『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P192-P211

実際ミーチャの手から『横取り』する気でいるという噂をちらほら耳にしていた。ついこの間までこの噂はアリョーシャにとって、もってのほかの奇怪至極なものに思われた。もっとも、非常に気がかりであった。彼は二人の兄を両方とも愛していたので、二人の間のこうした競争が恐ろしくてたまらなかったのである。
 そのうちに、昨日ドミートリイが、とつぜん彼に面と向って、自分はかえってイヴァンの競争を悦んでいる、そのほうがいろいろな点において自分のために都合がよいと言った。どうして都合がよいのであろう? グルーシェンカと結婚するためとでもいうのか? しかし、アリョーシャには、こんなことは自暴自棄な最後の手段としか思えなかった。そのほかに、彼はつい昨日の晩まで、カチェリーナ自身も熱情的に、執拗に兄ドミートリイを愛している、と確固たる信念をいだいていた(しかし、この信念もただ昨日の夕方までであった)。そればかりではない、彼女がイヴァンのようなタイプの男を愛するはずはない、彼女はドミートリイを愛している。いかにこのような愛が奇怪に見えるとしても、現にあるがままの兄を愛しているに相違ない。こういう考えがどういうわけか、しじゅう彼の心に浮んでくるのであった。ところが、昨日グルーシェンカの騒ぎに出くわして、とつぜん別な考えが彼の心を打った。たった今ホフラコーヴァ夫人の言った『破裂』という言葉はほとんど彼を慄えあがらした。なぜなら、ちょうどけさ夜明けごろ半睡半醒の間に、おそらく自分で自分の夢に答えるつもりであったろう、とつぜん『破裂、破裂』と叫んだからである。彼が夜通し見た夢はほかでもない、例のカチェリーナのもとにおける恐ろしい出来事であった。今ホフラコーヴァ夫人が明白に断然と言いきった言葉、――カチェリーナはイヴァンを愛しているくせに、何かの戯れのために、何かの『破裂』のために、わざと自分で自分を欺いて、何やら感謝の念を現わしたいばかりに、兄ドミートリイに対する無理おしつけの愛で、われとわが身を苦しめている、という言葉は、アリョーシャを震駭さしたのである。
『そうだ、あるいは本当にあの言葉には、十分の真実がふくまれているかもしれない!』しかし、もしそうだとしたら、イヴァンの位置はどんなであろう? アリョーシャは本能的にこういうことを感じた。カチェリーナのような性格は君臨することが必要である、ところで、彼女の主権のもとに左右され得るのは、ドミートリイのような男であって、決してイヴァンではない。実際ドミートリイは、たとえ長い時日を要するとしても、いつかは彼女に屈服して、しかも幸福を感じ得るに相違ない(それはアリョーシャのむしろ望むところであった)。しかし、イヴァンはそうでない。イヴァンは彼女に屈服し得ないし、また屈服しても幸福になり得るはずはない。なぜかアリョーシャは心の中で、イヴァンについてこういうふうな観念を作り上げていたのである。彼が客間へはいった時、こうした動揺と想像が彼の頭をかすめて飛び過ぎた。それから今一つの想念も、また突然おさえることのできない力をもって、彼の心へ闖入してきた。ほかでもない、『もしこのひとが誰も愛していなかったら、どっちも愛していなかったらどうだろう?』というのであった。ついでに言っておくが、アリョーシャはこういうふうな自分の想念を恥ずるような気味で、この一カ月間、ときどきこういう想念が浮んでくるたびに、自分で自分を責めるのであった。『一たい自分に愛や女性のことが少しでもわかるのだろうか? 一たいどうしてこんな結論を下すことができるのだろう?』何かこんなふうの思索や、推察をした後で、彼は必ず心の中でこう言って自分を責めていた。しかしそれでも、考えないわけにいかなかった。
 今ふたりの兄の運命にとって、この争いは実に重大な問題であり、その解決のいかんによって非常な結果の相違が生じるということは、彼にも本能的にわかっていた。『一匹の毒虫がいま一匹の毒虫を咬み殺すのだ』とは、きのう兄イヴァンがいらいらした気分にまかせて、父とドミートリイについて言った言葉である。してみると、イヴァンの目から見てドミートリイは毒虫なのである。あるいは、もうとっくからそうなのかもしれない。もしかしたら、イヴァンがカチェリーナを見た時からではなかろうか? もちろん、この言葉は何心なくイヴァンの口をすべり出たに相違ないけれども、何心なく出ただけに、なおさら重大な意味がある。もしそうだとすれば、この場合、平和なぞあろうはずがない。それどころか、かえって一家における憎悪と敵視との新しい導火線が現われるのみである。
 しかし、アリョーシャにとって最も大切な問題は、二人のうち誰を愛したらいいか? 一人一人のものに何を望んでやるべきだろうか? ということであった。彼は二人の兄を両方とも愛している。けれど、この恐ろしい矛盾撞着の中にあって、一人一人に何を望んでやったらいいのだろう? この一切の入り乱れた中に入ったら、誰でも途方にくれてしまうのがあたりえである。ところが、アリョーシャの心は未知というものを忍ぶことができない。なぜなら、彼の愛の性質が、実行的だからである。消極的な愛し方は彼にはできないことであった。一たん愛した以上、ただちに救助にとりかからねばならない。このためには確固たる目的を立てて、おのおの人にどんなことが望ましく必要であるかを、正確に知らなければならない。こうして、目的の正確なことを確かめた上、はじめて自然な方法でおのおのに助力を与えることができる。ところが、今は正確なる目的の代りに、茫漠と混沌とが一切を領している。たった今『破裂』という言葉が出たが、しかし、この『破裂』という言葉を何と解釈したらいいのであろう? この混沌の世界にあっては、最初の一ことからして彼にはわからなかった。
 カチェリーナはアリョーシャの姿を見るやいなや、もう帰り支度をして席を立ったイヴァンに向って、早口に嬉しそうに話しかけた。
「ちょっと! ちょっと待って下さいまし! わたし、衷心から信用しているこの方のご意見が聞きたいのですから、奥さん、あなたも行かないでいて下さいまし」と彼女はホフラコーヴァ夫人に向ってこう言いたした。彼女はアリョーシャを自分のそばへ坐らした。夫人はその向い側にイヴァンと並んで座を占めた。
「ここにいらっしゃるのはみんな、世界じゅうにまたとないわたしの親しいお友達ばかりです、わたしの大切な親友ばかりです。」真心から出た受難者のような涙に声を顫わしながら、彼女は熱した調子でこう言った。アリョーシャの心は、ふたたび彼女のほうへ引き寄せられた。「アレクセイさん、あなたは昨日のあの……恐ろしい出来事をご自分でごらんになりました。そして、わたしがどんな様子であったかということも、よくご存じでいらっしゃいます。イヴァン・フョードルイチ、あなたはごらんになりませんでしたけれど、あの方はごらんになったのです。昨日この方がわたしのことを何とお思いになったか知りませんが、たった一つ、よくわかっていることがございます、――もし今日、今すぐあれと同じことがもう一度あったら、わたしはあれと同じ感情を現わし、あれと同じ言葉を吐き、あれと同じ動作をしたに相違ありません……アレクセイさん、あなたはわたしの動作を覚えてらっしゃるでしょう。あなたご自身わたしのある一つの動作をとめて下すったのですものね……(こう言いながら、彼女はぱっと顔を赧くした。その目は急に輝き始めた)。アレクセイさん、憚りなく申しますが、わたしは何ものとも妥協することはできません。それにわたし今となっては、本当にあの人[#「あの人」に傍点]を愛してるかどうか自分でもよくわかりませんの。わたしあの人が気の毒[#「気の毒」に傍点]になりました。これは愛の裏書きとしては、あまりよくないほうですからねえ。もしわたしがあの人を愛していたら、やはり引きつづいて愛しているとしたら、気の毒なんて心持にならないで、かえって憎くなるはずじゃありませんか……」
 彼女の声は顫え、睫には涙の玉が光っていた。アリョーシャの心中で何やらぴくりと顫えるものがあった。『この令嬢は正直で誠実だ』と彼は考えた。『そして……そして、このひとはもうドミートリイを愛していない!』
