『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P062-P077

リスト教発生後二三世紀の間、キリスト教は単に教会として地上に出現していました。そして、実際、教会にすぎなかったのです。ところが、ローマという異教国がキリスト教国となる望みを起した時、必然の結果として次のような事実が生じました。ほかでもない、ローマ帝国キリスト教国となりはしたものの、単に国家の中へ教会を編入したのみで、多くの施政に顕われたその本質は、依然たる異教帝国として存在をつづけたのです。実際、本質上から言っても、ぜひこうなるべきだったのです。しかし、帝国としてのローマには、異教的文明や知識の遺物がたくさん残っていました。例えば、国家の目的とか基礎とかいうものすらがそうです。しかるにキリスト教会は国家の組織に入ったとしても、自分の立ってる土台石、すなわち根本の基礎の中から一物をも譲歩し得なかった、というのは疑いもない事実であります。つまり、教祖自身によって示され、かつ固く定められた究極の目的を追うよりほか仕方がなかったに相違ありません。つまり、全世界を、――古い異教帝国をも含む全世界を、一つの教会に化してしまうのであります。それゆえ、教会は僕の論敵たる著者の言葉を借りると、『社会的団体』としても、『宗教的目的を有する人間の団体』としても、本来の目的において、国家の中に一定の位置を求むべきではなく、かえって、あらゆる地上の帝国こそ、結局教会にぜんぜん同化して、――単なる教会というものになりきって、教会の目的と両立しない目的を排除すべきであります。とはいえ、これはその国家の大帝国たる名誉も、その君主の光栄をも奪わずして、かえって誤れる異教的な虚偽の道から、永遠の目的に達する唯一の正しき道へ導くことになるのです。こういうわけで、もし『教会的社会裁判の基礎』の著者がこれらの基礎を発見し提唱するにあたって、これを現今の罪障多き不完全な時代に避けることのできない一時的妥協にすぎないと観たならば、その議論も正しいものとなったでしょう。ところが、もし著者が、ただ今ヨシフ主教の数え上げられた数カ条を目して、永久不変の原則であるなぞと、かりにも口はばったいことを広言するならば、それはつまり教会そのものに反対し、その永久不変な使命に反対することになるのであります。これが僕の論文です。その要旨の全体です。」
「つまり、簡単に言うとこうなのです」とパイーシイは一語一語力を入れながら、ふたたび口をきった。「わが十九世紀に入って、とくに明瞭になってきたある種の論法に従えば、教会は下級のものが上級のものに形を変えるような工合に、国家の中へ同化されなければなりません。そして、結局科学だの、時代精神だの、文明だのというものに打ち負かされて、亡びてしまわなければならんのです。もしそれをいとって抵抗すれば、国家は教会のためにほんのわずかな一隅を分けてくれて、しかも一定の監視をつけるでありましょう。これは現今、ヨーロッパ各国いたるところに行われておる現象であります。ところが、ロシヤ人の考量や希望によると、教会が下級から上級へと変形するように国家へ同化するのでなくして、反対に国家がついに教会と一つになる、――ほかのものでなく、ぜひ教会と一つになるべきであります。神よ、まことにかくあらせたまえ、アーメン、アーメン!」
「いや、そのお説を伺って、実のところ僕も少々元気が出て来ました」とミウーソフはまた足をかわるがわる組み直しながら、にたりと笑った。「僕の解釈するところでは、どうやらそれはキリスト再生の時に実現せられる、やたらに先のほうにある理想のようですね。まあ何とでも名はつけられますが、美しいユトピックな空想ですよ。戦争や外交官や銀行や、そんなものの根絶を予想するようなところは、むしろ社会主義に似ていますがね。僕はすんでのことでうっかり真面目にとって、教会はこれから[#「これから」に傍点]刑法の罪人を裁判して、笞刑や、流刑や、悪くしたら死刑さえ宣告するのじゃないか、と考えるところでしたよ。」
「もし今でも裁判が教会社会的なものしかないとしたら、今でも教会は流刑や、死刑を宣告するようなことはしないでしょう。そして、犯罪もそれに対する見解も、間違いなく一変すべきはずです。もちろん、それは今すぐ急にというわけじゃありません、次第次第にそうなるのですが、しかし、その時期はかなり早くやって来るでしょう……」イヴァンは落ちつきはらって、目をぱちりともさせないでこう言った。
「あなた真面目なんですか?」ミウーソフはじっと彼を見据えながら反問した。
「もし一切が教会となってしまったら、教会は犯罪人や抵抗者を破門するだけにとどめて、決して首なんか切らないでしょうよ」とイヴァンは語りつづけた。「ところで、一つあなたに伺いますが、破門された人間はどこへ行ったらいいのでしょうか? そのとき破門された人間は今日のように、単に人間社会を離れるばかりでなく、キリストをも去ってしまわなくちゃならないでしょう。つまり、その人間は自分の犯罪によって、単に世間ばかりでなく、教会に対しても叛旗を翻すことになるじゃありませんか。これはもちろん、今日でも厳格な意味において妥協することができます。『おれはなるほど盗みをした。けれども教会に叛くわけではない、キリストの敵になったわけではない。』今の犯人はほとんどすべてこんなふうに理屈をつけます。しかし、教会が国家に代って立った場合には、地上における教会の全部を否定してしまわないかぎり、こんなことを言うわけにゆきません。『誰も彼もみんな間違っている、みんなわき道にそれている、すべてのものが偽りの教会だ。ただ人殺しで泥棒の自分一人だけが、正統なキリストの教会だ』とは、ちょっと言いにくいことですからね。これを言うためには、そうざらにないようなえらい状況を必要とします。また一方、犯罪に対する教会そのものの見解を考えてみるのに、はたして教会は、目下社会保安のために行われている方法、すなわち腐敗せる人間を仲間から切り離してしまう異教的、機械的方法を改めずにいられるでしょうか? いな、今度こそは一時を糊塗するようなやり口でなく、人間の更生と復活と救済の理想にむかって、徹底的に変改してしまわなければなりません……」
「と言うと、つまりどういうことになるのです? 僕はまたわからなくなってしまいました」とミウーソフは遮った。「また何かの空想ですね。何だか形のないようなもので、まるでわけがわかりませんよ。破門とはどういうことです、何の破門です? 僕は何だか、慰み半分に言っていられるような気がしてなりませんよ。」
