『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P240-P287

ころから帰って来た時には、部屋の中には誰もいなかったのである)、何者か腰をかけていた。それは一個の紳士であった、いや、一そう的確に言えば、ある特殊なロシヤのゼントルマンで、もうあまり若くない、フランス人の、いわゆる”pui frisait la cinquantaine“([#割り注]五十歳に近い人物[#割り注終わり])である。かなり長くてまだ相当に濃い黒い髪や、楔がたに刈り込んだ顎鬚には、あまり大して白髪も見えなかった。彼は褐色の背広風のものを着込んでいた。それも上手な仕立屋の手でできたものらしいが、もうだいぶくたびれた代物で、流行がすたってから、かれこれ三年くらいになるので、社交界のれっきとした人たちは、もはや二年も前から着なくなってしまっている。シャツも、ショールのような形をした長いネクタイも、みんな一流の紳士がつけるようなものではあったが、シャツは近くでよく見ると、だいぶ薄汚れているし、幅広のネクタイもよほど耗れていた。格子縞のズボンもきちんと落ちついていたが、これも今の流行にしては、やはり色合いが明かるすぎて、型が細すぎるから、今ではもうとっくに人がはかなくなっていた。白い毛のソフトも同様に、季節はずれなものだった。要するに、あまり懐ろのゆたかでない人が、みなりをきちんと整えている、といった恰好である。つまり、紳士は農奴制時代に栄えていた昔の白手《ホワイトハンド》、落魄した地主階級に属する人らしい様子であった。疑いもなく、かつては立派な上流社会にあって、れっきとした友達を持ち、今でも昔のままに、その関係を保っているかもしれないが、若い時の楽しい生活が終って、そのうち農奴制の撤廃にあって落魄するにしたがい、次第次第に善良な旧友の間を転々として歩く、一種のお上品な居候となりはてたのである。旧友がそうした人を自分の家へ入れるのは、当人のどこへでも落ちつきやすい、要領のよい性質を知っているからでもあり、またそういうきちんとした人は、むろん、下座ではあるが、どんな人の前にでも坐らせておけるからであった。そういう居候、すなわち要領のよい紳士は、面白い話をすることと、カルタの相手をすることが上手だけれど、もし人から用事など頼まれても、そんなことをするのは大嫌いなのである。彼らはふつう孤独な人間で、独身者かやもめである。時とすると、子供を持っているようなこともあるが、その子供はいつもどこか遠方の叔母さんか、誰かの家で養育されているにきまっている。紳士は、そういう叔母があることを、立派な社会ではおくびにも出さない。彼らはそういう親戚を持っているのを、いくぶん恥じてでもいるようである。そして、自分の子供から命名日や降誕祭などに、ときどき賀状をもらったり、またどうかすると、その返事を出したりしているうちに、いつとなくその子供を忘れてしまうのである。この思いがけない客の顔つきは、善良とは言えないまでも、やはり要領のいい顔で、あらゆる点から見て、いつでも、どんな愛嬌のある表情でもできそうな様子であった。時計は持っていなかったが、黒いリボンをつけた鼈甲縁の柄つき眼鏡をたずさえていた。右手の中指には、安物のオパールを入れた、大形の金指環がはめられていた。イヴァンは腹立たしげにおし黙って、話しかけようともしなかった。客は話しかけられるのを待っていた。ちょうど食客が上の居間から茶の席へ降りて来て、主人のお話相手をしようと思ったところ、主人が用事ありげなふうで、顔をしかめながら何やら考えているので、おとなしく黙っている、といったようなふうつきであった。が、もし主人のほうから口をききさえすれば、いつでもすぐに愛嬌のある話を始められそうであった。突然、彼の顔に何やら心配らしい色が浮んだ。
「ねえ、君」と彼はイヴァンに話しかけた。「こんなことを言ってははなはだ失礼だが、君はカチェリーナのことを聞くつもりで、スメルジャコフのところへ出かけて行ったくせに、あのひとのことは何も聞かずに帰って来たね。たぶん忘れたんだろう……」
「ああ、そうだった!」イヴァンは突然こう口走った。彼の顔は心配そうにさっと曇った。「そうだ、僕は忘れたんだ……だが、今ではもうどうでもいい、何もかも明日だ」と彼はひとりごとのように呟いた。「だが君」と彼はいらいらした語調で、客のほうに向って、「それは僕がいま思い出すべきはずだったんだ。なぜって、僕は今そのことで頭を悩まされてたんだからね。どうして君はおせっかいをするんだ? それじゃまるで、君が知らせてくれたので、僕が自分で思い出したんじゃない、というように、僕自身信じてしまいそうじゃないか!」
「じゃ、信じないがいいさ。」紳士は愛想よく笑った。「信仰を強要することはできないからね。それに、信仰の問題では証拠、ことに物的証拠なんか役にたちゃしないよ。トマスが信じたのは、よみがえったキリストを見たからじゃなくって、すでにその前から信じたいと思っていたからさ。早い話が、降神術者だがね……おれはあの先生方が大好きさ……考えてみたまえ、あの先生方は、悪魔があの世から自分たちに角を見せてくれるので、降神術は信仰のために有益なものだと思っている。『これは、あの世が実在しているという、いわゆる物的証拠じゃないか』と先生たちは言っている。あの世と物的証拠、何たる取り合せだろう! それはまあ、いいとしてさ、悪魔の実在が証明されたからって、神の実在が証明されるかね? 僕は理想主義者の仲間へ入れてもらいたい。そうすれば、その中で反対論を唱えてやるよ。『僕は現実主義者だが、唯物論者じゃないんだよ、へっ、へっ!』」
「おい、君」とイヴァンはふいにテーブルから立ちあがった。「僕は今まるでうなされてるような気がする……むろん、うなされてるんだ……まあ、かまわず勝手なことを喋るがいい! 君はこの前の時のように、僕を夢中に怒らすことはできまいよ。だが、何だか恥しいような気がする……僕は部屋の中を歩きたい……僕はこの前の時のように、おりおり君の顔が見えず、君の声が聞えなくなるけれど、君の喋ってることはみんなわかる。なぜって、それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの[#「それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの」に傍点]! ただわからないのは、このまえ君に会った時、僕は眠っていたか、それとも、さめながら君を見たかということなんだ。一つ冷たい水でタオルを濡らして頭へのせよう、そうしたら、おそらく君は消えてしまうだろう。」
 イヴァンは部屋の隅へ行って、タオルを持って来ると、言ったとおりに、濡れタオルをのせて、部屋の中をあちこち歩きだした。
「僕は、君が率直に『君、僕』で話してくれるのを嬉しく思うね」と客は話しだした。
「馬鹿。」イヴァンは笑いだした。「僕が君に『あなた』などと言ってたまるものか。僕はいま愉快だが、ただこめかみが痛い……額も痛い……だから、どうかこの前の時みたいに、哲学じみたことを喋らないでくれたまえ。もし引っ込んでいられなきゃ、何か面白いことを喋りたまえ、居候なら居候らしく、世間話でもしたほうがいいよ。本当に困った先生に取っつかれたものさ! だが、僕は君を恐れちゃいないぜ、いまに君を征服してみせる。瘋癲病院なんかへ連れて行かれる心配はないぞ!」
「居候は c'est charmant([#割り注]おもしろいもの[#割り注終わり])だよ。さよう、僕はありのままの姿をしている。この地上で僕が居候でなくて何だろう? それにしても、僕は君の言葉を聞いて少々驚いたね。まったくだよ、君はだんだん僕を実在のものと解釈して、このまえのように、君の空想と思わなくなったからね……」
「僕は一分間だって、お前を実在のものと思やしないよ。」イヴァンはほとんど猛然たる勢いで叫んだ。「お前は虚偽だ、お前は僕の病気だ、お前は幻だ。ただ僕には、どうしたらお前を滅ぼせるかわからない。どうもしばらくのあいだ苦しまなければなるまい。お前は僕の幻覚なんだ。お前は僕自身の化身だ、しかし、ただ僕の一面の化身……一番けがれた愚かしい僕の思想と感情の化身なんだ。だから、この点から言っても、もし僕にお前を相手にする暇さえあれば、お前は確かに僕にとって興味のあるものに相違ない……」
「失敬だがね、失敬だが、一つ君の矛盾を指摘さしてくれたまえ。君はさっき街灯のそばで、『お前はあいつから聞いたんだろう! あいつ[#「あいつ」に傍点]が僕のところへ来ることを、お前はどうして知ったんだ?』と言って、アリョーシャを呶鳴りつけたね。あれは僕のことを言ったんだろう。してみると、君はほんの一瞬間でも信じたんだ。僕の実在を信じたんじゃないか。」紳士は軽く笑った。
「ああ、あれは人間天性の弱点だよ……僕はお前を信ずることができなかった。僕はこのまえ眠っていたか覚めていたか、それさえ憶えていない。ことによったら、あの時お前を夢に見たので、うつつじゃないかもしれん……」
「だが、君はどうしてさっき、あんなにあの人を、アリョーシャをやっつけたんだね? あれは可愛い子だよ。僕は長老ゾシマのことで、アリョーシャに罪をつくったよ。」
「アリョーシャのことを言ってくれるな……下司のくせに何を生意気な!」イヴァンはまた笑いだした。
「君は呶鳴りながら笑ってるね、――これはいい徴候だ。今日はこの前よりだいぶご機嫌がいい。僕にはなぜだかわかっている、偉大なる決心をしたからだよ……」
「決心のことなんか言わないでくれ!」とイヴァンは猛然と呶鳴った。
「わかってる、わかってる、c'est noble, c'est charmant.([#割り注]それは立派なことだよ。それはいいことだよ[#割り注終わり])君はあす兄貴の弁護に出かけて行って自分を犠牲にするんだろう…… c'est chevaleresque ……([#割り注]それは義侠だよ[#割り注終わり])」
「黙れ、蹴飛ばすぞ!」
「それはいくぶん有難い、なぜって、蹴られれば僕の目的が達せられるからさ。蹴飛ばすというのは、つまり、君が僕の実在を信じている証拠だ。幻を蹴るものはないからね。冗談はさておき、僕はどんなに罵倒されても何とも思わないが、それにしても、いくら僕だからって、も少しは鄭重な言葉を使ってもよさそうなものだね。馬鹿だの、下司だのって、ちとひどすぎるね!」
「お前を罵るのは、自分を罵るんだ!」イヴァンはまた笑った。「お前は僕だ、ただ顔つきの違う僕自身だ。お前は僕の考えていることを言ってるんだ……少しも新しいことを僕に聞かすことができないんだ!」
「もし僕の思想が、君の思想と一致しているとすれば、それはただただ僕の名誉になるばかりだ」と紳士は慇懃な、しかも威をおびた調子で言った。
「お前はただ僕の穢らわしい思想、ことに馬鹿な思想ばかりとってるんだ。お前は馬鹿で、野卑だ。恐ろしい馬鹿だ。いや、僕は、たまらなくお前が厭だ! ああ、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ!」とイヴァンは歯ぎしりした。
「ねえ、君、僕はやはりゼントルマンとして身を処し、ゼントルマンとして待遇されたいんだがね。」客は一種いかにも食客らしい、はじめから譲歩してかかっているような、人のいい野心を見せながら、言いはじめた。「僕は貧乏だが、しかし、非常に高潔だとは言うまい。が……世間では一般に僕のことを堕落した天使だというのを、原則のように見なしている。実際、僕は自分がいつ、どうして天使だったか思い出せない。よしまたそういう時があったとしても、もう忘れたって罪にならぬくらい昔のことなんだろう。で、今じゃ僕はただ身分ある紳士とりつ評判だけを尊重し、何でも成行きにまかせて、できるだけ愉快な人間になろうと努めているんだ。僕は心底から人間が好きだ、――ああ、僕はいろんな点で無実の罪をきせられているよ! 僕がときどきこの地上へ降りて来ると、僕の生活は何かしら一種の現実となって流れて行く。これが僕には何よりも嬉しいんだ。僕自身も君と同じく、やはり幻想的なものに苦しめられているので、それだけこの地上の現実を愛している。この地上では、すべてが輪郭を持っており、すべてに法式があり、すべてが幾何学的だ。ところが、僕らのほうでは、一種漠然とした方程式のほか何もないんだ。で、僕はこの地上を歩きながら、空想している。僕は空想するのが好きなんだ。それに、この地上では迷信ぶかくなる、――どうか笑わないでくれたまえ。僕はつまり、この迷信ぶかくなるのが好きなんだ。僕はここで、君らのあらゆる習慣にしたがっている。僕は町のお湯屋に行くことが好きになってね、君は本当にしないだろうが、商人や坊さんなどと一緒に、湯気に蒸されるんだよ。僕の夢想してるのは、七フードもあるでぶでぶ肥った商家の内儀に化けることだ、――しかも、すっかり二度ともとへ戻らないようになりきって、そういう女が信じるものを残らず信じたいんだ。僕の理想は会堂へ入って、純真な心持でお蝋燭を供えることだ、まったくだよ。その時こそ、僕の苦痛は終りを告げるのだ。それから、やはり君らと一緒に、医者にかかることも好きだね。この春、天然痘が流行った時、養育院へ出かけて行って、種痘をうえてもらった。その日、僕はどんなに満足だったかしれない。お仲間のスラヴ民族たちの運動に、十ルーブリ寄付したくらいだよ……だが、君は聞いていないんだね。え、君、君は今日どうもぼんやりしてるよ。」紳士はしばらく口をつぐんだ。「僕はね、きのう君があの医者のところへ行ったことを知ってるよ……どうだね、君の健康は? 医者は君に何と言ったね?」
「馬鹿!」とイヴァンは一刀両断にこう言った。
「だが、その代り、君はお利口なことだよ。君はまた呶鳴るんだね? 僕はべつに同情を表したわけじゃないんだから、答えなけりゃ答えなくたっていい。この頃はまたレウマチスが起ってね……」
「馬鹿!」とイヴァンはふたたび繰り返した。
「君はしじゅう同じことばかり言ってるが、僕は去年ひどいレウマチスにかかってね、いまだに思い出すよ。」
「悪魔でもレウマチスになるかな?」
「僕はときどき人間の姿になるんだもの。レウマチスぐらいにはかかるさ。人間の肉を着る以上、その結果も頂戴するのは仕方があるまいて。Satan sum et nihil humanum a me alienum puto.([#割り注]わたしは悪魔だから一切人間的なものはわたしにとって縁があるのだ―ラテン語[#割り注終わり])」
「なに、なに? Satan sum et nihil humanum だって……これは悪魔の言葉としちゃ気がきいてるな?」
「やっと御意に召して嬉しいよ。」
「だが、お前その言葉は僕から取ったものじゃないな。」イヴァンはびっくりしたように、急に開き直った。「僕はそんなことを一度も考えたことはないんだが。不思議だなあ……」
「C'est du nouveau, n'est-ce pas?([#割り注]これは新しいものさ。そうじゃないか?[#割り注終わり])」こうなりゃいっそのこと、いさぎよく綺麗に君に打ち明けてしまおう。一たいねえ、君、胃の不消化や何やらで夢を見ている時や、ことにうなされている時など、人間はどうかすると非常に芸術的な夢や、非常に複雑な現実や、事件や、あるいは筋の通った一貫した物語などを、最も高尚な現象からチョッキのボタンの果てにいたるまで、びっくりするほどこまごまと見ることがあるものだ。まったくのところ、レフ・トルストイでも、これほど細かくは書けまいと思うくらいにね。しかも、どうかすると、文士じゃなくって、きわめて平凡な人、――役人や、雑報記者や、坊さんなどが、そういう夢を見ることがあるもんだよ……これについては、大きな問題があるんだ。ある大臣が僕に自白したことだがね、何でも彼の立派な思想は、ことごとく眠っている時に思いつくんだってさ。現に今だって、やはりそうだよ。僕は君の幻覚なんだけれど、ちょうどうなされている時みたいに、僕の言うことはなかなか独創的だろう。こんなのは、今まで考えたこともあるまい。だから、僕は決して、君の思想を反復してるんじゃないよ。しかも、僕はやはり君の悪夢にすぎないんだ。」
「嘘をつけ。お前の目的は、お前が独立の存在で、決して僕の悪夢じゃないってことを、僕に信じさせるにあるんだ。だから、今お前は僕の夢だなどと言ってるんだ。」
「ねえ、君、きょう僕は特別の研究方法を持って来たんだ。あとで君に説明してあげよう。待ちたまえ、僕はどこまで話したかしら? そうだ、僕はそのとき風邪を引いたんだよ。ただし、君らのところじゃない、あそこで……」
「あそこって、どこだ? え、おい、お前は僕のところに長くいるつもりかね? 帰るわけにゆかないのかね?」とイヴァンはほとんど絶望したように叫んだ。
 彼は歩きやめて、長椅子に腰をおろし、ふたたびテーブルに肱をついて、両手でしっかりと頭を抑えた。彼は頭から濡れタオルを取って、いまいましそうに抛り出した。タオルは何の役にも立たなかったものと見える。
「君の神経は破壊されてるんだ」と紳士はうちとけた口調で、無造作に言った。が、その様子はいかにも親しそうであった。「君は、僕でも風邪を引くことがあるといって怒っているが、しかしそれはきわめて自然な出来事なんだからね。何でも、大急ぎである外交官の夜会へ出かけたと思いたまえ。それは、つねづね大臣夫人になりたがっているペテルブルグの上流の貴婦人が催した夜会だがね、そこで、僕は燕尾服に白いネクタイと手袋をつけたが、その時はまだとんでもないところにいたんだからね。君らのこの地上へおりて来るには、まだ広い空間を飛ばなけりゃならなかったのさ……むろん、それもほんの一瞬間に飛べるんだが、なにしろ太陽の光線でさえ八分間かかるのに、考えてみたまえ、僕は燕尾服と胸の開いたチョッキを着てるんだろう。霊体というものは凍えないけれど、人間の肉を着た以上はどうも……つまり、僕は軽はずみに出かけたんだ。ところが、この空間のエーテル、つまり、この天地の間を充たしている水の中は、途方もなく寒かったんだ……その寒さと言ったら、――もう寒いなどという言葉では現わせないねえ。考えてもみたまえ、氷点下百五十度だぜ! ねえ、田舎の娘どもはよくこんないたずらをするだろう、零下三十度の寒さの時、馴れないやつに斧を甜めさせるんだ。すると、たちまち舌が凍りつくので、馬鹿め、舌の皮を剥がして血みどろになってしまう。しかも、これは僅か三十度の話さ。ところが、百五十度となってみたまえ、斧に指がくっつくが早いか、さっそく、ちぎれてしまうだろうと思うよ、ただし……そこに斧があればだがね……」
「でも、そんなところに斧があるだろうか?」イヴァンはぼんやりと、しかも忌わしそうな調子で、突然、こう口をはさんだ。
 彼は全力を挙げて、自分の悪夢を信じないように、気ちがいにならないように抵抗していた。
「斧が?」と客はびっくりして問い返した。
「そうさ、一たいそんなところで斧がどうなるんだろう?」イヴァンはいきなり、狂猛な調子で、執念く、むきになって叫んだ、
「空間では斧がどうなるかって? 〔Quelle ide' e! 〕([#割り注]何という考えだろう![#割り注終わり])もしずっと遠くのほうへ行けば、衛星のように何のためとも知らず、地球のまわりを廻転しはじめるだろうと思うね。天文学者たちは、斧の出没を計算するだろうし、ガッツークはそれを暦の中へ書き込むだろうよ。それだけだよ。」
「お前は馬鹿だ、恐ろしい馬鹿だ!」とイヴァンは反抗的に言った。「嘘をつくなら、もっとうまくやれ。でないと、もう僕は聞かんぞ。お前は僕を実在論で説破して、お前の実在を僕に信じさせるつもりなんだろう。だが、僕はお前の存在を信じたくない! 僕は信じやしない!」
「いや、僕は嘘を言ってやしない。みんな本当なんだ。遺憾ながら、真実はほとんどすべての場合、平凡なものだからね。君ほどうも僕から何か偉大なもの、もしくは美しいものを期待しているらしい。どうもお気の毒さま。だって、僕は、自分の力のおよぶだけのものしか、君にさしあげられないから……」
「馬鹿、哲学じみたことを喋らないでくれ!」
「どうして、哲学どころじゃないんだよ。僕は体の右側がすっかりきかなくなっちまって、うんうん唸りだすという騒ぎだ。医者という医者にすっかりかかってみたがね、立派に診察して、まるで掌《たなごころ》を指すがごとくに、症状を残らず話して聞かせるが、どうも癒すことができないんだ。ちょうどそこに、一人の若い感激家の学生がいて、『たとえあなたはお死にになっても、自分がどんな病気で死んだか、すっかりおわかりになるわけですからね!』と言ったもんだ。それに、例の彼らの癖として、すぐ専門家へ患者を送ってしまうのだ。曰く、われわれは診察だけしてあげるから、しかじかの専門家のところへ行くがいい、その人が病気を癒してくれるから、とこう言うじゃないか。なにしろ、今ではどんな病気でも癒すような、そんな旧式な医者はなくなってしまって、ただ専門家だけがいつも新聞に広告してるんだ。もし鼻の病気にかかるとすると、パリヘ行けと言われる。そこへ行けば、ヨーロッパの鼻科専門の医者が癒してくれるというので、パリヘ出かけて行くと、その専門医は鼻を診察して、私はあなたの右の鼻孔だけしか癒せない、左の鼻孔は私の専門外だから、ウィーンへおいでなさい。そこには左の鼻孔を癒してくれる特別な専門医がありますよ、とこうくる。どうも仕方がないから、一つ家伝療治でもやってみることにしたよ、あるドイツ人の医者が、お湯屋の棚へ上って、塩をまぜた蜂蜜で体を拭けばいいと勧めたので、一ど余分に風呂へ入ったつもりで、お湯屋へ行って体じゅうを塗りたくってみたが、何の役にも立たなかったよ。がっかりして、ミランのマッティ伯爵に手紙を出してみると、伯爵は一冊の書物と水薬を送ってよこしたがね、やはり駄目さ。ところが、どうだろう、ホップの麦芽精でなおっちまったじゃないか! 偶然に買い込んだやつを一瓶半も飲むと、立派に癒ってしまったんだ。ぜひ『有難う』を新聞にのせようと決めた。感謝の念が勵いてやまないんだ。ところが、どうだろう、またぞろ厄介なことが起きてきた。どこの編集局でも受けつけてくれないじゃないか。『どうもあまり保守的じゃありませんか。だれが本当にするものですか、le diable n'existe point.([#割り注]悪魔がいるなんて[#割り注終わり])』と言って、『匿名でお出しになったほうがいいでしょう』と勧めるのさ。だが、匿名じゃ『有難う』も何もあるものかね。僕は事務員たちにそう言って、笑ってやった。『いまどき神様を信ずるのは保守的だろうが、僕は悪魔だから、僕なら信じられるはずじゃないか。』『まったくそうですね』と彼らは言うのだ。『誰だって悪魔を信じないものはありません。だが、それでもやはりいけません。根本主張を害しますからな。冗談という体裁ならいいですが。』だが、考えてみると、冗談としちゃ、あまり気がきいた話じゃない。こういうわけで、とうとう掲載してくれなかったよ。君は本当にしないかもしれんが、今でも僕はそのことが胸につかえているのだ! 僕の最も立派な感情、――例えば、感謝の念さえも、単に僕の社会的境遇によって、表面的に拒絶されるんだからね。」
「また哲学を始めたな?」とイヴァンはにくにくしげに歯ぎしりした。
「とんでもないことを。しかし、時によると、ちっとは不平を言わずにゃいられないよ。僕は無実の罪をきせられた人間だからね。第一、君でさえ、しょっちゅう僕をばかばかと言ってるじゃないか。まったく君がまだお若いってことがすぐわかるよ。君、ものごとは知恵ばかりじゃゆかない! 僕は生れつき親切で、快活な心の持ち主なんだ。『私もやはりいろんな喜劇を作ります([#割り注]ゴーゴリの喜劇『検察官』の主人公フレスタコーフの台詞[#割り注終わり])。』君は僕をまるで老いぼれたフレスタコーフだと思っているらしいね。だが、僕の運命はずっと真剣なんだ。僕はとうてい自分でもわからない一種の宿命によって『否定』するように命ぜられてる。ところが、僕は本来好人物で、否定はしごく不得手なんだ。『いや、否定しろ、否定がなければ批評もなくなるだろう。〈批評欄〉がなければ雑誌も存在できない。批判がなければ〈ホザナ〉ばかりになってしまう。ところが、〈ホザナ〉ばかりじゃ人生は十分でない。この〈ホザナ〉が懐疑の鎔炉を通らなけりゃならない』といったようなわけなんだよ。けれど、僕はそんなことにおせっかいはしない。僕が作ったんじゃなし、僕に責任はないんだ。贖罪山羊《みがわりやぎ》を持って来て、それに批評欄を書かせると、それで人生ができるのだ。われわれはこの喜劇がよくわかっている。例えば、僕は率直に自分の滅亡を要求してるんだが、世間のやつらは、いや、生きておれ、君がいなくなれば、すべてがなくなる。もしこの世のすべてが円満完全だったら、何一つ起りゃしまい、君がいなけりゃ出来事は少しもあるまい、しかも出来事がなくちゃ困る、とこう言うんだ。で、僕はいやいや歯を食いしばりながら、出来事をつくるため、注文によって不合理なことをやってるんだ。ところで、人間は、そのすぐれた知力にもかかわらず、この喜劇を何か真面目なことのように思い込んでる。これが人間の悲劇なのさ。そりゃむろん、苦しんでいる。けれども……その代り、彼らは生きている、空想的でなしに、現実的に生活している。なぜなら、苦痛こそ生活だからね。苦痛がなければ、人生に何の快楽があるものか、すべてが一種無限の祈祷に化してしまう。すべては神聖だが、少し退屈だ。ところが、僕はどうだ? 僕は苦しんでいるが、しかし生活しちゃいない。僕は不定方程式におけるエッキスだ。僕は一切の初めもなく、終りをも失った人生の幻影の一種だ。自分の名前さえ忘れてしまってるんだよ。君は笑ってるね……いや、笑ってるんじゃなくって、また怒ってるんだろう、君はいつでも怒ってるからな。君はしじゅう賢くなろうと骨折ってるが、僕は繰り返して言う、星の上の生活や、すべての位階や、すべての名誉を捨ててしまって、七プードもある商家のかみさんの体に宿って、神様にお蝋燭を捧げてみたいと思うね。」
「だって、お前は神を信じないのじゃないか?」とイヴァンはにくにくしげに、にやりと笑った。
「何と言ったらいいかなあ、君がもし真面目なら……」
「神はあるのかないのか?」とイヴァンはまた執念く勢い猛に叫んだ。
「じゃ、君は真面目なんだね? だがねえ、君、まったく僕は知らないんだよ、これは真っ正直な話だ!」
「知らなくっても、神を見だろう? いや、お前は実在のものじゃなかった。お前は僕自身なんだ。お前は僕だ、それだけのものだ! お前はやくざ者だ、お前は僕の空想なんだ!」
「もしお望みなら、僕も君と同じ哲学を奉じてもいいさ。それが一ばん公平だろう。Je pense, done je suis.([#割り注]われ考う、ゆえにわれ在り[#割り注終わり])これは僕も確かに知っている。が、僕の周囲にあるその他のすべては、つまり、この世界全体も、神も、サタンさえも、――こういうものが、みんなはたして実在しているか、それとも単に僕自身の発散物で、無限の過去からただひとり存在している『自我』の漸次発展したものかということは、僕に証明されていない……だが、僕は急いで切り上げるよ。なぜって、君はすぐに飛びあがって、掴みかかりそうだからね。」
「お前、何か滑稽な逸話でも話したらいいだろう!」とイヴァンは病的な調子で言った。
「逸話なら、ちょうどわれわれの問題にあてはまるやつがあるよ。いや、逸話というより伝説だね。君は『見ているくせに信じない』と言って、僕の不信を責めるがね、君、それは僕一人じゃないよ。僕らの仲間は今みんな苦しんでいる。それというのも、みんな君らの科学のためなんだ。まだ、アトムや、五感や、四大などの時代には、どうかこうか纒っていた。古代にもアトムはあったのだからね。ところが、君らが『化学的分子』だとか、『原形質《プロトプラズム》』だとか、その他さまざまなものを発見したことがわかると、僕らはすっかり尻尾を巻いてしまった。ただもうめちゃくちゃが始まったんだ。何よりいけないのは、迷信だ、愚にもつかん風説なんだ。そんな噂話は、君らの間でもわれわれの間でも同じだ、いや、少し多いくらいだよ。密告も同じことで、僕らのところには、ある種の『報告』を受けつける役所さえあるくらいだ。そこで、この不合理な物語というのは、わが中世紀のもので、――君らのじゃなくって、われわれの中世紀だよ、――七プードもある商家のかみさんのほか、誰一人として信じる者がないくらいだ。ただし、これもやはり人間界のかみさんじゃなくって、われわれのかみさんだがね。ところで、君らの世界にあるものは、みんなわれわれの世界にもあるんだよ。これは禁じられているんだけれど、君一人にだけ、友達のよしみで秘密を打ち明けるんだ。その物語というのは天国に関することで、何でもこの地上に、一人の深遠な思想を持った哲学者がいたそうだ。彼は『法律も、良心も、信仰も一切否定した』が、とりわけ未来の生活を否定したのさ。ところが、やがて死んだ。彼はすぐ、闇黒と死へ赴くものと思っていたのに、どっこい、目の前に突如として、未来の生活が現われた。彼はびっくりもし憤慨もした。『これは、おれの信念に矛盾している』と言ったものだ。これがために彼は裁判されて……ねえ、君、咎めないでくれ、僕はただ自分で聞いたことを話してるだけなんだから。つまり、伝説にすぎないのさ……ところで、裁判の結果、暗闇の中を千兆キロメートル(僕らの世界でも、今じゃキロメートルを使っているからね)歩いて行くように宣告された。この千兆キロメートルの暗闇を通り抜けてしまうと、天国の門が開かれて、すべての罪が赦されるというわけなんだ……」
「だが、その君らの世界では、千兆キロメートルの闇のほかに、どんな拷問があるんだね?」イヴァンは異様に活気づきながら遮った。
「どんな拷問だって? ああ、それを訊かないでくれたまえ。以前はまあ、何やかやあったが、今じゃだんだん道徳的なやつ、いわゆる『良心の呵責』といったような、馬鹿げたことがはやりだした。これもやはり君らの世界から、『君らの人心の軟化』から来たことなんだ。だから、とくをしたのは、ただ良心のないものだけだ。なぜって、良心が全然ないんだもの、良心の呵責ぐらい何でもないじゃないか。その代り、まだ良心と名誉の観念をもっている、れっきとしたものは苦しんだね……実際、まだ準備されていない地盤に、よその制度からまる写しにした改革なんか加えるのは、ただ害毒を流すほか何の益もあるもんじゃない! 昔の火あぶりのほうが、かえっていいくらいだ。まあ、そこで千兆キロメートルの暗闇を宣告された例の先生は、突っ立ったまま、しばらくあたりを見まわしていたが、やがて路の真ん中にごろりと横になって、『おれは歩きたくない。主義として行かない!』と言ったものだ。かりにロシヤの教養ある無神論者の魂と、鯨の腹の中で三日三晩すねていた予言者ヨナの魂を混ぜ合せると、――ちょうど、この路ばたへ横になった思想家の性格ができあがる。」
「一たい、何の上へ横になったんだろう?」
「たぶん何かのっかるものがあったんだろう。君は冷やかしてるんじゃないかね?」
「えらいやつだ!」イヴァンは依然として、異様に興奮しながら叫んだ。彼は今ある思いがけない好奇心を感じながら聞いていた。「じゃ、何かい、今でも横になってるのかね?」
「ところが、そうでないんだ。ほとんど千年ばかり横になっていたが、その後、起きあがって歩きだした。」
「何という馬鹿だ!」イヴァンは神経的にからからと笑って、こう叫んだが、何か一心に考えているようなふうであった。「永久に横になっているのも、千兆キロメートル歩くのも同じことじゃないか? だって、それは百万年も歩かなくちゃならないだろう?」
「もっとずっと永くかかるよ。あいにく鉛筆もないけれど、勘定してみればわかるよ。だが、その男はもうとっくに着いたんだ。そこで話が始まるのさ。」
「なに、着いたって? どこから百万年なんて年を取って来たんだ?」
「君はやはりこの地球のことを考えてるんだね! だが、この地球は、百万度も繰り返されたものかもしれないじゃないか。地球の年限が切れると、凍って、ひびが入って、粉微塵に砕けて、こまかい構成要素に分解して、それからまた水が黒暗淵《やみわだ》を蔽い、次にまた彗星が生じ、太陽が生じ、太陽から地球が生ずるのだ、――この順序は、もう無限に繰り返されているかもしれない。そして、すべてが以前と一点一画も違わないんだ。とても不都合な我慢のならん退屈な話さ……」
「よしよし、行き着いてから、どうなったんだね?」
天国の門が開かれて、彼がその中へ踏み込むやいなや、まだ二秒とたたないうちに、――これは時計で言うんだよ、時計で(もっとも、彼の時計は、僕の考えるところでは、旅行中にかくしの中で、もとの要素に分解しているはずだが)、――彼はこの僅か二秒の間に、千兆キロメートルどころか、千兆キロメートルを千兆倍にして、さらにもう千兆倍ぐらいも進めたほど歩けると叫んだ。一口に言えば、彼は『ホザナ』を歌ったんだ。しかも、その薬がききすぎたんだ。それで、そこにいる比較的高尚な思想をもった人たちは、最初のうち、彼と握手をすることさえいさぎよしとしなかったくらいだ。あんまり性急に保守主義に飛び込んでしまった、というわけでね。いかにもロシヤ人らしいじゃないか。繰り返して言うが、これは伝説なんだよ。僕はただ元値で卸すだけのこった。僕らのほうじゃ、今でもまだこうした事柄について、こういう考え方を持っているんだよ。」
「やっとお前の正体を掴まえたぞ!」何やらはっきり思い出すことができたらしく、いかにも子供らしい喜びの声で、イヴァンはこう叫んだ。「この千兆年の逸話は、それは僕が自分で作ったんだ! 僕はその時分、十七で中学に通っていた……僕はその時分、この逸話を作って、コローフキンという一人の友達に話した。これはモスクワであったことだ……この逸話は、非常に僕自身の特徴を出しているもので、どこからも種を取って来ることができないくらいだ。僕はすっかり忘れてしまっていたが……いま無意識に頭へ浮んできた、――まったく僕自身が思い出したので、お前が話したんじゃない! 人間はどうかすると、無数の事件を無意識に思い出すことがある。刑場へ引かれて行く時でさえそうだ……夢で思い出すこともある。お前はつまり、この夢だ! お前は夢だ、実在してなんかいやしない!」
「君がむきになって、僕を否定するところから考えると、」紳士は笑った。「君はまだ確かに僕を信じてるに相違ないな。」
「ちっとも信じちゃいない! 百分の一も信じちゃいない!」
「でも、千分の一くらいは信じてるんだ。薬も少量ですむやつが、一ばん強いものだからね。白状したまえ、君は信じてるだろう、たとえ万分の一でも……」
「一分間も信じやしない。」イヴァンは猛然としてこう叫んだ。「だが、信じたいとは思っている!」と彼はとつぜん異様につけたした。
「へっ! でも、とうとう白状したね! だが、僕は好人物だからね、今度もまた君を助けてあげるよ。ねえ、君、これは僕が君の正体を掴まえた証拠で、君が僕を掴まえたんじゃない! 僕はわざと君の作った逸話を、――君がもう忘れていた逸話を君に話したんだ。君がすっかり僕を信じなくなるようにね。」
「嘘をつけ! お前が現われた目的は、お前の実在を僕に信じさせるためなのだ。」
「確かにそうだ! だが、動揺、不安、信と不信の戦い、――これらは良心のある人間にとって、例えば、君のような人間にとって、どうかすると、首を縊ったほうがましだと思われるほど、苦痛を与えることがあるものだ。僕はね、君がいくらか僕を信じていることを知ったので、この逸話を話して、君に不信をつぎ込んだんだよ。君を信と不信の間に彷徨させる、そこに僕の目的があるんだ。新しい方法《メソード》だよ。君は僕をすっかり信じたくなったかと思うと、すぐまた、僕が夢でなくって実在だということを信じはじめるのだ。ちゃんとわかっているよ。そこで僕は目的を達するんだ。だが、僕の目的は高潔なものだ。僕は君の心にきわめて小さい信仰の種を投げ込む。と、その種から一本の樫の木が芽生えるが、その樫といったら大変なもので、君はその上に坐っていると、『曠野に行いすましている神父や清浄な尼たち』の仲間入りをしたくなるほどの大きさなんだ。なにしろ、君は内心大いに、曠野に隠遁して、蝗を食いたがっているからね!」
「悪党め、じゃ、お前は僕の魂を救おうと思って骨折ってるのか?」
「時にはいいこともしなければならんじゃないか。君は怒っているね。どうやら君は怒っているようだね!」
「道化者! だが、お前はいつかその蝗を食ったり、十七年も、苔の生えるまで、曠野で祈ったりした聖者を、誘惑したことがあるだろう?」
「君、そればかり仕事にしていたんだよ。宇宙万物も忘れて、そんな聖者ひとりに拘泥していたくらいだよ。なぜなら、聖者というものは、非常に高価なダイヤモンドだからね。こういう一人の人間は、時によると、一つの星座ほどの値うちがあるよ、――われわれの世界には特殊な数学があってね、――そんな勝利は高価なものだよ! だが、彼らの中のあるものはね、君は信じないかもしれないが、まったく発達の程度が君にも劣らないくらいだ。彼らは信と不信の深淵を同時に見ることができる。時によると、俳優のゴルブノーフのいわゆる、『真っ逆さま』に飛び込むというような心境と、まったく髪の毛一筋で隔てられるようなことがあるからね。」
「で、お前どうだね、鼻をぶら下げて帰ったかね?([#割り注]失敗してしょげることを言う[#割り注終わり])」
「君」と客はものものしい調子で言った。「そりゃ何といっても、まるで鼻を持たずに帰るより、やはり鼻をぶら下げて引きさがったほうがいいこともあるよ。ある病気にかかっている(これもいずれ、きっと専門家が治療するに相違ない)侯爵が、つい近頃、ゼスイット派の神父に懺悔する時に言ったとおりさ。僕もそこに居合せたが、実に面白かったよ。『どうか私の鼻を返して下さい!』と言って、侯爵が自分の胸を打つ。すると、『わが子よ、何事も神様の測るべからざる摂理によって行われるので、時には大なる不幸も、目にこそ見えないけれど、非常に大きな益をもたらすことがあるものじゃ。たとえ苛酷な運命があなたの鼻を奪ったとしても、もう一生涯、ひとりとしてあなたのことを、鼻をぶら下げて引きさがった、などと言うことはできない、その点にあなたの利があるわけですじゃ』と神父はうまく逃げてしまう、『長老、それは慰めになりません!』と侯爵は絶望して叫ぶ。『私は、自分の鼻があるべきところにありさえすれば、一生涯のあいだ、毎日鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んでいますよ。』『わが子よ、あらゆる幸福を一時に求めることはできません。それはつまり、こんな場合にすら、あなたのことを忘れたまわぬ神様を怨むことにあたりますでな。なぜかと言えば、もしあなたが、今おっしゃったように、鼻さえあれば、一生涯鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んで暮すおつもりならば、あなたの希望は、現在もう間接に満たされておるわけですじゃ。というわけは、あなたは鼻をなくしたために、一生鼻をぶら下げて引きさがるような形になりますでな』と言って、神父はため息をつくじゃないか。」
「ふっ! 何というばかばかしい話だ!」とイヴァンは叫んだ。
「いや、君、これはただ君を笑わせたいばかりに話したことさ。が、これはまったくゼスイットの詭弁だよ。しかも、まったく一句たがわず、いま君に話したとおりなんだ。つい近頃の出来事で、ずいぶん僕に面倒をかけたものだ。この不仕合せな青年は家へ帰ると、その夜のうちに自殺してしまった。僕は最後の瞬間まで、そのそばを離れなかったよ……このゼスイットの懺悔堂は、まったく僕の気のふさいでいる時なんか、何より面白い憂さばらしなんだ。そこでもう一つの事件を君に話そう。これこそ、つい二三日前の話なんだ。二十歳になるブロンドのノルマン女、――器量なら、体つきなら、気だてなら、――実に涎が流れるほどの女だがね、それが年とった神父のところへ行ったんだ。女は体をかがめて、隙間ごしに神父に自分の罪を囁くのだ。『わが子よ、どうしたのだ。一たい、また罪を犯したのか?………』と神父は叫んだ。『ああ、聖母《サンタマリヤ》さま、とんでもない! 今度はあの人ではございません。』『だが、いつまでそんなことがつづくのだろう、そしてお前さんはよくまあ、恥しくないことだのう!』『〔Ah, mon pe're〕([#割り注]ああ神父さま[#割り注終わり])』罪ふかい女は懺悔の涙を流しながら答える。『〔C,a lui fait tant ee plaisir et a` moi si peu de peine!〕([#割り注]あの人は大そう楽しみましたし、わたしも苦しくはなかったのですもの![#割り注終わり])』まあ、一つこういう答えを想像してみたまえ! そこで、僕も唖然として引きさがった。これは天性そのものの叫びだからね。これは、君、清浄無垢よりもまさっているくらいだよ。僕はその場ですぐ彼女の罪を赦し、踵を転じて立ち去ろうとしたが、すぐにまたあと戻りをせずにいられなかった。聞くとね、神父は格子ごしに、女に今晩の密会を約束しているじゃないか、――実際、燧石のように堅い老人なんだが、こうして、見るまに堕落してしまったんだね。天性が、天性の真理が勝利を占めたんだ! どうしたんだ、君はまた鼻を横っちょへ向けて、怒ってるじゃないか? 一たいどうすれば君の気に入るのか、もうまるでわけがわからない……」
「僕にかまわないでくれ。お前は僕の頭の中を、執念ぶかい悪夢のように敲き通すのだ」と、イヴァンは病的に呻いた。彼は自分の幻影に対して、ぜんぜん無力なのであった。「僕は、お前と一緒にいるのが退屈だ。たまらなく苦しい! 僕は、お前を追っ払うことができさえすれば、どんなことでもいとわないんだがなあ!」
「繰り返して言うが、君は自分の要求を加減しなけりゃいけないよ。僕から何か『偉大なるもの、美しきもの』を要求しては困る。なに、見たまえ、僕と君とは、お互いに親密に暮してゆけるからね」と紳士はさとすように言った。「まったく、君は僕が焔の翼をつけ、『雷のごとくはためき、太陽のごとく真紅に光り輝きながら』君の前に現われないで、こんなつつましやかな様子で出て来たのに、腹を立てているんだろう。第一に、君の審美感が侮辱され、第二に、君の誇りが傷つけられたんだ。自分のようなこんな偉大な人間のところへ、どうしてこんな卑しい悪魔がやって来たんだろう、というわけでね。実際、君の中には、すでにベリンスキイに嘲笑された、あのロマンチックな気分が流れているんだ。現に僕は、さっき君のところへ来る時に、冗談半分、コーカサスで勤めている四等官のふうをして、燕尾服をつけ、獅子と太陽の勲章([#割り注]ペルシャの勲章[#割り注終わり])をつけて現われようかとも思ったが、せめて北極星章か、あるいはシリウス章くらいならまだしも、獅子と太陽なんか燕尾服につけて来たというので、君が殴りはしないかと危ぶんだのだ。君はしきりに僕を馬鹿だと言うね。だが、僕は知力の点においては、君と同一視されたいなどと、そんなとんでもない大それた野心は持っていないよ。メフィストフェレスファウストの前に現われて、自分は悪を望んでいながら、その実いいことばかりしていると、自己証明をしたね。ところが、あいつは何と言おうと勝手だが、僕はまったく反対だよ。僕はこの世界において真理を愛し、心から善を望んでいる唯一人かもしれない。僕は、十字架の上で死んだ神の言《ことば》なる人が、右側に磔けられた盗賊の霊を自分の胸に抱いて天へ昇った時、『ホザナ』を歌う小天使の嬉しそうな叫び声と、天地を震わせる雷霆のごとき大天使の歓喜の叫喚を聞いた。そのとき僕は、ありとあらゆる神聖なものにかけて誓うがね、実際、自分もこの讃美者の仲間に入って、みなと一緒に『ホザナ』を歌いたかったよ! すんでのことに、讃美の歌が僕の胸から飛び出そうとした……僕は、君も知ってのとおり、非常に多感で、芸術的に敏感だからね。ところが、常識が、――ああ、僕の性格の中で最も不幸な特質たる常識が、――僕を義務の限界の中に閉じ籠めてしまった。こうして僕は、機会を逸したわけだ! なぜなら、僕はその時、『おれがホザナを歌ったら、どんなことになるだろう? すべてのものはたちまち消滅してしまって、何一つ出来事が起らなくなるだろう』とこう考えたからだ。で、僕はただただおのれの本分と、社会的境遇のために、自分の心に生じたこの好機を圧伏して、不潔な仕事をつづけるべく余儀なくされたのだ。誰かが善の名誉を残らず独占して、僕の分けまえにはただ不潔な仕事だけ残されてるのさ。けれど、僕は詐欺的生活の名誉を嫉むものじゃない。僕は虚栄を好かないからね。宇宙におけるあらゆる存在物の中で、なぜ、僕ばかりが身分のあるすべての紳士から呪われたり、靴で蹴られたりするような運命を背負ってるんだろう? だって、人間の体にはいった以上、時にはこういう結果にも出くわさなければならないからね。僕はむろん、そこにある秘密の存することを知っている。けれど、人はどうしてもその秘密を僕に明かそうとしない。なぜかと言えば、僕が秘密の真相を悟って、いきなり『ホザナ』を歌いだしてみたまえ、それこそたちまち大切なマイナスが消えてしまって、全宇宙に叡知が生ずる、それと同時に、一切は終りを告げて、新聞や雑誌さえ廃刊になるだろう。だって、そうなりゃ、誰が新聞や雑誌を購読するものかね、だが、僕は結局あきらめて、自分の千兆キロメートルを歩いて、その秘密を知るよりほか仕方がないだろうよ。しかし、それまでは僕も白眼で世を睨むつもりだ、歯を食いしばって、自分の使命をはたすつもりだ、一人を救うために数千人を亡ぼすつもりだ。むかし一人の義人ヨブを得るために、どれだけの人を殺し、どれだけ立派な人の評判を台なしにしなけりゃならなかったろう! おかげで、僕はずいぶんさんざんな目にあったよ。そうだ、秘密が明かされないうちは、僕にとって二つの真実があるんだ。一つはまだ少しもわかっていないが、あの世の人々の真実で、それからもう一つは僕自身の真実だ。しかし、どっちがよけい純なものか、そいつはまだわからない……君は眠ったのかね?」
「あたりまえよ」とイヴァンは腹だたしそうに唸った。「僕の天性の中にある一切の馬鹿げたものや、もうとっくに生命を失ったものや、僕の知恵で咀嚼しつくされたものや、腐れ肉のように投げ捨てられたものを、お前はまるで何か珍しいもののように、今さららしくすすめてるんだ!」
「またしくじったね! 僕は文学的な文句で君を惑わそうと思ったんだがね。この天上の『ホザナ』は、実際のところ、まんざらでもなかったろう? それから、今のハイネ風な諷刺的な調子もね、そうじゃないか?」
「いいや、僕は一度も、そんな卑劣な下司になったことはない! どうして僕の魂が貴様のようなそんな下司を生むものか!」
「君、僕はある一人の実に可愛い、実に立派なロシヤの貴族の息子を知っているがね、若い思想家で、文学美術の人の愛好家で、『大審問官』と題する立派な詩の作者だ……僕はただこの男一人のことを頭においてたんだ!」
「『大審問官』のことなんか口にすることはならん。」イヴァンは恥しさに顔を真っ赤にして叫んだ。
「じゃ、『地質学上の変動』にしようかな? 君おぼえているかね? これなんか、もう実に愛すべき詩だよ!」
「黙れ、黙らないと殺すぞ!」
「僕を殺すと言うのかね? まあ、そう言わないで、すっかり言わせてくれたまえ。僕が来たのも、つまりこの満足を味わうためなんだからね。ああ、僕は、生活に対する渇望にふるえているこうした若い、熱烈な友人の空想が大好きなんだ! 君はこの春ここへ来ようと思いついた時、こう断定したじゃないか。『世には新人がある、彼らはすべてを破壊して食人肉主義《カンニパリズム》から出直そうと思っている。馬鹿なやつらだ! おれに訊きもしないで! おれの考えでは、何も破壊する必要はない、ただ人類の中にある神の観念さえ破壊すればいいのだ。まずこれから仕事にかからなけりゃならない! まずこれから、これから始めなけりゃならないのだ、――ああ、何にもわからないめくらめ! 一たん人類がひとり残らず神を否定してしまえば(この時代が、地質学上の時代と並行してやってくることを、おれは信じている)、その時は、以前の世界観、ことに以前の道徳が、食人肉主義をまたなくとも自然に滅びて、新しいものが起ってくる。人間は、生活の提供し得るすべてのものを取るために集まるだろう。しかし、それはただ現在この世における幸福と歓びのためなんだ。人間は神聖な巨人的倨傲の精神によって偉大化され、そこに人神が出現する、人間は意志と科学とによって、際限もなく刻一刻と自然を征服しながら、それによって、以前のような天の快楽に代り得るほどの、高遠なる快楽を不断に感じるようになる。すべての人間は自分が完全に死すべきもので、復活しないことを知っているが、しかも神のように傲然として悠々死につく。彼はその自尊心のために、人生が瞬間にすぎないことを怨むべきでないと悟って、何の酬いをも期せずに自分の同胞を愛する。愛は生の瞬間に満足を与えるのみだが、愛が瞬間的であるという意識は、かえって愛の焔をますますさかんならしめる。それはちょうど、前に死後の永遠なる愛を望んだ時に、愛の火が漫然とひろがったのと同じ程度である云々……』とこんなことだったよ。実にうまいことを言ったものだね!」
 イヴァンは両手で自分の耳をおさえ、じっと下を見ながら腰かけていたが、急に体じゅうがびりびり慄えだした。紳士の声はつづいた。
「で、この場合、問題は次の点にある、――とわが若き思想家は考えた、――ほかでもない、はたしてそんな時代がいつか来るものかどうか? もし来るとすれば、それですべては解決され、人類も永久にその基礎を得るわけだ。しかし、人類の無知が深く根をおろしているから、ことによったら、千年かかってもうまくゆかないかもしれない。だから、今この真理を認めたものは、誰でもその新しい主義の上へ、勝手に自分の基礎を建てることができる。この意味において、人間は『何をしてもかまわない』わけだ。それに、もしこの時代がいつまでも来なくたって、どうせ神も霊魂の不死もないんだから、新しい人はこの世にたった一人きりであろうとも、人神となることができる。そして、人神という新しい位についた以上、必要な場合には、以前の奴隷人の道徳的限界を平気で飛び越えてもさしつかえないはずだ。神のためには法律はない! 神の立つところは、すなわち神の場所だ! おれの立つところは、ただちに第一の場所となる……『何をしてもかまわない、それっきりだ!』これははなはだ結構なことだよ。だが、もし詐欺をしようと思うくらいなら、なぜそのために、真理の裁可を要するのだろう? しかし、これがわがロシヤの現代人なんだ。ロシヤの現代人は、真理の裁可なしに詐欺一つする勇気もない。それほど彼らは真理を愛しているんだ……」
 客は自分の雄弁で調子に乗ったらしく、ますます声を高め、あざむがごとく主人を眺めながら、滔々と弁じたてた。しかし、彼がまだ論じ終らないうちに、イヴァンはいきなりテーブルの上からコップを取って、弁士に投げつけた。
「〔Ah, mais c'est be'te enfin!〕([#割り注]ああ、だがそれは要するに馬鹿げてる![#割り注終わり])」客に長椅子から飛びあがって、茶のとばっちりを指で払いおとしながら、こう叫んだ。「ルーテルのインキ壺を思い出したんだね! 自分で僕を夢だと思いながら、その夢にコップを投げつける! まるで女のような仕打ちだ! 君が耳をふさいでいるのは、ただ聞かないようなふりをしているばかりだろうと思ったが、はたしてそうだった……」
 途端に、外からどんどんと激しく、執拗に窓をたたく音がした。イヴァンは長椅子から跳りあがった。
「ほら、窓をたたいてるよ。開けてやりたまえ」と客は叫んだ。「あれは君の弟のアリョーシャが、きわめて意外な面白い報告を持って来たんだ。僕が受け合っておく!」
「黙れ、詐欺師、アリョーシャが来たってことは、僕のほうがお前よりさきに知っている。前からそんな気がしていたのだ。弟が来たとすりゃ、むろん空手じゃない、むろん『報告』を持って来たにきまってる!」とイヴァンは夢中になって叫んだ。
「開けてやりたまえ、開けてやりたまえ。外は吹雪だ。君の弟が来てるんじゃないか。〔Mr, sait-il le temps qu'il fait? C'est a` ne pas mettre un chien dehors〕 ……([#割り注]君、こんなお天気じゃないか。犬だって外に出しちゃおけないのに……[#割り注終わり])
 窓をたたく音はつづいた。イヴァンは窓のそばへ駈け寄ろうとしたが、急に何かで手足を縛られたように思われた。彼は力一ぱいその桎梏を断ち切ろうと懸命になったが、どうすることもできなかった。窓をたたく音はますます強く、ますます激しくなった。ついに桎梏は断ち切れた。イヴァンは長椅子の上に飛びあがった。彼はけうとい目つきであたりを見まわした。二本の蝋燭はほとんど燃え尽きそうになっているし、たったいま客に投げつけたはずのコップは、前のテーブルの上にちゃんとのっていて、向うの長椅子の上には誰もいなかった。窓をたたく音は依然やまなかったが、いま夢の中で聞えたほど激しくはなく、むしろきわめて控え目であった。
「今のは夢じゃない! そうだ、誓って今のは夢じゃない。あれはいま実際あったのだ!」とイヴァンは叫んで、窓ぎわに駈け寄り、通風口を開けた。
「アリョーシャ、僕は決して来ちゃならんと言ったじゃないか!」と彼は狂暴な調子で弟を呶鳴りつけた。「さ、何用だ、一口で言え、一口で、いいか?」
「一時間まえにスメルジャコフが首を縊ったんです」とアリョーシャは外から答えた。
「玄関のほうへ廻ってくれ、今すぐ開けるから。」イヴァンはこう言って、アリョーシャのために戸を開けに行った。

[#3字下げ]第十 『それはあいつが言ったんだ!』[#「第十 『それはあいつが言ったんだ!』」は中見出し]

 アリョーシャは入って来るといきなり、一時間ほど前に、マリヤが自分の住まいへ駈け込んで、スメルジャコフの自殺を告げたと、イヴァンに話した。『わたしがね、サモワールをかたづけにあの人の部屋へ入ると、あの人は壁の釘にぶら下ってるじゃありませんか』とマリヤは言った。『警察へ知らせましたか?』というアリョーシャの問いに対して、彼女は、まだ誰にも知らせない、『いきなりまっさきに、あなたのとこへ駈けつけたんですわ、途中駈け通しでね』と答えた。彼女はまるで気ちがいのようになり、木の葉のようにふるえていたということである。アリョーシャが、マリヤと一緒に彼らの小屋へ駈けつけてみると、スメルジャコフはまだやっぱり、ぶら下ったままであった。テーブルの上には遺書がのっていた。それには、『余は何人にも罪を帰せぬため、自分自身の意志によって、甘んじて自己の生命を断つ』と書いてあった。アリョーシャはこの遺書をテーブルの上にのせておいたまま、すぐさま警察署長のもとへ行って、一切の始末を報告した。『そして、そこからすぐ兄さんのとこへ来たんです。』イヴァンの顔をじっと眺めながら、アリョーシャは言葉を結んだ。彼はイヴァンの顔色にひどく驚かされたように、話の間じゅう一度もイヴァンから目を離さなかった。
「兄さん、」とつぜん彼は叫んだ。「あなたは大へん加減が悪いんでしょう! あなたは私を見てるだけで、私の言うことがわからないようですね。」
「よく来てくれた。」アリョーシャの叫び声が少しも耳に入らないらしく、イヴァンはもの思わしげにこう言った。「だが、僕はあいつが首を縊ったのを知っていたよ。」
「誰から聞いたんです?」
「誰からかしらないが、しかし知っていた。待てよ、僕は知っていたんだろうか? そうだ、あいつが僕に言ったんだ。あいつがつい今しがた僕に言ったんだ……」
 イヴァンは部屋の真ん中に突っ立って、依然もの思わしげにうつ向きながら、こう言った。
「あいつって誰です?」アリョーシャはわれ知らず、あたりを見まわしながら訊ねた。
「あいつはすべり抜けてしまった。」
 イヴァンは頭を持ちあげて、静かに微笑を浮べた。
「あいつはお前を、――鳩のように無垢なお前を恐れたんだ。お前は『清い小天使』だ。ドミートリイはお前を小天使と呼んでいる。小天使……大天使の歓喜の叫び! 一たい大天使とはなんだ? 一つの星座かな。だが、星座ってものは、何かの化学的分子にすぎないんだろう……獅子と太陽の星座ってものがある。お前は知らないかね?」
「兄さん、腰をかけて下さい!」とアリョーシャはびっくりして言った。「どうか後生だから、長椅子に腰をかけて下さい。あなたは譫言を言ってるんです。さ、枕をして横におなんなさい。タオルを濡らして頭にのせてあげましょうか? いくらかよくなるかもしれませんよ。」
「タオルを取ってくれ。そこの長椅子の上にある。さっきそこへ抛っておいたんだ。」
「ありませんよ。まあ、落ちついてらっしゃい。タオルのあるところは知っていますから、そら、そこだ。」部屋の片隅にある化粧台のそばから、まだ畳んだままで一度も使わない、きれいなタオルを捜し出して、アリョーシャはこう言った。
 イヴァンは不思議そうな顔つきをしてタオルを見た。記憶はたちまち彼の心によみがえったように見えた。
「ちょっと待ってくれ。」彼は長椅子の上に起きあがった。「僕はさっき一時間まえに、このタオルをあすこから持って来て、水で濡らして頭にのせて、またあすこへ抛っておいたんだがな……どうして乾いているんだろう? ほかにはもうなかったのに。」
「兄さんこのタオルを頭にのせたんですって?」とアリョーシャは訊いた。
「そうだ。そして、部屋の中を歩いたんだ、一時間まえにさ……それに、どうしてこんなに蝋燭が燃えたんだろう? 何時だね?」
「まもなく十二時になります。」
「いや、いや、いや!」とイヴァンは急に叫びだした。「あれは夢じゃない! あいつは来ていたんだ。そこに腰かけてたんだ、その長椅子の上に。お前が窓をたたいた時、僕はあいつにコップを投げつけたんだ……このコップを……いや、待てよ、僕はその前にも眠っていたのかな。だが、この夢は夢じゃない。前にもこんなことがあった。アリョーシャ、僕は近頃よく夢を見るよ……だが、それは夢じゃない、うつつだ。僕は歩いたり、喋ったり、見たりしている……が、それでいて眠ってるんだ。だが、あいつはそこに腰かけてたんだ、ここにいたんだ、この長椅子の上にさ……あいつは恐ろしい馬鹿だよ。アリョーシャ、あいつは恐ろしい馬鹿だよ。」イヴァンは突然からからと笑って、部屋の中を歩きはじめた。
「誰が馬鹿ですって? 兄さん、あなたは誰のことを言ってるんです?」とアリョーシャはまた心配らしく訊いた。
「悪魔だよ! あいつはよく僕のところへ来るようになってね、もう二度も来た、いや、三度も来た、いや、三度だったかな。あいつはこんなことを言って、僕をからかうんだ。『あなたは、私がただの悪魔で、焔の翼を持って雷のように轟き、太陽のように輝く大魔王でないので、腹を立てていらっしゃるのでしょう』なんてね。だが、あいつは大魔王じゃないよ。あいつは嘘つきだ。あいつは自称大魔王だ。あいつはただの悪魔だ。やくざな小悪魔だ。あいつは湯屋にも行くんだからな。あいつの着物をひんむいたら、きっと長い尻尾が出るに相違ない、ちょうどデンマーク犬みたいに、一アルシンくらいも長さのある、滑っこい茶色の尻尾が……アリョーシャ、お前は寒いだろう、雪の中を歩いて来たんだからね。お茶を飲みたくないかね? なに? 冷たいって? なんなら、サモワールを出させようか? 〔C'est a` ne pas mettre un chien dehors〕 ……([#割り注]犬だって外に出しちゃおけないのに……[#割り注終わり])」
 アリョーシャは急いで洗面台のそばへ駈け寄って、タオルを濡らし、無理にイヴァンを坐らせ、その頭にのせた。こうして、自分もそのそばに腰かけた。
「お前はさっき、リーザのことを何とか僕に言ったね?」イヴァンはまた始めた(彼は非常に饒舌になった)。「僕はリーザが好きだ。僕はあれのことで、何かお前に失敬なことを言ったが、あれは嘘だよ。僕はあれが好きなんだ……僕は明日のカーチャが心配だ。何よりも一ばん心配だ。将来のことが心配だ。あの女はあす僕を投げ飛ばして、足で踏みにじるだろう。あの女はね、僕が嫉妬のためにミーチャをおとしいれると、そう思ってる。そうだ、確かにそう思っているんだ! ところが、そうじゃない! 明日は十字架だ、絞首台じゃない。なに、僕が首なんか縊るものか。アリョーシャ、僕がどうしても自白できないってことを、お前は知ってるかい! 一たいそれは卑屈のためだろうか? 僕は臆病者じゃない、つまり、貪婪な生活愛からだ! スメルジャコフが首を縊ったことを、どうして僕は知ったんだろう? そうだ、あれはあいつ[#「あいつ」に傍点]が言ったんだ……」
「では、誰かそこにいたものと、信じきってるんですね?」とアリョーシャは訊いた。
「その隅の長椅子に腰かけていたよ。お前あいつを追っ払ってくれればいいんだがなあ。そうだ、実際お前が追っ払ったんだ。あいつはお前が来ると、すぐに消えてしまった。アリョーシャ、おれはお前の顔が好きなんだ。ねえ、僕はお前の顔が好きなんだよ。だが、あいつはね、僕なんだよ、アリョーシャ。僕自身なのさ。みんな僕の下等な、下劣な、軽蔑すべきものの現われなんだ! そうだ! 僕は『浪漫派』だ。あいつもそれに気がついたんだよ……もっとも、これは根もない讒誣だがね。あいつは呆れた馬鹿だよ。だが、それがつまり、あいつの強みなのさ。あいつは狡猾だ、動物的に狡猾だ。あいつは僕の癇癪玉を破裂させるすべを知っていた。あいつときたら、僕があいつを信じてるなどとからかって、それで僕に傾聴させた。あいつは僕を小僧っ子同然に翻弄した。しかし、あいつが僕について言った言葉の中には、本当のことがたくさんあった。僕は自分自身に向って、とてもあんなことは言えない。ねえ、アリョーシャ、アリョーシャ。」
 イヴァンはひどく真面目になって、いかにも、腹蔵なく打ち明ける、と言ったような語調でつけ加えた。
「僕はね、あいつ[#「あいつ」に傍点]が実際あいつで、僕自身でなかったら、本当に有難いんだがなあ!」
「あいつはずいぶん兄さんを苦しめたんですね。」アリョーシャは同情にたえぬもののように、兄を見やりながらこう言った。
「僕をからかったんだよ! しかも、それがね、なかなかうまいんだ。『良心! 良心って何だ? そんなものは、僕が自分でつくりだしてるんじゃないか。なぜ僕は苦しむんだろう? 要するに、習慣のためだ、七千年以来の全人類的習慣のためだ。そんなものを棄ててしまって、われわれは神になろうじゃないか』――それはあいつが言ったんだ。それはあいつが言ったんだ!」
「じゃ、あなたじゃないんですね、あなたじゃないんですね?」澄み渡った目で兄を見つめながら、アリョーシャはこらえきれなくなって、思わずこう叫んだ。「なあに、勝手なことを言わせておいたらいいでしょう。あんなやつはうっちゃっておしまいなさい、忘れておしまいなさい! あなたがいま呪っているものを、残らずあいつに持って行かせておやんなさい、もう決して二度と帰って来ないように!」
「そうだ。だが、あいつは意地が悪いよ。あいつは僕を冷笑したんだ。アリョーシャ、あいつは失敬なやつだよ」とイヴァンは口惜しさに声を慄わせながら言った。「僕に言いがかりをした、いろいろと言いがかりをしたんだ。面と向って僕を誹謗したんだ。『ああ、君は善の苦行をしようと思っているんだろう。親父を殺したのは私です、下男が私の差金で殺したのです、とこう言いに行くんだろう……』なんてね……」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。「お控えなさい。あなたが殺したんじゃありません。それは嘘です!」
「あいつはこう言うんだ、あいつがさ。あいつはよく知っているからね。『君は善の苦行をしようと思ってるんだろう。ところが、君は善行を信じていない、――だから君は怒ったり、苦しんだりしているんだ、だから君はそんなに復讐的な気持になるんだ』とこう、あいつは僕に面と向って言うんだ。あいつは自分で自分の言うことを、よく承知しているよ……」
「それは、兄さんの言ってることで、あいつじゃありませんよ!」とアリョーシャは悲しそうにそう叫んだ。「あなたは病気のせいで譫言を言って、自分で自分を苦しめてるんですよ!」
「いいや、あいつは自分で自分の言うことをよく知っているんだ。あいつが言うのには、君が自白に行くのは自尊心のためだ、君は立ちあがって、『殺したのは私です。どうしてあなた方は、恐ろしそうに縮みあがるんです? あなた方は嘘を言っています! 私はあなた方の意見を軽蔑します! あなた方の恐怖を軽蔑します!』と言うつもりだろう、なんて、――あいつは僕のことをこんなふうに言うんだよ。それから、まただしぬけに、『だがね、君、君はみなから褒めてもらいたいのさ。あれは犯人だ、下手人だ、けれど何というえらい人だろう。兄を救おうと思って、自白したんだというわけでね。』こんなことも言ったよ。だが、アリョーシャ、これこそもうむろん嘘だよ!」とイヴァンは急に目をぎらぎらと光らせながら叫んだ。「僕はくだらないやつらに褒められたくない! それはあいつが嘘をついたんだ、アリョーシャ、それは誓って嘘だよ。だから、僕あいつにコップを投げつけてやったところ、コップがあいつのしゃっ面で粉微塵に砕けたよ。」
「兄さん、落ちついて下さい、もうよして下さい!」とアリョーシャは祈るように言った。
「いや、あいつは人を苦しめることがうまいよ。あいつは残酷だからな。」イヴァンはアリョーシャの言葉には耳をかさずに言いつづけた。「おれはいつでも、あいつが何用で来るか直覚していたよ。『君が自尊心のために自白に行くのはいいとしても、やはりその実こころの中で、スメルジャコフ一人だけが罪に落されて、懲役にやられ、ミーチャは無罪になる。そして、自分はただ精神的に裁判されるだけで(いいかい、アリョーシャ、あいつはこう言いながら笑ったんだよ)、世間の人から褒められるかもしれないと、こういう望みをいだいていたんだろう、だがもうスメルジャコフは死んだ、首を縊ってしまった、そうしてみると、あす法廷で君ひとりの言うことなんか、誰が本当にするものか! しかし、君は行こうとしている、ね、行こうとしているだろう、君はやはり行くに相違ない、行こうと決心している、もうこうなってしまったのに、一たい君は何しに行くんだね?』と、こうあいつは言うじゃないか。恐ろしいことを言うやつだ。アリョーシャ、僕はこんな問いを辛抱して聞いていられない。こんなことを僕に訊くなんて、何という失敬千万なやつだ!」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。彼は恐ろしさに胸を痺らせながらも、やはりまだ、イヴァンを正気に返すことができると思っているらしかった。「誰もまだ、スメルジャコフの死んだことを知らないのに、また誰ひとり知る暇もないのに、よくあいつは私の来る前に、そんなことを言ったものですね!」
「あいつは言ったよ」とイヴァンはきっぱり言い切った。そこには一点の疑いを挿むことすら許さなかった。「実際なんだよ、あいつは、そればかり言ってたくらいだよ。『もし君が善行を信じていて、誰も自分を信じなくなってもかまわない、主義のために行くのだ、というならしごく結構だが、しかし君はフョードル同様の豚の仔じゃないか。善行なんか君にとって何だ? もし君の犠牲が何の役にも立たないとすれば、一たい何のために法廷へ出かけるんだ? ほかでもない、何のために行くのか、君自身でも知らないからさ! それに、君は一たい決心したのかね? まだ決心していないじゃないか? 君は夜どおし腰かけたまま、行こうか行くまいかと思案するだろうよ。だが、結局、行くだろう、君は自分の行くことを知っている。君はどちらへ決めるにしろ、その決定が自分から出たのでないってことを知ってるのだ。君は行くだろう。行かずにいる勇気がないからね。なぜ勇気がないか、――それは君自身で察しなきゃならんね。これは君にとって謎としておこう!』こう言ったかと思うと、あいつはぷいと立ちあがって、出て行った。あいつお前が来たので、出て行ったんだ。アリョーシャ、あいつは僕を臆病者と言ったよ! Le mot de l'enigme ([#割り注]あの謎[#割り注終わり])は、つまり僕が臆病者だっていうことさ!『そんな鷲に大空は飛べないよ!』あいつはこう言いたしたよ、あいつが! スメルジャコフもやはりそう言ったっけ。あいつは殺してやらなけりゃならん! カーチャは僕を軽蔑している、それは一カ月も前からわかってる。それにリーザまで軽蔑しだした!『ほめられたさに行く』なんて、それは残酷な言いがかりだ! アリョーシャ、お前も僕を軽蔑してるだろう。僕はいま、またお前を憎みそうになってきた! 僕はあの極道者も憎んでいる、あの極道者も憎いのだ! あんな極道者なんか助けてやりたくない、勝手に監獄の中で腐ってしまうがいい! あいつめ、頌歌《ヒムン》を歌いだしやがった! ああ、僕はあす行って、やつらの前に立って、みんなの顔に唾を吐きかけてやる!」
 彼は激昂のあまり前後を忘れたように跳りあがり、頭のタオルを投げ棄てて、また部屋の中を歩きはじめた。アリョーシャはさっきの、『僕はうつつで眠っている……歩いたり、喋ったり、見たりしているが、そのくせやっぱり眠っているんだ』というイヴァンの言葉を思い出した。今の様子がまさしくそれであった。アリョーシャはイヴァンのそばを離れなかった。一走り走って行って、医者を連れて来ようかという考えが、ちらと彼の頭にひらめいたが、兄を一人残して行くのは不安心であった。さればとて、兄のそばについていてもらえる人もなかった。やがて、イヴァンは次第に正気を失って行った。彼は依然として喋りつづけていた、――ひっきりなく喋りつづけていたが、その言うことはしどろもどろで、舌さえ思うように廻らなかった。突然、彼はよろよろと激しくよろめいた。アリョーシャはすばやく彼をささえ、べつに手向いもしないのをさいわい寝床へ連れて行き、どうにかこうにか服を脱がし、蒲団の中へ寝かした。アリョーシャはその後二時間も、イヴァンのそばに腰かけていた。病人は静かにじっとして、穏やかに呼吸しながら熟睡した。アリョーシャは枕を持って来、着物を脱がないで、長椅子の上に横になった。彼は眠りに落ちる前、ミーチャのため、イヴァンのため、神に祈った。彼にはイヴァンの病気がわかってきた。『傲慢な決心の苦しみだ、深い良心の呵責だ!」兄が信じなかった神とその真実が、依然として服従をこばむ心に打ち勝ったのだ。『そうだ、』もう枕の上におかれているアリョーシャの頭に、こういう想念がひらめいた。『そうだ、スメルジャコフが死んでしまったとすれば、もう誰もイヴァンの申し立てを信じやしまいけれど、イヴァンは行って申し立てをするだろう!』アリョーシャは静かにほお笑んだ。『神様が勝利を得なさるに相違ない!』と彼は思った。『イヴァンは真理の光の中に立ちあがるか、それとも……自分の信じないものに奉仕したがために、自分を初めすべての人に復讐しながら、憎悪の中に滅びるかだ』とアリョーシャは悲痛な心持でこうつけ加えて、またもやイヴァンのために祈りをあげた。
[#改段]

[#1字下げ]第十二篇 誤れる裁判[#「第十二篇 誤れる裁判」は大見出し]



[#3字下げ]第一 運命の日[#「第一 運命の日」は中見出し]

 筆者《わたし》の書いた事件の翌日午前十時、当町の地方裁判所が開廷され、ドミートリイ・カラマーゾフの公判が始まった。
 前もってしっかり念をおしておく。法廷で起った出来事を、残らず諸君に物語ることは、とうてい不可能である。十分くわしく物語ることはおろか、適当の順序をおうて伝えることさえできない。もし何もかも洩れなく思い起して、それ相当の説明を加えたら、一冊の書物、――しかも非常に大部な書物ができあがりそうなほどであるから。だから、筆者が自分で興味をもった点と、特別に思い出したところだけ諸君に物語るからといって、筆者を怨んでもらっては困る。筆者は、第二義的なことを肝腎な事件と思い込んだり、また非常に目立って大切な点を、すっかり抜かしたりしないものでもない……しかし、もうこんな言いわけはしないほうがよさそうである。筆者はできるだけのことをしよう。また読者諸君も、筆者ができるだけのことしかしなかったのを、諒とされることと思う。
 で、法廷へ入るにさきだって、まず第一に、当日とくに筆者《わたし》を驚かしたことを語ろう。もっとも、驚いたのは筆者一人ではない。後で聞いてみると、誰も彼もみんなびっくりしたそうである。ほかでもない、この事件が多くの人の興味を惹き起したことも、みんなが裁判の開始を熱心に待ち焦れていたことも、この事件が当地で最近二カ月いろいろと噂されたり、予想されたり、絶叫されたり、空想されたりしたことも、一同に知れ渡っていた。また、この事件が、ロシヤじゅうの評判になったことも、みんなに知れ渡っていたが、しかしこれがただに当地のみならず到るところで、老若男女の別なく、人々をあれほどまでに熱狂させ、興奮させ、戦慄させようとは、当日になるまで思いがけなかった。この日は当地をさして、県庁所在の町からばかりでなく、ロシヤの他の町々からも、またモスクワやペテルブルグからさえも、ぞくぞくと傍聴人が押し寄せて来た。法律家も来れば、貴婦人も来るし、幾たりか知名の士さえもやって来た。傍聴券は一枚のこらず出てしまった。男子連の中で特別地位のある知名の人々は、法官席のすぐうしろに特別の席を設備された。そこには安楽椅子がずらりと並んで、さまざまな名士に占領された。そんなことは当地でこれまでかつてなかったところである。ことに多かったのは婦人、――当地はじめ他県の婦人で、傍聴者ぜんたいの半数を越していたように思う。各地から来た法律家だけでも非常な多数にのぼり、もはやどこへも入れる場所がなくなったくらいである。なにしろ、傍聴券は人人の請求哀願によって、もうとっくに残らず出きってしまったからである。筆者は法廷の高壇のうしろの片隅に、急場の間に合せに特別な仕切りができて、そこへ他県から来た法律家連が押し込まれたのを見たが、椅子という椅子は場所を広くするために、残らずその仕切り内から片づけられたので、彼らはじっと立っていなければならなかったが、それでもみんな幸福に感じていた。で、そこにぎっしり押し込まれた聴衆は、肩と肩とを擦りあわせながら、『事件』が終るまで立ち通していた。
 婦人たち、とくによそから来た婦人たちの中には、ひどくめかしこんで、法廷の廻廊に陣取っているものもあったが、大半はめかすことさえ忘れていた。彼らの顔には、ヒステリイじみた、貪るような、ほとんど病的な好奇心が読まれた。この法廷に集った群衆の特質について、ぜひ一言しておかなければならぬことは、ほとんど全部の婦人、少くとも大多数の婦人がミーチャの味方で、彼の無罪を主張していたことである(これはその後、多くの人の観察によって実証された)。そのおもな理由は、ミーチャが女性の心の征服者であるように思われていたためであろう。実際、二人の女の競争者が出廷することは、よく知られていた。そのなかの一人、すなわちカチェリーナは、ことに一同の興味を惹いた。彼女については、ずいぶん突拍子もない噂がいろいろと言いふらされていた。ミーチャが罪を犯したにもかかわらず、彼女が男に対して情熱を捧げているということに関して、驚くべき逸話が伝えられていた。ことに彼女の傲慢なことや(彼女は当地に住みながら、ほとんど誰をも訪問したことがなかった)、『貴族社会に縁辺』をもっていることなどが語り伝えられた。世間では彼女が政府に願って、徒刑の場所までミーチャについて行き、どこか地下の坑内で結婚の許可を得ようと思っている、などと噂していた。カチェリーナの競争者たるグルーシェンカが法廷に現われるのも、人々はそれに劣らぬ興奮を感じながら待ちかまえた。二人の恋がたき、――誇りの高い貴族の令嬢と、『遊びめ』とが法廷で出遇うのを、みんな悩ましいばかりの好奇心をいだいて待っていた。もっとも、グルーシェンカはカチェリーナよりも、当地の婦人たちの間によけい知られていた。彼らは、『フョードルとその不運な息子を破滅させた』グルーシェンカを、前から見知っていたので、みんなほとんど異口同音に、『よくもこんな思いきって平凡な、少しも美しくないロシヤ式の平民の女に』、親子そろって、あれほどうつつを抜かすことができたものだ、と驚いていた。要するに、噂はまちまちであった。ことに当地ではミーチャのために、容易ならぬ争いを起した家庭もあることを、筆者《わたし》はよく知っている。多くの婦人たちは、この恐ろしい事件に対する見解の相違から、自分の夫と激しく言い争った。だから、自然の数として、これらの婦人たちの夫は、いずれも被告に対して同情をもたないのみか、かえって憎悪の念すらいだいて、法廷へ出たのである。要するに、男子側が婦人側と反対に、みな被告に反感をいだいていたのは確実で、いかつい渋面や、毒をふくんだ顔さえ多数に見受けられた。もっとも、ミーチャが当地にいる間、彼らの多くを個人的に侮辱したことも事実である。むろん、傍聴者の中には、ほとんど愉快そうな顔つきをして、ミーチャの運命に一こう無頓着なものもあったが、これとても、眼前の事件に冷淡なのではなかった。誰も彼もこの事件の結末に興味をもっていて、男子の大部分は断々乎として、ミーチャが天罰を受けることを望んでいた。しかし、法律家だけは別で、彼らの興味は事件の道徳的方面よりも、いわゆる現代的、法律方面に向けられていた。
 ことに世間を騒がしたのは、有名なフェチュコーヴィッチの乗り込みであった。彼の才能は到るところに知られていた。彼が地方に現われて、刑事上の大事件を弁護したのは、これが初めてではなかった。彼が弁護をした事件は、いつもロシヤ全土に喧伝され、永く記憶されるのであった。当地の検事や裁判長についても、さまざまな逸話が伝えられていた。検事のイッポリート・キリーロヴィッチが、フェチュコーヴィッチに会うのを恐れてびくびくしているとか、彼ら二人は法律家生活の第一歩からの旧い敵同士であるとか、自信の強いイッポリートは、自分の才能を本当に認められないために、またペテルブルグ時代から、いつも誰かに侮辱されてでもいるように感じていたので、あのカラマーゾフ家の事件にやっきとなり、これによって頽勢を挽回しようと空想していたが、ただフェチュコーヴィッチだけを恐れているのだとか、そういうような噂がしきりに行われた。けれども、この推断はいささか正鵠を失していた。わが検事は、危険を見て意気沮喪するような男ではない。むしろ反対に、危険の増大とともに自負心もますますさかんになって、勢いを増すというふうの男であった。とにかく、当地の検事が非常な熱情家で、病的に感受性が強かったことは、認めなければならない。彼はある事件に自分の全心を打ち込むと、その事件の解決いかんによって、自分の全運命と自分の全価値が、きまりでもするかのように行動した。法曹界では、いくらかこれを嘲笑するものもあった。彼はこうした性質によって、たとえ到るところに名声を馳せるというわけにゆかないまでも、こうした田舎裁判所におけるつましい地位の割には、かなり広く知られていたからである。ことに世間では、彼の心理研究癖を笑っていた。が、筆者《わたし》の考えでは、これらはみんな間違っていると思う。わが検事は、多くの人々が考えているより、よほど深く真面目な性格をもっていたようである。ただ、彼は一たいに病身なために、その経歴の第一歩から生涯を通じて、ついに自分の地位を築き得なかったのである。
 当地の裁判長については、ただこの人が実際的に職務をわきまえた、きわめて進歩的見解を有している、教養を身につけた、人道的な人物であることを言い得るのみである。この人も相当に自負心が強かったが、自己の栄達についてはあまりあせらなかった。彼の生活のおもなる目的は、時代の先覚者となることであった。それに、彼はいい縁故と財産とをもっていた。これもあとでわかったことだが、彼もカラマーゾフ事件に対しては、かなり熱のある見方をしていた。が、それもごく一般的な意味あいであった。彼の興味をそそったのは、この社会現象と、その分類と、わが国の社会組織の産物として、およびロシヤ的特性の説明としてこの現象を取り扱うこと、などであった。事件の個人的性質や、その悲劇的意義や、被告を初めすべての関係者などに対しては、かなり無関心な抽象的な態度をとっていた。もっとも、これはそうあるべきことかもしれぬ。
 法廷は裁判官の出席まえから、傍聴人でぎっしりになっていた。当地の裁判所は、町でも最も立派な、広くて高い、声のよく通る建物であった。一段たかいところに居ならんだ裁判官たちの右側には、陪審員のために一脚のテーブルと、二列の安楽椅子が設けられていた。左側には被告と弁護士の席があった。法廷の中央、裁判官の席に近いところには、『証拠物件』をのせたテーブルがおかれた。その上には、フョードルの血まみれになった白い絹の部屋着と、兇行に用いたものと推察される運命的な銅の杵と、袖に血の滲んだミーチャのシャツと、あのとき血のついたハンカチを入れたために、うしろかくしのまわりに血痕の付着したフロックと、血のためにこちこちになって、今ではすっかり黄いろくなっているハンカチと、ミーチャがペルホーチンの家で、自殺するつもりで弾を填めておいたが、モークロエでトリーフォンのためにこっそり盗まれたピストルと、グルーシェンカのために三千ルーブリの金を入れておいた名宛てのある封筒と、その封筒を縛ってあったばら色の細いリボンと、そのほか、とうてい思い出せないほどさまざまな品物がのっていた。少し離れて法廷の奥まったところに、一般の傍聴者の席があったが、なお手摺りの前にも幾つかの安楽椅子があった。それは申し立てをした後に、法廷に残らなければならない証人用のものであった。十時が打つと、三人の裁判官、――すなわち裁判長と、陪席判事と、名誉治安判事が現われた。むろん、すぐに検事も出廷した。裁判長は小柄な、肉づきのいい、中背よりも少し低いかと思われるくらいな、痔疾らしい顔つきの五十歳ばかりの老人で、短く刈られた黒い髪には、いくぶん白髪がまじっていた。彼は赤い綬をつけていたが、どんな勲章であったか、記憶しない。筆者《わたし》の見たところでは、いや、筆者だけではない、みなの目に映じたところでは、検事はひどく真っ蒼な、ほとんど緑色といってもいいくらいな顔いろをしていた。なぜか一晩のうちに急に痩せ細ったものらしい。筆者が三日ばかりまえ彼に会った時は、ふだんと少しも変りがなかったからである。
 裁判官はまず第一に廷丁に向って、『陪審員はみんな列席されたか?………』と訊いた。しかし、筆者は、こんな工合につづけて行くことは、しょせんできないと思う。はっきり聞えなかったところもあるし、意味の取れなかった言葉もあるし、また忘れてしまった点もあるからである。が、何よりおもな理由は、さきにも言ったとおり、もし一つ一つの言葉や出来事を残らず書き連ねたら、まったく文字どおりに時間と紙とがたりなくなるからである。ただ筆者の知っているのは、双方、すなわち弁護士側と検事側の陪審員が、あまり大勢いなかったということだけである。しかし、十二人の陪審員の顔ぶれは憶えている。つまり、四人の当地の役人と、二人の商人と、土地の六人の百姓と町人とであった。筆者は当地の人々、ことに婦人たちが、裁判の始まる前に、いくらか驚き加減で、『こういう微妙な複雑な心理的事件が、あんな役人や、おまけにあんな百姓たちの決定にまかされるのでしょうか? あんな役人や、ましてあんな百姓たちに、この事件がわかるのでしょうか?』と訊いたのを憶えている。実際、陪審員の数に入ったこの四人の役人は、下級な老朽官吏で、――そのなかの一人はいくらか若かったが、――町の社交界でもほとんど知られていない、少額の俸給に甘んじている連中であった。彼らは、どこへも連れだすことのできないような年とった細君と、おそらく跣で飛び廻っていかねまじい大勢の子供をかかえて、暇な時にどこかでカルタでもして楽しむのが関の山、書物など一冊も読んだことがないに相違ない。二人の商人は、いかにも堂々たる様子をしていたけれど、なぜか妙に黙り込んで、堅くなっていた。そのうち一人は顎鬚を剃り落して、ドイツ人のような身なりをしていたが、もう一人のほうは白髪まじりの顎鬚を生やし、頸には赤い綬のついた何かのメダルをかけていた。町人と百姓については、いまさら何も言うがものはない。このスコトプリゴーニエフスクの町人は百姓も同然で、実際、畑の土を掘っているのであった。なかの二人は、やはりドイツ風の服を着ていたので、そのせいか、かえってほかの四人よりも、よけいにむさくるしく汚らしく見えた。だから実際、筆者《わたし》も彼らを見たときに、『こんな人間どもが、こういう事件について、はたして何を理解することができるだろう?』と考えたが、まったく誰でもそう思わずにいられなかったろう。しかし、それでも彼らはいかつい渋面をしていて、一種異様な、圧迫するような、ほとんど威嚇するような印象を与えた。
 とうとう裁判長は、休職九等官フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ殺害事件について、審理を開始する旨を宣言した。そのとき彼がどういう言葉を用いたか、筆者も正確には憶えていない。廷丁は被告を連れて来るように命じられた。やがてミーチャが現われた。法廷内は水を打ったようにしんとして、蠅の飛ぶ羽音さえ聞えそうであった。ほかの人たちはどうだったか知らないが、筆者《わたし》はミーチャの様子を見て、非常にいやな気持がした。第一、彼は仕立ておろしの真新しいフロックを着て、恐ろしく洒落た恰好をしていた。何でも後日聞いたところによると、彼はわざとこの日のために、自分の寸法書をもっているモスクワの以前の仕立屋に、そのフロックを注文したのだそうである。彼は新しい黒い仔羊皮の手袋をはめ、洒落たシャツを着こんでいた。じっと自分のまんまえを見つめながら、例の大股でつかつかと歩みを運び、悠然と落ちつきはらった様子で自席に腰をおろした。同時に、有名な弁護士のフェチュコーヴィッチも姿を現わした。と、法廷の中には一種おしつけたようなどよめきが起った。彼は背の高い痩せぎすの男で、細長い脚と、ことのほか細長くて蒼白い指と、綺麗に剃刀をあてた顔と、つつましやかに梳られたごく短い髪と、ときどき嘲笑か微笑かわからないような笑みにゆがむ薄い唇をもっていた。年は四十前後でもあろうか。もし一種特別な目さえなかったら、彼の顔は気持のいいほうであった。目それ自身は小さくて無表情であったが、その距離がいちじるしく接近していて、細い鼻梁骨が、わずかにその間を隔てているのみであった。一口に言えば、彼の顔つきは誰が見ても、びっくりするほど鳥に髣髴たる表情をおびていた。彼は燕尾服を着て、白いネクタイをしめていた。裁判長はまず第一にミーチャに向って、姓名や身分を訊いたと記憶している。ミーチャはきっぱり返答したが、なぜか途方もない大声だったので、裁判長は頭を振って、びっくりしたようにミーチャを見た。次に、審問のために呼び出された人々、つまり証人および鑑定人の名簿が読み上げられた。その名簿は長いものであった。証人のうち四人は出廷しなかった。すなわち、以前予審の時は申し立てをしたが、今はパリにいるミウーソフと、病気のために欠席したホフラコーヴァ夫人、および地主のマクシーモフと、それからふいに死んだスメルジャコフである。スメルジャコフの自殺については、警察のほうから証明がさし出されたが、この報告は法廷ぜんたいに激しい動揺と、囁きとを喚び起した。むろん、傍聴者の多くは、スメルジャコフ自殺という突発的挿話を知らなかったけれど、何よりもミーチャのとっぴな振舞いに驚かされた。ミーチャはスメルジャコフの変死を聞くと、いきなり自席から、法廷全部に響き渡るような大声で叫んだ。
「犬には犬のような死にざまが相当してる!」
 筆者《わたし》は、弁護士が飛んで行って彼を抑えたことや、裁判長が彼に向って、今度こういう気ままなことをすると、厳重な手段に訴えるぞと、嚇したことなどを憶えている。ミーチャはしきりに頷きながら、しかも一こう後悔する様子もなく、幾度もちぎれちぎれな小さい声で、弁護士に繰り返した。
「もうしません、もうしません! つい口から出たんで! もうしません!」
 むろん、この短い一挿話は、陪審員や傍聴者に、被告にとって不利な印象を与えた。彼はその性格を暴露して、自分で自分を紹介してしまったのである。彼がこういう印象を与えたあとで、書記の口から告発書が読み上げられた。
 それはごく簡潔なものであったが、同時に周匝《しゅうそう》なものであった。何の某はなぜ拘引せられ、なぜ裁判に付せられなければならなかったか云々、というおもな理由を述べてあるだけにすぎなかったが、それにもかかわらず、告発書は筆者に強い印象を与えた。書記は明晰な響きのいい声で、わかりよく読み上げた。今やこの悲劇全体が宿命的な、容赦のない光に照らされて、新しく一同の前に浮彫のごとく集約されて現われたのである。筆者《わたし》はこの告発書が読み上げられたすぐあとで、裁判長が高い、胸に徹するような声で、ミーチャに訊いたのを記憶している。
「被告は自分の罪を認めるか?」
 ミーチャはいきなり席を立った。
「私は、自分の乱酒、淫蕩については、みずから罪を認めます。」彼はまた突拍子もない、ほとんどわれを忘れたような声でこう叫んだ。「怠惰と放縦については、自分に罪があることを認めます。運命に打ち倒された私はその瞬間、永久に潔白な人間になることを望んだのです! しかし、爺さんの、――私の敵である親父の死については、――断じて罪はありません! また親父の金を盗んだことについても、決して、決して罪はありません。そうです、罪なんかあるはずがないんです。ドミートリイ・カラマーゾフは卑劣漢です、しかし盗賊じゃありません!」
 彼はこう叫んで、自分の席へ腰をおろした。明らかに、彼は全身をがたがた慄わしていた。裁判長はさらに被告に向って、ただ質問だけに答えたらいいので、余事を語ったり、夢中で叫んだりしないようにと、ごく手短かにさとすような語調で言い聞かせた。次に裁判長は審問に着手を命じた。証人一同は宣誓のために出廷を命ぜられた。筆者はこのとき証人全部を見た。被告の兄弟だけは、宣誓せずに証言することを許された。僧侶と裁判長の訓誨がすむと、証人たちは引きさがって、できるだけ離れ離れに腰をかけさせられた。やがて証人ひとりひとりの取り調べが始まった。

[#3字下げ]第二 危険なる証人[#「第二 危険なる証人」は中見出し]

 筆者《わたし》は検事側の証人と弁護士側の証人が、裁判長によって区別されていたかどうか、またどういう順序で彼らが呼び出されたか、そういうことは少しも知らない。いずれ区別されてもいだろうし、順底もあったことだろう。ただ筆者の知っているのは、検事側の証人がさきに呼び出されたことだけである。繰り返して言うが、筆者はこれらの審問を、残らず順序を追うて書くつもりはない。それに、筆者の記述は一面、よけいなものになるかもしれない。なぜなら、検事の論告と弁護士の弁論が始まった時、その討論においてすべての申し立ての径路と意味とが、ある一点に帰結され、しかも明瞭に性質づけられて現われたからである。この二つの有名な弁論を、筆者は少くともところどころだけは詳しく書き取っておいたので、その時機がきたら読者に伝えることとしよう。またその弁論に入る前に、とつぜん法廷内で勃発して、疑いもなく裁判の結末に恐ろしい運命的な影響を与えた、思いがけない異常な挿話をも記そうと思っている。で、ここにはただ公判の初めから、この『事件』のある特質が、すべての人々によって、明確に認められたことだけを述べるにとどめよう。それはほかでもない、被告を有罪とする力のほうが、弁護士側のもっている材料よりもはるかに優勢であった。この恐ろしい法廷にさまざまな事実が集中しはじめ、一切の恐怖と血潮とが次第に暴露しだした瞬間に、誰もがいちはやくこれを悟ったのである。一同はすでに最初の第一歩から、この事件が全然あらそう余地のない、疑惑の介在を許さないもので、実質上、弁論などはぜんぜん不必要であるが、ただ形式として行うにすぎない、犯人は有罪である、明らかに有罪である、ということがわかっているらしかった。筆者《わたし》の考えるところでは、興味ある被告の無罪をあれほど熱心に希望していた婦人たちさえ、同時に一人残らず彼の有罪を信じきっていたらしい。のみならず、もし彼の犯罪が完全に認められなかったら、婦人連はかえって失望したに相違ないと思う。というのは、それでは被告が無罪を宣告された時、大団円の効果が十分でなくなるからである。まったく不思議にも、婦人たちはすべて、ほとんど最後の瞬間まで、被告の無罪放免を信じきっていた。『彼は確かに罪を犯した。けれども、当節流行の人道主義と、新しい思想と新しい感情とによって、無罪を宣告されるだろう』と彼らは思っていた。みながあんなにやきもきしながらここへ馳せ集ったのは、つまりそれがためなのである。
 男連はむしろ検事と、有名なフェチュコーヴィッチとの論争に興味を惹かれていた。たとえフェチュコーヴィッチのような天才でも、こうした絶望的な手のつけようもない事件は、どうすることもできないだろうに、と驚異の念をいだきながら、彼の奮闘ぶりに一歩一歩緊張した注意を向けていた。けれど、フェチュコーヴィッチはみなにとって最後まで、すなわち彼が弁論にかかるまで、一個の謎であった。玄人筋の人々は、彼には独得のシステムがあるから、もう心の中で何かあるものを組立ててい、確乎たる目的をもっていることと予想していた。けれど、その目的が何であるかは、誰しもほとんど推察することができなかった。が、とにかく、彼の信念と自信だけは一目して明瞭であった。それに、彼がこの土地へ来てから、まだ間もないのに、――やっと三日かそこいらにしかならないのに、十分事件の真相をつきとめ、『微細にそれを研究した』らしいのを見て、人々は非常な満足を感じた。例えば、あとでみんな愉快そうに話し合ったことであるが、彼は機敏にも、検事側の証人にうまく『かまをかけ』、できるだけ彼らをまごつかしたばかりか、ことに彼らの素行に関する世評に泥を塗った。したがって、彼らの申し立てにもけちをつけたわけである。けれど、人人の目には、彼がこんなことをするのは遊戯のためである、いわば法曹界の名誉のためである、つまり、単に弁護士の常習手段を忘れないためである、と思われた。なぜなら、こんな『泥塗り』などでは、何ら決定的な利益をももたらし得ないということを、みなよく知っていたからである。それに、察するところ、彼自身もまた別にある計画を用意していて、すなわち別な弁護の武器を隠していて、時機を計って突然それを持ち出すつもりらしかったから、その辺の消息をよく承知していたに違いない。が、さしむき今のところ、彼は自分の実力を意識しながら、戯れたり、ふざけたりしているような形であった。
 例えば、以前フョードルの従僕を勤めていて、『庭の戸が開いていた』という、きわめて重要な申し立てをしたグリゴーリイ訊問の時など、弁護士は自分の質問の番になると、ぐっとグリゴーリイの懐ろ深く食い込んで放さなかった。ここで言っておかなければならぬことは、グリゴーリイが法廷の荘厳にも、大勢の傍聴者の列にも、いっかな悪びれる色もなく、いくぶんものものしく思われるほど落ちつきはらった態度を持して、法廷へ入って来たことである。彼は、妻のマルファと二人きりで話でもしているように、綽々として余裕のある態度で申し立てをした。ただ、いつもよりいくらか丁寧なだけであった。彼をまごつかすことはとうていできなかった。まず検事は彼に向って、カラマーゾフの家庭の事情を、詳細に亘って長々と訊問した。そこに家庭内の光景が鮮やかに描き出された。その話しぶりから言っても、態度から言っても、なるほどこの証人は素直で公平らしかった。彼は深い敬意をもって故主のことを申し述べたが、それでも、ミーチャに対するフョードルの態度はよくなかった、大旦那の『子供たちに対する養育の仕方は間違っていた』と言った。『あの人は、あの子は、もしわしというものがいなかったら、虱に食いころされてしまったこってしょうよ。』ミーチャの幼年時代を物語りながら、彼はこうつけ加えた。『また父親の身でありながら、現在息子のものになっている母方の財産を横領したのも、よいことじゃありません。』フョードルが息子の財産を横領したというには、一たいどんな根拠があるのか、こういう検事の訊問に対して、グリゴーリイは不思議にも一こう根底のある返答をしなかったが、それでもやはり、息子の財産相続に関する計算が『不正』であった、フョードルはどうしても息子に『まだ幾千ルーブリかを払わなけりゃならなかった』のだと主張した。ついでに言っておくが、その後、検事はこの訊問を、――フョードル・パーヴロヴィッチが実際ミーチャに対して払うべきものを払わなかったかという質問を、とくにしつこく繰り返して、訊けるだけの証人に、ひとり残らず訊いた。アリョーシャやイヴァンさえも除外しなかった。けれど、誰からも的確な返答を得ることができなかった。誰も彼も単にその事実を肯定するだけで、いくぶんでもはっきりした証拠を提供するものは誰一人なかった。それからグリゴーリイは、ドミートリイが食堂へ躍り込んで、父親を殴打したあげく、もう一ど出直して殺してやるぞと、嚇して帰った時の光景を物語った時、一種陰惨な空気が法廷に充ち渡った。それはこの老僕の落ちついて無駄のない、一風変った言葉で物語ったのが、かえって非常な雄弁となったからである。ミーチャがそのとき自分を突き倒したり、顔を殴ったりして侮辱したことについては、今はもうべつだん怒っていない、とっくに赦していると言った。死んだスメルジャコフのことを訊かれた時、彼は十字を切りながら、あれはなかなか器用な若い者だったが、馬鹿で病気に打ちのめされて、そのうえ不信心者であった。この不信心を教えたのはフョードルと、その長男だと申し立てた。ところで、スメルジャコフの正直なことは熱心に主張して、スメルジャコフがあるとき主人の紛失した金を見つけ出したが、それを隠そうともしないで、すぐ主人に渡したので、主人はその褒美に『金貨を与えて』、このとき以来、何事によらず彼を信用するようになった、と言った。庭から入る戸口が開いていたことは、彼はあくまで、頑固に主張した。が、彼に対する訊問はあまり多かったので、筆者は今すっかり思い出すことができない。
 最後に弁護士が訊問する番になった。彼はまず、フョードルが『ある婦人』のために三千ルーブルの金を隠したとかいう、例の封筒のことを調べにかかった。『君は自分でその封筒を見ましたか、――君はあれほど長い間、ご主人のそばについていたじゃありませんか』と問うた。グリゴーリイは、そんなものを見もしなければ、また『今度みんなが騒ぎだすまで』誰からも聞きもしなかったと答えた。フェチュコーヴィッチはまたこの封筒のことを、訊き得るだけの証人に残らず訊いた。そのしつこさは、ちょうど検事が財産分配のことを訊いたのと同じくらいであった。けれど、やはり誰からも、その封筒の話はよく聞きはしたが見たことはない、という返答しか得られなかった。弁護士がとくにこの訊問に執拗なことは、最初からすべての人が気づいていた。
「ところで、恐縮ですが、も一つ訊かしてもらえませんか」とフェチュコーヴィッチはだしぬけに訊いた。「予審での申し立てによると、君はあの晩寝る前に、腰の痛みを癒そうと思って、バルサム、すなわち煎薬をお用いになったそうですが、その薬は何を調合したものですか?」
 グリゴーリイは鈍い目つきで訊問者を見つめていたが、ややしばらく沈黙の後こう言った。
「サルヒヤを入れました。」
「サルヒヤだけでしたか? まだほかに何か思い出せませんか?」
「おおばこもありました。」
「胡椒も入ってたでしょう?」とフェチュコーヴィッチは、ちょっと好奇心を起してみた。
「胡椒も入っとりました。」
「まあ、そういったふうなものなんでしょう。で、それがみんなウォートカに漬けてあったのでしょう?」
「アルコールです。」
 傍聴席でくすくすという笑い声が微かに聞えた。
「それごらんなさい、ウォートカどころじゃない、アルコールさえ使ってるじゃありませんか。君はそれを背中に塗って、それから、おつれあいだけしか知らない、ある有難い呪文と一緒に、残りを飲んでしまったのでしょう、そうでしょう?」
「飲みました。」
「およそどのくらい飲んだのです? およそのところ? 盃に一杯ですか、二杯ですか?」
「コップ一杯くらいもありましたろう。」
「コップ一杯! 一杯半もあったかもしれませんね?」
 グリゴーリイは返事をしなかった。彼は何やら合点したらしかった。
「コップ一杯半のアルコールと言えば、――なかなか悪くありませんね。あなたはどう思います? 庭から入る戸口どころじゃない、『天国の戸が開いている』のさえ見えるでしょうよ?」
 グリゴーリイはやはり黙っていた。法廷にはまたくすくす笑う声が起った。裁判長はちょっと身動きした。
「ねえ、どうでしょう」とフェチュコーヴィッチはさらに深く食い込んだ。「君は庭から入る戸が開いているのを見た時、自分が眠っていたかどうか、はっきり憶えておられんでしょうな?」
「ちゃんと立っていましたよ。」
「それだけでは、眠っていなかった証拠にはなりませんよ(傍聴席にはふたたび盗み笑いが起った)。その時、もし誰かが君に何か訊いたとしたら、例えば、今年は何年かと訊いたとしたら、君はそれに答えることができたと思いますか?」
「それはわかりません?」
「では、今年は紀元何年ですか、キリスト降誕後何年ですか? ご存じですか?」
 グリゴーリイは、自分を苦しめる相手をじっと見つめながら、戸迷いしたような顔をして立っていた。彼は実際、今年が何年であるか知らないらしかった。それはちっと奇妙に感じられた。
「だが、君の手に指が幾本あるか、それは知っているでしょうね?」
「どうせわしは人に使われてる身分ですからね、」グリゴーリイは突然、大きな声で、一句一句切りながらこう言った。「もしお上がわしをからかおうとなさるのなら、わしはじっとこらえとるより仕方がござりません。」
 フェチュコーヴィッチはいくぶんたじろいだ様子であったが、そのとき裁判長が口を挟んで、もっとこの場合に適当した訊問をしてもらいたい、と弁護士に注意した。フェチュコーヴイッチはこれを聞くと、威厳を失わないように頭を下げて、自分の訊問は終ったと告げた。むろん、傍聴者や陪審員の間には、薬の加減で『天国の戸を見た』のかもしれないおそれがある上に、今年がキリスト降誕後何年であるか、それさえ知らないような人間の申し立てに対して、一脈の疑念が忍び込んだ。つまり、弁護士はともあれ自分の目的を達したわけである。が、グリゴーリイの退廷前に、もう一つの挿話が生じた。ほかでもない、裁判長が被告に向って、以上の申し立てについて、何か言い分はないかと訊いたとき、
「戸のことのほかは、みなあれの言ったとおりです」とミーチャは大声に叫んだ。「私の虱を取ってくれたことは、お礼を言います。殴ったのを赦してくれたこともお礼を言います。あの爺さんは一生涯正直でした。親父に対してはむく犬七百匹ほど忠実でした。」
「被告、言葉をつつしまなくてはなりませんぞ」と裁判長は厳めしく注意した。
「わしはむく犬じゃありませんよ」とグリゴーリイも言った。
「では、私がそのむく犬です、私です!」とミーチャは叫んだ。「もしそれが失敬なら、むく犬の名は自分で引き受けます。そして、あれには謝っておきます。私は獣だったから、あれにも残酷なことをしました! イソップにも残酷なことをしました。」
「イソップとは?」また裁判長は厳めしく訊いた。
「あのピエロです……親父です、フョードル・パーヴロヴィッチです。」
 裁判長はまたまた厳めしい語調で、言葉づかいに注意しなければいけないと、ミーチャにさとした。
「そんなことを言うと、君自身のためになりませんぞ。」
 弁護士は証人ラキーチンの訊問においても、同様の手腕を示した。ちょっと断わっておくが、ラキーチンは有力な証人の一人で、検事も彼に重きをおいていたことは疑いを容れない。彼はすべてのことを知っていた。驚くほどさまざまなことを知っていた。彼は誰の家にでも出入りして、何もかも見ていた、誰とでも話をしていた。フョードル・パーヴロヴィッチをはじめ、カラマーゾフ一家の経歴をも詳しく知っていた。もっとも、三千ルーブリ入りの包みのことは、ミーチャから聞いて知っているだけであったが、その代り、『都』という酒場におけるミーチャのとっぴな行動、すなわち彼を不利におとしいれるような言葉や動作を、詳しく述べたてたうえ、二等大尉スネギリョフの『糸瓜』事件をも物語った。しかし、財産配当について、フョードルがミーチャにいくらか借金していたか、どうかという特別な点については、ラキーチンもやはり何一つ申し立てることができず、ただ軽蔑するような語調で、『あの手合いのいい悪いを、誰が決めることができるものですか。あんなカラマーゾフ一流の混沌の中では、誰だって自分の位置を悟ることも、決めることもできやしませんよ。したがって、誰が誰に借りがあるかなんて、そんなことはとても計算できやしません』と、概論めいたことでごまかしたにすぎなかった。彼はまたこの悲劇の全体を農奴制度、および適当な制度の欠乏に苦しんで無秩序に沈湎《ちんめん》しているロシヤのさまざまな旧習の所産であると論じた。こうして、彼は滔々数千言を連ねた。この時はじめて、ラキーチン氏は自己を世に紹介して、多くの人に認められるようになったのである。検事は、証人ラキーチンがこの犯罪に関する一論文を、雑誌に発表しようとしていることを知っていたので、論告の際に(それはあとで書く)この論文中の一節を引用したほどである。つまり、前からこの論文を読んでいたわけである。ラキーチンが描き出した運命的に陰惨な光景は、十分つよく『有罪』を証明していた。全体としてラキーチンの叙述は、その思想が独創的、かつきわめて潔白高邁なために、すっかり傍聴者を魅了したのである。彼が農奴制度や、無秩序に苦しんでいるロシヤのことなど述べた時は、思わず二三の拍手さえ起った。けれど、なにしろまだ年が若いので、ラキーチンはちょっと失言をしてしまった。フェチュコーヴィッチは、すかさずそこにつけ込んだのである。ほかでもない、グルーシェンカについてある訊問に答える際、自分の答弁の成功と(彼はむろんそれを自覚していた)、高翔した気分につり込まれたラキーチンは、いくぶん彼女を軽蔑して、つい『商人サムソノフの囲い者』と言ってしまった。彼はその後、自分の失言を取り消すために、どれほど高価な代償をも惜しまなかったに相違ない。いかにフェチュコーヴィッチでも、こんな短時日の間にこうまで詳細に事件の裏面を探りつくしていようとは、ラキーチンといえども思いがけないことだったからである。
「ちょっとお訊ねしますが」と弁護士は訊問の番が廻って来ると、非常に愛想のいい、しかも慇懃な微笑を浮べながら言った。「むろんあなたは、地方教会本部で発行した『逝けるゾシマ長老の生涯』という小冊子の著者ラキーチン君でしょうね。私はあの深遠な宗教的思想に充ち渡って、高僧に対する気高い敬虔の念の溢れたご高著を、最近、非常な満足をもって読了しました。」
「あの書物は出版するつもりで書いたのじゃないんですが……とうとう印刷されてしまったので。」突然、何だか毒気を抜かれたような、ほとんど恥しそうな様子をしながら、ラキーチンはこう言った。
「いや、あれは立派な書物です! あなたのような思想家は、きわめて広い社会の、あらゆる現象を取り扱うことができますし、また取り扱わなければならないのです。長老猊下のご庇護によって、あの有益な著述は広く読まれて、また相当の利益をもたらしたことと思います……が、それよりも、一つあなたにお訊ねしてみたいと思うことがあるのです。あなたはたった今、スヴェートロヴァさんと大そう親密な間柄のようにおっしゃいましたね?」(Nota bene. グルーシェンカの姓は『スヴェートロヴァ』であることがわかった。筆者《わたし》はそれをこの日はじめて審理の進行中に知ったのである。)
「僕は自分の知人のすべてに責任を負うわけにゆきません……僕はまだ若いんですから……誰だって自分の会った人のことで、一々責任を負えるものじゃありませんからね。」ラキーチンは、いきなりかっとなった。
「わかっています、よくわかっています!」フェチュコーヴィッチは、何だか自分のほうでばつがわるくなって、大急ぎで謝罪しようとするように、こう叫んだ。「あの婦人は、当地の青年の粋ともいうべき人たちに、平素好んで接していたのですから、あなたもほかの人たちと同じように、ああいう若い美しい婦人と近づきになることに、興味をお持ちになったって、あえて不思議はないはずです。けれど……たった一つ確かめたいことがあるのです。われわれの聞くところによると、スヴェートロヴァは、二カ月まえに、カラマーゾフの末弟アレクセイ・フョードロヴィッチと知合いになることを熱望して、当時まだ修道院の服を着ていた彼を、そのまま自分の家へ案内してくれとあなたに依頼して、連れて来次第、すぐ二十五ルーブリの礼金を贈るという約束をしたそうですね。聞くところによると、その約束が取り結ばれたのは、ちょうどこの事件の基礎になっている悲劇の突発した夜だったそうですが、あなたは実際アレクセイ・カラマーゾフをスヴェートロヴァさんの家へ案内して、――そして、そのとき約束の案内料を、スヴェートロヴァから受け取られたそうですね? 私が訊きたいのは、つまりこれなんです。」
「そりゃ冗談ですよ……なぜあなたがこんなことに興味をおもちになるのか、僕にはその理由がわかりません。僕は冗談半分に受け取ったんです……あとで返すつもりで……」
「じゃ、受け取ったんですね。ですが、まだ今日までその金を返さないじゃありませんか……それとも、お返しになりましたか?」
「それはつまらないことですよ……」とラキーチンは呟いた。「僕はそういうお訊ねに答えるわけにゆきません……僕はむろん返します……」
 裁判長は口を挟んだが、このとき弁護士は、ラキーチン氏に対する訊問は終了したと告げた。ラキーチン君はいくらか名誉を穢されて、舞台をしりぞいた。彼の高邁な演説の印象は、少からず傷つけられたのである。フェチュコーヴィッチは、彼を目送しながら、聴衆に向って、『諸君の高潔なる弾劾者は、まあ、こんなものですよ』とでも言うようなふうつきであった。筆者の記憶するところでは、このときミーチャは、またもや一場の挿話なしではすまされなかった。グルーシェンカに対するラキーチンの口吻に激昂させられたミーチャは、とつぜん自分の席から『ベルナール』と叫んだ。ラキーチンの審問がすんで、裁判長が被告に向って、何か言うことはないかと訊いた時、ミーチャは声高に叫んだ。
「あいつめ、もうちゃんとおれから、被告のおれから金を借りて行きやがった! 軽蔑すべきベルナールめ! 策士め、あいつ神様を信じてないんだ。あいつは長老をだましやがったんだ!」
 むろんミーチャはまた乱暴な言葉づかいを注意された。しかし、ラキーチン氏はすっかり面目玉を潰してしまった。二等大尉スネギリョフの証明も不運に終った。が、それはぜんぜん別な理由のためであった。彼はぼろぼろの汚い服をまとい、泥まみれの靴をはいて、法廷へ現われた。そして、前からいろいろ注意され、『検査』されていたにもかかわらず、意外にもすっかり酔っ払っていたのである。ミーチャに加えられた侮辱を訊問された時、彼はとつぜん返答をこばんだ。
「あんな人たちなんかどうでもよろしゅうがすよ。わたくしは、イリューシェチカから止められていますので。神様があの世で償いをして下さるでしょう。」
「誰があなたに口止めしたのです? あなたは誰のことを言っているのです?」
「イリューシェチカです、わたくしの息子です。『お父さん、あいつは、お父さんをひどい目にあわしたのね!』と石のそばで言いましたよ。あの子はいま死にかかっています……」
 二等大尉は急に声を上げて泣きだしたかと思うと、裁判長の足もとにがばと身を投げた。彼は傍聴人の笑いに送られながら、すぐさま廷外に連れ出された。で、検事が傍聴人に与えようと企てた感銘は、まったくものにならなかった。
 しかし、弁護士は相変らずさまざまの方法を用いながら、事件を細かい点まで知悉していることによって、ますます傍聴人を驚かした。例えば、トリーフォン・ボリーソヴィッチの申し立てなどは、強い印象を与えて、もちろんミーチャにはなはだしい不利益をもたらした。彼はほとんど指折り数えるばかりにして、ミーチャが兇行の一カ月ばかりまえ、はじめてモークロエヘ行ったときにつかった金は、三千ルーブリを下るはずがないと述べたてた。よし三千ルーブリ欠けたところで、それは『ほんの僅かですよ。ジプシイの女たちにだけでも、どのくらい撒き散らしたかわかりゃしませんや! 虱のたかった村の百姓どもにさえ、「五十コペイカ玉を往来へ投げつける」どころじゃない、内輪に見つもっても、二十五ルーブリずつもくれてやったんですからね。それより少かありませんでしたよ。それに、あのとき土地の者が、どのくらいあの人の金を盗んだやら! 一ど盗んで味をしめたものは、決してやめるこっちゃありません。あの人が自分で振り撒くんですもの、盗人《ぬすっと》のつかまりっこはありませんや! まったく、村のやつらは盗人です、人間らしい心なんかもってやしませんよ。それに、娘たち、土地の娘たちに、どれだけの金が渡ったことやら! あのとき以来、土地のやつらは金持になりましたよ、以前は素寒貧でしたがね。』こういうふうに、彼はミーチャの出費を一々列挙して、算盤ではじいて見せぬばかりに述べたてたので、ミーチャの消費した金額が千五百ルーブリで、残金は守り袋の中へ入れておいたという仮定は、どうしても成り立たなくなった。『わっしはこの目で見たんでございます。あの人が三千ルーブリの金を握ってるところを、この目でちゃんと見ましたんで、わっしどもに金の勘定ができなくて、何としましょう!』と、トリーフォンは極力『お上』の気に入ろうと努めながら、こう叫んだ。
 ところが、弁護士の審問に移った時、彼はほとんどトリーフォンの申し立てを弁駁しようともせず、とつぜん主題を変えて、馭者のチモフェイと百姓のアキームが、ミーチャの最初の遊蕩の時、すなわち捕縛の一カ月まえにモークロエで、ミーチャが酔っ払って落した百ルーブリの札を玄関の床から拾い上げ、それをトリーフォンに渡したところが、トリーフォンは二人に一ルーブリずつくれたという事実に転じた。そして、『ところで、どうです、あなたはその時、その百ルーブリをカラマーゾフ君に返しましたか、どうです?』と訊ねた。トリーフォンははじめ言葉を左右にして、事実を否認していたが、チモフェイとアキームとが訊問されるにおよんで、ついに百ルーブリひろったことを白状した。ただし、金はそのときドミートリイに返した、『潔白にあの人に手渡ししたのだが、あの人はそのとき酔っ払っていたので、ことによったら、思い出せないかもしれません』とつけ加えた。しかし、彼は二人の百姓が召喚されるまで、百ルーブリの発見を否定していたのだから、酔っ払ったミーチャに金を返したというその申し立ては、自然はなはだ疑わしいものとなった。こうして、検事側から出した最も危険な証人の一人は、やはりきわめてうさんな人間と見なされ、面目を失って退廷したのである。
 二人のポーランド人もやはり同様であった。彼らは傲然と堂堂たる態度で出廷した。そして、まず第一に自分たちが『君主に仕えていた』こと、『パン・ミーチャ』が二人の名誉を買うために、三千ルーブリの金を提供したこと、ミーチャが巨額の金を握っていたのを、自分の目でちゃんと見たこと、――などを大きな声で証明した。パン・ムッシャローヴィッチは、話の中にたびたびポーランド語を挟んだが、それが幸い裁判長や検事の目に、自分をえらい者のように映じさせているらしいのを見てとると、しまいにはすっかり勇気を振い起して、全部ポーランド語で喋りだした。しかし、フェチュコーヴィッチは彼らをも自分の網に入れてしまった。ふたたび喚問されたトリーフォンは、いろいろ言葉を濁そうとしたが、結局パン・ヴルブレーフスキイが、彼の出したカルタを自分の札とすり換えたことや、パン・ムッシャローヴィッチが胴元をしながら、札を一枚ぬき取ったことなどを、白状しないわけにゆかなかった。これは、カルガーノフも自分の申し立ての際に確証したので、二人の紳士《パン》は人々の嘲笑を浴びながら、すごすごと引き退った。
 その後もすべての危険な証人たちは、ほとんどみなこういう憂き目にあった。フェチュコーヴィッチは、彼ら一人一人の面皮を剥いで、すごすごと引き退らせることに成功した。裁判通や法律家連は感心して見とれながらも、ほとんど確定したとさえ言えるような、こうした大きな罪状に対して、それしきのことが何の役にたつかと不思議がった。なぜなら、また繰り返し念をおしておくが、人々はみんな一様に、ますます絶望的に証明されてゆく犯罪の絶対性を、否応なしに感じたからである。しかし、彼らはこの『偉大な魔術師』の自信ありげな態度によって、彼がある期待をいだきながら、落ちつきはらっているのを見てとった。『こうした人物』がわざわざペテルブルグから来る以上、手を空しゅうして帰るはずがないからである。

[#3字下げ]第三 医学鑑定 一フントの胡桃[#「第三 医学鑑定 一フントの胡桃」は中見出し]

 医学鑑定も被告にとってあまり有利なものではなかった。それにまた(これはあとでわかったことだが)、フェチュコーヴィッチ自身も、あまりこの医学鑑定を当てにしていないようであった。もともとこの鑑定は、カチェリーナの希望によって、モスクワからわざわざ名医を呼び寄せたために、初めて成立したのであった。むろん、この鑑定のために、弁護が不利になるようなことは少しもなかった。いや、どうかすると、いくらか有利な点もあったのである。けれど、一方には医師の意見の齟齬から、多少滑稽なことがもちあがったりなどした。鑑定者は、モスクワから来たその名医と、土地の医師ヘルツェンシュトゥベと、若い医師のヴァルヴィンスキイであった。あとの二人は単に証人として、検事に召喚されて出廷した。最初に鑑定者として訊問されたのは、ヘルツェンシュトゥベであった。この医師は、禿げた胡麻塩頭に、中背で岩乗な骨格をした七十がらみの老人であった。彼はこの町で大へん人気があり、みなから尊敬されていた。心がけの立派な、性質の美しい、信心ぶかい人で、『ボヘミヤの兄弟』だか、『モラヴィヤの兄弟』([#割り注]清教徒に類する分離派の一つ[#割り注終わり])だかであった、――しかし、筆者も確かなことはわからない。彼はもう長くこの町に住んでいて、常に威厳をもっておのれを持していた。彼は善良で同情ぶかい性質だったので、貧乏な患者や百姓たちをただで治療してやったり、わざわざ貧しいあばら屋へ見舞いに出かけて、薬代さえ恵んでやったりした。けれど、彼は騾馬のように、ばかばかしく強情であった。何か一たん、こうと考えつくと、てこでも動かすことはできなかった。ついでに言っておくが、モスクワから来た医師が、この町へ着いてから二三日たつかたたぬうちに、医師ヘルツェンシュトゥベの技倆について、非常に侮辱的な批評をあえてしたということは、ほとんど町ぜんたいに知れ渡っていた。それはこうである。モスクワの医師は、二十五ルーブリ以上の往診料を取ったにもかかわらず、町内のある人々は非常に彼の来着を喜んで、金を惜しまずに、争ってその診察を乞うた。これらの患者は、彼が来るまで、みなヘルツェンシュトゥベの診療を受けていたので、モスクワの医師は到るところで、彼の診療ぶりに無遠慮な批評を加えたのである。しまいには、患者のところへ行くとすぐいきなり、露骨に『誰があなたをこんな台なしにしたのです、ヘルツェンシュトゥベですか? へっ、へっ!』などと訊くようになった。むろん、ヘルツェンシュトゥベはこのことをすっかり知っていた。こういう状態で、三人の医師が審問を受けるために、かわるがわる出廷した。ヘルツェンシュトゥベは、『被告の心的能力が変態であることは自明の理です』と申し立てた。次に、彼は自分の意見を述べて(ここではそれをはぶく)、この変態性は、第一、過去における被告のさまざまな行為によって証明されるばかりでなく、今この瞬間にも歴然たるものがあると言いたした。今この瞬間とはどういうことか、その理由を説明するように要求せられた時、老医師は持ちまえの単純な性格から率直にこう述べた、――被告は先刻、法廷に入って来る際、『状況にふさわしくない、妙な様子をしていました。彼は兵隊のような歩き方をしながら、目をじっとまともに据えていました。ところが、本来、婦人たちの腰かけている左のほうを見なければならんはずなのです。なぜかと言えば、彼は非常な女性の憧憬家ですから、いま婦人たちがどんなふうに自分を見ているだろうと。必ず考えなけりゃならんはずですからな』と、老人は独得な語調でこう結論した。この際、ちょっとつけ加えておかなければならないことがある。彼は好んでロシヤ語を用いたが、しかしどういうわけか、その一句一句がドイツ流になってしまうのであった。が、決してそのために臆するようなことはなかった。彼は常に自分のロシヤ語を模範的なもの、すなわち『ロシヤ人の中でも最も優れた言葉』と考える弱点をもっていたからである。彼はロシヤの諺を引用するのが大好きで、しかもそのつど、ロシヤの諺は世界じゅうの諺の中で一ばん立派な、一ばん表情的なものだとつけ加えるのであった。もう一つ言っておくが、彼は話の中についうっかりして、ごく普通の言葉さえ忘れることがたびたびあった。よく知っている言葉でも、突然どわすれして出て来ないのであった。もっとも、ドイツ語で話をする時でも、やはりそういうことがしょっちゅうあった。そういう時、彼はまるで忘れた言葉を捉まえようとでもするように、いつも自分の顔の前で手を振った。そうなると、もうどんな人でも、そのど忘れした言葉を捜し出すまでは、彼に話をつづけさせることができなかった。被告が入廷する際、婦人たちのほうを見るべきはずであったという彼の申し立ては、傍聴席にふざけたような囁きを呼び起した。この土地の婦人たちはみなこの老医師を非常に愛して、彼が敬虔で潔白な独身者であり、女性を一だん高尚な理想的存在と見ていることを知っていたので、思いもよらぬこの申し立てをはなはだ奇異なものに感じたのである。
 自分の番が廻って審問された時、モスクワの医師は被告の精神状態を、『極度に』アブノーマルなものと見なす旨を、強くきっぱり断言した。彼は『感情発作《アフェクト》』と『偏執狂《マニヤ》』について、種々もっともらしい言葉を述べた後、蒐集した多くの材料によって、被告は捕縛の数日前から、すでに疑いなき病的 affect におちいっていたので、彼がもし実際兇行を演じたとすれば、たとえそれを意識していたにせよ、ほとんど不可抗的に行ったのである。すなわち、彼は自分を支配している病的な精神衝動と戦う力をぜんぜん欠如していたのである、と論断した、が、彼は affect 以外に、mania をも認めた。彼の言葉にしたがうと、その mania は純然たる狂気におちいることを、前もって予言していたのである。(Nota bene. 筆者《わたし》は自己流の言葉で語っているが、実際、医師は非常に学術的な専門的な言葉で説明したのである。)『彼のすべての行動は常識と論理に反しています』と彼はつづけた。『私は自分の実見しないこと、すなわち犯罪そのもの、兇行そのものについては述べませんが、現に三日前、私と話をしている時でさえ、被告の目はじっと据っていて、そこに一種説明しがたいものが現われていました。彼は、ぜんぜん不必要な場合に笑ったり、絶えず不可解な興奮状態におちいったり、「ベルナール」とか、「倫理《エチカ》」とか、その他ぜんぜん必要のない、奇妙なことを口走ったりしました。』しかし、医師は被告の mania を認めるおもな理由として、つぎの点を挙げた。ほかでもない、彼が欺き取られたものと思い込んでいる三千ルーブリを口にするたびに、一種異常な興奮を示さないことがない、しかるに、その他の失敗や恥辱について語る時はいたって平静である。また最後に、彼は三千ルーブリのことにふれるたびに、必ず夢中になるほど激昂するが、しかし人々は彼の無欲淡泊を証明している、と述べた。『学識ある同輩の意見によれば、』終りに臨んでモスクワの医師は皮肉らしくこうつけ加えた。『被告が法廷へ入る際、婦人席のほうを見るべきであるにもかかわらず、そうせずに、正面を見ていたということでありますが、私はこれについて、ただこれだけ言っておきましょう、――そういう断案は滑稽であるばかりか、根本的に間違っています。なぜと言って、被告が自分の運命の決せられる法廷へ入る場合、あんなふうにじっと自分の正面を見るはずはない、それは実際この瞬間、彼が精神の常態を失っていた徴候であるという説には、私もまったく賛成しますが、それと同時に、むしろ被告が左側の婦人席のほうでなしに、かえって右側の弁護士のほうを物色すべきはずであったと断定します。なぜならば、彼はいま何よりも弁護士の援助に希望を繋いでいるからであります。この場合、彼の運命は、全然この人に左右されているのではありませんか。』
 医師は自分の意見を大胆かつ熱心に述べた。けれど、最後に訊問された医師ヴァルヴィンスキイの思いもよらぬ結論は、二人の博学な鑑定者の意見乖離に、独得な滑稽味を添えた。ヴァルヴィンスキイの意見によると、被告は今も以前も同じように、まったく通常の精神状態にあるとのことであった。もっとも、捕縛される前には実際、非常な神経的興奮状態におちいっているべきはずであったが、それはきわめて明瞭な多くの原因、すなわち嫉妬、憤怒、不断の泥酔状態などから生じたものと言うことができる。しかし、この神経的興奮状態は、いま論ぜられたような特別の affect を毫も含んでいるはずがない。また被告が入廷の際、左を見なければならないとか、右を見なければならないとかいう問題については、彼の『貧弱な意見にしたがうと、』被告はその場合、実際の状況が示したように、必ず正面を見るのが当然である。なぜかと言うに、この際、彼の全運命を左右する裁判長や他の裁判官たちが、正面に腰かけていたからである。『ですから、彼が正面を見ながら入廷したということは、すなわちその瞬間、彼の精神状態がまったく普通であったことを証明するわけであります』と若い医師はいくぶん熱をおびた調子で、こう自分の『貧弱』な証明を結んだ。
「ドクトル、大出来!」とミーチャは自席から叫んだ。「まったくそのとおり!」
 むろんミーチャは制止された。けれど、若い医師の意見は、裁判官にも傍聴人にも最も決定的な影響を与えた。それはあとでわかったことだが、みんな彼の意見に同意だったからである。が、今度はすでに証人として訊問せられたヘルツェンシュトゥベが、まったく思いがけなく、ミーチャに有利な証言を与えた。この町の古い住人として、昔からカラマーゾフの家庭を知っていた彼は、有罪説を主張する側にとって、非常に興味のある幾つかの申し立てをした後、こう言いたした。
「けれど、この憫れな若者は、もっと比較にならぬほど立派な運命をうけてもよいはずだったのであります。なぜなら、この人は子供の時分にも、成人の後にも、立派な心をもっていたからであります。私はそれを知っています。だが、ロシヤの諺に、『知恵者が一人あるのはよい、けれど知恵者がもう一人客に来るとなおよい。なぜなら、その時は知恵が一つでなくて二つになるから』とこう言ってあります……」
「知恵は結構、しかし二人の知恵はなお結構でしょう」と、検事はもどかしそうに口を挾んだ。のろのろと長たらしい口調で話をして、聴き手の退屈には一こうおかまいなく、かえって馬鈴薯のような鈍いひとりよがりのドイツ式警句を過度に尊重する老人の習慣を、彼はもうずっと前から知っていたのである。老人は警句を吐くのが好きであった。
「ああ、さよう、さよう。私の言うのもそれと同じであります」と彼は頑固に引き取った。「一人の知恵は結構だが、しかし二人ならはるかに結構であります。けれど、この人のところへはほかの知恵が行かなかったので、この人は自分の知恵をそのまま使ってしまったのです……ところで、一たいあの人は自分の知恵をどこへ使ったのでしょう? ええと、どこだったか……私はちょっと、その言葉をどわすれしました。」自分の目の前で片手を振り廻しながら、彼はこう語りつづけた。「ああ、そうそう Spazieren.」
「遊蕩でしょう?」
「ええ、そうです、遊蕩です。だから、私もそう言っとるのであります。あの人の知恵は遊蕩に使われました。そして、とうとう深いところへはまり込んで、路を迷ってしまったのです。ですが、この人は恩義を感ずる情の深い青年でしたよ。ああ、私はこの人がまだこんな子供だった時分を、よく憶えておりますが、父親からまるで面倒を見てもらえないで、靴もはかずに、ボタンの一つしかつかないズボンをはいて、地べたを駈けずり廻っておりました……」
 この潔白な老人の声には、とつぜん感情的なしみじみした語調が響いた。フェチュコーヴィッチは何か予感したように、ぶるっと身ぶるいすると、すぐその話に吸い寄せられた。
「ああ、そうです、私もその時分はまだ若かったものです……私は……ええ、そうです、私はその時分四十五歳で、ちょうどこの町へ来たばかりでした。私はその時この子が可哀そうになりましてな、この子に一|斤《フント》買ってやってならんというわけがあろうかと、こう考えました……ええと、何を一フントだったかな。何といったか忘れてしまった……それは子供の大好きなものです、何だったかな……ええと、何だったかな……」と医師はまた手を振った。「それは木に生るもので、それを集めて子供らにやるものであります……」
「林檎ですか?」
「い、い、いーや! フント、フント。林檎は十、二十と数えるでしょう、フントとは言いません……いいや、何でもたくさんあるものですよ。みんな小さいもので、口の中に入れて、かりかりっと咬み割るものです!………」
「胡桃ですか?」
「ええ、そう、その胡桃です、だから私もそう言ってるのです。」医師は、すこしも言葉など忘れてはいなかったというように、落ちつきはらってこう言った。「私は一フントの胡桃をその子に持って行ってやりました。なぜなら、その子は一度も誰からも一フントの胡桃をもらったことがないのですからな。私が指を一本立てて、子供よ! Gott der Vater([#割り注]父なる神[#割り注終わり])と言いますと、向うも笑いながら Gott der Vater と言いました。私が Gott der Sohn([#割り注]子なる神[#割り注終わり])と言いますと、子供は笑って Gott der Sohn と廻らぬ舌で言いました。私が Gott der heilige Geist([#割り注]聖霊なる神[#割り注終わり])と言うと、その子はやっぱり笑って、やっとどうにか Gott der heilige Geist を繰り返しました。それで私は帰りました。三日目に私がそばを通りかかりますと、その子は大きな声で、『小父さん、Gott der Vater, Gott der Sohn』と言いましたが Gott der heilige Geist を忘れていましたので、教えてやりました。私はまたその子が可哀そうでたまりませんでした。が、その後、子供はよそへ連れて行かれて、それからついぞ見かけませんでした。そのうちに二十三年の月日がたちました。ある朝、もう白髪頭になってしまった私が、自分の書斎に坐っておりますと、突然ひとりの血気さかんな若者が入ってまいりました。私はそれが誰なのか、どうしてもわからなかったのですが、その界は指を上げて笑いながら Gott der Vater, Gott der Sohn und Gott der heilige Geist. 僕は今この町へ帰るとすぐ、一フントの胡桃のお礼にまいりました。あの時分たれ一人[#「たれ一人」はママ]僕に一フントの胡桃をくれるものもなかったのに、あなただけは、一フントの胡桃を下すったのです』とこう言いました。そのとき私は、自分の幸福な若い時代と、靴もはかずに外を駈けずり廻っていた不幸な子供を思いだしました。すると、私の心臓はどきっとしました。私はこう言いました、――お前さんは恩義を忘れぬ青年だ、お前さんは子供の時分にわしが持って行ってやった、一フントの胡桃を憶えていたのか、こう言って私は、この人を抱いて祝福しました。私は泣きだしました。この人も泣きながら笑いました……ロシヤ人は泣かなければならぬ場合に、よく笑うものであります。とにかくこの人は泣きました。それは私が見ました。ところが、今は、ああ!………」
「今だって泣いています、ドイツ人さん、今だって泣いていますよ。あなたは神様のような人です!」と急にミーチャは自分の席から叫んだ。
 何といってもこの小さな逸話は、傍聴人にある快い印象を与えた。しかし、ミーチャにとって最も有別な効果を生み出したのは、カチェリーナである。が、このことはあとで述べよう。それに、全体として 〔a` de'charge〕([#割り注]被告に有利な[#割り注終わり])証人、すなわち弁護士の申請した証人が、取り調べられるようになってから、運命は急に冗談でなくミーチャに微笑を見せた。それはまったく、弁護士にとってすら思いもうけぬことであった。けれど、カチェリーナの前に、まだアリョーシャの訊問が行われた。しかも、アリョーシャは突然ある一つの事実を思い起して、ミーチャの有罪を認めしむる重大な一要点に、きわめて有力な反証をあげたのである。

[#3字下げ]第四 幸運の微笑[#「第四 幸運の微笑」は中見出し]

