『カラマーゾフの兄弟』第九篇第三章 受難―一

[#3字下げ]第三 霊魂の彷徨 受難―一[#「第三 霊魂の彷徨 受難―一」は中見出し]

 で、ミーチャは腰かけたまま、野獣のような目つきで、一座の人たちを眺めていた。彼は、人が何を言っているのやら少しもわからなかった。と、ふいに立ちあがって、両手をさし上げながら、大声に叫んだ。
「罪はありません! この血に対しては、私に罪はありません! 私の親父の血に対して罪はありません……殺そうとは思いましたが、しかし罪はありません! 私ではありません!」
 けれど、ミーチャがこう叫び終るか終らないかに、カーテンの陰からグルーシェンカが駈け出して、いきなり署長の足もとにがばと身を投げた。
「それはわたしです。わたしです。この罰あたりです。わたしが悪いんです!」彼女は満面に涙をうかべて、みんなのほうへ両手をさし伸べながら、人の心をかきむしるような声で、こう叫んだ。「あの人が人殺しをしたのも、もとはわたしです! わたしがあの人を苦しめたから、こういうことになったのです。わたしはあの死んだ爺さんまで、可哀そうに面当てで苦しめたので、こういうことになってしまいました! わたしが悪いのです、わたしがもとです。わたしが張本人です。罪はわたしです!」
「そうだ、お前が悪いのだ! お前がおもなる犯人だ! お前は向う見ずの自堕落ものだ。お前が一ばんに悪いのだ」と署長は片手で嚇すような恰好をしながら叫んだ。
 けれども、そのとき人々ははやくも署長を厳しく制した。検事のごときは両手で彼に抱きついた。
「それはあまり無秩序になりますよ、ミハイル・マカーロヴィッチ」と彼は叫んだ。「あなたはまるで、審理の邪魔をしていらっしゃるのです……事をぶちこわしていらっしゃるのです……」彼はほとんど息をはずませていた。
「断然たる、断然たる、断然たる処置をとるんです!」とニコライもひどく熱して言った。「でなけりゃ、とても駄目です……」
「わたしも一緒に裁判して下さいまし!」とグルーシェンカはやはり跪いたまま、夢中になって叫びつづけた。「一緒にわたしも罰して下さい。もう今はあの人と一緒なら、死刑でも悦んで受けます!」
「グルーシェンカ、お前はおれの命だ、おれの血だ、おれの神様だ!」いきなりミーチャも彼女のそばに跪いて、強く彼女を抱きしめた。「みなさん、これの言うことを信じないで下さい」と彼は叫んだ。「これには何の罪もないのです。どんな血にも関係はないのです。何も罪はないのです!」。
 彼は、自分が幾たりかの人に、無理やり彼女のそばから引き離されたことや、彼女も急に連れて行かれたことなどを、あとなって思い出した。彼がわれに返った時には、もうテーブルに向って腰かけていた。彼のうしろにも両側にも、組頭の徽章をつけた村の人たちが立っていた。真向いには予審判事ニコライが、テーブルを隔てて長椅子に座を占めていたが、テーブルの上にのっているコップの水を少し飲むようにと、しきりに彼に勧めるのであった。「それを飲むと気分がよくなりますよ。気が落ちつきますよ。恐ろしいことはありません。ご心配なさることはありません。」彼はひどく丁寧にこうつけたした。ところが、ミーチャはとつぜん、判事の大きな指環に興味を惹かれた。一つはアメチスト、いま一つは鮮かな黄色をした透明な石で、何とも言えぬ美しい光沢をおびていた。彼はこの指環に、こういう恐ろしい審問の時でさえ、否応のない力をもって目を惹かれていたことを、後々までも驚異の念をもって思いうかべるのであった。彼は自分の境遇に全然ふさわしくないその指環から、どういうわけか寸時も目を放すことも、忘れることもできなかった。
 ゆうベマクシーモフが腰かけていたミーチャの左脇には、いま検事が坐っている。そして、あのグルーシェンカが陣取っていた右手の席には、ひどく着古した猟服のような背広を着た、赭ら顔の若い男が控えていた。その男の前には、インキ壺と紙とがおいてあった。それは判事が連れて来た書記であると知れた。署長はいま部屋の片隅にある窓に近く、カルガーノフのそばに立っていた。カルガーノフは、やはりその窓に近い椅子に腰かけているのであった。
「水をお飲みなさいよ!」と判事は優しく十度目に繰り返した。
「飲みましたよ、みなさん、飲みましたよ……しかし……どうです、みなさん、一息におし潰して下さい、処罰して下さい、運命を決して下さい!」恐ろしく据わって動かない、飛び出した目を判事のほうへ向けながら、ミーチャはこう叫んだ。
「じゃ、あなたは、ご親父フョードル・パーヴロヴィッチの死に対して罪はないと、どこまでも断言なさるのですか?」と判事は、優しいながらも押し強い調子で訊ねた。
「ありません! ほかの血に対して、ほかの老人の血に対しては罪がありますが、親父の血に対しては罪はありません。それどころか、私は悲しんでいるくらいです! 殺しました。老人を殺しました。打ち倒して、殺しました……しかし、この血のために、ほかの血の、――自分に罪のない恐ろしい血の責任を持つのはいやです……恐ろしい言いがかりです、みなさん、まるで眉間《みけん》をがんとやられたような気がします! しかし、親父を殺したのは誰でしょう、誰が殺したんでしょう? もし私でなければ、一たい誰が殺したんでしょう? 不思議です、ばかばかしいことです、あり得べからざることです!………」
「そう、殺し得る可能性を持っているのは、つまり……」と判事は言いかけた。が、検事のイッポリートは(実際は副検事であるけれども、筆者は簡単に検事と呼ぶことにする)判事と目まぜをして、ミーチャに向って言いだした。
「あなた、あの老人、下男のグリゴーリイのことなら、そんなに心配なさることはありません。今こそお知らせしますが、あれは生きていますよ。正気づいたのです。あなたが加えた(これはあれの申し立てと、今のあなたのお言葉を基にして言うのです)傷は重かったが、しかし少くとも、医師の報告によると、確かに生命に別条はないそうです。」
「生きている? じゃ、あの男は生きてるんですね!」とミーチャは手を拍ってだしぬけに叫んだ。彼の顔は、一時に輝き渡った。「神様、よくも私のような罪ふかい悪党の祈りを聞き入れて、偉大な奇蹟を現わして下さいました。有難うございます! そうです、そうです、それは私の祈りを聞いて下すったのです。私は一晩じゅう祈っていました!………」
 こう言って、彼は三たび十字を切った。彼は息をはずませていた。
「ところが、そのグリゴーリイから、われわれはあなたのことについて、非常に重大な申し立てを聞いたのです。それは……」と検事はつづけようとした。
 けれど、ミーチャはにわかに椅子から立ちあがった。
「ちょっと待って下さい、みなさん、お願いですから、たった一分間だけ待って下さい。私はあれのところへ一走り行って来ます……」[#「来ます……」」は底本では「来ます……」]
「とんでもないことを! 今はどうしてもそんなことはできません!」とニコライはほとんど叫ばないばかりに言い、同じく席から飛びあがった。胸に組頭の徽章をつけた人たちは、四方からミーチャをつかまえた。しかし、彼も自分から椅子に腰をかけた……
「みなさん、実に残念です! 私はほんの一分間あれのところへ行きたかったのです……夜どおし私の心臓をすすっていたあの血が、すっかり洗い落されて、私はもう人殺しでなくなったということを、あれに知らせてやりたかったのです! みなさん、あれは今、わたしの許嫁なのです!」一同を見まわして、歓喜と敬虔の色を現わしながら、彼は突然こう言った。「ああ、みなさん、あなた方に感謝します! ああ、あなた方は、私を生きかえらして下さいました。一瞬の間に、蘇生さして下さいました!………あの老人は、――あの男は私を抱いて傅《もり》してくれたんです。みなさん、私を盥の中で洗ってくれたんです。僅か三つの赤児であった私が、みんなに見捨てられてしまった時、あれは親身の父親になってくれたのです!………」
「そこで、あなたは……」と判事は言いかけた。
「どうぞ、みなさん、どうぞ、一分間待って下さい」とミーチャはテーブルの上に両肱を突き、掌で顔を蔽いながら遮った。「ちょっと考えさせて下さい、みなさん、ちょっと息をつがせて下さい。あの報知が恐ろしく動顛させたのです、恐ろしく……人間というものは太鼓の皮じゃありませんからね、みなさん!」
「あなたはまた水でも……」ニコライはへどもどしながら、こう言った。
 ミーチャは顔から手をのけて、からからと笑った。その目つきは活気をおびていた。彼はまるで一瞬間のうちに、すっかり人が変ったようであった。同時に言葉の調子まで変ってしまった。彼はふたたび一座のすべての人たちと、以前の知人たちと、同等な人間として対座しているようであった。もし昨日まだ何事も起らないうちに、彼ら一同が交際場裡のどこかで落ち合ったとしても、今の様子といささかも変りがなかったであろう。ついでに言っておくが、ミーチャもこの町へ来た当座は、署長の家でも歓迎されたものだが、その後、ことに最近一月ばかり、ほとんど彼のところへ寄りつかなくなったし、署長のほうでもどこか往来などでミーチャに行き合うと、ひどく顔をしかめて、ただ一片の儀礼のために会釈するくらいのものであった。これにはミーチャも十分気がついていた。検事との交際はさらに疎遠であった。神経質で空想的なその細君のところへはよく遊びに行ったが、しかし正式な訪問の格式はくずさなかった。おまけに、何のために遊びに行くのか、自分でもまるっきりわからないのであった。それでも、細君はいつも愛嬌よく彼を迎えた。彼女はなぜかつい近頃まで、彼に興味をもっていたのである。判事とはまだ知合いになる暇がなかったが、一二ど会って話をしたことはある。それも、二度ながら、女の話であった。
「ねえ、ニコライ・パルフェヌイチ、あなたは私の見るところでは、実に敏腕な判事さんですが」と急にミーチャは愉快そうに笑いだした。「しかし、私が今あなたの手つだいをしてあげましょう。ああ、みなさん、私は本当に蘇生しました……私があなた方に対してこんなにざっくばらんな、不遠慮な態度をとるのを、咎めないで下さい。おまけに正直に打ち明けると、私は少し酔っ払っているんです。ニコライ・パルフェヌイチ、私はたしか……私の親戚にあたるミウーソフの家で、あなたとお目にかかる光栄と満足を有したと思いますが……みなさん、みなさん、何も私は平等を要求するわけじゃありません。私はいま自分があなた方の前に、どういう人間として引き据えられているかってことを、よく承知しています。私には……もしグリゴーリイが私に言いがかりをしたとすれば……私には――ああ、むろんわたしには恐ろしい嫌疑がかかっているのです! 恐ろしことだ[#「恐ろしことだ」はママ]、恐ろしいことだ、――私はそれを知っています! しかしみなさん、私はこの事件に対してちゃんと覚悟がありますから、こんなことはすぐに片づいてしまいます。なぜって、みなさん、まあ聞いて下さい、聞いて下さい。もし私が、自分の無罪であることを知っているとすれば、もちろんわたしたちはすぐに片づけ得るはずです! そうでしょう? そうでしょう?」
 相手を自分の親しい友人とでも思い込んでいるもののように、ミーチャは早口に、多弁を弄しながら、神経的な調子で立てつづけにまくしたてた。
「では、とにかくそう書きとめましょう、あなたが自分にかけられた嫌疑を絶対に否定なさるということをね」とニコライは相手の胸に滲み込むような調子で言い、書記のほうに振り返って、書きとむべきことを小声に口授するのであった。
「書きとめる? あなた方は、そんなことを書きとめたいのですか? 仕方がありません、書きとめて下さい。立派に同意の旨を明言しますよ、同意しましょう……ただどうも……待って下さい、待って下さい、こう書きとめて下さい。『彼は暴行の罪を犯せり、彼は哀れなる老人に重傷を負せたる罪人なり』とね。それから、もう一つは内心に、自分の心の奥底に、自分の罪を感じております、――しかし、これはもう書きとめる必要がありません(彼はにわかに書記のほうへ振り向いた)。これは私の私生活だから、みなさん、これはあなた方に無関係なことです。つまり、この心の奥底一件ですよ……しかし、老父の殺害に対しては、何の責任もありません! それは、奇怪千万な考えです! それはまったく奇怪千万な考えです!………私がいま証拠を挙げて、すぐあなた方を説き伏せてお目にかけます。そうしたら、あなた方はお笑いになるでしょう、みなさん、自分で自分の嫌疑をお笑いになるでしょう!………」
「まあ、落ちついておいでなさい、ドミートリイ・フョードロヴィッチ。」判事はその沈着な態度で、夢中になっているミーチャを抑えようとでもするように、こう注意した。「私は審問をつづけるにさきだって、もしあなたが承諾さえして下されば、次の事実を承認なさるかどうか、それを一つ伺いたいのです。ほかでもありませんが、あなたは亡くなったフョードル・パーヴロヴィッチを愛していられなかったようですね。しじゅう喧嘩ばかりしておいでになった様子じゃありませんか……少くとも、ここで十五分間ばかりまえに、あいつを殺すつもりだった、とまでおっしゃったように記憶しています。『殺しはしなかったが、殺すつもりだった』と大きな声でおっしゃいましたね。
「私がそんなことを言いましたか? ああ、みなさん、あるいはそうだったかもしれません! そうです、不幸にも私は、親父を殺そうと思いました。幾度となく、殺そうと思いました……不幸なことでした、不幸なことでした!」
「そう思ったんですね。では、一たいどういう理由で、あなたは自分の親に対して、そんな憎悪を感じたのです、それを説明していただけますまいか?」
「みなさん、何を説明するんです!」とミーチャは伏目になったまま、気むずかしげにぐいと肩をそびやかした。「私は自分の感情を隠したことがありませんから、このことは町じゅうの人がみんな知っています、――酒場のものもみんな知っています。つい近頃も修道院で、ゾシマ長老の庵室で言いました……その日の晩には親父を殴りつけて、半死半生の目にあわせたうえ、またそのうちに来て殺してやると、人の聞いている前で誓ったものです……ええ、そういう証人ならいくらでもいます! まる一カ月わめき通したのですから、誰も彼もみんな証人です!………事実は目の前にごろごろしています、事実が承知しません、事実が口をききます。けれども、感情はね、みなさん、感情はまったく別なものです。ですから、みなさん(ミーチャは顔をしかめた)、感情にまで立ち入って、訊問なさる権利は、あなた方にもあるまいと思います。また、たとえあなた方が、その権利をもっていられても、これは私のことなんです。私の内心の秘密です。しかし……私は以前も自分の感情を隠さなかったから……例えば、酒場などでも、誰であろうと、相手かまわず喋ったくらいですから、今も……今もそれを秘密にしやしません……ねえ、みなさん、この場合、私に対して恐ろしい証拠があがっているということは、自分でもよくわかっています。私はあいつを殺すとみんなに言いましたからね。ところが、突然あいつは殺されました。こういうわけであってみれば、私に嫌疑がかかるのは当然ですよ! はっ、はっ! 私はあなた方を責めません。みなさん、決して責めません。私自身でさえ、心底から仰天しているくらいです。なぜかって、もし私が殺したのでなければ、この場合、一たい誰が殺したんでしょう? そうじゃありませんか? もし私でなければ、一たい誰でしょう? 誰なんでしょう? みなさん」と彼はとつぜん叫んだ。「私は知りたいことがあります。いや、私はあなた方に説明を要求します。みなさん、一たい親父はどこで殺されていたのです? 親父は何でどういう工合に殺されていたんですか? それを私に聞かせて下さい。」彼は検事と判事とを見まわしながら、早口にこう訊いた。
「われわれが行ってみた時には、ご親父はご自分の書斎の中で頭を打ち割られて、仰向けに倒れておられました」と検事は言った。
「それは恐ろしいことです、みなさん!」とミーチャは急にぴくりと身を慄わせ、テーブルに肱を突いて、右手で顔を蔽うた。
「では、前に返って訊きますが」とニコライは遮った。「その時あなたにそんな憎悪の念を起させたのは、一たいどんな原因だったのです? あなたは嫉妬の念だと、公然いい触らしておいでになったようですが。」
「ええ、まあ、嫉妬ですが、しかし嫉妬だけじゃありません。」
「金銭上の争いですか?」
「ええ、そうです、金銭上のことからも。」
「その争いは三千ルーブリの遺産を、あなたに引き渡さなかったというのがもとでしたね。」
「三千ルーブリどころじゃありません! もっとです、もっとですよ」とミーチャは跳りあがった。「六千ルーブリ以上です、あるいは一万ルーブリ以上かもしれません。私はみんなに言いました、みんなにわめきました。しかし、私は三千ルーブリで折り合おうと決心したんです。私にはその三千ルーブリが、せっぱつまって入用だったのです。ですから、グルーシェンカにやるために、ちゃんと用意して枕の下においてあった(ええ、そうです、私は知っています)三千ルーブリ入りの包みは、親父が、私の手から盗み取ったも同様だと、確信していました。まったく、私はその金を自分のものと思っていました。実際、自分のものも同じことなんですからね……」
 検事は意味ありげに判事と目くばせをして、気づかれないように一つ瞬きをした。
「その問題にはまたもう一ど戻ることとして」と判事は早速こう言った。「今わたしたちは次の事実に同意して、それを書きとめさせていただきましょう。つまり、あなたがその封筒に入っている金を、自分のもの同様に思っていられた、という事実です。」
「お書きとめ下さい。みなさん、私はそれも自分にとって不利な証跡になる、ということを知っています。が、私は証跡を恐れません。私は自分で自分に不利なことを申します。いいですか、自分でですよ! ねえ、みなさん、あなた方は私を、実際の私とはまるで違った人間に解釈していられるようですね」と彼は急に沈んだ悲しそうな語調でつけたした。「今あなた方と話をしているのは高潔な人間です、高潔この上ない人間です。何より肝腎なのは、――この点を見落さないで下さい、――数限りなく陋劣なことをしつくしたけれど、いつも高潔この上ない心持を失わない人間です。内心には、心の奥底には、つまり、その、一言で言えば、いや、私にはうまく言えません……私は高潔を慕い求めて、今まで苦しんできたのです。私はいわゆる高潔の殉難者で、提灯を持った、――ディオゲネスの提灯を持った高潔の探求者でした。そのくせ、私はすべての人間と同じように、今までただ卑劣なことばかりしてきました……いや、私一人きりです、みなさん、すべての人間じゃありません、私一人きりです。あれは、言い違いでした。私一人きりです、一人きりです!………みなさん、私は頭が痛いのです」と彼は悩ましそうに顔をしかめた。「実はね、みなさん、私はあいつの顔が気に入らなかったんです。何だか破廉恥と高慢と、すべての神聖なものを足蹴にしたような表情と、皮肉と不信を一緒にしたような表情なんです。醜悪です。実に醜悪です! しかし、今あいつが死んでみると、だいぶ考えが変ってきました。」
「変ったとはどういうふうに?」
「いや、変ったというわけではありませんが、あんなに親父を憎んだのを、気の毒に思っています。」
「後悔しているのですか?」
「いいえ、後悔とも違います。そんなことは書きとめないで下さい。私自身からして立派な人間じゃありませんものね、みなさん。まったく私自身あまり好男子じゃありませんものね。ですから、親父のことを醜悪だなぞと言う権利はないのですよ、まったく! これはまあ、お書きになってもいいでしょう。」
 こう言い終ると、ミーチャは急にひどく沈んだ顔つきになった。もう前から彼は、判事の審問に答えるにしたがって、だんだん陰欝になっていたのである。ところが、ちょうどこの瞬間、ふたたび思いがけない場面が突発した。それはこうである。グルーシェンカはさっき向うへ連れて行かれたが、大して遠くではなかった。いま審問の行われている空色の部屋から、僅か三つ目の部屋であった。これは、ゆうべ舞踏をやったり、世界も崩れそうな騒ぎをした大広間のすぐうしろにある、一つしか窓のない、小さい部屋であった。ここに彼女は腰かけていた。しかし、いま彼女のそばにいるのは、マクシーモフ一人きりであった。彼はすっかり面くらってしまって、むやみにびくびくしながら、彼女の身辺にのみ救いをもとめるもののように、ぴたりとそばに寄り添っていた。部屋の扉口には、胸に組頭の徽章をつけた一人の百姓が立っている。グルーシェンカは泣いていた。と、ふいに悲哀が烈しく胸先に込み上げてきた、彼女は、つと立ちあがりさま両手を拍って、かん走った高い声で、『なんて悲しいこったろう、なんて悲しいこったろう!』と叫んだかと思うと、いきなり部屋を飛び出して、彼のほうへ、ミーチャのほうへ走って行った。それがあまりに突然なので、誰も彼女を止める暇がなかった。ミーチャは彼女の悲鳴を聞きつけると、身慄いをして飛びあがり、叫び声をたてながら、前後を忘れたかのように、まっしぐらに彼女のほうへ駈け出した。けれど、二人は早くも互いに顔を見合わせたにもかかわらず、今度も相いだくことを許されなかった。ミーチャはしっかりと両手を掴まれた。彼があまり烈しくもがき狂うので、彼を押えるのに、三人も四人もかからねばならなかった。彼女も同様つかまった。彼女が引いて行かれながら、叫び声とともに自分のほうへ手を延ばすのを、ミーチャはちゃんと見て取った。この騒ぎが終った時、彼はまたもや以前の席に坐っている自分に気がついた。彼は判事と向き合ってテーブルについていた。
「一たいあれに何の用があるのです? あなた方はなぜあれをおいじめになるのです? あれに罪はありません。あれに罪はありません!………」と彼は一同にむかって叫びつづけた。
 検事と判事とは彼を宥めすかした。こうして、十分ばかりたった。やがて、ちょっとこの場を離れたミハイルが、急ぎ足に部屋へはいって来るなり、興奮のていで大声で検事に向って、
「あの女は少し離れたところへ連れて行きました。いま下にいるのです。ところで、みなさん、たった一ことだけ、あの不仕合せな男に口をきかせて下さらんか? あなた方の前でよろしい、みなさん、あなた方の前で!」
「さあ、どうぞ、ミハイル・マカーロヴィッチ」と判事は答えた。「この場合、私たちも決してお止めしません。」
「おい、ドミートリイ君、よいか、聞いとるんだぞ」と、ミハイル・マカーロヴィッチは、ミーチャのほうへ振り向きながら言い始めた。彼の興奮した顔つきは、不幸な者に対する熱烈な、ほとんど親のような同情を現わしていた。「わしはアグラフェーナさんを下へ連れて行って、この家の娘さんたちに渡して来た。今あのひとのそばにはマクシーモフ老人が、少しも離れないようにしてついているよ。わしはあのひとによく言い聞かせておいた。いいかな? 言い聞かせたり、宥めたり、さとしたりしたんだ。あの男は弁解しなけりゃならない人だから、邪魔をしたり、気をめいらせたりしちゃならん。でないと、あの男の頭が混乱して、間違った申し立てをする恐れがあるからってね、そうだろう? つまり、一言で言えば、言い聞かせてやったのさ。そしたら、あのひとも合点がいったんだ。君、あのひとは利口者だよ。いい人だよ。あのひとはわしのような老人の手に接吻して、君のことを頼んだよ。それから、わしをここへよこして、君があのひとのことを心配しないように、とこう伝言を頼むのだ。そこで、わしはこれからあのひとのところへ行って、君が落ちついていることや、あのひとの身の上についてはすっかり安心している、というようなことを言わなけりゃならん。だから、君、落ちつくがいいよ、わかったかね。わしはあのひとに対してすまんことをした。あのひとはキリスト教信者の心をもっている。いや、みなさん、実際あれは温柔な女ですよ。少しも罪なんかありません。さて、カラマーゾフ君、あのひとに何と言ったもんだろう、落ちついて腰かけていられそうかね?」
 人のいいミハイルは、言いすぎるほどいろいろなことを言った。が、グルーシェンカの悲哀は、人間の悲哀は、彼の善良な心に徹して、その目には涙さえうかんでいた。ミーチャは跳りあがって、ミハイルにひしと抱きついた。
「失礼ですが、みなさん、どうぞ、ああ、どうぞ許して下さい!」と彼は叫んだ。「あなたは天使のような、まったく天使のような心をもっていらっしゃる。ミハイル・マカーロヴィッチ、あれにかわってお礼を申します! ええ、落ちつきます、落ちつきます、快活になりますよ。あなたの無限に優しいお心に甘えて、お願いします。どうか、私が快活だってことを、本当に快活だってことを、あれに伝えて下さい。それから、あなたのような守り神様があれのそばにつき添って下さるということを知ったので、今にも笑いたいほどの気持になったと言って下さい。今すぐに一切の片をつけて自由の身になったら、さっそく、あれのそばへ行きます。もうすぐ会えるんですから、ちょっとのあいだ待たして下さい! みなさん、」彼は急に検事と判事のほうへ向いてこう言った。「今あなた方に私の心中をすっかり打ち明けます。ことごとく披瀝します。こんなことはすぐ片づいてしまいます。愉快に片づいてしまいます、――そして、結局みんな笑うようになるんですよ、そうじゃありませんか? しかし、みなさん、あの女は私の女王です! ああ、どうぞ私にこう言わせて下さい。私はもう腹蔵なしに打ち明けます……なにしろ、高潔な方々と座をともにしているんですからね。あの女は光です、私の宝です、ああ、これが、あなた方にわかっていただけるといいんだがなあ!『あなたと一緒なら仕置きも受けましょう!』とあれが叫んだのを、あなた方はお聞きになったでしょう。ところが、私はあれに何を与えたでしょう。私は乞食です、裸一貫の男です。どうして私にあんな愛を捧げてくれるのでしょう。無骨な、穢らわしい、しかも馬鹿面を下げた私が、そんな愛に価するでしょうか。あれに懲役までも一緒に来てもらえるような値うちがあるでしょうか? さっきなどは、あの負けん気の強い、そして何の罪もない女が、私のために、あなた方の足もとに身を投げだしたじゃありませんか! どうしてあれを尊敬せずにいられましょう? どうして叫ばずにいられましょう? どうして今のようにあれのところへ駈け出さずにいられましょう? ああ、みなさん、お赦し下さい! しかし、今はもう安心を得ました!」
 こう言って、彼は椅子の上に倒れかかり、両の掌で顔を蔽うて慟哭したが、これはもはや幸福な涙であった。彼はたちまちわれに返った。老署長は非常に満足していた。司法官たちも同様に満足らしかった。彼らは、審問が今にもすぐ新しい段階に入るだろうと感じたのである。署長を送り出したあとで、ミーチャは本当にうきうきしてきた。
「では、みなさん、もう私はすっかりあなた方のものです。そして……もしあんなつまらないことさえ抜きにしてしまったら、今すぐにも話は片がつくんですがね。私はまたつまらないことを言いました。もちろん、私はすっかりあなた方のものですが、しかし、みなさん、まったくのところ、必要なのは相互の信用です、――あなた方は私を、また私はあなた方を信用するんです、――でないと、いつまでたってもらちはあきませんよ。これはあなた方のために言うのです。さあ、用件にかかりましょう、みなさん、用件にかかりましょう。しかし、とくにお願いしておきますが、あまり私の心を掘り返さないで下さい。私の心をつまらないことで掻きむしらないで下さい。ただ用件と事実だけお訊ね下さい。そうすれば、早速あなた方に満足のゆくようにお答えします。つまらないことはもう真っ平です!」
 ミーチャはこう叫んだ。審問はさらに始まった。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第二章 警報

[#3字下げ]第二 警報[#「第二 警報」は中見出し]

