『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P336-P381

らした。しかも、千五百ルーブリの金を持っていた、――一たいそれでは金をどこから持って来たのだ?』と諸君はおっしゃるでしょう。けれど、千五百ルーブリだけ見つかって、あとの半分がどうしても見つからなかったという事実は、その金がぜんぜん別の金、――封筒にも何にも入ったことのない金かもしれぬ、ということを立証するではありませんか。すでに厳密な考究によって証明されている時間から計算しても、被告が女中たちのところから、すぐ官吏ペルホーチンのところへ走って行って、自分の家へもどこへも立ち寄らなかったし、その後も、しじゅう人中に立ちまじっていたことは、予審でも認められ、かつ証明されています。してみれば、被告が町の中で三千ルーブリから半分だけ別にして、どこかへ隠すなどということはできないわけです。これがつまり起訴者をして、半分の金はモークロエ村で何かの隙間に隠したのだろう、とこう仮定せしむるにいたった原因であります。いっそ、ウドルフ城の地下室に隠してある、とでも言ったほうがいいじゃありませんか? そんな仮定はあまりに空想的、小説的ではないでしょうか? で、このただ一つの仮定、すなわちモークロエに隠してあるという仮定さえ消滅すれば、強奪の罪はたちどころに消滅してしまうのです。なぜかと言えば、その時この千五百ルーブリの金がどこへ行ったか、わからなくなるからであります。もし被告がどこへも寄らなかったことが証明されたとすれば、一たいその金はどういう奇蹟で消え失せたのでしょうか? しかも、われわれはそうした架空的想像で、一個の人間の生命を滅ぼそうとしているではありませんか! 『それにしても、彼は自分の持っていた千五百ルーブリの出所を、十分説明することができなかった。のみならず、その夜まで彼が金を持っていなかったことは、みんな誰でも知っている』と、諸君はおっしゃるかもしれません。しかし、誰がそれを知っていたか? 被告は金の出所について、きっぱりと明瞭な申し立てをしました。陪審員諸君、もし諸君が私の意見を聞きたいとおっしゃるなら申しますが、――これ以上に確かな申し立ては決してほかになかったし、またあろうはずもありません。のみならず、その申し立ては被告の性格と精神とに最もよく一致しております。しかるに、起訴者はご自作の小説のほうが、お気に召したのであります。被告は意志の薄弱な男で、許嫁が渡した三千ルーブリの金を恥を忍んで受け取るほどだから、その半分を別にして袋の中へ縫い込むようなはずはない。また、たとえ縫い込んだとしても、二日目ごとにそれを解いて、百ルーブリずつくらい引き出しながら、一カ月のうちに残らず出してしまったに相違ない、とこう言われました。しかも、この議論は、いかなる反駁をも許さないような調子で述べられたのであります。しかし、もし事件の真相が全然それに反して、つまり諸君の作られた小説とぜんぜん違って、そこにまったく別な一面が存するとしたらどうでしょう。問題は、諸君が別な一面を作り出した点に存するのであります! あるいは諸君は、『被告が兇行の一カ月前、カチェリーナ・イヴァーノヴナから受け取った三千ルーブリの金を、モークロエ村で一度に、一夜のうちに、一コペイカのこらず使いはたしたということについては、ちゃんとした証人がある。してみれば、被告が半分別にしておくはずはない』と言われるかもしれません。しかし、その証人というのはどんな人間であるか? この証人たちの確実さの程度は、すでにこの法廷で暴露されたではありませんか。のみならず、人の持っているパンは、常に大きく見えるものです。ことにこれらの証人の中で、その金をかぞえたものは誰ひとりありません。ただ自分の目分量で判断したにすぎないのであります。現に証人マクシーモフのごときは、被告が二万ルーブリも握っていたと申し立てたではありませんか。陪審員諸君、かようなわけで、心理解剖は両刀の刀のようなものでありますから、私はその反対の側を当てて、どういう結論が生ずるかを見ようと思います。
「椿事勃発の一カ月前に、被告はカチェリーナ・イヴァーノヴナから三千ルーブリの郵送を頼まれました。が、はたしてその金は、先刻いわれたような侮辱と、軽蔑の意志をもって依頼されたものでしょうか? そこが問題なのであります。その問題に関する彼女の最初の申し立ては、決してそうではありませんでした。全然それとは違っていました。二度目の申し立ての時に、われわれは初めて憎悪と復讐の叫びを聞きました。長いあいだ秘められていた嫉妬の叫びを聞いたのであります。ところで、証人が最初不確実な申し立てをしたということは、二度目の申し立てもやはり不確実なものであると、断定する権利をわれわれに与えるのであります。起訴者はこの物語にふれることを、『欲しない、あえてしない』(これは検事自身の言葉であります)と言われる。それもいいでしょう。私もそれにふれますまい。しかし、私は次の一事を認めさしてもらいたいのであります。すなわち、かの潔白な、徳義心の発達した、尊敬すべきカチェリーナ・イヴァーノヴナのごとき婦人が、明らかに被告を破滅させようという目的をもって、法廷において最初の申し立てを軽率に変更する以上、この申し立てが公平かつ冷静なものではない、ということは明らかであります。諸君、復讐の念に駆られた女が、とかく誇張しがちなものであると断定する権利を、諸君はわれわれから奪おうとなさらないでしょう? そうです、確かに彼女は金を渡すときの屈辱と侮蔑を誇張しています。事実、彼女はその金を受け取ることができる、とくに被告のような軽浮な人間にとっては容易に受け取ることができるような態度で、金を渡したに相違ありません。第一、被告はそのとき、精算上自分の所有に属すべき三千ルーブリの金を、すぐ父親から受け取ることをあてにしておりました。それはいかにも軽はずみな考えです。が、つまり被告はその軽はずみのために、父は必ず三千ルーブリの金を渡すに相違ない、その金を受け取りさえすれば、依頼されている金はいつでも郵送できるから、したがって、負債のかたもきれいにつけることができる、とこう固く信じていたのであります。しかるに、起訴者は、被告がその日に受け取った金を二分して、半分を袋の中に縫い込んだということを、いっかな承認しようとされません。『それは被告の性格に反している、被告がそんな感情をもっているはずはない』と起訴者は言われます。しかし、あなたは自分の口から、カラマーゾフの性格は広汎である、と叫ばれたではありませんか。あなたは自分の口から、カラマーゾフは二つの深淵を同時に見ることができる、と絶叫されたではありませんか。まったくカラマーゾフは二つの面を備え、両極端の間に動揺する天性をもっております。遊蕩に対して抑えがたい要求を感じている場合でも、もし他の面から何かに刺戟を受ければ、すぐ歩みを止めることのできる男であります。他の面というのは、つまり愛なのであります、――そのとき火薬のように燃えあがった新しい愛であります。ところが、この愛のためには金が必要です。恋人との遊興に必要なよりも、もっともっと必要なのであります。もし彼女が、『わたしはあなたのものです、フョードルさんなんかいやです』と言ったら、彼は女と一緒に逃げなければなりません。そうすればいろんな費用がかかる。このほうが遊興よりもっと重大な問題だったのです。これがカラマーゾフにわからないはずはないじゃありませんか? いや、彼はつまりこれがために苦悶したのです、肝胆を砕いたのであります、――彼が金を二分して、万一の場合のために半分かくしておいたということが、どうしておかしいのでしょう? ところで、時はどんどんたって行くのに、フョードルは被告に三千ルーブリを与えないばかりか、反対に彼の恋人を誘惑するために、その金を用立てようとしている、という噂さえひろまりました。
『もし親父がよこさなけりゃ、自分はカチェリーナに対して泥棒になってしまう』と彼は考えました。で、しじゅう守り袋に入れて持っている千五百ルーブリを、カチェリーナの前において、『僕は卑劣漢だが、しかし泥棒じゃない』と声明しよう、という考えが浮んできました。こういったわけで、千五百ルーブリを目の玉のように大切にして、決して袋も開けなければ、また百ルーブリずつ引き出しもしなかったという事実に対して、二重の理由が存在するのであります。諸君、諸君はどうして被告に名誉心の存在を否定なさるか? そうです、彼は名誉心をもっています。もっとも、それは方向を誤った、間違った名誉心かもしれません。が、とにかく名誉心はあります、しかも情熱の域に達するほどであります、つまり彼はこれを証拠だてたわけであります。けれど、事態が紛糾して、嫉妬の苦痛が極度に達すると、例の疑念、すなわち以前の二つの疑問がいよいよ痛切になって、被告の熱した頭脳を苦しめました。『もしこれをカチェリーナに返したら、どうしてグルーシェンカを連れ出せるだろう?』彼があの一カ月の間、あんなに無鉄砲に酒をあおって、到るところの酒場を暴れ廻ったのも、つまりその苦しみにたえ得なかったからかもしれません。結局、この二つの疑念はますます鋭さをまして行って、とうとう彼を絶望におとしいれてしまいました。彼は弟を父のところへ送って、最後にその三千ルーブリを請求させましたが、返事も待たずに自分で暴れ込んで、みなの目の前で父親を殴りつけました。こうなった以上、もう誰からも金を手に入れる望みはありません。殴られた父親がくれるはずはもとよりありません。その晩、彼は自分の胸を、――ちょうど守り袋を吊した上の辺を打って、自分は卑劣漢にならないですむ方法をもっているが、しかし結局、卑劣漢で終るに相違ない、なぜなら、その方法を用うるだけの精神力もなければ、またそうした意気地もないのを、自分でちゃんと見抜いているからだ、とこう彼は弟に誓いました。なぜ、なぜ起訴者はアレクセイの申し立てを信じられないのでしょう? 彼はあんなに潔白に、あんなに誠意をこめて、何ら小細工を弄したあともなく、正直に申し立てたではありませんか? またその反対に、なぜ起訴者は金がどこかの隙間に、――ウドルフ城の地下室に隠してあるなどということを、私に信じさせようとなさるのでしょう? その晩、弟と話をしたあとで、被告はかの宿命的な手紙を書きました。この手紙こそ被告の罪状を明らかにする、最も肝要な、最も有力な証拠となったのであります! 『みんなに頼んでみて、誰も貸してくれないようだったら、イヴァンが出発するやいなや、すぐに親父を殺して、やつの枕の下からばら色のリボンでしばった封筒を引き出してやる。』これはもう立派な人殺しのプログラムです。むろん、彼でなくてどうしましょう。『実際、書いてあるとおりに行われたのだ!』と、こう起訴者は叫ばれました。しかし、まず第一に、手紙は泥酔の上で書かれたものです。非常な興奮状態で書かれたものであります。第二に、封筒の件はやはりスメルジャコフから聞いて書いたもので、彼自身その封筒を見たことはないのであります。第三に、この手紙は被告が書いたものに相違ないが、はたして書いてあるとおりに実行されたのでしょうか、それは何で証明されましたか? 被告は実際、枕の下から封筒を取り出したのでしょうか、金を見つけたでしょうか、いや、それどころか、金ははたして存在していたでしょうか? 被告ははたして金を奪いに駈け出したのでしょうか、一つご記憶を願います! 彼は金を奪うためではなく、ただ自分を夢中にさした女の行方を突き留めるために、駈け出したのであります、――してみると、プログラムどおり、すなわち手紙に書いてあるような意味で、駈け出したのではありません。かねて考えていた強盗のためではなく、とつぜん嫉妬の念に駆られて、何心なく駈け出したものです。『それにしても、やはり駈けつけて父親を殺して、金を奪ったに違いない』と諸君はおっしゃるでしょう。しかし、彼はその上まだ殺人までしたのでしょうか、どうでしょうか? 強奪の罪は私の憤然としてしりぞけるところです。奪われたものが明示されない以上、人に強奪の罪をきせることは不可能です、それは原則であります! 一方、彼は殺人をしたのでしょうか? 強奪しないで殺人だけしたのでしょうか? それははたして証明されているでしょうか? それもやはり創作ではないでしょうか?

[#3字下げ]第十二 それに殺人もなかった[#「第十二 それに殺人もなかった」は中見出し]