「それはそうです! 本当にそうですわ!」とホフラコーヴァ夫人が叫んだ。
「ちょっと待って下さいまし、奥さん、わたしはまだ肝心なことを言っておりませんの、ゆうべ考えたことを、まだすっかり言ってしまわないんですの。わたしの考えは恐ろしいこと、わたしにとって恐ろしいことかもしれません。それはわたしにも感じられますけれど、もうわたしはどんなことがあっても、この決心を変えません。どんなことがあっても、一生涯、この決心を押し通します。イヴァン・フョードルイチは、優しい、親切な、博大な心を持った、永久に変ることのないわたしの相談相手で、人間の心理の深い洞察者で、そして世界じゅうにかけ換えのない、わたしのたった一人の親友ですが、この方もすべての点において、わたしに賛成して、わたしの決心を褒めて下さいました……この方は一切の事情をご存じでいらっしゃいます。」
「ええ、僕は賛成しています。」低いがしっかりした声で、イヴァンはこう言った。
「でも、わたしはアリョーシャにも(あら、ごめんなさい、アレクセイさん、わたしはついあなたを、アリョーシャなどと呼び捨てにしました)、――わたしはアレクセイさんにも、今わたしの二人の親友の目の前で、この決心が間違ってるかどうか、忌憚なく言っていただきたいのでございます。わたし本能的に初めからこう感じていました。ほかではありませんが、あなたが――わたしの親切な兄弟のアリョーシャが(だって、あなたは本当にわたしの親切な兄弟ですもの)」と彼女は自分の熱した手でアリョーシャの冷たい手を取りながら、感奮したような調子で言った。「わたしこんなに苦しんでいますけれど、あなたの決定は、あなたの同意は、わたしに平安を与えてくれるに違いない、とこう前から感じていましたの。あなたの言葉を聞いたら、わたしも落ちついて諦めることができます、――これはわたしが前から感じていたことでございます!」
「僕はどんなことをお訊ねになるのかわからないです」とアリョーシャはぽっと顔を染めながら言った。「僕はあなたを愛しています。僕はいま自分自身に対するよりも、むしろよけいにあなたの幸福を望んでいます! それは自分でもわかっていますが、しかし僕はこの事件について、何も知るところがないのですから……」彼はなぜか突然こう言いたした。
「この事件ですって、アレクセイさん、今この事件で一番おもなものは名誉と義務です。それから、もう一つ何と言っていいかわかりませんが、義務よりかもっと高いものがあるのです。こういうふうな抑えることのできない感情があることを、心がわたしに教えてくれます。そして、この感情がわたしをぐんぐん引っ張ってゆくのでございます。けれど、何もかも一言でつくすことができます。わたしはもう決心いたしました。たとえあなたの兄さんが、あの……わたしにとって金輪際ゆるすことのできない売女《ばいた》と結婚なすっても(と彼女は勝ち誇ったような調子で言いだした)、わたしは依然としてあの人を見捨てませ[#「わたしは依然としてあの人を見捨てませ」に傍点]ん![#「わたしは依然としてあの人を見捨てませ[#「わたしは依然としてあの人を見捨てませ」に傍点]ん!」はママ] 今日の日から永久に、永久に見捨てないつもりでございます!」と力のない、無理に絞り出した感奮の情が急に破裂したような調子で、彼女はこう言った。「こう申したからって、何もあの人の後を追っかけ廻して、あの人の目の前へうるさく顔を出し、あの人を苦しめようというのじゃありません、――いいえ、どういたしまして、わたしはどこへでも、お望みの町へ越して行きます。けれど、わたしは生涯おこたりなく、あの人から目を放さないでいます。もし、あの人があの女と一緒になって、不幸におちいりなすったら、――それは今にも必ず起こることです、――そうしたら、わたしのところへいらっしゃるがよろしい。わたしは親友として妹としてあの人を迎えます。しかしもちろん、妹というにすぎません、それはもう永久に変ることはありません。けれど、わたしが本当の妹だということを、生涯を犠牲にしてまであの人を愛しているってことを、最後にはあの人にも合点してもらいたいのでございます。わたしはどうしてもこの目的を貫きます。あの人がしまいにはわたしの本心を悟って、少しも恥じることなしに、一切のことをわたしに打ち明けるように、是が非でもしおおせなければおきません! わたしはあの人の神となって、あの人にお祈りをさせます、――それは少く見つもってもあの人の義務です。だって、あの人がわたしに背いたおかげで、昨日あんなひどい目にあったんですもの。わたしは自分が一たん約束した言葉を守って、一生あの人に忠実にしているのに、あの人は信を重んじないで、わたしに背いてしまったでしょう。このことをあの人に一生の間、痛切に感じさせて上げたいのです。わたしは……わたしはただもう、あの人の幸福の手段となります(何と言ったらいいでしょう)、あの人の幸福の道具になります。器械になります。これは一生涯、本当に一生変ることはありません。そして、あの人にこのさき一生のあいだ、それを見ててもらいます! これがわたしの決心なのでございます! イヴァン・フョードルイチはこの決心に大賛成をして下さいました。」
 彼女は息を切らしていた。もともと彼女はもっと品位を落さないよう、もっと巧妙に、もっと自然に自分の思想を表現するつもりであったらしい。しかし、事実においては、あまり性急に、あまり露骨なものとなってしまった。おとなげなく感情に走りすぎたような点も多かったし、ただ咋日の癇癪の名残りにすぎないような点も、ただのから威張りにすぎないような点も多かった。彼女自身もそれを直覚したので、その顔には急に影がさして、目つきも妙に険悪になった。アリョーシャはすぐそれに気がついて、憐憫の情が心の中で微かに動くのを感じた。そのとき兄のイヴァンもそばから口を添えた。
「僕はただ自分の考えを述べただけなんですよ」と彼は言った。「これがもしほかの女であったら、無理に絞り出したような不自然なものとなったでしょうが、あなたは違います。ほかの女だったら偽りになったでしょうが、あなたのは真実です。僕は何と解釈していいかわかりませんが、あなたはこの上なく真摯である、それゆえにまた真実である、ということはよくわかっています。」
「ですけれど、それはただこの瞬間だけじゃありませんか……しかも、この瞬間というのはどんな時でしょう? ただ昨日の侮辱ばかりです、――それがこの瞬間のもっている意味ですわ!」見受けたところ、さし出がましいことを言うまいと決心していたらしいホフラコーヴァ夫人も、こらえきれなくなって、突然しごく正鵠をうがった意見を述べた。
「そうです、そうです、」話の途中に口を出されたのがいまいましいかのように、イヴァンは急に熱くなってこう遮った。「まったくそうです。しかし、ほかの人であったら、この瞬間は要するに昨日の印象にすぎないかもしれません、ただの瞬間にすぎないかもしれません。けれど、カチェリーナさんのような性格にあっては、この瞬間は延いて一生涯へおよぶに相違ないです。ほかの人にとって、ただの約束にすぎないようなことも、この方にとっては永久にかわることのない、辛い、苦しい、とはいえ、いささかも怠りを知らぬ義務なのです。そしてこの方は、義務をはたしたという気持で、ご自分の心を養ってゆかれるでしょうよ! カチェリーナさん、あなたの生活は、今のうちこそ自分自身の感情、自分自身の功業、自分自身の悲哀の苦しい意識の連続でしょうけれど、そのうちにこの苦しみはだんだん軽くなってゆきます。そして、あなたの生活は、断乎たる傲岸な志望を永久にはたしたという、甘い意識の連続と化してしまいます。実際、この志望はある意味において、傲岸なものです。と言って悪ければ、自暴自棄的なものです、それには間違いありません。しかし、あなたはそれを征服してしまったのですから、この意識は最後にいたって十分な満足をあなたに与え、そのほかのあらゆる苦痛を諦めさしてくれましょうよ……」
 彼は何か毒をおびたような調子で、ずばりと言いきった。その調子は妙にわざとらしかったが、彼はそうした心持を、つまりわざと冷笑的な調子で言ってやろうという心持を、格別かくそうとしなかったのかもしれない。