 それはアリョーシャ自身にとってさえ、まったく思いもうけぬことであった。彼は宣誓なしに呼び出された。筆者《わたし》の記憶しているかぎりでは、検事側も弁護士側も、最初から優しい同情をもって彼に対した。前から彼の評判がよかったことはすぐ想像された。彼は謙遜に控え目に申し立てたが、その申し立ての中には、不幸な兄に対する熱い同情が波打っていた。彼はある質問に答えながら、兄の性格を述べ、ミーチャは乱暴で、情熱に駆られやすい人間かもしれないが、しかし同時に高潔で、自尊心が強く、寛大で、人から求められれば、自己を犠牲にすることさえ辞せないていの人であると言った。もっとも、兄が近来グルーシェンカに対する情熱と、父親との鞘当てのために、言語道断の状態におちいっていたことは、彼もこれを認めた。兄が金を奪う目的で父親を殺したという仮定は、憤然として否定したが、しかし、この三千ルーブリがミーチャの心の中で、ほとんど一種の mania になっていたことや、兄がこの金を父親に詐取された遺産の一部と思っていたことや、淡泊な兄でさえ、この三千ルーブリのことを口にするたびに、憤激と狂憤を禁じ得なかったことなどは、アリョーシャも認めないわけにゆかなかった。検事のいわゆる二人の『婦人』、すなわちグルーシェンカとカーチャの競争については、なるべく答えを避けるようにした。そして、一二の訊問に対しては、全然こたえることを欲しなかった。
「少くともあなたの兄さんは、お父さんを殺そうと思っていると、あなたに言ったことがありますか?」と、検事は訊いた。「もし答える必要がないとお思いになったら、答えなくってもいいのです」と彼はつけ加えた。
「あからさまに言ったことはありません」とアリョーシャは答えた。
「じゃ、どういうふうにですか? 間接にですか?」
「兄は一度、私に向って、自分は親父に個人的な憎しみをいだいている、と言ったことがあります。兄は悪くすると……嫌悪の念が極度に達した場合……父を殺さないものでもないと言って、自分でもそれを恐れていました。」
「あなたそれを聞いて信じましたか?」
「信じたとは申しかねます。けれど、私はいつもそういう危険に瀕した時、ある高遠な感情が兄を救うだろうと信じていました。また実際そのとおりだったのです。なぜって、私の父を殺したのは兄じゃない[#「兄じゃない」に傍点]のですから。」アリョーシャは法廷ぜんたいに響き渡るような声でこう断言した。
 検事はラッパの音を聞きつけた軍馬のように、ぶるぶると身ぶるいをした。
「私はあなたの信念が、まったくあなたの衷心から出たものであることを信じます。私はあなたの信念に条件をつけることもしないし、またそれを不幸な兄弟に対する愛と混同することもしません。それはあなたもぜひ認めておいていただきたいのです。あなたの家庭に勃発した悲劇に対するあなた独得の見解は、すでに予審の時から承知しております。露骨に言いますと、あなたの見解は非常に特殊なもので、検事局の集めた他の一切の陳述とぜんぜん矛盾しています。で、くどいようですが、いかなる根拠によって、そういう考え方をされるようになったのみか、進んで下手人は別な人間、つまり、あなたが法廷で公然と指定された人であって、あなたの兄さんは無罪であるいう[#「無罪であるいう」はママ]、断乎たる信念に到達されたのか、それをお訊ねする必要があるのです。」
「予審ではただ訊問にお答えしただけで」とアリョーシャは落ちついた小さな声で言った。「自分からスメルジャコフを告訴したわけじゃありません。」
「が、それにしても彼を犯人として指名されたでしょう?」
「私は兄ドミートリイの言葉として彼を挙げたのです。私は訊問を受ける前に、兄の捕縛された時の様子や、そのとき兄自身がスメルジャコフを名ざしたことなど聞いていたものですから。私は兄に罪がないことをまったく信じます。したがって、もし下手人が兄でないとすれば……」
「その時はスメルジャコフですか?……なぜほかの人でなくて、スメルジャコフなんです! それに、なぜあなたはどこまでも兄さんの無罪を信じるのですか?」
「私は兄を信じないわけにゆきません。兄が私に嘘など言わないことを、私はようく知っています。私は兄の顔つきで、兄の言うことが嘘でないと知ったのです。」
「ただ顔つきだけで? それがあなたの証拠の全部なんですか?」
「それよりほかに証拠をもちません。」
「では、スメルジャコフが犯人だということについても、兄さんの言葉と顔つき以外に少しも証拠はないのですか?」
「そうです、ほかに証拠はありません。」
 これで検事は訊問を中止した。アリョーシャの答えは、傍聴者の心にきわめて幻滅的な印象を与えた。すでに裁判が始まる前から、スメルジャコフについては町でさまざまな風評があった。誰それが何を聞いたとか、誰それがしかじかの証拠を挙げたとか、そういうような取り沙汰が行われていたのである。アリョーシャに関しても、彼が兄のために有利となり、下男の罪を明らかにする有力な証拠を集めたという噂があった。ところが、意外にも、被告の実弟として当然な精神的信念のほか、何一つ証拠をもっていないとは。
 しかし、やがてフェチュコーヴィッチも訊問を始めた。いつ被告がアリョーシャに向って父に憎悪を感じるとか、親父を殺すかもしれないなどと言ったか? また彼がそれを聞いたのは、椿事勃発まえの最後の面会の時であったか? こういう弁護士の問いに対して、アリョーシャはとつぜん何か思い出して考えついたように、ぶるぶるっと身ぶるいした。
「私は今一つあることを思い出しました。自分でもすっかり忘れていましたが、あの時はっきりわからなかったものですから。ところが、今……」
 こう言って、アリョーシャはいま突然ある観念に打たれたらしく、一夜、修道院へ帰る途中、路端の樹のそばで、ミーチャに出くわしたときのことを熱心に物語った。その時ミーチャは自分の胸を、『胸の上のほう』を叩きながら、おれには自分の名誉を回復する方法がある、その方法はここに、この自分の胸にあると、繰り返し繰し返しアリョーシャに言った……『そのとき私は、兄が自分の胸を打ったのは、自分の心臓のことを言ってるのだと思いました』とアリョーシャはつづけた。『兄の目前に迫っている、私にさえ言うことのできない、ある恐ろしい悪名からのがれる力を、自分の心の中に見いだし得る、――こういうのだろうと私は思いました。私は正直なところ、そのとき兄が言っているのは、父のことだと思ったのです。父に暴行を加えようとする念が起るのを、恐るべき恥辱として戦慄しているのだと思いました。ところが、兄はその時、自分の胸にある何ものかを指そうとするようなふうつきをしました。で、今になって思い出しますが、私はその時、心臓はそんなところにありゃしない、もっと下だという考えが、ちらりと心にひらめきました。けれど、兄はもっと上のここいら辺を、頸のすぐ下を叩いて、しきりにそこのところをさして見せました。私はそのとき馬鹿なことを考えましたが、ことによったら、兄はその時、例の千五百ルーブリを縫い込んだ、あの守り袋をさしていたのかもしれません!」
「そうだ!」突然ミーチャは自席から叫んだ。「まったくそうだよ、アリョーシャ、そうだよ、あのとき僕は拳でその守り袋をたたいたんだ。」
 フェチュコーヴィッチは慌てて彼のそばへ駈け寄って、静かにするように頼むと同時に、貪るような調子でアリョーシャに根掘り葉掘りした。アリョーシャは一生懸命に当時のことを思い浮べつつ、熱心に自分の想像するところを述べた。兄がそのとき悪名と考えたのは、きっとカチェリーナに対する負債の半額千五百ルーブリを、彼女に返さないで、ほかのこと、つまりグルーシェンカが承知したら、彼女を連れ出す費用にあてようと決心した、そのことをさしたものに違いない。
「そうです、きっとそうに違いありません。」アリョーシャは興奮して、だしぬけにこう叫んだ。「兄はそのとき私に向って、恥辱の半分を、半分を(兄は幾度も、『半分!』と言いました)、今すぐにでも取り除けることができるんだが、意志の弱い悲しさにそれができない……自分にはできない、それを実行する力のないことが、前もってわかっているんだ、とこう叫びました!」
「では、あなたは兄さんが自分の胸のここんところを打ったことを、しかと憶えていらっしゃるのですか?」とフェチュコーヴィッチは貪るように訊いた。
「しかと憶えております。なぜって、そのとき私は、心臓はもっと下にあるのに、なぜ兄はあんな上を打つのだろうと、不思議に思ったからです。そして、その時、自分で自分の考えの馬鹿げていることを感じたからです……私は自分の考えが馬鹿げていると感じたのを、今に記憶しております……そうです、そういう考えがちらりと頭にひらめきました。だからこそ、私はいま思い出したのです。どうして今までそれを忘れていたのでしょう! 実際、兄があの守り袋をたたいたのは、ちゃんと恥辱をそそぐ方法があるのに、しかもこの千五百ルーブリを返さない、というつもりだったのです! それに、兄はモークロエで捕まった時、――私は知っています、人から聞いたんです、――負債の半分を(そうです、半分です!)カチェリーナさんに返して、あのひとに対して泥棒にならないですむ方法をもっていながら、やはりそれを返そうともせず、金を手ばなすくらいなら、いっそあのひとから泥棒あつかいされたほうがましだと思ったのは、自分の生涯で最も恥ずべきことだったと叫んだそうです。ですが、兄はどんなに苦しんだでしょう! この負債のためにどんなに苦しんだことでしょう!」こう叫んで、アリョーシャは言葉を結んだ。
 けれど、むろん、検事が口を挟んだ。彼はアリョーシャに向って、その時のことをもう一ど言ってくれと頼んだ。そして、彼告が本当に何か指すような工合に自分の胸を打ったのか、あるいは単に拳で自分の胸を打ったまでのことではなかったか、と、繰り返し繰り返しうるさく訊いた。
「いいえ、拳ではありません!」とアリョーシャは叫んだ。「指でさしたのです。恐ろしく高いところ、ここんところをさしたのです……まあ、どうして私は今までこれを忘れていたのでしょう!」
 裁判長はミーチャに向って、今の申し立てについて、何か言うことはないかと訊ねた。彼はそれに対して、まったくそのとおりであった、自分は頸のすぐ下の胸に隠しておいた千五百ルーブリの金を指さしたのだ、むろんこれは恥辱であったと言った。『その恥辱は否定しません、あれは私の生涯の中で、最も恥ずべき行為でした!』とミーチャは叫んだ。『返すことができたのに返さなかったのです。泥棒になってもいい、金を返すまいと、その時わたしは思ったのですが、何よりも最も恥ずべきことは、おそらく返さないだろうと、自分で前もって知っていたことです! 実際、アリョーシャの言ったとおりです! アリョーシャ、有難う!』
 これでアリョーシャの訊問は終った。が、たった一つでもこうした事実が発見されたのは、重大な特筆すべきことであった。とにかく、小さいながらも一つの証拠が発見されたわけである。それはただ証拠の暗示にすぎないが、それでもやはり実際あの守り袋があって、その中に千五ルーブリ[#「千五ルーブリ」はママ]入っていたということも、被告が予審の際モークロエで、その千五百ルーブリは『私のものです』と言い張ったのも、嘘ではなかったという証拠として、ほんのいくらかでも役に立った。アリョーシャは喜んだ、彼は顔を真っ赤にして、指定された席へ退いた。彼は長いこと口の中で、『どうして忘れていたんだろう! どうしてあれを忘れていたんだろう! どうしてやっと今はじめて思い出したんだろう!』と繰り返していた。
 カチェリーナの訊問が始まった。彼女が姿を現わすと同時に、法廷の中には、異様などよめきが起った。婦人たちは柄つき眼鏡や双眼鏡を取り出した。男たちももぞもぞ身動きしはじめた。中にはよく見ようとして立ちあがるものもあった。人々はあとになって、彼女が現われるやいなや、突然ミーチャが『ハンカチ』のように真っ蒼になった、と言い合った。彼女はすっかり黒衣に身を包んで、つつましやかに、ほとんどおずおずと、指定の席へ近づいた。彼女が興奮していることは、その顔色でこそ察しられなかったが、決心の色は黒みがかった目の中にひらめいていた。ここに特記すべきことは、この瞬間、彼女が非常に美しく見えたことである。これはあとで人々が異口同音に断言したところである。彼女は小声ではあるが、しかし法廷ぜんたいへ聞えるように、はっきりと陳述を始めた。彼女は落ちついて口をきいた。少くとも、落ちつこうと努めていた。裁判長は慎重な態度をもって、『ある種の琴線に』触れるのを恐れでもするように、そして、この大不幸に十分の敬意を払いつつ、鄭重に訊問を始めた。けれど、カチェリーナは提出された質問の一つに対して、多言を待つまでもなく、自分は被告と婚約の間柄であった、と答えた。『あの人が自分からわたしを見棄てるまで』と彼女は小声に言い添えた。彼女が親戚のものに郵送してくれと、ミーチャに託した三千ルーブリのことについては、『わたしぜひとも必ず郵送してもらおうと思って、あの人にお金を渡したのではございません。わたしはその時……その瞬間に……あの人が大へんお金に困っているということを感じておりましたので、もしなんなら、一カ月間くらい融通してあげてもいいと考えて、あの三千ルーブリを渡したのですから、あとであの借金のために、あんなに心配なさる必要はなかったのでございます。」ときっぱり言い切った。
 筆者《わたし》はすべての問題を一々詳しく物語るまい。ただ、彼女の申し立ての根本の意味だけを述べるにとどめよう。
「わたしは、あの人がお父さんからお金を受け取りさえすれば、すぐにお送り下さることと固く信じておりました」と彼女はつづけた。「わたしはどんな場合にも、あの人の無欲と潔白とを信じておりました……金銭上のことでは、まったくこの上ない潔白な方でございますから。あの人はお父さんから三千ルーブリ受け取ることができると固く信じて、たびたびわたしにもその話をしました。あの人がお父さんと不和だということも、わたしはよく知っておりました。そして、あの人がお父さんにだまされているのだといつもそう信じていました。あの人がお父さんを嚇すようなことを言ったかどうか、少しも憶えていません。少くとも、わたしの前では、嚇しめいたことを一度もおっしゃいませんでした。もしあの時わたしのところへいらっしゃれば、三千ルーブリのための苦労なんか、安心させてあげるのでしたが、あの人はその後、わたしのところへいらっしゃらなかったのでございます……ところが、わたしは……わたしは自分のほうから呼ぶことができないような立場におかれたものですから……それに、わたしはあの人から返金を要求する権利を、少しも持っていなかったのでございます。」彼女は突然こうつけ加えた。その声には決然たる響きがこもっていた。「わたしはある時あの人から、三千ルーブリ以上のお金を借りたことがございます。それも、返すことができそうな目あてもないのに、貸していただいたのでございます……」
 彼女の音調には、一種挑戦的な響きが感ぜられた。この時フェチュコーヴィッチが、代って訊ねる番になった。
「それは近頃のことではなくって、あなた方が知合いになられた最初の頃でしょう?」フェチュコーヴィッチはたちまち、何かある吉左右[#「吉左右」はママ]を予感して、用心ぶかく、そろそろと探り寄るように、こう口を挟んだ。(括弧をして言っておくが、彼はほとんどカチェリーナの手でペテルブルグから招聘されたのだが、ミーチャがかつて向うの町で、彼女に五千ルーブリ与えたことや、あの『額を地につけての会釈』などは、少しも知らなかったのである。彼女はこの話を彼に隠していた。これは驚くべきことである。彼女は最後の瞬間まで、法廷でこの話をしたものかどうかと決しかねて、何かある霊感を待っていたのだ、とこう想像するのが確かである。)
「そうです、わたしは一生、あの瞬間を忘れることができません!」と彼女は語り始めた、彼女は何もかも[#「何もかも」に傍点]物語った。かつてミーチャがアリョーシャに話した例の挿話も、『額を地につけての会釈』も、その原因も、自分の父親のことも、自分がミーチャのもとへ行ったことも、残らず語ってしまった。しかし、ミーチャがカチェリーナの姉を通して、『カチェリーナ自身で金を取りに来るように』と申し込んだことは、一ことも言わなかった。彼女は寛大にも、このことを隠したのである。
 そのとき彼女は自分のほうから発作的に、何ごとか予期しながら……金を借りるために若い将校のところへ駈けつけた、とこういうふうに、いささかも恥じる色なく語った。これは実に、魂を震撼するような出来事であった。筆者《わたし》にひやひやして、身ぶるいしながら聞いていた。人々は一言も聞きもらすまいと鳴りをしずめ、法廷は水を打ったように静まり返った。一たいこれは例のないことであった。彼女のような我意の強い、軽蔑にちかいほど傲慢な女が、こういう正直な告白をしたり、こんな犠牲を払ったりしようとは、ほとんど思いもよらなかったのである。しかも、これは何のためであろう? 誰のためであろう? それは、自分に心変りした侮辱者を救うためであった。たとえ僅かでも、彼のためになるようないい感銘を人々に与えて、彼を救おうとするためであった。実際、なけなしの五千ルーブリ、――自分のために残った金を全部、惜しげもなく与えて、無垢な処女の前にうやうやしく跪拝した将校の姿は、確かに同情すべきものであり、魅力に富んでいたが……筆者の心臓は痛いほど縮みあがった! 筆者はあとで蔭口が始まりそうな気がしたのである!(あとで始まった、まさに始まった!)その後、町じゅうの人々は、毒々しい笑いをもらしながら、将校が『うやうやしく平身低頭しただけで』娘を帰したというところは、どうも当てにならぬようだ、と言い合った。人々はそこに『何かが省略されている』ことを仄めかした。『たとえ省略されていないにしても、よしんばあのとおりであったにせよ』と、当地で最も尊敬されている貴婦人たちは、こう言った。『よしんば父親を救うためにしたところで、処女としてそんな真似をするのは、あまり立派なこととも言えませんねえ。』あんなに聡明で、病的なくらい敏感なカチェリーナが、こんな噂をされることに、前もって気がつかなかったのだろうか? きっと気がついていたに相違ない。が、それにもかかわらず、すっかり[#「すっかり」に傍点]言ってしまう決心をしたのである! むろん、カチェリーナの物語の真相に関する、こうした穢らわしい疑念はあとで起ったことで、初めて聞いた時には、みなただ異常な震撼を与えられたのである。裁判官側のほうについて言うと、彼らは敬虔の色を浮べ、彼女のために羞恥さえ感じながら、黙って聞いていた。検事はこの問題について、一言もあえて訊こうとしなかった。フェチュコーヴィッチはうやうやしく彼女に一礼した。ああ、もう彼はほとんど勝ち誇ったようであった。彼は多くのものを獲得した。高潔な発作に駆られて、なけなしの五千ルーブリを与えた人が、あとで三千ルーブリを奪う目的で父親を殺したとは、どうしてもそこに辻褄の合わない点があった。フェチュコーヴィッチは、少くともこの場合、金を奪ったという事実を否定することができた。『事件』は急にある新しい光に照らされた。ミーチャに対する一種の同情ともいうべきものが閃めいた。彼は……彼はカチェリーナの申し立ての間に、二三ど席をたったが、またベンチに腰をおろして、両手で顔を蔽うた、と人々は後に物語った。しかし、彼女が申し立てを終った時、彼は突然そのほうへ両手をさし伸べながら、歔欷に充ちた声で叫んだ。
「カーチャ、なぜ僕を破滅さすんだ!」
 彼はこう言って、法廷ぜんたいに聞えるほど声高に慟哭したが、たちまち自己を制して叫んだ。
「もう僕は宣言された!」
 彼は歯を食いしばり、両手を胸に組み合せ、化石したように腰かけていた。カチェリーナはなお法廷に居残って、指定の椅子に腰をおろした。彼女は真っ蒼な顔をして、さしうつむいていた。そばにいたものの語るところによると、彼女は熱病にでもかかったように、長い間ぶるぶる慄えていたそうである。次にグルーシェンカが呼び出された。
 筆者《わたし》の物語は、次第にかの大椿事に近づいて来た。それはとつぜん破裂して、実際ミーチャを破滅さしたかのように思われた。なぜと言うに、筆者の信ずるところでは、いや、法律家もみんなあとでそう言っていたが、もしあの挿話さえなかったら、被告は少くとも、いくぶんか寛大な処置を受けたかもしれないからであるが、このことは後まわしにして、まずグルーシェンカのことを一口いおう。
 彼女もやはり黒い服を着け、例の見事な黒いショールを肩にかけて、法廷へ現われた。彼女は、よく肥った女がするように、軽く体を左右へ揺りながら、右も左も一切向かないで、じっと裁判長を見つめながら、ふらふら宙に浮んででもいるように、足音も立てず、手摺りのほうへ近づいた。筆者の目には、その瞬間、彼女が非常に美しく見えた。あとで婦人たちが言ったように、決して蒼い顔などしていなかった。婦人たちは、彼女が思いつめたような、毒々しい顔つきをしていたと言うが、筆者に言わせれば、彼女はただ醜い騒ぎに餓えた傍聴者の、ものずきな軽蔑したような視線を、重苦しく体に感じて、そのためにいらいらしていたのだと思う。彼女は傲慢な軽蔑にたえきれない性質であった。誰かに軽蔑されていないかと疑うだけで、もうかっとして反抗心に燃え立つ、そういうたちの女であった。けれど、同時に、むろん臆病でもあり、そして内々この臆病を恥じる心持もあった。それゆえ、彼女の申し立てにむらがあるのは当然だった。ある時は怒気をおびていたり、ある時は軽蔑したような調子で、度はずれに粗暴になるかと思うと、急に心の底から自分の罪を責めなじるような響きが聞えたりするのであった。時によると、『どうなったってかまやしない、言うだけのことを言ってしまう』といったような棄て鉢の口のきき方をすることもあった。フョードルと知合いになったことについては、『そりゃくだらないこってすわ、あの人のほうからつきまとったんですもの、わたしの知ったことじゃありません』ときっぱり言うかと思えば、すぐそのあとから、『みんなわたしが悪いのです。わたしは両方とも、――お爺さんもこの人も、――からかって馬鹿にしていたんです、そして、二人をこんな目にあわせたんですの。何もかもわたしから起ったことですわ』とつけ加えるのであった。何かの拍子で、問題がサムソノフにふれたとき、『そんなことが何になります』と彼女はすぐにずうずうしい、挑戦的な口調で歯を剥いた。『あの人はわたしの恩人ですよ。あの人は、わたしが両親に家から追い出された時、跣のままでわたしを引き取ってくれたんですよ。』けれども、裁判長は非常に慇懃な言葉で、余事に走らず直接問いに答えるようにと彼女をさとした。グルーシェンカは顔を赤くして、目を輝かした。
 金の入った封筒は彼女も見なかった。ただ、フョードルが三千ルーブリを入れた何かの封筒を持っている、ということを、あの『悪党』から聞いただけである。『だけど[#「『だけど」はママ]、そんなことはみんなばかばかしい話ですわ。わたしはただ笑ってやりました。あんなところへどんなことがあったって行くものですか。」[#「ですか。」」はママ]
「今あなたが『悪党』と言ったのは誰のことです?」と検事は訊いた。
「下男のことです。自分の主人を殺しておいて、きのう首を縊ったスメルジャコフのことです。」
 むろん、すぐにそれに対して、何を根拠にそうきっぱり断定するか、と訊かれたが、やはりべつに何の根拠もなかった。
「ドミートリイさんがそう言ったんです。あなた方もあの人の言うことを本当になさいまし。あの邪魔女があの人を破滅させたんですわ。何もかも、あの女がもとなんです、あの女が。」憎悪のあまり身ぶるいでもするように、グルーシェンカはこうつけ加えた。彼女の声には毒々しい響きが聞えた。
 彼女はまたしても、それは誰のことかと訊かれた。
「あのお嬢さんです、そのカチェリーナさんです。あのひとはあの時、わたしを呼びよせて、チョコレートをご馳走して、そそのかそうとしたんです。あのひとは本当の恥ってものを知らないんですわ。まったく……」
 こんどは裁判長も厳めしく彼女を制して、言葉を慎しむようにと言ったけれど、彼女の心はもう嫉妬に燃え立っていた。彼女はほとんど棄て鉢になっていた……
「モークロエ村で被告が捕縛された時に」と検事は思い出しながら訊いた。「あなたが別室から駈け出して来て、『みんなわたしが悪いのです、一緒に懲役へ行きましょう!』と叫んだのを、みんな見もし聞きもしましたが、してみると、あなたはそのとき被告を親殺しだと信じていたんですな?」
「わたしはあの時の心持をよく憶えていません」とグルーシェンカは答えた。「あの時みんながかりで、あの人がお父さんを殺したって騒ぐもんですから、わたしは、これというのも、みんな自分が悪いのだ、自分のためにあの人がお父さんを殺したのだ、という気がしましたの。けれど、あの人から、自分に罪はないと聞いて、すぐそれを信じてしまいました。今でも信じています、いつまでも信じます。あの人は嘘を言うような人じゃありません。」
 フェチュコーヴィッチが訊問する番になった。筆者《わたし》は彼がラキーチンのことや、二十五ルーブリのことなど訊いたのを記憶している。「あなたは、アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフを連れて来たお礼として、ラキーチンに二十五ルーブリおやりになったそうですね?」と彼は訊いた。

『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P192-P239

リのために、ぱったり引っかかってしまったが、僕なら、十五万ルーブリくらいせしめて、あの後家さんと結婚してさ、ペテルブルグに石造の家でも買ってみせるよ』と言うんだ。そして、ホフラコーヴァにごまをすってる話をしてね、あの女は若い時からあまり利口じゃなかったが、四十になったら、すっかり馬鹿になってしまった、っておれに話したよ。『だが、おそろしくセンチな女だよ。で、我輩はそこにつけ込んで、あれをものにする。そして、ペテルブルグへ連れて行って、そこで新聞を発刊するんだ。』こんなことを言いながら、穢らわしい淫らな涎をたらしていやがるんだ、それもホフラコーヴァにじゃなくて、あの十五万ルーブリの金に涎をたらしてるんだよ。あいつ毎日おれのところへやって来て、大丈夫、大丈夫、きっと参らしてみせるって力んでるんだ。そう言って、満面笑み輝いていやがるのさ。ところが、あいつだしぬけに追っ払われたんだ。ペルホーチンの思う壺にはまったんだよ。ペルホーチンのやつなかなかえらいよ! まるで追っ払われるために、あの馬鹿女を接吻したようなもんさ! あいつがしきりにおれのところへやって来てる時分、例の詩を作ったんだ。『生れて初めて、穢らわしいことに手を染めるよ。つまり、詩を書くよ。たらしこむためなんだ、つまり、世の中のためなんだ。あの馬鹿な女から資本を引き出して、それから大いに公益につくすんだからな』と言ってたよ。やつらはどんな醜悪なことをやっても、公益のためをふりまわすんだ。『だが、とにかく、君のプーシュキンよりうまく書いたよ。なにしろ、僕は滑稽な詩の中へ巧みに公民的悲哀を加味したんだからね』と言うんだ。プーシュキンについて言ったことは、おれにもよくわかってる。もし本当に才能のある人が、ただ足のことばかり書いたとすればどうだろう。そのくせ、やっこさん自分のやくざな詩をおそろしく自慢してやがる! あいつらの自惚れときたら鼻もちがならん、えらい自惚れなんだ。『わが意中の人の病める足の全治を祈りて』こんな題をつけてやがる、――なかなかてきぱきしてるよ!

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いかなる足ぞ、この足は、
少し腫れたるこの足は!
医者を頼んで療治をすれば、
繃帯巻いて片輪にされる。
 *  *  *
足ゆえわれはなげくにあらず、
そはプーシュキンにまかすべし。
われのなげくは頭ゆえ
思想を悟らぬ頭ゆえ。
 *  *  *
やや悟りぬと思う時、
足はそれをば妨げぬ!
足を癒さぬそのうちは、
頭は悟ることあらじ。
[#ここで字下げ終わり]

 豚だよ、本当に豚だよ。だが、馬鹿野郎め、なかなか面白く作りやがったよ! 実際『公民的悲哀』も加味していらあ。しかし、追っ払われた時は、どんなに怒ったろうなあ。さだめし歯ぎしりしたことだろうよ!」
「あの男はもう復讐をしましたよ」とアリョーシャは言った。「ホフラコーヴァ夫人の悪口を投書したんです。」
 アリョーシャは『風説《スルーヒイ》』紙上にのっていた通信記事のことを、かい摘んでミーチャに物語った。
「そうだ、それはあいつに違いない、あいつにきまってるさ!」とミーチャは顔をしかめて、相槌を打った。「それはあいつだよ! その投書は……おれは知ってるんだ……グルーシェンカのことでも、ずいぶん汚いことを書いて投書したよ……それから、あの女、カーチャのこともな……ふむ!」
 彼はそわそわと部屋の中を歩きはじめた。
「兄さん、僕はゆっくりしていられないんです。」しばらく黙っていたアリョーシャがこう言った。「明日はあなたにとって、実に恐ろしい重大な日なんです。あなたに対して神様の裁きが行われるんじゃありませんか……ところが、兄さんは平気でぶらぶらしながら、くだらないことばかり言ってるんですもの、僕おどろいちゃった……」
「いんや、驚くにはおよばないよ」とミーチャは熱して遮った。「あの鼻もちのならない犬のことでも話せと言うのかい、え? あの人殺しのことをかい? そのことならもう十分話し合ったじゃないか。あの鼻もちのならないスメルジャーシチャヤの息子のことなら、もう話したくない! 神様があいつを罰して下さるよ。今に見ていな、黙っていてくれ!」
 ミーチャは興奮しながら、アリョーシャに近づいて、いきなり接吻した。その目はらんらんと燃えていた。
「ラキーチンにはこれがわからないんだ。」彼は何か激しい歓喜にでも駆られている様子で、こう語りだした。「だが、お前は、お前は何でもわかってくれる。だから、おれはお前を待ちわびていたんだ。実はね、おれはもうとうからこの剥げまだらな壁の間で、お前にいろいろ話したいと思っていながら、肝腎なことを黙っていたんだ。まだまだその時が来ないような気がしてたもんだからな。今いよいよその時が来たから、お前に心の底までぶちまけるよ。アリョーシャ、おれはこの二カ月の間に、新しい人間を自分の中に感じたんだ。おれの中に新しい人間が蘇生したんだ! この人間は今までおれの中に固く閉じ籠められていたので、もし今度の打撃がなかったら、外へ現われずにしまったろう。恐ろしいことだ! おれは鉱山へ流されて、二十年間鎚を振って、黄金を掘ることなんか何でもない、――それはちっとも恐れやしない、今は別なことが恐ろしいんだ。この蘇生した人間がどこかへ行ってしまうのが恐ろしいんだ! おれは向うで、鉱山の土の下で、自分と同じような囚人や、人殺しの中にも人間の心を見つけ出して、彼らと合致することができる。なぜって、そこでも生活したり、愛したり、苦しんだりすることができるんだものな! おれはこの囚人の中に、凍えた心をよみがえらせることができるんだ。おれは幾年間でも彼らのために力をつくし、その坑《あな》の中から高貴な魂や、献身的な精神を世間へ送り出すことができるんだ。おれは天使を生み、英雄を蘇生させることができるんだ! だが、そういう人間はたくさんいる、何百人となくいる。われわれはみんな彼らのために責任を負わなけりゃならん! なぜおれはあの時、あの瞬間、『餓鬼』の夢を見たと思う? 『どうして、餓鬼はああみじめなんだろう?』この問いはあの瞬間、おれにとって予言だったんだ。おれはあの『餓鬼』のために行く。なぜなら、われわれはみな、すべての人のため、すべての『餓鬼』のために責任があるからだ。なぜなら、小さい子供もあれば、大きな子供もあるからな。みな『餓鬼』なんだ。おれはすべての人のために行く。実際、誰か一人くらい、他人のために行かなけりゃならんじゃないか。おれは、親父を殺しはしなかったが、やっぱり行かなけりゃならん。だまって受ける! おれはここで、こういうことを考えついたんだ……この剥げまだらな壁の間でな。だが、そういう人間がたくさんいる。地の下で手に鎚を持ったものが、何百人となくいる。ああ、そうだ、われわれは鎖に繋がれて、自由がなくなるんだ。しかし、その時、われわれはその大きな悲しみの中にいながら、さらに歓喜の中へとよみがえるんだ。人間この歓喜がなくちゃ、生きることができない。だから、神様はあるんだ。なぜって、神様が歓喜の分配者だからだ。歓喜は神様の偉大な特権だからだ……ああ、人間よ、祈りの中に溶けてしまえ! おれはあそこの地の底で、神様なしにどうして暮せよう? ラキーチンの言うことは、みんな嘘だよ。もし神様を地上から追っ払ったら、われわれは地下で神様に会う! 囚人は神様なしに生きて行けない。囚人でないものより一そう生きて行けないのだ。だから、われわれ地下の人間は地の底から、歓喜の所有者たる神様に、悲愴な頌歌《ヒムン》を歌おう! 神とその歓喜に栄えあれ! おれは神様を愛している。」
 ミーチャはほとんど息を切らせんばかりに、この奇怪な長物語を終った。その顔色は真っ蒼になって、唇はふるえ、目からは涙がはふり落ちていた。
「いや、生活は満ち溢れている。生活は地の下にもある!」と彼はふたたび語りだした。「アレクセイ、おれが今どんなに生を望んでいるか、この剥げまだらな壁の間で、存在と意識を欲する烈しい渇望が、おれの心のうちに生れて出たか、とてもお前にはわかるまい! ラキーチンにゃこれがわからないんだ。きゃつは家を建てて、借家人を入れさえすりゃいいんだからな。だが、おれはお前を待っていたんだ。それに、一たい苦痛とは何だ? おれはたとえ数限りない苦痛が来ても、決して、それを恐れやしない。以前は恐れていたが、今は恐れない。でね、おれは法廷でも、一さい返答をしまいと思ってるんだ……おれのなかには、今この力が非常に強くなっているので、おれはすべてを征服し、すべての苦痛を征服して、ただいかなる瞬間にも、『おれは存在する!』と自分で自分に言いたいんだ。幾千の苦しみの中にも、――おれは存在する。拷問にさいなまれながらも、――おれは存在するんだ! 磔柱の上にのせられても、おれは存在している、そして太陽を見ている。よしんば見なくっても、太陽のあることを知っている。太陽があるということを知るのは、――それがすなわち全生命なんだ。アリョーシャ、おれの天使、おれはな、種々様々な哲学で殺されていたんだ。哲学なんかくそ食らえだ! 弟のイヴァンは……」
「イヴァン兄さんがどうしたんです?」とアリョーシャは遮ったが、ミーチャはよくも聞かなかった。[#「よくも聞かなかった。」はママ]
「実はな、おれは以前こういう疑念を少しも持っていなかったが、しかし何もかも、おれの中にひそんでいたんだね。つまり、おれの内部で、自分の知らない思想が波立っていたために、おれは酔っ払ったり、喧嘩をしたり、乱暴を働いたりしたのかもしれない。おれが喧嘩をしたのは、自分の内部にあるその思想を鎮めるためだったんだ。鎮めて、抑えるためだったんだ。イヴァンはラキーチンと違って、思想を隠している。イヴァンはスフィンクスだ、黙っている、いつも黙っている。ところが、おれは神様のことで苦しんでいるのだ。ただこのことだけがおれを苦しめるんだ。もし神様がなかったらどうだろう? もしラキーチンの言うとおり、神は人類のもっている人工的観念にすぎないとしたらどうだろう? そのときは、もし神がなければ、人間は地上の、――宇宙のかしらだ。えらいもんだ! だが、人間、神様なしにどうして善行なんかできるだろう? これが問題だ! おれは始終そのことを考えるんだ。なぜって、そうなったら人間は誰を愛するんだね? 誰に感謝するんだね? また誰に向って頌歌《ヒムン》を歌うんだ? こういうと、ラキーチンは笑いだして、神がなくっても人類を愛し得る、と言うんだが、それはあの薄ぎたない菌《きのこ》野郎がそう言うだけで、おれはそんなこと理解できない。ラキーチンにとっちゃ、生きてゆくことなんか何でもないんだ。『君はまず何よりも、公民権の拡張に骨を折るがいい、でなけりゃ、牛肉の値段があがらないようにでも奔走するがいい。人類に愛を示す上において、このほうが哲学よりよほど単純で近道だ』なんて、今日もおれに言ったよ。おれはそれに対して『なに、君なんかたとえ神様がなくたって、自分のとくになることなら、きっと牛肉の値段をあげるだろう。一コペイカで一ルーブリくらい儲けるだろう』と茶化してやったんだ。すると、やつ、ひどく怒ったよ。だが、そもそも善行とは何だね! アレクセイ、教えてくれ。このおれにはたった一つの善行しかない。ところが、シナ人にはまだほかの善行があるんだ。つまり、善行というのは相対的なものなんだ。どうだね? 違うかね? 相対的なもんじゃないかな? 面倒な問題だよ? お前、笑わないで聞いてくれ。おれはこの問題のために、二晩も眠らなかったんだよ。おれはいま世間の人が平気で生きていて、ちっともこのことを考えないのに驚いてる。空なことにあくせくしてるんだ! イヴァンには神様がない。あれには思想があるんだ。とてもおれなぞの手に合わんだろうが、しかし、とにかくあれは黙っている、どうもイヴァンはマソンだと思うよ。何を訊いても黙ってるんだからな。あれの叡知の泉を一口のませてもらおうと思ったが、やはり黙ってるんだ。でも、たった一度、一こと口をきいたことがあったっけ。」
「どんなことを言いました?」アリョーシャはせきこんで声を上げた。
「おれがね、もしそうだとすれば、何もかも赦されることになるじゃないかと言うとね、あれは顔をしかめて、『われわれの親父のフョードル・パーヴロヴィッチは豚の児だったが、しかし考えは確かでしたよ』とこうやっつけたもんだ、たったこれだけしか言わなかったよ。あれはラキーチンよりもっと上手《うわて》だね。」
「そうです」とアリョーシャは悲しそうに承認した。「ですが、イヴァン兄さんはいつここへ来たんです?」
「それはあとで話すよ。今はほかの話にしよう。おれは今までイヴァンのことをお前に少しも話さなかった。いつもあと廻しにしてたんだ。このおれの問題が片づいて、宣言がすんだ時、何やかやお前に話そう、すっかり話してしまうよ。そこには一つ妙なことがあるんだ……お前はそのことについて、おれの裁判官になってくれるだろうな。だが、今はそのことを言いだしちゃいけない。今はだんまりだ、さて、お前は明日の公判のことを言ってるが、実のところ、おれはそのことについちゃ、何も知らないんだ。」
「あなたはあの弁護士と打ち合せをしましたか?」
「弁護士なんて何になるものか! おれはすっかりあいつに話したんだがね。猫をかぶった都仕込みのごろつきさ。やはりベルナールよ。毀れたびた銭ほどもおれの言うことを信じないんだ。てんからおれが殺したものときめこんでいるんだ。まあ、どうだい、――おれにはもうわかっている。『そんなら、なぜ僕の弁護に来たんです?』と訊いてやったよ。まあ、あんなやつらなんかくそ食らえだ。それに医者まで呼び寄せて、おれを気ちがいだってことにしようと思ってるんだ。そんなことをさせるものか! あのカチェリーナは、『自分の義務』を最後まではたそうと思ってるが、そりゃ無理なんだよ(ミーチャは苦々しそうに笑った)。猫だ! 冷酷な女だ! あれはね、僕があの時モークロエであれのことを、『偉大なる怒り』の女だと言ったことを知ってるんだ! 誰か喋ったんだよ。だが、証拠は浜の真砂のように殖えたね、――グリゴーリイは自説を曲げない。あの男は正直だが、馬鹿だよ。世の中には馬鹿なため正直なやつが多いて。これはラキーチンの思想なんだが、グリゴーリイはおれにとっちゃ敵だ。時にはまた友達にするよりか、敵に持ったほうがとくなものもあるて。これはカチェリーナのことを言ってるんだよ。心配だ、ああ、ほんとうに心配だ。あの女がおれから四千五百ルーブリ借りて、平身低頭したことを法廷でしゃべりはしないかと思ってさ。あの女は最後まで、最後の負債まで払わなけりゃきかんだろう。おれはあの女の犠牲なんかほしくない。あの連中は、法廷でおれに恥をかかすに違いない。実際たまらんなあ。アリョーシャ、お前あの女のところへ行って、法廷でこの一件を言わないように頼んでくれんか。それとも駄目かな? ちょっ、まあ、仕方がない、とにかく、我慢するよ! だが、おれはあれを可哀そうとは思わないよ。自分でそれを望んでいるんだからな。泥棒がつらい目をするのはあたりまえだ。アレクセイ、今おれは自分の言うべきことを言うよ(彼はまた若い薄笑いを浮べた)。ただ……ただ、グルーシャだ、グルーシャだ、ああ、あれは今なんのために、あんな苦痛を身に引き受けようとしているんだろう?」彼は急に涙ぐんでこう叫んだ。「グルーシャはおれをさいなむんだ、あの女のことを考えると、おれは死にそうだ、死にそうだ! あれはさっきおれのところへ来て……」
「あのひとは僕に話しましたよ。あのひとは今日あなたのことでとてもつらがってますよ。」
「知ってるよ。おれは一たいどういういまいましい性格なんだろう。おれはやきもちをやいたんだよ。でも、すぐ後悔して、あれが帰る時には接吻してやったよ。けれど、謝りはしなかった。」
「なぜ謝らなかったんです?」とアリョーシャは叫んだ。
 ミーチャは急に愉快そうに笑った。
「可愛いアリョーシャ、お前自分の惚れている女には、決して謝っちゃいけないよ! とりわけ惚れた女には、たとえその女に対してどんなに罪があってもな! だから、女は、――アリョーシャ、女ってものはえたいの知れないものなんだ。おれも女のことにかけちゃ、少しぐらい話がわかるよ! まあ、ためしに女の前で自分の罪を認めて、『悪かった、どうぞ赦してくれ!』とでも言ってみるがいい。それこそたちまち、霰のようにお小言が降りかかって来るよ! 決して単純率直に赦してくれやしない。かえってお前を味噌くそに悪く言って、ありもしないことまで持ち出しこそすれ、決して何一つ忘れやしない。そして、言いたい放題いったあげく、やっと赦してくれるんだ。でも、それはまだまだたちのいいほうなんだよ! 一切がっさい洗いざらいさらけ出して、何もかもみんな男のほうへぬりつけてしまうんだ、――おれはお前に言っておくがね、女にはこうした残酷性があるんだ。われわれが生きるのになくてならんあの天使のような女は、一人残らずこの残酷性をもっている! ねえ、アリョーシャ、おれは露骨に率直に言うがね、どんな立派な身分の人でも、男は必ず女の臀に敷かれなけりゃならん。それはおれの信念だ。信念じゃない、体験なんだ。男はあまくなけりゃならん。女にあまいということは、男を傷つけるもんじゃない。英雄をも傷つけやしない。シーザアをも傷つけやしないよ! だが、それにしても、謝罪だけは、決してどんなことがあってもするものじゃないぞ。この掟をよく覚えておくがいいぜ。女のために亡びた兄のミーチャが、お前にこれを伝授するんだ。いや、おれはむしろ赦されないままで、何とかグルーシャにつくしてやろう。おれはあの女を崇拝しているんだ、アレクセイ、おれはグルーシャを崇拝しているんだ! だが、あれはそいつを知らない。駄目だ、あれはどんなにしても、やはりおれの愛しようがたりないと言うんだ。あれはおれを悩ませる、愛で悩ませるんだ。以前はどうだったろう! 以前おれを悩ましたものは、ただ極悪非道の妖婦めいた肉体の曲線だったが、今じゃおれはあれの魂をすっかり自分の魂の中に受け入れて、あれのおかげで真人間になったのだ! おれたちは結婚さしてもらえるかしらん? そうしてもらえなかったら、おれは嫉妬のために死んでしまうだろう。何だか毎日そんな夢ばかり見てるよ……あれはおれのことをお前に何と言ったかね?」
 アリョーシャは、グルーシェンカがさっき言ったことを残らず繰り返した。ミーチャはくわしく聞いて、幾度も問い返したが、結局、満足らしい様子であった。
「じゃ、やくのを怒ってはいないんだな?」と彼は叫んだ。「まったく女だ!『わたし自分でも残酷な心をもっている。』ああ、おれはそういう残酷な女が好きなんだ。もっとも、あまりやかれるとたまらない、喧嘩になってしまう。だが、愛する、――限りなく愛する。おれたちに結婚させてくれるだろうか? 囚人に結婚させてくれるだろうか? 疑問だね。おれはあの女がいなけりゃ、生きてることができないんだ……」
 ミーチャは顔をしかめて、部屋の中を歩いた。部屋の中はほとんど薄暗くなっていた。彼は急にひどく心配そうな顔つきをしはじめた。
「秘密だって、あれは秘密と言ったのかい? おれたち三人があれに対して、陰謀を企らんでると言ったのかい? 『カーチカ』もそれに関係があると言ってたのかい? いや、なに、グルーシェンカ、そうじゃない。お前は邪推してるんだ。それはばかばかしい女の邪推だ! アリョーシャ、もうどうなろうとままよ、お前にわれわれの秘密を打ち明けよう!」
 彼はあたりをじろりと見まわし、急いで自分の前に立っているアリョーシャに近づき、いかにも秘密らしい様子をして囁きだした。しかし、実際は誰も二人の話を聞いていなかった。番人は片隅のベンチに腰かけて居睡りをしていたし、番兵のところまでは二人の話し声は一言も聞えなかった。
「おれはわれわれの秘密をすっかりお前に打ち明けよう!」とミーチャはせきこみながら囁いた。「実は、あとで打ち明けるつもりだったのさ。なぜって、お前と相談もしないで、おれに何か決められると思う? お前はおれの有するすべてだ。おれはイヴァンのことを、われわれより一段うえに立ってるとは言うものの、お前はおれの天使だ。お前の決定が、すべてを決するんだ。お前こそ一段うえの人間で、イヴァンじゃない。いいかい、これは良心に関することなんだ。高尚な良心に関することなんだ、――おれ一人で片づけることのできないほど重大な秘密なんだ。だから、お前の判断を煩わそうと思って、延ばしていたわけだ。だが、やっぱりいま解決する時じゃない。やはり宣告がすむまで、待たなけりゃならんな。宣告が下ったら、その時こそ、おれの運命を決めてくれ。今は決めてくれるな。おれはいまお前に話すから、よく聞いてくれ。しかし、解決はしてくれるな。じっと待って、黙っていてくれ。おれはお前に残らず打ち明けはしない、ただ骨子だけ簡単に話すから、お前は黙っているんだよ、問い返してもいけないし、身動きしてもいけないよ。いいかね? だが、ああ、おれはお前の視線をどうして避けよう? お前はたとえ黙っていても、その目が解決を下すだろう。おれはそれを恐れてるんだ。いや、本当に恐ろしい! アリョーシャ、聞いてくれ。イヴァンはおれに逃亡を勧めるんだ。くわしいことは言うまい。万事準備ができている。万事うまくゆくんだ、黙っていてくれ。解決しないでくれ。グルーシャをつれてアメリカへ行けと言うんだ。実際、おれはグルーシャなしには生きてゆけないんだ! もしおれと一緒にグルーシャをあそこへやってくれなかったらどうする? 囚人に結婚を許してくれるだろうか? イヴァンは許さないと言うんだ。だが、グルーシャなしに、どうしておれはあの坑《あな》の中で槌を握ることができよう。その槌で自分の頭を打ち割ってしまうより、ほかに仕方がない! だが、一方、良心をどうする? 苦痛を避けることになるじゃないか! 天啓があったのに、その天啓を避けることになる。浄化の路があったのに、それを避けて廻れ右をすることになる。イヴァンはアメリカでも、『いい傾向』さえ持していれば、坑の中で働くよりも、より多く人類に益をもたらすことができる、とこう言うんだ。しかし、わが地下の頌歌《ヒムン》はどこに成り立つ? アメリカが何だ、アメリカもやはり俗な娑婆世界だ! アメリカにもやっぱり譎詐が多いだろうと思う。つまり、磔をのがれるわけだ! おれがお前にこんな話をするのはな、アレクセイ、これがわかるのはお前のほかにないからだよ。ほかには誰もない。ほかのものにとっては愚の骨頂だろう。今お前に話した地下の頌歌《ヒムン》のことなんぞは、みんな譫言にすぎないだろう。人はおれのことを気が狂ったのか、それとも馬鹿だと言うだろう。だが、おれは気が狂ったんでもなけりゃ、馬鹿でもないのだ。イヴァンも頌歌《ヒムン》のことはわかっている、どうして、わかっているとも。が、それについては返事もせずに、ただ黙っているのだ。あれは、頌歌《ヒムン》を信じていない。黙っていてくれ、黙っていてくれ。お前の目が何を語っているか、おれにはよくわかってるんだ。お前はもう解決したんだ! 決めないでくれ。おれを容赦してくれ。おれはグルーシャなしには生きてゆかれないんだ。公判がすむまで待っていてくれ!」
 ミーチャは夢中でこう言い終った。彼はアリョーシャの肩を両手で掴んだまま、熱した目でじっと貪るように弟の目を見つめた。
「一たい囚人に結婚を許すだろうか?」彼は哀願するような声で三たび繰り返した。
 アリョーシャは一方ならぬ驚きをもって聞いていた。彼は心の底から揺ぶられたような気がした。
「これだけ聞かせて下さい」とアリョーシャは言った。「イヴァン兄さんは頑固にそれを主張するんですか? そして、そんなことをまっさきに考え出したのは、一たい誰なんですか?」
「あれだよ、あれが考え出したんだよ。そして、頑固に主張してるんだよ! あれはあまりおれのところへ来なかったのに、とつぜん一週間まえにやって来て、藪から棒にこんなことを言いだしたんだ。そして、恐ろしく頑固に主張してるんだよ。勧めるんじゃなくて、命令するんだ。おれはイヴァンにもお前と同じように、すっかり心の中を打ち明けて、頌歌《ヒムン》のことも話したんだがね、イヴァンはおれが自分の命令にしたがうものと信じて疑わないんだ。逃亡の手はずまで話して聞かせて、いろいろな事情を取り調べてるんだ。が、そのことはまあ、あとにしよう。とにかく、あれはヒステリイじみるほど主張しているよ。肝腎な問題は金だが、一万ルーブリをその逃亡費にあてよう。アメリカまでは二万ルーブリかかるけれども、一万ルーブリで立派にお前を逃亡させてみよう、とこう言うんだ。」
「僕には決して喋っちゃいけないと言いましたか?」とアリョーシャはさらに訊き返した。
「決して誰にも喋っちゃいけない。ことにお前には、お前にはどんなことがあっても話しちゃならない、と言うんだ! きっとお前がおれの良心になるのを恐れてるに相違ないよ。だから、おれがお前に話したことを、あれに言わないようにしてくれ。言ったら、それこそ大変だからな!」
「なるほど、兄さんの言うとおり」とアリョーシャは言った。「宣告が下るまでは決められませんね、公判がすめば、自分で決めることができますよ。その時、あなたは自分の中に新しい人間を発見しますよ。その新しい人間が解決してくれるでしょう。」
「新しい人間か、それともベルナールか、そいつがベルナール流に解決してくれるだろう! おれは、おれ自身軽蔑すべきベルナールのような気がするからな!」とミーチャは苦い微笑をもらした。
「けれども、兄さん、あなたはもう無罪になる望みをもっていないんですか!」
 ミーチャは痙攣的にぐいと両肩をすくめて、頭を横に振った。
「アリョーシャ、お前はもう帰らなけりゃいかんよ!」と彼は、突然いそぎだした。「看守が外で呶鳴ったから、今すぐここへやって来るよ。もう遅いんだ、規則違反だからな。早くおれを抱いて、接吻してくれ。おれのため十字を切ってくれ。アリョーシャ、明日の受難のために十字を切ってくれ……」
 二人は抱き合って、接吻した。
「イヴァンは」とミーチャは突然、言いだした。「逃亡を勧めながら、自分ではおれが殺したものと信じてるんだよ!」
 悲しそうな嘲笑が、彼の唇へ押し出された。
「あの人がそう信じてるかどうか、兄さんは訊いたんですか?」とアリョーシャは訊いた。
「いや、訊きゃしない。訊きたかったけれども、訊けなかったんだ。その勇気がなかったんだ。しかし、おれは目色でちゃんとわかってる。じゃ、さようなら!」
 二人はもう一度いそいで接吻した。アリョーシャが出て行こうとした時、ミーチャはまたふいに彼を呼び止めた。
「おれの前に立ってくれ、そうだ、そうだ。」
 彼はこう言って、ふたたび両手でアリョーシャの肩をぐいと掴んだ。ふいにその顔は真っ蒼になって、薄暗がりの中でも、恐ろしく鮮かに見えるほどであった。唇はぐいと歪んで、目は食い入るようにアリョーシャを見つめた。
「アリョーシャ、神様の前へ出たつもりで、まったく正直なところを聞かせてくれ、お前はおれが殺したと信じてるか、それとも信じていないかい? お前自分で信じてるかい、どうだい? まったく正直なところをさ、嘘を言っちゃいけないよ!」と彼はアリョーシャに向って、前後を忘れたように叫んだ。
 アリョーシャは何かでどしんと突かれたような気がした。彼がこれを聞いた時、何やら鋭い痛みが心の中を走ったように思われた。
「たくさんですよ、何を言うんです、兄さん……」彼は途方にくれたように囁いた。
「正直なところを言ってくれ、嘘を言っちゃいけない!」とミーチャは繰り返した。
「僕はあなたが下手人だとは、一分間も信じたことがありません!」突然アリョーシャの胸から、こういう慄え声がほとばしり出た。彼は自分の言葉の証人として、天なる神を呼びでもするように、右手を高くさし上げた。
 ミーチャの顔はたちまち一めん幸福に輝き渡った。
「有難う!」気絶したあとで、はじめてため息を吐き出す時のように、彼は言葉じりを引きながら言った。「今こそお前はおれを生き返らせてくれた……まあ、どうだ、今までおれはお前に訊くのを恐れていたんだ、このお前にだよ。お前にだよ。さあ、行ってもいい、行ってもいい! お前は明日のためにおれの心を堅めてくれた。おれはお前に神様の祝福を祈る! さあ、お帰り、そしてイヴァンを愛してやってくれ!」ミーチャの口からこういう最後の言葉がほとばしり出た。
 アリョーシャは目に一ぱい涙をたたえて、そこを出た。ミーチャがアリョーシャに対してさえ、これほどまでに疑念をいだいていた、これほどまでに弟を信じていなかったということは、不幸な兄の心中にある救いのない悲哀と絶望の深淵を、突然アリョーシャの目の前にひらいて見せた。彼は以前、それほどまでとも思わなかったのである。深い無限の同情がたちまち彼を捉え、苦しめはじめた。刺し貫かれた彼の心は悩み痛んだ。『イヴァンを愛してやってくれ!』というミーチャの今の言葉が思い出された。それに、彼はイヴァンのところへ、志しているのであった。彼はもう朝のうちから、ぜひイヴァンに会いたいと思っていた。彼はミーチャに劣らないほど、イヴァンのことで心を悩ましているのであったが、今ミーチャに会った後は、かつてないくらいイヴァンのことが心配になってきた。

[#3字下げ]第五 あなたじゃない[#「第五 あなたじゃない」は中見出し]

 アリョーシャはイヴァンの家へ行く途中、カチェリーナが借りている家のそばを通らなければならなかった。どの窓にも、灯火《あかり》がさしていた。彼はふと立ちどまって、訪ねてみようと決心した。一週間以上も、カチェリーナに会わなかったのである。けれど、このとき彼の頭に、あるいはいま彼女のとこにイヴァンが来ているかもしれない、ことにこういう日の前夜だから、という考えが浮んだ。彼はベルを鳴らして、シナ提灯の淡い光に照らされている階段を昇って行くと、上からおりて来る人があった。そしてすれ違いしなに、それが兄であると知った。彼はもうカチェリーナのところから出て来たものと見える。
「ああ、お前だったのか」とイヴァンはそっけなく言った。「じゃ、さようなら、お前はあのひとのところへ行くのかね?」
「そうです。」
「行かないほうがいいよ、あのひとはひどく『興奮している』から、お前が行くと、よけい気分をかき乱すだろう。」
「いいえ、いいえ!」階上の少し開かれた戸の間から、突然こういう叫び声が聞えた。「アレクセイさん、あなたあの人のとこへいらして?」
「そうです、その帰りです。」
「わたしに何か言づけでもあっていらしったの? おはいんなさい、アリョーシャ。イヴァン・フョードロヴィッチ、あなたもぜひ戻ってちょうだいな。よござんすか!」
 カーチャの声には、命令するような響きがあった。で、イヴァンはちょっとためらったが、やがて、アリョーシャと一緒に引っ返すことに決めた。
「立ち聴きしたんだ!」とイヴァンはいらだたしげに口の中で呟いたが、アリョーシャにはそれがはっきり聞えた。
「失礼ですが、僕は外套を脱ぎませんよ」と、客間へ入った時イヴァンは言った。「それに、僕は腰もかけません。ほんの一分間だけいます。」
「おかけなさい、アレクセイさん」とカチェリーナは言ったが、自分はやはり立っていた。彼女はこの間にいくらも変っていなかったが、その暗い目はもの凄く光っていた。あとで思い出したことであるが、アリョーシャの目には、この瞬間のカチェリーナがかくべつ美しく映じた。
「あの人、どんなことを言づけて?」
「たったこれだけです、」まともに彼女の顔を眺めながら、アリョーシャは言った。「どうか自分を容赦して、法廷であのことを言わないようにって(彼は少し口ごもった)。つまり、あなた方の間に起ったことです……あなた方が初めてお会いになった時分……あの町で……」
「ええ、それはあのお金のために頭を下げたことでしょう!」と彼女は苦い笑い声を上げながら言った。「一たいどうなんでしょう、あの人は自分のために恐れてるんでしょうか、それとも、わたしのためなんでしょうか、え? 容赦するって、――誰を容赦するんでしょう? あの人を、それとも、わたしを?え、どっちなんですの、アレクセイさん。」
 アリョーシャは彼女の言葉の意味を読もうとしながら、じっと相手を見つめた。
「あなたも、また兄自身も」と彼は小さな声で言った。
「そうでしょうとも」と彼女は妙に毒々しい調子で断ち切るように言い、急に顔を赤くした。
「あなたはまだわたしというものをご存じないんですよ、アレクセイさん」と彼女は威嚇するように言った。「だけど、わたしもまだ自分で自分を知らないんですの。たぶんあなたは明日の訊問のあとで、わたしを足で踏みにじろうと思ってらっしゃるんでしょう。」
「あなたは正直に陳述なさるでしょう」とアリョーシャは言った。「それだけで結構なんですよ。」
「女ってものは、とかく不正直でしてね。」彼女はきりりと歯を食いしばった。「わたしはつい一時間まえまで、あの極道者にさわるのを、毒虫にさわるように恐ろしく思っていたけれど……それは間違っていましたわ。あの人は何といっても、わたしにとって人間です! 一たい本当にあの人が殺したんでしょうか? 殺したのはあの人でしょうか!」と彼女は急にヒステリックに叫んで、突然イヴァンのほうへふり向いた。
 その瞬間、アリョーシャは自分が来るつい一分まえまで、彼女が一度や二度でなく、幾十度となくこの問いをイヴァンに持ちかけたらしいことや、結局、喧嘩別れになったことなどを見てとった。
「わたしはスメルジャコフのところへ行って来てよ……あれはあんたよ、あんたがあの人を親殺しだって言うもんだから、わたしはあんたばかりを信用してたんだわ!」やはりイヴァンのほうに向いたまま、彼女はこう言いつづけた。
 イヴァンはいかにも苦しそうに、にたりと笑った。アリョーシャはこの『あんた』という言葉を聞いて、思わず身ぶるいした。彼は二人のそうした関係を夢にも考えていなかったのである。
「だが、もうたくさんだ」とイヴァンは遮った。「僕は帰ります、明日また来ます。」こう言うなり、彼はくるりと向きを変えて、部屋を出ると、ずんずん階段のほうへ歩いて行った。
 カチェリーナはとつぜん、何か命令でもするような身振りで、アリョーシャの両手を掴んだ。
「あの人のあとをつけていらっしゃい! あの人を追っかけてらっしゃい! 一分間でもあの人を一人にしておいちゃいけません」と彼女は早口に囁いた。「あの人は気がちがったんですのよ。あなた、あの人の気がちがったこと知らないんですか? あの人は熱を病んでるんですの、神経性の熱病ですの! 医者がそう言いましたわ。行って下さい、あの人のあとから駈けてって下さい……」
 アリョーシャはつと立ちあがり、イヴァンのあとを追っかけた。彼はまだ五十歩と離れていなかった。
「お前、何の用だい?」アリョーシャが自分を追っかけて来たのを見ると、彼は急に弟のほうへ振り向いた。「僕が気ちがいだから、追っかけて行けと、カーチャが言ったんだろう。ちゃんと知ってるよ」と彼はいらだたしい調子でつけたした。
「むろん、あのひとの思い違いでしょうけれど、あなたが病気だってことは、本当ですよ」とアリョーシャは言った。「私は今あのひとのところで、兄さんの顔を見てましたが、あなたの顔はひどく病的ですよ、イヴァン、とても病的ですよ!」
 イヴァンは立ちどまらずに歩いていた。アリョーシャもそのあとからついて行った。
「だが、アレクセイ、どんなふうにして、人間が気ちがいになるか、お前それを知ってるかね?」とイヴァンは急に恐ろしく静かな、恐ろしく穏やかな声でこう訊いた。この言葉の中には、きわめて素朴な好奇心がこもっていた。
「いいえ、知りません。気ちがいといっても、いろいろ種類があるでしょうからね。」
「じゃ、自分の気ちがいになっていることが、自分でわかるだろうか?」
「そんな時には、自分をはっきり観察することなんかできないだろうと思います」とアリョーシャはびっくりして答えた。
 イヴァンはほんのいっとき黙っていた。
「もし、何か僕に言いたいことがあるのなら、どうか話題を変えてくれ」と彼はだしぬけに言った。
「では、忘れないうちに、あなたへ手紙です。」アリョーシャはおずおずこう言って、かくしからリーザの手紙を取り出し、イヴァンに渡した。二人はちょうど街灯のそばまで来ていたので、イヴァンは手蹟ですぐそれを悟った。
「ああ、これはあの悪魔の子がよこしたんだな!」と彼は毒々しく笑い、開封もせず、いきなり手紙をずたずたに引き裂くなり、風に向って投げつけた。紙ぎれは四方にぱっと飛び散った。
「たぶんまだ十六にもならないんだろう、それにもう申し込みなんかしてる!」彼はまた通りを歩きながら、軽蔑するようにこう言った。
「申し込みしてるんですって?」とアリョーシャは叫んだ。
「わかりきってるじゃないか、淫乱な女がする申し込みさ。」
「何をいうんです、イヴァン、何をいうんです?」とアリョーシャは悲しげに、熱くなって弁解した。「あれは赤ん坊なんです、あんな赤ん坊を侮辱するものじゃありません! あれは病人なんです、重い病人なんですもの。あれもやはり気がちがってるのかもしれない……僕はこの手紙を渡さないわけにゆかなかったんです……それどころか、僕はあなたから何か聞きたかったくらいです……あれを救うために……」
「お前に聞かせることは何にもないよ。よしんばあれが赤ん坊でも、僕はあれの乳母じゃないからね。アレクセイ、もう何も言うな。僕はそんなことを考えてもいないんだ。」
 二人はまたしばらく黙っていた。
「あれはあす法廷でどういう態度をとろうかと、こんや夜どおし聖母マリヤを祈り明かすことだろうよ」と彼はまたとつぜん鋭い口調で毒々しく言った。
「あなたは……あなたはカチェリーナさんのことを言ってるんですか?」
「そうさ。あれはミーチャの救い主にも、下手人にもなれるんだ! だから、あれはお祈りをして、自分の心を照らしてもらおうとしているのさ。あれはね、われながらどうしていいかわからないんだ、まだ態度を決める暇がなかったんだよ。やはり僕を乳母扱いにして、僕にお守りをさせようとしているのさ。」
「兄さん、カチェリーナさんはあなたを愛してるんですよ」とアリョーシャは悲しそうな、情のこもった調子で言った。
「あるいはそうかもしれん。だが、僕はあの女が好きじゃないんだからね。」
「あのひとは、煩悶していますよ。なぜあなたは……ときおり……思わせぶりをなさるんです?」とアリョーシャはおずおずなじるように言葉をつづけた。「あなたがあのひとに思わせぶりをなすったことを、僕は知っていますよ、こんなことを言っては失礼ですが」と彼はつけたした。
「僕はこの場合、必要な処置をとることができないんだ。あれと手を切って、正直なところをあれに言うことができないんだ!」とイヴァンはいらだたしげに言った。「人殺しに宣告が下るまで、待たなけりゃならない。もしいま僕があれと手を切れば、あれは僕に対する復讐として、あす法廷であの悪党を破滅させるに相違ない。なぜって、あれはミーチャを憎んでいるし、また憎んでいることも知ってるんだからな。今は何もかも虚偽だ、虚偽の上に虚偽を積んでるんだ! 僕があれと手を切らずにいる間、あの女はまだ僕に希望をつないで、あの極道者を殺しゃしない。僕がミーチャを災難から引き出そうとしてるのを、あれは知ってるからね。とにかく、あのいまいましい宣告が下るまでだ!」
『人殺し』とか『極道者』とかいう言葉が、痛いほどアリョーシャの心に響いた。
「でも、一たいどうしてあのひとは、ミーチャを破滅させることができるんです?」彼はイヴァンの言葉に考え込みながら、こう訊いた。「否応なしにミーチャを破滅させるようなことって、一たいどんなことを申し立てるつもりなんです?」
「お前はまだ知らないんだ。あれはちゃんと証拠を一つ握っている。それはミーチャが自分で書いたもので、あの男がフョードル・パーヴロヴィッチを殺したということを、数学的に証明してるんだ。」
「そんなはずはありません」とアリョーシャは叫んだ。
「どうしてそんなはずがないんだ? 僕は自分でちゃんと読んだんだよ。」
「そんな証拠があるはずはありません!」とアリョーシャは熱心に繰り返した。「そんなはずはありません。だって、あの人は、下手人じゃないんですもの。あの人がお父さんを殺したんじゃないんですもの、あの人じゃありません!」
 イヴァンは急に立ちどまった。
「じゃ、お前は誰を下手人と思うんだ?」と彼は一見いかにも冷淡な調子で訊いた。その問いには一種の傲慢な響きさえこもっていた。
「誰かってことは、あなた自分で知ってらっしゃるでしょう。」アリョーシャは小さな声で滲み入るようにこう言った。
「誰だい? それは、あの気ちがいの馬鹿だっていう昔噺かい? 癲癇やみのことかい? スメルジャコフのことかい?」
 アリョーシャは急に全身が慄えるような気がした。
「兄さん、自分で知ってらっしゃるくせに。」こういう力ない言葉が、彼の口から思わずもれて出た。彼は息を切らせていた。
「じゃ、誰だい、誰だい?」とイヴァンはほとんどあらあらしい調子で叫んだ。今までの押えつけたような控え目なところが、まるでなくなってしまった。
「僕はただこれだけ知っています。」アリョーシャは依然として囁くように言った。「お父さんを殺したのはあなたじゃない[#「あなたじゃない」に傍点]。」
「あなたじゃない[#「あなたじゃない」に傍点]! あなたじゃないとは何だ?」イヴァンは棒立ちになった。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃない。あなたじゃありません!」とアリョーシャはきっぱりと繰り返した。
 三十秒ばかり沈黙がつづいた。
「そうさ、僕が殺したんでないことは、自分でちゃんと知っている。お前は何の寝言を言ってるんだい?」蒼白い、ひん曲ったような薄笑いを浮べて、イヴァンはこう言った。
 彼は食い入るようにアリョーシャを見つめた。二人はまた街灯のそばに立っていた。
「いいえ、イヴァン、あなたは幾度も幾度も、下手人はおれだと自分で自分に言いました。」
「いつ僕が言った? 僕はモスクワにいたじゃないか……いつ僕が言った?」とイヴァンは茫然として囁いた。
「あなたはこの恐ろしい二カ月の間、一人きりでいる時に、幾度も自分で自分に、そうおっしゃったのです。」アリョーシャは依然として小さな声で、句ぎり句ぎり言葉をつづけた。けれど、もう今は自分の意志でなく、ある打ち克ちがたい命令によって、夢中で言っているような工合であった。「あなたは自分で自分を責めて、下手人はおれ以外に誰もないと自白したのです。けれど、殺したものはあなたじゃありません。あなたは思い違いをしています、下手人は、あなたじゃありません、僕の言葉を信じて下さい、あなたじゃありません! 神様は、このことをあなたに言うために、僕をおつかわしになったのです。」
 二人は口をつぐんだ。この沈黙はかなり長くつづいた。二人はじっと立ったまま、互いに目と目を見合せていた。二人とも真っ蒼であった。と、イヴァンは急に身慄いして、ぐいとアリョーシャの肩を掴んだ。
「お前は僕のところへ来ていたんだな!」と、彼は歯ぎしりしながら囁いた。「お前はあいつが来た夜、僕のところにいたんだな……白状しろ……お前はあいつを見たろう、見たろう?」
「あなたは誰のことを言ってるんです……ミーチャのことですか?」とアリョーシャは、いぶかしそうに訊ねた。
「あれのことじゃない、あんな極道者なんかくそ食らえだ!」とイヴァンは夢中に呶鳴った。「あいつが僕のとこへ来ることを、一たいお前は知ってるのか? どうして知ったんだ、さあ言え。」
「あいつ[#「あいつ」に傍点]とは誰です? 誰のことを言ってるのか、僕にはわからないですよ。」アリョーシャはもう慴えたようにこう囁いた。
「いや、お前は知ってる……でなけりゃ、どうしてお前が……お前が知らないはずはない……」
 けれど、突然、彼は自分を抑えるように急に言葉を切った。彼はそこに突っ立ったまま、何事か思いめぐらしているらしかった。異様な嘲笑が彼の唇を歪めた。
「兄さん」とアリョーシャは慄え声で、また言いだした。「僕が今ああ言ったのは、あなたが僕の言葉を信じて下さることと信じているからです。『あなたじゃない』というこの言葉を、僕は命にかけて言ったのです! ねえ、兄さん、命にかけてですよ。神様がこの言葉を僕の魂へ吹き込んで、それをあなたに言わせて下すったのです。たとえ、この瞬間から永久にあなたの怨みを受けても……」
 しかし、イヴァンは見たところ、もうすっかり落ちつきを取り返したらしかった。
「アレクセイ君、」冷やかな微笑をもらしながら、彼はこう言った。「僕はぜんたい予言者や癲癇持ちが大嫌いなんだ。ことに神の使いなんてものは、とても我慢ができない。それは君もよくご承知のはずです。今から僕は君と縁を切る。これが永久の別れになるでしょう。どうか今すぐこの四辻で僕と別れてもらいたい。この横町が君の家へ行く道筋です。ことに、きょう僕のとこへ来るのは、平にごめん蒙ります! よろしいか?」
 彼はくるりと向きを変えて、しっかりした足どりでわき見もせずに、ずんずん行ってしまった。
「兄さん」とアリョーシャは彼のあとから呼びかけた。「もし今日あなたの身の上に何かことが起ったら、まず第一に僕のことを考えて下さい!………」
 しかし、イヴァンは答えなかった。アリョーシャは、兄の姿がすっかり暗闇の中に消えてしまうまで、じっと四辻の街灯のそばに立っていた。イヴァンの姿が見えなくなると、彼は踵を転じて、横町づたいに、そろそろとわが家のほうへ歩みを運んだ。彼もイヴァンも別々に間借りしていた。二人とも荒れはてたフョードルの家に住むのをいやがったのである。アリョーシャはある商人の家に家具つきの部屋を借りていた。イヴァンは、アリョーシャからよほど離れたところに住まっていた。小金を持ったある官吏の未亡人の所有になっている立派な家の、広々としたかなり気持のいい離れを借りていたのである。しかし、この離れづきの女中はたった一人、それも大年よりの耳の遠い婆さんで、しょっちゅうレウマチに悩んでいて、夜は六時に寝、朝は六時に起きるというふうであった。イヴァンはこの二カ月の間、不思議なほど女中を使わないようになって、いつも一人でいるのを喜んだ。彼は自分ひとりで居室を取り片づけ、ほかの部屋はめったに覗きさえしなかった。
 彼は自分の家の門まで来ると、ベルの把手を掴んだまま、ふと立ちどまった。彼は依然として忿怒のために全身がふるえるのを感じたのである。彼は急にベルをはなすと、ぺっと唾を吐いて、くるりと向きを変え、またまるっきり別な方角へ急ぎ足に歩きだした。それはまったく正反対の方向にあたる町はずれで、自分の家から二露里も離れていた。彼はそこにあるごく小さな、歪んだ丸太づくりの家へと向ったのである。この家にはマリヤ・コンドラーチエヴナが住まっていた。以前フョードルの隣りにいて、フョードルの家の台所ヘスープをもらいに来ていた女である。その時分、スメルジャコフはこの女に歌をうたって聞かせたり、ギターを弾いてやったりしたものである。彼女は以前の持ち家を売り払って、今ではほとんど百姓家のようなその家に、母親と二人で住まっていた。病気で死にかかっているスメルジャコフも、フョードルの横死以来、この親子の家に同居していたのである。今イヴァンは突然、ある抑えがたい懸念に駆られて、彼のもとへ出かけたのであった。
 
[#3字下げ]第六 スメルジャコフとの最初の面談[#「第六 スメルジャコフとの最初の面談」は中見出し]

 イヴァンがモスクワから帰って以来、スメルジャコフのところへ話しに行くのは、これでもう三度目であった。あの兇行後、初めてスメルジャコフに会って話をしたのは、彼がモスクワから帰って来た当日て[#「当日て」はママ]あった。それから、一二週間ほどたって二度目の訪問をした。この二度目の訪問以来、彼はスメルジャコフとの面談を打ち切ったので、もう一カ月以上、彼に会いもしなければ、また彼の消息をも聞かなかったのである。イヴァンがモスクワから帰って来たのは、父親の死後五日目だったから、むろん、棺さえ見なかった。葬式はちょうど彼の着く前日にすまされていた。イヴァンの帰郷が遅れたわけはこうであった。イヴァンのモスクワの居所をはっきり知らなかったアリョーシャは、電報を打つのにカチェリーナのところへ駈けつけたが、カチェリーナもやはり居所を知らなかったので、自分の姉と叔母に宛てて打電した。それは、イヴァンがモスクワへ着くとすぐ、彼らの家へ立ち寄ったことと思ったからである。けれど、イヴァンはモスクワへ着いてから、四日目に初めて彼らを訪ねたのであった。むろん、電報を読むとすぐさま、まっしぐらにこの町へ帰って来た。帰るとまず第一に、彼はアリョーシャに会ったが、アリョーシャと話をしてひどく驚いたのは、彼がこの町のあらゆる人々の意見とまるっきり反対に、ミーチャをつゆほども疑おうとせず、いきなり下手人としてスメルジャコフを挙げたことである。その後、彼は署長や検事などに会って、予審や拘引の模様を詳しく知ると、さらに一そうアリョーシャの考えに驚きを感じた。で、結局、アリョーシャの意見は、極度に興奮した兄弟の情と、ミーチャに対する同情から起ったものと解釈したのである。アリョーシャがミーチャを熱愛していることは、イヴァンも知っていた。ついでに、兄ドミートリイに対するイヴァンの感情について、たった一こと言っておくが、彼はひどくミーチャを嫌っていた。どうかすると、せいぜい憐愍を感ずることがあるくらいで、それすらやはり嫌悪に近い軽侮の念を交えていた。ミーチャは第一その様子からして、ぜんぜんイヴァンの同情をひくようにできていなかった。カチェリーナのミーチャに対する愛をも、イヴァンは憤りの目をもって眺めていた。
 彼が被告としてのミーチャに会ったのは、やはり帰郷の当日で、この面会はミーチャの犯罪に対する彼の信念を弱めなかったばかりか、むしろ、一そう強めたくらいである。その時、ミーチャは不安らしく病的に興奮していた。彼はやたらに喋ったが、そわそわしていて落ちつきがなかった。非常に激越な調子で、スメルジャコフの罪を鳴らしたが、その話には一こう、筋みちがたっていなかった。彼が最も多く口にしたのは、死んだ父親が彼から『盗んだ』三千ルーブリのことであった。『あれはおれの金なんだ。あれはおれの金だったんだ』とミーチャは繰り返した。『だから、たとえおれがあの金を盗んだにしても、もうとう、やましいことはないはずなんだ。』彼は自分に不利なすべての証拠を、ほとんど弁護しようとしなかった。自分に有利な事実を説いてみても、やはりしどろもどろで馬鹿げていた、――全体に、彼はイヴァンに対しても、あるいはまた誰に対しても、頭から弁明を望まないもののようであった。それどころか反対に腹をたてたり、傲然として自分に対する非難を蔑視したり、罵ったり、激昂したりするだけであった。戸が開いていたというグリゴーリイの証明に対しては、彼はただ軽侮の色を浮べて笑うだけで、『それは大かた悪魔でも開けたんだろう』と言った。が、この事実に対して、何ら筋みちのたった説明を加えることはできなかった。のみならず、『すべては許される』と公言しているものに、人を疑ったり審問したりする権利はない、などと乱暴なことを言って、面会早々イヴァンを怒らしてしまった。全体として、彼はこの時あまりイヴァンに親しい態度を見せなかった。イヴァンはミーチャとの面会を終ると、すぐその足でスメルジャコフのところへ出かけて行った。
 彼はモスクワから帰って来る汽車の中で、スメルジャコフのことや、出発の前夜、彼と交した最後の対話などを、絶えず思いつづけた。さまざまなことが彼の心を惑乱した。さまざまなことが、うさんくさく思われた。しかし、予審判事に申し立てをする時には、しばらくその対話のことは言わずにおいて、スメルジャコフと会うまで延ばしていた。スメルジャコフは当時、町立病院に収容されていた。医師のヘルツェンシュトゥベと、病院でイヴァンを出迎えた医師のヴァルヴィンスキイは、イヴァンの執拗な問いに対して、スメルジャコフの癲癇は疑う余地がないと確答し、『あいつは兇行の当日、癲癇のふりをしていたんじゃありませんか?』というイヴァンの問いに、びっくりしたほどである。彼らの説明によると、今度の発作は並み大抵のものでなく、幾日間も繰り返し繰り返し継続したので、患者の命もずいぶん危険であったが、いろいろと手当てをしたおかげで、今では生命に別条はないと言えるようなものの、まだ患者の精神状態に異状を呈するようなことがあるかもしれない。『一生涯というほどではないまでも、かなり長い間ね』と医師のヘルツェンシュトゥベはこうつけたした。『じゃ、あの男はいま発狂してるわけですね?』という性急な質問に対して、二人の医師は、『全然そういうわけではありませんが、いくぶんアブノーマルなところも認められます』と答えた。イヴァンはそのアブノーマルがどんなものか、自分で調べてみようと思った。彼はすぐ面会に病室へ通された。スメルジャコフは隔離室に収容されて寝台の上に横たわっていた。そのそばには、いま一つ寝台があって、衰弱しきったこの町のある町人が占領していたが、全身水腫でむくみあがって、どう見ても明日あさってあたりの寿命らしかったので、この男のために話を遠慮しなければならぬようなことはなかった。スメルジャコフはイヴァンを見ると、うさんくさそうににたりとした。そして、最初の瞬間、何となくおじ気づいたようなふうであった。少くとも、イヴァンにはそう思われた。けれど、これはほんの一瞬間で、その後はかえって異様な落ちつきはらった様子で、彼を驚かせた。イヴァンは、一目見たばかりで、彼が極度の病的状態にあることを確かめた。彼はひどく衰弱していた。いかにもむずかしそうに舌を動かして、のろのろと話をした。そして、ひどく痩せ細って黄いろくなっていた。二十分間ばかりで終った面会の間にも、彼は絶えず頭痛がするだの、手足が抜けるように痛むだの、と訴えつづけた。去勢僧のような乾からびた彼の顔は、すっかり小さくなったように見えた。こめかみの毛はくしゃくしゃにもつれて、前髪はただ一つまみのしょぼしょぼ毛となって突っ立っていた。けれども、絶えず瞬きをして、何事か暗示してでもいるような左の目は、依然たるスメルジャコフであった。『賢い人とはちょっと話しても面白い』という言葉を、すぐにイヴァンは思い出した。彼は、スメルジャコフの足のほうにある床几に、腰をおろした。スメルジャコフは苦しそうに、寝床の上でちょっと礼を動かしたが、自分から口をきこうともせず、黙りこんだまま、もうさほど珍しくもない、といったような顔つきをして、イヴァンを眺めていた。
「話ができるかね?」とイヴァンは訊いた。「大して疲らせはしないが。」
「そりゃできますとも」とスメルジャコフは弱々しい声で呟いた。そして、「いつお帰りになったのでございますか?」と、相手がばつ[#「ばつ」に傍点]のわるそうなのを励まそうとでもするように、余儀なくおつき合いといった調子でこうつけたした。
「なに、きょう帰ったばかりさ……ここの、お前たちの騒ぎをご馳走になろうと思ってな。」
 スメルジャコフはほっとため息をついた。
「どうしてため息なんかつくんだ。お前はまえから知っていたんじゃないか?」とイヴァンはいきなり叩きつけた。
 スメルジャコフはものものしげにしばらく口をつぐんでいた。
「そりゃ知らなくって何としましょう! まえもってわかりきっていたんですからね。ただ、あんなにされようとは思いませんでしたもの。」
「どうされようと思わなかったんだ? お前、ごまかしちゃいかんぞ! あのときお前は穴蔵へ入りさえすれば、すぐ癲癇になると予言したじゃないか。いきなり穴蔵と言ったじゃないか。」
「あなたはそれを訊問の時に、申し立てておしまいになりましたか?」スメルジャコフは落ちつきはらって、ちょっとこう訊ねてみた。
 イヴァンは急にむらむらとした。
「いや、まだ申し立てないが、きっと申し立てるつもりだ。おい、こら、お前は今、おれにいろんなことを説明しなけりゃならないぞ。おい、いいか、おれはお前に冗談なんか言わしゃしないぞ!」
「何であなたに冗談を申しましょう。私はあなた一人を神様のように頼っているのでございますもの。」スメルジャコフはやはり落ちつきはらってこう言ったが、ただちょっとのま目をつぶった。
「第一に」と、イヴァンは切り出した。「癲癇の発作は予言できないってことを、おれはちゃんと知っている。おれは調べて来たんだから、ごまかしたって駄目だ。時日など予言することはできやしない。それに、お前はどうしてあのとき、時日ばかりか穴蔵のことまで予言したんだ? もしお前がわざと芝居をしたのでないとすれば、ちょうどあの穴蔵の中で発作にやられるってことを、どうしてお前はまえもって知っていたんだ?」
「穴蔵へは、そうでなくても、一日に幾度となく行かなきゃなりません」とスメルジャコフはゆっくりゆっくり言葉じりを引いた。「一年前にもちょうどそれと同じように、私は屋根裏の部屋から落ちたことがあるんでございますよ。発作の日や時間を予言することはできませんが、そういう虫の知らせだけは、いつでもあることでございますからね。」
「だが、お前は時日を予言したじゃないか!」
「旦那、私の癲癇の病気のことは、ここのお医者に訊いていただけばよくおわかりになります。私の病気が本当だったか仮病だったか、すぐわかりますよ。私はこのことについちゃあ、もう何にも申し上げることがありません。」
「だが、穴蔵は? その穴蔵ってことを、どうして前から知ったんだね?」
「あなたはよくよくその穴蔵が気になるとみえますね! 私はあの時あの穴蔵へ入ると、恐ろしくって心配でたまらなかったんですよ。ことにあなたとお別れして、もうほかに世界じゅう誰ひとり自分の味方になってくれる人はない、とこう思ったために、よけい恐ろしかったのでございます。私はあのとき穴蔵へ入ると、「今にも起りゃしまいか、あいつがやってきて倒れやしまいか?』[#「しまいか?』」はママ]とこう考えましたので、つまり、この心配のために、いきなり喉に頑固な痙攣が起って……まあ、それで私は真っ逆さまに落ちてしまいました。このことも、またあの前夜、門のそばであなたとこのお話をして、自分の心配や穴蔵の一件など申し上げたことも、私は残らずお医者のヘルツェンシュトゥベさんや、予審判事のニコライさまに詳しく申し立てましたので、あの人たちはすっかりそれを予審調書に書きつけなさいました。ここの先生のヴァルヴィンスキイさんなどは、とくにみんなの前で、それはそう考えたために起ったのだ、『倒れやしまいか、どうだろうか?』という懸念から起ったのだ、とこう主張して下さいました。で、その筋の方もそれはそのとおりに相違ない、つまり、私の心配から起ったものに相違ないと、調書へお書きつけになりました。」
 こう言い終ると、スメルジャコフは、いかにも疲れたらしく深い息をついだ。
「お前はもうそんなことまで申し立てたのかね?」イヴァンはいくらか毒気を抜かれてこう訊いた。彼はあの時の二人の対談を打ち明けると言って、スメルジャコフを嚇かすつもりだった。ところが、スメルジャコフのほうが先を越していたのである。
「私は何にも恐ろしいことはございませんからね! 何でも本当のことを正直に書きつけるがいいんですよ。」スメルジャコフはきっぱりと言った。
「門のそばで僕らがした話を、一句のこらず言ってしまったのかね?」
「いいえ、一句のこらずというわけでもありません。」
「癲癇のまねができると言って、あのときおれに自慢した、あのことも言ったのか?」
「いいえ、それは申しません。」
「それじゃ、聞きたいがね、お前はあの時、なぜおれをチェルマーシニャヘやりたがったんだ?」
「あなたがモスクワへいらっしゃるのを恐れたからでございますよ、何といっても、チェルマーシニャのほうが近うございますから。」
「嘘をつくな。お前はおれを逃そうとしたんじゃないか。罪なことはよけていらっしゃい、と言ったじゃないか。」
「あの時そう申しましたのは、あなたに対する情誼と心服から出たことでございます。家の中に不幸が起るような気がしましたので、あなたをお気の毒に思ってのことなんで。もっとも、私はあなたのことよりも、自分の身が可哀そうだったのでございます。それで、罪なことはよけるようになさいと申し上げたのは、今に家の中に不幸が起るから、お父さんを保護なさらなければならないということを、あなたに悟っていただくためだったのでございます。」
「そんならまっすぐに言えばいいじゃないか、馬鹿!」イヴァンは急にかっとなった。
「どうしてあの時まっすぐに言えましょう? 私があんなふうに申したのは、ただもしやという心配ばかりでございますから、そんなことを言えば、あなたがご立腹なさるにきまっているじゃありませんか。私もむろん、ドミートリイさまが何か騒動を始めなさりはしないか、あの金だってご自分のものとお考えになっていらっしゃるのですから、持ち出したりなどなさりはしないかと、心配しないでもなかったんですけれど、あんな人殺しがもちあがろうなどと、誰が思いましょう? 私はただあの方が、旦那さまの蒲団の下に敷いておいでになったあの封筒入りの三千ルーブリを、お取りになるだけだろうと思っていましたが、とうとう殺しておしまいになったんですものね。旦那、あなだだって予想外だったでございましょう?」
「お前さえ予想外だったと言うものを、どうして僕が予想して家に残っているものか? どうしてお前はそんな矛盾したことを言うんだ?」イヴァンは思案しながらこう言った。
「ですけれど、私があなたにモスクワをやめて、チェルマーシニャヘいらっしゃるようにお勧めしたことからでも、お察しがつきそうなものでございますね。」
「一たいどうしてそれが察しられるんだ!」
 スメルジャコフはひどく疲れたらしく、またしばらく黙っていた。
「私があなたに、モスクワよりチェルマーシニャのほうをお勧めしたのは、あなたがこの土地の近くにいらっしゃるのを望んだからでございますよ。だって、モスクワは遠うござんすからね。それに、ドミートリイさまも、あなたが近くにいらっしゃることを知ったら、あまり思いきったことをなさらないだろうと存じたからなので。これでもお察しがつきそうなはずじゃありませんか。それに、私のことにしても、何事か起ればあなたがすぐに駈けつけて、私を保護して下さるはずでございます。なぜと申して、私はグリゴーリイ・ヴァシーリッチの病気なことや、私が発作を恐れていることなどを、ご注意申し上げておいたからでございます。また、亡くなられた旦那の部屋へ入るあの合図を、ドミートリイさまが私の口から聞いて知っていらっしゃると、あなたにお話し申しましたのは、つまり、ドミートリイさまがきっと何かしでかしなさるに相違ない、とこうあなたがお察しになって、チェルマーシニャヘ行くどころか、すっかり腰を据えてここへ残っておいでになるだろう、と考えたからでございます。」
『話っぷりこそ煮えきらないが、なかなか筋みちの立ったことを言うわい』とイヴァンは考えた。『ヘルツェンシュトゥベは精神状態に異状があると言ったが、どこにそんなものがあるんだ?』
「お前はおれを馬鹿にしてるんだな、こん畜生!」彼はひどく腹をたててこう叫んだ。
「ですが、私はあの時、あなたがもうすっかりお察しになったことと思っていましたよ」とスメルジャコフはきわめて平気な様子で受け流した。
「察しておれば、出かけやしないはずだ!」イヴァンはまたかっとして叫んだ。
「でもね、私はあなたが何もかもお察しのうえ、どこでもいいから逃げ出してしまおう、恐ろしい目にあわないように、できるだけ早く罪なことをよけていようと、こうお思いになったのだとばかり存じていました。」
「お前は誰でも自分のような臆病者と思っているのか?」
「ごめん下さいまし、実はあなたも私と同じような方だと存じましたので。」
「むろん、察すべきはずだったのだ」とイヴァンは興奮しながら言った。「そうだ、おれはお前が何か穢らわしいことをするだろうと察していたよ……とにかく、お前は嘘をついている、また嘘をついている」と彼は急に思い出して叫んだ。「お前はあのとき馬車のそばへ寄って、『賢い人とはちょっと話しても面白い』と言ったことを憶えているだろう。してみると、お前はおれが出発するのを喜んで、賞めたんじゃないか?」
 スメルジャコフはもう一度、また一度ため息をついた。その顔には血の気がさしたようであった。
「私が喜びましたのは」と彼はいくらか息をはずませながら言った。「それはただ、あなたがモスクワでなしに、チェルマーシニャヘ行くことに同意なすったからなんで。何といっても、ずっと近うございますからね。ですが、私があんなことを申したのは、お賞めするつもりじゃなくって、お咎めするつもりだったのでございます。それがあなたはおわかりにならなかったので。」
「何を咎めたんだ?」
「ああした不幸を感じていらっしゃりながら、ご自分の親ごを捨てて行って、私どもを護ろうとして下さらないからでございます。なぜって、私があの三千ルーブリの金を盗みでもしたように、嫌疑をかけられる心配がありましたからね。」
「こん畜生!」とイヴァンはまた呶鳴った。「だが待て、お前は予審判事や検事に、あの合図のことを申し立てたのか?」
「すっかりありのままに申し立てました。」
 イヴァンはまた内心おどろいた。
「おれがもしあのとき何か考えたとすれば」と彼はふたたび始めた。「それは、お前が何か穢らわしいことをするだろうということだ。ドミートリイは殺すかもしれないが、盗みなんかしない、おれはあの時、そう信じていた……ところが、お前のほうは、どんな穢らわしいことをするかしれない、と覚悟していたのだ。現にお前は、癲癇の発作がまねられると言ったじゃないか。何のためにあんなことをおれに言ったんだ?」
「あれはただ、私が馬鹿正直なために申したのでございます。私は生れてから一度も、わざとそんなまねをしたことはありません。ただあなたに自慢したいばかりに申し上げたので。まったく馬鹿げた冗談でございますよ。私はあの時分、あなたが大好きでございましたから、あなたには心やすだてでお話ししたのでございます。」
「でも、兄貴は、お前が殺したのだ、お前が盗んだのだと言って、一も二もなくお前に罪をきせているぞ。」
「そりゃ、あの方としてはそう言うよりほか仕方がございますまい」とスメルジャコフは苦い薄笑いをもらした。「でも、あんなにたくさん証拠があがっているのに、誰があの方の言うことを信用するものですか。グリゴーリイさんも戸が開いてるのを見たんですもの、こうなりゃもう仕方がないじゃありませんか。まあ、あんな人なんかどうでもよござんすよ。自分の命を助けようと思って、もがいてらっしゃるんですからね……」
 彼は静かに口をつぐんだが、急に何か思いだしたようにつけたした。
「それに、結局おなじことになりますよ。あの方は私の仕業だと言って、私に罪をなすりつけようとしていらっしゃる、――そのことは私も聞きました、――けれど、たとえ私が癲癇をまねる名人だったにしろ、もしあのとき私が本当に、あなたのお父さまを殺そうという企らみを持っていたら、癲癇のまねが上手だなんかって、あなたに前もって言うはずがないじゃありませんか! もし私があんな人殺しの企らみをいだいていたら、生みの息子さんのあなたに、自分のふためになる証拠を前もって打ち明けるような、そんな馬鹿なことをするはずがないじゃありませんか! 一たいそんなことが本当になるでしょうか! どうして、そんなことがあろうとは金輪際、考えられやしませんよ。現に今にしても、私とあなたのこの話は神様よりほかに、誰も聞いているものはありません。が、もしあなたが検事やニコライさんにお話しなすったとしても、結局それは私の弁護になってしまいます。なぜって、以前それほどまでに馬鹿正直であったものを、どうしてその悪漢などと思われましょう? こう考えるのは、ごくあたりまえなことじゃありませんか。」
「まあ、聞いてくれ。」スメルジャコフの最後の結論に打たれたイヴァンは、つと席を立って、話を遮った。「おれはちっともお前を疑っちゃいない。お前に罪をきせるのを、滑稽なこととさえ思ってるんだ……それどころか、お前がおれを安心させてくれたのを、感謝してるくらいだ。今日はもうこれで帰るが、また来るよ、じゃ、さようなら、体を大切にするがいい、何か不自由はないかね?」
「いろいろと有難うございます。マルファ・イグナーチエヴナが私を忘れないで、もし私に入用なものがあれば、以前どおり親切に何でも間にあわせてくれます。親切な人たちが毎日たずねて来てくれますので。」
「さようなら。だが、おれはお前が癲癇のまねがうまいことを、誰にも言わないようにするから……お前も言わないほうがいいよ。」イヴァンはなぜか突然こう言った。
「ようくわかっております。もしあなたがそれをおっしゃらなければ、私もあの時あなたと門のそばでお話ししたことを、すっかり申さないことにいたしましょう……」
 イヴァンは急にそこを立ち去ったが、もう廊下を十歩も歩いた頃にやっとはじめて、スメルジャコフの最後の一句に、何やら侮辱的な意味がふくまれているのに気がついた。彼は引っ返そうと思ったが、その考えもちらとひらめいただけで、すぐ消えてしまった。そして『ばかばかしい!』と呟くと、そのまま急いで病院を出た。彼は犯人がスメルジャコフではなく、自分の兄ミーチャであると知って、実際、安心したような気がした(もっとも、それは正反対であるべきはずだったけれど)。ところで、なぜ彼はそんなに安心したのか、――そのとき彼はそれを解剖することを望まず、自分の感覚の詮索だてに嫌忌の念さえ感じた。彼は何かを忘れてしまいたい気がしたのである。その後、幾日かの間に、ミーチャを圧倒するような多数の証拠を詳しく根本的に調べるとともに、彼はすっかりミーチャの有罪を信じてしまった。ごくつまらない人々、――例えばフェーニャやその祖母などの申し立ては、ほとんど人をして戦慄せしめるていのものであった。ペルホーチンや、酒場や、プロートニコフの店や、モークロエの証人などのことは、今さら喋々するまでもなかった。ことに細かいデテールが人々を驚倒させた。秘密の『合図』に関する申し立ては、戸が開かれていたというグリゴーリイの申し立てと同じくらいに、判事や検事を驚かした。グリゴーリイの妻のマルファは、イヴァンの問いに対して、スメルジャコフは自分たちのそばの衝立ての陰に夜どおし寝ていた、そこは『わたしどもの寝床から三足と離れちゃおりませんでした』から、自分はずいぶん熟睡していたけれど、たびたび目をさまして、あれがそこに唸っているのを聞いた、『しじゅう唸っていました。ひっきりなしに唸っていました』とこう言いきった。イヴァンはまたヘルツェンシュトゥベと話をして、スメルジャコフは狂人と思われない、ただ衰弱しているまでである、という意見を述べたけれど、それはただこの老医師の微妙なほお笑みを誘うにすぎなかった。『じゃ、あなたはあの男が今とくにどんなことをしてるかご存じですか?』と医師はイヴァンに訊いた。『フランス語を暗誦しているんですよ。あの男の枕の下には手帳が入っていましてね、誰が書いたものか、フランス語がロシヤ文字で書いてありますよ、へへへ!』で、イヴァンはとうとう一切の疑いを棄ててしまった。彼はもはや嫌悪の念なしに、兄ドミートリイのことを考えられなかった。ただ一つ不思議なのは、アリョーシャが下手人はドミートリイでなくて、『きっと確かに』スメルジャコフに相違ない、と頑固に主張しつづけることであった。イヴァンはいつもアリョーシャの意見を尊重していたので、そのために今ひどく不審を感じた。もう一つ不思議なのは、アリョーシャがイヴァンとミーチャの話をするのを避けて、決して自分のほうからは口をきかず、ただイヴァンの問いに答えるにすぎないということである。イヴァンはこれにも十分気がついていた。
 けれど、それと同時に、彼はぜんぜん別なある事柄に気を取られていた。彼はモスクワから帰ると間もなく、カチェリーナに対する焔のようなもの狂おしい熱情に没頭したのである。しかし、その後イヴァンの生涯に影をとどめたあの新しい情熱については、いま物語るべき機会でない。これはまた、別な小説の主題を形成すべきものである。が、その物語をいつかまた始めるかどうか、それは筆者《わたし》自身にもわかっていない。だが、この場合どうしても黙って打ち過されないことがある。イヴァンは、もう前にも書いたとおり、あの夜アリョーシャと一緒に、カチェリーナの家から帰る途中『僕はあまりあの女が好きじゃない』と言ったが、それは大きな嘘であった。もっとも、彼は時とすると、殺してしまいかねないくらい彼女を憎むこともあったが、概して気が狂いそうなほど彼女を愛していた。それにはたくさんの理由が重なっていた。彼女はミーチャの事件に心の底から震撼されて、ふたたび自分のもとへ帰って来たイヴァンを、さながら救い主かなんぞのように思い、いきなり彼に縋りついたのである。彼女が忿怒と、侮蔑と、屈辱の感じをいだいているところへ、ちょうど以前彼女を熱愛していた男が、ふたたび現われたのである(そうだ、彼女はこのことをよく知っていた)。彼女はその男の知力と心情を、いつも深く崇敬していたのである。けれど、この厳正なる処女は、自分の恋人のカラマーゾフ式な抑えがたい激しい情熱を見ても、彼から深い敬慕の念を寄せられても、決してみずからを犠牲に捧げようとはしなかった。それと同時に、彼女は絶えずミーチャにそむいたことを後悔して、イヴァンと烈しく争った時など(彼らはしじゅう喧嘩をした)、露骨にこのことを男に言ったりした。イヴァンがアリョーシャと話をした時、『虚偽の上の虚偽』と呼んだのはこのことなのである。そこにはむろん、多くの虚偽があった、これが何よりもイヴァンを憤慨させたのである……が、このことはあとで言おう。要するに、彼は一時ほとんどスメルジャコフのことを忘れていたのだ。けれども、スメルジャコフを初めて訪ねてから二週間ばかりたつと、また例の奇怪な想念がイヴァンを苦しめはじめた。彼は絶えず自問した、――なぜ自分はあのとき、例の最後の夜、すなわち出発の前夜、フョードルの家で、盗人のように足音を忍ばせながら階段へ出て、父親が下で何をしているかと、耳をすまして聞いたのだろう? なぜあとでこのことを思い出したとき、嫌悪を感じたのだろう? なぜその翌朝、途中であんなに急に憂愁に悩まされたのか? なぜモスクワへ入りながら、『おれは卑劣漢だ!』とひとりごちたのか? こんなふうに反問したことだけ言えばたくさんであろう。いま彼はこうしたさまざまな悩ましい想念のために、カチェーリーナさえ忘れがちになりそうな気がした。それほどまでに、彼はまた突然この想念の虜になったのである。ちょうどこういうことを考えて往来を歩いている時、ふとアリョーシャに出会った。彼はすぐ弟を呼び止めて、だしぬけに問いかけた。
「お前おぼえてるだろう、ドミートリイが食事ののちに家の中へ暴れ込んで、親父を撲ったね。それから、僕が外で『希望の権利』を保有するとお前に言ったことがあったっけ。そこで、一つお前に訊くが、そのとき僕が親父の死ぬのを望んでいると考えたかね、どうかね。」
「考えました」とアリョーシャは低い声で答えた。
「もっとも、それは実際そのとおりだったんだ、推察も何もいりゃしない。だが、お前はその時、『毒虫同士がお互いに食い合う』のを、つまりドミートリイが親父を一ときも早く殺すのを、僕が望んでいると思やしなかったかね?……そして、僕自身もその手つだいくらいしかねない、と思やしなかったかね?」
 アリョーシャは心もち顔を蒼くして、無言のまま兄の目を見た。
「さあ、言ってくれ」とイヴァンは叫んだ。「僕はお前があの時どう考えたか、知りたくってたまらないんだ、本当のことを聞きたいんだ、本当のことを!」
 彼はもう前から一種の憎しみを浮べて、アリョーシャを見つめながら、重々しい息をついていた。
「赦して下さい、僕はあの時、そうも思ったのです」とアリョーシャは囁いて、『やわらげるような言葉』を一言もつけ加えずに黙ってしまった。
「有難う!」イヴァンは断ち切るようにこう言ったまま、アリョーシャをおき去りにして、急ぎ足に自分勝手なほうへ行ってしまった。
 そのとき以来アリョーシャは、兄のイヴァンがなぜかきわ立って自分を避けるように努め、そのうえ自分を愛さないようにさえなったことに気づいた。アリョーシャのほうでも、もうイヴァンのところへ行くのをやめてしまった。ところで、イヴァンはその時アリョーシャと会った後、自分の家へ帰らないで、突然ふたたびスメルジャコフのもとへ出向いたのである。

[#3字下げ]第七 二度目の訪問[#「第七 二度目の訪問」は中見出し]

 スメルジャコフはその時分、病院を出ていた。イヴァンは彼の新しい住まいを知っていた。それは、例の歪みかしいだ丸太づくりの小さい百姓家みたいな家で、廊下を真ん中にして二つに仕切られていた。一方には、マリヤ・コンドラーチエヴナと母親が住まっているし、いま一方にはスメルジャコフが納まっていた。彼がどういう条件で同棲しているのか、――ただで世話になっているのか、それとも金を出しているのか、それは誰にもわからなかった。あとになって世間の人は、たぶんマリヤの婿という形で、当分ただで世話になっていたのだろうと噂した。母親も娘も一方ならず彼を尊敬して、自分たちより一段うえの人のように見なしていた。
 イヴァンはとんとん戸を叩いて、玄関へ入ると、すぐにマリヤの案内で、スメルジャコフの占領している『綺麗なほうの部屋』へ通った。部屋の中には化粧瓦の暖炉があって、恐ろしく暖かくしてあった。まわりの壁には、けばけばしい空色の壁紙が貼ってあったが、あいにく一面ぼろぼろに裂けて、その中で油虫がおびただしい群をなして匐い廻りながら、絶えずがさがさ音をたてていた。家具類もいたって粗末なもので、両側の壁のそばにはベンチが二つあるし、テーブルのそばには二脚の椅子があった。テーブルはありふれた木製であったが、それでもちゃんとばら色の模様のついたテーブル掛けで蔽われていた。二つの小さい窓ぎわには、それぞれゼラニウムの鉢植がのっていた。片隅には龕に納められた聖像がかかっている。テーブルの上には、でこぼこだらけの、あまり大きからぬ銅のサモワールと、茶碗を二つのせた盆があった。けれど、スメルジャコフはもうお茶を飲んでしまったので、サモワールの火も消えていた……彼自身は、テーブルのそばなる[#「そばなる」はママ]ベンチに腰かけて、手帳を見ながら、ペンで何やら書きつけていた。そばにはインク壜と、背の低い青銅の燭台があった。燭台にはステアリン蝋燭が立っていた。イヴァンはスメルジャコフの顔を見るとすぐ、もう病気はすっかり癒ったのだなと思った。彼の顔は前よりはればれして、肉づきがよく、前髪は梳き上げられ、鬢の毛には香油がつけてあった。彼は華美な木綿の部屋着を着こんで、腰かけていたが、それはだいぶ着古したもので、かなりぼろぼろしていた。鼻には眼鏡がかかっていた。以前イヴァンは、彼が眼鏡をかけているのを見たことがなかった。このつまらない事実が、突然イヴァンを一そうむらむらとさせた。『何だ、生意気な、眼鏡なぞかけやがって!』とイヴァンは腹の中で思った。スメルジャコフはゆっくり頭を持ちあげて、入って来た客を眼鏡ごしにじっと見やった。やがて彼は静かに眼鏡をはずし、ベンチから立ちあがったけれど、何だかまるでうやうやしいところがなく、いかにももの憂そうで、ただおつき合いに必要なだけの礼儀を守るのだ、といったような様子をしていた。イヴァンはすぐこれに感づいて、胸の中へすっかり畳み込んだ。しかし、何より目についたのは、スメルジャコフの目つきであった。それはきわめて毒々しく不興げで、しかも高慢の色さえおびていた。『何のためにふらふらやって来たんだ。何もかもあの時すっかり話し合ったじゃないか。何の用でまたやって来たんだ?』とでも言っているよう。イヴァンはやっとのことで胸を撫でおろした。
「お前のところは暑いね」と彼は突っ立ったままこう言って、外套のボタンをはずした。
「お脱ぎなさいまし」とスメルジャコフは許可を与えた。
 イヴァンは外套を脱いで、ベンチに投げかけ、慄える手で椅子を取ると、急いでそれをテーブルのそばへ引き寄せ、腰をおろした。スメルジャコフはイヴァンよりさきに、例のベンチに腰をかけた。
「第一に、僕らのほかには誰もいないね?」とイヴァンは厳かな口調で、せきこんで訊いた。「誰か聞いてやしないかね?」
「誰も聞いちゃいませんよ。ご覧のとおり、あいだに玄関がありますからね。」
「おい聞け、おれがお前と別れて病院から出て行く時、お前は一たい何と言った? お前が癲癇をまねる名人だってことをおれが黙っていたら、お前もおれと門のそばでいろいろ話したことを、予審判事に申し立てないと言ったね?『いろいろ』とは何のことだ? どんなつもりで、お前はあの時あんなことを言ったんだ? おれを脅かしたのかね? 一たいおれがお前と何か組でも組んだとでもいうのか? おれがお前を恐れているとでも言うのかい?」
 自分が一切あてこすりや廻り遠い言い方を捨てて、公然たたかっているのだということを、相手に知らせようとするらしく、イヴァンは恐ろしい剣幕でこう言った。スメルジャコフの目は毒々しくぎらりと光って、左の目がしぱしぱ瞬きしだした。その目は例によって、控え目な、落ちついた表情をしていたけれど、すぐ自分の言い分を答えた、『お前さんが潔白を望むなら、さあ、これがその潔白でさ』とでも言うように。
「あの時のつもりは、こうでございました。あの時あんなことを言ったのは、あなたが前もって今度の親殺しを承知していながら、お父さんをうっちゃって、旅へ立っておしまいになったものですから、世間の人があなたの心持について、よくないことを言うかもしれない、ひょっとしたら、どんなことを言いだすかもしれない、とこう思ったからでございます、――これを私はあの時、役人に言わないとお約束したわけなので。」
 見たところ、スメルジャコフはせきこまないで、おのれを制しながら、口をきいていたようであるが、その響きには何かしらきっぱりした、頑固な、毒々しい、ふてくされた、挑むような語気が響いていた。彼は臆面もなくイヴァンを見つめていた。で、イヴァンは初め一瞬間、目の中がちらちらするような思いがした。
「なに? どうしたって? 一たいお前は正気かどうなんだ?」
「まったく正気でございますよ。」
「じゃ、お前は、おれがあのとき、人殺しを知っていたと言うんだな?」とうとうイヴァンはこう叫んで、はげしく拳でテーブルをたたいた。「『またどんなことを言いだすかもしれない』とは何だ? さあ言え、悪党!』[#「悪党!』」はママ]
 スメルジャコフは黙ったまま、依然として例のずうずうしい目つきで、イヴァンを見つめていた。
「さあ、言え、くたばりそこないの悪党め、『またどんなこと』とは何だ?」とこっちは呶鳴った。
「私が今『どんなこと』と言ったのは、あなたご自身があの当時、お父さんの横死を望んでいらしったことなんで。」
 イヴァンは飛びあがりざま、力まかせに拳でスメルジャコフの肩を叩いたので、こっちはよろよろと壁に倒れかかった。見る見る彼の顔は涙に洗われた。彼は、「旦那、弱い者をぶったりなんかして、恥しいじゃありませんか!」と言いながら、突然、さんざんに鼻をかんだ青い格子縞の汚いハンカチで目を蔽うと、静かにしくしくと泣きだした。一分間ばかりたった。
「もうたくさんだ! やめろ!」とイヴァンはまた椅子に腰をおろしながら、とうとう命令するように言った。「お前はおれの癇癪玉を破裂させてしまおうとしてるんだ!」
 スメルジャコフは目からハンカチをどけた。その皺だらけになった顔ぜんたいが、たったいま受けた侮辱をありありと現わしていた。
「悪党め、じゃお前はあの時、おれがドミートリイと一緒になって、親父を殺そうとしてると思ったんだな?」
「私はあの時あなたのお考えがわからなかったのでございます」とスメルジャコフは腹だたしそうに言った。「だから、あの時、あなたが門へお入りになった時に、お留めしたんで。この点について、あなたを試してみようと存じましてね。」
「何を試すんだ? 何を?」
「お父さんが少しも早く殺されるのを、望んでいなさるかどうか、そのことでございますよ。」
 何よりもイヴァンを激昂させたのは、スメルジャコフが例のずうずうしい語調を、どこまでも強情に棄てないことであった。
「じゃ、あれは、お前が親父を殺したんだな!」イヴァンはだしぬけにこう叫んだ。
 スメルジャコフは軽蔑するように、にたりと笑った。
「私が殺したんでないということは、あなたもよっくご存じのはずじゃありませんか。私はまた、賢い人間が、二度とこんな話をする必要はないと思っていましたよ。」
「だが、なぜ、なぜあの時お前はおれに対して、そんな疑いを起したんだ?」
「もうご存じのとおり、ただただ恐ろしいばっかりに疑ったのでございます。なぜと申して、私はあの頃、恐ろしさにびくびくしながら、誰でも彼でも疑るような心持になっていましたからね。こういうわけで、あなたも試してみようと肚を決めました。だって、もしあなたが兄さんと同じようなことを望んでいらっしゃるとすれば、もう万事おしまいで、私も一緒に蠅のように殺されてしまうに違いない、とこう思ったのでございます。」
「おい、まて、お前は二週間まえには、そう言わなかったぞ。」
「病院であなたとお話をした時も、やはりこう言うつもりでございましたよ。ただよけいなことを言わなくっても、おわかりになると思ったばかりで、あなたは大そう賢いお方でございますから、真正面からの話はお好みでなかろうと思いましてね。」
「ええ、あんなことを言ってやがる! だが、返事をしろ、返事を。おれはどこまでも訊くぞ。どうしてお前はあのとき、その下劣な心の中に、おれとしてあるまじい、そんな下等な疑いを起したんだ?」
「殺すなんてことは、こりゃあなたにどうしてできることじゃありませんし、また殺そうという気もおありにならなかったでございましょう。だが、誰かほかのものが殺してくれたらいいくらいは、お思いになったはずでございますよ。」
「よくも平気で、平気でそんなことが言えるな! どういうわけでおれがそんなことを望むんだ、どうしておれがそんなことを望むわけがあるんだ?」
「どういうわけで? じゃあ、遺産はどうしたのでございます」とスメルジャコフは毒をふくんだ復讐の調子で答えた。「だって、もしお父さまが亡くなれば、あなた方ご兄弟は、めいめい四万ルーブリたらず、分けてもらえるはずでございました。ことによったら、それ以上になるかもしれません。が、もしフョードルさまがあの婦人と、あのアグラフェーナ・アレクサンドロヴナと結婚してごらんなさい、あのひとは結婚式をすまし次第、すぐに財産そっくり自分の名義に書き替えてしまいますよ。あのひともなかなか抜け目ありませんからね。そうすりゃ、あなた方ご兄弟三人は、お父さまが亡くなられたあとで、二ルーブリと手に入りゃしますまい。ところが、結婚はむずかしい話だったでございましょうか? わずか髪の毛一筋という瀬戸際だったのでございますよ。あのひとが小指一本うごかしさえすれば、お父さまはすぐにも舌を出し出し、あのひとのあとについて、教会へ駈けて行かれたに相違ありませんからね。」
 イヴァンは苦しそうに、やっと自分を抑えていた。
「よろしい、」彼はとうとうそう言った。「見ろ、このとおり、おれは飛びあがりもしなければ、お前を撲りもせず、また殺しもしなかった。さあ、それからどうだというんだ。お前に言わせれば、兄のドミートリイを親父殺しの役廻りにきめておいて、おれがそれを当てにしていたと言うんだろう?」
「それを当てになさらないでどうしましょう。だって、あの方が殺してごらんなさい、それこそ貴族の権利も、位階も、財産もひんむかれて、流し者になってしまうでしょう。そうすりゃ、お父さまが殺されたあとで、あの人の取りまえは、あなたとアレクセイさんと、半分わけになるでしょう。つまり、あなた方お二人は四万ルーブリずつではなく、六万ルーブリずつ手に入るわけになりますものね。だから、あなたはあの時、きっとドミートリイさまを当てになすったんでございます!」
「いいか、おれは我慢して聞いてるんだぞ! だが、聞け、悪党! おれがもしあのとき誰かを当てにしたとすれば、それはむろんお前だ、ドミートリイじゃない。おれは誓って言うが、お前が何か穢らわしいことをしやしないかって、そんな気がしてたんだ……あの時……おれは自分の心持を覚えている?」
「私もあの時ちょっとそう思いましたよ。あなたはやはり、私のことも当てにしていらっしゃるんだろうってね」とスメルジャコフは嘲るように、にたりとした。「だから、こういうわけで、あの時あなたは私の前で、一そうはっきりご自分の正体を見せておしまいになったので。なぜといってごろうじ、もし私が何かしでかしそうだと感づきながら、しかも出発なすったのだとすれば、つまり、お前は親父を殺してもいい、おれは邪魔をしないぞ、とおっしゃったのも同然じゃありませんか。」
「悪党め、お前はそうとっていたんだな。」
「それというのも、やはりあのチェルマーシニャのためでございますよ。まあ、考えてもごらんなさいまし! あなたはモスクワへ行くつもりで、お父さまがどんなにチェルマーシニャヘ行けとおっしゃっても、撥ねつけてらしったんでございましょう! ところが、私風情のつまらない一ことで、すぐに賛成なすったじゃありませんか! あなたがあの時、チェルマーシニャ行きに賛成なさるなんて、どういう必要があったのでございましょう? あなたが私の一ことで、わけもなくモスクワ行きをよして、チェルマーシニャヘおいでになったところを見れば、何か私を当てにしてらしったんじゃありませんか。」
「そうじゃない、誓って言う、決してそうじゃない!」とイヴァンは歯ぎしりしながら唸った。
「どうしてそうじゃないんですね? 本当を言えば、まるで反対ですよ。あなたは息子の身として、あの時あんなことを言った私なぞは、まず警察へ突き出してしまうか……少くとも、その場で横面を張り飛ばすか、しなけりゃならんはずじゃありませんか。ところが、まあ、どうでございましょう、あなたは少しも怒るどころじゃない、その反対に、すぐ私のつまらない言葉をそのまま喜んで採りあげて、出発なすったじゃありませんか。そんなことは、まるでばかばかしい話でございますよ。なぜって、あなたはお父さんの命を護るために、残っていらっしゃるのが本当だったんでございますからね……私はどうしても、こうとらずにゃいられませんよ!」
 イヴァンは眉をしかめながら、ぶるぶると慄える両の拳を膝に突いて、じっと腰かけていた。
「そうさ、お前の横面を張り飛ばさなかったのは、残念だったよ。」彼は苦笑した。「お前を警察へ引き摺り出すことは、あの時どうもできなかったんだ。誰がおれの言うことを、本当にしてくれるものか。またおれだって、どんな証拠を見せることもできないじゃないか。だが、横面を張ることは……ああ、残念ながら気がつかなかった。今びんたは禁じられているけれど、お前の面を粥にしてやるんだったにな。」
 スメルジャコフはさも気味よさそうに、イヴァンを眺めていた。
「人生の普通の場合には」と彼はいかにも自足したらしい、教訓的な調子で言いだした。それは、いつかグリゴーリイと信仰論をたたかわして、フョードルの食卓のそばで、老人をからかったのと同じ調子であった。「人生の普通の場合には、びんたは実際いま法律で厳禁されています。みんな叩くのをやめました。ですが、人生の特別な場合には、ただこの町ばかりではなく、世界じゅうどこへ行っても、ことに最も完全なフランス共和国でさえも、やはりアダムとイヴの時代と同じように撲っています。それは決して、いつになってもやめやしません。ところが、あなたはあの特別な場合にさえ、思いきっておやりになれなかったのでございますよ。」
「何かね、お前はフランス語を勉強してるのかね?」とイヴァンは、テーブルの上においてある手帳を顎でしゃくった。
「私だってフランス語くらい勉強して、自分の教養をはかってならんという法はありませんからね。私だってヨーロッパのああした仕合せなところへ、いつか行くおりがあるかもしれない、と思いましてね。」
「おい、悪党。」イヴァンは目を光らせ、全身を震わせた。「おれはな、お前の言いがかりを恐れてやしないんだぞ。だから、何でもお前の言いたいことを申し立てるがいい。おれが今お前を撲り殺さないのは、ただこの犯罪についてお前を疑っているからだ。お前を法廷へ引き出そうと思ってるからだ。おれはいまにお前の化の皮を引んむいてやるぞ。」
「ですが、私の考えじゃ、まあ、黙っていらしたほうがよござんすよ。だって、私がまったく何も悪いことをしていないのに、お責めになることなんかないじゃありませんか。それに、誰があなたを本当にするものですか? それでも、もしあなたがしいておっしゃるなら、私もすっかり言ってしまいますよ。私だって、自分を護る必要がありますからね!」
「おれが今お前を恐れてるとでも思うのかい?」
「私が今あなたに申し上げたことは、たとえ法廷では本当にしなくっても、その代り世間で本当にしますからね。そしたら、あなたも面目を潰すじゃありませんか。」
「それはやはり、『賢い人とはちょっと話しても面白い』ということなのかね、え?」イヴァンは歯ぎしりした。
「てっきり図星でございますよ。だから、賢い人におなんなさいまし。」
 イヴァンは立ちあがり、憤怒に身を震わせながら、外套を着た。そして、もうスメルジャコフには一言も返事もしなければ、そのほうを見向きもせず、いそいで小屋から出て行った。涼しい夜気は、彼の気持を爽やかにした。空には月が皎々と照っていた。思想と感覚の恐ろしい渦巻が、彼の心の中で煮え返っていた。『今すぐスメルジャコフを訴えてやろうか? だが、何を訴えるんだ。あいつには何といっても罪はないんだ。かえって反対に、あいつのほうでおれを訴えるだろう。実際、おれはあのとき何のためにチェルマーシニャヘ行ったんだ? 何のためだ? 何のためだ? 何のためだ?』とイヴァンは自問した。『そうだ、むろん、おれは何かを予期していた。あいつの言うとおりだ』と、またもや彼の頭に浮んだのは、最後の夜、父の家の階段で立ち聞きしたことであった。けれど、今度はそれを思いだすと、何ともいえぬ苦痛を感じたので、まるで何かに突き刺されたように、歩みさえ止めてしまった。『そうだ、おれはあの時あれを予期していたんだ、まったくそうなんだ。おれは望んでたんだ、まったくおれは親父が殺されるのを望んでたんだ! おれは人殺しを望んだのだろうか、望んだのだろうか? スメルジャコフを殺さなけりゃならん! 今もしスメルジャコフを殺す勇気がなければ、おれは生きてる価値はない!……』
 イヴァンは家へ帰らずに、すぐまたその足でカチェリーナのところへ赴き、その様子で彼女を驚かせた。彼はまるで気ちがいそのままであった。彼はスメルジャコフとの話を、微細な点まで残らず打ち明けた。そして、いくらカチェリーサから諭されても、落ちついた気分になれず、しきりに部屋の中を歩き廻りながら、奇怪なことをきれぎれに喋り立てた。とうとう彼は椅子に腰をおろし、テーブルに肱を突き、頭を両手で支えながら、奇妙な文句を口走った。
「もし下手人がドミートリイでなくって、スメルジャコフだとすれば、僕もあいつと連帯なんです。だって、僕があいつを使嗾したんですからね。いや、僕はあいつを使嗾したろうか、――そりゃどうだかわからない。けれど、もし下手人があいつで、ドミートリイでなければ、むろん僕も下手人です。」
 カチェリーナはこれを聞くと黙って立ちあがった。そして、自分の書きもの卓《づくえ》のところへ行って、その上にあった箱を開き、中から一葉の紙片を取り出して、イヴァンの前においた。これが例の証拠品で、後日イヴァンがアリョーシャに向って、兄ドミートリイが父親を殺したという『数学的証明』と言ったものである。それはミーチャが酔っ払って、カチェリーナに書き送った手紙であった。それを書いたのは、彼が修道院へ帰るアリョーシャと野っ原で出会ったその晩のことで、つまり、カチェリーナの家でグルーシェンカが彼女を辱しめた後のことであった。その時、ミーチャはアリョーシャと別れると、グルーシェンカの家へ飛んで行った。グルーシェンカに会ったかどうかはわからないが、とにかく彼はその晩、料理屋の『都』へ行って、そこで例のとおり盛んに飲んだ。やがて、酔いに乗じて、ペンと紙を取り寄せ、自分にとって重大な証拠品を書いたのである。それは辻褄の合わない、乱雑な、くだくだしい手紙で、どう見ても『酔いどれ』の手紙であった。それはちょうど、酒に酔った人が家へ帰って来て、自分はいま侮辱された、自分を侮辱したものはしようのない悪党だが、自分はその反対に素晴らしい立派な人間で、自分はその悪党に仕返しをしてやるのだと、涙を流し、拳でどんどんテーブルを敲きながら、とりとめもないことを長たらしく、女房や家のものなどにやっきとなって喋りちらす、そういう種類のものであった。彼が酒場でもらった手紙の用紙は、普通の下等な書翰紙の汚い切れっぱしで、その裏には何やら計算のようなものが書いてあった。酔いどれが管を巻くのだから、むろん紙面がたりなかった。で、ミーチャは余白一面に書いたばかりか、最後の幾行かは、前に書いた上へ筋かいに書かれてあった。それはこういう意味の手紙であった。

[#ここから1字下げ]
『宿命的なるカーチャ! あす僕は金を手に入れて、お前の三千ルーブリを返済しよう。偉大なる忿怒の女よ、さようなら、僕の愛よ、さようなら! もうおしまいにしよう! 明日、僕はあらゆる人に頼んで金を手に入れる。もし手に入らなければ、きっと誓っていう、イヴァンが立つとすぐ、親父のところへ行って、頭をぶち割って、枕の下にある金を奪うつもりだ。僕は懲役へやられても、三千ルーブリの金はお返しする。だから、お前も赦してくれ。僕は額を地面につけてお辞儀をするよ。なぜなら、僕はお前に対して卑劣漢だったからだ。赦してくれ。いや、いっそ赦してくれるな、そのほうがお前も僕も気持が楽だろう! お前の愛よりも、懲役のほうがましだ。僕はほかの女を愛してるんだから。お前はその女を、今日こそよく知ったろう。だから、どうしてお前に赦すことができよう? 僕は自分の泥棒を殺すのだ! そして、お前たち一同をのがれて東へ行く。そして、誰のことも忘れてしまおう。あの女もやはり忘れるのだ。僕を苦しめるのはお前ばかりじゃなくって、あの女[#「あの女」に傍点]もそうなんだから、さようなら!
 二伸。僕は呪いを書いているが、それでもお前を尊敬しているんだ! 僕は自分の胸の声を聞いている。一つの絃が残って鳴っている。むしろ心臓を真っ二つに断ち割ったほうがいい。僕は自分を殺そう。だが、まずあの犬から殺してやる。あいつから三千ルーブリ奪って、お前に投げつけてやるのだ。僕はお前に対して悪党になっても、泥棒じゃないのだ! 三千ルーブリを待って[#「待って」はママ]おいで。犬の寝床の下にあるのだ、ばら色のリボン。僕は泥棒じゃない。自分の泥棒を殺すんだ。カーチャ、軽蔑するような見方をしてくれるな。ドミートリイは泥棒じゃない、人殺しだ! 僕は傲然と立って、お前の高慢を赦さないために、親父を殺し、自分を亡ぼすのだ。お前を愛さないために。
 三伸。お前の足に接吻する、さようなら!
 四伸。カーチャ、誰か僕に金をくれるように神様に祈ってくれ。そうすれば、血に染まないですんだ。誰もくれなければ血に染むことになる! 僕を殺してくれ!
[#ここで字下げ終わり]
[#地から5字上げ]奴隷にして敵なる
[#地から1字上げ]D・カラマーゾフ

 イヴァンはこの『証拠品』を読んでしまうと、確信を得て立ちあがった。してみると、下手人は兄で、スメルジャコフではない、スメルジャコフでなければ、すなわち彼イヴァンでもないわけである。この手紙は俄然彼の目に、数学的の意味を有するものとして映じてきた。もはや彼にとって、ミーチャの罪を疑う理由は少しもなくなった。ついでに断わっておくが、ミーチャがスメルジャコフと共謀して殺したのかもしれない、などというような疑念は、イヴァンの心に全然おこらなかった。またそういうことは、事実にもはまらなかった。イヴァンはすっかり安心してしまった。翌朝彼は、スメルジャコフとその嘲弄を思いだすと、われながらばかばかしくなった。幾日かたつと、彼はスメルジャコフに疑われたことを、どうしてあんなに苦にしたのかと、驚かれるほどであった。彼はスメルジャコフを蔑視して、あのことを忘れてしまおうと決めた。こうして、一カ月すぎた。彼はもう誰にもスメルジャコフのことを訊かなかった。しかし、彼が重い病気にかかって、正気でないということを、二度ばかりちらと耳にした。『結局、気がちがって死ぬんでしょう。』ある時、若い医者のヴァルヴィンスキイはこう言った。イヴァンはこの言葉を記憶に刻んだ。この月の最後の週に、イヴァンは自分もひどく体の工合が悪いのを感じるようになった。公判前に、カチェリーナがモスクワから招いた医者にも、彼は診察を乞いに出かけた。この時分、彼とカチェリーナとの関係は極度に緊張してきた。二人は、互いに愛し合っている敵同士みたいなものであった。ほんの瞬間ではあったが、カチェリーナが強い愛をもってミーチャに帰って行ったことは、イヴァンを狂おしいばかりに激昂させた。不思議なことには、筆者が前に書いたカチェリーナのもとにおける最後の場面まで、つまり、アリョーシャがミーチャとの面会後カチェリーナの家へ来た時まで、彼イヴァンは一カ月のあいだ一度も彼女の口から、ミーチャの犯行を疑うような口吻を聞いたことがなかった(そのくせ、彼女は幾度もミーチャに『帰って』行って、イヴァンの激しい憎悪を呼び起したのである)。それから、も一つ注意すべきことは、彼がミーチャへの憎悪を日一日と増しているのを感じつつも、同時にその憎悪がカチェリーナの復帰のためではなくて、彼が父親を殺した[#「彼が父親を殺した」に傍点]ためだということを、理解していた点である。彼はこのことを十分に感じていたし、意識してもいた。にもかかわらず、彼は公判の十日前にミーチャのところへ行って、兄に逃走の計画を持ち出した。この計画は、明らかに久しい前から考え抜いたものらしかった。そこには、彼をしてこういう行動に出さした重大な原因のほかに、彼の心にひそんでいたある癒しがたい傷があったのである。それは、ミーチャに罪を着せたほうが彼イヴァンにとって都合がいい、そうすれば、父親の遺産をアリョーシャと二人で四万ルーブリどころか、六万ルーブリずつ分配することができると、スメルジャコフがちょっと一こと洩らしたために生じたのであった。彼はミーチャを逃走させる費用として、みずから三万ルーブリを犠牲に供する決心をした。その時ミーチャのところから帰って来る途中、彼は非常な悲哀と苦悶を感じた。自分がミーチャの逃走を望むのは、ただ三万ルーブリを犠牲に供して、心の傷を癒すためばかりでなく、まだ何かほかに理由があるような気がしたのである。『おれが内心おなじような人殺しだからではあるまいか?』と彼はみずから問うてみた。何やら漠としてはいたが、焼けつくようなあるものが彼の心を毒した。ことにこの一カ月間というもの、彼の自尊心は非常な苦痛を覚えた。が、このことはあとで話すとしよう……
 イヴァンはアリョーシャと話をした後、自分の家のベルに手をかけたが、急にスメルジャコフのところへ行くことにした。これは突然、彼の胸に湧きあがった一種特別な憤怒の念に駆られたためであった。ほかでもない、カチェリーナがアリョーシャのいる前で、彼に向って、『あの人が(つまりミーチャが)下手人だって、わたしに言い張ったものは、ただあんた一人だけですわ!』と叫んだことを、ふいに思い出したのである。これを思い出すと、彼は棒立ちになった。彼はかつて一度も、ミーチャが人殺しだなどと、彼女に言い張ったことはなかった。それどころか、スメルジャコフのところから帰って来た時など、彼女の前で自分自身を疑ったほどである。むしろ彼女こそ、そのとき例の『証拠品』を見せて、ミーチャの犯罪を証明したのではないか。ところが、突然いまになって彼女は、『わたし自分でスメルジャコフのところへ行って来ました!』と叫んでいる。いつ行ったんだろう! イヴァンは一向それを知らなかった。してみると、彼女はミーチャの犯罪を十分に信じていないのだ! スメルジャコフは彼女に何と言ったろう? 一たいやつは何を、どんなことを言ったのだろう? 彼の心は恐ろしい憤怒に燃えあがった。どうして三十分前に、彼女のこの言葉を聞きのがして、叫ばずにすましたのか、わけがわからなかった。彼はベルをうっちゃって、スメルジャコフの家をさして出かけた。『今度こそ、あいつを殺してしまうかもしれない』と彼はみちみち考えた。
 
[#3字下げ]第八 三度目の、最後の面談[#「第八 三度目の、最後の面談」は中見出し]

 まだ半分道も行かないうちに、その日の早朝と同じような、鋭いからっ風が起って、細かいさらさらした粉雪がさかんに降りだした。雪は地面に落ちたが、落ちつくひまもなく風に巻き上げられた。こうして、間もなく本当の吹雪になってしまった。この町でも、スメルジャコフの住まっているあたりには、ほとんど街灯というものがなかった。イヴァンは暗闇の中を吹雪にも気づかず、ほとんど本能的に路を見分けながら、歩いて行った。頭が割れるように痛んで、こめかみがずきずきいった。手首は痙攣を起していた(彼はそれを感じた)。マリヤの家まぢかになった頃、とつぜん一人の酔いどれに出会った。それはつぎはぎだらけの外套を着た背の低い百姓で、よろよろと千鳥足で歩きながら、ぶつぶつ言ったり、罵ったりしていた。急に罵りやめたかと思うと、今度はしゃがれた酔いどれ声で、歌いだすのであった。

