『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P078-P093

想念を押しこたえることができなかった。それほど自分で自分の思いに心をひしがれたのである。彼は径の両側につらなる、幾百年かへた松の並木をじっと見つめた。その径は大して長いものでなく、僅か五百歩ばかりにすぎなかった。この時刻に誰とも出くわすはずがないと思っていたのに、突然はじめての曲り角にラキーチンの姿が見えた。彼は誰やら待ち受けていたのである。
「僕を待ってるんじゃないの?」アリョーシャはそばへ寄ってこう訊いた。
「図星だ。君なのさ。」ラキーチンはにやりと笑った。「僧院長のところへ急いでるんだろう、知ってるよ。饗応があるんだからね。大主教がパハートフ将軍と一緒にお見えになったとき以来、あれほどのご馳走は今までなかったくらいだ。僕はあんなところへ行かないが、君は一つ出かけて、ソースでも配りたまえ。ただ一つ聞きたいことがあるんだ。一たいあの寝言は何のこったね? 僕こいつが訊きたくってさ。」
「寝言って何?」
「あの君の兄さんに向って、地べたに頭がつくほどお辞儀をしたやつさ。しかも、額がこつんといったじゃないか!」
「それはゾシマ長老のことなの?」
「ああ、ゾシマ長老のことだよ。」
「額がこつんだって?」
「ははは、言い方がぞんざいだって言うのかい! まあ、ぞんざいだっていいやね。で、一たいあの寝言は何のことだろう?」
「知らないよ、ミーシャ、何のことだかねえ。」
「じゃ、長老は君に話して聞かせなかったんだね、そうだろうと思ったよ。もちろん、何も不思議なことはないさ。いつもおきまりの有難いノンセンスにすぎないらしい。しかし、あの手品はわざと拵えたものなんだよ。今に見たまえ、町じゅうの有難や連が騒ぎだして、県下一円に持ち廻るから。『一たいあの寝言は何のことだろう?』ってんでね。僕の考えでは、お爺さん本当に洞察力があるよ。犯罪めいたものを嗅ぎ出したんだね。まったく君の家庭は少々臭いぜ。」
「一たいどんな犯罪を?」
 ラキーチンは、何やら言いたいことがあるらしいふうであった。
「君の家庭で起るよ、その犯罪めいたものがさ。それは君の二人の兄さんと、福々の親父さんの間に起るんだよ。それでゾシマ長老も万一をおもんばかって、額でこつんをやったのさ、あとで何か起った時に、『ああ、なるほど、あの聖人が予言したとおりだ』と言わせるためなんだ。もっとも、あのお爺さんが額でこつんとやったのは、予言でも何でもありゃしないよ。ところが、世間のやつらは、いやあれはシンボルだ、いやアレゴリイでござるとか、いろんなくだらもないことを言って語り伝えるのさ。犯罪を未然に察したとか、犯人を嗅ぎ出したとかってね。宗教的畸人《ユロージヴァイ》なんてものはみんなそうなんだ。酒屋に向いて十字を切って、お寺へ石を投げつける、――君の長老殿もそのとおりで、正直なものは棒で追いたくりながら、人殺しの足もとにはお辞儀をする……」
「どんな犯罪なの? 人殺しって誰のことなの?」アリョーシャは釘づけにされたように突立った。ラキーチンも立ちどまった。
「どんなって? 妙に白を切るね! 僕、賭けでもするよ、君はもうこのことを考えてたに相違ない。しかし、こいつあちょっと面白い問題だ。ねえ、アリョーシャ、君はいつも二股膏薬だけれど、とにかく本当のことを言うから、一つ訊こうじゃないか、――一たい君はこのことを考えてたのかい?」
「考えてたよ」アリョーシャが低い声で答えたので、当のラキーチンさえ少々面くらった。
「何だって? 本当に君はもう考えてたのかい?」と彼は叫んだ。
「僕……僕はべつに考えてたってわけじゃないけれども」とアリョーシャはあやふやした調子で、「いま君があんな妙なことを言いだしたので、僕自身もそんなことを考えていたような気がしたのさ。」
「ほらね? ほらね? (いや、まったく君は上手に言い廻したよ)。今日おやじさんと兄さんのミーチャを見てるうちに、犯罪ということを考えたんだろう? してみると、僕の推察は誤らないだろう?」
「まあ、待ちたまえ、待ちたまえ」とアリョーシャは不安そうに遮った。「君はどういうところから、そんなことを感づいたの?……何だってそんなことばかり気にするの、これが第一の問題だ。」
「その二つの質問はまるで別々なのだが、しかし自然なものだあね。おのおの別々に答えよう。まずどういうところから感づいたかってのは、きょう君の兄さんのドミートリイの正体を突然、一瞬の間にすっかり見抜いてしまったからだ。でなけりゃ、そんなことを感づくはずじゃなかったのさ。つまり、何かしらちょっとしたところから、すっかりあの人の全貌を掴んでしまったのさ、ああいう正直一方の、しかし情欲の熾んな人には、決して踏み越してならない一線がある。まったくあの人はいつどんなことで、親父さんを刀でぷすりとやらないともかぎらないよ。ところが、親父さんは酔っ払いの放埒な道楽者で、何事につけても決して度というものがわからない。そこで両方とも譲り合おうとしないから、一緒にどぶの中へ真っ逆さまに……」
「違うよ、ミーシャ、違うよ。もしそれだけのことなら僕も安心した。そんなところまで行きゃしないから。」
「何だって君、そんなにぶるぶる慄えてるんだい? 一たい君にこういうことがわかるかい? よしやあの人が、ミーチャが正直な人だとしても(あの人は馬鹿だけれど、正直だよ)、しかし、あの人は好きものだからね。これがあの人に対する完全な評語だ、あの人の勘どころだ。それは親父さんがあの人に下劣な肉欲を譲ったからだよ。僕はただ君だけには驚いてるよ、ねえ、アリョーシャ、君はどうしてそんなに純潔なんだろう? だって、君もやはりカラマーゾフじゃないか? 君の家庭では肉欲が炎症とも言うべき程度に達してるんだものね。ところで、今あの三人の好きものが互いに追っかけあっている……ナイフを長靴の胴に隠してね。こうして、三人が鉢合せをしたんだから、あるいは君も第四の好きものかもしれないぜ。」
「しかし、君もあの女のことは思い違いをしてるよ。ミーチャはあの女を……軽蔑している。」何だか妙に身ぶるいしながらアリョーシャはこう言った。
