『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟上』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P384-P433

棺の中を見つめた。なき人は胸に聖像をのせ、頭に八脚十字架のついた頭巾をかぶり、全身をことごとく蔽われたまま、じっと横たわっている。たった今この人の声を聞いたばかりで、その声はまだ耳に響いている。彼はまたじっと耳をすましながら、なおも声の響きを待ちもうけた……が、とつぜん身をひるがえして、庵室の外へ出た。
 彼は正面の階段の上にも立ちどまらず、足ばやに庭へおりて行った。感激に充ちた彼の心が、自由と空間と広濶を求めたのである。静かに輝く星くずに充ちた穹窿が、一目に見つくすことのできぬほど広々と頭上に蔽いかぶさっている。まだはっきりしない銀河が、天心から地平へかけて二すじに分れている。不動といってもいいほど静かな爽やかな夜は、地上を蔽いつくして、僧院の白い塔や黄金《きん》色をした円頂閣は、琥珀のごとき空に輝いている。おごれる秋の花は、家のまわりの花壇の上で、朝まで眠りをつづけようとしている。地上の静寂は天上の静寂と合し、地上の神秘は星の神秘と相触れているように思われた……アリョーシャは佇みながら眺めていたが……ふいに足でも薙がれたように、地上へがばと身を投じた。
 彼は何のために大地を抱擁したか、自分でも知らない。またどういうわけで、大地を残る隈なく接吻したいという、抑えがたい欲望を感じたか、自分でもその理由を説明することができなかった。しかし、彼は泣きながら接吻した、大地を涙でうるおした。そして、自分は大地を愛する、永久に愛すると、夢中になって誓うのであった。『おのが喜悦の涙をもってうるおし、かつその涙を愛すべし……』という声が彼の魂の中で響き渡った。一たい彼は何を泣いているのだろう? おお、彼は無限の中より輝くこれらの星を見てさえ、感激のあまりに泣きたくなった。そうして『自分の興奮を恥じようともしなかった。』ちょうどこれら無数の神の世界から投げられた糸が、一せいに彼の魂へ集った思いであり、その魂は『他界との接触に』顫えているのであった。彼は一切に対してすべての人を赦し、それと同時に、自分のほうからも赦しを乞いたくなった。おお! それは決して自分のためでなく、一切に対し、すべての人のために赦しを乞うのである。『自分の代りには、またほかの人が赦しを乞うてくれるであろう』という声が、ふたたび彼の心に響いた。しかし、ちょうどあの穹窿のように毅然としてゆるぎのないあるものが、彼の魂の中に忍び入るのが、一刻一刻と明らかにまざまざと感じられるようになった。何かある観念が、彼の知性を領せんとしているような心持がする、――しかもそれは一生涯、いな、永久に失われることのないものであった。彼が大地に身を投げた時は、かよわい青年にすぎなかったが、立ちあがった時は生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然としてこれを自覚した。自分の歓喜の瞬間にこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることができなかった。『あのとき誰か僕の魂を訪れたような気がする』と彼は後になって言った。自分の言葉に対して固い信念をいだきながら……
 三日の後、彼は僧院を出た。それは『世の中に出よ』と命じた、故長老の言葉にかなわしめんがためであった。
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[#1字下げ]第八篇 ミーチャ[#「第八篇 ミーチャ」は大見出し]



[#3字下げ]第一 商人サムソノフ[#「第一 商人サムソノフ」は中見出し]

 グルーシェンカが新生活を目ざして飛んで行く時、自分の最後の挨拶を伝えるように『命令し』、かつ自分の愛の一ときを生涯記憶するように言いつけた当の相手のドミートリイ・フョードロヴィッチは、そのとき恋人の身の上に起ったことを夢にも知らないで、やはり同様に恐ろしい惑乱と焦躁の渦中にあった。この二日間、彼は想像もできないような心の状態にあって、実際、後に自身でも言っていたように、脳膜炎でも起しはしないかと思われるほどであった。昨日の朝、アリョーシャも彼を捜し出すことができなかったし、イヴァンも同じ日に、旗亭における兄との会見をはたし得なかった。彼の下宿している家の人たちが、当人から口どめされて行先を隠していたのである。彼自身の言葉を借りて言うと、彼はこの二日間、『運命と闘っておのれを救わんがため』字義どおりに八方へ飛び廻っていたのである。そればかりか、たとえ一分間でも、グルーシェンカから監視の目をはなして、よそへ行くのは恐ろしいことであったが、ある火急な用事のため幾時間かのあいだ、町の外までも出かけたのである。これらのことは、その後きわめて詳細確実に記録の形をとって闡明せられたが、今は彼の運命の上に突如として爆発した、恐ろしいカタストロフにさきだつ二日間、彼の生涯において最も恐ろしい二日間の物語ちゅう、必要欠くべからざる部分のみを、事実ありのまま述べることにしよう。
 グルーシェンカは本当に心から、ほんの僅か一ときではあるが彼を愛した、それは事実である。しかし、同時に彼を苦しめもした。時とすると、真実残酷で、無慈悲な苦しめ方をした。彼にとって何より苦しいのは、女の意向を少しも推察できないことであった。機嫌をとったり、力ずくで靡かせようというのも、やはりできない相談であった。彼女が何ものにも屈服しないどころか、かえって立腹のあまり背を向けてしまうということは、彼も当時はっきり了解していた。その頃、彼は至極もっともな疑いをいだいていた。ほかでもない、彼女自身も何か心内の苦闘を経験しているのではあるまいか、何か非常な迷いにおちているのではあるまいか、何か断行しようと思いながら、依然として決心がつかぬのではあるまいか、という疑いであった。それゆえ、ドミートリイが、彼女は時とすると、情欲に燃え立つ男を憎んでいるに相違ない、とこんなことを想像してぞっとしたのも、あながち根拠のないことではなかった。
 実際そういうことがあったかもしれない。しかし、グルーシェンカが何を思い悩んでいるか、どうしても彼には了解できなかった。彼を苦しめる問題は、『自分ミーチャか、それとも父フョードルか?』という、この二つに縮めてしまうことができるのであった。ここでついでに、一つの確固たる事実を示しておく必要がある。彼は、父フョードルがぜひグルーシェンカに正当の結婚を(もし、まだ申し込んでいなかったら)申し込むにちがいないと、かたく信じて疑わなかった。あの『助平しじい』がただの三千ルーブリでおしまいにする気でいるなどとは、片時も信じたことがない。ミーチャがこういう結論を下したのは、グルーシェンカとその性質をよく承知していたからである。こういうわけであるから、グルーシェンカの苦しみも迷いも、ただただ親子のうちどっちを選んだらいいか、どっちが自分にとってためになるかを、自分でも決めかねるために起るのだ、とこんなふうにミーチャがときどき考えたのも、決して無理からぬ次第であった。
 例の将校、すなわちグルーシェンカの生涯に一転期を画した男、グルーシェンカがああした興奮と恐怖をもって、到着を待ちかねていた男のことは、奇妙な話であるが、その二三日のあいだ心に浮べたこともない。もっとも、グルーシェンカがこのころ彼に向って、この男のことをおくびにも出さなかったのは事実であるが、彼女が一月前に昔の誘惑者から手紙を受け取ったことは、彼も十分承知していたし、手紙の内容も大部分は知っていたのである。当時グルーシェンカはふと毒念の発作に駆られて、彼にこの手紙を見せたが、不思議にも、彼はこの手紙に何の価値をも認めなかった。理由を説明するのはむずかしいことであるが、あるいは、単にこの女を対象とする肉親の父親との醜悪な、恐ろしい争闘に心をひしがれていたため、少くともこれと同時に、より恐ろしい、より危険なことが出来《しゅったい》しようなどとは、しょせん想像することができなかったからかもしれない。五年も姿をくらましていた後に、突然どこからか飛び出したという男の存在など、てんから信じようとしなかった。まして、その男が近いうちにやって来るなどとは、いよいよ本当にならなかった。
 それに、ミーチャが見せてもらった『将校』の最初の手紙には、この新しい競争者の来訪も、きわめて漠然と書いてあるにすぎなかった。しかも、手紙ぜんたいは恐ろしく曖昧で、高調された文句と詠嘆的な調子に充ちていた。ついでにちょっと注意しておくが、その時グルーシェンカは、来訪の日時をやや具体的に語ってある手紙の最後の数行を、ミーチャに隠して見せなかった。それに、シベリヤから送ったこの手紙に対して、傲慢な軽蔑の色が、その瞬間、ひとりでにグルーシェンカの顔に浮んだのを、ミーチャはさとくも見てとった。彼はこんなことを思い出したのである。その後グルーシェンカは、この新しい競争者と自分との関係が、どんなふうに進んだかを、金輪際ミーチャに知らせなかった。というわけで、彼はだんだんとこの将校のことを忘れて行った。
 彼はただこう考えた。たとえ何事が起ろうとも、どんなふうに局面が一変しようとも、父フョードルとの最後の衝突は、もはや近々と目前に押し寄せているから、何よりもまっさきに解決を見るに相違ない。彼は胸のしびれるような思いをしながら、グルーシェンカの決心を今か今かと待っていた。そして、その決心は何かの感激によって、咄嗟の間に生じるものと固く信じていた。もし彼女が突然、『わたしを連れてってちょうだい、わたしは永久にあんたのものよ』と言ったら、――それで万事は終結するのだ。彼はすぐさま女の手をとって、世界の果てへつれて行く。おお、むろんすぐにできるだけ遠くへ連れて行く。たとえ世界の果てでないまでも、どこかロシヤの果てへなりと連れて行く。そうして、ここで彼女と結婚して、ここのものも向うのものも、誰ひとりとして自分たちのことを知るものがないように、秘密に二人で暮して行く。その時は、おお、その時こそはさっそく新しい生活が始まるだろう! こんなふうにぜんぜん別様な、更新された、しかも有徳《うとく》な生活を(ぜひとも、ぜひとも有徳な生活でなくてはならない)、彼は感激の情をいだきながら、絶えず空想した。彼はこの復活と更新を渇望しているのであった。もともと自分のすきで落ち込んだいまわしい泥沼が、すでにたえ得られぬほど苦しくなったので、彼はこんな立場におかれた多数の人と同じように、何よりも土地の転換に望みを嘱したのである。ただもうこんな人間がいなかったら、こんな事情がなかったら、こんないまわしい土地を飛び出しさえしたら、――すべてはたちまち更生して、新しい進行を始めることができるのだ! これが彼の望んでやまぬところであった。これが彼の憧憬するところであった。
 しかし、これはただ問題が幸福[#「幸福」に傍点]な解決を告げた、第一の場合にすぎなかった。まだもう一つの解決がある。もう一つ恐ろしい結果を予想することができる。もし彼女が突然、『さあ、出てお行き、わたしは今フョードルさんと相談して、あの人と結婚することに決めたから、お前さんには用がないんだよ』と言ったら、――その時は……その時は……しかし、ミーチャは、その時どうするか、自分でも知らなかった。最後の瞬間まで知らなかった。その点は彼のために弁護しなければならない。彼はしかとした計画を持っていなかった。犯罪行為を企らんではいなかった。彼は、あとをつけ廻して、間諜《いぬ》のような真似をして苦しんでいたが、それでもやはり、第一の幸福な解決を予想して、そのほうの準備ばかりしていた。それのみか、ほかの想念を一切おい払おうとしていたほどである。しかし、ここにまったく種類を異にした苦痛が生じた。全然あらたな第二義的な、とはいえやはり致命的な、解決のできない事情がもちあがったのである。
 ほかでもない、もし彼女が、『わたしはあんたのものよ、わたしを連れて逃げてちょうだい』と言った時、どうして連れて行ったらいいだろう? 自分はそれに対する方法、金をどこに持っているのだ? それまで何年かの間フョードルからもらっていた金が、ちょうどその時すっかり失くなってしまったのである。もちろん、グルーシェンカには金があるけれども、この点に関しては突然、ミーチャの心に、恐ろしいプライドが生じた。彼は自分で女を連れて逃げ、女の金でなく自分の金で、新しい生活が営みたかったのである。女から金を取るなどということは、想像もできなかった。そんなことは考えただけでも、苦しいほどの嫌悪を感じるのであった。とはいえ、今ここでこの事実を敷衍したり、分析したりするのはやめにして、ただそのころ彼の心の持ち方がそんなふうになっていたと、これだけのことを言っておこう。彼が泥棒のようなやり方で着服したカチェリーナの金に関する秘密な心の苦しみから、間接に無意識にこういう心持が生じるのは、きわめてあり得べきことであった。『一方の女に対しても陋劣漢となっているのに、またもやそんなことをしたら、いま一方の女に対しても、さっそく陋劣漢となってしまう。』当時こんなふうに考えていたと、彼は後になって告白した。『それに、グルーシェンカだって、もしこのことを聞いたら、そんな心の汚い人はいやだと言うに相違ない。』で、要するに、この金をどこで調達したらいいか、どこでこの運命的な金を手に入れることができるか、これが問題なのである。もしこれができなければ一切が瓦解してしまう、一切が成り立たなくなる。『しかも、それがただただ金のたりないためなのだ、おお、なんて浅ましいこった!』
 さき廻りをして言っておくが、彼はこの金をどこで調達したらいいか、ちゃんと承知していたかもしれぬ。それどころか、その金がどこにあるかということまで、承知していたかもしれぬ。しかし、これについてくわしいことは何も言うまい。それはあとですっかり明瞭になるからである。けれども、彼のおもなる不幸はこの点にふくまれているのだから、おぼろげながらちょっと言っておかねばならぬ。このあるところに秘められた金を使うためには、この金を使う権利を得る[#「権利を得る」に傍点]ためには、あらかじめカチェリーナに三千ルーブリ返却しなければならぬ。それができなければ、『おれはこそこそ泥棒になる、陋劣漢になる。おれは新しい生活を陋劣漢として始めたくない』とミーチャは肚を决めた。それゆえ、もし必要があったら、全世界をくつがえしてもかまわない、どんなことがあっても、あの三千ルーブリはぜひともまず一番に[#「まず一番に」に傍点]、カチェリーナヘ返さなければならぬ。
 この決心がいよいよという揺ぎのない形をとったのは、いわば彼の生涯における最後の数時間、すなわち二日前の夕方、街道でアリョーシャと最後の会見をしたときのことである。それは、グルーシェンカがカチェリーナを侮辱したすぐあとの出来事で、ミーチャはその話をアリョーシャから聞いたとき、自分は悪党であることを自認して、『もしそれであの女の腹が癒えるなら、悦んで悪党の名前を頂戴する』とカチェリーナヘ伝言するように言いつけた。その時、その晩、弟と別れてから、彼は憤激に駆られて、こういう感じを起した。『たとえ誰かを殺して追剥ぎをしてもいい、とにかくカーチャの負債は返さねばならん。』『よしんば殺して金を剥いだ人に対して、また世間のすべての人に対して、殺人者となり盗人となって、シベリヤへ送られてもかまわない、ただカーチャの口から、あの男はわたしに背いておきながら、わたしの金を盗み取って、その金で有徳の生活を始めるんだとかいって、グルーシェンカと一緒に駆落ちした、などと言われるのはたまらない! それは我慢できない!』とミーチャは歯ぎしりしながら、こうひとりごちた。どうかすると、本当に脳膜炎でも起しそうに思われることがあった。が、今のところ、まだ彼は奮闘をつづけていた……
 ここに不思議なことがある。全体なら、このような決心をとった以上、彼の心に残るものは絶望のほか何もあるまい、と思われるのが至当である。なぜなら、彼のような裸一貫の男が、三千という大金を急にととのえる当てがないではないか。しかし、それでいながら、彼はこの三千ルーブリが手に入る、ひとりでにやって来る、天からでも降って来ると、最後まで望みを失わないでいた。まったくドミートリイのように、生涯相続によって得た金を湯水のようにつかう一方で、金がどんなにして儲かるかについて、何の観念も持っていない人間には、こういう考えも確かに起りうるものである。一昨日アリョーシャに別れたすぐあとで、途方もない妄想の嵐が彼の頭に吹き起って、すべての思想をめちゃめちゃに掻き乱した。こういう工合で、彼はこの上ない無鉄砲な仕事に着手することになった。しかし、こんな人間がこんな境遇におちいると、とうてい不可能な夢のような仕事が、苦もなくやすやすと成功するように思われるものである。
 彼は突然、グルーシェンカの保護者たる商人サムソノフを訪問して、ある一つの『計画』を提供し、この『計画』を担保として、必要な金を一時に引き出そうと決心した。商業的方面から見たこの計画の価値を、彼は少しも疑わなかった。ただ向うが単に商業的方面のみから見ないとすれば、サムソノフが自分のとっぴな行動をどんなふうに観察するか、という点に疑いが存するばかりであった。ミーチャはこの商人の顔を知っていたけれども、別段ちかづきというわけでもなければ、かつて口をきいたこともなかった。しかし、どういうわけかずっと前から、彼の内部にこういう信念が築かれていた。ほかではない、もしグルーシェンカが潔白な生活を営みたい、将来有望な男と結婚したいと言いだしたら、いま虫の息でいるこの老好色漢も、決して反対しないであろう。いや、反対しないどころか、かえってそれを希望しているかもしれぬ。そして機会さえ到ったならば、進んで助力するかもしれない。何かの噂を信じたものか、それともグルーシェンカの言葉を基としたものか、とにかく老人は、グルーシェンカのために、父フョードルより自分のほうを選ぶつもりでいるらしいという結論さえ、彼は引き出したのである。
 この物語の読者の多数は、こうした助力をあてにしたり、自分の花嫁を以前の保護者の手から奪おうなどともくろんだりするミーチャの行動が、あまり粗暴で不注意なように思われるかもしれぬ。筆者はただこれだけ言うことができる。グルーシェンカの過去はミーチャの目から見て、もはやとくに完結したもののように思われた。彼はこの事件を同情をもって眺めていた。で、もしグルーシェンカが、『わたしはあなたを愛しています、わたしはあなたと結婚します』と言ったら、たちまちそれと同時に、ぜんぜん新しいグルーシェンカが始まる。それにつれて、彼はぜんぜん新しいドミートリイとなって、悪行など毫もなく、善行ばかり積むようになる。そして、二人は互いに赦しあって、全然あらたに自分たちの生活を始めるのだ、と彼は焔のような熱情を燃やしながら、一人ぎめに決めていた。商人クジマー・サムソノフにいたっては、彼はこの老人を目して、以前の堕落せるグルーシェンカの生活における宿命的な人間だと思っていた。しかし、彼女はこの男を愛していなかった上に、この男も同様過去の人となって活動を終えているから、もう今はまったく存在しないも同じことである、とこう考えたのである。それに、彼は今この男を人間として扱うことができなかった。なぜと言うに、町の人が誰でもみんな知っているとおり、この男はただ一個の病める廃墟であって、グルーシェンカに対しても、ただ父親としての関係を持続しているだけで、決して以前のような基礎の上に立っていない。しかも、これはだいぶ前からのことであって、もうかれこれ一年ばかりになる。が、何といっても、こうしたミーチャの行動には、多分の稚気がふくまれている。実際、彼はいろんな背徳を重ねているけれど、非常に稚気のある男なのである。この稚気のために彼は真面目でこんな断定さえ下した、――老サムソノフは今あの世へ去るにのぞんで、自分とグルーシェンカの過去を心から後悔している。それゆえ、グルーシェンカも、今は決して害のないこの老人より以上に、親切な保護者たり親友たる人を、誰一人も持っていない。
