ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

特設――27時間かけて「白痴」(ドストエフスキー作、米川正夫訳、2段組約640ページ)を電子化します

この事業には3つの目的があります。
・オリンピックより人々にまっとうな労働をあたえるべきことをアピールすること
オリンピック組織委員会より計画をうまくやれることをしめすこと
・電子図書とインターネットの地位向上

24ページ分(txtファイル、ANBIで約60KB)に1時間かけると、400文字に1か所の誤字、という結果になります。
まず、このやりかたで全ページを電子化します。
2021年7月23日以前に作業を終えられるかもしれません。

4日に1回ツイッターで報告します。





 
 
 
以下、一字移動させた記事の内容です

このブログでは、ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化を目標としています。
2年間で10MBの電子テキストの公開を予定しています。
ここで公開している電子テキストの8割は、生活苦の学生への支援事業の成果物です。資金は2年間で約100万円です。この少なくない分は借金です。
くわしくは、以下の記事を参考にしてください。
ttps://s3731127306973026.hatenadiary.com/entry/2095/01/01/000000_1
管理人はドストエフスキー初心者です。
要望があれば、コメント欄におねがいします。
以前このブログを訪問された方は、以下の部分を反転してください。 
いろいろ悩んだのですが、名前を変更させてもらいました。『ドラえもん』第1話発表から50年目を共に祝うことができず、残念無念です。
ドラえもん』関連の記事は、タグ[ドラえもん]をつけております。
記事を読みたい方は、「ドラえもん」で検索おねがいします。

ドストエフスキー各作品へのリンク+『ドストエーフスキイ全集』全20巻(1969年―1971年、筑摩書房、米川正夫による翻訳)目次

文字が小さいと感じたら、「CTRL」と「+」のキーを同時に押して、文字の大きさを調節してください。
https://www.google.com/search?q=%E6%96%87%E5%AD%97+%E5%A4%A7%E3%81%8D%E3%81%8F%E3%81%99%E3%82%8B&oq=%E6%96%87%E5%AD%97%E3%80%80%E5%A4%A7&aqs=chrome.2.69i57j0l7.5177j0j8&sourceid=chrome&ie=UTF-8

『ドストエーフスキイ全集』全20巻(1969年―1971年、筑摩書房、米川正夫による翻訳) 目次 - ドストエフスキー全作品を電子化する

カラマーゾフの兄弟』第8篇
『カラマーゾフの兄弟』第8篇 カテゴリーの記事一覧 - ドストエフスキー全作品を電子化する
 
カラマーゾフの兄弟』第9篇
『カラマーゾフの兄弟』第9篇 カテゴリーの記事一覧 - ドストエフスキー全作品を電子化する
 
カラマーゾフの兄弟』第10篇
『カラマーゾフの兄弟』第10篇 カテゴリーの記事一覧 - ドストエフスキー全作品を電子化する
 
カラマーゾフの兄弟』第11篇
『カラマーゾフの兄弟』第11篇 カテゴリーの記事一覧 - ドストエフスキー全作品を電子化する

 
『おとなしい女』
『おとなしい女』 カテゴリーの記事一覧 - ドストエフスキー全作品を電子化する
 
『おかしな人間の夢』
『おかしな人間の夢』 - ドストエフスキー全作品を電子化する


ドストエーフスキイ全集』全20巻(1969年―1971年、筑摩書房米川正夫による翻訳) 目次
 
第1巻
貧しき人々 005
分身 133
プロハルチン氏 281
九通の手紙に盛られた小説 313
主婦 327
ポルズンコフ 401
解説 419

第2巻
スチェパンチコヴォ村とその住人 003
弱い心 225
人妻と寝台の下の夫 271
正直な泥棒 317
クリスマスと結婚式 337
白夜 347
解説 403

第3巻
虐げられし人々
第一編 005
第二編 095
第三編 182
第四篇 279
エピローグ 352
解説 381

第4巻
死の家の記録
第一部 010
第二部 163
ネートチカ・ネズヴァーノヴァ 293
解説 455

第5巻
地下生活者の手記
第一 地下の世界 005
第二 べた雪の連想から 037
初恋 115
伯父様の夢 153
いやな話 297
夏象冬記 349
鰐 415
解説 451

第6巻
罪と罰
第一編 005
第二編 085
第三編 188
第四編 272
第五編 353
第六編 431
エピローグ 529
罪と罰』創作ノート 545
解説 721
 
第7巻
白痴(上)
第一編 005
第二編 188
第三編 341
 
第8巻
白痴(下)
第四編 005
『白痴』創作ノート 167
賭博者 319
解説 469
 
第9巻
悪霊(上)
第一編 007
第二編 201
スタヴローギンの告白 443
 
第10巻
悪霊(下)
第一編 005
『悪霊』創作ノート 219
永遠の夫 327
解説 438
 
第11巻
未成年
第一編 005
第二編 210
第三編 367
『未成年』創作ノート 597
偉大なる罪人の生涯 623
解説 639
 
第12巻
カラマーゾフの兄弟(上)
著者より 007
第一編 ある家族の歴史 009
第二編 ある家族の歴史 009
第三編 淫蕩なる人々 105
第四編 破裂 188
第五編 Pro et Contra 250
第六編 ロシヤの僧侶 334
第七編 アリョーシャ 386
第八編 ミーチャ 430
 
第13巻
カラマーゾフの兄弟(下)
第九編 予審 005
第十編 少年の群れ 082
第十一編 兄イヴァン 139
第十二編 謝れる裁判 251
第十三編 エピローグ 361
カラマーゾフの兄弟』創作ノート 387
解説 517

第14巻
作家の日記(上)
一八七三年 005
一八七六年
一月 169
二月 211
三月 251
四月 285
五月 321
六月 349
七月・八月 377
九月 434
十月 466
十一月 おとなしい女――空想的な物語―― 497
十二月 538
 
第15巻
作家の日記(下)
一八七七年
一月 005
二月 038
三月 071
四月 106
おかしな人間の夢――空想的な物語―― 117
五月・六月 138
七月・八月 197
九月 260
十月 293
十一月 326
十二月 361
一八八〇
八月 405
一八八一年
一月 461
解説 505
総目次 521
 
第19巻
論文・記録(上)
第一部
ロシヤ文学について 006
アポロン・グリゴリエフについて 155
シチェドリン氏、一名ニヒリストの分裂 160
政治論 181
上小景 257
ペテルブルグ年代記 276
『ズボスカール』 304
ペテルブルグの夢 310
誠心誠意の見本 332
『口笛』と『ロシヤ報知』 350
『ヴレーミャ』編集部へあてたヴァシーリエフスキイ島住人の手紙に対する注 365
『ロシヤ報知』への答え 367
文学的ヒステリー 392
『ロシヤ報知』の哀歌的感想について 401

第20巻
論文・記録(下)
第一部
理論家の二つの陣営 010
スラヴ派、モンテネグロ、西欧派。ごく最近の論戦 030
尻くすぐったい問題 036
さまざまなパン的・非パン的問題に関する必要な文学的釈明 060
新しい文学機関と新しい理論について 071
誌上短評 085
再び『若いペン』 099
ミハイル・ドストエーフスキイについて数言 116
必要かくべからざる声明 120
片をつけるために 123
実生活と文学における地口 128
三月二十八日宗教教育同好者協会の会合 140
I・F・ニーリスキイへの回答 143
ニール神父の事件 145
編集者の感想二つ 152
生活の流れから 160
編集者の感想 161
編集局から 164
詩 166
第二部
土地主義宣言 170
文集『四月一日』の序 199
名誉心の夢にふけるのはいかに危険であるか 203
ジャック・カザノヴァの終章 ヴェニスのプロンプ脱走奇譚 222
エドガー・ポーの三つの短編 223
ラスネル事件 225
ストラーホフの『シルレルについて』への付記 226
ノートル・ダム・ド・パリ 227
希望 229
一八六〇―一八六一年度の美術アカデミー展覧会 230
N・V・ウスペンスキイの短編 250
第三部
シベリヤ・ノート 262
手帖より 273
L・ミリューコヴァのアルバムに 301
O・コズローヴァのアルバムに(下書) 303
O・コズローヴァのアルバムに 304
兵学校将校課長ガルトング大尉への報告(一) 305
兵学校将校課長ガルトング大尉への報告(二) 305
シベリヤ常備軍第七大隊ベレホフ中佐への報告 306
証明書 307
声明 308
契約書の項目 309
A・N・マイコフへの委任状 311
領収書 312
出版管理局への請願(一) 313
ペテルブルグ検閲委員会への弁明書 314
誓約書 315
出版管理局への請願(二) 315
契約書 316
出版管理局への請願(三) 317
出版管理局への請願(四) 318
ハリコフ報知編集局への申し込み 318
出版管理局への請願(五) 319
出版管理局への請願(六) 319
退職少尉フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエーフスキイの請願覚え書 320
出版管理局への請願(七) 321
皇帝アレクサンドル二世に対する『スラヴ慈善協会』の上奏文 321
解説 325
補遺
『作家の日記』補遺 349
『作家の日記』総目次補遺 357
『書簡』補遺 359
『書簡』総目次補遺 381
『論文・記録』補遺
ペテルブルグ年代記 384
F・G・ザグリャーエヴァのアルバムに 391
領収書 392
『補遺』あとがき 393

『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-165

ルレルが花嫁に手をさし伸べたとき、とつぜん彼女はひと声高く叫んで、いきなり階段から群集の中へ飛びこんだ。付添いの人々は驚きのあまり、化石のようになってしまった。群集は彼女の前にさっと道を開いた。と、階段から五、六歩のあたりに、とつぜんラゴージンが姿を現わした。この男の目を、ナスターシヤは群集の中にとらえたのである。彼女はきちがいのように彼のそばへかけよって、その両手をひしとつかんだ。
「助けてちょうだい! つれて逃げて! どこでもいい、今すぐ!」
 ラゴージンは、彼女をほとんど両手にだきかかえながら、かつぎこむように馬車の中へ入れた、と、すばやく金入れの中から百ルーブリ札を抜き出して、馭者に突きつけた。
「停車場へやれ。もし汽車に問に合ったら、もう百ルーブリだ!」
 こういって、自分もナスターシヤのあとから馬車に飛びこみ、ぱたんと戸をしめた。馭者は一瞬も迷わず馬に鞭を当てた。あとでケルレルは、罪をことの唐突なのに塗りつけてしまった。『もう一秒ひまがあったら、わが輩も気がついて、あんな真似をさせるんじゃなかったんですがなあ!』と彼はその時のできごとを説明していった。彼はブルドーフスキイとともに、あり合わせの馬車に飛び乗って、追っかけたが、途中でまた考えを変えた。『もうどんなにしたって遅い! 力ずくじゃ取り戻せない!』
「それに公爵も望まれないだろう!」度胆を抜かれてしまって、ブルドーフスキイはこういった。
 ラゴージンとナスターシヤは、首尾よく時間内に停車場へかけつけた。馬車を出たラゴージンは、もう汽車に乗ろうとするまぎわに、通りかかったひとりの娘を引きとめた。娘は中古ではあるが、さして不体裁でもない、くすんだ婦人外套にくるまって絹の頭巾をかぶっていた。
「あなたの外套を五十ルーブリでもらいましたぜ!」彼はいきなり金を娘につきつけた。
 こちらがまだ合点が行かないで、あっけに取られているそのうちに、彼はもう手に五十ルーブリ押しこんで、外套と頭巾を引ったくり、ナスターシヤの肩と頭に、すっぽり着せてしまった。あまりに華麗な彼女の衣装が目立って、車中の注目をひきやすいからである。娘はなぜこの人たちが、なんの値うちもない自分の古衣装を、あんな法外な値で買い取ったか、そのわけをずっとあとで合点した。
 意外な変事に関する騒ぎは、非常な速度で教会に達した。ケルレルが公爵のほうをさして進んでいる途中、まるで近づきのない人が大勢彼のところへ飛んで来て、いろいろ根掘り葉掘りするのであった。騒々しい話し声がやまなかった。仔細らしく首を振るもの、中には無遠慮に笑うものさえあった。だれひとり教会を出ようとしないで、花婿がこの報知を受け取る様子を見ようと、待ちかまえていた。彼はまっさおになったが、聞こえるか聞こえないかの声で、『ぼくも心配してたんですよ。しかし、まさかこんなことになろうとは思わなかった』といったのみで、いたって静かにしらせを受け取った。しばらく無言ののち、やがてこういい足した。『もっとも……あれの境遇になって見たら……当然すぎるかもしれません』この評言にいたっては、ケルレルさえもあとで、『無類の哲学』と評したほどである。公爵は見たところ落ちうきはらって、元気よく教会を出た。すくなくとも、多くの人がそう観察して、あとで話していた。彼は家へ帰って、すこしも早くひとりきりになりたかったらしい。しかし、はたのものがそうはさせなかった。
 彼のあとにつづいて、招待客のだれ彼が部屋へはいって来た。その中にはプチーツィンとガヴリーラがいた。それから例の医師もいっしょだった。この人もいっこうかえって行くつもりはないらしい。それに、家ぜんたいが、のんきな群集で文字どおりに包囲されていた。まだ公爵が露台へあがったばかりだのに、ケルレルとレーベジェフとが、いく人かのまるで見知らぬ人たちと、激しく口論している声が聞こえた。その相手の人たちは、見受けたところ役人らしかったが、どうしても露台へあがりたいといって、承知しなかった。公爵はそばへ寄って事情をただした。そして、ていねいにレーベジェフとケルレルを押しのけながら、露台の階段に立った仲間のかしららしい、もう頭のごま塩になった、肉づきのいい紳士のほうを向いて、どうぞ来訪の栄を得たいと、慇懃に招じ入れた。紳士はちょっと面くらったが、それでもやはりはいって来た。つづいて、ふたり三人とあがって来た。結局、群集の中から、七、八人の訪問志望者が現われて、同様に中へはいったが、どうかしてざっくばらんな態度をとろうと努めていた。しかし、もうそれ以上の好事者《こうずしゃ》はなかった。ほどなく群集の中に、出しゃばりものを非難する声が聞こえた。押し入りの客人たちは、ちゃんと席を与えられ、会話がはじまり、茶が饗《きょう》された、――しかも、それがおそろしくきちょうめんに控え目に行なわれるので、押し入りの客人たちは、いくぶん面くらったほどである。もちろん、会話を浮き立たせ、かつ適当な話題にむけようとする試みも多少はあった。また無遠慮な質問も、『威勢のいい』注意も、三つ四つ客の口から出た。しかし、公爵はそれに対して、ごく淡白に愛想よく、しかも同時に、客の身分に対する信用を表わしながら、自分の品格をも落とさないように応対したので、ぶしつけな質問もしぜんと消えてしまった。しだいしだいに、会話はまじめな調子を帯びていった。ひとりの客はちょいとした言葉をつかまえて、だしぬけに恐ろしく悲憤慷慨のていで、自分はどんなことがあったって領地を売らない、それどころか、時の到るのを待つことにする。『じっさい事業は金銭にまさるですからなあ』『これがわたしの経済方針です、ちょっとお知らせしておきます』と弁じた。この言葉は公爵に向けて発しられたので、公爵はレーベジェフが耳もとに口を寄せて、あの人は家も邸も持っちゃいません、領地なんぞあってたまるものですか、とささやくのを相手にしないで、熱心にその考えを賞賛した。
 もうほとんど一時間ばかりたった。茶も飲みつくした。茶がすんで見ると、客人たちは、とうとう、もうこのうえ長居するのが、具合が悪くなってきた。医師とごま塩の紳士は熱意をこめて、公爵に別れを告げた。一同も熱心に騒々しく挨拶しはじめた。『落胆なさることはありません。あるいはこれがかえって幸いだったかもしれません、うんぬん』といったふうの意見や希望も吐かれた。もっとも、シャンパンをねだろうとする試みもあったけれど、これは客の中の年寄株が若い連中をおさえた。一同が散じてしまったとき、ケルレルはレーベジェフのほうへかがみこんで、こういった。『きみやぼくだったら、大きな声を出したり、殴り合ったり、いいかげん恥っさらしな真似をして、警察のご厄介になるところだったのだ。ところが、公爵はあのとおり、新しい友人をこしらえたじゃないか、しかもりっぱな友人だ。わが輩はあの人たちをよく知ってる!』もういいかげん『きこしめしている』レーベジェフは、溜息をついてこういった。『賢く智恵あるものに隠して、幼な児に示したもう、――わたしはずっと以前に、あのかたのことをこういったが、今度はこうつけ足すよ、神はかの幼な児を守りて、深き淵より救いたまいぬ。神とそのすべてのみ使いよ!』
 とうとう十時半ごろ、公爵はひとりきりになった。頭がずきずき痛んだ。いちばん遅く帰ったのは、式服を内着に換える手伝いをしたコーリャだった。ふたりは熱い別れの言葉を交した。コーリャはきょうのできごとをくだくだしくいわないで、あすは早めに来ると約束した。彼はのちになって、最後の別れの時にさえ、公爵がなんにもうち明けてくれなかったところを見ると、公爵は自分にさえあの決心を隠していたのだ、と論じた。間もなく家じゅうに、ほとんどだれひとりいなくなった。ブルドーフスキイはイッポリートの家へ行ってしまったし、ケルレルとレーベジェフもどこへか出かけた。ただヴェーラひとりがしばらく部屋の中に居残って、お祭らしい飾りつけを、普段の体裁に手早く直していた。出しなにちょっと公爵の部屋をのぞいてみると、彼はテーブルに両ひじついて、頭をかかえこみながら、じっと腰かけていた。彼女はそっと近寄って、公爵の肩にさわった。公爵はけげんそうに彼女をながめたが、一分間ほどはなにか合点の行かないらしい様子だった。けれども、やっと気がついて、すべてのことを思い合わすと、急におそろしくわくわくしはじめた。しかし、結局、あすの朝、一番列車に間に合うように、七時に部屋の戸をたたいてくれと、なみはずれて熱心に頼んだばかりだった。ヴェーラは承知した。
 公爵は、だれにもこのことをいわないでくれと、いっしょうけんめいに頼みだした。彼女はそのことも承知して、やがて出かけようと戸をあけたとき、公爵は三たび彼女を呼びとめ、両手を取って接吻した。それから、いきなり額に接吻して、なにか尋常一様でない様子をしながら、『じゃ、あすまたね!』といった。すくなくとも、ヴェーラはあとでこう伝えた。彼女は極度に公爵の身の上を危ぶみながら立ち去った。翌朝、約束どおり、七時すぎに公爵の部屋の戸をたたいて、ペテルブルグ行の汽車はもう十五分しかないと知らせたとき、公爵はすっかり元気づいて、ほほえみすら浮かべながら戸をあけたように思われたので、彼女はやや安心した。公爵はほとんど着換えをしなかったが、しかし寝るには寝たのである。その日のうちにさっそくかえってこられるものと、考えていたらしいのである。これで推して見ると、公爵はペテルブルグへ出かけることを、このときヴェーラだけには知らせてもいい、いや、知らさねばならぬと、考えたに相違ない。

      11

 一時間ののち、公爵はすでにペテルブルグへついた。そして、九時すぎには、ラゴージンの戸口で呼鈴を鳴らしていた。彼は正面玄関からはいったのだが、だれも長いこと戸をあけてくれなかった。やっと老母の住まいの戸があいて、あかぬけた年増の女中が出て来た。
パルフェンさまはお留守でございます」と彼女は戸の中から告げた。「どなたにご用でございます?」
パルフェンさんです」
「お留守でございますよ」
 女中は無作法な、もの珍しそうな様子で、公爵をながめた。
「それじゃ、ゆうべうちでおやすみになったでしょうか、ちょっと教えてくれませんか。そして……ゆうべはひとりで帰られましたか!」
 女中は相変わらずじろじろ見つめながら、公爵の問に返事をしなかった。
「では、きのうあの人といっしょにここへ……晩……ナスターシヤさんが見えなかったですか?」
「あの失礼でございますが、あなたはどなたさまでいらっしゃいます?」
「レフ・ムイシュキン公爵です、ぼくらふたりはごく懇意な間柄なんです」
「お留守なのでございます」と女中は目を伏せた。
「で、ナスターシヤさんは?」
「わたくし、そんなことすこしもぞんじません」
「待ってください、ちょっと! じゃ、いつ帰られます?」
「それも、ぞんじません」
 戸はしまった。
 公爵は、もう一時間たったら来てみることにした。庭の方をのぞいてみると、庭番がいた。
パルフェンさんは家かね?」
「おいででございます」
「どうしていま留守だなんていったんだろう?」
「だんなのほうのやつが、そんなことをいいましたかね?」
「いや、おかあさんのほうの女中だ、パルフェンさんの玄関で呼鈴を鳴らしても、だれひとりあけてくれなかった」
「ひょっとしたら、お出かけになったかもしれませんな」と庭番はひとりで決めた。「いつも出先をおっしゃったことがないんですからね。どうかすると、鍵まで持って行かれるので、三日ぐらい部屋をしめっきりで、うっちゃっとくことがありますよ」
「ゆうべ家におられたことを、おまえはたしかに知ってるね?」
「おいででしたよ。ときにや、正玄関からおはいりになっても、お見受けしないこともありますからね」
「ナスターシヤさんは、ゆうべあの人といっしょじゃなかったろうか?」
「そりゃ知りませんなあ。あまりしょっちゅうお見えになりませんからな。もしお見えになったら、わかりそうなもんですよ」
 公爵は外へ出て、しばらくもの思いに沈みながら、歩道を歩いていた。ラゴージンの部屋は窓をすっかりしめてあったが、残り半分の老母の住まいのほうはたいていどの窓もあいていた。それはよく晴れた暑い日であった。公爵は往来を横切って反対の歩道へ出た。そしてもう一度窓を見上げた。窓はすっかりしまっているのみか、どれもどれも白い巻きカーテンを垂らしてあった。
 彼は一分間ほど立っていた。と――不思議にも、とつぜん一つのカーテンの一隅が持ちあがって、ラゴージンの顔が現われた。と思う間もなく、たちまち消えてしまった、すくなくも、彼にはそう感じられた。彼はちょっと待ったのち、また出かけて呼鈴を鳴らしてみようと思ったが、もう一時間さきへ延ばすことに考え直した。『もしかしたら、そんな気がしただけかもしれないからな……』
 おもな理由はイズマイロフスキイ連隊、ついこのあいだまでナスターシヤの住まいのあったところへ、急いで行ってみる気になったからである。彼女が公爵のこいによって、三週
間まえパーヴロフスクを出てから、この土地に住むもとの親しい友達を頼って来たことを、彼は承知していた。それはやもめになった教員夫人で、家族もあれば、相当身分のある人だが、りっぱな道具つきの部屋を貸間にして、それを生活費にあてていた。せんだってふたたびパーヴロフスタヘ移るとき、ナスターシヤはまさかの時の用心に、住まいをそのままにして置いたろう。それはきわめてありうべきことだ。すくなくとも、ラゴージンがここへ彼女を連れて来て、ゆうベ一夜を明かしたと想像しても、たいして間違いはあるまい。公爵は辻馬車を雇った。彼女が夜、まっすぐにラゴージンの家へ乗り着けるとは、考えられないことだから、まずここから行動を開始すべきであった、こう公爵はみちすがら思いついた。『ナスターシヤさんは、あまりしょっちゅうお見えになりませんよ』という庭番の言葉も心に浮かんできた。もしそうだとすると、今度のような非常な場合に、どうしてラゴージンの家へ泊まるものか。こういう気休めに励まされつつ。ついに公爵は半死半生のていでイズマイロフスキイ連隊へ着いた。
 驚いたことには、教員夫人の家では、きのうもきょうも、ナスターシヤの話なぞ聞いたことがないばかりか、公爵自身の来訪を、奇跡かなんぞのように迎えた。大人数の家族一同、いくたりかの女の子に、十五から七つまで、一つおきの男の子は、母親のあとからばらばらと飛び出して、口をぽかんとあけながら、彼を取り囲んだ。そのあとからつづいて、黒い頭巾をかぶった、やせた黄色い子供らの伯母さんと、最後に、年とった眼鏡のばあさんが出て来た。 教員夫人が、はいって話して行けと、しきりに勧めるので、公爵もその意に従った。一同は、彼が今どういう身の上かということも、ゆうべ結婚式が挙行されたはずだということも、よく知っているので、結婚のこともいろいろ聞きたいし、また彼といっしょにパーヴロフスクにいるべきはずのナスターシヤのありかを、かえって自分のほうからききに来るということも、不思議でならなかったけれど、ただ礼儀上、遠慮していた。公爵はすぐそれを察した。彼は手短に、結婚に関する一同の好奇心を満足さした。にわかに驚愕の声や、嘆息や、叫び声がおこった。で、彼は仕方なしに、言い残したすべての事情は、もちろん、手短にではあるが、話してしまわなければならなかった。とうとう、興奮せる賢明な婦人たちの忠告に従って、まず第一にラゴージンを訪ねて、ぜひとも彼から確かな様子を聞き取ること、もし彼が不在か(これも正確に突きとめねばならぬ)、あるいは家にいても、うち明けてくれなかったら、母親とふたりでセミョーノフスキイ連隊に暮らしているナスターシヤの知り合いのさるドイツ婦人のところへ行って見ること、こんなふうに決議した。ひょっとしたら、ナスターシヤは興奮のあまり、人の思いつかぬところに身を隠すために、この婦人の家に泊まったかもしれぬ、というのであった。公爵は、まるで打ちのめされたような顔つきで立ちあがった。『とてもまっさおな顔をしておられました』とここの婦人たちはあとで話した。じっさい彼は足もとがよたよたしていた。そのとき、まるでいり豆のはじけるように、三人の声の入り乱れたあいだから、みなのものが自分たちもいっしょに行動をともにしようから、こっちの住所を知らしてくれと頼むのを、聞き分けた。しかし、住所などというものはなかった。婦人たちは、ひとまずどこかの宿へ落ちつくように勧めた。公爵はちょっと考えてから、例の五週間ばかり前に発作のおこった、以前の宿屋の番地を教えた。
 やがて彼は、ふたたびラゴージンの家をさして出かけた。ところが、今度はラゴージンのほうの戸口があかなかったばかりでなく、老母のほうの戸さえあけてくれなかった。公爵は庭番をさがしに行って、やっと庭でさがし出した。庭番はなにか忙しそうにして、ろくろく返事もしなければ、振り向きもしなかった。しかし、ともかくきっぱりと、『だんなさまは朝早く家を出て、パーヴロフスクヘお出かけになりました。おおかたきょうはお帰りにならないでしょう』と告げた。
「ぼく、待ってみよう。たぶん夕方には帰られるだろう?」
「ところが、一週間もお帰りにならんかもしれません、あのかたのこってすからね」
「してみると、とにかく昨夜ここで泊まられたんだね?」
「泊まるにゃ泊まられましたがね……」
 こうしたふうの様子が、すべて怪しく疑わしかった。察するところ、庭番はあの間に、もうなにか新しい命令を受けたものらしい。さっきはどちらかといえば、口軽のほうであったのに、今はただもう顔をそらさんばかりである。しかし、公爵は、二時間たったら、も一度よって見て、もし必要があれば張番してもいい、とまで決心したが、またドイツ婦人のところに望みが残っているので、彼はセミョーノフスキイ連隊へ車を飛ばした。
 けれど、ドイツ婦人はけげんな顔をした。ちょいちょい口をすべる言葉で推してみると、この美しいドイツ婦人は二週間ばかり前、ナスターシヤと喧嘩をして、このごろでは彼女のことをなにひとつ聞かないらしい。そして、今はいっしょうけんめいに力を入れて、『たとえあのひとが世界じゅうの公爵をみんなお婿さんに持とうと、そんなことなんかちっともおもしろくないわ』という気持ちを、相手に思い知らせようとするのであった。公爵はあたふたと出て行った。そのときふと、こんな想念が浮かんできた、――彼女はもしかしたら、またあのときのように、モスクワへ逃げて行ったのではあるまいか。ラゴージンもむろん、そのあとを追って行ったに相違ない、おそらくいっしょかもしれない。『とにかく、なにか手がかりを見つけなくちゃ!』
 ひとまず宿へ落ちつかねばならぬことを想い浮かべて、彼はリテイナヤ街へ急いだ。宿ではすぐ部屋を取ってくれた。給仕がなにかめしあがりますかときいたとき、彼はうっかりして、食べると答えた。と、急に気がついて、食事にまた余計な三十分をさかねばならぬと、おそろしく自分で自分に腹を立てたが、またふいと、――持って来たものを食べないで、うっちゃっといたからって、だれもなんともいうものはない、と気がついた。この薄暗く息苦しい廊下にいるうちに、奇妙な感じが彼の全幅を領した。その感じは、なにかまとまった想念に移ろうとして、必死にもがくのであったが、その新しい想念がはたして何であるか、正体をとらえることができなかった。ついに彼はほとんど人ごこちもなく宿屋を出た。頭がふらふらする、――しかし、どこへ行ったものだろう? 彼はまたもやラゴージン家をさして、馬車を駆った。
 ラゴージンはやはり帰っていなかった。呼鈴を鳴らしても戸をあけなかった。老母のほうで呼鈴を鳴らしてみると、あけるにはあけたが、同じようにパルフェンさまはお留守です、三日ぐらいお帰りがありますまい、といった。公爵はまたしても無作法な、もの珍しそうな目つきで、じろじろ見まわされるので、きまり悪くなってしまった。庭番は、今度はまるっきり見つがらなかった。彼はさきと同じように反対の歩道へ出て、窓のほうを見上げながら、悩ましい苦熱の中を、半時間ほど行ったり来たりした。けれども、今度はものの動く気配もしないし、窓もあかなかった。ただ白い巻きカーテンが、じっと垂れているだけであった。とうとう彼の頭に、さっきのはただ心の迷いだ、窓はどう見ても曇りきって、ながく洗った様子もないから、よしほんとうにだれかガラスごしにのぞいたとしても、なんにも見わけはつかないだろう、という考えが浮かんだ。この考えに安心して、彼はまたイズマイロフスキイ連隊の教師の細君のところへおもむいた。
 そこではみんな彼を待ちかねていた。教員夫人はその間に早くも三、四か所まわって、ラゴージンの家へすら寄って来たが、声も匂いもない! とのことである。公爵は無言のまま聞き終わると、部屋にはいって、長いすに腰をおろし、何をいってるか合点のいかない様子で、一同を見まわしていた。奇妙なことに、彼はなみはずれてよく気がつくかと思えば、また急に話にならないほどぼんやりしてしまう。家族一同はのちになって、『あのいちんちは、あきれてしまうほど変ちきりんでした、つまりあのころからもう気《け》があったんですね』と断言したほどである。ついに彼は立ちあがって、ナスターシヤの部屋を見たいと頼んだ。それは大きな、明るい、天井の高い二つの部屋で、かなりりっぱな道具も並んでいた。ずいぶん金がかかっているらしかった。あとで婦人たちの話すところによると、公爵は部屋の中のものを一つ一つ見まわしていたが、ふとテーブルの上に、図書館から借り出した本、フランス小説の『マダム・ボヴァリイ』がひらいてあるのに目をつけた。そして、開いているページをちょっと折って、持って行くから貸してくれと頼んだ。それは図書館のだからとことわるのを、ろくすっぽ聞かないで、平気でかくしへ納めてしまった。
 それから、開け放した窓のそばにすわると、白墨でいっぱい書き散らしてあるテーブルに目をつけて、だれが勝負をしたのか、とたずねた。家の人の答によると、ナスターシヤが毎晩ラゴージンを相手に、『ばか』『先取り』『粉屋』『ホイスト』『切札遊び』――あらゆる方法で勝負をしたのである。カルタがはじまったのはごく最近の話で、パーヴロフスクからペテルブルグへ移ってのちのことである、そのはじまりは、ナスターシヤが退屈を訴えて、『ラゴージンは毎晩じっとすわったばかりで、話なんかちっともできない』といってよく泣いたので、その翌晩ラゴージンがとつぜんかくしからカルタをひと組とり出した。すると、ナスターシヤが、からからと笑って、そこで勝負がはじまったのである。どこにその使った札があるか、と公爵がきいたけれど、札はもうなかった。カルタはラゴージンがその都度、新しい札をかくしに入れて持って来るが、あとでまた持って帰ってしまうのであった。
 婦人たちは、もう一度ラゴージンのところへ行って、もう一度やや激しく戸をたたいてみたらどうか、しかしすぐではなく夕方のほうがいい、『もしかしたらなにかわかるかもしれませんよ』と公爵に勧めた。教員夫人は自身、晩までにパーヴロフスクのダーリヤのところへ行ってみる、なにか知ってるかもしれないから、と申し出て、さらに公爵に向かい、あすのうち合わせがあるから、どうあろうとも、晩の十時ごろに来てくれと頼んだ。人々の慰めや希望の言葉にもかかわらず、極度の絶望が彼をつかんだ。なんともいえぬ悩ましさをいだきつつ、彼は宿までたどりついた。ほこりの多い、息苦しい夏のペテルブルグは、まるで締木にかけるように心を圧搾した。彼はむずかしい顔をした人や、酔っぱらいの群れに突き飛ばされながら、なんのあてもなく人々の顔をのぞきこんだ。おそらく余計な道を歩いたのだろう。自分の部殖へはいったときは、もうほとんど日が暮れていた。彼はすこし
休んでから、勧められたように、ラゴージンのところへ行くことにして、長いすに腰をおろし、テーブルに両ひじついて考えこんだ。
 いったいどれくらい時間がたったのか、何を考えていたのか、だれにもわからない。彼はいろいろなことが恐ろしかった。そして、自分がひどい恐怖に襲われているのを、せつないほどひしひしと感じるのであった。ふとヴェーラのおもかげが心に浮かんだ。すると、あるいはレーベジェフがこの事件についてなにか知ってるかもしれない、よし知らないまでも、自分より早く巧妙に探り出せるだろう、という連想がわいてきた。それからイッポリート、つづいてこの青年のところヘラゴージンが往来すること、なども思い浮かべられた。それからまた当のラゴージンのことを連想した、――つい先日、葬式で見た顔、それから公園で会ったときの顔、――と、ふいにこの廊下の片隅に隠れて、刃物を手に待ち伏せしたときの顔が目に浮かんだ。彼の目、あのとき闇の中に光っていた目が思い出された。公爵はぞっとした。さきほど出そうで出なかった想念が、いま忽然として脳裡に描き出された。
 それはほぼこうである。もしラゴージンがペテルブルグにいるとすれば、たとえ一時身を隠そうとも、ついには公爵のところへやって来るに相違ない。それは善い目的をいだいてくるか、善がらぬ心持ちで来るか知らないが、『あのとき』のような現われかたをしてなりと、かならずやって来るに相違ない。すくなくも、もしラゴージンがどうかして、公爵のところへ来る必要を感じるとすれば、この宿屋よりほかにもう来るところがない。彼は宿所を知らないから、かならず公爵は以前の宿屋に泊まっていると考えるだろう。すくなくとも、ここをたずねてみようとするに相違ない、もし非常な必要があるとすれば……ところで、その必要があるかもしれない、それは保証のかぎりでない。
 こう彼は考えたのである。そして、この考えが、なぜかぜんぜんありうべきことのように感じられた。彼がもすこし深くこの考えを詮索してみたとしても、『なぜ自分が急にラゴージンにとって必要になるのか? またなぜ自分たちがとどのつまり、意気相投合するわけには行かないのか?』という疑問に対しては、どうしても明快な説明を与えることができなかったろう。しかし、とにかく重苦しい想念であった。『もしあの男が仕合せだったら、ぼくのとこへ来はしまい』と公爵は考えつづけた。『が、もし不仕合せだったら、すぐやって来る。ところで、あの男はきっと不仕合せに相違ない……』
 こう確信した以上、自分の部屋でラゴージンを待つのが当然だったが、彼がこの新しい想念に堪えかねるように、いきなり飛びあがって帽子をつかみ、部屋をかけだした。廊下はもうすっかり暗かった。『もしあの男が、今そこの隅から急に出て来て、階段で呼びとめたら、どうだろう?』例のなじみの場所へ近寄ったとき、ちらとこんな考えがひらめいた。けれど、だれも出て来なかった。彼は門のほうへおりて行って、歩道へ出た。そして、日の入りとともに往来へ吐き出されたおびただしい人ごみに一驚を喫しながら(暑中休暇時分のペテルブルグでは始終のことである)、ゴローホヴァヤ街をさして歩きだした。宿から五十歩ばかりの最初の四辻へ来たとき、人ごみの中でだれか彼のひじにさわって、耳のすぐそばでささやくものがあった。
「レフ・ニコラエヴィチ、おれのあとからついて来な、用があるんだ」
 これがラゴージンであった。
 奇妙なことに、公爵はとつぜんうれしさのあまり舌もつれしながら、一つの言葉をしまいまでいいきらないほどの勢いで、今まで宿屋の廊下で待っていたことを話しはじめた。 「おれはあそこにいたんだよ」思いがけなくラゴージンが答えた。「さあ、行こう」
 公爵はこの答に驚いたが、それはすくなくとも二分ばかりたって、事情を思い合わしてからのちのことであった。この答の意味を考えると、彼はびくっとして、ラゴージンをのぞきこみはじめた。こちらはもう半歩ほどさきへ出て、自分の前をまっすぐに見つめながら、機械的に用心ぶかい態度で人人に道を譲るばかり、行き合う人の顔をすこしも見ずに歩いた。 「なぜきみは宿でぼくの部屋をきいてくれなかった……もしあすこにいたとすれば?」とつぜん公爵がこうたずねた。
 ラゴージンは立ちどまって、相手をながめ、ちょっと考えたけれども、問の意味はすこしもわからないふうでこういった。
「なあ、公爵、おまえはこっちをまっすぐに通って、家まで行きな、いいかい? おれはあっちのほうを通ってくから。だが、気をつけて、ふたりそろって行くようにしようぜ……」
 こう言って、彼はずんずん往来を横切ってしまった。向こう側の歩道へはいると、公爵が歩いているかどうか、確かめるようにふり向いたが、彼がぼんやり立って、目を皿のようにして自分のほうをながめているのを見ると、ゴローホヴァヤ街の方角へ手を振って歩きだし、ひっきりなしに公爵をふり返って見て、ついて来いと手招くのであった。公爵が彼の意を解して反対側からついて来るのを見て、勇み立つようなふうである。『ラゴージンはみちみちだれかをさがして、見落とすまいと思ってるのだ、それで向こう側へ渡って行ったのだ』という考えが、公爵の頭に浮かんだ。『しかし、だれをさがしてるのか、なぜいわないのだろう?』こうして五十歩ばかり歩いたとき、公爵は急にどうしてかふるえだした。ラゴージンは前ほどではないが、やはりふり返って見るのを怠らなかった。公爵はとうとうこらえきれなくなって、彼を手でさし招いた。こっちはすぐ往来を横切って、そばへ来た。
「ナスターシヤは、いったいきみんとこにいるのかい?」
「おれんとこよ」
「さっきカーテンのかげからぼくを見たのは、きみだったの?」
「おれよ……」
「いったいどうしてきみ……」
 しかし、公爵は、このさきどうきいていいのか、どんなふうに問のくくりをつけていいのか、わからなくなった。のみならず心臓の鼓動が激しくて、口をきくのもむずかしかった。ラゴージンもやはり黙りこんで、以前と同じように、もの思わしげに彼を見つめていた。
「じゃ、おれは行くぜ」急にまた渡って行きそうにしながら、彼はこういった。「おまえは勝手に歩きな。おれたちは往来を別々に行くことにしよう……そのほうがいい……別々の側を通ってね……いいかい」
 ついにふたりが、別々の歩道からゴローホヴァヤ街へ曲がって、ラゴージンの家へ近づいたとき、公爵の足はふたたびなえはじめ、ほとんど歩くことさえむずかしくなってきた。もう晩の十時ごろであった。老母のほうの窓はさきほどと同じくあけ放されてあったが、ラゴージンのほうのはしめきりで、たそがれの光の中におろされた白いカーテンがひとしおくっきりと浮きだすように見えた。公爵は反対の歩道から家へ近寄った。ラゴージンは向こう側の歩道から正面の石段へあがって、彼を手招きしている。公爵は通りを渡って、その石段のほうへやって来た。
「おれのことはいま、庭番さえ知らないんだ、帰って来たってこともね。おれはさっきパーヴロフスクヘ行くっていっといたよ。おふくろにもそういっといた」と彼はずるいほとんど満足らしい微笑を浮かべてささやいた。「おれたちがはいっても、だれも聞きつけるものはありゃしない」
 彼の手の中にはもう鍵があった。階段を昇りながら、彼はあとをふり向いて、そっと来いというように、公爵をおどす真似をした。そして、静かに自分の住まいへ通ずる戸をあけて、公爵を通し、そのあとから用心ぶかくはいって、戸締まりをし、鍵をポケットの中へ入れた。
「さあ、行こう」と彼は小声でささやいた。
 彼はまだリテイナヤ街を歩いているころから、小さな声で話していた。うわべは落ちついているが、なにか内心ふかい不安をいだいているようであった。書斎のすぐ手前の広間へはいったとき、彼は窓に近寄って、さも秘密らしい手つきで、公爵をさし招いた。
「さっきおめえが呼鈴を鳴らしたとき、おれはすぐおめえに相違ないと察したよ。で、爪立ちで戸のそばへ寄って、聞いてみると、おめえがパフヌーチエヴナと、しきりに話してるじゃないか。ところが、おれは夜が明けないうちからいいつけておいたのさ、――もしおめえか、それともおめえの使いか、まあ、だれにもせよ、おれんとこへ訪ねて来たら、どんなことがあっても、口をすべらさないようにしろってね。もしおめえが自分で来たら、なおさら気をつけろって、おめえの名を教えといてやったのさ。それから、おめえが出て行ったあとで、もし外に立って様子を見ているか、それとも往来から見張りでもしてたら、大変だと思ってな、おれはこの窓のそばへ寄って、そっとカーテンをめくってみると、おめえがそこに立っていて、まともにおれのほうを見てるじゃないか……まあ、こういうようなわけだったのさ」
「どこに……ナスターシャ[#「ナスターシャ」はママ]はいるんだね?」と公爵は息をきらしながらいいだした。
「あれは……ここにいるさ」心もち答えをちゅうちょするように、ラゴージンはゆっくり答えた。
「どこに?」
 ラゴージンは目を上げて、じっと公爵を見つめた。
「行こう……」
 彼はしじゅうささやくような声で、いぜんとして妙に沈んだ調子で、急がずにゆっくりものをいった。カーテンのことを話したときでさえ、話の調子は散漫だったけれど、言葉の底に別な意味をこめようとするふうが見えた。
 ふたりは書斎へはいった。前に公爵が訪れたときから見て、この部屋にはいくぶんの変化が生じていた。部屋ぜんたいを横切って緑色の厚地の絹のカーテンが引かれ、その両端が出入り口になっている。これがラゴージンの寝台をしつらえてある小部屋と、書斎との仕切りになっている。重々しいカーテンはすっかりおろされて、出入り口もふさがっていた。部屋の中はおそろしく暗かった。ペテルブルグの夏の『白夜』は、だんだん暗くなって来たので、これがもし満月でなかったら、カーテンをおろしたラゴージンの薄暗い部屋の中は、もののけじめもつきかねたろう。しかし、はっきりとは行かないまでも、どうやら顔ぐらいは見わけられた。ラゴージンの顔は、いつものとおり青白かった。じっと公爵の上にそそがれた目は、鋭い光を帯びていたけれど、じっとすわって動かなかった。
「きみ、ろうそくをつけたらいいのに」公爵はいった。
「いいや、いらん」とラゴージンは公爵の手を取って、テーブルのほうへ引き寄せ、自分も公爵とさし向かいにすわって、ほとんどひざが触れ合うほどにいすを引き寄せた。ふたりのあいだには小さな丸テーブルが、やや横へ寄って挟まっていた。
「すわんな、しばらく話そうじゃないか!」無理に勧めてすわらせようとするように、彼はこういった。ちょっと言葉がとぎれた。「おれも、おめえがあの宿屋に落ちつくだろうと、そう思ったよ」よくかんじんな話にはいる前に、直接用件に関係のない、つまらぬことからきりだす人があるが、彼の話しぶりもそんなふうだった。「おれは廊下へはいったとき、もしかしたら、おめえもおれと同じように、ちょうどいま、おれを待ちながらすわってるかもしれない、とこう思ったね。教員の細君のところへ行ったかい?」
「行った」公爵は激しい心臓の鼓動に、こういうのもやっとの思いだった。
「おれはそのことも考えたのさ。まだいろいろ話があるだろう、とも思ったよ……それから、またこんなことも考えた、――公爵をここへ引っ張って来て泊めてやろう、今夜いっしょにいなくちや……」
「ラゴージン! ナスターシヤはどこにいるの?」とつぜん公爵はこうささやいて、手足をふるわせながら立ちあがった。
 ラゴージンも席を立った。
「あそこだ」とカーテンのほうをあごでしゃくって、ささやいた。
「寝てるかい?」と公爵も声をひそめた。 ふたたびラゴージンはさっきと同じように、じいっと公爵を見つめた。
「じゃ、もう行って見るかな!………しかし、おめえ……いや、まあ行こう」
 彼はカーテンを待ち上げながら立ちあがり、ふたたび公爵のほうをふり向いた。
「はいんな!」さきへ進んで行けというこころで、カーテンの向こうをあごでしゃくった。 公爵ははいって行った。
「ここは暗いね」と彼はいった。
「見えるさ!」ラゴージンはつぶやいた。
「ぼくはどうも見えないが……あれは寝台だね」
「もっとそばへ行ってみな」とラゴージンは低い声で勧めた。
 公爵は前へ一歩、また一歩、――そして、立ちどまった。彼はじっと立ったまま、一、二分のあいだ前をすかして見た。そのあいだ、両方とも寝台のそばに立ちすくんで、ひと口もものをいわなかった。公爵の心臓は、死んだような室内の沈黙のうちに響きわたるかと思われるほど激しくうった。しかし、ようやく彼の目は闇になれて、寝台の上がすっかり見わけられるようになった。寝台の上には、だれかひっそり静まりかえって寝ている。きぬずれの音、息づかい、そんなものはすこしも聞こえなかった。眠れる人は頭から、白い敷布をかぶっていたが、手足はぼんやりとしか見わけがつかない。ただ寝台の上が高くなっているので、人が身を伸ばして寝ている、ということだけわかった。寝台の上にも、足もとにも、寝台のすぐそばのひじいすにも、床の上にも、あたり一面ぬぎすての衣装、――ぜいたくな白い絹の服や、造花や、リボンなどが、だらしなく散らかっている。枕もとのほうの小テーブルには、はずしたまま投げ散らしたダイヤモンドが、きらきら輝いていた。足もとにはなにかレースらしいものが、ひとかたまりにして引きちぎってあったが、その白く浮いているレースの上には、敷布の下からのぞいたあらわな足の先が見わけられた。それは大理石でつくられたように見えた。そしておそろしいほどじっと動かなかった。公爵は見つめていたが、見つめれば見つめるほど、部屋の中がいよいよ死んだように静けさを増すのを感じた。と、急に一匹の蝿が目をさまして、ぷんと寝台の上を飛び過ぎると、そのまままくらもとのあたりで羽音をおさめた。公爵は身震いした。「出よう」とラゴージンが彼の手にさわった。
 ふたりはそこを出て、またもとのいすに相対して腰をおろした。公爵はしだいに激しく身をふるわせながら、もの問いたげな目をラゴージンの顔から放さなかった。
「おめえは見たところ、たいそうふるえるじゃないか」ついにラゴージンがきりだした。「ちょうど、おめえがひどくからだの加減を悪くしたときのようだぜ、そら、モスクワであったろう、覚えてるかい? でなけりゃ、発作の前かね。ほんとうにそうなったら、おめえをどうしたらいいのか、思案にあまるよ……」
 公爵はその言葉の意味をつかもうとして、ありったけの力を緊張させながら、絶えず合点のいかない目つきをして、耳か傾けた。
「あれはきみなんだね?」あごでカーテンの方をしゃくりな、がら、やっと彼はいった。
「うん……おれよ……」とささやいて、ラゴージンは目を伏せた。
 ふたりは五分ほど無言でいた。
「だからね」ラゴージンはしばらく言葉の絶えていたのに気のつかぬふうで、だしぬけに話をつづけた。「だからね、もしおめえの持病がおこって、癲癇がおこって、大きな声でも立てたら、往来のほうからか、でなけりや家のほうから、だれか聞きつけて、ここに人が泊まってるってことに気がつくだろう。そして、戸をたたいてはいって来らあな……だって、みんなおれは家にいないものと思ってるんだからな。おれは往来からも家からも気がつかないように、ろうそくもつけなかったんだ。それにおれが留守のときは自分で鍵を持って行っちゃうもんだから、三日も四日もかたづけにはいるものもないんだ。これがおれんとこのきまりなのさ。だから今も、おれたちが泊まるってことを知られないように……」
「ちょっと待ってくれ」と公爵がいった。「さっきぼくは庭番にも女中にも、ナスターシヤが泊まらなかったかときいてみたが、じゃ、みんな知ってるんだね」
「おめえのたずねたのは知ってるよ。おれはパフヌーチエヴナにそういったのさ、きのうナスターシヤがちょっと寄ったけれど、すぐその日のうちに立ってしまって、おれんとこには十分間しかいなかったってね。泊まったってことは知らないんだ、――だれも知りゃしない。きのうおれたちは、今おめえといっしょにはいったと同じように、そろっとはいったんだ。おれは途中、腹ん中でね、あれはそろっとはいるのをいやがるだろう、と思ったんだが、――どうしてどうして!小さな声で話をする、爪立ちで歩く、音がしないように着物の裾をつまんで持ち上げてあるく。階段では、あれのほうがかえって指を立てて、おれをおどかす真似をするじゃないか、――つまり、始終おまえを恐れてたのさ。汽車の中ではまるできちがいさ。それもこれもみんな恐ろしいからだよ。ここへ泊まりに来たのも、自分で望んだんだ。はじめおれは、教員夫人のところへつれてくつもりだったが、――どうしてどうして!『あんなところでは、公爵が夜の明けぬ間にさがしだすから、おまえさんわたしをかくまっておくれ、あすは夜の明けないうちにモスクワへ立って』それからオリョールのほうへ行く……っていうのさ。床にはいってからも、しきりにオリョールへ行きたいっていってたよ……」
「ちょっと待ってくれ、きみはこれからいったいどうするつもりだね、パルフェン?」
「どうも面くらっちまうぜ、おめえのふるえようはどうだ。今夜はふたりでいっしょにここへ寝るんだ。寝台はあれよりほかにないから、おれは考えついたのさ、――両方の長いすからクッションをはずして、そこんとこの帷《まく》のそばに、おめえの分と並べて敷いて、いっしょに寝ようや。なぜって見な、もし人がはいって来てさがしたら、あれはすぐめっかって、かつぎ出される。そしておれは調べを受けて、自分の仕業だという。すると、おれもすぐ引っ張って行かれるだろう。だから、今あれをそこに寝かしとこうじゃないか、ふたりのそばに、おれとおめえのそばによ……」
「そうだ、そうだ!」と公爵は熱心に賛成した。
「じゃ、自首しないんだね。あれをかつぎ出させないんだね」
「どうしてどうして、けっして!」と公爵は決めてしまった。「どうしてどうして!」
「そんなら、おれも腹をきめたよ、おめえ。どうあっても、だれにも渡しゃしない! じいっと静かに夜を明かそうじゃないか! おれはきょう朝のあいだ、ちょっと一時間ほど外に出たっきりで、いつもそばにつきっきりなんだ。ああ、それから、晩におめえを迎えに出かけたっけ。それに、いまひとつ心配なのは、いやにむんむんするから、においが出やしないかってことなんだ。おめえ、においがするかい?」
「するかもしれないが、ぼくわからない。朝になったら、きっとするだろう」
「おれは油布で、アメリカできの上等の油布であれをくるんで、その上から敷布をかけたんだ。栓を抜いた防腐剤の壜も四本並べといた。今でもあすこにある」
「じゅあ、まるであの……モスクワのとそっくりだね?」
「だって、おめえ、においがするもんなあ。ところで、あれはじっと臥《ね》ている……朝になって、明かりがさしたら、よく見てみな。どうしたい、立てないのかい?」公爵が起きあがれないほど激しくふるえているのを見て、ラゴージンは心配そうに、驚きの色を浮かべながら訊ねた。
「足がいうことをきかないんだ」と公爵はつぶやくようにいった。「つまり、恐ろしいからだ、それはぼくも知っている……こわいのがやんだら立てるよ……」
「じゃ、おれがふたりの床をとるから、ちょっと待っていな。そして、おめえもう寝るといいや……おれもおめえといっしょに寝らあ……きくことがあるんだ……なぜって、おめえ、おれはまだ知らないんだからな……おれはおめえ、まだすっかりわからないんだからな。ひとつおめえに前もって話しとくよ。おめえがこのことを前もって、すっかり心得ておくようにな……」
 こんなわけのわからないことを、ぶつくさつぶやきながら、ラゴージンは床を延べにかかった。この床はもう朝のうちから考えついているらしかった。ゆうべは長いすの上で寝たのだが、長いすの上にはふたり並んで寝るわけにゆかない。ところで、彼は今どうしても並んで寝たかったのである。そこで、彼はいま大|童《わらわ》になって、二つの長いすからいろいろな大きさのクッションをひっぺがし、部屋の端から端へと突っきって、カーテンの入口のすぐそばまで引きずって来た。どうかこうか寝床ができた。彼は公爵に近寄り、歓喜にあふれた様子で、優しくその手を取り、たすけおこし、寝床のほうへつれて行った。けれど、公爵は自分で歩けるということがわかった。つまり、『恐ろしいのがやんだ』わけである。とはいえ、彼はいぜんとしてふるえつづけた。
「ところで、おめえ」公爵を左側のいいほうの床に寝かして、自分は右側のほうへ着換えもしないで長くなると、両手を頭に支《か》いながら、とつぜんラゴージンはいいだした。「きょうの暑さはずいぶんひどいから、においがするにきまってる……かといって、窓をあけるのはおっかないし……ところが、おふくろのほうに花の鉢があるんだ。たくさん花があってね、めっぽういい匂いがするから、そいつを持って来ようかと思ったけれど、パフヌーチエヴナが気《け》どりそうでなあ……あの女はずいぶんものずきなやつだから」
「そう、ものずきな女だね」と公爵は相づちを打った。
「買って来るかな、花や花束であれのからだを、すっかり埋めちゃおうかなあ? しかし、考えてみると、かわいそうだなあ、おめえ、花の中なんかで!」
「ときに……」と公爵はきいたが、何をきくはずだったか、いくら考えてみても、すぐその考えが逃げてしまうように、まごまごしながら、「ときに、ひとつききたいことがあるんだ、いったいきみはなんであれを、……ナイフで? あの例のナイフで?」
「あの例のだ……」
「ちょっと待ってくれ! ぼくはひとつきみにききたいことがあるんだ……ぼくたくさんきみにききたいんだ、すっかりみんな……しかし、きみいっそはじめっから、ずっとはじめから話してくれないか。きみは結婚まぎわに殺すつもりだったのかい? 式のまぎわに、教会の入口でナイフでもって……そんなつもりだったのかい?」
「そんなつもりだったか、どうか知らない……」とラゴージンはいくぶんこの問いに面くらって、その意味が合点ゆかないような顔をして、そっけなく答えた。
「パーヴロフスクヘナイフを持って来たことは、一度もないの?」
「一度もない。このナイフのことでおめえに話せるのは、これぐらいのものだよ、公爵」しばらく無言ののち、彼はこういい足した。「おれはけさこいつを、鍵のかかったひきだしの中から出したんだ。なにしろ、ことのおこったのが、朝の三時すぎだったからなあ。こいつはやっぱり、おれの本のあいだに挟んであったのさ……と……と……ところが、不思議でたまらないのはね、ナイフがまるで三インチ……四インチぐらい……左の乳の真っ下に突き通ったのに……血はみんなで、そうだなあ……小匙半分ぐらいシャツにこぼれたきりで、それっきり出ないんだ……」
「それは、それは、それは」公爵はとつぜんおそろしく興奮しながら、立ちあがった。「それは、それはぼく知ってる、それはぼくよんだことがある……それは内出血ってんだよ……ときによると、ひとしずくも出ないことがあるそうだ。それは傷所がちょうど心臓に当たったら……」
「ちょっと、聞こえるかい?」と急にラゴージンはさえぎって、おびえたように床の上へ中腰になった。「聞こえるかい?」
「いや!」と公爵は相手の顔を見ながら、同じく早口に、おびえたような声でいった。
「歩いてる! 聞こえるだろう? 広間を……」
 ふたりは耳を澄ましはじめた。
「聞こえる」公爵はしっかりとささやいた。
「歩いてる?」
「歩いてる」
「戸をしめるか、どうする!」
「しめな……」
 戸はしめられた。ふたりはふたたび横になった。長いこと黙っていた。
「ああ、そうだ!」ある一つの想念をとらえたので、またそれをなくしては大変だというように、床の上にがばとはね起きながら、公爵はとつぜん以前のように興奮して、せかせかした声でささやいた。「そうだ……ぼくききたいと思ったんだが……あのカルタね! カルタさ……きみはあれとカルタをして遊んだじゃないか?」
「うん、そうだ」つかの間の沈黙ののち、ラゴージンはこういった。
「どこにあるの……カルタは?」
「ここにあるよ……」前よりもっと長く無言でいたが、やがてラゴージンは口をきった。「これだ……」
 彼は一度使ったカルタを紙に包んだのを、かくしから取り出して、公爵のほうへさし出した。こちらはそれを受け取ったが、なんだか迷っているようなふうであった。淋しい荒寥たる感情が、あらたに彼の胸を圧しはじめた。彼は急に自分がこの瞬間、いや、ずっと以前から、いわなくてはならぬことをいわず、しなくてはならぬことをしないでいるのを、切実に感じたのである。いま非常な喜びをいだきながら手に取ったこのカルタ、これも今はまったくなんの役にも立たぬではないか。彼は立ちあがって両手をうった。ラゴージンはいぜんとして横になったまま、相手の動作を見も聞きもしないようなふうであった。しかし、その目はすこしも動かないで、大きく見開いたまま、らんらんと闇をすかして輝いていた。公爵はいすにすわり、恐怖をおぼえながら相手をみつめはじめた。三十分ばかり過ぎた。と、ふいにラゴージンは、引きちぎったような調子で声高に叫んで、からからと笑いだした。さっき小さな声で話さねばならぬといったことを、自分で忘れてしまったかのようである。
「あの軍人を、あの軍人を……おい、覚えてるかい、いつかあれが音楽堂で軍人をなぐったろう、覚えてるかい、ははは! それから候補生が……候補生が……候補生が飛びだしたっけなあ……」
 公爵は新しい驚愕の念にいすを飛びあがった。ラゴージンがしずまったとき(彼は急に静かになったので)、公爵はそうっとかがみこんで、そのそばに並んで腰をかけ、激しく心臓を鼓動させながら、重々しく息をつきつき、仔細に彼を見まわしはじめた。ラゴージンはそのほうへ首も向けないで、まるで彼の存在を忘れてしまったようである。公爵はじっと見つめながら待っていた。時はしだいに移り、夜は白みはじめた。ラゴージンはときどきだしぬけに、高い、鋭い声で、辻褄の合わないことを口走りだした。叫び声を立てたり、笑ったりすることもあった。そんなとき、公爵はふるえる手をさし伸べて、そっと彼の髪にさわったり、頭や頬をなでたりするのであった……それよりほか、彼はどうすることもできなかった! 彼自身もまたふるえがおこって、また急に足を取られるような気持ちがしてきた。なにかしらぜんぜん新しい感触が、無限の哀愁をもって彼の心を締めつけるのであった。やがて、夜はすっかりあけ放れた。ついに彼はもうまったく力つきて、絶望の極に達したかのように、床の上へ横倒しになって、じっと動かぬラゴージンの青ざめた顔へ自分の顔を押しつけた。涙は彼の目からラゴージンの頬へ流れたが、公爵はすでにそのとき自分の涙を感知する力もなく、自分のすることにすこしも覚えがなかったのかもしれない……
 すくなくとも、それからだいぶ時間がたってのち、戸が開いて、大勢の人がはいったとき、女殺しの犯人は深い喪心と熱病の状態におちいっていた。公爵は床《とこ》の上にじっとすわって、そば近く寄り添いながら、病人が叫び声やうわごとを発するたびに、大急ぎでふるえる手をさし伸ばし、ちょうど子供をすかしなだめるように、そっと頭や頬をなでていた。しかし、彼はもうきかれることがすこしもわからなかったし、自分を取り囲む人々の見わけもつかなかった。もしシュナイデル博士がスイスから出て来て、もと自分の生徒でもあり患者でもあったこの人を見たら、彼はスイスにおける第一年目の容体を思い出して、またあの時と同じように今も手を振って、こういったに相違ない、――『白痴《イジオート》!』