「ところで、事実それは今でも同じことですじゃ。」突然、長老がこう言いだしたので、人々は一せいにそのほうを振り向いた。「実際、今でもキリストの教会がなかったら、犯罪人の悪行《あくぎょう》に少しも抑制がなくなって、その悪行に対して後に加えられる罰すらも、まったく路を絶ったに違いない。しかし、罰というても、今あの人の言われたように、多くの場合、単に人の心をいらだたせるにすぎぬ機械的なものでなしに、本当の意味の罰なのじゃ。つまり真に効果のある、真に人をおののかせかつ柔らげるような、自分の良心の中に納められた本当の罰じゃ。」
「それはどういうわけでしょう? 失礼ですが、伺います」とミウーソフは烈しい好奇心に駆られて訊ねた。
「それはこういうわけですじゃ」と長老は説き始めた。「すべて、今のように流刑に処して懲役につかせる(以前はそれに笞刑まで加わっていたのじゃが)、そういうやり方は決して何人をも匡正することはできませんじゃ。何よりもっとも悪いのは、ほとんどいかなる罪人にも恐怖を起させないばかりか、決して犯罪の数を減少させることがない。それどころか、犯罪は年を追うてますます増加する一方じゃ。これはあなたも同意せられるはずですじゃ。で、つまり、このような方法では社会は少しも保護せられぬということになる。そのわけは、有害な人間が機械的に社会から切り離されて、目に触れぬように遠いところへ追放されるとしても、すぐその代りに別な犯罪者が、一人もしくは二人現われるからじゃ。もし現代において社会を保護するのみならず、犯人を匡正して別人のようにするものが何かあるとすれば、それはやはり自己の良心に含まれたキリストの掟にほかならぬ。ただキリストの社会、すなわち教会の子として自分の罪を自覚した時、犯人ははじめて社会に対して(すなわち教会に対して)自分の罪を悟ることができる。かようなわけで、ただ教会に対してのみ、現代の犯人は自分の罪を自覚するのであって、決して国家に対して自覚するのではない。で、もし裁判権が教会としての社会に属していたならば、どんな人間を追放から呼び戻してふたたび団体の中へ入れたらよいかということが、ちゃんとわかっているはずですじゃ。現今、教会は単なる精神的呵責のほか、なんら実際的な裁判権を持っておらぬから、犯人の実際的な処罰からは自分のほうで遠ざかっておる。つまり決して犯人を破門するようなことはなく、ただ父としての監視の目を放さぬというまでじゃ。その上、犯人に対しても、キリスト教的な交わりを絶やさずにおいて、教会の勤行にも聖餐にも列せさせるし、施物も頒けてやる。そして、罪人というよりはむしろ俘虜に近い待遇をするのじゃ。もしキリスト教の社会、すなわち教会が俗世間の法律と同じように、罪人を排斥し放逐したら、その罪人はどうなるであろう? おお、考えるのも恐ろしい話じゃ! もし教会が俗世間の法律の轍を踏んで、犯罪の起るたびにすぐさま破門の罰を下したらどうであろう? 少くとも、ロシヤの罪人にとって、これより上の絶望はあるまい。なぜというて、ロシヤの犯人はまだ信仰をもっているからじゃ。実際その時はどんな恐ろしいことがもちあがるかも知れぬ、――犯人の自暴自棄な心に信仰の失墜が生じんともかぎらぬ。その時はどうするつもりじゃ? しかし、教会は優しい愛情に充ちた母親のように、実行の罰を自分のほうから避けておる。まったく罪人はそれでなくても、国法によって恐ろしい罰を受けておるのじゃから、せめて誰か一人でもそのような人を憐れむ者がのうてはならぬ。しかし教会が処罰を避けるおもな原因は、教会の裁判は真理を包蔵する唯一無二のものであって、その他の裁判と一時的な妥協をすることさえ、本質的に精神的に不可能であるからじゃ。この場合、いい加減なごまかしはとうてい許されぬ。人の話によると、外国の犯人はあまり後悔するものがないとのことじゃ。つまりそれは現代の教えが、犯罪はその実、犯罪でのうて、ただ不正な圧制力に対する反抗である、という思想を裏書きしているからじゃ。社会は絶対の力をもって、まったく機械的にこういう犯人を自分から切り離してしまう。そして、この追放には憎悪が伴なう(とまあ、少くともヨーロッパの人が自分で言うておる)、憎悪ばかりでなく、自分の同胞たる犯人の将来に関する極度の無関心と忘却が伴なうのじゃ。こういう有様で、一切は教会側からいささかの憐愍をも現わすことなしに行われる。それというのも多くの場合、外国には教会というものが全然なくなって、職業的な僧侶と輪奐の美をきわめた教会の建物が残っておるにすぎぬからじゃ。もう教会はとうの昔に教会という下級の形から、国家という上級の形へ移ろうと努めておる。つまり国家というものの中ですっかり姿を消してしまおうとあせっておるようなものじゃ。少くともルーテル派の国ではそのように思われる。ローマにいたっては、もはや千年このかた、教会に代って国家が高唱されておるではないか。それゆえ、犯人自身も社会の一員という自覚がないから、追放に処せられると、絶望の底に投げ込まれてしまう。よしや社会へ復帰することがあっても非常な憎悪を抱いて帰るものが少くないので、社会が自分で自分を追放するような工合になってしまうのじゃ。これが結局どうなるかは、ご自分でも想像がつきましょう。わが国においても大抵それと同じ有様じゃ、とまあ一見して考えられるが、そこがすなわち問題なのですじゃ、わが国には、国法で定められた裁判のほかに教会があって、何といってもやはり可愛い大切な息子じゃ、というようなふうに犯人を眺めながら、いかなる場合にも交わりを断たぬようにしておる。まだその上に実際的なものではないが、未来のために、空想の中に生きる教会裁判が保存されておって、これが疑いもなく、犯人によって本能的に認められておるのじゃ。たった今あの人が言われたことは本当ですじゃ。すなわち、もし教会裁判が実現されて、完全な力を行使する時がきたら――つまり、全社会がすべて教会に帰一してしもうたら、単に教会が罪人の匡正にかつてその比を見ぬほどの影響を与えるばかりでなく、事実、犯罪そのものの数も異常な割合をもって減少するかもしれぬ。疑いもなく教会は未来の犯人および未来の犯罪をば、多くの場合、今とはまるで別な目をもって見るようになるに相違ない。そうして追放されたものを呼び戻し、悪い企みをいだくものを未然に警め、堕落したものを蘇生さすことができるに相違ない。実のところ」と長老は微笑を浮べた。「いまキリスト教の社会はまだすっかり準備が整うておらぬので、ただ七人の義人を基礎として立っておるばかりじゃが、しかしその義人の力は、まだ衰えておらぬから、異教的な団体から全世界へ君臨する教会に姿を変えようとして、いまだにその期待の道をしっかりと踏みしめておる。これは必ず実現せらるべき約束のものゆえ、よし永劫の後なりともこの願いの叶いますように、アーメン、アーメン! ところで、時間や期限のために心を惑わすことはありませんじゃ、なぜと言うて、時間や期限の秘密は、神の知恵と、神の先見と、神の愛の中に納められておるからじゃ。それに人間の考えでまだまだ遠いように思われることも、神の定めによればもう実現の間際にあって、つい戸の外に控えておるかもしれませんじゃ、おお、これこそ、まことにしかあらせたまえ、アーメン、アーメン!」 