陪審員諸君、これは人間一個の生死に関することですから、慎重にご考慮あらんことを願います。起訴者は最後まで、すなわちきょう裁判が始まるまで、被告が完全に予定の計画にもとづいて兇行をあえてしたかどうか惑っていた、『酔いに乗じて』書かれたこの宿命的な手紙が、きょう法廷に出されるまで惑っていた、とこう明言せられました。それはわれわれも確かに聞いたところであります。『書いてあるとおりに実行したのだ!』と起訴者は言われます。が、私は繰り返し申します、彼が駈け出したのは、ただ女を捜すため、女のありかを捜すためにすぎませんでした。これは動かすべからざる事実であります。もし彼女が家にさえおれば、彼はどこへも駈け出さず、そのそばに残って、あの手紙で約束したことを実行しなかったに相違ありません。彼は突然、何の考えもなしに駈け出したので、『酔いに乗じて』書いた手紙のことなどは、その時すっかり忘れてしまっていたかもしれません。『だが、杵を掴んで行ったじゃないか』と言われます。しかし、起訴者はたった一つの杵を基礎として、被告がこの杵を兇器と認め、兇器として掴んで行った理由を説明する大袈裟な心理解剖をつくり出されました。ところが、この際わたしの頭には、ごく平凡な一つの考えが浮んできます。というのは、もしこの杵が目につきやすい棚の上(被告はそこから持って行ったのです)などでなく、戸棚の中にでも片づけてあったとしたら、――その時は被告の目に映らなかったに相違ないから、被告は兇器を持たずに、空手で駈け出したことでしょう。そうすれば、誰も殺さなかったかもしれないのであります。してみると、私は持兇器謀殺罪の証拠とされているこの杵を、そもそもどう判断したらいいのでしょう?『それはそうだが、しかし以前、彼は到るところの酒場で、親父を殺してやると公言していたのに、二日前の晩、酔いに乗じて手紙を書いた時には、静かにおとなしくしていて、ただ酒場で一人の番頭と喧嘩しただけではないか』と、こう起訴者は抗言されるでしょう。『なにしろカラマーゾフだから、喧嘩をせずにはいられなかったのだ』と言われました。が、私はそれに対して、もし被告が計画どおり、すなわち手紙に書いたとおりに、父を殺そうと企らんだものとすれば、彼は確かに番頭とも喧嘩をしなかったろうし、また第一、酒場などへ入らなかったろう、と答えます。なぜなら、そういうことを企らんでいる人間は、静寂と孤独を求め、人の耳目にふれないように身を隠して、『できるだけ自分を忘れさせよう』とするからであります。それは打算というより、本能的にそうするのであります。陪審員諸君、心理は両面をもっていますから、われわれもそれを理解し得るのであります。またこの一カ月間、被告が到るところの酒場で吹聴したことにいたっては、よく子供などが言うのと同じようなものです。酔っぱらった遊び人が酒場から出て来て、喧嘩しながら、お互いに『ぶち殺すぞ』などと呶鳴るのは、珍しいことじゃありません。しかし、彼らは本当に殺しはしないじゃありませんか。だから、この不祥な手紙も、やはり酒の上の激昂ではないでしょうか、酔漢が酒場から出て来て、『殺してやる、手前たちをみんな殺してやる!』と叫ぶのと同じことではないでしょうか! なぜそうでないのでしょう? なぜそうあってはならないのでしょう? なぜこの手紙は不祥なものでしょう? なぜその反対に、滑稽なものと言えないのでしょう? それはほかでもありません、父親の死骸が発見されたからであります、兇器を持って庭から逃げて行く被告の姿を、一人の証人が見たからであります。またその証人自身が、被告から危害を加えられたからであります。それゆえ、すべてが書いたとおりに実行されたということとなり、その手紙は一笑に付しがたい、不祥なものとなった次第であります。おかげでわれわれは、『庭に入った以上、彼が殺したに違いない』という見解に達しました。この『入った以上』必ず殺したに『違いない』という、この二つの言葉の中に、起訴理由のすべてがつくされているのです。『入った以上、殺したに違いない。』しかし、たとえ『入った』にしても、それが殺したに『違いない』ということにならなかったら、どうでしょう? ああ、私は事実の累積と合致が、実際かなり雄弁であることに同意します。が、しかし、その事実を一つ一つ、累積とか合致とかいうことに拘泥しないで、別々に観察してごらんなさい。
「たとえば、起訴者は、被告が父親の窓のそばから逃げ出したと言う申し立てを、なぜ信じようとなさらないのですか? とつぜん犯人の心に生じた『敬虔な』感情や、うやうやしい態度に関して、先刻起訴者が皮肉さえ弄されたことを記憶して下さい。けれど、もし実際そうした感情が、――たとえ敬意でないまでも、一種の敬虔の念があったとしたら、どうします?『そのとき、母親が私のために祈ってくれたに相違ない』と被告は審問の時に申し立てております。こうして、彼は父親の家にスヴェートロヴァがいないことを確かめると、すぐ逃げ出したのであります。『しかし、窓ごしにそんなことが確かめられるものじゃない』と起訴者は反対されるでしょう。が、なぜ確かめられないのでしょう? 実際、被告の合図のよって、窓が開けられたではありませんか。その時フョードルが何とか言って声を立てたでしょう。そこにスヴェートロヴァのいないことを、被告に確信させるような言葉を、何か叫んだに相違ありません。なぜわれわれは自分の想像するように、想像したいと望むように、すべてを仮定しなければならないのでしょうか? 現実生活においては、最も周匝緻密な小説家の観察眼さえ逸し去るような事件が、無数に発生し得るものであります。『それはそうだ。しかし、グリゴーリイは、戸の開いているところを目撃したではないか。だから、被告は家の中に入ったはずだ。したがって、彼が下手人に相違ない』と言われる。陪審員諸君、ところで、この戸ですが……この戸が開いていたと証明するものは、ただ一人しかありません。しかも、その証人たるや、その時ああいう状態にあったのですから……しかし、かまいません、戸は開いていたとしましょう。被告が強情をはって、こうした場合ありがちな自衛心のために、嘘をついたとしましょう。かまいません、被告が家の中へ入り込んだとしましょう――が、一たいなぜ家へ入れば、必ず殺したということになるのでしょうか? 彼は暴れ込んで、部屋から部屋を駈け廻ったかもしれません。父親を突きのけたかもしれません。あるいは、殴りさえしたかもわかりません。しかし、スヴェートロヴァがいないことを確かめるやいなや、彼女のいなかったことを、したがって父を殺さずにすんだことを、喜んで逃げ出したのです。だからこそ、彼は一分間後に塀から飛びおりて、憤怒のあまり危害を加えたグリゴーリイのそばへ駈け寄ったのです。だからこそ、彼は潔白な感情、――同情と憐憫の情を起すことができたのです。つまり、父を殺そうという誘惑をまぬがれて、心ひそかに、潔白な感情と、罪を犯さないですんだ喜びを覚えたからであります。
「起訴者は、モークロエ村における被告の恐るべき地位を、恐ろしいほど雄弁に述べられました。すなわち、新しい恋が彼の前に展開されて、彼を新生活へさし招いているのに、彼の背後には血みどろになった父親の死骸があり、さらにその背後に刑罰が待っているために、恋は被告にとって不可能なものとなった、という次第でありますが、それでも起訴者はやはり彼の恋をみとめて、それを得意の心理解剖で説明されました。『酔っ払った時の状態や、犯人が刑場に引いて行かれる時、刑場の遠いことを頼みにしている心理作用』云々と言われました。しかし、私はまたお訊ねしますが、起訴者はまたここでも、別な人物を創造されたのではありますまいか? もし実際、父親の血を流したものとすれば、被告はその瞬間なお恋愛や、法官に対する欺瞞などを考えるほど、粗暴かつ残忍な人間でしょうか? いや、いや、決して、決してそうじゃありません! 彼は女が自分を愛のほうへさし招き、新しい幸福を約束していることを知ると同時に、――ああ、私は誓って言います、もし彼の背後に、父の死骸が横たわっていたとすれば、彼はそのとき自殺しようという要求を、二倍も三倍も強く感じたに相違ありません。そして、立派に自殺したことでありましょう。決して、決してピストルのありかを忘れたのではありません! 私は被告をよく知っています。起訴者によって誣いられた粗野な石のような無感覚は、彼の性格に一致するものではない。彼は自殺したに相違ありません、それは確かです。彼が自殺しなかったのは、『母親が彼のために祈ってくれた』からであり、したがって父の血に対して、罪がなかったからであります。彼はその夜モークロエで、老僕グリゴーリイに危害を加えたことばかり嘆き悲しんで、老人が正気づいて立ちあがるように、自分の加えた打撃が致命傷でないように、そして自分も刑罰を受けないですかようにと、心ひそかに神に祈っていたのであります。なぜ事件のこういう解釈が許されないのでしょう? われわれは、被告が嘘をついているということについて、どんな確かな証拠をもっているのでしょうか? 父親の死骸が証拠じゃないか、とすぐまた諸君は言われるでしょう。彼が殺さないで逃げ出したとすれば、その時はそもそも誰があの老人を殺したのだ? とこうおっしゃることでしょう。
「繰り返して言いますが、そこに起訴の論理か全部ふくまれているのであります。つまり、彼が殺したのでないとすれば、ぜんたい誰が殺したのか? 彼の代りにおくべきものがないではないか、とこういうのです。陪審員諸君、実際そうなのでしょうか? はたして彼のほかには嫌疑を受くべきものがないのでしょうか? 起訴者は当夜あの家に居合せたものや、出入りしたものを残らず数えて、結局、五人のものを挙げられました。そのうち三人には、まったく罪のきせようがないということには、私も同意します。それは殺された当人と、グリゴーリイ老人と、その妻とであります。そこで、あとに残るのは被告とスメルジャコフであります。ところが、起訴者の説によると、被告がスメルジャコフを挙げたのは、ほかに誰もさすべき人がないためである、もし彼以外に誰か六人目のものがあれば、少くとも六人目のものの影でもあれば、被告はスメルジャコフに罪をきせることを恥じて、すぐさまその六人目のものを挙げただろう、と起訴者は感激をこめて叫ばれました。しかし、陪審員諸君、一たいわたしはその正反対論を論結することができないでしょうか? ここに二人の人物、すなわち被告とスメルジャコフが立っています。ところが、私の立場から見て、あなた方が被告に罪をきせられるのは、ただほかに罪をきせるものが見あたらないためである、とこう言いきることができないでしょうか? ほかに罪をきせるものが見あたらないのは、あなた方が先入見によって、スメルジャコフをぜんぜん嫌疑の埒外へ取り除いてしまわれたからです。スメルジャコフを挙げるものは当の被告と、その二人の弟と、スヴェートロヴァだけであります。しかし、なおそのほか幾人か、スメルジャコフを挙げている人があります。それは社会における漠然たる疑念と、嫌疑の醗酵であります。何か漠とした噂が市中に聞えます、ある期待が感じられます。また最後に、幾つかの事実の対立も、それを証拠だてています。むろん、それは正直なところ、まだ判然としたものではありませんが、きわめて独得な性質をおびているのであります。第一、兇行の日に起った癲癇の発作ですが、起訴者はなぜかその発作の真実性を、しきりに弁護しようと苦心しておられます。次に、公判の前日、スメルジャコフが同じようにとつぜん自殺したことであります。またさらに、被告のすぐ次の弟がきょう法廷で、前二者に劣らないほど唐突に申し立てた証言であります。彼はそれまで兄の犯罪を信じていたのに、きょうとつぜん金まで提出して、これまたスメルジャコフの名を兇行者として挙げました。ああ、むろん私とても、イヴァン・カラマーゾフは譫妄狂にかかった病人で、彼の申し立てが、死者に罪を塗って兄を救おうとする絶望的な企て、――しかも、熱に浮かされながら考えついた企てかもしれないという、裁判官ならびに検事諸君の確信を分つものであります。しかし、またしてもスメルジャコフの名が挙げられたところに、そこに何か謎めいたあるものが感じられます。陪審員諸君、どうやらそこにはまだ十分説明されない、はっきり言いつくされないあるものが潜んでいるようです。それは不日、説明される時があるかもしれません。しかし、このことについてはいま深入りしますまい、これは後まわしにしましょう。
「で、先刻、裁判長閣下は評議を継続する旨を宣告されましたが、私はそれを待つ間に、ここでちょっと死んだスメルジャコフに加えられた性格批判について、一言しておこうと思います。起訴者の試みられたスメルジャコフ性格論は、実に精細をきわめたもので、なかなか優れた議論でありました。が、私は起訴者の天才に一驚を喫すると同時に、その批判の真髄にぜんぜん同意することができません。私はスメルジャコフを訪ねて、彼と会談してみました。しかし、彼が私に与えた印象はまったく別なものでした。彼が健康を害していたことは事実です。けれど、その性格、その感情にいたっては、――どうしてどうして、彼は決して起訴者の言われたような低能ではありません。ことに私は臆病な点、――起訴者があれほど明瞭に述べられた臆病さを、発見することができませんでした。また単純率直などという点は、寸毫もありませんでした。むしろ私は、率直の仮面に隠れている恐ろしい猜疑心と、鋭い智力を発見しました。ああ! 起訴者はあまりお手軽に、彼を単純な低能児としてしまわれましたが、私は彼から非常に強い印象を受けました。私は、彼が非常な毒念をもった、底の知れない野心家で、復讐心のさかんな、嫉妬心の強い人間である、という確信をいだいて帰りました。私は二三の情報を蒐集しましたが、彼はわれとわが出生を憎みかつ恥じていました。彼は常に歯ぎしりして、『リザヴェータ悪臭女《スメルジャーシチャヤ》の子だ』と言っていました。彼は幼年の頃の恩人たる、老僕グリゴーリイ夫婦さえ尊敬していませんでした。そして、ロシヤを呪い嘲って、フランスに帰化するために、パリヘ出かけようと空想しておりました。フランスへ行きたいけれど旅費がたりないと、彼は以前からよく言っていました。彼は自分以外の何ものをも愛していない上に、しかも不思議なほど自尊心が強かったように思われます。彼は立派な着物と、清潔なシャツと、てらてら光る靴を文明と心得ていました。彼は自分をフョードルの私生児と考えていたので(これには証拠があります)、正腹の息子たちと比較して自分の境遇を憎むということは、きわめてあり得る話であります。彼らは一切を有しているのに、自分は何一つもっていない、彼らはあらゆる権利を与えられて、遺産まで相続するが、自分はただ一個の料理人にすぎない、こう彼は考えたはずであります。彼は私に向って、フョードルが金を封筒に入れる手つだいをしたと言いました。彼はもちろんこの金の用途をいまいましく思ったに違いありません。これだけの金があれば、自分の新生活を始めるのに十分だからです。のみならず、彼はつやつやしい虹色の紙幣で三千ルーブリなどという大金を、生れて初めて見たのであります(私はとくにこのことを彼にただしてみました)。ああ、嫉妬ぶかい野心のさかんな人間に、決して大金を見せるものではありません。ところが、彼は初めてそのまとまった大金を見たのであります。虹色の紙幣束の印象は、すぐ結果に現われこそしなかったけれど、彼の想像に病的な反映をあたえたに相違ありません。
「慧敏なる起訴者は、スメルジャコフに殺人罪を擬するについて、あらゆる pro et contra([#割り注]賛成論と反対論[#割り注終わり])を精細に説きつくしたうえ、彼にとって癲癇のまねをする必要がどこにあるだろう、という疑問を提起されました。そうです、彼は決してそんなまねをしなくてよかったかもしれません。発作はまったく自然に起ったのかもしれません。しかし、発作はまたきわめて自然に経過して、病人はそのうちに正気づくかもしれません。よしすっかり快癒しないまでも、正気づいて意識を回復するかもしれません。これは癲癇にえてありがちなことであります。起訴者は、いつスメルジャコフに兇行を演じる隙があったか、と反問せられますが、しかしその時刻を示すのは、きわめて容易なわざであります。つまり、グリゴーリイ老人が、塀を越えて逃げようとする被告の足を捉えて、近所合壁に聞えるような大声で『親殺し!』と叫んだ瞬間に、彼はふと正気づいて、深い眠りからさめたかもしれません(なぜかと言えば、彼はただ眠っていただけだからです、癲癇の発作のあとには、いつも熟睡がともなうものです)。静かな暗闇の中で起ったこのただならぬ叫び声は、スメルジャコフの目をさましたに相違ありません。しかも、ちょうどその時、彼の眠りはさして深くなかったはずであります。もちろん、もう一時間も前から、目がさめかかっていたに相違ありません。で、彼は起きあがると、何の考えもなくほとんど無意識に、何事が起ったのだろうと、声のしたほうへ出て行ったのです。彼の頭は依然として、発作のためにぼんやりしていて、思考力はまだ仮睡状態にありましたが、彼は庭へ出て、燈火のもれる窓のほうへ近づきました。主人はむろん、彼が来たのを喜んで、恐ろしい出来事を告げました。と、彼の頭の中には、たちまちある考えが燃えあがったのです。彼は驚きうろたえている老人から、詳しい事情を聞きました。その時、彼の混乱して病的になった頭脳には、次第にある考えが形づくられてきました、――それは恐ろしい考えではあるが、きわめて誘惑に充ちた、しかもどこまでも理論的なものでした。つまり、主人を殺して三千ルーブリの金を奪い、その罪を若主人に塗りつけてしまおうというのです。この場合、若主人以外だれにも嫌疑をかけるものがない、若主人以外だれにも罪をきせるものがない、現に彼はここへ来たのだ、立派な証拠がある、とこう考えたのであります。その点で安心するとともに、金という獲物に対する恐ろしい欲望が彼の心をとらえたのは、あり得べきことなのであります。ああ、こうした思いがけない避けがたい衝動は、機会さえあればいつでも起るものです。しかも、何より恐ろしいことには、一分間まえまで人を殺そうなどとは思いもかけなかったものの頭に、とつぜん浮んでくるのであります! で、スメルジャコフもそうした衝動に支配されて、主人の部屋へ入って行き、その計画を実行したに相違ありません。では、どういう兇器を用いたか? 何も問題にするまでもない、まず目に映った、庭の石ころでも殺せるではありませんか。だが、何のために、どういう目的で、そんなことをしたか? ほかでもない、三千ルーブリという金は、彼の新生活を始めるのに十分だからです。いや、私は自家撞着をしてはいません、金はあったかもしれません。そしてスメルジャコフだけが、そのありかを知っていたのかもしれません。すなわち、主人がその金をどこにおいているかを、彼一人だけが知っていたのであります。『だが、金の入っていた封筒は? 床の上に破り棄ててあった封筒は?』こういう問いが起るかもしれません。先刻、起訴者はこの封筒について、きわめて精緻な説を述べられました。すなわち、床の上に封筒を棄てて行くのは非常習的盗賊で、カラマーゾフのような人間のやりそうなことである。決してスメルジャコフではない、彼ならばこんな犯罪の証拠品を棄てて行きはしない、とこう言われました。陪審員諸君、先刻この説をうけたまわっている時、私はとつぜん、自分に覚えのあることを、もう一ど聞かされているような気がしました。ところが、どうでしょう、カラマーゾフのしそうな封筒の処置に関するこの議論と推測を、私はちょうど二日前にスメルジャコフ自身の口から聞いたのであります。そのうえ私を驚かしたのは、彼が、わざと無邪気を装ってさき廻りしながら、私にその考えを吹き込もうとするように思われたことであります。彼は私にこの判断を採用させようと、助言するようなあんばいでした。予審の時にも、彼はそれを暗示したのではないでしょうか? 聡明、慧敏な起訴者も、やはりその考えを吹き込まれたのではないでしょうか? では、グリゴーリイの年とった妻はどうだ、とこうおっしゃるでしょう。彼女はそばで夜どおし病人が唸っているのを聞いたと言います。なるほど、聞いたでしょう。しかし、それはきわめて曖昧な申し立てであります。かつて私はある婦人が、外で犬が吠えていたために、夜どおし眠ることができなかった、とこぼすのを聞きましたが、しかしあとで聞けば、その犬は一晩のうちに、二三ど吠えたにすぎないとのことでした。それは、きわめてありそうなことです。もし人が眠っている時に、とつぜん唸り声を聞いたとしましょう。彼は目をさまして、安眠を妨げられたのをいまいましく思いますが、またすぐ寝入ってしまいます。二時間もたった頃、また唸り声が聞えて、また目をさまし、また寝入る。と、最後にまた二時間もたってから、また唸り声に目をさまされます。こうして、一夜のうちに三ど目をさましたとしましょう。朝になると、その人は、誰か夜どおし唸っていたので、のべつ目をさまさせられた、と言ってこぼすのであります。しかし、その人は、二時間ずつ眠っていた間のことは少しも知らないで、目をさました一分間だけ覚えているから、それで夜じゅうのべつ起されたような気がするのは、当然な次第であります。しかし、起訴者は、それならなぜスメルジャコフは、遺書の中で白状しなかったか、と声を励まして訊かれました。『一方には良心の呵責を感じながら、いま一方にはそれを感じなかったのだろうか?』と言われました。けれど、失礼ですが、良心の呵責はすでに悔恨を意味していますが、自殺者が必ずしも悔恨に責められたものとは断ぜられません、ただ絶望のために自殺したにすぎません。絶望と悔恨、――この二つはまったく異ったものであります。絶望は時に憎悪に充ちていて、絶対に妥協を許さない場合があります。で、自殺者は自分で自分に手を下そうとする瞬間、一生怨んでいたものに対する憎悪を、一倍つよく感じたかもしれません。
陪審員諸君、裁判上の誤りを警戒していただきたいものです! いま私が申し述べたことに、はたして本当らしくない点があるでしょうか? どうか、私の述べた言葉の中に誤りを見いだして下さい。不可能、不合理を発見して下さい。もし私の仮定の中にほんのわずかな可能性の影、真実らしい影でもあったら、どうか宣告を見合せて下さい。が、はたしてただの影にすぎないでしょうか? 私は誓って申します、いま諸君に申し述べた殺人に関する自分の説明を、私は固く信じているのであります。ことに、私が腹立たしく遺憾に思うのは、被告の断罪の基礎となっている、山のごとく累積した多くの事実のうち、いくぶんたりとも確実で、反証を許さぬようなものは一つとしてないにもかかわらず、ただただこれらの事実が堆積したというだけの理由によって、不幸なる被告が破滅に瀕していることであります。そうです、この堆積は恐るべきものであります。この血、――指から流れ落ちるこの血、血みどろになった服、『親殺し!』という叫び声に静寂を破られたあの暗夜、頭を割られて倒れた叫び声の主、それから、また多くの言葉と身ぶりと怒号、――ああ、それらすべては非常な力をもっていて、人々の信念を買収するに十分です。しかし、陪審員諸君、それらははたしてよく諸君の信念をも買収することができましょうか? どうか記憶して下さい、諸君には無限の決定権が与えられています。しかし、権利が強大であればあるだけ、その行使はますます恐るべきものとなります! 私は自分の言ったことを一言たりとも撤回しませんが、かりに、――もしかりに一歩を譲って、不幸なる被告が父の血に手を染めたという起訴者のお説に同意するとしましょう。しかし、これはただほんの仮定にすぎないのであって、繰り返して言いますが、私は一瞬間も彼の潔白を疑いません。しかし、今かりにわが被告が親殺しの罪を犯したと仮定しましょう。けれど、私がそういう仮定を許した以上、ぜひ一こと聞いていただきたいことがあります。私は諸君にある一つのことを言わなければ心がすみません。なぜなら、私は諸君の感情と理性の中に、大なる争闘を予感するからであります……陪審員諸君。諸君の感情と理性にまで立ち入った私の言葉をおゆるし下さい。けれど、私はどこまでも誠実で正直でありたいと思います。われわれはお互いに誠意を持とうではありませんか!」
 この時かなり盛んな拍手が起って、弁護士の言葉を中断した。実際、彼はこの最後の言葉を誠意のこもった語調で言ったので、一同は、実際かれが何か言い分をもっているのかもしれない、そして今かれが言おうとしていることは、非常に重大な事柄であるかもしれない、というふうに感じたのである。しかし、裁判長はこの拍手を聞くや、もしふたたび『かような場合が』繰り返されるなら、傍聴者一同に『退廷を命じる』と声高に宣言した。あたりはたちまちしんとしてしまった。フェチュコーヴィッチは今までとはまるっきり違った、一種の新しい、感情に満ちた語調で弁じはじめた。

[#3字下げ]第十三 思想の姦通者[#「第十三 思想の姦通者」は中見出し]

