『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟上』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P096-P143

持ちのミウーソフ家で女中を勤めていたころ、モスクワから招聘された踊りの師匠に教えられて、同家の家庭劇場で踊ったようなものであった。グリゴーリイは妻の踊りを黙って見ていたが、一時間後、自分の家へ帰って、少々髪を引っ張って彼女を懲らしめた。しかし、手荒な折檻はそれきりで終って、もうその後一度も繰り返されなかった。マルファもそれからふっつり踊りを断念してしまった。
 この夫婦には子供が授からなかった。もっとも、一人赤ん坊ができたが、それもすぐ死んでしまった。グリゴーリイは見うけたところ子供が好きらしかったし、またそれを隠そうともしなかった。つまり、それをおもてに見せるのを恥しがる様子がなかったのである。アデライーダが家出したとき、彼は三つになるミーチャを自分の手に引き取って、自分で髪を梳かしてやったり、盥に入れて洗ってやったりして、一年ばかりも世話を焼いた。それから後、イヴァンとアリョーシャの面倒をもみてやったが、そのために頬げたを一つ見舞われるようなことになった。しかしこのことはもう前に話しておいた。
 自分の子供が彼に悦ばしい希望をいだかしたのは、ただマルファが妊娠している間だけであった。生れてみると、その子は悲しみと恐れとをもって彼の心を刺し通した。ほかでもない、この男の子は六本指に生れついたのである。これを見たグリゴーリイはすっかり落胆して、洗礼の日までむっつり黙り込んでいたばかりでなく、口をきかないですむようにわざと庭へ出て行った。ちょうど春のことで、彼は三日間しじゅう菜園の畦を起していた。三日目に幼児の洗礼をすることになったが、この時までにグリゴーリイはもう何か思案を決めていたのである。家では僧侶もちゃんと支度をととのえ、客も集り、主人フョードルも名づけ親の格でわざわざ出かけていたが、彼は小屋へ入るといきなり、子供はまるで洗礼しなくてもよいと言いだした。それも、大きな声でくどくど述べたてたわけでなく、一こと二こと歯の間から押し出すような言い方で、同時に僧の方を鈍い目つきで、じっと見つめるのであった。
「どういうわけで?」と僧ははしゃいだ驚愕の調子で問い返した。
「なぜちゅうて……あれは竜でござりますからな……」とグリゴーリイは呟いた。
「え、竜だって……竜て何のことじゃな?」
 グリゴーリイはしばらく黙っていた。
「神様のお手違いができたのでござりますよ……」彼は不明瞭ではあったが、しっかりした声でこう呟いた。見うけたところ、あまりくどくど説明したくないようなふうであった。
 人々は一笑に付して、不幸な幼児の洗礼はむろんそのまま執り行われた。彼は洗礼盤のそばで一心に祈祷したけれども、幼児に対する意見は変えようとしなかった。しかし、それかといって、かくべつ邪魔をするでもなかったが、病身な子供の生きている二週間というもの、ほとんど一度もその顔を見なかった。そしてときどき目に入るのもいやな様子で、多くは家の外にばかり出ていた。しかし、二週間の後、幼児が鵞口瘡のために死んだ時、自分でその死体を小さな棺に納め、深い憂愁の色を浮べながら、じっと眺めていた。ささやかな浅い墓穴に土をかぶせたとき、彼は跪いて、土饅頭に額のつくほど、礼拝するのであった。
 その時から多くの年月が流れたが、彼は一度も自分の子供のことを口にしなかった。またマルファも夫の前で子供のことを追想しないようにした。ときどき誰かを相手に『赤ちゃん』の話をするようなことがあったら、その場にグリゴーリイがいあわさなくっても、小さな声でささやくのが常であった。マルファの気づいたところによると、あのとき墓場から帰るとすぐ、彼はおもに『神様に関係のあること』を研究するようになり、『殉教者伝』など読みふけり始めた。それも大抵一人で黙読するので、そのたびにいつも大きな円い銀縁の眼鏡をかけるのであった。声を出して読むのはごくまれで、四旬斎の時くらいのものであった。ヨブ記を好んで読んだが、またどこからか『聖《とうと》き父イサーク・シーリン』の箴言や教訓の書き抜きを手に入れて、ほとんど何一つわからぬくせに、長年のあいだ辛抱づよく読み返すのであった。しかし、そのわからないということのために、余計この書物を尊重し、かつ愛したのかもしれない。最近にいたって、近所に凝り屋があったために、フルイスト派の説を注意して傾聴しはじめ、だいぶ烈しい感動を受けたらしいが、その新しい宗派へ移ろうとも思わなかった。『神様に関係のある』書物を耽読したということは、彼の外貌に一そうものものしい影を添えたのである。
 もしかしたら、彼は元来、神秘的傾向を持っていたのかもしれぬ。ところで、六本指の子供の誕生と、つづいてその死亡とほとんど同時に、まるでわざとのように、いま一つ思いがけない、奇怪な、そしてほかに類のないような出来事がもちあがって、彼の心に深い『烙印』を捺した(これはあとで彼自身の言ったことなのである)。それはほかでもない、ちょうど夫婦が六本指の幼児を葬った日、ふと夜中に目をさましたマルファが、生れ落ちたばかりの赤ん坊の泣き声ともおぼしいものを聞きつけた。彼女は、びっくりして夫を呼び起した。こちらは耳をすましていたが、あれは赤ん坊というより、誰か唸ってるのだ、『しかも女らしいぞ』と言った。とにかく、彼は起きあがって着替えをした。それはかなり暗い五月の夜であった。あがり段へ出てみると、呻き声は明らかに庭園のほうから聞えてくる、しかし、庭園は夜になると裏庭から錠を下ろしてしまう上に、まわりにはすっかり高い堅固な塀をめぐらしてあるから、この入口よりほかに庭園へはいる口がないのであった。
 グリゴーリイは家へとって返して提灯をともし、庭園の鍵を取った。そして、妻のマルファが、自分にはどうしても子供の泣き声らしく聞える、きっと死んだ子が自分を呼んで泣いてるに相違ない、とヒステリイでも起したように怖がるのに耳もかさず、黙って庭園へ出て行った。ここでは彼は明らかに、呻き声はくぐりからほど遠からぬ庭園に立っている湯殿の中から出て来るので、そのぬしはじじつ女に相違ないと悟った。湯殿の戸を開けた時、彼はある光景の前に立ちすくんでしまった。いつもこの町をうろつき廻って町じゅう誰知らぬものもない、綽名をリザヴェータ・スメルジャーシチャヤ([#割り注]悪臭を発する女の意[#割り注終わり])という宗教的畸人《ユロージヴァヤ》が、この家の湯殿へ入り込んで、たったいま赤ん坊を生んだばかりのところであった。赤ん坊は彼女のそばに転がって、産婦はもはや死になんなんとしていた。彼女は何一つ話さなかった。話したくても話すすべを知らないのであった。しかし、この事件は特別の説明を要する。

[#3字下げ]第二 リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ[#「第二 リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ」は中見出し]

