『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P328-P359

決を下して、いやが上にその声を挑発し、ますます高まりつつあるその憎悪を受くるなからんことを!………」
 一言につくすと、イッポリートは非常に熱してはいたけれど、十分|感動的《パセチック》に論を結ぶことができた。実際、彼が聴衆に与えた印象はすばらしいものであった。彼自身はその論告を終ると、急いで法廷から出て行った。そして、前にも述べたとおり、別室で危く卒倒するところであった。法廷では誰ひとり喝采するものがなかったけれど、真面目な人たちはいずれも満足を表していた。ただ婦人たちはあまり満足もしなかったが、それでも検事の雄弁には感心していた。ことに、その論告の結果を少しも恐れないで、ただフェチュコーヴィッチにすべての期待を繋いでいたので、『いよいよあの人が弁護をはじめれば、むろんすっかり大勝利に相違ない!』と安心していたのである。人々はみなミーチャを眺めた。彼は両手を握りしめ、歯を食いしばってうつ向いたまま、検事の論告が終るまでじっと黙っていた。でも、どうかすると頭を持ちあげて、耳をそばだてることもあった。ことにグルーシェンカの名が出る時には、必ずそうするのであった。検事が彼女に関するラキーチンの意見を伝えた時、彼の顔には軽蔑と、憤怒の微笑が浮んだ。彼は十分聞えるくらいな声で、『ベルナール!』と口走った。検事がモークロエの訊問で、ミーチャを苦しめたことを述べた時、彼は頭を持ちあげて、烈しい好奇の表情を浮べながら耳をすました。論告中のある個所では、跳りあがって何か叫ぼうとさえしたが、やっと自分を抑えて、たださげすむように肩をそびやかすのみであった。あとで当地の人々はこの論告の終結、一ことに検事がモークロエで被告を訊問した時の手柄話を噂して、『あの男とうとう我慢ができないで、自分の手ぎわを自慢しやがった』とイッポリートを冷笑した。裁判長は一時休憩を宣したが、それもほんの僅か十五分か、たかだか二十分であった。傍聴者の間には、話し声や叫び声が響きだしたが、筆者は次のような対話を記憶している。
「しっかりした論告ですね!」あるグループの中で、一人の紳士が気むずかしそうにこう言った。
「だが、あまり心理解剖が盛りだくさんだったようですね」と別の声が答えた。
「しかし、何もかもあのとおりですよ、絶対に真実ですよ!」
「そう、あの人は名人ですね。」
「総じめをつけましたね。」
「われわれにも、われわれにも総じめをつけましたよ」と第三の声が割ってはいった。「論告のはじめに、われわれもみんなフョードルのようなものだと言ったじゃありませんか。」
「論告の終りもそうでしたよ。だが、あれはほらです。」
「それに、曖昧な点がだいぶありましたね。」
「ちょっこり熱しすぎましたな。」
「不公平ですよ、不公平ですよ。」
「いや、そうじゃない、とにかく巧みなものです。長いあいだ言おう言おうと思っていたことを、とうとう吐き出したのですからな、へっ、へっ!」
「弁護士は何と言うでしょうね?」
 別のグループでは、こんなことを言っていた。
「だが、ペテルブルグから来た弁護士に、あんな厭味を言ったのは感心しませんな。『心を震撼するような感動に充ちた雄弁』だなんて、覚えてますか?」
「そう、あれは少々まずかった。」
「あせりすぎたんですよ。」
「神経家ですからね。」
「われわれはこうして笑っているが、被告の気持はどんなでしょう?」
「そう、ミーチャの気持はどうでしょうなあ?」
「だが、こんど弁護士はどんなことを言いますかね?」
 第三のグループでは、こう言っていた。
「あの端に腰かけている、柄つき眼鏡をもった、でっぷりした奥さんは誰だい?」
「ある将軍の夫人で、離婚したんだよ、僕はよく知ってるんだ。」
「道理で、柄つき眼鏡なんか持ってると思った。」
「すべたさ。」
「いや、なに、ちょいと味のある女だ。」
「あの女から二人おいた隣に、ブロンドの女が腰かけてるだろう。あのほうがいいよ。」
「だが、あの時モークロエでは、うまくミーチャの尻尾を押えたもんだね、え?」
「うまいことはうまいが、またぞろあの話を持ち出すんだからな。だって、検事はあのとき何遍となく、軒別に吹聴して歩いたじゃないか。」
「今も言わずにいられなかったのさ。うぬぼれの強い男だからね。」
「なにしろ不遇な人だな、へっへっ!」
「くやしがりだよ。あの論告も修辞が多くって、句が長すぎたよ。」
「そして、嚇かすんだ、あのとおりすぐ嚇かすんだ、トロイカのくだりを覚えているかい。『あちらにはハムレットがいるが、こちらにはまだ当分カラマーゾフがいるばかりだ!』なんて、うまいことを言ったもんだな。」
自由主義にちょっと厭がらせを言ったわけなのさ。怖がっているからね!」
「それに、弁護士も怖いんだよ。」
「そう。フェチュコーヴィッチ君はどんなことを言うかね?」
「どんなことを言ったにしろ、ここの百姓の目をさますことなんかできやしないよ。」
「君はそう思うかい?」
 第四のグループでは、
「だが、トロイカのことはなかなか立派に喋ったよ。つまり、あのよその国のことを言ったところさ。」
「よその国で辛抱しちゃいまいと言った、あすこのところなんかまったくだ。」
「それはどういうことだね?」
「先週のことだったが、英国の議会で一人の議員が立って、虚無党問題でわれわれロシヤ人を野蛮国民よばわりしたうえ、やつらを開化させるために、もういい加減干渉してもいい時期ではないかと、こう政府に質問したんだ。イッポリートはその議員のことを言ったんだよ。たしかに、その議員のことを言ったんだよ。あの男は現に先週そのことを言っていたからね。」
「だが、そりゃイギリスの山鷸連にとてもできることじゃないね。」
「山鷸連て何のことだい? どうしてできないんだい?」
「だって、われわれがクロンシュタットを閉鎖して、彼らに穀物を与えなかったら、一たいやつらはどこから手に入れるんだ?」
アメリカからさ。現にアメリカから輸入してるからね。」
「馬鹿なことを。」
 けれど、この時ベルが鳴ったので、一同は自席へ飛んで行った。フェチュコーヴィッチが壇に登った。

[#3字下げ]第十 弁護士の弁論 両刃の刀[#「第十 弁護士の弁論 両刃の刀」は中見出し]

 有名な弁護士の最初の一言が鳴り響くと、あたりはしんとしてしまった。傍聴者の目は一せいに彼の顔に食い入った。彼はきわめて率直な、確信に充ちた口調で直截に弁じだしたが、少しも傲慢なところはなかった。しいて言葉を飾ろうともしなければ、悲痛や語調や、感情に訴えるような句を用いようともせず、さながら同情を持った親密な人々の間で話しているような調子であった。彼の声は美しく、張りがあって、そのうえ情味もあった。そして、声そのものの中に、すでに誠意と率直とが響いていた。けれど、間もなく、弁護士が突如として、真の感傷的《パセチック》な心境に高翔して、『何か不思議な力をもって、みなの心を打つ』ということが、すべての人に理解された。彼の喋り方はイッポリートほど整然としていなかったかもしれないが、長文句がなくって、ずっと正確であった。ただ一つ婦人たちの気にいらなかったのは、弁護士が、――ことに弁論の初めに、――妙に背中を屈めていることであった。それは、べつにお辞儀をしているわけでもないけれど、まるで聴衆のほうへまっしぐらに飛んで行こうとでもするように、その長い背を中ほどから曲げていたので、ちょうど彼の細長い背の真ん中に蝶つがいでもあって、ほとんど直角に背を曲げることさえできそうに思われた。彼は初め散漫な調子で、事実をばらばらに掴んで来ながら、いかにも無系統らしく論じていたが、それでも結局、ちゃんと立派にまとまりがつくのであった。彼の弁論は二つの部分にわけることができた。前半は批判であり、起訴理由に対する反駁であって、時として意地のわるい皮肉が出た。けれど、後半になると、急に語調も論法も一変して、たちまち悲痛な高みへ昂翔した。満廷はそれを待ちもうけていたもののように、感激のあまりどよめきはじめた。弁護士はただちに問題へ入って、まず自分の活動舞台はペテルブルグにあるのだが、被告を弁護するためにロシヤの町々を訪れたのは、あえてこれが初めてではない、自分が弁護の労をとってやる被告は、みんな罪なき人間であると確信しているか、あるいは前もってそう予感しているか、二つのうちどちらかであると述べた。
「今度の事件もそうであります」と彼は説明した。「初めて新聞の通信を読んだそもそもから、私は被告の利益となるようなあるものに、ぱっと心を打たれました。つまり、私はまず何よりも、ある法律上の事実に興味を覚えたのであります。その事実は通常、裁判事件においてしばしば繰り返されるものでありますが、しかし今度の事件ほど完全に、しかも特殊な形相をもって現われたことは、珍しいと思います。この事実は弁論の終りに公表すべきものでしょうが、私はまず初めに述べておくことにいたします。なぜかと言えば、私は効果を隠さず、印象の経済を考えず、問題の中心に直往邁進するという、一つの弱みをもっているからであります。これは、私の立場から言うと、あるいは思わざるのはなはだしいものかもしれませんが、しかしその代り誠実なのであります。私の思想、信条はこういうのであります。つまり、被告を不利におとしいれる事実は、圧倒的に累積しているけれど、またそれと同時に、その事実を一つ一つ観察してみると、批判にたえ得るものは一つとしてない、ということであります。世間の噂を聞いたり、新聞を見たりするにつけて、私はいよいよこの信念を固くしました。そこへとつぜん被告の親戚から、弁護に来てもらいたいと招聘を受けたのであります。で、さっそく当地へ来てみますと、さらに一そう自分の信念を固めました。私がこの事件の弁護を引き受けたのは、この恐るべき事実の累積を打破するためです、すなわち起訴の理由となっている事実がことごとく証拠不十分で、かつ空想的なものであるということを、立証するためなのであります。」
 弁護士はこう言って急に声を高めた。
陪審員諸君、私は当地へ新たに来た人間です。したがって、私の受けた印象には、少しも先入見がありません。粗笨にして放縦な性格を有する被告も、かつて私を侮辱したことはありません。ところが、この町の多くの人々は、以前かれから非礼を受けているので、前もって被告に反感をいだいているわけであります。むろん、当地の人々の激昂が正当であることは、私とても承知しています。被告は乱暴で放縦な人間です。もっとも、かれ被告が当地の社交界にいれられていたことは事実です。すぐれた才幹を有しておられる起訴者の家庭などでも、むしろ愛されていたくらいであります。(Nota bene 弁護士がこう言った時、聴衆の間に二三嘲笑の声が聞えだ。もっとも、その声はすぐ押し殺されたが、それでも、一同の耳にはいった。当地の人は事情を知っていたが、検事はいやいやながらミーチャを出入りさしていたのであった。それは、検事の細君がなぜか彼に興味をもっていたからで。細君はきわめて徳行の聞え高い立派な婦人であったが、空想的でわがままな性分で、ときおり、――おもに些細なことで、――よく夫に楯突くことがあった。もっとも、ミーチャはあまり彼らの家を訪問しなかった。)が、それにもかかわらず、私はあえてこう申します」と弁護士は語をつづけた。「わが論敵は独立不羈の見識を有し、公明正大な性格を備えておられるにもかかわらず、わが不幸なる被告に対して、何か誤った先入見を蔵しておられるかもしれないのであります。むろん、それはさもあるべきことです。不幸なる被告がそれだけの報いを受けるのは、きわめて当然なことであって、傷つけられた徳義心、ことに審美心は、時として一切の妥協を許さないことがあります。むろん、われわれはこの光彩陸離たる論告において、被告の性格ならびに行為に対する鋭利な解剖を聞き、事件に対する峻厳なる批判態度を見ました。ことに、事件の真相説明のために開陳された深い心理解剖にいたっては、もし尊敬すべき論敵が被告の人格に対して、少しでも悪意をおびた意識的な偏見をもっておられたとすれば、とうてい望むことのできないほど深い洞察に充ちたものでありました。しかし、この場合、事件に対する意識的な悪意をおびた態度より以上に悪い、恐るべきものがあります。それは、例えて言うと、一種の芸術的、遊戯的本能に捉えられた時などです。すなわち芸術的創作の要求、いわば小説を作ろうとする要求なのです。ことに、神から心理的洞察力を豊富に授かっている場合は、なおさらであります。私はまだペテルブルグにあって、当地へ出発する前からすでに忠告されていました。いや、私自身だれの注意を受けないでも、当地で自分の反対側に立つ人が深刻精密な心理学者であり、この点において早くよりわが若き法曹界に、一種の令名を馳せておられる方であることを知っていました。