 アリョーシャと原の中で談話を交換した後、ミーチャはほとんど夜っぴて、まんじりともしなかったが、翌朝十時ごろ、彼はサムソノフの家を訪れて取次ぎを命じた。この家は古い、陰気くさい、恐ろしくだだっ広い二階建てで、それに付属したさまざまな建物や、離れなどが邸内にあった。下のほうには、もう女房子のある息子が二人、思いきって年とったサムソノフの妹、それからまだ嫁入りせぬ娘、これだけの大人数で暮していた。また離れのほうには、番頭が二人、住まいを構えていたが、そのうち一人は、やはり大人数の家族をかかえている。こうして、子供らも番頭も、手狭な中で押し合うようにしているのに、二階は老人一人で占領して、自分の看病をしてくれる娘さえ、そこで寝起きすることを許さなかった。娘は一定の時刻にはもちろん、時を定めぬ呼び出しにあうたびに、久しく持病の喘息に悩んでいるにもかかわらず、いちいち下から駆けあがらねばならなかった。
 二階には、商人社会の古い風習にしたがって飾られた、大きな堂々たる部屋がたくさんあった。その中には、マホガニーの不恰好な肘椅子やただの椅子が、壁ぎわに沿って長い単調な列をなしているし、ガラスのシャンデリヤには蔽い布が被さっているし、幾つかの鏡は窓と窓の間に、愛想げもなくかかっている。これらの部屋は、まるでがらんとして人の気配もしない。それは病主人が小さな一室、隅のほうに片寄った自分の寝室に、閉じ籠っているからであった。病室には、髪を頭巾にくるんだ老婆がつき添っているほか、ひとり『若いの』が控え室の腰掛けにしじゅう坐っていた。老人は足が脹れあがったため、もうほとんど歩くことができなかった。ときおり革の肘椅子から身を起すのと、老婆の両手に支えられて、日に一度か二度、部屋を一まわりするくらいなものであった。彼はこの老婆に対しても、厳重で口数が少かった。『大尉さん』の来訪が報じられた時も、彼はすぐ追い返せと命じた。けれど、ミーチャはたって面会を乞い、いま一ど取次ぎを頼んだ。サムソノフは『どうだ、見かけはどんな様子だ、酔っ払ってはおらんか、乱暴はしないか?』などと、仔細に『若いの』に根掘り葉掘りした。そして『しらふですけれど、どうしても帰ろうとはしません』という答を得たが、老人はふたたび拒絶を命じた。ミーチャはこういう場合を予想して、そのためにわざわざ紙と鉛筆を用意して来たので、さっそく紙の切端しにきびきびした筆蹟でたった一行、『アグラフェーナ・アレクサンドロヴナに緊切な関係を有する、最も重大なる事件につき用談あり』と書いて、老人のところへ持たしてやった。老人はちょっと思案してから、お客さまを広間へ通せと、『若いの』に言いつけた後、下にいる乙《おと》息子のところへ老婆をやって、すぐ二階へ顔を出すようにという命令を伝えた。この乙息子というのは六尺豊かな大男で、方図の知れないほどの力を持っていたが、顔は綺麗に剃り上げて、ドイツ風のなりをしていた(父のサムソノフは、純ロシヤ式の上衣をつけ、頤にも鬚を蓄えていた)。彼は猶予なく無言のままあがって来た。二人の兄弟は父の前へ出ると、もうびくびくものであった。父親がこの元気者を呼び寄せたのは、ミーチャに対する恐怖のためではなかった。彼は決してそんな臆病者ではない。ただ万一の場合をおもんぱかって、証人としてそばに据えておく、というくらいの意味であった。
 息子と『若いの』とに支えられて、とうとう彼はふらふらと広間へ歩み出た。もちろん、彼自身も、かなり強い好奇心を感じたものと考えなければならぬ。ミーチャの待っているこの広間は、憂愁の気で人の心を腐蝕するような、愛想のない大きな部屋である。二方から明りが射し込むようになっていて、大理石模様に塗った壁には、中二階風になった渡り廊下があって、蔽い布を被せたガラス張りの大きな吊り燭台が三つもしつらえてあった。ミーチャは入口の戸のそばにある小形の椅子に坐って、神経的な焦躁をこらえながら、運命の解決を待っていた。ミーチャの椅子から十間ばかり離れた反対の戸口に老人が現われた時、彼はいきなり席を立ちあがって、例のどっしりした軍隊式の歩調で、大股に老人のほうへ進んで行った。彼は礼儀ただしい服装をしていた。きちんとボタンをかけたフロック、手に持った山高帽子、黒い手袋、すべて三日まえ長老の庵室で催された、父兄弟など家族の人たちとの会見に出席した時の扮装《いでたち》と、そっくりそのままであった。
 老人はものものしく厳めしい様子をして、じっと立ったまま、相手を待ち受けていた。で、ミーチャは自分がそのそばへ寄って行く間に、この老人は自分という人間をすっかり見つくしてしまった、と咄嗟の間に直覚した。が、それと同時に、彼はサムソノフの顔が、このごろ急に恐ろしく腫れあがったのに、一驚を喫した。それでなくてさえ厚い下唇が、今はまるで牛乳菓子のぶら下ったような恰好になっている。彼はものものしく厳めしい様子で客に会釈した後、長椅子の傍らなる肘椅子へ腰をかけるように指さし、自分は息子の手にもたれかかったまま、病的に喉をぐるぐる鳴らしながら、ミーチャの真向いに置いた長椅子に座を構え始めた。その病的な努力を見ているうちに、ミーチャは早くも後悔の念を感じた。そして、この男のものものしい不安げな顔に対すると、今の自分がつまらないものに思われて、微かな羞恥の情も湧き出したほどである。
「あなた、わたしに何ご用ですな?」ようやく席に落ちついた老人は、厳めしいけれど慇懃な調子で、一こと一こと区切るようにゆっくりと言いだした。
 ミーチャはぎっくりして、思わず座を飛びあがったが、すぐまた腰をおろした。それからさっそく早口な神経的な調子で身振り、手真似を入れながら、興奮しきった様子で声高に話しだした。どんづまりまで行きづまって、滅亡の淵に瀕しながら、最後の逃げ路を求めているが、もしそれに失敗したら、今すぐにも身投げをしかねない男だ、ということは、よそ目にも明らかであった。サムソノフ老人も一瞬の間に、これを見てとったらしい。もっとも、その顔は彫刻のように、依然として冷やかであった……
「クジマー・クジミッチ、あなたはおそらく私と父フョードルとの衝突を、一度ならず耳にされたことと存じます。父は私の生母の死後、遺産を横領してしまったのです……いま町じゅうこの話で大騒ぎをしています……なぜと言って、ここの人はみんな必要もないことに大騒ぎをするのですから……のみならず、グルーシェンカのためにも……いや、失礼、アグラフェーナさん……僕の心から尊敬するアグラフェーナさん。」ミーチャは口をきると、もう早速まごついてしまった。しかし、筆者は彼の話を一語一語再録するのをやめて、ただ要点だけかい摘んで述べよう。ほかでもない、三カ月前ミーチャはことさら(彼は本当に『わざわざ』という言葉を避けて『ことさら』などと言ったのである)、県庁所在地の町に住む弁護士と相談した。『それは、あなた、有名な弁護士でコルネブロードフという人です、たぶんお聞きおよびでしょう? 該博な知識をもった人で、ほとんど国家的人物といっていいくらいですが……あなたのことも承知していて……よく言っておりました』とミーチャはまたもや言葉につまってしまった。しかし、言葉につまっても、話を途切らすようなことはなく、彼はすぐそんなところを飛び越して、ひたすら先へ先へと駆け出すのであった。
 このコルネブロードフは、ミーチャがいつでも提供し得るという証書のことをくわしく訊ねて、いろいろと研究した挙句(証書に関するミーチャの証明はきわめて不明瞭で、ここのところは彼も駆け足で通り抜けた)、チェルマーシニャ村は母の遺産としてミーチャに属すべきものであるから、実際これに対して訴訟を提起し、淫乱じじいをへこますことができる、と断定した。『なぜって、すべての戸口が閉ってるわけじゃありません。法律はどういう方面へくぐり抜けたらいいか、ちゃんと心得ていますからね。』手短かに言えば、フョードルから六千、いや、七千ルーブリの追加支払いを望むことができるのである。なぜなれば、チェルマーシニャ村は、何といっても二万五千ルーブリ……いな、確実に二万八千ルーブリ……『いや、あなた、三万ルーブリです。三万ルーブリの価値があります。ところが、どうでしょう、私はあの人非人から、一万七千ルーブリも受け取っていないのですからね!………』
「その時、私は法律事件の処理などできそうにないから、その話もそれなりにしておいたのですが、ここへ来てみると、かえって先方からの訴訟に出あって、呆れかえってものが言えなかったです(ここでミーチャはまたまごついて、やたらに先のほうへ話を飛ばしてしまった)。ところで、あなた、あの悪党に対する私の権利を、一切ひき受けて下さる気はありませんか。私にはただ三千ルーブリだけ下さればいいのです……あなたはどんなことがあっても、敗訴などになる気づかいはありません。それは私が名誉にかけて誓います。それどころか、三千ルーブリの代りに六千ルーブリか七千ルーブリの儲けを得ることができます……しかし、何より肝要な点は、今日すぐにでもこの話を決めていただきたいということです。私は、その、公証人か何かのところへ行って……その……つまり、私はどんなことでもします。要求なさるだけの証書も引き渡しましょうし、どんな署名でもいたします……ですから、今すぐにも書類を作成してはどうでしょう。できることなら、もしできることなら、きょう午前ちゅうにでも……その三千ルーブリをいただきたいのですが……あなたに楯つくことのできる資本家は、この町に一人もないのですから、もうそうしていただければ、私は救われることになるのです。つまり、あなたは私という哀れな人間を、潔白な仕事のために(高尚な仕事と言ってもいいくらいです)、救って下さることになるのです……なぜって、あなたが単にご存じなばかりでなく、親身の父親のように世話をしていらっしゃるあの婦人に対して、潔白この上ない感情をいだいているからであります。もしそうでなかったら、つまり、あなたのお世話が父親のようなものでなかったら、私がこちらへあがるはずはなかったのです。実際、何と言ったらいいか、三人のものが額と額をつき合したのです。運命というやつは実に恐るべきものですなあ、クジマー・クジミッチ! 現実なるかな、現実なるかなですよ! しかし、あなたはもうとうから除外しなくちゃならなかったのだから、つまり、二人のものが額をつき合したのです。いや、あるいはまずい言い方だったかもしれませんが、しかし私は文学者じゃありませんからね。二つの額と言ったのは、一人は私でいま一人はあの悪党です。こういうわけですから、私かあの悪党か、どっちか一人を選んで下さい。いま一切があなたの掌中にあるんです、――三つの運命に二つの籤です……ごめん下さい。私は脇路へ入ってしまいましたが、あなた了解して下さるでしょう……私はあなたの落ちついた目つきによって、了解して下すったことがわかります……もし了解して下さらなかったら、今日にもすぐ身投げしなくちゃなりません、まったく!」
 ミーチャは自分の愚かな話を、この『まったく』でぷつりと切った。そして、とつぜん椅子から飛びあがって、自分の愚かな申し込みに対する返答を待っていた。最後の一句を発した時、ふいに彼は一切が瓦解したのを感じ、何ともいえぬ絶望におそわれた。何よりも悪いのは、自分が恐ろしい馬鹿げたことを並べたてた、という自覚である。『奇妙なことがあればあるものだ、ここへ来る途中は何もかも立派に思われたものが、今はこのとおり、馬鹿げたことになってしまった!』という考えが、絶望に充ちた彼の頭をふいにちらとかすめた。彼の話している間じゅう、老人は身動きもしないで坐ったまま、目の中に氷のような表情をたたえて、相手を注視していた。一分ばかり、いらだたしい期待の中にミーチャを打ち棄てておいたのち、とうとうサムソノフは少しの望みもいだかせないような、きっぱりした調子でこう言った。
「ごめん蒙ります、わたしどもはそんな仕事をいたしません。」
 ミーチャは突然、足に力の抜けたのが感じられた。
「じゃ、私は今どうしたらいいのです」と彼は蒼ざめた微笑を浮べながら呟いた。「私はもう駄目になったのでしょうか、どうお考えになります?」
「ごめん蒙ります……」
 ミーチャは依然として棒立ちになったまま、身動きもせず、穴のあくほど相手の顔を見つめていた。と、老人の顔面で何かぴくりと動いたのに気がついて、彼はぎくっとした。
「おわかりですかな、そういうことはまったくわたしどもの手に合わんのですよ。」老人はゆっくりと言いだした。「訴訟を起したり、弁護士を頼んだり、いや、もう桑原桑原! しかし、お望みなら、ちょうど適当の男が一人あるから、それに話してごらんなさったら……」
「えっ、一たいそれは誰です?……あなたは私を蘇生さして下さいました。」彼はいきなり舌もつれさせながらこう言った。
「ここの人じゃないんですよ、その男は。それに今ここにいるわけじゃありません。百姓の生れで、森の売買いをしている、猟犬《レガーヴィ》という綽名の男ですよ。フョードルさんとはもう一年も前から、そのチェルマーシニャにある森を買おう売ろうという話が始まってるんですが、値段のほうで折り合いがつかんのです。あなたもたぶんご承知でしょうな。ちょうどこの男がまたやって来て、今イリンスキイ長老のところに泊っております。それはヴォローヴィヤ駅から十二露里もありましょうかな、イリンスコエ村に住まっております。私のところへも手紙をよこして、この事件、――つまり、その森のことについて、意見を求めておりますよ。フョードルさんも自分で出向くつもりだとかいう話です。もしフョードルさんに前もって断わった上で、今わたしに言われたことを、その男に話してごらんなすったら、案外乗ってくれるかもしれませんて……」
「名案です!」とミーチャは勝ち誇ったように遮った。「まったくその男にかぎります、その男に恰好の仕事です! 買いたいけれど値が高い、そこへいきなり所有権利書を見せてやるんですからなあ、ははは!」とミーチャは持ちまえの短い、ぶっきらぼうな調子でからからと笑いだしたが、それがあまりだしぬけだったので、サムソノフでさえぶるっと首を顫わしたほどである。
「クジマー・クジミッチ、何とあなたにお礼を言ったらいいでしょう」とミーチャは、熱くなって叫んだ。
「どういたしまして」と、こちらは頭を下げた。
「あなたはご承知ないでしょうが、あなたは私を助けて下すったのです。ああ、私がこちらへ伺ったのも虫が知らせたのです……じゃ、その坊さんのところへ行きましょう!」
「お礼にはおよびません。」
「大急ぎで飛んで行きましょう。あなたの健康を濫用して申しわけありません。このことは永久に忘れません。これはロシヤ人が言ってるんですよ、クジマー・クジミッチ、ロシヤ人が!」
「な、なある。」
 ミーチャは握手のために老人の手をとろうとしたが、その途端、何か意地わるそうな影が、老人の目の中にひらめいた。ミーチャは伸ばした手を引っ込めたが、すぐまた、疑り深い自分の心を叱したのである。『あれはくたびれたからだ……』という考えが彼の頭をかすめた。
「あの人のためです! あのひとみためです、クジマー・グジミッチ! あなたも了解して下さるでしょう、これはあのひとのためです!」突然、彼は部屋一ぱい響き渡れとばかりこう叫んで、一つ会釈をすると、そのまま急に踵を転じて、もう振り返ろうともせず、例の長いコムパスで足ばやに戸口を指して歩み去った。彼は歓喜のあまりに身を顫わしたほどである。
『危く身の破滅になるところだったが、やっと守護の天使に助けていただいた』という想念が彼の頭をひらめき過ぎた。『それにあの老人のような事務家が(実に品のいいお爺さんだ、何という威厳のある態度だろう!)この方法を教えてくれたんだから、もちろん、勝利はこっちのものにきまっている。すぐこれから飛んで行って、夜までには帰って来る、夜中にでも帰って来る。が、事件は成功疑いなしだ。あの老人がおれをからかうなんてことが、あってよいものか!』ミーチャは自分の住まいをさして歩きながら、心の中でこう叫んだ、ほかの考えなぞ頭に浮んできようがなかった。つまりこの事情にもくわしく、相手の猟犬《レガーヴィ》(奇妙な苗字だ!)の性質にも通じた事務家から、実際的な忠言を得たわけである。が、それとも、――それとも単に老人が彼をからかったのだろうか! 悲しいかな、あとのほうが唯一の正確な解釈なのであった。
 大分たってから、大事件の爆発してしまったあとで、サムソノフ老人が、あの時は『大尉さん』をからかってやったのだ、と自分で笑いながら白状した。彼は毒心の強い、冷酷で嘲笑的な、そのうえ病的に好悪の烈しい男であった。当時、老人がああいう行為に出たのは、『大尉さん』の興奮した顔つきのためか、または彼の計画と称するばかばかしい話にサムソノフが乗ってくるかもしれぬという、この『どら男』の愚かな確信のためか、それとも、この『乞食男』の無心の口実に使われたグルーシェンカに対する嫉妬めいた感情のためか、――しかとした原因は筆者にもわからない。しかし、ミーチャが彼の前に立ちながら、足に力抜けのしたような感じを覚えて、もうおれは駄目になったと叫んだ瞬間、――その瞬間、老人は底知れぬ憎悪をいだきながら、彼を眺めた。そうして、一つこの男をからかってやろう、という気を起したのである。ミーチャが出て行った時、老人は憎悪のために顔を真っ蒼にしながら、息子のほうを振り向いて命令を下した。『もうあの乞食男の匂いもしないようにするんだぞ。庭へでも入れたら承知せんぞ。そうでないと……』
 彼は威嚇の言葉をしまいまで言いきらなかったが、たびたび父の憤怒を見慣れている息子でさえも、恐ろしさに顫えあがった。まる一時間たった頃、老人は憤怒のあまり全身をわなわなと顫わせ始めたが、夕方になると本当に発病して、医者を呼びにやった。

[#3字下げ]第二 レガーヴィ[#「第二 レガーヴィ」は中見出し]

 こういうわけで、すぐさま『飛び出し』て行かなければならぬが、馬車賃が一コペイカもなかった。いや、実際は十コペイカ銀貨が二つあったが、これが幾年かの贅沢な生活の名残りなのである。しかし、彼の家にはとっくに動かなくなった、古い、銀時計が転がっていた。彼はそれを取って、市場で小店を開いている、ユダヤ人の時計屋へ持って行った。ユダヤ人は六ルーブリで買ってくれた。『これも予想外だった!』と有頂天になったミーチャは叫んだ(彼はあれからずっと引きつづき有頂天であった)。そして、六ルーブリの金を握ると、そのまま家へ駆け戻った。家へ帰ると、彼は家主から三ルーブリ借りて、必要な金額をこしらえた。家の人はいつも財布の底をはたくようにしながらも、ミーチャには悦んで金を貸してやった。それほど彼を愛していたのである。彼は歓喜の溢れるような心持になっていたので、さっそくその場で家の人に向って、自分の運命はまさに決せられようとしている、と打ち明けた。それから、たった今サムソノフに持ちかけた自分の『計画』や、それに対する老商人の忠言や、将来の希望や、その他さまざまなことを物語った(もちろん、おそろしくせきこみながら)。家の人は彼をえらい旦那だなどとはいささかも思わず、まるで自分の家の人同様に見ていたので、これまでもいろいろと彼の秘密にあずかっていた。こういうふうにして、九ルーブリの金をこしらえたミーチャは、ヴォローヴィヤ駅ゆきの駅逓馬車を呼びにやった。しかし、こんなふうにして、次の事実が明らかにされ、記憶されたのである。すなわち、『ある事件の前日正午時分、ミーチャは一コペイカも持っていなかった。そして、金をととのえるために時計を売り、三ルーブリを家の人から借りた。しかも、一切は証人の面前で行われた。』
