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フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第八篇第五章 咄嗟の決心

   第五 咄嗟の決心

 フェーニャは祖母と一緒に台所におった。二人とも寝支度をしているところであった。彼らはナザールを頼みにして、今度も内から戸締りをしないでいた。ミーチャは駆け込むやいなや、フェーニャに跳りかかって、しっかりとその喉を抑えた。
「さあ、すぐ白状しろ、あれはどこにいる、いま誰と一緒にモークロエにいるのだ?」と彼は前後を忘れて叫んだ。
 二人の女はきゃっと声を立てた。
「はい、申します、はい、ドミートリイさま、今すぐ何もかも申します、決してかくし立てはいたしません。」死ぬほど驚かされたフェーニャは早口にこう言った。「奥さまはモークロエの将校さんのところへおいでになりました。」
「将校さんて誰だ?」ミーチャは猛りたった。
「もとの将校さんでございます、あのもとのいい人でございます。五年まえに奥さんを棄てて行ってしまった……」依然たる早口でフェーニャはべらべらと喋った。
 ミーチャは女の喉を絞めていた手をひいた。彼は死人のような蒼い顔をして、言葉もなくフェーニャの前に立っていたが、その目つきで見ると、彼が一瞬にしてすべてを悟ったことが察しられた。彼は一ことも聞かないうちに一切のことを、ほんとうに一切のことを、底の底までも悟ったのである。何もかも見抜いたのである。しかし、哀れなフェーニャは、この瞬間かれが悟ったか悟らないか、そんなことを詮議している余裕はなかった。彼女はミーチャが駆け込んだ時、箱の上に坐っていたが、今もやはりそのままの姿勢で全身を慄わせながら、わが身を庇おうとするかのように、両手をさし伸べていた。彼女はその姿勢のままで、化石になったように見えた。そうして、恐怖のために瞳孔のひろがったような慴えた目で、じっと食い入るように彼の顔を見つめていた。ミーチャは恐ろしい形相に、かてて加えて両手を血だらけにしているではないか。おまけに、走って来る途中、額の汗を拭くのにその手で顔に触ったと見え、額にも右の頬にも血の痕が赤くついていた。フェーニャは、今にもヒステリイが起りそうになった。下働きの老婆は席から跳りあがったまま意識を失って、気ちがいのような顔つきをして立っていた。ミーチャは一分間ほどぼんやり立っていたが、とつぜん機械的にフェーニャの傍らなる椅子に腰をおろした。
 彼はじっと坐ったまま、何か思いめぐらしている、というよりも、何かこう非常に驚いて、ぼうとなったというようなふうであった。しかし、一切は火を見るよりも明らかである。あの将校なのだ、――自分はこの男のことを知っていた、何もかもようく知っていた、当のグルーシェンカから聞いて知っていた、一月前に手紙の来たことも知っていたのだ、つまり、一月、まる一月の間、今日この新しい男の到着するまで、このことは深く自分に隠して運ばれていたのだ。それだのに、自分はこの男のことを夢にも考えないでいた! 一たいどうして、本当にどうしてこの男のことを考えずにいられたのだろう? どうしてあのとき造作もなく、この男のことを忘れたのだろう? 知ると同時に忘れたのだろう? これが彼の面前に、奇蹟かなんぞのように立ち塞がっている問題であった。彼は真に慄然として、身うちの寒くなるのを覚えながら、この奇蹟を見まもるのであった。
 が、急に彼はおとなしい、愛想のいい子供のような調子で静かにつつましく、フェーニャに向って話しかけた。たったいま自分がこの女を驚かし、辱しめ、苦しめたことは、まるで忘れてしまったようなふうであった。とつぜん彼は、今のような状況にある人としては不思議なくらい、極度に正確な調子で、フェーニャにいろいろと訊きはじめた。またフェーニャも、彼の血みどろな手をけげんそうに見つめてはいたけれど、同様に不思議なほど気さくな調子で、一つ一つの質問に対してはきはき答えるばかりか、かえって少しも早く『正真正銘の』事実を、洗いざらい吐き出そうとするかのようであった。彼女はこまごまとしたすべての事実を物語るのに、次第に一種の快感を感じはじめた。しかも、それは決して彼を苦しめようという心持のためでなく、むしろできるだけ彼のためにつくそうと、あせっているからであった。彼女はきょう一日の出来事を細大もらさず話して聞かせた。ラキーチンとアリョーシャが訪ねて来たことから、彼女、フェーニャが見張りに立っていたこと、女主人が出立した時の模様、それからグルーシェンカが窓からアリョーシャに向って、ミーチャによろしく言ってくれ、そして『わたしがあの人をたった一とき愛したことを、生涯おぼえてるように言ってちょうだい』と叫んだことなど物語った。ミーチャによろしくと聞いた時、彼はとつぜん薄笑いをもらした。と、その蒼ざめた頬にさっとくれないが散った。その時フェーニャは、自分の好奇心に対するあとの報いなど、少しも恐れずにこう言った。
「まあ、あなた何という手をしてらっしゃるのでしょう、ドミートリイさま、まるで血だらけじゃございませんか!」
「ああ。」ぼんやりと自分の手を見廻しながら、ミーチャは機械的に答えたが、その手のこともフェーニャの問いも、すぐに忘れてしまった。
 彼はまた沈黙におちいった。ここへ駆け込んでから、もう二十分ばかりたった。さきほどの驚愕は鎮まりはてて、その代り何かしら新しい確固たる決心が、彼の全幅を領したようなふうつきであった。とつぜん彼は席を立って、もの思わしげに微笑した。
「旦那さま、一たいあなたはどうなすったのでございます?」またもや彼の手を指さしながら、フェーニャはこう言った。その調子には深い同情が籠っていて、まるで今の彼の不幸を慰めるべき、きわめて親身な人間かなんぞのように思われた。ミーチャはふたたび自分の両手を眺めた。
