『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟上』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P144-P191

「誓って言いますよ。あのひとはここへ来やしません。それに、誰一人あのひとが来ようなどとは思っていなかったのです!」
「でも、おれはあの女をちゃんと見たんだがなあ……してみると、あれは……よし、すぐにあれがどこにいるか探り出してやる……あばよ、アリョーシャ! もうこうなったら、このイソップ爺《じじい》に金のことなんか一ことも言っちゃならんぞ。しかし、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへは、これからすぐに行って、ぜひとも『よろしく申しました』と言ってくれ! いいか、よろしくよろしくと言うんだぞ! そして、今日あったことを詳しくあのひとに話してくれ。」
 その間に、イヴァンとグリゴーリイは老人を助け起して、肘椅子へ坐らした。その顔は血みどろになっていたが、気分はしっかりしたもので、貪るようにドミートリイの叫び声に耳を傾けていた。彼は本当にグルーシェンカが、どこか家の中にいるような気がしてならなかったのである。ドミートリイは出しなに、さもにくにくしげな目つきをして彼を睨んだ。
「おれは貴様の血を流したからって、決して後悔しないぞ!」と彼は叫んだ。「用心しろ、じじい、せいぜい自分の空想を大切にするがいい、おれだってやはり空想を持ってるんだからな! 貴様なんかおれの方から呪ってやる、すっかり縁を切ってしまうんだ……」
 彼は部屋を駆け出した。
「あれはここにおる、確かにここにある! スメルジャコフ、スメルジャコフ」と老人は指で下男をさし招きながら、しゃがれた声で聞えないくらいにこう言った。
「あれがここにいるもんですか、ばかばかしい、わけのわからない爺さんだなあ」とイヴァンは毒々しく呶鳴りつけた。「やっ、気絶した! 早く水を、タオルを! 早くしろ、スメルジャコフ!」
 下男は水を取りに駆け出した。とうとう老人は寝室へ運ばれ、寝台の上に臥かされた。人々は濡れ手拭で頭を巻いてやった。コニヤクの酔いと、心の激動と、打撲の痛みのために弱りはてた老人は、頭が枕にふれるが早いか、すぐさま目をつり上げて人事不省に落ちてしまった。イヴァンとアリョーシャは広間へ帰った。スメルジャコフはこわれた花瓶のかけらを運び出していた。グリコーリイは沈んだ様子で目を伏せながら、じっとテーブルのそばに立っていた。
「お前も頭を冷やしたほうがいいのじゃないか、やはり寝床へ入ってふせったらどうだね」と、アリョーシャは老僕に向って言った。「僕ら二人ここにいて、お父さんの看護《みとり》をするから。兄さんがずいぶんひどくお前をぶったものねえ……おまけに頭を……」
「あの人はわしに向って失敬なことをしただ!」とグリゴーリイは一こと一こと区切りながら、沈んだ調子で言った。
「あの人はお父さんにも『失敬なことをした』のだ、お前どころのさわぎじゃないよ!」と、イヴァンは口を歪めながら言った。
「わしはあの人に湯までつかわして上げたに……あの人はわしに失敬なことをしただ!」とこちらは繰り返し言うのであった。
「ええ、勝手にしろ、もしおれが兄さんを引き放さなかったら、本当に殺してしまったかもしれやしない。あんなイソップ爺《じじい》に大して手間がかかるものかね!」とイヴァンは弟に囁いた。
「とんでもない!」とアリョーシャは叫んだ。
「どうしてとんでもないのだ。」依然として小さな声で、イヴァンは毒々しく顔を歪めながら囁いた。「毒虫が毒虫を咬み殺すのだ、結局、両方ともそこへいくんだよ!」
 アリョーシャはびくりとした。
「しかし、もちろん、僕は決して人殺しなんかさせやしないよ、たった今もさせなかったくらいだからね。アリョーシャ、お前ここへ残っておいで、僕は庭を少し歩いて来るから。何だか頭が痛くなった。」
 アリョーシャは父の寝室へ赴き、枕もとの衝立の陰に一時間ばかり坐っていた。と、ふいに老人は目を見開いて、何やら思い出そうとするかのように、長いこと無言のままじっとアリョーシャを見つめていた。突然はげしい興奮の色がその顔に浮んだ。
「アリョーシャ」と彼は心配そうに囁いた。「イヴァンはここにおる?」
「庭です、頭が痛いんですって。あの人が僕らの番をしてくれてるんです。」
「鏡を貸してくれ、そら、そこに立ててある。」
 アリョーシャは箪笥の上に立ててある、小さな丸い組み合せ鏡を父に渡した。老人は一心にその中を見入った。鼻がかなりひどく腫れあがって、額には左の眉のあたりに紫色の打ち身が目立って見えた。
「イヴァンは何と言うておる? アリョーシャ(お前はわしのたった一人の子供だ)、わしはイヴァンが怖い、わしはあいつよりイヴァンのほうがもっと怖い。わしの怖くないのはお前一人きりだ……」
「イヴァン兄さんだって恐れることはありません、あの人は腹こそ立てていますけれど、僕らを守ってくれますよ。」
「アリョーシャ、ところで、あいつのほうは? グルーシェンカのところへ飛んで行ったのか? おい、いい子だから本当のことを教えてくれ。さっきグルーシェンカがここへ来たか来なんだか?」
「誰も見たものがないんですもの。あれは嘘です、来やしません。」
「それでも、ミーチカはあれと結婚する気でおるのだ、結婚する気で!」
「あのひとは兄さんと一緒になりゃしませんよ。」
「ならんとも、ならんとも、ならんとも、決してなりゃせん!……」今の場合、これより嬉しい言葉を聞くことはできないかのように、老人は躍りあがらないばかりに悦んだ。彼は歓喜のあまり、アリョーシャの手を取って、自分の心臓へ強く押しつけるのであった。そればかりか、涙さえ目に輝きだしたほどである。「さっきわしが話した聖母マリヤの像も、お前にやるから持って行くがよい。お寺へ帰るのも許してやるわ……さっきのはほんの冗談だから、腹を立てんでくれ。ああ、頭が痛い。アリョーシャ……アリョーシャ、どうかわしの得心がゆくように、一つ本当のことを言うてくれんか!」
「また例の、あの女が来たか来ないか、ですか?」とこちらは悲しそうに言った。
「いいや、いいや、いいや。あれはお前の言葉を信用する。今度のはな、お前自身でグルーシェンカのとこへ行くか、それともほかに何とかしてあれに会うて、あれがどっちを取る気でおるか、――わしかあいつか、どっちにする気でおるか、訊いてほしいのだ、早く、少しも早くな。つまり、お前が自分の目で見て察しるのだ。うん? どうだ? できるかできんか?」
「もし会ったら訊いてみましょう」とアリョーシャは当惑したように呟いた。
「いいや、あれはお前に言やあせん」と老人は遮った。「あれはずいぶんあまのじゃくだから、いきなりお前を掴まえて接吻して、お前さんのお嫁になりたいわ、と言うだろうよ。あれは嘘つきだ。恥知らずだ。そうだ、お前はあれのところへ行っちゃならん、断じてならん!」
「それに、またよくないことですよ、お父さん、まったくよくないことですよ。」
「あいつはお前を、どこへ使いにやろうとしておるのかな。さっき逃げて行く時に『行って来い』と喚いたじゃないか?」
「カチェリーナさんのとこです。」
「金の用だろう! 金の無心だろう?」
「いいえ、金の無心じゃありません。」
「あいつは金がないのだ、びた一文もないのだ。おいアリョーシャ、わしは一晩寝てゆっくり考えるから、お前はもう行ってもよいぞ。ことによったら、あれにも会うかもしれんて……しかし、明日の朝、ぜひわしのとこへ来てくれ、きっとだぞ。わしはその時、お前に一つ言いたいことがある。来るかな?」
「来ます。」
「もし来てくれるなら、自分で見舞いに寄ったような顔をしてくれ。わしが呼んだってことは、誰にも言うのじゃないぞ。イヴァンには一口も言うちゃならんぞ。」
「承知しました。」
「そんなら、さよなら、さっきお前はわしの味方をしてくれたな、あのことは死んでも忘れやせん。明日はぜひお前に言わにゃならんことがあるが……今はまだ、も少し考えておきたいから。」
「いま気分はどんなですか?」
「明日は起きるよ、明日は。もうすっかり癒った、もうすっかり癒った!……」
 アリョーシャは庭を横切ろうとして、門のそばのベンチに坐っているイヴァンに出会った。彼は鉛筆で何やら手帳に書き込んでいた。アリョーシャは兄に向って、老人が目をさまして意識を取り戻したこと、それから自分が僧院へ帰っていいという許しをもらったこと、などを話して聞かせた。
「アリョーシャ、僕は明日の朝お前に会えたら、大へん好都合だがね」とイヴァンは立ちあがって、愛想よく言いだした。こうした愛想のいい調子は、アリョーシャにとってまったく思いがけないものであった。
「僕は明日ホフラコーヴァ夫人のところへ行きますし」とアリョーシャは答えた。「それに、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへも、もしきょう留守だったら、明日また行ってみるかもしれないのです……」
「じゃ、今やはりカチェリーナさんのところへ行くんだね? 例の『よろしく、よろしく』かね!」突然、イヴァンはにたりと笑った。アリョーシャは妙に間が悪くなってしまった。
「僕はさっき兄貴の呶鳴ったこともすっかりわかったし、以前のことも幾分読めたような気がする。兄さんがお前に使いを頼んだわけは、きっと自分が……その……何だ……つまり手っ取り早く言うと、『よろしく言って』ほしいからさ。」
「兄さん! あのお父さんとミーチャとの恐ろしい事件は、一たい、どんなふうに落着するんでしょうねえ?」とアリョーシャは叫んだ。
「確かなことは何とも想像がつかないが、大したことはなく、自然に縺れが解けるかもしれない。あの女は獣だね。とにかく爺さんを家の中に抑えておいて、ミーチャを家へ入れないようにしなくちゃ。」
「兄さん、失礼ですが、一つ訊きたいことがあります。一たいどんな人間でもほかの者に対して、誰それは生きる資格があって、誰それはその資格がない、などと決める権利を持ってるものでしょうか?」
「何だってお前は、この問題に資格の決定など持ち込むんだい! この問題は資格などを基礎とすべきではなく、もっと自然なほかの理由によって、人間の心の中で決しられるのが一ばん普通だね。しかし、権利という点になると、誰だって希望の権利を持ってないものはないさ。」
「しかし、他人の死を希望することじゃないでしょう?」
「他人の死だって仕方がないさ。それに、すべての人がそんなふうにして生きてる、というよりむしろ、そのほかの生き方ができないんだからね、自分で自分に嘘をつく必要なんか、どこにもないじゃないか。ところで、お前がそんなことを言いだしたのは、さっきの『毒虫が二匹咬み合ってる』という、僕の言葉を目やすにおいてるのかね? そういうわけなら、僕のほうからも一つ訊ねたいことがある。お前は僕もミーチャと同じように、あのイソップ爺《じじい》の血を流しかねない、――つまり、――殺しかねない人間だと思ってるのかい?」
「まあ、何を言うのです、兄さん! そんなことは夢にも考えたことがありませんよ! それに、大きい兄さんだってそんなこと……」
「いや、それだけでも有難い!」とイヴァンは苦笑した。「実際、僕はいつでも親父を守ってやるよ。しかし、自分の希望の中にはこの場合、十分な余地を残しておくからね。じゃ、さようなら、また明日ね。どうか僕を責めないで、そして悪者扱いにしないでくれ」と彼は微笑を浮べながら言った。
 二人はかつてこれまでなかったように、強く握手をした。アリョーシャは、兄が自分のほうから先にこちらへ一歩近づいて来たが、これには必ず何かの心算があるに相違ないと直覚した。

[#3字下げ]第十 二人の女[#「第十 二人の女」は中見出し]

