『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P042-P061

「神聖なる長老さま、どうかおっしゃって下さいまし、わたくしがあんまり元気すぎるために、腹を立てはなさいませんか?」肘椅子の腕木に両手をかけて、返答次第でこの中から飛び出すぞというような身構えをしながら、フョードルはふいにこう叫んだ。
「お願いですじゃ、あなたも決してご心配やご遠慮のないように。」長老は諭すように言った。「どうかご自分の家におられるつもりで、遠慮なさらぬようにお願いしますじゃ、まず第一に自分で自身を恥じぬことが肝要ですぞ。これが一切のもとですからな。」
「自分の家と同じように? つまり、飾りけなしでございますか? ああ、それはもったいなさすぎます、もったいなさすぎます、がしかし、――悦んで頂戴いたしましょう! ところで、長老さま、飾りけなしなぞと、わたくしを煽てないで下さい、けんのんでございますよ……飾りけなしというところまでは、当人のわたくしさえ突き当る元気がありません。これはつまりあなたを護るために、前もってご注意するのでございます。まあ、そのほかのことはまだ『未知の闇に葬られて』おります。もっとも、中には、わたくしという人間を、むやみと悪しざまに言いたがる仁《じん》もありますがな、――これはミウーソフさん、あんたにあてて言っとることですぜ。ところで、長老さま、あなたにあてては歓喜の情を披瀝いたします!」彼は立ちあがって、両手を差し上げながら言いだした。「『なんじを宿せし母胎は幸いなり、なんじを養いし乳房は幸いなり、ことに乳房こそ幸いなれ!』あなたはただいま、『自分を恥じてはならぬ、これが一切のもとだから』とご注意くださりましたが、あのご注意でわたくしを腹の底までお見透しなさいました。まったく、わたくしはいつも人中へ入って行くと、自分は誰よりも一番いやしい男で、人がみんな自分を道化者あつかいにするような気がいたすのでございます。そこで、『よし、それなら一つ本当に道化の役をやって見せてやろう。人の思わくなど怖かあない。誰も彼もみんなわしより卑屈なやつらばかりだ!』こういうわけで、わたくしは道化になったのでございます。恥しいがもとの道化でございます、長老さま、恥しいがもとなのでございます。ただただ疑ぐり深い性分のために、やんちゃをするのでございます。もしわたくしが人の中へ入る時、みんなわたくしのことを、世にも面白い、利口な人間と思うてくれるに相違ない、こういう自信ができましたなら、いやはや、その時はわたくしも、どんないい人間になったことでしょうなあ! 長老さま!」と、いきなりとんと膝を突いて、「永久の生命《いのち》を受け継ぐためには、一たいどうすればよろしいのでございましょう?」
 はたして彼はふざけているのか、それとも本当に感激しているのか、どちらとも決めかねるほどであった。
 長老はそのほうへ視線を注ぎ、笑みを浮べながら言った。
「どうすればよいか、自分でとうからご存じじゃ。あなたには分別は十分ありますでな。飲酒に耽らず、言葉を慎しみ、女色、ことに拝金におぼれてはなりませんぞ。それからあなたの酒場を、皆というわけにゆかぬまでも、せめて二つでも三つでもお閉じなさい。が、大事なのは、一ばん大事なのは、――嘘をつかぬということですじゃ。」
「というと、ディドローの一件か何かのことで?」
「いや、ディドローのことではない。肝要なのは自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。みずから欺き、みずからの偽りに耳を傾けるものは、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることができぬようになる、すると、当然の結果として、自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう、ところが、愛がないから、自然と気をまぎらすために淫らな情欲に溺れて、畜生にもひとしい悪行を犯すようになりますじゃ。それもこれも、みな他人や自分に対するたえまのない偽りから起ることですぞ。みずから欺くものは、何より第一番に腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいことがある。そうではありませんかな? そういう人はな、誰も自分を馬鹿にした者はない、ただ自分で侮辱を思いついてそれに色どりをしただけなのだ、ということをよく承知しております。一幅の絵に仕上げるため自分で誇張して、僅かな他人の言葉に突っかかり、針ほどのことを棒のように触れ廻る、――それをちゃんと承知しておるくせに、自分から先になって腹を立てる。しかも、よい気持になって、何ともいえぬ満足を感じるまで腹を立てる。こうして、本当のかたき同士のような心持になってしまうのじゃ……さあ、立ってお坐りなされ、お願いですじゃ。それもやはり偽りの身振りではありませぬか。」
「ああ、有徳《うとく》なお方だ! どうぞお手を接吻さして下さいませ。」フョードルはひょいと飛びあがって、長老の痩せこけた手を大急ぎでちゅっと吸った。「まったくそのとおり、腹を立てるのがいい気持なんでございます。実によく言い当てなさいました。そういうことを、わたくしは今まで聞いたことがございません。まったくそのとおり、わたくしは一生涯、いい気持になるまで腹を立てました。つまり、その美学的に腹を立てたのでございます。なぜと申して、侮辱されるというやつは気持がいいばかりでなく、どうかすると美しいことがございますでな。この美しいということを、一つ言い落されましたなあ、長老さま! これはぜひ手帳に書きとめておきましょう。ところで、わたくしは本当に嘘をつきました、それこそ一生のあいだ毎時毎日嘘をつきました。まことに偽りは偽りの父なり! でございますよ。もっとも、偽りの父ではありませんな。いつもわたくしは、聖書の文句にまごつきますので。まあ、さよう、偽りの子くらいのところでたくさんですよ。しかし……天使のような長老さま……ディドローのような話も時にはよろしゅうございますよ! ディドローの話は害になりません、害になるのはときどき口をすべる言葉でございます。ああ、そうそう、うっかり忘れるところだった、ついでに一つ伺いたいことがございます。これはもう三年も前から調べてみるつもりで、こちらへ参上してぜひぜひ詳しく伺おう、と決心しておったのでございます。しかし、ミウーソフさんに口出しをさせんようにお願いいたします。ほかではありませんが、『殉教者伝』のどこかにこんな話があるのは、本当のことでございましょうか。それは何でもある神聖な奇蹟の行者が、信仰のために迫害されておりましたが、とうとう首を切られてしまいました。ところが、その人はひょいと起きあがるなり、自分の首を拾って、さも『いとしげに口づけしぬ』とあるのです。しかも長い間それを手に持って歩きながら、『いとしげに口づけしぬ』なんだそうです。一たいこれは本当のことでしょうか、どうでしょう、皆さん?」
「いいや、嘘ですじゃ」と長老は答えた。
「どんな『殉教者伝』にも、そのようなことは載っておりません。一たい何聖者のことをそんなふうに書いてありましたかな?」と図書がかりの僧が訊いた。
「わたくしもよく知りません、一向存じません。だまされたんですな。わたくしも人から聞いたのです。ところで、誰から聞いたとお思いですか、このミウーソフさんですよ。たった今ディドローのことであんなに腹を立てたミウーソフさんですよ。この人が話して聞かせたのです。」
「僕は決してそんなことを、あなたに話した覚えはありません。それに全体、僕はあなたと話なんかしやしません。」
「そりゃまったくわしに話したことはありませんがな、あんたが大勢あつまっておる席で話したところ、その場にわしも居合せたんですよ。何でも四年ばかりも前のことでしたなあ。わしがこんなことを言いだしたのは、あんたがこの滑稽な話でもってわしの信仰をゆるがしたからです。あんたは芋の煮えたもご存じなしだが、わしはゆるがされたる信仰をいだいて帰って、それ以来ますます動揺をきたしておるんですよ。なあ、ミウーソフさん、あんたはわしの大堕落の原因なんですぜ。これはもうディドローどころの騒ぎじゃない!」