「まあ、とんでもない、それはみんな大ちがいですよ!」とホフラコーヴァ夫人は叫んだ。
「アレクセイさん、どうかあなたのご意見も、聞かして下さい! わたしはあなたが何とおっしゃるか、それが伺いたくってたまらないんですの!」とカチェリーナは叫んだが、思いがけなくさめざめと泣きだした。アリョーシャは長椅子から立ちあがった。
「いいえ、何でもありません、何でもありません!」と、彼女は泣き声のまま語をついだ。「これは昨夜いろんなことを考えたので、頭が変になっているからですの。わたしはね、あなたやお兄さんのようなお友達のそばにいますから、一そう気丈夫なのでございます……だって、あなた方お二人が決してわたしを……お見捨てなさらないってことは、わたしも承知しておりますから。」
「残念ながら、僕はたぶん明日あたりモスクワへ向けて出立して、永久にあなたを見捨てなければなりますまい……これは残念ながら、変更するわけにはいきません……」イヴァンが突然こう言った。
「明日、モスクワヘ!」ふいにカチェリーナの顔が曲ってしまった。「けれど……けれど、本当になんて仕合せなことでしょう!」と彼女は叫んだが、その声は束の間に一変した。そして、一瞬の間に跡も残らないほど、綺麗に涙を拭き取っていた。つまり、一瞬の間に恐ろしい変化が彼女の全身に生じたのである(これがアリョーシャにたえがたく悩ましい印象を与えた)。たった今ひきむしられたような感情の激発に泣いていた、辱しめられたる哀れな少女が、急にすっかり落ちつきすまして、何か嬉しいことでもできたかのように、恐ろしく満足そうな様子をした女に早変りしたのである。
「おお、決して、あなたを失うのが仕合せなのではありません。そんなことはもちろんありません。」急に愛想のいい世馴れた微笑を浮べながら、彼女はこう言いなおした。「あなたのような親しいお友達が、そんなことをお考えになるはずはありません。それどころか、わたしにとっては、あなたを失うということは、この上もない不幸なのでございます(彼女は、いきなりイヴァンに飛びかかって、その両手を取るやいなや、熱情をこめて握りしめた)。わたしが仕合せだと申しましたのは、こういうわけなんでございます。あなたがモスクワへいらっしゃいましたら、今のわたしの境遇を、今の恐ろしい身の上を、あなたの口から伯母や姉のアガーシャヘ、すっかり伝えていただけるからでございます。どうぞアガーシャには露骨にありのままを話し、伯母のほうは少し加減して下さいまし。もっとも、こんなことはあなたのお胸にあることでございますわね。昨夜も今朝も、どんなふうにこの恐ろしい手紙を書いたらいいかわからないで、どれほど辛い思いをしたか、とてもお察しはつきますまい……だって、こんなことはどんなにしたって、手紙で言いつくせるものじゃありませんからねえ……けれど、今はもう楽に書くことができますわ。あなたが伯母や、姉に会って、すっかり説明して下さるんですものね。本当にこんな嬉しいことはありません! ですが、嬉しいのはただこれだけです。しつこいようですが、どうぞ信じて下さいまし。あなたという人はわたしにとって、かけ換えのないお方なのです……さあ、今すぐにも一走り家へ帰って手紙を書きましょう」とだしぬけに彼女は言葉を結び、もう部屋を出て行きそうに一足ふみ出した。
「おや、アリョーシャは? あなたがぜひ聞きたいと言ってらした、アレクセイさんのご意見は?」とホフラコーヴァ夫人は叫んだ。何となく皮肉な、腹立たしげな調子がその声の中に響いていた。
「わたしそれを忘れたのじゃありません」と急にカチェリーナは立ちどまった。「それに、奥さんはどうして今のような場合、わたしをそう邪慳になさるんでしょう?」と熱した苦い調子で彼女は咎めるように言った。「わたし自分で言ったことは問違いなくいたしますわ! この方のご意見はぜひ必要なのでございます。それどころか、わたしこの方の命令が必要なのでございます! この方のおっしゃることは、そのとおりに実行いたします、――ねえ、アレクセイさん、これほどまでに、わたしはあなたのお言葉に渇してるのでございますよ……ですが、あなたどうなすったんですの。」
「僕は今までこんなことを夢にも考えませんでした、こんなこと想像もできません!」と、ふいにアリョーシャは悲しげに叫んだ。
「何ですの、何ですの?」
「兄さんがモスクワへ行くというと、あなたはそれを嬉しいとおっしゃるじゃありませんか、――あなたはわざとあんなことをおっしゃったのです! それからまたすぐに、いま嬉しいと言ったのはまるっきり別なことで、むしろ友人を失うのが残念だなどと言いわけをなさる、――あなたはわざと芝居をなすったのです……ちょうど喜劇の舞台に立つように芝居をなすったのです!」
「芝居ですって! なぜですの! 一たいそれは何のことですの?」顔を真っ赤にして眉をひそめながら、カチェリーナは心底から驚いてこう叫んだ。
「あなたがどんなに兄さんという親友を失うのが残念だとおっしゃっても、やはり兄さんの出立が嬉しいと、当人に面と向って言ってらっしゃるようなものです……」もうほとんど息を切らしながらアリョーシャは言った。彼はテーブルのそばへ突っ立ったまま坐ろうともしなかった。
「あなた何を言ってらっしゃるんですの。わたし何のことだか……」
「ええ、僕自分でもよくわからないんです……僕は急にこう頭の中がぱっと明るくなったような気がして……もちろん、こんなことを言うのは、よくないってことは僕も知っていますが、それでもやはり、すっかり言ってしまいます。」アリョーシャは依然として途切れがちの顫え声で語をつづけた。「ぱっと心が明るくなったというのは、ほかでもありません、――あなたは兄のドミートリイを……ずっと始まりから……ぜんぜん愛していらっしゃらなかったのかもしれません……そして、兄さんもやはりあなたを、少しも愛していなかったのではないでしょうか……そもそものはじめから……ただ尊敬していただけかもしれませんよ。まったく、僕はどうして今こんな大胆なことが言えるか、自分ながら不思議なくらいですが、しかし、誰か一人くらい本当のことを言う人がなくちゃなりません……だって、ここでは誰ひとり本当のことを言う人がないんですもの。」
「本当のことって何ですの」とカチェリーナが叫んだ。何だかヒステリックなあるものが、その声に響いていた。
「ほかではありません」と思いきって屋根の上から飛びおりるような工合で、アリョーシャは呟いた。「今すぐドミートリイをお呼びなさい、――僕が捜し出して上げます、――そして、兄さんがここへ来たら、まずあなたの手を取らして、そのあとでまたイヴァン兄さんの手を取らせ、そうして二人の手を結び合してもらうのです。なぜって、あなたはイヴァン兄さんを愛していらっしゃるために、かえって愛する兄さんを苦しめてらっしゃるからです……ところで、なぜ苦しめなさるかというと、それは大きい兄さんに対するあなたの愛が、発作的なものだからです……偽りの愛だからです……なぜそうなったかというと、あなたが無理に自分で自分を説き伏せて……」
 アリョーシャは急に言葉を切り、黙り込んでしまった。
「あ……あ……あなたはちっぽけな宗教的畸人《ユロージヴァイ》です、それっきりの人です!」もうすっかり顔の色をなくして、憤怒のために唇を歪めながら、突然たち切るようにカチェリーナが言った。イヴァンはだしぬけにからからと笑って席を立った。帽子は彼の手にあった。