 父の家を出たときのアリョーシャは、さきほどここへ入った時よりも、なお一そう打ち砕かれ、へし潰されたような心持になっていた。彼の理性も同様、微塵になって散乱したようであったが、同時に彼はそのばらばらになったものを継ぎ合せて、きょう一日のうちに経験したすべての矛盾の中から、一つの普遍的な意味を抽き出すのが恐ろしいように感じられた。何だかほとんど絶望と境を接しているようなあるものがあった。こんなことは今までかつて、アリョーシャの心に生じたことがなかった。こうした一切の上に、山のごとく聳えているのは、あの恐ろしい女に関する父と兄との事件が、一たいいつ終るだろうという、解決することのできない運命的な疑問であった。もう今日こそ彼は自分の目で見た、自分でその現場に居合わして、相対せる二人を見たのだ。とはいえ、不幸な人、本当に不幸な人と感じられるのは、ただ兄ドミートリイ一人でなければならない。疑いもなく、恐ろしい災厄が彼を待ち伏せしている。その上、以前アリョーシャが考えていたよりも、ずっと事件に関係の深い人がまたほかにもあるらしい。兄のイヴァンは彼が久しい以前から望んでいたように、自分のほうへ一歩踏み出して来た。しかし、彼はなぜかこの接近の第一歩が、薄気味わるく感じられるのであった。
 ところで、あの二人の女はどうだろう? 奇妙な話ではあるが、さきほどカチェリーナのもとをさして赴く時、非常な当惑を感じたにもかかわらず、今は少しもそんなことがなかった。それどころか、まるでこの婦人の助言でもあてにしているように、自分のほうから彼女のもとをさして急ぐのであった。とはいえ、彼女にことづけを伝えるのは、先刻より余計くるしいように思われた。三千ルーブリの問題がきっぱりと決せられたから、兄ドミートリイはもはや自分を不正直者ときめてしまって、絶望のあまりいかなる堕落の前にも躊躇しないに相違ない。その上彼はたった今起った出来事を、カチェリーナに伝えてくれと言いつけている……
 アリョーシャがカチェリーナの家へ入った時は、もう七時で、黄昏の色がかなり濃くなっていた。彼女は大通りにある恐ろしく広い、便利な家を一軒借りていた。彼女が二人の伯母と一緒に暮していることも、アリョーシャは承知していた。その中の一人は、姉のアガーフィヤだけの伯母にあたっていた。これは、彼女が専門学校から父の家へ帰って来た時、姉と一緒に世話を焼いてくれた、例の無口な婦人であった。いま一人の伯母は権式の高い、そのくせ貧乏なモスクワの貴婦人である。噂によると、伯母たちは二人とも万事につけて、カチェリーナの言うがままになって、ただ世間体のために姪のそばについているだけなのであった。カチェリーナが言うことを聞くのは、いま病気のためモスクワに残っている恩人の将軍夫人ばかりであった。この人には毎週手紙を二通ずつ送って、自分のことを詳しく知らしてやらねばならなかった。
 アリョーシャが控え室に入って、戸を開けてくれた小間使に自分の来訪を取り次ぐように頼んだ時、広間のほうでは早くも彼の来訪を知ったらしかった(ひょっとしたら、窓から見たのかもしれない)。と、急に、何かがたがた騒々しい物音がして、たれか[#「たれか」はママ]女の駆け出す足音や、さらさらという衣摺れの音などが聞えだ。何だか二三人の女が駆け出したような気配である。アリョーシャは、自分の来訪がこんな騒ぎをひき起すはずはないのにと奇妙に思った。しかし、彼はすぐ広間へ案内された。
 それは田舎式とまるで違って、優美な道具類を豊かに並べた大きな部屋であった。長椅子や|円榻《クシェートカ》や大小のテーブルがおびただしく配置され、四方の壁にはさまざまな画がかかり、テーブルの上にはいくつかの花瓶やランプが置かれて、花卉類もたくさんにあった。そればかりか、窓のそばには魚を入れたガラスの箱さえ据えてあった。黄昏時のこととて部屋の中は幾分うす暗かった。つい今しがたまで人の坐っていたらしい長椅子の上には、絹の婦人外套《マンチリヤ》が投げ出され、長椅子の前のテーブルの上には、飲み残されチョコレートの茶碗が二つと、ビスケットと、青い乾葡萄のはいったガラスの皿と、菓子を盛ったいま一つの皿、――などがうっちゃってあるのに、アリョーシャは気がついた。どうも誰かを饗応していたらしい様子なので、アリョーシャは来客の席へぶつかったのだな、と思って眉をひそめた。
 しかし、その瞬間とばりが上って、カチェリーナが忙しそうな、せかせかした足どりで入って来た。そして、歓喜の溢れた微笑を浮べながら、両手をアリョーシャのほうへさし伸べた。それと同時に、女中が火をともした蝋燭を二本持って来て、テーブルの上へおいた。
「まあよかった。とうとうあなたも来て下さいましたわね! わたし今日いちん日《ち》あなたのことばかり、神様にお祈りしていましたの! どうぞお坐り下さいまし。」
 カチェリーナの美貌は、このまえ会った時も、アリョーシャに烈しいショックを与えた。それは三週間ばかり前ドミートリイが、彼女自身の熱心な希望によって、はじめて弟を連れて行って紹介した時のことである。その会見の時は二人の間に、どうもうまく話がつづかなかった。カチェリーナは、彼が恐ろしくどぎまぎしているらしいのを見て、世馴れぬ少年を容赦するといった様子で、初めからしまいまでドミートリイとばかり話していた。アリョーシャはじっと黙り込んでいたけれども、いろいろなことをはっきりと見分けたのである。
 そのとき彼を驚かしたのは、思いあがった令嬢の権高い様子と、高慢らしく打ち解けた態度と、自己に対する深い信念であった。これは断じて疑いの余地がなかった。アリョーシャは自分が誇張におちいっていないことを信じていた。彼は、その誇りに充ちた大きな黒い目の美しいこと、それが彼女の蒼白い、むしろ蒼黄ろいような長めな顔にことのほかよく似合うこと、などを発見したのである。この目の中にも、また美しい唇の輪郭の中にも、いかにも兄が夢中になって打ち込みそうではあるけれど、長く愛していられないような何ものかがあった。ドミートリイがその訪問のあとで、自分の許嫁を見てどんな印象を受けたかとしつこく弟に訊ねたとき、アリョーシャはこの感想をむきつけに言ってしまった。
「兄さんはあのひとと一緒に、幸福に暮すでしょうが……しかし、それは穏かな幸福ではないかもしれませんよ。」
「そこなんだよ。ああいうふうの女は、いつまでもああいうふうでいるんだよ。ああいうふうの女は、決して諦めて運を天に任せるということをしない。で、何だな、お前はおれが永久にあの女を愛さないと思うんだな?」
「いいえ、もしかしたら、永久に愛するかもしれませんけれど、あのひとと一緒になっても、しじゅう幸福でいられないかもしれませんよ……」
 アリョーシャはそのとき真っ赤になって、自分の意見を述べた。そして、つい兄の乞いにつり込まれてこんな『愚かな』考えを吐いたのを、自分ながらいまいましく思った。なぜなら、彼がこの意見を口に出すと同時に、自分にも恐ろしくばかばかしく感じられたからである。それに、自分のようなものが婦人に対する考えを、あんな偉そうな調子で言ったのが恥しくもあった。
 こういうことがあっただけに、いま自分のほうへ駆け出して来たカチェリーナを一目見た時、彼の驚きはなおさら強かった。もしかしたら、あの時の考えがまるで誤っていたかもしれない、と感じたくらいである。いま彼女の顔はわざとならぬ善良な心持と、一本気な、熱しやすい真心に輝いていた。あの時あれほどまでにアリョーシャを驚かした、思いあがった傲慢な態度の中から、いまはただ勇敢で潔白なエネルギーと、はればれした力強い自信が窺われるばかりであった。愛する男との関係から生じた自分の位置の悲劇性《トラギズム》は、彼女にとって毫も秘密でないばかりか、彼女はもはや一切のことを、――何から何まで一切のことを承知しているのかもしれない。アリョーシャは彼女の顔を一目見、その声を一こと聞いたばかりで、こう直覚した。が、それにもかかわらず、彼女の顔には未来に対する信仰と光明とがみちみちていた。
 アリョーシャは急に自分が彼女に、意識して重大な罪を犯しているように思われだした。彼は一瞬の間に征服せられ、牽きつけられてしまったのである。そのほか、彼はカチェリーナの最初の言葉を聞いたばかりで、彼女が何かしら異常な興奮、ほとんど歓喜ともいうべき興奮の状態にあることを見てとった。
「わたしがそんなにあなたをお待ちしていたわけはね、いま本当のことを聞かして下さるのはあなただけだからですの。ほかにそんな人は一人もありません!」
「僕が来たのは……」アリョーシャは、まごつきながら言い出した。「僕……兄さんの使いで来たのです……」
「ああ、兄さんがよこしなすったんですって? わたしもそうだろうと思ってましたわ。今はもう、何でもわかってますのよ、すっかり!」とカチェリーナは急に目を輝かしながら叫んだ。「あのね、アレクセイさん、わたしどういうわけで、そんなにあなたをお待ちしたかってことを、前もってお話しておきますわ。もしかしたら、わたしはあなたよりずっとたくさん、いろんなことを知ってるかもしれませんのよ。わたしがあなたから伺いたいのは、事実の報告じゃありません。あなたがご自身でお受けなすったあの人の最近の印象が知りたいんでございますの。どうか遠慮も飾り気もなく、あの人の近状を話して聞かして下さいませんか。無作法な話でもかまいません(えええ、いくら無作法な話でもようござんすわ!) 一たいあなたは今の兄さんを何とごらんになります? そして今日あなたと会ってから後の兄さんの状態を、何とごらんになりまして? これはわたしが自分であの人に話すよか、きっといいに相違ないと思いますわ。あの人はもうわたしのところへ来ないつもりでいるんです。わたしが何をあなたから望んでいるか、これでおわかりになりましたでしょう? さあ、今度はあの人が何用であなたを使いによこしなすったか(わたし必ずよこしなさるだろうと思ってましたわ!)どうぞ手短かに、一ばん肝心なところを聞かして下さいません!………」
「兄さんはあなたに……よろしく言ってくれ、もう今後決して足踏みしないから、……あなたによろしく言ってくれ……って申しました。」
「よろしく? あの人がそう言ったんですの、そのとおりの言い廻しをしたんですの?」
「ええ」
「もしかしたら、ひょいと何の気なしに言ったのかもしれませんね。間違って妙な言葉が、口に出たのかもしれませんわね。」
「いいえ、兄さんはこの『よろしく』という言葉を、ぜひ伝えてくれって言いつけたのです。忘れないように伝えてくれって、三度も念を押したのです。」
 カチェリーナはかっと赧くなった。
「アレクセイさん、どうぞわたしに一つ力添えをして下さいな。今こそ本当にあなたのご助力が必要なんですの、わたし自分の考えを言ってみますから、あなたはそれについて、わたしの考えが正しいかどうか、おっしゃって下さいませんか。ようござんすか、もしあの人が何の気なしによろしく言ってくれって、あなたに言いつけたのでしたら、――つまり、特別この言葉に力を入れて、この言葉をぜひ伝えるように念を押さなかったのですと、それがもうすべてなのです……それで万事おしまいなのです! けれど、もしあの人が特別この言葉に念を押して、特別この『よろしく』を忘れないでわたしに伝えるように言いつけたのですと、あの人はつまり、興奮していたということになります。ひょっとしたら、前後を忘れていたのかもしれませんね。決心はしながらも、自分で自分の決心を恐れているのです! 確かな足どりでわたしのそばを離れたのでなく、急な坂を走って下りたのです。この言葉に力を入れたのは、ただのから威張りだという証拠じゃないでしょうか……」
「そうです、そうです!」とアリョーシャは熱心に叫んだ。
「僕にも今そう思われます。」
「もしそうでしたら、あの人はまだ駄目じゃありません! ただ自暴になってるだけですから、わたしはあの人を救うことができます。それはそうと、あの人は何かお金のことを、三千ルーブリのことをあなたに話しませんでしたか?」
「話したばかりじゃありません。これが一ばん烈しく兄さんを苦しめているらしいのです。兄さんはもうこうなっては、身の潔白まで奪われたのだから、どうなったって同じことだと言ってました」とアリョーシャは熱くなって叫んだ。彼は、自分の心にむらむらと希望が湧き起って来るのを感じ、本当に兄のために救済の道が開けだのかもしれない、というような気持がした。「しかし、あなたは一たい……あの金のことをご存じなんですか?」と言いたしたが、急に言葉を切ってしまった。
「とうから知ってますわ。正確に知ってますわ、わたしモスクワへ電報で問い合せて、お金が着いてないってことを、とうに知りました。あの人はお金を送らなかったのです、けれど、わたしは黙ってましたの。先週になって初めてあの人にお金のいったこと、そして今でもいることを知りました……わたしはこのことについて、ただ一つの目的を定めましたの。つまりあの人が、自分は結局誰の手へ帰ったらいいか、そして誰が自分の一ばん忠実な親友かってことを、悟ってくれるように仕向けたいのでございます。ところがあの人は、わたしがその一ばん忠実な友達だってことを、信じてくれないんですの。わたしの心を見抜こうとしないで、ただ女としてわたしを見ているのでございます。わたしはまる一週間、おそろしい心配に苦しめられました、――あの人が例の三千ルーブリの使い込みを恥と思わないようにするには、一たいまあどうしたらいいだろうと思いましてねえ。それはもう、世間の人や、自分自身に恥じるのはかまいませんけれど、わたしに恥じることだけはさせたくありませんの。だって、あの人も神様には少しも恥じないで、一切を打ち明けてるじゃありませんか。それだのに、わたしがあの人のためにどんな辛抱でもできるってことを、なぜ今まで知ってくれないんでしょう? なぜ、なぜあの人にはわたしの心がわからないんでしょう? ああいうことがあった後だのに、どうしてわたしの心を知らずにいられるのでしょう? わたしはどこまでもあの人を助けとうございます。あの人が許嫁としてのわたしを忘れたってかまいません! それだのに、あの人はわたしに対して、身の潔白なんか心配してるんですもの! だってねえ、アレクセイさん、あなたには何の恐れもなしに打ち明けたじゃありませんか。一たいわたしはどうして今まで、それだけのこともしてもらえないんでしょう?」
 終りのほうの言葉は涙の中から聞えてきた。涙が彼女の目からはふり落ちるのであった。
「僕はたったいま兄さんと父との間に起ったことを、あなたにお話しなきゃなりません」とアリョーシャも同様に顫える声で言った。彼はさきほどの一場をすっかり話した。金の使いで父のもとへ行ったこと、そこへ兄が闖入して、父を殴打したこと、そのあとで兄がとくにもう一度彼に向って、『よろしく』のことづけに念を押したこと、などを物語ったのである。
「兄さんはそれからあの女のところへ行きました……」と彼は低い声でつけたした。
「まあ、あなたはわたしがあのひとを嫌ってるとでも思ってらっしゃるの? 兄さんもそう思ってるのでしょうか、わたしあのひとが厭でたまらないなんて? けれど、兄さんはあのひとと結婚しませんよ。」ふいに彼女は神経的に笑いだした。「一たいカラマーゾフの人が、いつまでもあんな情欲に燃えることができるでしょうか! ええ、あれは情欲ですわ、愛じゃありませんとも。兄さんは、結婚なんかしませんよ、だってあのひとが承知しませんもの……」突然またカチェリーナは奇妙な薄笑いをもらした。
「しかし、兄さんは結婚するかも知れませんよ」とアリョーシャは目を伏せながら、悲しげな調子でこう言った。
「いいえ、結婚しません、わたし受け合いますわ! あの娘さんはまるで天使のような人ですよ、あなたそれをご存じ? あなたそれをご存じ?」突然カチェリーナは異常な熱をおびた声で叫んだ。「あの娘さんはまったくほかに類のないくらい、ロマンティックな人なんですよ! わたし、あのひとがずいぶん誘惑の力を持っているのも知ってますが、またあのひとが親切でしっかりしていて、しかも高尚な娘さんだってことも承知しています。何だってあなたそんな目をして、わたしをごらんなさるんですの? 大方わたしの言うことにびっくりなすったのでしょう、たぶんわたしの言うことを本当になさらないんでしょう? アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ!([#割り注]グルーシャの正確な呼び方[#割り注終わり])」とふいに彼女は次の間に向って、こう誰かを呼びかけた。「こっちへいらっしゃいな、ここにいらっしゃるのはアリョーシャですよ。もうわたしたちのことはすっかり知ってらっしゃるんですから、こちらへ出て挨拶をなさいな!」
「わたしカーテンの陰で、あなたが呼んで下さるのを、今か今かと待ってましたのよ」という幾分あまったるいくらい優しい女の声が聞えた。
 と、とばりがもちあがって……当のグルーシェンカが嬉しそうに笑いながらテーブルに近づいた。アリョーシャは腹の中がひっくり返ったような気がした。彼の目は女の方へ吸いつけられて、引き放すことができなかった。ああ、これがあの女なのだ。兄イヴァンが三十分まえに口をすべらして、『獣』と言ったあの恐ろしい女なのだ。そのくせ、いま彼の前に立っているのは、ちょっと見たところきわめてありふれた単純な女、人の好さそうな愛くるしい女であった。かりに美人であるとしても、美しいけれど『ありふれた』世間一般の女に似たり寄ったりの美人であった。しかし、何といっても美しいには相違ない、非常にと言ってもいいくらいである……つまり、多くの人から夢中になるくらい愛される、ロシヤ式の美しさであった。彼女はかなり背の高い女であったが、しかし、カチェリーナよりはちょっと低かった(カチェリーナはずぬけて背の高いほうであった)。肉つきはいい方で、体の運動などは、ほとんど音を立てないほど柔かであったが、やはり声と同じように、甘ったるい感じがするくらい、わざとらしくしなしなしていた。
 彼女は、カチェリーナみたいに力の籠った大胆な足どりでなく、反対に音の立たないようにして近づいたのである。その足は床に触れてもまるで音が聞えなかった。彼女は洒落た黒い絹の着物を柔かに鳴らしながら、柔かに肘椅子に腰をおろし、高価な黒い毛織の襟巻で、泡のように白いむっちりした頸と、幅のある肩を、しなしなした手つきでくるんだ。
 彼女は二十二であったが、その顔はきっちりこの年齢に相応していた。上品な薄ばら色がほんのりとさして、抜けるほど白い顔の輪郭は、どっちかと言えば帽広なほうで、下頤は心もちそり加減なくらいである。上唇はごく薄かったが、やや突き出た下唇は二層倍も厚くて、脹れぼったかった。しかし、類のないふさふさした暗色《あんしょく》の髪と、黒貂《こくてん》のように黒い眉と、睫の長い灰色がかった空色をした美しい目とは、どんなに雑沓した人込みの中を散歩している気のないそわそわした男でも、思わず視線を向けて、長くその印象を畳み込まずにいられないほどであった。この顔の中で最も強くアリョーシャを打ったのは、子供らしい開けっ放しの表情であった。彼女は子供のような目つきをして、何か知らないが、子供のように悦んでいる様子であった。事実、彼女はさも嬉しそうにテーブルへ近づいたが、その様子はちょうど、今にも何か変ったことがあるだろうと信じきって、子供らしい好奇心をいだきながら、じりじりして待ち受けているというようなふうであった。彼女の目つきにも、人の心を浮き立たせるようなところがあった、――アリョーシャもこれを直覚した。
 まだその上に彼女の中には、何とも説明することができないけれど、しかし無意識にそれとなく感じられるあるものがあった。それは例の肉体の運動が、柔かくしなやかで猫のように静かなことである。そのくせ、彼女は力の充ち溢れた体をしていた。ショールの下には、幅のある肥えた肩や、むっちり高い、まるでまだ処女のような乳房が感じられた。ことによったら、この体は将来ミロのヴィーナス([#割り注]ルーヴル所蔵のギリシャ彫刻[#割り注終わり])の形をとるかもしれない。もっとも、それはもう今でも、その誇張されたプロポーションの中に予想されるのであった。ロシヤ女性美の研究家はグルーシェンカを見て、間違いなしにこういうことを予言し得るであろう、ほかではない、このいきいきしたまだ処女のような美しさも、三十近くなったら調和を失ってぶくぶく肥りだし、顔まで皮がたるんでしまって、目のふちや額には早くも小皺がよりはじめ、顔の色は海老色になるかも知れない、――つまり、ロシヤ婦人の間によくある束の間の美、流星の美だというのである。
 アリョーシャは、もちろん、そんなことを考えなかったばかりか、ほとんど魅了されていたくらいであるが、しかし、どうしてこのひとはあんなに言葉を引き伸ばして、自然なものの言い方ができないのだろうと、何となく不愉快な感触をいだきながら、妙に残念な心持で、自分で自分に問いかけるのであった。見受けたところ、彼女がこんなことをするのは、こういうふうに言葉や音を引き伸ばして、いやに甘ったるい調子をつけるのを、美しい話しぶりだと思っているらしい。もちろん、これはただの悪い習慣であって、彼女の教育程度の低いことと、子供の時分から礼儀というものについて俗な観念を叩き込まれているのを証明するのみであった。が、それにしても、この発音と語調とは、子供らしい単純な顔の表情や、赤ん坊にのみ見られる穏かな幸福らしい目の輝きに対して、ほとんどあり得べからざる矛盾を形作っているように、アリョーシャには感じられた。
 カチェリーナはさっそく、彼女をアリョーシャの真向いにある肘椅子にかけさして、その笑みをふくんだ唇を夢中になって幾度も接吻した。彼女はさながら恋せる人のようであった。
「アレクセイさん、わたしたちは初めて会ったんですの」と彼女は有頂天になって叫んだ。「わたしこのひとに会って、このひとの性質《ひととなり》が知りたくて、自分のほうから先に出かけようかと思っていたところ、このひとがわたしの招きに応じて、一度で自分から来て下すったんですの。このひとと一緒だったら、何もかもすっかり、本当にすっかり解決ができるに違いないと思いました。わたしの胸はそれを予感していました……わたしこう決心した時、みんなにとめられましたけど、それでもちゃんと結果を予感していました。そして、案の定、間違っていませんでしたわ。グルーシェンカは何もかも打ち明けてくれました。自分の考えをすっかり聞かしてくれました。このひとは、ちょうど天使のように、ここへ飛んで来て、慰めと悦びをもたらしてくれたんですの……」
「あなたはわたしのようなものでも、おさげすみになりませんでした、本当に優しいお嬢さまでいらっしゃいますわねえ。」やはり例の愛嬌のいい嬉しそうな笑みを浮べたまま、グルーシェンカは歌でも歌うように言葉じりを引いた。
「まあ、あなた、かりにもそんなことをわたしにおっしゃんなよ! あなたのような美しい魅力のある人をさげすむなんて! よくって、わたしあなたの下唇を接吻するわ。あなたの下唇はまるで脹れたようになってるから、もっと脹れぼったくなるように接吻して上げてよ、も一度……も一度……ねえ、アレクセイさん、あの笑顔をごらんなさい。ほんとうにこのエンゼルの顔を見てると、心がうきうきしてきますわ……」
 アリョーシャは顔を赧らめて、目に見えぬほど小刻みに顫えていた。
「あなたはそんなにわたしを可愛がって下さいますが、もしかしたら、わたしはまるでそんなことをしていただく値うちのない女かもしれませんよ。」
「値うちがないんですって? このひとにそれだけの値うちがないんですって!」とカチェリーナはまたしても以前と同じ熱中した調子で叫んだ。「ねえ、アレクセイさん、このひとはずいぶんとっぴなことを考えだす人ですけれど、その代りごくごく誇りに充ちた、自由な心を持ってらっしゃるんですよ! アレクセイさん、このひとが高尚な、そして度量の広い方だってことをご存じ? ただこのひとは不仕合せだったのです。このひとはつまらない軽薄な男のために、あらゆる犠牲をはらうのを急ぎすぎたのです。ずっと以前、五年ばかり前のことです、一人の男がありました。やはりこれも士官でしたが、このひとはその男を愛して、一切のものをその士官に捧げたのです。ところが、男はこのひとのことを忘れて、結婚してしまいました。この頃になって、その男は奥さんに死なれて、ここへ来るという手紙をよこしたのです、――ところが、どうでしょう、このひとは今でもその男一人を、天にも地にもその男一人を愛しているのです、今までずっと愛し通していたんですの。その男が帰って来たら、このひともまた幸福になるんですの。けれど、この五年間というもの、このひとは不幸な身の上だったんですわ。でも、このひとを咎めるのは誰でしょう、この立派な心がけを褒めてくれるのは誰でしょう? あの、足の立たないお爺さん、商人のサムソノフ一人きりじゃありませんか、――それもどっちかと言えば、まあこのひとのお父さんか友達か、でなければ保護者といったほうが近いくらいなんですもの。このお爺さんは、そのとき恋人に捨てられて絶望と苦痛の申に沈んでいるグルーシェンカに出くわしたんですの……まったくこのひとはその時、身投げしようとまで思いつめてたんですからね……そういうわけで、あのお爺さんはこのひとにとって命の親ですわ、命の親ですわ!」
「お嬢さま、あなたは大変わたしをかばって下さいますのねえ、あなたは万事につけてあまり気がお早すぎますわ」とまたグルーシェンカは言葉じりを引いた。
「かばうですって? まあ、あなたをかばったりなんかできますか、そんな生意気なことがわたしにできますか? グルーシェンカ、エンゼル、あなたのお手を貸してちょうだい。ねえ、アレクセイさん、わたしこのふっくらした小さな美しい手を接吻しますわ。あなたこの手をごらんなすったでしょう、この手はわたしに幸福をもたらして、わたしを復活さしてくれたんですの。よござんすか、わたし今この手を接吻しますよ、甲のほうも、掌のほうも、ほらね、もう一度……もう一度!」
 彼女は有頂天になったようなふうで、あまり脹れぼったすぎるくらいなグルーシェンカの手を、本当に三度まで接吻するのであった。こちらはその小さな手をさし伸べて、神経的な、響きのいい美しい笑い声をたてながら、『お嬢さま』のすることをじっと見まもっていた。見たところ、彼女はこんなふうに自分の手を接吻してもらうのが、いかにも気持よさそうであった。
『あまり有頂天になりすぎているかもしれない』という考えが、ちらとアリョーシャの頭をかすめた。彼は急に顔を赧くした。あやしい胸騒ぎが初めからずっとやまないのであった。
「お嬢さま、アレクセイさんの前であんなふうに接吻なんかして、わたしに恥をかかせないで下さいましな。」
「わたしがあんなことをしたからって、あなたに恥をかかすことになるんでしょうか」とカチェリーナはいくぶん驚いたように言った。「あなたにはわたしの心持がおわかりにならないのねえ!」
「いいえ、あなたこそわたしの心持が、本当におわかりにならないのかもしれませんわ、お嬢さま。わたしあなたのお目に映るよりか、ずっと悪い女かもしれませんもの。わたしは心の悪いわがままな女ですからね。ドミートリイさんだって、ただちょっとからかってやろうというつもりで、あの時とりこ[#「とりこ」に傍点]にしてしまったくらいですもの。」
「でも、今ではそのあなたが、あの人を救おうとしてらっしゃるじゃありませんか。あなた、そう約束なすったでしょう、――あなたがもうとうからほかの人を愛していて、しかもその人が今あなたに結婚を申し込んでるってことを、あの人に知らせて目をさまして上げますって……」
「まあ、違いますわ、わたしそんな約束をしたことはありませんよ。それはあなたが一人でお話しになったばかりで、わたし約束も何もしやしませんわ。」
「じゃ、わたし思い違いをしたんですね。」カチェリーナは心もち青くなって、小さな声でこう言った。「あなたお約束なすったじゃありませんか……」
「いいえ、お嬢さま、わたし何にも約束なんかしませんわ。」依然として楽しそうな罪のない表情をしたままで、静かに落ちつきはらってグルーシェンカは遮った。「ねえ、これでおわかりになったでしょう、お嬢さま、わたしはあなたにくらべると、こんなに厭な、気ままな女なんですからね。わたし、気が向きさえしたら、すぐそのとおりにしてしまう性分なんですの。さっきは、本当に何かお約束したかもしれませんけど、今またふいと考えてみると、また急にあの人が好きになるかもしれませんもの、あのミーチャがね、――もう以前だって、あの人が好きになったことがあるんですよ、まる一時間ぐらい、ずうっと気に入ってたわ。ですから、今すぐにも帰って行って、今日からさっそく、うちに落ちついておしまいなさいって、あの人に言わないともかぎりませんわ……わたし、こんなに気の変りやすい女ですの……」
「さっきあなたがおっしゃったのは……まるで違ってましたわ……」カチェリーナはやっとのことで、これだけ呟いた。
「ああ、さっきはねえ! わたし気の脆い馬鹿な女ですから、あの人がわたしのために、どんな苦労をしたか考えてみただけでもねえ! 本当に家へ帰ってみて、急にあの人が可哀そうになったら、その時どうしましょう?」
「わたしまったく思いがけませんでしたわ……」
「まあ、お嬢さま、あなたはわたしにくらべると、なんて立派な気高いお方でしょう! もう今となったら、こういう気性を知っただけで、わたしみたいな馬鹿には愛想をおつかしなすったでしょう。お嬢さま、その優しいお手を貸して下さいまし。」彼女はしとやかな調子でこう言って、うやうやしくカチェリーナの手を取った。「ねえ、お嬢さま、わたしはあなたのお手を取って、さっきわたしにして下すったのと同じように接吻します。あなたはわたしに三度接吻して下さいましたが、わたしは三百ぺんも接吻しなければ勘定がすみませんわ。それだけのことはしなくちゃなりません。そのあとは神様の思召し次第で、もしかしたら、わたしはすっかりあなたの奴隷になりきって、万事あなたのお気に召すようにするかもしれませんわ。わたしたちの間で相談や約束をしなくっても、神様がきめて下すったとおりになって行くんですからねえ。まあ、このお手、なんて可愛いお手でしょう! 美しいお嬢さま、ほかにまたと類のないお嬢さま!」
 彼女は接吻の勘定をすますという奇妙な目的をもって、この『お手』をそろっと自分の唇へ持って行った。カチェリーナはその手を引かなかった。彼女は臆病な希望をいだきつつ、『奴隷のように』あなたのお気に召すようにするという、グルーシェンカの最後の約束(もっとも、奇妙な言い廻しではあるけれど)を聞いたのである。彼女は張りきった様子で相手の目を見つめた。その目の中には依然として、かの信頼の念に充ちた単純な表情と、はればれとした楽しげな色が窺われた。
『この女はあまり無邪気すぎるのかもしれない』という希望が、カチェリーナの心をかすめた。グルーシェンカはその間に、『可愛いお手』で夢中になったようなふうつきで、そろそろとその手を唇へ持っていった。が、唇のすぐそばまで持っていった時、とつぜん何やら思いめぐらすかのさまで、二三秒の間じっとその手をとめてしまった。
「ねえ、お嬢さま、」彼女は恐ろしくしなしなした甘ったれた声で、言葉じりを引きながらだしぬけにこう言った。「ねえ、わたしあなたのお手を取りましたけど、接吻はやめておきますわ。」
「どうなとご勝手に……一たいあなたどうなすったの?」とカチェリーナはふいに身ぶるいした。
「ですから、よく覚えておいて下さいまし、あなたはわたしの手を接吻なすったけれども、わたしはしなかったってね。」突然、彼女の目に何やらひらめいた。彼女は穴のあくほど相手の顔を見つめるのであった。
「生意気な!」ふいに何ものかを悟ったように、カチェリーナは口走って、かっと赧くなって椅子を跳びあがった。グルーシェンカも悠然と立ちあがった。
「わたしミーチャにもさっそく話して聞かせてやりましょう、――あなたはわたしの手を接吻なすったけれど、わたしはこれっから先もしなかったって。さぞあの人が笑うことでしょうよ!」
「穢らわしい、出て行け!」
「まあ、恥しい、お嬢さま、なんて恥しいことでしょう、あなたのお身分で、そんなはしたないことをおっしゃるなんて。」
「出て行け、売女《ばいた》!」とカチェリーナは甲走った声で叫んだ、――すっかり歪んでしまったその顔の筋肉が一本一本慄えるのであった。
「売女なら売女でよござんすが、あなたご自身だって生娘のくせに、夕方わかい男のところへお金ほしさにいらしったじゃありませんか、その美しい顔を売りにいらしったじゃありませんか、わたしちゃんと知ってますよ。」
 カチェリーナは一声たかく叫んで、相手に飛びかかろうとしたが、アリョーシャが一生懸命に抱きとめた。
「ひと足も出ちゃいけません! 一ことも言っちゃいけません! 何もおっしゃんな、あのひとはすぐに帰ります、今すぐ帰ります!」
 この瞬間カチェリーナの伯母が二人と、それに小間使が、叫び声を聞きつけて、部屋の中へ駆け込んだ。一同は彼女の方へ飛びかかった。
「ええ、帰るわ。」長椅子から婦人外套《マンチリヤ》を取りながら、グルーシェンカはそう言った。「アリョーシャ、わたしを送ってちょうだいな!」
「お帰んなさい、はやくお帰んなさい、お頼みです!」アリョーシャは、祈るように両手を合すのであった。
「アリョーシャ、後生だから送ってちょうだいってば! わたし歩きながら、それはそれはいいことを一つ教えて上げてよ! 今のはね、わたしあんたのために、わざと一芝居うってみせたのよ。送ってちょうだい、あとで気に入るに相違ないんだから。」
 アリョーシャは両手をよじ合せながら、くるりと脇を向いてしまった。グルーシェンカはからからと笑って家を飛び出した。
 カチェリーナはヒステリイの発作を起した。彼女は痙攣に息をつめられて、しゃくり上げながら泣くのであった。一同はそのまわりをうろうろしていた。
「だから、わたしが前からそう言ったんですよ」と年上のほうの伯母が言った。「わたしがそんな思いきったことをするのはよくないと言ってとめたんだけど……あなたがあまり物事に熱中する性分ですからね……本当にあんな思いきったことをするって法はありませんよ! あなたはあんな種類の女を知りなさらないけれど、誰でもあれは人間の屑だって言っていますよ。本当に、あなたはわがまますぎるんです!」
「あれは虎です!」とカチェリーナは声を振り絞って叫んだ。「アレクセイさん、なぜあなたはわたしをとめたんです? わたしあの女をうんと思うさまひっぱたいてやったのに!」
 彼女はアレクセイの前でも、自分を抑えることができなかったらしい。しかし、あるいは抑えようとも思わなかったのかもしれない。
「あんなやつは鞭で引っぱたいてやってもいいのだ、処刑台へのせて、首切り人の手を借りて、大勢の目の前で!………」
 アリョーシャは戸口のほうへあとずさりした。
「だけど、まあ!」突然、彼女は手を拍って叫びだした。「あの人が! 本当にあの人はそれほどまでに不正直な、不人情な人間になりさがったのでしょうか! だって、あの人が話して聞かせたのでしょう、あの恐ろしい、永久に呪ってもたりない日の出来事を!『お嬢さま、あなだだってその美しい顔を売りにいらしったじゃありませんか』だとさ! あの女は知ってるんだ! アレクセイさん、あなたの兄さんは悪党です!」
 アリョーシャは何か言いたかったが、言うべき言葉が一つも出て来なかった。彼の心臓は痛いほど締めつけられるのであった。
「アレクセイさん、帰って下さい! わたしは恥しい、わたしは恐ろしい! あす……一生のお願いですから、あす来て下さいませんか。どうかわたしを悪く思わないで下さい、赦して下さい。わたしはまだ自分で自分をどうするかわからないんですから!」
 アリョーシャはよろめくような足どりで往来へ出た。彼もカチェリーナと同じように泣きだしたくなった。と、うしろから女中が追っかけて来た。
「これはホフラコーヴァさまからことづかった手紙ですが、奥さまがあなたにお渡しするのを忘れなさいましたので……もうお昼すぎからまいっておりました。」
 アリョーシャはばら色の小さな封筒を、機械的に受け取って、ほとんど無意識にかくしへ押し込んだ。