 フョードルは悲痛な熱した調子で弁じた。しかし、またしても彼が芝居をしているということを、一同はもうはっきりと見抜いたのであるが、それでもやはり、ミウーソフは痛いところを突かれたような気がした。
「なんてくだらない、あんたの言うことはみんな馬鹿げてる」と彼は呟いた。「僕は実際いつか話したことがあるかもしれん……しかし、あなたに話したのじゃない。僕自身からして人に聞いたんですものね。何でもパリにいた時あるフランス人が、ロシヤでは『殉教者伝』の中にこんな逸話があって祈祷式に朗読するとかって話して聞かせたんです。その人はなかなかの学者で、ロシヤに関する統計を専門に研究しているんです……ロシヤにも長く暮したことがあります……僕自身は『殉教者伝』を読んだことがない……それに、また読もうとも思いませんよ……まったく食事の時などは、どんなことを喋るかしれたもんじゃない……そのときちょうど食事をしていたんですからね……」
「さよう、あんたはそのとき食事をしておられたでしょうが、わしはこのとおり、信仰をなくしたんですよ!」とフョードルがちょっかいを入れた。
「あなたの信仰なんか僕の知ったことじゃありません!」とミウーソフは呶鳴りかけたが、急に虫を殺してこう言った。「あなたはまったく譬えでなしに、自分の触ったものにすっかり泥を塗るんですよ。」
 長老はとつぜん席を立った。
「失礼ですが、皆さん、わしはちょっと十分間ほど、あなた方をおいて行かねばなりませんじゃ」と彼は一行に向って言った。「実はあなた方より前に見えた人たちが待っておりますのでな。しかし、あなたは何というても、嘘をつかぬほうがようござりますぞ。」フョードルに向って愉快そうな顔をしながら、彼はこう言いたした。
 彼は庵室を出て行った。アリョーシャと聴法者は階段を助けおろすために、その後から駆け出した。アリョーシャは息をはずましていた。彼はこの席をはずせるのが嬉しかったけれど、長老が少しも腹を立てないで、愉快そうな顔をしているのも、嬉しいことであった。長老は自分を待ちかねている人たちを祝福するために、廊下のほうをさして進んだ。しかし、フョードルはそれでも庵室の戸口で彼を引き止めた。
「神聖なる長老さま!」と彼は思い入れたっぷりで叫んだ。「どうかもう一度お手を接吻さして下さいませ! 実際あなたはなかなか話せますよ、一緒に暮せますよ! あなたはわたくしがいつもこのような馬鹿者で、道化た真似ばかりしとるとお思いなされますか! なに、わたくしはあなたをためそうがために、わざとあんな真似をしておったのでございます。あれはつまり、あなたと一緒に暮すことができるか、あなたの気高いお心にわたくしの謙遜の居場所があるかどうかと思って、ちょっと脈をとってみたのでございますよ。しかし、あなたには褒状をさし上げてもよろしい、――一緒に暮すことができますよ! さあ、これでもう口をききません、ずっとしまいまで黙っております。椅子に腰をかけたっきり、黙っております。ミウーソフさん、今度はあなたが話をする番ですぜ、今度はあなたが一番役者ですぜ……もっとも、ほんの十分間だけな。」

[#3字下げ]第三 信心深い女の群[#「第三 信心深い女の群」は中見出し]

 そと囲いの塀に建てつけられた木造の廊下の傍には、今日は女ばかりの一群、二十人ばかりの女房が押しかけていた。彼らは、いよいよ長老さまがお出ましになると聞いて、こうして集っているのであった。上流の婦人のために設けられた別室に控えて同様に長老を待っていた地主のホフラコーヴァ夫人も廊下へ出た。この一行は母と娘の二人であった。母なるホフラコーヴァは富裕な貴婦人で、いつも趣味のある服装をしているうえに、年もまだずいぶん若いほうである。少し色目は悪いけれど、非常に可愛い顔立ちをしていて、ほとんど真っ黒な目が恐ろしく生き生きしている。年はまだせいぜい三十四くらいなものだが、ものの五年ばかり前からやもめになっている。十四になる娘は足《そく》痛風に悩んでいた。不幸な娘はもう半年も前から歩くことができなくなったために、車のついた細長い安楽椅子に乗ったまま方々へ運ばれていた。美しい顔は病気のために少し痩せているけれど、うきうきしていた。睫の長い暗色《あんしょく》の大きな目には、何となくいたずららしい光があった。母は春頃からこの娘を外国へ連れて行く気でいたが、夏の領地整理のため時期を遅らしてしまった。母娘《おやこ》はもう二週間ばかりこの町に滞在しているが、それは神信心のためというより、むしろ用事の都合であった。もう三日前に一度長老を訪れたのに、今日もまたとつぜん母娘《おやこ》の者は、もう長老がほとんど誰にも会えなくなったことを承知しながら、ふたたびここへやって来て、もう一度「偉大な救い主を拝む幸福」を授けて欲しいと、祈るようにして頼んだのである。長老が出て来るのを待つあいだ、母夫人は娘の安楽椅子の傍らなる椅子に腰かけていた。彼女から二歩ばかり離れたところに一人の老僧が立っていた。これはこの僧院の人ではなく、あまり有名でない北のほうの寺から来たのである。彼も同じように長老の祝福を受けようとしていた。しかし、廊下に姿を現わした長老は、初めまっすぐに群衆のほうへと通り過ぎた。群衆は低い廊下と広場を繋いでいる、僅か三段の階《きざはし》をさして詰め寄せた。長老は一ばん上の段に立って袈裟を着け、自分のほうへ押し寄せる女房たちを祝福し始めた。と一人の『|憑かれた女《クリクーシカ》』が両手を取って突き出された。彼女は長老を見るか見ないかに、何やら愚かしい叫び声を立ててしゃっくりをしながら、子供の驚風のように全身をがたがた顫わせ始めた。長老はその頭の上から袈裟を被せて、簡単な祈祷をしてやった。すると、病人はたちまち静かになって、落ちついてしまった。今はどうか知らないが、筆者《わたし》の子供の時代には村うちや僧院で、よくこんな『|憑かれた女《クリクーシカ》』を見たり、噂を聞いたりしたものである。こういう病人を教会へつれて来ると、堂内一杯に響き渡るほどけたたましく叫んだり、犬の吠えるような声を出したりする。しかし、聖餐が出てから、そのそばへ連れられて行くと、『憑き物のわざ』はすぐやんで、病人もしばらくのあいだ落ちつくのであった。これらの事実は子供の筆者《わたし》を驚かし、かつおびやかした。しかし、その当時、地主の誰彼や、ことに町の学校の先生などに根掘り葉掘りして訊いてみたら、あれは仕事がしたくないからあんな真似をするので、相当の厳格な手段をとったら、いつでも根絶やしのできることだと説明して、それを裏書きするような話をいろいろ引いて聞かせた。ところが、後になって専門の医者から、それは決して芝居ではなく、わがロシヤに特有の観がある恐ろしい婦人病であると聞いて二度びっくりした。これはわが国農村婦人の惨憺たる運命を説明する病気で、なんら医薬の助けを借りず不規則に重い産をすました後、あまり早く過激な労働につくために生じたものであるが、そのほか、弱い女性の一般の例にならって、たえ得られない悲しみとか、男の折檻とかいうようなものも、原因となるとのことであった。
 病人を聖餐のそばへ連れて行くやいなや、今まで荒れ狂ったり、もがいたりしていたものが、急に治ってしまうという奇妙な事実も、『あれはただの芝居だ、ことによったら売僧《まいす》どもの手品かもしれぬ』と人は言うけれど、おそらくきわめて自然に生じるのであろう。つまり病人を聖餐のそばへ連れて行く女たちもまた病人自身も、こうして聖餐のそばへ寄って、頭を屈めたとき、病人に取り憑いている悪霊が、どうしても踏みこたえることができないものと、一定の真理かなんぞのように信じきっている。それゆえ、必然的な治療の奇蹟を期待する心と、その奇蹟の出現を信じきっている心とが、聖餐の前に屈んだ瞬間、神経的な精神病患者の肉体組織に、非常な激動を惹き起すのであろう(いな、惹き起すべきはずである)。かようにして、奇蹟は僅かの間ながら実現するのであった。長老が病人を袈裟で蔽うたとき、ちょうどこれと同じことが生じたのである。
 長老のそば近く押しかけている女たちは、その瞬間の印象に呼びさまされた歓喜と感動の涙にくれた。中にはその法衣《ころも》の端でも接吻しようと押し寄せるものもあれば、何やら経文を唱えるものもあった。長老は一同を祝福して、二三のものと言葉を交した。『|憑かれた女《クリクーシカ》』は彼もよく知っていた。これはあまり遠くない、僧院から六露里ほどの村から連れられて来たので、以前もちょいちょい来たことがある。