「これは血だ、フェーニャ、」奇妙な表情をして相手を見つめながら、彼は言った。「これは人間の血だ。ああ、何のために流した血だろう? しかし、フェーニャ、ここに一つの塀がある(彼は謎でもかけるような目つきで女を眺めた)、それは高い塀だ、そして見かけはいかにも恐ろしい、しかし……あす夜があけて『太陽が昇ったら』、ミーチェンカは、この塀を飛び越すのだ……フェーニャ、お前はどんな塀だかわからないだろう。いや、何でもないんだよ……まあ、どっちでもいい、明日になったら噂を聞いて、なるほどと思うだろう……今日はこれでさようならだ! おれは邪魔なんかしない、道を譲る。おれにだって道を譲ることができるよ。わが悦びよ栄えあれ……たった一ときおれを愛してくれたそうだが、そんならミーチェンカ・カラマーゾフを永久に憶えておってくれ……なあ、おい、おれはおれのことをミーチェンカと言ってたなあ、覚えてるだろう?」
 この言葉とともに、彼はいきなり、台所をぷいと出てしまった。フェーニヤはさきほど彼が駆け込んで自分に飛びかかった時よりも、こうした出方に一そう驚かされたのである。
 ちょうど十分の後、ミーチャはさきほどピストルを質入れした若い官吏、ピョートル・イリッチ・ペルホーチンの家へ入った。それはもう八時半であった。ペルホーチンは茶を飲み終って、料理屋の『都』へ玉突きに行くつもりで、たった今フロックを着直したばかりであった。ミーチャはその出立ちを抑えたのである。こっちはその姿を――血に汚れた顔を見るやいなや、思わず声をつつ抜けさした。
「おやっ! 君はまあ、どうしたんです?」
「あのね」とミーチャは早口に言いだした。「僕はさっきのピストルをもらいに来たんです。金も持って来ました。どうも有難う。僕いそぐんですからね、ピョートル・イリッチ、どうか早くして下さい。」
 ペルホーチンはますます驚きを深くするばかりであった。ミーチャの手に、一束の紙幣《さつ》が握られているのに気がついたのだ。が、何より不思議なのは、彼がこの金を握ったまま入って来たことである。こんなふうに金を握ったまま入って来る人はどこにもない。しかも、その紙幣をみんな右手で一握りにして、さも自慢らしく前のほうへさし出しているではないか。控え室でミーチャを出迎えたこの家のボーイは、彼が金を持ったまま控え室へ入って来た旨を、後になって話したが、これによってみると、彼は往来でもやはり金を握った右手を、前のほうへさし出しながら歩いたものらしい。金はみんな虹色をした百ルーブリ紙幣であった。彼はそれを血みどろの指で挾んでいたのである。ずっと後になって、当路の人たちが、金はどれくらいあったかと訊いた時、ペルホーチンはこう答えた、――あの時は目分量で勘定することはできなかったけれど、二千ルーブリか、ことによったら三千ルーブリ、とにかく大きな『かなり厚みのある』束であった。
 当のミーチャが同様にあとで申し立てたところによると、『あの時はほんとうに正気づいていないらしかったけれども、決して酔ってはいない。ただ何となく有頂天になってしまって、恐ろしくそわそわしていながらも、それと同時に、心が一ところに集注されているようであった。つまり、何やらしきりに考えようとあせっているくせに、どうしても解決することができない、といったようなあんばいであった。非常に心がせかせかしていたから、返事の仕方も奇妙に角立って、どうかすると、悲しい目にあったというようなところは少しもなく、かえって愉快そうに見えたほどである。』
「え、一たい君はどうしたんです、本当に今日はどうしたんです?」ペルホーチンはきょろきょろと客を見廻しながら、ふたたびこう叫んだ。「どうしてそんなに血みどろになったんです。転ぶかどうかしたんですか、まあ、ごらんなさい!」
 彼は相手の肘を摑まえて、鏡の前へ立たした。ミーチャは血で汚れた自分の顔を見ると、ぶるっと身を慄わして、腹立たしげに眉をしかめた。
「ええ、畜生! まだその上にこんな……」と彼はにくにくしげに呟いて、手早く紙幣を右から左の手へ持ちかえると、痙攣的にかくしからハンカチを引っ張り出したが、ハンカチもやはり血みどろで(これは例のグリゴーリイの頭や顔を拭いたハンカチである)、ほとんど一点として白いところはなかった。そして、生乾きどころでなく、もうすっかり一塊に固ってしまい、ひろげようとしても容易にひろがらなかった。
 ミーチャはにくにくしげにそれを床へ叩きつけた。
「ええ、こん畜生! 君、何か切れはありませんか……ちょっと拭きたいんだが……」
「じゃ、君、汚れただけで傷をしたのじゃないんですね! それなら、いっそ洗い落したほうがいいでしょう」とペルホーチンは答えた。「さあ、ここに洗面器があります、これを貸しましょう。」
「洗面器? それはいい……しかし、こいつをどこへおいたもんでしょうね?」何だかひどく奇怪な当惑の色を浮べながら、相談するようにペルホーチンの顔を眺めつつ、ミーチャは例の百ルーブリ札の束を指さした。まるでペルホーチンが彼の金の置き場を決める義務でもあるかのように。
「かくしへお入れなさい。それとも、このテーブルヘのせといてもいいでしょう。なくなりゃしませんよ。」
「かくしへ、そうかくしがいい。これでよしと……いや、何してるんだ、こんなことはつまらんこった!」急にぼんやりした心持からさめて、こう叫んだ。「ねえ、君、まず初めにあのことを、ピストルのことを片づけようじゃありませんか。あれを僕に返して下さいな。これが君の金です……実は非常に、非常に入用なことができてね……それに時間がないんです、本当にこれっからさきもないんです……」
 彼は束の中から一番上の百ルーブリ札を取って、若い官吏にさし出した。
「ところが、僕のところにも釣銭《つり》がないでしょう」とこちらは言った。「君、細かいのを持ってませんか?」
「ありません」とミーチャはもう一ど束をちらと見てこう答えた。そして、自分の言葉に自信がないらしいふうで、指をもって上のほうから二三枚めくって見た。「ありません、みんなこんなのです」とつけたして、彼はもう一ど相談するようにペルホーチンを見やった。