[#3字下げ]第十一 ここにも亡びたる名誉[#「第十一 ここにも亡びたる名誉」は中見出し]

 町から僧院までは一露里と少しばかりしかなかった。この時刻になるといつも淋しい道を、アリョーシャは急いで歩いた。ほとんどもう夜のとばりが落ちて、三十歩さきにあるものは見分けがつかなかった。ちょうど半分道のあたりに四辻があったが、その四辻の一本柳の下に何かの影が見えた。アリョーシャが四辻へ足を踏み入れるやいなや、この影はつとその場を離れて、彼のほうへ飛びかかって来た。そして猛烈な声で叫んだ。
「命が惜しくば財布をよこせ!」
「ああ、兄さんですか!」ひどく慄えあがったアリョーシャは、驚いてこう言った。
「はははは、意外だったかい? おれはどこでお前を待とうかと考えてみたのさ。あの女の家のそばとも思ったが、あすこから道が三つに分れてるから、悪くしたら見落すかもしれない。で、とうとうここで待つことにきめたんだ。なぜと言って、お寺へ行く道はもうほかにないから、お前はぜひここを通るに相違ないだろうと思ってね。さあ、ありのままを言って、おれを油虫のようにへし潰してくれ……しかし、お前は一たいどうしたんだ?」
「何でもありませんよ、兄さん……僕ちょっとびっくりしたもんですから。だけど、兄さん、つい先ほどお父さんの血を流したばかりだのに(とアリョーシャは泣きだした。もうだいぶ前から泣きたかったのだが、いま急に心の中で何か引きちぎれたような気がしたのである)……危くお父さんを殺さないばかりの目にあわして……呪いの言葉まで吐いておきながら……今……ここで……『命が惜しくば財布をよこせ!』なんて、洒落どころの騒ぎですか!」
「ふん、どうして? 無作法だとでも言うのか? 今の境遇に不釣合いだとでも言うのか?」
「いいえ、そうじゃありません……僕はただ……」
「ちょっと待ってくれ。まあ、この夜景色を見ろ。何という暗澹たる夜だろう! 一面の雲で、おまけにえらい風が起ったじゃないか? おれはこの柳の陰に隠れてお前を待ってるうちに、ふいと考えたよ(まったくの話だ!)、このうえ何をくよくよして、何を待つことがいるんだ! ここに柳もあるし、ハンカチもあればシャツもあるから、繩はすぐになうことができる。そいつをちょっと水で濡らしたら、――もうこの大地の荷厄介にならないでもすむし、この低劣な存在でもって神聖な土をけがすこともない! ところへちょうどお前の足音が聞えたのさ、――すると急に何ものか、おれの頭の上へ飛び下りたような気持がした。つまり、何といってもまだおれの愛する人間がいる。あれがそうだ、あの人間がそうなんだ、あれが世界じゅうでおれの一番好きな、たった一人の可愛い弟だ、とでもいうような心持なのさ。そこでおれはその瞬間に、お前が可愛くてたまらなくなったので、一つあれの頸っ玉へ噛りついてやれと考えたんだ。ところが、またひょいと馬鹿な考えが浮んできて、『一番あれの気の浮き立つようにびっくりさしてやろう』と思ったので、つい『命が惜しくば!』なんて、馬鹿みたいに呶鳴ったのさ。実際、馬鹿な真似だった、赦してくれ、――あれはほんの冗談で、心の中は……やはり真面目なんだよ……ええ、まあ、どうだっていいや、それよりもあそこでどんなことがあった、聞かしてくれ。あの女は何と言った? さあ、おれをへし潰してくれ、遠慮なしに度胆を抜いてくれ! 前後を忘れるほど腹を立てたろうな?」
「いいえ、違います……あそこで見たのはまるで思いがけないことですよ、ミーチャ。あそこで……僕はたった今、両方の人に会いました。」
「両方の人って誰々だい?」
「グルーシェンカとカチェリーナさんです。」
 ドミートリイは棒立ちになった。
「そんなことがあるもんか!」と彼は叫んだ。
「お前、夢を見てるんだよ! グルーシェンカがあの女のところへ行くなんて!」
 アリョーシャはカチェリーナの家へ入った瞬間から、自分の見聞きしたことをすっかり話した。彼は十分ばかり話しつづけた。むろん、流暢な整った話しぶりではなかったが、肝心な言葉や肝心の動作を掴むとともに、ただ一語で自分自身の感じをまざまざと伝えるようにしながら、すべてを明瞭に描き出してみせた。
 ドミートリイは不思議なくらい身動きもしないで、じっと目を据えて無言のまま弟を見つめていたが、彼が一切の事実を理解して、その意味を掴んだということは、アリョーシャにもよくわかった。しかし話の進行につれて、彼の顔は次第に沈んできた、というよりは、むしろもの凄くなってきた。彼は眉を寄せ歯を食いしばっていたが、じっと据って動かぬ目はさらにしゅうねく凝結して、さらに恐ろしくなったように思われた……と、今まで憤怒に燃えるようにもの凄かった顔が、急に異常な速度をもってさっと一変した時、アリョーシャはなお一倍意想外の感に打たれた。きっと結ばれていた唇が一度に開いて、突然ドミートリイはいかにもこらえかねたふうに、少しも拵えたところのない声で、堤が切れたように笑いだしたのである。実際その笑い方は文字どおりに堤が切れたようであった。彼は長いあいだ笑いに遮られて、ものを言うことさえできなかった。
「じゃ、その手を接吻しなかったんだな! じゃ、接吻しないで、そのまま逃げ出したんだな!」と彼は何だか病的な悦びを浮べながら叫んだ。この悦びは、もしあれほど無技巧な趣きがなかったら、あるいは傲慢な悦びとさえ言うことができたかもしれない。「じゃ、あの女が『虎』だって呶鳴ったのか? まったく虎だよ! そして、あいつを処刑台へのせなきゃならんて? そうともそうとも、おれも同意だ、実際その必要があるんだよ、もう前からその必要があったんだよ! だがなあ、アリョーシャ、処刑台はいいとしても、まず最初にすっかり快《よ》くなっておく必要があるよ。しかし、あの傲慢な女王の心持がよくわかるじゃないか、あの女の面目がその『お手』の中に躍如たりだ。極道女だなあ! あいつはこの世で想像し得るすべての極道女の女王だ! その中に独得の歓喜があるんだよ! それで、あいつはすぐ家へ走って帰ったのか? おれはすぐ……よし……おれはこれからあいつのところへ一走り行って来るぞ! アリョーシャ、どうかおれを責めんでくれ。あの女は絞め殺しても飽きたりないやつだ、それはおれもぜんぜん同意なんだけれどなあ……」
「そして、カチェリーナさんは!」とアリョーシャは悲しげに叫んだ。
「あの女もわかったよ、すっかり腹の底まで見すかしちゃった、こんなによくわかったのは今がはじめてだ! これはもう世界四大州の発見だ、いや、四大州じゃなくて五大州だ! 本当に何という大胆なことをしたものだろう! それはちょうどあの時の女学生のカーチェンカそっくりだ。父を救おうという高潔な理想のため、恐ろしい侮辱を受ける危険を冒してまで、馬鹿な乱暴な将校のところへ平気で出かけて行ったあの時のカーチェンカそっくりだ! 並みはずれた誇り、冒険の要求、運命に対する挑戦、無限の挑戦……こういったような心持なんだ! お前の話では、あの伯母さんがとめたんだってね。あの伯母さんは、お前、例のモスクワの将軍夫人の実の妹だが、これもなかなかわがままな女で、姉さんより一倍鼻を高くしていたんだよ。ところが、ご亭主が官金費消の罪で、領地から何から一切のものをなくしてしまうと、あの伯母さん急に調子を低くして、それからこっち、ずっと小さくなってしまったのさ。この人がとめようとかかったけれど、カーチャが耳もかさなかったわけなんだね。『何だってわたしに征服できないものはありません、何だってわたしの権力内にあるのです。わたしがその気になりさえすれば、グルーシェンカでも、手の中に丸め込んでお目にかけます』という腹だったのさ。そうして、自分で自分を信じきって、自分で自分にから威張りをやったんだもの、誰を恨むこともできんじゃないか? あの女がわざわざ自分のほうからグルーシェンカの手を接吻したのは、何かずるい目算があってのことと思うかい? どうしてどうして、あの女は本当に心底からグルーシェンカに惚れ込んだのさ。いや、グルーシェンカではない、自分の空想に惚れ込んだのだ、自分の夢に惚れ込んだのだ、なぜって、それは『わたしの[#「わたしの」に傍点]空想ですもの、わたしの[#「わたしの」に傍点]夢ですもの、』惚れ込まずにいられるはずがない! しかし、アリョーシャ、どうしてお前はあの女たちのところから逃げ出して来たい? 法衣の裾をからげて駆け出したのかい?」
「兄さん、あなたは、自分がどんなにカチェリーナさんを侮辱したかってことに、ちっとも注意をはらわなかったようですね。兄さんはあの日のことを、グルーシェンカに話したでしょう。たった今グルーシェンカがあのひとに面と向って、「あなただってその美しい顔を売りに、ないしょで若い男のところへいらしたでしょう!」って言ったんですよ。ねえ、兄さん、これ以上の侮辱があるでしょうか?」アリョーシャが最も心を痛めたのは、まるで兄がカチェリーナの屈辱を、悦んでいるように思われることであった。もちろん、そんなことがあり得ようはずはないけれど……
「なあるほど!」ドミートリイは急に恐ろしく顔をしかめて、掌で自分の額をぱちりと叩いた。彼はもうさきほどアリョーシャからこの侮辱のことも、『あなたの兄さんは悪党です!』とカチェリーナが叫んだことも、一度にすっかり聞いたくせに、今はじめて気がついたのである。「そう、本当におれはカーチャのいわゆる『あの恐ろしい日』のことを、グルーシェンカに話したかもしれん。ああ、そうだ、話した、やっと思い出したよ! やはりあの時モークロエ村で話したんだ。何でも、おれはぐでんぐでんに酔っ払っていて、まわりではジプシイの女どもが歌をうたってたっけ……しかし、おれは声を上げて慟哭したんだ。そのとき自分から声を上げて慟哭しながら、膝をついてカーチャの面影に祈りをした、そしてグルーシェンカもそれを了解してくれたよ。あれはそのとき一切の事情を了解して、確か自分でも泣いたんだよ……しかし、こんなことを言ったって仕方がない! 今となっては、ああいうふうになるのが当然だったんだろうよ! あのとき泣いておきながら、今日は……今日は……『匕首《あいくち》を心臓へぷすり』か! それが女の十八番《おはこ》なんだよ!」
 彼は伏し目になって考え込んだ。
「そうだ、悪党だ! 疑いもなく悪党だ!」だしぬけに彼は沈んだ声でこう言った。「泣いたって泣かないたって同じこった、やはり悪党に相違ない! どうかあの女にそう言ってくれ、もしそれで腹が癒えるなら、悦んで悪党の名前をちょうだいするってな。しかし、もうたくさんだ、何も喋ることなんかありゃしない! 面白い話は少しもないのだからなあ。お前はお前の道を行きな。おれはまたおれの道を行くから。もういつかぎりぎり決着という時の来るまで、しばらく会いたくないよ。さようなら、アリョーシャ!」
 彼は固く弟の手を握りしめると、依然として伏し目になったまま首を上げないで、まるでその場からもぎ放されたように、急ぎ足で町のほうへ歩きだした。アリョーシャは、兄がこうだしぬけに行ってしまったとは、信じることができないで、そのうしろ影を見送っていた。
「ちょっと待ってくれ、アレクセイ、も一つ白状することがある、しかし、お前一人だけにだぞ!」とドミートリイは突然ひっ返して言いだした。「おれを見ろ、じいっと見ろ。いいか、そら、ここで、ここで恐ろしい破廉恥が行われてるのだ。」(『そらここで』と言った時、ドミートリイは奇妙な顔つきをして、自分の胸を拳で叩いてみせた。それはちょうど、胸の上に破廉恥がひそんでいる、――かくしの中に納められているか、それとも、何か縫い込んで頸にぶら下げてある、――とでもいうようなふうつきであった)。お前の知ってるとおり、おれは悪党だ、極めつきの悪党だ! しかし、おぼえておいてくれ、今、現在ここに、おれがこの胸の上に着けている破廉恥とくらべては、いかなる陋劣なことだってものの数にも入りゃしない。この破廉恥は、いま現に遂行せられようとしているのだが、これを中止しようと遂行しようと、今のところおれの自由なんだ、いいか、おぼえとってくれ! だが、結局、おれは中止しないで遂行するに相違ない、それもやはり心得ておってもらおう。さっきおれは何もかも一切ぶちまけたけれど、これ一つだけ話さなかった。なぜって、お前、おれだってそうそう面の皮が厚くないからなあ! ところで、おれはまだ思いとまることができる。思いとまったら、あすにでも失墜した名誉を、ちょうど半分だけ取り返すことができるのだ。しかし、おれは思いとまるまい、そしてこの企らみをすっかり仕おおせるに相違ない。まあ、お前、証人になってくれ、おれは前もって意識してこう言っておくから! 滅亡と暗黒だ! いや、説明することはいらん、そのうちに自然とわかるよ。じめじめした横町と極道女か! じゃ、あばよ! おれのことなんか神様に祈らんでくれ、おれにはそれだけの値うちがない。それに必要もない、ぜんぜん必要がないのだ……おれはそんな要求を少しも感じないのだ! あばよ!………」
 彼はふいに駆け出して、今度こそはほんとに行ってしまった。アリョーシャは僧院さして歩きだした。『一たいどうしたことだろう、もうこれっきり、兄さんには会えないのだろうか? 兄さんは何を言ってるんだろう?』という考えが奇妙に彼の頭に浮んだ。『明日ぜひ兄さんに会わなくちゃならない。無理にでも捜し出さなくちゃ、一たい兄さんは何を言ってるんだろう?』