 この事実を前もって注意しておく。何のためにこんなことをするか、それは後に分明されるであろう。ヴォローヴィヤ駅へ駆けつけた時、ミーチャはもうこれでいよいよ、『ああしたいざこざ』も片がついて、綺麗に解決されるだろうという、悦ばしい予感のために輝き渡っていたが、それでも自分の留守にグルーシェンカはどうなるだろうと思うと、恐ろしさに身うちが慄えるようであった。もしちょうど今日という日を狙ってフョードルのところへ行くことに決めたらどうしよう? これを心配したために、彼はグルーシェンカにも言わず、また家の人にも、『たとえ誰が来ても、自分がどこへ行ったか、決して知らせてはならぬ』と言いふくめて、出発したのである。『ぜひとも、ぜひとも今日夕方までには帰らなくちゃならん』と彼は馬車に揺られながら繰り返した。『あの猟犬《レガーヴィ》のやつは、こっちへ引っ張って来て……そして、この交渉をまとめてもいい……』ミーチャは心臓のしびれるような心持でこう空想した。しかし、悲しいことには、彼の空想は計画どおりに実現されないような、よくよくの運命を背負っていたのである。
 第一、彼はヴォローヴィヤ駅から村道をたどって行くうちに、時刻を遅らしてしまった。村道は十二露里でなく、十八露里あったのである。第二に、イリンスキイ長老は自宅にいなかった。隣村へ出かけたのである。ミーチャが疲れはてた以前の馬を駆って、その隣村へ赴き、そこでほうぼうさがし廻っているうち、もうほとんど夜になってしまった。『長老』は見受けたところ、臆病そうな愛想のいい小男であった。彼がさっそく説明したところによると、この猟犬《レガーヴィ》は、初めの間こそ自分の家に泊っていたが、今は乾村《スホイ・パショーロク》へ行っている。今日はその森番小屋に泊ることになっているが、それはやはり、森の売買に関する仕事のためであった。いますぐ猟犬《レガーヴィ》のところへ連れて行ってくれ、『そうすれば、自分を助けることになるのだ』というミーチャの熱心な願いに対して、長老も初めのうちは渋っていたけれども、とにかく納得して、乾村《スホイ・パショーロク》へ連れて行くことになった。どうやら好奇心も手伝ったらしい。ところが、まるでわざとのように、長老は『かち』で行こうと言いだした。僅か一露里と『ぽっちり』きゃないほどの道のりだから、というのであった。ミーチャはむろんそれに同意し、例の大股でどしどし歩きだしたので、哀れな長老は、ほとんど駆け出すようにしながら、ついて行った。彼は大して年よりというほどでもなく、なかなか用心ぶかい男であった。
 ミーチャはさっそくこの男を相手に、自分の計画を話しだした。そして、神経的な調子で熱心に、猟犬《レガーヴィ》に関する注意を求めなどして、途中たえず話しつづけた。長老は注意ぶかく耳を傾けたが、あまり忠言めいた口はきかなかった。ミーチャの問いに対しても、逃げよう逃げようとし、『存じません、まったく存じません、わたくしなどに何がわかりましょう』などと答えるのみであった。ミーチャが遺産に関する父との衝突を話した時、長老はびっくりしたくらいである。なぜと言うに、彼はフョードルに対して、一種の従属関係に立っていたからである。とはいえ、彼はミーチャに向って、どういうわけであの百姓出の商人ゴルストキンを、猟犬《レガーヴィ》などと呼ぶのかと訊ねた後、あの男は本当に猟犬《レガーヴィ》であるけれど、この名を呼ばれると恐ろしく腹を立てるところから見ると、猟犬《レガーヴィ》でないようでもあるのだから、必ずゴルストキンと呼ばなければならぬと、くれぐれも言いふくめた。『でなければ、とても話はまとまりませんよ。あなたの言うことなぞ、聞こうともしませんからな』と彼は言葉を結んだ。
 ミーチャはちょっと性急な驚きを示して、サムソノフ自身もそう呼んでいたと説明した。この事情を聞いて、長老はたちまちこの話を揉み潰してしまった。もし彼がその時すぐミーチャに自分の疑惑を打ち明けたら、そのほうがかえって好都合だったろう。ほかではない、もしサムソノフが猟犬《レガーヴィ》のような百姓男のところへ行けと教えたのなら、それは何かのわけで、からかおうと思ってしたことではあるまいか、何か不都合なことがあるのではなかろうか、という疑惑であった。けれど、ミーチャはそんな『つまらないこと』をぐずぐず言っている暇がなかった。彼はひたすら先を急いでぐんぐん歩いた。やっと乾村《スホイ・パショーロク》へ着いた時、自分らが歩いた道は一露里や一露里半でなく、確かに三露里あることを悟った。これも彼に癇ざわりであったが、黙って我慢した。二人は小屋へ入った。長老と懇意な森番は、小屋の片方に住んでいて、廊下を隔てたいま一方の小綺麗ながわには、ゴルストキンが陣取っていた。
 一行はこの小綺麗なほうへ入って蝋燭をつけた。小屋は暖炉で恐ろしく温まっていた。松の木のテーブルの上には、火の消えたサモワールがおいてあり、そのすぐそばには茶碗をのせた盆や、すっかり飲み干したラム酒の瓶や、飲みさしのウォートカの角罎や、噛りさしのパンなどがおいてあった。当の泊り客は、枕の代りに上衣を丸めて頭の下へ敷き、重々しい鼾をかきながら、長々と寝そべっていた。ミーチャは、どうしたものかちょっと迷った。『もちろん、起さなくちゃならん、おれの用事は非常に大切なことなのだ。おれはあんなに急いで来たのだし、また今日じゅうに急いで帰らなくちゃならないのだ』と、ミーチャは気をいらち始めた。しかし、長老も番人も自分の意見を吐かないで、黙って突っ立っていた。ミーチャはずかずかとそばへ寄って、自分で起しにかかった。猛烈な勢いで起してみた。けれど、猟犬《レガーヴィ》は目をさまそうとしなかった。『この男は呑んだくれてるのだ』とミーチャは合点した。『しかし、おれはどうしたらいいんだろう。ああ、おれはどうしたらいいんだろう?』とつぜん彼は恐ろしい焦躁を感じ、眠っている人の手足を引っ張ったり、頭を揺ぶったり、抱き起して床几の上に坐らしてみたりした、しかし、それでも、かなり長い努力の後にかち得た結果は、猟犬《レガーヴィ》がわけのわからぬことを唸ったり、不明瞭ではあるが、烈しい調子で罵ったりしたにすぎなかった。
「駄目ですよ、あなた。も少しお待ちになったほうがよろしいでしょう。」とうとう長老がこう言った。
「いちんち飲んでおりましたよ」と番人が応じた。
「とんでもない!」とミーチャが叫んだ。「僕がどんなに必要に追られているか、僕が今どんな絶望に突き落されてるか、それが君たちにわかったらなあ!」
「駄目ですよ、もう朝までお待ちになったほうがよろしゅうございますよ」と長老は繰り返した。
「朝まで? 冗談じゃない、それはできない相談だ!」彼は絶望のあまり、また酔いどれに飛びかかって起しかけたが、すぐに自分の努力の甲斐なさを悟り、手を引いてしまった。長老は黙っていた。寝ぼけた番人は陰気くさい顔をしていた。
「本当に現実というやつは、なんて恐ろしい悲劇を人間の身の上に引き起すのだろう!」ミーチャはもうすっかり絶望しきってこう言った。汗が顔から流れた。長老はその瞬間を利用して、たとえ今うまくこの男を起すことができても、酔っ払っているところだから、どんな話もできるわけがない、『あなたのご用は大切なことですから、明日の朝までお延ばしになったほうが確かでございますよ……』ときわめて道理ある意見をのべた。ミーチャは両手をひろげて同意した。
「おれはな、爺さん、蝋燭をつけてここにこうしていながら、いいおりを見つけることにするから、――目をさましたらすぐ始めるんだ……蝋燭代は払うよ」と彼は番人に向って言った。「宿賃もやはり出すよ、ドミートリイ・カラマーゾフの名にかかわるようなことをしやしない。ところで、長老、あなたと僕はどんなふうに陣取ったものかなあ。あなたはどこに寝るつもりですね?」
「いいえ、わたくしはもう家へ帰ります、この男の牝馬に乗って行きますから」と彼は番人を指さした。「では、これでごめん蒙ります。どうか十分ご満足のまいりますように。」
 で、話はそのとおりにきまった。爺さんは牝馬に乗って出かけた。彼はやっとかかり合いを逃れたのが嬉しくもあったが、それでもやはり当惑そうに首を振りながら、恩人フョードルにこの奇怪な出来事を、時の遅れぬうちに報告しなくてもいいだろうかと思案した。
『でないと、ひょっともしこれが耳に入ったら、立腹のあまり今後目をかけていただけぬかもしれん。』
 番人は体じゅうぼりぼり掻きながら、黙って自分の小屋へ引き取ってしまった。ミーチャは彼のいわゆる『いいおりを見つける』ために、床几へ腰をおろした。深い恐ろしい憂愁が重苦しい霧のように、彼の心を包んだ。何という深い恐ろしい憂愁! 彼はじっと坐って、もの思いにふけったが、何一つしっかりした考えが出て来なかった。蝋燭は燃え、蟋蟀はかしましく歌って、暖炉を焚きすぎた部屋は、たえがたいほど息苦しかった。ふと彼の目に庭が浮んだ、庭の向うには細い道がある、と、父の家の戸が忍びやかに開いて、グルーシェンカがその中へ駆け込んだ……彼は床几から跳りあがった。
「悲劇だ!」と歯を鳴らしながら言った。そして、眠れる男に近よって、じっとその顔を眺め始めた。まださして年をとっていない痩せた百姓で、顔は思いきって細長く、亜麻色の髪は渦を巻いて、赤みがかった頤鬚はひょろひょろと長かった。更紗のルバーシカに黒いチョッキを着こんでいたが、そのかくしからは銀時計の鎖が覗いていた。ミーチャは恐ろしい憎悪をいだきながら、この面《つら》がまえを見つめていた。とりわけ、この男の髪が渦を巻いているのが、なぜか憎くてたまらなかった。しかし、何よりいまいましいのは、自分ミーチャがあれだけのことを犠牲にし、あれだけのことを抛って、猶予することのできない用件をかかえながら、へとへとに疲れて立っているにもかかわらず、こののらくら者は、『いま自分の運命を掌中に握っているくせに、まるで別な遊星からでも来た人間みたいに、どこを風が吹くかとばかり鼾をかいている』ことであった。『おお、運命のアイロニーよ!』とミーチャは叫んだが、急に前後の判断を失って、酔いどれの百姓を起しにかかった。彼は一種狂暴な勢いで引っ張ったり、突き飛ばしたり、しまいには擲りつけまでして起そうとした。五分ばかり骨折ってみたが、ふたたび何の効をも奏さなかったので、力ない絶望に沈みながら、自分の床几に戻って腰をおろした。
「馬鹿げてる、馬鹿げてる!」とミーチャは叫んだ。「それに……何という卑屈なことだろう!」突然、彼は何のためやら、こう言いたした。頭が恐ろしく痛み始めた。『いっそ、おっぽり出してしまおうか? 思いきって、帰ってしまおうか?』という考えが彼の頭にひらめいた。『いや、とにかく朝までいよう。もうこうなれば意地にでも残っている、意地にでも! 一たい何だってあんなことのあったあとで、こんなところへのこのこやって来たんだろう? それに、帰るたって乗るものもないじゃないか。今はどうしたって帰れやしないんだ、ああ、何が何だかわかりゃしない!』
 とはいえ、頭はだんだん烈しく痛みだした。じっと身動きもしないで坐っているうちに、彼はいつともなくうとうと寝入ってしまった。察するところ、二時間か、それともいま少し長く眠ったらしい。ふと彼はたえがたい、――声を立てて喚きたいほどたえがたい、頭の痛みに目をさました。両のこめかみはずきんずきんして、額は重く痛かった。目をさましてからも、彼は長いあいだ正気に復することができず、自分の体がどうなったのやら、合点がゆかなかった。ようやくこれは暖炉を焚きすぎたために、恐ろしい炭酸ガスが籠って、運が悪かったら死ぬところだったのだ、と気がついた。しかし、酔いどれの百姓は依然として、長くなって鼾をかいていた。蝋燭は燃えつきて、今にも消えそうであった。ミーチャは大声に喚きながら、ふらふらした足どりで、廊下を隔てた番人の小屋をさして飛んで行った。番人はすぐに目をさました。そして、あっちの部屋に炭酸ガスが籠ったという話を聞くと、さっそく始末に出かけたが、不思議なほど冷淡にこの事実を取り扱っているので、ミーチャは腹立たしい驚きを感じた。
「だが、もしあいつが死んだら、あいつが死んだらその時は……その時はどうするんだ?」とミーチャは憤激のあまり、彼に向ってこう叫んだ。
 戸や窓は開け放され、煙突の蓋も開かれた。ミーチャは水の入ったバケツを廊下からさげて来て、まず最初に自分の頭を冷やし、それから何かの切れを見つけてそれを水に浸し、猟犬《レガーヴィ》の頭にのせてやった。しかし、番人は依然この事件に対して、妙に侮蔑的な態度をとっていたが、窓を開け放して、『これでいいでさあ』と言いすてたまま、火のついた鉄の提灯をミーチャに残して、また一寝入りしに行ってしまった。ミーチャは、窒息しかけた酔いどれの頭を絶えず水で冷やしながら、三十分ばかり何くれと世話をやいた。彼は夜っぴて眠るまいと真面目に決心したが、もうすっかり疲れはてていたので、ほんのちょっと息を入れようと思って腰をおろすと、そのまますぐ目がふさがって、無意識に床几の上に長くなり、死人のように寝入ってしまった。
 彼が目をさましたのはずいぶん遅かった。もうかれこれ朝の九時頃であった。太陽は小屋の二つの窓から、かんかんさし込んでいた。髪の渦を巻いた昨日の百姓は、もうちゃんと袖無外套を着けて、床几に腰かけていた。その前には、新しいサモワールと新しい角罎がおいてある。昨日あった古いほうの罎を平らげてしまった上に、新しいほうのも半分以上からにしている。ミーチャはやにわに跳ね起きた。その途端、百姓はまた酔っ払っている、取り返しのつかぬほどひどく酔っ払っている、ということを悟った。彼はしばらく目を皿のようにしながら、百姓を見つめていた。こっちはこっちで、無言のままこすそうに相手を見廻していたが、その様子が何だか癪にさわるほど平然として、人を馬鹿にしたように高慢であった。少くとも、ミーチャにはそう感じられた。彼はそのほうへ飛びかかって、
「失礼ですが、実は……私は……あなたもたぶん、あっちの小屋にいるここの番人からお聞きになったでしょうが、私は中尉ドミートリイ・カラマーゾフです。今あなたと森のことでかけ合いをしている、カラマーゾフ老人の息子です。」
「でたらめ言うない!」と百姓はいきなりしっかりした、落ちついた調子で呶鳴りつけた。
「どうしてでたらめです? フョードル・パーヴロヴィッチをご存じでしょう?」
「フョードル・パーヴロヴィッチなんてやつは、ちっともご存じないわい。」重たそうに舌を廻しながら、百姓はこう言った。
「森を、あなたは森を親父から買おうとしておいでになるじゃありませんか。まあ、目をさまして、気分をしっかり持って下さい。イリンスキイ長老が僕をここへ連れて来たのです……あなたは、サムソノフに手紙をお出しになったでしょう。それで、あの人が僕をここへよこしたのです……」とミーチャは息を切らした。
「でたらめだい!」と猟犬《レガーヴィ》はまたはっきりした調子で呶鳴りつけた。ミーチャは足の冷たくなるのを感じた。
「とんでもない、これは冗談じゃありませんよ! あなたは酒に酔っておいでかもしれませんが、もういい加減にまともな口をきいて、人の言うことも聞きわけられそうなもんじゃありませんか……さもなければ……さもなければ、僕は何が何だかわかりゃしない!」
「貴様は染物屋だ!」
「とんでもない、僕はカラマーゾフです、ドミートリイ・カラマーゾフです。あなたに用談があって……有利な相談があって来ました……非常に有利なことで……しかし、あの森に関係があるのです。」
 百姓はものものしげに鬚を撫でた。
「なんの、貴様は請負仕事を途中で投げ出したりして、悪党になってしまったのだ。貴様は悪党だぞ!」
「誓って、そんなことはありません、それはあなたの考え違いです!」とミーチャは絶望のあまり両手を捻じ上げた。百姓は相変らず鬚をしごいていたが、突然こすそうに目を細めて、
「それよりか、貴様に一つ訊きたいことがあるんだ。一たい穢らわしいことをしてもかまわないって法律が、どこかにあるかい、え? 貴様は悪党だ、わかったか?」
 ミーチャは悄然としてうしろへさがった。と、ふいに『何か額をどやしつけられたような気がした』(これはあとで彼自身の言ったことである)。一瞬にして、心の迷いがさめてしまった。『とつぜん炬火《たいまつ》のようなものがぱっと燃えあがって、僕はすべてを理解したのだ』と彼は語った。自分は何といっても分別のある人間だ、それがどうしてあんな馬鹿な話にうかうか乗って、こういう仕事に手を出したばかりか、ほとんど一昼夜の間、その馬鹿なことをやめようとせず、猟犬《レガーヴィ》などという人間を相手にして、その頭まで冷やしてやる気になったのだろう、と、彼はわれながら不思議な気持がして、じっと棒のように立ちすくんでいた。『いや、この男は酔っ払ってるんだ、へべれけに酔っ払ってるんだ。そして、まだ一週間くらいは、がぶ呑みに呑むだろう、――してみると、待ってたって仕方がないじゃないか? それどころか、もしサムソノフが、わざとおれをこんなところへよこしたとすれば、どうしたらいいのだ? それどころか、もしあれが……ああ、おれは何ということをしでかしたのだ!」
 百姓はじっと坐って彼を見やりながら、せせら笑っていた。これがもしほかの場合であったなら、ミーチャは憎悪のあまり、この馬鹿者を殺してしまったかもしれぬ。しかし、今は彼も子供のようにすっかり弱くなっていた。静かに床几へ近よって、自分の外套をとり、黙ってそれを着おわると、そのまま小屋を出てしまった。いま一方の小屋には番人も見あたらなかったし、誰ひとりいなかった。彼はかくしから小銭で五十コペイカだけ取り出して、宿料、蝋燭代、それに厄介をかけた礼としてテーブルの上へのせておいた。小屋を出てみると、あたりは一面の森で、ほかには何一つなかった。彼は小屋からどっちへ曲ったらいいのか、――右か左かそれさえわきまえず、でたらめに歩きだした。昨夜、長老とここへ来た時には、急いだために道など少しも気をつけなかった。彼は誰に対しても、サムソノフに対してすら、復讐の念を感じなかった。ただ『失われたる理想』をいだきながら、どこへ向けて歩いているかにはいささかも頓着なく、ふらふらと無意味に森の径をたどった。今はどんな子供でも、彼を喧嘩で負かすことができた。それほど彼は精神的にも肉体的にも、とつぜん力を失ってしまったのである。けれども、とうとう、どうにかこうにか森の外へ出ることができた。ふと、刈入れのすんだ真裸な野が、見渡すことのできないくらい曠漠として、彼の眼前にひらけてきた。『何という絶望、何という死滅があたりを領していることか!』と彼は繰り返した、絶えず前へ前へと進みながら。
 彼を救ったのは通行の人であった。馬車屋がどこかの年よった商人《あきんど》を乗せて、村道を過ぎでいたのである。馬車が追いついた時、ミーチャは道を訊ねた。すると、彼らもやはりヴォローヴィヤ駅へ行く、ということがわかった。両方から話し合った末、ミーチャを合乗りとして入れることになった。三時間ばかりたって目的地へ着いた。ヴォローヴィヤ駅でミーチャはすぐさま、町へ行く駅遞馬車を命じたが、突然たえ得られぬほどの空腹を感じているのがわかった。馬を車につけている間、彼は玉子焼を拵えてもらい、見る間にそれを平らげて、大きなパンの切れをすっかり食べつくした上、その辺にあった腸詰も腹の中へ入れてしまった。ウォートカも三杯かたむけた。腹ができあがると元気がついて、胸の中もせいせいしてきた。馭者を叱陀して、街道を飛ばしているうちに、『あのいまいましい金』を今日じゅうに調達することのできる、今度こそ『間違いのない』新しい計画を作り上げた。
『まあ、思ってもみろ、ちょっと考えただけでも厭になるじゃないか、僅か三千やそこいらのはした金で、人間ひとりの運命がめちゃめちゃになるなんて!』と彼は馬鹿にしたような調子で叫んだ。『今日こそ必ず解決してみせる!』こういうふうで、もしグルーシェンカに関する想念、グルーシェンカに何か変ったことが起りはせぬかという想念が、絶えず彼の頭に浮ばなかったら、彼はもともとどおりすっかり愉快な気持になったかもしれない。しかし、彼女に関する想念が鋭い剣のように、ひっきりなしに彼の心をさし貫くのであった。やがて、ようやく町へ帰り着いたミーチャは、即刻グルーシェンカのもとへ駆けつけた。

[#3字下げ]第三 金鉱[#「第三 金鉱」は中見出し]