けれど、諸君、心理解剖はきわめて至難なものでありまして、かつ両刃のついた刀のようなものであります(聴衆の中に笑声が起った)。むろん、諸君はこの平凡な比喩をお許し下さることでしょう。私はあまり美しい表現をすることが得手でないほうなのですから。しかし、それはとにかくとして、いま起訴者の論告の中から、取りあえず一例を挙げてみましょう。被告は真夜中、くらい庭を走り抜けて、塀を乗り越えようとした時、自分の足に縋りついた従僕を銅の杵で殴りつけましたが、それからすぐにまた庭へ飛び降りて、五分間ばかり被害者のそばで世話をやきました。それは、彼が死んだかどうかを確かめるためでありました。ところが起訴者は、被告がグリゴーリイ老人のそばへ飛び降りたのは、憐憫の情からだという被告の申し立てを、どうしても信じまいとしておられます。『いや、そういう瞬間に、そういう感情が起り得るものであろうか? それは不自然である。彼が飛び降りたのは、自分の兇行の唯一の証人が生きているか、死んでいるかを見さだめるためであった。したがって、これはすでに被告が兇行を演じたことを立証するものである。こういう場合、何かほかの動機、ほかの衝動、ほかの感情からして庭へ飛びおりるはずはない』と、こう起訴者は言われます。なるほど、これは心理的な説明です。しかし、今その心理解剖を事実にあてはめてみましょう。ただし、別な側面からであります。するとやはり、検察官の説に劣らないほど本当らしくなってきます。兇行者が下へ飛びおりたのは、証人が生きているか死んでいるか、見さだめようという警戒心のためと仮定しましょう。けれど、起訴者の証明によると、被告は自分が手にかけて殺した父親の書斎に、この犯罪を立証する有力なる証拠品、すなわち三千ルーブリ封入と上書きした封筒を、破ったまま棄てて来たではありませんか。『もし彼がその封筒さえ持って行ったなら、もう世界じゅうに誰一人その封筒のあったことも、その中に金がはいっていたことも知らなかったに相違ない。したがって、その金が被告によって奪われたということも、ぜんぜん知られずにすんだはずである。』これは起訴者ご自身のお言葉であります。こういうわけで、一つの場合においては、被告はまるきり警戒心が欠けていて、驚愕のあまり前後を忘却して、床の上に証拠物件を取り残したまま逃走しながら、二分の後、いま一人の人間を殴打し殺傷した時には、たちまち冷酷な打算的感情を現わしたことになります。しかし、それもいいとしましょう。そうした場合、たったいま彼は、コーカサスの鷲のように残忍、鋭敏であったと思うと、次の瞬間にはすぐ、あわれな土竜《もぐらもち》のように、盲目な臆病者になったかもしれません。そこがすなわち、心理作用の微妙な点かもしれません。けれど、もし彼が兇行を演じておいて、その兇行を目撃した者の生死を見さだめに飛びおりるほど、残忍で冷酷で打算的であったとすれば、なぜこの新しい犠牲者のために五分間も費して、さらに新しい証人を作るような危険を冒したのでしょう? なぜ彼は被害者の頭の血をハンカチで拭いたりなぞして、そのハンカチが後日の証拠となるようなことをするのでしょうか? いや、もし彼がそれほど打算的で残忍であるならば、むしろ塀から飛び降りたとき、打ち倒れた下男の頭をさらに例の杵でたたき割り、その息の根を止めて目撃者を根絶し、自分の心から一切の不安を除いてしまったはずではありませんか? またさらに、彼は兇行の目撃者の死を確かめに飛びおりながら、そこの路ばたにもう一つの証拠品、すなわち例の杵を残しています。その杵は二人の女のところから持って来たのですから、彼らは後日それを自分たちのものだと申し立てて、被告がそれを自分たちのところから持って行った事実を証明するはずです。それに、杵は路ばたに忘れたのでもなければ、また茫然自失して取り落したのでもありません。いや、彼はその兇器を投げ出したのです。なぜなら、それはグリゴーリイが倒れていた場所から、十五歩も距たったところに発見されたからです。一たい何のためにそんなことをしたのだろう? こういう疑問が自然と起ってきます。それはこういうわけです。彼は一個の人間を、長年つかっていた下男を殺したことを悲しんで、呪詛の言葉とともに、その兇器を投げ棄てたのであります。でなければ、あんなに力一ぱい投げ飛ばす理由がありますまい。また、もし彼が一個の人間を殺したことに、苦悶と憐憫を感じ得たものとすれば、むろんそれは父親を殺さなかったからであります。もしすでに父親を殺したものとすれば、第二の被害者に憐憫を感じて飛びおりるはずはありません。その時はもはや別な感情が起るのが当然であります。憐憫どころではなく、むしろ自分の身を助けようという感情が起るはずであります。それはむろん、そうなければなりません。繰り返して言いますが、彼は五分間もそのために時間を費したりなぞしないで、ひと思いに被害者の頭蓋骨を打ち割ってしまったでしょう。ところで、惻隠の情や善良な感情が現われる余地があったのは、その前から良心がやましくなかったからであります。こうして、今はぜんぜん別個な心理が生じました。陪審員諸君、私がいま自分から心理解剖を試みたのは、人間の心理というものは、勝手に自由に解釈し得るものだということを、明示するためなのであります。要は、それをあつかう手腕いかんによるのであります。心理は、最も真面目な人々をさえ、えて知らず識らず小説家たらしめるおそれがあります。陪審員諸君、私は心理解剖の濫用と悪用を警告いたします。」
 ここでまた聴衆の中に同意を表するような笑声が起った。それはやっぱり検事に向けられたのである。筆者《わたし》は弁護士の弁論を巨細にわたって紹介しないで、ただその中から最も肝腎な点だけ挙げることにする。

[#3字下げ]第十一 金はなかった 強奪行為もなかった[#「第十一 金はなかった 強奪行為もなかった」は中見出し]

 弁護士の弁論中すべての人を驚かせた一点は、この不祥な三千ルーブリの金がぜんぜん存在していなかった、したがって、被告がその金を強奪するはずもない、――という説である。
陪審員諸君」と弁護士は論歩を進めた。「ほかから当地へやって来て、一切の先入見を有しない人々は、この事件の中にある一つの特質を発見して、驚異を感ずるのであります。それは、被告が金を強奪したといって責めながら、しかもそれと同時に、何か強奪されたかという疑問に対して、実際上の証拠を全然あげ得ないことであります。三千ルーブリの金が強奪されたとのことですが、その金が実際にあったかどうか、誰ひとり知るものがありません。そうじゃありませんか、第一に、どうしてわれわれは金のあったことを知りましたか、また、誰がそれを見ましたか? 現在その金を自分の目で見て、署名した封筒の中に入っていたと言うものは、下男のスメルジャコフ一人きりです。彼は事件の起る前にそのことを被告と、被告の弟イヴァン・フョードロヴィッチに告げました。それから、スヴェートロヴァもそれを聞いていました。しかし、三人とも自分でその金を見たのではありません。見たものは、やはりスメルジャコフ一人なのです。ところで、ここに一つ疑問があります。すなわち、たとえ本当にその金があって、それをスメルジャコフが見たとしても、彼がそれを最後に見たのはいつか、ということであります。もし主人がその金を蒲団の下から取り出して、スメルジャコフには知らせずに、また金庫の中へ入れたとしたら、どうでしょう? スメルジャコフの言葉によると、その金は蒲団の下に、敷蒲団の下にあったという。してみれば、被告はその金を敷蒲団の下から引き出さねばならなかったわけです。けれども、蒲団は少しも乱れていませんでした。このことはくわしく予審調書に記入してあります。どうして被告は蒲団を少しも乱さなかったのでしょう? そればかりか、その夜、とくに敷いてあった雪のように白い華奢な敷布を、被告はその血みどろの手で汚さなかったのであります。でも、床に封筒が落ちていたではないか、ここうおっしゃるでしょう、ところが、その封筒についてこそ、一言すべき価値があるのであります。私は先刻、敏腕な起訴者が自分の口から、――よろしいですか、――自分の口からこの封筒について言われたことに、いささか一驚を喫したのであります。諸君もお聞きになったことでしょうが、起訴者はその論告において、スメルジャコフが下手人であるという仮定の不条理なことを示すために、封筒を引き合いに出して、『もしこの封筒がなかったら、もしこの封筒を強奪者が持って逃げて、証拠物件として床の上に残しておかなかったら、誰一人としてこの封筒のあったことも、その中に金が入っていたことも知らなかったろうし、したがって、その金が被告に強奪されたことも知らなかったに相違ない』と言われました。で、起訴者の告白によると、ただ上書きをしたこの破れた紙きれ一つが、被告の強盗行為を証明するもので、『それさえなければ、誰一人として強盗の行われたことはもとより、金のあったことさえ知らなかった』のであります。しかし、床の上にこの紙きれが落ちていたという一事が、はたしてその封筒の中に金があったことや、その金が強奪されたことを立証するものでしょうか? 『しかし、封筒の中に金が入っていたのは、現にスメルジャコフが見たではないか』とお答えになるでしょう。しかし、彼がその金を最後に見たのはいつなのでしょう。一たいいつのことでしょう? 私はそれを訊いているのであります。私はスメルジャコフに会いましたが、彼はその金を兇行の二日前に見たと言いました! すると、私はこういう事情を仮定する権利をもっています。すなわち、フョードル老人がひとり家に閉じ籠っていて、恋人の来るのを気ちがいのように待ちあぐみながら、所在なさに封筒を取り出して破ったのではないでしょうか。彼は、『こんな封筒を見たって本当にしないかもしれん。一束になった虹模様の紙幣三十枚のほうが、たぶんきき目が多いだろう。きっと涎を流すに違いない。』こう考えて、封筒を破りすて、金を取り出したのではないでしょうか。彼はその金の持ち主であるから、大威張りで封筒を床の上に投げ棄てたわけなのです。それが何かの証拠物件になりはしないか? などと心配するはずはむろんありません。どうです、陪審員諸君、こうした仮定、こうした事実はきわめてあり得べきことではないでしょうか? これがなぜ不可能なのでしょう? もしこれに似たようなことでもあり得るとしたら、強奪の罪はおのずから消滅するわけであります。金がなければ、したがって強奪するはずもないのです。もし封筒が床の上に落ちていたことが、その中に金の入っていた証拠になるとすれば、その反対に、封筒が床の上に転がっていたのは、もうその中に金がなかったからである、すなわち、主人がその前に金を抜き取ったからである、こう証明のできないわけがどこにありましょう?『しかし、もしフョードル自身が封筒から金を出したとすれば、その金は一たいどこへおいたのだろう? あの家を捜索した時に、どうして発見されなかったのだろう?』という反駁があるかもしれませんが、第一に、彼の金庫の中から一部分の金が発見されました。第二に、彼フョードルはすでにその朝か、またはその前夜に金を取り出して、何か別な用途にあてるためにどこかへ送ったかもしれない。また最後に、自分の考えや行動や計画を根本的に変更してしまい、しかもその際そのことを前もって、全然スメルジャコフに告げる必要がないと思ったのかもしれない。もしこうした仮定を下し得るものとしたら、どうしてあれほど頑強な、あれほど決然たる態度で、被告を罪することができましょう? 彼はとつぜん強盗の目的で親を殺したとか、実際、強盗が行われたとか、そういうことがどうして言われましょう? これはもう創作の範囲に属しているのであります。もし何か盗まれたことを証拠だてようとするなら、その盗まれたものを示すか、あるいは少くとも、そのものが存在していたという確実な証拠を挙げなければなりません。だが、そのものを誰も見る人はないのです。
「近頃ペテルブルグでこういう事件がありました。やっと十八になったばかりの、まだほんの子供のような若い棒手ふりが、昼日中、斧を持って両替店に押し入り、典型的な残忍性を発揮して、亭主を惨殺したうえ、千五百ルーブリの金を奪ったのであります。五時間後に彼は捕縛されましたが、ただ十五ルーブリを消費しただけで、総額に近い残りの金を持っていました。のみならず、兇行後、店へ帰って来た番頭は、単に金を盗まれたということだけでなく、その盗まれたのがどんな金かということまで、すなわち虹色の紙幣が何枚、青いのが何枚、赤いのが何枚、金貨が何枚あったということまで、詳しく警察に届け出たのであります、はたして捕縛された犯人は、そのとおりの紙幣と貨幣を持っていました。なおそのうえ犯人は、自分が殺して金を奪ったということを、きっぱりといさぎよく申し立てました。陪審員諸君、私が証跡と名づけるのは、こういうものであります! むろん、私はその金を知ってもいたし、目撃もしたし、手でさわってさえもみたので、その金がないとか、なかったとかいうことは不可能です。ところで、今度の場合もそうでしょうか? しかも、このことたるや、人間の生死の運命にかかわる問題なのであります。