「アーメン、アーメン!」とパイーシイはうやうやしくおごそかに調子を合せた。
「奇妙だ、実に奇妙だ!」とミウーソフが言ったが、その声は熱しているというよりも、むしろ腹の底で何か不平を隠しているというふうであった。
「何がそのように奇妙に思われますかな?」用心ぶかい調子でヨシフが訊ねた。
「本当にこれは一たい何事です!」ミウーソフは、突然堰でも切れたように叫んだ。「地上の国家を排斥して、教会が国家の位置に登るなんて! それは法王権論《ウルトラモンタニズム》どころじゃなくて、超法王権論《アルキウルトラモンタニズム》だ! こんなことは法王グリゴーリイ七世だって夢にも見なかったでしょうよ!」
「あなたはまるで反対に解釈しておいでです!」とパイーシイはいかつい声で言った。「教会が国家になるのではありません、このことをご合点下さい。それはローマとその空想です、それは悪魔の第三の誘惑です! それとは正反対に、国家がかえって教会に同化するのです。国家が教会の高さにまで昇って行って、地球の表面いたるところ教会となってしまうのであります。これは法王権論《ウルトラモンタニズム》ともローマとも、あなたの解釈とも正反対です。そして、これこそ地上におけるロシヤ正教の偉大なる使命なのです。東のかたよりこの国が輝き渡るのであります。」
 ミウーソフはしかつめらしく押し黙っていた。その姿には、なみなみならぬ威厳が現われていた。高いところから見おろすような、へり下った微笑がその口辺に浮んだ。アリョーシャは烈しく胸をおどらしながら、始終の様子に注意していた。この会話が極度に彼を興奮さしたのである。ふとラキーチンのほうを見やると、彼は依然として戸のそばにじっと立ったまま、目こそ伏せているけれど、注意ぶかく耳をすましながら観察している。しかしその頬におどっているくれないによって、彼もアリョーシャに劣らず興奮していることが察しられた。アリョーシャはそのわけを知っていた。
「失礼ですが、一つ、ちょっとした逸話をお話しさせていただきます。」突然、ミウーソフが格別もったいぶった様子で意味ありげに言いだした。「あれは十二月革命のすぐあとでしたから、もう幾年か前のことです。僕は当時パリである一人の非常に権勢のある政治家のところへ、交際上の礼儀のために訪問をしましたが、そこできわめて興味ある人物に出会いました。この人物はただの探偵というより、大勢の探偵隊を指揮している人でした。ですから、やはり一種の権勢家なんですね。ちょっとした機会を掴まえて、僕は好奇心に駆られるままにこの人と話を始めました。ところで、この人はべつに知己として面会を許されたわけでなく、ある報告を持って来た属官という資格でしたから、その長官の僕に対する応接ぶりを見て、いくぶん打ち明けた態度をとってくれました。しかし、それもむろんある程度までで、打ち明けたというよりむしろ慇懃な態度だったのです。実際、フランス人は慇懃な態度をとるすべを知っていますからね。それに、僕が外国人だったからでもありましょう。けれど、僕はその人のいうことがよくわかりました。いろんな話の中に、当時官憲から追究されていた社会主義の革命家のことが話題に上ったのです。その話の主要な点は抜きにして、ただこの人が何の気なしに口をすべらした、非常に興味のある警句をご紹介しましょう。この人の言うことに、『われわれはすべて無政府主義者だの、無神論者だの、革命家だのというような社会主義めいた連中は、あまり大して恐ろしくないです。われわれはこの連中に注目していますから、やり口もわかりきっていますよ。ところが、その中にごく少数ではありますが、若干毛色の変ったやつがいます。これは神を信ずるキリスト教徒で、それと同時に社会主義なのです。こういう連中をわれわれは何よりも恐れます。実際これは恐ろしい連中なんですよ! 社会主義キリスト教徒は、社会主義無神論者よりも恐ろしいのです。』この言葉はすでに当時の僕を驚かしましたが、今こうしてお話を聞いてるうちに、なぜかふいとこれを思い出しましたよ……」
「で、つまり、それをわたくしたちに適用されるのですな、わたくしたちを社会主義者だとおっしゃるのですな?」とパイーシー[#「パイーシー」はママ]はいきなり単刀直入に訊いた。
 しかし、ミウーソフが何と答えようかと考えている間に、とつぜん戸が開いて、だいぶ遅刻したドミートリイが入って来た。実のところ、一同はいつの間にか彼を待たなくなっていたので、このふいの出現は最初の瞬間、驚愕の念すら惹起したものである。

[#3字下げ]第六 どうしてこんな男が生きてるんだ![#「第六 どうしてこんな男が生きてるんだ!」は中見出し]

 ドミートリイは今年二十八、気持のいい顔だちをした、中背の青年であったが、年よりはずっと老けて見える。筋肉の発達した体つきで、異常な腕力を持っていることが察しられたが、それでも顔には何となく病的なところがうかがわれた。痩せた顔は頬がこけて、何かしら不健康らしい黄がかった色つやをしている。少し飛び出した大きな暗色《あんしょく》の目は、一見したところ、何やらじっと執拗に見つめているようであるが、よく見ると、そわそわして落ちつきがない。興奮していらだたしげに話している時でさえ、その目は内部の気持に従わないで、何かまるで別な、時とすると、その場の状況に全然そぐわない表情を呈することがあった。
『あの男は一たい何を考えてるのか、わけがわからない』とは彼と話をした人の批評である。またある人は彼が何かもの思わしげな、気むずかしそうな目つきをしているなと思ううちに、突然思いがけなく笑いだされて、面くらうことがあった。つまり、そんな気むずかしそうな目つきをしていると同時に、陽気なふざけた考えが彼の心中にひそんでいることが、証明されるわけである。もっとも、彼の顔つきがいくぶん病的に見えるのは、今のところ無理からぬ話である。彼がこのごろ恐ろしく不安な遊蕩生活に耽溺していることも、また曖昧な金のことで父親と喧嘩をして、非常にいらいらした気分になっていることも、一同の者はよく知り抜いているからであった。このことについては町じゅうでいろいろな噂が立っていた。もっとも、彼は生れつきの癇癪持ちで、『常軌を逸した突発的な性情』を持っていた。これは、町の判事セミョーン・カチャーリニコフが、ある集会で彼を評した言葉である。