 それは、グルーシェンカがラキーチンに向って、さもさも恐ろしそうに話して聞かせたミーチャの来訪である。そのころ彼女は、例の『知らせ』を待っていたので、昨日も今日もミーチャが姿を見せないのを悦んで、どうか神様のお計らいで自分の出発まで来ないでくれるようにと望んでいた。ところへ、ふいに姿を現わしたのである。それから先はもうわかっている。彼女は男をまいてしまうために、さっそく自分をサムソノフの家まで送るように説き伏せた。『金の勘定』にぜひぜひ行かねばならぬ、といったふうに持ちかけたのである。ミーチャはすぐさま送って来たが、クジマーの門ぎわで別れる時、彼女は自分を家まで送り帰すために、十一時すぎに迎えに来るという約束を男にさせた。ミーチャはこの命令にも、やはり満足を感じた。『クジマーのところにいるといえば、つまり親父のところへは行かないのだ……もしあれが嘘をつかなかったら』と彼はすぐこうつけたした。しかし、彼の目には嘘をついたように思われなかった。
 つまり、彼はこういうふうな性質のやきもち焼きなのであった、――ほかではない、愛する女と別れている間は、留守ちゅう女の身にどういうことが起るだろうと案じたり、またどうかして女が自分に『背き』はしないだろうかなどと、恐ろしいことのありたけを考えつくした挙句、もうきっと背いているにちがいないと心底から思い込み、惑乱して死人のようになって女のところへ駆けつけるが、女の顔を、――愉快そうに笑っている優しい女を一目見るなり、もうさっそく元気を取り戻して、すべての疑いはどこへやら、嬉しいような恥しいような心持で、われとわが嫉妬を罵るのである。ミーチャも、グルーシェンカを送りとどけると、わが家をさして駆けだした。おお、彼は今日じゅうに仕遂げなければならぬことが、山ほどある! しかし、少くとも、心は重荷をおろしたように軽くなった。『ただ少しも早くスメルジャコフを掴まえて、昨夜なにか変ったことがなかったか訊かなきゃならん。もしあれが親父のところへ行ったとすれば、それこそ大変だ、おお!』という考えが彼の頭にひらめいた。こういうありさまで、まだ自分の家まで走りつかぬうちに、またもや嫉妬の念が、休みなき彼の心に動きだしたのである。
 嫉妬! 『オセロは嫉妬ぶかくない、いや、かえって人を信じやすい』とはプーシュキンの言葉である。そして、この言葉一つだけでも、わが大詩人の異常なる洞察の深さが証明せられたものと言ってよい。オセロは単に心をめちゃめちゃに掻き乱され、全人生観を濁されたというにすぎない。なぜなれば、彼の理想が亡びたからである[#「彼の理想が亡びたからである」に傍点]。オセロは身をひそめて探偵したり、隙見をしたりなぞ決してしない。彼は人を信じやすい。それゆえ、彼に妻の不貞を悟らせるためには、非常な努力を費してつっ突いたり、後押ししたり、油をかけたりしなければならぬ。本当のやきもち焼きはそんなものでない。本当のやきもち焼きが何らの良心の呵責をも感ずることなく、どれくらい精神的堕落と汚辱のうちに安住し得るかは、想像さえも不可能である。しかも、それらすべての人が、陋劣、醜悪な魂の所有者であるかというに、決してそうでない。それどころか、かえって高潔な心情を具え、自己犠牲の精神に充ち、清浄な愛をいだいた人が、同時にテーブルの下に隠れたり、卑屈きわまる人間を抱き込んだり、間諜や立聞きなどという醜悪な行為を、平然とすることができるのだ。
 オセロはいかなることがあろうとも、決して妥協し得なかったに相違ない。たとえ彼の心が幼児のごとく穏かで無邪気であろうとも、赦す赦さぬは別として、妥協することはできなかったろう。ところが、本当のやきもち焼きはまるで違う。ある種のやきもち焼きがどれくらいまで妥協し赦し得るかは、想像することも困難である。やきもち焼きは誰より最も早く赦すものである。それはすべての女が呑み込んでいる。やきもち焼きは非常に早く(もちろん、はじめ恐ろしい一幕を演じたあとで)、火のごとく明らかな不貞をも赦すことができる。みずから目撃した抱擁や接吻さえ赦すことができる。ただし、これは『最後の』出来事で、競争者は今からすぐ世界の果てへ去っていなくなってしまうとか、もしくはその恐ろしい競争者の来る気づかいのないところへ、自分で女を連れて逃げてしまう、といったようなことが考えられる場合の話である。
 もちろん、妥協の心が生ずるのはごく僅かな時間にすぎない。なぜと言うに、もしその競争者がほんとうに姿を隠してしまうにしても、すぐ翌る日は新しい別な競争者を拵えて、新しい競争者にやきもちを焼くからである。それほどまでに監視しなければならぬ愛に、どんな有難味があるのだろう? それほど一生懸命に見張らねばならぬ愛が、どんな価をもっているのだろう? とまあ、よそ目には思われるけれども、本当のやきもち焼きは決してそんなことを考えない。そのくせ、彼らの間にはまったく高潔な心情を有する人たちも、往々にして見受けられるものである。なおここに注意すべきは、高潔な心情を有するこれらの人々が、どこかの小部屋に立って盗み聞きしたり、探偵したりする一方、もちまえの『高潔なる心情』によって、われから好んで沈み込んだ汚辱の深さを明らかに了解してはいるくせに、少くも小部屋の中に佇んでいる間は、決して良心の呵責を感じないものである。
 ミーチャもグルーシェンカを見ると同時に、嫉妬の情はどこへやらけし飛んで、一瞬の間に信じやすい綺麗な心持になってしまった。そればかりか、むしろ自分で自分の汚い感情を卑しんだほどである。しかし、これも要するに次の実情を証明するにすぎない。ほかではない、この女に対する彼の恋には、彼自身の考えているよりもはるかに高尚なあるものがふくまれているので、かつてアリョーシャに説いたような、『肉体の曲線美』や情欲ばかりではない。が、そのかわりグルーシェンカの姿が見えなくなると、ミーチャはすぐにまた、彼女が卑劣で狡猾な不貞の所業を犯しているのではないかと疑い始めた。良心の呵責などはこのとき少しも感じなかった。
 こうして、ふたたび嫉妬心が彼の心に沸き立ち始めた。何にしても急がなくてはならぬ。第一着手として、急場の間に合せに、ほんの少しばかりでも金を手に入れる必要がある。昨日の九ルーブリは旅行のために、ほとんどなくなってしまった。しかし、まるきり一文なしでは、むろん、手も足も出ない。けれど、彼はさっき馬車の上で、新しい計画とともに、急場の間に合せに金を拵える方法を、もうちゃんと工夫しといたのである。彼は優秀な決闘用のピストルを一対、薬莢つきで所持していた。今までこれを質にも入れずにいたのは、自分の所有品の中で、これを一ばん愛好していたからである。
 彼はもうずっと前から料理屋の『都』で、ある若い官吏とちょっとした近づきになっていたが、何かの機会に同じ料理屋で小耳に挾んだところによると、この若い裕福な官吏は熱心な武器の愛好者であり、ピストルや連発拳銃《レヴォルヴァ》や匕首を買い集めては、居間の四|壁《へき》にかけ並べ、知人に見せて自慢している、そしてピストルの構造や、装填法や、発射法などを説明するのが、すこぶる得意だとのことであった。
 ミーチャは、長くも考えないで、すぐさまこの人のもとへ赴き、十ルーブリでピストルを質に取ってくれないかと申し込んだ。若い官吏は非常に悦んで、すっかり手放してしまわないかと勧めたが、ミーチャは承知しなかった。で、彼は利子なぞ決して取らないからといって、十ルーブリの金を渡した。二人は親友として別れた。ミーチャは急いだ。彼は少しも早くスメルジャコフを呼び出そうと、フョードルの家の裏手にあたる例の四阿《あずまや》さして飛んで行った。こういうふうにして、またもや次のごとき事実が成立したのである。すなわち、これから筆者が物語ろうとしているある事件発生の三四時間まえに、ミーチャは一コペイカの金も所持していなかった。そして、自分の愛玩品を十ルーブリで質入れしたが、三時間の後には、幾千という金が彼の手に握られていた、――しかし、筆者はまた先廻りをしている。
 マリヤ(フョードルの隣家の娘)のところでは、スメルジャコフ発病の報知がミーチャを待ちもうけていて、非常に彼を驚かせ、かつ当惑さした。彼は穴蔵へ墜落の顛末から、医師の来診、フョードルの心づかいなどに関する物語を、すっかり聞きとった。弟のイヴァンがけさモスクワへ出発したということも、興味をもって聞いた。『きっとおれより先にヴォローヴィヤを通過したんだろう』とミーチャは考えた。とはいえ、スメルジャコフはひどく彼を心配さした。『これからどうしたらいいんだろう、誰が見張りをしてくれるんだろう。誰がおれに内通してくれるんだろう?』彼は親子のものに向って、ゆうべ何か気づいたことはないかと、貪るような調子で根掘り葉掘りして訊いてみた。こちらは、彼が何を訊きたがっているか、よくわかっていたので、決して誰も来はしなかった、ゆうべはイヴァンも泊ったことだしするから[#「泊ったことだしするから」はママ]、『もう万事きちんとしておりました』と言って、彼の疑いを解いた。彼は考え込んだ。どうあっても、今日もやはり見張りをしなくてはならないが、どこにしたものだろう? ここにするか、それともサムソノフの門前にするか? 彼は臨機応変でどっちへも行かねばならぬと決心したが、しかし、今は、今は……というのは、ほかでもない。今はあの馬車の中で案出した『計画』、今度こそ間違いのない新しい計画が彼の目前に儼として控えているので、もはやその実行をゆるがせにするわけにゆかなかった。ミーチャはこのために、一時間だけ犠牲に供することとした。『一時間のうちに、すっかり解決して是非を見きわめ、それから、それからまず第一にサムソノフの家へ駆けつけて、グルーシェンカがいるかいないか調べてみる。そうして、またすぐにここへ引っ返し、十一時まで待っていよう。そのあとで、もう一度サムソノフのところへ行って、あれを家まで送り返すんだ』と、こう手はずを決めた。
 彼は家へ飛んで帰って、顔を洗い、頭を梳き上げ、服を浄め、着替えをすまして、ホフラコーヴァ夫人のもとへ赴いた。悲しいかな、彼の『計画』はここにあった。彼はこの婦人から三千ルーブリの金を借りようと決心したのである。何よりも注意すべきは、夫人が自分の乞いを拒まないだろうというなみなみならぬ確信が、ふいに咄嗟の間に生じたことである。もしそんな確信があったくらいなら、なぜ初めから自分と同じ社会に属するこの女のところへ来ないで、話すべき言葉にさえ迷うほど肌合いの違うサムソノフのとこなぞへ出かけたのだろう、こういう不審が起るかもしれないが、それにはわけがある。ほかでもないが、この一月ばかり、彼はホフラコーヴァ夫人とだいぶ疎遠になっているし、以前とてもあまり親しくしていたわけではない。その上、彼女自身ミーチャが大嫌いなのを、彼もよく承知していたからである。この婦人は最初からミーチャを憎んでいた。それもただ、ミーチャがカチェリーナの許嫁《いいなずけ》だからというまでのことである。彼女はカチェリーナがミーチャを棄てて、『古武士のように人格の完成した、ものごしの端正な優しいイヴァン』と結婚するのを、夢中になるほど望んでいた。ミーチャの『ものごし』などは、憎らしくてたまらなかったのである。ミーチャはミーチャで、夫人を冷笑していたので、ある時こんなことを言ったことがある。『あの婦人はなかなかさばけていて元気がいいが、しかしそれと同じくらいに無教育だよ。』
 ところが、今朝ほど馬車の中で一つの輝かしい想念が、彼の心を照らしたのである。『もしあの婦人がそれほどまでに、おれとカチェリーナの結婚を嫌っているならば(実際、あの婦人はヒステリイになりそうなほど嫌っているのだ)、今この三千ルーブリを拒絶するはずがない。なぜって、おれはこの金をもってカーチャを棄て、永久にここから逃げ出して行くんじゃないか。ああいうわがままな上流の婦人たちは、何か非常に気まぐれな望みを起すと、自分の望みどおりにするためには、どんなものだって惜しみはしない。それに、あの婦人は大した金持なんだからなあ』とミーチャは考えた。
 ところで、『計画』そのものはどうかというに、それは前と同じくチェルマーシニャに対する、自分の権利の提供であった。しかし、昨日サムソノフに対したような、商業上の目的を持ってはいなかった。つまり三千ルーブリの代りにその倍額、すなわち六七千ルーブリの利益を引き出すことができるなどといって、この婦人を誘惑しようとは思わなかった。ただ負債に対する正当な抵当にしよう、というだけのつもりであった。
 この新しい着想を展開させてゆくうちに、ミーチャは有頂天になってしまった。これは、事を始める時とか、何か急な決心をした場合などに、いつも彼の心に生ずる現象であった。彼はすべて自分の新しい思いつきに、熱情を傾けて没頭するのが常であった。それでも、ホフラコーヴァ夫人の家の階段に足をかけた時、背中に恐怖の悪寒を感じた、これこそ自分の最後の希望であって、もうこれから先は、世界じゅうに何一つ残っていない。もしこれが失敗に帰したら、『僅か三千ルーブリのために斬取り強盗をするよりほかはない……』ということを、この一瞬に初めて完全に、数学的に明瞭に自覚したのである。彼がベルを鳴らしたのは、もはや七時半であった。
 初めのうち、状況は彼に微笑を示すかのように思われた。彼が取次ぎを頼むやいなや、すぐさま恐ろしく急に案内してくれた。『まるでおれを待ってたようだ、』ちらとこんな考えが彼の頭をかすめた。つづいて彼が客間へ案内された時、ほとんど駆け込むように、女主人公が入って来て、本当に待ちかねていたと告げるのであった。
「待ちかねてました、待ちかねてました。まったくあなたが来て下さろうとは、わたしにとって思いもよらないことでしょう、ね、そうじゃありませんか。けれども、わたしはあなたを待っていましたの。わたしの直覚力に感心なすったでしょう。ドミートリイさん、わたし今日あなたがいらっしゃるに相違ないと、朝じゅう信じきっていましたの。」
「それはまったく不思議ですね、奥さん、」不器用に腰をおろしながら、ミーチャはこう言った。「しかし……僕は非常に重大な用件で伺ったのです。重大な中でも重大な用件で……しかし、奥さん、それは僕にとって、僕一人だけにとって重大なのです。しかも、火急を要する……」
「ええ、非常に重大な用件でいらしったのです、承知してます。それは予感などという問題じゃありません、保守的な奇蹟の要求でもありません(あなたゾシマ長老のことをご存じですか)。これは、これは数学の問題なんです。なぜって、カチェリーナさんにあんなことが起ったあとで、あなたがいらっしゃらないはずがないんですもの、ええ、はずがありません、はずがありません。それは数学的に明瞭です。」
「現実生活のレアリズムです、奥さん、これなんです! しかし、どうぞ一通り……」
「まったくレアリズムですの、ドミートリイさん。わたしは今すっかりレアリズムの味方です。わたし今まであんまり奇蹟などということを教え込まれていたものですから……あなたゾシマ長老のなくなられたことをご存じですか?」
「いや、今が聞き始めです、奥さん、」ミーチャはちょっと驚いた。彼の頭にはちらとアリョーシャの姿がひらめいた。
「けさ夜の明けないうちでした。それに、どうでしょう……」
「奥さん」とミーチャは遮った。「僕はいま自分が非常な絶望におちいって、もしあなたが助けて下さらなかったら、何もかもがらがらになってしまう、まず誰よりも自分がまっさきにがらがらになってしまう、ということだけしか考えられないのです。言い廻しの卑俗なのはお赦し下さい。僕は夢中なのです。熱病にかかってるのです……」
「知ってます、知ってます。あなたは熱病にかかってらっしゃるんです、わたし何でも知ってます。あなたはそれよりほかの心持になれないんですよ。あなたのおっしゃることは、何でも初めからわかっています。わたし前《ぜん》からあなたの運命を気にかけていましたの、ドミートリイさん、あなたの運命から目を放さないで研究していますの……ええ、まったくのところ、わたしは経験のある魂の医者ですからね。」
「奥さん、あなたが経験のある医者でしたら、僕はその代り経験のある患者です」とミーチャはやっとの思いでお愛想を言った。「もしあなたが僕の運命を研究して下さる以上、滅亡に瀕しているその運命を助けても下さるだろう、というような気がします。しかし、そのためには、僕の計画を一通り話さしていただきたいのです。実はその計画をお勧めしようと思って、大胆にもお宅へ伺ったようなわけなんです……それに、あなたから期待していることも聞いていただきたいので……僕が伺いましたのはね、奥さん……」
「話さないでおおきなさい、それは第二義にわたりますわ。わたしが人を助けるのは、あなたが初めてじゃありません。あなたはたぶんわたしの従妹のベリメーソヴァをご存じでしょう。あれのつれあいが破滅に瀕した時、――あなたの適切なお言葉を借りると、がらがらになりかけた時、どうしたとお思いになります? わたしが馬匹飼養を勧めてやったので、今では立派に栄えております。あなた馬匹飼養の観念を持ってらっしゃいますか、ドミートリイさん?」
「ちっとも持っていません、奥さん、――ええ、奥さん、ちっとも持っていません!」とミーチャは神経的にいらいらしながら叫んで、ちょっと席を立とうとした。「お願いですから、一通り聞いて下さい。たった二分間だけ自由な物語の時を与えて、まず最初に僕の来訪の目的たる計画を、すっかり話さして下さい。それに、僕は時間が必要なのです、非常に忙しいのです……」すぐにまた夫人が口を出しそうな気配を感じたので、相手を呶鳴り負かそうという意気ごみで、ミーチャはヒステリックにこう叫んだ。「僕は絶望のあまりにこちらへ伺ったのです……絶望のどん底に落ちてしまったので、奥さんから金を三千ルーブリだけ拝借しようと思って伺ったのです。しかし、奥さん、確実な、確実この上ない抵当があるのです。確実この上ない保証があるのです! お願いですから一通り……」
「そんなことはあなたあとで、あとで!」とホフラコーヴァ夫人も負けないで手を振った。「それにさきほども申したとおり、あなたのおっしゃることは、何でも前から知り抜いていますの。あなたは幾らかのお金がほしい、三千ルーブリのお金が入り用だとおっしゃいますが、わたしもっとたくさんさし上げます、数えきれないほどたくさんさし上げます。わたしあなたを助けて上げますわ、ドミートリイさん。けれど、わたしの言うことを聞いて下さらなくちゃなりませんよ!」
 ミーチャはまたもや椅子から跳りあがった。
「奥さん、本当にあなたはそんなにご親切なのでしょうか!」と彼は異常な感激をこめて叫んだ。「有難う、あなたは僕を救って下さいました。あなたは人間ひとりを不自然な死から、ピストルから救って下すったのです……僕は永久に感謝いたします……」
「わたし三千ルーブリよりかずっとたくさん、数えきれないほどたくさんさし上げます!」とホフラコーヴァ夫人は輝くような微笑を浮べて、ミーチャの歓喜を眺めながら叫んだ。
「数えきれないほど? しかし、そんなには必要がないのです。僕にとってなくてかなわぬのは、あの恐ろしい三千ルーブリです。そこで、僕のほうでも無限の感謝をもって、その金額に対する保証をするつもりでおります。ほかではありません、僕はある計画を提供したいと思います、それは……」
「たくさんですよ、ドミートリイさん、言った以上は必ずいたします。」われこそ慈善家だという無邪気な誇りをいだきながら、夫人は断ち切るような調子でこう言った。「わたしあなたをお助けすると言った以上、必ず助けてお目にかけます。わたしはベリメーソフと同じように、あなたもやはりお助けしますわ。あなた金鉱のことを何とお考えになります、ドミートリイさん?」
「金鉱ですって、奥さん! 僕そんなことは一度も考えたことがありません。」
「そのかわり、わたしがあなたに代って考えて上げました! 考えて考えて、考え抜きましたの! わたしもうまる一月の間、この目的をもって、あなたを観察しておりました。わたしは幾度も、あなたがそばを通りなさるところを見ましてね、ああ、この人こそ金鉱へ行くべき精力家だと、繰り返し繰り返し考えましたの。わたしはあなたの歩きっぷりを研究して、この人はきっとたくさんの金鉱を発見するに相違ないと決めました。」
「歩きっぷりでわかるんですか、奥さん?」ミーチャは微笑した。