 この事件には、グリゴーリイの以前からいだいていた不愉快な穢わしい疑いを、弁護の余地がないほど明確に裏書きする事情があって、それが彼の心を深く震撼させたのである。
 このリザヴェータは恐ろしく背の低い娘で、死んだ後までも多くの信心ぶかい町の老婆たちが、『二アルシンと少ししきゃなかったのう』などと感にたえたような調子で話したほどである。はたちになる彼女の幅の広い顔は、達者そうに赤々としていたが、純然たる白痴の相好であった。目つきはおとなしそうであるけれど、じっとすわって、不快な色をおびていた。夏でも冬でも、しじゅう彼女は麻のシャツ一枚で跣のまま歩き廻った。厚い髪はほとんど真黒で羊のように渦を巻き、まるで大きな帽子かなんぞのように頭にのっかっていた。おまけに砂や泥に汚れ、枯葉や、木っぱや、鉋屑などがくっついていた。いつも地べたや泥の上に寝るからであった。父のイリヤーは無茶苦茶に飲んだくれて家財を蕩尽した宿なしの病身な町人で、同じくこの町の町人である物持の家に雇男として長年住み込んでいる。母はとうの昔に亡くなっていた。イリヤーは年百年じゅう病身でいらいらしていたので、娘が帰って来ると容赦なく折檻するのであった。しかし、リザヴェータはあまり家へ寄りつかなかった。なぜなら、彼女は神聖な神の使いというので、町全体の居候となって暮していたからである。
 イリヤーの主人夫婦や、イリヤー自身や、町内の思いやりの深い多くの人たちが(それはおもに商人や、商人の妻であった、リザヴェータに肌衣一枚という無作法な恰好でなく、も少し気のきいた服装《なり》をさせようと試みたのも、一度や二度でなかった。そして、冬が迫って来ると裘《かわごろも》を着せたり、靴を履かせたりした。彼女は、大抵だまって勝手に着さしておきながら、そこを去るとすぐどこかで(おもに寺院の玄関で)、必ず恵まれたものをすっかり、――頭巾であろうと、腰巻であろうと、外套であろうと、靴であろうと、何もかも一切ぬぎ捨ててその場に残したまま、またもとの肌衣一枚に素足で立ち去るのであった。ある時こんなことがあった。当県の新任知事が巡視のついでにこの町を視察した時、リザヴェータの姿を認めて、その美しい感情に深い侮辱を感じた。そしてなるほどこれは報告どおりの宗教的畸人《ユロージヴァヤ》であるとは合点したが、それにしても若い娘が肌衣一つでうろうろしているのは大いに風教を害するから、向後こんなことのないようにと訓示した。しかし、知事が去った後、リザヴェータはまたもとの通りに棄て置かれた。
 やがてついに父も死んだが、そのため彼女は身なし児だというので、かえって町の信心ぶかい人たちから、一そう可愛がられるようになった。実際、彼女は皆から愛されていると言っていいくらいであった。子供、ことに学校子供というものは、とかくことを起したがるものであるが、子供たちさえ彼女をからかったり、侮辱したりしなかった。彼女が見知らぬ家へどんどん入っても、誰も追い出そうとしないばかりか、かえってさまざまにいたわって小銭をやったりなどした。しかし、彼女は金をもらっても、すぐそれを教会か監獄かの慈善箱へ持って行って、投げ込んでしまうのであった。市場でフランスパンや丸パンをもらっても、出会いがしらの子供にすぐくれてやったり、時には町でも屈指の金持の奥さんを引き止めてやることもあった。自分はどうかというと、黒パンと水よりほか決して何も食べなかった。彼女はよく大きな店へ行って坐り込むが、その前に高価な品物や金などが置いてあっても、店の主人は彼女を警戒するようなことをしなかった。たとえその前に何千ルーブリ積上げたまま忘れても、一コペイカだって取られる心配はないということを、承知しているからであった。
 教会へ立ち寄ることはめったになかった。夜は、寺院の玄関か、さなくばよその編垣を越して(この町には塀の代りを勤める編垣が、こんにちにいたるまで随所にあるから)、菜園の中に寝るにきまっていた。うち、といってつまり、亡父の住んでいた主人の家へは、およそ一週間に一ど顔を出したが、冬になると毎日やって来た。しかしそれもほんの夜だけ、玄関か牛小屋で泊るためなのである。人々は彼女がこんな生活にたえてゆくのに、驚いていたが、もうこれが習性となってしまったのである。彼女は背こそ小さいけれど、並みはずれてがんじょうな体格を持っていた。町の紳士の中には、彼女がこんなことをするのは、一種の見得にすぎない、などと断定する人もあったけれど、どうもそれでは辻褄が合わなかった。彼女は一ことも口をきくことができず、ただときどき妙に舌を動かして、むむと唸るだけであった、――こんな有様で見得も何もあったものではない。
 ある時こういうことがあった、それは、もうずっと以前のこと、月影も満ちた九月の明るい暖いある夜、この町で言えばだいぶ遅くなった刻限に、遊び疲れて酔っ払った町の紳士の一群、一騎当千の強《ごう》の者が五六人、クラブから裏町づたいに家路についていた。横町の両側には編垣がつづいて、その向うには家々の菜園が見えていた。横町は、この町で時とすると小川と呼ばれることもある臭い長い水溜りに渡してある、板橋の方へ抜けるようになっていた。一行は編垣のそばの蕁麻《いらくさ》や山牛蒡の中に、リザヴェータが眠っているのをすかし見た。遊びほうけた連中は大声に笑いながらそのそばに立ちどまって、口から出まかせに猥褻な警句を吐き出した。突然ある一人の若い貴族が、口にするにたえない、とっぴな問題を思いついた。『誰でもいいが、この獣を女として扱うことのできるものがいるだろうか。今すぐにでも証明するものがあるかしらん、云々。』この問いに対して人々はさも穢わしいというような、傲然たる態度で、金輪際不可能だと答えた。しかし、この一群の中に偶然フョードルがいあわして、すぐさましゃしゃり出た。そして女として扱うことができる、大いにできる、しかも一種特別なぴりっとした味がある云々、と断言した。実際のところ、彼はその時分、ことにわざと道化の役を買って出て、どこへでも出しゃばって、皆のものを浮かれさせることを好んだ。うわべは対等のつき合いらしく見せていたけれど、事実はまったく一同の下男であった。それはちょうど、彼が前妻アデライーダの訃報を、ペテルブルグから受け取ったばかりの頃であったが、それにもかかわらず彼は帽子に喪章をつけたまま、放埒のありったけをつくしていたので、この町のかなりしたたかな道楽者さえ、彼の姿を見て、眉をひそめるくらいであった。一行はこのとっぴな意見を聞いて、からからと笑い興じた。誰であったかその中の一人は、フョードルをけしかけさえしたが、ほかの者は一そう眉をしかめて唾を吐いた。がそれでも、度を過した陽気な気分は依然として失われなかった。とうとう一同はそこを去って向うへ行ってしまった。
 後になってフョードルは、自分もその時みんなと一緒に立ち去ったのだ、と誓うように言い張ったが、はたしてそのとおりであったかどうか、誰一人たしかなことを知っているものはない。しかし、何カ月かたって、町じゅうの人は、リザヴェータが大きな腹を抱えて歩いている、と心からの憤懣を表わしながら噂し始めた。人々は一たい誰の罪なのか、無法者は誰なのかと、さまざまに調べたり訊ねたりした。このとき突然、無法者は例のフョードルだという恐ろしい噂が、町じゅうに拡がったのである。この噂は一たいどこから出たのか? その夜一緒に騒いだ連中の中で、当時町に残っていたものはたった一人しかなかった。それも年頃の娘を幾人も持った家庭の人で、世間から尊敬されている相当の年輩の五等官であるから、本当に何かあったとしても、決して言いふらすはずがない。五人ばかりいたほかの仲間は、その頃みんなちりぢりになっていた。しかし、世間の噂はきっぱりとフョードルを名ざしたし、今だに名ざしつづけている。とはいえ、彼はこれに対してあまり弁解しなかった。取るにたらぬ商人や、町人どもを相手にする必要がなかった。当時彼はだいぶ高慢になって、一生懸命お太鼓を持っている官吏や貴族の仲間でなければ、口もきかないというふうだったからである。
 ちょうどこの時、グリゴーリイは一生懸命になって、主人のためにつくした。彼はこんな言いがかりを防いだばかりでなく、主人のために喧嘩口論までして、多くの人の意見を変えさした。『あの下司女が自分で悪いことをしたんだ』と彼は断乎たる調子で言った。『当の相手はあのねじ釘のカルプでなくって誰だよ。』(これは当時、町でも有名な一人の恐ろしいお尋ね者で、県庁の監獄を脱け出して、ひそかにこの町で暮していたのである)。この推察は本当らしく思われた。人々はカルプのことを覚えていた、――ちょうどその秋はじめの頃、彼が毎夜毎夜町内を徘徊して、三人ばかり通行人を剥いだ事実はまだ皆の記憶にあった。
 しかし、こうした事件も風説も、哀れな不具者から町の人の同情を奪わなかったのみならず、人々は余計にこの女を大事にかけて保護するようになった。商人の後家で裕福なコンドラーチエヴァという女は、まだ四月の末頃から彼女を自分の家へ引き取って、産のすむまで、外へ出さないように取り計らったほどである。家の人は、夜も眠らないくらいにして見張っていたが、結局この苦心の甲斐もなく、リザヴェータは最後の日の夕方、そっとコンドラーチエヴァの家を抜け出して、突然フョードルの庭園に姿を現わしたのである。どうして彼女がただならぬ体をして、高い堅固な塀を乗り越したかということは、いまだに一種の謎になっている。ある者は、誰かほかの人にたすけられたのだとも言うし、またある者は、何かもののけにたすけられたのだとも言った。が、何より確からしいのは、この動作がきわめて困難ではあるが、自然な方法で行われたという説である。つまり、リザヴェータはよその菜園で夜を明かすために、編垣を越すのが上手であったから、フョードルの家の塀にも何とかして這いあがって、体に障るとは知りながら、妊娠の身をもいとわずそこから飛びおりたのであろう。
 グリゴーリイはマルファのところへ飛んで行って彼女をリザヴェータの介抱にやり、自分はちょうどいいあんばいについ近くに住んでいる取りあげ婆を迎えに駆けだした。赤ん坊は仕合せと助かったけれど、産婦は夜明け近く死んでしまった。グリゴーリイは赤ん坊を抱いて家へ連れて帰り、妻を坐らして、その胸へ押しつけるように、赤ん坊を膝の上へのせた。『みなし子ちゅうものは神様の子で、皆のものの親類だによって、わしら夫婦にとってはなおさらのこっちゃ、これは家の赤ん坊がわしら二人に授けてくれたんだ。ところで、この子は悪魔の子と神様のお使わしめの間にできたもんだで、お前自分で育ててやるがええ、もうこれからさき泣くでねえだぞ』と言った。そこでマルファは子供を育てることにした。子供は洗礼を受けてパーヴェルと名づけられたが、父称は誰いうとなく自然に、フョードロヴィッチと呼ばれるようになった。
 フョードルはかくべつ抗議を唱えるでもなく、むしろ興あることのように思っていたが、そのくせ一生懸命にすべての事実を打ち消すのであった。彼がこの捨て児を引き取ったということは、町の人の気に入った。後になってフョードルはこの子のために、苗字まで作ってやった。母親の綽名のスメルジャーシチャヤ([#割り注]悪臭を発する女[#割り注終わり])から取って、スメルジャコフと呼んだのである。このスメルジャコフが彼の第二の下男となって、この物語の初めのころ老僕グリゴーリイ夫婦とともに、離れに住んでいたのである。彼は料理人として使われていた。この男についてもとくに何か言っておく必要があるけれど、こんな珍しくもない下男たちのことに、あまり長く読者の注意を引き留めるのも気がひけるから、スメルジャコフのことはいずれ物語の発展につれて、自然何か言うときが来ようとあてにしておいて、物語のつづきに移ることにする。

