『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P280-P303

の席から叫んだ。
 何といってもこの小さな逸話は、傍聴人にある快い印象を与えた。しかし、ミーチャにとって最も有別な効果を生み出したのは、カチェリーナである。が、このことはあとで述べよう。それに、全体として 〔a` de'charge〕([#割り注]被告に有利な[#割り注終わり])証人、すなわち弁護士の申請した証人が、取り調べられるようになってから、運命は急に冗談でなくミーチャに微笑を見せた。それはまったく、弁護士にとってすら思いもうけぬことであった。けれど、カチェリーナの前に、まだアリョーシャの訊問が行われた。しかも、アリョーシャは突然ある一つの事実を思い起して、ミーチャの有罪を認めしむる重大な一要点に、きわめて有力な反証をあげたのである。

[#3字下げ]第四 幸運の微笑[#「第四 幸運の微笑」は中見出し]

 それはアリョーシャ自身にとってさえ、まったく思いもうけぬことであった。彼は宣誓なしに呼び出された。筆者《わたし》の記憶しているかぎりでは、検事側も弁護士側も、最初から優しい同情をもって彼に対した。前から彼の評判がよかったことはすぐ想像された。彼は謙遜に控え目に申し立てたが、その申し立ての中には、不幸な兄に対する熱い同情が波打っていた。彼はある質問に答えながら、兄の性格を述べ、ミーチャは乱暴で、情熱に駆られやすい人間かもしれないが、しかし同時に高潔で、自尊心が強く、寛大で、人から求められれば、自己を犠牲にすることさえ辞せないていの人であると言った。もっとも、兄が近来グルーシェンカに対する情熱と、父親との鞘当てのために、言語道断の状態におちいっていたことは、彼もこれを認めた。兄が金を奪う目的で父親を殺したという仮定は、憤然として否定したが、しかし、この三千ルーブリがミーチャの心の中で、ほとんど一種の mania になっていたことや、兄がこの金を父親に詐取された遺産の一部と思っていたことや、淡泊な兄でさえ、この三千ルーブリのことを口にするたびに、憤激と狂憤を禁じ得なかったことなどは、アリョーシャも認めないわけにゆかなかった。検事のいわゆる二人の『婦人』、すなわちグルーシェンカとカーチャの競争については、なるべく答えを避けるようにした。そして、一二の訊問に対しては、全然こたえることを欲しなかった。
「少くともあなたの兄さんは、お父さんを殺そうと思っていると、あなたに言ったことがありますか?」と、検事は訊いた。「もし答える必要がないとお思いになったら、答えなくってもいいのです」と彼はつけ加えた。
「あからさまに言ったことはありません」とアリョーシャは答えた。
「じゃ、どういうふうにですか? 間接にですか?」
「兄は一度、私に向って、自分は親父に個人的な憎しみをいだいている、と言ったことがあります。兄は悪くすると……嫌悪の念が極度に達した場合……父を殺さないものでもないと言って、自分でもそれを恐れていました。」
「あなたそれを聞いて信じましたか?」
「信じたとは申しかねます。けれど、私はいつもそういう危険に瀕した時、ある高遠な感情が兄を救うだろうと信じていました。また実際そのとおりだったのです。なぜって、私の父を殺したのは兄じゃない[#「兄じゃない」に傍点]のですから。」アリョーシャは法廷ぜんたいに響き渡るような声でこう断言した。
 検事はラッパの音を聞きつけた軍馬のように、ぶるぶると身ぶるいをした。
「私はあなたの信念が、まったくあなたの衷心から出たものであることを信じます。私はあなたの信念に条件をつけることもしないし、またそれを不幸な兄弟に対する愛と混同することもしません。それはあなたもぜひ認めておいていただきたいのです。あなたの家庭に勃発した悲劇に対するあなた独得の見解は、すでに予審の時から承知しております。露骨に言いますと、あなたの見解は非常に特殊なもので、検事局の集めた他の一切の陳述とぜんぜん矛盾しています。で、くどいようですが、いかなる根拠によって、そういう考え方をされるようになったのみか、進んで下手人は別な人間、つまり、あなたが法廷で公然と指定された人であって、あなたの兄さんは無罪であるいう[#「無罪であるいう」はママ]、断乎たる信念に到達されたのか、それをお訊ねする必要があるのです。」
「予審ではただ訊問にお答えしただけで」とアリョーシャは落ちついた小さな声で言った。「自分からスメルジャコフを告訴したわけじゃありません。」
「が、それにしても彼を犯人として指名されたでしょう?」
「私は兄ドミートリイの言葉として彼を挙げたのです。私は訊問を受ける前に、兄の捕縛された時の様子や、そのとき兄自身がスメルジャコフを名ざしたことなど聞いていたものですから。私は兄に罪がないことをまったく信じます。したがって、もし下手人が兄でないとすれば……」
「その時はスメルジャコフですか?……なぜほかの人でなくて、スメルジャコフなんです! それに、なぜあなたはどこまでも兄さんの無罪を信じるのですか?」
「私は兄を信じないわけにゆきません。兄が私に嘘など言わないことを、私はようく知っています。私は兄の顔つきで、兄の言うことが嘘でないと知ったのです。」
「ただ顔つきだけで? それがあなたの証拠の全部なんですか?」
「それよりほかに証拠をもちません。」
「では、スメルジャコフが犯人だということについても、兄さんの言葉と顔つき以外に少しも証拠はないのですか?」
「そうです、ほかに証拠はありません。」
 これで検事は訊問を中止した。アリョーシャの答えは、傍聴者の心にきわめて幻滅的な印象を与えた。すでに裁判が始まる前から、スメルジャコフについては町でさまざまな風評があった。誰それが何を聞いたとか、誰それがしかじかの証拠を挙げたとか、そういうような取り沙汰が行われていたのである。アリョーシャに関しても、彼が兄のために有利となり、下男の罪を明らかにする有力な証拠を集めたという噂があった。ところが、意外にも、被告の実弟として当然な精神的信念のほか、何一つ証拠をもっていないとは。
 しかし、やがてフェチュコーヴィッチも訊問を始めた。いつ被告がアリョーシャに向って父に憎悪を感じるとか、親父を殺すかもしれないなどと言ったか? また彼がそれを聞いたのは、椿事勃発まえの最後の面会の時であったか? こういう弁護士の問いに対して、アリョーシャはとつぜん何か思い出して考えついたように、ぶるぶるっと身ぶるいした。
「私は今一つあることを思い出しました。自分でもすっかり忘れていましたが、あの時はっきりわからなかったものですから。ところが、今……」
 こう言って、アリョーシャはいま突然ある観念に打たれたらしく、一夜、修道院へ帰る途中、路端の樹のそばで、ミーチャに出くわしたときのことを熱心に物語った。その時ミーチャは自分の胸を、『胸の上のほう』を叩きながら、おれには自分の名誉を回復する方法がある、その方法はここに、この自分の胸にあると、繰り返し繰し返しアリョーシャに言った……『そのとき私は、兄が自分の胸を打ったのは、自分の心臓のことを言ってるのだと思いました』とアリョーシャはつづけた。『兄の目前に迫っている、私にさえ言うことのできない、ある恐ろしい悪名からのがれる力を、自分の心の中に見いだし得る、――こういうのだろうと私は思いました。私は正直なところ、そのとき兄が言っているのは、父のことだと思ったのです。父に暴行を加えようとする念が起るのを、恐るべき恥辱として戦慄しているのだと思いました。ところが、兄はその時、自分の胸にある何ものかを指そうとするようなふうつきをしました。で、今になって思い出しますが、私はその時、心臓はそんなところにありゃしない、もっと下だという考えが、ちらりと心にひらめきました。けれど、兄はもっと上のここいら辺を、頸のすぐ下を叩いて、しきりにそこのところをさして見せました。私はそのとき馬鹿なことを考えこしたが、ことによったら、兄はその時、例の千五百ルーブリを縫い込んだ、あの守り袋をさしていたのかもしれません!」
「そうだ!」突然ミーチャは自席から叫んだ。「まったくそうだよ、アリョーシャ、そうだよ、あのとき僕は拳でその守り袋をたたいたんだ。」
 フェチュコーヴィッチは慌てて彼のそばへ駈け寄って、静かにするように頼むと同時に、貪るような調子でアリョーシャに根掘り葉掘りした。アリョーシャは一生懸命に当時のことを思い浮べつつ、熱心に自分の想像するところを述べた。兄がそのとき悪名と考えたのは、きっとカチェリーナに対する負債の半額千五百ルーブリを、彼女に返さないで、ほかのこと、つまりグルーシェンカが承知したら、彼女を連れ出す費用にあてようと決心した、そのことをさしたものに違いない。
「そうです、きっとそうに違いありません。」アリョーシャは興奮して、だしぬけにこう叫んだ。「兄はそのとき私に向って、恥辱の半分を、半分を(兄は幾度も、『半分!』と言いました)、今すぐにでも取り除けることができるんだが、意志の弱い悲しさにそれができない……自分にはできない、それを実行する力のないことが、前もってわかっているんだ、とこう叫びました!」
「では、あなたは兄さんが自分の胸のここんところを打ったことを、しかと憶えていらっしゃるのですか?」とフェチュコーヴィッチは貪るように訊いた。
「しかと憶えております。なぜって、そのとき私は、心臓はもっと下にあるのに、なぜ兄はあんな上を打つのだろうと、不思議に思ったからです。そして、その時、自分で自分の考えの馬鹿げていることを感じたからです……私は自分の考えが馬鹿げていると感じたのを、今に記憶しております……そうです、そういう考えがちらりと頭にひらめきました。だからこそ、私はいま思い出したのです。どうして今までそれを忘れていたのでしょう! 実際、兄があの守り袋をたたいたのは、ちゃんと恥辱をそそぐ方法があるのに、しかもこの千五百ルーブリを返さない、というつもりだったのです! それに、兄はモークロエで捕まった時、――私は知っています、人から聞いたんです、――負債の半分を(そうです、半分です!)カチェリーナさんに返して、あのひとに対して泥棒にならないですむ方法をもっていながら、やはりそれを返そうともせず、金を手ばなすくらいなら、いっそあのひとから泥棒あつかいされたほうがましだと思ったのは、自分の生涯で最も恥ずべきことだったと叫んだそうです。ですが、兄はどんなに苦しんだでしょう! この負債のためにどんなに苦しんだことでしょう!」こう叫んで、アリョーシャは言葉を結んだ。