「ええ、そりゃ歩きっぷりだってね。では、何ですの、ドミートリイさん、あなたは歩きっぷりで性格が知れるという意見を、否定なさるんですか? 自然科学でも、同じことを確認してるじゃありませんか。おお、わたしは現実派です。ドミートリイさん、わたしは今日から、――あの僧院の出来事のために心をめちゃめちゃに掻き乱されてから、すっかり現実派になってしまいました。わたしは実際的な事業に身を投じたいと思いますの、わたしの痼疾は癒されました。ツルゲーネフの言ったように、足れり!([#割り注]ツルゲーネフの厭世的思想を盛った詩的散文『足れり!』を指す[#割り注終わり])ですわ!」
「しかし、奥さん、あなたが寛大にも僕に貸してやろうと約束なさいました、あの三千ルーブリは……」
「そりゃあなた大丈夫ですよ、ドミートリイさん」と夫人はすかさず遮った。「その三千ルーブリはあなたのかくしに入ってるも同然ですよ。しかも、三千ルーブリやそこいらでなくて、三百万ルーブリですよ。おまけにごく僅かな間ですよ! わたしあなたの理想をお教えしましょう。あなたは金鉱を捜し当てて、何百万というお金を儲けた上、こちらへ帰っていらっしゃるのです。そうして、立派な事業家になって、わたしたちを導いて下さるのです。善行へ向けて下さるのです。一たいすべての事業をユダヤ人まかせにしてよいものでしょうか? いえ、あなたはたくさんの建物を起して、いろいろな事業をお企てなさいます。貧民に助力をして、彼らの祝福を受けるようにおなんなさいます。現代は、鉄道の時代でございますからね、ドミートリイさん。あなたは世間に名を知られて、大蔵省になくてならない人物におなんなさいます。大蔵省はいま非常に人材を要求していますからねえ。わたしは露国紙幣の下落が苦になって、夜も寝られませんの、この方面からわたしを知っている人は、少うございますがね……」
「奥さん、奥さん!」一種不安な予感をいだきながら、ふたたびドミートリイは遮った。「僕は悦んで、心から悦んであなたのご忠告に、――分別あるご忠告にしたがうでしょう、――奥さん……僕は本当にそこへ……その金鉱へ出かけて行くでしょう……そのご相談にはまた一ど出直してまいります……いや、幾たびでもまいります。しかし今は、あなたが寛大にも僕に約束して下すったあの三千ルーブリを……ああ、それさえあれば僕は自由になれるのです、もしできるなら今日にも……つまり、その、僕はいま一時間も猶予ができないのです、まったく一時間も……」
「たくさんですよ、ドミートリイさん、たくさんですよ!」と夫人は執念く遮った。「問題はただ一つです。あなた金鉱へいらっしゃいますか、いらっしゃいませんか、十分なご決心がつきましたか、数学的なご返事を伺いましょう。」
「行きますよ、奥さん、あとで……僕はどこでもお望みのところへ行きます、奥さん……しかし今は……」
「ちょっと待って下さい!」と叫んで夫人は飛びあがり、たくさんな抽斗のついた、見事な事務テーブルへ駆け寄って、恐ろしくせかせかした様子で何やら捜しながら、一つ一つ抽斗を開け始めた。
『三千ルーブリ!』ミーチャは心臓のしびれるような心持でこう考えた。『しかも、今すぐ、何の書面も証文も書かないで……おお、これこそ実に紳士的態度だ! 見上げた婦人だ、ただあれほどお喋りでなかったらなあ……』
「これです!」と夫人はミーチャのところへ戻って来ながら、嬉しそうにこう叫んだ。「これですの、わたしが捜してたのは!」
 それは紐のついた小さい銀の聖像で、よく肌守りの十字架と一緒に体へつけるような種類のものであった。
「これはキーエフから来たものでしてね、」夫人はうやうやしげに語をついだ。「大苦行者聖ヴァルヴァーラの遺物なんですの。どうかわたし自身に、あなたのお頸へかけさして下さい。それで新しい生涯と新しい功績に向おうとする、あなたを祝福することになりますからね。」
 こう言って、夫人は本当にその聖像を頸にかけ、それをきちんと嵌めようとするのであった。ミーチャはすっかり面くらって体を前へ屈めながら、夫人の手伝いを始めた。やっとのことで、彼はネクタイとシャツの襟のあいだを通して聖像を胸へ下げた。
「さあ、これでいつでも出発できます!」得々たるさまでふたたびもとの席へ坐りながら、ホフラコーヴァ夫人はこう言った。
「奥さん、僕は実に嬉しくてたまりません……そのご親切に対して……何とお礼を言っていいかわからないほどです。しかし……ああ、いま僕にとってどれくらい時間が貴重なのか、それがおわかりになったらなあ!………いま僕が、あなたのあの寛大なお言葉に甘えて、こうして待ちかねているその金は……ああ、奥さん、あなたはそんなにご親切な方で、感謝の言葉もないほど寛大にして下さるのですから(ミーチャは感激のあまり突然こう叫んだ)、いっそもう打ち明けてしまいましょう……もっとも、あなたはとっくにご存じのことですが……僕はこの町に住むある者を愛しているのです……で、僕はカーチャに背きました……いや、僕はカチェリーナさんと言うつもりだったのです……ああ、僕はあのひとに対して、不人情で不正直でした。しかし、ここへ来て別な……一人の女を愛し始めたのです。あなたはその女を軽蔑しておいでかもしれません。なぜって、あなたはもう何でもご承知ですからね。しかし、僕はどうしても、どうしてもその女を棄てることができません。そのためにいま三千ルーブリの金が……」
「何もかも、棄てておしまいなさい、ドミートリイさん!」恐ろしく断乎たる調子で夫人は遮った。「棄てておしまいなさい、ことに女をね。あなたの目的は金鉱にあるのですから、そんなところへ女なぞ連れて行く必要はありません。後日あなたが富と名誉に包まれて帰っていらっしゃる時、あなたはご自分の心の友を上流社会に発見なさるでしょう。それは知識があって、偏見のない、現代的な令嬢です。いま頭を持ちあげはじめた婦人問題が、ちょうどその頃に成熟するでしょうから、新しい女も出て来るに相違ありません……」
「奥さん、それは別な話です、別な話です……」ミーチャは手を合せて拝まないばかりであった。
「いいえ、それなんですよ。あなたに必要なのはそれなんですよ。あなたがご自分でも意識しないで渇望してらっしゃるのは、つまりそれなんですよ。わたしだって、今の婦人問題にまるっきり縁がなくもないんですの、ドミートリイさん。婦人の発展につれて、最も近い将来に婦人が政治上の権力をも得る、というのがわたしの理想なんですの。わたし自身にも娘がありますからね、ドミートリイさん。ところが、この方面からわたしを知っている人はあまりありません。わたしはこの問題について文豪シチェドリン([#割り注]サルトウィコフ、一八二六―八九年、有名な諷刺文学者[#割り注終わり])に手紙を送ったことがありますの。この文豪は婦人の使命について、実に実に多くのことを教示してくれたので、わたしは去年、二行の手紙を無名で送りました。それはね、『わが文豪よ、現代の婦人に代りて君を抱擁接吻す、なおつづけたまえ』というんですの。そして署名は、『母より』としました。『現代の母より』としようかとも思って、しばらく迷ったんですけれど、ただ母だけにしてしまいました。そのほうに精神的の美がより多くありますからね、ドミートリイさん。それに、『現代』という言葉が雑誌の『現代人』を思い出させます、これは今の検閲の点から見て、あの人たちには苦い記憶ですものねえ……あらまあ、あなたはどうなすったんですの?」
「奥さん、」とうとうミーチャは跳りあがって、力ない哀願を表するために、夫人の前に両の掌を合せた。「あなたは僕を泣きださせておしまいになります、奥さん。もしあなたがああして寛大にお約束なすったことを、いつまでものびのびになさいますと……」
「お泣きなさい、ドミートリイさん、お泣きなさい! それは美しい感情ですよ……あなたはこれから長い旅路にのぼる人ですからね! 涙はあなたの心を軽くしてくれます。後日お帰りになってから、お悦びなさる時がありますよ。本当にわたしと悦びを頒つために、わざわざシベリヤから駆けつけていただきとうございますね……」
「しかし、僕にも一こと言わせて下さい。」突然ミーチャは声を張り上げた。「最後にもう一度お願いします。どうか決答をお聞かせ下さい、一たいお約束の金額はきょういただけるのでしょうか? もしご都合がわるければ、いついただきにあがったらいいのでしょう?」
「金額と申しますと?」
「お約束の三千の金です……あなたがああして寛大に……」
「三千? それはルーブリですの? いいえ、ありません、わたしに三千のお金はありません。」妙に落ちつきすました驚きの調子で、ホフラコーヴァ夫人はこう言った。ミーチャは、全身しびれるような思いがした……
「どうしてあなた……たった今あなたが、その金は僕のかくしに入ってるも同じことだ、とおっしゃったじゃありませんか……」
「おお、違います、あなたはわたしの言葉を間違えて解釈なすったのです、ドミートリイさん。もしそんなことをおっしゃるなら、あなたはわたしを理解なさらなかったのですよ。わたしは鉱山のことを言ったんですの……まったくわたしは三千ルーブリよりずっとたくさん、数えきれないほどたくさんお約束しました、今すっかり思い出しました。けれども、あれはただ金鉱を頭において言ったことなんですの。」
「で、金は? 三千ルーブリは?」とミーチャは愚かしい調子で叫んだ。
「おお、もしあなたがお金というふうにおとりになったのでしたら、それはわたし持ち合せがありませんの、わたし今ちょうど少しも持ち合せがありませんの、ドミートリイさん。わたし今ちょうど支配人と喧嘩をしているところでしてね、わたし自身でさえ二三日前にミウーソフさんから、五百ルーブリ拝借したような始末ですの、ええ、ええ、本当にお金は持ち合せがありません。それにねえ、ドミートリイさん、よしんば持ち合せがあるにもせよ、わたしご用立てしなかったろうと思いますわ。第一、わたし誰にもご用立てしないんですの、お金を貸すってことは、つまり喧嘩をするということになりますからねえ、ことに、あなたにはよけいご用立てしたくないんですの、あなたを愛していればこそ、ご用立てしないのです、あなたを助けたいと思えばこそ、ご用立てしないのです。だって、あなたに必要なのは、ただ一つきりですもの、――鉱山です。鉱山です、鉱山です!………」
「ええ、こん畜生!………」ふいにミーチャは唸るようにこう言って、力まかせに拳固でテーブルを叩いた。
「あら、まあ!」とホフラコーヴァ夫人はびっくりして悲鳴を上げながら、客間の隅へ飛び退いた。
 ミーチャはぺっと唾を吐いて、足ばやに部屋を去り、家の外なる往来の暗闇へ飛び出した。彼は気ちがいのように自分の胸を叩きながら歩いた。それは二日前、最後にアリョーシャと暗い往来で出会った時、弟の前で叩いて見せたと同じ個所であった。胸のこの個所[#「この個所」に傍点]を叩くということが何を意味するか、またこの動作をもって何を示そうとしているか、――これは今のところ、世界じゅうで誰ひとり知るものもない秘密である。あの時、アリョーシャにすら打ち明けなかった秘密である。しかし、この秘密の中には、彼にとって汚辱以上のものがふくまれているのだ。もし三千ルーブリを手に入れて、カチェリーナに返済することによって、自分が良心の呵責を受けながら体に着けて歩いているこの汚辱を、胸の一個所から[#「一個所から」に傍点]取りはずさなかったら、たちまち破滅であり自殺であるようなものが、この秘密の中にふくまれているのだ。これは後になって十分読者に闡明されるであろう。とにかく、最後の望みの消え失せた今は、あれほど肉体的に強健であったこの男が、ホフラコーヴァ夫人の家を幾足も離れないうちに、とつぜん小さな子供のように、おいおいと泣きだしたのである。こうして彼は広場までやって来た。と、ふいに真正面から何ものかに突き当ったような気がした。それと同時に、誰やら小柄な、老婆らしいのが、金切り声を上げて喚いた。彼はこの老婆を危く突き倒すところであった。
「あれえ、あぶなく人を殺そうとしやがって! 何だって無鉄砲な歩き方をするんだい、乞食野郎!」
「おや、お前さんは?」暗闇の中に老婆の顔を見すかして、ミーチャはこう叫んだ。それは例のサムソノフの看病をしている老女中で、ミーチャは昨日よく目をとめて見たのである。
「まあ、あなたこそ思いがけない!」と老婆はまるで別人のような声で言った。「暗いものですから、どうも見分けがつきませんでね。」
「お前さんはクジマー・クジミッチの家に住み込んで、あの人の看病をしているんだね?」
「さようでございますよ、あなた、たった今プローホルイチのところへ用使いにまいりましてね……ですが、あなたは、やっぱり、どうもどなたやら思い出せませんが。」
「ちょっと訊きたいことがあるんだよ、お婆さん、アグラフェーナさんは今お前さんのところにいるかね?」もどかしさのあまりにわれを忘れて、ミーチャはこう言った。「さっきおれは自分であのひとを送って行ったんだが。」
「いらっしゃいましたよ、あなた。おいでになったと申しましても、ちょっと腰をおろしなすったきりで、すぐにお帰んなさいました。」
「何だって? 帰った?」とミーチャは叫んだ。「いつ帰ったんだ?」
「やはりあの時刻にお帰りになったのでございます。わたしどもにいらしったのは、ほんのちょっとの間でございますよ。旦那さまにちょいとした話をしてお笑わせになると、そのまま逃げ出しておしまいなさいました。」
「嘘をつけ、こん畜生!」とミーチャは呶鳴った。
「あーれまあ!」と老婆は喚いたが、もうミーチャは影も形も見えなかった。彼はまっしぐらにモローゾヴァの家をさして駆けだした。それはちょうどグルーシェンカが、モークロエヘ向けて出発した時刻で、まだ十五分とたっていなかった。フェーニャは、下働きをしている祖母のマトリョーナと台所に坐っていたが、とつぜん思いがけなく『大尉さん』が駆け込んだ。その姿が目に入ると、フェーニャは、あれえと叫んだ。
「喚くか?」とミーチャは呶鳴った。「あれはどこにいる?」
 しかし、恐ろしさのあまり気の遠くなったフェーニャが、まだ一ことも口をきかぬさきに、彼はいきなり、どうとその足もとにくず折れた。
「フェーニャ、後生だから教えてくれ。あのひとはどこにいるのだ?」
「旦那さま、わたしは何も存じません、ドミートリイさま、わたしは何も存じません。たとえ殺すとおっしゃっても、何も知らないのでございます」とフェーニャは一生懸命に誓った。「あなた、さっきご自分で、一緒にお出かけなすったじゃありませんか……」
「それからまた帰って来たのだ!………」
「いいえ、お帰りにはなりません、誓って申します、お帰りにはなりません!」
「嘘をつけ!」とミーチャは呶鳴った。「貴様のびっくりした顔つきを見ただけで、あれの在りかはちゃんとわかってる!……」
 彼はそのまま戸外《おもて》へ飛び出した。度胆を抜かれたフェーニャは、こんなにやすやすと欺きおおせたのを悦んだが、それはミーチャに暇がなかったためで、さもなくば自分も大変な目にあったのだということをよく承知していた。しかし、ミーチャは飛び出しながらも、ある思いがけない動作によって、ふたたびフェーニャとマトリョーナ婆さんを驚かした。ほかでもない、テーブルの上に銅製の臼があって、それに杵が添わっていた。それは長さ六寸ばかりの小さな銅の杵であった。ミーチャは駆け出しざま、片手で戸で開けながら、片手で臼から杵を引ったくって、脇のかくしへ押し込むと、そのまま姿を消したのである。
「あら大変だ、誰か殺す気なんだわ!」とフェーニャは両手を拍った。

[#3字下げ]第四 闇の中[#「第四 闇の中」は中見出し]

 彼はどこへ駆け出したのか? それは知れきったことである。『おやじの家でなくって、ほかにあれのいるところがない。サムソノフの家からまっすぐに親父のところへ走ったのだ。今となっては、もう疑う余地がない。あいつらの企らみも偽りも、すっかり見えすいている……』こういう想念が、嵐のように彼の頭を飛び過ぎた。マリヤの家の庭へはもう立ち寄らなかった。『あそこへ寄る必要はない。決してそんな必要はない……一さい他人を騒がせないようにしなくちゃ……それに、すぐ裏切りをして内通するからなあ……マリヤはあいつらの仲間に相違ない……スメルジャコフだってそうだ、みんな買収されてるんだ!』
 彼の頭にはまた別な考えが湧き起った。彼は横町を抜けて、フョードルの邸を大きく一周し、ドミートロフスカヤ街へ出て小橋を渡り、まっすぐに淋しい裏通りへ現われた。それはがらんとした、人気のない横町で、片側には隣家の菜園の編垣がつづき、片側にはフョードルの庭を囲む高い丈夫な塀が聳えている。ここで彼は一つの場所を選び出した。それはかつて|悪臭ある女《スメルジャーシチャヤ》リザヴェータが乗り越したのと同じ場所らしい。この話は彼も言い伝えによって知っていた。『あんな女でも越せたんだから、』どういうわけか、こんな想念が彼の頭をかすめた。『おれに越されないはずがない!』はたせるかな、彼は一躍して、巧みに塀の上部へ手をかけた。そして元気よく身を持ちあげて、ひらりと足をかけ、馬乗りに塀の上に跨った。庭の中には、ほど遠からぬ辺に湯殿があったが、あかりのついた母屋《おもや》の窓が塀の上からよく見えた。『やはりそうだ、親父の寝室にあかりがついてる、あれはここに来てるんだ!』彼は塀から庭へ飛びおりた。グリゴーリイもスメルジャコフも病気しているから(スメルジャコフの病気もあるいは本当かもしれぬ)、誰も聞きつけるものはないと承知していたけれど、彼は本能的に身をひそめて、一ところにじっと立ちつくしながら、耳をすまし始めた。しかし、死んだような沈黙があたりを領している上に、まるでわざとのように、そよとの風もない、闃《げき》として静かな夜であった。
『静寂の囁きのみぞ聞ゆなり。』なぜかこんな詩の一節が彼の頭をかすめた。『ただ誰かおれの塀を越すところを見たものがなければいいが。おそらくないように思うけれど……』一分間ほどじっと立ちつくしたのち、彼はそっと庭草を踏んで歩きだした。彼は自分で自分の足音に一歩一歩耳を傾けながら、足音を盗むようにして、木立や灌木を迂回しつつ、長いこと歩みつづけた。五分ばかりで、彼はあかりのついた窓の近くまでたどりついた。窓のすぐ下に背の高い、みっちりと茂った接骨木《にわとこ》や木苺の大きな藪が、幾つか立っているのを覚えていた。家の正面の左側についている、内部から庭へ通ずる出口の戸は、ぴったり閉っていた。彼はそばを通り過ぎるとき、ことさら気をつけて、このことに注意した。やっと、藪のところまでたどりついたので、彼はその陰に身をひそめて、じっと息をこらしていた。『今ちょっと待たなくちゃならん』と彼は考えた。『もしおれの足音を聞きつけて、いま聞き耳を立てているとしたら、あれは空耳であったと思わせるために……どうかして咳や嚔をしないように気をつけなくちゃ……」
 彼は二分間ばかり待ってみたが、胸の動悸が激しくて、ときどき息もとまりそうなほどであった。『駄目だ、動悸はやみゃしない』と彼は考えた。彼は藪の陰に立っていた。藪の前面は、窓からさすあかりにぱっと照らし出されている。『木苺よ、ほんに綺麗な苺の実!』何のためとも知らず、彼はこんなことを口ずさんだ。やがて一歩一歩、くぎるような静かな足どりで、そろっと窓に近よって、爪立ちをした。フョードルの寝室の様子は、まるで掌をさすように、まざまざと彼の眼前に展開せられた。それは、赤い衝立てで縦に端から端まで仕切られた、小さな部屋であった。フョードルはこの衝立てを『シナ出来』と呼んでいた。『シナ出来』という言葉がミーチャの頭をかすめた。『あの衝立ての向うにグルーシェンカがいるのだ。』彼はフョードルの姿を仔細に眺めはじめた。老人はまだミーチャの一度も見たことのない、新しい縞絹の部屋着を着て、房のついた同じ絹の紐を腰に巻いていた。部屋着の襟の陰からは清潔《きれい》な洒落たワイシャツ、オランダ製の細地のワイシャツが覗いて、金のカフスボタンが光っている。頭には、かつてアリョーシャが見たと同じ、赤い繃帯が依然として巻いてある。『洒落のめしてやがる』とミーチャは思った。