『そうかもしれないが、しかし彼はその夜、遊興で金を撒き散らした。しかも、千五百ルーブリの金を持っていた、――一たいそれでは金をどこから持って来たのだ?』と諸君はおっしゃるでしょう。けれど、千五百ルーブリだけ見つかって、あとの半分がどうしても見つからなかったという事実は、その金がぜんぜん別の金、――封筒にも何にも入ったことのない金かもしれぬ、ということを立証するではありませんか。すでに厳密な考究によって証明されている時間から計算しても、被告が女中たちのところから、すぐ官吏ペルホーチンのところへ走って行って、自分の家へもどこへも立ち寄らなかったし、その後も、しじゅう人中に立ちまじっていたことは、予審でも認められ、かつ証明されています。してみれば、被告が町の中で三千ルーブリから半分だけ別にして、どこかへ隠すなどということはできないわけです。これがつまり起訴者をして、半分の金はモークロエ村で何かの隙間に隠したのだろう、とこう仮定せしむるにいたった原因であります。いっそ、ウドルフ城の地下室に隠してある、とでも言ったほうがいいじゃありませんか? そんな仮定はあまりに空想的、小説的ではないでしょうか? で、このただ一つの仮定、すなわちモークロエに隠してあるという仮定さえ消滅すれば、強奪の罪はたちどころに消滅してしまうのです。なぜかと言えば、その時この千五百ルーブリの金がどこへ行ったか、わからなくなるからであります。もし被告がどこへも寄らなかったことが証明されたとすれば、一たいその金はどういう奇蹟で消え失せたのでしょうか? しかも、われわれはそうした架空的想像で、一個の人間の生命を滅ぼそうとしているではありませんか! 『それにしても、彼は自分の持っていた千五百ルーブリの出所を、十分説明することができなかった。のみならず、その夜まで彼が金を持っていなかったことは、みんな誰でも知っている』と、諸君はおっしゃるかもしれません。しかし、誰がそれを知っていたか? 被告は金の出所について、きっぱりと明瞭な申し立てをしました。陪審員諸君、もし諸君が私の意見を聞きたいとおっしゃるなら申しますが、――これ以上に確かな申し立ては決してほかになかったし、またあろうはずもありません。のみならず、その申し立ては被告の性格と精神とに最もよく一致しております。しかるに、起訴者はご自作の小説のほうが、お気に召したのであります。被告は意志の薄弱な男で、許嫁が渡した三千ルーブリの金を恥を忍んで受け取るほどだから、その半分を別にして袋の中へ縫い込むようなはずはない。また、たとえ縫い込んだとしても、二日目ごとにそれを解いて、百ルーブリずつくらい引き出しながら、一カ月のうちに残らず出してしまったに相違ない、とこう言われました。しかも、この議論は、いかなる反駁をも許さないような調子で述べられたのであります。しかし、もし事件の真相が全然それに反して、つまり諸君の作られた小説とぜんぜん違って、そこにまったく別な一面が存するとしたらどうでしょう。問題は、諸君が別な一面を作り出した点に存するのであります! あるいは諸君は、『被告が兇行の一カ月前、カチェリーナ・イヴァーノヴナから受け取った三千ルーブリの金を、モークロエ村で一度に、一夜のうちに、一コペイカのこらず使いはたしたということについては、ちゃんとした証人がある。してみれば、被告が半分別にしておくはずはない』と言われるかもしれません。しかし、その証人というのはどんな人間であるか? この証人たちの確実さの程度は、すでにこの法廷で暴露されたではありませんか。のみならず、人の持っているパンは、常に大きく見えるものです。ことにこれらの証人の中で、その金をかぞえたものは誰ひとりありません。ただ自分の目分量で判断したにすぎないのであります。現に証人マクシーモフのごときは、被告が二万ルーブリも握っていたと申し立てたではありませんか。陪審員諸君、かようなわけで、心理解剖は両刀の刀のようなものでありますから、私はその反対の側を当てて、どういう結論が生ずるかを見ようと思います。
「椿事勃発の一カ月前に、被告はカチェリーナ・イヴァーノヴナから三千ルーブリの郵送を頼まれました。が、はたしてその金は、先刻いわれたような侮辱と、軽蔑の意志をもって依頼されたものでしょうか? そこが問題なのであります。その問題に関する彼女の最初の申し立ては、決してそうではありませんでした。全然それとは違っていました。二度目の申し立ての時に、われわれは初めて憎悪と復讐の叫びを聞きました。長いあいだ秘められていた嫉妬の叫びを聞いたのであります。ところで、証人が最初不確実な申し立てをしたということは、二度目の申し立てもやはり不確実なものであると、断定する権利をわれわれに与えるのであります。起訴者はこの物語にふれることを、『欲しない、あえてしない』(これは検事自身の言葉であります)と言われる。それもいいでしょう。私もそれにふれますまい。しかし、私は次の一事を認めさしてもらいたいのであります。すなわち、かの潔白な、徳義心の発達した、尊敬すべきカチェリーナ・イヴァーノヴナのごとき婦人が、明らかに被告を破滅させようという目的をもって、法廷において最初の申し立てを軽率に変更する以上、この申し立てが公平かつ冷静なものではない、ということは明らかであります。諸君、復讐の念に駆られた女が、とかく誇張しがちなものであると断定する権利を、諸君はわれわれから奪おうとなさらないでしょう? そうです、確かに彼女は金を渡すときの屈辱と侮蔑を誇張しています。事実、彼女はその金を受け取ることができる、とくに被告のような軽浮な人間にとっては容易に受け取ることができるような態度で、金を渡したに相違ありません。第一、被告はそのとき、精算上自分の所有に属すべき三千ルーブリの金を、すぐ父親から受け取ることをあてにしておりました。それはいかにも軽はずみな考えです。が、つまり被告はその軽はずみのために、父は必ず三千ルーブリの金を渡すに相違ない、その金を受け取りさえすれば、依頼されている金はいつでも郵送できるから、したがって、負債のかたもきれいにつけることができる、とこう固く信じていたのであります。しかるに、起訴者は、被告がその日に受け取った金を二分して、半分を袋の中に縫い込んだということを、いっかな承認しようとされません。『それは被告の性格に反している、被告がそんな感情をもっているはずはない』と起訴者は言われます。しかし、あなたは自分の口から、カラマーゾフの性格は広汎である、と叫ばれたではありませんか。あなたは自分の口から、カラマーゾフは二つの深淵を同時に見ることができる、と絶叫されたではありませんか。まったくカラマーゾフは二つの面を備え、両極端の間に動揺する天性をもっております。遊蕩に対して抑えがたい要求を感じている場合でも、もし他の面から何かに刺戟を受ければ、すぐ歩みを止めることのできる男であります。他の面というのは、つまり愛なのであります、――そのとき火薬のように燃えあがった新しい愛であります。ところが、この愛のためには金が必要です。恋人との遊興に必要なよりも、もっともっと必要なのであります。もし彼女が、『わたしはあなたのものです、フョードルさんなんかいやです』と言ったら、彼は女と一緒に逃げなければなりません。そうすればいろんな費用がかかる。このほうが遊興よりもっと重大な問題だったのです。これがカラマーゾフにわからないはずはないじゃありませんか? いや、彼はつまりこれがために苦悶したのです、肝胆を砕いたのであります、――彼が金を二分して、万一の場合のために半分かくしておいたということが、どうしておかしいのでしょう? ところで、時はどんどんたって行くのに、フョードルは被告に三千ルーブリを与えないばかりか、反対に彼の恋人を誘惑するために、その金を用立てようとしている、という噂さえひろまりました。
『もし親父がよこさなけりゃ、自分はカチェリーナに対して泥棒になってしまう』と彼は考えました。で、しじゅう守り袋に入れて持っている千五百ルーブリを、カチェリーナの前において、『僕は卑劣漢だが、しかし泥棒じゃない』と声明しよう、という考えが浮んできました。こういったわけで、千五百ルーブリを目の玉のように大切にして、決して袋も開けなければ、また百ルーブリずつ引き出しもしなかったという事実に対して、二重の理由が存在するのであります。諸君、諸君はどうして被告に名誉心の存在を否定なさるか? そうです、彼は名誉心をもっています。もっとも、それは方向を誤った、間違った名誉心かもしれません。が、とにかく名誉心はあります、しかも情熱の域に達するほどであります、つまり彼はこれを証拠だてたわけであります。けれど、事態が紛糾して、嫉妬の苦痛が極度に達すると、例の疑念、すなわち以前の二つの疑問がいよいよ痛切になって、被告の熱した頭脳を苦しめました。『もしこれをカチェリーナに返したら、どうしてグルーシェンカを連れ出せるだろう?』彼があの一カ月の間、あんなに無鉄砲に酒をあおって、到るところの酒場を暴れ廻ったのも、つまりその苦しみにたえ得なかったからかもしれません。結局、この二つの疑念はますます鋭さをまして行って、とうとう彼を絶望におとしいれてしまいました。彼は弟を父のところへ送って、最後にその三千ルーブリを請求させましたが、返事も待たずに自分で暴れ込んで、みなの目の前で父親を殴りつけました。こうなった以上、もう誰からも金を手に入れる望みはありません。殴られた父親がくれるはずはもとよりありません。その晩、彼は自分の胸を、――ちょうど守り袋を吊した上の辺を打って、自分は卑劣漢にならないですむ方法をもっているが、しかし結局、卑劣漢で終るに相違ない、なぜなら、その方法を用うるだけの精神力もなければ、またそうした意気地もないのを、自分でちゃんと見抜いているからだ、とこう彼は弟に誓いました。なぜ、なぜ起訴者はアレクセイの申し立てを信じられないのでしょう? 彼はあんなに潔白に、あんなに誠意をこめて、何ら小細工を弄したあともなく、正直に申し立てたではありませんか? またその反対に、なぜ起訴者は金がどこかの隙間に、――ウドルフ城の地下室に隠してあるなどということを、私に信じさせようとなさるのでしょう? その晩、弟と話をしたあとで、被告はかの宿命的な手紙を書きました。この手紙こそ被告の罪状を明らかにする、最も肝要な、最も有力な証拠となったのであります! 『みんなに頼んでみて、誰も貸してくれないようだったら、イヴァンが出発するやいなや、すぐに親父を殺して、やつの枕の下からばら色のリボンでしばった封筒を引き出してやる。』これはもう立派な人殺しのプログラムです。むろん、彼でなくてどうしましょう。『実際、書いてあるとおりに行われたのだ!』と、こう起訴者は叫ばれました。しかし、まず第一に、手紙は泥酔の上で書かれたものです。非常な興奮状態で書かれたものであります。第二に、封筒の件はやはりスメルジャコフから聞いて書いたもので、彼自身その封筒を見たことはないのであります。第三に、この手紙は被告が書いたものに相違ないが、はたして書いてあるとおりに実行されたのでしょうか、それは何で証明されましたか? 被告は実際、枕の下から封筒を取り出したのでしょうか、金を見つけたでしょうか、いや、それどころか、金ははたして存在していたでしょうか? 被告ははたして金を奪いに駈け出したのでしょうか、一つご記憶を願います! 彼は金を奪うためではなく、ただ自分を夢中にさした女の行方を突き留めるために、駈け出したのであります、――してみると、プログラムどおり、すなわち手紙に書いてあるような意味で、駈け出したのではありません。かねて考えていた強盗のためではなく、とつぜん嫉妬の念に駆られて、何心なく駈け出したものです。『それにしても、やはり駈けつけて父親を殺して、金を奪ったに違いない』と諸君はおっしゃるでしょう。しかし、彼はその上まだ殺人までしたのでしょうか、どうでしょうか? 強奪の罪は私の憤然としてしりぞけるところです。奪われたものが明示されない以上、人に強奪の罪をきせることは不可能です、それは原則であります! 一方、彼は殺人をしたのでしょうか? 強奪しないで殺人だけしたのでしょうか? それははたして証明されているでしょうか? それもやはり創作ではないでしょうか?