[#3字下げ]第三 熱烈なる心の懺悔――詩[#「第三 熱烈なる心の懺悔――詩」は中見出し]

 アリョーシャは、父が僧院を立ち去る時、馬車の中から大きな声で発した命令を聞いて、しばらくの間ひどく途方にくれ、その場にじっと立っていた。しかし、何も棒のように立ちすくんだというわけではない。そんなことはなかった。それどころか、心配は心配であったけれど、彼はすぐさま僧院長の勝手へ行って、父が客間でしでかした一部始終を聞いた後、大急ぎで町の方へ出かけた、自分を悩ます問題もみちみち何とか解決がつくだろう、という望みを胸に抱きながら……前もって断わっておくが、『枕も蒲団もかついで』家へ帰って来いという父の命令も叫び声も、彼は一向に恐れなかった。ああしたわざとらしいぎょうさんな声で発せられた命令は、ただあまり図に乗りすぎて、いわば舞台効果を狙ったものにすぎないということを、彼は百も承知していた。例えて言えば、つい近頃おなじ町の或る商人が、自分の命名日に、あまり食べ過した挙句、もうウォートカは出さないと言われたのに腹を立てて、客の前をも憚らず自分の家の器をこわしたり、自分や細君の着物を引き裂いたり、自分の家の椅子や、はてはガラスまで叩きこわしたが、これも同じく舞台効果を強めるためなので、――ちょうどこれと同じようなことが、今日父の心にも生じたのである。その酔い狂った商人も、翌日はすっかり酔がさめて、自分のこわした茶碗や皿を惜しがったが、老人も明日になったらまた自分を寺へ帰してくれる。いや、今日にもすぐ帰してくれるに違いない、とアリョーシャは見抜いていた。それに、父がほかの人はともあれ、自分を侮辱しようなんて気は起すはずがない、こう彼は固く信じていた。彼は世界じゅうで誰ひとり自分を侮辱しようとするものはない、いな、単にないばかりでなく、できないのだと信じきっていた。これは彼が何らの推理をも要せずに、とうからきめている公理であった。この意味において、彼は何の動揺もなく、確固たる足どりで前進する人であった。
 しかし、このとき彼の心中に、ぜんぜん種類の異った杞憂の念が、かすかに動いていた。しかも、自分でそれをはっきりと掴まえることができないので、余計アリョーシャには苦しく感じられた。それは女性に対する恐怖であった。つまりさきほどホフラコーヴァ夫人の手渡した書面の中で、何かしら話があるからぜひ来てくれと、一生懸命に嘆願している、かのカチェリーナ・イヴァーノヴナに対する恐怖であった。この要求と、それについてぜひ行かねばならぬと思う心とは、彼の胸に何か妙に悩ましい感じを宿らした。そして、見苦しくも恥しいさまざまな出来事が、僧院内で相次いで起ったにもかかわらず、この感じは午前中を通じて、次第次第に悩ましいものとなっていった。
 彼が恐れたのは、カチェリーナが何を言いだすか、またそれに対してこちらから何と答えていいか、そんなことがわからないためではない。また全体に女として彼女を恐れたわけでもない。もちろん、彼はあまり女というものを知らないが、しかし、何といっても幼い時から僧院生活に入るすぐ前まで、ずうっと女の中ばかりで暮しているのだ。彼が恐れたのは、この女である、カチェリーナという女である。初めて会った時からして、彼はこの女が恐ろしかった。もっとも、この女に会ったのは、僅か一度か二度、多くて三度くらいなものである。しかし、一度何かの拍子で、二こと三こと言葉を交えたこともあった。彼女の姿は、美しく傲慢な権高い令嬢として彼の記憶に残っている。しかし、彼の心を苦しめたのはその美貌ではなく、何か別なものである。こんなふうに自分の恐怖の原因をきわめることができないために、恐怖はなお一そう彼の心中に募ってゆくのであった。この令嬢の目的は高潔なものに相違ない、それは彼も承知していた。彼女は、自分に対して罪を犯した兄ドミートリイを救おうと、一生懸命になっているのだ、しかもそれはただ寛大な心から出たことにすぎない。ところが、今これを見抜いた上に、こうした寛大な心持に尊敬を払いながらも、彼は、女の家へ近づくにつれて、背筋を寒けが走るように感じた。
 彼の想像したところでは、カチェリーナと非常に親しくしている兄イヴァンは、いま彼女の家に来ていないで父と一緒にいるらしかった。ドミートリイがいないことは、なおなお確かなのである。なぜか彼にはこう感じられた。こういうわけで、自分とカチェリーナとの会見は、さし向いで行われることになる。しかし、彼はこの気味のわるい会見にさきだって、兄ドミートリイのところへ駆けつけ、ちょっと会って来たくてたまらなかった。そうすればこの手紙を見せないで、何かちょっと打ち合わしておくこともできる。しかし、兄ドミートリイの住居はだいぶ遠い上に、今はたしか留守らしく思われた。一分間ほど、一ところにじっと立っていたが、ついに彼は断然こころを決した。馴れた忙しそうな手つきで十字を切ってから、すぐ何かにほお笑みかけながら、彼は自分にとって恐ろしい婦人のもとをさして、しっかりした足どりで歩きだした。
 彼女の家はよくわかっていた。しかし、大通りへ出てから広場を越えたりなどしたら、かなり遠くなってしまう。この町は小さいくせに家がとびとびに建っているので、端から端までは大分の距離になる。それに、父親も彼を待っている。ことによったら、まだ例の言いつけを忘れないで、またまた気まぐれを出さぬともかぎらない。それゆえ、あっちへもこっちへも間に合うように急がなくてはならぬ。かれこれ思いめぐらしたすえに、彼は裏道を通って道のりを縮めようと決心した。彼は町うちのこうした抜け道を五本の指のごとく承知していた。裏道というのは荒れた垣根に沿うて、ほとんど道のないところを通るので、どうかすると、よその編垣を踏み越したり、よその庭を抜けたりしなければならぬ。もっとも、よそといったところでみんな彼の知った家で、出会った人が一々挨拶の言葉をかけるぐらいであった。こういう道を通ると、大通りへ出るのが半分道から近くなる。
 一ところ、父の家のすぐそばを通り過ぎなければならなかった。それは父の庭と境を接した隣りの庭のそばであった。この庭は窓の四つついた、歪み古ぼけた小屋に付属していた。小屋の持主は娘と二人暮しの足なえの老婆で、この町の町人だということを、アリョーシャも知っていた。娘はかつて都で小間使をして、ついこの間まで将軍家などで暮していたが、一年ばかりまえ老母の病気のために帰郷して、はでな着物をひけらかしていた。けれど、この老婆と娘はひどい貧乏になって、隣家のよしみでカラマーゾフ家の台所へ、スープやパンをもらいに来るほどになった。マルファは悦んで二人に分けてやった。ところが、娘はスープの無心をするくせに、自分の着物は一枚も売らなかった。しかも。その中の一つにはやたらに長い尻尾さえついていた。このことはアリョーシャも知っていたが、それはむろん偶然に、町のことなら何一つ知らぬことのないラキーチンから聞いたのである。しかし、聞くとすぐまた忘れてしまった。けれど、いま隣家の庭のそばへ来たとき、ふとこの尻尾のことを思い出して、もの思いに沈んでうなだれていた頭を急に振り上げた……と、実に思いもよらぬ人に出くわしたのである。
 編垣の向うの隣家の庭に兄ドミートリイが、何やら踏台をして胸の辺まで乗り出しながら、一生懸命に合図をして、彼を小手招いているのであった。ドミートリイは人に聞かれやしないかと、叫び声を出すどころか、一ことも口に出すのを忘れているらしかった。アリョーシャは、すぐ編垣のそばへ駆け寄った。
「まあ、お前が振り向いてくれてよかったよ。でないと、おれは危く呶鳴るところだった」とドミートリイは嬉しそうにせかせかと囁いた。「こっちへ越して来い! さあ、早く! ああ、お前が来てくれて本当によかったよ。おれはたった今お前のことを考えてたところなんだ……」
 アリョーシャは自分でも嬉しかったが、ただどうして編垣を越そうかと惑っていた。しかし、『ミーチャ』は古武士のような手で彼の肘を抑え、弟が飛び越すのを手伝った。アリョーシャは法衣の裾をからげて、町の跣小僧のように、はしっこい身振りでひょいと飛び越した。
「さあ、行こう!」勝ち誇ったような囁きがミーチャの喉を洩れた。
「どこへ?」アリョーシャはあたりを見廻したが、自分の立っているのがまるっきりがらんとした庭で、二人のほか誰もいないのを見て、こう囁いた。それはちっぽけな庭であったが、それでも老婆の小屋までは五十歩以上あった。「ここには誰もいないのに、どうしてそんな小さな声をするんです?」
「どうして小さな声をするって? あっ、なんて馬鹿な!」ドミートリイはとつぜん声を一ぱいに張って叫んだ。「本当におれは何だって小さな声をしてるんだろう? 今お前が自分で見たとおりだ、人間の性質というやつは、ふいとわけのわからないことをしでかすもんだなあ、おれはここで秘密に坐って、人の秘密を見張ってるんだ。そのわけはあとで話すが、秘密秘密と思ってるもんだから、急に口をきくのまで秘密にしちゃって、何の必要もないのに、馬鹿みたいに小さな声をしてたのさ。さあ、行こう! ほら、あそこだ! それまで黙っててくれ。おれはお前を接吻したいんだ!

