのである。この男の心算は、いつも感激といったようなものから生まれるが、あまり熱中しすぎるため、こみ入ってきて、ほうぼうへ枝葉がわかれ、最初の出発点からすっかり離れてしまうのであった。つまりこれが、彼の生涯でたいした成功を見なかったゆえんである。その後ほとんど結婚の当日になって、彼が悔悟の念を表するため公爵のところへやって来たとき(彼はいつも人に対して陰謀を企てるたびに、悔悟の念を表するためその人のところへでかけた、それはおもに陰謀の成功しなかったときなので)、自分は元来タレイラン(仏の外交家、一七五四―一八三八年)として生まれたのに、どういう間違いか、ただのレーベジェフでまごまごしているのだ、と前置きして、自分の企みの一条をすっかり暴露して見せた。公爵は非常な興味をいだきながら傾聴した。彼は第一着手として、必要のさいたよりになるような名士の保護を求めた。イヴァン将軍のもとへおもむいたところ、将軍は合点の行かない様子で、自分は心から公爵のためよかれと祈っているから、『助けてやりたいのは山々であるけれども、ここでそんな運動するのは、どうも感心しない』といった。リザヴェータ夫人は彼に会うのも、話を聞くのもいやだといった。エヴゲーニイも、S公爵も、ただ当惑そうに両手をふったばかりである。しかし、レーベジェフは落胆しないで、ある敏腕な法律家と相談した。これは相当の地位を占めた老人で、彼のもとの友人、というよりほとんど恩人なのであった。この人の結論によると、それはできない相談ではないが、ただ相当な人が公爵の智能錯乱と完全な発狂の証明さえすればよい、しかしそのほか名士の保護というのがかんじんなことである。レーベジェフはこのときもけっしてしょげなかった。それどころか、あるとき公爵のところへ医者をつれて来たことさえある。これもやはり相当の地位ある老人で、アンナ勲章を首にかけていようという別荘持ちであった。その目的はただ、その、まあ場所を見て、公爵と近づきになり、当日は公式でなしに親友として自分の診断を告げるためであった。
 公爵はこの医師の来訪を覚えている。その前の晩レーベジェフは、彼の健康がすぐれないといって、うるさく付きまとったあげく、公爵がだんぜん医薬をしりぞけたとき、彼はとつぜんこうして医師をつれて来たのである。その口実はつい今しがたふたりして、非常に容体の悪くなったチェレンチエフ氏を訪問して来たので、医師の口から公爵に病人の容体を知らせるために来訪した、というのであった。公爵はレーベジェフの思いつきをほめて、ねんごろに医師を歓待した。すぐにイッポリートの話がはじまった。医師は、あの自殺当時の光景を詳しく聞きたいと頼んで、公爵の話や説明ぶりにうっとりと聞きとれてしまった。それからペテルブルグの気候や、公爵自身の病気や、スイスや、シュナイデルのことなどに話題が移った。シュナイデルの治療方法の説明や、その他いろいろの話に、医師はすっかり酔わされてしまい、二時間も尻をすえていた。そのあいだに、彼は公爵の飛びきり上等のシガーをふかし、レーベジェフのもてなしとしては、ヴェーラの持って来たすてきな果実酒を飲んだ。このとき妻もあれば家族もある医師が、一種特別なお世辞をヴェーラにふりまいたので、彼女はすっかり憤慨してしまった。ふたりは親友として別れた。
 公爵のもとを辞した医師はレーベジェフに向かって、もしあんな人を禁治産あつかいにするなら、いったいだれを後見人にしようというのか、といった。レーベジェフが目前に迫っているできごとを、悲劇的な態度で述べたのに対して、医師はこすそうな様子で頭を獗っていたが、とうとうしまいに、『人はどんな女とでも結婚しかねないもんですよ。が、それはしばらくおいても、すくなくともわたしの聞くところでは、あの魅力に富んだ婦人は、一世に絶した美貌のほかに、それ一つだけでも、優に身分ある男をひきつけるに足りますがね、そのほかにトーツキイや、ラゴージンからもらった財産をもっています。真珠とか、ダイヤモンドとか、ショールとか、家具類とかいったものをね。だから今度の結婚は公爵として、さして目立つほどの愚昧を証明しないばかりか、かえってずるくて細かい、世なれた勘定だかい頭脳を示しています。してみると、ぜんぜん正反対の、公爵にとって有利な結論を促すわけになるじゃありませんか……』この言葉にレーベジェフもまた感心してしまい、彼もそのまま手をひいてしまった。で、いま公爵に向かって、『もう今度こそは、血を流してもいとわないほどの信服の念のほか、何ものもわたくしの腹中にござりません。そのためにやってまいりましたので』といい足した。
