『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P167-P191

[#1字下げ]第四篇 破裂[#「第四篇 破裂」は大見出し]



[#3字下げ]第一 フェラポント[#「第一 フェラポント」は中見出し]

 朝早くまだ夜の明けないうちに、アリョーシャは呼び起された。長老が目をさましたのである。彼は非常に衰弱を感じていたけれど、床を離れて肘椅子に坐りたいと言いだした。気はまだ確かなものであった。その顔ははなはだしい疲労の色を示していたが、ほとんど嬉しそうに見えるほどはればれとして、目つきはうきうきと愛想よく人を招くように思われた。
「ことによったら、きょう一日生き延びることができんかもしれぬ」と彼はアリョーシャに言った。
 それから彼はすぐ懺悔をして、聖餐を受けたいと申し出た。長老の懺悔司僧は、いつもパイーシイであった。この二つの儀式を終って後、聖油塗布式が執り行われた。主教たちが集って来た。庵室は次第次第に苦行者で一ぱいになってきた。やがてすっかり夜が明け放れたとき、僧院のほうからもそろそろ同宿の人たちがやって来た。式が終ったとき、長老はすべての人に別れを告げたいと言い、一同を接吻するのであった。庵室が狭いため、先に来た人は外へ出て、後の人に席を譲った。アリョーシャは、ふたたび肘椅子へ座を移した長老のそばに立っていた。長老は力の許すかぎり説教した。その声はむろんよわよわしかったけれど、まだかなりしっかりしていた。
「わしはもう長年のあいだ皆さんにお説教をしました。したがって、長年のあいだ大きな声でものを言い通したわけですじゃ。それでもうものを言うのが癖になってしもうて、今のように弱り込んでおる時でさえ、黙っておるほうがものを言うよりもむずかしいくらいになりましたよ。」彼は自分の周囲に群れ寄った人々を、さも嬉しげに見廻しつつ、こんな冗談を言うのであった。
 アリョーシャはそのとき長老の言ったことを、後になって多少思い出すことができた。長老の話しぶりはごくわかりよくもあったし、その声もずいぶんしっかりしてはいたけれど、話そのものはかなり脈絡のないものであった。彼はいろいろのことを話した。自分の生前に語りつくせなかったことを、死ぬる前にもう一度すっかり言ってしまいたかったらしい。それも単に教訓のためばかりでなく、自分の歓喜や喜悦を一同に頒ち、かつ命のあるうちにいま一度、自分の感情を吐露したかったのであろう……
『皆さん、どうぞ互いに愛し合うて下され』と長老は説いた。(これはアリョーシャの記憶によるのである)。「そうして、また衆生を愛して下され。われわれがここへ来てこの壁の中に閉じ籠っておるからと言うて、そのために俗世の人よりえらいという理屈はありませんじゃ。それどころか、かえってここへ来たものは、そのここへ来たということによって、自分が俗世の誰よりも、また地上に住む誰よりも、一ばん劣ったものと自覚したわけになるのですじゃ……僧侶はこの壁の中に長う住めば住むほど、ますます痛切に、これを悟らねばなりませぬ。もしそうでなかったら、このようなところへ来る必要がのうなってしまいますじゃ。自分は俗世界の誰よりも一ばん劣ったものということばかりでなく、さらに進んで自分はすべての人に対して罪がある……群衆の罪、世界の罪、個人の罪、一切の罪に対して責任があるということを自覚したら、その時はじめてわれわれの隠遁の目的が達しられるのですぞ。なぜと言うに、われわれはみな一人一人地上に住むすべての人に対して、疑いもなく罪があるからですじゃ。それは一般の人に共通な世界的罪悪というようなものでのうて、おのおのの人がこの地上に住む一切の人に対して、個人的に罪をもっているのですじゃ。この自覚は単に僧侶ばかりでなく、すべての人にとって生活の冠ともいうべきものであります。なぜというに、僧侶は決して種類を異にした人間ではなく、ただ地上におけるすべての人が当然かくあらねばならぬと思うような人間にすぎませぬでな。そうあってこそわれわれの心は、飽くことを知らぬ、宇宙のように永遠な、愛の法悦境に入るのですじゃ。その時こそ、われわれの一人一人が愛をもって全世界をかち得、涙をもって浮世の罪を洗うことができますじゃ……何人もわれとわが心のめぐりを歩み、怠りなくおのれに懺悔をされるがよい。またおのれの罪を恐れることもいりませぬ。一たん罪を自覚したら、ただ悔改めさえすればよいので、決して神様に約束などしてはなりませぬぞ。も一ど言うが、――決して高ぶってはなりませぬ。小さきものに対しても、また大なるものに対しても、高ぶることはなりませんじゃ。われわれを否定するもの、われわれを侮辱するもの、われわれを迫害するもの、われわれを讒謗するものをも憎んではなりませぬ。無神論者、悪の伝道者、物質論者をも憎んではなりませぬ。その中の善良なものばかりでなく、兇悪なものすら憎むことはなりませぬぞ。ことに今のような時代には、そういう人たちの中にでも善良な人がありますでな。このような人たちのためには、こう言って祈っておやりなされ。「どうぞ神様、誰も祈ってくれ手のないすべての人をお救い下さりませ。また、あなたに祈ることを欲せぬ人々をも、お救いなされて下さりませ。」それから即座にこう言いたしなさるがよい。「神様、わたくしがこのようなお祈りをいたしますのは、決して高慢心のためではありませぬ。わたくしは誰よりも、一番けがれた人間でござります……」とな。衆生を愛さねばなりませぬぞ。侵入者のために、羊の群を奪われるようなことがあってはなりませんじゃ。なぜというて、もし懶惰や不遜や、または貪婪の中に眠ってしもうたら、四方から狼が襲うて来て、羊の群をことごとく奪うて行きますでな。どうか怠りなく衆生に聖書を説き聞かしてやって下され……決して彼らの膏血を絞ることがないように……金銀を愛し蓄えてはなりませぬぞ……ひたすら信仰の旗をひるがえして……それをば高う押し立てて下され……』
 もっとも、長老の話はここに録したよりも、つまりあとでアリョーシャが書き取ったよりも、ずっと断片的なものであった。ときどき彼は新しく力を集めるかのように、すっかり言葉をやめて、せいせい息を切らしていたが、しかし歓喜に包まれているように見えた。人々は感激して聞いていた。もっとも、中には長老の言葉に暗い影を認めて、驚いたものもあった……アリョーシャが何かの用事でちょっと庵室を出た時、彼は庵室の中とその周囲に蝟集している同宿の、異常な興奮と期待に一驚を喫した。その期待は、ある人々においては不安げに、またある人たちにおいては勝ち誇ったもののように見えた。一同は、長老の暝目後ただちに起るべき偉大なあるものを期待しているのであった。この期待は一方から見ると、ほとんど軽率ともいうべきものであったが、最も厳格な老僧たちですらこれにおちいっていた。中で最も厳めしい顔をしているのは、パイーシイであった。アリョーシャは庵室を出たのは、たったいま町から帰ったラキーチンが、一人の僧を通して内証で彼を呼び出したからである。彼は、アリョーシャにあてたホフラコーヴァ夫人の奇態な手紙を持って来た。夫人はちょうどこの場合ふさわしい興味ある報知を伝えていた。ほかでもない、きのう長老に会って祝福を受けるためにやって来た平民の女たちの中に、ひとり町うちの老婆でプローホロヴナという下士のやもめがいた。彼女は長老に向って、自分の息子のヴァーセンカが勤務の関係から、遠くシベリヤのイルクーツクへ赴いたが、もう一年ばかり少しの便りもないから、死んだものとして教会で供養をすることができるかと訊ねた。これに対して長老は厳めしい調子で、こういう種類の供養を売僧《まいす》の所業にひとしいものとして固く禁じた後、しかし知らぬことゆえ赦してやると言い、『まるで未来の本でも読んでいるように』(とホフラコーヴァ夫人は書いていた)、次のような慰めの言葉をつけたした。『お前の息子ヴァーシャは、疑いもなく生きておる。そして近いうちに自分で母のもとへ帰って来るか、それとも手紙をよこすに違いないから、お前も自分の家へ帰って待っておるがよい。』
『ところが、どうでしょう?』とホフラコーヴァ夫人は有頂天になって書いている。『予言は文字どおりに、いえ、それ以上に的中しました。』老婆が家へ帰るが早いか、もうちゃんとシベリヤからの手紙が彼女を待ち受けていた。しかもそればかりでなく、ヴァーセンカは、途中エカチェリンブルグから出したこの手紙で、自分は今ある官吏と一緒にロシヤヘ帰っているから、この手紙が着いてから三週間の後には母を抱くことができる、などとしたためていた。ホフラコーヴァ夫人は、新たに実現せられたこの予言の奇蹟を、さっそく僧院長はじめ同宿一同に披露してくれと、一生懸命アリョーシャに頼んだ。
『これはもうすべての人に知られなければならぬことでございます!』と夫人は手紙の終りにこう叫んでいる。この手紙は、あわてて大急ぎで書かれたものらしく、書いた当人の興奮が、一行一行に投影されていた。
 しかし、同宿に披露することは少しもなかった。一同はもう何もかも知っていたのである。ラキーチンはアリョーシャの呼び出しを僧に頼んだとき、そのほかにいま一つ依頼をした。『どうか一つパイーシイ主教のところへ行って、僕が主教にちょっとお話ししたがっていると取り次いでくれたまえ。しごく重大なことで、一分も報告を猶予するわけにいかないってね。そして、この願いの失礼なことは、幾重にもお詫びをいたしますって。』ところが、この僧はアリョーシャよりさきにラキーチンの乞いをパイーシイに伝えたので、アリョーシャは庵室へ帰ったとき、ただパイーシイに手紙を読んで聞かせて、記録として報告するほかに仕方がなかった。けれど、容易に他人を信じない峻厳なこの人ですら、眉をひそめて『奇蹟』の報知を読みながら、自分の心内に起った一種の感動を抑えきることができなかった。その目は明るく輝き、唇は突然ものものしい意味ありげな微笑を浮べた。
