『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P144-P191

の家で見ておいたんだ、――君のためにさ、お爺さん、君のものだよ。これはあの人の家にあったって、何にもなりゃしないんだ。あの人はこれを兄弟からもらったんだからね。そこで、僕は親父の戸棚から、『マホメットの親戚、一名馬鹿霊験記』という本を引き出して、この大砲と取っ換えっこしたんだ。それは、百年からたったものなんだ、とても大変な本でね、まだ検閲がなかった時分、モスクワで発行されたものさ。ところが、モローゾフはそういうものが大好きなんでね。その上お礼まで言ったよ……」
 コーリャは、みんなで見て楽しまれるように、大砲を手にのせて、一同の前へさし出した。イリューシャも身を起した。そして、やはり右手でペレズヴォンを抱いたまま、狂喜の色をうかべてこの玩具を眺めた。コーリャが自分は火薬を持っているから、『もしご婦人がたを驚かせるようなことがなければ』今ここで撃つこともできると説明した時、一同の興味は極度に達した。『おっ母さん』はすぐに、もっと近くでその玩具を見せてもらいたいと頼んだ。その願いはすぐにいれられた。彼女は車のついた青銅の大砲がむしょうに気に入って、それを自分の膝の上で転がしはじめた。大砲を発射させてもらいたいという乞いを、彼女は喜んで承諾したが、そのくせ何のことか、まるっきりわからないのであった。コーリャは火薬と散弾を出して見せた。もと軍人であった二等大尉は、自分で指図して、ごく少量の火薬を填めたが、散弾は次の時まで延期するように頼んだ。大砲は筒口を人のいないほうへ向けて、床の上におかれた。人々は三本の導火線を火門へさし込んで、マッチで火をつけた。すると、この上なく見事に発射した。『おっ母さん』はぶるっと身慄いしたが、すぐ愉快そうに笑いだした。子供たちは無言の荘重を保って見物していたが、誰よりも一ばん面白がったのは、イリューシャをうちまもっていた二等大尉である。コーリャは大砲を取り上げ、散弾や火薬を添えて、すぐさまイリューシャに渡した。
「これは君のためにもらったんだよ、君のためなんだよ! もう、とうから用意していたんだ。」彼は幸福感に満ち溢れながら、また繰り返した。
「あら、わたしにちょうだいよ! ねえ、その大砲はわたしにくれたほうがいいわ!」と『おっ母さん』は小さい子供のように、ねだり始めた。
 彼女の顔は、もしもらえなかったらという危惧のために、悲しげな不安の表情をたたえた。コーリャはどぎまぎした。二等大尉は不安らしく騒ぎだした。
「おっ母さん、おっ母さん!」と彼は妻のほうへ駈け寄った。「大砲はお前のものだよ、お前のものだよ、お前のものだよ。けれど、イリューシャに持たせておこうね。なぜって、これはイリューシャがいただいたんだものな。でも、やはりこの大砲はお前のものだよ。イリューシャはいつでもお前にもって遊ばしてくれる。つまり、お前とイリューシャとおもあいにするんだ、おもあいに……」
「いやです、おもあいにするのはいやです。イリューシャのじゃない、すっかりわたしのものになってしまわなけりゃいやです。」今にも本当に泣きだしそうな調子で、『おっ母さん』は言いつづけた。
「おっ母さん、お取んなさい、さあ、お取んなさい!」とにわかにイリューシャは叫んだ。「クラソートキン、これをおっ母さんにやってもいいでしょう?」彼は哀願するような表情で、クラソートキンのほうへ向いた。それはせっかくの贈物を人にやるのを、コーリャに怒られはしないかと、心配するようなふうつきであった。
「いいとも!」とコーリャはすぐに同意し、大砲をイリューシャの手から取って、きわめて慇懃に会釈しながら『おっ母さん』に渡した。
 おっ母さんは感きわまって泣きだした。
「可愛いイリューシャ、お前のようにおっ母さんを大切にするものはないよ!」と彼女は感激して叫んだ。そして、さっそくまた膝の上で大砲を転がしはじめた。
「おっ母さん、お前の手を接吻させておくれ。」こう言って夫は彼女のそばへ駈け寄ると、さっそく自分の計画を実行した。
「それからもう一人、本当に優しい若い人は誰かと言ったら、ほら、このいい子供さんよ!」感謝の念に満ちた夫人は、クラソートキンを指さしながらこう言った。
「でね、イリューシャ、火薬はこれからいくらでも持って来てやるよ。僕らは今じゃ自分で火薬を造ってるんだ。ボロヴィコフが分量を知ったんだよ。硝石二十四分に、硫黄十分と、白樺の炭六分、それを一緒に搗きまぜて、水で柔かく捏ね合せてから、太鼓の皮で瀘《こ》すのさ……それでちゃんと火薬ができるんだよ。」
「僕はスムーロフから君の火薬のことを聞いたけれど、お父さんはそれは本当の火薬じゃないって言っていますよ」とイリューシャは答えた。
「どうして本当でないんだって?」とコーリャは顔を赤らめた。「僕らが造るものだって、ちゃんと発火するよ。だが、僕も知らない……」
「いいえ、そうじゃないんです。」二等大尉はすまないような様子をして、あわてて飛び出した。「いや、本当の火薬はそんな造り方じゃない、とまあ言うには言いましたがね、しかし、そうでもかまわないんで。」
「僕知らないんです。あなたのほうがよく知ってらっしゃるでしょう。僕らは瀬戸で作ったポマードの罎に入れて火をつけたんですが、よく発火しましたよ。すっかり燃えてしまって、ほんのぽっちり煤が残っただけです。けれど、これは柔かく混ぜた塊りで、もし皮で濾《こ》したら……だけど、あなたのほうがよく知っていらっしゃるでしょう。僕じっさい知らないんですから……だが、ブールキンはこの火薬のためにお父さんに撲られたそうだが、君聞いた?」彼は突然イリューシャのほうへ向いた。
「聞きました」とイリューシャは答えた。彼は限りない興味と享楽を感じながら、コーリャの話を聞いていた。
「みんなで罎に一ぱい火薬を造って、それをブールキンが寝台の下に隠しておいたのを、親父に見つけられたんだ。爆発でもしたらどうすると言って、その場でひっぱたいたのさ、そのうえ僕のことを学校へ訴えようとしたんだ。今じゃブールキンは、僕と一緒に遊ぶのを禁《と》められてる。ブールキンばかりじゃない、誰もみんな僕と遊ぶことを禁められてね、スムーロフもやはり、僕のところへ来さしてもらえないんだ。僕はもう評判者になっちまったよ、――何でも『向う見ず』なんだそうだ。」コーリャは軽蔑するように、にたりと笑った。「これはみんなあの鉄道事件から始まったのさ。」
「ああ、私たちもあなたのその冒険談を聞きましたよ!」と二等大尉は叫んだ。「あなたはそこに寝ていて、どんな気持がしました? 汽車の下になった時も、あなたは本当にちっともびっくりしなかったんですか。恐ろしかったでしょうな?」
 二等大尉はしきりにコーリャの機嫌をとった。
「な……なに、それほどでもありませんでしたね!」とコーリャは無造作に答えた。「だが、ここで一ばん僕の名声をとどろかしたのは、あのいまいましい鵞鳥だったよ」と彼はふたたびイリューシャのほうへ向いた。彼は話に無頓着の態度をよそおうていたが、やはり十分もちきれないで、ときどき調子をとりはずすのであった。
「ああ、僕は鵞鳥のことも聞いた!」イリューシャは満面を輝かしながら笑いだした。「僕、話を聞いたけど、よくわからなかった。君、ほんとに裁判官に裁判されたんですか?」
「ごくばかばかしい、つまらないことなんだよ。それをここの人たちの癖で、針小棒大に言いふらしたんだ」とコーリャは磊落に言いはじめた。「僕ある時、あの広場を通っていたんだよ。ところが、ちょうどそこへ、鵞鳥が追われて来たんだ。僕は立ちどまって鵞鳥を見ていると、そこに一人、土地の若い者がいた。そいつはヴィシニャコフと言って、いまプロートニコフの店で配達をやっているんだが、僕を見て『お前は何だって鵞鳥を見てるんだ?』と言やがるじゃないか。僕はそいつを見てやった。丸いばかばかしい面をした、二十歳ばかりの若い者なんだ。僕はご存じのとおり、決して民衆をしりぞけない、僕は民衆との接触を愛しているんだからね……僕らは全体から離れてしまってる、――これは明白な原理だ、――カラマーゾフさん、あなたはお笑いになったようですね?」
「いや、とんでもない、私は謹聴していますよ。」アリョーシャは、この上ない無邪気な態度で答えた。で、疑い深いコーリャもたちまち元気づいた。
カラマーゾフさん、僕の議論は明白単純なんです」と彼は嬉しそうに口早に言いだした。
「僕は民衆を信じていて、いつも喜んで彼らの長所を認めます、が、決して彼らを甘やかすようなことはしない。これは sine qua non([#割り注]必須条件[#割り注終わり])です……だけど、いま鵞鳥の話をしてたんですね。そこで、僕はその馬鹿野郎のほうへ向いて、『実は鵞鳥が何を考えているだろうと、僕は今それを考えてるんだ』と答えた。ところが、やっこさん、馬鹿げきった顔つきをして僕を見ながら、『鵞鳥が何を考えてるかって?』と言いやがるんだ。で、僕は『まあ、見ろ、そこに燕麦を積んだ馬車があるだろう。袋から燕麦がこぼれている。ところが、鵞鳥が一羽、車の真下に頸を伸ばして麦粒を食ってるだろう、――え、そうだろう?』と言った。『そりゃおれだってよく知ってらあ』とやつが言うんだ。でね、僕はこう言ったのさ。『じゃ、今もしこの馬車をちょっと前へ押せば、車で鵞鳥の頸を轢き切るかどうだ?』するとやつ、『そりゃきっと轢くよ』と言って、顔じゅう口にして笑いながら大恐悦なんだ。『じゃ、君一つ押してみようじゃないか』と僕が言うと、『押してみよう』ときた。僕らは長いこと苦心する必要なんかなかったよ。やつはそっと轡のそばに立つし、僕は鵞鳥を車の下へやるように脇へ行った。が、ちょうどその時、百姓がぼんやりして、誰かと話を始めたので、何も僕がわざわざ車の下へ追うことはいらなかった。つまり、鵞鳥が自分で燕麦を食うために、ちょうど車の下へ頸を伸ばしたんだ。僕が若い者に目まぜをすると、やつは馬を引いた。そして、クワッといったかと思うと、もうちゃんと車は鵞鳥の頸を真っ二つに轢き切ってしまってるんだ! ところがね、ちょうど折わるくその瞬間に、百姓たちが僕らを見つけて、『お前わざとしたんだろう!』と言って、たちまちわいわい騒ぎだすんだ。『いいや、わざとじゃない。』『いや、わざとだ!』そして『判事のところへ連れて行け!』と言って騒ぎだす。とうとう僕もつかまってしまった。『お前も、あそこにおったから、きっと手つだったんだろう。市場じゅうのものがみなお前を知っている』と言うんだ。実際なぜか市場のものはみんな僕を知ってるんだよ」とコーリャは得意らしくつけ加えた。「僕らはぞろぞろ治安判事のところへ押しかけて行った、鵞鳥も持ってね。見ると、例の若い者は怖がって泣きだすじゃないか。まるで女のように喚くんだ。だが、鳥屋は『あんな真似をされちゃたまらねえ、鵞鳥はいくらでも殺されっちまう!』と言って呶鳴る。むろん、証人も呼ばれたさ。ところが、判事は立ちどころに片づけてしまった。つまり、若い者に鵞鳥の代として鳥屋へ一ルーブリ払わせ、鵞鳥は若い者がもらうことにして、将来必ずこんないたずらしちゃいかんというわけなんだ。若い者はやはり、『そりゃわっしじゃない、あいつがわっしをそそのかしたんだ』と言って、女のように喚きながら、僕をさすじゃないか。僕はすっかり冷静にかまえこんで、決してそそのかしなんかしない、ただ根本思想を話して、計画として述べたまでだと答えた。判事のネフェードフはにたりと笑ったが、すぐ自分で自分の笑ったのに腹を立てて、『私はあなたが将来こんな計画をやめて、家にひっこんで本を読んだり、学課を勉強したりするように、今すぐ学校当事者に訴える』と言うんだ。しかし、やっこさん訴えはしなかった、それは冗談だったが、この事件はすぐ評判になって、とうとう学校当事者の耳に入ってしまった。学校のものは耳が早いからね! ことにやっきとなったのは、古典語教師のコルバースニコフさ。だが、ダルダネーロフがまた弁護してくれた。コルバースニコフはまるで緑いろの驢馬みたいに、誰にでも意地わるく食ってかかるんだよ。イリューシャ、君、聞いたかい、あいつは結婚したよ。ミハイロフのところから、千ルーブリの持参金つきでもらったんだが、花嫁は古今未曾有の化物なんだ。で、三年級の連中はすぐにこういう諷詩を作ったんだ。

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引きったれのコルバースニコフさえ嫁をとる
これにはさすがの三年級もびっくり仰天驚いた
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 こういう調子でまだそのさきがあるが、素敵に滑稽なんだ。あとで持って来て見せるよ。ダルダネーロフのことは僕なにも言わない。学識のある、――立派な学識のある人だよ。僕はああいう人を尊敬するね。しかし、決して自分が弁護してもらったからじゃない……」
「でも、君はトロイの創建者のことで、あの人をやりこめたことがありますね!」この時スムーロフは、クラソートキンを自分のことのように、心から自慢しながら口を入れた。鵞鳥の話がすっかり彼の気に入ったのであった。
「へえ、そんなにやりこめたんですかね!」と二等大尉は媚びるように調子を合せた。「それは、誰がトロイを創建したかということでしょう? もう私たちも、そのやりこめなすった話を聞きましたよ。イリューシャがその時さっそく話して聞かせたんで……」
「お父さん、あの人は何でも知ってるんです、誰よりかも一等よく知ってるんですよ!」イリューシャも相槌を打った。「あんなふりをしてるけど、その実なんの学課にかけても、僕たちの仲間で一等よくできるんですよ……」
 イリューシャは無限の幸福を感じながらコーリャを見た。
「なに、トロイのことなんかばかばかしい、つまらない話ですよ。僕自身その問題を空虚なものだと思っていますよ」とコーリャは謙遜しながらも、誇らしげに答えた。
 彼はもうすっかり調子づいていたが、しかしまだいくらか不安を感じていた。彼は自分が非常に興奮していて、たとえば鵞鳥の話などもあまり熱心にやりすぎたと感じていた。しかも、アリョーシャがその話の間じゅう黙りこんで、きまじめな様子をしていたので、自尊心の強い少年は、『先生が黙ってるのは、僕を軽蔑してるからじゃなかろうか。僕が先生の賞讃を求めてると思ってるからじゃあるまいか? もし、そんな生意気なことを考えてるなら、僕は……』こう考えると、だんだんと心を掻きむしられるような気がしはじめた。
「僕は、あの問題をごくつまらないものと思ってるんだ。」彼はふたたび誇らしげに、断ち切るようにこう言った。
「だけど、誰がトロイを建てたか、僕、知ってますよ。」その時までほとんど一ことも口をきかなかった一人の子供が、だしぬけにこう言った。それはだんまりやで、非常なはにかみやの、ごく可愛い顔をした十一になる少年で、姓をカルタショフと言った。
 彼は戸のすぐそばに腰かけていた。コーリャはびっくりしたような、ものものしい様子をして彼を見やった。ほかでもない、『誰がトロイを建てたか?』という問題は、まったくクラス全体にとって秘密になっていて、その問題を解くには、スマラーグドフの本を読まなければならなかったのである。けれど、コーリャのほかには、誰もスマラーグドフを持っているものがなかった。ところが、ちょうどあるとき少年カルタショフは、コーリャがよそを向いたすきに、ほかの書物の間にまじっていたスマラーグドフを、そっと手ばやく開いた。すると、トロイの創建者のことを書いたところにぴたりと出くわした。これはもうずっと前のことであったが、彼はやはり何かしらきまりがわるく、自分もそれを知っていると公表するのを躊躇していた。もしひょっと何かことが起りはしないか、どうかしてコーリャが恥をかかせはしないか、とこう懸念していたからである。けれど、今は我慢しきれなくなって、とうとう口をすべらしてしまった。彼はさっきから、言いたくて言いたくてたまらなかったのである。
「じゃ、誰が建てたんだ?」コーリャは傲然と、見おろすように彼のほうへ振り向いた。そして、カルタショフの顔いろで、これは本当に知っているなと見抜いたので、すぐその結果に対する心構えをしていた。人々の気分の中には、何かしら不調和《ディスソナンス》ともいうべきものが生じた。
「トロイを建てたのは、テウクルとダルダンとイルリュスとトロスです」と彼は一息に言ったが、その瞬間、顔を真っ赤にしてしまった。あまり真っ赤になったので、見るのも気の毒なくらいであった。けれど、子供たちはみんなじっと、穴のあくほど彼を見つめた。まる一分間見つづけていたが、やがてその目は一せいにコーリャのほうへ向けられた。こちらは冷静な軽蔑の色をうかべながら、この不敵な少年をじろじろうちまもっていた。
「じゃ、その人たちがどういう工合にして建てたんだ?」彼はやっとお情けでこういう問いを与えた。「町とか国とかを建てるということは、一たいどういう意味なんだね? その人たちはどうしたんだね、そこへやって来て煉瓦でも一枚ずつおいたのかい?」
 どっと笑い声が起った。悪いことをした少年の顔は、ばら色からさらに火のようになった。彼はおしだまってしまい、もう今にも泣きだしそうな顔をした。コーリャはまだしばらくの間、彼をそのままにして試験した。
「国民の基礎というような歴史上の事件を説明するには、まずそれがどんな意義をもっているか理解しなけりゃ駄目だよ」と彼はさとすような調子で厳めしく言った。「もっとも、僕はそういうことなんか、女の作り話なんか、重大視していないのだ。それに、一たい僕は世界歴史なんてものをあまり尊敬していないんだ。」彼はみんなに向いて、とつぜん無造作にこうつけたした。
「え、世界歴史を?」と急に二等大尉はびっくりしたように訊いた。
「そうです、世界歴史です。それは滔々たる人間どもの、無知な所業を研究するにすぎないですからね。僕の尊敬するのはただ数学と自然科学だけです」とコーリャはきっぱり言い切って、ちらとアリョーシャを見やった。彼はこの場で、ただアリョーシャ一人の意見を恐れていたのである。
 が、アリョーシャは依然としておしだまったまま、真面目な顔をしていた。もしアリョーシャが何か一口言えば、それでことはすんだのであろうが、アリョーシャは何も言わなかった。彼の『沈黙は軽蔑の沈黙かもしれない』と思って、コーリャはもうすっかりいらいらしてしまった。
「僕らの学校では、このごろまた古典語を始めましたがね、まるで狂気の沙汰です、それっきりです……カラマーゾフさん、あなたは僕の考えに反対ですか?」
「同意しませんね。」アリョーシャは控え目ににっこりした。
「古典語はですね、もしお望みとあれば、僕の意見を述べますが、あれば秩序取締りの政策なんですよ。ただそのために始めたんです」とコーリャは急にまた息をはずませた。「古典語を入れたのは退屈させるためです。才能を鈍らせるためです。すでに退屈であるが、それをさらにより退屈させるためにはどうしたらいいか? すではノンセンスであるが、それをさらにより以上ノンセンスにするにはどうしたらいいか? こういうわけでこの古典語を考えついたんです。これが古典語に関する僕のありのままの意見です。そして、僕はこの意見を決して変えないことを希望しています」とコーリャは鋭く言葉を結んだ。
 彼の両頬には赤いしみが現われた。
「それはまったくそうだ。」熱心に聞いていたスムーロフは、確信したように、かん走った声で同意を表した。
「そのくせ、コーリャはラテン語じゃ一番なんですよ!」群の中の一人がふいにこう叫んだ。
「そうなのよ、お父さん、自分であんなことを言ってるけど、ラテン語じゃ僕たちのうちで一番できるのよ」とイリューシャも相槌を打った。
「それがどうだって?」コーリャは賞められたのも非常に愉快であったが、それでもやはり弁解の必要を感じた。「そりゃ僕もラテン語をこつこつ暗記しています。つまりそうしなけりゃならないからですよ。なぜって、無事に学校を卒業するように、お母さんと約束したからです。僕の考えじゃ、一たんはじめた以上、立派にやり遂げたほうがいいと思うんです。けれど内心、僕はふかく古典主義なんて下劣なものを軽蔑しています……カラマーゾフさん、あなたはいかがですか?」
「でも、どうして『下劣なもの』なんです?」とアリョーシャはふたたび微笑した。
「だって、そうじゃありませんか、古典は残らず各国語に翻訳されてるから、古典研究のためにはラテン語なんかちっとも必要ありません。ただ政策として、人の才能を鈍らせるために必要とされたのです。どうしてこれが下劣でないと言えますか?」
「まあ、誰が君にそんなことを教えたんです?」とうとうアリョーシャはびっくりしたように叫んだ。
「第一に教わらなくたって、僕は自分でちゃんとわかります。それから第二として、僕がいま古典はぜんぶ翻訳されてると言ったのは、コルバースニコフ教授が三年級ぜんたいに向って、公然と言ったことなんです」
「お医者さんがいらしてよ!」それまで黙っていたニーノチカは、突然こう叫んだ。
 実際その時、ホフラコーヴァ夫人の箱馬車が門へ近づいた。朝から待ちかねていた二等大尉は、一目散に門のほうへ、出迎えに駈け出した。『おっ母さん』は身づくろいして、もったいらしい様子をした。アリョーシャはイリューシャのそばへ寄って、枕を直しはじめた。ニーノチカは自分の安楽椅子に腰かけたまま、気づかわしそうにそのほうを見やるのであった。少年たちはあわててさよならをしはじめた。中には晩にまた来ると約束するものもあった。コーリャはペレズヴォンを呼んだ。すると、犬は寝床の上から飛びおりた。
「僕、帰りゃしないよ、帰りゃしないよ!」とコーリャはあわててイリューシャに言った。「僕は玄関で待ってて、医者が帰ったらまたすぐ来るよ、ペレズヴォンを連れて来るよ。」
 しかし、医師はもう入って来た。熊の毛皮の外套を着、長い暗黒色の頬髯を生やし、顎をつやつやと剃ったその姿は、いかにもものものしかった。閾を跨ぐと、彼は度胆を抜かれたようにぴったり立ちどまった。入るところを間違えたような気がしたのである。で、彼は外套も脱がなければ、ラッコ皮の廂のついた同じものの帽子を取ろうともしないで、『これはどうしたことだ? ここはどこだ?』と呟いた。人ががやがやしていることや、部屋の粗末なことや、片隅の繩に洗濯物のかけ並べてあることなどが、彼を面くらわせたのである。二等大尉は彼に向って、丁寧に低く腰をかがめた。
「ここでございます、ここでございます」と彼はすっかり恐縮しながら呟いた。「ここでございます。わたくしのところでございます。あなたさまはわたくしのところへ……」
「スネ……ギ……リョフですか?」と医師はもったいらしく大声で言った。「スネギリョフさんは、あなたですか?」
「わたくしでございます!」
「ああ!」
 医師はもう一ど気むずかしそうに部屋を見まわし、外套を投げ出した。頸にかかっている厳めしい勲章が、一同の目にぎらりと光った。二等大尉は外套を宙で受けとめた。医師は帽子を脱いで、「患者はどこです?」と大きな声で催促するように訊いた。