[#3字下げ]第十二 それに殺人もなかった[#「第十二 それに殺人もなかった」は中見出し]

陪審員諸君、これは人間一個の生死に関することですから、慎重にご考慮あらんことを願います。起訴者は最後まで、すなわちきょう裁判が始まるまで、被告が完全に予定の計画にもとづいて兇行をあえてしたかどうか惑っていた、『酔いに乗じて』書かれたこの宿命的な手紙が、きょう法廷に出されるまで惑っていた、とこう明言せられました。それはわれわれも確かに聞いたところであります。『書いてあるとおりに実行したのだ!』と起訴者は言われます。が、私は繰り返し申します、彼が駈け出したのは、ただ女を捜すため、女のありかを捜すためにすぎませんでした。これは動かすべからざる事実であります。もし彼女が家にさえおれば、彼はどこへも駈け出さず、そのそばに残って、あの手紙で約束したことを実行しなかったに相違ありません。彼は突然、何の考えもなしに駈け出したので、『酔いに乗じて』書いた手紙のことなどは、その時すっかり忘れてしまっていたかもしれません。『だが、杵を掴んで行ったじゃないか』と言われます。しかし、起訴者はたった一つの杵を基礎として、被告がこの杵を兇器と認め、兇器として掴んで行った理由を説明する大袈裟な心理解剖をつくり出されました。ところが、この際わたしの頭には、ごく平凡な一つの考えが浮んできます。というのは、もしこの杵が目につきやすい棚の上(被告はそこから持って行ったのです)などでなく、戸棚の中にでも片づけてあったとしたら、――その時は被告の目に映らなかったに相違ないから、被告は兇器を持たずに、空手で駈け出したことでしょう。そうすれば、誰も殺さなかったかもしれないのであります。してみると、私は持兇器謀殺罪の証拠とされているこの杵を、そもそもどう判断したらいいのでしょう?『それはそうだが、しかし以前、彼は到るところの酒場で、親父を殺してやると公言していたのに、二日前の晩、酔いに乗じて手紙を書いた時には、静かにおとなしくしていて、ただ酒場で一人の番頭と喧嘩しただけではないか』と、こう起訴者は抗言されるでしょう。『なにしろカラマーゾフだから、喧嘩をせずにはいられなかったのだ』と言われました。が、私はそれに対して、もし被告が計画どおり、すなわち手紙に書いたとおりに、父を殺そうと企らんだものとすれば、彼は確かに番頭とも喧嘩をしなかったろうし、また第一、酒場などへ入らなかったろう、と答えます。なぜなら、そういうことを企らんでいる人間は、静寂と孤独を求め、人の耳目にふれないように身を隠して、『できるだけ自分を忘れさせよう』とするからであります。それは打算というより、本能的にそうするのであります。陪審員諸君、心理は両面をもっていますから、われわれもそれを理解し得るのであります。またこの一カ月間、被告が到るところの酒場で吹聴したことにいたっては、よく子供などが言うのと同じようなものです。酔っぱらった遊び人が酒場から出て来て、喧嘩しながら、お互いに『ぶち殺すぞ』などと呶鳴るのは、珍しいことじゃありません。しかし、彼らは本当に殺しはしないじゃありませんか。だから、この不祥な手紙も、やはり酒の上の激昂ではないでしょうか、酔漢が酒場から出て来て、『殺してやる、手前たちをみんな殺してやる!』と叫ぶのと同じことではないでしょうか! なぜそうでないのでしょう? なぜそうあってはならないのでしょう? なぜこの手紙は不祥なものでしょう? なぜその反対に、滑稽なものと言えないのでしょう? それはほかでもありません、父親の死骸が発見されたからであります、兇器を持って庭から逃げて行く被告の姿を、一人の証人が見たからであります。またその証人自身が、被告から危害を加えられたからであります。それゆえ、すべてが書いたとおりに実行されたということとなり、その手紙は一笑に付しがたい、不祥なものとなった次第であります。おかげでわれわれは、『庭に入った以上、彼が殺したに違いない』という見解に達しました。この『入った以上』必ず殺したに『違いない』という、この二つの言葉の中に、起訴理由のすべてがつくされているのです。『入った以上、殺したに違いない。』しかし、たとえ『入った』にしても、それが殺したに『違いない』ということにならなかったら、どうでしょう? ああ、私は事実の累積と合致が、実際かなり雄弁であることに同意します。が、しかし、その事実を一つ一つ、累積とか合致とかいうことに拘泥しないで、別々に観察してごらんなさい。
「たとえば、起訴者は、被告が父親の窓のそばから逃げ出したと言う申し立てを、なぜ信じようとなさらないのですか? とつぜん犯人の心に生じた『敬虔な』感情や、うやうやしい態度に関して、先刻起訴者が皮肉さえ弄されたことを記憶して下さい。けれど、もし実際そうした感情が、――たとえ敬意でないまでも、一種の敬虔の念があったとしたら、どうします?『そのとき、母親が私のために祈ってくれたに相違ない』と被告は審問の時に申し立てております。こうして、彼は父親の家にスヴェートロヴァがいないことを確かめると、すぐ逃げ出したのであります。『しかし、窓ごしにそんなことが確かめられるものじゃない』と起訴者は反対されるでしょう。が、なぜ確かめられないのでしょう? 実際、被告の合図のよって、窓が開けられたではありませんか。その時フョードルが何とか言って声を立てたでしょう。そこにスヴェートロヴァのいないことを、被告に確信させるような言葉を、何か叫んだに相違ありません。なぜわれわれは自分の想像するように、想像したいと望むように、すべてを仮定しなければならないのでしょうか? 現実生活においては、最も周匝緻密な小説家の観察眼さえ逸し去るような事件が、無数に発生し得るものであります。『それはそうだ。しかし、グリゴーリイは、戸の開いているところを目撃したではないか。だから、被告は家の中に入ったはずだ。したがって、彼が下手人に相違ない』と言われる。陪審員諸君、ところで、この戸ですが……この戸が開いていたと証明するものは、ただ一人しかありません。しかも、その証人たるや、その時ああいう状態にあったのですから……しかし、かまいません、戸は開いていたとしましょう。被告が強情をはって、こうした場合ありがちな自衛心のために、嘘をついたとしましょう。かまいません、被告が家の中へ入り込んだとしましょう――が、一たいなぜ家へ入れば、必ず殺したということになるのでしょうか? 彼は暴れ込んで、部屋から部屋を駈け廻ったかもしれません。父親を突きのけたかもしれません。あるいは、殴りさえしたかもわかりません。しかし、スヴェートロヴァがいないことを確かめるやいなや、彼女のいなかったことを、したがって父を殺さずにすんだことを、喜んで逃げ出したのです。だからこそ、彼は一分間後に塀から飛びおりて、憤怒のあまり危害を加えたグリゴーリイのそばへ駈け寄ったのです。だからこそ、彼は潔白な感情、――同情と憐憫の情を起すことができたのです。つまり、父を殺そうという誘惑をまぬがれて、心ひそかに、潔白な感情と、罪を犯さないですんだ喜びを覚えたからであります。
「起訴者は、モークロエ村における被告の恐るべき地位を、恐ろしいほど雄弁に述べられました。すなわち、新しい恋が彼の前に展開されて、彼を新生活へさし招いているのに、彼の背後には血みどろになった父親の死骸があり、さらにその背後に刑罰が待っているために、恋は被告にとって不可能なものとなった、という次第でありますが、それでも起訴者はやはり彼の恋をみとめて、それを得意の心理解剖で説明されました。『酔っ払った時の状態や、犯人が刑場に引いて行かれる時、刑場の遠いことを頼みにしている心理作用』云々と言われました。しかし、私はまたお訊ねしますが、起訴者はまたここでも、別な人物を創造されたのではありますまいか? もし実際、父親の血を流したものとすれば、被告はその瞬間なお恋愛や、法官に対する欺瞞などを考えるほど、粗暴かつ残忍な人間でしょうか? いや、いや、決して、決してそうじゃありません! 彼は女が自分を愛のほうへさし招き、新しい幸福を約束していることを知ると同時に、――ああ、私は誓って言います、もし彼の背後に、父の死骸が横たわっていたとすれば、彼はそのとき自殺しようという要求を、二倍も三倍も強く感じたに相違ありません。そして、立派に自殺したことでありましょう。決して、決してピストルのありかを忘れたのではありません! 私は被告をよく知っています。起訴者によって誣いられた粗野な石のような無感覚は、彼の性格に一致するものではない。彼は自殺したに相違ありません、それは確かです。彼が自殺しなかったのは、『母親が彼のために祈ってくれた』からであり、したがって父の血に対して、罪がなかったからであります。彼はその夜モークロエで、老僕グリゴーリイに危害を加えたことばかり嘆き悲しんで、老人が正気づいて立ちあがるように、自分の加えた打撃が致命傷でないように、そして自分も刑罰を受けないですかようにと、心ひそかに神に祈っていたのであります。なぜ事件のこういう解釈が許されないのでしょう? われわれは、被告が嘘をついているということについて、どんな確かな証拠をもっているのでしょうか? 父親の死骸が証拠じゃないか、とすぐまた諸君は言われるでしょう。彼が殺さないで逃げ出したとすれば、その時はそもそも誰があの老人を殺したのだ? とこうおっしゃることでしょう。
「繰り返して言いますが、そこに起訴の論理か全部ふくまれているのであります。つまり、彼が殺したのでないとすれば、ぜんたい誰が殺したのか? 彼の代りにおくべきものがないではないか、とこういうのです。陪審員諸君、実際そうなのでしょうか? はたして彼のほかには嫌疑を受くべきものがないのでしょうか? 起訴者は当夜あの家に居合せたものや、出入りしたものを残らず数えて、結局、五人のものを挙げられました。そのうち三人には、まったく罪のきせようがないということには、私も同意します。それは殺された当人と、グリゴーリイ老人と、その妻とであります。そこで、あとに残るのは被告とスメルジャコフであります。ところが、起訴者の説によると、被告がスメルジャコフを挙げたのは、ほかに誰もさすべき人がないためである、もし彼以外に誰か六人目のものがあれば、少くとも六人目のものの影でもあれば、被告はスメルジャコフに罪をきせることを恥じて、すぐさまその六人目のものを挙げただろう、と起訴者は感激をこめて叫ばれました。しかし、陪審員諸君、一たいわたしはその正反対論を論結することができないでしょうか? ここに二人の人物、すなわち被告とスメルジャコフが立っています。ところが、私の立場から見て、あなた方が被告に罪をきせられるのは、ただほかに罪をきせるものが見あたらないためである、とこう言いきることができないでしょうか? ほかに罪をきせるものが見あたらないのは、あなた方が先入見によって、スメルジャコフをぜんぜん嫌疑の埒外へ取り除いてしまわれたからです。スメルジャコフを挙げるものは当の被告と、その二人の弟と、スヴェートロヴァだけであります。しかし、なおそのほか幾人か、スメルジャコフを挙げている人があります。それは社会における漠然たる疑念と、嫌疑の醗酵であります。何か漠とした噂が市中に聞えます、ある期待が感じられます。また最後に、幾つかの事実の対立も、それを証拠だてています。むろん、それは正直なところ、まだ判然としたものではありませんが、きわめて独得な性質をおびているのであります。第一、兇行の日に起った癲癇の発作ですが、起訴者はなぜかその発作の真実性を、しきりに弁護しようと苦心しておられます。次に、公判の前日、スメルジャコフが同じようにとつぜん自殺したことであります。またさらに、被告のすぐ次の弟がきょう法廷で、前二者に劣らないほど唐突に申し立てた証言であります。彼はそれまで兄の犯罪を信じていたのに、きょうとつぜん金まで提出して、これまたスメルジャコフの名を兇行者として挙げました。ああ、むろん私とても、イヴァン・カラマーゾフは譫妄狂にかかった病人で、彼の申し立てが、死者に罪を塗って兄を救おうとする絶望的な企て、――しかも、熱に浮かされながら考えついた企てかもしれないという、裁判官ならびに検事諸君の確信を分つものであります。しかし、またしてもスメルジャコフの名が挙げられたところに、そこに何か謎めいたあるものが感じられます。陪審員諸君、どうやらそこにはまだ十分説明されない、はっきり言いつくされないあるものが潜んでいるようです。それは不日、説明される時があるかもしれません。しかし、このことについてはいま深入りしますまい、これは後まわしにしましょう。
「で、先刻、裁判長閣下は評議を継続する旨を宣告されましたが、私はそれを待つ間に、ここでちょっと死んだスメルジャコフに加えられた性格批判について、一言しておこうと思います。起訴者の試みられたスメルジャコフ性格論は、実に精細をきわめたもので、なかなか優れた議論でありました。が、私は起訴者の天才に一驚を喫すると同時に、その批判の真髄にぜんぜん同意することができません。私はスメルジャコフを訪ねて、彼と会談してみました。しかし、彼が私に与えた印象はまったく別なものでした。彼が健康を害していたことは事実です。けれど、その性格、その感情にいたっては、――どうしてどうして、彼は決して起訴者の言われたような低能ではありません。ことに私は臆病な点、――起訴者があれほど明瞭に述べられた臆病さを、発見することができませんでした。また単純率直などという点は、寸毫もありませんでした。むしろ私は、率直の仮面に隠れている恐ろしい猜疑心と、鋭い智力を発見しました。ああ! 起訴者はあまりお手軽に、彼を単純な低能児としてしまわれましたが、私は彼から非常に強い印象を受けました。私は、彼が非常な毒念をもった、底の知れない野心家で、復讐心のさかんな、嫉妬心の強い人間である、という確信をいだいて帰りました。私は二三の情報を蒐集しましたが、彼はわれとわが出生を憎みかつ恥じていました。彼は常に歯ぎしりして、『リザヴェータ悪臭女《スメルジャーシチャヤ》の子だ』と言っていました。彼は幼年の頃の恩人たる、老僕グリゴーリイ夫婦さえ尊敬していませんでした。そして、ロシヤを呪い嘲って、フランスに帰化するために、パリヘ出かけようと空想しておりました。フランスへ行きたいけれど旅費がたりないと、彼は以前からよく言っていました。彼は自分以外の何ものをも愛していない上に、しかも不思議なほど自尊心が強かったように思われます。彼は立派な着物と、清潔なシャツと、てらてら光る靴を文明と心得ていました。彼は自分をフョードルの私生児と考えていたので(これには証拠があります)、正腹の息子たちと比較して自分の境遇を憎むということは、きわめてあり得る話であります。彼らは一切を有しているのに、自分は何一つもっていない、彼らはあらゆる権利を与えられて、遺産まで相続するが、自分はただ一個の料理人にすぎない、こう彼は考えたはずであります。彼は私に向って、フョードルが金を封筒に入れる手つだいをしたと言いました。彼はもちろんこの金の用途をいまいましく思ったに違いありません。これだけの金があれば、自分の新生活を始めるのに十分だからです。のみならず、彼はつやつやしい虹色の紙幣で三千ルーブリなどという大金を、生れて初めて見たのであります(私はとくにこのことを彼にただしてみました)。ああ、嫉妬ぶかい野心のさかんな人間に、決して大金を見せるものではありません。ところが、彼は初めてそのまとまった大金を見たのであります。虹色の紙幣束の印象は、すぐ結果に現われこそしなかったけれど、彼の想像に病的な反映をあたえたに相違ありません。