「われわれが見るのはそれしきのことだろうか?」ふと彼はこう口をすべらした。
「われわれがこれから見るのは、僅かそれしきのことだろうか? 僅かそれしきのことだろうか?」とあたりにいる僧たちがこれに和した。が、パイーシイはふたたび顔をしかめて、事実がはっきり確められるまで、しばらくこのことを誰にも言わないよう一同に頼んだ。『なぜというて、世間には軽はずみな話が多い上に、今度のことも自然とそんな工合になったのかもしれませんでな。』彼は自分の良心に対する申しわけのように、用心ぶかい調子でこう言ったが、自分でもこの申しわけを信じていなかったのは、そばで聞いていた人々もよく見てとった。しかし、もちろん、奇蹟はまたたくうちに寺内は言うにおよばず、礼拝式のために僧院へやって来た世間の人たちにも知れ渡った。誰よりもこの奇蹟に驚かされたのは、きのう遠い北のほうにあるオブドールスクの聖シリヴェストル僧院から、この僧院を訪れた僧侶であった。彼は昨日ホフラコーヴァ夫人のそばに立って長老に会釈をすると、病いをいやしてもらった令嬢を指さしながら、『どうしてこのような大胆なことをなされますか?』としかつめらしい様子をして長老に訊いた人である。
 彼は今ある迷いにおちいって、どっちを信じていいかわからなかった。そのわけはこうである。彼は昨日この僧院のフェラポントという僧を、蜜蜂小屋の向うに離れて立っている庵室に訪れて、非常な驚異を感じたのである。実際この会見はなみなみならぬ、ほとんどもの凄いほどの印象を与えた。フェラポントは寺内第一の老僧で、かつ禁欲と沈黙の偉大な苦行者であった。この人のことは、もはや前にゾシマ並びに長老制の反対者としてちょっと説明しておいたが、ことに長老制を目して、有害軽率な新制度と罵っていた。彼は沈黙の行者であって、ほとんど誰とも一ことも口をきかなかったけれど、きわめて危険な反対者であった。危険なという主なる理由は、同宿中多くのものが彼に同情を寄せている上に、参詣に来る一般世間の人も偉大な義人として苦行者として、非常に尊敬していたからである。もっとも、彼が疑いもない宗教的畸人《ユロージヴァイ》だということは皆のものも信じていたが、それがかえって人々を魅了していたのである。ゾシマ長老のところへは一度も行ったことがない。彼は庵室に暮していたが、寺でも別段かれに庵室の規則をしいはしなかった。つまり、彼が純然たる宗教的畸人《ユロージヴァイ》のごとく振舞っているからであった。
 彼は七十五くらいの年恰好であった(あるいはそれより老けていたかもしれない)。いつも蜜蜂小屋の向うの塀の片隅にある、ほとんど崩れかかった古い木造の庵室に起臥している。それはずいぶん遠い昔、――前世紀のころ、百五歳の長寿を保ったヨナという、同様に沈黙と禁欲の偉大な行者のために建てられたものである。このヨナという人の事蹟に関しては、いまだにこの僧院内でも、近在でも、いろいろ面白い話が残っている。フェラポントは長年の心願を達して、ついに七年ばかり前この百姓小屋にもひとしい淋しい庵室に住わしてもらうこととなった。しかし、この庵室は礼拝堂によく似ていた。なぜなら、そこには人々の寄進にかかる聖像がたくさんあって、その前には同じく寄進された燈明が、永久に消えることなく点っているからである。それゆえ、フェラポントはこの燈明の番人として、ここにおかれたようなものであった。人々の噂では(またこの噂は本当であった)、彼の食物は三日に二斤のパンきりで、そのほかには何もなかった。パンは近くの蜜蜂小屋に住んでいる蜂飼いが、三日に一度ずつ運ぶのであったが、自分のためにこんな労をとってくれる蜂飼いとも、やはり言葉を交えることは少かった。この四斤のパンと、それから日曜ごとに規則ただしく夜の祈祷式のあとで僧院長から送られる聖餅と、この二つが一週間の彼の食物の全部であった。コップの水は日に一度とり変えることになっていた。
 祈祷式に出ることはめったになかった。ときどき膝をついたまま脇目もふらないで、ひねもす祈祷をしながら起きようともしない彼の姿を、参詣の人々は見受けることがあった。何かの拍子で参詣の人々と言葉を交えることがあっても、その話しぶりは簡単で、断片的で、奇怪で、しかもおおむね粗暴であった。もっとも、彼が外来の人と長いあいだ話し込むことも、ごくたまにあったが、そんな場合、大てい相手のものに大きな謎をかけるような言葉を何か一つ必ず話の間にはさむ、そして、あとから何と言って頼んでも、決して説明してくれなかった。彼は位というものを何も持っていない平の僧侶にすぎなかった。また、これはきわめて無知な人たちの間にかぎっていたけれど、非常に奇怪な一つの噂が行われていた。ほかでもない、フェラポントは天の精霊と交通して、この精霊のみを話相手としているから、それで人間に対してはいつも沈黙を守っている、というのであった。
 オブドールスクの僧は蜜蜂小屋へたどりつくと、蜂飼いに教えられて(これもやはり非常に無口な気むずかしい僧であった)、フェラポントの庵室の立っている一隅をさして進んだ。『ことによったら、よそから来た人だというところで、話をされるかもしれませんが、またどうかしたら、何と言っても口をきいてもらえぬかもしれませんよ』と蜂飼いの僧は前もって注意した。あとで、当人の話したところによると、僧は烈しい恐れをいだきながら、庵室へ近づいた。もう時刻はだいぶ遅かった。フェラポントはこのとき、庵室の戸口にある低い腰掛けに坐っていた。頭上には大きな楡の老木が微かにざわめいていた。夕暮れの涼気が肌をかすめた。オブドールスクの僧は苦行者の前へ身を投げ出して、祝福を乞うた。
「お前はわしを自分の前へ、同じようにうつ伏しにさせようというのかな?」とフェラボントが言った。「起きい!」
 僧は立ちあがった。「わしにも祝福を授け、自分でも祝福を受けてから、そばへ来て坐るがよい。どこから来たな?」
 何よりも一番、哀れな僧を驚かしたのは、フェラポントが疑いもなく極度の精進をして、しかもずいぶん齢が傾いているにもかかわらず、見かけたところ矍鑠《かくしゃく》として背の高い老人で、腰も曲らずしゃんとして、顔も痩せてこそいるけれど、元気そうにいきいきしていることであった。その体の中に、まだなみなみならぬ力が保たれているのは確かであった。体格などは、まるで力士のようである。それほどの年になっていながら、彼はまだすっかり胡麻塩になりきっていない。もと真黒であった毛は、頭にも、頤にもふさふさとしていて、大きな目は灰色に輝いているけれども、目立って飛び出している。彼は、Oの母音に強く力を入れてものを言う癖があった。以前、囚人羅紗と呼ばれていた粗末な地質の、長い赤っ茶けた百姓外套を着け、太い繩を帯の代りに巻いている。頸と胸はすっかりひき出しになっていたが、幾月も脱いだことのない、真黒になった、厚地の麻で作ったシャツが、外套の陰から覗いている。話によると、彼は外套の下に三十斤の錘《おもり》をつけているとのことであった。ほとんど崩れかかった古い靴を素足にはいている。
「オブドールスクの聖シリヴェストルという、小さな僧院からまいりました。」そわそわした、好奇の色に充ちた、とはいえ幾分おびえたような目つきで隠者を観察しながら、遠来の僧はつつましく答えた。
「ああ、お前のシリヴェストルのところへ行ったことがある。しばらく厄介になったものじゃ。シリヴェストルは丈夫かの?」
 僧はちょっとまごついた。
「お前らはわけのわからん人じゃのう! ときに、精進はどんなふうに守っておるかな?」
「わたくしのほうの食事は昔の行者のしきたりで、このようになっております。四旬斎について申しますと、月曜、水曜、金曜には一さい食卓を設けません。火曜と木曜には同宿一同に白パンに蜜入りの煮汁《だし》、それにホロム苺か塩漬の玉菜、それから碾割《ひきわり》の燕麦がつくことになっております。土曜日には白スープと豌豆の素麺、それに粥が出ます。これはみんなバタがつくのでございます。日曜には乾魚《ひもの》と粥がスープに添わることになっております。神聖週間([#割り注]四旬斎の第五週[#割り注終わり])にはもう月曜から土曜の晩まで六日間というもの、パンと水ばかりで、ただ生の野菜を食べるくらいのものでございますが、それさえ制限がありまして、毎日食べることはできません。第一週について申したとおりでございます。神聖金曜には何一つ食べることはできません。それと同じで、神聖土曜にも二時すぎまで断食いたしまして、二時すぎたら初めてパンを少しばかりに水を飲んで、葡萄酒を一杯だけいただきます。神聖木曜にはバタなしの食物と酒を飲んで、時によると乾ものを食べることもあります。なぜと申しますに、神聖木曜に関するラオデキアの会議集にも、『四旬斎の最終の木曜を慎しみて守らざれば、四旬斎のすべてをけがすこととなる』と言うてあるからでございます。わたくしどものほうではこんなふうにいたしております。しかし、あなたさまとくらべましたら、これしきのことが何でございましょう!』と僧は急に元気づいて言った。「なぜと申して、あなたさまは年じゅう、――復活祭にすらパンと水ばかり召しあがっておいでになります。しかも、わたくしどもの二日分のパンは、あなたの一週間分にもあたるくらいでございます。本当に驚き入った偉大なご精進でございます。」
「したが、蕈《きのこ》は?」Gの音を喉から押し出すように、ほとんどKHみたいに発音しながら、突然フェラポントはこう訊いた。
「蕈?」と僧は面くらって問い返した。
「そうじゃ、そうじゃ、わしはあいつらのパンなどは少しもいりはせん。わしはそんなものから顔をそむけて、森の中へでも入って、そこで蕈か苺で命をつなぐわ。ところが、あいつらは自分のパンを去ろうとしおらん。つまり、悪魔に結びつけられておるのじゃ。このごろ穢らわしいやつらは、そんなに精進することはいらん、などと言いおるが、やつらのこうした考えは、まことに高ぶって穢らわしいものじゃ。」
「いや、まったくでございます」と僧は嘆息した。