[#3字下げ]第六 早熟[#「第六 早熟」は中見出し]

「あなたは、医者がイリューシャのことを、どう言うと思います?」とコーリャは口早に言った。「それにしても、なんていやな面でしょう、僕は医者ってものが癪にさわってたまりませんよ!」
「イリューシャはもう駄目でしょう。私にはどうもそう思われます」とアリョーシャは沈んだ声で答えた。
「詐欺師! 医者ってやつは詐欺師ですよ! だけど、カラマーゾフさん、僕はあなたにお目にかかったことを喜んでいます。僕はとうからあなたと近づきになりたかったんです。ただ残念なのは、僕たちがこんな悲しむべき時に出会ったことです……」
 コーリャは何かもっと熱烈で、もっと大袈裟なことを言いたくてたまらなかったが、何かが彼を押えているようであった。アリョーシャもこれに気がついたので、にっこりとして彼の手を握りしめた。
「僕はもうとっくからあなたを、世にも珍らしい人として尊敬していました。」コーリャはせきこんで、しどろもどろの調子でまたこう呟いた。「僕はあなたが神秘派で、修道院におられたことを聞きました。僕はあなたが神秘派だってことを知っていますが……それでも、あなたに接近したいという希望を捨てなかったんです。現実との接触がそれを癒やしてくれるでしょう……あなたのようなたちの人はそうなるのがあたりまえなんです。」
「一たい何を君は神秘派と呼ぶんです? そして、何を癒やしてくれるんです?」と、アリョーシャはいささか驚いて反問した。
「まあ、その、神だの何だのってものです。」
「何ですって、一たい君は神様を信じないのですか?」
「それどころじゃありません。僕も神には少しも異存ありません。むろん神は仮定にすぎないです……けれど……秩序のために……世界の秩序といったようなもののために、神が必要なことは認めています……だから、もし神がなければ、神を考え出す必要があったでしょう。」コーリャはだんだん顔を赤くしながら、こうつけたした。
 彼は突然こんな気持がしてきたのである、――今にもアリョーシャが、お前は自分の知識をひけらかして、自分が『大人』だってことを相手に示そうとしているのだ、とこう思うに違いない。『だが、僕はちっともこの人に、自分の知識なんかひけらかしたくはないんだ。』コーリャは憤然としてこう考えた。と、彼は急に恐ろしくいまいましくなった。
「僕は正直に言うと、こんな議論を始めるのがいやでたまらないんです」と彼は断ち切るように言った。「神を信じないでも、人類を愛することはできます、あなたはどうお考えですか? ヴォルテールは神を信じなかったけれど、人類を愛していました!」(また! また! と、彼は心の中で考えた。)
ヴォルテールは神を信じていました。が、その信仰はごく僅かだったようです。したがって人類に対する愛も僅かだったようです。」アリョーシャは静かに、控え目に、そしてきわめて自然にこう言った。それはいかにも自分と同年輩のものか、あるいは自分より年上のものとでも話すようなふうであった。
 アリョーシャがヴォルテールに関する自説に確信がなく、かえって小さいコーリャにこの問題の解決を求めるようなふうなので、コーリャはひどく驚かされた。
「が、君はヴォルテールを読みましたか?」とアリョーシャは言った。
「いえ、読んだというわけじゃありません……が、『カンディーダ』なら、ロシヤ語訳で読みました……古い怪しげな訳で、滑稽な訳で……」(また、また! と、彼は心の中で叫んだ。)
「で、わかりましたか?」
「ええ、そりゃあもうすっかり……つまり……しかし、なぜあなたは僕にわからなかったかもしれないと思うんです? むろん、あの本には俗なところがたくさんありました……僕もむろんあれが哲学的な小説で、思想を現わすために書いたものだってことはわかりました……」コーリャはもうすっかり、しどろもどろになってしまった。「僕は社会主義者です、カラマーゾフさん、僕は曲げることのできない社会主義者なんです。」彼は何の連絡もなくだしぬけにこう言って、ぶつりと言葉を切った。
社会主義者ですって?」とアリョーシャは笑いだした。「一たい君はいつの間に、そんなことができたんです? だって、君はまだやっと十三くらいでしょう?」
 コーリャはやっきとなった。
「僕は十三じゃない、十四です。二週間たつと十四になるんです。」彼は真っ赤になった。「それに僕の年なんか、この問題にどんな関係があります? 問題はただ僕の信念いかんということで、年が幾つかってことじゃないのです。そうじゃありませんか?」
「君がもっと年をとったら、年齢が信念に対してどんな意味をもつかということが、ひとりでにわかってきますよ。それに、私は、君の言われることが、自分の言葉でないような気がしましたよ」とアリョーシャは謙遜な、落ちついた調子で答えた。が、コーリャはやっきとなって、彼の言葉を遮った。
「冗談じゃない、あなたは服従神秘主義を望んでいらっしゃるんですね。たとえば、キリスト教が下層民を奴隷とするために、富貴な階級にのみ仕えていたということは、お認めになるでしょう。そうでしょう?」
「ああ、君が何でそんなことを読んだか、私にはちゃんとわかっています。きっと誰かが君に教えたんでしょう!」とアリョーシャは叫んだ。
「冗談じゃない、なぜ読んだものときまってるんです。僕は決して誰からも教わりゃしません。僕自分ひとりだってわかります……それに、もしお望みとあれば、僕はキリストに反対しません。キリストはまったく人道的な人格者だったのです。もし彼が現代に生きていたら、それこそ必ず革命家の仲間に入っていて、あるいは華々しい役目を演じたかもしれません……きっとそうですとも。」
「まあ、一たい、一たい君はどこからそんな説を、しこたま仕入れて来たんです? 一たいどんな馬鹿とかかり合ったんです!」とアリョーシャは叫んだ。
「冗談じゃない。では、しようがない、隠さずに言いますがね。僕はある機会からラキーチン君とよく話をするんです。しかし……そんなことは、もうベリンスキイ老人も言ってるそうじゃありませんか。」
「ベリンスキイが? 覚えがありませんね。あの人はどこにもそんなことを書いていませんよ。」
「書いてなけりゃ言ったんでしょう、何でもそういう話です。僕はある人から聞いたんですがね……だが、ばかばかしい、どうだっていいや……」
「では、君ベリンスキイを読みましたか?」
「それはですね……いや……僕ちっとも読まなかったんです。けれど……なぜタチヤーナがオネーギンと一緒に行かなかったか、ということを書いたところだけ読みました。」
「どうしてオネーギンと一緒に行かなかったか? 一たい君にはそんなことまで……わかるんですか?」
「冗談じゃない、あなたは僕のことを、スムーロフと同じような子供と思ってるようですね」とコーリャはいらだたしげに歯を剥いた。「けれど、どうか僕をそんな極端な革命家だとは思わないで下さい。僕はしょっちゅうラキーチンと意見の合わないことが多いんです。ところで、タチヤーナのことを言ったのは、決して婦人解放論のためじゃありません。実際、女は服従すべきもので、従順でなければなりません。Les femmes tricottent[#割り注](女は編物でもしておればいい[#割り注終わり])とナポレオンが言ったとおり」とコーリャはなぜかにやりと笑った。「少くとも、僕はこの点において、まったくこのえせ[#「えせ」に傍点]偉人と信念を同じゅうしています。たとえば、僕もやはり、祖国を棄てて、アメリカへ走るなんてことは、下劣なことだと思っています、下劣どころか無知なことだと思っています。ロシヤにいても十分人類を利することができるのに、なぜアメリカなんかへ行くんです? しかも今日のような場合、有益な活動の領域がいくらでもあるんですからね。僕はこう答えてやりました。」
「え、答えたんですって? 誰に? 誰かが君にアメリカへ行けとでも行ったんですか?」
「実のところ、僕はけしかけられたけれども、拒絶したんです。これはね、カラマーゾフさん、むろんここだけの話ですよ。いいですか、誰にも言わないようにして下さい。あなただけに言うんですからね。僕は第三課([#割り注]帝政時代のロシヤ政府に設けられた保安課[#割り注終わり])へぶち込まれて、ツェプノイ橋のそばで勉強するなんか真っ平です。

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ツェプノイ橋の袂なる
かの建物を記憶せん!
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 ご存じですか? 立派なものでしょう! なぜあなたは笑ってらっしゃるんです? まさか、僕がでたらめを並べてるとは、思ってらっしゃらないでしょうね?」(だが、もしカラマーゾフが、お父さんの書棚にこの『警鐘』([#割り注]ヘルツェンがロンドンで発行した雑誌[#割り注終わり])がたった一冊しかないことや、僕がそれよりほかこの種類のものを何にも読んでないことを知ったらどうだろう? コーリャはふとこう考えついて、思わずぞっとした。)
「どうしてどうして、そんなことはありません。私は笑ってやしません。君が嘘を言われるなんてまったく考えてもいません。それこそ本当に、そんなこと考えてやしませんよ。なぜって、悲しいことには、それがみんな本当のことなんですものね! ときに、君はプーシュキンを読みましたか、『オネーギン』を……いま君は、タチヤーナのことを言ったじゃありませんか?」
「いいえ、まだ読みませんが、読みたいとは思っています。カラマーゾフさん、ぼくは偏見を持っていませんから、両方の意見を聞きたいと思っているのです。なぜそんなことを訊くんですか?」
「なに、ただちょっと。」
「ねえ、カラマーゾフさん、あなたは僕をひどく軽蔑していらっしゃいますね?」とコーリャは投げつけるように言い、喧嘩腰といったような恰好で、アリョーシャの前にぐいと身を伸ばした。「どうかぴしぴしやって下さい、あてこすりでなしに。」
「あなたを軽蔑しているって?」アリョーシャはびっくりしてコーリャを見た。「そりゃどうしてです? 私はただ、あなたのようなまだ生活を知らない美しい天性が、そういうがさつな愚論のために片輪にされてるのが、淋しいんですよ。」
「僕の天性なんか心配しないで下さい」とコーリャは少々得意げな調子で遮った。「しかし、僕が疑りぶかい人間だってことは、そりゃまったくそのとおりです。ばかばかしく疑りぶかいんです。もう下司っぽいほど疑りぶかいんです。あなたは今お笑いになりましたが、僕はもう何だか……」
「ああ、私が笑ったのは、まるでほかのことですよ。私が笑ったのは、こういうわけなんです。以前ロシヤに住んでいたあるドイツ人が、現代ロシヤの青年学生について述べた意見を、私は近ごろ読んでみましたが、その中に『もしロシヤの学生にむかって、彼らが今日までぜんぜん何の観念も持っていなかった天体図を示したなら、彼らはすぐ翌日その天体図を訂正して返すであろう』とこう書いてありました。このドイツ人はロシヤの学生が何らの知識も持たないくせに、放縦な自信家だということを指摘したんです。」
「ええ、そうです、それはまったくそのとおりですよ!」コーリャは急にきゃっきゃっと笑いだした。「最上級に正確です、寸分相違なし! ドイツ人、えらい! けれど、やっこさん、いい方面を見落しやがった、あなたはどうお思いですか? 自信、――それはかまわないじゃありませんか。これはいわば若気のいたりで、もし直す必要があるとすれば、やがて自然に直りますよ。けれども、そのかわりドイツっぽのように、権威の前に盲従する妥協的精神と違って、ほとんど生来からの不羈の精神、思想と信念の大胆さがあります……だが、とにかくドイツ人はうまいことを言ったものですね! ドイツ人、えらい! が、それにしても、ドイツ人は締め殺してやらなけりゃなりません、彼らは科学にこそ長じていますが、それにしても締め殺さなけりゃなりません……」
「何のために締め殺すんです?」とアリョーシャは微笑した。
「ええ、僕はでたらめを言ったかもしれません。それは同意します。僕はどうかすると、途方もない赤ん坊になるんです。何か嬉しくなってくると、たまらなくなって、恐ろしいでたらめを言いかねないんです。だけど、僕らはここでくだらないことを喋っていますが、あの医者はあそこで何やら、長いことぐずついていますね。もっとも、『おっ母さん』だの、あの脚の立たないニーノチカだのを診察してるのかもしれません。ねえ、あのニーノチカは僕気に入りましたよ。僕が出て来る時に、『なぜあなた、もっと早くいらっしゃらなかったの?』って、だしぬけに小さい声で言うじゃありませんか。何ともいえない責めるような声でね! あのひとはとても気だての優しい、可哀そうな娘さんのように思われます。」
「そうです、そうです! 君もこれからここへ来ているうちに、あのひとがどんな娘さんかってことがわかりますよ。ああいうひとを知って、ああいうひとから多くの価値ある点を見いだすのは、あなたにとって非常に有益なことです」とアリョーシャは熱心に言った。「それが何よりも工合よく君を改造してくれるでしょう。」
「ええ、実に残念ですよ。どうしてもっと早く来なかったろうと思って、自分で自分を責めているんです」とコーリャは悲痛な調子で叫んだ。
「そうです、実に残念です。君があの哀れな子供に、どんな喜ばしい印象を与えたか、君自身ごらんになったでしょう。あの子は君を待ちこがれながら、どれくらい煩悶したかしれません。」
「それを言わないで下さい! あなたは僕をお苦しめになるんです。しかし、それも仕方がありません。僕が来なかったのは自愛心のためです、利己的自愛心と下劣な自尊心のためです。僕はたとえ一生涯くるしんでも、とうていこの自尊心からのがれることはできません。僕は今からちゃんとそれを見抜いています。カラマーゾフさん、僕はいろんな点から見てやくざ者ですよ!」
「いや、君の天性は曲げ傷つけられてこそいるが、美しい立派なものです。なぜ君があの病的に敏感な高潔な子供に対して、あれだけの感化を与えることができたか、私にはちゃんとわかっています!」とアリョーシャは熱心に答えた。
「あなたは僕にそう言って下さいますが」とコーリャは叫んだ。「僕はまあ、どうでしょう、僕はこう考えたんです、――現に今ここでも、あなたが僕を軽蔑していらっしゃるように考えていました! ああ、僕がどれくらいあなたのご意見を尊重してるか、それがあなたにわかったらなあ!」
「だが、君は本当にそれほど疑りぶかいんですか? そんな年ごろで! ねえ、どうでしょう、私はあそこの部屋で、君の話を聞きながらじっと君を見て、この人はきっと、むしょうに疑りぶかい人に違いない、とこう思いましたよ!」
「もうそう思ったんですか? それにしても、あなたの目はなんて目でしょう。ごらんなさい、ごらんなさい! 僕、賭けでもしますが、それは僕が鵞鳥の話をしていた時でしょう。僕もちょうどその時、あんまり自分をえらい者に見せかけようとあせるので、かえってすっかりあなたに軽蔑されてるような気がしました。そして、それがために急にあなたが憎くなって、くだらない話の連発をはじめたんです。それから(これはもう今ここでのことですが)、『もし神がないものなら、考え出す必要がある』と言った時にも、自分の教養をひけらかそうとあせったのだ、というような気がしました。ことにこの句はある本を読んで覚えたんですからね。けれど僕、誓って言いますが、あんなに急いで自分の教養をひけらかそうとしたのは、決して虚栄のためじゃないんです。何のためだか知りませんが、たぶん嬉しまぎれでしょう……もっとも、嬉しまぎれに有頂天になって、人の頸っ玉に噛りつくような真似をするのは、深く恥ずべきことですけれど、確かに嬉しまぎれのようでした。それは僕わかっています。けれど今はそのかわり、あなたが僕を軽蔑していらっしゃらないってことを信じています。そんなことはみんな僕自分[#「僕自分」はママ]で考え出した妄想です。ああ、カラマーゾフさん、僕は実に不幸な人間ですね。僕はどうかすると、みんなが、世界じゅうのものが僕を笑ってるんじゃないかというような、とんでもないことを考えだすんです。僕はそういう時に、そういう時に、僕は一切の秩序をぶち壊してやりたくなるんです。」
「そして、周囲のものを苦しめるんでしょう」とアリョーシャは微笑した。
「そうです、周囲のものを苦しめるんです、ことにお母さんをね。カラマーゾフさん、僕はいまとても滑稽でしょう?」
「まあ、そんなことを考えないほうがいいですよ、そんなことは、ぜんぜん考えないがいいです!」とアリョーシャは叫んだ。「滑稽が何です? 人間が滑稽なものになったり、あるいはそういうふうに見えたりすることは、いくらあるかしれません。今日ではみんな才能のあるひとたちが、滑稽なものになることをひどく恐れて、そのために不幸になってるんですよ。ただ私が驚くのは、君がそんなに早く、これを感じはじめたことです?[#「ことです?」はママ] もっとも、私はもうとっくから、ただ君ばかりでなく、多くの人にそれを認めていたのですがね。今日ではほとんど子供までが、これに苦しむようになっています。それはほとんど狂気の沙汰です。この自愛心の中に悪魔が乗り移って、時代ぜんたいを荒らし廻ってるんです、まったく悪魔ですよ。」じっと熱心に相手を見つめていたコーリャの予期に反して、アリョーシャは冷笑の影もうかべずに言いたした。「あなたもすべての人たちと同じです」とアリョーシャは語を結んだ。「つまり、大多数の人たちと同じですが、ただみんなのような人間になってはいけません、ほんとに。」
「みんながそうなのに?」
「そうです、たとえみんながそうであっても、君ひとりだけそんな人間にならなけりゃいいんです。それに、実際、君はみんなと同じような人じゃありません。現に君は今も、自分の悪い滑稽な点さえ認めることを、恥じなかったじゃありませんか。まったく、こんにち誰がそういうことを自覚してるでしょう? 誰もありゃしません。その上、自分を責めようという要求さえも起きないんです。どうかみんなのような人間にならないで下さい。たとえそういう人間でないものが、ただ君ひとりだけになっても、君はそういう人間にならないで下さい。」
「実に立派だ! 僕はあなたを見そこなわなかった。あなたは、人を慰める力を持っていらっしゃる。ああ、カラマーゾフさん、僕はどんなにあなたを慕っていたでしょう。どんなに以前から、あなたに会う機会を待っていたでしょう。じゃ、あなたもやはり、僕のことを考えていられたんですか? さっきそうおっしゃったでしょう、あなたも僕のことを考えてたって?」
「そうです、私は君のことを聞いて、やはり君のことを考えていました……もっとも、君はいくぶん、自愛心からそんなことを訊いたのでしょうが、そりゃ、なに、かまいませんよ。」
「ねえ、カラマーゾフさん、僕たちの告白はちょうど恋の打ち明けに似ていますね」とコーリャは妙に弱々しい羞恥をふくんだ声で言った。「それは滑稽じゃないでしょうか、滑稽じゃないでしょうか?」
「ちっとも滑稽じゃありませんよ。それに、よしんば滑稽でもかまやしませんよ。それはいいことですものね」とアリョーシャははればれしく微笑した。
「ですがねえ、カラマーゾフさん、あなたはいま僕と一緒にいるのを、恥しがってらっしゃるようですね……それはあなたの目つきでわかっています。そうでしょう?」コーリャは妙に狡猾な、しかし一種の幸福を感じたようなふうで、にたりと笑った。
「何が恥しいんです?」
「じゃ、なぜあなたは顔を赤くしたんです?」
「それは、君が赤くなるようにしむけたんです!」アリョーシャは笑いだした。実際、彼は顔じゅう真っ赤にしていた。「だが、そうですね、少しは恥しいようですね、なぜかわからないんですがね、なぜか知らないんですがね……」彼はほとんどどぎまぎしたようにこう呟いた。
「ああ、僕はどんなにかあなたを愛してるでしょう。どんなにこの瞬間あなたを尊重してるでしょう! それはつまり、あなたが僕と一緒にいるのを、恥しがっていらっしゃるためです。なぜって、あなたはちょうど僕と同じだからですよ!」コーリャはすっかり夢中になってこう叫んだ。彼の頬は燃え、目は輝いた。
「ねえ、コーリャ、君は将来非常に不幸な人間になりますよ。」アリョーシャはなぜか突然こう言った。
「知っています、知っています。本当にあなたは何でも先のことがおわかりになりますね!」とコーリャはすぐ承認した。
「だが、ぜんたいとしては、やはり人生を祝福なさいよ。」
「そうですとも! 万歳! あなたは予言者です! ああ、カラマーゾフさん、僕らは大いに意気相投合しますね。ねえ、いま僕を一ばん感心させたのは、あなたが僕をまったく同等の扱いになさることです。だけど、僕らは同等じゃありません。そうです、同等じゃありません、あなたのほうがはるかに上です! けれども、僕らは一致しますよ。実はねえ、先月のことでした、『僕とカラマーゾフさんは、親友としてただちに永久に一致するか、あるいは最初から敵となって、墓に入るまで別れるかだ!』とこうひとりで言ったんですよ。」
「あなたがそう言った時には、むろんもう私を愛していたんです!」とアリョーシャは愉快そうに笑った。
「愛していました、非常に愛していました、愛すればこそ、あなたのことを、いろいろと空想していたのです! どうしてあなたは何でも前からわかるんでしょうね? ああ、医者が来ました。ああ、一たい何と言うんだろう。どうです、あの顔つきは!」