「お前は思い違いをしているよ、アリョーシャ。」彼は今まで一度もアリョーシャの見たことのないような特別な表情を浮べてこう言った。それは若々しい誠実さと抑えることのできないほど力強い、露骨な感情の現われであった。「カチェリーナさんは決して僕を愛したことなんかありゃしない。一度も口にこそ出して言ったことはないけれど、僕がカチェリーナさんを愛してるってことは、ご自分でちゃんと承知していられたものの、僕を愛してはいなかったんだよ。また僕は一日だって、このひとの親友であったこともない。誇りの高い婦人は、僕なんかの友情を必要としないからね。このひとが僕をそばへ牽き寄せていたのは、ひっきりなしに復讐をしたいためだったのさ。あの初めての出会い以来ひきつづいて、ドミートリイからたえまなしに受けていた侮辱の怨みを、僕に向けてはらしていたのだ。実際、ドミートリイとの最初の出会いさえ、このひとの心には侮辱として刻みつけられているんだからなあ。このひとはこういう心を持った人なんだよ! 僕いつもいつも、この兄貴に対する恋の表白ばかり聞かされたわけなのさ。僕はもうここを去ってしまいます。しかしね、カチェリーナさん、あなたは実際、兄貴ひとりを愛しておいでになったのですから、そのことはご承知を願いますよ。兄貴の侮辱が烈しくなるにしたがって、あなたの愛も次第に募って行くのです。これがあなたの気ちがいじみた要求なんです。あなたは今のままの兄貴を愛しておいでになります。あなたを侮辱する兄貴を愛しておいでになります。もし兄貴の身持ちが改ったら、あなたはすぐに愛想をつかして、棄ててしまうに相違ありません。兄貴があなたにとって必要なのは、始終ご自分の貞操の徳を意識して、兄貴の不実を責めたいからにすぎません。これというのも、みなあなたの傲慢な性質から起るのです。ええ、むろんその中にはずいぶん無理なところもあります。自分を卑下しなければならぬ場合もあります。しかしとにかく、一切のことはプライドから発しています……僕はあまり若すぎたのです、そしてあまり強くあなたを愛しすぎたのです。こんなことはぜんぜん言う必要がない上に、黙ってあなたのそばを離れてしまったほうが、僕としてもより多く品位を保つことができるし、あなたにも侮辱を与えないですむ、ということは自分でよく承知しています。しかし、僕は遠くのほうへ行ってしまって、またとふたたび帰って来ないんですからね……これが永久のお別れなんですからね……僕は気ちがいじみた発作をそばで見ているのが厭なんです。しかし、もうこのうえ言うことができません、何もかも言っちまいました……さようなら、カチェリーナさん、あなたは僕に腹を立てるわけにはいきませんよ。なぜって、僕はあなたより百倍以上も、ひどい罰を受けてるんですからね。第一、もう永久にあなたに会えない、というだけでもずいぶん重い罰ですものね。さようなら、僕はあなたの握手を必要としません。あなたはあまり意識的に僕をお苦しめなすったから、今あなたを赦すことができないのです。後でまた赦しましょうが、今は握手にはおよびません。
[#2字下げ]Den Dank, Dame, begehr ich nicht!([#割り注]あなたよ、われは君の感謝を求めず[#割り注終わり])」
 彼はひん曲ったような微笑を浮べながら、こう言いたした。これでもって自分もシルレルを暗記するほど読んでいる、という意外な事実を証明したのである。以前なら、アリョーシャは、しょせんそんなことを信じ得なかったに違いない。イヴァンは女主人にすら挨拶をしないで、そのまま部屋を出て行った。アリョーシャは思わず両手を拍った。
「イヴァン」と彼は度を失ったようにうしろから叫んだ。「帰ってらっしゃいよ! 駄目だ、駄目だ、もうとても帰って来やしない!」ふたたび心の中を悲しい想念に照らされながら、彼はこう叫ぶのであった。「けれど、これは僕の仕業です。僕が悪いのです。僕が始めたのです。イヴァンは意地のわるいものの言い方をしました。あれはよくないことです。あんな間違った、意地のわるいものの言い方をするなんて……兄さんはどうしてもいま一度ここへ来なくちゃならない、帰って来なくちゃならない……」アリョーシャはなかば狂せるもののごとく叫びつづけた。
 カチェリーナはふいに次の間へ出てしまった。
「あなたは何もなさりゃしないんですよ。あなたは天使のように、見事な振舞いをなすったきりですよ。」ホフラコーヴァ人は悲しそうな顔をしているアリョーシャに向って、さも嬉しそうな早口で言った。「わたしイヴァン・フョードルイチを発たせないように、できるだけの方法を講じますからね……」
 悦びの色が夫人の顔に輝いているのを見て、アリョーシャはなおのこと悲しくなってしまった。ところへ、カチェリーナが突然ひっ返して来た。その手には虹色をした百ルーブリ札が二枚あった。
「アレクセイさん、わたしあなたに一つ大変なお願いがあるんですの」と彼女はいきなりアリョーシャに向って切り出した。その声は静かに落ちついていて、本当に何事もなかったようなふうつきであった。「一週間、――ええ、一週間まえのことでした、ドミートリイがあの熱しやすい性質にまかせて、一つ大へん間違った、しかも不体裁きわまることをしでかしたのです。それはあまりよくないところ、ある料理屋であったことなんですが、いつかお父さんが何かの事件で、代理人にお頼みなすった例の予備二等大尉に、ドミートリイが出会ったのです。あの人はどういうわけかこの二等大尉に腹を立てて、大勢のいる前で相手の髯を引っ掴んだのだそうです。そして、この恥しい姿のままで二等大尉を往来へ引き出して、長いあいだ往来を引き摺り廻したんだそうでございます。ところが、この二等大尉には小さな男の子がありまして、ここの小学校へ通っているのだそうですが、この子はその様子を見ると、うろうろ父親のそばを駆け廻りながら、大きな声で泣いたんだそうですの。そして、お父さんの代りに謝ってみたり、あたりの人に加勢を頼んだりしても、みんな笑って見ているのでございます。失礼ですけど、アレクセイさん、わたしはあの人のこの穢らわしい行いを思い出すたびに、公憤を感じないではいられません……こんなことは、まったく腹を立てて……夢中になった時のドミートリイでなければ、とても思いきってできないような仕打ちです! わたしもう、この話をすることができません、気力がないのでございます……適当な言葉を発見することができないのでございます。で、わたしはこの二等大尉のことを調べてみましたところ、非常に貧しい人だってことがわかりました。苗字はスネギリョフというのだそうです。何かで勤めをしくじって罷免になったのですが、わたしこれについては確かなことがお話しできませんの。この人はいま病身な子供と気ちがいの家内という(確かそんな話でした)不仕合せな家族をかかえて、恐ろしい貧苦が迫っているのだそうです。もうずっと前からこの町で何かしていて、どこかの書記を勤めていたこともありますけれど、どうしたわけか、この頃ちっとも俸給をよこさなくなったんだそうでございます! わたしはひょいとあなたが目について……いえ、その、わたし考えますには、……わたし何と言ったらいいかわかりません、わたし頭がごちゃごちゃになってしまって、――ねえ、アレクセイさん、あなたは類のない親切な方ですから、一つお願いしたいことがございますの。どうかこの二等大尉のところへ行って、何とか口実を見つけて中へ入り込んで、いえ、その二等大尉の家へ入るのですよ、――まあ、わたしどうしてこんなにまごついてばかりいるのでしょう、そうして、気をつけながらうまく、――ええ、これはあなたでなければできないことでございます(アリョーシャは急に顔を赧くした)、うまくこの扶助金を渡して下さいませんか、ここに二百ルーブリありますから。その人は確かに納めてくれるんですの……もし駄目でしたら、どんなふうにしたものでしょうねえ? ね、よござんすか、それは告訴してくれるなという、示談のための賠償金ではありません(だって、その人は本当に告訴するつもりだったらしいんですもの)、ただ、同情のしるしなんです、扶助の希望にすぎないんですの。そして、名義はわたしですよ、ドミートリイの許婚の妻ですよ、決してあの人自身じゃありません。とにかく、あなたのお腕まえにまかせますから……わたしが自分で行ったらいいのですけれど、あなたのほうがずっと上手にまとめて下さるに相違ないんですもの。二等大尉の住いは湖水街《オーゼルナヤ》のカルムイコヴァという町人の持ち家です………後生ですからアレクセイさん、どうかわたしのために、この役目をはたして下さいまし、ところで、今……今わたしは少々……疲れたようですから、これで失礼いたします……」