 けれど、むろん、検事が口を挟んだ。彼はアリョーシャに向って、その時のことをもう一ど言ってくれと頼んだ。そして、彼告が本当に何か指すような工合に自分の胸を打ったのか、あるいは単に拳で自分の胸を打ったまでのことではなかったか、と、繰り返し繰り返しうるさく訊いた。
「いいえ、拳ではありません!」とアリョーシャは叫んだ。「指でさしたのです。恐ろしく高いところ、ここんところをさしたのです……まあ、どうして私は今までこれを忘れていたのでしょう!」
 裁判長はミーチャに向って、今の申し立てについて、何か言うことはないかと訊ねた。彼はそれに対して、まったくそのとおりであった、自分は頸のすぐ下の胸に隠しておいた千五百ルーブリの金を指さしたのだ、むろんこれは恥辱であったと言った。『その恥辱は否定しません、あれは私の生涯の中で、最も恥ずべき行為でした!』とミーチャは叫んだ。『返すことができたのに返さなかったのです。泥棒になってもいい、金を返すまいと、その時わたしは思ったのですが、何よりも最も恥ずべきことは、おそらく返さないだろうと、自分で前もって知っていたことです! 実際、アリョーシャの言ったとおりです! アリョーシャ、有難う!』
 これでアリョーシャの訊問は終った。が、たった一つでもこうした事実が発見されたのは、重大な特筆すべきことであった。とにかく、小さいながらも一つの証拠が発見されたわけである。それはただ証拠の暗示にすぎないが、それでもやはり実際あの守り袋があって、その中に千五ルーブリ[#「千五ルーブリ」はママ]入っていたということも、被告が予審の際モークロエで、その千五百ルーブリは『私のものです』と言い張ったのも、嘘ではなかったという証拠として、ほんのいくらかでも役に立った。アリョーシャは喜んだ、彼は顔を真っ赤にして、指定された席へ退いた。彼は長いこと口の中で、『どうして忘れていたんだろう! どうしてあれを忘れていたんだろう! どうしてやっと今はじめて思い出したんだろう!』と繰り返していた。
 カチェリーナの訊問が始まった。彼女が姿を現わすと同時に、法廷の中には、異様などよめきが起った。婦人たちは柄つき眼鏡や双眼鏡を取り出した。男たちももぞもぞ身動きしはじめた。中にはよく見ようとして立ちあがるものもあった。人々はあとになって、彼女が現われるやいなや、突然ミーチャが『ハンカチ』のように真っ蒼になった、と言い合った。彼女はすっかり黒衣に身を包んで、つつましやかに、ほとんどおずおずと、指定の席へ近づいた。彼女が興奮していることは、その顔色でこそ察しられなかったが、決心の色は黒みがかった目の中にひらめいていた。ここに特記すべきことは、この瞬間、彼女が非常に美しく見えたことである。これはあとで人々が異口同音に断言したところである。彼女は小声ではあるが、しかし法廷ぜんたいへ聞えるように、はっきりと陳述を始めた。彼女は落ちついて口をきいた。少くとも、落ちつこうと努めていた。裁判長は慎重な態度をもって、『ある種の琴線に』触れるのを恐れでもするように、そして、この大不幸に十分の敬意を払いつつ、鄭重に訊問を始めた。けれど、カチェリーナは提出された質問の一つに対して、多言を待つまでもなく、自分は被告と婚約の間柄であった、と答えた。『あの人が自分からわたしを見棄てるまで』と彼女は小声に言い添えた。彼女が親戚のものに郵送してくれと、ミーチャに託した三千ルーブリのことについては、『わたしぜひとも必ず郵送してもらおうと思って、あの人にお金を渡したのではございません。わたしはその時……その瞬間に……あの人が大へんお金に困っているということを感じておりましたので、もしなんなら、一カ月間くらい融通してあげてもいいと考えて、あの三千ルーブリを渡したのですから、あとであの借金のために、あんなに心配なさる必要はなかったのでございます。」ときっぱり言い切った。
 筆者《わたし》はすべての問題を一々詳しく物語るまい。ただ、彼女の申し立ての根本の意味だけを述べるにとどめよう。
「わたしは、あの人がお父さんからお金を受け取りさえすれば、すぐにお送り下さることと固く信じておりました」と彼女はつづけた。「わたしはどんな場合にも、あの人の無欲と潔白とを信じておりました……金銭上のことでは、まったくこの上ない潔白な方でございますから。あの人はお父さんから三千ルーブリ受け取ることができると固く信じて、たびたびわたしにもその話をしました。あの人がお父さんと不和だということも、わたしはよく知っておりました。そして、あの人がお父さんにだまされているのだといつもそう信じていました。あの人がお父さんを嚇すようなことを言ったかどうか、少しも憶えていません。少くとも、わたしの前では、嚇しめいたことを一度もおっしゃいませんでした。もしあの時わたしのところへいらっしゃれば、三千ルーブリのための苦労なんか、安心させてあげるのでしたが、あの人はその後、わたしのところへいらっしゃらなかったのでございます……ところが、わたしは……わたしは自分のほうから呼ぶことができないような立場におかれたものですから……それに、わたしはあの人から返金を要求する権利を、少しも持っていなかったのでございます。」彼女は突然こうつけ加えた。その声には決然たる響きがこもっていた。「わたしはある時あの人から、三千ルーブリ以上のお金を借りたことがございます。それも、返すことができそうな目あてもないのに、貸していただいたのでございます……」
 彼女の音調には、一種挑戦的な響きが感ぜられた。この時フェチュコーヴィッチが、代って訊ねる番になった。
「それは近頃のことではなくって、あなた方が知合いになられた最初の頃でしょう?」フェチュコーヴィッチはたちまち、何かある吉左右[#「吉左右」はママ]を予感して、用心ぶかく、そろそろと探り寄るように、こう口を挟んだ。(括弧をして言っておくが、彼はほとんどカチェリーナの手でペテルブルグから招聘されたのだが、ミーチャがかつて向うの町で、彼女に五千ルーブリ与えたことや、あの『額を地につけての会釈』などは、少しも知らなかったのである。彼女はこの話を彼に隠していた。これは驚くべきことである。彼女は最後の瞬間まで、法廷でこの話をしたものかどうかと決しかねて、何かある霊感を待っていたのだ、とこう想像するのが確かである。)
「そうです、わたしは一生、あの瞬間を忘れることができません!」と彼女は語り始めた、彼女は何もかも[#「何もかも」に傍点]物語った。かつてミーチャがアリョーシャに話した例の挿話も、『額を地につけての会釈』も、その原因も、自分の父親のことも、自分がミーチャのもとへ行ったことも、残らず語ってしまった。しかし、ミーチャがカチェリーナの姉を通して、『カチェリーナ自身で金を取りに来るように』と申し込んだことは、一ことも言わなかった。彼女は寛大にも、このことを隠したのである。
 そのとき彼女は自分のほうから発作的に、何ごとか予期しながら……金を借りるために若い将校のところへ駈けつけた、とこういうふうに、いささかも恥じる色なく語った。これは実に、魂を震撼するような出来事であった。筆者《わたし》にひやひやして、身ぶるいしながら聞いていた。人々は一言も聞きもらすまいと鳴りをしずめ、法廷は水を打ったように静まり返った。一たいこれは例のないことであった。彼女のような我意の強い、軽蔑にちかいほど傲慢な女が、こういう正直な告白をしたり、こんな犠牲を払ったりしようとは、ほとんど思いもよらなかったのである。しかも、これは何のためであろう? 誰のためであろう? それは、自分に心変りした侮辱者を救うためであった。たとえ僅かでも、彼のためになるようないい感銘を人々に与えて、彼を救おうとするためであった。実際、なけなしの五千ルーブリ、――自分のために残った金を全部、惜しげもなく与えて、無垢な処女の前にうやうやしく跪拝した将校の姿は、確かに同情すべきものであり、魅力に富んでいたが……筆者の心臓は痛いほど縮みあがった! 筆者はあとで蔭口が始まりそうな気がしたのである!(あとで始まった、まさに始まった!)その後、町じゅうの人々は、毒々しい笑いをもらしながら、将校が『うやうやしく平身低頭しただけで』娘を帰したというところは、どうも当てにならぬようだ、と言い合った。人々はそこに『何かが省略されている』ことを仄めかした。『たとえ省略されていないにしても、よしんばあのとおりであったにせよ』と、当地で最も尊敬されている貴婦人たちは、こう言った。『よしんば父親を救うためにしたところで、処女としてそんな真似をするのは、あまり立派なこととも言えませんねえ。』あんなに聡明で、病的なくらい敏感なカチェリーナが、こんな噂をされることに、前もって気がつかなかったのだろうか? きっと気がついていたに相違ない。が、それにもかかわらず、すっかり[#「すっかり」に傍点]言ってしまう決心をしたのである! むろん、カチェリーナの物語の真相に関する、こうした穢らわしい疑念はあとで起ったことで、初めて聞いた時には、みなただ異常な震撼を与えられたのである。裁判官側のほうについて言うと、彼らは敬虔の色を浮べ、彼女のために羞恥さえ感じながら、黙って聞いていた。検事はこの問題について、一言もあえて訊こうとしなかった。フェチュコーヴィッチはうやうやしく彼女に一礼した。ああ、もう彼はほとんど勝ち誇ったようであった。彼は多くのものを獲得した。高潔な発作に駆られて、なけなしの五千ルーブリを与えた人が、あとで三千ルーブリを奪う目的で父親を殺したとは、どうしてもそこに辻褄の合わない点があった。フェチュコーヴィッチは、少くともこの場合、金を奪ったという事実を否定することができた。『事件』は急にある新しい光に照らされた。ミーチャに対する一種の同情ともいうべきものが閃めいた。彼は……彼はカチェリーナの申し立ての間に、二三ど席をたったが、またベンチに腰をおろして、両手で顔を蔽うた、と人々は後に物語った。しかし、彼女が申し立てを終った時、彼は突然そのほうへ両手をさし伸べながら、歔欷に充ちた声で叫んだ。