「あいつらのところで悪魔を見たかの?」とフェラポントは訊いた。
「あいつらとは誰のことでございます?」僧はおずおずと問い返した。
「わしは去年の五旬節に僧院長のところへ伺うたが、それ以来ちっとも出かけぬわ。そのとき、悪魔を見たのじゃ。あるものは胸のところに抱いて袈裟の陰に隠し、ただちょっと角《つの》だけ覗かしおる。またあるものはかくしの中から覗かしていたが、悪魔め、目をきょろきょろさせながら、わしを怖がっておる。あるものは穢れきった腹の中に巣をくわせておるし、またあるものは頸っ玉に噛りつかせてぶら下げておるが、当人はそれと気がつかずに連れて歩いておるのじゃ。」
「あなたさま……ごらんになりますか?」と僧が訊ねた。
「見ると言うたではないか。ちゃんと見えすいておるわ。わしが僧院長のところから出て来ると、一匹の悪魔がわしをよけて、戸の陰へ隠れるのが見えた。そいつがなかなか大きなやつで、背の高さが一アルシン半もある。太くて長い茶色の尻尾をしておったが、その先が、ちょうど戸の隙間に入ったのじゃ。わしもまんざら馬鹿でないから、いきなり戸をぱたんと閉めて、そいつの尻尾を挟んでやった。すると、きゃんきゃん鳴いてもがきだしたが、わしが十字架で三べん十字を切ってやったら、その場で踏み潰された蜘蛛のようにくたばってしもうたわ。今はきっと隅のほうで腐れかかって、臭い匂いを立てておるはずじゃが、それが皆の目に入らぬのじゃ。鼻に感じんのじゃ。もう一年も行ってみんが、お前は他国から来たものじゃによって打ち明けるのじゃ。」
「何という恐ろしいお言葉でございましょう! ところで方丈さま」と僧は次第次第に大胆になってきた。「あなたさまのことで、ずいぶん遠方までえらい噂が立っておるのは、本当のことでございましょうか。何でもあなたさまが、精霊とたえまなく交わりをつづけておいでなさるとかで……」
「飛んで来るわ、ときどき。」
「どんなにして飛んでまいるのでございましょう? どんな形をしておりまする?」
「鳥のような形じゃ。」
「鳩の形をした精霊でございますか?」
「精霊が来ることもあるし、神聖なる霊が来ることもある。神聖なる霊はまた別な鳥の形をしておりて来るのじゃ。時には燕、時には金翅雀《かわらひわ》、時には山雀の形をしてな。」
「山雀が精霊だということが、どうしておわかりになりますか?」
「ものを言うからじゃ。」
「えっ、ものを言うのですって、どんな言葉で?」
「人間の言葉じゃ。」
「どのようなことを申しますか?」
「今日はこんな知らせがあった――今に馬鹿がひとり来て、つまらんことを訊くじゃろうとな、お前はいろいろなことを訊きたがるやつじゃのう。」
「恐ろしいことをおっしゃりますなあ」と僧は首を振った。とはいえその慴えた目の中には、疑わしげな色が窺われた。
「ときに、お前はこの木が見えるか?」やや無言の後、フェラポントはこう訊ねた。
「見えますでございます。」
「お前の目には楡じゃろうが、わしの目から見ると別な絵じゃ。」
「どのような絵でございましょう?」僧は期待するように黙っていたが、なかなか返事がなかった。
「これは大てい夜のことじゃ。あそこに枝が二本出ておろうがな? あれが夜になると、ちょうどキリストさまがわしのほうへお手をさし伸ばされて、その手でわしを捜しておられるように、まざまざと見えるのじゃ。それで、わしはぶるぶる慄えあがるわ。恐ろしい、おお、恐ろしい!」
「キリストさまであったなら、何も恐ろしいことではございますまいに。」
「引っ掴んで連れて行かれる。」
「生きたままでございますか?」
「霊魂とイリヤの光栄の中じゃ! お前、聞いたことがないか? かかえて連れて行かれるのじゃ。」
 オブドールスクの僧はこの対話の後、指定された庵室、同宿の一人のもとへ帰って来た。彼はいたく怪訝の念をいだいていたが、それでもゾシマよりはフェラポントのほうに、より多く同情を感じたのである。彼は何よりも精進に重きをおくという主義であったから、フェラポントのような偉大なる苦行者が不可思議を目撃するのも、あえて怪しむにたりないと思った。もちろん、彼の言葉は馬鹿げたものであったけれど、その中にどのような意義がふくまれているかわからない。それにすべて宗教的畸人《ユロージヴァイ》というものは、まだまだこれどころではない、奇矯な言行をするものである。戸の隙間から尻尾をつめられた悪魔の話にいたっては、単に譬喩としてのみならず、直接の意味においても、心から悦んで信じたい気がした。のみならず、彼はこの僧院へ来る前から、話にしか聞いていない長老制度なるものに対して、固い先入見をいだいていたので、他人の尻馬に乗って有害な新制度ときめてしまっていたのである。この僧院に一日滞在するうちに、彼は早くも長老に反対する軽率な同宿の誰彼の、不平がましい内証話を嗅ぎつけた。その上、彼は生れつき何事につけても非常な好奇心を感じ、こそこそとすばしこくどこへでも首を突っ込みたがる性質なのである。それゆえ、ゾシマ長老の行った新しき『奇蹟』に関する知らせは、彼の心中に非常な疑惑を呼び起したのである。
 アリョーシャは、好奇心の熾んなオブドールスクの客僧が、長老のまわりやその庵室のそばへ群れ寄った僧たちの中をちょこまかしながら、そこここにかたまった群衆の中へ一々首を突っ込んで、すべての話に耳を傾け、一人一人何やら訊ねていたのを、後になって思い起した。しかし、いま彼は、そんな人にはあまり注意をはらわないで、だいぶたってから一切のことを思い起したのである……実際、今はそれどころではなかった。ゾシマ長老は、疲れを感じて病床に横たわったが、もう目をつぶろうとしながら、急にアリョーシャのことを思い出し、そばへ呼んでくれと命じた。アリョーシャはすぐさま駆けつけた。長老のそばにはただパイーシイとヨシフ、それに聴法者のポルフィーリイがいるだけであった。長老は疲れた目を見開いて、じっとアリョーシャを見つめていたが、とつぜん口を開いてこう訊ねた。
「うちの人たちがお前を待っておるじゃろうな?」
 アリョーシャはもじもじしていた。
「お前に用のある人がありはせんか? 誰かに今日行くと約束しはせなんだか?」
「約束いたしました……お父さんと……兄さん二人と……それからほかの人にも……」
「それみなさい。ぜひとも行って上げい。心配することはない。わしはお前のそばでこの世における最後の言葉を言わずに死ぬるようなことは決してないからな、よいか。この最後の言葉はお前に言うのじゃぞ。アリョーシャ、お前に言いのこすのじゃ。なぜなら、お前はわしを愛してくれるからじゃ。しかし、今は約束をした人たちのところへ行くがよい。」
 アリョーシャはこの場を離れるのが辛かったけれども、猶予なくその言葉に従った。しかし、師のこの世における最後の言葉、しかも自分に対する遺言とやらを聞かしてやろうという約束は、アリョーシャの心を歓喜の情で震撼させた。彼は町の用事を早く片づけて帰って来ようと、急いで支度をした。その時、ちょうどパイーシイが彼にはなむけの言葉を与えたが、それがきわめて強烈な、思いがけない感銘を彼の心に印したのである。それは、二人が長老の庵室を出た時のことであった。
「お前が怠りなく思い出さればならぬことがある(とパイーシイは少しも前置きなしに、いきなり、こう言いだした)。ほかでもない、世間に行われておる科学は、結合して一つの大きな力となって、聖書に約されておるすべての尊いことを解剖した。それが現世紀にいたって最もはなはだしくなってきた。世間の学者の行うた容赦のない解剖分析の結果、以前神聖とされておったものは、影も形も残らんことになってしもうた。しかし、彼らは部分部分のみ解剖して、全体というものをすっかり見落しておる。その盲目さ加減は、驚嘆に値するくらいだ。ところが、その全体は、以前と同じように儼然と彼らの目の前に立っていて、地獄の門もそれをば征服することができんのだ。この全体ははたして十九世紀のあいだ生きておらなんだであろうか、また現に今でも個々の心の運動の中に、民衆の運動の中に生きておらぬだろうか? それどころか、一切を破壊する無神論者の心の動きの中にさえ、以前と同じように儼然と生きておるのじゃ! なぜと言うて、キリスト教を否定して叛旗をひるがえす人でさえ、その本質においては、キリストの面影を宿しているからだ、そして、いまだにやはり、そのとおりの人として生活をつづけておるからだ、その証拠には、彼らの知恵も彼らの熱情も、むかしキリストの示されたもの以外に、人間とその品位に相当する卓越せる象《かたち》を創り出すことができなかったではないか。いろいろの試みもあったが、あれはみんな片輪のように醜いものばかりだ。アリョーシャ、このことは特別によう覚えておくがよい。なぜと言うて、お前は垂死の長老のお指図で、世間へ乗り出して行かねばならぬからだ。この偉大なる日を思い出すときに、お前のはなむけのために真心から与えたわしの言葉も、やはり忘れずにおってくれるであろうな。なにぶんお前は若いから、世の中の誘惑がはげしゅうて、力に叶わぬかもしれぬでなあ。いや、もうよい、行きなさい。」
 こう言ってパイーシイは彼を祝福した。僧院を出て行く道すがら、この思いがけない言葉の意味を思いめぐらしているうち、突然アリョーシャは、今まで自分に冷酷厳重であったこの主教が、思いもうけぬ親友であり、かつ熱烈に自分を愛してくれる新しい指導者であることを、今はじめて了解した、――何だかゾシマ長老が死ぬ前に、この人に遺言でもしたのではあるまいか、と思われるほどであった。『まったくお二人の間に、そういうふうなことがあったかもしれない。』ふとアリョーシャはこう考えた。たったいま彼の聞かされた思いがけない学者らしい議論は(実際、いま聞かされたこの議論をさすので、決してほかのものではない)、パイーシイ主教の熱情に富んだ心を証明している。彼はできるだけ急いでアリョーシャの若々しい知性に、世間の誘惑と戦うべき武器を与え、そのうえ遺言をもって自分に託された若い霊魂のために、自分自身でもこれ以上堅固なものを想像することのできないくらい、堅固な牆壁を結いめぐらしたのであろう。