[#ここから2字下げ]
やあれ、ヴァンカは
ピーテルさして旅へ出た
わしゃあんなやつ待ちはせぬ
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、彼はいつもこの三の句で歌を切って、また誰やら罵りだすかと思うと、またとつぜん歌を繰り返しはじめた。イヴァンはまるでそんなことを考えもしないのに、もうさきほどからこの百姓に、恐ろしい憎悪を感じていたが、やがてそれをはっきり意識した。すると、いきなり、百姓の頭に拳骨を見舞いたくてたまらなくなった。ちょうどこの瞬間、彼ら二人はすれ違った。そのとたん百姓はひどくよろけて、力一ぱいイヴァンにぶつかった。イヴァンはあらあらしく突きのけた。百姓は突き飛ばされて、凍った雪の上へ丸太のように倒れたが、病的にただ一度、『おお! おお!』と唸ったきりで、そのまま黙ってしまった。イヴァンが一歩ちかよって見ると、彼は仰向きになったまま、身動きもせず、知覚を失って倒れていた。『凍え死ぬだろう!』とイヴァンは考えたなり、またスメルジャコフの家をさして歩きだした。
 彼が玄関へはいると、マリヤが蝋燭を手に駈け出して、戸を開けた。そして、パーヴェル・フョードロヴィッチ(すなわちスメルジャコフ)は大病にかかっている、べつに寝てるというわけではないが、ほとんど正気を失った様子で、お茶の支度をしろと言いつけながら、それを飲もうともしない、というようなことを彼に囁いた。
「じゃ、暴れでもするのかね?」とイヴァンはぞんざいに訊いた。
「いいえ、それどころじゃありません。ごく穏やかなんでございます。ただあまり長くお話をなさらないで下さいまし……」とマリヤは頼んだ。
 イヴァンは戸を開けて、部屋の中ヘ一足はいった。
 初めて来た時と同じように、部屋はうんと暖めてあったが、中の様子がいくらか変っていた。壁のそばにあったベンチが、一つ取り除けられて、その代り、マホガニイに似せた大きな古い革張りの長椅子がおいてあった。その上には蒲団が敷かれて、小ざっぱりとした白い枕がのっていた。スメルジャコフはやはり例の部屋着を着て、薄団の上に坐っていた。テーブルは長椅子の前に移されていたので、部屋の中はひどく狭苦しくなっていた。テーブルの上には、黄いろい表紙のついた厚い本がのっていたが、スメルジャコフはそれを読んでいるでもなく、ただ坐ったきり、何にもしていないらしかった。彼はゆっくりした無言の目つきで、イヴァンを迎えた。見たところ、イヴァンが来たのに一こう驚かないふうであった。彼はすっかりおも変りがして、ひどく痩せて黄いろくなっていた。目は落ち込んで、その下瞼には蒼い環さえ見えた。
「お前は本当に病気なのかね?」イヴァンは立ちどまった。「おれは長くお前の邪魔をしないから、外套も脱ぐまいよ。どこへ腰かけたらいいんだ?」
 彼はテーブルの反対の側から廻って、椅子を引き寄せ、腰をおろした。
「なぜ黙っておれを見ているんだ? おれはたった一つ、お前に訊きたいことがあって来たんだ。まったくお前の答えを聞かないうちは、どうあっても帰らんつもりだ。お前のところヘカチェリーナさんが来るだろう?」
 スメルジャコフは依然として、静かにイヴァンを見ながら、長い間じっとおし黙っていたが、急に片手を振って、顔をそむけてしまった。
「どうしたんだ?」とイヴァンは叫んだ。
「どうもしません。」
「どうもしないはずはない!」
「ええ、まいりましたよ。だが、どうだっていいじゃありませんか。帰って下さい。」
「いや、帰らない! いつ来たか言え!」
「なに、私はあのひとのことなんか覚えてもいませんよ。」スメルジャコフは軽蔑するように、にたりと笑ったが、急にまたイヴァンのほうへ顔を向けて、一種もの狂おしい憎悪の目で彼を見つめた。それは、一カ月前に会ったときと同じ目つきであった。
「どうやら、あなたもご病気のようですね。まあ、げっそりとお痩せなすったこと、まるでその顔色ったらありませんよ」と彼はイヴァンに言った。
「おれの体のことなど、心配してくれなくてもいいから、おれの訊いたことに返事をしろ。」
「それに、あなたの目の黄いろくなったことはどうでしょう。白目がまるで黄いろくなってしまって、ひどくご心配ですかね?」
 彼は軽蔑するように、にたりとしたが、急に声をたてて笑いだした。
「おい、いいか、おれはお前の返事を聞かないうちは帰りゃしないぞ!」とイヴァンは恐ろしく激昂して叫んだ。
「何だってあなたは、そうしつこくなさるんです? どうして私をいじめなさるんです?」とスメルジャコフはさも苦しそうに言った。
「ええ、畜生! おれはお前に用事なんかないんだ。訊いたことにさえ返事すりゃ、すぐ帰る。」
「何もあなたに返事することなぞありませんよ!」とまたスメルジャコフは目を伏せた。
「いや、きっとおれはお前に返事をさせる!」
「どうしてそんなに心配ばかりなさるんです!」とスメルジャコフは急にイヴァンを見つめた。彼の顔には軽蔑というよりも、もはやむしろ一種の嫌悪が現われていた。「あす公判が始まるからですか? そんなら、ご心配にゃおよびません、あなたに何があるもんですか! 家へ帰って安心してお休みなさい。ちっとも懸念なさることはありゃしません。」
「おれはお前の言うことがわからん……どうしておれが明日の日を恐れるんだ?」とイヴァンはびっくりしてこう言った。と、ふいに彼の心は事実、ある驚愕に打たれて、ぞっとしたのであった。スメルジャコフはまじまじとそれを眺めていた。
「おわかりにな―り―ませんかね?」と彼はなじるように言葉を切りながら言った。「賢いお方が、こうした茶番をやるなんて、本当にいいもの好きじゃありませんか!」
 イヴァンは黙って彼を眺めた。イヴァンはこういう語調を予期しなかった。それは、実に傲慢きわまるものであった。しかも、以前の下男が、いま彼にこうした口をきくというのは、それこそ容易ならぬことであった。この前の面談の時でさえ、まだまだこんなことはなかった。
「ちっとも、ご心配なさることはありませんて、そう言ってるじゃありませんか。わたしゃああなたのことは、何も申し立てやしませんからね。証拠がありませんや。おや、お手が慄えてますね。どうして指をそんなに、ぶるぶるさせていらっしゃるんです? さあ、家へお帰んなさい。殺したのはあなたじゃありません[#「殺したのはあなたじゃありません」に傍点]。」
 イヴァンはぎくっとした。彼はアリョーシャのことを思いだした。
「おれでないことは自分で知っている……」と彼は呟いた。
「ご存じ―ですかね?」とまたスメルジャコフは言葉じりを引いた。
 イヴァンはつと立ちあがって、スメルジャコフの肩を掴んだ。
「すっかり言え、毒虫め! すっかり言っちまえ!」
 スメルジャコフはびくともしなかった。彼はただ狂的な憎悪をこめた目で、イヴァンにじっと食い入るのであった。
「じゃ、申しますがね、殺したのは実はあなたですよ」と彼はにくにくしくイヴァンに囁いた。イヴァンはどっかと椅子に腰をおろした。ちょうど何か思いあたりでもしたもののように、彼は意地わるそうに、にやりとした。
「お前はやっぱりあの時のことを言っているのか? このまえ会った時と同じことを!」
「そうです、このまえ私のところへおいでの時も、あなたはすっかり呑み込みなすったじゃありませんか。だから、今も呑み込みなさるはずでございますよ。」
「お前が気ちがいだってことだけは、おれにも呑み込めるよ。」
「よくまあ、飽き飽きしないことですね! 面と向ってお互いにだましあったり、茶番をやったりするなんて? それとも、また面と向って、私一人に罪をなすりつけようとなさるんですか? あなたが殺したんですよ、あなたが張本人なんですよ。私はただあなたの手先です。あなたの忠実な僕《しもべ》リチャルドだったんです。私はあなたのお言葉にしたがって、やっつけたんですからね。」
「やっつけた? じゃ、お前が殺したんだね?」イヴァンは総身に水を浴びたようにぞっとした。何やら頭の中で非常なショックを受けたかのように、彼は体じゅうがたがたと慄えだした。その時はじめて、スメルジャコフもびっくりして彼を見つめた。たぶんイヴァンの驚愕があまりに真剣なのに、打たれたものらしい。
「じゃ、あなたは本当に何にもご存じなかったんですか?」とスメルジャコフは信じかねるように囁いた、イヴァンの目を見つめて皮肉な笑いをもらしながら。
 イヴァンはいつまでも彼を眺めていた。彼は舌を抜かれでもしたように、口をきくことができなかったのである。

[#ここから2字下げ]
やあれヴァンカは
ピーテルさして旅に出た
わしゃあんなやつ待ちはせぬ
[#ここで字下げ終わり]

 という歌が、とつぜん彼の頭の中に響きはじめた。
「ねえ、おい、おれはお前が夢じゃないかと思って、恐ろしいんだ、おれの前に坐っているのは幻じゃないか?」と彼は呟いた。
「幻なんてここにいやしませんよ、私たち二人と、もう一人ある者のほかはね。確かにその者は、そのある者は今ここに、私たちの間におりますぜ。」
「それは誰だ? 誰がいるんだ? 誰だ、そのある者は?」あたりを見まわしたり、すみずみに誰かいないかと忙しげに捜したりしながら、イヴァンはびっくりして訊ねた。
「そのある者というのは神様ですよ、天帝ですよ。天帝はいま私たちのそばにいらっしゃいます。しかし、あなたがいくらお捜しになっても、見つかりゃしませんよ。」
「お前は自分が下手人だと言うが、それは嘘だ!」とイヴァンはもの狂おしく叫んだ。「お前は気ちがいか、それとも、この前のように、おれをからかおうとするのだろう!」
 スメルジャコフはさきほどと同じように、いささかも驚かずにじっとイヴァンを見まもっていた。彼はいまだにどうしても、自分の疑念をしりぞけることができなかった。やはりイヴァンが『何もかも知っている』くせに、ただ『こっちばかりに罪をなすりつけようとしている』というような気がした。
「ちょっとお待ちなさい。」とうとう彼は弱々しい声でこう言って、ふいにテーブルの下から自分の左足を引き出し、ズボンを捲し上げはじめた。足は長い白の靴下につつまれて、スリッパをはいていた。彼はそろそろと靴下どめをはずして、靴下の中へ自分の指を深く突っ込んだ。イヴァンはじっとそれを見ていたが、急にぴくりとなって、痙攣的にがたがた慄えだした。
「気ちがい!」と彼は叫んで、つと立ちあがると、うしろへよろよろとよろめいて、背中をどんと壁にぶっつけ、体を糸のように伸ばして、ぴったり壁にくっついてしまった。彼はもの狂おしい恐怖を感じながら、スメルジャコフを見つめた。スメルジャコフは、イヴァンの驚愕を少しも気にとめないで、やはり靴下の中を捜していた。しきりに指先で何か掴もうとしているらしかったが、とど何かを探りあてて、それを引き出しにかかった。イヴァンは、おそらく書類か、それとも何かの紙包みだろうと見てとった。スメルジャコフはそれを引き出すと、テーブルの上においた。
「これです!」と彼は低い声で言った。
「何だ?」イヴァンは身ぶるいをしながら答えた。
「どうか、ごらん下さい」とスメルジャコフは相変らず低い声で言った。
 イヴァンはテーブルのほうヘ一歩ふみ出し、その紙包みを手に取って開こうとしたが、まるで何か不気味な恐ろしい毒虫にでもさわったように、急につと指を引っこめた。
「あなた指がまだ慄えていますね、痙攣していますね」とスメルジャコフは言い、自分でそろそろと紙包みを開いた。中からは虹色をした百ルーブリ札の束が三つ出て来た。
「残らずここにあります、三千ルーブリあります、勘定なさるにもおよびません。お受け取り下さい」と彼は顋で金をしゃくりながら、イヴァンにこう言った。イヴァンは椅子にどうっと腰を落した。彼はハンカチのように真っ蒼になっていた。
「お前、びっくりさしたじゃないか……その靴下でさ……」と彼は異様な薄笑いを浮べながら言った。
「あなたは本当に、本当にあなたは今までご存じなかったのですか?」とスメルジャコフはもう一ど訊いた。
「いや、知らなかった。おれはやはり、ドミートリイだとばかり思っていた。兄さん! 兄さん! ああ!」彼は急に両手で自分の頭を掴んだ。「ねえ、おい、お前は一人で殺したのかい? 兄貴の手を借りずに殺したのか、それとも一緒にやったのか?」
「ただあなたと一緒にしただけです。あなたと一緒に殺しただけです。ドミートリイさんには何の罪もありません。」
「よろしい、よろしい……おれのことはあとにしてくれ。どうしておれはこんなに慄えるんだろう……口をきくこともできない。」
「あなたはあの時分、大胆でしたね。『どんなことをしてもかまわない』などと言っておいででしたが、今のその驚き方はどうでしょう!」とスメルジャコフは呆れたように呟いた。「レモナードでもおあがりになりませんか。今すぐ言いつけましょう。とても気分がはればれとしますよ。ところで、こいつをまず隠しておかなくちゃ。」
 こう言って、彼はまた紙幣束を顋でしゃくった。彼は立ちあがって戸口へ行き、レモナードの支度をして持って来るように、マリヤに言いつけようとしたが、彼女に金を見られないように、何か被せるものを捜すことにして、まずハンカチを引き出したが、これは今日もまたすっかり汚れていたので、イヴァンが入って来た時に目をつけた、例のテーブルの上にただ一冊のっている黄いろい厚い書物を取り上げて、それを金の上に被せた。その書名は『我らが尊き師父イサアク・シーリンの言葉』と記してあった。イヴァンは機械的にその表題を読んだ。
「レモナードはいらない」と彼は言った。「おれのことはあとにして、腰をかけて話してくれ、どういう工合にやったのか、何もかもすっかり話してくれ……」
「あなた、外套でもお脱ぎになったらいいでしょう。すっかり蒸れてしまいますよ。」
 イヴァンは今やっと気づいたように外套を脱ぐと、椅子から立たないで、ベンチの上へ投げ出した。
「話してくれ、どうか話してくれ!」
 彼は落ちついてきたらしかった。そして、今こそスメルジャコフがすっかり[#「すっかり」に傍点]言ってしまうだろうと信じて、じっと待ち受けていた。
「どんな工合にやっつけたかというんですね?」スメルジャコフはほっとため息をついた。「例のあなたのお言葉にしたがって、ごく自然な段どりでやっつけましたよ……」
「おれの言葉なんかあとにしてくれ」とイヴァンはまた遮ったが、すっかり自己制御ができたらしく、もう以前のように呶鳴らないで、しっかりした語調で言った。「どういう工合にやったか、詳しく話して聞かせてくれ、すっかり順序を立てて話してくれ、何一つ忘れちゃいけない。詳しく、何より第一に詳しく。どうか話してくれ。」
「あなたが立っておしまいになったあとで、私は穴蔵へ落ちました……」
「発作でかね、それともわざとかね?」
「そりゃわざとにきまってますよ。何事によらず、すっかり芝居を打っていたんです。悠々と階段を下までおりて、悠々と横になると唸りだして、連れて行かれるまでばたばたもがいていました。」
「ちょっと待ってくれ! ではその後も、病院でもずっと芝居をしていたのかね?」
「いいえ、そうじゃありません、あくる朝、病院へ行く前に、本当に激しい発作がやって来ました。もう永年こんなひどいのに出会ったことがないくらいで、二日間というもの、まるっきり感じがありませんでしたよ。」
「よろしい、よろしい。それから。」
「それから、寝床に寝かされましたが、いつも私が病気になった時のおきまりで、マルファさんが自分の部屋の衝立ての向うへ、夜どおし寝かしてくれることはわかっていました。あの女は、私が生れ落ちるとから、[#「生れ落ちるとから、」はママ]いつも優しくしてくれましたからね。夜分、私はうなりました、もっとも、低い声でしたがね。そして、今か今かと、ドミートリイさんを待っていました。」
「待っていたとは? お前のところへか?」
「私のところへ何用があります? 旦那の家へですよ。なぜって、あの人がその夜のうちにやって来ることを、もうとう疑っちゃおりませんでした。だって、あの人は私がいないから、何の知らせも手に入らないので、ぜひ自分で塀を乗り越えて、家の中へ入らなけりゃならないはずですものね。そんなことは平気でできるんですから、きっとなさるに違いありません。」
「だが、もし兄が行かなかったら?」
「そうすりゃ、何事もなかったでしょうよ。あの人が来なけりゃ、私だって何も思いきってしやしませんからね。」
「よろしい、よろしい……もっとよくわかるように言ってくれ。急がずにな、それに第一、何一つ抜かさないように!」
「私は、あの人が旦那を殺すのを待っていたのです……そりゃ間違いないこってす。なぜって、私がそうするように仕向けておいたんですからね……その二三日前からですよ……第一、あの人は例の合図を知っています。あの人はあの頃、疑いや嫉妬が積り積っていたのですから、ぜひこの合図を使って、家の中へ入り込むにきまりきっていたんですよ。それは決して間違いっこありません。そこで、私はあの人が来るのを待ってたわけなんで。」
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは遮った。「もし、あれが殺したら、金を持って行くはずじゃないか。お前だってそう考えるはずじゃないかね? してみれば、そのあとで何がお前の手に入るんだい? おれはそいつがわからないね。」
「ところが、あの人には決して金のありかがわかりっこありませんよ。あれはただ私が、金は蒲団の下に入っていると言って、教えておいただけなんで、まったく嘘の皮なんです。以前は手箱の中に入っていましたが、旦那は世界じゅうでただ一人、私だけ信用していましたから、そのあとで私が、金のはいった例の封筒を、聖像のうしろの隅へおきかえるように教えたんです。そこなら、ことに急いで入って来た時など、誰にも気づかれる心配がありませんからね。こういうわけで、あれは、あの封筒は、旦那の部屋の片隅の聖像のうしろにあったので。蒲団の下へ入れるなんて、そりゃ滑稽なことですよ。まだせめて手箱の中へ入れて、錠でもかけておきまさあね。でも、今はみんな、蒲団の下にあったものと信じきっていますが、馬鹿な考え方じゃありませんか。で、もしドミートリイさんがお父さんを殺しても、大ていの人殺しにありがちなように、ちょっとした物音にもおじけて、何一つ見つけ出さずに逃げてしまうか、それともふん縛られるかにきまっています。そうなりゃ、私はいつでも、あくる日でも、その晩にでも、聖像のうしろからその金を持ち出して、罪をすっかり、ドミートリイさんになすりつけることができますからね。私はいつだって、それを当てにしていいわけじゃありませんか?」
「でも、もし兄が親父を殴っただけで、殺さなかったとしたら?」
「もしあの人が殺さなかったら、むろん、私は金を取らないで、そのまま無駄にしておいたでしょう。が、またこういう目算もありましたよ。もしあの人が旦那を殴りつけて気絶させたら、私はやはりその金を盗んで、あとで旦那に向って、あなたを殴って金を取ったものは、ドミートリイさんのほかに誰もありません、とこう報告するんですよ。」
「ちょっと待ってくれ……おれは頭がこんぐらかってきた。じゃ、やっぱりドミートリイに殺させて、お前が金を取ったと言うんだな?」
「いいえ、あの人が殺したんじゃありません。なに、今でも私はあなたに向って、あの人が下手人だと言えますが……しかし、今あなたの前で嘘を言いたかありません。だって……だって、お見受け申すとおり、よしんば実際あなたが今まで、何もおわかりにならずにいたにしたところで、よしんば私の前でしらを切って、わかりきった自分の罪を人に塗りつけていらっしゃるのでないとしたところで、やっぱりあなたは全体のことに対して罪があるんですからね。なぜって、あなたは兇行のあることを知りながら、また現にそれを私に依頼しておきながら、自分では何もかも知っていながら、立っておしまいなすったんですものね。ですから、私は今晩、この一件の張本人はあなた一人で、私は自分で殺しはしたけれど、決して張本人じゃないってことを、あなたの目の前で証明したいんですよ。あなたが本当の下手人です!」
「なに、どうしておれが下手人なんだ? ああ!」イヴァンは自分の話はあとまわしにする決心を忘れて、とうとう我慢しきれずにこう叫んだ。「それはやはり、あのチェルマーシニャのことかね? だが、待て。よしんばお前が、おれのチェルマーシニャ行きを、同意の意味にとったとしても、一たい何のためにおれの同意が必要だったんだ? お前は今それをどういうふうに説明する?」
「あなたのご同意を確かめておけば、あなたが帰っていらしっても、紛失したこの三千ルーブリのために、騒ぎをもちあげなさることもあるまいし、またどうかして、私がドミートリイさんの代りに、その筋から嫌疑をかけられたり、ドミートリイさんとぐる[#「ぐる」に傍点]のように思われたりした時に、あなたが弁護して下さるってことが、ちゃんとわかっているからですよ……それに、遺産を手に入れておしまいになれば、その後いついつまでも、一生私の面倒を見て下さるでしょうからね。なぜって、あの遺産を相続なさったのは、何といっても私のおかげですよ。もしお父さんがアグラフェーナさんと結婚なすったなら、あなたはびた一文、おもらいになれなかったでしょうからね。」
「ああ! じゃ、お前はその後一生涯、おれを苦しめようと思ったんだな!」イヴァンは歯ぎしりした。「だが、もしおれがあのとき出発せずに、お前を訴えたらどうするつもりだったのだ?」
「あの時あなたは何を訴えようとおっしゃるんですね? 私があなたにチェルマーシニャ行きを勧めたことですか? そんなのはばかばかしい話じゃありませんか。それに、私たちが話し合ったあとで、あなたが出発なさるにせよ、残っていらっしゃるにせよ、べつに困ることはありゃしませんや。もし残っていらっしゃれば、何事も起らなかったでしょう、私はあなたがこの話をお望みにならないことを知って、何事もしなかったでしょうよ。が、もし出発なされば、それはあなたが私を裁判所へ訴えたりなどせずに、この三千ルーブリの金は私が取ってもいい、とこうおっしゃる証拠なんですからね。それに、あなたはあとで私をいじめたりなさることもできません。なぜって、そうなりゃ、私は法廷で何もかも言ってしまいますからね。しかし、何も私が盗んだり、殺したりした、なんて言うんじゃありませんよ……そんなことは言やしません……あなたから、盗んで殺せとそそのかされたが、承知しなかったと、こう申しまさあね。だから、あの時あなたの同意をとって、決してあなたからいじめつけられないようにしておく必要があったのです。だって、あなたはどこにも証拠を持っていらっしゃらないけれど、私はその反対に、あなたはお父さんが死ぬのを恐ろしく望んでいらしったと、こうすっぱ抜きさえすれば、いつでもあなたを押えつけることができますからね。で、ちょっと一こと言いさえすれば、世間のものはみんなそれを本当にしますよ。そうすりゃ、一生涯、あなたの恥になりますよ。」
「望んでいた、望んでいた、おれがそんなことを望んでいた、と言うのか?」イヴァンはまた歯ぎしりした。
「そりゃ間違いなく望んでおいででしたよ。あなたが承知なすったのは、つまり、私にあのことをしてもいいと、だんまりのうちに、お許しになったんですよ。」スメルジャコフはじっとイヴァンを見つめた。彼はひどく弱って、小さな声でもの憂そうに口をきいていたが、心内に秘められた何ものかが、彼を駆り立てたのである。彼は確かに何か思わくがあるらしかった。イヴァンはそれを感じた。
「さあ、そのさきはどうだ!」とイヴァンは言った。「あの夜の話をしてくれ。」
「そのさきといっても、わかりきってるじゃありませんか! 私が寝て聞いていますとね、旦那があっと言いなすったような気がしました。しかし、グリゴーリイさんが、その前に起きて出て行きました。すると、いきなり唸り声が聞えたと思うと、もうあたりはしんとして、真っ暗やみでした。私はじっと寝て待っていましたが、心臓がどきどきいって、我慢も何もできなくなりましたから、とうとう起きて行きました。左側を見ると、旦那の部屋では、庭に向いた窓が開いているじゃありませんか。私は、旦那が生きているかどうか見さだめようとして、また一あし左のほうへ踏み出しました。すると、旦那がもがいたり、ため息をついたりしている気配がします。じゃ、まだ生きてるんだ。ちぇっ、と私は思いましたね! 窓へ寄って、『私ですよ』と旦那に声をかけますと、旦那は、『来たよ、来たよ。逃げて行った!』と言うんです。つまり、ドミートリイさんが来たことなんです。『グリゴーリイは殺されたよ! どこで?』と私は小声で訊きました。『あそこの隅で』と指さしながら、旦那はやはり小さい声で囁きました。『お待ち下さい』と私は言い捨てて、庭の隅へ行ってみますと、グリゴーリイのやっこさん、体じゅう血まみれになって、気絶して倒れているんです。そこで、確かにドミートリイさんが来たんだな、という考えがすぐ頭に浮んだので、その場ですぐ一思いにやっつけてしまおう、と決心しました。なぜって、よしグリゴーリイが生きてても、気絶しているので、何にも気がつきはしないからです。ただ心配なのは、マルファがふいに目をさましはしないか、ということでした。私は、その瞬間にもこのことを感じましたが、もう心がすっかり血に渇いてしまって、息がつまりそうなのです。そこで、また窓の下へ戻って、『あのひとがここにいます、来ましたよ、アグラフェーナさんが来て、入りたがっていますよ』と旦那に言いました。すると、旦那は赤児のように、ぶるぶる身ぶるいをしました。
『こことはどこだ? どこだ?』こう言ってため息をつきましたが、まだ本当にしないんです。『あそこに立っていらっしゃいます。戸を開けておあげなさい!』と私が言いますと、旦那は半信半疑で、窓から私を見ていましたが、戸を開けるのが恐ろしい様子なんです。『つまり、おれを恐れてるんだな』と私は思いました。が、おかしいじゃありませんか、そのとき私は急に窓を叩いて、グルーシェンカが来てここにいる、という合図をすることを思いついたのです。ところが、旦那は言葉では本当にしないくせに、私がとんとんと合図をしたら、すぐ駈け出して、戸を開けて下すったじゃありませんか。戸が開いたので、私は中へ入ろうとしましたが、旦那は私の前に立ち塞がるようにして、『あれは、どこにいる? あれはどこにいる?』と言って、私を見ながらびくびくしています。こんなにおれを恐れてるんじゃ、とてもうまくゆかないな、と私は思いました。部屋へ入れないんじゃあるまいか、旦那が呶鳴りはしないか、マルファが駈けつけやしないか、またほかに何か起りはしないか、などと考えると、その恐ろしさに足の力が抜けてしまいました。その時は何も覚えていませんが、きっとわたしは旦那の前で真っ蒼になって、突っ立っていたに違いありません。『そこです、そこの窓の下です。どうして旦那はお見えにならないんでしょう?』と私が旦那に囁くと、『じゃ、お前あれを連れて来てくれ、あれを連れて来てくれ!』『でも、あのひとが怖がっていらっしゃいます。大きな声にびっくりして、藪の陰に隠れていらっしゃるんです。旦那ご自分で書斎から出て、呼んでごらんなさいまし』と私が言いました。すると、旦那は窓のそばへ駈け寄って、蝋燭を窓の上に立てて、『グルーシェンカ、グルーシェンカ、お前そこにいるのかい?』と呼びましたが、こう呼びながらも、窓から覗こうとしないんです。私から離れようとしないんです。恐ろしいからなんですよ。私をひどく恐れていたので、私のそばを離れないんですよ。『いいえ、あのひとは(と、私は窓に寄って、窓から体を突き出しながら)、あそこの藪のなかにいらっしゃいますよ。あなたを見て笑っていらっしゃいます、見えますでしょう?』と言いました。すると、旦那は急に本当にして、ぶるぶると身ぶるいしだしました。なにしろ、すっかりグルーシェンカに惚れ込んでいたんですからね。で、旦那は窓から体をのり出した。そのとき私は、旦那のテーブルの上にのっていたあの鉄の卦算、ね、憶えていらっしゃいましょう、三斤もあるやつなんですよ、あいつを取って振り上げると、うしろから頭蓋骨めがけて折ちおろした[#「折ちおろした」はママ]んです。旦那は叫び声さえも出さないで、すぐにぐったりしてしまったので、また二三度なぐりつけました。三度目に頭の皿の割れたらしい手ごたえがありました。旦那はそのまま仰向けに、顔を上にして倒れましたが、体じゅう血みどろなんです。私は自分の体を調べてみると、さいわいとばっちりもかかっていないので、卦算を拭いてテーブルの上にのせ、聖像の陰へ行って、封筒から金を取り出しました。そして、封筒を床の上に投げ捨て、ばら色のリボンもそのそばへおきました。ぶるぶる慄えながら庭へ出て、すぐさま空洞《うつろ》のある林檎の木のそばへ行きました、――あなたもあの空洞《うつろ》をご存じでしょう、私はもうとうから目星をつけておいて、その中へ布と紙を用意していたんです。そこで、金を残らず紙に包み、その上からまた布でくるんで、空洞の中へ深く入れました。こうして、二週間以上もそこにありましたよ、その金がね。その後、病院から出た時に、はじめてそこから取り出して来たわけで。それで、私は寝台へ帰って寝ましたが、『もし、グリゴーリイが死んでしまえば、はなはだ面白からんことになる。が、もし死なずに正気づけば、大変いい都合だがなあ。そうすりゃあの男は、ドミートリイさんが忍び込んで、旦那を殺して、金を盗んで行ったという証人になるに相違ない』とこう私はびくびくしながら考えました。そこで、私は一生懸命に唸りだしたんです。それは、少しも早くマルファを起すためだったので。とうとうマルファは起き出して、私のところへ走って来ようとしましたが、突然グリゴーリイがいないのに気がつくと、いきなり外へ駈け出して、庭で叫び声を立てるのが聞えました。こうして、夜どおしごたごたが始まったわけなんですが、私はもうすっかり安心してしまいましたよ。」
 話し手は言葉を休めた。イヴァンは身動きもしなければ、相手から目を放しもせず、死んだように黙り込んで、しまいまで聞いていた。スメルジャコフは話をしながら、ときおりイヴァンをじろじろと見やったが、大ていはわきのほうを見ていた。話し終ると、彼はさすがに興奮を感じたらしく、深く息をついた。顏には汗がにじみ出した。けれども、後悔しているかどうかは、見てとることができなかった。
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは何やら思い合せながら遮った。「じゃ、戸はどうしたんだ? もし親父がお前だけに戸を開けたのなら、どうしてその前にグリゴーリイが、戸の開いているところを見たんだ? グリゴーリイはお前よりさきに見たんじゃないか。」
 不思議なことには、イヴァンは非常に穏やかな声で、前とはうって変った、いささかも怒りをふくまない語調で訊いた。で、もしこのとき誰かそこの戸を開けて、閾のところから二人を眺めたなら、二人が何かありふれた面白い問題で、仲よく話をしているものと思ったに相違ない。
「その戸ですがね、グリゴーリイが見た時に開いていたというのは、ただあの男にそう思われただけですよ。」スメルジャコフは口を歪めてにたりと笑った。「一たいあいつは人間じゃありません。頑固な睾丸《きん》ぬき馬ですからね。見たんじゃなくって、ただ見たように思ったんですが、――そう言いだしたが最後、もうあとへは引きゃしません。あいつがそんなことを考えだしたというのは、私たちにとってもっけの幸いなんですよ。なぜって、そうなりゃ否でも応でも、ドミートリイさんへ罪がかかるに相違ありませんからね。」
「おい、ちょっと、」イヴァンはこう言ったが、また放心したようにしきりに考えていた。「おい、ちょっと……おれはまだ何かお前に訊きたいことがたくさんあったんだが、忘れてしまった……おれはどうも忘れっぽくて、頭がこんぐらかっているんだ……そうだ! じゃ、これだけでも聞かせてくれ。なぜお前は包みを開封して、床の上にうっちゃっておいたんだ? なぜいきなり包みのまま持って行かなかったんだ……お前がこの包みの話をしている時には、そうしなけりゃならなかったような気持がしたんだが……なぜそうしなけりゃならなかったのか……どうしてもおれにはわからない……」
「そりゃちょっとしたわけがあってしたんですよ。だって、前からその包みに金がはいってることを知っている慣れた人間は、――例えば私のように、自分でその金を包みの中へ入れたり、旦那が封印をして上書きまでなすったのを、ちゃんと自分の目で見たりしたような人間は、かりにその人間が旦那を殺したとしても、殺したあとでその包みを開封したりなんかするでしょうか? しかも、そんな急場の時にですよ。だって、そんなことをしなくても、金は確かにその包みの中に入ってることをちゃんと知ってるんじゃありませんか。まるで反対でさあ。私のようなこうした強盗は、包みを開けないで、すぐそれをかくしに入れるが早いか、一刻も早く逃げ出してしまいまさあね。ところが、ドミートリイさんはまったく別です。あの人は包みのことを話に聞いただけで、現物を見たことがありません。だから、もしあの人がかりに蒲団の下からでも包みを盗み出したとすれば、すぐにそれを開封して、確かに例の金が入ってるかどうか、調べてみるはずですよ。そして、あとで証拠品になろうなどとは考える余裕もなく、そこに封筒を投げ棄ててしまいます。あの人は常習犯の泥棒じゃなくって、今まで一度も人のものを取ったことがないんですもの、なにぶん代々の貴族ですからね。で、よしあの人が泥棒をする気になったからって、ただ自分のものを取り返すだけで、盗むというわけじゃないんですからね。だって、あの人は前もってこのことを町じゅうに言いふらしていたじゃありませんか。おれは出かけて行って、親父から自分のものを取り戻すんだと、誰の前でも自慢していたんですからね。私は審問の時この意味のことを、はっきりと言ったわけじゃありませんが、自分でもわからないようなふうに、そっと匂わせましたよ。ちょうど検事が自分で考え出したので、私が言ったんじゃない、というようなふうに、ちょっとほのめかしてやりました、――すると、検事はこの匂いを嗅ぎつけて、涎を垂らして喜んでいましたよ……」
「一たい、一たいお前はその時その場で、そんなことを考え出したのかい?」とイヴァンは呆れかえって、突拍子もない声で叫んだ。彼はふたたび驚異の色を浮べて、スメルジャコフを眺めた。
「まさか、あなた、あんな火急の場合に、そんなことを考え出していられるものですか? ずっと前から、すっかり考えておいたんです。」
「じゃ……じゃ、悪魔がお前に手つだったんだ!」とイヴァンはまた叫んだ。「いや、お前は馬鹿じゃない、お前は思ったよりよっぽど利口な男だ……」
 彼は立ちあがった、明らかに、部屋の中を歩き廻るためらしかった。彼は恐ろしい憂愁におちいっていたのである。ところが、通り道はテーブルに遮られて、テーブルと壁の間は、やっとすり抜けるほどしか余地がなかったので、彼はその場で一廻転しただけで、また椅子に腰をおろした。こうして歩き場を得なかったことが、急に彼をいらだたせたものとみえ、彼はいきなり以前のとおりほとんど無我夢中に叫んだ。
「おい、穢らわしい虫けらめ、よく聞け! お前にはわかるまいが、おれが今までお前を殺さなかったのは、ただお前を生かしておいて、あす法廷で答弁させようと思ったからだ。神様が見ておいでだ(イヴァンは片手を上げた)。あるいはおれにも罪があるかもしれない。実際、おれは内心、親父が死んでくれればいいと、望んでいたかもしれない。けれども、誓って言うが、おれはな、お前が思っているほど悪人じゃないんだぞ。おれはまるでお前を教唆しやしなかったかもしれない。いや、教唆なんかしなかった! だが、どの道おれはあす法廷で、自白することに肚を決めてる。何もかも言ってしまうつもりだ。だが、お前も一緒に法廷へ出るんだぞ! お前が法廷で、おれのことを何と言おうと、またどんな証拠を持ち出そうと、――おれはそれを承認する。おれはもうお前を恐れちゃいない。何もかも、自分で確かめる! だが、お前も白状しなけりゃならんぞ! 必ず、必ず、白状しなけりゃならんぞ! 一緒に行こう! もうそれにきまった!」
 イヴァンは厳粛な態度できっぱりとこう言った。彼の目の輝きから判断しても、もうそれにきまったことは明らかであった。
「あなたはご病気ですね、どうやら、よほどお悪いようですよ。あなたの目はすっかり黄いろになっていますよ」とスメルジャコフは言ったが、その言葉には嘲笑の語気は少しもなく、まるで同情するようであった。
「一緒に行くんだぞ!」とイヴァンは繰り返した。「もしお前が行かなくたって、同じことだ、おれ一人で白状する。」
 スメルジャコフは何か思案でもしているように、しばらく黙っていた。
「そんなことができるものですか。あなたは出廷なさりゃしませんよ」と彼はとうとう否応いわさぬ調子で、きっぱりとこう断じた。
「お前にはおれがわからないんだ!」とイヴァンはなじるように叫んだ。
「でも、あなた、何もかもすっかり白状なされば、とても恥しくってたまらなくなりますよ。それに、第一、何のたしにもなりませんよ。私はきっぱりとこう申します、――私はそんなことを一口だって言った覚えはありません、あなたは何か病気のせいか、(どうもそうらしいようですね)、それとも、自分を犠牲にしてまでも、兄さんを助けたいという同情のために、私に言いがかりをしてらっしゃるんです。あなたはいつも私のことを、蠅か虻くらいにしか思っていらっしゃらなかったんですから、って。ねえ、こう言ったら、誰があなたの言うことを本当にするものがあります? あなたはどんな証拠をもっておいでです?」
「黙れ、お前が今この金をおれに見せたのは、むろんおれを納得させるためなんだろう。」
 スメルジャコフは紙幣束の上から、イサアク・シーリンを取って、わきへのけた。
「この金を持ってお帰り下さい。」スメルジャコフはため息をついた。
「むろん、持って行くさ! だが、お前はこの金のために殺したのに、なぜ平気でおれにくれるんだい?」イヴァンはひどくびっくりしたように、スメルジャコフを見やった。
「そんな金なんか、私はまるでいりませんよ」とスメルジャコフは片手を振って、慄え声で言った。「はな私はこの金を持ってモスクワか、それともいっそ外国へでも行って、人間らしい生活を始めようと、そんな夢を見ていました。それというのも、あの『どんなことをしてもかまわない』から来てるんですよ。まったくあなたが教えて下すったんですもの。だって、あなたは幾度も私にこうおっしゃったじゃありませんか、――もし永遠の神様がなけりゃ、善行なんてものもない、それに、第一、善行なんかいるわけがないってね、それはまったく、あなたのおっしゃったとおりですよ。で、私もそういうふうに考えたんでございます。」
「自分の頭で考えついたんだろう?」イヴァンはにたりと、ひん曲ったような笑い方をした。
「あなたのご指導によりましてね。」
「だが、金を返すところから見れば、今じゃお前は神様を信じてるんだね?」
「いいえ、信じてやしませんよ」とスメルジャコフは囁いた。
「じゃ、なぜ返すんだ?」
「たくさんです……何でもありゃしません!」スメルジャコフはまた片手を振った。「あなたはあの時しじゅう口癖のように、どんなことをしてもかまわないと言っていらしったのに、今はどうしてそんなにびくびくなさるんですね? 自白に行こうとまで思いつめるなんて……ですが、何にもなりゃしませんよ! あなたは自白なんかなさりゃしませんよ!」スメルジャコフはすっかりそう決めてでもいるように、またもや、きっぱりとこう言った。
「まあ、見ているがいい!」とイヴァンは言った。
「そりゃ駄目ですよ。あなたはあまり利口すぎます。なにしろ、あなたはお金が好きでいらっしゃいますからね。そりゃちゃんとわかっていますよ。それに、あなたは名誉も愛していらっしゃいます。だって、あなたは威張りやですもの。ことに女の綺麗なのときたら、それこそ大好物なんですよ。が、あなたの一番お好きなのは、平和で満足に暮すことと、そして誰にも頭を下げないことですね、――それが何よりお好きなんですよ。あなたは法廷でそんな恥をさらして、永久に自分の一生を打ち壊してしまうようなことは、いやにおなんなさいますよ。あなたはご兄弟三人のうちでも、一ばん大旦那さんに似ていらっしゃいますからね。魂がまるであの方と一つですよ。」
「お前は馬鹿じゃないな。」イヴァンは何かに打たれたようにこう言った。彼の顔はさっと赤くなった。「おれは今まで、お前を馬鹿だとばかり思っていたが、いま見ると、お前は恐ろしくまじめな人間だよ!」今さららしくスメルジャコフを見つめながら、彼はこう言った。
「私を馬鹿だとお考えになったのは、あなたが高慢だからです。さ、金をお受け取り下さい。」
 イヴァンは三千ルーブリの紙幣束を取って、包みもしないでかくしへ入れた。
「あす法廷で見せるんだ」と彼は言った。
「法廷じゃ、誰もあなたを本当にしやしませんよ。いいあんばいに、あなたは今たくさんご自分の金をもっておいでですからね、自分の金庫から出して持って来たんだとしか、誰も思やしますまい。」
 イヴァンは立ちあがった。
「繰り返して言っておくがね、おれがお前を殺さなかったのは、まったく明日お前という人間が必要なからだ。いいか、これを忘れるなよ。」
「殺すならお殺しなさい。今お殺しなさい。」スメルジャコフは異様にイヴァンを見つめながら、異様な調子でだしぬけにこう言った。「あなたはそれもできないんでしょう」と彼は悲痛な薄笑いを浮べてつけたした。「以前は大胆な人でしたが、今じゃ何一つできないんですからね!」
「明日また!」と叫んで、イヴァンは出て行こうとした。
「待って下さい……も一度その金を私に見せて下さい。」
 イヴァンが紙幣を取り出して見せると、スメルジャコフは十秒間ばかり、じっとそれを眺めていた。
「さあ、お帰んなさい」と彼は片手を振って言った。「旦那!」彼はイヴァンのあとから、また突然こう叫んだ。
「何だい?」イヴァンは歩きながら振り向いた。
「おさらばですよ!」
「明日また!」とイヴァンはも一ど叫んで、小屋の外へ出た。吹雪は相変らず荒れ狂うていた。彼は初めちょっとのあいだ元気よく歩いていたが、急に足がふらふらしてきた。『これは体のせいだ。』彼はにたりと薄笑いをもらして、そう考えた。と、一種の歓喜に似たものが心に湧いた。彼は自分の内部に無限の決断力を感じた。最近はげしく彼を苦しめていた心の動揺が、ついに終りを告げたのである。決心はついた。『もうこの決心は変りっこなしだ』と彼は幸福を感じながら考えた。その途端、彼はふと何かにつまずいて、いま少しで倒れるところだった。立ちどまってよく見ると、さっき彼の突き飛ばした例の百姓が、もとの場所に気絶したまま、じっと倒れているのであった。吹雪はもうほとんどその顔ぜんたいを蔽うていた。イヴァンはいきなり百姓を掴んで、自分の背にひっ担いだ。右手に見える小家のあかりを頼りに進んで行き、とんとんと鎧戸を叩いた。やがて、返事をして出て来たあるじの町人に、三ルーブリお礼をする約束で、百姓を警官派出所に担ぎ込む手つだいを頼んだ。町人は支度をして出て来た。それから、イヴァンは目的を達して、百姓を派出所へ連れて行き、すぐに医師の診察を受けさせたばかりでなく、そこでも鷹揚に『さまざまな支払い』に財布の口を開けたことは、ここにくだくだしく書きたてまい。ただ一つ、言っておきたいのは、彼がこの手続きをするのに、ほとんど一時間以上かかったことである。けれども、イヴァンはすこぶる満足していた。彼の考えはそれからそれへと拡がって、働きつづけた。『もしおれが明日の公判のために、こんな固い決心をしていなければ』と彼は突然ある快感を覚えながら考えた。『百姓の始末なんぞに、一時間もつぶしはしなかったろう。さだめしそのそばを通り過ぎながら、やつが凍え死にしそうなのを冷笑したことだろう……だが、おれが自己反省の力をもってることはどうだ?』彼はその瞬間、さらに一倍の快感を覚えながらこう考えた。『それだのに、やつらはおれのことを、気がふれてるなんて決めこんで!』
 わが家の前まで帰りつくと、彼は急に立ちどまった。『今すぐ検事のところへ行って、何もかも陳述してしまったほうがよくないかしらん?』と自問したが、また家のほうへ向きを変えて、その疑問を決定した。『明日まとめて言おう』と彼は自分に囁いた。と、不思議にも、ほとんどすべての歓喜と自足が、一時に彼の胸から消えてしまった。彼が自分の部屋へはいった時、何やら氷のようなものが、とつぜん彼の心臓にさわった。それは一種の追憶のようなもので、より正確に言えば、この部屋の中に以前もあったし、今でもつづけて存在している、何か押しつけるような、忌わしいあるものに関する記憶であった。彼はぐったりと長椅子に腰をおろした。婆さんがサモワールを持って来た。彼はお茶をいれはしたが、まるっきり手にもふれないで、明日まで用事はないと言って、婆さんを返してしまった。長椅子に腰かけているうちに、頭がぐらぐらしてきた。何だか病気にかかって、ひどく衰弱しているような気がした。彼は眠けを催したが、不平らしく立ちあがり、眠けを払うために、部屋の中を歩きだした。ときおり、うなされてでもいるような気がした。けれど、何より気にかかるのは、病気ではなかった。彼はまた椅子に腰をおろして、何か捜してでもいるように、ときどきあたりを見まわしはじめた、それが幾度か繰り返された。最後に、彼の目はじっとある一点を見すえた。イヴァンはにやりとしたが、顔はさっと憤怒の紅に染められた。彼は長いあいだ長椅子に腰かけて、両手でしっかり顔をささえながら、やはり流し目に以前の一点、――正面の壁のそばにある長椅子を見つめていた。見受けたところ、何かが彼をいらだたせたり、不安にしたり、苦しめたりしているようなふうであった。
 
[#3字下げ]第九 悪魔 イヴァンの悪夢[#「第九 悪魔 イヴァンの悪夢」は中見出し]

 筆者《わたし》は医者ではないが、しかしイヴァンの病気がどういう性質のものか、読者にぜひ少し説明しなければならぬ時期が来たような気がする。少し先廻りをして、一ことだけ言っておこう。彼はきょう今晩、譫妄狂にかかる一歩手前まで来ていたのである。この病気は、とくから乱れていながらも、頑固に抵抗していた彼の肉体組織を、ついに征服しつくしたのである。筆者《わたし》は医学を一こう知らないが、大胆に想像してみると、彼はじっさい自分の意志を極度に緊張させて、一時病気を遠ざけていたものらしい。むろん、そのとき彼は、ぜんぜん病気を支配し得るものと、空想していたのである。彼は自分が健康でないことを知っていたが、こんな場合、自分の生涯における運命的な瞬間に、――つまり、ちゃんと出るべきところへ出て、大胆に断乎として言うべきことを言い、『自分で自分の濡衣を干す』べき時に、病気などにかかるのがたまらなく厭であった。もっとも、彼は一度、モスクワから来た新しい医師のところへ相談に出かけてみた。もう前章に述べたとおり、カチェリーナの空想のために招聘されたその医者は、イヴァンの容態を聞きとって、詳しく診察した後、彼が一種の脳病にかかっていると診断した。そして、イヴァンが嫌悪をいだきながら述べたある告白に、いささかも驚かなかったのである。『あなたのような状態にある人が、幻覚におちいるのはありがちのことですよ』と医者は断定した。『もっとも、よく試験してみなけりゃなりませんが……とにかく、時期を逸しないように、すぐ治療しなければいけませんね。でないと、大変なことになりますよ。』けれど、イヴァンは医者の賢明な勧告にしたがって、治療のために床につこうとはしなかった。『だって、まだ歩けるじゃないか。つまり、今のところ気力があるわけだ。倒れたらまたその時のことさ。誰でも好きな人が介抱してくれるだろう。』彼は片手を振って、こう決心した。
 で、すでに述べたとおり、彼は今も自分がうなされているのを、どうやら意識しながら、正面の壁のそばに据えた長椅子の上の何ものかを、頑固にじっと見つめていた。そこには突然、どうして入って来たものやら(イヴァンがスメルジャコフのと

『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P144-P191

の家で見ておいたんだ、――君のためにさ、お爺さん、君のものだよ。これはあの人の家にあったって、何にもなりゃしないんだ。あの人はこれを兄弟からもらったんだからね。そこで、僕は親父の戸棚から、『マホメットの親戚、一名馬鹿霊験記』という本を引き出して、この大砲と取っ換えっこしたんだ。それは、百年からたったものなんだ、とても大変な本でね、まだ検閲がなかった時分、モスクワで発行されたものさ。ところが、モローゾフはそういうものが大好きなんでね。その上お礼まで言ったよ……」
 コーリャは、みんなで見て楽しまれるように、大砲を手にのせて、一同の前へさし出した。イリューシャも身を起した。そして、やはり右手でペレズヴォンを抱いたまま、狂喜の色をうかべてこの玩具を眺めた。コーリャが自分は火薬を持っているから、『もしご婦人がたを驚かせるようなことがなければ』今ここで撃つこともできると説明した時、一同の興味は極度に達した。『おっ母さん』はすぐに、もっと近くでその玩具を見せてもらいたいと頼んだ。その願いはすぐにいれられた。彼女は車のついた青銅の大砲がむしょうに気に入って、それを自分の膝の上で転がしはじめた。大砲を発射させてもらいたいという乞いを、彼女は喜んで承諾したが、そのくせ何のことか、まるっきりわからないのであった。コーリャは火薬と散弾を出して見せた。もと軍人であった二等大尉は、自分で指図して、ごく少量の火薬を填めたが、散弾は次の時まで延期するように頼んだ。大砲は筒口を人のいないほうへ向けて、床の上におかれた。人々は三本の導火線を火門へさし込んで、マッチで火をつけた。すると、この上なく見事に発射した。『おっ母さん』はぶるっと身慄いしたが、すぐ愉快そうに笑いだした。子供たちは無言の荘重を保って見物していたが、誰よりも一ばん面白がったのは、イリューシャをうちまもっていた二等大尉である。コーリャは大砲を取り上げ、散弾や火薬を添えて、すぐさまイリューシャに渡した。
「これは君のためにもらったんだよ、君のためなんだよ! もう、とうから用意していたんだ。」彼は幸福感に満ち溢れながら、また繰り返した。
「あら、わたしにちょうだいよ! ねえ、その大砲はわたしにくれたほうがいいわ!」と『おっ母さん』は小さい子供のように、ねだり始めた。
 彼女の顔は、もしもらえなかったらという危惧のために、悲しげな不安の表情をたたえた。コーリャはどぎまぎした。二等大尉は不安らしく騒ぎだした。
「おっ母さん、おっ母さん!」と彼は妻のほうへ駈け寄った。「大砲はお前のものだよ、お前のものだよ、お前のものだよ。けれど、イリューシャに持たせておこうね。なぜって、これはイリューシャがいただいたんだものな。でも、やはりこの大砲はお前のものだよ。イリューシャはいつでもお前にもって遊ばしてくれる。つまり、お前とイリューシャとおもあいにするんだ、おもあいに……」
「いやです、おもあいにするのはいやです。イリューシャのじゃない、すっかりわたしのものになってしまわなけりゃいやです。」今にも本当に泣きだしそうな調子で、『おっ母さん』は言いつづけた。
「おっ母さん、お取んなさい、さあ、お取んなさい!」とにわかにイリューシャは叫んだ。「クラソートキン、これをおっ母さんにやってもいいでしょう?」彼は哀願するような表情で、クラソートキンのほうへ向いた。それはせっかくの贈物を人にやるのを、コーリャに怒られはしないかと、心配するようなふうつきであった。
「いいとも!」とコーリャはすぐに同意し、大砲をイリューシャの手から取って、きわめて慇懃に会釈しながら『おっ母さん』に渡した。
 おっ母さんは感きわまって泣きだした。
「可愛いイリューシャ、お前のようにおっ母さんを大切にするものはないよ!」と彼女は感激して叫んだ。そして、さっそくまた膝の上で大砲を転がしはじめた。
「おっ母さん、お前の手を接吻させておくれ。」こう言って夫は彼女のそばへ駈け寄ると、さっそく自分の計画を実行した。
「それからもう一人、本当に優しい若い人は誰かと言ったら、ほら、このいい子供さんよ!」感謝の念に満ちた夫人は、クラソートキンを指さしながらこう言った。
「でね、イリューシャ、火薬はこれからいくらでも持って来てやるよ。僕らは今じゃ自分で火薬を造ってるんだ。ボロヴィコフが分量を知ったんだよ。硝石二十四分に、硫黄十分と、白樺の炭六分、それを一緒に搗きまぜて、水で柔かく捏ね合せてから、太鼓の皮で瀘《こ》すのさ……それでちゃんと火薬ができるんだよ。」
「僕はスムーロフから君の火薬のことを聞いたけれど、お父さんはそれは本当の火薬じゃないって言っていますよ」とイリューシャは答えた。
「どうして本当でないんだって?」とコーリャは顔を赤らめた。「僕らが造るものだって、ちゃんと発火するよ。だが、僕も知らない……」
「いいえ、そうじゃないんです。」二等大尉はすまないような様子をして、あわてて飛び出した。「いや、本当の火薬はそんな造り方じゃない、とまあ言うには言いましたがね、しかし、そうでもかまわないんで。」
「僕知らないんです。あなたのほうがよく知ってらっしゃるでしょう。僕らは瀬戸で作ったポマードの罎に入れて火をつけたんですが、よく発火しましたよ。すっかり燃えてしまって、ほんのぽっちり煤が残っただけです。けれど、これは柔かく混ぜた塊りで、もし皮で濾《こ》したら……だけど、あなたのほうがよく知っていらっしゃるでしょう。僕じっさい知らないんですから……だが、ブールキンはこの火薬のためにお父さんに撲られたそうだが、君聞いた?」彼は突然イリューシャのほうへ向いた。
「聞きました」とイリューシャは答えた。彼は限りない興味と享楽を感じながら、コーリャの話を聞いていた。
「みんなで罎に一ぱい火薬を造って、それをブールキンが寝台の下に隠しておいたのを、親父に見つけられたんだ。爆発でもしたらどうすると言って、その場でひっぱたいたのさ、そのうえ僕のことを学校へ訴えようとしたんだ。今じゃブールキンは、僕と一緒に遊ぶのを禁《と》められてる。ブールキンばかりじゃない、誰もみんな僕と遊ぶことを禁められてね、スムーロフもやはり、僕のところへ来さしてもらえないんだ。僕はもう評判者になっちまったよ、――何でも『向う見ず』なんだそうだ。」コーリャは軽蔑するように、にたりと笑った。「これはみんなあの鉄道事件から始まったのさ。」
「ああ、私たちもあなたのその冒険談を聞きましたよ!」と二等大尉は叫んだ。「あなたはそこに寝ていて、どんな気持がしました? 汽車の下になった時も、あなたは本当にちっともびっくりしなかったんですか。恐ろしかったでしょうな?」
 二等大尉はしきりにコーリャの機嫌をとった。
「な……なに、それほどでもありませんでしたね!」とコーリャは無造作に答えた。「だが、ここで一ばん僕の名声をとどろかしたのは、あのいまいましい鵞鳥だったよ」と彼はふたたびイリューシャのほうへ向いた。彼は話に無頓着の態度をよそおうていたが、やはり十分もちきれないで、ときどき調子をとりはずすのであった。
「ああ、僕は鵞鳥のことも聞いた!」イリューシャは満面を輝かしながら笑いだした。「僕、話を聞いたけど、よくわからなかった。君、ほんとに裁判官に裁判されたんですか?」
「ごくばかばかしい、つまらないことなんだよ。それをここの人たちの癖で、針小棒大に言いふらしたんだ」とコーリャは磊落に言いはじめた。「僕ある時、あの広場を通っていたんだよ。ところが、ちょうどそこへ、鵞鳥が追われて来たんだ。僕は立ちどまって鵞鳥を見ていると、そこに一人、土地の若い者がいた。そいつはヴィシニャコフと言って、いまプロートニコフの店で配達をやっているんだが、僕を見て『お前は何だって鵞鳥を見てるんだ?』と言やがるじゃないか。僕はそいつを見てやった。丸いばかばかしい面をした、二十歳ばかりの若い者なんだ。僕はご存じのとおり、決して民衆をしりぞけない、僕は民衆との接触を愛しているんだからね……僕らは全体から離れてしまってる、――これは明白な原理だ、――カラマーゾフさん、あなたはお笑いになったようですね?」
「いや、とんでもない、私は謹聴していますよ。」アリョーシャは、この上ない無邪気な態度で答えた。で、疑い深いコーリャもたちまち元気づいた。
カラマーゾフさん、僕の議論は明白単純なんです」と彼は嬉しそうに口早に言いだした。
「僕は民衆を信じていて、いつも喜んで彼らの長所を認めます、が、決して彼らを甘やかすようなことはしない。これは sine qua non([#割り注]必須条件[#割り注終わり])です……だけど、いま鵞鳥の話をしてたんですね。そこで、僕はその馬鹿野郎のほうへ向いて、『実は鵞鳥が何を考えているだろうと、僕は今それを考えてるんだ』と答えた。ところが、やっこさん、馬鹿げきった顔つきをして僕を見ながら、『鵞鳥が何を考えてるかって?』と言いやがるんだ。で、僕は『まあ、見ろ、そこに燕麦を積んだ馬車があるだろう。袋から燕麦がこぼれている。ところが、鵞鳥が一羽、車の真下に頸を伸ばして麦粒を食ってるだろう、――え、そうだろう?』と言った。『そりゃおれだってよく知ってらあ』とやつが言うんだ。でね、僕はこう言ったのさ。『じゃ、今もしこの馬車をちょっと前へ押せば、車で鵞鳥の頸を轢き切るかどうだ?』するとやつ、『そりゃきっと轢くよ』と言って、顔じゅう口にして笑いながら大恐悦なんだ。『じゃ、君一つ押してみようじゃないか』と僕が言うと、『押してみよう』ときた。僕らは長いこと苦心する必要なんかなかったよ。やつはそっと轡のそばに立つし、僕は鵞鳥を車の下へやるように脇へ行った。が、ちょうどその時、百姓がぼんやりして、誰かと話を始めたので、何も僕がわざわざ車の下へ追うことはいらなかった。つまり、鵞鳥が自分で燕麦を食うために、ちょうど車の下へ頸を伸ばしたんだ。僕が若い者に目まぜをすると、やつは馬を引いた。そして、クワッといったかと思うと、もうちゃんと車は鵞鳥の頸を真っ二つに轢き切ってしまってるんだ! ところがね、ちょうど折わるくその瞬間に、百姓たちが僕らを見つけて、『お前わざとしたんだろう!』と言って、たちまちわいわい騒ぎだすんだ。『いいや、わざとじゃない。』『いや、わざとだ!』そして『判事のところへ連れて行け!』と言って騒ぎだす。とうとう僕もつかまってしまった。『お前も、あそこにおったから、きっと手つだったんだろう。市場じゅうのものがみなお前を知っている』と言うんだ。実際なぜか市場のものはみんな僕を知ってるんだよ」とコーリャは得意らしくつけ加えた。「僕らはぞろぞろ治安判事のところへ押しかけて行った、鵞鳥も持ってね。見ると、例の若い者は怖がって泣きだすじゃないか。まるで女のように喚くんだ。だが、鳥屋は『あんな真似をされちゃたまらねえ、鵞鳥はいくらでも殺されっちまう!』と言って呶鳴る。むろん、証人も呼ばれたさ。ところが、判事は立ちどころに片づけてしまった。つまり、若い者に鵞鳥の代として鳥屋へ一ルーブリ払わせ、鵞鳥は若い者がもらうことにして、将来必ずこんないたずらしちゃいかんというわけなんだ。若い者はやはり、『そりゃわっしじゃない、あいつがわっしをそそのかしたんだ』と言って、女のように喚きながら、僕をさすじゃないか。僕はすっかり冷静にかまえこんで、決してそそのかしなんかしない、ただ根本思想を話して、計画として述べたまでだと答えた。判事のネフェードフはにたりと笑ったが、すぐ自分で自分の笑ったのに腹を立てて、『私はあなたが将来こんな計画をやめて、家にひっこんで本を読んだり、学課を勉強したりするように、今すぐ学校当事者に訴える』と言うんだ。しかし、やっこさん訴えはしなかった、それは冗談だったが、この事件はすぐ評判になって、とうとう学校当事者の耳に入ってしまった。学校のものは耳が早いからね! ことにやっきとなったのは、古典語教師のコルバースニコフさ。だが、ダルダネーロフがまた弁護してくれた。コルバースニコフはまるで緑いろの驢馬みたいに、誰にでも意地わるく食ってかかるんだよ。イリューシャ、君、聞いたかい、あいつは結婚したよ。ミハイロフのところから、千ルーブリの持参金つきでもらったんだが、花嫁は古今未曾有の化物なんだ。で、三年級の連中はすぐにこういう諷詩を作ったんだ。

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引きったれのコルバースニコフさえ嫁をとる
これにはさすがの三年級もびっくり仰天驚いた
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 こういう調子でまだそのさきがあるが、素敵に滑稽なんだ。あとで持って来て見せるよ。ダルダネーロフのことは僕なにも言わない。学識のある、――立派な学識のある人だよ。僕はああいう人を尊敬するね。しかし、決して自分が弁護してもらったからじゃない……」
「でも、君はトロイの創建者のことで、あの人をやりこめたことがありますね!」この時スムーロフは、クラソートキンを自分のことのように、心から自慢しながら口を入れた。鵞鳥の話がすっかり彼の気に入ったのであった。
「へえ、そんなにやりこめたんですかね!」と二等大尉は媚びるように調子を合せた。「それは、誰がトロイを創建したかということでしょう? もう私たちも、そのやりこめなすった話を聞きましたよ。イリューシャがその時さっそく話して聞かせたんで……」
「お父さん、あの人は何でも知ってるんです、誰よりかも一等よく知ってるんですよ!」イリューシャも相槌を打った。「あんなふりをしてるけど、その実なんの学課にかけても、僕たちの仲間で一等よくできるんですよ……」
 イリューシャは無限の幸福を感じながらコーリャを見た。
「なに、トロイのことなんかばかばかしい、つまらない話ですよ。僕自身その問題を空虚なものだと思っていますよ」とコーリャは謙遜しながらも、誇らしげに答えた。
 彼はもうすっかり調子づいていたが、しかしまだいくらか不安を感じていた。彼は自分が非常に興奮していて、たとえば鵞鳥の話などもあまり熱心にやりすぎたと感じていた。しかも、アリョーシャがその話の間じゅう黙りこんで、きまじめな様子をしていたので、自尊心の強い少年は、『先生が黙ってるのは、僕を軽蔑してるからじゃなかろうか。僕が先生の賞讃を求めてると思ってるからじゃあるまいか? もし、そんな生意気なことを考えてるなら、僕は……』こう考えると、だんだんと心を掻きむしられるような気がしはじめた。
「僕は、あの問題をごくつまらないものと思ってるんだ。」彼はふたたび誇らしげに、断ち切るようにこう言った。
「だけど、誰がトロイを建てたか、僕、知ってますよ。」その時までほとんど一ことも口をきかなかった一人の子供が、だしぬけにこう言った。それはだんまりやで、非常なはにかみやの、ごく可愛い顔をした十一になる少年で、姓をカルタショフと言った。
 彼は戸のすぐそばに腰かけていた。コーリャはびっくりしたような、ものものしい様子をして彼を見やった。ほかでもない、『誰がトロイを建てたか?』という問題は、まったくクラス全体にとって秘密になっていて、その問題を解くには、スマラーグドフの本を読まなければならなかったのである。けれど、コーリャのほかには、誰もスマラーグドフを持っているものがなかった。ところが、ちょうどあるとき少年カルタショフは、コーリャがよそを向いたすきに、ほかの書物の間にまじっていたスマラーグドフを、そっと手ばやく開いた。すると、トロイの創建者のことを書いたところにぴたりと出くわした。これはもうずっと前のことであったが、彼はやはり何かしらきまりがわるく、自分もそれを知っていると公表するのを躊躇していた。もしひょっと何かことが起りはしないか、どうかしてコーリャが恥をかかせはしないか、とこう懸念していたからである。けれど、今は我慢しきれなくなって、とうとう口をすべらしてしまった。彼はさっきから、言いたくて言いたくてたまらなかったのである。
「じゃ、誰が建てたんだ?」コーリャは傲然と、見おろすように彼のほうへ振り向いた。そして、カルタショフの顔いろで、これは本当に知っているなと見抜いたので、すぐその結果に対する心構えをしていた。人々の気分の中には、何かしら不調和《ディスソナンス》ともいうべきものが生じた。
「トロイを建てたのは、テウクルとダルダンとイルリュスとトロスです」と彼は一息に言ったが、その瞬間、顔を真っ赤にしてしまった。あまり真っ赤になったので、見るのも気の毒なくらいであった。けれど、子供たちはみんなじっと、穴のあくほど彼を見つめた。まる一分間見つづけていたが、やがてその目は一せいにコーリャのほうへ向けられた。こちらは冷静な軽蔑の色をうかべながら、この不敵な少年をじろじろうちまもっていた。
「じゃ、その人たちがどういう工合にして建てたんだ?」彼はやっとお情けでこういう問いを与えた。「町とか国とかを建てるということは、一たいどういう意味なんだね? その人たちはどうしたんだね、そこへやって来て煉瓦でも一枚ずつおいたのかい?」
 どっと笑い声が起った。悪いことをした少年の顔は、ばら色からさらに火のようになった。彼はおしだまってしまい、もう今にも泣きだしそうな顔をした。コーリャはまだしばらくの間、彼をそのままにして試験した。
「国民の基礎というような歴史上の事件を説明するには、まずそれがどんな意義をもっているか理解しなけりゃ駄目だよ」と彼はさとすような調子で厳めしく言った。「もっとも、僕はそういうことなんか、女の作り話なんか、重大視していないのだ。それに、一たい僕は世界歴史なんてものをあまり尊敬していないんだ。」彼はみんなに向いて、とつぜん無造作にこうつけたした。
「え、世界歴史を?」と急に二等大尉はびっくりしたように訊いた。
「そうです、世界歴史です。それは滔々たる人間どもの、無知な所業を研究するにすぎないですからね。僕の尊敬するのはただ数学と自然科学だけです」とコーリャはきっぱり言い切って、ちらとアリョーシャを見やった。彼はこの場で、ただアリョーシャ一人の意見を恐れていたのである。
 が、アリョーシャは依然としておしだまったまま、真面目な顔をしていた。もしアリョーシャが何か一口言えば、それでことはすんだのであろうが、アリョーシャは何も言わなかった。彼の『沈黙は軽蔑の沈黙かもしれない』と思って、コーリャはもうすっかりいらいらしてしまった。
「僕らの学校では、このごろまた古典語を始めましたがね、まるで狂気の沙汰です、それっきりです……カラマーゾフさん、あなたは僕の考えに反対ですか?」
「同意しませんね。」アリョーシャは控え目ににっこりした。
「古典語はですね、もしお望みとあれば、僕の意見を述べますが、あれば秩序取締りの政策なんですよ。ただそのために始めたんです」とコーリャは急にまた息をはずませた。「古典語を入れたのは退屈させるためです。才能を鈍らせるためです。すでに退屈であるが、それをさらにより退屈させるためにはどうしたらいいか? すではノンセンスであるが、それをさらにより以上ノンセンスにするにはどうしたらいいか? こういうわけでこの古典語を考えついたんです。これが古典語に関する僕のありのままの意見です。そして、僕はこの意見を決して変えないことを希望しています」とコーリャは鋭く言葉を結んだ。
 彼の両頬には赤いしみが現われた。
「それはまったくそうだ。」熱心に聞いていたスムーロフは、確信したように、かん走った声で同意を表した。
「そのくせ、コーリャはラテン語じゃ一番なんですよ!」群の中の一人がふいにこう叫んだ。
「そうなのよ、お父さん、自分であんなことを言ってるけど、ラテン語じゃ僕たちのうちで一番できるのよ」とイリューシャも相槌を打った。
「それがどうだって?」コーリャは賞められたのも非常に愉快であったが、それでもやはり弁解の必要を感じた。「そりゃ僕もラテン語をこつこつ暗記しています。つまりそうしなけりゃならないからですよ。なぜって、無事に学校を卒業するように、お母さんと約束したからです。僕の考えじゃ、一たんはじめた以上、立派にやり遂げたほうがいいと思うんです。けれど内心、僕はふかく古典主義なんて下劣なものを軽蔑しています……カラマーゾフさん、あなたはいかがですか?」
「でも、どうして『下劣なもの』なんです?」とアリョーシャはふたたび微笑した。
「だって、そうじゃありませんか、古典は残らず各国語に翻訳されてるから、古典研究のためにはラテン語なんかちっとも必要ありません。ただ政策として、人の才能を鈍らせるために必要とされたのです。どうしてこれが下劣でないと言えますか?」
「まあ、誰が君にそんなことを教えたんです?」とうとうアリョーシャはびっくりしたように叫んだ。
「第一に教わらなくたって、僕は自分でちゃんとわかります。それから第二として、僕がいま古典はぜんぶ翻訳されてると言ったのは、コルバースニコフ教授が三年級ぜんたいに向って、公然と言ったことなんです」
「お医者さんがいらしてよ!」それまで黙っていたニーノチカは、突然こう叫んだ。
 実際その時、ホフラコーヴァ夫人の箱馬車が門へ近づいた。朝から待ちかねていた二等大尉は、一目散に門のほうへ、出迎えに駈け出した。『おっ母さん』は身づくろいして、もったいらしい様子をした。アリョーシャはイリューシャのそばへ寄って、枕を直しはじめた。ニーノチカは自分の安楽椅子に腰かけたまま、気づかわしそうにそのほうを見やるのであった。少年たちはあわててさよならをしはじめた。中には晩にまた来ると約束するものもあった。コーリャはペレズヴォンを呼んだ。すると、犬は寝床の上から飛びおりた。
「僕、帰りゃしないよ、帰りゃしないよ!」とコーリャはあわててイリューシャに言った。「僕は玄関で待ってて、医者が帰ったらまたすぐ来るよ、ペレズヴォンを連れて来るよ。」
 しかし、医師はもう入って来た。熊の毛皮の外套を着、長い暗黒色の頬髯を生やし、顎をつやつやと剃ったその姿は、いかにもものものしかった。閾を跨ぐと、彼は度胆を抜かれたようにぴったり立ちどまった。入るところを間違えたような気がしたのである。で、彼は外套も脱がなければ、ラッコ皮の廂のついた同じものの帽子を取ろうともしないで、『これはどうしたことだ? ここはどこだ?』と呟いた。人ががやがやしていることや、部屋の粗末なことや、片隅の繩に洗濯物のかけ並べてあることなどが、彼を面くらわせたのである。二等大尉は彼に向って、丁寧に低く腰をかがめた。
「ここでございます、ここでございます」と彼はすっかり恐縮しながら呟いた。「ここでございます。わたくしのところでございます。あなたさまはわたくしのところへ……」
「スネ……ギ……リョフですか?」と医師はもったいらしく大声で言った。「スネギリョフさんは、あなたですか?」
「わたくしでございます!」
「ああ!」
 医師はもう一ど気むずかしそうに部屋を見まわし、外套を投げ出した。頸にかかっている厳めしい勲章が、一同の目にぎらりと光った。二等大尉は外套を宙で受けとめた。医師は帽子を脱いで、「患者はどこです?」と大きな声で催促するように訊いた。

[#3字下げ]第六 早熟[#「第六 早熟」は中見出し]

「あなたは、医者がイリューシャのことを、どう言うと思います?」とコーリャは口早に言った。「それにしても、なんていやな面でしょう、僕は医者ってものが癪にさわってたまりませんよ!」
「イリューシャはもう駄目でしょう。私にはどうもそう思われます」とアリョーシャは沈んだ声で答えた。
「詐欺師! 医者ってやつは詐欺師ですよ! だけど、カラマーゾフさん、僕はあなたにお目にかかったことを喜んでいます。僕はとうからあなたと近づきになりたかったんです。ただ残念なのは、僕たちがこんな悲しむべき時に出会ったことです……」
 コーリャは何かもっと熱烈で、もっと大袈裟なことを言いたくてたまらなかったが、何かが彼を押えているようであった。アリョーシャもこれに気がついたので、にっこりとして彼の手を握りしめた。
「僕はもうとっくからあなたを、世にも珍らしい人として尊敬していました。」コーリャはせきこんで、しどろもどろの調子でまたこう呟いた。「僕はあなたが神秘派で、修道院におられたことを聞きました。僕はあなたが神秘派だってことを知っていますが……それでも、あなたに接近したいという希望を捨てなかったんです。現実との接触がそれを癒やしてくれるでしょう……あなたのようなたちの人はそうなるのがあたりまえなんです。」
「一たい何を君は神秘派と呼ぶんです? そして、何を癒やしてくれるんです?」と、アリョーシャはいささか驚いて反問した。
「まあ、その、神だの何だのってものです。」
「何ですって、一たい君は神様を信じないのですか?」
「それどころじゃありません。僕も神には少しも異存ありません。むろん神は仮定にすぎないです……けれど……秩序のために……世界の秩序といったようなもののために、神が必要なことは認めています……だから、もし神がなければ、神を考え出す必要があったでしょう。」コーリャはだんだん顔を赤くしながら、こうつけたした。
 彼は突然こんな気持がしてきたのである、――今にもアリョーシャが、お前は自分の知識をひけらかして、自分が『大人』だってことを相手に示そうとしているのだ、とこう思うに違いない。『だが、僕はちっともこの人に、自分の知識なんかひけらかしたくはないんだ。』コーリャは憤然としてこう考えた。と、彼は急に恐ろしくいまいましくなった。
「僕は正直に言うと、こんな議論を始めるのがいやでたまらないんです」と彼は断ち切るように言った。「神を信じないでも、人類を愛することはできます、あなたはどうお考えですか? ヴォルテールは神を信じなかったけれど、人類を愛していました!」(また! また! と、彼は心の中で考えた。)
ヴォルテールは神を信じていました。が、その信仰はごく僅かだったようです。したがって人類に対する愛も僅かだったようです。」アリョーシャは静かに、控え目に、そしてきわめて自然にこう言った。それはいかにも自分と同年輩のものか、あるいは自分より年上のものとでも話すようなふうであった。
 アリョーシャがヴォルテールに関する自説に確信がなく、かえって小さいコーリャにこの問題の解決を求めるようなふうなので、コーリャはひどく驚かされた。
「が、君はヴォルテールを読みましたか?」とアリョーシャは言った。
「いえ、読んだというわけじゃありません……が、『カンディーダ』なら、ロシヤ語訳で読みました……古い怪しげな訳で、滑稽な訳で……」(また、また! と、彼は心の中で叫んだ。)
「で、わかりましたか?」
「ええ、そりゃあもうすっかり……つまり……しかし、なぜあなたは僕にわからなかったかもしれないと思うんです? むろん、あの本には俗なところがたくさんありました……僕もむろんあれが哲学的な小説で、思想を現わすために書いたものだってことはわかりました……」コーリャはもうすっかり、しどろもどろになってしまった。「僕は社会主義者です、カラマーゾフさん、僕は曲げることのできない社会主義者なんです。」彼は何の連絡もなくだしぬけにこう言って、ぶつりと言葉を切った。
社会主義者ですって?」とアリョーシャは笑いだした。「一たい君はいつの間に、そんなことができたんです? だって、君はまだやっと十三くらいでしょう?」
 コーリャはやっきとなった。
「僕は十三じゃない、十四です。二週間たつと十四になるんです。」彼は真っ赤になった。「それに僕の年なんか、この問題にどんな関係があります? 問題はただ僕の信念いかんということで、年が幾つかってことじゃないのです。そうじゃありませんか?」
「君がもっと年をとったら、年齢が信念に対してどんな意味をもつかということが、ひとりでにわかってきますよ。それに、私は、君の言われることが、自分の言葉でないような気がしましたよ」とアリョーシャは謙遜な、落ちついた調子で答えた。が、コーリャはやっきとなって、彼の言葉を遮った。
「冗談じゃない、あなたは服従神秘主義を望んでいらっしゃるんですね。たとえば、キリスト教が下層民を奴隷とするために、富貴な階級にのみ仕えていたということは、お認めになるでしょう。そうでしょう?」
「ああ、君が何でそんなことを読んだか、私にはちゃんとわかっています。きっと誰かが君に教えたんでしょう!」とアリョーシャは叫んだ。
「冗談じゃない、なぜ読んだものときまってるんです。僕は決して誰からも教わりゃしません。僕自分ひとりだってわかります……それに、もしお望みとあれば、僕はキリストに反対しません。キリストはまったく人道的な人格者だったのです。もし彼が現代に生きていたら、それこそ必ず革命家の仲間に入っていて、あるいは華々しい役目を演じたかもしれません……きっとそうですとも。」
「まあ、一たい、一たい君はどこからそんな説を、しこたま仕入れて来たんです? 一たいどんな馬鹿とかかり合ったんです!」とアリョーシャは叫んだ。
「冗談じゃない。では、しようがない、隠さずに言いますがね。僕はある機会からラキーチン君とよく話をするんです。しかし……そんなことは、もうベリンスキイ老人も言ってるそうじゃありませんか。」
「ベリンスキイが? 覚えがありませんね。あの人はどこにもそんなことを書いていませんよ。」
「書いてなけりゃ言ったんでしょう、何でもそういう話です。僕はある人から聞いたんですがね……だが、ばかばかしい、どうだっていいや……」
「では、君ベリンスキイを読みましたか?」
「それはですね……いや……僕ちっとも読まなかったんです。けれど……なぜタチヤーナがオネーギンと一緒に行かなかったか、ということを書いたところだけ読みました。」
「どうしてオネーギンと一緒に行かなかったか? 一たい君にはそんなことまで……わかるんですか?」
「冗談じゃない、あなたは僕のことを、スムーロフと同じような子供と思ってるようですね」とコーリャはいらだたしげに歯を剥いた。「けれど、どうか僕をそんな極端な革命家だとは思わないで下さい。僕はしょっちゅうラキーチンと意見の合わないことが多いんです。ところで、タチヤーナのことを言ったのは、決して婦人解放論のためじゃありません。実際、女は服従すべきもので、従順でなければなりません。Les femmes tricottent[#割り注](女は編物でもしておればいい[#割り注終わり])とナポレオンが言ったとおり」とコーリャはなぜかにやりと笑った。「少くとも、僕はこの点において、まったくこのえせ[#「えせ」に傍点]偉人と信念を同じゅうしています。たとえば、僕もやはり、祖国を棄てて、アメリカへ走るなんてことは、下劣なことだと思っています、下劣どころか無知なことだと思っています。ロシヤにいても十分人類を利することができるのに、なぜアメリカなんかへ行くんです? しかも今日のような場合、有益な活動の領域がいくらでもあるんですからね。僕はこう答えてやりました。」
「え、答えたんですって? 誰に? 誰かが君にアメリカへ行けとでも行ったんですか?」
「実のところ、僕はけしかけられたけれども、拒絶したんです。これはね、カラマーゾフさん、むろんここだけの話ですよ。いいですか、誰にも言わないようにして下さい。あなただけに言うんですからね。僕は第三課([#割り注]帝政時代のロシヤ政府に設けられた保安課[#割り注終わり])へぶち込まれて、ツェプノイ橋のそばで勉強するなんか真っ平です。

[#ここから2字下げ]
ツェプノイ橋の袂なる
かの建物を記憶せん!
[#ここで字下げ終わり]

 ご存じですか? 立派なものでしょう! なぜあなたは笑ってらっしゃるんです? まさか、僕がでたらめを並べてるとは、思ってらっしゃらないでしょうね?」(だが、もしカラマーゾフが、お父さんの書棚にこの『警鐘』([#割り注]ヘルツェンがロンドンで発行した雑誌[#割り注終わり])がたった一冊しかないことや、僕がそれよりほかこの種類のものを何にも読んでないことを知ったらどうだろう? コーリャはふとこう考えついて、思わずぞっとした。)
「どうしてどうして、そんなことはありません。私は笑ってやしません。君が嘘を言われるなんてまったく考えてもいません。それこそ本当に、そんなこと考えてやしませんよ。なぜって、悲しいことには、それがみんな本当のことなんですものね! ときに、君はプーシュキンを読みましたか、『オネーギン』を……いま君は、タチヤーナのことを言ったじゃありませんか?」
「いいえ、まだ読みませんが、読みたいとは思っています。カラマーゾフさん、ぼくは偏見を持っていませんから、両方の意見を聞きたいと思っているのです。なぜそんなことを訊くんですか?」
「なに、ただちょっと。」
「ねえ、カラマーゾフさん、あなたは僕をひどく軽蔑していらっしゃいますね?」とコーリャは投げつけるように言い、喧嘩腰といったような恰好で、アリョーシャの前にぐいと身を伸ばした。「どうかぴしぴしやって下さい、あてこすりでなしに。」
「あなたを軽蔑しているって?」アリョーシャはびっくりしてコーリャを見た。「そりゃどうしてです? 私はただ、あなたのようなまだ生活を知らない美しい天性が、そういうがさつな愚論のために片輪にされてるのが、淋しいんですよ。」
「僕の天性なんか心配しないで下さい」とコーリャは少々得意げな調子で遮った。「しかし、僕が疑りぶかい人間だってことは、そりゃまったくそのとおりです。ばかばかしく疑りぶかいんです。もう下司っぽいほど疑りぶかいんです。あなたは今お笑いになりましたが、僕はもう何だか……」
「ああ、私が笑ったのは、まるでほかのことですよ。私が笑ったのは、こういうわけなんです。以前ロシヤに住んでいたあるドイツ人が、現代ロシヤの青年学生について述べた意見を、私は近ごろ読んでみましたが、その中に『もしロシヤの学生にむかって、彼らが今日までぜんぜん何の観念も持っていなかった天体図を示したなら、彼らはすぐ翌日その天体図を訂正して返すであろう』とこう書いてありました。このドイツ人はロシヤの学生が何らの知識も持たないくせに、放縦な自信家だということを指摘したんです。」
「ええ、そうです、それはまったくそのとおりですよ!」コーリャは急にきゃっきゃっと笑いだした。「最上級に正確です、寸分相違なし! ドイツ人、えらい! けれど、やっこさん、いい方面を見落しやがった、あなたはどうお思いですか? 自信、――それはかまわないじゃありませんか。これはいわば若気のいたりで、もし直す必要があるとすれば、やがて自然に直りますよ。けれども、そのかわりドイツっぽのように、権威の前に盲従する妥協的精神と違って、ほとんど生来からの不羈の精神、思想と信念の大胆さがあります……だが、とにかくドイツ人はうまいことを言ったものですね! ドイツ人、えらい! が、それにしても、ドイツ人は締め殺してやらなけりゃなりません、彼らは科学にこそ長じていますが、それにしても締め殺さなけりゃなりません……」
「何のために締め殺すんです?」とアリョーシャは微笑した。
「ええ、僕はでたらめを言ったかもしれません。それは同意します。僕はどうかすると、途方もない赤ん坊になるんです。何か嬉しくなってくると、たまらなくなって、恐ろしいでたらめを言いかねないんです。だけど、僕らはここでくだらないことを喋っていますが、あの医者はあそこで何やら、長いことぐずついていますね。もっとも、『おっ母さん』だの、あの脚の立たないニーノチカだのを診察してるのかもしれません。ねえ、あのニーノチカは僕気に入りましたよ。僕が出て来る時に、『なぜあなた、もっと早くいらっしゃらなかったの?』って、だしぬけに小さい声で言うじゃありませんか。何ともいえない責めるような声でね! あのひとはとても気だての優しい、可哀そうな娘さんのように思われます。」
「そうです、そうです! 君もこれからここへ来ているうちに、あのひとがどんな娘さんかってことがわかりますよ。ああいうひとを知って、ああいうひとから多くの価値ある点を見いだすのは、あなたにとって非常に有益なことです」とアリョーシャは熱心に言った。「それが何よりも工合よく君を改造してくれるでしょう。」
「ええ、実に残念ですよ。どうしてもっと早く来なかったろうと思って、自分で自分を責めているんです」とコーリャは悲痛な調子で叫んだ。
「そうです、実に残念です。君があの哀れな子供に、どんな喜ばしい印象を与えたか、君自身ごらんになったでしょう。あの子は君を待ちこがれながら、どれくらい煩悶したかしれません。」
「それを言わないで下さい! あなたは僕をお苦しめになるんです。しかし、それも仕方がありません。僕が来なかったのは自愛心のためです、利己的自愛心と下劣な自尊心のためです。僕はたとえ一生涯くるしんでも、とうていこの自尊心からのがれることはできません。僕は今からちゃんとそれを見抜いています。カラマーゾフさん、僕はいろんな点から見てやくざ者ですよ!」
「いや、君の天性は曲げ傷つけられてこそいるが、美しい立派なものです。なぜ君があの病的に敏感な高潔な子供に対して、あれだけの感化を与えることができたか、私にはちゃんとわかっています!」とアリョーシャは熱心に答えた。
「あなたは僕にそう言って下さいますが」とコーリャは叫んだ。「僕はまあ、どうでしょう、僕はこう考えたんです、――現に今ここでも、あなたが僕を軽蔑していらっしゃるように考えていました! ああ、僕がどれくらいあなたのご意見を尊重してるか、それがあなたにわかったらなあ!」
「だが、君は本当にそれほど疑りぶかいんですか? そんな年ごろで! ねえ、どうでしょう、私はあそこの部屋で、君の話を聞きながらじっと君を見て、この人はきっと、むしょうに疑りぶかい人に違いない、とこう思いましたよ!」
「もうそう思ったんですか? それにしても、あなたの目はなんて目でしょう。ごらんなさい、ごらんなさい! 僕、賭けでもしますが、それは僕が鵞鳥の話をしていた時でしょう。僕もちょうどその時、あんまり自分をえらい者に見せかけようとあせるので、かえってすっかりあなたに軽蔑されてるような気がしました。そして、それがために急にあなたが憎くなって、くだらない話の連発をはじめたんです。それから(これはもう今ここでのことですが)、『もし神がないものなら、考え出す必要がある』と言った時にも、自分の教養をひけらかそうとあせったのだ、というような気がしました。ことにこの句はある本を読んで覚えたんですからね。けれど僕、誓って言いますが、あんなに急いで自分の教養をひけらかそうとしたのは、決して虚栄のためじゃないんです。何のためだか知りませんが、たぶん嬉しまぎれでしょう……もっとも、嬉しまぎれに有頂天になって、人の頸っ玉に噛りつくような真似をするのは、深く恥ずべきことですけれど、確かに嬉しまぎれのようでした。それは僕わかっています。けれど今はそのかわり、あなたが僕を軽蔑していらっしゃらないってことを信じています。そんなことはみんな僕自分[#「僕自分」はママ]で考え出した妄想です。ああ、カラマーゾフさん、僕は実に不幸な人間ですね。僕はどうかすると、みんなが、世界じゅうのものが僕を笑ってるんじゃないかというような、とんでもないことを考えだすんです。僕はそういう時に、そういう時に、僕は一切の秩序をぶち壊してやりたくなるんです。」
「そして、周囲のものを苦しめるんでしょう」とアリョーシャは微笑した。
「そうです、周囲のものを苦しめるんです、ことにお母さんをね。カラマーゾフさん、僕はいまとても滑稽でしょう?」
「まあ、そんなことを考えないほうがいいですよ、そんなことは、ぜんぜん考えないがいいです!」とアリョーシャは叫んだ。「滑稽が何です? 人間が滑稽なものになったり、あるいはそういうふうに見えたりすることは、いくらあるかしれません。今日ではみんな才能のあるひとたちが、滑稽なものになることをひどく恐れて、そのために不幸になってるんですよ。ただ私が驚くのは、君がそんなに早く、これを感じはじめたことです?[#「ことです?」はママ] もっとも、私はもうとっくから、ただ君ばかりでなく、多くの人にそれを認めていたのですがね。今日ではほとんど子供までが、これに苦しむようになっています。それはほとんど狂気の沙汰です。この自愛心の中に悪魔が乗り移って、時代ぜんたいを荒らし廻ってるんです、まったく悪魔ですよ。」じっと熱心に相手を見つめていたコーリャの予期に反して、アリョーシャは冷笑の影もうかべずに言いたした。「あなたもすべての人たちと同じです」とアリョーシャは語を結んだ。「つまり、大多数の人たちと同じですが、ただみんなのような人間になってはいけません、ほんとに。」
「みんながそうなのに?」
「そうです、たとえみんながそうであっても、君ひとりだけそんな人間にならなけりゃいいんです。それに、実際、君はみんなと同じような人じゃありません。現に君は今も、自分の悪い滑稽な点さえ認めることを、恥じなかったじゃありませんか。まったく、こんにち誰がそういうことを自覚してるでしょう? 誰もありゃしません。その上、自分を責めようという要求さえも起きないんです。どうかみんなのような人間にならないで下さい。たとえそういう人間でないものが、ただ君ひとりだけになっても、君はそういう人間にならないで下さい。」
「実に立派だ! 僕はあなたを見そこなわなかった。あなたは、人を慰める力を持っていらっしゃる。ああ、カラマーゾフさん、僕はどんなにあなたを慕っていたでしょう。どんなに以前から、あなたに会う機会を待っていたでしょう。じゃ、あなたもやはり、僕のことを考えていられたんですか? さっきそうおっしゃったでしょう、あなたも僕のことを考えてたって?」
「そうです、私は君のことを聞いて、やはり君のことを考えていました……もっとも、君はいくぶん、自愛心からそんなことを訊いたのでしょうが、そりゃ、なに、かまいませんよ。」
「ねえ、カラマーゾフさん、僕たちの告白はちょうど恋の打ち明けに似ていますね」とコーリャは妙に弱々しい羞恥をふくんだ声で言った。「それは滑稽じゃないでしょうか、滑稽じゃないでしょうか?」
「ちっとも滑稽じゃありませんよ。それに、よしんば滑稽でもかまやしませんよ。それはいいことですものね」とアリョーシャははればれしく微笑した。
「ですがねえ、カラマーゾフさん、あなたはいま僕と一緒にいるのを、恥しがってらっしゃるようですね……それはあなたの目つきでわかっています。そうでしょう?」コーリャは妙に狡猾な、しかし一種の幸福を感じたようなふうで、にたりと笑った。
「何が恥しいんです?」
「じゃ、なぜあなたは顔を赤くしたんです?」
「それは、君が赤くなるようにしむけたんです!」アリョーシャは笑いだした。実際、彼は顔じゅう真っ赤にしていた。「だが、そうですね、少しは恥しいようですね、なぜかわからないんですがね、なぜか知らないんですがね……」彼はほとんどどぎまぎしたようにこう呟いた。
「ああ、僕はどんなにかあなたを愛してるでしょう。どんなにこの瞬間あなたを尊重してるでしょう! それはつまり、あなたが僕と一緒にいるのを、恥しがっていらっしゃるためです。なぜって、あなたはちょうど僕と同じだからですよ!」コーリャはすっかり夢中になってこう叫んだ。彼の頬は燃え、目は輝いた。
「ねえ、コーリャ、君は将来非常に不幸な人間になりますよ。」アリョーシャはなぜか突然こう言った。
「知っています、知っています。本当にあなたは何でも先のことがおわかりになりますね!」とコーリャはすぐ承認した。
「だが、ぜんたいとしては、やはり人生を祝福なさいよ。」
「そうですとも! 万歳! あなたは予言者です! ああ、カラマーゾフさん、僕らは大いに意気相投合しますね。ねえ、いま僕を一ばん感心させたのは、あなたが僕をまったく同等の扱いになさることです。だけど、僕らは同等じゃありません。そうです、同等じゃありません、あなたのほうがはるかに上です! けれども、僕らは一致しますよ。実はねえ、先月のことでした、『僕とカラマーゾフさんは、親友としてただちに永久に一致するか、あるいは最初から敵となって、墓に入るまで別れるかだ!』とこうひとりで言ったんですよ。」
「あなたがそう言った時には、むろんもう私を愛していたんです!」とアリョーシャは愉快そうに笑った。
「愛していました、非常に愛していました、愛すればこそ、あなたのことを、いろいろと空想していたのです! どうしてあなたは何でも前からわかるんでしょうね? ああ、医者が来ました。ああ、一たい何と言うんだろう。どうです、あの顔つきは!」

[#3字下げ]第七 イリューシャ[#「第七 イリューシャ」は中見出し]

 医師はまた毛皮の外套にくるまり、帽子をかぶって出て来た。彼は腹だたしそうな気むずかしい顔つきをしていた。それは何か汚いものに触れるのを恐れているようであった。彼はちらりと玄関のほうへ視線を投げ、その拍子にいかつい目つきで、アリョーシャとコーリャを見た。アリョーシャは戸口から馭者を手招きした。と、医師を乗せて来た馬車は、入口に寄せられた。二等大尉は医師のあとからまっしぐらに飛び出して来て、謝罪でもするようにその前に腰をかがめながら、最後の宣告を聞こうと、引き止めた。哀れな大尉の額は死人の顔そのままで、その目は慴えたようであった。
「先生さま、先生さま……一たいもう?」彼はこう言いさしたが、まだ言い終らぬうちに、絶望のていで両手を拍った。彼は医師がもう一こと何とか言ってくれたら、不幸な子供の容態が実際もち直すとでも思っているもののように、最後の哀願の色をうかべて、医師を見つめるのであった。
「どうも仕方がないね! 私は神様じゃないから。」医師は馴れきった、さとすような声で、無造作にこう答えた。
「ドクトル……先生さま……それはもうすぐでございましょうか……すぐで?」
「万一の覚悟……をしておいたが、いいでしょう。」医師は一こと一こと、力を入れながらこう言うと、視線をわきへそらし、馬車のほうをさして、閾を跨ごうと身構えした。
「先生さま、お願いでございます!」二等大尉はびっくりしたように、医師を引き止めた。「先生さま!………では、どうしても、もうどうしても、今ではどうしても助からないのでございましょうか?………」
「もう私ではどうにも……ならん!」と医師はじれったそうに言った。「だが、ふむ、」彼は急に立ちどまった。「でも、もしお前さんが今すぐ、一刻も猶予せずに(医師は『今すぐ、一刻も猶予せずに』という言葉を、いかついところを通り越して、ほとんど腹立たしいばかりに言ったので、二等大尉はびくりと身ぶるいしたほどであった)……患者を………シ―ラ―ク―サヘ……連れて……行けば……温―暖な気―候―のために、ことによったら……あるいは―……」
シラクサですって!」言葉の意味を解しかねるらしく、二等大尉はこう叫んだ。
シラクサというと、――それはシシリイにあるのです。」コーリャは説明のために、とつぜん大きな声で投げつけるように言った。
 医師は彼を見やった。
「シシリイヘ! 旦那さま、先生さま、」二等大尉は茫然としてしまった。「まあ、ごらんのとおりでございます!」彼は自分の家財道具を指さしながら、両手で円を描いた。「あのおっ母さんや、家族のものはどうなるのでございましょう?」
「い、いや、家族はシシリイヘ行くんじゃない、お前さんの家族はコーカサスへ行くんだ、春早々にね……娘さんはコーカサスへやって、細君は……あの人もレウマチをなおすために、やはりコーカサスで規定の湯治をすますと……それから、すぐパリヘ―出かけて、精―神―病科専門のレペル―レティエの治療院へはいるんだねえ。私がその人へ添書を書いてもいい、そうすれば……あるいは……」
「先生、先生! でもこのとおりじゃありませんか!」何も貼ってない玄関の丸太壁を、絶望的に指さしながら、二等大尉はまたとつぜん両手を振った。
「いや、それはもう私の知ったことじゃないんだ。」医師は薄笑いをもらした。「私はただ、最後の方法をどうかというお前さんの質問に対して、科学の示し得るところを言ったにすぎん。だから、それ以外のことは……残念ながら……」
「ご心配はいりません、お医者さん、僕の犬はあなたに噛みつきゃしません。」
 医師が、閾の上に立っていたペレズヴォンにいくぶん不安げな目をそそいでいるのに気づいたので、コーリャは大声にこう遮った。
 コーリャの声には怒りの調子がこもっていた。彼は先生と言わずに、わざと『お医者さん』と言ったのである。それは、彼があとで白状したとおり、『侮辱のために言った』のである。
「な―ん―で―すって?」医者は驚いたようにコーリャの方へ目を据えて、ぐいと頭をしゃくった。「こ……この子は何ものだね?」医者は、アリョーシャに責任を求めようとでもするように、とうぜん彼のほうへふり向いた。
「この子はペレズヴォンの主人ですよ。お医者さん、僕の人物については心配ご無用ですよ。」コーリャはまたきっぱりこう言った。
「ズヴォン?」と医師は鸚鵡返しに言った。ペレズヴォンが何ものかわからなかったのである。
「やっこさん自分がどこにいるか知らないんだ。さようなら、お医者さん、またシラクサでお目にかかりましょう。」
「何ものです、こ……この子は? 何ものです、何ものです?」医師は、にわかにやっきとなってこう言った。
「先生、あれはここの学生です。やんちゃ者なんです。お気にとめないで下さい」とアリョーシャは眉をしかめながら、早口に言った。「コーリャ、もうおやめなさい!」と彼はクラソートキンに叫んだ。「先生、気におとめになっちゃいけませんよ」と今度はいくぶんいらいらしながら繰り返した。
「引っぱたいて……引っぱたいてやるぞっ……引っぱたいて!」なぜか度はずれにいきり立った医師は、どしんどしんと地団駄を踏んだ。
「だがね、お医者さん、僕のペレズヴォンは、ことによったら、本当に噛みつくかもしれませんよ!」コーリャは真っ蒼になって目を光らせながら、声をふるわしてこう言った。「Iic[#「Iic」はママ], ペレズヴォン!」
「コーリャ、もう一度そんなことを言ったら、私は永久に君と絶交しますよ!」とアリョーシャは威をおびた調子で叫んだ。
「お医者さん、ニコライ・クラソートキンに命令することのできるものが、世界じゅうにたった一人あるんです、それはこの人なんです(と、コーリャはアリョーシャを指さした)。僕はこの人にしたがいます、さようなら!」
 彼はいきなりそこを離れると、戸をあけて、急ぎ足に部屋へ入った。ペレズヴォンも彼のあとから駈け出した。医師はアリョーシャをうちまもりながら、化石したように五秒間ばかり立ちすくんでいたが、やがて突然ぺっと唾をして、「一たい、一たい、一たい、一たいこれは何事だ!」と大声に繰り返しながら、急ぎ足に馬車のほうへ行った。二等大尉は医師を馬車へ乗せるために、急いで駈けだした。アリョーシャはコーリャにつづいて部屋へ入った。コーリャはもうイリューシャの寝床のそばに立っていた。イリューシャは彼の手を握って、お父さんを呼んだ。やがて二等大尉も帰って来た。
「お父さん、お父さん、ここへ来てちょうだい……僕たちはね……」とイリューシャは非常な興奮のていで呟いたが、あとをつづけることができないらしく、とつぜん痩せた両手を前へさし伸べて、力のかぎり彼ら二人、コーリャと父親を一度に強く抱きしめ、彼らにぴったり身を寄せた。
 二等大尉はにわかにぶるぶると全身を慄わしながら、忍び音にすすり泣きをはじめた。コーリャの唇と顋が慄えだした。
「お父さん、お父さん! 僕お父さんが可哀そうでならないの!」とイリューシャは声高に、呻くように言った。
「イリューシャ……ね、これ……いま先生が言われたが……お前たっしゃになるよ……そして、私たちは仕合せになるよ……先生は……」と二等大尉が言いかけた。
「おお、お父さん! 僕こんどのお医者さんが何と言ったか知ってるの……僕見たんだもの!」と、イリューシャは叫んで、父の肩に顔を埋めつつ、二人をしっかりと抱きしめた。
「お父さん、泣かないでちょうだい……僕が死んだら、ほかのいい子をもらってちょうだい……あの人たちみんなの中から自分でいいのを選って、イリューシャという名をつけて、僕の代りに可愛がってちょうだい……」
「よせよ、お爺さん、なおるよ!」とクラソートキンは怒ったように叫んだ。
「でも、僕をね、お父さん、決して僕を忘れないでちょうだい」とイリューシャは言葉をつづけた。「僕のお墓に詣ってね……ああ、それからお父さん、いつも一緒に散歩してたあの大きな石のそばに葬ってちょうだい……そして、夕方になったら、クラソートキン君と一緒にお詣りに来てちょうだい……ペレズヴォンもね、僕待ってるから……お父さん、お父さん!」
 イリューシャの声はぷつりときれた。三人は抱き合ったまま黙ってしまった。ニーノチカは安楽椅子に腰かけたまま、忍び音に泣いていたが、『おっ母さん』もみんなが泣いているのを見ると、急にさめざめと涙を流しはじめた。
「イリューシャ、イリューシャ!」と彼女は叫んだ。
 クラソートキンは突然、イリューシャの手から身をもぎ放した。
「さようなら、お爺さん、ご飯時分だから、お母さんが僕を待ってるだろう」と彼は早口に言った。「お母さんに断わって来なくて、本当に残念だった! きっと心配するだろう……だが、ご飯をすましてからすぐ来るよ、一日じゅう来ているよ、一晩じゅう来てるよ、そしてうんと話すよ。うんと話すよ。ペレズヴォンも連れて来るよ、しかし、今は連れて帰ろう。だって、僕がいないと、こいつ吠えだして君の邪魔をするからさ。さようなら!」
 こう言って、彼は玄関へ走り出た。彼は泣きたくなかったが、玄関へ出ると、やはり泣いてしまった。こうしているところを、アリョーシャが見つけた。
「コーリャ、君はきっと約束どおり来てくれるでしょうね。でないと、イリューシャはひどく力を落しますよ」とアリョーシャは念を押した。
「きっと来ます! ああ、残念だ、どうしで[#「どうしで」はママ]僕はもっと前に来なかったんだろう。」
 コーリャは泣きながら、しかもその泣いていることを恥じようともせずに呟いた。
 ちょうどこの時、とつぜん部屋の中から、二等大尉が転げるように駈け出して、すぐにうしろの戸を閉めた。彼は気ちがいのような顔つきをして、唇を慄わせていた。そして、二人の若者の前に立って、ぐいと両手を上へあげた。
「どんないい子もほしくない! ほかの子なんか、ほしくない!」と彼は歯ぎしりしながら、気うとい声で囁いた。「もしわれなんじを忘れなば、エルサレム、われを罰せよ……」
 彼は涙にむせんだようなふうで、しまいまで言うことができなかった。ぐったりと木製のベンチの前に跪き、両の拳でわれとわが頭をしめつけて、たわいもなく泣きじゃくりをはじめた。が、自分の泣き声が部屋の中に聞えないようにと、懸命に声を抑えていた。コーリャは往来へ飛び出した。
「さようなら、カラマーゾフさん! あなたも来ますか?」彼は鋭い声で、腹立たしそうにアリョーシャに叫んだ。
「きっと晩に来ますよ。」
「あの人はエルサレムがどうとか言ったが……あれは一たい何でしょう?」
「あれは聖書の中にあるんです、『エルサレムよ、もしわれなんじを忘れなば』、つまり、私が自分の持っている一ばん尊いものを忘れたら、何かに見かえてしまったら、私を罰して下さい、というのです……」
「わかりました、たくさんです! じゃあ、あなたもおいでなさい! Ici, ペレズヴォン!」と彼はあらあらしい声で犬を呼び、大股にわが家をさして急いだ。
[#改段]

[#1字下げ]第十一篇 兄イヴァン[#「第十一篇 兄イヴァン」は大見出し]



[#3字下げ]第一 グルーシェンカの家で[#「第一 グルーシェンカの家で」は中見出し]

 アリョーシャは中央広場のほうへ赴いた。彼は、商人の妻モローソヴァの家に住んでいるグルーシェンカのもとへと志したのである。彼女は朝早く、彼のところヘフェーニャをよこして、ぜひ来てもらいたいとくれぐれも頼んだのである。アリョーシャはフェーニャの口から、彼女が昨日から何だかひどくそわそわしていることを知った。ミーチャが捕縛されて以来、二カ月間というもの、アリョーシャは自分で気が向いたり、ミーチャから頼まれたりして、たびたびモローソヴァの家へ行ったのである。ミーチャの捕縛後三日目に、グルーシェンカは激しい病気にかかって、ほとんど五週間ちかくも寝ついていた。そのうち一週間くらいは、昏睡状態におちいっていたほどである。彼女はひどく面がわりがした。外出できるようになってから、もうほとんど二週間になるが、彼女の顔はまだやつれて黄いろかった。けれど、アリョーシャの目には、そのほうがむしろ魅力があるように思われた。で、彼はグルーシェンカの部屋へ入って行く時に、彼女の与える最初の一瞥を好んだ。彼女の目つきには何かしっかりした、意味ありげなあるものが明瞭に現われていた。そこには何やら精神的変化が認められ、つつましやかではあるが、しかし堅固不抜な、頑固に思われるほどの決心の色が浮んでいた。眉と眉の間にはあまり大きくない竪皺が現われて、美しい容貌に深く思いつめたような色を添えているので、ちょっと見ると、きついようにさえ感じられた。以前の軽はずみな調子など跡かたもなかった。それからもう一つ、アリョーシャにとって不思議なのは、この哀れな女が、あれほど不幸な目にあったにもかかわらず、つまり、婚約したほとんどその瞬間に、相手の男が恐ろしい犯罪の疑いで逮捕されたり、病気にかかったり、十中八九避けることのできない裁判の判決に将来を脅やかされたりしているにもかかわらず、やはり以前のうきうきした若々しさを失わないことであった。彼女の以前の傲慢な目つきの中に、今では一種の静謐が輝いていた。もっとも……もっともこの目はやはり時おり、一種の不吉な火に燃え立つことがあった。それは依然として変らぬ一つの不安が彼女を襲って、一向に衰えようとしないばかりか、ますます彼女の心中に拡がってゆくような時であった。この不安の原因は、例のカチェリーナであった。グルーシェンカは病気の間にも、カチェリーナのことを譫言に言ったほどである。
 彼女がカチェリーナのためにミーチャを、囚人のミーチャを嫉妬していることは、アリョーシャもちゃんと知っていた。もっとも、カチェリーナは、自由に獄中のミーチャを訪ねることができたにもかかわらず、一度も面会に行ったことがないのであった。これらのことはアリョーシャにとって、かなり面倒な問題になっていた。というのは、グルーシェンカはただアリョーシャ一人にだけ自分の心を打ち明けて、絶えずいろいろな相談を持ちかけたが、時によるとアリョーシャは、彼女に何と言ったらいいか、まるでわからなくなるからであった。
 彼は心配らしい顔つきをして彼女の部屋へはいった。彼女はもう家へ帰っていた。もう三十分も前にミーチャのところから帰って来たのである。彼女がテーブルの前の安楽椅子から飛び立って、彼を迎えた時の敏速な挙動から考えて、アリョーシャは彼女がひどく待ちわびていたことを知った。テーブルの上にはカルタがおいてあって、『馬鹿』をしていた跡がある。テーブルの一方におかれた革張りの長椅子には、蒲団が伸べられて、その上にはマクシーモフが部屋着をまとい、木綿の帽子を被ったまま、横になっていた。彼は甘ったるい笑みを浮べていたが、いかにも病人らしく、弱りこんだような様子をしていた。この住むに家なき老人は、二カ月前、グルーシェンカと一緒にモークロエから帰って来て以来、ここにとまり込んで、そのまま彼女のそばを離れないのである。彼はそのとき彼女と一緒に、霙の中をぐしょ濡れになって帰って来ると、長椅子の上へ坐り込んでしまって、おずおずと哀願するような微笑を浮べながら、彼女をうちまもっていた。グルーシェンカは烈しい悲しみに打たれてもいたし、そろそろ発熱を感じてもいたし、その上さまざまな心配ごともあったので、帰ってからほとんど三十分以上、マクシーモフのことを忘れていたのであるが、ふと気がついたようにじっと彼を見つめた。マクシーモフはみじめな表情で、彼女の目を見ながら、ひひひと笑った。彼女はフェーニャを呼んで、何か食べさしてやるように言いつけた。彼はこの日一んち、ほとんど身動き一つせずに坐り込んでいた。暗くなって、鎧戸を閉めてしまうと、フェーニャは女あるじに訊ねた。
「ねえ、奥さま、あの方は泊って行くのでございますか?」
「そうだよ、長椅子の上に床を伸べておあげ」とグルーシェンカは答えた。
 グルーシェンカは根掘り葉掘り訊ねたすえ、今ではもうまったくどこへも行き場のない彼であることを知った。『わたくしの恩人のカルガーノフさんも、もうお前をおいてやらないと、きっぱりわたくしに言い渡して、お金を五ルーブリくださいました』と彼は言った。『じゃ、仕方がない。わたしのとこにいたらいいわ。』グルーシェンカは憫れむように微笑しながら、悩ましげにそう言った。老人はこの微笑を見て、思わずぎっくりし、感謝の情に唇をふるわした。こうして、その時からこの放浪者は、彼女のもとに食客として残ったのである。彼女の病中にも彼はその家を出なかった。フェーニャと、料理番をしているその祖母も、やはり彼を追っ払わないで、食べさせてやったり、長椅子の上に寝床を伸べてやったりした。グルーシェンカも、しまいには彼に慣れて、ミーチャのところへ行って来た時など(彼女はまだすっかり回復しきらないうちから、もう、ミーチャのところへ行きはじめた)、悲しみをまぎらすために、『マクシームシュカ』を相手に、いろいろ無駄話をするようになった。老人も案外なにかと面白いことを話してくれるので、今では彼女にとって、なくてかなわぬ人となった。ときどきほんのちょっと顔を覗けるアリョーシャのほか、グルーシェンカはほとんど誰もに[#「もに」はママ]会わなかった。彼女の老商人は、この頃ひどく病気が重って[#「重って」はママ]寝ついていた。町で噂していたとおり、もう『死にかかっていた』のである。事実、彼はミーチャの公判後、一週間たって死んだ。死ぬ三週間前、彼は死期の近づいたのを感じて、息子や嫁や子供たちを呼びよせ、もはや一刻もそばを離れぬようにと頼んだ。しかし、グルーシェンカは決して来させぬように、もし来たら、『どうか末長く楽しく暮して、わしのことはすっかり忘れてくれ』と伝言するように、厳しく下男たちへ言いつけた。が、グルーシェンカはほとんど毎日のように、その容態を問い合せに使いをよこした。
「とうとう来たわね!」彼女はカルタを抛り出して、アリョーシャと握手しながら、嬉しそうにこう叫んだ。「マクシームシュカったら、あんたがもう来ないなんて嚇かすのよ。ああ、本当にあんたに来てもらわないと、困ることがあるの。テーブルのそばへおかけなさいよ。ねえ、コーヒー飲みたくなくって?」
「ええ、もらってもいいです」とアリョーシャは、テーブルのそばへ腰をおろしながら言った。「すっかり腹がへっちゃった。」
「そら、ごらんなさい。フェーニャ、フェーニャ、コーヒーを!」とグルーシェンカは叫んだ。「うちじゃもうさっきから、コーヒーがぐつぐつ煮立って、あんたを待っているのよ。肉入りパイを持って来てちょうだい、熱いのをね! そうそう、ちょっとアリョーシャ、今日わたしのほうじゃね、この肉入りパイで騒動が起ったのよ。わたしね、このパイをあの人のところへ、監獄へ持って行ったの。ところが、ひどいじゃありませんか。あの人はそれをわたしに抛り返して、食べようとしないの。一つのパイなど、床へ投げつけて、踏みにじるんだもの。だから、わたし、『これを番人のところへ預けとくから、もし晩までに食べなかったら、あんたはつまり意地のわるい憎しみを食べて生きてるんだわ!』と言って、それなりさっさと帰って来たのよ。また喧嘩しちゃった。まあ、どうでしょう、いつ行っても、きっと喧嘩しちまうんですの。」グルーシェンカは興奮しながら、立てつづけにまくしたてた。マクシーモフは途端におじ気づいて、目を伏せながらにやにやしていた。
「今度はどういうわけで喧嘩をしたんです?」とアリョーシャは訊いた。
「もうそれこそ、本当にだしぬけなのよ! まあ、どうでしょう、『もとの恋人』のことをやいてね、『なぜお前はあいつを囲っておくんだ。お前はあいつを囲ってるんだろう?』なんて言うのよ。始終やいてるのよ、始終わたしをやいてるのよ! 寝ても覚めてもやいてるの。先週なんか、クジマーのことさえやいたわ。」
「だって、兄さんは『もとの人』のことを知ってるじゃありませんか!」
「そりゃ知ってますともさ。そもそもの初めから、今日のことまで知り抜いてるのよ。ところが、今日だしぬけに呶鳴りつけるじゃありませんか。あの人の言ったことったら、ほんとに気恥しくって、口に出せやしないわ。馬鹿だわね! わたしが出て来る時、すれ違いにラキートカが訪ねて行ったけれど、ことによったら、あの男が焚きつけてるのかもしれないわねえ? あんたどう思って?」と彼女はぼんやりした様子でつけ加えた。
「兄さんはあなたを愛しています。本当に、ひどく愛してるんですよ。ところが、今日はちょうど運わるくいらいらしてたんです。」
「そりゃいらいらするのもあたりまえだわ、あす公判なんですもの。わたしが行ったのも、明日のことで言いたいことがあったからよ。ほんとにねえ、アリョーシャ、明日はどうなるでしょう、わたし考えてみるのさえ怖いわ! あんたはあの人がいらいらしてるっておっしゃるけど、わたしこそどれほどいらいらしてるかしれないわ。それだのに、あの人はポーランド人のことなんか言いだしてさ! 本当に馬鹿だわね! よくこのマクシームシュカをやかないことだわ。」
「わたくしの家内もやはりずいぶんやきましたよ」とマクシーモフも言葉を挟んだ。
「へえ、お前さんを。」グルーシニンカは気のなさそうな様子で笑った。「一たい誰のことをやいたのさ?」
「女中たちのことで。」
「ええ、おだまり、マクシームシュカ、冗談どころのさわぎじゃないわ。お前さん、そんなに肉入りパイを睨んだって駄目よ、あげやしないから。お前さんには毒だものね。油酒《バルサム》もあげないよ、この人もこれでずいぶん世話がやけるのよ。まるで養老院だわ、本当に。」彼女は笑った。
「わたくしは、あなたさまのお世話を受ける値うちなどはございません。わたくしはごくつまらない人間なんで」とマクシーモフは涙声で言った。「どうか、わたくしよりかもっと役にたつ人に、お情けをかけてやって下さいまし。」
「あら、マクシームシュカ、誰だってみんな役にたつものばかりだわ、誰が誰より役にたつか、そんなことがどうして見分けられるの? せめてあのポーランド人でもいなかったらいいのに。今日はあの男までが、病気でも始めそうなふうなんだもの。わたし行ってみたのよ。だから、ミーチャへ面当てに、わざとあの人に肉入りパイをあげるつもりだわ、わたしそんな覚えもないのに、ミーチャったら、わたしがあの人にパイを持たせてやった。と言っちゃ責めるんだもの。だから、今度こそわざと持たせてやるわ。面当てにね! あら、フェーニャが手紙を持って来た、案の定またあのポーランド人からだ。またお金の無心よ!」
 実際、パン・ムッシャローヴィッチが例によって、言葉のあやをつくした恐ろしく長い手紙をよこしたのである。それには三ルーブリ貸してもらいたいというので、向う三カ月間に払うという借用証を添えてパン・ヴルブレーフスキイまで連署していた。グルーシェンカは、こういう手紙やこういう証書を『もとの人』から今までにたくさん受け取っていた。こんなことが始まったのは、全快するおよそ二週間まえあたりであった。もっとも病中にも、二人の紳士が見舞いに来てくれたことを、彼女は知っていた。彼女が受け取った最初の手紙は、大判の書翰箋に長々としたためて、大きな判まで捺してあったが、非常に曖昧なことを、くだくだしく書きたてたものであった。グルーシェンカは半分ほど読んだが、何が何だかわからなくなって、そのまま抛り出してしまった。それに、彼女はその時分、手紙どころではなかった。引きつづいてその翌日、二度目の手紙が来た。それはパン・ムッシャローヴィッチが、ほんのちょっとのあいだ二千ルーブリ用立ててほしいというのであった。グルーシェンカはこれにも返事を出さなかった。つづいてあとからあとから、日に一通ずつ来る手紙は、みんな同じようにものものしい廻りくどいものであったが、借りたいという金額は百ルーブリ、二十五ルーブリ、十ルーブリとだんだん少くなり、最後の手紙にはたった一ルーブリ借りたいといって、二人で連署した借用証を添えて来た。グルーシェンカは急に可哀そうになって、夕方自分で紳士《パン》のところへ駈けだした。そして、二人のポーランド人が恐ろしく貧乏して、ほとんど乞食同様になっているのを見いだした。食べ物もなければ薪もなく、巻煙草もなくなって、宿の内儀に無心した借金で首が廻らなくなっていた。モークロエでミーチャから捲き上げた二百ルーブリは、たちまちどこかへ消えてしまった。しかし、グルーシェンカが驚いたことには、二人のポーランド人は傲慢尊大な態度で彼女を迎え、最上級の形容詞を使って、大きなほら[#「ほら」に傍点]を吹きたてた。彼女はからからと笑っただけで、『もとの人』に十ルーブリやった。その時すぐ彼女は、このことをミーチャに話したが、ミーチャはちっとも嫉妬などしなかった。けれど、その時から、二人のポーランド人はグルーシェンカに噛りついて、毎日無心の手紙で彼女を砲撃するようになり、彼女はそのつど少しずつ送ってやった。ところが、今日になって、だしぬけにミーチャがめちゃくちゃに嫉妬を始めたのである。
「馬鹿だわね、わたしミーチャのところへ行きしなに、紳士《パン》のところへもほんのちょっと寄ってみたのよ。だって、紳士《パン》もやはり病気になったんですもの。」グルーシェンカはせかせかと、忙しそうにまた言いだした。「わたし、このことを笑いながらミーチャに話したの。そして、あのポーランド人が以前わたしに歌って聞かせた歌をギターで弾いて聞かせたが、きっとそうしたら、わたしが情にほだされて、なびきでもするかと思ったんでしょう、ってこう言ったの。ところが、ミーチャはいきなり飛びあがって、さんざん悪口をつくじゃないの……だからね、わたしかまやしない、紳士《パン》たちに肉入りパイを持たせてやるんだ! フェーニャ、どうだえ、あの娘っ子をよこしたかえ? じゃ、あれに三ルーブリもたせて、肉入りパイを十ばかり紙に包んで届けさせておくれ。だからね、アリョーシャ、わたしが紳士《パン》たちに肉入りパイを持たせてやったって、あんたぜひミーチャに話してちょうだい。」
「どんなことがあったって話しゃしません」とアリョーシャはにっこり笑った。
「あら、あんたはあの人が苦しんでいるとでも思ってるの。だって、あれはあの人がわざとやいてるのよ、だから、あの人にとっては何でもありゃしないんだわ」とグルーシェンカは悲痛な声でそう言った。
「どうして『わざと』なんです?」とアリョーシャは訊いた。
「アリョーシャ、あんたも血のめぐりの悪い人ね。あんなに利口なくせに、このことばかりはちっともわからないとみえるわ。わたしね、あの人がわたしみたいなこんな女をやいたからって、それで気を悪くしてるんじゃなくてよ。もしあの人がちっともやかなかったら、それこそかえって癪だわ。わたしはそういう女なのよ。わたし、やかれたからって、腹なんか立てやしないわ、わたし自分でも気がきついから、ずいぶんやくんですもの。ただ、わたしの癪にさわるのはね、あの人がちっともわたしを愛していないくせに、『わざと』やいて見せるってことなのよ。わたしいくらぼんやりでも盲じゃないから、ちゃんとわかってるわ。あの人は今日だしぬけに、あのカーチカのことを話して聞かせるじゃありませんか。あれはこれこれしかじかの女で、おれの公判のために、おれを助けるためにモスクワから医者を呼んでくれただの、非常に学問のある一流の弁護士を呼んでくれただのって言うのよ。わたしの目の前でほめちぎるんですもの。ミーチャはあの女を愛してるんだわ、恥知らず! あの人こそわたしにすまないことをしてるのに、かえってわたしに言いがかりをこさえて、自分よりさきにこっちを悪者にしようとしてるのよ。『お前はおれよりまえにポーランド人と関係したんだから、おれだってカーチカと関係してもかまやしない』って、わたし一人に罪を着せようとするのよ。ええ、そうですとも! わたし一人に罪を着せようとしてるんだわ。わざと言いがかりをしてるんだわ、それに違いない。だけど、わたし……」グルーシェンカは、自分が何をするつもりか言いも終らぬうちに、ハンカチを目におしあてて、烈しくすすり泣きをはじめた。
「兄さんはカチェリーナさんを愛してやしません」とアリョーシャはきっぱり言った。
「まあ、愛してるか愛してないか、それは今にわたしが自分で突きとめるわ。」グルーシェンカはハンカチを目からのけて、もの凄い調子を声に響かせながらこう言った。
 彼女の顔は急にひんまがった。優しい、しとやかな、そして快活なその顔が、にわかに陰惨な毒々しげな相に変ったのを見て、アリョーシャは情けない気持になった。
「こんな馬鹿な話はもうたくさんだわ!」彼女は急にずばりと切り棄てるように言った。「わたし、こんなことであなたを呼んだんじゃないんですもの。ねえ、アリョーシャ、明日、明日はどうなるでしょう? わたし、それが苦になってたまらないのよ! わたしが一人だけで苦労してるのよ! 誰の顔を見ても、このことを考えてくれる人はまるでないんですもの、誰もみんな知らん顔してるんですもの。せめてあんただけは、このことを考えてくれるでしょう? あす公判じゃありませんか!ねえ、公判の結果はどうなるんでしょう? 聞かしてちょうだい。あれは下男がしたことだわ、下男が殺したんだわ、下男が! ああ、神様! あの人は下男の代りに裁判されるんです。誰もあの人の弁護をしてくれるものはないんでしょうか? だって、裁判所じゃ、一度もあの下男を調べてみなかったんでしょう、え?」
「あれは厳重に訊問されたんですが」とアリョーシャは沈んだ口調で言った。「犯人じゃないときまっちゃったんです。今あれはひどい病気にかかって寝ています。あの時から病気になったんですよ、あの癲癇のとき以来ね。本当に病気なんですよ」とアリョーシャは言いたした。
「ああ、どうしよう、じゃ、あの弁護士に会って、このことをじかに話して下さらない? ペテルブルグから三千ルーブリで呼ばれたんだそうじゃなくって。」
「それは、私たち三人で三千ルーブリ出したんです。私と、イヴァン兄さんと、カチェリーナさんとね。ですが、モスクワから医者を呼んだ二千ルーブリの費用は、カチェリーナさん一人で負担したんです、弁護士のフェチュコーヴィッチはもっと請求したかもしれないんですが、この事件がロシヤじゅうの大評判になったから、したがって、自分の名が新聞や雑誌でもてはやされるというので、フェチュコーヴィッチはむしろ名誉のために承諾したんです。なにしろ、この事件はひどく有名になってしまったもんですからね。私は昨日その人に会いました。」
「そして、どうして? その人に言ってくれて?」とグルーシェンカは気ぜわしげに叫んだ。
「その人はただ聞いただけで、何にも言いませんでした。もう確とした意見ができてると言っていましたが、しかし、私の言葉も参考にしようと約束しました。」
「参考も何もあるものですか! ああ、誰も彼もみんな詐欺師だ! みんながかりで、あの人を破滅さしてしまうんだ! だけど、お医者なんか、あのひとはなぜお医者なんか呼んだのかしら?」
「鑑定人としてですよ。兄は気ちがいで、発作にかられて無我夢中でやった、――とこういうことにしようっていうんです。」アリョーシャは静かに微笑した。「ところが、兄さんはそれを承知しないんでね。」
「ええ、そうよ、もしあの人が殺したとすれば、きっとそうだったのよ!」とグルーシェンカは叫んだ。「あの時、あの人はまったく気ちがいだったわ、しかも、それはわたしの、性わるなわたしのせいなのよ! だけど、やっぱりあの人が殺したんじゃない、あの人が殺したんじゃないわ! それだのに、町じゅうの者はみんな、あの人が殺したって言ってるんだからねえ。うちのフェーニャさえ、あの人が殺したことになってしまうような申し立てをしたんだもの。それに、店の者も、あの役人も、おまけに酒場の者まで、以前そういう話を聞いたなんて言うんだもの! みんな、みんなあの人をいじめようとして、あのことをわいわい言いふらすのよ。」
「どうも証拠がやたらにふえましたからね」とアリョーシャは気むずかしそうに言った。
「それに、グリゴーリイね、グリゴーリイ・ヴァシーリッチが、戸は開いてたなんて強情をはるのよ。自分でちゃんと見たって頑固に言いはって、とても言い負かされることじゃない、わたしさっそく駈けつけて、自分で談判してみたけれど、悪態までつくじゃないの!」
「そう、それが兄さんにとって、一ばん不利な証拠かもしれませんね」とアリョーシャは言った。
「それにね、ミーチャが気ちがいだと言えば、なるほど、あの人は今ほんとうに、そんなふうなのよ」と、グルーシェンカは何かとくべつ心配らしい、秘密めかしい様子をしてささやいた。「ねえ、アリョーシャ、もうとうからあなたに言おうと思ってたんだけど、わたし毎日あの人のところへ行って、いつもびっくりさせられるの、ねえ、あんたどう思って? あの人はこのごろ何か妙なことを言いだしたのよ。何かしきりに言うんだけど、わたしにゃちっともわからないの。あの人は何か大へん高尚なことを言ってるけれど、わたしが馬鹿だからわからないんだろう、とこうも考えてみるの。でも、だしぬけに、どこかの餓鬼のことなんか言いだして、『どうして餓鬼はこうみじめなんだろう? つまり、おれはこの餓鬼のためにシベリヤへ行くんだ。おれは誰も殺しはしないが、シベリヤへ行かなけりゃならない!』なんて言うのよ、一たいどうしたことでしょうね、餓鬼ってのは何でしょう、――わたしてんでわからないの。わたしこれを聞くと、ただもう泣いてしまったわ。あの人の話があんまり立派で、それに自分でも泣くんだもの、わたしも一緒に泣いちゃったわ。そしてね、あの人はだしぬけにわたしに接吻して、片手で十字を切ったりするの。何のことでしょうね、アリョーシャ、聞かしてちょうだい、『餓鬼』って一たい何でしょう?」
「なぜかラキーチンが、しじゅう兄さんのところへ行きだしたから……」アリョーシャは微笑した。「だけど……それはラキーチンのせいじゃあない。私はきのう兄さんのところへ行かなかったから、きょうは行きます。」
「いいえ、それはラキーチンのせいじゃないわ。それは弟さんのイヴァンが、あの人の心を掻き廻すんだわ。イヴァンさんがあの人のところへ行ってるから、それで……」と言いかけて、グルーシェンカは急に言葉を切った。
 アリョーシャはびっくりしたように、グルーシェンカを見つめた。
「え、行ってるんですって? ほんとにイヴァン兄さんがあそこへ行ったんですか? だって、ミーチャはイヴァンが一度も来ないって、自分で私にそう言いましたよ。」
「まあ……まあ、わたしどうしてこうなんだろう! つい口をすべらしちまって!」グルーシェンカは急に顔を真っ赤にし、どぎまぎしながらこう叫んだ。「ちょっと待ってちょうだい、アリョーシャ、だまってちょうだい、もう仕方がない、つい口をすべらせちゃったんだから、本当のことをすっかり言ってしまうわ。イヴァンさんはね、あの人のところへ二度も行ったのよ、一度は帰ってくるとすぐなの、――あの人はすぐモスクワから駈けつけたから、わたしがまだ床につく暇もないくらいだったわ。二度目に行ったのは、つい一週間まえなの。そして、ミーチャには、自分が来たことをアリョーシャに言っちゃいけない、決して誰にも言っちゃいけない、内証で来たんだから、誰にも言わないでくれって、固く口どめしたのよ。」
 アリョーシャは深いもの思いに沈みながら、じっとしていた。そして、しきりに何やら思い合せるのであった。彼はたしかに、グルーシェンカの話に驚かされたのである。
「イヴァンはミーチャのことなんか、私に一度も話をしないんです」と彼は静かに言いだした。「それに、全体この二カ月の間というもの、兄さんは私とろくに口をきかないんです。私が尋ねてゆくと、いつでもいやな顔をしてるんです。だから、もう三週間ばかり兄さんのとこへ行きません。ふむ……もしイヴァンが一週間前にミーチャのところへ行ったとすれば……実際この一週間以来、ミーチャの様子が何だか変ってきたようですね……」
「変ったわ、変ったわ!」とグルーシェンカはすぐに相槌を打った。「あの二人の間にはきっと秘密があるのよ、前からあったのよ! ミーチャもいつか、おれには秘密があるって、自分でそう言ったわ。それはね、ミーチャがじっと落ちついていられないような秘密なのよ、だって、以前は快活な人だったでしょう、――もっとも、今だって快活だけれど。でも、ミーチャがこういう工合に頭を振ったり、部屋の中を歩き廻ったり、右の指でこう顳顯の毛を引っ張ったりする時には、わたしちゃんとわかってるわ、あの人に何か心配なことがあるのよ……わたしちゃんとわかってるわ!………でなきゃ、あんな快活な人だったし、今日だってやはり快活そうだったけど!」
「でも、さっきはそう言ったじゃありませんか、兄さんがいらいらしてたって?」
「いらいらしてもいたけど、やはり快活だったわ。あの人はいつもいらいらしてるけど、それはほんのちょっとの間で、すぐ快活になるのよ。だけど、また急にいらいらしだすわ。ねえ、アリョーシャ、わたし本当にあの人には呆れてしまうのよ。つい目の前にあんな恐ろしいことが控えてるのに、あの人ったらよく思いきってつまらないことを、面白そうにきゃっきゃっ笑ってるじゃありませんか。まるで子供だわ。」
「ミーチャがイヴァンのことを、私に言わないでくれって口どめしたのは、そりゃ本当なんですか? 言わないでくれって、ほんとにそう言いましたか?」
「ほんとにそう言ったわ、――言わないでくれって。ミーチャは何より、一等あんたを怖がってるのよ。だから、きっと何か秘密があるんだわ。自分でもそう言ったわ、――秘密だって……ねえ、アリョーシャ、あの人たちにどんな秘密があるのか、一つ探って来て、わたしに聞かせてちょうだい。」グルーシェンカは、急に騒ぎたちながら頼んだ。「可哀そうなわたしが、どんな運命に呪われているのか、知らせてちょうだいな! 今日あんたを呼んだのは、そのためだったのよ。」
「あなたは、それを何か自分のことだと思ってるんですか? そうじゃありませんよ。もしそうなら、兄さんはあなたの前でそんなことを話しゃしません。」
「そうかしら? もしかしたら、あの人はわたしに話したかったんだけど、思いきって言えなかったのかもしれないわ。それで、ただ秘密があるとほのめかしただけで、どんな秘密か言わなかったのよ。」
「で、あなたはどう考えるんです?」
「どう考えるって? わたしの最後が来たんだ、とこう思いますわ。あの人たちが三人で、わたしをどんづまりに追いこんでるのよ。なぜって、カーチカってものがいるんですもの。これはみんなカーチカがしたことなんだ、カーチカから起ったことなんだわ。ミーチャがカーチカを、『これこれしかじか』だなんて褒めそやすのは、わたしがそんなふうでないのを当てこすっているんだわ。それはね、あの人がわたしをうっちゃろうという企らみを、前触れしてるんだわ。秘密ってこのことよ! 三人でぐるになって企らんでるんだわ、――ミーチャと、カーチカと、イヴァンの三人でね。アリョーシャ、わたしとうからあんたに訊きたいと思ってたのよ。あの人は一週間ほど前、突然わたしにこんなことを打ち明けるの、ほかでもない、イヴァンはカーチカに惚れてる、だから始終あの女のところへ行くんだって。これは本当のことでしょうか。あんたどう思って? 正直にひと思いにとどめを刺してちょうだい。」
「私は正直に言います。イヴァンはカチェリーナさんに惚れてやしませんよ、私はそう思います。」
「ほら、わたしもそう思ったのよ! あの人はわたしをだましたんだ、恥知らず! あの人が今わたしをやくのは、あとでわたしに言いがかりをつけるために違いない。本当にあの人は馬鹿だね、頭かくして尻かくさずだわ。あの人はそういう正直な人なんだから……だけど、今に見てるがいい、今に見てるがいい! 本当にあの人ったら、『お前、おれが殺したものと思ってるだろう』なんて、そんなことをわたしに言うのよ、わたしにさ。それはつまり、わたしを責めたわけよ! 勝手にするがいい! まあ、待ってるがいい、わたしは裁判であのカーチャをひどい目にあわせてやるんだから、わたしあそこでたった一こと、いいことを言ってやるから……いいえ、みんな洗いざらい言ってやるんだ!」こう言って、彼女はふたたび悲しげに泣きだした。
「グルーシェンカ、私はこれだけのことを確かに言い切ります」とアリョーシャは立ちあがりながら言った。「まず第一に、兄さんはあなたを愛してるってことです。あの人は世界じゅうの誰よかも、一番あなたを愛しています。あなた一人だけを愛しています。これは私を信じてもらわなけりゃなりません。私にはわかってます。もうよくわかっています。第二に言うことは、兄さんの秘密をあばくのを望まないってことです。けれど、もし兄さんがきょう自分からそれを白状したら、私はそれをあなたに話す約束をしておいたと、正直にそう言います。そうしたら、今日すぐここへやって来て知らせます。しかし………その秘密というのは……どうも……カチェリーナさんなどとぜんぜん関係がなさそうですよ。それは何か別のことなんでしょう。きっとそうですよ。どうも……カチェリーナさんのことらしくない、私には何だかそう思われます。じゃ、ちょっと行って来ます!」
 アリョーシャは彼女の手を握った。グルーシェンカはやはり泣いていた。アリョーシャは、彼女が自分の慰めの言葉をあまり信じてはいないけれど、ただ悲しみを外へ吐き出しただけでも、だいぶ気分がよくなったらしいのを見てとった。彼はこのまま彼女と別れるのが、残り惜しかったが、しかし、まだたくさん用件を控えているので、急いでそこを出かけた。

[#3字下げ]第二 病める足[#「第二 病める足」は中見出し]