「ただ山積された事実のみが、わが被告を滅ぼすものではありません、陪審員諸君」と、彼は声を高めた。「そうです、本当にわが被告を滅ぼすものは、ただ一つの事実なのであります、――それは父親なる老人の死骸であります! これが普通の殺人罪であってごらんなさい、諸君はすべての証拠を集合体としてでなく、一つ一つ取り離して吟味してみたすえ、それらが取るにたりない不完全な、空想的性質をおびているのを発見して、起訴を却下せられることでありましょう。少くとも、単なる先入見によって、一個の人間の運命を滅ぼすことを躊躇されるでしょう。まったく悲しいかな、被告はそういう先入見をいだかれても、仕方のないような人間なのであります。しかるに、これは普通の殺人でなく親殺しなのです! これは実に重大なことで、それがため、こうした取るにたらぬ不完全な証拠も、取るに足らぬ不完全なものでなくなったわけです。しかも、そのうえ、きわめて多くの先入見が、そこに存しているのであります。こういう被告を、どうして無罪にすることができよう? どうして親を殺したものが罰を受けないですもうぞ、――すべての人が心の中で、知らず識らず、本能的に感じているのであります。そうです。父親の血を流すということは、恐るべきことであります、――それは自分を生んだものの血です、自分を愛するものの血です。自分のために命を惜しまないものの血です。子供の時から自分の病気に悩み、自分の幸福のために一生苦しみ通し、ただ自分の喜びと成功のみに生きていたものの血であります! ああ、そういう父親を殺すということは、――それは考えるにたえないことであります! 陪審員諸君、父親とは何でしょう、真の父親とは何でしょう? これは何たる偉大な言葉であるか? この名称には何たる恐ろしい、大きな観念がふくまれていることか? 私はいま、真の父親とはいかなるものであり、いかなる責任を有するものか、ということをいくぶん述べました。が、この場合、――われわれがいま処理しようと頭を悩ましているこの事件において、死んだフョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフは、いま私が挙げたような父親の概念に、全然あてはまらないのであります。それは不幸です。そして、実際こうした不幸な父親も、世間にないことはないのであります。で、われわれはこの不幸をもっと接近して観察してみましょう、――陪審員諸君、眼前の決定の重大さを考えて、恐れる必要は毫もありません。さきほど慧敏なる起訴者が述べられた巧みな言葉を借りて言えば、子供や臆病な女のように、ある種の思想をとくに恐れて、それを振り払うようなことをする必要はありません。ところで、私の尊敬する反対者は、その熱烈な論告において(それは私が最初の一言を発する前のことでありました)、幾度もこう叫ばれました。『いや、自分は誰にも被告の弁護を譲らない、自分は彼を弁護する点において、ペテルブルグから来た弁護人にも負けないつもりである、――自分は起訴者であると同時に、弁護人でもある!』こう起訴者は幾度も宣言されましたが、もしこの恐ろしい被告が、まだ幼児として親の家にいる頃、ただ一人の人に愛されて一フントの胡桃をもらったために、二十三年間もその恩義を忘れずにいたとするならば、その反対にかくのごとき人間は、博愛なる医師ヘルツェンシュトゥベ氏のいわゆる『靴もはかずに、たった一つしかボタンのつかぬズボンを着けて父の裏庭を』駈け廻っていたことをも、この二十三年間わすれずにいられないはずです。それを起訴者は言い落していられるようであります。
「ああ、陪審員諸君、なぜ私はこの『不幸』を、もっと接近して観察する必要があるのでしょう? すでに誰でも知っていることを、なぜ繰り返す必要があるのでしょう? わが被告はこの父親のもとへ来て、どういうことを目撃したのでしょうか? 一たいなぜ、どういうわけで、わが被告を無感覚なエゴイスト、怪物として描きだす必要があるのか? なるほど、彼は放縦です、粗野で乱暴です。この点われわれは彼を責めなければなりません。が、彼の運命に対して責任を有するものは誰であるか? 彼が立派な心的傾向と、恩義を重んずる感情をもっているにもかかわらず、あのようなばかばかしい教育を受けたということは、そもそも誰の責任であるか? 彼は誰かに正しい道を教えてもらったか? 学問によって開発されたか? 少年の時分に誰か少しでも彼を愛したものがあるか? 私の被弁護者はただただ神の庇護の下に、すなわちまったく野獣のように成長したのであります。彼は長い別離の後、父親に会うことを渇望していたかもしれません。彼はその前に、自分の幼年時代を夢のように思い出しては、その時代に見た忌わしい幻影を払い去ろうと努め、自分の父親をいいほうに解釈して、へだてなく抱擁しようと、心の底から望んでいたかもしれません。ところが、どうでしょう? 彼を迎えたものは皮肉な嘲笑と、猜疑と、金銭問題から生じた詭計だけでした。彼は毎日、胸の悪くなるような酒の上の雑談や、卑俗な処世訓を聞き、最後に自分の息子の金で、息子の恋人を奪おうとする父親を見たのであります、――ああ、陪審員諸君、これは実に忌わしい残酷なことではありませんか! しかるに、この老人は、かえって息子の不遜と残酷を衆人に訴え、世間へ悪しざまに吹聴して、妨害、中傷を試みたばかりか、息子の借金証文を買い集めて、彼を牢獄に投じようとしたのであります。陪審員諸君、私の被弁護者のように、一見残酷で乱暴なむこう見ずの人間は、世間にその例の珍しくないように、きわめて優しい心を持っているものですが、ただそれを、外に現わさないだけなのであります。笑わないで下さい、どうか私の考えを笑わないで下さい! 慧敏な起訴者は、先刻私の被弁護者がシルレルを愛していること、『美しいもの高尚なもの』を愛していることを引き合いに出して、無慈悲に嘲笑されました。私がもし起訴者の立場にいたならば、決してそれを嘲りはしなかったでしょう。そうです、こうした性情は、――ああ、あまりに誤解されやすいこうした性情を、私はどこまでも弁護します、――こうした性情はしじゅう優しいもの、美しいもの、真実なものに餓えているのであります。いわば、自分の粗暴で、残忍な性質のコントラストとして、――そうした性情は無意識にこれらのものに餓えている、まったく餓えきっているのであります。情熱的で表面粗暴に見える彼らは、一たん何ものか、例えば女などを愛する段になると、すぐもの狂おしいほど熱中してしまいますが、しかもその愛は必ず精神的な高尚なものであります。またどうか笑わないで下さい。それはこういう性質にしばしばありがちなのであります。そうした人間はとうていその情熱を、時とするときわめて粗野な情熱を、隠すことができません、――これが人の目を聳動さすので、人はその点のみを認めて、その人間を見ないのであります。ところが、彼らの情熱はすぐ燃えきってしまうけれど、見たところいかにも粗剛に思われるこれらの人間は、高潔な美しい対象物によって自己革新を求めます。悔い改めて立派なものとなり、潔白な高貴な人間になる可能を求めるのであります、――何と嘲笑されてもかまいません、とにかく『高尚なもの』、立派なものになろうとするのであります!
「先刻、私は被告とカチェリーナとの恋物語には、あえて手をふれないと言いました! が、一ことくらい言ってもさしつかえなかろうと思います。われわれが先刻耳にしたもの、あれは申し立てではなくて、復讐心に燃えている女のもの狂おしい叫びでしかありません。彼女には、そうです、彼女には被告の変心を責める資格はありません。なぜなら、彼女はみずから変心したからであります。もし彼女が少しでも熟考する余裕をもっていたら、決してあんな申し立てをしなかったでありましょう! ああ、彼女の言葉を信じないで下さい。私の被弁護者は、彼女の言ったような『極道者』ではありません! かの磔刑に処せられた偉大なる博愛家は、十字架の死を覚悟しながら『われは善き牧者なり。善き牧者はその羊のためにおのが魂を棄つ。そは一の魂も滅びざらんがためなり』と申されました。われわれもまた一個の人間の魂をも滅ぼしてはなりません!
「私は今、父親とは何を意味するかと訊いて、それは偉大なる言葉である、貴重なる名称であると叫びました。しかし、陪審員諸君、言葉というものは公正に取り扱わなければなりません。私はあえて事物を正当な名前をもって露骨に呼ぶものです。殺されたカラマーゾフ老人のような父親は、父親と呼ばるべきものでもないし、またそう呼ばれる資格をも持っていません。父親と呼ばれる資格のない父親に対する愛は、愚かでもあり不可能でもあります。愛は無から造り得るものではありません。無から造り得るものは、ひとり神あるのみです。『父たるものよ、その子を悲しますことなかれ!』愛に燃えたつ心から、ある使徒はこう書いています。私が今この聖なる言葉を引いたのは、自分の被弁護者のためではありません。すべての父なるもののために述べたのであります。では、父なる人々を教える権利を、誰が私に授けたか? 誰から授けられたのでもありません。しかし、人間として、公民として vivos voco([#割り注]言葉よ、栄えあれ![#割り注終わり])と揚言します。われわれはこの地上にさして長くも住まないのに、多くの悪行をなし、多くの悪言を吐きます。それゆえ、われわれはみんな一堂に会した機会を利用して、互いによき言葉を吐くために、好適な瞬間を捉えようではありませんか。私とてもそうです。私はこの席で自分の機会を利用するのです。至尊の意志によって、われわれに与えられたこの演壇は、決して無意味に存在するのではありません、――全ロシヤがこの法廷におけるわれわれの声を聞いています。私は単に当法廷に集った父親たる人々のために言うのではなく、すべての父なる人々にむかって叫ぶのであります。『父たるものよ、その子を悲しますことなかれ!』と。そうです、われわれはまずキリストの言葉を実行して、しかる後はじめて、子の義務を問うことができるのであります! でなければ、われわれは父ではなくして、むしろわが子の敵であります。また子は子でなくして、われわれの敵なのであります。しかも、われわれみずから彼らを敵としたのであります!『なんじが人を量るごとくおのれも量らるべし。』――これは私の言葉ではなく、聖書の教えるところであって、つまり人を量らばおのれも人に量られるというのであります。ですから、もし子がわれわれに量られたとおりにわれわれを量ったとしたら、どうして子を責めることができましょう?
「近ごろフィンランドで起った事件ですが、ある一人の女中が、秘密に子供を生んだという嫌疑を受けて取り調べられたところ、屋根裏の片隅の煉瓦の陰から、その女中の箱が発見されました。この箱のことは誰ひとり知らずにいたのでありますが、開けてみるとその中から、彼女のために殺された、生れたばかりの嬰児の死骸が出て来ました。なおその箱の中からは、以前彼女が生んで、生れると同時に殺した(これは彼女の自白したところであります)嬰児の骸骨が二つも発見されました。陪審員諸君、これがはたしてその子供たちの母親でしょうか! そうです、彼女はその子供たちを生んだに違いない。けれども、はたして彼女はその子たちにとって母親でしょうか? 母親という神聖な名前を彼女にあたえる勇気をもったものが、われわれの中に誰かあるでしょうか? われわれは大胆になりましょう、陪審員諸君、われわれはさらに無遠慮になりましょう。むしろ今日われわれはそうすべき義務があります。『金属《メダル》』とか『硫黄《ジューペル》』とかいう言葉を恐れていたモスクワの商人の妻([#割り注]オストロフスキイ戯曲中の人物[#割り注終わり])のように、ある種の言葉や観念を恐れてはなりません。いや、むしろ近年の進歩がわれわれにもふれたことを証明するために、生んだだけのものはまだ父ではない、子供を生んで、子供に対する責任をはたしたものこそ父である、とこう直言いたしましょう。むろん、父という言葉には他の意味も、他の解釈もありまして、自分の父はたとえ極道者であっても、子供たちに対する悪漢であっても、自分を生んだ以上やはり父である、とこう主張するものもあります。しかし、これはいわば神秘的父親観とも名づくべきもので、理性では承認することができません。これは、ただ信仰によって承認し得るのみです。いや、もっと正確に言いますと、信仰を頼んで[#「信仰を頼んで」に傍点]受け容れ得るのであります。そうした例はほかにもたくさんありまして、理性で承認することはできませんが、宗教がそれを信ずるように命令します。しかし、そうしてみると、それは実際生活の範囲外に存するのです。実際生活の範囲においては、ただにそれみずから権利を有するのみならず、さらに大なる義務を課するところの実際生活の範囲においては、われわれがもし博愛家であり、進んでキリスト教徒たらんと欲するならば、われわれは理性と経験とによって是とせられ、解剖の熔炉をくぐってきた信念を、実行しなければなりません。一言にしてつくせば、理性的に行動しなければなりません。夢の中や妄想の中で盲動するようなことをしてはなりません。それはつまり、人間に害毒をもたらさないためです。人間を苦しめたり滅ぼしたりしないためです。さすれば、その時こそ初めて、本当のキリスト教徒の行動となります。神秘的ではなく、真に博愛的な理性的行為となるのであります……」
 このとき法廷のすみずみから激しい拍手が起ったが、フェチュコーヴィッチは自分の弁論を中断せずに、終りまでつづけさせてもらいたいと懇願するもののように両手を振った。と、満場はすぐにしんとしてしまった。弁護士は語りつづけた。
陪審員諸君、諸君はこれらの問題がわれわれの子供、――といっても、一かどの青年となって、すでに是非の判断をするようになった子供にとって、没交渉であり得るとお考えですか? いや、没交渉ではあり得ません。われわれは彼に不可能な謙譲をしいることはできません! 親としての価のない父の態度は、ことに自分の友達である他の子供の、親らしい親と比較する場合、知らず識らず青年の心に悩ましい疑問を呼びさまします。ところで、彼がこの疑問に対して受ける答えは、きまりきった紋切り型で、『お父さんはお前が生んだのだ。お前はお父さんの骨肉なのだ。だから、お前はお父さんを愛さなくてはならない』というのであります。『しかし、父はおれを生もうとする時に、おれを愛していたろうか?』と青年は心にもなく、かような疑念を発します。そして、彼はますます驚きながら、『一たい父がおれを生んだのはおれのためだろうか? 父親はその瞬間に、――おそらく酒にでも刺戟されて、情欲をおこしたその瞬間、おれのことなど考えてはいなかったんだ、おれが男か女かさえも知らなかったんだ。ただおれに飲酒癖を遺伝したくらいなもので、これが父のおれにあたえた恩恵の全部だ……父がおれを生んで、一生涯おれを愛さなかったからって、なぜおれは父を愛さなければならないのか?』と青年はこう思わざるを得ません。ああ、諸君はこの疑問をさだめし残酷な、無作法なものと思われることでしょう。けれど、未熟な青年に、不可能な謙譲をお求めになってはいけません。『天性を戸口から追い出せば、今度は窓から飛んでくる』とあるとおりです、――ことに、何よりもわれわれは『金属《メダル》』や『硫黄《ジューペル》』を恐れてはなりません。われわれは神秘的概念の命ずるところでなく、理性と博愛心の命にしたがって、問題を解決しましょう。では、いかに解決すべきでしょうか? それはこうするのです。息子を父親の前に立たせて、理路整然と質問させるのであります。『お父さん、どうか聞かせて下さい、なぜ私はあなたを愛さなければならないのでしょう? お父さん、どうか証明して下さい。なぜ私はあなたを愛さなければならないのでしょう?』こういうふうにして、もしその父親が息子の問いに答えて、立派に証明することができれば、これは神秘的偏見にのみ支持せられない、理性的な自意識にもとづく、厳密な意味における博愛的基礎の上に建てられた、本当の家庭であります。しかしながら、もし父親がそれを証明し得ない時は、この家庭はただちに破綻をきたします。父親は息子にとって父親ではありません。息子のほうでは将来、自分の父親を他人とし、また自分の敵とさえ見なす自由と権利とを得るのです。陪審員諸君、わが法廷は真理と健全なる思想の学校でなければなりません!」
 このとき弁護士は抑えることのできない、ほとんど狂熱的な拍手によって弁論を遮られた。むろん、傍聴者の全部ではなかったが、その半数は確かに拍手した。父親であり母親である人人も拍手した。上の方の婦人席からは、甲高い叫び声が聞えた。ハンカチを振るものもあった。裁判長はやっきとなってベルを鳴らしはじめた。彼は傍聴者の行為に激昂したらしかったが、しかしさっき嚇したように、『退廷』を命ずるとは、さすがに言い得なかった。それはうしろの特別席に腰をかけていた大官連や、燕尾服に勲章をおびた老人たちまでが、拍手したりハンカチを振ったりしたからである。それでようやく騒ぎが鎮まった時、裁判長は例の『退廷を命ず』という、以前の厳しい威嚇を繰り返したにすぎなかった。フェチュコーヴィッチは勝ちに乗じて、また興奮のていで弁論をつづけていった。
陪審員諸君、諸君は息子が塀を乗り越えて、父親の家へ闖入し、ついに自分を生んだ仇敵であり、凌辱者であるところの人間と相面して立った、あの恐るべき夜を記憶しておられるでしょう。その時のことは、今日もたびたびここで述べられたのであります。で、私は極力主張しますが、――そのとき彼が闖入したのは、決して金のためではありません。先刻も申したとおり、彼を強奪の罪に問うことは、愚もまたはなはだしいことであります。また彼が父の家へ忍び込んだのは、殺害せんがためではありません、決してそんなことはありません。もし彼が前もって、そういう企らみをもっていたとすれば、少くとも兇器だけくらい前に用意しておくはずです。銅の杵なんかは自分でも何のためとも知らず、ただ本能的に持って行っただけであります。また彼は合図で父をだましたとしましょう、父親の部屋へ闖入したとしましょう、――私はすでに、そういう伝説をこれからさきも信じないと申しましたが、しかしまあ、仕方がありません、ただ一分間だけ、そうであったと仮定しましょう! 陪審員諸君、私はすべての神聖なものに誓って言いますが、もしフョードルが被告にとって父親でなく、赤の他人の凌辱者にすぎなかったら、被告は部屋部屋を駈け廻って、この家に女のいないことを見さだめると、おのれの競争者には何の危害をも加えることなく、すぐ逃げ去ったに相違ありません。あるいはちょっとぐらい殴ったり、突き飛ばしたりしたかもしれませんが、ただそれだけのことです。なぜなら、被告はその場合、そんなものにかまっている余裕がなかったからであります、女の居どころを突き止めなければならなかったからであります。しかし、それは父親でした、しかも平生から常に父親の仮面を被った敵であり、子供の時から忌み嫌っていた凌辱者でありましたが、今はその上に奇怪きわまる競争者なのではありませんか! で、憎悪の念がわれ知らずむらむらと湧き起って、彼の分別をかき乱しました。ありとあらゆる感情が一時に込み上げてきました! これは狂気と錯乱の衝動《アフェクト》ですが、同時に永遠の法則に対して復讐しようとする、抑えがたい無意識な自然の衝動だったのであります。自然界においては、すべてがそうなのであります。しかし、兇行者はその場でもなお殺害しませんでした、――私はこれを主張します、私はこのことを絶叫します、――そうです、彼はただ忌わしい憤怒に駆られて、杵を一振り振っただけです。殺害しようという意志もなければ、また殺害したことにも気づかなかったのであります。で、もしこの恐ろしい杵さえ彼の手になかったならば、彼はただ父を殴打しただけで、殺害はしなかったでしょう。で、彼は逃走する際、自分が危害を加えた老人が、死んでいることを知らなかったのであります。こうした殺人は殺人になりません。こうした殺人は親殺しにもなりません。そうです、あんな父親を殺したことは、親殺しと名づけられるべきでありません。こうした殺人は、ただ一種の偏見によってのみ、親殺しと名づけ得るものであります! しかし、この殺人は実際あったのでしょうか、まさしく行われたのでしょうか? 私は改めて心の底から諸君に訴えます!
陪審員諸君、もしわれわれが彼を有罪として処刑したら、彼は自分自身に向って、こう言うでしょう。『この人たちはおれの運命のために、おれの教育のために、おれの開発のために何一つしてくれなかった。おれをより善くもしなければ、また一個の人間にもしてくれなかった。この人たちはおれに食わせもしなければ、飲ませもしなかった。裸一貫で牢に繋がれているおれを見舞いもしなかった。そして、とうとうおれを懲役に送ることにした。おれはこれで勘定をすましたから、もう今では彼らに少しも負うところがない、永久に何人にも負うところはない。彼らも悪人なら、おれも悪人になってやろう。彼らも残酷なら、おれも残酷になってやろう。』陪審員諸君、彼はおそらくこう言うでしょう! 私は誓って申しますが、諸君の宣告される刑罰は、ただ被告の苦しみを軽減するだけです、被告の良心を軽減するにすぎません。被告は自分の流した血を呪ったり、それを悲しんだりしないようになるでしょう。同時に、諸君は被告の内部にひそんでいる、真人間となる可能性を滅ぼしてしまわれるのであります。なぜなら、彼は邪悪な盲目な人間として、生涯を過すからであります。けれど、諸君が想像もおよばぬほど、恐ろしい刑罰を被告に下そうとされるのは、それによって彼の魂を永久に救いよみがえらせるためなのでしょうか? もしそうだとすれば、どうか偉大な慈悲をもって彼を圧倒して下さい! しからば、諸君は被告の魂がいかに慄え、おののくかをごらんになるでしょう。どうして自分はこの慈悲にたえられよう、はたして自分はこれほどの愛を受けようとしているのか、自分はこの愛に価するものであろうか、こういう被告の魂の叫びをお聞きになるでしょう! ああ、私は知っています。私はこの心を知っています。陪審員諸君、乱暴ではあるけれど、高潔なこの心を知っています。この心は諸君の慈悲の前に跪拝するでしょう。この心は偉大なる愛の働きに渇しています。この心は新しく燃え立って、永久によみがえるでしょう。世には自己の眼界の限られているところから、世間を憎んでいる魂があります。けれども、この魂に慈悲を加えてごらんなさい。愛を示してごらんなさい、たちまちこの魂はおのれの過去を呪います。なぜなら、この魂の中には多分に善良な萌芽がひそんでいるからであります。かような魂はひろがり、成長して、神の慈悲ぶかいこと、人々の善良公平なことを見知るでしょう。彼は悔悟の念と目前に現われた無数の義務とに、慄然として圧倒されるでしょう。その時こそ、もう『おれは勘定をすました』などと言わずに、『おれはすべての人々に対して罪がある。おれはいかなる人々よりも無価値なものだ』と言うでしょう。彼は燃えるような苦行者の悔恨と、感激の涙を流しながら、『世間の人はおれよりも善良だ。彼らはおれを滅ぼそうとせず、かえって救ってくれたではないか』と叫ぶでしょう。ああ、諸君は容易にこれを、この慈悲の作用を行うことができるのであります。なぜなら、いくぶんたりとも真実らしい証拠が一つとして存在しないのに、『しかり、罪あり』と宣告するのは、あまりに苦しいことだからであります。一人の罪なきものを罰するよりは、むしろ十人の罪あるものを赦せ、――前世紀の光栄あるわが国の歴史が発したこの偉大な声を、諸君は聞いておられるでしょう? いまさら不肖な私が諸君に向って、ロシヤの裁判は単なる刑罰ではなくして、滅びたる人間の救済であるなどと、告げるまでもないことであります! もし他国民に固定せる文字と刑罰とがあるとすれば、われわれには精神と意義、滅びたるものの救済と復活とがあります。もしこれが真実であるとすれば、もしロシヤとロシヤの裁判がはたしてかようなものであるとすれば、――ロシヤには洋々たる未来があります。われわれは驚きません、われわれは、すべての国民が忌み嫌って回避する、暴れ狂うトロイカにも驚きません! 暴れ狂うトロイカではなくして、偉大なるロシヤの戦車が、堂々と勇ましく目的地に進んで行くのであります。わが被弁護者の運命は諸君の掌中にあります。わがロシヤの正義の運合も諸君の掌中にあります。諸君はそれをお救いになるでしょう。諸君はそれをお守りになるでしょう。諸君は正義を守護する人の存在すること、正義が善良な人の掌中にあることを立証なさるでしょう!」

