ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

はじめまして

このブログでは、ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化を目標としています。

2年間で10MBの電子テキストの公開を予定しています。
ここで公開している電子テキストの8割は、生活苦の学生への支援事業の成果物です。資金は2年間で約100万円です。この少なくない分は借金です。
くわしくは、以下の記事を参考にしてください。
コロナ感染拡大によって生活苦においちった学生1人を支援しています(期間限定公開)(追記だらけです) - オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会

管理人はドストエフスキー初心者です。
要望があれば、コメント欄におねがいします。
 
 
 
以前このブログを訪問された方は、以下の部分を反転してください。 

いろいろ悩んだのですが、名前を変更させてもらいました。『ドラえもん』第1話発表から50年目を共に祝うことができず、残念無念です。
ドラえもん』関連の記事は、タグ[ドラえもん]をつけております。
記事を読みたい方は、「ドラえもん」で検索おねがいします。

ドストエフスキー各作品へのリンク

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カラマーゾフの兄弟』第8篇
『カラマーゾフの兄弟』第8篇 カテゴリーの記事一覧 - ドストエフスキー全作品を電子化する
 
カラマーゾフの兄弟』第9篇
『カラマーゾフの兄弟』第9篇 カテゴリーの記事一覧 - ドストエフスキー全作品を電子化する
 
カラマーゾフの兄弟』第10篇
『カラマーゾフの兄弟』第10篇 カテゴリーの記事一覧 - ドストエフスキー全作品を電子化する
 
カラマーゾフの兄弟』第11篇
『カラマーゾフの兄弟』第11篇 カテゴリーの記事一覧 - ドストエフスキー全作品を電子化する

 
『おとなしい女』
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『おかしな人間の夢』
『おかしな人間の夢』 - ドストエフスキー全作品を電子化する

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第十章 『それはあいつが言ったんだ!』

   第十 『それはあいつが言ったんだ!』

 アリョーシャは入って来るといきなり、一時間ほど前に、マリヤが自分の住まいへ駈け込んで、スメルジャコフの自殺を告げたと、イヴァンに話した。『わたしがね、サモワールをかたづけにあの人の部屋へ入ると、あの人は壁の釘にぶら下ってるじゃありませんか』とマリヤは言った。『警察へ知らせましたか?』というアリョーシャの問いに対して、彼女は、まだ誰にも知らせない、『いきなりまっさきに、あなたのとこへ駈けつけたんですわ、途中駈け通しでね』と答えた。彼女はまるで気ちがいのようになり、木の葉のようにふるえていたということである。アリョーシャが、マリヤと一緒に彼らの小屋へ駈けつけてみると、スメルジャコフはまだやっぱり、ぶら下ったままであった。テーブルの上には遺書がのっていた。それには、『余は何人にも罪を帰せぬため、自分自身の意志によって、甘んじて自己の生命を断つ』と書いてあった。アリョーシャはこの遺書をテーブルの上にのせておいたまま、すぐさま警察署長のもとへ行って、一切の始末を報告した。『そして、そこからすぐ兄さんのとこへ来たんです。』イヴァンの顔をじっと眺めながら、アリョーシャは言葉を結んだ。彼はイヴァンの顔色にひどく驚かされたように、話の間じゅう一度もイヴァンから目を離さなかった。
「兄さん、」とつぜん彼は叫んだ。「あなたは大へん加減が悪いんでしょう! あなたは私を見てるだけで、私の言うことがわからないようですね。」
「よく来てくれた。」アリョーシャの叫び声が少しも耳に入らないらしく、イヴァンはもの思わしげにこう言った。「だが、僕はあいつが首を縊ったのを知っていたよ。」
「誰から聞いたんです?」
「誰からかしらないが、しかし知っていた。待てよ、僕は知っていたんだろうか? そうだ、あいつが僕に言ったんだ。あいつがつい今しがた僕に言ったんだ……」
 イヴァンは部屋の真ん中に突っ立って、依然もの思わしげにうつ向きながら、こう言った。
「あいつって誰です?」アリョーシャはわれ知らず、あたりを見まわしながら訊ねた。
「あいつはすべり抜けてしまった。」
 イヴァンは頭を持ちあげて、静かに微笑を浮べた。
「あいつはお前を、――鳩のように無垢なお前を恐れたんだ。お前は『清い小天使』だ。ドミートリイはお前を小天使と呼んでいる。小天使……大天使の歓喜の叫び! 一たい大天使とはなんだ? 一つの星座かな。だが、星座ってものは、何かの化学的分子にすぎないんだろう……獅子と太陽の星座ってものがある。お前は知らないかね?」
「兄さん、腰をかけて下さい!」とアリョーシャはびっくりして言った。「どうか後生だから、長椅子に腰をかけて下さい。あなたは譫言を言ってるんです。さ、枕をして横におなんなさい。タオルを濡らして頭にのせてあげましょうか? いくらかよくなるかもしれませんよ。」
「タオルを取ってくれ。そこの長椅子の上にある。さっきそこへ抛っておいたんだ。」
「ありませんよ。まあ、落ちついてらっしゃい。タオルのあるところは知っていますから、そら、そこだ。」部屋の片隅にある化粧台のそばから、まだ畳んだままで一度も使わない、きれいなタオルを捜し出して、アリョーシャはこう言った。
 イヴァンは不思議そうな顔つきをしてタオルを見た。記憶はたちまち彼の心によみがえったように見えた。
「ちょっと待ってくれ。」彼は長椅子の上に起きあがった。「僕はさっき一時間まえに、このタオルをあすこから持って来て、水で濡らして頭にのせて、またあすこへ抛っておいたんだがな……どうして乾いているんだろう? ほかにはもうなかったのに。」
「兄さんこのタオルを頭にのせたんですって?」とアリョーシャは訊いた。
「そうだ。そして、部屋の中を歩いたんだ、一時間まえにさ……それに、どうしてこんなに蠟燭が燃えたんだろう? 何時だね?」
「まもなく十二時になります。」
「いや、いや、いや!」とイヴァンは急に叫びだした。「あれは夢じゃない! あいつは来ていたんだ。そこに腰かけてたんだ、その長椅子の上に。お前が窓をたたいた時、僕はあいつにコップを投げつけたんだ……このコップを……いや、待てよ、僕はその前にも眠っていたのかな。だが、この夢は夢じゃない。前にもこんなことがあった。アリョーシャ、僕は近頃よく夢を見るよ……だが、それは夢じゃない、うつつだ。僕は歩いたり、喋ったり、見たりしている……が、それでいて眠ってるんだ。だが、あいつはそこに腰かけてたんだ、ここにいたんだ、この長椅子の上にさ……あいつは恐ろしい馬鹿だよ。アリョーシャ、あいつは恐ろしい馬鹿だよ。」イヴァンは突然からからと笑って、部屋の中を歩きはじめた。
「誰が馬鹿ですって? 兄さん、あなたは誰のことを言ってるんです?」とアリョーシャはまた心配らしく訊いた。
「悪魔だよ! あいつはよく僕のところへ来るようになってね、もう二度も来た、いや、三度も来た、いや、三度だったかな。あいつはこんなことを言って、僕をからかうんだ。『あなたは、私がただの悪魔で、焔の翼を持って雷のように轟き、太陽のように輝く大魔王でないので、腹を立てていらっしゃるのでしょう』なんてね。だが、あいつは大魔王じゃないよ。あいつは嘘つきだ。あいつは自称大魔王だ。あいつはただの悪魔だ。やくざな小悪魔だ。あいつは湯屋にも行くんだからな。あいつの着物をひんむいたら、きっと長い尻尾が出るに相違ない、ちょうどデンマーク犬みたいに、一アルシンくらいも長さのある、滑っこい茶色の尻尾が……アリョーシャ、お前は寒いだろう、雪の中を歩いて来たんだからね。お茶を飲みたくないかね? なに? 冷たいって? なんなら、サモワールを出させようか? C'est a` ne pas mettre un chien dehors……(犬だって外に出しちゃおけないのに……)」
 アリョーシャは急いで洗面台のそばへ駈け寄って、タオルを濡らし、無理にイヴァンを坐らせ、その頭にのせた。こうして、自分もそのそばに腰かけた。
「お前はさっき、リーザのことを何とか僕に言ったね?」イヴァンはまた始めた(彼は非常に饒舌になった)。「僕はリーザが好きだ。僕はあれのことで、何かお前に失敬なことを言ったが、あれは嘘だよ。僕はあれが好きなんだ……僕は明日のカーチャが心配だ。何よりも一ばん心配だ。将来のことが心配だ。あの女はあす僕を投げ飛ばして、足で踏みにじるだろう。あの女はね、僕が嫉妬のためにミーチャをおとしいれると、そう思ってる。そうだ、確かにそう思っているんだ! ところが、そうじゃない! 明日は十字架だ、絞首台じゃない。なに、僕が首なんか縊るものか。アリョーシャ、僕がどうしても自白できないってことを、お前は知ってるかい! 一たいそれは卑屈のためだろうか? 僕は臆病者じゃない、つまり、貪婪な生活愛からだ! スメルジャコフが首を縊ったことを、どうして僕は知ったんだろう? そうだ、あれはあいつ[#「あいつ」に傍点]が言ったんだ……」
「では、誰かそこにいたものと、信じきってるんですね?」とアリョーシャは訊いた。
「その隅の長椅子に腰かけていたよ。お前あいつを追っ払ってくれればいいんだがなあ。そうだ、実際お前が追っ払ったんだ。あいつはお前が来ると、すぐに消えてしまった。アリョーシャ、おれはお前の顔が好きなんだ。ねえ、僕はお前の顔が好きなんだよ。だが、あいつはね、僕なんだよ、アリョーシャ。僕自身なのさ。みんな僕の下等な、下劣な、軽蔑すべきものの現われなんだ! そうだ! 僕は『浪漫派』だ。あいつもそれに気がついたんだよ……もっとも、これは根もない讒誣だがね。あいつは呆れた馬鹿だよ。だが、それがつまり、あいつの強みなのさ。あいつは狡猾だ、動物的に狡猾だ。あいつは僕の癇癪玉を破裂させるすべを知っていた。あいつときたら、僕があいつを信じてるなどとからかって、それで僕に傾聴させた。あいつは僕を小僧っ子同然に翻弄した。しかし、あいつが僕について言った言葉の中には、本当のことがたくさんあった。僕は自分自身に向って、とてもあんなことは言えない。ねえ、アリョーシャ、アリョーシャ。」
 イヴァンはひどく真面目になって、いかにも、腹蔵なく打ち明ける、と言ったような語調でつけ加えた。
「僕はね、あいつ[#「あいつ」に傍点]が実際あいつで、僕自身でなかったら、本当に有難いんだがなあ!」
「あいつはずいぶん兄さんを苦しめたんですね。」アリョーシャは同情にたえぬもののように、兄を見やりながらこう言った。
「僕をからかったんだよ! しかも、それがね、なかなかうまいんだ。『良心! 良心って何だ? そんなものは、僕が自分でつくりだしてるんじゃないか。なぜ僕は苦しむんだろう? 要するに、習慣のためだ、七千年以来の全人類的習慣のためだ。そんなものを棄ててしまって、われわれは神になろうじゃないか』――それはあいつが言ったんだ。それはあいつが言ったんだ!」
「じゃ、あなたじゃないんですね、あなたじゃないんですね?」澄み渡った目で兄を見つめながら、アリョーシャはこらえきれなくなって、思わずこう叫んだ。「なあに、勝手なことを言わせておいたらいいでしょう。あんなやつはうっちゃっておしまいなさい、忘れておしまいなさい! あなたがいま呪っているものを、残らずあいつに持って行かせておやんなさい、もう決して二度と帰って来ないように!」
「そうだ。だが、あいつは意地が悪いよ。あいつは僕を冷笑したんだ。アリョーシャ、あいつは失敬なやつだよ」とイヴァンは口惜しさに声を慄わせながら言った。「僕に言いがかりをした、いろいろと言いがかりをしたんだ。面と向って僕を誹謗したんだ。『ああ、君は善の苦行をしようと思っているんだろう。親父を殺したのは私です、下男が私の差金で殺したのです、とこう言いに行くんだろう……』なんてね……」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。「お控えなさい。あなたが殺したんじゃありません。それは嘘です!」
「あいつはこう言うんだ、あいつがさ。あいつはよく知っているからね。『君は善の苦行をしようと思ってるんだろう。ところが、君ば善行を信じていない、――だから君は怒ったり、苦しんだりしているんだ、だから君はそんなに復讐的な気持になるんだ』とこう、あいつは僕に面と向って言うんだ。あいつは自分で自分の言うことを、よく承知しているよ……」
「それは、兄さんの言ってることで、あいつじゃありませんよ!」とアリョーシャは悲しそうにそう叫んだ。「あなたは病気のせいで譫言を言って、自分で自分を苦しめてるんですよ!」
「いいや、あいつは自分で自分の言うことをよく知っているんだ。あいつが言うのには、君が自白に行くのは自尊心のためだ、君は立ちあがって、『殺したのは私です。どうしてあなた方は、恐ろしそうに縮みあがるんです? あなた方は嘘を言っています! 私はあなた方の意見を軽蔑します! あなた方の恐怖を軽蔑します!』と言うつもりだろう、なんて、――あいつは僕のことをこんなふうに言うんだよ。それから、まただしぬけに、『だがね、君、君はみなから褒めてもらいたいのさ。あれは犯人だ、下手人だ、けれど何というえらい人だろう。兄を救おうと思って、自白したんだというわけでね。』こんなことも言ったよ。だが、アリョーシャ、これこそもうむろん嘘だよ!」とイヴァンは急に目をぎらぎらと光らせながら叫んだ。「僕はくだらないやつらに褒められたくない! それはあいつが嘘をついたんだ、アリョーシャ、それは誓って嘘だよ。だから、僕あいつにコップを投げつけてやったところ、コップがあいつのしゃっ面で粉微塵に砕けたよ。」
「兄さん、落ちついて下さい、もうよして下さい!」とアリョーシャは祈るように言った。
「いや、あいつは人を苦しめることがうまいよ。あいつは残酷だからな。」イヴァンはアリョーシャの言葉には耳をかさずに言いつづけた。「おれはいつでも、あいつが何用で来るか直覚していたよ。『君が自尊心のために自白に行くのはいいとしても、やはりその実こころの中で、スメルジャコフ一人だけが罪に落されて、懲役にやられ、ミーチャは無罪になる。そして、自分はただ精神的に裁判されるだけで(いいかい、アリョーシャ、あいつはこう言いながら笑ったんだよ)、世間の人から褒められるかもしれないと、こういう望みをいだいていたんだろう、だがもうスメルジャコフは死んだ、首を縊ってしまった、そうしてみると、あす法廷で君ひとりの言うことなんか、誰が本当にするものか! しかし、君は行こうとしている、ね、行こうとしているだろう、君はやはり行くに相違ない、行こうと決心している、もうこうなってしまったのに、一たい君は何しに行くんだね?』と、こうあいつは言うじゃないか。恐ろしいことを言うやつだ。アリョーシャ、僕はこんな問いを辛抱して聞いていられない。こんなことを僕に訊くなんて、何という失敬千万なやつだ!」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。彼は恐ろしさに胸を痺らせながらも、やはりまだ、イヴァンを正気に返すことができると思っているらしかった。「誰もまだ、スメルジャコフの死んだことを知らないのに、また誰ひとり知る暇もないのに、よくあいつは私の来る前に、そんなことを言ったものですね!」
「あいつは言ったよ」とイヴァンはきっぱり言い切った。そこには一点の疑いを挿むことすら許さなかった。「実際なんだよ、あいつは、そればかり言ってたくらいだよ。『もし君が善行を信じていて、誰も自分を信じなくなってもかまわない、主義のために行くのだ、というならしごく結構だが、しかし君はフョードル同様の豚の仔じゃないか。善行なんか君にとって何だ?もし[#「何だ?もし」はママ]君の犠牲が何の役にも立たないとすれば、一たい何のために法廷へ出かけるんだ? ほかでもない、何のために行くのか、君自身でも知らないからさ! それに、君は一たい決心したのかね? まだ決心していないじゃないか? 君は夜どおし腰かけたまま、行こうか行くまいかと思案するだろうよ。だが、結局、行くだろう、君は自分の行くことを知っている。君はどちらへ決めるにしろ、その決定が自分から出たのでないってことを知ってるのだ。君は行くだろう。行かずにいる勇気がないからね。なぜ勇気がないか、――それは君自身で察しなきゃならんね。これは君にとって謎としておこう!』こう言ったかと思うと、あいつはぷいと立ちあがって、出て行った。あいつお前が来たので、出て行ったんだ。アリョーシャ、あいつは僕を臆病者と言ったよ! Le mot de l'enigme (あの謎)は、つまり僕が臆病者だっていうことさ!『そんな鷲に大空は飛べないよ!』あいつはこう言いたしたよ、あいつが! スメルジャコフもやはりそう言ったっけ。あいつは殺してやらなけりゃならん! カーチャは僕を軽蔑している、それは一カ月も前からわかってる。それにリーザまで軽蔑しだした!『ほめられたさに行く』なんて、それは残酷な言いがかりだ! アリョーシャ、お前も僕を軽蔑してるだろう。僕はいま、またお前を憎みそうになってきた! 僕はあの極道者も憎んでいる、あの極道者も憎いのだ! あんな極道者なんか助けてやりたくない、勝手に監獄の中で腐ってしまうがいい! あいつめ、頌歌《ヒムン》を歌いだしやがった! ああ、僕はあす行って、やつらの前に立って、みんなの顔に唾を吐きかけてやる!」
 彼は激昂のあまり前後を忘れたように跳りあがり、頭のタオルを投げ棄てて、また部屋の中を歩きはじめた。アリョーシャはさっきの、『僕はうつつで眠っている……歩いたり、喋ったり、見たりしているが、そのくせやっぱり眠っているんだ』というイヴァンの言葉を思い出した。今の様子がまさしくそれであった。アリョーシャはイヴァンのそばを離れなかった。一走り走って行って、医者を連れて来ようかという考えが、ちらと彼の頭にひらめいたが、兄を一人残して行くのは不安心であった。さればとて、兄のそばについていてもらえる人もなかった。やがて、イヴァンは次第に正気を失って行った。彼は依然として喋りつづけていた、――ひっきりなく喋りつづけていたが、その言うことはしどろもどろで、舌さえ思うように廻らなかった。突然、彼はよろよろと激しくよろめいた。アリョーシャはすばやく彼をささえ、べつに手向いもしないのをさいわい寝床へ連れて行き、どうにかこうにか服を脱がし、蒲団の中へ寝かした。アリョーシャはその後二時間も、イヴァンのそばに腰かけていた。病人は静かにじっとして、穏やかに呼吸しながら熟睡した。アリョーシャは枕を持って来、着物を脱がないで、長椅子の上に横になった。彼は眠りに落ちる前、ミーチャのため、イヴァンのため、神に祈った。彼にはイヴァンの病気がわかってきた。『傲慢な決心の苦しみだ、深い良心の呵責だ!」兄が信じなかった神とその真実が、依然として服従をこばむ心に打ち勝ったのだ。『そうだ、』もう枕の上におかれているアリョーシャの頭に、こういう想念がひらめいた。『そうだ、スメルジャコフが死んでしまったとすれば、もう誰もイヴァンの申し立てを信じやしまいけれど、イヴァンは行って申し立てをするだろう!』アリョーシャは静かにほお笑んだ。『神様が勝利を得なさるに相違ない!』と彼は思った。『イヴァンは真理の光の中に立ちあがるか、それとも……自分の信じないものに奉仕したがために、自分を初めすべての人に復讐しながら、憎悪の中に滅びるかだ』とアリョーシャは悲痛な心持でこうつけ加えて、またもやイヴァンのために祈りをあげた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第九章 悪魔 イヴァンの悪夢