[#ここから2字下げ]
世界の中なる神に栄《はえ》あれ
われの中なる神に栄あれ……
[#ここで字下げ終わり]

 こいつをおれはたった今お前の来るまで、ここに坐って繰り返してたのさ……」
 庭は一町歩か、あるいはそれより少々広いくらいの大きさであったが、林檎、楓、菩提樹、白樺などの木は四方の垣根に沿うて、ぐるりとまわりに植えてあるだけで、まん中はがら空きになっていた。ここはささやかな草場になっていて、夏になると幾プードかの乾草が刈り取られるのであった。老婆は春になるとこの庭を幾ルーブリかで賃貸していた。ほかにまだ各種の木苺畑があったが、これもやはり垣根のそばにあった。家のすぐそばには野菜畑もあったが、これは近ごろ起されたばかりである。
 ドミートリイは、母屋から最も遠い庭の片隅へ客を案内した。そこには菩提樹の茂みや、すぐり、接骨木《にわとこ》、木苺、ライラックなどの薮陰から、忽然として古ぼけた緑いろの四阿《あずまや》の崩れ残りのようなものが現われた。もう全体に歪みくねって黒ずんで、壁は骨組みを露出していたけれど、ちゃんと屋根がついていて、雨をしのぐこともできる。この四阿はいつごろ建てられたものかわからないが、言い伝えによると、当時の家の持主で、フォン・シュミットとかいう退職中佐が、五十年ばかり前に建てたものらしい。しかし、もうすっかりぼろぼろになって、床は腐り、床板はすっかりがたついて、材木からは湿っぽい匂いがしている。まん中には緑いろの木造のテーブルが掘っ立てになって、そのまわりには同じく緑いろのベンチが並んでおり、その上にはまだ腰をかけることができた。アリョーシャはすぐ兄の高潮した心の状態に気がついた。四阿へはいると、テーブルの上にコニヤクの小壜と、杯が置いてあるのが目に映った。
「これはコニヤクだ!」とミーチャは、からからと笑った。「お前はもう『また酔っ払ってるな』というような目つきをしてるが、幻に迷わされちゃいかん。

[#ここから2字下げ]
空しくも偽り多き世の人を信ずることなく
われとわが疑いを忘れはつべし……
[#ここで字下げ終わり]

 おれは酔っ払ってるんじゃない、ただ、『味わってる』のだ。これは、あのラキーチンの豚野郎の言い草だよ。あいつはそのうちに五等官になって、いつまでも『味わう』式の言い方をするだろうよ。まあ、坐れ、アリョーシャ、おれはお前を抱いて、つぶれるほどこの胸へしめつけてやりたい。なぜって世界じゅうに……本当の意味で……(いいか! いいかい!)ほーんとーの意味で……おれが愛している人間は、お前一人っきりだからなあ!」
 この最後の一句を発した時、彼は前後を忘れるほど興奮していた。
「お前一人っきりだ、が、もう一人ある、『卑しい女』に惚れ込んだのだ。そのためにおれは破滅しちゃったのだ。しかし、惚れ込むというのは愛することじゃない。惚れるのは憎みながらでもできる。覚えとけよ! まあ今のうちしばらく陽気な話しっぷりをするぜ! まあ坐れ、このテーブルの前によ、おれはこう横のほうから坐って、お前の顔を見ながらすっかり話しちゃうから。お前は黙ってるんだぞ、おれがすっかり話しちゃうから。なぜって、もう時機が到来したんだからなあ。もっとも、おれば本当に小さな声で話さなきゃならん、と考えたんだよ。だって、ここは……ここは……どんなことで意外な聞き手が出て来ないともかぎらんからなあ。よし、すっかり話して聞かせよう。いわゆる、あとは次回のお楽しみかね。一たいどういうわけでおれはこの四五日、いや、現に今もお前を待ち焦れてたんだろう?(おれがここへ錨をおろしてからもう五日目だ。)この四五日、本当に待ち焦がれてたんだよ。ほかでもない、お前一人だけに話したかったからだ。なぜって、そうしなくちゃならないからよ。お前という人間が必要だからよ、なぜって、明日にも雲の上から飛びおりるからよ、明日にもおれの生活が終ると同時に、また新しく始まるからだよ。お前は山のてっぺんから穴ん中へ落ちるような気持を経験したことがあるか、夢にでも見たことがあるか? ところがおれは今、夢でなく本当に落ちてるんだ。しかし、おれは恐れやしない、お前も恐れないがいい。いや、実は恐ろしいけれど、いい気持なんだ。いや、いい気持どころじゃない、有頂天なのだ……ええ、畜生、どっちだって同じこった。強い心、弱い心、女々しい心、ええ、どうだってかまやしない! ああ、自然は讃美すべきかなだ。ごらん、日の光はなんて豊かなんだろう。空は澄み渡って、木の葉はみんな青々として、まだすっかり夏景色だ、いま午後三時すぎ、静寂! お前、どこへ行ってたい?」
「お父さんのところへ。しかし、初めカチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ行こうと思ってました。」
「あのひとのところと、それから親父のところへ? ふむ! 何という暗合だろう! 一たいおれがお前を呼んだのは何のためだと思う、お前に会いたいと思って待ち焦れていたのは何のためだと思う、おれの心の襞の一つ一つに、憧憬の念を籠めたのは何のためだと思う? ほかでもない、お前をおれの代理として最初おやじのところへ、それからあのひとのところへ使いにやって、それでもって両方の片をつけようと思ったのさ。天使をやりたかったのさ。おれは誰を使いにやってもよかったんだが、どうしても、天使でなくちゃならなかったんだ。ところが、お前自分であのひとと親父のところへ行くなんて。」
「本当に兄さんは僕を使いにやりたかったんですか?」病的な表情をおもてに浮べて、アリョーシャはこう口走った。
「待て、お前はこのことを知ってたんだ。お前が一遍にすっかり呑み込んじまったのは、おれにもちゃんとわかっている。が、黙ってろ、しばらく黙ってろ。気の毒がることはない、泣くな!」
 ドミートリイは立ちあがって、考え込むように指を額にあてがった。
「あのひとがお前を呼んだのかい? あのひとが手紙か何かよこしたので、それで出かけるところなのかい? でなきゃ、お前が出かけるはずがないもんなあ。」
「ここに手紙があります」と、アリョーシャはかくしから手紙を取り出した。ミーチャはざっと目を通した。
「お前が裏道を通って行くなんて! おお、神様、弟に裏道を選まして、わたくしと出会わして下すったことを感謝します。本当に昔噺にある黄金《きん》の魚が、年とった馬鹿な漁師の手に入ったようだ。聞いてくれ、アリョーシャ、聞いてくれ。おれは何もかも言ってしまうつもりなんだから。せめて誰か一人には話さなくちゃならないからなあ。天上の天使にはもう話したが、地上の天使にも話さなくちゃならん。お前は地上の天使なんだよ。よく聞いて判断して、そして赦してくれ……おれは誰か一段上の人に、赦してもらいたいんだ。いいかい、もしある二人の人間が一切の地上のものから離れて、どこかまるで類のないようなところへ飛んで行くとする、――いや、少くとも、そのうちの一人が飛んで行って亡びてしまう前に、いま一人のところへ来てこれこれのことをしてくれと、臨終の床の中よりほかには、他人に持ちかけることのできないようなことを頼むとしたら、その男はきいてやるだろうか、どうだろう……もしその男が親友か兄弟であったとすれば……」
「僕もききます。しかし、何か言ってごらんなさい、早く言ってごらんなさい」とアリョーシャは促した。
「早く……ふむ。しかし、まあせくなよ、アリョーシャ。お前はせかせかして心配してるようだな。いまは何もせくことなんかありゃしない。いま、全世界が新しい道へ出たんだからなあ、おい、アリョーシャ、お前が有頂天になるほど考え抜かなかったのが残念だよ! しかし、おれはぜんたい何を言ってるんだ? お前が考え抜かなかったなんて! 一たいおれは、このなまけ者は何を言ってるんだ?