「ああ、あれは遠方の人じゃ!」決して年とっているのではないが、恐ろしく痩せほうけて、日に焼けたというより真っ黒な顔をした女を指さして、彼はこう言った。この女は跪いてじっと目を据えたまま、長老を見つめていた。その目の中には何となく狂奮の色があった。
「遠方でござります、方丈さま、遠方でござります、ここから三百露里もござります。遠方でござります、方丈さま、遠方でござります。」首をふらふらと右左に振るような気持で、掌に片頬をのせたまま、歌でも歌うように女は言った。その口調はまるでお経を唱えるような工合であった。
 民衆の中には忍耐強い無言の悲しみがある。それは自己の中にひそんで、じっと押し黙っている悲しみである。ところが、また張り裂けてしまった悲しみがある。それは一たん涙とともに流れ出てから、もう永久に経文でも唱えるような愚痴の形をとるものである。こんなのはとくに女のほうに多い。しかし、これとても決して無言の悲しみより忍びやすくはない。愚痴は自分の心をさらに毒し、一そう掻きむしることによって、ようやく悲しみをまぎらすばかりである。こうした悲しみは、慰藉を望まないで、救いがたい絶望の情を餌食にするものである。愚痴はただひっきりなしに傷口を突っついていたいという要求にすぎない。
「おおかた町方《まちかた》の人に違いなかろうな?」好奇の目で女を見つめながら、長老は語をついだ。
「町の者でござります、方丈さま、町の者でござります、もとは百姓の生れでござりましたが、今は町の者でござります、町で暮しておりまする。お前さまを一目見とうてまいりました。お噂を聞いたのでござります、幼い男の子の葬いをして巡礼に出ましたが、三ところのお寺へお詣りしたら、わたくしに教えて申されますに、『ナスターシャ、こうこういうところへ行ってみい。』つまりお前さまのことでござります、方丈さま、お前さまのことでござります。この町へまいってから、昨日は宿屋に泊りましたが、今日はこうしてお前さまのところへまいりました。」
「何を泣いておるのじゃな?」
「息子が可哀そうなのでござります、方丈さま、三つになる男の子でござりました。三つにたった三月たりないだけでござりました。息子のことを思うて、息子のことを思うて苦しんでおるのでござります。それもたった一人残った子でござりました。はじめニキートカとの中に、子供が四人ありましたが、どうもわたくしどもでは子供が育ちません。どうも方丈さま、育たないのでござります。上を三人|亡《の》うしたときは、それほど可哀そうとも思わなんだのでござりますが、こんど乙子《おとご》を亡《の》うした時ばかりは、どうも忘れることができません。まるでこう目の前に立ってどかないのでござります。もうすっかりわたくしの胸ん中を干乾しにしてしまいました。あの子の小さなシャツを見ても、着物を見ても、靴を見ても、おいおい泣くのでござります。あの子のあとに残ったものを一つ一つ拡げてみては、おいおい泣くのでござります。そこでニキートカに、――わたくしのつれあいに、『お願いだから巡礼に出しておくれ』と申しました。つれあいは馬車屋でござりますが、さして暮しには困りませぬ。方丈さま、さして暮しには困りませぬ。自分で馬車を追いまして、馬も車もみんな自分のものでござりまする。けれども、今となってこのような身上も何の役に立ちましょう! わたくしがいなくなったら、あの人は、うちのニキートカは、無茶なことをしているに違いありません。それは確かな話でござります。以前もそうでござりました。わたくしがちょっと目を放すと、すぐもう気を弛めるのでござります。でも今はあの人のことなぞちっとも思いはいたしません。もう家を出て三月になりますが、わたくしはすっかり忘れてしまいました。何もかも忘れてしもうて、思い出すのもいやでござります。それに、今あの人と一緒になったところで何としましょう。わたくしはもうあの人と縁を切ってしまいました。誰もかれもすっかり縁を切ってしまいました。自分の家や道具なんぞ見とうござりませぬ、何にも見とうござりませぬ!」
「なあ、おかみさん」と長老は言いだした。「ある昔のえらい聖人《しょうにん》さまが、お前と同じように寺へ来て泣いておる母親に目をおつけなされた。それはやっぱり神様のお召しになった一人子のことを思うて泣いていたのじゃ。聖人《しょうにん》さまの言わるるには、『一たいお前は神様の前へ出た幼い子供が、わがまま者じゃということを知らぬのか? 幼い子供ほど神様の王国《みくに》でわがままなのはないくらいじゃ。子供らは神様に向いて、あなたはわたしたちに命を恵んで下されたけれど、ちらと世の中を覗いたばかりで、もう取り上げておしまいなされました、などと駄々をこねて、すぐに天使の位を授けて下されとねだるのじゃ。それゆえ、お前も泣かずに悦ぶがよい。お前の子供はいま神様のおそばで、天使の中に入っているのじゃぞ』と、こう昔の聖人さまが泣いておる母親に諭された。その方はえらい聖人じゃによって、間違うたことなぞ言われるはずがない。お前の子供も今きっと神様のご座所の前に立って、悦んでうかれながらお前のことを神様に祈っておるじゃろう。よいかな、それじゃによって、お前も泣かずに悦ばねばならんのじゃ。」
 女は片手に頬をもたせながら、伏目になって聞いていたが、やがて深い溜息をついた。
「それと同じことを言うて、ニキートカもわたくしを慰めてくれました。お前さまの申されたとそっくりそのままでござります。『お前は馬鹿なやつじゃ、何を泣くことがあるか、うちの子も今きっと神様のところで、天使たちと一緒に歌を歌うておるに相違ない』とつれあいは申しまするが、そのくせ、自分でも泣いておるのでござります。見るとやっぱりわたくしと同じように、泣いておるのでござります。わたくしはそう申しました、『ニキートカ、それはわしも知っている、あの子は神様のところでのうて、ほかにおるはずがない。けれど今ここに、わしらのそばに一緒におらん、前のようにここに坐っておらんではないか!」とそう言うてやりました。わたくしはほんの一遍きりでも、あれが見とうござります。ほんの一遍あれが見たいのでござります。そばへ寄って声をかけないでもかまいませぬ。以前のように、あれがおもてで遊び疲れて帰って来て、あの可愛い声で、『母ちゃん、どこ?』と呼ぶところを、どこか隅のほうに隠れておって、せめてちらりとでも見たり聞いたりしとうござります。あの小さな足で部屋を歩くのが聞きとうござります。あの小さな足でことことと歩くのが、たった一遍……以前、ようわたくしのところへ駆けて来て、おらんだり笑うたりしましたが、わたくしはたった一度あの子の足音が聞きたい、どうしても聞きたいのでござります! けれども方丈さま、もうあれはおりませぬ、あれの声を聞く時はもうござりませぬ! これ、ここにあれの帯がござりますが、あれはもうおりませぬ。もうあれを見るとはできませぬ、あれの声を聞くことは……」
 女はふところから緑飾りをした小さなわが子の帯を取り出したが、それを一目見るやいなや、両手で蔽うて、身を顫わせながら慟哭し始めた。ふいに滝のようにほとばしり出る涙は、指の間から流れるのであった。
「ああそれは」と長老が言った。「それは昔の『ラケルわが子らを思い嘆きて慰むことを得ず、何となれば子らは有らざればなり』とあるのと同じことじゃ。これがお前たち母親のためにおかれた地上の隔てなのじゃ。ああ、慰められぬがよい、慰められることはいらぬ、慰められずに泣くがよい。ただな、泣くたびごとに怠りなく、お前の子供は神様のお使わしめの一人となって、天国からお前を見おろしながら、お前の涙を見て悦んで、それをば神様に指さしておるということを、忘れぬように思い出すのじゃぞ。お前の母親としての大きな嘆きはまだまだつづくが、しまいにはそれが静かな悦びとなって、その苦い涙も静かな感動の涙、罪障を払い心を浄める涙となるであろう。お前の子供に回向をしてやろうが、名前は何というのじゃな?」
「アレクセイでござります、方丈さま。」
「可愛い名前じゃ。神の使いアレクセイ([#割り注]三五〇―四一一年、ローマの人、結婚の日父母の家を出て隠遁生活をし、十七年の後、他人の様を粧って生家に帰り善行を積んだ人[#割り注終わり])にあやかったのじゃな?」