 彼は僧院を迂回して松林を通り抜け、まっすぐに庵室をさして進んだ。庵室ではこの刻限になると誰も入れないことになっていたが、彼はすぐに戸を開けてもらった。長老の部屋へ入ったとき、彼の心臓はおののいた。『何のために、一たい何のために自分はここを出て行ったのだろう? また何のために長老は自分に「娑婆」へ出ろとおっしゃったのだろう? ここは静寂と霊気に充ち満ちているのに、あそこは混乱と暗黒の世界で、中へ入ったらたちまち方角を失って、途方にくれてしまわなければならぬ……』
 庵室の中には、聴法者のポルフィーリイとパイーシイ主教とが居合せた。主教はきょう一時間おきくらいに、ゾシマの容体を訊きにやって来たが、長老の病気は次第次第に険悪になっていった。毎日のしきたりになっている、同宿を相手の晩の談話さえも、今日はできなかったほどである。これを聞いたアリョーシャはぎくりとした。いつも晩の勤行の後、やがて訪れる夜の安息の前に、寺内の僧侶一同が長老の庵室へ集って来て、めいめい今日一日のうちに犯した罪や、罪ふかい空想、思想、誘惑、さては同宿の間に生じたいさかいなどを、懺悔するのであった。中には膝をついて告白するものさえあった。長老は、それを一々解決し、和解し、訓戒し、改悛をすすめ、さて祝福をして退出させるのであった。この同宿の懺悔に対して、長老制度の反対者は攻撃の火の手を上げ、これは秘密な懺悔の神聖をけがすもので、ほとんど涜神罪と言ってもいいくらいだなどと、まるで見当ちがいのことを言いだした。そして、一時は僧正管区長にまで問題を持ち出して、こうした懺悔は単によい結果をもたらさないばかりか、かえって目に見えて人々を罪悪と誘惑へ導くばかりだ、などと騒いだこともある。
 実際、同宿の多くは長老のもとへ集るのを苦痛に感じて、いやいやながらやって来るのであった。なぜなら、大ていのものは、叛旗をひるがえす高慢な人間だなどと思われたくなさに、出席するからである。また、こんな話もあった。同宿の中には懺悔の集りへ出る前に、おたがい同士あらかじめ打ち合せをして、『おれは今朝お前に腹を立てたというからお前うまくばつを合してくれ』などといったふうに話の種を拵えて、自分のお務めをすまそうとするものもあった。事実こういうことがときどき起るのは、アリョーシャも承知していた。また彼は次のようなことも知っていた。ほかでもない、苦行者が肉親のものから受け取った手紙さえ、まず第一に長老のもとへ運ばれて、受信人よりもさきに長老が封を切って通読するという習慣に非常な不平をいだいているものがある。もちろん、規定としては、これらはすべて任意の服従と救済を目的とする教訓の名の下に、自由に誠実に行わるべきであったが、実際においては、時としてきわめて不誠実などころか、むしろわざとらしい技巧を弄して行われることがあった。
 けれど、同宿の中でも年長の経験ふかい人々は、『苦行のために真心をもってこの僧院の壁の中へ入って来た人には、服従や難行が疑いもなく、救霊の力を持っていることがわかって、そういう人たちには偉大な利益をもたらすに違いない。ところが、それを苦に病んで不平を鳴らすような人は、僧侶でないと同じだから、僧院などへやって来る必要はなかったので、こういう人のいるべき場所は俗世間の中にある。罪悪や悪魔は俗世間のみならず、僧院の中でもやはり防ぎきれるものでない、したがって、罪悪を黙許する必要はさらさらないのだ』とこんなふうに考えて、自説を主張するのであった。
「ひどく衰弱されてな、嗜眠状態におちいっておいでだ」とパイーシイ主教はアリョーシャを祝福した後、こう囁いた。「もうお目をさまさすのさえむずかしいくらいだ。もっとも、そんな必要もないがな。さきほど五分間ほど目をさまされて、この祝福を同宿の人に伝えてくれと頼まれた。そして、同宿の人には、夜祈祷のとき自分のために祈ってもろうてくれ、とのご伝言であった。明日はもう一度ぜひ聖餐を受けたいと言うておられる。それからな、アレクセイ、お前のことも思い出されて、もう出て行ったかと訊かれるから、いま町に行っておりますと返事をすると、『わしもそうさせようと思うて祝福してやったのだ。あれのいるべき場所はあそこだ、当分ここにおらんほうがよい』とこうお前のことを言われたぞ。それがいかにも愛に富んだ、心配らしい言い方であった。お前は、自分がどんな光栄を受けたかわかるかな? ただし、長老がお前の身の上について、当分のあいだ俗世間へ出ておれと言われたのは、どういうわけであろう? 大方お前の運命に関して、何か見抜かれたことがあるのだろう? しかし、アレクセイ、たとえお前が俗世間へ帰るとしても、それは長老がお前に授けて下さった一つの服従の義務と見るべきで、決して空しい俗世間の歓楽や、軽薄な行為のためではない。このことをよく覚えておるのだぞ……」
 パイーシイ主教は出て行った。長老がよしや一日二日生き延びるとしても、やがてこの世を去ろうとしているのは、アリョーシャにとって疑いもない事実であった。アリョーシャはあす父を初めとして、ホフラコーヴァ親子、兄、カチェリーナなどと面会の約束はしたけれど、決して僧院の外ヘ一歩も出ないで、長老の逝去までそのそばにつき添っていよう、と熱情をこめて固く決心したのである。彼の胸は愛情に燃え立ってきた。それと同時に、彼はたとえしばらくの間でも町へ出て、僧院へ残した人を忘れえた自分を、強く咎めずにはいられなかった。事実、世界じゅうの誰にもまして愛している人が、いまわの床に打ち臥しているのではないか! 彼は長老の寝室へ入ると、そのまま跪いて、眠れる人に向って額が地につくほど礼拝した。長老はほとんど耳に入らぬくらい穏かに呼吸しながら、静かに身動きもせず眠っていた。その顔はきわめて平静であった。
 次の間へ引っ返すと(それは今朝、長老が客を迎えた部屋であった)、アリョーシャはただ靴を脱いだばかりでほとんど着替えもせず、固い革張りの狭い長椅子の上に横になった。彼はもうずっと前から毎晩枕だけ持って来て、この椅子の上で寝ることにきめていた。けさ父が大きな声で言った例の蒲団は、もうとうから敷くのを忘れてしまっていた。彼はただ自分の法衣を脱いで、これを毛布の代りに上からかけるだけであった。しかし、就眠の前に、彼は跪いて長いこと祈祷をした。その熱心な祈祷で、彼が神に乞うたのは、自分の惑いを解くことではなかった。彼はただ、以前神に対する讃美を唱えたあとでいつも自分の心を訪れていた悦ばしい歓喜の情を、取り戻したいと願ったばかりである。彼の就眠前の祈祷は、おおむね神に対する讃美のみで充されていた。こうした歓喜の情は、いつも軽い穏かな夢を伴なうのであった。今もこんなふうに祈祷をしていたが、ふとポケットの中で手に触れるものがあった。それはさきほどカチェリーナの女中が追っかけて来て、彼に手渡したばら色の小さな封筒である。彼はちょっとまごついたが、とにかく祈祷をすました。やがて少しためらった後に封を開いてみた。その中には |Lise《リーズ》と署した自分あての手紙が入っていた、――それは今朝ほど長老の前でさんざん彼をからかった、例のホフラコーヴァ夫人の若い娘である。
『アレクセイさま』と彼女は書いていた。『あたしがこの手紙を書くのは誰にも内証なのです、お母さまにも内証なのです。そして、それがどんなに悪いかってことも知っています。けれど、あたしの心の中に生れ出たことをあなたに言わないでは、あたしもう生きてはいられません。このことはあたしたちふたりのほかには、しばらくのあいだ誰にも知られてはなりません。けれど、あたしの言いたいと思うことを、どんなふうにあなたに言ったらいいのでしょう? 紙は赧い顔をしないと申しますが、それは嘘です。あたし誓ってもいいわ。紙も今のあたしと同じように真っ赤な顔をしています。いとしいアリョーシャ、あたしはあなたを愛します。まだ子供の時分から、――あなたが今とはまるで違っていらしったモスクワ時分から愛しています。そして、一生あなたを愛します。あたしはあなたと一つになって、年とったら一緒にこの世を終ろうと、自分の心であなたを選んだのです。けれど、必ずお寺から出ていただくという条件つきですの。あたしたちの年のことなら、それは法律で命じられているだけ待ちましょう。その頃までにはあたしもきっと快《よ》くなって、一人で歩いたり舞踏したりしますわ。そんなことは言うまでもありません。
 ねえ、あたしがどれだけ考えたかわかったでしょう。けれど、たった一つ、どうしても考えつかれないことがありますの、――この手紙をお読みになる時、あなたはまあ何とお思いになるでしょう? あたしいつも笑ったり、ふざけたりばかりしてるんですもの。今朝だって、あなたをすっかり怒らしてしまいました……けれど、誓って言いますわ。あたし今ペンを取る前に、聖母マリヤさまのお像を拝んで、今でもやはりお祷りしていますの、もう泣かないばかりですわ。
 あたしの秘密は今あなたの手に握られてしまいました。明日いらっしゃる時に、あたしどんなふうにあなたと顔を合していいやらわかりまぜん。ああ、アリョーシャ、もしあたしがあなたの顔を見ているうちに、我慢できなくなって、今朝と同じように、馬鹿みたいに笑いだしたらどうしましょう? たぶんあなたはあたしを意地わるな冷かしやだと思って、この手紙さえ本当にして下さらないでしょう。ですからね、もしあたしを可哀そうだとお思いになったら、明日あたしのところへ入ってらっしゃる時に、後生ですから、あまりまっすぐにわたしの目を見ないようにして下さい。だって、もしわたしの目があなたの目にぴったり出合ったら、きっと笑いだすに相違ないんですもの。それにあなたは、あんなぞろぞろした着物を着てらっしゃるじゃありませんか……あたし今でさえそのことを考えると、身うちが寒くなってきます。ですから、入ったときしばらくの間、一切あたしの顔を見ないで、お母さまのほうか窓のほうを見てて下さいな……
 とうとうあたしはあなたに恋文を書いてしまいました。ああ、なんてことをしでかしたのでしょう! アリョーシャ、あたしを軽蔑しないで下さい。もしあたしが大変な悪いことをして、あなたに心配をかけたのでしたら、どうか勘忍して下さいまし。あたしの永久に亡びた名誉の秘密は、今あなたの手の中にあるのです。
 あたし今日きっと泣きますわ。さよなら、恐ろしき[#「恐ろしき」に傍点]再会の時まで。|Lise《リーズ》.
 P・S・アリョーシャ、ただね、きっときっと来てちょうだいな! Lise.』
 アリョーシャは驚きの念をいだきつつ読み終った。そして、今一ど読み返して、しばらく考えていたが、ふいに静かな甘い微笑をもらした。と、彼はぴくりと身を顫わした。今の微笑が罪悪のように思われたのである。しかし、一瞬の後、また同じように静かな、仕合せらしい笑みをもらすのであった。彼はゆっくりと手紙を封筒へおさめてから、十字を切って横になった。すると、急に胸の嵐がぱったり凪いでしまった。
『神様、どうぞさきほど会って来たすべての人たちを憐れんで、あの荒れ狂う不幸な人たちをお救い下さいまし。そしてあの人たちの心を正しい道へ向けて下さいまし。あなたはすべての道を握っておいでになります。あの人たちを救うべき道をご存じでございます。あなたは愛でございます、どうぞあの人たちに悦びを授けて下さいまし!』とアリョーシャは、呟きながら十字を切って、穏かな夢を結ぶのであった。
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[#1字下げ]第四篇 破裂[#「第四篇 破裂」は大見出し]



[#3字下げ]第一 フェラポント[#「第一 フェラポント」は中見出し]