      12終末

 教員夫人はパーヴロフスクヘかけつけると、いきなりきのうからかげんを悪くしているダーリヤを訪れて、知れるかぎりのことを報告し、すっかり女主人を転倒さしてしまった。ふたりの女はとりあえず、レーベジェフと交渉をつけることにした。彼もまた公爵の友達として、かつ家の持ち主として、おそろしく心配していたのである。ヴェーラは知ってるだけのことを、すべて話して聞かした。三人はレーベジェフの忠告に従って、『じっさい実現の恐れのあること』を一時も早く予防するため、いっしょにペテルブルグへ出かけることに決めた。こういう具合で、もう翌朝の十一時ごろ、ラゴージンの住まいは、レーベジェフとふたりの婦人、それから離れに暮らしている弟セミョーンの立会いのもとに、警察の手で開かれることになった。この成功を助けたのは、ゆうべ主人が客といっしょに、どうやらこっそりとはいるらしいところを見たという、庭番の申し立てであった。この申し立てののち、人々はなんの疑念もなく、呼鈴を鳴らしてもあかぬ戸を破ったのである。
 ラゴージンが二か月のあいだ脳炎をわずらって、やっと全快したとき、予審と公判がはじまった。彼はすべての事件について直截明快、かつ十分な申し立てをした。その結果、公爵ははじめから裁判を免じられた。ラゴージンは裁判の進行中、しじゅう沈黙がちであった。雄弁敏腕な弁護士が、今回の犯罪は重なり重なった悲しみのため、犯罪のずっと前からはじまっていた脳炎の結果であると、論理的に明晰に証明したのに対しても、その意見を確かめるようなことは何もつけ足そうとせず、ただ犯罪の事情をきわめて細かなところまで思い起こし、明瞭正確に申し立てるばかりであった。彼は情状酌量のもとに、十五年のシベリア懲役を宣告された。彼はむずかしい顔をして、無言のまま『もの思わしげ』に、宣告文をしまいまで聞いていた。彼の巨大な財産は、はじめ放蕩時代に使った比較的にいってごくわずかな額を除くほか、そっくり弟のセミョーンに移ってしまった。弟の大々的満足はいうまでもない。ラゴージンの老母は、やはりこの世に生き残って、ときおり、いとし子のパルフェンを思い出すようだが、はっきりとしたことはわからない。神は哀れな老女の知恵と感情を、その陰鬱な家に訪れた恐怖の意識から救い出したのである。
 レーベジェフ、ケルレル、ガーニャ、プチーツィン、そのほか本編中の多くの人物は、いぜんたる暮らしをつづけて、あまりたいして変わりがないから、べつに読者に伝えることもない。イッポリートは人々の予想したよりもすこし早く、おそろしい興奮のうちに息を引き取った。それはナスターシヤの死後二週間であった。コーリャは今度のできごとに深い打撃を受けた。そのために、彼は母といよいよかたく結びついた。ニーナ夫人は彼が年に似合わず、もの思いにふけりがちなのを心配している。彼はもしかしたら、事務的な人間になるかもしれない。それはとにかく、公爵の将来が保証されたのも、いくぶん彼の骨折りに負うところがあった。コーリャは最近知り合いになった人々の中で、前からエヴゲーニイ・ラドームスキイに目をつけていたので、まず第一番に彼のところへ行って、今度の事件について知れるかぎりの詳しい事情と公爵の現状を伝えた。彼の眼鏡は違わなかった。エヴゲーニイは不幸な『白痴』の運命を、熱い同情をもって引き受けた。この人の骨折りと後見のおかげで、公爵はふたたびスイスのシュナイデル医院へはいることとなった。
 エヴゲーニイ自身も外国へ旅行に出た。彼は公然、自分のことを、『ロシヤではぜんぜん無用な人間』と名のって、ずっと長くヨーロッパに滞在するつもりでいたが、かなりしばしば、――すくなくも三、四か月に一度は、シュナイデルのもとに病める友を訪れた。しかし、院長はしだいに深く眉をひそめて、小首をひねりながら、知能の組織がすっかり傷つけられていることをほのめかした。それでも、まだ治療が不可能とは断言しないけれど、きわめて絶望的な意見をあえて口外するのであった。エヴゲーニイは、それがひどく胸にこたえる様子であった。じっさい彼には胸が、――真情があった。それは、彼がときどきコーリャから手紙をもらったり、自分のほうからも返事を出すことさえある、という事実によって証明される。 彼がまだそのほかに、奇妙な性格の一面を持っていることが知れてきた。この一面というのは善い性質のものだから、とりあえずここに紹介する。シュナイデル医院を訪問して帰るたびに、彼はコーリャヘあてたもののほか、いま一通の手紙をペテルブルグの一人物へ送った。その手紙には目下の公爵の病状が、きわめて詳細な優しい筆つきで述べられている。そして、非常に丁重な信服の表白以外に、自分の観察や、理解や、感情を、露骨に叙述したところがたくさんあった(しかも、それが回を追って頻繁になっていった)、――手短にいえば、なにかしら友情に似た、親しい感情が現われはじめたのである。こうして、エヴゲーニイと(かなりときたまではあるけれど)通信をつづけて、かくまでに彼の注意と尊敬をかちえた人物は、ヴェーラ・レーベジェヴァである。どうしてこんな交際がはじまったのか、正確に知ることはできないけれど、もちろん、かの公爵一件の突発でヴェーラが悲痛のあまり病気までしたとき、ふたりはぐうぜん結びついたものに相違ない。しかし、どういう事情のもとに相識と友誼が生じたのか、――詳しいことはいぜんとしてわからない。この手紙のことを伝えたおもな目的は、その中にエパンチン家の人々、特にアグラーヤに関する報知が含まれているからである。
 エヴゲーニイは彼女のことを、パリから発したかなり取りとめのない一通の手紙の中で、次のように報じている。アグラーヤはある亡命のポーランドの伯爵に、しばらくなみなみならぬ愛慕の情を示していたが、とつぜん両親の意志にそむいて、この男と結婚してしまった。両親はついに承諾を与えたけれども、それは、しいて反対すると、なにか恐ろしい不
体裁な結果を見そうだったからである。
 それから約半年の沈黙ののち、エヴゲーニイは最近シュナイデル教授訪問のさい、病院でエパンチン一家の人と(仕事の都合でペテルブルグに残っているイヴァン将軍は、むろん除外しての話だ)、S公爵に出くわした顛末を、長い詳しい手紙でヴェーラに知らせた。その邂逅は奇妙なものであった。エヴゲーニイは一同のものに、一種の歓喜をもって迎えられた。アデライーダとアレクサンドラは、『不仕合せな公爵に関する天使のような尽力』のために、なぜかエヴゲーニイを自分の恩人のようにいった。リザヴェータ夫人は公爵のあさましい容体を見て、真底からさめざめと泣きだした。見受けたところ、公爵はいっさいのことをゆるされたらしい。S公爵はこのとき真相をうがった批評を述べて、みんなを感心させた。この人とアデライーダは互いにまだ十分に一致していない、とエヴゲーニイには感じられた。しかし、近き将来において、熱情的なアデライーダは、S公爵の才智と経験に喜んで心から敬服するようになるだろう。そのうえ、一家族の受けた恐ろしい教訓、――ことにアグラーヤと亡命客との最近の事件は、彼女に異常な影響を及ぼしたのである。
 家族のものが、このポーランドの伯爵にアグラーヤを譲るとき心配したことは、半年のあいだにことごとく事実となって現われた。おまけに、そのとき考えもしなかったような、意外な事実までが添えものとなったのである。のちになって、この伯爵は伯爵でもなんでもない、かりに亡命客というのがほんとうであるとしても、なにかうしろ暗い怪しい経歴を持っていることがわかってきた。彼がアグラーヤをとりこにしたのは、祖国を思う苦痛にさいなまれる高潔無比な精神である。すっかりとりこにされたアグラーヤは、結婚しないうちから、ポーランド再興海外委員会とやらの会員になって、おまけに、ある有名なカトリックの長老を、夢中になるほど崇拝したあげく、その人の懺悔《ざんげ》堂へ出入りするようになった。伯爵がリザヴェータ夫人とS公爵に否定できないほど正確な証拠を見せた莫大な財産は、ぜんぜんあとかたもない話だということもわかって来た。そればかりか、結婚後半年たつかたたないかに、伯爵とその友人、――有名な長老は、早くもたくみにアグラーヤをそそのかして、家族のものと喧嘩させたので、みんなもう何か月か彼女を見ないのである……
 とにかく、話すことはいろいろあるけれども、リザヴェータ夫人や令嬢たちはいうまでもなく、S公爵すらこの『テロル』に気をのまれてしまって、エヴゲーニイとの話の中でも、ある種のことは口に出すのさえ恐れたくらいである。もっとも、エヴゲーニイは自分たちから聞かなくても、アグラーヤの迷いに関する最近の顛末をよく承知しているということは、彼らも悟ってはいたのである。
 不幸なリザヴェータ夫人は、もはやロシヤヘ帰りたがっていた。エヴゲーニイの証明によると、夫人は猛烈な勢いで、外国のものというとなにもかも、頭ごなしにこきおろしたとのことである。『どこへ行っても、パンをうまく焼くすべさえ知りゃしない。そして、冬は二十日鼠みたいに、穴蔵の中で凍えている』と彼女はいった。『まあ、ここでこうして、この不仕合せな男の身の上をロシヤ語で嘆いてやるのが、せめてもの心やりです』もうすこしも相手の見わけのつかない公爵を、興奮のていで指さしつつ、夫人はこういい足した。
『夢中になるのはいいかげんにして、そろそろ理性が働いてもいいころです。こんなものはみんな、――こんな外国や、あなたがたのありがたがるヨーロッパなんか、みんなみんな夢です。そして、外国へ来ている今のわたしたちも、みんな夢です……わたしのいったことを覚えてらっしゃい、今にご自分でなるほどと思いますから!』エヴゲーニイと別れしなに、夫人はほとんど噛みつくようにいった。

『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP121-144

ラーヤさん、あなたは家庭教師をつれないで、わたしのところへいらしたんですか?……なぜあなたはわたしのところへいらしたんでしょう? もしお望みなら……お望みならわたし今すぐ、飾りっ気なしに申しますわ。つまり、おじけがついたのです、それでいらしたんです」
「あたしがあなたを恐れるんですって?」この女がよくまあ自分に向かってこんな口がきけたものだという、子供らしい傍若無人な驚きのために、われを忘れてアグラーヤは叫んだ。
「もちろん、わたしをね! わたしのところへ来ようと決心なすった以上、わたしを恐れてらっしゃるんですよ。自分の恐れている人は軽蔑できないもんですよ。だけど、考えてみたばかりでもぞっとする、わたしたった今さっきまで、あなたを尊敬してたんですからね! ところで、どういうわけであなたがわたしを恐れてらっしゃるのか、またあなたのおもな目的がどういうところにあるか、ごぞんじですの? ほかでもありません、この人がわたしをあなたより余計に愛してらっしゃるかどうか、それを自分の目で確かめたかったのです。だって、あなたはおそろしいやきもちやきですものね……」
「この人はもうあたしにそういいました、あなたを憎んでるって……」やっとの思いで舌をまわしながら、アグラーヤがこういった。
「大きにね、大きにそうかもしれません。わたしにはこの人の愛を受ける値うちがありません。けれど……けれど、あなたうそをおつきになったようですね? この人はわたしを憎むことなんかできません、そんな言いかたをするはずがありません! もっとも、わたし深くとがめだてしません……あなたの情状を酌量しましてね……なにせ、わたしはあなたのことをもっとよく思ってましたわ、もっとお利口で、ご器量だってもすこしいいだろうと思ってました、まったくですの!………さあ、大切な人をつれてらっしゃい……ほらごらんなさい、この人はあなたをいっしょうけんめい見つめて、どうしても正気になれないんですよ。さあ、早く引きとってください。ただし条件つきですよ、――すぐにとっとと出て行ってもらいましょう! さあ今すぐ!………」
 彼女はひじいすに倒れて、さめざめと泣きだした。が、急になにかしら別種の光が、その目の中に輝きだした。彼女は食い入るように、執念《しゅうね》くアグラーヤを見つめていたが、つと席を立った。
「だけど、もしお望みなら、わたし今すぐにも……め、い、れ、い、してよ、よくって? ただ公爵にめ、い、れ、い、するのよ。すると、この人はさっそくおまえさんをすてて、永久にわたしのそばに居残るわ。そして、わたしと結婚してよ。おまえさんはひとりで家へ走って帰るんです、よくって? よくって?」と彼女は狂気のように叫んだ。おそらく、自分でもこんな言葉を発しえようとは、ほとんど信じていなかったであろう。
 アグラーヤはおびえて戸口のほうへかけだそうとしたが、釘づけにされたように、戸口のほとりに立ちどまって、聞いていた。
「よくって、わたしラゴージンを追ん出すわ! いったいおまえさんは、わたしがあんたをよろこばすために、ラゴージンと結婚したとでも思ったの? ところが、わたし今おまえさんの目の前でこういうわ、『出て行け、ラゴージン!』そして、公爵には『あんたわたしに約束したことを覚えてて?』とこういってやるわ。ああ! いったいなんのためにわたしはこの人たちの前で、あんなに自分を卑下したのでしょう? ねえ、公爵、あれは全体あんたじゃなかったの?『おまえの身の上にどんなことがおころうとも、かならずおまえのあとへついて行く、けっしておまえをすてやしない、ぼくはおまえを愛している、おまえのすることは何でもゆるしてやる、そしておまえを、そ……尊……』ええ、そうよ、あんたがそういったのよ! それだのに、わたしはあんたを自由にしてあげようと思って、いったんあんたのそばから逃げだした。けれど、もう今はいやです! あの娘はなんだってわたしを、淫売かなんぞのように扱ったんだろう? わたしが淫売かどうか、ラゴージンにきいてごらんなさい、あの男が証明するから! しかし、今はあの娘が、あんたの目の前でわたしの顔に泥を塗ったから、たぶんあんたもわたしに後足で砂をかけて、あの娘の手を引いて帰るんじゃなくって? もしそうなら、わたしがあんたひとりだけ信じていた義理でも、あんたはのろわれてよ。さあ、出て行け、ラゴージン、おまえに用はない!」
 彼女は顔をゆがめ、くちびるをからからにかわかして、やっと胸から言葉を絞り出すようにしながら、ほとんど前後を忘れて叫んだ。彼女はこうした自分のからいばりを、露ほども信じてはいなかったけれど、同時にせめて一秒間でも、自分をあざむいていたいと思った。それはわき目にも明瞭であった。こうした興奮があまりに激烈だったので、もしやこのまま死んでしまいはせぬかと、気づかわれるほどであった。すくなくとも公爵にはそう感じられた。
「ね、ごらんなさい、そこに公爵が立ってるでしょう!」ついに彼女は手で公爵のほうを指し示しながら、アグラーヤに向かって叫んだ。「もしこの人が今すぐわたしのそばへ寄って、この手をとらなかったら、――そしておまえさんをすてなかったら、そのときはおまえさん勝手にこの人をお取んなさい、譲ってあげるわ、こんな人に用はないから……」
 彼女もアグラーヤも、待ち設けるように立ちどまって、ふたりともきちがいのように公爵を見つめた。しかし、この挑戦の言葉が今どんな力を持っているか、彼にはよくわからなかったらしい。いや、たしかにそうと断定していい。彼はただ自分の目の前に捨て鉢になったもの狂おしい顔を見たのみである。それはかつてアグラーヤに口走ったとおり、ひと目みたばかりで『永久に心臓を刺し通された』ような気のする顔であった。彼はもうこのうえたえ忍ぶことができなかった。哀願と非難の色を浮かべて、ナスターシヤを指さしつつ、アグラーヤに向かって、
「ああ、こんなことがあっていいものですか! だって、このひとは……こんな不幸な身の上じゃありませんか!」
 しかし、公爵がアグラーヤの恐ろしい視線のもとに、身をしびらせながらいうことができたのは、たったこれだけであった。彼女の目の中には無量の苦痛と、同時に無限の憎悪が表われた。公爵は思わず両手をうって、叫び声を上げながら、彼女のほうへ飛んで行った、――が、もう遅かった。彼女は公爵の動揺の一瞬間をも、忍ぶことができなかった。両手で顔を隠しながら、『ああ、どうしよう』と叫ぶやいなや、ひらりと部屋の外へおどり出した。つづいてラゴージンが、往来へ抜ける戸のかんぬきをはずすためにかけだした。
 公爵もかけだそうとしたが、しきいの上でだれかの手に抱きとめられた。ナスターシヤの絶望にゆがんだ顔が、じいっと彼を見つめていた?そして、紫色になったくちびるが動いて、こう問いかけた。
「あの娘につくの? あの娘につくの?………」
 彼女は感覚を失って、公爵の手に倒れかかった。彼はそれを抱きおこして、部屋の中へ運び入れ、ひじいすの上へ寝かした。そして、にぶい期待をいだきつつ、そのそばにじっと立っていた。小テーブルの上には、水の入ったコップが置いてあった。やがて引っ返して来たラゴージンは、それを取って彼女の顔にふりかけた。彼女は目を見開いたが、一分間ばかりは、何がなんだか皆目わからなかった。が、とつぜんあたりを見まわして、ぶるっと身をふるわすと、叫び声とともに公爵に飛びかかった。
「わたしのものだ! わたしのものだ」と彼女は叫んだ。「あの高慢ちきなお嬢さんは行っちゃったの? ははは!」とヒステリイの発作にからからと笑った。「ははは! わたしはあやうくこの人をあの娘に渡すとこだった! いったいなんのために? どういうわけで? ふん、きちがいだ!きちがいだ!………ラゴージン、さっさと行っておしまい、ははは!」
 ラゴージンはじっとふたりをながめていたが、ひとことも口をきかないで、自分の帽子を取って出て行った。十分ののち、公爵はナスターシヤのそばにすわって、寸時も目を放さずに彼女を見つめながら、まるで小さな子供を相手にするように、両手でなでさするのであった。彼は女の笑いに応じて笑い、その涙に応じて泣かんばかりであった。彼はなんにも口をきかなかったが、突発的な、歓喜に溢れた、取りとめのない言葉に、一心に耳を傾けた。そして、すこしも意味を察することができなかったが、ただ静かにほほえむのであった。そして、ちょっとでもナスターシヤが悲しんだり、泣いたり、とがめたり、訴えたりしはじめると、すぐにまたその頭をなでたり、両手で頬をさすったりして、子供でもあやすように慰めるのであった。