   第九 悪魔 イヴァンの悪夢

 筆者《わたし》は医者ではないが、しかしイヴァンの病気がどういう性質のものか、読者にぜひ少し説明しなければならぬ時期が来たような気がする。少し先廻りをして、一ことだけ言っておこう。彼はきょう今晩、譫妄狂にかかる一歩手前まで来ていたのである。この病気は、とくから乱れていながらも、頑固に抵抗していた彼の肉体組織を、ついに征服しつくしたのである。筆者《わたし》は医学を一こう知らないが、大胆に想像してみると、彼はじっさい自分の意志を極度に緊張させて、一時病気を遠ざけていたものらしい。むろん、そのとき彼は、ぜんぜん病気を支配し得るものと、空想していたのである。彼は自分が健康でないことを知っていたが、こんな場合、自分の生涯における運命的な瞬間に、――つまり、ちゃんと出るべきところへ出て、大胆に断乎として言うべきことを言い、『自分で自分の濡衣を干す』べき時に、病気などにかかるのがたまらなく厭であった。もっとも、彼は一度、モスクワから来た新しい医師のところへ相談に出かけてみた。もう前章に述べたとおり、カチェリーナの空想のために招聘されたその医者は、イヴァンの容態を聞きとって、詳しく診察した後、彼が一種の脳病にかかっていると診断した。そして、イヴァンが嫌悪をいだきながら述べたある告白に、いささかも驚かなかったのである。『あなたのような状態にある人が、幻覚におちいるのはありがちのことですよ』と医者は断定した。『もっとも、よく試験してみなけりゃなりませんが……とにかく、時期を逸しないように、すぐ治療しなければいけませんね。でないと、大変なことになりますよ。』けれど、イヴァンは医者の賢明な勧告にしたがって、治療のために床につこうとはしなかった。『だって、まだ歩けるじゃないか。つまり、今のところ気力があるわけだ。倒れたらまたその時のことさ。誰でも好きな人が介抱してくれるだろう。』彼は片手を振って、こう決心した。
 で、すでに述べたとおり、彼は今も自分がうなされているのを、どうやら意識しながら、正面の壁のそばに据えた長椅子の上の何ものかを、頑固にじっと見つめていた。そこには突然、どうして入って来たものやら(イヴァンがスメルジャコフのところから帰って来た時には、部屋の中には誰もいなかったのである)、何者か腰をかけていた。それは一個の紳士であった、いや、一そう的確に言えば、ある特殊なロシヤのゼントルマンで、もうあまり若くない、フランス人の、いわゆる ”pui frisait la cinquantaine”(五十歳に近い人物)である。かなり長くてまだ相当に濃い黒い髪や、楔がたに刈り込んだ顎鬚には、あまり大して白髪も見えなかった。彼は褐色の背広風のものを着込んでいた。それも上手な仕立屋の手でできたものらしいが、もうだいぶくたびれた代物で、流行がすたってから、かれこれ三年くらいになるので、社交界のれっきとした人たちは、もはや二年も前から着なくなってしまっている。シャツも、ショールのような形をした長いネクタイも、みんな一流の紳士がつけるようなものではあったが、シャツは近くでよく見ると、だいぶ薄汚れているし、幅広のネクタイもよほど耗れていた。格子縞のズボンもきちんと落ちついていたが、これも今の流行にしては、やはり色合いが明かるすぎて、型が細すぎるから、今ではもうとっくに人がはかなくなっていた。白い毛のソフトも同様に、季節はずれなものだった。要するに、あまり懐ろのゆたかでない人が、みなりをきちんと整えている、といった恰好である。つまり、紳士は農奴制時代に栄えていた昔の白手《ホワイトハンド》、落魄した地主階級に属する人らしい様子であった。疑いもなく、かつては立派な上流社会にあって、れっきとした友達を持ち、今でも昔のままに、その関係を保っているかもしれないが、若い時の楽しい生活が終って、そのうち農奴制の撤廃にあって落魄するにしたがい、次第次第に善良な旧友の問を転々として歩く、一種のお上品な居候となりはてたのである。旧友がそうした人を自分の家へ入れるのは、当人のどこへでも落ちつきやすい、要領のよい性質を知っているからでもあり、またそういうきちんとした人は、むろん、下座ではあるが、どんな人の前にでも坐らせておけるからであった。そういう居候、すなわち要領のよい紳士は、面白い話をすることと、カルタの相手をすることが上手だけれど、もし人から用事など頼まれても、そんなことをするのは大嫌いなのである。彼らはふつう孤独な人間で、独身者かやもめである。時とすると、子供を持っているようなこともあるが、その子供はいつもどこか遠方の叔母さんか、誰かの家で養育されているにきまっている。紳士は、そういう叔母があることを、立派な社会ではおくびにも出さない。彼らはそういう親戚を持っているのを、いくぶん恥じてでもいるようである。そして、自分の子供から命名日や降誕祭などに、ときどき賀状をもらったり、またどうかすると、その返事を出したりしているうちに、いつとなくその子供を忘れてしまうのである。この思いがけない客の顔つきは、善良とは言えないまでも、やはり要領のいい顔で、あらゆる点から見て、いつでも、どんな愛嬌のある表情でもできそうな様子であった。時計は持っていなかったが、黒いリボンをつけた鼈甲縁の柄つき眼鏡をたずさえていた。右手の中指には、安物のオパールを入れた、大形の金指環がはめられていた。イヴァンは腹立たしげにおし黙って、話しかけようともしなかった。客は話しかけられるのを待っていた。ちょうど食客が上の居間から茶の席へ降りて来て、主人のお話相手をしようと思ったところ、主人が用事ありげなふうで、顔をしかめながら何やら考えているので、おとなしく黙っている、といったようなふうつきであった。が、もし主人のほうから口をききさえすれば、いつでもすぐに愛嬌のある話を始められそうであった。突然、彼の顔に何やら心配らしい色が浮んだ。
「ねえ、君」と彼はイヴァンに話しかけた。「こんなことを言ってははなはだ失礼だが、君はカチェリーナのことを聞くつもりで、スメルジャコフのところへ出かけて行ったくせに、あのひとのことは何も聞かずに帰って来たね。たぶん忘れたんだろう……」
「ああ、そうだった!」イヴァンは突然こう口走った。彼の顔は心配そうにさっと曇った。「そうだ、僕は忘れたんだ……だが、今ではもうどうでもいい、何もかも明日だ」と彼はひとりごとのように呟いた。「だが君」と彼はいらいらした語調で、客のほうに向って、「それは僕がいま思い出すべきはずだったんだ。なぜって、僕は今そのことで頭を悩まされてたんだからね。どうして君はおせっかいをするんだ? それじゃまるで、君が知らせてくれたので、僕が自分で思い出したんじゃない、というように、僕自身信じてしまいそうじゃないか!」
「じゃ、信じないがいいさ。」紳士は愛想よく笑った。「信仰を強要することはできないからね。それに、信仰の問題では証拠、ことに物的証拠なんか役にたちゃしないよ。トマスが信じたのは、よみがえったキリストを見たからじゃなくって、すでにその前から信じたいと思っていたからさ。早い話が、降神術者だがね……おれはあの先生方が大好きさ……考えてみたまえ、あの先生方は、悪魔があの世から自分たちに角を見せてくれるので、降神術は信仰のために有益なものだと思っている。『これは、あの世が実在しているという、いわゆる物的証拠じゃないか』と先生たちは言っている。あの世と物的証拠、何たる取り合せだろう! それはまあ、いいとしてさ、悪魔の実在が証明されたからって、神の実在が証明されるかね? 僕は理想主義者の仲間へ入れてもらいたい。そうすれば、その中で反対論を唱えてやるよ。『僕は現実主義者だが、唯物論者じゃないんだよ、へっ、へっ!』」
「おい、君」とイヴァンはふいにテーブルから立ちあがった。「僕は今まるでうなされてるような気がする……むろん、うなされてるんだ……まあ、かまわず勝手なことを喋るがいい! 君はこの前の時のように、僕を夢中に怒らすことはできまいよ。だが、何だか恥しいような気がする……僕は部屋の中を歩きたい……僕はこの前の時のように、おりおり君の顔が見えず、君の声が聞えなくなるけれど、君の喋ってることはみんなわかる。なぜって、それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの[#「それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの」に傍点]! ただわからないのは、このまえ君に会った時、僕は眠っていたか、それとも、さめながら君を見たかということなんだ。一つ冷たい水でタオルを濡らして頭へのせよう、そうしたら、おそらく君は消えてしまうだろう。」
 イヴァンは部屋の隅へ行って、タオルを持って来ると、言ったとおりに、濡れタオルをのせて、部屋の中をあちこち歩きだした。
「僕は、君が率直に『君、僕』で話してくれるのを嬉しく思うね」と客は話しだした。
「馬鹿。」イヴァンは笑いだした。「僕が君に『あなた』などと言ってたまるものか。僕はいま愉快だが、ただこめかみが痛い……額も痛い……だから、どうかこの前の時みたいに、哲学じみたことを喋らないでくれたまえ。もし引っ込んでいられなきゃ、何か面白いことを喋りたまえ、居候なら居候らしく、世間話でもしたほうがいいよ。本当に困った先生に取っつかれたものさ! だが、僕は君を恐れちゃいないぜ、いまに君を征服してみせる。瘋癲病院なんかへ連れて行かれる心配はないぞ!」
「居候はc'est charmant(おもしろいものだよ)だよ。さよう、僕はありのままの姿をしている。この地上で僕が居候でなくて何だろう?それにしても[#「何だろう?それにしても」はママ]、僕は君の言葉を聞いて少々驚いたね。まったくだよ、君はだんだん僕を実在のものと解釈して、このまえのように、君の空想と思わなくなったからね……」
「僕は一分間だって、お前を実在のものと思やしないよ。」イヴァンはほとんど猛然たる勢いで叫んだ。「お前は虚偽だ、お前は僕の病気だ、お前は幻だ。ただ僕には、どうしたらお前を滅ぼせるかわからない。どうもしばらくのあいだ苦しまなければなるまい。お前は僕の幻覚なんだ。お前は僕自身の化身だ、しかし、ただ僕の一面の化身……一番けがれた愚かしい僕の思想と感情の化身なんだ。だから、この点から言っても、もし僕にお前を相手にする暇さえあれば、お前は確かに僕にとって興味のあるものに相違ない……」
「失敬だがね、失敬だが、一つ君の矛盾を指摘さしてくれたまえ。君はさっき街灯のそばで、『お前はあいつから聞いたんだろう! あいつ[#「あいつ」に傍点]が僕のところへ来ることを、お前はどうして知ったんだ?』と言って、アリョーシャを呶鳴りつけたね。あれは僕のことを言ったんだろう。してみると、君はほんの一瞬間でも信じたんだ。僕の実在を信じたんじゃないか。」紳士は軽く笑った。
「ああ、あれは人間天性の弱点だよ……僕はお前を信ずることができなかった。僕はこのまえ眠っていたか覚めていたか、それさえ憶えていない。ことによったら、あの時お前を夢に見たので、うつつじゃないかもしれん……」
「だが、君はどうしてさっき、あんなにあの人を、アリョーシャをやっつけたんだね? あれは可愛い子だよ。僕は長老ゾシマのことで、アリョーシャに罪をつくったよ。」
「アリョーシャのことを言ってくれるな……下司のくせに何を生意気な!」イヴァンはまた笑いだした。
「君は呶鳴りながら笑ってるね、――これはいい徴候だ。今日はこの前よりだいぶご機嫌がいい。僕にはなぜだかわかっている、偉大なる決心をしたからだよ……」
「決心のことなんか言わないでくれ!」とイヴァンは猛然と呶鳴った。
「わかってる、わかってる、c'est noble, c'est charmant.(それは立派なことだよ。それはいいことだよ)君はあす兄貴の弁護に出かけて行って自分を犠牲にするんだろう……c'est chevaleresque……(それは義侠だよ)」
「黙れ、蹴飛ばすぞ!」
「それはいくぶん有難い、なぜって、蹴られれば僕の目的が達せられるからさ。蹴飛ばすというのは、つまり、君が僕の実在を信じている証拠だ。幻を蹴るものはないからね。冗談はさておき、僕はどんなに罵倒されても何とも思わないが、それにしても、いくら僕だからって、も少しは鄭重な言葉を使ってもよさそうなものだね。馬鹿だの、下司だのって、ちとひどすぎるね!」
「お前を罵るのは、自分を罵るんだ!」イヴァンはまた笑った。「お前は僕だ、ただ顔つきの違う僕自身だ。お前は僕の考えていることを言ってるんだ……少しも新しいことを僕に聞かすことができないんだ!」
「もし僕の思想が、君の思想と一致しているとすれば、それはただただ僕の名誉になるばかりだ」と紳士は慇懃な、しかも威をおびた調子で言った。
「お前はただ僕の穢らわしい思想、ことに馬鹿な思想ばかりとってるんだ。お前は馬鹿で、野卑だ。恐ろしい馬鹿だ。いや、僕は、たまらなくお前が厭だ! ああ、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ!」とイヴァンは歯ぎしりした。
「ねえ、君、僕はやはりゼントルマンとして身を処し、ゼントルマンとして待遇されたいんだがね。」客は一種いかにも食客らしい、はじめから譲歩してかかっているような、人のいい野心を見せながら、言いはじめた。「僕は貧乏だが、しかし、非常に高潔だとは言うまい。が……世間では一般に僕のことを堕落した天使だというのを、原則のように見なしている。実際、僕は自分がいつ、どうして天使だったか思い出せない。よしまたそういう時があったとしても、もう忘れたって罪にならぬくらい昔のことなんだろう。で、今じゃ僕はただ身分ある紳士とりつ評判だけを尊重し、何でも成行きにまかせて、できるだけ愉快な人間になろうと努めているんだ。僕は心底から人間が好きだ、――ああ、僕はいろんな点で無実の罪をきせられているよ! 僕がときどきこの地上へ降りて来ると、僕の生活は何かしら一種の現実となって流れて行く。これが僕には何よりも嬉しいんだ。僕自身も君と同じく、やはり幻想的なものに苦しめられているので、それだけこの地上の現実を愛している。この地上では、すべてが輪郭を持っており、すべてに法式[#「法式」はママ]があり、すべてが幾何学的だ。ところが、僕らのほうでは、一種漠然とした方程式のほか何もないんだ。で、僕はこの地上を歩きながら、空想している。僕は空想するのが好きなんだ。それに、この地上では迷信ぶかくなる、――どうか笑わないでくれたまえ。僕はつまり、この迷信ぶかくなるのが好きなんだ。僕はここで、君らのあらゆる習慣にしたがっている。僕は町のお湯屋に行くことが好きになってね、君は本当にしないだろうが、商人や坊さんなどと一緒に、湯気に蒸されるんだよ。僕の夢想してるのは、七フードもあるでぶでぶ肥った商家の内儀に化けることだ、――しかも、すっかり二度ともとへ戻らないようになりきって、そういう女が信じるものを残らず信じたいんだ。僕の理想は会堂へ入って、純真な心持でお蠟燭を供えることだ、まったくだよ。その時こそ、僕の苦痛は終りを告げるのだ。それから、やはり君らと一緒に、医者にかかることも好きだね。この春、天然痘が流行った時、養育院へ出かけて行って、種痘をうえてもらった。その日、僕はどんなに満足だったかしれない。お仲間のスラヴ民族たちの運動に、十ルーブリ寄付したくらいだよ……だが、君は聞いていないんだね。え、君、君は今日どうもぼんやりしてるよ。」紳士はしばらく口をつぐんだ。「僕はね、きのう君があの医者のところへ行ったことを知ってるよ……どうだね、君の健康は? 医者は君に何と言ったね?」
「馬鹿!」とイヴァンは一刀両断にこう言った。
「だが、その代り、君はお利口なことだよ。君はまた呶鳴るんだね? 僕はべつに同情を表したわけじゃないんだから、答えなけりゃ答えなくたっていい。この頃はまたレウマチスが起ってね……」
「馬鹿!」とイヴァンはふたたび繰り返した。
「君はしじゅう同じことばかり言ってるが、僕は去年ひどいレウマチスにかかってね、いまだに思い出すよ。」
「悪魔でもレウマチスになるかな?」
「僕はときどき人間の姿になるんだもの。レウマチスぐらいにはかかるさ。人間の肉を着る以上、その結果も頂戴するのは仕方があるまいて。Satan sum et nihil humanum a me alienum puto.(わたしは悪魔だから一切人間的なものはわたしにとって縁があるのだ―ラテン語)」
「なに、なに? Satan sum et nihil humanumだって……これは悪魔の言葉としちゃ気がきいてるな?」
「やっと御意に召して嬉しいよ。」
「だが、お前その言葉は僕から取ったものじゃないな。」イヴァンはびっくりしたように、急に開き直った。「僕はそんなことを一度も考えたことはないんだが。不思議だなあ……」
「C'est du nouveau, n'est-ce pas?」こうなりゃいっそのこと、いさぎよく綺麗に君に打ち明けてしまおう。一たいねえ、君、胃の不消化や何やらで夢を見ている時や、ことにうなされている時など、人間はどうかすると非常に芸術的な夢や、非常に複雑な現実や、事件や、あるいは筋の通った一貫した物語などを、最も高尚な現象からチョッキのボタンの果てにいたるまで、びっくりするほどこまごまと見ることがあるものだ。まったくのところ、レフ・トルストイでも、これほど細かくは書けまいと思うくらいにね。しかも、どうかすると、文士じゃなくって、きわめて平凡な人、――役人や、雑報記者や、坊さんなどが、そういう夢を見ることがあるもんだよ……これについては、大きな問題があるんだ。ある大臣が僕に自白したことだがね、何でも彼の立派な思想は、ことごとく眠っている時に思いつくんだってさ。現に今だって、やはりそうだよ。僕は君の幻覚なんだけれど、ちょうどうなされている時みたいに、僕の言うことはなかなか独創的だろう。こんなのは、今まで考えたこともあるまい。だから、僕は決して、君の思想を反復してるんじゃないよ。しかも、僕はやはり君の悪夢にすぎないんだ。」
「嘘をつけ。お前の目的は、お前が独立の存在で、決して僕の悪夢じゃないってことを、僕に信じさせるにある[#「信じさせるにある」はママ]んだ。だから、今お前は僕の夢だなどと言ってるんだ。」
「ねえ、君、きょう僕は特別の研究方法を持って来たんだ。あとで君に説明してあげよう。待ちたまえ、僕はどこまで話したかしら? そうだ、僕はそのとき風邪を引いたんだよ。ただし、君らのところじゃない、あそこで……」
「あそこって、どこだ? え、おい、お前は僕のところに長くいるつもりかね? 帰るわけにゆかないのかね?」とイヴァンはほとんど絶望したように叫んだ。
 彼は歩きやめて、長椅子に腰をおろし、ふたたびテーブルに肱をついて、両手でしっかりと頭を抑えた。彼は頭から濡れタオルを取って、いまいましそうに抛り出した。タオルは何の役にも立たなかったものと見える。
「君の神経は破壊されてるんだ」と紳士はうちとけた口調で、無造作に言った。が、その様子はいかにも親しそうであった。「君は、僕でも風邪を引くことがあるといって怒っているが、しかしそれはきわめて自然な出来事なんだからね。何でも、大急ぎである外交官の夜会へ出かけたと思いたまえ。それは、つねづね大臣夫人になりたがっているペテルブルグの上流の貴婦人が催した夜会だがね、そこで、僕は燕尾服に白いネクタイと手袋をつけたが、その時はまだとんでもないところにいたんだからね。君らのこの地上へおりて来るには、まだ広い空間を飛ばなけりゃならなかったのさ……むろん、それもほんの一瞬間に飛べるんだが、なにしろ太陽の光線でさえ八分間かかるのに、考えてみたまえ、僕は燕尾服と胸の開いたチョッキを着てるんだろう。霊体というものは凍えないけれど、人間の肉を着た以上はどうも……つまり、僕は軽はずみに出かけたんだ。ところが、この空間のエーテル、つまり、この天地の間を充たしている水の中は、途方もなく寒かったんだ……その寒さと言ったら、――もう寒いなどという言葉では現わせないねえ。考えてもみたまえ、氷点下百五十度だぜ! ねえ、田舎の娘どもはよくこんないたずらをするだろう、零下三十度の寒さの時、馴れないやつに斧を甜めさせるんだ。すると、たちまち舌が凍りつくので、馬鹿め、舌の皮を剥がして血みどろになってしまう。しかも、これは僅か三十度の話さ。ところが、百五十度となってみたまえ、斧に指がくっつくが早いか、さっそく、ちぎれてしまうだろうと思うよ、ただし……そこに斧があればだがね……」
「でも、そんなところに斧があるだろうか?」イヴァンはぼんやりと、しかも忌わしそうな調子で、突然、こう口をはさんだ。
 彼は全力を挙げて、自分の悪夢を信じないように、気ちがいにならないように抵抗していた。
「斧が?」と客はびっくりして問い返した。
「そうさ、一たいそんなところで斧がどうなるんだろう?」イヴァンはいきなり、狂猛な調子で、執念く、むきになって叫んだ、
「空間では斧がどうなるかって? Quelle idee!(何という考えだろう!)もしずっと遠くのほうへ行けば、衛星のように何のためとも知らず、地球のまわりを廻転しはじめるだろうと思うね。天文学者たちは、斧の出没を計算するだろうし、ガッツークはそれを暦の中へ書き込むだろうよ。それだけだよ。」
「お前は馬鹿だ、恐ろしい馬鹿だ!」とイヴァンは反抗的に言った。「嘘をつくなら、もっとうまくやれ。でないと、もう僕は聞かんぞ。お前は僕を実在論で説破して、お前の実在を僕に信じさせるつもりなんだろう。だが、僕はお前の存在を信じたくない! 僕は信じやしない!」
「いや、僕は嘘を言ってやしない。みんな本当なんだ。遺憾ながら、真実はほとんどすべての場合、平凡なものだからね。君ほどうも僕から何か偉大なもの、もしくは美しいものを期待しているらしい。どうもお気の毒さま。だって、僕は、自分の力のおよぶだけのものしか、君にさしあげられないから……」
「馬鹿、哲学じみたことを喋らないでくれ!」
「どうして、哲学どころじゃないんだよ。僕は体の右側がすっかりきかなくなっちまって、うんうん唸りだすという騒ぎだ。医者という医者にすっかりかかってみたがね、立派に診察して、まるで掌《たなごころ》を指すがごとくに、症状を残らず話して聞かせるが、どうも癒すことができないんだ。ちょうどそこに、一人の若い感激家の学生がいて、『たとえあなたはお死にになっても、自分がどんな病気で死んだか、すっかりおわかりになるわけですからね!』と言ったもんだ。それに、例の彼らの癖として、すぐ専門家へ患者を送ってしまうのだ。曰く、われわれは診察だけしてあげるから、しかじかの専門家のところへ行くがいい、その人が病気を癒してくれるから、とこう言うじゃないか。なにしろ、今ではどんな病気でも癒すような、そんな旧式な医者はなくなってしまって、ただ専門家だけがいつも新聞に広告してるんだ。もし鼻の病気にかかるとすると、パリヘ行けと言われる。そこへ行けば、ヨーロッパの鼻科専門の医者が癒してくれるというので、パリヘ出かけて行くと、その専門医は鼻を診察して、私はあなたの右の鼻孔だけしか癒せない、左の鼻孔は私の専門外だから、ウィーンへおいでなさい。そこには左の鼻孔を癒してくれる特別な専門医がありますよ、とこうくる。どうも仕方がないから、一つ家伝療治でもやってみることにしたよ、あるドイツ人の医者が、お湯屋の棚へ上って、塩をまぜた蜂蜜で体を拭けばいいと勧めたので、一ど余分に風呂へ入ったつもりで、お湯屋へ行って体じゅうを塗りたくってみたが、何の役にも立たなかったよ。がっかりして、ミランのマッティ伯爵に手紙を出してみると、伯爵は一冊の書物と水薬を送ってよこしたがね、やはり駄目さ。ところが、どうだろう、ホップの麦芽精でなおっちまったじゃないか! 偶然に買い込んだやつを一瓶半も飲むと、立派に癒ってしまったんだ。ぜひ『有難う』を新聞にのせようと決めた。感謝の念が勵いてやまないんだ。ところが、どうだろう、またぞろ厄介なことが起きてきた。どこの編集局でも受けつけてくれないじゃないか。『どうもあまり保守的じゃありませんか。だれが本当にするものですか、le diable n'existe point.(悪魔がいるなんて)』と言って、『匿名でお出しになったほうがいいでしょう』と勧めるのさ。だが、匿名じゃ『有難う』も何もあるものかね。僕は事務員たちにそう言って、笑ってやった。『いまどき神様を信ずるのは保守的だろうが、僕は悪魔だから、僕なら信じられるはずじゃないか。』『まったくそうですね』と彼らは言うのだ。『誰だって悪魔を信じないものはありません。だが、それでもやはりいけません。根本主張を害しますからな。冗談という体裁ならいいですが。』だが、考えてみると、冗談としちゃ、あまり気がきいた話じゃない。こういうわけで、とうとう掲載してくれなかったよ。君は本当にしないかもしれんが、今でも僕はそのことが胸につかえているのだ! 僕の最も立派な感情、――例えば、感謝の念さえも、単に僕の社会的境遇によって、表面的に拒絶されるんだからね。」
「また哲学を始めたな?」とイヴァンはにくにくしげに歯ぎしりした。
「とんでもないことを。しかし、時によると、ちっとは不平を言わずにゃいられないよ。僕は無実の罪をきせられた人間だからね。第一、君でさえ、しょっちゅう僕をばかばかと言ってるじゃないか。まったく君がまだお若いってことがすぐわかるよ。君、ものごとは知恵ばかりじゃゆかない! 僕は生れつき親切で、快活な心の持ち主なんだ。『私もやはりいろんな喜劇を作ります(ゴーゴリの喜劇『検察官』の主人公フレスタコーフの台詞)。』君は僕をまるで老いぼれたフレスタコーフだと思っているらしいね。だが、僕の運命はずっと真剣なんだ。僕はとうてい自分でもわからない一種の宿命によって『否定』するように命ぜられてる。ところが、僕は本来好人物で、否定はしごく不得手なんだ。『いや、否定しろ、否定がなければ批評もなくなるだろう。〈批評欄〉がなければ雑誌も存在できない。批判がなければ〈ホザナ〉ばかりになってしまう。ところが、〈ホザナ〉ばかりじゃ人生は十分でない。この〈ホザナ〉が懐疑の鎔炉を通らなけりゃならない』といったようなわけなんだよ。けれど、僕はそんなことにおせっかいはしない。僕が作ったんじゃなし、僕に責任はないんだ。贖罪山羊《みがわりやぎ》を持って来て、それに批評欄を書かせると、それで人生ができるのだ。われわれはこの喜劇がよくわかっている。例えば、僕は率直に自分の滅亡を要求してるんだが、世間のやつらは、いや、生きておれ、君がいなくなれば、すべてがなくなる。もしこの世のすべてが円満完全だったら、何一つ起りゃしまい、君がいなけりや出来事は少しもあるまい、しかも出来事がなくちゃ困る、とこう言うんだ。で、僕はいやいや歯を食いしばりながら、出来事をつくるため、注文によって不合理なことをやってるんだ。ところで、人間は、そのすぐれた知力にもかかわらず、この喜劇を何か真面目なことのように思い込んでる。これが人間の悲劇なのさ。そりゃむろん、苦しんでいる。けれども……その代り、彼らは生きている、空想的でなしに、現実的に生活している。なぜなら、苦痛こそ生活だからね。苦痛がなければ、人生に何の快楽があるものか、すべてが一種無限の祈禱に化してしまう。すべては神聖だが、少し退屈だ。ところが、僕はどうだ? 僕は苦しんでいるが、しかし生活しちゃいない。僕は不定方程式におけるエッキスだ。僕は一切の初めもなく、終りをも失った人生の幻影の一種だ。自分の名前さえ忘れてしまってるんだよ。君は笑ってるね……いや、笑ってるんじゃなくって、また怒ってるんだろう、君はいつでも怒ってるからな。君はしじゅう賢くなろうと骨折ってるが、僕は繰り返して言う、星の上の生活や、すべての位階や、すべての名誉を捨ててしまって、七プードもある商家のかみさんの体に宿って、神様にお蠟燭を捧げてみたいと思うね。」