 この町の警察署長ミハイル・マカーロヴィッチ・マカーロフは、文官七等に転じた休職中佐で、やもめ暮しの好人物であった。彼は僅々三年前にこの町へ赴任して来たのであるが、もう今では世間一般の人から、好意をもって迎えられるようになった。そのおもな理由は、『社交界を引き締めてゆく技倆をもっている』からであった。彼の家には来客が絶えなかった。また彼も、客というものなしには生きて行かれないらしかった。毎日、誰かしら必ずやって来て食事をした。たとえ一人でも二人でも、とにかく客がいなかったら、彼はてんで食卓に向おうとしなかった。さまざまな口実、時によると突拍子もない口実をもうけて、正式に客を食事に招待することもたびたびあった。出されるご馳走は、山海の珍味ではないまでも、確かに豊富であった。魚肉饅頭もなかなか上等なものだし、酒も、質をもって誇ることはできなかったが、その代り量のほうでは、ひけをとらなかった。応接室には球撞台があって、ぜんたいの調度も非常に念入りなものであった。つまり、独身ものの球撞室に必要欠くべからざる装飾となっている英国産の駿馬を描いた黒縁の額が、四方の壁にかけつらねてあるのであった。よし人数は少くても、毎夜カルタの勝負が行われた。けれど、またこの町の上流の人たちが、母夫人や令嬢たちをつれて舞踏会に集ることもたびたびであった。
 ミハイルはやもめになっていたけれども、やはり家庭生活をしていた。彼のところには、もうとっくに後家になった娘が来ていた。彼女もやはり、ミハイルにとっては孫娘にあたる二人の令嬢の母親であった。令嬢はもう年頃で、学業も終っていた。器量も十人並みだし、活発な気だてでもあるので、持参金など一文もないことは周知であったにもかかわらず、この町の社交界の青年たちは令嬢の家に引きつけられていた。ミハイル・マカーロヴィッチは、事務にかけてはあまり腕ききとも言えないが、自分の責任をはたすことにおいては、決して人後に落ちなかった。手っとり早く言えば、彼はほとんど無教育といってもいいくらいな男で、自分の行政上の権限をもはっきり理解していないほど無頓着な人間であった。彼は現代の改革についても、十分に意味を掴むことができなかったのみならず、どうかすると、目立って間違った解釈をすることもあった。これは何か特別な無能のためではなく、単に無頓着な性格に由来するのであった。彼は物事を落ちついて考えている暇がなかったのである。『みなさん、わしの性質はどっちかというと軍隊向きで、文官には向かんのですよ。』こう彼は、自分で自分の批評をすることもあった。彼は農奴制度改革の確実な根底に関してさえ、まだこれという堅固な観念を掴んでいなかったらしく、一年一年知らず識らずのうちに、実地のほうから知識を殖やして行きながら、やっと改革の根底を悟ったような始末である。そのくせ彼は地主なのであった。
 ペルホーチンは、今夜もきっとミハイル・マカーロヴィッチのところで誰か来客に出会うに相違ないと思った。けれども、誰かということはわからなかった。しかし、この時ミハイル・マカーロヴィッチのところへは、まるで誂えたように検事が来ていて、地方庁医のヴァルヴィンスキイとカルタを闘わしていた。この医者はつい近頃、ペテルブルグからこの町へ来たばかりの若紳士であった。彼は抜群の成績でペテルブルグの医科大学を卒業した秀才の一人である。検事といっても、本当は副検事のイッポリート・キリーロヴィッチは(しかし、町ではみんな彼を検事と呼んでいた)、この町でも風変りな人間であった。まだ三十五という男盛りだが、非常に肺が弱かった。そのくせ、恐ろしく肥った石女《うまずめ》の細君を持っていた。彼は手前勝手な怒りっぽい性分であったが、いたって分別のしっかりした、心のすなおな男であった。彼の性格の欠点は、真価以上に自分を値踏みするところから生じるらしい。いつも落ちつきがないように思われるのは、つまりそれがためなのである。それに、彼は一種高尚な、芸術的ともいうべき野心を持っていた。例えば、心理的観察眼とか、人間の心に関する特別な知識とか、犯人とその犯罪を見抜く特別な才能とか、そんなものについて、自負するところが多かった。この意味において、彼は自分を職務上いくぶん不遇な地位にある除け者と自認していた。で、彼はいつも上官たちが自分の価値を認めてくれない、自分には敵がある、とこう思い込んでいた。あまり気のくさくさする時など、もういっそ刑事訴訟専門の弁護士にでもなってしまう、と脅かすのであった。思いがけなくカラマーゾフの親殺し事件が突発した時、彼はこれこそ『ロシヤ全国に知れ渡るような大事件だ』と考えて、全身の血を躍らせた。しかし、筆者《わたし》はまた先廻りしているようだ。
 隣室では町の若い予審判事が、令嬢と一緒に話していた。この男は、ニコライ・パルフェノヴィッチ・ネリュードフといって、つい二カ月前にペテルブルグからここへ赴任して来たのである。あとで町の人たちは、ちょうど『犯罪』の行われた夜に、こういう人たちがわざと申し合せたように、行政官の家に集っていたことを語り合って、奇異の感さえいだいた。が、これはきわめて単純な、きわめて自然な出来事であった。イッポリートは、前の日から細君が歯を病んでいたので、その呻き声の聞えないところへ逃げ出さなければならなかった。医者は晩になると、カルタをしないではいられない性分であった。ニコライはもう三日も前から、この晩だしぬけにミハイル・マカーロヴィッチのところへ行こうと思っていた。それは、ミハイル・マカーロヴィッチの長女オリガに不意打ちを食わしてやろうという、ずるい企らみなのである。彼はオリガの秘密を知っていた。というのは、この日は彼女の誕生日にあたるのだが、町じゅうのものを舞踏会に招待しなくてはならないので、これがいやさに、わざと町の社交界に知らすまいと思っていたのである。そのほか、あの人のことでまだうんと笑って、皮肉を言ってやろう、あの人は自分の年を知られるのを恐れているが、いま自分はあの人の秘密の支配者だから、明日になったらみんなに話して聞かせる、などと言って脅かしてやろう、――まだ若々しくって愛らしい彼は、こういうことにかけると人並みすぐれた悪戯者であった。この町の貴婦人たちは、彼のことを悪戯者と呼んでいたが、それがまたひどく当人の気に入っているらしかった。しかし、彼は非常に立派な階級と立派な家柄に属する人で、そのうえ立派な教育も受けており、また立派な感情をも持っていた。もっとも、彼はかなりの放蕩者であったが、それもごく罪のない、社交上の法則にかなった放蕩者であった。見かけから言うと、背が低くて、弱々しく優しい体質をもっていた。彼のほっそりとした青白い指には、いつも図抜けて大きな指環が幾つか光っていた。彼が職務を遂行するときには、自分の使命と義務を神聖視してでもいるように、いつもに似ずものものしい様子になるのであった。ことに平民出の殺人犯人や、その他の悪漢どもを審問する際に、難問をあびせて度胆を抜く手腕をもっていた。また実際、彼らの心中に敬意でないまでも、とにかく一種の驚異の念を呼び起すのであった。
 ペルホーチンは署長の家へはいると、たちまち度胆を抜かれてしまった。そこに居合す人々が、意外にも、もはや何もかも承知している。[#「している。」はママ]ということがわかったのである。いかにも、一同はカルタを抛り出して、総立ちになって評議していた。ニコライまでも令嬢たちのところから飛んで来て、戦争のような緊張した様子をしていた。まずペルホーチンがそこで耳にしたことは、本当にフョードルが今晩自宅で殺されて、そのうえ金まで取られたという恐ろしい報告であった。これはつい今しがた。[#「今しがた。」はママ]次のような事情で知れたのである。
 塀のそばで打ち倒されたグリゴーリイの妻マルファは、自分の蒲団の中でぐっすり寝込んでいたので、朝まで一息に眠ってしまうはずなのに、なぜか急に目がさめた。彼女の目をさましたのは、人事不省のまま隣室に横たわっているスメルジャコフの、癲癇もち特有の恐ろしい叫び声であった。いつもその叫び声と同時に、癇癪の発作が始まるので、その度ごとにマルファは、この声におびやかされて、病的な刺戟を受けるのであった。彼女はどうしても、その呻き声に慣れることができなかった。マルファは夢心地で飛び起きると、ほとんど無我夢中で、スメルジャコフの小部屋へ駈け込んだ。けれど、そこは真っ暗で、ただ病人が恐ろしく呻きながら、もがき始めた物音が聞えるのみであった。で、マルファも同様に叫び声を立てて、亭主を呼び始めたが、ふと自分が起きて来る時、グリゴーリイは寝台の上にいないようだった、と心づいた。彼女は寝台のそばに駈け戻り、改めてその上を探ってみると、案の定、寝台は空になっていた。してみると、どこかへ行ったのであろうが、一たいどこだろう? 彼女は入口の階段へ駈け出して、そこからおずおずと亭主を呼んでみた。もちろん返事はなかったが、その代り夜の静寂の中に、どこからともなく、遠く庭園のほうからでもあろうか、何か呻くような声がするのを聞きつけた。彼女は耳をすました。呻き声はまたしても繰り返された。その声がまさしく庭のほうから響いて来るのは、もう間違いなかった。『ああ、まるであのリザヴェータ・スメルジャーシチャヤの時みたいだ!』という考えが、彼女のかき乱された頭をかすめた。おずおずと階段を降りて、闇をすかして見ると、庭へ通ずる木戸が開いたままになっている。『きっとうちの人があそこにいるんだ。』彼女はそう考えて、木戸口のほうへ近よった。と、ふいにグリゴーリイが弱々しい、しかも恐ろしい呻き声で、『マルファ、マルファ!』と呼んでいるのを明瞭に聞き分けた。『神様、何か変ったことのありませんように!』とマルファは呟いて、声のするほうへ走って行った。こうして、彼女はついにグリゴーリイを見つけ出したのである。けれども、見つけた場所は、彼が打ち倒された塀のそばではなく、塀から二十歩も離れたところであった。これは後でわかったことだが、グリゴーリイは正気づいて、這い出したのである。おそらく幾度となく意識を失ったり、人事不省におちいったりしながら、長いこと這っていたものと思われる。彼女はすぐに、グリゴーリイが全身血みどろになっているのに気がついて、いきなりきゃっと叫んだ。
『殺した……親父を殺したんだ……何わめいてるか、馬鹿め……ひと走り行って呼んでこう……』とグリゴーリイは小さな声で、しどろもどろに囁いた。しかし、マルファは聞き分けようともせず、叫びつづけたが、ふと見ると、主人の居間の窓が開け放しになって、そこからあかりがさしているので、急にそのほうへ駈け寄って、フョードルを呼び始めた。しかし、窓から中を覗いた時、恐ろしい光景が目を射たのである。主人は床の上に仰向けになったまま、身じろぎもせず倒れていた。薄色の部屋着と真っ白いシャツは、胸のところが血に染まっていた。テーブルの上の蝋燭は、フョードルのじっとした死顔と、血潮の色を鮮かに照らしていた。この時、もう極度の恐怖におそわれたマルファは、窓のそばから飛びのいて、庭の外へ駈け出した。そして、門の閂をはずすや、一目散に裏口から、隣家のマリヤのところへ駈け込んだ。隣りの家では母親も娘も、その時もう眠っていたが、けたたましく窓の鎧扉をたたく物音と、マルファの叫び声に目をさまして、窓のそばへ駈け寄った。マルファは金切り声を出して、しどろもどろに叫びながら、それでも要点だけかいつまんで話したうえ、どうか加勢に来てくれと頼んだ。ちょうどその夜は二人のとこに、宿なしのフォマーが泊り合せていた。二人はすぐに彼を叩き起し、都合三人で、犯罪の現場へと駈け出した。その途中マリヤは、さっき九時ごろ、近所合壁へ響き渡るような、恐ろしい、たまぎるばかりの叫び声が、隣家の庭で聞えたことをようやく思い出した。むろん、それはグリゴーリイが、もう壁の上に馬乗りになっているドミートリイの足にしがみついて、『親殺しっ!』と叫んだ時の声であった。『誰か一声きゃっと言いましたが、それっきりやんでしまいましたわ』と、マリヤは走りながら言った。グリゴーリイが倒れているところへ駈け着くと[#「駈け着くと」はママ]、二人の女はフォマーの援けを借りて、老人を離れへ運んだ。あかりをつけて見ると、スメルジャコフはまだ鎮まらないで、自分の部屋の中でもがいている。目は一方へ引っ吊って、口からは泡が流れていた。一同は酢をまぜた水で、グリゴーリイの頭を洗った。彼はこの水のおかげで、すっかり正気づいて、すぐに『旦那は殺されたかどうだね?』と訊いた。二人の女とフォマーは、そのとき主人の部屋へ出かけたが、庭へ入ってみると、今度は窓ばかりでなく、室内から庭へ通ずる戸までが開け放されていた。ところが、主人はもう一週間この方というもの、毎晩夕方から自分の手で堅く戸を閉めて、グリゴーリイさえ、どんな用事があっても、戸をたたくことを許されなかったのである。その戸がいま開けられているのを見ると、彼ら一同、――二人の女とフォマーとは、急に主人のほうへ行くのを恐れ始めた。それは、『あとで何か面倒がもちあがったら大変だ』と思ったからである。しかし、彼らがあと返りして来た時、グリゴーリイは、すぐ警察署長のもとへ走って行くように言いつけた。そこで、マリヤはさっそく駈け出して行って、署長の家に集っている人たちを総立ちにさせたのである。それはペルホーチンの来訪に先立つこと、僅か五分であった。しかし、ペルホーチンはただ自分一個の想像や、推察をもって出頭したばかりでなく、ある事実の目撃者として、犯人が何者であるかという一同の推察を、事実の物語で立派に裏書きしたのである(とはいえ、彼はこの最後の瞬間まで、やはり心の奥底では、そうした推察を信ずることを拒んでいた)。
 一同は、全力をつくして活動するように決議した。そして、副署長にさっそく四個の証拠物件を集めるように委任し、一定の手続きを踏みながら(筆者《わたし》はここでその規則を一々絮説するのはやめにしよう)、フョードルの家へ入り込んで、現場の検査を始めた。まだ経験が浅くて熱しやすい地方庁医は、みずから乞うて、署長や検事や予審判事に同行することとした。筆者《わたし》はもう簡単に話すことにする。フョードルは頭を打ち割られて、こと切れていた。が、兇器は何であろう? たぶんそれは、あとでグリゴーリイを傷つけたと同じものに相違ない。彼らは、応急手当を加えられたグリゴーリイから、弱いたえだえな声ではあるが、前述の遭難事件に関する、かなり連絡のある話を聞き取ったので、さっそくその兇器を捜し出した。提灯を持って塀のあたりを捜しにかかると、庭の径のよく人目につく場所に、銅の杵が抛り出されているのが、見つかったのである。フョードルが倒れている部屋の中には、べつにこれという乱れたところもなかったが、衝立ての陰にある寝台に近い床の上に、厚ぼったい紙でできた、役所で使うような大形の封筒が落ちていた。それには『三千ルーブリ、わが天使グルーシェンカヘの贈物、もしわれに来るならば』、その少し下には『しかして雛鳥へ』と書いてあった。おそらく、あとからフョードルが自分で書き添えたのであろう。封筒には赤い封蝋で、三つの大きな封印が捺してあった。が、封はすでに切られて、中は空になっていた。金は持ち去られたのである。床の上には、封筒を縛ってあったばら色の細いリボンが落ちていた。
 ペルホーチンの申し立てた事柄のうち、ある一つの事実がなかんずく、検事と予審判事とに格別つよい印象を与えた。それはドミートリイが夜明け頃には、きっと自殺するに相違ないという推察であった。彼はみずからそれを決心して、そのことをペルホーチンに言ったり、相手の目の前でピストルを装填したり、遺書を書いて、かくしへしまったりした。ペルホーチンはそれでもやはり、彼の言葉を信じなかったので、これから出かけて行って、誰かにこのことを話したうえ、自殺を妨害すると言って嚇かしたとき、ミーチャはにたりと笑いながら、『もう間に合わないよ』と答えた。してみると、さっそく現場へ、モークロエヘ急行して、犯人が真実自殺を決するおそれのないうちに、捕縛してしまわなければならない。『それは明瞭です、それは明瞭です!』と検事は度はずれに興奮して、繰り返した。『こういう兇漢は、よくそんなことをするものです。明日は自殺するんだから、死ぬ前にひとつ騒いでやれ、といった気持なんですよ。』彼が商店で酒や食料を買って行ったという話は、ますます検事を興奮させるばかりであった。
『ねえ、みなさん、商人オルスーフィエフを殺した、あの若者を覚えておいででしょう。あいつは千五百ルーブリを強奪すると、すぐ床屋へ行って頭をわけた後、ろくに金を隠そうともしないで、やはり素手に掴まないばかりのありさまで、女郎屋へ繰り出したじゃありませんか。』けれども、フョードルの家の家宅捜索や、その他の手続きが一同をてまどらせた。これにだいぶ時間がかかったので、まず田舎に駐在している巡査のマヴリーキイ・シメルツォフを、一同より二時間ばかり前にモークロエヘやることにした。彼はちょうどいいあんばいにその前の朝、俸給を受け取りに町へ来たのである。一同はマヴリーキイに訓示を与えた。それはモークロエヘ着いたら、少しも騒ぎを起さないで、当路者の到着まで、怠りなく『犯人』を監視するとともに、証人や村の組頭などを呼び集めておけ、云々というのであった。マヴリーキイはその命を守った。彼は、自分の旧い知人であるトリーフォン一人に、機密の一部をもらしただけで、万事秘密に行動した。ミーチャが自分を尋ねている宿の亭主に暗い廊下で行き合って、その顔つきにも言葉つきにも、一種の変化が生じたのに感づいたのは、ちょうどこの時刻に相当していた。こうして、ミーチャもまたほかの人も、誰ひとりとして、自分たちが監視されていることを知らなかった。ピストルの入ったミーチャの箱は、もうとっくにトリーフォンのために盜まれて、安全な場所へ隠されていた。
 やがて、ようやく朝の四時すぎになって、夜が白んだころ、当路者たる署長と検事と予審判事とが、二台の箱馬車と二台のトロイカに分乗してやって来た。医師はフョードルの家に残っていた。それは、翌朝被害者の死体を解剖に付するためであった。が、しかしおもなる理由は、病気にかかっている下男スメルジャコフの容体に、興味をいだいたからである。『二昼夜もつづけざまに反復されるような、こんな猛烈な長い癲癇の発作は、めったにないことですよ。これは研究の価値があります。』彼は、いま出発しようとしている仲間の人たちに、興奮のていでそう言った。相手は笑いながらその発見を祝した。このとき医師は断乎たる語調で、スメルジャコフは朝までもたないとつけ加えたことを、検事と予審判事とはよく記憶していた。
 いま筆者《わたし》は長々しい、とはいえ必要な(と自分には思われる)説明を終ったので、これから前篇で止めていた物語のつづきに帰ることとしよう。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第一章 官吏ペルホーチンの出世の緒

[#1字下げ]第九篇 予審[#「第九篇 予審」は大見出し]



[#3字下げ]第一 官吏ペルホーチンの出世の緒[#「第一 官吏ペルホーチンの出世の緒」は中見出し]

 ピョートル・イリッチ・ペルホーチンが、モローソヴァの家の固く鎖された門を力ーぱいたたいているところで、われわれは一たん話の糸を切っておいたが、彼はもちろん、最後に自分の目的を達した。猛烈に門の戸をたたく音を聞いた時、二時間まえにすっかり度胆を抜かれてしまって、いまだに興奮と『もの思い』のために、床につく気になれないでいたフェーニャは、またしてもヒステリイになりそうなほど驚かされた。彼女は、ドミートリイが馬車に乗って出かけるところを自分の目で見たくせに、これはまたあの男が門をたたいているのだと思った。なぜと言って、あの男のほかに、ああ『ずうずうしい』たたき方をする人がないからである。彼女は、門番のところへ飛んで行き、――門番はもう目をさまして、音のするほうへ出かけようとしていた、――どうか入れないでくれと頼んだ。しかし、門番は戸をたたいている人に声をかけて、それが何者であるかを知り、きわめて重大な事件についてフェドーシヤ・マルコヴナに会いたいという希望を聞き取って、とうとう門をあけることに決心した。彼はまた例の台所へ通された。フェドーシヤ・マルコヴナ――フェーニャは『何だか油断がならない』と思ったので、門番も一緒に入れるように、ペルホーチン許し[#「ペルホーチン許し」はママ]を乞うた。ペルホーチンは早速いろいろと根掘り葉掘りしはじめたが、話はすぐ、一番の要点へ落ちて行った。つまり、ミーチャがグルーシェンカを捜しに馳け出した時、臼から杵を掴んで行ったが、今度帰った時にはすでに杵はなく、血みどろな手をしていたということである。
『ええ、まだ血がぽたぽた落ちてました、両手からぽたぽた落ちてました、本当にぽたぽた落ちてました!』とフェーニャは叫んだ。察するところ、彼女は自分の混乱した想像の中で、この恐ろしい事実を作り上げたものらしい。しかし、ペルホーチンもぽたぽた落ちるのこそ見なかったものの、血みどろな手は自分の目で見たばかりか、自分から手伝って洗わしたくらいである。それに、問題は血みどろの手が急に乾いたということではない、彼が杵を持って駈け出したのは、確かにフョードルのところへ行ったのだろうか? 確かにそうだという結論をどうして下すことができるか、それが問題なのである。ペルホーチンもこの点を精密に追及した。そして、結局、何の得るところもなかったけれど、しかしミーチャが駈け出して行くのは、父の家よりほかになさそうだ。してみると、そこで『何か事が』起ったに相違ないという、ほとんど確信に近いものを獲得したのである。
『そして、あの人が帰ったとき』とフェーニャはわくわくしながら言い添えた。『わたし、あの人にすっかり白状してしまいましたの。そしてね、どうして旦那さま、あなたのお手はそんな血だらけなんです、と訊きますとね、あの人の返事がこうですの。これは人間の血だ、おれはたったいま人を殺して来たのだって、すっかり白状してしまいました。後悔して、白状してしまいましたの、そして、いきなり気ちがいのように駈け出してしまいました。わたしは落ちついてじっと考えてみましたの。何だってあの人は今あんなに、気ちがいみたいに駈け出したんだろう? すると、急に考えつきましたのは、モークロエヘ行って奥さんを殺すつもりなんだということでした。そこで、わたしは奥さんを殺さないでくれと頼もうと思って、いきなり家を飛び出して、あの人の下宿をさして走って行きますとね、ふとプロートニコフの店先で、あの人がいよいよこれから出かけるってところじゃありませんか。見ると、手にはもう血がついていませんの(フェーニャはこのことに気がついて、後々までも覚えていた)。』フェーニャの祖母にあたる老女中も、できるだけ孫娘の申し立てを確かめた。それからまだ、何かのことをたずねた後、ペルホーチンは、入って来た時より一そう惑乱した、不安な心持をいだきながら家を出た。
 これからすぐフョードルのところへ行って、何か変ったことはないか、もしあればどういうことなのかと訊ねて、いよいよ確固たる信念を得た後に、はじめて警察署長のところへ行くのが、一ばん手っとり早い、自然な順序のように思われた。ペルホーチンも、そうすることに決心していたのである。しかし、夜は暗く、フョードルの家の門は堅かった。またどんどん叩かなければならない。それに、彼とフョードルはごく遠い知合いであったから、もし根気よく叩いて叩き起し、戸を開けてもらったとき、案外、何のこともなかったらどうだろう。あの皮肉家のフョードルは、明日にもさっそく方々へ行って、さほど懇意でもない官吏のペルホーチンが、お前は誰かに殺されはしなかったかと、よる夜なか押しかけて訊きに来た失策談を、町じゅうへ触れ廻すにちがいない。それこそ不体裁きわまる話だ! ペルホーチンはこの世で何よりも、不体裁ということを恐れていた。しかし、彼をぐんぐん引きずって行く感情の力は、意外に強かった。彼は地団太を踏んで自分で自分を罵りながら、猶予なく別な方角をさして駈け出した。目ざすところはフョードルの家でなく、ホフラコーヴァ夫人の家であった。
 彼は考えた。もし夫人が『これこれの時刻にドミートリイに三千ルーブリの金をやったか』という自分の問いに対して、否定の答えをした場合には、もはやフョードルのところへは寄らないで、すぐ署長の家へ出かけよう。もし反対の答えを得たならば、万事あすまで猶予してまっすぐに家へ帰ろう。もっとも、彼のような若い男がよる夜なか、ほとんど十一時という時刻に、てんで知合いでも何でもない上流の婦人を叩き起し(もう夫人は床についているかもしれない)、前後の状況から見て、奇怪きわまる質問を提出しようと決心したのは、フョードルのところへ行くよりも、さらに不体裁な結果を惹き起すおそれがある。しかし、今のような場合には、正確冷静この上ない人でも、どうかするとこういう決心をとることがある。それに、この瞬間ペルホーチンは、決して冷静な人ではなかった! 次第に強く彼の心を領してゆくうち克ちがたい不安は、ついに苦しいほどに募ってゆき、彼の意志に逆らって深みへ引きずってゆくのであった。彼は生涯このことを覚えていた。もちろん、彼はこの夫人のところへ足を運ぶ自分を、道々たえまなく罵っていたが、『どうしても、どうしてもしまいまでやり通してみせる!』と、彼は歯がみをしながら、十度ぐらい繰り返した。そして、自分の決心を遂行した、――見事やり通したのである。
 彼がホフラコーヴァ夫人の家へ入ったのは、かっきり十一時であった。庭まではかなり早く通してもらえたが、奥さんはもうお休みかどうかという問いに対しては、番人もふだん大ていこれくらいの時刻にお休みになります、とよりほかに正確な返事ができなかった。
「まあ、上へあがって取次ぎを頼んでごらんなさいまし、お会いになる気があれば、お会いになりましょうし、その気がなければ、お会いになりますまいよ。」
 ペルホーチンは家へはいった。が、ここでちょっと面倒が起った。従僕がなかなか取次ごうとしないで、とどのつまり小間使を呼び出した。ペルホーチンは慇懃な、とはいえ執拗な調子で、土地の官吏ペルホーチンが特別な事故によってお訪ねした、まったく特別重大な用向きでもなかったら、決して伺うはずではなかったと、こう取次いでくれるように小間使に頼んだ。『どうかぜひこのとおりの言葉で取次いで下さい』と彼は小間使に念を押した。小間使は立ち去った。彼は控え室に残って待っていた。当のホフラコーヴァ夫人は、まだ休んでこそいなかったが、もう寝室に籠っていた。彼女はさきほどのミーチャの来訪以来、すっかり気分が悪くなって、こういう場合、彼女につきものの頭痛は、今夜ものがれっこあるまいと観念していた。小間使の取次ぎを聞いて、夫人は一驚を喫したが、それでも、いらいらした調子で、断わってしまうように言いつけた。そのくせ、自分にとって面識のない『土地の官吏』が、こういう時刻に訪問したということは、彼女の女らしい好奇心を極度に刺戟したのである。しかし、ペルホーチンも今度は騾馬のように頑強だった。拒絶の言葉を聞き終った彼は、なみなみならぬ執拗な調子で、いま一ど取次ぎを頼んだ。『私は非常に重大な用向きでお訪ねしたのですから、もしお会いにならなかったら、あとで後悔なさるかもしれません』とのべ、『これをそっくりこのままの言葉で』伝えるように頼んだ。『僕はあの時まるで山から駈け下りるような心持になっていた』と彼は後日、自分の口から言い言いしたものである。小間使はびっくりしたように、彼をじろじろ見まわした後、いま一ど取次ぎをしに奧へ入った。
 ホフラコーヴァ夫人は驚いて考え込んだ。そして、その人の見かけはどんな様子であったか、と訊ねたところ、『身なりの大変きちんとした、丁寧な若い人』だということがわかった。ここでついでにちょっと断わっておくが、ペルホーチンはなかなか秀麗な青年で、自分でもこのことを承知していた。ホフラコーヴァ夫人は接見することに肚を決めた。夫人はもう部屋着をきて、スリッパをはいていたが、その上に肩から黒いショールを羽織った。『官吏』は、さきほどミーチャの通されたと同じ客間へ招ぜられた。夫人はいかついもの問いたげな顔をして客に近より、坐れとも言わずいきなり問いを発した。
「何ご用でございます?」
「私があなたにご迷惑をかけようと決心しましたのは、おたがいに共通な知人、ドミートリイ・カラマーゾフのことでございます」とペルホーチンは言いかけた。が、この名を口に出すか出さないかに、とつぜん夫人の顔には烈しい焦躁が現われた。
 彼女はほとんど叫び声を立てないばかりの勢いで、猛然と相手の言葉を遮った。
「いつまで、いつまであの恐ろしい男のことで、わたしはこんな苦しみを受けなければならないのでしょう!」と夫人は激昂して叫んだ。「何の縁故もない婦人の家へ、しかもこんな時刻に出かけて、迷惑をかけるなんて、あんまり失礼じゃございませんか……おまけに、そのお話は何かと思えば、つい三時間まえにこの同じ客間へわたしを殺しにやって来て、地団太を踏みながら出て行った人のことじゃありませんか。身分ある人の家で、あんな歩き方をする人はほかにありゃしません。よろしゅうございますか、あなた、わたしはあなたを訴えますよ、決して容赦はしませんから。さあ、今すぐ出て行って下さい……わたしは母親として、わたしはすぐに……わたしは……わたしは……」
「殺しにですって? じゃ、あの男はあなたまで殺そうとしたのですか?」
「え、あの男はもう誰か殺したのですか?」とホフラコーヴァ夫人は勢い込んで訊ねた。
「奥さん、お願いですから、たった三十秒だけ、私の言うことを聞いて下さいまし。簡単に一切の事情を説明いたしますから」とペルホーチンはきっぱりと答えた。「今日の午後五時頃、カラマーゾフ君が私のところへ、懇意ずくで十ルーブリの金を借りに来たのです。私はあの人が少しも金を持っていなかったのを、確かに承知しています。ところが、同じく今夜の九時ごろに、あの人は百ルーブリ札の束を麗々しく手に掴んだまま、私の家へやって来たのです。かれこれ二千ルーブリか三千ルーブリくらいあったようです。おまけに、両手も顔も一面に血だらけじゃありませんか。まるで気でも違ったようなふうつきでした。どこからそんな金を手に入れたのか、と訊きますと、あの人の答えるには、たった今あなたのところからもらって来たのだ、あなたが三千ルーブリの金を、金鉱へ行くという条件つきで貸してくれたのだ、とこういう話でした……」
 ホフラコーヴァ夫人の顔には、突然なみなみならぬ病的な興奮の色が現われた。
「ああ、大変! あの男は自分の親を殺したのです!」彼女は両手を拍ちながらこう叫んだ。「わたしは決してあの男に金なんか出しゃしません、決して出しゃしません! さあ、走ってらっしゃい、走ってらっしゃい!………もう何も言わないで下さい! あの老人を助けておやりなさい、あの親父さんのところへ走ってらっしゃい、早く走ってらっしゃい!」
「失礼ですが、奥さん、何でございますね、あなたはあの男に金をおやりにならなかったのですね? あなたしっかり覚えていらっしゃいますね、少しも金をおやりにならなかったのですね?」
「やりません、やりません! わたしきっぱり断わってしまいました。だって、あの男にはお金の有難味がわからないのですもの。すると、あの男は気ちがいのようになって、地団太を踏みながら出て行ったのでございます。おまけに、ひとに飛びかかろうとしましたので、わたしはびっくりして、飛びのきましたの……わたしはもう今さらあなたに、何一つ隠しだてしようという気はありません。あなたを信頼すべき方としてお話ししますが、あの男はわたしに唾まで吐きかけましたの。本当に想像もつかないようなお話じゃありませんか! だけど、何だってわたしは、こうぼんやり立ってるんでしょうね? まあ、おかけ下さい……本当にごめん下さいましね、わたしは……いえ、それよりやはり走ってらしたほうがようござんす、走ってらっしゃい。あなたは今すぐ駈け出して、あの老人の恐ろしい死を救わなくちゃなりません!」
「しかし、もう殺してしまったあとでしたら?」
「あら、まあ、どうしましょう、本当にねえ! では、これからどうしたらいいのでしょう? 一たいあなた何とお思いになります、これからどうしたらよろしいのでしょう?」
 こんなことを言ってる間に、彼女はペルホーチンに腰をかけさして、自分でもその真向いに座を占めた。ペルホーチンは簡単ではあるが、かなり明瞭に事件の経過、少くとも、きょう自分で目撃しただけのことを夫人に物語り、さきほどフェーニャの住居を訪れたことも、杵のことも話して聞かせた。こうした詳細な物語は、それでなくても興奮した夫人を、極度にまでいらだたせたのである。夫人は絶えず叫び声をたてたり、両手で目を隠したりした……
「ねえ、わたしはこういうことを、すっかり見抜いていたのでございます! わたしには、そうした天賦の才能がありますの。わたしの想像することは、何でも事実となって現われるんですからね。わたしはあの恐ろしい男を見るたびに、これこそしまいにはわたしを殺す人間だ、とこう心の中で何べん考えたかわかりませんわ。ところが、はたしてこのとおりの始末じゃありませんか……あの男がわたしを殺さないで、自分の父親を殺したのは、もう確かに目に見えて、神様のお手がわたしを守って下すったに相違ありません。それに、あの男も自分でそんなことをするのを、きっと恥しいと思ったのでしょう。なぜって、わたしは偉大なる殉教者ヴァルヴァーラの遺された聖像をここで、この客間であの男の頸に自分でかけてやったんですもの……本当にわたしはあの時、死というもののすぐそばまで寄ってたんですわ。だって、わたしはあの男のそばへぴったりと寄り添って、あの男はわたしのほうヘ一ぱいに頸を突き出したんですからね! ねえ、ピョートル・イリッチ(失礼ですが、あなたは確かピョートル・イリッチとおっしゃいましたね?)実はわたし奇蹟というものを信じていません。けれど、あの聖像とあの疑う余地のない奇蹟は、わたしの心を底から動顛さしてしまいました。わたしはまた何でも信じそうな心持がしてきました。あなたはゾシマ長老のことをお聞きになりまして?……もっとも、わたしは自分でも何を言ってるかわかりません……だけど、まあ、どうでしょう、あの男は聖像を頸にかけたまま唾を吐きかけましたの……もちろん、唾を吐きかけただけで、殺しはしませんでしたけど……本当にとんでもないところへ駈け出して行ったものですわねえ! けれど、わたしたちはどこへ行ったものでしょう? わたしたちは一たいこれからどこへ行きましょう? あなたはどうお考えになります?」
 ペルホーチンは立ちあがり、自分はこれから警察署長のところへ行って、様子をすっかり話してしまう、それからさきはどうしようと向うの勝手だと言った。
「ああ、あの人は立派な、実に立派な人物です。わたしミハイル・マカーロヴィッチとはごく懇意にしていますの。本当にぜひとも、あの人のところへいらっしゃらなければなりません。本当に、あなたは何という機転のきくお方なんでしょうねえ、ピョートル・イリッチ。そして、よくまあ、そんなにいろんなことをお考えつきになりましたのねえ。まったくわたしがあなたのような位置に立ったら、まるで途方にくれてしまいますわ!」
「それに、私自身も署長とは昵懇な間柄ですから。」ペルホーチンはやはり立ったままでこう言った。見受けたところ、彼はどうかして少しも早く、この一本向きな婦人のそばを逃げ出したいようなふうであったが、夫人はいっかな暇を告げて立ち去らせようとしなかった。
「あのね、あのね」と彼女はしどろもどろな調子でこう言った。「あなたこれからご自分で見たり聞いたりなすったことを、わたしに知らせに来て下さいません?……どんな事実が発見されるか、どんなふうに裁判せられて、どんな宣告を受けるか……ねえ、あなた、ロシヤには死刑ってものはないのでしょうか? ですけど、必ずいらしって下さいな。夜中の三時でも、四時でも、四時半でもかまいませんわ……もしわたしが目をさまさなかったら、揺ぶり起すように言いつけて下さいましよ……ああ、大変なことになったものだ。それに、わたし寝られそうもありませんわ。ねえ、いっそわたしもご一緒に出かけるわけにまいりますまいかしら?」
「ど、どういたしまして。時にですね、万一の用心に、あなたがドミートリイ君に一文もお金をお貸しにならなかったということを、今すぐあなたのお手で、一筆かいて下さいましたら、たぶん、むだにはなるまい思いますが[#「むだにはなるまい思いますが」はママ]……万一の用心にね……」
「ぜひ書きますわ!」ホフラコーヴァ夫人は歓喜の情に駆られて、事務テーブルのほうへ飛んで行った。「ねえ、あなた、わたしはあなたがこういう事件について、よく機転がおききになるので、すっかり感心してしまいましたわ。腹の底から揺ぶられたような気持がいたしますわ……あなたはここで勤めていらっしゃるのでございますって? それはまあ、何より嬉しいことでございますわ……」
 こう言いながら、夫人はもう半切の書簡箋に、大きな字で次の文句をさらさらと手早くしたためた。
『わたくしはいまだかつてかの不幸なるドミートリイ・カラマーゾフ氏に(何というとも彼はいま不幸なる身の上なれば)、三千ルーブリの金を与えたることなきのみならず、一度たりとも金銭の貸与をしたることなし! 世界にありとあらゆる聖きものをもってこの言葉の真なるを誓う。
[#地付き]ホフラコーヴァ』
「さあ、書けました!」と夫人はくるりとペルホーチンのほうへ振り向いて、「さあ、行って助けておあげなさい。それはあなたにとって偉大なる功業ですわ。」
 と夫人は彼に三ど十字を切ってやった。彼女は駈け出して、控え室まで見送った。
「わたし本当にあなたに感謝いたしますわ! あなたがわたしのところへ第一番に寄って下すったということを、わたしがどれくらい感謝しているか、あなたにはとても想像がおつきにならないでしょう。どうして今までお目にかからなかったのでしょうねえ? これからも宅へお遊びにいらして下さいましたら、わたしどんなにか嬉しゅうございましょう。それに、あなたがこの町で勤めていらっしゃると伺って、ほんとうに愉快でございますわ……まあ、あなたは、なんて正確な、なんて機転のきいたお方なんでしょう……ほかの人もあなたを尊敬するに相違ありません、あなたを理解するに相違ありません。わたしも自分でできるだけのことは、あなたのために、ねえまったく……ええ、わたしはお若い方が大好きなのでございます! わたし今の若い人たちに惚れ込んでいるのでございます。若い人たちは今の苦しめるロシヤの礎《いしずえ》でございます、希望でございます……さあ、いらっしゃい、いらっしゃい……」
 しかし、ペルホーチンはもう駈け出してしまった。でなかったら、夫人はなかなか、こんなに早く放しはしなかったろう。もっとも、ホフラコーヴァ夫人は彼にかなり気持のいい印象を与えた。そればかりか夫人の印象は、こんな穢らわしい事件に巻き込まれたという彼の不安を、幾分やわらげてくれたほどである。わかりきった話であるが、人間の趣味はずいぶんさまざまなものである。『それに、あの人は、決してそんなに婆さんじみちゃいない』と彼はいい気持になってこう考えた。『それどころか、僕はあのひとをあそこの娘さんかと思ったくらいだ。』
 当のホフラコーヴァ夫人にいたっては、もうすっかりこの若紳士に魅了されていた。『何という如才のない、几帳面な人だろう! 今どきの若い人に似合わないことだ、しかも起居振舞いが見事で、男まえもなかなかいい。今どきの若い者は何一つできないって、よく人が言うけれど、一つあの方を見せてやりたいものだ、云々、云々。』かような次第で、彼女はこの『恐ろしい出来事』をほとんど忘れてしまっていたが、ようやく床につくだんになって、自分がほとんど『死のすぐそばに』立っていたことをふと思い起し、『ああ、恐ろしいことだ、恐ろしいことだ!』と言ったが、たちまちぐっすり甘い眠りに落ちてしまった。もっとも、筆者《わたし》はこんな些末な挿話を、ああまで詳しく物語るはずでなかったのだが、若い官吏とまだ大して年をとっていない未亡人とのこのとっぴな対面は、後にいたって正確で几帳面な青年の出世の緒となったのである。このことは今でも町の人が、驚異の念をいだきながら語り合っている。筆者《わたし》もカラマーゾフの兄弟に関する長い物語を終った後で、別にこのことを話すかもしれない。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第八篇第八章 夢幻境