      9

 前章に物語ったできごとから二週間たった。そして、編中諸人物の境遇もいちじるしく変わった。したがって、特殊な説明なしに続きに取りかかるのは、ひとかたならず困難な仕事である。しかし、なるべく特殊な説明をぬきにして、単なる事実の記述にとどめる必要を感じる。しかも、その理由はきわめて簡単である。つまり、説話者自身、事件の説明に苦しむ場合が多いからである。説話者の立場にありながら、こんなことわりをいうのは、読者にとってまるでわけのわからぬ、奇怪なことと思われるに相違ない。なんとなれば、明瞭な理解も独自の意見もないことを、どうして他人に語りうるか、という疑問が生じるからである。これより以上いかがわしい位置に立たないために、むしろ実例について説明するように努めたほうがよさそうである。そうしたら、好意ある読者は、その困惑が那辺に存するかを悟るかもしれない。ことに、この実例というのが岐路にはいるのでなしに、直接物語の続きとなっているから、なおさらである。
 二週間後、つまりもう七月のはじめになって、またこの二週間のあいだに、本編の恋物語、とりわけこの恋物語の最後のできごとは、ほとんどほんとうにしかねるほど奇怪な、しかしまた非常にわかりのいい、きわめて愉快な世間話と化して、レーベジェフ、プチーツィン、ダーリヤ、エパンチン家などの別荘に近いすべての街々、てっとり早くいえば、町じゅうと近在ぜんたいへ、しだいしだいに広がっていった。ほとんど町じゅうの人がいっせいに、――土地の者も、別荘の人も、停車場の楽隊を聞きに来る人も、-同じ話に無数のヴァリェーションをこしらえて、騒ぎだした。その話はこうである。ひとりの公爵が、さる由緒ただしい名家で不体裁なことをしでかしたあげく、もう婚約までできているその家の令嬢をすてて、有名な曖昧女に夢中になり、以前の交遊をことごとくふり棄ててしまった。そして、人々の威嚇も、公衆の憤慨も、なにもかもいっさい顧みないで、近いうちにこのパーヴロフスクの町で、昂然と頭をそらしながら、人々の顔を見つめるような態度で、おおっぴらに公々然と、そのけがれた女と結婚するつもりでいる。その話は極端にいろんな醜聞で彩られ、その中にはまた各方面の名士がない交ぜられて、怪奇な謎めかしい陰影が加えられているうえに、一方から見て否定することのできない、明白な事実の上に建てられているので、町じゅうの者の好奇心もでたらめな陰口も、もちろん大目に見なければならない。中でも最も微妙な機知を弄した、そしていかにももっともらしい解釈は、少数のまじめな陰口屋の仕事なのである。これは理性の発達した階級の人で、どんな社会にあってもつねにまっさきかけて新しいできごとを、ほかのものに説明して聞かそうとあせり、これを自分の使命、――どころか、慰みと心得ている場合も珍しくない。
 彼らの解釈によると、この青年は名門の公爵で、金持ちで、ばかではあるけれど、ツルゲーネフ氏によって示されたタイプの、現代の虚無主義に血迷ったデモクラートで、ほとんどロシヤ語も話せない男である。これがエパンチン将軍の令嬢に迷って、ついに同家へ花婿の候補者として出入りするまでにこぎつけた。それは、つい最近、新聞に逸話を載せられたフランスの神学生に酷似している。この神学生はわざと身を僧職にゆだねようと決心し、自分で採用を哀願して、踝拝、接吻、誓言など、いっさいの儀式を行なっておきながら、すぐその次の日、主教に公開状を送って、自分は神を信じてもいないのに民衆をあざむいて、ただでその民衆のご厄介になるのは破廉恥と思うから、きのういただいた位は自分で剥奪してしまいます、といったような手紙を、二、三の自由主義の新聞に掲載した、――ちょうどこの無神論者と同じように、公爵は自己流の手品をしたのである。彼はわざと花嫁の家で催された盛大な夜会を、手ぐすね引いて待ちかまえていた(ここで彼はきわめて多数の名士に紹介された)。それはただ、一同の前で麗々しく自分の思想を披瀝して、尊敬すべき名士を罵倒し、自分の花嫁を公衆の面前で侮辱して、縁談を拒絶せんがためのみであった。そのさい、彼は自分を引っ張り出そうとする侍僕らに抵抗して、みごとな支那焼の花瓶をこわした。人々はこのうえにまだ現代|気質《かたぎ》の特徴といったような体裁で、こんなおまけまでつけた、――このわからずやの公爵は実際のところ、自分の花嫁である将軍令嬢を愛していたのだが、その縁談を拒絶したのは、ただニヒリズムから出たことで、今度の醜事件を目安に置いたのである。すなわち全社会を向こうへまわして、堕落した女と結婚するという満足を、棒にふりたくなかったからである。つまり、この行為によって、『自分の脳中には、堕落した女も淑徳高き令嬢もない、ただ自由な女があるばかりだ、自分は古い世間的な区別を信じない、ただ一個の「婦人問題」を信ずるのみだ』ということを証明したかったのである。それどころか、彼の目から見ると、堕落せる女は堕落しない女より、多少優れているようにさえ映じた。
 この説明は、きわめてまことしやかに思われるので、別荘住まいの大多数に承認された。ことに、毎日のできごとがこれを裏書するのであった。もっとも、ちょいちょいした事情はいぜんとして未解決のままであった、たとえば、哀れな令嬢は真から婚約の男、ある人にいわせれば『誘惑者』を愛していたので、絶縁を宣告された次の日、男が情婦とさし向かいでいるところへかけこんだ、というものもあれば、またあるものはその反対に、令嬢はわざと男に誘われて情婦の家へ行ったのだ、しかもそれはただただ虚無主義から出たことで、汚辱と侮蔑を与えたいためなのだ、と説くものもあった。いずれにもせよ、事件の興味は日ごとに膨張していった。まして、けがらわしい結婚がほんとうに挙行されるという事実には、いささかも疑惑の余地がないから、なおさらである。
 もしここで吾人に事件の説明を求める人があったら、――事件の虚無主義的色彩に関してではない、けっしてそうではない。ただ今度の結婚がいかなる程度まで、公爵の真の要求を満足させているか? またその要求とは今のところどんなものか? 目下の公爵の心境をなんと断定したものか、等々といったような説明を求める人があったら、吾人は、白状するが、非常に答に窮するだろう。吾人がいま知っているのは、ただ結婚がほんとうに成立して、公爵が教会や家事向きの面倒を、いっさいレーベジェフとケルレルと、それにこんど公爵に紹介されたレーベジェフの知人と、この三人にすっかり委任してしまったこと、金に糸目をかけるなという命令の出ていること、結婚を主張してせかしたのはナスターシヤであるということ、公爵の付添いには、ケルレルが熱心なこいによって指定されたこと、ナスターシヤつきとしてはブルドーフスキイが、歓喜の声を上げて依頼を承諾したこと、そして式は七月のはじめと決まったこと、――まず、こんなものである。
 けれど、こういうきわめて正確な事実のほかに、まるでわれわれを五里霧中に彷徨させるような、二、三のうわさが耳にはいっている。つまり、前述の事実と撞着するようなうわきである。たとえば、レーベジェフその他のものにいっさいの面倒を委任しておきながら、公爵は自分に儀式執行係や結婚の付添人があることも、自分が結婚しようとしていることも、さっそくその日のうちに忘れたという話である。彼が大急ぎで、万端の世話を他人に委せてしまったというのも、単に自分でこのことを考えないため、いな、むしろ一刻も早くこのことを忘れてしまいたいからではないか、――こう吾人は深く疑わざるを得ない。もしそうとすれば、彼自身なにを考えているのだろう? 何を思い出そうとしているのだろう? 何に向かって急いでいるのだろう? また彼に対して、何びとの(たとえばナスターシヤなどの)強制もなかったということは、これまた疑いの余地がない。まったくナスターシヤは、ぜひにといって結婚を取り急ぎ、自分からこれを考えだしたので、けっして公爵から持ち出したのではないが、しかし公爵はぜんぜん自由意志をもって承諾したのだ。かえって、なにかごくありふれたものでもねだられたように、そわそわした手軽な態度で承諾したくらいである。こういう奇怪な事実は吾人の手近にたくさんある。こんなのをいくら引き合いに出したところで、すこしも真相を明らかにしないのみか、吾人の考えでは、かえって不明瞭にしてしまうくらいである。けれど、今一つの例を引いてみよう。
 次のような事実も一般に知れわたっている。ほかでもない、この二週間、公爵はいく日もいく晩も、ナスターシヤといっしょに時を送った。そして、彼女はよく公爵を散歩へ誘ったり、奏楽を聞きに連れ出したりした。また公爵は毎日彼女と連れ立って、ほうぼう幌馬車で乗りまわした。たった一時間でも彼女の姿が見えないと、公爵はもうすぐ心配しはじめた(つまり、すべての兆候から推して、公爵が彼女を真底から愛していたことがしれる)。公爵はいく時間もいく時間もぶっとおしに、穏かなつつましい笑みを浮かべながら、自分のほうからはほとんど口をきかないで、どんなことでも彼女の話なら、じいっと耳を傾けて聞いている。 しかし、われわれは同様に次の事実をも知っている。ほかではない、この数日間に彼はいく度も、というよりはしょっちゅう、出しぬけにエパンチン家へ出かけた、しかも、それをナスターシヤに隠そうとしないので、彼女はそのたびにほとんど絶望の極に達した。ところで、エパンチン家ではパーヴロフスク滞在中、けっして公爵を上へあげなかった。そして、アグラーヤに会わしてくれという彼の願いは、いつもびしびしはねつけられた。彼は一語も発しないで立ち去ったが、すぐ次の日になると、きのう拒絶されたことはけろりと忘れたように、またぞろ将軍家を訪れ、むろん、またぞろ拒絶の憂き目を見るのであった。
 同様にわれわれはこういうことを知っている――アグラーヤがナスターシヤのもとを走り出てから、一時間ののち、あるいはすこし早かったかもしれない、公爵は早くもエパンチン家に姿を現わした。むろんここでアグラーヤに会えることと信じながら。ところが、彼の出現はそのとき同家に非常な恐慌と、騒動をひきおこした。なぜというに、アグラーヤはまだ帰宅していなかったうえに、同家では娘が彼といっしょにナスターシヤの家におもむいたことを、公爵からはじめて聞いたからである。うわさによると、リザヴェータ夫人も姉たちも、――おまけにS公爵までが、そのとき公爵に冷淡な敵意に満ちた態度をとり、即座に激しい言葉を使って、知人としてかつ友達としてのつきあいをことわった。ことに、とうぜんそこヘヴァルヴァーラがはいって来て、アグラーヤはもう一時間ばかり前から自分の家へ来て、恐ろしい状態に落ちている、そして家へは帰りたくない様子だと知らせたとき、さらにその態度が露骨になった。
 この最後の報告は、なによりも激しくリザヴェータ夫人を震撼した。しかも、それがまったく事実だったのである。ナスターシヤのところから出たとき、アグラーヤは今さらのめのめ家の人に顔をさらすより、いっそ死んだほうがましだと思って、いっさんにニーナ夫人のところへかけこんだのである。ヴァルヴァーラは今すぐ一刻の猶予もなく、このことをすっかりリザヴェータ夫人に報告する必要がある、と感じた。母とふたりの姉をはじめ、一同ただちにニーナ夫人のもとへかけつけた。たったいま帰宅したばかりのイヴァン将軍、一家のあるじも、みんなのあとにつづいた。またそのあとからムイシュキン公爵も、人々がそっけない言葉で追い払うのもかまわず、おぼつかない足どりでかけだした。しかし、ヴァルヴァーラの取り計らいで、彼はここでもアグラーヤのそばへ通してもらえなかった。アグラーヤは、母や姉たちが自分に同情して泣きながら、いささかもとがめだてしないのを見て、いきなりみんなに飛びかかって抱き合った。そして、おとなしく一同とともに家へ帰ったので、事件はひとまずこれで落着した。
 もっとも、あまり確かではないが、こんなうわさも人々の口にのぼった。ほかでもない、ガーニャがここでもさんざんな目に合ったのである。ヴァルヴァーラがリザヴェータ夫人のもとへ走って行ったすきをねらって、彼はアグラーヤとさし向かいで、自分の恋をうち明ける気になった。その言葉を聞くやいなや、アグラーヤは自分の悲しみも涙も忘れ、急にからからと笑いだした。そして、とつぜん奇妙な質問を持ち出した。それは愛の証明のために、今すぐ指をろうそくの火で焼くことができるか、というのであった。ガーニャはその要求に度胆を抜かれて、なんと答えていいかわからず、たとえようもないけげんな表情を顔に浮かべたので、アグラーヤはヒステリイのようにきゃっきゃっ笑いながら、二階にいるニーナ夫人のところへ走って行った。そこで彼女は自分の両親に会ったのである。
 この挿話は、翌日イッポリートを経て公爵の耳にはいった。彼はもう床から起きられなかったので、このことを知らせるために、わざわざ公爵に使いをやった。どうしてこのうわさが耳にはいったかわからないが、公爵はろうそくと指の話を聞いたとき、イッポリートさえびっくりするほど笑いだした。が、急にぶるぶるふるえだして、さめざめと涙を流しはじめた……概して彼はこの数日間、恐ろしい不安と非常な動乱につかまれていた。しかも、それが漠として悩ましいものであった。イッポリートは、公爵のことを正気でないと断言したが、そこはまだなんともはっきりしたことは言われない。
 こうした事実を列挙して、その説明を拒みながらも、われわれはけっして本編の主人公を読者の眼前で、弁護しようと望んでいるわけではない。そればかりか、公爵が親友のあいだに呼びさました憤懣をわかつことすら、あえていとわないつもりである。ヴェーラさえもしばらくのあいだ、公爵の行為に憤慨していた。コーリャまで憤慨していた。ケルレルすら、付添人に選ばれるまでは、ぷりぷりしていた。レーベジェフのことはいうまでもない。彼はやはり憤慨のあまり、公爵に対してなにやら策をめぐらしはじめた。その憤慨はきわめて真摯なものといっていいくらいである。しかし、このことはあとでいおう。概してわれわれはエヴゲーニイの言葉、――心理的に深刻かつ強烈な言葉に、ぜんぜん同意を表するものである。それは、ナスターシヤの家でおこったできごとののち六日か七日目に、彼が公爵と隔てのない談話をまじえたとき、無遠慮に述べた言葉なのである。
 ついでにことわっておくが、エパンチン家の人々ばかりでなく、直接間接、同家に属しているすべての人は、公爵との関係を断ってしまわねばならぬ、と感じた。たとえば、S公爵などは、公爵に出会。ても、ぷいと横を向いてしまって、会釈さえしようとしなかった。けれど、エヴゲーニイは自分の立場を傷つけるのも意に介しないで、また、毎日のようにエパンチン家へ出入りをはじめ、前にも増した歓待を受けるようになったにもかかわらず、あるとき公爵を訪問したのである。それはエパンチン一家が当地を去った翌日だった。ここへ来るときも、彼は町じゅうに広がったうわさを、すっかり知っているばかりでなく、ことによったら、自分でもすこしぐらいその手伝いをしたかもしれない。公爵はおそろしく彼の来訪をよろこんで、すぐさまエパンチン家のことをいいだした。こうした子供らしいさっぱりした話のきりだしに、エヴゲーニイはすっかりくだけた調子になり、まわりくどいことはぬきにして、すぐ要件にとりかかった。
 公爵は、エパンチン一家の出立をまだ知らずにいた。彼はぎっくりしてまっさおになった。しかし、しばらくたつと、当惑したような考え深い様子で首を振りながら、『そうあるべきだったのです』と自白した。それから、せかせかとした調子で、『どこへ行かれたのでしょう?』とたずねた。
 エヴゲーニイはそのあいだ、じいっと公爵を観察していた。せかせかした質問、その質問の無邪気な調子、きまりの悪そうな、同時になんだか奇妙に露骨な態度、不安げな興奮した様子、――こういう点はすくなからず彼を驚かした。けれども、彼は愛想のいい調子で、すべてを詳しく公爵に報告した。こちらはいろいろの事実を知らなかった。たにしろ、これが将軍家から出たはじめての便りであった。彼はアグラーヤがほんとうに病気して、三週間ばかりぶっとおし熱に悩まされ、夜もほとんど眠らなかったといううわさを確かめた。しかし、今はだいぶよくなって、心配なことはすこしもないが、神経的なヒステリックな状態にある……『でも、家の中がすっかり穏かになったから、まだそれでも結構なんですよ! 過去のことは、アグラーヤさんの前だけでなく、おたがい同士のあいだでも、匂わせないようにしています。ご両親は、秋に入って、アデライーダさんの結婚がすみ次第、外国旅行をすることに決められました。アグラーヤさんは、はじめてこの話を持ちかけられたときも、ただ黙って聞いておられましたよ』
 彼エヴゲーニイも、やはり外国へ出かけるかもしれない。S公爵さえも、もし事情が許すならば、アデライーダといっしょにふた月ばかりの予定で、行って来るといっている。当の将軍はこちらに居残るはずである。こんど一同が引き移ったのはコルミノ村といって、ペテルブルグから二十露里ばかり離れた同家の領地で、そこには広い地主邸がある。ペロコンスカヤ夫人はまだモスクワへ帰らないが、どうやらわざと踏みとどまっているらしい。リザヴェータ夫人はあんなことのあったあとで、当地に居残るのはどうあっても不可能だと主張した。それはエヴゲーニイが、毎日市中のうわさを夫人に伝えたからである。エラーギン島の別荘に住まうのも、やはりできないことであった。
「ねえ、まあ、じっさい」とエヴゲーニイは言い添えた。「考えてもごらんなさい、どうして辛抱ができるものですか……それに、ここで、あなたの家で毎時運んでいることをすっかり聞かされるうえに、ことわっても、ことわっても、あなたが毎日あそこ[#「あそこ」に傍点]を訪問なさるんですものね……」
「そうです、そうです、そうです、おっしゃるとおりです。ぼくはアグラーヤさんに会いたくって」と彼はふたたび首を振った。
「ああ、公爵」とつぜんエヴゲーニイは、興奮と憂愁を声に響かして叫んだ。「どうしてあなたはあのとき……あんなできごとをみすみすうっちゃっておいたのです? もちろん、もちろん。あんなことはあなたにとって、じつに意想外でしたろう……ぼくも、あなたが度を失ったのは、当然だと認めます。それに、あのきちがいじみた娘さんを引きとめることは、あなたにできなかったでしょう、まったくあなたの力に合いませんよ! しかし、あの娘さんがいかなる程度まで、まじめにかつ強烈に……あなたに対していたかを、あなたはとうぜん理解すべきだったんですよ。あのひとはほかの女と愛をわかつのがいやだったのです。それなのにあなたは……あなたはあれほどの宝を抛《なげう》って、こわしてしまうなんて!」
「ええ、ええ、おっしゃるとおりです、ぼくが悪かったのです」と公爵はまた恐ろしい哀愁に沈みながらいいだした。「それにねえ、ナスターシヤさんに対してあんな見かたをしたのは、あのひとひとりです、アグラーヤさんただひとりですよ……ほかの人はだれもあんな見かたをしませんでした」
「おまけに、事件ぜんたいが悲惨なのは、真剣なところがすこしもなかったからですよJとエヴゲーニイはすっかり夢中になって叫んだ。「失礼ですが、公爵、ぼくはこのことについて考えたのです、いろいろ考え抜いたのです。ぼくは以前のことをすっかり承知しています。半年まえのことをすっかり知っています。――あれはけっして真剣ではなかったのです! あれはすべて単なる頭脳の沈溺だったのです、絵です、幻想です、煙です。あれをなにか真剣なことのように考えうるのは、ぜんぜん無経験な少女の嫉妬から出た危惧です!………」
 ここでエヴゲーニイはもうすっかり遠慮会釈なしに、自分の憤激を吐露してしまった。合理的に明晰に、そしてくりかえしていうが、異常な心理解剖さえ試みながら、彼は公爵とナスターシヤの以前の関係をことごとく、一幅の絵画のように公爵の前に広げて見せた。エヴゲーニイはいつも言葉の才能を賦与されていたが、今はもう雄弁の域にさえ達したのである。
「ずっと最初から」と彼は声を励ましていった。「あなたがたの関係は虚偽ではじまりました。虚偽ではじまったものは、また虚偽に終わるべきです、それが自然の法則です。ぼくは人があなたを、――いや、まあだれにせよ、――白痴《ばか》だなんていっても、同意することができません。いや、憤慨したくなるくらいです。あなたはそんな名前を受けるべく、あまりに賢すぎます。しかし、あなたは並みの人と違う、といわれても仕方がないほど、いっぷう変っています、ねえ、そうでしょう。ぼくの断定では、過去の事件ぜんたいの基礎は、第一にあなたの……そうですねえ……生まれつきの無経験と(この『生まれつき』という言葉に気をつけてください)、それから、あなたのなみはずれてナイーヴな性質と、適度という観念の極端な欠乏と(それはあなたがご自分でもいく度か告白なすった)、それから頭の中で作りあげた信念の雑然たる累積と、こういうものから成り立っているのです。あなたはご自分の高潔な性情からして、これらの信念を偽りのない生粋なものだと、今の今まで信じていらっしゃるのです! ねえ、そうじゃありませんか、公爵、あなたのナスターシヤさんに対する関係には、はじめっからその条件的民主主義[#「条件的民主主義」に傍点](これは簡潔をたっとぶためにいったのです)とでもいうようなものが潜んでいました。(なお簡潔にいえば)『婦人問題』の崇拝ですよ。ぼくは、ラゴージンが十万ルーブリの金を持って来たときの、不体裁きわまる、奇怪千万な、ナスターシヤさんの夜会の顛末を、すっかり正確に知っています。お望みなら、まるでたなごころをさすように、あなた自身を解剖して見せますよ。まるで鏡にかけたように、あなた自身をお目にかけますよ。それぐらいぼくは正確にことの真相と、その転換の原因をきわめているのです! 青春の血に燃えるあなたは、スイスに住んで、父祖の国にあこがれていました。まだ見たことのない約束の土地かなんぞのように、まっしぐらにロシヤヘ帰っていらしったのです。あなたはあちらで、ロシヤに関する本を、たくさんお読みになったでしょう。その本は優れたものだったかもしれませんが、あなたにとっては有害なものだったのです。とにかく、あなたは若々しい熱情に満ちた実行欲をいだいて、われわれの中へ現われて来ました。そして、いきなり実行におどりかかったのです! ちょうど到着の日に、あなたはさっそく悲しい胸を躍らすような話、辱しめられた婦人の話を聞かされたのです。聞き手はあなたという童貞のナイト、話は女の話ときたんです、その日のうちに、あなたはその婦人に会って、その美に魅せられました、――幻想的な、悪魔的な美に魅せられました(まったくぼくはあのひとが美人だってことを承認しますよ)。それにあなたの神経と、あなたの持病と、そして人の神経をかき乱さずにおかぬわがペテルブルグの雪解けの気候を加えてごらんなさい。あなたにとっていくぶん幻想的な未知の町におけるこの一日を加えてごらんなさい。いくたの邂逅や、芝居めいた事件や、思いがけない知り合いや、意想外な現実や、エパンチン家の三人の美人や、その中にはアグラーヤさんもはいってるんです、こういうものに満ちたあの一日を加えてごらんなさい。疲労と眩暈《めまいお》を加えてごらんなさい。ナスターシヤさんの客間と、客間の調子を加えてごらんなさい……こついう瞬間に、あなたは自分がどうなると考えます、いったい?」
「そうです、そうです、ええ、ええ」と公爵は、しだいに顔をあからめながら、首を振った。「ええ、それはほとんどそのとおりなのです。そのうえに、ぼくは前の晩も汽車の中だったので、まるですこしも寝なかったんです。それですっかり頭の調子が狂ったものですから……」
「ええ、そうですとも、もちろんですよ。ぼくもそのほうへ議論を進めてるんです」とエヴゲーニイは熱くなって、言葉をつづけた。「わかりきった話です。あなたはいわゆる歓喜の情に陶酔して、おれは昔からの公爵だ、潔白な人間だというりっぱな感情を、大勢の前で発表しうる最初の機会に飛びかかったのです。つまり、自分の罪ではなく、いまわしい放埒紳士の罪のためにけがされた女は、けっして堕落したものと思わない、こういうことを知らせたかったのです。おお、そりゃもうわかりきった話です! しかし、それはかんじんな点じゃありませんよ、公爵。かんじんな点は、あなたの感情に真実性があったか、自然性があったかということなんです。それは単に、あなたが頭の中で作りあげた感激ではなかったか、ということなんです。公爵、あなたはなんとお考えになります、――かつてああいう種類の婦人が、教会でゆるされたこともありますが、しかしその婦人の行為はりっぱなものだ、あらゆる尊敬を受ける価値がある、―とはいってありませんよね? だから、三か月たったのち、常識があなた自身にことの真相を教えてくれたじゃありませんか。今あのひとが無垢なら無垢でいいです。ぼくは好まないことだから、しいて争おうとはしません。しかし、はたしてあのひとの行為が、あのお話にならない悪魔のような傲慢な態度や、あの、人を人とも思わぬ貪婪なエゴイズムを、弁護しうるでしょうか? いや、ごめんなさい、ぼくあんまり夢中になったもんですから……」
「そうですね、それはみんなほんとうかもしれませんよ。あるいはあなたのおっしゃるとおりかもしれませんよ……」とふたたび公爵はつぶやくようにいった。「あの女はまったく非常にいらいらしていました、もちろん、おっしゃるとおりです。しかし……」
「同情を受ける価値はある……でしょう? そうおっしゃるつもりでしょう、ね、公爵?『しかし、単なる同情のために、あのひとの満足のために、いま一方の高潔な令嬢をけがしでもいいの。ですか? あの[#「あの」に傍点]暴慢な、あの憎悪に輝く目のまえで、その令嬢を辱しめてもいいのですか? そんなことをいったら、同情というやつはどこまで行くかわかりませんよ! それはありうべからざる誇張です! あなた自身、公明正大な申込みをして、しかも真底から愛している令嬢を、競争者の前でああまで辱しめたうえに、競争者の見てるところでその女に見変えるなんて、いったいできることでしょう。が……あなたはまったくアグラーヤさんに申込みをしたのでしょう、両親や姉さんたちの前でりっぱにおっしゃったのでしょう! これでもあなたは潔白な人なんでしょうか? 公爵、失礼ですが、ひとつうかがいましょう。それでも……それでも、あなたは神さまのような少女に向かって、『わたしはあなたを愛しています』といったのが、うそをついたことにならないでしょうか!」
「そうです、そうです、おっしゃるとおりです、ああ、ぼくはしみじみ自分が悪かったと思います!」公爵は言葉に現わせぬ憂愁をいだきつつこういった。
「いったいそれでことは足りるんですか?」エヴゲーニイは憤激のあまりに叫んだ。「いったい『ああ、自分が悪かった!』と叫んだら、それでことは済むんですか? 悪かったといいながら、やはり強情を通してるじゃありませんか! 全体あなたの心は、『キリスト教的』な心はどこにあったのです? あのときのアグラーヤさんの顔をごらんになったでしょう? いったいあのひとはもうひとり[#「もうひとり」に傍点]のほうより、――ふたりの中を引き裂いたあなたの女[#「あなたの女」に傍点]より、苦しみかたが少なかったとでもいうんですか? どうしてあなたは現に見ていながら、うっちゃっといたんです、え?」
「だって……ぼく、うっちゃったといたわけじゃないんです……」と不幸な公爵はつぶやいた。
「なぜうっちゃっといたわけでないのです?」
「けっしてうっちゃっときゃしなかったのです。どうしてあんなことになったのか、ぼくはいまだにわかりません……ぼくは……ぼくはアグラーヤさんのあとを追ってかけだしたのです。ところが、ナスターシヤが卒倒したもんですから……その後ずっと今まで、アグラーヤさんに会わしてもらえないのです」
「同じこってすよ! ナスターシヤさんが卒倒したにしろ、あなたはやはりアグラーヤさんのあとを追って行くべきだったのです!」
「そう……そう、ぼくは追って行くべきだったのです……しかし、うっちゃっといたら、死んでしまったかもしれないんですもの! あなたはあの女をごぞんじないですが、きJと自殺したに相違ありません、それに……いや、どうでもよろしい、ぼくあとでアグラーヤさんにすっかり話します、そして……ねえ、エヴゲーニイ・パーヴルイチ、お見受けしたところ、あなたは事件の全貌がよくおわかりでないようですね。いったいなんだってぼくをアグラーヤさんに会わしてくれないのでしょう? ぼくあのひとにすっかり説明したいんですがねえ。まったくふたりともあのとき見当ちがいのことばかりいってたのです。すっかり見当ちがいのことでした。だから、あんなことになってしまったのです……ぼくはどうしてもあなたにこのことが説明できません、けれど、アグラーヤさんにはうまく説明できるかもしれません……ああ、たまらない、たまらない! あなたは、あのひとがかけだした瞬間の顔といいましたね……ああ、どうしたらいいだろう、ぼくおぼえています!………行きましょう、さあ行きましょう!」とつぜん彼はせかせかと椅子から飛びあがりながら、エヴゲーニイの袖を引っ張るのであった。
「どこへ?」
「アグラーヤさんのところへ行きましょう、行きましょう!……」
「だって、もうここにいないといったじゃありませんか。それに、なんのために?」
「あのひとは理解してくれます、あのひとは理解してくれます!」公爵は祈るように手を組みながらいった。「あのひとは、なにもかもすっかり間違っている[#「間違っている」に傍点]、ぜんぜん別な事情だってことを、理解してくれます!」
「どうぜんぜん別なんです? でも、あなたはやはり、結婚しようとしているじゃありませんか。してみると、強情を通していらっしゃるのです……結婚なさるんですか、なさらないんですか?」
「え、さよう……結婚します。ええ、しますとも!」
「じゃ、なぜ別なんです?」
「おお、別ですとも、別です、別です! ぼくが結婚しようとしまいと、それは、それは同じことです、なんでもありません!」
「どう同じことなんです、どうなんでもないのです? だって、これは些細なことじゃありませんよ。あなたは好きな女と結婚して、その人に幸福を与えようとしてらっしゃる。ところが、アグラーヤさんはそれを見て、知っているのですよ。それだのに、どうして同じことなんでしょう?」
「幸福ですって? おお、違います! ぼくはただなんということなしに結婚するのです。あれの望みでね。それに、ぼくが結婚するということが、いったいなんでしょう。ぼくは……いや、これもやはりどうだってかまいません! ただあのままうっちゃっておいたら、あれはきっと死んだのです。今こそすっかりわかりました。ラゴージンと結婚しようなんて考えは、まったく狂気の沙汰だったのです! いまぼくは、以前わからなかったことまで、すっかりわかります。ところでね、あのときふたりが顔と顔を突き合わして立ったとき、ぼくはナスターシヤの顔を見るに堪えなかったのです。あなたはごぞんじないでしょう(と秘密でもうち明けるように声をひそめて)、ぼくこれは今までだれにも、アグラーヤさんにもいわなかったのですが、ぼくはいつもナスターシヤの顔を見るに堪えないのです……あなたがさっきナスターシヤの夜会についておっしゃったことは、ぜんぜん正鵠を得ています。しかし、たった一ついい落とされたことがあります。つまり、ごぞんじないからです。ほかでもありません、ぼくはあれの顔[#「あれの顔」に傍点]を見つめていたのです! もうあの朝、写真で見たときから、たまらないような気持ちがしました……ほら、あのヴェーラ・レーベジェヴァなんかの目は、まるっきり違うじゃありませんか。ぼく……ぼくはあれの顔が恐ろしいのです!」彼は異常な恐怖を現わしながらこういい足した。
「恐ろしいんですって?」
「ええ、あれは――気がちがってるんです!」と彼は青い顔をしながらささやいた。
「あなたはたしかに知っておいでなんですか?」ひとかたならぬ好奇の色を浮かべて、エヴゲーニイはたずねた。
「ええ、たしかに、今こそもうたしかに知りました。今度、この四、五日のあいだに、もうたしかに突きとめました!」
「まあ、あなたは自分をどうしようとしてるんです?」とエヴゲーエイはおびえたように叫んだ。「じゃ、あなたはなにか恐ろしくって結婚されるんですね? なにがなんだかわけがわからん……じゃ、愛もないくせに?」
「おお、違います。ぼくは全心を傾けてあれを愛しています! だって、あれは……まるで子供ですものね。今あれは子供です。まるっきり子供です! ええ、あなたはまるでごぞんじないんですよ!」
「それだのに、あなたはアグラーヤさんに愛を誓ったんですか?」
「おお、そうです、そうです!」
「なんですって? じゃ、両方とも愛したいんですか?」
「おお、そうです、そうです!」
「冗談じゃありませんぜ、公爵、なにをおっしゃるんです、しっかりなさいよ!」
「ぼくアグラーヤさんがなくては……ぼくはぜひあのひとに会わなきゃなりません! ぼく……ぼくは間もなく、寝てる間に死んでしまいます。ぼくは今夜にも、寝てる間に死にそうな気がします。ああ、アグラーヤさんが知ってくれたらなあ。いっさいのことを、――ええ、ほんとうにいっさいのことを知ってくれたなら。だって、この場合、いっさいを知ることが必要なんです。それが第一の急務です! ぼくらは他人に罪がある場合、その他人に関するいっさい[#「いっさい」に傍点]のことを知る必要があるにもかかわらず、どうしてそれができないんでしょう!………とはいうものの、ぼく自分でも何をいってるかわかりません、あなたがあまりぼくをびっくりさせたものですから……ところで、いったいあのひとは今でも、あの部屋をかけだしたときのような顔をしていますか? おお、じっさいぼくが悪かった! すべてぼくが悪い、というのがいちばん確かです。はたして何が悪かったか、それはまだわかりませんが、とにかくぼくが悪いのです……この事件にはなにかしら、あなたに説明できないようなものが、説明の言葉のないようなものがあります、しかし……アグラーヤさんは悟ってくれます! ええ、ぼくはいつも信じていました、あのひとは悟ってくれます」
「いや、公爵、悟りゃしません! アグラーヤさんは女として、人間として恋したので、けっして……抽象的な精霊として恋したんじゃありませんからね。公爵、あなたどう思います。あなたはけっしてどちらも愛したことがないと考えるのが、いちばんたしかじゃないでしょうか?」
「ぼくにゃわかりません……そうかもしれません、そうかもしれません。多くの点において、あなたのお説は当たっていますからね。エヴゲーニイさん、あなたは非常に賢いかたです。ああ、ぼくまた頭が痛みだした。さあ、あのひとのとこへ行きましょう! 後生です、後生ですから!」
「ぼくそういってるのじゃありませんか、あのひとはここにいません、コルミノ村です」
「じゃ、コルミノ村へ行きましょう、さあ、すぐ!」
「それは不ー可ー能です!」エヴゲーニイは立ちあがりながら、言葉じりを引いていった。
「じゃね、ぼく、手紙を書くから届けてください」
「いけません、公爵、いけません! そんなお使いはごめんをこうむります、できません!」
 ふたりは別れた。エヴゲーニイは奇妙な確信を得て立ち去った。彼の考えによると、公爵は少々気が触れているのであった。『あの男があんなに恐れながら、しかも愛しているあの顔というのは、いったいなんのことだろう! それはそうと、あの男はアグラーヤさんがいなかったら、ほんとうに死んでしまうかもしれない。そしたら、アグラーヤさんも、あの男があれほどまで自分を愛してることを、一生知らずに過ごしてしまうかもしれないぞ! はは! しかし、ふたりを同時に愛するなんて、いったいどんなふうなんだろう? なにか別別な二つの愛で……ふん、なかなかおもしろい……しかし、かわいそうな白痴だ! いったいあの男はこれからどうなるのだろう?』

      10

 とはいえ、公爵は結婚式の日まで、エヴゲーニイに予言したとおり、『寝てる間』にも、さめてるときにも死ななかった。じじつ、彼は夜よく寝られないで、悪い夢ばかり見ていたかもしれぬが、昼間、人の前へ出ると、なかなか親切で、満足そうにさえ見えた。ときどきひどく沈みこむこともあったが、それはただひとりでいたときに限った。式は取り急がれて、エヴゲーニイの来訪後、約一週間ということになった。公爵がこんなに急いでいるので、最も親しい友達さえ(かりにそういうものがあるとすれば)、この不幸なわからずやを『救おう』という努力について、失望を嘗めなければならなかったろう。こんなうわさもあった。エヴゲーニイ来訪の責任は、いくぶんエパンチン将軍夫妻が負うているというのだ。しかし、たとえ彼らが底の知れぬ優しい心持ちから、深い淵に沈もうとしている哀れな狂人の救助を望んだにしろ、このおぼつかない試み以上、踏みだすわけに行かなかった。将軍夫妻の地位も心持ちも、これ以上真剣な助力を許さなかった(それはきわめて自然なことである)。前にも述べたとおり、公爵を取り巻いている人々も、いくぶん彼に反抗的態度をとったが、ヴェーラは人のいないところで涙をこぼすとか、またはおもに自分の部屋に引きこもって、以前のようには公爵のところへ顔出しをしないとか、それくらいなことにとどまっているし、コーリャはこの当時、父の野辺送りをしていた。老将軍は最初の発作後八日目に、二度目の発作で死んだのである。公爵は一家の悲しみに深厚な同情を表し、はじめの二、三日はニーナ夫人のもとでいく時間も、いく時間も過ごしたほどである。葬送のときには教会へも行った。教会に居合わせた群集が、われともなしに発するささやきの声で公爵を送迎したのに、多くのものは心づいた。それと同じことが往来でも、公園でもくりかえされた。公爵が徒歩にしろ、馬車にしろ、通り過ぎるたびに、がやがやと話し声がおこって、彼の名を呼んだり、指さしたりした。ときには、ナスターシヤの名まで聞こえた。人々は葬式でも、ナスターシヤを目つけ出そうとしたが、葬式にも彼女は居合わせなかった。例の大尉夫人も葬式に来なかった。それはレーベジェフが前もって、言葉をつくして思いとどまらせたからである。この葬式は公爵に強い病的な印象を与えた。彼はまだ教会にいるとき、レーベジェフのある問に答えて、自分が正教の葬式に列するのは、これがはじめてだ、ただ子供の時分、どこか田舎の教会であった葬式を、一つ覚えているばかりだとささやいた。
「さよう、なんだかわたしたちがついこのあいだ議長に推挙した、ねえ、お覚えでしょう、あれと同じ人が、棺の中にはいってるとは思えませんよ」とこちらは公爵にささやいた。「あなただれをさがしておいでです?」
「いや、なに、ただちょっと妙な気がしたので……」
「ラゴージンじゃありませんか?」
「いったいあの人がここにいるんですか?」
「はい、教会の中に」
「ははあ、道理で、なんだかあの人の目がちらっとしたようだった」と公爵はあわてたようにつぶやいた。「だが、いったい……なぜここにいるんです? 招待を受けたんですか?」
「思いもよらぬことです。まるっきり縁故がないじゃありませんか。ここにはどんな人だっています、物見だかい連中ですからね、いったいなにをそんなにびっくりなさりますので? わたしはこのごろ、しょっちゅうあの男に出会いますよ。もう先週四度ばかりも、このパーヴロフスクで出くわしました」
「ぼくは一度も会いません……あのとき以来ね」と公爵はつぶやくのであった。
 ナスターシヤも『あのとき以来』ラゴージンに会ったなどという話を一度もしないので、公爵は、ラゴージンがなぜかわざと顔を見せないのだと、このごろひとりでそう決めていた。この日いちんち彼はひどく考えこんでしまった。ところが、ナスターシヤはその日、夜になっても、おそろしくはしゃいでいた。
 父の死に先立って、公爵と和解したコーリャは、ケルレルとブルドーフスキイを付添人に頼めと勧めた(それは目前に迫った急務だったから)。彼はケルレルが不都合な行為をしないどころか、あるいはかえって『適任者』かもしれないと請け合った。ブルドーフスキイのほうはなにもいうことはない。あのとおりの静かなおとなしい人間である。ニーナ夫人とレーベジェフは公爵に忠告して、よしんば結婚が決まったにもせよ、なぜパーヴロフスクで、おまけに人の集まる避暑季節に、ぎょうぎょうしいことをする必要があるのだろう、すくなくともペテルブルグで、なんならいっそ内輪でしたほうがよくはないかといった。こうした杞憂が何を意味するかは、公爵にとってあまりに明瞭なことであった。しかし、彼は手短に、ナスターシヤがたっての望みだから、と答えた。
 次の日、付添人に選ばれたという報告を受けたケルレルが、公爵のもとへ出頭した。はいる前に、彼はちょっと戸口で立ちどまった。そして、公爵の姿が目に入るやいなや、人さし指を立てながら、右手を高くさし上げて、晢いでもするように叫んだ。
「もう飲まんです!」。
 それから公爵に近寄って、両の手を握りしめながらひと振りした。そして「わが輩もはじめのうちは、ご承知のとおりあなたの敵でした。これはわが輩自身、玉突屋で宣言したことです。しかし、これというのも、わが輩があなたのことを心配して、一日も早く公女ドーロアンか、すくなくともドーシャボぐらいの人を、あなたの夫人として見たいと、毎日毎日、親友の焦躁をもって待ちこがれていたからです。しかし、今はあなたがわが輩たちを十二人ぐらい『束にした』より、はるかに高尚な考えを持っておいでになることを悟りました! なんとなれば、あなたは光彩も、富も、また名誉すら必要としないで、ただ真実のみを求めていられるからです! 高尚な人の同情に篤《あつ》いことは、わかりきった話です。ところが、公爵のあまりに高尚なる教育をもっては、高尚な人たらざらんとするも、豈《あに》うべけんやです。全体から見ましてね! しかし、意地のきたないごみごみした連中は、また別な考えかたをしています。町じゅうのものが家の中でも、集会の席でも、別荘でも、奏楽堂でも、酒場でも、玉突屋でも、今度の式のことばかり話したり、わめいたりしています。なんでも、窓の下で大騒ぎをするつもりだ、とかいう話ですよ。しかも、それが結婚の当夜なんですからなあ! 公爵、もし潔白な人間のピストルが必要でしたら、わが輩はあなたがあくる朝『蜜の床』からお起きにならぬうちに、正義の弾丸の半ダースやそこらは射つ覚悟です」彼はなお教会を出たのち、かつえた連中が雪崩をうって押し寄せる場合を気づかって、おもてにポンプを用意するように勧めた。しかしこれはレーベジェフが反対した。『ポンプなんか用意したら、うちを木っぱにして持って行かれますよ』
「あのレーベジェフは、あなたに対して陰謀を企てています、ええ、実際です! あの連中は、あなたを禁治産あつかいにしようと思ってるのです、しかも、どうでしょう、自由意志も、財産も、なにもかもですよ。各人を四つ足と区別するこの二つのものを奪おうというんだからなあ! わが輩、聞きました、たしかに聞きました、間違いなしの事実です!」
 公爵はいつだったか自分でも、こんなふうの話を聞きこんだことを思い出した。が、そのときはむろん、なんの注意も払わなかったのである。彼は今もただからからと笑ったのみで、すぐにまた忘れてしまった。レーベジェフはまったくしばらくのあいだあくせくしたのである。この男の心算は、いつも感激といったようなものから生まれるが、あまり熱中しすぎるため、こみ入ってきて、ほうぼうへ枝葉がわかれ、最初の出発点からすっかり離れてしまうのであった。つまりこれが、彼の生涯でたいした成功を見なかったゆえんである。その後ほとんど結婚の当日になって、彼が悔悟の念を表するため公爵のところへやって来たとき(彼はいつも人に対して陰謀を企てるたびに、悔悟の念を表するためその人のところへでかけた、それはおもに陰謀の成功しなかったときなので)、自分は元来タレイラン(仏の外交家、一七五四―一八三八年)として生まれたのに、どういう間違いか、ただのレーベジェフでまごまごしているのだ、と前置きして、自分の企みの一条をすっかり暴露して見せた。公爵は非常な興味をいだきながら傾聴した。彼は第一着手として、必要のさいたよりになるような名士の保護を求めた。イヴァン将軍のもとへおもむいたところ、将軍は合点の行かない様子で、自分は心から公爵のためよかれと祈っているから、『助けてやりたいのは山々であるけれども、ここでそんな運動するのは、どうも感心しない』といった。リザヴェータ夫人は彼に会うのも、話を聞くのもいやだといった。エヴゲーニイも、S公爵も、ただ当惑そうに両手をふったばかりである。しかし、レーベジェフは落胆しないで、ある敏腕な法律家と相談した。これは相当の地位を占めた老人で、彼のもとの友人、というよりほとんど恩人なのであった。この人の結論によると、それはできない相談ではないが、ただ相当な人が公爵の智能錯乱と完全な発狂の証明さえすればよい、しかしそのほか名士の保護というのがかんじんなことである。レーベジェフはこのときもけっしてしょげなかった。それどころか、あるとき公爵のところへ医者をつれて来たことさえある。これもやはり相当の地位ある老人で、アンナ勲章を首にかけていようという別荘持ちであった。その目的はただ、その、まあ場所を見て、公爵と近づきになり、当日は公式でなしに親友として自分の診断を告げるためであった。
 公爵はこの医師の来訪を覚えている。その前の晩レーベジェフは、彼の健康がすぐれないといって、うるさく付きまとったあげく、公爵がだんぜん医薬をしりぞけたとき、彼はとつぜんこうして医師をつれて来たのである。その口実はつい今しがたふたりして、非常に容体の悪くなったチェレンチエフ氏を訪問して来たので、医師の口から公爵に病人の容体を知らせるために来訪した、というのであった。公爵はレーベジェフの思いつきをほめて、ねんごろに医師を歓待した。すぐにイッポリートの話がはじまった。医師は、あの自殺当時の光景を詳しく聞きたいと頼んで、公爵の話や説明ぶりにうっとりと聞きとれてしまった。それからペテルブルグの気候や、公爵自身の病気や、スイスや、シュナイデルのことなどに話題が移った。シュナイデルの治療方法の説明や、その他いろいろの話に、医師はすっかり酔わされてしまい、二時間も尻をすえていた。そのあいだに、彼は公爵の飛びきり上等のシガーをふかし、レーベジェフのもてなしとしては、ヴェーラの持って来たすてきな果実酒を飲んだ。このとき妻もあれば家族もある医師が、一種特別なお世辞をヴェーラにふりまいたので、彼女はすっかり憤慨してしまった。ふたりは親友として別れた。
 公爵のもとを辞した医師はレーベジェフに向かって、もしあんな人を禁治産あつかいにするなら、いったいだれを後見人にしようというのか、といった。レーベジェフが目前に迫っているできごとを、悲劇的な態度で述べたのに対して、医師はこすそうな様子で頭を獗っていたが、とうとうしまいに、『人はどんな女とでも結婚しかねないもんですよ。が、それはしばらくおいても、すくなくともわたしの聞くところでは、あの魅力に富んだ婦人は、一世に絶した美貌のほかに、それ一つだけでも、優に身分ある男をひきつけるに足りますがね、そのほかにトーツキイや、ラゴージンからもらった財産をもっています。真珠とか、ダイヤモンドとか、ショールとか、家具類とかいったものをね。だから今度の結婚は公爵として、さして目立つほどの愚昧を証明しないばかりか、かえってずるくて細かい、世なれた勘定だかい頭脳を示しています。してみると、ぜんぜん正反対の、公爵にとって有利な結論を促すわけになるじゃありませんか……』この言葉にレーベジェフもまた感心してしまい、彼もそのまま手をひいてしまった。で、いま公爵に向かって、『もう今度こそは、血を流してもいとわないほどの信服の念のほか、何ものもわたくしの腹中にござりません。そのためにやってまいりましたので』といい足した。
 この四、五日のあいだ、イッポリートも公爵をまぎらしてくれた。彼はうるさいほどしげしげ使いをよこすのであった。彼の一族は、ほど遠からぬ小さな家に住んでいた。小さい子供ら、――イッポリートの弟と妹は、病人を避けて庭へ出られるというだけでも、別荘住まいが嬉しかった。が、哀れな大尉夫人は、まったく彼のいうままになって、まるで彼の犠牲であった。公爵は毎日親子を引き分けたり、仲直りさせたりしなければならなかった。で、病人はいつも彼のことを自分の『保母』と呼んでいたが、それでもその仲裁人の役まわりを軽蔑せずにいられなかった。病人は無性にコーリャに会いたがっていた。それはこの少年がはじめは瀕死の父、のちにはやもめになった母のそばに付き添って、ほとんど顔を見せなかったからである。ついに彼は、目前に迫った公爵とナスターシヤの結婚を冷笑の対象に選んだが、とどのつまりは公爵を侮辱し、怒らしてしまった。公爵はぱったり来なくなった。二日たった朝、大尉夫人がとぽとぽとやって来て、涙ながら公爵においで願いたいと頼んだ。『でないと、わたしはあれ[#「あれ」に傍点]に咬み殺されてしまいます』それから、息子が公爵に大秘密をうち明けたがっている、とつけ加えた。で、公爵は行ってみた。
 イッポリートは和睦を求めて、泣きだした。涙をおさめてから、いっそう腹を立てたのはもちろんながら、ただその怒りを外へ出すのを恐れていた。彼の容体は非常に悪く、もう今となっては死ぬるのに間がないことは、すべての様子から察せられた。秘密などはすこしもなかった。ただ興奮のために(それもあるいはこしらえごとかもしれない)せいせい息をきらしながら、『ラゴージンを警戒なさい』と頼んだくらいのものである。『あの男はけっして我を折るようなやつじゃありません。公爵、あれはわれわれの仲間じゃないですよ。あの男はいったんこうと思ったら、なにひとつ恐ろしいものはないんですからね……』といろいろこれに類したことをいった。公爵はなにやかや詳しくたずねてみて、なにか事実を掘り出そうとしたが、イッポリートの個人としての感じと印象のほか、なんの事実も伏在していなかった。イッポリートはあげくの果てに公爵をびっくりさせたので、無性によろこんで、それきり話をやめてしまった。はじめ公爵は、彼の特殊な質問に答えたくなかったので、『せめて外国へでもお逃げなさい。ロシヤの坊主はどこにでもいますから、むこうで結婚することもできますよ』などという忠告に対して、ただ微笑するのみであった。しかし、イッポリートは次のような考えを述べて、きりあげた。『ぼくはただアグラーヤさんの身の上を心配するのです。あなたがあのお嬢さんを恋してるのを、ラゴージンはよく知っていますから、恋にむくいるに恋を以てすです。あなたがあの男からナスターシヤさんを奪ったから、あの男はアグラーヤさんを殺します。もっとも、アグラーヤさんは今あなたのものじゃないけれど、それでもやはりあなたは苦しいでしょう、そうじゃありませんか?』彼はついに目的を達した。公爵は人心地もなく辞し去った。
 ラゴージンに関するこの警告は、もはや結婚の前日に当たっていた。この晩、公爵がナスターシヤに会ったのは、結婚前最後の会見であった。しかし、ナスターシヤは彼を慰めることができなかった。そればかりか、このごろではしだいに彼の不安を増す一方であった。以前、といっても四、五日まえまで、彼女は公爵と会うたびに、全力をつくして彼の気をまぎらそうとした。公爵の沈んだ様子を見るのが恐ろしかったので、ときには歌をうたって聞かせることさえあった。しかし、おおむね、思い出せるかぎりのこっけいな話を公爵にして聞かせることがいっとう多かった。公爵はたいていいつも笑うようなふりをして見せたが、ときにはほんとうに笑うこともあった、――彼女が夢中になって話すときの、はなばなしい機知と明るい感情につりこまれるのであった。じじつ、彼女はよく夢中になった。公爵の笑顔を見、自分が公爵に与えた感銘を見ると、有頂天になって自慢するのであった。しかし、このごろ彼女の懊悩《おうのう》ともの思いは、ほとんど一時間ごとにつのっていった。
 公爵のナスターシヤに関する意見は、ちゃんと決まっていた。それでなかったら、いま彼女の持っているすべてのものが、謎めいて不可解に感じられたに相違ない。しかし、ナスターシヤはまだ蘇生しうるものと、彼は信じて疑わなかった。彼がエヴゲーニイに向かって、真底から彼女を愛しているといったのは、まったく事実である。じっさい彼の愛の中には、なにかしら哀れな、病身な子供にひかされるようなものが潜んでいた。そんな子供の勝手に任せておくのは、情において忍びがたいような、いな、不可能のような気がするのであった。彼は彼女に対する心持ちを、けっして人にうち明けなかった。そういう話を避けられないような場合ですら、口にすることを好まなかった。当のナスターシヤとは、差し向いの席でも、自分たちの『心持ち』を一度も話し合ったことがない。まるでふたりとも、そんな誓いでも立てたようであった。ふたりの愉快な、いきいきした日々の談話には、だれでも仲間入りができた。ダーリヤはのちになって、『あの当時のふたりをながめていると、ひとりでに嬉しくなって、ほれぼれするくらいでした』と話していた。
 しかしナスターシヤの精神的、ならびに智的状態に関する彼のこうした見かたは、そのほかのさまざまな疑惑をまぎらすのにいくぶん力があった。今のナスターシヤは、三か月ばかり前に知っていたころとは、まるで別人のようになっている。彼も今はもう、『あのとき自分との結婚をいとって、涙とのろいと非難とともに逃げだした女が、どうして今度はかえって自分のほうから、結婚を主張するようになったのか?』などと考えこまなくなった。『つまり、もうあのときのように、この結婚がぼくの不幸になるなどと心配しなくなったんだ』と公爵は考えた。かくも急激に生じた自信は、どうしても自然なものであるはずがない、と彼の目には感じられた。アグラーヤに対する憎しみばかりが、かほどの自信を生むわけがない。ナスターシヤはもうすこし深い直感をもっていろ。ラゴージンといっしょになった時を思う恐怖のためでもあるまい。手短にいえば、これらの原因が、さまざまなほかの事情といっしょになっているのだ。けれど、なにより明瞭なのは、彼が以前から疑っている事実、――哀れな病める心に堪えられないような事実が、この間《かん》に伏在しているということである。
 これらの推論はじじつ、いろいろの疑惑に対して、一種の避難所を作ってくれたけれど、この数日間、彼に安心も休息も与えることができなかった。ときには、彼はなんにも考えまいと努めた。じじつ、彼はこの結婚を、些細な形式かなんぞのように見ているらしかった。自分の運命をも、あまりに安く評価しているのであった。エヴゲーユイの会話に類するような会話や、その他いろいろの抗議に対しては、ぜんぜん返答ができなかったし、またその資格があるとも思えなかった。で、すべてこの類の会話を避けるようにした。
 とはいえ、彼は気がついた、アグラーヤが公爵にとっていかなる意味をもっているかを、ナスターシヤはあまりによく知り、かつ了解していた。彼女は口にこそ出していわないが、まだはじめのうち公爵が、エパンチン家へ出かけようとしているのを見つけたとき、彼は彼女の『顔』を見た。将軍一家が出発したとき、彼女はさながら喜びに輝きわたるようであった。公爵はずいぶん気のつかない、察しの悪いほうであったが、それでも、ナスターシヤが自分の恋敵をパーヴロフスクからいびり出すために、なにか非常な行動を決行しそうだという考えは、急に彼の心を騒がしはじめた。結婚に関する別荘じゅうの騒がしいうわさも、むろんナスターシヤが恋敵をいらだたせるために、ひきつづいて種を供給したのである。エパンチンー家の人に会うのがむずかしかったので、ナスターシヤはあるとき自分の馬車に公爵を乗せて、相乗りで将軍家の窓際を通るように指図した。それは公爵にとって思いもよらぬ驚きであった。彼はいつものくせで、もう取り返し以つかない時になって、――もう馬車が窓際を通っている時に、はじめてはっと気がついた。彼はなんにもいわなかったが、その後二日ばかり引きつづいて病気した。ナスターシヤも、以後そんな実験をくりかえさなかった。
 結婚の二、三日まえから、彼女はひどく考えこむようになった。いつもしまいにはふさぎの虫を征服して、また陽気になるのが常であったが、そのはしゃぎかたが前よりも静かで、ついこの間ほど騒々しくもなければ、それほど幸福らしい快活さもない。公爵は注意を二倍にした。ナスターシヤが一度もラゴージンのことを口にしないのも、変に思われた。ただ一度、結婚の五日ぽかりまえ、急にダーリヤから、ナスターシヤが非常に悪いからすぐ来いという使いがあった。行って見ると、まるできちがい同然の有様である。彼女は悲鳴をあげたり、ふるえたりしながら、ラゴージンが家の庭に隠れている、たったいま自分で見た、夜になったら、あの男がわたしを殺す……刃物で斬る! と叫ぶのであった。まる一日、彼女は気がしずまらなかった。しかし、その晩、公爵がちょっとイッポリートのところへ寄ったとき、きょう用向きでペテルブルグへ行って、たったいま帰ったばかりの大尉夫人が、きょうあちらの住居ヘラゴージンが寄って、パーヴロフスクのことをいろいろたずねた、という話をした。それはちょうどいつごろかという公爵の問に対して、大尉夫人の答えた時刻は、ナスターシヤがきょう自分の家で、ラゴージンを見たという時刻に符合した。で、あれはほんの蜃気楼だということで謎が解けた。ナスターシヤはなお自分で詳しく聞くために、大尉夫人のところへ行って、すっかり安心したのである。
 結婚の前夜、公爵と別れたときのナスターシヤは、珍しく元気づいていた。ペテルブルグの婦人服屋からあすの衣装、――式服、頭飾り、その他さまざまなものが届いたのである。公爵は、彼女がそれほどまで衣装のことで騒ごうとは、思いがけなかった。彼は自分でも、いっしょうけんめいにほめそやしてやった。そのほめ言葉を聞いて、彼女はなおさら仕合せらしい様子であった。ところが、彼女はちょっと余計な口をすべらした。彼女は町の人がこの結婚を憤慨していることも、五、六人の暴れ者がわざわざ作った諷刺詩に音楽までつけて、家のそばでひと騒ぎしようと企んでいることも、またその企みが町民の応援を受けんばかりのありさまだ、などということを聞きこんでいた。で、今はなおさらこの連中の前に昂然と頭をそらして、自分の衣装のぜいたくな趣味でみなを煙にまいてやろう、という気になったのである。
『もしできるなら、どなるなと、口笛を吹くなとしてみるがいい!』こう思っただけで、彼女の目はぎらぎら光りだすのであった。
 彼女はもう一つの空想をいだいていたが、口に出してはいわなかった。ほかでもない、アグラーヤか、さもなくばそのまわしものが、わからないように群集にまじって、自分を見に来るに相違ない、というふうに空想された。で、彼女は心の中でその準備をしていた。こういう想念を胸いっぱいにいだきながら、夜十一時ごろ彼女は公爵と別れた。しかし、まだ十二時も打たないうちに、公爵のところヘダーリヤの使いが走って来て、『たいへん惡いから来てください』と告げた。行って見ると、花嫁は寝室に閉じこもって、ヒステリイの発作に絶望の涙を流していた。彼女はみんな鍵のかかった扉ごしにいうことを、長いあいだ聞こうともしなかったが、やっとしまいに戸をあけて、公爵ひとりだけ中へ入れると、すぐそのあとから戸をしめてしまった。そして、公爵の前にひざをつきながら(すくなくとも、ダーリヤはそういっていた。彼女はちらとのぞき見したのである)。
「わたしはなんてことをしてるんでしょう! なんてことを! あなたの身をどうしようと思ってるんでしょう!」痙攣的に公爵の両足をかきいだきつつ、彼女はこう叫んだ。
 公爵はまる一時間、彼女と対坐していた。ふたりがどんな話をしたかは、知る由もない。ただダーリヤの話によると、ふたりは一時間ののちすっかり穏かな、幸福らしい様子で別れたとのことである。公爵はこの夜もう一度使いをやって様子をたずねたが、ナスターシヤはもう寝入っていた。翌朝まだ彼女の起きないさきに、早くもふたりの使いが公爵のところからダーリヤの家へやって来た。三度目の使いは、こんなことづけを持って帰った。『今ナスターシヤのまわりには、ペテルブルグから来た婦人服屋や、髪結が一小隊ほど集まって、昨夜のことは跡かたもない。ああした美人の結婚前にしか見られないような意気込みで、化粧に夢中になっている。いまちょうどどのダイヤモンドをつけようか、またどんなふうにつけようかというので、特別会議が行なわれているところだ』で公爵はすっかり安心してしまった。
 この結婚に関する最後の逸話は事情に通じた人によって、次のごとく語られている。それはおそらく正確な話らしい。
 式は午後八時ということになっていた。ナスターシヤは、もう七時ごろに支度を済ましていた。もう六時ごろから、すこしずつ閑人《ひまじん》の群れがレーベジェフの別荘、ことにダーリヤの家のまわりに集まりだした。七時ごろからは、教会もだんだんつまって来た。ヴェーラとコーリャは、公爵の身の上をむやみに心配していた。とはいえ、ふたりとも家事の用向きが山ほどあった。公爵の住まいで受付や、接待の指図役に当たっていたのである。もうとも式のあとでは、招待をしないことになっていた。式に列するために必要な人々をのけると、プチーツィン夫妻、ガーニャ、アンナ勲章を首にかけた医師、それからダーリヤ、こんな人が、レーベジェフから招待を受けたくらいなものである。公爵が、なぜ、『ほとんど他人同様の』医師を呼ぶ気になったか、とたずねたとき、レーベジェフは得意然として答えた。『首に勲章なんかかけたりっぱな人ですから、ちょっと体裁のために……』といって公爵を笑わした。燕尾服に手袋をつけたケルレルとブルドーフスキイも、なかなか恰幅よく見えた。ただケルレルは、家のまわりに集まっている閑人どもを、おそろしくすごい目つきでにらみながら、喧嘩ならいつでもこいという様子が、ありありと見えるので、公爵はじめその他の彼を推薦した人々を当惑させた。
 ついに七時半、公爵は箱馬車に乗って、教会へおもむいた。ついでにいっておくが、公爵自身も在来のしきたりや風習を、一つも略したくないと特に決めたので、すべてのことが公然とあからさまに、『式《かた》のごとく』取り行なわれたのである。教会では、絶え間ない群集のささやきや、叫び声の中を縫いながら、左右へじろじろと恐ろしい視線を投げるケルレルに手をひかれて、公爵はしばらく祭壇の中へ隠れた。ケルレルはナスターシヤを迎いに行った。と見ると、ダーリヤの玄関先に集まった群集は、公爵の家より二倍も三倍も多いばかりでなく、二倍も三倍もずうずうしいようなふうだった。階段を昇っていると、とてもがまんできないような言葉が耳にはいったので、ケルレルはもう相当の言葉を返してやるつもりで、群集のほうをふり向いた。しかし、さいわいブルドーフスキイと、玄関から飛びだしたあるじのダーリヤがおしとどめて、無理やりにつかまえて中へ引っ張りこんでしまった。ケルレルはいらいらして、やたらに急いでいた。ナスターシヤは立ちあがって、もう一度鏡を見ながら、『ひん曲がったような』微笑を浮かべて(これはあとでケルレルの話したことだが)『青い顔、まるで死人のようね』といった。それからうやうやしく聖像を拝んで、玄関口へ出た。わっというどよめきが、彼女の出現を迎えた。もっとも、最初の一瞬間は笑い声や、拍手や、口笛すらも聞こえたが、すぐにもう別な声が響きわたった。
「なあんて美人だろう!」という叫びが群集の中で聞こえた。
「なあに、なにもこの女ひとりきりじゃないさ!」
「婚礼でなにもかも隠そうてんだ、まぬけめ!」
「黙れ、きさまひとつあんな別嬪を目っけてみろ、わあい!」いちばんそばの連中がわめいた。
「よう、公爵夫人! こういう美人のためなら、命でも売って見せらあ!」とどこかの書記らしいのが叫んだ。「『命もてあがなわん一夜のなさけ』(プーシキン)……か!」
 ナスターシヤはまったくハンカチのように青い顔をして出て来た。しかし、その黒い目は赤熱した炭火のように、群集に向かって輝いた。この視線に群集はかぶとをぬいだのである。憤慨は歓呼の声と変わった。もう馬車の戸が開いて、ケ