[#3字下げ]第七 イリューシャ[#「第七 イリューシャ」は中見出し]

 医師はまた毛皮の外套にくるまり、帽子をかぶって出て来た。彼は腹だたしそうな気むずかしい顔つきをしていた。それは何か汚いものに触れるのを恐れているようであった。彼はちらりと玄関のほうへ視線を投げ、その拍子にいかつい目つきで、アリョーシャとコーリャを見た。アリョーシャは戸口から馭者を手招きした。と、医師を乗せて来た馬車は、入口に寄せられた。二等大尉は医師のあとからまっしぐらに飛び出して来て、謝罪でもするようにその前に腰をかがめながら、最後の宣告を聞こうと、引き止めた。哀れな大尉の額は死人の顔そのままで、その目は慴えたようであった。
「先生さま、先生さま……一たいもう?」彼はこう言いさしたが、まだ言い終らぬうちに、絶望のていで両手を拍った。彼は医師がもう一こと何とか言ってくれたら、不幸な子供の容態が実際もち直すとでも思っているもののように、最後の哀願の色をうかべて、医師を見つめるのであった。
「どうも仕方がないね! 私は神様じゃないから。」医師は馴れきった、さとすような声で、無造作にこう答えた。
「ドクトル……先生さま……それはもうすぐでございましょうか……すぐで?」
「万一の覚悟……をしておいたが、いいでしょう。」医師は一こと一こと、力を入れながらこう言うと、視線をわきへそらし、馬車のほうをさして、閾を跨ごうと身構えした。
「先生さま、お願いでございます!」二等大尉はびっくりしたように、医師を引き止めた。「先生さま!………では、どうしても、もうどうしても、今ではどうしても助からないのでございましょうか?………」
「もう私ではどうにも……ならん!」と医師はじれったそうに言った。「だが、ふむ、」彼は急に立ちどまった。「でも、もしお前さんが今すぐ、一刻も猶予せずに(医師は『今すぐ、一刻も猶予せずに』という言葉を、いかついところを通り越して、ほとんど腹立たしいばかりに言ったので、二等大尉はびくりと身ぶるいしたほどであった)……患者を………シ―ラ―ク―サヘ……連れて……行けば……温―暖な気―候―のために、ことによったら……あるいは―……」
シラクサですって!」言葉の意味を解しかねるらしく、二等大尉はこう叫んだ。
シラクサというと、――それはシシリイにあるのです。」コーリャは説明のために、とつぜん大きな声で投げつけるように言った。
 医師は彼を見やった。
「シシリイヘ! 旦那さま、先生さま、」二等大尉は茫然としてしまった。「まあ、ごらんのとおりでございます!」彼は自分の家財道具を指さしながら、両手で円を描いた。「あのおっ母さんや、家族のものはどうなるのでございましょう?」
「い、いや、家族はシシリイヘ行くんじゃない、お前さんの家族はコーカサスへ行くんだ、春早々にね……娘さんはコーカサスへやって、細君は……あの人もレウマチをなおすために、やはりコーカサスで規定の湯治をすますと……それから、すぐパリヘ―出かけて、精―神―病科専門のレペル―レティエの治療院へはいるんだねえ。私がその人へ添書を書いてもいい、そうすれば……あるいは……」
「先生、先生! でもこのとおりじゃありませんか!」何も貼ってない玄関の丸太壁を、絶望的に指さしながら、二等大尉はまたとつぜん両手を振った。
「いや、それはもう私の知ったことじゃないんだ。」医師は薄笑いをもらした。「私はただ、最後の方法をどうかというお前さんの質問に対して、科学の示し得るところを言ったにすぎん。だから、それ以外のことは……残念ながら……」
「ご心配はいりません、お医者さん、僕の犬はあなたに噛みつきゃしません。」
 医師が、閾の上に立っていたペレズヴォンにいくぶん不安げな目をそそいでいるのに気づいたので、コーリャは大声にこう遮った。
 コーリャの声には怒りの調子がこもっていた。彼は先生と言わずに、わざと『お医者さん』と言ったのである。それは、彼があとで白状したとおり、『侮辱のために言った』のである。
「な―ん―で―すって?」医者は驚いたようにコーリャの方へ目を据えて、ぐいと頭をしゃくった。「こ……この子は何ものだね?」医者は、アリョーシャに責任を求めようとでもするように、とうぜん彼のほうへふり向いた。
「この子はペレズヴォンの主人ですよ。お医者さん、僕の人物については心配ご無用ですよ。」コーリャはまたきっぱりこう言った。
「ズヴォン?」と医師は鸚鵡返しに言った。ペレズヴォンが何ものかわからなかったのである。
「やっこさん自分がどこにいるか知らないんだ。さようなら、お医者さん、またシラクサでお目にかかりましょう。」
「何ものです、こ……この子は? 何ものです、何ものです?」医師は、にわかにやっきとなってこう言った。
「先生、あれはここの学生です。やんちゃ者なんです。お気にとめないで下さい」とアリョーシャは眉をしかめながら、早口に言った。「コーリャ、もうおやめなさい!」と彼はクラソートキンに叫んだ。「先生、気におとめになっちゃいけませんよ」と今度はいくぶんいらいらしながら繰り返した。
「引っぱたいて……引っぱたいてやるぞっ……引っぱたいて!」なぜか度はずれにいきり立った医師は、どしんどしんと地団駄を踏んだ。
「だがね、お医者さん、僕のペレズヴォンは、ことによったら、本当に噛みつくかもしれませんよ!」コーリャは真っ蒼になって目を光らせながら、声をふるわしてこう言った。「Iic[#「Iic」はママ], ペレズヴォン!」
「コーリャ、もう一度そんなことを言ったら、私は永久に君と絶交しますよ!」とアリョーシャは威をおびた調子で叫んだ。
「お医者さん、ニコライ・クラソートキンに命令することのできるものが、世界じゅうにたった一人あるんです、それはこの人なんです(と、コーリャはアリョーシャを指さした)。僕はこの人にしたがいます、さようなら!」
 彼はいきなりそこを離れると、戸をあけて、急ぎ足に部屋へ入った。ペレズヴォンも彼のあとから駈け出した。医師はアリョーシャをうちまもりながら、化石したように五秒間ばかり立ちすくんでいたが、やがて突然ぺっと唾をして、「一たい、一たい、一たい、一たいこれは何事だ!」と大声に繰り返しながら、急ぎ足に馬車のほうへ行った。二等大尉は医師を馬車へ乗せるために、急いで駈けだした。アリョーシャはコーリャにつづいて部屋へ入った。コーリャはもうイリューシャの寝床のそばに立っていた。イリューシャは彼の手を握って、お父さんを呼んだ。やがて二等大尉も帰って来た。
「お父さん、お父さん、ここへ来てちょうだい……僕たちはね……」とイリューシャは非常な興奮のていで呟いたが、あとをつづけることができないらしく、とつぜん痩せた両手を前へさし伸べて、力のかぎり彼ら二人、コーリャと父親を一度に強く抱きしめ、彼らにぴったり身を寄せた。
 二等大尉はにわかにぶるぶると全身を慄わしながら、忍び音にすすり泣きをはじめた。コーリャの唇と顋が慄えだした。
「お父さん、お父さん! 僕お父さんが可哀そうでならないの!」とイリューシャは声高に、呻くように言った。
「イリューシャ……ね、これ……いま先生が言われたが……お前たっしゃになるよ……そして、私たちは仕合せになるよ……先生は……」と二等大尉が言いかけた。
「おお、お父さん! 僕こんどのお医者さんが何と言ったか知ってるの……僕見たんだもの!」と、イリューシャは叫んで、父の肩に顔を埋めつつ、二人をしっかりと抱きしめた。
「お父さん、泣かないでちょうだい……僕が死んだら、ほかのいい子をもらってちょうだい……あの人たちみんなの中から自分でいいのを選って、イリューシャという名をつけて、僕の代りに可愛がってちょうだい……」
「よせよ、お爺さん、なおるよ!」とクラソートキンは怒ったように叫んだ。
「でも、僕をね、お父さん、決して僕を忘れないでちょうだい」とイリューシャは言葉をつづけた。「僕のお墓に詣ってね……ああ、それからお父さん、いつも一緒に散歩してたあの大きな石のそばに葬ってちょうだい……そして、夕方になったら、クラソートキン君と一緒にお詣りに来てちょうだい……ペレズヴォンもね、僕待ってるから……お父さん、お父さん!」
 イリューシャの声はぷつりときれた。三人は抱き合ったまま黙ってしまった。ニーノチカは安楽椅子に腰かけたまま、忍び音に泣いていたが、『おっ母さん』もみんなが泣いているのを見ると、急にさめざめと涙を流しはじめた。
「イリューシャ、イリューシャ!」と彼女は叫んだ。
 クラソートキンは突然、イリューシャの手から身をもぎ放した。
「さようなら、お爺さん、ご飯時分だから、お母さんが僕を待ってるだろう」と彼は早口に言った。「お母さんに断わって来なくて、本当に残念だった! きっと心配するだろう……だが、ご飯をすましてからすぐ来るよ、一日じゅう来ているよ、一晩じゅう来てるよ、そしてうんと話すよ。うんと話すよ。ペレズヴォンも連れて来るよ、しかし、今は連れて帰ろう。だって、僕がいないと、こいつ吠えだして君の邪魔をするからさ。さようなら!」
 こう言って、彼は玄関へ走り出た。彼は泣きたくなかったが、玄関へ出ると、やはり泣いてしまった。こうしているところを、アリョーシャが見つけた。
「コーリャ、君はきっと約束どおり来てくれるでしょうね。でないと、イリューシャはひどく力を落しますよ」とアリョーシャは念を押した。
「きっと来ます! ああ、残念だ、どうしで[#「どうしで」はママ]僕はもっと前に来なかったんだろう。」
 コーリャは泣きながら、しかもその泣いていることを恥じようともせずに呟いた。
 ちょうどこの時、とつぜん部屋の中から、二等大尉が転げるように駈け出して、すぐにうしろの戸を閉めた。彼は気ちがいのような顔つきをして、唇を慄わせていた。そして、二人の若者の前に立って、ぐいと両手を上へあげた。
「どんないい子もほしくない! ほかの子なんか、ほしくない!」と彼は歯ぎしりしながら、気うとい声で囁いた。「もしわれなんじを忘れなば、エルサレム、われを罰せよ……」
 彼は涙にむせんだようなふうで、しまいまで言うことができなかった。ぐったりと木製のベンチの前に跪き、両の拳でわれとわが頭をしめつけて、たわいもなく泣きじゃくりをはじめた。が、自分の泣き声が部屋の中に聞えないようにと、懸命に声を抑えていた。コーリャは往来へ飛び出した。
「さようなら、カラマーゾフさん! あなたも来ますか?」彼は鋭い声で、腹立たしそうにアリョーシャに叫んだ。
「きっと晩に来ますよ。」
「あの人はエルサレムがどうとか言ったが……あれは一たい何でしょう?」
「あれは聖書の中にあるんです、『エルサレムよ、もしわれなんじを忘れなば』、つまり、私が自分の持っている一ばん尊いものを忘れたら、何かに見かえてしまったら、私を罰して下さい、というのです……」
「わかりました、たくさんです! じゃあ、あなたもおいでなさい! Ici, ペレズヴォン!」と彼はあらあらしい声で犬を呼び、大股にわが家をさして急いだ。
[#改段]

[#1字下げ]第十一篇 兄イヴァン[#「第十一篇 兄イヴァン」は大見出し]



[#3字下げ]第一 グルーシェンカの家で[#「第一 グルーシェンカの家で」は中見出し]