[#2字下げ]人は心を潔《きよ》く持て!

 これは誰の詩だったかなあ?」
 アリョーシャはしばらく待っていることに決めた。彼は自分の仕事の全部が、あるいはここにあるかもしれない、と悟ったのである。ミーチャはちょっとの間テーブルに肘を突いて、掌で頭を抑えながら考え込んだ。二人とも無言でいた。
「アリョーシャ」とミーチャは言いだした。「お前だけは笑ったりなんかしないね! おれは……自分の懺悔を………シルレルの悦びの頌歌 An die Freude([#割り注]歓喜について[#割り注終わり])でもって切り出したいのだ。しかし、おれはドイツ語を知らん、ただ An die Freude ということを知ってるだけだ。ところで、おれが酔っ払ったまぎれに喋ってると思っちゃいかんぞ。おれはちっとも酔っちゃいない。コニヤクがあるにはあるけれど。酔っ払うには二壜なくちゃならん。

[#ここから2字下げ]
足よわ驢馬に跨れる
赫ら顔なるシレーン([#割り注]酒神バッカスの従者シレヌス[#割り注終わり])は
[#ここで字下げ終わり]

 ところで、おれはこの壜を四分の一も飲んでないから、したがって、シレーンじゃない、シレーンじゃないが剛毅《シーレン》だ。なぜって、もう断乎たる決心をとってるんだからなあ。お前、おれの地口を赦してくれ。お前きょうは地口どころじゃない、まだまだいろんなことを赦さなくちゃならないんだよ。しかし心配するな、おれはごまかしゃしない、さっそく用談に取りかかるよ、だらだらと引っ張りゃしない。が、待てよ、どうだったかな……」
 彼はこうべを上げて考えていたが、突然、歓喜に充ちた調子で吟じ始めた。

[#ここから2字下げ]
野に生い立ちし穴住みの
裸身《らしん》の人は岩石の
洞窟のなか奥深く
臆せしさまに身をひそめ
水草を追う人の子は
野辺より野辺へさまよいて
野をことごとく荒し去り……
猟夫《さつお》は槍と矢を持ちて
いともの凄き形相に
森また森を走るなり……
休ろう方も荒磯へ
波のまにまに捨てられし
人の子らこそ悲しけれ!

プルトー([#割り注]冥府の司神[#割り注終わり])の手に奪われし
プロゼルピンの跡追いて
母のセレス([#割り注]豊穣の神[#割り注終わり])はオリムプの
頂きよりぞ下りしが
見渡すかぎり天地《あめつち》は
荒寥として横たわり
女神の身を置くところなく
口に入るべきものもなし
いずくの寺も神々を
祭れるさまは見えざりき

いと豊かなる野の実り
甘き葡萄の房すらも
うたげの席に影もなく
あけに染みたる祭壇に
残る屍ぞ煙るなる
愁わしげなる瞳もて
セレスが見やるかなたには
深き穢れに沈みたる
人よりほかに見ゆるものなし!
[#ここで字下げ終わり]

 突然、歔欷の声がミーチャの胸をほとばしり出た。彼はアリョーシャの手を取った。
「ねえ、お前、深き穢れだ、今でもおれは深き穢れに沈んでるんだ。人間というものは恐ろしくいろんな悲しい目にあうもんだよ。恐ろしくいろんな不幸を経験するもんだよ! しかし、おれは単に将校の肩書を持って、コニヤクを飲んだり極道な真似をしたりする、虫けらのようなやつだと思わないでくれ。おれはほとんどこのことばかり考えてるんだ。この深き穢れに沈んだ人のことをね。これはおそらく嘘じゃあるまい。まったくおれは嘘をついたり、から威張りをしたりしないように願ってるよ。おれがこの人のことを考えるのは、つまりおれがそれと同じような人間だからさ。

[#ここから2字下げ]
堕落の淵より魂を
振い起すを望みなば
古き母なる大地《おおつち》と
結び合えかし、とことわに
[#ここで字下げ終わり]

 ただしかし、どうして大地と結び合うのか、それが問題なんだ。おれは大地を接吻もしなければ、大地の胸をえぐることもしない。一たいおれに百姓か牛飼いでもしろというのかい? おれはこうして進んで行きながら、自分が悪臭と汚辱に踏み込んでるのか、それとも、光明と喜悦の中へはいってるのか、自分でも見分けがつかないのだ。こいつがどうも厄介なのだ、実際この世の中では一切が謎なんだ! おれが実に恐ろしい穢れた堕落の深みへはまって行く時(しかも、おれはこんなことよりほか何もしないのだ)、おれはいつもこのセレスと『人』の詩を読んでみる。ところで、それがおれを匡正したことがあるだろうか? 決して決して! なぜって、おれはカラマーゾフだものなあ。無限の淵へ飛び込むくらいなら、いっそ思いきって真逆さまに落ちるがいい、という気になるんだ。しかも、そんな恥しい境界に落ちぶれるのに満足して、それを美的だと考えるようになる。ところが、こうした汚辱のただ中にあって、おれは突然、讃美歌を唱えはじめるじゃないか。よしや自分は、呪われた、卑しい、穢れた人間であるとしても、神様の纒うておいでになる袈裟の端を、接吻したってかまわないはずだ。しかも、それと同時に、悪魔の跡へついて行こうとも、おれはやはり神様の子だ、神様を愛する、そして悦びの情を心に感じる。この悦びの情がなかったら、世界も存在することはできないのだ。

[#ここから2字下げ]
とことわのよろこびは
人の心を水かいつ
醗酵の秘力もて
いきの命の盞に
※[#「火+陷のつくり」、第 3水準 1-87-49]をもやす
一|茎《けい》の小草をも
光の方へさし招き
混沌を太陽と化《け》し
陰陽師さえ数え得ぬ
星屑を空に充しぬ

息あるものはことごとく
美しき自然の胸に
悦びを汲み交すめり
もろもろの生けるもの
もろもろの民草も
そが後に曳かれゆくなり
悦びはさちなき人に
友垣と、葡萄のつゆと、美の神の
花のかむりを恵みつつ
虫けらに卑しきなさけ……
エンゼルに神の大前《おおまえ》
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、詩はもうたくさんだ。おれはつい涙をこぼしたが、どうか十分泣かしてくれ。よしんばこんなことがほんのつまらない話で、みんなが声を揃えて笑うとしても、お前だけはそんなことをしやしない。それ見ろ、お前の目がぎらぎら光ってるじゃないか。いや、本当に詩はたくさんだ。おれがいま話そうと思ってるのは、あの神様に『卑しきなさけ』を授けられた虫けらのことなんだ。

[#2字下げ]虫けらに卑しきなさけ!

 おれはつまりこの虫けらなんだ、これは特別におれのことを言ったものなんだよ。われわれカラマーゾフ一統はみんなこういう人間だ。お前のような天使の中にもこの虫けらが巣食うていて、お前の血の中に嵐をひき起すんだ。まったくこれは嵐だ。実際、情欲は嵐だ。いな、あらし以上だ! 美――美というやつは恐ろしいおっかないもんだよ! つまり、杓子定規にきめることができないから、それで恐ろしいのだ。なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなあ。美の中では両方の岸が一つに出あって、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。おれは無教育だけれど、このことはずいぶん考え抜いたものだ。じつに神秘は無限だなあ! この地球の上では、ずいぶんたくさんの謎が人間を苦しめているよ。この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出て来るようなものだ。ああ、美か! そのうえ、おれがどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々マドンナの理想をいだいて踏み出しながら、結局|悪行《ソドム》の理想をもって終るということなんだ。いや、まだまだ恐ろしいことがある。つまりソドムの理想を心にいだいている人間が、同時にマドンナの理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、心底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。いや、じつに人間の心は広い、あまり広すぎるくらいだ。おれはできることなら少し縮めてみたいよ。ええ、畜生、何が何だかわかりゃしない、本当に! 理性の目で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。一たいソドムの中に美があるのかしらん? ところで、お前は信じないだろうが、大多数の人間にとっては、まったくソドムの中に美がひそんでいるのだ、――お前はこの秘密を知ってたかい? 美は恐ろしいばかりでなく神秘なのだ。これがおれにはおっかない。いわば悪魔と神の戦いだ、そしてその戦場が人間の心なのだ。しかし、人間てやつは自分の痛いことばかり話したがるものだよ。いいかい、今度こそ本当に用談に取りかかるぜ。」

[#3字下げ]第四 熱烈なる心の懺悔―思い出[#「第四 熱烈なる心の懺悔―思い出」は中見出し]