「一たい君はどこでそんな金を儲けたんです?」こっちはこう訊ねた。「お待ちなさい、僕はうちのボーイをプロートニコフの店へやってみます。あそこの家は遅くまで店を開けているから、――ひょっとしたら替えてくれるかもしれません。おい、ミーシャ」と彼は控え室のほうを向いてこう叫んだ。
「プロートニコフの店へ――名案でしたね!」ミーチャはある想念に心を照らされたように叫んだ。「ミーシャ」と彼は入り来る少年に向って、「お前ひとつ、プロートニコフの店へ走って行って、ドミートリイ・カラマーゾフがよろしくって、それから今すぐ自分で出かけるからと、そう言ってくれないか……それから、まだある、いいかい、――僕が行くまでにシャンパンを、そうだなあ、三ダースばかり用意して、いつかモークロエヘ行った時のように、ちゃんと馬車に積み込んでおけってね……僕はあの時あそこの店で四ダース買ってやったんですよ(と彼は急にペルホーチンのほうへ向いてこう言った)。――あそこじゃよく知ってるから、心配することはないよ、ミーシャ」と彼はまたボーイのほうへ振り向いた。「それから、いいかい、チーズに、ストラスブルクのパイに、燻製の石斑魚《シーダ》に、ハムにイクラに……いや、もうみんなみんな、あそこの店にありったけ注文してくれ。そうだな、百ルーブリか百二十ルーブリか、つまり、この前の時と同じくらいあればいいんだ……それから、いいかい、お土産物も忘れないようにな、菓子に、梨に、西瓜を二つか三つか、それとも四つ――いや、西瓜は一つでたくさんだ。それからチョコレートに、氷砂糖に、果物入氷砂糖《モンパンシエ》に、飴に――いや、あの時モークロエヘ積んで行ったものは、すっかりいるんだ。シャンパンを入れて三百ルーブリくらいもあったろう……つまり、今度もあの時と同じにしたらいいのだ。いいか、よく覚えて行くんだぞ、ミーシャ、お前ミーシャといったっけなあ……この子はミーシャというんでしたね?」ふたたび彼はペルホーチンのほうへ振り向いた。
「まあ、お待ちなさい。」不安げに彼の言葉を聞き、彼の様子を眺めていたペルホーチンは、こう遮った。「君いっそ自分で出かけて、自分で注文したほうがいいでしょう。でないと。[#「でないと。」はママ]こいつでたらめを言いますからね。」
「でたらめを言います、まったくでたらめを言いそうです! おい、ミーシャ、おれはお前を使うかわりに、接吻してやろうと思ってたんだがなあ……もしでたらめを言わなかったら、お前に十ルーブリくれてやる、早く駆け出して来い………シャンパンが一ばん大事なんだぞ、シャンパンを積み出すようにな。それから、コニヤクも、赤葡萄酒も、白葡萄酒も、何もかもあの時のとおりだ……あそこの店ではもうちゃんと知ってる、あの時のとおりだ。」
「まあ、僕の言うことをお聞きなさい!」もうじりじりしながら、ペルホーチンは遮った。「こいつには、ただ一走り行って両替させて、まだ店を閉めずにおけと言わしたらいいでしょう。それから、君が出かけて、自分で言いつけるんです……その紙幣をお貸しなさい。さあ、ミーシャ、進めっ、おいちに!」
 ペルホーチンはわざと急いで、ミーシャを追い出したらしい。というのは、ボーイは客の前に出て来ると、血みどろの顔や、慄える指に紙幣《さつ》束を握っている真っ赤な両手を、目を皿のようにして眺めながら、驚きと恐れのために口をぽかんと開け、棒のように立ちすくんだまま、ミーチャの言いつけなどろくろく耳に入れていない様子だったからである。
「さあ、これから顔を洗いに行きましょう」とペルホーチンはきびしい調子で言った。「金はテーブルの上におくか、かくしへ入れるかおしなさい……そうそう、じゃ出かけましょう。しかし、フロックは脱いだほうがいいでしょう。」
 彼は自分でも手伝って、フロックを脱がせにかかったが、ふいにまた叫び声を上げた。
「ごらんなさい、フロックまで血になっていますよ!」
「これは……これはフロックじゃありませんよ。ただちょっと袖のところが……ああ、これはハンカチのはいったところです。かくしの中から滲み出したんですよ。僕はフェーニャのところで、ハンカチを下に敷いて坐ったもんだから、それで血が滲み出したんですよ。」何だか不思議なくらい呑気な調子で、ミーチャはすぐにこう説明した。
 ペルホーチンは眉をしかめながら聞いていた。
「とんでもないことをしたもんですね、きっと誰かと喧嘩したんでしょう」と彼は呟いた。
 やがて手水《ちょうず》にかかった。ペルホーチンは水差しをもって、水をそそぎ始めた。ミーチャはせかせかしていたので、手にろくろく石鹸をつけなかった(彼の手がぶるぶる慄えていたことを、ペルホーチンはあとで思い起した)。ペルホーチンはすぐに、もっとたくさん石鹸をつけて、もっと強くこするように命令した。このとき彼はミーチャに対して、一種の権力を握っているような工合で、それが先へ行くにしたがって、だんだんはっきりと認められた。ついでに言っておくが、この若い官吏はなかなか胆の据った男であった。
「ごらんなさい、まだ爪の下がよく洗えてないじゃありませんか。さあ今度は顔をおこすりなさい。それ、そこですよ、こめかみの上、耳のそば……一たいあなたはそのシャツを着て出かけるんですか? そして、どこへ行くんです? ごらんなさい、右袖の折り返しがすっかり血だらけになってますよ。」
「ええ、血だらけになっています。」シャツの袖の折り返しをと見こう見しながら、ミーチャは答えた。
「じゃ、シャツを替えませんか。」
「暇がないんですよ、僕はね、ほら、こうして……」もうタオルで顔と両手を拭き終って、フロックを着ながら、例の呑気らしい調子でミーチャは語をついだ。「袖を折り込んどきますよ。そうしたら、フロックの下になって見えやしないでしょう……ね?」