 彼はフロックコートのボタンをきちんとかけ、黒の手袋をはめ、シルハットを手に持って、申し分のない洒落たいでたちで入って来た。つい近頃退職した軍人のよくするように鼻髭だけ蓄えて、頤鬚は今のところ剃り落している。暗色の髪は短く刈り込んで、ちょっと前の方へまつわらしてあった。彼は軍隊式に勢いよく大股に歩いた。一瞬間、彼は閾の上に立ちどまって、一わたり一同を見廻すと、いきなりつかつかと長老を目ざして進んだ、この人がここのあるじだと見分けをつけたのである。彼は長老に向って、深く腰を屈め祝福を乞うた。長老は立ちあがって祝福してやった。ドミートリイはうやうやしくその手を接吻すると、恐ろしく興奮した、というよりいらいらした調子で口をきった。
「どうも長らくお待たせして相すみません、ご寛容をねがいます。父の使いでまいりました下男のスメルジャコフに、時間のことを念を押して訊ねましたところ、きっぱりした調子で、一時だと、二度まで答えましたので……ところが今はじめて……」
「心配なさることはありません」と長老は遮った。「かまいません、ちょっと遅刻されただけで、大したことはありませんじゃ……」
「実に恐縮のいたりです。あなたのお優しいお心として、そうあろうとは存じていましたが。」
 こうぶち切るように言って、ドミートリイはいま一ど会釈をした。それから急に父のほうを向いて、同じようなうやうやしい低い会釈をした。思うに、彼は前からこの会釈のことをいろいろと考えた挙句、この方法で自分の敬意と善良な意志を示すのが義務だと決したのであろう。フョードルはふいを打たれてちょっとまでついたが、すぐに自己一流の逃げ路を案出した。ドミートリイの会釈に対して、彼は椅子から立ちあがりさま、同じような低い会釈をもって報いた。その顔は急にものものしくしかつめらしくなったが、それがまた、かえって非常にどくどくしい陰を添えるのであった。それからドミートリイは無言のまま、部屋の中の一同に会釈を一つして、例の勢いのいい歩き振りで大股に窓のほうへ近寄り、パイーシイの傍にたった一つ残っていた椅子に腰をおろし、すっかり体を乗り出すようにして、自分が遮った会話のつづきを聞く身構えをした。
 ドミートリイの出席は僅かに二分かそこいらしかかからなかったので、会話はすぐにつづけられねばならぬはずであった。ところが、パイーシイの執拗な、ほとんどいらいらした質問に対して、ミウーソフはもはや返事をする必要を認めなかった。
「どうかこの話はやめにさしていただきたいもんですね」と彼は世間馴れた無造作な調子で言った。「それになかなか厄介な問題ですからね。ご覧なさい。イヴァン君があなたを見てにやにやしておられるから、きっとこの問題に関しても何か面白い説があるんでしょう。この人に訊いてご覧なさい。」
「なに、ちょっとした感想のほか何も変ったことはないですよ」とイヴァンはすぐ答えた。「一般にヨーロッパの自由主義、――ばかりでなく、ロシヤの自由主義ディレッタンティズムまでが、ずいぶん以前から、社会主義の結果とキリスト教の結果とをしばしば混同しています。こうした奇怪千万な論断は、もちろん、彼らの特性を暴露するものでありますが、しかしお話によると、社会主義キリスト教を混同するのは、単に自由主義者ディレッタントばかりでなく、多くの場合、憲兵もその仲間に入るようです。もっとも外国の憲兵にかぎることはもちろんですが……ミウーソフさん、あなたのパリの逸話は非常に興味がありますよ。」
「全体として、この問題はもうやめていただきたいですね」とミウーソフは言った。「その代り、僕は当《とう》のイヴァン君に関するきわめて興味に富んだ特性的な逸話を、もう一つお話ししましょう。つい五日ばかり前のことでした。当地の婦人が集ったある席で、イヴァン君は堂々たる態度で次のような議論を吐かれたのです。すなわち、地球上には人間同士の愛をしいるようなものは決してない。人類を愛すべしという法則は、ぜんぜん存在していない。もしこれまで地上に愛があったとすれば、それは人が自分の不死を信じていたからだ、というのであります。その際、イヴァン君はちょっと括弧の中に挟んだような形で、こういうことをつけたされました。つまり、この中に自然の法則が全部ふくまれているので、人類から不死の信仰を滅したならば、人類の愛がただちに枯死してしまうのみならず、この世の生活をつづけて行くために必要な、あらゆる生命力をなくしてしまう。そればかりか、その時は非道徳的なものは少しもなくなって、すべてのことが許される、人肉嗜食《アンスロポファジイ》さえ許されるようになるとのことです。おまけに、そればかりでなく、今日のわれわれのように、神も不死も信じない各個人にとって、自然の道徳律が宗教的なものとぜんぜん正反対になり、悪行と言い得るほどの利己主義が許されるのみならず、かえってそういう状態において避けることのできない、最も合理的な、高尚な行為として認められざるを得ない、という断定をもって論を結ばれたのであります。皆さん、この愛すべき奇矯な逆説家イヴァン君の唱道され、かつ唱道せんとしていられるその他のすべての議論は、かようなパラドックスから推して想像するにかたくないではありませんか。」
「失礼ですが」と突然ドミートリイが叫んだ。「聞き違えのないように伺っておきましょう。『無神論者の立場から見ると、悪行は単に許されるばかりでなく、かえって最も必要な、最も賢い行為と認められる!』とこういうのですか?」
「確かにそうです」とパイーシイが言った。
「覚えておきましょう。」
 こう言うとすぐ、ドミートリイは黙り込んでしまった。それは話に口を入れた時と同じように突然であった。一同は好奇のまなこを彼に注いだ。
「あなたは本当に人間が霊魂不滅の信仰を失ったら、そのような結果が生じるものと確信しておいでかな?」だしぬけに長老がイヴァンに問いかけた。
「ええ、僕はそう断言しました。もし不死がなければ善行もありません。」
「もしそう信じておられるなら、あなたは仕合せな人か、それともまた恐ろしく不仕合せな人かどっちかじゃ!」
「なぜ不仕合せなのです?」イヴァンは薄笑いをした。
