ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-165

ルレルが花嫁に手をさし伸べたとき、とつぜん彼女はひと声高く叫んで、いきなり階段から群集の中へ飛びこんだ。付添いの人々は驚きのあまり、化石のようになってしまった。群集は彼女の前にさっと道を開いた。と、階段から五、六歩のあたりに、とつぜんラゴージンが姿を現わした。この男の目を、ナスターシヤは群集の中にとらえたのである。彼女はきちがいのように彼のそばへかけよって、その両手をひしとつかんだ。
「助けてちょうだい! つれて逃げて! どこでもいい、今すぐ!」
 ラゴージンは、彼女をほとんど両手にだきかかえながら、かつぎこむように馬車の中へ入れた、と、すばやく金入れの中から百ルーブリ札を抜き出して、馭者に突きつけた。
「停車場へやれ。もし汽車に問に合ったら、もう百ルーブリだ!」
 こういって、自分もナスターシヤのあとから馬車に飛びこみ、ぱたんと戸をしめた。馭者は一瞬も迷わず馬に鞭を当てた。あとでケルレルは、罪をことの唐突なのに塗りつけてしまった。『もう一秒ひまがあったら、わが輩も気がついて、あんな真似をさせるんじゃなかったんですがなあ!』と彼はその時のできごとを説明していった。彼はブルドーフスキイとともに、あり合わせの馬車に飛び乗って、追っかけたが、途中でまた考えを変えた。『もうどんなにしたって遅い! 力ずくじゃ取り戻せない!』
「それに公爵も望まれないだろう!」度胆を抜かれてしまって、ブルドーフスキイはこういった。
 ラゴージンとナスターシヤは、首尾よく時間内に停車場へかけつけた。馬車を出たラゴージンは、もう汽車に乗ろうとするまぎわに、通りかかったひとりの娘を引きとめた。娘は中古ではあるが、さして不体裁でもない、くすんだ婦人外套にくるまって絹の頭巾をかぶっていた。
「あなたの外套を五十ルーブリでもらいましたぜ!」彼はいきなり金を娘につきつけた。
 こちらがまだ合点が行かないで、あっけに取られているそのうちに、彼はもう手に五十ルーブリ押しこんで、外套と頭巾を引ったくり、ナスターシヤの肩と頭に、すっぽり着せてしまった。あまりに華麗な彼女の衣装が目立って、車中の注目をひきやすいからである。娘はなぜこの人たちが、なんの値うちもない自分の古衣装を、あんな法外な値で買い取ったか、そのわけをずっとあとで合点した。
 意外な変事に関する騒ぎは、非常な速度で教会に達した。ケルレルが公爵のほうをさして進んでいる途中、まるで近づきのない人が大勢彼のところへ飛んで来て、いろいろ根掘り葉掘りするのであった。騒々しい話し声がやまなかった。仔細らしく首を振るもの、中には無遠慮に笑うものさえあった。だれひとり教会を出ようとしないで、花婿がこの報知を受け取る様子を見ようと、待ちかまえていた。彼はまっさおになったが、聞こえるか聞こえないかの声で、『ぼくも心配してたんですよ。しかし、まさかこんなことになろうとは思わなかった』といったのみで、いたって静かにしらせを受け取った。しばらく無言ののち、やがてこういい足した。『もっとも……あれの境遇になって見たら……当然すぎるかもしれません』この評言にいたっては、ケルレルさえもあとで、『無類の哲学』と評したほどである。公爵は見たところ落ちうきはらって、元気よく教会を出た。すくなくとも、多くの人がそう観察して、あとで話していた。彼は家へ帰って、すこしも早くひとりきりになりたかったらしい。しかし、はたのものがそうはさせなかった。
 彼のあとにつづいて、招待客のだれ彼が部屋へはいって来た。その中にはプチーツィンとガヴリーラがいた。それから例の医師もいっしょだった。この人もいっこうかえって行くつもりはないらしい。それに、家ぜんたいが、のんきな群集で文字どおりに包囲されていた。まだ公爵が露台へあがったばかりだのに、ケルレルとレーベジェフとが、いく人かのまるで見知らぬ人たちと、激しく口論している声が聞こえた。その相手の人たちは、見受けたところ役人らしかったが、どうしても露台へあがりたいといって、承知しなかった。公爵はそばへ寄って事情をただした。そして、ていねいにレーベジェフとケルレルを押しのけながら、露台の階段に立った仲間のかしららしい、もう頭のごま塩になった、肉づきのいい紳士のほうを向いて、どうぞ来訪の栄を得たいと、慇懃に招じ入れた。紳士はちょっと面くらったが、それでもやはりはいって来た。つづいて、ふたり三人とあがって来た。結局、群集の中から、七、八人の訪問志望者が現われて、同様に中へはいったが、どうかしてざっくばらんな態度をとろうと努めていた。しかし、もうそれ以上の好事者《こうずしゃ》はなかった。ほどなく群集の中に、出しゃばりものを非難する声が聞こえた。押し入りの客人たちは、ちゃんと席を与えられ、会話がはじまり、茶が饗《きょう》された、――しかも、それがおそろしくきちょうめんに控え目に行なわれるので、押し入りの客人たちは、いくぶん面くらったほどである。もちろん、会話を浮き立たせ、かつ適当な話題にむけようとする試みも多少はあった。また無遠慮な質問も、『威勢のいい』注意も、三つ四つ客の口から出た。しかし、公爵はそれに対して、ごく淡白に愛想よく、しかも同時に、客の身分に対する信用を表わしながら、自分の品格をも落とさないように応対したので、ぶしつけな質問もしぜんと消えてしまった。しだいしだいに、会話はまじめな調子を帯びていった。ひとりの客はちょいとした言葉をつかまえて、だしぬけに恐ろしく悲憤慷慨のていで、自分はどんなことがあったって領地を売らない、それどころか、時の到るのを待つことにする。『じっさい事業は金銭にまさるですからなあ』『これがわたしの経済方針です、ちょっとお知らせしておきます』と弁じた。この言葉は公爵に向けて発しられたので、公爵はレーベジェフが耳もとに口を寄せて、あの人は家も邸も持っちゃいません、領地なんぞあってたまるものですか、とささやくのを相手にしないで、熱心にその考えを賞賛した。
 もうほとんど一時間ばかりたった。茶も飲みつくした。茶がすんで見ると、客人たちは、とうとう、もうこのうえ長居するのが、具合が悪くなってきた。医師とごま塩の紳士は熱意をこめて、公爵に別れを告げた。一同も熱心に騒々しく挨拶しはじめた。『落胆なさることはありません。あるいはこれがかえって幸いだったかもしれません、うんぬん』といったふうの意見や希望も吐かれた。もっとも、シャンパンをねだろうとする試みもあったけれど、これは客の中の年寄株が若い連中をおさえた。一同が散じてしまったとき、ケルレルはレーベジェフのほうへかがみこんで、こういった。『きみやぼくだったら、大きな声を出したり、殴り合ったり、いいかげん恥っさらしな真似をして、警察のご厄介になるところだったのだ。ところが、公爵はあのとおり、新しい友人をこしらえたじゃないか、しかもりっぱな友人だ。わが輩はあの人たちをよく知ってる!』もういいかげん『きこしめしている』レーベジェフは、溜息をついてこういった。『賢く智恵あるものに隠して、幼な児に示したもう、――わたしはずっと以前に、あのかたのことをこういったが、今度はこうつけ足すよ、神はかの幼な児を守りて、深き淵より救いたまいぬ。神とそのすべてのみ使いよ!』