[#3字下げ]第十四 百姓どもが我を通した[#「第十四 百姓どもが我を通した」は中見出し]

 こう言ってフェチュコーヴィッチはその弁論を終った。もう今度こそは、嵐のような傍聴者の感激を押えることができなかった。制止しようなどとは思いもよらないことであった。女たちは泣いた。男子席でも泣くものが多かった。大官連さえ二人まで涙を流していた。裁判長も諦めて、ベルを鳴らすのを躊躇した。『ああした感激を阻止するのは、とりも直さず神聖な感情に冒涜を加えることですわ』とは、あとで当地の婦人たちが叫んだところである。当の弁護士は心底から感動していた。こうしたおりに、わがイッポリートはまたもや立ちあがって『反駁を試みよう』としたのである。人々は憎悪の目をもって彼を見やった。『何ですって? どうしようというんですの? あの人はまた反駁しようってんですの?』と婦人たちは囁いた。けれども、たとえ彼自身の細君をもふくんだ世界じゅうの婦人連が反対しても、この際イッポリートを止めることは不可能であった。彼は顔を真っ蒼にして、興奮のためにぶるぶる慄えていた。彼が発した最初の言葉や最初の句は、意味さえわからないほどであった。彼は息をはずませながら、しどろもどろに不明瞭な発音で弁じたが、しかし、ほどなく落ちつきを回復した。筆者《わたし》は彼の第二の論告の中から、ただ幾つかの語句をあげるにとどめておく。
「……私は小説を作ったといって非難を受けました。しかし、弁護士の弁論は、小説の上に小説を築いたものでなくて何でしょう? ただ詩の句が出て来なかったばかりです。フョードルが恋人を待っている間に封筒を破って、床の上に投げ棄てたなどと言いだしたばかりか、なおその上に、フョードルがこの驚くべき行為の間に言ったことまで引証されました。これがはたして詩ではないでしょうか? 彼が金を出したという証拠が一たいどこにあります? そのとき彼の言った言葉など、一たい誰が聞いたのです? 遅鈍な低能児のスメルジャコフは、自分が私生児であるために社会に復讐するといったような、一種のバイロン式主人公に変えられています、一たいこれがバイロン趣味の劇詩でないでしょうか? もしそれ、父の家に忍び込んだ息子が、父を殺しはしたけれど、また同時に殺したのではないというにいたっては、すでに小説でもなければ劇詩でもなく、みずから解決のできない謎を提出するスフィンクスであります。もし彼が殺したとすれば、やはり殺したのです。殺したけれども殺したのではないとは、一たい何事です、――誰にこれが理解されるでしょう? 次にわれわれは、わが法廷は真理と健全なる思想の法廷である、というようなことを聞かされました。ところが、この『健全なる思想』の法廷から、父を殺すことを親殺しと名づけるのは、一種の偏見にすぎないという荘厳な宣言が、原則として響き渡りました! けれども、もし親殺しが偏見であって、一人一人の子供が自分の父親に向って、『お父さん、なぜ私はあなたを愛さなければならないのですか?』と訊くようになったら、われわれははたしてどうなるでしょう? 社会の基礎はどうなるでしょう? 家庭はどうなってゆくことでしょう? 親殺し、これがモスクワの商人の妻の『硫黄《ジューペル》』にすぎなかったら、将来、ロシヤ法廷の最も尊貴な、最も神聖なる伝統は、単に一個の目的を達するために、すなわち赦すべからざるものを赦すために、破壊され、無視されてしまいます。ああ、被告を大慈悲によって圧倒せよ、と弁護士は絶叫されました、――が、これこそまさに犯人の必要とするところであって、明日になれば、被告がいかに圧倒されるかわかるでしょう。それに、弁護士がただ被告の無罪のみを主張されるのは、あまり謙遜すぎはしないでしょうか? なぜ子孫を初めとして新時代の人々へ、永久に親殺しの功績を残すために、親殺し補助金制度の創設を要求されないのでしょうか? 弁護士は聖書と宗教とを訂正して、それらをすべて神秘主義と見なし、健全なる思想と理知の解剖によって確証された真正のキリスト教は、ただ我らの手中にのみあると言われました。こうして、われわれの前にキリストの贋物をおこうとするのであります!『なんじ人を量るごとくおのれも量らるべし』とこう弁護士は叫びながら、それと同時に、キリストはみずから量られたるごとく人をも量るように教えた、とこう推論されました、――しかも、これが真理と健全なる思想の法廷から発せられた言葉なのであります! 今では、弁論の前日に聖書を見るのは、ただ何といってもかなり独創的なこの書物をこれくらいまで心得ているぞ、ということをひけらかすためにすぎない。この本も必要に応じて、ある効果をもたらすのに役だつ、というくらいな心持なのです! しかし、キリストはそうしないように、そういう行為を慎しむように、と命じていられます! なぜなら、それを行うのは悪の世界だからです。しかし、われわれは赦さなければなりません。いま一方の頬をもさし向けなければなりません。自分を凌辱したものがわれわれを量るごとく、彼らを量ってはなりません。神はわれわれにこう教えられましたが、子供に父親を殺すことを禁ずるのが偏見であるなどと、教えられはしなかったのであります。われわれは真理と健全なる思想の法廷において、我らの神の聖書を訂正すべきではありません。しかるに、弁護士はこの神を不遜にもただ『十字架につけられたる博愛家』と呼んでいます。それはキリストに向って、『なんじはわれらの神なり』と呼んでいる正教国ロシヤの全国民に反するものであります……」
 このとき裁判長は口を挟んで、普通こうした場合における裁判長の例にもれず、あまり誇張した言辞を弄して、職務の限界を超えた議論をしないようにと、夢中になって前後を忘れた検事をたしなめた。しかし、法廷は鎮まらなかった。傍聴者はどよめき動いて、不満の叫びさえ挙げた。フェチュコーヴィッチは、反駁というほどのこともしなかった。彼は演壇へ上って、ただ片手を胸にあてながら、腹だたしげな声で、威厳に充ちた言葉を一こと二こと述べたばかりである。彼は『小説』と『心理解剖』について軽く揶揄を弄したのち、あの個所で『ジュピタアよ、なんじは怒れり、ゆえになんじはあやまてり』という文句を挿んだ。この文句は傍聴者の間に、さも同感らしい盛んな笑声を喚び起した。それはイッポリートが、一こうにジュピタアらしくなかったからである。次にフェチュコーヴィッチは、自分が若い人々に親殺しを許容した、などというような寃罪に対しては、あえて反駁の心要を認めないと、いかにももったいらしく言った。『キリスト教の曲解』問題、および彼がキリストを神と呼ばずに、『十字架につけられたる博愛家』と名づけて、『ロシヤ正教の精神に反し、真理と健全なる思想の法廷においてあるまじきこと』を言ったという非難に関しては、――フェチュコーヴィッチは、それを『あてこすり』であると仄めかし、自分が当地へ来る時には、少くとも当地の法廷において、『市民として、および忠良なる臣民として、私の人格を傷つけるような』寃罪をきせられる危険はないと信じていた、と述べた。しかし、このとき裁判長は、彼をも同様にたしなめた。で、フェチュコーヴィッチは一揖して、その答弁を終った。すると、そのあとから、同感の意を表するような満廷の囁きが聞えはじめた。イッポリートは、当地の婦人たちの意見によると、『永久に圧倒されてしまった』のである。
 次に被告が発言を許された。ミーチャは立ちあがったが、多くを言わなかった。彼は肉体的にも精神的にもすっかり疲労しきっていた。けさ法廷へ入って来た時の、独立不羈な元気らしい様子は、ほとんどどこにも見られなかった。彼はこの日、生れて初めて、今まで理解しなかった非常に重大なあるものを啓示され、経験したように見受けられた。彼の声は弱っていた。彼はもはや、先刻のように叫ばなかった。その言葉には、何やら新しい調子が響いたが、それは諦めと、敗北と、屈服の調子であった。
陪審員諸君、このうえ私に何を言うことがありましょう――裁きの日が来たのです。私は自分の上に神の右手《めて》がおかれているのを感じています。道を踏み誤った人間の最後が来たのです! しかし、私は神の前に立っているような心持で、諸君に申します。『私は父親の血に対しては、――断じて無罪です!』なお最後に繰り返して言いますが、私が殺したのではありません! 私は道を踏み誤りましたが、善を愛していました。しじゅう正しい道に入ろうと努力しながらも、やはり野獣のような生活をしていました。私は検事に感謝します。検事は私について、自分でも知らないことをたくさん聞かしてくれました。しかし、私が親父を殺したというのは間違いです、それは検事の誤りです! 私はまた弁護士にも感謝します、あの弁論を聴きながら泣きました。が、私が親父を殺したというのは間違いです。あんなことは仮定さえする必要がありません! それから、医者の言葉も信じないで下さい。私は正気です。ただ心が悩んでいるだけなのです。もし諸君が私を赦して下さるなら、釈放して下さるなら、――私は諸君のために祈りをあげます。私は立派な人間になることを誓います、神の前で誓います。が、もし罰せられても、――私は自分の頭上で剣を折ります。剣を折って、その破片に接吻します! しかし、容赦して下さい。私の神を私から奪わないで下さい! 私は自分の性質を知っています、――私は神を怨むに相違ありません! 私の心は悩んでいます……容赦して下さい!」
 彼はほとんど倒れるように自分の席に着いた。その声は途切れがちで、最後の一句はやっとのことで言い終ったほどである。次に裁判長は問題の整理に着手して、原被両告に結論を求めた。しかし、筆者《わたし》は詳しいことを書くまい。最後に陪審員一同は立ちあがって、会議のために退廷しようとした。裁判長は非常に疲れていたので、『どうか、公平に熟議していただきたい。弁護士の雄弁にうごかされてはなりませぬぞ。しかし、とにかく慎重に考量審議して、諸君が偉大なる責任をおびていることを、お忘れのないように願います。云々』と弱々しい声で注意を与えた。陪審員が退廷した後、公判は休憩を宣せられた。傍聴者は席を立ったり、歩き廻ったり、山積した印象を話し合ったり、休憩室で食事したりすることができた。もうよほど遅くなって、ほとんど夜の一時に近かった。けれど、誰も帰ろうとするものはなかった。誰もかれも恐ろしく緊張して、帰って寝るどころではなく、胸をどきどきさせながら、待ち構えていた。とはいえ、みながみな胸を躍らせているわけではなかった。婦人たちはただもう待ち遠しさにやきもきしていたけれど、その胸は落ちついていた。『きっと無罪になる』とこう思っていたので、誰もかれも、満廷が熱狂する戯曲的な瞬間を待ち構えていた。正直なところ、男子席のほうでも、きっと無罪になるに相違ないと確信しているものが、ずいぶんたくさんあった。あるものは喜び、あるものは顔をしかめていたが、中にはただしょげ返っているものもあった。無罪にしたくなかったのである! フェチュコーヴィッチは成功を確信していた。彼は一同に取り囲まれて祝辞を受けていた。みんなしきりに彼の機嫌をとるのであった。
「弁護士と陪審員の間には、目に見えない糸が繋がっているものでしてね。」あとで聞いたところによると、フェチュコーヴィッチはあるグループでこう言ったそうである。「それはもう弁論の時に繋がれてしまうもので、ちゃんと予感することができますよ。私はそれを感じました、確かにありますよ。もうこっちのものです、ご安心なさい。」
「だが、あの百姓どもがこれから何と言うでしょうね?」一人のしかめ顔をした紳士が、ある紳士たちのグループに近づきながら、こう言った。それはでっぷり肥ったあばた面で、近郊の地主であった。
「でも、百姓だけじゃありませんよ。あの中には官吏が四人もいますからね。」
「そうです、官吏もいますよ」と郡会の議員が仲間に入りながら言った。
「だが、諸君はナザーリエフを、あのプローホル・イヴァーノヴィッチをご存じですか? あのメダルをつけた商人の陪審員ですよ。」
「それがどうしました?」
「素晴しい知恵者なんですよ。」
「でも、黙ってばかりいるじゃありませんか。」
「黙ってはいるが、あのほうがかえっていいですよ。あの男はペテルブルグに教えを乞わなくてもいいのです、自分のほうからペテルブルグ全体を教えるんですからね。あれは十二人からの子供をもっていますよ、どうです!」
「だが、どうでしょう、一たいあの連中は被告を無罪にしないでしょうかね?」また別なグループの中で、当地の若い官吏の一人がそう叫んだ。
「きっと無罪にするね」という断乎たる声が聞えた。
「無罪にしなければ恥辱ですよ、醜態ですよ!」と官吏は叫んだ。「かりに彼が殺したとしても、親父が親父ですからね! それに、被告はあんなに夢中になっていたのだから……彼は実際、杵を一ふり振っただけです。ところが、親父は倒れたんですよ。ただしこの際、下男などを引き合いに出したのはよくない。それは単に滑稽な挿話にすぎませんよ。私が弁護士の位置にいたら、殺したけれども、彼に罪はない、それだけの話だ、畜生! とこんなふうに言ってやりますがね。」
「だから、弁護士もそう言ったんですよ。ただ、『それだけの話だ、畜生!』とは言いませんでしたがね。」
「いや、ミハイル・セミョーヌイチ、ほとんど実際そう言いましたよ」と第三の声が合槌を打った。「大丈夫ですよ、諸君、当地では情夫の正妻の喉を斬った女優が、大斎期のときに無罪になりましたからね。」
「でも、斬ってしまったのじゃありませんよ。」
「同じこってすよ、同じこってすよ! どうせ斬りかけたんですからな。」
「だが、弁護士が子供のことを言ったあたりはどうです? 素晴しいものじゃありませんか!」
「素晴しいもんでしたね!」
「だが、神秘主義のことだってどうです、神秘主義のことだって、え?」
神秘主義のことなんかもうたくさんですよ」とまた誰かが叫んだ。「それよりイッポリートの身になってごらんなさい、イッポリートの今後の運命を想像してごらんなさい! 検事夫人は明日にもミーチャのことで、ご亭主の目を引っ掻きますからね。」
「細君もここへ来ていますか!」
「どうして来ているものですか? ここへ来ていたら、その場で引っ掻いてしまいますよ。歯が痛むって家におりますよ。へっ、へっ、へっ!」
「へっ、へっ、へっ!」
 もう一つのグループでは、
「だが、ミーチャは無罪になるかもしれませんよ。」
「用心していないと、明日は『都』がひっくり返るような騒ぎになって、十日くらい飲みつづけますぜ。」
「ええ、あん畜生!」
「畜生には相違ないが、畜生なしじゃすみませんよ。あの先生、あそこへ行かなくてどこへ行くもんですか。」
「諸君、それはまあ、確かに雄弁でしたろう。だが、親父の頭を桿秤《さおばかり》で打ち割るなんて、よくありませんな。そんなことを赦したら、世の中はどうなります!」
「でも、戦車はどうです、戦車は?」
トロイカを戦車に造り直しましたね。」
「だが、明日になると、戦車をまたトロイカに造り変えることでしょう、『必要に応じて』ね、『すべて必要に応じて』ね。」
「どうもすばしこい連中がふえてきましたよ。諸君、一たいわがロシヤには正義があるのでしょうか、それとも全然ないのでしょうか?」
 けれども、ベルが鳴った。陪審員はちょうどかっきり一時間、協議したのである。傍聴者がふたたび席に着いた時には、深い沈黙が法廷を支配していた。陪審員が法廷へ入って来た時の光景を筆者《わたし》は今でも記憶している。いよいよやって来た! 訊問をいちいち順を追うてあげるようなことはすまい。第一、そんなものは忘れてしまった。ただ筆者の記憶しているのは、『被告は強奪の目的をもって、予定の計画によって殺したのでしょうか?』という裁判長の主要な第一問に対する陪審員の答えだけである(もっとも、この問いも言葉どおりに憶えているわけではない)。あたりはしんと鎮まり返った。陪審員の主席は、一ばん年の若い官吏であったが、彼は死んだような法廷の静寂を破って、はっきりと声高に宣言した。
「さよう、有罪であります!」
 つづいて、他のあらゆる点に関しても、やはり同じく、有罪である、しかり、有罪である、という答えが繰り返された。しかも、それにはいささかの酌量もなかった。これは誰しも予期しないところであった。ほとんどすべてのものは、少くとも情状酌量くらいは信じていたのである。死んだような法廷の静寂は破られなかった。有罪を望むものも無罪を望むものも、いずれもまったく字義どおり化石したようになっていた。しかし、これはただ最初の間だけで、やがて恐ろしい混乱が起った。男子席のほうでは非常に満足しているものがたくさんあった。中には歓喜の情を隠そうとしないで、もみ手をしているものさえあった。不満な連中はおし潰されたように、肩をすぼめたり、囁き合ったりしたが、それでもまだ何のことやらはっきりわからない様子であった。ところで、婦人たちはどうかというと、筆者《わたし》は一揆でも起すのではなかろうかと思ったほどである。初め彼らは、自分の耳を信じないもののようであったが、やがてたちまち、『それは何ということです、一体まあ、何事です?』という絶叫が満廷に響き渡った。彼らはみな席を跳りあがった。彼らはきっと今すぐにも判決が取り消されて、もう一度やり直しになることと、信じきっていたに違いない。と、この瞬間、突然ミーチャは立ちあがって、両手を前へさし伸べながら、はらわたを断つような声でこう叫んだ。
「神とその恐るべき審判の日にかけて誓います。私は父の血に対して罪はありません! カーチャ、おれはお前を赦してやる! 兄弟よ、友よ、もう一人の女を憐れんでやって下さい!」
 彼はしまいまで言い終らないうちに、法廷一ぱいにひびくような声を立てて慟哭しはじめた。それは彼の不断の声と違った思いもよらぬ新しい声で、どうして彼に突然こんな声が出たのか、不思議なほどであった。すると、二階の一番うしろの隅から、たまぎるような女の泣き声が聞えた。それはグルーシェンカであった。彼女はさっき誰かに頼んで、弁論の始まる前に、また法廷に入れてもらったのである。ミーチャは法廷から曳き出された。判決の発表は明日まで延期された。法廷ぜんたいは上を下への大騒動になった。しかし、筆者《わたし》はもう外へ出ていたので、その騒ぎの声を聞かなかった。ただ玄関の出口へ来てから、耳についた幾つかの叫び声を記憶しているばかりである。
「二十年くらいは鉱山の臭いを嗅がなけりゃなるまいて。」
「まあ、そんなものだろう。」
「百姓どもが我を通したんだ。」
「そして、ミーチャを片づけてしまったんだ!」
[#改ページ]