「なぜというに、あなたはどうやら自分の霊魂の不滅も、自分で教会や教会問題について書かれたことも、どちらも信じていられぬらしいからな。」
「あるいはおっしゃるとおりかもしれません!………しかしそれでも、僕はまるっきりふざけたわけじゃないので……」とイヴァンはふいに奇妙な調子で白状したが、その顔はさっと赧くなった。
「まるきりふざけたのではない、それは本当じゃ。この思想はまだあなたの心内で決しられてないので、あなたを悩まし通しておるのじゃ。しかし、悩めるものも時には絶望のあまり、自分の絶望を慰みとすることがある。あなたも今のところ、絶望のあまりに雑誌へ論文を載せたり、社交界で議論をしたりして慰んでおられる。しかし、自分で自分の弁証を少しも信じないで、胸の痛みを感じながら、心の中でその弁証を冷笑しておられる……実際あなたの心中でこの問題はまだ決しておらぬ。この点にあなたの大きな悲しみがある。なぜというに、それはどこまでも解決を強要するからじゃ……」
「この問題が、僕の心中で解決せられることがありましょうか? 肯定のほうへ解決せられることが?」依然としてえたいの知れぬ薄笑いを浮べたまま、長老の顔を見つめながら、イヴァンはまた奇妙な質問をつづけるのであった。
「もし肯定のほうへ解決することができなければ、否定のほうへも決して解決せられる時はない。こういうあなたの心の特性は、ご自分でも知っておられるじゃろう。これがすなわちあなたの苦しみなのじゃ。しかし、こういう苦しみを悩むことのできる高邁なる心をお授け下された創世主に、感謝せられたがよい。『高きものに思いをめぐらし高きものを求めよ。何となればわれらのすみかは天国にあればなり。』どうか神様のお恵みで、まだこの世におられるうちに、この解決があなたの心を訪れますように、そうしてあなたの歩む道が祝福せられますように。」
 長老は手を挙げて、その場に坐ったままイヴァンに十字を切ってやろうとした。しかし、こちらはとつぜん椅子を立って長老に近寄り、その祝福を受けて手を接吻すると、無言に自分の席へ返った。彼の顔つきはしっかりして、真面目であった。この振舞いと、またイヴァンとしては思いがけない長老との会話は、その不可解な点において、また厳粛な点において一同を驚かした。人々はしばらく声をひそめ、アリョーシャの顔にはほとんど慴えたような表情が浮んだほどである。しかし、突然ミウーソフがひょいと肩をすくめると、それをきっかけにフョードルは椅子を飛びあがった。
「神のごとく聖なる長老さま!」と彼はイヴァンを指さしながら叫んだ。「これはわたくしの息子、わたくしの肉から出た肉、わたくしの最愛の肉でございます! これはわたくしの、さよう……尊敬すべきカルル・モールでして。これは、――たった今はいって来ましたドミートリイ、つまり、こうしてお裁きをお願いするようになった相手方でございますが、――これは尊敬すべからざるフランツ・モールでございます(この二人はどっちもシルレルの『群盗』の人物なので)。ところで、わたくしはさしずめ |Regierender《レギーレンター》 |Graf《グラフ》 |von《フォン》 |Moor《モール》の役廻りでございます! どうかご判断の上、お助けを願います! わたくしどもはあなたのお祈りばかりでなく、予言さえも聞かしていただきたいのでございます。」
「そのような気ちがいめいたものの言い方をされぬがよい。そして家の者を辱しめるような言葉で口をきるものではありませんじゃ」と長老は衰えた、よわよわしい声で答えた。見たところ、彼は疲れが烈しくなるにつれて、だんだん気力を失ってゆく様子であった。
「愚にもつかない茶番です。僕はここへ来る前から感づいていました!」とドミートリイは憤懣のあまり、同じく席を飛びあがってこう叫んだ。「お許し下さい、長老さま」と彼はゾシマのほうを向いて、「僕は無教育な男ですから、何と言ってあなたをお呼び申したらいいか知らないくらいですが、あなたは騙されていらっしゃるのです。わたしどもにここへ集ることを許して下すったのは、あまりお心が優しすぎたのです。親爺に必要なのは不体裁な馬鹿さわぎだけなんです。何のためか、それは親爺の胸一つにあることです。親爺にはいつでも自己一流の目算があるのですから。しかし、今になってみると、どうやらその目的がわかるような気がしますよ……」
「みんなが、みんながわたくし一人を悪しざまに申します!」と、フョードルも負けず劣らず叫んだ。「現にミウーソフさんもわたくしを責めます。いいや、ミウーソフさん、責めましたよ、責めました!」ふいに彼はミウーソフのほうを向いてこう言った。そのくせ、べつに彼が口を出したわけでもないのである。「つまり、わたくしが子供の金を靴の中に隠して、口の端を拭っている、と言うて責めるんですが、しかし裁判所というものがありますからね、ドミートリイさん、そこへ出たら、お前さんの書いた受取りや手紙や証文を基として、お前さんのところに幾らあったか、お前さんが幾ら使ったか、そして今幾ら残ってるか、すっかり勘定してくれまさあね! ミウーソフさんが裁判を嫌うわけは、ドミートリイさんがこの人にとってまんざらの他人でないからですよ。それで皆がわたしに食ってかかるんです。ドミートリイさんはかえってわしに借りがあるくらいですよ。しかも少々のはした金じゃなくて、何千というたかですからな。それにはちゃんと証拠があります! なにしろこの人の放蕩の噂で、いま町じゅうが、煮えくり返るほどですからな! それから、以前勤務しておった町では、良家の処女を誘惑するために、千の二千のという金をつかったもんでさあ。なあ、ドミートリイさん、よっく承知しとりますよ、人の知らん秘密まで詳しく知っとりますよ、わしが立派に証明しますよ……神聖なる長老さま、あなたは本当になさるまいけれど、この人は高潔無比な良家の令嬢を迷わしたのでございます。お父さんは自分の元の長官で、アンナ利剣章を首にかけた、勲功ある勇敢な大佐なので。こういう令嬢に結婚を申し込んで迷惑をかけたために、当の令嬢はいま両親のないみなし子としてこの町に暮しております。もう許婚《いいなずけ》の約束ができておるくせに、ドミートリイさんはその人を目の前において、この町の淫売のところへ通っておるのでございます。もっとも、以前は淫売でしたが、今はさる立派な仁《じん》と民法結婚([#割り注]法律で認められたばかりで教会の祝福を受けないもの[#割り注終わり])をして、それになかなか気性のしっかりした女ですから、誰に言わしても難攻不落の要塞、まあ正妻も同じこってさあ。なにしろ淑徳の高い女ですからなあ、まったく! ねえ、和尚さん方、本当に淑徳の高い女でございます! ところでドミートリイは、この要塞を黄金の鍵で開けようとしておるもんだから、今わたくしを相手に威張り返っておりますので。つまり、わたくしから金をもぎ取りたいのでございます。もう今までにも、この淫売のために、何千という金をちりあくた同然に使うておるんですからなあ。だから、のべつ借金ばかりしてるんでさあ。しかし、誰から借りるんだとお思いになります? おい、ミーチャ、言おうか言うまいか?」