 とうとう十時半ごろ、公爵はひとりきりになった。頭がずきずき痛んだ。いちばん遅く帰ったのは、式服を内着に換える手伝いをしたコーリャだった。ふたりは熱い別れの言葉を交した。コーリャはきょうのできごとをくだくだしくいわないで、あすは早めに来ると約束した。彼はのちになって、最後の別れの時にさえ、公爵がなんにもうち明けてくれなかったところを見ると、公爵は自分にさえあの決心を隠していたのだ、と論じた。間もなく家じゅうに、ほとんどだれひとりいなくなった。ブルドーフスキイはイッポリートの家へ行ってしまったし、ケルレルとレーベジェフもどこへか出かけた。ただヴェーラひとりがしばらく部屋の中に居残って、お祭らしい飾りつけを、普段の体裁に手早く直していた。出しなにちょっと公爵の部屋をのぞいてみると、彼はテーブルに両ひじついて、頭をかかえこみながら、じっと腰かけていた。彼女はそっと近寄って、公爵の肩にさわった。公爵はけげんそうに彼女をながめたが、一分間ほどはなにか合点の行かないらしい様子だった。けれども、やっと気がついて、すべてのことを思い合わすと、急におそろしくわくわくしはじめた。しかし、結局、あすの朝、一番列車に間に合うように、七時に部屋の戸をたたいてくれと、なみはずれて熱心に頼んだばかりだった。ヴェーラは承知した。
 公爵は、だれにもこのことをいわないでくれと、いっしょうけんめいに頼みだした。彼女はそのことも承知して、やがて出かけようと戸をあけたとき、公爵は三たび彼女を呼びとめ、両手を取って接吻した。それから、いきなり額に接吻して、なにか尋常一様でない様子をしながら、『じゃ、あすまたね!』といった。すくなくとも、ヴェーラはあとでこう伝えた。彼女は極度に公爵の身の上を危ぶみながら立ち去った。翌朝、約束どおり、七時すぎに公爵の部屋の戸をたたいて、ペテルブルグ行の汽車はもう十五分しかないと知らせたとき、公爵はすっかり元気づいて、ほほえみすら浮かべながら戸をあけたように思われたので、彼女はやや安心した。公爵はほとんど着換えをしなかったが、しかし寝るには寝たのである。その日のうちにさっそくかえってこられるものと、考えていたらしいのである。これで推して見ると、公爵はペテルブルグへ出かけることを、このときヴェーラだけには知らせてもいい、いや、知らさねばならぬと、考えたに相違ない。

      11

 一時間ののち、公爵はすでにペテルブルグへついた。そして、九時すぎには、ラゴージンの戸口で呼鈴を鳴らしていた。彼は正面玄関からはいったのだが、だれも長いこと戸をあけてくれなかった。やっと老母の住まいの戸があいて、あかぬけた年増の女中が出て来た。
パルフェンさまはお留守でございます」と彼女は戸の中から告げた。「どなたにご用でございます?」
パルフェンさんです」
「お留守でございますよ」
 女中は無作法な、もの珍しそうな様子で、公爵をながめた。
「それじゃ、ゆうべうちでおやすみになったでしょうか、ちょっと教えてくれませんか。そして……ゆうべはひとりで帰られましたか!」
 女中は相変わらずじろじろ見つめながら、公爵の問に返事をしなかった。
「では、きのうあの人といっしょにここへ……晩……ナスターシヤさんが見えなかったですか?」
「あの失礼でございますが、あなたはどなたさまでいらっしゃいます?」
「レフ・ムイシュキン公爵です、ぼくらふたりはごく懇意な間柄なんです」
「お留守なのでございます」と女中は目を伏せた。
「で、ナスターシヤさんは?」
「わたくし、そんなことすこしもぞんじません」
「待ってください、ちょっと! じゃ、いつ帰られます?」
「それも、ぞんじません」
 戸はしまった。
 公爵は、もう一時間たったら来てみることにした。庭の方をのぞいてみると、庭番がいた。
パルフェンさんは家かね?」
「おいででございます」
「どうしていま留守だなんていったんだろう?」
「だんなのほうのやつが、そんなことをいいましたかね?」
「いや、おかあさんのほうの女中だ、パルフェンさんの玄関で呼鈴を鳴らしても、だれひとりあけてくれなかった」
「ひょっとしたら、お出かけになったかもしれませんな」と庭番はひとりで決めた。「いつも出先をおっしゃったことがないんですからね。どうかすると、鍵まで持って行かれるので、三日ぐらい部屋をしめっきりで、うっちゃっとくことがありますよ」
「ゆうべ家におられたことを、おまえはたしかに知ってるね?」
「おいででしたよ。ときにや、正玄関からおはいりになっても、お見受けしないこともありますからね」
「ナスターシヤさんは、ゆうべあの人といっしょじゃなかったろうか?」
「そりゃ知りませんなあ。あまりしょっちゅうお見えになりませんからな。もしお見えになったら、わかりそうなもんですよ」
 公爵は外へ出て、しばらくもの思いに沈みながら、歩道を歩いていた。ラゴージンの部屋は窓をすっかりしめてあったが、残り半分の老母の住まいのほうはたいていどの窓もあいていた。それはよく晴れた暑い日であった。公爵は往来を横切って反対の歩道へ出た。そしてもう一度窓を見上げた。窓はすっかりしまっているのみか、どれもどれも白い巻きカーテンを垂らしてあった。
 彼は一分間ほど立っていた。と――不思議にも、とつぜん一つのカーテンの一隅が持ちあがって、ラゴージンの顔が現われた。と思う間もなく、たちまち消えてしまった、すくなくも、彼にはそう感じられた。彼はちょっと待ったのち、また出かけて呼鈴を鳴らしてみようと思ったが、もう一時間さきへ延ばすことに考え直した。『もしかしたら、そんな気がしただけかもしれないからな……』
 おもな理由はイズマイロフスキイ連隊、ついこのあいだまでナスターシヤの住まいのあったところへ、急いで行ってみる気になったからである。彼女が公爵のこいによって、三週
間まえパーヴロフスクを出てから、この土地に住むもとの親しい友達を頼って来たことを、彼は承知していた。それはやもめになった教員夫人で、家族もあれば、相当身分のある人だが、りっぱな道具つきの部屋を貸間にして、それを生活費にあてていた。せんだってふたたびパーヴロフスタヘ移るとき、ナスターシヤはまさかの時の用心に、住まいをそのままにして置いたろう。それはきわめてありうべきことだ。すくなくとも、ラゴージンがここへ彼女を連れて来て、ゆうベ一夜を明かしたと想像しても、たいして間違いはあるまい。公爵は辻馬車を雇った。彼女が夜、まっすぐにラゴージンの家へ乗り着けるとは、考えられないことだから、まずここから行動を開始すべきであった、こう公爵はみちすがら思いついた。『ナスターシヤさんは、あまりしょっちゅうお見えになりませんよ』という庭番の言葉も心に浮かんできた。もしそうだとすると、今度のような非常な場合に、どうしてラゴージンの家へ泊まるものか。こういう気休めに励まされつつ。ついに公爵は半死半生のていでイズマイロフスキイ連隊へ着いた。