[#1字下げ]第十三篇 エピローグ[#「第十三篇 エピローグ」は大見出し]



[#3字下げ]第一 ミーチャ救済の計画[#「第一 ミーチャ救済の計画」は中見出し]

 ミーチャの公判後、五日目の早朝まだ九時ごろに、アリョーシャはカチェリーナを訪れた。それは彼ら二人にとって重要な一つの事件について、最後の相談をしたうえ、ある依頼をはたすためであった。彼女は、いつぞやグルーシェンカの訪問を受けた時と同じ部屋で応接した。すぐ隣りの部屋には、譫妄狂にかかったイヴァンが、人事不省のまま横たわっていた。カチェリーナはあの公判のすぐあとで、意識を失った病めるイヴァンを、わが家へ運ばせたのである。彼女は、将来かならず起るべき世の取り沙汰や非難を、一さい無視していた。同居していた二人の親戚の婦人のうち、一人は公判が終るとすぐモスクワへ立ったが、一人のほうはまだ残っていた。しかし、たとえ二人とも立ってしまったにせよ、カチェリーナは自分の決心を変えず、病人の看護のため夜昼その枕べに侍していたことであろう。イヴァンはヴァルヴィンスキイとヘルツェンシュトゥベの治療を受けていた。モスクワの医師は、病気の結果を予言することを避けて、モスクワへ帰ってしまった。残っていた二人の医者は、カチェリーナとアリョーシャに力をつけてはいたものの、まだ確かな望みを与えることができないらしかった。アリョーシャは日に二度ずつ、兄の病床を見舞っていたが、今朝はとくべつ面倒なことがあって、やって来たのである。彼はその用事が切り出しにくいような気もしたが、しかし非常に心がせいていた。ほかにもまださし迫った用事があるので、急いでそちらへ廻らなければならなかった。二人はもう十五分くらい話をしていた。カチェリーナは蒼ざめ疲れていたが、同時にまた病的に興奮していた。今アリョーシャがとくに何の用事で訪ねて来たか、彼女はちゃんと察していたのである。
「あの人の決心のことでしたら、心配なさらなくってもよござんすわ」と彼女は語気を強めて、アリョーシャに言った。「どのみちあの人は、そうするよか仕方がないんですもの。逃げなけりゃなりませんわ! あの不幸な人は、あの名誉と良心の勇者は、――あの人じゃありません、ドミートリイ・フョードルイチじゃありません、この戸の向うに寝ている人です、兄さんのために自分を犠牲にした人ですの(とカチェリーナは目を輝かしながら、つけたした)。――あの人はもうとっくから、この逃亡の計画を、すっかりわたしに打ち明けてくれました。実はねえ、あの人はもう手を廻しておいたんだそうですの……あなたにも多少お話ししましたが……たぶんね、シベリヤへみんなと一緒に護送される時、ここから三つ目の駅で脱走させることになりましょう。ええ、それはまだだいぶさきのことですわ。イヴァン・フョードルイチはもうその三つ目の駅の駅長のとこへいらっしゃいました。ところが、護送隊の隊長はまだ誰だかわからないし、それに前から知ることができないんですの。たぶん明日になったら、くわしい計画書をお目にかけることができましょう。それは公判の前日イヴァン・フョードルイチが、まさかの時の用心に、わたしのとこへおいて行ったんですの……そうそう、あの時よ、憶えていらっしゃるでしょう、ほら、われしたちが喧嘩をしているとこを、あなたに見られましたわね。あの人が階段をおりて行こうとした時、ちょうどあなたがいらしったので、わたしあの人を呼び戻したじゃありませんか、覚えてらして? あの時、わたしたちがなぜ喧嘩していたか、あなたおわかりになって?」
「いいえ、わかりません」とアリョーシャは言った。
「あの人はむろんあの時あなたに隠していましたが、あの喧嘩はその脱走の計画から起ったことなんですの。あの人はあれから三日ほど前に、おもなことをすっかりわたしに打ち明けたので、――その時からわたしたちは喧嘩を始めましてね、それ以来、三日のあいだ喧嘩のしどおしでしたわ。なぜ喧嘩したかといいますとね、もしドミートリイさんが有罪になったら、あの売女《ばいた》と一緒に外国へ逃げるのだ、とこうあの人が言うもんですから、わたし腹を立ててしまったんですの、――なぜ腹を立てたかって、それは言えませんわ。わたし自身にもわからないんですもの……ええ、むろんわたしはその時あの女のために、あの売女のために怒ったんですわ。あの女もドミートリイさんと一緒に、外国へ逃げるっていうのが順にさわったんですの!」カチェリーナは憤りに唇を慄わしながら、だしぬけに叫んだ。「イヴァン・フョードルイチは、その時わたしが腹を立てたのを見て、すぐにわたしが嫉妬しているのだと思ったんですの。つまり、わたしがね、まだやはりドミートリイさんを愛していると思ったんですわ。それで、あの時はじめて喧嘩してしまったんですの。わたし弁解なんかしたくもなければ、また謝ることもできませんでした。イヴァン・フョードルイチのような人までが、わたしがまたもと通りドミートリイさんを愛してるように疑うなんて、本当に情けなくてたまりませんでしたわ……それも、わたしずっと以前に、ドミートリイさんを愛してはいない、ただあなた一人を愛してるきりだって、はっきりあの人に言っておいたんですものね! わたしはあの売女に対する憎しみのために、あの人に腹を立てたんですわ! その後三日たって、ちょうどあなたがいらしたあの夜、あの人はわたしのとこへ封をした手紙を持って来てね、もし自分に何事か起ったら、すぐこれを開封してくれ、って言うじゃありませんか。ええ、あの人は自分が病気になることを知ってたんですわ! あの人はね、その封筒の中に詳しい脱走の計画が入れてあるから、もし自分が死ぬか、それとも重い病気にでもなったら、わたし一人でミーチャを助けてくれ、と言うんですの。そのとき一万ルーブリばかりのお金を、わたしの手もとへおいて行きました。検事は誰かの口から、あの人がそのお金を両替えにやったのを聞きこんで、論告の時そのことを言いましたっけ。イヴァン・フョードルイチはね、まだわたしがミーチャを愛しているものと信じて、始終やきもきしているくせに、兄を救おうという考えを棄てないで、わたしに、当のわたしに向って、ドミートリイさんの救助を依頼なさるんですもの、これにはわたしもずいぶんびっくりさせられましたわ。ああ、それこそほんとうに犠牲ってもんですわ! いいえ、アレクセイさん、完全な意味の自己犠牲ってものは、とてもあなたおわかりになりゃしません! わたしは敬虔の念に打たれて、あの人の足もとに跪こうとまで思いましたが、そんなことをしては、ミーチャの助かるのを喜んでいるように思われはしないかと、ふとそう考えたものですから(あの人はきっとそう思うに違いありませんわ!)あの人がそういう間違ったことを考える可能性があると思っただけで、わたし急にいらいらしてきて、あの人の足に接吻する代りに、いやな場面を演じてしまったんですの。ああ、わたしは不幸な女ですわ! これがわたしの性質なんですもの、恐ろしい不幸な性質なんですもの! ええ、そうよ。わたしはこんなことをして、結局あの人に見棄てられてしまうに違いありません。あの人もドミートリイさんのように、もっと一緒に暮しいい女に見変えてしまいますわ、けれど、そうなったら……いいえ、そうなったら、わたしはとても我慢ができません、自殺してしまいます! ところで、あの時あなたが入ってらして、わたしがあの人を呼び戻したでしょう。その時、あの人があなたと一緒に入って来た時、さも憎々しそうな軽蔑の目つきで、ふいとわたしを見たので、わたし、急にむらむらとしてしまったんですの。だから、――憶えてらっしゃるでしょう、――ドミートリイさんが父殺しだと主張したのはあの人だ、『あの人ひとりです[#「あの人ひとりです」に傍点]』と、だしぬけにあんだに叫んだでしょう! わたしはもう一度あの人を怒らせようと思って、わざとあんなことを言ったんですわ。あの人は一度も、決して一度もミーチャが人殺しだなんて、主張したことはありません。それはかえってわたしなのよ。ええ、何もかも気ちがいじみたわたしのしたことですわ! 法廷であんな情けないことが起ったのも、みんなみんなわたしのせいですわ! あの人はね、自分は高潔な人間だ、たとえわたしがドミートリイさんを愛してても、復讐心や嫉妬のために兄弟を破滅させはしないってことを、わたしに証明しようとしたんです。だから、法廷へも出たわけですの……何もかもわたしがもとです、わたし一人が悪いんですわ!」
 はじめてカーチャの告白を聞いたアリョーシャは、いま彼女が非常な苦痛に悩まされていることを感じた。つまり、極度に傲岸な心が痛みを忍んで、その慢心を打ち砕こうとしながら、悲哀に敗れて、倒れんとしているのであった、今ミーチャが有罪になってから、彼女は一生懸命に隠そうと努めていたけれど、アリョーシャは彼女の恐ろしい苦痛の原因を、もう一つ知っていた。しかし、今もし彼女が進んで、それを打ち明けるほど屈辱に甘んじたなら、かえって彼のほうが苦痛を感ずるに違いなかった。彼女は法廷における自分の『裏切り』に苦しんでいるのであった。彼女の良心は、彼アリョーシャの前で、涙と号泣と煩悶と跪拝とともに、謝罪せよと命じている。それをアリョーシャは予感したのである。しかし、彼はその瞬間を恐れて、この苦しめる女を容赦したいと思った。したがって、自分の訪問の目的たる用件が、ますます切り出しにくくなったのである。彼はまたミーチャのことを言いだした。
「大丈夫です、大丈夫です、あの人のことは心配なさらないほうがよござんすわ!」とカーチャはまた頑固にきっぱり言った。「あの人がそんなことを言うのは、ほんの一時のこってすわ。わたしあの人の気性を知っていますもの。あの人の心をよく知っていますもの。安心して下さい。あの人は脱走に同意しますわ。それに、第一、今すぐじゃありませんから、あの人もまだゆっくり決心する暇があります。それまでには、イヴァン・フョードルイチも達者になって、自分ですっかり取り計らいをするでしょう。そうすれば、わたしはもう何もしなくたってよくなりますわ。ご心配はいりません、きっと同意しますから。それに、あの人はもう同意してらっしゃるんですよ。一たいあの女を残して行けますか? ところが、あの女が懲役へやられる気づかいはないから、あの人も逃げるよりほか仕方がないじゃありませんか。ただ、あの人はあなたを怖がっているんですの。あなたが道徳上の立場から、脱走に賛成しないのじゃあるまいかと、それを怖がってるんですよ。もしこの場合、それほどあなたのご裁可が必要なんでしたら、あなたも寛大にそれを『許し』ておあげにならなくちゃいけませんわ」と、カーチャは皮肉につけ加えた。
 彼女はちょっと口をつぐんで、薄笑いをもらした。
「あの人はあそこでね」と彼女はまた言いだした。「頌歌《ヒムン》がどうだの、自分の負わなければならない十字架がどうだの、義務がどうだのって講釈してるんですの。イヴァン・フョードルイチはあの時分、よくわたしにこの話をしましたわ。もしあなたがあの人の話しぶりをご存じでしたらねえ!」彼女は感にたえたように、にわかにそう叫んだ。「あの人は、あの不幸なミーチャのことをわたしに話しながら、どんなにかミーチャを愛していたでしょう! しかも、それと同時に、またどんなにミーチャを憎んでいたでしょう! それをあなたがご存じでしたらねえ! ところが、わたしは、ああ、わたしはそのとき傲慢にも、あの人の話やあの人の涙を、冷やかしながら聞き流したんですの! ああ、売女《ばいた》! わたしこそかえって売女ですわ! わたしがそんなふうにしたために、あの人は譫妄狂にかかったんですわ! ですが、あの人は、有罪を宣告されたほうの人は、――一たい痛苦を受ける覚悟ができてるんでしょうか」とカチェリーナはいらだたしげに言葉を結んだ。「あんな人に苦しむことができるでしょうか? あんな人間は決して苦しみゃしませんわ!」
 この言葉には一種の憎悪と、忌わしげな侮蔑の心持が響いていた。けれども、同時に、彼女自身それを裏切ったのである。『いや、ことによったら、ミーチャに対してすまないという気がするものだから、そのために、ある瞬間ミーチャを憎むのだろう』とアリョーシャは肚の中で考えた。彼はこれがどうか『ある瞬間』だけであってほしいと思った。彼はカチェリーナの最後の言葉の中に、一種の挑戦の語調を聞いたが、それには応じなかった。
「で、わたしが今日あなたを呼んだのはね、あの人を説きつけるって約束していただくためですの。あなたのお考えでは、脱走するってことは潔白でない、卑怯な……そして、何と言いますか……非キリスト教的なことでしょうか、え?」カチェリーナはさらに挑むような語調で、こうつけ加えた。
「いいえ、決してそんなことはありません。私は兄にすっかり言います……」とアリョーシャは呟いた。「兄は今日あなたに来ていただきたいと言ってましたよ。」彼はしっかりカチェリーナの目を見つめながら、とつぜん叩きつけるようにこう言った。
 彼女はぴくりと身ぶるいして、長椅子に腰かけたまま、少し体をうしろへよろめかした。
「わたしに……わたしにそんなことができて?」と彼女は顔を真っ蒼にして囁いた。
「できますとも。それに、ぜひそうしなければならないことです!」アリョーシャは声を強めて、急に満面活気を呈しながら言った。「兄はぜひ、あなたに会わなきゃならない必要があるんです。それもとくに今です。もしその必要がなければ、こんなことを言いだして、前もってあなたを苦しめはしないはずです。兄は病気なのです。まるで気ちがい同然になっています。そして始終あなたに来ていただきたいと言っているのです。兄は、仲直りのために来ていただきたいと言うのじゃありません。ただあなたがあそこへ行って、閾の上からでもちょっと顔を見せてやって下されば、それでいいのです。兄もあれ以来ずいぶん変りました。あなたに対して数えきれないほど罪があることも悟りました。あなたに赦しを乞おうというのではありません。『おれなんかとても赦してもらえる人間じゃない。』兄は自分でもそう言ってるくらいです。まあ、ただあなたが閾の上に顔を出して下さればいいのです……」
「だって、あまりふいですから……」とカチェリーナは呟いた。「わたしはこの間から、あなたがそう言いにいらっしゃるような気がしていたんですの……あの人がわたしを呼ぶってことは、もうちゃんとわかっていましたわ……でも、そりゃ駄目ですわ!」
「できないことかもしれませんが。まげてそうしていただきたいのです。ねえ、こうなんです、兄は今はじめて、あなたを侮辱したことに気がついて、びっくりしているのです。ほんとに初めて気がついたのです。今までこれほど完全に悟ったことはないのです! もしあなたが来て下さらなければ、『一生不幸でいなければならない』とこう兄は言っています。ねえ、お聞き下さい、二十年の懲役を宣告された兄が、まだ幸福でいようと思ってるんですからね、――可哀そうじゃありませんか? 考えてもごらんなさい、あなたは罪なくして滅びたものを訪問なさるのです」とアリョーシャは思わず挑むように口走った。「兄には、犯した罪がないのです、兄の手は血に染んでいません! これから忍ばねばならぬ数限りない苦痛のために、あの人を訪問してやって下さい……出かけて行って、兄を闇の中へ見送って下さい……闇の上にだけでも立って下さい……あなたにはそうする義務があります、そうする義務があります[#「義務があります」に傍点]!」アリョーシャは『義務があります』という言葉に無量の力をこめて言った。
「義務はあるでしょう……けれど……わたしには行けませんわ……」とカチェリーナは呟くように言った。「あの人はわたしを見るでしょう……わたしたまりません。」
「あなた方二人の目は、もう一ど合わなけりゃなりません。もし今その決心をなさらなければ、あなたは一生涯くるしむことになりますよ。」
「一生涯くるしんだほうがよござんすわ。」
「あなたは行く義務があります、義務があります[#「義務があります」に傍点]。」アリョーシャは命ずるように、力を入れてふたたび言った。
「でも、なぜ今日でなければならないんですの、なぜ今でなければ……わたし病人を棄てて行くことはできませんわ……」
「ちょっとの間ならいいじゃありませんか、ほんのちょっとですもの。もし、あなたが行って下さらなければ、兄は今晩、熱病になってしまいます。私は間違ったことを言やしません。可哀そうだと思って下さい!」
「わたしこそ可哀そうだと思って下さい」とカチェリーナは咎めるように言って、悲しそうに泣きだした。
「じゃ、行って下さるんですね!」アリョーシャは相手の涙を見ながらも、頑固に言いはった。「私は一足さきに行って、今あなたがいらっしゃるって、兄にそう言っておきましょう。」
「いいえ、そんなことは決して言わないで下さい!」と、カチェリーナはびっくりして叫んだ。「わたし行きますわ。だけど、前からそんなことを言うのはよして下さい。なぜって、わたし行っても、中へ入らないかもしれませんもの……どうするかまだわかりませんもの……」
 彼女の声は途切れた。彼女は呼吸が苦しそうであった。アリョーシャは出て行こうとして立ちあがった。
「でも、誰かに会やしないでしょうか?」彼女はまたもや真っ蒼になって、小声にこう言った。
「だから、今すぐ行っていただきさえすれば、あそこで誰にもお会いになる心配はありませんよ。誰も来やしません、本当ですよ。お待ちしています」とアリョーシャは念を押して、部屋を出た。