 彼女は急に身をひるがえして、ふたたびとばりの陰へ隠れてしまったので、アリョーシャは一ことも口をきく暇がなかった。彼は口がききたくてたまらなかったのである。彼は自分の罪を責めて謝罪をするか……まあ、何にもせよ、一口でもものを言わずにはいられなかった。彼は胸が一ぱいになっていたので、このまま部屋を出るのは金輪際いやであった。しかし、ホフラコーヴァ夫人はその手を抑えて、自分で部屋の外へ連れ出した。控え室へ来た時、夫人はまたさきほどと同じように足をとめて、
「ずいぶん高慢な人ですね。自分で自分と戦っているんです。でも、親切な、美しい、度量の大きな人ですよ」と夫人はなかば囁くような声で、感きわまったかのように言った。「わたしはあのひとが大好きです、どうかするとたまらないくらい……わたしはいま一切のことが何もかも嬉しいんですの! アレクセイさん、あなたはご存じないでしょうが、実はわたしたちみんなで、――わたしと、あのひとの伯母さん二人と、それからリーズまでが仲間に入って、この一月の間ある一つのことばかり、願ったり祈ったりしてるんですの。ほかじゃありませんが、あのひとがあなたの大好きなドミートリイさんと別れて、あの教育のある立派な若紳士のイヴァン・フョードルイチと結婚しますようにってね………だって、大きい兄さんのほうは、あのひとなんか見るのも厭だと言わないばかりだのに、中の兄さんは世界じゅうの何よりも、あの人を愛してらっしゃるんですもの、わたしたちはこれについていろいろ打ち合せをしました。わたしがここを発たないのも、これがためかもしれないくらいですよ……」
「でも、あのひとはまたまた侮辱を受けて、とうとう泣きだしたじゃありませんか!」とアリョーシャは叫んだ。
「女の涙なんか本当にするもんじゃありません。こういう場合にはわたし女に反対します、わたしは男の味方ですよ。」
「お母さん、お母さんはアリョーシャを悪くして、堕落さしてしまってよ。」戸の陰からリーズの黄いろい声が聞えた。
「いいえ、これというのもみんな僕がもとなんです、僕、じつに悪いことをしました!」自分の行為に対する烈しい羞恥の念がこみ上げるままに、アリョーシャは両手で顔を隠しながら、何と言われても気が安まらず、ただこう繰り返すのであった。
「それどころじゃありません、あなたはまるで天使みたいな振舞いをなすったのです、まったく天使ですよ。何ならわたし十万べんでもこの言葉を繰り返して上げますわ。」
「お母さん、どうして天使みたいな振舞いなの!」またリーズのこういう声が聞えた。
「僕はあの時の様子を見てるうちに、」まるでリーズの声など耳にはいらないように、アリョーシャは言葉をつづけた。「あの人はイヴァンを愛している、というような気がふいとしたので、それであんな馬鹿なことを言っちまったんですが……一たいこれからどうなるのでしょう!」
「誰のこと、それは誰のことなの?」とリーズが叫んだ。「お母さんはきっとあたしを殺す気なんだわ。あたしがいくら訊ねたって、返事して下さらないんですもの。」
 この瞬間、小間使が部屋の中へ駆け込んだ。
「カチェリーナさまがお気分が悪いそうで……泣いていらっしゃいます。ヒステリイでございましょう、しきりに身をもがいて……」
「何だって」とリーズが叫んだが、その声はもう心配そうであった。「お母さん、ヒステリイが起ったのはあのひとじゃなくって、あたしよ!」
「リーズ、後生だからそんな大きな声をして、わたしの寿命を縮めないでおくれ。お前はまだ年が若いんだから、大人のことをすっかり知るわけにはゆかないんですよ。今すぐ帰って来て、お前に話していいことだけは聞かして上げるから。ああ、本当に大変だ! いま行きます、いま行きます……ところでねえ、アレクセイさん、ヒステリイというのはいい徴候なんですよ。あのひとがヒステリイを起したのは、本当に好都合なんですよ。これはぜひそうなければならないんですよ。わたしはこういう場合いつも女に反対します、あんなヒステリイや、めめしい涙に反対します。ユリヤ、駆け出してそう言っておいで、ただ今すぐ飛んでまいりますって。だけど、イヴァン・フョードルイチがあんなふうにして出て行ったのは、カチェリーナさん自身の罪ですよ。でも、イヴァン・フョードルイチは行っちまやしません。リーズ、後生だから大きな声をしないでちょうだい! おやまあ、大きな声をしているのはお前じゃなくてわたしだったねえ。まあ、お母さんのことだから、堪忍しておくれ。だけど、わたしは嬉しくって有頂天なの、有頂天なの、有頂天なの! ときに、アレクセイさん、あなたお気がおつきになって? さっきイヴァン・フョードルイチが出ていらしったときの男らしい様子ったらどうでしょう! あのおっしゃったことといい、態度といい! わたしあの人はえらいアカデミックな学者だとばかり思っていたのに、だしぬけにそれはそれは熱烈な若々しい露骨な調子で、あんなことをおっしゃるじゃありませんか。まったく無経験な若々しい調子でした。まるであなたそっくりの立派な態度でした! それに、あのドイツ語の詩をおっしゃったところなんか、まるで、まるであなたそっくりでしたわ! だけど、もう行きましょう、行きましょう。アレクセイさん、あなた大急ぎであの頼まれたところへいらっしゃい、そしてすぐ帰ってらっしゃい。リーズ、何かいるものはないかえ? 後生だから一分もアレクセイさんを引き止めないでおくれ、すぐにお前のところへ帰っていらっしゃるのだから。」
 ホフラコーヴァ夫人はやっとのことで駆け出した。アリョーシャは出て行く前に、リーズの部屋の戸を開けようとした。
「どんなことがあっても駄目よ!」とリーズは叫んだ。「今はもうどんなことがあっても駄目よ! そのまま戸の向うからお話しなさい。ときに、あなたはどうして天使のお仲間いりをしたの! わたしこれ一つだけが聞きたくって。」
「恐ろしい馬鹿げたことのためなんですよ! リーズ、さようなら!」
「あなたはよくまあそんな帰り方ができるのねえ!」とリーズが叫んだ。
「リーズ、僕には非常に悲しいことがあるんですよ! 僕すぐ帰って来ます、けれど、非常に悲しい、悲しいことがあるんですよ。」
 彼は部屋を駆け出してしまった。

[#3字下げ]第六 小屋における『破裂』[#「第六 小屋における『破裂』」は中見出し]

 実際、彼には非常な悲しみがあった。それは今までほとんど経験したこともないくらいの悲しみであった。彼は生意気に出しゃばって、愚かなことをしでかした、――しかも、それが愛に関したことではないか!『一たいあんな事件について、何が僕にわかるだろう、何が僕に理解できるだろう?』彼は顔を赧らめながら、心の中で百度くらい繰り返した。『おお、恥しいくらい何でもない、それは僕にとって当然の罰なんだ。しかし、困るのは、僕がもととなって、また新しい不幸が起るに違いないということだ……長老さまが僕をおよこしになったのは、和解と結合のためだのに、一たいこれはまあ何という結合の仕方だろう?』このとき彼は急に、『あなた方ふたりの手を結び合す』と言った自分の言葉を思い出して、またもや恥しくてたまらなくなった。『すべて誠心誠意をもってしたことなんだけれど、これから先はもう少し賢くならなきゃならない』と彼はだしぬけにこんな決心をしたが、その決心に対してにこりともしなかった。
 カチェリーナの使い先は湖水街《オーゼルナヤ》ということであったが、兄のドミートリイはちょうどその道筋に住んでいた、それは湖水街《オーゼルナヤ》からほど遠からぬ横町であった。アリョーシャは二等大尉のところへ行く前に、必ず兄の家へ寄ってみようと決心したが、そのくせおそらく兄は留守だろうと予感していた。そればかりか、いま兄はわざと自分を避けて、身を隠すかもしれない、という疑いさえ起ったのである。しかし、どうあろうとも、ぜひ捜し出さねばならないと決心した。時はぐんぐん過ぎて行く。そのうえ僧院を出た時から、垂死の長老を思う心は一分も、一秒も彼の頭を去らなかった。