 驚いたことには、教員夫人の家では、きのうもきょうも、ナスターシヤの話なぞ聞いたことがないばかりか、公爵自身の来訪を、奇跡かなんぞのように迎えた。大人数の家族一同、いくたりかの女の子に、十五から七つまで、一つおきの男の子は、母親のあとからばらばらと飛び出して、口をぽかんとあけながら、彼を取り囲んだ。そのあとからつづいて、黒い頭巾をかぶった、やせた黄色い子供らの伯母さんと、最後に、年とった眼鏡のばあさんが出て来た。 教員夫人が、はいって話して行けと、しきりに勧めるので、公爵もその意に従った。一同は、彼が今どういう身の上かということも、ゆうべ結婚式が挙行されたはずだということも、よく知っているので、結婚のこともいろいろ聞きたいし、また彼といっしょにパーヴロフスクにいるべきはずのナスターシヤのありかを、かえって自分のほうからききに来るということも、不思議でならなかったけれど、ただ礼儀上、遠慮していた。公爵はすぐそれを察した。彼は手短に、結婚に関する一同の好奇心を満足さした。にわかに驚愕の声や、嘆息や、叫び声がおこった。で、彼は仕方なしに、言い残したすべての事情は、もちろん、手短にではあるが、話してしまわなければならなかった。とうとう、興奮せる賢明な婦人たちの忠告に従って、まず第一にラゴージンを訪ねて、ぜひとも彼から確かな様子を聞き取ること、もし彼が不在か(これも正確に突きとめねばならぬ)、あるいは家にいても、うち明けてくれなかったら、母親とふたりでセミョーノフスキイ連隊に暮らしているナスターシヤの知り合いのさるドイツ婦人のところへ行って見ること、こんなふうに決議した。ひょっとしたら、ナスターシヤは興奮のあまり、人の思いつかぬところに身を隠すために、この婦人の家に泊まったかもしれぬ、というのであった。公爵は、まるで打ちのめされたような顔つきで立ちあがった。『とてもまっさおな顔をしておられました』とここの婦人たちはあとで話した。じっさい彼は足もとがよたよたしていた。そのとき、まるでいり豆のはじけるように、三人の声の入り乱れたあいだから、みなのものが自分たちもいっしょに行動をともにしようから、こっちの住所を知らしてくれと頼むのを、聞き分けた。しかし、住所などというものはなかった。婦人たちは、ひとまずどこかの宿へ落ちつくように勧めた。公爵はちょっと考えてから、例の五週間ばかり前に発作のおこった、以前の宿屋の番地を教えた。
 やがて彼は、ふたたびラゴージンの家をさして出かけた。ところが、今度はラゴージンのほうの戸口があかなかったばかりでなく、老母のほうの戸さえあけてくれなかった。公爵は庭番をさがしに行って、やっと庭でさがし出した。庭番はなにか忙しそうにして、ろくろく返事もしなければ、振り向きもしなかった。しかし、ともかくきっぱりと、『だんなさまは朝早く家を出て、パーヴロフスクヘお出かけになりました。おおかたきょうはお帰りにならないでしょう』と告げた。
「ぼく、待ってみよう。たぶん夕方には帰られるだろう?」
「ところが、一週間もお帰りにならんかもしれません、あのかたのこってすからね」
「してみると、とにかく昨夜ここで泊まられたんだね?」
「泊まるにゃ泊まられましたがね……」
 こうしたふうの様子が、すべて怪しく疑わしかった。察するところ、庭番はあの間に、もうなにか新しい命令を受けたものらしい。さっきはどちらかといえば、口軽のほうであったのに、今はただもう顔をそらさんばかりである。しかし、公爵は、二時間たったら、も一度よって見て、もし必要があれば張番してもいい、とまで決心したが、またドイツ婦人のところに望みが残っているので、彼はセミョーノフスキイ連隊へ車を飛ばした。
 けれど、ドイツ婦人はけげんな顔をした。ちょいちょい口をすべる言葉で推してみると、この美しいドイツ婦人は二週間ばかり前、ナスターシヤと喧嘩をして、このごろでは彼女のことをなにひとつ聞かないらしい。そして、今はいっしょうけんめいに力を入れて、『たとえあのひとが世界じゅうの公爵をみんなお婿さんに持とうと、そんなことなんかちっともおもしろくないわ』という気持ちを、相手に思い知らせようとするのであった。公爵はあたふたと出て行った。そのときふと、こんな想念が浮かんできた、――彼女はもしかしたら、またあのときのように、モスクワへ逃げて行ったのではあるまいか。ラゴージンもむろん、そのあとを追って行ったに相違ない、おそらくいっしょかもしれない。『とにかく、なにか手がかりを見つけなくちゃ!』
 ひとまず宿へ落ちつかねばならぬことを想い浮かべて、彼はリテイナヤ街へ急いだ。宿ではすぐ部屋を取ってくれた。給仕がなにかめしあがりますかときいたとき、彼はうっかりして、食べると答えた。と、急に気がついて、食事にまた余計な三十分をさかねばならぬと、おそろしく自分で自分に腹を立てたが、またふいと、――持って来たものを食べないで、うっちゃっといたからって、だれもなんともいうものはない、と気がついた。この薄暗く息苦しい廊下にいるうちに、奇妙な感じが彼の全幅を領した。その感じは、なにかまとまった想念に移ろうとして、必死にもがくのであったが、その新しい想念がはたして何であるか、正体をとらえることができなかった。ついに彼はほとんど人ごこちもなく宿屋を出た。頭がふらふらする、――しかし、どこへ行ったものだろう? 彼はまたもやラゴージン家をさして、馬車を駆った。
 ラゴージンはやはり帰っていなかった。呼鈴を鳴らしても戸をあけなかった。老母のほうで呼鈴を鳴らしてみると、あけるにはあけたが、同じようにパルフェンさまはお留守です、三日ぐらいお帰りがありますまい、といった。公爵はまたしても無作法な、もの珍しそうな目つきで、じろじろ見まわされるので、きまり悪くなってしまった。庭番は、今度はまるっきり見つがらなかった。彼はさきと同じように反対の歩道へ出て、窓のほうを見上げながら、悩ましい苦熱の中を、半時間ほど行ったり来たりした。けれども、今度はものの動く気配もしないし、窓もあかなかった。ただ白い巻きカーテンが、じっと垂れているだけであった。とうとう彼の頭に、さっきのはただ心の迷いだ、窓はどう見ても曇りきって、ながく洗った様子もないから、よしほんとうにだれかガラスごしにのぞいたとしても、なんにも見わけはつかないだろう、という考えが浮かんだ。この考えに安心して、彼はまたイズマイロフスキイ連隊の教師の細君のところへおもむいた。
 そこではみんな彼を待ちかねていた。教員夫人はその間に早くも三、四か所まわって、ラゴージンの家へすら寄って来たが、声も匂いもない! とのことである。公爵は無言のまま聞き終わると、部屋にはいって、長いすに腰をおろし、何をいってるか合点のいかない様子で、一同を見まわしていた。奇妙なことに、彼はなみはずれてよく気がつくかと思えば、また急に話にならないほどぼんやりしてしまう。家族一同はのちになって、『あのいちんちは、あきれてしまうほど変ちきりんでした、つまりあのころからもう気《け》があったんですね』と断言したほどである。ついに彼は立ちあがって、ナスターシヤの部屋を見たいと頼んだ。それは大きな、明るい、天井の高い二つの部屋で、かなりりっぱな道具も並んでいた。ずいぶん金がかかっているらしかった。あとで婦人たちの話すところによると、公爵は部屋の中のものを一つ一つ見まわしていたが、ふとテーブルの上に、図書館から借り出した本、フランス小説の『マダム・ボヴァリイ』がひらいてあるのに目をつけた。そして、開いているページをちょっと折って、持って行くから貸してくれと頼んだ。それは図書館のだからとことわるのを、ろくすっぽ聞かないで、平気でかくしへ納めてしまった。
 それから、開け放した窓のそばにすわると、白墨でいっぱい書き散らしてあるテーブルに目をつけて、だれが勝負をしたのか、とたずねた。家の人の答によると、ナスターシヤが毎晩ラゴージンを相手に、『ばか』『先取り』『粉屋』『ホイスト』『切札遊び』――あらゆる方法で勝負をしたのである。カルタがはじまったのはごく最近の話で、パーヴロフスクからペテルブルグへ移ってのちのことである、そのはじまりは、ナスターシヤが退屈を訴えて、『ラゴージンは毎晩じっとすわったばかりで、話なんかちっともできない』といってよく泣いたので、その翌晩ラゴージンがとつぜんかくしからカルタをひと組とり出した。すると、ナスターシヤが、からからと笑って、そこで勝負がはじまったのである。どこにその使った札があるか、と公爵がきいたけれど、札はもうなかった。カルタはラゴージンがその都度、新しい札をかくしに入れて持って来るが、あとでまた持って帰ってしまうのであった。