[#3字下げ]第二 嘘が真になった瞬間[#「第二 嘘が真になった瞬間」は中見出し]

 アリョーシャは、ミーチャの寝ている病院さして急いだ。判決の翌日、ミーチャは神経性の熱病にかかって、当地の町立病院の囚人部へ送られたのである。しかし、アリョーシャやその他多くの人々(ホフラコーヴァやリーザなど)の願いによって、医師のヴァルヴィンスキイはミーチャをほかの囚人と同居させずに、特別の計らいで、以前スメルジャコフの寝ていた小部屋へ入れた。むろん、廊下の端には番兵が立って、窓は格子づくりになっていたので、ヴァルヴィンスキイもこの規則に反した寛大な処置のために、心配することはいらなかった。彼は善良な同情ぶかい青年であった。彼はミーチャのような人間にとって、とつぜん人殺しや詐欺師の仲間入りをするのが非常につらいものだということを知っていたので、まずあらかじめそれに慣れさせようと思ったのである。親みや知人などの訪問も、医者、監視人にはもちろん、署長にさえ内々ゆるされていた。けれど、近頃ミーチャを訪ねるものは、ただアリョーシャとグルーシェンカだけであった。ラキーチンも二度ばかり面会を強要したが、ミーチャはヴァルヴィンスキイに頼んで通させなかった。
 アリョーシャが入って行った時、ミーチャは病院のガウンを着て、醋酸水で濡らしたタオルを頭に巻きつけたまま、寝台の上に坐っていた。彼はとりとめのない目つきで、入って来たアリョーシャを見たが、それでも目の中には、一種の恐怖ともいうべきものがひらめいていた。
 一たい彼は裁判の当日から、ひどくふさぎ込んでしまったのである。どうかすると、三十分くらい黙り込んで、しきりに何やら思い悩みながら、眼前にいる人のことも忘れてしまうような工合であった。よし沈黙を破って、自分のほうから口をききはじめても、いつも必ずだしぬけで、本当に必要のないようなことを言うのがきまりであった。また時としては、苦しそうな顔つきをして、アリョーシャを見ることもあった。彼はアリョーシャより、グルーシェンカと一緒にいるほうが楽なようであった。もっとも、グルーシェンカとはほとんど口をきかなかったが、彼女が入って来さえすれば、彼の顔は喜びに輝くのであった。アリョーシャは、寝台に坐っているミーチャのそばへ、黙って腰をおろした。この日ミーチャは、不安な心持でアリョーシャを待っていたが、思いきって何も訊く勇気がなかった。カチェリーナが訪問を承諾しようとは、思いもかけないのであった。同時に、もし彼女が来なければ、何かとんでもないことが起るに相違ない、と感じていた。アリョーシャには兄の心持がよくわかった。
「トリーフォンがね」とミーチャはそわそわ言いはじめた。「ボリースイチがね、自分の家をすっかり荒してしまったそうだよ。床板を上げたり、羽目板を引っぺがしたり、『廊下』を残らずばらばらにしたそうだ、――検事が、あそこに例の千五百ルーブリが隠してあると言ったものだから、その金を捜し出そうとしているんだ。帰るとすぐ、そんな馬鹿なことを始めやがったんだそうだ。悪党め、いい気味だ! ここの番兵がきのうおれにそう言ったんだ。あそこから来たものだからな。」
「ねえ、兄さん」とアリョーシャは言った。「あのひとは来ますよ。けれど、いつかわからないんです。今日か、それとも二三日のうちかわかりませんがね、来ることは確かに来ますよ。」
 ミーチャは身ぶるいして、何か言おうとしたが、そのまま黙ってしまった。この報知がひどく彼にこたえたのである。彼はアリョーシャとカチェリーナとの対話を、くわしく知りたくってたまらないくせに、今それを訊くのを恐れているらしかった。もし何かカチェリーナの残酷な、軽蔑するような言葉でも聞いたら、それはこの瞬間、剣のように彼を刺すに相違ないからである。
「あのひとはいろんな話のうちに、こんなことを言いましたよ。どうかぜひ脱走のことで兄さんの良心を安めていただきたいって。もしその時までにイヴァンが全快しなかったら、あのひとが自分で引き受けて手はずするそうです。」
「それはもうお前に聞いたよ」とミーチャはもの思わしげに言った。
「じゃ、兄さんはグルーシャにこの話をしましたか」とアリョーシャは言った。
「言ったよ」とミーチャは白状した。「あれは今朝来ない」と彼はおずおず弟を見た。「晩でなけりゃ来ないんだよ。おれが昨日あれに向って、カチェリーナがいろいろ世話してくれるって言ったらね、あれは黙って唇を歪めたよ。そして、ただ『勝手にさしておくがいいわ!』と言ったきりさ。重大なことだとは合点したらしいが、おれはそのうえ探ってみる勇気がなかったんだ。あれも今ではわかってるらしいんだ、カチェリーナが愛してるのは、おれでなくってイヴァンだってことがね。」
「わかってるでしょうか?」とアリョーシャは思わず口走った。
「あるいはそうでないかもしれん。なにしろ、今朝は来ないからな」とミーチャはまた急いで念を押した。「おれはあれに頼んでおいた……ことがあるんだがなあ……おい、イヴァンは兄弟じゅうで一番えらくなるよ。あれは生きて行く必要があるが、おれたちはどうでもいいんだ。大丈夫イヴァンは全快するよ。」
「どうでしょう、カチェリーナさんもイヴァン兄さんのことを心配していますが、しかし兄さんはきっと全快すると信じていますよ」とアリョーシャは言った。
「それがつまり、死ぬものと思い込んでる証拠なんだよ。ほんとのことを思うのが恐ろしさに、全快するものと信じようとしてるんだ。」
「でも、兄さんは体質がしっかりしてるんですからね。私は全快するだろうとあてにしています」とアリョーシャは心配そうに言った。
 沈黙がつづいた。ミーチャは何か重大な問題に悩まされていた。
「アリョーシャ、おれはね、非常にグルーシャを愛しているんだ。」彼は涙に満ちたふるえ声で、突然こんなことを言いだした。
「でも、あのひとはあそこ[#「あそこ」に傍点]へやってもらえないでしょうね。」アリョーシャはすぐに兄の言葉を受けて、こう言った。
「いや、おれはまだ、お前に言いたいことがあるんだ。」とつぜん、声に妙な響きを立てはじめながら、ミーチャは語りつづけた。「もし途中か、それともあそこ[#「あそこ」に傍点]で、役人どもに撲られでもしたら、おれは承知しないだろう。おれはそいつを殺して、自分も銃殺されるだろう。なにしろ、そういうことが二十年もつづくんだからなあ! ここでも、もうおれのことを、『貴様』と言いやがる。看守たちがおれを『貴様』と言うんだ。おれは昨夜も寝てから夜っぴて考えたが、どうもまだおれは覚悟がたりない! まだ諦めきれないんだ! おれは『頌歌《ヒムン》』を歌いたいと思ったが、しかし看守どもにこづき廻されるのは、我慢がならないんだ! グルーシャのためなら何でも我慢する……何でも……しかし、撲られることだけは別だ……だが、あれはあそこ[#「あそこ」に傍点]へやってもらえないよ。」
 アリョーシャは静かに微笑した。
「ねえ、兄さん、私はそのことについて」と彼は言った。「も一度だけ、あなたに言いますが、私が嘘を言わないことはご承知でしょう。ねえ、兄さん、あなたはまだ修業がたりないんです。そんな十字架はあなたに背負いきれません。そればかりでなく、そんな偉大な苦難の十字架は、修業のたりないあなたに不必要です。もしあなたが実際お父さんを殺したのなら、あなたが十字架を逃れようとなさるのを、私も悲しむかもしれません。けれど、あなたは無罪なんです。そんな十字架はあなたにとって重すぎます。あなたは苦痛によって、自分の内部にいる第二の人間をよみがえらせようと思ったのでしょう。私の考えでは、たとえあなたがどこへ逃げていらっしゃろうとも、その第二の人間のことを忘れないようにしたら、それで兄さんはたくさんだと思います。あなたがこの十字架の苦痛を受けなかったということは、自分の内部にもっと大きな責任を感じる機縁となります。そうして、この不断の感じは、将来あなたの生涯において、新しい人間の出生を助けましょう。ことによったら、あそこ[#「あそこ」に傍点]へいらっしゃるより、もっといいかもしれません。なぜって、あそこへ行ったら、あなたは我慢しきれないで、かえって神様に不平を起し、しまいには『おれは勘定をすました』という気がしてくるに違いないからです。実際そこのところは、弁護士の言ったとおりです。誰だってみながみな、そんな重荷を背負えるものじゃありません。人によっては、金輪際不可能な場合もあります……どうしても私の考えを聴きたいとならば、まあ今いったようなものですね。もし兄さんが脱走したために、ほかの人が、例えば、護送の将校や兵卒が責任を負うようなら、私も脱走を『許しはしない』ですがね」と言ってアリョーシャは微笑した。「しかし(これは例の三つ目の駅長がイヴァン兄さんに言ったことですが)、うまくやりさえすれば、大した問題にならないで、ごく簡単な罰ですむだろうという話です。むろん、賄賂を使うのはよくないことです、こんな場合だってよくないにきまってるんですが、私はもう一さい理窟を言いません。ですから、もしイヴァン兄さんとカチェリーナさんが、あなたのために万事とり計らってくれと頼んだら、私は出かけて行って、賄賂を使うに相違ありません。これは正直にありのままを言わなければなりません。だから、私にあなたの行為を裁く資格はありません。けれど、お断わりしておきますが、私は決して兄さんを責めやしません。それに、私がこの事件であなたの裁判官になるなんて、変な話じゃありませんか? さあ、これで何もかもすっかり洗い上げたようですね。」
「だが、その代り、おれは自分で自分を責めてるんだ!」とミーチャは叫んだ。「おれは脱走するつもりだ。これはお前に相談する前から、自分でちゃんと決めていたのだ。ミーチャ・カラマーゾフが、どうして逃げずにいられよう? が、その代りおれは十分自分を責めて、あそこへ行っても永久に、罪障の消滅を祈るつもりだ! こう言うと、何だかゼスイット派の言い草のようだな……これじゃおれもお前も、どうやらゼスイットめくようだな、え?」
「そうですね」とアリョーシャは静かにほお笑んだ。
「おれはお前が、いつも本当を言って、一さい隠し立てをしないから好きだよ!」と嬉しそうに笑いながら、ミーチャは叫んだ。「つまりおれは、わがアリョーシャがゼスイットだ、という尻尾を押えたわけなんだな! こいつはお前にうんと接吻しなけりゃならない! さあ、そこで、そのあとを聞いてくれ、おれは自分の魂のあと半分も、お前にひろげて見せよう。おれの決心というのはこうなんだ。おれはたとえ金と旅行券を持って、アメリカへ逃げても、喜びを得るのでもなければ、幸福を受けるのでもなく、まったく別な懲役へ行くのだと考えて、自分で自分を励ましているんだ。まったくシベリヤよりもっと悪いかもしれないよ! ずっと悪いよ、アレクセイ、正直な話、ずっと悪いよ! おれはあのアメリカって国が、今でも厭でたまらないんだよ。よしグルーシャがおれと一緒に行くにしてもだ。第一、あれを見るがいい、一たいあれをアメリカの女と思えるかね! あれはロシヤ女だ。あれは徹頭徹尾、ロシヤ女だ。あれは母なるロシヤを慕って、懐郷病にかかるに相違ない。で、おれは二六時中、あれがおれのためにくよくよして、おれのために十字架を背負っているのを、見なけりゃならん。ところが、あれに何の罪があるんだろう? それにおれだって、どうしてアメリカの俗物どもと一緒に暮して行かれよう? やつらは一人残らず、みなおれよりいい人間かもしれないが、しかしやはり俗物なんだ。今からもうおれはアメリカが厭でたまらないんだ! たとえやつらが一人残らず、みんな立派な技師であろうと、そのほか何であろうとかまやしない、やつらは決しておれの仲間じゃない、おれの魂の友じゃない! おれはロシヤを愛してる、アレクセイ、おれ自身は悪党だが、しかしおれはロシヤの神を愛してるんだ! いや、おれはたぶんあそこでくたばるだろうと思ってるよ!」彼は急に目を輝かしてこう叫んだ。
 彼の声は涙のためにふるえた。
「それでね、アレクセイ、おれの決心はこうなんだ、まあ聞いてくれ!」と彼は心の惑乱を抑えつつ、言葉をついだ。「グルーシャと二人で向うへ着くと、――そこですぐ、どこか人里はなれた遠いところへ行って、熊を相手に百姓をするつもりなんだ。あそこにはまだどこかに、人里はなれたところがあろうじゃないか! 何でも人の話じゃ、あそこにはどこか地平線の果てのほうに、まだ赤色インド人がいるそうだ。おれたちはそこまで、最後のモヒカン族の国までも行くつもりなんだ。そして、おれもグルーシャも、すぐ文法の勉強にかかるのさ。三年間、働きながら文法を勉強する。そして、どんな英国人にくらべても負けないくらいに、英語を覚え込むんだ。英語を覚えこんだら、もうアメリカにはおさらばだ! そして、アメリカ人になりすまして、ふたたびこのロシヤヘ帰って来る。心配するにゃおよばんよ、この町へは来やしないから。北か、それとも南の、どこか遠い田舎へ隠れるんだ。それまでにはおれも変るし、あれだってやはり変るだろう。アメリカの医者に頼んで、顔に疣か何かこしらえてもらうさ。そりゃあ機械家だから、それくらい何でもないさ。でなけりゃ、片目を潰して、一アルシンも髯を伸ばすさ。白い髯をな(ロシヤこいしさに、髯も白くなるだろうよ)。――そうすりゃ、誰にもわかりゃすまい。もし見つかったら、またシベリヤへやられるまでさ、つまり運がないのだからな。とにかく、帰って来て、どこかの片田舎で百姓をするよ。そして一生涯、アメリカ人で通すよ。その代り、故郷の土に骨を埋めることができるわけだ。これがおれの計画だ。決して変改しやしない。お前、賛成するかね?」
「賛成します」とアリョーシャは言った。兄に反対するのを望まなかったのである。
 ミーチャはしばらく沈黙の後、また喋りだした。
「だが、やつらが公判で仕組んだことはどうだ? なんてやり方だろう!」
「仕組まなくたって、やっぱり有罪になったんですよ!」とアリョーシャはため息をついて言った。
「そうだよ。おれは、この町の人たちに飽きられたんだよ。まあ、勝手にしろ、もうつくづく厭になった!」とミーチャは苦しそうに呻いた。
 また二人はしばらく黙っていた。
「アリョーシャ、今すぐおれにとどめを刺してくれ!」と彼は急に叫びだした。「あれはもうすぐ来るかね、どうだね、聞かせてくれ! あれは何と言ったい? どう言ったい?」
「来るとは言いましたが、今日かどうかわかりません。あのひとも苦しいんですよ!」アリョーシャはおどおどした目つきで兄を見た。
「ふん、そりゃあたりまえだよ、苦しくなくってどうする! アリョーシャ、おれはそれを思うと気が狂いそうだ。グルーシャは始終おれを見ていて、おれの心持を悟っている。ああ、神様、私を落ちつかせて下さい。私は何を求めているのでしょう? おれはカーチャを求めているんだ! 一たいおれは正気なんだろうか? それはカラマーゾフ式の呪うべきがむしゃらのためだ! そうだ、おれは苦しむ資格のない男だ! みなが言うとおり、おれは陋劣漢なんだ! それっきりだ!」
「あ、あのひとが来ました!」とアリョーシャは叫んだ。
 この瞬間、カーチャがとつぜん閾の上に姿を現わした。と、たちまち彼女は途方にくれたような目つきで、ミーチャを見ながら立ちどまった。ミーチャはつと立ちあがった。その顔には驚愕の色が現われていた。彼はさっと蒼くなったが、すぐにおずおずした、哀願するような微笑が、唇の上に閃めいた。と思うと、彼はいきなりわれを忘れて、カーチャのほうへ両手を伸ばした。それを見ると、カーチャもさっと男のそばへ駈け寄って、男の両手をつかみ、おしつけるように寝台の上に腰をおろさせ、自分もそのそばに坐った。彼女はいつまでもその手を放さないで、しっかりと痙攣的に握りしめた。二人は幾度か何やら言いだそうとしては、またやめて、じっと黙ったまま、妙な微笑を浮べながら、吸い着けられでもしたように、互いに顔を見合せていた。こうして、二分間ばかり過ぎた。
「赦してくれたのかね、どうだね?」ミーチャはついにこう呟いた。と、同時にアリョーシャを顧みて、嬉しさのあまり顔を歪めながら叫んだ。
「お前にはわかるだろうね、おれが何を訊ねてるか! わかるだろう?」
「だから、わたしはあなたを愛したのよ、あなたはほんとに寛大な人なんですもの!」突然、カーチャはこう叫んだ。「それに、わたしがあなたを赦すことなんかありませんわ。かえってわたしこそ、あなたに赦していただかなくちゃならないんですもの。でも、赦されても赦されなくっても、――あなたって人は、わたしの心の中で、永久に傷あととして残りますわ。そして、わたしもやはりあなたの心の中にね、――そうなくちゃなりませんわ……」
 彼女は息をつぐために言葉を切った。
「わたし何のために来たんでしょう?」彼女はまた興奮して、早口に言いはじめた。「あなたの膝に縋りつくためですわ、あなたの手を握りしめるためですわ。こんなに堅く、痛いほど、――ね、憶えてらして? モスクワでも、こんなにあなたの手を握りましたわね、――そして、また、あなたがわたしの神様で、わたしの喜びだってことを、また改めて言うためですわ、わたしが気ちがいになるほどあなたを愛してるってことを、あなたに言うためなんですわ。」彼女は苦しげに、呻くようにこう言って、いきなり貪るように、男の手に唇をおしつけた。
 彼女の目からは涙がほとばしり出た。アリョーシャは無言のまま、ばつの悪そうな様子で立っていた。彼はいま目の前に見たようなことが起ろうとは、夢にも予期していなかったのである。
「ミーチャ、恋は過ぎ去りましたわ!」とまたカーチャは言いだした。「けれど、その過ぎ去った思い出が、わたしには苦しいほど大切なのよ。このことはいつまでも憶えていてちょうだい。けども、今ほんの一分間だけ、できるはずでできなかったことを、実現さしてもいいわねえ」と彼女は歪んだような微笑を見せながら囁いて、また悦ばしそうにミーチャの顔を見た。「今ではあなたもほかの女を愛してらっしゃるし、わたしもほかの男を愛していますけど、それでもわたしはやはり、永久にあなたを愛しますし、あなたもわたしを愛して下さるわね。わかって? ねえ、わたしを愛してちょうだいな、一生涯愛してちょうだいな!」何かほとんど威嚇するように声をふるわしながら、彼女はこう叫んだ。
「愛するよ、そしてね……知ってるかい、カーチャ」とミーチャは一ことごとに息をつぎながら言った。「僕は五日前のあの時も、あの晩も、お前を愛していたんだよ……お前が卒倒して連れ出されたあの時さ……一生涯! そうだとも、一生涯かわりゃしない……」
 彼ら二人はほとんど無意味な、気ちがいじみたことを囁き合った。その言葉は正直でなかったかもしれない。が、少くともその瞬間だけは真実であった。彼ら自身も自分の言葉をたあいもなく信じていた。
「カーチャ」とミーチャはふいに叫んだ。「お前は僕が殺したと信じているのかね? いま信じていないことはわかっているが、あの時……お前があの証言をした時さ……一たい、一たいあの時そう信じていたのかい?」
「あの時も信じてやしなかったわ! 一度も信じたことはないわ! あなたが憎くなったものだから、急に自分で自分にそう信じさせてしまったの、あの瞬間にね……申し立てをした時には……一生懸命そう信じようとして信じたけれど……申し立てを終ると、もうすぐ信じられなくなってしまったのよ。本当よ。ああ、忘れていた、わたしは自分を罰しようと思って、ここへ来たのに!」彼女は急に今までの恋の囁きとはうって変った、まるで新しい口調でこう言った。
「女よ、なんじの苦痛や大ならん!」とミーチャはわれ知らず口走った。
「もうわたしを帰してちょうだい」と彼女は囁いた。「また来ますわ、今は苦しくって……」
 彼女は立ちあがったが、突然あっと高く叫んで、たじたじと後へしさった。ふいにグルーシェンカが音も立てず、部屋の中へ入って来たのである。それは誰しも思いがけないことであった。カーチャはつかつかと戸口のほうへ行ったが、グルーシェンカとすれ違うとき、急に立ちどまった。そして、白墨のように真っ蒼になって、静かに囁くように言った。
「わたしを赦して下さいな!」
 こっちはじっとカーチャを見つめていたが、ちょっと間をおいて、憎悪にみちた毒々しい語調で答えた。
「お互いに悪いのよ! お前さんもわたしも二人とも意地わるだからね! 赦すたって、どっちが赦すんだろう、お前さんなの、それともわたしなの? まあ、あの人を助けてちょうだい。そうすりゃ、わたしは一生涯、お前さんのために祈ってあげるわ。」
「お前は赦したくないと言うんだな!」ミーチャは気ちがいじみた声で、グルーシェンカをなじった。
「心配しないがいいわ、わたしきっとこの人を助けてあげるから!」カーチャはこう囁くと、いきなり部屋の外へ駈け出してしまった。
「お前はあれを赦してやることができないのか。あれのほうからさきに『赦してくれ』と言ったんじゃないか」とミーチャはまた悲痛な声で叫んだ。
「ミーチャ、このひとを責めちゃいけません。あなたにはそんな権利はないのです!」とアリョーシャは熱くなって兄に言った。
「あんなことを言ったのは、高慢な女の口さきばかりなのよ、しんからじゃないわ」とグルーシェンカは忌わしそうに言った。「もしお前さんを助け出したら、――そしたらすっかり赦してやるわ……」
 彼女は心の中の何ものかを抑えつけるように、そのままおし黙ってしまった。彼女はまだ平静に返ることができなかったのである。あとでわかったことだが、彼女はこの時まったく偶然に入って来たので、ああいうことに出くわそうとは、まるっきり予想しなかったのである。
「アリョーシャ、あれのあとを追っかけてくれ!」ふいにミーチャは弟にこう言った。「そして、あれに言ってくれ……どう言ったものかなあ……とにかく、このままあれを帰さないでくれ!」
「晩までにまた来ますよ!」アリョーシャはこう言って、カーチャのあとを追って行った。
 彼は病院の塀外でカチェリーナに追いついた。彼女は急ぎ足に歩いていたが、アリョーシャが追いつくやいなや、早口に言いだした。
「いいえ、わたしあの女の前で自分を罰することなんかできません! わたしがあの女に『赦して下さい』と言ったのは、どこまでも自分を罰しようと思ったからですわ。それだのにあの女は赦してくれません……わたし、あの女のああいうところが好きですわ!」とカーチャはいびつな調子でつけ加えた。その目はなまなましい憎悪に輝いた。
「兄はこんなことになろうとは、夢にも思わなかったのです」とアリョーシャは呟いた。「兄はあのひとが来やしないと思ったので……」
「それはそうでしょう。ですが、そんな話はもうよしましょう」と彼女は遮った。「ねえ、わたしもうあの葬式へ、ご一緒に行くことができなくなりましたわ。わたしはお供えの花だけ届けておきました。お金はまだあるでしょうね。でも、もし入り用でしたら、わたしはさきざき決してあの人を捨てないって、そう言ってちょうだいね……さあ、もうお別れしましょう、さあ、どうか行って下さい。あなたももう遅くなりましたわ、午後の祈祷の鐘が鳴っています……どうか行って下さい!」