[#3字下げ]第二 父のもとにて[#「第二 父のもとにて」は中見出し]

 アリョーシャはまず第一番に父のもとへ赴いた。大方そばまで来たとき、きのう父がなるべくイヴァンに見つからないように入って来い、としきりに念を押したのを思い出した。
『どういうわけだろう?』と今になって、アリョーシャはとつぜん気がついた。『お父さんが僕一人に内証で何か話したいことがあるとしても、何も僕が入るのまで内証にしなくたってもよさそうなもんだ。きっと昨日は、何か別なことを言うつもりだったのに、あまり気が立ってたから、言い間違えたんだろう』と彼はひとりでこうきめた。にもかかわらず、マルファが彼のためにくぐりを開けながら(グリゴーリイは病気して離れに寝ていた)、彼の問いに対して、イヴァンはもう二時間も前に外出したと答えたとき、彼は妙に嬉しかった。
「お父さんは?」
「もうお目ざめで、コーヒーを召しあがっておいでになります」とマルファは何だかそっけない調子で言った。
 アリョーシャは中へ通った。老人はスリッパをはき、古ぼけた着物を引っかけて、ただひとり食卓に向って座を占めたまま、大した注意もはらわないで……気をまぎらすために、何かの勘定書に目を通していた。広い家の中で彼はたった一人きりであった(スメルジャコフは昼食《ちゅうじき》の材料を買い込みに出て行ったのである)。しかし、彼の心を占めているのは勘定書ではなかった。彼は今朝はやく床を離れて、元気を出してはいたものの、それでも疲れたよわよわしい様子をしていた。額は、昨夜のうちに打身が大きく紫いろに腫れあがったので、赤いきれでくるくると巻いてあった。鼻もやはり一晩のうちに恐ろしく腫れあがって、ぽつぽつとしみのように幾つかの打身ができていた。それは大して目に立つほどでもないけれど、何やらとくに意地わるそうな、いらいらした表情を、顔ぜんたいに添えるのであった。老人は自分でもそれを知っているので、入って来るアリョーシャの姿を不愛想に見やった。
「冷コーヒーだ」と彼は鋭い調子で叫んだ。
「べつにすすめまい。わしはな、アリョーシャ、今日は自分からお精進をして、スープも肉っ気なしの魚汁《ウハー》だ。だから、誰も呼ばずにおったのさ。一たい何の用で来た?」
「お気分がどうかと思いまして」とアリョーシャは口を切った。
「ふん。それに、昨日わしが自分のほうからお前に来いと言うたが、あんなことはみんなでたらめだ。そんなご心配をあそばすことはいらなんだのになあ。しかし、わしもお前がすぐにのこのこやって来るだろうと思っておったがな……」
 彼はにくにくしそうな心持を見せながら、そう言った。その間に彼は立ちあがって、さも気にかかるようなふうつきで、鏡を覗いて自分の鼻を眺めた(これで今朝から四十ぺんくらいになるかもしれない)。それから、ついでに額の赤いきれもちょっと恰好をなおした。
「赤いほうがよい、白いのは病院臭うていかん」と彼はもっともらしく呟いた。「ところで、お前のほうはどうだ? お前の長老はどんなだ?」
「大変お悪いのです。ひょっとしたら、今日おかくれになるかもしれません」とアリョーシャは答えた。しかし、父はそれをろくろく聞こうともしなかった。そればかりか、自分の発した問いすらも、すぐに忘れてしまったのである。
「イヴァンはどこへ行った。」彼は突然こう言いだした。「あいつは一生懸命にミーチカの嫁さんを横取りしようとしておる。そのためにここにおるんだよ」と彼は毒々しい調子で言って、口をひん曲げながら、アリョーシャを見つめた。
「一たい兄さんが自分でそう言ったのですか?」とアリョーシャが訊いた。
「もうとうに言うたよ。お前一たい何と思うとったんだ? 三週間も前にそう言ったんだぞ。まさか内証にわしを殺そうと思うて、ここへ来たんじゃあるまい? そうとすれば、一たい何のためにやって来たんだ?」
「お父さん何を言うんです! 何だってそんなことをおっしゃるんです?」とアリョーシャはひどくどぎまぎした。
「あいつは金をくれとは言わん、それは本当だ。しかしそれにしても、わしからびた一文だって取れるこっちゃない。わしはな、アレクセイさん、この世に少しでも長く暮したいのだ。このことはお前たちに心得ておってもらいたいて。それだからして、一コペイカの金でもわしには大切なのさ。わしが長生きをすればするほど、なおさら大切になっていくのさ。」黄ろい夏の薄羅紗で作った、だぶだぶして脂じみた外套のかくしに両手を突っ込んで、隅から隅へと部屋を歩き廻りながら、彼は言葉をつづけた。「今のところ、わしもまだようよう五十五だから男の仲間だが……このさき二十年くらいはやはり男の仲間でおりたいのだ。しかし、もうそうなると年をとって汚ならしゅうなるから、女子《おなご》どもが自分の好きでわしのそばへ寄りついてくれん。さあ、ここで必要になってくるのは金じゃて。だから今こうやって、上へ上へと蓄め込んでおるのじゃ。それも自分一人のためなんだぞ、アレクセイさん、このことを心得ておいてもらいましょう。なぜと言うて、わしは最後まで穢れの中に生きておりたいからだ。このことを心得ておいてもらいましょう。穢れの中のほうがいい気持なんだ。この穢れってやつを誰も彼も悪く言うが、みなその中に生きておるのだ。ただみんな内証でこそこそとするのに、わしは公然とするだけの違いだ。ところが、この正直ということのために、世間の穢れたやつらがわしを攻撃するじゃないか、ところでな、アレクセイさん、お前の天国なんかへ行くのは真っ平ごめんだよ。このことは心得ておいてもらいましょう。それに、身分のある人間が天国なんかへ行くのは、第一、無作法だよ。よし天国というやつが本当にあるとしてもさ。わしの考えでは、一たん寝入ったらもう目をさましっこはない、それだけのことなんだ。もし気が向いたら供養もしてもらおうが、気が向かなんだらご勝手だ。これがわしの哲学なのさ。昨日イヴァンがここでうまいことを言うたよ。もっとも、みんな酔っ払ってはおったがな。イヴァンはお天狗だよ、それに、何もそんなに大した学者じゃない……それどころか、特別な教育というほどのものさえありゃせん。ただ黙って人の顔を見ながら、にやりにやりしておるのだ、――それがあいつの奥の手なんだ。」
 アリョーシャは黙って聞いていた。
「一たい何であいつはわしと話をせんのだろう? 何かの拍子で口をきくことがあると、何だか妙にひねくれたことばかり言いおる。本当にイヴァンは悪党だ! なあに、グルーシェンカとは気さえ向いたら、すぐにでも結婚してみせる。金を持った人間は、ただ気さえ向いたら、何でもできるからなあ、アレクセイさん。イヴァンはこれが怖いもんだから、わしが結婚せんように見張りをして、ミーチカをつっ突いて、グルーシェンカと結婚させようとしているのだ。こうしてグルーシェンカがわしのとこへ来る邪魔をしようと思うとるのさ。(へん、もしわしがグルーシェンカと結婚せなんだら、あいつに金でも残すと思うとるのかい!)一方ミーチカがグルーシェンカと結婚したら、イヴァンは兄貴の裕福な花嫁を自分のものにしようという寸法だ。これがあいつの胸算用なんだ! 本当にイヴァンは悪党だ!」
「お父さんは本当にいらいらしてばかりいますね。それは昨日のことのためですよ。行ってお休みになったらどうです」とアリョーシャが言った。
「それみろ、お前がそう言うても、」初めて頭に浮んだことかなんぞのように、老人は突然こう言いだした。「わしはお前に対して腹が立たんけれど、もしイヴァンがそれと同じことを言うたら、わしはきっと腹を立てたに相違ない。お前と話をしておる時だけ、わしも優しい気分になるよ。そのほかの時は、わしはまったく意地のわるい人間だからな。」
「意地のわるい人間じゃなくって、ひねくれてしまった人なんですよ」とアリョーシャはほお笑んだ。
「ときにな、わしは今日あのミーチャの強盗を牢へぶち込んでやろうかと思うたが、今またどうしたものかと迷うておるのだ。もちろん、流行を追う今の時世では、親父やおふくろを旧弊あつかいにするのが、あたりまえのようになってきたが、しかし、いくら今の時世だって、年とった親父の髪を掴んで、おまけに靴の踵で蹴とばすということは、法律上ゆるされておらん。しかも、場所は当の親の家じゃないか、それにもう一度やって来て、今度こそ本当に殺してやると、証人のおる前で広言するとは何事だ。わしはもうその気にさえなれば、さっそくあいつを取っちめて、昨日のことを言い立てに、今すぐにでも牢へぶち込んでやれるんだ。」
「でも、告訴するのはやめたんでしょう、ね?」
「イヴァンがとめたのでな。なに、イヴァンなど唾でもひっかけてやりたいくらいだが、わしも自分で一つ面白いことを考えたもんだからな……」
 彼はアリョーシャのほうへ屈み込んで、いかにも信用しきったような調子で囁いた。
「もしわしがあの悪党を牢へ入れたことを聞いたら、あの女はさっそくあいつのほうへ走って行くに相違ない。ところで、もしあいつがこの弱い老人を、半殺しの目にあわせたということを、今日にもあの女が聞きつけたら、たぶんあいつを捨ててわしのところへ見舞いに来るだろう……人間というやつはこんな性質を授かっておるのだよ――何でも反対反対と出かけたいんだな。わしはあの女の性質を、すっかり見すかしてしまったよ! ところで、コニヤクでも飲まんか? 冷コーヒーに杯の四つ一くらいたらし込んだら、なかなか味のいいもんだよ。」
「いいえ、いりません、有難う。それよりこのパンをもらって行きましょう。下さるでしょう」と言って、アリョーシャは、三コペイカほどのフランスパンを取って、法衣のかくしへ入れた。「それに、お父さんもコニヤクはあがらないほうがいいでしょう」と彼は父の顔を覗き込みながら、おずおずと言った。