 アリョーシャは中央広場のほうへ赴いた。彼は、商人の妻モローソヴァの家に住んでいるグルーシェンカのもとへと志したのである。彼女は朝早く、彼のところヘフェーニャをよこして、ぜひ来てもらいたいとくれぐれも頼んだのである。アリョーシャはフェーニャの口から、彼女が昨日から何だかひどくそわそわしていることを知った。ミーチャが捕縛されて以来、二カ月間というもの、アリョーシャは自分で気が向いたり、ミーチャから頼まれたりして、たびたびモローソヴァの家へ行ったのである。ミーチャの捕縛後三日目に、グルーシェンカは激しい病気にかかって、ほとんど五週間ちかくも寝ついていた。そのうち一週間くらいは、昏睡状態におちいっていたほどである。彼女はひどく面がわりがした。外出できるようになってから、もうほとんど二週間になるが、彼女の顔はまだやつれて黄いろかった。けれど、アリョーシャの目には、そのほうがむしろ魅力があるように思われた。で、彼はグルーシェンカの部屋へ入って行く時に、彼女の与える最初の一瞥を好んだ。彼女の目つきには何かしっかりした、意味ありげなあるものが明瞭に現われていた。そこには何やら精神的変化が認められ、つつましやかではあるが、しかし堅固不抜な、頑固に思われるほどの決心の色が浮んでいた。眉と眉の間にはあまり大きくない竪皺が現われて、美しい容貌に深く思いつめたような色を添えているので、ちょっと見ると、きついようにさえ感じられた。以前の軽はずみな調子など跡かたもなかった。それからもう一つ、アリョーシャにとって不思議なのは、この哀れな女が、あれほど不幸な目にあったにもかかわらず、つまり、婚約したほとんどその瞬間に、相手の男が恐ろしい犯罪の疑いで逮捕されたり、病気にかかったり、十中八九避けることのできない裁判の判決に将来を脅やかされたりしているにもかかわらず、やはり以前のうきうきした若々しさを失わないことであった。彼女の以前の傲慢な目つきの中に、今では一種の静謐が輝いていた。もっとも……もっともこの目はやはり時おり、一種の不吉な火に燃え立つことがあった。それは依然として変らぬ一つの不安が彼女を襲って、一向に衰えようとしないばかりか、ますます彼女の心中に拡がってゆくような時であった。この不安の原因は、例のカチェリーナであった。グルーシェンカは病気の間にも、カチェリーナのことを譫言に言ったほどである。
 彼女がカチェリーナのためにミーチャを、囚人のミーチャを嫉妬していることは、アリョーシャもちゃんと知っていた。もっとも、カチェリーナは、自由に獄中のミーチャを訪ねることができたにもかかわらず、一度も面会に行ったことがないのであった。これらのことはアリョーシャにとって、かなり面倒な問題になっていた。というのは、グルーシェンカはただアリョーシャ一人にだけ自分の心を打ち明けて、絶えずいろいろな相談を持ちかけたが、時によるとアリョーシャは、彼女に何と言ったらいいか、まるでわからなくなるからであった。
 彼は心配らしい顔つきをして彼女の部屋へはいった。彼女はもう家へ帰っていた。もう三十分も前にミーチャのところから帰って来たのである。彼女がテーブルの前の安楽椅子から飛び立って、彼を迎えた時の敏速な挙動から考えて、アリョーシャは彼女がひどく待ちわびていたことを知った。テーブルの上にはカルタがおいてあって、『馬鹿』をしていた跡がある。テーブルの一方におかれた革張りの長椅子には、蒲団が伸べられて、その上にはマクシーモフが部屋着をまとい、木綿の帽子を被ったまま、横になっていた。彼は甘ったるい笑みを浮べていたが、いかにも病人らしく、弱りこんだような様子をしていた。この住むに家なき老人は、二カ月前、グルーシェンカと一緒にモークロエから帰って来て以来、ここにとまり込んで、そのまま彼女のそばを離れないのである。彼はそのとき彼女と一緒に、霙の中をぐしょ濡れになって帰って来ると、長椅子の上へ坐り込んでしまって、おずおずと哀願するような微笑を浮べながら、彼女をうちまもっていた。グルーシェンカは烈しい悲しみに打たれてもいたし、そろそろ発熱を感じてもいたし、その上さまざまな心配ごともあったので、帰ってからほとんど三十分以上、マクシーモフのことを忘れていたのであるが、ふと気がついたようにじっと彼を見つめた。マクシーモフはみじめな表情で、彼女の目を見ながら、ひひひと笑った。彼女はフェーニャを呼んで、何か食べさしてやるように言いつけた。彼はこの日一んち、ほとんど身動き一つせずに坐り込んでいた。暗くなって、鎧戸を閉めてしまうと、フェーニャは女あるじに訊ねた。
「ねえ、奥さま、あの方は泊って行くのでございますか?」
「そうだよ、長椅子の上に床を伸べておあげ」とグルーシェンカは答えた。
 グルーシェンカは根掘り葉掘り訊ねたすえ、今ではもうまったくどこへも行き場のない彼であることを知った。『わたくしの恩人のカルガーノフさんも、もうお前をおいてやらないと、きっぱりわたくしに言い渡して、お金を五ルーブリくださいました』と彼は言った。『じゃ、仕方がない。わたしのとこにいたらいいわ。』グルーシェンカは憫れむように微笑しながら、悩ましげにそう言った。老人はこの微笑を見て、思わずぎっくりし、感謝の情に唇をふるわした。こうして、その時からこの放浪者は、彼女のもとに食客として残ったのである。彼女の病中にも彼はその家を出なかった。フェーニャと、料理番をしているその祖母も、やはり彼を追っ払わないで、食べさせてやったり、長椅子の上に寝床を伸べてやったりした。グルーシェンカも、しまいには彼に慣れて、ミーチャのところへ行って来た時など(彼女はまだすっかり回復しきらないうちから、もう、ミーチャのところへ行きはじめた)、悲しみをまぎらすために、『マクシームシュカ』を相手に、いろいろ無駄話をするようになった。老人も案外なにかと面白いことを話してくれるので、今では彼女にとって、なくてかなわぬ人となった。ときどきほんのちょっと顔を覗けるアリョーシャのほか、グルーシェンカはほとんど誰もに[#「もに」はママ]会わなかった。彼女の老商人は、この頃ひどく病気が重って[#「重って」はママ]寝ついていた。町で噂していたとおり、もう『死にかかっていた』のである。事実、彼はミーチャの公判後、一週間たって死んだ。死ぬ三週間前、彼は死期の近づいたのを感じて、息子や嫁や子供たちを呼びよせ、もはや一刻もそばを離れぬようにと頼んだ。しかし、グルーシェンカは決して来させぬように、もし来たら、『どうか末長く楽しく暮して、わしのことはすっかり忘れてくれ』と伝言するように、厳しく下男たちへ言いつけた。が、グルーシェンカはほとんど毎日のように、その容態を問い合せに使いをよこした。
「とうとう来たわね!」彼女はカルタを抛り出して、アリョーシャと握手しながら、嬉しそうにこう叫んだ。「マクシームシュカったら、あんたがもう来ないなんて嚇かすのよ。ああ、本当にあんたに来てもらわないと、困ることがあるの。テーブルのそばへおかけなさいよ。ねえ、コーヒー飲みたくなくって?」
「ええ、もらってもいいです」とアリョーシャは、テーブルのそばへ腰をおろしながら言った。「すっかり腹がへっちゃった。」
「そら、ごらんなさい。フェーニャ、フェーニャ、コーヒーを!」とグルーシェンカは叫んだ。「うちじゃもうさっきから、コーヒーがぐつぐつ煮立って、あんたを待っているのよ。肉入りパイを持って来てちょうだい、熱いのをね! そうそう、ちょっとアリョーシャ、今日わたしのほうじゃね、この肉入りパイで騒動が起ったのよ。わたしね、このパイをあの人のところへ、監獄へ持って行ったの。ところが、ひどいじゃありませんか。あの人はそれをわたしに抛り返して、食べようとしないの。一つのパイなど、床へ投げつけて、踏みにじるんだもの。だから、わたし、『これを番人のところへ預けとくから、もし晩までに食べなかったら、あんたはつまり意地のわるい憎しみを食べて生きてるんだわ!』と言って、それなりさっさと帰って来たのよ。また喧嘩しちゃった。まあ、どうでしょう、いつ行っても、きっと喧嘩しちまうんですの。」グルーシェンカは興奮しながら、立てつづけにまくしたてた。マクシーモフは途端におじ気づいて、目を伏せながらにやにやしていた。
「今度はどういうわけで喧嘩をしたんです?」とアリョーシャは訊いた。
「もうそれこそ、本当にだしぬけなのよ! まあ、どうでしょう、『もとの恋人』のことをやいてね、『なぜお前はあいつを囲っておくんだ。お前はあいつを囲ってるんだろう?』なんて言うのよ。始終やいてるのよ、始終わたしをやいてるのよ! 寝ても覚めてもやいてるの。先週なんか、クジマーのことさえやいたわ。」
「だって、兄さんは『もとの人』のことを知ってるじゃありませんか!」
「そりゃ知ってますともさ。そもそもの初めから、今日のことまで知り抜いてるのよ。ところが、今日だしぬけに呶鳴りつけるじゃありませんか。あの人の言ったことったら、ほんとに気恥しくって、口に出せやしないわ。馬鹿だわね! わたしが出て来る時、すれ違いにラキートカが訪ねて行ったけれど、ことによったら、あの男が焚きつけてるのかもしれないわねえ? あんたどう思って?」と彼女はぼんやりした様子でつけ加えた。
「兄さんはあなたを愛しています。本当に、ひどく愛してるんですよ。ところが、今日はちょうど運わるくいらいらしてたんです。」
「そりゃいらいらするのもあたりまえだわ、あす公判なんですもの。わたしが行ったのも、明日のことで言いたいことがあったからよ。ほんとにねえ、アリョーシャ、明日はどうなるでしょう、わたし考えてみるのさえ怖いわ! あんたはあの人がいらいらしてるっておっしゃるけど、わたしこそどれほどいらいらしてるかしれないわ。それだのに、あの人はポーランド人のことなんか言いだしてさ! 本当に馬鹿だわね! よくこのマクシームシュカをやかないことだわ。」
「わたくしの家内もやはりずいぶんやきましたよ」とマクシーモフも言葉を挟んだ。
「へえ、お前さんを。」グルーシニンカは気のなさそうな様子で笑った。「一たい誰のことをやいたのさ?」
「女中たちのことで。」
「ええ、おだまり、マクシームシュカ、冗談どころのさわぎじゃないわ。お前さん、そんなに肉入りパイを睨んだって駄目よ、あげやしないから。お前さんには毒だものね。油酒《バルサム》もあげないよ、この人もこれでずいぶん世話がやけるのよ。まるで養老院だわ、本当に。」彼女は笑った。
「わたくしは、あなたさまのお世話を受ける値うちなどはございません。わたくしはごくつまらない人間なんで」とマクシーモフは涙声で言った。「どうか、わたくしよりかもっと役にたつ人に、お情けをかけてやって下さいまし。」
「あら、マクシームシュカ、誰だってみんな役にたつものばかりだわ、誰が誰より役にたつか、そんなことがどうして見分けられるの? せめてあのポーランド人でもいなかったらいいのに。今日はあの男までが、病気でも始めそうなふうなんだもの。わたし行ってみたのよ。だから、ミーチャへ面当てに、わざとあの人に肉入りパイをあげるつもりだわ、わたしそんな覚えもないのに、ミーチャったら、わたしがあの人にパイを持たせてやった。と言っちゃ責めるんだもの。だから、今度こそわざと持たせてやるわ。面当てにね! あら、フェーニャが手紙を持って来た、案の定またあのポーランド人からだ。またお金の無心よ!」
 実際、パン・ムッシャローヴィッチが例によって、言葉のあやをつくした恐ろしく長い手紙をよこしたのである。それには三ルーブリ貸してもらいたいというので、向う三カ月間に払うという借用証を添えてパン・ヴルブレーフスキイまで連署していた。グルーシェンカは、こういう手紙やこういう証書を『もとの人』から今までにたくさん受け取っていた。こんなことが始まったのは、全快するおよそ二週間まえあたりであった。もっとも病中にも、二人の紳士が見舞いに来てくれたことを、彼女は知っていた。彼女が受け取った最初の手紙は、大判の書翰箋に長々としたためて、大きな判まで捺してあったが、非常に曖昧なことを、くだくだしく書きたてたものであった。グルーシェンカは半分ほど読んだが、何が何だかわからなくなって、そのまま抛り出してしまった。それに、彼女はその時分、手紙どころではなかった。引きつづいてその翌日、二度目の手紙が来た。それはパン・ムッシャローヴィッチが、ほんのちょっとのあいだ二千ルーブリ用立ててほしいというのであった。グルーシェンカはこれにも返事を出さなかった。つづいてあとからあとから、日に一通ずつ来る手紙は、みんな同じようにものものしい廻りくどいものであったが、借りたいという金額は百ルーブリ、二十五ルーブリ、十ルーブリとだんだん少くなり、最後の手紙にはたった一ルーブリ借りたいといって、二人で連署した借用証を添えて来た。グルーシェンカは急に可哀そうになって、夕方自分で紳士《パン》のところへ駈けだした。そして、二人のポーランド人が恐ろしく貧乏して、ほとんど乞食同様になっているのを見いだした。食べ物もなければ薪もなく、巻煙草もなくなって、宿の内儀に無心した借金で首が廻らなくなっていた。モークロエでミーチャから捲き上げた二百ルーブリは、たちまちどこかへ消えてしまった。しかし、グルーシェンカが驚いたことには、二人のポーランド人は傲慢尊大な態度で彼女を迎え、最上級の形容詞を使って、大きなほら[#「ほら」に傍点]を吹きたてた。彼女はからからと笑っただけで、『もとの人』に十ルーブリやった。その時すぐ彼女は、このことをミーチャに話したが、ミーチャはちっとも嫉妬などしなかった。けれど、その時から、二人のポーランド人はグルーシェンカに噛りついて、毎日無心の手紙で彼女を砲撃するようになり、彼女はそのつど少しずつ送ってやった。ところが、今日になって、だしぬけにミーチャがめちゃくちゃに嫉妬を始めたのである。
「馬鹿だわね、わたしミーチャのところへ行きしなに、紳士《パン》のところへもほんのちょっと寄ってみたのよ。だって、紳士《パン》もやはり病気になったんですもの。」グルーシェンカはせかせかと、忙しそうにまた言いだした。「わたし、このことを笑いながらミーチャに話したの。そして、あのポーランド人が以前わたしに歌って聞かせた歌をギターで弾いて聞かせたが、きっとそうしたら、わたしが情にほだされて、なびきでもするかと思ったんでしょう、ってこう言ったの。ところが、ミーチャはいきなり飛びあがって、さんざん悪口をつくじゃないの……だからね、わたしかまやしない、紳士《パン》たちに肉入りパイを持たせてやるんだ! フェーニャ、どうだえ、あの娘っ子をよこしたかえ? じゃ、あれに三ルーブリもたせて、肉入りパイを十ばかり紙に包んで届けさせておくれ。だからね、アリョーシャ、わたしが紳士《パン》たちに肉入りパイを持たせてやったって、あんたぜひミーチャに話してちょうだい。」
「どんなことがあったって話しゃしません」とアリョーシャはにっこり笑った。
「あら、あんたはあの人が苦しんでいるとでも思ってるの。だって、あれはあの人がわざとやいてるのよ、だから、あの人にとっては何でもありゃしないんだわ」とグルーシェンカは悲痛な声でそう言った。
「どうして『わざと』なんです?」とアリョーシャは訊いた。
「アリョーシャ、あんたも血のめぐりの悪い人ね。あんなに利口なくせに、このことばかりはちっともわからないとみえるわ。わたしね、あの人がわたしみたいなこんな女をやいたからって、それで気を悪くしてるんじゃなくてよ。もしあの人がちっともやかなかったら、それこそかえって癪だわ。わたしはそういう女なのよ。わたし、やかれたからって、腹なんか立てやしないわ、わたし自分でも気がきついから、ずいぶんやくんですもの。ただ、わたしの癪にさわるのはね、あの人がちっともわたしを愛していないくせに、『わざと』やいて見せるってことなのよ。わたしいくらぼんやりでも盲じゃないから、ちゃんとわかってるわ。あの人は今日だしぬけに、あのカーチカのことを話して聞かせるじゃありませんか。あれはこれこれしかじかの女で、おれの公判のために、おれを助けるためにモスクワから医者を呼んでくれただの、非常に学問のある一流の弁護士を呼んでくれただのって言うのよ。わたしの目の前でほめちぎるんですもの。ミーチャはあの女を愛してるんだわ、恥知らず! あの人こそわたしにすまないことをしてるのに、かえってわたしに言いがかりをこさえて、自分よりさきにこっちを悪者にしようとしてるのよ。『お前はおれよりまえにポーランド人と関係したんだから、おれだってカーチカと関係してもかまやしない』って、わたし一人に罪を着せようとするのよ。ええ、そうですとも! わたし一人に罪を着せようとしてるんだわ。わざと言いがかりをしてるんだわ、それに違いない。だけど、わたし……」グルーシェンカは、自分が何をするつもりか言いも終らぬうちに、ハンカチを目におしあてて、烈しくすすり泣きをはじめた。
「兄さんはカチェリーナさんを愛してやしません」とアリョーシャはきっぱり言った。
「まあ、愛してるか愛してないか、それは今にわたしが自分で突きとめるわ。」グルーシェンカはハンカチを目からのけて、もの凄い調子を声に響かせながらこう言った。
 彼女の顔は急にひんまがった。優しい、しとやかな、そして快活なその顔が、にわかに陰惨な毒々しげな相に変ったのを見て、アリョーシャは情けない気持になった。
「こんな馬鹿な話はもうたくさんだわ!」彼女は急にずばりと切り棄てるように言った。「わたし、こんなことであなたを呼んだんじゃないんですもの。ねえ、アリョーシャ、明日、明日はどうなるでしょう? わたし、それが苦になってたまらないのよ! わたしが一人だけで苦労してるのよ! 誰の顔を見ても、このことを考えてくれる人はまるでないんですもの、誰もみんな知らん顔してるんですもの。せめてあんただけは、このことを考えてくれるでしょう? あす公判じゃありませんか!ねえ、公判の結果はどうなるんでしょう? 聞かしてちょうだい。あれは下男がしたことだわ、下男が殺したんだわ、下男が! ああ、神様! あの人は下男の代りに裁判されるんです。誰もあの人の弁護をしてくれるものはないんでしょうか? だって、裁判所じゃ、一度もあの下男を調べてみなかったんでしょう、え?」
「あれは厳重に訊問されたんですが」とアリョーシャは沈んだ口調で言った。「犯人じゃないときまっちゃったんです。今あれはひどい病気にかかって寝ています。あの時から病気になったんですよ、あの癲癇のとき以来ね。本当に病気なんですよ」とアリョーシャは言いたした。
「ああ、どうしよう、じゃ、あの弁護士に会って、このことをじかに話して下さらない? ペテルブルグから三千ルーブリで呼ばれたんだそうじゃなくって。」
「それは、私たち三人で三千ルーブリ出したんです。私と、イヴァン兄さんと、カチェリーナさんとね。ですが、モスクワから医者を呼んだ二千ルーブリの費用は、カチェリーナさん一人で負担したんです、弁護士のフェチュコーヴィッチはもっと請求したかもしれないんですが、この事件がロシヤじゅうの大評判になったから、したがって、自分の名が新聞や雑誌でもてはやされるというので、フェチュコーヴィッチはむしろ名誉のために承諾したんです。なにしろ、この事件はひどく有名になってしまったもんですからね。私は昨日その人に会いました。」
「そして、どうして? その人に言ってくれて?」とグルーシェンカは気ぜわしげに叫んだ。
「その人はただ聞いただけで、何にも言いませんでした。もう確とした意見ができてると言っていましたが、しかし、私の言葉も参考にしようと約束しました。」
「参考も何もあるものですか! ああ、誰も彼もみんな詐欺師だ! みんながかりで、あの人を破滅さしてしまうんだ! だけど、お医者なんか、あのひとはなぜお医者なんか呼んだのかしら?」
「鑑定人としてですよ。兄は気ちがいで、発作にかられて無我夢中でやった、――とこういうことにしようっていうんです。」アリョーシャは静かに微笑した。「ところが、兄さんはそれを承知しないんでね。」
「ええ、そうよ、もしあの人が殺したとすれば、きっとそうだったのよ!」とグルーシェンカは叫んだ。「あの時、あの人はまったく気ちがいだったわ、しかも、それはわたしの、性わるなわたしのせいなのよ! だけど、やっぱりあの人が殺したんじゃない、あの人が殺したんじゃないわ! それだのに、町じゅうの者はみんな、あの人が殺したって言ってるんだからねえ。うちのフェーニャさえ、あの人が殺したことになってしまうような申し立てをしたんだもの。それに、店の者も、あの役人も、おまけに酒場の者まで、以前そういう話を聞いたなんて言うんだもの! みんな、みんなあの人をいじめようとして、あのことをわいわい言いふらすのよ。」
「どうも証拠がやたらにふえましたからね」とアリョーシャは気むずかしそうに言った。
「それに、グリゴーリイね、グリゴーリイ・ヴァシーリッチが、戸は開いてたなんて強情をはるのよ。自分でちゃんと見たって頑固に言いはって、とても言い負かされることじゃない、わたしさっそく駈けつけて、自分で談判してみたけれど、悪態までつくじゃないの!」
「そう、それが兄さんにとって、一ばん不利な証拠かもしれませんね」とアリョーシャは言った。
「それにね、ミーチャが気ちがいだと言えば、なるほど、あの人は今ほんとうに、そんなふうなのよ」と、グルーシェンカは何かとくべつ心配らしい、秘密めかしい様子をしてささやいた。「ねえ、アリョーシャ、もうとうからあなたに言おうと思ってたんだけど、わたし毎日あの人のところへ行って、いつもびっくりさせられるの、ねえ、あんたどう思って? あの人はこのごろ何か妙なことを言いだしたのよ。何かしきりに言うんだけど、わたしにゃちっともわからないの。あの人は何か大へん高尚なことを言ってるけれど、わたしが馬鹿だからわからないんだろう、とこうも考えてみるの。でも、だしぬけに、どこかの餓鬼のことなんか言いだして、『どうして餓鬼はこうみじめなんだろう? つまり、おれはこの餓鬼のためにシベリヤへ行くんだ。おれは誰も殺しはしないが、シベリヤへ行かなけりゃならない!』なんて言うのよ、一たいどうしたことでしょうね、餓鬼ってのは何でしょう、――わたしてんでわからないの。わたしこれを聞くと、ただもう泣いてしまったわ。あの人の話があんまり立派で、それに自分でも泣くんだもの、わたしも一緒に泣いちゃったわ。そしてね、あの人はだしぬけにわたしに接吻して、片手で十字を切ったりするの。何のことでしょうね、アリョーシャ、聞かしてちょうだい、『餓鬼』って一たい何でしょう?」
「なぜかラキーチンが、しじゅう兄さんのところへ行きだしたから……」アリョーシャは微笑した。「だけど……それはラキーチンのせいじゃあない。私はきのう兄さんのところへ行かなかったから、きょうは行きます。」
「いいえ、それはラキーチンのせいじゃないわ。それは弟さんのイヴァンが、あの人の心を掻き廻すんだわ。イヴァンさんがあの人のところへ行ってるから、それで……」と言いかけて、グルーシェンカは急に言葉を切った。
 アリョーシャはびっくりしたように、グルーシェンカを見つめた。
「え、行ってるんですって? ほんとにイヴァン兄さんがあそこへ行ったんですか? だって、ミーチャはイヴァンが一度も来ないって、自分で私にそう言いましたよ。」
「まあ……まあ、わたしどうしてこうなんだろう! つい口をすべらしちまって!」グルーシェンカは急に顔を真っ赤にし、どぎまぎしながらこう叫んだ。「ちょっと待ってちょうだい、アリョーシャ、だまってちょうだい、もう仕方がない、つい口をすべらせちゃったんだから、本当のことをすっかり言ってしまうわ。イヴァンさんはね、あの人のところへ二度も行ったのよ、一度は帰ってくるとすぐなの、――あの人はすぐモスクワから駈けつけたから、わたしがまだ床につく暇もないくらいだったわ。二度目に行ったのは、つい一週間まえなの。そして、ミーチャには、自分が来たことをアリョーシャに言っちゃいけない、決して誰にも言っちゃいけない、内証で来たんだから、誰にも言わないでくれって、固く口どめしたのよ。」
 アリョーシャは深いもの思いに沈みながら、じっとしていた。そして、しきりに何やら思い合せるのであった。彼はたしかに、グルーシェンカの話に驚かされたのである。
「イヴァンはミーチャのことなんか、私に一度も話をしないんです」と彼は静かに言いだした。「それに、全体この二カ月の間というもの、兄さんは私とろくに口をきかないんです。私が尋ねてゆくと、いつでもいやな顔をしてるんです。だから、もう三週間ばかり兄さんのとこへ行きません。ふむ……もしイヴァンが一週間前にミーチャのところへ行ったとすれば……実際この一週間以来、ミーチャの様子が何だか変ってきたようですね……」
「変ったわ、変ったわ!」とグルーシェンカはすぐに相槌を打った。「あの二人の間にはきっと秘密があるのよ、前からあったのよ! ミーチャもいつか、おれには秘密があるって、自分でそう言ったわ。それはね、ミーチャがじっと落ちついていられないような秘密なのよ、だって、以前は快活な人だったでしょう、――もっとも、今だって快活だけれど。でも、ミーチャがこういう工合に頭を振ったり、部屋の中を歩き廻ったり、右の指でこう顳顯の毛を引っ張ったりする時には、わたしちゃんとわかってるわ、あの人に何か心配なことがあるのよ……わたしちゃんとわかってるわ!………でなきゃ、あんな快活な人だったし、今日だってやはり快活そうだったけど!」
「でも、さっきはそう言ったじゃありませんか、兄さんがいらいらしてたって?」
「いらいらしてもいたけど、やはり快活だったわ。あの人はいつもいらいらしてるけど、それはほんのちょっとの間で、すぐ快活になるのよ。だけど、また急にいらいらしだすわ。ねえ、アリョーシャ、わたし本当にあの人には呆れてしまうのよ。つい目の前にあんな恐ろしいことが控えてるのに、あの人ったらよく思いきってつまらないことを、面白そうにきゃっきゃっ笑ってるじゃありませんか。まるで子供だわ。」
「ミーチャがイヴァンのことを、私に言わないでくれって口どめしたのは、そりゃ本当なんですか? 言わないでくれって、ほんとにそう言いましたか?」
「ほんとにそう言ったわ、――言わないでくれって。ミーチャは何より、一等あんたを怖がってるのよ。だから、きっと何か秘密があるんだわ。自分でもそう言ったわ、――秘密だって……ねえ、アリョーシャ、あの人たちにどんな秘密があるのか、一つ探って来て、わたしに聞かせてちょうだい。」グルーシェンカは、急に騒ぎたちながら頼んだ。「可哀そうなわたしが、どんな運命に呪われているのか、知らせてちょうだいな! 今日あんたを呼んだのは、そのためだったのよ。」
「あなたは、それを何か自分のことだと思ってるんですか? そうじゃありませんよ。もしそうなら、兄さんはあなたの前でそんなことを話しゃしません。」
「そうかしら? もしかしたら、あの人はわたしに話したかったんだけど、思いきって言えなかったのかもしれないわ。それで、ただ秘密があるとほのめかしただけで、どんな秘密か言わなかったのよ。」
「で、あなたはどう考えるんです?」
「どう考えるって? わたしの最後が来たんだ、とこう思いますわ。あの人たちが三人で、わたしをどんづまりに追いこんでるのよ。なぜって、カーチカってものがいるんですもの。これはみんなカーチカがしたことなんだ、カーチカから起ったことなんだわ。ミーチャがカーチカを、『これこれしかじか』だなんて褒めそやすのは、わたしがそんなふうでないのを当てこすっているんだわ。それはね、あの人がわたしをうっちゃろうという企らみを、前触れしてるんだわ。秘密ってこのことよ! 三人でぐるになって企らんでるんだわ、――ミーチャと、カーチカと、イヴァンの三人でね。アリョーシャ、わたしとうからあんたに訊きたいと思ってたのよ。あの人は一週間ほど前、突然わたしにこんなことを打ち明けるの、ほかでもない、イヴァンはカーチカに惚れてる、だから始終あの女のところへ行くんだって。これは本当のことでしょうか。あんたどう思って? 正直にひと思いにとどめを刺してちょうだい。」
「私は正直に言います。イヴァンはカチェリーナさんに惚れてやしませんよ、私はそう思います。」
「ほら、わたしもそう思ったのよ! あの人はわたしをだましたんだ、恥知らず! あの人が今わたしをやくのは、あとでわたしに言いがかりをつけるために違いない。本当にあの人は馬鹿だね、頭かくして尻かくさずだわ。あの人はそういう正直な人なんだから……だけど、今に見てるがいい、今に見てるがいい! 本当にあの人ったら、『お前、おれが殺したものと思ってるだろう』なんて、そんなことをわたしに言うのよ、わたしにさ。それはつまり、わたしを責めたわけよ! 勝手にするがいい! まあ、待ってるがいい、わたしは裁判であのカーチャをひどい目にあわせてやるんだから、わたしあそこでたった一こと、いいことを言ってやるから……いいえ、みんな洗いざらい言ってやるんだ!」こう言って、彼女はふたたび悲しげに泣きだした。
「グルーシェンカ、私はこれだけのことを確かに言い切ります」とアリョーシャは立ちあがりながら言った。「まず第一に、兄さんはあなたを愛してるってことです。あの人は世界じゅうの誰よかも、一番あなたを愛しています。あなた一人だけを愛しています。これは私を信じてもらわなけりゃなりません。私にはわかってます。もうよくわかっています。第二に言うことは、兄さんの秘密をあばくのを望まないってことです。けれど、もし兄さんがきょう自分からそれを白状したら、私はそれをあなたに話す約束をしておいたと、正直にそう言います。そうしたら、今日すぐここへやって来て知らせます。しかし………その秘密というのは……どうも……カチェリーナさんなどとぜんぜん関係がなさそうですよ。それは何か別のことなんでしょう。きっとそうですよ。どうも……カチェリーナさんのことらしくない、私には何だかそう思われます。じゃ、ちょっと行って来ます!」
 アリョーシャは彼女の手を握った。グルーシェンカはやはり泣いていた。アリョーシャは、彼女が自分の慰めの言葉をあまり信じてはいないけれど、ただ悲しみを外へ吐き出しただけでも、だいぶ気分がよくなったらしいのを見てとった。彼はこのまま彼女と別れるのが、残り惜しかったが、しかし、まだたくさん用件を控えているので、急いでそこを出かけた。