 婦人たちは、もう一度ラゴージンのところへ行って、もう一度やや激しく戸をたたいてみたらどうか、しかしすぐではなく夕方のほうがいい、『もしかしたらなにかわかるかもしれませんよ』と公爵に勧めた。教員夫人は自身、晩までにパーヴロフスクのダーリヤのところへ行ってみる、なにか知ってるかもしれないから、と申し出て、さらに公爵に向かい、あすのうち合わせがあるから、どうあろうとも、晩の十時ごろに来てくれと頼んだ。人々の慰めや希望の言葉にもかかわらず、極度の絶望が彼をつかんだ。なんともいえぬ悩ましさをいだきつつ、彼は宿までたどりついた。ほこりの多い、息苦しい夏のペテルブルグは、まるで締木にかけるように心を圧搾した。彼はむずかしい顔をした人や、酔っぱらいの群れに突き飛ばされながら、なんのあてもなく人々の顔をのぞきこんだ。おそらく余計な道を歩いたのだろう。自分の部殖へはいったときは、もうほとんど日が暮れていた。彼はすこし
休んでから、勧められたように、ラゴージンのところへ行くことにして、長いすに腰をおろし、テーブルに両ひじついて考えこんだ。
 いったいどれくらい時間がたったのか、何を考えていたのか、だれにもわからない。彼はいろいろなことが恐ろしかった。そして、自分がひどい恐怖に襲われているのを、せつないほどひしひしと感じるのであった。ふとヴェーラのおもかげが心に浮かんだ。すると、あるいはレーベジェフがこの事件についてなにか知ってるかもしれない、よし知らないまでも、自分より早く巧妙に探り出せるだろう、という連想がわいてきた。それからイッポリート、つづいてこの青年のところヘラゴージンが往来すること、なども思い浮かべられた。それからまた当のラゴージンのことを連想した、――つい先日、葬式で見た顔、それから公園で会ったときの顔、――と、ふいにこの廊下の片隅に隠れて、刃物を手に待ち伏せしたときの顔が目に浮かんだ。彼の目、あのとき闇の中に光っていた目が思い出された。公爵はぞっとした。さきほど出そうで出なかった想念が、いま忽然として脳裡に描き出された。
 それはほぼこうである。もしラゴージンがペテルブルグにいるとすれば、たとえ一時身を隠そうとも、ついには公爵のところへやって来るに相違ない。それは善い目的をいだいてくるか、善がらぬ心持ちで来るか知らないが、『あのとき』のような現われかたをしてなりと、かならずやって来るに相違ない。すくなくも、もしラゴージンがどうかして、公爵のところへ来る必要を感じるとすれば、この宿屋よりほかにもう来るところがない。彼は宿所を知らないから、かならず公爵は以前の宿屋に泊まっていると考えるだろう。すくなくとも、ここをたずねてみようとするに相違ない、もし非常な必要があるとすれば……ところで、その必要があるかもしれない、それは保証のかぎりでない。
 こう彼は考えたのである。そして、この考えが、なぜかぜんぜんありうべきことのように感じられた。彼がもすこし深くこの考えを詮索してみたとしても、『なぜ自分が急にラゴージンにとって必要になるのか? またなぜ自分たちがとどのつまり、意気相投合するわけには行かないのか?』という疑問に対しては、どうしても明快な説明を与えることができなかったろう。しかし、とにかく重苦しい想念であった。『もしあの男が仕合せだったら、ぼくのとこへ来はしまい』と公爵は考えつづけた。『が、もし不仕合せだったら、すぐやって来る。ところで、あの男はきっと不仕合せに相違ない……』
 こう確信した以上、自分の部屋でラゴージンを待つのが当然だったが、彼がこの新しい想念に堪えかねるように、いきなり飛びあがって帽子をつかみ、部屋をかけだした。廊下はもうすっかり暗かった。『もしあの男が、今そこの隅から急に出て来て、階段で呼びとめたら、どうだろう?』例のなじみの場所へ近寄ったとき、ちらとこんな考えがひらめいた。けれど、だれも出て来なかった。彼は門のほうへおりて行って、歩道へ出た。そして、日の入りとともに往来へ吐き出されたおびただしい人ごみに一驚を喫しながら(暑中休暇時分のペテルブルグでは始終のことである)、ゴローホヴァヤ街をさして歩きだした。宿から五十歩ばかりの最初の四辻へ来たとき、人ごみの中でだれか彼のひじにさわって、耳のすぐそばでささやくものがあった。
「レフ・ニコラエヴィチ、おれのあとからついて来な、用があるんだ」
 これがラゴージンであった。
 奇妙なことに、公爵はとつぜんうれしさのあまり舌もつれしながら、一つの言葉をしまいまでいいきらないほどの勢いで、今まで宿屋の廊下で待っていたことを話しはじめた。 「おれはあそこにいたんだよ」思いがけなくラゴージンが答えた。「さあ、行こう」
 公爵はこの答に驚いたが、それはすくなくとも二分ばかりたって、事情を思い合わしてからのちのことであった。この答の意味を考えると、彼はびくっとして、ラゴージンをのぞきこみはじめた。こちらはもう半歩ほどさきへ出て、自分の前をまっすぐに見つめながら、機械的に用心ぶかい態度で人人に道を譲るばかり、行き合う人の顔をすこしも見ずに歩いた。 「なぜきみは宿でぼくの部屋をきいてくれなかった……もしあすこにいたとすれば?」とつぜん公爵がこうたずねた。
 ラゴージンは立ちどまって、相手をながめ、ちょっと考えたけれども、問の意味はすこしもわからないふうでこういった。
「なあ、公爵、おまえはこっちをまっすぐに通って、家まで行きな、いいかい? おれはあっちのほうを通ってくから。だが、気をつけて、ふたりそろって行くようにしようぜ……」
 こう言って、彼はずんずん往来を横切ってしまった。向こう側の歩道へはいると、公爵が歩いているかどうか、確かめるようにふり向いたが、彼がぼんやり立って、目を皿のようにして自分のほうをながめているのを見ると、ゴローホヴァヤ街の方角へ手を振って歩きだし、ひっきりなしに公爵をふり返って見て、ついて来いと手招くのであった。公爵が彼の意を解して反対側からついて来るのを見て、勇み立つようなふうである。『ラゴージンはみちみちだれかをさがして、見落とすまいと思ってるのだ、それで向こう側へ渡って行ったのだ』という考えが、公爵の頭に浮かんだ。『しかし、だれをさがしてるのか、なぜいわないのだろう?』こうして五十歩ばかり歩いたとき、公爵は急にどうしてかふるえだした。ラゴージンは前ほどではないが、やはりふり返って見るのを怠らなかった。公爵はとうとうこらえきれなくなって、彼を手でさし招いた。こっちはすぐ往来を横切って、そばへ来た。
「ナスターシヤは、いったいきみんとこにいるのかい?」
「おれんとこよ」
「さっきカーテンのかげからぼくを見たのは、きみだったの?」
「おれよ……」
「いったいどうしてきみ……」
 しかし、公爵は、このさきどうきいていいのか、どんなふうに問のくくりをつけていいのか、わからなくなった。のみならず心臓の鼓動が激しくて、口をきくのもむずかしかった。ラゴージンもやはり黙りこんで、以前と同じように、もの思わしげに彼を見つめていた。
「じゃ、おれは行くぜ」急にまた渡って行きそうにしながら、彼はこういった。「おまえは勝手に歩きな。おれたちは往来を別々に行くことにしよう……そのほうがいい……別々の側を通ってね……いいかい」
 ついにふたりが、別々の歩道からゴローホヴァヤ街へ曲がって、ラゴージンの家へ近づいたとき、公爵の足はふたたびなえはじめ、ほとんど歩くことさえむずかしくなってきた。もう晩の十時ごろであった。老母のほうの窓はさきほどと同じくあけ放されてあったが、ラゴージンのほうのはしめきりで、たそがれの光の中におろされた白いカーテンがひとしおくっきりと浮きだすように見えた。公爵は反対の歩道から家へ近寄った。ラゴージンは向こう側の歩道から正面の石段へあがって、彼を手招きしている。公爵は通りを渡って、その石段のほうへやって来た。