[#3字下げ]第八 夢幻境[#「第八 夢幻境」は中見出し]

 やがてほとんど乱痴気騒ぎとでもいうようなものがはじまった。それは世界じゅうひっくり返るような大酒もりであった。グルーシェンカは第一番に、酒を飲ましてくれと叫びだした。
「わたし飲みたいのよ、この前の時と同じように、へべれけになるほど酔っ払ってみたいの。ねえ、ミーチャ、あの時わたしたちがここで、はじめて知合いになった時のことを、覚えてて?」
 当のミーチャはまるで有頂天であった。彼は『自分の幸福』を予覚したのである。しかし、グルーシェンカは、絶えず彼を自分のそばから追いのけていた。
「あんた行ってお騒ぎなさい。みんな踊って騒ぐように言ってらっしゃい。あの時みたいに『小屋も暖炉も踊りだす』ほど騒ぐのよ。あの時のようにね!」と彼女は絶えず喋りつづけた。彼女は恐ろしく興奮していた。で、ミーチャも指図のために飛び出すのであった。
 コーラスは次の部屋に集っていた。今までみんなの坐っていた部屋は、それでなくても狭かった。更紗のカーテンで真っ二つに仕切られて、その向うにはまたしても大きな寝台が据えてあった。それにはふっくらした羽蒲団と、同じような更紗の枕が幾つも小山みたいに積み上げてあった。この宿屋の四つの『綺麗な』部屋には、みんな寝台の置いてないところがなかった。グルーシェンカは、戸口のすぐそばに席をかまえていた。ミーチャがここへ肘椅子を運んでやったのである。『あの時』はじめてここで豪遊をした時にも、彼女はちょうど同じようなふうに座を占めて、ここから合唱隊や踊りを眺めていた。
 集って来た娘たちも『あの時』とすっかり同じであった。ユダヤ人の群も同様、ヴァイオリンやチトラを持ってやって来た。待ちかねていた酒や食料を積んだ三頭立の馬車も、とうとう着いた。ミーチャは忙しそうにあちこちしていた。何の縁故もない百姓や女房連まで、見物のために部屋の中へ入って来た。彼らはもう一たん眠りについたけれど、また一カ月前と同じような類のない饗応を嗅ぎつけ、目をさまして起き出したのである。ミーチャは、知合いの誰かれと挨拶して抱き合った。だんだんと見覚えのある顔を思い出してきた。彼は壜の口を抜いて、誰でも彼でも行き当り次第に振舞うのであった。ジャンパンを無上にほしがるのは娘らばかりで、百姓連にはラム酒やコニヤクや、とくにポンスが気に入った。ミーチャは、娘らぜんたいに行き渡るようにチョコレートを沸かして、来るものごとに、茶やポンスを飲ませるために、一晩じゅう三つのサモワールをたえまもなく煮え立たせるように命令した。つまり、望みのものは誰でも、ご馳走にありつけるわけであった。手短かに言えば、何か一種乱脈な、ばかばかしいことが始まったのである。しかし、ミーチャは自分の本領にでも入ったようなふうつきで、あたりの様子がばかばかしくなればなるほど、ますます元気づいてくるのであった。もしその辺の百姓が金をくれと頼んだら、彼はすぐに例の紙幣束を引き出して、勘定もしないで右左へ分けてやったに相違ない。
 おそらくこういう理由で、ミーチャを監督するためだろう、亭主のトリーフォンはほとんどそばを離れないようにして、彼のまわりをあちこちしていた。亭主は、もう今夜寝ることなどは思いきって、酒をろくろく飲まず(彼はポンスをたった一杯飲んだばかりである)、目を皿のようにしながら、自己一流の見地からミーチャの利害を監視していた。必要な場合には愛想よく、お世辞たらたらミーチャを引き止めて、『あの時』のように『葉巻やライン・ワイン』や金などを、(これなぞは実にとんでもないことだ)、百姓どもに撒き散らすのを妨げた。そして、あまっ子どもがリキュールを飲み、菓子を食べるといって、ぷりぷり憤慨した。『あんなやつらは、ほんの虱の宿でございますよ、旦那さま』と彼は言った。『わたくしは、あいつらの中のどれなりと足蹴にして、それを有難いと言わしてお目にかけます、――あいつらはそれくらいのものでございますよ!』ミーチャはまた一度アンドレイのことを思い出して、この男にポンスを持って行ってやるように命じた。『おれはさっきあいつを侮辱したんだ』と彼は有頂天になって、衰えたような調子で繰り返した。
 カルガーノフは酒を口にしようとしなかった。それに、娘らのコーラスにも、初めは大不賛成であった。しかし、シャンパンをたった二杯しか飲まないうちに、むやみにはしゃぎだして、部屋を歩きはじめた。そして、きゃっきゃっ笑いながら、歌も囃子も、何もかも無上に賞めちぎるのであった。マクシーモフは少々きこしめして、大恐悦の体で、ちょっとも彼のそばを離れなかった。同様に酔いのまわってきたグルーシェンカは、ミーチャにカルガーノフを指さしながら、『なんて可愛い人だろう、なんていい子だろうねえ!』と言った。すると、ミーチャは有頂天になって駈け出し、カルガーノフとマクシーモフに接吻した。おお、彼は多くのことを予察した。彼女はまだそんなふうのことを少しも言わなかったし、言いたいのをわざと押しこらえているらしくさえ見えたが、それでもときおり彼のほうを見る目つきは優しく、しかも燃えるようであった。とうとう、彼女はとつぜん男の手をしっかり掴まえて、無理やりに自分のほうへ引き寄せた。彼女自身は戸口の肘椅子に坐っていた。
「あの時あんたは、なんて入り方をしたの? え、なんて入り方をしたの!………わたし本当に驚いちゃったわ、どうしてあんたは、わたしをあの男に譲ろうって気になったの? 本当にそんな気になったの?」
「おれはお前の幸福を台なしにしたくなかったんだ!」ミーチャは嬉しそうに、しどろもどろな調子でこう言った。しかし、グルーシェンカには、彼の返答など必要ではなかった。
「さあ、あっちいいらっしゃい……おもしろく騒いでらっしゃい」と彼女はふたたび追いのけるように言った。「それに、泣くことはないわ、また呼んで上げるから。」
 で、彼は向うのほうへ駈け出した。彼女は男がどこにいても、じっと目でその跡を追いながら、歌を聞き、踊りを見るのであった。しかし、十五分もたつと、また彼を呼び寄せる。すると、彼もふたたびそばへ走って来る。
「さあ、今度はそばへお坐んなさい。そして、昨日どうしてわたしのことを知ったの? わたしがここへ来たってことを、どうして知ったの? 一番に聞かした人は誰?」
 そこで、ミーチャはすっかり話しにかかった。前後の順序もなくしどろもどろに、熱したとはいえ妙に不思議な調子で話をした。そして、しょっちゅうだしぬけに眉をしかめては、言葉を途切らすのであった。
「何だってあんた、そんなに眉を寄せるの?」と彼女は訊いた。
「何でもない……あっちへひとり病人をおいて来たんだ。もしそれがよくなったら、よくなるということがわかったら、おれは今すぐ自分の十年の命を投げ出すよ!」
「だって、病人なんかどうだっていいわ! じゃ、あんたは本当にあす死ぬつもりだったの? まあ、なんて馬鹿な人でしょう、おまけに、つまらないことのためにさあ! わたしはあんたのように無分別な人が好きだわ。」やや重くなった舌をやっと廻しながら、彼女はこう言った。「じゃ、あんたはわたしのためなら、どんなことでもいとわない? え? 本当にあんたはあすピストルで死ぬつもりだったの、馬鹿だわねえ! まあ、しばらく待ってらっしゃい、明日になったら、わたしいいことを言って聞かせるかもしれないわ……今日は言わない、明日よ、あんたは今日聞きたいんでしょう? いや、わたし今日は言わない……さあ、もういらっしゃい、いらっしゃい、おもしろく騒いでらっしゃい。」
 しかし、一ど彼女は何だか合点のゆかない様子で、心配そうにミーチャを呼び寄せた。
「何だってあんたはそう沈んでるの? わたしわかってよ、あんたはほんとに沈んでるわ……いいえ、もうちゃんとわかってよ。」鋭く男の目を見入りながら、彼女はこうつけたした。「あんたはあっちで百姓たちと接吻して、大きな声を出しているけれど、わたしにゃちゃんとわかってるわ。駄目よ、はしゃがなくちゃ。わたしもはしゃいでるんだから、あんたもはしゃいでちょうだい……わたし、この中でひとり愛してる人があるのよ、誰だかあててごらんなさい……あらごらん、うちの坊っちゃんが寝ちゃったわ。可哀そうに酔っぱらったんだわ。」
 彼女はカルガーノフのことを言ったのである。彼は本当に酔っぱらって、長椅子に腰をおろすと、そのまま眠りに落ちてしまった。彼が寝たのは、ただ酔いのためばかりではなかった。彼は急にどうしたわけか気が欝してきたのである。彼の言葉を借りると、『退屈』になったのである。酒もりとともに、だんだん淫猥放縦になってゆく娘らの歌が、しまいには恐ろしく彼の元気を奪ったのである。それに踊りもやはり同じことであった。二人の娘が熊に扮装すると、スチェパニーダという元気のいい娘が手に棒を持って、獣使いという趣向で、熊をみんなに『見せ』始めた。
「マリヤ、もっとはしゃいで」と彼女は叫んだ。「でないと、棒が飛んでくよ!」
 とうとう熊は、もう本当に妙なみだらな恰好をして床に転がった。すると、ひしひしと押し寄せた女房や百姓どもの群衆は、どっと高く笑いくずれた。『いや、勝手にさしておくんだ、勝手にさしておくんだ。』グルーシェンカは幸福げな色を顔にたたえながら、もったいらしい調子でこう言った。『こんなに浮かれるおりといったら容易にありゃしないんだから。誰にだっておもしろい目をさせないって法はないわ。』カルガーノフは何かに体を汚されたような顔つきで眺めていた。『こんなことは、こんな国民風俗なんてみんな穢らわしいものだ!』と彼は、そのそばを退きながら、言った。『これは夏の夜じゅう太陽《てんとう》さまの番をするとかいう、民間の春の遊びなんだ。』しかし、とりわけ彼の気に入らなかったのは、活発な踊りめいた節のついた、ある『新しい』小唄であった。それは通りがかりの旦那が娘たちを試したという歌である。

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娘がおれに惚れてるか
どうかと旦那は聞かしゃった
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、娘たちは旦那に惚れることはできないような気がした。

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旦那はひどくぶたっしゃろう
わたしゃ旦那に惚れはせぬ
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 その後からジプシイが一人通りかかったが、これも同様に、

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娘がおれに惚れてるか
どうかとジプシイは聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、ジプシイにも惚れるわけにゆかぬ。

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ジプシイもとより盗み好き
するとわたしは嘆きみる
[#ここで字下げ終わり]

 それから大勢の人が、――兵隊までやって来て、娘たちを試してみた。

[#ここから2字下げ] 娘がおれに惚れてるか
どうかと兵士は聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、兵隊は冷笑をもってしりぞけられた。

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兵士は背嚢しょうであろ
ところがわたしはうしろから……
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 その次の一連は恐ろしい猥雑きわまるものであった。しかも、それが公々然と唄われて、聴衆の間にどっというどよめきを惹き起した。とうとう話は商人でけりがついた。

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娘がおれに惚れてるか
どうかと商人《あきゅうど》は聞いてみた
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 すると、ぞっこん惚れてることがわかった。そのわけは、

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商人《あきゅうど》は儲けが上手ゆえ
わたしゃ栄耀をし放題
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 カルガーノフはもう怒ってしまった。
「これはまるで昨日のと同じ歌だ」と彼は口に出してこう言った。「まあ、一たい誰がこの連中に作ってやるのだろう! 鉄道員ユダヤ人がやって来て、娘を試さないのが不思議なくらいだ。この連中ならみんな口説き落しただろうに。」
 彼はほとんど侮辱を感じた。退屈だと言いだしたのはこの時である。彼は長椅子に腰をおろすと、そのままうとうととまどろみ始めた。可愛らしい顔は幾ぶん蒼ざめ、長椅子の枕の上にぐったりとなっていた。
「ごらんなさい、なんて可愛いんでしょう。」ミーチャをそばへ引っ張って行きながら、グルーシェンカはこう言った。「わたしね、さっきこの人の頭を梳《す》いて上げたの。まるで亜麻のような房々した毛……」と、さも懐かしそうに屈み込んで、彼女は青年の額を接吻した。カルガーノフは、すぐにぱちりと目を見ひらいて、相手の顔を眺め、半ぶん腰を上げながら、心配そうな様子で訊ねた。
「マクシーモフはどこにいます?」
「まあ、あんな人のことが気になるのよ」とグルーシェンカは笑いだした。「まあ、ちょっとわたしのそばに坐ってらっしゃい。ミーチャ、ひと走りして、この人のマクシーモフを捜して上げてちょうだい。」
 聞けば、マクシーモフはただときどき駈け出して、リキュールを一杯ひっかけて来るほか、もういっかな娘たちのそばを離れようとしなかった(もっとも、チョコレートを茶碗二杯も飲みほした)。小さな顔は真っ赤になって、鼻などは紫色に染まり、目はうるみをおびて、おめでたそうに見えた。彼はちょこちょことそばへ駈け寄って、今すぐ『ちょいとした囃子に合せて』、木靴舞踏《サポチエール》を踊るからと披露した。
「わたくしは、育ちのいい上流の方々がなさるような踊りを、小さい時分にすっかり習ったのでございます……」
「さあ、いらっしゃい、この人と一緒にいらっしゃい、ミーチャ、わたしはこの人がどんなことを踊るか、ここから見物してるからね。」
「じゃ、僕も、僕も見に行こう。」自分のそばに坐っててくれというグルーシェンカの乞いを、思いきって子供らしい態度でしりぞけながら、カルガーノフはこう叫んだ。で、一同は見物に出かけた。マクシーモフは本当に自己流の踊りを踊って見せた。しかし、ミーチャのほかにはほとんど誰ひとり、かくべつ感心してくれるものがなかった。その踊りというのは、ただひょいひょい妙に飛びあがったり、裏を上に向けて足を横のほうへ伸ばしたり、飛びあがるたびに掌で靴の裏を叩くだけのことであった。カルガーノフにはさっぱり気に入らなかったが、ミーチャは踊り手に接吻までしてやった。
「いや、有難う、さぞ疲れたろう。何だってこっちのほうばかり見てるんだ? 菓子でもほしいのか、え? 葉巻でもほしいのか?
「紙巻を一本。」
「一杯どうだね?」
「わたくしはあそこでリキュールを……あなた、チョコレートのお菓子はございませんか?」
「そら、あのテーブルに山ほどあらあな。勝手に好きなものを取るがいい、本当にお前の心は鳩のようだなあ?」
「いいえ、わたくしが申しますのは、そのヴァニラ入りので……年よりにはあれにかぎります……ひひ!」
「ないよ、お前、そんな特別なのはないよ。」
「ちょっとお耳を!」とつぜん老人はミーチャの耳のそばへかがみ込んだ。「それ、あの娘でございますな、マリュシカでございますな、ひひ! いかがでございましょう、できることならどうかして、あの子とねんごろにいたしたいもので、一つあなたのご親切なお取り計らいで……」
「おやおや、とんだ大望を起したな、おい、でたらめを言うもんじゃないぜ。」
「でも、わたくしは誰にも悪いことはいたしません。」マクシーモフはしおしおとこう呟いた。
「いや、よしよし。ここではお前ただ飲んだり踊ったりしてるだけなんだから……いや、まあ、どうだっていいや! ちょっと待ってくれ……まあ、今しばらく腹へ詰め込んでいるがいい。飲んだり食ったりして騒いでるがいい。金はいらないか?」
「あとでまた、その……」とマクシーモフはにたりと笑った。
「よしよし……」
 ミーチャは頭が燃えるようであった。彼は玄関のほうにある木造の高い廊下へ出た。それは、庭に面した建物の一部分を、内部からぐるりと取り巻いていた。新鮮な空気は彼を甦らせた。彼はただひとり片隅の暗闇に佇んでいたが、ふいに両手でわれとわが頭を掴んだ。ばらばらになっていた思想が、急に結び合わされて、さまざまな感触も一つに溶けあった。そして、一切のものが光を点じてくれたのである。ああ、何という恐ろしい光!
『そうだ。もし自殺するなら、今でなくていつだろう?』という想念が彼の頭をかすめた。『あのピストルを取りに行って、ここへ持って来る。そして、この汚い暗い廊下の隅でかたづけてしまうのだ。』ほとんど一分間、彼は決しかねたように佇んでいた。さっきここへ飛んで来ているあいだは、彼のうしろに汚辱が立ち塞がっていた。彼の遂行した竊盗の罪が立ち塞がっていた。それに、何よりもあの血だ、血だ!………しかし、あの時のほうが楽だった、ずっと楽だった! あの時にはもはや万事了していたのだ。彼は女を失った、他人に譲った、グルーシェンカは彼にとってないものであった、消えたものであった、――ああ、自己刑罰の宣告もあの時は楽だった。少くとも、必要避くべからざるものであった。なぜなれば、彼にとってはこの世に生きのこる目的がないからである。
 ところが、今はどうだろう! はたして今とあの時と同じだろうか? 今は少くとも、一つの恐ろしい妖怪は片づいてしまった。あの争う余地なき以前の恋人は、あの運命的な男は、跡形もなく消えてしまった。恐ろしい妖怪は急に何かしらちっぽけな、滑稽なものと変ってしまった。軽々と手で提げられて、寝室の中へ押し込められてしまった。もう決して帰って来ることはない。グルーシェンカは恥かしがっている。そして、いま彼女が誰を愛しているか、彼にははっきりわかっている。ああ、今こそ初めて生きてゆく価値がある、ところが、生きてゆくことはできない、どうしてもできない、おお、何という呪いだ!
『ああ、神様、どうか垣根のそばに倒れている男を生き返らせて下さいまし! この恐ろしい杯を持って、わたくしのそばを通り抜けて下さいまし! あなたはわたくしと同じような罪びとのために、いろいろな奇蹟を現じられたではありませんか! ああ、どうだろう? もし爺さんが生きていたらどうだろう? おお、その時こそわたくしはそのほかの汚辱をそそぎます。盗んだものを返します、ぜひとも返してお目にかけます、土を掘っても手に入れます……そうすれば、汚辱の跡はわたくしの心のほかには、永久に残らないですむのでございます! しかし、駄目だ、駄目だ、しょせん、できない相談だ、了簡の狭い空想だ! おお、何という呪いだ!』
 とはいえ、やはり何となく明るい希望の光線が、彼の暗い心に閃くのであった。彼は急にその場を離れて、部屋の中をさして駈け出した、――彼女のもとへ、永久に自分の女王たる彼女のもとへ! 『よしんば汚辱の苦痛に沈んでいる時であろうとも、彼女の愛の一時間、――いや、一分間は、残りの全生涯と同じの価値を持っていないだろうか?』この奇怪な疑問がとつぜん彼の心を掴んだ。『あれのところへ行こう、あれのところへ行きさえすればいいのだ。あれの顔を見て、あれの声を聞きさえすればいいのだ。ただ今夜一晩だけでいい、一時間でもいい、一瞬の間でもいい、もう何一つ考えないで、一切のことを忘れてしまうのだ!』
 廊下から玄関へ入ろうというところで、彼は亭主のトリフォーンに行き合った。亭主は何だか、浮かない心配らしい顔をしていた。彼は捜しに歩き廻っているらしい。
「どうしたんだ、トリフォーン、おれを捜してるんじゃないか?」
「いいえ、あなたじゃございません」と亭主は急にまごついた様子で、「わたくしが旦那を捜すなんて、そんなわけがないじゃありませんか? ところで、旦那……旦那はどこにいらっしゃいました?」
「何だってお前、そんな浮かない顔をしてるんだ? 怒ってるんじゃないか? ちょっと待てよ、もうすぐ寝さしてやるから……何時だい?」
「へい、もうかれこれ三時でございましょう。いや、ことによったら、三時すぎかもしれません。」
「もうやめるよ、やめるよ。」
「とんでもないことを、かまいはいたしません。どうぞご存分に……」
『あの男どうしたんだろう?』ちらとミーチャはこう考えて、娘らの踊っている部屋へ駈け込んだ。しかし、彼女はそこにいなかった。空色の部屋にもやはりいない。カルガーノフが長椅子の上でまどろんでいるだけであった。ミーチャがカーテンの向うを覗いてみると、――彼女はここにいた。彼女は片隅にある箱の上に腰かけて、両手と頭をかたわらなる寝台に投げ出したまま、人に聞かれまいと一生懸命に押しこらえて、声を盗みながら、にがい涙にむせんでいるのであった。ミーチャを見ると、自分のそばへ招き寄せて、固くその手を握りしめた。
「ミーチャ、ミーチャ、わたしあの男を愛してたのよ!」と彼女は小声に囁き始めた。「ええ、あの男を愛してたのよ、五年の間ずっと愛してたのよ。一たいわたしが愛してたのはあの男だろうか、それとも、ただ口惜しいという心持だけだろうか? いいえ、あの男を愛してたんだわ! まったくあの男を愛してたんだわ! わたしが愛してたのは口惜しいって心持だけで、あの人という人間じゃないと言ったのは、ありゃ嘘なのよ! ミーチャ、わたしはあの時たった十七だったけど、あの男はそりゃわたしに優しくしてくれたのよ。そして、陽気な人でね。よくわたしに歌をうたって聞かせたわ……それとも、あの時分わたしが馬鹿な小娘だったから、ただそう思われただけなのかしら……それだのに、今はまあどうだろう! あれはあの人じゃない、まるっきり人が違うわ。それに顔もあの人とは違ってる。わたし顔を見たとき思い出せなかったわ。わたしはチモフェイと一緒にここへ来る途中、一生懸命に考えたわ、ここへ来てまで考えたわ。『どんなふうにしてあの人と顔をあわしたもんだろう? 何てったらいいだろう? 二人はどんなふうにして互いの顔を眺め合うことだろう?………』ってね、胸の痺れるような思いをしながら考えたの。ところが、来て見ると、あの男はまるで頭から汚い水を、桶一杯あびせかけるようなことをするじゃないの。まるで、どこかの先生みたいな口のきき方をするの。しかつめらしい学者ぶったことばかり言って、はじめて顔をあわした時の様子だって、もったいぶってるものだから、わたしすっかりまごついちゃったわ。口をだすこともできやしないわ。わたし初めのうち、この人はあのひょろ長い仲間のポーランド人に遠慮してるんだ、とそう思ったの。わたしはじっと坐ってて、二人の様子を眺めながら、自分は今どういうわけで、この人に口がきけないのかしらと考えたのよ。あれはねえ、家内があの男を悪くしちゃったんだわ。あの男がわたしを棄てて結婚した家内ね、それがあの男を別人にしてしまったんだわ。ミーチャ、なんて恥しいことだろう! ああ、わたしは、恥しい、ミーチャ、本当に恥しい、一生涯の恥だわ! あの五年は呪われたものだ、呪われたものなんだ!」彼女は、ふたたびさめざめと泣きだした。けれど、一生懸命ミーチャの手に縋りついて、放そうともしなかった。
「ミーチャ、いい子だからちょっと待ってちょうだい、行かないでちょうだい、わたしあんたに一こと言いたいことがあるのよ」と囁いて、とつぜん彼女は男のほうへ顔を振り上げた。「あのねえ、今わたしが誰を愛してるか言ってちょうだい。わたしの愛してる人がここにたった一人あるのよ。その人はだあれ? 言ってごらんなさいな。」泣きはらした彼女の顔には微笑がうかんで、目は薄闇の中に輝いた。「さっき一羽の鷹が入って来たとき、わたしは急にぐったりと気がゆるんでしまったの。『馬鹿だねお前は、お前の愛してるのはこの人じゃないか』と、すぐに心がこう囁いたのよ。あんたが入って来たので、何もかも明るくなったんだわ。だけど、あの人は何を恐れてるんだろう? とこうわたし考えたの。ええ、本当にあんたは恐れてたわ、まるでびくびくしちゃって、口もろくにきけなかったわ。あれはこの連中を恐れてるんじゃない、とこうわたし考えたの。だって、あんたが人を恐れるなんてはずがないんですもの。あれはわたしを恐れてるのだ、わたし一人を恐れてるのだと合点したの。わたしが窓からアリョーシャに向って、たった一ときミーシェンカを愛したことがあるけれど、今は……ほかの者に愛を捧げるために出かけるのだって喚いたことを、フェーニャがあんたに、――このお馬鹿さんに話したでしょう。ああ、ミーチャ、ミーチャ、どうしてわたしはあんたに会ったあとで、ほかの者を愛してるなんて考えることができたんでしょう! 堪忍してくれて、ミーチャ? わたしを赦してくれて、いや? 愛してくれて? 愛してくれて?」
 彼女は飛びあがって、両手で男の肩を押えた。ミーチャは歓喜のあまり、唖のように彼女の目を、顔を、微笑を、見つめていたが、突然しっかり抱きしめて、夢中になって接吻しはじめた。
「え、今までいじめたのを赦してくれて? まったくわたし、面当てにあんた方をいじめてたのよ。あの爺さんだって、わざと気ちがいのようにしてやったのよ……覚えてて、いつかあんたが家でお酒を飲んで、杯をこわしたことがあるわね? わたし今日あれを思い出してねえ、同じように杯をこわしたわ。『穢れたわたしの心のために』飲んだのよ。ミーチャ、どうしてわたしを接吻しないの? 一ど接吻したきり、すぐ離れてしまって、じっと見つめながら、耳をすましてるじゃないの……わたしの言うことなんか、聞いてることはないわ! 接吻してちょうだい、もっと強く接吻して、ええ、そうそう。愛するといったら、どこまでも愛してよ! これからは、あんたの奴隷になるの、一生奴隷になるの! 奴隷になるのも嬉しいもんだわ! 接吻してちょうだい! わたしをぶってちょうだい、いじめてちょうだい、どうでも思う存分にしてちょうだい……ああ、まったくわたしはいじめてもらわなきゃ駄目なのよ……ちょっと待って! またあとでね、何だか厭になったわ……」とつぜん彼女は男を突きのけた。「ミーチカ、あっちいいらっしゃい、わたしもこれからお酒を飲みに行くわ。わたし酔っ払いたいの、今すぐ酔っ払って踊りに行くわ、踊ってよ、踊ってよ!」
 彼女は突然ミーチャのそばを飛びのいて、カーテンの陰から駈け出した。ミーチャはそのあとから、酔いどれのようなふうで出て行った。『かまやしない、どうなったってかまうもんか、――この一瞬間のためには世界じゅうでもくれてやる』という考えが彼の頭にひらめいた。グルーシェンカは、本当にシャンパンを一息に飲みほして、急に恐ろしく酔ってしまった。彼女は幸福げな微笑を浮べながら、以前の肘椅子に座を占めた。頬はくれないを潮し、唇は燃え、光り輝く目はどんよりしてきた。情熱に充ちた目は、招くがようであった。カルガーノフさえも、何か心をちくりと刺されたような気がして、彼女のそばへ近よった。
「さっきあんたが寝てたときに、わたしあんたを接吻したのよ、気がついて?」と彼女はしどろもどろな調子でこう言った。「ああ、わたし酔っ払っちゃった、本当に……あんた酔っ払ってないの? ミーチャはどうして飲まないのかしら? どうしてあんた飲まないの、ミーチャ? わたしはああして飲んだのに、あんたはちっとも飲んでくれないのね……」
「酔っぱらってるよ! このままでも酔っぱらってるんだ……お前という人に酔っぱらってるんだよ。さあ、今度は酒で酔っぱらうのだ。」
 彼はまた一杯ひっかけた。と、――これは彼自身にも不思議に思われたことであるが、――この最後の一杯を飲んだばかりで、急に酔いが廻ってきた。それまで気が確かであったのは、自分でもよく覚えている。この時から一切のものが、まるで夢幻境へ入ったように、ぐるぐると彼の周囲を旋回しはじめた。彼は笑ったり、みなに話しかけたりしながら歩き廻っていたが、それはみんな無意識のようなふうであった。ただ一つじっと据って動かない、燬きつくような感触が、たえまなく心の中に感じられた。『まるで熱い炭火が心の中におかれてるようだった』と、後になって彼はこう追懐した。彼は幾度も彼女のそばへ寄って腰をおろし、彼女の顔を眺め、彼女の声を聞いた……ところが、彼女はむしょうに口が軽くなって、誰でも彼でも自分のそばへ呼び寄せた。たとえば、コーラスの中の娘を誰かひとり招き寄せて、自分のそばへ坐らせると、その娘を接吻して放してやるか、それでなければ、片手で十字を切ってやったりする。もう一分もたったら、彼女は泣きだすかもしれないほどであった。彼女を浮き立たせたのはマクシーモフ、彼女のいわゆる『お爺さん』であった。彼はひっきりなしにグルーシェンカの手や、『一本一本の指』を接吻するために走って来たが、しまいには、自分である古い歌を唄いながら、それに合せてまた別な踊りをおどりだした。