「神の使いでござります、方丈さま、神の使いでござります、神の使いアレクセイでござります!」
「何という聖《とうと》い子じゃ! 回向をしてやる、回向をしてやる! それからお前の悲しみも祈祷の中で告げてやろうし、つれあいの息災も祈ってやろう。しかしな、かみさん、お前つれあいを捨てておくのは罪なことじゃ、これから帰って面倒を見てやりなさい。お前がてて親を捨てたのを子供が天国から見たならば、二人のことをつらがって泣くじゃろう。どうしてお前は子供の仕合せに傷をつけるのじゃ? なぜというて、子供は生きておる、おお、生きておるとも、魂は永久に生きるものじゃ。家にこそおらね、見え隠れにお前がた夫婦のそばについておるのじゃ。それに、お前が自分の家を憎む、なぞと言うたら、どうしてその家の中へ入って来られるものか! お前がた二人が、父と母が一つところにおらぬとしたら、子供は一たいどっちへ行ったらよいと思う? 今お前は子供の夢を見て苦しんでおるが、つれあいと一緒になったら、子供がお前に穏かな夢を送ってくれるじゃろう。さあ、かみさん、帰りなさい、今日の日にも帰りなさい。」
「帰りまする、方丈さま、お前さまのお言葉に従うて帰りまする。お前さまはわたくしの心を見抜いて下されました。ああ、ニキートカ、お前はわしを待ちかねていさっしゃろうなあ、ニキートカ、さぞ待ちかねていさっしゃろうなあ」と女房はまたお経でも唱えるように言いだした。
 けれど、長老はもう別な老婆の方へ向いていた。彼女は巡礼風でなく町の人らしい身なりをしていたが、何か用事があって相談に来たということは、その目つきから知られるのであった。彼女は遠方から来たのでなく、この町に住んでいる下士のやもめであると名のった。息子のヴァーゼンカというのが、どこかの陸軍被服廠に勤務していたが、その後シベリヤのイルクーツクへ行って、二度そこから手紙をよこしたきり、もうまる一年たよりをしない。老婆は訊き合せもしてみたが、正直なところ、どこで訊き合せたらいいかわからないのであった。
「ところが、先だって、スチェパニーダ・ベドリャーギナという金持の店屋のおかみさんが、ねえ、ブローホロヴナ、いっそ息子さんの名前を過去帳へ書き込んで、お寺さまへ持って行ってお経を上げておもらい、そうしたら息子さんの魂が悩みだして、手紙をよこすようになります、これは確かなことで、何遍も試したことがあるんだによって。こうスチェパニーダさんがおっしゃるけれど、わたくしはどんなものだろうかと存じましてねえ……一たい本当でございましょうか、そんなことをしてよろしいものでございましょうか、一つお教えなすって下さいまし。」
「そのようなことは考えることもなりませぬぞ。訊くのも恥しいことじゃ。生きておる魂を、しかも現在の母親が供養するというようなことが、どうしてできると思いなさる? これは大きな罪じゃ、妖法にもひとしいことじゃ、しかし、お前の無知に免じて赦して下さるであろう。それよりお前、すぐ誰にでも味方をして助けて下さる聖母さまにお祈りして、息子の息災でおりますように、また間違ったことを考えた罪をお赦し下さりますようにと、お願いしたがよろしいぞ。それからな、ブローホロヴナ、わしはお前にこれだけのことを言うておこう、――息子さんは近いうちに自分で帰って来るか、それとも手紙をよこすか、どっちか一つに相違ない。お前もそのつもりでおるがよい。さあ、もう安心して帰りなさい。わしが言うておくが、お前の息子はまめでいる。」
「有難い長老さま、どうか神様のお恵みのありますように! ほんにあなたさまはわたくしどもの恩人でございます。わたくしども一同のために、またわたくしどもの罪障のために、代って祈って下さるお方でございます!」
 が、長老はもう自分のほうへ向けられた二つの熱した瞳を、群衆の中に見分けていた。それは痩せ衰えた肺病やみらしい、とはいえまだ若い農婦であった。じっと無言に見つめている目は、何やら希うようであったが、そばへ近づくのを恐れているふうであった。
「お前は何の用で来たのじゃな?」
「わたくしの魂を赦して下さいまし。」低い声で静かにこう言いながら、彼女は膝を突いて、長老の足もとにひれ伏した。「長老さま、わたくしは罪を犯しました、自分の罪が恐うしゅうございます。」
 長老は一番下の段に腰をおろした。女は膝を起さないで、そのそばへにじり寄った。
「わたくしがやもめになってから、もう三年目でございます。」
 女はびくびく身を顫わすようなふうで、小声にこう囁いた。「わたくしは嫁に行った先が、いやでいやでたまりませんでした。つれあいが年寄りで、ひどくわたくしをぶつのでございます。それが病気で寝ましたとき、わたくしはその顔を見い見い、もしこの人が快《よ》うなって床あげしたらどうしよう、と考えました。その時わたくしは、あの恐ろしい心を起したのでございます!」
「ちょっとお待ち!」と言って長老は、いきなり自分の耳を女の口のそばへ近寄せた。女はほとんど何一つ聞き取ることができないくらい小さな声でつづけて、やがて間もなく話し終った。
「三年目になるのじゃな?」
「三年目でございます。初めのうちは何とも思いませんでした が、この頃では病気までするほど、気がふさいでまいりました。」
「遠方かな?」
「ここから五百露里でございます。」
「懺悔の時に話したかな?」
「話しましてございます、二度も話しました。」
「聖餐をいただいたかな?」
「いただきました。長老さま、恐ろしゅうございます、死ぬのが恐ろしゅうございます。」
「何も恐れることはない、決して恐れることはない、くよくよすることもいらぬ。ただ懺悔の心が衰えぬようにしたならば、神様が何もかも赦して下さるのじゃ。それにな、本当に後悔しながら、神様から赦していただけぬような罪業は、決してこの世にありはせぬ、またあるべきはずもないのじゃ。また第一、限りない神様の愛を失うてしもうた者に、そのような大きな罪が犯せるものでない。それとも神様の愛でさえ追っつかぬような罪があるじゃろうか! そのようなことがあるべきでない。ただ怠りなく懺悔のみを心がけて、恐ろしいという気を追いのけてしまうがよい。神様は人間の考えに及びもつかぬような愛を持っていらっしゃる、たとえ人間に罪があろうとも、その罪のままに愛して下さるということを、一心に信ずるがよい。十人の正しきものより、一人の悔い改むるもののために、天国において悦びは増すべけれと、昔から言うてある。さあ、帰りなさい、恐れることはない。人の言うことを気にして、腹を立てたりしてはならぬぞ。死んだつれあいがお前を辱しめたことは、一切ゆるしてやって、心底から仲直りをするのじゃぞ。もし後悔しておるとすれば、つまり、愛しておる証拠じゃ。もし愛しているとすれば、お前はもう神の子じゃ……愛はすべてのものを贖《あがな》い、すべてのものを救う、現にわしのようにお前と同様罪ふかい人間が、お前の身の上に心を動かして、お前をあわれんでおるくらいじゃによって、神様はなおさらのことではないか。愛はまことにこの上ない貴いもので、それがあれば世界じゅうを買うことでもできる。自分の罪は言うまでもない、人の罪でさえ贖うことができるくらいじゃ。さあ、恐れずに行きなさい。」
 彼は女に三度まで十字を切ってやって、自分の首から聖像をはずし、それをば女の首にかけてやった。女は無言のまま、地に額をつけて礼拝した。長老は立ちあがって、乳呑み子を抱いた丈夫らしい一人の女房を、にこにこしながら見つめるのであった。
「|上山《ヴィシェゴーリエ》から参じやしたよ。」
「それでも六露里からあるところを、子供を抱いてはくたびれたろう。お前は何用じゃな?」
「お前さまを一目おがみに参じやした。わしはもう常住お前さまのところへまいりやすに、お忘れなさりやしたかね? もしお前さまわしを忘れなされたら、あまりもの覚えのええほうでもないとみえる。村のほうでお前さまがわずろうていなさるちゅう話を聞いたもんだで、ちょっとお顔を拝もうと思って出向きやしてね。ところが、こうして見れば、なんの病気どころか、まだ二十年くらいも生きなさりやすよ、本当に。どうか息災でいて下さりやし! それにお前さまのことを祈ってる者も大勢ありやすから、お前さまが病気などしなさるはずがござりやせんよ。」