「グルーシェンカを? いいや、君、軽蔑しちゃいないよ。現在自分の花嫁を公然とあの女に見かえた以上、決して軽蔑してるとは言えない。その間《かん》には……その間には今の君に理解できないようなことがあるのだ。もしある男が一種の美、つまり女の肉体、もしくは肉体のある一部分に迷い込んだら(これはああした好きものでなければわからないが)そのためには、自分の子供でも渡してしまう、父母もロシヤも売ってしまうのだ。正直でありながら盗みをやる、温良でありながら人殺しをする、誠実でありながら謀叛をする。女の足の讃美者プーシュキンは、自分の詩([#割り注]オネーギン[#割り注終わり])のなかで女の足を歌ってる。ほかの連中は歌いこそしないが、戦慄を感じずに女の足を見ることができないのだ。しかし、もちろん、足ばかりにかぎらないがね……で、よしんばミーチャがあの女を軽蔑してるにしてからが、この際、軽蔑なぞ何の役にも立ちゃしない。軽蔑してるくせに目を放すことができないのだ。」
「それは僕にもわかる。」アリョーシャはだしぬけにわれ知らず言い放った。
「へえ? 君がそんなにいきなり不注意に言ってのけたところを見ると、君はこのことが本当にわかるんだね」とラキーチンは意地わるい悦びを浮べつつ叫んだ。「君は今なんの気なしに口をすべらしたんだが、それだけ君の自白がなおさら尊いものになるよ。つまり、このテーマはもう君にお馴染みなんだね。この肉欲ということをもう考えてたんだね! ようよう童貞の少年よ! と言いたくなるね。ねえ、アリョーシャ、君がおとなしい神聖な人間だってことは僕も異存なしだが、神聖であると同時に、まあ大変なことを考えてるんだね、本当に大変なことを承知してるんだね! 童貞の少年であると同時に、もうそんな深刻な道を通ってるんだ。僕も前からそれを観取していたよ。君自身もやはりカラマーゾフだ、徹頭徹尾カラマーゾフだよ、――してみると、血統というやつは争えんものだなあ。親父の方からは好きもの、母親の方からは宗教的畸人《ユロージヴァイ》の性を受けたんだ。何だってぶるぶる慄えるんだい? それとも図星をさされたのかね。ときにね、君、グルーシェンカが僕に頼んだぜ、『あの人を(つまり君のことさ)つれて来てちょうだい、わたしあの人の法衣を脱がしちゃうから』ってね、まったく一生懸命に頼んだぜ、連れて来い、連れて来いって。一たい何だってあの女が、ああまで君に興味を持つのかと、僕は不思議に思ったよ。君、あれもやはり非凡な女だよ!」
「よろしく言ってくれたまえ、行きゃしないから」と、アリョーシャは苦笑いをした。「それよりか、ミーシャ、言いさしたことをしまいまで話したまえ。僕はあとから自分の考えを言うから。」
「この際、しまいまで話すも何もありゃしない。何もかも明白だあね。こんなことは古臭い話だあね。もし君の体の中に好きものが隠れているとすれば同腹の兄さんのイヴァンにいたってはどうだろう? あの人もやはりカラマーゾフだからね。この中に君たちカラマーゾフの問題がふくまれてるのさ、――好きものと、欲張りと、宗教的畸人《ユロージヴァイ》か! 今イヴァン君は無神論者のくせに、何かわけのわからない恐ろしい馬鹿げた目算のために、神学的な論文を冗談半分に雑誌に載せてる。そして、自分のやり方の卑劣なことを自分で承知しているのだ、――君の兄貴のイヴァン君がさ。おまけに兄のミーチャからお嫁さんを横取りしようとしてるが、この魂胆はおそらく成就するだろう。しかも、どんなふうにやっているかというと、当のミーチャの承諾を得たうえなんだから驚くよ。なぜって、ミーチャは、ただただ許嫁の絆を逃れて、あのグルーシェンカのところへ走りたいばっかりに、みずから進んで未来の妻を譲ろうとしているんだからね。しかも、それが公明潔白な性質から生じるのだから、注目の価値があるよ。まったく揃いも揃って恐ろしい連中だ! こうなってくると、何が何やらわかったもんじゃない。自分で自分の卑劣を自覚しながら、その卑劣の中へ入って行くのだ! それから、まあ、先を聞きたまえ。今ミーチャの道をせいているのはあの老いぼれ親父だ。親父さんはこのごろ急にグルーシェンカに血道を上げて、あの女の顔を見たばかりで、涎をたらたら流してるじゃないか。親父さんがいま庵室で大乱痴気をしでかしたのは、ただミウーソフが無遠慮にあの女のことを、じごくだなんぞと言ったからさ。まるでさかりのついた猫より劣ってる。以前あの女は何か酒場に関係したうしろ暗い仕事で、親父さんの手助けをしていたが、いまごろ急にその器量に気がついて、気ちがいのようになって申し込みを始めたんだ、もっとも、その申し込みもむろん、正々堂々たるものじゃないがね。だから二人は、――親父さんと兄さんは、どうしてもこの道で衝突しずにいられないよ。ところで、グルーシェンカのほうは、どっちともつかない曖昧なことを言って、両方をからかってる。そして、どっちがとくだか日和見しているのさ。なぜって、親父さんのほうからは金が引き出せるけれど、その代り結婚はしてくれない。そして、しまいにはすっかりユダヤ式になっちまって、財布の口をしめて放さないかもしれない。こうなると、ミーチャにも別種の価値が生じてくる。金はないけれど、その代り結婚する。うん、結婚するよ! 自分の許嫁を捨てて、――金持で、貴族で、大佐令嬢のカチェリーナ・イヴァーノヴナという、比較にならぬほどの美人を棄てて、町長のサムソノフに、百姓爺のような道楽者の商人に囲われていた、グルーシェンカと結婚するに相違ない。こういうすべての事情を総合すると、本当に何か犯罪めいたものが起るかもしれないよ。ところが、兄さんのイヴァンはそれを待ち受けてるんだ。それこそ有卦に入るというものさ。自分がいま身も細るほど思ってるカチェリーナさんも手に入るし、六万ルーブリというあの人の持参金も手繰り込めようという算段だ。イヴァン君のような裸一貫の男にとっては、この金高は手はじめとしてなかなか悪くないよ。それからまだ注意すべきは、それがミーチャを侮辱しないばかりか、かえって死ぬまで恩に着られるということさ。僕たしかに知ってる。つい先週ミーチャがある料理屋でジプシイ女などと一緒に酔いつぶれた挙句、自分はカーチャを妻とする値うちがない。ところが、弟のイヴァンなら、本当にあの女の愛に相当する、と自分で大きな声をして呶鳴ったんだもの。当のカチェリーナさんは、もちろんイヴァン君のような誘惑者を、最後まで退ける勇気はない。今でも現に二人の間に立って迷ってるんだからね。しかし、一たいイヴァン君はどうして君らをみんな丸め込んじまったのかしら? 君らはみなあの人を三拝九拝してるじゃないか。そのくせ、あの人は君らをみんな馬鹿にしてるんだよ。わたし一人がまる儲け、わたしは皆さんの褌で相撲を取りますってね。」