「おれのことはいま、庭番さえ知らないんだ、帰って来たってこともね。おれはさっきパーヴロフスクヘ行くっていっといたよ。おふくろにもそういっといた」と彼はずるいほとんど満足らしい微笑を浮かべてささやいた。「おれたちがはいっても、だれも聞きつけるものはありゃしない」
 彼の手の中にはもう鍵があった。階段を昇りながら、彼はあとをふり向いて、そっと来いというように、公爵をおどす真似をした。そして、静かに自分の住まいへ通ずる戸をあけて、公爵を通し、そのあとから用心ぶかくはいって、戸締まりをし、鍵をポケットの中へ入れた。
「さあ、行こう」と彼は小声でささやいた。
 彼はまだリテイナヤ街を歩いているころから、小さな声で話していた。うわべは落ちついているが、なにか内心ふかい不安をいだいているようであった。書斎のすぐ手前の広間へはいったとき、彼は窓に近寄って、さも秘密らしい手つきで、公爵をさし招いた。
「さっきおめえが呼鈴を鳴らしたとき、おれはすぐおめえに相違ないと察したよ。で、爪立ちで戸のそばへ寄って、聞いてみると、おめえがパフヌーチエヴナと、しきりに話してるじゃないか。ところが、おれは夜が明けないうちからいいつけておいたのさ、――もしおめえか、それともおめえの使いか、まあ、だれにもせよ、おれんとこへ訪ねて来たら、どんなことがあっても、口をすべらさないようにしろってね。もしおめえが自分で来たら、なおさら気をつけろって、おめえの名を教えといてやったのさ。それから、おめえが出て行ったあとで、もし外に立って様子を見ているか、それとも往来から見張りでもしてたら、大変だと思ってな、おれはこの窓のそばへ寄って、そっとカーテンをめくってみると、おめえがそこに立っていて、まともにおれのほうを見てるじゃないか……まあ、こういうようなわけだったのさ」
「どこに……ナスターシャ[#「ナスターシャ」はママ]はいるんだね?」と公爵は息をきらしながらいいだした。
「あれは……ここにいるさ」心もち答えをちゅうちょするように、ラゴージンはゆっくり答えた。
「どこに?」
 ラゴージンは目を上げて、じっと公爵を見つめた。
「行こう……」
 彼はしじゅうささやくような声で、いぜんとして妙に沈んだ調子で、急がずにゆっくりものをいった。カーテンのことを話したときでさえ、話の調子は散漫だったけれど、言葉の底に別な意味をこめようとするふうが見えた。
 ふたりは書斎へはいった。前に公爵が訪れたときから見て、この部屋にはいくぶんの変化が生じていた。部屋ぜんたいを横切って緑色の厚地の絹のカーテンが引かれ、その両端が出入り口になっている。これがラゴージンの寝台をしつらえてある小部屋と、書斎との仕切りになっている。重々しいカーテンはすっかりおろされて、出入り口もふさがっていた。部屋の中はおそろしく暗かった。ペテルブルグの夏の『白夜』は、だんだん暗くなって来たので、これがもし満月でなかったら、カーテンをおろしたラゴージンの薄暗い部屋の中は、もののけじめもつきかねたろう。しかし、はっきりとは行かないまでも、どうやら顔ぐらいは見わけられた。ラゴージンの顔は、いつものとおり青白かった。じっと公爵の上にそそがれた目は、鋭い光を帯びていたけれど、じっとすわって動かなかった。
「きみ、ろうそくをつけたらいいのに」公爵はいった。
「いいや、いらん」とラゴージンは公爵の手を取って、テーブルのほうへ引き寄せ、自分も公爵とさし向かいにすわって、ほとんどひざが触れ合うほどにいすを引き寄せた。ふたりのあいだには小さな丸テーブルが、やや横へ寄って挟まっていた。
「すわんな、しばらく話そうじゃないか!」無理に勧めてすわらせようとするように、彼はこういった。ちょっと言葉がとぎれた。「おれも、おめえがあの宿屋に落ちつくだろうと、そう思ったよ」よくかんじんな話にはいる前に、直接用件に関係のない、つまらぬことからきりだす人があるが、彼の話しぶりもそんなふうだった。「おれは廊下へはいったとき、もしかしたら、おめえもおれと同じように、ちょうどいま、おれを待ちながらすわってるかもしれない、とこう思ったね。教員の細君のところへ行ったかい?」
「行った」公爵は激しい心臓の鼓動に、こういうのもやっとの思いだった。
「おれはそのことも考えたのさ。まだいろいろ話があるだろう、とも思ったよ……それから、またこんなことも考えた、――公爵をここへ引っ張って来て泊めてやろう、今夜いっしょにいなくちや……」
「ラゴージン! ナスターシヤはどこにいるの?」とつぜん公爵はこうささやいて、手足をふるわせながら立ちあがった。
 ラゴージンも席を立った。
「あそこだ」とカーテンのほうをあごでしゃくって、ささやいた。
「寝てるかい?」と公爵も声をひそめた。 ふたたびラゴージンはさっきと同じように、じいっと公爵を見つめた。
「じゃ、もう行って見るかな!………しかし、おめえ……いや、まあ行こう」
 彼はカーテンを待ち上げながら立ちあがり、ふたたび公爵のほうをふり向いた。
「はいんな!」さきへ進んで行けというこころで、カーテンの向こうをあごでしゃくった。 公爵ははいって行った。
「ここは暗いね」と彼はいった。
「見えるさ!」ラゴージンはつぶやいた。
「ぼくはどうも見えないが……あれは寝台だね」
「もっとそばへ行ってみな」とラゴージンは低い声で勧めた。
 公爵は前へ一歩、また一歩、――そして、立ちどまった。彼はじっと立ったまま、一、二分のあいだ前をすかして見た。そのあいだ、両方とも寝台のそばに立ちすくんで、ひと口もものをいわなかった。公爵の心臓は、死んだような室内の沈黙のうちに響きわたるかと思われるほど激しくうった。しかし、ようやく彼の目は闇になれて、寝台の上がすっかり見わけられるようになった。寝台の上には、だれかひっそり静まりかえって寝ている。きぬずれの音、息づかい、そんなものはすこしも聞こえなかった。眠れる人は頭から、白い敷布をかぶっていたが、手足はぼんやりとしか見わけがつかない。ただ寝台の上が高くなっているので、人が身を伸ばして寝ている、ということだけわかった。寝台の上にも、足もとにも、寝台のすぐそばのひじいすにも、床の上にも、あたり一面ぬぎすての衣装、――ぜいたくな白い絹の服や、造花や、リボンなどが、だらしなく散らかっている。枕もとのほうの小テーブルには、はずしたまま投げ散らしたダイヤモンドが、きらきら輝いていた。足もとにはなにかレースらしいものが、ひとかたまりにして引きちぎってあったが、その白く浮いているレースの上には、敷布の下からのぞいたあらわな足の先が見わけられた。それは大理石でつくられたように見えた。そしておそろしいほどじっと動かなかった。公爵は見つめていたが、見つめれば見つめるほど、部屋の中がいよいよ死んだように静けさを増すのを感じた。と、急に一匹の蝿が目をさまして、ぷんと寝台の上を飛び過ぎると、そのまままくらもとのあたりで羽音をおさめた。公爵は身震いした。「出よう」とラゴージンが彼の手にさわった。
 ふたりはそこを出て、またもとのいすに相対して腰をおろした。公爵はしだいに激しく身をふるわせながら、もの問いたげな目をラゴージンの顔から放さなかった。
「おめえは見たところ、たいそうふるえるじゃないか」ついにラゴージンがきりだした。「ちょうど、おめえがひどくからだの加減を悪くしたときのようだぜ、そら、モスクワであったろう、覚えてるかい? でなけりゃ、発作の前かね。ほんとうにそうなったら、おめえをどうしたらいいのか、思案にあまるよ……」