「慧敏なる起訴者は、スメルジャコフに殺人罪を擬するについて、あらゆる pro et contra([#割り注]賛成論と反対論[#割り注終わり])を精細に説きつくしたうえ、彼にとって癲癇のまねをする必要がどこにあるだろう、という疑問を提起されました。そうです、彼は決してそんなまねをしなくてよかったかもしれません。発作はまったく自然に起ったのかもしれません。しかし、発作はまたきわめて自然に経過して、病人はそのうちに正気づくかもしれません。よしすっかり快癒しないまでも、正気づいて意識を回復するかもしれません。これは癲癇にえてありがちなことであります。起訴者は、いつスメルジャコフに兇行を演じる隙があったか、と反問せられますが、しかしその時刻を示すのは、きわめて容易なわざであります。つまり、グリゴーリイ老人が、塀を越えて逃げようとする被告の足を捉えて、近所合壁に聞えるような大声で『親殺し!』と叫んだ瞬間に、彼はふと正気づいて、深い眠りからさめたかもしれません(なぜかと言えば、彼はただ眠っていただけだからです、癲癇の発作のあとには、いつも熟睡がともなうものです)。静かな暗闇の中で起ったこのただならぬ叫び声は、スメルジャコフの目をさましたに相違ありません。しかも、ちょうどその時、彼の眠りはさして深くなかったはずであります。もちろん、もう一時間も前から、目がさめかかっていたに相違ありません。で、彼は起きあがると、何の考えもなくほとんど無意識に、何事が起ったのだろうと、声のしたほうへ出て行ったのです。彼の頭は依然として、発作のためにぼんやりしていて、思考力はまだ仮睡状態にありましたが、彼は庭へ出て、燈火のもれる窓のほうへ近づきました。主人はむろん、彼が来たのを喜んで、恐ろしい出来事を告げました。と、彼の頭の中には、たちまちある考えが燃えあがったのです。彼は驚きうろたえている老人から、詳しい事情を聞きました。その時、彼の混乱して病的になった頭脳には、次第にある考えが形づくられてきました、――それは恐ろしい考えではあるが、きわめて誘惑に充ちた、しかもどこまでも理論的なものでした。つまり、主人を殺して三千ルーブリの金を奪い、その罪を若主人に塗りつけてしまおうというのです。この場合、若主人以外だれにも嫌疑をかけるものがない、若主人以外だれにも罪をきせるものがない、現に彼はここへ来たのだ、立派な証拠がある、とこう考えたのであります。その点で安心するとともに、金という獲物に対する恐ろしい欲望が彼の心をとらえたのは、あり得べきことなのであります。ああ、こうした思いがけない避けがたい衝動は、機会さえあればいつでも起るものです。しかも、何より恐ろしいことには、一分間まえまで人を殺そうなどとは思いもかけなかったものの頭に、とつぜん浮んでくるのであります! で、スメルジャコフもそうした衝動に支配されて、主人の部屋へ入って行き、その計画を実行したに相違ありません。では、どういう兇器を用いたか? 何も問題にするまでもない、まず目に映った、庭の石ころでも殺せるではありませんか。だが、何のために、どういう目的で、そんなことをしたか? ほかでもない、三千ルーブリという金は、彼の新生活を始めるのに十分だからです。いや、私は自家撞着をしてはいません、金はあったかもしれません。そしてスメルジャコフだけが、そのありかを知っていたのかもしれません。すなわち、主人がその金をどこにおいているかを、彼一人だけが知っていたのであります。『だが、金の入っていた封筒は? 床の上に破り棄ててあった封筒は?』こういう問いが起るかもしれません。先刻、起訴者はこの封筒について、きわめて精緻な説を述べられました。すなわち、床の上に封筒を棄てて行くのは非常習的盗賊で、カラマーゾフのような人間のやりそうなことである。決してスメルジャコフではない、彼ならばこんな犯罪の証拠品を棄てて行きはしない、とこう言われました。陪審員諸君、先刻この説をうけたまわっている時、私はとつぜん、自分に覚えのあることを、もう一ど聞かされているような気がしました。ところが、どうでしょう、カラマーゾフのしそうな封筒の処置に関するこの議論と推測を、私はちょうど二日前にスメルジャコフ自身の口から聞いたのであります。そのうえ私を驚かしたのは、彼が、わざと無邪気を装ってさき廻りしながら、私にその考えを吹き込もうとするように思われたことであります。彼は私にこの判断を採用させようと、助言するようなあんばいでした。予審の時にも、彼はそれを暗示したのではないでしょうか? 聡明、慧敏な起訴者も、やはりその考えを吹き込まれたのではないでしょうか? では、グリゴーリイの年とった妻はどうだ、とこうおっしゃるでしょう。彼女はそばで夜どおし病人が唸っているのを聞いたと言います。なるほど、聞いたでしょう。しかし、それはきわめて曖昧な申し立てであります。かつて私はある婦人が、外で犬が吠えていたために、夜どおし眠ることができなかった、とこぼすのを聞きましたが、しかしあとで聞けば、その犬は一晩のうちに、二三ど吠えたにすぎないとのことでした。それは、きわめてありそうなことです。もし人が眠っている時に、とつぜん唸り声を聞いたとしましょう。彼は目をさまして、安眠を妨げられたのをいまいましく思いますが、またすぐ寝入ってしまいます。二時間もたった頃、また唸り声が聞えて、また目をさまし、また寝入る。と、最後にまた二時間もたってから、また唸り声に目をさまされます。こうして、一夜のうちに三ど目をさましたとしましょう。朝になると、その人は、誰か夜どおし唸っていたので、のべつ目をさまさせられた、と言ってこぼすのであります。しかし、その人は、二時間ずつ眠っていた間のことは少しも知らないで、目をさました一分間だけ覚えているから、それで夜じゅうのべつ起されたような気がするのは、当然な次第であります。しかし、起訴者は、それならなぜスメルジャコフは、遺書の中で白状しなかったか、と声を励まして訊かれました。『一方には良心の呵責を感じながら、いま一方にはそれを感じなかったのだろうか?』と言われました。けれど、失礼ですが、良心の呵責はすでに悔恨を意味していますが、自殺者が必ずしも悔恨に責められたものとは断ぜられません、ただ絶望のために自殺したにすぎません。絶望と悔恨、――この二つはまったく異ったものであります。絶望は時に憎悪に充ちていて、絶対に妥協を許さない場合があります。で、自殺者は自分で自分に手を下そうとする瞬間、一生怨んでいたものに対する憎悪を、一倍つよく感じたかもしれません。
陪審員諸君、裁判上の誤りを警戒していただきたいものです! いま私が申し述べたことに、はたして本当らしくない点があるでしょうか? どうか、私の述べた言葉の中に誤りを見いだして下さい。不可能、不合理を発見して下さい。もし私の仮定の中にほんのわずかな可能性の影、真実らしい影でもあったら、どうか宣告を見合せて下さい。が、はたしてただの影にすぎないでしょうか? 私は誓って申します、いま諸君に申し述べた殺人に関する自分の説明を、私は固く信じているのであります。ことに、私が腹立たしく遺憾に思うのは、被告の断罪の基礎となっている、山のごとく累積した多くの事実のうち、いくぶんたりとも確実で、反証を許さぬようなものは一つとしてないにもかかわらず、ただただこれらの事実が堆積したというだけの理由によって、不幸なる被告が破滅に瀕していることであります。そうです、この堆積は恐るべきものであります。この血、――指から流れ落ちるこの血、血みどろになった服、『親殺し!』という叫び声に静寂を破られたあの暗夜、頭を割られて倒れた叫び声の主、それから、また多くの言葉と身ぶりと怒号、――ああ、それらすべては非常な力をもっていて、人々の信念を買収するに十分です。しかし、陪審員諸君、それらははたしてよく諸君の信念をも買収することができましょうか? どうか記憶して下さい、諸君には無限の決定権が与えられています。しかし、権利が強大であればあるだけ、その行使はますます恐るべきものとなります! 私は自分の言ったことを一言たりとも撤回しませんが、かりに、――もしかりに一歩を譲って、不幸なる被告が父の血に手を染めたという起訴者のお説に同意するとしましょう。しかし、これはただほんの仮定にすぎないのであって、繰り返して言いますが、私は一瞬間も彼の潔白を疑いません。しかし、今かりにわが被告が親殺しの罪を犯したと仮定しましょう。けれど、私がそういう仮定を許した以上、ぜひ一こと聞いていただきたいことがあります。私は諸君にある一つのことを言わなければ心がすみません。なぜなら、私は諸君の感情と理性の中に、大なる争闘を予感するからであります……陪審員諸君。諸君の感情と理性にまで立ち入った私の言葉をおゆるし下さい。けれど、私はどこまでも誠実で正直でありたいと思います。われわれはお互いに誠意を持とうではありませんか!」
 この時かなり盛んな拍手が起って、弁護士の言葉を中断した。実際、彼はこの最後の言葉を誠意のこもった語調で言ったので、一同は、実際かれが何か言い分をもっているのかもしれない、そして今かれが言おうとしていることは、非常に重大な事柄であるかもしれない、というふうに感じたのである。しかし、裁判長はこの拍手を聞くや、もしふたたび『かような場合が』繰り返されるなら、傍聴者一同に『退廷を命じる』と声高に宣言した。あたりはたちまちしんとしてしまった。フェチュコーヴィッチは今までとはまるっきり違った、一種の新しい、感情に満ちた語調で弁じはじめた。

[#3字下げ]第十三 思想の姦通者[#「第十三 思想の姦通者」は中見出し]

「ただ山積された事実のみが、わが被告を滅ぼすものではありません、陪審員諸君」と、彼は声を高めた。「そうです、本当にわが被告を滅ぼすものは、ただ一つの事実なのであります、――それは父親なる老人の死骸であります! これが普通の殺人罪であってごらんなさい、諸君はすべての証拠を集合体としてでなく、一つ一つ取り離して吟味してみたすえ、それらが取るにたりない不完全な、空想的性質をおびているのを発見して、起訴を却下せられることでありましょう。少くとも、単なる先入見によって、一個の人間の運命を滅ぼすことを躊躇されるでしょう。まったく悲しいかな、被告はそういう先入見をいだかれても、仕方のないような人間なのであります。しかるに、これは普通の殺人でなく親殺しなのです! これは実に重大なことで、それがため、こうした取るにたらぬ不完全な証拠も、取るに足らぬ不完全なものでなくなったわけです。しかも、そのうえ、きわめて多くの先入見が、そこに存しているのであります。こういう被告を、どうして無罪にすることができよう? どうして親を殺したものが罰を受けないですもうぞ、――すべての人が心の中で、知らず識らず、本能的に感じているのであります。そうです。父親の血を流すということは、恐るべきことであります、――それは自分を生んだものの血です、自分を愛するものの血です。自分のために命を惜しまないものの血です。子供の時から自分の病気に悩み、自分の幸福のために一生苦しみ通し、ただ自分の喜びと成功のみに生きていたものの血であります! ああ、そういう父親を殺すということは、――それは考えるにたえないことであります! 陪審員諸君、父親とは何でしょう、真の父親とは何でしょう? これは何たる偉大な言葉であるか? この名称には何たる恐ろしい、大きな観念がふくまれていることか? 私はいま、真の父親とはいかなるものであり、いかなる責任を有するものか、ということをいくぶん述べました。が、この場合、――われわれがいま処理しようと頭を悩ましているこの事件において、死んだフョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフは、いま私が挙げたような父親の概念に、全然あてはまらないのであります。それは不幸です。そして、実際こうした不幸な父親も、世間にないことはないのであります。で、われわれはこの不幸をもっと接近して観察してみましょう、――陪審員諸君、眼前の決定の重大さを考えて、恐れる必要は毫もありません。さきほど慧敏なる起訴者が述べられた巧みな言葉を借りて言えば、子供や臆病な女のように、ある種の思想をとくに恐れて、それを振り払うようなことをする必要はありません。ところで、私の尊敬する反対者は、その熱烈な論告において(それは私が最初の一言を発する前のことでありました)、幾度もこう叫ばれました。『いや、自分は誰にも被告の弁護を譲らない、自分は彼を弁護する点において、ペテルブルグから来た弁護人にも負けないつもりである、――自分は起訴者であると同時に、弁護人でもある!』こう起訴者は幾度も宣言されましたが、もしこの恐ろしい被告が、まだ幼児として親の家にいる頃、ただ一人の人に愛されて一フントの胡桃をもらったために、二十三年間もその恩義を忘れずにいたとするならば、その反対にかくのごとき人間は、博愛なる医師ヘルツェンシュトゥベ氏のいわゆる『靴もはかずに、たった一つしかボタンのつかぬズボンを着けて父の裏庭を』駈け廻っていたことをも、この二十三年間わすれずにいられないはずです。それを起訴者は言い落していられるようであります。
「ああ、陪審員諸君、なぜ私はこの『不幸』を、もっと接近して観察する必要があるのでしょう? すでに誰でも知っていることを、なぜ繰り返す必要があるのでしょう? わが被告はこの父親のもとへ来て、どういうことを目撃したのでしょうか? 一たいなぜ、どういうわけで、わが被告を無感覚なエゴイスト、怪物として描きだす必要があるのか? なるほど、彼は放縦です、粗野で乱暴です。この点われわれは彼を責めなければなりません。が、彼の運命に対して責任を有するものは誰であるか? 彼が立派な心的傾向と、恩義を重んずる感情をもっているにもかかわらず、あのようなばかばかしい教育を受けたということは、そもそも誰の責任であるか? 彼は誰かに正しい道を教えてもらったか? 学問によって開発されたか? 少年の時分に誰か少しでも彼を愛したものがあるか? 私の被弁護者はただただ神の庇護の下に、すなわちまったく野獣のように成長したのであります。彼は長い別離の後、父親に会うことを渇望していたかもしれません。彼はその前に、自分の幼年時代を夢のように思い出しては、その時代に見た忌わしい幻影を払い去ろうと努め、自分の父親をいいほうに解釈して、へだてなく抱擁しようと、心の底から望んでいたかもしれません。ところが、どうでしょう? 彼を迎えたものは皮肉な嘲笑と、猜疑と、金銭問題から生じた詭計だけでした。彼は毎日、胸の悪くなるような酒の上の雑談や、卑俗な処世訓を聞き、最後に自分の息子の金で、息子の恋人を奪おうとする父親を見たのであります、――ああ、陪審員諸君、これは実に忌わしい残酷なことではありませんか! しかるに、この老人は、かえって息子の不遜と残酷を衆人に訴え、世間へ悪しざまに吹聴して、妨害、中傷を試みたばかりか、息子の借金証文を買い集めて、彼を牢獄に投じようとしたのであります。陪審員諸君、私の被弁護者のように、一見残酷で乱暴なむこう見ずの人間は、世間にその例の珍しくないように、きわめて優しい心を持っているものですが、ただそれを、外に現わさないだけなのであります。笑わないで下さい、どうか私の考えを笑わないで下さい! 慧敏な起訴者は、先刻私の被弁護者がシルレルを愛していること、『美しいもの高尚なもの』を愛していることを引き合いに出して、無慈悲に嘲笑されました。私がもし起訴者の立場にいたならば、決してそれを嘲りはしなかったでしょう。そうです、こうした性情は、――ああ、あまりに誤解されやすいこうした性情を、私はどこまでも弁護します、――こうした性情はしじゅう優しいもの、美しいもの、真実なものに餓えているのであります。いわば、自分の粗暴で、残忍な性質のコントラストとして、――そうした性情は無意識にこれらのものに餓えている、まったく餓えきっているのであります。情熱的で表面粗暴に見える彼らは、一たん何ものか、例えば女などを愛する段になると、すぐもの狂おしいほど熱中してしまいますが、しかもその愛は必ず精神的な高尚なものであります。またどうか笑わないで下さい。それはこういう性質にしばしばありがちなのであります。そうした人間はとうていその情熱を、時とするときわめて粗野な情熱を、隠すことができません、――これが人の目を聳動さすので、人はその点のみを認めて、その人間を見ないのであります。ところが、彼らの情熱はすぐ燃えきってしまうけれど、見たところいかにも粗剛に思われるこれらの人間は、高潔な美しい対象物によって自己革新を求めます。悔い改めて立派なものとなり、潔白な高貴な人間になる可能を求めるのであります、――何と嘲笑されてもかまいません、とにかく『高尚なもの』、立派なものになろうとするのであります!