「だが、どうして君はそんなことを知ってるの? どうしてそうはっきりと言いきるの?」アリョーシャは眉をひそめながら、突然つっけんどんにこう言った。
「じゃ、なぜ君は今そういって訊きながら、僕の返事を恐れてるんだい? つまり、僕の言ったことが本当だってことを承認してるようなもんじゃないか。」
「君はイヴァンを嫌ってるんだね。イヴァンは金なんかで迷わされやしないよ。」
「そうかい? しかしカチェリーナさんの美貌はどうだね? 問題は金のみにあるんじゃないよ、もっとも、六万ルーブリといったら、まんざら憎くないもんだがね。」
「イヴァンはもっと高いところを見てるよ。イヴァンは何万あろうとも、金なんかに迷わされやしない。イヴァンは金や平安を求めてはいない。たぶん苦痛を求めてるんだろう。」
「これはまた何という夢だ? 本当に君らは……お殿さまだねえ!」
「何を言うの、ミーシャ、兄さんは荒れやすい心を持ってるんだよ。兄さんの頭は囚われている。イヴァンのいだいている思想は偉大だけれど、まだ解決がついてないのだ。イヴァンは幾百万の金よりも、思想の解決を望むような大物の一人だよ。」
「それは、アリョーシャ、文学的剽窃だよ、君は長老の言葉を焼き直したね。本当にイヴァンは君たちに大変な謎を投げたもんだよ!」と、ラキーチンは毒念を隠そうともせずにこう言った。彼は顔色まで変えて、唇は妙にひん曲っていた。「ところが、その謎は馬鹿げたもので、解くほどの価値なんかありゃしない。ちょっと頭を働かしたらすぐわからあな。あの人の論文は滑稽な、ばかばかしいものさ。さっきあの馬鹿げた理論を聞いたが、『霊魂の不滅がなければ、したがって善行というものはない。つまり、何をしてもかまわないわけになる』ってなことだったね(ところで、兄さんのミーチャが、ほら、君も聞いただろう、『覚えておきましょう』と言ったじゃないか)。この理論はやくざ者にとって……僕の言い方は少々喧嘩じみてきたね、こりゃいかん……やくざ者じゃない、『解決できないほど深い思想』をいだいた小学生式の威張り屋さんにとって、すこぶる魅力があるからね。から威張り屋さんだ。ところで、その要点をかいつまんでみると、『一方から言えば、承認しないわけにゆかないが、また一方から言っても、やっぱり是認しないわけにゆかない!』でつきている。あの人の理論は陋劣の塊りだ! 人類は、たとえ霊魂の不滅を信じなくっても、善行のために生きるだけの力を、自分自身のなかに発見するに相違ない! 自由、平等、四海同胞主義に対する愛のなかに、発見するに相違ない……」
 ラキーチンは熱くなってしまい、ほとんどわれを制することができなかった。が、急に何か思い出したように口をつぐんだ。
「まあ、いいよ。」前より一倍口をひん曲げながら、彼は笑った。「君、何を笑ってるんだい? 僕を卑劣漢だとでも思ってるのかい?」
「どうして、君が卑劣漢だなんて、僕考えもしなかったよ。君は賢い人だが、しかし……まあよそう、僕はただぼんやり何の気なしに笑ったんだ。僕は君がそう熱するのも無理はないと思う。君の夢中になって話す様子で、僕も見当がついたよ。ミーシャ――君自身もカチェリーナさんに気があるんだろう。僕は前からそうじゃないかと思っていたよ。それだからこそ、君はイヴァン兄さんを好かないんだ。君は兄さんに嫉妬してるだろう?」
「そして、あの人の金についてもやはり嫉妬してる、とでも言うつもりなのかね?」
「なんの、僕は金のことなぞさらさら言うつもりはないよ。君を侮辱なんかしたくないもの。」
「君の言ったことだから信じるさ。しかし何て言っても、君たちや兄貴のイヴァンなんかどうなったってかまやしない! あの男はカチェリーナさんのことがなくたって大いに虫の好かない男だよ。それが君らにゃどうしてもわからないのだ。何のために僕があの男を好くんだ。くそっ面白くもない! 向うだってわざわざご苦労にも僕の悪口を言うんだもの、僕だってあの男の悪口を言う権利がなくってさ!」
「兄さんが君のことを、いいことにしろ悪いことにしろ、何か言ったって話を聞かないよ。兄さんは君のことなんかてんで言やしないよ。」
「ところが、あの男は一昨日カチェリーナさんの家で、僕のことをさんざんにこきおろしたって話を聞いたんだ、――それくらいあの男は『この忠実なるしもべ』に興味を持ってるんだよ。こうなってくると、誰が誰に嫉妬してるんだかわかりゃしない! 何でもこんな説をお吐きあそばしたそうだ。もし僕が近き将来において僧院内の栄達を拒み、剃髪をがえんじなかったら、必ずペテルブルグへ去って、どこかの大きな雑誌にこびりつき、必ず批評欄に入って十年ばかりせっせと書きつづけたすえ、結局その雑誌を自分のものにしてしまう。それからずっと発行をつづけるが、必ず自由主義無神論的方向をとって、社会主義的気分、というより、むしろいくぶん社会主義のつやをつける。が、しかし、耳だけは一生懸命に引っ立てて(といっても、実際は、敵の声にも、味方の声にも耳をすますんだそうだ)、衆愚の目をくらますように努める。僕の社会游泳の終りは、君の兄貴の解釈によると、こうなんだとさ。社会主義的色彩にもかかわらずだ、僕は予約の前金を流動資本に取っておいて、必要な場合にはどしどし融通する。その際、誰かジュウを顧問に頼むんだそうだ。そうして、ついにはペテルブルグに大きな家を建てて、そこへ編集局を移し、その後の残った部屋を貸家に当てる、と言うのだ。しかも、その家の場所まで、ちゃんと指定するじゃないか。いまペテルブルグで計画中だとかいう、リテイナヤ街からヴイボルグスカヤ街へかけて、ネヴァ河を渡る、新しい石橋のそばなんだそうだ……」
「いや、それはミーシャ、すっかりそのとおり寸分たがわず的中するかもしれないよ!」我慢しきれないで面白そうに笑いながら、いきなりアリョーシャはこう叫んだ。
「君まで皮肉を始めるんだね、アレクセイ君。」
「いや、いや、僕冗談に言ったんだ、勘弁してくれたまえ。僕まるで別なことを考えてたもんだから。ところで、失敬だが、一たい誰がそんな詳しいことを教えたの、一たい誰から聞いたの? 兄さんがその話をした時に、君自身カチェリーナさんのところにいるはずもないからねえ。」
「僕はいなかったが、その代り、ドミートリイ君がいた。僕は同君から自分の耳で親しく聞いたんだ。がしかし、実際をいうと、あの人が僕に向って話したわけじゃない。僕が立ち聞きしたのさ、とは言っても、もちろんひとりでに耳に入ったんだ。そのわけは僕がグルーシェンカの寝室にいたとき、ドミートリイ君が来たもんだから、出ることができなかったのさ。」