[#3字下げ]第三 イリューシャの埋葬[#「第三 イリューシャの埋葬」は中見出し]
[#6字下げ]アリョーシャの別辞[#「アリョーシャの別辞」は中見出し]

 実際もう遅かった。向うではみんな彼を待っていたが、とうとう待ちきれなくなって、花で飾られた綺麗な柩を、会堂へ運ぶことに決めていた。それは哀れな少年イリューシャの柩であった。彼はミーチャが宣告されてから、二日たって死んだのである。アリョーシャが門のそばまで行くと、イリューシャの友達の子供らは、歓呼の声をあげて出迎えた。長い間まちあぐんでいた一同は、彼が来たのを非常に喜んだのである。少年たちは十二人ばかり集っていたが、みな背嚢を負い、鞄をかけていた。『お父さんがさぞ泣くだろう。どうかお父さんのそばにいてあげてちょうだい。』イリューシャがかつてみなにこう言ったことがあるので、彼らはこの言葉をおぼえていたのである。少年たちはコーリャ・クラソートキンに引率されていた。
カラマーゾフさん、僕はあなたが来て下すったので、どんなに嬉しいかしれませんよ!」とコーリャはアリョーシャに手をさし伸べながら叫んだ。「この家は実に悲惨ですね。まったく見ていられないくらいですよ。スネギリョフも今日は酔っていませんよ、あの人がきょう少しも飲まなかったのは、僕たちもちゃんと知っているんだけど、あの人はまるで酔っ払いみたいです……僕大ていのことなら驚かないけれど、これは本当に恐ろしい。カラマーゾフさん、もしご迷惑でなかったら、一つ訊いておきたいことがあるんですよ、あなたが家へお入りになる前にね。」
「コーリャ、それは何のこと?」アリョーシャはちょっと立ちどまった。
「あなたの兄さんは罪があるんですか、それともないんですか? お父さんを殺したのは、兄さんですか? 下男ですか? 僕たちはあなたのおっしゃることを本当にします、話して下さい。僕はこのことを考えて、四晩も眠らなかったんですよ。」
「下男が殺したんです。兄に罪はありません」とアリョーシャは答えた。
「僕もそうだと思ってるんです!」スムーロフという少年が、だしぬけにこう叫んだ。
「そうしてみると、あの人は正義のために、無辜の犠牲として滅びるんですね」とコーリャは叫んだ。「でも、たとえ滅びても、あの人は幸福です! 僕はあの人を羨ましく思います!」
「君は何を言うんです? どうしてそんなことが? 何のためです?」とアリョーシャはびっくりして叫んだ。
「でも、僕はいつか正義のために、自分を犠牲にしたいと思ってるんですもの」とコーリャは狂熱的にそう言った。
「しかし、こんなことで犠牲になるのは、つまりませんよ、こんな恥さらしな、こんな恐ろしい事件なんかで!」とアリョーシャは言った。
「むろん……僕は全人類のために死ぬことを望んでるんです。でも、恥さらしなんてことは、どうだってかまいません、僕らの名なんか、どうなったってかまやしない。僕はあなたの兄さんを尊敬します!」
「僕も尊敬します!」ふいに群の中の一人がこう叫んだ。それは、かつてトロイの創建者を知っていると言った、あの少年であった。彼はこう叫ぶと同時に、やはりあの時のように、耳のつけ根まで牡丹のように赤くなった。
 アリョーシャは部屋へ入った。白い紗で飾られた空色の柩の中には、両手を組み合せ、目を閉じたイリューシャが横になっていた。その顔はやつれていたが、死ぬ前とほとんど変りがなかった。そして、不思議なことには、死骸からほとんど臭気が発しなかった。顔には厳粛な、もの思わしげな表情が浮んで、十文字に組み合された、さながら大理石で刻んだような手は、ことに美しく見えた。その手には花が持たせてあった。それに、棺の内側も外側も、きょう早朝リーザ・ホフラコーヴァが送って来た花で、一面に飾られてあった。そのほか、カーチャからも花が贈られていた。アリョーシャが戸を開けた時、二等大尉はふるえる手に花束を持って、大事な子供の死体の上にふり撒いていた。彼はアリョーシャの入って来るのさえ、ほとんど見ることができなかった。それに、彼は誰も見たくなかったのである。しくしく泣いている気ちがいの『おっ母さん』(妻)さえ見まいとした。彼女は痛む脚で立ちあがり、死んだ子供をそば近く見ようと骨折っていた。ニーノチカは椅子に腰かけたまま、少年たちにささえられて、柩のそばへ間近く寄った。彼女は腰かけたまま、死んだ弟に頭を押しつけて、やはり静かに泣いているらしかった。スネギリョフは活気づいたような顔つきを装うていたが、しかしどうやらぼんやりとして、同時にまたいらいらしているようでもあった。彼の身ぶりも、ときどき口走る言葉も、なかば気ちがいじみていた。『坊や、可愛い坊や!』彼はイリューシャを見ながら、間断なくこう叫ぶのであった。彼は、イリューシャがまだ生きている時分から、『坊や、可愛い坊や!』と言って、愛撫する慣わしだったのである。
「お父さん、わたしにも、花をちょうだい。あの子が手に持っているあの白い花を取って!」気ちがいの『おっ母さん』はすすり泣きながら叫んだ。イリューシャの手に持たせてある白い薔薇の花が、ただ無上に気に入ったのか、それとも記念のために取っておきたいと思ったものか、いずれにしても、彼女は身をもだえながら花のほうへ手を伸ばした。
「誰にもやらん、何にもやらん!」とスネギリョフはつっけんどんに叫んだ。「この花はあれのものだ、お前のものじゃない。何もかもみなあれのものだ。お前のものは一つもありゃせん!」
「お父さん、おっ母さんに花をあげてちょうだい!」ニーノチカは涙に濡れた顔を上げてそう言った。
「何にもやりゃせん。おっ母さんには、なおさらやらん! おっ母さんはあれを可愛がらなかったんだもの。あの時なんか、あれの大砲を取り上げたじゃないか。でも、あれは、素直におっ母さんにやったっけなあ。」イリューシャが、あのとき譲歩して、自分の大砲を母親に渡したことを思い出すと、二等大尉は急にすすり泣きをはじめた。憐れな狂女も両手で顔を蔽いながら、静かにさめざめと泣きだした。父親がいつまでも柩のそばを離れようとしないのに、早くも時刻が迫ったのを見ると、少年たちは柩のそばへ一塊りに集って、みんながかりでそれを持ち上げはじめた。
「わしは柵の中に葬りたくないんだ!」とスネギリョフはだしぬけに叫んだ。「石のそばに葬るんだ。わしたちの石のそばへ! イリューシャがそうしろって言ったんだ。墓場へ持って行かせやしない!」
 彼はもう三日も前から、石のそばへ葬ると言いつづけているのであった。けれど、アリョーシャや、クラソートキンや、あるじの老婆や、老婆の妹や、少年たち一同がそれに反対したのである。
「まるで首縊りのように、穢らわしい石のそばに葬ろうなんて、何という料簡だね」とあるじの老婆は威丈高になって言った。「その柵の中には、ちゃんと墓場があるじゃないか。あそこに葬られりゃ、みんなにお祈りがあげてもらえるというもんだ。会堂から讃美歌が聞えるし、助祭さんがあげて下さる有難い立派なお経も、毎日イリューシャの耳に届くから、まるであれの墓のそばで読んでもらってるようなもんじゃないかね。」
 二等大尉はとど手を振って、『じゃ、どこへなと持って行きなさい!』と言った。少年たちは柩を持ちあげたが、母親のそばを通る時に、ちょっと立ちどまって、床へおろした。それは、母親にイリューシャと告別させるためであった。この三日間、しじゅう離れたところからイリューシャを見ていた彼女は、今すぐそばで大事なイリューシャの顔を見ると、体じゅうふるわして、ヒステリックに白髪頭を振りはじめた。
「おっ母さん、イリューシャに十字を切って祝福してやってちょうだい、接吻してやってちょうだい」とニーノチカは母親に叫んだ。けれども、母親はおし黙ったまま、自動人形か何かのように、頭を前後に振りつづけていた。その顔は、烙けつくような悲しみのために、歪んで見えた。と、ふいに彼女は自分の胸を拳で叩きはじめた。柩は運び去られた。ニーノチカは柩が自分のそばを通るとき、死んだ弟の唇に最後の接吻をした。アリョーシャは部屋を出る時、あるじの老婆に向って、残っている人たちに気をつけてくれるように頼もうとしたが、婆さんはみなまで言わせなかった。
「わかってますよ、あの人たちのことは引きうけましたよ。わたしもキリスト教徒ですからね。」そう言って、老婆は泣いた。会堂まではさほど遠くなく、僅か三百歩ばかりのものであった。はればれとした静かな日で、少し凍《いて》気味であったが、大したこともなかった。式の始まりを告げる鐘の音は、まだ鳴り渡っていた。スネギリョフは喪心したようなふうで、あたふたと柩のあとについて走った。彼は古ぼけた夏着のような短い外套を着ていた。鍔広の古いソフトは、被らないで手に持っていた。彼は何やら深い思案にくれてでもいるように、急に手を伸ばして柩を持とうと、担ぎ手の邪魔をしたり、あるいは柩の側を駈け廻って、どこかに居場所を決めようとしたりした。花が一つ雪の上に落ちた。すると彼は、この花を失うことに何か大変ふかい意味でもあるかのように、駈け出してそれを拾い上げた。
「あ、パンを、パンを忘れて来た。」彼はひどくびっくりして、だしぬけにこう叫んだ。けれど、少年たちはすぐそれに応じて、パンはちゃんと自分で持って来て、かくしの中へ入れてあると教えた。彼はいきなり、それをかくしから引っ張り出して、本当に持って来たことを確かめると、やっと安心した。
「イリューシャがそう言ったんですよ、イリューシャが」と彼はさっそくアリョーシャに説明した。「ある晩、私があの子の寝台のそばに腰かけていますとな、あれは急に、『お父さん、僕の墓に土をかけるとき、墓の上にパンの粉を撒いて、雀が飛んで来るようにして下さい。雀が飛んで来たら、僕は一人ぼっちでないことがわかって嬉しいから!』って言うんですよ。」
「それは、非常にいいことです」とアリョーシャは言った。「しじゅう持って行ってやるといいですね。」
「毎日もって行きましょう、毎日!」二等大尉はすっかり活気づいて、こう呟いた。やがて、一行は会堂へ着いて、その真ん中に柩をおろした。少年たちは棺のまわりを取り巻いて、勤行の間じゅう、じっと行儀よく立っていた。それは古い、しかもかなり貧しい会堂で、聖像も多くは金銀の飾りがとれていた。けれど、こういう会堂のほうが、かえって祈りをするにふさわしいものである。祈祷式の間は、スネギリョフもいくらか静かになったが、やはりときおり、われともなしに意味のない焦躁におそわれた。柩の側に寄って、棺かけや花環を直すかと思うと、今度は、燭台から蝋燭が一本落ちたのを見ると、慌しく駈け寄って、もとのところへ立てるために、長い間こそこそしたりした。その後やがてすっかり落ちついて、鈍い不安と怪訝の色を顔に浮べながら、おとなしく死者の枕べに立っていた。使徒行伝が読み上げられた後、彼はとつぜん、自分のそばに立っているアリョーシャに向って、使徒行伝は『こんな読み方をするものではない』と囁いた。しかし、なぜかそのわけは言わなかった。小天使の聖歌が始まると、彼はそれについて一緒に歌っていたが、歌い終らぬうちに跪き、会堂の石畳に額をすりつけたまま、かなり長い間ひれ伏していた。いよいよ埋葬の祈祷が始まって、人々に蝋燭が渡されると、自失していた父親は、またあたふたしだした。悲愴な理葬の聖歌は、さらに激しい感動を彼の心に与えた。彼はにわかに体を縮めたようになって、小刻みにしくしく泣きはじめた。初めは声をひそめていたが、しまいには大きな声ですすり泣きをはじめた。最後に、一同が別れの接吻をして、棺の蓋をしようとすると、彼は亡き愛児の姿を隠させまいとでもするように、イリューシャの死骸の上に掩いかかって、抱きしめながら、その唇を貪るようにのべつ接吻した。人々はようやく彼を説き伏せて、階段からおろそうとしたが、そのとき彼は急に両手をぐいと伸ばして、棺の中から幾つかの花を掴み出した。彼はじっとその花を見ていたが、ふとある新しい想念が脳裏に宿って、そのために一とき肝腎なことを忘れたようなふうであった。彼は次第にもの思いに沈んできたらしく、人々が柩を墓場のほうへ運び出した時は、もうそれを妨げようとしなかった。
 墓は会堂のすぐそばの柵の中にあった。その高価な地代は、カチェリーナが払ったのである。型のごとく儀式がすむと、穴掘りたちが棺を穴の中へおろした。と、スネギリョフが手に花を持ったまま、低く身を屈めて、穴の中を覗き込んだので、少年たちは驚いて外套を掴んであとへ引き戻した。が、彼はもう何か何やら、一さい夢中のように見えた。人々が墓に土をかけはじめると、彼は急に気づかわしげに、落ちて行く土を指さしながら、何やら呟きはじめた。が、何を言ってるのやら、誰にもわからなかった。しかし、また急におとなしくなった。そのとき人々は彼に向って、例のパンを撒くように注意した。すると、彼はやたらにあわてながら、パンを取り出し、引きちぎっては墓の上に撒きはじめた。『さあ、小鳥よ、飛んで来い、さあ、雀よ、飛んで来い!』と彼はそわそわした調子で呟いた。子供のうちの誰かが、花を持っていてはパンをむしりにくかろうから、ちょっと誰かに持たせたらいいだろうと注意したが、彼はそれを渡すどころか、まるで誰かが取ってしまおうとでもしたように、ひどく警戒しはじめた。もう墓ができあがってしまい、パンの切れも撒かれたのを確かめると、彼は急に思いがけなく、しかもきわめて悠々と踵を転じて、家のほうへ向けて歩きだした。とはいえ、彼の歩調は一歩ごとにだんだん忙しくなって、しまいには、駈け出さないばかりに急ぎはじめた。少年たちとアリョーシャは、離れずにその跡からついて行った。
「おっ母さんに花をやろう、おっ母さんに花をやろう! さっき、あんなに恥をかかしたりして」と、彼は急に叫びだした。誰かが、帽子を被らないといけない、もう寒いからと注意したが、彼はそれを聞くと、いかにも腹立たしそうに、雪の上に帽子を投げつけて、『帽子はいらん、帽子はいらん!』と言いだした。スムーロフはその帽子を拾って、あとからついて行った。少年たちはみな一人残らず泣きだした。ことにコーリャと、トロイの創建者を知っている例の少年とが、一等はげしく泣いた。スムーロフも大尉の帽子を持ちながら、おいおい泣いていた。が、それでもほとんど駈け出さないばかりに歩きながら、ふと路傍の雪の上に赤く見えている煉瓦のかけらを拾い上げて、さっと飛びすぎた雀の群に投げつけるだけの余裕はあった……むろん、それはあたらなかった。彼は泣きながら走りづつけた。ちょうど半分道ばかり来た頃、大尉はまたふと足をとめて、ある想念に打たれたように、ちょっと佇んでいたが、急に会堂のほうへ振り返り、いま見棄てて来た墓をさして駈け出した。少年たちはすぐに追いついて、四方から彼にとり縋った。と、彼は打ち負かされた人のように、力なく雪の上へ倒れ、体をふるわせたり、叫んだり、すすり泣いたりしながら、『坊や、イリューシャ、可愛い坊や』と叫びはじめた。アリョーシャとコーリャは彼を抱き起して、慰めたり、すかしたりした。