 公爵はその言葉の意味をつかもうとして、ありったけの力を緊張させながら、絶えず合点のいかない目つきをして、耳か傾けた。
「あれはきみなんだね?」あごでカーテンの方をしゃくりな、がら、やっと彼はいった。
「うん……おれよ……」とささやいて、ラゴージンは目を伏せた。
 ふたりは五分ほど無言でいた。
「だからね」ラゴージンはしばらく言葉の絶えていたのに気のつかぬふうで、だしぬけに話をつづけた。「だからね、もしおめえの持病がおこって、癲癇がおこって、大きな声でも立てたら、往来のほうからか、でなけりや家のほうから、だれか聞きつけて、ここに人が泊まってるってことに気がつくだろう。そして、戸をたたいてはいって来らあな……だって、みんなおれは家にいないものと思ってるんだからな。おれは往来からも家からも気がつかないように、ろうそくもつけなかったんだ。それにおれが留守のときは自分で鍵を持って行っちゃうもんだから、三日も四日もかたづけにはいるものもないんだ。これがおれんとこのきまりなのさ。だから今も、おれたちが泊まるってことを知られないように……」
「ちょっと待ってくれ」と公爵がいった。「さっきぼくは庭番にも女中にも、ナスターシヤが泊まらなかったかときいてみたが、じゃ、みんな知ってるんだね」
「おめえのたずねたのは知ってるよ。おれはパフヌーチエヴナにそういったのさ、きのうナスターシヤがちょっと寄ったけれど、すぐその日のうちに立ってしまって、おれんとこには十分間しかいなかったってね。泊まったってことは知らないんだ、――だれも知りゃしない。きのうおれたちは、今おめえといっしょにはいったと同じように、そろっとはいったんだ。おれは途中、腹ん中でね、あれはそろっとはいるのをいやがるだろう、と思ったんだが、――どうしてどうして!小さな声で話をする、爪立ちで歩く、音がしないように着物の裾をつまんで持ち上げてあるく。階段では、あれのほうがかえって指を立てて、おれをおどかす真似をするじゃないか、――つまり、始終おまえを恐れてたのさ。汽車の中ではまるできちがいさ。それもこれもみんな恐ろしいからだよ。ここへ泊まりに来たのも、自分で望んだんだ。はじめおれは、教員夫人のところへつれてくつもりだったが、――どうしてどうして!『あんなところでは、公爵が夜の明けぬ間にさがしだすから、おまえさんわたしをかくまっておくれ、あすは夜の明けないうちにモスクワへ立って』それからオリョールのほうへ行く……っていうのさ。床にはいってからも、しきりにオリョールへ行きたいっていってたよ……」
「ちょっと待ってくれ、きみはこれからいったいどうするつもりだね、パルフェン?」
「どうも面くらっちまうぜ、おめえのふるえようはどうだ。今夜はふたりでいっしょにここへ寝るんだ。寝台はあれよりほかにないから、おれは考えついたのさ、――両方の長いすからクッションをはずして、そこんとこの帷《まく》のそばに、おめえの分と並べて敷いて、いっしょに寝ようや。なぜって見な、もし人がはいって来てさがしたら、あれはすぐめっかって、かつぎ出される。そしておれは調べを受けて、自分の仕業だという。すると、おれもすぐ引っ張って行かれるだろう。だから、今あれをそこに寝かしとこうじゃないか、ふたりのそばに、おれとおめえのそばによ……」
「そうだ、そうだ!」と公爵は熱心に賛成した。
「じゃ、自首しないんだね。あれをかつぎ出させないんだね」
「どうしてどうして、けっして!」と公爵は決めてしまった。「どうしてどうして!」
「そんなら、おれも腹をきめたよ、おめえ。どうあっても、だれにも渡しゃしない! じいっと静かに夜を明かそうじゃないか! おれはきょう朝のあいだ、ちょっと一時間ほど外に出たっきりで、いつもそばにつきっきりなんだ。ああ、それから、晩におめえを迎えに出かけたっけ。それに、いまひとつ心配なのは、いやにむんむんするから、においが出やしないかってことなんだ。おめえ、においがするかい?」
「するかもしれないが、ぼくわからない。朝になったら、きっとするだろう」
「おれは油布で、アメリカできの上等の油布であれをくるんで、その上から敷布をかけたんだ。栓を抜いた防腐剤の壜も四本並べといた。今でもあすこにある」
「じゅあ、まるであの……モスクワのとそっくりだね?」
「だって、おめえ、においがするもんなあ。ところで、あれはじっと臥《ね》ている……朝になって、明かりがさしたら、よく見てみな。どうしたい、立てないのかい?」公爵が起きあがれないほど激しくふるえているのを見て、ラゴージンは心配そうに、驚きの色を浮かべながら訊ねた。
「足がいうことをきかないんだ」と公爵はつぶやくようにいった。「つまり、恐ろしいからだ、それはぼくも知っている……こわいのがやんだら立てるよ……」
「じゃ、おれがふたりの床をとるから、ちょっと待っていな。そして、おめえもう寝るといいや……おれもおめえといっしょに寝らあ……きくことがあるんだ……なぜって、おめえ、おれはまだ知らないんだからな……おれはおめえ、まだすっかりわからないんだからな。ひとつおめえに前もって話しとくよ。おめえがこのことを前もって、すっかり心得ておくようにな……」
 こんなわけのわからないことを、ぶつくさつぶやきながら、ラゴージンは床を延べにかかった。この床はもう朝のうちから考えついているらしかった。ゆうべは長いすの上で寝たのだが、長いすの上にはふたり並んで寝るわけにゆかない。ところで、彼は今どうしても並んで寝たかったのである。そこで、彼はいま大|童《わらわ》になって、二つの長いすからいろいろな大きさのクッションをひっぺがし、部屋の端から端へと突っきって、カーテンの入口のすぐそばまで引きずって来た。どうかこうか寝床ができた。彼は公爵に近寄り、歓喜にあふれた様子で、優しくその手を取り、たすけおこし、寝床のほうへつれて行った。けれど、公爵は自分で歩けるということがわかった。つまり、『恐ろしいのがやんだ』わけである。とはいえ、彼はいぜんとしてふるえつづけた。
「ところで、おめえ」公爵を左側のいいほうの床に寝かして、自分は右側のほうへ着換えもしないで長くなると、両手を頭に支《か》いながら、とつぜんラゴージンはいいだした。「きょうの暑さはずいぶんひどいから、においがするにきまってる……かといって、窓をあけるのはおっかないし……ところが、おふくろのほうに花の鉢があるんだ。たくさん花があってね、めっぽういい匂いがするから、そいつを持って来ようかと思ったけれど、パフヌーチエヴナが気《け》どりそうでなあ……あの女はずいぶんものずきなやつだから」
「そう、ものずきな女だね」と公爵は相づちを打った。
「買って来るかな、花や花束であれのからだを、すっかり埋めちゃおうかなあ? しかし、考えてみると、かわいそうだなあ、おめえ、花の中なんかで!」
「ときに……」と公爵はきいたが、何をきくはずだったか、いくら考えてみても、すぐその考えが逃げてしまうように、まごまごしながら、「ときに、ひとつききたいことがあるんだ、いったいきみはなんであれを、……ナイフで? あの例のナイフで?」
「あの例のだ……」
「ちょっと待ってくれ! ぼくはひとつきみにききたいことがあるんだ……ぼくたくさんきみにききたいんだ、すっかりみんな……しかし、きみいっそはじめっから、ずっとはじめから話してくれないか。きみは結婚まぎわに殺すつもりだったのかい? 式のまぎわに、教会の入口でナイフでもって……そんなつもりだったのかい?」
「そんなつもりだったか、どうか知らない……」とラゴージンはいくぶんこの問いに面くらって、その意味が合点ゆかないような顔をして、そっけなく答えた。