「ああ、そうそう、僕わすれていたが、あのひとは君の親類だってねえ……」
「親類だって? グルーシェンカが僕の親類だって?」と、急にラキーチンは真っ赤になって叫んだ。「君は一たい気でも違ったのかい? 頭がどうかしてるんじゃないか。」
「どうして? じゃ、親類でないの? そんな話を聞いたけど……」
「一たい君はどこでそんなことを聞いたんだい? よしたまえ、君たちカラマーゾフ一統はしきりに何かえらい家柄の貴族を気どっているが、君の親父は道化役者の真似をしながら、他人の家の居候をして廻って、お情けで台所の隅においてもらったんじゃないか。よしんば僕が坊主の息子で、君らのような貴族から見れば蛆虫にひとしいにしても、そんな、面白半分な厚かましい態度で、ひとを侮辱してもらうまいかね。僕だって名誉心があるからね、アレクセイ君。僕がグルーシェンカの親類なんかでたまるものかね、あんな淫売の! どうぞご承知を願いますよ!」
 ラキーチンは恐ろしく癇癪を起していた。
「後生だから勘弁してくれたまえ。僕は君がそんなに憤慨しようとは思わなかったもの。それに、どうしてあの人が淫売なの? 一たいあの人が……そんなことをしてるの?」とアリョーシャはふいに赧くなった。「しつこいようだが、僕は本当に親類だって話を聞いたんだよ。君はよくあのひとのところへ行くけれど、恋愛関係はないって自分で言ってたじゃないの……僕は君までがあの人をそんなに軽蔑しようとは思わなかったよ! 一たいあの人はそうされても仕方のないような人かねえ?」
「僕があの女のところへ行くのは、ほかに原因があるかもしれないさ。もう君とのお話はたくさんだ。ところで、親類という話が出たが、それはむしろ君の兄さんか親父さんかが、君をあの女と親類にしてくれるだろう。僕の知ったこっちゃないよ。さあ、とうとう着いたぜ。君は台所のほうから入ったほうがいいだろう。おや! あれは何だろう、どうしたんだ? 僕らの来ようが遅かったのかしら? しかし、こんなに早く食事のすむはずがないね。それともカラマーゾフ一統がここでもまた、何か馬鹿さわぎをおっ始めたのかしらんて? 確かにそうだ。ほら、君の親父さんだ、そしてイヴァン氏も後から出て来た。あれは僧院長のところから、無理無体に飛び出したんだよ。そら、イシードル主教が上り段に立って、二人のあとから声をかけてるぜ。それに、君の親父さんも大きな声をして手を振ってる、確かに悪態をついてるんだ。おやあ、ミウーソフ氏までが、馬車で出かけるところだ、ね、行ってるだろう。地主のマクシーモフも駆け出した、――きっと醜態を演じたんだ。してみると、食事はなかったんだな! ひょっとしたら、僧院長をひっぱたいたんじゃなかろうか? それとも、あの連中がひっぱたかれたのかな? それならいい気味なんだがなあ!………」
 ラキーチンが騒ぐのも無理ではなかった。本当に類のない意想外な醜事件が起ったのである。一切はインスピレーションから生じるのである。

[#3字下げ]第八 醜事件[#「第八 醜事件」は中見出し]

 ミウーソフはイヴァンなどとともに僧院長のところへ入った時、しんじつ身分のある上品な紳士として、急に一種微妙な心境の変化が生じ、腹を立てるのが恥しくなってきた。彼は心のなかでこう思った、――フョードルはもうどこまでも軽侮すべきやくざな人間であるから、さきほど長老の庵室でしたように、冷静を失って、自分まで一緒に騒ぎだすほどの値うちがない。『少くとも、これについて坊さんたちには何の罪もないのだ』と彼は僧院長の住居の上り口で、急にこう考えついた。『もしここの坊さんたちがれっきとした人だったら(あのニコライ僧院長は、やはり貴族出の人だとかいう話だ)、その人たちに対して優しく愛嬌よく、丁寧につき合われないわけがない……』『議論なんかしないで、かえって一々相槌を打って、愛嬌で引きつけてやろう、そして……そしておれがあのイソップ([#割り注]毒舌家の意[#割り注終わり])の、あの道化の、あのピエローの仲間でなく、かえって、皆と同じようにあいつのために迷惑してるってことを、証明しなくちゃならん……』
 争いの種となっている森林伐採も漁猟も(こんなものがどこにあるか、彼は自分でも知らなかった)、ごく僅かなことであるから、今日すぐにもきっぱり譲歩してしまおう、あんな訴訟事件も中止してしまおう、と決心したのである。
 こうした殊勝な決心は僧院長の食堂へ入ったとき、さらに強まったのである。しかし、正確に言うと、僧院長のところには、間数が二つしかなかったので、食堂というものはなかった。もっとも、長老の庵室よりはずっと手広くて、便利であったが、部屋の飾りは長老のところと同様に、かくべつ贅沢らしいところもなかった。家具類は二十年代([#割り注]一八二〇年[#割り注終わり])の流行おくれのもので、マホガニイの革張りであった。そればかりか、床さえもペンキが塗ってないほどであった。その代り、部屋ぜんたいが光るほど磨き上げられて、窓の上には高価な草花もたくさんおいてある。しかし、この部屋のおもなる贅沢品は、当然な話だが、見事な器を並べた食卓であった。が、それも比較的の話である。とにかくテーブル・クロースは清潔で、器はぴかぴか光っているし、上手に焼かれたパンも三いろある。そのほか葡萄酒が二壜に、僧院でできる素敵な蜂蜜が二壜、それに近在でも有名な僧院製のクワス([#割り注]ロシヤ特産のサイダーのごときもの[#割り注終わり])を入れた大きなフラスコなどがあった。ウォートカは少しもなかった。
 後で、ラキーチンの話したところによれば、この時の食事は五皿であった。蝶鮫《ちょうざめ》のスープに魚肉饅頭、何か特別な素晴しい料理法を応用した煮魚、それから赤魚のカツレツにアイスクリームと果物の甘煮とを取り合せたもので、最後がプラマンジェに似たジェリーであった。ラキーチンは我慢しきれないで、かねて近づきになっている僧院長の勝手口をわざわざ覗きに行って、こういうことをみんな嗅ぎ出したのである。彼はどこにでも近づきの人を拵えて、いろんなことを聞き噛って来るような人間であった。彼はきわめて落ちつきのない、羨しがりで、人並みすぐれた才能を自覚していたが、それを神経的に誇張して考えるのであった。彼は自分が一種の敏腕家になることを確信していた。もっとも、ラキーチンは破廉恥な男のくせに、自分ではその欠点を自覚しないばかりか、かえってテーブルの上に置いてある金を盗まないという理由のもとに、自分はこの上もない正直な人間である、と固く信じて疑わない、これが彼に友情をよせているアリョーシャを悩ませたものである。しかし、これはアリョーシャばかりでなく、誰一人として仕方のないことであった。