「いや、いろいろと有難う。」
「ついでに一つちょっくらお願いがござりやす。ここに六十コペイカござりやすで、これをわしよりも貧乏な女子衆にくれてやって下さりやし。ここまで来てから考えてみると、長老さまに頼んで渡したほうがええ、あのお方は誰にやったらええかようご存じじゃ、と思いやしてな。」
「有難う、かみさん、有難う、よい心がけじゃ。わしはお前が気に入った。必ずそのとおりにして進ぜよう。抱いておるのは娘かな?」
「娘でござります。長老さま、リザヴェータと申しやす。」
「神様がお前がた二人、お前と子供のリザヴェータを祝福して下されようぞ。ああ、かみさん、お前のおかげで気がうきうきしてきた。では、さようなら、皆の衆、さようなら、大切な可愛い皆の衆!」
 彼は一同を祝福し、丁寧に会釈した。

[#3字下げ]第四 信仰薄き貴婦人[#「第四 信仰薄き貴婦人」は中見出し]

 地主の貴婦人は、下層民との会話やその祝福の光景を、初めからしまいまでじっと見て、静かな涙を流しながらそれをハンカチで拭いていた。それは多くの点で真に善良な資質を持った、感じやすい上流の貴婦人であった。最後に長老が自分のほうへ近づいた時、彼女は歓喜に溢れた声で迎えた。
「わたくし、ただ今の美しい光景をすっかり拝見しまして、本当に切ない思いをいたしました……」彼女は興奮のために、しまいまで言いきることができなかった。「おお、わたくしはよくわかります、民衆はあなたを愛しています。わたくしは自分でも民衆を愛します、いえ、愛そうと思っています、あの偉大な中に美しい単純なところのあるロシヤの民衆を、どうして愛さないでいられましょう!」
「お嬢さんのご健康はいかがですな? あなたはまた、わしと話がしたいと言われるそうじゃが?」
「ええ、無理やりにたってお願いしたのでございます。わたくしはあなたのお許しの出る間、お窓の外でこの膝を地べたに突いたまま、二日でも三日でもじっとしている覚悟でございました。わたくしどもはこの歓びに充ちた感謝の心を、すっかり拡げてお目にかけるためにまいったのでございます。長老さま、あなたは家のリーザを癒して下さいました、すっかり癒して下さいました。しかも、あなたのなさいましたことといったら、ただ木曜日にこの子のお祈りをして、お手をつむりへ載せて下すっただけではございませんか。わたくしどもはそのお手を接吻して、わたくしどもの心持を、敬虔の情を汲んでいただくために、あわてて伺った次第でございます!」
「癒したとはどういうわけでござりますな? お嬢さんはやはり椅子の中に寝ておられるではござりませぬか?」
「それでも、毎夜毎夜の発熱は、あの木曜の日からすっかりなくなって、これでもう二昼夜少しも起らないのでございます」と夫人は神経的に急き込みながら言った。「そればかりか、足までしっかりいたしました。昨夜ぐっすり寝みましたので、けさ起きました時はぴんぴんしていました。この血色を見て下さいまし、このいきいきした目つきをごらん下さいまし。今まではいつも泣いてばかりいましたものが、今ではさも愉快そうに、嬉しそうに笑ってばかりいます。今日はぜひとも立たしてくれ、と申して聞きません。そして、まる一分間、それこそ自分一人で、少しもよっかかりなしに立っていました。この子はもう二週間したらカドリールを踊ると申しまして、わたくしと賭けをしたのでございます。わたくしが土地の医者のヘルツェンシュトゥベを呼びましたところ、肩をすくめながら、驚いた、奇妙だ、とばかり申しているのでございます。それですのに、あなたはわたくしどもが邪魔をしなければいいが、こちらへ飛んで来て礼など言わなければいいが、と思っていらしったのでございますか? |Lise《リーズ》、お礼を申し上げないかえ、お礼を!」
 今まで笑っていた |Lise《リーズ》の愛くるしい顔は、急に真面目になった。彼女はできるだけ肘椅子の上に体を浮せて、長老を見つめながら手を合した。が、こらえきれなくなっていきなり笑いだした。
「わたし、あの人のことを笑ったのよ、あの人のことを!」こらえきれなくなって笑いだした自分に対して、子供らしいいまいましさを浮べながら、彼女はこう言ってアリョーシャを指さした。誰にもせよ、このとき長老の一歩うしろに立っているアリョーシャを眺めたものは、一瞬にして彼の双頬を染めたくれないに気づいたであろう。彼の目は急に輝きをおびて伏せられた。
「アレクセイさん、この子はあなたに宛てた手紙をことずかっていますのよ……ご機嫌はいかが?」とつぜん母夫人はアリョーシャのほうを向いて、美しい手袋をはめた手を差し伸べつつ語をついだ。長老はちょっと振り返ったが、ふいにじいっとアリョーシャを見つめるのであった。こちらはリーザに近寄って、何となく妙な間のわるそうな薄笑いを浮べながら、自分の手を差し出した。リーザはものものしい顔をした。
「カチェリーナ・イヴァーノヴナが、あたしの手からこの手紙をあなたに渡してくれって」と彼女は小さな手紙を差し出した。「そしてね、ぜひとも至急寄っていただきたいとおっしゃったわ。どうか瞞さないでぜひとも来ていただきたいって。」
「あのひとが僕に来てくれって? あのひとが……僕に……どういうわけだろう?」とアリョーシャは深い驚きの色を浮べながら呟いた。その顔は急に心配らしくなってきた。
「それは、やはりドミートリイさんのことや……それから近頃起ったいろんなことでご相談があるのでしょう」と母夫人は大急ぎで説明した。「カチェリーナさんは今ある決心をしていらっしゃいますの……けれど、そのためには、ぜひあなたとお目にかからなければならないんだそうですの……なぜですって? それはむろんわかりませんが、何でも至急にというお頼みでしたよ。あなたもそうしてお上げになるでしょう、きっと、してお上げになるでしょう。だって、それはキリスト教徒的感情の命令ですもの。」
「僕はあのひとを、たった一度見たっきりですよ。」アリョーシャは依然として合点のいかぬふうで、言葉をつづけた。
「あの方は本当に高尚な、まったく真似もできないような人格を持っていらっしゃいます!………あの方の苦しみだけから言ってもねえ……まあ考えてもごらんなさい、あの方がどんな苦労をしていらしったか、またどんな苦労をしていらっしゃるか、そしてこの先どんなことがあの方を待ち受けているか……何もかも恐ろしい、恐ろしい!」
「よろしい、では、僕まいりましょう」とアリョーシャは決めた。短い謎のような手紙にざっと目を通して見たが、ぜひとも来てくれという依頼のほか、まるで説明がなかった。
「ああ、それはあなたとして、ほんとうに美しい立派なことよ」とふいに |Lise《リーズ》は活気づいてこう叫んだ。「だって、あたし、お母さんにそう言ってたのよ、あの人はどんなことがあっても行きゃしない、あの人はお寺で行《ぎょう》をしてるんですものって。まあ、本当に、あなたはなんて立派な人なんでしょう! あたしね、いつでもあなたを立派な人だと思ってたのよ。だから、今そのことを言っちまっていい気持だわ!」
「|Lise《リーズ》」と母夫人はたしなめるように言ったが、すぐにっこり笑った。
「あなたはわたしたちを忘れておしまいなすったのね、アレクセイさん、あなたは家へちっとも来ようとなさらないじゃありませんか。ところが、|Lise《リーズ》はもう二度もわたしに、あなたと一緒にいる時だけ気分がいいって申しましたよ。」
 アリョーシャは伏せていた目をちょっと上げたが、また急に真っ赤になって、それからまたとつぜん、自分でもなぜだかわからない微笑を浮べた。けれど、長老はもう彼を見まもっていなかった。彼は前に述べたとおり、リーズの椅子のそばで自分を待っていた遠来の僧と話を始めたのである。それは見たところ、きわめて普通な僧らしかった。つまり大して位の高くない、単純ではあるが確乎不抜の人生観と、一種独自の執拗な信仰を持っているような僧の一人である。その言葉によると、彼はずっと北によったオブドールスクにある、僅か九人しか僧侶の住んでいない、貧しい聖シリヴェストル寺院から来たとのことであった。長老はこの僧を祝福して、いつでも都合のいい時に庵室を訪ねてくれと言った。
「あなたはどうして、あんなことを思いきってなさるのですか?」とつぜん僧はたしなめるようなものものしい態度で、|Lise《リーズ》を指しつつこう訊いた。これは彼女の『治療』のことをほのめかしたのである。