「だって、お前は神を信じないのじゃないか?」とイヴァンはにくにくしげに、にやりと笑った。
「何と言ったらいいかなあ、君がもし真面目なら……」
「神はあるのかないのか?」とイヴァンはまた執念く勢い猛に叫んだ。
「じゃ、君は真面目なんだね? だがねえ、君、まったく僕は知らないんだよ、これは真っ正直な話だ!」
「知らなくっても、神を見だろう? いや、お前は実在のものじゃなかった。お前は僕自身なんだ。お前は僕だ、それだけのものだ! お前はやくざ者だ、お前は僕の空想なんだ!」
「もしお望みなら、僕も君と同じ哲学を奉じてもいいさ。それが一ばん公平だろう。Je pense, done je suis.(われ考う、ゆえにわれ在り)これは僕も確かに知っている。が、僕の周囲にあるその他のすべては、つまり、この世界全体も、神も、サタンさえも、――こういうものが、みんなはたして実在しているか、それとも単に僕自身の発散物で、無限の過去からただひとり存在している『自我』の漸次発展したものかということは、僕に証明されていない……だが、僕は急いで切り上げるよ。なぜって、君はすぐに飛びあがって、摑みかかりそうだからね。」
「お前、何か滑稽な逸話でも話したらいいだろう!」とイヴァンは病的な調子で言った。
「逸話なら、ちょうどわれわれの問題にあてはまるやつがあるよ。いや、逸話というより伝説だね。君は『見ているくせに信じない』と言って、僕の不信を責めるがね、君、それは僕一人じゃないよ。僕らの仲間は今みんな苦しんでいる。それというのも、みんな君らの科学のためなんだ。まだ、アトムや、五感や、四大などの時代には、どうかこうか纒っていた。古代にもアトムはあったのだからね。ところが、君らが『化学的分子』だとか、『原形質《プロトプラズム》』だとか、その他さまざまなものを発見したことがわかると、僕らはすっかり尻尾を巻いてしまった。ただもうめちゃくちゃが始まったんだ。何よりいけないのは、迷信だ、愚にもつかん風説なんだ。そんな噂話は、君らの間でもわれわれの間でも同じだ、いや、少し多いくらいだよ。密告も同じことで、僕らのところには、ある種の『報告』を受けつける役所さえあるくらいだ。そこで、この不合理な物語というのは、わが中世紀のもので、――君らのじゃなくって、われわれの中世紀だよ、――七プードもある商家のかみさんのほか、誰一人として信じる者がないくらいだ。ただし、これもやはり人間界のかみさんじゃなくって、われわれのかみさんだがね。ところで、君らの世界にあるものは、みんなわれわれの世界にもあるんだよ。これは禁じられているんだけれど、君一人にだけ、友達のよしみで秘密を打ち明けるんだ。その物語というのは天国に関することで、何でもこの地上に、一人の深遠な思想を持った哲学者がいたそうだ。彼は『法律も、良心も、信仰も一切否定した』が、とりわけ未来の生活を否定したのさ。ところが、やがて死んだ。彼はすぐ、闇黒と死へ赴くものと思っていたのに、どっこい、目の前に突如として、未来の生活が現われた。彼はびっくりもし憤慨もした。『これは、おれの信念に矛盾している』と言ったものだ。これがために彼は裁判されて……ねえ、君、咎めないでくれ、僕はただ自分で聞いたことを話してるだけなんだから。つまり、伝説にすぎないのさ……ところで、裁判の結果、暗闇の中を千兆キロメートル(僕らの世界でも、今じゃキロメートルを使っているからね)歩いて行くように宣告された。この千兆キロメートルの暗闇を通り抜けてしまうと、天国の門が開かれて、すべての罪が赦されるというわけなんだ……」
「だが、その君らの世界では、千兆キロメートルの闇のほかに、どんな拷問があるんだね?」イヴァンは異様に活気づきながら遮った。
「どんな拷問だって? ああ、それを訊かないでくれたまえ。以前はまあ、何やかやあったが、今じゃだんだん道徳的なやつ、いわゆる『良心の呵責』といったような、馬鹿げたことがはやりだした。これもやはり君らの世界から、『君らの人心の軟化』から来たことなんだ。だから、とくをしたのは、ただ良心のないものだけだ。なぜって、良心が全然ないんだもの、良心の呵責ぐらい何でもないじゃないか。その代り、まだ良心と名誉の観念をもっている、れっきとしたものは苦しんだね……実際、まだ準備されていない地盤に、よその制度からまる写しにした改革なんか加えるのは、ただ害毒を流すほか何の益もあるもんじゃない! 昔の火あぶりのほうが、かえっていいくらいだ。まあ、そこで千兆キロメートルの暗闇を宣告された例の先生は、突っ立ったまま、しばらくあたりを見まわしていたが、やがて路の真ん中にごろりと横になって、『おれは歩きたくない。主義として行かない!』と言ったものだ。かりにロシヤの教養ある無神論者の魂と、鯨の腹の中で三日三晩すねていた予言者ヨナの魂を混ぜ合せると、――ちょうど、この路ばたへ横になった思想家の性格ができあがる。」
「一たい、何の上へ横になったんだろう?」
「たぶん何かのっかるものがあったんだろう。君は冷やかしてるんじゃないかね?」
「えらいやつだ!」イヴァンは依然として、異様に興奮しながら叫んだ。彼は今ある思いがけない好奇心を感じながら聞いていた。「じゃ、何かい、今でも横になってるのかね?」
「ところが、そうでないんだ。ほとんど千年ばかり横になっていたが、その後、起きあがって歩きだした。」
「何という馬鹿だ!」イヴァンは神経的にからからと笑って、こう叫んだが、何か一心に考えているようなふうであった。「永久に横になっているのも、千兆キロメートル歩くのも同じことじゃないか? だって、それは百万年も歩かなくちゃならないだろう?」
「もっとずっと永くかかるよ。あいにく鉛筆もないけれど、勘定してみればわかるよ。だが、その男はもうとっくに着いたんだ。そこで話が始まるのさ。」
「なに、着いたって? どこから百万年なんて年を取って来たんだ?」
「君はやはりこの地球のことを考えてるんだね! だが、この地球は、百万度も繰り返されたものかもしれないじゃないか。地球の年限が切れると、凍って、ひびが入って、粉微塵に砕けて、こまかい構成要素に分解して、それからまた水が黒暗淵《やみわた》を蔽い、次にまた彗星が生じ、太陽が生じ、太陽から地球が生ずるのだ、――この順序は、もう無限に繰り返されているかもしれない。そして、すべてが以前と一点一画も違わないんだ。とても不都合な我慢のならん退屈な話さ……」
「よしよし、行き着いてから、どうなったんだね?」
天国の門が開かれて、彼がその中へ踏み込むやいなや、まだ二秒とたたないうちに、――これは時計で言うんだよ、時計で(もっとも、彼の時計は、僕の考えるところでは、旅行中にかくしの中で、もとの要素に分解しているはずだが)、――彼はこの僅か二秒の間に、千兆キロメートルどころか、千兆キロメートルを千兆倍にして、さらにもう千兆倍ぐらいも進めたほど歩けると叫んだ。一口に言えば、彼は『ホザナ』を歌ったんだ。しかも、その薬がききすぎたんだ。それで、そこにいる比較的高尚な思想をもった人たちは、最初のうち、彼と握手をすることさえいさぎよしとしなかったくらいだ。あんまり性急に保守主義に飛び込んでしまった、というわけでね。いかにもロシヤ人らしいじゃないか。繰り返して言うが、これは伝説なんだよ。僕はただ元値で卸すだけのこった。僕らのほうじゃ、今でもまだこうした事柄について、こういう考え方を持っているんだよ。」
「やっとお前の正体を摑まえたぞ!」何やらはっきり思い出すことができたらしく、いかにも子供らしい喜びの声で、イヴァンはこう叫んだ。「この千兆年の逸話は、それは僕が自分で作ったんだ! 僕はその時分、十七で中学に通っていた……僕はその時分、この逸話を作って、コローフキンという一人の友達に話した。これはモスクワであったことだ……この逸話は、非常に僕自身の特徴を出しているもので、どこからも種を取って来ることができないくらいだ。僕はすっかり忘れてしまっていたが……いま無意識に頭へ浮んできた、――まったく僕自身が思い出したので、お前が話したんじゃない! 人間はどうかすると、無数の事件を無意識に思い出すことがある。刑場へ引かれて行く時でさえそうだ……夢で思い出すこともある。お前はつまり、この夢だ! お前は夢だ、実在してなんかいやしない!」
「君がむきになって、僕を否定するところから考えると、」紳士は笑った。「君はまだ確かに僕を信じてるに相違ないな。」
「ちっとも信じちゃいない! 百分の一も信じちゃいない!」
「でも、千分の一くらいは信じてるんだ。薬も少量ですむやつが、一ばん強いものだからね。白状したまえ、君は信じてるだろう、たとえ万分の一でも……」
「一分間も信じやしない。」イヴァンは猛然としてこう叫んだ。「だが、信じたいとは思っている!」と彼はとつぜん異様につけたした。
「へっ! でも、とうとう白状したね! だが、僕は好人物だからね、今度もまた君を助けてあげるよ。ねえ、君、これは僕が君の正体を摑まえた証拠で、君が僕を摑まえたんじゃない! 僕はわざと君の作った逸話を、――君がもう忘れていた逸話を君に話したんだ。君がすっかり僕を信じなくなるようにね。」
「嘘をつけ! お前が現われた目的は、お前の実在を僕に信じさせるためなのだ。」
「確かにそうだ! だが、動揺、不安、信と不信の戦い、――これらは良心のある人間にとって、例えば、君のような人間にとって、どうかすると、首を縊ったほうがましだと思われるほど、苦痛を与えることがあるものだ。僕はね、君がいくらか僕を信じていることを知ったので、この逸話を話して、君に不信をつぎ込んだんだよ。君を信と不信の間に彷徨させる、そこに僕の目的があるんだ。新しい方法《メソード》だよ。君は僕をすっかり信じたくなったかと思うと、すぐまた、僕が夢でなくって実在だということを信じはじめるのだ。ちゃんとわかっているよ。そこで僕は目的を達するんだ。だが、僕の目的は高潔なものだ。僕は君の心にきわめて小さい信仰の種を投げ込む。と、その種から一本の樫の木が芽生えるが、その樫といったら大変なもので、君はその上に坐っていると、『曠野に行いすましている神父や清浄な尼たち』の仲間入りをしたくなるほどの大きさなんだ。なにしろ、君は内心大いに、曠野に隠遁して、蝗を食いたがっているからね!」
「悪党め、じゃ、お前は僕の魂を救おうと思って骨折ってるのか?」
「時にはいいこともしなければならんじゃないか。君は怒っているね。どうやら君は怒っているようだね!」
「道化者! だが、お前はいつかその蝗を食ったり、十七年も、苔の生えるまで、曠野で祈ったりした聖者を、誘惑したことがあるだろう?」
「君、そればかり仕事にしていたんだよ。宇宙万物も忘れて、そんな聖者ひとりに拘泥していたくらいだよ。なぜなら、聖者というものは、非常に高価なダイヤモンドだからね。こういう一人の人間は、時によると、一つの星座ほどの値うちがあるよ、――われわれの世界には特殊な数学があってね、――そんな勝利は高価なものだよ! だが、彼らの中のあるものはね、君は信じないかもしれないが、まったく発達の程度が君にも劣らないくらいだ。彼らは信と不信の深淵を同時に見ることができる。時によると、俳優のゴルブノーフのいわゆる、『真っ逆さま』に飛び込むというような心境と、まったく髪の毛一筋で隔てられるようなことがあるからね。」
「で、お前どうだね、鼻をぶら下げて帰ったかね?(失敗してしょげることを言う)」
「君」と客はものものしい調子で言った。「そりゃ何といっても、まるで鼻を持たずに帰るより、やはり鼻をぶら下げて引きさがったほうがいいこともあるよ。ある病気にかかっている(これもいずれ、きっと専門家が治療するに相違ない)侯爵が、つい近頃、ゼスイット派の神父に懺悔する時に言ったとおりさ。僕もそこに居合せたが、実に面白かったよ。『どうか私の鼻を返して下さい!』と言って、侯爵が自分の胸を打つ。すると、『わが子よ、何事も神様の測るべからざる摂理によって行われるので、時には大なる不幸も、目にこそ見えないけれど、非常に大きな益をもたらすことがあるものじゃ。たとえ苛酷な運命があなたの鼻を奪ったとしても、もう一生涯、ひとりとしてあなたのことを、鼻をぶら下げて引きさがった、などと言うことはできない、その点にあなたの利があるわけですじゃ』と神父はうまく逃げてしまう、『長老、それは慰めになりません!』と侯爵は絶望して叫ぶ。『私は、自分の鼻があるべきところにありさえすれば、一生涯のあいだ、毎日鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んでいますよ。』『わが子よ、あらゆる幸福を一時に求めることはできません。それはつまり、こんな場合にすら、あなたのことを忘れたまわぬ神様を怨むことにあたりますでな。なぜかと言えば、もしあなたが、今おっしゃったように、鼻さえあれば、一生涯鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んで暮すおつもりならば、あなたの希望は、現在もう間接に満たされておるわけですじゃ。というわけは、あなたは鼻をなくしたために、一生鼻をぶら下げて引きさがるような形になりますでな』と言って、神父はため息をつくじゃないか。」
「ふっ! 何というばかばかしい話だ!」とイヴァンは叫んだ。
「いや、君、これはただ君を笑わせたいばかりに話したことさ。が、これはまったくゼスイットの詭弁だよ。しかも、まったく一句たがわず、いま君に話したとおりなんだ。つい近頃の出来事で、ずいぶん僕に面倒をかけたものだ。この不仕合せな青年は家へ帰ると、その夜のうちに自殺してしまった。僕は最後の瞬間まで、そのそばを離れなかったよ……このゼスイットの懺悔堂は、まったく僕の気のふさいでいる時なんか、何より面白い憂さばらしなんだ。そこでもう一つの事件を君に話そう。これこそ、つい二三日前の話なんだ。二十歳になるブロンドのノルマン女、――器量なら、体つきなら、気だてなら、――実に涎が流れるほどの女だがね、それが年とった神父のところへ行ったんだ。女は体をかがめて、隙間ごしに神父に自分の罪を囁くのだ。『わが子よ、どうしたのだ。一たい、また罪を犯したのか?………』と神父は叫んだ。『ああ、聖母《サンタマリヤ》さま、とんでもない! 今度はあの人ではございません。』『だが、いつまでそんなことがつづくのだろう、そしてお前さんはよくまあ、恥しくないことだのう!』『Ah, mon pe're(ああ神父さま)』罪ふかい女は懺悔の涙を流しながら答える。『C,a lui fait tant ee plaisir et a` moi si peu de peine!(あの人は大そう楽しみましたし、わたしも苦しくはなかったのですもの!)』まあ、一つこういう答えを想像してみたまえ! そこで、僕も唖然として引きさがった。これは天性そのものの叫びだからね。これは、君、清浄無垢よりもまさっているくらいだよ。僕はその場ですぐ彼女の罪を赦し、踵を転じて立ち去ろうとしたが、すぐにまたあと戻りをせずにいられなかった。聞くとね、神父は格子ごしに、女に今晩の密会を約束しているじゃないか、――実際、燧石のように堅い老人なんだが、こうして、見るまに堕落してしまったんだね。天性が、天性の真理が勝利を占めたんだ! どうしたんだ、君はまた鼻を横っちょへ向けて、怒ってるじゃないか? 一たいどうすれば君の気に入るのか、もうまるでわけがわからない……」
「僕にかまわないでくれ。お前は僕の頭の中を、執念ぶかい悪夢のように敲き通すのだ」と、イヴァンは病的に呻いた。彼は自分の幻影に対して、ぜんぜん無力なのであった。「僕は、お前と一緒にいるのが退屈だ。たまらなく苦しい! 僕は、お前を追っ払うことができさえすれば、どんなことでもいとわないんだがなあ!」
「繰り返して言うが、君は自分の要求を加減しなけりゃいけないよ。僕から何か『偉大なるもの、美しきもの』を要求しては困る。なに、見たまえ、僕と君とは、お互いに親密に暮してゆけるからね」と紳士はさとすように言った。「まったく、君は僕が焔の翼をつけ、『雷のごとくはためき、太陽のごとく真紅に光り輝きながら』君の前に現われないで、こんなつつましやかな様子で出て来たのに、腹を立てているんだろう。第一に、君の審美感が侮辱され、第二に、君の誇りが傷つけられたんだ。自分のようなこんな偉大な人間のところへ、どうしてこんな卑しい悪魔がやって来たんだろう、というわけでね。実際、君の中には、すでにベリンスキイに嘲笑された、あのロマンチックな気分が流れているんだ。現に僕は、さっき君のところへ来る時に、冗談半分、コーカサスで勤めている四等官のふうをして、燕尾服をつけ、獅子と太陽の勲章(ペルシャの勲章)をつけて現われようかとも思ったが、せめて北極星章か、あるいはシリウス章くらいならまだしも、獅子と太陽なんか燕尾服につけて来たというので、君が殴りはしないかと危ぶんだのだ。君はしきりに僕を馬鹿だと言うね。だが、僕は知力の点においては、君と同一視されたいなどと、そんなとんでもない大それた野心は持っていないよ。メフィストフェレスファウストの前に現われて、自分は悪を望んでいながら、その実いいことばかりしていると、自己証明をしたね。ところが、あいつは何と言おうと勝手だが、僕はまったく反対だよ。僕はこの世界において真理を愛し、心から善を望んでいる唯一人かもしれない。僕は、十字架の上で死んだ神の言《ことば》なる人が、右側に磔けられた盗賊の霊を自分の胸に抱いて天へ昇った時、『ホザナ』を歌う小天使の嬉しそうな叫び声と、天地を震わせる雷霆のごとき大天使の歓喜の叫喚を聞いた。そのとき僕は、ありとあらゆる神聖なものにかけて誓うがね、実際、自分もこの讃美者の仲間に入って、みなと一緒に『ホザナ』を歌いたかったよ! すんでのことに[#「すんでのことに」はママ]、讃美の歌が僕の胸から飛び出そうとした……僕は、君も知ってのとおり、非常に多感で、芸術的に敏感だからね。ところが、常識が、――ああ、僕の性格の中で最も不幸な特質たる常識が、――僕を義務の限界の中に閉じ籠めてしまった。こうして僕は、機会を逸したわけだ! なぜなら、僕はその時、『おれがホザナを歌ったら、どんなことになるだろう? すべてのものはたちまち消滅してしまって、何一つ出来事が起らなくなるだろう』とこう考えたからだ。で、僕はただただおのれの本分と、社会的境遇のために、自分の心に生じたこの好機を圧伏して、不潔な仕事をつづけるべく余儀なくされたのだ。誰かが善の名誉を残らず独占して、僕の分けまえにはただ不潔な仕事だけ残されてるのさ。けれど、僕は詐欺的生活の名誉を嫉むものじゃない。僕は虚栄を好かないからね。宇宙におけるあらゆる存在物の中で、なぜ、僕ばかりが身分のあるすべての紳士から呪われたり、靴で蹴られたりするような運命を背負ってるんだろう? だって、人間の体にはいった以上、時にはこういう結果にも出くわさなければならないからね。僕はむろん、そこにある秘密の存することを知っている。けれど、人はどうしてもその秘密を僕に明かそうとしない。なぜかと言えば、僕が秘密の真相を悟って、いきなり『ホザナ』を歌いだしてみたまえ、それこそたちまち大切なマイナスが消えてしまって、全宇宙に叡知が生ずる、それと同時に、一切は終りを告げて、新聞や雑誌さえ廃刊になるだろう。だって、そうなりゃ、誰が新聞や雑誌を購読するものかね、だが、僕は結局あきらめて、自分の千兆キロメートルを歩いて、その秘密を知るよりほか仕方がないだろうよ。しかし、それまでは僕も白眼で世を睨むつもりだ、歯を食いしばって、自分の使命をはたすつもりだ、一人を救うために数千人を亡ぼすつもりだ。むかし一人の義人ヨブを得るために、どれだけの人を殺し、どれだけ立派な人の評判を台なしにしなけりゃならなかったろう! おかげで、僕はずいぶんさんざんな目にあったよ。そうだ、秘密が明かされないうちは、僕にとって二つの真実があるんだ。一つはまだ少しもわかっていないが、あの世の人々の真実で、それからもう一つは僕自身の真実だ。しかし、どっちがよけい純なものか、そいつはまだわからない……君は眠ったのかね?」
「あたりまえよ」とイヴァンは腹だたしそうに唸った。「僕の天性の中にある一切の馬鹿げたものや、もうとっくに生命を失ったものや、僕の知恵で咀嚼しつくされたものや、腐れ肉のように投げ捨てられたものを、お前はまるで何か珍しいもののように、今さららしくすすめてるんだ!」
「またしくじったね! 僕は文学的な文句で君を惑わそうと思ったんだがね。この天上の『ホザナ』は、実際のところ、まんざらでもなかったろう? それから、今のハイネ風な諷刺的な調子もね、そうじゃないか?」
「いいや、僕は一度も、そんな卑劣な下司になったことはない! どうして僕の魂が貴様のようなそんな下司を生むものか!」
「君、僕はある一人の実に可愛い、実に立派なロシヤの貴族の息子を知っているがね、若い思想家で、文学美術の人の愛好家で、『大審問官』と題する立派な詩の作者だ……僕はただこの男一人のことを頭においてたんだ!」
「『大審問官』のことなんか口にすることはならん。」イヴァンは恥しさに顔を真っ赤にして叫んだ。
「じゃ、『地質学上の変動』にしようかな? 君おぼえているかね? これなんか、もう実に愛すべき詩だよ!」
「黙れ、黙らないと殺すぞ!」
「僕を殺すと言うのかね? まあ、そう言わないで、すっかり言わせてくれたまえ。僕が来たのも、つまりこの満足を味わうためなんだからね。ああ、僕は、生活に対する渇望にふるえているこうした若い、熱烈な友人の空想が大好きなんだ! 君はこの春ここへ来ようと思いついた時、こう断定したじゃないか。『世には新人がある、彼らはすべてを破壊して食人肉主義《カンニパリズム》から出直そうと思っている。馬鹿なやつらだ! おれに訊きもしないで! おれの考えでは、何も破壊する必要はない、ただ人類の中にある神の観念さえ破壊すればいいのだ。まずこれから仕事にかからなけりゃならない! まずこれから、これから始めなけりゃならないのだ、――ああ、何にもわからないめくらめ!一たん[#「らめ!一たん」はママ]人類がひとり残らず神を否定してしまえば(この時代が、地質学上の時代と並行してやってくることを、おれは信じている)、その時は、以前の世界観、ことに以前の道徳が、食人肉主義をまたなくとも自然に滅びて、新しいものが起ってくる。人間は、生活の提供し得るすべてのものを取るために集まるだろう。しかし、それはただ現在この世における幸福と歓びのためなんだ。人間は神聖な巨人的倨傲の精神によって偉大化され、そこに人神が出現する、人間は意志と科学とによって、際限もなく刻一刻と自然を征服しながら、それによって、以前のような天の快楽に代り得るほどの、高遠なる快楽を不断に感じるようになる。すべての人間は自分が完全に死すべきもので、復活しないことを知っているが、しかも神のように傲然として悠々死につく。彼はその自尊心のために、人生が瞬間にすぎないことを怨むべきでないと悟って、何の酬いをも期せずに自分の同胞を愛する。愛は生の瞬間に満足を与えるのみだが、愛が瞬間的であるという意識は、かえって愛の焔をますますさかんならしめる。それはちょうど、前に死後の永遠なる愛を望んだ時に、愛の火が漫然とひろがったのと同じ程度である云々……』とこんなことだったよ。実にうまいことを言ったものだね!」
 イヴァンは両手で自分の耳をおさえ、じっと下を見ながら腰かけていたが、急に体じゅうがびりびり慄えだした。紳士の声はつづいた。
「で、この場合、問題は次の点にある、――とわが若き思想家は考えた、――ほかでもない、はたしてそんな時代がいつか来るものかどうか? もし来るとすれば、それですべては解決され、人類も永久にその基礎を得るわけだ。しかし、人類の無知が深く根をおろしているから、ことによったら、千年かかってもうまくゆかないかもしれない。だから、今この真理を認めたものは、誰でもその新しい主義の上へ、勝手に自分の基礎を建てることができる。この意味において、人間は『何をしてもかまわない』わけだ。それに、もしこの時代がいつまでも来なくたって、どうせ神も霊魂の不死もないんだから、新しい人はこの世にたった一人きりであろうとも、人神となることができる。そして、人神という新しい位についた以上、必要な場合には、以前の奴隷人の道徳的限界を平気で飛び越えてもさしつかえないはずだ。神のためには法律はない! 神の立つところは、すなわち神の場所だ! おれの立つところは、ただちに第一の場所となる……『何をしてもかまわない、それっきりだ!』これははなはだ結構なことだよ。だが、もし詐欺をしようと思うくらいなら、なぜそのために、真理の裁可を要するのだろう? しかし、これがわがロシヤの現代人なんだ。ロシヤの現代人は、真理の裁可なしに詐欺一つする勇気もない。それほど彼らは真理を愛しているんだ……」
 客は自分の雄弁で調子に乗ったらしく、ますます声を高め、あざむがごとく主人を眺めながら、滔々と弁じたてた。しかし、彼がまだ論じ終らないうちに、イヴァンはいきなりテーブルの上からコップを取って、弁士に投げつけた。
「Ah, mais c'est be'te enfin!(ああ、だがそれは要するに馬鹿げてる!)」客に長椅子から飛びあがって、茶のとばっちりを指で払いおとしながら、こう叫んだ。「ルーテルのインキ壺を思い出したんだね! 自分で僕を夢だと思いながら、その夢にコップを投げつける! まるで女のような仕打ちだ! 君が耳をふさいでいるのは、ただ聞かないようなふりをしているばかりだろうと思ったが、はたしてそうだった……」
 途端に、外からどんどんと激しく、執拗に窓をたたく音がした。イヴァンは長椅子から跳りあがった。
「ほら、窓をたたいてるよ。開けてやりたまえ」と客は叫んだ。「あれは君の弟のアリョーシャが、きわめて意外な面白い報告を持って来たんだ。僕が受け合っておく!」
「黙れ、詐欺師、アリョーシャが来たってことは、僕のほうがお前よりさきに知っている。前からそんな気がしていたのだ。弟が来たとすりゃ、むろん空手じゃない、むろん『報告』を持って来たにきまってる!」とイヴァンは夢中になって叫んだ。
「開けてやりたまえ、開けてやりたまえ。外は吹雪だ。君の弟が来てるんじゃないか。Mr, sait-il le temps qu'il fait? C'est a` ne pas mettre un chien dehors……(君、こんなお天気じゃないか。犬だって外に出しちゃおけないのに……)
 窓をたたく音はつづいた。イヴァンは窓のそばへ駈け寄ろうとしたが、急に何かで手足を縛られたように思われた。彼は力一ぱいその桎梏を断ち切ろうと懸命になったが、どうすることもできなかった。窓をたたく音はますます強く、ますます激しくなった。ついに桎梏は断ち切れた。イヴァンは長椅子の上に飛びあがった。彼はけうとい目つきであたりを見まわした。二本の蠟燭はほとんど燃え尽きそうになっているし、たったいま客に投げつけたはずのコップは、前のテーブルの上にちゃんとのっていて、向うの長椅子の上には誰もいなかった。窓をたたく音は依然やまなかったが、いま夢の中で聞えたほど激しくはなく、むしろきわめて控え目であった。
「今のは夢じゃない! そうだ、誓って今のは夢じゃない。あれはいま実際あったのだ!」とイヴァンは叫んで、窓ぎわに駈け寄り、通風口を開けた。
「アリョーシャ、僕は決して来ちゃならんと言ったじゃないか!」と彼は狂暴な調子で弟を呶鳴りつけた。「さ、何用だ、一口で言え、一口で、いいか?」
「一時間まえにスメルジャコフが首を縊ったんです」とアリョーシャは外から答えた。
「玄関のほうへ廻ってくれ、今すぐ開けるから。」イヴァンはこう言って、アリョーシャのために戸を開けに行った。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第八章 三度目の、最後の面談