 ラキーチンは軽い身分であるから、食事に招待されるわけにはいかなかったが、その代りヨシフとパイーシイのほか、いま一名の主教が招かれた。ミウーソフとカルガーノフとイヴァンが入って来たとき、これらの人々はすでに僧院長の食堂で待ちかねていた。地主のマクシーモフも脇のほうへよって控えている。僧院長は一行を迎えるため、部屋の真ん中へ進み出た。彼は面《おも》長な、禁欲者らしいものものしい顔をして、黒い毛にだいぶ胡麻塩の交った、痩せて背の高い、しかしまだ壮健らしい老人であったが、無言のまま客人に会釈をした。一行も今度こそは祝福を受けるためにそのそばへよった。ミウーソフは危く手を接吻しようとさえしかけたが、僧院長がどうしたのか急にその手を引っ込めてしまったので、とうとう接吻は成り立たなかった。その代り、イヴァンとカルガーノフは完全に祝福を受けた。つまり人のいい平民らしい大きな音を立てて、僧院長の手を接吻したのである。
「わたくしどもは方丈さまに、深くお詫び申さなければなりません」とミウーソフは愛想よく白い歯を見せながら言いだした。しかし、その調子はうやうやしく、四角張っていた。「ほかでもありませんが、わたくしどもはあなたからご招待を受けたつれの一人、フョードル・カラマーゾフ氏を同道しないでまいりました。同氏はあなたのご饗応を辞退しなければならなくなりました。それもちょっとした事情がございますので。実はさきほどゾシマ長老の庵室で、あの人は息子さんとの諍いに夢中になって、つい二こと三こと場所柄をわきまえない……つまり、大へん失礼な言葉を吐いたのでございます……このことはたぶん(と彼は二人の主教を尻目にかけて)、もう、方丈さまのお耳に入ったことと存じます。かようなわけで、カラマーゾフ氏も深く自分の罪をさとって、しんから後悔いたしまして、恥じ入った次第でございます。それで、とうとう羞恥の情を征服することができないで、わたくし並びに子息のイヴァン君にことづけして、心から後悔の念に苦しめられていることを、方丈さまの前に披露して欲しいと申しました。つまるところ、あの人は万事あとで償いをするつもりでおりますけれど、今さし向きあなたの祝福を乞うと同時に、さきほどの出来事を忘れていただきたいと申しているのでございます……」
 ミウーソフは言葉を休めた。この長々しい挨拶のしまい頃には、彼もすっかり自分で自分に満足してしまい、さきほどまでの癇癪は跡かたもなくなった。彼は今ふたたび心底から人間に対する愛を感じ始めたのである。僧院長はものものしい様子でこの言葉を聞き終ると、軽く首を傾けて応答した。
「立ち去られた人のことはまことに残念に存じます。この食事の間に、あの人はわたくしどもを、またわたくしどもはあの人を、愛するようになったかもしれないのに。それでは皆さん、どうぞ召し上って下さりますよう。」
 彼は聖像の前に立って、声を出しながら祈祷を始めた。一同はうやうやしくこうべを垂れた。地主のマクシーモフは格別ありがたそうに合掌しながら、前のほうへしゃしゃり出た。
 ちょうどこのとき、フョードルが最後のつぶてを投げたのである。ちょっと注意しておくが、彼は本当に帰って行くつもりなのであった。長老の庵室でああいう不体裁なことをした挙句、そしらぬ顔をして僧院長のお食事《とき》へのこのこ出かけるのは、とうていできない相談だと感じたのは事実である。しかし、べつに自分の行為を恥じ入って、自分で自分を責めたというわけではない。あるいは、かえって正反対であったかもしれぬ。が、何といっても、食事に列するのは無作法だと感じたのである。ところが、旅宿の玄関先へ例のがたがた馬車が廻されて、もうほとんどその中へ乗り込もうとした時、急に彼は足を止めた。さきほど長老のところで言った自分の言葉が、ふいと心に浮んだのである。『わたくしはいつも人の中へ入って行く時、自分は誰よりも下劣な人間で、人はみんな自分を道化扱いにする、というような気がいたします。そこでわたくしは、じゃ一つ本当に道化の役廻りを演じてやろう、なあに、みんな揃いも揃って自分より馬鹿で下劣なんだ、という気になるのでございます。』
 彼は自分自身の卑しい行為に対して、人に仇を討とうという気になったのである。このとき彼はいつかだいぶ前に、『あなたはどうして誰それをそんなに憎むんです?』と訊かれたことを偶然思い出した。そのとき彼は道化た破廉恥心の込み上げるままにこう答えた。『それはこういうわけですよ、あの男は実際わしに何にもしやしませんがね、その代り、わしのほうであの男に一つ汚い、厚かましいことをしたんです。それと同時にわしはあの男が憎らしくなりましたよ。』今これを思い出すと、彼はちょっとのあいだ考え込みながら、静かな毒々しい薄笑いを浮べた。その目はぎらぎら光って、唇まで微かに顫えるのであった。『よし、一たんはじめたものなら、ついでにしまいまでやっちまえ。』急に彼はこう決心した。この瞬間、彼の心のどん底にひそんでいた感じは、次のような言葉で現わすことができたであろう。『もう今となっては信用回復も覚束ない、ええ、ままよ、もう一度あいつらの顔に唾をひっかけてやれ。なんの、あんなやつらに遠慮なぞいるものか、それだけの話よ!』
 で、彼は馭者に待っておれと言いつけて、急ぎ足に僧院へ引っ返し、まっすぐに僧院長のもとへ赴いた。そこへ行って何をするつもりか、まだ自分でもよくわからなかったが、もうこうなったら、自分を抑制することができない。何かちょっとした衝動があったら、すぐ極端に陋劣な行為をあえてするに相違ない、とは自分でも承知していた。しかし、それは本当に陋劣な行為にとどまって、決して裁判沙汰になるような悪ふざけや、犯罪などというようなものではない。この点になると、彼はいつもきわどいところで手綱を引きしめることができた。時としては、自分でも感心するほどうまくいくのであった。彼が僧院長の食堂へ姿を現わしたのは、ちょうど祈祷がすんで、一同がテーブルに近づいた瞬間であった。彼は閾の上に突っ立って、ずうずうしく一同の顔を見廻しながら、高慢な、意地の悪い、引き伸ばしたような声を立てて笑いだした。
「みんなわしが帰ったものと思うておるが、わしはほらこのとおり!」と彼は広間一ぱいに響くような声で叫んだ。