「先刻、私は被告とカチェリーナとの恋物語には、あえて手をふれないと言いました! が、一ことくらい言ってもさしつかえなかろうと思います。われわれが先刻耳にしたもの、あれは申し立てではなくて、復讐心に燃えている女のもの狂おしい叫びでしかありません。彼女には、そうです、彼女には被告の変心を責める資格はありません。なぜなら、彼女はみずから変心したからであります。もし彼女が少しでも熟考する余裕をもっていたら、決してあんな申し立てをしなかったでありましょう! ああ、彼女の言葉を信じないで下さい。私の被弁護者は、彼女の言ったような『極道者』ではありません! かの磔刑に処せられた偉大なる博愛家は、十字架の死を覚悟しながら『われは善き牧者なり。善き牧者はその羊のためにおのが魂を棄つ。そは一の魂も滅びざらんがためなり』と申されました。われわれもまた一個の人間の魂をも滅ぼしてはなりません!
「私は今、父親とは何を意味するかと訊いて、それは偉大なる言葉である、貴重なる名称であると叫びました。しかし、陪審員諸君、言葉というものは公正に取り扱わなければなりません。私はあえて事物を正当な名前をもって露骨に呼ぶものです。殺されたカラマーゾフ老人のような父親は、父親と呼ばるべきものでもないし、またそう呼ばれる資格をも持っていません。父親と呼ばれる資格のない父親に対する愛は、愚かでもあり不可能でもあります。愛は無から造り得るものではありません。無から造り得るものは、ひとり神あるのみです。『父たるものよ、その子を悲しますことなかれ!』愛に燃えたつ心から、ある使徒はこう書いています。私が今この聖なる言葉を引いたのは、自分の被弁護者のためではありません。すべての父なるもののために述べたのであります。では、父なる人々を教える権利を、誰が私に授けたか? 誰から授けられたのでもありません。しかし、人間として、公民として vivos voco([#割り注]言葉よ、栄えあれ![#割り注終わり])と揚言します。われわれはこの地上にさして長くも住まないのに、多くの悪行をなし、多くの悪言を吐きます。それゆえ、われわれはみんな一堂に会した機会を利用して、互いによき言葉を吐くために、好適な瞬間を捉えようではありませんか。私とてもそうです。私はこの席で自分の機会を利用するのです。至尊の意志によって、われわれに与えられたこの演壇は、決して無意味に存在するのではありません、――全ロシヤがこの法廷におけるわれわれの声を聞いています。私は単に当法廷に集った父親たる人々のために言うのではなく、すべての父なる人々にむかって叫ぶのであります。『父たるものよ、その子を悲しますことなかれ!』と。そうです、われわれはまずキリストの言葉を実行して、しかる後はじめて、子の義務を問うことができるのであります! でなければ、われわれは父ではなくして、むしろわが子の敵であります。また子は子でなくして、われわれの敵なのであります。しかも、われわれみずから彼らを敵としたのであります!『なんじが人を量るごとくおのれも量らるべし。』――これは私の言葉ではなく、聖書の教えるところであって、つまり人を量らばおのれも人に量られるというのであります。ですから、もし子がわれわれに量られたとおりにわれわれを量ったとしたら、どうして子を責めることができましょう?
「近ごろフィンランドで起った事件ですが、ある一人の女中が、秘密に子供を生んだという嫌疑を受けて取り調べられたところ、屋根裏の片隅の煉瓦の陰から、その女中の箱が発見されました。この箱のことは誰ひとり知らずにいたのでありますが、開けてみるとその中から、彼女のために殺された、生れたばかりの嬰児の死骸が出て来ました。なおその箱の中からは、以前彼女が生んで、生れると同時に殺した(これは彼女の自白したところであります)嬰児の骸骨が二つも発見されました。陪審員諸君、これがはたしてその子供たちの母親でしょうか! そうです、彼女はその子供たちを生んだに違いない。けれども、はたして彼女はその子たちにとって母親でしょうか? 母親という神聖な名前を彼女にあたえる勇気をもったものが、われわれの中に誰かあるでしょうか? われわれは大胆になりましょう、陪審員諸君、われわれはさらに無遠慮になりましょう。むしろ今日われわれはそうすべき義務があります。『金属《メダル》』とか『硫黄《ジューペル》』とかいう言葉を恐れていたモスクワの商人の妻([#割り注]オストロフスキイ戯曲中の人物[#割り注終わり])のように、ある種の言葉や観念を恐れてはなりません。いや、むしろ近年の進歩がわれわれにもふれたことを証明するために、生んだだけのものはまだ父ではない、子供を生んで、子供に対する責任をはたしたものこそ父である、とこう直言いたしましょう。むろん、父という言葉には他の意味も、他の解釈もありまして、自分の父はたとえ極道者であっても、子供たちに対する悪漢であっても、自分を生んだ以上やはり父である、とこう主張するものもあります。しかし、これはいわば神秘的父親観とも名づくべきもので、理性では承認することができません。これは、ただ信仰によって承認し得るのみです。いや、もっと正確に言いますと、信仰を頼んで[#「信仰を頼んで」に傍点]受け容れ得るのであります。そうした例はほかにもたくさんありまして、理性で承認することはできませんが、宗教がそれを信ずるように命令します。しかし、そうしてみると、それは実際生活の範囲外に存するのです。実際生活の範囲においては、ただにそれみずから権利を有するのみならず、さらに大なる義務を課するところの実際生活の範囲においては、われわれがもし博愛家であり、進んでキリスト教徒たらんと欲するならば、われわれは理性と経験とによって是とせられ、解剖の熔炉をくぐってきた信念を、実行しなければなりません。一言にしてつくせば、理性的に行動しなければなりません。夢の中や妄想の中で盲動するようなことをしてはなりません。それはつまり、人間に害毒をもたらさないためです。人間を苦しめたり滅ぼしたりしないためです。さすれば、その時こそ初めて、本当のキリスト教徒の行動となります。神秘的ではなく、真に博愛的な理性的行為となるのであります……」
 このとき法廷のすみずみから激しい拍手が起ったが、フェチュコーヴィッチは自分の弁論を中断せずに、終りまでつづけさせてもらいたいと懇願するもののように両手を振った。と、満場はすぐにしんとしてしまった。弁護士は語りつづけた。
陪審員諸君、諸君はこれらの問題がわれわれの子供、――といっても、一かどの青年となって、すでに是非の判断をするようになった子供にとって、没交渉であり得るとお考えですか? いや、没交渉ではあり得ません。われわれは彼に不可能な謙譲をしいることはできません! 親としての価のない父の態度は、ことに自分の友達である他の子供の、親らしい親と比較する場合、知らず識らず青年の心に悩ましい疑問を呼びさまします。ところで、彼がこの疑問に対して受ける答えは、きまりきった紋切り型で、『お父さんはお前が生んだのだ。お前はお父さんの骨肉なのだ。だから、お前はお父さんを愛さなくてはならない』というのであります。『しかし、父はおれを生もうとする時に、おれを愛していたろうか?』と青年は心にもなく、かような疑念を発します。そして、彼はますます驚きながら、『一たい父がおれを生んだのはおれのためだろうか? 父親はその瞬間に、――おそらく酒にでも刺戟されて、情欲をおこしたその瞬間、おれのことなど考えてはいなかったんだ、おれが男か女かさえも知らなかったんだ。ただおれに飲酒癖を遺伝したくらいなもので、これが父のおれにあたえた恩恵の全部だ……父がおれを生んで、一生涯おれを愛さなかったからって、なぜおれは父を愛さなければならないのか?』と青年はこう思わざるを得ません。ああ、諸君はこの疑問をさだめし残酷な、無作法なものと思われることでしょう。けれど、未熟な青年に、不可能な謙譲をお求めになってはいけません。『天性を戸口から追い出せば、今度は窓から飛んでくる』とあるとおりです、――ことに、何よりもわれわれは『金属《メダル》』や『硫黄《ジューペル》』を恐れてはなりません。われわれは神秘的概念の命ずるところでなく、理性と博愛心の命にしたがって、問題を解決しましょう。では、いかに解決すべきでしょうか? それはこうするのです。息子を父親の前に立たせて、理路整然と質問させるのであります。『お父さん、どうか聞かせて下さい、なぜ私はあなたを愛さなければならないのでしょう? お父さん、どうか証明して下さい。なぜ私はあなたを愛さなければならないのでしょう?』こういうふうにして、もしその父親が息子の問いに答えて、立派に証明することができれば、これは神秘的偏見にのみ支持せられない、理性的な自意識にもとづく、厳密な意味における博愛的基礎の上に建てられた、本当の家庭であります。しかしながら、もし父親がそれを証明し得ない時は、この家庭はただちに破綻をきたします。父親は息子にとって父親ではありません。息子のほうでは将来、自分の父親を他人とし、また自分の敵とさえ見なす自由と権利とを得るのです。陪審員諸君、わが法廷は真理と健全なる思想の学校でなければなりません!」
 このとき弁護士は抑えることのできない、ほとんど狂熱的な拍手によって弁論を遮られた。むろん、傍聴者の全部ではなかったが、その半数は確かに拍手した。父親であり母親である人人も拍手した。上の方の婦人席からは、甲高い叫び声が聞えた。ハンカチを振るものもあった。裁判長はやっきとなってベルを鳴らしはじめた。彼は傍聴者の行為に激昂したらしかったが、しかしさっき嚇したように、『退廷』を命ずるとは、さすがに言い得なかった。それはうしろの特別席に腰をかけていた大官連や、燕尾服に勲章をおびた老人たちまでが、拍手したりハンカチを振ったりしたからである。それでようやく騒ぎが鎮まった時、裁判長は例の『退廷を命ず』という、以前の厳しい威嚇を繰り返したにすぎなかった。フェチュコーヴィッチは勝ちに乗じて、また興奮のていで弁論をつづけていった。
陪審員諸君、諸君は息子が塀を乗り越えて、父親の家へ闖入し、ついに自分を生んだ仇敵であり、凌辱者であるところの人間と相面して立った、あの恐るべき夜を記憶しておられるでしょう。その時のことは、今日もたびたびここで述べられたのであります。で、私は極力主張しますが、――そのとき彼が闖入したのは、決して金のためではありません。先刻も申したとおり、彼を強奪の罪に問うことは、愚もまたはなはだしいことであります。また彼が父の家へ忍び込んだのは、殺害せんがためではありません、決してそんなことはありません。もし彼が前もって、そういう企らみをもっていたとすれば、少くとも兇器だけくらい前に用意しておくはずです。銅の杵なんかは自分でも何のためとも知らず、ただ本能的に持って行っただけであります。また彼は合図で父をだましたとしましょう、父親の部屋へ闖入したとしましょう、――私はすでに、そういう伝説をこれからさきも信じないと申しましたが、しかしまあ、仕方がありません、ただ一分間だけ、そうであったと仮定しましょう! 陪審員諸君、私はすべての神聖なものに誓って言いますが、もしフョードルが被告にとって父親でなく、赤の他人の凌辱者にすぎなかったら、被告は部屋部屋を駈け廻って、この家に女のいないことを見さだめると、おのれの競争者には何の危害をも加えることなく、すぐ逃げ去ったに相違ありません。あるいはちょっとぐらい殴ったり、突き飛ばしたりしたかもしれませんが、ただそれだけのことです。なぜなら、被告はその場合、そんなものにかまっている余裕がなかったからであります、女の居どころを突き止めなければならなかったからであります。しかし、それは父親でした、しかも平生から常に父親の仮面を被った敵であり、子供の時から忌み嫌っていた凌辱者でありましたが、今はその上に奇怪きわまる競争者なのではありませんか! で、憎悪の念がわれ知らずむらむらと湧き起って、彼の分別をかき乱しました。ありとあらゆる感情が一時に込み上げてきました! これは狂気と錯乱の衝動《アフェクト》ですが、同時に永遠の法則に対して復讐しようとする、抑えがたい無意識な自然の衝動だったのであります。自然界においては、すべてがそうなのであります。しかし、兇行者はその場でもなお殺害しませんでした、――私はこれを主張します、私はこのことを絶叫します、――そうです、彼はただ忌わしい憤怒に駆られて、杵を一振り振っただけです。殺害しようという意志もなければ、また殺害したことにも気づかなかったのであります。で、もしこの恐ろしい杵さえ彼の手になかったならば、彼はただ父を殴打しただけで、殺害はしなかったでしょう。で、彼は逃走する際、自分が危害を加えた老人が、死んでいることを知らなかったのであります。こうした殺人は殺人になりません。こうした殺人は親殺しにもなりません。そうです、あんな父親を殺したことは、親殺しと名づけられるべきでありません。こうした殺人は、ただ一種の偏見によってのみ、親殺しと名づけ得るものであります! しかし、この殺人は実際あったのでしょうか、まさしく行われたのでしょうか? 私は改めて心の底から諸君に訴えます!