「お黙んなさい!」とミーチャが叫んだ。「僕の出て行くまで待って下さい、僕のいるところで、純潔な処女を穢すようなことは言わせない……あなたがあの人のことを口にしたということだけでも、あの人の身の穢れです……僕は許しません!」
 彼は息をはずましていた。
「ミーチャ! ミーチャ!」とフョードルはよわよわしい調子で、涙を絞り出しながら叫んだ。「一たい生みの親の祝福は何のためなんだ。もしわしがお前を呪うたら、その時はどうするつもりだ?」
「恥知らずの面かぶり!」とドミートリイは獰猛に呶鳴りつけた。
「あれが父親に、現在の父親に向って言う言葉ですもの、ほかの人にどんなことをするかわかったもんじゃありません! 皆さん、ここに一人の退職大尉がおります。貧乏だが名誉ある仁《じん》でございます。とんでもない災難のために退職を命じられましたが、公けに軍法会議に付せられたわけではなく、名誉は立派に保持されて退職になったのでございます。いま大勢の家族のために難儀しておりますが、三週間ばかり前、ミーチャがある酒屋で、この仁の髯を掴んで往来へ引っ張り出し、多くの人の目の前でうち打擲したのでございます。それというのも、この仁がちょっとした事件について、内証でわたくしの代理人を勤めたからなので。」
「それはみんな嘘です! 外見は事実だが、裏面から見るとみな嘘の皮です!」ドミートリイは憤怒に全身を慄わせた。「お父さん、僕は自分の行為を弁護するわけじゃありません。いや立派に皆さんの前で白状します。僕はその大尉に対して獣同然の振舞いをしました。今でもあの獣のような行為を悔んで、われとわが身に愛想をつかしています。しかし、あなたの代理人とかいうあの大尉は、たった今お父さんが淫売と言われた婦人のところへ行って、もしミーチャがあまりうるさく財産の清算を迫ったら、あなたのところにあるミーチャの手形を引き受けて訴訟を起し、あいつを監獄へぶち込んでくれと、あなたの名で申し込まれたのです。お父さんは、僕がこの婦人に弱みを持っていると言われたが、その実あなたがこの婦人をそそのかして、僕を誘惑さしたのじゃありませんか! ええ、あの女が僕に面と向って話して聞かせましたよ。自分で僕にぶちまけて、あなたのことを笑っていましたよ! ところで、あなたが僕を監獄へ入れたがるわけは、あの婦人のことで僕に嫉妬しているからです。そうです、あなたは自分からあの婦人に言い寄ったのです。これもやはりあの女が笑いながら話して聞かせたから、僕ちゃんと承知しています、――いいですか、あなたのことを笑いながら、僕に話して聞かせたんですよ。皆さん、このとおりです、放蕩息子を咎める父親がこのとおりの人間なんです! 皆さん、どうか僕の怒りっぽい性分を赦して下さい。しかし、僕は初めからこの狸じじいが、ただ不体裁な空騒ぎのために、皆さんをここへ呼んだってことは、ちゃんと感づいていました。僕はもし親爺が折れて出たら、こっちから赦しもし、また赦しも乞おうと思ってやって来たのです。しかし、親父は僕一人でなく、僕が尊敬のあまりいたずらに名前を口にすることさえ憚っている純潔な処女まで辱しめましたから、こっちもこの男のからくりを、皆さんの前で、すっかり暴露してやる気になったのです。実際、僕にとっては親身の父なんですけれど……」
 彼はもはや言葉をつづけることができなかった。目はぎらぎら光って、息づかいも苦しそうであった。庵室の中はざわめいてきた。長老を除く一同の者は不安に駆られて席を立った。二人の主教は厳めしい目つきをして睨んでいたが、それでもまだ長老の意見を待っていた。当の長老は真蒼な顔をしていたが、それは興奮のためでなく病的な衰弱のせいであった。祈るような微笑がその唇にほのかに光っていた。彼は怒り狂う人々を押し鎮めようとするかのごとく、ときどき手を挙げるのであった。もちろんこの身振り一つで、この騒ぎを鎮めるのに十分なはずであったが、彼はまだ何かはっきりせぬことがあって、それをよく呑み込んでおこうとするように、じっと一座の光景に見入りながら控えていた。ついにミウーソフは、自分がまったく辱しめられ、穢されたような心持がした。
「この不体裁の責任はわれわれ一同にあるのです!」と彼は熱した調子で言いだした。「僕はここへ来る前に、まさかこうまでとは思いもよらなかったのです。もっとも、相手が誰だかってことは承知していましたが……これは即刻、始末をつけなきゃなりません! 長老さま、どうぞ信じて下さい、僕は今ここで暴露された事実の詳細を知らなかったのです。そんなことは本当にしたくなかったのです。まったくいま聞き初めなのです……現在の父親が卑しい稼業の女のために息子を嫉妬して、その売女《じごく》とぐるになって息子を牢へ入れようとするなんて……僕はこんな連中の中へ交わるように仕向けられたのです……欺かれたのです、皆さんの前で明言します、僕は皆さんに劣らぬくらい欺かれたのです……」
「ドミートリイさん!」突然フョードルが、何かまるで借物のような声を振り絞った、「もしお前さんがわしの息子でなかったら、わしはすぐにも、お前さんに決闘を申し込むところなんだ……武器はピストル、距離は三歩……ハンカチを、ハンカチを上から被せてな!」と彼は、地団太を踏みながら言葉を結んだ。
 こうして、一生涯役者の真似をし通した嘘つき老人でも、興奮のあまり本当に身ぶるいしながら泣きだすほど、真に迫った心持になる瞬間がよくあるものである。もっとも、その瞬間(もしくは一秒ほどたった後)『やい、恥知らずの老いぼれ、貴様がどんなに「神聖な」怒りだの、「神聖な」怒りの瞬間を感じたって、やはり貴様は嘘をついてるのだ、今でも役者の真似をしてるのだ』と自分で自分に囁くのだ。
 ドミートリイは恐ろしく眉を顰めて、何とも言えない侮蔑の色を浮べながら父を見つめた。
「僕は……僕は、」彼は妙に静かな抑えつけたような調子で言いだした。「僕は故郷《くに》へ帰ったら、自分の心の天使ともいうべき未来の妻とともに、父の老後をいたわろうと思っていたのです。ところが来てみると、父は放埒無慙の色情狂で、しかも卑劣この上ない茶番師なんです!」