 この四、五日のあいだ、イッポリートも公爵をまぎらしてくれた。彼はうるさいほどしげしげ使いをよこすのであった。彼の一族は、ほど遠からぬ小さな家に住んでいた。小さい子供ら、――イッポリートの弟と妹は、病人を避けて庭へ出られるというだけでも、別荘住まいが嬉しかった。が、哀れな大尉夫人は、まったく彼のいうままになって、まるで彼の犠牲であった。公爵は毎日親子を引き分けたり、仲直りさせたりしなければならなかった。で、病人はいつも彼のことを自分の『保母』と呼んでいたが、それでもその仲裁人の役まわりを軽蔑せずにいられなかった。病人は無性にコーリャに会いたがっていた。それはこの少年がはじめは瀕死の父、のちにはやもめになった母のそばに付き添って、ほとんど顔を見せなかったからである。ついに彼は、目前に迫った公爵とナスターシヤの結婚を冷笑の対象に選んだが、とどのつまりは公爵を侮辱し、怒らしてしまった。公爵はぱったり来なくなった。二日たった朝、大尉夫人がとぽとぽとやって来て、涙ながら公爵においで願いたいと頼んだ。『でないと、わたしはあれ[#「あれ」に傍点]に咬み殺されてしまいます』それから、息子が公爵に大秘密をうち明けたがっている、とつけ加えた。で、公爵は行ってみた。
 イッポリートは和睦を求めて、泣きだした。涙をおさめてから、いっそう腹を立てたのはもちろんながら、ただその怒りを外へ出すのを恐れていた。彼の容体は非常に悪く、もう今となっては死ぬるのに間がないことは、すべての様子から察せられた。秘密などはすこしもなかった。ただ興奮のために(それもあるいはこしらえごとかもしれない)せいせい息をきらしながら、『ラゴージンを警戒なさい』と頼んだくらいのものである。『あの男はけっして我を折るようなやつじゃありません。公爵、あれはわれわれの仲間じゃないですよ。あの男はいったんこうと思ったら、なにひとつ恐ろしいものはないんですからね……』といろいろこれに類したことをいった。公爵はなにやかや詳しくたずねてみて、なにか事実を掘り出そうとしたが、イッポリートの個人としての感じと印象のほか、なんの事実も伏在していなかった。イッポリートはあげくの果てに公爵をびっくりさせたので、無性によろこんで、それきり話をやめてしまった。はじめ公爵は、彼の特殊な質問に答えたくなかったので、『せめて外国へでもお逃げなさい。ロシヤの坊主はどこにでもいますから、むこうで結婚することもできますよ』などという忠告に対して、ただ微笑するのみであった。しかし、イッポリートは次のような考えを述べて、きりあげた。『ぼくはただアグラーヤさんの身の上を心配するのです。あなたがあのお嬢さんを恋してるのを、ラゴージンはよく知っていますから、恋にむくいるに恋を以てすです。あなたがあの男からナスターシヤさんを奪ったから、あの男はアグラーヤさんを殺します。もっとも、アグラーヤさんは今あなたのものじゃないけれど、それでもやはりあなたは苦しいでしょう、そうじゃありませんか?』彼はついに目的を達した。公爵は人心地もなく辞し去った。
 ラゴージンに関するこの警告は、もはや結婚の前日に当たっていた。この晩、公爵がナスターシヤに会ったのは、結婚前最後の会見であった。しかし、ナスターシヤは彼を慰めることができなかった。そればかりか、このごろではしだいに彼の不安を増す一方であった。以前、といっても四、五日まえまで、彼女は公爵と会うたびに、全力をつくして彼の気をまぎらそうとした。公爵の沈んだ様子を見るのが恐ろしかったので、ときには歌をうたって聞かせることさえあった。しかし、おおむね、思い出せるかぎりのこっけいな話を公爵にして聞かせることがいっとう多かった。公爵はたいていいつも笑うようなふりをして見せたが、ときにはほんとうに笑うこともあった、――彼女が夢中になって話すときの、はなばなしい機知と明るい感情につりこまれるのであった。じじつ、彼女はよく夢中になった。公爵の笑顔を見、自分が公爵に与えた感銘を見ると、有頂天になって自慢するのであった。しかし、このごろ彼女の懊悩《おうのう》ともの思いは、ほとんど一時間ごとにつのっていった。