[#3字下げ]第二 病める足[#「第二 病める足」は中見出し]

 用件の第一は、ホフラコーヴァ夫人の家へ行くことだった。アリョーシャは、少しでも手早くそこの用件を片づけて、遅れぬようにミーチャを訪ねようと思い、道を急いだ。ホフラコーヴァ夫人はもう三週間から病気していた。一方の足が腫れたのである。夫人は床にこそつかないけれど、それでも昼間は華美な、しかし下品でない部屋着をまとって、化粧室の寝椅子の上になかば身を構えていた。アリョーシャも一度それと気がついて、無邪気な微笑を浮べたことだが、ホフラコーヴァ夫人は病人のくせに、かえってお洒落をするようになった。いろんな室内帽子を被ったり、蝶結びのリボンを飾りにつけたり、胸の開いた上衣をきたりしはじめたのである。アリョーシャは、夫人がこんなにお洒落をするわけを悟ったが、浮いた考えとしていつも追いのけるようにした。最近二カ月間、ホフラコーヴァ夫人を訪ねて来る客の中に、かの青年ペルホーチンが交っていたのである。アリョーシャはもう四日も来なかったので、家へはいるとすぐ、急いでリーザのところへ行こうとした。彼の用事というのは、つまりリーザの用だったからである。リーザはきのう彼のもとへ女中をよこして、『非常に重大な事情が起ったから』すぐに来てもらいたいと、折り入って頼んだ。それがある理由のために、アリョーシャの興味をそそったのである。けれど、女中がリーザの部屋へ知らせに行っている間に、ホフラコーヴァ夫人はもう誰からか、アリョーシャの来たことを知って、『ほんの一分間でいいから』自分のほうへ来てくれるようにと頼んだ。アリョーシャはまず母親の乞いをいれたほうがよかろうと思った。彼がリーザのそばにいる間じゅう、夫人は絶えず使いをよこすに相違ないからである。ホフラコーヴァ夫人は、とくにけばけばしい着物を着て、寝椅子に横になっていたが、非常に神経を興奮させているらしかった。彼女は歓喜の叫びをもって、アリョーシャを迎えた。
「まあ、長いこと長いこと、本当に長いこと会いませんでしたわね! まる一週間も、本当に何という……あら、そうじゃない、あなたはたった四日前、水曜日にいらっしゃいましたっけねえ。あなたはリーザを訪ねていらしたんでしょう。あなたったら、わたしに知られないように、ぬき足さし足であれのとこへ行こうと思ってらしたんでしょう。きっとそうに違いありませんわ。ねえ、可愛いアレクセイさん、あれがどのくらいわたしに心配をかけてるか、あなたはご存じないでしょう。だけど、これはあとで言いましょう。これは一ばん大切な話なんですけど、あとにしますわ。可愛いアレクセイさん、わたしうちのリーザのことを、すっかりあなたに打ち明けます。ゾシマ長老が亡くなられてからは、――神様、どうぞあの方の魂をお鎮め下さいまし!(彼女は十字を切った)――あの方が亡くなられてからというものは、わたしあなたを聖者のように思っていますのよ、新しいフロックが本当によくお似合いになるんですけれど。あなたはどこでそんな仕立屋をお見つけなすって? でも、これは大切なことじゃありません、あとにしましょう。どうかね、わたしがときどきあなたをアリョーシャと呼ぶのを、許して下さいね。わたしはもうお婆さんですから、何を言ってもかまいませんわね」と彼女は色っぽくほお笑んだ。「けれど、これもやっぱりあとにしましょう、わたしにとって一ばん大事なのは、大事なことを忘れないことなんですの。どうぞ、わたしが少しでもよけいなことを喋りだしたら、あなたのほうから催促して下さい。『その大事なことというのは?』と訊いて下さいな。ああ、いま何が大事なことやら、どうしてわたしにわかるものですか! リーザがあなたとの約束を破ってからというものはね、アレクセイさん、あなたのとこへお嫁に行くという、あの子供らしい約束を破ってからというものは、何もかもみんな、長いあいだ車椅子に坐っていた病身な娘の、子供らしい空想の戯れであったということが、むろんあなたもよくおわかりになったでしょうね、――おかげで、あれも今ではもう歩けるようになりました。カーチャがあの不幸なお兄さんのために、モスクワから呼んだ新しいお医者さまがね……ああ、明日は……まあ、何だって明日のことなんか! わたし明日のことを考えただけでも、気が遠くなりますよ! 何よりも一ばん好奇心のためなんですの……手短かに言えば、あのお医者さまが昨日わたしのところへ来て、リーザを診察したんですの……わたし往診料に五十ルーブリ払いましたわ。ですが、これも見当ちがいですわ、また見当ちがいを言いだして。で、わたしもうすっかりまごついてしまいましたわ。わたしはあわててるもんですから。しかも、なぜあわててるんだか、自分にもわかりませんの。ほんとうに、今は何が何だかさっぱりわからなくなりました。何もかもみんなごちゃごちゃになっちまって。わたしあなたが退屈して、いきなり逃げておしまいになりゃしないかと、それが心配でたまりません。宵にちらりと見たばかりでね。あら、まあ、どうしましょう! わたしとしたことが、お喋りばかりしていて。第一、コーヒーをいれなきゃ。ユリヤ、グラフィーラ、コーヒー持っておいで!」
 アリョーシャは、たったいまコーヒーを飲んだばかりだと言って、急いで辞退した。
「どちらで?」
「アグラフェーナさんのとこで。」
「それは……それはあの女のことですの! ああ、あの女がみんなを破滅させたんですわ。もっとも、わたし知りません、人の話では、何でもあの女は、今じゃ聖者になったということじゃありませんか。少し遅まきですけど、そのまえ必要な時にそうなってくれればよかったんですけど、もう今となっては、何の役にもたちゃしませんわ。まあ、黙って聞いて下さい。アレクセイさん、黙って聞いてて下さい。わたし、うんとお話ししたいことがあるんですけど、結局、何にも言えないのがおちでしょう。ああ、この恐ろしい裁判問題……ええ、わたしきっと行きます。安楽椅子に腰かけたまま、連れて行ってもらおうと思ってますの。それに、わたし坐ってるだけなら平気ですし、誰か一緒について来てもらえば、大丈夫ですよ。ご存じでしょうが、わたしも証人の一人なんですもの。ああ、わたし何と言いましょう、何と言ったらいいでしょうね! 本当に何と言ったらいいのやらわかりませんわ、私だって、宣誓しなければならないんでしょう、ね、そうでしょう、そうでしょう?」
「そうです。けれど、あなたがお出かけになれようとは思えませんがね。」
「わたし腰かけてならいられますよ。ああ、あなたはわたしをはぐらかしてばかりいらっしゃる! ああ、あの恐ろしい裁判問題、あの野蛮な犯罪、そしてみんなシベリヤへやられるんですわ。それかと思うと、ほかの人は結婚するでしょう。しかも、それがどんどん急に変って行くんですもの。そして、結局、何のこともなくみんな年をとって、棺桶にはいって行くんですわ。まあ、それも仕方がありません、わたし疲れました。あのカーチャ―― cotte charmante personne([#割り注]あの可愛い人[#割り注終わり])、ね、あの人はわたしの希望をすっかりぶち壊してしまいました。あの人はお兄さんのあとを慕って、シベリヤへ行くでしょう。すると、もう一人のお兄さんは、またあのひとのあとを追って行って、隣りの町かなんかに住み、こうして三人が互いに苦しめ合うことでしょう。わたしそんなことを思うと気がちがいそうですわ。ですが、何より困るのは、あのやかましい世間の評判なんですの。ペテルブルグやモスクワなどの新聞にも、幾千たび書かれたかしれやしません。ああ、そう、そう、どうでしょう、わたしのことも書きましたよ、わたしがお兄さんの『情人』だったなんて。わたしそんないやらしいことを口に出せませんわ。まあ、どうでしょう、ねえ、まあ、どうでしょう!」
「そんなことがあってたまるもんですか! どこにどんなふうに書いてありました?」
「今すぐお目にかけますよ。わたしきのう受け取って、さっそく、きのう読んだんですの。ほら、このペテルブルグの『風説《スルーヒイ》』という新聞ですよ。この『風説《スルーヒイ》』は今年から発行されてるんですが、わたし大へん風説好きだもんですから、申し込んだんですの。ところが、こんど自分の頭の上へ落っこちて来たじゃありませんか。まあ、こんな風説なんですよ、そら、ここ、ここのところですの、読んでごらんなさい。」
 彼女は枕の下においてあった新聞紙を、アリョーシャにさし出した。
 彼女は取り乱しているというより、打ちのめされたようになっていた。実際、彼女の頭はごったごたに掻き廻されていたのかもしれない。新聞の記事はすこぶる注意すべきもので、むろん彼女にかなり尻くすぐったい印象を与えるべきはずのものであったが、幸いこの瞬間、彼女は一つのことにじっと注意を集注することができなかったので、一分間もたつと、新聞のことは忘れて、話をすっかりほかのほうへ移してしまった。今度の恐ろしい裁判事件の噂が、もう全ロシヤいたるところに拡がっているということは、アリョーシャもとうから知っていた。ああ、彼はこの二カ月間に、兄のこと、カラマーゾフ一家のこと、また彼自身のことなどに関して、正確な通信とともに、またどれくらい、いい加減なでたらめな通信を読んだかしれない。ある新聞などには、アリョーシャが兄の犯罪後、恐怖のあまり、出家して修道院に閉じ籠ったなどと書いていた。ある新聞はこれを駁して、反対に彼がゾシマ長老と一緒に修道院の金庫を破って、『修道院からどろんをきめた』と書いた。『風説《スルーヒイ》』紙に出た今度の記事は、『スコトプリゴーニエフスク([#割り注]家畜追込町というほどの意味[#割り注終わり])より、カラマーゾフ事件に関して』(悲しいかな、わたしたちの町はこう名づけられていた。筆者《わたし》はこの名を長いあいだ隠していたのである)という標題《みだし》であった。この記事は簡単なもので、ホフラコーヴァ夫人というようなことはべつに何も書いてなかった。それに、概して人の名は隠されていた。ただこの大評判の裁判事件の被告は休職の大尉で、ずうずうしい乱暴な懶け者で、農奴制の支持者で、色事師、ことに『空閨に悩んでいる貴婦人たち』に勢力を持っていた、と書いてあるだけであった。そのいわゆる『空閨に悩んでいる未亡人』の中で、もう大きな娘を持っているくせに、恐ろしく若づくりのある夫人などは、ひどくこの男にのぼせあがって、犯罪のつい二時間ほど前、彼に三千ルーブリの金を提供した。それは、すぐ自分と一緒にシベリヤの金鉱へでも逃げてもらうためであった。が、この悪漢は、四十過ぎた悩める姥桜と、シベリヤくんだりまで出かけるより、親父を殺して三千ルーブリ奪い取り、その上で犯跡をくらますほうが利口だ、と考えたのだそうである。ふざけた記事は、当然の結論として、親殺しの罪悪と、旧い農奴制度の悪弊について、堂々たる非難を投げていた。アリョーシャは好奇心にかられつつ読了すると、それを畳んでホフラコーヴァ夫人に返した。
「ね、わたしのことでなくて誰でしょう」と彼女はまた言いだした。「それはわたしですわ。だって、わたしはそのとおり、ついあの一時間まえに、あの人に金鉱行きを勧めたんですもの。ところが、それをだしぬけに、『四十過ぎた悩める姥桜』だなんて! わたし、そんなことのために言ったんじゃありません。これはきっとあの人がわざとしたことです! 神様、どうかあの人を赦してやって下さいまし。わたしも赦してやります。でも、これは……これは一たい誰が書いたのかおわかりになって。きっとあなたのお友達のラキーチンさんよ。」
「そうかもしれません」とアリョーシャは言った。「私は何にも聞きませんが。」
「あの人ですよ。あの人ですよ。『かもしれない』じゃありません! だって、わたしあの人を追い出したんですもの……あなたはこの話をすっかりご存じでしょう?」
「あなたがあの男に向って、今後もう訪ねて来ないようにとおっしゃったのは、私も知っています。が、どういうわけでそんなことをおっしゃったのか……それは、少くとも、あなたからは伺いませんでした。」
「じゃ、あの人からお聞きになったんですね! どうでした、あの人はわたしの悪口を言ってたでしょう? ひどく悪口を言ってたでしょう?」
「ええ、悪口を言っていました。でも、あの男は誰のことでも悪口を言うんですよ。けれど、なぜあの男の訪問を拒絶なすったかということは、あの男からも聞きませんでした。それに、私は近頃あの男とあまり会わないんです。私たちは親友じゃないんですから。」
「では、そのわけをすっかりあなたに打ち明けますわ、どうもしようがありません、わたしもいま、後悔してるんですの。だって、それについては、わたし自身にも責任がないと言いきれない点があるんですから。でも、それは小さい、小さい、ごく小さい点で、まるっきりと言ってもいいくらいなんですの。こうなのよ、あなた(ホフラコーヴァ夫人は急に何だかふざけたような顔になった。そして、口のあたりには謎のような、可愛い微笑がちらりとひらめいた)、ねえ、わたしはこんなふうに疑ってるんですの……ごめんなさい、アリョーシャ、わたしあなたに母親として……いいえ、そうじゃない、そうじゃない、それどころか、わたしは今あなたを自分の父親のように思ってお話ししますわ……だって、母親というのはこの場合ちっとも似合わないんですもの……ちょうど、ゾシマ長老に懺悔を聞いてもらうような気持なんですの、そう、それが一ばん適切です。わたしさきほどあなたを隠者だと言ったくらいですもの。でね、あの可哀そうな若い人、あなたのお友達のラキーチンがね(ああ、わたしとしたことが、あんな人に腹を立てることもできませんわ! わたし腹もたつし憎んでもいるけど、それはほんのちょっとなんですの)、一口に言うと、あの軽はずみな若い男が、まあ、どうでしょう、突然わたしに、恋をする気になったらしいんですの、わたしはずっと後になって、ふとそれに気がついたんですの。わたしたちは前からも知合いでしたけれど、つい一カ月ほど前から、あの人はしげしげと、大かた毎日のように、わたしのとこへ足を運ぶようになりました。でも、わたし何にも気がつかずにいたんですの……ところが、ふと何かに心を照らされでもしたように、わたしはそれと気がついて、びっくりしましたわ。ご存じでしょうが、わたしはもう二カ月も前から、あの謙遜で美しい立派な青年、――町の役所に出ているピョートル・イリッチ・ペルホーチンを、うちへ寄せるようになったんですの。あなたもよくあの人とお会いなすったわね。本当に立派な、真面目な方じゃありませんか。あの人が来るのは三日に一度くらいで、毎日じゃありませんが(毎日来てくれたってかまやしませんわ)、いつでも綺麗な服装をしていますの。一たいわたしはね、アリョーシャ、ちょうどあなたみたいに、才のある謙遜な若い人が好きでしてねえ。ところが、あの人はほとんど国務の処理ができるほどの才知をもっていて、その話っぷりがまたとても愛想がいいんですよ。わたしはどこまでもあの人のために運動しますわ。あの人は未来の外交家ですからね。あの恐ろしい夜、わたしのところへやって来て、ほとんど死にかかってるわたしを助けてくれたんですもの。ところがね、あなたのお友達のラキーチンときたら、いつもこんな靴を履いて来て、絨毯の上を引きずって歩くんですよ……とにかく、あの人はわたしに何か仄めかそうとしたんですの。一度など帰りしなに、わたしの手を恐ろしく堅く握りしめるじゃありませんか。あの人に手を握られてから、急にわたしの片足が痛みだしたんですよ。あの人は以前もわたしのところで、ペルホーチンさんに出会ったものですが、まあ、ひどいじゃありませんか、さんざんあの人を愚弄したあげく、呶鳴りつけるんですよ。わたしどうなるかと思って、二人を見ながら、お腹の中で笑っていましたの。ところが、いつだったか、わたし一人で坐っていますと、――いいえ、そうじゃない、その時わたしはもう寝ていたんですの。わたし一人で寝ていますとね、ラキーチンがやって来て、まあ、どうでしょう、自分の詩を見せるじゃありませんか。わたしの痛んでいる足のことを書いた短い詩ですの。つまり、わたしの痛める足のことを韻文で書いたんですのよ、ちょっと待って下さい、何と言ったっけ。