『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-120

つぜん彼はイヴァン将軍が隔てのないふうで、自分の肩をぽんとたたくのに気がついた。アングロマンも同様に笑っている。しかしそれよりもっと親切で気持ちのいい、同情のある態度を示したのは老政治家である。この人は公爵の手を取って軽く握りしめ、いま一方の手のひらでそっとたたきながら、まるで小さな子供かなんぞのように、しっかりしなさいといい聞かすのであった。これがおそろしく公爵の気に入った。やがてとうとう公爵を自分と並んですわらしてしまった。公爵は嬉しそうにその顔を見つめていたが、それでもまだ口がきけなかった。息がつまるような気持ちがするのであった。老政治家の顔がすっかり気に入ってしまったのだ。「え」と彼はやっとつぶやくようにいった。「ほんとうにゆるしてくださいますか? そして……奥さん、あなたも?」 笑い声はまた高まった。公爵の目には涙がにじんだ。彼はこの幸福を信じえなかった。彼はまるで魔法にかかったようである。
「それはもちろんりっぱな花瓶ではありましたがね……わたしはもう十五……そう十五年も前から覚えていましたよ」とアングロマンがいいかけた。
「まあ、まあ、なんて災難でしょう……人間一人が生きるか死ぬかの境目に立っているんですよ。しかも、それが土焼の瓶がもとなんですものねえ!」とリザヴェータ夫人が声高に言った。「ほんとうに、あんたそんなにびっくりしたの、ムイシュキンさん?」いくぶん危惧の念を帯びた調子で夫人はきいた。「たくさんですよ、あんた、もうたくさん。ほんとうに心配になるじゃありませんか」
「いっさいのこと[#「いっさいのこと」に傍点]をゆるしてくださいますか? 花瓶よりほかのこともいっさい[#「いっさい」に傍点]ゆるしてくださいますか?」公爵はとつぜん席を立とうとした。しかし、老政治家はすぐにまた彼の手を引っ張った。彼は公爵を放したくなかったのである。
「C'est tres curieux et c'est tres serieux!(これはじつに奇怪なことだ、そしてじつに重大なことだ)」と彼はテーブルごしにアングロマンにささやいた。が、それはかなり大きな声だった。あるいは公爵も耳に挟んだかもしれない。
「じゃ、ぼくはみなさんのどなたにも失礼なことをしなかったんですね? こう思うとぼくがどんなに嬉しいか、あなたがたにはとてもわかりますまい。けれど、それは当然なことなんです! じっさいぼくがここで、だれかに失礼な真似をするなんて、そんなことがいったいできるでしょうか? もしそんなことを考えたら、またもやみなさんを侮辱することになります」
「気をおしずめなさいよ、きみ、それは誇張です。それにきみがそんなに感謝することなんか、すこしもありませんよ。それは美しい感情ですけれど、誇張されています」
「ぼく、感謝なんかしません、ただその……あなたがたに見とれているのです。ぼくはあなたがたをながめていると、幸福な気持ちになってきます。あるいはぼくのいうことはばかげているかもしれませんが、しかし、――ぼく話さなくちゃなりません、説明しなくちゃなりません……ただ自分自身に対する尊敬のためだけでもね」
 彼の言行はすべて突発的で、混沌としていて、まるで熱に浮かされているようであった。あるいは彼の発する言葉の多くは、いいたいと思ったことと違っているかもしれない。彼は目つきでもって、『話してもいいですか?』とたずねるかのようであった。と、その視線はベロコンスカヤ夫人に落ちた。
「かまいませんよ、つづけてお話し、ただね、せいせい息をきらさないようになさいよ」と夫人は注意した。「おまえさんはさっき息をきらしながら話をはじめたもんだから、とうとうあんなことになったのですよ。けれども、口をきくのをこわがることはありません。ここにいるみなさまは、おまえさんよりまだまだ奇妙な人をしょっちゅう見てらっしゃるから、あれぐらいのことじゃびっくりなさらないよ。おまえさんはまだまだ変わったことをしでかさないとも限らないから。もっとも、いま花瓶をこわしたときには、だいぶ荒胆をひしがれたがね」
 公爵はほほえみながら、その言葉を聞き終わった。
「ときに、あれはあなたでしたね」彼はとつぜん老政治家のほうへふりむいた。「あのポドクーモフという大学生と、シヴァーブリンという役人を、三か月まえ流刑から救っておやりになったのは?」
 老政治家はちょっと顔をあからめて、「すこし落ちついたらいいでしょう」と、どぎまぎしながらいった。
「それから、ぼくの聞いたあのうわさはあなたのことでしょう」と彼はすぐまたアングロマンのほうへふり向いた。「××県であなたにさんざん迷惑をかけた百姓たちが、解放後まる焼けになったとき、家をたて直すために、ただで森を伐らしておやりになったそうですね?」
「いやあ、そりゃ――きみ、おーおげーさですよ」とアングロマンはうろたえぎみでいったが、それでもいい気持ちそうにぐっとそり身になった。
 しかし今度こそ「それはおおげさですよ」といった彼の言葉は、ぜんぜんほんとうであった。なぜというに、それは間違ったうわさが公爵の耳にはいったにすぎないので。
「ところで、公爵夫人、あなたは」とつぜん公爵は、はればれしい微笑を浮かべながら、ベロコンスカヤ夫人のほうへふり向いた。「あなたは半年まえモスクワで、ここの奥さんのお手紙一つで、まるで親身の息子かなんぞのように、ぼくをもてなしてくださいましたね。そして、まったく親身の息子に対するような忠告を与えてくださいましたね、ぼくはけっしてあのご忠言を忘れません。覚えてらっしゃいますか?」
「なんだっておまえさんはきちがいのように、あれからこれと話を変えるんです?」とベロコンスカヤはいまいましそうにいった。「おまえさんはいい人だけれど、すこしこっけいですよ。赤銭二つもやったら、まるで命でも助けてもらったようにお礼をいうんでしょう。おまえさんは、それをりっぱなことだと思ってるんだろうけれど、ほんとうはいやらしいこってす」
 夫人はもうすっかり腹を立ててしまうところだったが、急にからからと笑いだした。しかも、今度は善良な笑いかたであった。リザヴェータ夫人の顔ははればれとなった。イヴァン将軍の顔も輝きわたった。
「わたしもそういったことですよ、ムイシュキン公爵という人は……その……つまり、ただ息をきらしたりしなけりゃいいんですがね! いま公爵夫人のおっしゃったとおり……」将軍はベロコンスカヤの言葉に感じ入って、同じことをくりかえし、よろこびに満ちた感激の調子でこういった。
 ただアグラーヤひとりは、なんとなく沈みこんでいた。しかし、その顔はまだやはり燃えるようであった。それはことによったら、憤懣のためかもしれない。
「あの男はまったくかわいいところがあるよ」と老政治家はふたたびアングロマンにささやいた。
「ぼくは胸に苦しみをいだきながら、ここへはいって来ました」しだいにつのりゆく惑乱を声に響かせながら、いよいよ早口に、いよいよ奇妙な興奮した調子で、公爵は語りつづけた。「ぼくは……ぼくはあなたがたを恐れました。自分自身を恐れました。何よりも第一に、自分を恐れました。このペテルブルグへ帰って来るとき、ぼくはぜひともあなたがたを見よう、いわばロシヤの草分けともいうべき代表的な人々を見よう、と自分自身に誓いました。じっさいぼく自身もこういう人々の仲間なんです。家柄からいえば、第一流に伍すことができるんですからね。ね、ぼくはいま自分と同じような公爵たちと、席を同じゅうしてるんでしょう、そうじゃありませんか? ぼくはあなたがたが知りたかったんです、それはまったく必要なんです、ぜひぜひ必要なことです!………ぼくはいつもあなたがたに関して、あまりに多く悪いことを聞いていました、善いことよりもずっと余計にね。つまり、あなたがたの興味が瑣末で偏狭だとか、教育が浅薄で時世おくれだとか、習慣がこっけいだとか――だって、今あなたがたのことをずいぶん盛んに書き立て(当時教育ある中間階層の勃興とともに、地主である貴族階級の頽廃と無能が高唱されていた)たり、論じたりしてるじゃありませんか! ぼくはきょう好奇心と不安を胸にいだきながら、ここへ来ました。はたしてこのロシヤの上流社会は黄金時代を過ぎて、古い生命の泉をからしつくし、死ぬよりほかなんの役にも立たなくなってしまったのだろうか? はたして彼らは自分の死にかかっていることに気がつかないで、未来ある人々と軽薄な岡焼き半分の戦いをつづけて、彼らの進歩を妨げているのだろうか、――これをぼくは自分の目で見て、親しく検討したかったのであります。ぼくは以前もこんな意見を十分信じなかったのです。なぜって、わが国では制度とかその他の……偶然な契機によって集まった宮廷つきの階級を除くほか、上流階級というものがなかったからであります。ことに現今ではぜんぜん消滅してしまいました、ね、そうでしょう、そうでしょう?」
「どうしてどうして、そんなことはけっしてありません」とアングロマンは毒々しく笑った。「おや、またテーブルをたたいた!」ベロコンスカヤはこらえかねてこういった。
「Laissez le dire.(勝手にいわしておおきなさい)からだじゅうぶるぶるふるわしてる」と老政治家はまた低い声でいった。
 公爵はもうすっかりわれを忘れていた。
「ところが、どうでしょう? ぼくは優美で淳朴な賢い人たちを見たのです。ぼくのような青二才をいつくしんで、そのいうことをまじめに聞いてくれる老人を見たのです。理解しかつゆるすことのできる人々、――ぼくがあちらで会った人人と同じような、ほとんど優劣のない、善良なロシヤ人を見たのであります。ぼくがいかによろこばしい驚きを感じたか、お察しを願います! おお、どうぞすっかりいわしてください! ぼく、今まで、いろいろ聞いてたものですから、自分でもすっかり信じきっていたのです。ほかでもない、社交界ではすべてのものがただのmaniere(型)で、古臭い形式で、本質は枯死してしまっているというのです。しかし、ぼくいまこそわかりました。そんなことがわが国にあってたまるものですか、それは、どこかほかの国のことで、けっしてロシヤのことじゃありません。いったいまあ、あなたがたがみんなジェスイットでうそつきでしょうか? さっき、N公爵のお話を聞きましたが、いったいあれが無邪気な感興の豊かなユーモアでないでしょうか、いったいあれが誠実な美しい心持ちでないでしょうか? いったいあんな言葉が……心情も才能も枯死してしまった死人の口から、出ることができましょうか? いまぼくに対してみなさんのとられたような態度を、はたして死人がとることができましょうか? これはじつに……未来に対する、希望に対する素材ではないでしょうか?・ こういう人々が理解を奪われて、退歩するなんてはずはありません!」
「もう一度お頼みしますが、きみ、気を落ちつけてください。その話はまたこの次にしよう、わたしも喜んで……」と『老政治家』は苦笑した。
 アングロマンはくっとのどを鳴らして、ひじいすの上で向きを変えてしまった。イヴァン将軍はもぞもぞ身動きしはじめた。長官の将軍は、もうすこしも公爵に注意を払わないで、政治家の夫人に話しかけていた。しかし、夫人のほうはしょっちゅう耳を傾けたり、視線を向けたりしていた。
「いや、もうすっかりいっちまったほうがいいです!」特になれなれしい信じきったような態度で、老政治家のほうを向きながら、新しい熱病やみのような興奮をもって、公爵は言葉をついだ。「きのうアグラーヤさんが、ぼくにものをいうことを禁じて、話してならないテーマさえ指定されました。そんなテーマに触れると、ぼくがこっけいに見えるということを、よく知ってらっしゃるからです! ぼく二十七ですが、まるで子供のようだってことは、自分でも承知しています。ぼくは自分の思想を語る権利を持っていません、これはずっと前からいってることです。ぼくはただモスクワで、ラゴージンとうち明けた話をしたばかりです……ぼくらはふたりで、プーシキンを読みました。すっかり読みました。その男はなんにも、プーシキンの名さえ知らないのです……ぼくはいつも自分のこっけいな態度で、自分の思想や大切な観念[#「大切な観念」に傍点]を、傷つけやしないかと恐れるのです。ぼくにはゼスチュアというものがありません。ぼくのゼスチュアはいつも反対になるもんですから、人の笑いを呼びさまして、観念を卑しいものにするのです。また適度という観念がありません、これがおもな点なのです、これがむしろ最もおもな点なのです……ぼくはいっそ黙ってすわってたほうがいいくらいです。それは自分でも知ってます。隅のほうにひっこんで黙っていると、かえってなかなか分別ありげに見えるくらいです。それに、熟考の余地がありますからね。しかし、今はいったほうがいいです。ぼくがいま口をきったのは、あなたがたがそんなに美しい目つきをして、ぼくをごらんになるからです。あなたがたは美しい顔をしてらっしゃいます! きのうぼくはひと晩じゅう黙っているって、アグラーヤさんに約束しました」
「Vraiment? (本当ですかね)」老政治家は微笑した。
「けれど、ぼくはときどき自分の考えが違ってやしないか、と思うことがあります。つまり、真摯というものは、ゼスチュアと同様の価値があるのではないでしょうか……そうでしょう? そうでしょう?」
「ときとするとね」
「ぼくはすっかりいってしまいたいのです、すっかり、すっかり、すっかり! ええ、そうですとも! あなたがたはぼくをユートピア論者だとお思いですか? 観念論者だとお思いですか? おお、誓ってそうじゃありません。ぼくの考えはすべて単純なものです……みなさんほんとうになさいませんか? なんだかにやにや笑ってらっしゃいますね? ところで、ぼくはときおりきたない根性になることがあります。それは信仰を失うからです。さっきもここへ来る途中、こんなことを考えました。『さあ、あの人たちに向かって、どんな具合にきりだそうかしら? どんな言葉からはじめたら、あの人たちがせめてすこしでも理解してくれるだろう?』ぼく自分のことも心配でしたが、なによりも一番にあなたがたのことを心配しました。おそろしく、おそろしく心配しました! ところが、ぼくにそんなことを心配する資格がありましたか、よくまあ恥ずかしくなかったことです。ひとりの卓越した人物に対して、無数の不良な人間がいるからって、それがいったい何でしょう? いや、これらは無数などというべきでなく、ことごとく生ける素材であると確信しているので、ぼくは嬉しくてたまらないのです! われわれはこっけいだからって、きまり悪がることはすこしもありません、そうじゃないですか? それはまったくほんとうです、われわれはこっけいで、軽薄で、悪い習慣だらけで、ものを見透かすことも理解することもできないで、ただぼんやりしている。われわれはみんなこんな人間なのです、あなたがたも、ぼくも、世間の人たちも! ほらね、いまぼくが面と向かって、あなたがたはこっけいですといっても、あなたがたはほんとうに腹をお立てにならないでしょう? してみると、つまり、みなさんはその素材じゃないでしょうか? ぼくの考えでは、こっけいに見えるということは、ときとして結構なくらいですよ、かえってよりいいくらいですよ、なぜって、おたがいに早くゆるし合って、早く和睦ができますからね。だって、一時になにもかも理解することはできませんし、またいきなり完全からはじめることもできませんものね! 完全に到達するためには、その前に多くのものを理解しないことが必要です! あまり早く理解しすぎると、あるいは間違った理解をしないとも限りませんからね。ぼくはみなさまにこんなことをいうのは、みなさんが多くのものを理解し、かつ……理解しないことに成功されたからです。いまぼくはもうあなたがたのことを心配しません。じっさいあなたがたは、こんな青二才がこんなことをいったからって、腹なんかお立てにならないでしょうね? もちろん、そんなことはありません! おお、あなたがたは自分を侮辱したものも、また侮辱しないものをも、忘れてゆるすことのできる人です。じっさい何よりも困難なのは、侮辱しないものをゆるすことです。なぜというに、侮辱しない[#「しない」に傍点]ものに対する不満は、根拠のないものだからです。つまり、こういうことをぼくは上流の人々から期待したので、ここへ来てからも、それをいおうと思ってあせりましたが、どういっていいかわからなかったのです……あなた笑ってらっしゃるんですか(と彼はアングロマンのほうを向いて)、あなたはぼくがあの人たち[#「あの人たち」に傍点](下級民)のことを心配していたとお思いですか? ぼくがあの人たちの弁護者で、デモクラートで、平等の演説家だとお思いですか?」と、彼はヒステリックに笑いだした(彼はひっきりなしに歓喜にあふれた短い笑い声を立てるのであった)。「ぼくはあなたがたのことを心配してるのです。あなたがたをみんな、みんなひっくるめて心配してるのです。ご承知のとおり、ぼく自身も古い家柄の公爵です。そして、いま多くの公爵たちと席を同じゅうしています。ぼくがこんなことをいうのは、われわれ一同を救わんがためであります。この階級が、なにひとつ悟ることなしに、なんだかだといって、いさかいばかりしながら、すべてのものを失って、暗闇のなかへ消えてしまわないためであります。りっぱな卓越した指導者として、踏みとどまっていられるのに、むざむざ暗闇へ消えてしまって、ほかのものに席をゆずる必要が、いったいどこにありましょう? 卓越した人間になりましょう、そして、指導者になりましょう。指導者となるために、しもべとなりましょう」
 彼は突発的にひじ掛けいすから立ちあがろうとしたが、考政治家はしじゅう彼をおさえていた、しだいにつのりゆく不安をいだいて彼を見つめながら。
「みなさん! ぼくも言説のよくないことは知っています。むしろ単に実例を示したほうがいいです。単に着手したほうがいいのです……ぼくはもう着手しました……それに……それに、不幸におちいるなんて、はたしてありうることでしょうか。おお、もしぼくに幸福になりうる力があれば、今の悲しみや禍なぞはなんでもありません! ぼくは一本の木のそばを通り過ぎただけで、それを見ることによって、自分を幸福にするすべを知っています。人と話をしただけで、自分はその人を愛しているという念によって、幸福を感じずにいられましょうか! おお、ぼくはただうまく言い表わすことはできませんが……じっさい、すっかりとほうにくれてしまった人でさえ、きれいだなと思うような美しいものが、一歩ごとにいくらでもあります。赤ん坊をごらんなさい、朝焼けの色をごらんなさい、のび行くひともとの草をごらんなさい、あなたがたを見つめ、あなたがたを愛する目をごらんなさい……」
 彼はもうとっくに立ちあがって弁じていた。老政治家も、今はおびえたような目つきで、彼を見つめていた。リザヴェータ夫人はまっさきに気がついて、『ああ、大変!』と叫びながら手をたたいた。アグラーヤは、つとかけよって、彼を両手に抱きとめた。そして、胸に恐怖をいだき、苦痛に顔をゆがめながら、不幸な青年を『震蕩させた悪霊』の野獣めいた叫びを聞いたのである。公爵は絨毯の上に横たわっていた。だれかがすばやくその頭の下へ枕をさし入れた。
 これはだれしも思いがけないことであった。十五分ののち、N公爵、エヴゲーニイ、老政治家などが、ふたたび夜会に活気をつけようと試みたけれど、三十分とたたないうちに、もう人々は辞し去った。いろいろの同情の言葉や、不平らしい訴えや、また二、三の意見などが吐かれた。中でもアングロマンは『このかたはスーラーヴ主義者か、あるいはそれに類したものですね。しかし、けっして危険なものじゃありません』といった。老政治家はなんにも口を出さなかった。もっとも、じつをいうと、翌日か翌々日ごろ、みんな少少ばかり腹を立てたのである。アングロマンは侮辱を感じたくらいであるが、それもほんのすこしばかりだった。長官の将軍はしばらくイヴァン将軍に対して、少々冷淡な態度を見せた。この一家の『保護者』たる老政治家も、やはり教訓的な調子で『一家のあるじ』になにやらくどくどいったが、そのさいアグラーヤの運命について『非常な、非常な』興味をいだいていると、おせじみたいなことを述べた。彼はほんとうのところ、少々好人物であった。夜会の席で、彼が公爵に対していだいた好奇心の原因は、たくさんあったろうけれど、いつかのナスターシヤ対公爵の一件が、その中でもおもなものであった。この事件については、ちょいちょい耳に挟んだこともあるので、彼は非常に興味をそそられて、いろいろと根掘り葉掘りきいてみたかったほどである。
 ベロコンスカヤは夜会から帰りしなに、リザヴェータ夫人をつかまえてこういった。
「どうもね、いいところもあるが、悪いところもあるねえ。もしわたしの意見が知りたいとすれば、まあ、悪いほうが勝ちですよ。あんたも自分で見て、どんな人かわかってるでしょう。病人ですよ!」
 リザヴェータ夫人もついに婿なんてことは『とてもだめだ』ときっぱり決めてしまった。そして、その夜のうちに、『わたしが生きてるうちは、公爵をうちのアグラーヤの婿にするわけにゆかない』と腹の中でかたく誓った。この決心をもって翌朝、床を出た。しかし、その朝十二時すぎに食事のとき、彼女は奇妙な自家撞着におちいったのである。
 姉たちの発したある一つの用心ぶかい質問に対して、アグラーヤが急に冷淡な、ほとんど高慢な調子で断ち切るように、「あたしはあの人に、一度も約束なんかしたことないわ。生まれてから一度も、あの人を未来の夫だと思ったことはなくってよ。あの人は、ほかのすべての人と同じような路傍の人よ」と答えたとき、母夫人は急にかっとなった。
「わたしはおまえの口から、そんなことを聞こうとは思わなかった」と夫人は悲しそうにいった。「婿として、とてもお話にならない人だってことは、わたしも承知しています。そしていいあんばいに、ああいうふうになってしまったけれど、おまえの口からそんな言葉を聞こうとは、思いがけなかった。おまえからは、もっと別なことを待ち受けていました。わたしはね、昨夜の連中をみな追ん出してしまっても、あの人ひとりだけは残しておきたい。あの人はそういうふうな人なんですよ!………」
 ここで彼女は、自分で自分のいったことに驚いて、急に言葉をきった。しかし、悲しいかな、夫人はこのとき自分が娘に対して、どんなに不公平なことをいったか、いっこう気がつかなかった。もうアグラーヤの頭の中では、いっさいのことが決せられていた。彼女も同様に、いっさいを解決してくれる最後の時が来るのを待っていたのである。そのために、ちょっとした暗示でも、ちょっとした不注意な言葉でも、彼女の心を深くえぐり傷つけるのであった。

      8

 公爵にとってもこの朝は、重苦しい予感に支配されたままであけ放たれた。この予感は、彼の心身の病的な状態でも説明できたけれど、それでも彼はあまりにも漠然とした憂愁にとらわれていた。これが彼にとって、なにより苦しかったのである。もちろん、公爵の眼前には、重苦しく毒々しい幾多の事実が、厳然として控えていたが、なおその憂愁は、彼の追想し商量しうる限度を越して、ずっとさきのほうへ飛んでいた。彼は自分ひとりの力で、安心を得るわけにいかないのを悟った。きょう自分の身の上に、なにかしら万事を決するような、異常な事件がおこるだろうという期待が、彼の心に漸次、根をおろしはじめた。昨夜の発作は、彼としては軽いほうであった。少々頭の重いのと、手足の痛いのと、ヒポコンデリーを除いたら、ほかにこれという異状は感じられなかった。心は重く悩んでいたけれども、頭はかなり明晰に働いていた。
 彼はかなり遅く床を出たが、すぐ昨夜のことをはっきりと思い出した。ごく明瞭にというわけには行かぬが、発作後三十分たって家へつれられて帰ったことも思い出した。もうエパンチン家から、容体を聞きに使いが来たことを知った。十一時半また第二の使いが来た。これが彼には嬉しかった。この家の娘ヴェーラが第一番に、見舞いかたがた用を勤めに来た。彼女は公爵を見ると、いきなり泣きだした。けれど、公爵に慰められて、すぐ笑いだした。この熱烈な同情に動かされて、彼は娘の手を取って接吻した。ヴェーラはさっと顔をあかくして、
「まあ、あなたは、あなたは何をなさいますの!」と急に自分の手を引きながら、おびえたように叫んだ。
 間もなく、彼女はなんだか妙に当惑したようなふうで出て行った。が、彼女はそのまえに、父がまだ夜の明けきらぬうちに『故人』(レーベジェフはイヴォルギン将軍のことをこういった)、『故人』が昨夜のうちになくならなかったかどうかを知るために、大急ぎで出て行ったことや、将軍はもうたしかに間もなくなくなるだろう、といううわさのあることなどを話して行った。十一時すぎ、当のレーベジェフも帰宅して、公爵のもとへ伺候した。しかし、それは『銭金に換えられないおからだの様子が知りたいためと、そしてちょっと「戸だな」の中の様子を見るために、ほんの一分間のつもりで』やって来たのである。彼はただ『ああ』だの『おお』だのと、ぎょうさんな溜息を吐くよりほかなんにも芸がないので、公爵はすぐに部屋から出してしまった。もっとも、相手はそれでも、昨夜の発作のことを、うるさくききたそうなふうであった、そのくせもう詳しくことの様子を承知しているのは、そぶりで察せられた。 それにつづいてコーリヤが、これも同様、ほんの一分間といってかけつけた。少年はまったくせかせかして、激しく暗い不安に襲われていた。彼はみなが隠している事件の説明を、ぜひとも聞かしてほしいと、いきなりしつこく公爵に頼みはじめた。彼は『きのうほとんどすべての事情を知ったのですから』といった。その様子はいかにも心の底まで、激しく震撼されたようなふうであった。
 公爵はできるだけの同情を表しながら、事実を正確に列挙して、いっさいの事情を語った。哀れな少年は、まるで雷に打たれたようであった。彼はひと言も発することができず、無言で泣きだした。これは少年の心に永久に影をとどめて、その生涯の回転期ともなるべき印象の一つである、と公爵は感じた。彼は急いでこの事件に対する自分の意見を述べ、老将軍の死は主としてあの過失ののち、心に投じられた恐怖のために呼びおこされたのかもしれない、こういう心理経過はだれでも容易に経験さるべきでない、といい足した。公爵の言葉を聞き終わったとき、コーリャの目は輝きだした。
「ガンカも、ヴァーリャも、プチーツィンも、みんなやくざものだ! ぼくはあんな人たちと喧嘩しようとは思わない。しかし今後、ぼくらの行くべき道はもう別れ別れだ! ああ、公爵、ぼくはきのうの日から、たくさん新しいことを感得しました。これがぼくの修行になったのです! ぼくはおかあさんも自分の双肩に背負ってるつもりなんです。もっともおかあさんは、いまツァーリャの世話になっていますけれど、そんなのとは意味が違うんです……」
 コーリャは、家の人が待っていることを思い出して飛びあがり、忙しそうに公爵の容体をたずねた。返事を聞き終わると、急にせかせかした調子でいい足した。
「まだほかになにか変わったことはありませんか? ぼくちょっと聞きましたが、きのう……(いや、ぼくはそんな権利を持っていません。)けれど、もしいつかなにかのことで、忠実なしもべが必要でしたら、あなたの前にいる男がそうです。どうもおたがいにふたりとも、あまり幸福でないようですね、そうでしょう? しかし……ぼくはうるさくききません、うるさくききません……」
 彼はついに立ち去った。公爵はいっそう考えこんでしまった。すべてのものが不幸を予言している。すべてのものがすでに結論をくだしてしまった。すべてのものが、なんだかお前の知らないことを知ってるぞ、というような目つきで自分をのぞきこむ、――レーベジェフはなにか探り出そうとするし、コーリャはむきつけに匂わすし、ヴェーラは泣きだす。ついに彼はいまいましげに手を振って、『またいやらしい病的な猜疑癖だ!』と思った。一時すぎ、『ほんの一分間』見舞いに入って来たエパンチン家の一行を見つけたとき、彼の顔は一時に晴れわたった。この人たちは、それこそほんとうに、『一分間』のつもりで寄ったのである。リザヴェータ夫人は食卓を立つやいなや、これからすぐみんなでいっしょに散歩に出るのだ、といいだした。この触れ出しはまるで命令のような具合に、何の説明もなくぶっきらぼうに発せられた。一同、すなわち母夫人と令嬢たち、それにS公爵は、うちそろって出かけた。夫人は、毎日の散歩とまるで反対の方角をさして歩きだした。一同はことの真相を悟ったので、母夫人の気をいらだたせるのを恐れ、黙々として従った。ところが、夫人はほかのものの非難や抗議を避けるかのように、うしろをふり向こうともせず、どんどん先に立って歩いた。とうとうアデライーダが『散歩のときになにもかけだすことはなくってよ、とてもあとからついて行かれやしない』と注意した。
「ちょっと」リザヴェータ夫人はとつぜんうしろを向いて、「ちょうどあの人の家の前へ来合わせたが、アグラーヤがどんなことを考えてるにもせよ、またあとでどんなことがおこるにもせよ、あの人はわたしたちにとって赤の他人ではありません。おまけにいま不仕合せな身になって、病気までしてるんですから、せめてわたしだけでも、ちょっと見舞いに寄って来ます。いっしょに来たい人はいらっしゃい、いやな人は通り過ぎたらいい、道に垣はしてありませんからね」
 むろん一同そろって中へはいった。公爵は礼儀の要求するとおり、もう一度きのうの花瓶と……不体裁について、急いでわびをいった。
「いいえ、あんなことはなんでもありません」と夫人は答えた。「花瓶は惜しくないけれど、あんたがかわいそうです。じゃ、なんですね、あんたも、今となって、不体裁だったと気がついたと見えますね。『ものごとは明くる朝まで待て』というのはこのことだ……だけど、そんなことはなんでもありません。あんたを責めたって仕方がないのは、もうだれでも承知してますからね。じゃ、さよなら、けれどね、元気が出て来たらすこし散歩して、それからまたおやすみ、これがわたしの忠告です。もし気が向いたら、もともとどおり遊びにいらっしゃい。とにかく、これだけはかたく信じてちょうだい、――よしやどんなことがおころうとも、またどんなことになろうとも、あんたは永久にうちの親友です。すくなくとも、わたしの親友ですよ。すくなくとも、自分の言葉に対しては責任が持てますから……」
 一同は、この挑発的な言葉に対して、母と感情を同じくしている旨をのべた。やがて一行は帰って行った。なにか元気をつけるような、優しいことをいおうとする、この人の好い性急な行為の中に、多くの残忍性が潜んでいたけれど、それにはリザヴェータ夫人も心づかなかったのである。『もともとどおり遊びに来い』とか、『すくなくともわたしの親友ですよ』とかいう言葉の中には、またしてもなにか予言めいたものが響いていた。公爵はアグラーヤのことが気になりはじめた。はいるときと出るときに、彼女がなんともいえない微笑をもらしたのは実際だが、しかし一同が友情を誓ったときでさえ、彼女はひとことも口をきかなかった。もっとも、二度ばかりじっと穴のあくように、公爵を見つめはしたけれど。彼女の顔は、ひと晩じゅうろくろく寝なかったように、いつもよりだいぶ青白かった。公爵は今晩にもかならず『もともとどおり』遊びに行こうと決心して、熱にでも浮かされたように、時計をながめるのであった。一行が去ってちょうど三分たったとき、ヴェーラがはいって来た。
「公爵、たった今アグラーヤさまから、ないしょでひとことあなたにおことづけがありました」
 公爵は思わずびくりとした。
「手紙ですか?」
「いいえ、口上だけ、それもやっと間に合ったのでございます。きょうの晩の七時か、それともできるなら九時ごろまで、ひと足も外へ出ないでくださいって……わたしもはっきり聞きわけられませんでしたけれど」
「え……なんのためにそんなこと? いったいどうしたわけでしょう?」
「そんなこと、わたしちっともぞんじません。ただ間違いなく伝えてくれ、というおいいつけでしたの」
「じゃ、そういわれたんですね、『間違いなく』って?」
「いいえ、そうはっきりおっしゃったわけではございません。ちょっとうしろをふり向いて、やっとこれだけおっしゃっただけですの。ちさフどわたしが自分でおそばへ走って行ったから、間に合ったのでございます。けれど、もうお顔つきを見ただけで『間違いなく』とおっしゃったかどうかわかりますわ。まるで心臓がしびれるような目をして、わたしをごらんになりましたもの……」
 なおいろいろたずねてみたが、公爵はもうそのうえ何ごとも聞き出せなかった。そしてただいよいよ不安を増したばかりである。ひとりきりになると、彼は長いすに横たわって、ふたたびもの思いにふけりはじめた。とどのつまり、『もしかしたら、今夜はあすこで九時ごろまで、だれか来客があるのかもしれない。であのひとは、ぼくがまた客の前で、なにか大いにばかなことをしやしないかと、心配してるのだ』と考えついた。彼はふたたびじれったそうに、晩の来るのを待ちかねて、時計ばかり眺めていた。
 しかし、この謎は晩よりもずっと早く、解決がついてしまった。その解決は同じく新しい来訪の形をとって現われた。が、それも要するに、別な悩ましい謎にすぎなかった。エパンチン一家の人が去ってちょうど三十分たったとき、イッポリートがやって来た。彼はすっかり疲れて、弱り果て、はいって来るといきなりひとことも口をきかないで、まるで正気を失ったもののように、文字どおりひじいすに倒れ、そのまま堪えきれぬようにせき入った。彼は咳いてせいて、血まで吐いてしまった。その目はぎらぎらと輝き、頬には赤いしみが染め出された。公爵はうろたえた様子でなにか口を出したが、こちらは返事もしなかった。そして、長いあいだ返事しないで、ただ片手を振りながら、しばらくこのままうっちゃっといてくれ、というこころを示した。ようやく正気づくと、
「ぼくは帰る!」ついに彼はしゃがれた声で、やっとの思いでこういった。
「なんなら、おくってあげますよ」といって、公爵は席を立とうとしたが、外へ出てはならぬというさっきの禁制を思い出して、ちょっと言葉をつまらした。
 イッポリートは笑いだして、
「ぼくここから帰るといったんじゃありません」絶えずせきやたんに妨げられながら、彼は言葉をついだ。「それどころか、ぼくは必要があってここへ来たんです、用談のためです……でなかったら、いきなりこうしてあなたを驚かすはずじゃなかったのです。ぼくが行くといったのは、あの世[#「あの世」に傍点]のことですよ。こんどこそはほんとうでしょう。ああ、おさらばか! しかし、なにも同情を強制するために言うんじゃありませんよ、いいですか……じつはぼくその時[#「その時」に傍点]が来るまでは、どうしても起きないつもりで、きょう十時から床についたのです。ところが、ひょいと考え直して、ここへ来るためにまた起きだしたんですよ……つまり、必要があるからです」
「きみを見てると、気の毒になってきますよ。自分でそんな苦しい目をするより、ちょっとぼくを呼んでくれたらよかったのにね」
「いや、もうたくさんです。ご憐憫にあずかりましたね。しかし、社交上の礼儀のためならたくさんですよ……ああ、忘れてたっけ、あなたのご健康はいかがです?」
「ぼくは達者です。昨夜はちょっと……しかし、たいしたことじゃありません」
「聞きました、聞きました。支那焼の花瓶こそいい面の皮でしたね。ぼくの居合わせなかったのが残念ですよ! ぼく用事で来たのです。第一に、ぼくはガヴリーラ君が緑色のペンチのそばで、アグラーヤさんとあいびきしてるところを、拝見の光栄を得ました。人間はどれほどまでばかげた顔ができるものかと、驚いてしまいましたよ。ぼくこのことをガーニャの帰ったあとで、アグラーヤさんにいいました……ところで、あなたはいっこうびっくりなさらない様子ですね、公爵」と彼は公爵の落ちつきすました顔を、疑わしげにながめながら言った。「何ごとにも驚かないのは、大智のしるしだそうですが、ぼくにいわせれば、それは同じ程度において、愚かさのしるしともなりますよ……もっとも、これはあなたに当てこすってるわけじゃありません、ごめんなさい……ぼくきょうはものの言いかたで、しくじってばかりいる」
「ぼくはもうきのうから知ってましたよ。ガヴリーラ君が…‥」公爵はうろたえたように言葉をとぎらした、――イッポリートが、なぜこの人はびっくりしないのだろうと、じりじりしているにもかかわらず。
「知ってたんですって?! これこそまったく珍聞だ! いや、しかし、いわないでおきなさい……ところで、きょうのあいびきの現場をごらんでしたか?」
「ぼくがその場に居合わさなかったのは、きみ自身知ってるでしょう……もしきみがそこにいたとすればね」
「でも、どこか藪のかげにでも、しゃがんでらしたかもしれませんさ。が、とにかく、ぼくはあなたのために嬉しいです。だって、ぼくはいよいよガーニャにくじが当ったな、と思いましたからね!」
「イッポリート君、お願いだから、ぼくの前でそんなことをいわないでください、おまけにそんな言いかたで」
「まして、もうすっかりごぞんじとあるからには」
「それはきみの考えちがいです。ぼくはほとんどなんにも知りません。アグラーヤさんも、ぼくがなんにも知らないってことを、たしかにご承知のはずです。ぼくはそのあいびきのことさえ、てんで知らなかったんですもの……きみはあいびきというんですね? いや、結構ですよ、それでもうこの話はやめましょう……」
「まあ、どうしたんです、知ってるといってみたり、知らないといってみたり? あなたは『結構です、それでもうこの話はやめましょう』といわれましたが、しかしそんなに人を信じるものじゃありません。ことに、なんにも知らないとおっしゃるならなおさらです。あなたが人を信じやすいのは、なんにもごぞんじないからですよ。ところで、あのふたりのあいだ――兄と妹とのあいだに、どんな思惑があるかご承知ですか? それぐらいのことはおそらく感づいておいででしょう?……よろしい、よろしい、やめておきましょう……」公爵のじれったそうな手ぶりに気がついて、彼はこういい添えた。「しかし、ぼくは自分の用向きで来たのですから、このことについて……相談したいのです。ほんとうにいまいましいこったが、ぼくはこの相談をしないでは、どうしても死ねないのです。まったくぼくはよく相談しますね。聞いてくれますか?」
「いってごらんなさい、ぼくは聞いてますよ」
「しかし、ぼくはまた考えを変えて、やはりガーニャのことから話をはじめましょう。じつはぼくも、きょう緑色のベンチへ来るように指定されてた、――といっても、あなたはおそらくほんとうになさらないでしょう。ところが、ぼくうそはつきません。むしろぼくが自分から進んで、会見を主張したのです、ある秘密を暴露するからという約束で、ねだりつけたんですもの。ぼくの来かたがあまり早すぎたかどうか知りませんが(じっさい早かったようです)、ぼくがアグラーヤさんのそばに席を占めるとすぐ、ガーニャとヴァーリャが手をつなぎ合って、ちょうど散歩のような体裁で現われました。ふたりともぼくの姿を見て、びっくりしたようです。まったく思いがけなかったので、まごまごしたくらいです。アグラーヤさんはぱっと顔をあかくして(ほんとうになさろうと、なさるまいとご勝手ですが)、すこしうろたえたようにさえ見えました。それはぼくがいたからか、それともガーニャの姿を見つけたからか、そこは知りません。じっさいガーニャの風采はふるったもんでしたからね。とにかく、顔じゅうまっかになって、一秒間に片をつけてしまいました。しかも、それがおそろしくこっけいなやり口なんですよ。ちょっと立ちあがって、ガーニャの会釈とヴァーリャの取入るような微笑に返しをすると、急に断ち切るような調子で、『あたしはただあなたがたの誠意ある友情に対して、自分からお礼を申したいと思いましたのでね。もしあなたがたの友情を必要とすることがありましたら、そのときはあたしを信じてください、かならず……』といって会釈しました。で、ふたりは帰っちまいました。ばかをみたと思ったか、勝ち誇ったような気になったか、そこのところはわかりません。ガーニャはむろんばかをみたと思ったのですよ。まるで狐につままれたようなふうで、えびみたいにまっかになっていました(ときどきあの男は驚くべき表情をすることがありますからね!)。しかし、ヴァーリャはすこしも早く逃げだすにしくはない、いくらアグラーヤでも、これはあんまりだと悟ったらしく、兄貴をしょっぴいて行っちまいました。あの女は兄貴より利口ですよ。で、いま大いに得意なんだとぼくは信じますね。ところで、ぼくがそこへ行ったのは、ナスターシヤさんとの会見について、アグラーヤさんと相談するためだったのです」
「ナスターシヤさんと!」公爵は叫んだ。
「ああ! やっとあなたは冷静な態度を棄てて、そろそろびっくりしだしましたね。そうして、人間らしくなりたいという気が出たのは、なにより結構なことです。ごほうびに、ひとつあなたを喜ばしてあげましょう。ところで、人格の高い若い令嬢のご機嫌をとるのも、なかなか骨の沂れるもんですね。ぼくはきょうあのかたから頬打ちを頂戴しました!」
「精……精神的のですか?」なぜか公爵はわれともなしに、こんな問を発した。
「ええ、肉体的のものじゃありません。どんな人だって、ぼくみたいな人間に、手を振り上げるようなことはしないでしょう。今は女でもぼくをなぐりゃしません。ガーニャさえなぐりません。もっともきのうなぞは、あの男がぼくに飛びかかりゃしないかと、ちょっとのま考えたんですがね……今あなたが何を思ってらっしゃるか、ぼくちゃんと知ってますよ、請け合ってもいいくらいです。今あなたは『よしこの男をなぐる必要はないとしても、そのかわり寝てるところを、まくらかぬれ雑巾で窒息させることはできる、――いや、できるどころじゃない、ぜひそうする必要がある』と考えてるんでしょう……あなたの顔にちゃんと書いてありますよ、今、この瞬間そう思ってらっしゃることがね」
「そんなことけっして考えたことありません!」と公爵は嫌悪の色を浮かべていった。
「どうですかね、しかしぼくゆうべ夢に見ました。ぼくをぬれ雑巾で圧し殺したやつがあるんですよ……あるひとりの男がね……え、だれだかいいましょうか、だれだと思います――ラゴージンなんですよ! あなたどうお思いです、いったい人間をぬれ雑巾で殺せるでしょうか?」
「知りません」
「できるそうですよ。しかし、まあいい、よしましょう。では、いったいどういうわけでぼくが告げ口屋なんです? なんだってあのひとはきょうぼくのことを、告げ口屋だなんて罵倒したんです? それもおまけに、ぼくのいうことを最後の一句まで聞いてしまって、ちょいちょい聞き返したりしたあげくなんですもの……女って皆そんなものなんですね!全体あのひとのために、ぼくはラゴージンと、――あのおもしろい男と、関係をつけたんじゃありませんか。あのひとの利害のために、ナスターシヤさんとの会見を斡旋したんじゃありませんか。『あなたはナスターシヤさんのお余りを喜んで頂戴してる』とほのめかして、あのひとの自尊心を傷つけたせいでしょうかね? しかし、ぼくはあのひとの利害に立ち入って、いろいろと勧めたうえ、ぼくはけっしてこの事実を否定しません、ああしたふうの手紙を二通かきました。きょうので三通目、そして会見です……ぼくはさっき口をきるといきなり、これはあなたとして、体面にかかわりますといったのです……それに『お余り』という言葉も、ぼくがいったんじゃありません、人の言葉です。すくなくともガーニャの家では、みんなそういってましたよ。それに、あのひと自身もそれを肯定したんですものね。さあ、こう考えてみると、ぼくあのひとに告げ口屋だなんて、いわれるわけがないじゃありませんか? わかりますよ、わかりますよ。あなたはいまぼくを見ながら、おかしくてたまらないでしょう。そして、請け合っておきますが、あのばかばかしい詩を、ぼくに当てはめてるんですよ。