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豚のやっこはぶーぶーぶー
犢のやつめはめーめーめー
家鴨のやつはかーかーかー
鵞鳥のやつはがーがーがー
鶏《とり》は玄関を歩きつつ
くっくっくっと言いました、
あいあい、さように言いました!
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という歌の時はとくに熱心に踊り抜いた。
「あの人に何かやってちょうだい、ミーチャ」とグルーシェンカが言った。「何か恵んでやってちょうだい、だって、あの人は可哀そうな身の上なんですもの。ああ、可哀そうな恥を受けた人たちの多いこと! ねえ、ミーチャ、わたしお寺へ入るわ。いいえ、本当にいつか入るわ。今日アリョーシャがね、一生涯忘れられないようなことを言ってくれたの……本当よ……だけど、今日は勝手に踊らしといたらいいわ。あすはお寺へ入るけど、今日はみんなで踊ろうじゃありませんか。わたしふざけて遊びたいの、みんなかまうことはないわ、神様も赦して下さるから。もしわたしが神様だったら、人間をみんな赦してやるわ。『優しい罪びとよ、今日からそちたちを赦してつかわす』ってね。そして、自分は赦しを乞いに出かけるわ。『みなさん、この馬鹿な女を赦して下さいまし。わたしは獣でございます』って言うのよ。わたしお祈りがしたいの、わたしも葱を一本恵んだことがあるからね。わたしみたいな毒婦でも、お祈りがしたくなるのよ。ミーチャ、勝手に踊らしたらいいわ、邪魔しないでおおきなさいよ。この世にいる人はみんないい人なのよ。ひとり残さずいい人なのよ。この世の中ってほんとにいいものね。わたしたちは悪い人間だけど、この世の中っていいものだわ。わたしたちは悪い人間だけれど、いい人間なのよ。悪くもあればよくもあるのよ……さあ、返事してちょうだい、わたし聞きたいことがあるんだから。みんなそばへ寄ってちょうだい、わたし聞きたいことがあるんだから。さあ、返事してちょうだい。ほかじゃありませんがね、どうしてわたしはこんないい人間なんでしょう? だって、わたしはいい人間でしょう、素敵にいい人間でしょう……ねえ、だからさ、どういうわけで、わたしはこんなこんないい人間なんでしょうってば?」
 グルーシェンカはだんだん烈しく酔いくずれながら、しどろもどろな調子でこう言った。そして、挙句の果てには、これからすぐ自分で踊るのだと言いだした。彼女は肘椅子から起きあがって、よろよろとよろめいた。
「ミーチャ、もう酒をつがないでちょうだい、後生だから……つがないでちょうだい、お酒を飲むと心が落ちつかなくなってねえ。何もかもくるくる廻るようだ。ペーチカも、何もかも、くるくる廻るようだ。わたしも踊りたくなった。さあ、みんなわたしの踊るところを見てちょうだい……わたし、立派にうまく踊って見せるから……」
 その言葉は冗談でなかった。彼女はかくしから白い精麻《バチスト》のハンカチを取り出し、踊りの中でそれを振ろうというつもりで、右手の指先でその端を軽くつまんだ。ミーチャはあわてて騒ぎ始めた。娘らは最初の合図と同時に、一せいに踊り歌をうたいだそうと、鳴りを静めて待ち構えていた。マクシーモフは、グルーシェンカが自分で踊るつもりだと聞いて、歓喜のあまりに甲高い声を立てて叫びながら、

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足は細うてお腹はぽんぽん
尻尾はくるりと鉤なりで
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 という歌とともに、彼女の前をぴょんぴょん飛び廻り始めた。しかし、グルーシェンカはハンカチを振って、彼を追いのけた。
「しっ! ねえ、ミーチャ、どうしてみんなやって来ないの?みんな来て……見物したらいいのに。それから、あの部屋へ閉め込んだ連中も、呼んでちょうだい……何だってあんたは、あの連中を閉め出しちゃったの? あの二人に、わたしが踊るからって言ってちょうだい。わたしの踊るところを見物さしてやるんだ……」
 ミーチャは酔った勢いにまかせて元気よく、鍵をかけた戸口に近より、二人の紳士《パン》に向って、どんどん拳固でドアを叩き始めた。
「おい君……ポトヴイソーツキイ! 出て来ないか、あのひとが踊りを踊るから、君たちを呼べって言ってるよ。」
「Laidak([#割り注]畜生[#割り注終わり])!」と返事の代りにどっちかの紳士《パン》がこう呶鳴った。
「そんなら貴様は、podlaidak([#割り注]小形の畜生[#割り注終わり])だ! 貴様は、ちっぽけな意気地のない悪党だ、それっきりよ。」
ポーランドの悪口はやめたほうがいいでしょう。」同様に、自分で自分をもてあますほど酔っ払ったカルガーノフは、しかつめらしい調子で注意した。
「黙っておいで、坊っちゃん! 僕があいつを悪党よばわりしたからって、ポーランドぜんたいを悪党よばわりしたことになりゃしないよ。あの laidak 一人で、ポーランドぜんたいを背負ってるわけじゃあるまい。黙っておいで、可愛い坊っちゃん。お菓子でも食べてりゃいいんだ。」
「ああ、なんて人たちだろう! まるであの二人が人間でないかなんぞのように。どうして仲直りしようとしないんだろうねえ?」と言いながら、グルーシェンカは前へ出て踊り始めた。
 コーラスの声が一時に轟き始めた。『ああ玄関《セーニイ》よ、わが玄関《セーニイ》よ。』グルーシェンカは首をそらして唇をなかば開き、微笑をふくみながらハンカチを振ろうとしたが、突然その場でよろよろと烈しくよろめいたので、思案に迷ったように部屋の真ん中に突っ立っていた。
「力が抜けちゃった……」と彼女は妙に疲れたような声で言った。「堪忍してちょうだい、力が抜けちゃって、とても駄目……どうも失礼……」
 と彼女はコーラスに向って会釈をした後、かわるがわる四方へ向いて会釈をしはじめた。
「どうも失礼……堪忍《かに》してちょうだい……」
「お酒がすぎたのね、奥さま、お酒がすぎたのね、可愛い奥さま」という声が起った。
「奥さまはうんと召しあがったのだよ。」ひひひひと笑いながら、マクシーモフは娘どもに向ってこう説明した。
「ミーチャ、わたしを連れてってちょうだい……わたしの手を取ってちょうだい、ミーチャ」と力抜けのした様子で、グルーシェンカはこう言った。
 ミーチャは飛んで行って両手をとり、この大切な獲物を捧げて、カーテンの陰へ駈け込んだ。
『さあ、もう僕は帰ろう』とカルガーノフは考えて、空色の部屋を出て行きしなに、観音開きの扉を両方とも閉めてしまった。しかし広間のほうの躁宴は、依然としてつづいているばかりか、一そう鳴りを高めたのである。ミーチャはグルーシェンカを寝台の上に坐らして、その唇へ離れじと接吻した。
「わたしに触らないでちょうだい……こと彼女は祈るような声で囁いた。「わたしに触っちゃいや、今のところ、まだわたしはあんたのものじゃないんだから……さっきあんたのものだって言ったけれど、まだ触っちゃいや……堪忍してちょうだい……あの男のいるところじゃいや、あ男[#「あ男」はママ]のそばじゃいや。あの男がすぐそこにいるんだもの、ここじゃ穢らわしいわ……」
「お前の言うことは何でも聞く……もう考えもしない……おれはお前を神様のように崇めてるんだ!………」とミーチャは囁いた。「まったくここじゃ穢らわしい、いやらしい。」
 と言い、彼は抱擁の手を放さないで、寝台のかたわらなる床に跪いた。
「わたしにはちゃんとわかってるわ、あんたは獣みたいなことをするけれど、心の中は綺麗な人よ」とグルーシェンカは重い舌を廻しながら言った。「何でもこのことは、うしろ暗いことのないように運ばなくちゃならないわ……これからさきは万事うしろ暗いことのないようにしましょうね……そして、わたしたちは正直な人間になりましょうよ。獣でなくて、いい人間になりましょうよ、いい人間にね……わたしを連れてってちょうだい、遠いところへ連れてってちょうだい、よくって……わたし、ここはいや、どこか遠い遠いところへね……」
「そうともそうとも、ぜひそうするよ!」ミーチャは彼女を抱きしめた。「連れてくよ、一緒に飛んで行こう……ああ、あの血のことさえわかったら、たった一年のために生涯を投げ出して見せるんだがなあ!」
「血ってなあに?」けげんな調子でグルーシェンカは、鸚鵡がえしにこう言った。
「何でもないよ!」とミーチャは歯ぎしりした。「グルーシェンカ、お前は正直にしたいと言うが、おれは泥棒なんだよ。おれはカーチカの金を盗んだんだ……なんて恥さらしだ、なんて恥さらしだ!」
「カーチカ? それはあのお嬢さんのこと? いいえ、あんた盗みなんかしないわ。返しちゃったらいいじゃないの、わたしんとこから持ってらっしゃい……何も大きな声をして騒ぐことないわ! もうわたしのものはすっかりあんたのものよ。一たいわたしたちにとってお金なんか何でしょう? そうでなくても、わたしたちはめちゃめちゃに使い失くしちゃうのよ……わたしたちみたいなものは、使わずにいられないんだもの。それよかいっそ、どこかへ行って畠でも起そうじゃないの。わたしこの手で土に十字を切りたいの。働かなくちゃならないわ、わかって! アリョーシャもそうしろと言ったもの。わたしはあんたの色女にはなりたくない。わたしはあんたの貞淑なおかみさんになるの。あんたの奴隷になるの。あんたのために働こうと思うわ。わたしたちは二人でお嬢さんのところへ行って、赦して下さいってお辞儀を一つして、それから発とうじゃないの。赦してくれなかったら、それでもいいからやっぱり発ちましょう。あんたはあのひとんとこへお金を持ってらっしゃい。そして、わたしを可愛がってちょうだい……あのひとを可愛がっちゃいやよ。もうあのひとを可愛がっちゃいやよ。もし可愛がったら、あのひとを締め殺しちゃうわ……あのひとの目を針で突き潰しちゃうわ……」
「お前を、お前ひとりだけを可愛がるよ、シベリヤへ行っても可愛がるよ……」
「何だってシベリヤへ? いや、かまわないわ、あんたの望みならどこでも同じこったわ……働くわ………シベリヤには雪があるのね……わたし雪の上を橇で走るのが好きよ……それには鈴がついてなくちゃならない……おや、鈴が鳴ってる……どこであんな鈴が鳴ってるんだろう? 誰か来てるのかしら……ほら、もう音がやんだ。」
 彼女は力が抜けて目を閉じた。と、ちょっと一時とろとろと眠りに落ちた。鈴は本当にどこか遠くのほうで鳴っていたが、急にやんでしまった。ミーチャは、女の胸に頭をもたせていた。彼は鈴の音がやんだのにも気づかなかったが、またとつぜん歌の声がはたと途絶えて、歌や酒宴の騒ぎのかわりに、死んだような静寂が忽然として、家じゅうを占めたのにも気がつかなかった。グルーシェンカは目を見ひらいた。
「おや、わたし寝てたのかしら? そう……鈴の音がしたんだっけ。わたしうとうとして、夢を見たわ。何だかわたし雪の上を橇で走っているらしいの……鈴がりんりんと鳴って、わたしはうとうとしてるの。何だか好きな人と、――あんたと一緒に乗ってるようだったわ。どこか遠い遠いところへね。わたしあんたを抱いたり、接吻したりして、あんたにしっかりとすり寄ってたわ。何んだか寒いような気持だったの。そして、雪がきらきら光ってるのよ……ねえ、よる雪が光ってる以上、月が出てたんだわね。何だかまるでこの世にいるような気がしなかったわ……目がさめてみると、可愛い人がそばにいるじゃないの。本当にいいわねえ……」
「そばにいるよ。」彼女の着物、胸、両手などを接吻しながら、ミーチャはこう呟いた。
 が、ふと彼は妙な気がした。ほかでもない、グルーシェンカは一生懸命に前のほうを見つめている、が、それはミーチャの顔ではなく、彼の頭を越して向うのほうを眺めている。しかも、怪しいほど身動きもしないでいる、――ように感じられたのである。彼女の顔にはとつぜん驚愕、というよりほとんど恐怖の色が浮んでいた。
「ミーチャ、あそこからこちらを覗いてるのは誰でしょう?」ふいに彼女はこう囁いた。
 ミーチャは振り返った。見ると、本当に誰やらカーテンを押し分けて、自分たちの様子を窺っているふうであった。しかも、一人だけではないらしい。彼は飛びあがって、足ばやにそのほうへ歩いて行った。
「こっちへ、こっちへおいで下さい」と、あまり高くはないが、しっかりした、執拗な調子で、誰かの声が言った。
 ミーチャはカーテンの陰から出た。と、そのままじっと立ちすくんでしまった。部屋じゅう人間で一ぱいになっていたが、それはさきほどとはまるで違った新しい人たちである。一瞬の間に、悪寒が彼の背筋を流れた。彼はぶるっと身慄いした。これらの人々を、一瞬の間に見分けてしまったのである。あの外套を着て、徽章つきの帽子をかぶった、背の高い、肥えた男は、警察署長ミハイル・マカールイチである。それから、あの『肺病やみらしい』、『いつもあんなてらてら光る靴をはいた』、身なりの小ざっぱりした伊達男は副検事である。『あの男は四百ルーブリもする専門家用時計《クロノメータア》を持ってる。おれも見せてもらったことがある。』あの若い、小柄な、眼鏡をかけた男……ミーチャは苗字こそ忘れてしまったけれども、人間はよく見て知っている。あれは、ついこのごろ法律学校を卒業して来た予審判事である。またあの男は警部のマヴリーキイ・マヴリーキッチで、これはもうよく承知していて、心やすい仲なのである。それからあの徽章をつけた人たち、あれは何しに来たのだろう?そのほかにまだ百姓ふうの男が二人いる。それから、また戸口のところには、カルガーノフと亭主のトリーフォンが立っている…
「みなさん……一たいあなた方はどうして……」とミーチャは言いかけたが、急にわれを忘れて口をすべらしたかのように、喉一ぱいの声をはり上げて叫んだ。
「わーかーった!」
 眼鏡の若紳士はとつぜん前へ進み出て、ミーチャのそばまで近よると、威をおびてはいるが、幾分せき込んだような調子で口を切った。
「わたしどもはあなたに……つまり、その、こちらへおいでを願いたいのです、ここの長椅子へおいでを願いたいのです、ぜひあなたにお話ししなくちゃならんことがあるのです。」
「老人ですね!」とミーチャは夢中になって叫んだ。「老人とその血ですね!………わーかーりました!」
 さながら足でも薙がれたかのごとく、そばにあり合う椅子へ倒れるように腰をおろした。
「わかったか? 合点がいったか? 親殺しの極道者、年とった貴様の父親の血が貴様のうしろで叫んでおるわ!」老警察署長はミーチャのほうへ踏み出しながら、突然こう喚きだした。
 彼はわれを忘れて顔を紫色にしながら、全身をぶるぶる慄わしていた。
「それはどうもいけませんなあ!」と小柄な若い人が叫んだ。「ミハイル・マカールイチ、ミハイル・マカールイチ! それは見当ちがいです、それは見当ちがいです!………お願いですから、わたし一人に話さして下さい。あなたがそんなとっぴな言行をなさろうとは、思いもよらなかった……」
「しかし、これはもうめちゃめちゃです、みなさん、まったくもうめちゃめちゃです!」と署長は叫んだ、「まあ、あの男をごらんなさい。よる夜なか酔っ払って、みだらな女と一緒に……しかも、父親の血にまみれたままで……めちゃめちゃだ、めちゃめちゃだ!」
「ミハイル・マカールイチ、折り入ってのお願いですから、今日だけあなたの感情を抑制して下さいませんか」と副検事は老人に向って早口に囁いた。「でないと、わたしは余儀なく相当の手段を……」
 しかし、小柄な予審判事はしまいまで言わせなかった。彼はしっかりした大きな声で、ミーチャに向ってものものしく口を切った。
「予備中尉カラマーゾフ殿、わたくしは次の事実を告げなければなりません、あなたは今夜起ったご親父フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフの殺害事件の、下手人と認められているのであります……」
 彼はまだこのほか何やら言った。そして副検事も何か口を挿んだようである。しかし、ミーチャはそれを聞くには聞いたけれど、もう何のことやらわからなかった。彼は野獣のような目つきで一同を見廻していた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第八篇第七章 争う余地なきもとの恋人

[#3字下げ]第七 争う余地なきもとの恋人[#「第七 争う余地なきもとの恋人」は中見出し]