 カチェリーナの依頼について、一つ非常に彼の興味をそそる点があった。二等大尉の息子の小さな小学生が、声をあげて泣きながら父のそばを駆け廻ったという話を、カチェリーナの口から聞いているうちに、ふいとアリョーシャの頭にある考えがひらめいた、――ほかでもない、先刻、『一たい僕がどんな悪いことをしたのだ?』と問い詰めたとき、自分の指に噛みついた小学生が、その二等大尉の子ではあるまいか? という疑念であった。この疑念は今アリョーシャにとって、ほとんど正確な事実のように思われてきた。しかし、まだ『なぜ』という問いには自分でも答えができなかった。こういうふうな本筋に関係のない想像で気がまぎれてきたので、彼はたったいま自分のしでかした『災難』ばかり気にして、慚愧の念に自分で自分を苦しめるようなことはよして、ただ、なすべきことをすればよいのだ、どうしたってなるようにしかなりゃしない、と腹をきめた。こう考えがきまると、彼はすっかり元気づいた。ついでに言っておくが、兄ドミートリイの家をさして横町へ曲った時、彼はだいぶ空腹を感じてきたので、さきほど父のところから取って来たフランスパンをかくしから取り出して、歩きながら食べた。これで体にも力がついた。
 ドミートリイは不在であった。家の人たち、――指物師の老夫婦とその息子は、うさんらしい目つきをして、じろじろアリョーシャを見廻した。『もう今日で三日も家へお帰りになりません。ひょっとしたら、どこかへ行っておしまいになったのかもしれませんよ。』老人はアリョーシャの根強い質問に対して、こう答えた。こちらは、老人が前から言いふくめられてこんな返事をするのだなと悟った。『じゃ、グルーシェンカの家にいるんじゃないでしょうか、またフォマーのところに隠れてるんじゃありませんか?』と訊かれたとき(アリョーシャはわざと、こんな立ち入ったことを言いだしてみたのである)、家の人たちはもう心配そうな様子をして、彼の顔を見つめるのであった。『じゃ、きっと兄さんを好いて味方をしてるんだな』とアリョーシャは考えた。『それはまあ、いいあんばいだ。』
 ついに彼は湖水街《オーゼルナヤ》へ行き、カルムイコヴァの家を見つけた。それは歪み傾いた小さな家で、窓は往来へ向いてたった三つしかなかった。汚らしい空地の真ん中には牝牛が一匹、淋しそうにしょんぼり立っている。空地からの入口は玄関へ通じていた、――玄関の左側は女主人と娘の住いになっていたが、娘といってももうお婆さんで、しかも二人とも聾らしかった。彼が二等大尉のことを幾度も幾度も繰り返し訊ねたとき、一方のほうがやっと下宿人のことを訊いてるのだと悟って、まるで物置小屋みたいなものの戸口を、玄関ごしに指さして見せた。まったく二等大尉の住いは何のことはない、純然たる物置小屋であった。アリョーシャは鉄のハンドルに手をかけて戸を開けようとしたが、ふと戸の向うが恐ろしくしんと静まり返っているのに気がついた。彼はカチェリーナの言葉によって、二等大尉が家族もちだということを知っていたので、『みんな揃って寝てるのかしら、それとも僕の来たことを聞きつけて、戸のあくのを待ってるのかしら。しかし、まず戸を叩いてみたほうがよかろう』と思い、彼は戸を叩いた。返事の声は聞えたけれども、すぐではなく、十秒ぐらいたったろうかと思われる頃であった。
「誰だ、一たい?」と誰やらひどく腹立たしそうに大声で呶鳴った。
 アリョーシャはそのとき戸を開けて、閾を跨いだ。彼の入った小屋はかなり広かったが、ごちゃごちゃした道具や家族の人たちで、足の踏み場もないくらいであった。左手には大きなロシヤ風のペーチカがある。ペーチカから左側の窓へかけて部屋一ぱいに繩が張られ、その上には、あらゆる種類をつくしたぼろがかかっている。両側の壁ぎわには右にも左にも、編物の掛け布で蔽われた寝台が一つずつ据えてあった。左側の寝台には、大きいのから小さいのと順序よく並べられた更紗の枕が四つ、小山のように聳えている。右側の寝台には非常に小さな枕が、たった一つ見えるだけであった。それから、手前の方の片隅には、はすかいに繩を引いた上ヘカーテンだか敷布だかを吊して、少しばかり仕切りをしたところがあった。この仕切りの向うにもやはり寝床があったが、これは床几と椅子をつなぎ合した上へ設けられたものである。真ん中の窓のそばにある、飾りけのない無細工な木づくりの四角なテーブルは、その片隅から移されたものらしい。徽の生えたような青い小さなガラスを四枚ずつ張った窓は、三つともみんなどんよりと曇った上に、ぴったり閉めきってあるので、部屋の中はかなり息苦しくって、あまり明るくなかった。テーブルの上には食べ残された玉子の目玉焼きの入ってる焼鍋だの、噛りさしのパンだの、底のほうへほんの申しわけほど残っている『地上の幸福』([#割り注]ウォートカ[#割り注終わり])の小罎だのがごろごろしていた。
 左側の寝台のそばにある椅子の上には、更紗の着物をきた、どことなく品のいい女が坐っていた。その顔は恐ろしく痩せこけて黄いろい。並みはずれて落ち込んだ頬は、一目見ただけでその女の病的な状態を語っている。しかし、何よりアリョーシャの心を打ったのは、この哀れな婦人の目つきである。それはしきりにもの問いたげな、しかも同時に恐ろしく高慢な目つきであった。彼女はまだ口を出さなかった。そして、主人公がアリョーシャと話し合っている間じゅう、大きな鳶色の目を高慢らしくもの問いたげに動かしながら、二人の話し手をかわるがわる見くらべるのであった。この婦人に近く左の窓ぎわに、赤い猫毛をしたかなり器量の悪い若い娘が立っていた。みなりは貧しいが小ざっぱりしている。彼女は入って来るアリョーシャを、気むずかしそうに見やった。右側には同じく寝台のそばにもう一人の女性が坐っていた。やはり二十歳ばかりの若い娘ではあるけれど、見るも哀れなせむしで、あとでアリョーシャの聞いたところによると、両足まるでなえてしまった躄なのである。この娘の松葉杖は一方の隅、――寝台と壁の間に立ててあった。目立って美しい善良なまなざしに、何となく落ちついた、つつましい表情を浮べながら、じっとアリョーシャを見つめるのであった。
 テーブルの向うには四十五くらいの男が陣どって、玉子焼きを平らげているところであった。あまり背の高くない萎びたような、よわよわしい体格で、髪の毛も赤ければ、まばらな頤髯も赤みがかっていたが、この髯はばさばさした垢すりの糸瓜にそっくりであった(この譬喩――ことに『糸瓜』という言葉が、どういうわけか一目見るなり、アリョーシャの頭にちらりとひらめいた。彼はこれを後になって思い出した)。察するところ、この男が戸の中から『誰だ、一たい!』と叫んだものらしい。なぜなら、そのほかに男といっては、部屋の中に一人もいないからである。しかし、アリョーシャが入った時、彼は今まで腰掛けていたベンチから、ぜんまい仕掛のように飛びあがって、穴だらけのナプキンで慌てて口のあたりを拭きながら、客人のほうへ飛んで行った。
「お坊さんがお寺から布施をもらいに来たのよ、どんな家へ行ったらいいかわからないんだわ!」と左の隅に立っていた娘が大きな声で言った。
 しかし、アリョーシャのそばへ飛んで来た男は、途端に踵でくるりとその方へ振り向いて、妙に興奮したちぎれちぎれな調子で答えた。
「違うよ、ヴァルヴァーラ・ニコラーエヴナ、それはあんたの思い違いだよ! ところで、わたくしのほうからも一つ伺いますが、」彼はまた突然アリョーシャのほうへ向いた。「どういうわけであなたは……この家庭の懐ろをご訪問下さいましたので?」
 アリョーシャはじっと注意ぶかく相手を眺めた。彼は初めてこの男を見たのである。この男の中にはどことなしにかど張った、せかせかした、いらだたしそうなところがあった。たったいま一杯傾けたのは明瞭であるが、決して酔っ払ってはいなかった。その顔は何かしら、非常に高慢な様子と、同時に(奇妙なことではあるが)、いかにも臆病らしい色を浮べていた。譬えて言うと、長いあいだ隠忍し、服従していた人が、奮然立って気骨を示そうとしているようなふうであった。もっとよい譬えを引いてみると、相手を擲りつけたくてたまらないくせに、もしや相手のものから擲りつけられはせぬかと、ひどく心配している人のようであった。彼の言葉にも、またかなり鋭い声の調子にも、何かしら道化じみた諧謔が響いていたが、それが時には意地わるそうになったり、時には持ちきれないで臆病そうに、しどろもどろになったりする。『家庭の懐ろ』に関する質問を放ったとき、彼は全身を顫わしながら目をむき出して、ぴったりくっつくほどアリョーシャのそば近く飛びかかったので、こちらは思わず機械的に一足あとへしさったくらいである。彼は恐ろしく粗末な、南京木綿かなんぞの黒っぽい服を着ていたが、ほうぼう綴ったりかがったりして、しみだらけになっていた。ズボンは今ごろ誰もはき手のないような、並みはずれて明るい色をした格子縞で、馬鹿にへろへろした地質のものであった。下のほうがすっかり皺だらけになっているので、裾がぴんと吊り上って、まるで子供のように足が突き出ている。