「決闘だ!」と老人は息を切らして、一語一語に唾を飛ばしながら泣き声を上げた。「ところで、ミウーソフさん、今あんたが失礼にも『じごく』呼ばわりをしたあの女ほど、高尚で潔白な(いいですか、潔白なと言うておるんですよ)婦人は、あんたのご一門に一人もありませんよ! それから、ドミートリイさん、お前さんが自分の許嫁をあの『じごく』に見かえたところを見ると、つまり許嫁の令嬢でさえあの『じごく』の靴の裏ほどの値うちもないと考えたわけでしょう。あの『じごく』はこういうえらい女ですよ!」
「恥しいことだ!」と、突然ヨシフが口をすべらした。
「恥しい、そして穢わしいことだ!」しじゅう無言でいたカルガーノフが突然真っ赤になって、子供らしい声を顫わせながら、興奮のあまりこう叫んだ。
「どうしてこんな男が生きてるんだ!」背中が丸くなるほど無性に肩を聳かしながら、ドミートリイは憤怒の情に前後を忘れて、低い声で唸るように言った。「もう駄目だ、まだこのうえ神聖なる土をけがすようなことを、赦しておくわけにいかんです。」片手で長老を指し示しつつ、彼は一同を見廻した。彼の言葉は静かで規則ただしかった。
「聞きましたか、坊さん方、親殺しの言うことを聞きましたが?」とフョードルはだしぬけにヨシフに食ってかかった。「あれがあなたの『恥しいことだ』に対する返答ですよ! 一たい恥しいとは何のことです? あの『じごく』は、あの『卑しい稼業の女』は、ここで行《ぎょう》をしているあなた方より、ずっと神聖かもしれませんよ! 若い時分には周囲の感化を受けて堕落したかもしれないが、その代りあの女は『多くのものを愛し』ましたよ。多く愛したるものは、キリストさえもお赦しになりましたからな……」
「キリストがお赦しになったのは、そのような愛のためではありません……」温順なヨシフもこらえきれないで、思わずこう言った。
「いいや、お坊さん方、そのような愛のためです、そうですよ、そうですよ! あなた方はここでキャベツの行をして、それでもう神様のみ心にかなうものだと思うていなさる! 川ぎすを食べて、――一日に一匹ずつ川ぎすを食べて、川ぎすで神様が買えると思うていなさる!」
「もうあんまりだ。あんまりだ!」という声が庵室の四方から起った。
 しかし極端にまで達したこの醜い場面は、実に思いがけない出来事によって破られた。ふいに長老が席を立ったのである。師を思い一同を思う恐怖のために、ほとんど途方にくれきっていたアリョーシャは、ようやっとその手を支えることができた。長老はドミートリイのほうをさして歩きだした。そして、ぴったりそばへ寄り添うた時、彼はその前に跪いたのである。アリョーシャは長老が力つきて倒れたのかと思ったが、そうではなかった。長老は膝をつくと、そのままドミートリイの足もとへ、額が地につくほど丁寧な、きっぱりした、意識的な礼拝をするのであった。アリョーシャはすっかりびっくりしてしまって、長老が立ちあがろうとした時も、たすけ起すのを忘れていたほどである。よわよわしい微笑がようやく口のほとりに薄く光っていた。
「ご免下され、皆さん、ご免下され!」彼は四方を向いて、客一同に会釈しながらこう言った。ドミートリイは一、二分の間、雷にでも打たれたように棒立ちになっていた。『自分の足もとに辞儀をするとは、一たい何としたわけだろう?』が、とうとうふいに「ああ、なんてこった!」と叫んで、両手で顔を蔽いながら、部屋の外へ駆け出してしまった。それにつづいて一同は、慌てて主人に挨拶も会釈もしないで、どやどやと出て行った。ただ二人の主教のみは、ふたたび祝福を受けるために長老のそばへ寄った。
「あの長老が足にお辞儀をしたのは一たい何事でしょう、何かのシンボルでしょうかな?」なぜか急におとなしくなったフョードルが、また会話の糸口を見つけようと試みた。しかし、とくべつ誰に向って話しかけようという勇気もなかった。一行はこのとき庵室の囲いそとへ出ようとするところであった。
「僕は精神病院や気ちがいに対して、何の責任もないですよ」とミウーソフがすぐさま腹立たしげに答えた。「しかし、その代り、あなたと同座は真っ平ごめん蒙ります、しかも永久にですよ、いいですか、フョードルさん。さっきの坊主はどこへ行ったんだろう?」
 しかし、さきほど僧院長のもとへ食事に招待したこの『坊主』は、あまり長く探させはしなかった。一行が庵室の階段をおりるとすぐ、彼はまるで始終ずっと待ち通していたように、さっそく出迎えたのである。
「あなた、まことに恐れ入りますが、わたくしの深い尊敬を僧院長にお伝え下すった上で、急に思いがけない事情が起ったために、どうしてもお食事《とき》をいただくわけにまいりませんから、あなたからよろしくお詫びして下さいませんか、まったく心から頂戴したいとは存じているのですけれど。」ミウーソフは僧に向っていらいらした調子で言った。
「その思いがけない事情というのはわしのことでしょう!」とすぐにフョードルは押えた。「もしあなた、ミウーソフさんはわたしと一緒にいたくないから、ああ言われるんです。でなければ、すぐに出かけなさるはずなんですよ。だから、おいでなさい、ミウーソフさん、僧院長のところへ顔をお出しなさい、そして、――機嫌よう召し上れ! いいですか、あんたよりわたしがごめん蒙りましょう。帰ります、帰ります。帰って家で食べましょうよ。ここではとてもそんな元気がありません、なあ、うちの大事な親類のミウーソフさん。」
「僕はあなたの親類でもないし、今まで親類だったこともありませんよ。本当にあなたは下司な人だ!」
「わしはあんたを怒らせるために、わざと言ったんです。なぜというて、あんたは親類と言われるのを馬鹿に嫌うておいでですからな。しかし、あんたが何とごまかしても、やはり親類に相違ありません。それは教会の暦を繰っても証明できまさあ。ところで、イヴァン、お前も残っていたかったら、わしがいい時刻に馬車をよこしてやるよ。なあ、ミウーソフさん、あんたは礼儀から言うても、僧院長のところへ顔を出して、わしと二人が長老のところで騒いだことを、お詫びしなくちゃなりませんて……」
「あなた、本当に帰るんですか? 嘘じゃありませんか?」
ミウーソフさん、ああいうことのあった後で、どうしてそんな真似ができるものですか! つい夢中になったのです、本当に皆さん失礼しました、夢中になってしまったのです! おまけに腹の底までゆすられたもんですからな! 実に恥しい。なあ、皆さん、人によっては、マケドニヤ王アレクサンドルのような心を持っておるかと思えば、また人によっては、フィデルコの犬みたいな心を持ったものもあります。わしの心はフィデルコの犬のほうでしてな、すっかり気おくれがしてしまいましたよ! あんな乱暴をしたあとで、どの面さげてお食事《とき》に出られるもんですか、どうしてお寺のソースを平らげたりなんかできますか! 恥しくてできませんよ、失礼します!」