「今度は一つ、どこでそんなことをしたのか聞かせて下さい。誰かと喧嘩でもしたんですか? またいつかのようにあの料理屋じゃないんですか? またあの時と同じ二等大尉が相手じゃありませんか、あの男を擲ったり、引き摺ったりしたんじゃありませんか?」何となく咎めるような口振りで、ペルホーチンはこないだのことを言いだした。「一たいまた誰を殴りつけたんです……それとも殺したんじゃありませんか?」
「つまらんこってすよ!」とミーチャは言った。
「どうつまらんのです?」
「よしときましょうよ」と言って、突然ミーチャはにたりと笑った。「これはね、たったいま広場で一人の婆さんを押し潰したんです。」
「押し潰した? 婆さんを?」
「爺さんです!」とミーチャは相手の顔をひたと見つめて笑みをふくみながら、聾にでもものを言うように大声で呶鳴った。
「ええ、ばかばかしい、爺さんだの婆さんだの……一たい誰か殺したんですか?」
「仲直りしましたよ。はじめ突っかかったけれど、すぐ仲直りしました、あるところでね。別れる時には、親友のようになりましたよ。ある馬鹿者ですがね……その男が僕を赦してくれましたよ……今頃はきっと赦してくれたに相違ありません……しかし、もし足が立ったら、赦してくれたに相違ありません。」ふいにミーチャはぽちり[#「ぽちり」はママ]と瞬きした。「しかし、どうだっていいんですよ。ピョートル・イリッチ、どうだっていいんですよ。必要のないことですよ! いま話すのが厭なんです!」きっぱりと断ち切るようにミーチャはこう言った。
「いや、僕がこんなことを言いだしたのは、あんまり誰かれの見さかいなしにかかり合うのは、感心した話でないと思ったからです……あの時の二等大尉事件みたいな、つまらないことのためにね……しかし、喧嘩をしておいて、もうさっそく騒ぎに行こうなんて、――君の性格がそっくり出ていますよ! シャンパン三ダースなんて、何だってそんなにいるんです。」
「ブラーヴォ! さあ、今度はピストルを下さい。まったく時間がないですから。実際、君とは少し話がしたいんだけれども、時間がなくってね。それに、そんな必要は少しもない。もう話をするのは遅いよ。あっ! 金はどこにあるかしら、どこへおいたろう?」と叫んで、彼はほうぼうのかくしへ両手を突っ込みはじめた。
「テーブルの上へおいたじゃありませんか……君が自分で……そら、あすこにありますよ、忘れたんですか? まったく君にとっては金も塵あくたか湯水同然ですね。さあ、君のピストルを上げましょう。しかし、さっき五時すぎにはこれを十ルーブリで質入れしながら、今はそのとおり何千という金が君の手にある、どうも不思議ですね。二千、三千ありましょう?」
「たぶん三千ぐらいありましょう」とミーチャはズボンのかくしに金を押し込みながら、そう言って笑った。 
「そんなことをしたら落しますよ。ほんとに君は金鉱でも持ってるんですか?」
「金鉱? 鉱山?」とミーチャはカーぱいに喚いて、急にからからと笑った。「ピョートル・イリッチ、君は鉱山ゆきがお望みですか。この町のある一人の婦人がね、ただどうかして君に金鉱へ行ってもらいたさが一ぱいで、すぐに三千ルーブリ投げ出してくれますよ。僕にも投げ出してくれたんですがね。恐ろしい鉱山の好きな婦人ですよ! ホフラコーヴァ夫人を知ってますか?」
「知合いじゃありませんが、噂を聞いたことも見たこともあります。一たいあの人が君に三千ルーブリくれたんですか? 本当に投げ出したんですか?」とペルホーチンは不審げな目つきで相手を眺めた。
「じゃ君、あす太陽が昇った時、永久に若々しいアポロが神を讃美しながらさし昇った時、あのひとのところへ、ホフラコーヴァ夫人のところへ行って、僕に三千ルーブリ投げ出したかどうか、訊いてごらんなさい。一つ調査してごらんなさいよ。」
「僕は君がたの関係を知りませんから……君がそうきっぱり言いきるところを見ると、本当にくれたんでしょう……ところで、君はそんなに金を鷲摑みにして、シベリヤへ行くかわりに、どこかへどろんをきめこむんですか……しかし、本当にこれからどこへ行くんです、え?」
「モークロエヘ。」
「モークロエヘ? だって、もう夜ですよ!」
「もとは何不自由ないマストリュークだったが、今は無一物のマストリュークになっちゃった!」だしぬけにミーチャがこう言った。
「どうして無一物です? そんなに幾千という金を持って、それでも無一物ですか?」
「僕が言うのは金のことじゃありません! 金なんかどうともなれだ! 僕は女心を言ってるんですよ。

  変りやすいは女気よ
  まことがのうて自堕落で

 僕はユリシーズに同感ですね、これはウリスの言ったことですよ。」
「僕には君の言うことがわかりません。」
「酔っ払ってでもいますかね?」
「酔っ払ってはいませんが、それよりなお悪いですよ。」
「僕は精神的に酔っ払ってるんですよ、ピョートル・イリッチ、精神的に……いや、もうたくさんたくさん。」
「君どうしたんです、ピストルなんか装塡して?」
「ええ、ピストルを装塡するんです。」
 ミーチャは本当にピストルの入った函を開けて、火薬入れの筒の蓋をとり、一生懸命に、それを装塡しているのであった。やがて彼は弾丸《たま》を取り出したが、それを塡める前に二本の指でつまんで、目の前の蠟燭の火にすかして見た。
「何だって君は、そんなに弾丸を見てるんです?」ペルホーチンは不安げな好奇心をもって見まもっていた。
「なに、ちょっと。考えてるんですよ。もし君がこの弾丸を自分の脳天へ打ち込もうと考えたとする、そうすればピストルを装塡する時に、その弾丸を見ますか見ませんか?」
「何のために見るんです?」
「僕の脳天へ入って行く弾丸がどんな恰好をしているか、ちょっと見てみると面白いじゃありませんか……しかし、くだらんことだ、ちょっと頭に浮んだつまらん話だ。さあ、これでおしまいだ。」彼は弾丸を装塡し終って、麻屑でつめをしながらこうつけたした。「ペルホーチン君、つまらん話だよ、何もかもつまらん話だよ。本当にどれくらいつまらん話かってことが、君にわかったならばなあ! ところで、今度は紙切れを少しくれたまえな。」
「さあ、紙切れ。」