 用件の第一は、ホフラコーヴァ夫人の家へ行くことだった。アリョーシャは、少しでも手早くそこの用件を片づけて、遅れぬようにミーチャを訪ねようと思い、道を急いだ。ホフラコーヴァ夫人はもう三週間から病気していた。一方の足が腫れたのである。夫人は床にこそつかないけれど、それでも昼間は華美な、しかし下品でない部屋着をまとって、化粧室の寝椅子の上になかば身を構えていた。アリョーシャも一度それと気がついて、無邪気な微笑を浮べたことだが、ホフラコーヴァ夫人は病人のくせに、かえってお洒落をするようになった。いろんな室内帽子を被ったり、蝶結びのリボンを飾りにつけたり、胸の開いた上衣をきたりしはじめたのである。アリョーシャは、夫人がこんなにお洒落をするわけを悟ったが、浮いた考えとしていつも追いのけるようにした。最近二カ月間、ホフラコーヴァ夫人を訪ねて来る客の中に、かの青年ペルホーチンが交っていたのである。アリョーシャはもう四日も来なかったので、家へはいるとすぐ、急いでリーザのところへ行こうとした。彼の用事というのは、つまりリーザの用だったからである。リーザはきのう彼のもとへ女中をよこして、『非常に重大な事情が起ったから』すぐに来てもらいたいと、折り入って頼んだ。それがある理由のために、アリョーシャの興味をそそったのである。けれど、女中がリーザの部屋へ知らせに行っている間に、ホフラコーヴァ夫人はもう誰からか、アリョーシャの来たことを知って、『ほんの一分間でいいから』自分のほうへ来てくれるようにと頼んだ。アリョーシャはまず母親の乞いをいれたほうがよかろうと思った。彼がリーザのそばにいる間じゅう、夫人は絶えず使いをよこすに相違ないからである。ホフラコーヴァ夫人は、とくにけばけばしい着物を着て、寝椅子に横になっていたが、非常に神経を興奮させているらしかった。彼女は歓喜の叫びをもって、アリョーシャを迎えた。
「まあ、長いこと長いこと、本当に長いこと会いませんでしたわね! まる一週間も、本当に何という……あら、そうじゃない、あなたはたった四日前、水曜日にいらっしゃいましたっけねえ。あなたはリーザを訪ねていらしたんでしょう。あなたったら、わたしに知られないように、ぬき足さし足であれのとこへ行こうと思ってらしたんでしょう。きっとそうに違いありませんわ。ねえ、可愛いアレクセイさん、あれがどのくらいわたしに心配をかけてるか、あなたはご存じないでしょう。だけど、これはあとで言いましょう。これは一ばん大切な話なんですけど、あとにしますわ。可愛いアレクセイさん、わたしうちのリーザのことを、すっかりあなたに打ち明けます。ゾシマ長老が亡くなられてからは、――神様、どうぞあの方の魂をお鎮め下さいまし!(彼女は十字を切った)――あの方が亡くなられてからというものは、わたしあなたを聖者のように思っていますのよ、新しいフロックが本当によくお似合いになるんですけれど。あなたはどこでそんな仕立屋をお見つけなすって? でも、これは大切なことじゃありません、あとにしましょう。どうかね、わたしがときどきあなたをアリョーシャと呼ぶのを、許して下さいね。わたしはもうお婆さんですから、何を言ってもかまいませんわね」と彼女は色っぽくほお笑んだ。「けれど、これもやっぱりあとにしましょう、わたしにとって一ばん大事なのは、大事なことを忘れないことなんですの。どうぞ、わたしが少しでもよけいなことを喋りだしたら、あなたのほうから催促して下さい。『その大事なことというのは?』と訊いて下さいな。ああ、いま何が大事なことやら、どうしてわたしにわかるものですか! リーザがあなたとの約束を破ってからというものはね、アレクセイさん、あなたのとこへお嫁に行くという、あの子供らしい約束を破ってからというものは、何もかもみんな、長いあいだ車椅子に坐っていた病身な娘の、子供らしい空想の戯れであったということが、むろんあなたもよくおわかりになったでしょうね、――おかげで、あれも今ではもう歩けるようになりました。カーチャがあの不幸なお兄さんのために、モスクワから呼んだ新しいお医者さまがね……ああ、明日は……まあ、何だって明日のことなんか! わたし明日のことを考えただけでも、気が遠くなりますよ! 何よりも一ばん好奇心のためなんですの……手短かに言えば、あのお医者さまが昨日わたしのところへ来て、リーザを診察したんですの……わたし往診料に五十ルーブリ払いましたわ。ですが、これも見当ちがいですわ、また見当ちがいを言いだして。で、わたしもうすっかりまごついてしまいましたわ。わたしはあわててるもんですから。しかも、なぜあわててるんだか、自分にもわかりませんの。ほんとうに、今は何が何だかさっぱりわからなくなりました。何もかもみんなごちゃごちゃになっちまって。わたしあなたが退屈して、いきなり逃げておしまいになりゃしないかと、それが心配でたまりません。宵にちらりと見たばかりでね。あら、まあ、どうしましょう! わたしとしたことが、お喋りばかりしていて。第一、コーヒーをいれなきゃ。ユリヤ、グラフィーラ、コーヒー持っておいで!」
 アリョーシャは、たったいまコーヒーを飲んだばかりだと言って、急いで辞退した。
「どちらで?」
「アグラフェーナさんのとこで。」
「それは……それはあの女のことですの! ああ、あの女がみんなを破滅させたんですわ。もっとも、わたし知りません、人の話では、何でもあの女は、今じゃ聖者になったということじゃありませんか。少し遅まきですけど、そのまえ必要な時にそうなってくれればよかったんですけど、もう今となっては、何の役にもたちゃしませんわ。まあ、黙って聞いて下さい。アレクセイさん、黙って聞いてて下さい。わたし、うんとお話ししたいことがあるんですけど、結局、何にも言えないのがおちでしょう。ああ、この恐ろしい裁判問題……ええ、わたしきっと行きます。安楽椅子に腰かけたまま、連れて行ってもらおうと思ってますの。それに、わたし坐ってるだけなら平気ですし、誰か一緒について来てもらえば、大丈夫ですよ。ご存じでしょうが、わたしも証人の一人なんですもの。ああ、わたし何と言いましょう、何と言ったらいいでしょうね! 本当に何と言ったらいいのやらわかりませんわ、私だって、宣誓しなければならないんでしょう、ね、そうでしょう、そうでしょう?」
「そうです。けれど、あなたがお出かけになれようとは思えませんがね。」
「わたし腰かけてならいられますよ。ああ、あなたはわたしをはぐらかしてばかりいらっしゃる! ああ、あの恐ろしい裁判問題、あの野蛮な犯罪、そしてみんなシベリヤへやられるんですわ。それかと思うと、ほかの人は結婚するでしょう。しかも、それがどんどん急に変って行くんですもの。そして、結局、何のこともなくみんな年をとって、棺桶にはいって行くんですわ。まあ、それも仕方がありません、わたし疲れました。あのカーチャ―― cotte charmante personne([#割り注]あの可愛い人[#割り注終わり])、ね、あの人はわたしの希望をすっかりぶち壊してしまいました。あの人はお兄さんのあとを慕って、シベリヤへ行くでしょう。すると、もう一人のお兄さんは、またあのひとのあとを追って行って、隣りの町かなんかに住み、こうして三人が互いに苦しめ合うことでしょう。わたしそんなことを思うと気がちがいそうですわ。ですが、何より困るのは、あのやかましい世間の評判なんですの。ペテルブルグやモスクワなどの新聞にも、幾千たび書かれたかしれやしません。ああ、そう、そう、どうでしょう、わたしのことも書きましたよ、わたしがお兄さんの『情人』だったなんて。わたしそんないやらしいことを口に出せませんわ。まあ、どうでしょう、ねえ、まあ、どうでしょう!」
「そんなことがあってたまるもんですか! どこにどんなふうに書いてありました?」
「今すぐお目にかけますよ。わたしきのう受け取って、さっそく、きのう読んだんですの。ほら、このペテルブルグの『風説《スルーヒイ》』という新聞ですよ。この『風説《スルーヒイ》』は今年から発行されてるんですが、わたし大へん風説好きだもんですから、申し込んだんですの。ところが、こんど自分の頭の上へ落っこちて来たじゃありませんか。まあ、こんな風説なんですよ、そら、ここ、ここのところですの、読んでごらんなさい。」
 彼女は枕の下においてあった新聞紙を、アリョーシャにさし出した。
 彼女は取り乱しているというより、打ちのめされたようになっていた。実際、彼女の頭はごったごたに掻き廻されていたのかもしれない。新聞の記事はすこぶる注意すべきもので、むろん彼女にかなり尻くすぐったい印象を与えるべきはずのものであったが、幸いこの瞬間、彼女は一つのことにじっと注意を集注することができなかったので、一分間もたつと、新聞のことは忘れて、話をすっかりほかのほうへ移してしまった。今度の恐ろしい裁判事件の噂が、もう全ロシヤいたるところに拡がっているということは、アリョーシャもとうから知っていた。ああ、彼はこの二カ月間に、兄のこと、カラマーゾフ一家のこと、また彼自身のことなどに関して、正確な通信とともに、またどれくらい、いい加減なでたらめな通信を読んだかしれない。ある新聞などには、アリョーシャが兄の犯罪後、恐怖のあまり、出家して修道院に閉じ籠ったなどと書いていた。ある新聞はこれを駁して、反対に彼がゾシマ長老と一緒に修道院の金庫を破って、『修道院からどろんをきめた』と書いた。『風説《スルーヒイ》』紙に出た今度の記事は、『スコトプリゴーニエフスク([#割り注]家畜追込町というほどの意味[#割り注終わり])より、カラマーゾフ事件に関して』(悲しいかな、わたしたちの町はこう名づけられていた。筆者《わたし》はこの名を長いあいだ隠していたのである)という標題《みだし》であった。この記事は簡単なもので、ホフラコーヴァ夫人というようなことはべつに何も書いてなかった。それに、概して人の名は隠されていた。ただこの大評判の裁判事件の被告は休職の大尉で、ずうずうしい乱暴な懶け者で、農奴制の支持者で、色事師、ことに『空閨に悩んでいる貴婦人たち』に勢力を持っていた、と書いてあるだけであった。そのいわゆる『空閨に悩んでいる未亡人』の中で、もう大きな娘を持っているくせに、恐ろしく若づくりのある夫人などは、ひどくこの男にのぼせあがって、犯罪のつい二時間ほど前、彼に三千ルーブリの金を提供した。それは、すぐ自分と一緒にシベリヤの金鉱へでも逃げてもらうためであった。が、この悪漢は、四十過ぎた悩める姥桜と、シベリヤくんだりまで出かけるより、親父を殺して三千ルーブリ奪い取り、その上で犯跡をくらますほうが利口だ、と考えたのだそうである。ふざけた記事は、当然の結論として、親殺しの罪悪と、旧い農奴制度の悪弊について、堂々たる非難を投げていた。アリョーシャは好奇心にかられつつ読了すると、それを畳んでホフラコーヴァ夫人に返した。
「ね、わたしのことでなくて誰でしょう」と彼女はまた言いだした。「それはわたしですわ。だって、わたしはそのとおり、ついあの一時間まえに、あの人に金鉱行きを勧めたんですもの。ところが、それをだしぬけに、『四十過ぎた悩める姥桜』だなんて! わたし、そんなことのために言ったんじゃありません。これはきっとあの人がわざとしたことです! 神様、どうかあの人を赦してやって下さいまし。わたしも赦してやります。でも、これは……これは一たい誰が書いたのかおわかりになって。きっとあなたのお友達のラキーチンさんよ。」
「そうかもしれません」とアリョーシャは言った。「私は何にも聞きませんが。」
「あの人ですよ。あの人ですよ。『かもしれない』じゃありません! だって、わたしあの人を追い出したんですもの……あなたはこの話をすっかりご存じでしょう?」
「あなたがあの男に向って、今後もう訪ねて来ないようにとおっしゃったのは、私も知っています。が、どういうわけでそんなことをおっしゃったのか……それは、少くとも、あなたからは伺いませんでした。」
「じゃ、あの人からお聞きになったんですね! どうでした、あの人はわたしの悪口を言ってたでしょう? ひどく悪口を言ってたでしょう?」
「ええ、悪口を言っていました。でも、あの男は誰のことでも悪口を言うんですよ。けれど、なぜあの男の訪問を拒絶なすったかということは、あの男からも聞きませんでした。それに、私は近頃あの男とあまり会わないんです。私たちは親友じゃないんですから。」
「では、そのわけをすっかりあなたに打ち明けますわ、どうもしようがありません、わたしもいま、後悔してるんですの。だって、それについては、わたし自身にも責任がないと言いきれない点があるんですから。でも、それは小さい、小さい、ごく小さい点で、まるっきりと言ってもいいくらいなんですの。こうなのよ、あなた(ホフラコーヴァ夫人は急に何だかふざけたような顔になった。そして、口のあたりには謎のような、可愛い微笑がちらりとひらめいた)、ねえ、わたしはこんなふうに疑ってるんですの……ごめんなさい、アリョーシャ、わたしあなたに母親として……いいえ、そうじゃない、そうじゃない、それどころか、わたしは今あなたを自分の父親のように思ってお話ししますわ……だって、母親というのはこの場合ちっとも似合わないんですもの……ちょうど、ゾシマ長老に懺悔を聞いてもらうような気持なんですの、そう、それが一ばん適切です。わたしさきほどあなたを隠者だと言ったくらいですもの。でね、あの可哀そうな若い人、あなたのお友達のラキーチンがね(ああ、わたしとしたことが、あんな人に腹を立てることもできませんわ! わたし腹もたつし憎んでもいるけど、それはほんのちょっとなんですの)、一口に言うと、あの軽はずみな若い男が、まあ、どうでしょう、突然わたしに、恋をする気になったらしいんですの、わたしはずっと後になって、ふとそれに気がついたんですの。わたしたちは前からも知合いでしたけれど、つい一カ月ほど前から、あの人はしげしげと、大かた毎日のように、わたしのとこへ足を運ぶようになりました。でも、わたし何にも気がつかずにいたんですの……ところが、ふと何かに心を照らされでもしたように、わたしはそれと気がついて、びっくりしましたわ。ご存じでしょうが、わたしはもう二カ月も前から、あの謙遜で美しい立派な青年、――町の役所に出ているピョートル・イリッチ・ペルホーチンを、うちへ寄せるようになったんですの。あなたもよくあの人とお会いなすったわね。本当に立派な、真面目な方じゃありませんか。あの人が来るのは三日に一度くらいで、毎日じゃありませんが(毎日来てくれたってかまやしませんわ)、いつでも綺麗な服装をしていますの。一たいわたしはね、アリョーシャ、ちょうどあなたみたいに、才のある謙遜な若い人が好きでしてねえ。ところが、あの人はほとんど国務の処理ができるほどの才知をもっていて、その話っぷりがまたとても愛想がいいんですよ。わたしはどこまでもあの人のために運動しますわ。あの人は未来の外交家ですからね。あの恐ろしい夜、わたしのところへやって来て、ほとんど死にかかってるわたしを助けてくれたんですもの。ところがね、あなたのお友達のラキーチンときたら、いつもこんな靴を履いて来て、絨毯の上を引きずって歩くんですよ……とにかく、あの人はわたしに何か仄めかそうとしたんですの。一度など帰りしなに、わたしの手を恐ろしく堅く握りしめるじゃありませんか。あの人に手を握られてから、急にわたしの片足が痛みだしたんですよ。あの人は以前もわたしのところで、ペルホーチンさんに出会ったものですが、まあ、ひどいじゃありませんか、さんざんあの人を愚弄したあげく、呶鳴りつけるんですよ。わたしどうなるかと思って、二人を見ながら、お腹の中で笑っていましたの。ところが、いつだったか、わたし一人で坐っていますと、――いいえ、そうじゃない、その時わたしはもう寝ていたんですの。わたし一人で寝ていますとね、ラキーチンがやって来て、まあ、どうでしょう、自分の詩を見せるじゃありませんか。わたしの痛んでいる足のことを書いた短い詩ですの。つまり、わたしの痛める足のことを韻文で書いたんですのよ、ちょっと待って下さい、何と言ったっけ。

[#ここから2字下げ]
この足よ、この足よ
少しやまいにかかりしよ……
[#ここで字下げ終わり]

とか何とかいうんですが、――わたしどうしても詩が覚えられませんわ、――あそこにおいてあるんですけど、――あとでお目にかけましょう。でも、本当に立派な詩ですわ。それも、足のことだけじゃなくって、中に立派な教訓をふくんでるんですけど、忘れてしまいましたわ。まあ、一口に言えば、まったくアルバムへ入れて保存したいような気がするほどですの。むろん、大へん感謝しましたわ。それであの人もすっかり得意になっているようでしたが、わたしがまだ十分お礼を言う暇もないうちに、突然ペルホーチンさんが入って来たんですの。すると、ラキーチンさんは急にさっと顔色を曇らせてしまいました。わたしはね、ペルホーチンさんが何かあの人の邪魔をしたんだってことを、すぐに見抜いてしまいました、なぜって、ラキーチンさんは詩を読んでしまったあとで、きっとすぐ何かわたしに言おうと思ってたらしいんですもの。わたしいきなりそう直覚しましたの。ところが、そこヘペルホーチンさんが入って来たでしょう。わたしはすぐにその詩を見せました。でも、誰が作ったかってことは言わなかったんですの。あの人は今でも白を切って、誰が作者なのか、あの時察しがつかなかったと言ってますが、実はその時すぐと察してしまったに相違ありません、ええ、相違ありませんとも。あの人はわざと気がつかないふりをしたんですわ。で、ペルホーチンさんはすぐきゃっきゃっと笑いながら、批評を始めましたの。くだらない詩だ、神学生か何かが書いたに違いないなんて、しかもそれが烈しい突っかかるような調子なんですの! すると、あなたのお友達ったら、笑ってすませばいいものを、まるで気ちがいのようになってしまったんですの……ああ、わたし、二人が掴み合いするだろうと、はらはらしたくらいですわ。ラキーチンさんは、『それは僕が書いたんだ』って言うんですの。『僕が冗談半分に書いたんだ。なぜって、僕は詩を書くなんて、くだらないことだと思ってるからさ……しかし、僕の詩はなかなか立派なものだよ。プーシュキンが女の足を詩に書いたって、世間じゃ記念碑を建てるって騒いでるが、僕のは思想的傾向があるんだ。ところが、君なんか農奴制の賛成者だろう。君なんか少しも人道ということを知らない、君なんか現代の文明的な感情を少しも感じないんだ、君は時勢おくれだ、賄賂とりの役人だ!』と、こうなんですのよ。私は大きな声を出して、二人を止めました。でも、ペルホーチンさんは、ご存じのとおり沈着な方でしょう、だから急にとりすました上品な態度になってね、嘲るように相手を見ながら聞いていましたが、やがて詫びを言いだすんですの。『私はあなたのお作だってことを知らなかったのです。もしそうと知っておれば、あんなことは言わなかったでしょう。もしそうとわかっていたら、大いにほめたはずなんですよ……詩人てものは誰でも、そんなふうに怒りっぽいものですからね……』なんて、つまり大そう取りすました上品な態度で、その実冷やかしたわけなんですの。あれはみんな冷やかしてやったのだと、あとでペルホーチンさんはそう言いましたが、わたしその時、あの人が本気に謝ったのだと思いましたわ。で、わたしはちょうど今あなたの前でこうしているように、その時じっと横になったまま、ラキーチンさんがわたしの家で、わたしのお客に悪口をついたのを理由として、あの人を追い返してしまったら、それは立派な行為だろうかどうだろうか、と考えたんですの、こういう工合に横になって目を閉じて、立派か立派でないかといろいろ考えてみたけれど、どうも思案がつかないんですの。さんざん苦しんで苦しんで、呶鳴りつけてやろうかどうしようかと、心臓をどきどきさせたもんですわ。一つの声は呶鳴れと言うし、いま一つの声は、いや呶鳴ってはいけないと言うんですの。とうとういま一つの声が聞えるやいなや、わたしはだしぬけに呶鳴りだして、そのまま卒倒してしまいました。むろん、大騒動が起りましたわ。ふいにわたしは立ちあがって、あなたにこんなことを言うのはつらいんですけど、もうあなたに来ていただきたくないんです、とこうラキーチンさんに言いましたの。こうして、あの人を追い出したんですの。アリョーシャ! わたし自分ながら、馬鹿なことをしたと思います。わたしちっともあの人に腹を立ててはいなかったんですもの。ただふいと急に、それがいいような気がしたんですの。つまり、そのシーンがね……でも、そのシーンは何といっても自然でしたわ。なぜって、わたしさんざん泣いたんですもの、その後、幾日も泣きましたわ。けれど、ある日食事をすましたあとで、すぐにけろりと忘れてしまいましたの。もうあの人が来なくなってから、二週間になりますが、もう本当にあの人は来ないのかしら、というような気がするんですよ。これはつい昨日のことですの。ところが、その晩には、もうこの『風説《スルーヒイ》』が届いたじゃありませんか。わたし読んでびっくりしました。ほかに誰が書くものですか、きっとあの人が書いたに違いありません。あのとき家へ帰ると、すぐテーブルに向って書いたんですよ。そして、送るとすぐ新聞に出たんです。これは二週間まえのことよ。でも、アリョーシャ、わたし何を言ってるんでしょう。言わなけりゃならないことは、まだちっとも言っていないんですのに。だって、自然こんなことが言えるんですもの!」
「私は今日ぜひ時間内に、兄のとこへ行かなきゃならないんです」とアリョーシャはもじもじ言いだした。
「そうそう! あなたは今わたしに何もかも思い出させて下さいました。ねえ、アリョーシャ、 affect([#割り注]激情[#割り注終わり])って、一たいどういうことなんでしょう?」
「何のことです、affect って?」とアリョーシャはびっくりした。
「裁判の affect ですよ。どんなことでも赦される affect のことですよ。どんなことをしても、すぐに赦されるんですわ。」
「一たいそれは何のことなんです?」
「ほかじゃありません、あのカーチャがね……ああ、ほんとにあのひとは可愛い、可愛い娘さんですわ。ただ一たい誰を恋してるんでしょう。どうしてもわかりませんわ。つい近頃も訪ねて来たんですけど、わたしはどうしても訊き出せないんですの。それに、あのひとは近頃、わたしに大へんそらぞらしくなって、ただわたしの容体を聞くだけで、ほかのことは何にも話さないんですもの。おまけに、その話の調子があまり他人行儀だから、わたしはどうでもいい、勝手になさいと思ったほどですの……ああ、そうそう、その時この affect の話が出たんですの。ねえ、お医者さまが来たんですよ。気ちがいの鑑定ができるお医者さま。あなたお医者が来たことを知ってらしって? もっとも、あなたが知らないはずはないわね。あなたがお呼びになったんですものね。いいえ、あなたじゃない、カーチャですわ! 何もかもカーチャですわ! ねえ、かりにここに正気の人がいるとしましょう。ところが、その人が急に affect を起したんですの。意識もしっかりしてるし、自分が何をしているかってこともよく知ってるんですけど、それでもやはり affect を起してるんです。だからドミートリイさんも、やはり affect を起しているに違いありません。新しい裁判が開けてから、初めてその affect がわかってきたのよ。これは新しい裁判の恩恵ですわね、あのお医者さんはあの晩のことをわたしに訊きましたの、つまりあの金鉱のことですわ、――あの男はその時どんなふうだったかって。むろんあの時 affect を起してたのでなくってどうしましょう? 入って来るとすぐに、金だ、金だ、三千ルーブリだ、三千ルーブリ貸してくれって呶鳴って、そしてふいに出かけて殺してしまったんですもの。殺したくはない、殺したくはないと言ってながら、だしぬけに殺したんですよ。つまりこういうふうに、殺すまいと思っていながら、つい殺してしまったという点で、あの人は赦されるんですわね。」
「でも、兄さんは殺しゃしなかったじゃありませんか」とアリョーシャはやや鋭い口調で遮った。彼は次第に不安と焦躁を感じてきた。
「それはわたしも知ってます。殺したのはあのグリゴーリイ爺さんですよ……」
「え、グリゴーリイが!」とアリョーシャは叫んだ。
「あれです、あれです、グリゴーリイですよ……ドミートリイに撲りつけられて、じっとそのまま倒れていたんですが、やがてそのうちに起きあがって、戸が開いているので入って行って、フョードルさんを殺したんですよ。」
「でも、それはなぜです、なぜですか?」
「つまり affect を起したんですよ。ドミートリイさんに頭を撲られてから、こんど気がついた時 affect を起してしまったのです。そして入り込んで殺したんですわ。あれは自分で殺したのじゃないと言いはってますが、それはたぶん覚えていないからでしょうよ。けれどね、もしドミートリイさんが殺したんだとすれば、かえってそのほうがよござんすわ、よっぽどよござんすわ。わたしはグリゴーリイが殺したんだと言いましたが、本当はやっぱりドミートリイさんが殺したに違いありません。そのほうがずっとずっとようござんすわ! あら、そりゃわたしだって息子が親を殺したのをいいと言うのじゃありませんよ。わたしそんなことを賞めやしません。それどころか、子供は親を大切にしなけりゃなりませんとも。でも、やっぱりあの人のほうがいいと思うわ。なぜって、もしそうだとすれば、あなたも悲しまなくっていいからですわ。だってあの人は意識を失って、――じゃない、意識はあっても自分か何をしているかわきまえずに殺した、と言えるからですよ。きっと、きっとあの人は赦されますよ。それが人道というものですからね。そして、みんなに新裁判の恩恵を知らせてやったほうがよござんすよ。わたしは少しも知らなかったんですけれど、人の話では、それはもうとっくの昔からそうなんだそうですね。わたし、昨日そのことを聞いた時、もう本当にびっくりしちゃって、すぐにあなたのとこへ使いを出そうと思ったほどでしたよ。それからね、もしあの人が赦されたら、わたしあの人を法廷からすぐに宅の晩餐会へお招きしますわ。知合いの人たちを呼んで、みんなで新しい裁判のために乾杯しようと思うんですの、わたしあの人を危険だなんて思いません。それに、うんと大勢お客を呼びますから、あの人が何かしでかしても、すぐいつでも引きずり出すことができますわ。あの人はそのあとで、どこかほかの町の治安判事になるといいですね。だって、自分で不幸を忍んだものは、誰よりもよく人を裁きますからね。ですが、一たい今の世に affect にかかっていない人があるでしょうか。あなたでもわたしでもみなかかっているんですわ。こんな例はいくらでもありますよ。ある人は腰かけて小唄《ロマンス》を歌っているうちに、とつぜん何か気に入らないことがあったので、いきなりピストルを取って、ちょうどそばに居合せた人を撃ち殺したんですって。でも、あとでその人は赦されたそうです。わたし近頃この話を読んだのですが、お医者さんたちもみんな証明していました。今お医者さんは誰でもそう言ってますわ、誰でもみんなそう言ってますわ。困ったことには、うちのリーザもやはり affect にかかってるんですの。わたしは昨日もあれのために泣かされましたよ、一昨日も泣かされましたわ。ところが今日になって、あれはつまり、affect にかかっているのだってことに思いあたったんですの。ああ、ほんとにリーザには心配させられますよ! あの子はすっかり気がちがってるんだと思いますわ。なぜあれはあなたをお呼びしたんでしょう? あれがあなたを呼んだのですか、それとも、あなたのほうからあれのところへいらしたんでしょうか?」
「あのひとが呼んだのです。私はもうあちらへ行きましょう」とアリョーシャは思いきって立ちあがった。
「あら、ちょいとアリョーシャ、それが一ばん大切なところかもしれませんわ。」ふいにわっと声をあげて泣きだしながら、夫人はこう叫んだ。「誓って申しますが、私は心からあなたを信用して、リーザをおまかせします。あれがわたしに隠してあなたをお呼びしても、そんなことを何とも思やしません。けれど、お兄さんのイヴァン・フョードルイチには、そうたやすく自分の娘をまかせることができませんの。もっとも、わたしは今でもやはりあの人を、立派な男気のある青年と思っていますけれどね。まあ、どうでしょう、あの人はわたしの知らない間に、突然リーザに逢いに来たんですよ。」
「え? 何ですって? いつ?」アリョーシャはびっくりして訊いた。彼はもう腰をかけようともせず、立ったままで聞いていた。
「今お話しします。ことによったら、そのためにあなたをお呼びしたのかもしれません。もう何のためにお呼びしたか、わからなくなってしまったんですけど。こうなんですのよ、イヴァン・フョードルイチはモスクワから帰ってから、わたしのところへ二度ほど見えました。一度は知人として訪問して下すったのですけど、いま一度はつい近頃のことで、その時ちょうどカーチャが見えていたものですから、あの人はカーチャに逢うためにいらしたんですの。むろんわたしは、あの人がそれでなくても、非常にお忙しいことを知ってましたから、始終訪ねてもらいたいとも考えていませんの。Vous comprenez, cette affaire et la mort terrible de votre papa.([#割り注]おわかりでしょう、あの事件と、それにあなたのお父さんの恐ろしいご最後[#割り注終わり]) ところがね、あの人がまたふいに訪ねてらしったんですの、それも、わたしのほうじゃなくって、リーザなんですの。これはもう六日も前のことで、五分間ばかりいてお帰りになったそうですが、わたしはその後三日もたってから、グラフィーラから聞いたもんですから、本当にだしぬけで、びっくりしましたわ。で、すぐリーザを呼びますと、あの子は笑ってるんですの。そしてね、あの人はわたしが臥《ふせ》っていると思ったので、リーザのとこへ容態を訊ねに来たのだと、こう言うんです。それはむろんそうだったんでしょう。ですけど、一たいリーザは、リーザは、ああ、神様、あれはどんなにわたしに心配をかけることでしょう! 考えてもごらんなさい、ある晩とつぜん、――それは四日前のことで、この間あなたが来てお帰りになるとすぐでしたわ、――あれは夜中にとつぜん発作を起して、喚くやら唸るやら、それはひどいヒステリイを起したんですの! 一たいどうしてわたしは一度もヒステリイを起したことがないのでしょう。ところが、リーザはその翌日もまたその翌日も発作を起して、とうとうきのうのaffectになったんですの。だしぬけに『あたしはイヴァンさんを憎みます、お母さん、あの人を家へ入れないで下さい、家へ入るのを断わって下さい!』って喚くじゃありませんか。わたし本当に度胆を抜かれてぼっとしながら、そう言いましたの。あの立派な青年紳士の訪問をどう言って断わることができますか。あの人はあんなに学問があって、おまけにあんなに不幸な身の上なんですもの。なぜって、あんなごたごたは何といっても不幸で、決して幸福じゃありませんからね、そうじゃありませんか? ところが、あれはそれを聞いて、からからと笑うんですの。それがねえ、さもさも馬鹿にしたような笑い方なんですのよ。でも、わたしは、まあ笑わせてよかった、これで発作もなおるだろう、と思って喜びましたわ。それに、お兄さんのほうは、わたしに断わりもなくあれを訪問したり、妙なことをなさるなら、そのわけを訊いて、きっぱり出入りをお断わりするつもりでしたの。ところが、今朝リーザは目をさますと、だしぬけにユリヤに腹を立てて、まあ、どうでしょう、平手で顔を打つじゃありませんか。なんて恐ろしいことでしょう。わたしは自分の女中でも、『あなた』と呼んでるんですもの。すると一時間もたつと、あれはユリヤの足を抱いて接吻するんですの。そして、わたしのところヘユリヤをよこして、もうお母さんのとこへは行かない、今後決して行こうと思わないと、こんなことを言わせるじゃありませんか、そのくせ、わたしがあれのとこへ足を引きずって行くと、あれはわたしに飛びついて、接吻したり泣いたりする。そうして、接吻しながら、いきなり一口もものを言わないで、ぷいと出て行ってしまうもんですから、わたし何のことだか、さっぱりわけがわかりませんの。わたしの大好きなアレクセイさん、わたし今じゃあなただけを力にしています、わたしの生涯の運命は、あなたの手の中にあるんですの。あなたリーザのところへ行って、あれから何もかもすっかり聞き取って下さいません? それができるのは、ただあなた一人だけですからねえ。それから帰って来て、わたしに、――この母親に話して下さいな、なぜって、あなたも察して下さるでしょうが、もしこんなことが長くつづいたら、わたし死ぬよりほかありません。死んでしまうか、それとも家を逃げ出すばかりですわ。わたしもう我慢ができないのです。今までずいぶん我慢し抜いてきましたが、その堪忍袋の緒だって切れるかもしれません、その時……その時が怖いんですよ。ああ、ペルホーチンさんがいらしった!」ピョートル・イリッチ・ペルホーチンが入って来たのを見ると、ホコラコーヴァ夫人[#「ホコラコーヴァ夫人」はママ]は急に顔を輝かしながら、こう叫んだ。「遅かったわね、遅かったわね! さあ、どうなすって、おかけなさいな、そして早く話して聞かせて下さい、わたしの運命を決して下さい。で、いかがでした、あの弁護士は?アレクセイさん、あなたどこへいらっしゃるの?」
「リーザのとこへ。」
「そう、では、忘れないでね。今わたしのお願いしたことを忘れないでね。わたしの運命がきまるんですからね、ほんとに運命が!」
「むろん、忘れやしません、もしできさえしたら……だが、なにしろこんなに遅くなっちまったのでとアリョーシャは出て行きながら呟いた。
「いいえ、ぜひぜひ帰りに寄って下さいよ。『もしできたら』じゃ駄目。でないと、わたし死んじまうわ!」とホフラコーヴァ夫人は、アリョーシャのうしろから叫んだが、彼はもう部屋の外へ出てしまっていた。

[#3字下げ]第三 悪魔の子[#「第三 悪魔の子」は中見出し]

 アリョーシャがリーザの部屋へはいると、彼女は例の安楽椅子になかば身を横たえていた。それは、彼女がまだ歩けない時分に、押してもらっていたものである。彼女は出迎えに身を動かそうともしなかったが、ぎらぎら輝く鋭い目は、食い入るように彼を見つめた。その目はいくぶん充血したようなふうで、顔は蒼ざめて黄いろかった。彼女が三日の間に面変りして、やつれさえ見えるのに、アリョーシャは一驚を喫した。彼女は手をさし伸べようともしなかった。で、彼はこっちからそばへ寄って、着物の上にじっと横たわっている彼女の細長い指に、ちょっとさわった後、無言のままその前に腰をおろした。
「あたしはね、あなたが急いで監獄へ行こうとしてらっしゃることも」とリーザは鋭い口調で言いだした。「お母さんがあなたを二時間も引き止めて、たった今あたしやユリヤのことを、あなたにお話ししたことも知ってるのよ。」
「どうしてご存じなのです?」とアリョーシャは訊いた。
「立ち聴きしたのよ。あなた、何だってあたしをにらんでらっしゃるの? あたし、立ち聴きしたかったから、それで立ち聴きしたのよ。何にも悪いことなんか、ありゃしないわ。だからあたし、あやまらない。」
「あなたは何か気分を悪くしていらっしゃるんでしょう?」
「いいえいそれどころじゃない、嬉しくってたまんないのよ。たった今も三十ペンから繰り返し、繰り返し考えたんですけどね、あたしあなたとのお約束を破って、あなたとご婚礼などしないことになったので、どんなにいいかしれないわ。あなたは夫として不向きよ。あたしがあなたのところへお嫁に行くでしょう、そして突然あなたに手紙を渡して、あたしが結婚してから好きになった人のところへ持って行って下さいと頼んだら、あなたはきっと持っていらっしゃるに違いないわ。その上、返事までも持って来て下さるでしょうよ。あなたは四十になっても、やっぱりそういう手紙を持って歩きなさるわ。」
 彼女は急に笑いだした。
「あなたはずいぶん意地わるだけれど、それと一緒に、どこか率直なところがありますね。」アリョーシャは、彼女にほお笑みかけた。
「あなたを恥しくないから、それで率直になれるのよ。あたしね、あなたが恥しくないばかりか、恥しがろうとさえ思わなくってよ。ええ、あなたをよ、あなたに対してよ。アリョーシャ、どうしてあたしはあなたを尊敬しないんでしょう? あたしはあなたをとても愛してるけど、ちっとも尊敬していないの。もし尊敬してれば、あなたの前で恥しくもなく、こんなことを言えるはずがありませんわ、ね、そうでしょう?」
「そうです。」
「じゃ、あたしがあなたを恥しがらないってことを、あなた本当になすって?」
「いいえ、本当にしません。」
 リーザはまた神経的に笑いだした。彼女はせきこんで早口に喋った。
「あたしね、監獄にいるあなたの兄さんのドミートリイさんへ、お菓子を送ってあげたのよ。ねえ、アリョーシャ、あなたは本当にいい方ねえ! だって、あなたはこんなに早く、あなたを愛さなくてもいいって許可を、あたしに与えて下すったでしょう。だから、あたしそのために、あなたを恐ろしく愛してるのよ。」
「リーザ、あなたはきょう何用で僕を呼んだのです?」
「あなたに一つ自分の望みをお話ししたかったからよ。あたしはね、誰かに踏みにじってもらいたいの。あたしと結婚をして、それからあたしを踏みにじって、あたしをだまして出て行ってくれればいいと思うわ。あたし仕合せになんかなりたくない!」
「それじゃ、混沌が好きになったんですね?」
「ええ、あたし混沌が大好きよ。あたし家なんか焼いてしまいたいのよ。あたしはこっそり匐い寄って、そっと家に火をつけるところを想像するのよ、ぜひそっとでなくちゃいけないの。みんな消そうとするけれど、家は燃えるでしょう。ところが、あたしは知ってながら黙ってるわ。ああ、なんてばかばかしい、なんて退屈なんだろう!」
 彼女は嫌悪の色を浮べながら、片手を振った。
「裕福な暮しをしてるからですよ」とアリョーシャは静かに言った。
「じゃ、一たい貧乏で暮すほうがよくって?」
「いいです。」
「それは亡くなった坊さんがあなたに吹き込んだことよ。それは間違ってるわ。あたしが金持で、ほかのものは貧乏だってかまやしないわ。あたし一人でお菓子を食べたり、クリームを飲んだりして、誰にもやりゃしない。ああ、まあ、聞いてらっしゃいよ、聞いて(アリョーシャが口を開けようともしないのに、彼女はこう言って手を振った)。あなたは以前もよく、そんなことを言ってきかせましたね。あたしはすっかり暗記しててよ。飽き飽きするわ。もしあたしが貧乏だとしても、誰かを殺してやるわ、また、たとえ金持だとしても、やはり殺すかもしれないわ、――とてもじっとしていられやしない! あたし刈り入れがしたいのよ。裸麦を刈りたいのよ。あたしあなたのとこへお嫁に行くから、あなたは百姓に、本当の百姓になるといいわ。あたしたら仔馬を飼うわ、よくって? あなたカルガーノフさんをご存じ?」
「知っています。」
「あの人はしょっちゅう歩き廻りながら、空想してるのよ。あの人が言うのには、人はなぜまじめくさって暮してるんだ、空想しているほうがよっぽどいい。空想ならばどんな愉快なことでもできるけど、生活は退屈なものだって、だけど、あの人はもうやがて結婚するわ。あたしに恋を打ち明けたんですもの。あなた独楽を廻せて?」
「廻せます。」
「あの人はちょうど独楽みたいな人よ。廻して投げて、鞭でぴゅうぴゅう引っぱたくといいのよ。あたしはあの人のところへお嫁に行って、一生涯、独楽のようにまわしてやるわ。あなたはあたしと一緒に坐ってるのが恥しくなって?」
「いいえ。」
「あなたは、あたしが神聖な有難いことを言わないので、ひどく怒ってらっしゃるのね。でも、あたし聖人なんかなになりたくないんですもの。人は自分の犯した一等大きな罪のために、あの世でどんな目にあうでしょう? あなたはよく知ってらっしゃるはずだわ。」
「神様がお咎めになります。」アリョーシャは、じっと彼女を見つめた。
「あたしもね、そうあってほしいと思うのよ、あたしがあの世へ行くと、みんながあたしを咎めるでしょう。ところが、あたしはだしぬけに、面と向ってみんなを笑ってやるわ。アリョーシャ、あたしは家を、あたしたちの家を焼きたくってたまんないのよ。あんた、あたしの言うことを本当になさらないでしょう?」
「なぜですか? 世間にはよくこんな子供がありますよ。十二やそこいらのくせに、しじゅう何か焼きたくってたまらないので、よく火をつけたりなんかするんです。それも一種の病気ですね。」
「嘘よ、嘘よ。そんな子供もあることはあるでしょうが、あたしそんなことを言ってるんじゃなくってよ。」
「あなたは悪いことといいこととを取り違えてるんです。それは一時的な危機ですが、つまり、以前の病気のせいかもしれませんね。」
「あら、あなたはあたしを軽蔑してらっしゃるのね! あたしはただ、いいことをしたくなくなって、悪いことがしたいのよ。病気でも何でもないわ。」
「なぜ悪いことをしたいんです!」
「どこにも何一つないようにしてしまいたいからよ。ああ、何もかもなくなったらどんなに嬉しいでしょう! ねえ、アリョーシャ、あたしはね、どうかすると片っ端から、めちゃくちゃに悪いことをしてやろうと思うことがあるの。長いあいだ人が気のつかないように悪いことをしていると、やがて人が見つけて、みんなあたしを爪はじきするでしょう。ところが、その時あたしは平気な顔をして、みんなを見かえしてやるわ。これがあたし、たまらなく愉快に思えるのよ。アリョーシャ、どうしてこれがそんなに愉快なんでしょう?」
「そうですね。それは何かいいものを圧し潰したいとか、または今あなたの言われたように、火をつけたいとかいう要求なんです。そういうこともよくあるものです。」
「あたし言うだけじゃないわ。本当にしてよ。」
「そうでしょうとも。」
「ああ、あたしはね、そうでしょうともと言って下すったので、本当にあなたが好きになっちゃったわ。だって、あなたは決して、決して嘘をおっしゃらないんですもの。でも、あなたはもしかしたら、あたしがあなたをからかうために、わざとこんなことを言うんだと思ってらっしゃるかもしれないわねえ?」
「いいえ、そうは思いません……しかし、ひょっとしたら、あなたは本当にそういう心持を、少しは持ってらっしゃるかもしれませんね。」
「ええ、少しばかりもってるわ。あたし決してあなたに嘘なんか言わないから」と彼女は異様に目を光らせながら言った。
 アリョーシャが何よりも驚いたのは、彼女の生まじめさであった。以前、彼女はどんなに『まじめな』瞬間でも、快活と滑稽味を失わなかったのに、この時の彼女の顔には、滑稽や冗談の影さえ見えなかった。
「人間には時として、罪悪を愛する瞬間があるものです」とアリョーシャは考え深い調子で言った。
「そうよ、そうよ! あなたはあたしの考えてることを言って下すったわ。人はみんな罪悪を愛しています、みんなみんな愛しています。いつも愛していますわ。あたしなんか『瞬間』どころじゃないことよ。ねえ、人はこのことになると、まるで嘘をつこうと約束でもしたように、みんな嘘ばかりついてるのよ。人はみな悪いことを憎むっていうけれど、そのじつ内証で愛してるんだわ。」
「あなたはやはり今でも、悪い本を読んでるんですか?」
「読んでますわ。お母さんが読んでは枕の下に隠してるから、あたし盗んで読むのよ。」
「よくまあ、あなたはそんなに自分を台なしにして、良心が咎めませんね?」
「あたしは自分をめちゃめちゃにしてしまいたいのよ。どこかの男の子は、体の上を列車が通ってしまう間、じっとレールの間に寝ていたそうじゃなくって、仕合せな子ねえ! ねえ、あなたの兄さんはお父さんを殺したために、いま裁判されようとしてるでしょう。ところが、みんなは、兄さんがお父さんを殺したのを喜んでるのよ。」
「親父を殺したのを喜んでるって?」
「喜んでるのよ、みんな喜んでるわ! みんな恐ろしいことだと言ってるけれど、その実とても喜んでるのよ。第一あたしなんか一番に喜んでるわ。」
「みんなのことを言ったあなたの言葉には、いくらか本当なところもありますね」とアリョーシャは静かに言った[#「言った」はママ]
「ああ、あなたは何という考えをもってらっしゃるんでしょう!」リーザは感きわまって、こう叫んだ。「しかも、それが坊さんの考えることなんですもの! アリョーシャ、あなたは本当に、決して嘘をおっしゃらないわね、だから、あたしあなたを尊敬するのよ。ねえ、あたし自分の見た滑稽な夢をお話ししましょうか。あたしはね、どうかすると悪魔の夢を見ることがあるのよ。何でも、夜中にあたしが蝋燭をつけて居間にいると、だしぬけに、そこいらじゅう一ぱい悪魔が出て来るの、部屋のすみずみだのテーブルの下などにね、そして戸を開けようとするのよ。戸の陰には悪魔がうようよしていて、入って来てあたしを掴みたがってるのよ。やがてそろそろ寄って来て、今にもあたしを掴もうとするから、あたし急にさっと十字を切ると、みんな後へ引きさかって、びくびくしているのよ。けれど、すっかり帰ってしまおうともせず、戸のそばに立ったり、隅っこにしゃがんだりして待ってるの。するとね、あたしだしぬけに大きな声をあげて、神様の悪口が言いたくなったので、思いきって悪口を言いだすと、悪魔たちはすぐまたどやどやと、あたしのほうへ押し寄せて来て、大喜びであたしを捕まえようとするじゃありませんか。そこで、あたしがまた急に十字を切ると、悪魔たちはみんな後へさがってしまう。それが面白くって、面白くって息がつまりそうなくらいだったわ。」
「僕もよくそれと同じ夢を見たことがあります」とアリョーシャはふいにそう言った。
「まさか」とリーザはびっくりして叫んだ。
「ねえ、アリョーシャ、冷やしちゃいやよ、これは大へん重大なことなんですからね。だって、まるで違った二人のものが同じ夢を見るなんて、そんなことあるもんでしょうか?」
「確かにありますよ。」
「アリョーシャ、本当にこれはとても重大なことなのよ」とリーザはなぜかひどく驚いた様子で、言葉をつづけた。「重大っていうのは夢のことじゃなくって、あなたがあたしと同じ夢を見たっていう、そのことなのよ。あなたは決して、あたしに嘘なんかおっしゃらないわね。だから今も嘘ついちゃいやよ、――それは本当のことなの? あなた冷やかしてらっしゃるんじゃなくって?」
「本当のことです。」
 リーザはひどく何かに感動して、ややしばらく黙っていた。
「アリョーシャ、あたしのとこへ来て下さいね、しじゅう来てちょうだいね」と彼女は急に哀願するような声で言った。
「僕はいつも、一生涯あなたのとこへ来ますよ。」アリョーシャはきっぱりと答えた。
「あたしあなた一人だけに言うんですけどね」とリーザはまた言いはじめた。「あたしは自分一人と、それからあなただけに言うのよ。世界じゅうであなた一人だけに言うのよ。あたし自分に言うよか、あなたに言うほうがよっぽど楽だわ。あなたならちっとも恥しくないの、それこそちっとも。アリョーシャ、どうしてあなたがちっとも恥しくないんでしょう。え? ねえ、アリョーシャ、ユダヤ人は復活祭に子供を盗んで来て殺すんですってね、本当?」
「知りませんね。」
「あたしは何かの本で、ある裁判のことを読んだのよ。一人のユダヤ人が四つになる男の子を捕まえて、まず両手の指を残らず切り落して、それから釘で壁に磔《はりつけ》にしたんですって。そして、あとで調べられた時、子供はすぐ死んだ、四時間たって死んだと言ったんですって、四時間もかかったのに、すぐですとさ。子供が苦しみぬいて、唸りつづけている間じゅう、そのユダヤ人はそばに立って、見とれていたんですって。いいわね!」
「いいんですって?」
「いいわ、あたしときおりそう思うのよ、その子供を磔にしたのは、自分じゃないのかしらって。子供がぶら下って唸っていると、あたしはその前に坐って、パイナップルの砂糖煮を食べてるの。あたしパイナップルの砂糖煮が大好きなのよ。あなたお好き?」
 アリョーシャは黙って彼女を見つめていた。その蒼ざめた黄いろい顔は急に歪んで、目はきらきらと燃えだした。
「でね、あたしこのユダヤ人のことを読んだ晩、夜っぴて涙を流しながら慄えてたのよ。あたしは赤ん坊が泣いたり唸ったりするのを(子供も四つになればもうわかりますからね)想像しながら、それと一緒に、パイナップルのことがどうしても頭から離れないのよ。朝になると、あたしはある人に手紙をやって、ぜひ来て下さいと頼んだの、その人が来ると、あたしはだしぬけに男の子のことだの、パイナップルの砂糖煮のことだの話したわ。残らず[#「残らず」に傍点]話してしまったわ、残らず[#「残らず」に傍点]すっかり、そして『いいわね』って言ったの。すると、その人は急に笑いだして、それは実際いいことだと言うと、いきなりぷいと立ってすぐ帰っちまったの。みんなで五分間ばかりいたきりだったわ。その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、軽蔑したんでしょうか? ねえ、ねえ、アリョーシャ、その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、どうでしょう?」彼女はきらりと目を輝かせて、寝椅子の上でぐいと体を伸ばした。
「じゃ」とアリョーシャは興奮しながら言った。「あなたはその人を、自分でよんだんですか?」
「自分でよんだのよ。」
「その人に手紙をやったんですか?」
「手紙をやったのよ。」
「わざわざこのことを、赤ん坊のことを訊くために?」
「いいえ、まるでそんなことじゃないの。でも、その人が入って来るとすぐに、あたしそのことを訊いたわ。すると、その人は返事をして、笑って、立って行ってしまったの。」
「その人はあなたに対して、立派な態度を取りましたね」とアリョーシャは小さな声で言った。
「でも、その人はあたしを軽蔑したんじゃないでしょうか? 笑やしなかったかしら?」
「そんなことはありません。なぜって、その人自身も、パイナップルの砂糖煮を信じてるかもしれないんですもの。リーザ、その人もやはりいま病気にかかってるんですよ。」
「そうよ、あの人も信じてるのよ」とリーザは目を光らせた。
「その人は誰も軽蔑しちゃいません」とアリョーシャは語をつづけた。「ただその人は誰も信じていないだけです。信じていないから、つまり軽蔑することになるのです。」
「じゃ、あたしも? あたしも?」
「あなたも。」
「まあ、いいこと。」リーザは、歯をきりきりと鳴らした。「あの人が、笑ってぷいと出て行ったとき、軽蔑されるのもいいもんだって気がしたわ。指を切られた子供も結構だし、軽蔑されるのも結構だわ……」
 彼女はこう言いながら、妙に毒々しい興奮した声で、アリョーシャに面と向って笑いを浴びせた。
「ねえ、アリョーシャ、ねえ、あたしはね……アリョーシャ、あたしを救けてちょうだい!」ふいに彼女は寝椅子から跳ねあがりざま、彼のほうに身を投げて、ぎゅっとその両手を握った。「あたしを救けて」と彼女はほとんど呻くように言った。「いま言ったような話ができるのは、世界じゅうにあなたよりほかありません。だって、あたし本当のことを言ったんですもの、本当のことよ、本当のことよ! あたし自殺するわ。だって、何もかもみんな穢らわしいんですもの! あたし何もかも穢らわしい、何もかも穢らわしい! アリョーシャ、なぜあなた、あたしをちっとも、ちっとも愛してくれないの!」
 彼女は前後を忘れたように、こう言葉を結んだ。
「そんなことはない、愛しています!」とアリョーシャは熱して答えた。
「じゃ、あたしのために泣いてくれて、泣いてくれて?」
「泣きます。」
「あたしがあなたの奥さんになるのを、いやだと言ったためじゃなくって、ただあたしのために泣いてくれて?」
「泣きます。」
「そう、有難う! あたしあなたの涙よりほか何にもいらないのよ! ほかのやつなんか、みんなあたしを苦しめたって、みんな、みんな、一人残らず[#「一人残らず」に傍点]あたしを踏み潰したって、かまやしないわ! だって、あたしは誰を愛していないんですもの。本当に誰も愛していないのよ! それどころか、憎んでるわ! さあ、いらっしゃい、アリョーシャ、もう兄さんのとこへ行く時分よ!」彼女はふいに身を離した。
「あなたはあとでどうなさるんです?」とアリョーシャは慴えたように言った。
「兄さんのとこへいらっしゃい。監獄の門が閉まってよ。いらっしゃい。さ、帽子! ミーチャにあたしからと言って、接吻してちょうだい。さあ、いらっしゃい、いらっしゃい!」
 こう言って彼女は、ほとんど無理やりアリョーシャを、戸のほうへ突き出すようにした。アリョーシャは愁わしげな不審の表情でリーザを見ると、その瞬間、自分の右手に手紙があるのを感じた。それは小さな手紙で、かたく畳んで封印がしてあった。彼はちらりと見ると、『イヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフさま』と書いてあった。彼はすばやくリーザを見た。と、その顔はほとんど威嚇するような表情になった。
「渡して下さい、きっと渡して下さいよ!」彼女は全身をふるわせながら、夢中でこう命令した。「今日すぐ! でないと、あたし毒を呑んで死んでしまってよ! あたしがあなたを呼んだのもそのためよ!」
 彼女はこう言って、大急ぎでぱたりと戸を閉めてしまった。掛金はがちりと音をたてた。アリョーシャは手紙をかくしへ入れると、ホフラコーヴァ夫人のもとへも寄らないで、すぐ階段のほうへ行った。彼はもう夫人のことを忘れていたのである。リーザはアリョーシャが遠ざかるやいなや、すぐ掛金をはずしてこころもち細目に戸を開き、その隙間に自分の指をさし込むと、力まかせにぐっと戸を閉めて、指を押した。十秒間ばかりたってから、彼女は手を引いて、そろそろと静かに安楽椅子へ戻ると、その上に坐って、体をぐいと伸ばした。そして、黒くなった指と、爪の間から滲み出た血をじっと見つめた。唇がぶるぶると慄えた。彼女は早口にこうひとりごちた。
「あたしは恥知らずだ、恥知らずだ、恥知らずだ!」

[#3字下げ]第四 頌歌と秘密[#「第四 頌歌と秘密」は中見出し]

 アリョーシャが監獄の門のベルを鳴らした時は、もうだいぶ遅く(それに、十一月の日は短いから)、たそがれに近かった。けれど、アリョーシャは何の故障もなく、ミーチャのところへ通されることを知っていた。こういうことはすべてこの町でも、やはりほかの町と同じであった。予審終結後、はじめのうちは、親戚その他の人々の面会も、ある必然の形式で制限されていたが、その後だんだん寛大になった、というわけでもないが、少くとも、ミーチャのところへ来る人々のためには、いつの間にかある例外が形づくられたのである。時によると、被監禁者との面会が、その用にあてられた部屋の中で、ただ二人、――四つの目だけの間で行われることさえあった。が、そういう人はごく僅かで、ただグルーシェンカとアリョーシャとラキーチンくらいのものだった。グルーシェンカには、署長のミハイル・マカーロヴィッチが、とくに好意をもっていた。モークロエでグルーシェンカを呶鳴りつけた時のことが、いつまでもこの老人の心を咎めたのである。その後、彼はよく真相を知るとともに、彼女に対する自分の考えを一変した。不思議なことに、彼はミーチャの犯罪を固く信じていたにもかかわらず、彼が監禁されたそもそもから、『この男も善良な心の持ち主だったらしいが、あんまり酒を飲みすぎて、だらしがないものだから、とうとうスウェーデン人のようにすっかり身を破滅させてしまった』と思って、だんだんミーチャを見る目がやわらいできたのである。彼が心にいだいていた以前の恐怖は、一種の憐憫の情に変った。アリョーシャのほうはどうかというと、署長は非常に彼を愛していた。二人はもうとうから知合いの間柄なのであった。その後しきりに監獄へ出入りしはじめたラキーチンも、彼のいわゆる『署長のお嬢さん』の最も親しい知合いの一人でほとんど毎日お嬢さんのそばで暮していた。そのうえ彼は、頑固一徹の官吏ではあるが、いたって心の優しい老典獄の家で、家庭教師をしていたのである。アリョーシャもやはり典獄の旧友であった。典獄は全体に、『最高の叡知』というような問題で、アリョーシャと語り合うのを好んだ。またイヴァンのほうはどうかというと、典獄は決して彼を尊敬しているわけではないが、何よりも一ばん彼の議論を恐れていた。もっとも、典獄自身も『自分の頭で到達した』ものに相違ないが、やはりえらい哲学者なのであった。アリョーシャに対しては、彼はある抑えがたい好感をもっていた。近頃、彼はちょうど旧教福音書の研究をしていたので、絶えず自分の印象をこの若い親友に伝えた。以前はよくアリョーシャのいる僧院まで出かけて行って、彼をはじめ多くの主教たちと、幾時間も語り合ったものである。こういうわけで、アリョーシャは多少時間に遅れたところで、典獄のところへ行きさえすれば、うまく取り計らってもらうことができるのであった。それに、監獄では一ばん下っぱの番人にいたるまで、みんなアリョーシャに馴染んでいた。むろん看守も、上役から叱られさえしなければ、決して面倒なことを言わなかった。ミーチャはいつも呼び出されると、監房から下の面会所へおりて行くのを常とした。アリョーシャは部屋え[#「部屋え」はママ]入りがけに、ちょうどミーチャのところから出て来たラキーチンに、ばったり出くわした。二人は何やら大きな声で話をしていた。ミーチャはラキーチンを見送りながら、なぜかひどく笑ったが、ラキーチンは何だかぶつぶつ言っているようなふうであった。ラキーチンは近頃、とくにアリョーシャと出会うのを好まず、会ってもほとんど口もきかずに、ただわざとらしく挨拶するだけであった。今も入って来るアリョーシャを見ると、彼は妙に眉を寄せて、目をわきへそらした。その様子はいかにも、毛皮襟のついた大きな暖かい外套のボタンをかけるのに気をとられている、とでもいったようなふうであった。やがて、彼はすぐ自分の傘を捜し始めた。「自分のものは忘れないようにしなくちゃ。」彼はただ何か言うためにしいてこう呟いた。
「君、人のものも忘れないようにしろよ!」とミーチャは皮肉に言って、すぐ自分で自分の皮肉にからからと高笑いを上げた。
 ラキーチンはいきなりむっとした。
「そんなことはカラマーゾフ一統のものに言うがいい。君たちは農奴制時代の私生児だ。そんなことは、ラキーチンに言う必要はない!」憎悪のためにぶるぶると身ぶるいをしながら、彼はやにわに剣突《けんてつ》をくわした。
「何をそんなに怒るんだい? 僕はただちょっと冗談に言っただけだよ!」とミーチャは叫んだ。「ちょっ、ばかばかしい! あいつらはみんなあのとおりだ。」急いで出て行くラキーチンのうしろ姿を顎でしゃくりながら、アリョーシャに話しかけた。
「今まで坐り込んで、面白そうに笑ってたのにもう怒ってやがる! お前に目礼さえしなかったじゃないか。どうしたんだ。すっかり仲たがいでもしたのかい? どうしてお前はこんなに遅く来たんだ? おれはお前を待っていたどころじゃない、朝のうち焦れぬいてたんだ。だが、いいや! 今その埋め合せをするから。」
「あの男はどうしてあんなに兄さんのとこへ来るんです? すっかり仲よしになったんですか?」やはりラキーチンが出て行った戸口を顎でしゃくりながら、アリョーシャはこう訊いた。
「ラキーチンと仲よしになったかって言うのかい? そんなわけでもないが……いやなに、あいつは豚だよ! あいつはおれを……やくざ者だと思ってやがるんだ。それにちょっと冗談言ってもむきになる、――あいつらときたら、洒落というものがてんでわからないんだからな。それが一ばん厄介だよ。あの連中の魂は、なんて無味乾燥なんだろう。薄っぺらで乾からびてるよ。まるでおれが初めてここへ連れられて来て、監獄の壁を見た時のような心持がする。だが、なかなか利口なことは利口な男だ。しかし、アレクセイ、もういよいよおれの頭もなくなったよ!」
 彼はベンチに腰をおろし、アリョーシャをもそばにかけさせた。
「そう、明日がいよいよ公判ですね。じゃ、何ですか、兄さん、もうすっかり絶望してるんですか?」とアリョーシャはおずおずと言いだした。
「お前、それは何言ってるんだい?」ミーチャは何ともつかぬ、漠とした表情で、アリョーシャを眺めた。「ああ、お前は公判のことを言ってるんだな! ちょっ、ばかばかしい! 僕らは今までいつもつまらない話ばかり、いつもこの公判の話ばかりしていたが、一ばん大切なことは、黙っていたんだよ。そりゃ明日は公判さ。しかし、いま頭がなくなったと言ったのは、そのことじゃないよ。頭はなくなりゃしないがね、頭の中身がなくなったってことさ。どうしてお前はそんな批評をするような顔つきでおれを見るんだ!」
「ミーチャ、それは何のことなんです?」
「思想のことさ、思想のことなんだよ! つまり倫理《エチカ》だよ、一たい倫理《エチカ》って何だろう?」
「倫理《エチカ》?」アリョーシャは驚いた。
「そうだ、どんな学問だね?」
「そういう学問があるんですよ……しかし……僕は正直なところ、どんな学問かうまく説明できないんです。」
「ラキーチンは知ってるぜ。ラキーチンの野郎いろんなことを知ってやがる、畜生! やつは坊主になんかなりゃしないよ。ペテルブルグへ行こうとしてるんだ。そこで何かの評論部へ入ると言っている。ただし、高尚な傾向をもってるところだ。大いに世を裨益して、立身出世しようと言うんだ。いや、どうして、あいつらは立身出世の名人だからなあ! 倫理《エチカ》が何だろうと、そんなこたあ、どうでもいい。おれはもうおしまいだ。アレクセイ、おれはもうおしまいだよ。お前は神様に愛されている人間だ! おれは誰よりも一番お前を愛してる。おれの心臓はお前を見るとふるえるんだ。カルル・ベルナールってのは、一たい何だい?
「カルル・ベルナール?」とアリョーシャはまた驚いた。
「いや、カルルじゃない、ちょっと待ってくれ、おれはでたらめを言っちゃった、クロード・ベルナール([#割り注]十九世紀フランスの生理学者[#割り注終わり])だ。クロード・ベルナールって一たい何だい? 化学者のことかい?」
「それは確か、ある学者です」とアリョーシャは答えた。「けれど、実のところ、この人のこともよく知りません。ただ学者だってことは聞いたけれど、どんな学者か知らない。」
「なに、そんなやつなんかどうでもいい、おれも知らないんだ」とミーチャは呶鳴った。「どうせ、ろくでなしのやくざ者だろう。それが一ばん本当らしい。どうせみんなやくざ者さ。だが、ラキーチンはもぐり込むよ。ちょっとした隙間でも、あいつはもぐり込むよ。あいつもやはりベルナールだ。へっ、ろくでなしのベルナールども! よくもこうむやみに殖えたものだ!」
「一たい兄さんどうしたんですか?」とアリョーシャは追及した。
「あいつはおれのことや、おれの事件のことを論文に書いて、文壇へ乗り出そうと思ってるんだ。そのためにおれのところへ来るんだよ、それは自分でもそう言ったよ。何か傾向のあるものを書きたがってるのさ。『彼は殺さざるを得なかった。何となれば、周囲の犠牲になったからである』てなことをね。おれに説明してくれたよ。社会主義の色をつけるんだそうだ。そんなこたあどうでもいいさ、社会主義の色でも何でも、そんなこたあどうでもいいや。あいつはイヴァンを嫌って憎んでいるよ。お前のこともやっぱりよく思っちゃいない。それでもおれがあいつを追い返さずにおくのは、あいつが利口者だからだ。もっとも、あいつ恐ろしくつけあがりすぎる。だから、おれは今も言ってやったのだ。『カラマーゾフ一統はやくざ者じゃない、哲学者だ。なぜって、本当のロシヤ人はみんな哲学者じゃないか。だが、お前なんかは学問こそしたけれど、哲学者じゃなくて、ごろつきだ』ってね。そしたら、あいつ何ともいえない、にくにくしそうな顔をして笑やがったよ。で、おれはやつに言ったね、de ideabus non est disputandum([#割り注]思想の相違はやむを得ない――ラテン語[#割り注終わり])少くとも、おれも古典主義の仲間入りをしたんだよ。」ミーチャは急にからからと笑った。
「どうして兄さんもう駄目なんです? いま兄さんそう言ったでしょう?」とアリョーシャは遮った。
「どうして駄目になったって? ふむ! 実はね……一言でつくせば、おれは近頃、神様が可哀そうになったんだ、だからだよ!」
「え、神様が可哀そうなんですって?」
「いいかい、こういうわけだ。それはここんとこに、頭の中に、その脳髄の中に神経があるんだ……(だが、そりゃ何でもいいや!)こんなふうな尻尾みたいなものがあるんだ。つまり、その神経に尻尾があるんだ。そこで、この尻尾がふるえるとすぐに……つまり、いいかね、おれが目で何か見るとするだろう、そうすると、そいつがふるえだすんだ、つまり、尻尾がさ……こうしてふるえると、映像が現われるんだ。すぐに現われるんじゃない、ちょっと一瞬間、一秒間すぎてからだ。すると、一種の刹那が現われる。いや、刹那じゃない、――ちょっ、いまいましい、――ある映像が、つまり、ある物体というか、事件というか、――が現われる。だが、それはどうでもいい! こういうわけで、おれは観照するし、それから、考えもするんだ。なぜって、それは尻尾がふるえるからなので、おれに霊があるからでもなければ、おれの中に神の姿があるからでもないんだ。そんなことは、みんなばかばかしい話だとさ。これはね、ラキーチンがきのうおれに話して聞かせたんだ。おれはその話を聞くと、まるで火傷でもしたような気がしたよ。アリョーシャ、これは立派な学問だ! 新しい人間がどんどん出て来る、それはおれにもわかっている……が、やはり神様が可哀そうなんだ!」
「いやあ、それも結構なことですよ」とアリョーシャは言った。
「神様が可哀そうだってことかい? だって、化学があるじゃないか、アリョーシャ、化学があるよ! どうも仕方がないさ。坊さん、少々脇のほうへ寄って下さい、化学さまのお通りですよ! ラキーチンは神様を好かない、いや、どうも恐ろしく好かない! これがあいつらみんなの急所だよ! だが、あいつらはそれを隠してるんだ。嘘をついてるんだ。感じないふりをしてるんだ。こういうこともあったよ。『どうだね、君は評論部でもそれで通すつもりかね』とおれが訊くとな、あいつは『いや、明らさまにはさせてくれまい』と言って、笑ってるじゃないか。そこで、おれは訊いた。『だが、そうすると、人間は一たいどうなるんだね? 神も来世もないとしたらさ? そうしてみると、人間は何をしてもかまわないってことになるんだね?』すると先生『じゃ、君は知らなかったんだね?』と言って笑ってるんだ。『利口な人間はどんなことでもできるよ。利口な人間は、うまく甘い汁を吸うことができるんだよ。ところが、君は人殺しをしたが、ぱったり引っかかって、監獄の中で朽ちはてるんだよ!』こうおれに面と向って言うじゃないか。まるで豚だ! おれも以前なら、そんな人間はつまみ出してしまったものだが、今は黙って聞いてるんだ。あいつは気のきいたことをいろいろと喋るし、書かせてもなかなかうまいことを書く。あいつは一週間ばかり前、おれにある論文を読んで聞かせたがね、おれはそのとき三行だけ書き抜いておいたよ。ちょっと待ってくれ、これがそうだ。」
 ミーチャは急いでチョッキのかくしから、一枚の紙きれを取り出して読んだ。
『この問題を解決するには、まず自己の人格を自己の現実と直角におくを要す。』
「わかるかい、どうだ?」
「わかりませんね」とアリョーシャは言った。彼は好奇の色を浮べて、ミーチャを見入りながら、その言うことを聞いていた。
「何もわからないんだ。曖昧ではっきりしていないからね。だが、そのかわり気がきいてるじゃないか。『みんな、今こんなふうに書いてるよ。なぜって、環境がそうなんだから』とこう言うのさ……環境が恐ろしくてたまらないんだ。そして、詩もやはり作っているのさ、くだらないやつったらないよ。ホフラコーヴァの足を詩に作ったんだとよ。はっ、はっ、はっ!」
「僕も聞きました」とアリョーシャは言った。
「聞いた? では、その詩も聞いたかい?」
「いいえ。」
「その詩はおれの手もとにあるんだ。一つ読んで聞かせよう。まだお前には話さなかったから知るまいがね、それには一つロマンスがあるんだ。ほんとにあいつ悪いやつだ! 三週間まえに、先生おれをからかおうと思ってね、『君は僅か三千ルーブ

『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P096-P143

を、忘れたかったからかもしれません……そうです、まったくそのためなんですよ……ええ、ばかばかしい……幾度あなたはそんなことを訊くんです? ただでたらめを言ったのです、それっきりです。一どでたらめを言ってしまったから、もう訂正したくなかったんです。人間というものはどうかすると、くだらない動機からでたらめを言うものですよ。」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事は諭すように言った。「どんな動機から人が嘘を言うかってことは、容易に決定できるもんじゃありません。ときにお訊ねしますが、あなたの頸にかかっていたその守り袋なるものは、大きなものでしたか?」
「いいえ、大きくはありません。」
「例えば、どのくらいの大きさです?」
「百ルーブリ紙幣を半分に折った、まあそれくらいの大きさです。」
「では、そのきれというのを、見せていただけないでしょうか? いずれどこかに持っておいででしょうから。」
「ええ、ばかばかしい……何というくだらない……そんなものがどこにあるか知るもんですか。」
「しかし、まあ、聞かせて下さい、いつどこであなたはその袋を頸からはずしたんです? あなたの申し立てによれば、家へは寄らなかったのでしょう?」
「ええ、フェーニャのところを出ると、すぐペルホーチンの家へ向けて行きましたが、その途中で頸から引きちぎって、金を取り出したんです。」
「暗闇の中で?」
「蝋燭なんか何にします? そんなことは指一本ですぐできましたよ。」
「往来で鋏もなしに?」
「広場だったと思います。鋏なんか何にします? 古いぼろきれですもの、すぐに破れてしまいました。」
「それから、そのきれをどこへやりました?」
「その場で棄ててしまいました。」
「それはどこです?」
「広場です、とにかく、広場に棄てたんです。広場のどこだったか、そんなこと誰が知るもんですか。一たいあなたはそれを聞いてどうなさるんです?」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、それは非常に重大なことです。あなたのためになる証拠物件なんです。どうしてあなたはそれを理解しようとしないのです? 一カ月前それを縫う手つだいをしたのは誰ですか?」
「誰も手つだいません。自分で縫ったんです。」
「あなたに縫えるんですか?」
「兵隊は縫うすべを知ってなけりゃならない。しかし、あんなものにはすべも何もいりゃしません。」
「あなたはその材料を、つまり、袋を縫ったぼろきれを、どこから持って来ましたが?」
「一たいあなたは私をからかってるんじゃありませんか?」
「決してからかやしません。それに、からかうなんて場合じゃないですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ。」
「どこからぼろきれを持って来たか、どうも憶えがありません。いずれどこからか持って来たんですよ。」
「それくらいのことは憶えていられそうなもんですね。」
「しかし、本当に憶えていないんです。たぶん肌着か何かを引き裂いたんでしょう。」
「それは非常におもしろい。明日あなたの下宿へ行って、その品を捜してみましょう。きれを取ったらしいシャツが出て来るかもしれませんからねえ。そのきれは、どんなものです? 厚地ですか、薄地ですか?」
「どんなものだったか憶えてるもんですか。ちょっと待って下さい……ほかのきれから引き裂いたんじゃないようです。あれはキャラコでした……何でもかみさんのナイト・キャップで縫ったような気がします。」
「かみさんのナイト・キャップで?」
「そうです、かみさんのところから盗み出したんです。」
「盗み出したとは?」
「それはこうです。私は実際いつだったかナイト・キャップを一つ、雑巾にしようと思ったのか、それともペン拭きにしようと思ったのか、とにかく盗み出したことがあります。こっそりと持って来たんです。それで、何の役にも立たないぼろきれが、私のところに転かっていましたが、ちょうどこの千五百ルーブリの置場に困ったので、それを縫い込んだわけなんです……まったくこのぼろきれに縫い込んだらしい。幾度となく洗い哂した、古いキャラコのきれなんですよ。」
「では、あなたは確かにそう記憶しておいでですか?」
「確かにそうだったかどうか知りません。何でもナイト・キャップだったと思うんです。いや、そんなことはどうだってかまいませんよ。」
「そうだとすれば、少くとも、かみさんは自分のナイト・キャップがなくなったのを、思い出すことができるでしょうね?」
「いいえ、かみさんは気もつかないんですよ。幾度も言ったとおり、古いぼろぼろなきれで、一文の値うちもないんですからなあ。」
「じゃ、針はどこから持って来たんです? 糸は?」
「私はよします。もう言いたくありませんよ。たくさんですよ。」とうとうミーチャは怒りだした。
「それにしても、おかしいですね、あなたが広場のどういうところで、その……守り袋を棄てたか、すっかり忘れておしまいになるなんて。」
「では、あす広場を掃除さしてごらんなさい。ひょっとしたら見つかるかもしれませんから。」ミーチャはにたりと笑った。「たくさんですよ、みなさん、たくさんですよ」と彼は疲れきったような声でこう言い切った。「あなた方が私を信じていられないのは、もうよくわかりました! 何一つ、これっからさきも信じてはおられません。しかし、私が悪いんです、あなた方の罪じゃない。何も出しゃばる必要はなかったんですよ。何だって、何だって私は自分の秘密をあかして、自分で自分を穢したんでしょう! あなた方にとってはただ滑稽なだけです、その目色でわかりますよ。検事さん、これはあなたが私を吊り出したんです! もしできるなら凱歌でもお上げなさい……あなた方は永久に呪われた拷問者だ!」
 彼はうなだれ、両手で顔を蔽うた。検事と判事は黙っていた。やがてミーチャは頭を上げて、ぼんやり彼らを見やった。その顔にはもはや取り返しのつかない、極度の絶望が現われていた。彼は妙にむっつりおし黙って、椅子に腰かけたまま、忘我の境におちいったようなふうつきであった。が、それにしても、事件を片づける必要があった。すぐ証人の審理に移らなければならなかった。もう朝の八時で、蝋燭はとうに消された。審問のあいだ絶えず出たり入ったりしていたミハイル・マカーロヴィッチと、カルガーノフとは、この時ふたたび出て行った。検事も判事も、やはり非常に疲れたような顔つきをしていた。それは欝陶しい朝であった。空は一面雲に蔽われ、雨は盆を覆すように降りしきっていた。ミーチャはぼんやり窓を見つめていた。
「ちょっと窓を覗かせてもらえませんか?」ミーチャは突然ニコライに訊いた。
「さあさあ、いくらでも」とニコライは答えた。
 ミーチャは立ちあがって窓に近づいた。雨脚は、青みがかった小さい窓ガラスを、烈しく叩いていた。窓のすぐ下には泥ぶかい街道がつづいて、その先には雨靄の中に、黒ずんだ、貧しげな、醜い百姓家が並んでいたが、雨のために一段と黒ずんで貧しげに見えた。ミーチャは『金髪のアポロ』のことや、その最初の輝きとともに自殺しようと考えていたことなどを思い出した。『しかし、こういう朝のほうがかえってよかったかもしれない』と考えて、彼は薄笑いをうかべた。と、急に片手を上から下へと振って、『拷問者たち』のほうへ振り向いた。
「みなさん!」と彼は叫んだ。「私は自分の身が破滅だってことを知っていますが、しかし、あれは? あれのことを聞かせて下さい、お願いです。あれも私と一緒に破滅しなければならんのでしょうか? あれに罪はないです。あれが昨日『みんなわたしが悪いのです』と叫んだのは、夢中で言ったことなんです。あれには決して、決して罪はありません! 私はあなた方と一緒に話してるうちにも、夜どおし心配でたまらなかったです……あなた方は今あれをどうなさるつもりか、聞かせていただくわけにゆきませんか? 駄目でしょうか?」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、そのことなら決してご心配なく。」検事はいかにもせき込んだらしい調子で、すぐにこう答えた。
「あなたが切実な興味を感じていられるあのご婦人に対して、何事にもあれ心配をかけるような理由は、まだ今のところ少しもありません。このさき事件が進行しても、やはり同じことだろうと思います、そうあってほしいものです……この意味においては、むしろ私たちのほうから、でき得るだけのことをするつもりですから、決してご心配のないように。」
「みなさん、感謝します。いろんなことはありましたが、何といっても、あなた方はやはり潔白で公平な方です。私はそれを見抜いていました。あなた方は私の心から重荷を取りのけてくれました……さて、これからどうするんです? 私はもう何でも悦んで。」
「そうですね、なにしろ急がなければなりません。さっそく証人の審理に移りましょう。これもやはり、ぜひあなたの面前で執行することを要するのです。それで……」
「しかし、まずお茶を飲んではどうでしょう?」とニコライは遮った。「もう大分かせぎましたからね!」
 もし下にお茶の支度ができておれば(ミハイル・マカーロヴィッチが出て行ったのは、きっと『一杯飲んで』来るために相違ないと想像したので)、一杯ずつ飲んだ上で、あらためて『大いにやろうじゃないか」ということに一決した。正式のお茶とザクースカは、もっと時間に余裕ができるまで延ばすことになった。はたして、下にはお茶の支度ができていたので、さっそく二階へ運ばれた。初めミーチャは、ニコライが愛想よくすすめるお茶を辞退したが、やがて自分のほうから求めて、貪るように飲みほした。しかし、全体に何だかひどく疲れたような顔つきであった。ちょっと考えると、あんな古英雄のような力を持っている男だから、たとえいくら強烈な刺戟に充ちていたからとて、一晩くらいの徹夜の宴は、彼にとって何ほどのこともないはずであったが、しかし、彼は自分でもやっとの思いで腰かけているのを感じた。どうかすると、すべての物が目の前を動きだしたり、ぐるぐると廻ったりするような気がした。
『も少したったら、譫言を言いだすかもしれないぞ』と彼は心の中で考えた。

[#3字下げ]第八 証人の陳述『餓鬼』[#「第八 証人の陳述『餓鬼』」は中見出し]

 証人の審問が始まった。けれど、筆者はもう今までのように、詳しく話しつづけることをやめよう。それゆえ、呼び出された証人が一人一人、ニコライの口から、お前たちはまっすぐに正直に申し立てなければならぬ、あとで宣誓をしたうえ、その陳述を繰り返さなければならないのだから、などと言い聞かされたことも省略しよう。また終りに証人一人一人が、その陳述調書に署名を要求されたことも省こう。ただ一つ言っておかなければならぬことがある。と言うのは、審問者が何より最も注意をはらった要点は、主として三千ルーブリの問題であった。つまり、初めの時、すなわち一カ月前このモークロエで、ドミートトーリイが初町で豪遊をきわめた時に使った金は、三千ルーブリであったか、それからまた、昨日の二回目の豪遊の時は三千ルーブリであったか、千五百ルーブリであったか、という問題である。しかし、悲しいかな、すべての証明はことごとくミーチャの申し立てに反していた。一つとしてミーチャの利益になる証拠はなかった。中には、ほとんど仰天するような新しい証拠を提供して、ミーチャの申し立てを根底から覆すものさえあった。まず第一に審問されたのは、トリーフォンであった。彼は審問者の前に出ても、つゆいささか臆する色がないばかりか、むしろ被告に対して厳格、かつ峻烈な憤懣の色を示しながら現われた。それがために、彼は否応なく自分の申し立てをきわめて正直なものと認めさせたうえ、自分自身にも一種の威厳を添えたのである。彼は少しずつ控え目に口をきき、訊ねられるのを待ってから、考え考え正確に答えた。彼がきっぱりと、歯に衣着せず答えたところによると、一カ月前に使った金は三千ルーブリ以下であろうはずがない、ここの百姓たちでもみんな『ドミートリイ・フョードルイチ』の口から三千ルーブリと聞いた、と申し立てるに相違ない。「ジプシイの女たちだけにでも、どのくらい金を撒いたかしれやしません。あいつらだけにでも千ルーブリ以上ふんだくられましたよ。」
「五百ルーブリもやりゃしなかったくらいだ」とミーチャはこれに対して沈んだ調子で言った。「もっとも、あのとき勘定なんかしなかったが……酔っ払っていたもんだから。残念だなあ……」
 この時ミーチャはカーテンを背にして、テーブルのわきに坐ったまま、沈みがちに黙って聞いていた。『ちぇっ、勝手な申し立てをするがいい。もうこうなりゃ、どうだって同じことだ!』とでもいったような、わびしげな疲れた様子をしていた。
「あいつらにやっただけでも、千ルーブリどころじゃありませんよ、ドミートリイ・フョードルイチ」とトリーフォンは断乎としてしりぞけた。「あなたが見さかいなくやたらにお投げになると、あいつらはわれがちに拾ったじゃありませんか。なにしろ、あいつらは泥棒で詐欺師で、馬盗人だもんだから、今でこそ追っ払われてここにいませんが、もしあいつらがいたら、いくらあなたからせしめたか、ちゃんと申し立てるところなんですよ。わっしもあの時あなたの手に、お金がたくさんあるのを見ましたよ、――もっとも、勘定はしませんでした。勘定なんかさせて下さいませんでしたからね、それはまったくでございますよ、――しかし、ちょっと見ただけでも、千五百ルーブリよりずっと多かったのを憶えてますよ……どうして、千五百ルーブリどころですかい! わっしだって、幾度も大金を見たことがありますから、それしきの見分けはつきますよ……」
 昨日の金額についてもトリーフォンは、ドミートリイが馬車からおりるやいなや、また三千ルーブリをもって来たと触れ出した事実を、きっぱり言いきった。
「いい加減にしないか、トリーフォン、そんなことがあったのかい」とミーチャは抗弁した。「確かに三千ルーブリもって来たと触れ出したかね?」
「言いましたとも、ドミートリイ・フョードルイチ。アンドレイのいるところで言いましたよ。そうだ、あそこにアンドレイがおりますよ。まだ帰っていないから、あれを呼んでごらんなさいまし。だが、あなたはあそこの大広間で、コーラスにご馳走をした時も、ここに六千ルーブリおいて行くのだと、おおっぴらに呶鳴ったじゃありませんか、――六千ルーブリというのは、前の金を合わしたものと、こうとらなけりゃなりませんや。ステパンも、セミョーンも聞きました。それにカルガーノフさんも、その時、あなたと並んで立っていらっしゃいましたから、たぶんあの方も、憶えておいででございましょう……」
 六千ルーブリという申し立ては、審問者たちになみなみならぬ注意をもって受け入れられた。新奇な表現が気に入ったのである。三千ルーブリと三千ルーブリとで六千ルーブリになる。うち三千ルーブリはあの時の分で、三千ルーブリは今度の分、両方あわせて六千ルーブリ、実にこの上もなく明瞭である。
 トリーフォンが名ざした百姓たち、すなわちステパンとセミョーンと馭者のアンドレイ、それにカルガーノフを加えて、みんな残らず審問された。百姓たちも馭者もためらう色なく、トリーフォンの陳述を裏書きした。そればかりか、アンドレイの言葉の中でも、彼がミーチャと途中で交わした会話は、とくに注意して書きとめられた。それは例の、『一たいおれは、ドミートリイ・カラマーゾフはどこへやられるだろう、天国だろうか地獄だろうか? あの世へ行ったら、赦してもらえるだろうか、どうだろう?』という言葉であった。『心理学者』のイッポリートは、微妙な笑みを浮べながら、始終の様子を聞いていたが、最後にこのドミートリイの行方に関する申し立てをも、『一件書類に加える』ようにすすめた。
 カルガーノフは自分が審問される番になると、いやいやらしく顔をしかめながら、駄々っ子のような顔つきをして入って来た。彼は検事やニコライなどと旧い知合いで、毎日のように顔を合せているくせに、まるで生れて初めて会ったような口のきき方をした。彼はまずのっけから、『僕はこの事件について何にも知りません、また知りたくもないのです』と言った。が、六千ルーブリという言葉は、彼も耳にしたとのことであった。そのとき彼はミーチャのそばに立っていたことも承認した。彼もミーチャの手に金があるのを見たが、『いくらあったか知りませんよ』と言いきった。ポーランド人たちがカルタで抜き札をしたことは、彼もきっぱり断言した。また幾度となく繰り返される人々の問いに対して、実際ポーランド人たちが追われて後、ミーチャと、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナとの関係が円滑になったこと、彼女もミーチャを愛していると、自分の口から言ったことなどを陳述した。彼はアグラフェーナ・アレクサンドロヴナのことを口にする時、うやうやしい控え目な言葉を使って、まるで上流社会の貴婦人の話でもするようなあんばいであった。そして、一度も『グルーシェンカ』などと呼び捨てにしなかった。若いカルガーノフが申し立てをいやがっているのは、明らかにわかっていたにもかかわらず、イッポリートは長いあいだ彼を審問した。その夜ミーチャの身の上に生じた、いわゆる『ローマンス』の内容がどんなものかということも、彼の口から初めてこまかに知ったのである。ミーチャは一度もカルガーノフの言葉を遮らなかった。青年はやっと退出を許された。彼は蔽いられない憤懣を示しながら立ち去った。
 ポーランド人たちも審問された。彼らは自分の部屋で床についていたが、夜っぴて眠らなかった。そのうちに官憲が来たので、自分らもきっと呼び出されるに相違ないと思い、急いで着替えをし身支度をととのえていた。彼らは幾分おじけづきながら、しかも堂々と現われた。おも立ったほう、つまり小柄な紳士《パン》は、休職の十二等官で、シベリヤで獣医を奉職していたことがわかった。姓はムッシャローヴィッチであった。ヴルブレーフスキイは自由開業のダンチスト、ロシヤ語で言えば歯医者であった。二人とも部屋へ入ると早々、ニコライが審問しているのにおかまいなく、脇のほうに立っているミハイル・マカーロヴィッチに向いて、答弁を始めた。様子を知らないために、彼をここで一番えらい長官と思い込んだからである。彼らは一口ごとに、彼を『pan pulkovnik([#割り注]大佐の訛り[#割り注終わり])』と呼んだ。が、当のミハイル・マカーロヴィッチが幾度か注意をしたので、ようやくニコライよりほかの人に答えてはならないのだと悟った。彼らはただときどき間違った発音をするだけで、ごくごく正確なロシヤ語を使えることがわかった。グルーシェンカに対する以前と今の関係について、ムッシャローヴィッチはむやみに熱心な、しかも傲慢な調子で話しはじめた。すると、ミーチャはたちまち前後を忘れて、貴様のような『悪党』に、おれのいるところでそんなことを言わしておくわけにゆかない、と呶鳴りつけた。ムッシャローヴィッチはすぐ『悪党』という言葉に注意を向けて、調書に記入してもらいたいと言った。ミーチャは憤怒のあまりかっとして言った。
「悪党だとも、悪党だとも! このことを書き込んで下さい。それから、調書に書かれようとどうしようと、私はどこまでも悪党と呶鳴りますからね、このこともやはり書き込んで下さい!」と彼は叫んだ。
 ニコライはこれを調書に記入したが、しかしこの不快な場面においても、なお十分賞讃すべき敏腕と、事務的才能を発揮した。彼は厳然としてミーチャをさとしたうえ、すぐ事件の小説的方面に関する審問を一さい中止し、さっそく根本の問題へ転じた。根本問題の中でも紳士《パン》たちのある申し立てが、審問者一同の異常な好奇心を呼びさました。それは、ミーチャが例の小部屋でムッシャローヴィッチを買収して、三千ルーブリの手切れ金を渡すように約束したことである。彼はその時、七百ルーブリは今すぐ手わたしするが、あとの二千三百ルーブリは『あすの朝』町で渡そう、このモークロエではそんな大金の持ち合せがないけれど、町には金があるのだ、と立派に誓言した。ミーチャは思わずかっとして、あす確かに町で渡そうなどと言った憶えはないと弁明したが、ヴルブレーフスキイが友の陳述を裏書きしたので、ミーチャもちょっと考え直し、どうも紳士《パン》たちの言うとおりであったらしい、あの時はひどく興奮していたから、事実そんなことを言ったかもしれない、と顔をしかめながら承認した。検事は貪るようにこの申し立てを聞き取った。で、ミーチャが手に入れた三千ルーブリの半分もしくは一部分は、実際、町のどこかに、いや、ことによったら、このモークロエのどこかに隠してあるかもしれない、ということが裁判官にとって明瞭になってきた(後に実際そうと決めてしまった)。こういうわけで、ミーチャがたった八百ルーブリしか持っていなかったという、審理上なんとなく尻くすぐったい事実も、これで説明がついたわけである。これは今までのところ、たった一つしかない、しかもつまらない証拠ではあるけれど、何といっても、ミーチャにとって有利な事実だったのである。これで、彼の利益になる唯一の証拠も破却された。自分では千五百ルーブリしかないと言っておきながら、紳士《パン》に向っては明日かならず残金の二千三百ルーブリを渡すと誓ったとしたら、その二千三百ルーブリの金をどこから持って来るつもりだったのだ、この検事から訊かれた時、ミーチャはきっぱりと、あす『ポーランド人の畜生』に渡そうと思ったのは金ではなく、チェルマーシニャの土地所有権に対する正式の証書なのだ、と答えた、それは、サムソノフとホフラコーヴァ夫人に提供したのと同じ権利であった。検事は『無邪気な言いぬけ』を聞いて、せせら笑いさえもらした。
「あなたは相手が現金二千三百ルーブリの代りに、この『権利』の受領を承諾すると思いましたか?」
「きっと承諾するに相違ありませんよ」とミーチャは熱して遮った。「そうじゃありませんか、あの権利から取れる金は、僅か二千ルーブリやそこいらじゃなくて、四千ルーブリにも六千ルーブリにもなるんですからね! あいつはすぐにお仲間のポーランド人や、ユダヤ人や、弁護士などを狩り集めて、三千ルーブリはおろかチェルマーシニャ全部を、爺さんの手からもぎとってしまうに相違ありませんよ。」
 もちろんムッシャローヴィッチの陳述は、きわめて詳細に調書へ記入された。これで紳士《パン》たちは退出を許された。カルタの抜き札をしたことは、ほとんど一ことも訊かれなかった。それでなくとも、ニコライは彼らに感謝しきっていたので、些細なことで煩わすのは望ましくなかったのである。ことにそれは、酔っ払ってカルタをもてあそんでいる間に起った、つまらない喧嘩にすぎない。そのうえ、あの夜は全体として放埒な醜行も決して少くなかった……こういうわけで、二百ルーブリの金はそのまま紳士《パン》たちのかくしに入ったのである。
 次にマクシーモフ老人が呼び出された。彼はおどおどと小刻みな足どりで近づいた。取り乱したなりをして、ひどく沈んだ顔つきであった。彼はそれまで下でグルーシェンカのそばに、黙って腰かけていたのである。『もう今にもグルーシェンカによりかかって、しくしく泣きだしそうな様子で、青い格子縞のハンカチで目を拭いていたよ』とあとでミハイル・マカーロヴィッチは物語った。こういうわけで、今はかえってグルーシェンカのほうが彼を宥めたり、すかしたりするようなありさまであった。老人はさっそく涙ながらに、『身貧なために十ルーブリというお金を』ドミートリイから借りたのは、重々わたくしが悪うございました、けれどいつでも返すつもりでおります、と言った……ドミートリイから金を借りる時に、あの男の持っている金を誰よりも一番近くで見たはずだが、どれくらいの金が手の中にあったか、気がつかなかったか? というニコライの突っ込んだ質問に対して、マクシーモフはいともきっぱりした調子で、『二万ルーブリ』あったと答えた。
「あなたは以前どこかで二万ルーブリの金を見たことがありますか?」とニコライはにこっとして訊いた。
「はいはい、見ましたとも。けれど二万ルーブリでなくって七千ルーブリでございます。それは、家内がわたくしの村を抵当に入れた時のことでございます。わたくしには、遠くから見せながら自慢しておりましたが、なかなか大きな紙幣束で、みんな虹色をしておりましたよ、ドミートリイさんのもやはり、みんな虹色でございました……」
 ほどなく彼は退出を許された。とうとうグルーシェンカの番となった。審問者たちは、彼女の出現がドミートリイに異常な影響を与えはしないかと、危ぶんでいるらしかった。ニコライなどはドミートリイに向って、二こと三こと訓戒めいたことを言ったほどである。が、ミーチャはそれに対する答えとして、無言のまま頭を下げた。これは『騒動を起しません』という心持を知らせたのである。グルーシェンカを連れて来たのは、署長のミハイルであった。彼女はいかつい、気むずかしそうな顔つきをして入って来たが、見たところは、いかにも落ちついているようであった。彼女は指された椅子の上に、ニコライと相対して静かに腰をおろした。彼女は恐ろしく蒼い顔をしていた。寒けでもするとみえて、美しい黒のショールをふかぶかと頸に巻いていた。実際、彼女はそのとき軽い悪寒を感じたのである。それは、この夜以来ながいこと彼女を苦しめた大病の最初の徴候であった。彼女のきりっとした様子や、悪びれたところのない真面目な目つきや、落ちつきのあるものごしなどは、非常に気持のいい印象を一同に与えた。ニコライなどはたちまちいくらか『心を動かされた』ようであった。その後あちこちで当時の話が出ると、この女を心底から『実に美しいなあ』と感じたのは、そのときが初めてだと白状した。それまでにも、たびたび彼女を見たことはあるけれど、いつも『田舎のヘテラ』([#割り注]古代ギリシャの浮かれ女[#割り注終わり])のたぐいだと思っていた。
『ところが、あの女のものごしといったら、まるで上流の貴婦人のようですよ。』あるとき彼は婦人たちの集った席で感激の色をうかべながら、思わずこう口をすべらしたほどである。けれど、婦人たちは大いに不満そうな様子でその言葉を聞いていたが、すぐさまその罰として、彼に『悪戯者』という綽名をつけた。が、彼は結局、それに満足していた。部屋へ入りしなに、グルーシェンカは盗むようにちらりとミーチャを見やった。すると、ミーチャも不安げに彼女を見返した。しかし、彼女の様子はすぐさま彼を安心さした。まず最初必要な質問や訓戒がすると、ニコライはいくらか吃りながらも、なおきわめて慇懃な態度を保って『退職中尉ドミートリイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフとは、どういう関係だったのですか?』と訊いた。この問いに対して、グルーシェンカは静かな、しかもしっかりした語調でこう答えた。
「わたしの知合いだったのでございます。知合いとして先月じゅうおつき合いをいたしましたので。」
 それからつづいて、半分もの好きに発しられた質問に対して、あの人は『時おり』気にいったこともあるけれど、決して愛してはいなかった。当時あの人を引き寄せていたのは、ただ『意地わるい面あて』のためにすぎなかった。つまり、あの爺さんに対する態度と変りはなかったと答えた。ミーチャが自分のことで、フョードルを初め、その他ありとあらゆる人に嫉妬するのも知っていたが、かえってそれを慰みにしていた、とこう彼女は率直に、ありのままを打ち明けた。フョードルのところへ嫁《い》こうなどとは夢にも思わず、ただ彼を玩具にしたばかりであった。『先月じゅうはあの人たち二人のことなぞ、考えている暇がありませんでした。実は、わたしに対してすまないことをしている、まるで別な人を待っていたんですの……けれど、あなた方もこんなことをお訊きになっても、仕方がありますまいし、わたしもあなた方にお答えする必要はないと思います。なぜって、これはわたし一人きりのことなんですから』と言って、彼女は言葉を結んだ。
 で、ニコライもさっそくその言葉にしたがった。彼はまた『小説的な』点について、しつこく訊ねるのをやめて、直接まじめな問題、つまり三千ルーブリに関する主要問題に移った。グルーシェンカは、ミーチャが一カ月まえモークロエで、まったく三千ルーブリ消費した、もっとも、自分で金をかぞえてみたわけではないが、ミーチャの口から三千ルーブリと聞いたのだ、と証言した。
「あなた一人にそう言ったのですか、それともほかに誰かいる時だったのですか? あるいはまたあなたの前で、ほかの人にそう言ってるのをお聞きになったのですか?」検事は例の調子で訊ねた。
 この問いに対してグルーシェンカは、人前でも聞いたし、ほかの人に話しているのも聞いたし、また二人きりの時にも聞いたと断言した。
「二人きりの時に聞いたのは一度ですか、それともたびたびですか?」と検事はまた訊ね、そしてグルーシェンカからたびたび聞いたという答えを得た。
 イッポリートはこの申し立てにひどく満足した。それから、審問が進むにしたがって、グルーシェンカがこの金の出所、つまり、ミーチャが、カチェリーナの金を着服した事実を承知していた、ということも判明した。
「だが、一カ月前にドミートリイ・フョードロヴィッチが使ったのは、三千ルーブリよりずっと少かったということや、ちょうどその半額を用心のために、隠しておいたということを、せめて一度でも聞いたことはありませんか?」
「いいえ、そんなことは一度を聞きません」とグルーシェンカは答えた。それどころか、ミーチャはかえってこの一月のあいだ、自分には金が一コペイカもないと、しじゅう言い通していたことさえ判明した。「いつもお父さんからもらえるのを待っていました」とグルーシェンカは結んだ。
「では、いつかあなたの前で……何かの拍子にちょっと口をすべらすか、それとも腹立ちまぎれに」とニコライは、突然さえぎった。「自分の父親の命を取るつもりだ、などと言ったことはありませんか?」
「ええ、ありました!」グルーシェンカはほっとため息をついた。
「一度ですか、たびたびですか?」
「幾度も言いました、いつも腹を立てていたときでございます。」
「で、あなたはあの人がそれを実行すると信じていましたか?」
「いいえ、一度も信じたことはありません!」と彼女はきっぱり答えた。「わたしはあの人の高潔な心を信じていましたから。」
「みなさん、どうか」と突然ミーチャは叫んだ。「どうかあなた方のまえで、アグラフェーナにたった一こと言わせて下さい。」
「お言いなさい」とニコライは許した。
「アグラフェーナ。」ミーチャは椅子から立ちあがった。「神様とおれを信じてくれ! ゆうべ殺された親父の血に対して、おれには何の罪もないのだ。」
 ミーチャは、こう言ってしまうと、また椅子に腰をおろした。グルーシェンカは立ちあがって、うやうやしく聖像に向って十字を切った。
「神よ、なんじに光栄あらせたまえ!」と彼女は熱烈な、人の心にしみ込むような声で言うと、まだもとの席へ腰をかけないうちに、ニコライのほうへ向って、「あの人がいま言ったことを信じて下さいまし! わたしはあの人を知っています。あの人はくだらないことを言うには言いますが、それはただ冗談半分でなければ、依怙地のためでございます。けれど、良心にそむくような嘘は決して言いません。本当のことをありのままに言うのですから、それを信じてあげて下さいまし!」
「有難う、グルーシェンカ、おかげでおれも力がついてきた!」とミーチャは顫え声で答えた。
 昨日の金に関する質問に対して、彼女はちょうどいくらあったか知らないが、昨日ほかの人に三千ルーブリもって来たと言ったのは、たびたび耳に挟んだと答えた。また金の出所については、次のように説明した。ミーチャはカチェリーナのところから盗んで来たのだと、自分ひとりにだけ、打ち明けたが、自分はそれに対して、いや決して盗んだのではない、あす金を返しさえすればよいと答えた。カチェリーナのところから盗んで来たというのはどの金をさすのか、昨日の金か、それとも一カ月まえにここで使った金か? という検事の執拗な問いに対して、一カ月まえに使った金のことを言ったのだ、少くとも自分はそうとった、と断言した。
 やっとグルーシェンカも退出を許された。その時ニコライは熱心な調子で彼女に向って、もうすぐ町へ帰ってもよろしい、もし自分が何かのお役に立てば、――例えば、馬車の便宜を取り計らうとか、あるいはまた付添い人がほしいとかいう場合には、自分が……自分のほうから……
「有難うございます」とグルーシェンカは会釈をした。「わたしは、あの地主のお爺さんと一緒にまいります。あのお爺さんを連れて帰ってやります。けれど、もしなんなら、ドミートリイさんの判決がきまるまで、下で待たせていただきとうございます。」
 彼女は出て行った。ミーチャは落ちついていたばかりでなく、すっかり元気づいたような顔つきをしていた。が、それはほんのしばらくであった。時が進むにしたがって、一種奇妙な生理的衰弱が彼の全身を領しはじめた。目は疲労のために閉されがちになってきた。とうとう証人の審問は終った。人々は、調書の最後の整理にとりかかった。ミーチャは立ちあがって、自分の椅子のところから片隅にあるカーテンの陰へ行き、毛氈をかけたこの家の火箱の上へ横になると、そのまま眠りに落ちてしまった。彼はある不思議な夢を見た。それは少しも場所と時に似合わしくない夢であった。彼は今どこか荒涼たる曠野を旅行しているらしい。そこはずっと前に勤務したことのある土地だった。一人の百姓が、彼を二頭立の馬車に乗せて、霙の中を曳いて行く。十一月の初旬で、ミーチャは妙に寒いような感じがした。綿をちぎったような大きな雪が、ぽたぽたと降っていたが、落ちるとすぐ地べたに消えてしまうのであった。百姓は巧者に鞭を振りながら、元気よく馬を駆った。恐ろしく長い亜麻色の顎鬚を生やした男で、年の頃は五十ばかり、さして老人というほどでもない。鼠色の百姓らしい袖なし外套を着ていた。すぐ近くに小さな村があって、何軒かの真っ黒な百姓家が見えていた。しかし、百姓家の大半は焼き払われて、ただ焼け残った柱だけが突っ立っていた。村へ入ろうとすると、道の両側に、女どもがぞろっと並んでいた。大勢な人数でほとんど隊をなしていたが、揃いも揃って痩せさらばえ、妙に赤っ茶けた顔をしていた。ことに一番はじにいるのは、背の高い骨張った女で、年頃は四十くらいらしかったが、また二十くらいとも思われた。やつれた細長い顔をして、手には泣き叫ぶ赤ん坊を抱いていた。乳房はもう乾あがって、一滴の乳も出ないらしかった。赤ん坊は、寒さのためにまるで紫色になった、小さなむき出しの拳をさし伸べながら、声をかぎりに泣いていた。
「どうしてあんなに泣いているんだ? どうしてあんなに泣いているんだ?」彼らのそばを飛ぶように通り抜けながら、ミーチャはこう訊いた。
「餓鬼でがんす」と馭者は答えた。「餓鬼が泣いてるでがんす。」
 馭者が子供と言わずに、百姓流に『餓鬼』と言ったのが、ミーチャの心を打った。そして、百姓が餓鬼と言ったために、一しお哀れを増すように思われて、すっかり気に入ったのである。
「だが、どうして餓鬼は泣いてるんだ?」とミーチャは馬鹿のように、どこまでも追窮した。「なぜ手をむき出しにしてるんだ、なぜ着物に包んでやらないのだ?」
「餓鬼は凍えたでがんす。着物が凍ったでがんす。だから、ぬくめてやれねえでがんす。」
「でも、なぜそんなことがあるんだね? なぜだね?」と愚かなミーチャはどこまでも問いをやめない。
「貧乏人の焼け出されでがんす。パンがねえでがんす、家さ建ててえで、お助けを願うてるでがんす。」
「いいや、いいや、」ミーチャはやはり合点がゆかないふうで、「聞かせてくれ、なぜその焼け出された母親たちが、ああして立ってるんだ、なぜ人間は貧乏なんだ、なぜ餓鬼は不仕合せなんだ、なぜ真裸な野っ原があるんだ、なぜあの女たちは抱き合わないんだ、なぜ接吻しないんだ、なぜ喜びの歌をうたわないんだ、なぜ黒い不幸のためにこんなに黒くなったんだ、なぜ餓鬼に乳を飲ませないんだ?」
 彼は心の中でこういうことを感じた。自分は愚かな気ちがいじみた問い方をしている、しかし、どうしてもこういう問い方がしたいのだ、どうしてもこう訊かなければならないのだ。彼はまた、今まで一度も経験したことのない感激が心に湧き起るのを覚えて、泣きだしたいような気持さえする。もうこれからは決して餓鬼が泣かないように、萎びて黒くなった餓鬼の母親が泣かないようにしてやりたい。そして、今この瞬間から、もう誰の目にも涙のなくなるようにしてやりたい、どんな障害があろうとも、一分の猶予もなく、カラマーゾフ式の無鉄砲な勢いをもって、今すぐにもどうかしてやりたい。
「わたしがあなたのそばについててよ。もう決してあんたを棄てやしない、一生涯あんたについて行くわ。」情のこもったグルーシェンカの優しい言葉が、彼の耳もとでこう響いた。
 すると彼の心臓は燃え立って、何かしらある光明を目ざして進みはじめた。生きたい、どこまでも生きたい、ある路を目ざして進みたい、何かしら招くような新しい光明のほうへ進みたい、早く、早く、今すぐ!
「どうしたんだ? どこへ行くんだ?」とつぜん目を見開いて、箱の上に坐りながら、彼はこう叫んだ。それはちょうど気絶でもした後に、息を吹き返したような気持であったが、しかしその顔には輝かしい微笑がうかんでいた。
 彼のそばにはニコライが立っていた。調書を聞き取った上で、署名をしてくれと言うのであった。ミーチャは一時間、もしくはそれ以上寝たのだと悟った。が、ニコライの言葉はもう聞いていなかった。さきほど疲れきって、箱の上へ身を横たえた時には、そこにはなかったはずの枕が、いま思いもかけず自分の頭の下へおかれているのに気づいて、彼ははっと思った。
「誰が私にこの枕をさしてくれたんです? 誰でしょう、その親切な人は!」まるで大変な慈善でも施されたかのように、一種の歓喜と感謝の念に満たされながら、彼は泣くような声でこう叫んだ。
 親切な人は、後になってもとうとうわからなかった。いずれ証人の中の誰かが、さもなくばニコライの書記かが、同情のあまり枕をさせてやったものであろうが、彼の心は涙のために顫えるようであった。彼はテーブルに近づいて、何でもお望みしだい署名すると言った。
「みなさん、私はいい夢を見ましたよ。」彼は何か悦びにでも照らされたような、さながら別人のような顔をしながら、奇妙な調子でこう言った。

[#3字下げ]第九 ミーチャの護送[#「第九 ミーチャの護送」は中見出し]

 予審調書が署名されると、ニコライは巌かに被告のほうを向いて、次の意味の『判決文』を読んで聞かせた。何年何月何日某地方裁判所判事は某を(すなわちミーチャを)しかじかの事件に関する被告として(罪状は残らず詳細に書き上げてあった)審問したところ、被告はおのれに擬せられた犯罪を承認しないにもかかわらず、自己弁護のために何らの証跡をも提示しない。しかるに、すべての証人(某々)もすべての事情(しかじか)も、完全に彼の犯罪を指摘するということを考慮においたうえ、『刑法』第何条何条に照らして次のごとき決定をした。すなわち、被告が審理と裁判を回避するおそれのないように、彼を某監獄に拘禁して、この旨を当人に告示し、かつこの判決文の写しを副検事に通達する云々、というような意味であった。手短かに言えば、ミーチャは自分がこの時から囚われ人として、これからすぐに町へ護送され、きわめて不快なある場所で監禁されることになる旨を、申し渡されたのである。ミーチャは注意してこの判決文を聞き終ると、ひょいと両肩をすくめた。
「仕方がありません、みなさん、私はあなた方を責めやしません。私はもう覚悟をしています……あなた方としてほかに方法がなかったということは、私にもよくわかっています。」
 ニコライはミーチャに向って、ちょうどここへ来合せた警部マヴリーキイが、今すぐ彼を護送して行く旨を宣告した。
「ちょっとお待ち下さい!」とミーチャはふいに遮った。そして、抑えがたい感情に駆られながら、室内にいるすべての人に向って言いだした。「みなさん、私たちはみんな残酷です、私たちはみんな悪党です、私たちはみんなの者を、母親や乳呑み児を泣かせています。けれど、その中でも、――今はもうそう決められたってかまいません、――その中でも私が一番けがらわしい虫けらです! それだってかまいません! 私はこれまで毎日、自分の胸を打ちながら改悛を誓いましたが、やはり毎日、おなじ陋劣な所業を繰り返していたのです。が、今となって悟りました。自分のようなこういう人間には鞭が、運命の鞭が必要なのです、私のようなものには繩をかけて、外部の力で縛っておかなけりゃなりません。自分一人の力では、いつまでたっても起きあがれなかったでしょう! しかし、とうとう鉄槌は打ちおろされました。私はあなた方の譴責を、世間一般の侮蔑の苦痛を引き受けます。私は苦しみたいのです、苦しんで自分を浄めたいのです! ねえ、みなさん、本当に浄められるかもしれないでしょう、ね? しかし、最後にもう一ど言っておきますが、私は親父の血に対して罪はないです! 私が刑罰を受けるのは、親父を殺したためではなく、殺そうと思ったためなんです。実際、危く殺くかねなかったんですからね……しかし、私はやはり、あなた方と争うつもりです、これはあらかじめあなた方に宣言しておきます。私は最後まであなた方と争って、その上はどうなろうと神様の思し召し次第です! みなさん、赦して下さい、私が訊問の時にあなた方に食ってかかったことを、立腹なすっちゃいけませんよ。そうです、私はあの時まだ馬鹿だったのです……一分間後には私は囚人《めしゅうど》ですから、いま最後にドミートリイ・カラマーゾフはなお自由な人間として、あなた方のほうに手をさし伸べます。あなた方と別れるのは、つまり人間と別れることなんです!………」
 彼の声は慄えだした。彼は本当に手をさし伸べたが、一番ちかくにいたニコライは、突然どうしたのか、妙な痙攣するような身振りでその手をうしろへ隠してしまった。ミーチャは目ざとくこれを見つけて、ぶるっと身慄いした。彼はさし出した手をすぐおろした。
「審理はまだ終っていないのですから」とニコライはいくらかどきまぎしながら呟いた。「まだ町でつづけなくちゃなりません。私はむろんあなたの成功を……あなたが無罪の宣告をお受けになることを……望んでいます……ところで、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、私はいつもあなたを罪人というより、むしろ……何と言いますか、不幸な人と考えていたのです……私たち一同は――あえて一同に代って言いますが、私たち一同はあなたを、根本において高潔な青年と認めることに躊躇しません。しかし、残念なるかな、あなたはいささか過度にある種の情欲に溺れたのです……」
 言葉が終りに近づくにつれて、ニコライの小さな姿はなみなみならぬ威厳を現わした。ミーチャの頭にはふとこんな考えが浮んだ。この『小僧っ子め』今にもおれと腕を組んで、部屋の片隅へ連れて行きながら、そこでまたつい近ごろ二人で話し合ったと同じような『娘連』の噂でも始めるのではなかろうか、と彼は思った。事実、刑場へ曳いて行かれる罪人の頭にさえ、どうかすると、まるで事件に無関係な、その場の状況にふさわしからぬ考えがひらめくことも、少くないのである。
「みなさん、あなた方は善良な人です、あなた方は人情を心得ていらっしゃる、――どうでしょう、もう一度、あれに会って、最後の別れをさして下さいませんか?」とミーチャは訊いた。
「むろんよろしいのですが、ただみんなのいるところで……つまり今は、もう誰もおらぬところでは……」
「じゃ、ご列席ください!」
 グルーシェンカは連れられて来たが、あまり言葉もない短い別れであった。ニコライは不満であった。グルーシェンカはミーチャに向って丁寧に頭を下げた。
「わたしは一たんあなたのものだと言った以上、どこまでもあなたのものよ。あなたがどこへやられることにきまっても、死ぬまであなたと一緒に行きますわ。では、さようなら、本当にあなたは無実の罪に身を滅ぼしたんだわねえ!」
 彼女の唇は顫え、その目からは涙がはふり落ちた。
「グルーシェンカ、おれの愛を赦してくれ。おれが自分の愛のために、お前まで破滅さしたのを赦してくれ。」
 ミーチャはもっと何か言いたそうにしていたが、自分から急に言葉を切って出て行った。しじゅう目を放さないでいた人たちが、すぐ彼のまわりに集った。昨日アンドレイのトロイカで、あんなに勢いよく乗りつけた階下の玄関わきには、もう支度のできた二台の馬車が立っていた。顔のぶくぶくした、ずんぐり肉づきのいいマヴリーキイは、何か突然はじまった不始末に業を煮やして、ぷりぷりしながら呶鳴っていた。そして、何だか恐ろしく厳めしい調子で、ミーチャに馬車へ乗れと言った。
『あいつ、以前おれが料理屋で酒を飲ませた時分とは、まるで顔つきが違ってやがる』とミーチャは馬車に乗りながら考えた。トリーフォンも玄関からおりて来た。門のそばには人が大勢、――百姓や女房や馭者どもがむらがって、みんなミーチャを見つめていた。
「みんな赦しておくれ!」突然ミーチャは馬車の上から、彼らに向ってこう叫んだ。「わしたちも赦しておくんなさい」と、二三人の声が聞えた。
「トリーフォン、お前も赦してくれろよ!」
 しかし、トリーフォンは振り向こうともしなかった。非常に忙しかったのかもしれない。やはり何やら呶鳴りながら、あたふたしていた。マヴリーキイに随行する組頭が、二人乗り込むはずになっていた二番目の馬車が、まだごたごたしていることがわかった。二番目の馬車に乗せることになっていた百姓は、外套を引っ張りながら、町へ行くのはおれじゃなくてアキームだと言って、頑固に争っていた。けれど、アキームはいなかった。人々は彼を呼びに走って行った。百姓はいつまでも強情をはって、も少し待ってくれと願った。
「マヴリーキイさま、この手合いときたら、本当に恥しらずでございますよ!」とトリーフォンは叫んだ。「てめえは一昨日、アキームから二十五コペイカもらったやつを、すっかり飲んじまやあがったくせに、今となってぶうぶう言ってやがるんだ。ただね、マヴリーキイさま。ろくでもない手合いに対しても、あなたが優しくしておやんなさるには、まったく感心のほかございません。ただこれだけ申し上げておきますよ!」
「一たい馬車を二台もどうするんだね?」とミーチャは口を入れた。「マヴリーキイ・マヴリーキエヴィッチ、一台でたくさんだよ。決してお前たちに手向いしたり、逃げ出したりしやしないから、護送なんかいりゃしないよ。」
「ねえ、あなた、まだ習っていらっしゃらんのなら、われわれに対する話の仕方を稽古して下さい。私はあなたから『お前』呼ばわりされる覚えはありませんからね。そして、そんなに突っつかないで下さい。それに忠告なぞは、この次までとっといたらいいでしょう……」胸のもやもやを吐き出すおりがきたのをひどく悦ぶように、突然マヴリーキイはあらあらしくミーチャの言葉を遮った。
 ミーチャは口をつぐんだ。彼は真っ赤になった。と、一瞬の後、急に激しい寒さを感じた。雨はやんでいたが、どんよりとした空にはやはり一面に雲がひろがって、身を切るような風がまともに顔へ吹きつけた。『一たいおれは風でも引いたのかしらん』とミーチャは肩をすくめながら考えた。やっとマヴリーキイも馬車へ乗った。そして、気のつかないような顔をして、ミーチャをぐいと押しつめながら、ひろびろと場所を取って、どさりと腰をおろした。実のところ、彼はこの任務が厭でたまらなかったので、すっかり機嫌を悪くしていたのである。
「さようなら、トリーフォン!」とミーチャはふたたび叫んだが、今のは善良な心持からではなく、憎悪のあまり思わず知らず呼んだのだ、ということを自分でも感じた。
 けれど、トリーフォンは両手をうしろで組み合わせて、まともにミーチャを見つめながら、傲然として突っ立っていた。彼はきっとした腹立たしげな顔つきで、ミーチャには何とも返事をしなかった。
「さようなら、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、さようなら!」突然どこから飛び出して来たのか、カルガーノフの声が響きわたった。
 彼は馬車のそばへ駈け寄って、ミーチャに手をさし伸べた。彼は帽子なしであった。ミーチャはすばやく彼の手を取って、握りしめた。
「さようなら、カルガーノフ君、君の寛大な心は決して忘れやしないよ!」彼は熱してこう叫んだ。
 けれども、馬車はごとりと動きだして、二人の手は引き離された。鈴が鳴り出だした、――ついにミーチャは護送されて行った。
 カルガーノフは玄関へ駈け込んで、片隅に腰をおろすと、頭を垂れ、両手で顔を蔽いながら、声を立てて泣きだした。彼は長い間こうして腰かけたまま泣いていた、――それはもう二十歳からになる青年の泣き方でなく、まるで小さな子供のような泣き方であった。彼はミーチャの犯罪をほとんど信じきっていたのである。『ああ、何という人たちだろう。あの人たちがああいうことをするとしたら、一たい誰が本当の人間なんだろう!』彼は苦しい憂愁というよりも、むしろ絶望の情をいだきながら、何の連絡もなくこう叫んだ。このとき彼は、もうこの世に生きているのがいとわしかった。『生きてる値うちがあるんだろうか! そんな値うちがあるんだろうか!』と青年は悲しげに叫んだ。
[#改段]

[#1字下げ]第十篇 少年の群[#「第十篇 少年の群」は大見出し]



[#3字下げ]第一 コーリャ・クラソートキン[#「第一 コーリャ・クラソートキン」は中見出し]

 十一月の初旬であった。この町を零下十一度の寒さがおそって、それと同時に薄氷が張り初めた。夜になると、凍てついた地面に、ばさばさした雪が少しばかり降った。すると『身を切るようなから風』がその雪を巻き上げ、町の淋しい通りを吹きまくった。市《いち》の広場はことに烈しかった。朝になっても、まだどんより曇ってはいるが、しかし雪は降りやんだ。プロートニコフ商店の近くで、広場よりほど遠からぬところに、内も外もごくさっぱりとした、一軒の小さい家があった。それは官吏クラソートキンの未亡人の住まいである。県庁づき秘書官クラソートキンはもうよほどまえ、ほとんど十四年も以前に亡くなったが、未亡人は今年三十になったばかり、まだなかなか色っぽい元気な婦人で、小ざっぱりとした持ち家に住まいながら、『自分の財産』で暮しをたてている。優しいながらもかなり快活な気だての夫人は、小心翼々と正直に暮していた。夫とつれ添っていたのは僅か一年ばかりで、十八の年に一人の息子を生むと、すぐ夫と死に別れたのである。それ以来、つまり夫が死んでからというもの、彼女はわが子コーリャの養育に、一身をゆだねていた。彼女はこの十四年間、目に入っても痛くないほど可愛かっていたが、それでも、もしや病気にかかりはしまいか、風邪をひきはしまいか、いたずらをしはしまいか、椅子にあがって倒れはしまいかと、戦々兢々として、ほとんど毎日のように胆を冷やし通しているので、楽しみより苦労のほうがはるかに多かった。
 コーリャが小学校へ入り、やがて当地の中学予備校へ行くようになると、母親はさっそく息子と一緒に、あらゆる学課を勉強して、予習や復習を助けてやり、教師や教師の細君たちの間に知己を作り、コーリャの友達や同窓の学生たちまで手なずけなどした。そして、彼らにお世辞を振り撒いて、コーリャをいじめたり、からかったり、叩いたりしないようにと、いろいろに苦心するのであった。で、その結果しまいには、子供たちも母親を種にして、本当にコーリャをからかうようになった。お母さんの秘蔵っ子、そう言って彼を冷やかし始めたのである。けれど、コーリャは立派に自分を守っていった。彼は剛胆な子供であった。間もなく『とても強いやつだ』という噂がクラスじゅうに拡まって、一般の定評となってしまった。彼はすばしっこくて、負け嫌いで、大胆で、冒険的な気性であった、成績もいいほうで、算術と世界歴史とでは、先生のダルダネーロフさえへこませる、という噂が伝えられたほどであった。彼は鼻を高くしてみんなを見下ろしていたが、友達としてはごく善良な少年で、決して高ぶるようなことがなかった。彼は同窓生たちの尊敬を、あたりまえのように受けていたが、しかし優しい親しみをもって一同に交わった。ことに感心なのは、ほどを知っていることで、場合に応じて自分を抑制するすべを知っていた。教師に対しては決して明瞭な最後の一線を踏み越えなかった。その線を踏み越えたら、もはや過失も赦すべからざるものとなり、無秩序と騒擾と不法に化してしまう、それを承知していたからである。けれど、彼は都合のいい折さえあれば、随分いたずらをするほうであった。しようのない不良少年じみたいたずらをすることもある。しかも、それはいたずらというより、むしろえらそうなことを言ったり、奇行を演じたり、思いきって人を馬鹿にしたような真似をして見せたり、気どったりするような場合のほうが多かった。ことにやたらに自尊心が強かった。母親までも自分に服従させ、ほとんど暴君のように支配していた。また母親のほうでも服従した、もうとっくから服従していたのである。ただ息子が『自分をあまり愛していない』と考えることだけは、どうしても我慢ができなかった。彼女はコーリャに『情がない』ように思えてしようがなかった。で、ヒステリックな涙を流しながら、息子の冷淡を責めるようなこともたびたびあった。コーリャはそれを好まなかったので、母が真情の流露を要求すればするほど、わざとではないか、と思われるほど強情になるのであった。しかし、それはわざとではなく、ひとりでにそうなるのであった、――もともとそうした性質なのであった。実際、母親は勘違いしていた。コーリャは母親を非常に愛していたが、彼の学生流の言葉を借りて言えば、『仔牛のような愛情』を好かなかったのである。
 父親の遺留品のうちに一つの戸棚があって、その中には幾冊かの書物が保存されていた。コーリャは読書が好きだったので、もうその中の幾冊かを、そっと読んでしまった。母親もこれにはべつだん心配しなかったが、どうしてこんな子供がろくろく遊びにも行かないで、戸棚のそばに幾時間も幾時間も突っ立ったまま、何かの本を夢中になって読んでいるのだろうと、ときどきびっくりすることがあった。こうしてコーリャは、彼の年頃ではまだ読ませてもらえないような書物までも読んでしまった。彼はいたずらをするといっても、ある程度を越すのを好まなかったけれど、近頃では心から母親を慴えあがらせるようないたずらが始まった。もっとも、何か背徳なことをするというのではないが、その代り向う見ずな、目の飛び出すようないたずらであった。ちょうどこの夏も七月の休暇の時に、こういうことがあった。母親と息子とは、七十露里も隔てた隣りの郡に住まっている、ある遠縁の親戚のところへ、一週間ばかり逗留に行った。その婦人の夫は鉄道の停車場に勤めていた。(それはこの町から最も近い停車場で、一カ月後、イヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフも、そこからモスクワへ出発したのである)。そこでコーリャはまず鉄道を仔細に観察して、その仕掛けを研究しはじめた。家へ帰ったら、予備校の生徒らに自分の新知識を誇ってやろうというつもりなので。ところが、ちょうどその時、まだほかに幾たりかの子供がその土地にいたので、コーリャはさっそくこの連中と遊び仲間になった。その中のあるものは停車場に、またあるものはその近所に住まっていた。みんな若い人たちで、十二から十五くらいまでの子供が、六七人あつまったのであるが、中に二人、この町から行ったものもあった。子供たちは一緒になって遊んだり、ふざけたりしていたが、四日か五日か停車場で暮しているうちに、愚かな若者たちの間に、まるでお話にならない賭けごと、二ルーブリの賭けごとが成立した。それはこうである。仲間のうちで一ばん年下なために、年上のものからいくぶん馬鹿にされていたコーリャは、負けじ魂のためか、向う見ずな元気のためか、とにかく十時の夜汽車が来る時、レールの間にうつ伏しに臥ていて、汽車が全速力でその上を駈け抜けるまで、じっと動かずにいてみせようと言いだした。もっとも、あらかじめ研究してみたところ、実際レールの間に体を延ばして、ぴったりと地面に腹ばっていれば、むろん汽車は体に触らずに、その上を通り越して行くことがわかった。けれど、じっと臥ている時の気持はどうだろう。しかし、コーリャは臥てみせると言いはった。最初のうちはみんな一笑に付して、嘘つきだとか威張りやだとか言ってからかったが、それはますます彼に意地をはらせるだけであった。何よりおもな理由は、十五になる子供たちが、コーリャに対してひどく傲慢な態度をとり、『ちっぽけな』小僧っ子として、友達あつかいもしてくれなかったのが、たまらなく口惜しかったのである。そこで、停車場から一露里ばかり距てたところへ、晩がた出かけることにきめた。その辺まで来ると、汽車が停車場を離れきって、全速力を出すからであった。その夜は月がなかったので、暗いというよりも、むしろ黒いというほうが適当なくらいであった。コーリャはいい頃を見はからって、レールの間に身を横たえた。賭けに加わったあと五人の子供たちは、土手の下へおりて、路ばたの灌木の中へ入った。彼らも初めはひやひやしていたが、挙句の果てには恐怖と後悔の念をいだきながら待っていた。とうとう停車場を発した汽車は、遠くのほうから轟々と鳴り響いて来た。やがて、二つの赤い火が闇の中に光りはじめ、怪物は轟然と近づいて来た。『逃げろ、レールからおりて来い!』と子供たちは恐ろしさに胸を痺らせながら、灌木の中からコーリャに向って叫んだが、もう遅かった。汽車はまたたく間に疾駆して来て、彼らのそばを駈け抜けてしまった。子供たちはいきなりコーリャのほうへ飛んで行った。彼はじっと横になっていた。一同はおずおず、コーリャを撫で廻してみて、抱き起しにかかった。と、彼はにわかにむくりと起きあがって、黙って土手からおりて行った。下へおりると一同に向って、あれはみんなをびっくりさせるために、わざと気絶したようなふりをしていたのだと言ったが、あとでよほどたってから、母親に打ち明けたところによると、本当に彼はすっかり気が遠くなっていたのである。こうして、『向う見ず』の評判は永久不変なものとなってしまった。彼は布のように蒼白い顔をして、停車場から家へ帰って来た。翌日かるい神経性の発熱をしたが、気分は非常にうきうきと楽しそうで、さも満足らしいふうであった。
 この事件はその時すぐではないけれど、間もなくこの町にも伝わって、中学予備校の評判となり、やがて教師連の耳に入った。その時コーリャの母親は学校へ駈けつけて、わが子のために教師連に泣きついた。そして、結局、名声たかき勢力家たる教師ダルダネーロフが、彼のために弁護したり懇願したりしたおかげで、この事件はまったくなかったこととして、秘密のうちに葬り去られた。このダルダネーロフは、まださして年をとっていない独身者であったが、もう長年、熱烈にクラソートキナ夫人を恋していた。かつて一年ばかり前、彼は恐怖の念と気弱い心づかいのために、心臓の痺れるような思いをしながら、謹厳な態度で結婚を申し込んだが、この申し込みを承知するのはわが子にそむくことだと思って、彼女はきっぱり拒絶した。しかし、ダルダネーロフのほうにしても、ある神秘な徴候に照らして、この美しい、とはいえ、あまりに貞淑な、優しい未亡人が、まんざら自分を嫌ってもいない、と空想する権利をもっていたのかもしれない。コーリャの気ちがいじみたいたずらは、かえって一方の活路を開くことになった。それは、ダルダネーロフの尽力に対して、遠廻しではあるが、とにかく希望の暗示が与えられたからである。しかし、ダルダネーロフ自身も、純潔優美な紳士だったので、さし向きこれだけでも、彼の幸福を満たすに十分であった。彼はコーリャを愛していたが、あまり機嫌をとるのは卑屈な所業と思っていたから、教室では彼に対して厳重でやかましかった。またコーリャ自身も、尊敬を失わぬくらいの距離を保って彼に接した。学課も立派に準備して、クラスでは次席を占めていたが、ダルダネーロフには冷淡に応対していた。クラスのものは、コーリャのことを、世界歴史ならダルダネーロフさえ『へこませる』だけの力がある、と固く信じきっていた。実際コーリャはあるとき彼に向って、トロイの創建者は誰か、という質問を発したことがある。その問いに対して、ダルダネーロフはただ民族のことや、その移動のことや、時代の隔たりの大きいことや、神話の荒唐無稽なことなどを、大ざっぱに答えただけで、誰が、すなわちいかなる人物がトロイを創建したかについては、一言も答えることができなかったばかりでなく、なぜかその質問を面白半分の不真面目なものと認めたのである。けれど、子供たちは依然として、ダルダネーロフはトロイの創建者を知らないのだ、という信念をひるがえさなかった。ところが、コーリャは父親が遺しておいた書物戸棚に保存されてあるスマラーグドフの著書を読んで、トロイの創建者を知っていたのである。しまいには子供たち全体が、トロイを創建したのは何者かという問題に興味をいだくようになったが、コーリャは自分の秘密を打ち明けなかった。で、それ以来、物識りの評判は揺ぎのないものとなってしまった。
 鉄道事件があった後、母に対するコーリャの態度には幾分か変化が生じた。アンナ・フョードロヴナ(クラソートキナ未亡人)は、わが子の功名譚を耳にした時、恐ろしさのあまりほとんど発狂しないばかりであった。彼女は激しいヒステリイの発作におそわれた。しかも、その発作が間歇的に幾日もつづいたので、コーリャも今度は心からびっくりして、もう今後決してあんないたずらはしないと立派な誓いを立てた。聖像の前に跪いて母の要求するとおり、亡父の形見にかけて誓ったのである。その時ばかりは『勇敢な』コーリャも、『感きわまって』六つくらいの子供のようにおいおい泣きだした。母と息子はその日一日、お互いに飛びかかっては抱き合って、体を顫わせながら泣いていた。翌日、目をさましたコーリャは、依然として『冷淡な子供』であったが、しかし前よりは言葉数も少く、つつましやかに、厳粛で、考え深くなってきた。もっとも、一月半もたつと、彼はまたあるいたずらの仲間に加わって、町の治安判事にさえ名前を知られるようになったが、そのいたずらはもうまったく種類の違った、そのうえ滑稽なばかばかしいものであった。それに、彼自身のいたずらではなく、ただ巻きぞえをくったにすぎない、ということがわかった。けれど、このことはいつかあとで話すとしよう。母親は、相変らずびくびくしながら心配していた。が、ダルダネーロフは彼女の心配が増せば増すだけ、いよいよ希望を強めるのであった。断わっておくが、コーリャはこの方面からも、ダルダネーロフを理解し推察していたので、ダルダネーロフのこうした『感情』を、深く軽蔑していたのはもちろんである。以前は彼も自分のこうした軽蔑の念を、不遠慮に母親の前で口に出すこともあった。ダルダネーロフの野心はちゃんとわかりきっていますよ、というようなことを遠廻しにほのめかすのであった。しかし、鉄道事件以来、彼はこの点について自分の態度を変えた。もはやどんなに廻り遠い言い方でも、あてこすりめいたことはあくまで慎しみ、母親の前ではダルダネーロフのことをうやうやしい調子で噂するようになった。敏感なクラソートキナ夫人は、すぐに子供の心持を理解して、心中に無限の感謝の念をいだくのであった。けれど、その代りに、もしコーリャのいるところでお客か誰かが、ちょっとでもダルダネーロフのことを口に出そうものなら、夫人はいきなり恥しさのあまり、ぱっと薔薇のように顔を赧くした。コーリャはこういう時、顔をしかめながら、窓のほうを見るか、または自分の靴が『進水式』しそうになっているかどうかを、仔細に点検してみるか、それともあらあらしく『ペレズヴォン』を呼ぶかするのであった。それは一カ月前に突然どこからか連れて来た、毛のくしゃくしゃした、かさぶただらけの、かなり大きな犬であった。コーリャはその犬を家へ引き入れると、なぜか秘密に部屋の中で飼うことにして、誰であろうと友達には一さい見せなかった。彼は恐ろしい暴君のような態度で、さまざまな芸を教え込んだ。とうとうしまいにはこの憐れな犬は、主人が学校へ行った留守ちゅう唸り通しているが、帰って来ると喜んで吠えだして、狂気のように跳ね廻ったり、主人のご用を勤めたり、地べたに倒れて死んだ真似をして見せたりなどした。一口に言えば、べつだん要求されるわけでもないのに、ただ悦びと感謝の情の溢れるままに、仕込まれた芸をありったけして見せるようになった。
 ついでに忘れていたことを言っておこう。読者のすでに熟知している休職二等大尉スネギリョフの息子イリューシャが、父親を『糸瓜』と言ってからかわれた無念さに、ナイフで友達の腿を刺した、その友達こそほかならぬコーリャなのである。

[#3字下げ]第二 幼きもの[#「第二 幼きもの」は中見出し]