[#ここから2字下げ]
この足よ、この足よ
少しやまいにかかりしよ……
[#ここで字下げ終わり]

とか何とかいうんですが、――わたしどうしても詩が覚えられませんわ、――あそこにおいてあるんですけど、――あとでお目にかけましょう。でも、本当に立派な詩ですわ。それも、足のことだけじゃなくって、中に立派な教訓をふくんでるんですけど、忘れてしまいましたわ。まあ、一口に言えば、まったくアルバムへ入れて保存したいような気がするほどですの。むろん、大へん感謝しましたわ。それであの人もすっかり得意になっているようでしたが、わたしがまだ十分お礼を言う暇もないうちに、突然ペルホーチンさんが入って来たんですの。すると、ラキーチンさんは急にさっと顔色を曇らせてしまいました。わたしはね、ペルホーチンさんが何かあの人の邪魔をしたんだってことを、すぐに見抜いてしまいました、なぜって、ラキーチンさんは詩を読んでしまったあとで、きっとすぐ何かわたしに言おうと思ってたらしいんですもの。わたしいきなりそう直覚しましたの。ところが、そこヘペルホーチンさんが入って来たでしょう。わたしはすぐにその詩を見せました。でも、誰が作ったかってことは言わなかったんですの。あの人は今でも白を切って、誰が作者なのか、あの時察しがつかなかったと言ってますが、実はその時すぐと察してしまったに相違ありません、ええ、相違ありませんとも。あの人はわざと気がつかないふりをしたんですわ。で、ペルホーチンさんはすぐきゃっきゃっと笑いながら、批評を始めましたの。くだらない詩だ、神学生か何かが書いたに違いないなんて、しかもそれが烈しい突っかかるような調子なんですの! すると、あなたのお友達ったら、笑ってすませばいいものを、まるで気ちがいのようになってしまったんですの……ああ、わたし、二人が掴み合いするだろうと、はらはらしたくらいですわ。ラキーチンさんは、『それは僕が書いたんだ』って言うんですの。『僕が冗談半分に書いたんだ。なぜって、僕は詩を書くなんて、くだらないことだと思ってるからさ……しかし、僕の詩はなかなか立派なものだよ。プーシュキンが女の足を詩に書いたって、世間じゃ記念碑を建てるって騒いでるが、僕のは思想的傾向があるんだ。ところが、君なんか農奴制の賛成者だろう。君なんか少しも人道ということを知らない、君なんか現代の文明的な感情を少しも感じないんだ、君は時勢おくれだ、賄賂とりの役人だ!』と、こうなんですのよ。私は大きな声を出して、二人を止めました。でも、ペルホーチンさんは、ご存じのとおり沈着な方でしょう、だから急にとりすました上品な態度になってね、嘲るように相手を見ながら聞いていましたが、やがて詫びを言いだすんですの。『私はあなたのお作だってことを知らなかったのです。もしそうと知っておれば、あんなことは言わなかったでしょう。もしそうとわかっていたら、大いにほめたはずなんですよ……詩人てものは誰でも、そんなふうに怒りっぽいものですからね……』なんて、つまり大そう取りすました上品な態度で、その実冷やかしたわけなんですの。あれはみんな冷やかしてやったのだと、あとでペルホーチンさんはそう言いましたが、わたしその時、あの人が本気に謝ったのだと思いましたわ。で、わたしはちょうど今あなたの前でこうしているように、その時じっと横になったまま、ラキーチンさんがわたしの家で、わたしのお客に悪口をついたのを理由として、あの人を追い返してしまったら、それは立派な行為だろうかどうだろうか、と考えたんですの、こういう工合に横になって目を閉じて、立派か立派でないかといろいろ考えてみたけれど、どうも思案がつかないんですの。さんざん苦しんで苦しんで、呶鳴りつけてやろうかどうしようかと、心臓をどきどきさせたもんですわ。一つの声は呶鳴れと言うし、いま一つの声は、いや呶鳴ってはいけないと言うんですの。とうとういま一つの声が聞えるやいなや、わたしはだしぬけに呶鳴りだして、そのまま卒倒してしまいました。むろん、大騒動が起りましたわ。ふいにわたしは立ちあがって、あなたにこんなことを言うのはつらいんですけど、もうあなたに来ていただきたくないんです、とこうラキーチンさんに言いましたの。こうして、あの人を追い出したんですの。アリョーシャ! わたし自分ながら、馬鹿なことをしたと思います。わたしちっともあの人に腹を立ててはいなかったんですもの。ただふいと急に、それがいいような気がしたんですの。つまり、そのシーンがね……でも、そのシーンは何といっても自然でしたわ。なぜって、わたしさんざん泣いたんですもの、その後、幾日も泣きましたわ。けれど、ある日食事をすましたあとで、すぐにけろりと忘れてしまいましたの。もうあの人が来なくなってから、二週間になりますが、もう本当にあの人は来ないのかしら、というような気がするんですよ。これはつい昨日のことですの。ところが、その晩には、もうこの『風説《スルーヒイ》』が届いたじゃありませんか。わたし読んでびっくりしました。ほかに誰が書くものですか、きっとあの人が書いたに違いありません。あのとき家へ帰ると、すぐテーブルに向って書いたんですよ。そして、送るとすぐ新聞に出たんです。これは二週間まえのことよ。でも、アリョーシャ、わたし何を言ってるんでしょう。言わなけりゃならないことは、まだちっとも言っていないんですのに。だって、自然こんなことが言えるんですもの!」
「私は今日ぜひ時間内に、兄のとこへ行かなきゃならないんです」とアリョーシャはもじもじ言いだした。
「そうそう! あなたは今わたしに何もかも思い出させて下さいました。ねえ、アリョーシャ、 affect([#割り注]激情[#割り注終わり])って、一たいどういうことなんでしょう?」
「何のことです、affect って?」とアリョーシャはびっくりした。
「裁判の affect ですよ。どんなことでも赦される affect のことですよ。どんなことをしても、すぐに赦されるんですわ。」
「一たいそれは何のことなんです?」
「ほかじゃありません、あのカーチャがね……ああ、ほんとにあのひとは可愛い、可愛い娘さんですわ。ただ一たい誰を恋してるんでしょう。どうしてもわかりませんわ。つい近頃も訪ねて来たんですけど、わたしはどうしても訊き出せないんですの。それに、あのひとは近頃、わたしに大へんそらぞらしくなって、ただわたしの容体を聞くだけで、ほかのことは何にも話さないんですもの。おまけに、その話の調子があまり他人行儀だから、わたしはどうでもいい、勝手になさいと思ったほどですの……ああ、そうそう、その時この affect の話が出たんですの。ねえ、お医者さまが来たんですよ。気ちがいの鑑定ができるお医者さま。あなたお医者が来たことを知ってらしって? もっとも、あなたが知らないはずはないわね。あなたがお呼びになったんですものね。いいえ、あなたじゃない、カーチャですわ! 何もかもカーチャですわ! ねえ、かりにここに正気の人がいるとしましょう。ところが、その人が急に affect を起したんですの。意識もしっかりしてるし、自分が何をしているかってこともよく知ってるんですけど、それでもやはり affect を起してるんです。だからドミートリイさんも、やはり affect を起しているに違いありません。新しい裁判が開けてから、初めてその affect がわかってきたのよ。これは新しい裁判の恩恵ですわね、あのお医者さんはあの晩のことをわたしに訊きましたの、つまりあの金鉱のことですわ、――あの男はその時どんなふうだったかって。むろんあの時 affect を起してたのでなくってどうしましょう? 入って来るとすぐに、金だ、金だ、三千ルーブリだ、三千ルーブリ貸してくれって呶鳴って、そしてふいに出かけて殺してしまったんですもの。殺したくはない、殺したくはないと言ってながら、だしぬけに殺したんですよ。つまりこういうふうに、殺すまいと思っていながら、つい殺してしまったという点で、あの人は赦されるんですわね。」
「でも、兄さんは殺しゃしなかったじゃありませんか」とアリョーシャはやや鋭い口調で遮った。彼は次第に不安と焦躁を感じてきた。
「それはわたしも知ってます。殺したのはあのグリゴーリイ爺さんですよ……」
「え、グリゴーリイが!」とアリョーシャは叫んだ。
「あれです、あれです、グリゴーリイですよ……ドミートリイに撲りつけられて、じっとそのまま倒れていたんですが、やがてそのうちに起きあがって、戸が開いているので入って行って、フョードルさんを殺したんですよ。」
「でも、それはなぜです、なぜですか?」
「つまり affect を起したんですよ。ドミートリイさんに頭を撲られてから、こんど気がついた時 affect を起してしまったのです。そして入り込んで殺したんですわ。あれは自分で殺したのじゃないと言いはってますが、それはたぶん覚えていないからでしょうよ。けれどね、もしドミートリイさんが殺したんだとすれば、かえってそのほうがよござんすわ、よっぽどよござんすわ。わたしはグリゴーリイが殺したんだと言いましたが、本当はやっぱりドミートリイさんが殺したに違いありません。そのほうがずっとずっとようござんすわ! あら、そりゃわたしだって息子が親を殺したのをいいと言うのじゃありませんよ。わたしそんなことを賞めやしません。それどころか、子供は親を大切にしなけりゃなりませんとも。でも、やっぱりあの人のほうがいいと思うわ。なぜって、もしそうだとすれば、あなたも悲しまなくっていいからですわ。だってあの人は意識を失って、――じゃない、意識はあっても自分か何をしているかわきまえずに殺した、と言えるからですよ。きっと、きっとあの人は赦されますよ。それが人道というものですからね。そして、みんなに新裁判の恩恵を知らせてやったほうがよござんすよ。わたしは少しも知らなかったんですけれど、人の話では、それはもうとっくの昔からそうなんだそうですね。わたし、昨日そのことを聞いた時、もう本当にびっくりしちゃって、すぐにあなたのとこへ使いを出そうと思ったほどでしたよ。それからね、もしあの人が赦されたら、わたしあの人を法廷からすぐに宅の晩餐会へお招きしますわ。知合いの人たちを呼んで、みんなで新しい裁判のために乾杯しようと思うんですの、わたしあの人を危険だなんて思いません。それに、うんと大勢お客を呼びますから、あの人が何かしでかしても、すぐいつでも引きずり出すことができますわ。あの人はそのあとで、どこかほかの町の治安判事になるといいですね。だって、自分で不幸を忍んだものは、誰よりもよく人を裁きますからね。ですが、一たい今の世に affect にかかっていない人があるでしょうか。あなたでもわたしでもみなかかっているんですわ。こんな例はいくらでもありますよ。ある人は腰かけて小唄《ロマンス》を歌っているうちに、とつぜん何か気に入らないことがあったので、いきなりピストルを取って、ちょうどそばに居合せた人を撃ち殺したんですって。でも、あとでその人は赦されたそうです。わたし近頃この話を読んだのですが、お医者さんたちもみんな証明していました。今お医者さんは誰でもそう言ってますわ、誰でもみんなそう言ってますわ。困ったことには、うちのリーザもやはり affect にかかってるんですの。わたしは昨日もあれのために泣かされましたよ、一昨日も泣かされましたわ。ところが今日になって、あれはつまり、affect にかかっているのだってことに思いあたったんですの。ああ、ほんとにリーザには心配させられますよ! あの子はすっかり気がちがってるんだと思いますわ。なぜあれはあなたをお呼びしたんでしょう? あれがあなたを呼んだのですか、それとも、あなたのほうからあれのところへいらしたんでしょうか?」
「あのひとが呼んだのです。私はもうあちらへ行きましょう」とアリョーシャは思いきって立ちあがった。
「あら、ちょいとアリョーシャ、それが一ばん大切なところかもしれませんわ。」ふいにわっと声をあげて泣きだしながら、夫人はこう叫んだ。「誓って申しますが、私は心からあなたを信用して、リーザをおまかせします。あれがわたしに隠してあなたをお呼びしても、そんなことを何とも思やしません。けれど、お兄さんのイヴァン・フョードルイチには、そうたやすく自分の娘をまかせることができませんの。もっとも、わたしは今でもやはりあの人を、立派な男気のある青年と思っていますけれどね。まあ、どうでしょう、あの人はわたしの知らない間に、突然リーザに逢いに来たんですよ。」
「え? 何ですって? いつ?」アリョーシャはびっくりして訊いた。彼はもう腰をかけようともせず、立ったままで聞いていた。
「今お話しします。ことによったら、そのためにあなたをお呼びしたのかもしれません。もう何のためにお呼びしたか、わからなくなってしまったんですけど。こうなんですのよ、イヴァン・フョードルイチはモスクワから帰ってから、わたしのところへ二度ほど見えました。一度は知人として訪問して下すったのですけど、いま一度はつい近頃のことで、その時ちょうどカーチャが見えていたものですから、あの人はカーチャに逢うためにいらしたんですの。むろんわたしは、あの人がそれでなくても、非常にお忙しいことを知ってましたから、始終訪ねてもらいたいとも考えていませんの。Vous comprenez, cette affaire et la mort terrible de votre papa.([#割り注]おわかりでしょう、あの事件と、それにあなたのお父さんの恐ろしいご最後[#割り注終わり]) ところがね、あの人がまたふいに訪ねてらしったんですの、それも、わたしのほうじゃなくって、リーザなんですの。これはもう六日も前のことで、五分間ばかりいてお帰りになったそうですが、わたしはその後三日もたってから、グラフィーラから聞いたもんですから、本当にだしぬけで、びっくりしましたわ。で、すぐリーザを呼びますと、あの子は笑ってるんですの。そしてね、あの人はわたしが臥《ふせ》っていると思ったので、リーザのとこへ容態を訊ねに来たのだと、こう言うんです。それはむろんそうだったんでしょう。ですけど、一たいリーザは、リーザは、ああ、神様、あれはどんなにわたしに心配をかけることでしょう! 考えてもごらんなさい、ある晩とつぜん、――それは四日前のことで、この間あなたが来てお帰りになるとすぐでしたわ、――あれは夜中にとつぜん発作を起して、喚くやら唸るやら、それはひどいヒステリイを起したんですの! 一たいどうしてわたしは一度もヒステリイを起したことがないのでしょう。ところが、リーザはその翌日もまたその翌日も発作を起して、とうとうきのうのaffectになったんですの。だしぬけに『あたしはイヴァンさんを憎みます、お母さん、あの人を家へ入れないで下さい、家へ入るのを断わって下さい!』って喚くじゃありませんか。わたし本当に度胆を抜かれてぼっとしながら、そう言いましたの。あの立派な青年紳士の訪問をどう言って断わることができますか。あの人はあんなに学問があって、おまけにあんなに不幸な身の上なんですもの。なぜって、あんなごたごたは何といっても不幸で、決して幸福じゃありませんからね、そうじゃありませんか? ところが、あれはそれを聞いて、からからと笑うんですの。それがねえ、さもさも馬鹿にしたような笑い方なんですのよ。でも、わたしは、まあ笑わせてよかった、これで発作もなおるだろう、と思って喜びましたわ。それに、お兄さんのほうは、わたしに断わりもなくあれを訪問したり、妙なことをなさるなら、そのわけを訊いて、きっぱり出入りをお断わりするつもりでしたの。ところが、今朝リーザは目をさますと、だしぬけにユリヤに腹を立てて、まあ、どうでしょう、平手で顔を打つじゃありませんか。なんて恐ろしいことでしょう。わたしは自分の女中でも、『あなた』と呼んでるんですもの。すると一時間もたつと、あれはユリヤの足を抱いて接吻するんですの。そして、わたしのところヘユリヤをよこして、もうお母さんのとこへは行かない、今後決して行こうと思わないと、こんなことを言わせるじゃありませんか、そのくせ、わたしがあれのとこへ足を引きずって行くと、あれはわたしに飛びついて、接吻したり泣いたりする。そうして、接吻しながら、いきなり一口もものを言わないで、ぷいと出て行ってしまうもんですから、わたし何のことだか、さっぱりわけがわかりませんの。わたしの大好きなアレクセイさん、わたし今じゃあなただけを力にしています、わたしの生涯の運命は、あなたの手の中にあるんですの。あなたリーザのところへ行って、あれから何もかもすっかり聞き取って下さいません? それができるのは、ただあなた一人だけですからねえ。それから帰って来て、わたしに、――この母親に話して下さいな、なぜって、あなたも察して下さるでしょうが、もしこんなことが長くつづいたら、わたし死ぬよりほかありません。死んでしまうか、それとも家を逃げ出すばかりですわ。わたしもう我慢ができないのです。今までずいぶん我慢し抜いてきましたが、その堪忍袋の緒だって切れるかもしれません、その時……その時が怖いんですよ。ああ、ペルホーチンさんがいらしった!」ピョートル・イリッチ・ペルホーチンが入って来たのを見ると、ホコラコーヴァ夫人[#「ホコラコーヴァ夫人」はママ]は急に顔を輝かしながら、こう叫んだ。「遅かったわね、遅かったわね! さあ、どうなすって、おかけなさいな、そして早く話して聞かせて下さい、わたしの運命を決して下さい。で、いかがでした、あの弁護士は?アレクセイさん、あなたどこへいらっしゃるの?」
「リーザのとこへ。」
「そう、では、忘れないでね。今わたしのお願いしたことを忘れないでね。わたしの運命がきまるんですからね、ほんとに運命が!」
「むろん、忘れやしません、もしできさえしたら……だが、なにしろこんなに遅くなっちまったのでとアリョーシャは出て行きながら呟いた。
「いいえ、ぜひぜひ帰りに寄って下さいよ。『もしできたら』じゃ駄目。でないと、わたし死んじまうわ!」とホフラコーヴァ夫人は、アリョーシャのうしろから叫んだが、彼はもう部屋の外へ出てしまっていた。