   第八 三度目の、最後の面談

 まだ半分道も行かないうちに、その日の早朝と同じような、鋭いからっ風が起って、細かいさらさらした粉雪がさかんに降りだした。雪は地面に落ちたが、落ちつくひまもなく風に巻き上げられた。こうして、間もなく本当の吹雪になってしまった。この町でも、スメルジャコフの住まっているあたりには、ほとんど街灯というものがなかった。イヴァンは暗闇の中を吹雪にも気づかず、ほとんど本能的に路を見分けながら、歩いて行った。頭が割れるように痛んで、こめかみがずきずきいった。手首は痙攣を起していた(彼はそれを感じた)。マリヤの家まぢかになった頃、とつぜん一人の酔いどれに出会った。それはつぎはぎだらけの外套を着た背の低い百姓で、よろよろと千鳥足で歩きながら、ぶつぶつ言ったり、罵ったりしていた。急に罵りやめたかと思うと、今度はしゃがれた酔いどれ声で、歌いだすのであった。

  やあれ、ヴァンカは
  ピーテルさして旅へ出た
  わしゃあんなやつ待ちはせぬ

 しかし、彼はいつもこの三の句で歌を切って、また誰やら罵りだすかと思うと、またとつぜん歌を繰り返しはじめた。イヴァンはまるでそんなことを考えもしないのに、もうさきほどからこの百姓に、恐ろしい憎悪を感じていたが、やがてそれをはっきり意識した。すると、いきなり、百姓の頭に拳骨を見舞いたくてたまらなくなった。ちょうどこの瞬間、彼ら二人はすれ違った。そのとたん百姓はひどくよろけて、力一ぱいイヴァンにぶつかった。イヴァンはあらあらしく突きのけた。百姓は突き飛ばされて、凍った雪の上へ丸太のように倒れたが、病的にただ一度、『おお! おお!』と唸ったきりで、そのまま黙ってしまった。イヴァンが一歩ちかよって見ると、彼は仰向きになったまま、身動きもせず、知覚を失って倒れていた。『凍え死ぬだろう!』とイヴァンは考えたなり、またスメルジャコフの家をさして歩きだした。
 彼が玄関へはいると、マリヤが蠟燭を手に駈け出して、戸を開けた。そして、パーヴェル・フョードロヴィッチ(すなわちスメルジャコフ)は大病にかかっている、べつに寝てるというわけではないが、ほとんど正気を失った様子で、お茶の支度をしろと言いつけながら、それを飲もうともしない、というようなことを彼に囁いた。
「じゃ、暴れでもするのかね?」とイヴァンはぞんざいに訊いた。
「いいえ、それどころじゃありません。ごく穏やかなんでございます。ただあまり長くお話をなさらないで下さいまし……」とマリヤは頼んだ。
 イヴァンは戸を開けて、部屋の中ヘー足はいった。
 初めて来た時と同じように、部屋はうんと暖めてあったが、中の様子がいくらか変っていた。壁のそばにあったベンチが、一つ取り除けられて、その代り、マホガニイに似せた大きな古い革張りの長椅子がおいてあった。その上には蒲団が敷かれて、小ざっぱりとした白い枕がのっていた。スメルジャコフはやはり例の部屋着を着て、薄団の上に坐っていた。テーブルは長椅子の前に移されていたので、部屋の中はひどく狭苦しくなっていた。テーブルの上には、黄いろい表紙のついた厚い本がのっていたが、スメルジャコフはそれを読んでいるでもなく、ただ坐ったきり、何にもしていないらしかった。彼はゆっくりした無言の目つきで、イヴァンを迎えた。見たところ、イヴァンが来たのに一こう驚かないふうであった。彼はすっかりおも変りがして、ひどく瘦せて黄いろくなっていた。目は落ち込んで、その下瞼には蒼い環さえ見えた。
「お前は本当に病気なのかね?」イヴァンは立ちどまった。「おれは長くお前の邪魔をしないから、外套も脱ぐまいよ。どこへ腰かけたらいいんだ?」
 彼はテーブルの反対の側から廻って、椅子を引き寄せ、腰をおろした。
「なぜ黙っておれを見ているんだ? おれはたった一つ、お前に訊きたいことがあって来たんだ。まったくお前の答えを聞かないうちは、どうあっても帰らんつもりだ。お前のところヘカチェリーナさんが来るだろう?」
 スメルジャコフは依然として、静かにイヴァンを見ながら、長い間じっとおし黙っていたが、急に片手を振って、顔をそむけてしまった。
「どうしたんだ?」とイヴァンは叫んだ。
「どうもしません。」
「どうもしないはずはない!」
「ええ、まいりましたよ。だが、どうだっていいじゃありませんか。帰って下さい。」
「いや、帰らない! いつ来たか言え!」
「なに、私はあのひとのことなんか覚えてもいませんよ。」スメルジャコフは軽蔑するように、にたりと笑ったが、急にまたイヴァンのほうへ顔を向けて、一種もの狂おしい憎悪の目で彼を見つめた。それは、一カ月前に会ったときと同じ目つきであった。
「どうやら、あなたもご病気のようですね。まあ、げっそりとお瘦せなすったこと、まるでその顔色ったらありませんよ」と彼はイヴァンに言った。
「おれの体のことなど、心配してくれなくてもいいから、おれの訊いたことに返事をしろ。」
「それに、あなたの目の黄いろくなったことはどうでしょう。白目がまるで黄いろくなってしまって、ひどくご心配ですかね?」
 彼は軽蔑するように、にたりとしたが、急に声をたてて笑いだした。
「おい、いいか、おれはお前の返事を聞かないうちは帰りゃしないぞ!」とイヴァンは恐ろしく激昂して叫んだ。
「何だってあなたは、そうしつこくなさるんです? どうして私をいじめなさるんです?」とスメルジャコフはさも苦しそうに言った。
「ええ、畜生! おれはお前に用事なんかないんだ。訊いたことにさえ返事すりゃ、すぐ帰る。」
「何もあなたに返事することなぞありませんよ!」とまたスメルジャコフは目を伏せた。
「いや、きっとおれはお前に返事をさせる!」
「どうしてそんなに心配ばかりなさるんです!」とスメルジャコフは急にイヴァンを見つめた。彼の顔には軽蔑というよりも、もはやむしろ一種の嫌悪が現われていた。「あす公判が始まるからですか? そんなら、ご心配にゃおよびません、あなたに何があるもんですか! 家へ帰って安心してお休みなさい。ちっとも懸念なさることはありゃしません。」
「おれはお前の言うことがわからん……どうしておれが明日の日を恐れるんだ?」とイヴァンはびっくりしてこう言った。と、ふいに彼の心は事実、ある驚愕に打たれて、ぞっとしたのであった。スメルジャコフはまじまじとそれを眺めていた。
「おわかりにな―り―ませんかね?」と彼はなじるように言葉を切りながら言った。「賢いお方が、こうした茶番をやるなんて、本当にいいもの好きじゃありませんか!」
 イヴァンは黙って彼を眺めた。イヴァンはこういう語調を予期しなかった。それは、実に傲慢きわまるものであった。しかも、以前の下男が、いま彼にこうした口をきくというのは、それこそ容易ならぬことであった。この前の面談の時でさえ、まだまだこんなことはなかった。
「ちっとも、ご心配なさることはありませんて、そう言ってるじゃありませんか。わたしゃああなたのことは、何も申し立てやしませんからね。証拠がありませんや。おや、お手が慄えてますね。どうして指をそんなに、ぶるぶるさせていらっしゃるんです? さあ、家へお帰んなさい。殺したのはあなたじゃありません[#「殺したのはあなたじゃありません」に傍点]。」
 イヴァンはぎくっとした。彼はアリョーシャのことを思いだした。
「おれでないことは自分で知っている……」と彼は呟いた。
「ご存じ―ですかね?」とまたスメルジャコフは言葉じりを引いた。
 イヴァンはつと立ちあがって、スメルジャコフの肩を摑んだ。
「すっかり言え、毒虫め! すっかり言っちまえ!」
 スメルジャコフはびくともしなかった。彼はただ狂的な憎悪をこめた目で、イヴァンにじっと食い入るのであった。
「じゃ、申しますがね、殺したのは実はあなたですよ」と彼はにくにくしくイヴァンに囁いた。イヴァンはどっかと椅子に腰をおろした。ちょうど何か思いあたりでもしたもののように、彼は意地わるそうに、にやりとした。
「お前はやっぱりあの時のことを言っているのか? このまえ会った時と同じことを!」
「そうです、このまえ私のところへおいでの時も、あなたはすっかり呑み込みなすったじゃありませんか。だから、今も呑み込みなさるはずでございますよ。」
「お前が気ちがいだってことだけは、おれにも呑み込めるよ。」
「よくまあ、飽き飽きしないことですね! 面と向ってお互いにだましあったり、茶番をやったりするなんて? それとも、また面と向って、私一人に罪をなすりつけようとなさるんですか? あなたが殺したんですよ、あなたが張本人なんですよ。私はただあなたの手先です。あなたの忠実な僕《しもべ》リチャルド[#「忠実な僕《しもべ》リチャルド」はママ]だったんです。私はあなたのお言葉にしたがって、やっつけたんですからね。」
「やっつけた? じゃ、お前が殺したんだね?」イヴァンは総身に水を浴びたようにぞっとした。何やら頭の中で非常なショックを受けたかのように、彼は体じゅうがたがたと慄えだした。その時はじめて、スメルジャコフもびっくりして彼を見つめた。たぶんイヴァンの驚愕があまりに真剣なのに、打たれたものらしい。
「じゃ、あなたは本当に何にもご存じなかったんですか?」とスメルジャコフは信じかねるように囁いた、イヴァンの目を見つめて皮肉な笑いをもらしながら。
 イヴァンはいつまでも彼を眺めていた。彼は舌を抜かれでもしたように、口をきくことができなかったのである。