「カーチャ、なぜ僕を破滅さすんだ!」
 彼はこう言って、法廷ぜんたいに聞えるほど声高に慟哭したが、たちまち自己を制して叫んだ。
「もう僕は宣言された!」
 彼は歯を食いしばり、両手を胸に組み合せ、化石したように腰かけていた。カチェリーナはなお法廷に居残って、指定の椅子に腰をおろした。彼女は真っ蒼な顔をして、さしうつむいていた。そばにいたものの語るところによると、彼女は熱病にでもかかったように、長い間ぶるぶる慄えていたそうである。次にグルーシェンカが呼び出された。
 筆者《わたし》の物語は、次第にかの大椿事に近づいて来た。それはとつぜん破裂して、実際ミーチャを破滅さしたかのように思われた。なぜと言うに、筆者の信ずるところでは、いや、法律家もみんなあとでそう言っていたが、もしあの挿話さえなかったら、被告は少くとも、いくぶんか寛大な処置を受けたかもしれないからであるが、このことは後まわしにして、まずグルーシェンカのことを一口いおう。
 彼女もやはり黒い服を着け、例の見事な黒いショールを肩にかけて、法廷へ現われた。彼女は、よく肥った女がするように、軽く体を左右へ揺りながら、右も左も一切向かないで、じっと裁判長を見つめながら、ふらふら宙に浮んででもいるように、足音も立てず、手摺りのほうへ近づいた。筆者の目には、その瞬間、彼女が非常に美しく見えた。あとで婦人たちが言ったように、決して蒼い顔などしていなかった。婦人たちは、彼女が思いつめたような、毒々しい顔つきをしていたと言うが、筆者に言わせれば、彼女はただ醜い騒ぎに餓えた傍聴者の、ものずきな軽蔑したような視線を、重苦しく体に感じて、そのためにいらいらしていたのだと思う。彼女は傲慢な軽蔑にたえきれない性質であった。誰かに軽蔑されていないかと疑うだけで、もうかっとして反抗心に燃え立つ、そういうたちの女であった。けれど、同時に、むろん臆病でもあり、そして内々この臆病を恥じる心持もあった。それゆえ、彼女の申し立てにむらがあるのは当然だった。ある時は怒気をおびていたり、ある時は軽蔑したような調子で、度はずれに粗暴になるかと思うと、急に心の底から自分の罪を責めなじるような響きが聞えたりするのであった。時によると、『どうなったってかまやしない、言うだけのことを言ってしまう』といったような棄て鉢の口のきき方をすることもあった。フョードルと知合いになったことについては、『そりゃくだらないこってすわ、あの人のほうからつきまとったんですもの、わたしの知ったことじゃありません』ときっぱり言うかと思えば、すぐそのあとから、『みんなわたしが悪いのです。わたしは両方とも、――お爺さんもこの人も、――からかって馬鹿にしていたんです、そして、二人をこんな目にあわせたんですの。何もかもわたしから起ったことですわ』とつけ加えるのであった。何かの拍子で、問題がサムソノフにふれたとき、『そんなことが何になります』と彼女はすぐにずうずうしい、挑戦的な口調で歯を剥いた。『あの人はわたしの恩人ですよ。あの人は、わたしが両親に家から追い出された時、跣のままでわたしを引き取ってくれたんですよ。』けれども、裁判長は非常に慇懃な言葉で、余事に走らず直接問いに答えるようにと彼女をさとした。グルーシェンカは顔を赤くして、目を輝かした。
 金の入った封筒は彼女も見なかった。ただ、フョードルが三千ルーブリを入れた何かの封筒を持っている、ということを、あの『悪党』から聞いただけである。『だけど[#「『だけど」はママ]、そんなことはみんなばかばかしい話ですわ。わたしはただ笑ってやりました。あんなところへどんなことがあったって行くものですか。」[#「ですか。」」はママ]
「今あなたが『悪党』と言ったのは誰のことです?」と検事は訊いた。
「下男のことです。自分の主人を殺しておいて、きのう首を縊ったスメルジャコフのことです。」
 むろん、すぐにそれに対して、何を根拠にそうきっぱり断定するか、と訊かれたが、やはりべつに何の根拠もなかった。
「ドミートリイさんがそう言ったんです。あなた方もあの人の言うことを本当になさいまし。あの邪魔女があの人を破滅させたんですわ。何もかも、あの女がもとなんです、あの女が。」憎悪のあまり身ぶるいでもするように、グルーシェンカはこうつけ加えた。彼女の声には毒々しい響きが聞えた。
 彼女はまたしても、それは誰のことかと訊かれた。
「あのお嬢さんです、そのカチェリーナさんです。あのひとはあの時、わたしを呼びよせて、チョコレートをご馳走して、そそのかそうとしたんです。あのひとは本当の恥ってものを知らないんですわ。まったく……」
 こんどは裁判長も厳めしく彼女を制して、言葉を慎しむようにと言ったけれど、彼女の心はもう嫉妬に燃え立っていた。彼女はほとんど棄て鉢になっていた……
「モークロエ村で被告が捕縛された時に」と検事は思い出しながら訊いた。「あなたが別室から駈け出して来て、『みんなわたしが悪いのです、一緒に懲役へ行きましょう!』と叫んだのを、みんな見もし聞きもしましたが、してみると、あなたはそのとき被告を親殺しだと信じていたんですな?」
「わたしはあの時の心持をよく憶えていません」とグルーシェンカは答えた。「あの時みんながかりで、あの人がお父さんを殺したって騒ぐもんですから、わたしは、これというのも、みんな自分が悪いのだ、自分のためにあの人がお父さんを殺したのだ、という気がしましたの。けれど、あの人から、自分に罪はないと聞いて、すぐそれを信じてしまいました。今でも信じています、いつまでも信じます。あの人は嘘を言うような人じゃありません。」
 フェチュコーヴィッチが訊問する番になった。筆者《わたし》は彼がラキーチンのことや、二十五ルーブリのことなど訊いたのを記憶している。「あなたは、アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフを連れて来たお礼として、ラキーチンに二十五ルーブリおやりになったそうですね?」と彼は訊いた。
「あの人がお金を取ったからって、何にも不思議はありゃしません」とグルーシェンカは軽蔑するように、毒々しくにたりと笑った。「あの人はしょっちゅうわたしのとこへ、お金をせびりに来てましたわ。一カ月に三十ルーブリくらいずつ持って行くんですもの。それも大ていおごりのためですの。わたしがお金をやらなかったら、どうしてあの人が食ったり飲んだりできるものですか。」
「どういうわけで、あなたはラキーチン君にそう寛大だったのです?」裁判長が激しく身動きするのにもかまわず、フェチュコーヴィッチはこう追及した。
「だって、あの人はわたしの従弟なんですもの。わたしのおっ母さんとあの人のおっ母さんとは、親身の姉妹なんですの。でも、あの人はいつもそれを誰にも言わないようにしてくれって、始終わたしに頼んでいました。わたしを従姉にもっているのを、ひどく恥に思っていましたからねえ。」
 これはまったく予想外の新事実であった。町ではむろんのこと修道院でも、誰ひとりそれを知っているものはなかった。ミーチャさえ知らなかった。話によると、ラキーチンは自分の席に腰かけたまま、恥しさに顔を紫いろにしたそうである。グルーシェンカはどういうわけか、法廷へはいる前に、ラキーチンがミーチャに不利な申し立てをしたと知って、腹を立てたのである。ラキーチン君の先刻の演説も、その高邁な趣旨も、農奴制度やロシヤにおける民権の不備に対する攻撃も、――このとき聴衆の心の中でことごとく抹殺され、破棄されてしまった。フェチュコーヴィッチは大満足であった。神はふたたび彼に恵んだのである。全体として、グルーシェンカはあまり多く訊問されなかった。それに、彼女はむろんとくに新しい事実を述べることができなかった。彼女は傍聴者にきわめて不快な印象を与えた。彼女が申し立てを終って、カチェリーナからかなり離れて腰かけた時、無数の軽蔑するような目が彼女にそそがれた。彼女が訊問されている間じゅう、ミーチャは化石したように目を床へ落したまま、じっと黙っていた。
 次にイヴァン・フョードロヴィッチが証人として現われた。

[#3字下げ]第五 不意の椿事[#「第五 不意の椿事」は中見出し]

 ここで断わっておくが、イヴァンはアリョーシャよりさきに呼び出されたのである。けれど、廷丁はそのとき裁判長に向って、証人がとつぜん病気、というより、むしろ一種の発作を起したため、すぐには出頭ができかねるけれど、なおり次第出廷して、陳述すると申し出た。しかし、その時は誰も気がつかないで、あとになってそれを知ったのである。彼の出廷は初めの間、ほとんど誰の注意をも惹かなかった。もはやおもな証人、ことに二人の競争者が訊問されたあとなので、傍聴者の好奇心はすでに満足されて、いくらか疲労さえ感じていたくらいである。まだ幾人かの証人の訊問が残っていたが、彼らもべつに取り立てて、新しい陳述をしそうにも見えなかった。それに、時は遠慮なく過ぎて行った。イヴァンは何だか不思議なほどのろのろと歩いて出た。そして、誰も見ないで頭を下げている様子が、何やらふさぎ込んで黙想しているように見えた。彼は非の打ちどころのない身なりをしていたが、その顔つきは、少くとも筆者《わたし》には病的な印象を与えた。何か死にかかった人のように土け色をおび、目はどんよりしていた。彼はその目を上げて、静かに法廷を見まわした。アリョーシャはだしぬけに自分の席から立ちあがって、『ああ』と唸った。筆者はそれを記憶している。しかし、これに気づいたものはきわめて少かった。