 ミーチャは例の大股で、急ぎ足にぴったりとテーブルのそばへ近づいた。
「みなさん」と彼は大きな声でほとんど叫ぶように、とはいえ、一こと一こと吃りながら口をきった。「僕は……僕は……何でもありません! 怖がらないで下さい!」と彼は叫んだ。「僕はまったく何でもないのです、何でもないのです。」彼は急にグルーシェンカのほうへ振り向いた。こちらは肘椅子に腰をかけたまま、カルガーノフのほうへかがみ込んで、一生懸命その手にしがみついていた。「僕……僕もやはり旅の者です。僕は朝までいるだけです。みなさん通りがかりの旅の者を……朝まで一緒においてくれませんか。本当に朝までです。どうかお名残りにこの部屋へおいてくれませんか?」
 彼はもうしまいのほうになると、パイプをくわえながら長椅子に坐っている肥った男に向いて頼んでいた。こちらはものものしく口からパイプを放して、いかつい調子でこう言った。
「パーネ([#割り注]ポーランド語パン(紳士・貴君)の呼格である[#割り注終わり])、ここはわれわれが借り切ってるんです。部屋はほかにもありますよ。」
「やあ、ドミートリイさん、あなたですか、一たいどうしてこんなところへ?」とふいにカルガーノフが声をかけた。「まあ、一緒にお坐んなさい、よく来ましたね!」
「ご機嫌よう、君は僕にとって本当に大事な人だ……無限に貴い人だ! 僕はいつも君を尊敬していましたよ……」すぐさまテーブルこしに手をさし伸べながら、ミーチャはうれしそうに勢いこんでこう答えた。
「あ、痛い、ひどい握りようですね! まるで指が折れそうだ」とカルガーノフは笑った。
「あの人はいつでもあんな握り方をするのよ、いつでもそうよ」とグルーシェンカはまだ臆病そうな微笑をふくみながら、おもしろそうに口を挟んだ。彼女は突然ミーチャが乱暴などしないと確信はしたものの、依然として不安の念をいだきながら、恐ろしい好奇心をもって彼の様子を見まもるのであった。彼女に異常な驚愕を与えるようなあるものが、彼のどこかにあったのである。その上グルーシェンカは、彼がこんな時にこんな入り方をして、こんな口のきき方をしようとは、まるで思いもうけなかったのである。
「ご機嫌よろしゅう。」地主のマクシーモフも左手から、甘ったるい調子で声をかけた。ミーチャはそのほうへも飛びかかった。
「ご機嫌よう、あんたもここにいたんですね。あんたまでもここにいるとは、何という愉快なことだ! みなさん、みなさん、僕は……(彼はふたたびパイプをくわえた紳士《パン》のほうへ振り向いた、この一座の主人公と考えたらしい。)僕は飛んで来たのです……僕は自分の最後の日を、最後の時をこの部屋で……以前、僕も……自分の女王に敬意を表したことのあるこの部屋で、過したくてたまらなかったのです!………パーネ、許して下さい!」と彼は激しい調子で叫んだ。「僕はここへ飛んで来る途中ちかいを立てたのです……おお、恐れないで下さい、これが僕の最後の晩です! パーネ、仲よく飲もうじゃありませんか! 今に酒が出ます……僕はこれを持って来たのです……(彼は急に何のためか例の紙幣《さつ》束を取り出した。)パーネ、ごめん下さい! 僕は音楽が聞きたいのです、割れるような騒ぎがほしいのです。この前と同じものがみなほしいのです。……蛆虫が、何の役にも立たぬ蛆虫が、地べたをぞろぞろ這い廻るが、それもすぐにいなくなります! 僕は自分の悦びの日を、最後の夜に記念したいんです!………」
 彼はほとんど息を切らしていた。まだまだいろんなことが言いたかったのであるが、口を出るのはただ奇怪な絶叫ばかりであった。紳士はじっと身動きもしないで、彼の顔と、紙幣束と、グルーシェンカの顔を、かわるがわる見くらべていたが、いかにも合点のゆかないらしいふうであった。 
「もし、わたくしのクルレーヴァが許したら……」と彼は言いかけた。
「え、クルレーヴァって何のこと。コロレーヴァ([#割り注]女王[#割り注終わり])のこと?」ふいにグルーシェンカはこう遮った。「あなた方の話を聞いてるとおかしくなっちまうわ。お坐んなさいよ、ミーチャ。一たいあんたは何を言ってるの? 後生だから、嚇かさないでちょうだい。嚇かさない? 嚇かさない? もし嚇かさなければ、わたしあんたを歓迎するわ……」
「僕が、僕が嚇かすって?」ミーチャは両手を高くさし上げながら、いきなりこう叫んだ。「おお、遠盧なくそばを通って下さい、かまわず通り抜けて下さい。僕は邪魔なんかしないから……」と彼はとつぜん、一同にとっても、またもちろん、彼自身にとっても思いがけなく、どうと椅子に身を投げると、反対の壁のほうへ顔を向けて、まるで抱きつくように椅子の背を両手で固く握りしめながら、さめざめと泣きだすのであった。
「あらあら、またこうなのよ、あんたはなんて人なんでしょう!」とグルーシェンカは、たしなめるような口調で言った。「うちへ来てた時も、ちょうどこのとおりだったわ。急にいろんなことを喋りだすけれど、わたしには何のことだかちっともわからないの。一度もう泣いたことがあるから、今日はこれで二度目だわ、――なんて恥しいことだろう! 一たいどういうわけがあって泣くの! まだほかにもっと気のきいたわけがありそうなもんだわ[#「まだほかにもっと気のきいたわけがありそうなもんだわ」に傍点]!」一種の焦躁をもってこれだけの言葉に力を入れながら、謎のような調子で、彼女は突然こうつけたした。
「僕……僕は泣きゃしない……いや、ご機嫌よろしゅう!」彼は咄嗟にくるりと椅子の上で向きを変え、だしぬけに笑いだした。しかし、それはもちまえのぶっきら棒な木のような笑いでなく、妙に聞き取りにくい、引き伸ばしたような、神経的な、顫えをおびた笑い方であった。
「そら、今度はまた……まあ、浮き浮きなさい、浮き浮きなさい!」とグルーシェンカは励ますように言った。「わたしあんたが来てくれたので本当に嬉しいわ。まったく嬉しいわ、あんたわかって、ミーチャ、わたし本当に嬉しいって言ってるのよ! わたしこの人に一緒にいてもらいたいの」と彼女は一同に向って命令するように言ったが、その実、この言葉は明らかに、長椅子に坐っている人にあてて発したものらしい。「ぜひそうしたいの、ぜひ! もしこの人が帰れば、わたしも帰ります、はい!」彼女はとつぜん目を輝かしながらこうつけたした。
「女王のおっしゃることは取りも直さず法律です!」と紳士《パン》はにやけた態度で、グルーシェンカの手を接吻しながら言った。「どうぞ貴君《パン》のご同席を願います!」と彼はミーチャに向って愛想よく言った。ミーチャはまたもや何やら長々と喋るつもりらしく飛びあがったが、実際はまるで別な結果が生じた。「みなさん、飲みましょう!」長い演説の代りに、彼は突然、たち切るように言った。一同は笑いだした。
「あら、まあ! わたしはまたこの人が何か喋りだすのかと思ったわ」とグルーシェンカは神経的な声で叫んだ。「よくって、ミーチャ」と彼女は押しつけるような調子でつけたした。「もうこれからそんなに飛びあがっちゃいやよ。それはそうと、シャンパンを持って来たってのは大出来だわ。わたしも飲んでよ。リキュールなんか厭なこった。だけど、あんたが自分で飛んで来たのは何よりだったわね。でなかったら、退屈で仕方がありゃしない……一たいあんたはまた散財に来たの? まあ、そのお金をかくしにでもしまったらどう! 一たいどこからそんなに手に入れたの?」
 ミーチャの手に依然として鷲掴みにされている紙幣は、非常に一同の、――とくに二人の紳士《パン》の注目をひいた。ミーチャは急にあわててそれをかくしへ押し込んで、さっと顔を赧くした。この瞬間、亭主が、口を抜いたシャンパンの罎とコップを、盆の上にのせて入って来た。ミーチャは罎に手をかけようとしたが、すっかり動顛しているので、それをどうしたらいいか忘れてしまった。で、カルガーノフがその手から罎をとり、彼に代って酒を注いだ。
「おい、もう一本、もう一本!」とミーチャは亭主に叫んだ。そして、さっきあれほどものものしい調子で近づきの乾杯をしようと言っておいた紳士《パン》と、杯を合すのも忘れてしまい、ほかの人を待とうともしないで、そのまま一人で、ぐっと飲みほした。すると、とつぜん彼の顔つきがすっかり変ってしまった。入って来た時の荘重な悲劇的な表情が消えて、妙に子供らしい色が現われた。彼は急にすっかり気が折れて、卑下しきったような工合であった。悪いことをした小犬がまた内へ入れられて、可愛がってもらった時のような感謝の表情をうかべて、ひっきりなしに神経的な小刻みの笑い声を立てながら、臆病なしかも嬉しそうな様子で一同を眺めていた。彼は何もかも忘れたようなふうつきで、子供らしい笑みをふくみ、歓喜の色をうかべて一同を見廻すのであった。
 グルーシェンカを見るときの目はいつも笑っていた。彼は自分の椅子をぴたりと彼女の肘椅子のそばへ寄せてしまった。だんだんと二人の紳士《パン》も見分けがついてきた。もっとも、その値うちはまだあまりはっきり頭にうつらなかった。長椅子に坐っている紳士《パン》がミーチャを感服さしたのは、そのものものしい様子とポーランド風のアクセントと、それからとくにパイプであった。『一たいどういうわけだろう? いや、しかし、あの人がパイプをくわえてるところはなかなか立派だ』とミーチャは考えた。いくぶん気むずかしそうな、もう四十恰好に見える紳士《パン》の顔も、恐ろしく小さな鼻も、その下に見える色上げをした思いきって短いぴんと尖った高慢そうな髭も、やはり今のところ、ミーチャの心に何の問題をも呼び起さなかった。ばかばかしい恰好に髪を前のほうへ盛り上げた、思いきってやくざなシベリヤ出来の紳士《パン》の鬘も、さしてミーチャを驚かさなかった。『鬘を被ってるところを見ると、やはりああしなくちゃならないのだろう』とミーチャは幸福な心もちで考えつづけた。
 いま一人の、壁ぎわ近く坐っている紳士《パン》は、長椅子に坐っている紳士《パン》よりずっと年が若かったが、不遜な挑戦的な態度で一座を見廻しながら、無言の軽蔑をもって一同の会話を聞いていた。この男も同様にミーチャを感服さしたが、それは長椅子に坐っている紳士《パン》と釣合いのとれないくらい、やたらに図抜けて背が高いという点ばかりであった。『あれで立ったら十一ヴェルショークからあるだろうなあ』という考えがミーチャの頭をかすめた。それから、こんな考えもひらめいた、――この背の高い紳士《パン》は、長椅子に坐っている紳士《パン》の親友でもあれば、護衛者でもあるので、したがってパイプをくわえた小柄な紳士《パン》は、この背の高い紳士《パン》を頤で動かしてるに相違ない。しかし、これらの事柄も、ミーチャの目には、争う余地のないとても立派なことのように映じた。小犬の胸には一切の競争心が萎縮してしまったのである。グルーシェンカの態度にも、彼女が発した二三の言葉の謎めいた調子にも、彼はまだ一向気がつかなかった。ただ彼女が自分に優しくしてくれる、自分を『許して』そばへ坐らしてくれたということを、胸を顫わせながら感じたばかりである。グルーシェンカがコップの酒を傾けるのを見て、彼は嬉しさのあまりわれを忘れてしまった。とはいえ、一座の沈黙はふいに彼を驚かした。彼は何やら期待するような目で、一同を見廻し始めた。『ときに、われわれはどうしてこうぼんやり坐ってるんでしょう? どうしてあなた方は何も始めないんです、みなさん?』愛想笑いをうかべた彼の目が、こういうように思われた。
「この人がでたらめばかり言うものだから、僕たちさっきから笑い通してたんですよ。」突然カルガーノフは、ミーチャの胸の中を察したかのように、マクシーモフを指さしながら口を切った。
 ミーチャは大急ぎでカルガーノフを見据えたが、すぐに視線をマクシーモフヘ転じた。
「でたらめを言うんですって?」とさっそくミーチャは何が嬉しいのか、例のぶっきら棒な、木のような笑い声を立てた。「はは!」
「ええ、まあ、考えてもごらんなさい。この人は、二十年代のロシヤ騎兵が、みんなポーランドの女と再婚した、なんて言い張るじゃありませんか、そんなことは馬鹿げきったでたらめでさあね。え、そうじゃありませんか?」
ポーランドの女に?」とミーチャはまたしても鸚鵡がえしに言って、今度はもうすっかり有頂天になってしまった。
 カルガーノフはミーチャ対グルーシェンカの関係をよく知っていたし、紳士《パン》のこともおおよそ察していたが、そんなことはあまり彼の興味をひかなかった。いや、あるいはぜんぜん興味をひかなかったかもしれない。何より彼の興味をひいたのは、マクシーモフである。彼とマクシーモフの二人が、ここに落ち合ったのは偶然である。二人のポーランド紳士にこの宿屋で邂逅したのも、生れて始めてなのである。しかし、グルーシェンカは前から知っていたし、一ど誰かと一緒に彼女の家へ行ったこともある。そのとき彼はグルーシェンカの気に入らなかったが、ここでは彼女は非常に優しい目つきをして、彼を見まもっていた。ミーチャが来るまでは、ほとんど撫でさすらないばかりであったが、当人はそれに対して妙に無感覚なふうであった。
 彼はまだ二十歳を越すまいと思われる、洒落た身なりをした青年で、非常に可愛い色白の顔に、房々とした美しい亜麻色の髪を持っていた。この色白の顔には、賢そうな、時としては年に似合わぬ深い表情の浮ぶ、明るく美しい空色の目があった。そのくせ、この青年はときどき、まるで子供のような口をきいたり、顔つきを見せたりするが、自分でもそれを自覚していながら、毫も恥じる色がなかった。全体として、彼はいつも優しい青年であったけれども、非常に偏屈で気まぐれであった。どうかすると、その顔の表情に何かしら執拗な、じっと据って動かぬあるものがひらめくことがある。つまり、相手の顔を見たり話を聞いたりしているうちにも、自分は自分で何か勝手なことを一心に空想している、といったようなふうつきである。だらけきってもの臭そうな様子でいるかと思えば、一見きわめて些々たる原因のために急に興奮しはじめる。
「まあ、どうでしょう、僕はもう四日もこの人を連れて歩いていますが」と彼は語をついだ。彼は大儀そうに言葉じりを引き伸ばしていたが、少しも気どったようなところはなく、どこまでも自然な調子であった。「覚えていらっしゃいますか、あなたの弟さんが、この人を馬車から突き飛ばした時からのことです。あのとき僕はそのために、非常にこの人に興味を感じて、田舎のほうへ連れて行ったのです。ところが、この人があまりでたらめばかり言うもんだから、僕は一緒にいるのが恥しくなってしまいました。今この人をつれて帰るところです……」
「貴君《パン》はポーランドの婦人《パーニ》を見たことがないのです。したがって、それはあり得べからざるでたらめです。」パイプをくわえた紳士《パン》は、マクシーモフに向ってこう言った。
 パイプをくわえた紳士《パン》は、かなり巧みにロシヤ語を操った。少くとも、一見して感じられるよりはるかに巧みであった。ただロシヤ語を使うときに、それをポーランド風に訛らせるのであった。
「けれど、わたくし自身も、ポーランドの婦人《パーニ》と結婚しましたよ」と答えて、マクシーモフはひひひと笑った。
「へえ、じゃ、君は騎兵隊に勤めてたんですか? なぜって、君は騎兵の話をしたでしょう。だから、君は騎兵なんですね?」とカルガーノフはすぐに口を入れた。
「なるほど、そうだ。一たいこの人が騎兵なんですかね? はは!」とミーチャは叫んだ。彼は貪るように耳を傾けながら、口をきき始めるたびに、もの問いたげな目をすばやく転じていたが、その様子は一人一人の話し手からどんな珍しい話が聞けるかと、一生懸命に待ちもうけているかのようであった。
「いや、まあ、聞いて下さいまし。」マクシーモフは彼のほうへ振り向いて、「わたくしが申しますのは、こうなので。その、あちらの|娘たち《パーニ》は……可愛い|娘たち《パーニ》はロシヤの槍騎兵とマズルカを踊りましてな……マズルカの一曲がすむと、さっそく白猫のように男の膝へ飛びあがるのでございます……すると、お父さんもお母さんもそれを見て、許してやるのでございます……許してやるのでございますよ……で、槍騎兵はあくる日出かけて行って、結婚を申し込みます……こういう工合に、結婚を申し込むのでございます、ひひ!」とマクシーモフは卑しい笑い方をした。
「Pan laidak!([#割り注]やくざな男だ![#割り注終わり])」とつぜん、椅子に坐っていた背の高い紳士が呟いて、膝の上にのっけていた足を反対に組み直した。ミーチャの目には、分厚な汚い裏皮のついた、靴墨を塗りこくった、大きな靴が映じたのみである。ぜんたいに二人の紳士《パン》はずいぶん垢じみた身なりをしていた。
「まあ、laidak だなんて! 何だってこの人はきたない言葉を使うんだろう?」と急にグルーシェンカは怒りだした。
「パーニ・アグリッピナ、|この人《パン》はポーランドの百姓娘を見たので、貴族の令嬢ではありません。」パイプをくわえたほうの紳士は、グルーシェンカにこう注意した。
「それくらいのところかもしれないよ!」椅子に坐った背の高い紳士《パン》は、軽蔑的な口調で吐き出すように言った。
「まだあんなことを! あの人に話をさせたらいいじゃありませんか! 人がものを言ってるのに、何だって邪魔をするんです! あの人たちの相手をしてるとおもしろいわ」とグルーシェンカは食ってかかった。
「わたくしは邪魔なぞしません。」鬘をかぶった紳士《パン》は、じいっとグルーシェンカを見つめながら、もったいぶった調子でこう言った。そして、ものものしく口をつぐんで、さらにパイプを吸いはじめた。
「いいえ、いいえ、いま紳士《パン》のおっしゃったのは本当です」とカルガーノフは、まるで大問題でも議せられているかのように、また熱くなって口を入れた。「この人はポーランドへ行ったこともないんです。それだのに、どうしてポーランドの話なんかできるんでしょう? だって、この人はポーランドで結婚したんじゃないでしょう、ね、そうでしょう?」
「はい、スモレンスク県でございます。けれど、その以前に槍騎兵がその女を、――わたくしの未来の家内を、母親と、叔母と、それからもう一人大きな息子を連れた親族の女と、一緒に連れ出したのでございます……ポーランドから……ポーランドの本国から連れ出したので……それをばわたくしが譲ってもらったのでございます。それはある中尉でしてな、大そう男まえのいい若い人でございましたよ。初めその人が自分で結婚する気でいたのですが、とうとう結婚しないことになりました。それは女が跛《びっこ》だってことがわかりましたので……」
「じゃ、君はちんばと結婚したんですか?」とカルガーノフは叫んだ。
「はい、ちんばと結婚しましたので。それはそのとき二人のものが、わたくしを少しばかり騙して、隠していたのでございます。わたくしは初めのうち、ぴょんぴょん跳ねてるものだと思いましたよ……いつもぴょんぴょん跳ねてばかりいるので、あれはきっとおもしろくって跳ねてるのだろう、と思いましてな……」
「君と結婚するのが嬉しくってですか?」と妙に子供らしい響きの高い声で、カルガーノフはこう叫んだ。
「はい、嬉しさのあまりだと存じました。ところが、まるで別な原因のためだということがわかりました。その後わたくしどもが結婚しました時、家内は初めて式のすんだ当夜に、すっかり白状いたしまして、哀れっぽい調子で赦しを乞うのでございます。何でもある時、まだ若い頃に水たまりを飛び越して、それで足をいためたとか申すことで、ひひ!」
 カルガーノフはいきなり、思いきって子供らしい声を張り上げて笑いだすと、そのまま長椅子の上へうつ伏してしまった。グルーシェンカも大きな声で笑いだした。ミーチャにいたっては、もう幸福の頂上にあった。
「あのねえ、あのねえ、この人は今度こそ本当のことを言ってるんです、もう嘘じゃありません。」カルガーノフはミーチャにこう叫んだ。
「あのねえ、この人は二ど結婚したんです、――今の話は初めの細君のことです、――ところが、二度目のほうのはねえ、逃げ出してしまって、今でも生きてるんですよ、あなたご存じですか?」
「まさか!」とミーチャはなみなみならぬ驚きの色を顔にうかべながら、マクシーモフのほうを振り向いた。
「はい、逃げ出しました。わたくしはそんな不愉快な経験を持っておりますので」とマクシーモフはつつましやかに裏書きした。「ある紳士《ムッシュウ》と一緒でございます。何よりひどいのは、まずあらかじめわたくしの持ち村を一つ、ちゃんと自分の名義に書き換えたことでございます。その言い草がいいじゃありませんか、――お前さんは教育のある人だから、自分でパンの代りが見つけられるでしょう、ときた。それと同時にどろんを決めたのでございます。あるとき人の尊敬を受けている主教さまが、わたくしに向いてこうおっしゃりました。『お前のつれあいは一人はちんばだったが、ま一人のほうはあんまりどうも足が軽すぎたよ』ってね、ひひ!」
「まあ、お聞きなさい、お聞きなさい!」とカルガーノフは熱くなって、「もしこの人が嘘をついてるとすれば(この人はしょっちゅう嘘をつきます)、それはただ人をおもしろがらせるために嘘をつくんです。これは何も卑屈なことじゃないでしょう、卑屈なことじゃないでしょう! 実は僕もどうかすると、この人が好きになることがあります。この人は非常に卑屈だけれども、それは自然の卑屈です、そうじゃありませんか。何とお思いになります? ほかの者は何か理由があって、何か利益を得るために卑屈な真似をするんですが、この人のは単純です、自然の性情から出るのです……まあ、どうでしょう、こんな例があります(僕はきのう道々のべつ議論しました)。ほかじゃありませんが、ゴーゴリの『死せる魂』は自分のことを作ったのだと言い張るんです。そら、あの中にマクシーモフという地主があるでしょう。この男をノズドリョフが擲りつけたために、『酔いに乗じて地主マクシーモフに、鞭をもって個人的侮辱を与えたる廉により』裁判に付せられるでしょう、――え、覚えてますか? ところが、この人はどうでしょう、あれは自分だ、自分が擲られたのだと言い張るんです! え、そんなことがあっていいもんですか? チーチコフが旅行したのは、いくら遅く見つもったって、二十年代の初めでしょう。まるで年代が合わないじゃありませんか。その時分にこの人を擲るわけがないですよ。ねえ、わけがないでしょう、わけがないでしょう?」
 何のためにカルガーノフがこんなに熱くなるのか、想像することもできなかったが、しかし、彼は心底から熱くなっていた。ミーチャも隔てなく彼と興味を分つのであった。
「しかし、もし本当に擲ったのだとすれば!」と彼は声高に笑いながら叫んだ。
「何も擲ったというわけではありませんが、ちょっと、その……」とマクシーモフが急に口を入れた。
「ちょっと、その、とはどうなんだ? 擲ったのか擲らないのか?」
「Ktura godzina, Pane?([#割り注]君、何時です?[#割り注終わり])」パイプをくわえた紳士は退屈そうな様子をして、椅子に坐った背の高い紳士のほうへ振り向いた。
 こちらは返事の代りにひょいと肩をすくめた。二人とも時計を持っていなかったので。
「なぜ話をしちゃいけないの? ちっとはほかの人にも話さしたらいいじゃありませんか。自分が退屈だから、ほかの人も話しちゃいけないなんて。」わざと喧嘩を買うような語調で、またグルーシェンカは食ってかかった。
 ミーチャの頭に初めて何ものかがひらめいたような気がした。紳士《パン》も今度はいかにも癇にさわったような語調で答えた。
「Pani, ya nits ne muven protiv, nits ne povedzelem([#割り注]わたしくは何も反対しやしません、わたくしは何も言やしなかったです[#割り注終わり])」
「そんならよござんす。さ、お前さんお話し」とグルーシェンカはマクシーモフにこう叫んだ。「何だってみんな黙ってしまったんですの?」
「いや、何も話すことはございません。なぜと申して、みんな馬鹿げきった話でございますので。」マクシーモフは心もち気どりながら、いかにも満足げなさまで、すぐにこう受けた。「それにゴーゴリの作では、何もかもみんなアレゴリイといった体裁になっております。名前がみんなアレゴリックになっておりますでな。ノズドリョフ([#割り注]鼻孔を意味す[#割り注終わり])も、本当はノズドリョフでなくノソフ([#割り注]鼻を意味す[#割り注終わり])でございます。クフシンニコフ([#割り注]水差を意味す[#割り注終わり])などはまるで似ても似つきません。なぜと申して、本当はシクヴォールネフでございますものな。フェナルジイはまったくフェナルジイですが、イタリア人でなくロシヤ人でして、ペトロフでございます。フェナルジイ夫人は美しい婦人でしてな、美しい足にタイツをはいて、金箔をおいた短い袴をつけた姿で、まったくひらひらと舞ったのでございます。けれど、四時間も舞ったというのは嘘でして、ほんの四分間ばかりでございました……こうして、みんなを虜にしましたので……」
「しかし、何のために擲ったんだ、君を擲ったのは何のためだ?」とカルガーノフが呶鳴った。
「ピロンのためでございます」とマクシーモフが答えた。
「ピロンて誰のことだい?」とミーチャが叫んだ。
「有名なフランスの文学者ピロンのことでございます。わたくしどもはそのとき大勢あつまって、酒を飲んでおりました。例の市場の料理屋でございます。みんながわたくしを招待してくれましたので。わたくしはまず第一番に警句を言いだしました。『こはなんじなりや、ブアローよ、さてもたわけたる扮装《いでたち》かな。』すると、ブアローの答えに、自分はこれから仮面舞踏会へ出かけるのだ、と申しましたが、実はお湯屋へ出かけますので、ひひ! すると、みんなめいめい自分のことにとったのでございます。わたくしは大急ぎで、次の警句を申しました。これはぴりっとくるやつで、教育ある人士の口に膾炙しております。

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なんじはサフォー、われはファオン
このことはわれ争わず
さはいえなんじ悲しいかな
海へ赴く道をしらず
[#ここで字下げ終わり]

 みなの者はなおのこと腹を立てて、口汚くわたくしを罵りはじめました。ところが、わたくしはその場を言いつくろおうと思って、とんでもない目にあったのでございます。ほかでもありません、例の非常に気のきいたピロンの逸話を持ち出したのでございます。ピロンはフランスのアカデミイヘ入れてもらえなかったものですから、その敵討ちのつもりで墓碑銘を書いたのでございます。

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Ci-git Piron qui ne fut rien
〔Pas me^me acade'micien〕
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(ここにピロン眠れり、彼はアカデミシアンにあらざりし、何者にてもあらざりし)
[#ここで字下げ終わり]