「大尉、もうおよしなさい。男は我慢しなけりゃなりません」とコーリャは呟いた。
「花を台なしにしてしまいますよ」とアリョーシャも言った。「『おっ母さん』が花を待っていますよ。あのひとはじっと坐ったまま、――さっきイリューシャの花をもらえなかったので泣いています。家にはまだイリューシャの寝床が残っていますよ……」
「そう、そう、おっ母さんのとこへ行かなけりゃ」とスネギリョフは急にまた思い出した。「寝床を片づけられてしまう、片づけられてしまう!」彼は、もう本当に片づけられてしまうもののように、びっくりしてこう言うとともに、つと立ちあがって、家のほうへ駈け出した。
 もう家までは遠くなかった。一同は大尉と一緒に駈けつけた。大尉は大急ぎで戸を開けると、ついさっき非道に言い争った妻に叫んだ。
「おっ母さん、大事なおっ母さん、イリューシャがお前に花をよこしたよ、可哀そうに、お前は足が悪いんだからな!」彼はそう言って、たったいま雪の中に倒れた時、くちゃくちゃに折れて凍りついた花束を、彼女のほうへさし出した。
 ちょうどこの瞬間、彼は亡きわが子の寝床の側の片隅に、イリューシャの靴がきちんと行儀よく並べられてあるのを見た。それはたった今あるじの老婆が揃えたもので、赤茶けた、つぎはぎだらけの、古い破れ靴であった。それを見ると、いきなり両手を上げてそのそばへ駈け寄り、どうと膝をついて片足をとりあげ、唇を押しつけて、貪るように接吻しながら叫んだ。
「坊や、イリューシャ、可愛い坊や、お前の足はどこへ行ったのだ?」
「お前さんはあれをどこへ連れて行ったの? お前さん、どこへあれを連れて行ったの?」狂せる大尉の妻ははらわたを裂くような声でこう叫んだ。
 この時ニーノチカもとうとう泣きだした。コーリャは部屋の外へ駈けだした。それにつづいて、ほかの子供たちも外へ出た。一番あとからとうとうアリョーシャもすべり出た。
「思う存分、泣かせておくがいいんです」と彼はコーリャに言った。「もうとても慰めようはありませんよ。しばらく待ってから、部屋へはいりましょう。」
「そうです、とても駄目です。ああ、恐ろしい」とコーリャも合槌を打った。「ねえ、カラマーゾフさん。」彼は誰にも聞えないように、急に声を低めてこう言った。「僕は悲しくってたまりません。もしイリューシャを生き返らせることができれば、この世にありたけのものを投げだしても、僕惜しくないんだけど!」
「ああ、私もそう思いますよ」とアリョーシャは言った。
カラマーゾフさん、あなたのお考えはどうです。僕たちは、今晩ここへ来なくってもいいでしょうか? 大尉はまためちゃめちゃに飲みますよ?」
「どうもやりそうですね。じゃ、私たち二人だけで来ましょう。二人であの人たちのそばに、――おっ母さんやニーノチカのそばに、一時間もいてやったら、それでいいでしょう。みんなしてどやどややって来ると、またあの人たちはイリューシャを思い出しますからね」とアリョーシャは注意した。
「今あそこで家主の婆さんが、食卓の支度をしているようです、――おおかた、法事でも始まるんでしょう、坊さんも来るそうですから。カラマーゾフさん、僕たちは今あそこへ行ったものでしょうか、どうでしょう?」
「ぜひ行かなけりゃなりませんね」とアリョーシャは言った。
「だけど、妙ですね、カラマーゾフさん、こんな悲しいとき、だしぬけに薄餅《ブリン》なんか出すなんて。われわれの宗教から言っても、不自然なことじゃありませんか。」
「あそこには、鮭も出ていますよ。」トロイの創建者を知っていた少年が、だしぬけに大声でこう言った。
「僕は真面目で君に頼むがね、カルタショフ君、もうそんな馬鹿なことを言って、口を出さないでくれたまえ。ことに、誰も君に話もしかけなければ、君がこの世にいるかどうか、知ろうともしないような時には、なおさら黙っていてくれたまえ。」コーリャは腹立たしそうに彼のほうへ向いて、ずばりと断ち切るように言った。
 少年はかっと赤くなったが、何とも返事ができなかった。そうこうするうち、一同は静かに径をそぞろ歩いていた。と、ふいにスムーロフが叫び声を上げた。
「これがイリューシャの石です。この下に葬りたいと言ったんです!」
 一同は無言のまま、その大きな石のそばに立ちどまった。アリョーシャはその石を見た。と、かつてスネギリョフが物語ったイリューシャの話、――イリューシャが父親に抱きつき泣きながら、『お父さん、お父さん、あの男は本当にお父さんをひどい目にあわしたのね!』と叫んだという話をした、――その時の光景が、たちまちアリョーシャの記憶に浮んだ。何ものか彼の心の中でふるえ動いたような気がした。彼は真面目なものものしい様子をして、イリューシャの友達の愛らしい、はればれした顔を見まわしながら、だしぬけにこう言った。
「みなさん、私はここで、――この場で、みなさんにちょっと言っておきたいことがあります。」
 少年たちはアリョーシャを取り囲み、さっそく待ち構えるような表情を目に浮べながら、じっとアリョーシャを見つめた。
「みなさん、私たちは近いうちにお別れしなければなりません。私が二人の兄たちと一緒にいるのは、もうわずかの間になってしまいました。一人の兄は追放されようとしているし、も一人のほうは瀕死の病床に横たわっています。ですが、私は間もなくこの町を立って行きます。たぶん、長いこと帰って来ないだろうと思います。ですから、みなさん、私たちはもうお別れしなければならないのです。で、私たちはイリューシャの石のそばで、第一にイリューシャを、第二にお互いのことを、決して忘れないという誓いをしましょう。私たちは今後、一生涯、たとえどんなことが起っても、またたとえ二十年を会わなくっても、あの憐れな少年をここで葬ったことを、忘れないようにしましょう、――彼は以前あの橋のそばで石を投げつけられたけど(ね、憶えているでしょう)、あとではみなから愛されるようになりました。彼は立派な少年でした。善良な勇敢な少年でした。彼は自分の名誉と父親の恥辱を感じて、そのために奮然と立ったのです。で、諸君、第一に、私たちは――生涯かれを忘れないようにしましょう。私たちはたとえ重大な仕事で忙しい時にも、――名誉をかち得た時にも、あるいはまた大きな不幸におちいった時にも、とにかくいかなる時においても、かつてこの町でお互いに善良な感情に結び合されながら、あの憐れな少年を愛することによって、私たちが実際以上立派な人間になったことを、決して忘れないようにしましょう、可愛らしい小鳩、――どうか諸君を小鳩と呼ばせて下さい。なぜって、今わたしが諸君の善良な可愛い顔を見ていると、あの黒みがかった空色の鳥を思い出させられるからです、――可愛いみなさん、みなさんには私の言うことがわからないかもしれません。私はときどき大へんわかりにくいことを言うから。しかし、それでもみなさんはいつか私の言葉を思い出して、合点されることがありましょう。総じて楽しい日の思い出ほど、ことに子供の時分、親の膝もとで暮した日の思い出ほど、その後の一生涯にとって尊く力強い、健全有益なものはありません。諸君は教育ということについて、いろいろやかましい話を聞くでしょう。けれど、子供の時から保存されている、こうした美しく神聖な思い出こそ、何よりも一等よい教育なのであります。過去にそういう追憶をたくさんあつめたものは、一生すくわれるのです。もしそういうものが一つでも、私たちの心に残っておれば、その思い出はいつか私たちを救うでしょう。もしかしたら、私たちは悪人になるかもしれません。悪行を退けることができないかもしれません。人間の涙を笑うようになるかもしれません。さっきコーリャ君が、『すべての人のために苦しみたい』と叫ばれましたが、あるいはそういう人に向って、毒々しい嘲笑を浴びせかけるようになるかもしれません。むろん、そんなことがあってはならないが、もし私たちがそんな悪人になったとしても、こうしてイリューシャを葬ったことや、臨終の前に彼を愛したことや、今この石のそばでお互いに親しく語り合ったことを思い出したら、もしかりに私たちが残酷で皮肉な人間になったとしても、今のこの瞬間に私たちが善良であったということを、内心嘲笑するような勇気はないでしょう! それどころか、この一つの追憶が私たちを大なる悪から護ってくれるでしょう。そして、私たちは過去を顧みて、『おれもあの時分は善良だったのだ。大胆で潔白だったのだ』と言うことでしょう。もっとも、腹の中でくすりと笑うのはかまいません。人はえて立派ないいことを笑いたがるものです。それはただ軽薄な心の仕業です。けれども、みなさん、私は誓って言いますが、よしんば笑っても、すぐに心の中で、『いや、笑うのはよくない、これは笑うべからざることだから!』と言うに相違ありません。」
「それはまったくそうですよ、カラマーゾフさん、僕あなたのおっしゃることがわかります、カラマーゾフさん!」とコーリャは目を輝かして叫んだ。
 少年たちもがやがやと騒ぎだして、やはり何か叫ぼうとしたが、しかしやっと我慢して、感激したような目で、じっとアリョーシャを見つめていた。
「私がこんなことを言うのも、つまり、われわれが悪い人間になることを恐れるからなんです」とアリョーシャはつづけた。「けれど、われわれは何のために悪い人間になる必要がありましょう、みなさん、そうじゃありませんか? まず何より第一に、われわれは善良にならねばなりません。次に、正直にならねばなりません。次に、決しておたがい同士わすれてはなりません、私はまたこれを繰り返して言います。私は誓って言いますが、みなさん、私はみなさんを誰ひとりとして忘れやしません。今わたしを見ておられるその顔は、たとえ三十年たっても一つ一つ思い出します。さっきコーリャ君はカルタショフ君に向って、われわれは『カルタショフ君がこの世にいるかいないか』そんなことを知りたくもない、とか言われましたが、カルタショフ君がこの世におられることも、同君がトロイのことを言った時のような赤い顔をせずに、美しい善良な、そして快活な目で、今わたしを見ておられることなどが、どうして忘れられましょう? 諸君、わが愛すべき諸君、われわれはみんなイリューシャ君のように、寛大かつ勇敢になりましょう。コーリャ君のように利発で、勇敢で、寛大になりましょう(もっとも、同君は将来もっと賢くなられることでしょうが)。またカルタショフ君のように羞恥心に富むとともに、利口で愛らしくなりましょう。しかし、私はこの二人のことだけ言うのではありません! 諸君、諸君はいずれもみんな今後、私にとって愛すべき人たちなのです。私は諸君を残らず自分の心の中へ入れましょう。だから、諸君もどうぞ私をめいめいの心の中へ入れて下さい! ですが、私たちが今後一生涯わすれないし、また忘れないつもりでいるこの立派な美しい感情の中は、私たちを結び合せてくれた人は、イリューシャ君でなくて誰でしょう。同君は善良な少年でしたい可愛い少年でした。われわれにとって永久に尊い少年でした! われわれは今後、永久に同君を忘れず、同君にわれわれの心のよき記憶を捧げようではありませんか、永久に変ることなく!」
「そうです、そうです、永久に、変ることなく。」子供たちはいずれも感動の色を満面にみなぎらして、朗らかに声高く叫んだ。
「あの顔つきも、あの着物も、あの破れた靴も、あの柩も、あの罪の深い不幸な父親も、あの少年が父親のために、勇ましく一人で全級に反抗したことも、すっかり憶えていましょう!」
「憶えていましょう、憶えていましょう!」と、少年たちはまた叫んだ。「あれは勇敢な子供でした、あれはいい子供でした!」
「ああ、僕はどんなにあの子が好きだったか!」とコーリャは叫んだ。
「ああ、諸君、ああ、可愛い親友、人生を恐れてはいけません! 何でも正直ないいことをした時には、人生がなんと美しいものに思われることでしょう!」
「そうです、そうです」と少年たちは感激の声を発して合槌を打った。
カラマーゾフさん、僕たちあなたが好きです!」こらえきれなくなったように、一つの声がこう叫んだ。それはカルタショフの声らしかった。
「僕たちあなたが好きです、僕たちあなたが好きです」と一同は繰り返した。その目には涙が輝いていた。
カラマーゾフ万歳!」とコーリャは歓喜にたえぬように叫んだ。
「そして、なくなった少年を永久に記憶しましょう!」アリョーシャは情のこもった声で、こうつけ加えた。
「永久に記憶しましょう!」とさらに少年たちが引き取った。
カラマーゾフさん!」とコーリャは叫んだ。「僕たちはみんな死からよみがえって命を得て、またお互いに見ることができるって、――どんな人でも、イリューシャでも見ることができるって、宗教のほうでは教えていますが、あれは本当でしょうか?」
「きっとわれわれはよみがえります。きっとお互いにもう一ど出会って、昔のことを愉快に楽しく語り合うでしょう。」アリョーシャはなかば笑いながら、なかば感動のていで答えた。
「ああ、そうなればどんなに嬉しいだろう!」とコーリャは思わず口走った。
「さあ、もう話をやめて、イリューシャの法事に行きましょう。そして、心配しないで薄餅《ブリン》を食べましょう。昔からしきたりの旧い習慣ですからね、そこに美しいところがあるんですよ。」アリョーシャは笑った。「さあ、行きましょう! これから私たちはお互いに手を取り合って行くんですよ。」
「永久にそうしましょう、一生、手を取り合って行きましょう! カラマーゾフ万歳!」もう一度コーリャが感激したように叫ぶと、ほかの少年たちはふたたびその叫びに和した。
[#地から1字上げ](おわり)



底本:「決定版 ドストエーフスキイ全集 第十二巻」河出書房新社
   1959(昭和34)年5月10日第2次第1刷発行
   「決定版 ドストエーフスキイ全集 第十三巻」河出書房新社
   1959(昭和34)年6月10日第2次第1刷発行
※「駆」と「駈」の混在は、底本通りです。
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