「おれはあっちにいる頃、ずいぶん放埒をつくしたものだ。さっき親父がおれのことを、良家の令嬢を誘惑するために、一時に何千という金をつかったと言ったが、あれは豚の空想で、決してそんなことはありゃしない。よしあったとしても、『あのこと』のために金がいったわけじゃないよ。金はおれにとってただの付属品だ、心の熱だ、装飾品だ、それで、きょう立派な婦人がおれの恋人になってるかと思うと、明日はもう辻君がその代りになっているというふうだ。ところで、おれは両方とも面白く浮き立たしてやる。金は一握りずつ抛げてやって、楽隊を呼んだりジプシイ女を集めたりして、馬鹿さわぎをやらかすのだ、必要があれば、そんな連中にも金をやる。すると、取るわ取るわ、気ちがいのようになって取る、これはおれも認めなくちゃならない。しかも、みな満足してお礼を言うよ。身分のある奥さんたちもおれを好いてくれた。もっとも、誰でもというわけじゃないが、そんなこともあった、しょっちゅうあった。しかし、おれはいつも露地の奥が好きだった。広場の裏にある、暗い、陰気な曲りくねった裏通りが好きだった、――そこには冒険がある、そこには意外な出来事がある、そこには泥の中に隠れた荒金《あらがね》がある、アリョーシャ、おれが言うのは譬喩だよ、あの町には本当の露地はなかった、ただ精神的なのがあったばかりだ。しかし、お前がおれのような人間だったら、この露地の意味がわかるんだがなあ。とにかく、おれは放埒を愛した、そして放埒の恥辱をも愛した、それから残忍なことも愛した、――これでもおれは南京虫でないだろうか、意地わるい虫けらでないだろうか? すでに定評あり、――カラマーゾフだもの! あるとき町じゅう総出のピクニックがあって、七台の三頭立橇《トロイカ》で押し出した。冬のことだった、橇のくら闇の中で、おれは隣席の娘の手を握り始めて、とうとうこの娘を接吻というところまでおびき出してしまった。それは優しい、しおらしい、無口なおとなしい官吏の娘だったが、とうとうおれに許したのだ。闇の中とていろんなことを許してくれたのだ。可哀そうに、この娘は明日にもおれが出かけて行って、結婚を申し込むものと思ったのさ(実際、おれはおもに花婿として値うちがあったんだからね)。ところが、おれはその後、娘に一口もものを言わなかった。五カ月のあいだ半口もものを言わなかった。よく舞踏会などの時(あの町ではやたらに舞踏ばかりしてるのさ)、その娘の目が広間の隅からじいっとおれのあとを追いながら、しおらしい憤懣の火に燃え立っているのを、よく見受けたものだ。こうした遊戯は、おれが自分の体内で養っている虫けらの卑しい欲情を慰めたのだ。五カ月たって、その娘はある官吏の嫁になって町を去った……おれに対して腹を立てながら、それでもやはり愛情をいだいたままでね……今この夫婦は幸福に暮している。ここで注意してもらいたいのは、おれがこのことを誰にも言わないで、娘の顔に泥を塗るようなことをしなかった、という点だ。おれは汚い欲望をいだいて、卑劣な行為を愛するけれど、決して卑怯な真似はしない。お前赧くなったね、目がぎらぎら光りだしたぞ。お前を相手にこんな汚い話はもうたくさんだ。しかし、いま話したのはあれだけのことだ、ポール・ド・コック式のお愛嬌だ。もっとも、この時分から、例の残忍な虫けらはもう頭を持ちあげて、魂の中へ拡がり始めてはいたがね……いや、実際あの当時の追憶で、一冊のアルバムができるくらいだよ。ああ、神様、あの可愛い娘たちに健康を授けてやって下さいまし。ところで、おれは別れる時に喧嘩をするのが嫌いだった。そして、一度も明るみへ出したこともなければ、相手の顔に泥を塗ったこともない。しかし、もうたくさんだ。だが、お前はおれがこんな馬鹿な話をするために、わざわざお前をここへ呼んだと思うのかい? どうしてどうして、もっと興味のある話をして聞かせるよ。しかし、おれがお前に対して恥しそうなふうもなく、かえって得意な顔をしてると思って、あきれないでおくれよ。」
「兄さんは僕が赧い顔をしたから、そんなことを言うのでしょう。」急にアリョーシャが口をいれた。「僕が赧い顔をしたのは、兄さんの話のためでもなければ、兄さんのしたことのためでもありません。つまり、僕も兄さんと同じような人間だからです。」
「お前が? それは少し薬が強すぎるぞ。」
「いいえ、強すぎやしません」とアリョーシャは熱くなって言いだした。見受けたところ、この思想はもうだいぶ前から、彼の心中に巣食っていたらしい。「誰だって同じ階段に立っているのです。ただ僕が一等下の段にいるとすれば、兄さんはどこか上のほう、三十段目くらいの辺に立ってるのです。僕はこういうふうにこの問題を眺めています。しかし、それは五十歩百歩で、つまるところ、同性質のものなんです。一ばん下の段へ踏み込んだものは、いずれ必ず一ばん上まで登って行きますよ。」
「じゃ、初めから、踏み込まないのだね?」
「できるなら、初めから踏み込まないがいいのです。」
「お前はできるかい?」
「駄目なようです。」
「言うな、アリョーシャ、言うな。おれはお前の手が接吻したくなった。つまり、感激のあまりにさ。あのグルーシェンカの悪党は人間学の大家だよ。あの女はいつか必ずお前を擒にして見せるって、おれにそう言ったことがある! いや、言うまい、言うまい、いよいよこれから汚い話をやめて、蠅の糞で汚れた部屋から、おれの悲劇へ移ることにしよう。とはいうものの、これもやはり蠅の糞で汚れた部屋だ、つまり、ありったけの卑劣に充された話なのだ。実のところ、さっき親父が無垢の乙女を誘惑する、とか何とかでたらめを言ったけれど、本当におれの悲劇の中には、そいつがあるんだ。もっとも、実際において成立はしなかったがな、親父にいたってはでたらめにおれを攻撃したので、この秘密は知らないんだ。おれは今まで誰にも話したことがない。今お前に言い初めなのだ。しかし、もちろんイヴァンは別だよ。イヴァンはすっかり知ってる。お前よりかずっと以前に知ってるのだ。が、イヴァンは、――墓だね([#割り注]無口の人[#割り注終わり])。」
「イヴァンが墓ですって?」
「ああ。」
 アリョーシャは異常な注意をもって耳を傾けた。
「おれはその大隊で見習士官として勤務してはいたものの、まるで何か流刑囚みたいに、監視を受けてると同じありさまだった。しかし、町の人は恐ろしく優遇してくれた。おれの金づかいが荒かったもんだから、みんなおれを財産家だと思ってたし、おれ自身もそれを信じていた。しかしそれ以外にも、何か町の人の気に入るようなところがあったに違いない。みんな妙に首をひねって見ていたが、可愛がってくれたのも事実だ。ところが、大隊長――中佐のおやじは馬鹿におれを嫌って、よく突っかかりそうにしたけれど、おれにも手があるし、町の人がみんなおれの味方なので、あまり強く突っかかるわけにゆかなかったのさ。もっとも、おれのほうでも悪かった、わざと相当の尊敬をはらわなかったんだからなあ。つまり、鼻っ柱が強かったのさ。この中佐は頑固ではあったが、まったくのところ、あまり悪い人間でないどころか、この上もなく人のいい客ずきな爺さんだった。この人は二度結婚したが、二度とも死なれてしまった。先妻のほうは何か平民の生れだったそうだが、その忘れがたみもやはり素朴だった、おれがその町にいた頃は、もう二十四五の薹の立った娘で、父親と亡くなった母方の伯母と三人で暮していた。この伯母さんは無口で素朴なたちだったが、姪のほうは、中佐の姉娘の方は、はきはきして素朴な人だった。元来おれは過去を追想する時、人のことを悪く言うのが嫌いなたちだが、この娘ほど美しい性質の女をほかに見たことがないよ。その娘はアガーフィヤというんだ。いいかい、アガーフィヤ・イヴァーノヴナというんだ。それに顔もロシヤ趣味で悪いほうじゃなかった、――背の高い、よく肥った、目つきのいい女で、顔こそ少し下品だったかもしらんが、なかなかいい目をしていたよ。二度ほど縁談があっだけれど、断わってしまって、嫁入りしようともしないんだ。そのくせ、いつも快活な気分を失わないでいたよ。
 おれはこの娘と仲よしになっちゃった、――と言っても、『ああしたふうの』仲よしじゃない。どうしてどうして、純潔なもので、いわば親友のような工合だった。実際、おれはよくいろんな婦人と完全に無垢な、親友みたいな交際をしたものだよ。で、その娘を相手に恐ろしい露骨な、それこそあきれ返るようなことを喋り散らしたけれど、娘はただ笑っているじゃないか。それに、大抵の女は露骨な話を好くものだよ、覚えとくがいい。ところが、このアガーフィヤは生娘なので、よけいおれは面白かったわけなのさ。それからまだこういう特色がある。その娘はどうしたってお嬢さんと呼ぶわけにはいかないのだ。なぜって、いつも好きこのんで自分をおとすようにしながら、父親や伯母と一緒に暮して、交際社会でほかの人と肩を並べようとしたことがない。それに仕立のほうで立派な腕を持っていたから、皆からちやほやされて重宝がられていた。実際、腕ききであったが、ただ優しい気立てからしてやることなので、仕事賃など請求したことはない。しかし、やろうと言われれば辞退はしないんだ。中佐のほうにいたっては、なかなかそんなことはない! 中佐はその小さな町では第一流の名士の一人なんだ。ずいぶん手広く交際していたから、町じゅうのものを招待して、晩餐会や舞踏会を催していた。ちょうどおれがこの町へ着いて大隊へ入った時、近いうちに中佐の二番娘がやって来るというので、町じゅうその話で持ちきっていた。それは美人の中での美人で、こんど都のさる貴族的な専門学校を卒業したんだそうだ。これがあのカチェリーナ・イヴァーノヴナ、つまり中佐の後妻にできた娘なのだ。もう故人になっていたこの後妻は、ある名門の将軍家を出た人だけれど、おれの確かに聞いたところでは、少しも持参金を持って来なかったそうだ。とにかく、いい親類を持っているのだから、さきになって何か希望はあるだろうが、現金というものは少しもなかったのだ。しかし、その令嬢が帰って来たとき(ただし永久にというわけでなく、ほんの当分逗留して行くつもりだったのだ)、町じゅうはまるで面目を一新したような工合だった。第一流の貴婦人たち、――将軍夫人が二人に大佐夫人が一人、それに猫も杓子もその後について奔走しだした。どうかして令嬢を娯しませようというので、四方から引っ張り凧だ。令嬢はたちまち舞踏会やピクニックの女王となってしまった。何か家庭女教師の扶助だとかいって、活人画の催しまであった。おれは黙って遊んでいた。ちょうどおれはその時分、町じゅうが湧き立つほど乱暴なことをやっつけたんだ。何でも一度その令嬢がおれをじろっと見たことがある。それはある中隊長のところだったっけ。しかし、おれはそばへ寄らなかった。お前さんなどと近づきにならなくたっていいよ、という腹なんだね。おれが令嬢のそばへ寄ったのは、それからだいぶ後のある夜会の席だった。ちょっと話しかけてみたんだけれど、ろくろく目もくれないで、人を小馬鹿にしたように口を結んでるじゃないか。よし待ってろ、仇を討ってやるぞ! とおれは腹の中で思ったよ。おれはそのころ大抵の場合おそろしい無作法者だった。それは自分でも感じていた。しかし、そんなことよりも、『カーチェンカ([#割り注]カチェリーナの侮蔑的称呼[#割り注終わり])』は決して無邪気な女学生というタイプでなく、しっかりした気性の、ほこりの強い心底から徳の高い、知恵も、教育もある淑女だが、おれにはそいつが両方ともない、とこんなことをしみじみ感じたのさ。
 お前は、おれが結婚でも申し込んだと思うかい? 決して、そんなことはない。ただ、仇が討ちたかったのだ。おれはこんな好漢《いいおとこ》なのに、あいつはそれを認めてくれない、という腹なのさ。しかし、当分の間は遊興と馬鹿さわぎで持ちきっていた。で、とうとう中佐はおれに三日間、謹慎を命じたくらいだ。ちょうどこの時分、親父が六千ルーブリの金を送ってくれた。それはおれが正式の絶縁状を送って、もう今後びた一文請求しないから、綺麗さっぱりと勘定をすましてくれ、と言ってやった結果なんだ。当時、おれは何にも知らなかったのだ。おれはここへ来るまで、いや、つい五六日前まで、というよりむしろ今日の日まで、親父との金銭関係がどんなになってるか、少しも知らなかったんだよ。しかし、こんなことはどうだってかまやしない、あと廻しだ。ところが、六千ルーブリを受け取ってから間もなく、おれは突然ある友達からもらった手紙で、自分にとってこの上もない興味のある事実を知った。ほかでもない、おれたちの長官たる中佐が公務怠慢の疑いで、不興を蒙ったということだ。つまり、反対派のやつらが陥穽を設けたんだよ。で、直接師団長がやって来て、こっぴどく油を搾ったそうだ。それからしばらくたって、退役願いを出せという命令が出た。まあ、こんなことをくだくだしく話すのはやめようが、実際この人には敵があったのだ。とにかく、当の中佐とその一門に対する町の人気が、急に冷めちまって、まるで潮が退いたような工合なのさ。この時だ、おれのいたずらが始まったのは。折ふしアガーフィヤ、――いつも親交をつづけている姉娘に出会ったので、こう言ってやった。