 フョードルは何やら考え込んでいるらしい様子で、窓のそば近く立っていたが、急にぶるっと首を振り上げて、心もち耳を傾けた。しかし、何一つ耳に入らないので、テーブルに近よって、ガラスの瓶から杯半分くらいコニヤクを注ぎ、ぐいと一息に飲み乾した。それから胸一ぱいの息をして、またしばらくじっと突っ立っていたが、やがて窓と窓の間にかけてある鏡のほうへふらふらと近づいて、例の赤い繃帯を右手でちょっと額から持ちあげ、まだ癒りきらない打身や痂を、と見こう見していた。『親父ひとりきりだ』とミーチャは考えた。『どうもひとりきりに相違ないようだ。』フョードルは鏡から離れると、急に窓のほうへ振り向いて、じっと見すかしはじめた。ミーチャはすばやく物陰へ飛びのいた。
『ことによったら、あれは衝立ての陰でもう寝てるのかもしれない。』彼はちくりと胸を刺されるような気がした。フョードルは窓を離れた。『親父が窓を覗いているのは、あれを見つけ出そうとしてるのだ。してみると、あれは来てないのだ。親父が暗闇の中を覗いてみるわけがないからな……つまり、焦躁に心を掻きむしられてるんだ……』ミーチャはさっそく窓のそばへ駆けよって、ふたたび室内を眺めはじめた。老人は屈託そうな様子をして、もうテーブルの前に坐っていた。そして、しまいには肘杖ついて、右の掌を頬にあてがった。ミーチャは貪るように見入るのであった。
『ひとりだ、ひとりだ!』と彼はまた断言した。『もしあれがここにいるのなら、親父はもっと違った顔つきをしてるはずだ。』奇妙なことではあるが、彼女がここにいないと思うと、とつぜん何かしら意味もない、奇怪な憤懣の情が彼の心に湧きだってきた。『いや、これはあれがいないからじゃない。』ミーチャは即座に自分で解釈して、自分に答えた。『つまり、あれが来てるか来てないか、どうしても確かにつきとめることができないからだ。』ミーチャの理性はこの瞬間なみはずれて明晰になり、一切のものをきわめて微細な点まで考量し、一点一画をも見おとすことなく取り入れた。しかし、焦躁が、未知と不定の焦躁が、計り知ることのできない速度をもって、彼の心に刻刻つのってゆくのであった。『一たいあれは本当にここにいるのかいないのか?』という疑いは、毒々しく彼の胸に煮え返るのであった。彼はとつぜん肚を決めて手をさし伸べ、ほとほとと窓の枠を叩いた。スメルジャコフと老人との間に決められた、合図のノックをしたのである。初めの二つを静かに、しまいの三つを少し早目に、とんとんとんと叩いた、――つまり、グルーシェンカが来たという知らせの合図である。老人はぎっくりして、ぶるっと首を振り上げると、すばやく飛びあがって窓のほうへ走りよった。ミーチャは物陰へ飛びのいた。フョードルは窓をあけて、頭をすっかり外へ突き出した。
「グルーシェンカ、お前か、お前なのか一たい?」と彼は妙に顫える声で、なかば囁くように言った。「どこにいるのだ、グルーシェンカ、これ、どこにいるのだ?」
 彼はむやみに興奮して、息を切らせていた。
『一人きりだ!』とミーチャは考えた。
「一たいどこにいるのだ?」と老人はふたたび叫んで、一そう首を外へ突き出した。彼は肩まで窓の外へ覗かせながら、きょろきょろと左右を見廻すのであった。「ここへおいで。わしはいい贈物を拵えて待っておったよ。おいで、見せてやるから!……」
『あれは、例の三千ルーブリの包みのことを言っているんだ。』こんな考えがちらとミーチャの頭にひらめいた。
「これ、どこにいるのだ?……戸のそばにでもいるのかな? すぐ開けてやるよ!」
 老人はもうほとんど窓から乗り出さないばかりの勢いで、庭に通ずる戸口のある右手を眺めながら、暗闇の中を見すかそうと骨折っていた。もう一瞬の後には、彼はグルーシェンカの返事も待たずに、必ず駆け出して戸を開けるに相違ない。ミーチャは脇のほうから身動きもしないで見つめていた。彼があれほど忌み嫌っていた老人の横顔、――だらりと下った喉団子、鉤なりの鼻、甘い期待の微笑を浮べた唇、これらすべてのものが、左のほうからさす室内のランプの斜めな光線に、くっきりと照らし出されたのである。恐ろしい兇暴な憎悪の念が、突然ミーチャの心に湧きたった。『あいつだ、あれがおれの競争者だ、あれがおれの迫害者だ、おれの生活の迫害者だ!』これは彼がかつてアリョーシャに向って、一種の予覚でも感じたかのように断言した憎悪、――突発的な復讐の念に充ちた、狂暴な憎悪の襲来であった。彼は四日まえ、四阿でアリョーシャと対談した時に『お父さんを殺すなんて、どうして、そんなことが言えるのです?』という弟の問いに対して、
『いや、おれにもわからない、自分でもわからない』と答えた。『もしかしたら、殺さないかもしれんし、またもしかしたら、殺すかもしれん。ただな、いざという瞬間に[#「いざという瞬間に」に傍点]、親父の顔が[#「親父の顔が」に傍点]急に憎らしくてたまらなくなりはしないか、とこう思って心配してるんだ。おれはあの喉団子や、あの鼻や、あの目や、あの厚かましい皮肉が憎らしくてたまらない、あの男の人物がいやらしいのだ。おればこれを怖れている。こればかりは抑えきれないからなあ。』
 こうした嫌悪の念がたえがたいまでにつのってきた。ミーチャはもはやわれを忘れて、ふいにかくしから銅の杵を取り出した。…………………………………………………………………………………………………………………………………………
『神様があのとき僕を守って下すったんだろう。』後になってミーチャは自分でこう言った。ちょうどそのとき、病めるグリゴーリイが、自分の病床で目をさましたのである。その日の夕方、彼はスメルジャコフがイヴァンに話した例の治療法を行った。つまり、何か強い秘薬を混じたウォートカを、妻の力を借りて全身にすり込んだ後、その残りを妻の念ずる祈祷とともに飲み干して、それから眠りについたのである。マルファもやはりその薬を飲んだが、元来いけぬ口とて、そのまま夫のかたわらで、死んだように寝込んでしまった。ところが、とつぜん思いがけなく、グリゴーリイは夜中に目をさました。一分間ばかり思案した後、恐ろしい痛みを腰の辺に感じたにもかかわらず、寝床の上に身を起した。それから、また何やら思いめぐらした末、立ちあがって手早く着替えをした。ことによったら、『こうした険呑な時』誰ひとり家の番をするものもないのに、自分は安閑として寝込んでいるといったような、良心の呵責に胸を刺されたのかもしれない。
 癲癇のために総身を打ちひしがれたスメルジャコフは、隣りの小部屋で身動きもせずに臥っている。マルファもぴくりともしなかった。『婆さん弱りこんどるな。』グリゴーリイは妻を見やってそう思った。そして、喉をくっくっと鳴らしながら、入口の階段へ出た。もちろん、彼はちょっと階段から様子を見るだけのつもりだった。というのは、腰ぜんたいと右足の痛みがたえがたくて、いっかな歩くことができなかったからである。しかし、ちょうどその時、彼は庭へ通ずる小門に、晩から鍵をかけないでいるのに気がついた。彼はこの上なく厳重で正確な男で、一定の規則と多年の習慣に凝り固っていたから、痛みのために跛を引いたり体を縮めたりしながら、階段を下りて庭のほうへ行った。はたして、小門はまるで開っ放しであった。彼は機械的に庭の中へ足を踏み入れた。それは、目に何か映じたのか、耳に物音が入ったのか、原因はよくわからないけれど、とにかく、ふと左手のほうを眺めると、主人の居間の窓が開いている。窓はがらんとして、もう誰もその中から覗いてはいなかった。
『どうして開いてるんだろう、もう夏でもないのに!』とグリゴーリイは考えた。
 と、ちょうどその瞬間、何やら異様なものが、彼の真向いにあたる庭の中を、突然ちらちら動きはじめた。彼のところから四十歩ばかり隔てた暗闇の中を、何か人間らしいものが駆け抜けていた。何かの影が非常な速さですっすっと動く。
「大変だ!」と言ってグリゴーリイは、腰の痛いのも忘れながら、曲者の行手を遮るつもりで、前後の考えもなく駆け出した。
 彼は近道をとった。見たところ、庭の案内は彼のほうが曲者よりもくわしいようであった。曲者は湯殿を目ざして走っていたが、やがて湯殿の向うへ駆け抜けて、塀に飛びかかった……グリゴーリイはその姿を見失わぬように跡をつけながら、われを忘れて走って行った。ちょうど曲者が塀を乗り越した瞬間に、彼は塀の下まで駆けつけたのである。グリゴーリイは夢中になって飛びかかり、両手で曲者の足にしかと絡みついた。
 案の定、予覚は彼を欺かなかった。曲者の見分けがついた。それはあの『ならず者の親殺し』であった。
「親殺し!」と老僕は近所合壁へ鳴り響くほど喚き立てた。
 しかし、彼が声を立て得たのはこれだけであった。突然、彼は雷にでも打たれたもののように、どうと倒れた。ミーチャはふたたび庭へ飛び下りて、被害者の上に屈み込んだ。ミーチャの手には銅の杵があったが、彼はそれを機械的に草の中へ投げ出した。杵はグリゴーリイから二歩ばかり離れたところへ落ちたが、それは草の中ではなく径の上の、最も目立ちやすい場所であった。幾秒かの間、彼は自分の前に倒れている老僕を仔細に点検した。老僕の頭はすっかり血みどろであった。ミーチャは手を伸ばして触ってみた。彼はそのとき、老人の頭蓋骨を割ってしまったのか、それともただちょっと杵で額を傷つけたばかりか、『十分に確め』たかったのである。これは、彼自身あとになってはっきり思い起した。けれど、血はだくだくと止め度なく噴き出して、その熱い流れはたちまちミーチャの慄える指を染めてしまった。彼はホフラコーヴァ夫人訪問の際に用意した、白い新しいハンカチをかくしから取り出して、老人の頭へ押しあてながら、額や顔から血を拭きとろうと無意味な努力をした(これもあとから思い出したことである)。しかし、ハンカチも見る見るずぶずぶに濡れてしまった。
『ああ、何のためにこんなことをしてるんだ?』ミーチャはふいとわれに返った。『もし割ってしまったとしても、今それを確めるわけにゆきゃしない……それに、もうこうなったら同じことじゃないか?』とつぜん絶望に充ちた心もちで、彼はこうつけたした。『殺したものは殺したのさ……運の悪いところへ爺さんが来あわしたのだ、じっとそこに臥てるがいい!』と大きな声で言って、彼はいきなり塀に跳りかかり、横町へひらりと飛びおりると、そのまままっしぐらに駆け出した。
 彼は血でずぶずぶになったハンカチを丸めて、右手に握っていたが、走りながらフロックのうしろかくしへ押し込んだ。彼は飛ぶように走った。その夜まっ暗な往来で、まれに彼に行きあった幾人かの通行人は、猛烈な勢いで走り過ぎた男があったことを、後になって思い出した。彼はふたたびモローゾヴァの家をさして飛んで行ったのである。さきほどフェーニャは、彼の立ち去ったすぐあとで、門番頭のナザールのところへ飛んで行き、『後生一生のお願いだから、あの大尉さんを今日も明日も、決して通さないでちょうだい』と哀願した。ナザールは様子を聞いて、さっそく承知したけれど、運わるく二階の奥さんに呼ばれて、ちょっとそのほうへ出かけた。その途中で、つい近ごろ田舎から出たばかりの甥、二十ばかりの若者に出会ったので、代りに門の番をするように言いつけたが、大尉さんのことはすっかり忘れてしまった。門のそばまで駆けつけたミーチャは、どんどん戸を叩き始めた。若者はすぐに彼の顔を見分けた。ミーチャが一度ならずこの若者に茶代を与えたからである。若者は、早速くぐりを開けて中へ通し、陽気な微笑を浮べながら、『アグラフェーナさまはいまお留守ですよ』と警戒するような調子で急いでこう知らせた。
「どこへ行ったんだい、プローホル?」とミーチャはとつぜん足をとめた。
「さっき二時間ほど前に、チモフェイの馬車でモークロエヘおいでになりました。」
「何しに?」とミーチャは叫んだ。
「そりゃわかりませんなあ。何でも、将校とやらのところですよ。誰だか奥さまに来いと言って、そこから馬車をよこしましたんで……」
 ミーチャは若者をうち捨てて、気ちがいのように、フェーニャのもとをさして駆け出した。

[#3字下げ]第五 咄嗟の決心[#「第五 咄嗟の決心」は中見出し]

 フェーニャは祖母と一緒に台所におった。二人とも寝支度をしているところであった。彼らはナザールを頼みにして、今度も内から戸締りをしないでいた。ミーチャは駆け込むやいなや、フェーニャに跳りかかって、しっかりとその喉を抑えた。
「さあ、すぐ白状しろ、あれはどこにいる、いま誰と一緒にモークロエにいるのだ?」と彼は前後を忘れて叫んだ。
 二人の女はきゃっと声を立てた。
「はい、申します、はい、ドミートリイさま、今すぐ何もかも申します、決してかくし立てはいたしません。」死ぬほど驚かされたフェーニャは早口にこう言った。「奥さまはモークロエの将校さんのところへおいでになりました。」
「将校さんて誰だ?」ミーチャは猛りたった。
「もとの将校さんでございます、あのもとのいい人でございます。五年まえに奥さんを棄てて行ってしまった……」依然たる早口でフェーニャはべらべらと喋った。
 ミーチャは女の喉を絞めていた手をひいた。彼は死人のような蒼い顔をして、言葉もなくフェーニャの前に立っていたが、その目つきで見ると、彼が一瞬にしてすべてを悟ったことが察しられた。彼は一ことも聞かないうちに一切のことを、ほんとうに一切のことを、底の底までも悟ったのである。何もかも見抜いたのである。しかし、哀れなフェーニャは、この瞬間かれが悟ったか悟らないか、そんなことを詮議している余裕はなかった。彼女はミーチャが駆け込んだ時、箱の上に坐っていたが、今もやはりそのままの姿勢で全身を慄わせながら、わが身を庇おうとするかのように、両手をさし伸べていた。彼女はその姿勢のままで、化石になったように見えた。そうして、恐怖のために瞳孔のひろがったような慴えた目で、じっと食い入るように彼の顔を見つめていた。ミーチャは恐ろしい形相に、かてて加えて両手を血だらけにしているではないか。おまけに、走って来る途中、額の汗を拭くのにその手で顔に触ったと見え、額にも右の頬にも血の痕が赤くついていた。フェーニャは、今にもヒステリイが起りそうになった。下働きの老婆は席から跳りあがったまま意識を失って、気ちがいのような顔つきをして立っていた。ミーチャは一分間ほどぼんやり立っていたが、とつぜん機械的にフェーニャの傍らなる椅子に腰をおろした。
 彼はじっと坐ったまま、何か思いめぐらしている、というよりも、何かこう非常に驚いて、ぼうとなったというようなふうであった。しかし、一切は火を見るよりも明らかである。あの将校なのだ、――自分はこの男のことを知っていた、何もかもようく知っていた、当のグルーシェンカから聞いて知っていた、一月前に手紙の来たことも知っていたのだ、つまり、一月、まる一月の間、今日この新しい男の到着するまで、このことは深く自分に隠して運ばれていたのだ。それだのに、自分はこの男のことを夢にも考えないでいた! 一たいどうして、本当にどうしてこの男のことを考えずにいられたのだろう? どうしてあのとき造作もなく、この男のことを忘れたのだろう? 知ると同時に忘れたのだろう? これが彼の面前に、奇蹟かなんぞのように立ち塞がっている問題であった。彼は真に慄然として、身うちの寒くなるのを覚えながら、この奇蹟を見まもるのであった。
 が、急に彼はおとなしい、愛想のいい子供のような調子で静かにつつましく、フェーニャに向って話しかけた。たったいま自分がこの女を驚かし、辱しめ、苦しめたことは、まるで忘れてしまったようなふうであった。とつぜん彼は、今のような状況にある人としては不思議なくらい、極度に正確な調子で、フェーニャにいろいろと訊きはじめた。またフェーニャも、彼の血みどろな手をけげんそうに見つめてはいたけれど、同様に不思議なほど気さくな調子で、一つ一つの質問に対してはきはき答えるばかりか、かえって少しも早く『正真正銘の』事実を、洗いざらい吐き出そうとするかのようであった。彼女はこまごまとしたすべての事実を物語るのに、次第に一種の快感を感じはじめた。しかも、それは決して彼を苦しめようという心持のためでなく、むしろできるだけ彼のためにつくそうと、あせっているからであった。彼女はきょう一日の出来事を細大もらさず話して聞かせた。ラキーチンとアリョーシャが訪ねて来たことから、彼女、フェーニャが見張りに立っていたこと、女主人が出立した時の模様、それからグルーシェンカが窓からアリョーシャに向って、ミーチャによろしく言ってくれ、そして『わたしがあの人をたった一とき愛したことを、生涯おぼえてるように言ってちょうだい』と叫んだことなど物語った。ミーチャによろしくと聞いた時、彼はとつぜん薄笑いをもらした。と、その蒼ざめた頬にさっとくれないが散った。その時フェーニャは、自分の好奇心に対するあとの報いなど、少しも恐れずにこう言った。
「まあ、あなた何という手をしてらっしゃるのでしょう、ドミートリイさま、まるで血だらけじゃございませんか!」
「ああ。」ぼんやりと自分の手を見廻しながら、ミーチャは機械的に答えたが、その手のこともフェーニャの問いも、すぐに忘れてしまった。
 彼はまた沈黙におちいった。ここへ駆け込んでから、もう二十分ばかりたった。さきほどの驚愕は鎮まりはてて、その代り何かしら新しい確固たる決心が、彼の全幅を領したようなふうつきであった。とつぜん彼は席を立って、もの思わしげに微笑した。
「旦那さま、一たいあなたはどうなすったのでございます?」またもや彼の手を指さしながら、フェーニャはこう言った。その調子には深い同情が籠っていて、まるで今の彼の不幸を慰めるべき、きわめて親身な人間かなんぞのように思われた。ミーチャはふたたび自分の両手を眺めた。
「これは血だ、フェーニャ、」奇妙な表情をして相手を見つめながら、彼は言った。「これは人間の血だ。ああ、何のために流した血だろう? しかし、フェーニャ、ここに一つの塀がある(彼は謎でもかけるような目つきで女を眺めた)、それは高い塀だ、そして見かけはいかにも恐ろしい、しかし……あす夜があけて『太陽が昇ったら』、ミーチェンカは、この塀を飛び越すのだ……フェーニャ、お前はどんな塀だかわからないだろう。いや、何でもないんだよ……まあ、どっちでもいい、明日になったら噂を聞いて、なるほどと思うだろう……今日はこれでさようならだ! おれは邪魔なんかしない、道を譲る。おれにだって道を譲ることができるよ。わが悦びよ栄えあれ……たった一ときおれを愛してくれたそうだが、そんならミーチェンカ・カラマーゾフを永久に憶えておってくれ……なあ、おい、おれはおれのことをミーチェンカと言ってたなあ、覚えてるだろう?」
 この言葉とともに、彼はいきなり、台所をぷいと出てしまった。フェーニヤはさきほど彼が駆け込んで自分に飛びかかった時よりも、こうした出方に一そう驚かされたのである。
 ちょうど十分の後、ミーチャはさきほどピストルを質入れした若い官吏、ピョートル・イリッチ・ペルホーチンの家へ入った。それはもう八時半であった。ペルホーチンは茶を飲み終って、料理屋の『都』へ玉突きに行くつもりで、たった今フロックを着直したばかりであった。ミーチャはその出立ちを抑えたのである。こっちはその姿を――血に汚れた顔を見るやいなや、思わず声をつつ抜けさした。
「おやっ! 君はまあ、どうしたんです?」
「あのね」とミーチャは早口に言いだした。「僕はさっきのピストルをもらいに来たんです。金も持って来ました。どうも有難う。僕いそぐんですからね、ピョートル・イリッチ、どうか早くして下さい。」
 ペルホーチンはますます驚きを深くするばかりであった。ミーチャの手に、一束の紙幣《さつ》が握られているのに気がついたのだ。が、何より不思議なのは、彼がこの金を握ったまま入って来たことである。こんなふうに金を握ったまま入って来る人はどこにもない。しかも、その紙幣をみんな右手で一握りにして、さも自慢らしく前のほうへさし出しているではないか。控え室でミーチャを出迎えたこの家のボーイは、彼が金を持ったまま控え室へ入って来た旨を、後になって話したが、これによってみると、彼は往来でもやはり金を握った右手を、前のほうへさし出しながら歩いたものらしい。金はみんな虹色をした百ルーブリ紙幣であった。彼はそれを血みどろの指で挾んでいたのである。ずっと後になって、当路の人たちが、金はどれくらいあったかと訊いた時、ペルホーチンはこう答えた、――あの時は目分量で勘定することはできなかったけれど、二千ルーブリか、ことによったら三千ルーブリ、とにかく大きな『かなり厚みのある』束であった。