  やあれヴァンカは
  ピーテルさして旅に出た
  わしゃあんなやつ待ちはせぬ

 という歌が、とつぜん彼の頭の中に響きはじめた。
「ねえ、おい、おれはお前が夢じゃないかと思って、恐ろしいんだ、おれの前に坐っているのは幻じゃないか?」と彼は呟いた。
「幻なんてここにいやしませんよ、私たち二人と、もう一人ある者のほかはね。確かにその者は、そのある者は今ここに、私たちの間におりますぜ。」
「それは誰だ? 誰がいるんだ? 誰だ、そのある者は?」あたりを見まわしたり、すみずみに誰かいないかと忙しげに捜したりしながら、イヴァンはびっくりして訊ねた。
「そのある者というのは神様ですよ、天帝ですよ。天帝はいま私たちのそばにいらっしゃいます。しかし、あなたがいくらお捜しになっても、見つかりゃしませんよ。」
「お前は自分が下手人だと言うが、それは嘘だ!」とイヴァンはもの狂おしく叫んだ。「お前は気ちがいか、それとも、この前のように、おれをからかおうとするのだろう!」
 スメルジャコフはさきほどと同じように、いささかも驚かずにじっとイヴァンを見まもっていた。彼はいまだにどうしても、自分の疑念をしりぞけることができなかった。やはりイヴァンが『何もかも知っている』くせに、ただ『こっちばかりに罪をなすりつけようとしている』というような気がした。
「ちょっとお待ちなさい。」とうとう彼は弱々しい声でこう言って、ふいにテーブルの下から自分の左足を引き出し、ズボンを捲し上げはじめた。足は長い白の靴下につつまれて、スリッパをはいていた。彼はそろそろと靴下どめをはずして、靴下の中へ自分の指を深く突っ込んだ。イヴァンはじっとそれを見ていたが、急にぴくりとなって、痙攣的にがたがた慄えだした。
「気ちがい!」と彼は叫んで、つと立ちあがると、うしろへよろよろとよろめいて、背中をどんと壁にぶっつけ、体を糸のように伸ばして、ぴったり壁にくっついてしまった。彼はもの狂おしい恐怖を感じながら、スメルジャコフを見つめた。スメルジャコフは、イヴァンの驚愕を少しも気にとめないで、やはり靴下の中を捜していた。しきりに指先で何か摑もうとしているらしかったが、とど何かを探りあてて、それを引き出しにかかった。イヴァンは、おそらく書類か、それとも何かの紙包みだろうと見てとった。スメルジャコフはそれを引き出すと、テーブルの上においた。
「これです!」と彼は低い声で言った。
「何だ?」イヴァンは身ぶるいをしながら答えた。
「どうか、ごらん下さい」とスメルジャコフは相変らず低い声で言った。
 イヴァンはテーブルのほうヘー歩ふみ出し、その紙包みを手に取って開こうとしたが、まるで何か不気味な恐ろしい毒虫にでもさわったように、急につと指を引っこめた。
「あなた指がまだ慄えていますね、痙攣していますね」とスメルジャコフは言い、自分でそろそろと紙包みを開いた。中からは虹色をした百ルーブリ札の束が三つ出て来た。
「残らずここにあります、三千ルーブリあります、勘定なさるにもおよびません。お受け取り下さい」と彼は顋で金をしゃくりながら、イヴァンにこう言った。イヴァンは椅子にどうっと腰を落した。彼はハンカチのように真っ蒼になっていた。
「お前、びっくりさしたじゃないか……その靴下でさ……」と彼は異様な薄笑いを浮べながら言った。
「あなたは本当に、本当にあなたは今までご存じなかったのですか?」とスメルジャコフはもう一ど訊いた。
「いや、知らなかった。おれはやはり、ドミートリイだとばかり思っていた。兄さん! 兄さん! ああ!」彼は急に両手で自分の頭を摑んだ。「ねえ、おい、お前は一人で殺したのかい?兄貴の手[#「かい?兄貴の手」はママ]を借りずに殺したのか、それとも一緒にやったのか?」
「ただあなたと一緒にしただけです。あなたと一緒に殺しただけです。ドミートリイさんには何の罪もありません。」
「よろしい、よろしい……おれのことはあとにしてくれ。どうしておれはこんなに慄えるんだろう……口をきくこともできない。」
「あなたはあの時分、大胆でしたね。『どんなことをしてもかまわない』などと言っておいででしたが、今のその驚き方はどうでしょう!」とスメルジャコフは呆れたように呟いた。「レモナードでもおあがりになりませんか。今すぐ言いつけましょう。とても気分がはればれとしますよ。ところで、こいつをまず隠しておかなくちゃ。」
 こう言って、彼はまた紙幣束を顋でしゃくった。彼は立ちあがって戸口へ行き、レモナードの支度をして持って来るように、マリヤに言いつけようとしたが、彼女に金を見られないように、何か被せるものを捜すことにして、まずハンカチを引き出したが、これは今日もまたすっかり汚れていたので、イヴァンが入って来た時に目をつけた、例のテーブルの上にただ一冊のっている黄いろい厚い書物を取り上げて、それを金の上に被せた。その書名は『我らが尊き師父イサアク・シーリンの言葉』と記してあった。イヴァンは機械的にその表題を読んだ。
「レモナードはいらない」と彼は言った。「おれのことはあとにして、腰をかけて話してくれ、どういう工合にやったのか、何もかもすっかり話してくれ……」
「あなた、外套でもお脱ぎになったらいいでしょう。すっかり蒸れてしまいますよ。」
 イヴァンは今やっと気づいたように外套を脱ぐと、椅子から立たないで、ベンチの上へ投げ出した。
「話してくれ、どうか話してくれ!」
 彼は落ちついてきたらしかった。そして、今こそスメルジャコフがすっかり[#「すっかり」に傍点]言ってしまうだろうと信じて、じっと待ち受けていた。
「どんな工合にやっつけたかというんですね?」スメルジャコフはほっとため息をついた。「例のあなたのお言葉にしたがって、ごく自然な段どりでやっつけましたよ……」
「おれの言葉なんかあとにしてくれ」とイヴァンはまた遮ったが、すっかり自己制御ができたらしく、もう以前のように呶鳴らないで、しっかりした語調で言った。「どういう工合にやったか、詳しく話して聞かせてくれ、すっかり順序を立てて話してくれ、何一つ忘れちゃいけない。詳しく、何より第一に詳しく。どうか話してくれ。」
「あなたが立っておしまいになったあとで、私は穴蔵へ落ちました……」
「発作でかね、それともわざとかね?」
「そりゃわざとにきまってますよ。何事によらず、すっかり芝居を打っていたんです。悠々と階段を下までおりて、悠々と横になると唸りだして、連れて行かれるまでばたばたもがいていました。」
「ちょっと待ってくれ! ではその後も、病院でもずっと芝居をしていたのかね?」
「いいえ、そうじゃありません、あくる朝、病院へ行く前に、本当に激しい発作がやって来ました。もう永年こんなひどいのに出会ったことがないくらいで、二日間というもの、まるっきり感じがありませんでしたよ。」
「よろしい、よろしい。それから。」
「それから、寝床に寝かされましたが、いつも私が病気になった時のおきまりで、マルファさんが自分の部屋の衝立ての向うへ、夜どおし寝かしてくれることはわかっていました。あの女は、私が生れ落ちるとから、[#「生れ落ちるとから、」はママ]いつも優しくしてくれましたからね。夜分、私はうなりました、もっとも、低い声でしたがね。そして、今か今かと、ドミートリイさんを待っていました。」
「待っていたとは? お前のところへか?」
「私のところへ何用があります? 旦那の家へですよ。なぜって、あの人がその夜のうちにやって来ることを、もうとう疑っちゃおりませんでした。だって、あの人は私がいないから、何の知らせも手に入らないので、ぜひ自分で塀を乗り越えて、家の中へ入らなけりゃならないはずですものね。そんなことは平気でできるんですから、きっとなさるに違いありません。」
「だが、もし兄が行かなかったら?」
「そうすりゃ、何事もなかったでしょうよ。あの人が来なけりゃ、私だって何も思いきってしやしませんからね。」
「よろしい、よろしい……もっとよくわかるように言ってくれ。急がずにな、それに第一、何一つ抜かさないように!」
「私は、あの人が旦那を殺すのを待っていたのです……そりゃ間違いないこってす。なぜって、私がそうするように仕向けておいたんですからね……その二三日前からですよ……第一、あの人は例の合図を知っています。あの人はあの頃、疑いや嫉妬が積り積っていたのですから、ぜひこの合図を使って、家の中へ入り込むにきまりきっていたんですよ。それは決して間違いっこありません。そこで、私はあの人が来るのを待ってたわけなんで。」
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは遮った。「もし、あれが殺したら、金を持って行くはずじゃないか。お前だってそう考えるはずじゃないかね? してみれば、そのあとで何がお前の手に入るんだい? おれはそいつがわからないね。」
「ところが、あの人には決して金のありかがわかりっこありませんよ。あれはただ私が、金は蒲団の下に入っていると言って、教えておいただけなんで、まったく嘘の皮なんです。以前は手箱の中に入っていましたが、旦那は世界じゅうでただ一人、私だけ信用していましたから、そのあとで私が、金のはいった例の封筒を、聖像のうしろの隅へおきかえるように教えたんです。そこなら、ことに急いで入って来た時など、誰にも気づかれる心配がありませんからね。こういうわけで、あれは、あの封筒は、旦那の部屋の片隅の聖像のうしろにあったので。蒲団の下へ入れるなんて、そりゃ滑稽なことですよ。まだせめて手箱の中へ入れて、錠でもかけておきまさあね。でも、今はみんな、蒲団の下にあったものと信じきっていますが、馬鹿な考え方じゃありませんか。で、もしドミートリイさんがお父さんを殺しても、大ていの人殺しにありがちなように、ちょっとした物音にもおじけて、何一つ見つけ出さずに逃げてしまうか、それともふん縛られるかにきまっています。そうなりゃ、私はいつでも、あくる日でも、その晩にでも、聖像のうしろからその金を持ち出して、罪をすっかり、ドミートリイさんになすりつけることができますからね。私はいつだって、それを当てにしていいわけじゃありませんか?」
「でも、もし兄が親父を殴っただけで、殺さなかったとしたら?」
「もしあの人が殺さなかったら、むろん、私は金を取らないで、そのまま無駄にしておいたでしょう。が、またこういう目算もありましたよ。もしあの人が旦那を殴りつけて気絶させたら、私はやはりその金を盗んで、あとで旦那に向って、あなたを殴って金を取ったものは、ドミートリイさんのほかに誰もありません、とこう報告するんですよ。」
「ちょっと待ってくれ……おれは頭がこんぐらかってきた。じゃ、やっぱりドミートリイに殺させて、お前が金を取ったと言うんだな?」
「いいえ、あの人が殺したんじゃありません。なに、今でも私はあなたに向って、あの人が下手人だと言えますが……しかし、今あなたの前で嘘を言いたかありません。だって……だって、お見受け申すとおり、よしんば実際あなたが今まで、何もおわかりにならずにいたにしたところで、よしんば私の前でしらを切って、わかりきった自分の罪を人に塗りつけていらっしゃるのでないとしたところで、やっぱりあなたは全体のことに対して罪があるんですからね。なぜって、あなたは兇行のあることを知りながら、また現にそれを私に依頼しておきながら、自分では何もかも知っていながら、立っておしまいなすったんですものね。ですから、私は今晩、この一件の張本人はあなた一人で、私は自分で殺しはしたけれど、決して張本人じゃないってことを、あなたの目の前で証明したいんですよ。あなたが本当の下手人です!」
「なに、どうしておれが下手人なんだ? ああ!」イヴァンは自分の話はあとまわしにする決心を忘れて、とうとう我慢しきれずにこう叫んだ。「それはやはり、あのチェルマーシニャのことかね? だが、待て。よしんばお前が、おれのチェルマーシニャ行きを、同意の意味にとったとしても、一たい何のためにおれの同意が必要だったんだ? お前は今それをどういうふうに説明する?」
「あなたのご同意を確かめておけば、あなたが帰っていらしっても、紛失したこの三千ルーブリのために、騒ぎをもちあげなさることもあるまいし、またどうかして、私がドミートリイさんの代りに、その筋から嫌疑をかけられたり、ドミートリイさんとぐる[#「ぐる」に傍点]のように思われたりした時に、あなたが弁護して下さるってことが、ちゃんとわかっているからですよ……それに、遺産を手に入れておしまいになれば、その後いついつまでも、一生私の面倒を見て下さるでしょうからね。なぜって、あの遺産を相続なさったのは、何といっても私のおかげですよ。もしお父さんがアグラフェーナさんと結婚なすったなら、あなたはびた一文、おもらいになれなかったでしょうからね。」
「ああ! じゃ、お前はその後一生涯、おれを苦しめようと思ったんだな!」イヴァンは歯ぎしりした。「だが、もしおれがあのとき出発せずに、お前を訴えたらどうするつもりだったのだ?」
「あの時あなたは何を訴えようとおっしゃるんですね? 私があなたにチェルマーシニャ行きを勧めたことですか? そんなのはばかばかしい話じゃありませんか。それに、私たちが話し合ったあとで、あなたが出発なさるにせよ、残っていらっしゃるにせよ、べつに困ることはありゃしませんや。もし残っていらっしゃれば、何事も起らなかったでしょう、私はあなたがこの話をお望みにならないことを知って、何事もしなかったでしょうよ。が、もし出発なされば、それはあなたが私を裁判所へ訴えたりなどせずに、この三千ルーブリの金は私が取ってもいい、とこうおっしゃる証拠なんですからね。それに、あなたはあとで私をいじめたりなさることもできません。なぜって、そうなりゃ、私は法廷で何もかも言ってしまいますからね。しかし、何も私が盗んだり、殺したりした、なんて言うんじゃありませんよ……そんなことは言やしません……あなたから、盗んで殺せとそそのかされたが、承知しなかったと、こう申しまさあね。だから、あの時あなたの同意をとって、決してあなたからいじめつけられないようにしておく必要があったのです。だって、あなたはどこにも証拠を持っていらっしゃらないけれど、私はその反対に、あなたはお父さんが死ぬのを恐ろしく望んでいらしったと、こうすっぱ抜きさえすれば、いつでもあなたを押えつけることができますからね。で、ちょっと一こと言いさえすれば、世間のものはみんなそれを本当にしますよ。そうすりゃ、一生涯、あなたの恥になりますよ。」
「望んでいた、望んでいた、おれがそんなことを望んでいた、と言うのか?」イヴァンはまた歯ぎしりした。
「そりゃ間違いなく望んでおいででしたよ。あなたが承知なすったのは、つまり、私にあのことをしてもいいと、だんまりのうちに、お許しになったんですよ。」スメルジャコフはじっとイヴァンを見つめた。彼はひどく弱って、小さな声でもの憂そうに口をきいていたが、心内に秘められた何ものかが、彼を駆り立てたのである。彼は確かに何か思わくがあるらしかった。イヴァンはそれを感じた。
「さあ、そのさきはどうだ!」とイヴァンは言った。「あの夜の話をしてくれ。」
「そのさきといっても、わかりきってるじゃありませんか! 私が寝て聞いていますとね、旦那があっと言いなすったような気がしました。しかし、グリゴーリイさんが、その前に起きて出て行きました。すると、いきなり唸り声が聞えたと思うと、もうあたりはしんとして、真っ暗やみでした。私はじっと寝て待っていましたが、心臓がどきどきいって、我慢も何もできなくなりましたから、とうとう起きて行きました。左側を見ると、旦那の部屋では、庭に向いた窓が開いているじゃありませんか。私は、旦那が生きているかどうか見さだめようとして、また一あし左のほうへ踏み出しました。すると、旦那がもがいたり、ため息をついたりしている気配がします。じゃ、まだ生きてるんだ。ちぇっ、と私は思いましたね! 窓へ寄って、『私ですよ』と旦那に声をかけますと、旦那は、『来たよ、来たよ。逃げて行った!』と言うんです。つまり、ドミートリイさんが来たことなんです。『グリゴーリイは殺されたよ! どこで?』と私は小声で訊きました。『あそこの隅で』と指さしながら、旦那はやはり小さい声で囁きました。『お待ち下さい』と私は言い捨てて、庭の隅へ行ってみますと、グリゴーリイのやっこさん、体じゅう血まみれになって、気絶して倒れているんです。そこで、確かにドミートリイさんが来たんだな、という考えがすぐ頭に浮んだので、その場ですぐ一思いにやっつけてしまおう、と決心しました。なぜって、よしグリゴーリイが生きてても、気絶しているので、何にも気がつきはしないからです。ただ心配なのは、マルファがふいに目をさましはしないか、ということでした。私は、その瞬間にもこのことを感じましたが、もう心がすっかり血に渇いてしまって、息がつまりそうなのです。そこで、また窓の下へ戻って、『あのひとがここにいます、来ましたよ、アグラフェーナさんが来て、入りたがっていますよ』と旦那に言いました。すると、旦那は赤児のように、ぶるぶる身ぶるいをしました。
『こことはどこだ? どこだ?』こう言ってため息をつきましたが、まだ本当にしないんです。『あそこに立っていらっしゃいます。戸を開けておあげなさい!』と私が言いますと、旦那は半信半疑で、窓から私を見ていましたが、戸を開けるのが恐ろしい様子なんです。『つまり、おれを恐れてるんだな』と私は思いました。が、おかしいじゃありませんか、そのとき私は急に窓を叩いて、グルーシェンカが来てここにいる、という合図をすることを思いついたのです。ところが、旦那は言葉では本当にしないくせに、私がとんとんと合図をしたら、すぐ駈け出して、戸を開けて下すったじゃありませんか。戸が開いたので、私は中へ入ろうとしましたが、旦那は私の前に立ち塞がるようにして、『あれは、どこにいる? あれはどこにいる?』と言って、私を見ながらびくびくしています。こんなにおれを恐れてるんじゃ、とてもうまくゆかないな、と私は思いました。部屋へ入れないんじゃあるまいか、旦那が呶鳴りはしないか、マルファが駈けつけやしないか、またほかに何か起りはしないか、などと考えると、その恐ろしさに足の力が抜けてしまいました。その時は何も覚えていませんが、きっとわたしは旦那の前で真っ蒼になって、突っ立っていたに違いありません。『そこです、そこの窓の下です。どうして旦那はお見えにならないんでしょう?』と私が旦那に囁くと、『じゃ、お前あれを連れて来てくれ、あれを連れて来てくれ!』『でも、あのひとが怖がっていらっしゃいます。大きな声にびっくりして、藪の陰に隠れていらっしゃるんです。旦那ご自分で書斎から出て、呼んでごらんなさいまし』と私が言いました。すると、旦那は窓のそばへ駈け寄って、蠟燭を窓の上に立てて、『グルーシェンカ、グルーシェンカ、お前そこにいるのかい?』と呼びましたが、こう呼びながらも、窓から覗こうとしないんです。私から離れようとしないんです。恐ろしいからなんですよ。私をひどく恐れていたので、私のそばを離れないんですよ。『いいえ、あのひとは(と、私は窓に寄って、窓から体を突き出しながら)、あそこの藪のなかにいらっしゃいますよ。あなたを見て笑っていらっしゃいます、見えますでしょう?』と言いました。すると、旦那は急に本当にして、ぶるぶると身ぶるいしだしました。なにしろ、すっかりグルーシェンカに惚れ込んでいたんですからね。で、旦那は窓から体をのり出した。そのとき私は、旦那のテーブルの上にのっていたあの鉄の卦算、ね、憶えていらっしゃいましょう、三斤もあるやつなんですよ、あいつを取って振り上げると、うしろから頭蓋骨めがけて折ちおろした[#「折ちおろした」はママ]んです。旦那は叫び声さえも出さないで、すぐにぐったりしてしまったので、また二三度なぐりつけました。三度目に頭の皿の割れたらしい手ごたえがありました。旦那はそのまま仰向けに、顔を上にして倒れましたが、体じゅう血みどろなんです。私は自分の体を調べてみると、さいわいとばっちりもかかっていないので、卦算を拭いてテーブルの上にのせ、聖像の陰へ行って、封筒から金を取り出しました。そして、封筒を床の上に投げ捨て、ばら色のリボンもそのそばへおきました。ぶるぶる慄えながら庭へ出て、すぐさま空洞《うつろ》のある林檎の木のそばへ行きました、――あなたもあの空洞《うつろ》をご存じでしょう、私はもうとうから目星をつけておいて、その中へ布と紙を用意していたんです。そこで、金を残らず紙に包み、その上からまた布でくるんで、空洞の中へ深く入れました。こうして、二週間以上もそこにありましたよ、その金がね。その後、病院から出た時に、はじめてそこから取り出して来たわけで。それで、私は寝台へ帰って寝ましたが、『もし、グリゴーリイが死んでしまえば、はなはだ面白からんことになる。が、もし死なずに正気づけば、大変いい都合だがなあ。そうすりゃあの男は、ドミートリイさんが忍び込んで、旦那を殺して、金を盗んで行ったという証人になるに相違ない』とこう私はびくびくしながら考えました。そこで、私は一生懸命に唸りだしたんです。それは、少しも早くマルファを起すためだったので。とうとうマルファは起き出して、私のところへ走って来ようとしましたが、突然グリゴーリイがいないのに気がつくと、いきなり外へ駈け出して、庭で叫び声を立てるのが聞えました。こうして、夜どおしごたごたが始まったわけなんですが、私はもうすっかり安心してしまいましたよ。」
 話し手は言葉を休めた。イヴァンは身動きもしなければ、相手から目を放しもせず、死んだように黙り込んで、しまいまで聞いていた。スメルジャコフは話をしながら、ときおりイヴァンをじろじろと見やったが、大ていはわきのほうを見ていた。話し終ると、彼はさすがに興奮を感じたらしく、深く息をついた。顏には汗がにじみ出した。けれども、後悔しているかどうかは、見てとることができなかった。
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは何やら思い合せながら遮った。「じゃ、戸はどうしたんだ? もし親父がお前だけに戸を開けたのなら、どうしてその前にグリゴーリイが、戸の開いているところを見たんだ? グリゴーリイはお前よりさきに見たんじゃないか。」
 不思議なことには、イヴァンは非常に穏やかな声で、前とはうって変った、いささかも怒りをふくまない語調で訊いた。で、もしこのとき誰かそこの戸を開けて、閾のところから二人を眺めたなら、二人が何かありふれた面白い問題で、仲よく話をしているものと思ったに相違ない。
「その戸ですがね、グリゴーリイが見た時に開いていたというのは、ただあの男にそう思われただけですよ。」スメルジャコフは口を歪めてにたりと笑った。「一たいあいつは人間じゃありません。頑固な睾丸《きん》ぬき馬ですからね。見たんじゃなくって、ただ見たように思ったんですが、――そう言いだしたが最後、もうあとへは引きゃしません。あいつがそんなことを考えだしたというのは、私たちにとってもっけの幸いなんですよ。なぜって、そうなりゃ否でも応でも、ドミートリイさんへ罪がかかるに相違ありませんからね。」
「おい、ちょっと、」イヴァンはこう言ったが、また放心したようにしきりに考えていた。「おい、ちょっと……おれはまだ何かお前に訊きたいことがたくさんあったんだが、忘れてしまった……おれはどうも忘れっぽくて、頭がこんぐらかっているんだ……そうだ! じゃ、これだけでも聞かせてくれ。なぜお前は包みを開封して、床の上にうっちゃっておいたんだ? なぜいきなり包みのまま持って行かなかったんだ……お前がこの包みの話をしている時には、そうしなけりゃならなかったような気持がしたんだが……なぜそうしなけりゃならなかったのか……どうしてもおれにはわからない……」
「そりゃちょっとしたわけがあってしたんですよ。だって、前からその包みに金がはいってることを知っている慣れた人間は、――例えば私のように、自分でその金を包みの中へ入れたり、旦那が封印をして上書きまでなすったのを、ちゃんと自分の目で見たりしたような人間は、かりにその人間が旦那を殺したとしても、殺したあとでその包みを開封したりなんかするでしょうか? しかも、そんな急場の時にですよ。だって、そんなことをしなくても、金は確かにその包みの中に入ってることをちゃんと知ってるんじゃありませんか。まるで反対でさあ。私のようなこうした強盗は、包みを開けないで、すぐそれをかくしに入れるが早いか、一刻も早く逃げ出してしまいまさあね。ところが、ドミートリイさんはまったく別です。あの人は包みのことを話に聞いただけで、現物を見たことがありません。だから、もしあの人がかりに蒲団の下からでも包みを盗み出したとすれば、すぐにそれを開封して、確かに例の金が入ってるかどうか、調べてみるはずですよ。そして、あとで証拠品になろうなどとは考える余裕もなく、そこに封筒を投げ棄ててしまいます。あの人は常習犯の泥棒じゃなくって、今まで一度も人のものを取ったことがないんですもの、なにぶん代々の貴族ですからね。で、よしあの人が泥棒をする気になったからって、ただ自分のものを取り返すだけで、盗むというわけじゃないんですからね。だって、あの人は前もってこのことを町じゅうに言いふらしていたじゃありませんか。おれは出かけて行って、親父から自分のものを取り戻すんだと、誰の前でも自慢していたんですからね。私は審問の時この意味のことを、はっきりと言ったわけじゃありませんが、自分でもわからないようなふうに、そっと匂わせましたよ。ちょうど検事が自分で考え出したので、私が言ったんじゃない、というようなふうに、ちょっとほのめかしてやりました、――すると、検事はこの匂いを嗅ぎつけて、涎を垂らして喜んでいましたよ……」
「一たい、一たいお前はその時その場で、そんなことを考え出したのかい?」とイヴァンは呆れかえって、突拍子もない声で叫んだ。彼はふたたび驚異の色を浮べて、スメルジャコフを眺めた。
「まさか、あなた、あんな火急の場合に、そんなことを考え出していられるものですか? ずっと前から、すっかり考えておいたんです。」
「じゃ……じゃ、悪魔がお前に手つだったんだ!」とイヴァンはまた叫んだ。「いや、お前は馬鹿じゃない、お前は思ったよりよっぽど利口な男だ……」
 彼は立ちあがった、明らかに、部屋の中を歩き廻るためらしかった。彼は恐ろしい憂愁におちいっていたのである。ところが、通り道はテーブルに遮られて、テーブルと壁の間は、やっとすり抜けるほどしか余地がなかったので、彼はその場で一廻転しただけで、また椅子に腰をおろした。こうして歩き場を得なかったことが、急に彼をいらだたせたものとみえ、彼はいきなり以前のとおりほとんど無我夢中に叫んだ。
「おい、穢らわしい虫けらめ、よく聞け! お前にはわかるまいが、おれが今までお前を殺さなかったのは、ただお前を生かしておいて、あす法廷で答弁させようと思ったからだ。神様が見ておいでだ(イヴァンは片手を上げた)。あるいはおれにも罪があるかもしれない。実際、おれは内心、親父が死んでくれればいいと、望んでいたかもしれない。けれども、誓って言うが、おれはな、お前が思っているほど悪人じゃないんだぞ。おれはまるでお前を教唆しやしなかったかもしれない。いや、教唆なんかしなかった! だが、どの道おれはあす法廷で、自白することに肚を決めてる。何もかも言ってしまうつもりだ。だが、お前も一緒に法廷へ出るんだぞ! お前が法廷で、おれのことを何と言おうと、またどんな証拠を持ち出そうと、――おれはそれを承認する。おれはもうお前を恐れちゃいない。何もかも、自分で確かめる! だが、お前も白状しなけりゃならんぞ! 必ず、必ず、白状しなけりゃならんぞ! 一緒に行こう! もうそれにきまった!」
 イヴァンは厳粛な態度できっぱりとこう言った。彼の目の輝きから判断しても、もうそれにきまったことは明らかであった。
「あなたはご病気ですね、どうやら、よほどお悪いようですよ。あなたの目はすっかり黄いろになっていますよ」とスメルジャコフは言ったが、その言葉には嘲笑の語気は少しもなく、まるで同情するようであった。
「一緒に行くんだぞ!」とイヴァンは繰り返した。「もしお前が行かなくたって、同じことだ、おれ一人で白状する。」
 スメルジャコフは何か思案でもしているように、しばらく黙っていた。
「そんなことができるものですか。あなたは出廷なさりゃしませんよ」と彼はとうとう否応いわさぬ調子で、きっぱりとこう断じた。
「お前にはおれがわからないんだ!」とイヴァンはなじるように叫んだ。
「でも、あなた、何もかもすっかり白状なされば、とても恥しくってたまらなくなりますよ。それに、第一、何のたしにもなりませんよ。私はきっぱりとこう申します、――私はそんなことを一口だって言った覚えはありません、あなたは何か病気のせいか、(どうもそうらしいようですね)、それとも、自分を犠牲にしてまでも、兄さんを助けたいという同情のために、私に言いがかりをしてらっしゃるんです。あなたはいつも私のことを、蠅か虻くらいにしか思っていらっしゃらなかったんですから、って。ねえ、こう言ったら、誰があなたの言うことを本当にするものがあります? あなたはどんな証拠をもっておいでです?」
「黙れ、お前が今この金をおれに見せたのは、むろんおれを納得させるためなんだろう。」
 スメルジャコフは紙幣束の上から、イサアク・シーリンを取って、わきへのけた。
「この金を持ってお帰り下さい。」スメルジャコフはため息をついた。
「むろん、持って行くさ! だが、お前はこの金のために殺したのに、なぜ平気でおれにくれるんだい?」イヴァンはひどくびっくりしたように、スメルジャコフを見やった。
「そんな金なんか、私はまるでいりませんよ」とスメルジャコフは片手を振って、慄え声で言った。「はな私はこの金を持ってモスクワか、それともいっそ外国へでも行って、人間らしい生活を始めようと、そんな夢を見ていました。それというのも、あの『どんなことをしてもかまわない』から来てるんですよ。まったくあなたが教えて下すったんですもの。だって、あなたは幾度も私にこうおっしゃったじゃありませんか、――もし永遠の神様がなけりゃ、善行なんてものもない、それに、第一、善行なんかいるわけがないってね、それはまったく、あなたのおっしゃったとおりですよ。で、私もそういうふうに考えたんでございます。」
「自分の頭で考えついたんだろう?」イヴァンはにたりと、ひん曲ったような笑い方をした。
「あなたのご指導によりましてね。」
「だが、金を返すところから見れば、今じゃお前は神様を信じてるんだね?」
「いいえ、信じてやしませんよ」とスメルジャコフは囁いた。
「じゃ、なぜ返すんだ?」
「たくさんです……何でもありゃしません!」スメルジャコフはまた片手を振った。「あなたはあの時しじゅう口癖のように、どんなことをしてもかまわないと言っていらしったのに、今はどうしてそんなにびくびくなさるんですね? 自白に行こうとまで思いつめるなんて……ですが、何にもなりゃしませんよ!あなた[#「しませんよ!あなた」はママ]は自白なんかなさりゃしませんよ!」スメルジャコフはすっかりそう決めてでもいるように、またもや、きっぱりとこう言った。
「まあ、見ているがいい!」とイヴァンは言った。
「そりゃ駄目ですよ。あなたはあまり利口すぎます。なにしろ、あなたはお金が好きでいらっしゃいますからね。そりゃちゃんとわかっていますよ。それに、あなたは名誉も愛していらっしゃいます。だって、あなたは威張りやですもの。ことに女の綺麗なのときたら、それこそ大好物なんですよ。が、あなたの一番お好きなのは、平和で満足に暮すことと、そして誰にも頭を下げないことですね、――それが何よりお好きなんですよ。あなたは法廷でそんな恥をさらして、永久に自分の一生を打ち壊してしまうようなことは、いやにおなんなさいますよ。あなたはご兄弟三人のうちでも、一ばん大旦那さんに似ていらっしゃいますからね。魂がまるであの方と一つですよ。」
「お前は馬鹿じゃないな。」イヴァンは何かに打たれたようにこう言った。彼の顔はさっと赤くなった。「おれは今まで、お前を馬鹿だとばかり思っていたが、いま見ると、お前は恐ろしくまじめな人間だよ!」今さららしくスメルジャコフを見つめながら、彼はこう言った。
「私を馬鹿だとお考えになったのは、あなたが高慢だからです。さ、金をお受け取り下さい。」
 イヴァンは三千ルーブリの紙幣束を取って、包みもしないでかくしへ入れた。
「あす法廷で見せるんだ」と彼は言った。
「法廷じゃ、誰もあなたを本当にしやしませんよ。いいあんばいに、あなたは今たくさんご自分の金をもっておいでですからね、自分の金庫から出して持って来たんだとしか、誰も思やしますまい。」
 イヴァンは立ちあがった。
「繰り返して言っておくがね、おれがお前を殺さなかったのは、まったく明日お前という人間が必要なからだ。いいか、これを忘れるなよ。」
「殺すならお殺しなさい。今お殺しなさい。」スメルジャコフは異様にイヴァンを見つめながら、異様な調子でだしぬけにこう言った。「あなたはそれもできないんでしょう」と彼は悲痛な薄笑いを浮べてつけたした。「以前は大胆な人でしたが、今じゃ何一つできないんですからね!」
「明日また!」と叫んで、イヴァンは出て行こうとした。
「待って下さい……も一度その金を私に見せて下さい。」
 イヴァンが紙幣を取り出して見せると、スメルジャコフは十秒間ばかり、じっとそれを眺めていた。
「さあ、お帰んなさい」と彼は片手を振って言った。「旦那!」彼はイヴァンのあとから、また突然こう叫んだ。
「何だい?」イヴァンは歩きながら振り向いた。
「おさらばですよ!」
「明日また!」とイヴァンはも一ど叫んで、小屋の外へ出た。吹雪は相変らず荒れ狂うていた。彼は初めちょっとのあいだ元気よく歩いていたが、急に足がふらふらしてきた。『これは体のせいだ。』彼はにたりと薄笑いをもらして、そう考えた。と、一種の歓喜に似たものが心に湧いた。彼は自分の内部に無限の決断力を感じた。最近はげしく彼を苦しめていた心の動揺が、ついに終りを告げたのである。決心はついた。『もうこの決心は変りっこなしだ』と彼は幸福を感じながら考えた。その途端、彼はふと何かにつまずいて、いま少しで倒れるところだった。立ちどまってよく見ると、さっき彼の突き飛ばした例の百姓が、もとの場所に気絶したまま、じっと倒れているのであった。吹雪はもうほとんどその顔ぜんたいを蔽うていた。イヴァンはいきなり百姓を摑んで、自分の背にひっ担いだ。右手に見える小家のあかりを頼りに進んで行き、とんとんと鎧戸を叩いた。やがて、返事をして出て来たあるじの町人に、三ルーブリお礼をする約束で、百姓を警官派出所に担ぎ込む手つだいを頼んだ。町人は支度をして出て来た。それから、イヴァンは目的を達して、百姓を派出所へ連れて行き、すぐに医師の診察を受けさせたばかりでなく、そこでも鷹揚に『さまざまな支払い』に財布の口を開けたことは、ここにくだくだしく書きたてまい。ただ一つ、言っておきたいのは、彼がこの手続きをするのに、ほとんど一時間以上かかったことである。けれども、イヴァンはすこぶる満足していた。彼の考えはそれからそれへと拡がって、働きつづけた。『もしおれが明日の公判のために、こんな固い決心をしていなければ』と彼は突然ある快感を覚えながら考えた。『百姓の始末なんぞに、一時間もつぶしはしなかったろう。さだめしそのそばを通り過ぎながら、やつが凍え死にしそうなのを冷笑したことだろう……だが、おれが自己反省の力をもってることはどうだ?』彼はその瞬間、さらに一倍の快感を覚えながらこう考えた。『それだのに、やつらはおれのことを、気がふれてるなんて決めこんで!』
 わが家の前まで帰りつくと、彼は急に立ちどまった。『今すぐ検事のところへ行って、何もかも陳述してしまったほうがよくないかしらん?』と自問したが、また家のほうへ向きを変えて、その疑問を決定した。『明日まとめて言おう』と彼は自分に囁いた。と、不思議にも、ほとんどすべての歓喜と自足が、一時に彼の胸から消えてしまった。彼が自分の部屋へはいった時、何やら氷のようなものが、とつぜん彼の心臓にさわった。それは一種の追憶のようなもので、より正確に言えば、この部屋の中に以前もあったし、今でもつづけて存在している、何か押しつけるような、忌わしいあるものに関する記憶であった。彼はぐったりと長椅子に腰をおろした。婆さんがサモワールを持って来た。彼はお茶をいれはしたが、まるっきり手にもふれないで、明日まで用事はないと言って、婆さんを返してしまった。長椅子に腰かけているうちに、頭がぐらぐらしてきた。何だか病気にかかって、ひどく衰弱しているような気がした。彼は眠けを催したが、不平らしく立ちあがり、眠けを払うために、部屋の中を歩きだした。ときおり、うなされてでもいるような気がした。けれど、何より気にかかるのは、病気ではなかった。彼はまた椅子に腰をおろして、何か捜してでもいるように、ときどきあたりを見まわしはじめた、それが幾度か繰り返された。最後に、彼の目はじっとある一点を見すえた。イヴァンはにやりとしたが、顔はさっと憤怒の紅に染められた。彼は長いあいだ長椅子に腰かけて、両手でしっかり顔をささえながら、やはり流し目に以前の一点、――正面の壁のそばにある長椅子を見つめていた。見受けたところ、何かが彼をいらだたせたり、不安にしたり、苦しめたりしているようなふうであった。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第七章 二度目の訪問