『わけのわからん男だ、あるいは一杯くわすかもしれないて!』次第に遠ざかり行く道化者を不審そうに見送りながら、ミウーソフは思案顔に佇んだ。フョードルは振り返って見て、彼が自分を見送っているのに気がつくと、手で接吻を送るのであった。
「君は僧院長のところへ行きますか?」ぶっきら棒な調子でミウーソフはイヴァンに訊ねた。
「どうして行かずにいられますか? それに僕は昨日から、僧院長の特別な招待をもらってるんですからね。」
「残念ながら、僕も同様、あのいまいましいお食事《とき》にぜひ出席しなければならないように思いますよ。」ミウーソフは僧が聞いているのもおかまいなしで、例の苦々しそうないらいらした調子で語をついだ。「それにわれわれがしでかしたことを謝った上で、あれは僕らのせいでないということを明らかにするためから言ってもね……君は何とお思いです?」
「そう、あれが僕らのせいでないってことを、明らかにする必要がありますね。それに、親父もいないことですから」と、イヴァンが答えた。
「あたりまえですよ、お父さんが一緒でたまるもんですか! 本当にいまいましい『おとき』だ!」
 が、それでも一同は先へ進んで行った。小柄な僧は押し黙って聞いていた。木立を越して行く道すがら、僧院長はずっと前から一行を待っていて、もう三十分以上おくれてしまったと、たった一度注意したばかりである。誰一人それに答えるものはなかった。ミウーソフは、にくにくしげにイヴァンを見やりながら、
『まるで何事もなかったような顔をして、しゃあしゃあとお食事《とき》へ出ようとしている!』と腹の中で考えた。『鉄面皮|即《そく》カラマーゾフの良心だ!』

[#3字下げ]第七 野心家の神学生[#「第七 野心家の神学生」は中見出し]

 アリョーシャは長老を寝室へ導いて、寝台の上へたすけのせた。それはほんのなくてならぬ道具を並べただけの、ささやかな部屋であった。寝台は鉄で造った幅の狭いもので、その上には蒲団の代りに毛氈が敷いてあるばかりだった。聖像を安置した片隅には読書づくえがすわっていて、十字架と福音書とが載せてある。長老は力なげに、寝台の上に身を横たえたが、その目はぎらぎら光って、息づかいも苦しそうであった。すっかり体を落ちつけたとき、彼は何か思いめぐらすように、じっとアリョーシャを見つめるのであった。
「行って来い、行って来い、わしのところにはポルフィリイが一人おったらたくさんじゃで、お前は急いで行くがよい。お前はあちらで入り用な人じゃ、僧院長のお食事《とき》へ行って給仕するがよい。」
「どうぞお慈悲に、ここにおれと言って下さいまし」とアリョーシャは祈るような声で言った。
「いや、お前はあちらのほうで余計いり用なのじゃ、あちらには平和というものがないからなあ。給仕をしておったら、何かの役に立とうもしれぬ。騒動が始まったらお祈りをするがよい。それにな、倅(長老は好んで彼をこう呼んだ)、今後ここはお前のいるべき場所でないぞ。よいか、このことを覚えておってくれ。神様がわしをお召し寄せになったら、すぐにこの僧院を去るのじゃぞ。すっかり去ってしまうのじゃぞ。」。
 アリョーシャはぎっくりした。
「お前は何としたことじゃ? ここは当分お前のおるべき場所でない。お前が娑婆世界で偉大な忍従をするように、今わしが祝福してやる。お前はまだまだ長く放浪すべき運命なのじゃ。それに、妻も持たねばならぬ。きっと持たねばならぬ。そして、ふたたびここへ来るまでは、まだまだ多くのことを堪え忍ばねばなりませんぞ。そうして、仕事もたくさんあるじゃろう。しかし、お前という者を信じて疑わぬから、それでわしはお前を娑婆世界へ送るのじゃ。お前にはキリストがついておられる。気をつけてキリストを守りなさい、そうすればキリストもお前を守って下さるであろう! 世間へ出たら、大きな悲しみを見るであろうが、その悲しみの中にも、幸福でおるじゃろう。これがわしの遺言じゃ、悲しみの中に幸福を求めるがよい。働け、たゆみなく働け。よいか、今からこの言葉を覚えておくのじゃぞ。なぜというに、お前とはまだこの先も話をするけれど、わしは残りの日数ばかりでなく、時刻さえもう数えられておるからじゃ。」
 アリョーシャの顔にはふたたび烈しい動揺が現われた。唇の両隅がぴりりと慄えた。
「またしても何としたことじゃ?」と長老は静かにほお笑んだ、「俗世の人々は涙をもって亡き人を送ろうとも、われわれ僧族はここにあって、去り行く父を悦ばねばならぬのじゃ。悦んでその人の冥福を祈ればよいのじゃ。さ、わしを一人でおいてくれ、お祈りをせねばならぬでな、急いで行って来い。兄のそばにおるのじゃぞ。それも一人きりでのうて、両方の兄のそばにおるのじゃぞ。[#「じゃぞ。」はママ]
 長老は祝福の手を上げた。アリョーシャは無性にここへ残りたくてたまらなかったが、もはや、言葉を返す余地はなかった。まだそのうえ長老が兄ドミートリイに、地に額のつくほど拝をしたのは何の意味か、それをも訊いてみたくてたまらなかった。危くこの問が口をすべるところであったが、やはり問いかける勇気がなかった。それができるくらいなら、長老が問われない先に自分から説明してくれるはずだ。つまり、そうする意志がないからである。しかし、あの行為は恐ろしくアリョーシャを驚かした。彼はあの中に神秘的な意味の存することを、盲目的に信じていた。神秘的というより、あるいは恐ろしい意味かもしれない。
 僧院長の昼餐の始まりに間に合うよう(もちろん、それはただ食卓に侍するのみであった)、僧院をさして庵室を出たとき、急に彼は心臓を烈しく引きしめられるような思いがしてそのまま立ちすくんでしまった。自分の近い死を予言した長老の言葉が、ふたたび耳もとで響くような思いであった。長老が予言したこと、しかもあれほど正確に予言したことは、必ず間違いなしに実現する。それはアリョーシャの信じて疑わぬところであった。しかし、あの人が亡くなったら、自分はどうなるだろう、どうしてあの人を見ず、あの人の声を聴かずにいられよう? それにどこへ行ったらいいのだろう? 長老は泣かないで僧院を出て行けと命じている、ああ、何としよう! アリョーシャはもう長い間こんな悩みを経験したことがなかった。彼は僧院と庵室を隔てている木立を急ぎ足に歩みながら、自分の