 公爵のナスターシヤに関する意見は、ちゃんと決まっていた。それでなかったら、いま彼女の持っているすべてのものが、謎めいて不可解に感じられたに相違ない。しかし、ナスターシヤはまだ蘇生しうるものと、彼は信じて疑わなかった。彼がエヴゲーニイに向かって、真底から彼女を愛しているといったのは、まったく事実である。じっさい彼の愛の中には、なにかしら哀れな、病身な子供にひかされるようなものが潜んでいた。そんな子供の勝手に任せておくのは、情において忍びがたいような、いな、不可能のような気がするのであった。彼は彼女に対する心持ちを、けっして人にうち明けなかった。そういう話を避けられないような場合ですら、口にすることを好まなかった。当のナスターシヤとは、差し向いの席でも、自分たちの『心持ち』を一度も話し合ったことがない。まるでふたりとも、そんな誓いでも立てたようであった。ふたりの愉快な、いきいきした日々の談話には、だれでも仲間入りができた。ダーリヤはのちになって、『あの当時のふたりをながめていると、ひとりでに嬉しくなって、ほれぼれするくらいでした』と話していた。
 しかしナスターシヤの精神的、ならびに智的状態に関する彼のこうした見かたは、そのほかのさまざまな疑惑をまぎらすのにいくぶん力があった。今のナスターシヤは、三か月ばかり前に知っていたころとは、まるで別人のようになっている。彼も今はもう、『あのとき自分との結婚をいとって、涙とのろいと非難とともに逃げだした女が、どうして今度はかえって自分のほうから、結婚を主張するようになったのか?』などと考えこまなくなった。『つまり、もうあのときのように、この結婚がぼくの不幸になるなどと心配しなくなったんだ』と公爵は考えた。かくも急激に生じた自信は、どうしても自然なものであるはずがない、と彼の目には感じられた。アグラーヤに対する憎しみばかりが、かほどの自信を生むわけがない。ナスターシヤはもうすこし深い直感をもっていろ。ラゴージンといっしょになった時を思う恐怖のためでもあるまい。手短にいえば、これらの原因が、さまざまなほかの事情といっしょになっているのだ。けれど、なにより明瞭なのは、彼が以前から疑っている事実、――哀れな病める心に堪えられないような事実が、この間《かん》に伏在しているということである。
 これらの推論はじじつ、いろいろの疑惑に対して、一種の避難所を作ってくれたけれど、この数日間、彼に安心も休息も与えることができなかった。ときには、彼はなんにも考えまいと努めた。じじつ、彼はこの結婚を、些細な形式かなんぞのように見ているらしかった。自分の運命をも、あまりに安く評価しているのであった。エヴゲーユイの会話に類するような会話や、その他いろいろの抗議に対しては、ぜんぜん返答ができなかったし、またその資格があるとも思えなかった。で、すべてこの類の会話を避けるようにした。
 とはいえ、彼は気がついた、アグラーヤが公爵にとっていかなる意味をもっているかを、ナスターシヤはあまりによく知り、かつ了解していた。彼女は口にこそ出していわないが、まだはじめのうち公爵が、エパンチン家へ出かけようとしているのを見つけたとき、彼は彼女の『顔』を見た。将軍一家が出発したとき、彼女はさながら喜びに輝きわたるようであった。公爵はずいぶん気のつかない、察しの悪いほうであったが、それでも、ナスターシヤが自分の恋敵をパーヴロフスクからいびり出すために、なにか非常な行動を決行しそうだという考えは、急に彼の心を騒がしはじめた。結婚に関する別荘じゅうの騒がしいうわさも、むろんナスターシヤが恋敵をいらだたせるために、ひきつづいて種を供給したのである。エパンチンー家の人に会うのがむずかしかったので、ナスターシヤはあるとき自分の馬車に公爵を乗せて、相乗りで将軍家の窓際を通るように指図した。それは公爵にとって思いもよらぬ驚きであった。彼はいつものくせで、もう取り返し以つかない時になって、――もう馬車が窓際を通っている時に、はじめてはっと気がついた。彼はなんにもいわなかったが、その後二日ばかり引きつづいて病気した。ナスターシヤも、以後そんな実験をくりかえさなかった。