すると、みながわたくしを捉まえて、擲ったのでございます。」
「どういうわけで、どういうわけで?」
「わたくしに教育があるからでございます。人間というものはいろんなことのために、人を擲るものでございますからね。」マクシーモフはつつましやかな、諭すような調子でこう結びをつけた。
「ええ、たくさんだわ、いやみたらしい、聞きたくもない。わたしもっとおもしろいことかと思ってたわ。」突然グルーシェンカが引き裂くように言い放った。
 ミーチャはぎっくりとして、すぐに笑いやめてしまった。背の高い紳士《パン》は立ちあがった。そして、毛色の違った仲間へ入って退屈している人のような顔つきで、両手をうしろに組みながら、隅から隅へと部屋を歩きはじめた。
「おや、歩きだしたよ!」とグルーシェンカは嘲るように、そのほうをじろりと見やった。
 ミーチャは心配になってきた。その上、長椅子の紳士《パン》がいらだたしそうな様子をして、自分のほうを眺めているのに心づいた。
「貴君《パン》」とミーチャは叫んだ。「一つやろうじゃありませんか! も一人の紳士ともご一緒にね、さあ、飲みましょう、|みなさん《パーノヴェ》!」
 彼はさっそく三つのコップを一緒に集めて、なみなみとシャンパンを注いだ。
ポーランドのために、|みなさん《パーノヴェ》、ポーランドのために飲みましょう。ポーランドの国のために!」とミーチャは叫んだ。
「Bardzo mi to milo, pane.([#割り注]それは非常に愉快です、君[#割り注終わり])飲みましょう」と長椅子の紳士《パン》はものものしい、が機嫌のよさそうな調子でこう言いながら、自分の杯をとった。
「もう一人の紳士《パン》……お名前は何というのですか……もし大人《ヤスノヴェリモージヌイ》、杯をおとりなさい!」とミーチャは忙しそうに言った。
「パン・ヴルブレーフスキイです」と長椅子の紳士《パン》が口を入れた。
 ヴルブレーフスキイは悠々と体を振りながらテーブルに近より、立ったまま自分の杯をとり上げた。
ポーランドのために、|みなさん《パーノヴェ》、ウラア!」とミーチャは杯を上げながら叫んだ。
 三人は揃って杯を乾した。ミーチャは罎を取って、すぐまた三つの杯になみなみと注いだ。
「今度はロシヤのためにやりましょう、|みなさん《パーノヴェ》、そして両国同盟をしようじゃありませんか!」
「わたしにも、注いでちょうだい」とグルーシェンカが言った。「ロシヤのためなら、わたしも飲みたいわ。」
「僕も」とカルガーノフが言った。
「わたくしもお仲間に入りましょう……ラッセユーシカ([#割り注]ロシヤの愛称[#割り注終わり])のために、年とったお婆さんのために([#割り注]ロシヤ語では国名はすべて女性[#割り注終わり])」マクシーモフはひひひと笑った。
「みんなで飲むんだ、みんなで!」とミーチャは叫んだ。「亭主、もう一本!」
 ミーチャの持って来た罎のうち、残っていた三本が一時に運ばれた。ミーチャは人々の杯に注いでやった。
「ロシヤのために、ウラア!」彼はふたたびこう叫んだ。
 二人の紳士《パン》を除く一同はぐっと飲んだ。グルーシェンカは一どきにすっかり飲みほした。二人の紳士《パン》は自分の杯に触ろうともしなかった。
「あなた方はどうしたんです?」とミーチャは叫んだ。「じゃ、あなた方は何ですか……」
 ヴルブレーフスキイは杯をとり上げると、厚味のある声で言った。「千七百七十二年([#割り注]独墺露三国の第一回ポーランド分割の年[#割り注終わり])を境としたるロシヤのために!」
「Oto bardzo penkne!([#割り注]こいつはうまい![#割り注終わり])」」ともう一人の紳士《パン》が叫んだ。こうして二人は、自分の杯を乾した。
「あなた方は馬鹿ですね!」とミーチャは思わず口をすべらした。
「貴君《パーネ》※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と、二人の紳士《パン》はミーチャのほうを目ざして、まるで牡鶏のように身をそらしながら、威嚇の色をうかべて叫んだ。
 中でもヴルブレーフスキイがとくに熱くなっていた。
「一たい自分の国を愛しちゃならないんですか?」と彼は声を励ました。
「お黙んなさい! 喧嘩をしちゃいけません! 喧嘩なんぞしたら、承知しませんよ!」とグルーシェンカは命令的な語気でこう叫び、足で床をとんと鳴らした。
 彼女の顔は燃え、目は輝き始めた。たったいま飲んだばかりの一杯の酒が、早くも顔に出たのである。ミーチャは恐ろしくびっくりして、
「|みなさん《パーノヴェ》、ご勘弁ください! 僕が悪かったのです、もうあんなことは言いません。ヴルブレーフスキイ、パン・ヴルブレーフスキイ、もうあんなことは言いません……」
「まあ、あんたも黙って坐ってらっしゃいよ、なんな[#「なんな」はママ]馬鹿な人だろうね!」とグルーシェンカは意地わるい、じれったそうな声で、噛みつくように言った。
 一同は座についた。が、みんな黙り込んで、互いにまじまじと顔を見合せていた。
「みなさん、何もかも僕が悪いのです!」グルーシェンカの叫びが一こう合点ゆかないで、ミーチャはまたもや口をきった。「しかし、何だってこうぼんやり坐ってるんでしょう? え、何を始めたらおもしろくなるでしょう、またもとのようにおもしろくなるんでしょう?」
「ああ、本当にひどく白けちゃいましたね」とカルガーノフは口の中で大儀そうにむにゃむにゃ言った。
「銀行でもして遊んだらいかがでございましょう。さきほどのように……」マクシーモフが、ひひひと笑った。
「銀行? 名案だ!」とミーチャが引き取った。「ただ紳士方《パーノヴェ》さえ何でしたら……」
「Puzno, pane!」長椅子の紳士は気が進まぬらしく口を出した。
「それもそうだね」とヴルブレーフスキイは相槌を打った。
「Puzno? 一たいPuznoって何のこと?」とグルーシェンカが訊いた。
「それはつまり遅いということです。貴女《パーニ》、時刻が遅いということです」と長椅子の紳士が説明した。
「この人たちは何でもかでも遅いんだわ、何でもかでもしちゃならないんだわ!」グルーシェンカはいまいましさに、ほとんどわめくようにこう言った。「自分がぼんやり退屈そうに坐ってるもんだから、ほかの人にも退屈な目をさせなくちゃならないなんて。ミーチャ、この人たちはね、あんたの来る前にもこんなに黙り込んで、わたしに威張りかえってたのよ……」
「とんでもない!」と長椅子の紳士は叫んだ。
「Tso muvish, to sen stane. Vidzen ne lasken, i estem smutni Estem gotuv, pane.([#割り注]あなたが言われることは法律です、あなたのご機嫌が悪いのを見て、わたくしも気が沈んだのです、じゃ、あなた、始めましょう[#割り注終わり])」と彼はミーチャのほうを向いて句を結んだ。
「始めましょう、|みなさん《パーノヴェ》」とミーチャはすかさず引き取って、かくしから例の紙幣を取り出し、その中から二百ルーブリを抜いてテーブルの上へおいた。
「僕はあなた方にたくさんまけて上げますよ。さあ、カルタをとって銀行をやって下さい!」
「カルタはこの家から取り寄せましょう。」小柄な紳士は真面目な押しつけるような調子で言った。
「それは一番いい方法だ」とヴルブレーフスキイは相槌を打った。
「この家から? よろしい、わかりました。じゃ、この家から取り寄せましょう。まったくあなた方の態度は立派です! おい、カルタだ!」とミーチャは号令をかけるような調子で、亭主に言いつけた。
 亭主はまだ封を切ってないカルタの束を持って来て、もう娘たちは支度をしている、鐃※[#「金+拔のつくり」、第 3水準 1-93-6]《にょうはち》を持ったユダヤ人も間もなくやって来るだろう、しかし食糧をのせたトロイカはまだ着かない、とミーチャに報告した。ミーチャはテーブルのそばを飛びあがって、さっそく指図をするつもりで次の間へ駈け出した。しかし娘はやっと三人来たばかりで、おまけにマリヤはまだ来ていなかった。そのうえ、彼自身もどう指図をしたらいいのか、何のために駈け出したのかわからなかった。彼はただ土産物の箱の中から、氷砂糖や飴を出して、娘たちに分けてやるように命じたばかりである。
「ああ、アンドレイにウォートカをやらなきゃ、アンドレイにウォートカを!」と彼は早口に言いつけた。「おれはアンドレイに恥をかかした!」
 このとき突然、マクシーモフがうしろから走って来て、彼の肩に手をかけた。
「わたくしに五ルーブリやって下さいませんか」と彼はミーチャに囁いた。「わたくしもちょっと銀行をやってみとうございますので、ひひ!」
「えらい、結構! 十ルーブリとっとけ、そら!」
 彼はまたもや、ありたけの紙幣をかくしから取り出して、十ルーブリをさがし出した。
「負けたらまた来い、また来い……」
「よろしゅうございます」とマクシーモフは嬉しそうに呟いて、広間のほうへ駈け出した。
 ミーチャもすぐに引っ返し、みんなを待たした詫びを言った。二人の紳士《パン》はもう座に落ちついて、カルタの封を切っていた。彼らは前よりずっと愛想のいい、ほとんど優しいといっていいくらいの顔つきをしていた。長椅子の紳士《パン》は、新しくパイプをつめ換えて喫みながら、札を切る身構えをしていた。その顔には一種勝ち誇ったような色さえ浮んでいる。
「一月ですよ、|みなさん《パーノヴェ》!」と、ヴルブレーフスキイは宣告した。
「いや、僕はもうしませんよ」とカルガーノフは答えた。「僕はさっきからもう、この人たちに五十ルーブリ負けたんです。」
「パンは運が悪かったですね。しかし、今度は運が向くかもしれません」と長椅子の紳士《パン》は彼のほうを向いて言った。
「いくらの銀行です? 有限ですか?」とミーチャは熱くなった。
「いくらでもご勝手に、パン。百ルーブリでもよし、二百ルーブリでもよし、いくらお賭けになっても、いいのです。」
「百万ルーブリにしようか!」とミーチャはからからと笑った。
「大尉殿《パン・カピタン》、あなたはポドヴイソーツキイの話をお聞きになりましたか?」
「ポドヴイソーツキイって誰です?」
ワルシャワで、ある人が有限の銀行を始めたのです。そこへ、ポドヴイソーツキイがやって来て、千ルーブリの金貨を見ると、さあ、銀行をやろう、と言うのです。で、銀行のほうは『パン・ボドヴイソーツキイ、あなたは名誉《ホーノル》にかけて勝負をなさるのですか?』と念を押した。『むろん名誉《ホーノル》にかけてするんです、|みなさん《パーノヴェ》。』『そんなら結構です。』そこで銀行は破産するまでつづける、という約束で札を切り始めた。すると、ポドヴイソーツキイはさっそく、金貨で千ルーブリ勝ったのです。『貴君《パーネ》、待って下さい』と言いながら、銀行は手箱を取って、百万ルーブリの金をさし出しながら、『さあ、お取りなさい、これがあなたの勘定です!』それは百万ルーブリの勝負だったのです。『私は、そんなことを知らなかったです』とポドヴイソーツキイが言うと、『パン・ボドヴイソーツキイ』と銀行は言った。『あなたも名誉《ホーノル》にかけてなすったのだから、私も名誉《ホーノル》にかけてしました。』で、ボドヴイソーツキイは百万ルーブリ儲けたのです。」
「それは嘘です」とカルガーノフが言った。
「Pane Kalganov, v shlyahetnoi company tak muvits ne prjistoi.([#割り注]身分ある人々の席で、そんなことを言うのは失礼ですよ[#割り注終わり])」
「じゃ、君にもポーランドの博奕うちが百万ルーブリよこすだろうよ!」とミーチャは叫んだが、すぐに気がついて、「ごめんなさい、パン、悪いことを言いました。また悪いことを言いました。名誉《ホーノル》にかけて百万ルーブリ出しますよ、ポーランドの名誉《ホーノル》にかけてね? どうです。僕にもポーランド語が話せるでしょう。はは! そら、十ルーブリ賭けますよ。いいですか、ジャック。」
「わたくしも一ルーブリだけ女王さまに賭けましょう、可愛いハートの女王さまに、ひひ!」とマクシーモフは笑って、自分の女王の札を押し出しながら、ほかの者に見せまいとするように、ぴったりテーブルに体を押しつけ、手早くテーブルの下で十字を切った。ミーチャは勝負に勝った。一ルーブリの賭けも勝ちになった。
「角《すみ》折りだ!([#割り注]札の角を折ると賭けが四分の一だけ多くなる[#割り注終わり])」とミーチャは叫んだ。
「わたくしはまた一ルーブリ素《す》で行きます。一番一番ちっちゃな素《す》で行きます。」一ルーブリ勝ったので恐ろしく夢中になって、マクシーモフはさも幸福そうにこう呟いた。
「やられた!」とミーチャが叫んだ。「|倍賭け《ペー》で七点だ!」
 |倍賭け《ペー》もまた殺された。
「およしなさい。」突然カルガーノフがこう言った。
「|倍賭け《ペー》だ、|倍賭け《ペー》だ!」とミーチャはそのたびに賭け金を倍にしていった。しかし、|倍賭け《ペー》でいくら賭けてもみんな殺されてしまった。そして、一ルーブリのほうはいつも勝ちになった。
「|倍賭け《ペー》だ!」とミーチャは猛然として叫んだ。
「二百ルーブリ負けましたね、もう二百ルーブリ賭けますかね!」と長椅子の紳士が訊いた。
「え、二百ルーブリ負けたんですって? じゃ、もう一ど二百ルーブリだ! 二百ルーブリすっかり|倍賭け《ペー》で行くんだ!」とかくしから金を取り出して、ミーチャは二百ルーブリを女王の札へ投げ出そうとした。と、急にカルガーノフが手でその札に蓋をしてしまった。
「たくさんです!」と彼はもちまえの甲高い声で叫んだ。
「君、どうしたんです?」とミーチャはそのほうへじっと目を据えた。
「たくさんです、いやです! もう勝負はおやめなさい。」
「なぜ?」
「わけがあるんです。唾でもひっかけて行っておしまいなさい、わかったでしょう。僕はもう勝負をさせません!」
 ミーチャはびっくりして彼を見つめた。
「およしなさい、ミーチャ。ことによったら、この人の言うことは本当かもしれないわ。それでなくっても、もういい加減まけてるじゃないの。」奇妙な調子を声に響かせながら、グルーシェンカもそう言った。
 二人の紳士《パン》は大いに侮辱された顔つきをして席を立った。
「それは冗談ですか、パン?」きびしくカルガーノフを見据えながら、小柄な紳士《パン》はこう言った。
「Yak sen povojash to robits, pane!([#割り注]どうしてあなたはそんな失礼なことをなさるのです![#割り注終わり])」ヴルブレーフスキイもカルガーノフに呶鳴りつけた。
「生意気な、呶鳴るのはおよしなさい!」とグルーシェンカは叫んだ。「本当に、七面鳥そっくりだわ!」
 ミーチャは一同の様子をかわるがわる見くらべていた。と、グルーシェンカの顔面のあるものが、とつぜん彼の心を打った。その刹那、ぜんぜん新しい何ものかが彼の脳をかすめた、――それは奇怪な新しい想念であった!
「パーニ・アグリッピナ!」小柄な紳士《パン》が、憤怒のあまり真っ赤になって、こう口を切った時、突然ミーチャがそのそばに近よって、ぽんと肩を叩いた。
「大人《ヤスノヴェリモージヌイ》、ちょっと一こと……」
「何ご用です?」
「あの部屋へ、あっちの部屋へ行きましょう。君にちょっと一こといい話が、非常にいい話があるんです、君もきっと満足するに相違ないような話が。」
 小柄な紳士《パン》は面くらって、うさん臭そうにミーチャを見つめた。しかし、それでもすぐに承諾したが、ヴルブレーフスキイも必ず同道するという条件つきであった。
「護衛官ですかね? いいでしょう、いや、あの人も必要だ! ぜひいなくちゃならないくらいです」とミーチャは叫んだ。「さあ、行きましょう!」
「あんたたちどこへ行くんですの?」とグルーシェンカは心配そうに訊いた。
「すぐに帰って来るよ」とミーチャは答えた。
 一種の勇気、一種の思いがけない活気が彼の顔に輝いてきた。一時間前にこの部屋へはいって来たときとは、まるで別人のような顔つきになった。彼は娘どもが合唱の準備をしたり、食卓が用意されたりしている、大広間のほうへは行かないで、右手のほうの寝室へ二人の紳士《パン》を導いた。ここには箱や行季のほかに、更紗の枕を小山のように積み上げた大きな寝台が二つ据えてあった。ずっと片隅には、荒削りのテーブルの上に蝋燭が燃えていた。紳士《パン》とミーチャはこのテーブルを挾み、相対して座を構えた。背の高い紳士《パン》ヴルブレーフスキイは、両手を背中に組みながら、二人の横に突っ立っていた。二人ともいかつい顔つきをしていたが、見たところ、少からず好奇心を感じているらしい。
「どういうご用向きなのでしょう?」と小柄な紳士《パン》はポーランド語でぺらぺらと言いだした。
「ほかじゃない、僕はあまり口数をききませんが、ここに金があります」と彼は例の紙幣を取り出した。「どうです、三千ルーブリですよ。これを持ってどこへなと勝手に行ってしまっては。」
 紳士《パン》は目をまんまるくしながら、試すように相手を眺めた。彼は食い入るようにミーチャを見つめるのであった。
「Trji tisentsi, Pane?([#割り注]三千ルーブリですって?[#割り注終わり])」
「Trji です、trji です! いいですか、見受けたところ、君は分別のある人らしいから、三千ルーブリの金を取って、どこなと勝手なところへ行ったらどうです。ただし、ヴルブレーフスキイ君も一緒につれて行くんですよ、――いいですかね? しかし今すぐですよ、このまんま出て行くんですよ、そして永久に、永久に行っちまうんですよ、いいですかね。そら、あの戸をくぐって出て行くんですよ。あっちに君の持ち物は何があります、外套ですか、毛皮外套ですか? それは僕が持って出て上げる。さっそく君のためにトロイカをつけさせるから、――それでおさらばだ! どうです?」
 ミーチャは自信の色をうかべながら返事を待っていた。彼は少しも疑わなかった。何かしら異常な断乎たるものが紳士《パン》の顔にひらめいた。
「ところで、金は、パン?」
「金はこうしようと思うんです。五百ルーブリは今すぐ馬車代として手つけにあげておきます。そして、残りの二千五百ルーブリは、あす町で渡します、――誓って間違いなく渡します。土を掘ってでも、手に入れます!」とミーチャは叫んだ。
 二人のポーランド人は目くばせした。紳士の顔はだんだん険悪になってきた。
「七百ルーブリ上げます、七百ルーブリ上げます、五百ルーブリとは言いません。いま、たったいま、手から手へ渡します!」何か穏かならぬ気配を見てとって、ミーチャはこうせり上げた。「君どうです、パン? 信用できないですか? 今すぐ三千ルーブリ耳を揃えて手渡すわけにはゆかないが、しかし僕は必ず上げます。明日にもあれのところへ取りに来たまえ……今ここには三千ルーブリ持ち合せがないが、町の家にはあるから。」ミーチャは一語ごとにおじ気づいて、意気の銷沈を感じながら、しどろもどろにこう言った。「まったくです、ありますよ、隠してありますよ……」
 一瞬にしてなみなみならぬ自尊の色が、小柄な紳士《パン》の顔に輝き渡った。
「まだ何か、言い分がありますかね?」と彼は、皮肉な調子で訊ねた。「Pfe! A pfe!([#割り注]恥しいこった! 穢らわしいこった![#割り注終わり])」彼はぺっと唾を吐いた。
 ヴルブレーフスキイも唾を吐いた。
「君がそんなに唾を吐くわけは、」もう万事了したと悟って、ミーチャは自暴自棄の体で言いだした。「つまり、グルーシェンカからもっとよけい引き出せると思うからだろう。君たちは二人とも睾丸を抜かれた蹴合い鶏だ、それだけのもんだ!」
「Estem do jivogo dotknentnim!([#割り注]わたしは極度の侮辱を受けました![#割り注終わり])」とつぜん小柄な紳士《パン》は、蝦のように真っ赤になって、もう何一ことも聞きたくないというように、恐ろしく憤慨して、どんどん部屋を出てしまった。
 つづいてヴルブレーフスキイも、悠然としてその後にしたがった。最後にミーチャは間のわるそうな、しょげた様子で出て行った。彼はグルーシェンカが恐ろしかった。彼は今にも紳士《パン》が大きな声で喚き散らすだろうと直覚した。はたして予期は違わなかった。紳士は広間へ入ると、芝居めいた身振りでグルーシェンカの前に立ちどまった。
「パーニ・アグリッピナ、Estem do Jivogo dotknentnim!」と彼は喚きだした。が、突然グルーシェンカは自分の一ばん痛いところを触られでもしたように、いよいよ我慢がしきれなくなったという調子で、
「ロシヤ語でお話しなさい、ロシヤ語で、一ことだってポーランド語を使ったら承知しないから!」と男に呶鳴りつけた。「以前はロシヤ語で話してたのに、一たい五年の間に忘れちゃったの!」
 彼女の顔は忿怒のあまり真っ赤になった。
「パーニ・アグリッピナ……」
「わたしはアグラフェーナです、わたしはグルーシェンカですよ。ロシヤ語でお話しなさい、それでなけりゃわたし聞きゃしないから!」
 紳士《パン》は自尊心《ホーノル》のために息をはずませ、ブロークンなロシヤ語で早口に、気どった調子で言いだした。
「パーニ・アグラフェーナ、わたしは昔のことを忘れて赦すつもりで来たんです、今日までのことをすっかり忘れるつもりで来たのです……」
「えっ、赦す? それでは、わたしを赦すつもりでやって来たの?」と遮って、グルーシェンカは席を跳りあがった。
「いかにもそうです。わたしはそんな狭量な男ではありません、もっと寛大です。わたしはあなたの情夫どもを見たとき一驚を喫したです。パン・ミーチャはあの部屋でわたしに手をひかせるために、三千ルーブリを提供しました。わたしはあの男の面に唾をひっかけてやりました。」
「えっ? この人がわたしの身の代《しろ》だと言って、あんたに金を出そうとしたんですって?」とグルーシェンカはヒステリックに叫んだ。「本当なの、ミーチャ? どうしてそんな失礼なことを……一たいわたしが金で売り買いされる女だと思って?」
「諸君《パーネ》、諸君《パーネ》」とミーチャは声を振り絞った。「この女は純潔だ、光り輝いている。僕は決してこの女の情夫になんかなったことはない! それは君のでたらめだ……」
「何だってあんたは生意気にも、この人に対してわたしの弁護なんかするんです?」グルーシェンカは癇走った声でこう言った。「わたしは徳が高いために純潔なんじゃないんですよ。またサムソノフが怖いからでもないわ。ただこの人に威張ってやりたかったからよ。この人に会った時、畜生と言ってやりたかったからよ。それで一たいこの人はあんたから金を取ったの?」
「ああ、取りかけたんだよ、取りかけたんだよ!」とミーチャは喚いた。「ただ三千ルーブリ一時にほしかったところへ、僕が僅か七百ルーブリしか手つけに出さなかったもんだから……」
「そうでしょうよ。わたしが金を持ってるってことを嗅ぎつけたもんだから、それで結婚しようと思って、やって来たんだ!」
「パーニ・アグリッピナ」と紳士《パン》は叫んだ。「わたしはあなたと結婚するつもりでやって来たのです。ところが、会ってみると、以前とはまるで違った、わがままな、恥知らずになってしまいましたね。」
「ええ、もと来たところへとっとと帰ってしまうがいい! 今わたしが追い出してしまえと言いつけたら、お前さんたちはさっそく追い出されるんだよ!」とグルーシェンカは前後を忘れて叫んだ。「ああ、馬鹿だった、わたしは本当に馬鹿だった、あんなに五年間も自分で自分を苦しめるなんて! だけど、わたしはこの男のために苦しんだのじゃない、ただ面《つら》当てのために苦しんだだけのことなんだから! それに、この男は決してあの人じゃない! 本当にあの人がこんな人間だったろうか? これはきっと、あの人の親父さんか何かだろう! 一たいお前さんはその鬘をどこで誂えたの? あの人は鷹だったが、この男はなんのことはない雄鶏だ。あの人はよく笑って、わたしに歌なぞ唄って聞かせた……それだのに、わたしは、わたしは五年の間も泣き通すなんて、本当になんていまいましい馬鹿だろう、なんて卑しい恥知らずだろう!」
 彼女は自分の肘椅子に身を投げて、両の掌で顔を蔽うた。
 この時、やっと支度をととのえたモークロエの娘たちのコーラスの声が、左側の部屋から響き渡った、――放縦な踊りの歌である。
「まるでソドムだ!」突然ヴルブレーフスキイが咆えるように言った。「亭主、穢らわしい女どもを追っ払っちまえ!」
 亭主は叫び声を聞きつけると、客人たちが喧嘩を始めたのに感づいて、だいぶ前からもの好きに戸の隙間から覗いていたが、今は猶予なく部屋の中へ入って来た。
「お前は何だってそんなに呶鳴るのだ、喉がやぶけてしまうぜ?」何か合点のいかないほどぞんざいな調子で、亭主はヴルブレーフスキイに向ってこう言った。
「畜生!」とヴルブレーフスキイは呶鳴りかけた。
「畜生? そんなら貴様はどんなカルタで勝負をしたのだ? おれがちゃんとカルタを出してやったのに、貴様はおれのカルタを隠して、いかさま札で勝負をしたじゃないか! おれは贋造カルタの訴えをして、貴様をシベリヤへ送ることもできるんだぞ、わかってるか? なぜって、それは文書偽造も同じことなんだからな……」
 と言って、長椅子に近よると、よっかかりとクッションの間に指を突っ込んで、そこから一組の封を切らないカルタを引き出した。
「そら、これがおれのカルタだ、まだ封も切ってありゃしない!」と彼はそれをさし上げて、ぐるっと一同に廻して見せた。「このカルタをそこの隙間へ突っ込んで、自分のとすり変えたのを、おれはちゃんとあそこから睨んどいたんだ、――貴様は掏摸だ、紳士《パン》じゃありゃしない。」
「僕はあっちの紳士《パン》が二ど抜き札したのを見ましたよ!」とカルガーノフが叫んだ。
「ああ、なんて恥しいことだろう、ああ、なんて恥しいことだろう!」とグルーシェンカは手を拍ちながら叫んで、真に恥しさのあまり顔を赧くした。「まあ、何という人間になったんだろうねえ!」
「僕もやはりそう思ったよ!」とミーチャは言った。
 しかし、彼がこれだけのことを言ってしまわないうちに、突然ヴルブレーフスキイは混乱と狂憤のあまり、グルーシェンカのほうを向いて、拳固で脅す真似をしながら呶鳴りつけた。
「この淫売女《じごく》め!」
 しかし、彼が叫びも終らないうちに、いきなりミーチャは飛びかかって、両手で抱きしめながら宙に吊し上げて、あっという間もなく、広間から右手の部屋へ担ぎ出した。それは、ついさきほど彼が二人を連れ出した部屋である。
 あいつを床《ゆか》の上へ抛り出して来た!」[#「 あいつを床《ゆか》の上へ抛り出して来た!」」はママ]すぐにまた引き返して、はあはあと息を切らせながら、ミーチャはこう報告した。
「悪党、手向いなんかしやがる。しかし、もう出ては来られまい!………」
 彼は観音開きになった扉を半分だけ閉めて、いま一方を開け放しのままにしておき、小柄の紳士《パン》に向って叫んだ。
「大人《ヤスノヴェリモージヌイ》、やはりあちらへいらしったらいかがです? 一つお願い申します!」
「旦那さま、ドミートリイさま」とトリーフォンは声を高めた。「あいつらから金を取り上げておしまいなさいまし。いまカルタでお負けになった金を! まったく、あいつら盗んだも同然でございますものな」
「僕はあの五十ルーブリを取り返そうとは思わない」とカルガーノフは突然こう答えた。
「僕も、あの二百ルーブリを取り返しはしない、僕はいらない!」とミーチャは叫んだ。「どんなことがあっても取り返さない。せめてもの慰めに持たしとくさ。」
「大出来、ミーチャ、えらいわ、ミーチャ!」とグルーシェンカは叫んだ。その叫びの中には恐ろしく意地のわるい調子が響いていた。
 小柄な紳士《パン》は憤怒のあまり顔を紫色にしながら、それでも自分の威厳を失わないで、扉のほうをさして歩きだしたが、とつぜん立ちどまって、グルーシェンカに向いてこう言った。
「Pani, ejeli khchesh ists za mnoyu, idzmi, esli ne-bivai zdorova!([#割り注]もしわたしに従う気があるなら、一緒に行こう、それが厭ならさようならだ![#割り注終わり])
 こう言って、彼は憤懣と野心のために息を切らしながら、悠悠として扉の向うへ入って行った。彼は腹のすわった男だったから、あれだけのことがあった後でも、まだ貴女《パーニ》が自分に従うかもしれぬという望みを失わないでいた、――それほど自惚れが強かったのである。ミーチャはその後からばたりと扉を閉めた。
「あいつら鍵をかけて閉め込んでおしまいなさい」とカルガーノフが言った。
 しかし、鍵は向うのほうでかちりと鳴った。彼らが自分で閉じ籠ったのである。
「大出来だわ!」グルーシェンカはまた毒々しい、容赦のない調子でこう叫んだ。「大出来! それが相当したところだわ!」

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第八篇第六章 おれが来たんだ

[#3字下げ]第六 おれが来たんだ[#「第六 おれが来たんだ」は中見出し]

 ドミートリイは街道を飛ばして行った。モークロエまでは二十露里と少しあったが、アンドレイのトロイカは、一時間と十五分くらいで間に合いそうな勢いで疾駆するのであった。飛ぶようなトロイカの進行は、急にミーチャの頭をすがすがしくした。空気は爽やかに冷たく、澄んだ空には大きな星が琿いていた。それは、アリョーシャが大地に身をひれ伏して、『永久にこの土を愛する』と、夢中になって誓ったのと同じ晩であった。おそらく同じ時かもしれぬ。しかし、ミーチャの心はぼうっとしていた、恐ろしくぼうっとしていた。さまざまなものが、いま彼の心をさいなんではいたが、それでも、この瞬間、彼の全存在はとどめがたい力をもって彼女のほうへ、自分の女王のほうへのみ飛んで行った。ミーチャは臨終《いまわ》のきわにたった一目彼女を見ようと、こうして馬を飛ばしているのであった。
 ちょっと一こと言っておくが、彼の心はただの一瞬も争闘を感じなかった。とつぜん地から湧いたように飛び出したあの新しい情人に対して、新しい競争者に対して、あの将校に対して、――嫉妬深いミーチャがいささかの嫉妬すら感じなかったと言っても、読者はおそらく本当にしないであろう。もしほかにそんな男が現われたら、よしんばそれが誰であろうと、彼はさっそく烈しい嫉妬を起して、あの恐ろしい手をふたたび血に染めたかもしれない。しかし、この『もとの恋人』に対しては、今こうしてトロイカを飛ばしている間にも、嫉妬がましい憎悪の念を感じなかったばかりか、軽い反感さえもいだかなかった、――もっとも、まだ会ったことはないけれど……『もうこの問題には議論の余地がない。これは二人の権利なんだからなあ。どうせ、あれが五年間、わすれることのできなかった初恋だ、してみると、あれはこの五年間その男一人を愛していたきりなんだ。おれは、おれはまあ、何のためにそんなところへ飛び出したんだろう? そんな場合、おれなぞに何の意味があるのだ? 何の関係があるのだ? どけてやれ、ミーチャ、道を譲ってやれ! それに、今おれはどういう体なんだ? 今はあの将校がいなくたって万事休してるのだ。あの将校がまるっきり姿を見せなかったにしても、やっぱり一切のけりがついてるのだ……』
 今もし彼に思考の力があったならば、ほぼこういう言葉で自分の感じを言い現わしたに相違ない。しかし、彼はもう何も考えることができなかった。今の決心も、何らの思考をもへないで生じたのである。もうさきほどフェーニャの説明をみなまで聞かぬうちに、この決心はすべてそれに伴う結果とともに、一瞬の間に感得し採用せられたのである。しかし、こういう決心を採ったにもかかわらず、彼の心は濁っていた。苦しいほど濁っていた。決心も平安を与えてくれなかった。あまりに多くのものがうしろに立ちふさがって、彼を悩ますのであった。ときおり、自分にもこれが不思議に感じられるほどであった。『われみずからを刑罰す』という宣告文は、すでに彼の手によって紙の上に書かれ、その紙はここに、かくしの中にちゃんと入っている、ピストルも装填してある。そして、明日は『金髪のアポロ』の最初の熱い光線を、どんなふうに迎えようかという決心もついている。それでいながら、うしろに立ちふさがって自分を悩ましている過去のものと、きれいに手を切ってしまうことができなかった。彼はこれを苦しいほど自覚した、そして、この自覚が絶望となって、彼の心に絡みつくのであった。
 どうかすると、ふいにアンドレイに馬を止めさせ、車の外へ飛び下りて、例の装填したピストルを取りいだし、暁を待たずに一切の片をつけたい、という心持のきざす瞬間があった。しかし、この瞬間はすぐ火花のように飛び過ぎた。それに、馬車は『空間を食《は》みつつ』疾駆しているではないか。目的地が近づくにつれて、またしても彼女を思う心が、彼女ひとりを思う心が、次第に強く彼の胸をつかんで、その他の恐ろしい想念を心の外へ追いやるのであった。女の姿を遠くからちらとでも見たくてたまらなかった! 『あれは今あの男[#「あの男」に傍点]と一緒にいるのだ。あれがあの男と、もとの恋人と一緒にいるところを、ちょっと一目見てやろう。それだけでもうたくさんなのだ。』彼は今まで自分の運命に一転期を画したこの女に対して、この瞬間ほど強い愛を感じたことがない。それは、今までかつて経験したことのない新しい感情であった。自分自身にさえ思いがけのない感情であった。女の前に消えもはてたいような、祈りに近い優しい感情であった。『いや、ほんとうに消えてしまうのだ!』彼はあるヒステリックな歓喜の発作に打たれて、ふいに口へ出してこう言った。
 もうほとんど一時間ばかり走りつづけた。ミーチャはじっと押し黙っていた。アンドレイも話ずきな百姓だったが、やはり口をきくのが恐ろしいかなんぞのように、まだ一口もものを言わないで、ただ一心に栗毛の痩せた、とはいえ、活発らしい三頭立を追うばかりであった。突然ミーチャは烈しい不安におそわれて叫んだ。
アンドレイ、もし寝ていたらどうする?」
 このとき、ふいにこういう考えが彼の心に浮んだ。これまでそんなことは考えもしなかったのである。
「もう寝ているもんと思わにゃなりませんなあ、旦那。」
 ミーチャは病的に眉をしかめた。それが本当だったらどうだろう、自分が……こんな感情をいだきながら駈けつけてみると……もうみんな寝てしまっている……もしかしたら、あれもそこで一緒に寝ているかもしれぬ……毒々しい感情が彼の心に湧き立ってきた。
「追え、アンドレイ、飛ばせ、アンドレイ、もっと、しっかり!」と彼は夢中になって叫んだ。
「でも、ことによったら、まだ寝とらんかもしれませんよ。」アンドレイはしばらく無言の後、こう言った。「さっきチモフェイの話じゃ、あそこには大勢人が集っとるそうですからね。」
「駅遞に?」
「駅遞じゃありません、プラストゥノフの宿屋でがす。つまり私設の駅遞なんで。」
「知ってるよ。ところで、なぜ大勢なんて言うのだ? どうしてそんなに大勢いるのだ? 一たい誰々だい?」ミーチャはこの思いもよらぬ報知に、恐ろしい不安を感じながら叫んだ。
「へい、チモフェイの話では、みんな旦那がたばかりだそうでございます。そのうちお二人は町の人だそうでがすが、どなたかわかりません。ただお二人はここの旦那だって、チモフェイが申しておりました。それから別にお二人、よそから見えた方がいらっしゃるそうでがす。まだほかに誰かおられるかもしれませんが、くわしいことは訊きませんでしたよ。何でも、カルタを始めたとか申しておりました。」
「カルタを?」
「へえ、さようで。カルタを始めたとなりゃ、まだ寝とらんかもしれませんよ。今やっと十二時前くらいの見当でがしょう、それより遅いこたあごわせん。」
「飛ばせ、アンドレイ、飛ばせ!」とまたミーチャは神経的に叫んだ。
「一つお訊ねしたいことがあるんですが、あれは一たいどうしたわけでがしょう。」しばらく無言の後、アンドレイはふたたび言葉をきった。「だが、旦那、お怒りになっちゃいけませんよ、わっしゃそれが怖くって。」
「何だい?」
「さっきフェドーシャさんが旦那の足もとに倒れて、奥さんとも一人誰やらを……殺さないでくれって頼みましたなあ。それでね、旦那、旦那をあちらへお連れ申して、かえって……いや、ごめん下さいまし、旦那さま、わっしはただその、正直なところを申上げたんで、何か馬鹿げたことを言ったかもしれませんが……」
 ミーチャは突然うしろから彼の肩を抑えた。
「お前は馭者だろう? 馭者だろう?」と彼は激しい調子で言いだした。
「へえ、馭者で……」
「お前は、道を譲らなくちゃならん、ということを知ってるか? おれは馭者だから誰にも道を譲ることはいらん、おれさまのお通りだ、轢き殺してもかまわん、などというのは間違ってる。馭者は人を轢いちゃならん、人を轢いたり、人の命に傷をつけたりすることはできない。もし人の命に傷をつけたら、自分に罰を加えなきゃならん……もし人に傷をつけたり、命を取ったりしたら、――自分に罰を加えて、退《ひ》いてしまわなきゃならない。」
 これらの言葉は、純然たるヒステリイの状態に落ちたミーチャの口から、自然にほとばしり出たのである。アンドレイは彼の様子を変に思いながら、やはり話の相手になっていた。
「まったくそのとおりでがす、旦那のおっしゃるとおりでがすよ。人を轢いたり、いじめたりするのは、よくないことでがすよ。人にかぎらず、どんな生きものでも同じことでさあ。なぜって、生きものはみんな、神様のお創りになったものでがすからね。たとえば、馬を譬えに引いて申しましても、ほかの馭者は(よしんばロシヤの馭者でも)、やたらにひっぱたきますが……そんなやつらは、度合いってことを知らないから、やたらに追うんでがす、やたらに追いまくるんでがすよ。」
「地獄ゆきかい?」とミーチャはふいにこう口を入れたが、急にもちまえの思いがけない、ぶっきら棒な調子でからからと笑いだした。
アンドレイ、貴様は単純な男だなあ」とふたたび彼は強く相手の肩を抑えた。「おい、ドミートリイ・カラマーゾフは地獄へ落ちるか落ちないか、貴様どう考える?」
「わかりませんな、旦那、それはあなた次第でがすよ。なぜかって、あなたはこの町で……ねえ、旦那、キリストさまが十字架で磔刑《はりつけ》になっておかくれになった時、そのまま十字架からおりてまっすぐに地獄へおいでになりました。そうして、そこで苦しんでいる罪障の深い人たちを、みんな放しておやりになったのでがす。すると地獄は、もうこれから自分のところへ、誰も来てくれないだろうと思って、悲しんで呻き始めました。そのとき神様が地獄に向って、『地獄よ、そのように悲しむことはない。これから華族だとか、大臣だとか、えらい裁判官だとか、金持だとかいうものが、みんなお前のところへやって来て、またもう一度わしがやって来るその時までは、前と同じように永久に一ぱいになってしまうことであろう』と申されました。それはこのとおりでがす、このとおり言葉を使って申されたのでがす……」
「国民伝説だな、素敵だ! おい、左の馬に一鞭やらんか、アンドレイ!」
「ですから、旦那、地獄はこういう人たちのためにできてるのでがす」とアンドレイは左の馬に一鞭あてだ。「ところが、旦那はまるで小さな赤ん坊と一つでがす……とまあ、こうわっしらは考えとりますよ……旦那は怒りっぽい方だ、それは本当でがす。けれど、その正直なところに対して、神様が赦して下さいますよ。」
「じゃあ、お前は、お前はおれを赦してくれるか。アンドレイ?」
「わっしが何で旦那を赦すんでがしょう。旦那はわっしに何もなさらねえじゃがせんか。」
「いや、みんなの代りにだ、みんなの代りにお前ひとりが今、たった今この街道でおれを赦してくれるかい? お前の素朴な頭で考えて聞かしてくれ!」
「おお、旦那! わっしはあなたを乗せて行くのが恐ろしくなりました。何だか気味の悪いお話で。」
 しかし、ミーチャはその言葉をろくろく聞かなかった。彼は奇怪な調子で、激越な祈りの言葉を、口の中で呟くのであった。
「神様、どうぞこのわたくしを、放埒なままでおそばへ行かして下さいまし。そして、わたくしを咎めないで下さいまし。あなたのお裁きなしに通り抜けさせて下さいまし、裁きをしないで下さいまし。わたくしは自分に罪を宣告いたしました。ああ、神様、わたくしはあなたを愛しております、もう咎めずにおいて下さいまし! わたくしは卑劣な男ではありますが、あなたを愛しているのでございます。たとえ地獄へお送りになりましょうとも、わたくしはそこでもあなたを愛します。地獄の中からでも、永久にあなたを愛していると叫びます……けれど、この世の愛を完うすることを、赦して下さいまし……今ここであなたの熱い光のさし昇るまで、たった五時間のあいだ、この世の愛を完うすることを、赦して下さいまし……なぜと言って、わたくしは自分の心の女王を愛しているからでございます、ええ、愛しております。そして、愛さないわけにゆきません。もう神様はご自身でわたくしという人間を、すっかり見通していらっしゃるでしょう。わたくしはこれからあそこへ駈けつけて、あれの前に身を投げ出し、お前がおれのそばを通り抜けたのはもっともだ……では、さようなら、お前はおれという犠牲のことを忘れてしまって、決して心を悩ますようなことをしてくれるな! とこう申します。」
「モークロエだ!」とアンドレイは鞭で前方をさしながら叫んだ。
 夜の青ざめた闇をすかして、ひろびろとした空間に撒き散らされた建物のどっしりとした集団が、ふいにくろぐろと見えてきた。モークロエは人口二千ばかりの村であったが、この時はもう村ぜんたいが寝しずまり、ただここかしこにまばらな灯影が闇を破って、ちらついているばかりであった。
「追え、追え、アンドレイ、おれが来たんだ!」とミーチャは熱にでもおそわれたように叫んだ。
「寝ちゃおりません!」村のすぐ入口に立っている、プラスゥノフの宿屋を鞭でさしながら、アンドレイはまたこう言った。往来に向いた六つの窓が赤々と輝いていた。
「寝ていない!」とミーチャは悦ばしげに引きとった。「アンドレイ、がらがらと乗り込め。うんと走らせろ。鈴を鳴らして、景気よくがらがらっと乗り込め。誰が来たかってことを、みんなに知らさなけりゃならん! おれが来たんだ! おれさまが来たんだ!」とミーチャは夢中になって喚いた。
 アンドレイは疲れきったトロイカを懸命に走らせて、本当にがらがらっと景気よく、高い階段の前へ乗りつけた、そして、体から湯気を立てながら、なかば死んだようになった馬の手綱をぐっと引き締めた。ミーチャは馬車から飛び下りた。と、ちょうどその時、もう寝室へ引っ込もうとしていた宿屋の亭主が、一たいこんなに大仰に馬車を乗りつけたのは誰だろうと、ちょっと好奇心を起して覗いてみた。
「トリーフォン・ボリースイッチじゃないか?」
 亭主は屈みかかって、じっと見入っていたが、やがてまっしぐらに階段を駈けおりて、卑屈らしい歓喜の色を浮べながら、客のほうへ飛びかかった。
「旦那さま、ドミートリイさま! また旦那さまにお目にかかれようとは!」
 このトリーフォンというのは、肉づきのいい、丈夫そうな、幾分ふとり気味の顔をした、中背の百姓であった。いかつい一こくらしい(モークロエの百姓に対してはことにそうである)様子をしていたが、少しでも得になりそうなことを嗅ぎつけると、すばやくその顔を卑屈なほど愛想のいい表情に変えるという、天賦の才能を持っていた。ふだんロシヤ風に襟をはすに切った襯衣《ルパーハ》の上に、袖無外套を着込んでいた。もういい加減に蓄めているくせに、まだ一生懸命もっといい位置を空想しているのであった。百姓の半数以上は彼の爪牙にかけられていた。つまり、みんな首の廻らぬほど彼に借金していたのである。彼は多くの地主から土地を借りたり買ったりして、生涯足を抜くことのできない借金の代償として、その土地を百姓どもに耕作させていた。
 彼はやもめで、もう大きな娘が四人もある。ひとりは亭主に死に別れて、彼の孫にあたる二人の小さな子供を連れて父の家で暮しながら、まるで日傭かせぎのように働いていた。二番目の百姓くさい娘は、もう年金というところまで勤め上げたさる官吏、――書記のところへ嫁入りしていたので、この宿屋の一室の壁にかかっている幾枚かのおそろしく小さな家族写真の中には、肩章つきの制服を着たこの官吏の写真も見受けられる。末の二人の娘は、お寺の祭りの日などには、裾に一尺あまりも尻尾のある、背中のきちんとしまった、流行風に仕立てた水色や緑色の着物をきて、どこかへお客に出かけて行くが、そのあくる日はもういつもと同じように、夜明けまえから起き出して、白樺の箒を手にして客室を掃除したり、汚れ水を運び出したり、泊り客のたった後の塵を片づけたりしている。もう何千という金を儲けたにもかかわらず、トリーフォンは遊興の客をぼる[#「ぼる」に傍点]のが大好きであった。で、まだひと月もたたない以前、ドミートリイがグルーシェンカと遊興の際、一昼夜のうちに三百ルーブリとまでゆかないまでも、少くも二百ルーブリ以上の儲けをしたことを覚えているので、今も轟々たる馬車の響きを聞いたばかりで、獲物の匂いを嗅ぎつけ、嬉しそうに、まっしぐらに出迎えたのである。
「旦那さま、ドミートリイさま、あなたがおいで下さろうとは、存じもよりませんでした。」
「待て、トリーフォン」とミーチャは口をきった。「まず最初、一ばん大切なことを訊こう、あれはどこにいる?」
「アグラフェーナさまでございますか?」亭主は鋭い目でミーチャの顔を見つめながら、すぐに合点してしまった。「へえ、ここに……おいででございます……」
「誰と、誰と一緒に?」
「よそからお見えになった方で……一人はお役人でございますが、お話しぶりから見ると、ポーランドの方らしゅうございます。この方がここから、アグラフェーナさまへ迎いの馬車をお出しになりましたので。ま一人は同僚の方でございましょうか、それともただのお道づれでございましょうか、そこのところはわかりかねます。お二人とも文官のようなお身なりで……」
「どうだ、豪遊をやってるか? 金持かい?」
「なんの豪遊どころでございますか! たかの知れたものでございますよ、旦那さま。」
「たかの知れたものだって? で、ほかの連中は?」
「ほかの方は、町からお見えになったのでございます。町の方がお二人なので……チョールニイのお帰りみちを、そのままここへお残りになったのでございます。一人はお若い方で、たぶんミウーソフさまのご親戚だと存じますが、ちょっとお名を忘れまして……ま一人は旦那さまもご存じと思われます地主のマクシーモフで、順礼のために町のお寺へ寄ったところ、ふとあの若いミウーソフさまのご親戚と落ち合って、一緒に旅をしているのだとかいうことで……」
「それでみんなか?」
「へえ、それきりで。」
「もういい、喋るな、トリーフォン、今度は一ばん大事なことを訊くぞ、――どうだあれは、どんな様子だ?」
「さきほどお着きになって、みなさんとご一緒にいらっしゃいます。」
「おもしろそうなふうか? 笑ってるか?」
「いいえ、あまりお笑いにならない様子でございます……どっちかと申せば、大そうお退屈そうなくらいに見受けられます。何でもあの若いお方の髪をとかしていらっしゃいました。」
「そのポーランド人の? 将校の?」
「いえ、あの人は若いどころじゃございません。それに決して将校ではございませんよ。なに、旦那さま、あの方じゃございません。あのミウーソフさまの甥ごにあたる若いお方……どうもお名前を忘れてしまいまして。」
「カルガーノフか?」
「へえ、そのカルガーノフさまで。」
「よし、自分で見分ける。カルタをしてるか?」
「お始めになりましたが、もうおやめになりました。お茶もすんで、あのお役人がリキュールをご注文なさいました。」
「もうよし、トリーフォン、やめろ、おれが自分で見分ける。さあ、今度こそ一ばん大事なことについて返事が聞きたい、ジプシイはおらんか?」
「ジプシイは今まるで噂を聞きません。お上《かみ》で追っ払っておしまいになりましたので。その代り、ここにユダヤ人がおります。鐃※[#「金+拔のつくり」、第 3水準 1-93-6]《にょうはち》を叩いたり、胡弓を弾いたりいたします。ロジェストヴェンスカヤにおりますから、これなら今すぐにでも呼びにやれば、さっそく出てまいります。」
「呼びにやるんだ、ぜひ呼びにやるんだ!」とミーチャは叫んだ。「ところで、娘たちもあの時のように総上げにすることができるか? 中でもマリヤが一ばん肝腎だぞ。それからスチェパニーダもアリーナもな。コーラスに二百ルーブリ出すぞ!」
「そんなお金が出るのでしたら、今みんな寝てしまいましたけれど、村じゅうを総上げにでもいたします。それに、旦那さま、ここの百姓や娘っ子らが、そんなお情けをいただく値うちがございますか? あんな卑しい、ぶしつけなやつらに、そのような大枚の金をくれてやるなんて! あんな百姓が葉巻なぞ喫む分際でございますか。それだのに、旦那さまはあいつらにくれておやんなさいました。あんな泥棒のようなやつら、ぷんぷん臭い匂いを立ててるじゃございませんか。また娘っ子らはどれもこれも、虱をわかしていないやつはございません。へえ、わたくしが旦那さまのために、ただで家の娘を起してまいります。そんな大枚のお金をいただこうとは申しません。ただ今やすんでおりますけれど、わたくしが足で蹴起してやります。そして、旦那さまのために歌を唄わせますでございましょう。あなたは先だって百姓どもに、シャンパンを飲ませたりなさいましたが、本当にまあ!」
 トリーフォンがこんなにミーチャをかばうのは、筋の通らぬ話であった。彼はそのときシャンパンを半ダースも自分のところへ隠したり、テーブルの下に落ちていた百ルーブリ札を拾って、拳の中へ握り込んでしまったりした。そして、札はそのまま彼の拳の中に残されたのである。
「トリーフォン、おれがあの時ここで撒き散らしたのは、千やそこいらの金ではなかったぞ。覚えているか?」
「さようでございますとも、旦那さま、どうして覚えずにいられましょう。大方、三千ルーブリくらいこの村へ残して下さいました。」
「ところが、今度もあのとおりだ、そのつもりでやって来たのだ、そら。」
 と、彼は例の紙幣《さつ》束を取り出して、亭主の鼻さきへ突きつけた。
「さあ、これからよく聞いて合点するんだぞ。もう一時間たったら酒が来る。ザクースカも饅頭《ピローク》も菓子も来る、――それはみんな、すぐにあっちへ持って来るんだぞ。それから、今アンドレイのところにある箱も、やっぱり上へ持ってあがって開けてくれ、そしてすぐシャンパンを出してくれ……何より肝腎なのは娘たちだ、そしてマリヤも必ずな……」
 彼は馬車のほうへ振り向いて、腰掛けの下からピストルの入った箱を引き出した。
「さあ、勘定だ、アンドレイ、受け取ってくれ! そら、これが十五ルーブリ、馬車賃だ、それからここに五十ルーブリある、これが酒手《さかて》だ……お前がよく言うことを聞いて、おれを愛してくれたお礼だ……カラマーゾフの旦那を覚えておってくれ!」
「わっしゃおっかないでがすよ、旦那!………」とアンドレイはもじもじしていた。「お茶代に五ルーブリだけやって下さいまし。それよりよけいにゃいただきません。ここの旦那が証人でがす。馬鹿なことを申しましたのは、どうか真っ平ごめん下さいまし……」
「何がおっかないんだ。」ミーチャはその姿を測るようにじろっと見まわした。「いや、そういうことなら勝手にしろ!」と叫んで、彼は五ルーブリの金を投げ出した。「ところで、トリーフォン、今度はそっとおれを連れてって、まず第一番にみなの者を一目見せてもらいたいのだ。ただし、みんなの方からおれの姿が見つからんようにな。みんなどこにいるのだ、空色の部屋かい?」
 トリーフォンはあやぶむようにミーチャを見やったが、すぐ、言われるままに実行した。彼をつれて用心ぶかく玄関を通り抜け、いま客の坐っている部屋と隣りあった、とっつきの大きな部屋へ自分一人だけ入って行き、そこから蝋燭を持って出た。それから、静かにミーチャを導き入れて、まっ暗な片隅へ彼を立たした。そこからは先方のものに見つけられないで、自由に一座の人々を観察することができた。しかし、ミーチャは長く見ていることができなかった。それに、観察などということはなおさらできなかった。彼は女の姿を見るやいなや、動悸が急に激しく打ちだして、目の中がぼうっと暗くなった。
 彼女はテーブルの横手にある肘椅子に坐っていた。それと並んで男まえのいい、まだ年の若いカルガーノフが、長椅子に腰をおろしている。グルーシェンカは彼の手を取って、笑ってでもいるようなふうであったが、彼はそのほうに目もくれないで、テーブルを隔てて、グルーシェンカと向かい合せに坐っているマクシーモフに、さもいまいましそうな様子で、何やら大きな声で話していた。マクシーモフは何かおかしいのかしきりに笑っていた。長椅子には彼が坐っている。そのかたわらの椅子には、もう一人別な見知らぬ男が、壁のそば近く腰かけている。からだを崩しながら長椅子に坐っているほうは、パイプをくわえていた。『この妙に肥った顔の大きな男は、きっとあまり背が高くないに相違ない。そして、何だか腹を立てているらしい。』これだけの考えが、ミーチャの頭にひらめいたばかりである。しかし、その友達らしいいま一人の見知らぬ男は、何だか図抜けて背が高いように思われた。もうそれ以上なにも見分けることができなかった。彼は息がつまってきた。そして、一分間もじっと立っていられなかった。彼はピストルの箱を箪笥の上において、からだじゅう冷たくなるような、心臓の痺れるような心持をいだきながら、いきなり空色の部屋で語りあっている人々を目ざして出て行った。
「あれ!」とグルーシェンカは第一番に彼の姿を見つけて、驚きのあまり甲高い声を上げて叫んだ。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第八篇第五章 咄嗟の決心