 一瞬にして人々は、穴のあくほど彼の顔を見つめながら、押し黙っていた。今にも、何かばかばかしい、いまわしい事件がもちあがって、結局、無作法な騒ぎとなるに相違ない、こう一同は直覚したのである。ミウーソフはこの上なくおめでたい気分から、たちまち獰猛無比な気分に変ってしまった。彼の心の中で消えつくし鎮まりはてたすべてのものが、一瞬間に盛り返して頭をもたげたのである。
「駄目だ、僕はもう我慢ができない!」と彼は叫んだ。「どうしてもできない……断じてできない!」
 彼は逆上して言句につまったが、もう今は言句などを気にしている暇もなかった。彼はいきなり帽子を掴んだ。
「一たいあの人は何かできないんだろう?」とフョードルは喚いた。「何か『どうしてもできない、断じてできない』んだろう? 方丈さま、はいってもよろしゅうございましょうか? ご招待にあずかった仲間の一人を入れて下さいますか?」
「しんからお願い申します」と僧院長は答えた。「皆さま、まことに差し出がましい申し分でござりますが、心の底からのお願いでござります。一時の争いを捨てて、この平和な食事の間に神様にお祈りをしながら、血縁の和楽と愛の中に一致和合して下さりませ……」
「いいや、いいや、できない相談です!」とミウーソフは前後を忘れたかのように叫んだ。
ミウーソフさんが駄目なら、わしも駄目です。わしも帰ります。わしは、そのつもりで来たんですよ。もう今日はミウーソフさんと一緒にどこへでも行きます。ミウーソフさんが帰ればわしも帰るし、残りなさればわしも残ります。もし、僧院長さま、あなたが血縁の和楽とおっしゃったのが、一番ミウーソフさんの胸にこたえたのです。あの人はわしを親類と認めておらんのですからな。そうだろう、フォン・ゾン? そら、あそこに立っておるのがフォン・ゾンでさあ。ご機嫌よう、フォン・ゾン!」
「それは……わたくしのことなので?」地主のマクシーモフはびっくりして言った。
「むろん、お前だよ」とフョードルは呶鳴った。「お前でなくて誰だい? まさか僧院長さまがフォン・ゾンになるはずもなかろうよ。」
「それでも、わたくしはフォン・ゾンではござりません。マクシーモフで……」
「いいや、お前はフォン・ゾンだ。方丈さま、フォン・ゾンというのが何者かご存じでございますか? これはある犯罪事件に関係したことでございますよ。この男は『迷いの家』で殺されたのです(お寺のほうではああいう場所を『迷いの家』と言うそうですな)。殺された上に所持金を取られてしまいました。おまけに、いい年をしておりながら、箱の中へ密封されて、貨物列車でペテルブルグからモスクワへ送られたんですよ、しかも番号をつけられましてな。ところで箱の中に密封されるとき、ばいたどもが歌をうだったり、グースリイ([#割り注]針金を絃に張った楽器、琴にやや似たところがある[#割り注終わり])を弾いたりしたそうですよ。これが今申したフォン・ゾンの正体でございますよ。一たい墓場から生き返ってでも来たのかな、え、フォン・ゾン?」
「一たいこれは何たることだ? どうしてあのようなことができるのであろう?」という声が主教の群から聞えた。
「行こう!」とミウーソフはカルガーノフに向って叫んだ。
「いいや、まあ、お待ちなさい!」また一足部屋の中へ踏み込みながら、フョードルは甲高い声で遮った。「まあ、わしにも言うだけのことを言わしてもらいましょう。あちらの庵室では皆がわしに無作法者という汚名を着せられましたが、それというのも、ただわしが、川ぎすのことを口に出したからなんですのよ。ミウーソフさんのお好みでは、言葉の中に 〔Plus de nolbesse que de since'rite'〕([#割り注]真摯の気より品位の勝ったほうがいい[#割り注終わり])そうですがな、わしの好みはその反対で 〔Plus de since'rite' que de noblesse〕([#割り注]品位よりも真摯の気の勝ったほうがいい[#割り注終わり])のですよ。品位なんか糞をくらえだ! なあ、そうじゃないか、フォン・ゾン? 僧院長さまへ申し上げます、わたくしは道化者で、道化た真似ばかりいたしますが、しかしそれでも、名誉を重んずる騎士でございますから、忌憚なく、所信を申し上げとう存じます。さよう、わたくしは名誉を重んずる騎士でございます。ところが、ミウーソフさんの腹のなかには、傷つけられた自尊心のほか、何にもありゃしません。わたくしがここへ来ましたのも、あるいは自分で親しく一見して、所信を吐くためであったかもしれません。わたくしの倅のアレクセイがここにお籠りしておりますでな。父親としてあれの身の上が心配でございます。また心配するのがあたりまえでございますよ。わたくしは始終お芝居をしながら、そっと様子を見たり聞いたりしておりましたが、今こそあなた方の前で、最後の一幕をお目にかけるつもりでございます。一たいいまロシヤはどんな有様でしょうか? 倒れかかっておるものは、すっかり倒れてしまいます。また一ど倒れたものは、もう永久にごろりと転がったままでおります。そうですとも、そうでないはずがありませんよ。そこで、わたくしは、起きあがりたいのでございます。善知識の方丈さま方、わたくしはあなた方が憤慨にたえんのでございます。一たい懺悔というものは偉大な秘密でございます。これは、わたくしも有難いものと思うて、その前に倒れ伏してもよいくらいの覚悟でおります。ところが、あの庵室ではみんな膝を突いたまま、大きな声で懺悔しておるじゃありませんか。全体、声を出して懺悔することが許されておりますか? 昔の聖人さまたちが、懺悔は口から耳へ伝えろと、ちゃんと掟を定められました。こうあってこそ、人間の懺悔が神秘となるのであります。しかも、それは昔からのしきたりですよ。ところが、その反対にみんなの前で、『わたくしはこうこういうことをいたしました』(よろしゅうございますか、『こうこういうこと』なんですよ)……とまあ、こんなことが言われるもんですか? 時には、口に出して言うのも、無作法なことがありますからなあ。そんなのはまったく不体裁ですよ! 方丈さま方、あなたたちと一緒におったら、フルイスト([#割り注]分裂宗派の一、人が禁欲の道によってみずからキリストたり得べしと説くもの[#割り注終わり])の仲間へ引きずり込まれますよ。……わしはよい折があったらさっそく宗務省へ上申書を送ります、そして倅のアレクセイは家へ連れて帰るんですよ。」