「いや、すべっこい綺麗なのを、字を書くんだから、それそれ。」
 ミーチャはテーブルからペンを取って、その紙にさらさらと二行ばかり何やらしたためると、四つに折ってチョッキのかくしへ押し込んだ。二挺のピストルは函に納めて鍵をかけ、両手に取り上げた。それから、ペルホーチンを見やって、引き伸ばしたようなもの思わしげな微笑を浮べた。
「さあ、出かけよう」と彼は言った。
「どこへ出かけるんです? いや、まあ、お待ちなさい……君はひょっとしたら、自分の脳天へそいつを打ち込むんじゃありませんか、その弾丸を……」とペルホーチンは不安げに言った。
「弾丸なんかつまらんことです! 僕は生きたいのだ、僕は生を愛するのだ! 君これを承知してくれたまえ、僕は金髪のアポロとその熱い光線を愛するのだ……ねえ、ペルホーチン君、君はよけることができるかい?」
「よけるとは?」
「道を譲ることなんだ。可愛い人間と憎い人間に道を譲ることなんだ。そして、その憎い人間も可愛くなるように、――道を譲ってやるんだよ。僕はその二人のものにこう言ってやる、無事においで、僕のそばを通り抜けておいで、僕は……」
「君は?」
「もうたくさん、出かけよう。」
「本当に、もう誰かに言わなくちゃならない(とペルホーチンは相手を見つめながら)、君をあそこへやっちゃ駄目だ。何だっていま時分モークロエヘ行くんです?」
「あそこに女がいるんです、女が。しかし君、もうたくさんだよ、ペルホーチン君、もうこれでおしまいだ!」
「ねえ君、君は野蛮な人間だ、が、僕はいつも君という人が気に入っているんです……だから、僕はこのとおり心配でたまらない。」
「有難う。君は僕のことを野蛮だと言ったが、人間はみんな野蛮だよ、野蛮人だよ! 僕はただこれ一つだけ断言しておく、野蛮人だ! ああ、ミーシャが帰って来た。僕はあの子のことを忘れていた。」
 ミーシャは両替えした金の束を持って、せかせかと入って来た。そして、プロートニコフの店では『みんなが騒ぎだして』酒の罎や魚や茶などを引っ張り出している、今にすっかり支度がととのうだろうと、報告した。ミーチャは十ルーブリの札を取り出して、ペルホーチンに渡し、いま一枚をミーシャの手に握らした。
「それは失礼ですよ!」とペルホーチンは叫んだ。「僕の家でそんなことはさせません。かえって悪い癖をつけるばかりです。その金をお隠しなさい。そこへ入れたらいいでしょう。何もそんなに撒き散らすことはありませんよ。早速あすにもその金が役に立つかもしれやしない。そんなことをすると、今にまた僕のところへ、十ルーブリ貸してくれなどと言って来るんだから。何だって君は金をわきのかくしにばかり突っ込むんです? いけません、おっことしますよ!」
「ねえ、君、一緒にモークロエヘ行かない?」
「僕が何のためにそんなところへ行くんです?」
「じゃね、君、いますぐ一本抜いて、人生のために乾そう[#「乾そう」はママ]じゃないか! 僕は一口のみたくなった。が、しかし、何より一ばん好ましいのは、君と一緒に飲むことだ。僕と君と一緒に飲んだことは、まだ一度もないね、え?」
「じゃ、料理屋でやったらいいでしょう。出かけましょう。僕もこれから行こうかと思ってたところなんだから。」
「料理屋へ行ってる暇はない。そんならプロートニコフの奥の間にしよう。ところで、なんなら、僕はいま君に一つ謎をかけてみようか。」
「かけてみたまえ。」
 ミーチャはチョッキのかくしから例の紙切れを取り出して、ひろげて見せた。それにはくっきりとした大きな字で、次のように書いてあった。
『全人生に対してわれみずからを刑罰す、わが生涯を処罰す!』
「本当に僕は誰かに言いますよ。これからすぐ行って知らせますよ。」ペルホーチンは紙切れを読み終ってこう言った。
「間に合わないよ、君、さあ、行って飲もう、進めっ!」
 プロートニコフの店はペルホーチンの住まいから、ほとんど家一軒しか隔てていない通りの角にあった。それは金持の商人が経営している、この町でも一ばん大きな雑貨店で、店そのものもなかなか悪くなかった。首都の大商店にある雑貨品は、どんなものでもおいてあった。『エリセーエフ兄弟商会元詰め』の葡萄酒の罎、果物、シガー、茶、砂糖、コーヒー、そのほか何でもある。店先にはいつも番頭が三人坐っていて、配達小僧が二人走り廻っている。この地方は一般に衰微して、地主らはちりぢりになり、商業は沈滞してしまったけれど、雑貨の方は依然として繁昌するのみか、年々少しずつよくなってゆくくらいであった。こういう商品に対しては、客足が絶えないからである。店では今か今かと、ミーチャを待ちかねていた。店のものは三四週間まえ、彼がやはり今度と同じように、一時にありとあらゆる雑貨品や酒類を、現金何百ルーブリかで買い上げたことを、憶えすぎるほどよく憶えていた(むろん、かけ売りならミーチャに何一つ渡すはずがない)。その時も今度と同じように、虹色札の大束を手にひん握って、何のためにこれほどたくさんの食料や酒が必要なのか、ろくろく考えもせず、また考えようともしないで、べつに値切ろうとするふうもなく、やたらに札びらを切ったことも、彼らはよく憶えている。
 当時、彼はグルーシェンカと一緒にモークロエヘ押し出して、『その夜と次の日と、僅かこれだけのあいだに、三千ルーブリの金をすっかりつかいはたし、この豪遊の帰りには赤裸の一文なしになっていた』と、こんな噂が町じゅうにひろがったのである。彼はその時、この町に逗留していたジプシイの一隊を総あげにしたが、その連中は二日の間に、酔っ払っているミーチャから勘定も何もなく、めちゃめちゃに金を引っ張り出し、高価な酒をがぶ呑みに飲んだとのことである。人々は、ミーチャがモークロエで穢らわしい百姓どもにシャンパンを飲ましたり、田舎の娘っ子や女房どもに、ストラスブルクのパイやいろいろの菓子を食べさせたりしたと言って、笑いながら噂しあっていた。またミーチャ自身の口から出た、人まえはばからぬ大っぴらなある一つの告白をも、人々は同様笑い話の種にしていた。ことに料理屋ではそれがなおひどかった(しかし、面と向って笑うものはなかった。面と向って笑うのは、少々危険であった)。ほかでもない、こんな無鉄砲なことをして、彼がグルーシェンカから得たものは、『女の足を接吻さしてもらっただけで、それよりほかは何も許してもらえなかった』とのことである。