   第七 二度目の訪問

 スメルジャコフはその時分、病院を出ていた。イヴァンは彼の新しい住まいを知っていた。それは、例の歪みかしいだ丸太づくりの小さい百姓家みたいな家で、廊下を真ん中にして二つに仕切られていた。一方には、マリヤ・コンドラーチエヴナと母親が住まっているし、いま一方にはスメルジャコフが納まっていた。彼がどういう条件で同棲しているのか、――ただで世話になっているのか、それとも金を出しているのか、それは誰にもわからなかった。あとになって世間の人は、たぶんマリヤの婿という形で、当分ただで世話になっていたのだろうと噂した。母親も娘も一方ならず彼を尊敬して、自分たちより一段うえの人のように見なしていた。
 イヴァンはとんとん戸を叩いて、玄関へ入ると、すぐにマリヤの案内で、スメルジャコフの占領している『綺麗なほうの部屋』へ通った。部屋の中には化粧瓦の暖炉があって、恐ろしく暖かくしてあった。まわりの壁には、けばけばしい空色の壁紙が貼ってあったが、あいにく一面ぼろぼろに裂けて、その中で油虫がおびただしい群をなして匐い廻りながら、絶えずがさがさ音をたてていた。家具類もいたって粗末なもので、両側の壁のそばにはベンチが二つあるし、テーブルのそばには二脚の椅子があった。テーブルはありふれた木製であったが、それでもちゃんとばら色の模様のついたテーブル掛けで蔽われていた。二つの小さい窓ぎわには、それぞれゼラニウムの鉢植がのっていた。片隅には龕に納められた聖像がかかっている。テーブルの上には、でこぼこだらけの、あまり大きからぬ銅のサモワールと、茶碗を二つのせた盆があった。けれど、スメルジャコフはもうお茶を飲んでしまったので、サモワールの火も消えていた……彼自身は、テーブルのそばなる[#「そばなる」はママ]ベンチに腰かけて、手帳を見ながら、ペンで何やら書きつけていた。そばにはインク壜と、背の低い青銅の燭台があった。燭台にはステアリン蠟燭が立っていた。イヴァンはスメルジャコフの顔を見るとすぐ、もう病気はすっかり癒ったのだなと思った。彼の顔は前よりはればれして、肉づきがよく、前髪は梳き上げられ、鬢の毛には香油がつけてあった。彼は華美な木綿の部屋着を着こんで、腰かけていたが、それはだいぶ着古したもので、かなりぼろぼろしていた。鼻には眼鏡がかかっていた。以前イヴァンは、彼が眼鏡をかけているのを見たことがなかった。このつまらない事実が、突然イヴァンを一そうむらむらとさせた。『何だ、生意気な、眼鏡なぞかけやがって!』とイヴァンは腹の中で思った。スメルジャコフはゆっくり頭を持ちあげて、入って来た客を眼鏡ごしにじっと見やった。やがて彼は静かに眼鏡をはずし、ベンチから立ちあがったけれど、何だかまるでうやうやしいところがなく、いかにももの憂そうで、ただおつき合いに必要なだけの礼儀を守るのだ、といったような様子をしていた。イヴァンはすぐこれに感づいて、胸の中へすっかり畳み込んだ。しかし、何より目についたのは、スメルジャコフの目つきであった。それはきわめて毒々しく不興げで、しかも高慢の色さえおびていた。『何のためにふらふらやって来たんだ。何もかもあの時すっかり話し合ったじゃないか。何の用でまたやって来たんだ?』とでも言っているよう。イヴァンはやっとのことで胸を撫でおろした。
「お前のところは暑いね」と彼は突っ立ったままこう言って、外套のボタンをはずした。
「お脱ぎなさいまし」とスメルジャコフは許可を与えた。
 イヴァンは外套を脱いで、ベンチに投げかけ、慄える手で椅子を取ると、急いでそれをテーブルのそばへ引き寄せ、腰をおろした。スメルジャコフはイヴァンよりさきに、例のベンチに腰をかけた。
「第一に、僕らのほかには誰もいないね?」とイヴァンは厳かな口調で、せきこんで訊いた。「誰か聞いてやしないかね?」
「誰も聞いちゃいませんよ。ご覧のとおり、あいだに玄関がありますからね。」
「おい聞け、おれがお前と別れて病院から出て行く時、お前は一たい何と言った? お前が癲癇をまねる名人だってことをおれが黙っていたら、お前もおれと門のそばでいろいろ話したことを、予審判事に申し立てないと言ったね?『いろいろ』とは何のことだ? どんなつもりで、お前はあの時あんなことを言ったんだ? おれを脅かしたのかね? 一たいおれがお前と何か組でも組んだとでもいうのか? おれがお前を恐れているとでも言うのかい?」
 自分が一切あてこすりや廻り遠い言い方を捨てて、公然たたかっているのだということを、相手に知らせようとするらしく、イヴァンは恐ろしい剣幕でこう言った。スメルジャコフの目は毒々しくぎらりと光って、左の目がしぱしぱ瞬きしだした。その目は例によって、控え目な、落ちついた表情をしていたけれど、すぐ自分の言い分を答えた、『お前さんが潔白を望むなら、さあ、これがその潔白でさ』とでも言うように。
「あの時のつもりは、こうでございました。あの時あんなことを言ったのは、あなたが前もって今度の親殺しを承知していながら、お父さんをうっちゃって、旅へ立っておしまいになったものですから、世間の人があなたの心持について、よくないことを言うかもしれない、ひょっとしたら、どんなことを言いだすかもしれない、とこう思ったからでございます、――これを私はあの時、役人に言わないとお約束したわけなので。」
 見たところ、スメルジャコフはせきこまないで、おのれを制しながら、口をきいていたようであるが、その響きには何かしらきっぱりした、頑固な、毒々しい、ふてくされた、挑むような語気が響いていた。彼は臆面もなくイヴァンを見つめていた。で、イヴァンは初め一瞬間、目の中がちらちらするような思いがした。
「なに? どうしたって? 一たいお前は正気かどうなんだ?」
「まったく正気でございますよ。」
「じゃ、お前は、おれがあのとき、人殺しを知っていたと言うんだな?」とうとうイヴァンはこう叫んで、はげしく拳でテーブルをたたいた。「『またどんなことを言いだすかもしれない』とは何だ? さあ言え、悪党!』
 スメルジャコフは黙ったまま、依然として例のずうずうしい目つきで、イヴァンを見つめていた。
「さあ、言え、くたばりそこないの悪党め、『またどんなこと』とは何だ?」とこっちは呶鳴った。
「私が今『どんなこと』と言ったのは、あなたご自身があの当時、お父さんの横死を望んでいらしったことなんで。」
 イヴァンは飛びあがりざま、力まかせに拳でスメルジャコフの肩を叩いたので、こっちはよろよろと壁に倒れかかった。見る見る彼の顔は涙に洗われた。彼は、「旦那、弱い者をぶったりなんかして、恥しいじゃありませんか!」と言いながら、突然、さんざんに鼻をかんだ青い格子縞の汚いハンカチで目を蔽うと、静かにしくしくと泣きだした。一分間ばかりたった。
「もうたくさんだ! やめろ!」とイヴァンはまた椅子に腰をおろしながら、とうとう命令するように言った。「お前はおれの癇癪玉を破裂させてしまおうとしてるんだ!」
 スメルジャコフは目からハンカチをどけた。その皺だらけになった顔ぜんたいが、たったいま受けた侮辱をありありと現わしていた。
「悪党め、じゃお前はあの時、おれがドミートリイと一緒になって、親父を殺そうとしてると思ったんだな?」
「私はあの時あなたのお考えがわからなかったのでございます」とスメルジャコフは腹だたしそうに言った。「だから、あの時、あなたが門へお入りになった時に、お留めしたんで。この点について、あなたを試してみようと存じましてね。」
「何を試すんだ? 何を?」
「お父さんが少しも早く殺されるのを、望んでいなさるかどうか、そのことでございますよ。」
 何よりもイヴァンを激昂させたのは、スメルジャコフが例のずうずうしい語調を、どこまでも強情に棄てないことであった。
「じゃ、あれは、お前が親父を殺したんだな!」イヴァンはだしぬけにこう叫んだ。
 スメルジャコフは軽蔑するように、にたりと笑った。
「私が殺したんでないということは、あなたもよっくご存じのはずじゃありませんか。私はまた、賢い人間が、二度とこんな話をする必要はないと思っていましたよ。」
「だが、なぜ、なぜあの時お前はおれに対して、そんな疑いを起したんだ?」
「もうご存じのとおり、ただただ恐ろしいばっかりに疑ったのでございます。なぜと申して、私はあの頃、恐ろしさにびくびくしながら、誰でも彼でも疑るような心持になっていましたからね。こういうわけで、あなたも試してみようと肚を決めました。だって、もしあなたが兄さんと同じようなことを望んでいらっしゃるとすれば、もう万事おしまいで、私も一緒に蠅のように殺されてしまうに違いない、とこう思ったのでございます。」
「おい、まて、お前は二週間まえには、そう言わなかったぞ。」
「病院であなたとお話をした時も、やはりこう言うつもりでございましたよ。ただよけいなことを言わなくっても、おわかりになると思ったばかりで、あなたは大そう賢いお方でございますから、真正面からの話はお好みでなかろうと思いましてね。」
「ええ、あんなことを言ってやがる! だが、返事をしろ、返事を。おれはどこまでも訊くぞ。どうしてお前はあのとき、その下劣な心の中に、おれとしてあるまじい、そんな下等な疑いを起したんだ?」
「殺すなんてことは、こりゃあなたにどうしてできることじゃありませんし、また殺そうという気もおありにならなかったでございましょう。だが、誰かほかのものが殺してくれたらいいくらいは、お思いになったはずでございますよ。」
「よくも平気で、平気でそんなことが言えるな! どういうわけでおれがそんなことを望むんだ、どうしておれがそんなことを望むわけがあるんだ?」
「どういうわけで? じゃあ、遺産はどうしたのでございます」とスメルジャコフは毒をふくんだ復讐の調子で答えた。「だって、もしお父さまが亡くなれば、あなた方ご兄弟は、めいめい四万ルーブリたらず、分けてもらえるはずでございました。ことによったら、それ以上になるかもしれません。が、もしフョードルさまがあの婦人と、あのアグラフェーナ・アレクサンドロヴナと結婚してごらんなさい、あのひとは結婚式をすまし次第、すぐに財産そっくり自分の名義に書き替えてしまいますよ。あのひともなかなか抜け目ありませんからね。そうすりゃ、あなた方ご兄弟三人は、お父さまが亡くなられたあとで、二ルーブリと手に入りゃしますまい。ところが[#「ところが」はママ]、結婚はむずかしい話だったでございましょうか? わずか髪の毛一筋という瀬戸際だったのでございますよ。あのひとが小指一本うごかしさえすれば、お父さまはすぐにも舌を出し出し、あのひとのあとについて、教会へ駈けて行かれたに相違ありませんからね。」
 イヴァンは苦しそうに、やっと自分を抑えていた。
「よろしい、」彼はとうとうそう言った。「見ろ、このとおり、おれは飛びあがりもしなければ、お前を撲りもせず、また殺しもしなかった。さあ、それからどうだというんだ。お前に言わせれば、兄のドミートリイを親父殺しの役廻りにきめておいて、おれがそれを当てにしていたと言うんだろう?」
「それを当てになさらないでどうしましょう。だって、あの方が殺してごらんなさい、それこそ貴族の権利も、位階も、財産もひんむかれて、流し者[#「流し者」はママ]になってしまうでしょう。そうすりゃ、お父さまが殺されたあとで、あの人の取りまえは、あなたとアレクセイさんと、半分わけになるでしょう。つまり、あなた方お二人は四万ルーブリずつではなく、六万ルーブリずつ手に入るわけになりますものね。だから、あなたはあの時、きっとドミートリイさまを当てになすったんでございます!」
「いいか、おれは我慢して聞いてるんだぞ! だが、聞け、悪党! おれがもしあのとき誰かを当てにしたとすれば、それはむろんお前だ、ドミートリイじゃない。おれは誓って言うが、お前が何か穢らわしいことをしやしないかって、そんな気がしてたんだ……あの時……おれは自分の心持を覚えている?[#「おれは自分の心持を覚えている?」はママ]」
「私もあの時ちょっとそう思いましたよ。あなたはやはり、私のことも当てにしていらっしゃるんだろうってね」とスメルジャコフは嘲るように、にたりとした。「だから、こういうわけで、あの時あなたは私の前で、一そうはっきりご自分の正体を見せておしまいになったので。なぜといってごろうじ、もし私が何かしでかしそうだと感づきながら、しかも出発なすったのだとすれば、つまり、お前は親父を殺してもいい、おれは邪魔をしないぞ、とおっしゃったのも同然じゃありませんか。」
「悪党め、お前はそうとっていたんだな。」
「それというのも、やはりあのチェルマーシニャのためでございますよ。まあ、考えてもごらんなさいまし! あなたはモスクワへ行くつもりで、お父さまがどんなにチェルマーシニャヘ行けとおっしゃっても、撥ねつけてらしったんでございましょう! ところが、私風情のつまらない一ことで、すぐに賛成なすったじゃありませんか! あなたがあの時、チェルマーシニャ行きに賛成なさるなんて、どういう必要があったのでございましょう? あなたが私の一ことで、わけもなくモスクワ行きをよして、チェルマーシニャヘおいでになったところを見れば、何か私を当てにしてらしったんじゃありませんか。」
「そうじゃない、誓って言う、決してそうじゃない!」とイヴァンは歯ぎしりしながら唸った。
「どうしてそうじゃないんですね? 本当を言えば、まるで反対ですよ。あなたは息子の身として、あの時あんなことを言った私なぞは、まず警察へ突き出してしまうか……少くとも、その場で横面を張り飛ばすか、しなけりゃならんはずじゃありませんか。ところが、まあ、どうでございましょう、あなたは少しも怒るどころじゃない、その反対に、すぐ私のつまらない言葉をそのまま喜んで採りあげて、出発なすったじゃありませんか。そんなことは、まるでばかばかしい話でございますよ。なぜって、あなたはお父さんの命を護るために、残っていらっしゃるのが本当だったんでございますからね……私はどうしても、こうとらずにゃいられませんよ!」
 イヴァンは眉をしかめながら、ぶるぶると慄える両の拳を膝に突いて、じっと腰かけていた。
「そうさ、お前の横面を張り飛ばさなかったのは、残念だったよ。」彼は苦笑した。「お前を警察へ引き摺り出すことは、あの時どうもできなかったんだ。誰がおれの言うことを、本当にしてくれるものか。またおれだって、どんな証拠を見せることもできないじゃないか。だが、横面を張ることは……ああ、残念ながら気がつかなかった。今びんたは禁じられているけれど、お前の面を粥にしてやるんだったにな。」
 スメルジャコフはさも気味よさそうに、イヴァンを眺めていた。
「人生の普通の場合には」と彼はいかにも自足したらしい、教訓的な調子で言いだした。それは、いつかグリゴーリイと信仰論をたたかわして、フョードルの食卓のそばで、老人をからかったのと同じ調子であった。「人生の普通の場合には、びんたは実際いま法律で厳禁されています。みんな叩くのをやめました。ですが、人生の特別な場合には、ただこの町ばかりではなく、世界じゅうどこへ行っても、ことに最も完全なフランス共和国でさえも、やはりアダムとイヴの時代と同じように撲っています。それは決して、いつになってもやめやしません。ところが、あなたはあの特別な場合にさえ、思いきっておやりになれなかったのでございますよ。」
「何かね、お前はフランス語を勉強してるのかね?」とイヴァンは、テーブルの上においてある手帳を顎でしゃくった。
「私だってフランス語くらい勉強して、自分の教養をはかってならんという法はありませんからね。私だってヨーロッパのああした仕合せなところへ、いつか行くおりがあるかもしれない、と思いましてね。」
「おい、悪党。」イヴァンは目を光らせ、全身を震わせた。「おれはな、お前の言いがかりを恐れてやしないんだぞ。だから、何でもお前の言いたいことを申し立てるがいい。おれが今お前を撲り殺さないのは、ただこの犯罪についてお前を疑っているからだ。お前を法廷へ引き出そうと思ってるからだ。おれはいまにお前の化の皮を引んむいてやるぞ。」
「ですが、私の考えじゃ、まあ、黙っていらしたほうがよござんすよ。だって、私がまったく何も悪いことをしていないのに、お責めになることなんかないじゃありませんか。それに、誰があなたを本当にするものですか? それでも、もしあなたがしいておっしゃるなら、私もすっかり言ってしまいますよ。私だって、自分を護る必要がありますからね!」
「おれが今お前を恐れてるとでも思うのかい?」
「私が今あなたに申し上げたことは、たとえ法廷では本当にしなくっても、その代り世間で本当にしますからね。そしたら、あなたも面目を潰すじゃありませんか。」
「それはやはり、『賢い人とはちょっと話しても面白い』ということなのかね、え?」イヴァンは歯ぎしりした。
「てっきり図星でございますよ。だから、賢い人におなんなさいまし。」
 イヴァンは立ちあがり、憤怒に身を震わせながら、外套を着た。そして、もうスメルジャコフには一言も返事もしなければ、そのほうを見向きもせず、いそいで小屋から出て行った。涼しい夜気は、彼の気持を爽やかにした。空には月が皎々と照っていた。思想と感覚の恐ろしい渦巻が、彼の心の中で煮え返っていた。『今すぐスメルジャコフを訴えてやろうか? だが、何を訴えるんだ。あいつには何といっても罪はないんだ。かえって反対に、あいつのほうでおれを訴えるだろう。実際、おれはあのとき何のためにチェルマーシニャヘ行ったんだ? 何のためだ? 何のためだ? 何のためだ?』とイヴァンは自問した。『そうだ、むろん、おれは何かを予期していた。あいつの言うとおりだ』と、またもや彼の頭に浮んだのは、最後の夜、父の家の階段で立ち聞きしたことであった。けれど、今度はそれを思いだすと、何ともいえぬ苦痛を感じたので、まるで何かに突き刺されたように、歩みさえ止めてしまった。『そうだ、おれはあの時あれを予期していたんだ、まったくそうなんだ。おれは望んでたんだ、まったくおれは親父が殺されるのを望んでたんだ! おれは人殺しを望んだのだろうか、望んだのだろうか? スメルジャコフを殺さなけりゃならん! 今もしスメルジャコフを殺す勇気がなければ、おれは生きてる価値はない!……』
 イヴァンは家へ帰らずに、すぐまたその足でカチェリーナのところへ赴き、その様子で彼女を驚かせた。彼はまるで気ちがいそのままであった。彼はスメルジャコフとの話を、微細な点まで残らず打ち明けた。そして、いくらカチェリーサから諭されても、落ちついた気分になれず、しきりに部屋の中を歩き廻りながら、奇怪なことをきれぎれに喋り立てた。とうとう彼は椅子に腰をおろし、テーブルに肱を突き、頭を両手で支えながら、奇妙な文句を口走った。
「もし下手人がドミートリイでなくって、スメルジャコフだとすれば、僕もあいつと連帯なんです。だって、僕があいつを使嗾したんですからね。いや、僕はあいつを使嗾したろうか、――そりゃどうだかわからない。けれど、もし下手人があいつで、ドミートリイでなければ、むろん僕も下手人です。」
 カチェリーナはこれを聞くと黙って立ちあがった。そして、自分の書きもの卓《づくえ》のところへ行って、その上にあった箱を開き、中から一葉の紙片を取り出して、イヴァンの前においた。これが例の証拠品で、後日イヴァンがアリョーシャに向って、兄ドミートリイが父親を殺したという『数学的証明』と言ったものである。それはミーチャが酔っ払って、カチェリーナに書き送った手紙であった。それを書いたのは、彼が修道院へ帰るアリョーシャと野っ原で出会ったその晩のことで、つまり、カチェリーナの家でグルーシェンカが彼女を辱しめた後のことであった。その時、ミーチャはアリョーシャと別れると、グルーシェンカの家へ飛んで行った。グルーシェンカに会ったかどうかはわからないが、とにかく彼はその晩、料理屋の『都』へ行って、そこで例のとおり盛んに飲んだ。やがて、酔いに乗じて、ペンと紙を取り寄せ、自分にとって重大な証拠品を書いたのである。それは辻褄の合わない、乱雑な、くだくだしい手紙で、どう見ても『酔いどれ』の手紙であった。それはちょうど、酒に酔った人が家へ帰って来て、自分はいま侮辱された、自分を侮辱したものはしようのない悪党だが、自分はその反対に素晴らしい立派な人間で、自分はその悪党に仕返しをしてやるのだと、涙を流し、拳でどんどんテーブルを敲きながら、とりとめもないことを長たらしく、女房や家のものなどにやっきとなって喋りちらす、そういう種類のものであった。彼が酒場でもらった手紙の用紙は、普通の下等な書翰紙の汚い切れっぱしで、その裏には何やら計算のようなものが書いてあった。酔いどれが管を巻くのだから、むろん紙面がたりなかった。で、ミーチャは余白一面に書いたばかりか、最後の幾行かは、前に書いた上へ筋かいに書かれてあった。それはこういう意味の手紙であった。