 ここでちょっと断わっておくが、フョードルは世間の噂には耳の早いほうであった。かつてこの僧院ばかりでなく、長老制度の採用されている他の僧院に関しても、意地わるい讒誣が拡まって、大主教の耳にすら入ったことがある。それは長老があまり尊敬されすぎて、僧院長の威厳さえ損うほどにいたったのみならず、とくに長老は懺悔の神秘を濫用する、というのであった。この非難はばかばかしいものであったから、この町ばかりでなく全体にわたって、自然いつの間にか消滅してしまった。しかし、フョードルを掴んでその神経の上にいだき乗せ、いずこともしれぬ穢れの深みへ、次第に遠く運んで行く愚かな悪魔は、この古い非難を彼の耳に吹き込んだのである。しかし、フョードル自身はこの非難の意味がのっけからわからなかったので、満足にそれを言い現わすこともできなかった。おまけに、目下長老の庵室では誰ひとり膝を突くものもなければ、大きな声で懺悔するものもなかった。こういうわけで、フョードル自身そんなことを目撃するはずもないので、ただ、うろ覚えの古い風説や讒誣を種として言いだしただけである。しかし、この愚かな言葉を口に出すと同時に、自分でも馬鹿なことを言ったなという気がしたので、彼はすぐさま、自分の言ったのは決して馬鹿なことではないということを聴き手に(というよりまず自分自身に)証拠だてようと思った。彼は自分でもこのさき一語を加えるごとに、もう口をすべらしてしまった愚かな言葉に一そう愚かしさが加わって行くばかりだ、ということをよく承知していたけれど、もうまるで急な坂でも駆けおりるように、自分で自分を止めることができなかったのである。
「なんて穢らわしいことだ!」とミウーソフは叫んだ。
「お赦し下さい」と、とつぜん僧院長が言いだした。「昔からの言葉に『人々われにさまざまなる言葉を浴びせて、ついには聞くにたえざる穢らわしきことすらも口にす。われかかる言葉をも忍びて聞く。これキリストの鞭にして、わが傲れるこころを矯めんがために、送られたるものなればなり』とあります。それゆえわれわれも、つつしんであなたの尊いご教訓に対してお礼を申します」と彼は腰を深く折ってフョードルに会釈をした。
「ちぇっ、ちぇっ! 偽善だ! 紋切り型だ! 紋切り型の文句と所作だ! その頭を地べたにくっつけるお辞儀も、古臭い偽りの形式だ! そのお辞儀がどんなものだか、われわれは先刻承知しておりますよ!『口に接吻、胸に匕首』とはシルレルの『群盗』にも言うてありまさあ。なあ、方丈さま方、わしはごまかしは嫌いです。わしは真実が欲しい! しかし、真実は川ぎすにはありませんぜ、これはもうわしが言明したとおりですよ! 方丈さま方、どうしてあなた方は精進をしておいでなさる? どういうわけであなた方はそれに対する報いを天国で待っておいでなさる? 本当にそんな報いがもらえるようなら、わしだって精進をしますよ! なあ、お坊さん方、お寺に籠って人の金でパンを食べながら、天上の報いを待つよりか、人生へ乗り出して徳を行うて、社会に貢献せられたらどうですな、――しかし、このほうはだいぶ骨が折れますでなあ。僧院長さま、わしだってなかなかうまいことを言いましょうがな。一たいここにはどんなご馳走があるんだろう!」と彼は食卓へ近寄った。「ファクトリイの古いポートワインに、エリセエフ兄弟商会の蜂蜜酒か……これはどうもお坊さん方としたことが! こいつは川ぎすどこの騒ぎじゃない。酒の壜をしこたま並べましたな、へへへ! 一たいこんなものを誰がここへ持って来たのです! これはロシヤの百姓が、貧しい労働者が一生懸命に稼いだ一コペイカ二コペイカの金を、家族や国家の要求からもぎ放して、まめだらけの手でここへ持って来たんです! 本当に方丈さま方、あなたたちは人民の生血を吸うておるんですぞ!」
「それはもうあまりな言い草だ」とヨシフは言った。パイーシイは、しゅうねく押し黙っていた。ミウーソフは部屋を駆け出した。と、カルガーノフもその跡を追うのであった。
「じゃ、方丈さま方、わしもミウーソフさんについて行きますよ! もう決してここへ来やしません、膝をついて頼まれたって来るこっちゃありません。わしが千ルーブリ寄進したもんだから、それであんたたちはまた頸を長くして待ってなすったが、へへへ、何の、もう決して上げやしませんよ。わしは自分の過ぎ去った青年時代や、わしの受けたすべての侮辱のために仇うちをするんです!」と彼は人工的な憤怒の発作に駆られて、拳でテーブルをどんと叩いた。「このちっぽけな寺も、わしの生涯にとって意味の深いところなのだ。この寺のためにわしは無量の苦い涙を流した! 女房の『|憑かれた女《クリクーシカ》』がわしに謀叛を起すようになったのも、あんた方のせいですぞ。七つの会議でわしを呪うて、近在を触れ廻したのもあんた方ですぞ! もうたくさんだ、今は自由主義の時代だ、汽船と鉄道の時代だ。千ルーブリはおろか、百ルーブリも、百コペイカも、何にもあんた方に上げるわけにはゆかんから、そう思いなさい!」
 またついでに断わっておくが、この僧院が彼の生涯に特別な意味をおびたこともなければ、そのために苦しい涙を流したことも決してありはしない。しかし、彼は自分の技巧的な涙にすっかり感動してしまい、ちょっと一瞬、自分の偽りを信じないばかりの気持になった。そればかりか、本当に感激のあまり泣きだしたほどである。がそれと同時に、もうそろそろ引き上げていい時分だと感じた。僧院長はその意地わるなでたらめを首を垂れて聞いていたが、またもや諭すように言いだした。
「こういう教えもあります。『なんじの上におそいかかる凌辱をば努めてたえ忍び、かつなんじを穢す者を憎むことなく、みずからの心を迷わすなかれ。』われわれもこの言葉のとおりにいたします。」
「ちぇっ、ちぇっ、ちんぷんかんぷん何だかわけがわかりゃしない! お坊さん方、まあせいぜいちんぷんかんぷんとやりなさい、わしはごめん蒙りますよ。ところで、倅のアレクセイは親父の権利で永久に引き取ってしまいます。イヴァン・フョードロヴィッチ、いやさ、尊敬すべきわしの倅や、わしの跡からついて来い、と言いつけてもよかろうな! フォン・ゾン、お前は何だってそんなところにぐずぐずしてるんだ! すぐにわしの町の家へ来いよ、なかなか愉快だぜ! 僅か一露里そこそこしかありゃしない。精進バタの代りに粥《カーシャ》をつけた豚の子を食わしてやらあ。一緒に食おうじゃないか。コニヤクも出すし、あとからリキュールも出る。上等の木苺ジャムもあるぜ……おい、フォン・ゾン、幸運を取り逃さんようにしろよ!」
 彼は大きな声で喚きたてながら、身ぶり手真似をしいしい駆けだした。ちょうどこの瞬間、ラキーチンは堂を出て来る彼の姿を認めて、アリョーシャに指さして見せたのである。