「僕は……アレクセイ・カラマーゾフです……」とアリョーシャは答えた。
「確かに承知しております、はい。」そんなことを聞かなくても、客が何ものかよく知っているということを悟らせるように、男はすぐさま遮った。「ところで、わたくしは二等大尉スネギリョフでございます。しかしそれにしても、どういうわけでおいでになったか、伺いたいもので……」
「いやなに、僕はちょっとお寄りしてみただけなんです。もっとも、実のところ、たった一ことあなたに申し上げたいことがあるんですが……もしお許し下さるならば……」
「そういうわけなら、ここに椅子がございますから、どうぞお席に。これは昔の喜劇の中で、よく言うやつでございますよ、『どうぞお席に』なんてね……」と言いながら、二等大尉は手早く空いた椅子を掴んで(それはぜんぶ木ばかりの粗末な百姓椅子で、布も皮も張ってなかった)、それをほとんど部屋の真ん中に据えた。それから、自分のためにまた一つ同じような椅子を取って、アリョーシャの真向いに坐ったが、前と同じく膝と膝とが摺れ合わないばかりに、ぴたりと寄り添うのであった。
「ニコライ・イリッチ・スネギリョフ、露国歩兵二等大尉、もっとも、放埒のために汚名を蒙りましたが、それでもやはり二等大尉に相違ないので。しかし、スネギリョフというより、むしろ二等大尉スロヴォエルソフといったほうが正しいくらいでございますよ。なぜなら、わたくしは後半生にいたってスロヴォエルス([#割り注]ロシヤ語で卑屈に近い経緯を表する接尾語Sをかく名づける[#割り注終わり])ばかり話をすらようになったもんですからね。このスロヴォエルスは大ていおちぶれてから口癖になるもんで……」
「それはまったくそのとおりです」とアリョーシャは微笑を浮べた。「しかし、その口癖はわざとお始めなすったのですか、それともひとりでに?………」
「それは誓って言います、ひとりでにそうなったので。以前ながい間、スロヴォエルスで話なんかしたことはなかったのですが、思いがけなく失敗して、やっと起きあがった時には、もうスロヴォエルスを掴んでおったのでございます。これは人間以上の力で行われることでございますよ。どうやらお見受けしたところ、あなたは現代の問題に興味を持っていらっしゃるようですな。それはそうと、どうしてわたくしなんぞに好奇心をお起しなすったのでしょうね? ごらんのとおり、お客さまをおもてなしするには、しごく不都合な境遇におりますので。」
「僕は……あの例の事件についてお話に来たのです……」
「あの例の事件?」と二等大尉は、待ちきれないように遮った。
「兄のドミートリイとあなたとの出あいに関係したことです」とアリョーシャは工合わるそうに口を入れた。
「出あいとは何です? あの、例の一件じゃございませんかね? つまり、その、糸瓜の一件、垢すり糸瓜の一件じゃございませんかね?」彼は急に身を乗り出したので、とうとう本当にアリョーシャと膝を突き合せてしまった。
 彼の唇は何だか奇妙に糸のように引きしめられた。
「一たい糸瓜とは何のことです?」とアリョーシャはへどもどしながら言った。
「それはね、お父つぁん、僕のことをお父つぁんに言いつけに来たんだよ!」片隅のカーテンの陰から、聞き覚えのあるさきほどの子供の声がこう叫んだ。「僕さっき、そいつの指を噛んでやったの!」
 カーテンはさっと引かれた。と、聖像を飾った片隅に床几と椅子をつないだ寝台があって、その上に横たわっているさきほどの敵の姿がアリョーシャの目に入った。子供はさっきと同じ古外套に、やはりだいぶ古ぼけた綿入れの蒲団をかけていた。どうやら体がよくないらしく、燃えるような目つきから察すると、熱を病んでいるらしく思われた。今はさきほどと違って恐れるさまもなく、『もう家にいるんだから駄目だい』とでも言いたそうに、アリョーシャを見つめるのであった。
「え、何だ、指を咬んだと?」二等大尉は、今にも椅子から飛びあがりそうな恰好をして、「それはあなたの指を咬んだのでございますか?」
「ええ、そうです。さっきあのお子さんが往来で、大勢の子供を相手に石を投げ合ったんですが、なにしろ向うは六人こっちは一人ですから、僕が見かねてそばへ寄って行くと、このお子さんは僕にまで石を抛るじゃありませんか。二度目のは頭へ当りました。で僕が、何の恨みがあるのかと訊いたら、いきなり飛びかかって、何のためだかわからないけれど、ひどく僕の指を咬んだのです。」
「今わたくしが折檻してやりますよ! 今すぐ折檻してやりますよ!」二等大尉はすっかり椅子から跳りあがった。
「僕は決して言いつけに来たのじゃありません、僕はただありのままを話しただけです……僕は決してあのお子さんを折檻していただきたかありません! それに、いま病気らしいじゃありませんか……」
「じゃ、あなたは本当に、わたくしがあれを折檻すると、思っておいでだったのでございますか? 一たいわたくしがイリューシャをとっ掴まえて、今すぐあなたの前で、あなたを堪能させるためにこっぴどく折檻すると思っておいでだったのでございますか? あなたはすぐそうしてほしいとおっしゃるので?」まるで今にも飛びかかりそうな様子をして、急にアリョーシャのほうへ振り向きながら、二等大尉はこう言った。「いや、あなたの指のことはまったくお気の毒に存じます、はい。しかしイリューシャを折檻するさきに、今すぐお目の前で、十分あなたのご得心がゆきますように、それ、そこにあるナイフでわたくしの指を四本ずばりと切り落してはいかがでございます。指を四本なら、あなたの復讐の渇きをいやすのに十分だろうと存じますが、まさか五本目の指までは要求なさらんでしょうね?……」
 彼は急に言葉を切って、はあはあと苦しそうな息づかいをしていた。その顔の筋肉は一本一本ひっつりながら躍って、目には恐ろしい排戦[#「排戦」はママ]的な色が浮んでいた。彼は前後を忘れるほど激昂しているようであった。
「僕は今すっかりわかったようです」とアリョーシャはじっと坐ったまま、静かな悲しそうな調子で答えた。「つまり、あのお子さんは優しい気立ての人で、非常にあなたを愛してるんですね。そして、父を侮辱した敵の兄弟として、僕に飛びかかったわけなんですね……今こそすっかりわかりました」と彼は考え深そうに繰り返した。「しかし、兄のドミートリイは自分のしたことを後悔しています。それは僕がよく知っています。そして、もし兄がお宅へ来ることが……いや、それよりも、またあの時と同じところであなたとお目にかかることができたら、兄はみんなの目の前でお詫びをします……もしお望みでしたら。」
「じゃ、何ですか、人の髯を引っこ抜いてお詫びをして……それでもうおしまい、得心のゆくようにしてやった……とでもおっしゃるのでございますかね?」
「おお、どういたしまして、兄は、何でもお気に入ったようにします、ご得心のいくようにいたします!」
「そんなら、もしわたくしがあの方に、前とおなじ料理屋か(その家の名は『都』というのでございます)、それとも町の広小路で、わたしの前へ膝をついて下さい、とお願いしたら、そのとおりにして下さるでしょうかね?」
「しますとも、むろん、兄は膝をつきますとも。」
「ああ、胸にこたえました! あなたはわたくしの涙をお絞りになりました。ああ、胸にこたえました! もうすっかりお兄さんの寛大な心をお察しする気になりました。どうぞ十分に紹介の労をとらして下さいまし、あれにおりまするがわたくしの家族でございます。娘が二人に息子が一人、――みんな一つ腹の子供なので。ああ、もしわたくしが死んだら、誰があれらを可愛がってくれましょうぞ! またわたくしの生きている間、あれらをのけてどこの誰が、こんな汚い親父を愛してくれましょうぞ! これはわたくしのような人間のために、神様の定めて下さいました偉大な事業でございます。実際、わたくしのような人間でも、誰かに愛してもらわなくちゃ、なりませんからね……」