 ミーチャがペルホーチンとともに店へ近づいた時、毛氈を敷いて小鈴をつけた三頭立馬車《トロイカ》が、ちゃんと入口に用意されて、馭者のアンドレイがミーチャを待ち受けていた。店の中ではもうほとんど品物を一つの箱に詰め終って、ただミーチャさえやって来れば、すぐ釘を打って車に積めるようにして待っていた。ペルホーチンはびっくりして。
「おや、一たい今の間に、どこから三頭立馬車《トロイカ》なぞ引っ張って来たの?」とミーチャに訊いた。
「君のとこへ走って行く途中、これに、アンドレイに出会って、さっそくこの店へ車を持って来るように、言いつけといたのさ。時間を無駄にすることはいらないからね! この前はチモフェイの馬車で行ったが、今度チモフェイは、妖姫と一緒に、僕より先につつうと飛んで行っちゃったんだ。おい、アンドレイ、だいぶ遅れるだろうな?」
「チモフェイはわっしらより、小一時間さきに着くくらいのもんでがしょう。まあ、それもおぼつかない話でがすが、とにかく一時間くらいしきゃ先にならんでしょうよ」とアンドレイは忙しそうに答えた。「チモフェイの車もわしが仕立ててやったんでがすよ。わっしはあいつの馬の走らせ方を知ってますが、あいつの走らせ方は、わっしらのたあまるで違ってまさあ、旦那さま。あいつなざあ、わっしの足もとにもよれやあしません。なに、一時間も先に着けるもんですか!」まだ血気さかんな馭者のアンドレイは、熱心にこう遮った。彼は髪の赤味がかった痩せた若い者で、身には袖なしを着け、手には粗羅紗の外套を持っていた。
「もし一時間くらいの遅れですんだら、五十ルーブリの酒手だ。」
「一時間なら大丈夫でがすよ。旦那さま、なに、一時間はさておき、三十分も先に着かしゃしませんよ。」
 ミーチャは何くれと指図をしながら、しきりにそわそわしていたが、話をするのも用を言いつけるのも、ものの言い方が妙にばらばらにこわれたようで、きちんと順序だっていなかった。何か言いかけても、締めくくりをつけるのを忘れてしまうのであった。ペルホーチンは自分でもこの事件に口をいれて、力を貸す必要があると感じた。
「四百ルーブリだぞ、四百ルーブリより少くちゃいかん。何から何まであの時のとおりにするんだぞ」とミーチャは号令をかけるように言った。「シャンパン四ダース、一罎欠けても承知しないから。」
「何だって君、そんなにいるんだい、一たい何にするの? 待て!」と、ペルホーチンは叫んだ。「この箱はどうした箱なんだ? 何が入ってるんだ。一たいこの中に四百ルーブリのものが入ってるのか?」
 忙しそうに往ったり来たりしていた番頭らは、さっそく甘ったるい調子で、この箱の中にはシャンパンが僅か半ダースに、ザクースカや果物やモンパンシエや、その他『口切りにぜひなくてはならない物だけ』入れてあるので、おもな『ご注文品』はあの時と同じように、ただ今さっそく別な馬車に積み込んで、やはり三頭立《トロイカ》で十分間に合うようにお送りします、と説明した。『旦那さまがお着きになってから、ほんの一時間ばかりだったころ、向うへ着くようにいたします。』
「一時間より延びちゃいかんぞ、きっと一時間より延びないように。そして、モンパンシエと飴を、できるだけよけいに入れてくれ、あそこの娘どもの大好物だから」とミーチャは熱くなって念をおした。
「飴――よかろう。しかし、君、シャンパン四ダースもどうするんだい? 一ダースでたくさんだよ!」ベルホーチンはもうほとんどむきになっていた。
 彼は番頭と談判したり、勘定書を出させたりして、なかなか黙っておとなしくしていなかった。しかし、全体で百ルーブリほど勘定を減らしただけである。結局、全体で三百ルーブリよりよけい品物を届けないように、というくらいのところで妥協してしまった。
「ええ、みんな勝手にするがいい!」急に考えを変えたらしく、ペルホーチンはこう叫んだ。
「僕に何の関係があるんだ? ただで儲けた金なら勝手に撒くがいいさ!」
「こっちへ来たまえ、経済家先生、こっちへ来たまえ、怒らなくてもいいよ」とミーチャは店の奥の間へ彼を引っ張って行った。「今すぐここへ罎を持って来るから、一緒にやろうじゃないか。ねえ、ペルホーチン君、一緒に出かけようじゃないか。だって君は本当に可愛い人なんだもの、僕は君のような人が好きさ。」
 ミーチャは編椅子の上に腰をおろした。前の小卓には汚れ腐ったナプキンが被せてあった。ペルホーチンはその真向いに座を占めた。シャンパンはすぐに運ばれた。「みなさん牡蠣はいかがでございます。ごく新しく着いたばかりの、飛切り上等の牡蠣でございますが」と店のものはすすめた。
「牡蠣なんか真っ平だ、僕は食べない、それに何もいりゃしないよ」とペルホーチンは、ほとんど噛みつくように毒々しく言った。
「牡蠣なんか食べてる暇はない」とミーチャは言った。「それに、ほしくもないよ。ねえ、君」と彼は突然、感情のこもった声で言いだした。「僕はこんな無秩序なことが大嫌いだったんだよ。」
「誰だってそんなものを好くやつはありゃしない! まあ、考えてもみたまえ、シャンパンを三ダースも百姓に買ってやるなんて、誰だって愛想をつかしてしまわあね。」
「僕の言うのはそんなことじゃない。僕はもっと高い意味の秩序を言ってるんだよ。僕には秩序というものがない、高い意味の秩序というものが……しかし、それもこれもみんなすんでしまった。くよくよすることはない、今はもう遅い、もうどうとも勝手にしろだ! 僕の一生は乱雑の連続だった、いよいよ秩序を立てなくちゃならん。僕は口合いを言ってるんだろうか、え?」
「寝言を言ってるんだよ、口合いじゃない。」

  世界の中なる神に栄《はえ》あれ
  われの中なる神に栄あれ!