 裁判長はまず彼に向って、宣誓しなくってもいいこと、陳述してもしなくても、それは彼の随意であること、しかし陳述は良心にやましからぬようにしなければならぬこと、――などを説いて聞かせた。イヴァンはぼんやりと裁判長を眺めながら聞いていたが、やがてその顔は微笑に変ってきた。そして、びっくりしたように自分を見つめている裁判長の言葉が終るやいなや、彼はだしぬけに笑いだした。
「で、それから?」と彼は大きな声で訊いた。
 法廷の中はしんとした。みんな何やら感じたもののようであった。裁判長は心配しだした。
「あなたは……まだすっかり健康がすぐれないのかもしれませんね?」彼は廷丁のほうへ目をそそぎながらこう言った。
「閣下、ご心配にはおよびません。私はかなり達者なんですから、何やかや興味のあることを申し上げることができます」とイヴァンは急に落ちにきはらって[#「落ちにきはらって」はママ]うやうやしく答えた。
「では、何か、特別の陳述をしようとおっしゃるのですか?」と裁判長は依然、疑わしげに言葉をつづけた。
 イヴァンはうつむいてしばらく躊躇していたが、やがてまた頭を持ちあげて、吃るような口調で答えた。
「いいえ……そうじゃありません。私は何も特別に陳述することはありません。」
 訊問が始まった。彼はいやいやらしく簡単に答えた。ある内心の嫌悪がますます募ってくるのを感じるらしかったが、それでも答弁は要領を得ていた。大ていの質問は知らないといって逃げた。父とドミートリイの金銭上の問題は、ちっとも知らない、『そんなことを気にしてはいなかったです』と言った。親父を殺すと恐喝したのは、被告の口から聞いていた、封筒に入れた金のことは、スメルジャコフから聞き知っていた……
「いくら訊かれても同じことです。」彼は疲れたような様子をして、突然こう遮った。「私は公判のために、何もかくべつ陳述することはありません。」
「お見受けするところ、どうもあなたは健康でないようです。それに、あなたの感情もよくわかっています……」と裁判長は言いかけた。
 彼は両側にいる検事と弁護士に向って、もし必要があったら訊問してもらいたいと言った。と、突然イヴァンは弱々しい調子で嘆願した。
「閣下、どうか退廷させて下さい。私は非常に体の工合が悪いような気がします。」
 彼はこう言うと同時に、許可も待たずに、いきなりくるりと向きをかえて、法廷から出て行こうとした。が、四歩ばかり歩くと、とつぜん何やら考えたように立ちどまり、静かににたりと笑って、また以前の場所へ返った。
「閣下、私はちょうどあの百姓娘のようなんです……ええと、そうそう、『立ちたくなったら、立ってやるだ。立ちたくなかったら、立たねえだ。』すると、みんな上衣と袴をもって、その女のあとをつけ廻している。つまり、女を立たせるためなんです。女を縛って、結婚に連れて行くためなんです。ところが、女は『立ちたくなったら、立ってやるだ。立ちたくなかったら、立たねえだ』と言ってる……これは一種のわが国民性ですよ……」
「それは一たい何のことです?」と裁判長は厳かに訊いた。
「なに、ほかでもありません」とイヴァンは、いきなり紙幣束を取り出した。「さあ、ここに金があります……これはあの(彼は証拠物件ののっているテーブルを顎でしゃくった)封筒の中にはいっていた金です。このために親父は殺されたのです。どこへおきましょう? 廷丁さん。これを渡して下さい。」
 廷丁は紙幣束を残らず受け取って、裁判長に渡した。
「これがあの金だとすると……どうしてあなたの手に入ったのです?」と裁判長はびっくりして訊いた。
「昨日スメルジャコフから、あの人殺しから受け取ったのです……私はあいつが首を縊る前に、あいつの家へ行ったのです。親父を殺したのはあいつです、兄貴じゃありません。あいつが殺したんです。そして、私があいつを教唆したのです……誰だって、親父の死を望まないやつはありませんからね!………」
「一たいあなたは正気ですか?」と裁判長は思わず口走った。
「むろん正気ですとも……あなた方みんなのように、ここにいるすべての……化け者どものように、卑劣な正気を備えています!」彼はにわかに聴衆のほうへ振り向いた。「あいつらは親父を殺したくせに、びっくりしたようなふりをしているんです」と彼は激しい侮蔑を現わしながら、歯ぎしりした。「あいつらはお互いに芝居をしてるんです。嘘つきめ! みんな親父が死ぬのを望んでるんだ。毒虫が毒虫を食おうとしてるんだ……もし親父殺しがなかったら……やつらはみなぷりぷりしながら、家へ帰って行くだろう……なにしろ、見世物を見たがってるんだからな! 『パンと見世物!』というじゃありませんか。だが、私もあまり立派なもんじゃない! ときに、水がないでしょうか、飲ませて下さい、後生です!」彼はにわかに自分の頭を掴んだ。
 廷丁はすぐ彼に近づいた。アリョーシャは突然たちあがって、『兄さんは病気なのです。兄さんの言うことを信じないで下さい。兄さんは譫妄狂にかかっているんです』と叫んだ。カチェリーナは、つと衝動的に席から立ちあがって、恐怖のあまり身動きもせず、じっとイヴァンを見つめていた。ミーチャも立ちあがった。彼は妙にひん曲ったような、けうとい笑みを浮べて、貪るようにイヴァンを見つめながら、その言うことを聞いていた。
「ご心配にはおよびません。私は気ちがいじゃありません。私はただ人殺しです!」とまたイヴァンは言いはじめた。「人殺しから雄弁を求めるのは無理な話です……」彼はなぜか突然こうつけたして、ひん曲ったような笑い方をした。
 検事はいかにも面くらったらしく、裁判長のほうへ身をかがめた。裁判官たちはそわそわして、互いに何やら囁きあった。フェチュコーヴィッチはいよいよ耳をそばだてて聞いていた。法廷ぜんたいは何か予期するようにしんとした。裁判長は急にわれに返ったらしく、口をきった。
「証人、あなたの言うことはわけがわからない、また法廷においてあるまじき言葉です。気を落ちつけて話して下さい……もし本当に何か言うことがあったら。あなたは何をもってそういう自白の裏書にしようとおっしゃるんです……もし、あなたの言葉が譫言でないとすれば……」
「それ、そこなんです、まるで証人がないのです。スメルジャコフの犬め、あの世からあなた方に申し立てを送りはしませんからね……封筒に入れてね……あなた方は何でもかでも封筒がほしいんでしょうが、封筒は一つでたくさんです。私には証人がありません……あいつ一人のほかには」と彼は意味ありげに、にたりとした。
「あなたの証人というのは誰です?」
「閣下、その証人は尻尾をもってるんですが、それじゃ規則に反しますかね! Le diable n'existe point!([#割り注]悪魔は存在しないか![#割り注終わり])べつに気にもとめないで下さい。やくざなちっぽけな悪魔なんですよ。」彼は何か内証話でもするように、急に笑いやめて、つけたした。「やつはきっと、どこかここいらへんにいますよ。この証拠物件ののっているテーブルの下にでもね。でなくって、どこにいるもんですか? ねえ、こうなんですよ。私はやつに言ってやったんです。黙っておれないものですからね。ところが、やつは地質学上の大変動のことを言いだすんです、ばかばかしい! さあ、あの悪魔を宥してやって下さい……あれは頌歌《ヒムン》を歌いだしましたよ。つまり、気持が楽だからなんです! 酔っ払ったごろつきが、『ヴァンカはピーテルさして旅に出た』とわめくのと同じようなものですよ。だが、私は歓喜の二秒間のためには、千兆キロメートルの千兆倍も投げ出すつもりです。あなた方は私をご存じないのです! ああ、あなた方の仕事は実に馬鹿げてる! さあ、私をあれの代りに縛って下さい! 私だって何かしに来たんですからね……どうして、どうして何もかもこんなに馬鹿げてるんだろう?………」
 彼はこう言うと、またもの思わしげな顔つきをして、おもむろに法廷の中を見まわしはじめた。しかし、法廷ぜんたいはすでにどよめき渡っていた。アリョーシャは席を立って、兄のそばへ駈け寄った。が、廷丁はもうイヴァンの手を掴んでいた。
「何をするんだ?」イヴァンは、廷丁の顔をじっと見つめながら、こう叫んだと思うと、とつぜん廷丁の両肩に手をかけて、激しく床の上へ投げつけた。
 けれど、すぐ警護隊が駈けつけて彼を掴んだ。そのとき彼は恐ろしい声で喚きだした。法廷から連れ出される間も、喚きたてたり、何かとりとめのないことを口走ったりしていた。
 大混乱が始まった。一切の出来事を順序だって記憶していない。筆者《わたし》自身も興奮していたため、よく観察することができなかったのである。ただ筆者が知っているのは、あとでもうすっかり鎮まって、一同が事の真相を悟った時に、廷丁がうんと目玉を頂戴したことだけである。もっとも、廷丁は、証人が一時間まえに少し気分を悪くして、医者の診察を受けたが、しかしその時は、健康体でもあったし、法廷へ出る時までずっと、辻褄の合ったことを言ったので、こんな事態が起ろうなどとは、まったく予期せられなかったし、それに証人自身が、ぜひ申し立てをしたいと言い張ったのだと、十分根拠のある説明をした。しかし、一同がまだすっかり落ちついてわれに返らないうちに、すぐこの事件に引きつづいて、また別な事件が突発した。ほかでもない、カチェリーナがヒステリイを起したのである。彼女は大声に悲鳴を上げながら、慟哭しはじめた。が、一向に法廷を出ようとはせず、身をもがいて、外へ出さないようにと哀願し、いきなり裁判長に向って叫んだ。
「わたしはすぐ、今すぐもう一つ申し立てなければならないことがあります!………これは証拠の書面です……手紙です……手にとってすぐ読んで下さい、はやく!……これはその悪党の、それ、その男の手紙です!」と彼女はミーチャを指さした。「お父さんを殺したのは、あの男です。あなた方も今すぐおわかりになります。あの男がお父さんを殺すつもりだと、わたしに書いてよこしたのです! ですが、あちらの方は病人です、譫妄狂にかかっているのです! わたしはもうあの人が譫妄狂にかかっているのを、三日も前から知っています!」