[#3字下げ]第三 悪魔の子[#「第三 悪魔の子」は中見出し]

 アリョーシャがリーザの部屋へはいると、彼女は例の安楽椅子になかば身を横たえていた。それは、彼女がまだ歩けない時分に、押してもらっていたものである。彼女は出迎えに身を動かそうともしなかったが、ぎらぎら輝く鋭い目は、食い入るように彼を見つめた。その目はいくぶん充血したようなふうで、顔は蒼ざめて黄いろかった。彼女が三日の間に面変りして、やつれさえ見えるのに、アリョーシャは一驚を喫した。彼女は手をさし伸べようともしなかった。で、彼はこっちからそばへ寄って、着物の上にじっと横たわっている彼女の細長い指に、ちょっとさわった後、無言のままその前に腰をおろした。
「あたしはね、あなたが急いで監獄へ行こうとしてらっしゃることも」とリーザは鋭い口調で言いだした。「お母さんがあなたを二時間も引き止めて、たった今あたしやユリヤのことを、あなたにお話ししたことも知ってるのよ。」
「どうしてご存じなのです?」とアリョーシャは訊いた。
「立ち聴きしたのよ。あなた、何だってあたしをにらんでらっしゃるの? あたし、立ち聴きしたかったから、それで立ち聴きしたのよ。何にも悪いことなんか、ありゃしないわ。だからあたし、あやまらない。」
「あなたは何か気分を悪くしていらっしゃるんでしょう?」
「いいえいそれどころじゃない、嬉しくってたまんないのよ。たった今も三十ペンから繰り返し、繰り返し考えたんですけどね、あたしあなたとのお約束を破って、あなたとご婚礼などしないことになったので、どんなにいいかしれないわ。あなたは夫として不向きよ。あたしがあなたのところへお嫁に行くでしょう、そして突然あなたに手紙を渡して、あたしが結婚してから好きになった人のところへ持って行って下さいと頼んだら、あなたはきっと持っていらっしゃるに違いないわ。その上、返事までも持って来て下さるでしょうよ。あなたは四十になっても、やっぱりそういう手紙を持って歩きなさるわ。」
 彼女は急に笑いだした。
「あなたはずいぶん意地わるだけれど、それと一緒に、どこか率直なところがありますね。」アリョーシャは、彼女にほお笑みかけた。
「あなたを恥しくないから、それで率直になれるのよ。あたしね、あなたが恥しくないばかりか、恥しがろうとさえ思わなくってよ。ええ、あなたをよ、あなたに対してよ。アリョーシャ、どうしてあたしはあなたを尊敬しないんでしょう? あたしはあなたをとても愛してるけど、ちっとも尊敬していないの。もし尊敬してれば、あなたの前で恥しくもなく、こんなことを言えるはずがありませんわ、ね、そうでしょう?」
「そうです。」
「じゃ、あたしがあなたを恥しがらないってことを、あなた本当になすって?」
「いいえ、本当にしません。」
 リーザはまた神経的に笑いだした。彼女はせきこんで早口に喋った。
「あたしね、監獄にいるあなたの兄さんのドミートリイさんへ、お菓子を送ってあげたのよ。ねえ、アリョーシャ、あなたは本当にいい方ねえ! だって、あなたはこんなに早く、あなたを愛さなくてもいいって許可を、あたしに与えて下すったでしょう。だから、あたしそのために、あなたを恐ろしく愛してるのよ。」
「リーザ、あなたはきょう何用で僕を呼んだのです?」
「あなたに一つ自分の望みをお話ししたかったからよ。あたしはね、誰かに踏みにじってもらいたいの。あたしと結婚をして、それからあたしを踏みにじって、あたしをだまして出て行ってくれればいいと思うわ。あたし仕合せになんかなりたくない!」
「それじゃ、混沌が好きになったんですね?」
「ええ、あたし混沌が大好きよ。あたし家なんか焼いてしまいたいのよ。あたしはこっそり匐い寄って、そっと家に火をつけるところを想像するのよ、ぜひそっとでなくちゃいけないの。みんな消そうとするけれど、家は燃えるでしょう。ところが、あたしは知ってながら黙ってるわ。ああ、なんてばかばかしい、なんて退屈なんだろう!」
 彼女は嫌悪の色を浮べながら、片手を振った。
「裕福な暮しをしてるからですよ」とアリョーシャは静かに言った。
「じゃ、一たい貧乏で暮すほうがよくって?」
「いいです。」
「それは亡くなった坊さんがあなたに吹き込んだことよ。それは間違ってるわ。あたしが金持で、ほかのものは貧乏だってかまやしないわ。あたし一人でお菓子を食べたり、クリームを飲んだりして、誰にもやりゃしない。ああ、まあ、聞いてらっしゃいよ、聞いて(アリョーシャが口を開けようともしないのに、彼女はこう言って手を振った)。あなたは以前もよく、そんなことを言ってきかせましたね。あたしはすっかり暗記しててよ。飽き飽きするわ。もしあたしが貧乏だとしても、誰かを殺してやるわ、また、たとえ金持だとしても、やはり殺すかもしれないわ、――とてもじっとしていられやしない! あたし刈り入れがしたいのよ。裸麦を刈りたいのよ。あたしあなたのとこへお嫁に行くから、あなたは百姓に、本当の百姓になるといいわ。あたしたら仔馬を飼うわ、よくって? あなたカルガーノフさんをご存じ?」
「知っています。」
「あの人はしょっちゅう歩き廻りながら、空想してるのよ。あの人が言うのには、人はなぜまじめくさって暮してるんだ、空想しているほうがよっぽどいい。空想ならばどんな愉快なことでもできるけど、生活は退屈なものだって、だけど、あの人はもうやがて結婚するわ。あたしに恋を打ち明けたんですもの。あなた独楽を廻せて?」
「廻せます。」
「あの人はちょうど独楽みたいな人よ。廻して投げて、鞭でぴゅうぴゅう引っぱたくといいのよ。あたしはあの人のところへお嫁に行って、一生涯、独楽のようにまわしてやるわ。あなたはあたしと一緒に坐ってるのが恥しくなって?」
「いいえ。」
「あなたは、あたしが神聖な有難いことを言わないので、ひどく怒ってらっしゃるのね。でも、あたし聖人なんかなになりたくないんですもの。人は自分の犯した一等大きな罪のために、あの世でどんな目にあうでしょう? あなたはよく知ってらっしゃるはずだわ。」
「神様がお咎めになります。」アリョーシャは、じっと彼女を見つめた。
「あたしもね、そうあってほしいと思うのよ、あたしがあの世へ行くと、みんながあたしを咎めるでしょう。ところが、あたしはだしぬけに、面と向ってみんなを笑ってやるわ。アリョーシャ、あたしは家を、あたしたちの家を焼きたくってたまんないのよ。あんた、あたしの言うことを本当になさらないでしょう?」
「なぜですか? 世間にはよくこんな子供がありますよ。十二やそこいらのくせに、しじゅう何か焼きたくってたまらないので、よく火をつけたりなんかするんです。それも一種の病気ですね。」
「嘘よ、嘘よ。そんな子供もあることはあるでしょうが、あたしそんなことを言ってるんじゃなくってよ。」
「あなたは悪いことといいこととを取り違えてるんです。それは一時的な危機ですが、つまり、以前の病気のせいかもしれませんね。」
「あら、あなたはあたしを軽蔑してらっしゃるのね! あたしはただ、いいことをしたくなくなって、悪いことがしたいのよ。病気でも何でもないわ。」
「なぜ悪いことをしたいんです!」
「どこにも何一つないようにしてしまいたいからよ。ああ、何もかもなくなったらどんなに嬉しいでしょう! ねえ、アリョーシャ、あたしはね、どうかすると片っ端から、めちゃくちゃに悪いことをしてやろうと思うことがあるの。長いあいだ人が気のつかないように悪いことをしていると、やがて人が見つけて、みんなあたしを爪はじきするでしょう。ところが、その時あたしは平気な顔をして、みんなを見かえしてやるわ。これがあたし、たまらなく愉快に思えるのよ。アリョーシャ、どうしてこれがそんなに愉快なんでしょう?」
「そうですね。それは何かいいものを圧し潰したいとか、または今あなたの言われたように、火をつけたいとかいう要求なんです。そういうこともよくあるものです。」
「あたし言うだけじゃないわ。本当にしてよ。」
「そうでしょうとも。」
「ああ、あたしはね、そうでしょうともと言って下すったので、本当にあなたが好きになっちゃったわ。だって、あなたは決して、決して嘘をおっしゃらないんですもの。でも、あなたはもしかしたら、あたしがあなたをからかうために、わざとこんなことを言うんだと思ってらっしゃるかもしれないわねえ?」
「いいえ、そうは思いません……しかし、ひょっとしたら、あなたは本当にそういう心持を、少しは持ってらっしゃるかもしれませんね。」
「ええ、少しばかりもってるわ。あたし決してあなたに嘘なんか言わないから」と彼女は異様に目を光らせながら言った。
 アリョーシャが何よりも驚いたのは、彼女の生まじめさであった。以前、彼女はどんなに『まじめな』瞬間でも、快活と滑稽味を失わなかったのに、この時の彼女の顔には、滑稽や冗談の影さえ見えなかった。
「人間には時として、罪悪を愛する瞬間があるものです」とアリョーシャは考え深い調子で言った。
「そうよ、そうよ! あなたはあたしの考えてることを言って下すったわ。人はみんな罪悪を愛しています、みんなみんな愛しています。いつも愛していますわ。あたしなんか『瞬間』どころじゃないことよ。ねえ、人はこのことになると、まるで嘘をつこうと約束でもしたように、みんな嘘ばかりついてるのよ。人はみな悪いことを憎むっていうけれど、そのじつ内証で愛してるんだわ。」
「あなたはやはり今でも、悪い本を読んでるんですか?」
「読んでますわ。お母さんが読んでは枕の下に隠してるから、あたし盗んで読むのよ。」
「よくまあ、あなたはそんなに自分を台なしにして、良心が咎めませんね?」
「あたしは自分をめちゃめちゃにしてしまいたいのよ。どこかの男の子は、体の上を列車が通ってしまう間、じっとレールの間に寝ていたそうじゃなくって、仕合せな子ねえ! ねえ、あなたの兄さんはお父さんを殺したために、いま裁判されようとしてるでしょう。ところが、みんなは、兄さんがお父さんを殺したのを喜んでるのよ。」
「親父を殺したのを喜んでるって?」
「喜んでるのよ、みんな喜んでるわ! みんな恐ろしいことだと言ってるけれど、その実とても喜んでるのよ。第一あたしなんか一番に喜んでるわ。」
「みんなのことを言ったあなたの言葉には、いくらか本当なところもありますね」とアリョーシャは静かに言った[#「言った」はママ]
「ああ、あなたは何という考えをもってらっしゃるんでしょう!」リーザは感きわまって、こう叫んだ。「しかも、それが坊さんの考えることなんですもの! アリョーシャ、あなたは本当に、決して嘘をおっしゃらないわね、だから、あたしあなたを尊敬するのよ。ねえ、あたし自分の見た滑稽な夢をお話ししましょうか。あたしはね、どうかすると悪魔の夢を見ることがあるのよ。何でも、夜中にあたしが蝋燭をつけて居間にいると、だしぬけに、そこいらじゅう一ぱい悪魔が出て来るの、部屋のすみずみだのテーブルの下などにね、そして戸を開けようとするのよ。戸の陰には悪魔がうようよしていて、入って来てあたしを掴みたがってるのよ。やがてそろそろ寄って来て、今にもあたしを掴もうとするから、あたし急にさっと十字を切ると、みんな後へ引きさかって、びくびくしているのよ。けれど、すっかり帰ってしまおうともせず、戸のそばに立ったり、隅っこにしゃがんだりして待ってるの。するとね、あたしだしぬけに大きな声をあげて、神様の悪口が言いたくなったので、思いきって悪口を言いだすと、悪魔たちはすぐまたどやどやと、あたしのほうへ押し寄せて来て、大喜びであたしを捕まえようとするじゃありませんか。そこで、あたしがまた急に十字を切ると、悪魔たちはみんな後へさがってしまう。それが面白くって、面白くって息がつまりそうなくらいだったわ。」
「僕もよくそれと同じ夢を見たことがあります」とアリョーシャはふいにそう言った。
「まさか」とリーザはびっくりして叫んだ。
「ねえ、アリョーシャ、冷やしちゃいやよ、これは大へん重大なことなんですからね。だって、まるで違った二人のものが同じ夢を見るなんて、そんなことあるもんでしょうか?」
「確かにありますよ。」
「アリョーシャ、本当にこれはとても重大なことなのよ」とリーザはなぜかひどく驚いた様子で、言葉をつづけた。「重大っていうのは夢のことじゃなくって、あなたがあたしと同じ夢を見たっていう、そのことなのよ。あなたは決して、あたしに嘘なんかおっしゃらないわね。だから今も嘘ついちゃいやよ、――それは本当のことなの? あなた冷やかしてらっしゃるんじゃなくって?」
「本当のことです。」
 リーザはひどく何かに感動して、ややしばらく黙っていた。
「アリョーシャ、あたしのとこへ来て下さいね、しじゅう来てちょうだいね」と彼女は急に哀願するような声で言った。
「僕はいつも、一生涯あなたのとこへ来ますよ。」アリョーシャはきっぱりと答えた。
「あたしあなた一人だけに言うんですけどね」とリーザはまた言いはじめた。「あたしは自分一人と、それからあなただけに言うのよ。世界じゅうであなた一人だけに言うのよ。あたし自分に言うよか、あなたに言うほうがよっぽど楽だわ。あなたならちっとも恥しくないの、それこそちっとも。アリョーシャ、どうしてあなたがちっとも恥しくないんでしょう。え? ねえ、アリョーシャ、ユダヤ人は復活祭に子供を盗んで来て殺すんですってね、本当?」
「知りませんね。」
「あたしは何かの本で、ある裁判のことを読んだのよ。一人のユダヤ人が四つになる男の子を捕まえて、まず両手の指を残らず切り落して、それから釘で壁に磔《はりつけ》にしたんですって。そして、あとで調べられた時、子供はすぐ死んだ、四時間たって死んだと言ったんですって、四時間もかかったのに、すぐですとさ。子供が苦しみぬいて、唸りつづけている間じゅう、そのユダヤ人はそばに立って、見とれていたんですって。いいわね!」
「いいんですって?」
「いいわ、あたしときおりそう思うのよ、その子供を磔にしたのは、自分じゃないのかしらって。子供がぶら下って唸っていると、あたしはその前に坐って、パイナップルの砂糖煮を食べてるの。あたしパイナップルの砂糖煮が大好きなのよ。あなたお好き?」
 アリョーシャは黙って彼女を見つめていた。その蒼ざめた黄いろい顔は急に歪んで、目はきらきらと燃えだした。
「でね、あたしこのユダヤ人のことを読んだ晩、夜っぴて涙を流しながら慄えてたのよ。あたしは赤ん坊が泣いたり唸ったりするのを(子供も四つになればもうわかりますからね)想像しながら、それと一緒に、パイナップルのことがどうしても頭から離れないのよ。朝になると、あたしはある人に手紙をやって、ぜひ来て下さいと頼んだの、その人が来ると、あたしはだしぬけに男の子のことだの、パイナップルの砂糖煮のことだの話したわ。残らず[#「残らず」に傍点]話してしまったわ、残らず[#「残らず」に傍点]すっかり、そして『いいわね』って言ったの。すると、その人は急に笑いだして、それは実際いいことだと言うと、いきなりぷいと立ってすぐ帰っちまったの。みんなで五分間ばかりいたきりだったわ。その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、軽蔑したんでしょうか? ねえ、ねえ、アリョーシャ、その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、どうでしょう?」彼女はきらりと目を輝かせて、寝椅子の上でぐいと体を伸ばした。
「じゃ」とアリョーシャは興奮しながら言った。「あなたはその人を、自分でよんだんですか?」
「自分でよんだのよ。」
「その人に手紙をやったんですか?」
「手紙をやったのよ。」
「わざわざこのことを、赤ん坊のことを訊くために?」
「いいえ、まるでそんなことじゃないの。でも、その人が入って来るとすぐに、あたしそのことを訊いたわ。すると、その人は返事をして、笑って、立って行ってしまったの。」
「その人はあなたに対して、立派な態度を取りましたね」とアリョーシャは小さな声で言った。
「でも、その人はあたしを軽蔑したんじゃないでしょうか? 笑やしなかったかしら?」
「そんなことはありません。なぜって、その人自身も、パイナップルの砂糖煮を信じてるかもしれないんですもの。リーザ、その人もやはりいま病気にかかってるんですよ。」
「そうよ、あの人も信じてるのよ」とリーザは目を光らせた。
「その人は誰も軽蔑しちゃいません」とアリョーシャは語をつづけた。「ただその人は誰も信じていないだけです。信じていないから、つまり軽蔑することになるのです。」
「じゃ、あたしも? あたしも?」
「あなたも。」
「まあ、いいこと。」リーザは、歯をきりきりと鳴らした。「あの人が、笑ってぷいと出て行ったとき、軽蔑されるのもいいもんだって気がしたわ。指を切られた子供も結構だし、軽蔑されるのも結構だわ……」
 彼女はこう言いながら、妙に毒々しい興奮した声で、アリョーシャに面と向って笑いを浴びせた。
「ねえ、アリョーシャ、ねえ、あたしはね……アリョーシャ、あたしを救けてちょうだい!」ふいに彼女は寝椅子から跳ねあがりざま、彼のほうに身を投げて、ぎゅっとその両手を握った。「あたしを救けて」と彼女はほとんど呻くように言った。「いま言ったような話ができるのは、世界じゅうにあなたよりほかありません。だって、あたし本当のことを言ったんですもの、本当のことよ、本当のことよ! あたし自殺するわ。だって、何もかもみんな穢らわしいんですもの! あたし何もかも穢らわしい、何もかも穢らわしい! アリョーシャ、なぜあなた、あたしをちっとも、ちっとも愛してくれないの!」
 彼女は前後を忘れたように、こう言葉を結んだ。
「そんなことはない、愛しています!」とアリョーシャは熱して答えた。
「じゃ、あたしのために泣いてくれて、泣いてくれて?」
「泣きます。」
「あたしがあなたの奥さんになるのを、いやだと言ったためじゃなくって、ただあたしのために泣いてくれて?」
「泣きます。」
「そう、有難う! あたしあなたの涙よりほか何にもいらないのよ! ほかのやつなんか、みんなあたしを苦しめたって、みんな、みんな、一人残らず[#「一人残らず」に傍点]あたしを踏み潰したって、かまやしないわ! だって、あたしは誰を愛していないんですもの。本当に誰も愛していないのよ! それどころか、憎んでるわ! さあ、いらっしゃい、アリョーシャ、もう兄さんのとこへ行く時分よ!」彼女はふいに身を離した。
「あなたはあとでどうなさるんです?」とアリョーシャは慴えたように言った。
「兄さんのとこへいらっしゃい。監獄の門が閉まってよ。いらっしゃい。さ、帽子! ミーチャにあたしからと言って、接吻してちょうだい。さあ、いらっしゃい、いらっしゃい!」
 こう言って彼女は、ほとんど無理やりアリョーシャを、戸のほうへ突き出すようにした。アリョーシャは愁わしげな不審の表情でリーザを見ると、その瞬間、自分の右手に手紙があるのを感じた。それは小さな手紙で、かたく畳んで封印がしてあった。彼はちらりと見ると、『イヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフさま』と書いてあった。彼はすばやくリーザを見た。と、その顔はほとんど威嚇するような表情になった。
「渡して下さい、きっと渡して下さいよ!」彼女は全身をふるわせながら、夢中でこう命令した。「今日すぐ! でないと、あたし毒を呑んで死んでしまってよ! あたしがあなたを呼んだのもそのためよ!」
 彼女はこう言って、大急ぎでぱたりと戸を閉めてしまった。掛金はがちりと音をたてた。アリョーシャは手紙をかくしへ入れると、ホフラコーヴァ夫人のもとへも寄らないで、すぐ階段のほうへ行った。彼はもう夫人のことを忘れていたのである。リーザはアリョーシャが遠ざかるやいなや、すぐ掛金をはずしてこころもち細目に戸を開き、その隙間に自分の指をさし込むと、力まかせにぐっと戸を閉めて、指を押した。十秒間ばかりたってから、彼女は手を引いて、そろそろと静かに安楽椅子へ戻ると、その上に坐って、体をぐいと伸ばした。そして、黒くなった指と、爪の間から滲み出た血をじっと見つめた。唇がぶるぶると慄えた。彼女は早口にこうひとりごちた。
「あたしは恥知らずだ、恥知らずだ、恥知らずだ!」