 朝早くまだ夜の明けないうちに、アリョーシャは呼び起された。長老が目をさましたのである。彼は非常に衰弱を感じていたけれど、床を離れて肘椅子に坐りたいと言いだした。気はまだ確かなものであった。その顔ははなはだしい疲労の色を示していたが、ほとんど嬉しそうに見えるほどはればれとして、目つきはうきうきと愛想よく人を招くように思われた。
「ことによったら、きょう一日生き延びることができんかもしれぬ」と彼はアリョーシャに言った。
 それから彼はすぐ懺悔をして、聖餐を受けたいと申し出た。長老の懺悔司僧は、いつもパイーシイであった。この二つの儀式を終って後、聖油塗布式が執り行われた。主教たちが集って来た。庵室は次第次第に苦行者で一ぱいになってきた。やがてすっかり夜が明け放れたとき、僧院のほうからもそろそろ同宿の人たちがやって来た。式が終ったとき、長老はすべての人に別れを告げたいと言い、一同を接吻するのであった。庵室が狭いため、先に来た人は外へ出て、後の人に席を譲った。アリョーシャは、ふたたび肘椅子へ座を移した長老のそばに立っていた。長老は力の許すかぎり説教した。その声はむろんよわよわしかったけれど、まだかなりしっかりしていた。
「わしはもう長年のあいだ皆さんにお説教をしました。したがって、長年のあいだ大きな声でものを言い通したわけですじゃ。それでもうものを言うのが癖になってしもうて、今のように弱り込んでおる時でさえ、黙っておるほうがものを言うよりもむずかしいくらいになりましたよ。」彼は自分の周囲に群れ寄った人々を、さも嬉しげに見廻しつつ、こんな冗談を言うのであった。
 アリョーシャはそのとき長老の言ったことを、後になって多少思い出すことができた。長老の話しぶりはごくわかりよくもあったし、その声もずいぶんしっかりしてはいたけれど、話そのものはかなり脈絡のないものであった。彼はいろいろのことを話した。自分の生前に語りつくせなかったことを、死ぬる前にもう一度すっかり言ってしまいたかったらしい。それも単に教訓のためばかりでなく、自分の歓喜や喜悦を一同に頒ち、かつ命のあるうちにいま一度、自分の感情を吐露したかったのであろう……
『皆さん、どうぞ互いに愛し合うて下され』と長老は説いた。(これはアリョーシャの記憶によるのである)。「そうして、また衆生を愛して下され。われわれがここへ来てこの壁の中に閉じ籠っておるからと言うて、そのために俗世の人よりえらいという理屈はありませんじゃ。それどころか、かえってここへ来たものは、そのここへ来たということによって、自分が俗世の誰よりも、また地上に住む誰よりも、一ばん劣ったものと自覚したわけになるのですじゃ……僧侶はこの壁の中に長う住めば住むほど、ますます痛切に、これを悟らねばなりませぬ。もしそうでなかったら、このようなところへ来る必要がのうなってしまいますじゃ。自分は俗世界の誰よりも一ばん劣ったものということばかりでなく、さらに進んで自分はすべての人に対して罪がある……群衆の罪、世界の罪、個人の罪、一切の罪に対して責任があるということを自覚したら、その時はじめてわれわれの隠遁の目的が達しられるのですぞ。なぜと言うに、われわれはみな一人一人地上に住むすべての人に対して、疑いもなく罪があるからですじゃ。それは一般の人に共通な世界的罪悪というようなものでのうて、おのおのの人がこの地上に住む一切の人に対して、個人的に罪をもっているのですじゃ。この自覚は単に僧侶ばかりでなく、すべての人にとって生活の冠ともいうべきものであります。なぜというに、僧侶は決して種類を異にした人間ではなく、ただ地上におけるすべての人が当然かくあらねばならぬと思うような人間にすぎませぬでな。そうあってこそわれわれの心は、飽くことを知らぬ、宇宙のように永遠な、愛の法悦境に入るのですじゃ。その時こそ、われわれの一人一人が愛をもって全世界をかち得、涙をもって浮世の罪を洗うことができますじゃ……何人もわれとわが心のめぐりを歩み、怠りなくおのれに懺悔をされるがよい。またおのれの罪を恐れることもいりませぬ。一たん罪を自覚したら、ただ悔改めさえすればよいので、決して神様に約束などしてはなりませぬぞ。も一ど言うが、――決して高ぶってはなりませぬ。小さきものに対しても、また大なるものに対しても、高ぶることはなりませんじゃ。われわれを否定するもの、われわれを侮辱するもの、われわれを迫害するもの、われわれを讒謗するものをも憎んではなりませぬ。無神論者、悪の伝道者、物質論者をも憎んではなりませぬ。その中の善良なものばかりでなく、兇悪なものすら憎むことはなりませぬぞ。ことに今のような時代には、そういう人たちの中にでも善良な人がありますでな。このような人たちのためには、こう言って祈っておやりなされ。「どうぞ神様、誰も祈ってくれ手のないすべての人をお救い下さりませ。また、あなたに祈ることを欲せぬ人々をも、お救いなされて下さりませ。」それから即座にこう言いたしなさるがよい。「神様、わたくしがこのようなお祈りをいたしますのは、決して高慢心のためではありませぬ。わたくしは誰よりも、一番けがれた人間でござります……」とな。衆生を愛さねばなりませぬぞ。侵入者のために、羊の群を奪われるようなことがあってはなりませんじゃ。なぜというて、もし懶惰や不遜や、または貪婪の中に眠ってしもうたら、四方から狼が襲うて来て、羊の群をことごとく奪うて行きますでな。どうか怠りなく衆生に聖書を説き聞かしてやって下され……決して彼らの膏血を絞ることがないように……金銀を愛し蓄えてはなりませぬぞ……ひたすら信仰の旗をひるがえして……それをば高う押し立てて下され……』
 もっとも、長老の話はここに録したよりも、つまりあとでアリョーシャが書き取ったよりも、ずっと断片的なものであった。ときどき彼は新しく力を集めるかのように、すっかり言葉をやめて、せいせい息を切らしていたが、しかし歓喜に包まれているように見えた。人々は感激して聞いていた。もっとも、中には長老の言葉に暗い影を認めて、驚いたものもあった……アリョーシャが何かの用事でちょっと庵室を出た時、彼は庵室の中とその周囲に蝟集している同宿の、異常な興奮と期待に一驚を喫した。その期待は、ある人々においては不安げに、またある人たちにおいては勝ち誇ったもののように見えた。一同は、長老の暝目後ただちに起るべき偉大なあるものを期待しているのであった。この期待は一方から見ると、ほとんど軽率ともいうべきものであったが、最も厳格な老僧たちですらこれにおちいっていた。中で最も厳めしい顔をしているのは、パイーシイであった。アリョーシャは庵室を出たのは、たったいま町から帰ったラキーチンが、一人の僧を通して内証で彼を呼び出したからである。彼は、アリョーシャにあてたホフラコーヴァ夫人の奇態な手紙を持って来た。夫人はちょうどこの場合ふさわしい興味ある報知を伝えていた。ほかでもない、きのう長老に会って祝福を受けるためにやって来た平民の女たちの中に、ひとり町うちの老婆でプローホロヴナという下士のやもめがいた。彼女は長老に向って、自分の息子のヴァーセンカが勤務の関係から、遠くシベリヤのイルクーツクへ赴いたが、もう一年ばかり少しの便りもないから、死んだものとして教会で供養をすることができるかと訊ねた。これに対して長老は厳めしい調子で、こういう種類の供養を売僧《まいす》の所業にひとしいものとして固く禁じた後、しかし知らぬことゆえ赦してやると言い、『まるで未来の本でも読んでいるように』(とホフラコーヴァ夫人は書いていた)、次のような慰めの言葉をつけたした。『お前の息子ヴァーシャは、疑いもなく生きておる。そして近いうちに自分で母のもとへ帰って来るか、それとも手紙をよこすに違いないから、お前も自分の家へ帰って待っておるがよい。』
『ところが、どうでしょう?』とホフラコーヴァ夫人は有頂天になって書いている。『予言は文字どおりに、いえ、それ以上に的中しました。』老婆が家へ帰るが早いか、もうちゃんとシベリヤからの手紙が彼女を待ち受けていた。しかもそればかりでなく、ヴァーセンカは、途中エカチェリンブルグから出したこの手紙で、自分は今ある官吏と一緒にロシヤヘ帰っているから、この手紙が着いてから三週間の後には母を抱くことができる、などとしたためていた。ホフラコーヴァ夫人は、新たに実現せられたこの予言の奇蹟を、さっそく僧院長はじめ同宿一同に披露してくれと、一生懸命アリョーシャに頼んだ。
『これはもうすべての人に知られなければならぬことでございます!』と夫人は手紙の終りにこう叫んでいる。この手紙は、あわてて大急ぎで書かれたものらしく、書いた当人の興奮が、一行一行に投影されていた。
 しかし、同宿に披露することは少しもなかった。一同はもう何もかも知っていたのである。ラキーチンはアリョーシャの呼び出しを僧に頼んだとき、そのほかにいま一つ依頼をした。『どうか一つパイーシイ主教のところへ行って、僕が主教にちょっとお話ししたがっていると取り次いでくれたまえ。しごく重大なことで、一分も報告を猶予するわけにいかないってね。そして、この願いの失礼なことは、幾重にもお詫びをいたしますって。』ところが、この僧はアリョーシャよりさきにラキーチンの乞いをパイーシイに伝えたので、アリョーシャは庵室へ帰ったとき、ただパイーシイに手紙を読んで聞かせて、記録として報告するほかに仕方がなかった。けれど、容易に他人を信じない峻厳なこの人ですら、眉をひそめて『奇蹟』の報知を読みながら、自分の心内に起った一種の感動を抑えきることができなかった。その目は明るく輝き、唇は突然ものものしい意味ありげな微笑を浮べた。
「われわれが見るのはそれしきのことだろうか?」ふと彼はこう口をすべらした。
「われわれがこれから見るのは、僅かそれしきのことだろうか? 僅かそれしきのことだろうか?」とあたりにいる僧たちがこれに和した。が、パイーシイはふたたび顔をしかめて、事実がはっきり確められるまで、しばらくこのことを誰にも言わないよう一同に頼んだ。『なぜというて、世間には軽はずみな話が多い上に、今度のことも自然とそんな工合になったのかもしれませんでな。』彼は自分の良心に対する申しわけのように、用心ぶかい調子でこう言ったが、自分でもこの申しわけを信じていなかったのは、そばで聞いていた人々もよく見てとった。しかし、もちろん、奇蹟はまたたくうちに寺内は言うにおよばず、礼拝式のために僧院へやって来た世間の人たちにも知れ渡った。誰よりもこの奇蹟に驚かされたのは、きのう遠い北のほうにあるオブドールスクの聖シリヴェストル僧院から、この僧院を訪れた僧侶であった。彼は昨日ホフラコーヴァ夫人のそばに立って長老に会釈をすると、病いをいやしてもらった令嬢を指さしながら、『どうしてこのような大胆なことをなされますか?』としかつめらしい様子をして長老に訊いた人である。
 彼は今ある迷いにおちいって、どっちを信じていいかわからなかった。そのわけはこうである。彼は昨日この僧院のフェラポントという僧を、蜜蜂小屋の向うに離れて立っている庵室に訪れて、非常な驚異を感じたのである。実際この会見はなみなみならぬ、ほとんどもの凄いほどの印象を与えた。フェラポントは寺内第一の老僧で、かつ禁欲と沈黙の偉大な苦行者であった。この人のことは、もはや前にゾシマ並びに長老制の反対者としてちょっと説明しておいたが、ことに長老制を目して、有害軽率な新制度と罵っていた。彼は沈黙の行者であって、ほとんど誰とも一ことも口をきかなかったけれど、きわめて危険な反対者であった。危険なという主なる理由は、同宿中多くのものが彼に同情を寄せている上に、参詣に来る一般世間の人も偉大な義人として苦行者として、非常に尊敬していたからである。もっとも、彼が疑いもない宗教的畸人《ユロージヴァイ》だということは皆のものも信じていたが、それがかえって人々を魅了していたのである。ゾシマ長老のところへは一度も行ったことがない。彼は庵室に暮していたが、寺でも別段かれに庵室の規則をしいはしなかった。つまり、彼が純然たる宗教的畸人《ユロージヴァイ》のごとく振舞っているからであった。
 彼は七十五くらいの年恰好であった(あるいはそれより老けていたかもしれない)。いつも蜜蜂小屋の向うの塀の片隅にある、ほとんど崩れかかった古い木造の庵室に起臥している。それはずいぶん遠い昔、――前世紀のころ、百五歳の長寿を保ったヨナという、同様に沈黙と禁欲の偉大な行者のために建てられたものである。このヨナという人の事蹟に関しては、いまだにこの僧院内でも、近在でも、いろいろ面白い話が残っている。フェラポントは長年の心願を達して、ついに七年ばかり前この百姓小屋にもひとしい淋しい庵室に住わしてもらうこととなった。しかし、この庵室は礼拝堂によく似ていた。なぜなら、そこには人々の寄進にかかる聖像がたくさんあって、その前には同じく寄進された燈明が、永久に消えることなく点っているからである。それゆえ、フェラポントはこの燈明の番人として、ここにおかれたようなものであった。人々の噂では(またこの噂は本当であった)、彼の食物は三日に二斤のパンきりで、そのほかには何もなかった。パンは近くの蜜蜂小屋に住んでいる蜂飼いが、三日に一度ずつ運ぶのであったが、自分のためにこんな労をとってくれる蜂飼いとも、やはり言葉を交えることは少かった。この四斤のパンと、それから日曜ごとに規則ただしく夜の祈祷式のあとで僧院長から送られる聖餅と、この二つが一週間の彼の食物の全部であった。コップの水は日に一度とり変えることになっていた。
 祈祷式に出ることはめったになかった。ときどき膝をついたまま脇目もふらないで、ひねもす祈祷をしながら起きようともしない彼の姿を、参詣の人々は見受けることがあった。何かの拍子で参詣の人々と言葉を交えることがあっても、その話しぶりは簡単で、断片的で、奇怪で、しかもおおむね粗暴であった。もっとも、彼が外来の人と長いあいだ話し込むことも、ごくたまにあったが、そんな場合、大てい相手のものに大きな謎をかけるような言葉を何か一つ必ず話の間にはさむ、そして、あとから何と言って頼んでも、決して説明してくれなかった。彼は位というものを何も持っていない平の僧侶にすぎなかった。また、これはきわめて無知な人たちの間にかぎっていたけれど、非常に奇怪な一つの噂が行われていた。ほかでもない、フェラポントは天の精霊と交通して、この精霊のみを話相手としているから、それで人間に対してはいつも沈黙を守っている、というのであった。
 オブドールスクの僧は蜜蜂小屋へたどりつくと、蜂飼いに教えられて(これもやはり非常に無口な気むずかしい僧であった)、フェラポントの庵室の立っている一隅をさして進んだ。『ことによったら、よそから来た人だというところで、話をされるかもしれませんが、またどうかしたら、何と言っても口をきいてもらえぬかもしれませんよ』と蜂飼いの僧は前もって注意した。あとで、当人の話したところによると、僧は烈しい恐れをいだきながら、庵室へ近づいた。もう時刻はだいぶ遅かった。フェラポントはこのとき、庵室の戸口にある低い腰掛けに坐っていた。頭上には大きな楡の老木が微かにざわめいていた。夕暮れの涼気が肌をかすめた。オブドールスクの僧は苦行者の前へ身を投げ出して、祝福を乞うた。
「お前はわしを自分の前へ、同じようにうつ伏しにさせようというのかな?」とフェラボントが言った。「起きい!」
 僧は立ちあがった。「わしにも祝福を授け、自分でも祝福を受けてから、そばへ来て坐るがよい。どこから来たな?」
 何よりも一番、哀れな僧を驚かしたのは、フェラポントが疑いもなく極度の精進をして、しかもずいぶん齢が傾いているにもかかわらず、見かけたところ矍鑠《かくしゃく》として背の高い老人で、腰も曲らずしゃんとして、顔も痩せてこそいるけれど、元気そうにいきいきしていることであった。その体の中に、まだなみなみならぬ力が保たれているのは確かであった。体格などは、まるで力士のようである。それほどの年になっていながら、彼はまだすっかり胡麻塩になりきっていない。もと真黒であった毛は、頭にも、頤にもふさふさとしていて、大きな目は灰色に輝いているけれども、目立って飛び出している。彼は、Oの母音に強く力を入れてものを言う癖があった。以前、囚人羅紗と呼ばれていた粗末な地質の、長い赤っ茶けた百姓外套を着け、太い繩を帯の代りに巻いている。頸と胸はすっかりひき出しになっていたが、幾月も脱いだことのない、真黒になった、厚地の麻で作ったシャツが、外套の陰から覗いている。話によると、彼は外套の下に三十斤の錘《おもり》をつけているとのことであった。ほとんど崩れかかった古い靴を素足にはいている。
「オブドールスクの聖シリヴェストルという、小さな僧院からまいりました。」そわそわした、好奇の色に充ちた、とはいえ幾分おびえたような目つきで隠者を観察しながら、遠来の僧はつつましく答えた。
「ああ、お前のシリヴェストルのところへ行ったことがある。しばらく厄介になったものじゃ。シリヴェストルは丈夫かの?」
 僧はちょっとまごついた。
「お前らはわけのわからん人じゃのう! ときに、精進はどんなふうに守っておるかな?」
「わたくしのほうの食事は昔の行者のしきたりで、このようになっております。四旬斎について申しますと、月曜、水曜、金曜には一さい食卓を設けません。火曜と木曜には同宿一同に白パンに蜜入りの煮汁《だし》、それにホロム苺か塩漬の玉菜、それから碾割《ひきわり》の燕麦がつくことになっております。土曜日には白スープと豌豆の素麺、それに粥が出ます。これはみんなバタがつくのでございます。日曜には乾魚《ひもの》と粥がスープに添わることになっております。神聖週間([#割り注]四旬斎の第五週[#割り注終わり])にはもう月曜から土曜の晩まで六日間というもの、パンと水ばかりで、ただ生の野菜を食べるくらいのものでございますが、それさえ制限がありまして、毎日食べることはできません。第一週について申したとおりでございます。神聖金曜には何一つ食べることはできません。それと同じで、神聖土曜にも二時すぎまで断食いたしまして、二時すぎたら初めてパンを少しばかりに水を飲んで、葡萄酒を一杯だけいただきます。神聖木曜にはバタなしの食物と酒を飲んで、時によると乾ものを食べることもあります。なぜと申しますに、神聖木曜に関するラオデキアの会議集にも、『四旬斎の最終の木曜を慎しみて守らざれば、四旬斎のすべてをけがすこととなる』と言うてあるからでございます。わたくしどものほうではこんなふうにいたしております。しかし、あなたさまとくらべましたら、これしきのことが何でございましょう!』と僧は急に元気づいて言った。「なぜと申して、あなたさまは年じゅう、――復活祭にすらパンと水ばかり召しあがっておいでになります。しかも、わたくしどもの二日分のパンは、あなたの一週間分にもあたるくらいでございます。本当に驚き入った偉大なご精進でございます。」
「したが、蕈《きのこ》は?」Gの音を喉から押し出すように、ほとんどKHみたいに発音しながら、突然フェラポントはこう訊いた。
「蕈?」と僧は面くらって問い返した。
「そうじゃ、そうじゃ、わしはあいつらのパンなどは少しもいりはせん。わしはそんなものから顔をそむけて、森の中へでも入って、そこで蕈か苺で命をつなぐわ。ところが、あいつらは自分のパンを去ろうとしおらん。つまり、悪魔に結びつけられておるのじゃ。このごろ穢らわしいやつらは、そんなに精進することはいらん、などと言いおるが、やつらのこうした考えは、まことに高ぶって穢らわしいものじゃ。」
「いや、まったくでございます」と僧は嘆息した。
「あいつらのところで悪魔を見たかの?」とフェラポントは訊いた。
「あいつらとは誰のことでございます?」僧はおずおずと問い返した。
「わしは去年の五旬節に僧院長のところへ伺うたが、それ以来ちっとも出かけぬわ。そのとき、悪魔を見たのじゃ。あるものは胸のところに抱いて袈裟の陰に隠し、ただちょっと角《つの》だけ覗かしおる。またあるものはかくしの中から覗かしていたが、悪魔め、目をきょろきょろさせながら、わしを怖がっておる。あるものは穢れきった腹の中に巣をくわせておるし、またあるものは頸っ玉に噛りつかせてぶら下げておるが、当人はそれと気がつかずに連れて歩いておるのじゃ。」
「あなたさま……ごらんになりますか?」と僧が訊ねた。
「見ると言うたではないか。ちゃんと見えすいておるわ。わしが僧院長のところから出て来ると、一匹の悪魔がわしをよけて、戸の陰へ隠れるのが見えた。そいつがなかなか大きなやつで、背の高さが一アルシン半もある。太くて長い茶色の尻尾をしておったが、その先が、ちょうど戸の隙間に入ったのじゃ。わしもまんざら馬鹿でないから、いきなり戸をぱたんと閉めて、そいつの尻尾を挟んでやった。すると、きゃんきゃん鳴いてもがきだしたが、わしが十字架で三べん十字を切ってやったら、その場で踏み潰された蜘蛛のようにくたばってしもうたわ。今はきっと隅のほうで腐れかかって、臭い匂いを立てておるはずじゃが、それが皆の目に入らぬのじゃ。鼻に感じんのじゃ。もう一年も行ってみんが、お前は他国から来たものじゃによって打ち明けるのじゃ。」
「何という恐ろしいお言葉でございましょう! ところで方丈さま」と僧は次第次第に大胆になってきた。「あなたさまのことで、ずいぶん遠方までえらい噂が立っておるのは、本当のことでございましょうか。何でもあなたさまが、精霊とたえまなく交わりをつづけておいでなさるとかで……」
「飛んで来るわ、ときどき。」
「どんなにして飛んでまいるのでございましょう? どんな形をしておりまする?」
「鳥のような形じゃ。」
「鳩の形をした精霊でございますか?」
「精霊が来ることもあるし、神聖なる霊が来ることもある。神聖なる霊はまた別な鳥の形をしておりて来るのじゃ。時には燕、時には金翅雀《かわらひわ》、時には山雀の形をしてな。」
「山雀が精霊だということが、どうしておわかりになりますか?」
「ものを言うからじゃ。」
「えっ、ものを言うのですって、どんな言葉で?」
「人間の言葉じゃ。」
「どのようなことを申しますか?」
「今日はこんな知らせがあった――今に馬鹿がひとり来て、つまらんことを訊くじゃろうとな、お前はいろいろなことを訊きたがるやつじゃのう。」
「恐ろしいことをおっしゃりますなあ」と僧は首を振った。とはいえその慴えた目の中には、疑わしげな色が窺われた。
「ときに、お前はこの木が見えるか?」やや無言の後、フェラポントはこう訊ねた。
「見えますでございます。」
「お前の目には楡じゃろうが、わしの目から見ると別な絵じゃ。」
「どのような絵でございましょう?」僧は期待するように黙っていたが、なかなか返事がなかった。
「これは大てい夜のことじゃ。あそこに枝が二本出ておろうがな? あれが夜になると、ちょうどキリストさまがわしのほうへお手をさし伸ばされて、その手でわしを捜しておられるように、まざまざと見えるのじゃ。それで、わしはぶるぶる慄えあがるわ。恐ろしい、おお、恐ろしい!」
「キリストさまであったなら、何も恐ろしいことではございますまいに。」
「引っ掴んで連れて行かれる。」
「生きたままでございますか?」
「霊魂とイリヤの光栄の中じゃ! お前、聞いたことがないか? かかえて連れて行かれるのじゃ。」
 オブドールスクの僧はこの対話の後、指定された庵室、同宿の一人のもとへ帰って来た。彼はいたく怪訝の念をいだいていたが、それでもゾシマよりはフェラポントのほうに、より多く同情を感じたのである。彼は何よりも精進に重きをおくという主義であったから、フェラポントのような偉大なる苦行者が不可思議を目撃するのも、あえて怪しむにたりないと思った。もちろん、彼の言葉は馬鹿げたものであったけれど、その中にどのような意義がふくまれているかわからない。それにすべて宗教的畸人《ユロージヴァイ》というものは、まだまだこれどころではない、奇矯な言行をするものである。戸の隙間から尻尾をつめられた悪魔の話にいたっては、単に譬喩としてのみならず、直接の意味においても、心から悦んで信じたい気がした。のみならず、彼はこの僧院へ来る前から、話にしか聞いていない長老制度なるものに対して、固い先入見をいだいていたので、他人の尻馬に乗って有害な新制度ときめてしまっていたのである。この僧院に一日滞在するうちに、彼は早くも長老に反対する軽率な同宿の誰彼の、不平がましい内証話を嗅ぎつけた。その上、彼は生れつき何事につけても非常な好奇心を感じ、こそこそとすばしこくどこへでも首を突っ込みたがる性質なのである。それゆえ、ゾシマ長老の行った新しき『奇蹟』に関する知らせは、彼の心中に非常な疑惑を呼び起したのである。
 アリョーシャは、好奇心の熾んなオブドールスクの客僧が、長老のまわりやその庵室のそばへ群れ寄った僧たちの中をちょこまかしながら、そこここにかたまった群衆の中へ一々首を突っ込んで、すべての話に耳を傾け、一人一人何やら訊ねていたのを、後になって思い起した。しかし、いま彼は、そんな人にはあまり注意をはらわないで、だいぶたってから一切のことを思い起したのである……実際、今はそれどころではなかった。ゾシマ長老は、疲れを感じて病床に横たわったが、もう目をつぶろうとしながら、急にアリョーシャのことを思い出し、そばへ呼んでくれと命じた。アリョーシャはすぐさま駆けつけた。長老のそばにはただパイーシイとヨシフ、それに聴法者のポルフィーリイがいるだけであった。長老は疲れた目を見開いて、じっとアリョーシャを見つめていたが、とつぜん口を開いてこう訊ねた。
「うちの人たちがお前を待っておるじゃろうな?」
 アリョーシャはもじもじしていた。
「お前に用のある人がありはせんか? 誰かに今日行くと約束しはせなんだか?」
「約束いたしました……お父さんと……兄さん二人と……それからほかの人にも……」
「それみなさい。ぜひとも行って上げい。心配することはない。わしはお前のそばでこの世における最後の言葉を言わずに死ぬるようなことは決してないからな、よいか。この最後の言葉はお前に言うのじゃぞ。アリョーシャ、お前に言いのこすのじゃ。なぜなら、お前はわしを愛してくれるからじゃ。しかし、今は約束をした人たちのところへ行くがよい。」
 アリョーシャはこの場を離れるのが辛かったけれども、猶予なくその言葉に従った。しかし、師のこの世における最後の言葉、しかも自分に対する遺言とやらを聞かしてやろうという約束は、アリョーシャの心を歓喜の情で震撼させた。彼は町の用事を早く片づけて帰って来ようと、急いで支度をした。その時、ちょうどパイーシイが彼にはなむけの言葉を与えたが、それがきわめて強烈な、思いがけない感銘を彼の心に印したのである。それは、二人が長老の庵室を出た時のことであった。
「お前が怠りなく思い出さればならぬことがある(とパイーシイは少しも前置きなしに、いきなり、こう言いだした)。ほかでもない、世間に行われておる科学は、結合して一つの大きな力となって、聖書に約されておるすべての尊いことを解剖した。それが現世紀にいたって最もはなはだしくなってきた。世間の学者の行うた容赦のない解剖分析の結果、以前神聖とされておったものは、影も形も残らんことになってしもうた。しかし、彼らは部分部分のみ解剖して、全体というものをすっかり見落しておる。その盲目さ加減は、驚嘆に値するくらいだ。ところが、その全体は、以前と同じように儼然と彼らの目の前に立っていて、地獄の門もそれをば征服することができんのだ。この全体ははたして十九世紀のあいだ生きておらなんだであろうか、また現に今でも個々の心の運動の中に、民衆の運動の中に生きておらぬだろうか? それどころか、一切を破壊する無神論者の心の動きの中にさえ、以前と同じように儼然と生きておるのじゃ! なぜと言うて、キリスト教を否定して叛旗をひるがえす人でさえ、その本質においては、キリストの面影を宿しているからだ、そして、いまだにやはり、そのとおりの人として生活をつづけておるからだ、その証拠には、彼らの知恵も彼らの熱情も、むかしキリストの示されたもの以外に、人間とその品位に相当する卓越せる象《かたち》を創り出すことができなかったではないか。いろいろの試みもあったが、あれはみんな片輪のように醜いものばかりだ。アリョーシャ、このことは特別によう覚えておくがよい。なぜと言うて、お前は垂死の長老のお指図で、世間へ乗り出して行かねばならぬからだ。この偉大なる日を思い出すときに、お前のはなむけのために真心から与えたわしの言葉も、やはり忘れずにおってくれるであろうな。なにぶんお前は若いから、世の中の誘惑がはげしゅうて、力に叶わぬかもしれぬでなあ。いや、もうよい、行きなさい。」
 こう言ってパイーシイは彼を祝福した。僧院を出て行く道すがら、この思いがけない言葉の意味を思いめぐらしているうち、突然アリョーシャは、今まで自分に冷酷厳重であったこの主教が、思いもうけぬ親友であり、かつ熱烈に自分を愛してくれる新しい指導者であることを、今はじめて了解した、――何だかゾシマ長老が死ぬ前に、この人に遺言でもしたのではあるまいか、と思われるほどであった。『まったくお二人の間に、そういうふうなことがあったかもしれない。』ふとアリョーシャはこう考えた。たったいま彼の聞かされた思いがけない学者らしい議論は(実際、いま聞かされたこの議論をさすので、決してほかのものではない)、パイーシイ主教の熱情に富んだ心を証明している。彼はできるだけ急いでアリョーシャの若々しい知性に、世間の誘惑と戦うべき武器を与え、そのうえ遺言をもって自分に託された若い霊魂のために、自分自身でもこれ以上堅固なものを想像することのできないくらい、堅固な牆壁を結いめぐらしたのであろう。