[#3字下げ]第五 咄嗟の決心[#「第五 咄嗟の決心」は中見出し]

 フェーニャは祖母と一緒に台所におった。二人とも寝支度をしているところであった。彼らはナザールを頼みにして、今度も内から戸締りをしないでいた。ミーチャは駆け込むやいなや、フェーニャに跳りかかって、しっかりとその喉を抑えた。
「さあ、すぐ白状しろ、あれはどこにいる、いま誰と一緒にモークロエにいるのだ?」と彼は前後を忘れて叫んだ。
 二人の女はきゃっと声を立てた。
「はい、申します、はい、ドミートリイさま、今すぐ何もかも申します、決してかくし立てはいたしません。」死ぬほど驚かされたフェーニャは早口にこう言った。「奥さまはモークロエの将校さんのところへおいでになりました。」
「将校さんて誰だ?」ミーチャは猛りたった。
「もとの将校さんでございます、あのもとのいい人でございます。五年まえに奥さんを棄てて行ってしまった……」依然たる早口でフェーニャはべらべらと喋った。
 ミーチャは女の喉を絞めていた手をひいた。彼は死人のような蒼い顔をして、言葉もなくフェーニャの前に立っていたが、その目つきで見ると、彼が一瞬にしてすべてを悟ったことが察しられた。彼は一ことも聞かないうちに一切のことを、ほんとうに一切のことを、底の底までも悟ったのである。何もかも見抜いたのである。しかし、哀れなフェーニャは、この瞬間かれが悟ったか悟らないか、そんなことを詮議している余裕はなかった。彼女はミーチャが駆け込んだ時、箱の上に坐っていたが、今もやはりそのままの姿勢で全身を慄わせながら、わが身を庇おうとするかのように、両手をさし伸べていた。彼女はその姿勢のままで、化石になったように見えた。そうして、恐怖のために瞳孔のひろがったような慴えた目で、じっと食い入るように彼の顔を見つめていた。ミーチャは恐ろしい形相に、かてて加えて両手を血だらけにしているではないか。おまけに、走って来る途中、額の汗を拭くのにその手で顔に触ったと見え、額にも右の頬にも血の痕が赤くついていた。フェーニャは、今にもヒステリイが起りそうになった。下働きの老婆は席から跳りあがったまま意識を失って、気ちがいのような顔つきをして立っていた。ミーチャは一分間ほどぼんやり立っていたが、とつぜん機械的にフェーニャの傍らなる椅子に腰をおろした。
 彼はじっと坐ったまま、何か思いめぐらしている、というよりも、何かこう非常に驚いて、ぼうとなったというようなふうであった。しかし、一切は火を見るよりも明らかである。あの将校なのだ、――自分はこの男のことを知っていた、何もかもようく知っていた、当のグルーシェンカから聞いて知っていた、一月前に手紙の来たことも知っていたのだ、つまり、一月、まる一月の間、今日この新しい男の到着するまで、このことは深く自分に隠して運ばれていたのだ。それだのに、自分はこの男のことを夢にも考えないでいた! 一たいどうして、本当にどうしてこの男のことを考えずにいられたのだろう? どうしてあのとき造作もなく、この男のことを忘れたのだろう? 知ると同時に忘れたのだろう? これが彼の面前に、奇蹟かなんぞのように立ち塞がっている問題であった。彼は真に慄然として、身うちの寒くなるのを覚えながら、この奇蹟を見まもるのであった。
 が、急に彼はおとなしい、愛想のいい子供のような調子で静かにつつましく、フェーニャに向って話しかけた。たったいま自分がこの女を驚かし、辱しめ、苦しめたことは、まるで忘れてしまったようなふうであった。とつぜん彼は、今のような状況にある人としては不思議なくらい、極度に正確な調子で、フェーニャにいろいろと訊きはじめた。またフェーニャも、彼の血みどろな手をけげんそうに見つめてはいたけれど、同様に不思議なほど気さくな調子で、一つ一つの質問に対してはきはき答えるばかりか、かえって少しも早く『正真正銘の』事実を、洗いざらい吐き出そうとするかのようであった。彼女はこまごまとしたすべての事実を物語るのに、次第に一種の快感を感じはじめた。しかも、それは決して彼を苦しめようという心持のためでなく、むしろできるだけ彼のためにつくそうと、あせっているからであった。彼女はきょう一日の出来事を細大もらさず話して聞かせた。ラキーチンとアリョーシャが訪ねて来たことから、彼女、フェーニャが見張りに立っていたこと、女主人が出立した時の模様、それからグルーシェンカが窓からアリョーシャに向って、ミーチャによろしく言ってくれ、そして『わたしがあの人をたった一とき愛したことを、生涯おぼえてるように言ってちょうだい』と叫んだことなど物語った。ミーチャによろしくと聞いた時、彼はとつぜん薄笑いをもらした。と、その蒼ざめた頬にさっとくれないが散った。その時フェーニャは、自分の好奇心に対するあとの報いなど、少しも恐れずにこう言った。
「まあ、あなた何という手をしてらっしゃるのでしょう、ドミートリイさま、まるで血だらけじゃございませんか!」
「ああ。」ぼんやりと自分の手を見廻しながら、ミーチャは機械的に答えたが、その手のこともフェーニャの問いも、すぐに忘れてしまった。
 彼はまた沈黙におちいった。ここへ駆け込んでから、もう二十分ばかりたった。さきほどの驚愕は鎮まりはてて、その代り何かしら新しい確固たる決心が、彼の全幅を領したようなふうつきであった。とつぜん彼は席を立って、もの思わしげに微笑した。
「旦那さま、一たいあなたはどうなすったのでございます?」またもや彼の手を指さしながら、フェーニャはこう言った。その調子には深い同情が籠っていて、まるで今の彼の不幸を慰めるべき、きわめて親身な人間かなんぞのように思われた。ミーチャはふたたび自分の両手を眺めた。
「これは血だ、フェーニャ、」奇妙な表情をして相手を見つめながら、彼は言った。「これは人間の血だ。ああ、何のために流した血だろう? しかし、フェーニャ、ここに一つの塀がある(彼は謎でもかけるような目つきで女を眺めた)、それは高い塀だ、そして見かけはいかにも恐ろしい、しかし……あす夜があけて『太陽が昇ったら』、ミーチェンカは、この塀を飛び越すのだ……フェーニャ、お前はどんな塀だかわからないだろう。いや、何でもないんだよ……まあ、どっちでもいい、明日になったら噂を聞いて、なるほどと思うだろう……今日はこれでさようならだ! おれは邪魔なんかしない、道を譲る。おれにだって道を譲ることができるよ。わが悦びよ栄えあれ……たった一ときおれを愛してくれたそうだが、そんならミーチェンカ・カラマーゾフを永久に憶えておってくれ……なあ、おい、おれはおれのことをミーチェンカと言ってたなあ、覚えてるだろう?」
 この言葉とともに、彼はいきなり、台所をぷいと出てしまった。フェーニヤはさきほど彼が駆け込んで自分に飛びかかった時よりも、こうした出方に一そう驚かされたのである。
 ちょうど十分の後、ミーチャはさきほどピストルを質入れした若い官吏、ピョートル・イリッチ・ペルホーチンの家へ入った。それはもう八時半であった。ペルホーチンは茶を飲み終って、料理屋の『都』へ玉突きに行くつもりで、たった今フロックを着直したばかりであった。ミーチャはその出立ちを抑えたのである。こっちはその姿を――血に汚れた顔を見るやいなや、思わず声をつつ抜けさした。
「おやっ! 君はまあ、どうしたんです?」
「あのね」とミーチャは早口に言いだした。「僕はさっきのピストルをもらいに来たんです。金も持って来ました。どうも有難う。僕いそぐんですからね、ピョートル・イリッチ、どうか早くして下さい。」
 ペルホーチンはますます驚きを深くするばかりであった。ミーチャの手に、一束の紙幣《さつ》が握られているのに気がついたのだ。が、何より不思議なのは、彼がこの金を握ったまま入って来たことである。こんなふうに金を握ったまま入って来る人はどこにもない。しかも、その紙幣をみんな右手で一握りにして、さも自慢らしく前のほうへさし出しているではないか。控え室でミーチャを出迎えたこの家のボーイは、彼が金を持ったまま控え室へ入って来た旨を、後になって話したが、これによってみると、彼は往来でもやはり金を握った右手を、前のほうへさし出しながら歩いたものらしい。金はみんな虹色をした百ルーブリ紙幣であった。彼はそれを血みどろの指で挾んでいたのである。ずっと後になって、当路の人たちが、金はどれくらいあったかと訊いた時、ペルホーチンはこう答えた、――あの時は目分量で勘定することはできなかったけれど、二千ルーブリか、ことによったら三千ルーブリ、とにかく大きな『かなり厚みのある』束であった。
 当のミーチャが同様にあとで申し立てたところによると、『あの時はほんとうに正気づいていないらしかったけれども、決して酔ってはいない。ただ何となく有頂天になってしまって、恐ろしくそわそわしていながらも、それと同時に、心が一ところに集注されているようであった。つまり、何やらしきりに考えようとあせっているくせに、どうしても解決することができない、といったようなあんばいであった。非常に心がせかせかしていたから、返事の仕方も奇妙に角立って、どうかすると、悲しい目にあったというようなところは少しもなく、かえって愉快そうに見えたほどである。』
「え、一たい君はどうしたんです、本当に今日はどうしたんです?」ペルホーチンはきょろきょろと客を見廻しながら、ふたたびこう叫んだ。「どうしてそんなに血みどろになったんです。転ぶかどうかしたんですか、まあ、ごらんなさい!」
 彼は相手の肘を掴まえて、鏡の前へ立たした。ミーチャは血で汚れた自分の顔を見ると、ぶるっと身を慄わして、腹立たしげに眉をしかめた。
「ええ、畜生! まだその上にこんな……」と彼はにくにくしげに呟いて、手早く紙幣を右から左の手へ持ちかえると、痙攣的にかくしからハンカチを引っ張り出したが、ハンカチもやはり血みどろで(これは例のグリゴーリイの頭や顔を拭いたハンカチである)、ほとんど一点として白いところはなかった。そして、生乾きどころでなく、もうすっかり一塊に固ってしまい、ひろげようとしても容易にひろがらなかった。
 ミーチャはにくにくしげにそれを床へ叩きつけた。
「ええ、こん畜生! 君、何か切れはありませんか……ちょっと拭きたいんだが……」
「じゃ、君、汚れただけで傷をしたのじゃないんですね! それなら、いっそ洗い落したほうがいいでしょう」とペルホーチンは答えた。「さあ、ここに洗面器があります、これを貸しましょう。」
「洗面器? それはいい……しかし、こいつをどこへおいたもんでしょうね?」何だかひどく奇怪な当惑の色を浮べながら、相談するようにペルホーチンの顔を眺めつつ、ミーチャは例の百ルーブリ札の束を指さした。まるでペルホーチンが彼の金の置き場を決める義務でもあるかのように。
「かくしへお入れなさい。それとも、このテーブルヘのせといてもいいでしょう。なくなりゃしませんよ。」
「かくしへ、そうかくしがいい。これでよしと……いや、何してるんだ、こんなことはつまらんこった!」急にぼんやりした心持からさめて、こう叫んだ。「ねえ、君、まず初めにあのことを、ピストルのことを片づけようじゃありませんか。あれを僕に返して下さいな。これが君の金です……実は非常に、非常に入用なことができてね……それに時間がないんです、本当にこれっからさきもないんです……」
 彼は束の中から一番上の百ルーブリ札を取って、若い官吏にさし出した。
「ところが、僕のところにも釣銭《つり》がないでしょう」とこちらは言った。「君、細かいのを持ってませんか?」
「ありません」とミーチャはもう一ど束をちらと見てこう答えた。そして、自分の言葉に自信がないらしいふうで、指をもって上のほうから二三枚めくって見た。「ありません、みんなこんなのです」とつけたして、彼はもう一ど相談するようにペルホーチンを見やった。
「一たい君はどこでそんな金を儲けたんです?」こっちはこう訊ねた。「お待ちなさい、僕はうちのボーイをプロートニコフの店へやってみます。あそこの家は遅くまで店を開けているから、――ひょっとしたら替えてくれるかもしれません。おい、ミーシャ」と彼は控え室のほうを向いてこう叫んだ。
「プロートニコフの店へ――名案でしたね!」ミーチャはある想念に心を照らされたように叫んだ。「ミーシャ」と彼は入り来る少年に向って、「お前ひとつ、プロートニコフの店へ走って行って、ドミートリイ・カラマーゾフがよろしくって、それから今すぐ自分で出かけるからと、そう言ってくれないか……それから、まだある、いいかい、――僕が行くまでにシャンパンを、そうだなあ、三ダースばかり用意して、いつかモークロエヘ行った時のように、ちゃんと馬車に積み込んでおけってね……僕はあの時あそこの店で四ダース買ってやったんですよ(と彼は急にペルホーチンのほうへ向いてこう言った)。――あそこじゃよく知ってるから、心配することはないよ、ミーシャ」と彼はまたボーイのほうへ振り向いた。「それから、いいかい、チーズに、ストラスブルクのパイに、燻製の石斑魚《シーダ》に、ハムにイクラに……いや、もうみんなみんな、あそこの店にありったけ注文してくれ。そうだな、百ルーブリか百二十ルーブリか、つまり、この前の時と同じくらいあればいいんだ……それから、いいかい、お土産物も忘れないようにな、菓子に、梨に、西瓜を二つか三つか、それとも四つ――いや、西瓜は一つでたくさんだ。それからチョコレートに、氷砂糖に、果物入氷砂糖《モンパンシエ》に、飴に――いや、あの時モークロエヘ積んで行ったものは、すっかりいるんだ。シャンパンを入れて三百ルーブリくらいもあったろう……つまり、今度もあの時と同じにしたらいいのだ。いいか、よく覚えて行くんだぞ、ミーシャ、お前ミーシャといったっけなあ……この子はミーシャというんでしたね?」ふたたび彼はペルホーチンのほうへ振り向いた。
「まあ、お待ちなさい。」不安げに彼の言葉を聞き、彼の様子を眺めていたペルホーチンは、こう遮った。「君いっそ自分で出かけて、自分で注文したほうがいいでしょう。でないと。[#「でないと。」はママ]こいつでたらめを言いますからね。」
「でたらめを言います、まったくでたらめを言いそうです! おい、ミーシャ、おれはお前を使うかわりに、接吻してやろうと思ってたんだがなあ……もしでたらめを言わなかったら、お前に十ルーブリくれてやる、早く駆け出して来い………シャンパンが一ばん大事なんだぞ、シャンパンを積み出すようにな。それから、コニヤクも、赤葡萄酒も、白葡萄酒も、何もかもあの時のとおりだ……あそこの店ではもうちゃんと知ってる、あの時のとおりだ。」
「まあ、僕の言うことをお聞きなさい!」もうじりじりしながら、ペルホーチンは遮った。「こいつには、ただ一走り行って両替させて、まだ店を閉めずにおけと言わしたらいいでしょう。それから、君が出かけて、自分で言いつけるんです……その紙幣をお貸しなさい。さあ、ミーシャ、進めっ、おいちに!」
 ペルホーチンはわざと急いで、ミーシャを追い出したらしい。というのは、ボーイは客の前に出て来ると、血みどろの顔や、慄える指に紙幣《さつ》束を握っている真っ赤な両手を、目を皿のようにして眺めながら、驚きと恐れのために口をぽかんと開け、棒のように立ちすくんだまま、ミーチャの言いつけなどろくろく耳に入れていない様子だったからである。
「さあ、これから顔を洗いに行きましょう」とペルホーチンはきびしい調子で言った。「金はテーブルの上におくか、かくしへ入れるかおしなさい……そうそう、じゃ出かけましょう。しかし、フロックは脱いだほうがいいでしょう。」
 彼は自分でも手伝って、フロックを脱がせにかかったが、ふいにまた叫び声を上げた。
「ごらんなさい、フロックまで血になっていますよ!」
「これは……これはフロックじゃありませんよ。ただちょっと袖のところが……ああ、これはハンカチのはいったところです。かくしの中から滲み出したんですよ。僕はフェーニャのところで、ハンカチを下に敷いて坐ったもんだから、それで血が滲み出したんですよ。」何だか不思議なくらい呑気な調子で、ミーチャはすぐにこう説明した。
 ペルホーチンは眉をしかめながら聞いていた。
「とんでもないことをしたもんですね、きっと誰かと喧嘩したんでしょう」と彼は呟いた。
 やがて手水《ちょうず》にかかった。ペルホーチンは水差しをもって、水をそそぎ始めた。ミーチャはせかせかしていたので、手にろくろく石鹸をつけなかった(彼の手がぶるぶる慄えていたことを、ペルホーチンはあとで思い起した)。ペルホーチンはすぐに、もっとたくさん石鹸をつけて、もっと強くこするように命令した。このとき彼はミーチャに対して、一種の権力を握っているような工合で、それが先へ行くにしたがって、だんだんはっきりと認められた。ついでに言っておくが、この若い官吏はなかなか胆の据った男であった。
「ごらんなさい、まだ爪の下がよく洗えてないじゃありませんか。さあ今度は顔をおこすりなさい。それ、そこですよ、こめかみの上、耳のそば……一たいあなたはそのシャツを着て出かけるんですか? そして、どこへ行くんです? ごらんなさい、右袖の折り返しがすっかり血だらけになってますよ。」
「ええ、血だらけになっています。」シャツの袖の折り返しをと見こう見しながら、ミーチャは答えた。
「じゃ、シャツを替えませんか。」
「暇がないんですよ、僕はね、ほら、こうして……」もうタオルで顔と両手を拭き終って、フロックを着ながら、例の呑気らしい調子でミーチャは語をついだ。「袖を折り込んどきますよ。そうしたら、フロックの下になって見えやしないでしょう……ね?」
「今度は一つ、どこでそんなことをしたのか聞かせて下さい。誰かと喧嘩でもしたんですか? またいつかのようにあの料理屋じゃないんですか? またあの時と同じ二等大尉が相手じゃありませんか、あの男を擲ったり、引き摺ったりしたんじゃありませんか?」何となく咎めるような口振りで、ペルホーチンはこないだのことを言いだした。「一たいまた誰を殴りつけたんです……それとも殺したんじゃありませんか?」
「つまらんこってすよ!」とミーチャは言った。
「どうつまらんのです?」
「よしときましょうよ」と言って、突然ミーチャはにたりと笑った。「これはね、たったいま広場で一人の婆さんを押し潰したんです。」
「押し潰した? 婆さんを?」
「爺さんです!」とミーチャは相手の顔をひたと見つめて笑みをふくみながら、聾にでもものを言うように大声で呶鳴った。
「ええ、ばかばかしい、爺さんだの婆さんだの……一たい誰か殺したんですか?」
「仲直りしましたよ。はじめ突っかかったけれど、すぐ仲直りしました、あるところでね。別れる時には、親友のようになりましたよ。ある馬鹿者ですがね……その男が僕を赦してくれましたよ……今頃はきっと赦してくれたに相違ありません……しかし、もし足が立ったら、赦してくれたに相違ありません。」ふいにミーチャはぽちりと瞬きした。「しかし、どうだっていいんですよ。ピョートル・イリッチ、どうだっていいんですよ。必要のないことですよ! いま話すのが厭なんです!」きっぱりと断ち切るようにミーチャはこう言った。
「いや、僕がこんなことを言いだしたのは、あんまり誰かれの見さかいなしにかかり合うのは、感心した話でないと思ったからです……あの時の二等大尉事件みたいな、つまらないことのためにね……しかし、喧嘩をしておいて、もうさっそく騒ぎに行こうなんて、――君の性格がそっくり出ていますよ! シャンパン三ダースなんて、何だってそんなにいるんです。」
「ブラーヴォ! さあ、今度はピストルを下さい。まったく時間がないですから。実際、君とは少し話がしたいんだけれども、時間がなくってね。それに、そんな必要は少しもない。もう話をするのは遅いよ。あっ! 金はどこにあるかしら、どこへおいたろう?」と叫んで、彼はほうぼうのかくしへ両手を突っ込みはじめた。
「テーブルの上へおいたじゃありませんか……君が自分で……そら、あすこにありますよ、忘れたんですか? まったく君にとっては金も塵あくたか湯水同然ですね。さあ、君のピストルを上げましょう。しかし、さっき五時すぎにはこれを十ルーブリで質入れしながら、今はそのとおり何千という金が君の手にある、どうも不思議ですね。二千、三千ありましょう?」
「たぶん三千ぐらいありましょう」とミーチャはズボンのかくしに金を押し込みながら、そう言って笑った。 
「そんなことをしたら落しますよ。ほんとに君は金鉱でも持ってるんですか?」
「金鉱? 鉱山?」とミーチャはカーぱいに喚いて、急にからからと笑った。「ピョートル・イリッチ、君は鉱山ゆきがお望みですか。この町のある一人の婦人がね、ただどうかして君に金鉱へ行ってもらいたさが一ぱいで、すぐに三千ルーブリ投げ出してくれますよ。僕にも投げ出してくれたんですがね。恐ろしい鉱山の好きな婦人ですよ! ホフラコーヴァ夫人を知ってますか?」
「知合いじゃありませんが、噂を聞いたことも見たこともあります。一たいあの人が君に三千ルーブリくれたんですか? 本当に投げ出したんですか?」とペルホーチンは不審げな目つきで相手を眺めた。
「じゃ君、あす太陽が昇った時、永久に若々しいアポロが神を讃美しながらさし昇った時、あのひとのところへ、ホフラコーヴァ夫人のところへ行って、僕に三千ルーブリ投げ出したかどうか、訊いてごらんなさい。一つ調査してごらんなさいよ。」
「僕は君がたの関係を知りませんから……君がそうきっぱり言いきるところを見ると、本当にくれたんでしょう……ところで、君はそんなに金を鷲掴みにして、シベリヤへ行くかわりに、どこかへどろんをきめこむんですか……しかし、本当にこれからどこへ行くんです、え?」
「モークロエへ。」
「モークロエへ? だって、もう夜ですよ!」
「もとは何不自由ないマストリュークだったが、今は無一物のマストリュークになっちゃった!」だしぬけにミーチャがこう言った。
「どうして無一物です? そんなに幾千という金を持って、それでも無一物ですか?」
「僕が言うのは金のことじゃありません! 金なんかどうともなれだ! 僕は女心を言ってるんですよ。