「パーヴロフスクヘナイフを持って来たことは、一度もないの?」
「一度もない。このナイフのことでおめえに話せるのは、これぐらいのものだよ、公爵」しばらく無言ののち、彼はこういい足した。「おれはけさこいつを、鍵のかかったひきだしの中から出したんだ。なにしろ、ことのおこったのが、朝の三時すぎだったからなあ。こいつはやっぱり、おれの本のあいだに挟んであったのさ……と……と……ところが、不思議でたまらないのはね、ナイフがまるで三インチ……四インチぐらい……左の乳の真っ下に突き通ったのに……血はみんなで、そうだなあ……小匙半分ぐらいシャツにこぼれたきりで、それっきり出ないんだ……」
「それは、それは、それは」公爵はとつぜんおそろしく興奮しながら、立ちあがった。「それは、それはぼく知ってる、それはぼくよんだことがある……それは内出血ってんだよ……ときによると、ひとしずくも出ないことがあるそうだ。それは傷所がちょうど心臓に当たったら……」
「ちょっと、聞こえるかい?」と急にラゴージンはさえぎって、おびえたように床の上へ中腰になった。「聞こえるかい?」
「いや!」と公爵は相手の顔を見ながら、同じく早口に、おびえたような声でいった。
「歩いてる! 聞こえるだろう? 広間を……」
 ふたりは耳を澄ましはじめた。
「聞こえる」公爵はしっかりとささやいた。
「歩いてる?」
「歩いてる」
「戸をしめるか、どうする!」
「しめな……」
 戸はしめられた。ふたりはふたたび横になった。長いこと黙っていた。
「ああ、そうだ!」ある一つの想念をとらえたので、またそれをなくしては大変だというように、床の上にがばとはね起きながら、公爵はとつぜん以前のように興奮して、せかせかした声でささやいた。「そうだ……ぼくききたいと思ったんだが……あのカルタね! カルタさ……きみはあれとカルタをして遊んだじゃないか?」
「うん、そうだ」つかの間の沈黙ののち、ラゴージンはこういった。
「どこにあるの……カルタは?」
「ここにあるよ……」前よりもっと長く無言でいたが、やがてラゴージンは口をきった。「これだ……」
 彼は一度使ったカルタを紙に包んだのを、かくしから取り出して、公爵のほうへさし出した。こちらはそれを受け取ったが、なんだか迷っているようなふうであった。淋しい荒寥たる感情が、あらたに彼の胸を圧しはじめた。彼は急に自分がこの瞬間、いや、ずっと以前から、いわなくてはならぬことをいわず、しなくてはならぬことをしないでいるのを、切実に感じたのである。いま非常な喜びをいだきながら手に取ったこのカルタ、これも今はまったくなんの役にも立たぬではないか。彼は立ちあがって両手をうった。ラゴージンはいぜんとして横になったまま、相手の動作を見も聞きもしないようなふうであった。しかし、その目はすこしも動かないで、大きく見開いたまま、らんらんと闇をすかして輝いていた。公爵はいすにすわり、恐怖をおぼえながら相手をみつめはじめた。三十分ばかり過ぎた。と、ふいにラゴージンは、引きちぎったような調子で声高に叫んで、からからと笑いだした。さっき小さな声で話さねばならぬといったことを、自分で忘れてしまったかのようである。
「あの軍人を、あの軍人を……おい、覚えてるかい、いつかあれが音楽堂で軍人をなぐったろう、覚えてるかい、ははは! それから候補生が……候補生が……候補生が飛びだしたっけなあ……」
 公爵は新しい驚愕の念にいすを飛びあがった。ラゴージンがしずまったとき(彼は急に静かになったので)、公爵はそうっとかがみこんで、そのそばに並んで腰をかけ、激しく心臓を鼓動させながら、重々しく息をつきつき、仔細に彼を見まわしはじめた。ラゴージンはそのほうへ首も向けないで、まるで彼の存在を忘れてしまったようである。公爵はじっと見つめながら待っていた。時はしだいに移り、夜は白みはじめた。ラゴージンはときどきだしぬけに、高い、鋭い声で、辻褄の合わないことを口走りだした。叫び声を立てたり、笑ったりすることもあった。そんなとき、公爵はふるえる手をさし伸べて、そっと彼の髪にさわったり、頭や頬をなでたりするのであった……それよりほか、彼はどうすることもできなかった! 彼自身もまたふるえがおこって、また急に足を取られるような気持ちがしてきた。なにかしらぜんぜん新しい感触が、無限の哀愁をもって彼の心を締めつけるのであった。やがて、夜はすっかりあけ放れた。ついに彼はもうまったく力つきて、絶望の極に達したかのように、床の上へ横倒しになって、じっと動かぬラゴージンの青ざめた顔へ自分の顔を押しつけた。涙は彼の目からラゴージンの頬へ流れたが、公爵はすでにそのとき自分の涙を感知する力もなく、自分のすることにすこしも覚えがなかったのかもしれない……
 すくなくとも、それからだいぶ時間がたってのち、戸が開いて、大勢の人がはいったとき、女殺しの犯人は深い喪心と熱病の状態におちいっていた。公爵は床《とこ》の上にじっとすわって、そば近く寄り添いながら、病人が叫び声やうわごとを発するたびに、大急ぎでふるえる手をさし伸ばし、ちょうど子供をすかしなだめるように、そっと頭や頬をなでていた。しかし、彼はもうきかれることがすこしもわからなかったし、自分を取り囲む人々の見わけもつかなかった。もしシュナイデル博士がスイスから出て来て、もと自分の生徒でもあり患者でもあったこの人を見たら、彼はスイスにおける第一年目の容体を思い出して、またあの時と同じように今も手を振って、こういったに相違ない、――『白痴《イジオート》!』

      12終末

 教員夫人はパーヴロフスクヘかけつけると、いきなりきのうからかげんを悪くしているダーリヤを訪れて、知れるかぎりのことを報告し、すっかり女主人を転倒さしてしまった。ふたりの女はとりあえず、レーベジェフと交渉をつけることにした。彼もまた公爵の友達として、かつ家の持ち主として、おそろしく心配していたのである。ヴェーラは知ってるだけのことを、すべて話して聞かした。三人はレーベジェフの忠告に従って、『じっさい実現の恐れのあること』を一時も早く予防するため、いっしょにペテルブルグへ出かけることに決めた。こういう具合で、もう翌朝の十一時ごろ、ラゴージンの住まいは、レーベジェフとふたりの婦人、それから離れに暮らしている弟セミョーンの立会いのもとに、警察の手で開かれることになった。この成功を助けたのは、ゆうべ主人が客といっしょに、どうやらこっそりとはいるらしいところを見たという、庭番の申し立てであった。この申し立てののち、人々はなんの疑念もなく、呼鈴を鳴らしてもあかぬ戸を破ったのである。
 ラゴージンが二か月のあいだ脳炎をわずらって、やっと全快したとき、予審と公判がはじまった。彼はすべての事件について直截明快、かつ十分な申し立てをした。その結果、公爵ははじめから裁判を免じられた。ラゴージンは裁判の進行中、しじゅう沈黙がちであった。雄弁敏腕な弁護士が、今回の犯罪は重なり重なった悲しみのため、犯罪のずっと前からはじまっていた脳炎の結果であると、論理的に明晰に証明したのに対しても、その意見を確かめるようなことは何もつけ足そうとせず、ただ犯罪の事情をきわめて細かなところまで思い起こし、明瞭正確に申し立てるばかりであった。彼は情状酌量のもとに、十五年のシベリア懲役を宣告された。彼はむずかしい顔をして、無言のまま『もの思わしげ』に、宣告文をしまいまで聞いていた。彼の巨大な財産は、はじめ放蕩時代に使った比較的にいってごくわずかな額を除くほか、そっくり弟のセミョーンに移ってしまった。弟の大々的満足はいうまでもない。ラゴージンの老母は、やはりこの世に生き残って、ときおり、いとし子のパルフェンを思い出すようだが、はっきりとしたことはわからない。神は哀れな老女の知恵と感情を、その陰鬱な家に訪れた恐怖の意識から救い出したのである。