 結婚の二、三日まえから、彼女はひどく考えこむようになった。いつもしまいにはふさぎの虫を征服して、また陽気になるのが常であったが、そのはしゃぎかたが前よりも静かで、ついこの間ほど騒々しくもなければ、それほど幸福らしい快活さもない。公爵は注意を二倍にした。ナスターシヤが一度もラゴージンのことを口にしないのも、変に思われた。ただ一度、結婚の五日ぽかりまえ、急にダーリヤから、ナスターシヤが非常に悪いからすぐ来いという使いがあった。行って見ると、まるできちがい同然の有様である。彼女は悲鳴をあげたり、ふるえたりしながら、ラゴージンが家の庭に隠れている、たったいま自分で見た、夜になったら、あの男がわたしを殺す……刃物で斬る! と叫ぶのであった。まる一日、彼女は気がしずまらなかった。しかし、その晩、公爵がちょっとイッポリートのところへ寄ったとき、きょう用向きでペテルブルグへ行って、たったいま帰ったばかりの大尉夫人が、きょうあちらの住居ヘラゴージンが寄って、パーヴロフスクのことをいろいろたずねた、という話をした。それはちょうどいつごろかという公爵の問に対して、大尉夫人の答えた時刻は、ナスターシヤがきょう自分の家で、ラゴージンを見たという時刻に符合した。で、あれはほんの蜃気楼だということで謎が解けた。ナスターシヤはなお自分で詳しく聞くために、大尉夫人のところへ行って、すっかり安心したのである。
 結婚の前夜、公爵と別れたときのナスターシヤは、珍しく元気づいていた。ペテルブルグの婦人服屋からあすの衣装、――式服、頭飾り、その他さまざまなものが届いたのである。公爵は、彼女がそれほどまで衣装のことで騒ごうとは、思いがけなかった。彼は自分でも、いっしょうけんめいにほめそやしてやった。そのほめ言葉を聞いて、彼女はなおさら仕合せらしい様子であった。ところが、彼女はちょっと余計な口をすべらした。彼女は町の人がこの結婚を憤慨していることも、五、六人の暴れ者がわざわざ作った諷刺詩に音楽までつけて、家のそばでひと騒ぎしようと企んでいることも、またその企みが町民の応援を受けんばかりのありさまだ、などということを聞きこんでいた。で、今はなおさらこの連中の前に昂然と頭をそらして、自分の衣装のぜいたくな趣味でみなを煙にまいてやろう、という気になったのである。
『もしできるなら、どなるなと、口笛を吹くなとしてみるがいい!』こう思っただけで、彼女の目はぎらぎら光りだすのであった。
 彼女はもう一つの空想をいだいていたが、口に出してはいわなかった。ほかでもない、アグラーヤか、さもなくばそのまわしものが、わからないように群集にまじって、自分を見に来るに相違ない、というふうに空想された。で、彼女は心の中でその準備をしていた。こういう想念を胸いっぱいにいだきながら、夜十一時ごろ彼女は公爵と別れた。しかし、まだ十二時も打たないうちに、公爵のところヘダーリヤの使いが走って来て、『たいへん惡いから来てください』と告げた。行って見ると、花嫁は寝室に閉じこもって、ヒステリイの発作に絶望の涙を流していた。彼女はみんな鍵のかかった扉ごしにいうことを、長いあいだ聞こうともしなかったが、やっとしまいに戸をあけて、公爵ひとりだけ中へ入れると、すぐそのあとから戸をしめてしまった。そして、公爵の前にひざをつきながら(すくなくとも、ダーリヤはそういっていた。彼女はちらとのぞき見したのである)。
「わたしはなんてことをしてるんでしょう! なんてことを! あなたの身をどうしようと思ってるんでしょう!」痙攣的に公爵の両足をかきいだきつつ、彼女はこう叫んだ。