「お前の言うとおりだ。気をいらいらさせるばかりで、静かな心持にしてくれない。しかし、ほんの一杯きりだからな……わしはちょっと戸棚から……」
 彼は鍵を取り出して、戸棚を開き、杯に一つ注いで、飲み干すと、また戸棚に鍵をかけて、それをもとのかくしへしまった。
「もうたくさんだ、一杯くらいで片輪にはならんからなあ。」
「そら、今お父さんはずっと人が好くなりましたよ」とアリョーシャは微笑した。
「ふむ、わしはコニヤクを飲まんでも、お前が好きだよ。しかし、相手が悪党だったら、わしも悪党になるんだ。ヴァンカ([#割り注]イヴァン[#割り注終わり])はチェルマーシニャヘ行きおらん――どういうわけだと思う? わしの探偵がしたいからだ。もしグルーシェンカが来たとき、わしがあれに、大金をやりゃせんかと思うとるんだろう。どいつもこいつもみんな悪党だ! それに、わしはイヴァンというやつがさっぱりわからん。まるでわしがあいつに遺産でもやるかなんぞのように思うとるのだ。それに、わしは遺言も残して死にゃせん。このことはお前たちに心得ておってもらわにゃならん。ところで、ミーチカのやつなんぞは、油虫のように踏み潰してくれるわ。わしは毎晩スリッパで油虫を踏み潰してやるんだ。足をのせるとぐしゃりというが、お前のミーチャもやはりぐしゃりというんだ、お前の[#「お前の」に傍点]ミーチャと言うたのは、お前があいつを愛しておるからだ。しかし、お前があれを愛しておるからって、わしはちっとも恐れはせん。もし、イヴァンがあいつを愛しておるとしたら、わしはわが身のために心配したかもしれん。しかし、イヴァンは誰も愛しはせん。あいつはロシヤの人間じゃないのだからな。イヴァンのようなやつは人間じゃない、風に舞いあがった埃だ。風が通ってしまえば、埃も消えてしまう……昨日な、お前に今日やって来いと言いつけた時、ひょいと馬鹿な考えが浮んできたよ。実は、お前の手を通して、ミーチカの肚を探ろうと思うたのさ。ほかじゃないが、もし今わしが千か二千の金をあいつに分けてやったら、あの恥知らずの乞食みたいなやつだから、すっかりここから姿を隠してしまうだろうか、五年くらいの間……いや、三十五年ならなお結構だ。そしてグルーシェンカは連れて行かないのだよ。いや、いっそあれのことは綺麗に諦めてもらいたいのだ、承知するだろうか、うん?」
「僕……僕、兄さんに訊いてみましょう……」とアリョーシャは呟いた。「もし三千ルーブリすっかり耳を揃えたら、あるいは兄さんも……」
「馬鹿あ言え! 今となったら訊く必要はない、何も訊かんでもよい! わしはもう考えなおしたんだ。ちょっと昨日、そんな馬鹿な考えが頭に浮んだまでのことだ。何一つくれてやるもんか、びた一文だってやりゃせん、わしは自分でもいるんだ」と老人は手を振った。「そうでなくても、あんなやつは油虫のように踏み潰してやる。あいつに何も言うちゃならんぞ、でないと、また当てにするだろうからなあ。それに、お前もわしのところにおったって、何もすることはないのだから、もう帰るがよい。ところで、あの許嫁のカチェリーナさ、あの女をミーチャはいつも一生懸命わしから隠すようにしておるが、一たいあの女はミーチャと結婚するだろうか? お前きのうあの女のところへ行った様子だが……」
「あのひとはどんなことがあっても、兄さんを棄てやしません。」
「そのとおりだ、ああいう優しいお嬢さん方は、あいつのような極道者や悪党を好くもんだよ! あんな顔色の悪いお嬢さん方ほど、やくざなものはないよ、ああ、そうだとも、いつだってそうだ……ばかばかしい! もしわしにあいつの若さと、あの年のわしの顔があったら(なぜと言うて、二十八時代のわしは、あいつより男まえがよかったからなあ)、それこそわしもあいつに負けんように、女を泣かせて見せるんだがなあ。畜生! 何と言うたところで、グルーシェンカは手に入れさせやせん、なんの、手に入れさせるものか……あんなやつ、木っぱ微塵にしてやるんだ!」
 この最後の言葉とともに、彼はまた凄じい権幕になってきた。
「お前ももう帰れ、ここにおったところで、今は何も用事はありゃせん」と彼は鋭い調子で断ち切るように言った。
 アリョーシャは暇を告げるために近寄って、父の肩を接吻した。
「何だってお前そんなことをするのだ?」と老人は少々驚いた様子で、「まだ会うことはあるじゃないか、うん? それとも、もう会えんとでも思うのか?」
「決してそんなことはありません。僕はただその、何という気なしに……」
「うん、わしもやはり何という気なしに……わしもただその……」と老人はわが子を見つめた。
「おい、ちょっと、おい」と彼は後から声をかけた。「いつかまた、近いうちに来んか、魚汁《ウハー》を食べにな。一つ魚汁《ウハー》を拵えるから。しかし、今日のようなやつじゃない、特別なんだ、ぜひ来てくれ! そうだ、あす来い、よいか、あす来るんだぞ!」
 アリョーシャが戸の向うへ出て行くが早いか、彼はまた戸棚へ近寄って、杯半分ほど一息に呷った。
「もうやめだ!」と呟いて喉をくっと鳴らし、戸棚に鍵をおろすと、またその鍵をかくしにしまって、寝室へ赴き、力の抜けた体を床の上へ横たえると、そのまま眠りに落ちてしまった。

[#3字下げ]第三 かかり合い[#「第三 かかり合い」は中見出し]

『まあ、お父さんがグルーシェンカのことを訊かなくって、いいあんばいだった。』アリョーシャはまたアリョーシャで、父のもとを辞して、ホフラコーヴァ夫人の家へ赴きながら、心の中でこう考えた。『でなかったら、昨日グルーシェンカと会ったことを、話さなきゃならなかったかもしれない。』アリョーシャは二人の敵手が昨夕のうちに新しく、元気を回復して、夜が明けるとともにふたたび石のように冷たい心になったのを直覚したのである。『お父さんは恐ろしくいらいらして、意地がわるくなっている。きっと何か考えついて、それを固執しているに相違ない。ところが、兄さんのほうはどうだろう? こちらもやはり昨夕のうちに気分を持ちなおして、同じようにいらいらした意地わるい心持になっているに違いない。そしてもちろん、何かもくろんでいるにきまっている……ああ、どうしても今日の間に合うように、兄さんを捜し出さなけりゃならない……」
 しかし、アリョーシャは長くこんなことを考えているわけにはいかなかった。途中思いがけない出来事が、彼の身の上に起ったのである。それはちょっと見たところ大したことではないけれども、彼に強烈な印象を与えた。小さな溝川を隔てて(この町は到るところ溝川が縦横に貫通しているので)、大通りと並行しているミハイロフ通りへ出ようと思って、広場を通り抜けて横町へ曲った時、小さな橋の手前で一塊りになっている小学生が目に入ったのである。それはみんな年のゆかぬ子供ばかりで、九つから十二くらいまで、それより上のものはなかった。あるものは背に小さな背嚢を負い、あるものは革の鞄を肩にかけ、あるものは短い上衣を着、あるものは外套を羽織り、またあるものは、よく親に甘やかされた金持の子供がことに好んで誇りとする、胴に襞の入った長靴を履いて、めいめい学校から帰って行くところであった。この一群は、元気のいい調子でがやがや話し合っている。何かの相談らしい。アリョーシャはどんな時でも、子供のそばを平気で通り過ぎることができなかった。モスクワでもそうであった。もっとも、彼は三つくらいの子供が一番すきだったが、十か十一くらいの小学生も大好きなのである。
 で、今もいろいろ心配があったにもかかわらず、急に子供らのほうへ曲って行って、話の仲間へ入りたくなった。ちかぢかとそばへ寄って、彼らのばら色をした元気のいい顔を眺めているうちに、ふと気がついてみると、子供らはてんでに石を一つずつ持っている。なかには二つ持っているものもあった。溝川の向うには、こっちの塀からほぼ三十歩ばかり隔てた垣根のそばに、もうひとり子供が立っていた。やはり鞄を肩にかけた小学生で、背恰好から見るとまだ十は越すまい、いや、あるいはそれより下かもしれぬと思われるほどであった。青白い病的な顔をして、黒い目をぎらぎら光らしている。彼は注意ぶかく試験でもするように、六人の子供の群を眺めていた。彼らはみんな友達同士で、たった今一緒に学校を出たばかりであるが、平生からあまり仲のよくないのは一目見ても明らかであった。アリョーシャは白っぽい髪の渦を巻いた血色のいい一人の子供に近づいて、黒い短い上衣を着た姿を見廻しながら話しかけた。
「僕が君らと同じような鞄をかけてた時分、みんな左の肩にかけて歩いたものだよ。それは右の手ですぐに本が出せるからさ、ところが、君は右の肩にかけてるが、それで出しにくくないの?」
 アリョーシャは、べつにまえまえから用意した技巧を弄するでもなく、いきなりこうした実際的な注意をもって会話を始めた。まったく大人がいきなり子供の、とくに大勢の子供の信用をうるためには、これよりほかに話の始め方はないのである。真面目で実際的な話を始めること、そしてぜんぜん対等の態度をとること、これが何より肝心なのである。アリョーシャにはこれが本能でわかっていた。
「だって、こいつは左ききなんだもの。」活溌で丈夫らしい十一ばかりの別な男の子が、すぐにこう答えた。
 そのほかの五人の子供は、食い入るようにアリョーシャを見つめた。
「こいつは石を投げるんでも左だよ」といま一人の子が口を入れた。
 ちょうどこの時、一つの石が群の真ん中へ飛んで来て、ちょっと左ききの子供に触ったが、そのまま飛び過ぎてしまった。しかし、その投げ方はなかなか上手で力が入っていた。それは溝川の向うの子供が投げたのである。
「スムーロフ、やっつけろ、くらわしてやれ!」と一同が叫んだ。
 しかしスムーロフ([#割り注]左きき[#割り注終わり])は言われるまでもなく、少しも猶予しないで、すぐにまた一矢酬いた。彼は溝川の向うにいる子供を目がけて石を抛ったが、うまく当らなかった。石は地面を打っただけである。溝川の向うの子供は、さっそくまた一つこっちの群を目かけて投げつけたが、今度はうまくアリョーシャに当って、かなり強く彼の肩を打った。溝川の向うにいる子供のポケットは、用意の石ころで一杯であった。それは三十歩あいだを隔てていても、外套のポケットが脹らんでいるので察しられた。