 彼女は夢中になってこう叫んだ。廷丁は、裁判長のほうへさし出された書類を受け取った。カチェリーナは自分の椅子にどっかと腰をおろすと、顔を蔽って、痙攣的に身をふるわせ、声を忍んで泣きはじめた。彼女はしきりに身ぶるいしながらも、法廷から出されはしないかという懸念から、微かな唸り声さえ抑えていた。彼女のさし出した書類は、ミーチャが料理屋『都』から出した手紙で、イヴァンが『数学的』価値のある証拠と名づけたものである。ああ、裁判官たちも事実、この手紙に数学的価値を認めたのである。この手紙さえなければ、ミーチャは破滅しなかったかもしれない、少くとも、あんな恐ろしい破滅の仕方をしなかったかもしれない! 繰り返し言うが、筆者は詳しく観察することができなかった。今でもただ一切のことが、雑然と頭に残っているばかりである。確か裁判長はその場ですぐ、この新しい証拠品を、裁判官たちと、検事と、弁護士と、陪審員一同に提供したはずである。筆者の憶えているのは、ふたたびカチェリーナの訊問が始まったことだけである。もう落ちついたか? という裁判長の優しい問いに対して、カチェリーナはすぐさまこう叫んだ。
「わたしは大丈夫です。大丈夫です! わたしは立派にあなた方にお答えができます。」彼女は依然として、何か聞きもらされはしないかと、ひどく恐れてでもいるように、言いたした。
 裁判長は彼女に向って、一たいこれはどういう手紙で、どういう場合に受け取ったのか、詳しく説明するように、と乞うた。
「わたしがこの手紙を受け取ったのは、兇行の前の日でした。けれど、あの人がこれを書いたのは、それよりまだ一日前で、つまり、兇行の二日前に料理屋で書いたのです、――ごらん下さい、何かの勘定書の上に書いてあるじゃありませんか!」と彼女は息をはずませながら叫んだ。「その時分、あの人はわたしを憎んでいました。だって、自分で卑劣なことをして、この売女《ばいた》のところへ行ったのですもの……それにまた、あの三千ルーブリをわたしに借りていたからですわ……ええ、あの人は自分が卑劣なことをしたものだから、この三千ルーブリがいまいましくてたまらなかったんですわ! この三千ルーブリはこういうわけでございます、――お願いですから、後生ですから、わたしの言うことを逐一きいて下さいまし、――あの人はお父さんを殺す三週間まえに、ある朝わたしのところへやってまいりました。わたしはその時、あの人にお金のいることも、何のためにいるかってことも知っていました、――それはこの売女をそそのかして、駈落ちするのに必要だったのでございます。わたしはその時あの人が心変りして、わたしを棄てようとしてるのを知っていたので、わざとそのお金をあの人に突きつけました。モスクワにいる姉に送ってもらいたいと言って、出したのでございます。その時お金を渡しながら、わたしはあの人の顔をじっと見つめました。そして、『一カ月後でもかまわないから』、気の向いた時に送ってもらったらいい、と申しました。そうです、わたしはあの人に面とむかって、『あなたは、わたしをあの売女に見かえるために、お金が入り用なんでしょう。だから、このお金をお取んなさい。わたし自分でこのお金をあなたに上げます。もし、これが受け取れるほどの恥知らずなら、遠慮なくお取んなさい!』と言ったようなわけでございます。どうして、どうしてあの人にそれがわからないはずがありましょう。わたしは、あの人の化けの皮をひん剥こうと思ったのでございます。ところが、どうでしょう? あの人は受け取りました。受け取って、持って帰って、あそこで一晩のうちに、あの売女と二人で費いはたしてしまったのです……けれども、あの人は悟っていました。わたしがお金を渡したのは、あの人がそれを受け取るほどの恥知らずかどうか、試しているのだということを、その時ちゃんと悟っていたのです。そしてまた、わたしが何もかもすっかり承知していることも、あの人にはわかっていたのでございます。ほんとうですとも、わたしがあの人の目を見ると、あの人もわたしの目を見ました。そして、あの人は何もかもわかったのです、すっかりわかっていたのですとも。それでいながら、わたしの金を受け取って、持って帰ったのでございます!」
「そうだ、カーチャ!」とミーチャはとつぜん叫んだ。「おれはお前の目を見て、お前がおれに恥をかかせようとしていることを悟ったよ。だが、やはりお前の金を受け取った! みんなこの卑劣漢を軽蔑して下さい。いくら軽蔑されたって、それは当然なんです!」
「被告」と裁判長は叫んだ。「もう一こと言うと、法廷から下げてしまいますぞ。」
「そのお金があの人を苦しめたのです」と、カーチャは痙攣したようにせきこんで言葉をつづけた。
「で、あの人はわたしにお金を返そうとしました。ええ、返そうとしたのです、それは本当です。けれど、この女のために、やはりお金がいったのです。そこで、あの人はお父さんを殺したのでございます。ですが、それでもお金はわたしに返さないで、この女と一緒にあの村へ行って、とうとう捕まったのでございます。それに、お父さんを殺して取って来たお金も、あの村でつかいはたしてしまいました。ところで、お父さんを殺す前々日に、あの人はわたしにこの手紙を書いたのです。酔っ払って書いたのです。わたしはその時すぐに、この手紙は面あてに書いたのだってことがわかりました。そして、たとえお父さんを殺しても、わたしがこの手紙を誰にも見せないってことを、あの人はよく知っていたのです。確かに知っていました。でなければ、こんな手紙を書くはずがありません! あの人はわたしが復讐をしたり、あの人を破滅さしたりするのを望まないってことを、ちゃんと知っていたのでございます。けれど、読んでごらんなさい、注意して、どうか十分に注意して読んでごらん下さい。あの人がどんなふうにお父さんを殺そうかと、前もって考えていたことや、どこにお金があるかちゃんと知っていたことなど、すっかりこの手紙の中に書いてあるのがおわかりになります。ごらん下さい、見おとさないようにごらん下さい。その中に『僕はイヴァンが出発するとすぐに殺すつもりだ』という句がありますから。それは、あの人が前もって、どんなふうにお父さんを殺そうかと、よく思案していた証拠でございます。」カチェリーナは毒々しく小気味よさそうな声で、裁判官に入れ知恵した。ああ、彼女がこの宿命的な手紙を残るくまなく熟読して、一点も残さず研究したことは明らかだった。「あの人も酔っ払っていなければ、わたしにそんな手紙を書きはしなかったでしょうが、まあ、ごらんなさい、これには何もかも予告してあります。何もかも寸分たがわずそのとおりです。あとでそのとおりにお父さんを殺したのです、まるでプログラムのようです。」
 彼女は夢中になってこう叫んだ。むろん彼女はもはや自分にどんな結果が降りかかってもかまわない、と覚悟を決めていたのである。もっとも、彼女はその結果を、一カ月も前から見抜いていたかもしれない。なぜなら、彼女はその時分から憎悪にふるえながら、『これを法廷で読み上げたものかどうだろう?』と考えていたらしいからである。けれども、彼女はそのとき崖から飛び下りたようなあんばいだった。今でも憶えているが、その場ですぐ書記が、声高らかにこの手紙を読み上げて、一同に驚くべき印象を与えた。ミーチャは、この手紙を認めるかどうかと訊かれた。
「私のものです、私のものです!」とミーチャは叫んだ。「酔っ払っていなければ書かなかっただろうに!………カーチャ、二人はいろいろなことでお互いに憎み合っていたね。だが、おれは誓って言う、本当に誓って言うが、おれはお前を憎みながらも愛していた。ところが、お前はそうじゃない!」
 彼は絶望のあまり、両手をねじり合せながら、どっかと自席へ腰をおろした。検事と弁護士とはかわるがわる、彼女に訊問を提出しはじめた。それは主として、『どうしてさっきそんな証拠を隠していたのです、また、なぜその前は全然ちがった気持と調子で申し立てをしたのです?」というような意味であった。
「そうです、そうです。わたしはさっき嘘を言いました。まったく名誉と良心を捨てて、嘘ばかり言いました。けれど、わたしはあの人を助けようと思ったのです。だって、あの人はあんなにわたしを憎んで、軽蔑していたんですもの!」とカーチャは狂気のように叫んだ。「ええ、あの人はわたしを恐ろしく軽蔑していました、いつも軽蔑していました。しかも、それは、それは、――わたしが例のお金のために、あの人の足もとに倒れて、お辞儀をしたあの瞬間から、わたしを軽蔑するようになったのです。わたしにはそれがわかっています……わたしはその時すぐに、それと気がつきましたけど、長いあいだ本当にすることができませんでした。わたしは幾度となくあの人の目つきに、『何といってもお前はあの時、自分でおれのところへ来ようと決心したじゃないか』という意味を読みました。ええ、あの人にはわからなかったのです。あのとき、わたしが何のために、あの人のところへ駈けつけたかってことは、ちっともわからなかったのです。何でもかでも、下劣な心から出たように疑うよりほか、あの人には芸がないんです! あの人は自分の物差しで人を量って、誰でもみんな自分のようなものだと思っていたのです。」カーチャはもう無我夢中になり、激しく歯をかみ鳴らすのであった。「あの人がわたしと結婚しようと思ったのは、ただわたしが財産を相続したからです。そのためです、そのためです! わたしはしょっちゅう、そうだろうと疑っていました! ええ、あの人は獣です! あの人はお腹の中で、わたしがあの時お金をもらいに行ったことを恥じて、一生涯びくびくしているに違いない、だから永久にわたしを軽蔑することができる、つまり主権を握ることができる、といつも信じきっていたのです、――だから、わたしと結婚しようという気になったのです! そうです、それに違いありません! わたしは、自分の愛でこの人に打ち勝とうと試みました。あの人の変心さえ忍ぼうとしました。けれど、あの人には何にも、何にもわからなかったのです。それに、あの人がものを理解するような人でしょうか! あの人はごろつきです! わたしはこの手紙を翌日の晩うけ取りました、料理屋から届けて来たのです。ところが、わたしはついその朝、ちょうどその日の朝まで、何もかも、――心変りさえ赦そうと思っていたのですからねえ!」