『あなたのお父さんは、官金を四千五百ルーブリなくしましたね?』
『それは何のこと? 何だってそんなことをおっしゃるの? せんだって将軍閣下がお見えになったとき、そっくりちゃんとあったわ。』
『その時はあっても今ないんですよ。』
『後生だから脅かさないでちょうだい、一たい誰から聞いて?』と恐ろしくびっくりしている。
『心配することはありません、僕だれにも言わないから。ご承知のとおりこんなことにかけたら、僕は墓石も同然ですよ。しかし、これについて「万一の用心」という意味で、一つお話があるんです。ほかではありませんがね、お父さんが四千五百ルーブリの金を請求された時、その金がなかったら、さっそく軍法会議ですよ。すると、あの年をして一兵卒の勤めをしなければならない。どうです、いっそあなたの家の女学生さんを内証でおよこしなさい。僕ちょうど金を送ってもらったから、あのひとに四千ルーブリの金をさしあげます。そして、誓って秘密を守ります。』
『まあ、あなたはなんて穢わしい人なのでしょう!(実際こう言ったのだ)――なんて穢わしい悪党なんでしょう! どうしてそんな失礼なことが言えるんでしょう!』と恐ろしく憤慨して行ってしまった。おれはそのうしろからもう一度、秘密は誓って神聖に守るからと呶鳴った。この二人の女、つまりアガーフィヤと伯母さんとは、あとで聞いてみると、この事件に関して純潔な天使のように振舞ったそうだ。高慢ちきな妹のカーチャをしんから崇め奉り、そのために自分を卑下して小間使のように働いたんだ。ただし、アガーフィヤはその一件を、つまりおれの話を、すぐ当人に知らしちゃった。おれはあとで掌をさすように聞き出したが、この娘は隠しだてしなかったのだ。ところで、そこがこっちの思う壼なのさ。
 そのうちに突然、新来の少佐が大隊を引き継ぎにやって来て、さっそく引き渡しの手続きが始まった。すると老中佐は、急に発病して動くことができないとかで、二昼夜というものは自宅へ籠ったきり、隊の金をさし出そうとしない。軍医のクラフチェンコも、実際病気に相違ないと証明した。この事件の内幕はおれがとうから秘密に、確かなことを嗅ぎ出していたんだ。この金はもう四年も前から長官の検閲がすみ次第、暫時のあいだ姿を消すことにきまっていた。つまり、中佐が確実この上ないという男に融通したからだ。それは、トリーフォノフという町の商人で、金縁の眼鏡をかけた、髯むくじゃらな、年とった男やもめなのだ。この男は市《いち》へ出かけて、何か必要な取引きをすますと、すぐにその金を耳を揃えて中佐に返したうえ、市から土産物など持って来る。土産に利子が添わってるのはもちろんだ。ところが、今度にかぎって(おれはそのとき偶然にトリーフォノフの息子で相続人の、涎くり小僧から聞いたのだ。これは、世界じゅうまたと類があるまいという極道者なんだ)、ところが、今度にかぎってトリーフォノフは、市から帰って来ても何一つ返さないんだそうだ。中佐がその男のところへ飛んで行くと、『私は、決してあなたから何一つ受け取った覚えはありません、第一、そんなはずがないじゃありませんか』という挨拶だ。こういうわけで、中佐は家へ引き籠ってしまった。タオルで頭を縛って、三人の女たちが氷で額を冷やすという騒ぎさ。そこへ当番の兵隊が帳簿と命令を持って来た。『即刻、二時間内に官金を提出すべし』というのだ。で、中佐は署名をした(おれは後でこの帳簿に書いてある署名を見たよ)。それから起きあがって、軍服を着に行くのだと言って、自分の寝室へ走り込み、遊猟に使っていた二連発銃を取って装填した。兵隊用の弾丸《たま》をこめると右足の靴を脱いで、銃口を胸へ当て、足で引き金を探りにかかった。ところが、アガーフィヤはおれの言葉を覚えていたので、もしやと思って忍び足について来たから、手遅れにならぬうちに見つけたんだ。転ぶように駆け込んで父に飛びかかり、うしろから抱きしめたので、銃は天井へ向けて発火して、幸い誰ひとり怪我をしなかった。やがて、ほかの人たちも駆けつけて、中佐を抑えて、銃を取り上げ、両手をじっと掴まえていた……このことは、後ですっかり、一分一厘たがえずに聞いたのだ。その時、おれは家にいた。ちょうど暮れがたであったが、外出するつもりで服も着替え、頭も撫でつけ、ハンカチに香水もつけて、帽子まで手に取ったところへ、とつぜん戸が開いて、――おれの目の前へ、しかもおれの部屋へ、カチェリーナ・イヴァーノヴナが現われたのだ。
 世間にはよく不思議なことがあるものさな。そのとき令嬢がおれのところへ入ったのを、往来で見てるものが一人もなかったので、町でもこのことは、うんともすんとも噂が出なかった。それに、おれはある二人の官吏の後家さんの部屋を借りていたが、もう大昔の婆さんで、万事おれの世話をしてくれた。なかなか丁寧な年寄りで、何でもおれの言うがままになってたから、このときもおれの言いつけで、まるで鉄の棒かなんぞのように黙っていてくれた。もちろん、おれはすぐ一切のことを見抜いてしまった。令嬢は入って来るなり、ぴったりおれの方を見つめるじゃないか。その暗色《あんしょく》をした目は決然として、むしろ大胆なくらいに光っていた。しかし、唇の上にもまわりにも、何となく思いきりのわるい色が窺われた。
『姉から伺いますと、もしわたくしが……自分であなたのところへまいりましたならば、四千五百ルーブリのお金を下さるそうでございますね、……わたくしまいりました……さあ、お金を下さいまし!………』と言ったが、とうとうこらえきれないで息を切らし、慴えたように声をとぎらした、唇の両はじとそのまわりの筋肉がぴりりと慄えた。おい、アリョーシャ、聞いているのか、眠ってるのか?」
「ミーチャ、僕はあなたがすっかり本当のことを話しなさるだろうと信じています。」アリョーシャは興奮して答えた。
「そうだ、その本当のことを話すんだ。もしすっかり本当のことを言うとすれば、まあ、こういうふうないきさつだ。なあに、自分のことなんか容赦はしやしないよ。まず第一に浮んだ考えはカラマーゾフ式なものだった。おれは一度むかでに咬まれて、二週間ばかり熱に浮かされながら寝ていたことがある。ところが、このむかでが、意地のわるい毒虫が、ちくりとおれの心臓をさしたんだ。おれはじろりと令嬢の姿を見廻した。お前はあのひとを見たかい? 美人だろう。しかし、その時の美しさは、あんなふうでないのだ。その時あのひとが美しかったのは、あのひとが高潔この上もないのに引き換えて、おれが一個の陋劣漢だったからなんだ。あの人が父の犠牲として、偉大というものの絶頂に立っているに引き換えて、おれはまるで南京虫にもひとしいからなんだ。ところが、その陋劣漢で南京虫のおれのために、あの人は精神も肉体も一切を挙げて、生殺与奪の権利を握られてるのだ。おれは腹蔵なく打ち明けるが、この想念は――毒虫の想念は、もうしっかりとおれの心を掴んでしまって、悩ましい焦躁のために心臓が溶けて流れないばかりだった。ちょっと考えてみると、この間に何の躊躇も争闘もなさそうだろう? つまり、南京虫か毒蜘蛛のように、少しの容赦もなしに断行したらいいのだ……おれは息がつまるほどだった。ところが、またこういう方法もある。翌日、中佐のところへ行って結婚を申し込み、一切のことを公明正大にやって、この秘密を誰も知らないように、また知るわけにもいかないようにすることができる。なぜって、おれは卑しい欲望に動かされはするが、しかし潔白な人間だからな。けれど、突然その瞬間、誰やらおれの耳もとで囁くやつがあった。
『だが、あす結婚を申し込みに行っても、あの女がお前のところへ出ても来ないで、馭者に言いつけてお前を邸から抛り出さしたらどうする? 勝手に町じゅうへ触れ廻すがいい、お前さんなぞ恐れやしないからと言ったら、どうするつもりだ?』
 おれは、ちらと令嬢を見た。すると、おれの心の声は嘘を言わなかった。もちろん、そうあるべきはずなんだもの。あす出かけて行ったら、おれの襟首を掴んで抛り出すってことは、もうその顔を見たばかりでちゃんと読めた。と、急におれの心中に毒々しい想念が湧き立ってきて、陋劣この上ない、豚か素町人のような芝居が打ちたくなった。つまり、馬鹿にしたような目つきで令嬢を見ながら、相手が自分の前にじっと立ってる間に、素町人でなければとても言えないような口調で、いきなり令嬢を取っちめてやりたくなったんだ。
『へえ、四千ルーブリですって! ありゃちょっと冗談半分に言ったのに、あなたは一たい、どうしたんです? そりゃお嬢さん、あんまり勘定がお手軽すぎますぜ。百や二百の金ならば、わっしも悦んでさしあげましょうが、四千ルーブリといえば、こんな浮いたことに抛げ出せる金じゃありませんからね。そりゃ無駄なご足労というもんですぜ。」
 とまあ、こんな調子さ。しかし、こんなことを言ったら、もちろんおれは何もかも失くしてしまわなきゃならん。令嬢は逃げ出してしまうに違いない。しかしその代り、思いきって悪《あく》がきいて腹いせができて、一切を償うてあまりがある。生涯、後悔のために呻吟するかもしれないが、しかしとにかく、今はこの手品がやってみたくてたまらない! お前ほんとうにはなるまいが、おれがこういう場合、相手の女を憎悪の念をもって、睨むなんて、そんなことは、どんな女に対してもありゃしなかった、――ところがその時ばかりは、あのひとを三秒ほどの間、恐ろしい憎悪をいだきながら見つめていた。まったくだ、誓ってもいいよ。しかし、その憎悪は恋、気ちがいじみた恋と、僅か間一髪を隔てたようなものだった!
 おれは窓に近寄って、凍ったガラスに額を押し当てた。氷が、まるで火かなんぞのように額を焼いたのを覚えている。心配するな、長いこと待たせはしなかった。おれはくるりと振り返ってテーブルに近寄り、抽斗を開けて、五分利つき五千ルーブリの無記名手形を取り出した。(それはフランス語の辞書の中に挟んであったのだ)。それから無言のまま令嬢に見せた後、畳んで手渡した。そして、自分で玄関へ出る戸を開けて、一足さがり、深く腰をかがめて、相手の心に浸み渡るようなうやうやしい会釈をした。信じてくれ、本当なんだ! 令嬢はぎくりとして、一秒ばかりじっとおれを見つめながら、まるでテーブル・クロースのように蒼白い顔をしていたが、とつぜん一口もものを言わないで、静かに深く全身を屈めて、ちょうどおれの足もとへ額が地につくほど辞儀をした、――それが突発的でなくもの柔らかな挙動なんだ。女学生式でなく純ロシヤ式なんだ! やがて急に跳りあがって飛び出しちゃった。令嬢が飛び出した時、おれはちょうど軍刀を着けていたので、それをすらりと引き抜いて、即座に自殺しようとした。何のためやら自分でもわからない、むろん、恐ろしい馬鹿げたことではあるけれども、きっと歓喜のあまりに相違ない。お前にわかるかどうかしらんが、ある種の歓喜のためには、自殺もしかねないことがあるよ。しかし、おれは自殺しなかった。ただ、軍刀を接吻しただけで、またもとの鞘へ納めた、が、こんなことはお前に話さなくてもよかったんだなあ。それに、今ああいう暗闘の話をしているうちに、自分をいい子にしようと思って、どうやら少少ごまかしたところもあるようだ。しかし、かまわん、それならそれでいい、本当に人間の心の間諜を、みんなどこかへ吹っ飛ばしちゃうといいんだ! さあ、これがおれとカチェリーナとの間に起った『事件』の全部なんだ。今これを知ってるのはイヴァンと、――それにお前っきりだ。」
 ドミートリイは立ちあがって、興奮したように一歩二歩踏み出しながら、ハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。やがてふたたび腰をおろしたが、それは前に坐っていた場所でなく、反対の壁についている床几であった。で、アリョーシャはその方へ向くために、すっかり坐り直さなければならなかった。