愛はわが悲しき落日に
いまわの笑みもて輝かん(プーシキン

「ははは!」ふいに彼はヒステリックにからからと笑って、また激しくせき入るのであった。
「ときにね」と彼はせきの合間から、しゃがれ声を出した。
「ガーニャはなんてやつでしょう。人のことを『お余り』だなんていいながら、今はご自分で、それが頂戴したくてたまらないんですからね!」
 公爵は長いあいだ無言でいた。彼は恐怖に襲われていたのである。
「きみはナスターシャさんとの会見といいましたね?」やっと彼はこうつぶやいた。
「え、じゃ、あなたはほんとうに知らなかったんですか! きょうアグラーヤさんとナスターシヤさんの会見があるんですよ。それだからこそナスターシヤさんは、ぼくの骨折りに免じて、アグラーヤさんの招きに応じ、ラゴージンの手を経て、わざわざペテルブルグから呼び出されたのです。そして、今ラゴージンといっしょに、ここからごく近いところに、以前の家にいます。例の曖昧な婦人……ダーリヤという友達のところです。そこへ、その曖昧な家へ、アグラーヤさんが出向いて行かれるのです。ナスターシヤさんと隔てのない話をして、いろんな問題を解決したいんだそうでしてね。つまり、算術の勉強をしようってんでさあ。あなた知らなかったんですか? まったくですか?」
「そんなはずはありません!」
「はずがなければそれでよろしい。あなたに知れるわけがないですからね。この町では、たとえ蠅が一匹飛んでも、すぐみんなに知れちまうんですよ。そういう土地なんですからね! しかし、このことを前もってお知らせしたのはぼくだから、あなたはぼくに感謝していいんですよ。じゃ、さよなら、――こんどお目にかかるのはたぶんあの世でしょう。ああ、そうそう、も一ついうことがあった。いくらぼくがあなたに卑劣な真似をしたからって、――何のためにすべてを失わなくちゃならないんでしょう、お慈悲に考えてみてくださいな! いったいそれがあなたのためになるとでもいうんでしょうかねえ? ぼくはあのひとに『告白』を捧げたのです。(このことはご承知なかったでしょう?)おまけに、それを受け取ってくだすった具合ったらね! ヘヘ! しかし、あのひとに対しては、ぼくけっして卑劣な真似をしなかったのです、あのひとに対しては、けっして悪いことなんかしなかったです。それだのに、あのひとはぼくに恥をかかして、ぼくを困まらせたんです……もっともぼくはあなたに対しても、けっしてやましいことはないですよ。よし例の『お余り』とかなんとか、そんなふうのことをいったにしろ、そのかわり会見の日も、時も、場所も、すっかりお知らせしているでしょう、この芝居をすっかりぶちまけているでしょう……もっとも、これはむろんいまいましさのためで、寛大のためじゃありませんよ。さようなら、ぼくはほんとにおしゃべりだ、まるでどもりか肺病やみのようですね。いいですか。早くなんとか方法をお講じなさい、もしあなたが人間といわれる価値があるなら……会見はきょうの夕方です、それは間違いありません」
 イッポリートは戸口へ向けて歩きだしたが、公爵が大声で呼びかけたので、戸口で立ちどまった。
「じゃ、なんですね、きみの話でみると、きょうアグラーヤさんが自分で、ナスターシヤさんのところへ行くんですね?」と公爵はきいた。
 赤いしみが彼の頬にも額にも現われた。
「正確には知りませんが、たぶんそうでしょう」なかばふり返りつつイッポリートは答えた。「それにだいいち、ほかに仕方がないじゃありませんか。ナスターシヤさんが将軍家へ行くわけにはいかないでしさフ? またガーニヤのところでもないでしょう。あの男の家には、ほとんど死人同様の人がいるんですからね。だって、将軍の容体はどうです?」
「そのことだけで判断しても、とうていありうべからざる話です!」と公爵は受けた。「しかし、あのひとが自分から出たいと思ったにもせよ、どんなにして行くのでしょう? きみはあの家の習慣を……・』ぞんじないのです。あの人がひとりで、ナスターシヤさんのところへ出かけるわけに行きません。それはナンセンスです!」
「ですが、考えてごらんなさい、公爵、だれだって窓を飛び越す人はありません。しかし、いったん火事となってごらんなさい、そのときはおそらく第一流の紳士、第一流の貴婦人でも、窓を飛び越しますからね。もし必要ができたら、もう仕方がありません。わが令嬢も、ナスターシヤさんのところへ行きますよ。いったいあの人たちはどこへも家から出してもらえないんですか、あなたの令嬢は?………」
「いや、ぼくはそんなことをいってるのじゃありません……」
「そんなことでないとすれば、あのひとはただ玄関の階段をおりて、まっすぐに行きさえすりゃいいんですよ。そのさきは、もう家へ帰らなくたっていいんですからね。ときとすると、自分の船を焼いてしまって、家へ帰らないのをいとわん場合があります。人生は朝飯や、昼飯や、S公爵のような連中だけでなりたってるんじゃありませんからね。どうもぼくの見るところでは、あなたはアグラーヤさんをただのお嬢さんか、女学生かなんぞのように思ってらっしゃるようですね。ぼくはもうこのことをあのひとに話しましたが、あのひとも同意されたようです。では、七時か八時ごろ待ってらっしゃい……ぼくがあなただったら、あの家へ見張りをやって、ちょうどあのひとが玄関の階段をおりるところをおさえさせますよ。まあ、コーリャでもおやんなさい。あの子だったら、喜んでスパイをします。もっとも、ご安心なさい、それはあなたのためにするんですから……だって、これはみんなあなたに……なにがあるんですからね……ははは!」
 イッポリートは出て行った。公爵にとって、誰かをスパイにやるなどということは、よし彼にそんなことができるとしても、何の必要もないことである。いちんち家にいろというアグラーヤの命令も、今になってほとんど氷解された。おそらく彼女は公爵を誘いに寄るつもりだったろう。またあるいはじっさい、公爵に出しなをおさえられるのをきらって、それで家にじっとすわっていろと命令したのかもしれぬ……これもありうべきことである。彼は目まいがしはじめた。部屋がぐるぐるまわるように思われた。彼は長いすに横たわって、目を閉じた。
 どちらにしても、この事件はすべてを決定する重大なものである。いや、公爵はけっしてアグラーヤをただのお嬢さんだの、女学生だのと思ったことはない。彼はずっと以前から、なにかこんなことをしでかしはせぬかと恐れていたのが、今となって痛切に感じられる。しかし、何のために彼女はナスターシヤに会いたいのだろう? 悪寒が公爵の全身を伝って走った。彼はまた熱病やみの状態に落ちてしまった。
 いや、彼はけっしてアグラーヤを、子供あつかいにしてはいなかった! 最近、彼はときどき彼女の目つきや言葉に、ぞっとすることがあった。どうかすると、彼女があまりしっかりしてきて、あまり自分をおさえすぎるように思われ、なんだか気味の悪いことさえあった、――こんなことも彼は思い出した。まったくのところ、彼はこの三、四日間、こういうふうなことを考えまいとした、こういった重苦しい想念を追い払おうと努めた。しかし、何がいったいあの魂の中に潜んでいるのだろう。この魂を信じてはいながらも、ずっと前からこの疑問が彼を苦しめていた。ところが、きょうこそこれらすべての問題が解決され、暴露されるのだ。考えると恐ろしい! それにまたしても、『あの女なのだ!』あの女が最後の瞬間に現われて、彼の運命を朽ちた糸くずみたいに引きちぎってしまうだろう、――こんな観念がどうしていつも心に浮かぶのか? 彼はなかば人事不省の状態にあったけれど、この観念がいつも心に浮かんでいたのは、誓ってもいいくらいに思われた。もし彼が最近この女[#「この女」に傍点]のことを忘れようと努めたとすれば、それはただこの女を恐れていたからにほかならぬ。結局、自分はこの女を愛しているのか憎んでいるのか? 彼はこんな質問を今まで一度も、自分に発したことがない。この点、彼の心は純なものであった。彼は自分がだれを愛してるかを、よく知っていたからである……彼が恐れているのは、ふたりの女の会見そのものではない。その会見の奇怪な点でもなければ、わけのわからぬその原因でもない。またその結果ではむろんない、それはどうなろうと恐れはせぬ、――彼はナスターシヤその人を恐れているのであった。この悩ましい数時間のあいだほとんど絶え間なく、彼女の目がちらちらして、彼女の言葉、なにかしら奇妙な言葉が耳に聞こえたのを、あとで二、三日もたってから、公爵は思い出した。もっとも、熱に浮かされたような、悩ましいいく時間かが過ぎてのち、この幻覚はほとんど記憶に残ってはいなかった。たとえば、ヴェーラが食事を運んで来たことも、自分で食事をとったことも、食事ののち寝たか寝なかったか、そんなこともすっかりうろ覚えであった。この晩、彼がはっきりと明瞭にすべてを区別することができるようになったのは、とつぜんアグラーヤが彼の住まいの露台へあがって来たその瞬間からだ、これだけはわかっていた。彼は長いすからとびあがり、出迎えのため、部屋のまん中へ歩み出た。それは七時十五分であった。アグラーヤはたったひとりきりだった。取り急いだらしく、身なりもざっとしたもので、頭巾つきの薄手の外套を着ていた。顔は昨夜と同じように青白かったが、目は鋭いかわいた光を放って輝いていた。彼女がこんな目つきをしているのを、公爵は今まで見たことがなかった。彼女は注意ぶかく相手を見まわしながら、
「あなた、すっかり身支度ができてますわね」と、小声に落ちつきはらった調子でいった。「服も着換えてらっしゃるし、帽子まで手に持って。じゃ、なんですね。だれかさきまわりをして知らせたのね。あたしだれだか知っててよ、イッポリートでしょう」
「ええ、あの人がぼくにいうのに……」なかば死人のような公爵はこういいかけた。
「じゃ、まいりましょう。ご承知でしょうが、あなたはぜひついていらっしゃらなくちゃなりません。あなたは外出なさるくらいのご気力はおありのようですね?」
「ええ、気力はあります、しかし……いったいそんなことがあってもいいものですか?」
 彼は一瞬、言葉を切ったが、もうそれ以上なんにも口をきくことができなかった。これがなかば狂気した少女を引きとめようとする、唯一の試みであった。やがて彼は囚人《めしゅうど》のごとく、自分で彼女につづいて歩きだした。いま彼の思想は溷濁《こんだく》しきっているけれど、アグラーヤはひとりでもあすこへ[#「あすこへ」に傍点]行くにきまっている、して見ると、どうあってもいっしょについて行くのが当然であることは、彼も会得していた。アグラーヤの決心がいかに強いかを見抜いたのである。彼の力でこのもの狂おしい衝動をとめることは不可能であった。彼らは黙りがちで、途中ほとんどものをいわずに歩いた。ただ公爵は、彼女がよく道筋を知っているのに気づいた。一つ手前の迸がすこし淋しいので、彼が横町を一つだけ遠まわりしようと思って、それをアグラーヤにすすめたとき、彼女はいっしょうけんめい、注意力を集中させるようにして聞き終わると、引きちぎるような調子で、「おんなじこったわ!」と答えた。
 ふたりがダーリヤの家(大きな古い木造の家)へ近寄ったとき、正面の階段から、ひとりのけばけばしい粧《つく》りの婦人が、若い娘をつれておりて来た。ふたりは、階段のそばで待っている幌馬車に乗って、大きな声で笑ったり話したりしな。がら、近づいて来るふたりには気のつかないふうで、一度も自をくれなかった。馬車が出てしまうと、ふたたび戸があいで、待ちかまえていたラゴージンが、公爵とアグラーヤを通して、すぐ戸をしめた。
「いま家じゅうにおれたち四人のほか、だれもいねえんだ」と大きな声でこういうと、彼は妙な目つきで公爵を見やった。
 すぐ次の間でナスターシヤが待っていた。やはりごくじみな粧《つく》りで、黒い着物を着ている。彼女は出迎えのために立ちあがったが、にこりともしなかったのみか、公爵に手をさし伸ばそうともしなかった。
 不安げな吸いつくような彼女の瞳は、いらだたしそうにアグラーヤにそそがれた。ふたりはすこし離れ合って座をしめた、――アグラーヤは片隅の長いすに、ナスターシヤは窓のそばに。公爵とラゴージンはすわらなかった。それにナスグーシヤは、ふたりにすわれともいわなかったのである。公爵はためらいと苦痛の色を浮かべながら、ふたたびラゴージンを見やった。が、こちらはやはり以前と同じ薄笑いを浮かべていた。沈黙はなおいく秒かつづいた。
 ついに一種兇悪な感じが、ナスターシヤの顔をさっと走った。その目は執拗な確固たる決心の色、ほとんど憎悪の念さえ浮かべて、瞬時も相手の顔から離れようとしなかった。アグラーヤは少々まごついたらしかったが、おじけづいた様子は見えなかった。はいりしなにちょっと相手の顔に視線を投げたが、今はなにかもの思いにでもふけるように、しじゅう伏し目になって控えていた。二度ばかりなにかの拍子に、彼女は部屋の中を見まわしたが、まるでこんなところにいてはからだがよごれるといったような、嫌悪の色がその顔に描かれた。彼女は機械的に自分の着物を直していたが、一度などは不安げに席を移して、長いすの片隅へにじり寄ったほどである。しかも、こうした動作を、自分でもほとんど意識していないらしかった。しかし、この無意識ということが、なお相手を侮辱するのであった。ついに彼女はナスターシヤの顔を、まともにしっかりと皃つめた。と同時に、相手の毒々しい目に輝いているものを、すっかり明瞭に読み取った。女が女を見抜いたのである。アグラーヤは愕然としておののいた。
「あなたはむろんごぞんじでしょうね、何のためにあたしがあなたをお招きしたか」とうとう彼女はこうきりだした。しかしおそろしく声が低いうえに、こんな短い句の中で二度まで言葉を切った。
「いいえ、なんにも知りませんよ」とナスターシヤはそっけたい、断ち切るような調子で答えた。
 アグラーヤは顔をあからめた。おそらく彼女はいま自分がこの女と対坐して、しかも『この女』の家で、この女の返答を求めているということが、おそろしく奇怪な、ありうべからざることに思われたのだろう。ナスターシヤの声の最初の響きと同時に、戦慄が彼女のからだを流れたような気がした。こうした心持ちの変化を『この女』はもちろんすっかり見て取ったのである。
「あなたはすっかりご承知のくせに……わざとわからないふりをしてらっしゃるんです」とアグラーヤは渋い顔をして床を見つめながら、ほとんどささやくようにいった。
「そんなことをして何になるんでしょう?」ナスターシヤはにっとかすかに笑った。
「あなたは、あたしの位置を利用しようと思ってらっしゃるのです……あたしがあなたの家にいるもんですから」こっけいなまずい調子で、アグラーヤは語をついだ。
「その位置はわたしの知ったことじゃありません、あなたのせいですよ!」急にナスターシヤはかっとなった。「あなたがわたしに招かれたのじゃなくって、わたしがあなたに招かれたんですからね。しかも、何のためやら、わたし今だにわかりませんの」
 アグラーヤは昂然とかしらをあげた。
「その舌をお控えなさい。あたしはそんな武器でもって、あなたと闘うために来たんじゃありませんからね……」
「ああ! じゃ、やはりあなたは『闘う』ためにいらしったんですね? まあ、どうでしょう、わたしあなたはなんといっても……もすこし利口なかたかと思ってましたわ……」
 ふたりはもうたがいに憎悪の念を隠そうともしないで、にらみ合っていた。このふたりの中のひとりがついこのあいだまで、いまひとりにあんな手紙を書いていた当人なのである。ところが、最初の会見、最初の発言とともに、いっさいが霧のように散り失せた。いったいどうしたというのだろう? しかし、この部屋に居合わす四人のものは、だれひとりとして、この瞬間こうした事実を、不思議とも思わない様子であった。ついきのうまで、こんなことは夢にさえ見られないと信じていた公爵も、今はもうとうからこれを予感していたかのごとく、ぼんやり突っ立ったまま、ふたりの顔を見くらべながら聞いていた。奇怪きわまる夢が今や忽然として、まざまざと形を備えた現実に化したのである。このときひとりのほうは、いま一方を極度まで軽侮していて、しかもそれをむきつけにいってやりたくてたまらなかったので(ことによったら、ただそれ一つのためにやって来たのかもしれない、――こう翌日ラゴージンがいったくらいである)、いま一方も随分とっぴな女ではあるけれども、頭は乱れ、心は病的になっているから、よし前からそのつもりで心構えをして来たとしても、自分の競争者の毒々しい純女性的な侮蔑を、防ぎきることができなかったろう。公爵はナスターシヤが自分のほうから、あの手紙のことをいいだす気づかいはないと信じていた。今あの手紙が彼女にとってどんな意味をもっているか、それは怪しく輝く目つきから推して、察するにかたくなかった。公爵はアグラーヤが、あの手紙のことをいわないようにするためには、自分の命を半分なげ出しても惜しくなかった。
 けれど、アグラーヤは急にしっかりと落ちついてきたらしく、たちまち感情をおさえて、
「それはあなたの勘違いですよ」といった。「あたしはあなたと……暗一嘩しに来たのじゃありません。もっとも、あたしはあなたを好きませんけども。あたしが……あたしがここへ来たのは……人間らしいお話のためですの。あなたをお招きするとき、あたしはもうどんなお話をしようかってことを、すっかり決めていたんです。そして、その決心はどうしてもひるがえしません。よしんばあなたがまるっきり、あたしの真意を解してくださらないにしてもね。それはあなたのおためにならないばかりで、あたしの知ったことじゃありませんから。あたしは、あなたのお手紙にご返事しよう、自分の口からご返事しようと思ったのです。そのほうが都合がよかろうと思いましたからね。あなたのお手紙に対するあたしの返事を聞いてください。あたしは、はじめて公爵とお目にかかったその日から、あなたの夜会でおこった事件をあとで聞いたそのときから、公爵がお気の毒になったのです。お気の毒になったというわけは、公爵がああいう人のいいおかたですから、その人のいいところから……そうした性格のご婦人と……いっしょになって、幸福になれると信じておしまいになったからですの。あたしの心配は事実となって現われました。あなたは公爵を愛することができなくって、さんざんいじめたあげく、すてておしまいになりました。あなたが公爵を愛することができなかったのは、あなたがあまり高慢だからです……いいえ、高慢なのじゃありません、あたしの言い間違いです。つまり、あなたの虚栄心がさかんなためです。いえ、これでもまだ違っています。あなたはまるで……正佩の沙汰といえないほど、利己心が強いのです。その証拠は、あのあたしにあてた手紙です。あなたは公爵のような、あんな単純な人を愛しえないばかりか、腹の中でばかにして笑ってらしたのです。ただ自分の汚辱だけしか愛することができなかったのです。自分はけがされた、自分は辱しめられた、という考えだけしか、愛することができなかったのです。もしあなたの汚辱がもっと少ないか、それともぜんぜんなかったとすれば、あなたはまだまだ不幸だったでしょうよ……」(アグラーヤは、あまりにも性急にほとばしり出るこれらの言葉を、さもこころよげに吐き出すのであった。これらの言葉はもうとうから、――今の会見をまだ夢にも想像しなかったころから、すでに準備され、推敲されていたのである。彼女は毒々しい目つきで、自分の言葉の効果を、ナスターシヤのゆがんだ顔の上に追求していた)「あなた覚えてらっしゃるでしょう」と彼女はつづけた。「あの当時、公爵はあたしに手紙をくださいました。公爵の話では、あなたもこの手紙のことをごぞんじなんですってね。それどころか、お読みになったことさえあるそうですね? この手紙で、あたしはすべての事情を悟りました。しかも正確に悟りました。ついこのあいだ公爵がご自身で、それを確かめてくださいました。つまり、あたしが今あなたにいっていることですの。しかも、ひとことひとこと、そっくりそのままといっていいくらいです。手紙を読んでから、あたしは待ち受けていました。つまり、あなたがこちらへいらっしゃるに相違ない、と見抜いたのです。だって、あなたはペテルブルグなしじゃいられない人なんですもの。あなたは田舎でくすぶっているにはまだあまり若くって、おきれいですわ……もっとも、これもやはりあたしのいったことじゃありませんよ」と彼女はおそろしく赤くなって、こういい足した。この瞬間から最後の言葉の切れるまで、くれないは彼女の顔から引かなかった。「それから、二度目に公爵を見たとき、あたしはあの人のためにおそろしいまで苦しく、腹が立ってきました。笑わないでください。もしあなたがお笑いになれば、それはあなたにこの心持ちを理解する資格がない、ということになるのです
「ごらんのとおりわたしは笑ってやしません」とナスターシヤは沈んだ厳しい声でいった。
「もっとも、あたしはどうだってかまわないのです。ご勝手にお笑いなさい。で、あたしが自分の口からあの人にたずねるようになってから、公爵はこういいました。『わたしはもう前からあのひとを愛してはいません。あのひとに関する追憶さえも、わたしにとって苦しいくらいです。ただわたしはあのひとがかわいそうです。あのひとのことを思い出すと、まるで永久に心臓を刺し通されたような気がします』ところで、あたしは当然、あなたにもう一ついわなくちゃなりません、あたしは生まれてからまだ一度も、高潔な単純さという点で、また他人に対する無限の信頼という点で、公爵に匹敵するような人を、見たことがありません。あたしは公爵の話を聞いたあとで、すぐと悟りました。どんな人でもその気にさえなれば、わけなくこの人をだますことができます。ところが、公爵はそのだまし手がだれであろうと、あとでみんなゆるしておしまいになります。つまり、この性質のために、あたしは公爵を愛するようになったのです……」
 アグラーヤは自分で自分におどろいたように、――こんな言葉を口にすることができるなどとは、自分でも信ずることができないように、ちょっとのあいだ言葉をおさえた。しかし、それと同時に、ほとんど量りしれないプライドが、その目の中に輝きだした。もうこうなったら、つい口をすべり出た今のひとことを、『この女』が笑おうと笑うまいと、どうだって同じことだ、といいたげな様子であった。「あたしはあなたになにもかも申しました。ですから、もちろん、あなたもあたしの希望をお察しなすったでしょう?」
「察したかもしれません。だけど、ご自身でいってごらんなさい」とナスターシヤは低い声で答えた。
 憤怒の色がアグラーヤの顔に燃え立った。
「あたしはね」しっかりした声で、一語一語、明瞭に彼女はきりだした。「あなたにどんな権利があって、あたしに対する公爵の感情に干渉なさるのか、それがききたいのです。どんな権利があって、大胆にもあたしに手紙をよこしました?どんな権利があって、あなたがこの人を愛してるってことを、わたしやこの人にうるさく広告なさるんです? あなたは自分でこの人を棄てたのじゃありませんか。そして、ひどい侮辱と……汚名を浴びながら、逃げだしたじゃありませんか!」
「あたしが公爵を愛してるなんて、ご当人にもあなたにも広告したことなんかありません」やっとの思いでナスターシヤはこういった。「けども、わたしがこの人を棄てて逃げだしたのは……あなたのおっしゃるとおりですわ……」やっと聞こえるぐらいの声でいい足した。
「どうして『ご当人にもわたしにも』広告したことなんかないのです?」とアグラーヤは叫んだ。「じゃ、あなたの手紙はいったいなんですの? だれがわたしたちの仲人役を買って出て、この人と結婚しろとあたしに勧めたんです? それが広告でないでしょうか? 何のためにあたしたちのあいだへ割りこんでくるのです? あたしは、はじめのうち反対にこう考えたのです。『あのひとはかえってあんな干渉をして、公爵に対する嫌悪の種を蒔いて、公爵を棄てさせようというのじゃあるまいか』ところが、のちになって、そのわけがわかりました。あなたはそのいやらしいやり口でもって、なにかたいした手柄でもしてるような気がしたんでしょう……それほど自分の虚栄心を愛してらっしゃるあなたに、公爵を愛することができましたか? あんなばかばかしい手紙を書く暇に、なぜきれいにここを立ってしまわなかったのです? またあんなにまであなたを慕って、あなたに求婚の名誉を与えたりっぱな青年と、どうして結婚しようとなさらないんです? その理由はあまりに明々白々です。もしラゴージンさんと結婚すれば、汚辱などはすこしも残らないからです。かえってあなたの得る名誉が多すぎるからです! あなたのことをエヴゲーニイさんがそういいました、『あなたはあまりたくさん詩を読みすぎたものだから、あなたの……身分としてはあまり教育がありすぎる』、あなたは小説の女で、有閑婦人ですって。これにあなたの虚栄心を加えると、理由がすっかりそろうわけです……」
「じゃ、あなたは有閑婦人でないんですね」
 事件はあまり急激に、あまり露骨に、こうした思いがけないところまで行き着いてしまった。まことに思いがけないことである。なぜなら、ナスターシヤはこのパーヴロフスクヘ来る途中、むろん、いいことよりむしろ悪いことを予想してはいたが、それでもまだなにか、別なことを空想していたからである。アグラーヤにいたっては、もう一瞬のあいだに憤怒の浪にさらわれて、まるで坂からころがり落ちるように、恐ろしい復讐の快感の前にみずからを制することができなかった。こうしたアグラーヤを見るのは、ナスターシヤにとってむしろ不思議なくらいであった。彼女は相手を見つめながらも、われとわが目を信じかねるような風情であった。最初の瞬間、彼女はまるで何をいっていいかわからなかった。彼女は、あるいは、エヴゲーニイの想像したように、多くの詩を読破した女かもしれない、またあるいは公爵の信じているように、ただのきちがいかもしれない。が、いずれにして も、この女は、――ときとすると、ああした皮肉で暴慢な態 度をとることもあるが、――実際において人々が結論をくだすよりも、はるかにはにかみやで、優しい信じやすいたちなのである。もちろん彼女には小説的な、空想的な、自分自身の中に閉じこもったような、突飛な分子が多分にある。しかし、そのかわり、力強い深いところもずいぶんある……公爵はそれを了解していた。苦痛の表情が彼の顔に浮かんだ。アグラーヤはこれに気がついて、憎悪の念に身をふるわせた。
「あなたあたしに向かって、よくそんな口がきけますね!」言葉につくせぬ暴慢な態度で、彼女はナスターシヤの言葉に答えた。
「それはあなたのお聞き損じでしょう」とナスターシヤは驚いて、「わたしがあなたにどんな口をききました?」
「もしあなたが清浄な婦人になりたかったら、なぜご自分の誘惑者を――トーツキイをあっさりと……芝居めいた真似をしないで、棄ててしまわなかったのです?」とつぜんこちらは藪から棒にいった。
「そんな失礼な批評をなさるについて、あなたはどれだけわたしの境遇を知ってらっしゃるんです?」ナスターシヤはまっさおになって、身震いした。
「ええ、あなたが労働につかないで、堕天女《だてんにょ》きどりで金持ちのラゴージンと逃げだした、――これだけのことを知っています。トーツキイが堕天女のために、ピストルで自殺しかけたと聞いても、べつに驚きゃしませんよ!」
「およしなさい!」とナスターシヤは痛みを忍ぶように、嫌悪の色を浮かべながらいった。「あなたはまるで……ついこのあいだ自分の許嫁《いいなずけ》どいっしょに治安判事の判決を受けペダーリヤさんの小間使と同じような解釈をなさいますのね。それどころか、まだその小間使のほうが気が利いてるくらいですわ……」
「それはたぶん潔白な娘さんでしょう、自分の労働で生活してるのでしょう。なぜあなたは小間使に対して、そんな軽蔑した態度をおとんなさるの?」
「わたしは労働に対して、軽蔑の態度をとるのじゃありません、労働を口になさるあなたに対してです」
「あたしは潔白なからだになりたかったら、洗濯女にでもなりますわ」
 ふたりは立ちあがり、まっさおな顔をしながら、たがいににらみ合っていた。
「アグラーヤ、およしなさい! それは公正を欠いていますよ」と公爵は度を失ったもののように叫んだ。
 ラゴージンはにたにた笑いをやめて、くちびるをくいしばり、腕を組んで聞いていた。
「ねえ」とナスターシヤは憤怒のためにがたがた身をふるわせながらいった。「このお嬢さんをごらんなさい。今までわたしはこの人を天女とあがめていたんですよ! ねえ、アグ