 この詩はいつだったか、ふいに僕の魂からほとばしり出たんだ。詩じゃない、涙だ……僕が自分で作ったのだ……しかし、あの二等大尉の髯を捉まえて、引っ張った時じゃないよ……」
「何だって君、急にあの男のことなんか言いだすの?」
「何だって急にあの男のことを言いだすのかって? くだらんこったよ! 今にすっかり片がつく。今にすっかりなだらかになるよ! もうちょっとでけりがつくのだ!」
「まったく僕はどうも君のピストルが気がかりでならない。」
「ピストルもくだらんこったよ! とてつもないことを考えないで、飲みたまえ。僕は生を愛する。あまり愛しすぎて醜劣になったくらいだ。もうたくさんだ! 生のために……君、生のために飲もうじゃないか。僕は生のために乾杯を提言する!なぜ僕は自分で自分に満足してるんだろう? 僕は陋劣だけれど自分で自分に満足している。僕は自分が陋劣だという意識に悩まされてはいるけれど、しかし自分で自分に満足している。僕は神の創造を祝福する。僕は今すぐにも悦んで神と神の創造を祝福するが、しかし……まず一匹の臭い虫けらを殺さなくちゃならん、こそこそとその辺を這い廻って、他人の生活を傷つけないようにしなくちゃならん……ねえ、君、生のために飲もうよ! 一たい生より尊いものが、どこにある! 何もない、決してない! 生のために、そして女王の中の女王のために!」
「生のために飲もう、そしてまあ、君の女王のために飲んでもいい。」
 二人は一杯ずつ飲んだ。ミーチャは有頂天になってそわそわしていたが、何となく沈みがちな様子であった。ちょうど征服することのできない重苦しい不安が、目の前に立ち塞かっているかのようであった。
「ミーシャだ……ほら、君のミーシャがやって来た。ミーシャ、いい子だ、ここへ来い、そして明日の金髪のアポロのためにこの杯を乾してくれ……」
「君、何だってあの子に!」とペルホーチンはいらだたしげに叫んだ。
「まあ、大目にみてくれたまえ、ね、いいだろう、ね、僕こうしてみたいんだから。」
「ええっ、くそ!」
 ミーシャはぐっと飲みほして、一つ会釈すると、そのまま逃げ出してしまった。
「ああしといたら、長い間おぼえていてくれるだろう」とミーチャは言った。「僕は女が好きだ、女が! 女とは何だと思う? 地上の女王だ! 僕はもの悲しい、何だかもの悲しいよ、ペルホーチン君、君ハムレットを憶えているかい?『わしは何だかもの悲しい、妙にもの悲しいのだ、ホレーシオ……あわれ不憫なヨリックよ!』僕はあるいはこのヨリックかもしれない。ちょうどいま、僕はヨリックなのだ、髑髏《しゃれこうべ》はもっと後のことだ。」
 ペルホーヂンは黙って聞いていた。ミーチャもちょっと言葉を休めた。
「そこにいる君んとこの犬は何ていう犬だね?」とミーチャは、隅のほうにいる目の黒い、小さな可愛い狆に目をつけて、だしぬけにとぼけたような調子で番頭に訊ねた。
「これはヴァルヴァーラさまの、うちのお内儀さんの狆でございます」と番頭は答えた。「さっきこちらへ抱いていらしって、そのまま忘れてお帰りになったのでございます。お届けしなければなりますまい。」
「僕はちょうどこれと同じようなものを見たことがある……連隊でね……」とミーチャはもの案じ顔にこう言った。「ただ、そいつは後足を一本折られてたっけ……ペルホーチン君、僕はちょっとついでに訊きたいことがあるんだよ。君は今までいつか盗みをしたことがあるかい?」
「なんて質問だろう!」
「いや、ちょっと訊いてみるだけなんだ。しかし、誰かのかくしから人のものを取ったことがあるかと訊くので、官金のことを言ってるんじゃないよ。官金なら誰でもくすねてるから、君だってむろんその仲間だろう……」
「ええ、黙って引っ込んでたまえ。」
「僕が言ってるのは人のもののことだよ。本当にかくしか紙入れの中から……え?」
「僕は一度、十の時に、母の金を二十コペイカ、テーブルの上から盗み出したことがある。そろっと取って、掌に握りしめたのさ。」
「ふふん、それで?」
「いや、べつにどうもしないさ、三日の間しまっておいたが、とうとう恥しくなってね、白状して渡してしまった。」
「ふふん、それで?」
「あたりまえさ、擲られたよ。ところで、君はどうだね、君自身も盗んだことがある?」
「ある。」ミーチャはずるそうに目をぽちりとさした。
「何を盗んだの?」とペルホーチンは好奇心を起した。
「母の金を二十コペイカ、十の時だった、三日たって渡してしまった。」
 そう言って、ミーチャはとつぜん席を立った。
「旦那さま、もうそろそろお急ぎになりませんか?」ふいにアンドレイが店の戸口からこう叫んだ。
「できたか? 出かけよう!」とミーチャはあわてだした。「もう一つおしまいに言っとくことがある……アンドレイにウォートカを一杯駄賃にやってくれ、今すぐだぞ! それからウォートカのほかに、コニャクも一杯ついでやれ! この箱(それはピストルの入った箱であった)をおれの腰掛けの下へ入れてくれ。さようなら、ペルホーチン君、悪く思わないでくれたまえ!」
「だけど、明日は帰るんだろう?」
「きっと帰る。」
「ただいまお勘定をすましていただけませんでしょうか?」と番頭が飛び出した。
「勘定、よしきた! むろんするとも!」
 彼は、ふたたびかくしから紙幣《さつ》束を摑み出し、虹色のを三枚抜き取って、勘定台の上へ抛り出し、急ぎ足に店を出て行った。一同はその後につづいた。そして、ぺこぺこお辞儀しながら、有難うやご機嫌よろしゅうの声々で一行を送った。アンドレイはたったいま飲みほしたコニャクに喉を鳴らしながら、馭者台の上へ飛びあがった。しかし、ミーチャがやっと坐り終るか終らないかに、突然、思いもよらぬフェーニャが彼の目の前に現われた。彼女はせいせいと肩で息をしながら駆けつけると、声高な叫びとともに彼の前に両手を合せ、いきなりどうとその足もとへ身を投げ出した。 
「旦那さま、ドミートリイさま、後生ですから、奥さまを殺さないで下さいまし! わたしはあなたに何もかも喋ってしまって!………そうして、あの方も殺さないで下さいまし。だって、あの方は前からわけのあった人なんですもの! アグラフェーナさまをお嫁におもらいなさるつもりで、そのためにわざわざシベリヤからお帰りになったのでございます……旦那さま、ドミートリイさま、どうか人の命を取らないで下さいまし。」