[#ここから2字下げ]
変りやすいは女気よ
まことがのうて自堕落で
[#ここで字下げ終わり]

 僕はユリシーズに同感ですね、これはウリスの言ったことですよ。」
「僕には君の言うことがわかりません。」
「酔っ払ってでもいますかね?」
「酔っ払ってはいませんが、それよりなお悪いですよ。」
「僕は精神的に酔っ払ってるんですよ、ピョートル・イリッチ、精神的に……いや、もうたくさんたくさん。」
「君どうしたんです、ピストルなんか装填して?」
「ええ、ピストルを装填するんです。」
 ミーチャは本当にピストルの入った函を開けて、火薬入れの筒の蓋をとり、一生懸命に、それを装填しているのであった。やがて彼は弾丸《たま》を取り出したが、それを填める前に二本の指でつまんで、目の前の蝋燭の火にすかして見た。
「何だって君は、そんなに弾丸を見てるんです?」ペルホーチンは不安げな好奇心をもって見まもっていた。
「なに、ちょっと。考えてるんですよ。もし君がこの弾丸を自分の脳天へ打ち込もうと考えたとする、そうすればピストルを装填する時に、その弾丸を見ますか見ませんか?」
「何のために見るんです?」
「僕の脳天へ入って行く弾丸がどんな恰好をしているか、ちょっと見てみると面白いじゃありませんか……しかし、くだらんことだ、ちょっと頭に浮んだつまらん話だ。さあ、これでおしまいだ。」彼は弾丸を装填し終って、麻屑でつめをしながらこうつけたした。「ペルホーチン君、つまらん話だよ、何もかもつまらん話だよ。本当にどれくらいつまらん話かってことが、君にわかったならばなあ! ところで、今度は紙切れを少しくれたまえな。」
「さあ、紙切れ。」
「いや、すべっこい綺麗なのを、字を書くんだから、それそれ。」
 ミーチャはテーブルからペンを取って、その紙にさらさらと二行ばかり何やらしたためると、四つに折ってチョッキのかくしへ押し込んだ。二挺のピストルは函に納めて鍵をかけ、両手に取り上げた。それから、ペルホーチンを見やって、引き伸ばしたようなもの思わしげな微笑を浮べた。
「さあ、出かけよう」と彼は言った。
「どこへ出かけるんです? いや、まあ、お待ちなさい……君はひょっとしたら、自分の脳天へそいつを打ち込むんじゃありませんか、その弾丸を……」とペルホーチンは不安げに言った。
「弾丸なんかつまらんことです! 僕は生きたいのだ、僕は生を愛するのだ! 君これを承知してくれたまえ、僕は金髪のアポロとその熱い光線を愛するのだ……ねえ、ペルホーチン君、君はよけることができるかい?」
「よけるとは?」
「道を譲ることなんだ。可愛い人間と憎い人間に道を譲ることなんだ。そして、その憎い人間も可愛くなるように、――道を譲ってやるんだよ。僕はその二人のものにこう言ってやる、無事においで、僕のそばを通り抜けておいで、僕は……」
「君は?」
「もうたくさん、出かけよう。」
「本当に、もう誰かに言わなくちゃならない(とペルホーチンは相手を見つめながら)、君をあそこへやっちゃ駄目だ。何だっていま時分モークロエへ行くんです?」
「あそこに女がいるんです、女が。しかし君、もうたくさんだよ、ペルホーチン君、もうこれでおしまいだ!」
「ねえ君、君は野蛮な人間だ、が、僕はいつも君という人が気に入っているんです……だから、僕はこのとおり心配でたまらない。」
「有難う。君は僕のことを野蛮だと言ったが、人間はみんな野蛮だよ、野蛮人だよ! 僕はただこれ一つだけ断言しておく、野蛮人だ! ああ、ミーシャが帰って来た。僕はあの子のことを忘れていた。」
 ミーシャは両替えした金の束を持って、せかせかと入って来た。そして、プロートニコフの店では『みんなが騒ぎだして』酒の罎や魚や茶などを引っ張り出している、今にすっかり支度がととのうだろうと、報告した。ミーチャは十ルーブリの札を取り出して、ペルホーチンに渡し、いま一枚をミーシャの手に握らした。
「それは失礼ですよ!」とペルホーチンは叫んだ。「僕の家でそんなことはさせません。かえって悪い癖をつけるばかりです。その金をお隠しなさい。そこへ入れたらいいでしょう。何もそんなに撒き散らすことはありませんよ。早速あすにもその金が役に立つかもしれやしない。そんなことをすると、今にまた僕のところへ、十ルーブリ貸してくれなどと言って来るんだから。何だって君は金をわきのかくしにばかり突っ込むんです? いけません、おっことしますよ!」
「ねえ、君、一緒にモークロエヘ行かない?」
「僕が何のためにそんなところへ行くんです?」
「じゃね、君、いますぐ一本抜いて、人生のために乾そうじゃないか! 僕は一口のみたくなった。が、しかし、何より一ばん好ましいのは、君と一緒に飲むことだ。僕と君と一緒に飲んだことは、まだ一度もないね、え?」
「じゃ、料理屋でやったらいいでしょう。出かけましょう。僕もこれから行こうかと思ってたところなんだから。」
「料理屋へ行ってる暇はない。そんならプロートニコフの奥の間にしよう。ところで、なんなら、僕はいま君に一つ謎をかけてみようか。」
「かけてみたまえ。」
 ミーチャはチョッキのかくしから例の紙切れを取り出して、ひろげて見せた。それにはくっきりとした大きな字で、次のように書いてあった。
『全人生に対してわれみずからを刑罰す、わが生涯を処罰す!』
「本当に僕は誰かに言いますよ。これからすぐ行って知らせますよ。」ペルホーチンは紙切れを読み終ってこう言った。
「間に合わないよ、君、さあ、行って飲もう、進めっ!」
 プロートニコフの店はペルホーチンの住まいから、ほとんど家一軒しか隔てていない通りの角にあった。それは金持の商人が経営している、この町でも一ばん大きな雑貨店で、店そのものもなかなか悪くなかった。首都の大商店にある雑貨品は、どんなものでもおいてあった。『エリセーエフ兄弟商会元詰め』の葡萄酒の罎、果物、シガー、茶、砂糖、コーヒー、そのほか何でもある。店先にはいつも番頭が三人坐っていて、配達小僧が二人走り廻っている。この地方は一般に衰微して、地主らはちりぢりになり、商業は沈滞してしまったけれど、雑貨の方は依然として繁昌するのみか、年々少しずつよくなってゆくくらいであった。こういう商品に対しては、客足が絶えないからである。店では今か今かと、ミーチャを待ちかねていた。店のものは三四週間まえ、彼がやはり今度と同じように、一時にありとあらゆる雑貨品や酒類を、現金何百ルーブリかで買い上げたことを、憶えすぎるほどよく憶えていた(むろん、かけ売りならミーチャに何一つ渡すはずがない)。その時も今度と同じように、虹色札の大束を手にひん握って、何のためにこれほどたくさんの食料や酒が必要なのか、ろくろく考えもせず、また考えようともしないで、べつに値切ろうとするふうもなく、やたらに札びらを切ったことも、彼らはよく憶えている。
 当時、彼はグルーシェンカと一緒にモークロエヘ押し出して、『その夜と次の日と、僅かこれだけのあいだに、三千ルーブリの金をすっかりつかいはたし、この豪遊の帰りには赤裸の一文なしになっていた』と、こんな噂が町じゅうにひろがったのである。彼はその時、この町に逗留していたジプシイの一隊を総あげにしたが、その連中は二日の間に、酔っ払っているミーチャから勘定も何もなく、めちゃめちゃに金を引っ張り出し、高価な酒をがぶ呑みに飲んだとのことである。人々は、ミーチャがモークロエで穢らわしい百姓どもにシャンパンを飲ましたり、田舎の娘っ子や女房どもに、ストラスブルクのパイやいろいろの菓子を食べさせたりしたと言って、笑いながら噂しあっていた。またミーチャ自身の口から出た、人まえはばからぬ大っぴらなある一つの告白をも、人々は同様笑い話の種にしていた。ことに料理屋ではそれがなおひどかった(しかし、面と向って笑うものはなかった。面と向って笑うのは、少々危険であった)。ほかでもない、こんな無鉄砲なことをして、彼がグルーシェンカから得たものは、『女の足を接吻さしてもらっただけで、それよりほかは何も許してもらえなかった』とのことである。
 ミーチャがペルホーチンとともに店へ近づいた時、毛氈を敷いて小鈴をつけた三頭立馬車《トロイカ》が、ちゃんと入口に用意されて、馭者のアンドレイがミーチャを待ち受けていた。店の中ではもうほとんど品物を一つの箱に詰め終って、ただミーチャさえやって来れば、すぐ釘を打って車に積めるようにして待っていた。ペルホーチンはびっくりして。
「おや、一たい今の間に、どこから三頭立馬車《トロイカ》なぞ引っ張って来たの?」とミーチャに訊いた。
「君のとこへ走って行く途中、これに、アンドレイに出会って、さっそくこの店へ車を持って来るように、言いつけといたのさ。時間を無駄にすることはいらないからね! この前はチモフェイの馬車で行ったが、今度チモフェイは、妖姫と一緒に、僕より先につつうと飛んで行っちゃったんだ。おい、アンドレイ、だいぶ遅れるだろうな?」
「チモフェイはわっしらより、小一時間さきに着くくらいのもんでがしょう。まあ、それもおぼつかない話でがすが、とにかく一時間くらいしきゃ先にならんでしょうよ」とアンドレイは忙しそうに答えた。「チモフェイの車もわしが仕立ててやったんでがすよ。わっしはあいつの馬の走らせ方を知ってますが、あいつの走らせ方は、わっしらのたあまるで違ってまさあ、旦那さま。あいつなざあ、わっしの足もとにもよれやあしません。なに、一時間も先に着けるもんですか!」まだ血気さかんな馭者のアンドレイは、熱心にこう遮った。彼は髪の赤味がかった痩せた若い者で、身には袖なしを着け、手には粗羅紗の外套を持っていた。
「もし一時間くらいの遅れですんだら、五十ルーブリの酒手だ。」
「一時間なら大丈夫でがすよ。旦那さま、なに、一時間はさておき、三十分も先に着かしゃしませんよ。」
 ミーチャは何くれと指図をしながら、しきりにそわそわしていたが、話をするのも用を言いつけるのも、ものの言い方が妙にばらばらにこわれたようで、きちんと順序だっていなかった。何か言いかけても、締めくくりをつけるのを忘れてしまうのであった。ペルホーチンは自分でもこの事件に口をいれて、力を貸す必要があると感じた。
「四百ルーブリだぞ、四百ルーブリより少くちゃいかん。何から何まであの時のとおりにするんだぞ」とミーチャは号令をかけるように言った。「シャンパン四ダース、一罎欠けても承知しないから。」
「何だって君、そんなにいるんだい、一たい何にするの? 待て!」と、ペルホーチンは叫んだ。「この箱はどうした箱なんだ? 何が入ってるんだ。一たいこの中に四百ルーブリのものが入ってるのか?」
 忙しそうに往ったり来たりしていた番頭らは、さっそく甘ったるい調子で、この箱の中にはシャンパンが僅か半ダースに、ザクースカや果物やモンパンシエや、その他『口切りにぜひなくてはならない物だけ』入れてあるので、おもな『ご注文品』はあの時と同じように、ただ今さっそく別な馬車に積み込んで、やはり三頭立《トロイカ》で十分間に合うようにお送りします、と説明した。『旦那さまがお着きになってから、ほんの一時間ばかりだったころ、向うへ着くようにいたします。』
「一時間より延びちゃいかんぞ、きっと一時間より延びないように。そして、モンパンシエと飴を、できるだけよけいに入れてくれ、あそこの娘どもの大好物だから」とミーチャは熱くなって念をおした。
「飴――よかろう。しかし、君、シャンパン四ダースもどうするんだい? 一ダースでたくさんだよ!」ベルホーチンはもうほとんどむきになっていた。
 彼は番頭と談判したり、勘定書を出させたりして、なかなか黙っておとなしくしていなかった。しかし、全体で百ルーブリほど勘定を減らしただけである。結局、全体で三百ルーブリよりよけい品物を届けないように、というくらいのところで妥協してしまった。
「ええ、みんな勝手にするがいい!」急に考えを変えたらしく、ペルホーチンはこう叫んだ。
「僕に何の関係があるんだ? ただで儲けた金なら勝手に撒くがいいさ!」
「こっちへ来たまえ、経済家先生、こっちへ来たまえ、怒らなくてもいいよ」とミーチャは店の奥の間へ彼を引っ張って行った。「今すぐここへ罎を持って来るから、一緒にやろうじゃないか。ねえ、ペルホーチン君、一緒に出かけようじゃないか。だって君は本当に可愛い人なんだもの、僕は君のような人が好きさ。」
 ミーチャは編椅子の上に腰をおろした。前の小卓には汚れ腐ったナプキンが被せてあった。ペルホーチンはその真向いに座を占めた。シャンパンはすぐに運ばれた。「みなさん牡蠣はいかがでございます。ごく新しく着いたばかりの、飛切り上等の牡蠣でございますが」と店のものはすすめた。
「牡蠣なんか真っ平だ、僕は食べない、それに何もいりゃしないよ」とペルホーチンは、ほとんど噛みつくように毒々しく言った。
「牡蠣なんか食べてる暇はない」とミーチャは言った。「それに、ほしくもないよ。ねえ、君」と彼は突然、感情のこもった声で言いだした。「僕はこんな無秩序なことが大嫌いだったんだよ。」
「誰だってそんなものを好くやつはありゃしない! まあ、考えてもみたまえ、シャンパンを三ダースも百姓に買ってやるなんて、誰だって愛想をつかしてしまわあね。」
「僕の言うのはそんなことじゃない。僕はもっと高い意味の秩序を言ってるんだよ。僕には秩序というものがない、高い意味の秩序というものが……しかし、それもこれもみんなすんでしまった。くよくよすることはない、今はもう遅い、もうどうとも勝手にしろだ! 僕の一生は乱雑の連続だった、いよいよ秩序を立てなくちゃならん。僕は口合いを言ってるんだろうか、え?」
「寝言を言ってるんだよ、口合いじゃない。」

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世界の中なる神に栄《はえ》あれ
われの中なる神に栄あれ!
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 この詩はいつだったか、ふいに僕の魂からほとばしり出たんだ。詩じゃない、涙だ……僕が自分で作ったのだ……しかし、あの二等大尉の髯を捉まえて、引っ張った時じゃないよ……」
「何だって君、急にあの男のことなんか言いだすの?」
「何だって急にあの男のことを言いだすのかって? くだらんこったよ! 今にすっかり片がつく。今にすっかりなだらかになるよ! もうちょっとでけりがつくのだ!」
「まったく僕はどうも君のピストルが気がかりでならない。」
「ピストルもくだらんこったよ! とてつもないことを考えないで、飲みたまえ。僕は生を愛する。あまり愛しすぎて醜劣になったくらいだ。もうたくさんだ! 生のために……君、生のために飲もうじゃないか。僕は生のために乾杯を提言する!なぜ僕は自分で自分に満足してるんだろう? 僕は陋劣だけれど自分で自分に満足している。僕は自分が陋劣だという意識に悩まされてはいるけれど、しかし自分で自分に満足している。僕は神の創造を祝福する。僕は今すぐにも悦んで神と神の創造を祝福するが、しかし……まず一匹の臭い虫けらを殺さなくちゃならん、こそこそとその辺を這い廻って、他人の生活を傷つけないようにしなくちゃならん……ねえ、君、生のために飲もうよ! 一たい生より尊いものが、どこにある! 何もない、決してない! 生のために、そして女王の中の女王のために!」
「生のために飲もう、そしてまあ、君の女王のために飲んでもいい。」
 二人は一杯ずつ飲んだ。ミーチャは有頂天になってそわそわしていたが、何となく沈みがちな様子であった。ちょうど征服することのできない重苦しい不安が、目の前に立ち塞かっているかのようであった。
「ミーシャだ……ほら、君のミーシャがやって来た。ミーシャ、いい子だ、ここへ来い、そして明日の金髪のアポロのためにこの杯を乾してくれ……」
「君、何だってあの子に!」とペルホーチンはいらだたしげに叫んだ。
「まあ、大目にみてくれたまえ、ね、いいだろう、ね、僕こうしてみたいんだから。」
「ええっ、くそ!」
 ミーシャはぐっと飲みほして、一つ会釈すると、そのまま逃げ出してしまった。
「ああしといたら、長い間おぼえていてくれるだろう」とミーチャは言った。「僕は女が好きだ、女が! 女とは何だと思う? 地上の女王だ! 僕はもの悲しい、何だかもの悲しいよ、ペルホーチン君、君ハムレットを憶えているかい?『わしは何だかもの悲しい、妙にもの悲しいのだ、ホレーシオ……あわれ不憫なヨリックよ!』僕はあるいはこのヨリックかもしれない。ちょうどいま、僕はヨリックなのだ、髑髏《しゃれこうべ》はもっと後のことだ。」
 ペルホーチンは黙って聞いていた。ミーチャもちょっと言葉を休めた。
「そこにいる君んとこの犬は何ていう犬だね?」とミーチャは、隅のほうにいる目の黒い、小さな可愛い狆に目をつけて、だしぬけにとぼけたような調子で番頭に訊ねた。
「これはヴァルヴァーラさまの、うちのお内儀さんの狆でございます」と番頭は答えた。「さっきこちらへ抱いていらしって、そのまま忘れてお帰りになったのでございます。お届けしなければなりますまい。」
「僕はちょうどこれと同じようなものを見たことがある……連隊でね……」とミーチャはもの案じ顔にこう言った。「ただ、そいつは後足を一本折られてたっけ……ペルホーチン君、僕はちょっとついでに訊きたいことがあるんだよ。君は今までいつか盗みをしたことがあるかい?」
「なんて質問だろう!」
「いや、ちょっと訊いてみるだけなんだ。しかし、誰かのかくしから人のものを取ったことがあるかと訊くので、官金のことを言ってるんじゃないよ。官金なら誰でもくすねてるから、君だってむろんその仲間だろう……」
「ええ、黙って引っ込んでたまえ。」
「僕が言ってるのは人のもののことだよ。本当にかくしか紙入れの中から……え?」
「僕は一度、十の時に、母の金を二十コペイカ、テーブルの上から盗み出したことがある。そろっと取って、掌に握りしめたのさ。」
「ふふん、それで?」
「いや、べつにどうもしないさ、三日の間しまっておいたが、とうとう恥しくなってね、白状して渡してしまった。」
「ふふん、それで?」
「あたりまえさ、擲られたよ。ところで、君はどうだね、君自身も盗んだことがある?」
「ある。」ミーチャはずるそうに目をぽちりとさした。
「何を盗んだの?」とペルホーチンは好奇心を起した。
「母の金を二十コペイカ、十の時だった、三日たって渡してしまった。」
 そう言って、ミーチャはとつぜん席を立った。
「旦那さま、もうそろそろお急ぎになりませんか?」ふいにアンドレイが店の戸口からこう叫んだ。
「できたか? 出かけよう!」とミーチャはあわてだした。「もう一つおしまいに言っとくことがある……アンドレイにウォートカを一杯駄賃にやってくれ、今すぐだぞ! それからウォートカのほかに、コニャクも一杯ついでやれ! この箱(それはピストルの入った箱であった)をおれの腰掛けの下へ入れてくれ。さようなら、ペルホーチン君、悪く思わないでくれたまえ!」
「だけど、明日は帰るんだろう?」
「きっと帰る。」
「ただいまお勘定をすましていただけませんでしょうか?」と番頭が飛び出した。
「勘定、よしきた! むろんするとも!」
 彼は、ふたたびかくしから紙幣《さつ》束を掴み出し、虹色のを三枚抜き取って、勘定台の上へ抛り出し、急ぎ足に店を出て行った。一同はその後につづいた。そして、ぺこぺこお辞儀しながら、有難うやご機嫌よろしゅうの声々で一行を送った。アンドレイはたったいま飲みほしたコニャクに喉を鳴らしながら、馭者台の上へ飛びあがった。しかし、ミーチャがやっと坐り終るか終らないかに、突然、思いもよらぬフェーニャが彼の目の前に現われた。彼女はせいせいと肩で息をしながら駆けつけると、声高な叫びとともに彼の前に両手を合せ、いきなりどうとその足もとへ身を投げ出した。 
「旦那さま、ドミートリイさま、後生ですから、奥さまを殺さないで下さいまし! わたしはあなたに何もかも喋ってしまって!………そうして、あの方も殺さないで下さいまし。だって、あの方は前からわけのあった人なんですもの! アグラフェーナさまをお嫁におもらいなさるつもりで、そのためにわざわざシベリヤからお帰りになったのでございます……旦那さま、ドミートリイさま、どうか人の命を取らないで下さいまし。」
「ちぇっ、ちぇっ、これで読めた! 先生これからあっちへ行って、ひと騒ぎもちあげようというんだな!」とペルホーチンはひとりごとのように呟いた。「今こそ、すっかりわかった、今こそ厭でもわからあな。ドミートリイ君、もし君が人間と呼ばれたかったら、今すぐピストルをよこしたまえ」と彼は大声でミーチャに叫んだ。
「ねえ、ドミートリイ君!」
「ピストル? 待ちたまえ、僕は途中、溝の中へ抛り込んじゃうから」とミーチャは答えた。「フェーニャ、起きなよ、おれの前に倒れたりするのはよしてくれ。ミーチャは殺しゃしない、この馬鹿者もこれからさき、決して誰の命もとりゃしない。おい、フェーニャ。」もう馬車の上に落ちついて彼は叫んだ。「おれはさっきお前に失敬なことをしたが、あれは赦してくれ、可哀そうだと思って、この悪党を赦してくれ。しかし赦してくれなくたってかまやしない! 今となってはもうどうだって同じことだ。さあ、やれ、アンドレイ、元気よく飛ばせ!」
 アンドレイは馬車を出した。鈴が鳴り始めた。
「さようなら、ペルホーチン! 君に最後の涙を呈するよ!……」
『酔っ払ってもいないんだが、なんてくだらないことばかり言ってるんだろう?』ペルホーチンは彼のうしろ影を見送りながらこう考えた。店のものがミーチャをごまかしそうに感じられたので、同じく三頭立の荷馬車に食料や酒類を積み込むところを監視するために、残っていようかとも考えたが、急に自分で 自分に腹を立てて、ぺっと唾を吐き、行きつけの料理屋へ玉突きに出かけた。
「馬鹿だ、おもしろい、いい男だけれど……」とみちみち彼はひとりごちた。「グルーシェンカの『もとの男』とかいう将校のことはおれも聞いていた。ところで、もし向うへ着いたら、その時は……くそっ、どうもあのピストルが気になる? ええ、勝手にしろ、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? あんなやつうっちゃっとけ。それに、何も起るようなことはあるまいよ。ただのから気焔にすぎないんだ。酔っ払って喧嘩して、喧嘩して仲直りするのがおちだ。あんな連中は、要するに実行の人じゃないんだ。あの『道を譲ってみずからを刑罰す』って何のこったろう、――なあに、何でもありゃしない! あの文句は、料理屋でも酔っ払った勢いで、何べんどなったかもしれやしない。が、今は酔っ払っていない。『精神的に酔っ払ってる』と言ったっけ、――なに、気どった文句を並べるのが好きなんだ、やくざ者、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? 実際、喧嘩したには相違ない、顔じゅう血だらけだった。相手は誰かしらん? 料理屋へ行ったらわかるだろう。それに、ハンカチも血だらけだった、――いまいましい、おれんとこの床の上へ残して行きゃあがった……ええ、もうどうだっていいや!」
 彼は恐ろしく不機嫌な心持で料理屋へ入ると、さっそく勝負を始めた。遊戯は彼の心を浮き立たした。二番目の勝負が終った時、彼はふと一人の勝負仲間に向って、ドミートリイ・カラマーゾフにまた金ができた、しかも三千ルーブリからあるのを自分で見た、そうして彼はまたグルーシェンカと豪遊をするために、モークロエをさして飛んで行った、という話をした。この話は思いがけないほどの好奇心をもって聴き手に迎えられた。人々は笑おうともせず、妙に真面目な調子で話し始めた。勝負まで途中でやめになってしまった。
「三千ルーブリ? 三千なんて金が、どこからあの男の手に入ったんだろう?」
 人々はそのさきを訊ねにかかった。ホフラコーヴァ夫人に関する報告は半信半疑で迎えられた。
「もしや、じじいを殺して取ったんじゃないかなあ、本当に?」
「三千ルーブリ! 何だか穏かでないね。」
「あの男おやじを殺してやると、おおっぴらで自慢らしく吹聴していたぜ。ここの人は誰でも聞いて知ってるよ。ちょうどその三千ルーブリのことを言ってたんだからなあ……」
 ペルホーチンはこれを聞くと、急に人々の問いに対してそっけない調子で、しぶしぶ返事するようになった。ミーチャの顔や手についていた血のことは、おくびにも出さなかった。そのくせ、ここへ来る時には、話すつもりでいたのである。やがて三番目の勝負が始まって、ミーチャの話もだんだん下火になった。しかし、三番目の勝負がすむと、ペルホーチンはもう勝負をしたくなくなったので、そのままキュウをおき、予定の夜食もしないで料理屋を出た。広場まで来た時、彼は自分で自分にあきれるくらい、思い迷った心持で立ちどまった。彼はこれからすぐフョードルの家へ行って、何か変ったことは起らなかったか、と訊ねる気になっているのに、ふと心づいた。『つまらないことのために(きっとつまらないことなんだ)、よその家を叩き起して、不体裁を演ずるくらいがおちだ。ちぇっ、いまいましい、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのかい。』
 恐ろしく不機嫌な心持で、彼はまっすぐに家のほうへ足を向けたが、突然フェーニャのことを思い出した。『ええ、こん畜生、さっきあの女に訊いてみたら』と彼はいまいましさに呟くのであった。『何もかもわかったのになあ。』すると、とつぜん彼の心中に、この女と話をして事情を知りたいという、恐ろしく性急で執拗な希望が燃え立った。とうとう彼は半途にして踵を転じ、グルーシェンカの住まっている、モローソヴァの家へ赴いた。彼は門に近づいて戸を叩いた。が、夜の静寂の中に響きわたるノックの音は、急にまた彼の熱中した心を冷まして、いらいらした気分にしてしまった。おまけに家の人はみんな寝てしまって、誰ひとり応ずるものがなかった。『ここでもまた不体裁なことをしでかそうというのか!』もう一種の苦痛を胸にいだきながら、彼はそう考えたが、決然として立ち去ろうともせず、急に今度は力まかせに戸を叩き始めた。往来一ぱいに反響が生じた。『これでいいんだ、なんの、やめるもんか、叩き起すんだ、叩き起すんだ!』戸の一撃ごとに、ほとんどもの狂おしいほど自分自身に対して怒りを感じ、同時にノックを強めながら、彼はこう呟いた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟上』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社