「このことはもちろん、今語るべき時でありませんじゃ。少しくらい軽くなったのは、すっかり治ってしまったのと違うし、それにまたほかの原因から起ることもありますでな。しかし、もし何かあったとすれば、それは誰の力でもない、神様の思し召しじゃ。一切のことは神様から出ているのじゃ。ときに、どうか本当にお訪ね下されえ」と彼は、僧に向ってつけたした。「でないと、いつでもというわけにまいりませぬでな。病身のことゆえ、もう命数もかぞえ尽されておる、それはわしも承知しておりますじゃ。」
「いえ、いえ、いえ、神様は決してわたくしどもからあなたを奪いはなさりませぬ。あなたはまだ長く長くお暮しなさいますとも」と母夫人は叫んだ。「それにどこがお悪いのでございましょう? お見受けしたところ、大変お丈夫そうで、楽しそうな、仕合せらしいお顔つきをしていらっしゃるではございませんか。」
「わしは今日珍しく気分がよいが、しかしそれはほんのちょっとの間じゃ、それはわしにもようわかっておりますじゃ。今わしは自分の病気を間違いなしに見抜いておりますでな。あなたはわしが大へん楽しそうな様子をしておると言われたが、そのように言うて下さるほど、わしにとって嬉しいことはありませんわい。なぜといって、人は仕合せのために作られたものですからな、じゃによって、本当に仕合せな人は、『わしはこの世で神の掟をはたした』と言う資格がある。すべての正直な人、すべての聖徒、すべての殉教者は、みなことごとく幸福であったのですじゃ。」
「ああ、何というお言葉でしょう、何という勇ましい高遠なお言葉でございましょう!」と母夫人は叫んだ。「あなたのおっしゃることは、一々わたくしの心を突き通すようでございます。ですが、仕合せ……仕合せ……それは一たいどこにあるのでしょう? ああ、もし長老さま、今日わたくしどもに二度目の対面を許して下さるほど、ご親切なお方でございますなら、このまえ申し上げなかったことを、――思いきって申し上げられなかったことをお聞き下さいまし。わたくしの苦しみのいわれをお聞き下さいまし。これはもうずっとずっと前からでございます! わたくしの苦しみは、失礼でございますが、わたくしの苦しみは……」こう言いながら、夫人は熱した感情の発作に駆られて、長老の前に両手を合せた。
「つまり何ですかな?」
「わたくしの苦しみは……不信でございます……」
「神様を信じなさらぬかな?」
「ああ、違います、違います、そんなことはわたくし考える勇気もございません。けれど、来世――これが謎なのでございます! この謎に対しては誰ひとり、本当に誰ひとり答えてくれるものがありません! どうぞお聞き下さいまし、あなたは人の心を癒すもの識りでいらっしゃいます。わたくしはもちろん、自分の申すことをすっかり信じていただこう、などという大それた望みは持っておりませんけれども、決して軽はずみな考えで、ただ今こんなことを申し上げるのでないということは、立派に誓ってもよろしゅうございます……まったく、この来世という考えが、苦しいほどわたくしの心を掻き乱すのでございます……ほんとうに恐ろしいほどでございます……それでも、わたくしは誰に相談したらいいかわかりません、どうしてもそんなことはできませんでした……ところがただ今、わたくしは思いきってあなたに申し上げるのでございます……ああ、どうしましょう、今あなたは、わたくしをどんな女だとお思いあそばすでしょう!」と夫人は思わず手を拍った。
「わしの思わくなぞ憚ることはありませんじゃ」と長老は答えた。「わしはあなたの悩みの真実なことをまったく信じきっておりますでな。」
「ああ、まことに有難うございます! ねえ、わたくしは目をつぶって、こんなことを考えるのでございます、もしすべての人が信仰を持っているとしたら、どこからそれを得たのでしょう? ある人の説によりますと、すべてこういうことは、はじめ自然界の恐ろしい現象に対する恐怖の念から起ったもので、神だの来世だのというものはないのだそうでございます。ところで、わたくしの考えますに、こうして一生涯信じ通しても、死んでしまえば急に何もなくなってしまって、ある文士の言っているように、『ただ墓の上に山牛蒡が生えるばかり』であったら、まあ、どうでございましょう。恐ろしいではありませんか! 一たいどうしたら信仰を呼び戻すことができましょうかしら? もっとも、わたくしが信じていましたのは、ほんの小さい子供のときばかりで、それも何の考えなしに機械的に信じていたのでございます……どうしたら、本当にどうしたらこのことが証明できましょうか、今日わたくしはあなたの前にひれ伏して、このことをお訊ねしようと存じまして、お邪魔にあがったのでございます。だって、もしこのおりをのがしましたら、もう一生わたくしの問いに答えてくれる人がございませんもの。どうしたら証明ができましょうか、どうしたら信念が得られましょうか? わたくしはまったく不仕合せなのでございます。じっと立ってまわりを眺めましても、みんな大抵どうでもいいような顔をしています、今の世の中に誰一人、そんなことを気にかける人はありません。それなのに、わたくし一人だけ、それがたまらないのでございます。本当に死ぬほど辛うございます!」
「それは疑いもなく死ぬほど辛いことですじゃ! しかし、このことについて証明ということはしょせんできぬが、信念を得ることはできますぞ。」
「どうして? どういう方法なのでございます?」
「それは実行の愛ですじゃ、努めて自分の同胞を実行的に怠りなく愛するようにしてごらんなされ。その愛の努力が成功するにつれて、神の存在も自分の霊魂の不死も確信されるようになりますじゃ。もし同胞に対する愛が完全な自己否定に到達したら、その時こそもはや疑いもなく信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も、あなたの心に忍び入ることはできません。これはもう実験をへた正確な方法じゃでな。」
「実行の愛? それがまた問題でございます。しかも、恐ろしい問題なのでございます! ねえ長老さま、わたくしはときどき一切のものを抛って、――自分の持っている物をすっかり投げ出した上に、リーザまで見棄てて、看護婦にでもなろうかと空想するくらい、人類というものを愛しているのでございます。じっとこう目をつぶって空想しているとき、わたくしは自分の中に抑えつけることのできない力を感じます。どんな傷も、どんな膿も、わたくしを愕かすことができないような気がいたしまず。わたくしは自分の手で傷所を繃帯したり洗ったりして、苦しめる人たちの看護人になれそうな心持がいたします。膿だらけの傷口を接吻するほどの意気込みになります。」
「ほかならぬそういうことを空想されるとすれば、それだけでもたくさんですじゃ、結構なことじゃ。そのうちにひょっと何か本当によいことをされる時もありましょう。」
「けれど、そういう生活に長く辛抱できるでございましょうか?」と夫人は熱心にほとんど激昂したような調子で言葉をつづけた。「これが一ばん大切な問題なのでございます。これがわたくしにとって一ばん苦しい、問題中の問題でございます。わたくしは目をつぶって、本当にこういう道を長く歩みつづけられるかしら、と自分で自分に訊いてみます。もしわたくしに傷口を洗ってもらっている病人が、即座に感謝の言葉をもって酬いないばかりか、かえってわたくしの博愛的な行為を認めも尊重もしないで、いろんな気まぐれで、人を苦しめたり、呶鳴りつけたり、わがままな要求をしたり、誰か上役の人に告げ口をしたりなんかしたら(これはひどく苦しんでいる人によくあることでございます)、――その時はまあどうでしょう? わたくしの愛はつづくでしょうか、つづかないでしょうか、ところで、何とお考えあそばすかわかりませんが、――わたくしは胸をわななかせながら、この疑問を解決したのでございます、――もしわたくしの人類に対する『実行的な』愛を、その場かぎり冷ましてしまうものが何かあるとすれば、それはつまり恩知らずの行為でございます。手短かに申しますと、わたくしは報酬を当てにする労働者でございます。わたくしは猶予なく報酬を、つまり愛に対する愛と賞讃を要求いたします。それでなくては、どんな人をも愛することができません!」彼女は誠実無比な自己呵責の発作に襲われているのであった。語り終えると、決然と挑むような態度で長老を眺めた。