「ちぇっ、ちぇっ、これで読めた! 先生これからあっちへ行って、ひと騒ぎもちあげようというんだな!」とペルホーチンはひとりごとのように呟いた。「今こそ、すっかりわかった、今こそ厭でもわからあな。ドミートリイ君、もし君が人間と呼ばれたかったら、今すぐピストルをよこしたまえ」と彼は大声でミーチャに叫んだ。
「ねえ、ドミートリイ君!」
「ピストル? 待ちたまえ、僕は途中、溝の中へ抛り込んじゃうから」とミーチャは答えた。「フェーニャ、起きなよ、おれの前に倒れたりするのはよしてくれ。ミーチャは殺しゃしない、この馬鹿者もこれからさき、決して誰の命もとりゃしない。おい、フェーニャ。」もう馬車の上に落ちついて彼は叫んだ。「おれはさっきお前に失敬なことをしたが、あれは赦してくれ、可哀そうだと思って、この悪党を赦してくれ。しかし赦してくれなくたってかまやしない! 今となってはもうどうだって同じことだ。さあ、やれ、アンドレイ、元気よく飛ばせ!」
 アンドレイは馬車を出した。鈴が鳴り始めた。
「さようなら、ペルホーチン! 君に最後の涙を呈するよ!……」
『酔っ払ってもいないんだが、なんてくだらないことばかり言ってるんだろう?』ペルホーチンは彼のうしろ影を見送りながらこう考えた。店のものがミーチャをごまかしそうに感じられたので、同じく三頭立の荷馬車に食料や酒類を積み込むところを監視するために、残っていようかとも考えたが、急に自分で 自分に腹を立てて、ぺっと唾を吐き、行きつけの料理屋へ玉突きに出かけた。
「馬鹿だ、おもしろい、いい男だけれど……」とみちみち彼はひとりごちた。「グルーシェンカの『もとの男』とかいう将校のことはおれも聞いていた。ところで、もし向うへ着いたら、その時は……くそっ、どうもあのピストルが気になる? ええ、勝手にしろ、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? あんなやつうっちゃっとけ。それに、何も起るようなことはあるまいよ。ただのから気焔にすぎないんだ。酔っ払って喧嘩して、喧嘩して仲直りするのがおちだ。あんな連中は、要するに実行の人じゃないんだ。あの『道を譲ってみずからを刑罰す』って何のこったろう、――なあに、何でもありゃしない! あの文句は、料理屋でも酔っ払った勢いで、何べんどなったかもしれやしない。が、今は酔っ払っていない。『精神的に酔っ払ってる』と言ったっけ、――なに、気どった文句を並べるのが好きなんだ、やくざ者、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? 実際、喧嘩したには相違ない、顔じゅう血だらけだった。相手は誰かしらん? 料理屋へ行ったらわかるだろう。それに、ハンカチも血だらけだった、――いまいましい、おれんとこの床の上へ残して行きゃあがった……ええ、もうどうだっていいや!」
 彼は恐ろしく不機嫌な心持で料理屋へ入ると、さっそく勝負を始めた。遊戯は彼の心を浮き立たした。二番目の勝負が終った時、彼はふと一人の勝負仲間に向って、ドミートリイ・カラマーゾフにまた金ができた、しかも三千ルーブリからあるのを自分で見た、そうして彼はまたグルーシェンカと豪遊をするために、モークロエをさして飛んで行った、という話をした。この話は思いがけないほどの好奇心をもって聴き手に迎えられた。人々は笑おうともせず、妙に真面目な調子で話し始めた。勝負まで途中でやめになってしまった。
「三千ルーブリ? 三千なんて金が、どこからあの男の手に入ったんだろう?」
 人々はそのさきを訊ねにかかった。ホフラコーヴァ夫人に関する報告は半信半疑で迎えられた。
「もしや、じじいを殺して取ったんじゃないかなあ、本当に?」
「三千ルーブリ! 何だか穏かでないね。」
「あの男おやじを殺してやると、おおっぴらで自慢らしく吹聴していたぜ。ここの人は誰でも聞いて知ってるよ。ちょうどその三千ルーブリのことを言ってたんだからなあ……」
 ペルホーチンはこれを聞くと、急に人々の問いに対してそっけない調子で、しぶしぶ返事するようになった。ミーチャの顔や手についていた血のことは、おくびにも出さなかった。そのくせ、ここへ来る時には、話すつもりでいたのである。やがて三番目の勝負が始まって、ミーチャの話もだんだん下火になった。しかし、三番目の勝負がすむと、ペルホーチンはもう勝負をしたくなくなったので、そのままキュウをおき、予定の夜食もしないで料理屋を出た。広場まで来た時、彼は自分で自分にあきれるくらい、思い迷った心持で立ちどまった。彼はこれからすぐフョードルの家へ行って、何か変ったことは起らなかったか、と訊ねる気になっているのに、ふと心づいた。『つまらないことのために(きっとつまらないことなんだ)、よその家を叩き起して、不体裁を演ずるくらいがおちだ。ちぇっ、いまいましい、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのかい。』
 恐ろしく不機嫌な心持で、彼はまっすぐに家のほうへ足を向けたが、突然フェーニャのことを思い出した。『ええ、こん畜生、さっきあの女に訊いてみたら』と彼はいまいましさに呟くのであった。『何もかもわかったのになあ。』すると、とつぜん彼の心中に、この女と話をして事情を知りたいという、恐ろしく性急で執拗な希望が燃え立った。とうとう彼は半途にして踵を転じ、グルーシェンカの住まっている、モローソヴァの家へ赴いた。彼は門に近づいて戸を叩いた。が、夜の静寂の中に響きわたるノックの音は、急にまた彼の熱中した心を冷まして、いらいらした気分にしてしまった。おまけに家の人はみんな寝てしまって、誰ひとり応ずるものがなかった。『ここでもまた不体裁なことをしでかそうというのか!』もう一種の苦痛を胸にいだきながら、彼はそう考えたが、決然として立ち去ろうともせず、急に今度は力まかせに戸を叩き始めた。往来一ぱいに反響が生じた。『これでいいんだ、なんの、やめるもんか、叩き起すんだ、叩き起すんだ!』戸の一撃ごとに、ほとんどもの狂おしいほど自分自身に対して怒りを感じ、同時にノックを強めながら、彼はこう呟いた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟上』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社