「アリョーシャ!」彼はわが子の姿が目に入ると、遠くのほうから声をかけた。「今日すぐわしのところへすっかり引っ越して来い、枕も蒲団も担いで来るんだぞ。ここにお前の匂いがしても承知せんから。」
 アリョーシャは針づけにされたように突っ立ったまま、黙ってじいっとこの光景を眺めていた。フョードルはその間にもう幌馬車へ上っていた。それにつづいてイヴァンが無言のまま、気むずかしげな顔つきで、別れのためにアリョーシャのほうを振り向きもせず、馬車に入ろうとしていた。しかし、ここでも今日のエピソードの不足を補うような、想像も及ばない滑稽な一幕が演じられた。ほかでもない、とつぜん馬車の階段のそばへ地主のマクシーモフが現われた。彼は一行に遅れまいと、息を切らせながら駆けつけたのである。ラキーチンとアリョーシャは、彼が走って来る様子を目撃した。彼は恐ろしく気をいらって、まだイヴァンの左足がのっかっている踏段へ、もう我慢しきれないで片足かけた。そして、車台へ手をかけながら、馬車の中へ飛び込もうとした。
「わたくしも、わたくしもあなたとご一緒に!」小きざみに嬉しそうな笑い声をたて、恐悦らしい色を顔に浮べ、どんなことでも平気でやってのけそうな気色《けしき》で、ひょいひょいと飛びあがりながら、彼は叫んだ。「わたくしもお連れなすって。」
「そら見ろ、わしの言わんこっちゃない」とフョードルは得々として叫んだ。「こいつはフォン・ゾンだよ! 墓場から生き返って来た正真正銘のフォン・ゾンだ! しかし、お前どうしてあそこを脱け出したい? どんなふうにフォン・ゾン式を発揮して、お食事《とき》をすっぽかして来たい? ずいぶん面の皮が厚くなくっちゃできん仕事だよ! わしの面の皮も厚いが、お前の面の皮にも驚いてしまうなあ! 飛べ、飛べ、早く飛べ! ヴァーニャ、入らしてやろうよ、賑やかでいいぞ。こいつはどこか足もとへ坐らしてやろう。いいだろう、フォン・ゾン? それとも、馭者と一緒に馭者台へおこうかな?……フォン・ゾン、馭者台へ飛びあがれ。」
 しかし、もう座に落ちついたイヴァンは、突然だまって力まかせに、マクシーモフの胸を突き飛ばした。こっちは一間ばかりうしろへけし飛んだ。彼が倒れなかったのは、ほんの偶然である。
「やれっ!」とイヴァンはにくにくしげに馭者に向って叫んだ。
「おい、お前、何だって? 何だってお前? どうしてあいつをあんな目に?」とフョードルは跳びあがったが、馬車はもう動きだした。イヴァンは答えなかった。
「本当にお前は何という男だ!」二分ばかり黙っていたが、やがてフョードルはわが子を尻目にかけながら、また言いだした。「お前は自分でこの僧院の会合をもくろんで、自分でおだてあげて賛成したくせに、何だって今そんなにぶりぶりしてるんだい?」
「もう馬鹿な真似をするのはたくさんです、もう少し休んだらいいでしょう。」イヴァンは厳しい声で断ち切るように言った。
 フョードルはまた二分ばかり無言でいた。
「今コニヤクでも飲んだらよかろうなあ」と彼はものものしい調子で言った。が、イヴァンは返事しなかった。
「家へ帰ったらお前も飲むだろう。」
 イヴァンは依然として押し黙っている。
 フョードルはまた二分ばかり待ったのち、
「アリョーシャは何といっても寺から引き戻すよ、お前さんにとってはさぞ不快だろうがね、尊敬すべきカルル・フォン・モール。」
 イヴァンは馬鹿にしたようにひょいと肩をすくめ、そっぽを向いて、街道を眺めにかかった。それから家へ着くまで言葉を交えなかった。

[#1字下げ]第三篇 淫蕩なる人々[#「第三篇 淫蕩なる人々」は大見出し]



[#3字下げ]第一 下男部屋にて[#「第一 下男部屋にて」は中見出し]

 フョードル・カラマーゾフの家は決して町の中心ではないが、さりとてまるきり町はずれというでもない。それはずいぶん古い家であったが、見てくれはなかなか気持よくできている。中二階のついた平屋建で、鼠色に塗り上げられ、赤い鉄板葺の屋根がついていた。まだ当分容易に倒れそうな様子もなかった。家は全体に手広で居心地よく作ってある。いろいろな物置部屋だの隠れ場所だの、それから思いがけないところに設けられた階段などがたくさんあった。鼠もかなりはびこっていたが、フョードルはそれをあまり苦に病まなかった。『まあ、何というても、夜一人の時にさびしくなくっていいわ。』実際、彼は夜になると召使を離れへ下げてやり、一晩じゅう母家にただ一人閉じこもる習慣があった。離れは庭に立っていて、広々したがんじょうな作りであった。フョードルはこの中に台所をおくことに決めていた。もっとも、台所は母家のほうにもあるのだが、彼は台所の臭いが嫌いなので、夏も冬も食物は庭を横切って運ばせていた。全体として、この家は大家族のために建てられているので、主人側の人も召他の者も、今の五倍くらい容れることができた。しかし、今のところ、この家の中にはフョードルと息子のイヴァン、そして離れのほうには僅か三人のグリゴーリイ、老婆マルファ(その妻)、それにスメルジャコフという若い下男であった。
 筆者《わたし》はどうしてもこの三人の召使のことを、少し詳しく説明せねばならぬ。老僕グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ・クトゥゾフのことは、もうだいぶ話しておいた。これは頑固一徹な人間で、もし一たん何かの原因で(それは大抵おそろしく非論理的なものだが)、間違いのない真理だと思い込むと、執拗に一直線に、ある一点を目ざして進んで行く。概して正直で、抱き込むことなどできない男である。妻のマルファは夫の意志の前に一生涯、否応なしに服従していたけれど、よくいろんなことを言ってうるさく夫を口説くことがあった。例えば農奴解放後まもなく、フョードルの許を去って、モスクワへ赴き、そこでちょっとした商売を始めようと勧めたことがある(二人の間には幾らか小金が溜っていたので)。しかし、グリゴーリイは即座に、きっぱりと、女は馬鹿ばかりこく、『女ちゅうものは誰でも、不正直なもんだからな。』なにしろ以前のご主人のところを出るという法はない、たとえその人がどんな人物であるとしても、『それが今日われわれの義務というもんだ』と言い渡した。
「お前、義務ちゅうが何だか知っとるか?」彼はマルファに向ってこう言った。
「義務ちゅうことは、わたしも知ってますよ、あんた。だけんど、どういうわけでわたしらがここに残ってなきゃならんのやら、それがわたしにゃ皆目わかりませんよ」とマルファはきっぱりと答えた。