「それは、ある一人の医者がわしに話したこととそっくりそのままじゃ、もっともだいぶ以前の話ですがな」と長老は言った。「それはもうかなりな年輩の、まぎれもなく賢い人であったが、その人があなたと同じようなことを、露骨に打ち明けたことがあります。もっとも、それは冗談半分ではあったが、痛ましい冗談でしたじゃ。その人が言うには、『私は人類を愛するけれども、自分で自分に驚くようなことがある。ほかでもない、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少のうなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、むしろ奇怪なくらいの想念に到達し、もし何かの機会で必要が生じたならば、まったく人類のため十宇架をも背負いかねないほどの勢いであるが、そのくせ誰とでも一つ部屋に二日と一緒に暮すことができぬ。それは経験で承知しておる。誰かちょっとでも自分のそばへ寄って来ると、すぐその個性が自分の自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、私は僅か一昼夜のうちに、優れた人格者すら憎みおおせることができる。ある者は食事が長いからというて、またある者は鼻風邪を引いて、ひっきりなしに鼻をかむからというて憎らしがる。つまり、私は人がちょっとでも自分に接触すると、たちまちその人の敵となるのだ。その代り個々の人間に対する憎悪が深くなるにつれて、人類ぜんたいに対する愛はいよいよ熱烈になってくる』とこういう話ですじゃ。」
「けれど、どうしたらよろしいのでしょう? そんな場合どうしたらよろしいのでしょう? それでは絶望のほかないのでございましょうか?」
「そのようなことはありませんじゃ。なぜというて、あなたがこのことについてそのように苦しみなさる……それ一つだけでもたくさんじゃでな。できうるだけのことをされれば、それだけの酬いがあります。あなたがそれほど深う真剣に自分を知ることができた以上、あなたはもう、多くのことを行ったわけになりますじゃ! が、もし今あのように誠実に話されたのも、その誠実さをわしに褒めてもらいたいがためとすれば、もちろん、あなたは実行的愛の方面で、何ものにも到達される時はありませんぞ。すべては空想の中にとどまって、一生は幻のごとく閃き過ぎるばかりじゃ、そのうちには来世のことも忘れて、ついには自分で何とかして安閑として納まってしまわれる、それはわかりきっておりますわい。」
「あなたはわたくしを粉微塵にしておしまいなさいました! わたくしはたった今あなたに言われて、はじめて気がつきました。本当にわたくしは、恩知らずの行為を忍ぶことができないという自白をいたしました時、自分の誠実さを褒めていただくことばかり当てにしておりました。あなたはわたくしの正体を取って押えて、わたくしに見せて下さいました、わたくしにわたくしを説明して下さいました!」
「あなたの言われるのは本当かな? そういう告白をされた以上、わしも今あなたが誠実な人で、善良な心を持っておいでのことと信じますじゃ。よしや幸福にまで至らぬとしても、いつでも自分はよい道に立っておるということを覚えておって、その道から踏みはずさぬようにされたがよい。何より大切なのは偽りを避けることじゃ、あらゆる種類の偽りを避けることじゃ、あらゆる種類の偽り、ことに自分自身に対する偽りを避けねばならぬ。自分の偽りを観察して、一時間ごと、いや一分間ごとにそれを見つめなされ。それから他人に対するものにせよ、自分に対するものにせよ、気むずかしさというものは慎しむべきことですぞ、あなたの心中にあって汚く思われるものは、あなたがそれに気づいたということ一つで、すでに浄化されておりますでな。恐怖もやはりそのとおり避けねばなりませんぞ、もっとも恐怖はすべて偽りの結果じゃが。また愛の獲得について、決して自分の狭量を恐れなさるな。それからまたその際に生じた自分のよからぬ行為をも、同様恐れることはありません。どうもこれ以上愉快なことを言うことができんで気の毒じゃが、なんにせ実行の愛は空想の愛にくらべると、恐ろしい気を起させるほど困難なものじゃでな。空想の愛はすみやかに功の成ることを渇望し、人に見られることを欲する。実際、中でも極端なのは、一刻の猶予もなくそれが成就して、舞台の上で行われることのように、皆に感心して見てもらいたい、それがためには命を投げ出しても惜しゅうない、というほどになってしまう。しかるに、実行の愛に至っては、何のことはない労働と忍耐じゃ。ある種の人にとっては一つの立派な学問かもしれぬ。しかし、あらかじめ言うておきますがな、どのように努力しても目的に達せぬばかりか、かえって遠のいて行くような気がしてぞっとする時、そういう時あなたは忽然と目的に到達せられる。そして絶えずひそかにあなたを導きあなたを愛された神様の奇蹟的な力を、自己の上にはっきりと認められますじゃ。ご免なされ、もうこれ以上あなたとお話はできませぬ、待っておる人がありますでな、さようなら。」
 夫人は泣いていた。
「|Lise《リーズ》を、|Lise《リーズ》を祝福して下さいまし、祝福して!」とふいに夫人は慌てだした。
「お嬢さんは愛を受ける値うちがありませんじゃ。お嬢さんが初めからしまいまでふざけておったのを、わしはちゃんと知っておりますぞ」と長老は冗談まじりに言った。「あんたはどういうわけで、さっきからアレクセイをからかいなさった?」
 まったく |Lise《リーズ》は初めからしまいまでこのいたずらに一生懸命だったのである。彼女はずっと前から、――この前の時から、アリョーシャが自分を見ると妙に鼻白んで、なるべく自分のほうを見まいとしているのに気がついた。これが彼女には面白くてたまらなかったのである。彼女は一心に待ちかまえながら、相手の視線を捕えようとした。と、こちらは執念《しゅうね》く自分のほうへ注がれた視線にたえきれないで、打ち勝ちがたい力に牽かれてふいと自分から娘を見やる、すると彼女はすぐさまひたと相手の顔を見つめながら、得々たる微笑を浮べる。アリョーシャは一そう鼻白んで口惜しがるのであった。ついに彼はすっかり顔をそむけて、長老のうしろへ隠れてしまった。幾分かの後、彼はまた同じ打ち勝ちがたい力に牽かれて、自分を見てるかどうかと、娘のほうを振り向いて見た。すると |Lise《リーズ》はほとんど安楽椅子から身を乗り出してしまって、横のほうから彼を見つめながら、自分のほうを振り向くのを一生懸命に待っていた。いよいよ彼の視線を捕らえると、長老さえ我慢できないような笑い声を立てたのである。
「どうしてあんたはこの人に、そう恥しい思いをさせなさるのじゃな、おはねさん?」
 |Lise《リーズ》は突然思いがけなく、真っ赤になって目を輝かした。その顔は恐ろしく真面目になった。彼女は熱した不平満々たる調子で、早口に神経的に言いだした。
「じゃ、あの人はどうして何もかも忘れてしまったの? あの人はあたしが小さな時分、あたしを抱いて歩いたり、一緒に遊んだりしたくせに。それから家へ通って、あたしに読み書きを教えてくれたのよ、あなたそれをご存じ? 二年前に別れる時も、あたしのことは決して忘れない、二人は永久に、永久に、永久に親友だって言ったのよ! それだのに、いまになって急にあたしを怖がりだしたんですもの。一たいあたしがあの人を、取って食うとでも思ってるのかしら? どうしてあの人はあたしのそばへ寄って、お話をしようとしないんでしょう! なぜあの人は家へ来ようとしないんでしょう? あなたがお出しなさらないの? だって、あの人がどこへでも行くってことは、あたしたちよく知っててよ。あたしのほうからあの人を呼ぶのはぶしつけだから、あの人から先に思い出してくれるのが本当だわ、もしあのことを忘れてないのなら……いいえ、駄目だわ、あの人は行《ぎょう》をしてるんですもの! だけど、何だってあなたはあの人にあんな裾の長い法衣《ころも》を着せたの?……駈け出したら転ぶじゃないの……」