 ちょうど、この寒さの激しい、北風の吹きすさぶ十一月の朝、コーリャはじっと家に坐っていた。日曜日で学校は休みであった。しかし、もう十一時も打ったので、彼はぜひとも『ある非常に重大な用事のために』外へ出かけなければならなかった。しかし、家の中には、彼が一人で留守番に残っていた。というのは、この家に住まっている年上の人たちが、ある特別な一風変った事情のために、みんな外出していたからである。クラソートキナの家には、彼女が自分で使っている住まいから玄関を境に、たった一つだけ区切りをした別な住まいがあった。それは小さな部屋二間きりで、二人の幼い子供をつれた医者の細君が間借りしていた。この細君はクラソートキナと同じくらいの年輩で、彼女とは非常な仲よしであった。主人の医者はもう一年も前にどこかへ旅に出かけた。何でも最初はオレンブルグ、次にタシケントへ行ったとのことであるが、もう半年このかた音も沙汰もない。で、もしクラソートキナ夫人という親友が、幾分でも悲しみをやわらげてくれなかったら、留守をまもる細君は悲しみのあまり、泣き死んでしまったかもしれない。ところが、運命はあらゆる残虐をまっとうするためか、ちょうどその夜、土曜から日曜へかけて、細君にとってかけ替えのない女中のカチェリーナが、突然だしぬけに、朝までに赤ん坊を生むつもりだと言いだした。どういうわけで以前たれ一人[#「たれ一人」はママ]気のつくものがなかったのか、これはみんなにとってほとんど奇蹟であった。びっくりした医者の細君は、まだ間があるうちに、町のある産婆がこういう場合のために建てた産院へ、カチェリーナをつれて行こうと思案した。彼女はこの女中をひどく大事にしていたので、時を移さず自分の計画を実行し、彼女を産院へ連れて行ったのみならず、そこに残って看護することにした。それから、朝になると、どうしたわけか、クラソートキナ夫人までが親しく手を下して、医者の細君に手つだってやらねばならなかった。夫人はこの場合、誰かに物事を頼んだり、何かと面倒を見てやったりすることのできる人であった。こうしたわけで、二人の夫人は外出していた。おまけに、クラソートキナ夫人の女中アガフィヤは市場へ出かけた。
 で、コーリャは一時『ちびさん』、つまり家に残されている細君の男の子と女の子との、保護者兼看視者となったのである。コーリャは家の留守番だけなら少しも怖いと思わなかった。それに、ペレズヴォンもついている。ペレズヴォンは控え室にある床几の下で『じいっ』とうつ伏せに寝ておれと言いつけられていたので、家じゅう歩き廻っているコーリャが控え室へ入って来るたびに、ぶるぶるっと頭を慄わせ、機嫌をとるように、尻尾で強く二度ばかり床を叩くのであった。けれども、悲しいかな、来いという口笛は鳴らなかった。コーリャが嚇すようにじっと睨むと、犬は可哀そうに、またおとなしく痺れたように身を縮めるのであった。もし何かコーリャを当惑させるものがあるとすれば、それはただ『ちびさん』だけであった。もちろん、彼はカチェリーナに関する思いがけない出来事を、深い深い軽蔑の念をもって眺めていたが、孤児になっている『ちびさん』を可愛がることは非常なものだったから、だいぶ前に何か少年用の本を持って来てやったほどである。九つになる姉娘のナスチャはもう本が読めた。そして、弟の『ちびさん』、七つになる少年コスチャは、ナスチャに読んで聞かせてもらうのが大好きだった。もちろん、クラソートキンは二人の子供を、もっと面白く遊ばせることもできたはずである。つまり、二人を立たせて兵隊ごっこをしたり、家じゅう駈け廻って隠れん坊をしたり、そんな遊びをすることもできたはずなのである。こんなことは以前たびたびしたこともあるし、またそれをいやがりもしなかった。だから、一度などは学校で、クラソートキンは自分の家で借家人の子供らとお馬ごっこをして遊んでいる、脇馬の真似をして跳びあがったり、頭を突き曲げたりする、という噂がひろまったことさえある。しかし、クラソートキンは傲然とこの攻撃を弁駁して、もし自分が同年輩のもの、つまり、十三の子供を相手にしてお馬ごっこをして遊ぶのなら、『現代において』実際恥ずべきことであるが、自分がそんなことをするのは『ちびさん』のためであって、自分が彼らを愛しているからである、ところが、自分の情愛については誰の干渉をも許さない、というような論法であった。その代り『ちびさん』のほうでも、二人ながら彼を崇拝していた。しかし、今日は遊んでなどいられなかった。彼は非常に重大な、一見したところ、ほとんど秘密に近いある用件を控えていたからである。しかも、時は遠慮なく過ぎて行く。子供たちを頼んで行こうと思うがアガフィヤは、まだ市場から帰って来ようとしなかった。彼はもう幾度となく玄関を通り抜けて、ドクトル夫人の部屋の戸を開けながら、心配そうに『ちびさん』を見た。『ちびさん』はコーリャの言いつけどおり本を読んでいたが、彼が戸を開けるたびに、無言でそのほうをふり向いて、大きく口をあけながらにこにこと笑った。それは、今にも彼が入って来て、何か愉快な面白いことをしてくれそうなものだ、と思ったからである。けれど、コーリャは心に不安を感じているので、部屋の中へ入ろうともしなかった。十一時を打った。とうとう彼は肚を決めて、もしもう十分たっても、あの『いまいましい』アガフィヤが帰って来なかったら、彼女の帰りを待たないで、だんぜん出かけることにした。もっとも、その前に『ちびさん』からは、自分がいないからといってびくびくしたり、いたずらをしたり、怖がって泣いたりしないという、言質をとっておくのはもちろんである。こう考えながら、彼はラッコか何かの襟をつけた綿入れの冬外套を着て、肩から筋かいに鞄をかけた。そして、『こういう寒い日に』外出する時は、必ずオーヴァシューズを履いて行くようにと、母親が前から幾度となく頼んでいるにもかかわらず、控え室を通り抜ける時、そのオーヴァシューズを軽蔑するように見やっただけで、長靴を履いたまま出て行った。ペレズヴォンは彼が身支度をととのえているのを見ると、神経的に全身を慄わして、尻尾で激しく床を叩きながら、悲しげに呻き声さえもらした。しかし、コーリャは自分の犬が、こんなに熱くなって飛んで来たがるのを見ると、それはたとえ一分間でも規律を乱す行為だと思ったので、やはり床几の下に臥さしておいた。そして、玄関へ通ずる戸口を開けた時、初めてだしぬけに口笛を吹いた。犬は気ちがいのように飛び起きて、嬉しそうに先に立って駈け出した。コーリャは玄関を通るときに、『ちびさん』の部屋の戸を開けた。二人は前のとおりテーブルに向って腰かけていたが、もう本を読まないで、やっきとなって何やら言い争っていた。この子供たちはさまざまな世の中の問題について、お互いに言い争うことがよくあった。そういう時には年上の姉として、いつもナスチャのほうが勝を占めた。けれど、コスチャはもし姉の言葉に同意できない時には、大ていコーリャのところへ行って上訴するのが常だった。そして、コーリャが決定したことは、原被両告にとって絶対不易の宣告となるのであった。今度の『ちびさん』の口論は、いくらかコーリャの興味をそそったので、彼は戸口に立ちどまって聞いていた。子供たちは、彼が聞いているのを見つけると、ますます熱してその争いをつづけた。
「そんなことないわ、あたしそんなことどうしても本当にしないわ」とナスチャはやっきとなって呟いた。「産婆さんがちっちゃな赤ん坊を、キャベツ畑の畦の間から見つけて来るなんて。それに、今はもう冬ですもの、どこにも畦なんかありゃしないわ。だから、産婆さんだって、カチェリーナのとこへ女の子をつれてくわけにはゆかないじゃないの。」
「ひゅう」とコーリャはこっそり口笛を鳴らした。
「でなかったら、こうかもしれなくってよ。産婆さんはどこからか赤ん坊をつれて来るんだけど、お嫁に行った人にしかやらないんだわ。」
 コスチャはじっとナスチャを見つめながら、考えぶかそうに耳を傾けて、何やら思いめぐらしていた。
「ナスチャ姉さんはほんとうに馬鹿だね。」とうとうしっかりした落ちついた調子で、彼はこう言った。「カチェリーナはお嫁に行かないのに、赤ん坊が生れるはずがないじゃないの?」
 ナスチャは恐ろしく熱してきた。
「あんたは何にもわからないんだわ」と彼女はいらだたしげに遮った。「あれには旦那があったんだけど、いま牢に入ってるのかもしれないわ。だから、あれは赤ん坊を生んだのよ。」
「一たいあれの旦那が牢に入ってるの?」実証派のコスチャはものものしくこう訊いた。
「それとも、こうかもしれないわ。」ナスチャは自分の最初の仮定を、すっかり忘れたようにうっちゃってしまって、大急ぎで遮った。「あれには旦那がないのよ。それはあんたの言うとおりよ。だけど、あれはお嫁に行きたくなったものだから、お嫁に行くことばかり考えるようになったのよ。そして、考えて、考えて、考え抜いた挙句、とうとうお婿さんの代りに赤ん坊ができたんだわ。」
「ああ、そうかもしれないね。」コスチャはすっかり言い伏せられて同意した。「姉さんが初めっからそう言わないんだもの、僕わかりっこないじゃないか。」
「おい、ちびさん、」部屋の中に一足踏み込みながら、コーリャはこう言った。「どうも君たちは危険人物らしいなあ!」
「ペレズヴォンもそこにいるの?」コスチャはにこっとして、ぱちぱち指を鳴らしながら、ペレズヴォンを呼びはじめた。
「ちびさん、僕こまったことがあってね」とコーリャは、もったいらしく言いはじめた。「一つ君たちに手つだってもらいたいんだ。アガフィヤはきっと脚を折ったに相違ないよ。なぜって、今まで帰って来ないんだもの、確かにそうにちがいない。ところが、僕はぜひ外へ出かけなけりゃならないんだ。君たちは僕を出してくれるかい、どうだい?」
 子供たちは心配らしく、互いに目と目を見かわした。微笑をおびた顔は不安の色をあらわしはじめた。けれども、二人は何を要求されるのか、まだはっきりわからなかった。
「僕がいなくってもふざけない? 戸棚へあがって、足を折ったりしない? 二人きりでいるのが怖くって、泣きだしゃしない?」
 子供たちの顔には、いかにも情けなさそうな色がうかんだ。
「その代り、僕はいいものを見せてやるよ。銅の大砲なんだ、本当の火薬で撃てるんだよ。」
 子供たちの顔ははればれとした。
「大砲見せてちょうだい。」満面を輝かしながら、コスチャはこう言った。
 コーリャは自分の鞄の中へ片手を突っ込んで、その中から小さな青銅の大砲を取り出し、それをテーブルの上にのせた。
「さあ、これだ! 見てごらん、車がついてるよ。」彼は玩具をテーブルの上で転がした。「撃つこともできるんだ。ばら弾を填めて撃てるんだよ。」
「そして、殺せるの?」
「誰でも殺せるよ。ただ狙いさえすりゃいいんだ。」
 コーリャはそう言って、どこへ火薬を入れ、どこへ散弾を填めたらよいか説明したり、火孔の形をした穴を見せたり、反動があるものだという話をしたりした。子供たちは、非常な好奇心をいだきながら聞いていた。ことに、彼らを驚かしたのは、反動があるという話であった。
「では、あなた火薬をもってるの?」とナスチャは訊いた。
「もってるよ。」
「火薬を見せてちょうだいな。」哀願するような微笑をうかべながら、彼女は言葉じりを引いた。
 コーリャはまた鞄の中へ手を突っ込んで、小さな罎を一つ取り出した。その中には、本当の火薬が少々入っていた。紙包みの中からは幾つかの散弾が出て来た。彼は小罎の栓を開け、少しばかり火薬を掌へ出してまで見せた。
「ほらね、しかしどこにも火はないだろうね。でないと、どんと爆発して、僕らはみんな殺されてしまうからね。」コーリャは効果《エフェクト》を強めるためにこう注意した。
 子供たちは、敬虔の念をまじえた恐怖の色をうかべつつ火薬を見た。しかし、その恐怖の念は、かえって彼らの興味を増すのであった。とはいえ、コスチャはどっちかといえば散弾のほうが気に入った。
「ばら弾は燃えない?」と彼はたずねた。
「ばら弾は燃えやしないよ。」
「少しばら弾をちょうだいな」と彼は哀願するような声で言った。
「少し上げよう。さあ、だけど、僕が帰って来るまで、お母さんに見せちゃいけないよ。でないと、お母さんはこれを火薬だと思って、びっくりして死んじゃうから、そして君らはひどい目にぶん撲られるよ。」
「お母さんはあたしたちを鞭でぶったことなんか、一度もないわよ」とナスチャはすぐにそう言った。
「それは知ってるよ、ただ話の調子をつけるためにそう言ったまでさ。決してお母さんをだましちゃいけないよ。だけど、今度だけ、――僕が帰って来るまでね。じゃ、ちびさん、僕行ってもいいかい、どうだい? 僕がいないからって、怖がって泣きゃしないかい?」
「ううん、泣くよう」とコスチャは、もう今にも泣きだしそうに言葉じりを引いた。
「泣くわ、きっと泣くわ!」ナスチャもおびえたように口早に相槌を打った。
「ああ、厄介な子だなあ、本当に危険なる年齢だよ。どうもしようがない、雛っ子さん、しばらく君たちのそばにいなきゃならないだろう。だが、いつまでいればいいんだ? ああ、時間が、時間が、ああ!」
「ね、ペレズヴォンに死んだ真似をさせてちょうだい」とコスチャが頼んだ。
「そうだ、もう仕方がない、いよいよペレズヴォンでもだしに使わなきゃ。Ici,([#割り注]こっちへ来い[#割り注終わり])ペレズヴォン!」
 やがてコーリャは犬に命令をくだし始めた。犬は知ってるだけの芸当を残らずやって見せた。これは毛のくしゃくしゃに縮れた犬で、大きさは普通の番犬くらい、毛は青味がかった灰色であったが、右の目はつぶれて、左の耳はなぜか裂けていた。ペレズヴォンはきゃんきゃん鳴いたり、跳ねだり、お使いをしたり、後足で歩いたり、四足を上へ向けて仰むけに倒れたり、死んだようにじっと臥ていたりした。この最後の芸当をやっている最中に戸が開いて、クラソートキナ夫人の女中がアガフィヤが[#「女中がアガフィヤが」はママ]、閾の上にあらわれた。それはあばたのある、でぶでぶに肥った四十ばかりの女房で、うんと買い込んだ食糧品を入れた籠を手に、市場から帰って来たのである。彼女はそこにじっと立ちどまって、左手に籠をぶらさげたまま、犬を見物しはじめた。コーリャはあれほどアガフィヤを待っていたのに、途中で芸当をやめさせなかった。やがて定めの時間だけ、ペレズヴォンに死んだ真似をさせた後、やっと犬に向って口笛を鳴らした。犬は跳ね起きて、自分の義務をはたした喜びに、くるくる跳ね廻り始めた。
「これ、畜生っ!」とアガフィヤはさとすように言った。
「おい女性、お前は何をぐずぐずしてたんだ?」と、コーリャは嚇すような調子で訊いた。
「女性だって、へ、ちびのくせにして!」
「ちびだ?」
「ああ、ちびだとも、一たいわたしが遅れたからって、お前さんにどうだというんだね。遅れたのにゃそれだけのわけがあるんだよ」とアガフィヤは、暖炉のそばを歩き廻りながら呟いた。が、その声はすこしも不平らしくも、腹立たしそうにもなかった。それどころか、かえって快活な坊っちゃんと無駄口をたたき合う機会を得たのを喜ぶように、恐ろしく満足らしい声であった。
「時にね、おい、そそっかしやの婆さん。」コーリャは長椅子から立ちあがりながら、口をきった。「お前は僕のいない間、このちびさんたちを油断なく見ていてくれるかい。この世にありとあらゆる神聖なものにかけて[#「この世にありとあらゆる神聖なものにかけて」はママ]、誓ってくれるかい? いや、そればかりじゃない、もっと何かほかのもので誓ってくれるかい? 僕は外へ出かけるんだから。」
「何だってお前さんに誓うんだね?」とアガフィヤは笑いだした。「そんなことをしなくたって、見ているよ。」
「いや、いけない、お前の魂の永遠の救いにかけて誓わなきゃ。でなけりゃ行かないよ。」
「そんなら行きなさんなよ。わたしの知ったことじゃないんだから、外は寒いに、家でじっとしてござれよ。」
「ちびさん」とコーリャは子供たちのほうへ向いた。「僕が帰って来るか、それとも、君たちのお母さんが帰って来るかするまで、この女が君たちのそばにいるからね。お母さんはもうとうに帰ってもいい時分だがなあ。それに、この女は君たちにお昼も食べさせてくれるよ。あのちびさんたちに何か食べさせてくれるだろう、アガフィヤ?」
「そりゃ食べさせてもいいよ。」
「じゃあ、さようなら、雛っ子さん、僕は行くよ。だが、おい、婆さん。」彼はアガフィヤのそばを通るときに、小声でもったいらしくこう言った。「また例の女一流の癖を出して、カチェリーナのことで、この子たちに馬鹿な話をして聞かせないようにしてくれ。子供の年ということも考えて、容赦しなきゃいけないよ。Ici, ペレズヴォン!」
「ええ、勝手に行ってしまうがいい!」とアガフィヤは腹立たしげに言った。「おかしな子だ! そんなことを言う自分こそ引っぱたかれるんだ、本当に。」

[#3字下げ]第三 生徒たち[#「第三 生徒たち」は中見出し]

 けれど、コーリャにはもうこの言葉は聞えなかった。彼はやっと出かけることができた。門の外へ出ると彼はあたりを見まわし、肩をすぼめ、『ひどい寒さだ!』とひとりごちて、通りをまっすぐに歩いて行ったが、とある横町を右へ折れて、市《いち》の広場をさして行った。広場へ出る一軒てまえの家まで来ると、彼は門のそばに立ちどまり、かくしから呼び子を取り出して、約束の合図でもするように、力一ぱい吹き鳴らした。一分間も待つか待たないうちに、木戸口から血色のいい男の子が飛び出して来た。年は十一くらいで、さっぱりとした暖かそうな、ほとんど贅沢といっていいくらいな外套を着ていた。この子供は予科にいる(コーリャより二級下の)スムーロフで、ある富裕な官吏の子であった。彼の両親は自分の息子に、危険性をおびた名うての腕白者であるコーリャと遊ぶことを許さないらしく、スムーロフはそっと抜け出して来た模様である。おそらく読者は記憶しているだろうが、このスムーロフは、二カ月まえ溝の向うからイリューシャに石を投げつけた少年群にまじっていた一人で、その時イリューシャのことを、アリョーシャに話して聞かせた子であった。
「クラソートキン君、僕はもう一時間も、君を待ったんですよ」とスムーロフは断乎たる色を見せながら言った。子供ふたりは広場のほうへ向けて歩きだした。
「遅れたんだ」とコーリャは答えた。「ある事情があってね。君、僕と一緒に歩いて折檻されやしないかい?」
「ああ、もうよして下さい、折檻なんかされるもんですか。ペレズヴォンも連れて来ましたか?」
「つれて来たよ!」
「それで、やはりあそこへ?」
「ああ、やはりあそこへ。」
「ああ、もしジューチカがいたらなあ!」
「ジューチカのことは言いっこなし、ジューチカはもういないんだ。ジューチカは未知の闇の中に葬られちゃったんだ。」
「ああ、こういうふうにしちゃいけないかしら。」スムーロフは急に立ちどまった。「ねえ、イリューシャが言うには、ジューチカもやはり縮れ毛で、青味がかった灰色の犬だったそうだから、これがそのジューチカだって言っちゃいけないかしら。ことによったら、本当にするかもしれませんよ。」
「君、学生が嘘をつくのはよくないよ。これが第一で、たとえいいことのためだって、決して嘘をつくもんじゃない、これが第二だ。が、それよりも君はあそこで、僕が行くってことを喋りゃしなかったろうね。」
「とんでもない、そりゃ僕もわかってますよ。だけど、ペレズヴォンじゃあいつが承知しませんよ。」スムーロフはほっとため息をついた。「こうなんですよ、あの親父ね、『糸瓜』の大尉ね、あれがこう言うんです、――きょう鼻の黒い本当のマスチフ種の仔犬をもらって来てやるって。あいつはその犬でイリューシャの機嫌を直すつもりなんだけど、とてもむずかしいでしょう。」
「だが、一たい先生はどうだい、イリューシャは?」
「ああ、どうもいけないんですよ、いけないんですよ! 僕あれはきっと肺病だと思うなあ。気は確かなんだけど、変な息の仕方でね、その息づかいが悪いんです。この間も少し歩かせてくれって頼むから、靴をはかせてやると、一足ゆきかけて、ぶっ倒れてしまうじゃありませんか。そのくせ、『ああ、お父さん、これはもとの悪い靴で、もう前っから歩きにくくっていけないって、僕しじゅうそう言ってるじゃありませんか』なんて言うんです。あいつは倒れるのを靴のせいにしてるんだけど、なに、ただ体が弱ってるからですよ。もう一週間ももちゃしない。ヘルツェンシュトゥベが診察に来てるんですよ。今あすこの家は金ができてるんですからね。たくさんもってますよ。」
「かたりだよ。」
「誰が?」
「医者だとか医術を種にしている有象無象さ。これは一般的に言っての話だが、個別的に言ったって、もちろんのことだよ。僕は医術というものを認めないんだ。無駄なことだよ。しかし、僕そのうちにすっかり調べ上げるよ、だが、君らはなんてセンチメンタルなことを始めたんだ? 君らは全級こぞってあそこへ行ってるらしいじゃないか?」
「全級こぞって行くわけじゃないんです。十人ばかりの仲間がいつも毎日ゆくんです。そんなこと何でもないじゃありませんか。」
「しかし、この件について不思議なのは、アレクセイ・カラマーゾフの役廻りだよ。あいつの兄は明日か明後日あたり、ああいう犯罪のために裁判されようとしてるのに、どうしてあの男は子供たちと、そんなセンチメンタルな真似をしてる余裕があるんだろう?」
「それは、センチメンタルなことでも何でもないんですよ。だって、そういう君だって、イリューシャと仲直りに行ってるじゃありませんか。」
「仲直り! 滑稽な言葉だね。もっとも、僕は誰にも自分の行為を解剖することを許さないよ。」
「だが、イリューシャは君に会ったら、どんなに喜ぶかしれませんよ! 君が来ようとは、夢にも思ってないんですからね。なぜ君は、なぜ君はあんなに長いこと行こうとしなかったんです?」とスムーロフは熱くなって叫んだ。
「ねえ、君、それは僕の知ったことで、君のことじゃないんだ。僕は自分で勝手に行くんだ。それが僕の意志なんだから。君たちはみんな、アレクセイ・カラマーゾフに引っ張られて行ったんだろう、そこに違いがあるんだよ。それに、僕が行くのは、決して仲直りのためじゃないかもしれないんだよ、仲直りなんてばかばかしいじゃないか。」
「いいえ、アレクセイに引っ張られて行ったんじゃないんです、決して、そうじゃありません。僕らは自分で勝手に行ったんですよ。むろん、初めはアレクセイと一緒に行ったけど、決して何もそんな馬鹿なことをしやしないんですよ。最初に一人、次にもう一人といったふうにね、僕らが行ったら、親父はひどく喜びましたよ。ねえ、君、もしイリューシャが死にでもしたら、親父は本当に気ちがいになりますよ。親父はイリューシャが死ぬことを見抜いているんです。だから、僕らがイリューシャと仲直りしたとき、喜んだの喜ばないのって。イリューシャはちょっと君のことを訊いただけで、ほかに何も言やしませんでした。訊いてしまうと、それっきり黙り込むんですよ。だが、親父さんはきっと気ちがいになるか、それとも頸をくくるかどっちかに違いないんです。あの人は前も気ちがいのようだったんですからね。ねえ、あの人は潔白な人なんですよ、あの時はただ間違いが起ったんですよ。あの親殺しがあの時あの人をあんなにぶったのは、やはりあの親殺しが悪かったんです。」
「だが、どっちにしても、カラマーゾフは僕にとって謎だね。僕はとうからあの男と知合いになれたんだけれど、僕は場合によると傲慢にするのが好きでね。それにあの男については、僕もある意見を纏め上げたんだが、しかしそれはも少し研究して、闡明しなきゃならない。」
 コーリャはもったいらしく口をつぐんだ。スムーロフも口をつぐんだ。むろん、スムーロフはコーリャを崇拝しきっているので、彼と同等になろうなどとは、考えさえしなかった。今も彼はコーリャにひどく興味をもちはじめた。それは、コーリャが『自分の勝手で』行くのだと説明したからである。してみると、コーリャがきょう突然、行こうと思い立ったについては、きっと何かわけがなければならぬと考えたのである。二人は市《いち》の広場を歩いていた。広場には、近在から来た荷車がたくさん置いてあって、追われて来た鵞鳥ががやがや集っていた。町の女連はテントの中で、輪形のパンや糸などを売っていた。日曜日のこうした集りを、この町では無邪気にも定期市と呼んでいた。この定期市は一年間に幾度もあった。ペレズヴォンはどこかで何かの匂いを嗅ごうとして、ひっきりなしに右左へそれながら、極上の機嫌で走っていた。ほかの犬に出くわすと大乗り気のていで、犬のあらゆる法則にしたがって、互いに嗅ぎ廻すのであった。
「スムーロフ君、僕はリアリズムを観察することが好きでね。」コーリャは突然こう言いはじめた。「君は犬が出くわした時、お互いに匂いを嗅ぎ合うのに気がついたろう? それにはある共通な天性の法則があるんだよ。」
「そう、何だかおかしな法則がね。」
「ちっともおかしかないよ。そりゃ君が間違ってるよ。たとえ偏見に充ちた人間の目からどう見えたって、自然の中にはおかしいものなんか少しもないんだよ。もし君、犬が考えたり、批評したりできるものとしてみたまえ、彼らもその命令者たる人間相互の社会関係に、ほとんどこれと同じくらい、いや、かえってもっとよけいに、滑稽な点を見いだすに違いないよ、――ああ、かえってもっとよけいあるよ。僕がこんなに繰り返して言うのは、われわれ人間のほうがずっとよけいに、馬鹿らしい癖を持っているのを、かたく信じているからだよ。これはラキーチンの意見だが、実際ずぬけた思想だ。スムーロフ君、僕は社会主義者なんだよ。」
社会主義者って何?」とスムーロフは訊いた。
「それはね、もしすべての人が平等で、一つの共通な意見を持っているとすれば、結婚なんてものはなくなってしまって、宗教や法律などは誰でも勝手ということになるんだ。まあ、万事そういった調子さ。だが、君はまだこれがわかるほど、十分大きくなっていない、君にはまだ早い……だが、寒いね。」
「そうですね。十二度ですもの。さっきお父さんが寒暖計を見たんです。」
「スムーロフ君、君は十五度、十八度という冬のまっ最中よりも、たとえばこの頃みたいに、とつぜん十二度の寒さがどかっと来る冬の初め、まだ雪も降ってない冬の初めのほうが、かえって寒いってことに気がついたかい。それはつまり、僕らがまだ寒さに慣れないからだよ。人はとかく慣れやすいものだ。国家的、政治的関係でも何でもそうだ。習慣がおもなる原動力なんだ。だが、あいつは滑稽な百姓だねえ。」
 コーリャは、毛裏の外套を着た背の高い一人の百姓を指さした。彼は人のよさそうな顔つきをして、寒さを防ぐために自分の荷車のそばで、手袋をはめた手をぱたぱたと打ち合せていた。長い亜麻色の顎鬚は、すっかり霜におおわれていた。
「この百姓の顎鬚は凍ってらあ!」コーリャはそのそばを通り過ぎながら、大きな声で意味ありげに叫んだ。
「誰のでも凍ってるだよ。」百姓は落ちつきはらって、ものものしく呟くように答えた。
「からかうのはおよしなさい」とスムーロフは注意した。
「なに、怒りゃしない。あいつはいい男だから、さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら。」
「おや、お前は一たいマトヴェイなのかい?」
「マトヴェイだよ。お前さん知らなかっただかね?」
「知らなかった。僕はあてずっぽに言ってみたんだ。」
「へえ、なんて子供だ。おめえ学校生徒かね?」
「生徒だよ。」
「じゃ、先生にぶたれるかね?」
「ぶたれるというわけでもないが、ちょっとその。」
「痛いかね?」
「痛くないこともないさ!」
「おお、可哀そうに!」百姓は心の底からため息をついた。
「さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら、おめえは可愛らしい若え衆だのう、ほんに。」
 二人の少年はさらに歩みつづけた。
「あいつはいい百姓だよ」とコーリャはスムーロフに話しかけた。
「僕は民衆と話をするのが好きでね、いつでも喜んで彼らの美点を認めてやるんだよ。」
「なぜ君は僕らがぶたれてるなんて、あの男に嘘をついたんです?」とスムーロフは訊いた。
「だって、あいつも少しは慰めてやらなきゃならないじゃないか!」
「なぜ?」
「スムーロフ、僕は一ことですぐわからないで、訊き返されるのが嫌いなんだ、なかにはどんなにしても、合点させることのできないようなやつがいるからね。百姓たちの考えによれば、生徒はぶたれるものなんだ、ぶたれなきゃならないものなんだ。もし、生徒がぶたれなきゃ、そりゃ生徒じゃありゃしない。だから、僕がぶたれないと言ってみたまえ。あいつ悲観しちゃうに違いないよ。だが、君にゃそんなことわからない。民衆と話をするには呼吸がいるよ。」
「だけど、後生だから、突っかかるのをよして下さい。でないと、またあの鵞鳥の時みたいなことがもちあがるから。」
「じゃ、君はこわいんだね?」
「笑っちゃいけませんよ、コーリャ、僕まったくこわいんです。お父さんがひどく怒りつけるに相違ないんだもの。僕は君と一緒に歩いちゃいけないって、厳しく止められてるんですよ。」
「心配することはないよ。こんどは何にも起りゃしない。やあ、こんにちは! ナターシャ。」彼は掛小屋の中の物売り女の一人にこう声をかけた。
「わたしはナターシャじゃない、マリヤだよ」と物売り女は、呶鳴るように言った。彼女はまだ年よりというほどでなかった。
「マリヤというのかい、そりゃいいね、さようなら。」
「ええ、この生意気小僧め、どこにいるか目にも入らないちびのくせに、人並みのことを言やがる。」
「そんな暇あないよ、お前なんかと話をする暇は。この次の日曜日にでも話をしようよ。」まるでこっちからではなく、先方から話しかけでもしたように、コーリャは手を振った。
「日曜日にお前と何の話をするんだい? 自分で突っかかって来やがったくせに、ごろつき!」とマリヤは呶鳴りたてた。「ぶん撲ってやるぞ、本当に、人を馬鹿にしくさって!」
 マリヤと並んで、てんでに屋台で商いをしていた物売りの女の間には、どっと笑い声が鳴り渡った。と、いきなり今までの話に腹をたてた一人の男が、町のアーケードの中から跳び出して来た。彼は番頭風をしていたが、この町の商人ではなく渡り者であった。青い裾長の上衣《カフタン》を着て、廂のついた帽子をかぶり、濃い亜麻色の縮れ毛に、長い蒼ざめたあばた面をした、まだ若そうなその男は、ばかばかしく興奮しながら、拳を振ってコーリャを嚇しはじめた。
「おれは手前を知ってるぞ」と彼はいらだたしげに叫んだ。
「おれは手前を知ってるぞ?」
 コーリャはじっと彼を見つめた。が、その男といつどんな喧嘩をしたのか、どうも思い出すことができなかった。往来で喧嘩をしたことは一度や二度でないので、それを一々思い出すことはできなかった。
「知ってる?」と彼は皮肉に訊いた。
「おれは手前を知ってるんだ! おれは手前を知ってるんだ!」若い男は馬鹿の一つ覚えに、同じことばかり繰り返した。
「そりゃ結構だね。だが、僕は今いそがしいんだ、失敬するよ!」
「何だって生意気なことを言うんだ?」と町人は叫んだ。「またしても生意気なことを言やがって! おれは貴様を知ってるぞっ! しじゅう生意気なことばかり言やがって!」
「おい君、僕が生意気なことを言おうと言うまいと、この場合、君の関係したことじゃないよ。」コーリャは依然として彼を見つめながら、立ちどまってこう言った。
「どうしておれの関係したことでないんだ?」
「なに、ただ君の関係したことでないんだよ!」
「じゃ、誰の関係したことだ? 誰のことだ? え、誰のことだ?」
「そりゃね、今のところ、トリーフォン・ニキーチッチに関係したことで、君のことじゃないよ。」
「トリーフォン・ニキーチッチたあ、誰のことだ?」やはり熱してはいたが、馬鹿のような驚き方をして、若者はコーリャに詰め寄った。コーリャは、もったいらしく、じろじろ彼を見まわした。
「昇天祭に行ったかね?」突然きっとした調子で熱心に訊いた。
「昇天祭たあ何だ? 何のために? いや、行かなかった。」若者はいささか毒気を抜かれた。
「君はサバネーエフを知ってるかね?」とコーリヤは一そう熱心に、一そうきっとした調子でつづけた。
「サバネーエフたあ誰だ? いや、知んない。」
「ふん、それじゃお話になりゃしない!」コーリャはいきなり言葉を切って、くるりと右のほうへ向きを変えた。そしてサバネーエフさえ知らないようなたわけとは、話をするのもばかばかしいといったふうに、すたすた歩きだした。
「おい、こら、待てっ! サバネーエフって誰のことだ?」若者はわれに返って、また興奮しながらこう言った。
「あいつは一たい何を言ったんだ?」彼はにわかに物売り女たちのほうへ振り向いて、愚かしい顔つきをしながら、一同を見た。
 女房たちは笑いだした。
「変った子だよ」と一人が言った。
「誰のことだい、一たい誰のことだい、あいつがサバネーエフと言ったのは!」若者は右の手を振りながら、いきおい猛に繰り返した。
「ああ、そりゃきっと、クジミーチェフのとこで使われていた、あのサバネーエフのことだよ。きっとそうだよ。」だしぬけに一人の女が推察を下した。
 若者はきょとんとした目をじっとその女に据えた。
「クジ……ミー……チェフ?」もう一人の女が鸚鵡返しにこう言った。「じゃ、なんのトリーフォンなものか? あれはクジマーで、トリーフォンじゃありゃしないよ。ところが、あの子はトリーフォン・ニキーチッチと言ってたから、つまりあの男たあ違うんだよ。」
「なあに、そりゃトリーフォンでもサバネーエフでもなくって、チジョフっていうんだよ。」それまで黙って真面目に聞いていたもう一人の女が、とつぜん口を入れた。「あの人は、アレクセイ・イヴァーヌイチていうんだよ。チジョフさ、アレクセイ・イヴァーヌイチさ。」
「そうそう、本当にチジョフって言ったよ。」さらにいま一人の女が熱心にこう言った。
 若者は呆気にとられて、女たちの顔をかわるがわる見まわした。
「じゃ、あいつ何だってあんなことを訊いたんだ、おい、なぜ訊いたんだ?」と彼はほとんどやけに叫んだ。「『サバネーエフを知ってるかい?』だってさ。馬鹿にしてやがらあ、一たいそのサバネーエフていうなあ、誰のことなんだ?」
「お前さんも血のめぐりの悪い人だね。それはサバネーエフじゃない、チジョフだって言ってるじゃないか、アレクセイ・イヴァーヌイチ・チジョフだよ、そうなんだよ!」と一人の物売り女が噛んで含めるように言った。
「チジョフってどんな男だね? どんな男だね? 知ってるなら聞かせてくれ。」
「何でも背のひょろ長い、鼻っ垂らしの、夏分市場にいた男だよ。」
「だが、そのチジョフがおれに何だって言うんだ、え、みなの衆?」
「チジョフがお前さんに何だろうと、そんなことわたしが知るものかね。」
「誰が知るものかね」ともう一人の女が口を入れた。「お前さんこそ、そんなに騒ぎたてるくらいなら、自分で知ってそうなもんじゃないか。あの子はお前さんに言ったんで、わたしたちに言ったんじゃないからね。お前さんもよっぽど阿呆だよ。でも、本当に知らないのかね!」
「誰を?」
「チジョフをさ。」
「チジョフなんかくそ食らえだ、ついでに手前も一緒によ! 見ろ、あいつぶち殺してやるから! おれを馬鹿にしやがったんだ。」
「チジョフをぶち殺すって? あべこべにお前のほうがやられらあ! お前は馬鹿だよ、本当に!」
「チジョフじゃない、チジョフじゃないってば、ろくでなしの悪党婆め、餓鬼をぶち殺してやると言ってるんだよう! あいつをつれて来てくれ、あいつをここへつれて来てくれ。あいつしと[#「しと」に傍点]をなぶりゃがったんだ!」
 女たちは大声を上げて笑った。が、コーリャはそのとき勝ち誇ったような顔つきで、もうずっと向うのほうを歩いていた。スムーロフは、うしろに叫ぶ人々の群を顧みながら、コーリャについて歩いた。彼はコーリャの巻き添えになりはせぬかと危ぶみながらも、やはり大いに愉快なのであった。
「君があの男に訊いたサバネーエフっていうのは、一たいどんな男なの?」彼はもう答えを予感しながら、コーリャに訊いた。
「どんな男か僕が知るものかい! あいつらはああして晩まで呶鳴り合ってるだろう。僕はね、こうして社会の各階級の馬鹿者どもを、揺ぶってやるのが好きなんだよ。そら、またのろま野郎が立ってる。ほら、あの百姓だよ。ねえ君、『馬鹿なフランス人より馬鹿なものはない』とよく言うが、しかしロシヤ人のご面相は、すっかり本性を現わしているよ。ねえ、あいつの顔には、この男は馬鹿なり、と書いてあるだろう、あの百姓の顔にさ、え?」
「よしなさい、コーリャ、かまわずに行きましょうよ。」
「どうしてかまわずにいられるものか。さあ、僕は始めるよ。おい! 百姓、こんにちは!」
 頑丈な百姓がすぐそばをのろのろと歩いていた、一杯ひっかけたものらしい。丸っこい、おめでたそうな顔で、顎鬚は胡麻塩になっていた。彼は頭を持ちあげて少年を見た。
「やあ、もしふざけるんでなけりゃ、こんにちは!」彼はゆるゆるとした調子でこう答えた。
「じゃ、もしふざけてるんだと?」コーリャは笑いだした。
「なあに、ふざけるならふざけるがええ、そりゃおめえの勝手だあ。そんなこたあちっともかまやしねえ。いつでも勝手にふざけるがええだ。」
「君どうも失敬、ちょっとふざけたんだよ。」
「なら、神様が赦して下さるだ。」
「お前も赦してくれるかね?」
「そりゃあ赦すとも。まあ、行きなせえ。」
「ほんとにお前は! だが、お前は利口な百姓かもしれないね。」
「お前よりちっとんべえ利口だよ。」百姓は思いがけなく、依然としてもったいらしい調子で、こう答えた。
「まさか」とコーリャは、ちょっと度胆を抜かれた。
「本当の話だよ。」
「いや、そうかもしれないな。」
「そうだとも、お前。」
「さようなら、百姓。」
「さようなら。」
「百姓もいろいろあるもんだね。」しばらく黙っていたあとで、コーリャはスムーロフに言った。「僕もまさか、こんな利口なやつにぶっ突かろうとは思わなかったよ。僕はどんな場合でも、民衆の知恵を認めるに躊躇しないね。」
 遠い会堂の時計は十一時半を打った。二人の少年に急ぎだした。そして、二等大尉スネギリョフの家までだいぶ遠い路を、ほとんど話もせずにぐんぐん歩いて行った。もう家まで二十歩ばかりというとき、コーリャはぴったり足をとめ、一あし先に行って、カラマーゾフを呼び出すように、とスムーロフに言いつけた。
「まず当ってみる必要があるんだ」と彼はスムーロフに言った。
「だって、なぜ呼び出すの」とスムーロフは言葉を返した。
「このまま入っても、みんな君が来たのをひどく喜ぶよ。それに、なぜこんな寒い外なんかで、近づきになるんだろう?」
「あの男をこの寒いところへ呼び出さなけりゃならないわけは、僕もう自分でちゃんと心得てるんだ。」コーリャは高圧的に遮った(これはこの『小さい子供たち』に対して、彼がとくに好んでやる癖であった)。スムーロフは命令をはたすべく駈けだした。

[#3字下げ]第四 ジューチカ[#「第四 ジューチカ」は中見出し]

 コーリャはもったいらしい顔つきをして塀にもたれ、アリョーシャが来るのを待っていた。実際のところ、彼はもうずっと以前から、アリョーシャに会いたかったのである。彼は子供たちから、アリョーシャのことをいろいろ聞いていたが、今まではその都度、いつも冷やかな軽蔑の色を浮べるばかりでなく、話を聞き終ったあとで「批評」を下すことさえあった。が、内心ではアリョーシャと知合いになりたくてたまらなかったのである。アリョーシャの話には、いつ聞いても彼の同感を呼びさまし、その心をひきつけるような、何ものかがあった。といったわけで、今は彼にとってすこぶる重大な瞬間であった。第一、自分の面目を損うことなしに、独立した対等の人間だということを相手に示さねばならない。『でないと、僕を十三の小僧っ子だと思って、あんな連中と同じに見るかもしれない。アリョーシャは一たいあの子供らを何と思ってるだろう? 今度ちかづきになったら、一つ訊いてみてやろう。だが、どうも都合が悪いのは、僕の背が低いことだ。トゥジコフは僕より年が下だが、背は僕より二三寸高い。でも、僕の顔は利口そうだ。もちろん、綺麗じゃない、僕は自分の顔のまずいことを知っている。が、利口そうなことは利口そうだ。それからまた、あまりべらべら喋らないようにしなくちゃならない。でないと、アリョーシャはすぐ抱きついたりなんかして、ひとを子供あつかいにするかもしれない……ちぇ、子供あつかいになんぞされたら、とんでもない恥っさらしだ!………」
 コーリャは胸を躍らしながら、一生懸命に独立不羈の態度を保とうと努めていた。何より彼を苦しめたのは、背の低いことであった。顔の『まずい』よりも、背の低いことであった。彼の家の片隅の壁には、もう去年から鉛筆で線が引かれていたが、それは彼の背の高さをしるしづけたもので、それ以来は二月めごとにどのくらい伸びたかと、胸を躍らしながらその壁へ丈くらべに行くのであった。が、残念ながら、ほんの僅かしか伸びなかった。これがために、彼は時によると、もうほとほと絶望してしまうことがあった。顔は決して『まずい』ほうではなく、少し蒼ざめていて、そばかすはあるが、色の白い、かなり愛らしい顔だちであった。灰色の目はあまり大きくないが、生き生きと大胆な表情をしていて、よく強い感情に燃えたった。頬骨はいくらか広かった。唇は小さくてあまり厚くはなかったが、まっ赤な色をしていた。鼻は小さく、そして思いきり上を向いていた。『まったく獅子っ鼻だ、まったく獅子っ鼻だ!』とコーリャは鏡に向ったとき、口の中でこう呟いて、いつも憤然と鏡のそばを去るのであった。『顔つきだってあまり利口そうでもないようだ。』彼はどうかすると、そんなことまで疑うのであった。しかし、顔や背丈の心配が、彼の全心を奪い去ったと思ってはならない。むしろその反対で、鐘の前に立った瞬間、どれほど毒々しい気持になっても、あとからすぐ忘れてしまって(ながく忘れていることもあった)、彼がみずから自分の活動を定義した言葉によると、『思想問題と実際生活にすっかり没頭して』いたのである。
 間もなく出て来たアリョーシャは、急いでコーリャのそばへ近よった。まだよほど離れているうちから、アリョーシャがひどく嬉しそうな顔つきをしているのに、コーリャも気がついた。『僕に会うのがそんなに嬉しいのかしら?』とコーリャは満足らしく考えた。ここでついでに言っておくが、筆者《わたし》が彼の物語を中絶して以来、アリョーシャはすっかり様子が変ってしまったのである。彼は法衣を脱ぎ捨てて、今では見事に仕立てたフロックを着け、短く刈り込んだ頭にはソフトを被っていた。これが非常に彼の風采を上げて、立派な美男子にして見せた。彼の愛らしい顔は、いつも快活そうな色をおびていたが、この快活は一種の静かな落ちつきをおびていた。コーリャが驚いたのは、アリョーシャが部屋にいる時のままで、外套も羽織らずに出て来たことであった。確かに急いで来たらしかった。彼はすぐさまコーリャに手をさし伸べた。
「とうとう君も来ましたね。私たちはみんなでどんなに君を待ったでしょう。」
「ちょっとわけがあったものですからね。それは今すぐお話ししますが、とにかく、お近づきになって嬉しいです。とうから折を待っていたんですし、またいろいろとあなたのことを聞いてもいました」とコーリャは少し息をはずませながら呟いた。
「私たちはそれでなくても、もうずっと前から、知合いになっていなきゃならないはずだったのですよ。私もいろいろあなたのことを聞いていました。ですが、ここへ来るのがちと遅かったですね。」
「ねえ、ここの様子はどうなんです?」
「イリューシャの容態がひどく悪くなったんですよ。あれはきっと死にます。」
「え、何ですって! いや、カラマーゾフさん、医術なんてまったく陋劣なもんですよ」とコーリャは熱くなって言った。
「イリューシャはしょっちゅう、本当にしょっちゅう君のことを言っていました。眠ってて譫言にまで言うんですよ、確かに君はあの子にとって以前……あのことがあるまで……ナイフ事件の起るまで、非常に、非常に大切な人だったんですね。それに、またもう一つ原因があるんですよ……ねえ、これは君の犬ですか?」
「僕の犬です。ペレズヴォンです。」
「ジューチカじゃないんですか?」アリョーシャは残念そうにコーリャの目を眺めた。「じゃ、あの犬はもういよいよいなくなったんですか?」
「僕はあなた方がみんな揃って、ひどくジューチカをほしがってることを知っていますよ。僕すっかり聞いたんです」とコーリャは謎のように、にたりと笑った。「ねえ、カラマーゾフさん、僕はあなたに事情を残らず説明します。僕がここへ来たのも、おもにそのためなんですからね。僕は中へ入って行く前に、すっかりいきさつを話してしまおうと思って、それであなたを呼び出したんです」と彼は活気づいて話しだした。「こうなんですよ、カラマーゾフさん、イリューシャはこの春、予備科へ入ったでしょう。ところが、あの予備科の生徒はご存じのとおり、みんな子供連なんです、小僧っ子なんです。で、みんなはすぐにイリューシャをいじめだしたんです。僕は二級も上ですから、むろん遠く局外から見ていました。すると、イリューシャはあのとおり小さくって弱い子のくせに、勝気だもんですから、負けていないで、よくみんなと喧嘩をするんです。傲然とした態度でね、目はぎらぎら燃え立っています。僕はそうした人間が好きなんです。ところが、みんなはよけいあの子をいじめるじゃありませんか。ことにあの時分、イリューシャは汚い外套を着て、ズボンといったら上のほうへ吊りあがってるし、靴は進水式をしてるんでしょう。そのために、やつらはあの子を侮辱したんです。ところが、僕はそういうことが嫌いだから、すぐ中へ入ってやつらを撲りつけました。でも、やつらは僕を尊敬してるんです。カラマーゾフさん、本当ですよ」とコーリャは得意になってながながと自慢した。「だけど、だいたい、僕は子供連が好きなんです。今でも家で、ちびさん二人の面倒を見てるんですが、今日もそれにひっかかって遅れたんですよ。こういう工合で、みんなイリューシャを撲るのをやめました。僕あの子を保護してやったわけです。実際あれは権高な子供ですよ、これはあなたにも言っておきますが、確かに権高な子供ですよ。けれど、あの子は僕にだけは奴隷のように心服して、僕の言いつけは何でもきくんです。まるで僕を神様みたいに思って、何でも僕を真似ようとするじゃありませんか。放課時間になるたびに、僕んとこへやって来るので、僕はしじゅうあの子と一緒に歩きました。日曜日もやはりそうなんです。僕の中学校では、上級生が下級生とこんなに仲よくすると、みんなが笑いますが、それは偏見です。これが僕の意見なんです。それっきりです。ね、そうじゃありませんか? 僕はあの子を教えもすれば、開発もしました。そうでしょう、あの子が僕の気に入った以上、どうして開発するのが悪いんでしょう? カラマーゾフさん、あなたもあんな雛っ子さんたちと仲よくしていらっしゃるが、それもやはり、若い世代に影響を与えて、彼らを益し、開発してやろうと思うからでしょう? あなたのそうした性格を噂で聞いて、その点が僕に非常に興味を与えたんです。けれど、本題に入りましょう。実際、子供の中に一種の感傷的な心持が、一種のセンチメンタルな心持が成長していることも、僕は認めます。僕は生来そういう『仔牛の愛情』の敵なんです。それに、もう一つ矛盾があるんですよ。あの子は傲慢だけど、僕には奴隷みたいに心服していました、――まったく奴隷みたいに心服していたんです。それで、よくだしぬけに目をぎらぎら光らしながら、僕に食ってかかって、横車を押すじゃありませんか。僕がときどきいろんな思想を吹き込むと、あの子はその思想に同意しないってわけじゃないけれど、僕に対して個人的の反抗心を起す、――それが僕にはちゃんとわかるんです。なぜって、僕はあの子の仔牛みたいな愛情に対して、きわめて冷静な態度で答えるからです。そこで、あの子を鍛えるために、あの子が優しくすればするだけ、僕はよけい冷静になる、つまりわざとそうするんです、それが僕の信念なんです。僕はむらのないように性格を陶冶して、人間を作ることを目的としていたんですからね……まあ、そういったわけですよ……むろん、あなたはすっかりお話ししないでも、僕の言おうとする心持がおわかりになるでしょう。ある時ふと気がついてみると、あの子は一日も二日も三日も煩悶して、悲しんでいる様子じゃありませんか、しかも、それは仔牛の愛情のためじゃなくって、何かもっと強い、もっと高尚な別のものなんです。何という悲劇だろう、と僕は思いましたね。僕はあの子を詰問して事情を知りました。あの子は何かの拍子で、あなたの亡くなられたお父さん(その時はまだ生きていられましたが)の下男をしてるスメルジャコフと知合いになったんです。すると、スメルジャコフはあの子に、馬鹿げた冗談、いや野卑な冗談、憎むべき冗談を教え込んだのです。それは、柔かいパンの中にピンを突っ込んで、どこかの番犬に投げてやる、すると犬はひもじいまぎれに丸呑みにするから、そのあとがどうなるか見物しろというんです。二人はそういうパンの切れを拵えて、いま問題になってるあの縮れ毛のジューチカ、――誰も食べさせてやり手がなくて、一日から吠えばかりしてる屋敷の番犬に投げてやったんです(カラマーゾフさん、あなたはあの馬鹿げた吠え声がお好きですか? 僕、あれがとても我慢できないんですよ)。すると、先生いきなり飛びかかって、呑み込んだからたまらない。きゃんきゃん悲鳴をあげたり、くるくる廻ったりして、やたらに駈け出したものです。きゃんきゃん啼きながら駈け出して、とうとうどこかへ見えなくなってしまいました。イリューシャが、こう話して聞かせたんです。白状しながら、自分でもしくしく泣いて身慄いするんです。『駈けながら啼いてるんだ、駈けながら啼いてるんだ』と、こればかり繰り返し繰り返し言っていました。この光景があの子を動かしたんですね。こいつは良心の呵責だな、と思ったもんだから、僕は真面目に聞きました。実は前のことについても、あの子を仕込んでやりたかったので、心にもない、不満らしい様子をしながら、『君は下劣なことをしたものだ、君はやくざな人間だ。むろん僕は誰にも吹聴しやしないが、当分、君とは今までのような関係を断つことにする。僕は一つよくこのことを考えてみて、スムーロフ(それは僕と一緒に来たあの子供で、いつも僕に心服してるんです)を中に立てて、また君と交際をつづけるか、それともやくざ者として永久に棄ててしまうか、どっちか君に知らせよう』とこう言ったんです。これがあの子にひどくこたえたんですね。僕はすぐそのとき、あまり厳格すぎやしないかと感じましたが、仕方がありません、それがあの時の僕の信念だったんですからね。一日たって、スムーロフをあの子のとこへやって、自分はもうあの子と『話をしないつもりだ』と言わせました。これは、僕らの仲間で、絶交する時にいう言葉なんです。僕の肚では、あの子を幾日かのあいだ懲らしめてやって、悔悟の色を見た上で、また握手をしよう、というのでした。これは僕が固く決心した計画なんです。ところが、どうでしょう、あの子はスムーロフからそのことを聞くと、やにわに目を光らせて、『クラソートキンにそう言ってくれ。僕はどの犬にも、みんなピンを入れたパンを投げてやるからって』とそう叫んだそうです。で、僕も、『ふん、わがままが始まったな、あんなやつは排斥してやらなきゃならん』と思って、それからすっかりあの子を軽蔑するようになったんです。逢うたびに顔をそっぽへ向けたり、皮肉ににたりと笑ったりしました。そのうちに、あの子のお父さんの事件が起ったんです、ご存じですか、あの『糸瓜』ですよ? でねえ、こんなわけであの子の恐ろしい癇癪は、前から下地ができていたんですよ。子供たちは、僕があの子と絶交したのを見てとると、よってたかって、『糸瓜糸瓜』と言ってからかいだしました。ちょうどそのころ喧嘩がはじまったのですが、僕はそれを非常に残念に思います。なぜって、そのとき一度あの子がこっぴどく撲られたからです。で、ある時、あの子は教場から外へ出るが早いか、みんなに飛びかかってゆきました。僕はちょうど十歩ばかり離れたところで見ていました。誓って言いますが、そのとき僕は確かに笑わなかったはずです。いや、かえって僕はその時、あの子が可哀そうで、可哀そうでたまらなかったくらいです。すんでのことで、駈け出して、あの子を援けようと思いました。が、あの子はふと僕と目を見合せると、何と思ったか、だしぬけにナイフをとって僕に飛びかかり、太股を突き刺したんです、ほら、右足のここんとこですよ。僕は身動きもしませんでした。カラマーゾフさん。僕はどうかするとなかなか勇敢なんです。僕は目つきでもって、『君、僕のつくしたいろんな友誼に酬いるために、もっともっとやらないかね、僕はいつまでも君のご用を待ってるから』とでも言うように、軽蔑の色を浮べて眺めました。すると、あの子も二度と刺そうとしませんでした、持ちきれなかったんですね。びっくりしたようにナイフを投げ出して、声をたてて泣きながら駈け出しました。むろん僕は、言いつけもしなければ、教師の耳に入れないために、みんなに黙っているように命令しました。お母さんにさえすっかり癒ってしまった時、はじめて言っただけなんです。それに、ほんのちょっとした擦り傷だったんですもの。あとで聞いたんですが、その日にあの子は石を投げ合って、あなたの指まで咬んだそうですね、――しかし、まあ、考えてごらんなさい、あの子の心持はどんなだったでしょう! どうもしようがありません、僕はほんとに馬鹿なことをしたんです。あの子が病気になった時、なぜ行って赦してやらなかったんでしょう、つまり仲直りですね。今になって後悔してるんです。だけど、そこには特別の目的があったんです。あなたにお話ししたいと思ったのはこれだけです……ただ、どうも僕は馬鹿なことをしたようです……」
「ああ、実に残念です」とアリョーシャは興奮のていで叫んだ。「君とあの子の関係を前から知らなかったのが、私は実に残念です。それを知っておれば、とっくに君の家へ行って、一緒にあの子のとこへ来てもらうようにお願いするはずだったのに。本当にあの子は熱がひどい時など、君のことを譫言にまで言っていましたよ。私は君があの子にとって、どのくらい大事な人か知らなかったんで! 一たい君は結局、あのジューチカを捜し出せなかったんですか? 親父さんも子供たちも、みんな町じゅう捜し歩いたんですよ。本当にあの子は病気しながら、『お父さん、僕が病気になったのはね、あの時ジューチカを殺したからよ、それで、神様が僕に罰をお当てになったのよ』と言って、涙を流しながら、私の知っているだけでも、三度も繰り返したじゃありませんか。あの子の頭から、とてもこの考えを追い出すことができないんです! もし今あのジューチカを連れて来て、ジューチカが生きてるところを見せたら、あの子は嬉しまぎれに生き返るだろう、と思われるくらいです。私たちはみんな君を当てにしているんですよ。」
「でも、一たいどういうわけで、僕がジューチカを捜し出すだろうなんて、そんなことを当てにしてたんです。つまり、なぜ僕にかぎるんです?」コーリャは非常な好奇心をもって、こう訊いた。「なぜほかの人でなしに、僕を当てにしたんです?」
「君があの犬を捜していられるとか、捜し出したら連れて来て下さるとか、そういう噂があったんですよ。スムーロフ君も何かそんなふうなことを言っていました。とにかく、私たちはどうかして、ジューチカはちゃんと生きていて、どこかで見た人があるというように、あの子を信じさせようと骨を折ってるんです。このあいだ子供たちがどこからか、生きた兎を持って来ましたが、あの子はその兎を見ると、ほんの心持にっこりして、野原へ逃してくれと言って頼みました。で私たちはそうしてやりましたよ。たったいま親父さんが帰って来ました。やはり、どこからかマスチフ種の仔犬をもらって来て、それであの子を慰めようとしましたが、かえって結果がよくないようでした……」
「じゃ、もう一つお訊きしますが、カラマーゾフさん、一たいそのお父さんというのは、どんな人です? 僕はその人を知っていますが、あなたの定義では何者です、道化ですか、ピエロですか?」
「いや、とんでもない。世の中には深く感じながらも、ひどく抑えつけられているような人があるものですが、そういう人の道化じみた行為は、他人に対する憎悪に満ちた一種の皮肉なんです。長いこと虐げられた結果、臆病になってしまって、人の前では面と向って本当のことが言えないのです。ですからね、クラソートキン、そうした種類の道化は、時によると非常に悲観的なものなんです、今あの親父さんは、この世の望みを、すっかりイリューシャ一人にかけているんです。だからもし、イリューシャが死にでもしてごらんなさい、親父さんは悲しみのあまり気ちがいになるか、それとも自殺でもするでしょう。私は今あの人を見てると、ほとんどそう信ぜざるを得ません!」
「僕にはあなたの心持がわかりました。カラマーゾフさん、あなたはなかなか人間をよく知っていらっしゃるようですね。」コーリャはしみじみとこう言った。
「ですが、私は君が犬を連れて来られたので、あのジューチカだとばかり思いましたよ。」
「まあ、待って下さい。カラマーゾフさん、僕たちはことによったら、ジューチカを捜し出すかもしれませんよ。だけど、これは、これはペレズヴォンです。僕は今この犬を部屋の中へ入れましょう。たぶんイリューシャはマスチフ種の仔犬よりも喜ぶでしょう。まあ、待ってごらんなさい、カラマーゾフさん、今にいろんなことがわかりますから。だけど、まあ、どうして僕はあなたをこんなに引き止めてるんでしょう!」とコーリャはだしぬけに勢いよく叫んだ。「あなたはこの寒さに、フロックだけしか着ていらっしゃらないのに、僕こうしてあなたを外に立たせておいて。ほんとうに僕は、なんてエゴイストでしょう! ええ、僕たちはみんなエゴイストですよ、カラマーゾフさん!」
「心配しなくってもいいですよ。寒いことは寒いですが、私は風邪なんかひかないほうですから。が、とにかく行きましょう。ついでにお訊ねしておきますが、君の名前は何というんです? コーリャだけは知っていますが、それから先は?」
「ニコライです、ニコライ・イヴァノフ・クラソートキンです。お役所風に言えば息子のクラソートキン。」コーリャはなぜか笑いだしたが、急につけたした。
「むろん、僕はニコライという自分の名前が嫌いなんです。」
「なぜ?」
「平凡で、お役所じみた名前だから……」
「君の年は十三ですか?」とアリョーシャは訊いた。
「つまり、数え年十四です。二週間たつと満十四になります。もうすぐです。カラマーゾフさん、僕は前もってあなたに一つ自分の弱点を自白しておきます。それはつまり、僕の性質をいきなりあなたに見抜いてもらうために、お近づきのしるしとして打ち明けるんです。僕は自分の年を訊かれるのが厭なんです……厭なんていうよりもっと以上です……それにまた……たとえば、僕のことでこんなふうな、ありもしない評判がたってるんです。それはね、僕が先週、予科の生徒と盗賊ごっこをして遊んだ、って言うんですよ。僕がそういう遊戯をしたのは実際ですが、ただ自分のために、自分の楽しみのためにそんな遊戯をしたっていうのは、ぜんぜん中傷です。僕はこのことがあなたの耳にも入ってると思う相当の根拠を持っていますが、しかし、僕は自分のためにそんなことをしたんじゃありません。子供連のためにしたんです。なぜって、あの連中は僕がいなけりゃ、何にも考えだすことができないからです。この町ではいつもつまらない噂をひろげていますからね。この町は中傷の町ですよ、本当に。」
「だって、自分のためだって、べつにどうということはないじゃありませんか?」
「え、自分のために……あなただって、まさか馬ごっこをしないでしょう?」
「じゃ、こういうふうに考えてごらんなさい」とアリョーシャは微笑した。「たとえば、大人は芝居を見に行きますね。だが、芝居でもやはりいろんな人物の冒険が演ぜられるんです。どうかすると、強盗や戦争さえ出て来ます。これだって、やはり一種の遊戯じゃありませんか! 若い人たちが気ばらしに盗賊ごっこをするのは、やはり芸術欲の発展なんです。若い心に芸術欲が芽生えるからです。そして、こういう遊戯はどうかすると、芝居よりももっと手ぎわよく仕組まれることさえあります。ただ違うところは、芝居へ行くのは役者を見るためですが、遊戯のほうでは子供たち自身が役者だってことでしょう。しかも、それは自然なことです。」
「あなたはそうお考えですか? それがあなたの信念なんですね?」コーリャはじっと彼を見た。「あなたのおっしゃったことは非常に面白い思想です。僕もきょう家へ帰ったら、この問題について、少し頭を働かしてみましょう。実際あなたからは何か教えられるだろうと、僕も予期してたんですよ。カラマーゾフさん、僕はあなたから教えを受けようと思って、やって来たんですよ。」コーリャは感動の充ち溢れるような声で、しみじみと言葉を結んだ。
「私も君からね。」アリョーシャは彼の手を握って、にっこりした。
 コーリャはひどくアリョーシャに満足した。ことにコーリャを感動させたのは、アリョーシャがまったく同等な態度で彼を遇し、まるで『大人』と話しをするようにものを言うことであった。
カラマーゾフさん、僕は今あなたに一つ手品をお目にかけますよ。これもやはり一つの芝居なんですよ。」彼は神経的に笑った。「僕はそのために来たんです。」
「はじめまず左へ曲って、家主のところへ行きましょう。そこでみんな外套を脱いで行くんです。なぜって、部屋の中は狭くってむし暑いんですから。」
「なあに、僕はただちょっと入って、外套のままでいますよ、ペレズヴォンはここの玄関に残って死んでいますよ。『ペレズヴォン、|お寝《クーシュ》、そして死ぬんだ!』どうです、死んだでしょう。ところで、僕がさきに入って中の様子を見て、それからちょうどいい時に口笛を鳴らして、『|来い《イシ》、ペレズヴォン』と呼ぶと、見ててごらんなさい。すぐ、気ちがいのように飛び込んで来ますよ。ただ、スムーロフ君が、その瞬間、戸を開けることを忘れさえしなければいいです。まあ、僕がいいように手くばりして、その手品をお目にかけますよ……」

[#3字下げ]第五 イリューシャの寝床のそばで[#「第五 イリューシャの寝床のそばで」は中見出し]

 もはやわれらにとって馴染みの深いその部屋には、同じく馴染みの深い休職二等大尉スネギリョフの家族が住まっていたが、このとき狭い部屋の中は大勢の人で一ぱいになって、息苦しいほどであった。幾たりかの子供たちも、イリューシャのそばに腰かけていた。彼らはみんなスムーロフと同じように、アリョーシャに曳きずられてイリューシャと仲直りしたことを、否定したいような心持でいたが、事実はやはりそうであった。この場合、アリョーシャの腕前は、『仔牛の愛情』をぬきにして、わざとらしくないように偶然をよそおいながら、子供たちを一人一人、イリューシャと和解させたことである。で、これはイリューシャの苦悶をやわらげるのに、あずかって力があった。以前敵であったこれらの子供たちが、自分に対して優しい友誼と同情を表してくれるのを見ると、イリューシャはひどく感動した、ただ一人クラソートキンのいないことが、彼の心中に恐ろしい重石となって横たわっていた。もしイリューシャの苦い追憶の中に、最も苦いものがあるとすれば、それは例のクラソートキンとの挿話であった。クラソートキンは彼にとって、唯一の親友でもあれば保護者でもあったのに、彼はあのとき、ナイフをふるってその人に飛びかかったのである。賢い少年スムーロフ(一ばん先にイリューシャと仲直りに来た)も、そう思っていた。けれど、スムーロフが遠廻しに彼に向って、アリョーシャが、『ある用事のために』訪ねて来ようと思っていると伝えた時、クラソートキンはすぐ、取りつく島もないように、きっぱりそれを拒絶して、自分がどんな行動をとるべきかは、自分でちゃんと知っているから、誰からも忠告などしてもらいたくない。もし病人のところへ行く必要があれば、自分には『自分の考え』があるから、いつ見舞いに行くか自分で決める、――とさっそく、こんなふうに『カラマーゾフ』に伝えるよう、スムーロフに依頼したのである。それは、まだこの日曜から二週間も前のことであった。こういうわけで、アリョーシャは自分でクラソートキンのところへ行く計画を断念してしまったが、しかしなお一両度、スムーロフをクラソートキンのところへ使いにやった。が、二度ながら、クラソートキンは恐ろしくいらいらした烈しい言葉で、断然その要求を拒絶してしまった。そして、もしアリョーシャが自分で来たら、決してイリューシャのところへ行かないから、この上うるさくしないでくれ、とアリョーシャに答えさせた。で、スムーロフさえこの最後の日まで、コーリャが今朝イリューシャ訪問を決したことを知らなかった。ところが、コーリャは前の晩スムーロフと別れる時、一緒にスネギリョフのところへ行くから、あす家で待っていてくれ、しかし、自分はだしぬけに行きたいのだから、決して誰にも知らせてはいけない、とこう突然に言いだしたのである。スムーロフは承知した。彼はある時クラソートキンが、『ジューチカがもし生きているとしたら、それを捜しだすことができなけりゃ、やつらはみんな驢馬だ』と何げなく言った言葉を根にもって、きっとクラソートキンは行方不明になったジューチカを連れて来るに違いない、と想像していた。けれど、スムーロフが折を見て、その犬に関する推察をおずおずとほのめかした時、クラソートキンは急にかんかんになって怒りだした。「僕にはペレズヴォンというものがあるのに、人の犬なんか町じゅう捜し廻るような馬鹿だと思うのかい、それにピンを呑み込んだ犬が生きてるなんて、そんなことがどうして考えられるものか。それは仔牛の愛情だよ、それっきりさ!」
 ところが、イリューシャはもうほとんど二週間も、片隅の聖像のそばにある小さな寝床から離れなかった。アリョーシャに逢って指に噛みついて以来、学校へも行かないでいた。彼はその日から発病したのである。もっとも、当座一カ月ばかりはときどき寝床から起きて、部屋の中や玄関などをぶらつくこともできたが、今はすっかり弱ってしまって、もう父親に手つだってもらわなければ、身動きさえもできなかった。父親は心配しておどおどしていた。酒もすっかり断って、愛児が死にはしないかという懸念のために、ほとんど気ちがいのようになっていた。ことに、彼の腕をとって部屋の中を歩かせてから、寝床へ寝かしつけたあとなど、いきなり玄関の暗い片隅へ走り出て、額を壁に押しつけたまま、イリューシャに聞えぬように声を忍ばせ、身を慄わして、さめざめと啜り泣くこともたびたびあった。
 部屋へ帰ると、彼は愛児を楽しませ慰めるために、昔噺や滑稽談を聞かせたり、あるいは自分が見たおかしな人たちの真似をしたり、動物の滑稽な吠え声や啼き声まで真似てみせた。けれども、イリューシャは父親がそうした滑稽な、道化めいたことをするのをひどくいやがった。少年はその不快さを現わさないように努めたが、しかし、父親が世間から馬鹿にされているということを、心臓の痛いほど意識しては、しじゅう『糸瓜』のことや、例の『恐ろしい日』のことなどを、たえまなく思いうかべていた。しとやかで、つつましい、脚の悪い姉のニーノチカも、やはり父のおどけを好まなかった(ヴァルヴァーラ・ニコラエヴナはもうとっくにペテルブルグへ勉強に行っていた)。しかし、半気ちがいの母親はひどくそれを面白かって、自分の夫がもの真似をしたり、何か滑稽な身振りを始めたりすると、心底から笑いだすのであった。彼女を慰めるものはただこれだけなので、そのほかのときは、もうみんなに忘れられてしまったとか、誰も自分を尊敬してくれないとか、みんなに馬鹿にされてばかりいるとか言って、ひっきりなしにぼやいたり泣いたりしていた。が、近来彼女も急に何となく変ってきたように見える。そして、部屋の隅に寝ているイリューシャを見ては、ふかいもの思いに沈むのが常であった。ひどく沈んで無口になり、よしんば泣きだすにしても、聞かれないように低い声で泣いた。二等大尉は彼女のこの変化に気づいて苦しい疑惑を感じた。子供たちの訪問は、最初あまり彼女の気に入らず、ただ腹を立てさせるだけであったが、やがて、その快活な叫びや話し声は彼女の気をまぎらすようになり、とどのつまりは、すっかり気に入ってしまった。もし子供たちが来なくなったら、彼女はひどくふさぎ込んだに違いない。子供たちが何か話をしたり、遊戯でも始めたりすると、彼女はきゃっきゃっと笑って、手を拍つのであった。時には自分のそばへ呼び寄せて、接吻さえした。とりわけ少年スムーロフを愛した。
 二等大尉にいたっては、イリューシャを慰めに来る子供たちの来訪を、最初から満身の歓喜をもって迎えていた。そのために、イリューシャがくよくよしなくなり、はやく回復に向うだろうという希望さえいだくのであった。彼はイリューシャの病状に不安を持っていたが、最後の瞬間まで、愛児が急によくなるに相違ないということを、つかの間も疑わないのであった。で、彼は小さい客たちをうやうやしく迎えて、そのそばを歩き廻ったり、世話をやいたりするばかりか、彼らを抱いて歩かないばかりであった。実際、一ど抱こうとしたことさえある。けれど、こんな冗談はイリューシャの気に入らなかったので、彼もすぐやめてしまった。彼は子供たちのために薑餅《しょうがもち》や、胡桃などを買って来たり、お茶をわかしたり、サンドイッチを作ったりした。ここで言っておかなければならぬのは、彼はその時分、金廻りがよくなっていたことである。彼ははたしてアリョーシャの予言どおり、カチェリーナ・イヴァーノヴナからの二百ルーブリを受け取った。やがて、カチェリーナは彼らの事情や、イリューシャの病気などをくわしく知ったので、自分から彼らの住まいを訪れて、家族のもの全部と知合いになったうえ、巧みに半気ちがいの二等大尉夫人を魅惑してしまった。それ以来、彼女は金を惜しまなかった。息子が死にはしまいかという恐ろしい想念に圧倒された二等大尉は、以前の誇りを忘れて、おとなしくその施しを受けていた。そのころ医師のヘルツェンシュトゥベは、カチェリーナの依頼によって隔日に規則ただしく病人を見舞ったが、その診療の効果は、はかばかしく見えなかった。彼はただやたらに薬を病人につぎ込むばかりであった。が、そのかわり、この日、すなわち日曜日の朝、二等大尉の家では、モスクワから来たある一人の医師を待っていた。それはモスクワで非常に評判の医師で、カチェリーナがわざわざ手紙をやって招いたのである。それはイリューシャのためではなく、ほかにある目的があったのだけれど、それはあとで話すことにして、とにかく、せっかく医師が着いたので、彼女はイリューシャの診察をも依頼した。このことは二等大尉もあらかじめ知らせを受けていた。
 愛児イリューシャが、絶えず苦にしているコーリャの見舞いを、彼はとうから待ち望んでいたのだが、今だしぬけにやって来ようとは夢にも思わなかった。コーリャが戸を開けて部屋の中へ現われた瞬間、二等大尉も子供たちもみんな病人の寝床のそばに集って、たった今つれて来た小さなマスチフ種の仔犬を見ていた。それは昨日生れたばかりなのだが、行方不明になってむろんもう死んだはずのジューチカのことをしじゅう苦に病んでいるイリューシャを慰めて気をまぎらすために、一週間も前から二等大尉がもらう約束をしていたものである。で、もう三日も前から小さい仔犬、それもありふれたものでなく、純粋のマスチフ種(これがむろん非常に重要な点であった)の仔犬を持って来てくれるということを、ちゃんと聞いて知っていたイリューシャは、微妙な優しい心づかいのために、この贈物を喜ぶようなふりをして見せていたが、その新しい仔犬がかえって彼の心に、かつて苦しめた不幸なジューチカの思い出を一そう強めるかもしれぬということは、父親にも子供たちにもはっきりわかっていたのである。仔犬は彼のそばに横たわってうごめいていた。彼は病的な微笑をうかべながら、痩せ細った青白い手で仔犬を撫でた。仔犬は確かに彼の気に入ったらしかったが……しかし、それでもやはりジューチカではなかった。やはりジューチカはいなかった。もしジューチカと仔犬が一緒にそこにいたなら、それこそ完全な幸福を感じたことであろうに!
「クラソートキンだ!」一番にコーリャの入って来るのを見つけた一人の子供が、突然こう叫んだ。と、室内には明らかに動揺が起った。子供たちはさっと道を開いて、寝床の両側に並んだので、途端に病床のイリューシャがすっかり見えた。二等大尉はまっしぐらにコーリャのほうへ駈け寄った。
「どうぞお入り下さい、どうぞお入り下さい……大事なお客さん!」と彼はコーリャに呟いた。「イリューシャ、クラソートキンさんがお前を見舞いに来て下すったよ……」
 しかし、クラソートキンは、まず彼に手を与えて、社交上の礼儀作法に関する驚くべき知識を示した。彼はまっさきに、安楽椅子に腰かけている二等大尉夫人のほうへ向いて(彼女はちょうどこの時ひどく不機嫌であった。そして子供たちがイリューシャの寝床を遮った、自分に新しい仔犬を見せてくれないと、ぶつぶつ小言をいっていた)、きわめて慇懃に足摺りをし、次にニーノチカのほうへ向きを換えて、一個の婦人として同様に会釈をした。この慇懃なふるまいは、病める夫人にきわめて快い印象を与えた。
「この人はお若いけれど、立派な教育のおあんなさることがすぐわかりますわ」と彼女は両手をひろげながら、大きな声で言った。「ところが、ここにいるほかのお客さんたちときたら、まあ、何ということでしょう、お互いに乗っかりっこなんかして入って来てさ。」
「何だよ、おっ母さん、お互いに乗っかりっこするなんて、一たいそれは何のことだね?」と二等大尉は愛想よく囁いたが、いくらか『おっ母さん』を心配しているふうであった。
「玄関のところで、お互いに肩に乗っかって入って来るんですよ。れっきとした家へ、肩車で入って来るなんて、何というお客さんでしょう?」
「では、誰が、誰がそんなことをして入って来たんだね、おっ母さん、誰が?」
「今日は、ほら、あの子はこの子の肩に乗ってるし、またこの子はあの子の上に乗ってさ……」
 けれど、コーリャはもうイリューシャの寝床のそばに立っていた。病人は見る見るさっと蒼くなった。彼は寝台の上に身を起して、じっとコーリャを見つめた。こちらはもう二カ月も、以前の小さい親友を見なかったので、愕然としてその前に立ちどまった。こんなやつれて黄いろくなった顔や、熱に燃えて何だかひどく大きくなったような目や、こんな痩せ細った手などを見ようとは、想像することもできなかったのである。彼はイリューシャがおそろしく深い、せわしそうな息づかいをしているのや、唇がすっかり乾ききっている様子などを、悲痛な驚きをもってうちまもった。彼はイリューシャのほうへ一歩あゆみ寄って手をさし伸べると、ほとんど喪心したような様子でこう言った。
「え、お爺さん……どうしたね?」
 けれども、その声は途切れて、磊落な調子が持ちきれなかった。彼の顔は突然ぴくりと痙攣し、唇のあたりで何かがわなわなと慄えた。イリューシャは病的ににこっとしたが、やはり言葉を出すことができなかった。コーリャは急に手を上げて、何のためかイリューシャの髪を掌で撫でた。
「なに……大……丈夫……だよ!」と彼は静かにイリューシャに囁いた。それは相手に力をつけるためというわけでもなく、自分でもなぜかわからずにそう言ったのである。二人はまたしばらくだまっていた。
「それは何だね、新しい仔犬かね?」コーリャはおそろしく無表情な声で、突然こう訊いた。
「そう……で……す」とイリューシャは息を切らせながら、囁くように長く声を曳いた。
「鼻が黒いから、こりゃ猛犬だよ、鎖に繋いでおくやつなんだよ。」いかにも仔犬とその黒い鼻だけが刻下の大問題であるかのように、コーリャはもったいらしく、きっぱりと言った。が、その実、彼は『ちっちゃな子供』のように泣きだすまいと、内部に起ってくる感情を抑えるため、しきりに努力しているのであったが、やはりどうしても抑えきれなかった。「大きくなったら、鎖に繋いでおかなきゃならないようになるよ。僕ちゃんとわかってる。」
「この犬は大きくなるよ!」むらがっている子供の一人がこう叫んだ。
「そりゃ、マスチフ種だもの、大きくなるにきまってるさ。こんなに、牛の仔くらいになるよ。」ふいに幾たりかの声が響き渡った。
「牛の仔くらいになりますとも、本当に牛の仔くらいになりますとも」と二等大尉はそばへ飛んで来た。「私はわざとそういう素敵な猛犬を捜したんです。そいつのふた親もやはり大きな猛犬でね、背の高さが床からこのくらいもありましたよ……どうかおかけ下さい、イリューシャの寝台の上か、でなければ、こちらのベンチへ。どうぞおかけ下さい、大事なお客さま、長いあいだ待ちこがれていたお客さま……アレクセイさんと一緒においで下さったんですな?」
 コーリャは、イリューシャの寝台の脚の辺に腰をおろした。彼はざっくばらんに話を始めようと思って、みちみち用意して来たのだけれど、今はすっかり糸口を失ってしまった。
「いいえ、僕ペレズヴォンと一緒に……僕は今ペレズヴォンという犬を飼っています。スラヴ流の名前なんです。あそこに待っていますが……僕が一つ口笛を鳴らすと、すぐ飛び込んで来ます。僕も犬を連れて来たんだよ。」彼はふいにイリューシャのほうに向った。「お爺さん、ジューチカを覚えてるかね?」彼はだしぬけにこう訊いて、イリューシャをぎょっとさせた。
 イリューシャの顔は歪んだ。彼は悩ましげにコーリャを見やった。戸口に立っていたアリョーシャは顔をしかめながら、ジューチカの名を口に出すなという意味を、そっと頭で合図したが、コーリャはそれに気がつかなかった、あるいは気がつこうとしなかったのかもしれない。
「ジューチカはどこにいるの?」とイリューシャは引っちぎったような声で訊いた。
「ちょっ、君のジューチカなんか、――駄目だよ! 君のジューチカは行方不明じゃないか!」
 イリューシャは口をつぐんだが、もう一度じいっとコーリャを見た。アリョーシャはコーリャの視線を捕えて、またしきりと頭を振って合図したが、コーリャはつと目をそむけて、今度もやはり気がつかないようなふりをした。
「どこかへ駈け出して、行方不明になったんだ。あんなご馳走を食ったんだもの、いなくなるにきまってるじゃないか」とコーリャはなさけ容赦もなく、切って捨てるように言ってのけたが、自分もひどく息をはずませているらしかった。「そのかわり、僕にはペレズヴォンという犬がある……スラヴ流の名前でね……君のところへ連れて来たんだ……」
「いらない!」とイリューシャはいきなりそう言った。
「いや、いや、いるよ、ぜひ見たまえ……君も喜ぶよ。僕わざと連れて来たんだ……あの犬みたいに、やはり尨毛なんだよ……奥さん、ここへ僕の犬を呼んでいいですか?」彼は不思議にも極度の興奮を感じながら、突然スネギリョーヴァ夫人に向ってこう言った。
「いらない、いらない!」とイリューシャは悲しげな、引っちぎったような声で叫んだ。彼の目には非難の色が燃えていた。
「もしあなた………」二等大尉は、壁のそばにおいてある大箱に腰をかけようとしたが、急につと立ちあがった。「あなた……一つまた今度……」と彼は呟いたが、コーリャは無理ひたいに大尉の言葉を遮りながら、突然、「スムーロフ、戸を開けてくれっ!」と叫んだ。そして、スムーロフが戸を開けると同時に、ぴっと呼子を鳴らした。と、ペレズヴォンが一散に部屋の中へ駈け込んだ。
「跳ねるんだ、ペレズヴォン、芸だ! 芸だ!」とコーリャはいきなり席を立ちあがって叫んだ。犬は後脚で立って、イリューシャの寝床の前でちんちんをした。と、思いがけないことが起った。イリューシャはぶるぶると身ぶるいをして、急に力一ぱい体を前へ突き出し、ペレズヴォンのほうへかがみ込んで、茫然感覚を失ったようにその犬を見た。
「これは……ジューチカだ!」彼は苦痛と幸福にひび割れたような声で叫んだ。
「じゃ、君は何だと思ったんだね?」とコーリャはかん高い嬉しそうな声で、力一ぱいに叫んだ。そして、犬のほうへかがみ込んで掴まえると、イリューシャのほうへ抱き上げた。
「見たまえ、お爺さん、ね、目が片っ方ないだろう、左の耳が裂けてるだろう、君が話して聞かせた目印と、寸分ちがわないよ。僕はその目じるしでこの犬を捜したんだ。しかも、あの時すぐに捜し出したんだ。この犬は誰のものでもなかったんでしょう。この犬は誰のものでもなかったんでしょう!」彼は二等大尉や、その細君や、アリョーシャや、それからまたイリューシャを見まわしながら、早口に説明した。「この犬はフェドートフの家の裏庭にいたんだ。そこに垂れ込もうとしたんだけど、あすこで食べものをやらなかったんだよ。ところが、先生、田舎から逃げ出した犬でね……僕はそれを捜し出したんだ……ね、お爺さん、この犬はあの時、君のパンを呑み込まなかったんだよ。もし、呑み込んでれば、むろんもう死んでいるはずだ、むろんそうだとも! いいあんばいに、早く吐き出したんだよ、――こうして、まだ生きてるところを見るとね。ところが、君は吐き出したのに気がつかなかったんだよ。吐き出しはしたが、やはり舌を突かれたんで、あの時きゃんきゃん鳴いたんだ。そして、鳴きながら駈け出したもんだから、君はすっかり呑み込んだものと思ったんだ。そりゃ鳴いたのも無理ないよ。だって、犬の口ん中の皮はとても華奢なんだもの……人間のより柔かいんだ、ずっと柔かいんだ!」とコーリャは猛烈な勢いで叫んだ。彼の顔は喜びのために燃えるように輝いていた。
 イリューシャは口をきくこともできなかった。彼は口をぽかんと開けて、布ぎれのように青ざめた顔をしながら、何だかひどく飛び出たような大きな目で、じっとコーリャを見つめていた。コーリャもこういう瞬間の病人に与える影響が、どれほどまでに恐ろしく、致命的なものであるかを知っていたら、決してこんなとっぴなことをしなかっただろう。が、そこにいるものでこれに気がついたのは、ただアリョーシャ一人だけだったかもしれない。二等大尉はというと、まるで小さな子供になりきったようであった。
「ジューチカ! では、これがジューチカですかい?」と彼は有頂天な声で叫んだ。「イリューシャ、これがジューチカだよ、お前のジューチカだよ! おっ母さん、これがジューチカだよ!」
 彼はもう泣きださないばかりであった。
「ああ、僕はこれに気がつかなかったんだからなあ」とスムーロフは悲しそうに叫んだ。「やっぱり、クラソートキンはえらいや! 僕はこの人がジューチカを捜し出すに相違ないって言ったが、本当に捜し出したよ。」
「本当に捜し出した!」とまた誰かが嬉しそうに応じた。
「クラソートキンはえらい!」ともう一人の声が響いた。
「えらい、えらい!」と子供たち一同は叫んで、拍手を始めた。
「まあ、待ちたまえ、待ちたまえ。」コーリャは一同を呶鳴り負かそうとやっきになった。
「僕は君らに事情を話そう、その事情が一番の山なんだよ、ほかのことなんかつまらないや! 僕はこの犬を捜し出すと、家へ連れてかえって、すぐに隠してしまったのさ。家の中へ、錠で閉じ籠めてしまったんだ。こうして、つい近頃まで、誰にも見せなかった、ただスムーロフ一人だけは、二週間ばかり前に知ったけれど、僕がこれはペレズヴォンだと言ってだましたので、スムーロフも気がつかなかったんだ。ところが、僕は合いの手にこのジューチカにいろんな芸当を教えた。いま君らに見せるがね、こいつがどんな芸当を覚えてるか見てくれたまえ! それはね、お爺さん、よく教え込まれて馴れきった時に、君んとこへ連れて来ようと思ったからだよ。『ほら、お爺さん、君のジューチカはこんな犬になったよ!』って、君に自慢しようってわけなんだ。ところで、あなたのところに何か牛肉の切れでもありませんかね、こいつが今あなた方に一つ芸当をやってお目にかけます。あなた方が腹をかかえて笑うようなやつをね。牛肉の切れ、一たいお宅にないんですか?」
 二等大尉は玄関を通り抜けて、自分たちの賄いをしてもらっている家主の住まいへ、一目散に駈け込んだ。コーリャは貴重な時間を失うまいと、むやみにせき込んで、『死ね!』とペレズヴォンに叫んだ。すると、犬は途端にくるくる廻ると、仰向けに寝ころんで、四つ足を上にしたまま、じっと死んだふりをしていた。子供たちは笑った。イリューシャは依然として、悩ましげな微笑をうかべながら眺めていた。しかし、ペレズヴォンの死んだ真似は、誰よりも一ばん『おっ母さん』の気に入った。彼女は犬を見て大声に笑いながら、指をぱちぱちと鳴らして呼んだ。
「ペレズヴォン、ペレズヴォン!」
「どんなにしたって起きやしませんよ、どんなにしたって。」コーリャは得意になって、勝ち誇ったように叫んだ。(もっとも、その自慢は正当なものであった)。「たとえ世界じゅうの人が呶鳴ったって、起きやしませんよ。ところが、僕が呼びさえすれば、すぐに飛び起きます! Ici, ペレズヴォン!」
 犬は飛び起きて、くんくん鳴きながら、嬉しそうに跳ねだした。二等大尉は煮た牛肉を一きれ持って駈けつけた。
「熱くはありませんか?」コーリャは肉を受け取りながら、事務的な調子で訊いた。「いや、熱くはない。犬は熱いものを好きませんからね。さあ、みなさん、ごらんなさい……イリューシャ、見たまえ、さあ、見たまえったら、お爺さん、見たまえ、どうして君は見ないんだね? 僕がわざわざ連れて来たのに、イリューシャは見てくれないんだからなあ!」
 新しい芸当というのはこうである。じっと立って顔を突き出している犬の鼻の真上に、うまそうな肉の切れをのせると、可哀そうに、犬は鼻の上に肉の切れをのせたまま、主人の命令がないかぎり、三十分間でも一時間でも身動き一つせず、じっと立っていなければならないのであった。
「それっ!」と、コーリャは叫んだ。すると、肉はたちまちペレズヴォンの鼻から口の中へ飛び込んだ。
 見物の人たちはもちろん、みな感嘆の声をもらした。
「じゃ、君はただ犬を教え込んでいたために、今まで来なかったんですか?」アリョーシャは思わず、なじるような調子になってこう叫んだ。
「むろんそうです!」とコーリャは思いきって平気な声で言った。「僕はこの犬の立派に仕あがったところを見せたかったんです。」
「ペレズヴォン! ペレズヴォン!」イリューシャは犬を招きながら、急にその痩せ細った指をぱちぱちと鳴らした。
「どうするんだね! それよか、こつい[#「こつい」はママ]を君の蒲団の上へ飛びあがらせたらいいじゃないか。Ici, ペレズヴォン!」コーリャは掌で蒲団の上をぽんと叩いた。
 すると、ペレズヴォンは矢のようにイリューシャのそばへ飛びあがった。イリューシャはやにわに犬の頭を両手で抱いた。と、ペレズヴォンはすぐそのお礼に彼の頬を舐めまわした。イリューシャは犬を抱きしめて、寝床の上に身を横たえ、その房房とした毛の中に頭を埋めてしまった。
「おお、おお!」と二等大尉は叫んだ。
 コーリャはまたイリューシャの寝床の上に腰をおろした。
「イリューシャ、僕はもう一つ君に見せるものがあるんだ。僕は君に大砲を持って来たんだよ。君、憶えてるだろう! あのとき君にこの大砲のことを話したら、君は『ああ、僕にもそれを見せてもらいたいなあ!』と言ったろう。だから、きょう僕が持って来たんだ。」
 この言って[#「この言って」はママ]、コーリャはせき込みながら、自分の鞄の中から銅の大砲を取り出した。彼がせき込んだのは、自分でも非常な幸福を感じていたからである。ほかの時なら、彼はきっと、ペレズヴォンによって惹起された効果が鎮まるのを、じっと待っていたであろうが、しかし、このときは、『それだけでもお前は幸福なんだが、まだその上に、ほら、もっと幸福を授けてやるよ!』とでもいうような気持で、一切の自己制御を無視しながら、ひどくせき込んでしまったのである。彼自身もすっかり酔ったようになっていた。
「僕はこの大砲をね、もうずっと前からモローゾフという官吏

『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P048-P095

たような気持がいたしますわ……あなたはここで勤めていらっしゃるのでございますって? それはまあ、何より嬉しいことでございますわ……」
 こう言いながら、夫人はもう半切の書簡箋に、大きな字で次の文句をさらさらと手早くしたためた。
『わたくしはいまだかつてかの不幸なるドミートリイ・カラマーゾフ氏に(何というとも彼はいま不幸なる身の上なれば)、三千ルーブリの金を与えたることなきのみならず、一度たりとも金銭の貸与をしたることなし! 世界にありとあらゆる聖きものをもってこの言葉の真なるを誓う。
[#地付き]ホフラコーヴァ』
「さあ、書けました!」と夫人はくるりとペルホーチンのほうへ振り向いて、「さあ、行って助けておあげなさい。それはあなたにとって偉大なる功業ですわ。」
 と夫人は彼に三ど十字を切ってやった。彼女は駈け出して、控え室まで見送った。
「わたし本当にあなたに感謝いたしますわ! あなたがわたしのところへ第一番に寄って下すったということを、わたしがどれくらい感謝しているか、あなたにはとても想像がおつきにならないでしょう。どうして今までお目にかからなかったのでしょうねえ? これからも宅へお遊びにいらして下さいましたら、わたしどんなにか嬉しゅうございましょう。それに、あなたがこの町で勤めていらっしゃると伺って、ほんとうに愉快でございますわ……まあ、あなたは、なんて正確な、なんて機転のきいたお方なんでしょう……ほかの人もあなたを尊敬するに相違ありません、あなたを理解するに相違ありません。わたしも自分でできるだけのことは、あなたのために、ねえまったく……ええ、わたしはお若い方が大好きなのでございます! わたし今の若い人たちに惚れ込んでいるのでございます。若い人たちは今の苦しめるロシヤの礎《いしずえ》でございます、希望でございます……さあ、いらっしゃい、いらっしゃい……」
 しかし、ペルホーチンはもう駈け出してしまった。でなかったら、夫人はなかなか、こんなに早く放しはしなかったろう。もっとも、ホフラコーヴァ夫人は彼にかなり気持のいい印象を与えた。そればかりか夫人の印象は、こんな穢らわしい事件に巻き込まれたという彼の不安を、幾分やわらげてくれたほどである。わかりきった話であるが、人間の趣味はずいぶんさまざまなものである。『それに、あの人は、決してそんなに婆さんじみちゃいない』と彼はいい気持になってこう考えた。『それどころか、僕はあのひとをあそこの娘さんかと思ったくらいだ。』
 当のホフラコーヴァ夫人にいたっては、もうすっかりこの若紳士に魅了されていた。『何という如才のない、几帳面な人だろう! 今どきの若い人に似合わないことだ、しかも起居振舞いが見事で、男まえもなかなかいい。今どきの若い者は何一つできないって、よく人が言うけれど、一つあの方を見せてやりたいものだ、云々、云々。』かような次第で、彼女はこの『恐ろしい出来事』をほとんど忘れてしまっていたが、ようやく床につくだんになって、自分がほとんど『死のすぐそばに』立っていたことをふと思い起し、『ああ、恐ろしいことだ、恐ろしいことだ!』と言ったが、たちまちぐっすり甘い眠りに落ちてしまった。もっとも、筆者《わたし》はこんな些末な挿話を、ああまで詳しく物語るはずでなかったのだが、若い官吏とまだ大して年をとっていない未亡人とのこのとっぴな対面は、後にいたって正確で几帳面な青年の出世の緒となったのである。このことは今でも町の人が、驚異の念をいだきながら語り合っている。筆者《わたし》もカラマーゾフの兄弟に関する長い物語を終った後で、別にこのことを話すかもしれない。

[#3字下げ]第二 警報[#「第二 警報」は中見出し]

 この町の警察署長ミハイル・マカーロヴィッチ・マカーロフは、文官七等に転じた休職中佐で、やもめ暮しの好人物であった。彼は僅々三年前にこの町へ赴任して来たのであるが、もう今では世間一般の人から、好意をもって迎えられるようになった。そのおもな理由は、『社交界を引き締めてゆく技倆をもっている』からであった。彼の家には来客が絶えなかった。また彼も、客というものなしには生きて行かれないらしかった。毎日、誰かしら必ずやって来て食事をした。たとえ一人でも二人でも、とにかく客がいなかったら、彼はてんで食卓に向おうとしなかった。さまざまな口実、時によると突拍子もない口実をもうけて、正式に客を食事に招待することもたびたびあった。出されるご馳走は、山海の珍味ではないまでも、確かに豊富であった。魚肉饅頭もなかなか上等なものだし、酒も、質をもって誇ることはできなかったが、その代り量のほうでは、ひけをとらなかった。応接室には球撞台があって、ぜんたいの調度も非常に念入りなものであった。つまり、独身ものの球撞室に必要欠くべからざる装飾となっている英国産の駿馬を描いた黒縁の額が、四方の壁にかけつらねてあるのであった。よし人数は少くても、毎夜カルタの勝負が行われた。けれど、またこの町の上流の人たちが、母夫人や令嬢たちをつれて舞踏会に集ることもたびたびであった。
 ミハイルはやもめになっていたけれども、やはり家庭生活をしていた。彼のところには、もうとっくに後家になった娘が来ていた。彼女もやはり、ミハイルにとっては孫娘にあたる二人の令嬢の母親であった。令嬢はもう年頃で、学業も終っていた。器量も十人並みだし、活発な気だてでもあるので、持参金など一文もないことは周知であったにもかかわらず、この町の社交界の青年たちは令嬢の家に引きつけられていた。ミハイル・マカーロヴィッチは、事務にかけてはあまり腕ききとも言えないが、自分の責任をはたすことにおいては、決して人後に落ちなかった。手っとり早く言えば、彼はほとんど無教育といってもいいくらいな男で、自分の行政上の権限をもはっきり理解していないほど無頓着な人間であった。彼は現代の改革についても、十分に意味を掴むことができなかったのみならず、どうかすると、目立って間違った解釈をすることもあった。これは何か特別な無能のためではなく、単に無頓着な性格に由来するのであった。彼は物事を落ちついて考えている暇がなかったのである。『みなさん、わしの性質はどっちかというと軍隊向きで、文官には向かんのですよ。』こう彼は、自分で自分の批評をすることもあった。彼は農奴制度改革の確実な根底に関してさえ、まだこれという堅固な観念を掴んでいなかったらしく、一年一年知らず識らずのうちに、実地のほうから知識を殖やして行きながら、やっと改革の根底を悟ったような始末である。そのくせ彼は地主なのであった。
 ペルホーチンは、今夜もきっとミハイル・マカーロヴィッチのところで誰か来客に出会うに相違ないと思った。けれども、誰かということはわからなかった。しかし、この時ミハイル・マカーロヴィッチのところへは、まるで誂えたように検事が来ていて、地方庁医のヴァルヴィンスキイとカルタを闘わしていた。この医者はつい近頃、ペテルブルグからこの町へ来たばかりの若紳士であった。彼は抜群の成績でペテルブルグの医科大学を卒業した秀才の一人である。検事といっても、本当は副検事のイッポリート・キリーロヴィッチは(しかし、町ではみんな彼を検事と呼んでいた)、この町でも風変りな人間であった。まだ三十五という男盛りだが、非常に肺が弱かった。そのくせ、恐ろしく肥った石女《うまずめ》の細君を持っていた。彼は手前勝手な怒りっぽい性分であったが、いたって分別のしっかりした、心のすなおな男であった。彼の性格の欠点は、真価以上に自分を値踏みするところから生じるらしい。いつも落ちつきがないように思われるのは、つまりそれがためなのである。それに、彼は一種高尚な、芸術的ともいうべき野心を持っていた。例えば、心理的観察眼とか、人間の心に関する特別な知識とか、犯人とその犯罪を見抜く特別な才能とか、そんなものについて、自負するところが多かった。この意味において、彼は自分を職務上いくぶん不遇な地位にある除け者と自認していた。で、彼はいつも上官たちが自分の価値を認めてくれない、自分には敵がある、とこう思い込んでいた。あまり気のくさくさする時など、もういっそ刑事訴訟専門の弁護士にでもなってしまう、と脅かすのであった。思いがけなくカラマーゾフの親殺し事件が突発した時、彼はこれこそ『ロシヤ全国に知れ渡るような大事件だ』と考えて、全身の血を躍らせた。しかし、筆者《わたし》はまた先廻りしているようだ。
 隣室では町の若い予審判事が、令嬢と一緒に話していた。この男は、ニコライ・パルフェノヴィッチ・ネリュードフといって、つい二カ月前にペテルブルグからここへ赴任して来たのである。あとで町の人たちは、ちょうど『犯罪』の行われた夜に、こういう人たちがわざと申し合せたように、行政官の家に集っていたことを語り合って、奇異の感さえいだいた。が、これはきわめて単純な、きわめて自然な出来事であった。イッポリートは、前の日から細君が歯を病んでいたので、その呻き声の聞えないところへ逃げ出さなければならなかった。医者は晩になると、カルタをしないではいられない性分であった。ニコライはもう三日も前から、この晩だしぬけにミハイル・マカーロヴィッチのところへ行こうと思っていた。それは、ミハイル・マカーロヴィッチの長女オリガに不意打ちを食わしてやろうという、ずるい企らみなのである。彼はオリガの秘密を知っていた。というのは、この日は彼女の誕生日にあたるのだが、町じゅうのものを舞踏会に招待しなくてはならないので、これがいやさに、わざと町の社交界に知らすまいと思っていたのである。そのほか、あの人のことでまだうんと笑って、皮肉を言ってやろう、あの人は自分の年を知られるのを恐れているが、いま自分はあの人の秘密の支配者だから、明日になったらみんなに話して聞かせる、などと言って脅かしてやろう、――まだ若々しくって愛らしい彼は、こういうことにかけると人並みすぐれた悪戯者であった。この町の貴婦人たちは、彼のことを悪戯者と呼んでいたが、それがまたひどく当人の気に入っているらしかった。しかし、彼は非常に立派な階級と立派な家柄に属する人で、そのうえ立派な教育も受けており、また立派な感情をも持っていた。もっとも、彼はかなりの放蕩者であったが、それもごく罪のない、社交上の法則にかなった放蕩者であった。見かけから言うと、背が低くて、弱々しく優しい体質をもっていた。彼のほっそりとした青白い指には、いつも図抜けて大きな指環が幾つか光っていた。彼が職務を遂行するときには、自分の使命と義務を神聖視してでもいるように、いつもに似ずものものしい様子になるのであった。ことに平民出の殺人犯人や、その他の悪漢どもを審問する際に、難問をあびせて度胆を抜く手腕をもっていた。また実際、彼らの心中に敬意でないまでも、とにかく一種の驚異の念を呼び起すのであった。
 ペルホーチンは署長の家へはいると、たちまち度胆を抜かれてしまった。そこに居合す人々が、意外にも、もはや何もかも承知している。[#「している。」はママ]ということがわかったのである。いかにも、一同はカルタを抛り出して、総立ちになって評議していた。ニコライまでも令嬢たちのところから飛んで来て、戦争のような緊張した様子をしていた。まずペルホーチンがそこで耳にしたことは、本当にフョードルが今晩自宅で殺されて、そのうえ金まで取られたという恐ろしい報告であった。これはつい今しがた。[#「今しがた。」はママ]次のような事情で知れたのである。
 塀のそばで打ち倒されたグリゴーリイの妻マルファは、自分の蒲団の中でぐっすり寝込んでいたので、朝まで一息に眠ってしまうはずなのに、なぜか急に目がさめた。彼女の目をさましたのは、人事不省のまま隣室に横たわっているスメルジャコフの、癲癇もち特有の恐ろしい叫び声であった。いつもその叫び声と同時に、癇癪の発作が始まるので、その度ごとにマルファは、この声におびやかされて、病的な刺戟を受けるのであった。彼女はどうしても、その呻き声に慣れることができなかった。マルファは夢心地で飛び起きると、ほとんど無我夢中で、スメルジャコフの小部屋へ駈け込んだ。けれど、そこは真っ暗で、ただ病人が恐ろしく呻きながら、もがき始めた物音が聞えるのみであった。で、マルファも同様に叫び声を立てて、亭主を呼び始めたが、ふと自分が起きて来る時、グリゴーリイは寝台の上にいないようだった、と心づいた。彼女は寝台のそばに駈け戻り、改めてその上を探ってみると、案の定、寝台は空になっていた。してみると、どこかへ行ったのであろうが、一たいどこだろう? 彼女は入口の階段へ駈け出して、そこからおずおずと亭主を呼んでみた。もちろん返事はなかったが、その代り夜の静寂の中に、どこからともなく、遠く庭園のほうからでもあろうか、何か呻くような声がするのを聞きつけた。彼女は耳をすました。呻き声はまたしても繰り返された。その声がまさしく庭のほうから響いて来るのは、もう間違いなかった。『ああ、まるであのリザヴェータ・スメルジャーシチャヤの時みたいだ!』という考えが、彼女のかき乱された頭をかすめた。おずおずと階段を降りて、闇をすかして見ると、庭へ通ずる木戸が開いたままになっている。『きっとうちの人があそこにいるんだ。』彼女はそう考えて、木戸口のほうへ近よった。と、ふいにグリゴーリイが弱々しい、しかも恐ろしい呻き声で、『マルファ、マルファ!』と呼んでいるのを明瞭に聞き分けた。『神様、何か変ったことのありませんように!』とマルファは呟いて、声のするほうへ走って行った。こうして、彼女はついにグリゴーリイを見つけ出したのである。けれども、見つけた場所は、彼が打ち倒された塀のそばではなく、塀から二十歩も離れたところであった。これは後でわかったことだが、グリゴーリイは正気づいて、這い出したのである。おそらく幾度となく意識を失ったり、人事不省におちいったりしながら、長いこと這っていたものと思われる。彼女はすぐに、グリゴーリイが全身血みどろになっているのに気がついて、いきなりきゃっと叫んだ。
『殺した……親父を殺したんだ……何わめいてるか、馬鹿め……ひと走り行って呼んでこう……』とグリゴーリイは小さな声で、しどろもどろに囁いた。しかし、マルファは聞き分けようともせず、叫びつづけたが、ふと見ると、主人の居間の窓が開け放しになって、そこからあかりがさしているので、急にそのほうへ駈け寄って、フョードルを呼び始めた。しかし、窓から中を覗いた時、恐ろしい光景が目を射たのである。主人は床の上に仰向けになったまま、身じろぎもせず倒れていた。薄色の部屋着と真っ白いシャツは、胸のところが血に染まっていた。テーブルの上の蝋燭は、フョードルのじっとした死顔と、血潮の色を鮮かに照らしていた。この時、もう極度の恐怖におそわれたマルファは、窓のそばから飛びのいて、庭の外へ駈け出した。そして、門の閂をはずすや、一目散に裏口から、隣家のマリヤのところへ駈け込んだ。隣りの家では母親も娘も、その時もう眠っていたが、けたたましく窓の鎧扉をたたく物音と、マルファの叫び声に目をさまして、窓のそばへ駈け寄った。マルファは金切り声を出して、しどろもどろに叫びながら、それでも要点だけかいつまんで話したうえ、どうか加勢に来てくれと頼んだ。ちょうどその夜は二人のとこに、宿なしのフォマーが泊り合せていた。二人はすぐに彼を叩き起し、都合三人で、犯罪の現場へと駈け出した。その途中マリヤは、さっき九時ごろ、近所合壁へ響き渡るような、恐ろしい、たまぎるばかりの叫び声が、隣家の庭で聞えたことをようやく思い出した。むろん、それはグリゴーリイが、もう壁の上に馬乗りになっているドミートリイの足にしがみついて、『親殺しっ!』と叫んだ時の声であった。『誰か一声きゃっと言いましたが、それっきりやんでしまいましたわ』と、マリヤは走りながら言った。グリゴーリイが倒れているところへ駈け着くと、二人の女はフォマーの援けを借りて、老人を離れへ運んだ。あかりをつけて見ると、スメルジャコフはまだ鎮まらないで、自分の部屋の中でもがいている。目は一方へ引っ吊って、口からは泡が流れていた。一同は酢をまぜた水で、グリゴーリイの頭を洗った。彼はこの水のおかげで、すっかり正気づいて、すぐに『旦那は殺されたかどうだね?』と訊いた。二人の女とフォマーは、そのとき主人の部屋へ出かけたが、庭へ入ってみると、今度は窓ばかりでなく、室内から庭へ通ずる戸までが開け放されていた。ところが、主人はもう一週間この方というもの、毎晩夕方から自分の手で堅く戸を閉めて、グリゴーリイさえ、どんな用事があっても、戸をたたくことを許されなかったのである。その戸がいま開けられているのを見ると、彼ら一同、――二人の女とフォマーとは、急に主人のほうへ行くのを恐れ始めた。それは、『あとで何か面倒がもちあがったら大変だ』と思ったからである。しかし、彼らがあと返りして来た時、グリゴーリイは、すぐ警察署長のもとへ走って行くように言いつけた。そこで、マリヤはさっそく駈け出して行って、署長の家に集っている人たちを総立ちにさせたのである。それはペルホーチンの来訪に先立つこと、僅か五分であった。しかし、ペルホーチンはただ自分一個の想像や、推察をもって出頭したばかりでなく、ある事実の目撃者として、犯人が何者であるかという一同の推察を、事実の物語で立派に裏書きしたのである(とはいえ、彼はこの最後の瞬間まで、やはり心の奥底では、そうした推察を信ずることを拒んでいた)。
 一同は、全力をつくして活動するように決議した。そして、副署長にさっそく四個の証拠物件を集めるように委任し、一定の手続きを踏みながら(筆者《わたし》はここでその規則を一々絮説するのはやめにしよう)、フョードルの家へ入り込んで、現場の検査を始めた。まだ経験が浅くて熱しやすい地方庁医は、みずから乞うて、署長や検事や予審判事に同行することとした。筆者《わたし》はもう簡単に話すことにする。フョードルは頭を打ち割られて、こと切れていた。が、兇器は何であろう? たぶんそれは、あとでグリゴーリイを傷つけたと同じものに相違ない。彼らは、応急手当を加えられたグリゴーリイから、弱いたえだえな声ではあるが、前述の遭難事件に関する、かなり連絡のある話を聞き取ったので、さっそくその兇器を捜し出した。提灯を持って塀のあたりを捜しにかかると、庭の径のよく人目につく場所に、銅の杵が抛り出されているのが、見つかったのである。フョードルが倒れている部屋の中には、べつにこれという乱れたところもなかったが、衝立ての陰にある寝台に近い床の上に、厚ぼったい紙でできた、役所で使うような大形の封筒が落ちていた。それには『三千ルーブリ、わが天使グルーシェンカヘの贈物、もしわれに来るならば』、その少し下には『しかして雛鳥へ』と書いてあった。おそらく、あとからフョードルが自分で書き添えたのであろう。封筒には赤い封蝋で、三つの大きな封印が捺してあった。が、封はすでに切られて、中は空になっていた。金は持ち去られたのである。床の上には、封筒を縛ってあったばら色の細いリボンが落ちていた。
 ペルホーチンの申し立てた事柄のうち、ある一つの事実がなかんずく、検事と予審判事とに格別つよい印象を与えた。それはドミートリイが夜明け頃には、きっと自殺するに相違ないという推察であった。彼はみずからそれを決心して、そのことをペルホーチンに言ったり、相手の目の前でピストルを装填したり、遺書を書いて、かくしへしまったりした。ペルホーチンはそれでもやはり、彼の言葉を信じなかったので、これから出かけて行って、誰かにこのことを話したうえ、自殺を妨害すると言って嚇かしたとき、ミーチャはにたりと笑いながら、『もう間に合わないよ』と答えた。してみると、さっそく現場へ、モークロエヘ急行して、犯人が真実自殺を決するおそれのないうちに、捕縛してしまわなければならない。『それは明瞭です、それは明瞭です!』と検事は度はずれに興奮して、繰り返した。『こういう兇漢は、よくそんなことをするものです。明日は自殺するんだから、死ぬ前にひとつ騒いでやれ、といった気持なんですよ。』彼が商店で酒や食料を買って行ったという話は、ますます検事を興奮させるばかりであった。
『ねえ、みなさん、商人オルスーフィエフを殺した、あの若者を覚えておいででしょう。あいつは千五百ルーブリを強奪すると、すぐ床屋へ行って頭をわけた後、ろくに金を隠そうともしないで、やはり素手に掴まないばかりのありさまで、女郎屋へ繰り出したじゃありませんか。』けれども、フョードルの家の家宅捜索や、その他の手続きが一同をてまどらせた。これにだいぶ時間がかかったので、まず田舎に駐在している巡査のマヴリーキイ・シメルツォフを、一同より二時間ばかり前にモークロエヘやることにした。彼はちょうどいいあんばいにその前の朝、俸給を受け取りに町へ来たのである。一同はマヴリーキイに訓示を与えた。それはモークロエヘ着いたら、少しも騒ぎを起さないで、当路者の到着まで、怠りなく『犯人』を監視するとともに、証人や村の組頭などを呼び集めておけ、云々というのであった。マヴリーキイはその命を守った。彼は、自分の旧い知人であるトリーフォン一人に、機密の一部をもらしただけで、万事秘密に行動した。ミーチャが自分を尋ねている宿の亭主に暗い廊下で行き合って、その顔つきにも言葉つきにも、一種の変化が生じたのに感づいたのは、ちょうどこの時刻に相当していた。こうして、ミーチャもまたほかの人も、誰ひとりとして、自分たちが監視されていることを知らなかった。ピストルの入ったミーチャの箱は、もうとっくにトリーフォンのために盜まれて、安全な場所へ隠されていた。
 やがて、ようやく朝の四時すぎになって、夜が白んだころ、当路者たる署長と検事と予審判事とが、二台の箱馬車と二台のトロイカに分乗してやって来た。医師はフョードルの家に残っていた。それは、翌朝被害者の死体を解剖に付するためであった。が、しかしおもなる理由は、病気にかかっている下男スメルジャコフの容体に、興味をいだいたからである。『二昼夜もつづけざまに反復されるような、こんな猛烈な長い癲癇の発作は、めったにないことですよ。これは研究の価値があります。』彼は、いま出発しようとしている仲間の人たちに、興奮のていでそう言った。相手は笑いながらその発見を祝した。このとき医師は断乎たる語調で、スメルジャコフは朝までもたないとつけ加えたことを、検事と予審判事とはよく記憶していた。
 いま筆者《わたし》は長々しい、とはいえ必要な(と自分には思われる)説明を終ったので、これから前篇で止めていた物語のつづきに帰ることとしよう。

[#3字下げ]第三 霊魂の彷徨 受難―一[#「第三 霊魂の彷徨 受難―一」は中見出し]

 で、ミーチャは腰かけたまま、野獣のような目つきで、一座の人たちを眺めていた。彼は、人が何を言っているのやら少しもわからなかった。と、ふいに立ちあがって、両手をさし上げながら、大声に叫んだ。
「罪はありません! この血に対しては、私に罪はありません! 私の親父の血に対して罪はありません……殺そうとは思いましたが、しかし罪はありません! 私ではありません!」
 けれど、ミーチャがこう叫び終るか終らないかに、カーテンの陰からグルーシェンカが駈け出して、いきなり署長の足もとにがばと身を投げた。
「それはわたしです。わたしです。この罰あたりです。わたしが悪いんです!」彼女は満面に涙をうかべて、みんなのほうへ両手をさし伸べながら、人の心をかきむしるような声で、こう叫んだ。「あの人が人殺しをしたのも、もとはわたしです! わたしがあの人を苦しめたから、こういうことになったのです。わたしはあの死んだ爺さんまで、可哀そうに面当てで苦しめたので、こういうことになってしまいました! わたしが悪いのです、わたしがもとです。わたしが張本人です。罪はわたしです!」
「そうだ、お前が悪いのだ! お前がおもなる犯人だ! お前は向う見ずの自堕落ものだ。お前が一ばんに悪いのだ」と署長は片手で嚇すような恰好をしながら叫んだ。
 けれども、そのとき人々ははやくも署長を厳しく制した。検事のごときは両手で彼に抱きついた。
「それはあまり無秩序になりますよ、ミハイル・マカーロヴィッチ」と彼は叫んだ。「あなたはまるで、審理の邪魔をしていらっしゃるのです……事をぶちこわしていらっしゃるのです……」彼はほとんど息をはずませていた。
「断然たる、断然たる、断然たる処置をとるんです!」とニコライもひどく熱して言った。「でなけりゃ、とても駄目です……」
「わたしも一緒に裁判して下さいまし!」とグルーシェンカはやはり跪いたまま、夢中になって叫びつづけた。「一緒にわたしも罰して下さい。もう今はあの人と一緒なら、死刑でも悦んで受けます!」
「グルーシェンカ、お前はおれの命だ、おれの血だ、おれの神様だ!」いきなりミーチャも彼女のそばに跪いて、強く彼女を抱きしめた。「みなさん、これの言うことを信じないで下さい」と彼は叫んだ。「これには何の罪もないのです。どんな血にも関係はないのです。何も罪はないのです!」。
 彼は、自分が幾たりかの人に、無理やり彼女のそばから引き離されたことや、彼女も急に連れて行かれたことなどを、あとなって思い出した。彼がわれに返った時には、もうテーブルに向って腰かけていた。彼のうしろにも両側にも、組頭の徽章をつけた村の人たちが立っていた。真向いには予審判事ニコライが、テーブルを隔てて長椅子に座を占めていたが、テーブルの上にのっているコップの水を少し飲むようにと、しきりに彼に勧めるのであった。「それを飲むと気分がよくなりますよ。気が落ちつきますよ。恐ろしいことはありません。ご心配なさることはありません。」彼はひどく丁寧にこうつけたした。ところが、ミーチャはとつぜん、判事の大きな指環に興味を惹かれた。一つはアメチスト、いま一つは鮮かな黄色をした透明な石で、何とも言えぬ美しい光沢をおびていた。彼はこの指環に、こういう恐ろしい審問の時でさえ、否応のない力をもって目を惹かれていたことを、後々までも驚異の念をもって思いうかべるのであった。彼は自分の境遇に全然ふさわしくないその指環から、どういうわけか寸時も目を放すことも、忘れることもできなかった。
 ゆうベマクシーモフが腰かけていたミーチャの左脇には、いま検事が坐っている。そして、あのグルーシェンカが陣取っていた右手の席には、ひどく着古した猟服のような背広を着た、赭ら顔の若い男が控えていた。その男の前には、インキ壺と紙とがおいてあった。それは判事が連れて来た書記であると知れた。署長はいま部屋の片隅にある窓に近く、カルガーノフのそばに立っていた。カルガーノフは、やはりその窓に近い椅子に腰かけているのであった。
「水をお飲みなさいよ!」と判事は優しく十度目に繰り返した。
「飲みましたよ、みなさん、飲みましたよ……しかし……どうです、みなさん、一息におし潰して下さい、処罰して下さい、運命を決して下さい!」恐ろしく据わって動かない、飛び出した目を判事のほうへ向けながら、ミーチャはこう叫んだ。
「じゃ、あなたは、ご親父フョードル・パーヴロヴィッチの死に対して罪はないと、どこまでも断言なさるのですか?」と判事は、優しいながらも押し強い調子で訊ねた。
「ありません! ほかの血に対して、ほかの老人の血に対しては罪がありますが、親父の血に対しては罪はありません。それどころか、私は悲しんでいるくらいです! 殺しました。老人を殺しました。打ち倒して、殺しました……しかし、この血のために、ほかの血の、――自分に罪のない恐ろしい血の責任を持つのはいやです……恐ろしい言いがかりです、みなさん、まるで眉間《みけん》をがんとやられたような気がします! しかし、親父を殺したのは誰でしょう、誰が殺したんでしょう? もし私でなければ、一たい誰が殺したんでしょう? 不思議です、ばかばかしいことです、あり得べからざることです!………」
「そう、殺し得る可能性を持っているのは、つまり……」と判事は言いかけた。が、検事のイッポリートは(実際は副検事であるけれども、筆者は簡単に検事と呼ぶことにする)判事と目まぜをして、ミーチャに向って言いだした。
「あなた、あの老人、下男のグリゴーリイのことなら、そんなに心配なさることはありません。今こそお知らせしますが、あれは生きていますよ。正気づいたのです。あなたが加えた(これはあれの申し立てと、今のあなたのお言葉を基にして言うのです)傷は重かったが、しかし少くとも、医師の報告によると、確かに生命に別条はないそうです。」
「生きている? じゃ、あの男は生きてるんですね!」とミーチャは手を拍ってだしぬけに叫んだ。彼の顔は、一時に輝き渡った。「神様、よくも私のような罪ふかい悪党の祈りを聞き入れて、偉大な奇蹟を現わして下さいました。有難うございます! そうです、そうです、それは私の祈りを聞いて下すったのです。私は一晩じゅう祈っていました!………」
 こう言って、彼は三たび十字を切った。彼は息をはずませていた。
「ところが、そのグリゴーリイから、われわれはあなたのことについて、非常に重大な申し立てを聞いたのです。それは……」と検事はつづけようとした。
 けれど、ミーチャはにわかに椅子から立ちあがった。
「ちょっと待って下さい、みなさん、お願いですから、たった一分間だけ待って下さい。私はあれのところへ一走り行って来ます……[#「来ます……」はママ]
「とんでもないことを! 今はどうしてもそんなことはできません!」とニコライはほとんど叫ばないばかりに言い、同じく席から飛びあがった。胸に組頭の徽章をつけた人たちは、四方からミーチャをつかまえた。しかし、彼も自分から椅子に腰をかけた……
「みなさん、実に残念です! 私はほんの一分間あれのところへ行きたかったのです……夜どおし私の心臓をすすっていたあの血が、すっかり洗い落されて、私はもう人殺しでなくなったということを、あれに知らせてやりたかったのです! みなさん、あれは今、わたしの許嫁なのです!」一同を見まわして、歓喜と敬虔の色を現わしながら、彼は突然こう言った。「ああ、みなさん、あなた方に感謝します! ああ、あなた方は、私を生きかえらして下さいました。一瞬の間に、蘇生さして下さいました!………あの老人は、――あの男は私を抱いて傅《もり》してくれたんです。みなさん、私を盥の中で洗ってくれたんです。僅か三つの赤児であった私が、みんなに見捨てられてしまった時、あれは親身の父親になってくれたのです!………」
「そこで、あなたは……」と判事は言いかけた。
「どうぞ、みなさん、どうぞ、一分間待って下さい」とミーチャはテーブルの上に両肱を突き、掌で顔を蔽いながら遮った。「ちょっと考えさせて下さい、みなさん、ちょっと息をつがせて下さい[#「つがせて下さい」はママ]。あの報知が恐ろしく動顛させたのです、恐ろしく……人間というものは太鼓の皮じゃありませんからね、みなさん!」
「あなたはまた水でも……」ニコライはへどもどしながら、こう言った。
 ミーチャは顔から手をのけて、からからと笑った。その目つきは活気をおびていた。彼はまるで一瞬間のうちに、すっかり人が変ったようであった。同時に言葉の調子まで変ってしまった。彼はふたたび一座のすべての人たちと、以前の知人たちと、同等な人間として対座しているようであった。もし昨日まだ何事も起らないうちに、彼ら一同が交際場裡のどこかで落ち合ったとしても、今の様子といささかも変りがなかったであろう。ついでに言っておくが、ミーチャもこの町へ来た当座は、署長の家でも歓迎されたものだが、その後、ことに最近一月ばかり、ほとんど彼のところへ寄りつかなくなったし、署長のほうでもどこか往来などでミーチャに行き合うと、ひどく顔をしかめて、ただ一片の儀礼のために会釈するくらいのものであった。これにはミーチャも十分気がついていた。検事との交際はさらに疎遠であった。神経質で空想的なその細君のところへはよく遊びに行ったが、しかし正式な訪問の格式はくずさなかった。おまけに、何のために遊びに行くのか、自分でもまるっきりわからないのであった。それでも、細君はいつも愛嬌よく彼を迎えた。彼女はなぜかつい近頃まで、彼に興味をもっていたのである。判事とはまだ知合いになる暇がなかったが、一二ど会って話をしたことはある。それも、二度ながら、女の話であった。
「ねえ、ニコライ・パルフェヌイチ、あなたは私の見るところでは、実に敏腕な判事さんですが」と急にミーチャは愉快そうに笑いだした。「しかし、私が今あなたの手つだいをしてあげましょう。ああ、みなさん、私は本当に蘇生しました……私があなた方に対してこんなにざっくばらんな、不遠慮な態度をとるのを、咎めないで下さい。おまけに正直に打ち明けると、私は少し酔っ払っているんです。ニコライ・パルフェヌイチ、私はたしか……私の親戚にあたるミウーソフの家で、あなたとお目にかかる光栄と満足を有したと思いますが……みなさん、みなさん、何も私は平等を要求するわけじゃありません。私はいま自分があなた方の前に、どういう人間として引き据えられているかってことを、よく承知しています。私には……もしグリゴーリイが私に言いがかりをしたとすれば……私には――ああ、むろんわたしには恐ろしい嫌疑がかかっているのです! 恐ろしことだ[#「恐ろしことだ」はママ]、恐ろしいことだ、――私はそれを知っています! しかしみなさん、私はこの事件に対してちゃんと覚悟がありますから、こんなことはすぐに片づいてしまいます。なぜって、みなさん、まあ聞いて下さい、聞いて下さい。もし私が、自分の無罪であることを知っているとすれば、もちろんわたしたちはすぐに片づけ得るはずです! そうでしょう? そうでしょう?」
 相手を自分の親しい友人とでも思い込んでいるもののように、ミーチャは早口に、多弁を弄しながら、神経的な調子で立てつづけにまくしたてた。
「では、とにかくそう書きとめましょう、あなたが自分にかけられた嫌疑を絶対に否定なさるということをね」とニコライは相手の胸に滲み込むような調子で言い、書記のほうに振り返って、書きとむべきことを小声に口授するのであった。
「書きとめる? あなた方は、そんなことを書きとめたいのですか? 仕方がありません、書きとめて下さい。立派に同意の旨を明言しますよ、同意しましょう……ただどうも……待って下さい、待って下さい、こう書きとめて下さい。『彼は暴行の罪を犯せり、彼は哀れなる老人に重傷を負せたる罪人なり』とね。それから、もう一つは内心に、自分の心の奥底に、自分の罪を感じております、――しかし、これはもう書きとめる必要がありません(彼はにわかに書記のほうへ振り向いた)。これは私の私生活だから、みなさん、これはあなた方に無関係なことです。つまり、この心の奥底一件ですよ……しかし、老父の殺害に対しては、何の責任もありません! それは、奇怪千万な考えです! それはまったく奇怪千万な考えです!………私がいま証拠を挙げて、すぐあなた方を説き伏せてお目にかけます。そうしたら、あなた方はお笑いになるでしょう、みなさん、自分で自分の嫌疑をお笑いになるでしょう!………」
「まあ、落ちついておいでなさい、ドミートリイ・フョードロヴィッチ。」判事はその沈着な態度で、夢中になっているミーチャを抑えようとでもするように、こう注意した。「私は審問をつづけるにさきだって、もしあなたが承諾さえして下されば、次の事実を承認なさるかどうか、それを一つ伺いたいのです。ほかでもありませんが、あなたは亡くなったフョードル・パーヴロヴィッチを愛していられなかったようですね。しじゅう喧嘩ばかりしておいでになった様子じゃありませんか……少くとも、ここで十五分間ばかりまえに、あいつを殺すつもりだった、とまでおっしゃったように記憶しています。『殺しはしなかったが、殺すつもりだった』と大きな声でおっしゃいましたね。
「私がそんなことを言いましたか? ああ、みなさん、あるいはそうだったかもしれません! そうです、不幸にも私は、親父を殺そうと思いました。幾度となく、殺そうと思いました……不幸なことでした、不幸なことでした!」
「そう思ったんですね。では、一たいどういう理由で、あなたは自分の親に対して、そんな憎悪を感じたのです、それを説明していただけますまいか?」
「みなさん、何を説明するんです!」とミーチャは伏目になったまま、気むずかしげにぐいと肩をそびやかした。「私は自分の感情を隠したことがありませんから、このことは町じゅうの人がみんな知っています、――酒場のものもみんな知っています。つい近頃も修道院で、ゾシマ長老の庵室で言いました……その日の晩には親父を殴りつけて、半死半生の目にあわせたうえ、またそのうちに来て殺してやると、人の聞いている前で誓ったものです……ええ、そういう証人ならいくらでもいます! まる一カ月わめき通したのですから、誰も彼もみんな証人です!………事実は目の前にごろごろしています、事実が承知しません、事実が口をききます。けれども、感情はね、みなさん、感情はまったく別なものです。ですから、みなさん(ミーチャは顔をしかめた)、感情にまで立ち入って、訊問なさる権利は、あなた方にもあるまいと思います。また、たとえあなた方が、その権利をもっていられても、これは私のことなんです。私の内心の秘密です。しかし……私は以前も自分の感情を隠さなかったから……例えば、酒場などでも、誰であろうと、相手かまわず喋ったくらいですから、今も……今もそれを秘密にしやしません……ねえ、みなさん、この場合、私に対して恐ろしい証拠があがっているということは、自分でもよくわかっています。私はあいつを殺すとみんなに言いましたからね。ところが、突然あいつは殺されました。こういうわけであってみれば、私に嫌疑がかかるのは当然ですよ! はっ、はっ! 私はあなた方を責めません。みなさん、決して責めません。私自身でさえ、心底から仰天しているくらいです。なぜかって、もし私が殺したのでなければ、この場合、一たい誰が殺したんでしょう? そうじゃありませんか? もし私でなければ、一たい誰でしょう? 誰なんでしょう? みなさん」と彼はとつぜん叫んだ。「私は知りたいことがあります。いや、私はあなた方に説明を要求します。みなさん、一たい親父はどこで殺されていたのです? 親父は何でどういう工合に殺されていたんですか? それを私に聞かせて下さい。」彼は検事と判事とを見まわしながら、早口にこう訊いた。
「われわれが行ってみた時には、ご親父はご自分の書斎の中で頭を打ち割られて、仰向けに倒れておられました」と検事は言った。
「それは恐ろしいことです、みなさん!」とミーチャは急にぴくりと身を慄わせ、テーブルに肱を突いて、右手で顔を蔽うた。
「では、前に返って訊きますが」とニコライは遮った。「その時あなたにそんな憎悪の念を起させたのは、一たいどんな原因だったのです? あなたは嫉妬の念だと、公然いい触らしておいでになったようですが。」
「ええ、まあ、嫉妬ですが、しかし嫉妬だけじゃありません。」
「金銭上の争いですか?」
「ええ、そうです、金銭上のことからも。」
「その争いは三千ルーブリの遺産を、あなたに引き渡さなかったというのがもとでしたね。」
「三千ルーブリどころじゃありません! もっとです、もっとですよ」とミーチャは跳りあがった。「六千ルーブリ以上です、あるいは一万ルーブリ以上かもしれません。私はみんなに言いました、みんなにわめきました。しかし、私は三千ルーブリで折り合おうと決心したんです。私にはその三千ルーブリが、せっぱつまって入用だったのです。ですから、グルーシェンカにやるために、ちゃんと用意して枕の下においてあった(ええ、そうです、私は知っています)三千ルーブリ入りの包みは、親父が、私の手から盗み取ったも同様だと、確信していました。まったく、私はその金を自分のものと思っていました。実際、自分のものも同じことなんですからね……」
 検事は意味ありげに判事と目くばせをして、気づかれないように一つ瞬きをした。
「その問題にはまたもう一ど戻ることとして」と判事は早速こう言った。「今わたしたちは次の事実に同意して、それを書きとめさせていただきましょう。つまり、あなたがその封筒に入っている金を、自分のもの同様に思っていられた、という事実です。」
「お書きとめ下さい。みなさん、私はそれも自分にとって不利な証跡になる、ということを知っています。が、私は証跡を恐れません。私は自分で自分に不利なことを申します。いいですか、自分でですよ! ねえ、みなさん、あなた方は私を、実際の私とはまるで違った人間に解釈していられるようですね」と彼は急に沈んだ悲しそうな語調でつけたした。「今あなた方と話をしているのは高潔な人間です、高潔この上ない人間です。何より肝腎なのは、――この点を見落さないで下さい、――数限りなく陋劣なことをしつくしたけれど、いつも高潔この上ない心持を失わない人間です。内心には、心の奥底には、つまり、その、一言で言えば、いや、私にはうまく言えません……私は高潔を慕い求めて、今まで苦しんできたのです。私はいわゆる高潔の殉難者で、提灯を持った、――ディオゲネスの提灯を持った高潔の探求者でした。そのくせ、私はすべての人間と同じように、今までただ卑劣なことばかりしてきました……いや、私一人きりです、みなさん、すべての人間じゃありません、私一人きりです。あれは、言い違いでした。私一人きりです、一人きりです!………みなさん、私は頭が痛いのです」と彼は悩ましそうに顔をしかめた。「実はね、みなさん、私はあいつの顔が気に入らなかったんです。何だか破廉恥と高慢と、すべての神聖なものを足蹴にしたような表情と、皮肉と不信を一緒にしたような表情なんです。醜悪です。実に醜悪です! しかし、今あいつが死んでみると、だいぶ考えが変ってきました。」
「変ったとはどういうふうに?」
「いや、変ったというわけではありませんが、あんなに親父を憎んだのを、気の毒に思っています。」
「後悔しているのですか?」
「いいえ、後悔とも違います。そんなことは書きとめないで下さい。私自身からして立派な人間じゃありませんものね、みなさん。まったく私自身あまり好男子じゃありませんものね。ですから、親父のことを醜悪だなぞと言う権利はないのですよ、まったく! これはまあ、お書きになってもいいでしょう。」
 こう言い終ると、ミーチャは急にひどく沈んだ顔つきになった。もう前から彼は、判事の審問に答えるにしたがって、だんだん陰欝になっていたのである。ところが、ちょうどこの瞬間、ふたたび思いがけない場面が突発した。それはこうである。グルーシェンカはさっき向うへ連れて行かれたが、大して遠くではなかった。いま審問の行われている空色の部屋から、僅か三つ目の部屋であった。これは、ゆうべ舞踏をやったり、世界も崩れそうな騒ぎをした大広間のすぐうしろにある、一つしか窓のない、小さい部屋であった。ここに彼女は腰かけていた。しかし、いま彼女のそばにいるのは、マクシーモフ一人きりであった。彼はすっかり面くらってしまって、むやみにびくびくしながら、彼女の身辺にのみ救いをもとめるもののように、ぴたりとそばに寄り添っていた。部屋の扉口には、胸に組頭の徽章をつけた一人の百姓が立っている。グルーシェンカは泣いていた。と、ふいに悲哀が烈しく胸先に込み上げてきた、彼女は、つと立ちあがりさま両手を拍って、かん走った高い声で、『なんて悲しいこったろう、なんて悲しいこったろう!』と叫んだかと思うと、いきなり部屋を飛び出して、彼のほうへ、ミーチャのほうへ走って行った。それがあまりに突然なので、誰も彼女を止める暇がなかった。ミーチャは彼女の悲鳴を聞きつけると、身慄いをして飛びあがり、叫び声をたてながら、前後を忘れたかのように、まっしぐらに彼女のほうへ駈け出した。けれど、二人は早くも互いに顔を見合わせたにもかかわらず、今度も相いだくことを許されなかった。ミーチャはしっかりと両手を掴まれた。彼があまり烈しくもがき狂うので、彼を押えるのに、三人も四人もかからねばならなかった。彼女も同様つかまった。彼女が引いて行かれながら、叫び声とともに自分のほうへ手を延ばすのを、ミーチャはちゃんと見て取った。この騒ぎが終った時、彼はまたもや以前の席に坐っている自分に気がついた。彼は判事と向き合ってテーブルについていた。
「一たいあれに何の用があるのです? あなた方はなぜあれをおいじめになるのです? あれに罪はありません。あれに罪はありません!………」と彼は一同にむかって叫びつづけた。
 検事と判事とは彼を宥めすかした。こうして、十分ばかりたった。やがて、ちょっとこの場を離れたミハイルが、急ぎ足に部屋へはいって来るなり、興奮のていで大声で検事に向って、
「あの女は少し離れたところへ連れて行きました。いま下にいるのです。ところで、みなさん、たった一ことだけ、あの不仕合せな男に口をきかせて下さらんか? あなた方の前でよろしい、みなさん、あなた方の前で!」
「さあ、どうぞ、ミハイル・マカーロヴィッチ」と判事は答えた。「この場合、私たちも決してお止めしません。」
「おい、ドミートリイ君、よいか、聞いとるんだぞ」と、ミハイル・マカーロヴィッチは、ミーチャのほうへ振り向きながら言い始めた。彼の興奮した顔つきは、不幸な者に対する熱烈な、ほとんど親のような同情を現わしていた。「わしはアグラフェーナさんを下へ連れて行って、この家の娘さんたちに渡して来た。今あのひとのそばにはマクシーモフ老人が、少しも離れないようにしてついているよ。わしはあのひとによく言い聞かせておいた。いいかな? 言い聞かせたり、宥めたり、さとしたりしたんだ。あの男は弁解しなけりゃならない人だから、邪魔をしたり、気をめいらせたりしちゃならん。でないと、あの男の頭が混乱して、間違った申し立てをする恐れがあるからってね、そうだろう? つまり、一言で言えば、言い聞かせてやったのさ。そしたら、あのひとも合点がいったんだ。君、あのひとは利口者だよ。いい人だよ。あのひとはわしのような老人の手に接吻して、君のことを頼んだよ。それから、わしをここへよこして、君があのひとのことを心配しないように、とこう伝言を頼むのだ。そこで、わしはこれからあのひとのところへ行って、君が落ちついていることや、あのひとの身の上についてはすっかり安心している、というようなことを言わなけりゃならん。だから、君、落ちつくがいいよ、わかったかね。わしはあのひとに対してすまんことをした。あのひとはキリスト教信者の心をもっている。いや、みなさん、実際あれは温柔な女ですよ。少しも罪なんかありません。さて、カラマーゾフ君、あのひとに何と言ったもんだろう、落ちついて腰かけていられそうかね?」
 人のいいミハイルは、言いすぎるほどいろいろなことを言った。が、グルーシェンカの悲哀は、人間の悲哀は、彼の善良な心に徹して、その目には涙さえうかんでいた。ミーチャは跳りあがって、ミハイルにひしと抱きついた。
「失礼ですが、みなさん、どうぞ、ああ、どうぞ許して下さい!」と彼は叫んだ。「あなたは天使のような、まったく天使のような心をもっていらっしゃる。ミハイル・マカーロヴィッチ、あれにかわってお礼を申します! ええ、落ちつきます、落ちつきます、快活になりますよ。あなたの無限に優しいお心に甘えて、お願いします。どうか、私が快活だってことを、本当に快活だってことを、あれに伝えて下さい。それから、あなたのような守り神様があれのそばにつき添って下さるということを知ったので、今にも笑いたいほどの気持になったと言って下さい。今すぐに一切の片をつけて自由の身になったら、さっそく、あれのそばへ行きます。もうすぐ会えるんですから、ちょっとのあいだ待たして下さい! みなさん、」彼は急に検事と判事のほうへ向いてこう言った。「今あなた方に私の心中をすっかり打ち明けます。ことごとく披瀝します。こんなことはすぐ片づいてしまいます。愉快に片づいてしまいます、――そして、結局みんな笑うようになるんですよ、そうじゃありませんか? しかし、みなさん、あの女は私の女王です! ああ、どうぞ私にこう言わせて下さい。私はもう腹蔵なしに打ち明けます……なにしろ、高潔な方々と座をともにしているんですからね。あの女は光です、私の宝です、ああ、これが、あなた方にわかっていただけるといいんだがなあ!『あなたと一緒なら仕置きも受けましょう!』とあれが叫んだのを、あなた方はお聞きになったでしょう。ところが、私はあれに何を与えたでしょう。私は乞食です、裸一貫の男です。どうして私にあんな愛を捧げてくれるのでしょう。無骨な、穢らわしい、しかも馬鹿面を下げた私が、そんな愛に価するでしょうか。あれに懲役までも一緒に来てもらえるような値うちがあるでしょうか? さっきなどは、あの負けん気の強い、そして何の罪もない女が、私のために、あなた方の足もとに身を投げだしたじゃありませんか! どうしてあれを尊敬せずにいられましょう? どうして叫ばずにいられましょう? どうして今のようにあれのところへ駈け出さずにいられましょう? ああ、みなさん、お赦し下さい! しかし、今はもう安心を得ました!」
 こう言って、彼は椅子の上に倒れかかり、両の掌で顔を蔽うて慟哭したが、これはもはや幸福な涙であった。彼はたちまちわれに返った。老署長は非常に満足していた。司法官たちも同様に満足らしかった。彼らは、審問が今にもすぐ新しい段階に入るだろうと感じたのである。署長を送り出したあとで、ミーチャは本当にうきうきしてきた。
「では、みなさん、もう私はすっかりあなた方のものです。そして……もしあんなつまらないことさえ抜きにしてしまったら、今すぐにも話は片がつくんですがね。私はまたつまらないことを言いました。もちろん、私はすっかりあなた方のものですが、しかし、みなさん、まったくのところ、必要なのは相互の信用です、――あなた方は私を、また私はあなた方を信用するんです、――でないと、いつまでたってもらちはあきませんよ。これはあなた方のために言うのです。さあ、用件にかかりましょう、みなさん、用件にかかりましょう。しかし、とくにお願いしておきますが、あまり私の心を掘り返さないで下さい。私の心をつまらないことで掻きむしらないで下さい。ただ用件と事実だけお訊ね下さい。そうすれば、早速あなた方に満足のゆくようにお答えします。つまらないことはもう真っ平です!」
 ミーチャはこう叫んだ。審問はさらに始まった。

[#3字下げ]第四 受難―二[#「第四 受難―二」は中見出し]

「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、あなたご自分ではおわかりになりますまいが、あなたがそうして、気さくに返事して下さるので、私たちも本当に元気が出て来るというものですよ……」とニコライは活気づいて言い始めた。たったいま眼鏡をはずしたばかりの、強度の近視のためにかなり飛び出した薄い灰色の大きな目には、いかにも満足らしい色が輝いていた。「あなたは今われわれ相互の信用と言われましたが、あれはまったくそのとおりです。その相互の信用がなくては、こういう重大な事件の審理をすることは不可能なくらいです。つまり、被疑者が実際に自己弁明を希望し、またそれをなし得るような場合を意味するのです。で、私たちとしては、自分にできるだけの手段を採りましょう。われわれがこの事件をどういう工合に処理しているかは、あなたが今もごらんになったとおりです……そうではありませんか、イッポリート・キリーロヴィッチ?」とつぜん検事に向ってこう言った。
「ええ、そうですとも」と検事は同意した。しかし、その言葉はニコライの興奮にくらべると、いくらかそっけなかった。
 で、も一ど最後に言っておくが、この町へ新たに赴任したニコライは、ここで活動を開始したそもそもから、検事イッポリートに対してなみなみならぬ敬意をいだき、ほとんど肝胆相照らしていたのである。『勤務上逆境に立っている』わがイッポリートの、図抜けた心理学的才能と、弁才とを、頭から信じきっているものは、ほとんど彼一人であった。彼はイッポリートが逆境に立っているということも、すっかり信じていた。彼はこの検事のことを、まだペテルブルグにいる頃から噂に聞いていた、そのかわり、『逆境に立っている』検事が心から愛する人も、世界じゅうでこの若いニコライただ一人であった。ちょうどここへ来る途中、彼ら二人は目前に控えた事件に関して、何かの打ち合せをし、約束をしておいたので、いまテーブルに向っていながらも、ニコライの雋敏な頭脳は、年長の同僚の顔に現われた動きや合図などを、なかば言いさした言葉や、目まぜや、瞬きなどによって、一つ残らず理解したのである。
「みなさん、私一人に話さして下さい。いろんなつまらないことで口を出しちゃいけませんよ。私はすぐにすっかり言ってしまいますから」とミーチャは熱した調子で言った。
「それは結構です。感謝します。しかし、あなたの陳述をうかがう前に、われわれにとって非常に興味のある、いま一つの事実を確かめさせていただきたいのですが。ほかじゃありません、昨日の五時ごろ、友人ピョートル・イリッチ・ペルホーチンから、ピストルを抵当にしてお借りになった十ルーブリのことです。」
「抵当に入れました、みなさん、十ルーブリの抵当に入れましたよ。それがどうしたんです! それだけのことです、旅行から町へ引っ返すと、すぐ抵当に入れたのです。」
「え、旅行から引っ返したんですって? あなたは町の外へ出ましたか?」
「出ましたとも、みなさん、四十露里あるところへ出かけたんです。あなた方はご存じなかったですか?」
 検事とニコライはちらりと目くばせした。
「が、それはとにかく、昨日の朝からのことを筋みち立てて、残らず話していただきたいものですね。例えば、なぜあなたが町を離れたか、そしていつ出かけて、いつ帰ったかというような……そういう事実をみんな……」
「それならそれと、最初から訊いて下さればいいのに」と言ってミーチャは大声に笑った。「が、お望みとあれば、昨日のことからではなく、一昨日の朝のことから始めなければなりません。そうすれば、どこへ、どういうふうに、どういうわけで出かけたか、おわかりになりましょう。みなさん、私は一昨日の朝、当地の商人サムソノフのとこへ行きました。それは、確実な抵当を入れて、三千ルーブリの金を借りるつもりだったのです、――急に、せっぱつまった必要ができましてね、みなさん、急にせっぱつまった必要が……」
「ちょっとお話ちゅうでございますが」と検事は慇懃に遮った。「どうして急にそれほどの大金が、つまり三千ルーブリという金が、そんなに必要になったのです?」
「ええ、あなた方は、本当に下らないことを訊かないで下さい。どういうふうに、いつ、どういうわけで、ちょうどそれだけの金がいるようになったかなんて、しち面倒くさい……それは三冊の書物にも書ききれやしません、まだその上にエピローグがいりますよ!」
 ミーチャは真実を残らず言ってしまおうと望み、善良無比な心持に満たされている人に特有の、真っ正直な、しかし怺え性《しょう》のない、なれなれしい調子でこう言った。
「みなさん」と彼はとつぜん思いついたように言った。「どうか、私のがさつを責めないで下さい、重ねてお願いします。それから、私が十分に責任を感じて、事件の真相を理解していることを、もう一ど信じて下さい。酔っ払ってるなどと思って下すっては困ります。今ではもう正気なんです。もっとも、酔っ払っていたって、ちっとも邪魔にはなりませんが。私はね、