 むろん、裁判長と検事は彼女を落ちつかせようとした。彼女のヒステリイを利用して、こうした申し立てを聴き取るのが、彼らでさえも恥しかったらしい。筆者《わたし》は今でも記憶しているが、『あなたがどんなに苦しいか、私たちにもよくわかっています。どうか信じて下さい、私たちだって感情をもっている人間なのです』などという彼らの言葉を耳にした。けれども、やはりこのヒステリイで夢中になった女から、必要な陳述を引き出したのである。最後に彼女は、イヴァンが自分の兄である『ごろつきの人殺し』を救おうと、この二カ月間肝胆を砕いたために、ほとんど発狂しかかっていることを、きわめて明確に陳述した。そうした明確さは、こういう緊張した精神状態の時、ほんの瞬間的ではあるが、しばしば閃光のように現われるものである。
「あの人は苦しんでいました」と彼女は叫んだ。「あの人はわたしに向って、自分も親父を愛していなかった、あるいは自分も親父の死ぬのを望んでいたかもしれない、などと告白したりして、しじゅう兄さんの罪を軽くしようと骨折っていました。ええ、あの人は深い深い良心をもった人です! それで、自分の良心に苦しめられたのです! あの人は何もかもわたしに打ち明けていました、始終わたしのとこへ来て、たった一人の親友として、毎日わたしと話をしていました。ええ、わたしはあの人にとってたった一人の親友で、またそれを名誉に思っています!」彼女は挑むように目を輝かして、だしぬけにこう叫んだ。「あの人は二度スメルジャコフのところへ行きましたが、いつでしたか、わたしの家へ来て、もし下手人が兄でなくってスメルジャコフだったら(だって、当地ではスメルジャコフが殺したのだという、ばかばかしい噂がたったからです)、自分にも罪があるかもしれない、なぜって、スメルジャコフは自分が父親を愛していないことを知っていたし、また自分が父の死を望んでいるように思っていたかもしれない、とこう言ったことがあります。その時わたしはこの手紙を出して見せました。すると、あの人はいよいよ兄さんが殺したのだと確信して、ひどく仰天してしまったのです。親身の兄が親殺しだと思うと、たまらなかったのでございます。一週間ばかり前に会った時など、そのために病気にかかっているのが、わたしにようくわかりました。近頃は、わたしの家へ来て、譫言を言うほどになったのです。わたしは、あの人が正気を失ってゆくのに気がつきました。誰でも通りで出会った人は知っていますが、あの人は歩きながら譫言を言っていました。わたしの招きでモスクワから来た医者は、一昨日あの人を診察して、譫妄狂のような病気に近いと申しました、――みんなあの男のためです、あのごろつきのためなんです! とろが[#「とろが」はママ]、ゆうべスメルジャコフが死んだことを聞くと、あの人はあんまりびっくりしたために、すっかり気が狂ってしまいました……これというのも、みんながあのごろつきのためです……ごろつきを助けたいという一心からきたんです!」
 ああ、むろん言うまでもなく、こうした言葉やこうした告白は、一生涯にたった一度いまわの際に、たとえば断頭台へのぼる瞬間ででもなければ、とうていできるものではない。けれど、カーチャはそれができるような性格でもあったし、またそういう刹那にぶっ突かったのである。それはあのとき、父を救うため若い放蕩者に自分の身を投げ出した、あの激しい気性のカーチャなのである。また先刻、この大勢の聴衆を前にして、気高い無垢な態度で、ミーチャを待ち受けている運命を少しでも軽減したいばかりに、『ミーチャの高潔な行為』を物語って、処女の羞恥を犠牲にした、あのカーチャと同一人なのである。で、今もまた彼女は自分の身を犠牲に供した。が、それはもうほかの男のためである。彼女ははじめてこの瞬間、この一人の男が今の自分にとって、いかに貴いかを感じもし、悟りもしたのであろう! 彼女は男の一身を気づかうあまり、男のためにおのれを犠牲にしたのである。とつぜん男が『下手人は兄ではない、自分だ』という申し立てで、一身を滅ぼしたと想像するとともに、男とその名誉と体面とを救うため、われとわが身を犠牲に供したのである! けれど、ここに一つ恐ろしい疑問がひらめいた。ほかでもない、彼女はミーチャとの古い関係を述べた時、嘘を言ったのではあるまいか、――しかし、これは問題である。いやいや、彼女は自分が頭を土につけて跪拝したために、ミーチャが自分を軽蔑していたと言ったが、それは決して故意に讒誣をしたのではない! 彼女はこれを信じていたのである。頭を地につけて跪拝した瞬間から、その時まだ彼女を尊敬していた単純なミーチャが、彼女を冷笑し軽蔑しはじめたものと、深く信じきったのである。で、彼女はただ自尊心のために、傷つけられた自尊心のために、ヒステリイ性の無理な愛をミーチャに捧げたのである。この愛は真の愛というより、むしろ復讐に似た点が多かった。ああ、このしいられた愛は、あるいは本当の愛に成長したかもしれない。カーチャは何よりもそれを望んでいたことだろう。しかし、ミーチャの変心は、彼女を魂の底まで侮辱したので、魂が赦すことを肯《がえ》んじなかったのである。ところが、突如として復讐の機会が降って来た。辱しめられた女の胸に、長いこと欝積していた一切の苦痛は、思いがけなく、一時に外部へほとばしり出た。彼女はミーチャを裏切ったが、同時に自分自身をも裏切ったのである。むろん、彼女は言うだけ言ってしまうと、急に心の張りがゆるんで、恥しさにたえられなくなった。またヒステリイが起った。彼女は泣いたり、叫んだりしながら、床に倒れた。こうして、法廷から連れ出されてしまった。彼女が外へ出されたその瞬間に、グルーシェンカはわっと泣きながら、誰もとめる暇のないうちに、自分の席からミーチャのそばへ駈け寄った。
「ミーチャ!」と彼女は喚いた。「毒蛇があんたの身を破滅させちまった! あの女はとうとうあなた方に本性を出して見せましたね!」彼女は憎悪のあまり身をふるわせながら、裁判官に向ってこう叫んだ。
 裁判長の合図によって、人々は彼女を掴まえて、法廷から出そうとしたが、彼女はなかなか応じないで、身をもがきながら、ミーチャにすがりつこうとした。ミーチャも叫び声を立てて、やはり彼女のほうへ飛び出そうとしたが、結局二人ともしっかり抑えられてしまった。
 実際、この光景を見た婦人たちは、さだめし満足したことと思う。実に得がたい変化に富んだ場面だったのである。ついで、モスクワの医者が現われたように憶えている。裁判長はイヴァンの手当てをさせるため、どうやらその前に廷丁をやったものらしい。医師は裁判官に向って、患者は非常に危険な譫妄狂の発作におそわれているから、すぐ病院へ連れて行かなければならない、と申し出た。それから、検事と弁護士との問いに対して、患者が自身でおととい診察を受けに来たこと、そのとき近いうちに発作が起ると予言したけれど、患者が治療を望まなかったこと、などを証言した。『患者はまったく、健全な精神状態ではなかったのです。自分で私に言ったことですが、患者はうつつに幻を見たり、とっくに死んでしまった人を通りで見たり、毎夜、悪魔の訪問を受けたりするそうです』と医師は言葉を結んだ。自分の申し立てを終えると、この有名な医師は退出した。カチェリーナが提出した手紙は、証拠物件の中に加えられた。裁判官は合議の上で審問を継続し、この二人(カチェリーナとイヴァン)の意外な申し立てを、調書に書き込むことにした。
 しかし、筆者《わたし》はもうそのあとの審問を書くまい。その他の証人の申し立ては、それぞれみんな異なった特質を持ってはいたが、しかし結局、以前の申し立てを反復し、裏書きするにすぎなかった。けれど、繰り返し言っておくが、すべての申し立ては検事の論告で一点に集中されているから、筆者はこれからその論告に移るとしよう。人々はいずれも興奮していた。みな最後の大椿事で電気に打たれたような姿で、熱心に大団円、――検事の論告と、弁護士の弁論と、裁判長の宣告を待っていた。フェチュコーヴィッチは、カチェリーナの申し立てに打撃を感じたらしかったが、その代り検事のほうは大得意であった。審問が終った時、ほとんど一時間ちかく休憩が宣せられた。やがて、いよいよ裁判長が弁論の開始を宣言して、検事イッポリートが論告を始めたのは、ちょうど夜の八時であったように思う。

[#3字下げ]第六 検事の論告 性格論[#「第六 検事の論告 性格論」は中見出し]

 イッポリートは論告を始めた。彼は額とこめかみに病的な冷汗をにじませ、体じゅうに悪寒と発熱をかわるがわる感じながら、神経的にぶるぶると小刻みに身ぶるいしていた。それは、彼自身のちに言ったことである。彼はこの論告を自分の 〔chef d'oe&uvre〕([#割り注]傑作[#割り注終わり])と心得ていた。自分の一生涯を通じての 〔chef d'oe&uvre〕 すなわち白鳥の歌と考えていたのである。実際、彼はそれから九カ月後、悪性の肺病にかかって死んでしまった。だから、もし彼が自分の最後を予感していたものとすれば、彼は実際、自分で自分を臨終の歌をうたう白鳥に譬える権利を、立派にもっていたのかもしれない。彼はこの論告に自分の全心をそそぎ、あらんかぎりの知識を傾けて、そのためにはからずも、彼の心中に公民としての感情や、『永遠の』疑問が(少くも、彼の内部にいれ得る範囲において)、ひそんでいることを証拠だてた。ことに、彼の論告はその真剣さで人を動かした。彼は被告の罪を本当に信じていたのである。彼は人から注文されたのでもなければ、単なる職務上の要求のためでもなく、心から被告の罪を認めて、『復讐』を主張しながら、『社会を救いたい』という希望に慄えていたのである。イッポリートに反感をいだいていた当地の婦人連でさえ、異常な感銘を受けたことを告白したほどである。彼はひびの入ったような、きれぎれなふるえ声で弁じはじめたが、やがてその声にだんだん力が入って来て、それからずっと論告の終るまで、法廷全部に朗々と響き渡った。けれど、論告を終るやいなや、彼はすんでのことに卒倒しないばかりであった。