 彼女は急にこらえきれなくなって、片手で顔を蔽いながら、もちまえの神経的な、体じゅうを揺り動かすような声を立てぬ笑い方で、さもたまらないように、いつまでもいつまでも笑いつづけるのであった。長老は微笑を含みながら彼女の言葉を聞き終り、優しく祝福してやった。リーザは長老の手を接吻しながら、突然その手を自分の目に押し当てて泣きだした。
「あなた、あたしのことを怒らないで頂戴、あたしは馬鹿だから何をしていただく値うちもないのよ……アリョーシャがこんなおかしな娘のところへ来たがらないのも、もっともかもしれないわ、本当にもっともなんだわ。」
「いや、わしがぜひとも行かせますじゃ」と長老は決めてしまった。

[#3字下げ]第五 アーメン、アーメン[#「第五 アーメン、アーメン」は中見出し]

 長老が庵室を出ていたのは約二十五分間であった。もう十二時半過ぎているのに、この集りの主因であるドミートリイはまだ姿を見せなかった。しかし、一同はほとんど彼のことを忘れてしまった形で、長老がふたたび庵室へ入ったときは、客ぜんたいの間に恐ろしく活気づいた会話が交されていた。その会話の牛耳をとっていたのは、第一にイヴァン、それから二人の僧であった。見受けたところ、ミウーソフも熱心に口を入れようとしていたが、またこの時も彼は運が悪かった。どうやら彼は二流どころの位置に立っているらしく、あまり彼の言葉に答えるものさえなかった。この新しい状態は、次第に募ってゆく彼の癇癪を、さらに烈しくするばかりであった。ほかでもない、彼は以前からイヴァンと知識の張りあいをしていたが、相手の示す気のない態度を冷静に我慢することができなかったのである。『少くとも、今までわれわれはヨーロッパにおける一切の進歩の頂上に立っていたのに、この若き世代は思いきってわれわれを軽蔑してやがる』と彼は肚の中で考えた。
 さっき椅子にじっと腰をかけて、口を緘していると誓ったフョードルは、本当にしばらくのあいだ口をきかなかったが、しじゅう人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮べながら、隣りに坐っているミウーソフの動作に注意して、そのいらいらした顔色を見て悦んでいる様子であった。彼はずっと前から何か敵《かたき》を取ってやろうと心構えしていたが、今の機会を見のがす気になれなかった。とうとう我慢ができなくなって、ミウーソフの肩に屈みかかりながら、小さな声でもう一度からかった。
「あんたがさっき『いとしげに口づけしぬ』の後で帰らないで、こうした無作法な仲間へ踏みとどまる気になったのはどういうわけか、一つ教えて上げましょうかな? ほかじゃない、あんたは自分が卑下されて侮辱されたような気がするので、その意趣ばらしに一つ利口なところを見せてやろう、と思って踏みとどまったんですよ。もうこうなった以上、利口なところを見せないうちは、決して帰りっこなしでさあ。」
「あなたはまた? なんの、今すぐにも帰りますよ。」
「どうして、どうして、一ばん後からお帰りですよ!」フョードルはいま一度ちくりと刺した。それはちょうど長老の帰って来た瞬間である。
 論争はその瞬間ひたとやんだ。が、長老はもとの席に着いてから、さあつづけて下さい、と勧めるように愛想よく一同を見廻すのであった。この人の顔のありとあらゆる表情をほとんど研究しつくしたアリョーシャは、このとき彼が恐ろしく疲れはてて、しいてみずから支えているのを明らかに見てとった。近頃彼は力の消耗のため、ときどき卒倒することがあった。その卒倒の前と同じような蒼白い色が、いま彼の顔に拡がっている。唇も白けていた。しかし、明らかに彼はこの集りを解散させたくない様子であった。その上に何かまだ目的があるらしい――が、どんな目的であろう? アリョーシャは一心に彼に注目していた。
「この人の至極めずらしい論文の話をしておるところでございます。」図書がかりの僧ヨシフがイヴァンを指しながら、長老に向ってこう言った。「いろいろ新しい説が述べてありますが、根本の思想は曖昧なものでございます。この人は教会的社会裁判とその権利範囲の問題について、一冊の書物を著わしたある桑門の人に答えて、論文を雑誌に発表されたので……」
「残念ながら、わしはその論文を読んでおりませんじゃ。しかし、話はかねがね聞いておりましたよ」と長老は鋭い目つきでじっとイヴァンを見つめながら答えた。
「この人の立脚地はなかなか面白いのでございます」と図書がかりの僧は語をついだ。「つまり、教会的社会裁判の問題について、教会と国家の区別をぜんぜん否定しておられるらしゅうございます。」
「それはめずらしい、しかしどのような意味ですかな?」と長老はイヴァンに訊ねた。
 イヴァンはとうとうそれに返事をした。が、その調子は前夜アリョーシャの心配したように、上から見下したような悪丁寧さではなく、つつましく控え目な用心ぶかいところがあった。底意らしいものは少しもなかった。
「僕はこの二つの分子の混同、すなわち教会と国家という別々な二つのものの混同は、むろん、永久につづくだろうという仮定から出発したのです。もっともこれはあり得べからざることで、ノーマルな状態どころじゃない、幾分たりとも調和した状態に導くことすらできないのであります。何となれば、その根本に虚偽が横たわっているからです。裁判のような問題における国家と教会との妥協は、純粋な本質から言って不可能なのであります。僕が論駁を試みた僧侶の方の断定によれば、教会は、国家の中に正確な、一定した地歩を占めているというのですが、僕は反対に、教会こそ自己の中に国家全体を含むべきであって、国家の中に僅かな一隅を占めるべきではない。たとえ現代において、それが何かの理由によって不可能であろうとも、将来、キリスト教社会の発達の直接かつ重大な目的とならねばならぬ、とこう論駁したのです。」
「それはまったくそのとおりです」と無口で博学な僧パイーシイは、しっかりした神経的な声で言った。
「純粋の法王集権論《ウルトラモンタニズム》([#割り注]ラテン語、山の彼方の意、けだしイタリアは中央ヨーロッパに対して山の彼方に当るからである[#割り注終わり])です。」じれったそうに、かわるがわる両方の足を組み変えながら、ミウーソフはこう叫んだ。
「なんの! それにロシヤには、山なぞないではありませんか!」と図書がかりの僧ヨシフは叫んで、さらに長老の方を向きながら語をつづけた。「この人はいろいろな議論の中に、論敵たる僧侶の(これは注目すべき事実でございます)『根本的かつ本質的命題』を弁駁していられます。その命題は第一に、『いかなる社会的団体といえども、自己の団体員の民法的、ならびに政治的権利を支配するの権力を所有する能わず、かつまた所有すべからず。』第二に、『刑法的および民法的権力は教会に属すべからず。教会は神の制定したるものとして、また宗教的目的を有する人々の団体として、性質上かかる権利と両立することを得ず。』最後の第三は、『教会はこの世の王国にあらず』というのでございます……」
「桑門の人にあるまじき言語の遊戯でございます!」とパイーシイは我慢しきれないでまた口を出した。「わたくしはあなたの論駁されたあの本を読んで」とイヴァンの方を向いた。「あの『教会はこの世の王国にあらず』という言葉に一驚を喫しました。もしこの世のものでないとすれば、この地上にぜんぜん存在するはずがないではありませんか。聖書の中にある『この世のものならず』という言葉は、そのような意味で用いられてはおりません。このような言葉をもてあそぶのはあるまじきことです。主イエス・キリストはとりもなおさず、この地上に教会を立てるためにおいでなされたのです。天の王国はむろんこの世のものでなく、天上にあるに相違ありませんが、それに入って行くには、地上に立てちれた教会を通るよりほかに道がありません。それゆえこの意味における俗世間的|地口《じぐち》は不可能で、かつあるまじきことです。教会は真に王国であります、君臨すべき使命を有しているのであります。それゆえ、最後は独立せる王国として、地上全体に出現しなければなりません――これはもう神の誓約のあることです……」
 彼は急におのれを制したかのように口をつぐんだ。イヴァンは経緯と注意を表しながら、その言葉を聞き終ると、さらに長老のほうへ向いて、少しも大儀そうなところのない、人のいい調子で、落ちつきすまして言いだした。
「つまり、僕の論文の要旨はこうなのです。古代、すなわちキ