[#ここから2字下げ]
醉いがさめれば知恵めは出るが、――しかし私はうつけ者
たらふく飲めばうつけになるが、――しかし私は利口者
[#ここで字下げ終わり]

こうなんですよ、はっ、はっ! ですがねえ、みなさん、私は今、――つまり身の明かしを立てないうちに、あなた方の前で洒落なんか言うのは、無礼にあたることを知っています、どうか自分の品格を守らして下さい。もちろん、私は今の差別を知っています。何といっても、私はあなた方の前に犯人として引き据えられているのです、したがって、あなた方とは雲泥の相違です。あなた方は私を取り調べる任務をおびていらっしゃるから、グリゴーリイ事件のために、私の頭を撫でて下さるわけにはゆきますまい。実際、老人の頭を割っておいて、刑を受けずにはすみませんからね。あなた方は、爺さんに代って私を裁判し、たとえ権利を剥奪されないまでも、半年なり一年なり、懲治監か何かよくは知りませんが、そんなところへぶち込むんでしょう、ねえ、そうでしょう、検事さん。こういうわけですから、みなさん、私だってこの差異はわかりますよ……けれど、考えてもごらんなさい、あなた方のようにどこを歩いたの、どういうふうに歩いたの、いつ歩いたの、どこへ入ったの、というような問いを持って行ったら、神様さえも面くらっておしまいになりますよ。もしそうとすれば、私だって面くらってしまおうじゃありませんか。しかも、あなた方はすぐにつまらないことを一々書きつけなさる。そんなことをしてどうなるんです? 何の役にも立ちゃしませんよ! だが、私はどうせでたらめを喋りだしたんだから、ついでにしまいまで言っちまいましょう。だから、みなさんも高等教育を受けた高潔な人として、私の過言を赦して下さい。最後に一つお願いしておきますが、それは審問の常套手段を忘れていただきたいということです。つまり、まず最初にどういうふうに起きたか、何を食ったか、どういうふうに唾を吐いたか、どこに唾を吐いたか、などというようなごくつまらない、取るにもたらんことから審問を始めて、『犯人の注意をくらませといて、』それから急に『誰を殺したか、誰のものを盗んだか』というような、恐ろしい問いをあびせかけるんです、はっ、はっ! これがあなた方の常套手段です、これがあなた方の原則です、これがあなた方の狡猾手段の基礎になるんです! だが、あなた方はこんな狡猾手段で、百姓どもの目をくらますことはできましょうが、私はどっこい駄目ですよ。私はその間の消息を知っています。自分でも、お役人をしたことがあるんですからね、はっ、はっ、はっ! みなさん、ご立腹なすっちゃ困りますよ、私の無礼を赦して下さるでしょうね?」彼は不思議なほど率直な態度で、彼らを見ながらこう叫んだ。「今のはミーチカ・カラマーゾフが言ったんですから、赦すことができますよ。賢い人が言ったのなら赦すことはできないが、ミーチカが言ったんだから赦せますよ! はっ、はっ!」
 ニコライは、この言葉を聞きながら、同じように笑っていた。検事は笑いこそしないが、目を放さずにじろじろとミーチャを見つめていた。それは、ミーチャのちょっとした言葉じりでも、ほんのわずかな身動きでも、顔面筋肉の微かな痙攣でも、決して見のがすまいとするもののようであった。
「しかし、私たちは初めからそうしてるじゃありませんか」とニコライはやはり笑いつづけながら答えた。「朝どういうふうに起きたか、何を食ったか、というような審問をして、あなたを困らせるどころじゃない、むしろ非常に重大な問題から審問を始めたのです。」
「それはわかっていますよ、とっくに承知して感服しているのですよ。しかし、今の私に対する比類のないご好意、高潔なお心にふさわしいご好意には、さらに感謝しています。ここに集っているわれわれ三人は、お互いに高潔な人間なのです。でわれわれは、品位と名誉とを具備した教育ある紳士に特有な相互の信任を基礎として、万事を律してゆかなければなりません。とにかく、私の生活におけるこの瞬間に、私の名誉が蹂躙されたこの瞬間にも、あなた方を善良なる親友と思わせて下さい。こう言っても、べつに失礼にはあたりますまいね、みなさん、失礼にはあたりますまいね?」
「とんでもない、あなたのお言葉は実に立派ですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」とニコライはもったいらしく同意した。
「だが、つまらないことは、みなさん、あんなうるさい、つまらないことは、すっかり抜きにしましょう」とミーチャは昂然として叫んだ。「でないと、しまいにはどんな結果になるやらわかりませんよ、ねえ、そうじゃありませんか?」
「全然あなたの賢明な勧告にしたがいましょう」と検事はミーチャのほうへ向って、とつぜん口を入れた。「しかし、自分の審問を撤回することはできません。つまり、何のためにあなたはあんな大金が、三千という大金が必要になったか、ぜひとも知らなければならないのです。」
「何のために入り用だったかとおっしゃるんですか? それはこうです、こういうわけです……つまり、借金を払うためです。」
「誰にですか?」
「みなさん、それを言うことは絶対にお断わりします! そのわけはですね、これがつまらない馬鹿げきった話だから、そのために言えないのでもなければ、また気がひけるのでもなく、また万一を恐れるからでもありません。私が言わないのは、主義のためです。これは私の私生活ですから、私生活に干渉してもらいたくないのです。これが私の主義なんです! あなた方の審問は事件に無関係なことです。ところが、事件に無関係なことは、みなわたしの私生活です! 私は負債を払おうとしたのです。名誉の負債を払おうとしたのです。しかし、相手は誰か、――それは言えません。」
「失礼ですが、それをちょっと書きつけさせていただきますよ」と検事に言った。
「さあさあ、ご随意に。どうぞお書き下さい、言いません、決して言いませんから、そのことをお書き下さい。みなさん、そんなことを言うのは破廉恥だとさえ思っている、とこう書いて下さい。本当に、あなた方はよっぽどお暇だと見えますね、何でもかでも書きつけて!」
「失礼ですが、念のためにもう一度お話ししておきたいことがあります。もしあなたがご存じないとすれば……」と検事は特別いかめしい、さとすような調子で言った。「ほかでもありませんが、あなたは今わたしたちの提出した質問に対して、答えない権利を十分おもちなのです。が、われわれはその反対に、もしあなたが何らかの原因によって答えを回避なさる場合は、あなたに答弁を強要する権利を少しも持っていません。答えようと答えまいと、それはあなた一個人の考えに属することなんです。しかし、今のような場合、われわれのとるべき務めは、あなたがある種の陳述をこばむことによって、いかなる損害を自分で自分に加えておられるか、それをご得心のゆくように、説明してお聞かせするということです。さあ、そのさきを話して下さい。」
「みなさん、私は怒ってるんじゃありませんよ……私は……」ミーチャはこの警告にいくらかどぎまぎして呟いた。「そこでですね、みなさん、そのサムソノフですが、私はあの時サムソノフのところへ行ったんです……」
 むろん、筆者《わたし》は彼の物語を、詳しく再述するのはやめておこう。それはもはや読者の承知していることなのである。ミーチャは細かい点まで残らず話しつくして、しがをそれと同時に、少しも早く片をつけてしまいたいとあせっている模様であった。しかし、検事側では彼の陳述をそのまま書きつけ始めたので、したがって、ときどきその話を中止させなければならなかった。ドミートリイはそれを非難したが、結局、やはり服従した。彼は腹を立てていたけれど、今のところまだ率直であった。もっとも、時には『みなさん、これでは神様だって腹を立てておしまいになりますよ』とか、あるいは『みなさん、本当にそれはただ私の癇をたかぶらすだけですよ』などと叫ぶこともあったが、しかし、こんなことを叫びながらも、やはりなれなれしい饒舌の気分を変えなかった。こうして彼は、おとといサムソノフが自分に『一杯くわした』ことを物語った(そのとき自分がだまされたのだということは、彼も今はすっかり悟っていた)。彼が旅費を作るために時計を六ルーブリで売り払ったことは、予審判事と検事とにまだぜんぜん知れていなかったので、たちまち非常な注意を惹起した。彼らは、ミーチャが前の日にびた一文もっていなかったという事実の第二の証拠として、くわしくこの件を書きとめる必要があると思った。ミーチャは極度に憤慨してしまった。で、彼はだんだん気むずかしそうになってきた。次に彼は猟犬《レガーヴィ》のところへ行ったことや、炭酸ガスに満ちた森番の小屋で一夜を送ったことや、それから、とうとう町へ帰って来た時のことまで物語った。このとき彼はとくに頼まれもしないのに、グルーシェンカに対する嫉妬の苦しみをくわしく話しはじめた。検事側では黙ったまま注意して聞いていたが、ミーチャがもうずっと前から、マリヤの家の『裏庭』に、フョードルとグルーシェンカの見張所を設けていることと、スメルジャコフが彼にさまざまな報告をもたらしたという事実には、特別の注意を払ったのである。彼らはこの事実を非常に重大視して、さっそく記録に書きとめた。ミーチャは自分の嫉妬のことを熱心にくわしく話した。自分の秘密な感情を『世間のもの笑い』にするために、すっかりさらけ出してしまったことを、内心ふかく恥じながら、それでもなお偽り者になりたくないために、その恥しさを押しこらえているらしかった。彼が物語っている間に、じっとそのほうへ向けられていた予審判事、ことに検事の目にうかんでいる冷静ないかめしい表情は、とうとう彼の心をかなり烈しくかき乱した。『つい四五日前まで、おれと一緒にばかばかしい女の話などをしていた、この小僧っ子のニコライや病気もちの検事などに、こんな話を聞かせる値うちがあるものか、恥さらしだ!』という考えさえ、悩ましく彼の頭にひらめいた。で、彼は『ひかえ忍びて黙《もだ》せよ心』という詩の一句で、われとわがもの思いを結んだが、やはりふたたび元気をふるい起して、先をつづけようという気になった。彼はホフラコーヴァの話に移ると、またしてもむらむらとなって、事件に縁遠い話ではあるが、つい先ごろ起ったばかりの、この夫人に関する特別な逸話を持ち出そうとまで考えた。しかし、予審判事は彼を押し止めて慇懃に、『もっと根本的な問題に』移ってもらいたいと言った。最後に、彼が自分の絶望を物語り、ホフラコーヴァの家を出た時、『誰かを殺してなりと[#「殺してなりと」はママ]三千の金を手に入れたい』と思ったその瞬間のことを物語ると、検事側はまたもや彼を押し止めて、『殺そうと思った』次第を書きつけた。ミーチャは黙って書かせた。最後に物語が進んで、グルーシェンカが、自分には夜なか頃までサムソノフのところにいると言っておきながら、自分が送りとどけるとすぐ、老人のところから逃げ出した、『つまり、自分はだまされた』ということを、突然かぎつけたところまで話した時、『みなさん、私があの時あのフェーニャを殺さなかったのは、ただただそんな暇がなかったからです』と、思わず彼は口走ってしまった。これもまた念入りに書きとめられた。ミーチャは陰欝な顔つきをして待っていた。やがて、父親の家の庭園へ駈けつけたことを話そうとすると、予審判事はだしぬけに彼を押し止めて、そばの長椅子においてあった大きな折鞄を開き、その中から小さい銅の杵を取り出した。
「あなたはこの品をご存じですか?」彼はそれをミーチャに示した。
「ああ、そうそう!」彼は沈んだ顔つきで、にやりとした。「もちろん、知っていますとも! ちょっと見せて下さい……ちぇっ、もういいです!」
「あなたはこの品のことを言い忘れましたね」と予審判事は言った。
「くそっ、いまいましい! いや、あなた方に隠しだてなぞしませんよ。一たいそれを言わなくちゃすまないんですか、どうお思いになります? 私はただ、ど忘れしていただけなんですよ。」
「恐れ入りますが、あなたがこんな物を用意なすったわけを、聞かして下さいませんか。」
「ええ、ええ、聞かしてあげますとも。」
 ミーチャは銅の杵をとって駈け出した時の、一部始終を物語った。
「ですが、あなたがこんな道具を用意なすったについては、一たいどういう目的があったのです?」
「どういう目的? 何の目的もありゃしませんよ! ただ持って駈け出しただけです。」
「もし目的がないとすれば、どんなわけなんでしょう?」
 ミーチャはむかむかしてたまらなかった。彼はじっと『小僧っ子』を見つめながら、沈んだ目つきで、にくにくしげににたりと笑った。彼は今あれほど誠実に真情を披瀝して、自分の嫉妬の歴史を『こんな人間』に物語ったということが、いよいよ恥しくてたまらなくなったのである。
「銅の杵なんかくそ食らえですよ!」と彼はとつぜん口走った。
「でも。」
「なに、犬を防ぐためだったのですよ……それに、その暗いものですから……それにまさかの時の用心にね。」
「そんなに暗闇が怖いのでしたら、あなたは以前も夜分うちを出る時に、何か武器《えもの》を持ってお出になりましたかね?」
「ちぇ、ばかばかしい! みなさん、あなた方とはまったく文字どおりに話ができませんよ!」極度の憤激にミーチャはこう叫んで、書記のほうへ振り向くと、憤怒のために顏じゅう真っ赤にし、声に一種の気ちがいじみた調子を響かせながら、せき込んで言葉をつづけた。「すぐ書いてくれたまえ……すぐ……『自分の親父のフョードルのところへ駈けて行って……頭を一つ殴りつけて殺すために杵を持って行った』とこう書いてくれたまえ。さあ、みなさん、それで腹の虫が落ちつきましたかね? 気がせいせいしましたかね?」と彼はいどむような目つきで、予審判事を見つめながら言った。
「いや、私たちにはよくわかりますよ、あなたが今そんな陳述をなすったのは、私たちに対して憤慨なすったからでしょう。私たちの訊問がいまいましいからでしょう。あなたはわれわれの訊問をつまらないものと思っておいでですが、そのじつ非常に根本的なものなんですよ」と検事はそっけない調子で、ミーチャに言った。
「いや、とんでもない! むろん、杵は持ちました……だが、あんな場合、人が何か手に取るのは、一たい何のためでしょう? 私は何のためか知りません、とにかく持って駈け出したんです。ただそれだけです。恥ずべきことですよ、みなさん、Passons([#割り注]もうやめて下さい[#割り注終わり]) 恥ずべきことですよ。いい加減になさらんと、まったくのところ、もうだんぜん話をやめますよ!」
 彼はテーブルに肱を突き、片手で頭をささえた。彼は一同に顔をそむけて腰かけたまま、腹の中の不快な感情をおし殺しながら、じっと壁を見つめていた。実際、彼はつと立ちあがって、『たとえ死刑台に引っぱられて行こうとも、もう一ことも口をきかない』と言いたくってたまらなかったのである。
「ねえ、みなさん。」やっとの思いでわれを制しながら、彼はにわかにこう言いだした。「実はあなた方のお話を聞いてるうちに、何だかこんな気がするんです……私はね、その、どうかすると、ある一つの夢を見ることがあるんです……こう変な夢なんですが、私はよくそいつを見るんです。繰り返し繰り返し見るんですよ。ほかでもありませんが、誰か私を追っかけて来るんです。何でも私がひどく恐れている人でね、その人が夜まっ暗闇の中に追っかけて来て、私をさがすんです。私はその男に見つからないように、どこか戸の陰か戸棚の陰などへ隠れる、意気地なく隠れるんです。が、不思議なことには、私がどこへ隠れたかってことが、ちゃんとやつにわかってるじゃありませんか。ところが、やつはわざと私のいるところを知らないようなふりをして、少しでも長く私を苦しめて、私が怖がるのを楽しもうとする………あなた方は今ちょうどこれと同じことをしていられるんです! よく似てるじゃありませんか!」
「あなたはそんな夢をごらんになるのですか?」と検事は訊いた。
「そうです、こんな夢を見るんです……ですが、あなた方はもう書きつけたくなったのじゃありませんか?」ミーチャは口を歪めてにたりと笑った。
「いいえ、書きませんよ。しかし、あなたの夢は面白いですね。」
「ところが、今ではもう夢じゃありません! レアリズムです、みなさん、実際生活のレアリズムです! 私は狼で、あなた方は猟人です。さあ、狼をお追いなさい。」
「あなたはつまらない比較をしたものですね……」とニコライは非常に優しく言いかけた。
「つまらない比較じゃありませんよ、みなさん、つまらない比較じゃありません!」とミーチャはまた熱くなった。けれど、思いがけなく癇癪のはけ口ができて、気が落ちついたとみえ、彼はまた一口ごとに率直になってきた。「あなた方は犯罪者、すなわち、あなた方の訊問に苦しめられている被告の言葉を、信じないでもいいでしょう。しかし、みなさん、高潔な人間の言葉は、魂の高潔な叫びは(私は大胆にこう叫びます)断じて信じないわけにゆきません。ええ、それを信じないわけにはゆきません……あなた方にはそんな権利さえありません……しかし――

[#ここから2字下げ]
黙《もだ》せよ心
ひかえ忍びて黙せよ心!
[#ここで字下げ終わり]

さあ、どうです。つづけましょうかね?」と彼は陰欝な顔つきをして言葉を切った。
「むろん、ぜひお願いします」と、ニコライは答えた。

[#3字下げ]第五 受難―三[#「第五 受難―三」は中見出し]

 ミーチャは気むずかしげに話し始めたが、しかし、自分の伝えようとしている事件を、ただの一カ所でも忘れたり言い落したりすまいと、前より一そう骨折っているらしかった。彼は塀を乗り越えて父の家の庭園へ入り込んだことや、窓のそばまで近よったことや、それから最後に、窓の下で演ぜられた出来事などを詳しく物語った。彼はグルーシェンカが父のところに来ているかどうか、一生懸命に知ろう知ろうとあせりながら、庭園の中でさまざまな感情に胸を波立たせたことを、明瞭に、確実に、さながら浮彫のように話して聞かせた。けれど、不思議にも、こんどは検事も予審判事も、何か妙に遠慮がちに耳を貸しながら、そっけなく彼を眺めていた。質問の度数さえずっと減ってしまった。ミーチャは彼らの顔色を見たばかりでは、何ともその心持を判ずることができなかった。『侮辱を感じて怒ってるんだろう』と彼は思った。
『ちぇっ、勝手にしやがれ!』とうとうグルーシェンカが来たという合図をして、父親に窓を開けさせようと決心したくだりを物語った時、検事と予審判事は『合図』という言葉に少しも注意を払わなかった。この言葉がこの場合どんな意味をもっているかが、全然わからないもののようであった。ミーチャさえもこれに気がついたほどである。最後に窓から顔を突き出した父親を見て、かっと憤怒の情が沸きたって、かくしから杵を取り出したその瞬間まで話を進めると、彼は急にわざとのように言葉を切った。彼はじっと坐ったまま壁のほうを見た。人々の目が食い入るように自分を見つめているのを彼は知っていた。
「で」と予審判事は言った。「あなたは兇器を取ったのですね……そ、それからどういうことになりましたね?」
「それからですか? それからぶち殺しましたよ……やつの額をがんとやって、頭蓋骨をぶち割った……とこうあなた方はお考えなのでしょう、そうでしょう!」彼の目は突然ぎらぎらと輝きだした。それまで消えていた憤怒の火は、急に異常な力をもって彼の胸に燃えあがった。
「私たちの考えはそうです。」ニコライは鸚鵡返しにこう言った。「で、あなたのお考えは?」
 ミーチャは目を伏せて、長いこと黙っていた。
「私はね、みなさん、私はこうしましたよ。」彼は静かに言い始めた。「誰かの涙の力でしょうか、死んだ母が神様に祈ったのでしょうか、あるいは天使がその瞬間、私に接吻したのでしょうか、――どういうわけだか知りませんが、とにかく悪魔が征服されたのです。私は窓のそばから飛びのいて、塀のほうへ駆け出しました……親父はびっくりしました。そして、その時はじめて私の顔を見分けて、あっと叫びながら窓のそばを飛びのきました……私はそれをよく憶えています。私は庭を横切って、塀のほうへ行きました……ところが、もう塀の上に昇ってしまった時、グリゴーリイが私に追いついたのです……」
 このとき彼はとうとう目を上げて聴き手を見た。聴き手は妙に冷静な注意をもって、彼を眺めているようであった。一種憤懣の痙攣がミーチャの心をさっと流れた。
「みなさん、あなた方はいま私を笑ってるんですね!」と彼は急に言葉を切った。
「どうしてそうお考えになるのです?」とニコライは言った。
「それはあなた方が、私の言葉を一ことも信用して下さらんからです、ええ、そうです! そりゃもう私にだってわかりますよ。私は一番だいじなところまで話してきたのです。老人は頭を割られて、今あそこに倒れています。ところが、私はどうでしょう――いよいよ殺そうという気で、杵を手にした悲劇的な光景を描きながら、急に窓のそばから逃げ出したなんて……叙事詩です! 詩になりそうなことです! 若造の言うことがそのまま信じられるものですか! はっ、はっ! みなさん、あなた方は皮肉やですねえ!」
 こう言って、彼は椅子に坐ったまま、くるりと体をねじって、そっぽを向いた。椅子がめきめきと音をたてた。
「だが、あなたは気がつかなかったですか?」検事はミーチャの興奮にまるで注意しないらしく、突然こう口を切った。「あなたは窓のそばから逃げだす時、離れの向う側にある庭に向いた戸が開いていたかどうか、気がつきませんでしたか?」
「いいえ、開いてはいなかったです。」
「開いていなかった?」
「むろんしまっていました。それに、誰が開けるもんですか? そうだ、戸はと[#「戸はと」はママ]、ちょっと待って下さい!」彼は急にわれに返ったようなふうで、ぶるぶると微かに身顫いした。「では、あなた方がごらんになった時、戸は開いてたんですね?」
「開いてました。」
「もしあなた方自身でないとすれば、一たい誰が開けたんだろう?」ミーチャは急に恐ろしく仰天した。
「戸は開いていました。あなたのご親父を殺したものは、疑いもなくこの戸から入ったのです。そして、兇行を演じてしまうと、またこの戸口から出て行ったに相違ありません。」検事はえぐるような調子で、そろそろと一語一語くぎりながら言った。「これはわれわれには明白です。兇行が演ぜられたのは確かに室内で、窓ごし[#「窓ごし」に傍点]ではありません。これは臨検の結果から見ても、また死体の位置やその他の事柄から見ても、十分明々白白です。この点には毫も疑いの余地がありません。」
 ミーチャは恐ろしく動顛してしまった。
「でも、みなさん、そんなはずはありませんよ!」と彼はすっかり度を失って叫んだ。「私は……私は入りません……私は確かに、私は正確に断言します。私が庭の中におった時も、庭から逃げ出した時も、戸は初めからしまいまで閉っていました。私はただ窓の下に立っていて、窓ごしに親父を見ただけです、ただそれだけです……私は最後の一瞬間まで憶えています。また、よしんば憶えていないまでも、ちゃんと、わかっています。なぜと言って、あの合図[#「合図」に傍点]を知っているものは、私とスメルジャコフと、そして亡くなった親父だけなのです。合図がなけりゃ、親父は世界じゅうのどんな人間が来たって、金輪際、戸を開けるこっちゃありません!」
「合図? その合図というのは何です?」検事は貪るような、ほとんどヒステリイに近い好奇心を現わしながら、こう言った。彼は慎重ないかめしい態度を一時になくしてしまった。彼はおずおずと匐い寄るように問いかけた。彼はまだ自分の知らない、重大な事実のあることを感じた。そして、またすぐ、ミーチャがその事実をすっかり打ち明けないかもしれぬ、という非常な恐怖をも感じたのである。
「じゃ、あなた方は知らなかったのですね!」とミーチャは嘲るような、にくにくしげな薄笑いを浮べながら、検事に向って目をぱちりとさせた。「もし私が言わなかったらどうします? 一たい誰から聞き出すことができるでしょう? 合図のことを知っているのは、亡くなった親父と、私と、それからスメルジャコフと、それっきりなんですよ。ああ、それからまだ天道さまも知っています。だが、天道さまはあなた方に教えてくれませんよ。なかなか面白い事実でしてね、これを基にしたら、どんな楼閣でも築き上げることができますよ。はっ、はっ! しかし、みなさんご安心なさい、打ち明けますよ。あなた方も馬鹿なことを考えて心配していますね。一たい私をどんな人間だと思っているんです! あなた方の相手にしていられる被告は、みずから自分のことを白状して、わが身を不利に落すような人間なんです! そうです。なぜと言って、私は名誉を護るナイトだからで。ところが、あなた方はそうじゃありません!」
 検事はさまざまな当てこすりを黙って聞いていた。彼はただ新しい事実が知りたさに、いらだたしげに身慄いしていた。ミーチャは、父がスメルジャコフのために案出した合図を、一つ残らず正確に詳しく話して聞かせた。彼は、窓をとんとんと叩く一つ一つの音が、どんな意味をもっているかを物語った。彼はこの合図をテーブルで叩き分けてまでみせた。また、彼ミーチャが老人の窓を叩いた時、『グルーシェンカが来た』という意味の合図をしたのか、と訊ねたニコライの問いに対して、彼は確かに『グルーシェンカが来た』という合図をしたのだと答えた。
「さあ、これであなた方は楼閣をお築きなさい!」と言ってミーチャは言葉を切り、また軽蔑するように一同から顔をそむけた。
「では、この合図を知っているものは、亡くなられたご親父と、あなたと、下男のスメルジャコフだけだったのですね? もうそれ以外にはありませんか?」も一度ニコライは念を押した。
「そうです、下男のスメルジャコフと、それから天道さまです。天道さまのことも書きつけて下さい。これを書きつけておくのも無駄ではないでしょう。それに、神様はあなた方ご自身にとっても必要なことがありますよ。」
 もちろん、さっそく書きつけにかかった。が、書記が書きつけている間に、検事は思いがけなく新しいことを思いついたように、突然こう言いだした。
「もしその合図をスメルジャコフが知っていたとして、そしてあなたがご親父の死に関する嫌疑を頭っから否定される場合には、約束の合図をしてご親父に戸を開けさせ、それから……兇行を演じたのは、そのスメルジャコフではありませんか?」
 ミーチャはふかい嘲笑のまなざしで、しかし同時に、恐ろしい憎悪の色をうかべながら検事を見た。彼は無言のまま長いこと見つめていたので、検事も目をしぱしぱさせはじめた。
「また狐を捕まえましたね!」ミーチャはとうとう口を切った。「また悪者の尻尾をひっ掴みましたね。へっ、へっ! 検事さん、あなたの肚の中はちゃんと見えすいていますよ! あなたは私がすぐに飛びあがって、いきなりあなたの助言にしがみつき、『ああ、それはスメルジャコフです、あれが犯人です!』と喉一ぱいの声で呶鳴るだろう、とこうお考えになったんでしょう。白状なさい、そう考えたんでしょう。白状なさい、でなけりゃ、先を話しませんよ。」
 けれど、検事は白状しなかった。彼は黙って待っていた。
「あなたのお考えは間違っています。私はスメルジャコフだなんて喚きませんよ!」とミーチャは言った。
「では、あの男を少しも疑わないのですか?」
「あなた方は疑っておいでですか?」
「あの男も疑いました。」
 ミーチャはじっと目を床の上に落した。
「冗談はさておいて」と彼は陰欝な調子で言いだした。「ねえ、みなさん、私は最初から、さっきあのカーテンの陰からあなた方のところへ駈け出した時から、もう『スメルジャコフだ!』という考えが私の頭にひらめいたんです。ここでテーブルのそばに腰をかけて、あの血を流したのは自分じゃないと叫びながらも、私は、『スメルジャコフだ』と考えていました。スメルジャコフは、私の心から離れなかったのです、今もまた突然『スメルジャコフだ』と考えました。が、それはほんの瞬間で、すぐそれと同時に、『いや、スメルジャコフではない!』と考えました。みなさん、あれはやつの仕事じゃありませんよ!」
「そうすると、ほかに誰かあなたの疑わしいと思う人物はありませんか?」とニコライは用心ぶかい調子で問いかけた。
「一たい誰なのか、どういう人物なのか、天の手か、それとも悪魔の手か、私には一切、わかりません。しかし……スメルジャコフではありません!」とミーチャはきっぱり断ち切るように言った。
「しかし、なぜあなたはそう頑固に、そして執拗に、あの男でないと断言されるのです?」
「信念です、印象です。なぜかと言えば、スメルジャコフはごく下司な人間で、そのうえ臆病者だからです。いや、臆病者ではありません、二本脚で歩く世界じゅうの臆病の塊です。あの男は牝鶏から生れたんです。私と話をする時でも、こっちが手を振り上げもしないのに、殺されはしないかと思って、いつもぶるぶる慄えています。あいつは私の脚もとで、四つん這いになって涙を流しながら、文字どおりに私のこの靴を接吻して、『嚇かさないで下さい』と言って哀願するのです。『嚇かさないで下さい』とはどうです、――何という言葉でしょう? ですが、私はあの男に金を恵んでやったくらいです。あいつは癲癇やみの薄馬鹿の、ひ弱い牡鶏です。八つの小僧っ子でもぶちのめすことができますよ。これがそもそも一人前の人間でしょうか? スメルジャコフじゃありませんよ、みなさん。それに、あいつは金をほしがらないんですからね。私が金をやっても取ったことはありません……第一、あいつが何のために親父を殺すんです? だって、あいつは親父の息子らしいんです、隠し子らしいんですよ。あなた方もご存じでしょう?」
「われわれもその昔話は聞きました。しかし、あなたもご親父の息子さんじゃありませんか。それにあなた自身みんなの前で、親父を殺してやると言われたじゃありませんか。」
「一つ探りを入れましたね! しかも、質の悪い下劣な探りです! 私はびくともしませんよ! ねえ、みなさん、私の目の前でそんなことを言うのは、あまり陋劣すぎるかもしれませんよ! なぜ陋劣かと言えば、私が自分からあなた方にそう言ったからです。私は殺そうと思ったばかりか、殺したかもしれないのです。おまけに、すんでのことで殺すところだったと、潔く自白しているじゃありませんか。しかし、私は親父を殺さなかった、私の守り神が私を救ったのです!………あなた方はこのことを考慮に入れなかったですね……だから、あなた方を陋劣だと言うんですよ。なぜって、私は殺さなかったからです、殺さなかったからです! わかりましたか、検事さん、殺さなかったんですよ!」
 彼はもう喘ぎ喘ぎ言っていた。彼がこんなに興奮したことは、長い審問中まだ一度もなかったのである。
「ところで、みなさん、あのスメルジャコフは、あなた方にどんなことを言いました?」彼はしばらく無言ののち、にわかにこう言って言葉を結んだ。「それを聞かせてもらえませんか?」
「どんなことでもお訊きになってかまわないですよ」と検事はひややかな、いかめしい態度で答えた。「事件の事実的方面に関したことならば、どんなことでもお訊き下さい。繰り返して申しますが、われわれはあなたからどんな問いを出されても、それに対して十分満足な答えをすべき義務があるのです。お訊ねの下男スメルジャコフを見つけた時、当人は立てつづけに十度も繰り返して襲ったかと思われる非常に烈しい癲癇の発作にかかって、意識を失ったまま病床に横たわっていました。一緒に臨検した医師は患者を診察すると、とても朝までもつまいとさえ言ったほどです。」
「ふむ、それじゃ親父を殺したのは悪魔だ!」と、ミーチャは思わず口走った。彼はその瞬間まで『スメルジャコフだろうか、それとも違うかしらん?』としきりに自問していたらしい。
「またあとで、もう一度この事実に戻ることとして」とニコライは決めた。「今はさきほどの陳述をつづけていただけないでしょうか。」
 ミーチャは休息を乞うた。検事側は慇懃にそれを許可した、一息いれると、彼はつづきを話しだしたが、よほど苦しそうであった。彼は精神上の苦痛と、屈辱と、動乱とを感じたのである。それに、検事も今はわざとのように、『瑣末な事柄』に拘泥して、絶えずミーチャをいらだたせはじめた。ミーチャが塀の上に馬乗りになって、自分の左脚に縋りついたグリゴーリイの頭を杵で撲りつけると、そのまますぐ倒れた老僕のほうへ飛びおりた、という話をするやいなや、検事は急にミーチャを押し止めて、塀の上に馬乗りになっていた時の様子を、もっと詳しく話してもらいたいと言った。ミーチャはびっくりして、
「なに、それはこういうふうに腰かけたんです、馬乗りに跨ったんです、一方の脚をあっちに、いま一方をこっちに……」
「で、杵は?」
「杵は手に持っていました。」
「かくしの中じゃなかったですか? あなたはそれを詳しく記憶していますか? どうです、あなたは強く手を振りましたか?」
「それはきっと強かったでしょうね、そんなことを何にするんです?」
「あなたがそのとき塀の上に腰かけたと同じように、一つその椅子に腰をかけて、どっちへどう手をお振りになったか、よくわかるように、手真似をして見せていただけませんか。」
「あなた方は、また私をからかっていられるんですね。」ミーチャは傲然と訊問者を見つめながら、こう訊いた。が、相手は瞬き一つしなかった。
 ミーチャは痙攣的にくるりと向きを変えて、椅子の上に馬乗りになって片手を振った。
「こういうふうに撲ったのです! こういうふうに殺したのです! それから、何が入り用です?」
「有難う。では、ご苦労でしょうが、も一つ説明していただけませんか、一たい何のために下へ飛びおりたんです、どういう目的があったのです、つまり、どういうつもりだったのです。」
「ちょっ、うるさい……倒れた者のそばへ飛びおりたのは……何のためだったかわかりません!」
「あれほど興奮していながらですか? 逃げ出していながらですか?」
「そうです、興奮していながらです、逃げ出しながらです。」
「では、あの男を助けようとでも思ったのですか?」
「助けるなんて……そうです、あるいは助けるためだったかもしれないが、よく記憶していません。」
「あなたは夢中だったのですか? つまり、一種の無意識状態だったのですか?」
「おお、どういたしまして、決して無意識状態におちいったのじゃありません。私はすっかり記憶しています。一糸乱れず、こまかいことまですっかり記憶しています。傷を見るために飛びおりたんです。そして、ハンカチであれの血を拭いてやりました。」
「われわれもあなたのハンカチを見ました。では、あなたは倒れた者を蘇生させてやりたいと思ったのですね。」
「そんなことを思ったかどうか知りません。ただ生きているかどうかを確かめたかったのです。」
「ははあ、確かめたかったのですか? で、どうでした?」
「私は医者ではないから、どっちかわからなかったです。で、殺したんだと思って逃げ出しました。ところが、あれは蘇生したんです。」
「結構です」と検事は訊問を結んだ。「有難う。ただそれだけが聞きたかったのです。さあ、ご苦労ですが、その先をつづけて下さい。」
 哀れにも、ミーチャは憐愍の心から飛びおりて、死せる老僕のそばに立ちながら、『運の悪いところへ爺さんが来あわしたもんだ。しかし、どうも仕方がない。そのままそこに臥てるがいい』というような、哀れな言葉さえ発したのを記憶していながら、それを話そうなどという考えは、てんで浮ばなかった。ところが、検事はただ次の結論を引き出したばかりである。この男が『あんな瞬間にあんなに興奮していながら』、わざわざ飛びおりたのは、自分の犯罪の唯一[#「唯一」に傍点]の証人が生きているかどうか、正確に突きとめるためにすぎなかった。あんな場合でさえこうであるから、この男の力と決断と冷静と思考力とは量るべからざるものがある……云々、云々。彼は『病的な人間を「些細な事柄」でいらだたせ、知らず識らず口をすべらせた』ことに得意を感じていた。
 ミーチャは苦痛をいだきながら語りつづけた。が、すぐに今後は[#「すぐに今後は」はママ]ニコライがまた彼を押し止めた。
「あなたはあんなに手を血みどろにしたうえ、またあとで話を聞けば、顔にまで血をつけて、よく下女のフェーニャのところへ駈け込まれたものですね?」
「でも、その時は、自分が血みどろになってることに気がつかなかったんです!」とミーチャは答えた。
「それはまったくそうだろう。そういうことはよくあるものです」と言い、検事はニコライと目くばせした。
「まったく気がつかなかったのです。検事さん、あなたはうまく言いましたね」と、ミーチャも急に同意した。やがて進んで『自分が道を譲って』『幸福な二人を見のがそう』と咄嗟の間に決心したことを物語った。しかし、もう彼はどうしてもさっきのように、ふたたび自分の心中をさらけ出して『心の女王』のことを話すことができなかった。彼は『南京虫のように自分に食い込んでいる』この冷酷な人たちの前で、そんなことを話すのがたまらなくいやだった。で、繰り返し訊かれる問いに対しても、ごく手短かにぶっきら棒な調子で答えた。
「それで、自殺をしようと決心しました。何のために生き残る必要があるのだ? という問いが、ひとりでに頭に浮びました。女のもとの恋人、争う余地のないもとの恋人が来たのです、女をだました男ではあるけれど、五年たった今日、正式の結婚で罪ほろぼしをしようとして、愛を捧げにやって来たのです、私は自分にとって万事おわったことを知りました……しかも、うしろには汚辱が控えています。例の血なんです、グリゴーリイの血なんです……どうして生きていられましょう? で、抵当に入れておいたピストルを、受け出しに行ったのです。それに弾丸《たま》を填めて、夜の引き明け頃に自分の頭を撃ちぬくつもりで……」
「しかし、その夜は飲めや騒げの大酒もりですか?」
「その夜は大酒もりです。ええ、くそっ、みなさん、いい加減に切り上げて下さい。確かに自殺しようと思ったんです。すぐその近くでね。朝の五時には、自分で自分の始末をつけるつもりだったので、かくしには書置きまで用意しておきました。ペルホーチンのところで、弾丸を填めた時に書いたんです。その書置きはこれです。読んでみて下さい。しかし、あなた方のために話しているんじゃありませんよ?」
 彼はさげすむように突然こうつけたした。彼は自分のチョッキのかくしから遺書を取り出し、テーブルの上へ投げだした。審問官たちは好奇の念をいだきながら読みくだし、例のごとく一件書類の中へさし加えた。
「では、ペルホーチン君のところへ行った時にも、やはり手を洗おうと思わなかったのですか? つまり、嫌疑を恐れなかったのですね。」
「嫌疑とは何です? 疑われようが疑われまいが、どっちにしたって同じことです。私がここへ駈けつけて、五時にどんとやってしまえば、誰も何ともしようがないじゃありませんか。もし親父の事件がなかったら、あなた方は何もご存じあるまいし、したがって、ここへもおいでにならなかったはずですからね。ああ、これは悪魔のしわざです、悪魔が親父を殺したんです。あなたの方も悪魔のおかげで、こんなにはやく知ったんです! よくもこんなにはやく来られたものですね? 不思議だ、夢のようだ!」
「ペルホーチン君の伝えたところによると、あなたはあの人のところへはいって行ったとき、手に……血みどろになった手に……あなたの金を……大枚の金を……百ルーブリ札の束を持っておられたそうですね。これはあの人のところに使われている小僧も見たそうです。」
「そうです、みなさん、そうだったようです。」
「すると、そこに一つの不審が起ってくるのです。聞かせていただけましょうかね」とニコライはきわめてもの柔かに言い始めた。「一たいあなたはどこからそれほどの金を、とつぜん手にお入れになったのです? 事実からみても、時間の勘定からみても、あなたは家へも寄らなかったじゃありませんか。」
 検事はこの露骨な質問にちょっと顔をしかめたが、べつにニコライの言葉を遮ろうともしなかった。
「そうです、うちへは寄りません」とミーチャは落ちつきはらったような調子で答えたが、目は下のほうを向いていた。
「そういうわけでしたら、どうかもう一ど質問を繰り返させて下さい」とニコライは、おずおず匐い寄りでもするように問いをつづけた。「一たいどこからあれほどの大金を一時に手に入れたのです? だって、あなた自身の自白によると、同じ日の五時頃には……」
「十ルーブリの金に困って、ピストルをペルホーチンのところへ質入れするし、それからまた、ホフラコーヴァ夫人のところへ三千ルーブリの金を借りに行って、まんまと断わられたとか、何とかかとか、くだらないことを並べるんでしょう。」ミーチャは烈しく相手の言葉を遮った。「みなさん、こういう工合で、困ったのは事実です。その時ひょっこり、何千ルーブリという金ができたんです。どうですね? しかし、こうなると、みなさん、あなた方はお二人とも、もしその金の出どころを言わなかったらと思って、びくびくしておいでですね。いや、そのとおりです、言やしません。みなさん、図星ですよ、決して言やしません。」ミーチャはなみなみならぬ決心を示しながら、いきなり断ち切るようにこう言った。
 審問官たちはしばらく黙っていた。
「しかし、カラマーゾフさん、われわれはぜひとも、それを知らなければならないんですがね」とニコライは静かに、つつましやかに言った。
「それはわかっています。が、言いません。」
 すると、検事も口を出して、ふたたび注意した、――審問を受ける者は、そのほうが自分にとって有利だと思ったら、むろん審問に答えないでもよろしい、しかし、そういう場合、被疑者はその沈黙のために、とんでもない損失を受けないものでもない。ことに、これほど重要な審問の場合にはなおさらである、しかもその重要の程度たるや……
「かくかくにしてかくかくなりでしょう。もうたくさんです、そんな説法は前にも聞きましたよ!」とミーチャはふたたび遮った。「それがどんなに重大事だかってことは、私も承知しています、それが最も根本的な要点だ、ということも承知しています、が、やはり言いません。」
「それはわれわれには何の痛痒もありません。これはわれわれのことではなくって、あなたのことなんですよ。あなたが自分で自分を傷つけるばかりですよ」とニコライは神経的に注意した。
「みなさん、冗談はさておいてですね、」ミーチャは目を上げて、きっと二人を見つめた。「私はもう初めっから、われわれがこの点で鉢合せすることを感じていたのです。しかし、最初陳述をはじめた時には、まだ遠い霧の中にあったので、すべてがぼうとしていました。で、私は単純に『われわれ相互の信用』を提議してかかったような次第です。ところが、今になって、そういう信用のあるべきはずがないことを悟りました。なぜって、われわれはどうせ一度、このいまいましい塀にぶっ突からなけりゃならないからです! そして、とうとうぶっ突かったのです! 駄目です、万事休すです! しかし、私はあなた方を責めません。あなた方も口先だけで私を信ずるわけにはいかないでしょう。それはよくわかっています。」
 彼は暗然として口をつぐんだ。
「では、重大な点を語るまいというあなたの決心と抵触しないで、しかもそれと同時にですね、これほど危険な陳述に際しても、なおあなたに沈黙を守らせる、この強い動機が何であるかということを、ちょっとでも仄めかしていただくわけにはゆかないものでしょうか?」
 ミーチャは沈んだ、妙に考えぶかそうな微笑をうかべた。
「みなさん、私はあなた方が考えておられるより、ずっと人がいいんですよ。だから、沈黙のわけを話しましょう。ちょっと仄めかしてあげましょう。もっとも、あなた方にそんな価値はないんですがね。みなさん、私が沈黙するのは、私にとって汚辱だからです。どこからあの金を持って来たかという訊問に対する答えの中には、よしんば私が親父を殺して彼のものを強奪したとしても、その殺人や強盗などさえ比較にならんほど、重大な問題がふくまれているのです。だから、言えないのです。汚辱のために言えないのです。みなさん、これも書きつけますか。」
「書きつけますよ」とニコライはへどもどしたように呟いた。
「でも、あれは、『汚辱』のことは、書きつけないのが至当でしょう。私がこれを白状したのは、ただ人のいいためです、白状しないでもよかったのです。つまり、あなた方に進呈したのです。それに、あなた方はすぐさま一々書きつけなさる。いや、まあ、お書きなさい、どうとも存分にお書きなさい。」彼は軽蔑するように気むずかしげな調子で言葉を結んだ。「私はあなた方を恐れやしません……あなた方に対して誇りを感じています。」
「では、その汚辱というのは、どんな種類のものか、一つ話していただけませんか?」ニコライはまごつき気味で、こう言った。
 検事は恐ろしく顔をしかめた。
「駄目です、駄目です、C'est fini([#割り注]もうそれきりです[#割り注終わり])骨を折るだけ損ですよ。それに、穢らわしい思いをする価値はありません。もういい加減あなた方を相手にして、穢らわしい思いをしたんですから。あなた方は聞く資格がないんです、あなた方にかぎらず誰ひとり……みなさん、もうたくさんです、もう、打ち切ります。」
 その語調は思いきって断乎としていた。ニコライはしいて訊くことをやめた。しかし、イッポリートの目つきで、彼がまだ望みを失わずにいることを、すぐに見てとった。
「では、せめてこれだけでも聞かして下さい。あなたがペルホーチン氏のところへ行った時、あなたの手にどのくらいの金額があったのです、つまり、幾ルーブリあったのです?」
「それをお話しすることはできません。」
「あなたはペルホーチン君に、ホフラコーヴァ夫人から三千ルーブリ借りて来た、とかおっしゃったそうじゃありませんか?」
「たぶんそう言ったでしょう。だが、みなさん、もうたくさんですよ、もう決して言いませんよ。」
「そういうことなら、ご面倒でしょうが、あなたがここへいらっしゃる時の様子と、ここへ来てからなすったことを、残らず話して下さいませんか?」
「ああ、そのことならここの人たちに訊いて下さい。しかし、私が話してもいいです。」
 彼は物語った。けれど、筆者《わたし》はもうその物語をここで繰り返すまい。彼はそっけない調子でざっと話した。が、自分の恋の歓喜については、一ことも話さなかった。しかし、自殺しようという決心が、『ある新しい事実のために』消え失せたことだけは話した。彼は動機の説明やデテールを避けながら物語ったのである。しかし、予審判事も今度はあまり彼を苦しめなかった。この場合、彼らにとって重大な問題は、こんなところに存するのではないことは明らかであった。
「それはすっかりよく調べてみましょう。どうせ、証人喚問の時に、もう一度その問題に戻らなけりゃならないんですから。証人の喚問はむろん、あなたの面前で執行することにします」と言い、ニコライは審問を終えた。「ところで、もう一つあなたにお願いがあるのです。どうかこのテーブルの上へ、あなたの身についている品物、ことにいま持っていられる金を、残らず出して下さいませんか。」
「金ですって? さあさあ、私もよくわかっていますよ、それは必要なことでしょう。もっと早く言いだされなかったのが不思議なくらいですよ。もっとも、私はどこへも行かずに、ちゃんとお目の前に控えていましたがね、さあ、これが金です、わたしの金です。さあ、数えて下さい。手に取ってごらんなさい、これでみんなだと思います。」
 彼は方々のかくしから、はした金まですっかり出してしまった。チョッキの脇についているかくしからも、二十コペイカの銀貨を二枚出した。数えてみると、八百三十六ルーブリ四十コペイカあった。
「これでみんなですか?」と予審判事は訊いた。
「みんなです。」
「あなたはたったいま陳述のとき、プロートニコフの店に三百ルーブリおいて来た、と言われたじゃありませんか。ペルホーチンに十ルーブリかえし、馭者に二十ルーブリやり、カルタで二百ルーブリまけて、それから……」
 ニコライは何から何まで数え上げた。ミーチャは自分から進んで手つだった。いろいろ考えて、一コペイカも落さないように計算の中に加えた。ニコライはざっと締めをしてみた。
「してみると、この八百ルーブリを加えて、都合千五百ルーブリばかり初めに持っていられたのですね?」
「そうなるわけですな」とミーチャは断ち切るように言った。
「しかし、誰も彼もが、ずっと多かったと言ってるのは、どういうわけでしょう。」
「勝手に言わせておけばいいじゃありませんか。」
「しかし、あなた自分でも、そう言われたじゃありませんか。」
「私自身もそう言いました。」
「それでは、まだ訊問しないほかの人たちの証明によって、もう一ど取り調べることにしましょう。あなたの金のことについては心配ご無用です。あの金は保管すべきところに保管しておきます。そして、もしあなたがあの金に対して確たる権利をもっておられることがわかれば、と言うよりも、その、証明されれば、一切の……事件が終ったあとで、あなたのご自由にまかせます。そこでと、今度は……」
 ニコライはふいに立ちあがった、そして、『あなたの衣類とその他一切の品物』に対して、精密な検査を行う『必要があるのです、義務ですから仕方がありません』ときっぱり宣言した。
「どうか検査して下さい。みなさん、お望みとあれば、かくしを残らずびっくり返しましょう。」
 実際、彼はかくしを裹がえしにかかった。
「着物を脱いでもらわねばなりません。」
「何です? 着物を脱げ? ちぇっ、ばかばかしい! このまま捜して下さい。それじゃいけないんですか?」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、どうしてもそういうわけにゆきません。着物を脱いで下さい。」
「じゃあ、ご勝手に、」ミーチャは暗然としてしたがった。「しかし、ここでなく、カーテンの陰にして下さい。どなたがお調べになるのですか?」
「むろん、カーテンの陰です」と、ニコライは同意のしるしに頷いた。彼の顔は特殊なものものしさをあらわしていた。

[#3字下げ]第六 袋の鼠[#「第六 袋の鼠」は中見出し]

 ミーチャにとってはまったく予想外な、驚くべきことがはじまった。以前、いな、つい一分間まえまでも、彼は誰にもせよ自分に対して、ミーチャ・カラマーゾフに対して、こんな振舞いをなし得ようとは、夢にも想像できないことであった! それは何よりも屈辱であった。検事らの分際として、『傲慢な、人を馬鹿にした』やり方であった。フロックを脱ぐくらいならまだしもだが、彼らは下着まで脱いでくれと頼んだ。しかも、その実、願うのではなく命令するのであった。彼はこれを十分に悟った。彼は矜恃と軽蔑の情のために、無言のまま一から十まで彼らの命令にしたがった。カーテンの陰には、ニコライのほか検事も入った。幾人かの百姓も列席した。『むろん、腕力の必要に備えたのだ』とミーチャは考えた。『それから、まだ何かほかにわけがあるのだろう。』
「どうです、シャツも脱ぐんですか?」と彼は言葉するどく訊ねた。しかし、ニコライはミーチャに答えなかった。彼は検事と二人でフロックや、ズボンや、チョッキや、帽子などの取り調べに熱中していたのである。二人ともこの取り調べに非常な興味をいだいているらしかった。『まるで遠慮も何もありゃしない』という考えがミーチャの頭にひらめいた。『そのうえ、通り一ペんの礼儀さえ無視していやがる。』
「もう一度お訊ねしますが、シャツを脱がなければならんのですか、どうでしょう?」彼はいよいよ言葉するどく、いよいよいらだたしそうに言った。
「心配ご無用です。こっちの方からそう言いますから」と、ニコライは妙に役人くさい調子で答えた。少くとも、ミーチャにはそう思われた。
 そのうちに予審判事と検事とは、小声で忙しそうに相談を始めた。上衣に、ことに左側のうしろの裾に、大きな血痕がついていたのである。もうすっかり乾いて、こつこつになっていたが、まだあまり揉まれてはいなかった。ズボンもやはりそうであった。ニコライはなお手ずから立会人のいる前で、上衣の襟や、袖口や、ズボンの縫い目などを、丹念に指で撫でまわした。それは明らかに何か捜すためらしかった(むろん金である)。何より癪にさわるのは、ミーチャが服の中に金を縫い込んでいるかもしれない、それくらいのことはしかねないやつだという疑いを、隠そうともしないことである。『これではまるで泥棒あつかいだ、将校に対する態度じゃない』とミーチャはひとりでぶつぶつ言った。検事たちは不思議なほど大っぴらに、彼に関する意見をたがいに述べ合っていた。例えば、やはりカーテンの陰に入って来て、ちょこまかと世話をやいていた書記は、もう調べのすんだ軍帽に、ニコライの注意を向けさせた。
「書記のグリジェンコを憶えていらっしゃいますか」と書記は言った。「いつぞや夏、役所ぜんたいの俸給を代理で受け取りにまいりましたが、帰って来ると、酔っ払って金を落したと申し立てましたね。ところが、あの金はどこから出て来たとお思いになります? ちょうどこんな帽子の縁に、百ルーブリ紙幣がくるくる巻いて入れてあったじゃありませんか、縁に縫いつけてあったのです。」グリジェンコの事件は予審判事も検事もよく記憶していた。で、彼らはミーチャの帽子を脇へのけて、あとからもっと厳重に見直さなければならないと決めた。服もみなそうすることにした。
「これは一たい、」ミーチャのワイシャツの内側へ折り込んだ右の袖口に、血が一面についているのを見つけて、ニコライはやにわにこう叫んだ。「これは一たい何です、血ですか?」
「血です」とミーチャはぶっきら棒に答えた。
「といって、つまり、何の血です、――そして、なぜ袖口が内側へ折り込んであるのです?」
 ミーチャは、グリゴーリイの世話をして袖口をよごしたから、ペルホーチンのところで手を洗うときに、袖口を内側に折り込んだと話した。
「あなたのワイシャツも、やはり押収しなくちゃなりません、非常に大切なものです……証拠物件としてね。」
 ミーチャは顔を真っ赤にして憤激した。
「じゃ、何ですか、私は裸でいるんですか!」と彼は叫んだ。
「心配はご無用です……何とか始末をつけますから、とにかく、今はその靴下も脱いでいただきたいものです。」
「あなたは冗談を言ってるんでしょう? 本当にぜひそうしなけりゃならんのですか?」と言って、ミーチャは目を輝かせた。
「冗談どころの話じゃありません!」とニコライは厳然としてたしなめた。
「仕方がありません、必要だとあれば……私は……」とミーチャは呟き、寝台に腰かけて靴下を脱ぎ始めた。彼はたまらなく恥しかった。みんな着物を着ているのに、自分は裸でいる、そして、不思議にも、着物を脱いだとき、彼はいかにも自分がこの人たちに対して、悪いことでもしているような気がした。ことに奇妙なことには、まったく急に、自分が彼らの誰よりも下等な者になって、彼らも自分を軽蔑する権利を十分もっているということに、みずから同意するような気持になった。『もしみんなが着物を脱いでいるのなら、何も恥しくはない。ところが、自分一人裸になって、それをみんなに見られるなんて、――実に恥さらしだ!』こういう考えが二度も三度も、彼の頭にひらめいた!『まるで夢のようだ、おれは夢でときどきこんな恥辱にあうことがある。』しかし、靴下を脱ぐことは、彼にとってむしろ苦痛であった。靴下は非常に汚れているし、肌着もやはりそうであった、それを今みんなに見られるのだ。しかし、それよりも、彼は自分ながら自分の足を好かなかった。いつも自分の大きな足の指を見ると、どういうわけか片輪のような気がした。ことに、妙に下へ曲った、平ったい不恰好な右足の爪が一つ、どうにもいやでたまらなかった。それを今みんなに見られるのだ。彼はたえがたい羞恥のために、急にわざと前よりよけい乱暴になった。彼は自分から引っぺがすようにしてワイシャツを脱いだ。
「まだどこかに捜したいところはありませんか? ただし、気恥しくなかったら……」
「いや、まだしばらく必要はありません。」
「一たいわたしはこうして裸でいるんですか?」と彼は勢い猛
《もう》につけ加えた。
「そうです、しばらくのあいだ仕方がありませんなあ……恐れ入りますが、ちょっとここへ腰かけて、寝台から毛布でも取って、引っかけていて下さいませんか。私は……私はこれをすっかり始末しますから。」
 彼らは一切の品物を立会人たちに見せて、調査記録を作った。とうとうニコライは出て行った。つづいて、衣服も持って行かれた。イッポリートも出て行った。ミーチャのそばにはただ百姓たちだけが残って、ミーチャから目を放さないようにしながら、黙って突っ立っていた。ミーチャは毛布にくるまった。寒くなったのである。あらわな足が外に突き出ていたけれど、彼はどうしても、うまく毛布をかぶせてその足を隠すことができなかった。ニコライはなぜか長い間、『じれったいほど長いあいだ』帰って来なかった。『人を犬の子かなんぞのように思ってやがる』とミーチャは歯ぎしりした。『あのやくざ者の検事まで出て行きやがった。たぶんおれを軽蔑してるんだろう、裸の人間を見てるのが気持わるくなったのだろう。』しかし、ミーチャはそれにしても、着物はどこかあちらで検査をすましたら、また持って帰ることと想像していた。ところへ、ニコライがまるで別な着物を百姓に持たせて、とつぜん部屋へ帰って来たとき、ミーチャは何ともいえぬ憤懣を感じた。
「さあ、着物を持って来ました」とニコライは気軽にこう言った。彼は見たところ、いかにも自分の奔走が成功したのに満足らしい様子であった。「これはカルガーノフ君が、この興味ある事件のために寄付されたのです。きれいなワイシャツもあなたに進呈するそうです。ちょうど幸い、こんなものがすっかり、あの人の鞄の中にあったものですからね。肌着と靴下とは、ご自分のをそのままお使いになってよろしいです。」
 ミーチャは恐ろしく激昂した。
「人の服なんかいやだ」と彼はもの凄い声で叫んだ。「私のを持って来て下さい。」
「それはできません。」
「私のを持って来て下さい。カルガーノフなんか吹っ飛ばしてしまえ。あいつの着物も、あいつ自身も真っ平ごめんだ!」
 人々は長い間ミーチャをなだめて、ようやくどうにかこうにか落ちつかせた。そして、あの服は血でよごれているから、『証拠物件の中に入れ』なければならぬとか、今では当局者も彼にその服を着せておく『権利さえもっていないのです……事件がどんなふうに終結するかわからないですからね』などと言って聞かせた。ミーチャはようやく合点した。彼は陰欝な顔をして黙っていたが、それでもとうとう服を着はじめた。彼は服を着ながら、このほうが自分の古い服より品がいいから、これを『利用する』のはいやだけれど、などと言った。『なさけないほど窮屈だ。一たい私はこんなものを着て、案山子の真似でもしなくちゃならんのですか……みなさんのお慰みにね?』
 一同はふたたび彼に向って、それもあまり誇張しすぎている、実際カルガーノフ氏は少々背が高いが、それもほんの少しばかりで、ズボンがほんの心もち長いだけだ、と言って聞かせた、けれども、上衣の肩は実際せまかった。
「ええ、畜生、ボタンもうまくかかりゃしない」とミーチャは唸るように言った。「どうか今すぐ私の名で、カルガーノフ君にそう言って下さい。私が頼んであの人の服を借りたんじゃない、かえってみんなが寄ってたかって、わたしを道化者に変装させたんだってね。」
「あの人はそれをよく知っていて、非常に残念がっています……もっとも、自分の着物を惜しがっているのじゃありませんよ、つまり、今度の出来事ぜんたいを遺憾としているのです」とニコライは口の中でもぐもぐ言った。
「あんなやつの同情なんか、くそを食らえだ! さあ、これからどこへ行くんです? それとも、まだやはりここに腰かけてるんですか?」
 人々はまた『あの部屋』へ行ってもらいたい、とミーチャに頼んだ。彼は憎悪のために渋い顔をしかめながら、努めて誰をも見ないようにして出て行った。彼は人の服を着ているので、百姓たちに対しても、トリーフォンに対しても、顔出しのできない人間のような気がした。トリーフォンはなぜかだしぬけに、ちらりと戸口から顔を覗けて、すぐにまた引っ込んだのである。『余興の仮装を見に来やがったんだな』とミーチャは思った。彼は前と同じ椅子に腰かけた。悪夢のような馬鹿げたことが頭に浮んで、彼は自分が正気を失っているように思われた。
「さ、今度はどうするんです。私を鞭で引っぱたこうとでも言うんですか。もうそれ以外何もすることがありませんからね」と彼は歯ぎしりしながら、検事に向って言った。
 彼はもうニコライとは、話をする値うちもないとでも言ったように、そのほうへは振り向こうともしなかった。『ひとの靴下をむやみに厳重に調べたものだ。その上、あの馬鹿野郎、わざと裏がえしにしてまで見やがったんだ。あれは、おれの肌につけてるものがどんなに汚いかってことを、みんなに見せるためにわざとしたんだ。』
「では、これから証人の審問に移りましょう。」ドミートリイの問いに答えでもするように、ニコライはこう言った。
「そうですなあ。」やはり何か思いめぐらしている様子で、検事は考えぶかそうに言った。
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、われわれはあなたの利益のためにできるだけのことをしました」とニコライは言葉をつづけた。「しかし、あなたはご所持の金の出どころについて、ああいうふうにだんぜん説明を拒絶してしまわれたのですから、われわれは……」
「ときに、あなたのその指環は何です?」ミーチャは何か瞑想状態からさめでもしたように、ニコライの右手に飾ってある三つの大きな指環の一つを指さしながら、にわかにこう遮った。
「指環?」とニコライはびっくりして問い返した。
「そうです、その指環です……その中指に嵌った、細い筋のたくさんあるのは、一たい何という石ですか?」とミーチャはまるで強情な子供のように、いらいらした調子でしつこく訊いた。
「これは霞トパーズですよ。」ニコライはにたりと笑った。「お望みなら、抜いてお目にかけましょう。」
「いや、いや、抜いていただかなくってもいいです!」ミーチャは急にわれに返って、自分で自身に腹を立てながら、兇猛な勢いでこう叫んだ。「抜かないで下さい、そんな必要はありません……ばかばかしい……みなさん、あなた方は私の魂を穢してしまいました! よしんば、本当に私が親父を殺したにもせよ、あなた方に隠しだてをしたり、ごまかしたり、嘘を言ったり、逃げ隠れたりするでしょうか? 一たい、あなた方はそんなことを考えておられるんですか! いや、ドミートリイ・カラマーゾフはそんな男じゃありません。そんなことが平気でできる男じゃありません。もし私が罪を犯したのなら、あなた方の到着や、最初予定していた日の出など、べんべんと待ちゃしません。夜の明けるのを待たずに自殺してしまいます! わたしはことに今これを痛感します。私が生れて以来、二十年間に学んだことも、この呪うべき夜に悟ったことには、はるか及ばないくらいです。それに、もし私が本当に親父を殺したのなら、どうして今夜、いま、この瞬間、あなた方と対坐しながら、こんな態度がとられましょう、どうしてこういう話しぶりができましょう、どうしてあなた方や、世間に対して、こんな見方ができましょう……私はグリゴーリイを誤って殺してさえ、夜どおし不安でたまらなかったのです、――しかし、それは恐怖のためじゃありません、なんの、あなた方の刑罰が恐ろしいからじゃありません! ただ恥辱を思うからです! それだのに、あなた方は私の新しい卑劣な穢らわしい行為を、まだこの上、打ち明けろと言われるのです。しかし、たとえそれで疑いがはれようとも、あなた方のような何一つ見ることもできない、もぐらもちにもひとしい皮肉やに話すのは厭です、いっそ懲役へやって下さい! 親父に戸をあけさせて、その戸口から入った者が親父を殺したのです、親父の金を盗んだのです。しかし、その者が誰かというだんになると、――私は途方にくれてしまいます。いらいらしてきます。が、それはドミートリイ・カラマーゾフじゃありません。その点をご承知ください。私があなた方に言い得るのは、これだけです。もうたくさん、たくさんです、しつこく訊かないで下さい……勝手に流刑にするなり、罰するなりして下さい。だが、もういらいらさせるのだけはごめん蒙ります。これで私は口をきかないから、勝手に証人をお呼びなさい!」
 ミーチャはもう断じて口をきくまいと、前もって決心していたかのように、この唐突なモノローグを結んだ。検事は絶えず彼を注視していたが、彼が口をつぐむやいなや、きわめてひややかな、きわめて落ちついた態度で、まるで恐ろしく平凡なことでも話すように、突然こう言いだした。
「あなたはいま戸を開けた者と言われましたが、そのついでにちょっとお話ししておきたいことがあります。それはきわめて興味のあることで、あなたにとっても、われわれにとっても、きわめて重大なことです。というのは、あなたのために傷つけられたグリゴーリイ老人の申し立てです。老人は玄関に出ると、庭のほうにあたって妙に騒々しい物音を聞きつけたので、開け放しの木戸を通って、庭へ入って行こうと決心したのです。ちょうどそのとき、庭へ入ろうとすると、さっきあなたがお話しなすったとおり、ご親父の覗いていられる開け放しの窓を離れて、闇の中を逃げて行くあなたの姿を見つけたのです。ところが、その前にグリゴーリイは左のほうを眺めた途端、実際その窓が開いているのに気がついたそうです。しかし、それと同時に、窓よりずっと手前にある出口の戸が、一ぱいに開け放してあるのを見定めたと、老人は正気に返ったとき、われわれの質問に対して明瞭に断言しました。あなたは自分が庭の中にいる間じゅう、戸はちゃんと閉まっていたと申されましたね。しかし、私は隠さずに言いますが、グリゴーリイ自身が確言確証したところによると、あなたはその戸口から逃げ出したはずです。むろん、老人はあなたが逃げ出すところを、自分の目で見たわけじゃありませんよ。初めてあなたを見つけたのは、あなたがだいぶ離れた庭の中を、塀のほうへ走って行くところでしたからね……」
 ミーチャは話なかばで椅子から飛びあがった。
「嘘です!」彼はとつぜん前後を忘れて、こう叫んだ。「生意気なでたらめです! あの男が戸の開いたところを見るはずがありません。あのとき戸は閉まっていたんです……あいつが嘘を言ったのです。」
「私は義務として、もう一度くり返して申しますが、老人の陳述は確固たるものでした。老人はあやふやなことを言いません。どこまでも自分の陳述を主張しています。しかも、われわれは幾度も問い返したのです。」
「それなんですよ、私もたびたび問い返しました!」とニコライは熱くなって相槌を打った。
「違います。違います! それは私に対する讒誣か、あるいは気ちがいの錯覚です」とミーチャは叫びつづけた。「それはただ気絶したり、血を出したり、傷をしたりしたために、正気づいた時そう思われたのです……そうです、あいつは譫言を言ったのです。」
「そうですなあ、しかし、老人が戸の開いているのを見つけたのは、正気づいた時じゃなくって、まだそのまえ、離れを出て庭へ入った時なのです。」
「いいや、違うと言ったら違うんです、そんなはずはありません! それは、あいつが私を憎んでの讒訴です……あいつが見るはずはありません……私は戸口から逃げ出しゃしないです。」ミーチャは息をはずませながら、こう言った。
 検事はニコライのほうへ振り向いて、言いふくめるような調子で、
「出してごらんなさい。」
「あなたはこの品をご承知ですか?」ふいにニコライは厚い紙で作った、事務用の大きな封筒を取り出して、テーブルの上へのせた。それにはまだ三《み》ところに封印が残っていた。
 封筒の中身は空っぽで、一方の端がやぶかれていた。ミーチャは目を丸くしながら、
「それは……それはきっと親父の封筒ですよ」と彼は呟いた。「その中にあの三千ルーブリの金が入っていたのです……もし例の宛名があったら……ちょっと拝見。『雛鳥へ』……やっぱりそうです、三千ルーブリです。」彼は叫んだ。「三千ルーブリ、おわかりでしょう?」
「むろん、わかりますとも。しかし、金はもう中に入っていませんでした。封筒は空っぽになって、床の上に転がっていました。衝立ての陰にある寝台のそばに落ちていました。」
 ややしばらくミーチャは呆気にとられたように、突っ立っていた。
「みなさん、それはスメルジャコフです!」とつぜん彼は、力一ぱいに叫んだ。「あいつが殺したのです、あいつが強奪したのです! 親父の封筒がどこにしまってあるか、それを知ってるのはあいつ一人です……あいつです、今こそ明瞭です!」
「しかし、あなただって封筒のこともご存じなら、その封筒が枕の下にあることも、ちゃんと知っておられたじゃありませんか。」
「そんなことは知りません。私は今まで一度もその封筒を見たことがありません。今はじめて見るので、前にスメルジャコフから聞いただけです……親父がどこへ隠していたか知ってるのは、ただあいつ一人です、私は知らなかったのです……」ミーチャはもうすっかり息を切らしてしまった。
「でも、封筒は亡くなった親父の枕の下に入っていたと、ついさきほど、あなたがわれわれにおっしゃったじゃありませんか。あなたが枕の下にあったと言われるところをみれば、つまり、どこにあるかを知っていられたのじゃありませんか。」
「現にそう書きつけてありますよ」とニコライは相槌をうった。
「嘘です、馬鹿げた話です! 私は枕の下にあることなんか、てんで知らなかったのです。それに、あるいは枕の下ではないかもしれません……私は口から出まかせに、枕の下と言ったのです……スメルジャコフは何と言っていますか? あいつに封筒のありかを訊いたでしょう? スメルジャコフは何と言っています? それは重大なことです……私はわざと嘘を言ったのです……私はよくも考えずに、でたらめに枕の下と言ったのです。ところが、あなた方はいま……まったくつい舌がすべって、でたらめを言うことはよくあるでしょう。ええ、スメルジャコフ一人、ただ、スメルジャコフー人きりです。ほかに誰も知っていた者はありません!………あいつは私にも、どこにあるかを打ち明けなかったのです。あいつです、あいつです、疑いもなくあいつが殺したのです。もう今では、火を見るように明らかです」とミーチャは熱したり激昂したりしながら、ますます夢中になって、連絡もないことを繰り返し叫んだ。「わかりましたか? さあ、はやく、一刻もはやくあいつを捕縛して下さい……私が逃げてしまったあとで、グリゴーリイが正気を失って倒れてるあいだに、あいつが殺したに相違ありません。それはもう明瞭です……あいつが合図をして、親父に戸を開けさせたのです……なぜって、ただあの男がひとり、合図を知ってるだけだからです。合図がなければ、親父は誰が来たって、決して戸を開けやしないはずです……」
「しかし、あなたはまだ一つ忘れておられます。」依然として控え目ではあるが、しかしもはや勝ち誇ったような調子で検事は注意した。「もしあなたのまだいられるときに、まだあなたが庭にいられるときに、もう戸がちゃんと開いていたとすれば、合図をする必要はないじゃありませんか……」
「戸、戸!」ミーチャはこう呟きながら、無言のまま検事を見つめた。彼は力抜けして、また椅子に腰をおろした。
 一同は黙っていた。
「ああ、戸!………それは幽霊だ! 神様も、僕を見棄てたんだ!」彼はもう何の考えもなく、じっと目の前を眺めながら、こう叫んだ。
「そこですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事はもったいらしく言った。「まあ、考えてごらんなさい。一方には、戸が確かに開いていて、あなたはその中から逃げ出したのだという、あなたをもわれわれをも圧倒するような申し立てがあるでしょう。また一方には、突然あなたの手に入った金の出所について、あなたは不思議なほど頑固に、ほとんど気ちがいじみた態度で沈黙を守っていられる。ところが、あなた自身の申し立てによると、その金を手に入れる三時間まえには、たった十ルーブリの金を調達するために、ピストルを質に入れたではありませんか。こうした事情を頭において、一つご自分で考えてごらんなさい、一たい、われわれは何を信じたらいいのです、何を基礎としたらいいのです? あなたの心の高潔な叫びを信ずることのできない『冷酷なシニックで皮肉やだ』などと言って、われわれを責めないで下さい……それどころか、われわれの立場も察していただきたいものです……」
 ミーチャは名状しがたい興奮におそわれていた。彼の顔は蒼白になった。
「よろしい!」と彼はだしぬけに叫んだ。「では、秘密を打ち明けましょう、どこから金を手に入れたか打ち明けましょう!……あとであなた方をも自分をも責めることがないように、自分の恥辱を打ち明けましょう。」
「いや、実際のところ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」とニコライは何となく感激したような、嬉しそうな声で口を入れた。「今のような場合に誠意ある完全な告白をなされば、後にあなたの運命を軽減するために、非常な助けになるかもしれませんよ、のみならず……」
 このとき検事はテーブルの下から軽く彼を突っついた。で、彼は危いところで言葉をきることができた。もっとも、ミーチャはそんな言葉に耳をかしていなかったのである。

[#3字下げ]第七 ミーチャの大秘密――一笑に付さる[#「第七 ミーチャの大秘密――一笑に付さる」は中見出し]

「みなさん。」彼はやはり以前と同じ興奮のていで言い始めた。「あの金は……私はすっかり白状しましょう……あの金は私のものでした。」
 検事と予審判事の顔は長く延びた。彼らもこういうことはまったく予期しなかったのである。
「どういうわけであなたのです」とニコライは呟いた。「まだその日の五時には、あなた自身の申し立てによると……」
「ええっ、その日の五時も、私自身の申し立ても、くそをくらえだ。そんなことは、今の問題じゃありません。あの金は私のものです、私のものです、いや、私の盗んだ金です……私のではありません、つまり、盗んだ金です、私が盗んだ金です、それは千五百ルーブリありました。それを私は体から離さずに持っていたのです、絶えず肌身はなさずに……」
「しかし、あなたはどこからその金を取って来たのです?」
「頸からです、みなさん、頭から取ったんです、これ、この私の頸から……あの金はここにあったのです。私の頸にあったのです。きれの中に縫いこんで、頸にかけていたのです。もうとっくから、もう一カ月も前から、私は恥と汚辱を忍んで、あの金を頸にかけていたのです!」
「しかし、あなたは誰の金を……着服したのです?」
「あなたは『盗んだのか?』と言いたかったでしょう。もう率直に言って下さい。実際、私はあの金を盗んだのも同然だと思っています。が、もしお望みとあれば、実際『着服した』のです。しかし、私の考えでは、盗んだのですと言ったほうがよさそうです。ところが、昨夜はもうすっかり盗んでしまいました。」
「昨夜? しかし、あなたはたった今、あれを手に入れたのは一カ月前だと言われたじゃありませんか!」
「でも、親父のところから盗み出したのじゃありません、親父の金じゃないです。心配しないで下さい、親父のところから盗ったのではなくって、あのひとのものです。どうか口を入れないで、すっかり話させて下さい。まったく私は苦しいんだから。じつは一カ月前、私の許嫁であったカチェリーナ・イヴァーノヴナ・ヴェルホーフツェヴァが私を呼んだのです……あなた方はあの婦人をご存じですか?」
「知っていますとも、むろんです。」
「ご存じだろうと思いました。あのひとは実に潔白な婦人なのです。潔白な人間の中でもかくべつ潔白な婦人ですが、もうとうから私を憎んでいます。そうです、とうからです、とうからです……しかし、憎むのはもっともです、もっともなんです!」
「カチェリーナ・イヴァーノヴナが?」と予審判事はびっくりして問い返した。
 検事も同様おそろしく目を見据えた。
「ああ、あのひとの名をみだりに呼ばないで下さい! 私があのひとを引き合いに出したのは、卑劣な行為です。しかし、私はあのひとが私を憎んでいることを知りました……とっくに、そもそもの初まりから、あっちにいる時、私の下宿へ来た時から……いや、もう言いますまい、あなた方はこんなことを知る値うちがありません、これはまるで必要のないことです……ただお話ししなければならんのは、一カ月前にあのひとが私を呼び寄せて、三千ルーブリの金を渡し、それをモスクワにいる自分の姉と、それからもう一人の親戚の女に送ってくれと言ったことです。(まるで自分では送れないかなんぞのように?)ところが、私は……それがちょうど私の一生に一転期を画する時と、私が初めてほかの「女」を恋した時なのです。それはあの女です、今の女です、いま下にいるグルーシェンカです……その時、私はあれをこのモークロエヘ引っ張って来て、ここで二日間にあのいまいましい三千ルーブリの半分、つまり千五百ルーブリを撒きちらし、残りの半分を残しておいていたのです。この千五百ルーブリを私は守り袋の代りに頸へかけて、始終もち歩いていましたが、昨日とうとう封を切って使ったのです。ニコライ・パルフェノヴィッチ、今あなたの手にある八百ルーブリは、そのつりです、昨日の千五百ルーブリのつりです。」
「失礼ですが、あなたがあの時、一カ月前に、ここで使ったのは三千ルーブリで、千五百ルーブリじゃないでしょう、それは誰でも知っています。一たいどういうわけなんです?」
「誰がそんなことを知ってるんです? 誰が一たい勘定したのです? 私が一たい誰に勘定させました?」
「冗談じゃありませんよ。あの時ちょうど三千ルーブリ使ったとみんなに言ったのは、あなた自身じゃありませんか。」
「そうです、言いました、町じゅうのものに言いました。町じゅうのものもそう言いました。みんなそう思っていました。このモークロエでも、やはりみんな三千ルーブリと思っていました。しかし、それでもやはり、私の使ったのは三千ルーブリじゃなくって、千五百ルーブリです。そして残りの千五百ルーブリは、袋の中に縫い込んだのです。こういうわけなんですよ、みなさん、昨日の金の出所はこういうところにあったんですよ……」
「それはほとんど奇蹟だ……」とニコライは呂律の廻らない調子で言った。
「じゃ、失礼ですが、一つお訊ねしましょう、」とうとう検事がこう言いだした。「あなたは以前このことを……つまり、その千五百ルーブリ残っているということを、その当時、一カ月まえ誰かに言いましたか?」
「誰にも言いません。」
「それは不思議ですね。一たいあなたはまるっきり誰にも言わなかったのですか?」
「まるっきり、誰にも言いません、断じて誰にも言いません。」
「しかし、なぜそんなに黙っていたのです? どういうわけであなたはそんなことを、そんなに秘密あつかいにしていたのです? もっと正確に説明しますと、あなたは結局、われわれに自分の秘密を打ち明けたじゃありませんか。その秘密は、あなたの言葉によると、非常に『恥ずべき』ものだそうですが、そのじつ(むろん、相対的の話ですよ)、この行為は、すなわち人の金を三千ルーブリ着服した、それもただ一時着服したという行為は、私の見解から言うと、少くとも、ただひどく無分別な行為というにすぎません。のみならず、あなたの性格を考慮に入れるときは、決してそれほど恥ずべき行為ではありません……むろん、非難すべき行為である、ということには私も同意しますが、非難すべき行為というだけで、それほど恥ずべき行為じゃありません……つまり、私のとくに言おうとするところは、あなたが使ったあの三千ルーブリの金が、ヴェルホーフツェヴァ嬢から出ていることは、もうこの一月の間に多くのものが察していましたから、あなたの申し立てのないうちに、私もその物語を聞いていた、とこういう点なのです……例えば、ミハイル・マカーロヴィッチなどもやはり聞いておられます。ですから、しまいにはもうほとんど物語ではなくなって、町じゅうの噂話になったくらいです。それに、あなた自身(もし私の思い違いでないとすれば)このことを、つまりこの金がヴェルホーフツェヴァ嬢から出たということを、誰かに打ち明けた形跡がありますよ……ですから、あなたが今まで、つまりこの瞬間まで、あなたのいわゆる『取りのけておかれた』この千五百ルーブリを、非常な秘密として扱っていられたのみならず、その秘密に一種の恐怖さえ結びつけておられるのは、実に驚くのほかありません……そんな秘密の告白が、あなたにこれほどの苦痛を与え得るとは、どうしても本当にできません……なぜと言って、あなたは今、これを白状するよりも、いっそ懲役に行ったほうがいい、とまで絶叫したじゃありませんか……」
 検事は口をつぐんだ。彼はひどく興奮していた。彼はほとんど憎悪に近い自分の不満を隠そうともせず、語句の修飾などには心もとめず、連絡もなしに、ほとんどたどたどしい言葉づかいで、胸にたまっていることを残らず言ってしまったのである。
「しかし、恥辱は千五百ルーブリにあるのじゃなくって、その千五百ルーブリを、三千ルーブリから別にした点にあるのです。」ミーチャはきっぱりとこう言った。
「けれど、それがどうしたのです?」と検事はいらだたしそうに、にたりとした。「すでにあなたが非難すべき方法で(しかし、お望みとあれば、恥ずべき方法と言いましょう)、恥ずべき方法で着服した三千ルーブリから、自分の考えで半分だけ別にしたということに、どうして恥ずべき点があるのです? 重大な問題は、あなたが三千ルーブリを着服されたことであって、その処置のいかんではありません。ついでだから訊きますが、あなたはなぜあんなふうな処置をしたのです。つまり、あの半分を別にしたのです? 何のために、どういう目的であなたはそんなことをしたのです? それを説明していただけませんか。」
「ああ、みなさん、その目的に、すべてがふくまれてるんです!」とミーチャは叫んだ。「卑劣な動機から別にしたのです、つまり、打算です。なぜならこの場合、打算は卑劣と同じですからね……しかも、まる一カ月この卑劣な行為がつづいていたのです!」
「わかりませんね。」
「驚きますなあ。しかし、も一ど説明しましょう。あるいは実際わからないかもしれませんからね。それはこうなんです。私は、自分の潔白を見込んで委託された三千ルーブリを着服して、使ってしまいました、すっかり使いはたしました。そして、翌朝、あのひとのところへ行って、『カーチャ、悪いことをした、わしはお前の三千ルーブリを使ってしまったのだ』と言ったらどうでしょう、いいことでしょうか? いや、よくはありません、――不正なことです、浅はかなことです、獣です、獣同然になるまで自分を押えることのできない人間です、そうじゃありませんか、そうじゃありませんか? しかし、それにしても、盗人じゃありますまい? 本当の盗人じゃない、本当の盗人じゃないでしょう、そうじゃありませんか! 使いはしたけれど、盗みはしませんからね! ところが、ここに第二の方法、もっとうまい方法があります、よく聞いて下さい。でないと、また変なことを言いだすかもしれませんから、――何だか頭がぐらぐらするんです。そこかでもない、ここで三千ルーブリの中から千五百ルーブリ、つまり半分だけ使うんです。そして、翌る日あのひとのところへ行って、あとの半分をさし出しながら、『さあ、カーチャ、このわしから、ならず者から、無分別な横着者から、この半金を受け取っておくれ。わしは半分つかってしまったんだ。いずれこの半分も使ってしまうだろうから、君子は危きに近よらずだ!』とこう言うのです。どうです。こういう場合は? 獣とでも、横着者とでも、何とでも言って下さい。しかし、泥棒じゃありません、腹の底までの泥棒じゃありません。なぜと言って、もし泥棒なら半分のつりを返しに持って行かないで、自分のものにしてしまうでしょう。ところが、私は半分もって行ったから、あとの半分、つまり使いはたした金も持って来るだろう、一生涯その金を求めて働いて、できたら持って来て返すだろうと、そうあのひとは思います。こういうわけで、私は横着者ではありますが、決して泥棒じゃありません、泥棒じゃありません、何と言われてもかまいませんが、ただ、泥棒というわけにはゆきません!」
「まあ、かりにいくらか相違はあるとしても」と検事は冷やかに、にたりと笑った。「それでも、あなたがそこに、それほど根本的な相違を認められるのは、奇妙ですね。」
「いや、それほど根本的な相違を認めますとも。卑劣漢には誰でもなることができます、あるいは誰でもみんな卑劣漢かもしれません。しかし、泥棒には誰でもなるというわけにゆきません、ただ図抜けた卑劣漢だけです。しかし、私はこんな微妙な相違を、うまく説明することができません……が、とにかく、泥棒は卑劣漢よりもっと卑劣です。これが私の信念なんです。いいですか、私はまる一カ月間、その金を持ち歩いていました、明日にもそれを思いきって返すことができます。そうなれば、私はもう卑劣漢じゃありません。ところが、決行できなかったんです。毎日決心しながら、――毎日『決行しろ、早く決行しろ、この卑劣漢』と言って、自分で自分をうしろから突くようにしながら、もうまる一カ月のあいだ、決行ができなかったのです。どうでしょう、いいことでしょうか、あなた方のご意見では、これがいいことでしょうか?」
「まあ、かりにあまりよくないことだとしても、とにかく、その心持は十分理解することができます。それについては私も異存ありません」と検事は控え目に答えた。「ですが、とにかく、そういう微妙な相違に関する議論は、すっかり抜きにして、またもとの用件に戻ってはどうでしょう。その用件というのは、ほかでもありません、なぜあなたは最初あの三千ルーブリを別にしたのです、つまり、なぜ半分使って半分かくしておいたのです? さっきお訊ねしたけれど、まだ説明してもらいませんでしたね。一たいなぜ隠したのです。一たいあの残った千五百ルーブリを何に使うつもりだったのです? ドミートリイ・フョードロヴィッチ、私はあくまでそれを聞きたいのです。」
「ああ、本当にそうだ!」とミーチャは自分の額を叩いてこう叫んだ。「赦して下さい。私はあなた方を苦しめるだけで、要点を説明しなかったっけ。でなかったら、あなた方もすぐに悟ってしまわれたでしょうになあ。なぜと言って、目的の中に、この目的の中に汚辱があるからです! ねえ、考えてごらんなさい、あの老人が、亡くなった親父が、しょっちゅうアグラフェーナをぐらつかせていました。それが私の嫉妬の種なんです。あの女はおれにしようか、あいつにしようか、と迷っているんだろう、こうその当時考えたもんです。しかし、またこんな考えも毎日浮んできました、もし急にあれが肚を決めたらどうしよう? おれを苦しめるのにも飽きがきて、『わたしはあなたを愛しているのよ。あの人じゃないわ、さあ、わたしを世界の果てへ連れてってちょうだい。』などとだしぬけに言いだしたらどうしよう、とこう思ったわけです。私は二十コペイカ玉をたった二枚きりきゃ持ってないんですからね、どうして連れ出すことができましょう。その時はどうにも仕方がない、――もう破滅だ。その時わたしはあの女を知らなかったもんですから、理解していなかったもんですから、あれはきっと金がほしいにちがいないから、おれの貧乏に愛想をつかすだろうと考えました。そこで私は横着にも、三千ルーブリの中から半分だけ別にして、それを平然として針で縫い込んだのです。あてにするところがあって、縫い込んだのです。まだ遊興に出かけない前に縫い込んだのです。それから、縫い込んだあとで、残りの半分を持って遊興に出かけたんです。いや、実に陋劣だ! さあ、これでおわかりになったでしょう?」
 検事は大声に笑った。予審判事もやはり笑いだした。
「私の考えでは、あなたが自己を抑制して残らず使ってしまわなかったということは、かえって賢いやり方でもあり、また道徳的にも結構なことだと思いますね」と言って、ニコライはひひと笑った。「なぜと言って、べつにどうということはないんですものね。」
「ところが、盗んだということがあります。そうですよ! ああ、私はあなた方の無理解がそら恐ろしくなります! 私は、袋に縫い込んだ千五百ルーブリの金を懐中しているあいだ、しじゅう、毎日、毎時、自分に向って、『貴様は泥棒だぞ、貴様は盗んだんだぞ!』と言いつづけていました。それがために、私はこの一カ月というもの、乱暴なことばかりしたんです、それがために料理屋でも喧嘩をしました、それがために親父も殴りました。つまり、自分は泥棒だという気がしたからです! 私は弟のアリョーシャにさえ、この千五百ルーブリのことを打ち明ける勇気もなければ、決心もつかなかったのです。それほど私は自分を卑劣漢で、詐欺師だと感じていました。しかし、お断わりしておきますが、私は金を肌につけて持って歩きながらも、それと同時に、毎日、毎時、自分で自分に向って、『待てよ、ドミートリイ、お前はまだ盗人じゃないかもしれんぞ』とこう言いつづけました。なぜでしょう? ほかでもありません、自分は明日にもカーチャのところへ行って、この千五百ルーブリを返すことができると思ったからです。ところが、きのうフェーニャのところから、ペルホーチンの家へ行く途中、はじめてこの袋を頸から引きちぎろうと決心しました。その時までは、どうしても決心がつかなかったんですが、いよいよ引きちぎったその瞬間、もう一生涯とり返しのつかない、弁解の余地のない立派な泥棒になったのです、泥棒でしかも破廉恥な人間になったのです。なぜでしょう? それは私が袋を引きちぎると同時に、カーチャのところへ行って、『わしは卑劣漢だが、泥棒ではないよ』と言おうと思った自分の空想をも、袋と一緒に引きちぎってしまったからです! もうわかったでしょう、え、おわかりでしょう?」
「なぜあなたは、ゆうべにかぎって、そんな決心をなすったのです?」とニコライは口を入れた。
「なぜですって? おかしなお訊ねですね。なぜと言って、私は朝の五時、夜の引き明けにここで死のうと、自分で自分に宣告したからです。『卑劣漢だろうが、高潔な人間だろうが、死ぬのに変りがあるものか!』と考えたからです。ところが、そうじゃなかった、どうでもよくないことがわかったのです! あなた方は本当になさらんかもしれませんが、ゆうべ何よりも私を苦しめたのは、私が年よりの下男を殺したため、シベリヤへ行かなくちゃならない(しかも、それは自分の恋がかなって、ふたたび天国が眼前にひらけた時ですからねえ!)というような危惧の念ではありません。むろん、これも苦しめるには苦しめました。が、それほどじゃなかったです。『自分はとうとうあのいまいましい金を胸から引きちぎって、すっかりそれを撒き散らしてしまったから、もう今では立派な盗人になりはてたんだ!』という、このいまわしい意識ほど烈しくはありませんでした。おお、みなさん、本当に心底から繰り返して言いますが、私はあの一晩にいろいろなことを知りましたよ! 人間は卑劣漢として生きてゆけないばかりか、卑劣漢として死ぬこともできないものだ、それを私は悟りました……そうです、みなさん、死ぬのも潔白に死ななけりゃなりません!………」
 ミーチャは真っ蒼になっていた。彼は極端に熱していたが、その顔には疲労と苦痛の色が現われていた。
「あなたの心持は次第にわかってきました、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事はもの柔かな、ほとんど同情するような調子で、言葉じりを引いた。「しかし、それはみんな、あなたはどうお考えか知らないが、私の考えでは、神経にすぎないと思いますね……病的な神経、確かにそうですよ。例えばですね、ほとんど一カ月にわたるそんな烈しい苦痛をのがれるために、なぜ依頼者たるその婦人のところへ行って、千五百ルーブリの金を返さなかったのです? そして、あなたの境遇は、あなたご自身のお話によると、非常に恐ろしいものだったんですから、どうしてそのご婦人とよく相談の上で、誰の頭にも自然と浮んでくる方法を、講じてはみなかったのです? つまり、そのご婦人の前に、潔く自分の過失を打ち明けたあとで、自分の出費に要する金を借りることが、どうしてできなかったのです? 寛大な心を持ったそのご婦人は、あなたの困窮を知ったなら、むろんあなたの要求をこばみはしなかったでしょう。ことに証文を入れるとか、あるいはやむを得ない場合には、商人サムソノフやホフラコーヴァ夫人に提供されたような抵当を入れるとかしたら、なお大丈夫だったはずですよ。実際あなたは今でもその抵当を、値うちのあるものと思っていられるんでしょう?」
 ミーチャは急に真っ赤になった。
「じゃ、あなたはそれほどまで私を卑劣漢と思っていられるんですか! まさかそんなことを真面目でおっしゃるんじゃありますまい!」彼は検事の目をひたと見つめながら、いかにも相手の言葉が信じられないといったような、不満らしい調子でこう言った。
「めっそうもない、真面目ですとも……どうしてあなたは真面目でないなどとお思いですか?」今度は検事のほうがびっくりした。
「ええ、それは何とも言いようのない陋劣な話です! みなさん、自分ではおわかりになりますまいが、あなた方は私を苦しめていられるんですよ! どうかすっかり言わせて下さい。私はいま自分の極道さ加減をきれいに白状してしまいます。しかし、それは、あなた方に恥を知らせるためですよ。人間の感情のコンビネーションが、どれくらいまで陋劣になり得るかを知ったら、あなた方もびっくりされるでしょう。実はね、検事さん、私もあなたがいま言われた方法を、自分で講じたことがあるんですよ。そうです、みなさん、私もこの呪うべき一カ月の間、そういう考えをいだいていました、で、もうほとんどカーチャのところへ出かけよう、とまで決心していたくらいです。私はそれほど陋劣になっていました。しかし、あれのところへ行って、自分の心変りを打ち明けたうえ、この心変りのために、この心変りを実行するために、将来この心変りに要する費用のために、あの女に、カーチャに金を無心して(無心するんです、いいですか、無心するんですよ!)そして、すぐほかの女と一緒に、あれの競争者と一緒に、あれを憎みあれを侮辱した女と一緒に駈落ちするなんて、――そんなことができるものですか。あなたは気がどうかしていますよ、検事さん!」
「どうかしているかいないか、それは別として、しかし私はつい夢中になって、ろくに考えもしないで言ったんですよ……まったくそうした女性の嫉妬については、もしあなたの言われるとおり、そこにじっさい嫉妬があったとすれば……そうです、そこには何かそれに類したものがあるでしょう……」と言って、検事はにたりと笑った。
「しかし、それは実に穢らわしいことです。」ミーチャは勢い猛に拳でテーブルを叩いた。「それはもう何と言っていいかわからないほど、悪臭芬々たる行為です! そうでしょう、あれはその金を私にくれたでしょう。ええ、くれたでしょう、確かにくれたでしょう。わたしに対する復讐のために、復讐を楽しむ心持のために、私に対する軽蔑を示すために、くれたでしょう。なぜと言って、あれもやはり偉大なる怒りに充ちた、兇悪な女ですからなあ! 私はその金をもらったでしょう。ええ、もらったでしょう、もらったに違いありません。しかし、その時は一生涯……ああ、実に! 失礼しました、みなさん、私がこんなに呶鳴るのは、私がもうずっと前から、一昨日あたりから、自分でもそういう考えを持っていたからです。それはちょうど、私が猟犬《レガーヴィ》を相手にして騒いだ夜です。それから昨日、そうです、きのうも一日そうでした。私は憶えていますが、ちょうどこの事件が起るまで……」
「どんな事件です?」ニコライは好奇に充ちた調子で口を挿んだ。が、ミーチャはそれをよく聞き取ろうとしなかった。
「私はあなた方に恐ろしい告白をしました」と彼は沈んだ様子で言葉を結んだ。「みなさん、だから、その自白を評価して下さい。いや、そればかりじゃたりません、評価するばかりじゃたりません、評価するというよりは、むしろ尊重して下さい。もし尊重して下さらなければ、もしこの言葉さえあなた方の心を動かさないとすれば、つまり、それは私をまったく尊敬していない証拠だと、こうあなた方に断言します。私はあなた方のような人に自白したのが恥しい。私はむしろ死にたいくらいです! ええ、自殺します! しかし、私にはわかります、よくわかります、あなた方は私の言うことを、本当にしてはおられないんです! やっ、あなた方はこれまで書きとめようというんですか?」彼はもう本当にぎょっとしてこう叫んだ。
「しかし、今あなたはこんなことを言いましたね。」ニコライはびっくりして彼を見つめた。「ほかでもありませんが、あなたは最後の瞬間まで、ヴェルホーフツェヴァ嬢のところへ行って、その金を借りるつもりであった、と言われましたね……実際のところ、これはわれわれにとって非常に重大な申し立てですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、つまり、その、事件ぜんたいに関してですな……ことにあなたにとって、ことにあなたにとって重大な申し立てです。」
「冗談じゃありませんよ、みなさん」とミーチャは思わず手を拍った。「せめてそれだけは書かないで下さい。恥を知るもんですよ! 私はいわば、自分の心をあなた方の前で真っ二つに割って見せたんです。ところが、あなた方はこの機に乗じて、その割れ目を指でほじくり廻すんです……ああ、何ということだ!」
 彼は絶望のあまり、両手で顔を蔽うた。
「そんなに心配なさらなくってもいいですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事は言った。「いま書きとめたことは、あとですっかりあなたにお聞かせしますから、もし不服な点があったら、あなたのお言葉どおりに訂正します。が、今わたしは一つ繰り返してお訊きしたいことがあります、これでもう三度目なんです。あなたがこの金を袋の中へ縫い込んだことを、あなたから聞いたものは一人もないのですか? 本当に誰ひとりもないのですか? 私はあえて言いますが、それはほとんど想像できないことですよ。」
「誰も聞きません、誰も聞かない、と言ったじゃありませんか。あなた方は何もわかっていないのです! もううるさく訊かないで下さい。」
「それではどうぞご随意に。が、このことはぜひ闡明しなけりゃならないんです。それに、このさきまだ時日はいくらでもありますからね。しかし、まあ考えてごらんなさい、三千ルーブリの金を使ったということは、あなたが自分で吹聴して廻ったんですよ。のみならず、あなたは到るところでそのことを、大っぴらにわめき散らしたじゃありませんか。証拠は何十といってあります。あなたが言われたのは三千ルーブリで、千五百ルーブリじゃありません。それに今度も、きのう金が出て来たとき、また三千ルーブリもって来たと、やはり大勢の人に言われたじゃありませんか……」
「何十どころじゃありません、何百という証拠があなた方の手に握られています。証拠は二百もあります、聞いた者は二百人もあります、いや、千くらい聞いたでしょう!」とミーチャは叫んだ。
「ね、そうでしょう。誰も彼もみんな証明しています。してみれば、みんな[#「みんな」に傍点]という言葉は、何かの意味を持っているはずですよ。」
「何の意味もありませんよ。私がでたらめを言ったら、みんなが私のあとについて、でたらめを言うようになったんです。」
「しかし、あなたは何のために(あなたの言葉を借りると)、でたらめ[#「でたらめ」に傍点]を言わなければならなかったのです?」
「そんなこと誰が知るもんですか。自慢のためかもしれませんね……ちょっとその……どうだ、こんなにたくさんの金を使ったぞといったような……あるいはまた例の縫い込んだ金のこと

『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P003-P047

[#3字下げ]第六 おれが来たんだ[#「第六 おれが来たんだ」は中見出し]

 ドミートリイは街道を飛ばして行った。モークロエまでは二十露里と少しあったが、アンドレイのトロイカは、一時間と十五分くらいで間に合いそうな勢いで疾駆するのであった。飛ぶようなトロイカの進行は、急にミーチャの頭をすがすがしくした。空気は爽やかに冷たく、澄んだ空には大きな星が輝いていた。それは、アリョーシャが大地に身をひれ伏して、『永久にこの土を愛する』と、夢中になって誓ったのと同じ晩であった。おそらく同じ時かもしれぬ。しかし、ミーチャの心はぼうっとしていた、恐ろしくぼうっとしていた。さまざまなものが、いま彼の心をさいなんではいたが、それでも、この瞬間、彼の全存在はとどめがたい力をもって彼女のほうへ、自分の女王のほうへのみ飛んで行った。ミーチャは臨終《いまわ》のきわにたった一目彼女を見ようと、こうして馬を飛ばしているのであった。
 ちょっと一こと言っておくが、彼の心はただの一瞬も争闘を感じなかった。とつぜん地から湧いたように飛び出したあの新しい情人に対して、新しい競争者に対して、あの将校に対して、――嫉妬深いミーチャがいささかの嫉妬すら感じなかったと言っても、読者はおそらく本当にしないであろう。もしほかにそんな男が現われたら、よしんばそれが誰であろうと、彼はさっそく烈しい嫉妬を起して、あの恐ろしい手をふたたび血に染めたかもしれない。しかし、この『もとの恋人』に対しては、今こうしてトロイカを飛ばしている間にも、嫉妬がましい憎悪の念を感じなかったばかりか、軽い反感さえもいだかなかった、――もっとも、まだ会ったことはないけれど……『もうこの問題には議論の余地がない。これは二人の権利なんだからなあ。どうせ、あれが五年間、わすれることのできなかった初恋だ、してみると、あれはこの五年間その男一人を愛していたきりなんだ。おれは、おれはまあ、何のためにそんなところへ飛び出したんだろう? そんな場合、おれなぞに何の意味があるのだ? 何の関係があるのだ? どけてやれ、ミーチャ、道を譲ってやれ! それに、今おれはどういう体なんだ? 今はあの将校がいなくたって万事休してるのだ。あの将校がまるっきり姿を見せなかったにしても、やっぱり一切のけりがついてるのだ……』
 今もし彼に思考の力があったならば、ほぼこういう言葉で自分の感じを言い現わしたに相違ない。しかし、彼はもう何も考えることができなかった。今の決心も、何らの思考をもへないで生じたのである。もうさきほどフェーニャの説明をみなまで聞かぬうちに、この決心はすべてそれに伴う結果とともに、一瞬の間に感得し採用せられたのである。しかし、こういう決心を採ったにもかかわらず、彼の心は濁っていた。苦しいほど濁っていた。決心も平安を与えてくれなかった。あまりに多くのものがうしろに立ちふさがって、彼を悩ますのであった。ときおり、自分にもこれが不思議に感じられるほどであった。『われみずからを刑罰す』という宣告文は、すでに彼の手によって紙の上に書かれ、その紙はここに、かくしの中にちゃんと入っている、ピストルも装填してある。そして、明日は『金髪のアポロ』の最初の熱い光線を、どんなふうに迎えようかという決心もついている。それでいながら、うしろに立ちふさがって自分を悩ましている過去のものと、きれいに手を切ってしまうことができなかった。彼はこれを苦しいほど自覚した、そして、この自覚が絶望となって、彼の心に絡みつくのであった。
 どうかすると、ふいにアンドレイに馬を止めさせ、車の外へ飛び下りて、例の装填したピストルを取りいだし、暁を待たずに一切の片をつけたい、という心持のきざす瞬間があった。しかし、この瞬間はすぐ火花のように飛び過ぎた。それに、馬車は『空間を食《は》みつつ』疾駆しているではないか。目的地が近づくにつれて、またしても彼女を思う心が、彼女ひとりを思う心が、次第に強く彼の胸をつかんで、その他の恐ろしい想念を心の外へ追いやるのであった。女の姿を遠くからちらとでも見たくてたまらなかった! 『あれは今あの男[#「あの男」に傍点]と一緒にいるのだ。あれがあの男と、もとの恋人と一緒にいるところを、ちょっと一目見てやろう。それだけでもうたくさんなのだ。』彼は今まで自分の運命に一転期を画したこの女に対して、この瞬間ほど強い愛を感じたことがない。それは、今までかつて経験したことのない新しい感情であった。自分自身にさえ思いがけのない感情であった。女の前に消えもはてたいような、祈りに近い優しい感情であった。『いや、ほんとうに消えてしまうのだ!』彼はあるヒステリックな歓喜の発作に打たれて、ふいに口へ出してこう言った。
 もうほとんど一時間ばかり走りつづけた。ミーチャはじっと押し黙っていた。アンドレイも話ずきな百姓だったが、やはり口をきくのが恐ろしいかなんぞのように、まだ一口もものを言わないで、ただ一心に栗毛の痩せた、とはいえ、活発らしい三頭立を追うばかりであった。突然ミーチャは烈しい不安におそわれて叫んだ。
アンドレイ、もし寝ていたらどうする?」
 このとき、ふいにこういう考えが彼の心に浮んだ。これまでそんなことは考えもしなかったのである。
「もう寝ているもんと思わにゃなりませんなあ、旦那。」
 ミーチャは病的に眉をしかめた。それが本当だったらどうだろう、自分が……こんな感情をいだきながら駈けつけてみると……もうみんな寝てしまっている……もしかしたら、あれもそこで一緒に寝ているかもしれぬ……毒々しい感情が彼の心に湧き立ってきた。
「追え、アンドレイ、飛ばせ、アンドレイ、もっと、しっかり!」と彼は夢中になって叫んだ。
「でも、ことによったら、まだ寝とらんかもしれませんよ。」アンドレイはしばらく無言の後、こう言った。「さっきチモフェイの話じゃ、あそこには大勢人が集っとるそうですからね。」
「駅遞に?」
「駅遞じゃありません、プラストゥノフの宿屋でがす。つまり私設の駅遞なんで。」
「知ってるよ。ところで、なぜ大勢なんて言うのだ? どうしてそんなに大勢いるのだ? 一たい誰々だい?」ミーチャはこの思いもよらぬ報知に、恐ろしい不安を感じながら叫んだ。
「へい、チモフェイの話では、みんな旦那がたばかりだそうでございます。そのうちお二人は町の人だそうでがすが、どなたかわかりません。ただお二人はここの旦那だって、チモフェイが申しておりました。それから別にお二人、よそから見えた方がいらっしゃるそうでがす。まだほかに誰かおられるかもしれませんが、くわしいことは訊きませんでしたよ。何でも、カルタを始めたとか申しておりました。」
「カルタを?」
「へえ、さようで。カルタを始めたとなりゃ、まだ寝とらんかもしれませんよ。今やっと十二時前くらいの見当でがしょう、それより遅いこたあごわせん。」
「飛ばせ、アンドレイ、飛ばせ!」とまたミーチャは神経的に叫んだ。
「一つお訊ねしたいことがあるんですが、あれは一たいどうしたわけでがしょう。」しばらく無言の後、アンドレイはふたたび言葉をきった。「だが、旦那、お怒りになっちゃいけませんよ、わっしゃそれが怖くって。」
「何だい?」
「さっきフェドーシャさんが旦那の足もとに倒れて、奥さんとも一人誰やらを……殺さないでくれって頼みましたなあ。それでね、旦那、旦那をあちらへお連れ申して、かえって……いや、ごめん下さいまし、旦那さま、わっしはただその、正直なところを申上げたんで、何か馬鹿げたことを言ったかもしれませんが……」
 ミーチャは突然うしろから彼の肩を抑えた。
「お前は馭者だろう? 馭者だろう?」と彼は激しい調子で言いだした。
「へえ、馭者で……」
「お前は、道を譲らなくちゃならん、ということを知ってるか? おれは馭者だから誰にも道を譲ることはいらん、おれさまのお通りだ、轢き殺してもかまわん、などというのは間違ってる。馭者は人を轢いちゃならん、人を轢いたり、人の命に傷をつけたりすることはできない。もし人の命に傷をつけたら、自分に罰を加えなきゃならん……もし人に傷をつけたり、命を取ったりしたら、――自分に罰を加えて、退《ひ》いてしまわなきゃならない。」
 これらの言葉は、純然たるヒステリイの状態に落ちたミーチャの口から、自然にほとばしり出たのである。アンドレイは彼の様子を変に思いながら、やはり話の相手になっていた。
「まったくそのとおりでがす、旦那のおっしゃるとおりでがすよ。人を轢いたり、いじめたりするのは、よくないことでがすよ。人にかぎらず、どんな生きものでも同じことでさあ。なぜって、生きものはみんな、神様のお創りになったものでがすからね。たとえば、馬を譬えに引いて申しましても、ほかの馭者は(よしんばロシヤの馭者でも)、やたらにひっぱたきますが……そんなやつらは、度合いってことを知らないから、やたらに追うんでがす、やたらに追いまくるんでがすよ。」
「地獄ゆきかい?」とミーチャはふいにこう口を入れたが、急にもちまえの思いがけない、ぶっきら棒な調子でからからと笑いだした。
アンドレイ、貴様は単純な男だなあ」とふたたび彼は強く相手の肩を抑えた。「おい、ドミートリイ・カラマーゾフは地獄へ落ちるか落ちないか、貴様どう考える?」
「わかりませんな、旦那、それはあなた次第でがすよ。なぜかって、あなたはこの町で……ねえ、旦那、キリストさまが十字架で磔刑《はりつけ》になっておかくれになった時、そのまま十字架からおりてまっすぐに地獄へおいでになりました。そうして、そこで苦しんでいる罪障の深い人たちを、みんな放しておやりになったのでがす。すると地獄は、もうこれから自分のところへ、誰も来てくれないだろうと思って、悲しんで呻き始めました。そのとき神様が地獄に向って、『地獄よ、そのように悲しむことはない。これから華族だとか、大臣だとか、えらい裁判官だとか、金持だとかいうものが、みんなお前のところへやって来て、またもう一度わしがやって来るその時までは、前と同じように永久に一ぱいになってしまうことであろう』と申されました。それはこのとおりでがす、このとおり言葉を使って申されたのでがす……」
「国民伝説だな、素敵だ! おい、左の馬に一鞭やらんか、アンドレイ!」
「ですから、旦那、地獄はこういう人たちのためにできてるのでがす」とアンドレイは左の馬に一鞭あてだ。「ところが、旦那はまるで小さな赤ん坊と一つでがす……とまあ、こうわっしらは考えとりますよ……旦那は怒りっぽい方だ、それは本当でがす。けれど、その正直なところに対して、神様が赦して下さいますよ。」
「じゃあ、お前は、お前はおれを赦してくれるか。アンドレイ?」
「わっしが何で旦那を赦すんでがしょう。旦那はわっしに何もなさらねえじゃがせんか。」
「いや、みんなの代りにだ、みんなの代りにお前ひとりが今、たった今この街道でおれを赦してくれるかい? お前の素朴な頭で考えて聞かしてくれ!」
「おお、旦那! わっしはあなたを乗せて行くのが恐ろしくなりました。何だか気味の悪いお話で。」
 しかし、ミーチャはその言葉をろくろく聞かなかった。彼は奇怪な調子で、激越な祈りの言葉を、口の中で呟くのであった。
「神様、どうぞこのわたくしを、放埒なままでおそばへ行かして下さいまし。そして、わたくしを咎めないで下さいまし。あなたのお裁きなしに通り抜けさせて下さいまし、裁きをしないで下さいまし。わたくしは自分に罪を宣告いたしました。ああ、神様、わたくしはあなたを愛しております、もう咎めずにおいて下さいまし! わたくしは卑劣な男ではありますが、あなたを愛しているのでございます。たとえ地獄へお送りになりましょうとも、わたくしはそこでもあなたを愛します。地獄の中からでも、永久にあなたを愛していると叫びます……けれど、この世の愛を完うすることを、赦して下さいまし……今ここであなたの熱い光のさし昇るまで、たった五時間のあいだ、この世の愛を完うすることを、赦して下さいまし……なぜと言って、わたくしは自分の心の女王を愛しているからでございます、ええ、愛しております。そして、愛さないわけにゆきません。もう神様はご自身でわたくしという人間を、すっかり見通していらっしゃるでしょう。わたくしはこれからあそこへ駈けつけて、あれの前に身を投げ出し、お前がおれのそばを通り抜けたのはもっともだ……では、さようなら、お前はおれという犠牲のことを忘れてしまって、決して心を悩ますようなことをしてくれるな! とこう申します。」
「モークロエだ!」とアンドレイは鞭で前方をさしながら叫んだ。
 夜の青ざめた闇をすかして、ひろびろとした空間に撒き散らされた建物のどっしりとした集団が、ふいにくろぐろと見えてきた。モークロエは人口二千ばかりの村であったが、この時はもう村ぜんたいが寝しずまり、ただここかしこにまばらな灯影が闇を破って、ちらついているばかりであった。
「追え、追え、アンドレイ、おれが来たんだ!」とミーチャは熱にでもおそわれたように叫んだ。
「寝ちゃおりません!」村のすぐ入口に立っている、プラスゥノフの宿屋を鞭でさしながら、アンドレイはまたこう言った。往来に向いた六つの窓が赤々と輝いていた。
「寝ていない!」とミーチャは悦ばしげに引きとった。「アンドレイ、がらがらと乗り込め。うんと走らせろ。鈴を鳴らして、景気よくがらがらっと乗り込め。誰が来たかってことを、みんなに知らさなけりゃならん! おれが来たんだ! おれさまが来たんだ!」とミーチャは夢中になって喚いた。
 アンドレイは疲れきったトロイカを懸命に走らせて、本当にがらがらっと景気よく、高い階段の前へ乗りつけた、そして、体から湯気を立てながら、なかば死んだようになった馬の手綱をぐっと引き締めた。ミーチャは馬車から飛び下りた。と、ちょうどその時、もう寝室へ引っ込もうとしていた宿屋の亭主が、一たいこんなに大仰に馬車を乗りつけたのは誰だろうと、ちょっと好奇心を起して覗いてみた。
「トリーフォン・ボリースイッチじゃないか?」
 亭主は屈みかかって、じっと見入っていたが、やがてまっしぐらに階段を駈けおりて、卑屈らしい歓喜の色を浮べながら、客のほうへ飛びかかった。
「旦那さま、ドミートリイさま! また旦那さまにお目にかかれようとは!」
 このトリーフォンというのは、肉づきのいい、丈夫そうな、幾分ふとり気味の顔をした、中背の百姓であった。いかつい一こくらしい(モークロエの百姓に対してはことにそうである)様子をしていたが、少しでも得になりそうなことを嗅ぎつけると、すばやくその顔を卑屈なほど愛想のいい表情に変えるという、天賦の才能を持っていた。ふだんロシヤ風に襟をはすに切った襯衣《ルパーハ》の上に、袖無外套を着込んでいた。もういい加減に蓄めているくせに、まだ一生懸命もっといい位置を空想しているのであった。百姓の半数以上は彼の爪牙にかけられていた。つまり、みんな首の廻らぬほど彼に借金していたのである。彼は多くの地主から土地を借りたり買ったりして、生涯足を抜くことのできない借金の代償として、その土地を百姓どもに耕作させていた。
 彼はやもめで、もう大きな娘が四人もある。ひとりは亭主に死に別れて、彼の孫にあたる二人の小さな子供を連れて父の家で暮しながら、まるで日傭かせぎのように働いていた。二番目の百姓くさい娘は、もう年金というところまで勤め上げたさる官吏、――書記のところへ嫁入りしていたので、この宿屋の一室の壁にかかっている幾枚かのおそろしく小さな家族写真の中には、肩章つきの制服を着たこの官吏の写真も見受けられる。末の二人の娘は、お寺の祭りの日などには、裾に一尺あまりも尻尾のある、背中のきちんとしまった、流行風に仕立てた水色や緑色の着物をきて、どこかへお客に出かけて行くが、そのあくる日はもういつもと同じように、夜明けまえから起き出して、白樺の箒を手にして客室を掃除したり、汚れ水を運び出したり、泊り客のたった後の塵を片づけたりしている。もう何千という金を儲けたにもかかわらず、トリーフォンは遊興の客をぼる[#「ぼる」に傍点]のが大好きであった。で、まだひと月もたたない以前、ドミートリイがグルーシェンカと遊興の際、一昼夜のうちに三百ルーブリとまでゆかないまでも、少くも二百ルーブリ以上の儲けをしたことを覚えているので、今も轟々たる馬車の響きを聞いたばかりで、獲物の匂いを嗅ぎつけ、嬉しそうに、まっしぐらに出迎えたのである。
「旦那さま、ドミートリイさま、あなたがおいで下さろうとは、存じもよりませんでした。」
「待て、トリーフォン」とミーチャは口をきった。「まず最初、一ばん大切なことを訊こう、あれはどこにいる?」
「アグラフェーナさまでございますか?」亭主は鋭い目でミーチャの顔を見つめながら、すぐに合点してしまった。「へえ、ここに……おいででございます……」
「誰と、誰と一緒に?」
「よそからお見えになった方で……一人はお役人でございますが、お話しぶりから見ると、ポーランドの方らしゅうございます。この方がここから、アグラフェーナさまへ迎いの馬車をお出しになりましたので。ま一人は同僚の方でございましょうか、それともただのお道づれでございましょうか、そこのところはわかりかねます。お二人とも文官のようなお身なりで……」
「どうだ、豪遊をやってるか? 金持かい?」
「なんの豪遊どころでございますか! たかの知れたものでございますよ、旦那さま。」
「たかの知れたものだって? で、ほかの連中は?」
「ほかの方は、町からお見えになったのでございます。町の方がお二人なので……チョールニイのお帰りみちを、そのままここへお残りになったのでございます。一人はお若い方で、たぶんミウーソフさまのご親戚だと存じますが、ちょっとお名を忘れまして……ま一人は旦那さまもご存じと思われます地主のマクシーモフで、順礼のために町のお寺へ寄ったところ、ふとあの若いミウーソフさまのご親戚と落ち合って、一緒に旅をしているのだとかいうことで……」
「それでみんなか?」
「へえ、それきりで。」
「もういい、喋るな、トリーフォン、今度は一ばん大事なことを訊くぞ、――どうだあれは、どんな様子だ?」
「さきほどお着きになって、みなさんとご一緒にいらっしゃいます。」
「おもしろそうなふうか? 笑ってるか?」
「いいえ、あまりお笑いにならない様子でございます……どっちかと申せば、大そうお退屈そうなくらいに見受けられます。何でもあの若いお方の髪をとかしていらっしゃいました。」
「そのポーランド人の? 将校の?」
「いえ、あの人は若いどころじゃございません。それに決して将校ではございませんよ。なに、旦那さま、あの方じゃございません。あのミウーソフさまの甥ごにあたる若いお方……どうもお名前を忘れてしまいまして。」
「カルガーノフか?」
「へえ、そのカルガーノフさまで。」
「よし、自分で見分ける。カルタをしてるか?」
「お始めになりましたが、もうおやめになりました。お茶もすんで、あのお役人がリキュールをご注文なさいました。」
「もうよし、トリーフォン、やめろ、おれが自分で見分ける。さあ、今度こそ一ばん大事なことについて返事が聞きたい、ジプシイはおらんか?」
「ジプシイは今まるで噂を聞きません。お上《かみ》で追っ払っておしまいになりましたので。その代り、ここにユダヤ人がおります。鐃※[#「金+拔のつくり」、第 3水準 1-93-6]《にょうはち》を叩いたり、胡弓を弾いたりいたします。ロジェストヴェンスカヤにおりますから、これなら今すぐにでも呼びにやれば、さっそく出てまいります。」
「呼びにやるんだ、ぜひ呼びにやるんだ!」とミーチャは叫んだ。「ところで、娘たちもあの時のように総上げにすることができるか? 中でもマリヤが一ばん肝腎だぞ。それからスチェパニーダもアリーナもな。コーラスに二百ルーブリ出すぞ!」
「そんなお金が出るのでしたら、今みんな寝てしまいましたけれど、村じゅうを総上げにでもいたします。それに、旦那さま、ここの百姓や娘っ子らが、そんなお情けをいただく値うちがございますか? あんな卑しい、ぶしつけなやつらに、そのような大枚の金をくれてやるなんて! あんな百姓が葉巻なぞ喫む分際でございますか。それだのに、旦那さまはあいつらにくれておやんなさいました。あんな泥棒のようなやつら、ぷんぷん臭い匂いを立ててるじゃございませんか。また娘っ子らはどれもこれも、虱をわかしていないやつはございません。へえ、わたくしが旦那さまのために、ただで家の娘を起してまいります。そんな大枚のお金をいただこうとは申しません。ただ今やすんでおりますけれど、わたくしが足で蹴起してやります。そして、旦那さまのために歌を唄わせますでございましょう。あなたは先だって百姓どもに、シャンパンを飲ませたりなさいましたが、本当にまあ!」
 トリーフォンがこんなにミーチャをかばうのは、筋の通らぬ話であった。彼はそのときシャンパンを半ダースも自分のところへ隠したり、テーブルの下に落ちていた百ルーブリ札を拾って、拳の中へ握り込んでしまったりした。そして、札はそのまま彼の拳の中に残されたのである。
「トリーフォン、おれがあの時ここで撒き散らしたのは、千やそこいらの金ではなかったぞ。覚えているか?」
「さようでございますとも、旦那さま、どうして覚えずにいられましょう。大方、三千ルーブリくらいこの村へ残して下さいました。」
「ところが、今度もあのとおりだ、そのつもりでやって来たのだ、そら。」
 と、彼は例の紙幣《さつ》束を取り出して、亭主の鼻さきへ突きつけた。
「さあ、これからよく聞いて合点するんだぞ。もう一時間たったら酒が来る。ザクースカも饅頭《ピローク》も菓子も来る、――それはみんな、すぐにあっちへ持って来るんだぞ。それから、今アンドレイのところにある箱も、やっぱり上へ持ってあがって開けてくれ、そしてすぐシャンパンを出してくれ……何より肝腎なのは娘たちだ、そしてマリヤも必ずな……」
 彼は馬車のほうへ振り向いて、腰掛けの下からピストルの入った箱を引き出した。
「さあ、勘定だ、アンドレイ、受け取ってくれ! そら、これが十五ルーブリ、馬車賃だ、それからここに五十ルーブリある、これが酒手《さかて》だ……お前がよく言うことを聞いて、おれを愛してくれたお礼だ……カラマーゾフの旦那を覚えておってくれ!」
「わっしゃおっかないでがすよ、旦那!………」とアンドレイはもじもじしていた。「お茶代に五ルーブリだけやって下さいまし。それよりよけいにゃいただきません。ここの旦那が証人でがす。馬鹿なことを申しましたのは、どうか真っ平ごめん下さいまし……」
「何がおっかないんだ。」ミーチャはその姿を測るようにじろっと見まわした。「いや、そういうことなら勝手にしろ!」と叫んで、彼は五ルーブリの金を投げ出した。「ところで、トリーフォン、今度はそっとおれを連れてって、まず第一番にみなの者を一目見せてもらいたいのだ。ただし、みんなの方からおれの姿が見つからんようにな。みんなどこにいるのだ、空色の部屋かい?」
 トリーフォンはあやぶむようにミーチャを見やったが、すぐ、言われるままに実行した。彼をつれて用心ぶかく玄関を通り抜け、いま客の坐っている部屋と隣りあった、とっつきの大きな部屋へ自分一人だけ入って行き、そこから蝋燭を持って出た。それから、静かにミーチャを導き入れて、まっ暗な片隅へ彼を立たした。そこからは先方のものに見つけられないで、自由に一座の人々を観察することができた。しかし、ミーチャは長く見ていることができなかった。それに、観察などということはなおさらできなかった。彼は女の姿を見るやいなや、動悸が急に激しく打ちだして、目の中がぼうっと暗くなった。
 彼女はテーブルの横手にある肘椅子に坐っていた。それと並んで男まえのいい、まだ年の若いカルガーノフが、長椅子に腰をおろしている。グルーシェンカは彼の手を取って、笑ってでもいるようなふうであったが、彼はそのほうに目もくれないで、テーブルを隔てて、グルーシェンカと向かい合せに坐っているマクシーモフに、さもいまいましそうな様子で、何やら大きな声で話していた。マクシーモフは何かおかしいのかしきりに笑っていた。長椅子には彼が坐っている。そのかたわらの椅子には、もう一人別な見知らぬ男が、壁のそば近く腰かけている。からだを崩しながら長椅子に坐っているほうは、パイプをくわえていた。『この妙に肥った顔の大きな男は、きっとあまり背が高くないに相違ない。そして、何だか腹を立てているらしい。』これだけの考えが、ミーチャの頭にひらめいたばかりである。しかし、その友達らしいいま一人の見知らぬ男は、何だか図抜けて背が高いように思われた。もうそれ以上なにも見分けることができなかった。彼は息がつまってきた。そして、一分間もじっと立っていられなかった。彼はピストルの箱を箪笥の上において、からだじゅう冷たくなるような、心臓の痺れるような心持をいだきながら、いきなり空色の部屋で語りあっている人々を目ざして出て行った。
「あれ!」とグルーシェンカは第一番に彼の姿を見つけて、驚きのあまり甲高い声を上げて叫んだ。

[#3字下げ]第七 争う余地なきもとの恋人[#「第七 争う余地なきもとの恋人」は中見出し]