陪審員諸君」と検事は口をきった。「この事件は全ロシヤに鳴り響いております。しかし、一見したところ、そこに何の驚くべきものがあろう? とくに何の恐るべきものがあろう? といった気がいたします。われわれにとって、とくにその感が深いのであります。われわれはかかる事件に慣れきっているはずです! しかし、われわれの恐怖は、むしろかかる暗黒な事件さえすでに人々を驚かすにたりなくなった、という点にあらねばなりません! それゆえ、われわれはおのれ自身の習慣を恐るべきであって、ある個人の罪悪に驚く必要はありません。かかる事件、すなわち好ましからぬ将来をわれわれに予言するかかる時代の特徴に対して、われわれが冷淡な微温的態度をとり得るのは、そもそもいかなる理由でありましょうか? それは吾人のシニズムにあるのでしょうか、それとも、まだ壮年期にありながら、すでに時ならずして老耄した社会の理性と、想像の萎微に存するのでしょうか? あるいはまた、わが国における道徳性の基礎の動揺にあるのでしょうか、それとも結局、わが国人がこの道徳性をぜんぜん有していないためでしょうか? 本職もこの疑問を解決することはあえてしません。まして、この疑問は非常に悩ましいものであって、すべての公民はこの疑問に苦しまずにいられないばかりか、また当然苦しむべき義務があるのであります。しかし、幼稚で臆病なわが国の新聞雑誌は、何といっても社会に対して、幾分かの貢献をしたに相違ありません。なぜかと言えば、もしこれがなかったら、放縦なる意志と道徳の廃頽が生み出す恐怖を、多少なりとも詳細に知ることができないからであります。新聞雑誌は絶えずこれらの恐怖を掲載して、ただにこの聖代の賜物たる新しい公開の法廷を訪《おとな》う人ばかりでなく、あらゆる人々に報道しているからです。われわれがほとんど毎日のように読むものは何でしょう? ああ、それは本件のごときすら光を失って、ほとんど平凡きわまるものに思われるほど、恐ろしい事件の報道なのであります。しかし、最もおもなことは、わがロシヤの国民的刑事事件の大部分が、一般的なあるもの、――すなわち、わが国民の習性と化したある一般的不幸を証明していることであります。したがって、一般的悪としてのこの不幸と戦うのは、われわれにとって非常に困難なのであります。
「ここに上流社会に属する立派な一人の青年将校がいます。彼はその生活と栄達の道を踏み出すか出さぬうちに、早くもいささかの良心の呵責も感ぜずして、卑劣にも夜陰に乗じて、おのれの恩人ともいうべき一小官吏と、その下女とを斬りました。それは自分の借用証書と一緒に、官吏の金を奪うためなのであります。その金は『社交界の快楽と、将来の経歴をつくるために役に立つだろう』というのでした。彼は主従を殺してしまうと、二人の死人に枕をさせて立ち去りました。また次に、勇敢な行為によって多くの勲章を下賜されている若い勇士は、まるで強盗のように大道で、恩を受けた将軍の母親を殺しました。しかも、自分の同僚を仲間に引き入れるために、『あの人は僕を親身の息子のように愛しているから、僕の忠告なら何でもきいて、大丈夫警戒しやしない』と言っています。この男はむろん無頼漢でしょうが、本職はいま、現代において、無頼漢はこの男だけだと言い得ないのであります。ほかの者は殺人こそしないが、内心ではこの男と同じように考えもし、感じもしているのです。心の中はこの男と同じく破廉恥なのです。彼は孤独の中で、自分の良心に面と向って相対した時、『一たい名誉とは何だろう? 血を流すことを罪だというのは偏見ではあるまいか?』と自問したことでしょう。ことによったら、人々は私に反対して、叫ぶかもしれません、――お前は病的でヒステリックな人間だ、ロシヤに向って奇怪な悪口をついているのだ、たわごとを言っているのだ、とこう言うかもしれません。勝手に何とでも言うがいい、――ああ、もし実際その人たちの言うとおりなら、私はまっさきに喜んだでしょう! ああ、私を信じないがよい、私を病人と思うがよい。けれど、私の言葉だけは記憶してもらいたいです。もし私の言葉に、十分の一でも、二十分の一でも真実があれば、――それは恐るべきことであります! ごらんなさい、諸君、ごらんなさい、わが国の青年はどしどし自殺しているではありませんか。ああ、彼らは『死んだらどうなるだろう?』などという、ハムレット式の疑問を毛筋ほども持たない。こうした疑問は影ほどもないのです。彼らはわれわれの霊魂と、来世でわれわれを待っている一切のものに関する議論を、心中とっくに抹殺し葬り去って、上から砂をかけてしまったかのようであります。最後に、わが国の放縦と無数の淫蕩漢をごらんなさい。本件の不幸なる犠牲者フョードル・パーヴロヴィッチも、彼らの中のある者に比較すれば、ほとんど何の罪もない孩兒のようなものです。しかも、われわれは彼を知っています。『彼はわれわれの間に生きていたのであります。』……そうです、いつかはわが国のみならず、ヨーロッパにおいても第一流の学者が、ロシヤの犯罪心理を研究することでしょう。この問題はそれだけの価値があります。しかし、この研究はもっと後になって暇な時、つまり、現在の悲劇的混沌が比較的背後に遠ざかった時、初めて行われるでありましょう。その時こそ、人々は私などよりはるかに理知的に、かつ公平に観察することができるに相違ありません。
「しかし、今日においてはわれわれはただ驚いているか、あるいは驚いたようなふりをしながら、実はかえってその光景に舌鼓を打ち、自分たちの遊惰になったシニカルな頽廃気分を衝動するような、とっぴな、強烈な感覚を愛するか、あるいは小さな子供のように、その恐ろしい幻影を払いのけて、もの凄い光景が消えてしまうまで、頭を枕の中に突っ込んでいて、そのあとですぐ、快楽と遊戯の中にすべてを忘れてしまうか、この三つのうちどれかであります。しかし、われわれもいつかは真面目に、考え深く生活を始めねばなりません。自己に対しても、社会に対するような視線をそそがなければなりません。われわれもわが国の社会的事件について、何らかの理解を持たねばなりません。少くとも、理解を持とうと努めなければなりません。前代の大文豪([#割り注]ゴーゴリ[#割り注終わり])の一傑作([#割り注]死せる魂[#割り注終わり])の結末において、全ロシヤをある不明な目的に向って疾走するトロイカに喩えて、『ああ、トロイカよ、小鳥のようなトロイカよ、誰がお前を考え出したのか!』と叫びながら、誇らしい歓喜をもって、このまっしぐらに駈けて行くトロイカに遇うと、諸国民がみな敬意を払って脇へよける、とこうつけ加えています。そうでしょう、諸君、敬意を払おうが払うまいが、むろんよけるのは結構です。しかし、天才ならぬ私の目から見れば、この偉大な芸術家がかような結論をしたのは、子供らしい無邪気な楽天主義に捉われたためか、それとも単に、当時の検閲を恐れたためとしか思われません。なぜかと言えば、もし彼のトロイカに彼の主人公なるソバケーヴィッチや、ノズドリョフや、チーチコフなどをつないだならば、誰を馭者に仕立ててみても、そんな馬ではろく[#「ろく」に傍点]なところへ走りつくはずがないからであります! しかも、それは昔の馬で、今日のわが国の馬にははるかにおよびません、現代のチーチコフはもっともっと上手《うわて》であります!………」
 ここで、イッポリートの演説は拍手のために中断された。ロシヤのトロイカの比喩にふくまれた、自由主義が気にいったのである。もっとも、その喝采は二つ三つもれただけなので、裁判長も聴衆に対して、『退廷を命ずる』などと嚇す必要がなかった。ただ野次のほうをきっと睨んだにすぎなかった。しかし、イッポリートはすっかり乗り気になってしまった。彼は今まで一度も喝采されたことがなかったのだ! 彼は長いあいだ傾聴されることなくして今日にいたったが、今やたちまち全ロシヤに呼号する機会を得たのである。
「実際」と彼は言葉をつづけた。「今度とつぜん、ロシヤ全国に悲しむべき名声を馳せたこのカラマーゾフ一家は、そもそもいかなるものでありましょうか? 私はあまりに誇張しすぎるかもしれませんが、わが国現代の知識階級に共通なある根本的の要素が、この家族の中に閃めいているように思われます、――もとより、すべての要素全部でないばかりか、『ただ一滴の水に映った太陽のように、』顕微鏡で見なければならぬほど小さな閃めきですが、しかしやはり、それは何事かを反映しているのです、何事かを語っているのです。この放縦で淫蕩な不幸な老人、あんな悲惨な最期を遂げたこの『一家の父』をごらんなさい。貧しい食客をもってその経歴を始め、思いがけない偶然な結婚によって、持参金から小資産を握ったこの生れながらの貴族は、最初は知的才能をもった、――それも決して少からぬ才能をもった小さな詐欺師で、かつ追従軽薄を事とする道化者で、ことに何よりも高利貸でしたが、年を経るにしたがって、すなわち資産が殖えるにしたがって、だんだん気が大きくなって、屈服と追従は影を消して行き、単に皮肉な毒々しい冷笑家、兼淫蕩漢になってしまいました。生活の渇望が猛烈になるとともに、精神的方面はきれいに抹殺されたのであります。そして、結局、肉的快楽のほか人生に何ものをも認めなくなり、自分の子供たちさえそういうふうに教導したのであります。彼は父としての義務観念など少しももっていません、むしろそんなものを冷笑していました。彼は自分の小さい子供たちを、下男まかせに邸裏で養育させ、彼らがよそへ連れて行かれた時などむしろ喜んだくらいで、すぐさま彼らのことを忘れてしまいました。この老人の精神的法則は、すべて―― 〔apre`s moi le de' lug〕([#割り注]おれさえいなくなったら、洪水が起ったってかまうことはない[#割り注終わり])彼に公民という観念に反するものの好適例でした。最も完全な、毒々しい個人主義の標本でした。『世界じゅうが焼けてしまっても、おれさえ無事ならかまわない』という流儀でした。彼はいい気持で満足しきって、まだ二十年も三十年も、こういうふうに生きたいと渇望していたのです。