陪審員諸君、もしわれわれが彼を有罪として処刑したら、彼は自分自身に向って、こう言うでしょう。『この人たちはおれの運命のために、おれの教育のために、おれの開発のために何一つしてくれなかった。おれをより善くもしなければ、また一個の人間にもしてくれなかった。この人たちはおれに食わせもしなければ、飲ませもしなかった。裸一貫で牢に繋がれているおれを見舞いもしなかった。そして、とうとうおれを懲役に送ることにした。おれはこれで勘定をすましたから、もう今では彼らに少しも負うところがない、永久に何人にも負うところはない。彼らも悪人なら、おれも悪人になってやろう。彼らも残酷なら、おれも残酷になってやろう。』陪審員諸君、彼はおそらくこう言うでしょう! 私は誓って申しますが、諸君の宣告される刑罰は、ただ被告の苦しみを軽減するだけです、被告の良心を軽減するにすぎません。被告は自分の流した血を呪ったり、それを悲しんだりしないようになるでしょう。同時に、諸君は被告の内部にひそんでいる、真人間となる可能性を滅ぼしてしまわれるのであります。なぜなら、彼は邪悪な盲目な人間として、生涯を過すからであります。けれど、諸君が想像もおよばぬほど、恐ろしい刑罰を被告に下そうとされるのは、それによって彼の魂を永久に救いよみがえらせるためなのでしょうか? もしそうだとすれば、どうか偉大な慈悲をもって彼を圧倒して下さい! しからば、諸君は被告の魂がいかに慄え、おののくかをごらんになるでしょう。どうして自分はこの慈悲にたえられよう、はたして自分はこれほどの愛を受けようとしているのか、自分はこの愛に価するものであろうか、こういう被告の魂の叫びをお聞きになるでしょう! ああ、私は知っています。私はこの心を知っています。陪審員諸君、乱暴ではあるけれど、高潔なこの心を知っています。この心は諸君の慈悲の前に跪拝するでしょう。この心は偉大なる愛の働きに渇しています。この心は新しく燃え立って、永久によみがえるでしょう。世には自己の眼界の限られているところから、世間を憎んでいる魂があります。けれども、この魂に慈悲を加えてごらんなさい。愛を示してごらんなさい、たちまちこの魂はおのれの過去を呪います。なぜなら、この魂の中には多分に善良な萌芽がひそんでいるからであります。かような魂はひろがり、成長して、神の慈悲ぶかいこと、人々の善良公平なことを見知るでしょう。彼は悔悟の念と目前に現われた無数の義務とに、慄然として圧倒されるでしょう。その時こそ、もう『おれは勘定をすました』などと言わずに、『おれはすべての人々に対して罪がある。おれはいかなる人々よりも無価値なものだ』と言うでしょう。彼は燃えるような苦行者の悔恨と、感激の涙を流しながら、『世間の人はおれよりも善良だ。彼らはおれを滅ぼそうとせず、かえって救ってくれたではないか』と叫ぶでしょう。ああ、諸君は容易にこれを、この慈悲の作用を行うことができるのであります。なぜなら、いくぶんたりとも真実らしい証拠が一つとして存在しないのに、『しかり、罪あり』と宣告するのは、あまりに苦しいことだからであります。一人の罪なきものを罰するよりは、むしろ十人の罪あるものを赦せ、――前世紀の光栄あるわが国の歴史が発したこの偉大な声を、諸君は聞いておられるでしょう? いまさら不肖な私が諸君に向って、ロシヤの裁判は単なる刑罰ではなくして、滅びたる人間の救済であるなどと、告げるまでもないことであります! もし他国民に固定せる文字と刑罰とがあるとすれば、われわれには精神と意義、滅びたるものの救済と復活とがあります。もしこれが真実であるとすれば、もしロシヤとロシヤの裁判がはたしてかようなものであるとすれば、――ロシヤには洋々たる未来があります。われわれは驚きません、われわれは、すべての国民が忌み嫌って回避する、暴れ狂うトロイカにも驚きません! 暴れ狂うトロイカではなくして、偉大なるロシヤの戦車が、堂々と勇ましく目的地に進んで行くのであります。わが被弁護者の運命は諸君の掌中にあります。わがロシヤの正義の運合も諸君の掌中にあります。諸君はそれをお救いになるでしょう。諸君はそれをお守りになるでしょう。諸君は正義を守護する人の存在すること、正義が善良な人の掌中にあることを立証なさるでしょう!」

[#3字下げ]第十四 百姓どもが我を通した[#「第十四 百姓どもが我を通した」は中見出し]

 こう言ってフェチュコーヴィッチはその弁論を終った。もう今度こそは、嵐のような傍聴者の感激を押えることができなかった。制止しようなどとは思いもよらないことであった。女たちは泣いた。男子席でも泣くものが多かった。大官連さえ二人まで涙を流していた。裁判長も諦めて、ベルを鳴らすのを躊躇した。『ああした感激を阻止するのは、とりも直さず神聖な感情に冒涜を加えることですわ』とは、あとで当地の婦人たちが叫んだところである。当の弁護士は心底から感動していた。こうしたおりに、わがイッポリートはまたもや立ちあがって『反駁を試みよう』としたのである。人々は憎悪の目をもって彼を見やった。『何ですって? どうしようというんですの? あの人はまた反駁しようってんですの?』と婦人たちは囁いた。けれども、たとえ彼自身の細君をもふくんだ世界じゅうの婦人連が反対しても、この際イッポリートを止めることは不可能であった。彼は顔を真っ蒼にして、興奮のためにぶるぶる慄えていた。彼が発した最初の言葉や最初の句は、意味さえわからないほどであった。彼は息をはずませながら、しどろもどろに不明瞭な発音で弁じたが、しかし、ほどなく落ちつきを回復した。筆者《わたし》は彼の第二の論告の中から、ただ幾つかの語句をあげるにとどめておく。
「……私は小説を作ったといって非難を受けました。しかし、弁護士の弁論は、小説の上に小説を築いたものでなくて何でしょう? ただ詩の句が出て来なかったばかりです。フョードルが恋人を待っている間に封筒を破って、床の上に投げ棄てたなどと言いだしたばかりか、なおその上に、フョードルがこの驚くべき行為の間に言ったことまで引証されました。これがはたして詩ではないでしょうか? 彼が金を出したという証拠が一たいどこにあります? そのとき彼の言った言葉など、一たい誰が聞いたのです? 遅鈍な低能児のスメルジャコフは、自分が私生児であるために社会に復讐するといったような、一種のバイロン式主人公に変えられています、一たいこれがバイロン趣味の劇詩でないでしょうか? もしそれ、父の家に忍び込んだ息子が、父を殺しはしたけれど、また同時に殺したのではないというにいたっては、すでに小説でもなければ劇詩でもなく、みずから解決のできない謎を提出するスフィンクスであります。もし彼が殺したとすれば、やはり殺したのです。殺したけれども殺したのではないとは、一たい何事です、――誰にこれが理解されるでしょう? 次にわれわれは、わが法廷は真理と健全なる思想の法廷である、というようなことを聞かされました。ところが、この『健全なる思想』の法廷から、父を殺すことを親殺しと名づけるのは、一種の偏見にすぎないという荘厳な宣言が、原則として響き渡りました! けれども、もし親殺しが偏見であって、一人一人の子供が自分の父親に向って、『お父さん、なぜ私はあなたを愛さなければならないのですか?』と訊くようになったら、われわれははたしてどうなるでしょう? 社会の基礎はどうなるでしょう? 家庭はどうなってゆくことでしょう? 親殺し、これがモスクワの商人の妻の『硫黄《ジューペル》』にすぎなかったら、将来、ロシヤ法廷の最も尊貴な、最も神聖なる伝統は、単に一個の目的を達するために、すなわち赦すべからざるものを赦すために、破壊され、無視されてしまいます。ああ、被告を大慈悲によって圧倒せよ、と弁護士は絶叫されました、――が、これこそまさに犯人の必要とするところであって、明日になれば、被告がいかに圧倒されるかわかるでしょう。それに、弁護士がただ被告の無罪のみを主張されるのは、あまり謙遜すぎはしないでしょうか? なぜ子孫を初めとして新時代の人々へ、永久に親殺しの功績を残すために、親殺し補助金制度の創設を要求されないのでしょうか? 弁護士は聖書と宗教とを訂正して、それらをすべて神秘主義と見なし、健全なる思想と理知の解剖によって確証された真正のキリスト教は、ただ我らの手中にのみあると言われました。こうして、われわれの前にキリストの贋物をおこうとするのであります!『なんじ人を量るごとくおのれも量らるべし』とこう弁護士は叫びながら、それと同時に、キリストはみずから量られたるごとく人をも量るように教えた、とこう推論されました、――しかも、これが真理と健全なる思想の法廷から発せられた言葉なのであります! 今では、弁論の前日に聖書を見るのは、ただ何といってもかなり独創的なこの書物をこれくらいまで心得ているぞ、ということをひけらかすためにすぎない。この本も必要に応じて、ある効果をもたらすのに役だつ、というくらいな心持なのです! しかし、キリストはそうしないように、そういう行為を慎しむように、と命じていられます! なぜなら、それを行うのは悪の世界だからです。しかし、われわれは赦さなければなりません。いま一方の頬をもさし向けなければなりません。自分を凌辱したものがわれわれを量るごとく、彼らを量ってはなりません。神はわれわれにこう教えられましたが、子供に父親を殺すことを禁ずるのが偏見であるなどと、教えられはしなかったのであります。われわれは真理と健全なる思想の法廷において、我らの神の聖書を訂正すべきではありません。しかるに、弁護士はこの神を不遜にもただ『十字架につけられたる博愛家』と呼んでいます。それはキリストに向って、『なんじはわれらの神なり』と呼んでいる正教国ロシヤの全国民に反するものであります……」
 このとき裁判長は口を挟んで、普通こうした場合における裁判長の例にもれず、あまり誇張した言辞を弄して、職務の限界を超えた議論をしないようにと、夢中になって前後を忘れた検事をたしなめた。しかし、法廷は鎮まらなかった。傍聴者はどよめき動いて、不満の叫びさえ挙げた。フェチュコーヴィッチは、反駁というほどのこともしなかった。彼は演壇へ上って、ただ片手を胸にあてながら、腹だたしげな声で、威厳に充ちた言葉を一こと二こと述べたばかりである。彼は『小説』と『心理解剖』について軽く揶揄を弄したのち、あの個所で『ジュピタアよ、なんじは怒れり、ゆえになんじはあやまてり』という文句を挿んだ。この文句は傍聴者の間に、さも同感らしい盛んな笑声を喚び起した。それはイッポリートが、一こうにジュピタアらしくなかったからである。次にフェチュコーヴィッチは、自分が若い人々に親殺しを許容した、などというような寃罪に対しては、あえて反駁の心要を認めないと、いかにももったいらしく言った。『キリスト教の曲解』問題、および彼がキリストを神と呼ばずに、『十字架につけられたる博愛家』と名づけて、『ロシヤ正教の精神に反し、真理と健全なる思想の法廷においてあるまじきこと』を言ったという非難に関しては、――フェチュコーヴィッチは、それを『あてこすり』であると仄めかし、自分が当地へ来る時には、少くとも当地の法廷において、『市民として、および忠良なる臣民として、私の人格を傷つけるような』寃罪をきせられる危険はないと信じていた、と述べた。しかし、このとき裁判長は、彼をも同様にたしなめた。で、フェチュコーヴィッチは一揖して、その答弁を終った。すると、そのあとから、同感の意を表するような満廷の囁きが聞えはじめた。イッポリートは、当地の婦人たちの意見によると、『永久に圧倒されてしまった』のである。