 ミーチャは例の大股で、急ぎ足にぴったりとテーブルのそばへ近づいた。
「みなさん」と彼は大きな声でほとんど叫ぶように、とはいえ、一こと一こと吃りながら口をきった。「僕は……僕は……何でもありません! 怖がらないで下さい!」と彼は叫んだ。「僕はまったく何でもないのです、何でもないのです。」彼は急にグルーシェンカのほうへ振り向いた。こちらは肘椅子に腰をかけたまま、カルガーノフのほうへかがみ込んで、一生懸命その手にしがみついていた。「僕……僕もやはり旅の者です。僕は朝までいるだけです。みなさん通りがかりの旅の者を……朝まで一緒においてくれませんか。本当に朝までです。どうかお名残りにこの部屋へおいてくれませんか?」
 彼はもうしまいのほうになると、パイプをくわえながら長椅子に坐っている肥った男に向いて頼んでいた。こちらはものものしく口からパイプを放して、いかつい調子でこう言った。
「パーネ([#割り注]ポーランド語パン(紳士・貴君)の呼格である[#割り注終わり])、ここはわれわれが借り切ってるんです。部屋はほかにもありますよ。」
「やあ、ドミートリイさん、あなたですか、一たいどうしてこんなところへ?」とふいにカルガーノフが声をかけた。「まあ、一緒にお坐んなさい、よく来ましたね!」
「ご機嫌よう、君は僕にとって本当に大事な人だ……無限に貴い人だ! 僕はいつも君を尊敬していましたよ……」すぐさまテーブルこしに手をさし伸べながら、ミーチャはうれしそうに勢いこんでこう答えた。
「あ、痛い、ひどい握りようですね! まるで指が折れそうだ」とカルガーノフは笑った。
「あの人はいつでもあんな握り方をするのよ、いつでもそうよ」とグルーシェンカはまだ臆病そうな微笑をふくみながら、おもしろそうに口を挟んだ。彼女は突然ミーチャが乱暴などしないと確信はしたものの、依然として不安の念をいだきながら、恐ろしい好奇心をもって彼の様子を見まもるのであった。彼女に異常な驚愕を与えるようなあるものが、彼のどこかにあったのである。その上グルーシェンカは、彼がこんな時にこんな入り方をして、こんな口のきき方をしようとは、まるで思いもうけなかったのである。
「ご機嫌よろしゅう。」地主のマクシーモフも左手から、甘ったるい調子で声をかけた。ミーチャはそのほうへも飛びかかった。
「ご機嫌よう、あんたもここにいたんですね。あんたまでもここにいるとは、何という愉快なことだ! みなさん、みなさん、僕は……(彼はふたたびパイプをくわえた紳士《パン》のほうへ振り向いた、この一座の主人公と考えたらしい。)僕は飛んで来たのです……僕は自分の最後の日を、最後の時をこの部屋で……以前、僕も……自分の女王に敬意を表したことのあるこの部屋で、過したくてたまらなかったのです!………パーネ、許して下さい!」と彼は激しい調子で叫んだ。「僕はここへ飛んで来る途中ちかいを立てたのです……おお、恐れないで下さい、これが僕の最後の晩です! パーネ、仲よく飲もうじゃありませんか! 今に酒が出ます……僕はこれを持って来たのです……(彼は急に何のためか例の紙幣《さつ》束を取り出した。)パーネ、ごめん下さい! 僕は音楽が聞きたいのです、割れるような騒ぎがほしいのです。この前と同じものがみなほしいのです。……蛆虫が、何の役にも立たぬ蛆虫が、地べたをぞろぞろ這い廻るが、それもすぐにいなくなります! 僕は自分の悦びの日を、最後の夜に記念したいんです!………」
 彼はほとんど息を切らしていた。まだまだいろんなことが言いたかったのであるが、口を出るのはただ奇怪な絶叫ばかりであった。紳士はじっと身動きもしないで、彼の顔と、紙幣束と、グルーシェンカの顔を、かわるがわる見くらべていたが、いかにも合点のゆかないらしいふうであった。 
「もし、わたくしのクルレーヴァが許したら……」と彼は言いかけた。
「え、クルレーヴァって何のこと。コロレーヴァ([#割り注]女王[#割り注終わり])のこと?」ふいにグルーシェンカはこう遮った。「あなた方の話を聞いてるとおかしくなっちまうわ。お坐んなさいよ、ミーチャ。一たいあんたは何を言ってるの? 後生だから、嚇かさないでちょうだい。嚇かさない? 嚇かさない? もし嚇かさなければ、わたしあんたを歓迎するわ……」
「僕が、僕が嚇かすって?」ミーチャは両手を高くさし上げながら、いきなりこう叫んだ。「おお、遠盧なくそばを通って下さい、かまわず通り抜けて下さい。僕は邪魔なんかしないから……」と彼はとつぜん、一同にとっても、またもちろん、彼自身にとっても思いがけなく、どうと椅子に身を投げると、反対の壁のほうへ顔を向けて、まるで抱きつくように椅子の背を両手で固く握りしめながら、さめざめと泣きだすのであった。
「あらあら、またこうなのよ、あんたはなんて人なんでしょう!」とグルーシェンカは、たしなめるような口調で言った。「うちへ来てた時も、ちょうどこのとおりだったわ。急にいろんなことを喋りだすけれど、わたしには何のことだかちっともわからないの。一度もう泣いたことがあるから、今日はこれで二度目だわ、――なんて恥しいことだろう! 一たいどういうわけがあって泣くの! まだほかにもっと気のきいたわけがありそうなもんだわ[#「まだほかにもっと気のきいたわけがありそうなもんだわ」に傍点]!」一種の焦躁をもってこれだけの言葉に力を入れながら、謎のような調子で、彼女は突然こうつけたした。
「僕……僕は泣きゃしない……いや、ご機嫌よろしゅう!」彼は咄嗟にくるりと椅子の上で向きを変え、だしぬけに笑いだした。しかし、それはもちまえのぶっきら棒な木のような笑いでなく、妙に聞き取りにくい、引き伸ばしたような、神経的な、顫えをおびた笑い方であった。
「そら、今度はまた……まあ、浮き浮きなさい、浮き浮きなさい!」とグルーシェンカは励ますように言った。「わたしあんたが来てくれたので本当に嬉しいわ。まったく嬉しいわ、あんたわかって、ミーチャ、わたし本当に嬉しいって言ってるのよ! わたしこの人に一緒にいてもらいたいの」と彼女は一同に向って命令するように言ったが、その実、この言葉は明らかに、長椅子に坐っている人にあてて発したものらしい。「ぜひそうしたいの、ぜひ! もしこの人が帰れば、わたしも帰ります、はい!」彼女はとつぜん目を輝かしながらこうつけたした。
「女王のおっしゃることは取りも直さず法律です!」と紳士《パン》はにやけた態度で、グルーシェンカの手を接吻しながら言った。「どうぞ貴君《パン》のご同席を願います!」と彼はミーチャに向って愛想よく言った。ミーチャはまたもや何やら長々と喋るつもりらしく飛びあがったが、実際はまるで別な結果が生じた。「みなさん、飲みましょう!」長い演説の代りに、彼は突然、たち切るように言った。一同は笑いだした。
「あら、まあ! わたしはまたこの人が何か喋りだすのかと思ったわ」とグルーシェンカは神経的な声で叫んだ。「よくって、ミーチャ」と彼女は押しつけるような調子でつけたした。「もうこれからそんなに飛びあがっちゃいやよ。それはそうと、シャンパンを持って来たってのは大出来だわ。わたしも飲んでよ。リキュールなんか厭なこった。だけど、あんたが自分で飛んで来たのは何よりだったわね。でなかったら、退屈で仕方がありゃしない……一たいあんたはまた散財に来たの? まあ、そのお金をかくしにでもしまったらどう! 一たいどこからそんなに手に入れたの?」
 ミーチャの手に依然として鷲掴みにされている紙幣は、非常に一同の、――とくに二人の紳士《パン》の注目をひいた。ミーチャは急にあわててそれをかくしへ押し込んで、さっと顔を赧くした。この瞬間、亭主が、口を抜いたシャンパンの罎とコップを、盆の上にのせて入って来た。ミーチャは罎に手をかけようとしたが、すっかり動顛しているので、それをどうしたらいいか忘れてしまった。で、カルガーノフがその手から罎をとり、彼に代って酒を注いだ。
「おい、もう一本、もう一本!」とミーチャは亭主に叫んだ。そして、さっきあれほどものものしい調子で近づきの乾杯をしようと言っておいた紳士《パン》と、杯を合すのも忘れてしまい、ほかの人を待とうともしないで、そのまま一人で、ぐっと飲みほした。すると、とつぜん彼の顔つきがすっかり変ってしまった。入って来た時の荘重な悲劇的な表情が消えて、妙に子供らしい色が現われた。彼は急にすっかり気が折れて、卑下しきったような工合であった。悪いことをした小犬がまた内へ入れられて、可愛がってもらった時のような感謝の表情をうかべて、ひっきりなしに神経的な小刻みの笑い声を立てながら、臆病なしかも嬉しそうな様子で一同を眺めていた。彼は何もかも忘れたようなふうつきで、子供らしい笑みをふくみ、歓喜の色をうかべて一同を見廻すのであった。
 グルーシェンカを見るときの目はいつも笑っていた。彼は自分の椅子をぴたりと彼女の肘椅子のそばへ寄せてしまった。だんだんと二人の紳士《パン》も見分けがついてきた。もっとも、その値うちはまだあまりはっきり頭にうつらなかった。長椅子に坐っている紳士《パン》がミーチャを感服さしたのは、そのものものしい様子とポーランド風のアクセントと、それからとくにパイプであった。『一たいどういうわけだろう? いや、しかし、あの人がパイプをくわえてるところはなかなか立派だ』とミーチャは考えた。いくぶん気むずかしそうな、もう四十恰好に見える紳士《パン》の顔も、恐ろしく小さな鼻も、その下に見える色上げをした思いきって短いぴんと尖った高慢そうな髭も、やはり今のところ、ミーチャの心に何の問題をも呼び起さなかった。ばかばかしい恰好に髪を前のほうへ盛り上げた、思いきってやくざなシベリヤ出来の紳士《パン》の鬘も、さしてミーチャを驚かさなかった。『鬘を被ってるところを見ると、やはりああしなくちゃならないのだろう』とミーチャは幸福な心もちで考えつづけた。
 いま一人の、壁ぎわ近く坐っている紳士《パン》は、長椅子に坐っている紳士《パン》よりずっと年が若かったが、不遜な挑戦的な態度で一座を見廻しながら、無言の軽蔑をもって一同の会話を聞いていた。この男も同様にミーチャを感服さしたが、それは長椅子に坐っている紳士《パン》と釣合いのとれないくらい、やたらに図抜けて背が高いという点ばかりであった。『あれで立ったら十一ヴェルショークからあるだろうなあ』という考えがミーチャの頭をかすめた。それから、こんな考えもひらめいた、――この背の高い紳士《パン》は、長椅子に坐っている紳士《パン》の親友でもあれば、護衛者でもあるので、したがってパイプをくわえた小柄な紳士《パン》は、この背の高い紳士《パン》を頤で動かしてるに相違ない。しかし、これらの事柄も、ミーチャの目には、争う余地のないとても立派なことのように映じた。小犬の胸には一切の競争心が萎縮してしまったのである。グルーシェンカの態度にも、彼女が発した二三の言葉の謎めいた調子にも、彼はまだ一向気がつかなかった。ただ彼女が自分に優しくしてくれる、自分を『許して』そばへ坐らしてくれたということを、胸を顫わせながら感じたばかりである。グルーシェンカがコップの酒を傾けるのを見て、彼は嬉しさのあまりわれを忘れてしまった。とはいえ、一座の沈黙はふいに彼を驚かした。彼は何やら期待するような目で、一同を見廻し始めた。『ときに、われわれはどうしてこうぼんやり坐ってるんでしょう? どうしてあなた方は何も始めないんです、みなさん?』愛想笑いをうかべた彼の目が、こういうように思われた。
「この人がでたらめばかり言うものだから、僕たちさっきから笑い通してたんですよ。」突然カルガーノフは、ミーチャの胸の中を察したかのように、マクシーモフを指さしながら口を切った。
 ミーチャは大急ぎでカルガーノフを見据えたが、すぐに視線をマクシーモフヘ転じた。
「でたらめを言うんですって?」とさっそくミーチャは何が嬉しいのか、例のぶっきら棒な、木のような笑い声を立てた。「はは!」
「ええ、まあ、考えてもごらんなさい。この人は、二十年代のロシヤ騎兵が、みんなポーランドの女と再婚した、なんて言い張るじゃありませんか、そんなことは馬鹿げきったでたらめでさあね。え、そうじゃありませんか?」
ポーランドの女に?」とミーチャはまたしても鸚鵡がえしに言って、今度はもうすっかり有頂天になってしまった。
 カルガーノフはミーチャ対グルーシェンカの関係をよく知っていたし、紳士《パン》のこともおおよそ察していたが、そんなことはあまり彼の興味をひかなかった。いや、あるいはぜんぜん興味をひかなかったかもしれない。何より彼の興味をひいたのは、マクシーモフである。彼とマクシーモフの二人が、ここに落ち合ったのは偶然である。二人のポーランド紳士にこの宿屋で邂逅したのも、生れて始めてなのである。しかし、グルーシェンカは前から知っていたし、一ど誰かと一緒に彼女の家へ行ったこともある。そのとき彼はグルーシェンカの気に入らなかったが、ここでは彼女は非常に優しい目つきをして、彼を見まもっていた。ミーチャが来るまでは、ほとんど撫でさすらないばかりであったが、当人はそれに対して妙に無感覚なふうであった。
 彼はまだ二十歳を越すまいと思われる、洒落た身なりをした青年で、非常に可愛い色白の顔に、房々とした美しい亜麻色の髪を持っていた。この色白の顔には、賢そうな、時としては年に似合わぬ深い表情の浮ぶ、明るく美しい空色の目があった。そのくせ、この青年はときどき、まるで子供のような口をきいたり、顔つきを見せたりするが、自分でもそれを自覚していながら、毫も恥じる色がなかった。全体として、彼はいつも優しい青年であったけれども、非常に偏屈で気まぐれであった。どうかすると、その顔の表情に何かしら執拗な、じっと据って動かぬあるものがひらめくことがある。つまり、相手の顔を見たり話を聞いたりしているうちにも、自分は自分で何か勝手なことを一心に空想している、といったようなふうつきである。だらけきってもの臭そうな様子でいるかと思えば、一見きわめて些々たる原因のために急に興奮しはじめる。
「まあ、どうでしょう、僕はもう四日もこの人を連れて歩いていますが」と彼は語をついだ。彼は大儀そうに言葉じりを引き伸ばしていたが、少しも気どったようなところはなく、どこまでも自然な調子であった。「覚えていらっしゃいますか、あなたの弟さんが、この人を馬車から突き飛ばした時からのことです。あのとき僕はそのために、非常にこの人に興味を感じて、田舎のほうへ連れて行ったのです。ところが、この人があまりでたらめばかり言うもんだから、僕は一緒にいるのが恥しくなってしまいました。今この人をつれて帰るところです……」
「貴君《パン》はポーランドの婦人《パーニ》を見たことがないのです。したがって、それはあり得べからざるでたらめです。」パイプをくわえた紳士《パン》は、マクシーモフに向ってこう言った。
 パイプをくわえた紳士《パン》は、かなり巧みにロシヤ語を操った。少くとも、一見して感じられるよりはるかに巧みであった。ただロシヤ語を使うときに、それをポーランド風に訛らせるのであった。
「けれど、わたくし自身も、ポーランドの婦人《パーニ》と結婚しましたよ」と答えて、マクシーモフはひひひと笑った。
「へえ、じゃ、君は騎兵隊に勤めてたんですか? なぜって、君は騎兵の話をしたでしょう。だから、君は騎兵なんですね?」とカルガーノフはすぐに口を入れた。
「なるほど、そうだ。一たいこの人が騎兵なんですかね? はは!」とミーチャは叫んだ。彼は貪るように耳を傾けながら、口をきき始めるたびに、もの問いたげな目をすばやく転じていたが、その様子は一人一人の話し手からどんな珍しい話が聞けるかと、一生懸命に待ちもうけているかのようであった。
「いや、まあ、聞いて下さいまし。」マクシーモフは彼のほうへ振り向いて、「わたくしが申しますのは、こうなので。その、あちらの|娘たち《パーニ》は……可愛い|娘たち《パーニ》はロシヤの槍騎兵とマズルカを踊りましてな……マズルカの一曲がすむと、さっそく白猫のように男の膝へ飛びあがるのでございます……すると、お父さんもお母さんもそれを見て、許してやるのでございます……許してやるのでございますよ……で、槍騎兵はあくる日出かけて行って、結婚を申し込みます……こういう工合に、結婚を申し込むのでございます、ひひ!」とマクシーモフは卑しい笑い方をした。
「Pan laidak!([#割り注]やくざな男だ![#割り注終わり])」とつぜん、椅子に坐っていた背の高い紳士が呟いて、膝の上にのっけていた足を反対に組み直した。ミーチャの目には、分厚な汚い裏皮のついた、靴墨を塗りこくった、大きな靴が映じたのみである。ぜんたいに二人の紳士《パン》はずいぶん垢じみた身なりをしていた。
「まあ、laidak だなんて! 何だってこの人はきたない言葉を使うんだろう?」と急にグルーシェンカは怒りだした。
「パーニ・アグリッピナ、|この人《パン》はポーランドの百姓娘を見たので、貴族の令嬢ではありません。」パイプをくわえたほうの紳士は、グルーシェンカにこう注意した。
「それくらいのところかもしれないよ!」椅子に坐った背の高い紳士《パン》は、軽蔑的な口調で吐き出すように言った。
「まだあんなことを! あの人に話をさせたらいいじゃありませんか! 人がものを言ってるのに、何だって邪魔をするんです! あの人たちの相手をしてるとおもしろいわ」とグルーシェンカは食ってかかった。
「わたくしは邪魔なぞしません。」鬘をかぶった紳士《パン》は、じいっとグルーシェンカを見つめながら、もったいぶった調子でこう言った。そして、ものものしく口をつぐんで、さらにパイプを吸いはじめた。
「いいえ、いいえ、いま紳士《パン》のおっしゃったのは本当です」とカルガーノフは、まるで大問題でも議せられているかのように、また熱くなって口を入れた。「この人はポーランドへ行ったこともないんです。それだのに、どうしてポーランドの話なんかできるんでしょう? だって、この人はポーランドで結婚したんじゃないでしょう、ね、そうでしょう?」
「はい、スモレンスク県でございます。けれど、その以前に槍騎兵がその女を、――わたくしの未来の家内を、母親と、叔母と、それからもう一人大きな息子を連れた親族の女と、一緒に連れ出したのでございます……ポーランドから……ポーランドの本国から連れ出したので……それをばわたくしが譲ってもらったのでございます。それはある中尉でしてな、大そう男まえのいい若い人でございましたよ。初めその人が自分で結婚する気でいたのですが、とうとう結婚しないことになりました。それは女が跛《びっこ》だってことがわかりましたので……」
「じゃ、君はちんばと結婚したんですか?」とカルガーノフは叫んだ。
「はい、ちんばと結婚しましたので。それはそのとき二人のものが、わたくしを少しばかり騙して、隠していたのでございます。わたくしは初めのうち、ぴょんぴょん跳ねてるものだと思いましたよ……いつもぴょんぴょん跳ねてばかりいるので、あれはきっとおもしろくって跳ねてるのだろう、と思いましてな……」
「君と結婚するのが嬉しくってですか?」と妙に子供らしい響きの高い声で、カルガーノフはこう叫んだ。
「はい、嬉しさのあまりだと存じました。ところが、まるで別な原因のためだということがわかりました。その後わたくしどもが結婚しました時、家内は初めて式のすんだ当夜に、すっかり白状いたしまして、哀れっぽい調子で赦しを乞うのでございます。何でもある時、まだ若い頃に水たまりを飛び越して、それで足をいためたとか申すことで、ひひ!」
 カルガーノフはいきなり、思いきって子供らしい声を張り上げて笑いだすと、そのまま長椅子の上へうつ伏してしまった。グルーシェンカも大きな声で笑いだした。ミーチャにいたっては、もう幸福の頂上にあった。
「あのねえ、あのねえ、この人は今度こそ本当のことを言ってるんです、もう嘘じゃありません。」カルガーノフはミーチャにこう叫んだ。
「あのねえ、この人は二ど結婚したんです、――今の話は初めの細君のことです、――ところが、二度目のほうのはねえ、逃げ出してしまって、今でも生きてるんですよ、あなたご存じですか?」
「まさか!」とミーチャはなみなみならぬ驚きの色を顔にうかべながら、マクシーモフのほうを振り向いた。
「はい、逃げ出しました。わたくしはそんな不愉快な経験を持っておりますので」とマクシーモフはつつましやかに裏書きした。「ある紳士《ムッシュウ》と一緒でございます。何よりひどいのは、まずあらかじめわたくしの持ち村を一つ、ちゃんと自分の名義に書き換えたことでございます。その言い草がいいじゃありませんか、――お前さんは教育のある人だから、自分でパンの代りが見つけられるでしょう、ときた。それと同時にどろんを決めたのでございます。あるとき人の尊敬を受けている主教さまが、わたくしに向いてこうおっしゃりました。『お前のつれあいは一人はちんばだったが、ま一人のほうはあんまりどうも足が軽すぎたよ』ってね、ひひ!」
「まあ、お聞きなさい、お聞きなさい!」とカルガーノフは熱くなって、「もしこの人が嘘をついてるとすれば(この人はしょっちゅう嘘をつきます)、それはただ人をおもしろがらせるために嘘をつくんです。これは何も卑屈なことじゃないでしょう、卑屈なことじゃないでしょう! 実は僕もどうかすると、この人が好きになることがあります。この人は非常に卑屈だけれども、それは自然の卑屈です、そうじゃありませんか。何とお思いになります? ほかの者は何か理由があって、何か利益を得るために卑屈な真似をするんですが、この人のは単純です、自然の性情から出るのです……まあ、どうでしょう、こんな例があります(僕はきのう道々のべつ議論しました)。ほかじゃありませんが、ゴーゴリの『死せる魂』は自分のことを作ったのだと言い張るんです。そら、あの中にマクシーモフという地主があるでしょう。この男をノズドリョフが擲りつけたために、『酔いに乗じて地主マクシーモフに、鞭をもって個人的侮辱を与えたる廉により』裁判に付せられるでしょう、――え、覚えてますか? ところが、この人はどうでしょう、あれは自分だ、自分が擲られたのだと言い張るんです! え、そんなことがあっていいもんですか? チーチコフが旅行したのは、いくら遅く見つもったって、二十年代の初めでしょう。まるで年代が合わないじゃありませんか。その時分にこの人を擲るわけがないですよ。ねえ、わけがないでしょう、わけがないでしょう?」
 何のためにカルガーノフがこんなに熱くなるのか、想像することもできなかったが、しかし、彼は心底から熱くなっていた。ミーチャも隔てなく彼と興味を分つのであった。
「しかし、もし本当に擲ったのだとすれば!」と彼は声高に笑いながら叫んだ。
「何も擲ったというわけではありませんが、ちょっと、その……」とマクシーモフが急に口を入れた。
「ちょっと、その、とはどうなんだ? 擲ったのか擲らないのか?」
「Ktura godzina, Pane?([#割り注]君、何時です?[#割り注終わり])」パイプをくわえた紳士は退屈そうな様子をして、椅子に坐った背の高い紳士のほうへ振り向いた。
 こちらは返事の代りにひょいと肩をすくめた。二人とも時計を持っていなかったので。
「なぜ話をしちゃいけないの? ちっとはほかの人にも話さしたらいいじゃありませんか。自分が退屈だから、ほかの人も話しちゃいけないなんて。」わざと喧嘩を買うような語調で、またグルーシェンカは食ってかかった。
 ミーチャの頭に初めて何ものかがひらめいたような気がした。紳士《パン》も今度はいかにも癇にさわったような語調で答えた。
「Pani, ya nits ne muven protiv, nits ne povedzelem([#割り注]わたしくは何も反対しやしません、わたくしは何も言やしなかったです[#割り注終わり])」
「そんならよござんす。さ、お前さんお話し」とグルーシェンカはマクシーモフにこう叫んだ。「何だってみんな黙ってしまったんですの?」
「いや、何も話すことはございません。なぜと申して、みんな馬鹿げきった話でございますので。」マクシーモフは心もち気どりながら、いかにも満足げなさまで、すぐにこう受けた。「それにゴーゴリの作では、何もかもみんなアレゴリイといった体裁になっております。名前がみんなアレゴリックになっておりますでな。ノズドリョフ([#割り注]鼻孔を意味す[#割り注終わり])も、本当はノズドリョフでなくノソフ([#割り注]鼻を意味す[#割り注終わり])でございます。クフシンニコフ([#割り注]水差を意味す[#割り注終わり])などはまるで似ても似つきません。なぜと申して、本当はシクヴォールネフでございますものな。フェナルジイはまったくフェナルジイですが、イタリア人でなくロシヤ人でして、ペトロフでございます。フェナルジイ夫人は美しい婦人でしてな、美しい足にタイツをはいて、金箔をおいた短い袴をつけた姿で、まったくひらひらと舞ったのでございます。けれど、四時間も舞ったというのは嘘でして、ほんの四分間ばかりでございました……こうして、みんなを虜にしましたので……」
「しかし、何のために擲ったんだ、君を擲ったのは何のためだ?」とカルガーノフが呶鳴った。
「ピロンのためでございます」とマクシーモフが答えた。
「ピロンて誰のことだい?」とミーチャが叫んだ。
「有名なフランスの文学者ピロンのことでございます。わたくしどもはそのとき大勢あつまって、酒を飲んでおりました。例の市場の料理屋でございます。みんながわたくしを招待してくれましたので。わたくしはまず第一番に警句を言いだしました。『こはなんじなりや、ブアローよ、さてもたわけたる扮装《いでたち》かな。』すると、ブアローの答えに、自分はこれから仮面舞踏会へ出かけるのだ、と申しましたが、実はお湯屋へ出かけますので、ひひ! すると、みんなめいめい自分のことにとったのでございます。わたくしは大急ぎで、次の警句を申しました。これはぴりっとくるやつで、教育ある人士の口に膾炙しております。

[#ここから2字下げ]
なんじはサフォー、われはファオン
このことはわれ争わず
さはいえなんじ悲しいかな
海へ赴く道をしらず
[#ここで字下げ終わり]

 みなの者はなおのこと腹を立てて、口汚くわたくしを罵りはじめました。ところが、わたくしはその場を言いつくろおうと思って、とんでもない目にあったのでございます。ほかでもありません、例の非常に気のきいたピロンの逸話を持ち出したのでございます。ピロンはフランスのアカデミイヘ入れてもらえなかったものですから、その敵討ちのつもりで墓碑銘を書いたのでございます。

[#ここから2字下げ]
Ci-git Piron qui ne fut rien
〔Pas me^me acade'micien〕
[#ここから4字下げ]
(ここにピロン眠れり、彼はアカデミシアンにあらざりし、何者にてもあらざりし)
[#ここで字下げ終わり]

すると、みながわたくしを捉まえて、擲ったのでございます。」
「どういうわけで、どういうわけで?」
「わたくしに教育があるからでございます。人間というものはいろんなことのために、人を擲るものでございますからね。」マクシーモフはつつましやかな、諭すような調子でこう結びをつけた。
「ええ、たくさんだわ、いやみたらしい、聞きたくもない。わたしもっとおもしろいことかと思ってたわ。」突然グルーシェンカが引き裂くように言い放った。
 ミーチャはぎっくりとして、すぐに笑いやめてしまった。背の高い紳士《パン》は立ちあがった。そして、毛色の違った仲間へ入って退屈している人のような顔つきで、両手をうしろに組みながら、隅から隅へと部屋を歩きはじめた。
「おや、歩きだしたよ!」とグルーシェンカは嘲るように、そのほうをじろりと見やった。
 ミーチャは心配になってきた。その上、長椅子の紳士《パン》がいらだたしそうな様子をして、自分のほうを眺めているのに心づいた。
「貴君《パン》」とミーチャは叫んだ。「一つやろうじゃありませんか! も一人の紳士ともご一緒にね、さあ、飲みましょう、|みなさん《パーノヴェ》!」
 彼はさっそく三つのコップを一緒に集めて、なみなみとシャンパンを注いだ。
ポーランドのために、|みなさん《パーノヴェ》、ポーランドのために飲みましょう。ポーランドの国のために!」とミーチャは叫んだ。
「Bardzo mi to milo, pane.([#割り注]それは非常に愉快です、君[#割り注終わり])飲みましょう」と長椅子の紳士《パン》はものものしい、が機嫌のよさそうな調子でこう言いながら、自分の杯をとった。
「もう一人の紳士《パン》……お名前は何というのですか……もし大人《ヤスノヴェリモージヌイ》、杯をおとりなさい!」とミーチャは忙しそうに言った。
「パン・ヴルブレーフスキイです」と長椅子の紳士《パン》が口を入れた。
 ヴルブレーフスキイは悠々と体を振りながらテーブルに近より、立ったまま自分の杯をとり上げた。
ポーランドのために、|みなさん《パーノヴェ》、ウラア!」とミーチャは杯を上げながら叫んだ。
 三人は揃って杯を乾した。ミーチャは罎を取って、すぐまた三つの杯になみなみと注いだ。
「今度はロシヤのためにやりましょう、|みなさん《パーノヴェ》、そして両国同盟をしようじゃありませんか!」
「わたしにも、注いでちょうだい」とグルーシェンカが言った。「ロシヤのためなら、わたしも飲みたいわ。」
「僕も」とカルガーノフが言った。
「わたくしもお仲間に入りましょう……ラッセユーシカ([#割り注]ロシヤの愛称[#割り注終わり])のために、年とったお婆さんのために([#割り注]ロシヤ語では国名はすべて女性[#割り注終わり])」マクシーモフはひひひと笑った。
「みんなで飲むんだ、みんなで!」とミーチャは叫んだ。「亭主、もう一本!」
 ミーチャの持って来た罎のうち、残っていた三本が一時に運ばれた。ミーチャは人々の杯に注いでやった。
「ロシヤのために、ウラア!」彼はふたたびこう叫んだ。
 二人の紳士《パン》を除く一同はぐっと飲んだ。グルーシェンカは一どきにすっかり飲みほした。二人の紳士《パン》は自分の杯に触ろうともしなかった。
「あなた方はどうしたんです?」とミーチャは叫んだ。「じゃ、あなた方は何ですか……」
 ヴルブレーフスキイは杯をとり上げると、厚味のある声で言った。「千七百七十二年([#割り注]独墺露三国の第一回ポーランド分割の年[#割り注終わり])を境としたるロシヤのために!」
「Oto bardzo penkne!([#割り注]こいつはうまい![#割り注終わり])」」ともう一人の紳士《パン》が叫んだ。こうして二人は、自分の杯を乾した。
「あなた方は馬鹿ですね!」とミーチャは思わず口をすべらした。
「貴君《パーネ》※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と、二人の紳士《パン》はミーチャのほうを目ざして、まるで牡鶏のように身をそらしながら、威嚇の色をうかべて叫んだ。
 中でもヴルブレーフスキイがとくに熱くなっていた。
「一たい自分の国を愛しちゃならないんですか?」と彼は声を励ました。
「お黙んなさい! 喧嘩をしちゃいけません! 喧嘩なんぞしたら、承知しませんよ!」とグルーシェンカは命令的な語気でこう叫び、足で床をとんと鳴らした。
 彼女の顔は燃え、目は輝き始めた。たったいま飲んだばかりの一杯の酒が、早くも顔に出たのである。ミーチャは恐ろしくびっくりして、
「|みなさん《パーノヴェ》、ご勘弁ください! 僕が悪かったのです、もうあんなことは言いません。ヴルブレーフスキイ、パン・ヴルブレーフスキイ、もうあんなことは言いません……」
「まあ、あんたも黙って坐ってらっしゃいよ、なんな[#「なんな」はママ]馬鹿な人だろうね!」とグルーシェンカは意地わるい、じれったそうな声で、噛みつくように言った。
 一同は座についた。が、みんな黙り込んで、互いにまじまじと顔を見合せていた。
「みなさん、何もかも僕が悪いのです!」グルーシェンカの叫びが一こう合点ゆかないで、ミーチャはまたもや口をきった。「しかし、何だってこうぼんやり坐ってるんでしょう? え、何を始めたらおもしろくなるでしょう、またもとのようにおもしろくなるんでしょう?」
「ああ、本当にひどく白けちゃいましたね」とカルガーノフは口の中で大儀そうにむにゃむにゃ言った。
「銀行でもして遊んだらいかがでございましょう。さきほどのように……」マクシーモフが、ひひひと笑った。
「銀行? 名案だ!」とミーチャが引き取った。「ただ紳士方《パーノヴェ》さえ何でしたら……」
「Puzno, pane!」長椅子の紳士は気が進まぬらしく口を出した。
「それもそうだね」とヴルブレーフスキイは相槌を打った。
「Puzno? 一たいPuznoって何のこと?」とグルーシェンカが訊いた。
「それはつまり遅いということです。貴女《パーニ》、時刻が遅いということです」と長椅子の紳士が説明した。
「この人たちは何でもかでも遅いんだわ、何でもかでもしちゃならないんだわ!」グルーシェンカはいまいましさに、ほとんどわめくようにこう言った。「自分がぼんやり退屈そうに坐ってるもんだから、ほかの人にも退屈な目をさせなくちゃならないなんて。ミーチャ、この人たちはね、あんたの来る前にもこんなに黙り込んで、わたしに威張りかえってたのよ……」
「とんでもない!」と長椅子の紳士は叫んだ。
「Tso muvish, to sen stane. Vidzen ne lasken, i estem smutni Estem gotuv, pane.([#割り注]あなたが言われることは法律です、あなたのご機嫌が悪いのを見て、わたくしも気が沈んだのです、じゃ、あなた、始めましょう[#割り注終わり])」と彼はミーチャのほうを向いて句を結んだ。
「始めましょう、|みなさん《パーノヴェ》」とミーチャはすかさず引き取って、かくしから例の紙幣を取り出し、その中から二百ルーブリを抜いてテーブルの上へおいた。
「僕はあなた方にたくさんまけて上げますよ。さあ、カルタをとって銀行をやって下さい!」
「カルタはこの家から取り寄せましょう。」小柄な紳士は真面目な押しつけるような調子で言った。
「それは一番いい方法だ」とヴルブレーフスキイは相槌を打った。
「この家から? よろしい、わかりました。じゃ、この家から取り寄せましょう。まったくあなた方の態度は立派です! おい、カルタだ!」とミーチャは号令をかけるような調子で、亭主に言いつけた。
 亭主はまだ封を切ってないカルタの束を持って来て、もう娘たちは支度をしている、鐃※[#「金+拔のつくり」、第 3水準 1-93-6]《にょうはち》を持ったユダヤ人も間もなくやって来るだろう、しかし食糧をのせたトロイカはまだ着かない、とミーチャに報告した。ミーチャはテーブルのそばを飛びあがって、さっそく指図をするつもりで次の間へ駈け出した。しかし娘はやっと三人来たばかりで、おまけにマリヤはまだ来ていなかった。そのうえ、彼自身もどう指図をしたらいいのか、何のために駈け出したのかわからなかった。彼はただ土産物の箱の中から、氷砂糖や飴を出して、娘たちに分けてやるように命じたばかりである。
「ああ、アンドレイにウォートカをやらなきゃ、アンドレイにウォートカを!」と彼は早口に言いつけた。「おれはアンドレイに恥をかかした!」
 このとき突然、マクシーモフがうしろから走って来て、彼の肩に手をかけた。
「わたくしに五ルーブリやって下さいませんか」と彼はミーチャに囁いた。「わたくしもちょっと銀行をやってみとうございますので、ひひ!」
「えらい、結構! 十ルーブリとっとけ、そら!」
 彼はまたもや、ありたけの紙幣をかくしから取り出して、十ルーブリをさがし出した。
「負けたらまた来い、また来い……」
「よろしゅうございます」とマクシーモフは嬉しそうに呟いて、広間のほうへ駈け出した。
 ミーチャもすぐに引っ返し、みんなを待たした詫びを言った。二人の紳士《パン》はもう座に落ちついて、カルタの封を切っていた。彼らは前よりずっと愛想のいい、ほとんど優しいといっていいくらいの顔つきをしていた。長椅子の紳士《パン》は、新しくパイプをつめ換えて喫みながら、札を切る身構えをしていた。その顔には一種勝ち誇ったような色さえ浮んでいる。
「一月ですよ、|みなさん《パーノヴェ》!」と、ヴルブレーフスキイは宣告した。
「いや、僕はもうしませんよ」とカルガーノフは答えた。「僕はさっきからもう、この人たちに五十ルーブリ負けたんです。」
「パンは運が悪かったですね。しかし、今度は運が向くかもしれません」と長椅子の紳士《パン》は彼のほうを向いて言った。
「いくらの銀行です? 有限ですか?」とミーチャは熱くなった。
「いくらでもご勝手に、パン。百ルーブリでもよし、二百ルーブリでもよし、いくらお賭けになっても、いいのです。」
「百万ルーブリにしようか!」とミーチャはからからと笑った。
「大尉殿《パン・カピタン》、あなたはポドヴイソーツキイの話をお聞きになりましたか?」
「ポドヴイソーツキイって誰です?」
ワルシャワで、ある人が有限の銀行を始めたのです。そこへ、ポドヴイソーツキイがやって来て、千ルーブリの金貨を見ると、さあ、銀行をやろう、と言うのです。で、銀行のほうは『パン・ボドヴイソーツキイ、あなたは名誉《ホーノル》にかけて勝負をなさるのですか?』と念を押した。『むろん名誉《ホーノル》にかけてするんです、|みなさん《パーノヴェ》。』『そんなら結構です。』そこで銀行は破産するまでつづける、という約束で札を切り始めた。すると、ポドヴイソーツキイはさっそく、金貨で千ルーブリ勝ったのです。『貴君《パーネ》、待って下さい』と言いながら、銀行は手箱を取って、百万ルーブリの金をさし出しながら、『さあ、お取りなさい、これがあなたの勘定です!』それは百万ルーブリの勝負だったのです。『私は、そんなことを知らなかったです』とポドヴイソーツキイが言うと、『パン・ボドヴイソーツキイ』と銀行は言った。『あなたも名誉《ホーノル》にかけてなすったのだから、私も名誉《ホーノル》にかけてしました。』で、ボドヴイソーツキイは百万ルーブリ儲けたのです。」
「それは嘘です」とカルガーノフが言った。
「Pane Kalganov, v shlyahetnoi company tak muvits ne prjistoi.([#割り注]身分ある人々の席で、そんなことを言うのは失礼ですよ[#割り注終わり])」
「じゃ、君にもポーランドの博奕うちが百万ルーブリよこすだろうよ!」とミーチャは叫んだが、すぐに気がついて、「ごめんなさい、パン、悪いことを言いました。また悪いことを言いました。名誉《ホーノル》にかけて百万ルーブリ出しますよ、ポーランドの名誉《ホーノル》にかけてね? どうです。僕にもポーランド語が話せるでしょう。はは! そら、十ルーブリ賭けますよ。いいですか、ジャック。」
「わたくしも一ルーブリだけ女王さまに賭けましょう、可愛いハートの女王さまに、ひひ!」とマクシーモフは笑って、自分の女王の札を押し出しながら、ほかの者に見せまいとするように、ぴったりテーブルに体を押しつけ、手早くテーブルの下で十字を切った。ミーチャは勝負に勝った。一ルーブリの賭けも勝ちになった。
「角《すみ》折りだ!([#割り注]札の角を折ると賭けが四分の一だけ多くなる[#割り注終わり])」とミーチャは叫んだ。
「わたくしはまた一ルーブリ素《す》で行きます。一番一番ちっちゃな素《す》で行きます。」一ルーブリ勝ったので恐ろしく夢中になって、マクシーモフはさも幸福そうにこう呟いた。
「やられた!」とミーチャが叫んだ。「|倍賭け《ペー》で七点だ!」
 |倍賭け《ペー》もまた殺された。
「およしなさい。」突然カルガーノフがこう言った。
「|倍賭け《ペー》だ、|倍賭け《ペー》だ!」とミーチャはそのたびに賭け金を倍にしていった。しかし、|倍賭け《ペー》でいくら賭けてもみんな殺されてしまった。そして、一ルーブリのほうはいつも勝ちになった。
「|倍賭け《ペー》だ!」とミーチャは猛然として叫んだ。
「二百ルーブリ負けましたね、もう二百ルーブリ賭けますかね!」と長椅子の紳士が訊いた。
「え、二百ルーブリ負けたんですって? じゃ、もう一ど二百ルーブリだ! 二百ルーブリすっかり|倍賭け《ペー》で行くんだ!」とかくしから金を取り出して、ミーチャは二百ルーブリを女王の札へ投げ出そうとした。と、急にカルガーノフが手でその札に蓋をしてしまった。
「たくさんです!」と彼はもちまえの甲高い声で叫んだ。
「君、どうしたんです?」とミーチャはそのほうへじっと目を据えた。
「たくさんです、いやです! もう勝負はおやめなさい。」
「なぜ?」
「わけがあるんです。唾でもひっかけて行っておしまいなさい、わかったでしょう。僕はもう勝負をさせません!」
 ミーチャはびっくりして彼を見つめた。
「およしなさい、ミーチャ。ことによったら、この人の言うことは本当かもしれないわ。それでなくっても、もういい加減まけてるじゃないの。」奇妙な調子を声に響かせながら、グルーシェンカもそう言った。
 二人の紳士《パン》は大いに侮辱された顔つきをして席を立った。
「それは冗談ですか、パン?」きびしくカルガーノフを見据えながら、小柄な紳士《パン》はこう言った。
「Yak sen povojash to robits, pane!([#割り注]どうしてあなたはそんな失礼なことをなさるのです![#割り注終わり])」ヴルブレーフスキイもカルガーノフに呶鳴りつけた。
「生意気な、呶鳴るのはおよしなさい!」とグルーシェンカは叫んだ。「本当に、七面鳥そっくりだわ!」
 ミーチャは一同の様子をかわるがわる見くらべていた。と、グルーシェンカの顔面のあるものが、とつぜん彼の心を打った。その刹那、ぜんぜん新しい何ものかが彼の脳をかすめた、――それは奇怪な新しい想念であった!
「パーニ・アグリッピナ!」小柄な紳士《パン》が、憤怒のあまり真っ赤になって、こう口を切った時、突然ミーチャがそのそばに近よって、ぽんと肩を叩いた。
「大人《ヤスノヴェリモージヌイ》、ちょっと一こと……」
「何ご用です?」
「あの部屋へ、あっちの部屋へ行きましょう。君にちょっと一こといい話が、非常にいい話があるんです、君もきっと満足するに相違ないような話が。」
 小柄な紳士《パン》は面くらって、うさん臭そうにミーチャを見つめた。しかし、それでもすぐに承諾したが、ヴルブレーフスキイも必ず同道するという条件つきであった。
「護衛官ですかね? いいでしょう、いや、あの人も必要だ! ぜひいなくちゃならないくらいです」とミーチャは叫んだ。「さあ、行きましょう!」
「あんたたちどこへ行くんですの?」とグルーシェンカは心配そうに訊いた。
「すぐに帰って来るよ」とミーチャは答えた。
 一種の勇気、一種の思いがけない活気が彼の顔に輝いてきた。一時間前にこの部屋へはいって来たときとは、まるで別人のような顔つきになった。彼は娘どもが合唱の準備をしたり、食卓が用意されたりしている、大広間のほうへは行かないで、右手のほうの寝室へ二人の紳士《パン》を導いた。ここには箱や行季のほかに、更紗の枕を小山のように積み上げた大きな寝台が二つ据えてあった。ずっと片隅には、荒削りのテーブルの上に蝋燭が燃えていた。紳士《パン》とミーチャはこのテーブルを挾み、相対して座を構えた。背の高い紳士《パン》ヴルブレーフスキイは、両手を背中に組みながら、二人の横に突っ立っていた。二人ともいかつい顔つきをしていたが、見たところ、少からず好奇心を感じているらしい。
「どういうご用向きなのでしょう?」と小柄な紳士《パン》はポーランド語でぺらぺらと言いだした。
「ほかじゃない、僕はあまり口数をききませんが、ここに金があります」と彼は例の紙幣を取り出した。「どうです、三千ルーブリですよ。これを持ってどこへなと勝手に行ってしまっては。」
 紳士《パン》は目をまんまるくしながら、試すように相手を眺めた。彼は食い入るようにミーチャを見つめるのであった。
「Trji tisentsi, Pane?([#割り注]三千ルーブリですって?[#割り注終わり])」
「Trji です、trji です! いいですか、見受けたところ、君は分別のある人らしいから、三千ルーブリの金を取って、どこなと勝手なところへ行ったらどうです。ただし、ヴルブレーフスキイ君も一緒につれて行くんですよ、――いいですかね? しかし今すぐですよ、このまんま出て行くんですよ、そして永久に、永久に行っちまうんですよ、いいですかね。そら、あの戸をくぐって出て行くんですよ。あっちに君の持ち物は何があります、外套ですか、毛皮外套ですか? それは僕が持って出て上げる。さっそく君のためにトロイカをつけさせるから、――それでおさらばだ! どうです?」
 ミーチャは自信の色をうかべながら返事を待っていた。彼は少しも疑わなかった。何かしら異常な断乎たるものが紳士《パン》の顔にひらめいた。
「ところで、金は、パン?」
「金はこうしようと思うんです。五百ルーブリは今すぐ馬車代として手つけにあげておきます。そして、残りの二千五百ルーブリは、あす町で渡します、――誓って間違いなく渡します。土を掘ってでも、手に入れます!」とミーチャは叫んだ。
 二人のポーランド人は目くばせした。紳士の顔はだんだん険悪になってきた。
「七百ルーブリ上げます、七百ルーブリ上げます、五百ルーブリとは言いません。いま、たったいま、手から手へ渡します!」何か穏かならぬ気配を見てとって、ミーチャはこうせり上げた。「君どうです、パン? 信用できないですか? 今すぐ三千ルーブリ耳を揃えて手渡すわけにはゆかないが、しかし僕は必ず上げます。明日にもあれのところへ取りに来たまえ……今ここには三千ルーブリ持ち合せがないが、町の家にはあるから。」ミーチャは一語ごとにおじ気づいて、意気の銷沈を感じながら、しどろもどろにこう言った。「まったくです、ありますよ、隠してありますよ……」
 一瞬にしてなみなみならぬ自尊の色が、小柄な紳士《パン》の顔に輝き渡った。
「まだ何か、言い分がありますかね?」と彼は、皮肉な調子で訊ねた。「Pfe! A pfe!([#割り注]恥しいこった! 穢らわしいこった![#割り注終わり])」彼はぺっと唾を吐いた。
 ヴルブレーフスキイも唾を吐いた。
「君がそんなに唾を吐くわけは、」もう万事了したと悟って、ミーチャは自暴自棄の体で言いだした。「つまり、グルーシェンカからもっとよけい引き出せると思うからだろう。君たちは二人とも睾丸を抜かれた蹴合い鶏だ、それだけのもんだ!」
「Estem do jivogo dotknentnim!([#割り注]わたしは極度の侮辱を受けました![#割り注終わり])」とつぜん小柄な紳士《パン》は、蝦のように真っ赤になって、もう何一ことも聞きたくないというように、恐ろしく憤慨して、どんどん部屋を出てしまった。
 つづいてヴルブレーフスキイも、悠然としてその後にしたがった。最後にミーチャは間のわるそうな、しょげた様子で出て行った。彼はグルーシェンカが恐ろしかった。彼は今にも紳士《パン》が大きな声で喚き散らすだろうと直覚した。はたして予期は違わなかった。紳士は広間へ入ると、芝居めいた身振りでグルーシェンカの前に立ちどまった。
「パーニ・アグリッピナ、Estem do Jivogo dotknentnim!」と彼は喚きだした。が、突然グルーシェンカは自分の一ばん痛いところを触られでもしたように、いよいよ我慢がしきれなくなったという調子で、
「ロシヤ語でお話しなさい、ロシヤ語で、一ことだってポーランド語を使ったら承知しないから!」と男に呶鳴りつけた。「以前はロシヤ語で話してたのに、一たい五年の間に忘れちゃったの!」
 彼女の顔は忿怒のあまり真っ赤になった。
「パーニ・アグリッピナ……」
「わたしはアグラフェーナです、わたしはグルーシェンカですよ。ロシヤ語でお話しなさい、それでなけりゃわたし聞きゃしないから!」
 紳士《パン》は自尊心《ホーノル》のために息をはずませ、ブロークンなロシヤ語で早口に、気どった調子で言いだした。
「パーニ・アグラフェーナ、わたしは昔のことを忘れて赦すつもりで来たんです、今日までのことをすっかり忘れるつもりで来たのです……」
「えっ、赦す? それでは、わたしを赦すつもりでやって来たの?」と遮って、グルーシェンカは席を跳りあがった。
「いかにもそうです。わたしはそんな狭量な男ではありません、もっと寛大です。わたしはあなたの情夫どもを見たとき一驚を喫したです。パン・ミーチャはあの部屋でわたしに手をひかせるために、三千ルーブリを提供しました。わたしはあの男の面に唾をひっかけてやりました。」
「えっ? この人がわたしの身の代《しろ》だと言って、あんたに金を出そうとしたんですって?」とグルーシェンカはヒステリックに叫んだ。「本当なの、ミーチャ? どうしてそんな失礼なことを……一たいわたしが金で売り買いされる女だと思って?」
「諸君《パーネ》、諸君《パーネ》」とミーチャは声を振り絞った。「この女は純潔だ、光り輝いている。僕は決してこの女の情夫になんかなったことはない! それは君のでたらめだ……」
「何だってあんたは生意気にも、この人に対してわたしの弁護なんかするんです?」グルーシェンカは癇走った声でこう言った。「わたしは徳が高いために純潔なんじゃないんですよ。またサムソノフが怖いからでもないわ。ただこの人に威張ってやりたかったからよ。この人に会った時、畜生と言ってやりたかったからよ。それで一たいこの人はあんたから金を取ったの?」
「ああ、取りかけたんだよ、取りかけたんだよ!」とミーチャは喚いた。「ただ三千ルーブリ一時にほしかったところへ、僕が僅か七百ルーブリしか手つけに出さなかったもんだから……」
「そうでしょうよ。わたしが金を持ってるってことを嗅ぎつけたもんだから、それで結婚しようと思って、やって来たんだ!」
「パーニ・アグリッピナ」と紳士《パン》は叫んだ。「わたしはあなたと結婚するつもりでやって来たのです。ところが、会ってみると、以前とはまるで違った、わがままな、恥知らずになってしまいましたね。」
「ええ、もと来たところへとっとと帰ってしまうがいい! 今わたしが追い出してしまえと言いつけたら、お前さんたちはさっそく追い出されるんだよ!」とグルーシェンカは前後を忘れて叫んだ。「ああ、馬鹿だった、わたしは本当に馬鹿だった、あんなに五年間も自分で自分を苦しめるなんて! だけど、わたしはこの男のために苦しんだのじゃない、ただ面《つら》当てのために苦しんだだけのことなんだから! それに、この男は決してあの人じゃない! 本当にあの人がこんな人間だったろうか? これはきっと、あの人の親父さんか何かだろう! 一たいお前さんはその鬘をどこで誂えたの? あの人は鷹だったが、この男はなんのことはない雄鶏だ。あの人はよく笑って、わたしに歌なぞ唄って聞かせた……それだのに、わたしは、わたしは五年の間も泣き通すなんて、本当になんていまいましい馬鹿だろう、なんて卑しい恥知らずだろう!」
 彼女は自分の肘椅子に身を投げて、両の掌で顔を蔽うた。
 この時、やっと支度をととのえたモークロエの娘たちのコーラスの声が、左側の部屋から響き渡った、――放縦な踊りの歌である。
「まるでソドムだ!」突然ヴルブレーフスキイが咆えるように言った。「亭主、穢らわしい女どもを追っ払っちまえ!」
 亭主は叫び声を聞きつけると、客人たちが喧嘩を始めたのに感づいて、だいぶ前からもの好きに戸の隙間から覗いていたが、今は猶予なく部屋の中へ入って来た。
「お前は何だってそんなに呶鳴るのだ、喉がやぶけてしまうぜ?」何か合点のいかないほどぞんざいな調子で、亭主はヴルブレーフスキイに向ってこう言った。
「畜生!」とヴルブレーフスキイは呶鳴りかけた。
「畜生? そんなら貴様はどんなカルタで勝負をしたのだ? おれがちゃんとカルタを出してやったのに、貴様はおれのカルタを隠して、いかさま札で勝負をしたじゃないか! おれは贋造カルタの訴えをして、貴様をシベリヤへ送ることもできるんだぞ、わかってるか? なぜって、それは文書偽造も同じことなんだからな……」
 と言って、長椅子に近よると、よっかかりとクッションの間に指を突っ込んで、そこから一組の封を切らないカルタを引き出した。
「そら、これがおれのカルタだ、まだ封も切ってありゃしない!」と彼はそれをさし上げて、ぐるっと一同に廻して見せた。「このカルタをそこの隙間へ突っ込んで、自分のとすり変えたのを、おれはちゃんとあそこから睨んどいたんだ、――貴様は掏摸だ、紳士《パン》じゃありゃしない。」
「僕はあっちの紳士《パン》が二ど抜き札したのを見ましたよ!」とカルガーノフが叫んだ。
「ああ、なんて恥しいことだろう、ああ、なんて恥しいことだろう!」とグルーシェンカは手を拍ちながら叫んで、真に恥しさのあまり顔を赧くした。「まあ、何という人間になったんだろうねえ!」
「僕もやはりそう思ったよ!」とミーチャは言った。
 しかし、彼がこれだけのことを言ってしまわないうちに、突然ヴルブレーフスキイは混乱と狂憤のあまり、グルーシェンカのほうを向いて、拳固で脅す真似をしながら呶鳴りつけた。
「この淫売女《じごく》め!」
 しかし、彼が叫びも終らないうちに、いきなりミーチャは飛びかかって、両手で抱きしめながら宙に吊し上げて、あっという間もなく、広間から右手の部屋へ担ぎ出した。それは、ついさきほど彼が二人を連れ出した部屋である。
 あいつを床《ゆか》の上へ抛り出して来た!」[#「 あいつを床《ゆか》の上へ抛り出して来た!」」はママ]すぐにまた引き返して、はあはあと息を切らせながら、ミーチャはこう報告した。
「悪党、手向いなんかしやがる。しかし、もう出ては来られまい!………」
 彼は観音開きになった扉を半分だけ閉めて、いま一方を開け放しのままにしておき、小柄の紳士《パン》に向って叫んだ。
「大人《ヤスノヴェリモージヌイ》、やはりあちらへいらしったらいかがです? 一つお願い申します!」
「旦那さま、ドミートリイさま」とトリーフォンは声を高めた。「あいつらから金を取り上げておしまいなさいまし。いまカルタでお負けになった金を! まったく、あいつら盗んだも同然でございますものな」
「僕はあの五十ルーブリを取り返そうとは思わない」とカルガーノフは突然こう答えた。
「僕も、あの二百ルーブリを取り返しはしない、僕はいらない!」とミーチャは叫んだ。「どんなことがあっても取り返さない。せめてもの慰めに持たしとくさ。」
「大出来、ミーチャ、えらいわ、ミーチャ!」とグルーシェンカは叫んだ。その叫びの中には恐ろしく意地のわるい調子が響いていた。
 小柄な紳士《パン》は憤怒のあまり顔を紫色にしながら、それでも自分の威厳を失わないで、扉のほうをさして歩きだしたが、とつぜん立ちどまって、グルーシェンカに向いてこう言った。
「Pani, ejeli khchesh ists za mnoyu, idzmi, esli ne-bivai zdorova!([#割り注]もしわたしに従う気があるなら、一緒に行こう、それが厭ならさようならだ![#割り注終わり])
 こう言って、彼は憤懣と野心のために息を切らしながら、悠悠として扉の向うへ入って行った。彼は腹のすわった男だったから、あれだけのことがあった後でも、まだ貴女《パーニ》が自分に従うかもしれぬという望みを失わないでいた、――それほど自惚れが強かったのである。ミーチャはその後からばたりと扉を閉めた。
「あいつら鍵をかけて閉め込んでおしまいなさい」とカルガーノフが言った。
 しかし、鍵は向うのほうでかちりと鳴った。彼らが自分で閉じ籠ったのである。
「大出来だわ!」グルーシェンカはまた毒々しい、容赦のない調子でこう叫んだ。「大出来! それが相当したところだわ!」

[#3字下げ]第八 夢幻境[#「第八 夢幻境」は中見出し]

 やがてほとんど乱痴気騒ぎとでもいうようなものがはじまった。それは世界じゅうひっくり返るような大酒もりであった。グルーシェンカは第一番に、酒を飲ましてくれと叫びだした。
「わたし飲みたいのよ、この前の時と同じように、へべれけになるほど酔っ払ってみたいの。ねえ、ミーチャ、あの時わたしたちがここで、はじめて知合いになった時のことを、覚えてて?」
 当のミーチャはまるで有頂天であった。彼は『自分の幸福』を予覚したのである。しかし、グルーシェンカは、絶えず彼を自分のそばから追いのけていた。
「あんた行ってお騒ぎなさい。みんな踊って騒ぐように言ってらっしゃい。あの時みたいに『小屋も暖炉も踊りだす』ほど騒ぐのよ。あの時のようにね!」と彼女は絶えず喋りつづけた。彼女は恐ろしく興奮していた。で、ミーチャも指図のために飛び出すのであった。
 コーラスは次の部屋に集っていた。今までみんなの坐っていた部屋は、それでなくても狭かった。更紗のカーテンで真っ二つに仕切られて、その向うにはまたしても大きな寝台が据えてあった。それにはふっくらした羽蒲団と、同じような更紗の枕が幾つも小山みたいに積み上げてあった。この宿屋の四つの『綺麗な』部屋には、みんな寝台の置いてないところがなかった。グルーシェンカは、戸口のすぐそばに席をかまえていた。ミーチャがここへ肘椅子を運んでやったのである。『あの時』はじめてここで豪遊をした時にも、彼女はちょうど同じようなふうに座を占めて、ここから合唱隊や踊りを眺めていた。
 集って来た娘たちも『あの時』とすっかり同じであった。ユダヤ人の群も同様、ヴァイオリンやチトラを持ってやって来た。待ちかねていた酒や食料を積んだ三頭立の馬車も、とうとう着いた。ミーチャは忙しそうにあちこちしていた。何の縁故もない百姓や女房連まで、見物のために部屋の中へ入って来た。彼らはもう一たん眠りについたけれど、また一カ月前と同じような類のない饗応を嗅ぎつけ、目をさまして起き出したのである。ミーチャは、知合いの誰かれと挨拶して抱き合った。だんだんと見覚えのある顔を思い出してきた。彼は壜の口を抜いて、誰でも彼でも行き当り次第に振舞うのであった。ジャンパンを無上にほしがるのは娘らばかりで、百姓連にはラム酒やコニヤクや、とくにポンスが気に入った。ミーチャは、娘らぜんたいに行き渡るようにチョコレートを沸かして、来るものごとに、茶やポンスを飲ませるために、一晩じゅう三つのサモワールをたえまもなく煮え立たせるように命令した。つまり、望みのものは誰でも、ご馳走にありつけるわけであった。手短かに言えば、何か一種乱脈な、ばかばかしいことが始まったのである。しかし、ミーチャは自分の本領にでも入ったようなふうつきで、あたりの様子がばかばかしくなればなるほど、ますます元気づいてくるのであった。もしその辺の百姓が金をくれと頼んだら、彼はすぐに例の紙幣束を引き出して、勘定もしないで右左へ分けてやったに相違ない。
 おそらくこういう理由で、ミーチャを監督するためだろう、亭主のトリーフォンはほとんどそばを離れないようにして、彼のまわりをあちこちしていた。亭主は、もう今夜寝ることなどは思いきって、酒をろくろく飲まず(彼はポンスをたった一杯飲んだばかりである)、目を皿のようにしながら、自己一流の見地からミーチャの利害を監視していた。必要な場合には愛想よく、お世辞たらたらミーチャを引き止めて、『あの時』のように『葉巻やライン・ワイン』や金などを、(これなぞは実にとんでもないことだ)、百姓どもに撒き散らすのを妨げた。そして、あまっ子どもがリキュールを飲み、菓子を食べるといって、ぷりぷり憤慨した。『あんなやつらは、ほんの虱の宿でございますよ、旦那さま』と彼は言った。『わたくしは、あいつらの中のどれなりと足蹴にして、それを有難いと言わしてお目にかけます、――あいつらはそれくらいのものでございますよ!』ミーチャはまた一度アンドレイのことを思い出して、この男にポンスを持って行ってやるように命じた。『おれはさっきあいつを侮辱したんだ』と彼は有頂天になって、衰えたような調子で繰り返した。
 カルガーノフは酒を口にしようとしなかった。それに、娘らのコーラスにも、初めは大不賛成であった。しかし、シャンパンをたった二杯しか飲まないうちに、むやみにはしゃぎだして、部屋を歩きはじめた。そして、きゃっきゃっ笑いながら、歌も囃子も、何もかも無上に賞めちぎるのであった。マクシーモフは少々きこしめして、大恐悦の体で、ちょっとも彼のそばを離れなかった。同様に酔いのまわってきたグルーシェンカは、ミーチャにカルガーノフを指さしながら、『なんて可愛い人だろう、なんていい子だろうねえ!』と言った。すると、ミーチャは有頂天になって駈け出し、カルガーノフとマクシーモフに接吻した。おお、彼は多くのことを予察した。彼女はまだそんなふうのことを少しも言わなかったし、言いたいのをわざと押しこらえているらしくさえ見えたが、それでもときおり彼のほうを見る目つきは優しく、しかも燃えるようであった。とうとう、彼女はとつぜん男の手をしっかり掴まえて、無理やりに自分のほうへ引き寄せた。彼女自身は戸口の肘椅子に坐っていた。
「あの時あんたは、なんて入り方をしたの? え、なんて入り方をしたの!………わたし本当に驚いちゃったわ、どうしてあんたは、わたしをあの男に譲ろうって気になったの? 本当にそんな気になったの?」
「おれはお前の幸福を台なしにしたくなかったんだ!」ミーチャは嬉しそうに、しどろもどろな調子でこう言った。しかし、グルーシェンカには、彼の返答など必要ではなかった。
「さあ、あっちいいらっしゃい……おもしろく騒いでらっしゃい」と彼女はふたたび追いのけるように言った。「それに、泣くことはないわ、また呼んで上げるから。」
 で、彼は向うのほうへ駈け出した。彼女は男がどこにいても、じっと目でその跡を追いながら、歌を聞き、踊りを見るのであった。しかし、十五分もたつと、また彼を呼び寄せる。すると、彼もふたたびそばへ走って来る。
「さあ、今度はそばへお坐んなさい。そして、昨日どうしてわたしのことを知ったの? わたしがここへ来たってことを、どうして知ったの? 一番に聞かした人は誰?」
 そこで、ミーチャはすっかり話しにかかった。前後の順序もなくしどろもどろに、熱したとはいえ妙に不思議な調子で話をした。そして、しょっちゅうだしぬけに眉をしかめては、言葉を途切らすのであった。
「何だってあんた、そんなに眉を寄せるの?」と彼女は訊いた。
「何でもない……あっちへひとり病人をおいて来たんだ。もしそれがよくなったら、よくなるということがわかったら、おれは今すぐ自分の十年の命を投げ出すよ!」
「だって、病人なんかどうだっていいわ! じゃ、あんたは本当にあす死ぬつもりだったの? まあ、なんて馬鹿な人でしょう、おまけに、つまらないことのためにさあ! わたしはあんたのように無分別な人が好きだわ。」やや重くなった舌をやっと廻しながら、彼女はこう言った。「じゃ、あんたはわたしのためなら、どんなことでもいとわない? え? 本当にあんたはあすピストルで死ぬつもりだったの、馬鹿だわねえ! まあ、しばらく待ってらっしゃい、明日になったら、わたしいいことを言って聞かせるかもしれないわ……今日は言わない、明日よ、あんたは今日聞きたいんでしょう? いや、わたし今日は言わない……さあ、もういらっしゃい、いらっしゃい、おもしろく騒いでらっしゃい。」
 しかし、一ど彼女は何だか合点のゆかない様子で、心配そうにミーチャを呼び寄せた。
「何だってあんたはそう沈んでるの? わたしわかってよ、あんたはほんとに沈んでるわ……いいえ、もうちゃんとわかってよ。」鋭く男の目を見入りながら、彼女はこうつけたした。「あんたはあっちで百姓たちと接吻して、大きな声を出しているけれど、わたしにゃちゃんとわかってるわ。駄目よ、はしゃがなくちゃ。わたしもはしゃいでるんだから、あんたもはしゃいでちょうだい……わたし、この中でひとり愛してる人があるのよ、誰だかあててごらんなさい……あらごらん、うちの坊っちゃんが寝ちゃったわ。可哀そうに酔っぱらったんだわ。」
 彼女はカルガーノフのことを言ったのである。彼は本当に酔っぱらって、長椅子に腰をおろすと、そのまま眠りに落ちてしまった。彼が寝たのは、ただ酔いのためばかりではなかった。彼は急にどうしたわけか気が欝してきたのである。彼の言葉を借りると、『退屈』になったのである。酒もりとともに、だんだん淫猥放縦になってゆく娘らの歌が、しまいには恐ろしく彼の元気を奪ったのである。それに踊りもやはり同じことであった。二人の娘が熊に扮装すると、スチェパニーダという元気のいい娘が手に棒を持って、獣使いという趣向で、熊をみんなに『見せ』始めた。
「マリヤ、もっとはしゃいで」と彼女は叫んだ。「でないと、棒が飛んでくよ!」
 とうとう熊は、もう本当に妙なみだらな恰好をして床に転がった。すると、ひしひしと押し寄せた女房や百姓どもの群衆は、どっと高く笑いくずれた。『いや、勝手にさしておくんだ、勝手にさしておくんだ。』グルーシェンカは幸福げな色を顔にたたえながら、もったいらしい調子でこう言った。『こんなに浮かれるおりといったら容易にありゃしないんだから。誰にだっておもしろい目をさせないって法はないわ。』カルガーノフは何かに体を汚されたような顔つきで眺めていた。『こんなことは、こんな国民風俗なんてみんな穢らわしいものだ!』と彼は、そのそばを退きながら、言った。『これは夏の夜じゅう太陽《てんとう》さまの番をするとかいう、民間の春の遊びなんだ。』しかし、とりわけ彼の気に入らなかったのは、活発な踊りめいた節のついた、ある『新しい』小唄であった。それは通りがかりの旦那が娘たちを試したという歌である。

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娘がおれに惚れてるか
どうかと旦那は聞かしゃった
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、娘たちは旦那に惚れることはできないような気がした。

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旦那はひどくぶたっしゃろう
わたしゃ旦那に惚れはせぬ
[#ここで字下げ終わり]

 その後からジプシイが一人通りかかったが、これも同様に、

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娘がおれに惚れてるか
どうかとジプシイは聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、ジプシイにも惚れるわけにゆかぬ。

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ジプシイもとより盗み好き
するとわたしは嘆きみる
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 それから大勢の人が、――兵隊までやって来て、娘たちを試してみた。

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娘がおれに惚れてるか
どうかと兵士は聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、兵隊は冷笑をもってしりぞけられた。

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兵士は背嚢しょうであろ
ところがわたしはうしろから……
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 その次の一連は恐ろしい猥雑きわまるものであった。しかも、それが公々然と唄われて、聴衆の間にどっというどよめきを惹き起した。とうとう話は商人でけりがついた。

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娘がおれに惚れてるか
どうかと商人《あきゅうど》は聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

 すると、ぞっこん惚れてることがわかった。そのわけは、

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商人《あきゅうど》は儲けが上手ゆえ
わたしゃ栄耀をし放題
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 カルガーノフはもう怒ってしまった。
「これはまるで昨日のと同じ歌だ」と彼は口に出してこう言った。「まあ、一たい誰がこの連中に作ってやるのだろう! 鉄道員ユダヤ人がやって来て、娘を試さないのが不思議なくらいだ。この連中ならみんな口説き落しただろうに。」
 彼はほとんど侮辱を感じた。退屈だと言いだしたのはこの時である。彼は長椅子に腰をおろすと、そのままうとうととまどろみ始めた。可愛らしい顔は幾ぶん蒼ざめ、長椅子の枕の上にぐったりとなっていた。
「ごらんなさい、なんて可愛いんでしょう。」ミーチャをそばへ引っ張って行きながら、グルーシェンカはこう言った。「わたしね、さっきこの人の頭を梳《す》いて上げたの。まるで亜麻のような房々した毛……」と、さも懐かしそうに屈み込んで、彼女は青年の額を接吻した。カルガーノフは、すぐにぱちりと目を見ひらいて、相手の顔を眺め、半ぶん腰を上げながら、心配そうな様子で訊ねた。
「マクシーモフはどこにいます?」
「まあ、あんな人のことが気になるのよ」とグルーシェンカは笑いだした。「まあ、ちょっとわたしのそばに坐ってらっしゃい。ミーチャ、ひと走りして、この人のマクシーモフを捜して上げてちょうだい。」
 聞けば、マクシーモフはただときどき駈け出して、リキュールを一杯ひっかけて来るほか、もういっかな娘たちのそばを離れようとしなかった(もっとも、チョコレートを茶碗二杯も飲みほした)。小さな顔は真っ赤になって、鼻などは紫色に染まり、目はうるみをおびて、おめでたそうに見えた。彼はちょこちょことそばへ駈け寄って、今すぐ『ちょいとした囃子に合せて』、木靴舞踏《サポチエール》を踊るからと披露した。
「わたくしは、育ちのいい上流の方々がなさるような踊りを、小さい時分にすっかり習ったのでございます……」
「さあ、いらっしゃい、この人と一緒にいらっしゃい、ミーチャ、わたしはこの人がどんなことを踊るか、ここから見物してるからね。」
「じゃ、僕も、僕も見に行こう。」自分のそばに坐っててくれというグルーシェンカの乞いを、思いきって子供らしい態度でしりぞけながら、カルガーノフはこう叫んだ。で、一同は見物に出かけた。マクシーモフは本当に自己流の踊りを踊って見せた。しかし、ミーチャのほかにはほとんど誰ひとり、かくべつ感心してくれるものがなかった。その踊りというのは、ただひょいひょい妙に飛びあがったり、裏を上に向けて足を横のほうへ伸ばしたり、飛びあがるたびに掌で靴の裏を叩くだけのことであった。カルガーノフにはさっぱり気に入らなかったが、ミーチャは踊り手に接吻までしてやった。
「いや、有難う、さぞ疲れたろう。何だってこっちのほうばかり見てるんだ? 菓子でもほしいのか、え? 葉巻でもほしいのか?
「紙巻を一本。」
「一杯どうだね?」
「わたくしはあそこでリキュールを……あなた、チョコレートのお菓子はございませんか?」
「そら、あのテーブルに山ほどあらあな。勝手に好きなものを取るがいい、本当にお前の心は鳩のようだなあ?」
「いいえ、わたくしが申しますのは、そのヴァニラ入りので……年よりにはあれにかぎります……ひひ!」
「ないよ、お前、そんな特別なのはないよ。」
「ちょっとお耳を!」とつぜん老人はミーチャの耳のそばへかがみ込んだ。「それ、あの娘でございますな、マリュシカでございますな、ひひ! いかがでございましょう、できることならどうかして、あの子とねんごろにいたしたいもので、一つあなたのご親切なお取り計らいで……」
「おやおや、とんだ大望を起したな、おい、でたらめを言うもんじゃないぜ。」
「でも、わたくしは誰にも悪いことはいたしません。」マクシーモフはしおしおとこう呟いた。
「いや、よしよし。ここではお前ただ飲んだり踊ったりしてるだけなんだから……いや、まあ、どうだっていいや! ちょっと待ってくれ……まあ、今しばらく腹へ詰め込んでいるがいい。飲んだり食ったりして騒いでるがいい。金はいらないか?」
「あとでまた、その……」とマクシーモフはにたりと笑った。
「よしよし……」
 ミーチャは頭が燃えるようであった。彼は玄関のほうにある木造の高い廊下へ出た。それは、庭に面した建物の一部分を、内部からぐるりと取り巻いていた。新鮮な空気は彼を甦らせた。彼はただひとり片隅の暗闇に佇んでいたが、ふいに両手でわれとわが頭を掴んだ。ばらばらになっていた思想が、急に結び合わされて、さまざまな感触も一つに溶けあった。そして、一切のものが光を点じてくれたのである。ああ、何という恐ろしい光!
『そうだ。もし自殺するなら、今でなくていつだろう?』という想念が彼の頭をかすめた。『あのピストルを取りに行って、ここへ持って来る。そして、この汚い暗い廊下の隅でかたづけてしまうのだ。』ほとんど一分間、彼は決しかねたように佇んでいた。さっきここへ飛んで来ているあいだは、彼のうしろに汚辱が立ち塞がっていた。彼の遂行した竊盗の罪が立ち塞がっていた。それに、何よりもあの血だ、血だ!………しかし、あの時のほうが楽だった、ずっと楽だった! あの時にはもはや万事了していたのだ。彼は女を失った、他人に譲った、グルーシェンカは彼にとってないものであった、消えたものであった、――ああ、自己刑罰の宣告もあの時は楽だった。少くとも、必要避くべからざるものであった。なぜなれば、彼にとってはこの世に生きのこる目的がないからである。
 ところが、今はどうだろう! はたして今とあの時と同じだろうか? 今は少くとも、一つの恐ろしい妖怪は片づいてしまった。あの争う余地なき以前の恋人は、あの運命的な男は、跡形もなく消えてしまった。恐ろしい妖怪は急に何かしらちっぽけな、滑稽なものと変ってしまった。軽々と手で提げられて、寝室の中へ押し込められてしまった。もう決して帰って来ることはない。グルーシェンカは恥かしがっている。そして、いま彼女が誰を愛しているか、彼にははっきりわかっている。ああ、今こそ初めて生きてゆく価値がある、ところが、生きてゆくことはできない、どうしてもできない、おお、何という呪いだ!
『ああ、神様、どうか垣根のそばに倒れている男を生き返らせて下さいまし! この恐ろしい杯を持って、わたくしのそばを通り抜けて下さいまし! あなたはわたくしと同じような罪びとのために、いろいろな奇蹟を現じられたではありませんか! ああ、どうだろう? もし爺さんが生きていたらどうだろう? おお、その時こそわたくしはそのほかの汚辱をそそぎます。盗んだものを返します、ぜひとも返してお目にかけます、土を掘っても手に入れます……そうすれば、汚辱の跡はわたくしの心のほかには、永久に残らないですむのでございます! しかし、駄目だ、駄目だ、しょせん、できない相談だ、了簡の狭い空想だ! おお、何という呪いだ!』
 とはいえ、やはり何となく明るい希望の光線が、彼の暗い心に閃くのであった。彼は急にその場を離れて、部屋の中をさして駈け出した、――彼女のもとへ、永久に自分の女王たる彼女のもとへ! 『よしんば汚辱の苦痛に沈んでいる時であろうとも、彼女の愛の一時間、――いや、一分間は、残りの全生涯と同じの価値を持っていないだろうか?』この奇怪な疑問がとつぜん彼の心を掴んだ。『あれのところへ行こう、あれのところへ行きさえすればいいのだ。あれの顔を見て、あれの声を聞きさえすればいいのだ。ただ今夜一晩だけでいい、一時間でもいい、一瞬の間でもいい、もう何一つ考えないで、一切のことを忘れてしまうのだ!』
 廊下から玄関へ入ろうというところで、彼は亭主のトリフォーンに行き合った。亭主は何だか、浮かない心配らしい顔をしていた。彼は捜しに歩き廻っているらしい。
「どうしたんだ、トリフォーン、おれを捜してるんじゃないか?」
「いいえ、あなたじゃございません」と亭主は急にまごついた様子で、「わたくしが旦那を捜すなんて、そんなわけがないじゃありませんか? ところで、旦那……旦那はどこにいらっしゃいました?」
「何だってお前、そんな浮かない顔をしてるんだ? 怒ってるんじゃないか? ちょっと待てよ、もうすぐ寝さしてやるから……何時だい?」
「へい、もうかれこれ三時でございましょう。いや、ことによったら、三時すぎかもしれません。」
「もうやめるよ、やめるよ。」
「とんでもないことを、かまいはいたしません。どうぞご存分に……」
『あの男どうしたんだろう?』ちらとミーチャはこう考えて、娘らの踊っている部屋へ駈け込んだ。しかし、彼女はそこにいなかった。空色の部屋にもやはりいない。カルガーノフが長椅子の上でまどろんでいるだけであった。ミーチャがカーテンの向うを覗いてみると、――彼女はここにいた。彼女は片隅にある箱の上に腰かけて、両手と頭をかたわらなる寝台に投げ出したまま、人に聞かれまいと一生懸命に押しこらえて、声を盗みながら、にがい涙にむせんでいるのであった。ミーチャを見ると、自分のそばへ招き寄せて、固くその手を握りしめた。
「ミーチャ、ミーチャ、わたしあの男を愛してたのよ!」と彼女は小声に囁き始めた。「ええ、あの男を愛してたのよ、五年の間ずっと愛してたのよ。一たいわたしが愛してたのはあの男だろうか、それとも、ただ口惜しいという心持だけだろうか? いいえ、あの男を愛してたんだわ! まったくあの男を愛してたんだわ! わたしが愛してたのは口惜しいって心持だけで、あの人という人間じゃないと言ったのは、ありゃ嘘なのよ! ミーチャ、わたしはあの時たった十七だったけど、あの男はそりゃわたしに優しくしてくれたのよ。そして、陽気な人でね。よくわたしに歌をうたって聞かせたわ……それとも、あの時分わたしが馬鹿な小娘だったから、ただそう思われただけなのかしら……それだのに、今はまあどうだろう! あれはあの人じゃない、まるっきり人が違うわ。それに顔もあの人とは違ってる。わたし顔を見たとき思い出せなかったわ。わたしはチモフェイと一緒にここへ来る途中、一生懸命に考えたわ、ここへ来てまで考えたわ。『どんなふうにしてあの人と顔をあわしたもんだろう? 何てったらいいだろう? 二人はどんなふうにして互いの顔を眺め合うことだろう?………』ってね、胸の痺れるような思いをしながら考えたの。ところが、来て見ると、あの男はまるで頭から汚い水を、桶一杯あびせかけるようなことをするじゃないの。まるで、どこかの先生みたいな口のきき方をするの。しかつめらしい学者ぶったことばかり言って、はじめて顔をあわした時の様子だって、もったいぶってるものだから、わたしすっかりまごついちゃったわ。口をだすこともできやしないわ。わたし初めのうち、この人はあのひょろ長い仲間のポーランド人に遠慮してるんだ、とそう思ったの。わたしはじっと坐ってて、二人の様子を眺めながら、自分は今どういうわけで、この人に口がきけないのかしらと考えたのよ。あれはねえ、家内があの男を悪くしちゃったんだわ。あの男がわたしを棄てて結婚した家内ね、それがあの男を別人にしてしまったんだわ。ミーチャ、なんて恥しいことだろう! ああ、わたしは、恥しい、ミーチャ、本当に恥しい、一生涯の恥だわ! あの五年は呪われたものだ、呪われたものなんだ!」彼女は、ふたたびさめざめと泣きだした。けれど、一生懸命ミーチャの手に縋りついて、放そうともしなかった。
「ミーチャ、いい子だからちょっと待ってちょうだい、行かないでちょうだい、わたしあんたに一こと言いたいことがあるのよ」と囁いて、とつぜん彼女は男のほうへ顔を振り上げた。「あのねえ、今わたしが誰を愛してるか言ってちょうだい。わたしの愛してる人がここにたった一人あるのよ。その人はだあれ? 言ってごらんなさいな。」泣きはらした彼女の顔には微笑がうかんで、目は薄闇の中に輝いた。「さっき一羽の鷹が入って来たとき、わたしは急にぐったりと気がゆるんでしまったの。『馬鹿だねお前は、お前の愛してるのはこの人じゃないか』と、すぐに心がこう囁いたのよ。あんたが入って来たので、何もかも明るくなったんだわ。だけど、あの人は何を恐れてるんだろう? とこうわたし考えたの。ええ、本当にあんたは恐れてたわ、まるでびくびくしちゃって、口もろくにきけなかったわ。あれはこの連中を恐れてるんじゃない、とこうわたし考えたの。だって、あんたが人を恐れるなんてはずがないんですもの。あれはわたしを恐れてるのだ、わたし一人を恐れてるのだと合点したの。わたしが窓からアリョーシャに向って、たった一ときミーシェンカを愛したことがあるけれど、今は……ほかの者に愛を捧げるために出かけるのだって喚いたことを、フェーニャがあんたに、――このお馬鹿さんに話したでしょう。ああ、ミーチャ、ミーチャ、どうしてわたしはあんたに会ったあとで、ほかの者を愛してるなんて考えることができたんでしょう! 堪忍してくれて、ミーチャ? わたしを赦してくれて、いや? 愛してくれて? 愛してくれて?」
 彼女は飛びあがって、両手で男の肩を押えた。ミーチャは歓喜のあまり、唖のように彼女の目を、顔を、微笑を、見つめていたが、突然しっかり抱きしめて、夢中になって接吻しはじめた。
「え、今までいじめたのを赦してくれて? まったくわたし、面当てにあんた方をいじめてたのよ。あの爺さんだって、わざと気ちがいのようにしてやったのよ……覚えてて、いつかあんたが家でお酒を飲んで、杯をこわしたことがあるわね? わたし今日あれを思い出してねえ、同じように杯をこわしたわ。『穢れたわたしの心のために』飲んだのよ。ミーチャ、どうしてわたしを接吻しないの? 一ど接吻したきり、すぐ離れてしまって、じっと見つめながら、耳をすましてるじゃないの……わたしの言うことなんか、聞いてることはないわ! 接吻してちょうだい、もっと強く接吻して、ええ、そうそう。愛するといったら、どこまでも愛してよ! これからは、あんたの奴隷になるの、一生奴隷になるの! 奴隷になるのも嬉しいもんだわ! 接吻してちょうだい! わたしをぶってちょうだい、いじめてちょうだい、どうでも思う存分にしてちょうだい……ああ、まったくわたしはいじめてもらわなきゃ駄目なのよ……ちょっと待って! またあとでね、何だか厭になったわ……」とつぜん彼女は男を突きのけた。「ミーチカ、あっちいいらっしゃい、わたしもこれからお酒を飲みに行くわ。わたし酔っ払いたいの、今すぐ酔っ払って踊りに行くわ、踊ってよ、踊ってよ!」
 彼女は突然ミーチャのそばを飛びのいて、カーテンの陰から駈け出した。ミーチャはそのあとから、酔いどれのようなふうで出て行った。『かまやしない、どうなったってかまうもんか、――この一瞬間のためには世界じゅうでもくれてやる』という考えが彼の頭にひらめいた。グルーシェンカは、本当にシャンパンを一息に飲みほして、急に恐ろしく酔ってしまった。彼女は幸福げな微笑を浮べながら、以前の肘椅子に座を占めた。頬はくれないを潮し、唇は燃え、光り輝く目はどんよりしてきた。情熱に充ちた目は、招くがようであった。カルガーノフさえも、何か心をちくりと刺されたような気がして、彼女のそばへ近よった。
「さっきあんたが寝てたときに、わたしあんたを接吻したのよ、気がついて?」と彼女はしどろもどろな調子でこう言った。「ああ、わたし酔っ払っちゃった、本当に……あんた酔っ払ってないの? ミーチャはどうして飲まないのかしら? どうしてあんた飲まないの、ミーチャ? わたしはああして飲んだのに、あんたはちっとも飲んでくれないのね……」
「酔っぱらってるよ! このままでも酔っぱらってるんだ……お前という人に酔っぱらってるんだよ。さあ、今度は酒で酔っぱらうのだ。」
 彼はまた一杯ひっかけた。と、――これは彼自身にも不思議に思われたことであるが、――この最後の一杯を飲んだばかりで、急に酔いが廻ってきた。それまで気が確かであったのは、自分でもよく覚えている。この時から一切のものが、まるで夢幻境へ入ったように、ぐるぐると彼の周囲を旋回しはじめた。彼は笑ったり、みなに話しかけたりしながら歩き廻っていたが、それはみんな無意識のようなふうであった。ただ一つじっと据って動かない、燬きつくような感触が、たえまなく心の中に感じられた。『まるで熱い炭火が心の中におかれてるようだった』と、後になって彼はこう追懐した。彼は幾度も彼女のそばへ寄って腰をおろし、彼女の顔を眺め、彼女の声を聞いた……ところが、彼女はむしょうに口が軽くなって、誰でも彼でも自分のそばへ呼び寄せた。たとえば、コーラスの中の娘を誰かひとり招き寄せて、自分のそばへ坐らせると、その娘を接吻して放してやるか、それでなければ、片手で十字を切ってやったりする。もう一分もたったら、彼女は泣きだすかもしれないほどであった。彼女を浮き立たせたのはマクシーモフ、彼女のいわゆる『お爺さん』であった。彼はひっきりなしにグルーシェンカの手や、『一本一本の指』を接吻するために走って来たが、しまいには、自分である古い歌を唄いながら、それに合せてまた別な踊りをおどりだした。

[#ここから2字下げ]
豚のやっこはぶーぶーぶー
犢のやつめはめーめーめー
家鴨のやつはかーかーかー
鵞鳥のやつはがーがーがー
鶏《とり》は玄関を歩きつつ
くっくっくっと言いました、
あいあい、さように言いました!
[#ここで字下げ終わり]

という歌の時はとくに熱心に踊り抜いた。
「あの人に何かやってちょうだい、ミーチャ」とグルーシェンカが言った。「何か恵んでやってちょうだい、だって、あの人は可哀そうな身の上なんですもの。ああ、可哀そうな恥を受けた人たちの多いこと! ねえ、ミーチャ、わたしお寺へ入るわ。いいえ、本当にいつか入るわ。今日アリョーシャがね、一生涯忘れられないようなことを言ってくれたの……本当よ……だけど、今日は勝手に踊らしといたらいいわ。あすはお寺へ入るけど、今日はみんなで踊ろうじゃありませんか。わたしふざけて遊びたいの、みんなかまうことはないわ、神様も赦して下さるから。もしわたしが神様だったら、人間をみんな赦してやるわ。『優しい罪びとよ、今日からそちたちを赦してつかわす』ってね。そして、自分は赦しを乞いに出かけるわ。『みなさん、この馬鹿な女を赦して下さいまし。わたしは獣でございます』って言うのよ。わたしお祈りがしたいの、わたしも葱を一本恵んだことがあるからね。わたしみたいな毒婦でも、お祈りがしたくなるのよ。ミーチャ、勝手に踊らしたらいいわ、邪魔しないでおおきなさいよ。この世にいる人はみんないい人なのよ。ひとり残さずいい人なのよ。この世の中ってほんとにいいものね。わたしたちは悪い人間だけど、この世の中っていいものだわ。わたしたちは悪い人間だけれど、いい人間なのよ。悪くもあればよくもあるのよ……さあ、返事してちょうだい、わたし聞きたいことがあるんだから。みんなそばへ寄ってちょうだい、わたし聞きたいことがあるんだから。さあ、返事してちょうだい。ほかじゃありませんがね、どうしてわたしはこんないい人間なんでしょう? だって、わたしはいい人間でしょう、素敵にいい人間でしょう……ねえ、だからさ、どういうわけで、わたしはこんなこんないい人間なんでしょうってば?」
 グルーシェンカはだんだん烈しく酔いくずれながら、しどろもどろな調子でこう言った。そして、挙句の果てには、これからすぐ自分で踊るのだと言いだした。彼女は肘椅子から起きあがって、よろよろとよろめいた。
「ミーチャ、もう酒をつがないでちょうだい、後生だから……つがないでちょうだい、お酒を飲むと心が落ちつかなくなってねえ。何もかもくるくる廻るようだ。ペーチカも、何もかも、くるくる廻るようだ。わたしも踊りたくなった。さあ、みんなわたしの踊るところを見てちょうだい……わたし、立派にうまく踊って見せるから……」
 その言葉は冗談でなかった。彼女はかくしから白い精麻《バチスト》のハンカチを取り出し、踊りの中でそれを振ろうというつもりで、右手の指先でその端を軽くつまんだ。ミーチャはあわてて騒ぎ始めた。娘らは最初の合図と同時に、一せいに踊り歌をうたいだそうと、鳴りを静めて待ち構えていた。マクシーモフは、グルーシェンカが自分で踊るつもりだと聞いて、歓喜のあまりに甲高い声を立てて叫びながら、

[#ここから2字下げ]
足は細うてお腹はぽんぽん
尻尾はくるりと鉤なりで
[#ここで字下げ終わり]

 という歌とともに、彼女の前をぴょんぴょん飛び廻り始めた。しかし、グルーシェンカはハンカチを振って、彼を追いのけた。
「しっ! ねえ、ミーチャ、どうしてみんなやって来ないの?みんな来て……見物したらいいのに。それから、あの部屋へ閉め込んだ連中も、呼んでちょうだい……何だってあんたは、あの連中を閉め出しちゃったの? あの二人に、わたしが踊るからって言ってちょうだい。わたしの踊るところを見物さしてやるんだ……」
 ミーチャは酔った勢いにまかせて元気よく、鍵をかけた戸口に近より、二人の紳士《パン》に向って、どんどん拳固でドアを叩き始めた。
「おい君……ポトヴイソーツキイ! 出て来ないか、あのひとが踊りを踊るから、君たちを呼べって言ってるよ。」
「Laidak([#割り注]畜生[#割り注終わり])!」と返事の代りにどっちかの紳士《パン》がこう呶鳴った。
「そんなら貴様は、podlaidak([#割り注]小形の畜生[#割り注終わり])だ! 貴様は、ちっぽけな意気地のない悪党だ、それっきりよ。」
ポーランドの悪口はやめたほうがいいでしょう。」同様に、自分で自分をもてあますほど酔っ払ったカルガーノフは、しかつめらしい調子で注意した。
「黙っておいで、坊っちゃん! 僕があいつを悪党よばわりしたからって、ポーランドぜんたいを悪党よばわりしたことになりゃしないよ。あの laidak 一人で、ポーランドぜんたいを背負ってるわけじゃあるまい。黙っておいで、可愛い坊っちゃん。お菓子でも食べてりゃいいんだ。」
「ああ、なんて人たちだろう! まるであの二人が人間でないかなんぞのように。どうして仲直りしようとしないんだろうねえ?」と言いながら、グルーシェンカは前へ出て踊り始めた。
 コーラスの声が一時に轟き始めた。『ああ玄関《セーニイ》よ、わが玄関《セーニイ》よ。』グルーシェンカは首をそらして唇をなかば開き、微笑をふくみながらハンカチを振ろうとしたが、突然その場でよろよろと烈しくよろめいたので、思案に迷ったように部屋の真ん中に突っ立っていた。
「力が抜けちゃった……」と彼女は妙に疲れたような声で言った。「堪忍してちょうだい、力が抜けちゃって、とても駄目……どうも失礼……」
 と彼女はコーラスに向って会釈をした後、かわるがわる四方へ向いて会釈をしはじめた。
「どうも失礼……堪忍《かに》してちょうだい……」
「お酒がすぎたのね、奥さま、お酒がすぎたのね、可愛い奥さま」という声が起った。
「奥さまはうんと召しあがったのだよ。」ひひひひと笑いながら、マクシーモフは娘どもに向ってこう説明した。
「ミーチャ、わたしを連れてってちょうだい……わたしの手を取ってちょうだい、ミーチャ」と力抜けのした様子で、グルーシェンカはこう言った。
 ミーチャは飛んで行って両手をとり、この大切な獲物を捧げて、カーテンの陰へ駈け込んだ。
『さあ、もう僕は帰ろう』とカルガーノフは考えて、空色の部屋を出て行きしなに、観音開きの扉を両方とも閉めてしまった。しかし広間のほうの躁宴は、依然としてつづいているばかりか、一そう鳴りを高めたのである。ミーチャはグルーシェンカを寝台の上に坐らして、その唇へ離れじと接吻した。
「わたしに触らないでちょうだい……」と彼女は祈るような声で囁いた。「わたしに触っちゃいや、今のところ、まだわたしはあんたのものじゃないんだから……さっきあんたのものだって言ったけれど、まだ触っちゃいや……堪忍してちょうだい……あの男のいるところじゃいや、あ男[#「あ男」はママ]のそばじゃいや。あの男がすぐそこにいるんだもの、ここじゃ穢らわしいわ……」
「お前の言うことは何でも聞く……もう考えもしない……おれはお前を神様のように崇めてるんだ!………」とミーチャは囁いた。「まったくここじゃ穢らわしい、いやらしい。」
 と言い、彼は抱擁の手を放さないで、寝台のかたわらなる床に跪いた。
「わたしにはちゃんとわかってるわ、あんたは獣みたいなことをするけれど、心の中は綺麗な人よ」とグルーシェンカは重い舌を廻しながら言った。「何でもこのことは、うしろ暗いことのないように運ばなくちゃならないわ……これからさきは万事うしろ暗いことのないようにしましょうね……そして、わたしたちは正直な人間になりましょうよ。獣でなくて、いい人間になりましょうよ、いい人間にね……わたしを連れてってちょうだい、遠いところへ連れてってちょうだい、よくって……わたし、ここはいや、どこか遠い遠いところへね……」
「そうともそうとも、ぜひそうするよ!」ミーチャは彼女を抱きしめた。「連れてくよ、一緒に飛んで行こう……ああ、あの血のことさえわかったら、たった一年のために生涯を投げ出して見せるんだがなあ!」
「血ってなあに?」けげんな調子でグルーシェンカは、鸚鵡がえしにこう言った。
「何でもないよ!」とミーチャは歯ぎしりした。「グルーシェンカ、お前は正直にしたいと言うが、おれは泥棒なんだよ。おれはカーチカの金を盗んだんだ……なんて恥さらしだ、なんて恥さらしだ!」
「カーチカ? それはあのお嬢さんのこと? いいえ、あんた盗みなんかしないわ。返しちゃったらいいじゃないの、わたしんとこから持ってらっしゃい……何も大きな声をして騒ぐことないわ! もうわたしのものはすっかりあんたのものよ。一たいわたしたちにとってお金なんか何でしょう? そうでなくても、わたしたちはめちゃめちゃに使い失くしちゃうのよ……わたしたちみたいなものは、使わずにいられないんだもの。それよかいっそ、どこかへ行って畠でも起そうじゃないの。わたしこの手で土に十字を切りたいの。働かなくちゃならないわ、わかって! アリョーシャもそうしろと言ったもの。わたしはあんたの色女にはなりたくない。わたしはあんたの貞淑なおかみさんになるの。あんたの奴隷になるの。あんたのために働こうと思うわ。わたしたちは二人でお嬢さんのところへ行って、赦して下さいってお辞儀を一つして、それから発とうじゃないの。赦してくれなかったら、それでもいいからやっぱり発ちましょう。あんたはあのひとんとこへお金を持ってらっしゃい。そして、わたしを可愛がってちょうだい……あのひとを可愛がっちゃいやよ。もうあのひとを可愛がっちゃいやよ。もし可愛がったら、あのひとを締め殺しちゃうわ……あのひとの目を針で突き潰しちゃうわ……」
「お前を、お前ひとりだけを可愛がるよ、シベリヤへ行っても可愛がるよ……」
「何だってシベリヤへ? いや、かまわないわ、あんたの望みならどこでも同じこったわ……働くわ………シベリヤには雪があるのね……わたし雪の上を橇で走るのが好きよ……それには鈴がついてなくちゃならない……おや、鈴が鳴ってる……どこであんな鈴が鳴ってるんだろう? 誰か来てるのかしら……ほら、もう音がやんだ。」
 彼女は力が抜けて目を閉じた。と、ちょっと一時とろとろと眠りに落ちた。鈴は本当にどこか遠くのほうで鳴っていたが、急にやんでしまった。ミーチャは、女の胸に頭をもたせていた。彼は鈴の音がやんだのにも気づかなかったが、またとつぜん歌の声がはたと途絶えて、歌や酒宴の騒ぎのかわりに、死んだような静寂が忽然として、家じゅうを占めたのにも気がつかなかった。グルーシェンカは目を見ひらいた。
「おや、わたし寝てたのかしら? そう……鈴の音がしたんだっけ。わたしうとうとして、夢を見たわ。何だかわたし雪の上を橇で走っているらしいの……鈴がりんりんと鳴って、わたしはうとうとしてるの。何だか好きな人と、――あんたと一緒に乗ってるようだったわ。どこか遠い遠いところへね。わたしあんたを抱いたり、接吻したりして、あんたにしっかりとすり寄ってたわ。何んだか寒いような気持だったの。そして、雪がきらきら光ってるのよ……ねえ、よる雪が光ってる以上、月が出てたんだわね。何だかまるでこの世にいるような気がしなかったわ……目がさめてみると、可愛い人がそばにいるじゃないの。本当にいいわねえ……」
「そばにいるよ。」彼女の着物、胸、両手などを接吻しながら、ミーチャはこう呟いた。
 が、ふと彼は妙な気がした。ほかでもない、グルーシェンカは一生懸命に前のほうを見つめている、が、それはミーチャの顔ではなく、彼の頭を越して向うのほうを眺めている。しかも、怪しいほど身動きもしないでいる、――ように感じられたのである。彼女の顔にはとつぜん驚愕、というよりほとんど恐怖の色が浮んでいた。
「ミーチャ、あそこからこちらを覗いてるのは誰でしょう?」ふいに彼女はこう囁いた。
 ミーチャは振り返った。見ると、本当に誰やらカーテンを押し分けて、自分たちの様子を窺っているふうであった。しかも、一人だけではないらしい。彼は飛びあがって、足ばやにそのほうへ歩いて行った。
「こっちへ、こっちへおいで下さい」と、あまり高くはないが、しっかりした、執拗な調子で、誰かの声が言った。
 ミーチャはカーテンの陰から出た。と、そのままじっと立ちすくんでしまった。部屋じゅう人間で一ぱいになっていたが、それはさきほどとはまるで違った新しい人たちである。一瞬の間に、悪寒が彼の背筋を流れた。彼はぶるっと身慄いした。これらの人々を、一瞬の間に見分けてしまったのである。あの外套を着て、徽章つきの帽子をかぶった、背の高い、肥えた男は、警察署長ミハイル・マカールイチである。それから、あの『肺病やみらしい』、『いつもあんなてらてら光る靴をはいた』、身なりの小ざっぱりした伊達男は副検事である。『あの男は四百ルーブリもする専門家用時計《クロノメータア》を持ってる。おれも見せてもらったことがある。』あの若い、小柄な、眼鏡をかけた男……ミーチャは苗字こそ忘れてしまったけれども、人間はよく見て知っている。あれは、ついこのごろ法律学校を卒業して来た予審判事である。またあの男は警部のマヴリーキイ・マヴリーキッチで、これはもうよく承知していて、心やすい仲なのである。それからあの徽章をつけた人たち、あれは何しに来たのだろう?そのほかにまだ百姓ふうの男が二人いる。それから、また戸口のところには、カルガーノフと亭主のトリーフォンが立っている…
「みなさん……一たいあなた方はどうして……」とミーチャは言いかけたが、急にわれを忘れて口をすべらしたかのように、喉一ぱいの声をはり上げて叫んだ。
「わーかーった!」
 眼鏡の若紳士はとつぜん前へ進み出て、ミーチャのそばまで近よると、威をおびてはいるが、幾分せき込んだような調子で口を切った。
「わたしどもはあなたに……つまり、その、こちらへおいでを願いたいのです、ここの長椅子へおいでを願いたいのです、ぜひあなたにお話ししなくちゃならんことがあるのです。」
「老人ですね!」とミーチャは夢中になって叫んだ。「老人とその血ですね!………わーかーりました!」
 さながら足でも薙がれたかのごとく、そばにあり合う椅子へ倒れるように腰をおろした。
「わかったか? 合点がいったか? 親殺しの極道者、年とった貴様の父親の血が貴様のうしろで叫んでおるわ!」老警察署長はミーチャのほうへ踏み出しながら、突然こう喚きだした。
 彼はわれを忘れて顔を紫色にしながら、全身をぶるぶる慄わしていた。
「それはどうもいけませんなあ!」と小柄な若い人が叫んだ。「ミハイル・マカールイチ、ミハイル・マカールイチ! それは見当ちがいです、それは見当ちがいです!………お願いですから、わたし一人に話さして下さい。あなたがそんなとっぴな言行をなさろうとは、思いもよらなかった……」
「しかし、これはもうめちゃめちゃです、みなさん、まったくもうめちゃめちゃです!」と署長は叫んだ、「まあ、あの男をごらんなさい。よる夜なか酔っ払って、みだらな女と一緒に……しかも、父親の血にまみれたままで……めちゃめちゃだ、めちゃめちゃだ!」
「ミハイル・マカールイチ、折り入ってのお願いですから、今日だけあなたの感情を抑制して下さいませんか」と副検事は老人に向って早口に囁いた。「でないと、わたしは余儀なく相当の手段を……」
 しかし、小柄な予審判事はしまいまで言わせなかった。彼はしっかりした大きな声で、ミーチャに向ってものものしく口を切った。
「予備中尉カラマーゾフ殿、わたくしは次の事実を告げなければなりません、あなたは今夜起ったご親父フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフの殺害事件の、下手人と認められているのであります……」
 彼はまだこのほか何やら言った。そして副検事も何か口を挿んだようである。しかし、ミーチャはそれを聞くには聞いたけれど、もう何のことやらわからなかった。彼は野獣のような目つきで一同を見廻していた。
[#改段]

[#1字下げ]第九篇 予審[#「第九篇 予審」は大見出し]



[#3字下げ]第一 官吏ペルホーチンの出世の緒[#「第一 官吏ペルホーチンの出世の緒」は中見出し]

 ピョートル・イリッチ・ペルホーチンが、モローソヴァの家の固く鎖された門を力ーぱいたたいているところで、われわれは一たん話の糸を切っておいたが、彼はもちろん、最後に自分の目的を達した。猛烈に門の戸をたたく音を聞いた時、二時間まえにすっかり度胆を抜かれてしまって、いまだに興奮と『もの思い』のために、床につく気になれないでいたフェーニャは、またしてもヒステリイになりそうなほど驚かされた。彼女は、ドミートリイが馬車に乗って出かけるところを自分の目で見たくせに、これはまたあの男が門をたたいているのだと思った。なぜと言って、あの男のほかに、ああ『ずうずうしい』たたき方をする人がないからである。彼女は、門番のところへ飛んで行き、――門番はもう目をさまして、音のするほうへ出かけようとしていた、――どうか入れないでくれと頼んだ。しかし、門番は戸をたたいている人に声をかけて、それが何者であるかを知り、きわめて重大な事件についてフェドーシヤ・マルコヴナに会いたいという希望を聞き取って、とうとう門をあけることに決心した。彼はまた例の台所へ通された。フェドーシヤ・マルコヴナ――フェーニャは『何だか油断がならない』と思ったので、門番も一緒に入れるように、ペルホーチン許し[#「ペルホーチン許し」はママ]を乞うた。ペルホーチンは早速いろいろと根掘り葉掘りしはじめたが、話はすぐ、一番の要点へ落ちて行った。つまり、ミーチャがグルーシェンカを捜しに馳け出した時、臼から杵を掴んで行ったが、今度帰った時にはすでに杵はなく、血みどろな手をしていたということである。
『ええ、まだ血がぽたぽた落ちてました、両手からぽたぽた落ちてました、本当にぽたぽた落ちてました!』とフェーニャは叫んだ。察するところ、彼女は自分の混乱した想像の中で、この恐ろしい事実を作り上げたものらしい。しかし、ペルホーチンもぽたぽた落ちるのこそ見なかったものの、血みどろな手は自分の目で見たばかりか、自分から手伝って洗わしたくらいである。それに、問題は血みどろの手が急に乾いたということではない、彼が杵を持って駈け出したのは、確かにフョードルのところへ行ったのだろうか? 確かにそうだという結論をどうして下すことができるか、それが問題なのである。ペルホーチンもこの点を精密に追及した。そして、結局、何の得るところもなかったけれど、しかしミーチャが駈け出して行くのは、父の家よりほかになさそうだ。してみると、そこで『何か事が』起ったに相違ないという、ほとんど確信に近いものを獲得したのである。
『そして、あの人が帰ったとき』とフェーニャはわくわくしながら言い添えた。『わたし、あの人にすっかり白状してしまいましたの。そしてね、どうして旦那さま、あなたのお手はそんな血だらけなんです、と訊きますとね、あの人の返事がこうですの。これは人間の血だ、おれはたったいま人を殺して来たのだって、すっかり白状してしまいました。後悔して、白状してしまいましたの、そして、いきなり気ちがいのように駈け出してしまいました。わたしは落ちついてじっと考えてみましたの。何だってあの人は今あんなに、気ちがいみたいに駈け出したんだろう? すると、急に考えつきましたのは、モークロエヘ行って奥さんを殺すつもりなんだということでした。そこで、わたしは奥さんを殺さないでくれと頼もうと思って、いきなり家を飛び出して、あの人の下宿をさして走って行きますとね、ふとプロートニコフの店先で、あの人がいよいよこれから出かけるってところじゃありませんか。見ると、手にはもう血がついていませんの(フェーニャはこのことに気がついて、後々までも覚えていた)。』フェーニャの祖母にあたる老女中も、できるだけ孫娘の申し立てを確かめた。それからまだ、何かのことをたずねた後、ペルホーチンは、入って来た時より一そう惑乱した、不安な心持をいだきながら家を出た。
 これからすぐフョードルのところへ行って、何か変ったことはないか、もしあればどういうことなのかと訊ねて、いよいよ確固たる信念を得た後に、はじめて警察署長のところへ行くのが、一ばん手っとり早い、自然な順序のように思われた。ペルホーチンも、そうすることに決心していたのである。しかし、夜は暗く、フョードルの家の門は堅かった。またどんどん叩かなければならない。それに、彼とフョードルはごく遠い知合いであったから、もし根気よく叩いて叩き起し、戸を開けてもらったとき、案外、何のこともなかったらどうだろう。あの皮肉家のフョードルは、明日にもさっそく方々へ行って、さほど懇意でもない官吏のペルホーチンが、お前は誰かに殺されはしなかったかと、よる夜なか押しかけて訊きに来た失策談を、町じゅうへ触れ廻すにちがいない。それこそ不体裁きわまる話だ! ペルホーチンはこの世で何よりも、不体裁ということを恐れていた。しかし、彼をぐんぐん引きずって行く感情の力は、意外に強かった。彼は地団太を踏んで自分で自分を罵りながら、猶予なく別な方角をさして駈け出した。目ざすところはフョードルの家でなく、ホフラコーヴァ夫人の家であった。
 彼は考えた。もし夫人が『これこれの時刻にドミートリイに三千ルーブリの金をやったか』という自分の問いに対して、否定の答えをした場合には、もはやフョードルのところへは寄らないで、すぐ署長の家へ出かけよう。もし反対の答えを得たならば、万事あすまで猶予してまっすぐに家へ帰ろう。もっとも、彼のような若い男がよる夜なか、ほとんど十一時という時刻に、てんで知合いでも何でもない上流の婦人を叩き起し(もう夫人は床についているかもしれない)、前後の状況から見て、奇怪きわまる質問を提出しようと決心したのは、フョードルのところへ行くよりも、さらに不体裁な結果を惹き起すおそれがある。しかし、今のような場合には、正確冷静この上ない人でも、どうかするとこういう決心をとることがある。それに、この瞬間ペルホーチンは、決して冷静な人ではなかった! 次第に強く彼の心を領してゆくうち克ちがたい不安は、ついに苦しいほどに募ってゆき、彼の意志に逆らって深みへ引きずってゆくのであった。彼は生涯このことを覚えていた。もちろん、彼はこの夫人のところへ足を運ぶ自分を、道々たえまなく罵っていたが、『どうしても、どうしてもしまいまでやり通してみせる!』と、彼は歯がみをしながら、十度ぐらい繰り返した。そして、自分の決心を遂行した、――見事やり通したのである。
 彼がホフラコーヴァ夫人の家へ入ったのは、かっきり十一時であった。庭まではかなり早く通してもらえたが、奥さんはもうお休みかどうかという問いに対しては、番人もふだん大ていこれくらいの時刻にお休みになります、とよりほかに正確な返事ができなかった。
「まあ、上へあがって取次ぎを頼んでごらんなさいまし、お会いになる気があれば、お会いになりましょうし、その気がなければ、お会いになりますまいよ。」
 ペルホーチンは家へはいった。が、ここでちょっと面倒が起った。従僕がなかなか取次ごうとしないで、とどのつまり小間使を呼び出した。ペルホーチンは慇懃な、とはいえ執拗な調子で、土地の官吏ペルホーチンが特別な事故によってお訪ねした、まったく特別重大な用向きでもなかったら、決して伺うはずではなかったと、こう取次いでくれるように小間使に頼んだ。『どうかぜひこのとおりの言葉で取次いで下さい』と彼は小間使に念を押した。小間使は立ち去った。彼は控え室に残って待っていた。当のホフラコーヴァ夫人は、まだ休んでこそいなかったが、もう寝室に籠っていた。彼女はさきほどのミーチャの来訪以来、すっかり気分が悪くなって、こういう場合、彼女につきものの頭痛は、今夜ものがれっこあるまいと観念していた。小間使の取次ぎを聞いて、夫人は一驚を喫したが、それでも、いらいらした調子で、断わってしまうように言いつけた。そのくせ、自分にとって面識のない『土地の官吏』が、こういう時刻に訪問したということは、彼女の女らしい好奇心を極度に刺戟したのである。しかし、ペルホーチンも今度は騾馬のように頑強だった。拒絶の言葉を聞き終った彼は、なみなみならぬ執拗な調子で、いま一ど取次ぎを頼んだ。『私は非常に重大な用向きでお訪ねしたのですから、もしお会いにならなかったら、あとで後悔なさるかもしれません』とのべ、『これをそっくりこのままの言葉で』伝えるように頼んだ。『僕はあの時まるで山から駈け下りるような心持になっていた』と彼は後日、自分の口から言い言いしたものである。小間使はびっくりしたように、彼をじろじろ見まわした後、いま一ど取次ぎをしに奧へ入った。
 ホフラコーヴァ夫人は驚いて考え込んだ。そして、その人の見かけはどんな様子であったか、と訊ねたところ、『身なりの大変きちんとした、丁寧な若い人』だということがわかった。ここでついでにちょっと断わっておくが、ペルホーチンはなかなか秀麗な青年で、自分でもこのことを承知していた。ホフラコーヴァ夫人は接見することに肚を決めた。夫人はもう部屋着をきて、スリッパをはいていたが、その上に肩から黒いショールを羽織った。『官吏』は、さきほどミーチャの通されたと同じ客間へ招ぜられた。夫人はいかついもの問いたげな顔をして客に近より、坐れとも言わずいきなり問いを発した。
「何ご用でございます?」
「私があなたにご迷惑をかけようと決心しましたのは、おたがいに共通な知人、ドミートリイ・カラマーゾフのことでございます」とペルホーチンは言いかけた。が、この名を口に出すか出さないかに、とつぜん夫人の顔には烈しい焦躁が現われた。
 彼女はほとんど叫び声を立てないばかりの勢いで、猛然と相手の言葉を遮った。
「いつまで、いつまであの恐ろしい男のことで、わたしはこんな苦しみを受けなければならないのでしょう!」と夫人は激昂して叫んだ。「何の縁故もない婦人の家へ、しかもこんな時刻に出かけて、迷惑をかけるなんて、あんまり失礼じゃございませんか……おまけに、そのお話は何かと思えば、つい三時間まえにこの同じ客間へわたしを殺しにやって来て、地団太を踏みながら出て行った人のことじゃありませんか。身分ある人の家で、あんな歩き方をする人はほかにありゃしません。よろしゅうございますか、あなた、わたしはあなたを訴えますよ、決して容赦はしませんから。さあ、今すぐ出て行って下さい……わたしは母親として、わたしはすぐに……わたしは……わたしは……」
「殺しにですって? じゃ、あの男はあなたまで殺そうとしたのですか?」
「え、あの男はもう誰か殺したのですか?」とホフラコーヴァ夫人は勢い込んで訊ねた。
「奥さん、お願いですから、たった三十秒だけ、私の言うことを聞いて下さいまし。簡単に一切の事情を説明いたしますから」とペルホーチンはきっぱりと答えた。「今日の午後五時頃、カラマーゾフ君が私のところへ、懇意ずくで十ルーブリの金を借りに来たのです。私はあの人が少しも金を持っていなかったのを、確かに承知しています。ところが、同じく今夜の九時ごろに、あの人は百ルーブリ札の束を麗々しく手に掴んだまま、私の家へやって来たのです。かれこれ二千ルーブリか三千ルーブリくらいあったようです。おまけに、両手も顔も一面に血だらけじゃありませんか。まるで気でも違ったようなふうつきでした。どこからそんな金を手に入れたのか、と訊きますと、あの人の答えるには、たった今あなたのところからもらって来たのだ、あなたが三千ルーブリの金を、金鉱へ行くという条件つきで貸してくれたのだ、とこういう話でした……」
 ホフラコーヴァ夫人の顔には、突然なみなみならぬ病的な興奮の色が現われた。
「ああ、大変! あの男は自分の親を殺したのです!」彼女は両手を拍ちながらこう叫んだ。「わたしは決してあの男に金なんか出しゃしません、決して出しゃしません! さあ、走ってらっしゃい、走ってらっしゃい!………もう何も言わないで下さい! あの老人を助けておやりなさい、あの親父さんのところへ走ってらっしゃい、早く走ってらっしゃい!」
「失礼ですが、奥さん、何でございますね、あなたはあの男に金をおやりにならなかったのですね? あなたしっかり覚えていらっしゃいますね、少しも金をおやりにならなかったのですね?」
「やりません、やりません! わたしきっぱり断わってしまいました。だって、あの男にはお金の有難味がわからないのですもの。すると、あの男は気ちがいのようになって、地団太を踏みながら出て行ったのでございます。おまけに、ひとに飛びかかろうとしましたので、わたしはびっくりして、飛びのきましたの……わたしはもう今さらあなたに、何一つ隠しだてしようという気はありません。あなたを信頼すべき方としてお話ししますが、あの男はわたしに唾まで吐きかけましたの。本当に想像もつかないようなお話じゃありませんか! だけど、何だってわたしは、こうぼんやり立ってるんでしょうね? まあ、おかけ下さい……本当にごめん下さいましね、わたしは……いえ、それよりやはり走ってらしたほうがようござんす、走ってらっしゃい。あなたは今すぐ駈け出して、あの老人の恐ろしい死を救わなくちゃなりません!」
「しかし、もう殺してしまったあとでしたら?」
「あら、まあ、どうしましょう、本当にねえ! では、これからどうしたらいいのでしょう? 一たいあなた何とお思いになります、これからどうしたらよろしいのでしょう?」
 こんなことを言ってる間に、彼女はペルホーチンに腰をかけさして、自分でもその真向いに座を占めた。ペルホーチンは簡単ではあるが、かなり明瞭に事件の経過、少くとも、きょう自分で目撃しただけのことを夫人に物語り、さきほどフェーニャの住居を訪れたことも、杵のことも話して聞かせた。こうした詳細な物語は、それでなくても興奮した夫人を、極度にまでいらだたせたのである。夫人は絶えず叫び声をたてたり、両手で目を隠したりした……
「ねえ、わたしはこういうことを、すっかり見抜いていたのでございます! わたしには、そうした天賦の才能がありますの。わたしの想像することは、何でも事実となって現われるんですからね。わたしはあの恐ろしい男を見るたびに、これこそしまいにはわたしを殺す人間だ、とこう心の中で何べん考えたかわかりませんわ。ところが、はたしてこのとおりの始末じゃありませんか……あの男がわたしを殺さないで、自分の父親を殺したのは、もう確かに目に見えて、神様のお手がわたしを守って下すったに相違ありません。それに、あの男も自分でそんなことをするのを、きっと恥しいと思ったのでしょう。なぜって、わたしは偉大なる殉教者ヴァルヴァーラの遺された聖像をここで、この客間であの男の頸に自分でかけてやったんですもの……本当にわたしはあの時、死というもののすぐそばまで寄ってたんですわ。だって、わたしはあの男のそばへぴったりと寄り添って、あの男はわたしのほうヘ一ぱいに頸を突き出したんですからね! ねえ、ピョートル・イリッチ(失礼ですが、あなたは確かピョートル・イリッチとおっしゃいましたね?)実はわたし奇蹟というものを信じていません。けれど、あの聖像とあの疑う余地のない奇蹟は、わたしの心を底から動顛さしてしまいました。わたしはまた何でも信じそうな心持がしてきました。あなたはゾシマ長老のことをお聞きになりまして?……もっとも、わたしは自分でも何を言ってるかわかりません……だけど、まあ、どうでしょう、あの男は聖像を頸にかけたまま唾を吐きかけましたの……もちろん、唾を吐きかけただけで、殺しはしませんでしたけど……本当にとんでもないところへ駈け出して行ったものですわねえ! けれど、わたしたちはどこへ行ったものでしょう? わたしたちは一たいこれからどこへ行きましょう? あなたはどうお考えになります?」
 ペルホーチンは立ちあがり、自分はこれから警察署長のところへ行って、様子をすっかり話してしまう、それからさきはどうしようと向うの勝手だと言った。
「ああ、あの人は立派な、実に立派な人物です。わたしミハイル・マカーロヴィッチとはごく懇意にしていますの。本当にぜひとも、あの人のところへいらっしゃらなければなりません。本当に、あなたは何という機転のきくお方なんでしょうねえ、ピョートル・イリッチ。そして、よくまあ、そんなにいろんなことをお考えつきになりましたのねえ。まったくわたしがあなたのような位置に立ったら、まるで途方にくれてしまいますわ!」
「それに、私自身も署長とは昵懇な間柄ですから。」ペルホーチンはやはり立ったままでこう言った。見受けたところ、彼はどうかして少しも早く、この一本向きな婦人のそばを逃げ出したいようなふうであったが、夫人はいっかな暇を告げて立ち去らせようとしなかった。
「あのね、あのね」と彼女はしどろもどろな調子でこう言った。「あなたこれからご自分で見たり聞いたりなすったことを、わたしに知らせに来て下さいません?……どんな事実が発見されるか、どんなふうに裁判せられて、どんな宣告を受けるか……ねえ、あなた、ロシヤには死刑ってものはないのでしょうか? ですけど、必ずいらしって下さいな。夜中の三時でも、四時でも、四時半でもかまいませんわ……もしわたしが目をさまさなかったら、揺ぶり起すように言いつけて下さいましよ……ああ、大変なことになったものだ。それに、わたし寝られそうもありませんわ。ねえ、いっそわたしもご一緒に出かけるわけにまいりますまいかしら?」
「ど、どういたしまして。時にですね、万一の用心に、あなたがドミートリイ君に一文もお金をお貸しにならなかったということを、今すぐあなたのお手で、一筆かいて下さいましたら、たぶん、むだにはなるまい思いますが[#「むだにはなるまい思いますが」はママ]……万一の用心にね……」
「ぜひ書きますわ!」ホフラコーヴァ夫人は歓喜の情に駆られて、事務テーブルのほうへ飛んで行った。「ねえ、あなた、わたしはあなたがこういう事件について、よく機転がおききになるので、すっかり感心してしまいましたわ。腹の底から揺ぶられ

『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟上』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P384-P433

棺の中を見つめた。なき人は胸に聖像をのせ、頭に八脚十字架のついた頭巾をかぶり、全身をことごとく蔽われたまま、じっと横たわっている。たった今この人の声を聞いたばかりで、その声はまだ耳に響いている。彼はまたじっと耳をすましながら、なおも声の響きを待ちもうけた……が、とつぜん身をひるがえして、庵室の外へ出た。
 彼は正面の階段の上にも立ちどまらず、足ばやに庭へおりて行った。感激に充ちた彼の心が、自由と空間と広濶を求めたのである。静かに輝く星くずに充ちた穹窿が、一目に見つくすことのできぬほど広々と頭上に蔽いかぶさっている。まだはっきりしない銀河が、天心から地平へかけて二すじに分れている。不動といってもいいほど静かな爽やかな夜は、地上を蔽いつくして、僧院の白い塔や黄金《きん》色をした円頂閣は、琥珀のごとき空に輝いている。おごれる秋の花は、家のまわりの花壇の上で、朝まで眠りをつづけようとしている。地上の静寂は天上の静寂と合し、地上の神秘は星の神秘と相触れているように思われた……アリョーシャは佇みながら眺めていたが……ふいに足でも薙がれたように、地上へがばと身を投じた。
 彼は何のために大地を抱擁したか、自分でも知らない。またどういうわけで、大地を残る隈なく接吻したいという、抑えがたい欲望を感じたか、自分でもその理由を説明することができなかった。しかし、彼は泣きながら接吻した、大地を涙でうるおした。そして、自分は大地を愛する、永久に愛すると、夢中になって誓うのであった。『おのが喜悦の涙をもってうるおし、かつその涙を愛すべし……』という声が彼の魂の中で響き渡った。一たい彼は何を泣いているのだろう? おお、彼は無限の中より輝くこれらの星を見てさえ、感激のあまりに泣きたくなった。そうして『自分の興奮を恥じようともしなかった。』ちょうどこれら無数の神の世界から投げられた糸が、一せいに彼の魂へ集った思いであり、その魂は『他界との接触に』顫えているのであった。彼は一切に対してすべての人を赦し、それと同時に、自分のほうからも赦しを乞いたくなった。おお! それは決して自分のためでなく、一切に対し、すべての人のために赦しを乞うのである。『自分の代りには、またほかの人が赦しを乞うてくれるであろう』という声が、ふたたび彼の心に響いた。しかし、ちょうどあの穹窿のように毅然としてゆるぎのないあるものが、彼の魂の中に忍び入るのが、一刻一刻と明らかにまざまざと感じられるようになった。何かある観念が、彼の知性を領せんとしているような心持がする、――しかもそれは一生涯、いな、永久に失われることのないものであった。彼が大地に身を投げた時は、かよわい青年にすぎなかったが、立ちあがった時は生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然としてこれを自覚した。自分の歓喜の瞬間にこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることができなかった。『あのとき誰か僕の魂を訪れたような気がする』と彼は後になって言った。自分の言葉に対して固い信念をいだきながら……
 三日の後、彼は僧院を出た。それは『世の中に出よ』と命じた、故長老の言葉にかなわしめんがためであった。
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[#1字下げ]第八篇 ミーチャ[#「第八篇 ミーチャ」は大見出し]



[#3字下げ]第一 商人サムソノフ[#「第一 商人サムソノフ」は中見出し]

 グルーシェンカが新生活を目ざして飛んで行く時、自分の最後の挨拶を伝えるように『命令し』、かつ自分の愛の一ときを生涯記憶するように言いつけた当の相手のドミートリイ・フョードロヴィッチは、そのとき恋人の身の上に起ったことを夢にも知らないで、やはり同様に恐ろしい惑乱と焦躁の渦中にあった。この二日間、彼は想像もできないような心の状態にあって、実際、後に自身でも言っていたように、脳膜炎でも起しはしないかと思われるほどであった。昨日の朝、アリョーシャも彼を捜し出すことができなかったし、イヴァンも同じ日に、旗亭における兄との会見をはたし得なかった。彼の下宿している家の人たちが、当人から口どめされて行先を隠していたのである。彼自身の言葉を借りて言うと、彼はこの二日間、『運命と闘っておのれを救わんがため』字義どおりに八方へ飛び廻っていたのである。そればかりか、たとえ一分間でも、グルーシェンカから監視の目をはなして、よそへ行くのは恐ろしいことであったが、ある火急な用事のため幾時間かのあいだ、町の外までも出かけたのである。これらのことは、その後きわめて詳細確実に記録の形をとって闡明せられたが、今は彼の運命の上に突如として爆発した、恐ろしいカタストロフにさきだつ二日間、彼の生涯において最も恐ろしい二日間の物語ちゅう、必要欠くべからざる部分のみを、事実ありのまま述べることにしよう。
 グルーシェンカは本当に心から、ほんの僅か一ときではあるが彼を愛した、それは事実である。しかし、同時に彼を苦しめもした。時とすると、真実残酷で、無慈悲な苦しめ方をした。彼にとって何より苦しいのは、女の意向を少しも推察できないことであった。機嫌をとったり、力ずくで靡かせようというのも、やはりできない相談であった。彼女が何ものにも屈服しないどころか、かえって立腹のあまり背を向けてしまうということは、彼も当時はっきり了解していた。その頃、彼は至極もっともな疑いをいだいていた。ほかでもない、彼女自身も何か心内の苦闘を経験しているのではあるまいか、何か非常な迷いにおちているのではあるまいか、何か断行しようと思いながら、依然として決心がつかぬのではあるまいか、という疑いであった。それゆえ、ドミートリイが、彼女は時とすると、情欲に燃え立つ男を憎んでいるに相違ない、とこんなことを想像してぞっとしたのも、あながち根拠のないことではなかった。
 実際そういうことがあったかもしれない。しかし、グルーシェンカが何を思い悩んでいるか、どうしても彼には了解できなかった。彼を苦しめる問題は、『自分ミーチャか、それとも父フョードルか?』という、この二つに縮めてしまうことができるのであった。ここでついでに、一つの確固たる事実を示しておく必要がある。彼は、父フョードルがぜひグルーシェンカに正当の結婚を(もし、まだ申し込んでいなかったら)申し込むにちがいないと、かたく信じて疑わなかった。あの『助平しじい』がただの三千ルーブリでおしまいにする気でいるなどとは、片時も信じたことがない。ミーチャがこういう結論を下したのは、グルーシェンカとその性質をよく承知していたからである。こういうわけであるから、グルーシェンカの苦しみも迷いも、ただただ親子のうちどっちを選んだらいいか、どっちが自分にとってためになるかを、自分でも決めかねるために起るのだ、とこんなふうにミーチャがときどき考えたのも、決して無理からぬ次第であった。
 例の将校、すなわちグルーシェンカの生涯に一転期を画した男、グルーシェンカがああした興奮と恐怖をもって、到着を待ちかねていた男のことは、奇妙な話であるが、その二三日のあいだ心に浮べたこともない。もっとも、グルーシェンカがこのころ彼に向って、この男のことをおくびにも出さなかったのは事実であるが、彼女が一月前に昔の誘惑者から手紙を受け取ったことは、彼も十分承知していたし、手紙の内容も大部分は知っていたのである。当時グルーシェンカはふと毒念の発作に駆られて、彼にこの手紙を見せたが、不思議にも、彼はこの手紙に何の価値をも認めなかった。理由を説明するのはむずかしいことであるが、あるいは、単にこの女を対象とする肉親の父親との醜悪な、恐ろしい争闘に心をひしがれていたため、少くともこれと同時に、より恐ろしい、より危険なことが出来《しゅったい》しようなどとは、しょせん想像することができなかったからかもしれない。五年も姿をくらましていた後に、突然どこからか飛び出したという男の存在など、てんから信じようとしなかった。まして、その男が近いうちにやって来るなどとは、いよいよ本当にならなかった。
 それに、ミーチャが見せてもらった『将校』の最初の手紙には、この新しい競争者の来訪も、きわめて漠然と書いてあるにすぎなかった。しかも、手紙ぜんたいは恐ろしく曖昧で、高調された文句と詠嘆的な調子に充ちていた。ついでにちょっと注意しておくが、その時グルーシェンカは、来訪の日時をやや具体的に語ってある手紙の最後の数行を、ミーチャに隠して見せなかった。それに、シベリヤから送ったこの手紙に対して、傲慢な軽蔑の色が、その瞬間、ひとりでにグルーシェンカの顔に浮んだのを、ミーチャはさとくも見てとった。彼はこんなことを思い出したのである。その後グルーシェンカは、この新しい競争者と自分との関係が、どんなふうに進んだかを、金輪際ミーチャに知らせなかった。というわけで、彼はだんだんとこの将校のことを忘れて行った。
 彼はただこう考えた。たとえ何事が起ろうとも、どんなふうに局面が一変しようとも、父フョードルとの最後の衝突は、もはや近々と目前に押し寄せているから、何よりもまっさきに解決を見るに相違ない。彼は胸のしびれるような思いをしながら、グルーシェンカの決心を今か今かと待っていた。そして、その決心は何かの感激によって、咄嗟の間に生じるものと固く信じていた。もし彼女が突然、『わたしを連れてってちょうだい、わたしは永久にあんたのものよ』と言ったら、――それで万事は終結するのだ。彼はすぐさま女の手をとって、世界の果てへつれて行く。おお、むろんすぐにできるだけ遠くへ連れて行く。たとえ世界の果てでないまでも、どこかロシヤの果てへなりと連れて行く。そうして、ここで彼女と結婚して、ここのものも向うのものも、誰ひとりとして自分たちのことを知るものがないように、秘密に二人で暮して行く。その時は、おお、その時こそはさっそく新しい生活が始まるだろう! こんなふうにぜんぜん別様な、更新された、しかも有徳《うとく》な生活を(ぜひとも、ぜひとも有徳な生活でなくてはならない)、彼は感激の情をいだきながら、絶えず空想した。彼はこの復活と更新を渇望しているのであった。もともと自分のすきで落ち込んだいまわしい泥沼が、すでにたえ得られぬほど苦しくなったので、彼はこんな立場におかれた多数の人と同じように、何よりも土地の転換に望みを嘱したのである。ただもうこんな人間がいなかったら、こんな事情がなかったら、こんないまわしい土地を飛び出しさえしたら、――すべてはたちまち更生して、新しい進行を始めることができるのだ! これが彼の望んでやまぬところであった。これが彼の憧憬するところであった。
 しかし、これはただ問題が幸福[#「幸福」に傍点]な解決を告げた、第一の場合にすぎなかった。まだもう一つの解決がある。もう一つ恐ろしい結果を予想することができる。もし彼女が突然、『さあ、出てお行き、わたしは今フョードルさんと相談して、あの人と結婚することに決めたから、お前さんには用がないんだよ』と言ったら、――その時は……その時は……しかし、ミーチャは、その時どうするか、自分でも知らなかった。最後の瞬間まで知らなかった。その点は彼のために弁護しなければならない。彼はしかとした計画を持っていなかった。犯罪行為を企らんではいなかった。彼は、あとをつけ廻して、間諜《いぬ》のような真似をして苦しんでいたが、それでもやはり、第一の幸福な解決を予想して、そのほうの準備ばかりしていた。それのみか、ほかの想念を一切おい払おうとしていたほどである。しかし、ここにまったく種類を異にした苦痛が生じた。全然あらたな第二義的な、とはいえやはり致命的な、解決のできない事情がもちあがったのである。
 ほかでもない、もし彼女が、『わたしはあんたのものよ、わたしを連れて逃げてちょうだい』と言った時、どうして連れて行ったらいいだろう? 自分はそれに対する方法、金をどこに持っているのだ? それまで何年かの間フョードルからもらっていた金が、ちょうどその時すっかり失くなってしまったのである。もちろん、グルーシェンカには金があるけれども、この点に関しては突然、ミーチャの心に、恐ろしいプライドが生じた。彼は自分で女を連れて逃げ、女の金でなく自分の金で、新しい生活が営みたかったのである。女から金を取るなどということは、想像もできなかった。そんなことは考えただけでも、苦しいほどの嫌悪を感じるのであった。とはいえ、今ここでこの事実を敷衍したり、分析したりするのはやめにして、ただそのころ彼の心の持ち方がそんなふうになっていたと、これだけのことを言っておこう。彼が泥棒のようなやり方で着服したカチェリーナの金に関する秘密な心の苦しみから、間接に無意識にこういう心持が生じるのは、きわめてあり得べきことであった。『一方の女に対しても陋劣漢となっているのに、またもやそんなことをしたら、いま一方の女に対しても、さっそく陋劣漢となってしまう。』当時こんなふうに考えていたと、彼は後になって告白した。『それに、グルーシェンカだって、もしこのことを聞いたら、そんな心の汚い人はいやだと言うに相違ない。』で、要するに、この金をどこで調達したらいいか、どこでこの運命的な金を手に入れることができるか、これが問題なのである。もしこれができなければ一切が瓦解してしまう、一切が成り立たなくなる。『しかも、それがただただ金のたりないためなのだ、おお、なんて浅ましいこった!』
 さき廻りをして言っておくが、彼はこの金をどこで調達したらいいか、ちゃんと承知していたかもしれぬ。それどころか、その金がどこにあるかということまで、承知していたかもしれぬ。しかし、これについてくわしいことは何も言うまい。それはあとですっかり明瞭になるからである。けれども、彼のおもなる不幸はこの点にふくまれているのだから、おぼろげながらちょっと言っておかねばならぬ。このあるところに秘められた金を使うためには、この金を使う権利を得る[#「権利を得る」に傍点]ためには、あらかじめカチェリーナに三千ルーブリ返却しなければならぬ。それができなければ、『おれはこそこそ泥棒になる、陋劣漢になる。おれは新しい生活を陋劣漢として始めたくない』とミーチャは肚を决めた。それゆえ、もし必要があったら、全世界をくつがえしてもかまわない、どんなことがあっても、あの三千ルーブリはぜひともまず一番に[#「まず一番に」に傍点]、カチェリーナヘ返さなければならぬ。
 この決心がいよいよという揺ぎのない形をとったのは、いわば彼の生涯における最後の数時間、すなわち二日前の夕方、街道でアリョーシャと最後の会見をしたときのことである。それは、グルーシェンカがカチェリーナを侮辱したすぐあとの出来事で、ミーチャはその話をアリョーシャから聞いたとき、自分は悪党であることを自認して、『もしそれであの女の腹が癒えるなら、悦んで悪党の名前を頂戴する』とカチェリーナヘ伝言するように言いつけた。その時、その晩、弟と別れてから、彼は憤激に駆られて、こういう感じを起した。『たとえ誰かを殺して追剥ぎをしてもいい、とにかくカーチャの負債は返さねばならん。』『よしんば殺して金を剥いだ人に対して、また世間のすべての人に対して、殺人者となり盗人となって、シベリヤへ送られてもかまわない、ただカーチャの口から、あの男はわたしに背いておきながら、わたしの金を盗み取って、その金で有徳の生活を始めるんだとかいって、グルーシェンカと一緒に駆落ちした、などと言われるのはたまらない! それは我慢できない!』とミーチャは歯ぎしりしながら、こうひとりごちた。どうかすると、本当に脳膜炎でも起しそうに思われることがあった。が、今のところ、まだ彼は奮闘をつづけていた……
 ここに不思議なことがある。全体なら、このような決心をとった以上、彼の心に残るものは絶望のほか何もあるまい、と思われるのが至当である。なぜなら、彼のような裸一貫の男が、三千という大金を急にととのえる当てがないではないか。しかし、それでいながら、彼はこの三千ルーブリが手に入る、ひとりでにやって来る、天からでも降って来ると、最後まで望みを失わないでいた。まったくドミートリイのように、生涯相続によって得た金を湯水のようにつかう一方で、金がどんなにして儲かるかについて、何の観念も持っていない人間には、こういう考えも確かに起りうるものである。一昨日アリョーシャに別れたすぐあとで、途方もない妄想の嵐が彼の頭に吹き起って、すべての思想をめちゃめちゃに掻き乱した。こういう工合で、彼はこの上ない無鉄砲な仕事に着手することになった。しかし、こんな人間がこんな境遇におちいると、とうてい不可能な夢のような仕事が、苦もなくやすやすと成功するように思われるものである。
 彼は突然、グルーシェンカの保護者たる商人サムソノフを訪問して、ある一つの『計画』を提供し、この『計画』を担保として、必要な金を一時に引き出そうと決心した。商業的方面から見たこの計画の価値を、彼は少しも疑わなかった。ただ向うが単に商業的方面のみから見ないとすれば、サムソノフが自分のとっぴな行動をどんなふうに観察するか、という点に疑いが存するばかりであった。ミーチャはこの商人の顔を知っていたけれども、別段ちかづきというわけでもなければ、かつて口をきいたこともなかった。しかし、どういうわけかずっと前から、彼の内部にこういう信念が築かれていた。ほかではない、もしグルーシェンカが潔白な生活を営みたい、将来有望な男と結婚したいと言いだしたら、いま虫の息でいるこの老好色漢も、決して反対しないであろう。いや、反対しないどころか、かえってそれを希望しているかもしれぬ。そして機会さえ到ったならば、進んで助力するかもしれない。何かの噂を信じたものか、それともグルーシェンカの言葉を基としたものか、とにかく老人は、グルーシェンカのために、父フョードルより自分のほうを選ぶつもりでいるらしいという結論さえ、彼は引き出したのである。
 この物語の読者の多数は、こうした助力をあてにしたり、自分の花嫁を以前の保護者の手から奪おうなどともくろんだりするミーチャの行動が、あまり粗暴で不注意なように思われるかもしれぬ。筆者はただこれだけ言うことができる。グルーシェンカの過去はミーチャの目から見て、もはやとくに完結したもののように思われた。彼はこの事件を同情をもって眺めていた。で、もしグルーシェンカが、『わたしはあなたを愛しています、わたしはあなたと結婚します』と言ったら、たちまちそれと同時に、ぜんぜん新しいグルーシェンカが始まる。それにつれて、彼はぜんぜん新しいドミートリイとなって、悪行など毫もなく、善行ばかり積むようになる。そして、二人は互いに赦しあって、全然あらたに自分たちの生活を始めるのだ、と彼は焔のような熱情を燃やしながら、一人ぎめに決めていた。商人クジマー・サムソノフにいたっては、彼はこの老人を目して、以前の堕落せるグルーシェンカの生活における宿命的な人間だと思っていた。しかし、彼女はこの男を愛していなかった上に、この男も同様過去の人となって活動を終えているから、もう今はまったく存在しないも同じことである、とこう考えたのである。それに、彼は今この男を人間として扱うことができなかった。なぜと言うに、町の人が誰でもみんな知っているとおり、この男はただ一個の病める廃墟であって、グルーシェンカに対しても、ただ父親としての関係を持続しているだけで、決して以前のような基礎の上に立っていない。しかも、これはだいぶ前からのことであって、もうかれこれ一年ばかりになる。が、何といっても、こうしたミーチャの行動には、多分の稚気がふくまれている。実際、彼はいろんな背徳を重ねているけれど、非常に稚気のある男なのである。この稚気のために彼は真面目でこんな断定さえ下した、――老サムソノフは今あの世へ去るにのぞんで、自分とグルーシェンカの過去を心から後悔している。それゆえ、グルーシェンカも、今は決して害のないこの老人より以上に、親切な保護者たり親友たる人を、誰一人も持っていない。
 アリョーシャと原の中で談話を交換した後、ミーチャはほとんど夜っぴて、まんじりともしなかったが、翌朝十時ごろ、彼はサムソノフの家を訪れて取次ぎを命じた。この家は古い、陰気くさい、恐ろしくだだっ広い二階建てで、それに付属したさまざまな建物や、離れなどが邸内にあった。下のほうには、もう女房子のある息子が二人、思いきって年とったサムソノフの妹、それからまだ嫁入りせぬ娘、これだけの大人数で暮していた。また離れのほうには、番頭が二人、住まいを構えていたが、そのうち一人は、やはり大人数の家族をかかえている。こうして、子供らも番頭も、手狭な中で押し合うようにしているのに、二階は老人一人で占領して、自分の看病をしてくれる娘さえ、そこで寝起きすることを許さなかった。娘は一定の時刻にはもちろん、時を定めぬ呼び出しにあうたびに、久しく持病の喘息に悩んでいるにもかかわらず、いちいち下から駆けあがらねばならなかった。
 二階には、商人社会の古い風習にしたがって飾られた、大きな堂々たる部屋がたくさんあった。その中には、マホガニーの不恰好な肘椅子やただの椅子が、壁ぎわに沿って長い単調な列をなしているし、ガラスのシャンデリヤには蔽い布が被さっているし、幾つかの鏡は窓と窓の間に、愛想げもなくかかっている。これらの部屋は、まるでがらんとして人の気配もしない。それは病主人が小さな一室、隅のほうに片寄った自分の寝室に、閉じ籠っているからであった。病室には、髪を頭巾にくるんだ老婆がつき添っているほか、ひとり『若いの』が控え室の腰掛けにしじゅう坐っていた。老人は足が脹れあがったため、もうほとんど歩くことができなかった。ときおり革の肘椅子から身を起すのと、老婆の両手に支えられて、日に一度か二度、部屋を一まわりするくらいなものであった。彼はこの老婆に対しても、厳重で口数が少かった。『大尉さん』の来訪が報じられた時も、彼はすぐ追い返せと命じた。けれど、ミーチャはたって面会を乞い、いま一ど取次ぎを頼んだ。サムソノフは『どうだ、見かけはどんな様子だ、酔っ払ってはおらんか、乱暴はしないか?』などと、仔細に『若いの』に根掘り葉掘りした。そして『しらふですけれど、どうしても帰ろうとはしません』という答を得たが、老人はふたたび拒絶を命じた。ミーチャはこういう場合を予想して、そのためにわざわざ紙と鉛筆を用意して来たので、さっそく紙の切端しにきびきびした筆蹟でたった一行、『アグラフェーナ・アレクサンドロヴナに緊切な関係を有する、最も重大なる事件につき用談あり』と書いて、老人のところへ持たしてやった。老人はちょっと思案してから、お客さまを広間へ通せと、『若いの』に言いつけた後、下にいる乙《おと》息子のところへ老婆をやって、すぐ二階へ顔を出すようにという命令を伝えた。この乙息子というのは六尺豊かな大男で、方図の知れないほどの力を持っていたが、顔は綺麗に剃り上げて、ドイツ風のなりをしていた(父のサムソノフは、純ロシヤ式の上衣をつけ、頤にも鬚を蓄えていた)。彼は猶予なく無言のままあがって来た。二人の兄弟は父の前へ出ると、もうびくびくものであった。父親がこの元気者を呼び寄せたのは、ミーチャに対する恐怖のためではなかった。彼は決してそんな臆病者ではない。ただ万一の場合をおもんぱかって、証人としてそばに据えておく、というくらいの意味であった。
 息子と『若いの』とに支えられて、とうとう彼はふらふらと広間へ歩み出た。もちろん、彼自身も、かなり強い好奇心を感じたものと考えなければならぬ。ミーチャの待っているこの広間は、憂愁の気で人の心を腐蝕するような、愛想のない大きな部屋である。二方から明りが射し込むようになっていて、大理石模様に塗った壁には、中二階風になった渡り廊下があって、蔽い布を被せたガラス張りの大きな吊り燭台が三つもしつらえてあった。ミーチャは入口の戸のそばにある小形の椅子に坐って、神経的な焦躁をこらえながら、運命の解決を待っていた。ミーチャの椅子から十間ばかり離れた反対の戸口に老人が現われた時、彼はいきなり席を立ちあがって、例のどっしりした軍隊式の歩調で、大股に老人のほうへ進んで行った。彼は礼儀ただしい服装をしていた。きちんとボタンをかけたフロック、手に持った山高帽子、黒い手袋、すべて三日まえ長老の庵室で催された、父兄弟など家族の人たちとの会見に出席した時の扮装《いでたち》と、そっくりそのままであった。
 老人はものものしく厳めしい様子をして、じっと立ったまま、相手を待ち受けていた。で、ミーチャは自分がそのそばへ寄って行く間に、この老人は自分という人間をすっかり見つくしてしまった、と咄嗟の間に直覚した。が、それと同時に、彼はサムソノフの顔が、このごろ急に恐ろしく腫れあがったのに、一驚を喫した。それでなくてさえ厚い下唇が、今はまるで牛乳菓子のぶら下ったような恰好になっている。彼はものものしく厳めしい様子で客に会釈した後、長椅子の傍らなる肘椅子へ腰をかけるように指さし、自分は息子の手にもたれかかったまま、病的に喉をぐるぐる鳴らしながら、ミーチャの真向いに置いた長椅子に座を構え始めた。その病的な努力を見ているうちに、ミーチャは早くも後悔の念を感じた。そして、この男のものものしい不安げな顔に対すると、今の自分がつまらないものに思われて、微かな羞恥の情も湧き出したほどである。
「あなた、わたしに何ご用ですな?」ようやく席に落ちついた老人は、厳めしいけれど慇懃な調子で、一こと一こと区切るようにゆっくりと言いだした。
 ミーチャはぎっくりして、思わず座を飛びあがったが、すぐまた腰をおろした。それからさっそく早口な神経的な調子で身振り、手真似を入れながら、興奮しきった様子で声高に話しだした。どんづまりまで行きづまって、滅亡の淵に瀕しながら、最後の逃げ路を求めているが、もしそれに失敗したら、今すぐにも身投げをしかねない男だ、ということは、よそ目にも明らかであった。サムソノフ老人も一瞬の間に、これを見てとったらしい。もっとも、その顔は彫刻のように、依然として冷やかであった……
「クジマー・クジミッチ、あなたはおそらく私と父フョードルとの衝突を、一度ならず耳にされたことと存じます。父は私の生母の死後、遺産を横領してしまったのです……いま町じゅうこの話で大騒ぎをしています……なぜと言って、ここの人はみんな必要もないことに大騒ぎをするのですから……のみならず、グルーシェンカのためにも……いや、失礼、アグラフェーナさん……僕の心から尊敬するアグラフェーナさん。」ミーチャは口をきると、もう早速まごついてしまった。しかし、筆者は彼の話を一語一語再録するのをやめて、ただ要点だけかい摘んで述べよう。ほかでもない、三カ月前ミーチャはことさら(彼は本当に『わざわざ』という言葉を避けて『ことさら』などと言ったのである)、県庁所在地の町に住む弁護士と相談した。『それは、あなた、有名な弁護士でコルネブロードフという人です、たぶんお聞きおよびでしょう? 該博な知識をもった人で、ほとんど国家的人物といっていいくらいですが……あなたのことも承知していて……よく言っておりました』とミーチャはまたもや言葉につまってしまった。しかし、言葉につまっても、話を途切らすようなことはなく、彼はすぐそんなところを飛び越して、ひたすら先へ先へと駆け出すのであった。
 このコルネブロードフは、ミーチャがいつでも提供し得るという証書のことをくわしく訊ねて、いろいろと研究した挙句(証書に関するミーチャの証明はきわめて不明瞭で、ここのところは彼も駆け足で通り抜けた)、チェルマーシニャ村は母の遺産としてミーチャに属すべきものであるから、実際これに対して訴訟を提起し、淫乱じじいをへこますことができる、と断定した。『なぜって、すべての戸口が閉ってるわけじゃありません。法律はどういう方面へくぐり抜けたらいいか、ちゃんと心得ていますからね。』手短かに言えば、フョードルから六千、いや、七千ルーブリの追加支払いを望むことができるのである。なぜなれば、チェルマーシニャ村は、何といっても二万五千ルーブリ……いな、確実に二万八千ルーブリ……『いや、あなた、三万ルーブリです。三万ルーブリの価値があります。ところが、どうでしょう、私はあの人非人から、一万七千ルーブリも受け取っていないのですからね!………』
「その時、私は法律事件の処理などできそうにないから、その話もそれなりにしておいたのですが、ここへ来てみると、かえって先方からの訴訟に出あって、呆れかえってものが言えなかったです(ここでミーチャはまたまごついて、やたらに先のほうへ話を飛ばしてしまった)。ところで、あなた、あの悪党に対する私の権利を、一切ひき受けて下さる気はありませんか。私にはただ三千ルーブリだけ下さればいいのです……あなたはどんなことがあっても、敗訴などになる気づかいはありません。それは私が名誉にかけて誓います。それどころか、三千ルーブリの代りに六千ルーブリか七千ルーブリの儲けを得ることができます……しかし、何より肝要な点は、今日すぐにでもこの話を決めていただきたいということです。私は、その、公証人か何かのところへ行って……その……つまり、私はどんなことでもします。要求なさるだけの証書も引き渡しましょうし、どんな署名でもいたします……ですから、今すぐにも書類を作成してはどうでしょう。できることなら、もしできることなら、きょう午前ちゅうにでも……その三千ルーブリをいただきたいのですが……あなたに楯つくことのできる資本家は、この町に一人もないのですから、もうそうしていただければ、私は救われることになるのです。つまり、あなたは私という哀れな人間を、潔白な仕事のために(高尚な仕事と言ってもいいくらいです)、救って下さることになるのです……なぜって、あなたが単にご存じなばかりでなく、親身の父親のように世話をしていらっしゃるあの婦人に対して、潔白この上ない感情をいだいているからであります。もしそうでなかったら、つまり、あなたのお世話が父親のようなものでなかったら、私がこちらへあがるはずはなかったのです。実際、何と言ったらいいか、三人のものが額と額をつき合したのです。運命というやつは実に恐るべきものですなあ、クジマー・クジミッチ! 現実なるかな、現実なるかなですよ! しかし、あなたはもうとうから除外しなくちゃならなかったのだから、つまり、二人のものが額をつき合したのです。いや、あるいはまずい言い方だったかもしれませんが、しかし私は文学者じゃありませんからね。二つの額と言ったのは、一人は私でいま一人はあの悪党です。こういうわけですから、私かあの悪党か、どっちか一人を選んで下さい。いま一切があなたの掌中にあるんです、――三つの運命に二つの籤です……ごめん下さい。私は脇路へ入ってしまいましたが、あなた了解して下さるでしょう……私はあなたの落ちついた目つきによって、了解して下すったことがわかります……もし了解して下さらなかったら、今日にもすぐ身投げしなくちゃなりません、まったく!」
 ミーチャは自分の愚かな話を、この『まったく』でぷつりと切った。そして、とつぜん椅子から飛びあがって、自分の愚かな申し込みに対する返答を待っていた。最後の一句を発した時、ふいに彼は一切が瓦解したのを感じ、何ともいえぬ絶望におそわれた。何よりも悪いのは、自分が恐ろしい馬鹿げたことを並べたてた、という自覚である。『奇妙なことがあればあるものだ、ここへ来る途中は何もかも立派に思われたものが、今はこのとおり、馬鹿げたことになってしまった!』という考えが、絶望に充ちた彼の頭をふいにちらとかすめた。彼の話している間じゅう、老人は身動きもしないで坐ったまま、目の中に氷のような表情をたたえて、相手を注視していた。一分ばかり、いらだたしい期待の中にミーチャを打ち棄てておいたのち、とうとうサムソノフは少しの望みもいだかせないような、きっぱりした調子でこう言った。
「ごめん蒙ります、わたしどもはそんな仕事をいたしません。」
 ミーチャは突然、足に力の抜けたのが感じられた。
「じゃ、私は今どうしたらいいのです」と彼は蒼ざめた微笑を浮べながら呟いた。「私はもう駄目になったのでしょうか、どうお考えになります?」
「ごめん蒙ります……」
 ミーチャは依然として棒立ちになったまま、身動きもせず、穴のあくほど相手の顔を見つめていた。と、老人の顔面で何かぴくりと動いたのに気がついて、彼はぎくっとした。
「おわかりですかな、そういうことはまったくわたしどもの手に合わんのですよ。」老人はゆっくりと言いだした。「訴訟を起したり、弁護士を頼んだり、いや、もう桑原桑原! しかし、お望みなら、ちょうど適当の男が一人あるから、それに話してごらんなさったら……」
「えっ、一たいそれは誰です?……あなたは私を蘇生さして下さいました。」彼はいきなり舌もつれさせながらこう言った。
「ここの人じゃないんですよ、その男は。それに今ここにいるわけじゃありません。百姓の生れで、森の売買いをしている、猟犬《レガーヴィ》という綽名の男ですよ。フョードルさんとはもう一年も前から、そのチェルマーシニャにある森を買おう売ろうという話が始まってるんですが、値段のほうで折り合いがつかんのです。あなたもたぶんご承知でしょうな。ちょうどこの男がまたやって来て、今イリンスキイ長老のところに泊っております。それはヴォローヴィヤ駅から十二露里もありましょうかな、イリンスコエ村に住まっております。私のところへも手紙をよこして、この事件、――つまり、その森のことについて、意見を求めておりますよ。フョードルさんも自分で出向くつもりだとかいう話です。もしフョードルさんに前もって断わった上で、今わたしに言われたことを、その男に話してごらんなすったら、案外乗ってくれるかもしれませんて……」
「名案です!」とミーチャは勝ち誇ったように遮った。「まったくその男にかぎります、その男に恰好の仕事です! 買いたいけれど値が高い、そこへいきなり所有権利書を見せてやるんですからなあ、ははは!」とミーチャは持ちまえの短い、ぶっきらぼうな調子でからからと笑いだしたが、それがあまりだしぬけだったので、サムソノフでさえぶるっと首を顫わしたほどである。
「クジマー・クジミッチ、何とあなたにお礼を言ったらいいでしょう」とミーチャは、熱くなって叫んだ。
「どういたしまして」と、こちらは頭を下げた。
「あなたはご承知ないでしょうが、あなたは私を助けて下すったのです。ああ、私がこちらへ伺ったのも虫が知らせたのです……じゃ、その坊さんのところへ行きましょう!」
「お礼にはおよびません。」
「大急ぎで飛んで行きましょう。あなたの健康を濫用して申しわけありません。このことは永久に忘れません。これはロシヤ人が言ってるんですよ、クジマー・クジミッチ、ロシヤ人が!」
「な、なある。」
 ミーチャは握手のために老人の手をとろうとしたが、その途端、何か意地わるそうな影が、老人の目の中にひらめいた。ミーチャは伸ばした手を引っ込めたが、すぐまた、疑り深い自分の心を叱したのである。『あれはくたびれたからだ……』という考えが彼の頭をかすめた。
「あの人のためです! あのひとみためです、クジマー・グジミッチ! あなたも了解して下さるでしょう、これはあのひとのためです!」突然、彼は部屋一ぱい響き渡れとばかりこう叫んで、一つ会釈をすると、そのまま急に踵を転じて、もう振り返ろうともせず、例の長いコムパスで足ばやに戸口を指して歩み去った。彼は歓喜のあまりに身を顫わしたほどである。
『危く身の破滅になるところだったが、やっと守護の天使に助けていただいた』という想念が彼の頭をひらめき過ぎた。『それにあの老人のような事務家が(実に品のいいお爺さんだ、何という威厳のある態度だろう!)この方法を教えてくれたんだから、もちろん、勝利はこっちのものにきまっている。すぐこれから飛んで行って、夜までには帰って来る、夜中にでも帰って来る。が、事件は成功疑いなしだ。あの老人がおれをからかうなんてことが、あってよいものか!』ミーチャは自分の住まいをさして歩きながら、心の中でこう叫んだ、ほかの考えなぞ頭に浮んできようがなかった。つまりこの事情にもくわしく、相手の猟犬《レガーヴィ》(奇妙な苗字だ!)の性質にも通じた事務家から、実際的な忠言を得たわけである。が、それとも、――それとも単に老人が彼をからかったのだろうか! 悲しいかな、あとのほうが唯一の正確な解釈なのであった。
 大分たってから、大事件の爆発してしまったあとで、サムソノフ老人が、あの時は『大尉さん』をからかってやったのだ、と自分で笑いながら白状した。彼は毒心の強い、冷酷で嘲笑的な、そのうえ病的に好悪の烈しい男であった。当時、老人がああいう行為に出たのは、『大尉さん』の興奮した顔つきのためか、または彼の計画と称するばかばかしい話にサムソノフが乗ってくるかもしれぬという、この『どら男』の愚かな確信のためか、それとも、この『乞食男』の無心の口実に使われたグルーシェンカに対する嫉妬めいた感情のためか、――しかとした原因は筆者にもわからない。しかし、ミーチャが彼の前に立ちながら、足に力抜けのしたような感じを覚えて、もうおれは駄目になったと叫んだ瞬間、――その瞬間、老人は底知れぬ憎悪をいだきながら、彼を眺めた。そうして、一つこの男をからかってやろう、という気を起したのである。ミーチャが出て行った時、老人は憎悪のために顔を真っ蒼にしながら、息子のほうを振り向いて命令を下した。『もうあの乞食男の匂いもしないようにするんだぞ。庭へでも入れたら承知せんぞ。そうでないと……』
 彼は威嚇の言葉をしまいまで言いきらなかったが、たびたび父の憤怒を見慣れている息子でさえも、恐ろしさに顫えあがった。まる一時間たった頃、老人は憤怒のあまり全身をわなわなと顫わせ始めたが、夕方になると本当に発病して、医者を呼びにやった。