[#3字下げ]第四 頌歌と秘密[#「第四 頌歌と秘密」は中見出し]

 アリョーシャが監獄の門のベルを鳴らした時は、もうだいぶ遅く(それに、十一月の日は短いから)、たそがれに近かった。けれど、アリョーシャは何の故障もなく、ミーチャのところへ通されることを知っていた。こういうことはすべてこの町でも、やはりほかの町と同じであった。予審終結後、はじめのうちは、親戚その他の人々の面会も、ある必然の形式で制限されていたが、その後だんだん寛大になった、というわけでもないが、少くとも、ミーチャのところへ来る人々のためには、いつの間にかある例外が形づくられたのである。時によると、被監禁者との面会が、その用にあてられた部屋の中で、ただ二人、――四つの目だけの間で行われることさえあった。が、そういう人はごく僅かで、ただグルーシェンカとアリョーシャとラキーチンくらいのものだった。グルーシェンカには、署長のミハイル・マカーロヴィッチが、とくに好意をもっていた。モークロエでグルーシェンカを呶鳴りつけた時のことが、いつまでもこの老人の心を咎めたのである。その後、彼はよく真相を知るとともに、彼女に対する自分の考えを一変した。不思議なことに、彼はミーチャの犯罪を固く信じていたにもかかわらず、彼が監禁されたそもそもから、『この男も善良な心の持ち主だったらしいが、あんまり酒を飲みすぎて、だらしがないものだから、とうとうスウェーデン人のようにすっかり身を破滅させてしまった』と思って、だんだんミーチャを見る目がやわらいできたのである。彼が心にいだいていた以前の恐怖は、一種の憐憫の情に変った。アリョーシャのほうはどうかというと、署長は非常に彼を愛していた。二人はもうとうから知合いの間柄なのであった。その後しきりに監獄へ出入りしはじめたラキーチンも、彼のいわゆる『署長のお嬢さん』の最も親しい知合いの一人でほとんど毎日お嬢さんのそばで暮していた。そのうえ彼は、頑固一徹の官吏ではあるが、いたって心の優しい老典獄の家で、家庭教師をしていたのである。アリョーシャもやはり典獄の旧友であった。典獄は全体に、『最高の叡知』というような問題で、アリョーシャと語り合うのを好んだ。またイヴァンのほうはどうかというと、典獄は決して彼を尊敬しているわけではないが、何よりも一ばん彼の議論を恐れていた。もっとも、典獄自身も『自分の頭で到達した』ものに相違ないが、やはりえらい哲学者なのであった。アリョーシャに対しては、彼はある抑えがたい好感をもっていた。近頃、彼はちょうど旧教福音書の研究をしていたので、絶えず自分の印象をこの若い親友に伝えた。以前はよくアリョーシャのいる僧院まで出かけて行って、彼をはじめ多くの主教たちと、幾時間も語り合ったものである。こういうわけで、アリョーシャは多少時間に遅れたところで、典獄のところへ行きさえすれば、うまく取り計らってもらうことができるのであった。それに、監獄では一ばん下っぱの番人にいたるまで、みんなアリョーシャに馴染んでいた。むろん看守も、上役から叱られさえしなければ、決して面倒なことを言わなかった。ミーチャはいつも呼び出されると、監房から下の面会所へおりて行くのを常とした。アリョーシャは部屋え[#「部屋え」はママ]入りがけに、ちょうどミーチャのところから出て来たラキーチンに、ばったり出くわした。二人は何やら大きな声で話をしていた。ミーチャはラキーチンを見送りながら、なぜかひどく笑ったが、ラキーチンは何だかぶつぶつ言っているようなふうであった。ラキーチンは近頃、とくにアリョーシャと出会うのを好まず、会ってもほとんど口もきかずに、ただわざとらしく挨拶するだけであった。今も入って来るアリョーシャを見ると、彼は妙に眉を寄せて、目をわきへそらした。その様子はいかにも、毛皮襟のついた大きな暖かい外套のボタンをかけるのに気をとられている、とでもいったようなふうであった。やがて、彼はすぐ自分の傘を捜し始めた。「自分のものは忘れないようにしなくちゃ。」彼はただ何か言うためにしいてこう呟いた。
「君、人のものも忘れないようにしろよ!」とミーチャは皮肉に言って、すぐ自分で自分の皮肉にからからと高笑いを上げた。
 ラキーチンはいきなりむっとした。
「そんなことはカラマーゾフ一統のものに言うがいい。君たちは農奴制時代の私生児だ。そんなことは、ラキーチンに言う必要はない!」憎悪のためにぶるぶると身ぶるいをしながら、彼はやにわに剣突《けんてつ》をくわした。
「何をそんなに怒るんだい? 僕はただちょっと冗談に言っただけだよ!」とミーチャは叫んだ。「ちょっ、ばかばかしい! あいつらはみんなあのとおりだ。」急いで出て行くラキーチンのうしろ姿を顎でしゃくりながら、アリョーシャに話しかけた。
「今まで坐り込んで、面白そうに笑ってたのにもう怒ってやがる! お前に目礼さえしなかったじゃないか。どうしたんだ。すっかり仲たがいでもしたのかい? どうしてお前はこんなに遅く来たんだ? おれはお前を待っていたどころじゃない、朝のうち焦れぬいてたんだ。だが、いいや! 今その埋め合せをするから。」
「あの男はどうしてあんなに兄さんのとこへ来るんです? すっかり仲よしになったんですか?」やはりラキーチンが出て行った戸口を顎でしゃくりながら、アリョーシャはこう訊いた。
「ラキーチンと仲よしになったかって言うのかい? そんなわけでもないが……いやなに、あいつは豚だよ! あいつはおれを……やくざ者だと思ってやがるんだ。それにちょっと冗談言ってもむきになる、――あいつらときたら、洒落というものがてんでわからないんだからな。それが一ばん厄介だよ。あの連中の魂は、なんて無味乾燥なんだろう。薄っぺらで乾からびてるよ。まるでおれが初めてここへ連れられて来て、監獄の壁を見た時のような心持がする。だが、なかなか利口なことは利口な男だ。しかし、アレクセイ、もういよいよおれの頭もなくなったよ!」
 彼はベンチに腰をおろし、アリョーシャをもそばにかけさせた。
「そう、明日がいよいよ公判ですね。じゃ、何ですか、兄さん、もうすっかり絶望してるんですか?」とアリョーシャはおずおずと言いだした。
「お前、それは何言ってるんだい?」ミーチャは何ともつかぬ、漠とした表情で、アリョーシャを眺めた。「ああ、お前は公判のことを言ってるんだな! ちょっ、ばかばかしい! 僕らは今までいつもつまらない話ばかり、いつもこの公判の話ばかりしていたが、一ばん大切なことは、黙っていたんだよ。そりゃ明日は公判さ。しかし、いま頭がなくなったと言ったのは、そのことじゃないよ。頭はなくなりゃしないがね、頭の中身がなくなったってことさ。どうしてお前はそんな批評をするような顔つきでおれを見るんだ!」
「ミーチャ、それは何のことなんです?」
「思想のことさ、思想のことなんだよ! つまり倫理《エチカ》だよ、一たい倫理《エチカ》って何だろう?」
「倫理《エチカ》?」アリョーシャは驚いた。
「そうだ、どんな学問だね?」
「そういう学問があるんですよ……しかし……僕は正直なところ、どんな学問かうまく説明できないんです。」
「ラキーチンは知ってるぜ。ラキーチンの野郎いろんなことを知ってやがる、畜生! やつは坊主になんかなりゃしないよ。ペテルブルグへ行こうとしてるんだ。そこで何かの評論部へ入ると言っている。ただし、高尚な傾向をもってるところだ。大いに世を裨益して、立身出世しようと言うんだ。いや、どうして、あいつらは立身出世の名人だからなあ! 倫理《エチカ》が何だろうと、そんなこたあ、どうでもいい。おれはもうおしまいだ。アレクセイ、おれはもうおしまいだよ。お前は神様に愛されている人間だ! おれは誰よりも一番お前を愛してる。おれの心臓はお前を見るとふるえるんだ。カルル・ベルナールってのは、一たい何だい?
「カルル・ベルナール?」とアリョーシャはまた驚いた。
「いや、カルルじゃない、ちょっと待ってくれ、おれはでたらめを言っちゃった、クロード・ベルナール([#割り注]十九世紀フランスの生理学者[#割り注終わり])だ。クロード・ベルナールって一たい何だい? 化学者のことかい?」
「それは確か、ある学者です」とアリョーシャは答えた。「けれど、実のところ、この人のこともよく知りません。ただ学者だってことは聞いたけれど、どんな学者か知らない。」
「なに、そんなやつなんかどうでもいい、おれも知らないんだ」とミーチャは呶鳴った。「どうせ、ろくでなしのやくざ者だろう。それが一ばん本当らしい。どうせみんなやくざ者さ。だが、ラキーチンはもぐり込むよ。ちょっとした隙間でも、あいつはもぐり込むよ。あいつもやはりベルナールだ。へっ、ろくでなしのベルナールども! よくもこうむやみに殖えたものだ!」
「一たい兄さんどうしたんですか?」とアリョーシャは追及した。
「あいつはおれのことや、おれの事件のことを論文に書いて、文壇へ乗り出そうと思ってるんだ。そのためにおれのところへ来るんだよ、それは自分でもそう言ったよ。何か傾向のあるものを書きたがってるのさ。『彼は殺さざるを得なかった。何となれば、周囲の犠牲になったからである』てなことをね。おれに説明してくれたよ。社会主義の色をつけるんだそうだ。そんなこたあどうでもいいさ、社会主義の色でも何でも、そんなこたあどうでもいいや。あいつはイヴァンを嫌って憎んでいるよ。お前のこともやっぱりよく思っちゃいない。それでもおれがあいつを追い返さずにおくのは、あいつが利口者だからだ。もっとも、あいつ恐ろしくつけあがりすぎる。だから、おれは今も言ってやったのだ。『カラマーゾフ一統はやくざ者じゃない、哲学者だ。なぜって、本当のロシヤ人はみんな哲学者じゃないか。だが、お前なんかは学問こそしたけれど、哲学者じゃなくて、ごろつきだ』ってね。そしたら、あいつ何ともいえない、にくにくしそうな顔をして笑やがったよ。で、おれはやつに言ったね、de ideabus non est disputandum([#割り注]思想の相違はやむを得ない――ラテン語[#割り注終わり])少くとも、おれも古典主義の仲間入りをしたんだよ。」ミーチャは急にからからと笑った。
「どうして兄さんもう駄目なんです? いま兄さんそう言ったでしょう?」とアリョーシャは遮った。
「どうして駄目になったって? ふむ! 実はね……一言でつくせば、おれは近頃、神様が可哀そうになったんだ、だからだよ!」
「え、神様が可哀そうなんですって?」
「いいかい、こういうわけだ。それはここんとこに、頭の中に、その脳髄の中に神経があるんだ……(だが、そりゃ何でもいいや!)こんなふうな尻尾みたいなものがあるんだ。つまり、その神経に尻尾があるんだ。そこで、この尻尾がふるえるとすぐに……つまり、いいかね、おれが目で何か見るとするだろう、そうすると、そいつがふるえだすんだ、つまり、尻尾がさ……こうしてふるえると、映像が現われるんだ。すぐに現われるんじゃない、ちょっと一瞬間、一秒間すぎてからだ。すると、一種の刹那が現われる。いや、刹那じゃない、――ちょっ、いまいましい、――ある映像が、つまり、ある物体というか、事件というか、――が現われる。だが、それはどうでもいい! こういうわけで、おれは観照するし、それから、考えもするんだ。なぜって、それは尻尾がふるえるからなので、おれに霊があるからでもなければ、おれの中に神の姿があるからでもないんだ。そんなことは、みんなばかばかしい話だとさ。これはね、ラキーチンがきのうおれに話して聞かせたんだ。おれはその話を聞くと、まるで火傷でもしたような気がしたよ。アリョーシャ、これは立派な学問だ! 新しい人間がどんどん出て来る、それはおれにもわかっている……が、やはり神様が可哀そうなんだ!」
「いやあ、それも結構なことですよ」とアリョーシャは言った。
「神様が可哀そうだってことかい? だって、化学があるじゃないか、アリョーシャ、化学があるよ! どうも仕方がないさ。坊さん、少々脇のほうへ寄って下さい、化学さまのお通りですよ! ラキーチンは神様を好かない、いや、どうも恐ろしく好かない! これがあいつらみんなの急所だよ! だが、あいつらはそれを隠してるんだ。嘘をついてるんだ。感じないふりをしてるんだ。こういうこともあったよ。『どうだね、君は評論部でもそれで通すつもりかね』とおれが訊くとな、あいつは『いや、明らさまにはさせてくれまい』と言って、笑ってるじゃないか。そこで、おれは訊いた。『だが、そうすると、人間は一たいどうなるんだね? 神も来世もないとしたらさ? そうしてみると、人間は何をしてもかまわないってことになるんだね?』すると先生『じゃ、君は知らなかったんだね?』と言って笑ってるんだ。『利口な人間はどんなことでもできるよ。利口な人間は、うまく甘い汁を吸うことができるんだよ。ところが、君は人殺しをしたが、ぱったり引っかかって、監獄の中で朽ちはてるんだよ!』こうおれに面と向って言うじゃないか。まるで豚だ! おれも以前なら、そんな人間はつまみ出してしまったものだが、今は黙って聞いてるんだ。あいつは気のきいたことをいろいろと喋るし、書かせてもなかなかうまいことを書く。あいつは一週間ばかり前、おれにある論文を読んで聞かせたがね、おれはそのとき三行だけ書き抜いておいたよ。ちょっと待ってくれ、これがそうだ。」
 ミーチャは急いでチョッキのかくしから、一枚の紙きれを取り出して読んだ。
『この問題を解決するには、まず自己の人格を自己の現実と直角におくを要す。』
「わかるかい、どうだ?」
「わかりませんね」とアリョーシャは言った。彼は好奇の色を浮べて、ミーチャを見入りながら、その言うことを聞いていた。
「何もわからないんだ。曖昧ではっきりしていないからね。だが、そのかわり気がきいてるじゃないか。『みんな、今こんなふうに書いてるよ。なぜって、環境がそうなんだから』とこう言うのさ……環境が恐ろしくてたまらないんだ。そして、詩もやはり作っているのさ、くだらないやつったらないよ。ホフラコーヴァの足を詩に作ったんだとよ。はっ、はっ、はっ!」
「僕も聞きました」とアリョーシャは言った。
「聞いた? では、その詩も聞いたかい?」
「いいえ。」
「その詩はおれの手もとにあるんだ。一つ読んで聞かせよう。まだお前には話さなかったから知るまいがね、それには一つロマンスがあるんだ。ほんとにあいつ悪いやつだ! 三週間まえに、先生おれをからかおうと思ってね、『君は僅か三千ルーブ