『宿命的なるカーチャ! あす僕は金を手に入れて、お前の三千ルーブリを返済しよう。偉大なる忿怒の女よ、さようなら、僕の愛よ、さようなら! もうおしまいにしよう! 明日、僕はあらゆる人に頼んで金を手に入れる。もし手に入らなければ、きっと誓っていう、イヴァンが立つとすぐ、親父のところへ行って、頭をぶち割って、枕の下にある金を奪うつもりだ。僕は懲役へやられても、三千ルーブリの金はお返しする。だから、お前も赦してくれ。僕は額を地面につけてお辞儀をするよ。なぜなら、僕はお前に対して卑劣漢だったからだ。赦してくれ。いや、いっそ赦してくれるな、そのほうがお前も僕も気持が楽だろう! お前の愛よりも、懲役のほうがましだ。僕はほかの女を愛してるんだから。お前はその女を、今日こそよく知ったろう。だから、どうしてお前に赦すことができよう? 僕は自分の泥棒を殺すのだ! そして、お前たち一同をのがれて東へ行く。そして、誰のことも忘れてしまおう。あの女もやはり忘れるのだ。僕を苦しめるのはお前ばかりじゃなくって、あの女[#「あの女」に傍点]もそうなんだから、さようなら!
 二伸。僕は呪いを書いているが、それでもお前を尊敬しているんだ! 僕は自分の胸の声を聞いている。一つの絃が残って鳴っている。むしろ心臓を真っ二つに断ち割ったほうがいい。僕は自分を殺そう。だが、まずあの犬から殺してやる。あいつから三千ルーブリ奪って、お前に投げつけてやるのだ。僕はお前に対して悪党になっても、泥棒じゃないのだ! 三千ルーブリを待っておいで。犬の寝床の下にあるのだ、ばら色のリボン。僕は泥棒じゃない。自分の泥棒を殺すんだ。カーチャ、軽蔑するような見方をしてくれるな。ドミートリイは泥棒じゃない、人殺しだ! 僕は傲然と立って、お前の高慢を赦さないために、親父を殺し、自分を亡ぼすのだ。お前を愛さないために。
 三伸。お前の足に接吻する、さようなら!
 四伸。カーチャ、誰か僕に金をくれるように神様に祈ってくれ。そうすれば、血に染まないですんだ。誰もくれなければ血に染むことになる! 僕を殺してくれ!
[#地から5字上げ]奴隷にして敵なる
[#地から1字上げ]D・カラマーゾフ

 イヴァンはこの『証拠品』を読んでしまうと、確信を得て立ちあがった。してみると、下手人は兄で、スメルジャコフではない、スメルジャコフでなければ、すなわち彼イヴァンでもないわけである。この手紙は俄然彼の目に、数学的の意味を有するものとして映じてきた。もはや彼にとって、ミーチャの罪を疑う理由は少しもなくなった。ついでに断わっておくが、ミーチャがスメルジャコフと共謀して殺したのかもしれない、などというような疑念は、イヴァンの心に全然おこらなかった。またそういうことは、事実にもはまらなかった。イヴァンはすっかり安心してしまった。翌朝彼は、スメルジャコフとその嘲弄を思いだすと、われながらばかばかしくなった。幾日かたつと、彼はスメルジャコフに疑われたことを、どうしてあんなに苦にしたのかと、驚かれるほどであった。彼はスメルジャコフを蔑視して、あのことを忘れてしまおうと決めた。こうして、一カ月すぎた。彼はもう誰にもスメルジャコフのことを訊かなかった。しかし、彼が重い病気にかかって、正気でないということを、二度ばかりちらと耳にした。『結局、気がちがって死ぬんでしょう。』ある時、若い医者のヴァルヴィンスキイはこう言った。イヴァンはこの言葉を記憶に刻んだ。この月の最後の週に、イヴァンは自分もひどく体の工合が悪いのを感じるようになった。公判前に、カチェリーナがモスクワから招いた医者にも、彼は診察を乞いに出かけた。この時分、彼とカチェリーナとの関係は極度に緊張してきた。二人は、互いに愛し合っている敵同士みたいなものであった。ほんの瞬間ではあったが、カチェリーナが強い愛をもってミーチャに帰って行ったことは、イヴァンを狂おしいばかりに激昂させた。不思議なことには、筆者が前に書いたカチェリーナのもとにおける最後の場面まで、つまり、アリョーシャがミーチャとの面会後カチェリーナの家へ来た時まで、彼イヴァンは一カ月のあいだ一度も彼女の口から、ミーチャの犯行を疑うような口吻を聞いたことがなかった(そのくせ、彼女は幾度もミーチャに『帰って』行って、イヴァンの激しい憎悪を呼び起したのである)。それから、も一つ注意すべきことは、彼がミーチャへの憎悪を日一日と増しているのを感じつつも、同時にその憎悪がカチェリーナの復帰のためではなくて、彼が父親を殺した[#「彼が父親を殺した」に傍点]ためだということを、理解していた点である。彼はこのことを十分に感じていたし、意識してもいた。にもかかわらず、彼は公判の十日前にミーチャのところへ行って、兄に逃走の計画を持ち出した。この計画は、明らかに久しい前から考え抜いたものらしかった。そこには、彼をしてこういう行動に出さした重大な原因のほかに、彼の心にひそんでいたある癒しがたい傷があったのである。それは、ミーチャに罪を着せたほうが彼イヴァンにとって都合がいい、そうすれば、父親の遺産をアリョーシャと二人で四万ルーブリどころか、六万ルーブリずつ分配することができると、スメルジャコフがちょっと一こと洩らしたために生じたのであった。彼はミーチャを逃走させる費用として、みずから三万ルーブリを犠牲に供する決心をした。その時ミーチャのところから帰って来る途中、彼は非常な悲哀と苦悶を感じた。自分がミーチャの逃走を望むのは、ただ三万ルーブリを犠牲に供して、心の傷を癒すためばかりでなく、まだ何かほかに理由があるような気がしたのである。『おれが内心おなじような人殺しだからではあるまいか?』と彼はみずから問うてみた。何やら漠としてはいたが、焼けつくようなあるものが彼の心を毒した。ことにこの一カ月間というもの、彼の自尊心は非常な苦痛を覚えた。が、このことはあとで話すとしよう……
 イヴァンはアリョーシャと話をした後、自分の家のベルに手をかけたが、急にスメルジャコフのところへ行くことにした。これは突然、彼の胸に湧きあがった一種特別な憤怒の念に駆られたためであった。ほかでもない、カチェリーナがアリョーシャのいる前で、彼に向って、『あの人が(つまりミーチャが)下手人だって、わたしに言い張ったものは、ただあんた一人だけですわ!』と叫んだことを、ふいに思い出したのである。これを思い出すと、彼は棒立ちになった。彼はかつて一度も、ミーチャが人殺しだなどと、彼女に言い張ったことはなかった。それどころか、スメルジャコフのところから帰って来た時など、彼女の前で自分自身を疑ったほどである。むしろ彼女こそ、そのとき例の『証拠品』を見せて、ミーチャの犯罪を証明したのではないか。ところが、突然いまになって彼女は、『わたし自分でスメルジャコフのところへ行って来ました!』と叫んでいる。いつ行ったんだろう! イヴァンは一向それを知らなかった。してみると、彼女はミーチャの犯罪を十分に信じていないのだ! スメルジャコフは彼女に何と言ったろう? 一たいやつは何を、どんなことを言ったのだろう? 彼の心は恐ろしい憤怒に燃えあがった。どうして三十分前に、彼女のこの言葉を聞きのがして、叫ばずにすましたのか、わけがわからなかった。彼はベルをうっちゃって、スメルジャコフの家をさして出かけた。『今度こそ、あいつを殺してしまうかもしれない』と彼はみちみち考えた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第六章 スメルジャコフとの最初の面談