『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP073-096

言葉をもっともっとおさがしなさい。そしたら、すばらしい効果がありましょうよ! だけど、惜しいことに、あなたは上手に客間へはいることをごぞんじらしいのね。どこでお習いなすったの? それから、ほかの人がわざとあなたのほうを見てるとき、ていよくお茶碗を取って、お茶をのむすべをごぞんじ?」
「知ってるつもりです」
「それは残念だこと。あたし、うんと笑ってあげようと思ってたのに。それにしても、客間にある支那焼の花瓶ぐらいこわしてちょうだいね! たいへん高いもんだそうですから、ぜひどうぞこわしてちょうだい。なんでもよそからいただいたものだそうですから、おかあさまがきちがいのようになって、みんなの前でおいおい泣きだすでしょうよ、――それほど大事にしてるのよ。いつもなさるようなぎょうさんな身ぶりをして、たたきこわしてちょうだいね。わざとそばにすわったらいいわ」
「とんでもない、かえってなるべく離れてすわるようにします。ご注意くだすってありがとう」
「じゃ、あなたは例のぎょうさんな身ぶりをするだろうと思って、今から心配してらっしゃるのね。あたし請け合っておくわ、きっとあなたはなにかまじめな、高尚な学問上のテーマを持ち出しなさるに決まっててよ。まあ、どんなに……似つかねしいでしょう!」
「ぼく、そんなことはばかばかしく聞こえるだろうと思います……もしとんでもないときに持ち出したら」
「ねえ、もうこれがいいおさめですよ」とついにアグラーヤはこらえかねていった。「もしあなたがなにか死刑だとか、ロシヤの経済状態だとか、『美は世界を救う』だとか、そんなふうなことをいいだしたら、そしたら……あたしはむろん喜んで、うんと笑ってあげますけどね、しかし前もってご注意しておきますが、以後あたしの目の前に出ないでくださいよ! よござんすか、あたしまじめにいってるのよ! こんどこそまじめにいってるのよ!」
 彼女はこのおどし文句をほんとうにまじめで[#「まじめで」に傍点]いった。で、その言葉の中にはなにかひととおりでないものが響いていた。そしてその目つきには、今まで公爵が見たことのないような表情がひらめいていた。もう冗談らしいところはすこしもなかった。
「ああ、今あなたはぼくがかならずなにか『いいだし』て、おまけに花瓶までこわすように仕向けてしまいました。たった今さきまで、ぼくはなんにも恐ろしくなかったのに、もう今はなにもかも恐ろしくなりました。ぼくきっとへまなことをしますよ」
「じゃ、黙ってらっしゃい。黙ってすわってらっしゃい」
「だめでしょう。ぼくきっと恐ろしさのあまり『しゃべりだし』て、恐ろしさのあまり花瓶をこわすに相違ないと思います。つるつるした床の上にすべってころぶとかなんとか、とにかくそんなふうのことをしでかすに相違ありません。なぜって、今までそんなことがときどきあったんですもの。きっと今夜、ぼくはひと晩じゅうそればかり夢に見ますよ。なんだってあなたはそんなことをいいだしたんです?」
 アグラーヤは沈んだ目つきで彼をながめた。
「ねえ、どうでしょう。ぼくはいっそ、あす出席しないことにしましょうか。病気だとふれこんでおけば、それでことはすみます!」とうとう彼はこういいきった。
 アグラーヤはとんと足踏みして、憤怒のあまり顔色まで変えた。
「えっ! そんな話ってどこにありますか! そのためにわざわざ催した夜会に、かんじんの当人が出席しないなんて……ええ、なんというこってしょう! ほんとうにあなたみたいな……わけのわからない人を相手にするのは、いい災難だわ!」
「じゃ、まいります、まいります!」と公爵はあわててさえぎった。「そして、あなたに誓います、ぼくはひと晩じゅう、ひとことも口をきかないで、すわっています。ええ、間違いなくそうします」
「それはりっぱな処置ですわ。ときに、あなたは今『病気だとふれこんで』とおっしゃいましたね。ほんとうにあなたはどこからそんな言いまわしを覚えていらっしゃるんでしょう? そんな言葉を使ってあたしと話をするなんて、まあなんという好奇でしょうね。いったいあたしをからかってらっしゃるんじゃなくって?」
「失礼しました。これもやはり小学生の言葉です。以後つつしみます。あなたが……ぼくのことを心配してくださるのが、ぼくにはよくわかります……(まあ、怒らないでくださいよ!)そして、ぼくはそれがなんともいえないほど嬉しいのです。あなたはとても想像もつきますまいが、ぼくは今あなたのお言葉が恐ろしくもありますけれど、同時にどんなにか嬉しく思ってるんですよ。しかし誓って申しますが、そんな心配は些細なことです、つまらないことです。まったくですよ、アグラーヤ! そして、ただ、喜びばかりが残って行きます。ぼくはあなたがそんな子供なのが――そんな美しい心を持つたかわいい子供なのが、嬉しくってたまらないんですよ! ああ、アグラーヤ、あなたはじつにりっぱな人間になれますよ!」
 こんな言葉に対して、もちろんアグラーヤは腹を立てるべきはずであった。そして、じっさい、腹を立てようとしたのだが、とつぜんなにかしら、彼女自身にも思いがけないような感情が、一瞬にして彼女の心をつかんでしまった。
「あなたは、今のあたしのはしたない言葉を、おとがめにならないでしょうか……いつか……あとになって?」とつぜん彼女はこうきいた。
「あなたどうしたんです、どうしたんです! なんだってまたそんなに興奮なさるんです? そらまた陰気な目つきをしていらっしゃる! アグラーヤ、あなたはこのごろときどき恐ろしく陰気な目つきをなさいますね。そんなことは以前すこしもなかったのに。ぼくそのわけを知っています……」
「いっちゃいけません、いっちゃ!」
「いや、いっそいってしまったほうがいいです。ぼくはとうからいいたかったのです。一度お話ししたこともありますが、あれだけでは不十分です。だって、あなたはぼくを信じてくださらなかったんですものね……なんといってもぼくたちふたりのあいだには、あるひとりの人物が介在していますから……」
「いっちゃいけません、いっちゃいけません、いっちゃいけません、いっちゃいけません!」とアグラーヤは公爵の手をかたく握って、ほとんど物に魘《おそ》われたような目つきで見つめながら、いきなりさえぎった。
 ちょうどこのとき彼女を呼ぶ声が聞こえた。彼女はその機会を喜ぶかのように、公爵を捨ててかけだした。
 公爵はその晩よっぴて熱に悩まされた。不思議にも、彼はもういく晩もつづけて熱病に襲われるのであった。ところが、こんどはなかばうなされたような状態にありながら、『もしあす客の前で発作がおこったらどうだろう?』という想念が心に浮かんで来た。じっさい、今までうつつに発作の起こることもたびたびであった。彼はこれを考えると、身うちの凍る思いがした。ひと晩じゅう、彼はまるで話に聞いたこともないようなりっぱな交際社会で、どこかの奇妙な人々と一座しているさまを、ありありと見ていた。そして、なにより恐ろしいのは、彼が『しゃべりだした』ことである。しゃべっちゃならぬということはよく心得ているくせに、彼は絶えず口を動かして、なにやら熱心に人々を説いている。エグゲーニイとイッポリートも、やはり来客の中にまじって非常に仲よさそうに見えた。
 彼は八時すぎに目をさましたが、頭がしんしん痛んで、思いは乱れ、奇怪な印象が心に残っていた。彼はおそろしくラゴージンに会いたくなった。会っていろいろ話したかった。しかし、何を話すのやら、自分にもわからなかった。それから、また何用だが知らないけれど、イッポリートを訪問しようと思って、一時ほとんどその気になってしまったほどである。とにかく、なにやら濁ったものが、心臓にいっぱいたまっているようで、そのためにこの朝、彼の周囲に生じたいろいろな事件が、非常に激しい、とはいえなんとなくもの足りないような印象を与えた。この事件の一つは、レーベジェフの来談であった。
 レーベジェフはかなり早く、九時すぎに、しかもぐでんぐでんに酔っぱらってやって来た。このごろ公爵は、あまりものごとに気がつかないようになっていたが、それでもイヴォルギン将軍が引き払って以来三日ばかり、レーベジェフの品行が非常に悪くなったのは、しぜんと目にはいらないわけにはいかなかった。彼はなんだか急に油じみて、きたならしくなり、ネクタイは横っちょにねじれ、フロックの襟はほころびている。うちでは乱暴を働くようにさえなり、騒々しい物音が小さな庭越しに、公爵のところまで聞こえることもあった。一度なぞはヴェーラが涙ながらにやって来て、なにかくどくどと話していったこともある。いま公爵の前に立つと、彼は自分の胸をたたきながら、なんだかおそろしく奇妙な調子で弁じ立て、なにかしらわびごとなぞをはじめるのであった。
「とうとうくらいました……裏切りと卑劣な行ないのために、罰をくらいました……平手打ちをくらいました!」最後に彼は悲劇的な口調でこう結んだ。
「平手打ちを? だれから?………しかも、そんなに早く?」
「早くですって?」レーベジェフは皮肉な薄笑いを浮かべた。
「この場合、時なぞに何の意味もありません……たとえ肉体的の罰としましたところでね……けれど、わたしがくらったのは精神的の……精神的の平手打ちで、肉体的のじゃありません!」
 彼はいきなり無遠慮にぐったりと腰をおろして、話しにかかった。その話かひどくとりとめのないものなので、公爵は顔をしかめて、出て行こうとした。が、ふとちょっとしたひとことが彼をぎょうてんさした。彼は驚きのあまり棒のように立ちすくんだ……レーベジェフ氏の話したのは、じつに奇怪なことがらであった。
 はじめ話は、なにかの手紙に関するものであった。そして、アグラーヤの名前も口にのばった。それから、とつぜんレーベジェフは当の公爵を非難しはじめた。どうやら彼は、公爵のやり口に侮辱を感じているらしい。彼のいうところによれば、はじめのうち公爵は例の『人物』(ナスターシヤ)の事件で彼を信頼していた。ところが、その後、急に彼との交渉を避けて、なさけ容赦もなく身辺から追っ払ってしまった。それがしまいには『近くおころうとしている一身上の変化に関する罪のない質問』さえも、そっけなく突っぱなしてしまうほどになった。レーベジェフは、酔っぱらいの目に涙を浮かべながら自白した。
「あれ以来、わたくしはどうしても勘弁がならないのです。ましてわたくしはいろんなことを知ってるのですものね……ラゴージンからも、ナスターシヤさんからも、ナスターシヤさんの女友達からも、ヴァーリャさんからも……それから……それから、当のアグラーヤさんからも、いろんなことをたくさん聞いて知っております。こんなことは考えもつかんか知りませんが、ヴェーラ――わたくしのかわいい、天にも地にもたったひとりの……いや、しかしたったひとりとはいえませんな、わたくしには子供が三人もあるのですから……とにかく、娘のヴェーラさえ道具に使って、聞きこんだのですよ。いったいあなたはごぞんじでございますか、あのリザヴェータ夫人に手紙を送って、大変な秘密を知らせたのはだれでございましょう? へへ! あのおかたに、いっさいの事情とまた……ナスターシヤという人物の動静を書いてやったのはだれでござんしょう、へへへ! いったいこの無名の人間はだれでござんしょう! 失礼ながらひとつうかがいましょうよ」
「まさかきみじゃないでしょう!」と公爵は叫んだ。
「そのとおり」と酔いどれはものものしく答えた。「けさ八時半ごろ、今から三十分ばかり前、いや、もう四十五分ぐらいたっておりましょうな、将軍夫人をお訪ねして、あるできごとを……大変なできごとをお知らせしたいと申し込みました。裏玄関から女中に頼んで、手紙で申し込んだのです。ところが、さいわい会ってくださいました」
「きみが今リザヴェータ夫人に会ったんですって?」公爵は自分の耳を信じかねてこう訊いた。
「いま会って、平手打ちをくらったのです……その精神的のやつをね。奥さんは手紙を突き返されました。封も切らないでたたきつけなすったのです……そして、おととい来いと追ん出されましたよ……しかし、それもただ精神的にでして、肉体的に追ん出されたのではありません……もっとも、ほとんど肉体的といってもいいくらいですが、いますこしというところでした」
「どんな手紙を奥さんが、たたきつけなすったんです、封も切らないで?」
「おや、ほんとうに……へへへ! じゃ、まだあなたにお話ししなかったのですね! わたくしはもうお話ししたことだと思ってました……じつは手紙を一通ことづかってるのです……」
「だれから? だれにあてて?」
 しかし、レーベジェフの説明はおそろしくごたごたしていて、そこからなにかすこしでも汲み取ろうというのは、きわめて困難なことであった。けれど、公爵はいろいろとできるだけ想像して、その手紙はけさヴェーラが女中の手を通して、宛名の人に渡してほしいという依頼とともに受け取った――これだけの意味が判じられた。
「前と同じようです……前と同じように、例のおかたから、例の人物にお出しなすったので……(わたくしはあのふたりのうち、ひとりには『おかた』、いまひとりにはただ『人物』という名称を用います。それは尊卑と区別を明らかにするためです。なぜと申しまして、純潔で高尚な将軍令嬢と、そして……椿姫とのあいだには、たいへんな相違がありますものね)で、その手紙はAという頭字の『おかた』から出たのです……」
「どうしてそんなことが? ナスターシヤさんに? ばかばかしい!」と公爵は叫んだ。
「あるのです、あるのです。しかし、あのひとにあてたのじゃなくって、ラゴージンです。ラゴージンにあてたも同じことです。一度なぞは、イッポリートにあてたのさえありました。その、ことづけのためにね、Aという頭宇のおかたから」とレーベジェフは目をぱちりとさして、薄笑いを浮かべた。
 この男はよく一つの話題から別な話題へひょいひょい飛んで行って、話のまくらがどうだったか忘れてしまうたちなので、公爵はいうだけいわせてみようと思って、黙って控えていた。しかし、そんな手紙がじっさいあったとすれば、はたして彼の手を通って行ったのか、ヴェーラの手を通って行ったのか、そのへんのところがどうもはっきりしない。とはいえ、彼が自分の口から、『ラゴージンにあてるのは、ナスターシヤにあてるのと同様だ』といいきった以上、手紙は彼の手を通ったものでない、とみたほうが確かである。ところで、どういうふうでこの手紙がいま彼の手に落ちたか、そこはまったく合点がいかなかった。おそらく彼がどうかしてヴェーラの手から盗み取って……そっと取り出とて、なにかあてがあってリザヴェータ夫人のところへ持って行った、と想像するのがいちばん正確らしい。こう考えて、公爵はやっと合点がいった。
「きみは気でもちがったんですか?」彼はすっかり動顛してしまって、こう叫んだ。
「まんざらそうでもございません、公爵さま」とレーベジェフはいくぶんむっとしたふうで答えた、「まったくのところ、わたくしはよっぽど、あなたに、その忠義だてのために、お手渡ししようかと思いましたが……それよりか、おかあさまに忠勤をはげんで、事情をすっかりお話ししたほうがいい、と『思い直したのです……なぜと申して、前にも一度無名の手紙でお知らせしたことがあるんですものね。で、さきほども紙の切れっぱしに、八時二十分にご面談を願いたいと、前もってご都合うかがいの手紙を書いたときも、やはり『あなたの秘密の通信者より』と署名しましたので、すると、すぐ猶予なしに、おそろしく性急に、裏口から通してくださいました……おかあさまのお部屋へね」
「で?………」
「その次はもうわかりきった話です、あやうくなぐりつけられるところでした。ほんのいますこしの瀬戸ぎわでした。つまり、その、ほんとうになぐりつけられたといっていいくらいで。そして、手紙をたたきつけなすったので。もっとも、ご自分の手もとへ残して置きたかったのですが(それはわたくしにもわかりました、ちゃんと気がつきました)、しかしまた思い返して、たたきつけられたのです。『もしおまえのようなものにことづけたのなら、勝手に先方へ届けるがいい』……とおっしゃいましてね、たいそうご立腹なされました。だって、わたくしのようなものに、恥ずかしくもない、そんなことをおっしゃったとすれば、つまり、ご立腹なすったに相違ございますまい。まったく短気なご気性ですよ!」
「いったいその手紙は今どこにあるんです?」
「やっぱりわたくしが持っております、これ」
 とアグラーヤがガーニャにあてた手紙を、公爵に手渡しした。これこそガーニャが二時間ばかりたったのち、大いばりで妹に見せた手紙なのである。
「この手紙は、きみの手もとに置くべきものじゃありません」
「あなたに、あなたにさしあげます! あなたに贈呈いたします」とこちらはのぼせたような調子で、すぐ引き取った。「これからまたわたくしはあなたのものでございます、からだじゅう――頭から心臓まで、すっかりあなたのものでございます。ちょっと謀叛気をおこしましたが、もう今度こそあなたの奴隷でございます! どうぞ心臓を罰して、髯を容赦してくださりませ。これはトマス・モールスのいった文句です……あのイギリスの、大ブリテンのね。Mea culpa, mea culpa(わが罪なり、わが罪なり)これは|ローマ法王《リームスカヤ・パーパ》のいったことなので……ほんとうはその|ローマ法王《リームスカヤ・パーパ》……ですが、わたくしは|ローマ法王《リームスカヤ・パーパ》と申します」
「この手紙は今すぐ渡さなくちゃなりません」と公爵は心配そうにいい出した。「ぼくが渡してあげましょう」
「でも、いっそ、いっそ、ねえ、公爵さま、いっそ、あの……なにしたほうが……」
 レーベジェフは奇妙な哀願するようなふうに顔をしかめた。そして、まるで針かなにかで刺されてでもいるように、急にそわそわと動きだした。彼はわるごすそうに、目をぱちぱちさせながら、手でなにか仕方をして見せるのであった。
「なんです?」と公爵はこわい顔をしてきいた。
「先まわりをして、あけてみたらどうです!」と感動をこめたなれなれしい様子で、彼はこうささやいた。
 と、公爵はいきなりすさまじい剣幕で、おどりあがった。レーベジェフは一目散にかけだそうとしたが、戸口まで行ったとき、もうおゆるしが出はしないかと待ちうけて、立ちどまった。
「ええ、レーベジェフ君、いったいどうしたらきみのように、そんな卑劣な、だらしのない気持ちになれるんです?」と公爵は愁わしげに叫んだ。
 レーベジェフの顔色は急にはればれしくなった。
「卑劣です、卑劣です!」われとわが胸をたたいて、目に涙を浮かべつつ、すぐに彼はそばへ寄って来た。
「じつにけがらわしいことです!」
「まったくけがらわしいことで。一語でつくしています
!」
「ほんとうになんという癖でしょうね、そんな……妙なことばかりしでかすなんて! だって、きみは……なんのことはない、ていのいいスパイじゃありませんか! きみは何のために無名の手紙を書いて……あんな人の好いりっぱな婦人に心配をかけたんです? またなぜアグラーヤさんにしても、だれであろうと、自分のすきな人に手紙を書く権利を持ってないのです? いったいきみはなんですか、告げ口でもするつもりで、きょうあすこへ出かけたんですか? どんなとくがあると思ったんです? なんだってそんな告げ口をする了簡になったんです?」
「それはただただ悪気のない好奇心と……高潔な心の忠義立てから出たことです、はい!」とレーベジェフはおずおずといった。「今からは、もうすっかりあなたのものです、またもとのとおりにすっかり……たとえ絞り首になりましても……」
「きみは今のような恰好をして、リザヴェータ夫人のところへ出かけたんですか?」と公爵は嫌悪の念を感じながら、ちょっとこんなことをきいてみた。
「いいえ……もっとすっきりした……もっと作法にかなった様子でした。こんな……恰好になったのは、恥ずかしい目にあったあとです」
「まあ、よろしい、ぼくにはかまわないでください」
 しかし、『客』がやっと思いきって出て行くまでに、いく度となくこの頼みをくりかえさなければならなかった。もうすっかり戸をあけ放しておきながら、また引っ返して、抜き足で部屋の真ん中へやって来ては、また手紙をあけてみろという手つきをするのであった。けれど、さすがにこれを口に出して勧める勇気はなかった。それから、静かな愛想のいい微笑を浮かべながら、とうとう部屋を出て行った。
 こんなことを耳にするのはたまらなくいやだった。しかし、この話の中でただ一つ、重大にして異常な事実があった。ほかでもない、アグラーヤがなぜか知らないが(『嫉妬のためだ』と公爵は腹の中でつぶやいた)、激しい不安と、激しい動揺と、激しい苦痛に襲われているという事実である。また同様に、彼女がよくない人々に迷わされている、ということもこの話から想像された。公爵はどうして彼女がそんな人たちを信用したのか、不思議でたまらないくらいであった。もちろん、この世間を知らぬ、熱烈で傲岸な頭脳の中に、なにか特殊な計画が熟しているに相違ない。しかも、ことによったら、身の破滅を招くような……前代未聞の計画かもしれないのだ。公爵は無上におびえてしまって、どんな行動をとっていいか、かいもくわからないほど頭が乱れた。とにかく、是が非でも、なにか未然にことを防ぐような方法をとらなければならぬ、とは彼の痛切に感じたところである。彼はもう一度、封をしたままの手紙の宛名を見た。そこには彼にとって、なんの疑惑も不安もなかった。すっかり信じきっていたからである。この手紙の中で、彼に不安を感じさせたのはほかのことである。彼はガーニャを信用することができなかった。
 しかし、とにかく、自分でこの手紙を手から手へ渡そうと決心して、彼はそのためにわざわざ家を出たが、また途中で考えを変えた。ちょうどプチーツィンの家のすぐそばで、まるであつらえたようにコーリャと出くわしたので、公爵はアグラーヤから直接たのまれたといって、この手紙を兄に渡してくれと頼んだ。コーリャはなにひとつたずねるでもなく、すぐ兄の手へ届けたので、ガーニャはこの手紙がいろんな関所を通過して来たとは、夢にも知らなかった。家へ帰ると、公爵はヴェーラを自分の部屋へ招き、話すべきことを話して、彼女を安心させた。彼女はそれまでいっしょうけんめいに手紙をさがして、さがしあぐんで泣いていたのである。手紙を持って行ったのが父親だと聞いて、彼女はぎょうてんせんばかりであった(のちになって、公爵はこの娘から、彼女がいく度もラゴージンとアグラーヤのために、秘密の仲だちをしたことを知った。これが公爵のためにならぬことだとは、彼女は夢にも考えなかったのである……)。
 そのうちに、公爵はすっかり頭が混乱してしまった。二時間ばかりたって、コーリャからの使いがかけつけて、父将軍の発病を知らせたときにさえ、なんのことやらほとんど合点がいかなかったほどである。しかし、このできごとは彼の気を引き立ててくれた。そっくり彼の注意をそちらへ奪ってしまったからである。彼はニーナ夫人のもとに(病人はもちろんここへかつぎこまれたので)、晩までずっと居通した。彼はなんの役にも立たなかった。しかし苦しいときそばにいてくれると、なぜか気持ちのいい人がよくあるものだ。コーリャはおそろしく動顛してしまって、ヒステリーみたいに泣きとおしていたが、それでもしじゅう走り使いにばかり出て、医者を迎えに行き、三人までさがし出したり、薬屋や理髪店へかけつけたりした。将軍は息を吹き返したけれども、意識はもどらなかった。医者は『とにかくこの患者は非常に重態です』といった。ヴァーリャとニーナ夫人は、病人のそばを離れなかった。ガーニャはすっかり狼狽して動顛していたが、それでも二階へあがろうとしないばかりか、病人の顔を見るのさえ恐れていた。彼はじりじりして、両手をねじまわしていたが、公爵を相手のとりとめのない話の中に『ああ、なんという災難でしょう。しかもわざとのように、こんな時をねらって!』と何げなく口をすべらした。公爵は、彼のいうのがどんな時だか、わかるような気がした。イッポリートはもうこの家の中に見当たらなかった。
 夕方、レーベジェフがかけつけた。朝の『告白』がすんでから今までぐっすり、一度も目をさまさずにやすんだのである。いま彼はほとんどしらふになって、病人が親身の兄でもあるように、偽りならぬ涙をこぼして泣いた。彼はなんともわけをいわないで、しきりにわびごとをいうのであった。そして、ニーナ夫人のあとを迫いまわすようにしながら、『これはわたくしの仕業です、わたくしがもとです、わたくしよりほかにはだれもありません……しかも、それはただただ悪気のない好奇心から出たことです。ああ、「故人」は(彼はまだ生きている将軍をつかまえて、なぜかしつこくそう呼ぶのであった)、じつに天才ともいうべき人でした!』とひっきりなしにいいつづけた。彼はこの天才ということを、ことさらまじめにいい張った。その調子はまるでこの事実からして、なにか非常な利益でも生じるもののようであった。とうとうニーナ夫人も、その真心からの涙を見て、すこしも不平がましいところのない、むしろ優しいぐらいの語調で、『まあ、大丈夫ですから、泣かないでくださいね、神さまがあなたをゆるしてくださいます!』といった。レーベジェフはこの言葉とその調子にすっかり感激してしまって、ひと晩じゅうニーナ夫人のそばを離れようとしなかった(次の日も、その次の日も、将軍の死ぬまで、彼はほとんど朝から晩まで、イヴォルギン家で時を送ったのである)。この日のうち二度リザヴェータ夫人の使いが将軍の容態を聞きに来た。
 公爵がその晩九時ごろ、もう客でいっぱいになったエパンチン家の客間へあらわれたとき、リザヴェータ夫人はすぐ病人のことをこまごまと、熱心にたずねはじめた。そして、『いったい病人とはだれのことです、またニーナ夫人というのはどんな人です?』というベロコンスカヤ夫人の問いに対して、ものものしい調子で返事をした。公爵はこれがたいへん気に入った。彼自身も夫人との応答中、あとで姉娘たちの評したところによると、『りっぱな』話しぶりを示した。『余計な言葉を使わないで、身ぶりも入れず、つつましやかな、おっとりした、品のある話しぶりだった。それに、入ったときの様子もりっぱだったし、身なりもすばらしかった』前の日心配したように、『つるつるした床で滑ってころば』なかったばかりか、むしろ気持ちのいい印象を与えたほどである。
 公爵はまた公爵で、座に着いてあたりを見まわしたとき、ここに集まったすべての人々が、きのうアグラーヤのおどしたような、ないしはひと晩じゅう夢に見てうなされたような、あんな恐ろしい妖怪めいたものではけっしてない、ということをすぐに見て取った。彼は生まれてはじめて『社交界』という恐ろしい名で呼ばれているものの、わずか一端をうかがったのである。彼はある特別な希望と想像とあこがれのために、この夢幻の国に似た階級へ入りこむことを、もうとうから渇望していたので、この集まりの第一印象に、なみなみならぬ興味を覚えた。この第一印象は、魅力に満ちたものでさえあった。なんだかこれらの人々は、こうしていっしょになるために生まれて来たのだ、といったような考えがすぐ彼の心に浮かんだ。今夜エパンチン家には、べつだん夜会などというものもなければ、招待客などというものもいない。ここにいる人たちはまったく『うちの人』同様で、彼自身もずっと前から、これらの人々の隔てない親友であったのだが、ついしばらく別れていて、ふたたびその仲間へ帰って来たのだ、というような気持ちがした。 都雅なふるまいや、隔てのない調子や、いかにも心の美しそうな様子、そういうものの魅力はほとんど魔術めくほどであった。彼はこうした美しい心も、上品な態度も、機知に富んだ談話も、品位の高い風采も、単なる芸術的技巧にすぎないかもしれぬなどとは、夢にも思いそめなかった。客の多くは人に尊敬の念をおこさせるような風貌を備えているが、むしろ頭脳の空疎な人たちばかりであった。もっとも、彼ら自身も、自分たちの持っている美点はただの付け焼刃にすぎないことを知らずにいた。しかし、その付け焼刃も彼ら自身の罪ではない。なぜなら、それは無意識の間に生じ、遺伝的に譲られたものだからである。公爵も第一印象の美しさに魅了されて、そんなことは考えてみようともしなかった。たとえば、この老人、年からいえば、彼の祖父にしてもいいほどのえらそうな政治家は、こんな経験の浅い若輩の言葉を聞くために、わざわざ自分の話をやめたというふうに思われた。そして、ただ聞いているだけでなく、いかにもその意見に感心したらしい様子で、彼に対して優しい、まごころから出た善良な態度を示すのであった。しかも、ふたりはいまはじめて顔を合わしたばかりで、見ず知らずの他人ではないか。ことによったら、この優美に慇懃な調子がなにより強く、公爵の鋭敏な感受性に作用したのかもしれないが、あるいは彼がはじめから、あまり買いかぶって、幸福な印象を受け入れるような気分になりきっていたのかもしれない。 しかし、これらの人々は、―むろんこの家にとっても、またおたがい同士のあいだでも、『親友』であったには相違ない――けれども、公爵がこれらの人々に紹介されて近づきになるやいなや、すぐ正直に信用してしまったほど、この家にとってもおたがい同士のあいだでも、そう深い親友ではなかった。その中には、エパンチン家の人々を、ほんのこれっぱかりも対等に考えていない人もあった。また、たがいに激しく憎みあっている人もあった。ベロコンスカヤのおばあさんは一生涯、『老政治家』の夫人を『侮って』いたし、またその夫人はリザヴェータ夫人が大きらいだった。その夫の『政治家』はどうしたわけか、エパンチン将軍夫婦の若いころからの保護者で、今夜一座の采配を振っていた。この人はイヴァン将軍の目から見ると、とてつもない偉大な人傑なので、彼はこの人の前へ出ると、恐怖と刪疣の念よりほか、何の感じもいだけなかった。そんなわけで、もし彼がほんの一分間でも、この人をオリンピヤのジュピターと崇めないで、対等の人間だなどと考えるようなことがあったら、それこそ心から自分を侮蔑したに相違ない。
 一座の中にはまたこんな人もあった。もういく年も顔を合『わしたことがないので、おたがいに嫌悪の念でないまでも、無関心な気持ちよりほか、なんにも感じていないくせに、まるでついきのうあたり、非常にうち解けた気持ちのいい会合で顔を合わしたばかりのようなふうつきでいた。しかし、この集まりはさして大人数ではなかった。ベロコンスカヤ夫人と『老政治家』(これはほんとうに権勢家であった)、そしてその夫人を別として、第一番に指を折られるのは、なかなかりっぱな地位を占めた、男爵か伯爵か知らないが、ドイツー名前を持った、さる陸軍の将官であった。思いきって無口な人だが、政治方面のことに驚くべき知識を持っており、むしろ学者といってもいいくらいな評判であった。それは『かんじんのロシヤをのけたほかのものは』なんでも知らないものはないという、オリンピヤの諸神にもたぐうべき行政官のひとりで、『深刻驚くべき』警句を、五年に一度吐いて聞かせるような人だった。もっとも、その警句は、間違いなく一代のはやり言葉となって、九重の奥深きところにまで知られるのである。つまり、この人は通常、おそろしく長い(むしろ奇態なほど長い)勤務ののち、高い官等と、りっぱな位置と、莫大な金を持って死んで行く、ありふれた長官のひとりなのであった。もっともこんな人は、これというほどのたいした勲功も立てないけれど、自分ではかえって、勲功など少少憎んでいるくらいである。この将軍は勤務上、エパンチン将軍の直属長官に当たっているので、エパンチンは持前の熱烈な、感じやすい性質のうえに、うぬぼれまでが手伝って、この将軍をもやはり恩人扱いにしていた。しかし、この将軍はけっして自分のことを、エパンチン将軍の恩人とは思っていないので、平然として、いいかげんにあしらっていたが、それでもエパンチン将軍の示してくれるさまざまな好意を、いい気持ちで利用するのであった。そのくせ、たとえれっきとした理由はなくても、なにかひょいと気が変わったら、すぐさま平気でイヴァン将軍のいすにほかの官吏をすわらせたかもしれない。
 そこにはいまひとり、もうかなりな年配の偉い紳士がいた。この人のことをリザヴェータ夫人の親戚のようにいうものもあったが、それはまるで根もないことである。これは官等も位置もりっぱな人で、財産もあれば門閥もよい。肉づきのいい、がっしりした体格で、非常に多弁家である。世間では不平家という評判さえあり(それもきわめて穏当な意味においてである)、かんしゃく持ちというものさえあった(それすらこの人にあっては、気持ちよく感じられた)が、万事につけて、英国の貴族めいた習慣を持っていて、趣味もイギリスふうである(たとえば、血のたれるようなローストビーフだとか、馬のつけかただとか、侍僕の服装だとか、そんなふうの事柄である)。彼は『老政治家』と大の仲よしで、いつもこの人の機嫌を取っていた。そのほかに、リザヴェータ夫人はどういうわけか、ある奇妙な考えをいだいていた。ほかでもない、この紳士が(この人はいくぶん軽はずみで、かなり好色家だから)、ひょっとしたら、アレクサンドラに結婚を申し込んで、玉の輿の幸福を授けるかもしれない、というのであった。
 この最上流に位する、重みのある階級のつぎには、同じく都雅な資質に輝いてはいるけれど、いくぶん年の若い人々の階級が控えていた。S公爵とエヴゲーニイのほか、この階級に属する人に、有名な好男子のN公爵があった。これはヨーロッパじゅうの女の誘惑者であり、同時に征服者であった。もう四十五ぐらいになるけれど、いぜんとして美しい容姿を保っている。まれに見る話上手で、いくぶん家政が紊乱してはいるものの、財産家で、習慣上おもに外国でばかり暮らしていた。
 そこにはまた、第三の階級ともいうべきものを形作っている人々があった。元来の身分としては、『選ばれたる』階級にはいらないけれど、エパンチン家の人々と同様に、なぜかしらときどきこの『選ばれたる』階級のあいだに見受けられる人々である。これらの人々の原則としている一種の術によって、エパンチン家の人々はごくたまに催す夜会などで、上流の人々とすこしその下につく人々――『中流階級』の選り抜きの代表者とを、好んでつきまぜるのであった。人々はそのためにかえってエパンチンー家を賞賛して、自分の位置を知った人、社交術に長けた人として遇するので、彼らもこういう批評を誇りとしていた。この晩の『中流社会』の代表者は、ある工兵の大佐であった。まじめな人物で、S公爵とは非常に親しく、この人を通してエパンチン家へ出入りするようになった。もっとも、一座の中では無口のほうで、右手の人さし指に、ご下賜品らしい、大きな、よく目立つ指輪をはめていた。
 またそこにはいまひとり文学者――詩人といってもいいくらいの人がいた。生まれはドイツ人だが、ロシヤの詩人であるうえに、きわめてたしなみがいいので、どんなりっぱな席へでも、危なっけなしに案内ができた。彼は生まれつき風采がよかった、とはいえ、どういうわけか妙に厭味な顔をしている。年は三十八ぐらいで、どこという難のない身なりをしている。きわめて俗な、けれど非常に尊敬されているドイツ人の家庭に人となったが、身分の高い人の保護を受けて、その愛顧にしがみつくためには、あらゆる機会を利用するのであった。いつだったか、ある有名なドイツ詩人の大作を韻文でロシヤ語に訳したとき、さる名士に献呈するほどの働きがあった。いつも有名な、しかし今は故人となっているロシヤの詩人と親交のあったことを自慢にしている(文士の中には偉大な、ただし今は世にない文豪との親交を、新聞雑誌で押し売りしたがる連中がうようよしている)。この詩人はつい近ごろ『老政治家』夫人の手引きで、エパンチン家へ出入りしはじめたのである。
 老政治家夫人は文士や学者の保護者でとおっていた。そして、じっさい、自分を尊敬してくれる名士連の助力を借りで、二、三の文学者に奨励金を与えている。この夫人も一種の勢力は持っていたのである。年ごろは四十五ぐらい(だから、こんなしわだらけなじいさんの夫人としては、いたって若いほうである)、もとはなかなかの美人だったが、今は四十五、六の貴夫人にありがちの病いで、おそろしく、はで作りにすることが好きなのである。あまり頭のいい人でもないし、文学上の知識もいたって怪しいものだ。しかし、文学者の保護はこの夫人にとって、はでななりをするのと同性質の病いだった。多くの著述や翻訳が夫人に献呈されている。二、三の文学者は夫人の許可を得て、非常に重大なことがらをしたためた夫人あての手紙を、公けに印刷したこともある……
 こうした一座の人々を、公爵はすこしも混ぜもののない、純良無垢の金貨のように考えたのである。もっとも、これらの人々はこの晩まるで申し合わせたように、非常に上機嫌で、自分に満足しきっていた。そして、皆がみなひとりの例外もなく、自分がエパンチン家を訪問したのは、同家に偉大な名誉を与えたことになるということを、ちゃんと承知していた。しかし、悲しいかな! 公爵にはそんな機微の点は想像もつかなかった。一例を挙げると、エパンチン家の人々は娘の運命にかかわる、重大な決心をとろうとしているときに当たって、自分ら一家の保護者たる老政治家に、公爵を紹介しないでうっちゃっておくなどという、大胆な行為には出られないのである――こんな事情を公爵は、夢にも悟ることができなかった。ところで、老政治家のほうはどうかというに、彼はエパンチン家に生じた最も恐るべき不幸の報告すら、平然と落ちつきはらって受け取れそうな様子でありながら、もしエパンチン夫妻が彼に相談しないで、――つまり彼にことわりなしに、娘の婚約などしようものなら、かならず感情を害するに相違ないのであった。
 またN公爵-この人なつこい。頓智のうまい、そして人格の高い、心の潔白な人はどうかというに、彼はわれこそ今夜エパンチン家の客間にさし昇った太陽みたいなものだと、あくまで信じきって、この家の人たちをずっとずっと卑しいものに思いこんでいる。こうした天真爛漫な高潔な考えが、エパンチン夫妻に対する彼の態度を、おそろしく愛想のいい、うち解けた、隔てのないものにした。彼はこの晩ぜひとも、一座を魅了するような話をしなければならないと思って、ほとんど霊感ともいうべき心持ちをいだきつつその心構えをしていた。しばらくたってこの話を聞いたムイシュキ冫公爵は、このN公爵のようなドン・フアンの口から出た輝かしい諧謔や、驚くべき快活な調子や、ほとんど感に堪えた天真爛漫な話しぶりこそ、今まで聞いたものの中で、類を求めることができないくらいであると、感服してしまった。しかし、内実、この話はもういいかげん方々へ持ちまわられた、陳腐なものだということを、公爵はすこしも知らなかった。まったく話し手がひと言ひと言そらで覚えるくらい、ひねくりまわして手ずれがしているので、もうどこの客間でもこの話には飽きあきしてしまっていたが、おめでたいエパンチン家へ来るとまた珍しいもの扱いにされて、今をときめくりっぱな紳士が思いがけなく誠実なはなばなしい追憶談を聞かしてくれた、ということになるのであった。例のドイツ生まれの詩人は、非常に愛想よくつつましげにふるまっていたが、それでも自分の来訪をもって、この家の光栄かなんぞのように考えかねまじい勢いであった。しかし、公爵はこうしたものの裏面やかくれた事情には、いささかも気がつかなかった。
 この災厄は、アグラーヤも前もって見抜くことができなかった。もっとも彼女自身は、この晩、ことにあでやかであった。三人の令嬢はみんなさしてけばけばしいほどではないが、それぞれ粧いを凝らして、髪の結いぶりもなんとなく、いつもと違っているようであった。アグラーヤはエヴゲーニイと並んで、さも親しそうに話しあったり、冗談をいったりしていた。エヴゲーニイもやはり名士連に敬意を表するためか、いつもよりすこし重々しくふるまっていた。もっとも、彼は社交界ではとっくに顔を知られて、年こそ若いけれど、もうすっかり場なれていた。この晩、彼は帽子に喪章をつけてやって来たので、ベロコンスカヤはこの処置を激賞して、まったくほかの人、しかも社交界の人であったら、この場合あんな伯父のために喪章なんか着けなかったろうに、といった。リザヴェータ夫人も、同様これには満足らしいふうであったが、総じてなんだかひどく心配らしい様子を見せていた。公爵は、アグラーヤが二度までも、自分のほうをじいっと見つめたのに気づいたが、彼女もどうやら公爵の態度に満足しているらしく見えた。しだいに彼は自分を幸福に感じるようになった。さっきレーベジェフと話したあとで経験した『妄想』や疑惧の念が、今もひょいひょいと心に浮かんできたけれど、それはもうまるで辻褄の合わない、しょせんこの世にありそうもない、むしろこっけいな夢かなんぞのように思われた! それでなくとも、彼はさっきから――というよりまる一日のあいだ、どうかしてこの夢を信じまいと、無意識ではあるけれどいっしょうけんめいにこいねがっていたのである。彼はあまり口をきかなかった。ときたま話しても、ただ質問に答えるだけであった。しまいには、すっかり黙りこんでしまい、こころよい感じに浸っているかのように、じっとすわって耳を傾けていた。だんだん彼自身の心中にも、一種の感興がわきおこって、折りがあったらほとばしり出そうになってきた……彼はついに口をきいた。しかし、それもやはり質問に答えたにすぎない。それも特別の意図は全然ないようであった……