[#3字下げ]第二 レガーヴィ[#「第二 レガーヴィ」は中見出し]

 こういうわけで、すぐさま『飛び出し』て行かなければならぬが、馬車賃が一コペイカもなかった。いや、実際は十コペイカ銀貨が二つあったが、これが幾年かの贅沢な生活の名残りなのである。しかし、彼の家にはとっくに動かなくなった、古い、銀時計が転がっていた。彼はそれを取って、市場で小店を開いている、ユダヤ人の時計屋へ持って行った。ユダヤ人は六ルーブリで買ってくれた。『これも予想外だった!』と有頂天になったミーチャは叫んだ(彼はあれからずっと引きつづき有頂天であった)。そして、六ルーブリの金を握ると、そのまま家へ駆け戻った。家へ帰ると、彼は家主から三ルーブリ借りて、必要な金額をこしらえた。家の人はいつも財布の底をはたくようにしながらも、ミーチャには悦んで金を貸してやった。それほど彼を愛していたのである。彼は歓喜の溢れるような心持になっていたので、さっそくその場で家の人に向って、自分の運命はまさに決せられようとしている、と打ち明けた。それから、たった今サムソノフに持ちかけた自分の『計画』や、それに対する老商人の忠言や、将来の希望や、その他さまざまなことを物語った(もちろん、おそろしくせきこみながら)。家の人は彼をえらい旦那だなどとはいささかも思わず、まるで自分の家の人同様に見ていたので、これまでもいろいろと彼の秘密にあずかっていた。こういうふうにして、九ルーブリの金をこしらえたミーチャは、ヴォローヴィヤ駅ゆきの駅逓馬車を呼びにやった。しかし、こんなふうにして、次の事実が明らかにされ、記憶されたのである。すなわち、『ある事件の前日正午時分、ミーチャは一コペイカも持っていなかった。そして、金をととのえるために時計を売り、三ルーブリを家の人から借りた。しかも、一切は証人の面前で行われた。』
 この事実を前もって注意しておく。何のためにこんなことをするか、それは後に分明されるであろう。ヴォローヴィヤ駅へ駆けつけた時、ミーチャはもうこれでいよいよ、『ああしたいざこざ』も片がついて、綺麗に解決されるだろうという、悦ばしい予感のために輝き渡っていたが、それでも自分の留守にグルーシェンカはどうなるだろうと思うと、恐ろしさに身うちが慄えるようであった。もしちょうど今日という日を狙ってフョードルのところへ行くことに決めたらどうしよう? これを心配したために、彼はグルーシェンカにも言わず、また家の人にも、『たとえ誰が来ても、自分がどこへ行ったか、決して知らせてはならぬ』と言いふくめて、出発したのである。『ぜひとも、ぜひとも今日夕方までには帰らなくちゃならん』と彼は馬車に揺られながら繰り返した。『あの猟犬《レガーヴィ》のやつは、こっちへ引っ張って来て……そして、この交渉をまとめてもいい……』ミーチャは心臓のしびれるような心持でこう空想した。しかし、悲しいことには、彼の空想は計画どおりに実現されないような、よくよくの運命を背負っていたのである。
 第一、彼はヴォローヴィヤ駅から村道をたどって行くうちに、時刻を遅らしてしまった。村道は十二露里でなく、十八露里あったのである。第二に、イリンスキイ長老は自宅にいなかった。隣村へ出かけたのである。ミーチャが疲れはてた以前の馬を駆って、その隣村へ赴き、そこでほうぼうさがし廻っているうち、もうほとんど夜になってしまった。『長老』は見受けたところ、臆病そうな愛想のいい小男であった。彼がさっそく説明したところによると、この猟犬《レガーヴィ》は、初めの間こそ自分の家に泊っていたが、今は乾村《スホイ・パショーロク》へ行っている。今日はその森番小屋に泊ることになっているが、それはやはり、森の売買に関する仕事のためであった。いますぐ猟犬《レガーヴィ》のところへ連れて行ってくれ、『そうすれば、自分を助けることになるのだ』というミーチャの熱心な願いに対して、長老も初めのうちは渋っていたけれども、とにかく納得して、乾村《スホイ・パショーロク》へ連れて行くことになった。どうやら好奇心も手伝ったらしい。ところが、まるでわざとのように、長老は『かち』で行こうと言いだした。僅か一露里と『ぽっちり』きゃないほどの道のりだから、というのであった。ミーチャはむろんそれに同意し、例の大股でどしどし歩きだしたので、哀れな長老は、ほとんど駆け出すようにしながら、ついて行った。彼は大して年よりというほどでもなく、なかなか用心ぶかい男であった。
 ミーチャはさっそくこの男を相手に、自分の計画を話しだした。そして、神経的な調子で熱心に、猟犬《レガーヴィ》に関する注意を求めなどして、途中たえず話しつづけた。長老は注意ぶかく耳を傾けたが、あまり忠言めいた口はきかなかった。ミーチャの問いに対しても、逃げよう逃げようとし、『存じません、まったく存じません、わたくしなどに何がわかりましょう』などと答えるのみであった。ミーチャが遺産に関する父との衝突を話した時、長老はびっくりしたくらいである。なぜと言うに、彼はフョードルに対して、一種の従属関係に立っていたからである。とはいえ、彼はミーチャに向って、どういうわけであの百姓出の商人ゴルストキンを、猟犬《レガーヴィ》などと呼ぶのかと訊ねた後、あの男は本当に猟犬《レガーヴィ》であるけれど、この名を呼ばれると恐ろしく腹を立てるところから見ると、猟犬《レガーヴィ》でないようでもあるのだから、必ずゴルストキンと呼ばなければならぬと、くれぐれも言いふくめた。『でなければ、とても話はまとまりませんよ。あなたの言うことなぞ、聞こうともしませんからな』と彼は言葉を結んだ。
 ミーチャはちょっと性急な驚きを示して、サムソノフ自身もそう呼んでいたと説明した。この事情を聞いて、長老はたちまちこの話を揉み潰してしまった。もし彼がその時すぐミーチャに自分の疑惑を打ち明けたら、そのほうがかえって好都合だったろう。ほかではない、もしサムソノフが猟犬《レガーヴィ》のような百姓男のところへ行けと教えたのなら、それは何かのわけで、からかおうと思ってしたことではあるまいか、何か不都合なことがあるのではなかろうか、という疑惑であった。けれど、ミーチャはそんな『つまらないこと』をぐずぐず言っている暇がなかった。彼はひたすら先を急いでぐんぐん歩いた。やっと乾村《スホイ・パショーロク》へ着いた時、自分らが歩いた道は一露里や一露里半でなく、確かに三露里あることを悟った。これも彼に癇ざわりであったが、黙って我慢した。二人は小屋へ入った。長老と懇意な森番は、小屋の片方に住んでいて、廊下を隔てたいま一方の小綺麗ながわには、ゴルストキンが陣取っていた。
 一行はこの小綺麗なほうへ入って蝋燭をつけた。小屋は暖炉で恐ろしく温まっていた。松の木のテーブルの上には、火の消えたサモワールがおいてあり、そのすぐそばには茶碗をのせた盆や、すっかり飲み干したラム酒の瓶や、飲みさしのウォートカの角罎や、噛りさしのパンなどがおいてあった。当の泊り客は、枕の代りに上衣を丸めて頭の下へ敷き、重々しい鼾をかきながら、長々と寝そべっていた。ミーチャは、どうしたものかちょっと迷った。『もちろん、起さなくちゃならん、おれの用事は非常に大切なことなのだ。おれはあんなに急いで来たのだし、また今日じゅうに急いで帰らなくちゃならないのだ』と、ミーチャは気をいらち始めた。しかし、長老も番人も自分の意見を吐かないで、黙って突っ立っていた。ミーチャはずかずかとそばへ寄って、自分で起しにかかった。猛烈な勢いで起してみた。けれど、猟犬《レガーヴィ》は目をさまそうとしなかった。『この男は呑んだくれてるのだ』とミーチャは合点した。『しかし、おれはどうしたらいいんだろう。ああ、おれはどうしたらいいんだろう?』とつぜん彼は恐ろしい焦躁を感じ、眠っている人の手足を引っ張ったり、頭を揺ぶったり、抱き起して床几の上に坐らしてみたりした、しかし、それでも、かなり長い努力の後にかち得た結果は、猟犬《レガーヴィ》がわけのわからぬことを唸ったり、不明瞭ではあるが、烈しい調子で罵ったりしたにすぎなかった。
「駄目ですよ、あなた。も少しお待ちになったほうがよろしいでしょう。」とうとう長老がこう言った。
「いちんち飲んでおりましたよ」と番人が応じた。
「とんでもない!」とミーチャが叫んだ。「僕がどんなに必要に追られているか、僕が今どんな絶望に突き落されてるか、それが君たちにわかったらなあ!」
「駄目ですよ、もう朝までお待ちになったほうがよろしゅうございますよ」と長老は繰り返した。
「朝まで? 冗談じゃない、それはできない相談だ!」彼は絶望のあまり、また酔いどれに飛びかかって起しかけたが、すぐに自分の努力の甲斐なさを悟り、手を引いてしまった。長老は黙っていた。寝ぼけた番人は陰気くさい顔をしていた。
「本当に現実というやつは、なんて恐ろしい悲劇を人間の身の上に引き起すのだろう!」ミーチャはもうすっかり絶望しきってこう言った。汗が顔から流れた。長老はその瞬間を利用して、たとえ今うまくこの男を起すことができても、酔っ払っているところだから、どんな話もできるわけがない、『あなたのご用は大切なことですから、明日の朝までお延ばしになったほうが確かでございますよ……』ときわめて道理ある意見をのべた。ミーチャは両手をひろげて同意した。
「おれはな、爺さん、蝋燭をつけてここにこうしていながら、いいおりを見つけることにするから、――目をさましたらすぐ始めるんだ……蝋燭代は払うよ」と彼は番人に向って言った。「宿賃もやはり出すよ、ドミートリイ・カラマーゾフの名にかかわるようなことをしやしない。ところで、長老、あなたと僕はどんなふうに陣取ったものかなあ。あなたはどこに寝るつもりですね?」
「いいえ、わたくしはもう家へ帰ります、この男の牝馬に乗って行きますから」と彼は番人を指さした。「では、これでごめん蒙ります。どうか十分ご満足のまいりますように。」
 で、話はそのとおりにきまった。爺さんは牝馬に乗って出かけた。彼はやっとかかり合いを逃れたのが嬉しくもあったが、それでもやはり当惑そうに首を振りながら、恩人フョードルにこの奇怪な出来事を、時の遅れぬうちに報告しなくてもいいだろうかと思案した。
『でないと、ひょっともしこれが耳に入ったら、立腹のあまり今後目をかけていただけぬかもしれん。』
 番人は体じゅうぼりぼり掻きながら、黙って自分の小屋へ引き取ってしまった。ミーチャは彼のいわゆる『いいおりを見つける』ために、床几へ腰をおろした。深い恐ろしい憂愁が重苦しい霧のように、彼の心を包んだ。何という深い恐ろしい憂愁! 彼はじっと坐って、もの思いにふけったが、何一つしっかりした考えが出て来なかった。蝋燭は燃え、蟋蟀はかしましく歌って、暖炉を焚きすぎた部屋は、たえがたいほど息苦しかった。ふと彼の目に庭が浮んだ、庭の向うには細い道がある、と、父の家の戸が忍びやかに開いて、グルーシェンカがその中へ駆け込んだ……彼は床几から跳りあがった。
「悲劇だ!」と歯を鳴らしながら言った。そして、眠れる男に近よって、じっとその顔を眺め始めた。まださして年をとっていない痩せた百姓で、顔は思いきって細長く、亜麻色の髪は渦を巻いて、赤みがかった頤鬚はひょろひょろと長かった。更紗のルバーシカに黒いチョッキを着こんでいたが、そのかくしからは銀時計の鎖が覗いていた。ミーチャは恐ろしい憎悪をいだきながら、この面《つら》がまえを見つめていた。とりわけ、この男の髪が渦を巻いているのが、なぜか憎くてたまらなかった。しかし、何よりいまいましいのは、自分ミーチャがあれだけのことを犠牲にし、あれだけのことを抛って、猶予することのできない用件をかかえながら、へとへとに疲れて立っているにもかかわらず、こののらくら者は、『いま自分の運命を掌中に握っているくせに、まるで別な遊星からでも来た人間みたいに、どこを風が吹くかとばかり鼾をかいている』ことであった。『おお、運命のアイロニーよ!』とミーチャは叫んだが、急に前後の判断を失って、酔いどれの百姓を起しにかかった。彼は一種狂暴な勢いで引っ張ったり、突き飛ばしたり、しまいには擲りつけまでして起そうとした。五分ばかり骨折ってみたが、ふたたび何の効をも奏さなかったので、力ない絶望に沈みながら、自分の床几に戻って腰をおろした。
「馬鹿げてる、馬鹿げてる!」とミーチャは叫んだ。「それに……何という卑屈なことだろう!」突然、彼は何のためやら、こう言いたした。頭が恐ろしく痛み始めた。『いっそ、おっぽり出してしまおうか? 思いきって、帰ってしまおうか?』という考えが彼の頭にひらめいた。『いや、とにかく朝までいよう。もうこうなれば意地にでも残っている、意地にでも! 一たい何だってあんなことのあったあとで、こんなところへのこのこやって来たんだろう? それに、帰るたって乗るものもないじゃないか。今はどうしたって帰れやしないんだ、ああ、何が何だかわかりゃしない!』
 とはいえ、頭はだんだん烈しく痛みだした。じっと身動きもしないで坐っているうちに、彼はいつともなくうとうと寝入ってしまった。察するところ、二時間か、それともいま少し長く眠ったらしい。ふと彼はたえがたい、――声を立てて喚きたいほどたえがたい、頭の痛みに目をさました。両のこめかみはずきんずきんして、額は重く痛かった。目をさましてからも、彼は長いあいだ正気に復することができず、自分の体がどうなったのやら、合点がゆかなかった。ようやくこれは暖炉を焚きすぎたために、恐ろしい炭酸ガスが籠って、運が悪かったら死ぬところだったのだ、と気がついた。しかし、酔いどれの百姓は依然として、長くなって鼾をかいていた。蝋燭は燃えつきて、今にも消えそうであった。ミーチャは大声に喚きながら、ふらふらした足どりで、廊下を隔てた番人の小屋をさして飛んで行った。番人はすぐに目をさました。そして、あっちの部屋に炭酸ガスが籠ったという話を聞くと、さっそく始末に出かけたが、不思議なほど冷淡にこの事実を取り扱っているので、ミーチャは腹立たしい驚きを感じた。
「だが、もしあいつが死んだら、あいつが死んだらその時は……その時はどうするんだ?」とミーチャは憤激のあまり、彼に向ってこう叫んだ。
 戸や窓は開け放され、煙突の蓋も開かれた。ミーチャは水の入ったバケツを廊下からさげて来て、まず最初に自分の頭を冷やし、それから何かの切れを見つけてそれを水に浸し、猟犬《レガーヴィ》の頭にのせてやった。しかし、番人は依然この事件に対して、妙に侮蔑的な態度をとっていたが、窓を開け放して、『これでいいでさあ』と言いすてたまま、火のついた鉄の提灯をミーチャに残して、また一寝入りしに行ってしまった。ミーチャは、窒息しかけた酔いどれの頭を絶えず水で冷やしながら、三十分ばかり何くれと世話をやいた。彼は夜っぴて眠るまいと真面目に決心したが、もうすっかり疲れはてていたので、ほんのちょっと息を入れようと思って腰をおろすと、そのまますぐ目がふさがって、無意識に床几の上に長くなり、死人のように寝入ってしまった。
 彼が目をさましたのはずいぶん遅かった。もうかれこれ朝の九時頃であった。太陽は小屋の二つの窓から、かんかんさし込んでいた。髪の渦を巻いた昨日の百姓は、もうちゃんと袖無外套を着けて、床几に腰かけていた。その前には、新しいサモワールと新しい角罎がおいてある。昨日あった古いほうの罎を平らげてしまった上に、新しいほうのも半分以上からにしている。ミーチャはやにわに跳ね起きた。その途端、百姓はまた酔っ払っている、取り返しのつかぬほどひどく酔っ払っている、ということを悟った。彼はしばらく目を皿のようにしながら、百姓を見つめていた。こっちはこっちで、無言のままこすそうに相手を見廻していたが、その様子が何だか癪にさわるほど平然として、人を馬鹿にしたように高慢であった。少くとも、ミーチャにはそう感じられた。彼はそのほうへ飛びかかって、
「失礼ですが、実は……私は……あなたもたぶん、あっちの小屋にいるここの番人からお聞きになったでしょうが、私は中尉ドミートリイ・カラマーゾフです。今あなたと森のことでかけ合いをしている、カラマーゾフ老人の息子です。」
「でたらめ言うない!」と百姓はいきなりしっかりした、落ちついた調子で呶鳴りつけた。
「どうしてでたらめです? フョードル・パーヴロヴィッチをご存じでしょう?」
「フョードル・パーヴロヴィッチなんてやつは、ちっともご存じないわい。」重たそうに舌を廻しながら、百姓はこう言った。
「森を、あなたは森を親父から買おうとしておいでになるじゃありませんか。まあ、目をさまして、気分をしっかり持って下さい。イリンスキイ長老が僕をここへ連れて来たのです……あなたは、サムソノフに手紙をお出しになったでしょう。それで、あの人が僕をここへよこしたのです……」とミーチャは息を切らした。
「でたらめだい!」と猟犬《レガーヴィ》はまたはっきりした調子で呶鳴りつけた。ミーチャは足の冷たくなるのを感じた。
「とんでもない、これは冗談じゃありませんよ! あなたは酒に酔っておいでかもしれませんが、もういい加減にまともな口をきいて、人の言うことも聞きわけられそうなもんじゃありませんか……さもなければ……さもなければ、僕は何が何だかわかりゃしない!」
「貴様は染物屋だ!」
「とんでもない、僕はカラマーゾフです、ドミートリイ・カラマーゾフです。あなたに用談があって……有利な相談があって来ました……非常に有利なことで……しかし、あの森に関係があるのです。」
 百姓はものものしげに鬚を撫でた。
「なんの、貴様は請負仕事を途中で投げ出したりして、悪党になってしまったのだ。貴様は悪党だぞ!」
「誓って、そんなことはありません、それはあなたの考え違いです!」とミーチャは絶望のあまり両手を捻じ上げた。百姓は相変らず鬚をしごいていたが、突然こすそうに目を細めて、
「それよりか、貴様に一つ訊きたいことがあるんだ。一たい穢らわしいことをしてもかまわないって法律が、どこかにあるかい、え? 貴様は悪党だ、わかったか?」
 ミーチャは悄然としてうしろへさがった。と、ふいに『何か額をどやしつけられたような気がした』(これはあとで彼自身の言ったことである)。一瞬にして、心の迷いがさめてしまった。『とつぜん炬火《たいまつ》のようなものがぱっと燃えあがって、僕はすべてを理解したのだ』と彼は語った。自分は何といっても分別のある人間だ、それがどうしてあんな馬鹿な話にうかうか乗って、こういう仕事に手を出したばかりか、ほとんど一昼夜の間、その馬鹿なことをやめようとせず、猟犬《レガーヴィ》などという人間を相手にして、その頭まで冷やしてやる気になったのだろう、と、彼はわれながら不思議な気持がして、じっと棒のように立ちすくんでいた。『いや、この男は酔っ払ってるんだ、へべれけに酔っ払ってるんだ。そして、まだ一週間くらいは、がぶ呑みに呑むだろう、――してみると、待ってたって仕方がないじゃないか? それどころか、もしサムソノフが、わざとおれをこんなところへよこしたとすれば、どうしたらいいのだ? それどころか、もしあれが……ああ、おれは何ということをしでかしたのだ!」
 百姓はじっと坐って彼を見やりながら、せせら笑っていた。これがもしほかの場合であったなら、ミーチャは憎悪のあまり、この馬鹿者を殺してしまったかもしれぬ。しかし、今は彼も子供のようにすっかり弱くなっていた。静かに床几へ近よって、自分の外套をとり、黙ってそれを着おわると、そのまま小屋を出てしまった。いま一方の小屋には番人も見あたらなかったし、誰ひとりいなかった。彼はかくしから小銭で五十コペイカだけ取り出して、宿料、蝋燭代、それに厄介をかけた礼としてテーブルの上へのせておいた。小屋を出てみると、あたりは一面の森で、ほかには何一つなかった。彼は小屋からどっちへ曲ったらいいのか、――右か左かそれさえわきまえず、でたらめに歩きだした。昨夜、長老とここへ来た時には、急いだために道など少しも気をつけなかった。彼は誰に対しても、サムソノフに対してすら、復讐の念を感じなかった。ただ『失われたる理想』をいだきながら、どこへ向けて歩いているかにはいささかも頓着なく、ふらふらと無意味に森の径をたどった。今はどんな子供でも、彼を喧嘩で負かすことができた。それほど彼は精神的にも肉体的にも、とつぜん力を失ってしまったのである。けれども、とうとう、どうにかこうにか森の外へ出ることができた。ふと、刈入れのすんだ真裸な野が、見渡すことのできないくらい曠漠として、彼の眼前にひらけてきた。『何という絶望、何という死滅があたりを領していることか!』と彼は繰り返した、絶えず前へ前へと進みながら。
 彼を救ったのは通行の人であった。馬車屋がどこかの年よった商人《あきんど》を乗せて、村道を過ぎでいたのである。馬車が追いついた時、ミーチャは道を訊ねた。すると、彼らもやはりヴォローヴィヤ駅へ行く、ということがわかった。両方から話し合った末、ミーチャを合乗りとして入れることになった。三時間ばかりたって目的地へ着いた。ヴォローヴィヤ駅でミーチャはすぐさま、町へ行く駅遞馬車を命じたが、突然たえ得られぬほどの空腹を感じているのがわかった。馬を車につけている間、彼は玉子焼を拵えてもらい、見る間にそれを平らげて、大きなパンの切れをすっかり食べつくした上、その辺にあった腸詰も腹の中へ入れてしまった。ウォートカも三杯かたむけた。腹ができあがると元気がついて、胸の中もせいせいしてきた。馭者を叱陀して、街道を飛ばしているうちに、『あのいまいましい金』を今日じゅうに調達することのできる、今度こそ『間違いのない』新しい計画を作り上げた。
『まあ、思ってもみろ、ちょっと考えただけでも厭になるじゃないか、僅か三千やそこいらのはした金で、人間ひとりの運命がめちゃめちゃになるなんて!』と彼は馬鹿にしたような調子で叫んだ。『今日こそ必ず解決してみせる!』こういうふうで、もしグルーシェンカに関する想念、グルーシェンカに何か変ったことが起りはせぬかという想念が、絶えず彼の頭に浮ばなかったら、彼はもともとどおりすっかり愉快な気持になったかもしれない。しかし、彼女に関する想念が鋭い剣のように、ひっきりなしに彼の心をさし貫くのであった。やがて、ようやく町へ帰り着いたミーチャは、即刻グルーシェンカのもとへ駆けつけた。

[#3字下げ]第三 金鉱[#「第三 金鉱」は中見出し]

 それは、グルーシェンカがラキーチンに向って、さもさも恐ろしそうに話して聞かせたミーチャの来訪である。そのころ彼女は、例の『知らせ』を待っていたので、昨日も今日もミーチャが姿を見せないのを悦んで、どうか神様のお計らいで自分の出発まで来ないでくれるようにと望んでいた。ところへ、ふいに姿を現わしたのである。それから先はもうわかっている。彼女は男をまいてしまうために、さっそく自分をサムソノフの家まで送るように説き伏せた。『金の勘定』にぜひぜひ行かねばならぬ、といったふうに持ちかけたのである。ミーチャはすぐさま送って来たが、クジマーの門ぎわで別れる時、彼女は自分を家まで送り帰すために、十一時すぎに迎えに来るという約束を男にさせた。ミーチャはこの命令にも、やはり満足を感じた。『クジマーのところにいるといえば、つまり親父のところへは行かないのだ……もしあれが嘘をつかなかったら』と彼はすぐこうつけたした。しかし、彼の目には嘘をついたように思われなかった。
 つまり、彼はこういうふうな性質のやきもち焼きなのであった、――ほかではない、愛する女と別れている間は、留守ちゅう女の身にどういうことが起るだろうと案じたり、またどうかして女が自分に『背き』はしないだろうかなどと、恐ろしいことのありたけを考えつくした挙句、もうきっと背いているにちがいないと心底から思い込み、惑乱して死人のようになって女のところへ駆けつけるが、女の顔を、――愉快そうに笑っている優しい女を一目見るなり、もうさっそく元気を取り戻して、すべての疑いはどこへやら、嬉しいような恥しいような心持で、われとわが嫉妬を罵るのである。ミーチャも、グルーシェンカを送りとどけると、わが家をさして駆けだした。おお、彼は今日じゅうに仕遂げなければならぬことが、山ほどある! しかし、少くとも、心は重荷をおろしたように軽くなった。『ただ少しも早くスメルジャコフを掴まえて、昨夜なにか変ったことがなかったか訊かなきゃならん。もしあれが親父のところへ行ったとすれば、それこそ大変だ、おお!』という考えが彼の頭にひらめいた。こういうありさまで、まだ自分の家まで走りつかぬうちに、またもや嫉妬の念が、休みなき彼の心に動きだしたのである。
 嫉妬! 『オセロは嫉妬ぶかくない、いや、かえって人を信じやすい』とはプーシュキンの言葉である。そして、この言葉一つだけでも、わが大詩人の異常なる洞察の深さが証明せられたものと言ってよい。オセロは単に心をめちゃめちゃに掻き乱され、全人生観を濁されたというにすぎない。なぜなれば、彼の理想が亡びたからである[#「彼の理想が亡びたからである」に傍点]。オセロは身をひそめて探偵したり、隙見をしたりなぞ決してしない。彼は人を信じやすい。それゆえ、彼に妻の不貞を悟らせるためには、非常な努力を費してつっ突いたり、後押ししたり、油をかけたりしなければならぬ。本当のやきもち焼きはそんなものでない。本当のやきもち焼きが何らの良心の呵責をも感ずることなく、どれくらい精神的堕落と汚辱のうちに安住し得るかは、想像さえも不可能である。しかも、それらすべての人が、陋劣、醜悪な魂の所有者であるかというに、決してそうでない。それどころか、かえって高潔な心情を具え、自己犠牲の精神に充ち、清浄な愛をいだいた人が、同時にテーブルの下に隠れたり、卑屈きわまる人間を抱き込んだり、間諜や立聞きなどという醜悪な行為を、平然とすることができるのだ。
 オセロはいかなることがあろうとも、決して妥協し得なかったに相違ない。たとえ彼の心が幼児のごとく穏かで無邪気であろうとも、赦す赦さぬは別として、妥協することはできなかったろう。ところが、本当のやきもち焼きはまるで違う。ある種のやきもち焼きがどれくらいまで妥協し赦し得るかは、想像することも困難である。やきもち焼きは誰より最も早く赦すものである。それはすべての女が呑み込んでいる。やきもち焼きは非常に早く(もちろん、はじめ恐ろしい一幕を演じたあとで)、火のごとく明らかな不貞をも赦すことができる。みずから目撃した抱擁や接吻さえ赦すことができる。ただし、これは『最後の』出来事で、競争者は今からすぐ世界の果てへ去っていなくなってしまうとか、もしくはその恐ろしい競争者の来る気づかいのないところへ、自分で女を連れて逃げてしまう、といったようなことが考えられる場合の話である。
 もちろん、妥協の心が生ずるのはごく僅かな時間にすぎない。なぜと言うに、もしその競争者がほんとうに姿を隠してしまうにしても、すぐ翌る日は新しい別な競争者を拵えて、新しい競争者にやきもちを焼くからである。それほどまでに監視しなければならぬ愛に、どんな有難味があるのだろう? それほど一生懸命に見張らねばならぬ愛が、どんな価をもっているのだろう? とまあ、よそ目には思われるけれども、本当のやきもち焼きは決してそんなことを考えない。そのくせ、彼らの間にはまったく高潔な心情を有する人たちも、往々にして見受けられるものである。なおここに注意すべきは、高潔な心情を有するこれらの人々が、どこかの小部屋に立って盗み聞きしたり、探偵したりする一方、もちまえの『高潔なる心情』によって、われから好んで沈み込んだ汚辱の深さを明らかに了解してはいるくせに、少くも小部屋の中に佇んでいる間は、決して良心の呵責を感じないものである。
 ミーチャもグルーシェンカを見ると同時に、嫉妬の情はどこへやらけし飛んで、一瞬の間に信じやすい綺麗な心持になってしまった。そればかりか、むしろ自分で自分の汚い感情を卑しんだほどである。しかし、これも要するに次の実情を証明するにすぎない。ほかではない、この女に対する彼の恋には、彼自身の考えているよりもはるかに高尚なあるものがふくまれているので、かつてアリョーシャに説いたような、『肉体の曲線美』や情欲ばかりではない。が、そのかわりグルーシェンカの姿が見えなくなると、ミーチャはすぐにまた、彼女が卑劣で狡猾な不貞の所業を犯しているのではないかと疑い始めた。良心の呵責などはこのとき少しも感じなかった。
 こうして、ふたたび嫉妬心が彼の心に沸き立ち始めた。何にしても急がなくてはならぬ。第一着手として、急場の間に合せに、ほんの少しばかりでも金を手に入れる必要がある。昨日の九ルーブリは旅行のために、ほとんどなくなってしまった。しかし、まるきり一文なしでは、むろん、手も足も出ない。けれど、彼はさっき馬車の上で、新しい計画とともに、急場の間に合せに金を拵える方法を、もうちゃんと工夫しといたのである。彼は優秀な決闘用のピストルを一対、薬莢つきで所持していた。今までこれを質にも入れずにいたのは、自分の所有品の中で、これを一ばん愛好していたからである。
 彼はもうずっと前から料理屋の『都』で、ある若い官吏とちょっとした近づきになっていたが、何かの機会に同じ料理屋で小耳に挾んだところによると、この若い裕福な官吏は熱心な武器の愛好者であり、ピストルや連発拳銃《レヴォルヴァ》や匕首を買い集めては、居間の四|壁《へき》にかけ並べ、知人に見せて自慢している、そしてピストルの構造や、装填法や、発射法などを説明するのが、すこぶる得意だとのことであった。
 ミーチャは、長くも考えないで、すぐさまこの人のもとへ赴き、十ルーブリでピストルを質に取ってくれないかと申し込んだ。若い官吏は非常に悦んで、すっかり手放してしまわないかと勧めたが、ミーチャは承知しなかった。で、彼は利子なぞ決して取らないからといって、十ルーブリの金を渡した。二人は親友として別れた。ミーチャは急いだ。彼は少しも早くスメルジャコフを呼び出そうと、フョードルの家の裏手にあたる例の四阿《あずまや》さして飛んで行った。こういうふうにして、またもや次のごとき事実が成立したのである。すなわち、これから筆者が物語ろうとしているある事件発生の三四時間まえに、ミーチャは一コペイカの金も所持していなかった。そして、自分の愛玩品を十ルーブリで質入れしたが、三時間の後には、幾千という金が彼の手に握られていた、――しかし、筆者はまた先廻りをしている。
 マリヤ(フョードルの隣家の娘)のところでは、スメルジャコフ発病の報知がミーチャを待ちもうけていて、非常に彼を驚かせ、かつ当惑さした。彼は穴蔵へ墜落の顛末から、医師の来診、フョードルの心づかいなどに関する物語を、すっかり聞きとった。弟のイヴァンがけさモスクワへ出発したということも、興味をもって聞いた。『きっとおれより先にヴォローヴィヤを通過したんだろう』とミーチャは考えた。とはいえ、スメルジャコフはひどく彼を心配さした。『これからどうしたらいいんだろう、誰が見張りをしてくれるんだろう。誰がおれに内通してくれるんだろう?』彼は親子のものに向って、ゆうべ何か気づいたことはないかと、貪るような調子で根掘り葉掘りして訊いてみた。こちらは、彼が何を訊きたがっているか、よくわかっていたので、決して誰も来はしなかった、ゆうべはイヴァンも泊ったことだしするから[#「泊ったことだしするから」はママ]、『もう万事きちんとしておりました』と言って、彼の疑いを解いた。彼は考え込んだ。どうあっても、今日もやはり見張りをしなくてはならないが、どこにしたものだろう? ここにするか、それともサムソノフの門前にするか? 彼は臨機応変でどっちへも行かねばならぬと決心したが、しかし、今は、今は……というのは、ほかでもない。今はあの馬車の中で案出した『計画』、今度こそ間違いのない新しい計画が彼の目前に儼として控えているので、もはやその実行をゆるがせにするわけにゆかなかった。ミーチャはこのために、一時間だけ犠牲に供することとした。『一時間のうちに、すっかり解決して是非を見きわめ、それから、それからまず第一にサムソノフの家へ駆けつけて、グルーシェンカがいるかいないか調べてみる。そうして、またすぐにここへ引っ返し、十一時まで待っていよう。そのあとで、もう一度サムソノフのところへ行って、あれを家まで送り返すんだ』と、こう手はずを決めた。
 彼は家へ飛んで帰って、顔を洗い、頭を梳き上げ、服を浄め、着替えをすまして、ホフラコーヴァ夫人のもとへ赴いた。悲しいかな、彼の『計画』はここにあった。彼はこの婦人から三千ルーブリの金を借りようと決心したのである。何よりも注意すべきは、夫人が自分の乞いを拒まないだろうというなみなみならぬ確信が、ふいに咄嗟の間に生じたことである。もしそんな確信があったくらいなら、なぜ初めから自分と同じ社会に属するこの女のところへ来ないで、話すべき言葉にさえ迷うほど肌合いの違うサムソノフのとこなぞへ出かけたのだろう、こういう不審が起るかもしれないが、それにはわけがある。ほかでもないが、この一月ばかり、彼はホフラコーヴァ夫人とだいぶ疎遠になっているし、以前とてもあまり親しくしていたわけではない。その上、彼女自身ミーチャが大嫌いなのを、彼もよく承知していたからである。この婦人は最初からミーチャを憎んでいた。それもただ、ミーチャがカチェリーナの許嫁《いいなずけ》だからというまでのことである。彼女はカチェリーナがミーチャを棄てて、『古武士のように人格の完成した、ものごしの端正な優しいイヴァン』と結婚するのを、夢中になるほど望んでいた。ミーチャの『ものごし』などは、憎らしくてたまらなかったのである。ミーチャはミーチャで、夫人を冷笑していたので、ある時こんなことを言ったことがある。『あの婦人はなかなかさばけていて元気がいいが、しかしそれと同じくらいに無教育だよ。』
 ところが、今朝ほど馬車の中で一つの輝かしい想念が、彼の心を照らしたのである。『もしあの婦人がそれほどまでに、おれとカチェリーナの結婚を嫌っているならば(実際、あの婦人はヒステリイになりそうなほど嫌っているのだ)、今この三千ルーブリを拒絶するはずがない。なぜって、おれはこの金をもってカーチャを棄て、永久にここから逃げ出して行くんじゃないか。ああいうわがままな上流の婦人たちは、何か非常に気まぐれな望みを起すと、自分の望みどおりにするためには、どんなものだって惜しみはしない。それに、あの婦人は大した金持なんだからなあ』とミーチャは考えた。
 ところで、『計画』そのものはどうかというに、それは前と同じくチェルマーシニャに対する、自分の権利の提供であった。しかし、昨日サムソノフに対したような、商業上の目的を持ってはいなかった。つまり三千ルーブリの代りにその倍額、すなわち六七千ルーブリの利益を引き出すことができるなどといって、この婦人を誘惑しようとは思わなかった。ただ負債に対する正当な抵当にしよう、というだけのつもりであった。
 この新しい着想を展開させてゆくうちに、ミーチャは有頂天になってしまった。これは、事を始める時とか、何か急な決心をした場合などに、いつも彼の心に生ずる現象であった。彼はすべて自分の新しい思いつきに、熱情を傾けて没頭するのが常であった。それでも、ホフラコーヴァ夫人の家の階段に足をかけた時、背中に恐怖の悪寒を感じた、これこそ自分の最後の希望であって、もうこれから先は、世界じゅうに何一つ残っていない。もしこれが失敗に帰したら、『僅か三千ルーブリのために斬取り強盗をするよりほかはない……』ということを、この一瞬に初めて完全に、数学的に明瞭に自覚したのである。彼がベルを鳴らしたのは、もはや七時半であった。
 初めのうち、状況は彼に微笑を示すかのように思われた。彼が取次ぎを頼むやいなや、すぐさま恐ろしく急に案内してくれた。『まるでおれを待ってたようだ、』ちらとこんな考えが彼の頭をかすめた。つづいて彼が客間へ案内された時、ほとんど駆け込むように、女主人公が入って来て、本当に待ちかねていたと告げるのであった。
「待ちかねてました、待ちかねてました。まったくあなたが来て下さろうとは、わたしにとって思いもよらないことでしょう、ね、そうじゃありませんか。けれども、わたしはあなたを待っていましたの。わたしの直覚力に感心なすったでしょう。ドミートリイさん、わたし今日あなたがいらっしゃるに相違ないと、朝じゅう信じきっていましたの。」
「それはまったく不思議ですね、奥さん、」不器用に腰をおろしながら、ミーチャはこう言った。「しかし……僕は非常に重大な用件で伺ったのです。重大な中でも重大な用件で……しかし、奥さん、それは僕にとって、僕一人だけにとって重大なのです。しかも、火急を要する……」
「ええ、非常に重大な用件でいらしったのです、承知してます。それは予感などという問題じゃありません、保守的な奇蹟の要求でもありません(あなたゾシマ長老のことをご存じですか)。これは、これは数学の問題なんです。なぜって、カチェリーナさんにあんなことが起ったあとで、あなたがいらっしゃらないはずがないんですもの、ええ、はずがありません、はずがありません。それは数学的に明瞭です。」
「現実生活のレアリズムです、奥さん、これなんです! しかし、どうぞ一通り……」
「まったくレアリズムですの、ドミートリイさん。わたしは今すっかりレアリズムの味方です。わたし今まであんまり奇蹟などということを教え込まれていたものですから……あなたゾシマ長老のなくなられたことをご存じですか?」
「いや、今が聞き始めです、奥さん、」ミーチャはちょっと驚いた。彼の頭にはちらとアリョーシャの姿がひらめいた。
「けさ夜の明けないうちでした。それに、どうでしょう……」
「奥さん」とミーチャは遮った。「僕はいま自分が非常な絶望におちいって、もしあなたが助けて下さらなかったら、何もかもがらがらになってしまう、まず誰よりも自分がまっさきにがらがらになってしまう、ということだけしか考えられないのです。言い廻しの卑俗なのはお赦し下さい。僕は夢中なのです。熱病にかかってるのです……」
「知ってます、知ってます。あなたは熱病にかかってらっしゃるんです、わたし何でも知ってます。あなたはそれよりほかの心持になれないんですよ。あなたのおっしゃることは、何でも初めからわかっています。わたし前《ぜん》からあなたの運命を気にかけていましたの、ドミートリイさん、あなたの運命から目を放さないで研究していますの……ええ、まったくのところ、わたしは経験のある魂の医者ですからね。」
「奥さん、あなたが経験のある医者でしたら、僕はその代り経験のある患者です」とミーチャはやっとの思いでお愛想を言った。「もしあなたが僕の運命を研究して下さる以上、滅亡に瀕しているその運命を助けても下さるだろう、というような気がします。しかし、そのためには、僕の計画を一通り話さしていただきたいのです。実はその計画をお勧めしようと思って、大胆にもお宅へ伺ったようなわけなんです……それに、あなたから期待していることも聞いていただきたいので……僕が伺いましたのはね、奥さん……」
「話さないでおおきなさい、それは第二義にわたりますわ。わたしが人を助けるのは、あなたが初めてじゃありません。あなたはたぶんわたしの従妹のベリメーソヴァをご存じでしょう。あれのつれあいが破滅に瀕した時、――あなたの適切なお言葉を借りると、がらがらになりかけた時、どうしたとお思いになります? わたしが馬匹飼養を勧めてやったので、今では立派に栄えております。あなた馬匹飼養の観念を持ってらっしゃいますか、ドミートリイさん?」
「ちっとも持っていません、奥さん、――ええ、奥さん、ちっとも持っていません!」とミーチャは神経的にいらいらしながら叫んで、ちょっと席を立とうとした。「お願いですから、一通り聞いて下さい。たった二分間だけ自由な物語の時を与えて、まず最初に僕の来訪の目的たる計画を、すっかり話さして下さい。それに、僕は時間が必要なのです、非常に忙しいのです……」すぐにまた夫人が口を出しそうな気配を感じたので、相手を呶鳴り負かそうという意気ごみで、ミーチャはヒステリックにこう叫んだ。「僕は絶望のあまりにこちらへ伺ったのです……絶望のどん底に落ちてしまったので、奥さんから金を三千ルーブリだけ拝借しようと思って伺ったのです。しかし、奥さん、確実な、確実この上ない抵当があるのです。確実この上ない保証があるのです! お願いですから一通り……」
「そんなことはあなたあとで、あとで!」とホフラコーヴァ夫人も負けないで手を振った。「それにさきほども申したとおり、あなたのおっしゃることは、何でも前から知り抜いていますの。あなたは幾らかのお金がほしい、三千ルーブリのお金が入り用だとおっしゃいますが、わたしもっとたくさんさし上げます、数えきれないほどたくさんさし上げます。わたしあなたを助けて上げますわ、ドミートリイさん。けれど、わたしの言うことを聞いて下さらなくちゃなりませんよ!」
 ミーチャはまたもや椅子から跳りあがった。
「奥さん、本当にあなたはそんなにご親切なのでしょうか!」と彼は異常な感激をこめて叫んだ。「有難う、あなたは僕を救って下さいました。あなたは人間ひとりを不自然な死から、ピストルから救って下すったのです……僕は永久に感謝いたします……」
「わたし三千ルーブリよりかずっとたくさん、数えきれないほどたくさんさし上げます!」とホフラコーヴァ夫人は輝くような微笑を浮べて、ミーチャの歓喜を眺めながら叫んだ。
「数えきれないほど? しかし、そんなには必要がないのです。僕にとってなくてかなわぬのは、あの恐ろしい三千ルーブリです。そこで、僕のほうでも無限の感謝をもって、その金額に対する保証をするつもりでおります。ほかではありません、僕はある計画を提供したいと思います、それは……」
「たくさんですよ、ドミートリイさん、言った以上は必ずいたします。」われこそ慈善家だという無邪気な誇りをいだきながら、夫人は断ち切るような調子でこう言った。「わたしあなたをお助けすると言った以上、必ず助けてお目にかけます。わたしはベリメーソフと同じように、あなたもやはりお助けしますわ。あなた金鉱のことを何とお考えになります、ドミートリイさん?」
「金鉱ですって、奥さん! 僕そんなことは一度も考えたことがありません。」
「そのかわり、わたしがあなたに代って考えて上げました! 考えて考えて、考え抜きましたの! わたしもうまる一月の間、この目的をもって、あなたを観察しておりました。わたしは幾度も、あなたがそばを通りなさるところを見ましてね、ああ、この人こそ金鉱へ行くべき精力家だと、繰り返し繰り返し考えましたの。わたしはあなたの歩きっぷりを研究して、この人はきっとたくさんの金鉱を発見するに相違ないと決めました。」
「歩きっぷりでわかるんですか、奥さん?」ミーチャは微笑した。
「ええ、そりゃ歩きっぷりだってね。では、何ですの、ドミートリイさん、あなたは歩きっぷりで性格が知れるという意見を、否定なさるんですか? 自然科学でも、同じことを確認してるじゃありませんか。おお、わたしは現実派です。ドミートリイさん、わたしは今日から、――あの僧院の出来事のために心をめちゃめちゃに掻き乱されてから、すっかり現実派になってしまいました。わたしは実際的な事業に身を投じたいと思いますの、わたしの痼疾は癒されました。ツルゲーネフの言ったように、足れり!([#割り注]ツルゲーネフの厭世的思想を盛った詩的散文『足れり!』を指す[#割り注終わり])ですわ!」
「しかし、奥さん、あなたが寛大にも僕に貸してやろうと約束なさいました、あの三千ルーブリは……」
「そりゃあなた大丈夫ですよ、ドミートリイさん」と夫人はすかさず遮った。「その三千ルーブリはあなたのかくしに入ってるも同然ですよ。しかも、三千ルーブリやそこいらでなくて、三百万ルーブリですよ。おまけにごく僅かな間ですよ! わたしあなたの理想をお教えしましょう。あなたは金鉱を捜し当てて、何百万というお金を儲けた上、こちらへ帰っていらっしゃるのです。そうして、立派な事業家になって、わたしたちを導いて下さるのです。善行へ向けて下さるのです。一たいすべての事業をユダヤ人まかせにしてよいものでしょうか? いえ、あなたはたくさんの建物を起して、いろいろな事業をお企てなさいます。貧民に助力をして、彼らの祝福を受けるようにおなんなさいます。現代は、鉄道の時代でございますからね、ドミートリイさん。あなたは世間に名を知られて、大蔵省になくてならない人物におなんなさいます。大蔵省はいま非常に人材を要求していますからねえ。わたしは露国紙幣の下落が苦になって、夜も寝られませんの、この方面からわたしを知っている人は、少うございますがね……」
「奥さん、奥さん!」一種不安な予感をいだきながら、ふたたびドミートリイは遮った。「僕は悦んで、心から悦んであなたのご忠告に、――分別あるご忠告にしたがうでしょう、――奥さん……僕は本当にそこへ……その金鉱へ出かけて行くでしょう……そのご相談にはまた一ど出直してまいります……いや、幾たびでもまいります。しかし今は、あなたが寛大にも僕に約束して下すったあの三千ルーブリを……ああ、それさえあれば僕は自由になれるのです、もしできるなら今日にも……つまり、その、僕はいま一時間も猶予ができないのです、まったく一時間も……」
「たくさんですよ、ドミートリイさん、たくさんですよ!」と夫人は執念く遮った。「問題はただ一つです。あなた金鉱へいらっしゃいますか、いらっしゃいませんか、十分なご決心がつきましたか、数学的なご返事を伺いましょう。」
「行きますよ、奥さん、あとで……僕はどこでもお望みのところへ行きます、奥さん……しかし今は……」
「ちょっと待って下さい!」と叫んで夫人は飛びあがり、たくさんな抽斗のついた、見事な事務テーブルへ駆け寄って、恐ろしくせかせかした様子で何やら捜しながら、一つ一つ抽斗を開け始めた。
『三千ルーブリ!』ミーチャは心臓のしびれるような心持でこう考えた。『しかも、今すぐ、何の書面も証文も書かないで……おお、これこそ実に紳士的態度だ! 見上げた婦人だ、ただあれほどお喋りでなかったらなあ……』
「これです!」と夫人はミーチャのところへ戻って来ながら、嬉しそうにこう叫んだ。「これですの、わたしが捜してたのは!」
 それは紐のついた小さい銀の聖像で、よく肌守りの十字架と一緒に体へつけるような種類のものであった。
「これはキーエフから来たものでしてね、」夫人はうやうやしげに語をついだ。「大苦行者聖ヴァルヴァーラの遺物なんですの。どうかわたし自身に、あなたのお頸へかけさして下さい。それで新しい生涯と新しい功績に向おうとする、あなたを祝福することになりますからね。」
 こう言って、夫人は本当にその聖像を頸にかけ、それをきちんと嵌めようとするのであった。ミーチャはすっかり面くらって体を前へ屈めながら、夫人の手伝いを始めた。やっとのことで、彼はネクタイとシャツの襟のあいだを通して聖像を胸へ下げた。
「さあ、これでいつでも出発できます!」得々たるさまでふたたびもとの席へ坐りながら、ホフラコーヴァ夫人はこう言った。
「奥さん、僕は実に嬉しくてたまりません……そのご親切に対して……何とお礼を言っていいかわからないほどです。しかし……ああ、いま僕にとってどれくらい時間が貴重なのか、それがおわかりになったらなあ!………いま僕が、あなたのあの寛大なお言葉に甘えて、こうして待ちかねているその金は……ああ、奥さん、あなたはそんなにご親切な方で、感謝の言葉もないほど寛大にして下さるのですから(ミーチャは感激のあまり突然こう叫んだ)、いっそもう打ち明けてしまいましょう……もっとも、あなたはとっくにご存じのことですが……僕はこの町に住むある者を愛しているのです……で、僕はカーチャに背きました……いや、僕はカチェリーナさんと言うつもりだったのです……ああ、僕はあのひとに対して、不人情で不正直でした。しかし、ここへ来て別な……一人の女を愛し始めたのです。あなたはその女を軽蔑しておいでかもしれません。なぜって、あなたはもう何でもご承知ですからね。しかし、僕はどうしても、どうしてもその女を棄てることができません。そのためにいま三千ルーブリの金が……」
「何もかも、棄てておしまいなさい、ドミートリイさん!」恐ろしく断乎たる調子で夫人は遮った。「棄てておしまいなさい、ことに女をね。あなたの目的は金鉱にあるのですから、そんなところへ女なぞ連れて行く必要はありません。後日あなたが富と名誉に包まれて帰っていらっしゃる時、あなたはご自分の心の友を上流社会に発見なさるでしょう。それは知識があって、偏見のない、現代的な令嬢です。いま頭を持ちあげはじめた婦人問題が、ちょうどその頃に成熟するでしょうから、新しい女も出て来るに相違ありません……」
「奥さん、それは別な話です、別な話です……」ミーチャは手を合せて拝まないばかりであった。
「いいえ、それなんですよ。あなたに必要なのはそれなんですよ。あなたがご自分でも意識しないで渇望してらっしゃるのは、つまりそれなんですよ。わたしだって、今の婦人問題にまるっきり縁がなくもないんですの、ドミートリイさん。婦人の発展につれて、最も近い将来に婦人が政治上の権力をも得る、というのがわたしの理想なんですの。わたし自身にも娘がありますからね、ドミートリイさん。ところが、この方面からわたしを知っている人はあまりありません。わたしはこの問題について文豪シチェドリン([#割り注]サルトウィコフ、一八二六―八九年、有名な諷刺文学者[#割り注終わり])に手紙を送ったことがありますの。この文豪は婦人の使命について、実に実に多くのことを教示してくれたので、わたしは去年、二行の手紙を無名で送りました。それはね、『わが文豪よ、現代の婦人に代りて君を抱擁接吻す、なおつづけたまえ』というんですの。そして署名は、『母より』としました。『現代の母より』としようかとも思って、しばらく迷ったんですけれど、ただ母だけにしてしまいました。そのほうに精神的の美がより多くありますからね、ドミートリイさん。それに、『現代』という言葉が雑誌の『現代人』を思い出させます、これは今の検閲の点から見て、あの人たちには苦い記憶ですものねえ……あらまあ、あなたはどうなすったんですの?」
「奥さん、」とうとうミーチャは跳りあがって、力ない哀願を表するために、夫人の前に両の掌を合せた。「あなたは僕を泣きださせておしまいになります、奥さん。もしあなたがああして寛大にお約束なすったことを、いつまでものびのびになさいますと……」
「お泣きなさい、ドミートリイさん、お泣きなさい! それは美しい感情ですよ……あなたはこれから長い旅路にのぼる人ですからね! 涙はあなたの心を軽くしてくれます。後日お帰りになってから、お悦びなさる時がありますよ。本当にわたしと悦びを頒つために、わざわざシベリヤから駆けつけていただきとうございますね……」
「しかし、僕にも一こと言わせて下さい。」突然ミーチャは声を張り上げた。「最後にもう一度お願いします。どうか決答をお聞かせ下さい、一たいお約束の金額はきょういただけるのでしょうか? もしご都合がわるければ、いついただきにあがったらいいのでしょう?」
「金額と申しますと?」
「お約束の三千の金です……あなたがああして寛大に……」
「三千? それはルーブリですの? いいえ、ありません、わたしに三千のお金はありません。」妙に落ちつきすました驚きの調子で、ホフラコーヴァ夫人はこう言った。ミーチャは、全身しびれるような思いがした……
「どうしてあなた……たった今あなたが、その金は僕のかくしに入ってるも同じことだ、とおっしゃったじゃありませんか……」
「おお、違います、あなたはわたしの言葉を間違えて解釈なすったのです、ドミートリイさん。もしそんなことをおっしゃるなら、あなたはわたしを理解なさらなかったのですよ。わたしは鉱山のことを言ったんですの……まったくわたしは三千ルーブリよりずっとたくさん、数えきれないほどたくさんお約束しました、今すっかり思い出しました。けれども、あれはただ金鉱を頭において言ったことなんですの。」
「で、金は? 三千ルーブリは?」とミーチャは愚かしい調子で叫んだ。
「おお、もしあなたがお金というふうにおとりになったのでしたら、それはわたし持ち合せがありませんの、わたし今ちょうど少しも持ち合せがありませんの、ドミートリイさん。わたし今ちょうど支配人と喧嘩をしているところでしてね、わたし自身でさえ二三日前にミウーソフさんから、五百ルーブリ拝借したような始末ですの、ええ、ええ、本当にお金は持ち合せがありません。それにねえ、ドミートリイさん、よしんば持ち合せがあるにもせよ、わたしご用立てしなかったろうと思いますわ。第一、わたし誰にもご用立てしないんですの、お金を貸すってことは、つまり喧嘩をするということになりますからねえ、ことに、あなたにはよけいご用立てしたくないんですの、あなたを愛していればこそ、ご用立てしないのです、あなたを助けたいと思えばこそ、ご用立てしないのです。だって、あなたに必要なのは、ただ一つきりですもの、――鉱山です。鉱山です、鉱山です!………」
「ええ、こん畜生!………」ふいにミーチャは唸るようにこう言って、力まかせに拳固でテーブルを叩いた。
「あら、まあ!」とホフラコーヴァ夫人はびっくりして悲鳴を上げながら、客間の隅へ飛び退いた。
 ミーチャはぺっと唾を吐いて、足ばやに部屋を去り、家の外なる往来の暗闇へ飛び出した。彼は気ちがいのように自分の胸を叩きながら歩いた。それは二日前、最後にアリョーシャと暗い往来で出会った時、弟の前で叩いて見せたと同じ個所であった。胸のこの個所[#「この個所」に傍点]を叩くということが何を意味するか、またこの動作をもって何を示そうとしているか、――これは今のところ、世界じゅうで誰ひとり知るものもない秘密である。あの時、アリョーシャにすら打ち明けなかった秘密である。しかし、この秘密の中には、彼にとって汚辱以上のものがふくまれているのだ。もし三千ルーブリを手に入れて、カチェリーナに返済することによって、自分が良心の呵責を受けながら体に着けて歩いているこの汚辱を、胸の一個所から[#「一個所から」に傍点]取りはずさなかったら、たちまち破滅であり自殺であるようなものが、この秘密の中にふくまれているのだ。これは後になって十分読者に闡明されるであろう。とにかく、最後の望みの消え失せた今は、あれほど肉体的に強健であったこの男が、ホフラコーヴァ夫人の家を幾足も離れないうちに、とつぜん小さな子供のように、おいおいと泣きだしたのである。こうして彼は広場までやって来た。と、ふいに真正面から何ものかに突き当ったような気がした。それと同時に、誰やら小柄な、老婆らしいのが、金切り声を上げて喚いた。彼はこの老婆を危く突き倒すところであった。
「あれえ、あぶなく人を殺そうとしやがって! 何だって無鉄砲な歩き方をするんだい、乞食野郎!」
「おや、お前さんは?」暗闇の中に老婆の顔を見すかして、ミーチャはこう叫んだ。それは例のサムソノフの看病をしている老女中で、ミーチャは昨日よく目をとめて見たのである。
「まあ、あなたこそ思いがけない!」と老婆はまるで別人のような声で言った。「暗いものですから、どうも見分けがつきませんでね。」
「お前さんはクジマー・クジミッチの家に住み込んで、あの人の看病をしているんだね?」
「さようでございますよ、あなた、たった今プローホルイチのところへ用使いにまいりましてね……ですが、あなたは、やっぱり、どうもどなたやら思い出せませんが。」
「ちょっと訊きたいことがあるんだよ、お婆さん、アグラフェーナさんは今お前さんのところにいるかね?」もどかしさのあまりにわれを忘れて、ミーチャはこう言った。「さっきおれは自分であのひとを送って行ったんだが。」
「いらっしゃいましたよ、あなた。おいでになったと申しましても、ちょっと腰をおろしなすったきりで、すぐにお帰んなさいました。」
「何だって? 帰った?」とミーチャは叫んだ。「いつ帰ったんだ?」
「やはりあの時刻にお帰りになったのでございます。わたしどもにいらしったのは、ほんのちょっとの間でございますよ。旦那さまにちょいとした話をしてお笑わせになると、そのまま逃げ出しておしまいなさいました。」
「嘘をつけ、こん畜生!」とミーチャは呶鳴った。
「あーれまあ!」と老婆は喚いたが、もうミーチャは影も形も見えなかった。彼はまっしぐらにモローゾヴァの家をさして駆けだした。それはちょうどグルーシェンカが、モークロエヘ向けて出発した時刻で、まだ十五分とたっていなかった。フェーニャは、下働きをしている祖母のマトリョーナと台所に坐っていたが、とつぜん思いがけなく『大尉さん』が駆け込んだ。その姿が目に入ると、フェーニャは、あれえと叫んだ。
「喚くか?」とミーチャは呶鳴った。「あれはどこにいる?」
 しかし、恐ろしさのあまり気の遠くなったフェーニャが、まだ一ことも口をきかぬさきに、彼はいきなり、どうとその足もとにくず折れた。
「フェーニャ、後生だから教えてくれ。あのひとはどこにいるのだ?」
「旦那さま、わたしは何も存じません、ドミートリイさま、わたしは何も存じません。たとえ殺すとおっしゃっても、何も知らないのでございます」とフェーニャは一生懸命に誓った。「あなた、さっきご自分で、一緒にお出かけなすったじゃありませんか……」
「それからまた帰って来たのだ!………」
「いいえ、お帰りにはなりません、誓って申します、お帰りにはなりません!」
「嘘をつけ!」とミーチャは呶鳴った。「貴様のびっくりした顔つきを見ただけで、あれの在りかはちゃんとわかってる!……」
 彼はそのまま戸外《おもて》へ飛び出した。度胆を抜かれたフェーニャは、こんなにやすやすと欺きおおせたのを悦んだが、それはミーチャに暇がなかったためで、さもなくば自分も大変な目にあったのだということをよく承知していた。しかし、ミーチャは飛び出しながらも、ある思いがけない動作によって、ふたたびフェーニャとマトリョーナ婆さんを驚かした。ほかでもない、テーブルの上に銅製の臼があって、それに杵が添わっていた。それは長さ六寸ばかりの小さな銅の杵であった。ミーチャは駆け出しざま、片手で戸で開けながら、片手で臼から杵を引ったくって、脇のかくしへ押し込むと、そのまま姿を消したのである。
「あら大変だ、誰か殺す気なんだわ!」とフェーニャは両手を拍った。

[#3字下げ]第四 闇の中[#「第四 闇の中」は中見出し]

 彼はどこへ駆け出したのか? それは知れきったことである。『おやじの家でなくって、ほかにあれのいるところがない。サムソノフの家からまっすぐに親父のところへ走ったのだ。今となっては、もう疑う余地がない。あいつらの企らみも偽りも、すっかり見えすいている……』こういう想念が、嵐のように彼の頭を飛び過ぎた。マリヤの家の庭へはもう立ち寄らなかった。『あそこへ寄る必要はない。決してそんな必要はない……一さい他人を騒がせないようにしなくちゃ……それに、すぐ裏切りをして内通するからなあ……マリヤはあいつらの仲間に相違ない……スメルジャコフだってそうだ、みんな買収されてるんだ!』
 彼の頭にはまた別な考えが湧き起った。彼は横町を抜けて、フョードルの邸を大きく一周し、ドミートロフスカヤ街へ出て小橋を渡り、まっすぐに淋しい裏通りへ現われた。それはがらんとした、人気のない横町で、片側には隣家の菜園の編垣がつづき、片側にはフョードルの庭を囲む高い丈夫な塀が聳えている。ここで彼は一つの場所を選び出した。それはかつて|悪臭ある女《スメルジャーシチャヤ》リザヴェータが乗り越したのと同じ場所らしい。この話は彼も言い伝えによって知っていた。『あんな女でも越せたんだから、』どういうわけか、こんな想念が彼の頭をかすめた。『おれに越されないはずがない!』はたせるかな、彼は一躍して、巧みに塀の上部へ手をかけた。そして元気よく身を持ちあげて、ひらりと足をかけ、馬乗りに塀の上に跨った。庭の中には、ほど遠からぬ辺に湯殿があったが、あかりのついた母屋《おもや》の窓が塀の上からよく見えた。『やはりそうだ、親父の寝室にあかりがついてる、あれはここに来てるんだ!』彼は塀から庭へ飛びおりた。グリゴーリイもスメルジャコフも病気しているから(スメルジャコフの病気もあるいは本当かもしれぬ)、誰も聞きつけるものはないと承知していたけれど、彼は本能的に身をひそめて、一ところにじっと立ちつくしながら、耳をすまし始めた。しかし、死んだような沈黙があたりを領している上に、まるでわざとのように、そよとの風もない、闃《げき》として静かな夜であった。
『静寂の囁きのみぞ聞ゆなり。』なぜかこんな詩の一節が彼の頭をかすめた。『ただ誰かおれの塀を越すところを見たものがなければいいが。おそらくないように思うけれど……』一分間ほどじっと立ちつくしたのち、彼はそっと庭草を踏んで歩きだした。彼は自分で自分の足音に一歩一歩耳を傾けながら、足音を盗むようにして、木立や灌木を迂回しつつ、長いこと歩みつづけた。五分ばかりで、彼はあかりのついた窓の近くまでたどりついた。窓のすぐ下に背の高い、みっちりと茂った接骨木《にわとこ》や木苺の大きな藪が、幾つか立っているのを覚えていた。家の正面の左側についている、内部から庭へ通ずる出口の戸は、ぴったり閉っていた。彼はそばを通り過ぎるとき、ことさら気をつけて、このことに注意した。やっと、藪のところまでたどりついたので、彼はその陰に身をひそめて、じっと息をこらしていた。『今ちょっと待たなくちゃならん』と彼は考えた。『もしおれの足音を聞きつけて、いま聞き耳を立てているとしたら、あれは空耳であったと思わせるために……どうかして咳や嚔をしないように気をつけなくちゃ……」
 彼は二分間ばかり待ってみたが、胸の動悸が激しくて、ときどき息もとまりそうなほどであった。『駄目だ、動悸はやみゃしない』と彼は考えた。彼は藪の陰に立っていた。藪の前面は、窓からさすあかりにぱっと照らし出されている。『木苺よ、ほんに綺麗な苺の実!』何のためとも知らず、彼はこんなことを口ずさんだ。やがて一歩一歩、くぎるような静かな足どりで、そろっと窓に近よって、爪立ちをした。フョードルの寝室の様子は、まるで掌をさすように、まざまざと彼の眼前に展開せられた。それは、赤い衝立てで縦に端から端まで仕切られた、小さな部屋であった。フョードルはこの衝立てを『シナ出来』と呼んでいた。『シナ出来』という言葉がミーチャの頭をかすめた。『あの衝立ての向うにグルーシェンカがいるのだ。』彼はフョードルの姿を仔細に眺めはじめた。老人はまだミーチャの一度も見たことのない、新しい縞絹の部屋着を着て、房のついた同じ絹の紐を腰に巻いていた。部屋着の襟の陰からは清潔《きれい》な洒落たワイシャツ、オランダ製の細地のワイシャツが覗いて、金のカフスボタンが光っている。頭には、かつてアリョーシャが見たと同じ、赤い繃帯が依然として巻いてある。『洒落のめしてやがる』とミーチャは思った。
 フョードルは何やら考え込んでいるらしい様子で、窓のそば近く立っていたが、急にぶるっと首を振り上げて、心もち耳を傾けた。しかし、何一つ耳に入らないので、テーブルに近よって、ガラスの瓶から杯半分くらいコニヤクを注ぎ、ぐいと一息に飲み乾した。それから胸一ぱいの息をして、またしばらくじっと突っ立っていたが、やがて窓と窓の間にかけてある鏡のほうへふらふらと近づいて、例の赤い繃帯を右手でちょっと額から持ちあげ、まだ癒りきらない打身や痂を、と見こう見していた。『親父ひとりきりだ』とミーチャは考えた。『どうもひとりきりに相違ないようだ。』フョードルは鏡から離れると、急に窓のほうへ振り向いて、じっと見すかしはじめた。ミーチャはすばやく物陰へ飛びのいた。
『ことによったら、あれは衝立ての陰でもう寝てるのかもしれない。』彼はちくりと胸を刺されるような気がした。フョードルは窓を離れた。『親父が窓を覗いているのは、あれを見つけ出そうとしてるのだ。してみると、あれは来てないのだ。親父が暗闇の中を覗いてみるわけがないからな……つまり、焦躁に心を掻きむしられてるんだ……』ミーチャはさっそく窓のそばへ駆けよって、ふたたび室内を眺めはじめた。老人は屈託そうな様子をして、もうテーブルの前に坐っていた。そして、しまいには肘杖ついて、右の掌を頬にあてがった。ミーチャは貪るように見入るのであった。
『ひとりだ、ひとりだ!』と彼はまた断言した。『もしあれがここにいるのなら、親父はもっと違った顔つきをしてるはずだ。』奇妙なことではあるが、彼女がここにいないと思うと、とつぜん何かしら意味もない、奇怪な憤懣の情が彼の心に湧きだってきた。『いや、これはあれがいないからじゃない。』ミーチャは即座に自分で解釈して、自分に答えた。『つまり、あれが来てるか来てないか、どうしても確かにつきとめることができないからだ。』ミーチャの理性はこの瞬間なみはずれて明晰になり、一切のものをきわめて微細な点まで考量し、一点一画をも見おとすことなく取り入れた。しかし、焦躁が、未知と不定の焦躁が、計り知ることのできない速度をもって、彼の心に刻刻つのってゆくのであった。『一たいあれは本当にここにいるのかいないのか?』という疑いは、毒々しく彼の胸に煮え返るのであった。彼はとつぜん肚を決めて手をさし伸べ、ほとほとと窓の枠を叩いた。スメルジャコフと老人との間に決められた、合図のノックをしたのである。初めの二つを静かに、しまいの三つを少し早目に、とんとんとんと叩いた、――つまり、グルーシェンカが来たという知らせの合図である。老人はぎっくりして、ぶるっと首を振り上げると、すばやく飛びあがって窓のほうへ走りよった。ミーチャは物陰へ飛びのいた。フョードルは窓をあけて、頭をすっかり外へ突き出した。
「グルーシェンカ、お前か、お前なのか一たい?」と彼は妙に顫える声で、なかば囁くように言った。「どこにいるのだ、グルーシェンカ、これ、どこにいるのだ?」
 彼はむやみに興奮して、息を切らせていた。
『一人きりだ!』とミーチャは考えた。
「一たいどこにいるのだ?」と老人はふたたび叫んで、一そう首を外へ突き出した。彼は肩まで窓の外へ覗かせながら、きょろきょろと左右を見廻すのであった。「ここへおいで。わしはいい贈物を拵えて待っておったよ。おいで、見せてやるから!……」
『あれは、例の三千ルーブリの包みのことを言っているんだ。』こんな考えがちらとミーチャの頭にひらめいた。
「これ、どこにいるのだ?……戸のそばにでもいるのかな? すぐ開けてやるよ!」
 老人はもうほとんど窓から乗り出さないばかりの勢いで、庭に通ずる戸口のある右手を眺めながら、暗闇の中を見すかそうと骨折っていた。もう一瞬の後には、彼はグルーシェンカの返事も待たずに、必ず駆け出して戸を開けるに相違ない。ミーチャは脇のほうから身動きもしないで見つめていた。彼があれほど忌み嫌っていた老人の横顔、――だらりと下った喉団子、鉤なりの鼻、甘い期待の微笑を浮べた唇、これらすべてのものが、左のほうからさす室内のランプの斜めな光線に、くっきりと照らし出されたのである。恐ろしい兇暴な憎悪の念が、突然ミーチャの心に湧きたった。『あいつだ、あれがおれの競争者だ、あれがおれの迫害者だ、おれの生活の迫害者だ!』これは彼がかつてアリョーシャに向って、一種の予覚でも感じたかのように断言した憎悪、――突発的な復讐の念に充ちた、狂暴な憎悪の襲来であった。彼は四日まえ、四阿でアリョーシャと対談した時に『お父さんを殺すなんて、どうして、そんなことが言えるのです?』という弟の問いに対して、
『いや、おれにもわからない、自分でもわからない』と答えた。『もしかしたら、殺さないかもしれんし、またもしかしたら、殺すかもしれん。ただな、いざという瞬間に[#「いざという瞬間に」に傍点]、親父の顔が[#「親父の顔が」に傍点]急に憎らしくてたまらなくなりはしないか、とこう思って心配してるんだ。おれはあの喉団子や、あの鼻や、あの目や、あの厚かましい皮肉が憎らしくてたまらない、あの男の人物がいやらしいのだ。おればこれを怖れている。こればかりは抑えきれないからなあ。』
 こうした嫌悪の念がたえがたいまでにつのってきた。ミーチャはもはやわれを忘れて、ふいにかくしから銅の杵を取り出した。…………………………………………………………………………………………………………………………………………
『神様があのとき僕を守って下すったんだろう。』後になってミーチャは自分でこう言った。ちょうどそのとき、病めるグリゴーリイが、自分の病床で目をさましたのである。その日の夕方、彼はスメルジャコフがイヴァンに話した例の治療法を行った。つまり、何か強い秘薬を混じたウォートカを、妻の力を借りて全身にすり込んだ後、その残りを妻の念ずる祈祷とともに飲み干して、それから眠りについたのである。マルファもやはりその薬を飲んだが、元来いけぬ口とて、そのまま夫のかたわらで、死んだように寝込んでしまった。ところが、とつぜん思いがけなく、グリゴーリイは夜中に目をさました。一分間ばかり思案した後、恐ろしい痛みを腰の辺に感じたにもかかわらず、寝床の上に身を起した。それから、また何やら思いめぐらした末、立ちあがって手早く着替えをした。ことによったら、『こうした険呑な時』誰ひとり家の番をするものもないのに、自分は安閑として寝込んでいるといったような、良心の呵責に胸を刺されたのかもしれない。
 癲癇のために総身を打ちひしがれたスメルジャコフは、隣りの小部屋で身動きもせずに臥っている。マルファもぴくりともしなかった。『婆さん弱りこんどるな。』グリゴーリイは妻を見やってそう思った。そして、喉をくっくっと鳴らしながら、入口の階段へ出た。もちろん、彼はちょっと階段から様子を見るだけのつもりだった。というのは、腰ぜんたいと右足の痛みがたえがたくて、いっかな歩くことができなかったからである。しかし、ちょうどその時、彼は庭へ通ずる小門に、晩から鍵をかけないでいるのに気がついた。彼はこの上なく厳重で正確な男で、一定の規則と多年の習慣に凝り固っていたから、痛みのために跛を引いたり体を縮めたりしながら、階段を下りて庭のほうへ行った。はたして、小門はまるで開っ放しであった。彼は機械的に庭の中へ足を踏み入れた。それは、目に何か映じたのか、耳に物音が入ったのか、原因はよくわからないけれど、とにかく、ふと左手のほうを眺めると、主人の居間の窓が開いている。窓はがらんとして、もう誰もその中から覗いてはいなかった。
『どうして開いてるんだろう、もう夏でもないのに!』とグリゴーリイは考えた。
 と、ちょうどその瞬間、何やら異様なものが、彼の真向いにあたる庭の中を、突然ちらちら動きはじめた。彼のところから四十歩ばかり隔てた暗闇の中を、何か人間らしいものが駆け抜けていた。何かの影が非常な速さですっすっと動く。
「大変だ!」と言ってグリゴーリイは、腰の痛いのも忘れながら、曲者の行手を遮るつもりで、前後の考えもなく駆け出した。
 彼は近道をとった。見たところ、庭の案内は彼のほうが曲者よりもくわしいようであった。曲者は湯殿を目ざして走っていたが、やがて湯殿の向うへ駆け抜けて、塀に飛びかかった……グリゴーリイはその姿を見失わぬように跡をつけながら、われを忘れて走って行った。ちょうど曲者が塀を乗り越した瞬間に、彼は塀の下まで駆けつけたのである。グリゴーリイは夢中になって飛びかかり、両手で曲者の足にしかと絡みついた。
 案の定、予覚は彼を欺かなかった。曲者の見分けがついた。それはあの『ならず者の親殺し』であった。
「親殺し!」と老僕は近所合壁へ鳴り響くほど喚き立てた。
 しかし、彼が声を立て得たのはこれだけであった。突然、彼は雷にでも打たれたもののように、どうと倒れた。ミーチャはふたたび庭へ飛び下りて、被害者の上に屈み込んだ。ミーチャの手には銅の杵があったが、彼はそれを機械的に草の中へ投げ出した。杵はグリゴーリイから二歩ばかり離れたところへ落ちたが、それは草の中ではなく径の上の、最も目立ちやすい場所であった。幾秒かの間、彼は自分の前に倒れている老僕を仔細に点検した。老僕の頭はすっかり血みどろであった。ミーチャは手を伸ばして触ってみた。彼はそのとき、老人の頭蓋骨を割ってしまったのか、それともただちょっと杵で額を傷つけたばかりか、『十分に確め』たかったのである。これは、彼自身あとになってはっきり思い起した。けれど、血はだくだくと止め度なく噴き出して、その熱い流れはたちまちミーチャの慄える指を染めてしまった。彼はホフラコーヴァ夫人訪問の際に用意した、白い新しいハンカチをかくしから取り出して、老人の頭へ押しあてながら、額や顔から血を拭きとろうと無意味な努力をした(これもあとから思い出したことである)。しかし、ハンカチも見る見るずぶずぶに濡れてしまった。
『ああ、何のためにこんなことをしてるんだ?』ミーチャはふいとわれに返った。『もし割ってしまったとしても、今それを確めるわけにゆきゃしない……それに、もうこうなったら同じことじゃないか?』とつぜん絶望に充ちた心もちで、彼はこうつけたした。『殺したものは殺したのさ……運の悪いところへ爺さんが来あわしたのだ、じっとそこに臥てるがいい!』と大きな声で言って、彼はいきなり塀に跳りかかり、横町へひらりと飛びおりると、そのまままっしぐらに駆け出した。
 彼は血でずぶずぶになったハンカチを丸めて、右手に握っていたが、走りながらフロックのうしろかくしへ押し込んだ。彼は飛ぶように走った。その夜まっ暗な往来で、まれに彼に行きあった幾人かの通行人は、猛烈な勢いで走り過ぎた男があったことを、後になって思い出した。彼はふたたびモローゾヴァの家をさして飛んで行ったのである。さきほどフェーニャは、彼の立ち去ったすぐあとで、門番頭のナザールのところへ飛んで行き、『後生一生のお願いだから、あの大尉さんを今日も明日も、決して通さないでちょうだい』と哀願した。ナザールは様子を聞いて、さっそく承知したけれど、運わるく二階の奥さんに呼ばれて、ちょっとそのほうへ出かけた。その途中で、つい近ごろ田舎から出たばかりの甥、二十ばかりの若者に出会ったので、代りに門の番をするように言いつけたが、大尉さんのことはすっかり忘れてしまった。門のそばまで駆けつけたミーチャは、どんどん戸を叩き始めた。若者はすぐに彼の顔を見分けた。ミーチャが一度ならずこの若者に茶代を与えたからである。若者は、早速くぐりを開けて中へ通し、陽気な微笑を浮べながら、『アグラフェーナさまはいまお留守ですよ』と警戒するような調子で急いでこう知らせた。
「どこへ行ったんだい、プローホル?」とミーチャはとつぜん足をとめた。
「さっき二時間ほど前に、チモフェイの馬車でモークロエヘおいでになりました。」
「何しに?」とミーチャは叫んだ。
「そりゃわかりませんなあ。何でも、将校とやらのところですよ。誰だか奥さまに来いと言って、そこから馬車をよこしましたんで……」
 ミーチャは若者をうち捨てて、気ちがいのように、フェーニャのもとをさして駆け出した。

[#3字下げ]第五 咄嗟の決心[#「第五 咄嗟の決心」は中見出し]

 フェーニャは祖母と一緒に台所におった。二人とも寝支度をしているところであった。彼らはナザールを頼みにして、今度も内から戸締りをしないでいた。ミーチャは駆け込むやいなや、フェーニャに跳りかかって、しっかりとその喉を抑えた。
「さあ、すぐ白状しろ、あれはどこにいる、いま誰と一緒にモークロエにいるのだ?」と彼は前後を忘れて叫んだ。
 二人の女はきゃっと声を立てた。
「はい、申します、はい、ドミートリイさま、今すぐ何もかも申します、決してかくし立てはいたしません。」死ぬほど驚かされたフェーニャは早口にこう言った。「奥さまはモークロエの将校さんのところへおいでになりました。」
「将校さんて誰だ?」ミーチャは猛りたった。
「もとの将校さんでございます、あのもとのいい人でございます。五年まえに奥さんを棄てて行ってしまった……」依然たる早口でフェーニャはべらべらと喋った。
 ミーチャは女の喉を絞めていた手をひいた。彼は死人のような蒼い顔をして、言葉もなくフェーニャの前に立っていたが、その目つきで見ると、彼が一瞬にしてすべてを悟ったことが察しられた。彼は一ことも聞かないうちに一切のことを、ほんとうに一切のことを、底の底までも悟ったのである。何もかも見抜いたのである。しかし、哀れなフェーニャは、この瞬間かれが悟ったか悟らないか、そんなことを詮議している余裕はなかった。彼女はミーチャが駆け込んだ時、箱の上に坐っていたが、今もやはりそのままの姿勢で全身を慄わせながら、わが身を庇おうとするかのように、両手をさし伸べていた。彼女はその姿勢のままで、化石になったように見えた。そうして、恐怖のために瞳孔のひろがったような慴えた目で、じっと食い入るように彼の顔を見つめていた。ミーチャは恐ろしい形相に、かてて加えて両手を血だらけにしているではないか。おまけに、走って来る途中、額の汗を拭くのにその手で顔に触ったと見え、額にも右の頬にも血の痕が赤くついていた。フェーニャは、今にもヒステリイが起りそうになった。下働きの老婆は席から跳りあがったまま意識を失って、気ちがいのような顔つきをして立っていた。ミーチャは一分間ほどぼんやり立っていたが、とつぜん機械的にフェーニャの傍らなる椅子に腰をおろした。
 彼はじっと坐ったまま、何か思いめぐらしている、というよりも、何かこう非常に驚いて、ぼうとなったというようなふうであった。しかし、一切は火を見るよりも明らかである。あの将校なのだ、――自分はこの男のことを知っていた、何もかもようく知っていた、当のグルーシェンカから聞いて知っていた、一月前に手紙の来たことも知っていたのだ、つまり、一月、まる一月の間、今日この新しい男の到着するまで、このことは深く自分に隠して運ばれていたのだ。それだのに、自分はこの男のことを夢にも考えないでいた! 一たいどうして、本当にどうしてこの男のことを考えずにいられたのだろう? どうしてあのとき造作もなく、この男のことを忘れたのだろう? 知ると同時に忘れたのだろう? これが彼の面前に、奇蹟かなんぞのように立ち塞がっている問題であった。彼は真に慄然として、身うちの寒くなるのを覚えながら、この奇蹟を見まもるのであった。
 が、急に彼はおとなしい、愛想のいい子供のような調子で静かにつつましく、フェーニャに向って話しかけた。たったいま自分がこの女を驚かし、辱しめ、苦しめたことは、まるで忘れてしまったようなふうであった。とつぜん彼は、今のような状況にある人としては不思議なくらい、極度に正確な調子で、フェーニャにいろいろと訊きはじめた。またフェーニャも、彼の血みどろな手をけげんそうに見つめてはいたけれど、同様に不思議なほど気さくな調子で、一つ一つの質問に対してはきはき答えるばかりか、かえって少しも早く『正真正銘の』事実を、洗いざらい吐き出そうとするかのようであった。彼女はこまごまとしたすべての事実を物語るのに、次第に一種の快感を感じはじめた。しかも、それは決して彼を苦しめようという心持のためでなく、むしろできるだけ彼のためにつくそうと、あせっているからであった。彼女はきょう一日の出来事を細大もらさず話して聞かせた。ラキーチンとアリョーシャが訪ねて来たことから、彼女、フェーニャが見張りに立っていたこと、女主人が出立した時の模様、それからグルーシェンカが窓からアリョーシャに向って、ミーチャによろしく言ってくれ、そして『わたしがあの人をたった一とき愛したことを、生涯おぼえてるように言ってちょうだい』と叫んだことなど物語った。ミーチャによろしくと聞いた時、彼はとつぜん薄笑いをもらした。と、その蒼ざめた頬にさっとくれないが散った。その時フェーニャは、自分の好奇心に対するあとの報いなど、少しも恐れずにこう言った。
「まあ、あなた何という手をしてらっしゃるのでしょう、ドミートリイさま、まるで血だらけじゃございませんか!」
「ああ。」ぼんやりと自分の手を見廻しながら、ミーチャは機械的に答えたが、その手のこともフェーニャの問いも、すぐに忘れてしまった。
 彼はまた沈黙におちいった。ここへ駆け込んでから、もう二十分ばかりたった。さきほどの驚愕は鎮まりはてて、その代り何かしら新しい確固たる決心が、彼の全幅を領したようなふうつきであった。とつぜん彼は席を立って、もの思わしげに微笑した。
「旦那さま、一たいあなたはどうなすったのでございます?」またもや彼の手を指さしながら、フェーニャはこう言った。その調子には深い同情が籠っていて、まるで今の彼の不幸を慰めるべき、きわめて親身な人間かなんぞのように思われた。ミーチャはふたたび自分の両手を眺めた。
「これは血だ、フェーニャ、」奇妙な表情をして相手を見つめながら、彼は言った。「これは人間の血だ。ああ、何のために流した血だろう? しかし、フェーニャ、ここに一つの塀がある(彼は謎でもかけるような目つきで女を眺めた)、それは高い塀だ、そして見かけはいかにも恐ろしい、しかし……あす夜があけて『太陽が昇ったら』、ミーチェンカは、この塀を飛び越すのだ……フェーニャ、お前はどんな塀だかわからないだろう。いや、何でもないんだよ……まあ、どっちでもいい、明日になったら噂を聞いて、なるほどと思うだろう……今日はこれでさようならだ! おれは邪魔なんかしない、道を譲る。おれにだって道を譲ることができるよ。わが悦びよ栄えあれ……たった一ときおれを愛してくれたそうだが、そんならミーチェンカ・カラマーゾフを永久に憶えておってくれ……なあ、おい、おれはおれのことをミーチェンカと言ってたなあ、覚えてるだろう?」
 この言葉とともに、彼はいきなり、台所をぷいと出てしまった。フェーニヤはさきほど彼が駆け込んで自分に飛びかかった時よりも、こうした出方に一そう驚かされたのである。
 ちょうど十分の後、ミーチャはさきほどピストルを質入れした若い官吏、ピョートル・イリッチ・ペルホーチンの家へ入った。それはもう八時半であった。ペルホーチンは茶を飲み終って、料理屋の『都』へ玉突きに行くつもりで、たった今フロックを着直したばかりであった。ミーチャはその出立ちを抑えたのである。こっちはその姿を――血に汚れた顔を見るやいなや、思わず声をつつ抜けさした。
「おやっ! 君はまあ、どうしたんです?」
「あのね」とミーチャは早口に言いだした。「僕はさっきのピストルをもらいに来たんです。金も持って来ました。どうも有難う。僕いそぐんですからね、ピョートル・イリッチ、どうか早くして下さい。」
 ペルホーチンはますます驚きを深くするばかりであった。ミーチャの手に、一束の紙幣《さつ》が握られているのに気がついたのだ。が、何より不思議なのは、彼がこの金を握ったまま入って来たことである。こんなふうに金を握ったまま入って来る人はどこにもない。しかも、その紙幣をみんな右手で一握りにして、さも自慢らしく前のほうへさし出しているではないか。控え室でミーチャを出迎えたこの家のボーイは、彼が金を持ったまま控え室へ入って来た旨を、後になって話したが、これによってみると、彼は往来でもやはり金を握った右手を、前のほうへさし出しながら歩いたものらしい。金はみんな虹色をした百ルーブリ紙幣であった。彼はそれを血みどろの指で挾んでいたのである。ずっと後になって、当路の人たちが、金はどれくらいあったかと訊いた時、ペルホーチンはこう答えた、――あの時は目分量で勘定することはできなかったけれど、二千ルーブリか、ことによったら三千ルーブリ、とにかく大きな『かなり厚みのある』束であった。
 当のミーチャが同様にあとで申し立てたところによると、『あの時はほんとうに正気づいていないらしかったけれども、決して酔ってはいない。ただ何となく有頂天になってしまって、恐ろしくそわそわしていながらも、それと同時に、心が一ところに集注されているようであった。つまり、何やらしきりに考えようとあせっているくせに、どうしても解決することができない、といったようなあんばいであった。非常に心がせかせかしていたから、返事の仕方も奇妙に角立って、どうかすると、悲しい目にあったというようなところは少しもなく、かえって愉快そうに見えたほどである。』
「え、一たい君はどうしたんです、本当に今日はどうしたんです?」ペルホーチンはきょろきょろと客を見廻しながら、ふたたびこう叫んだ。「どうしてそんなに血みどろになったんです。転ぶかどうかしたんですか、まあ、ごらんなさい!」
 彼は相手の肘を掴まえて、鏡の前へ立たした。ミーチャは血で汚れた自分の顔を見ると、ぶるっと身を慄わして、腹立たしげに眉をしかめた。
「ええ、畜生! まだその上にこんな……」と彼はにくにくしげに呟いて、手早く紙幣を右から左の手へ持ちかえると、痙攣的にかくしからハンカチを引っ張り出したが、ハンカチもやはり血みどろで(これは例のグリゴーリイの頭や顔を拭いたハンカチである)、ほとんど一点として白いところはなかった。そして、生乾きどころでなく、もうすっかり一塊に固ってしまい、ひろげようとしても容易にひろがらなかった。
 ミーチャはにくにくしげにそれを床へ叩きつけた。
「ええ、こん畜生! 君、何か切れはありませんか……ちょっと拭きたいんだが……」
「じゃ、君、汚れただけで傷をしたのじゃないんですね! それなら、いっそ洗い落したほうがいいでしょう」とペルホーチンは答えた。「さあ、ここに洗面器があります、これを貸しましょう。」
「洗面器? それはいい……しかし、こいつをどこへおいたもんでしょうね?」何だかひどく奇怪な当惑の色を浮べながら、相談するようにペルホーチンの顔を眺めつつ、ミーチャは例の百ルーブリ札の束を指さした。まるでペルホーチンが彼の金の置き場を決める義務でもあるかのように。
「かくしへお入れなさい。それとも、このテーブルヘのせといてもいいでしょう。なくなりゃしませんよ。」
「かくしへ、そうかくしがいい。これでよしと……いや、何してるんだ、こんなことはつまらんこった!」急にぼんやりした心持からさめて、こう叫んだ。「ねえ、君、まず初めにあのことを、ピストルのことを片づけようじゃありませんか。あれを僕に返して下さいな。これが君の金です……実は非常に、非常に入用なことができてね……それに時間がないんです、本当にこれっからさきもないんです……」
 彼は束の中から一番上の百ルーブリ札を取って、若い官吏にさし出した。
「ところが、僕のところにも釣銭《つり》がないでしょう」とこちらは言った。「君、細かいのを持ってませんか?」
「ありません」とミーチャはもう一ど束をちらと見てこう答えた。そして、自分の言葉に自信がないらしいふうで、指をもって上のほうから二三枚めくって見た。「ありません、みんなこんなのです」とつけたして、彼はもう一ど相談するようにペルホーチンを見やった。
「一たい君はどこでそんな金を儲けたんです?」こっちはこう訊ねた。「お待ちなさい、僕はうちのボーイをプロートニコフの店へやってみます。あそこの家は遅くまで店を開けているから、――ひょっとしたら替えてくれるかもしれません。おい、ミーシャ」と彼は控え室のほうを向いてこう叫んだ。
「プロートニコフの店へ――名案でしたね!」ミーチャはある想念に心を照らされたように叫んだ。「ミーシャ」と彼は入り来る少年に向って、「お前ひとつ、プロートニコフの店へ走って行って、ドミートリイ・カラマーゾフがよろしくって、それから今すぐ自分で出かけるからと、そう言ってくれないか……それから、まだある、いいかい、――僕が行くまでにシャンパンを、そうだなあ、三ダースばかり用意して、いつかモークロエヘ行った時のように、ちゃんと馬車に積み込んでおけってね……僕はあの時あそこの店で四ダース買ってやったんですよ(と彼は急にペルホーチンのほうへ向いてこう言った)。――あそこじゃよく知ってるから、心配することはないよ、ミーシャ」と彼はまたボーイのほうへ振り向いた。「それから、いいかい、チーズに、ストラスブルクのパイに、燻製の石斑魚《シーダ》に、ハムにイクラに……いや、もうみんなみんな、あそこの店にありったけ注文してくれ。そうだな、百ルーブリか百二十ルーブリか、つまり、この前の時と同じくらいあればいいんだ……それから、いいかい、お土産物も忘れないようにな、菓子に、梨に、西瓜を二つか三つか、それとも四つ――いや、西瓜は一つでたくさんだ。それからチョコレートに、氷砂糖に、果物入氷砂糖《モンパンシエ》に、飴に――いや、あの時モークロエヘ積んで行ったものは、すっかりいるんだ。シャンパンを入れて三百ルーブリくらいもあったろう……つまり、今度もあの時と同じにしたらいいのだ。いいか、よく覚えて行くんだぞ、ミーシャ、お前ミーシャといったっけなあ……この子はミーシャというんでしたね?」ふたたび彼はペルホーチンのほうへ振り向いた。
「まあ、お待ちなさい。」不安げに彼の言葉を聞き、彼の様子を眺めていたペルホーチンは、こう遮った。「君いっそ自分で出かけて、自分で注文したほうがいいでしょう。でないと。[#「でないと。」はママ]こいつでたらめを言いますからね。」
「でたらめを言います、まったくでたらめを言いそうです! おい、ミーシャ、おれはお前を使うかわりに、接吻してやろうと思ってたんだがなあ……もしでたらめを言わなかったら、お前に十ルーブリくれてやる、早く駆け出して来い………シャンパンが一ばん大事なんだぞ、シャンパンを積み出すようにな。それから、コニヤクも、赤葡萄酒も、白葡萄酒も、何もかもあの時のとおりだ……あそこの店ではもうちゃんと知ってる、あの時のとおりだ。」
「まあ、僕の言うことをお聞きなさい!」もうじりじりしながら、ペルホーチンは遮った。「こいつには、ただ一走り行って両替させて、まだ店を閉めずにおけと言わしたらいいでしょう。それから、君が出かけて、自分で言いつけるんです……その紙幣をお貸しなさい。さあ、ミーシャ、進めっ、おいちに!」
 ペルホーチンはわざと急いで、ミーシャを追い出したらしい。というのは、ボーイは客の前に出て来ると、血みどろの顔や、慄える指に紙幣《さつ》束を握っている真っ赤な両手を、目を皿のようにして眺めながら、驚きと恐れのために口をぽかんと開け、棒のように立ちすくんだまま、ミーチャの言いつけなどろくろく耳に入れていない様子だったからである。
「さあ、これから顔を洗いに行きましょう」とペルホーチンはきびしい調子で言った。「金はテーブルの上におくか、かくしへ入れるかおしなさい……そうそう、じゃ出かけましょう。しかし、フロックは脱いだほうがいいでしょう。」
 彼は自分でも手伝って、フロックを脱がせにかかったが、ふいにまた叫び声を上げた。
「ごらんなさい、フロックまで血になっていますよ!」
「これは……これはフロックじゃありませんよ。ただちょっと袖のところが……ああ、これはハンカチのはいったところです。かくしの中から滲み出したんですよ。僕はフェーニャのところで、ハンカチを下に敷いて坐ったもんだから、それで血が滲み出したんですよ。」何だか不思議なくらい呑気な調子で、ミーチャはすぐにこう説明した。
 ペルホーチンは眉をしかめながら聞いていた。
「とんでもないことをしたもんですね、きっと誰かと喧嘩したんでしょう」と彼は呟いた。
 やがて手水《ちょうず》にかかった。ペルホーチンは水差しをもって、水をそそぎ始めた。ミーチャはせかせかしていたので、手にろくろく石鹸をつけなかった(彼の手がぶるぶる慄えていたことを、ペルホーチンはあとで思い起した)。ペルホーチンはすぐに、もっとたくさん石鹸をつけて、もっと強くこするように命令した。このとき彼はミーチャに対して、一種の権力を握っているような工合で、それが先へ行くにしたがって、だんだんはっきりと認められた。ついでに言っておくが、この若い官吏はなかなか胆の据った男であった。
「ごらんなさい、まだ爪の下がよく洗えてないじゃありませんか。さあ今度は顔をおこすりなさい。それ、そこですよ、こめかみの上、耳のそば……一たいあなたはそのシャツを着て出かけるんですか? そして、どこへ行くんです? ごらんなさい、右袖の折り返しがすっかり血だらけになってますよ。」
「ええ、血だらけになっています。」シャツの袖の折り返しをと見こう見しながら、ミーチャは答えた。
「じゃ、シャツを替えませんか。」
「暇がないんですよ、僕はね、ほら、こうして……」もうタオルで顔と両手を拭き終って、フロックを着ながら、例の呑気らしい調子でミーチャは語をついだ。「袖を折り込んどきますよ。そうしたら、フロックの下になって見えやしないでしょう……ね?」
「今度は一つ、どこでそんなことをしたのか聞かせて下さい。誰かと喧嘩でもしたんですか? またいつかのようにあの料理屋じゃないんですか? またあの時と同じ二等大尉が相手じゃありませんか、あの男を擲ったり、引き摺ったりしたんじゃありませんか?」何となく咎めるような口振りで、ペルホーチンはこないだのことを言いだした。「一たいまた誰を殴りつけたんです……それとも殺したんじゃありませんか?」
「つまらんこってすよ!」とミーチャは言った。
「どうつまらんのです?」
「よしときましょうよ」と言って、突然ミーチャはにたりと笑った。「これはね、たったいま広場で一人の婆さんを押し潰したんです。」
「押し潰した? 婆さんを?」
「爺さんです!」とミーチャは相手の顔をひたと見つめて笑みをふくみながら、聾にでもものを言うように大声で呶鳴った。
「ええ、ばかばかしい、爺さんだの婆さんだの……一たい誰か殺したんですか?」
「仲直りしましたよ。はじめ突っかかったけれど、すぐ仲直りしました、あるところでね。別れる時には、親友のようになりましたよ。ある馬鹿者ですがね……その男が僕を赦してくれましたよ……今頃はきっと赦してくれたに相違ありません……しかし、もし足が立ったら、赦してくれたに相違ありません。」ふいにミーチャはぽちりと瞬きした。「しかし、どうだっていいんですよ。ピョートル・イリッチ、どうだっていいんですよ。必要のないことですよ! いま話すのが厭なんです!」きっぱりと断ち切るようにミーチャはこう言った。
「いや、僕がこんなことを言いだしたのは、あんまり誰かれの見さかいなしにかかり合うのは、感心した話でないと思ったからです……あの時の二等大尉事件みたいな、つまらないことのためにね……しかし、喧嘩をしておいて、もうさっそく騒ぎに行こうなんて、――君の性格がそっくり出ていますよ! シャンパン三ダースなんて、何だってそんなにいるんです。」
「ブラーヴォ! さあ、今度はピストルを下さい。まったく時間がないですから。実際、君とは少し話がしたいんだけれども、時間がなくってね。それに、そんな必要は少しもない。もう話をするのは遅いよ。あっ! 金はどこにあるかしら、どこへおいたろう?」と叫んで、彼はほうぼうのかくしへ両手を突っ込みはじめた。
「テーブルの上へおいたじゃありませんか……君が自分で……そら、あすこにありますよ、忘れたんですか? まったく君にとっては金も塵あくたか湯水同然ですね。さあ、君のピストルを上げましょう。しかし、さっき五時すぎにはこれを十ルーブリで質入れしながら、今はそのとおり何千という金が君の手にある、どうも不思議ですね。二千、三千ありましょう?」
「たぶん三千ぐらいありましょう」とミーチャはズボンのかくしに金を押し込みながら、そう言って笑った。 
「そんなことをしたら落しますよ。ほんとに君は金鉱でも持ってるんですか?」
「金鉱? 鉱山?」とミーチャはカーぱいに喚いて、急にからからと笑った。「ピョートル・イリッチ、君は鉱山ゆきがお望みですか。この町のある一人の婦人がね、ただどうかして君に金鉱へ行ってもらいたさが一ぱいで、すぐに三千ルーブリ投げ出してくれますよ。僕にも投げ出してくれたんですがね。恐ろしい鉱山の好きな婦人ですよ! ホフラコーヴァ夫人を知ってますか?」
「知合いじゃありませんが、噂を聞いたことも見たこともあります。一たいあの人が君に三千ルーブリくれたんですか? 本当に投げ出したんですか?」とペルホーチンは不審げな目つきで相手を眺めた。
「じゃ君、あす太陽が昇った時、永久に若々しいアポロが神を讃美しながらさし昇った時、あのひとのところへ、ホフラコーヴァ夫人のところへ行って、僕に三千ルーブリ投げ出したかどうか、訊いてごらんなさい。一つ調査してごらんなさいよ。」
「僕は君がたの関係を知りませんから……君がそうきっぱり言いきるところを見ると、本当にくれたんでしょう……ところで、君はそんなに金を鷲掴みにして、シベリヤへ行くかわりに、どこかへどろんをきめこむんですか……しかし、本当にこれからどこへ行くんです、え?」
「モークロエへ。」
「モークロエへ? だって、もう夜ですよ!」
「もとは何不自由ないマストリュークだったが、今は無一物のマストリュークになっちゃった!」だしぬけにミーチャがこう言った。
「どうして無一物です? そんなに幾千という金を持って、それでも無一物ですか?」
「僕が言うのは金のことじゃありません! 金なんかどうともなれだ! 僕は女心を言ってるんですよ。

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変りやすいは女気よ
まことがのうて自堕落で
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 僕はユリシーズに同感ですね、これはウリスの言ったことですよ。」
「僕には君の言うことがわかりません。」
「酔っ払ってでもいますかね?」
「酔っ払ってはいませんが、それよりなお悪いですよ。」
「僕は精神的に酔っ払ってるんですよ、ピョートル・イリッチ、精神的に……いや、もうたくさんたくさん。」
「君どうしたんです、ピストルなんか装填して?」
「ええ、ピストルを装填するんです。」
 ミーチャは本当にピストルの入った函を開けて、火薬入れの筒の蓋をとり、一生懸命に、それを装填しているのであった。やがて彼は弾丸《たま》を取り出したが、それを填める前に二本の指でつまんで、目の前の蝋燭の火にすかして見た。
「何だって君は、そんなに弾丸を見てるんです?」ペルホーチンは不安げな好奇心をもって見まもっていた。
「なに、ちょっと。考えてるんですよ。もし君がこの弾丸を自分の脳天へ打ち込もうと考えたとする、そうすればピストルを装填する時に、その弾丸を見ますか見ませんか?」
「何のために見るんです?」
「僕の脳天へ入って行く弾丸がどんな恰好をしているか、ちょっと見てみると面白いじゃありませんか……しかし、くだらんことだ、ちょっと頭に浮んだつまらん話だ。さあ、これでおしまいだ。」彼は弾丸を装填し終って、麻屑でつめをしながらこうつけたした。「ペルホーチン君、つまらん話だよ、何もかもつまらん話だよ。本当にどれくらいつまらん話かってことが、君にわかったならばなあ! ところで、今度は紙切れを少しくれたまえな。」
「さあ、紙切れ。」
「いや、すべっこい綺麗なのを、字を書くんだから、それそれ。」
 ミーチャはテーブルからペンを取って、その紙にさらさらと二行ばかり何やらしたためると、四つに折ってチョッキのかくしへ押し込んだ。二挺のピストルは函に納めて鍵をかけ、両手に取り上げた。それから、ペルホーチンを見やって、引き伸ばしたようなもの思わしげな微笑を浮べた。
「さあ、出かけよう」と彼は言った。
「どこへ出かけるんです? いや、まあ、お待ちなさい……君はひょっとしたら、自分の脳天へそいつを打ち込むんじゃありませんか、その弾丸を……」とペルホーチンは不安げに言った。
「弾丸なんかつまらんことです! 僕は生きたいのだ、僕は生を愛するのだ! 君これを承知してくれたまえ、僕は金髪のアポロとその熱い光線を愛するのだ……ねえ、ペルホーチン君、君はよけることができるかい?」
「よけるとは?」
「道を譲ることなんだ。可愛い人間と憎い人間に道を譲ることなんだ。そして、その憎い人間も可愛くなるように、――道を譲ってやるんだよ。僕はその二人のものにこう言ってやる、無事においで、僕のそばを通り抜けておいで、僕は……」
「君は?」
「もうたくさん、出かけよう。」
「本当に、もう誰かに言わなくちゃならない(とペルホーチンは相手を見つめながら)、君をあそこへやっちゃ駄目だ。何だっていま時分モークロエへ行くんです?」
「あそこに女がいるんです、女が。しかし君、もうたくさんだよ、ペルホーチン君、もうこれでおしまいだ!」
「ねえ君、君は野蛮な人間だ、が、僕はいつも君という人が気に入っているんです……だから、僕はこのとおり心配でたまらない。」
「有難う。君は僕のことを野蛮だと言ったが、人間はみんな野蛮だよ、野蛮人だよ! 僕はただこれ一つだけ断言しておく、野蛮人だ! ああ、ミーシャが帰って来た。僕はあの子のことを忘れていた。」
 ミーシャは両替えした金の束を持って、せかせかと入って来た。そして、プロートニコフの店では『みんなが騒ぎだして』酒の罎や魚や茶などを引っ張り出している、今にすっかり支度がととのうだろうと、報告した。ミーチャは十ルーブリの札を取り出して、ペルホーチンに渡し、いま一枚をミーシャの手に握らした。
「それは失礼ですよ!」とペルホーチンは叫んだ。「僕の家でそんなことはさせません。かえって悪い癖をつけるばかりです。その金をお隠しなさい。そこへ入れたらいいでしょう。何もそんなに撒き散らすことはありませんよ。早速あすにもその金が役に立つかもしれやしない。そんなことをすると、今にまた僕のところへ、十ルーブリ貸してくれなどと言って来るんだから。何だって君は金をわきのかくしにばかり突っ込むんです? いけません、おっことしますよ!」
「ねえ、君、一緒にモークロエヘ行かない?」
「僕が何のためにそんなところへ行くんです?」
「じゃね、君、いますぐ一本抜いて、人生のために乾そうじゃないか! 僕は一口のみたくなった。が、しかし、何より一ばん好ましいのは、君と一緒に飲むことだ。僕と君と一緒に飲んだことは、まだ一度もないね、え?」
「じゃ、料理屋でやったらいいでしょう。出かけましょう。僕もこれから行こうかと思ってたところなんだから。」
「料理屋へ行ってる暇はない。そんならプロートニコフの奥の間にしよう。ところで、なんなら、僕はいま君に一つ謎をかけてみようか。」
「かけてみたまえ。」
 ミーチャはチョッキのかくしから例の紙切れを取り出して、ひろげて見せた。それにはくっきりとした大きな字で、次のように書いてあった。
『全人生に対してわれみずからを刑罰す、わが生涯を処罰す!』
「本当に僕は誰かに言いますよ。これからすぐ行って知らせますよ。」ペルホーチンは紙切れを読み終ってこう言った。
「間に合わないよ、君、さあ、行って飲もう、進めっ!」
 プロートニコフの店はペルホーチンの住まいから、ほとんど家一軒しか隔てていない通りの角にあった。それは金持の商人が経営している、この町でも一ばん大きな雑貨店で、店そのものもなかなか悪くなかった。首都の大商店にある雑貨品は、どんなものでもおいてあった。『エリセーエフ兄弟商会元詰め』の葡萄酒の罎、果物、シガー、茶、砂糖、コーヒー、そのほか何でもある。店先にはいつも番頭が三人坐っていて、配達小僧が二人走り廻っている。この地方は一般に衰微して、地主らはちりぢりになり、商業は沈滞してしまったけれど、雑貨の方は依然として繁昌するのみか、年々少しずつよくなってゆくくらいであった。こういう商品に対しては、客足が絶えないからである。店では今か今かと、ミーチャを待ちかねていた。店のものは三四週間まえ、彼がやはり今度と同じように、一時にありとあらゆる雑貨品や酒類を、現金何百ルーブリかで買い上げたことを、憶えすぎるほどよく憶えていた(むろん、かけ売りならミーチャに何一つ渡すはずがない)。その時も今度と同じように、虹色札の大束を手にひん握って、何のためにこれほどたくさんの食料や酒が必要なのか、ろくろく考えもせず、また考えようともしないで、べつに値切ろうとするふうもなく、やたらに札びらを切ったことも、彼らはよく憶えている。
 当時、彼はグルーシェンカと一緒にモークロエヘ押し出して、『その夜と次の日と、僅かこれだけのあいだに、三千ルーブリの金をすっかりつかいはたし、この豪遊の帰りには赤裸の一文なしになっていた』と、こんな噂が町じゅうにひろがったのである。彼はその時、この町に逗留していたジプシイの一隊を総あげにしたが、その連中は二日の間に、酔っ払っているミーチャから勘定も何もなく、めちゃめちゃに金を引っ張り出し、高価な酒をがぶ呑みに飲んだとのことである。人々は、ミーチャがモークロエで穢らわしい百姓どもにシャンパンを飲ましたり、田舎の娘っ子や女房どもに、ストラスブルクのパイやいろいろの菓子を食べさせたりしたと言って、笑いながら噂しあっていた。またミーチャ自身の口から出た、人まえはばからぬ大っぴらなある一つの告白をも、人々は同様笑い話の種にしていた。ことに料理屋ではそれがなおひどかった(しかし、面と向って笑うものはなかった。面と向って笑うのは、少々危険であった)。ほかでもない、こんな無鉄砲なことをして、彼がグルーシェンカから得たものは、『女の足を接吻さしてもらっただけで、それよりほかは何も許してもらえなかった』とのことである。
 ミーチャがペルホーチンとともに店へ近づいた時、毛氈を敷いて小鈴をつけた三頭立馬車《トロイカ》が、ちゃんと入口に用意されて、馭者のアンドレイがミーチャを待ち受けていた。店の中ではもうほとんど品物を一つの箱に詰め終って、ただミーチャさえやって来れば、すぐ釘を打って車に積めるようにして待っていた。ペルホーチンはびっくりして、
「おや、一たい今の間に、どこから三頭立馬車《トロイカ》なぞ引っ張って来たの?」とミーチャに訊いた。
「君のとこへ走って行く途中、これに、アンドレイに出会って、さっそくこの店へ車を持って来るように、言いつけといたのさ。時間を無駄にすることはいらないからね! この前はチモフェイの馬車で行ったが、今度チモフェイは、妖姫と一緒に、僕より先につつうと飛んで行っちゃったんだ。おい、アンドレイ、だいぶ遅れるだろうな?」
「チモフェイはわっしらより、小一時間さきに着くくらいのもんでがしょう。まあ、それもおぼつかない話でがすが、とにかく一時間くらいしきゃ先にならんでしょうよ」とアンドレイは忙しそうに答えた。「チモフェイの車もわしが仕立ててやったんでがすよ。わっしはあいつの馬の走らせ方を知ってますが、あいつの走らせ方は、わっしらのたあまるで違ってまさあ、旦那さま。あいつなざあ、わっしの足もとにもよれやあしません。なに、一時間も先に着けるもんですか!」まだ血気さかんな馭者のアンドレイは、熱心にこう遮った。彼は髪の赤味がかった痩せた若い者で、身には袖なしを着け、手には粗羅紗の外套を持っていた。
「もし一時間くらいの遅れですんだら、五十ルーブリの酒手だ。」
「一時間なら大丈夫でがすよ。旦那さま、なに、一時間はさておき、三十分も先に着かしゃしませんよ。」
 ミーチャは何くれと指図をしながら、しきりにそわそわしていたが、話をするのも用を言いつけるのも、ものの言い方が妙にばらばらにこわれたようで、きちんと順序だっていなかった。何か言いかけても、締めくくりをつけるのを忘れてしまうのであった。ペルホーチンは自分でもこの事件に口をいれて、力を貸す必要があると感じた。
「四百ルーブリだぞ、四百ルーブリより少くちゃいかん。何から何まであの時のとおりにするんだぞ」とミーチャは号令をかけるように言った。「シャンパン四ダース、一罎欠けても承知しないから。」
「何だって君、そんなにいるんだい、一たい何にするの? 待て!」と、ペルホーチンは叫んだ。「この箱はどうした箱なんだ? 何が入ってるんだ。一たいこの中に四百ルーブリのものが入ってるのか?」
 忙しそうに往ったり来たりしていた番頭らは、さっそく甘ったるい調子で、この箱の中にはシャンパンが僅か半ダースに、ザクースカや果物やモンパンシエや、その他『口切りにぜひなくてはならない物だけ』入れてあるので、おもな『ご注文品』はあの時と同じように、ただ今さっそく別な馬車に積み込んで、やはり三頭立《トロイカ》で十分間に合うようにお送りします、と説明した。『旦那さまがお着きになってから、ほんの一時間ばかりだったころ、向うへ着くようにいたします。』
「一時間より延びちゃいかんぞ、きっと一時間より延びないように。そして、モンパンシエと飴を、できるだけよけいに入れてくれ、あそこの娘どもの大好物だから」とミーチャは熱くなって念をおした。
「飴――よかろう。しかし、君、シャンパン四ダースもどうするんだい? 一ダースでたくさんだよ!」ペルホーチンはもうほとんどむきになっていた。
 彼は番頭と談判したり、勘定書を出させたりして、なかなか黙っておとなしくしていなかった。しかし、全体で百ルーブリほど勘定を減らしただけである。結局、全体で三百ルーブリよりよけい品物を届けないように、というくらいのところで妥協してしまった。
「ええ、みんな勝手にするがいい!」急に考えを変えたらしく、ペルホーチンはこう叫んだ。
「僕に何の関係があるんだ? ただで儲けた金なら勝手に撒くがいいさ!」
「こっちへ来たまえ、経済家先生、こっちへ来たまえ、怒らなくてもいいよ」とミーチャは店の奥の間へ彼を引っ張って行った。「今すぐここへ罎を持って来るから、一緒にやろうじゃないか。ねえ、ペルホーチン君、一緒に出かけようじゃないか。だって君は本当に可愛い人なんだもの、僕は君のような人が好きさ。」
 ミーチャは編椅子の上に腰をおろした。前の小卓には汚れ腐ったナプキンが被せてあった。ペルホーチンはその真向いに座を占めた。シャンパンはすぐに運ばれた。「みなさん牡蠣はいかがでございます。ごく新しく着いたばかりの、飛切り上等の牡蠣でございますが」と店のものはすすめた。
「牡蠣なんか真っ平だ、僕は食べない、それに何もいりゃしないよ」とペルホーチンは、ほとんど噛みつくように毒々しく言った。
「牡蠣なんか食べてる暇はない」とミーチャは言った。「それに、ほしくもないよ。ねえ、君」と彼は突然、感情のこもった声で言いだした。「僕はこんな無秩序なことが大嫌いだったんだよ。」
「誰だってそんなものを好くやつはありゃしない! まあ、考えてもみたまえ、シャンパンを三ダースも百姓に買ってやるなんて、誰だって愛想をつかしてしまわあね。」
「僕の言うのはそんなことじゃない。僕はもっと高い意味の秩序を言ってるんだよ。僕には秩序というものがない、高い意味の秩序というものが……しかし、それもこれもみんなすんでしまった。くよくよすることはない、今はもう遅い、もうどうとも勝手にしろだ! 僕の一生は乱雑の連続だった、いよいよ秩序を立てなくちゃならん。僕は口合いを言ってるんだろうか、え?」
「寝言を言ってるんだよ、口合いじゃない。」

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世界の中なる神に栄《はえ》あれ
われの中なる神に栄あれ!
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 この詩はいつだったか、ふいに僕の魂からほとばしり出たんだ。詩じゃない、涙だ……僕が自分で作ったのだ……しかし、あの二等大尉の髯を捉まえて、引っ張った時じゃないよ……」
「何だって君、急にあの男のことなんか言いだすの?」
「何だって急にあの男のことを言いだすのかって? くだらんこったよ! 今にすっかり片がつく。今にすっかりなだらかになるよ! もうちょっとでけりがつくのだ!」
「まったく僕はどうも君のピストルが気がかりでならない。」
「ピストルもくだらんこったよ! とてつもないことを考えないで、飲みたまえ。僕は生を愛する。あまり愛しすぎて醜劣になったくらいだ。もうたくさんだ! 生のために……君、生のために飲もうじゃないか。僕は生のために乾杯を提言する! なぜ僕は自分で自分に満足してるんだろう? 僕は陋劣だけれど自分で自分に満足している。僕は自分が陋劣だという意識に悩まされてはいるけれど、しかし自分で自分に満足している。僕は神の創造を祝福する。僕は今すぐにも悦んで神と神の創造を祝福するが、しかし……まず一匹の臭い虫けらを殺さなくちゃならん、こそこそとその辺を這い廻って、他人の生活を傷つけないようにしなくちゃならん……ねえ、君、生のために飲もうよ! 一たい生より尊いものが、どこにある! 何もない、決してない! 生のために、そして女王の中の女王のために!」
「生のために飲もう、そしてまあ、君の女王のために飲んでもいい。」
 二人は一杯ずつ飲んだ。ミーチャは有頂天になってそわそわしていたが、何となく沈みがちな様子であった。ちょうど征服することのできない重苦しい不安が、目の前に立ち塞かっているかのようであった。
「ミーシャだ……ほら、君のミーシャがやって来た。ミーシャ、いい子だ、ここへ来い、そして明日の金髪のアポロのためにこの杯を乾してくれ……」
「君、何だってあの子に!」とペルホーチンはいらだたしげに叫んだ。
「まあ、大目にみてくれたまえ、ね、いいだろう、ね、僕こうしてみたいんだから。」
「ええっ、くそ!」
 ミーシャはぐっと飲みほして、一つ会釈すると、そのまま逃げ出してしまった。
「ああしといたら、長い間おぼえていてくれるだろう」とミーチャは言った。「僕は女が好きだ、女が! 女とは何だと思う? 地上の女王だ! 僕はもの悲しい、何だかもの悲しいよ、ペルホーチン君、君ハムレットを憶えているかい?『わしは何だかもの悲しい、妙にもの悲しいのだ、ホレーシオ……あわれ不憫なヨリックよ!』僕はあるいはこのヨリックかもしれない。ちょうどいま、僕はヨリックなのだ、髑髏《しゃれこうべ》はもっと後のことだ。」
 ペルホーチンは黙って聞いていた。ミーチャもちょっと言葉を休めた。
「そこにいる君んとこの犬は何ていう犬だね?」とミーチャは、隅のほうにいる目の黒い、小さな可愛い狆に目をつけて、だしぬけにとぼけたような調子で番頭に訊ねた。
「これはヴァルヴァーラさまの、うちのお内儀さんの狆でございます」と番頭は答えた。「さっきこちらへ抱いていらしって、そのまま忘れてお帰りになったのでございます。お届けしなければなりますまい。」
「僕はちょうどこれと同じようなものを見たことがある……連隊でね……」とミーチャはもの案じ顔にこう言った。「ただ、そいつは後足を一本折られてたっけ……ペルホーチン君、僕はちょっとついでに訊きたいことがあるんだよ。君は今までいつか盗みをしたことがあるかい?」
「なんて質問だろう!」
「いや、ちょっと訊いてみるだけなんだ。しかし、誰かのかくしから人のものを取ったことがあるかと訊くので、官金のことを言ってるんじゃないよ。官金なら誰でもくすねてるから、君だってむろんその仲間だろう……」
「ええ、黙って引っ込んでたまえ。」
「僕が言ってるのは人のもののことだよ。本当にかくしか紙入れの中から……え?」
「僕は一度、十の時に、母の金を二十コペイカ、テーブルの上から盗み出したことがある。そろっと取って、掌に握りしめたのさ。」
「ふふん、それで?」
「いや、べつにどうもしないさ、三日の間しまっておいたが、とうとう恥しくなってね、白状して渡してしまった。」
「ふふん、それで?」
「あたりまえさ、擲られたよ。ところで、君はどうだね、君自身も盗んだことがある?」
「ある。」ミーチャはずるそうに目をぽちりとさした。
「何を盗んだの?」とペルホーチンは好奇心を起した。
「母の金を二十コペイカ、十の時だった、三日たって渡してしまった。」
 そう言って、ミーチャはとつぜん席を立った。
「旦那さま、もうそろそろお急ぎになりませんか?」ふいにアンドレイが店の戸口からこう叫んだ。
「できたか? 出かけよう!」とミーチャはあわてだした。「もう一つおしまいに言っとくことがある……アンドレイにウォートカを一杯駄賃にやってくれ、今すぐだぞ! それからウォートカのほかに、コニヤクも一杯ついでやれ! この箱(それはピストルの入った箱であった)をおれの腰掛けの下へ入れてくれ。さようなら、ペルホーチン君、悪く思わないでくれたまえ!」
「だけど、明日は帰るんだろう?」
「きっと帰る。」
「ただいまお勘定をすましていただけませんでしょうか?」と番頭が飛び出した。
「勘定、よしきた! むろんするとも!」
 彼は、ふたたびかくしから紙幣《さつ》束を掴み出し、虹色のを三枚抜き取って、勘定台の上へ抛り出し、急ぎ足に店を出て行った。一同はその後につづいた。そして、ぺこぺこお辞儀しながら、有難うやご機嫌よろしゅうの声々で一行を送った。アンドレイはたったいま飲みほしたコニヤクに喉を鳴らしながら、馭者台の上へ飛びあがった。しかし、ミーチャがやっと坐り終るか終らないかに、突然、思いもよらぬフェーニャが彼の目の前に現われた。彼女はせいせいと肩で息をしながら駆けつけると、声高な叫びとともに彼の前に両手を合せ、いきなりどうとその足もとへ身を投げ出した。 
「旦那さま、ドミートリイさま、後生ですから、奥さまを殺さないで下さいまし! わたしはあなたに何もかも喋ってしまって!………そうして、あの方も殺さないで下さいまし。だって、あの方は前からわけのあった人なんですもの! アグラフェーナさまをお嫁におもらいなさるつもりで、そのためにわざわざシベリヤからお帰りになったのでございます……旦那さま、ドミートリイさま、どうか人の命を取らないで下さいまし。」
「ちぇっ、ちぇっ、これで読めた! 先生これからあっちへ行って、ひと騒ぎもちあげようというんだな!」とペルホーチンはひとりごとのように呟いた。「今こそ、すっかりわかった、今こそ厭でもわからあな。ドミートリイ君、もし君が人間と呼ばれたかったら、今すぐピストルをよこしたまえ」と彼は大声でミーチャに叫んだ。
「ねえ、ドミートリイ君!」
「ピストル? 待ちたまえ、僕は途中、溝の中へ抛り込んじゃうから」とミーチャは答えた。「フェーニャ、起きなよ、おれの前に倒れたりするのはよしてくれ。ミーチャは殺しゃしない、この馬鹿者もこれからさき、決して誰の命もとりゃしない。おい、フェーニャ。」もう馬車の上に落ちついて彼は叫んだ。「おれはさっきお前に失敬なことをしたが、あれは赦してくれ、可哀そうだと思って、この悪党を赦してくれ。しかし赦してくれなくたってかまやしない! 今となってはもうどうだって同じことだ。さあ、やれ、アンドレイ、元気よく飛ばせ!」
 アンドレイは馬車を出した。鈴が鳴り始めた。
「さようなら、ペルホーチン! 君に最後の涙を呈するよ!……」
『酔っ払ってもいないんだが、なんてくだらないことばかり言ってるんだろう?』ペルホーチンは彼のうしろ影を見送りながらこう考えた。店のものがミーチャをごまかしそうに感じられたので、同じく三頭立の荷馬車に食料や酒類を積み込むところを監視するために、残っていようかとも考えたが、急に自分で自分に腹を立てて、ぺっと唾を吐き、行きつけの料理屋へ玉突きに出かけた。
「馬鹿だ、おもしろい、いい男だけれど……」とみちみち彼はひとりごちた。「グルーシェンカの『もとの男』とかいう将校のことはおれも聞いていた。ところで、もし向うへ着いたら、その時は……くそっ、どうもあのピストルが気になる? ええ、勝手にしろ、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? あんなやつうっちゃっとけ。それに、何も起るようなことはあるまいよ。ただのから気焔にすぎないんだ。酔っ払って喧嘩して、喧嘩して仲直りするのがおちだ。あんな連中は、要するに実行の人じゃないんだ。あの『道を譲ってみずからを刑罰す』って何のこったろう、――なあに、何でもありゃしない! あの文句は、料理屋でも酔っ払った勢いで、何べんどなったかもしれやしない。が、今は酔っ払っていない。『精神的に酔っ払ってる』と言ったっけ、――なに、気どった文句を並べるのが好きなんだ、やくざ者、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? 実際、喧嘩したには相違ない、顔じゅう血だらけだった。相手は誰かしらん? 料理屋へ行ったらわかるだろう。それに、ハンカチも血だらけだった、――いまいましい、おれんとこの床の上へ残して行きゃあがった……ええ、もうどうだっていいや!」
 彼は恐ろしく不機嫌な心持で料理屋へ入ると、さっそく勝負を始めた。遊戯は彼の心を浮き立たした。二番目の勝負が終った時、彼はふと一人の勝負仲間に向って、ドミートリイ・カラマーゾフにまた金ができた、しかも三千ルーブリからあるのを自分で見た、そうして彼はまたグルーシェンカと豪遊をするために、モークロエをさして飛んで行った、という話をした。この話は思いがけないほどの好奇心をもって聴き手に迎えられた。人々は笑おうともせず、妙に真面目な調子で話し始めた。勝負まで途中でやめになってしまった。
「三千ルーブリ? 三千なんて金が、どこからあの男の手に入ったんだろう?」
 人々はそのさきを訊ねにかかった。ホフラコーヴァ夫人に関する報告は半信半疑で迎えられた。
「もしや、じじいを殺して取ったんじゃないかなあ、本当に?」
「三千ルーブリ! 何だか穏かでないね。」
「あの男おやじを殺してやると、おおっぴらで自慢らしく吹聴していたぜ。ここの人は誰でも聞いて知ってるよ。ちょうどその三千ルーブリのことを言ってたんだからなあ……」
 ペルホーチンはこれを聞くと、急に人々の問いに対してそっけない調子で、しぶしぶ返事するようになった。ミーチャの顔や手についていた血のことは、おくびにも出さなかった。そのくせ、ここへ来る時には、話すつもりでいたのである。やがて三番目の勝負が始まって、ミーチャの話もだんだん下火になった。しかし、三番目の勝負がすむと、ペルホーチンはもう勝負をしたくなくなったので、そのままキュウをおき、予定の夜食もしないで料理屋を出た。広場まで来た時、彼は自分で自分にあきれるくらい、思い迷った心持で立ちどまった。彼はこれからすぐフョードルの家へ行って、何か変ったことは起らなかったか、と訊ねる気になっているのに、ふと心づいた。『つまらないことのために(きっとつまらないことなんだ)、よその家を叩き起して、不体裁を演ずるくらいがおちだ。ちぇっ、いまいましい、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのかい。』
 恐ろしく不機嫌な心持で、彼はまっすぐに家のほうへ足を向けたが、突然フェーニャのことを思い出した。『ええ、こん畜生、さっきあの女に訊いてみたら』と彼はいまいましさに呟くのであった。『何もかもわかったのになあ。』すると、とつぜん彼の心中に、この女と話をして事情を知りたいという、恐ろしく性急で執拗な希望が燃え立った。とうとう彼は半途にして踵を転じ、グルーシェンカの住まっている、モローソヴァの家へ赴いた。彼は門に近づいて戸を叩いた。が、夜の静寂の中に響きわたるノックの音は、急にまた彼の熱中した心を冷まして、いらいらした気分にしてしまった。おまけに家の人はみんな寝てしまって、誰ひとり応ずるものがなかった。『ここでもまた不体裁なことをしでかそうというのか!』もう一種の苦痛を胸にいだきながら、彼はそう考えたが、決然として立ち去ろうともせず、急に今度は力まかせに戸を叩き始めた。往来一ぱいに反響が生じた。『これでいいんだ、なんの、やめるもんか、叩き起すんだ、叩き起すんだ!』戸の一撃ごとに、ほとんどもの狂おしいほど自分自身に対して怒りを感じ、同時にノックを強めながら、彼はこう呟いた。