   第六 スメルジャコフとの最初の面談

 イヴァンがモスクワから帰って以来、スメルジャコフのところへ話しに行くのは、これでもう三度目であった。あの兇行後、初めてスメルジャコフに会って話をしたのは、彼がモスクワから帰って来た当日て[#「当日て」はママ]あった。それから、一二週間ほどたって二度目の訪問をした。この二度目の訪問以来、彼はスメルジャコフとの面談を打ち切ったので、もう一カ月以上、彼に会いもしなければ、また彼の消息をも聞かなかったのである。イヴァンがモスクワから帰って来たのは、父親の死後五日目だったから、むろん、棺さえ見なかった。葬式はちょうど彼の着く前日にすまされていた。イヴァンの帰郷が遅れたわけはこうであった。イヴァンのモスクワの居所をはっきり知らなかったアリョーシャは、電報を打つのにカチェリーナのところへ駈けつけたが、カチェリーナもやはり居所を知らなかったので、自分の姉と叔母に宛てて打電した。それは、イヴァンがモスクワへ着くとすぐ、彼らの家へ立ち寄ったことと思ったからである。けれど、イヴァンはモスクワへ着いてから、四日目に初めて彼らを訪ねたのであった。むろん、電報を読むとすぐさま、まっしぐらにこの町へ帰って来た。帰るとまず第一に、彼はアリョーシャに会ったが、アリョーシャと話をしてひどく驚いたのは、彼がこの町のあらゆる人々の意見とまるっきり反対に、ミーチャをつゆほども疑おうとせず、いきなり下手人としてスメルジャコフを挙げたことである。その後、彼は署長や検事などに会って、予審や拘引の模様を詳しく知ると、さらに一そうアリョーシャの考えに驚きを感じた。で、結局、アリョーシャの意見は、極度に興奮した兄弟の情と、ミーチャに対する同情から起ったものと解釈したのである。アリョーシャがミーチャを熱愛していることは、イヴァンも知っていた。ついでに、兄ドミートリイに対するイヴァンの感情について、たった一こと言っておくが、彼はひどくミーチャを嫌っていた。どうかすると、せいぜい憐愍を感ずることがあるくらいで、それすらやはり嫌悪に近い軽侮の念を交えていた。ミーチャは第一その様子からして、ぜんぜんイヴァンの同情をひくようにできていなかった。カチェリーナのミーチャに対する愛をも、イヴァンは憤りの目をもって眺めていた。
 彼が被告としてのミーチャに会ったのは、やはり帰郷の当日で、この面会はミーチャの犯罪に対する彼の信念を弱めなかったばかりか、むしろ、一そう強めたくらいである。その時、ミーチャは不安らしく病的に興奮していた。彼はやたらに喋ったが、そわそわしていて落ちつきがなかった。非常に激越な調子で、スメルジャコフの罪を鳴らしたが、その話には一こう、筋みちがたっていなかった。彼が最も多く口にしたのは、死んだ父親が彼から『盗んだ』三千ルーブリのことであった。『あれはおれの金なんだ。あれはおれの金だったんだ』とミーチャは繰り返した。『だから、たとえおれがあの金を盗んだにしても、もうとう、やましいことはないはずなんだ。』彼は自分に不利なすべての証拠を、ほとんど弁護しようとしなかった。自分に有利な事実を説いてみても、やはりしどろもどろで馬鹿げていた、――全体に、彼はイヴァンに対しても、あるいはまた誰に対しても、頭から弁明を望まないもののようであった。それどころか反対に腹をたてたり、傲然として自分に対する非難を蔑視したり、罵ったり、激昂したりするだけであった。戸が開いていたというグリゴーリイの証明に対しては、彼はただ軽侮の色を浮べて笑うだけで、『それは大かた悪魔でも開けたんだろう』と言った。が、この事実に対して、何ら筋みちのたった説明を加えることはできなかった。のみならず、『すべては許される』と公言しているものに、人を疑ったり審問したりする権利はない、などと乱暴なことを言って、面会早々イヴァンを怒らしてしまった。全体として、彼はこの時あまりイヴァンに親しい態度を見せなかった。イヴァンはミーチャとの面会を終ると、すぐその足でスメルジャコフのところへ出かけて行った。
 彼はモスクワから帰って来る汽車の中で、スメルジャコフのことや、出発の前夜、彼と交した最後の対話などを、絶えず思いつづけた。さまざまなことが彼の心を惑乱した。さまざまなことが、うさんくさく思われた。しかし、予審判事に申し立てをする時には、しばらくその対話のことは言わずにおいて、スメルジャコフと会うまで延ばしていた。スメルジャコフは当時、町立病院に収容されていた。医師のヘルツェンシュトゥベと、病院でイヴァンを出迎えた医師のヴァルヴィンスキイは、イヴァンの執拗な問いに対して、スメルジャコフの癲癇は疑う余地がないと確答し、『あいつは兇行の当日、癲癇のふりをしていたんじゃありませんか?』というイヴァンの問いに、びっくりしたほどである。彼らの説明によると、今度の発作は並み大抵のものでなく、幾日間も繰り返し繰り返し継続したので、患者の命もずいぶん危険であったが、いろいろと手当てをしたおかげで、今では生命に別条はないと言えるようなものの、まだ患者の精神状態に異状を呈するようなことがあるかもしれない。『一生涯というほどではないまでも、かなり長い間ね』と医師のヘルツェンシュトゥベはこうつけたした。『じゃ、あの男はいま発狂してるわけですね?』という性急な質問に対して、二人の医師は、『全然そういうわけではありませんが、いくぶんアブノーマルなところも認められます』と答えた。イヴァンはそのアブノーマルがどんなものか、自分で調べてみようと思った。彼はすぐ面会に病室へ通された。スメルジャコフは隔離室に収容されて寝台の上に横たわっていた。そのそばには、いま一つ寝台があって、衰弱しきったこの町のある町人が占領していたが、全身水腫でむくみあがって、どう見ても明日あさってあたりの寿命らしかったので、この男のために話を遠慮しなければならぬようなことはなかった。スメルジャコフはイヴァンを見ると、うさんくさそうににたりとした。そして、最初の瞬間、何となくおじ気づいたようなふうであった。少くとも、イヴァンにはそう思われた。けれど、これはほんの一瞬間で、その後はかえって異様な落ちつきはらった様子で、彼を驚かせた。イヴァンは、一目見たばかりで、彼が極度の病的状態にあることを確かめた。彼はひどく衰弱していた。いかにもむずかしそうに舌を動かして、のろのろと話をした。そして、ひどく瘦せ細って黄いろくなっていた。二十分間ばかりで終った面会の間にも、彼は絶えず頭痛がするだの、手足が抜けるように痛むだの、と訴えつづけた。去勢僧のような乾からびた彼の顔は、すっかり小さくなったように見えた。こめかみの毛はくしゃくしゃにもつれて、前髪はただ一つまみのしょぼしょぼ毛となって突っ立っていた。けれども、絶えず瞬きをして、何事か暗示してでもいるような左の目は、依然たるスメルジャコフであった。『賢い人とはちょっと話しても面白い』という言葉を、すぐにイヴァンは思い出した。彼は、スメルジャコフの足のほうにある床几に、腰をおろした。スメルジャコフは苦しそうに、寝床の上でちょっと礼を動かしたが、自分から口をきこうともせず、黙りこんだまま、もうさほど珍しくもない、といったような顔つきをして、イヴァンを眺めていた。
「話ができるかね?」とイヴァンは訊いた。「大して疲らせはしないが。」
「そりゃできますとも」とスメルジャコフは弱々しい声で呟いた。そして、「いつお帰りになったのでございますか?」と、相手がばつ[#「ばつ」に傍点]のわるそうなのを励まそうとでもするように、余儀なくおつき合いといった調子でこうつけたした。
「なに、きょう帰ったばかりさ……ここの、お前たちの騒ぎをご馳走になろうと思ってな。」
 スメルジャコフはほっとため息をついた。
「どうしてため息なんかつくんだ。お前はまえから知っていたんじゃないか?」とイヴァンはいきなり叩きつけた。
 スメルジャコフはものものしげにしばらく口をつぐんでいた。
「そりゃ知らなくって何としましょう! まえもってわかりきっていたんですからね。ただ、あんなにされようとは思いませんでしたもの。」
「どうされようと思わなかったんだ? お前、ごまかしちゃいかんぞ! あのときお前は穴蔵へ入りさえすれば、すぐ癲癇になると予言したじゃないか。いきなり穴蔵と言ったじゃないか。」
「あなたはそれを訊問の時に、申し立てておしまいになりましたか?」スメルジャコフは落ちつきはらって、ちょっとこう訊ねてみた。
 イヴァンは急にむらむらとした。
「いや、まだ申し立てないが、きっと申し立てるつもりだ。おい、こら、お前は今、おれにいろんなことを説明しなけりゃならないぞ。おい、いいか、おれはお前に冗談なんか言わしゃしないぞ!」
「何であなたに冗談を申しましょう。私はあなた一人を神様のように頼っているのでございますもの。」スメルジャコフはやはり落ちつきはらってこう言ったが、ただちょっとのま目をつぶった。
「第一に」と、イヴァンは切り出した。「癲癇の発作は予言できないってことを、おれはちゃんと知っている。おれは調べて来たんだから、ごまかしたって駄目だ。時日など予言することはできやしない。それに、お前はどうしてあのとき、時日ばかりか穴蔵のことまで予言したんだ? もしお前がわざと芝居をしたのでないとすれば、ちょうどあの穴蔵の中で発作にやられるってことを、どうしてお前はまえもって知っていたんだ?」
「穴蔵へは、そうでなくても、一日に幾度となく行かなきゃなりません」とスメルジャコフはゆっくりゆっくり言葉じりを引いた。「一年前にもちょうどそれと同じように、私は屋根裏の部屋から落ちたことがあるんでございますよ。発作の日や時間を予言することはできませんが、そういう虫の知らせだけは、いつでもあることでございますからね。」
「だが、お前は時日を予言したじゃないか!」
「旦那、私の癲癇の病気のことは、ここのお医者に訊いていただけばよくおわかりになります。私の病気が本当だったか仮病だったか、すぐわかりますよ。私はこのことについちゃあ、もう何にも申し上げることがありません。」
「だが、穴蔵は? その穴蔵ってことを、どうして前から知ったんだね?」
「あなたはよくよくその穴蔵が気になるとみえますね! 私はあの時あの穴蔵へ入ると、恐ろしくって心配でたまらなかったんですよ。ことにあなたとお別れして、もうほかに世界じゅう誰ひとり自分の味方になってくれる人はない、とこう思ったために、よけい恐ろしかったのでございます。私はあのとき穴蔵へ入ると、「今にも起りゃしまいか、あいつがやってきて倒れやしまいか?』[#「しまいか?』」はママ]とこう考えましたので、つまり、この心配のために、いきなり喉に頑固な痙攣が起って……まあ、それで私は真っ逆さまに落ちてしまいました。このことも、またあの前夜、門のそばであなたとこのお話をして、自分の心配や穴蔵の一件など申し上げたことも、私は残らずお医者のヘルツェンシュトゥベさんや、予審判事のニコライさまに詳しく申し立てましたので、あの人たちはすっかりそれを予審調書に書きつけなさいました。ここの先生のヴァルヴィンスキイさんなどは、とくにみんなの前で、それはそう考えたために起ったのだ、『倒れやしまいか、どうだろうか?』という懸念から起ったのだ、とこう主張して下さいました。で、その筋の方もそれはそのとおりに相違ない、つまり、私の心配から起ったものに相違ないと、調書へお書きつけになりました。」
 こう言い終ると、スメルジャコフは、いかにも疲れたらしく深い息をついだ。
「お前はもうそんなことまで申し立てたのかね?」イヴァンはいくらか毒気を抜かれてこう訊いた。彼はあの時の二人の対談を打ち明けると言って、スメルジャコフを嚇かすつもりだった。ところが、スメルジャコフのほうが先を越していたのである。
「私は何にも恐ろしいことはございませんからね! 何でも本当のことを正直に書きつけるがいいんですよ。」スメルジャコフはきっぱりと言った。
「門のそばで僕らがした話を、一句のこらず言ってしまったのかね?」
「いいえ、一句のこらずというわけでもありません。」
「癲癇のまねができると言って、あのときおれに自慢した、あのことも言ったのか?」
「いいえ、それは申しません。」
「それじゃ、聞きたいがね、お前はあの時、なぜおれをチェルマーシニャヘやりたがったんだ?」
「あなたがモスクワへいらっしゃるのを恐れたからでございますよ、何といっても、チェルマーシニャのほうが近うございますから。」
「嘘をつくな。お前はおれを逃そうとしたんじゃないか。罪なことはよけていらっしゃい、と言ったじゃないか。」
「あの時そう申しましたのは、あなたに対する情誼と心服から出たことでございます。家の中に不幸が起るような気がしましたので、あなたをお気の毒に思ってのことなんで。もっとも、私はあなたのことよりも、自分の身が可哀そうだったのでございます。それで、罪なことはよけるようになさいと申し上げたのは、今に家の中に不幸が起るから、お父さんを保護なさらなければならないということを、あなたに悟っていただくためだったのでございます。」
「そんならまっすぐに言えばいいじゃないか、馬鹿!」イヴァンは急にかっとなった。
「どうしてあの時まっすぐに言えましょう? 私があんなふうに申したのは、ただもしやという心配ばかりでございますから、そんなことを言えば、あなたがご立腹なさるにきまっているじゃありませんか。私もむろん、ドミートリイさまが何か騒動を始めなさりはしないか、あの金だってご自分のものとお考えになっていらっしゃるのですから、持ち出したりなどなさりはしないかと、心配しないでもなかったんですけれど、あんな人殺しがもちあがろうなどと、誰が思いましょう? 私はただあの方が、旦那さまの蒲団の下に敷いておいでになったあの封筒入りの三千ルーブリを、お取りになるだけだろうと思っていましたが、とうとう殺しておしまいになったんですものね。旦那、あなだだって予想外だったでございましょう?」
「お前さえ予想外だったと言うものを、どうして僕が予想して家に残っているものか? どうしてお前はそんな矛盾したことを言うんだ?」イヴァンは思案しながらこう言った。
「ですけれど、私があなたにモスクワをやめて、チェルマーシニャヘいらっしゃるようにお勧めしたことからでも、お察しがつきそうなものでございますね。」
「一たいどうしてそれが察しられるんだ!」
 スメルジャコフはひどく疲れたらしく、またしばらく黙っていた。
「私があなたに、モスクワよりチェルマーシニャのほうをお勧めしたのは、あなたがこの土地の近くにいらっしゃるのを望んだからでございますよ。だって、モスクワは遠うござんすからね。それに、ドミートリイさまも、あなたが近くにいらっしゃることを知ったら、あまり思いきったことをなさらないだろうと存じたからなので。これでもお察しがつきそうなはずじゃありませんか。それに、私のことにしても、何事か起ればあなたがすぐに駈けつけて、私を保護して下さるはずでございます。なぜと申して、私はグリゴーリイ・ヴァシーリッチの病気なことや、私が発作を恐れていることなどを、ご注意申し上げておいたからでございます。また、亡くなられた旦那の部屋へ入るあの合図を、ドミートリイさまが私の口から聞いて知っていらっしゃると、あなたにお話し申しましたのは、つまり、ドミートリイさまがきっと何かしでかしなさるに相違ない、とこうあなたがお察しになって、チェルマーシニャヘ行くどころか、すっかり腰を据えてここへ残っておいでになるだろう、と考えたからでございます。」
『話っぷりこそ煮えきらないが、なかなか筋みちの立ったことを言うわい』とイヴァンは考えた。『ヘルツェンシュトゥベは精神状態に異状があると言ったが、どこにそんなものがあるんだ?』
「お前はおれを馬鹿にしてるんだな、こん畜生!」彼はひどく腹をたててこう叫んだ。
「ですが、私はあの時、あなたがもうすっかりお察しになったことと思っていましたよ」とスメルジャコフはきわめて平気な様子で受け流した。
「察しておれば、出かけやしないはずだ!」イヴァンはまたかっとして叫んだ。
「でもね、私はあなたが何もかもお察しのうえ、どこでもいいから逃げ出してしまおう、恐ろしい目にあわないように、できるだけ早く罪なことをよけていようと、こうお思いになったのだとばかり存じていました。」
「お前は誰でも自分のような臆病者と思っているのか?」
「ごめん下さいまし、実はあなたも私と同じような方だと存じましたので。」
「むろん、察すべきはずだったのだ」とイヴァンは興奮しながら言った。「そうだ、おれはお前が何か穢らわしいことをするだろうと察していたよ……とにかく、お前は嘘をついている、また嘘をついている」と彼は急に思い出して叫んだ。「お前はあのとき馬車のそばへ寄って、『賢い人とはちょっと話しても面白い』と言ったことを憶えているだろう。してみると、お前はおれが出発するのを喜んで、賞めたんじゃないか?」
 スメルジャコフはもう一度、また一度ため息をついた。その顔には血の気がさしたようであった。
「私が喜びましたのは」と彼はいくらか息をはずませながら言った。「それはただ、あなたがモスクワでなしに、チェルマーシニャヘ行くことに同意なすったからなんで。何といっても、ずっと近うございますからね。ですが、私があんなことを申したのは、お賞めするつもりじゃなくって、お咎めするつもりだったのでございます。それがあなたはおわかりにならなかったので。」
「何を咎めたんだ?」
「ああした不幸を感じていらっしゃりながら、ご自分の親ごを捨てて行って、私どもを護ろうとして下さらないからでございます。なぜって、私があの三千ルーブリの金を盗みでもしたように、嫌疑をかけられる心配がありましたからね。」
「こん畜生!」とイヴァンはまた呶鳴った。「だが待て、お前は予審判事や検事に、あの合図のことを申し立てたのか?」
「すっかりありのままに申し立てました。」
 イヴァンはまた内心おどろいた。
「おれがもしあのとき何か考えたとすれば」と彼はふたたび始めた。「それは、お前が何か穢らわしいことをするだろうということだ。ドミートリイは殺すかもしれないが、盗みなんかしない、おれはあの時、そう信じていた……ところが、お前のほうは、どんな穢らわしいことをするかしれない、と覚悟していたのだ。現にお前は、癲癇の発作がまねられると言ったじゃないか。何のためにあんなことをおれに言ったんだ?」
「あれはただ、私が馬鹿正直なために申したのでございます。私は生れてから一度も、わざとそんなまねをしたことはありません。ただあなたに自慢したいばかりに申し上げたので。まったく馬鹿げた冗談でございますよ。私はあの時分、あなたが大好きでございましたから、あなたには心やすだてで[#「心やすだてで」はママ]お話ししたのでございます。」
「でも、兄貴は、お前が殺したのだ、お前が盗んだのだと言って、一も二もなくお前に罪をきせているぞ。」
「そりゃ、あの方としてはそう言うよりほか仕方がございますまい」とスメルジャコフは苦い薄笑いをもらした。「でも、あんなにたくさん証拠があがっているのに、誰があの方の言うことを信用するものですか。グリゴーリイさんも戸が開いてるのを見たんですもの、こうなりゃもう仕方がないじゃありませんか。まあ、あんな人なんかどうでもよござんすよ。自分の命を助けようと思って、もがいてらっしゃるんですからね……」
 彼は静かに口をつぐんだが、急に何か思いだしたようにつけたした。
「それに、結局おなじことになりますよ。あの方は私の仕業だと言って、私に罪をなすりつけようとしていらっしゃる、――そのことは私も聞きました、――けれど、たとえ私が癲癇をまねる名人だったにしろ、もしあのとき私が本当に、あなたのお父さまを殺そうという企らみを持っていたら、癲癇のまねが上手だなんかって、あなたに前もって言うはずがないじゃありませんか! もし私があんな人殺しの企らみをいだいていたら、生みの息子さんのあなたに、自分のふため[#「自分のふため」はママ]になる証拠を前もって打ち明けるような、そんな馬鹿なことをするはずがないじゃありませんか! 一たいそんなことが本当になるでしょうか!どうして[#「しょうか!どうして」はママ]、そんなことがあろうとは金輪際、考えられやしませんよ。現に今にしても、私とあなたのこの話は神様よりほかに、誰も聞いているものはありません。が、もしあなたが検事やニコライさんにお話しなすったとしても、結局それは私の弁護になってしまいます。なぜって、以前それほどまでに馬鹿正直であったものを、どうしてその悪漢などと思われましょう? こう考えるのは、ごくあたりまえなことじゃありませんか。」
「まあ、聞いてくれ。」スメルジャコフの最後の結論に打たれたイヴァンは、つと席を立って、話を遮った。「おれはちっともお前を疑っちゃいない。お前に罪をきせるのを、滑稽なこととさえ思ってるんだ……それどころか、お前がおれを安心させてくれたのを、感謝してるくらいだ。今日はもうこれで帰るが、また来るよ、じゃ、さようなら、体を大切にするがいい、何か不自由はないかね?」
「いろいろと有難うございます。マルファ・イグナーチエヴナが私を忘れないで、もし私に入用なものがあれば、以前どおり親切に何でも間にあわせてくれます[#「間にあわせてくれます」はママ]。親切な人たちが毎日たずねて来てくれますので。」
「さようなら。だが、おれはお前が癲癇のまねがうまいことを、誰にも言わないようにするから……お前も言わないほうがいいよ。」イヴァンはなぜか突然こう言った。
「ようくわかっております。もしあなたがそれをおっしゃらなければ、私もあの時あなたと門のそばでお話ししたことを、すっかり申さないことにいたしましょう……」
 イヴァンは急にそこを立ち去ったが、もう廊下を十歩も歩いた頃にやっとはじめて、スメルジャコフの最後の一句に、何やら侮辱的な意味がふくまれているのに気がついた。彼は引っ返そうと思ったが、その考えもちらとひらめいただけで、すぐ消えてしまった。そして『ばかばかしい!』と呟くと、そのまま急いで病院を出た。彼は犯人がスメルジャコフではなく、自分の兄ミーチャであると知って、実際、安心したような気がした(もっとも、それは正反対であるべきはずだったけれど)。ところで、なぜ彼はそんなに安心したのか、――そのとき彼はそれを解剖することを望まず、自分の感覚の詮索だてに嫌忌の念さえ感じた。彼は何かを忘れてしまいたい気がしたのである。その後、幾日かの間に、ミーチャを圧倒するような多数の証拠を詳しく根本的に調べるとともに、彼はすっかりミーチャの有罪を信じてしまった。ごくつまらない人々、――例えばフェーニャやその祖母などの申し立ては、ほとんど人をして戦慄せしめるていのものであった。ペルホーチンや、酒場や、プロートニコフの店や、モークロエの証人などのことは、今さら喋々[#「喋々」はママ]するまでもなかった。ことに細かいデテールが人々を驚倒させた。秘密の『合図』に関する申し立ては、戸が開かれていたというグリゴーリイの申し立てと同じくらいに、判事や検事を驚かした。グリゴーリイの妻のマルファは、イヴァンの問いに対して、スメルジャコフは自分たちのそばの衝立ての陰に夜どおし寝ていた、そこは『わたしどもの寝床から三足と離れちゃおりませんでした』から、自分はずいぶん熟睡していたけれど、たびたび目をさまして、あれがそこに唸っているのを聞いた、『しじゅう唸っていました。ひっきりなしに唸っていました』とこう言いきった。イヴァンはまたヘルツェンシュトゥベと話をして、スメルジャコフは狂人と思われない、ただ衰弱しているまでである、という意見を述べたけれど、それはただこの老医師の微妙なほお笑みを誘うにすぎなかった。『じゃ、あなたはあの男が今とくにどんなことをしてるかご存じですか?』と医師はイヴァンに訊いた。『フランス語を暗誦しているんですよ。あの男の枕の下には手帳が入っていましてね、誰が書いたものか、フランス語がロシヤ文字で書いてありますよ、へへへ!』で、イヴァンはとうとう一切の疑いを棄ててしまった。彼はもはや嫌悪の念なしに、兄ドミートリイのことを考えられなかった。ただ一つ不思議なのは、アリョーシャが下手人はドミートリイでなくて、『きっと確かに』スメルジャコフに相違ない、と頑固に主張しつづけることであった。イヴァンはいつもアリョーシャの意見を尊重していたので、そのために今ひどく不審を感じた。もう一つ不思議なのは、アリョーシャがイヴァンとミーチャの話をするのを避けて、決して自分のほうからは口をきかず、ただイヴァンの問いに答えるにすぎないということである。イヴァンはこれにも十分気がついていた。
 けれど、それと同時に、彼はぜんぜん別なある事柄に気を取られていた。彼はモスクワから帰ると間もなく、カチェリーナに対する焔のようなもの狂おしい熱情に没頭したのである。しかし、その後イヴァンの生涯に影をとどめたあの新しい情熱については、いま物語るべき機会でない。これはまた、別な小説の主題を形成すべきものである。が、その物語をいつかまた始めるかどうか、それは筆者《わたし》自身にもわかっていない。だが、この場合どうしても黙って打ち過されないことがある。イヴァンは、もう前にも書いたとおり、あの夜アリョーシャと一緒に、カチェリーナの家から帰る途中『僕はあまりあの女が好きじゃない』と言ったが、それは大きな嘘であった。もっとも、彼は時とすると、殺してしまいかねないくらい彼女を憎むこともあったが、概して気が狂いそうなほど彼女を愛していた。それにはたくさんの理由が重なっていた。彼女はミーチャの事件に心の底から震撼されて、ふたたび自分のもとへ帰って来たイヴァンを、さながら救い主かなんぞのように思い、いきなり彼に縋りついたのである。彼女が忿怒と、侮蔑と、屈辱の感じをいだいているところへ、ちょうど以前彼女を熱愛していた男が、ふたたび現われたのである(そうだ、彼女はこのことをよく知っていた)。彼女はその男の知力と心情を、いつも深く崇敬していたのである。けれど、この厳正なる処女は、自分の恋人のカラマーゾフ式な抑えがたい激しい情熱を見ても、彼から深い敬慕の念を寄せられても、決してみずからを犠牲に捧げようとはしなかった。それと同時に、彼女は絶えずミーチャにそむいたことを後悔して、イヴァンと烈しく争った時など(彼らはしじゅう喧嘩をした)、露骨にこのことを男に言ったりした。イヴァンがアリョーシャと話をした時、『虚偽の上の虚偽』と呼んだのはこのことなのである。そこにはむろん、多くの虚偽があった、これが何よりもイヴァンを憤慨させたのである……が、このことはあとで言おう。要するに、彼は一時ほとんどスメルジャコフのことを忘れていたのだ。けれども、スメルジャコフを初めて訪ねてから二週間ばかりたつと、また例の奇怪な想念がイヴァンを苦しめはじめた。彼は絶えず自問した、――なぜ自分はあのとき、例の最後の夜、すなわち出発の前夜、フョードルの家で、盗人のように足音を忍ばせながら階段へ出て、父親が下で何をしているかと、耳をすまして聞いたのだろう? なぜあとでこのことを思い出したとき、嫌悪を感じたのだろう?なぜ[#「だろう?なぜ」はママ]その翌朝、途中であんなに急に憂愁に悩まされたのか? なぜモスクワへ入りながら、『おれは卑劣漢だ!』とひとりごちたのか? こんなふうに反問したことだけ言えばたくさんであろう。いま彼はこうしたさまざまな悩ましい想念のために、カチェーリーナさえ忘れがちになりそうな気がした。それほどまでに、彼はまた突然この想念の虜になったのである。ちょうどこういうことを考えて往来を歩いている時、ふとアリョーシャに出会った。彼はすぐ弟を呼び止めて、だしぬけに問いかけた。
「お前おぼえてるだろう、ドミートリイが食事ののちに家の中へ暴れ込んで、親父を撲ったね。それから、僕が外で『希望の権利』を保有するとお前に言ったことがあったっけ。そこで、一つお前に訊くが、そのとき僕が親父の死ぬのを望んでいると考えたかね、どうかね。」
「考えました」とアリョーシャは低い声で答えた。
「もっとも、それは実際そのとおりだったんだ、推察も何もいりゃしない。だが、お前はその時、『毒虫同士がお互いに食い合う』のを、つまりドミートリイが親父を一ときも早く殺すのを、僕が望んでいると思やしなかったかね?……そして、僕自身もその手つだいくらいしかねない、と思やしなかったかね?」
 アリョーシャは心もち顔を蒼くして、無言のまま兄の目を見た。
「さあ、言ってくれ」とイヴァンは叫んだ。「僕はお前があの時どう考えたか、知りたくってたまらないんだ、本当のことを聞きたいんだ、本当のことを!」
 彼はもう前から一種の憎しみを浮べて、アリョーシャを見つめながら、重々しい息をついていた。
「赦して下さい、僕はあの時、そうも思ったのです」とアリョーシャは囁いて、『やわらげるような言葉』を一言もつけ加えずに黙ってしまった。
「有難う!」イヴァンは断ち切るようにこう言ったまま、アリョーシャをおき去りにして、急ぎ足に自分勝手なほうへ行ってしまった。
 そのとき以来アリョーシャは、兄のイヴァンがなぜかきわ立って自分を避けるように努め、そのうえ自分を愛さないようにさえなったことに気づいた。アリョーシャのほうでも、もうイヴァンのところへ行くのをやめてしまった。ところで、イヴァンはその時アリョーシャと会った後、自分の家へ帰らないで、突然ふたたびスメルジャコフのもとへ出向いたのである。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社