 当のミーチャが同様にあとで申し立てたところによると、『あの時はほんとうに正気づいていないらしかったけれども、決して酔ってはいない。ただ何となく有頂天になってしまって、恐ろしくそわそわしていながらも、それと同時に、心が一ところに集注されているようであった。つまり、何やらしきりに考えようとあせっているくせに、どうしても解決することができない、といったようなあんばいであった。非常に心がせかせかしていたから、返事の仕方も奇妙に角立って、どうかすると、悲しい目にあったというようなところは少しもなく、かえって愉快そうに見えたほどである。』
「え、一たい君はどうしたんです、本当に今日はどうしたんです?」ペルホーチンはきょろきょろと客を見廻しながら、ふたたびこう叫んだ。「どうしてそんなに血みどろになったんです。転ぶかどうかしたんですか、まあ、ごらんなさい!」
 彼は相手の肘を掴まえて、鏡の前へ立たした。ミーチャは血で汚れた自分の顔を見ると、ぶるっと身を慄わして、腹立たしげに眉をしかめた。
「ええ、畜生! まだその上にこんな……」と彼はにくにくしげに呟いて、手早く紙幣を右から左の手へ持ちかえると、痙攣的にかくしからハンカチを引っ張り出したが、ハンカチもやはり血みどろで(これは例のグリゴーリイの頭や顔を拭いたハンカチである)、ほとんど一点として白いところはなかった。そして、生乾きどころでなく、もうすっかり一塊に固ってしまい、ひろげようとしても容易にひろがらなかった。
 ミーチャはにくにくしげにそれを床へ叩きつけた。
「ええ、こん畜生! 君、何か切れはありませんか……ちょっと拭きたいんだが……」
「じゃ、君、汚れただけで傷をしたのじゃないんですね! それなら、いっそ洗い落したほうがいいでしょう」とペルホーチンは答えた。「さあ、ここに洗面器があります、これを貸しましょう。」
「洗面器? それはいい……しかし、こいつをどこへおいたもんでしょうね?」何だかひどく奇怪な当惑の色を浮べながら、相談するようにペルホーチンの顔を眺めつつ、ミーチャは例の百ルーブリ札の束を指さした。まるでペルホーチンが彼の金の置き場を決める義務でもあるかのように。
「かくしへお入れなさい。それとも、このテーブルヘのせといてもいいでしょう。なくなりゃしませんよ。」
「かくしへ、そうかくしがいい。これでよしと……いや、何してるんだ、こんなことはつまらんこった!」急にぼんやりした心持からさめて、こう叫んだ。「ねえ、君、まず初めにあのことを、ピストルのことを片づけようじゃありませんか。あれを僕に返して下さいな。これが君の金です……実は非常に、非常に入用なことができてね……それに時間がないんです、本当にこれっからさきもないんです……」
 彼は束の中から一番上の百ルーブリ札を取って、若い官吏にさし出した。
「ところが、僕のところにも釣銭《つり》がないでしょう」とこちらは言った。「君、細かいのを持ってませんか?」
「ありません」とミーチャはもう一ど束をちらと見てこう答えた。そして、自分の言葉に自信がないらしいふうで、指をもって上のほうから二三枚めくって見た。「ありません、みんなこんなのです」とつけたして、彼はもう一ど相談するようにペルホーチンを見やった。
「一たい君はどこでそんな金を儲けたんです?」こっちはこう訊ねた。「お待ちなさい、僕はうちのボーイをプロートニコフの店へやってみます。あそこの家は遅くまで店を開けているから、――ひょっとしたら替えてくれるかもしれません。おい、ミーシャ」と彼は控え室のほうを向いてこう叫んだ。
「プロートニコフの店へ――名案でしたね!」ミーチャはある想念に心を照らされたように叫んだ。「ミーシャ」と彼は入り来る少年に向って、「お前ひとつ、プロートニコフの店へ走って行って、ドミートリイ・カラマーゾフがよろしくって、それから今すぐ自分で出かけるからと、そう言ってくれないか……それから、まだある、いいかい、――僕が行くまでにシャンパンを、そうだなあ、三ダースばかり用意して、いつかモークロエヘ行った時のように、ちゃんと馬車に積み込んでおけってね……僕はあの時あそこの店で四ダース買ってやったんですよ(と彼は急にペルホーチンのほうへ向いてこう言った)。――あそこじゃよく知ってるから、心配することはないよ、ミーシャ」と彼はまたボーイのほうへ振り向いた。「それから、いいかい、チーズに、ストラスブルクのパイに、燻製の石斑魚《シーダ》に、ハムにイクラに……いや、もうみんなみんな、あそこの店にありったけ注文してくれ。そうだな、百ルーブリか百二十ルーブリか、つまり、この前の時と同じくらいあればいいんだ……それから、いいかい、お土産物も忘れないようにな、菓子に、梨に、西瓜を二つか三つか、それとも四つ――いや、西瓜は一つでたくさんだ。それからチョコレートに、氷砂糖に、果物入氷砂糖《モンパンシエ》に、飴に――いや、あの時モークロエヘ積んで行ったものは、すっかりいるんだ。シャンパンを入れて三百ルーブリくらいもあったろう……つまり、今度もあの時と同じにしたらいいのだ。いいか、よく覚えて行くんだぞ、ミーシャ、お前ミーシャといったっけなあ……この子はミーシャというんでしたね?」ふたたび彼はペルホーチンのほうへ振り向いた。
「まあ、お待ちなさい。」不安げに彼の言葉を聞き、彼の様子を眺めていたペルホーチンは、こう遮った。「君いっそ自分で出かけて、自分で注文したほうがいいでしょう。でないと。[#「でないと。」はママ]こいつでたらめを言いますからね。」
「でたらめを言います、まったくでたらめを言いそうです! おい、ミーシャ、おれはお前を使うかわりに、接吻してやろうと思ってたんだがなあ……もしでたらめを言わなかったら、お前に十ルーブリくれてやる、早く駆け出して来い………シャンパンが一ばん大事なんだぞ、シャンパンを積み出すようにな。それから、コニヤクも、赤葡萄酒も、白葡萄酒も、何もかもあの時のとおりだ……あそこの店ではもうちゃんと知ってる、あの時のとおりだ。」
「まあ、僕の言うことをお聞きなさい!」もうじりじりしながら、ペルホーチンは遮った。「こいつには、ただ一走り行って両替させて、まだ店を閉めずにおけと言わしたらいいでしょう。それから、君が出かけて、自分で言いつけるんです……その紙幣をお貸しなさい。さあ、ミーシャ、進めっ、おいちに!」
 ペルホーチンはわざと急いで、ミーシャを追い出したらしい。というのは、ボーイは客の前に出て来ると、血みどろの顔や、慄える指に紙幣《さつ》束を握っている真っ赤な両手を、目を皿のようにして眺めながら、驚きと恐れのために口をぽかんと開け、棒のように立ちすくんだまま、ミーチャの言いつけなどろくろく耳に入れていない様子だったからである。
「さあ、これから顔を洗いに行きましょう」とペルホーチンはきびしい調子で言った。「金はテーブルの上におくか、かくしへ入れるかおしなさい……そうそう、じゃ出かけましょう。しかし、フロックは脱いだほうがいいでしょう。」
 彼は自分でも手伝って、フロックを脱がせにかかったが、ふいにまた叫び声を上げた。
「ごらんなさい、フロックまで血になっていますよ!」
「これは……これはフロックじゃありませんよ。ただちょっと袖のところが……ああ、これはハンカチのはいったところです。かくしの中から滲み出したんですよ。僕はフェーニャのところで、ハンカチを下に敷いて坐ったもんだから、それで血が滲み出したんですよ。」何だか不思議なくらい呑気な調子で、ミーチャはすぐにこう説明した。
 ペルホーチンは眉をしかめながら聞いていた。
「とんでもないことをしたもんですね、きっと誰かと喧嘩したんでしょう」と彼は呟いた。
 やがて手水《ちょうず》にかかった。ペルホーチンは水差しをもって、水をそそぎ始めた。ミーチャはせかせかしていたので、手にろくろく石鹸をつけなかった(彼の手がぶるぶる慄えていたことを、ペルホーチンはあとで思い起した)。ペルホーチンはすぐに、もっとたくさん石鹸をつけて、もっと強くこするように命令した。このとき彼はミーチャに対して、一種の権力を握っているような工合で、それが先へ行くにしたがって、だんだんはっきりと認められた。ついでに言っておくが、この若い官吏はなかなか胆の据った男であった。
「ごらんなさい、まだ爪の下がよく洗えてないじゃありませんか。さあ今度は顔をおこすりなさい。それ、そこですよ、こめかみの上、耳のそば……一たいあなたはそのシャツを着て出かけるんですか? そして、どこへ行くんです? ごらんなさい、右袖の折り返しがすっかり血だらけになってますよ。」
「ええ、血だらけになっています。」シャツの袖の折り返しをと見こう見しながら、ミーチャは答えた。
「じゃ、シャツを替えませんか。」
「暇がないんですよ、僕はね、ほら、こうして……」もうタオルで顔と両手を拭き終って、フロックを着ながら、例の呑気らしい調子でミーチャは語をついだ。「袖を折り込んどきますよ。そうしたら、フロックの下になって見えやしないでしょう……ね?」
「今度は一つ、どこでそんなことをしたのか聞かせて下さい。誰かと喧嘩でもしたんですか? またいつかのようにあの料理屋じゃないんですか? またあの時と同じ二等大尉が相手じゃありませんか、あの男を擲ったり、引き摺ったりしたんじゃありませんか?」何となく咎めるような口振りで、ペルホーチンはこないだのことを言いだした。「一たいまた誰を殴りつけたんです……それとも殺したんじゃありませんか?」
「つまらんこってすよ!」とミーチャは言った。
「どうつまらんのです?」
「よしときましょうよ」と言って、突然ミーチャはにたりと笑った。「これはね、たったいま広場で一人の婆さんを押し潰したんです。」
「押し潰した? 婆さんを?」
「爺さんです!」とミーチャは相手の顔をひたと見つめて笑みをふくみながら、聾にでもものを言うように大声で呶鳴った。
「ええ、ばかばかしい、爺さんだの婆さんだの……一たい誰か殺したんですか?」
「仲直りしましたよ。はじめ突っかかったけれど、すぐ仲直りしました、あるところでね。別れる時には、親友のようになりましたよ。ある馬鹿者ですがね……その男が僕を赦してくれましたよ……今頃はきっと赦してくれたに相違ありません……しかし、もし足が立ったら、赦してくれたに相違ありません。」ふいにミーチャはぽちりと瞬きした。「しかし、どうだっていいんですよ。ピョートル・イリッチ、どうだっていいんですよ。必要のないことですよ! いま話すのが厭なんです!」きっぱりと断ち切るようにミーチャはこう言った。
「いや、僕がこんなことを言いだしたのは、あんまり誰かれの見さかいなしにかかり合うのは、感心した話でないと思ったからです……あの時の二等大尉事件みたいな、つまらないことのためにね……しかし、喧嘩をしておいて、もうさっそく騒ぎに行こうなんて、――君の性格がそっくり出ていますよ! シャンパン三ダースなんて、何だってそんなにいるんです。」
「ブラーヴォ! さあ、今度はピストルを下さい。まったく時間がないですから。実際、君とは少し話がしたいんだけれども、時間がなくってね。それに、そんな必要は少しもない。もう話をするのは遅いよ。あっ! 金はどこにあるかしら、どこへおいたろう?」と叫んで、彼はほうぼうのかくしへ両手を突っ込みはじめた。
「テーブルの上へおいたじゃありませんか……君が自分で……そら、あすこにありますよ、忘れたんですか? まったく君にとっては金も塵あくたか湯水同然ですね。さあ、君のピストルを上げましょう。しかし、さっき五時すぎにはこれを十ルーブリで質入れしながら、今はそのとおり何千という金が君の手にある、どうも不思議ですね。二千、三千ありましょう?」
「たぶん三千ぐらいありましょう」とミーチャはズボンのかくしに金を押し込みながら、そう言って笑った。 
「そんなことをしたら落しますよ。ほんとに君は金鉱でも持ってるんですか?」
「金鉱? 鉱山?」とミーチャはカーぱいに喚いて、急にからからと笑った。「ピョートル・イリッチ、君は鉱山ゆきがお望みですか。この町のある一人の婦人がね、ただどうかして君に金鉱へ行ってもらいたさが一ぱいで、すぐに三千ルーブリ投げ出してくれますよ。僕にも投げ出してくれたんですがね。恐ろしい鉱山の好きな婦人ですよ! ホフラコーヴァ夫人を知ってますか?」
「知合いじゃありませんが、噂を聞いたことも見たこともあります。一たいあの人が君に三千ルーブリくれたんですか? 本当に投げ出したんですか?」とペルホーチンは不審げな目つきで相手を眺めた。
「じゃ君、あす太陽が昇った時、永久に若々しいアポロが神を讃美しながらさし昇った時、あのひとのところへ、ホフラコーヴァ夫人のところへ行って、僕に三千ルーブリ投げ出したかどうか、訊いてごらんなさい。一つ調査してごらんなさいよ。」
「僕は君がたの関係を知りませんから……君がそうきっぱり言いきるところを見ると、本当にくれたんでしょう……ところで、君はそんなに金を鷲掴みにして、シベリヤへ行くかわりに、どこかへどろんをきめこむんですか……しかし、本当にこれからどこへ行くんです、え?」
「モークロエへ。」
「モークロエへ? だって、もう夜ですよ!」
「もとは何不自由ないマストリュークだったが、今は無一物のマストリュークになっちゃった!」だしぬけにミーチャがこう言った。
「どうして無一物です? そんなに幾千という金を持って、それでも無一物ですか?」
「僕が言うのは金のことじゃありません! 金なんかどうともなれだ! 僕は女心を言ってるんですよ。

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変りやすいは女気よ
まことがのうて自堕落で
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 僕はユリシーズに同感ですね、これはウリスの言ったことですよ。」
「僕には君の言うことがわかりません。」
「酔っ払ってでもいますかね?」
「酔っ払ってはいませんが、それよりなお悪いですよ。」
「僕は精神的に酔っ払ってるんですよ、ピョートル・イリッチ、精神的に……いや、もうたくさんたくさん。」
「君どうしたんです、ピストルなんか装填して?」
「ええ、ピストルを装填するんです。」
 ミーチャは本当にピストルの入った函を開けて、火薬入れの筒の蓋をとり、一生懸命に、それを装填しているのであった。やがて彼は弾丸《たま》を取り出したが、それを填める前に二本の指でつまんで、目の前の蝋燭の火にすかして見た。
「何だって君は、そんなに弾丸を見てるんです?」ペルホーチンは不安げな好奇心をもって見まもっていた。
「なに、ちょっと。考えてるんですよ。もし君がこの弾丸を自分の脳天へ打ち込もうと考えたとする、そうすればピストルを装填する時に、その弾丸を見ますか見ませんか?」
「何のために見るんです?」
「僕の脳天へ入って行く弾丸がどんな恰好をしているか、ちょっと見てみると面白いじゃありませんか……しかし、くだらんことだ、ちょっと頭に浮んだつまらん話だ。さあ、これでおしまいだ。」彼は弾丸を装填し終って、麻屑でつめをしながらこうつけたした。「ペルホーチン君、つまらん話だよ、何もかもつまらん話だよ。本当にどれくらいつまらん話かってことが、君にわかったならばなあ! ところで、今度は紙切れを少しくれたまえな。」
「さあ、紙切れ。」
「いや、すべっこい綺麗なのを、字を書くんだから、それそれ。」
 ミーチャはテーブルからペンを取って、その紙にさらさらと二行ばかり何やらしたためると、四つに折ってチョッキのかくしへ押し込んだ。二挺のピストルは函に納めて鍵をかけ、両手に取り上げた。それから、ペルホーチンを見やって、引き伸ばしたようなもの思わしげな微笑を浮べた。
「さあ、出かけよう」と彼は言った。
「どこへ出かけるんです? いや、まあ、お待ちなさい……君はひょっとしたら、自分の脳天へそいつを打ち込むんじゃありませんか、その弾丸を……」とペルホーチンは不安げに言った。
「弾丸なんかつまらんことです! 僕は生きたいのだ、僕は生を愛するのだ! 君これを承知してくれたまえ、僕は金髪のアポロとその熱い光線を愛するのだ……ねえ、ペルホーチン君、君はよけることができるかい?」
「よけるとは?」
「道を譲ることなんだ。可愛い人間と憎い人間に道を譲ることなんだ。そして、その憎い人間も可愛くなるように、――道を譲ってやるんだよ。僕はその二人のものにこう言ってやる、無事においで、僕のそばを通り抜けておいで、僕は……」
「君は?」
「もうたくさん、出かけよう。」
「本当に、もう誰かに言わなくちゃならない(とペルホーチンは相手を見つめながら)、君をあそこへやっちゃ駄目だ。何だっていま時分モークロエへ行くんです?」
「あそこに女がいるんです、女が。しかし君、もうたくさんだよ、ペルホーチン君、もうこれでおしまいだ!」
「ねえ君、君は野蛮な人間だ、が、僕はいつも君という人が気に入っているんです……だから、僕はこのとおり心配でたまらない。」
「有難う。君は僕のことを野蛮だと言ったが、人間はみんな野蛮だよ、野蛮人だよ! 僕はただこれ一つだけ断言しておく、野蛮人だ! ああ、ミーシャが帰って来た。僕はあの子のことを忘れていた。」
 ミーシャは両替えした金の束を持って、せかせかと入って来た。そして、プロートニコフの店では『みんなが騒ぎだして』酒の罎や魚や茶などを引っ張り出している、今にすっかり支度がととのうだろうと、報告した。ミーチャは十ルーブリの札を取り出して、ペルホーチンに渡し、いま一枚をミーシャの手に握らした。
「それは失礼ですよ!」とペルホーチンは叫んだ。「僕の家でそんなことはさせません。かえって悪い癖をつけるばかりです。その金をお隠しなさい。そこへ入れたらいいでしょう。何もそんなに撒き散らすことはありませんよ。早速あすにもその金が役に立つかもしれやしない。そんなことをすると、今にまた僕のところへ、十ルーブリ貸してくれなどと言って来るんだから。何だって君は金をわきのかくしにばかり突っ込むんです? いけません、おっことしますよ!」
「ねえ、君、一緒にモークロエヘ行かない?」
「僕が何のためにそんなところへ行くんです?」
「じゃね、君、いますぐ一本抜いて、人生のために乾そうじゃないか! 僕は一口のみたくなった。が、しかし、何より一ばん好ましいのは、君と一緒に飲むことだ。僕と君と一緒に飲んだことは、まだ一度もないね、え?」
「じゃ、料理屋でやったらいいでしょう。出かけましょう。僕もこれから行こうかと思ってたところなんだから。」
「料理屋へ行ってる暇はない。そんならプロートニコフの奥の間にしよう。ところで、なんなら、僕はいま君に一つ謎をかけてみようか。」
「かけてみたまえ。」
 ミーチャはチョッキのかくしから例の紙切れを取り出して、ひろげて見せた。それにはくっきりとした大きな字で、次のように書いてあった。
『全人生に対してわれみずからを刑罰す、わが生涯を処罰す!』
「本当に僕は誰かに言いますよ。これからすぐ行って知らせますよ。」ペルホーチンは紙切れを読み終ってこう言った。
「間に合わないよ、君、さあ、行って飲もう、進めっ!」
 プロートニコフの店はペルホーチンの住まいから、ほとんど家一軒しか隔てていない通りの角にあった。それは金持の商人が経営している、この町でも一ばん大きな雑貨店で、店そのものもなかなか悪くなかった。首都の大商店にある雑貨品は、どんなものでもおいてあった。『エリセーエフ兄弟商会元詰め』の葡萄酒の罎、果物、シガー、茶、砂糖、コーヒー、そのほか何でもある。店先にはいつも番頭が三人坐っていて、配達小僧が二人走り廻っている。この地方は一般に衰微して、地主らはちりぢりになり、商業は沈滞してしまったけれど、雑貨の方は依然として繁昌するのみか、年々少しずつよくなってゆくくらいであった。こういう商品に対しては、客足が絶えないからである。店では今か今かと、ミーチャを待ちかねていた。店のものは三四週間まえ、彼がやはり今度と同じように、一時にありとあらゆる雑貨品や酒類を、現金何百ルーブリかで買い上げたことを、憶えすぎるほどよく憶えていた(むろん、かけ売りならミーチャに何一つ渡すはずがない)。その時も今度と同じように、虹色札の大束を手にひん握って、何のためにこれほどたくさんの食料や酒が必要なのか、ろくろく考えもせず、また考えようともしないで、べつに値切ろうとするふうもなく、やたらに札びらを切ったことも、彼らはよく憶えている。