 レーベジェフ、ケルレル、ガーニャ、プチーツィン、そのほか本編中の多くの人物は、いぜんたる暮らしをつづけて、あまりたいして変わりがないから、べつに読者に伝えることもない。イッポリートは人々の予想したよりもすこし早く、おそろしい興奮のうちに息を引き取った。それはナスターシヤの死後二週間であった。コーリャは今度のできごとに深い打撃を受けた。そのために、彼は母といよいよかたく結びついた。ニーナ夫人は彼が年に似合わず、もの思いにふけりがちなのを心配している。彼はもしかしたら、事務的な人間になるかもしれない。それはとにかく、公爵の将来が保証されたのも、いくぶん彼の骨折りに負うところがあった。コーリャは最近知り合いになった人々の中で、前からエヴゲーニイ・ラドームスキイに目をつけていたので、まず第一番に彼のところへ行って、今度の事件について知れるかぎりの詳しい事情と公爵の現状を伝えた。彼の眼鏡は違わなかった。エヴゲーニイは不幸な『白痴』の運命を、熱い同情をもって引き受けた。この人の骨折りと後見のおかげで、公爵はふたたびスイスのシュナイデル医院へはいることとなった。
 エヴゲーニイ自身も外国へ旅行に出た。彼は公然、自分のことを、『ロシヤではぜんぜん無用な人間』と名のって、ずっと長くヨーロッパに滞在するつもりでいたが、かなりしばしば、――すくなくも三、四か月に一度は、シュナイデルのもとに病める友を訪れた。しかし、院長はしだいに深く眉をひそめて、小首をひねりながら、知能の組織がすっかり傷つけられていることをほのめかした。それでも、まだ治療が不可能とは断言しないけれど、きわめて絶望的な意見をあえて口外するのであった。エヴゲーニイは、それがひどく胸にこたえる様子であった。じっさい彼には胸が、――真情があった。それは、彼がときどきコーリャから手紙をもらったり、自分のほうからも返事を出すことさえある、という事実によって証明される。 彼がまだそのほかに、奇妙な性格の一面を持っていることが知れてきた。この一面というのは善い性質のものだから、とりあえずここに紹介する。シュナイデル医院を訪問して帰るたびに、彼はコーリャヘあてたもののほか、いま一通の手紙をペテルブルグの一人物へ送った。その手紙には目下の公爵の病状が、きわめて詳細な優しい筆つきで述べられている。そして、非常に丁重な信服の表白以外に、自分の観察や、理解や、感情を、露骨に叙述したところがたくさんあった(しかも、それが回を追って頻繁になっていった)、――手短にいえば、なにかしら友情に似た、親しい感情が現われはじめたのである。こうして、エヴゲーニイと(かなりときたまではあるけれど)通信をつづけて、かくまでに彼の注意と尊敬をかちえた人物は、ヴェーラ・レーベジェヴァである。どうしてこんな交際がはじまったのか、正確に知ることはできないけれど、もちろん、かの公爵一件の突発でヴェーラが悲痛のあまり病気までしたとき、ふたりはぐうぜん結びついたものに相違ない。しかし、どういう事情のもとに相識と友誼が生じたのか、――詳しいことはいぜんとしてわからない。この手紙のことを伝えたおもな目的は、その中にエパンチン家の人々、特にアグラーヤに関する報知が含まれているからである。
 エヴゲーニイは彼女のことを、パリから発したかなり取りとめのない一通の手紙の中で、次のように報じている。アグラーヤはある亡命のポーランドの伯爵に、しばらくなみなみならぬ愛慕の情を示していたが、とつぜん両親の意志にそむいて、この男と結婚してしまった。両親はついに承諾を与えたけれども、それは、しいて反対すると、なにか恐ろしい不
体裁な結果を見そうだったからである。
 それから約半年の沈黙ののち、エヴゲーニイは最近シュナイデル教授訪問のさい、病院でエパンチン一家の人と(仕事の都合でペテルブルグに残っているイヴァン将軍は、むろん除外しての話だ)、S公爵に出くわした顛末を、長い詳しい手紙でヴェーラに知らせた。その邂逅は奇妙なものであった。エヴゲーニイは一同のものに、一種の歓喜をもって迎えられた。アデライーダとアレクサンドラは、『不仕合せな公爵に関する天使のような尽力』のために、なぜかエヴゲーニイを自分の恩人のようにいった。リザヴェータ夫人は公爵のあさましい容体を見て、真底からさめざめと泣きだした。見受けたところ、公爵はいっさいのことをゆるされたらしい。S公爵はこのとき真相をうがった批評を述べて、みんなを感心させた。この人とアデライーダは互いにまだ十分に一致していない、とエヴゲーニイには感じられた。しかし、近き将来において、熱情的なアデライーダは、S公爵の才智と経験に喜んで心から敬服するようになるだろう。そのうえ、一家族の受けた恐ろしい教訓、――ことにアグラーヤと亡命客との最近の事件は、彼女に異常な影響を及ぼしたのである。
 家族のものが、このポーランドの伯爵にアグラーヤを譲るとき心配したことは、半年のあいだにことごとく事実となって現われた。おまけに、そのとき考えもしなかったような、意外な事実までが添えものとなったのである。のちになって、この伯爵は伯爵でもなんでもない、かりに亡命客というのがほんとうであるとしても、なにかうしろ暗い怪しい経歴を持っていることがわかってきた。彼がアグラーヤをとりこにしたのは、祖国を思う苦痛にさいなまれる高潔無比な精神である。すっかりとりこにされたアグラーヤは、結婚しないうちから、ポーランド再興海外委員会とやらの会員になって、おまけに、ある有名なカトリックの長老を、夢中になるほど崇拝したあげく、その人の懺悔《ざんげ》堂へ出入りするようになった。伯爵がリザヴェータ夫人とS公爵に否定できないほど正確な証拠を見せた莫大な財産は、ぜんぜんあとかたもない話だということもわかって来た。そればかりか、結婚後半年たつかたたないかに、伯爵とその友人、――有名な長老は、早くもたくみにアグラーヤをそそのかして、家族のものと喧嘩させたので、みんなもう何か月か彼女を見ないのである……
 とにかく、話すことはいろいろあるけれども、リザヴェータ夫人や令嬢たちはいうまでもなく、S公爵すらこの『テロル』に気をのまれてしまって、エヴゲーニイとの話の中でも、ある種のことは口に出すのさえ恐れたくらいである。もっとも、エヴゲーニイは自分たちから聞かなくても、アグラーヤの迷いに関する最近の顛末をよく承知しているということは、彼らも悟ってはいたのである。
 不幸なリザヴェータ夫人は、もはやロシヤヘ帰りたがっていた。エヴゲーニイの証明によると、夫人は猛烈な勢いで、外国のものというとなにもかも、頭ごなしにこきおろしたとのことである。『どこへ行っても、パンをうまく焼くすべさえ知りゃしない。そして、冬は二十日鼠みたいに、穴蔵の中で凍えている』と彼女はいった。『まあ、ここでこうして、この不仕合せな男の身の上をロシヤ語で嘆いてやるのが、せめてもの心やりです』もうすこしも相手の見わけのつかない公爵を、興奮のていで指さしつつ、夫人はこういい足した。
『夢中になるのはいいかげんにして、そろそろ理性が働いてもいいころです。こんなものはみんな、――こんな外国や、あなたがたのありがたがるヨーロッパなんか、みんなみんな夢です。そして、外国へ来ている今のわたしたちも、みんな夢です……わたしのいったことを覚えてらっしゃい、今にご自分でなるほどと思いますから!』エヴゲーニイと別れしなに、夫人はほとんど噛みつくようにいった。