      7

 彼がさも嬉しそうに、N公爵とエヴゲーニイと話し合っているアグラーヤを見守っているあいだに、今まで一方の隅で老政治家のお相手をして、なにやら夢中になって話していたかなりな年配の英国狂紳士は、とつぜんニコライ・アンドレエヴィチ・パヴリーシチェフ氏の名前を口にした。公爵もそのほうをふり向いて、耳を傾けはじめた。
 話は××県の地主領に対する現行制度と、その不合理に関するものらしかった。アングロマンの話はなにかおもしろいことだとみえて、とうとう老政治家は相手の癇性らしい熱した調子を笑いだした。アングロマンは母音にいちいちやさしいアクセントをつけ、なんだか不機嫌らしい調子で、言葉じりを引きながら、現行制度のために××県にあるみごとな領地を、かくべつ金がいるというわけでもないのに、ほとんど半値で売ってしまい、そのかわりに訴訟問題の付帯している損のゆく荒れた領地を、金まで払いながら保留しておかねばならなくなった事情を、なめらかな調子で物語るのであった。
「なおそのうえ、パヴリーシチェフ家の領地と訴訟でもおこしたら大変だと思って、それがこわさに逃げだしてしまいました。ほんとうに、あんな遺産をもう一つ二つもらったら、それこそわたしは破産してしまいますよ。もっとも、わたしはあそこですばらしい地面を、三千町歩ばかり手に入れましたがね!」
「ほらあの……イヴァン・ペトローヴィチは、亡くなったパヴリーシチェフさんの親類なんだよ……きみは親類の人を搜しておったようだね」イヴァン将軍は、公爵がふたりの話に異常な注意を払っているのに心づき、とつぜんそばへやって来て、小声にこうささやいた。
 将軍はそれまで、自分の長官のお相手をしていたが、もう前から公爵がたったひとり、のけものになっているのに気がついて、気をもみはじめたのである。彼はある程度まで、公爵を会話の仲間へ引き入れて、もう一度、上流の『名士』に紹介しようと思いたった。
ムイシュキン公爵は両親をうしなってから、パヴリーシチェフ氏に引き取って養われた人でございます」と彼はアングロマンの視線を迎えて、口を入れた。
「いやあ、どーうも愉快です」とこちらはばつを合わした。「ようく覚えています。さっきエパンチン将軍がご紹介をなすったとき、ああそうそうと思いました。顔さえ見覚えがありますよ。まったくあなたはあまりお変わりにならんようですな、わたしがあなたを見たのは、まだあなたが子供の時分でしたがね、あの時分、十か十一ぐらいでしたね。しかし、なんとなく面ざしに、昔を偲ばせるところがありますよ……」
「あなたは子供時分のぼくをごぞんじですって?」公爵はなにか非常な驚きを顔に表わしながら、こうたずねた。
「もうずっと昔のことですよ」とアングロマンは語をついだ。「あれはズラトヴェールホヴォ村で、あなたがわたしの従姉たちの世話になっておられたころです。わたしはかなりしばしば、ズラトヴェールホヴォ村へ出向いていましたが、――わたしを覚えてはおいででないでしょうな? 覚えていらっしゃらんのがあたりまえですよ……あなたはあの時分……なにか病気をしておいでのようでしたね。一度なぞ、あなたを見てびっくりしたことさえありましたよ……」
「なんにも覚えていません!」公爵は熱して、うけあった。
 それから、しごく落ちつき払ったアングロマンと不思議なほど興奮した公爵とが、さらにしばらく話し合ってみた末に公爵の養育を託された、パヴリーシチェフ氏の親族に当たる、ズラトヴェーホヴォに住んでいた中年の老嬢ふたりは、このアングロマンの従姉に当たることがわかった。この人もほかの人々と同様に、どういうわけでパヴリーシチェフ氏が、養い子にした幼い公爵の身の上をあんなに心配したか、その理由をすこしも説明することができなかった。
「それにあの当時、そんな好奇心をおこすのを忘れてたんですよ」といったが、それにしてもこの人はなかなか記憶がよかった。なぜなら、彼はマルファ・ニキーチシナという年上のほうの従姉が、幼い公爵に対して非常に厳重だったことまで、思い出したからである。
「ですから、一度などはあなたの教育方針について、その従姉と喧嘩したことさえありますよ。じっさい病身な子供を仕込むのに、一にも鞭二にも鞭というありさまでしたからなあ――そんなことは……ねえ、まったくその……」ところが、年下のほうのナタリヤ・ニキーチシナは、病身な子供に対してごく優しかった……「いまふたりとも(と彼は進んで説明した)××県に住んでいますが、はたして生きてるかどうか知らないです。××県には、パヴリーシチェフ氏がふたりの従姉に残した、ごくごくちんまりした領地があるのですよ。マルファのほうは(修道院へ入りたがっていたという話ですが、これはたしかに保証できません。ことによったら、だれかほかの人の話だったかもしれないです……ああ、そうだ、これはついこのあいだ、あるお医者さんの細君のうわさを聞いたんだっけ……」
 公爵は歓喜と感激に目を輝かせながら、こうした物語を聞いていた。ききおわると、彼はこの六か月間、内部諸県を旅行したとき、もとの養育者をさがし出して訪問する機会を捕えなかったのを、自分でもじつに済まないと思っていると、おそろしく熱した調子で告白した。毎日毎日、出かけたいと思いながら、やはりいろんな事情に妨げられたのである……しかし今度こそは……ぜひとも……たとえ××県でもかまわない、行ってこようと誓ったのである……
「じゃ、あなたはナタリヤさんをごぞんじなんですね! なんという美しい、なんという尊い心のかたでしょう! けれどマルファさんも……いや、失礼ですが、あなたはマルファさんを見誤っていらっしゃるようです! じっさいあのかたは厳格でした。けれど……あの当時のぼくみたいな……白痴には、まったく愛想を尽かさずにはいられないじゃありませんか(ひひ!)。だって、ぼくはあのころまったく白痴でしたからね、あなたはほんとうになさいませんか(はは!)。もっとも……もっとも、あなたは、あのころのぼくをごぞんじですね……しかし、どうしてぼくはあなたを覚えてないのでしょう。え、いったいどういうわけでしょう? じゃ、あなたは……ああ、なんということだろう、じゃ、ほんとうにあなたはパヴリーシチェフ氏のご親類なんですね?」
「だーいじょうぶ、間違いありません」とアングロマンは、公爵をじろじろ見まわしながら微笑した。「おお、ぼくはけっして……疑ったがために、あんなことをいったわけじゃありません。それに、まあこれがいったい疑われるようなことでしょうか(へへ!)……たとえすこしばかりでも? まったくほんのすこしばかりでも!! (へへ!)ぼくがあんなことをいいだしたのは、ほかじゃありません、亡くなったパヴリーシチェフ氏が、じつにりっぱな人だったからです! まったく度量の大きい人でしたねえ、ほんとうにぼくちかって申します!」
 公爵は息切れがした、というよりは、むしろ『美しい情愛のためにむせかえった』のである。これは翌朝アデライーダが、未来の夫S公爵との話の中でいったことなので。
「おやおや、これはどうも!」とアングロマンは笑いだした。「どうしてわたしは度量のおーきーな人の親戚になれないんでしょう?」
「ああ、とんでもない!」公爵はしだいしだいに興奮しながら、あわててまごまごした様子で叫んだ。「ぼくは……ぼくはまたばかなことをいいました、しかし……そうあるべきはずなんです、なぜって、ぼくは……ぼくは……しかし、ぼくはまたしても、辻褄の合わないことをいってますね! それに、こんな興味ある事実の前に……こんなすばらしい、興味のある事実の前に……ぼくのことなんか話して何になりましょう! それに、あんな度量の大きな人と比べると、なおのことですよ――だって、まったくあのかたは度量の大きな人でしたものね、そうじゃありませんか? そうじゃありませんか?」
 公爵はからだじゅうぶるぶるふるわしていた。なぜ彼がこれというわけもないのに、急にこう騒ぎだしたのか、なぜ話題のわりにして合点の行かないほど、感激したのか――それはなかなか解決しにくい問題であった。まあ、とにかく、こうした気分になっていたのだろう。彼はこの瞬間だれかに対して、何のためか知らないが、非常に熱烈な、感傷的な感謝の念をいだかんばかりであった、――おそらく、この感謝の念はアングロマン、いや、客ぜんたいに向けられていたのかもしれない。彼はもう『幸福の絶頂に』あったのである。アングロマンはとうとう一段と目をすえて、彼を見まわしはじめた。『老政治家』もおそろしく真顔になって彼を見つめていた。ベロコンスカヤ夫人は、彼のほうへ腹立たしげな視線をそそいで、くちびるを噛みしめていた。N公爵、エヴゲーニイ、S公爵、令嬢たちも、話をやめて耳を澄ましていた。アグラーヤは、ぎょっとしたらしい様子であった。リザヴェータ夫人は、もうなんのことはない、びくびくものであった。この母娘《おやこ》はじつに奇態な人たちである。彼らは自分たちで勝手に、公爵はひと晩じゅう黙ってすわってたほうがよかろうと決めておきながら、公爵がほんとうにひとりぼっちで片隅にすわって、自分の境遇に満足しきっているのを見ると、もうすぐ心配になってきた。もすこしのところでアレクサンドラが彼のそばへ行き、部屋を横切ってベロコンスカヤ夫人の隣にすわらせ、N公爵の仲間へ加えるところであった。ところが、とつぜん公爵が自分のほうから話しだすと、母娘はいっそう気をもみだしたのである。
「立派な人だったということは、あなたのおっしゃるとおりですよ」とアングロマンは、もうにこっともしないで、押しつけるような調子で言った。「さよう、さよう……あれはまったく美しい人でした! りっぱな、そして尊敬に価する人でした」としばらく息を休めてからいい足した。「それどころか、あらゆる尊敬を受くべき価値のある人、といってもいいくらいでしたよ」と彼は三たび沈黙ののち、さらに当てつけがましくつけ加えた。「そして……そして非常に愉快ですな、あなたがそんなに……」
「いつかカトリックの僧院長に関連した……奇妙な事件をひきおこしたのは、そのパヴリーシチェフ氏じゃないですか……カトリックの僧院長……なんという僧院長……だか忘れてしまったが、あの当時みんなしきりに騒いでたじゃありませんか」と急に思い出したように『政治家』がこういった。
「あれはジェスイット派の僧院長グロウです」とアングロマンは口を添えた。「さよう、じっさいロシヤでも珍しいりっぱな人でした。なんといっても門閥はよし、財産はあり、侍従官ではあるし、ずっとつづけて勤めていたら……ところがとつぜん勤務も何もすっかりほうり出してしまって、カトリックに改宗して、ジェスイット派になるなんて、しかもほとんど大ぴらで、なんだか得意らしい様子なんですからなあ。まったくいい具合におりよく死んだんですよ……ほんとうに。しかし、なかなか評判でしたよ……」
 公爵は思わずわれを忘れて、
「パブリーシチェフさんが………「ヴリーシチェフさんがカトリックに改宗したんですって? そんなことがあるものですか!」と彼はぞっとしたように叫んだ。「え、『そんなことがあるものか』ですって!」とアングロマンはものものしくいった。「それはすこし言いすぎじゃないですか、ご自分でもおわかりでしょうが……しかし、あなたは非常に故人を尊敬しておいでのようですから……じっさいあの人は好人物でしたよ。つまり、そのために、グロウなどという山師につけ込まれたんだと思います。ですが、その後このグロウー件について、わたしがどれほど骨折って奔走したか、まったくお聞かせしたいくらいですよ。どうでしょう」と彼はふいに老政治家のほうを向いた。「その連中が、遺産分配上の要求まで持ち出そうとしたのですよ。で、わたしはやむを得ず、その、非常手段に訴えました……でなければ、とても性根に入らないんですからね……まったく、やつらもさる者ですよ! 驚きいーるほどです! だが、ちょうどさいわい、この事件はモスクワでおこったものですから、わたしはすぐ伯爵のところへかけつけて、やつらの……性根に入るようにしてやりました……」
「こんなことをいっても、ほんとうになさらないかもしれませんが、あなたはぼくをすっかり悲観させておしまいになりました、びっくりさせておしまいになりました!」と公爵はふたたび叫んだ。
「お気の毒でしたな。しかし実際のところ、この事件はつまらない話です。そして、いつものお決まりで、つまらなく終わりを告げるはずだったんですよ。わたしはそう信じています。去年の夏」と、またしても老政治家のほうを向いて、「K伯爵夫人もやはり外国のなんとかいう、カトリックの教会へはいったそうです。どうもロシヤ人はあの……山師にかかったとき、じっと持ちこたえることができないようですね……ことに外国にいる人に、その傾向が顕著ですよ」
「それはつまり、ロシヤ人の倦怠から生じることだ……と思うね」と老政治家はおっかぶせるような調子でつぶやいた。「それにあの連中の伝道の仕方が……一種特別な優美なもので……なかなかおどかしがうまいよ。わしも三十二年こ(一八三二年)にウインでおどかされたが、もろくはかぶとをぬがないで、逃げだしてしまったよ、はは!・ まったく逃げだしたんだよ」
「だけど、わたしの聞いたところでは、あんたはレヴィーツキイ伯爵夫人といっしょに、任務を棄てて、ウインからパリヘ逃げだしたそうじゃありませんか、ジェスイット派から逃げだしたのじゃありますまい」とふいにベロコンスカヤ夫人が口をいれた。
「いや、それでもやはりジェスイット派を避けたことになりますよ、やはりね!」老政治家は愉快な追憶にからからと笑いながら、こう受けとめた。「きみはいまの若い人に珍しい宗教的なかたらしいですな」いぜんあっけにとられたように口を開いたまま、いっしょうけんめいに耳を傾けているムイシュキン公爵に向かって、彼は愛想よげにこういった。老政治家はちょっとわけがあって、公爵に非常に興味を感じたので、もっとよくこの青年の人となりを見きわめたかったらしい。
「パヴリーシチェフさんは明るい思想を持ったキリスト教徒でした」とつぜん公爵がこういった。「それですもの、あの人が……反キリストの宗旨に屈服するなんてはずはありません! カトリックは反キリストも同じことです!」急に彼は目を輝かして、一座をひっくるめて見まわすように、前方を見つめながら、こうつけ足した。「どうもこれはあんまりだ」と老政治家はつぶやいて、びっくりしたように、イヴァン将軍を見やった。
カトリックが反キリスト的信仰だというのはいったいどういうわけです?」アングロマンはいすの上でくるりとむきをかえた。「じゃいったいどんな信仰なんです?」
「第一に反キリストの宗旨です!」公爵は異常な興奮のさまで、度はずれた鋭い訓子で、ふたたびいいだした。「これが第一です。第二には、ローマン・カトリック無神論よりもっと悪いくらいです、これがぼくの意見です。ええ、これがぼくの意見なのです! 無神論は単に無を説くのみですが、カトリックはそれ以上に歩を進めています。つまり、みずから讒誣し中傷した、ゆがみくねったキリストを説いているのです、まるきり正反対のキリストを説いているのです! 反キリストを説いているのです、誓ってもいいです、まったくです! これはぼく自身まえからいだいている信念で、ぼくも自分でこの信念に悩まされたくらいです……ローマン・カトリックは世界統一の国家的権力なしには、地上に教会を確立することができないと宣言して、Non possumus(われ能わず、法皇の権利を主張する)と叫んでいます。ぼくの意見では、ローマン・カトリックは宗教じゃなくて、まったく西ローマ帝国の継続です。ここでは宗教をはじめすべてのものが、こういう思想に支配されています。法王は土地と地上の玉座を得て、剣を取りました。それ以来、たえず同じ歩調をつづけていますが、ただ剣のほかに虚言と老獪な行動と、欺瞞と狂妄と、迷信と悪業とを加えました。そして最も神聖で、正直で、単純で、熱烈な民衆の感情をもてあそび、なにもかもいっさいのものを、金と卑しい地上の権力に換えてしまいました。これでも反キリストの教義ではなかったでしょうか! こんなものの中から、どうして無神論が出ずにいられましょう? 無神論はなによりも第一に、この中から出て来たのです。ローマンーカトリックからはじまったのです、カトリ″ク教徒が、どうして自分を信じることができましょう? 無神論は彼らの自己嫌悪に基礎を固めたのです。無神論は彼らの虚偽と精神的無力との産物です! ああ、無神論! ロシヤで神を信じないものは、ただ特殊の階級のみです、先日エヴゲーニイさんのおっしゃった巧妙な比喩を借りると、根こぎにされた人たちばかりです。ところが、あちらでは、西ヨーロッパでは、民衆そのものの大部分が、信仰を失いはじめたんですものね――それも以前は暗黒と虚偽のためでしたが、今は教会とキリスト教に対する狂妄な憎悪の結果です」
 公爵は息をつくために語を休めた。彼はおそろしい早口で弁じ立てるのであった。その顔色は青ざめて、息切れがしていた。一同は顔を見合わせていたが、やがて老政治家が無遠慮に笑いだした。N公爵は柄付き眼鏡を取り出し、目も離さずにじっと公爵を見つめていた。ドイツ生まれの詩人は片隅からはい出して、気味の悪い笑みを浮かべながら、テーブルのほうへにじり寄った。
「あなたは非常におーおげーさで誇張していますね」とアングロマンはいくぶん退屈らしい、なにかはばかるような調子で、言葉じりを引きながらいった。「あちらの教会にだって、やはり尊敬に値する、徳のたかい代表者があります……」
「ぼくはけっして個々の代表者についていったわけじゃありません。ぼくはローマン・カトリックの本質を論じたのです。ぼくはローマというものを論じたのです。いったい教会がぜんぜん消滅するなんて、そんなことがありましょうか? ぼくはそんなことをいった覚えはありません!」
「同意です、しかしそんなことは知れきったことで、むしろ不必要ですよ……それは神学に属することがらです……」
「おお、違います! おお、違います! けっして神学のみに属することがらじゃありません、まったく違います! これはあなたがたのお考えになるより、はるかに深く、われわれに関連しているのです。これがただの神学的なことがらでない、ということを見抜きえないところに、われわれの誤りが含まれているのです!・ 社会主義というものは、やはりカトリック教と、カトリック精神の産物なんですよ!・ これは兄弟分の無神論と同じく、絶望から生まれたのです。そして、精神的の意味でカトリック教の反対に出て、みずから宗教の失われたる権力にかわって、渇ける人類の精神的飢渇をいやし、キリストのかわりに暴力をもって、人類を救おうとしているのです! これもやはり暴力を通じての自由です、これもやはり剣と血を通じての結合です!『けっして神を信じるな、財産を所有するな、個性を持つな、fraternity ou la mort(友愛か死か)二百万の蒼生よ!』と叫んでいます。それは彼らのすることを見ればわかります! そして、そんなことはわれわれにとって、たいして恐ろしくない、無邪気なから騒ぎだ、などと思ったら大変です。それどころか、今すぐ支柱が必要なのです、一分も猶予してはいられません!われわれが保存して来たロシヤのキリストを――彼らの今まで知らなかったロシヤのキリストを、西欧文明に対抗して輝かさなくちゃなりません! のめのめとカトリック教徒の罠にかかることなく、ロシヤの文明を彼らの前に捧げつつ、われわれはいま彼らの前に出現すべき時なのであります。そして、いまだれかのいわれたように、カトリック教徒は優美だなどと、いう人のないようにしたいものです……」
「失礼ですが、失礼ですが」アングロマンはおそろしく泡をくって、すこしおじけづいたようにあたりを見まわしながらいった。「あなたの議論は、じつに愛国心に満ちたりっぱなものです。しかし、非常に誇張されております……むしろこの問題は、他日に譲ったほうがよさそうですね……」
「いいえ、誇張されてはいません、かえって控え目すぎるくらいです。まったく控え目すぎるくらいです。なぜって、ぼくは表現の力がないから、しかし……」
「しつれいですが!」
 公爵は口をつぐんだ。彼はいすの上にそり返って、燃えるような目つきでアングロマンを見つめるのであった。
「きみはどうも、恩人の改宗事件にあまり驚きすぎたようですな」と老政治家はまだ忍耐を失わないで、もの優しくいった。「きみはことによったら……隠遁生活のために熱しやすくなったのかもしれませんて。もすこし世間へ出て、多くの人とまじわって、そして人からりっぱな青年だと、ちやほやされるようになったら、むろんそんな興奮もしずまって、世間のことは存外筒単なものだと、悟られるに相違ないですよ……それに、わしの見解では、あんな類の少ないできごとも、一部分はわれわれの飽満から、一部分は……倦怠のために生じるのですな……」
「そうです、まったくそうです」と公爵は叫んだ。「それはじつに優れたご意見です! まったく『倦怠のため、ロシヤの倦怠のため』です。もっとも、飽満のためではありません。むしろその反対に渇望から来ているので……けっして飽満の結果じゃありません。この点であなたは考え違いをしていられます! 単に渇望のためのみでなく、激情のためといってもいいくらいです、熱病のような渇望の結果なんです! それに……それに、ただ笑ってすますことのできるような些細な形式をとっている、などと思ってはいけません。生意気な言葉ですが、ことを未然に悟る力がなくちゃだめです! ロシヤ人は岸へ泳ぎついて、これが岸だなと信じると、もう有頂天に喜んでしまって、どんづまりまで行かなくちゃ承知しない、これはいったいどういうわけでしょう? あなたがたは今パヴリーシチェフ氏の行為にびっくりして、その原因を同氏のきちがいじみた、人の好い性格に帰しておしまいになりましたが、あれは間違っています! まったくそういう場合、単にわれわればかりではなくヨーロッパぜんたいが、わがロシヤ人の熱病にびっくりするのです。いったんロシヤ人かカトリックに移ったら、かならずジェスイット派にはいり。ます、それもいちばん堕落したのを選ってはいるのです。いったん無神論者となった以上は、かならず暴力をもって、――つまり、剣をもって、神に対する信仰の根絶を要求するようになります。これはどういうわけでしょう? どういうわけで、一時にこんなきちがいじみた真似をするのでしょう?あなたがた、おわかりになりませんか? それはこういうわけです。つまり、彼はここで見落とした父祖の国を、かしこに発見したのです。そして、これこそほん七うの岸だ、陸を見つけたぞと、夢中になって飛びかかって、接吻するのです! ロシヤの無神論者やジェスイット派は、単に虚栄心――見苦しい虚栄的な感情の結果ばかりでなく、精神的の痛み、精神的の渇きから生まれて来るのです。つまり、人生最貴の仕事、堅固な岸、父祖の国――こういうものに対する憧憬から出て来るのです。いまロシヤ人は、こうした父祖の国を信じなくなりましたが、それは今まで一度も見せてもらったことがないからです。ロシヤ人は、世界じゅうのどの国民より、いちばん容易に無神論者になりうる傾向をもっていまず! しかも、単に無神論者になるばかりでなく、必然的に無神論を信仰します。まるで新しい宗教かなんぞのように信仰します[#「信仰します」に傍点]。そして、自分が無を信仰してるってことには、すとしも気がつかないのです。われわれの渇望はこれほどまでになってるのです! 『自分の足下に地盤を持たないものこは、同様に神を持っていない』これはぼくの言葉じゃありません。ぼくが旅行中に出会った旧教派の商人の言葉です。じつのところ、いいかたはすこし違っていました。この商人は、『自分の父祖の地を見棄てたものは、自分の神も見棄てたことになる』といったのです。まったくロシヤで最上の教育を受けた人たちでさえ、鞭身派《フルイストフイチナ》へはしったことを考えてみましたらねえ……しかし、こんな場合、鞭身派《フルイストフイチナ》はどういう点において、虚無主義や、ジェスイット派、無神論などに劣るのですか? あるいはこんなものよりずっと深味があるかもしれませんよ! とにかく、憧憬はこんな程度にまで達したのであります!………おお、渇きに燃えるコロンブスの道づれに『新世界』の岸を啓示してください、ロシヤの人間に、ロシヤの『世界』を啓示してください、地中に隠された黄金を、宝を、彼に与えてください!・ 全人類の更新と復活とを、未来において啓示してください。しかも、それはただただロシヤの思想と、ロシヤの神と、キリストのみによって、なしとげられるものかもしれません。そのときこそは力強くして誠実に、智恵あって謙抑な巨人が、驚倒せる世界の前に……驚倒し畏怖せる世界の前に、忽然と立ちあがるのであります。なぜというに、彼らがロシヤから期待しているのは、ただ剣のみ――剣と暴力のみだからであります。彼らはおのれによって人を判ずるため、バーバリズムを抜きにしたロシヤを想像できないからであります。今までずっとそうでした。時を経るにしたがって、この傾向はますます顕著になっていきます! そして……」
 しかし、このとき、ふいに生じたあるできごとのために、公爵の熱弁は思いがけなく、なかばにして破られた。
 この長い長い突飛な発言、おそろしく混乱してぶつかり合いながら、たがいに先を争って飛び越そうとしている、奇怪なそわそわした言葉や、歓喜に満ちた思想の奔流は、外見上これという原因もなく、とつぜん興奮して来た青年の心中に、なにかしら危険な、なにかしら特殊なものが生じたのを、予言するかのようであった。客間に居合わす人々のうちでも、公爵を知っているすべての人は、彼の平生の臆病で控え目な性質や、どうかすると、容易に得がたいとさえ思われる独自の交際術や、上流社会の礼儀に対する本能的敏感などに不似合いな、今の奇怪な行為に一驚を喫し、危惧の念をもって(あるものは羞恥の念をもって)ながめていた。どうしてこんなことになったのか、彼らはどうしても合点がいかなかった。まさか、パヴリーシチェフ氏に関する報告が、原因となったのでもあるまい。
 婦人席のほうでは、きちがいでも見るように彼を眺めていた。ベロコンスカヤはあとで、『もう一分もつづいたら、わたしはもう逃げだそうと思っていた』と自白した。『御老人連』はのっけに度胆を抜かれて、ぼんやりしてしまった。長官の将軍は自席から不満そうにながめているし、工兵大佐はひっそりと静まり返っていた。ドイツ生まれの詩人は顔色まで変えたが、それでも人がなにかいうかと、あたりを見まわし、つくり笑いをしながらにたにたしていた。しかしこの不面目な事件も、あるいはもう一分くらいののちに、ごく穏かな自然な方法で納まったかもしれない。イヴァン将軍ははじめひどくびっくりしたけれど、第一番にわれに返ったので、いく度も公爵の話をとめようと試みた。が、どうも思うようにいかないので、今や彼は固い断固たる決心をもって、公爵をさして客のあいだを縫って行った。もう一分も待ってみて、ほかに仕方がなかったら、病気を楯にして、親友らしい態度で、公爵を部屋から連れて出ようと決心したのである。病気というのはまったく事実なのかもしれない、いや、イヴァン将軍は心の中で、たしかにそうと信じきっていたのである……けれども、事態はまったく別様に転化してしまった。
 最初、公爵が客間へ入ったとき、彼はアグラーヤにおどしつけられた支那焼の花瓶から、できるだけ遠く離れて腰をかけた。きのうアグラーヤにあんなことをいわれてから、どんなにその花瓶から遠のいても、どんなに災厄を避けるようにしても、かならずあすはこの花瓶をこわすに相違ないという、消しがたい一種の信念――荒唐無稽な一種の予感が、彼の心に巣くった――こんなことがほんとうにできようか!しかし、じっさいそれに相違なかったのである。ところが、夜会の進行につれて、別種な強い、しかし明るい印象が、彼の心を満たしはじめた。このことはもう前にいっておいたとおりである。そして彼は以前の予感を忘れてしまった。彼がパヴリーシチェフの名を聞きつけたとき、イヴァン将軍があらためて彼をアングロマンのところへつれて行って、紹介したとき――公爵はテーブルに近く席を変えて、ひじいすの上にいきなり腰をおろした。そのそばにはみごとな支那焼の大花瓶が花台の上に立っていた。それはほとんど彼のひじのすれすれになって、ほんの心持ちうしろのほうにあったばかりである。
 最後の言葉を発すると同時に、彼はとつぜん席を立って、なにかこう肩を動かすような身ぶりをする拍子に、不注意にも手を振ったのである……と、一座が声をそろえてあっと叫んだ! 花瓶ははじめ、老人連のだれかの頭の上に倒れてやろうかと、ちょっと決しかねたかのようにふらふらと揺らいだが、ふいに反対の方角ヘ――さも恐ろしそうにあやうく飛びのいた詩人のほうへ傾いて、床へどうと倒れた。囂然たる物音、一同の叫び、絨毯の上に散乱した破片、恐怖、驚愕――ああ、公爵の心の中はどうだったろう、言葉に現わすのも困難であるが、しかしその必要もない! とはいえこの一刹那、彼の心を打った一つの奇怪な感触――雑然としたその他の茫漠たる奇妙な感覚の中でも、特に強く、ぱっと明るく照らし出された一つの感触ばかりは、ちょっと説明しないわけにいかぬ。彼の心を射たのは羞恥でもなければ、不体裁なできごとでもない、恐怖でもなければ、ふいをうたれたためでもない。つまり、なによりも予言の的中ということであった! いったいこの想念の中に、なにか驚駭に価するものがあるだろうか? 彼はこれを説明することができなかった。ただ腹の底まで驚かされたのを感じたばかりで、ほとんど神秘的な畏怖をいだきつつ、突っ立っていた。その一刹那が過ぎたとき、急に目の前がぱっと開けたような気がした。恐怖に代わって光明と、喜悦と、狂歓がわきおこったのである。たんだか息もつまるような心持ちがしてきた、そして……しかし、その一刹那も過ぎた。さいわいにもこれは本物でなかった! 彼はほっと息をついで、あたりを見まわした。
 彼は自分の周囲にわきかえる混乱を、長いこと会得しかねたようである。いや、なにもかも見て取って、すっかり合点はいったけれど、まるでこのできごとにまるきり無関係な人のように、ぼんやり突っ立っていた。それはちょうどお伽噺の中に出る隠れ蓑を着た男が、よその部屋へ入りこんで、自分にとってなんの縁故もないけれど、興味のある人々をながめている、とでもたとえることができよう。彼は侍僕らがかけらを取り片づけるさまを見、人々の早口な会話を耳にした。そしてすっかり蒼ざめ、不思議な、とても不思議な顔つきをして、自分をながめているアグラーヤを見た。その目の中には、いささかも憎悪の色がなかった、いささかも憤怒の影がなかった。彼女はおびえたような、そのくせ同情のあるまなざしで公爵をながめていたが、ほかの人に向けられた目は妙にぎらぎら光っていた……彼の心臓は急に甘く柔らかにしびれてきた。彼は、人々がまるで何ごともなかったようなふうつきで、笑い声さえもらしながら座に着いたのを見て、はじめて不思議な驚きを感じた。一分ののちには、いっそう笑い声が高まった。もうしまいには、麻痺したように棒立ちになっている彼を見ながら、笑いだした。けれど、それはいかにも隔てのない、愉快げな笑いかたであった。多くの人は彼に向かって話しかけたが、その調子がいかにも愛想よく聞こえた。とりわけリザグェータ夫人がそうであった。彼女は笑い笑い、なにかしら、おそろしく親切な言葉をかけた。と

『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP049-072

に輝きはじめた。「いや、公爵、じつに偉大な光景でしたよ! まったくわしはすんでのことで、彼についてパリヘ行ってしまおうとした。そして、もちろん、『暑苦しい幽閉の島』へもいっしょに渡りかねなかったが、しかし、――悲しいかな! ふたりの運命は引き分けられた! われわれは別れ別れになったのです。彼は暑苦しい島へおもむきました。そこでは彼もおそろしい憂愁の瞬間に、モスクワで自分を抱きしめ、自分をゆるしてくれた哀れな少年の涙を、せめて一度ぐらい想いおこしたかもしれませんて。ところで、わしはただ規律一点張りで、友人の粗暴な言行よりほか、なにひとつ見いだすことのできない幼年学校へやられました……ああ! すべては塵芥のごとく散りうせてしまいました! 『わしはそちを母の手から奪うことができぬから、いっしょに連れてゆくわけに行かない!』とこう退却の日にいいました。『しかし、わしはそちのために、なにかしてやろうと思う』このとき彼はもう馬にまたがっていました。『わたしの妹のアルバムへ、なにか記念のために書いてくださいまし』ナポレオンが非常に沈んで暗い顔つきをしていたので、わしはびくびくしながらこういったところ、彼は振り返ってペンを命じ、アルバムを取って、『そちの妹はいくつになる?』と、ペンを手にしたままこうきくのです。『三つ』と答えますと、Petite fille alors(かわいい盛りだな)といって、アルバムへ次のように書きました。
  "Ne mentez jamais"     "Napoleon, votre ami sincere"

    けっして虚言を吐くな――なんじの親愛なる友ナポレオン
こんな場合にこんな忠言ですからな。じつになんともいえませんなあ、公爵!」
「そう、まったく意味深長ですね」
「この一葉の紙は金縁の額にガラスを当てて、一生、妹の客間のいちばん目立つ場所にかかっておりました、死ぬるまで、――妹はお産で死んだのです。今はどこにあるか知らんですが……しかし……やっ、大変! もう二時ですな! とんだおじゃまをしまし穴公爵! じつに度しがたい行為ですなあ」
 将軍はいすを立った。
「おお、どういたしまして!」と公爵は口の中でもぐもぐいった。「じつにおもしろいお話で……まったく……どうも愉快でした。ありがとうございます!」
「公爵!」急にある想念に打たれたかのごとく、とつぜんわれに返ったように、ぎらぎらと輝く目で相手を見つめながら、痛いほどその手を握りしめた。「公爵! あなたはじつにいい人だ、あなたはどこまでも正直だ、じっさいときどき、あなたが気の毒になるくらいです。わしはあなたをながめていると、万感が胸に迫ってくるです。おお、神さま、この人を祝福してください! そして、この人の生活がこれからはじまって、愛……の中に花を咲かせるように。わしの生活はもうおしまいになった! おお、ゆるしてください、ゆるしてください!」
 彼は両手で顔をおおいながら、急ぎ足に出て行った。その感奮の真実さを、公爵は疑うわけに行かなかった。とはいえ、老人が自分の成功に酔いながら、出て行ったこともよくわかっていた。それにしても、彼はやはりこんな感じがした。将軍は情欲といってもいいくらい、おのれを忘れてしまうほど、うそを愛するくせに、それでも忘我の頂点に立ったときですら、心の中で、『どうも先方はおれの言葉を信じてるらしくないぞ、いや、信じられるはずがないのだ』とこんな疑いをいだくような、うそつきのひとりであった。今の場合でも、将軍はもしかしたらふとわれに返って、無性に恥ずかしく思ったり、また公爵が自分に限りなき同情をいだいているのではないかと疑って、侮辱を感じたりしたかもしれない。『あの人をあんなにまで夢中にしたのは、惡いことじやになかったかしらん?』と公爵は気づかったが、急にがまんしきれなくなり、十分間ばかり、腹をかかえて笑った。そしてまた、こんなに笑ったりなどする自分を、責めようとしたが、しかしすぐ、なにも責めることはすこしもないと悟った。というのは、彼はかぎりなく将軍が気の毒だったからである。
 彼の予感は的中した。夕方彼は奇妙な短い、とはいえ断固たる手紙を受け取った。その中に将軍は、永久に彼と別れようと思うことや、彼を尊敬しかつ感謝してはいるけれど、その公爵からさえ、『それでなくとも、すでに不仕合せな人間の品格を貶すような同情のしるし』を受けたくないとのべていた。将軍がニーナ夫人のもとに閉じこもったと聞いたとき、公爵は彼のために安心したのである。しかし、前にも述べたとおり、将軍はリザヴェータ夫人のところでも、なにかとんでもないことをしでかした。ここでは詳しいことはぬきにして、この会見の真相を手短にいってみると、彼はリザヴェータ夫人を驚かしたあげく、ガーニャに対する辛辣な当てこすりで、夫人を憤慨さしてしまったのである。彼は見苦しくも、同家を突き出された。つまり、このためにああした一夜を明かして、翌日の朝をあんなふうにすごし、とうとうすっかり脱線してしまって、ほとんど気も狂わんばかりのありさまで、往来へ飛び出したのである。
 コーリャはやはりまだことの真相がはっきりわからないので、いかつい態度でおどしつけることができると考えた。
「え、いったいどこへ行くんです、どういうつもりです、おとうさん?」と彼はいった。「公爵のところはいやだとおっしゃるし、レーベジェフとは喧嘩をなすったし、金も持ってないんでしょう。ぼくんとこには、いつだってあったことがないし、もうわれわれは通りのまん中ですっかり豆の上にすわっちゃった」(豆の上にすわるとは、一文なしになること)
「豆の上にすわるより、豆を持ってすわったほうがいい気持ちだよ」と将軍はつぶやいた。「この……地口で、わしは皆をあっと感心させたものだ……将校仲間でな……四十四……一千……八百……四十四年だった、そうだ!………しかし、よく覚えておらん……ああ、思い出させてくれるな、思い出させて!『わが青春はいずくにありや、わがみずみずしさは今いずく』だ! なんという叫びだろう……だが、これはいったいだれが叫んだのかね、コーリャ?」
「それはゴーゴリの『死せる魂』の中にありますよ」とコーリャは答えて、おずおずと父を横目で見た。
「死せる魂! おお、そうだ、死せる魂だ! わしを葬るとき墓の上に、『死したる魂ここに横たわる!』と書いてくれんか。

   『悪名ぞわれを追うなる!』

これはだれがいったのかな、コーリャ?」
「知りませんよ、おとうさん」
「エロペーゴフがいなかったって! エロシカ・エロペーゴブが!」急に往来に立ちどまりながら、将軍は猛りたってわめいた。「しかも、それが息子の、現在血を分けた息子のいうことなんだ! エロペーゴフは十一か月のあいだわしのために、兄弟の代わりをしてくれた男だ。その男のためにわしは決闘を……ヴィゴレーツキイ公爵というわれわれの中隊長が、酒の席でこの男に向かって、『おい、グリーシャ、きさまはどこでアンナ(勲章)をもらったんだ、ひとつ承りたいもんだな?」とたずねたのさ。すると『わが祖国の戦場でもらったんです』と答えた。わしは大きな声で、『ひやひや、グリージャ!』とどなってやった。まあ、こうして決闘騒ぎがおこったんだ。その後……マリヤ・ペトローヴナ・ス……ストゥギナと結婚したが、とうとう戦場の露と消えてしまった……弾丸は、わしの胸にかけていた勲章に当たって、はね返って、その男の額に命中したのだ。『永久に忘れないぞ!』と叫んで、その場に倒れてしまった。わしは……わしは潔白に勤務してきたんだぞ、コーリャ。わしはりっぱに勤務してきたんだ。しかし、悪名が、――『悪名ぞわれを追うなる!』おまえとニーナは、わしの墓へ参ってくれるだろうな……『哀れなるニーナ』こうわしは以前呼んでいたよ、コーリャ、ずっとまえまだ結婚したばかりの時分だ。あれはほんとうにわしを愛してくれたっけなあ……ニーナ、ニーナ! わしはおまえの一生をなんということにしてしまったのだろう! おお、忍耐づよき心よ、なんのためにおまえはわしを愛することができるのだ! コーリャ、おまえのおかあさんの心は天使のようだ、いいか、ほんとうに天使のようなんだぞ!」
「それはぼくだって知ってますよ、おとうさん。おとうさん、家へ帰って、おかあさんのところへ行きましょう! おかあさんはぼくらのあとを追っかけてらっしゃいましたよ!おや、なんだって立ちどまっちゃったんです? いったいわからないんですか……おや、何を泣いてるんです?」
 コーリャ自身も泣きながら、父の手を接吻した。
「おまえはわしの手を接吻してくれたな、わしの……」
「ええ、そうですよ、おとうさんのです、おとうさんのです。それがなにか不思議なことでもあるんですか? ねえ、いったいなんだって往来のまん中でほえてるんです。それで将軍だの、軍人だのといわれるんですか。さあ、行きましょう!」
「神さま、この可憐なる少年を祝福してください。この子は
けがれたる……さよう、けがれたる老人に対して、自分の父親にたいして、礼儀を失わずにおります……ああ、おまえにもこんな子供ができるだろうが……|ローマ王《ル・ロア・ド・ローム》か……おお、『この家はわしののろいを、わしののろいを受けるんだぞ!』」
「ああ、ほんとうにいったい何ごとがおこったんです!」とコーリャは急にじりじりしはじめた。「いったい何ごとがおこったんです? なぜ今うちへ帰るのがいやなんです? いったい気でもちがったんですか?」
「わしがすっかり聞かしてやる、わしがおまえに聞かしてやる……わしがおまえにすっかり話してやるから、大きな声をするな、人が聞くじゃないか……|ローマ王《ル・ロア・ド・ローム》か……おお、息が苦しい、気分が悪い!

『乳母よ、おまえのお墓はどこにある!』これはいったいがれが叫んだのだ、コーリャ?」

「知りません、だれが叫んだのか知りません! すぐ家へ行きましょう、今すぐ! ぼくガンカをぶんなぐってやります、もし必要があったら……おや、またどこへ行くんですよう?」

 しかし、将軍は最寄りの家の玄関口へ彼をしょびいて行った。
「おとうさんどこへ? これはよその玄関ですよ!」
 将軍は階段に腰をおろして、いつまでもコーリャの手を引
くのであった。
「かがめ、おい、かがめというに!」と彼はささやいた。「おまえにすっかり教えてやるから……なんという悪名だろう……かがめ……耳を、耳を貸さんか、そっと耳うちをするから……」
「いったいなんですか!」とはいえ、やはり耳をさし出しながら、コーリャはひどくおびえた声でいった。
「|ローマ王《ル・ロア・ド・ローム》……」同じく全身をふるわせつつ、将軍はささやいた。
「なんですって! まあ、なんだか知らないが、|ローマ王《ル・ロア・ド・ローム》の一点張りですね……なんですか?」
「わしは……わしは……」しだいに強く『うちの男の子』の肩にしがみつきながら、将軍はふたたびささやいた。「わしは……おまえに……すっかり、マリヤ、マリヤ………ペ・トローヴナース……ス……ス……」
 コーリャは振りきって、今度は自分のほうから将軍の肩をつかみ、狂人のような目つきで父をにらんだ。老人は顔を紫色にして、くちびるも青ざめ、小刻みの痙攣がその顔を走るのであった。そして、だしぬけに前へのめって、静かにコーリャの手に倒れかかった。
「発作だ!」やっと、ことの真相に気づいたコーリャは、町じゅうへ響くような声で叫んだ。
      5