[#3字下げ]第二 父のもとにて[#「第二 父のもとにて」は中見出し]

 アリョーシャはまず第一番に父のもとへ赴いた。大方そばまで来たとき、きのう父がなるべくイヴァンに見つからないように入って来い、としきりに念を押したのを思い出した。
『どういうわけだろう?』と今になって、アリョーシャはとつぜん気がついた。『お父さんが僕一人に内証で何か話したいことがあるとしても、何も僕が入るのまで内証にしなくたってもよさそうなもんだ。きっと昨日は、何か別なことを言うつもりだったのに、あまり気が立ってたから、言い間違えたんだろう』と彼はひとりでこうきめた。にもかかわらず、マルファが彼のためにくぐりを開けながら(グリゴーリイは病気して離れに寝ていた)、彼の問いに対して、イヴァンはもう二時間も前に外出したと答えたとき、彼は妙に嬉しかった。
「お父さんは?」
「もうお目ざめで、コーヒーを召しあがっておいでになります」とマルファは何だかそっけない調子で言った。
 アリョーシャは中へ通った。老人はスリッパをはき、古ぼけた着物を引っかけて、ただひとり食卓に向って座を占めたまま、大した注意もはらわないで……気をまぎらすために、何かの勘定書に目を通していた。広い家の中で彼はたった一人きりであった(スメルジャコフは昼食《ちゅうじき》の材料を買い込みに出て行ったのである)。しかし、彼の心を占めているのは勘定書ではなかった。彼は今朝はやく床を離れて、元気を出してはいたものの、それでも疲れたよわよわしい様子をしていた。額は、昨夜のうちに打身が大きく紫いろに腫れあがったので、赤いきれでくるくると巻いてあった。鼻もやはり一晩のうちに恐ろしく腫れあがって、ぽつぽつとしみのように幾つかの打身ができていた。それは大して目に立つほどでもないけれど、何やらとくに意地わるそうな、いらいらした表情を、顔ぜんたいに添えるのであった。老人は自分でもそれを知っているので、入って来るアリョーシャの姿を不愛想に見やった。
「冷コーヒーだ」と彼は鋭い調子で叫んだ。
「べつにすすめまい。わしはな、アリョーシャ、今日は自分からお精進をして、スープも肉っ気なしの魚汁《ウハー》だ。だから、誰も呼ばずにおったのさ。一たい何の用で来た?」
「お気分がどうかと思いまして」とアリョーシャは口を切った。
「ふん。それに、昨日わしが自分のほうからお前に来いと言うたが、あんなことはみんなでたらめだ。そんなご心配をあそばすことはいらなんだのになあ。しかし、わしもお前がすぐにのこのこやって来るだろうと思っておったがな……」
 彼はにくにくしそうな心持を見せながら、そう言った。その間に彼は立ちあがって、さも気にかかるようなふうつきで、鏡を覗いて自分の鼻を眺めた(これで今朝から四十ぺんくらいになるかもしれない)。それから、ついでに額の赤いきれもちょっと恰好をなおした。
「赤いほうがよい、白いのは病院臭うていかん」と彼はもっともらしく呟いた。「ところで、お前のほうはどうだ? お前の長老はどんなだ?」
「大変お悪いのです。ひょっとしたら、今日おかくれになるかもしれません」とアリョーシャは答えた。しかし、父はそれをろくろく聞こうともしなかった。そればかりか、自分の発した問いすらも、すぐに忘れてしまったのである。
「イヴァンはどこへ行った。」彼は突然こう言いだした。「あいつは一生懸命にミーチカの嫁さんを横取りしようとしておる。そのためにここにおるんだよ」と彼は毒々しい調子で言って、口をひん曲げながら、アリョーシャを見つめた。
「一たい兄さんが自分でそう言ったのですか?」とアリョーシャが訊いた。
「もうとうに言うたよ。お前一たい何と思うとったんだ? 三週間も前にそう言ったんだぞ。まさか内証にわしを殺そうと思うて、ここへ来たんじゃあるまい? そうとすれば、一たい何のためにやって来たんだ?」
「お父さん何を言うんです! 何だってそんなことをおっしゃるんです?」とアリョーシャはひどくどぎまぎした。
「あいつは金をくれとは言わん、それは本当だ。しかしそれにしても、わしからびた一文だって取れるこっちゃない。わしはな、アレクセイさん、この世に少しでも長く暮したいのだ。このことはお前たちに心得ておってもらいたいて。それだからして、一コペイカの金でもわしには大切なのさ。わしが長生きをすればするほど、なおさら大切になっていくのさ。」黄ろい夏の薄羅紗で作った、だぶだぶして脂じみた外套のかくしに両手を突っ込んで、隅から隅へと部屋を歩き廻りながら、彼は言葉をつづけた。「今のところ、わしもまだようよう五十五だから男の仲間だが……このさき二十年くらいはやはり男の仲間でおりたいのだ。しかし、もうそうなると年をとって汚ならしゅうなるから、女子《おなご》どもが自分の好きでわしのそばへ寄りついてくれん。さあ、ここで必要になってくるのは金じゃて。だから今こうやって、上へ上へと蓄め込んでおるのじゃ。それも自分一人のためなんだぞ、アレクセイさん、このことを心得ておいてもらいましょう。なぜと言うて、わしは最後まで穢れの中に生きておりたいからだ。このことを心得ておいてもらいましょう。穢れの中のほうがいい気持なんだ。この穢れってやつを誰も彼も悪く言うが、みなその中に生きておるのだ。ただみんな内証でこそこそとするのに、わしは公然とするだけの違いだ。ところが、この正直ということのために、世間の穢れたやつらがわしを攻撃するじゃないか、ところでな、アレクセイさん、お前の天国なんかへ行くのは真っ平ごめんだよ。このことは心得ておいてもらいましょう。それに、身分のある人間が天国なんかへ行くのは、第一、無作法だよ。よし天国というやつが本当にあるとしてもさ。わしの考えでは、一たん寝入ったらもう目をさましっこはない、それだけのことなんだ。もし気が向いたら供養もしてもらおうが、気が向かなんだらご勝手だ。これがわしの哲学なのさ。昨日イヴァンがここでうまいことを言うたよ。もっとも、みんな酔っ払ってはおったがな。イヴァンはお天狗だよ、それに、何もそんなに大した学者じゃない……それどころか、特別な教育というほどのものさえありゃせん。ただ黙って人の顔を見ながら、にやりにやりしておるのだ、――それがあいつの奥の手なんだ。」
 アリョーシャは黙って聞いていた。
「一たい何であいつはわしと話をせんのだろう? 何かの拍子で口をきくことがあると、何だか妙にひねくれたことばかり言いおる。本当にイヴァンは悪党だ! なあに、グルーシェンカとは気さえ向いたら、すぐにでも結婚してみせる。金を持った人間は、ただ気さえ向いたら、何でもできるからなあ、アレクセイさん。イヴァンはこれが怖いもんだから、わしが結婚せんように見張りをして、ミーチカをつっ突いて、グルーシェンカと結婚させようとしているのだ。こうしてグルーシェンカがわしのとこへ来る邪魔をしようと思うとるのさ。(へん、もしわしがグルーシェンカと結婚せなんだら、あいつに金でも残すと思うとるのかい!)一方ミーチカがグルーシェンカと結婚したら、イヴァンは兄貴の裕福な花嫁を自分のものにしようという寸法だ。これがあいつの胸算用なんだ! 本当にイヴァンは悪党だ!」
「お父さんは本当にいらいらしてばかりいますね。それは昨日のことのためですよ。行ってお休みになったらどうです」とアリョーシャが言った。
「それみろ、お前がそう言うても、」初めて頭に浮んだことかなんぞのように、老人は突然こう言いだした。「わしはお前に対して腹が立たんけれど、もしイヴァンがそれと同じことを言うたら、わしはきっと腹を立てたに相違ない。お前と話をしておる時だけ、わしも優しい気分になるよ。そのほかの時は、わしはまったく意地のわるい人間だからな。」
「意地のわるい人間じゃなくって、ひねくれてしまった人なんですよ」とアリョーシャはほお笑んだ。
「ときにな、わしは今日あのミーチャの強盗を牢へぶち込んでやろうかと思うたが、今またどうしたものかと迷うておるのだ。もちろん、流行を追う今の時世では、親父やおふくろを旧弊あつかいにするのが、あたりまえのようになってきたが、しかし、いくら今の時世だって、年とった親父の髪を掴んで、おまけに靴の踵で蹴とばすということは、法律上ゆるされておらん。しかも、場所は当の親の家じゃないか、それにもう一度やって来て、今度こそ本当に殺してやると、証人のおる前で広言するとは何事だ。わしはもうその気にさえなれば、さっそくあいつを取っちめて、昨日のことを言い立てに、今すぐにでも牢へぶち込んでやれるんだ。」
「でも、告訴するのはやめたんでしょう、ね?」
「イヴァンがとめたのでな。なに、イヴァンなど唾でもひっかけてやりたいくらいだが、わしも自分で一つ面白いことを考えたもんだからな……」
 彼はアリョーシャのほうへ屈み込んで、いかにも信用しきったような調子で囁いた。
「もしわしがあの悪党を牢へ入れたことを聞いたら、あの女はさっそくあいつのほうへ走って行くに相違ない。ところで、もしあいつがこの弱い老人を、半殺しの目にあわせたということを、今日にもあの女が聞きつけたら、たぶんあいつを捨ててわしのところへ見舞いに来るだろう……人間というやつはこんな性質を授かっておるのだよ――何でも反対反対と出かけたいんだな。わしはあの女の性質を、すっかり見すかしてしまったよ! ところで、コニヤクでも飲まんか? 冷コーヒーに杯の四つ一くらいたらし込んだら、なかなか味のいいもんだよ。」
「いいえ、いりません、有難う。それよりこのパンをもらって行きましょう。下さるでしょう」と言って、アリョーシャは、三コペイカほどのフランスパンを取って、法衣のかくしへ入れた。「それに、お父さんもコニヤクはあがらないほうがいいでしょう」と彼は父の顔を覗き込みながら、おずおずと言った。
「お前の言うとおりだ。気をいらいらさせるばかりで、静かな心持にしてくれない。しかし、ほんの一杯きりだからな……わしはちょっと戸棚から……」
 彼は鍵を取り出して、戸棚を開き、杯に一つ注いで、飲み干すと、また戸棚に鍵をかけて、それをもとのかくしへしまった。
「もうたくさんだ、一杯くらいで片輪にはならんからなあ。」
「そら、今お父さんはずっと人が好くなりましたよ」とアリョーシャは微笑した。
「ふむ、わしはコニヤクを飲まんでも、お前が好きだよ。しかし、相手が悪党だったら、わしも悪党になるんだ。ヴァンカ([#割り注]イヴァン[#割り注終わり])はチェルマーシニャヘ行きおらん――どういうわけだと思う? わしの探偵がしたいからだ。もしグルーシェンカが来たとき、わしがあれに、大金をやりゃせんかと思うとるんだろう。どいつもこいつもみんな悪党だ! それに、わしはイヴァンというやつがさっぱりわからん。まるでわしがあいつに遺産でもやるかなんぞのように思うとるのだ。それに、わしは遺言も残して死にゃせん。このことはお前たちに心得ておってもらわにゃならん。ところで、ミーチカのやつなんぞは、油虫のように踏み潰してくれるわ。わしは毎晩スリッパで油虫を踏み潰してやるんだ。足をのせるとぐしゃりというが、お前のミーチャもやはりぐしゃりというんだ、お前の[#「お前の」に傍点]ミーチャと言うたのは、お前があいつを愛しておるからだ。しかし、お前があれを愛しておるからって、わしはちっとも恐れはせん。もし、イヴァンがあいつを愛しておるとしたら、わしはわが身のために心配したかもしれん。しかし、イヴァンは誰も愛しはせん。あいつはロシヤの人間じゃないのだからな。イヴァンのようなやつは人間じゃない、風に舞いあがった埃だ。風が通ってしまえば、埃も消えてしまう……昨日な、お前に今日やって来いと言いつけた時、ひょいと馬鹿な考えが浮んできたよ。実は、お前の手を通して、ミーチカの肚を探ろうと思うたのさ。ほかじゃないが、もし今わしが千か二千の金をあいつに分けてやったら、あの恥知らずの乞食みたいなやつだから、すっかりここから姿を隠してしまうだろうか、五年くらいの間……いや、三十五年ならなお結構だ。そしてグルーシェンカは連れて行かないのだよ。いや、いっそあれのことは綺麗に諦めてもらいたいのだ、承知するだろうか、うん?」
「僕……僕、兄さんに訊いてみましょう……」とアリョーシャは呟いた。「もし三千ルーブリすっかり耳を揃えたら、あるいは兄さんも……」
「馬鹿あ言え! 今となったら訊く必要はない、何も訊かんでもよい! わしはもう考えなおしたんだ。ちょっと昨日、そんな馬鹿な考えが頭に浮んだまでのことだ。何一つくれてやるもんか、びた一文だってやりゃせん、わしは自分でもいるんだ」と老人は手を振った。「そうでなくても、あんなやつは油虫のように踏み潰してやる。あいつに何も言うちゃならんぞ、でないと、また当てにするだろうからなあ。それに、お前もわしのところにおったって、何もすることはないのだから、もう帰るがよい。ところで、あの許嫁のカチェリーナさ、あの女をミーチャはいつも一生懸命わしから隠すようにしておるが、一たいあの女はミーチャと結婚するだろうか? お前きのうあの女のところへ行った様子だが……」
「あのひとはどんなことがあっても、兄さんを棄てやしません。」
「そのとおりだ、ああいう優しいお嬢さん方は、あいつのような極道者や悪党を好くもんだよ! あんな顔色の悪いお嬢さん方ほど、やくざなものはないよ、ああ、そうだとも、いつだってそうだ……ばかばかしい! もしわしにあいつの若さと、あの年のわしの顔があったら(なぜと言うて、二十八時代のわしは、あいつより男まえがよかったからなあ)、それこそわしもあいつに負けんように、女を泣かせて見せるんだがなあ。畜生! 何と言うたところで、グルーシェンカは手に入れさせやせん、なんの、手に入れさせるものか……あんなやつ、木っぱ微塵にしてやるんだ!」
 この最後の言葉とともに、彼はまた凄じい権幕になってきた。
「お前ももう帰れ、ここにおったところで、今は何も用事はありゃせん」と彼は鋭い調子で断ち切るように言った。
 アリョーシャは暇を告げるために近寄って、父の肩を接吻した。
「何だってお前そんなことをするのだ?」と老人は少々驚いた様子で、「まだ会うことはあるじゃないか、うん? それとも、もう会えんとでも思うのか?」
「決してそんなことはありません。僕はただその、何という気なしに……」
「うん、わしもやはり何という気なしに……わしもただその……」と老人はわが子を見つめた。
「おい、ちょっと、おい」と彼は後から声をかけた。「いつかまた、近いうちに来んか、魚汁《ウハー》を食べにな。一つ魚汁《ウハー》を拵えるから。しかし、今日のようなやつじゃない、特別なんだ、ぜひ来てくれ! そうだ、あす来い、よいか、あす来るんだぞ!」
 アリョーシャが戸の向うへ出て行くが早いか、彼はまた戸棚へ近寄って、杯半分ほど一息に呷った。
「もうやめだ!」と呟いて喉をくっと鳴らし、戸棚に鍵をおろすと、またその鍵をかくしにしまって、寝室へ赴き、力の抜けた体を床の上へ横たえると、そのまま眠りに落ちてしまった。