「あれは君を、君をわざと狙ったんだよ。だって君はカラマーゾフじゃないの、カラマーゾフじゃないの?」と子供らはきゃっきゃっと笑いながら叫んだ、「さあ、みんな一時にやるんだぞ、うてっ!」
 と六つの石が同時に群の中から飛んで出た。その中の一つが向うの子供の頭へ当った。彼はばったり倒れたが、すぐまた跳ね起きて、死物狂いに応戦を始めた。両方からやみ間のない戦いがつづけられた。見ると、こっちの子供らのポケットにも、用意の石が一ぱいつめてあった。
「みんな何をするの! よくまあ恥しくないこったねえ! 六人で一人のものにかかって行ったら、あの子を殺してしまうじゃないの!」アリョーシャは呶鳴った。
 彼は跳り出して、飛び来る石に向って仁王立ちになった。身をもって溝川の向うの少年を庇おうと思ったのである。三人か四人の子供はいっとき手を休めた。
「だって、あいつからさきに始めたんだもの!」赤いシャツを着た少年が、いらいらした子供らしい声で喚いた。「あいつは卑怯なやつなんだ。さっき、クラソートキンをナイフで突いて、血を出したりしたんだよ。クラソートキンは厭だと言って先生に言いつけなかったけれど、あんなやつ、ひどい目にあわしてやらなくちゃ……」
「一たいどういうわけなの? きっと君らのほうからさきにからかったのだろう?」
「ああ、また君の背中へ当てやがった。あいつは君を知ってるんだよ」と子供は叫んだ。「今あいつは僕らでなくって、君を狙って投げてるんだよ。さあ、またみんなでやっつけろ、スムーロフ、やりそこなっちゃ駄目だぜ!」
 こうしてまたもや石合戦が始まったが、今度は前よりさらに獰悪になってきた。やがて一つの石が溝川の向うにいる子供の胸へ当った。彼はきゃっと悲鳴を上げると、泣きながらミハイロフ通りのほうをさして、坂の上へ駆け登った。こっちの群は、『やあい、怖くなって逃げ出しやがった、やあい、糸瓜野郎!』とはやし立てた。
「あいつがどんなに卑怯なやつか、君はまだ知らないんだろう、あいつは殺したってたりないんだ」と短い上衣を着た少年が目を光らしながら言った。見たところ、仲間で一ばん年上らしい。
「あれが一たいどんな子だって?」とアリョーシャは訊ねた。「告げ口やだとでも言うの?」
 子供らは馬鹿にしたように顔を見合した。
「君もやっぱりあっちい行くんだろう、ミハイロフ通りへね?」と前の少年が言葉をついだ。「そしたら、すぐあいつを追っかけて訊いてごらん……ほら、ちょっと、あいつまたじっと立って待ってるから。君のほうをじろじろ見てらあ。」
「君のほうを見てらあ、君のほうを見てらあ!」と子供らはすぐ引き取った。
「あのね、一つあいつにこう訊いてごらん、お前はぼろぼろになった風呂場の糸瓜が好きかって。いいかい、そう言って訊くんだよ。」
 一同はどっと笑った。アリョーシャは子供らを、子供らはアリョーシャを、じっと見つめるのであった。
「行くのをおよしなさい、ぶん殴られるから」とスムーロフが大きな声で警戒した。
「いや、僕はそんな糸瓜のことなんか訊きゃしないよ。だって君らはこの糸瓜でもって、あの子をからかってるに相違いないんだもの。それよりか、どうして君らがあの子をそんなに憎むのか、あの子に直接きいてみるよ……」
「訊いてごらん、訊いてごらん!」と子供らはまた笑いだした。
 アリョーシャは小橋を渡って、垣根に沿うた坂路を昇り、のけ者にされた子供のほうへまっすぐに進んで行った。
「気をおつけよ」と子供らはうしろから注意した。「あいつは君だって恐れやしないから、いきなりナイフを出して、不意打ちに君を突くかもしれないよ、あのクラソートキンの時みたいに……」
 少年はじっとその場を動かないで、彼を待ちもうけていた。ぴったりとそばへよったとき、アリョーシャは自分の前に立っている少年が、まだ九つを越さない、背の低いよわよわしい、痩せて蒼白い細長い顔をした子供なのを見てとった。大きな黒い目は、にくにくしそうに彼を見据えている。子供は体に合わぬ不恰好な、ずいぶん時代のついた外套を着ていた。あらわな手を両袖からにゅうと突き出して、ズボンの左の膝には大きなつぎが当っている。右のほうの靴は、親指にあたる爪先に大きな穴があいて、その上からやたらにインキを塗った痕が見える。ふくれあがった両方のポケットには、石ころが一ぱいつまっていた。アリョーシャは彼から二歩ばかり前に立って、もの問いたげにその顔を見まもった。少年はアリョーシャの目つきから推して、彼が自分をぶつ考えを持ってないことを知ったので、自分のほうでも力を抜いてさきに口をきった。
「僕は一人きりだけど、向うは六人もいるんだ……僕は一人であいつらをみんな負かしてやらあ。」彼は目を光らせながら突然こう言った。
「だけど、石が一つひどく君に当ったじゃないの」とアリョーシャが言った。
「僕だってスムーロフの頭へ当ててやったい!」と子供は叫んだ。
「僕あっちで聞いて来たんだが、君は僕を知ってて、わざと僕を狙って投げたんだってね?」とアリョーシャは訊いた。
 子供は沈んだ目つきをして彼を眺めた。
「僕、君を知らないけど、君は本当に僕を知ってるの!」とアリョーシャは質問の歩を進めた。
「うるさいよ!」だしぬけに子供は癇癪声を張り上げて叫んだ。が、やはり何やら待ちもうけているように、その場を動こうともせず、またもやにくにくしげに目を光らすのであった。
「じゃ、僕行こう」とアリョーシャは言った。「ただね、僕は君を知らないんだから、君をからかいもしないよ。あっちにいる子供らは、やたらに君をからかってやるんだって言ってたが、僕は君をからかう気なんか、少しもないんだからね。じゃ、さようなら!」
「やあい、坊主のくせに絹の股引をはいてやがらあ!」少年は依然として毒々しい、挑むような目つきでアリョーシャを見送りながらこう叫んだが、今度こそアリョーシャが必ず跳びかかって来るに相違ないと思ったらしく、ついでにちょっと応戦の身構えをした。しかし、アリョーシャは振り返って彼のほうを見たばかりで、そのまま向うへ行きかかった。が、三歩と踏み出さないうちに、少年の投じた石が強く彼の背中を打った。しかも、それは少年のポケットにある石の中で、一ばん大きいのであった。
「君はうしろからそんなことをするの? あっちにいた子供らが、君はいつも不意打ちばかりすると言ったのは、本当なんだね」とアリョーシャは振り返ってそう言った。しかし、少年は死物狂いになって、またもや石を投げつけた。しかも、今度は顔の真ん中を狙ったのである。けれど、アリョーシャがうまく身をかわしたので、石は彼の肘に当った。
「よく君は恥しくないこったねえ! 僕が君に何をしたというの?」と彼は叫んだ。
 少年は、もう今度こそアリョーシャが、ぜひとも自分に飛びかかって来るに相違ないと思って、無言に挑むような態度で、そればかり待ち構えていた。しかし、彼が今度もかかって来ないのを見ると、まるで小さな野獣のように、すっかり夢中になってしまい、いきなり跳りあがって、自分のほうからアリョーシャに飛びかかった。そして、こっちが身をかわす暇もないうちに、彼の左手を両手で握りしめ、首を屈めたと思うと、いきなりぎゅっと中指に噛みついて、しっかり食い入ったまま、十秒間ほど放そうとしなかった。アリョーシャは力一ぱい自分の指をもぎ放そうとしながら、痛みにたえかねて叫び声を上げた。少年はとうとう指を放して、うしろへ飛び退くと、以前の間隔をおいて突っ立った。指は爪のすぐそばを深さ骨に達するほど歯を立てられて、血がたらたらと流れ出すのであった。アリョーシャはハンカチを取り出して、傷所をしっかりと巻いた。そのあいだほとんどまる一分ほどかかったけれど、少年はじっと立ったまま待っていた。ついにアリョーシャはそのほうへ穏かな視線を向けた。
「さあ、これでいい」と彼は言った。「ね、ごらん、ずいぶんひどく噛んだじゃないか。だけど、これで得心がついたろう、ね? さあ。今こそ教えてもらおう、一たい僕が何をしたって言うの?」
 少年はぎくっとして彼の顔を見つめた。
「僕はまるで君を知らないし、会ったのも今がはじめてだけど」とアリョーシャはやはり落ちついた調子で言った。「しかし、僕が何もしないってはずはないだろう。君が何のわけもなしに、あんなに僕をいじめるはずはないだろう。一たい僕が何をしたっていうの、君にどんな悪いことをしたっていうの?」
 返事の代りに、少年は突然大きな声で泣きだして、いきなりアリョーシャのそばを駆け出した。アリョーシャはその跡を追って、静かにミハイロフ通りのほうへ歩いて行った。そして、依然として歩調をゆるめないで、うしろを振り向きもせず遠く走って行く少年を、長いこと見送っていた。少年はまだやはり声を上げて、泣き泣き走っているらしい。彼はおりを見てこの少年を捜し出し、不思議な謎を解かねばならぬ、と決心した。しかし、今はそんな暇がなかった。

[#3字下げ]第四 ホフラコーヴァの家にて[#「第四 ホフラコーヴァの家にて」は中見出し]

 間もなく彼はホフラコーヴァ夫人の家へ近づいた。それは夫人の持ち家で、町では指折りの美しい石造の二階建てであった。ホフラコーヴァ夫人は他県にある領地と、モスクワの持ち家とでおもに時を過していた。この町には先祖代々の家を持っていたし、それにこの郡にある領地が、夫人の三つの領地の中で一番大きかったが、それでも夫人がこの郡へ来ることは今まできわめて稀であった。彼女は、アリョーシャを出迎えで控え室まで駆け出した。
「あなた、あなた、あなたは新しい奇蹟のことを書いたわたしの手紙をごらんなすって?」と夫人は神経的な早口で言いだした。
「ええ、拝見しました。」
「みんなに披露して下さいましたか、みんなに見せて下さいましたか、長老さまは母親に息子を取り戻しておやりなすったのです!」