彼は現在自分の息子の金をごまかして、つまり母親の財産を息子に渡してやらないで、その金でもって息子の恋人を奪おうとしたのです。そうです、私はペテルブルグから来られた敏腕なるフェチュコーヴィッチ氏に、被告の弁護を譲ることを欲しません。私自身、真実を語ります。彼が息子の心に投げ込んだ数々の忿懣を、私自身よく理解しているのです。しかし、この不幸な老人のことはもうよしましょう、たくさんです。彼はその報いを受けました。ところで、われわれの思わねばならぬことは、彼が父親であったことです、現代の典型的な父親の一人であったことです。彼が現代多数の父親の代表的な一人であるということによって、私ははたして社会を欺くことになるでしょうか? もとより、現代の父親の多くは、あれほど厚顔ではありません。なぜというに、彼らはよりよき教育、よりよき教養を得ているからであります。けれど、悲しいかな、彼らもほとんどフョードルと同じような哲学をもっています。おそらく私は厭世家でしょう。それでもかまいません。私はあなた方に赦してもらえるという条件の下に、この論告を始めたのです。で、前もって約束しておきましょう、あなた方は私を信じなくなってもよろしい、ただ私に話させて下さい、私の言いたいことをすっかり言わせて下さい、そして私の言葉を多少なりとも記憶して下さい。ところで、今度はこの老人、この一家のあるじの子供たちです。その一人は現に目の前の被告席におります。彼のことは後に言いましょう。あとの二人について、ちょっと簡単に言っておきますが、この二人の兄弟のうち、兄のほうは現代青年の一人です。彼は立派な教育を受け、きわめて鞏固な知力をもっていますが、何ものも信じようとせず、多くのものを、――人生におけるきわめて多くのものを、父親と同様に否定し、抹殺しています。われわれ一同は彼の説を聴きました。彼はこの町の社交界に歓迎されています。彼は自己の意見を隠蔽しない。それどころか反対に、まったく反対に、公々然と述べていました。したがって、いま私は彼のことを評する勇気を与えられたわけであります。しかし、むろん、それは個人としてでなく、ただカラマーゾフ家の一員として論ずるのであります。さて、昨日当地の町はずれで、病いに苦しんでいる一人の白痴が自殺しました。彼はこの事件に密接な関係を有する人間であって、同家の以前の召使を勤めていましたが、あるいはフョードル・パーヴロヴィッチの私生児かもしれません。すなわちスメルジャコフであります。彼は予審の時、ヒステリイじみた涙を流しながら、この若いカラマーゾフ、すなわちイヴァン・フョードロヴィッチがその放縦な思想をもって、いかに彼を驚かしたかを物語りました。『あの人の考えによりますと、その世では何事もみんな許されているのでございます。これからは何一つ禁じられるものはない、――と、こうあの人は教えて下さいました』と言いました。この白痴は、こうした説を教えられて、そのためにすっかり発狂してしまったらしいのであります。むろん持病の癲癇と、主人の家に突発した恐ろしい騒動が、彼の精神錯乱をたすけたことは言うまでもありません。けれど、この白痴は一つきわめて興味のある言葉をもらしました。それは、より以上聡明な観察者の言としても、立派なものと言っていいくらいで、したがって、私もこのことを言いだしたのであります。ほかでもない、『三人の息子たちの中で、その性質からいって一番フョードル・パーヴロヴィッチに似ているのは、あのイヴァン・フョードロヴィッチでございます』とこう彼は私に言いました。私はこの言葉を紹介して、一たんはじめた性格論を中断することにいたします。なぜなれば、これ以上言うのは、デリカシイを欠くものと認めるからであります。ああ、私はもうこれ以上断案を下すことは望みません。この青年の未来に対して、不吉な鴉啼きをしようとは思いません。動かしがたい正義の力が、今なお彼の若い心の中に生きていて、血族的な愛の感情が、不信やシニスムに消されていないことを、われわれは今日ここで、この法廷で認めました。この不信やシニスムは、真の苦しい思索の結果というよりも、むしろ父親から遺伝したものなのであります。次には第三子ですが、彼はまた敬虔、謙譲な青年で、兄の暗黒な腐爛した人生観と正反対であります。彼はいわゆる『国民精神』、――というよりも、むしろ、わが国の思想的知識階級に属する理論家の間で、この奇妙な名称を与えられているところのもの、――に合致せんとしています。ご存じでしょうが、彼は僧院に入っておりまして、いま少しで僧侶になるところだったのです。彼の心中には、無意識ではあろうが、早くからかの臆病な絶望が現われたように思われます。今日の悲しむべきわが国の社会においては、シニスムとその腐敗的影響を恐れて、一切の罪悪をヨーロッパ文明に嫁するような誤謬におちいり、この臆病な絶望に曳かれるままに、彼らのいわゆる『生みの大地』に走るものが多いのです。つまり、幻影に嚇された子供が、母親の抱擁に身を投ずるように、彼らは生みの大地に抱かれようとしているのであります。たとえ一生惰眠を貪っても、その恐ろしい幻影さえ見なればいいというので、弱りはてた母親の萎びた乳房に取りつき、安らかに眠ろうとしているのです。私一個としては、善良にして天才的なこの青年に、ありとあらゆる幸福を望みます。私は彼の若々しく美しい魂と、国民精神に対するその憧憬が、後にいたって、世間でよくあるように、精神的方面では暗黒な神秘主義におちいらぬよう、また政治的方面では盲目的な偽愛国主義に走らぬように望みます。この二つの要素は、彼の兄を苦しめているヨーロッパ文明、――犠牲を払わずして得られ、かつ曲解されたところのヨーロッパ文明、――から生ずる早老より、さらに危険なものであります。」
 偽愛国主義神秘主義に対して、また二三の拍手が起った。イッポリートはもうすっかり熱中しきっていた。しかし、彼の演説は少々事件に不適切な上に、筋道がすこぶる漠然としていた。けれども、憎悪の念に燃えたっている肺患者の彼は、せめて一生に一度でも、思う存分言いたくてたまらなかったのである。その後、町で行われた噂によると、イッポリートはかつて一二度、衆人の面前で、イヴァンに議論でやり込められたのを忘れないで、今こそ復讐してやろうという卑しむべき動機から、イヴァンの性格論をやったに相違ない、ということであった。けれども、そういう断案が正しいかどうか、筆者《わたし》は知らない。とにかく、これはほんの序論で、やがて演説は次第に、事件の本質に接近して行った。
「しかし、もう現代式の家長であるフョードルの長子にかえりましょう」とイッポリートは言葉をつづけた。「彼はわれわれの前で被告席に坐っております。われわれは彼の生活と、業績と、行為とを眼前に有しています。ついに時期が来て、何もかも表面に暴露されてしまったのです。自分の弟たちが『ヨーロッパ主義』や『国民精神』を抱擁しているのに反して、彼は、現在あるがままのロシヤを代表しています、――ああ、しかし、ロシヤぜんたいを代表しているのではありません。もしロシヤぜんたいだったら、それこそ大へんです! しかし、そこには彼女、われわれのロッセーユシカ、母なるロシヤが感じられます。彼女の匂いがし、彼女の声がきこえます。ああ、われわれロシヤ人は端的です。われわれは善と悪との驚くべき混合です。われわれは文明とシルレルとの愛好者でありながら、しかも酒場酒場を暴れ廻ってば、酔っ払いの飲み仲間の髯を引きむしっています。ああ、われわれとても、立派な善良な人間になることがあります。しかし、それはただわれわれ自身愉快な時にかざるのであります。そうです、われわれは高尚な理想に動かされることさえあります。ただし、その理想はひとりでに実現されねばならぬ、という条件つきであります。天から鼻のさきに落ちて来なければならん、つまり無報酬で(これが肝腎なのです)、無報酬で得られなければならんのであります。そのために一さい代価を支払う必要のないものでなければなりません。われわれは支払いをすることが大嫌いだが、その代り、もらうことは大好きです。しかも、万事につけてそうなのです。まあ、一つわれわれに与えてごらんなさい。人生において得られる限りの幸福を与えてごらんなさい(実際、得られる限りの幸福でなければいけない、それより安くは妥協しません)。そして、何事によらず、一さい、われわれのわがままを妨げずにおいてごらんなさい。その時はわれわれも、立派な咎人になり得ることを証明するでしょう。われわれは決して貪婪ではありません。が、なるべくたくさん、できるだけたくさんの金を与えてごらんなさい。そうすればわれわれが寛大無比な態度で、賤しむべき阿堵物《あとぶつ》に対する軽蔑を現わしながら、一夜のうちにむちゃくちゃにつかいはたしてしまうのを、あなた方はごらんになるでしょう。もしぜひとも必要な時に金をくれるものが誰もなければ、われわれはそれを立派に手に入れてお目にかけます。しかし、この事件はあと廻しにして、順序を追うてお話しすることにしましょう。まずわれわれの前には、投げやりにされた憐れな子供がおります。それは先刻、尊敬すべき当地の市民(もっとも残念ながら、外国の生れではありますが)の言われたとおり、『靴もはかずに裏庭で』跳ね廻っていたのです。もう一度くり返して申しますが、私も被告を弁護する点においては、決して人後に落ちるものでありません。私は告発者であると同時に、弁護者でもあるのです。そうです、私も人間です、私は幼年時代や生家などの最初の印象が、人間の性格にいかなる感化を与えるものであるかを知っています。ところが、その子供は今やすでに成長して、立派な青年であり、士官であります。彼は乱暴を働いたり、決闘をいどんだりしたために、わが豊饒なるロシヤの辺境の町へ還されて、そこでも勤務し、かつ放蕩な生活を送ります。むろん、大きな船は航海も大きいわけです。しかし、必要なのは金です、まず何よりも金です。そこで、長いこと論争したあげく、とうとう父親から最後の六千ルーブリを受け取ることに決着して、その金が届いたのであります。ここで注意しなければならんことは、彼が証文を渡し