[#3字下げ]第三 かかり合い[#「第三 かかり合い」は中見出し]

『まあ、お父さんがグルーシェンカのことを訊かなくって、いいあんばいだった。』アリョーシャはまたアリョーシャで、父のもとを辞して、ホフラコーヴァ夫人の家へ赴きながら、心の中でこう考えた。『でなかったら、昨日グルーシェンカと会ったことを、話さなきゃならなかったかもしれない。』アリョーシャは二人の敵手が昨夕のうちに新しく、元気を回復して、夜が明けるとともにふたたび石のように冷たい心になったのを直覚したのである。『お父さんは恐ろしくいらいらして、意地がわるくなっている。きっと何か考えついて、それを固執しているに相違ない。ところが、兄さんのほうはどうだろう? こちらもやはり昨夕のうちに気分を持ちなおして、同じようにいらいらした意地わるい心持になっているに違いない。そしてもちろん、何かもくろんでいるにきまっている……ああ、どうしても今日の間に合うように、兄さんを捜し出さなけりゃならない……」
 しかし、アリョーシャは長くこんなことを考えているわけにはいかなかった。途中思いがけない出来事が、彼の身の上に起ったのである。それはちょっと見たところ大したことではないけれども、彼に強烈な印象を与えた。小さな溝川を隔てて(この町は到るところ溝川が縦横に貫通しているので)、大通りと並行しているミハイロフ通りへ出ようと思って、広場を通り抜けて横町へ曲った時、小さな橋の手前で一塊りになっている小学生が目に入ったのである。それはみんな年のゆかぬ子供ばかりで、九つから十二くらいまで、それより上のものはなかった。あるものは背に小さな背嚢を負い、あるものは革の鞄を肩にかけ、あるものは短い上衣を着、あるものは外套を羽織り、またあるものは、よく親に甘やかされた金持の子供がことに好んで誇りとする、胴に襞の入った長靴を履いて、めいめい学校から帰って行くところであった。この一群は、元気のいい調子でがやがや話し合っている。何かの相談らしい。アリョーシャはどんな時でも、子供のそばを平気で通り過ぎることができなかった。モスクワでもそうであった。もっとも、彼は三つくらいの子供が一番すきだったが、十か十一くらいの小学生も大好きなのである。
 で、今もいろいろ心配があったにもかかわらず、急に子供らのほうへ曲って行って、話の仲間へ入りたくなった。ちかぢかとそばへ寄って、彼らのばら色をした元気のいい顔を眺めているうちに、ふと気がついてみると、子供らはてんでに石を一つずつ持っている。なかには二つ持っているものもあった。溝川の向うには、こっちの塀からほぼ三十歩ばかり隔てた垣根のそばに、もうひとり子供が立っていた。やはり鞄を肩にかけた小学生で、背恰好から見るとまだ十は越すまい、いや、あるいはそれより下かもしれぬと思われるほどであった。青白い病的な顔をして、黒い目をぎらぎら光らしている。彼は注意ぶかく試験でもするように、六人の子供の群を眺めていた。彼らはみんな友達同士で、たった今一緒に学校を出たばかりであるが、平生からあまり仲のよくないのは一目見ても明らかであった。アリョーシャは白っぽい髪の渦を巻いた血色のいい一人の子供に近づいて、黒い短い上衣を着た姿を見廻しながら話しかけた。
「僕が君らと同じような鞄をかけてた時分、みんな左の肩にかけて歩いたものだよ。それは右の手ですぐに本が出せるからさ、ところが、君は右の肩にかけてるが、それで出しにくくないの?」
 アリョーシャは、べつにまえまえから用意した技巧を弄するでもなく、いきなりこうした実際的な注意をもって会話を始めた。まったく大人がいきなり子供の、とくに大勢の子供の信用をうるためには、これよりほかに話の始め方はないのである。真面目で実際的な話を始めること、そしてぜんぜん対等の態度をとること、これが何より肝心なのである。アリョーシャにはこれが本能でわかっていた。
「だって、こいつは左ききなんだもの。」活溌で丈夫らしい十一ばかりの別な男の子が、すぐにこう答えた。
 そのほかの五人の子供は、食い入るようにアリョーシャを見つめた。
「こいつは石を投げるんでも左だよ」といま一人の子が口を入れた。
 ちょうどこの時、一つの石が群の真ん中へ飛んで来て、ちょっと左ききの子供に触ったが、そのまま飛び過ぎてしまった。しかし、その投げ方はなかなか上手で力が入っていた。それは溝川の向うの子供が投げたのである。
「スムーロフ、やっつけろ、くらわしてやれ!」と一同が叫んだ。
 しかしスムーロフ([#割り注]左きき[#割り注終わり])は言われるまでもなく、少しも猶予しないで、すぐにまた一矢酬いた。彼は溝川の向うにいる子供を目がけて石を抛ったが、うまく当らなかった。石は地面を打っただけである。溝川の向うの子供は、さっそくまた一つこっちの群を目かけて投げつけたが、今度はうまくアリョーシャに当って、かなり強く彼の肩を打った。溝川の向うにいる子供のポケットは、用意の石ころで一杯であった。それは三十歩あいだを隔てていても、外套のポケットが脹らんでいるので察しられた。
「あれは君を、君をわざと狙ったんだよ。だって君はカラマーゾフじゃないの、カラマーゾフじゃないの?」と子供らはきゃっきゃっと笑いながら叫んだ、「さあ、みんな一時にやるんだぞ、うてっ!」
 と六つの石が同時に群の中から飛んで出た。その中の一つが向うの子供の頭へ当った。彼はばったり倒れたが、すぐまた跳ね起きて、死物狂いに応戦を始めた。両方からやみ間のない戦いがつづけられた。見ると、こっちの子供らのポケットにも、用意の石が一ぱいつめてあった。
「みんな何をするの! よくまあ恥しくないこったねえ! 六人で一人のものにかかって行ったら、あの子を殺してしまうじゃないの!」アリョーシャは呶鳴った。
 彼は跳り出して、飛び来る石に向って仁王立ちになった。身をもって溝川の向うの少年を庇おうと思ったのである。三人か四人の子供はいっとき手を休めた。
「だって、あいつからさきに始めたんだもの!」赤いシャツを着た少年が、いらいらした子供らしい声で喚いた。「あいつは卑怯なやつなんだ。さっき、クラソートキンをナイフで突いて、血を出したりしたんだよ。クラソートキンは厭だと言って先生に言いつけなかったけれど、あんなやつ、ひどい目にあわしてやらなくちゃ……」
「一たいどういうわけなの? きっと君らのほうからさきにからかったのだろう?」
「ああ、また君の背中へ当てやがった。あいつは君を知ってるんだよ」と子供は叫んだ。「今あいつは僕らでなくって、君を狙って投げてるんだよ。さあ、またみんなでやっつけろ、スムーロフ、やりそこなっちゃ駄目だぜ!」
 こうしてまたもや石合戦が始まったが、今度は前よりさらに獰悪になってきた。やがて一つの石が溝川の向うにいる子供の胸へ当った。彼はきゃっと悲鳴を上げると、泣きながらミハイロフ通りのほうをさして、坂の上へ駆け登った。こっちの群は、『やあい、怖くなって逃げ出しやがった、やあい、糸瓜野郎!』とはやし立てた。
「あいつがどんなに卑怯なやつか、君はまだ知らないんだろう、あいつは殺したってたりないんだ」と短い上衣を着た少年が目を光らしながら言った。見たところ、仲間で一ばん年上らしい。
「あれが一たいどんな子だって?」とアリョーシャは訊ねた。「告げ口やだとでも言うの?」
 子供らは馬鹿にしたように顔を見合した。
「君もやっぱりあっちい行くんだろう、ミハイロフ通りへね?」と前の少年が言葉をついだ。「そしたら、すぐあいつを追っかけて訊いてごらん……ほら、ちょっと、あいつまたじっと立って待ってるから。君のほうをじろじろ見てらあ。」
「君のほうを見てらあ、君のほうを見てらあ!」と子供らはすぐ引き取った。
「あのね、一つあいつにこう訊いてごらん、お前はぼろぼろになった風呂場の糸瓜が好きかって。いいかい、そう言って訊くんだよ。」
 一同はどっと笑った。アリョーシャは子供らを、子供らはアリョーシャを、じっと見つめるのであった。
「行くのをおよしなさい、ぶん殴られるから」とスムーロフが大きな声で警戒した。
「いや、僕はそんな糸瓜のことなんか訊きゃしないよ。だって君らはこの糸瓜でもって、あの子をからかってるに相違いないんだもの。それよりか、どうして君らがあの子をそんなに憎むのか、あの子に直接きいてみるよ……」
「訊いてごらん、訊いてごらん!」と子供らはまた笑いだした。
 アリョーシャは小橋を渡って、垣根に沿うた坂路を昇り、のけ者にされた子供のほうへまっすぐに進んで行った。
「気をおつけよ」と子供らはうしろから注意した。「あいつは君だって恐れやしないから、いきなりナイフを出して、不意打ちに君を突くかもしれないよ、あのクラソートキンの時みたいに……」
 少年はじっとその場を動かないで、彼を待ちもうけていた。ぴったりとそばへよったとき、アリョーシャは自分の前に立っている少年が、まだ九つを越さない、背の低いよわよわしい、痩せて蒼白い細長い顔をした子供なのを見てとった。大きな黒い目は、にくにくしそうに彼を見据えている。子供は体に合わぬ不恰好な、ずいぶん時代のついた外套を着ていた。あらわな手を両袖からにゅうと突き出して、ズボンの左の膝には大きなつぎが当っている。右のほうの靴は、親指にあたる爪先に大きな穴があいて、その上からやたらにインキを塗った痕が見える。ふくれあがった両方のポケットには、石ころが一ぱいつまっていた。アリョーシャは彼から二歩ばかり前に立って、もの問いたげにその顔を見まもった。少年はアリョーシャの目つきから推して、彼が自分をぶつ考えを持ってないことを知ったので、自分のほうでも力を抜いてさきに口をきった。
「僕は一人きりだけど、向うは六人もいるんだ……僕は一人であいつらをみんな負かしてやらあ。」彼は目を光らせながら突然こう言った。
「だけど、石が一つひどく君に当ったじゃないの」とアリョーシャが言った。
「僕だってスムーロフの頭へ当ててやったい!」と子供は叫んだ。
「僕あっちで聞いて来たんだが、君は僕を知ってて、わざと僕を狙って投げたんだってね?」とアリョーシャは訊いた。
 子供は沈んだ目つきをして彼を眺めた。
「僕、君を知らないけど、君は本当に僕を知ってるの!」とアリョーシャは質問の歩を進めた。
「うるさいよ!」だしぬけに子供は癇癪声を張り上げて叫んだ。が、やはり何やら待ちもうけているように、その場を動こうともせず、またもやにくにくしげに目を光らすのであった。
「じゃ、僕行こう」とアリョーシャは言った。「ただね、僕は君を知らないんだから、君をからかいもしないよ。あっちにいる子供らは、やたらに君をからかってやるんだって言ってたが、僕は君をからかう気なんか、少しもないんだからね。じゃ、さようなら!」
「やあい、坊主のくせに絹の股引をはいてやがらあ!」少年は依然として毒々しい、挑むような目つきでアリョーシャを見送りながらこう叫んだが、今度こそアリョーシャが必ず跳びかかって来るに相違ないと思ったらしく、ついでにちょっと応戦の身構えをした。しかし、アリョーシャは振り返って彼のほうを見たばかりで、そのまま向うへ行きかかった。が、三歩と踏み出さないうちに、少年の投じた石が強く彼の背中を打った。しかも、それは少年のポケットにある石の中で、一ばん大きいのであった。
「君はうしろからそんなことをするの? あっちにいた子供らが、君はいつも不意打ちばかりすると言ったのは、本当なんだね」とアリョーシャは振り返ってそう言った。しかし、少年は死物狂いになって、またもや石を投げつけた。しかも、今度は顔の真ん中を狙ったのである。けれど、アリョーシャがうまく身をかわしたので、石は彼の肘に当った。
「よく君は恥しくないこったねえ! 僕が君に何をしたというの?」と彼は叫んだ。
 少年は、もう今度こそアリョーシャが、ぜひとも自分に飛びかかって来るに相違ないと思って、無言に挑むような態度で、そればかり待ち構えていた。しかし、彼が今度もかかって来ないのを見ると、まるで小さな野獣のように、すっかり夢中になってしまい、いきなり跳りあがって、自分のほうからアリョーシャに飛びかかった。そして、こっちが身をかわす暇もないうちに、彼の左手を両手で握りしめ、首を屈めたと思うと、いきなりぎゅっと中指に噛みついて、しっかり食い入ったまま、十秒間ほど放そうとしなかった。アリョーシャは力一ぱい自分の指をもぎ放そうとしながら、痛みにたえかねて叫び声を上げた。少年はとうとう指を放して、うしろへ飛び退くと、以前の間隔をおいて突っ立った。指は爪のすぐそばを深さ骨に達するほど歯を立てられて、血がたらたらと流れ出すのであった。アリョーシャはハンカチを取り出して、傷所をしっかりと巻いた。そのあいだほとんどまる一分ほどかかったけれど、少年はじっと立ったまま待っていた。ついにアリョーシャはそのほうへ穏かな視線を向けた。
「さあ、これでいい」と彼は言った。「ね、ごらん、ずいぶんひどく噛んだじゃないか。だけど、これで得心がついたろう、ね? さあ、今こそ教えてもらおう、一たい僕が何をしたって言うの?」
 少年はぎくっとして彼の顔を見つめた。
「僕はまるで君を知らないし、会ったのも今がはじめてだけど」とアリョーシャはやはり落ちついた調子で言った。「しかし、僕が何もしないってはずはないだろう。君が何のわけもなしに、あんなに僕をいじめるはずはないだろう。一たい僕が何をしたっていうの、君にどんな悪いことをしたっていうの?」
 返事の代りに、少年は突然大きな声で泣きだして、いきなりアリョーシャのそばを駆け出した。アリョーシャはその跡を追って、静かにミハイロフ通りのほうへ歩いて行った。そして、依然として歩調をゆるめないで、うしろを振り向きもせず遠く走って行く少年を、長いこと見送っていた。少年はまだやはり声を上げて、泣き泣き走っているらしい。彼はおりを見てこの少年を捜し出し、不思議な謎を解かねばならぬ、と決心した。しかし、今はそんな暇がなかった。

[#3字下げ]第四 ホフラコーヴァの家にて[#「第四 ホフラコーヴァの家にて」は中見出し]