「長老さまは今日おなくなりなさいます」とアリョーシャは言った。
「ええ、聞きました、知っています。ああ、わたしはあなたとお話ししたくてたまりません! あなたでなければ誰かほかの人と、このことをお話ししたくってたまりませんの! いいえ、やはりあなたでなくちゃ駄目ですわ、あなたにかぎります! ですけれど、わたし長老さまにどうしてもお目にかかれないのが、残念でたまりません! 町じゅうのものが夢中になって、誰も彼も待ちもうけているのです。けれど、今はね……あなた、カチェリーナさんが今ここへ来てらっしゃるのをご存じ?」
「あっ、それは非常に好都合でした!」とアリョーシャは叫んだ。「じゃ、僕はお宅であのひとに会わしていただきましょう。あのひとが今日ぜひ訪ねてくれと、きのう僕にくれぐれもおっしゃったのです。」
「わたしすっかり知っています、すっかり知っています。わたしは昨日あのひとのところであったことを詳しく聞きました……そしてあの……腐れ女の恐ろしい仕打ちもすっかり。C'est tragique.([#割り注]まったく悲劇ですね[#割り注終わり])わたしがあのひとだったら、わたしがあのひとだったら、何をしでかしたかわかりませんよ! けれど、あなたのご兄弟のドミートリイさんは何という、――おやまあ、アレクセイさん、わたしすっかりまごついてしまって、本当にどうしたのでしょう! 今あちらへあなたの兄さんが、といっても、あの昨日の恐ろしい兄さんじゃありませんよ、も一人のほうのイヴァン・フョードルイチが、あのひとと一緒にあちらにいらっしゃるんですよ。そのお二人の話がとても大変なんですの……ご存じないでしょうけど、今お二人の間にどんなことが始まってるでしょう、まあ、どんなに恐ろしいことでしょう。あれはあなた破裂ですよ、とても本当にすることのできないような、恐ろしい昔噺ですよ。お二人とも何のためだかわからないことで、われとわが身を亡ぼしてらっしゃるのです。しかも自分でそれを承知しながら、かえってそれを楽しんでらっしゃるじゃありませんか。わたし、あなたを待ちかねていましたの! 待ち焦れていましたの! 第一、わたし、あんなことを見ているわけにゆきません。まあ、このことは後ですぐ詳しくお話ししますが、今はちょっと別なことを申し上げねばなりません。しかも一等肝心なことですの。まあ、わたしとしたことが、これが一等肝心だということさえ忘れてるじゃありませんか。ねえ、一たいどういうわけでリーズはヒステリイばかり起すのでしょう! あなたがおいでになったことを聞くが早いか、もうさっそくヒステリイを始めるんですものねえ。」
「お母さん、今ヒステリイを起してるのはお母さんで、あたしじゃないことよ。」とつぜん戸の隙間から、次の部屋にいるリーズの甲高い声が聞えた。その隙間は非常に小さかったけれど、声は何かひびの入ったような工合で、笑いたくてたまらないのを、一生懸命に我慢しているようなふうであった。アリョーシャはすぐこの隙間に気がついた。きっとリーズは例の肘椅子から身を乗り出しながら、この隙間から自分を覗いてるに相違ないと思ったが、そこまでは見分けがつかなかった。
「ちっとも不思議はないよ、リーズ……お前の気まぐれのために、わたしまでヒステリイを起したからって、ちっとも不思議はありませんよ。もっとも、あの子は大変からだが悪いんですよ、アレクセイさん、昨夜よっぴて体が悪くって、熱に浮かされながら唸っていましたの! わたし夜が明けて、ヘルツェンシュトゥベが来てくれるのが、どんなに待ち遠だったかしれませんわ。ところが、あの医者は、何もわからない、少し待たなくちゃなりません、と言うんですの。いつ来てみても、何もわかりませんの一点張りですからねえ。あなたが家のそばまでいらっしゃるとね、アレクセイさん、この子はすぐ大きな声を立てて、そのまま発作を起しましたの。そして、もとあの子のいたこの部屋へ、椅子を引っ張って来てくれと申しましてね……」
「お母さん、あたしアレクセイさんのいらしったことを、ちっとも知らなかったのよ。あたしがこの部屋へ来たいって言ったのは、そんなだめじゃないわよ。」
「それ、もう嘘を言ってますね、リーズ、ユリヤが走って来て、この方のいらしったことを知らせたじゃないの。あれはお前に番兵を言いつかってるんだからね。」
「まあ、お母さんてば、何でそんな間の抜けたことをおっしゃるんでしょう。もし名誉回復のために、さっそく何か大へん気のきいたことが言いたかったからね、お母さん、いま入ってらしたアレクセイ・カラマーゾフさんにそう言ってお上げなさいな、『昨日のことがあったあとで、あんなにさんざん冷かされたのもおかまいなしに、きょう平気で家へ来る気におなんなすったということ一つで、あなたは自分の間抜けを証明していらっしゃいますね』って……」
「リーズ、お前それはあまり口がすぎますよ。本当に前から言っておきますが、しまいには厳重な処置を取らなくちゃならないからね。一たい誰がこの方を冷かしています? それどころか、わたしはこの方の来て下すったのが、大へん嬉しいんです。この方はわたしにいり用なんです、なくてならない人なんです。ああ、アレクセイさん、わたしは本当に不仕合せですわ!」
「一たいお母さん、どうなすったの?」
「まあ、リーズ、お前の気まぐれと、ふわふわした心持と、お前の病気と、あの恐ろしい夜通しの熱と、あの恐ろしい、いつまでたっても際限のないヘルツェンシュトゥベと……まあ、何より一番いやなのは、いつまでも、いつまでも際限のないことです。その上に、まだいろんなことがあるじゃないの……それからあの奇蹟までがねえ! アレクセイさん、わたしはあの奇蹟のためにどんな驚異を、どんな感激を受けたかわかりませんよ! おまけにあそこの客間では、とても見ていられないような悲劇がもちあがってるでしょう。いえ、まったく見ていられません。わたし、前からあなたに言っておきます、とても見ていられないんですよ。しかし、もしかしたら、悲劇でなくって喜劇かもしれませんわ。ところで、あのゾシマ長老は明日まで生き延びられるでしょうか、え、生き延びられるでしょうか! ああ、本当にわたしはどうしたんでしょう! しょっちゅうこうして目をふさいでみるたびに、何もかもみんな無意味なように思われるじゃありませんか。」
「僕おりいってお願いがあるんですが」と突然アリョーシャが話の腰を折った。「何か指を巻くような綺麗な小ぎれを下さいませんか。僕ひどく怪我をして、それがしくしく痛んでたまらないんですから。」
 アリョーシャは例の子供に咬まれた指を解いてみせた。ハンカチはべっとり血に染められていた。ホフラコーヴァ夫人はきゃっと叫んで目をつぶった。
「あらまあ、何という傷でしょう、本当に恐ろしい!」
 けれども、リーズは戸の隙間からアリョーシャの指を見るやいなや、いきなり力いっぱい戸を開け放してしまった。
「入ってらっしゃい、あたしのほうへ入ってらっしゃい」と彼女は命令するような力の籠った声で叫んだ。「もうばかばかしい冗談どころじゃなくってよ! まあ、何だってこんな時に黙ってぽかんと立ってらっしゃるの! 出血で弱っておしまいになるじゃないの! 一たいあなたどこでこんなことをなすったの! まあ、何よりさきに水がいるわ! 水がいるわ! 傷を洗わなきゃならないもの。だけど、それよか、冷たい水の中へつけて、そのままじっとしているほうがいいわ! じっとそのままね……そうすると、痛みがとまってよ。早く、早く水を、お母さん、うがい茶碗へ……ねえ、早くってばさ」と彼女は神経的に叫んだ。彼女はすっかり仰天してしまっていた。アリョーシャの傷が恐ろしい印象を与えたのである。
「ヘルツェンシュトゥベを呼んで来ましょうか?」と夫人は叫んだ。
「お母さんはあたしを殺してしまうつもりなの。あなたのヘルツェンシュトゥベなんか来たって、どうもさっぱりわかりませんなあ、と言うにきまっててよ。水を、水を! お母さん、後生だからご自分で行ってユリヤをせかしてちょうだいな。あの女はいつでもどこかその辺にへたばりこんじまって、用を言いつけても間に合ったためしがないんですもの! ねえ、早くってばさ、お母さん、あたし死んじまってよ!………」
「こんなこと何でもないんですよ!」とアリョーシャは親子の驚き方にびっくりしてこう叫んだ。ユリヤは水を持って走って来た。アリョーシャはその中へ指を浸した。
「お母さん、後生だから、綿撒糸を持って来て下さいな、綿撒糸を! それからあの切傷につけるつんと鼻にくる濁った薬があったでしょう、何とか言ったけ! 家にあるのよ、あるのよ、あるのよ、あるのよ……お母さんご存じでしょう、あの薬の瓶がどこにあるか。ほら、お母さんの寝間の右側にある戸棚よ、あそこに壜と綿撒糸があるのよ……」
「すぐ持って来るから、そんなに騒がないでおくれ。そんなに心配することはありませんよ。ごらんなさい、アレクセイさんはご自分の不幸を、立派にこらえてらっしゃるじゃありませんか、ですけれど、どこであなたはそんな恐ろしい怪我をなすったんですの?」
 ホフラコーヴァ夫人はとっかわ出て行った。リーズはただそれのみを待ち構えていたのである。
「まず第一番に」とリーズは早口に言いだした。「どこであなたはそんな傷をなすったのか、それを一番に教えてちょうだい。その後であたしまるで違ったことをお話ししますから。さあ!」
 アリョーシャは母夫人の帰って来るまでの時間が、彼女にとってどんなに貴いかを本能的に悟ったので、大急ぎでいろんな枝葉を刈ったり抜かしたりしながら、とはいえ、正確に、明瞭に例の小学生との謎のような遭遇を物語った。聞き終ったときリーズは両手を拍った。