「ああ、それはまったくそのとおりです!」とアリョーシャは叫んだ。
「もう道化た真似はいい加減になさいな。どこかの馬鹿者がやって来れば、すぐもうお父さんは恥っさらしなことばかりなさるんですもの!」突然、窓のそばに立っていた娘が父に向って、気むずかしげな人を馬鹿にしたような顔をして、思いがけなくこう叫んだ。
「まあ、少しお待ち、ヴァルヴァーラさん、一たん決めた方針をしまいまで通さしておくれ」と父は呶鳴った。その調子は号令でもかけるようであったが、しかし目つきは大いにわが意を得たりというようなふうであった。「この娘はどうもああいう気性でございましてね」と彼はまたアリョーシャのほうを向いた。

[#ここから2字下げ]
彼は自然の何ものも
祝福せんとなさざりき
[#ここで字下げ終わり]

「いや、これは女性にしなくちゃなりませんな、彼でなくって、彼女ですよ。ところで、今度は失礼ですが、一つ家内にお引き合せいたしましょう。これがアリーナ・ペトローヴナ、年は四十で、足のない婦人でございます。いやなに、歩くことは歩きますが、ほんの少しばかりなんで。素姓は卑しいものでございます。アリーナ、そんなに顔をしかめないでごらんよ、この人がアレクセイ・カラマーゾフさんだ。お立ちなさい、カラマーゾフさん」と彼は客の手を取ると、この男には思いがけないくらいの力で、いきなりアリョーシャを引き起した。「あなたは婦人に引き合されていらっしゃるのですから、お立ちにならなくちゃいけません。この人はね、お母さん、あのわしを……その……なにしたカラマーゾフとは違うんだよ。あの人の弟さんで、品行の正しい、おとなしいお方なんだよ。失礼でございますが、アリーナさま、失礼でございますが、その前にあなたのお手を接吻さして下さいまし。」
 と、彼は自分の妻の手をうやうやしく、というよりむしろ優しく接吻するのであった。窓のそばの娘はぷりぷりして、ぷいとこの光景に背を向けてしまった。もの問いたげに高慢であった妻の顔は、急になみなみならぬ優しみを浮べた。
「よくいらっしゃいました、チェルノマーゾフさん([#割り注]色黒の意味をふくんでいる[#割り注終わり])さあ、お坐んなさい」と彼女は言った。
カラマーゾフだよ、お母さん、カラマーゾフだよ……なにぶんわたくしどもは素姓の卑しいものでございますからね」と彼はまたしてもこう囁いた。
カラマーゾフだか何だか知りませんが、わたしはいつでもチェルノマーゾフです……さあ、お坐んなさいな。一たいうちの人はどうしてあなたを立たしたのでしょうねえ? うちの人は足のない婦人だなんて言いましたが、足はちゃんとありますよ。ただまるで桶みたいにぶくぶく脹れあがって、自分の体は痩せさらぼうてしまったのですよ。以前はどうしてどうして滅法ふとっておりましたが、今はもうまるで針でも呑んだようになってしまいました。」
「わたくしどもは素姓の卑しいものなんで、素姓の卑しいものなんで。」二等大尉はまたしてもそばから口を出した。
「お父さん、まあ、お父さん!」今まで椅子に坐ったまま黙り込んでいたせむしの娘が、突然こう言ってそのままハンカチで顔を隠した。
「道化よ!」と窓のそばの娘は吐き出すように言った。
「まあ、あなた、家は今どんなことになっているかごらん下さいまし」と母は両手を拡げて二人の娘を指さした。「まるで雲が動いているようでございます。雲が通り過ぎてしまうと、またいつものおきまり文句が始まるんですからねえ。以前わたしたちが軍人のお仲間にいました時は、いろんな立派なお客さまがたくさんお見えになっておりました。それは何もあなた、今とくらべるわけじゃありませんが、人から愛されたら、こちらもその人を愛してやらなけりゃなりませんよ。そのころ、助祭の家内がまいりましてね、『アレクサンドルさんは美しい心の人だけれど、ナスターシャさんは地獄の申し子だ』なんて言うじゃありませんか。そこで、わたしは、こう言ってやりました。「人はお互いに尊敬し合っているけれど、お前さんなどはたった一人しょんぼりして、おまけに臭い匂いをぷんぶん[#「ぷんぶん」はママ]さしている。」すると、向うの言うには、『お前なんぞは牢へ抛り込んでやらなくちゃならない。』そこでわたしは、『ええ、この意地わるめ、一たい誰を教えに来たのだ?』すると、向うでまたこう言うんですよ。『わたしは綺麗な空気を吸ってるけれども、お前は汚い空気を吸ってるじゃないか。』『じゃ、将校さん方みんなに訊いてみろ、わたしの体の中に汚い空気があるかないか!』と言ってやりました。それからというものは、このことばかり気になってたまらなかったんですよ。すると、ついこの間、わたしが今のようにここへ坐っていると、前と同じ将軍閣下が入って来られて、復活祭へかけてこの町へ遊びに来たとおっしゃるじゃありませんか。そこでわたしは、『閣下、一たい高尚な婦人が自由な空気なぞ吸ってよろしいものでございましょうか?』と訊くと、『さよう、お宅では通風口でもつけるか、それとも、戸を開けるかしたほうがいいですな、なぜと言って、お宅の空気はあまり新鮮でないですからね』とおっしゃるんですよ。しかも、みながみなそう言うじゃありませんか! 一たい何だってみなわたしの空気のことばかり気にするんでしょう? 死人の匂いよりもっと悪いなんかって! だから、わたし言ってやりますの、わたしはあなた方の空気を汚しゃしません。わたしは靴を注文してよそへ行ってしまいますってね。どうかみんな現在の母親をそう咎めないでおくれ! ニコライ・イリッチ、一たいわたしがお気に入らないのですか! わたしのせめての慰めは、イリューシカが学校から帰って、わたしを可愛がってくれることですもの、昨日も林檎を持って帰ってくれました。どうかみんな赦して下さい、現在の母を赦しておくれ、わたしは一人ぼっちの淋しい身の上です。一たいどういうわけで、みんなわたしの空気がそんなに厭になったのかねえ?」
 哀れな狂女はとつぜん声を上げて、すすり泣きしはじめた。涙は堰を切ったようにほとばしり出るのであった。二等大尉は飛ぶようにそのそばへ駆け寄った。
「お母さん、お母さん、およし、およし! お前は決して一人ぼっちじゃない。みんなお前を好いている、みんなお前を尊敬している」と彼はまた妻の両手に接吻しながら、両の掌でその顔をやさしく撫ではじめた。それから急にナプキンを取って、妻の顔から涙を拭き取ってやるのであった。彼自身の目にも涙がひらめいたように、アリョーシャには感じられた。
「ときに、あなたごらんになりましたか? お聞きになりましたか?」彼はだしぬけに哀れな狂女を指さしつつ、猛然とアリョーシャのほうをふり向いた。
「見ました、そして聞きました」と、こちらはへどもどしながら呟いた。
「お父つぁん、お父つぁん! 一たいお父つぁんはあいつと一緒に……あんなやつ、うっちゃっておおきよ、お父つぁん!」ふいに床のうえに起きあがって、燃えるような目で父を見つめながら、少年は叫んだ。
「お父さん、そんな道化た真似をして、馬鹿げた芸をして見せるのは、もういい加減によしたらいいじゃありませんか。そんなこと何の役にも立ちゃしなくってよ!………」
 ヴァルヴァーラはもうすっかり癇癪を起してしまって、やはり同じ隅に立ったまま、足でとんと床を鳴らしながら、こう呶鳴った。
「もっともだ、ヴァルヴァーラさん、今度こそお前さんが勘忍袋の緒を切らしたのも、実にはや、もっとも千万だ。そこで、わたしもお前さんの言うことを聞こう。さあ、あなたお帽子をお被りなさいまし、わたくしもこのシャッポを被って、おもてのほうへお伴いたしましょう。あなたに一つ大切なことを申し上げたいのでございますが、どうもこの壁の外でないと都合が悪いので。あのここに坐っている娘は、ニイナというわたくしの娘でございます、紹介するのを忘れておりましたが、これは人間界へ降りて来た、肉体を有する天使でございますよ……しかし、こう申しても、おわかりになりますかしらん……」
「ほら、あんなに体じゅう顫わして、まるで痙攣でも起ったようだわ」とヴァルヴァーラは心外そうに言った。
「ところで、これも、――いま地団駄を踏みながら、わたくしのことを道化と言った娘も、やはり肉体を有する天使なので。