 公爵はまる一時間、彼女と対坐していた。ふたりがどんな話をしたかは、知る由もない。ただダーリヤの話によると、ふたりは一時間ののちすっかり穏かな、幸福らしい様子で別れたとのことである。公爵はこの夜もう一度使いをやって様子をたずねたが、ナスターシヤはもう寝入っていた。翌朝まだ彼女の起きないさきに、早くもふたりの使いが公爵のところからダーリヤの家へやって来た。三度目の使いは、こんなことづけを持って帰った。『今ナスターシヤのまわりには、ペテルブルグから来た婦人服屋や、髪結が一小隊ほど集まって、昨夜のことは跡かたもない。ああした美人の結婚前にしか見られないような意気込みで、化粧に夢中になっている。いまちょうどどのダイヤモンドをつけようか、またどんなふうにつけようかというので、特別会議が行なわれているところだ』で公爵はすっかり安心してしまった。
 この結婚に関する最後の逸話は事情に通じた人によって、次のごとく語られている。それはおそらく正確な話らしい。
 式は午後八時ということになっていた。ナスターシヤは、もう七時ごろに支度を済ましていた。もう六時ごろから、すこしずつ閑人《ひまじん》の群れがレーベジェフの別荘、ことにダーリヤの家のまわりに集まりだした。七時ごろからは、教会もだんだんつまって来た。ヴェーラとコーリャは、公爵の身の上をむやみに心配していた。とはいえ、ふたりとも家事の用向きが山ほどあった。公爵の住まいで受付や、接待の指図役に当たっていたのである。もうとも式のあとでは、招待をしないことになっていた。式に列するために必要な人々をのけると、プチーツィン夫妻、ガーニャ、アンナ勲章を首にかけた医師、それからダーリヤ、こんな人が、レーベジェフから招待を受けたくらいなものである。公爵が、なぜ、『ほとんど他人同様の』医師を呼ぶ気になったか、とたずねたとき、レーベジェフは得意然として答えた。『首に勲章なんかかけたりっぱな人ですから、ちょっと体裁のために……』といって公爵を笑わした。燕尾服に手袋をつけたケルレルとブルドーフスキイも、なかなか恰幅よく見えた。ただケルレルは、家のまわりに集まっている閑人どもを、おそろしくすごい目つきでにらみながら、喧嘩ならいつでもこいという様子が、ありありと見えるので、公爵はじめその他の彼を推薦した人々を当惑させた。
 ついに七時半、公爵は箱馬車に乗って、教会へおもむいた。ついでにいっておくが、公爵自身も在来のしきたりや風習を、一つも略したくないと特に決めたので、すべてのことが公然とあからさまに、『式《かた》のごとく』取り行なわれたのである。教会では、絶え間ない群集のささやきや、叫び声の中を縫いながら、左右へじろじろと恐ろしい視線を投げるケルレルに手をひかれて、公爵はしばらく祭壇の中へ隠れた。ケルレルはナスターシヤを迎いに行った。と見ると、ダーリヤの玄関先に集まった群集は、公爵の家より二倍も三倍も多いばかりでなく、二倍も三倍もずうずうしいようなふうだった。階段を昇っていると、とてもがまんできないような言葉が耳にはいったので、ケルレルはもう相当の言葉を返してやるつもりで、群集のほうをふり向いた。しかし、さいわいブルドーフスキイと、玄関から飛びだしたあるじのダーリヤがおしとどめて、無理やりにつかまえて中へ引っ張りこんでしまった。ケルレルはいらいらして、やたらに急いでいた。ナスターシヤは立ちあがって、もう一度鏡を見ながら、『ひん曲がったような』微笑を浮かべて(これはあとでケルレルの話したことだが)『青い顔、まるで死人のようね』といった。それからうやうやしく聖像を拝んで、玄関口へ出た。わっというどよめきが、彼女の出現を迎えた。もっとも、最初の一瞬間は笑い声や、拍手や、口笛すらも聞こえたが、すぐにもう別な声が響きわたった。
「なあんて美人だろう!」という叫びが群集の中で聞こえた。
「なあに、なにもこの女ひとりきりじゃないさ!」
「婚礼でなにもかも隠そうてんだ、まぬけめ!」
「黙れ、きさまひとつあんな別嬪を目っけてみろ、わあい!」いちばんそばの連中がわめいた。
「よう、公爵夫人! こういう美人のためなら、命でも売って見せらあ!」とどこかの書記らしいのが叫んだ。「『命もてあがなわん一夜のなさけ』(プーシキン)……か!」
 ナスターシヤはまったくハンカチのように青い顔をして出て来た。しかし、その黒い目は赤熱した炭火のように、群集に向かって輝いた。この視線に群集はかぶとをぬいだのである。憤慨は歓呼の声と変わった。もう馬車の戸が開いて、ケ