 じっさいヴァーリャは兄との会話で、公爵とアグラーヤの縁談に関する報知を、すこし誇張したのである。あるいは彼女は目ざとい女として、近い将来におこるべきことを洞察したのかもしれないが、あるいは煙のごとく消え散った空想(それはじっさい、自分でも心から信じてはいなかったのだが)を悲しむあまりに、災厄を誇大することによって、兄の心によけい毒を注ぎこんでやろうという、万人共通の痛快な心持ちを平気でなげうつことができなかったのかもしれない。そのくせ、彼女はその兄を心から同情し、愛してはいたのだけれど。しかし、なんであろうとも、彼女が自分の友達であるエパンチン家の令嬢たちからああした正確なしらせを得るというのは、ありそうもないことである。ただ、ほのめかすような言いまわしや、わざとらしい沈黙や、謎や、こんなものがあったばかりだ。しかし、アグラーヤの姉たちもことによったら、かえってヴァーリャのほうからなにか探り出そうと思って、わざとなにかしゃべったのかもしれない。またあるいはふたりの姉がちょっと友達を、――幼なじみの友達ではあるが、――からかってみたいという女らしい快感を、なげうつ気になれなかったのかもわからない。というのは、彼女らとてもあれだけの長いあいだには、ヴァーリャの意図をほんの端っこだけでも、のぞかずにはいられないからである。
 一方、公爵がレーベジェフに向かって、自分はなんにも知らせることができない、自分の身にはまるっきり変ったことは何ごともおこりはしなかったといったのも、まったく正し
いかもしれないが、同時にまた間違っていたかもしれない。実際のところ、すべての人の身の上に、なにか奇妙なことが生じたのである。なにもこれというほどのことはおこらないのだが、同時に非常に多くの変化が生じたようでもある。この現象を、ヴァーリャは持ち前の女らしい本能でかぎつけたのである。
 とはいえ、いったいどういうわけでエパンチン家の人々が、アグラーヤの身に非常な大事がおこって、彼女の運命が決せられんとしていると、急にみながみな、同じように考えだしたか? この問いに対して筋道の立った返答をするのは、しごく困難である。しかし、この想念がとつぜん、一時にすべてのものの心にひらめくやいなや、一同はさっそくこう主張しはじめた。こんなことはもうとうから見抜いていた、ずっと前からちゃんと承知していた、こんなことはもう『貧しき騎士』時代から、いや、もっと前から明瞭であった。ただあの時分はそんなばかばかしい話をほんとうにしたくなかっただけだ、と姉たちも同じように確言するのであった。リザヴェータ夫人はむろんだれよりもさきにすっかり見抜いてしまって、人知れず『胸を痛め』ていた。しかし、とうからにもせよ、そうでないにもせよ、急にこのごろ公爵のことを考えると、ばかに機嫌が悪くなりだした。それはつまり、公爵のことを考えると、何がなんだかわからなくなるからである。彼女の目の前には、ぜひとも解決せねばならぬ問題が横たわっていたが、その解決ができないばかりでなく、哀れな夫人がどんなにもがいてみても、その問題を自分の前へ明瞭に提出することさえできなかった。それはまったくむずかしい仕事であった。『公爵はいい人間か悪い人間か?全体としてこの事件はいいか悪いか? もし悪いとすれば(それは疑いもない話であるが)、どういうところが悪いのか? またもし、いいとすれば(これもまたありそうに思われる)、いったいどういうところがいいのか?』一家のあるじたるイヴァン将軍はもちろんまず第一に面くらったが、しばらくしてとつぜんこんなことを自白した。『まったくのところ、わたしはしじゅう、なにかそんなふうなことが頭の中をちらちらしていたよ。そんなことはない、けっしてないと思いながら、なにかの拍子でぱっとまた心に浮かんでくるのだ!』彼は妻のおそろしいひとにらみのもとにすぐ口をつぐんだ。しかし、朝のうちいったん口をつぐんではみたものの、晩にはまた妻とさし向かいのとき、またしても口をきらねばならぬはめとなって、出しぬけに一種特別な勇気を鼓したように、思いもよらぬ胸中の考えを吐き出した。『だが、ほんとうのところどうなんだろう?・:…・(沈黙)。もしほんとうだとすれば、じつに奇怪千万な話だ、それにはわたしも異存はない、がしかし……(ふたたび沈黙)。しかし、もし別な方面からまっすぐに事件をながめたら、公爵はじっさいめずらしい青年だよ、そして……そして、そして――いや、その、生まれだね、生まれがうちと親戚関係にもなっておる。から、目下零落しておる親戚の名前を維持するという体裁にもなるからね……つまり、世間の目から見て、いや、その見地から見ると、いや、つまり……もちろん世間がだね、世間は世間だ。しかし、なんといっても、公爵もまんざら無財産というでもなし……いや、それもほんのすこしばかりだがね。あの男には、その……その……その(長い沈黙ののち、ついにまったく言葉に窮す)……』夫の言葉を聞いた夫人は、とうとうがまんしきれなくなった。
 彼女の意見によると、このできごとは『ゆるすことのできないばかげた話で、犯罪といってもいいくらいだ。なんだか知らないが、ばかばかしい愚にもつかない妄想だ』というのである。なにより第一、『この公爵どのは病人で、第二に白痴、世間も知らなければ、社会上の地位も持っていない。こんな人間がだれに見せられるものか、どこへ世話ができるものか! なんだか知らないが、あるまじきデモクラートで、おまけに官等を持ってない。それに……それに………ベロコンスカヤのおばあさんがなんというだろう? そのうえ、今まであんな花婿をアグラーヤのために想像したり、さがしたりしたろうか?』この最後の論拠が、もちろん最も重大なのであった。母の心はこれを考えると、血と涙にあふれた。けれども同時に、心の奥のほうでなにやらうごめいて、『しかし、公爵のどんなところがおまえの要求と違っているのだ?』とささやくのであった。こうした自分自身の心の反抗が、夫人にとってなにより苦しかった。
 姉たちはどうしたわけか、アグラーヤと公爵との縁談が気に入って、べつにおかしいとも思わなかった。簡単にいえば、いつの間にかふたりは公爵の味方になっていたのである。しかし、ふたりともなにもいわないことに決めた。この家庭の中では、つねに次のようなことが感じられた。ほかでもない、なにか家族ぜんたいの論争の中心となる事件について、リザヴェータ夫人の反抗と固執とが頑強になればなるほど、かえってそのために、夫人はもう我を折りかけてるのではないか、という疑いを確かめるような具合になるのであった。しかし、アレクサンドラのほうはなんといっても、ぜんぜん沈黙を守るわけに行かなかった。もうずっと前から、母は彼女を相談相手にしているので、今度も絶えず彼女に呼び出しをかけて、その意見、というより、むしろ追憶を要求するのであった。つまり、『どうしてこんなことになったのか? なぜだれも気がつかなかったのか? どうしてあの当時、なんにも話がなかったのか?あの時のいやらしい「貧しき騎士」はどんな意味だったのか? なぜ自分ひとり、万事に心配をしたり、気をつけたり、先を見抜いたりしなければならなくなって、ほかのものはのんきに鳥の数を読んでいてもかまわないのだろう』などと際限がない。アレクサンドラは、はじめのうち大事をとって、ただエパンチン家の娘のひとりに、公爵を夫として選ぶのは、世間の目から見ても惡くなかろうという父の意見は、かなり正確なものだといったばかりである。が、しだいしだいに熱してきて、彼女はこんなことさえいい足した。公爵はけっして『おばかさん』ではない、一度だってそんなふうを見せたこともない。ところが、職業という点にいたっては、いく年かのちのロシヤで相当な人間の使命が那辺に存するか、――これまでのような勤務上の成功か、それともその他の事業か、そんなことは神さまにしかわかりゃしない。これに対して母はすぐさまアレクサンドラに『自由思想だ、そんなことはみな例の婦人問題にすぎない』とやりこめた。それから三十分ののち、夫人はペテルブルグへ出かけた。そしてベロコンスカヤのおばあさんを訪問に、カーメンヌイ島へおもむいた。この人は今ちょうどあつらえたように、ペテルブルグに居合わしたのである(もっとも、すぐモスクワへ帰るはずになっていたが)。『おばあさん』はアグラーヤの教母であった。
『おばあさん』は、リザグェータ夫人の熱病やみみたいな、きちがいじみた告白をすっかり聞き終わったが、とほうにくれた母親の涙にいささかも動かされたふうはなく、むしろあざけるように見つめていた。この女はおそろしい専制君主なので、他人との付きあいに(よしや非常に古くからのものであろうとも)、対等ということはどうしてもがまんできなかった。だから、リザヴェータ夫人をも三十年まえと同じように、自分のprotegee(被保護人)としてながめていたので、夫人の勝気な独立的の気性をゆるすことができなかったのである。彼女はいろいろな意見の中で、こんなことをいった。『どうもあんたがたはみんないつもの癖で、あまり先走りしすぎるようだ。そして、「蠅を象にして」騒いでいるらしい。わたしはどんなに耳をほじって聞いても、あんたの家でほんとうになにか重大なことがおこったとは信じられない。いっそほんとうになにかおこってくるまで、待ってたほうがよくはなかろうか。わたしの考えでは、公爵もれっきとした若い人だ。もっとも病身で変人で、あまり社会上の地位がなさすぎるけれど。しかしなにより感心できないのは、公然と情婦を持っていることだ』リザヴェータ夫人は、おばあさんが、自分の紹介したエヴゲーニイの失敗で、少々中っ腹になっていることを、よく承知していた。彼女は出かけて行ったときより、よけいにいらいらした気持ちで、パーヴロフスクの別荘へ帰って来た。そして、すぐ家のものに八つ当たりをはじめた。その理由は、第一にみんな『気がちがってしまった』、どこだって、ものごとをこんなふうに運んで行くところはありゃしない、うちばかりだというのである。『なんでそんなにあわてるんです? いったい何ごとがおこったというんです? わたしはどんなに目を皿のようにしても、ほんとうになにか変わったことがおこったとは、どうしても思われません! ほんとうになにかおこってくるまで、しばらく待ってらっしゃい! おとうさんの頭にとんでもない考えがちらちらするのは、今にはじまったことじゃない、蠅を象に仕立てあげるのはよしてちょうだい!』といったようなふうである。
 こうなってみると、気を静めて、冷静に観察しながら待っていたらよい、ということになるのだが、しかし、――悲しいかな! 平静は十分間とつづかなかった。平静に対する第一の打撃は、夫人がカーメンヌイ島へ行った留守中のできごとに関する報告であった(リザヴェータ夫人の出京は、公爵が九時と間違えて十二時すぎに訪問したその翌朝である)。ふたりの姉は、母のじれったそうな質問に対して、ことこまかに答えたすえ、『おかあさまの留守中に、けっしてなにもおこりはしなかったのよ』とつけ足した。それはほかでもない、公爵の来訪である。アグラーヤは長いこと、三十分ばかりも出てこなかったが、出てくるやいなや、すぐ公爵に将棋の戦を挑んだ。ところが、将棋のほうは駒の動かしかたも知らなかったので、公爵はすぐアグラーヤに負かされてしまった。彼女はおそろしくはしゃぎだし、公爵の無器用なのをこっぴどくやっつけて、さんざん彼をからかうので、しまいには見るも気の毒なくらいになった。それから、彼女はまたカルタの勝負を申し込んだ。ところが今度はまるで反対の結果を呈した。公爵はカルタのほうで非常な力量を示して、『まるで……まるで大先生のように』達者に戦った。とうとうアグラーヤはずるいことをはじめて、札をすり変えたり、公爵の鼻先で場札を盗んだりしたが、それでも公爵はいつもいつもつづけざまに五度ばかり、アグラーヤを負かしてしまった。彼女はおそろしく向かっ腹を立てて、すっかり前後を忘れ、公爵に向かってひどい当てこすりや、無作法な言葉を吐きだしたので、公爵もついにはもう笑いやめてしまった。彼女が、『あなたがいらっしゃるあいだ、あたしはこの部屋に足踏みしません。それにあんなことのあったあとで[#「あんなことのあったあとで」に傍点]家へ出入りなさるのは、――おまけによる夜中いらっしゃるのは、あなたとして恥ずべきことだわ』といったとき、彼はすっかり顔の色をなくしてしまった。アグラーヤはこういうなり、ばたりと戸をしめて出て行った。公爵は姉たちがいろいろに慰めたけれど、まるで葬式から帰った人のようなふうで立ち去ったのである。
 公爵が去ってから十五分もたったころ、とつぜんアグラーヤが二階から露台へかけおりた。あんまり急いだので、目を拭く間もなかったくらいである。彼女の目は泣きはらされていた。そんなに急いでかけおりたのは、コーリヤが針鼠を持って来たからである。一同はその針鼠をながめた。コーリャは人々の問いに対して、この針鼠は自分のではない、自分はいまひとりの友達、同じ中学生といっしょに歩いているのだと答えた。友達というのは、レーベジェフの息子のコスチヤで、手斧を下げてるのが恥ずかしいといって、家へ入らないで往来で待っているのだ。この針鼠と手斧は、たったいま通りすがりの百姓から買ったのである。百姓はその針鼠を五十コペイカで売った。手斧のほうはふたりの少年が、無理に売ってくれとねだったのである。それはついででもあるし、たいへんいい手斧だったからなので。そのときアグラーヤは、今すぐその針鼠を売ってくれと、ひどく熱心にコーリャに迫った。そして、たしなみも忘れてしまって、コーリャを『かわいい子』とまで呼んだ。こちらは長いあいだうんといわなかったが、とうとう閉口して、コスチヤーレーベジェフを呼びこんだ。コスチャはほんとうに手斧を持ってはいって来たが、すこぶるきまり悪そうな様子であった。ところがだんだん聞いてみると、針鼠はふたりのものでなく、ペトロフとかいう第三の少年の所有に属していることがわかった。この少年は、また別な金に困っている第四の少年から、シュロッセルの歴史を安く買うつもりで、ふたりの少年に金を託して依頼したのである。で、ふたりはシュロッセルの『歴史』を買いに出かけたが、途中がまんできなくなって針鼠を買った。こういうわけで、つまり針鼠も手斧もこの第三の少年のものであり、『歴史』のかわりとして、この少年のところへ運ばれているのであった。しかし、アグラーヤがあまりしつこく迫るので、ついにふたりは針鼠を売ることにした。
 針鼠を手に入れるやいなや、アグラーヤはコーリャの助けを借りて、それを編み籠に入れ、上からナプキンをかけると、コーリャに向かって、今からすぐどこへも寄らないで、針鼠を公爵に届けてほしい、そして彼女の『深厚なる尊敬のしるし』として、受け取ってもらうように頼んだ。コーリャは大喜びで承知して、ぜひ届けますと誓いまで立てた。が、すぐに、『いったい針鼠のような贈り物に、どんな意味があるんです?』とたずねた。アグラーヤは、そんなことはあんたの知ったことじゃありません、と答えた。すると彼は、きっとなにかの諷刺が含まれているに相違ない、といった。アグラーヤはかっとなって、あんたはただの小僧っ子です、それっきりです、と吐き出すようにいった。コーリャはすぐに言葉を返して、もしぼくがあなたを婦人として尊敬しなかったら、そして自分の信念を尊重しなかったら、そんな侮辱に対する返事の仕方を知ってます、それは今すぐにもお目にかけることができます、といった。しかし、とどのつまり、コーリャは大得意で針鼠を持って行くことになった。コスチャもそのあとからかけだした。アグラーヤは、少年があまり籠を振りまわすのを見てたまらなくなり、露台から大きな声で、『後生だからコーリャさん落とさないでちょうだい、いい子だからね!』と、いま喧嘩したのはうそのような調子で叫んだ。コーリャも立ちどまって、喧嘩なぞしたのはだれだといったように大のみこみの調子で、『いいえ、落としませんよ、安心してらっしゃい!』とどなり、またいっさんにかけだした。アグラーヤはそのあとで腹をかかえて笑いながら、大満足のていで、居間へかけこんだが、それから一日じゅう無性にはしゃいでいた。
 この報告は、すっかりリザヴェータ夫人を動顛さしてしまった。ただ見たところ、なんでもないことのようだが、もうすっかりそんな気分になってしまったものとみえ、夫人の心痛は極度に達した。まずなにより気がかりなのは針鼠である。『いったい針鼠になんの意味があるのだろう? どんな符号があるんだろう? いったいなんの意味だろう? なんの合図なんだろう? どんな電報になるのだろう?』そのうえ気の毒にも、偶然その場へ居合わしたイヴァン将軍が、とんでもない返答をして、なおぶちこわしをやったのである。彼の考えによると、電報なんてものはけっしてありゃしない、針鼠は、――『要するに針鼠だ、それだけのことじゃないか。まあ、そのほかに友誼とか、侮辱を忘れての仲直りとか、まあ、それくらいの意味は持ってるかもしれん。つまり、これはただのいたずらだ、ただし罪のないゆるすべきいたずらだよ』
 ちょっと括弧の中で注意しておくが、彼はすっかりほんとうのことをいい当てたのである。さんざん愚弄されてアグラーヤのもとを追い出された公爵は、家へ帰っても、いいようのない沈みきった絶望の中に三十分ばかり過ごしたが、そこへひょっこりコーリャが針鼠を持ってやって来た。と、さっそくくもった空が晴れわたって、公爵はまるで死人が生き返ったようになった。コーリャにいろんなことを根掘り葉掘りして、そのひとことひとことを咀嚼しながら、十ぺんずつぐらい聞きかえすのであった。そして子供のように笑っては、にこにこ明るい目つきで自分を見つめているふたりの少年の手を、絶え間なく握りしめた。つまり、アグラーヤが彼をゆるすということになり、したがって公爵は、今晩すぐにもまた彼女の家へ行ってかまわないことになった。これが彼にとっては重大なこと、というよりは、むしろすべてなのであった。
「ぼくたちはまだほんとうに子供ですねえ、コーリャ! そして……そして……ぼくたちが子供だってことは、じつに嬉しいですね!」ついに彼は夢中になってこう叫んだ。
「なんのかのということはない、あのひとはあなたを恋してるんです、公爵、それっきりですよ!」コーリャはえらそうにもったいぶった調子で答えた。
 公爵はかっとあかい顔をしたが、そのときはひとことも口をきかなかった。コーリャはただからからと笑って、手をうっただけである。一分ばかりたって、公爵も声高に笑いだした。彼はそれから晩までというもの、もうよほどたったろうか、晩までにはだいぶあるだろうかと、五分ごとに時計を見ていた。
 しかし、気分が理性にうちかった。リザヴェータ夫人はとうとう待ちきれなくなって、ヒステリーの発作に負かされてしまった。夫人は夫や娘たちが言葉をつくしてとめるのも聞かないで、猶予なくアグラーヤを迎えにやった。それは娘にぎりぎり結着の質問を発して、明瞭なぎりぎり結着の返事を聞くためであった。『こんなことは一時にすっかり片づけてしまって、肩を抜かなくちゃならない、そして以後おくびにも出さないようにしてもらうんです! そうでないと、わたしは晩までも生きちゃいられません!』と夫人はいった。このときはじめて人々は、事件がわけのわからないほどめちゃめちゃになってしまったことを悟ったのである。しかし、わざとらしい驚きと、公爵をはじめ、そんなことをたずねるすべての人々に対するあざけりと、――こんなもののほか、なにひとつアグラーヤから絞り取ることができなかった。リザヴェータ夫人は床についた。そして、公爵の訪ねて来る時刻に、やっと茶のテーブルへ出たばかりである。彼女はじりじりしながら、公爵を待ち構えていたので、彼がやって来たとき、夫人はほとんどヒステリーをおこさんばかりのありさまだった。 公爵自身もおずおずと、手探りでもするような恰好で入って来た。奇妙な微笑を浮かべながら、一同の顔色をうかがう様子は、何か質問でも発しているようであった。それは、アグラーヤがまたしても部屋にいないのを見て、入って来るやいなやぎくりとしたのである。その晩、他人はひとりもまじらないで、一家水入らずであった。S公爵は、エヴゲーニイのことでまだペテルブルグにいた。『せめてあの人でもいてくれたら、何か意見があろうに』と夫人はこの人を待ちこがれていた。イヴァン将軍はおそろしく心配そうに顔をしかめているし、姉たちはまじめな様子で、申し合わせたように黙りこんでいた。とうとう夫人は出しぬけに、勢い猛に鉄道の不備をののしって、挑むような断固たる態度で公爵を見やった。
 悲しいかな! アグラーヤは出て来なかった。で、公爵は身の置き場がないような気がした。彼はすっかり狼狽してしまって、やっと呂律《ろれつ》をまわしながら、鉄道の修理は非常に有益なことだという意見を述べかけたが、いきなりアデライーダがふきだしたので、公爵はまた面目をつぶしてしまった。この瞬間アグラーヤがはいって来た。落ちつき払って、ぎようさんなうやうやしい会釈を公爵にしたのち、丸テーブルのそばのいちばん目につく場所へ、揚々と腰をおろした。彼女はいぶかしげに公爵を見やった。一同は、ついにあらゆる疑惑の氷解すべき時が来たのを悟った。
「あなたあたしの針鼠を受け取って?」しっかりした、ほとんど腹立たしげな調子で、彼女はたずねた。
「受け取りました」と公爵はまっかになって、はらはらしながら答えた。
「このことについてどうお考えですか、すぐここで説明してくださいませんか。これはおかあさんはじめ、家族ぜんたいの心を安めるために必要なことですから」
「これ、アグラーヤ……」と将軍は急に心配しはじめた。
「それは、それは常軌をはずれてるというものです!」と、夫人は急になにやらぎょっとしたように叫んだ。
「常軌なんてものは、この場合すこしもなくってよ、おかあさま」と娘はさっそく厳しい声で答えた。「あたしはきょう公爵に針鼠を贈ったから、公爵のご意見がうかがいたいんですの。いかがでしょう、公爵?」
「といって、つまり、どんな意見ですか、アグラーヤさん?」
「針鼠についてよ」
「では、つまり、その、なんですね、アグラーヤさん、あなたはぼくがどんなふうに……針鼠を……受け取ったかってことが知りたいのですね……いや、その、ぼくがこの贈り物を、……つまり針鼠をどんなに見たかといったほうが、適当かもしれません。つまり……ぼくの考えではこういう場合……手短にいえば……」
 彼は息がつまって、口をつぐんでしまった。
「なんだか内容《なかみ》のないお話ですこと」五秒間ほど待ったのち、アグラーヤはこういった。「じゃ、よござんすわ、針鼠はそれでよしにしましょう。だけど、つもりつもった誤解を一掃する機会が、やっとのことで来てくれて、ほんとうに嬉しいわ。失礼ですが、あなたご自身の口からじきじき聞かしてくださいな。あなたはあたしと縁組みしようとしていらっしゃいますの?」
「まあ、なんというこった!」という叫びが夫人の口をもれて出た。
 公爵はびくっと身をふるわせて一歩すさった。将軍は棒立ちになるし、姉たちは眉をひそめた。
「公爵、うそをつかないで、ほんとうのことをいってください。あなたのおかげで、あたしは妙なことばかりしつこくきかれるんですからね。ああいう質問にも、なにか根拠があるはずじゃありませんの? さあ!」
「ぼくはそんなことしやしません、アグラーヤさん」と公爵は急にいきいきしながら答えた。「しかし……あなたご自分でもごぞんじのとおり、ぼくは非常にあなたを愛し、かつ信じています……ふフでもやはり……」
「あたしがきいてるのは、そんなことじゃありません。あなたあたしと結婚したいんですか、したくないんですか?」
「したいです」公爵は胸のしびれるような思いでこう答えた。
 一座の激しい動揺がこれにつづいた。
「そんなことは見当ちがいな話ですよ、きみ」とイヴァン将軍はおそろしく動顛しながら、いいだした。「そりゃ……そりゃほとんど不可能ですよ、もしそうだとすれば、グラーシャ(アグラーヤの愛称)……失礼ですが、公爵、失礼ですが、きみ!………ねえ、リザヴェータ!」と彼は助けを求めるように妻のほうを向いた。「なにしろ……ものの核心をつかまなけりゃ……」
「わたしはおことわりします、わたしはおことわりします!」と夫人は両手を振った。
「おかあさま、あたしにも口をきかしてくださいな。だってこんな場合、当人のあたしにだって、なにかの意味がありますものね。あたしの運の定まる非常な時ですものね(彼女はじっさいこのとおりないいまわしをしたのである)。だから。あたしも自分で知りたいんですの。そのうえ、みんなの前だからなお嬉しいわ……ねえ、公爵、失礼ですが、もしあなたがそういう『考えをいだいて』らっしゃるとすれば、なんであたしに幸福を与えようとお思いですの、聞かしてくださいな?」
「ぼくはまったく、なんとお答えしていいやらわからないん。です、アグラーヤさん。この場合……この場合なんとお答えしたらいいのでしょう? それに……そんな必要がありますかしらん?」
「あなたはどうやらのぼせて、息切れがするようですのね。すこし休んで元気を回復なさいな。水でもめしあがったらいかが。もっとも、今すぐお茶をさしあげますけど」
「ぼくはあなたを愛しています。アグラーヤさん、非常に愛しています、あなたひとりを愛しています……どうぞ冗談をいわないでください。ぼくは非常にあなたを愛しているのです」
「けれど、これは重大なことがらですからね。あたしたちは子供ではありませんから、実際的に物ごとを見きわめなくちゃなりません……おいやでしょうが、ひとつ合点のいくように説明してくださいな、いったいあなたの財産はどれくらいなのでしょう?」
「これ、これ、アグラーヤ! おまえはなんです? そんなことはどうだっていいんだよ、そんなことは……」とイヴァン将軍はおびえたように口走った。
「なんてつらよごしだろう!」夫人は高い声でつぶやいた。
「気がちがったのよ!」と、これも大きな声でアレクサンドラがつぶやいた。
「財産……つまり金ですね?」と公爵はあきれた。
「そうですの」
「ぼくのところには……ぼくのところには、いま十三万五千ルーブリあります」と公爵はまっかになってつぶやいた。
「たった?」とアグラーヤはあかい顔もせずに、大きな声で露骨な驚きの声を発した。「もっとも、それだけあればまあまあいいでしょう。ことに経済にやって行きましたらね……勤めでもなさるおつもり?」
「ぼくは家庭教師の試験を受けたかったんですが……」
「たいへん結構ですわ。むろん、それは非常に家計の助けになりますわ。侍従武官になる気がおありですの?」
「侍従武官? ぼくはそんなことは考えてもみなかったですが、しかし……」
 けれども、このときふたりの姉はとうとうがまんしきれなくなって、ぷっと吹きだした。アデライーダはもうさきほどから、ぴくぴくと引っつるアグラーヤの顔面筋肉に、こらえきれない激しい笑いをけんめいに押し殺しているような表情を認めていた。アグラーヤは笑いこけるふたりの姉を、こわい顔をしてにらんでいたが、自分でも一秒とがまんできなくなり、きちがいじみた、ほとんどヒステリックな哄笑を発した。ついに彼女は飛びあがって、部屋をかけだしてしまった。
「わたしははじめっから、あんな笑いよりほかなんにもないだろうと思ったわ!」とアデライーダは叫んだ。「はじめつから、針鼠のときから!」
「いいえ、もうこんなことはゆるしておけません、ゆるしておけません!」とつぜん夫人は満面に怒気を浮かべ、足早に娘の跡を追ってかけだした。
 そのあとからふたりの姉もすぐに走り出た。部屋の中には公爵と将軍だけが残った。
「これは、じつに……きみはこんなことを予想できましたか、公爵?」将軍は自分でも何をいおうとしているのかわからないようなふうで、言葉鋭くこう叫んだ。「いいや、まじめに、まじめにいってみたまえ!」
「アグラーヤさんがぼくをからかったのです。それは自分にもわかりますよ」と公爵は沈んだ調子で答えた。
「待ってくれたまえ、わたしはちょっと行ってくるから、きみ、待ってくれたまえ……なぜって……ねえ、公爵、せめてきみでも、ほんとうにきみだけでも、得心のいくように聞かしてくれたまえ。どうしていったいこんなことがおこったんだろう。全体にひっくるめて、こんなことにどういう意味があるのかしらん? え、察してもくれたまえ、――わたしは父親だよ、なんといってもあれの父親だ。それだのに、何がたんだかさっぱりわけがわからん、ほんとうにきみでも話して聞かせてくれないと……」
「ぼくはアグラーヤさんを愛しています。そして、あのひとはそれを知っているんです、そして……ずっと前から知っているらしいのです」
 将軍は肩をすくめた。
「奇態だ、奇態だ!……そして、非常に愛してるのかね?」
「非常に愛しています」
「奇態だ、なにもかもわたしには奇態に見える。じつになんといいようもない、思いもよらん打撃だ……じつはね……きみ、わたしのいうのは財産のことじゃないよ(もっとも、いま少し余計あるものと期待してはいたがね)。しかし、わたしにとっては娘の幸福が……で、結局、きみはその幸福を……なんといったらいいか……与える能力があるかねえ? そして……そして……あれはいったいなんだね? あの子のほうでは冗談なのか真剣なのか? つまり、きみのことでなく、あれのことをいってるんだよ」
 このとき戸のかげから、アレクサンドラの声が聞こえた。父を呼んでいるのであった。
「待ってくれたまえな、きみ、待ってくれたまえ! 待っておる間に、よく考えてくれたまえ、わたしはすぐに……」彼はせかせかとこういって、まるでおびえたようなふうつきで、アレクサンドラの声のするほうへかけだした。
 行ってみると、妻と娘はたがいにかたく抱きあって、たがいに涙で顔を濡らしあっていた。それは幸福と、歓喜と、和解の涙であった。アグラーヤは母の手、頬、くちびるを接吻していた。ふたりは熱情をこめて、ひしと寄り添うているのであった。
「ほらね、ちょっとこの娘をごらんなさいよ、あなた、もうこのとおりですの!」と夫人はいった。
 アグラーヤは、涙に泣きぬれた幸福そうな顔を、母の胸から放して、父親のほうをひょいと見上げると、高い声でからからと笑いながら、そのそばへ飛んで行き、しっかと抱きしめて、いく度も接吻した。それからまた母のほうへ飛んで帰って、今度はだれにも見られないように、すっかり母の胸に顔を隠し、すぐにまた泣きだすのであった。夫人は自分のショールの端で娘を隠しながら、「まあ、いったいおまえはわたしたちをどうしようというの、おまえはほんとにむごい娘ですよ、まったく!」と夫人はいったが、その声はまるで、急に息が楽になったように、さも嬉しそうであった。
「むごいんですって? ええ、むごいんだわ!」とつぜんアグラーヤが引き取った。「やくざなわがまま娘よ! おとうさまにそういってちょうだい。ああ、そうそう、おとうさまはそこにいなすったのね。おとうさま、いらしって? 今のを聞いて?」と彼女は涙のひまから笑いだした。
「おお、おまえは家の秘蔵っ子だ!」と将軍は幸福に満面をかがやかせながら、彼女の手を接吻した(アグラーヤはその手を引っこめようとしなかった)。「してみると、おまえはあの青年を愛してるんだな……?」
「いや、いや、いや! がまんできなくってよ……あんたがたの『青年』はどうしてもがまんできなくってよ!」アグラーヤは急に熱くなって、首を上げた。「おとうさん、もしいま一度そんな失礼なことをおっしゃったら……あたしまじめにいってるのよ、よくって、まじめにいってるのよ!」
 じっさい、彼女はまじめにいっているのであった。顔じゅうまっかにして、目さえきらきら光りだしたほどである。父は後句《あとく》につまって、きょろきょろしていたが、夫人が娘のかげから合図をしてみせたので、彼は『いろんなことをきくな』という意味だと悟った。
「じゃ、おまえ自分の好きなようにおし、おまえの心任せにするさ。あの人はいまひとりで待ってるが、もう帰ったほうがいいと婉曲に匂わせようかね」
 今度は将軍が夫人に目くばせしてみせた。
「いいえ、いいえ、それは余計なことだわ、それに『婉曲』なんてなおさらいやだわ。おとうさまひとりであの人のところへ出てちょうだい、あたしあとからすぐ出ますから。あたしあの……『青年』におわびをしたいと思うの、だって、あの人に恥をかかしたんですもの」
「そりゃひどい恥をかかせたよ」とイヴァン将軍は大まじめで相づちを打った。
「じゃあね……いっそみんなここにじっとしててちょうだい、あたしがさきにひとりで行くから、あとからすぐ出てちょうだい、そのほうがいいわ」
 彼女は戸口まで進んだが、急に引っ返して、
「あたし、笑ってしまいそうだわ! あたし笑い死にしそうだわ!」と哀れな声で訴えた。
 しかし、すぐにくるりと向きを変えて、公爵のほうへかけだした。
「ねえ、いったいどうしたというんだろう? おまえ、なんと思うね?」と将軍は早口にたずねた。
「口に出すのもおっかないようですよ」と夫人も同様に早口でいった。「けれど、わたしの考えでは、わかりきったことです」
「わたしの考えでもわかりきったことだ。火をみるより明らかだ。恋してる!」
「恋してるどころじゃありません、首ったけですわ!」とアレクサンドラが応じた。「だけど、まあ、相手もあろうにねえ?」
「ああ、神さま、あれの運命がそうなってるなら、仕方がありません、あの子を祝福してやってください!」と夫人はうやうやしく十字を切った。
「つまり、運命なんだね」と将軍が確かめるように言った。「運命ならのがれるわけにはいかないよ」
 で、一同は客間へおもむいた。と、ここでもまた思いがけない光景が彼らを待っていた。
 アグラーヤは自分で恐れていたように、公爵に近寄りながら、吹きださなかったばかりか、ほとんどおずおずしたようなふうで、こういいだした。
「どうかこのばかで、意地悪な、わがまま娘をゆるしてください(と彼女は公爵の手を取った)。そして、あたしたちがみんな、心からあなたを愛してるってことを信じてください。あたしがあなたの美しい……善良で単純な心持ちを、生意気に笑いぐさなんかにしたのも、ただ子供のいたずらだと思ってゆるしてくださいまし。あんなばかばかしい、なんの足しにもならないようなことを主張したのをゆるしてくださいね」
 この最後の一句を、アグラーヤは特に力を入れていった。
 父や母や姉たちが客間へはいったとき、これらすべてを見もし、聞きもすることができた。で、この『なんの足しにもならないようなばかげたこと』は、一同を驚かしたのである。が、それよりも、こういったときのアグラーヤのまじめな気分は、なおさら人々をあきれさした。一同は不審そうにたがいに顔を見合わせた。しかし、公爵はこの言葉の意味を悟らなかったらしく、まるで幸福の頂上に立つたかのようであった。
「なんだってそんなことをおっしゃるんです」と彼はつぶやいた。「なんだってあなたは……そんな……おわびなんかなさるんです……」
 彼はおわびなんかいっていただく資格はない、とさえいおうと思った。あるいは彼とても『なんの足しにもならないようなばかげたこと』という意味を、悟ったかもしれない。けれど、畸人の常として、むしろそれを喜んで聞いたかもしれない。だれにも妨げられることなしに、アグラーヤのところへ遊びに来て、彼女との対談や、同席や、散歩を許してもらうということだけでも、彼にとっては疑いもなく幸福の頂上であった。そして、一生涯それだけで満足していたかもしれぬ! (この満足をリザヴェータ夫人は心の中で恐れていた。夫人は彼の人となりを見抜いていた。彼女は心の中でいろんなことを恐れていたけれど、思いきって口へ出すことができなかったのである)
 その晩、公爵がどのくらいいきいきと元気づいたか、想像するさえ困難であった。彼は傍《はた》から見ていても愉快なほど、嬉しそうだった――と、あとで姉たちがいった。彼はやたらにしゃべりだした。こんなことは半年以前、はじめてエパンチン家の人々と近づきになった朝以来、絶えてなかったことである。ペテルブルグへ帰って来てから、彼は目立って無口になった。しかも、それはわざとなのであった。つい近ごろみんなの前でS公爵に向かって、自分はどうしても自己を抑制して、沈黙を守らなくちゃならない、なぜなら、自分は思想を表現することによってその思想を辱しめているが、そんなことをする権利を与えられていないからだ、といったことがある。
 ところが、この晩はほとんど公爵ひとりしゃべりつづけて、いろんな話をした。人々の質問に対しては、明瞭詳細に、しかも嬉しそうに受け答えをした。しかし、恋人の話らしいところはすこしも彼の言葉の中にうかがわれなかった。仝体におそろしくまじめで、どうかすると、あまりひねくれすぎた思想が感じられたほどであった。公爵は自分の人生観だの、胸中に深く秘めている観察だのを披瀝した。で(これはあとで、人々が異口同音にいったことだが)、もしその説きかたがあれほど『りっぱ』でなかったら、むしろこっけいにさえ感じられたかもしれない。将軍は全体に、まじめな話題が好きであったが、リザヴェータ夫人とともに、これではあまり講義じみると考えて、しまいにはふたりともいやな顔をしはじめたほどである。しかし公爵はすっかり有頂天になって、果ては思いきっておかしい失策なぞ二つ三つ話し、自分から先に立って笑いだした。ほかの人たちは失策談そのものより、公爵の嬉しそうな笑い声がおかしくて笑いだした。アグラーヤはどうかというに、彼女はひと晩じゅうほとんどものをいわなかった。そのかわり、じっと公爵から目も放さずに聞きほれていた。聞いているというより、見ているといったほうが適当なくらいであった。
「あの見とれかたってどうでしょう。まるで目も放しゃしません。あの人のいうことに、ひとことひとこと耳を傾けて、いっしょうけんめいに聞き落とすまいとしているんですもの!」とあとになって夫人が将軍にいった。「そのくせ、恋してるなぞといおうものなら、それこそまた大乱痴気がはじまるんですよ!」
「仕方がないさ、――何ごとも運命だよ!」と将軍はひょいと肩をすくめた。
 それからのちも長いあいだ、彼はしきりに、この気に入りの言葉をくりかえした。ついでに言い添えておくが、元来事務家である将軍は、現在の状態にいろいろ気にくわないことが多かった。まずなにより不満なのは、ことの曖昧な点であった。しかし、時節の来るまでは黙って見ていよう……リザヴェータ夫人の顔色を見ていよう、と決心したのである。
 一家の喜ばしい気分はそう長くつづかなかった。アグラーヤはさっそく翌日、公爵と喧嘩した。こんなありさまがいく日もいく日も絶えずくりかえされるのであった。彼女はいく時間もぶっとおしに公爵をなぶりものにして、ほとんど道化扱いしないばかりであった。もっとも、ときおり一時間も二時間も、ふたりさし向かいで、庭の四阿に腰かけていることもあった。そういうとき、いつも公爵はアグラーヤに新聞か、本を読んで聞かしていた。
「ちょいと」あるときアグラーヤは朗読の腰を折って、こういった。「あたしはね、あなたがおそろしく無教育だってことに気がついたわ。だれが、何年に、どんな条約によって、というようなことをあなたにきいてみたって、なにひとつ満足に返事ができないじゃありませんか。あなたはまったく憐れなかたね」
「ぼくはけっしてたいして学問のある男でないと、自分からいってるじゃありませんか」と公爵が答えた。
「してみると、いったいあなたには何かあるんでしょう? どうしてあなたを尊敬することができるのでしょう? さあ、次を読んでちょうだい。いえ、まあ、よござんすわ、もうやめて」
 ところが、その晩またしてもなにかしら、一同にとって謎のようなあるものが、アグラーヤの言行にひらめいたのである。ちょうどS公爵が帰って来たので、彼女はおそろしく愛想のいい調子で、いろいろとエヴゲーニイのことをたずねた(ムイシュキン公爵はまだ来ていなかった)。ふとS公爵はうっかりして、二つの結婚式を同時に挙行するために、またアデライーダの結婚を延ばすようになるかもしれないと、夫人が何げなく口をすべらしたのを楯に取って、『近く家庭内におころうとしている新しい変化』をほのめかした。アグラーヤが『こんなばかばかしい臆測』に対してどんなに腹を立てたかは、想像するのも困難なくらいである。そして、『あたしはだれであろうと、人の色女の代理を勤める気は、まだありませんからね』という言葉が彼女の口をすべり出た。
 この言葉は一同、特に両親を驚かした。リザヴェータ夫人は夫と内密に相談して、ナスターシヤの件については、公爵からきっぱりした弁明を要求しようと主張した。
 イヴァン将軍は、それはただの『でまかせ』な言葉で、アグラーヤの『はにかみ』から出たことだ。もしS公爵が結婚式のことなぞいいださなかったら、こんな口からでまかせもいわなかったに相違ない、なぜなら、アグラーヤもそれが悪人どものいいがかりだということを、たしかに知っているからである。それに、ナスターシヤはラゴージンと結婚する気でいるので、公爵はそのことに何の関係もない。じっさい、間違いのないところをいうと、単にいま妙な関係がないというばかりでなく、今までも一度だってそんなことはなかった、と夫人に誓うのであった。
 しかしそれでも、公爵はいささかも間の悪そうなふうもなく、いぜんとして幸福な状態がつづいた。もちろん、彼とてもどうかすると、アグラーヤの目の中に、なにかじれったそうな暗い影がかすめるのには気がついた。けれど、彼はほかのあるものをより以上信じていたので、暗い影もおのずと消えて行った。彼は一度こうと信じると、もうどんなことがあっても、動揺しない性質であった。あるいは、あまり落ちつきすぎていたくらいかもしれない。すくなくとも、イッポリートにはそう感じられたので、あるときたまたま公園で公爵に出会ったとき、彼は自分のほうからそばへ寄って、公爵を引きとめながら、
「ねえ、ぼくあのときあなたは恋してるっていいましたが、やはりほんとうだったでしょう?」と口をきった。
 こちらは手をさし伸ばして、彼の『顔色がいい』のを祝した。病人は肺病患者にはありがちのことだが、だいぶ元気らしく見受けられた。
 彼は、公爵の幸福そうな顔つきをひとつ皮肉ってやろう、というつもりで寄って来たのだが、すぐに出ばなをはたかれて、自分のことをいいだした。彼は長いこといろいろと哀訴をはじめたが、その哀訴はかなり統一のないものであった。
「あなたはとても信用なさらんでしょうが」と彼は結んだ。「じっさいあすこの連中はみんなおそろしくかんしゃく持ちで、こせこせして、利己的で見栄坊で、しかもぼんくらなんですよ。ほんとうになさるかどうか知りませんが、あの連中がぼくを引き取ったのは、ぼくができるだけ早く死ぬようにという条件つきなんですからね。ところが、いっこう死にそうな様子もなく、かえってだんだん具合がいいのを見て、まっかになって怒ってるんですよ。喜劇ですね!・ ぼくちかってもいいです、あなたは今の話をほんとうにしていないでしょう!」
 公爵はいま言葉を返したくなかった。
「ぼくときどき、もう一度あなたのところへ引っ越そうかと思うんです」とざっくばらんな調子でイッポリートはいい足した。「では、あなたはあの連中のことを、ぜひともできるだけ早く死んでくれという条件つきで、他人を引き取るようなことのできない人たちだ、とこうお思いなんですね?」
「ぼくはあの人たちがきみを呼んだのは、なにかほかに思惑があってのことだと思ってました」
「へえ! あなたはなかなかどうして、人のいうように正直なかたじゃありませんね! 今はその時期でないんですが、ぼくはちょっとあなたに、ガーネチカのことだの、あの男の胸算用だのをお知らせしたいと思ってるんですよ。公爵、あなたは陥穽《おとしあな》を掘られていますよ、恐ろしい陥穽を……まったくそんなに落ちつきはらっていられるのが、いっそ気の毒なくらいです。しかし、なんともしようがない!………あなたにゃそれよりほかの態度がとれないんですからね!」
「おやおや、とんでもないことを心配してくれますね!」と公爵は笑いだした。「じゃ、なんですか、きみの考えでは、ぼくがもすこし心配そうにしたら、いっそう幸福だろうというんですか?」
「幸福で……のほほんとしてるよりは、不幸であっても知っているほう[#「知っているほう」に傍点]がいいですよ。あなたはてんからほんとうにしないのですか、あなたに競争者があるってことを? おまけに……あの方角からですよ」
「競争者うんぬんというきみの言葉は、少々皮肉ですね。イッポリート君。ぼくは残念ながら、きみにお答えする権利を持っておりません。ところで、ガヴリーラ君のことにいたっては、全体あの人があれだけのものを失ったあとで、平然と落ちつきすましていられると思いますか。もしきみがすこしでもあの人の内情を知ってたらねえ……ぼくはこの見地から批判したほうが、適当だと考えますよ。あの人はまだ変化する余裕があります。あの人はまだまだ生きることができます、人生は豊穣ですからね……けれど……けれど……」と公爵は急にまごまごしだした。「陥穽とやらいうことにいたっては、きみのいわれるこ。とがさっぱりわからない。いっそ、こんな話はやめにしようじゃありませんか、イッポリート君」
「まあ、ある時期が来るまでお預けにしておきましょうよ。それに、どうしてもあなたとしては、寛仁の態度をとらなくちゃすまないんですからね。なにしろ二度とこんなことを信用しないようにするには、あなたが自分の指でいじってみる必要がありますよ、はは! ところで、あなたはいま非常にぼくを軽蔑してらっしゃるでしょう、どうです?」
「何のために? きみがわれわれ以上に苦しんでいるためにですか?」
「いいえ、この苦しみを受ける値うちがないからです」
「より以上に苦しみうる人は、当然より以上に苦しみを受ける値うちがあります。アグラーヤさんもきみの告白を読んだとき、きみに会いたいといわれましたが、しかし……」
「さし控えてるんでしょう? あのひとにはできません、そりゃわかってます、よくわかっています……」イッポリートはすこしも早く話題を変えようとあせるようにさえぎった。「ついでにいいますが、あなたは自分であのうわごとを、アグラーヤさんに読んで聞かしたそうじゃありませんか。まったくあれは熱に浮かされて書いたんです……こしらえあげたんです。だから、あの告白をもってぼくを責めたり、またあれをぼくに対する武器につかうためには、量りしれないくらい子供らしい虚栄心や、復讐心が強くなくちゃなりませんよ、ぼくは残忍さという言葉は使わなかったです(それはぼくにとって侮辱になるから!)。心配しないでください。ぼくはあなたに当てつけて、いったんじゃありません」
「しかし、きみがあの告白の価値を否定されるのは、じつに惜しいですよ。あれは真摯の気に満ちていました。正直なところ、あの中の思いきってこっけいな部分さえ、――そんなところがたくさんありましたが(このときイッポリートはひどく顔をしかめた)、そんな部分さえ、深刻な苦悶によってつぐなわれています。なぜって、ああいうこっけいな点まで告白するのは、やはり一種の苦痛ですからね……いや、あるいは非常な勇気を示しているかもしれません。とにかく、きみにあの筆をとらした動機は、かならずりっぱな根拠を持ってるに相違ないです、たとえ外見上どうあろうともね。時がたつにしたがって、それがますます明瞭にわかるような気がします。いや、まったくですよ。ぼくはきみを批判してるんじゃありません。ただ心に思ってることを、すっかり吐露してしまいたくていうのです。ぼくはあのときなぜ黙っていたかと思うと、残念でたまりません……」
 イッポリートはかっとなった。公爵はわざとこんな殊勝らしいことをいって、自分を罠にかけようとしているのではあるまいか、こういう想念がちらと彼の頭をかすめたのである。しかし、相手の顔をじっと見入っているうちに、だんだんその誠意を認めないわけに行かなくなった。彼の顔は晴ればれとして来た。
「しかし、なんといっても、死ななくちゃなりませんよ」といったが、彼はあやうく『ぼくのような人間はね!』とつけ足すところだった。「ところで、あのガーニャがぼくをどんなに悩ましているか、ほんとうに察してくださいよ。あの男はね、ぼくの告白を聞いた人たちの中で、ことによったら三人も四人もぼくよりさきに死ぬかもしれないなんて、ちょっと抗議といったような体裁でいいだすじゃありませんか! どうでしょう! これがぼくにとって、慰藉になるとでも思ってるのでしょう、はは! 第一にまだだれも死なないし、よしまたみんなころころ死んでしまったとしても、それがぼくにとってなんの気やすめになりましょう。ね、そうじゃありませんか! あの男は、万事自分を標準にして、判断するんですものね。ところが、あの男はさらに一歩を進めて、今じゃもう頭から罵倒するんです。こんな場合常識のある人間は黙って死ぬものだ、おまえのやりかたは万事利己的でいけないってね。どうでしょう! いえさ、あの男の利己的なことったらどうでしょう! あの連中の利己主義の婉曲で、同時に露骨なことはどうでしょう! そのくせ、自分ではそれにすこしも気がつかないんですからね……公爵、あなたは十八世紀のスチェパン・グレーボフという男の死を、読んだことがありますか? ぼくきのう偶然読んだのです……」
「スチェパン・グレーボフつてだれです?」
ピョートル大帝の治世に杙《くい》に突き刺された……」
「ああ、なるほど、知ってます! 凍ての日に十五時間、外套一枚で杙に突き刺されたまま、非常に沈着な態度で死んだ人でしょう。ええ、読みましたとも……それがどうしたんです?」
「神さまはほかの人間には、ああいう死にかたを恵んでくださるくせに、われわれにはそれがないのです! あなたはたぶん、ぼくにはとてもグレーボフのような死にかたができない、と思っていらっしゃるでしょう?」
「おお、どういたしまして」と公爵は面くらった。「ただぼくがいいたかったのは……つまり、きみがグレーボフに似ていないというわけではないが、しかし、……きみだったらむしろ……」
「察しがつきますよ、グレーボフでなくオステルマン(一六八六―一七四七年、はなばなしい宮廷生活ののち追放せられて流謫地)となったろう……とおっしゃるんでしょう?」
「オステルマンとはだれです?」と公爵はびっくりした。
ピョートル大帝時代の外交家オステルマンです」急にいささか鼻白みながら、イッポリートがつぶやいた。
 なんとなく間の悪いあうな心持ちがふたりを襲った。
「おお、そ、そうじゃありません! ぼくがいおうとしたのは、そんなことじゃありません」と公爵は、しばらく沈黙ののち、出しぬけに引き伸ばすような調子でいった。「ぼくの見るところでは、きみはけっしてオステルマンになれない人です」
 イッポリートは顔をしかめた。
「ぼくがこんな断定がましいことをいうのはね」と公爵はいいつくろおうとするかのように、とつぜん言葉をつづけた。「ほかでもありません、あの時分の人たちは、今のわれわれとはぜんぜん別種なものです(実際です、ぼくはいつもこの事実に驚嘆しているんですよ)。今の人間とはまるで人種が違うのです、まったく別な種族です……あの時代にはみんな一つの理想で固まった人たちばかりでした。ところが、今はずっと神経的で、頭も発達してれば、感覚も鋭敏で、同時に二つも三つも理念をいだいてるようです……今の人間はずっと広いです……で、まったくのところ、それがあの時代のように、一本気な人になることを妨げるんです……ぼくが……ぼくがあんなことをいったのは、ただこういいたかったので、けっして……」
「わかってますよ。あなたはね、ぼくに相づちを打たなかったときのナイーヴな言葉の代償として、いまぼくを慰めようとかかってらっしゃるんです、はは! あなたはまったく子供ですね、公爵。それはそうと、あなたがたはみんなぼくをまるで……まるで瀬戸物みたいに扱ってますね、わかりますよ……なんでもありません、なんでもありません、ぼく怒りゃしませんよ。しかし、妙な話になっちまいました。あなたは、しかし、どうかするとまるっきり子供になりますね。でもね、ぼくもオステルマンよかすこし気の利いたものになりたい、という心持ちがなくもないのですよ。オステルマンにとっては、死んでからまたよみがえることはいらないんですからね……もっとも考えてみると、ぼくはできるだけ早く死ななくちゃならんのですよ。でなければ、ぼく自身で……いや、うっちゃっといてください。さよなら。ところで……まあ、いいや。いや、ひとつ教えてくれませんか、どうしたらいちばんいい死にかたができるでしょうね?……つまり、できるだけ徳にかなった死にかたがね、教えてください!」
「われわれのそばを通り抜けてください、そしてわれわれの幸福を許してください!」と公爵は低い声でいった。
「ははは! ぼくもそうだろうと思った! きっとそんなふうの言葉が出るだろうと思ってた!! しかし、あなたがたは……その……その……口のうまい人たちですね! さよなら、さよなら!」

      6

 エパンチン家の別荘で催される夜会へ、ペロコンスカヤ大人が招待されたといって、ヴァルヴァーラが兄に伝えたのも、やはりまったくの事実であった。同家ではその晩、いくたりかの客を招待することになっていたのである。しかし、彼女はこのことについても、ほんとうよりすこしぎょうさんに吹聴した。じっさい、このことはずいぶん急に、余計な騒ぎをしてまでとり決められた。というのは、この家で『ことを運ぶ具合が、よそとはまるで違っていた』からである。万事『もうこのうえちゅうちょすることは望まない』リザヴェータ夫人のせっかちと、娘の幸福を思う両親の胸のおののきによって、とり決められたのである。そのうえペロコンスカヤ夫人が、近々モスクワへ帰ることになっていたからである。この人の保護は、社交界では非常に重大視されていた。ところで、このひとが公爵に好意を持ってくれるだろうと期待したので、両親はもしアグラーヤの花婿が、この口八丁手八丁の『おばあさん』の手から『社交界』へ打って出たならば、よしこの結婚になにか変なところがあるとしても、おばあさんの威光でその変さかげんが薄らぐわけだ、とこう胸算用したのである。『はたしてこの結婚に変なところがあるかしら、あるとすれば程度はどんなものだろう? またあるいはすこしも変なところはないかしら?』この問題を両親が決しかねたのが、第一の原因であった。ことにアグラーヤのおかげで、なにひとつきっぱりと決まらない目下の状況では、権威ある相当な人たちのうち明けた隔てのない意見が、なにより役に立つことになる。なににしても、おそかれ早かれ、公爵を社交界へ出さなければならぬ。それは彼が社交についてなんの観念も持っていないからである。つまり、てっとり早くいえば、みんな公爵をよその人に『見せ』たいのであった。夜会の計画は簡単であった。招待された客はごく少数の『一家の親友』ばかりで、ベロコンスカヤ夫人のほかには、あるひとりの貴婦人、ごく有力な貴族で政治家の夫人ぐらいなものであった。若い人の中では、ほとんどエヴゲーニイひとりきりといっていいくらいである。彼は『おばあさん』の伴をして、出席しなければならなかった。
 ベロコンスカヤ夫人の来ることは、もう夜会の三日ぐらい前から公爵も聞いていた。夜会の催しについては、やっと前日に知ったばかりである。むろん、彼は家族の人々の忙しげな様子に気がついた。そして、ほのめかすような心配らしい口ぶりから推して、自分の客人に与える印象をみんなで心配しているのを洞察した。しかし、エパンチン家ではみんな申し合わせたように、公爵はあのとおり気の好い人間だから、人が自分のことをそんなに心配しても、けっして気がつくはずはないと決めこんでいた。そういうわけで、人々は彼を見て心の中でくよくよ案じていた。もっとも、彼はじっさい、目前に迫る事件に対して、ほとんどすこしの意味をも付与していなかった。彼は別のことに気を取られていたのである。アグラーヤの気まぐれが刻一刻はげしくなって、様子がしだいに沈んでゆく、――それが彼の気をもませるのであった。この夜会にエヴゲーニイも招かれていると知ったとき、彼は』非常に喜んで、前からあの人に会いたいと思っていたといった。なぜかこの言葉は、人々の気に入らなかった。アグラーヤはいまいましそうに部屋を出てしまって、その晩遅く――公爵が帰り支度をはじめた十一時すぎに、やっと見送りに出た。ふたりきりになった折を見はからって、彼女はちょっとひとことささやいた。
「あたしできることなら、あなたがあす一日いらっしゃらないで、晩にあの……お客が集まったとき、はじめて来てくださればいいと思ってよ。あなたはお客のあることをごぞんじでしょう?」
 彼女はじれったそうな、かくべつ厳しい様子をしてこういった。彼女が『夜会』のことをいいだしたのは、これがはじめてである。彼女も客ということを考えると、たまらなくいやだった。一同はこのことに気がついていた。もしかしたら、彼女はこのことについて、うんと両親と口論したかったのかもしれないが、高慢とはにかみの癖が口をきるのを妨げたのである。公爵はすぐ、彼女が自分のことを心配している(しかも、それを白状する気になれない)のに心づいて、自分でも急におじけがついた。
「そう、ぼくも招待されているんです」と彼は答えた。
 見たところ、彼女はつぎの言葉に窮しているらしかった。
「いったいあなたを相手に、たにかまじめな話ができるんでしょうか? せめて一生に一度でもねえ」と彼女は急に何のためかわからないが、自分をおさえつけることができないほど、無性に腹を立てだした。
「できますとも。ぼくはあなたのおっしゃることを聞きます。ぼくは大いに嬉しいですよ」と公爵はつぶやいた。
 アグラーヤはまた一分ばかり無言でいたが、やがていかにも進まぬ調子でいいだした。
「あたしはこのことで家の人と喧嘩したくなったの。だって、どうかすると、なんとしても物の道理がわからないことがあるんですもの。あたしはね、いつもおかあさまの遵奉している規律がいやでたまらないの。あたしおとうさまのことはいいませんわ。あの人にものをたずねて、取りとめのあった例がないのよ。おかあさまだってむろん高尚な婦人ですわ。ためしになにか卑劣なことをすすめてごらんなさい、そりゃ大変だから! それだのに、あの……やくざものを夢中になって崇拝してるじゃありませんか! あたしベロコンスカヤ夫人のことをいってるんじゃなくってよ。よぼよぼばあさんで性質もやくざだけれど――利口な人なんだから、家の人をみんな手の中に丸めこんでるのよ、まあ、それだけでもえらいとしておくんですわね。おお、なんて卑屈な話でしょう! しかも、こっけいだわ。あたしたちは中どころの、――まったく代表的な中どころの階級の人間ですからね、あんな上流の社交界へのこのこ出るわけなんかありゃしないわ! 姉さんたちはあんなところへ出るつもりなのよ。あれはS公爵がみんなをのぼせさせてしまったんだわ。なぜあなたはエヴゲーニイさんが見えるのが嬉しいの?」
「ねえ、アグラーヤ」と公爵がいった。「あなたがたはあすぼくが……あの夜会でへまなことをしやしないかと、心配してらっしゃるように見えますが……」
「あなたのことを? 心配してますって?」アグラーヤはま っかになった。「よしんばあなたが……よしんばあたながこっぴどく恥をおかきになろうと、あたしが心配するわけなんかないじゃありませんか? あたしにとってそれが何でしょう? それに、どうしてあなたはあんな言葉が使えるんでしょう?『へま』って何のことですの? それはやくざな下品な言葉だわ」
「これは……小学生の言葉です」
「ええ、そうよ、小学生の言葉よ! やくざな言葉よ! あなたはあすもそんな言葉ばっかり使って、話をなさるおつもりらしいわね。家へ帰ったらご自分の辞書を引いて、そんな