 当時、彼はグルーシェンカと一緒にモークロエヘ押し出して、『その夜と次の日と、僅かこれだけのあいだに、三千ルーブリの金をすっかりつかいはたし、この豪遊の帰りには赤裸の一文なしになっていた』と、こんな噂が町じゅうにひろがったのである。彼はその時、この町に逗留していたジプシイの一隊を総あげにしたが、その連中は二日の間に、酔っ払っているミーチャから勘定も何もなく、めちゃめちゃに金を引っ張り出し、高価な酒をがぶ呑みに飲んだとのことである。人々は、ミーチャがモークロエで穢らわしい百姓どもにシャンパンを飲ましたり、田舎の娘っ子や女房どもに、ストラスブルクのパイやいろいろの菓子を食べさせたりしたと言って、笑いながら噂しあっていた。またミーチャ自身の口から出た、人まえはばからぬ大っぴらなある一つの告白をも、人々は同様笑い話の種にしていた。ことに料理屋ではそれがなおひどかった(しかし、面と向って笑うものはなかった。面と向って笑うのは、少々危険であった)。ほかでもない、こんな無鉄砲なことをして、彼がグルーシェンカから得たものは、『女の足を接吻さしてもらっただけで、それよりほかは何も許してもらえなかった』とのことである。
 ミーチャがペルホーチンとともに店へ近づいた時、毛氈を敷いて小鈴をつけた三頭立馬車《トロイカ》が、ちゃんと入口に用意されて、馭者のアンドレイがミーチャを待ち受けていた。店の中ではもうほとんど品物を一つの箱に詰め終って、ただミーチャさえやって来れば、すぐ釘を打って車に積めるようにして待っていた。ペルホーチンはびっくりして、
「おや、一たい今の間に、どこから三頭立馬車《トロイカ》なぞ引っ張って来たの?」とミーチャに訊いた。
「君のとこへ走って行く途中、これに、アンドレイに出会って、さっそくこの店へ車を持って来るように、言いつけといたのさ。時間を無駄にすることはいらないからね! この前はチモフェイの馬車で行ったが、今度チモフェイは、妖姫と一緒に、僕より先につつうと飛んで行っちゃったんだ。おい、アンドレイ、だいぶ遅れるだろうな?」
「チモフェイはわっしらより、小一時間さきに着くくらいのもんでがしょう。まあ、それもおぼつかない話でがすが、とにかく一時間くらいしきゃ先にならんでしょうよ」とアンドレイは忙しそうに答えた。「チモフェイの車もわしが仕立ててやったんでがすよ。わっしはあいつの馬の走らせ方を知ってますが、あいつの走らせ方は、わっしらのたあまるで違ってまさあ、旦那さま。あいつなざあ、わっしの足もとにもよれやあしません。なに、一時間も先に着けるもんですか!」まだ血気さかんな馭者のアンドレイは、熱心にこう遮った。彼は髪の赤味がかった痩せた若い者で、身には袖なしを着け、手には粗羅紗の外套を持っていた。
「もし一時間くらいの遅れですんだら、五十ルーブリの酒手だ。」
「一時間なら大丈夫でがすよ。旦那さま、なに、一時間はさておき、三十分も先に着かしゃしませんよ。」
 ミーチャは何くれと指図をしながら、しきりにそわそわしていたが、話をするのも用を言いつけるのも、ものの言い方が妙にばらばらにこわれたようで、きちんと順序だっていなかった。何か言いかけても、締めくくりをつけるのを忘れてしまうのであった。ペルホーチンは自分でもこの事件に口をいれて、力を貸す必要があると感じた。
「四百ルーブリだぞ、四百ルーブリより少くちゃいかん。何から何まであの時のとおりにするんだぞ」とミーチャは号令をかけるように言った。「シャンパン四ダース、一罎欠けても承知しないから。」
「何だって君、そんなにいるんだい、一たい何にするの? 待て!」と、ペルホーチンは叫んだ。「この箱はどうした箱なんだ? 何が入ってるんだ。一たいこの中に四百ルーブリのものが入ってるのか?」
 忙しそうに往ったり来たりしていた番頭らは、さっそく甘ったるい調子で、この箱の中にはシャンパンが僅か半ダースに、ザクースカや果物やモンパンシエや、その他『口切りにぜひなくてはならない物だけ』入れてあるので、おもな『ご注文品』はあの時と同じように、ただ今さっそく別な馬車に積み込んで、やはり三頭立《トロイカ》で十分間に合うようにお送りします、と説明した。『旦那さまがお着きになってから、ほんの一時間ばかりだったころ、向うへ着くようにいたします。』
「一時間より延びちゃいかんぞ、きっと一時間より延びないように。そして、モンパンシエと飴を、できるだけよけいに入れてくれ、あそこの娘どもの大好物だから」とミーチャは熱くなって念をおした。
「飴――よかろう。しかし、君、シャンパン四ダースもどうするんだい? 一ダースでたくさんだよ!」ペルホーチンはもうほとんどむきになっていた。
 彼は番頭と談判したり、勘定書を出させたりして、なかなか黙っておとなしくしていなかった。しかし、全体で百ルーブリほど勘定を減らしただけである。結局、全体で三百ルーブリよりよけい品物を届けないように、というくらいのところで妥協してしまった。
「ええ、みんな勝手にするがいい!」急に考えを変えたらしく、ペルホーチンはこう叫んだ。
「僕に何の関係があるんだ? ただで儲けた金なら勝手に撒くがいいさ!」
「こっちへ来たまえ、経済家先生、こっちへ来たまえ、怒らなくてもいいよ」とミーチャは店の奥の間へ彼を引っ張って行った。「今すぐここへ罎を持って来るから、一緒にやろうじゃないか。ねえ、ペルホーチン君、一緒に出かけようじゃないか。だって君は本当に可愛い人なんだもの、僕は君のような人が好きさ。」
 ミーチャは編椅子の上に腰をおろした。前の小卓には汚れ腐ったナプキンが被せてあった。ペルホーチンはその真向いに座を占めた。シャンパンはすぐに運ばれた。「みなさん牡蠣はいかがでございます。ごく新しく着いたばかりの、飛切り上等の牡蠣でございますが」と店のものはすすめた。
「牡蠣なんか真っ平だ、僕は食べない、それに何もいりゃしないよ」とペルホーチンは、ほとんど噛みつくように毒々しく言った。
「牡蠣なんか食べてる暇はない」とミーチャは言った。「それに、ほしくもないよ。ねえ、君」と彼は突然、感情のこもった声で言いだした。「僕はこんな無秩序なことが大嫌いだったんだよ。」
「誰だってそんなものを好くやつはありゃしない! まあ、考えてもみたまえ、シャンパンを三ダースも百姓に買ってやるなんて、誰だって愛想をつかしてしまわあね。」
「僕の言うのはそんなことじゃない。僕はもっと高い意味の秩序を言ってるんだよ。僕には秩序というものがない、高い意味の秩序というものが……しかし、それもこれもみんなすんでしまった。くよくよすることはない、今はもう遅い、もうどうとも勝手にしろだ! 僕の一生は乱雑の連続だった、いよいよ秩序を立てなくちゃならん。僕は口合いを言ってるんだろうか、え?」
「寝言を言ってるんだよ、口合いじゃない。」

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世界の中なる神に栄《はえ》あれ
われの中なる神に栄あれ!
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 この詩はいつだったか、ふいに僕の魂からほとばしり出たんだ。詩じゃない、涙だ……僕が自分で作ったのだ……しかし、あの二等大尉の髯を捉まえて、引っ張った時じゃないよ……」
「何だって君、急にあの男のことなんか言いだすの?」
「何だって急にあの男のことを言いだすのかって? くだらんこったよ! 今にすっかり片がつく。今にすっかりなだらかになるよ! もうちょっとでけりがつくのだ!」
「まったく僕はどうも君のピストルが気がかりでならない。」
「ピストルもくだらんこったよ! とてつもないことを考えないで、飲みたまえ。僕は生を愛する。あまり愛しすぎて醜劣になったくらいだ。もうたくさんだ! 生のために……君、生のために飲もうじゃないか。僕は生のために乾杯を提言する! なぜ僕は自分で自分に満足してるんだろう? 僕は陋劣だけれど自分で自分に満足している。僕は自分が陋劣だという意識に悩まされてはいるけれど、しかし自分で自分に満足している。僕は神の創造を祝福する。僕は今すぐにも悦んで神と神の創造を祝福するが、しかし……まず一匹の臭い虫けらを殺さなくちゃならん、こそこそとその辺を這い廻って、他人の生活を傷つけないようにしなくちゃならん……ねえ、君、生のために飲もうよ! 一たい生より尊いものが、どこにある! 何もない、決してない! 生のために、そして女王の中の女王のために!」
「生のために飲もう、そしてまあ、君の女王のために飲んでもいい。」
 二人は一杯ずつ飲んだ。ミーチャは有頂天になってそわそわしていたが、何となく沈みがちな様子であった。ちょうど征服することのできない重苦しい不安が、目の前に立ち塞かっているかのようであった。
「ミーシャだ……ほら、君のミーシャがやって来た。ミーシャ、いい子だ、ここへ来い、そして明日の金髪のアポロのためにこの杯を乾してくれ……」
「君、何だってあの子に!」とペルホーチンはいらだたしげに叫んだ。
「まあ、大目にみてくれたまえ、ね、いいだろう、ね、僕こうしてみたいんだから。」
「ええっ、くそ!」
 ミーシャはぐっと飲みほして、一つ会釈すると、そのまま逃げ出してしまった。
「ああしといたら、長い間おぼえていてくれるだろう」とミーチャは言った。「僕は女が好きだ、女が! 女とは何だと思う? 地上の女王だ! 僕はもの悲しい、何だかもの悲しいよ、ペルホーチン君、君ハムレットを憶えているかい?『わしは何だかもの悲しい、妙にもの悲しいのだ、ホレーシオ……あわれ不憫なヨリックよ!』僕はあるいはこのヨリックかもしれない。ちょうどいま、僕はヨリックなのだ、髑髏《しゃれこうべ》はもっと後のことだ。」
 ペルホーチンは黙って聞いていた。ミーチャもちょっと言葉を休めた。
「そこにいる君んとこの犬は何ていう犬だね?」とミーチャは、隅のほうにいる目の黒い、小さな可愛い狆に目をつけて、だしぬけにとぼけたような調子で番頭に訊ねた。
「これはヴァルヴァーラさまの、うちのお内儀さんの狆でございます」と番頭は答えた。「さっきこちらへ抱いていらしって、そのまま忘れてお帰りになったのでございます。お届けしなければなりますまい。」
「僕はちょうどこれと同じようなものを見たことがある……連隊でね……」とミーチャはもの案じ顔にこう言った。「ただ、そいつは後足を一本折られてたっけ……ペルホーチン君、僕はちょっとついでに訊きたいことがあるんだよ。君は今までいつか盗みをしたことがあるかい?」
「なんて質問だろう!」
「いや、ちょっと訊いてみるだけなんだ。しかし、誰かのかくしから人のものを取ったことがあるかと訊くので、官金のことを言ってるんじゃないよ。官金なら誰でもくすねてるから、君だってむろんその仲間だろう……」
「ええ、黙って引っ込んでたまえ。」
「僕が言ってるのは人のもののことだよ。本当にかくしか紙入れの中から……え?」
「僕は一度、十の時に、母の金を二十コペイカ、テーブルの上から盗み出したことがある。そろっと取って、掌に握りしめたのさ。」
「ふふん、それで?」
「いや、べつにどうもしないさ、三日の間しまっておいたが、とうとう恥しくなってね、白状して渡してしまった。」
「ふふん、それで?」
「あたりまえさ、擲られたよ。ところで、君はどうだね、君自身も盗んだことがある?」
「ある。」ミーチャはずるそうに目をぽちりとさした。
「何を盗んだの?」とペルホーチンは好奇心を起した。
「母の金を二十コペイカ、十の時だった、三日たって渡してしまった。」
 そう言って、ミーチャはとつぜん席を立った。
「旦那さま、もうそろそろお急ぎになりませんか?」ふいにアンドレイが店の戸口からこう叫んだ。
「できたか? 出かけよう!」とミーチャはあわてだした。「もう一つおしまいに言っとくことがある……アンドレイにウォートカを一杯駄賃にやってくれ、今すぐだぞ! それからウォートカのほかに、コニヤクも一杯ついでやれ! この箱(それはピストルの入った箱であった)をおれの腰掛けの下へ入れてくれ。さようなら、ペルホーチン君、悪く思わないでくれたまえ!」
「だけど、明日は帰るんだろう?」
「きっと帰る。」
「ただいまお勘定をすましていただけませんでしょうか?」と番頭が飛び出した。
「勘定、よしきた! むろんするとも!」
 彼は、ふたたびかくしから紙幣《さつ》束を掴み出し、虹色のを三枚抜き取って、勘定台の上へ抛り出し、急ぎ足に店を出て行った。一同はその後につづいた。そして、ぺこぺこお辞儀しながら、有難うやご機嫌よろしゅうの声々で一行を送った。アンドレイはたったいま飲みほしたコニヤクに喉を鳴らしながら、馭者台の上へ飛びあがった。しかし、ミーチャがやっと坐り終るか終らないかに、突然、思いもよらぬフェーニャが彼の目の前に現われた。彼女はせいせいと肩で息をしながら駆けつけると、声高な叫びとともに彼の前に両手を合せ、いきなりどうとその足もとへ身を投げ出した。 
「旦那さま、ドミートリイさま、後生ですから、奥さまを殺さないで下さいまし! わたしはあなたに何もかも喋ってしまって!………そうして、あの方も殺さないで下さいまし。だって、あの方は前からわけのあった人なんですもの! アグラフェーナさまをお嫁におもらいなさるつもりで、そのためにわざわざシベリヤからお帰りになったのでございます……旦那さま、ドミートリイさま、どうか人の命を取らないで下さいまし。」
「ちぇっ、ちぇっ、これで読めた! 先生これからあっちへ行って、ひと騒ぎもちあげようというんだな!」とペルホーチンはひとりごとのように呟いた。「今こそ、すっかりわかった、今こそ厭でもわからあな。ドミートリイ君、もし君が人間と呼ばれたかったら、今すぐピストルをよこしたまえ」と彼は大声でミーチャに叫んだ。
「ねえ、ドミートリイ君!」
「ピストル? 待ちたまえ、僕は途中、溝の中へ抛り込んじゃうから」とミーチャは答えた。「フェーニャ、起きなよ、おれの前に倒れたりするのはよしてくれ。ミーチャは殺しゃしない、この馬鹿者もこれからさき、決して誰の命もとりゃしない。おい、フェーニャ。」もう馬車の上に落ちついて彼は叫んだ。「おれはさっきお前に失敬なことをしたが、あれは赦してくれ、可哀そうだと思って、この悪党を赦してくれ。しかし赦してくれなくたってかまやしない! 今となってはもうどうだって同じことだ。さあ、やれ、アンドレイ、元気よく飛ばせ!」
 アンドレイは馬車を出した。鈴が鳴り始めた。
「さようなら、ペルホーチン! 君に最後の涙を呈するよ!……」
『酔っ払ってもいないんだが、なんてくだらないことばかり言ってるんだろう?』ペルホーチンは彼のうしろ影を見送りながらこう考えた。店のものがミーチャをごまかしそうに感じられたので、同じく三頭立の荷馬車に食料や酒類を積み込むところを監視するために、残っていようかとも考えたが、急に自分で自分に腹を立てて、ぺっと唾を吐き、行きつけの料理屋へ玉突きに出かけた。
「馬鹿だ、おもしろい、いい男だけれど……」とみちみち彼はひとりごちた。「グルーシェンカの『もとの男』とかいう将校のことはおれも聞いていた。ところで、もし向うへ着いたら、その時は……くそっ、どうもあのピストルが気になる? ええ、勝手にしろ、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? あんなやつうっちゃっとけ。それに、何も起るようなことはあるまいよ。ただのから気焔にすぎないんだ。酔っ払って喧嘩して、喧嘩して仲直りするのがおちだ。あんな連中は、要するに実行の人じゃないんだ。あの『道を譲ってみずからを刑罰す』って何のこったろう、――なあに、何でもありゃしない! あの文句は、料理屋でも酔っ払った勢いで、何べんどなったかもしれやしない。が、今は酔っ払っていない。『精神的に酔っ払ってる』と言ったっけ、――なに、気どった文句を並べるのが好きなんだ、やくざ者、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? 実際、喧嘩したには相違ない、顔じゅう血だらけだった。相手は誰かしらん? 料理屋へ行ったらわかるだろう。それに、ハンカチも血だらけだった、――いまいましい、おれんとこの床の上へ残して行きゃあがった……ええ、もうどうだっていいや!」
 彼は恐ろしく不機嫌な心持で料理屋へ入ると、さっそく勝負を始めた。遊戯は彼の心を浮き立たした。二番目の勝負が終った時、彼はふと一人の勝負仲間に向って、ドミートリイ・カラマーゾフにまた金ができた、しかも三千ルーブリからあるのを自分で見た、そうして彼はまたグルーシェンカと豪遊をするために、モークロエをさして飛んで行った、という話をした。この話は思いがけないほどの好奇心をもって聴き手に迎えられた。人々は笑おうともせず、妙に真面目な調子で話し始めた。勝負まで途中でやめになってしまった。
「三千ルーブリ? 三千なんて金が、どこからあの男の手に入ったんだろう?」
 人々はそのさきを訊ねにかかった。ホフラコーヴァ夫人に関する報告は半信半疑で迎えられた。
「もしや、じじいを殺して取ったんじゃないかなあ、本当に?」
「三千ルーブリ! 何だか穏かでないね。」
「あの男おやじを殺してやると、おおっぴらで自慢らしく吹聴していたぜ。ここの人は誰でも聞いて知ってるよ。ちょうどその三千ルーブリのことを言ってたんだからなあ……」
 ペルホーチンはこれを聞くと、急に人々の問いに対してそっけない調子で、しぶしぶ返事するようになった。ミーチャの顔や手についていた血のことは、おくびにも出さなかった。そのくせ、ここへ来る時には、話すつもりでいたのである。やがて三番目の勝負が始まって、ミーチャの話もだんだん下火になった。しかし、三番目の勝負がすむと、ペルホーチンはもう勝負をしたくなくなったので、そのままキュウをおき、予定の夜食もしないで料理屋を出た。広場まで来た時、彼は自分で自分にあきれるくらい、思い迷った心持で立ちどまった。彼はこれからすぐフョードルの家へ行って、何か変ったことは起らなかったか、と訊ねる気になっているのに、ふと心づいた。『つまらないことのために(きっとつまらないことなんだ)、よその家を叩き起して、不体裁を演ずるくらいがおちだ。ちぇっ、いまいましい、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのかい。』
 恐ろしく不機嫌な心持で、彼はまっすぐに家のほうへ足を向けたが、突然フェーニャのことを思い出した。『ええ、こん畜生、さっきあの女に訊いてみたら』と彼はいまいましさに呟くのであった。『何もかもわかったのになあ。』すると、とつぜん彼の心中に、この女と話をして事情を知りたいという、恐ろしく性急で執拗な希望が燃え立った。とうとう彼は半途にして踵を転じ、グルーシェンカの住まっている、モローソヴァの家へ赴いた。彼は門に近づいて戸を叩いた。が、夜の静寂の中に響きわたるノックの音は、急にまた彼の熱中した心を冷まして、いらいらした気分にしてしまった。おまけに家の人はみんな寝てしまって、誰ひとり応ずるものがなかった。『ここでもまた不体裁なことをしでかそうというのか!』もう一種の苦痛を胸にいだきながら、彼はそう考えたが、決然として立ち去ろうともせず、急に今度は力まかせに戸を叩き始めた。往来一ぱいに反響が生じた。『これでいいんだ、なんの、やめるもんか、叩き起すんだ、叩き起すんだ!』戸の一撃ごとに、ほとんどもの狂おしいほど自分自身に対して怒りを感じ、同時にノックを強めながら、彼はこう呟いた。