「まあ、一たいあなたはそんな着物を着たままで、ちっぽけな子供たちにかかり合っていいものですか!」と彼女はまるで自分がアリョーシャに対して、何かの権利でもあるかのように、腹立たしげにこう叫んだ。「そんなことをなさるところを見ると、あなたもやっぱり子供なのねえ、世界じゅうで一等ちっぽけな子供だわ! だけど、その生意気な小僧のことはぜひとも探り出して、あたしにすっかり話して聞かしてちょうだい、だって、それにはきっと何か秘密があるに相違ないんですもの。さあ、今度は第二の話ですが、その前に訊いておかなくちゃならないことがありますわ。アレクセイさん、あなたはその傷の痛みをかまわないで、思いきってつまらないお話をすることができますか? つまらないことといっても、真面目に話さなくちゃ駄目よ。」
「できますとも、それに今はそう大して痛くないんですよ。」
「それはあなたが指を水の中へつけてるからよ。もう水を替えなくちゃならないわ。でないと、すぐ暖くなっちまいますもの。ユリヤ、大急ぎで氷のかけを穴蔵から出して、別なうがい茶碗に水を入れておいで。さあ、あれも行ってしまったから、あたし用事に取りかかってよ。アレクセイさん、今すぐあの手紙を、あたしが昨日あなたに上げた手紙を返してちょうだい、今すぐよ、だってお母さんが今にも帰って来るかもしれないんですもの。あたしはもう……」
「僕は今あの手紙を持っていないのです。」
「嘘よ、持ってらっしゃるわ。あたしそうおっしゃるだろうと思ってたわ。あの手紙はこのかくしの中にあってよ。あたし、どうしてあんな馬鹿なことをしたろうと思って、ゆうべ夜っぴて後悔したのよ。さ、すぐに返してちょうだい、返してちょうだい!」
「僕あっちへ残して来たんです。」
「だけど、あなたはあんな馬鹿なことを書いた手紙を読んで、あたしをほんの小娘……ちっぽけな、ちっぽけな小娘と思わないではいられないでしょう! あたしあんな馬鹿なことをしたのは、あなたにようくお詫びをするけれど、手紙だけはぜひ持って来てちょうだい。もし本当にいま持ってらっしゃらないとすれば、今日にでも来てちょうだい、きっとよ、きっとよ!」
「今日というわけには、どうしてもいきません。なぜって、僕寺へ帰ったら、もう二日三日、ことによったら、四日ばかりこっちへ来ませんからね。だって、ゾシマ長老が……」
「四日、そんなでたらめを! ねえ、あなたはあたしのことを一生懸命に笑ったでしょう?」
「僕ちっとも笑やしなかった。」
「どうして?」
「それはあなたをすっかり信じたからです。」
「あなたはあたしを侮辱なさるのね?」
「どういたしまして、僕はあの手紙を読んだ時、すぐにそう思いました、これは本当にこのとおりになるに相違ないって。なぜって、僕はゾシマ長老がおかくれになったら、すぐに寺を出なければならないんですものね。それから僕はまた学校へ入って試験を受けるつもりです。そして、法律できめられた時が来たら結婚しましょう。僕はいつまでもあなたを愛します。僕はまだ落ちついて考える暇がなかったのですが、それでも、あなたに優る妻を見いだすことはできないと思いました。それに長老も僕に結婚しろとお言いつけになりましたからねえ。」
「だって、あたし片輪よ。肘椅子に乗せて引っ張ってもらってるのよ」とリーザは頬をうっすら染めながら笑いだした。
「僕は自分であなたを引っ張って歩きます。しかし、それまでにはよくなると思いますよ。」
「あなたは気がちがったんじゃなくって?」とリーザは神経的な調子で言いだした。「あんな冗談を真面目にとって、そんな馬鹿なことを言いだすんですもの!………あら、お母さんがいらしった、ちょうどいいあんばいかも知れないわ。お母さん、どうしてあなたはそんなにいつもいつものろいんでしょう、どうしてそんなに手間がとれるんでしょうね! ほら、ユリヤはもう氷を持って来たわ!」
「まあ、リーズ、騒がないでおくれ――お願いだから騒がないでおくれ。わたしはそのぎょうさんな声を聞いたばかりで……だって仕方がないじゃないの、お前がまるで別なところへ綿撒糸を突っ込んでるんだもの……わたしさんざん捜したじゃないの……ひょっとしたら、お前わざとあんなことをしたんじゃないかしら。」
「だって、この人が指を咬まれて来ようなんて、まるで思いがけないじゃありませんか。もっとも、もしそれが前からわかってたら、本当に、わざとそうしたかもしれなくってよ。お母さん、あなたは大へん気のきいたことを言うようにおなんなすったわね。」
「気のきいたことなら気のきいたことでいいけれど、まあ、リーズ、アレクセイさんの指といい、そのほかのことといい、どんな気がするとお思いだえ! ああ、アレクセイさん、わたしを悩ますのは一つ一つの事柄じゃありません、ヘルツェンシュトゥベなんかのことじゃありません。みんな全体ひっくるめてです、みんな一緒ですわ。これがわたしにはとても我慢できませんの。」
「たくさんだわ、お母さん、ヘルツェンシュトゥベのことなんかたくさんだわ」とリーザは面白そうに叫んだ。「さあ、早く綿撒糸をちょうだい、そして薬と。これはただの鉛水よ、アレクセイさん、今やっと名前を思い出したわ、だけど、これはいい薬よ。ところで、お母さん、どうでしょう、この人は途中で小僧っ子と喧嘩をしたんですって。これはその中の一人に咬まれた傷なのよ。ねえ、この人も同じように小っちゃな小っちゃな子供じゃなくって。ねえ、そんな小っちゃな子供に結婚なんかできやしないわね。だって、この人は結婚したいって言うんですもの、どうでしょう。お母さん。本当にこの人にお嫁さんがあるなんて、考えてもおかしいじゃないの、恐ろしいじゃないの?」
 リーズは、ずるい目つきをして、アリョーシャを眺めながら、しじゅう神経的に小刻みに笑うのであった。
「え、どうして結婚なんか、リーズ、何だってお前は突拍子もないそんなことを言いだすの? そんなことを言う時じゃありませんよ……それに、その子供はもしかしたら、恐水病にかかってるかもしれないじゃないの。」
「あら、お母さん! 一たい恐水病の子供なんているものなの?」
「なぜいないの? まるでわたしが馬鹿なことでも言ったかなんぞのようにさ。もしその子供に狂犬が咬みついたとすれば、今度はその子供が手近の人を咬むようになるんですよ。だけど、本当にリーズは上手に繃帯をしましたねえ、アレクセイさん。わたしはどうしたって、そんなにうまくできません。今でも痛うござんすか?」
「もう大したことはありません。」
「ちょいと、あなた水が怖くはなくって?」とリーズが訊ねた。
「まあ、何を言うの、リーズ。まったくわたしもあまり慌てて、恐水病の子供なんて言いだしたけれど、お前はすぐそんな馬鹿なことを言うんだもの。ときに、カチェリーナさんは、あなたのいらしったことを聞くと、もうさっそくわたしのところへ飛んでらしたんですよ。もうあなたを待ち焦れて、待ち焦れて……」
「まあ、お母さん! あなた一人であっちへいらっしゃいよ。この人は今すぐいらっしゃるわけにゆきゃしませんわ。だって、あんなに痛がってらっしゃるんですもの。」
「決して痛がってはいません。平気で行けますよ……」とアリョーシャが言った。
「え! あなたいらっしゃるの? じゃ、あなたは? じゃ、あなたは?」
「何ですか? なに、僕はあっちの用をすましたら、またここへ帰って来ます。そしたらあなたのお気に入るだけのお話ができますよ。実際、僕はいま非常にカチェリーナ・イヴァーノヴナに会いたいわけがあるんです。なぜって、僕はどのみち、きょうできるだけ早く寺へ帰ろうと思ってますからね。」
「お母さん、早くこの人を連れてってちょうだい。アレクセイさん、カチェリーナさんのあとでここへ寄ろうなぞと、そんなご心配にはおよびませんよ。あなたはまっすぐにお寺へいらっしゃい。あそこがあなたに相当した場所だわ! わたし眠くなった、昨夜ちっとも寝なかったんですもの。」
「これ、リーズ、それは悪い冗談ですよ。けれど、本当に休んだらどう!」と夫人は叫んだ。
「僕はどうも合点がいきません。どうして僕が……僕は三分ばかしここにいます、もし何なら五分でも」とアリョーシャはへどもどしながら呟いた。
「五分でも! ねえ、お母さん、早くこの人を連れてってちょうだい、この人は悪魔よ!」
「リーズ、お前、気でもちがったのかい。さあ、まいりましょう、アレクセイさん、この子は今あまり気まぐれがひどすぎるから、わたし気をいらいらさせるのが怖くってなりませんの。ああ、神経過敏の女を相手にするほど情けないものはありませんねえ! だけど、本当にこの子はあなたのそばにいるうちに、眠くなったのかもしれませんよ。しかしまあ、よくそんなに早くこの子に眠気をつけて下さいましたのねえ、本当にいいあんばいでしたわ!」
「あら、お母さんは大へん愛嬌のあることが言えるようになったのねえ。ご褒美にあたし接吻して上げますわ。」
「じゃ、わたしもお前をね。ときに、アレクセイさん。」アリョーシャと一緒に部屋を出ながら、夫人は秘密めかしい、ものものしい調子で早口に囁いた。「今わたしはあなたに何も吹き込みません、この幕を上げることもしません。けれど、入ってごらんなすったら、ご自分であそこの様子がおわかりになります、――本当に恐ろしいことです。何とも言えないとっぴな喜劇です! あのひとはあなたの兄さんのイヴァン・フョードルイチを愛してらっしゃるくせに、自分では一生懸命にドミートリイさんを愛していると、強情をおはりなさるじゃありませんか。まったく恐ろしい! わたしはあなたと一緒に入っていって、もし追ん出されなかったら、しまいまでじっと坐っていましょうよ。」

[#3字下げ]第五 客間における『破裂』[#「第五 客間における『破裂』」は中見出し]

 しかし、客間の会話はもう終りかかっていた。カチェリーナは断乎たる顔つきではあったけれど、恐ろしく興奮していた。アリョーシャとホフラコーヴァ夫人が入った瞬間、イヴァンはもう帰って行くつもりらしく、席を立つところであった。その顔がいくぶん蒼ざめていたので、アリョーシャは不安げに覗き込んだ。なぜなら、今アリョーシャにとって一つの疑惑が、――いつ頃からか彼を悩ましていた一つの不安な謎が、解決されようとしているからであった。もはや一月ばかり前から、彼はいろんな方面から、兄のイヴァンがカチェリーナを恋して、