 次に被告が発言を許された。ミーチャは立ちあがったが、多くを言わなかった。彼は肉体的にも精神的にもすっかり疲労しきっていた。けさ法廷へ入って来た時の、独立不羈な元気らしい様子は、ほとんどどこにも見られなかった。彼はこの日、生れて初めて、今まで理解しなかった非常に重大なあるものを啓示され、経験したように見受けられた。彼の声は弱っていた。彼はもはや、先刻のように叫ばなかった。その言葉には、何やら新しい調子が響いたが、それは諦めと、敗北と、屈服の調子であった。
陪審員諸君、このうえ私に何を言うことがありましょう――裁きの日が来たのです。私は自分の上に神の右手《めて》がおかれているのを感じています。道を踏み誤った人間の最後が来たのです! しかし、私は神の前に立っているような心持で、諸君に申します。『私は父親の血に対しては、――断じて無罪です!』なお最後に繰り返して言いますが、私が殺したのではありません! 私は道を踏み誤りましたが、善を愛していました。しじゅう正しい道に入ろうと努力しながらも、やはり野獣のような生活をしていました。私は検事に感謝します。検事は私について、自分でも知らないことをたくさん聞かしてくれました。しかし、私が親父を殺したというのは間違いです、それは検事の誤りです! 私はまた弁護士にも感謝します、あの弁論を聴きながら泣きました。が、私が親父を殺したというのは間違いです。あんなことは仮定さえする必要がありません! それから、医者の言葉も信じないで下さい。私は正気です。ただ心が悩んでいるだけなのです。もし諸君が私を赦して下さるなら、釈放して下さるなら、――私は諸君のために祈りをあげます。私は立派な人間になることを誓います、神の前で誓います。が、もし罰せられても、――私は自分の頭上で剣を折ります。剣を折って、その破片に接吻します! しかし、容赦して下さい。私の神を私から奪わないで下さい! 私は自分の性質を知っています、――私は神を怨むに相違ありません! 私の心は悩んでいます……容赦して下さい!」
 彼はほとんど倒れるように自分の席に着いた。その声は途切れがちで、最後の一句はやっとのことで言い終ったほどである。次に裁判長は問題の整理に着手して、原被両告に結論を求めた。しかし、筆者《わたし》は詳しいことを書くまい。最後に陪審員一同は立ちあがって、会議のために退廷しようとした。裁判長は非常に疲れていたので、『どうか、公平に熟議していただきたい。弁護士の雄弁にうごかされてはなりませぬぞ。しかし、とにかく慎重に考量審議して、諸君が偉大なる責任をおびていることを、お忘れのないように願います。云々』と弱々しい声で注意を与えた。陪審員が退廷した後、公判は休憩を宣せられた。傍聴者は席を立ったり、歩き廻ったり、山積した印象を話し合ったり、休憩室で食事したりすることができた。もうよほど遅くなって、ほとんど夜の一時に近かった。けれど、誰も帰ろうとするものはなかった。誰もかれも恐ろしく緊張して、帰って寝るどころではなく、胸をどきどきさせながら、待ち構えていた。とはいえ、みながみな胸を躍らせているわけではなかった。婦人たちはただもう待ち遠しさにやきもきしていたけれど、その胸は落ちついていた。『きっと無罪になる』とこう思っていたので、誰もかれも、満廷が熱狂する戯曲的な瞬間を待ち構えていた。正直なところ、男子席のほうでも、きっと無罪になるに相違ないと確信しているものが、ずいぶんたくさんあった。あるものは喜び、あるものは顔をしかめていたが、中にはただしょげ返っているものもあった。無罪にしたくなかったのである! フェチュコーヴィッチは成功を確信していた。彼は一同に取り囲まれて祝辞を受けていた。みんなしきりに彼の機嫌をとるのであった。
「弁護士と陪審員の間には、目に見えない糸が繋がっているものでしてね。」あとで聞いたところによると、フェチュコーヴィッチはあるグループでこう言ったそうである。「それはもう弁論の時に繋がれてしまうもので、ちゃんと予感することができますよ。私はそれを感じました、確かにありますよ。もうこっちのものです、ご安心なさい。」
「だが、あの百姓どもがこれから何と言うでしょうね?」一人のしかめ顔をした紳士が、ある紳士たちのグループに近づきながら、こう言った。それはでっぷり肥ったあばた面で、近郊の地主であった。
「でも、百姓だけじゃありませんよ。あの中には官吏が四人もいますからね。」
「そうです、官吏もいますよ」と郡会の議員が仲間に入りながら言った。
「だが、諸君はナザーリエフを、あのプローホル・イヴァーノヴィッチをご存じですか? あのメダルをつけた商人の陪審員ですよ。」
「それがどうしました?」
「素晴しい知恵者なんですよ。」
「でも、黙ってばかりいるじゃありませんか。」
「黙ってはいるが、あのほうがかえっていいですよ。あの男はペテルブルグに教えを乞わなくてもいいのです、自分のほうからペテルブルグ全体を教えるんですからね。あれは十二人からの子供をもっていますよ、どうです!」
「だが、どうでしょう、一たいあの連中は被告を無罪にしないでしょうかね?」また別なグループの中で、当地の若い官吏の一人がそう叫んだ。
「きっと無罪にするね」という断乎たる声が聞えた。
「無罪にしなければ恥辱ですよ、醜態ですよ!」と官吏は叫んだ。「かりに彼が殺したとしても、親父が親父ですからね! それに、被告はあんなに夢中になっていたのだから……彼は実際、杵を一ふり振っただけです。ところが、親父は倒れたんですよ。ただしこの際、下男などを引き合いに出したのはよくない。それは単に滑稽な挿話にすぎませんよ。私が弁護士の位置にいたら、殺したけれども、彼に罪はない、それだけの話だ、畜生! とこんなふうに言ってやりますがね。」
「だから、弁護士もそう言ったんですよ。ただ、『それだけの話だ、畜生!』とは言いませんでしたがね。」
「いや、ミハイル・セミョーヌイチ、ほとんど実際そう言いましたよ」と第三の声が合槌を打った。「大丈夫ですよ、諸君、当地では情夫の正妻の喉を斬った女優が、大斎期のときに無罪になりましたからね。」
「でも、斬ってしまったのじゃありませんよ。」
「同じこってすよ、同じこってすよ! どうせ斬りかけたんですからな。」
「だが、弁護士が子供のことを言ったあたりはどうです? 素晴しいものじゃありませんか!」
「素晴しいもんでしたね!」
「だが、神秘主義のことだってどうです、神秘主義のことだって、え?」
神秘主義のことなんかもうたくさんですよ」とまた誰かが叫んだ。「それよりイッポリートの身になってごらんなさい、イッポリートの今後の運命を想像してごらんなさい! 検事夫人は明日にもミーチャのことで、ご亭主の目を引っ掻きますからね。」
「細君もここへ来ていますか!」
「どうして来ているものですか? ここへ来ていたら、その場で引っ掻いてしまいますよ。歯が痛むって家におりますよ。へっ、へっ、へっ!」
「へっ、へっ、へっ!」
 もう一つのグループでは、
「だが、ミーチャは無罪になるかもしれませんよ。」
「用心していないと、明日は『都』がひっくり返るような騒ぎになって、十日くらい飲みつづけますぜ。」
「ええ、あん畜生!」
「畜生には相違ないが、畜生なしじゃすみませんよ。あの先生、あそこへ行かなくてどこへ行くもんですか。」
「諸君、それはまあ、確かに雄弁でしたろう。だが、親父の頭を桿秤《さおばかり》で打ち割るなんて、よくありませんな。そんなことを赦したら、世の中はどうなります!」
「でも、戦車はどうです、戦車は?」
トロイカを戦車に造り直しましたね。」
「だが、明日になると、戦車をまたトロイカに造り変えることでしょう、『必要に応じて』ね、『すべて必要に応じて』ね。」
「どうもすばしこい連中がふえてきましたよ。諸君、一たいわがロシヤには正義があるのでしょうか、それとも全然ないのでしょうか?」
 けれども、ベルが鳴った。陪審員はちょうどかっきり一時間、協議したのである。傍聴者がふたたび席に着いた時には、深い沈黙が法廷を支配していた。陪審員が法廷へ入って来た時の光景を筆者《わたし》は今でも記憶している。いよいよやって来た! 訊問をいちいち順を追うてあげるようなことはすまい。第一、そんなものは忘れてしまった。ただ筆者の記憶しているのは、『被告は強奪の目的をもって、予定の計画によって殺したのでしょうか?』という裁判長の主要な第一問に対する陪審員の答えだけである(もっとも、この問いも言葉どおりに憶えているわけではない)。あたりはしんと鎮まり返った。陪審員の主席は、一ばん年の若い官吏であったが、彼は死んだような法廷の静寂を破って、はっきりと声高に宣言した。
「さよう、有罪であります!」
 つづいて、他のあらゆる点に関しても、やはり同じく、有罪である、しかり、有罪である、という答えが繰り返された。しかも、それにはいささかの酌量もなかった。これは誰しも予期しないところであった。ほとんどすべてのものは、少くとも情状酌量くらいは信じていたのである。死んだような法廷の静寂は破られなかった。有罪を望むものも無罪を望むものも、いずれもまったく字義どおり化石したようになっていた。しかし、これはただ最初の間だけで、やがて恐ろしい混乱が起った。男子席のほうでは非常に満足しているものがたくさんあった。中には歓喜の情を隠そうとしないで、もみ手をしているものさえあった。不満な連中はおし潰されたように、肩をすぼめたり、囁き合ったりしたが、それでもまだ何のことやらはっきりわからない様子であった。ところで、婦人たちはどうかというと、筆者《わたし》は一揆でも起すのではなかろうかと思ったほどである。初め彼らは、自分の耳を信じないもののようであったが、やがてたちまち、『それは何ということです、一体まあ、何事です?』という絶叫が満廷に響き渡った。彼らはみな席を跳りあがった。彼らはきっと今すぐにも判決が取り消されて、もう一度やり直しになることと、信じきっていたに違いない。と、この瞬間、突然ミーチャは立ちあがって、両手を前へさし伸べながら、はらわたを断つような声でこう叫んだ。
「神とその恐るべき審判の日にかけて誓います。私は父の血に対して罪はありません! カーチャ、おれはお前を赦してやる! 兄弟よ、友よ、もう一人の女を憐れんでやって下さい!」
 彼はしまいまで言い終らないうちに、法廷一ぱいにひびくような声を立てて慟哭しはじめた。それは彼の不断の声と違った思いもよらぬ新しい声で、どうして彼に突然こんな声が出たのか、不思議なほどであった。すると、二階の一番うしろの隅から、たまぎるような女の泣き声が聞えた。それはグルーシェンカであった。彼女はさっき誰かに頼んで、弁論の始まる前に、また法廷に入れてもらったのである。ミーチャは法廷から曳き出された。判決の発表は明日まで延期された。法廷ぜんたいは上を下への大騒動になった。しかし、筆者《わたし》はもう外へ出ていたので、その騒ぎの声を聞かなかった。ただ玄関の出口へ来てから、耳についた幾つかの叫び声を記憶しているばかりである。
「二十年くらいは鉱山の臭いを嗅がなけりゃなるまいて。」
「まあ、そんなものだろう。」
「百姓どもが我を通したんだ。」
「そして、ミーチャを片づけてしまったんだ!」