 間もなく彼はホフラコーヴァ夫人の家へ近づいた。それは夫人の持ち家で、町では指折りの美しい石造の二階建てであった。ホフラコーヴァ夫人は他県にある領地と、モスクワの持ち家とでおもに時を過していた。この町には先祖代々の家を持っていたし、それにこの郡にある領地が、夫人の三つの領地の中で一番大きかったが、それでも夫人がこの郡へ来ることは今まできわめて稀であった。彼女は、アリョーシャを出迎えで控え室まで駆け出した。
「あなた、あなた、あなたは新しい奇蹟のことを書いたわたしの手紙をごらんなすって?」と夫人は神経的な早口で言いだした。
「ええ、拝見しました。」
「みんなに披露して下さいましたか、みんなに見せて下さいましたか、長老さまは母親に息子を取り戻しておやりなすったのです!」
「長老さまは今日おなくなりなさいます」とアリョーシャは言った。
「ええ、聞きました、知っています。ああ、わたしはあなたとお話ししたくてたまりません! あなたでなければ誰かほかの人と、このことをお話ししたくってたまりませんの! いいえ、やはりあなたでなくちゃ駄目ですわ、あなたにかぎります! ですけれど、わたし長老さまにどうしてもお目にかかれないのが、残念でたまりません! 町じゅうのものが夢中になって、誰も彼も待ちもうけているのです。けれど、今はね……あなた、カチェリーナさんが今ここへ来てらっしゃるのをご存じ?」
「あっ、それは非常に好都合でした!」とアリョーシャは叫んだ。「じゃ、僕はお宅であのひとに会わしていただきましょう。あのひとが今日ぜひ訪ねてくれと、きのう僕にくれぐれもおっしゃったのです。」
「わたしすっかり知っています、すっかり知っています。わたしは昨日あのひとのところであったことを詳しく聞きました……そしてあの……腐れ女の恐ろしい仕打ちもすっかり。C'est tragique.([#割り注]まったく悲劇ですね[#割り注終わり])わたしがあのひとだったら、わたしがあのひとだったら、何をしでかしたかわかりませんよ! けれど、あなたのご兄弟のドミートリイさんは何という、――おやまあ、アレクセイさん、わたしすっかりまごついてしまって、本当にどうしたのでしょう! 今あちらへあなたの兄さんが、といっても、あの昨日の恐ろしい兄さんじゃありませんよ、も一人のほうのイヴァン・フョードルイチが、あのひとと一緒にあちらにいらっしゃるんですよ。そのお二人の話がとても大変なんですの……ご存じないでしょうけど、今お二人の間にどんなことが始まってるでしょう、まあ、どんなに恐ろしいことでしょう。あれはあなた破裂ですよ、とても本当にすることのできないような、恐ろしい昔噺ですよ。お二人とも何のためだかわからないことで、われとわが身を亡ぼしてらっしゃるのです。しかも自分でそれを承知しながら、かえってそれを楽しんでらっしゃるじゃありませんか。わたし、あなたを待ちかねていましたの! 待ち焦れていましたの! 第一、わたし、あんなことを見ているわけにゆきません。まあ、このことは後ですぐ詳しくお話ししますが、今はちょっと別なことを申し上げねばなりません。しかも一等肝心なことですの。まあ、わたしとしたことが、これが一等肝心だということさえ忘れてるじゃありませんか。ねえ、一たいどういうわけでリーズはヒステリイばかり起すのでしょう! あなたがおいでになったことを聞くが早いか、もうさっそくヒステリイを始めるんですものねえ。」
「お母さん、今ヒステリイを起してるのはお母さんで、あたしじゃないことよ。」とつぜん戸の隙間から、次の部屋にいるリーズの甲高い声が聞えた。その隙間は非常に小さかったけれど、声は何かひびの入ったような工合で、笑いたくてたまらないのを、一生懸命に我慢しているようなふうであった。アリョーシャはすぐこの隙間に気がついた。きっとリーズは例の肘椅子から身を乗り出しながら、この隙間から自分を覗いてるに相違ないと思ったが、そこまでは見分けがつかなかった。
「ちっとも不思議はないよ、リーズ……お前の気まぐれのために、わたしまでヒステリイを起したからって、ちっとも不思議はありませんよ。もっとも、あの子は大変からだが悪いんですよ、アレクセイさん、昨夜よっぴて体が悪くって、熱に浮かされながら唸っていましたの! わたし夜が明けて、ヘルツェンシュトゥベが来てくれるのが、どんなに待ち遠だったかしれませんわ。ところが、あの医者は、何もわからない、少し待たなくちゃなりません、と言うんですの。いつ来てみても、何もわかりませんの一点張りですからねえ。あなたが家のそばまでいらっしゃるとね、アレクセイさん、この子はすぐ大きな声を立てて、そのまま発作を起しましたの。そして、もとあの子のいたこの部屋へ、椅子を引っ張って来てくれと申しましてね……」
「お母さん、あたしアレクセイさんのいらしったことを、ちっとも知らなかったのよ。あたしがこの部屋へ来たいって言ったのは、そんなだめじゃないわよ。」
「それ、もう嘘を言ってますね、リーズ、ユリヤが走って来て、この方のいらしったことを知らせたじゃないの。あれはお前に番兵を言いつかってるんだからね。」
「まあ、お母さんてば、何でそんな間の抜けたことをおっしゃるんでしょう。もし名誉回復のために、さっそく何か大へん気のきいたことが言いたかったからね、お母さん、いま入ってらしたアレクセイ・カラマーゾフさんにそう言ってお上げなさいな、『昨日のことがあったあとで、あんなにさんざん冷かされたのもおかまいなしに、きょう平気で家へ来る気におなんなすったということ一つで、あなたは自分の間抜けを証明していらっしゃいますね』って……」
「リーズ、お前それはあまり口がすぎますよ。本当に前から言っておきますが、しまいには厳重な処置を取らなくちゃならないからね。一たい誰がこの方を冷かしています? それどころか、わたしはこの方の来て下すったのが、大へん嬉しいんです。この方はわたしにいり用なんです、なくてならない人なんです。ああ、アレクセイさん、わたしは本当に不仕合せですわ!」
「一たいお母さん、どうなすったの?」
「まあ、リーズ、お前の気まぐれと、ふわふわした心持と、お前の病気と、あの恐ろしい夜通しの熱と、あの恐ろしい、いつまでたっても際限のないヘルツェンシュトゥベと……まあ、何より一番いやなのは、いつまでも、いつまでも際限のないことです。その上に、まだいろんなことがあるじゃないの……それからあの奇蹟までがねえ! アレクセイさん、わたしはあの奇蹟のためにどんな驚異を、どんな感激を受けたかわかりませんよ! おまけにあそこの客間では、とても見ていられないような悲劇がもちあがってるでしょう。いえ、まったく見ていられません。わたし、前からあなたに言っておきます、とても見ていられないんですよ。しかし、もしかしたら、悲劇でなくって喜劇かもしれませんわ。ところで、あのゾシマ長老は明日まで生き延びられるでしょうか、え、生き延びられるでしょうか! ああ、本当にわたしはどうしたんでしょう! しょっちゅうこうして目をふさいでみるたびに、何もかもみんな無意味なように思われるじゃありませんか。」
「僕おりいってお願いがあるんですが」と突然アリョーシャが話の腰を折った。「何か指を巻くような綺麗な小ぎれを下さいませんか。僕ひどく怪我をして、それがしくしく痛んでたまらないんですから。」
 アリョーシャは例の子供に咬まれた指を解いてみせた。ハンカチはべっとり血に染められていた。ホフラコーヴァ夫人はきゃっと叫んで目をつぶった。
「あらまあ、何という傷でしょう、本当に恐ろしい!」
 けれども、リーズは戸の隙間からアリョーシャの指を見るやいなや、いきなり力いっぱい戸を開け放してしまった。
「入ってらっしゃい、あたしのほうへ入ってらっしゃい」と彼女は命令するような力の籠った声で叫んだ。「もうばかばかしい冗談どころじゃなくってよ! まあ、何だってこんな時に黙ってぽかんと立ってらっしゃるの! 出血で弱っておしまいになるじゃないの! 一たいあなたどこでこんなことをなすったの! まあ、何よりさきに水がいるわ! 水がいるわ! 傷を洗わなきゃならないもの。だけど、それよか、冷たい水の中へつけて、そのままじっとしているほうがいいわ! じっとそのままね……そうすると、痛みがとまってよ。早く、早く水を、お母さん、うがい茶碗へ……ねえ、早くってばさ」と彼女は神経的に叫んだ。彼女はすっかり仰天してしまっていた。アリョーシャの傷が恐ろしい印象を与えたのである。
「ヘルツェンシュトゥベを呼んで来ましょうか?」と夫人は叫んだ。
「お母さんはあたしを殺してしまうつもりなの。あなたのヘルツェンシュトゥベなんか来たって、どうもさっぱりわかりませんなあ、と言うにきまっててよ。水を、水を! お母さん、後生だからご自分で行ってユリヤをせかしてちょうだいな。あの女はいつでもどこかその辺にへたばりこんじまって、用を言いつけても間に合ったためしがないんですもの! ねえ、早くってばさ、お母さん、あたし死んじまってよ!………」
「こんなこと何でもないんですよ!」とアリョーシャは親子の驚き方にびっくりしてこう叫んだ。ユリヤは水を持って走って来た。アリョーシャはその中へ指を浸した。
「お母さん、後生だから、綿撒糸を持って来て下さいな、綿撒糸を! それからあの切傷につけるつんと鼻にくる濁った薬があったでしょう、何とか言ったけ! 家にあるのよ、あるのよ、あるのよ、あるのよ……お母さんご存じでしょう、あの薬の瓶がどこにあるか。ほら、お母さんの寝間の右側にある戸棚よ、あそこに壜と綿撒糸があるのよ……」
「すぐ持って来るから、そんなに騒がないでおくれ。そんなに心配することはありませんよ。ごらんなさい、アレクセイさんはご自分の不幸を、立派にこらえてらっしゃるじゃありませんか、ですけれど、どこであなたはそんな恐ろしい怪我をなすったんですの?」
 ホフラコーヴァ夫人はとっかわ出て行った。リーズはただそれのみを待ち構えていたのである。
「まず第一番に」とリーズは早口に言いだした。「どこであなたはそんな傷をなすったのか、それを一番に教えてちょうだい。その後であたしまるで違ったことをお話ししますから。さあ!」
 アリョーシャは母夫人の帰って来るまでの時間が、彼女にとってどんなに貴いかを本能的に悟ったので、大急ぎでいろんな枝葉を刈ったり抜かしたりしながら、とはいえ、正確に、明瞭に例の小学生との謎のような遭遇を物語った。聞き終ったときリーズは両手を拍った。
「まあ、一たいあなたはそんな着物を着たままで、ちっぽけな子供たちにかかり合っていいものですか!」と彼女はまるで自分がアリョーシャに対して、何かの権利でもあるかのように、腹立たしげにこう叫んだ。「そんなことをなさるところを見ると、あなたもやっぱり子供なのねえ、世界じゅうで一等ちっぽけな子供だわ! だけど、その生意気な小僧のことはぜひとも探り出して、あたしにすっかり話して聞かしてちょうだい、だって、それにはきっと何か秘密があるに相違ないんですもの。さあ、今度は第二の話ですが、その前に訊いておかなくちゃならないことがありますわ。アレクセイさん、あなたはその傷の痛みをかまわないで、思いきってつまらないお話をすることができますか? つまらないことといっても、真面目に話さなくちゃ駄目よ。」
「できますとも、それに今はそう大して痛くないんですよ。」
「それはあなたが指を水の中へつけてるからよ。もう水を替えなくちゃならないわ。でないと、すぐ暖くなっちまいますもの。ユリヤ、大急ぎで氷のかけを穴蔵から出して、別なうがい茶碗に水を入れておいで。さあ、あれも行ってしまったから、あたし用事に取りかかってよ。アレクセイさん、今すぐあの手紙を、あたしが昨日あなたに上げた手紙を返してちょうだい、今すぐよ、だってお母さんが今にも帰って来るかもしれないんですもの。あたしはもう……」
「僕は今あの手紙を持っていないのです。」
「嘘よ、持ってらっしゃるわ。あたしそうおっしゃるだろうと思ってたわ。あの手紙はこのかくしの中にあってよ。あたし、どうしてあんな馬鹿なことをしたろうと思って、ゆうべ夜っぴて後悔したのよ。さ、すぐに返してちょうだい、返してちょうだい!」
「僕あっちへ残して来たんです。」
「だけど、あなたはあんな馬鹿なことを書いた手紙を読んで、あたしをほんの小娘……ちっぽけな、ちっぽけな小娘と思わないではいられないでしょう! あたしあんな馬鹿なことをしたのは、あなたにようくお詫びをするけれど、手紙だけはぜひ持って来てちょうだい。もし本当にいま持ってらっしゃらないとすれば、今日にでも来てちょうだい、きっとよ、きっとよ!」
「今日というわけには、どうしてもいきません。なぜって、僕寺へ帰ったら、もう二日三日、ことによったら、四日ばかりこっちへ来ませんからね。だって、ゾシマ長老が……」
「四日、そんなでたらめを! ねえ、あなたはあたしのことを一生懸命に笑ったでしょう?」
「僕ちっとも笑やしなかった。」
「どうして?」
「それはあなたをすっかり信じたからです。」
「あなたはあたしを侮辱なさるのね?」
「どういたしまして、僕はあの手紙を読んだ時、すぐにそう思いました、これは本当にこのとおりになるに相違ないって。なぜって、僕はゾシマ長老がおかくれになったら、すぐに寺を出なければならないんですものね。それから僕はまた学校へ入って試験を受けるつもりです。そして、法律できめられた時が来たら結婚しましょう。僕はいつまでもあなたを愛します。僕はまだ落ちついて考える暇がなかったのですが、それでも、あなたに優る妻を見いだすことはできないと思いました。それに長老も僕に結婚しろとお言いつけになりましたからねえ。」
「だって、あたし片輪よ。肘椅子に乗せて引っ張ってもらってるのよ」とリーザは頬をうっすら染めながら笑いだした。
「僕は自分であなたを引っ張って歩きます。しかし、それまでにはよくなると思いますよ。」
「あなたは気がちがったんじゃなくって?」とリーザは神経的な調子で言いだした。「あんな冗談を真面目にとって、そんな馬鹿なことを言いだすんですもの!………あら、お母さんがいらしった、ちょうどいいあんばいかも知れないわ。お母さん、どうしてあなたはそんなにいつもいつものろいんでしょう、どうしてそんなに手間がとれるんでしょうね! ほら、ユリヤはもう氷を持って来たわ!」
「まあ、リーズ、騒がないでおくれ――お願いだから騒がないでおくれ。わたしはそのぎょうさんな声を聞いたばかりで……だって仕方がないじゃないの、お前がまるで別なところへ綿撒糸を突っ込んでるんだもの……わたしさんざん捜したじゃないの……ひょっとしたら、お前わざとあんなことをしたんじゃないかしら。」
「だって、この人が指を咬まれて来ようなんて、まるで思いがけないじゃありませんか。もっとも、もしそれが前からわかってたら、本当に、わざとそうしたかもしれなくってよ。お母さん、あなたは大へん気のきいたことを言うようにおなんなすったわね。」
「気のきいたことなら気のきいたことでいいけれど、まあ、リーズ、アレクセイさんの指といい、そのほかのことといい、どんな気がするとお思いだえ! ああ、アレクセイさん、わたしを悩ますのは一つ一つの事柄じゃありません、ヘルツェンシュトゥベなんかのことじゃありません。みんな全体ひっくるめてです、みんな一緒ですわ。これがわたしにはとても我慢できませんの。」
「たくさんだわ、お母さん、ヘルツェンシュトゥベのことなんかたくさんだわ」とリーザは面白そうに叫んだ。「さあ、早く綿撒糸をちょうだい、そして薬と。これはただの鉛水よ、アレクセイさん、今やっと名前を思い出したわ、だけど、これはいい薬よ。ところで、お母さん、どうでしょう、この人は途中で小僧っ子と喧嘩をしたんですって。これはその中の一人に咬まれた傷なのよ。ねえ、この人も同じように小っちゃな小っちゃな子供じゃなくって。ねえ、そんな小っちゃな子供に結婚なんかできやしないわね。だって、この人は結婚したいって言うんですもの、どうでしょう。お母さん。本当にこの人にお嫁さんがあるなんて、考えてもおかしいじゃないの、恐ろしいじゃないの?」
 リーズは、ずるい目つきをして、アリョーシャを眺めながら、しじゅう神経的に小刻みに笑うのであった。
「え、どうして結婚なんか、リーズ、何だってお前は突拍子もないそんなことを言いだすの? そんなことを言う時じゃありませんよ……それに、その子供はもしかしたら、恐水病にかかってるかもしれないじゃないの。」
「あら、お母さん! 一たい恐水病の子供なんているものなの?」
「なぜいないの? まるでわたしが馬鹿なことでも言ったかなんぞのようにさ。もしその子供に狂犬が咬みついたとすれば、今度はその子供が手近の人を咬むようになるんですよ。だけど、本当にリーズは上手に繃帯をしましたねえ、アレクセイさん。わたしはどうしたって、そんなにうまくできません。今でも痛うござんすか?」
「もう大したことはありません。」
「ちょいと、あなた水が怖くはなくって?」とリーズが訊ねた。
「まあ、何を言うの、リーズ。まったくわたしもあまり慌てて、恐水病の子供なんて言いだしたけれど、お前はすぐそんな馬鹿なことを言うんだもの。ときに、カチェリーナさんは、あなたのいらしったことを聞くと、もうさっそくわたしのところへ飛んでらしたんですよ。もうあなたを待ち焦れて、待ち焦れて……」
「まあ、お母さん! あなた一人であっちへいらっしゃいよ。この人は今すぐいらっしゃるわけにゆきゃしませんわ。だって、あんなに痛がってらっしゃるんですもの。」
「決して痛がってはいません。平気で行けますよ……」とアリョーシャが言った。
「え! あなたいらっしゃるの? じゃ、あなたは? じゃ、あなたは?」
「何ですか? なに、僕はあっちの用をすましたら、またここへ帰って来ます。そしたらあなたのお気に入るだけのお話ができますよ。実際、僕はいま非常にカチェリーナ・イヴァーノヴナに会いたいわけがあるんです。なぜって、僕はどのみち、きょうできるだけ早く寺へ帰ろうと思ってますからね。」
「お母さん、早くこの人を連れてってちょうだい。アレクセイさん、カチェリーナさんのあとでここへ寄ろうなぞと、そんなご心配にはおよびませんよ。あなたはまっすぐにお寺へいらっしゃい。あそこがあなたに相当した場所だわ! わたし眠くなった、昨夜ちっとも寝なかったんですもの。」
「これ、リーズ、それは悪い冗談ですよ。けれど、本当に休んだらどう!」と夫人は叫んだ。
「僕はどうも合点がいきません。どうして僕が……僕は三分ばかしここにいます、もし何なら五分でも」とアリョーシャはへどもどしながら呟いた。
「五分でも! ねえ、お母さん、早くこの人を連れてってちょうだい、この人は悪魔よ!」
「リーズ、お前、気でもちがったのかい。さあ、まいりましょう、アレクセイさん、この子は今あまり気まぐれがひどすぎるから、わたし気をいらいらさせるのが怖くってなりませんの。ああ、神経過敏の女を相手にするほど情けないものはありませんねえ! だけど、本当にこの子はあなたのそばにいるうちに、眠くなったのかもしれませんよ。しかしまあ、よくそんなに早くこの子に眠気をつけて下さいましたのねえ、本当にいいあんばいでしたわ!」
「あら、お母さんは大へん愛嬌のあることが言えるようになったのねえ。ご褒美にあたし接吻して上げますわ。」
「じゃ、わたしもお前をね。ときに、アレクセイさん。」アリョーシャと一緒に部屋を出ながら、夫人は秘密めかしい、ものものしい調子で早口に囁いた。「今わたしはあなたに何も吹き込みません、この幕を上げることもしません。けれど、入ってごらんなすったら、ご自分であそこの様子がおわかりになります、――本当に恐ろしいことです。何とも言えないとっぴな喜劇です! あのひとはあなたの兄さんのイヴァン・フョードルイチを愛してらっしゃるくせに、自分では一生懸命にドミートリイさんを愛していると、強情をおはりなさるじゃありませんか。まったく恐ろしい! わたしはあなたと一緒に入っていって、もし追ん出されなかったら、しまいまでじっと坐っていましょうよ。」

[#3字下げ]第五 客間における『破裂』[#「第五 客間における『破裂』」は中見出し]

 しかし、客間の会話はもう終りかかっていた。カチェリーナは断乎たる顔つきではあったけれど、恐ろしく興奮していた。アリョーシャとホフラコーヴァ夫人が入った瞬間、イヴァンはもう帰って行くつもりらしく、席を立つところであった。その顔がいくぶん蒼ざめていたので、アリョーシャは不安げに覗き込んだ。なぜなら、今アリョーシャにとって一つの疑惑が、――いつ頃からか彼を悩ましていた一つの不安な謎が、解決されようとしているからであった。もはや一月ばかり前から、彼はいろんな方面から、兄のイヴァンがカチェリーナを恋して、