[#3字下げ]第五 熱烈なる心の懺悔――『真逆さま』[#「第五 熱烈なる心の懺悔――『真逆さま』」は中見出し]

「さあ、これで」とアリョーシャが言った。「僕もこの話の前半を知ったわけなんですね。」
「前半はそれでわかったんだ。これは戯曲で、舞台はあっちだ。後半は悲劇で、これからこっちで演じられようとしてるのさ。」
「その後半の事情が、僕にはまだちっともわからないのです」とアリョーシャは言った。
「じゃ、おれはどうなんだ? 一たい、おれにわかってるというのかい?」
「兄さん、ちょっと待って下さい、ここに大切な言葉が一つあるんですよ。一たい兄さんは、許婚《いいなずけ》の夫なんですか、今でもそうなんですか。」
「許婚の夫になったのは今じゃない、あの事件があってから三カ月たった後の話だ。よくあることだが、すぐその翌日、おれは自分で自分にこう誓った、――この事件はもうこれで大団円になったので、決して後日譚なんかない。したがって結婚の申し込みにのこのこ出かけるのは、卑劣なことだと感じられた。あの人はまたあの人で、その後、町に六週間も住んでいたくせに、一言半句も便りをしてくれなかった。もっとも、一度例外があったよ。あの訪問の翌日、おれのとこへ中佐の家の小間使が、こそこそとすべり込んで、何も言わずに一つの包みを渡したのだ。包みの上には誰々様と宛名が書いてある。あけて見ると五千ルーブリの手形の釣り銭なんだ。実際、必要だったのは四千五百ルーブリだけれど、手形を売るとき二百ルーブリ以上の損失が生じたので、おれの手もとへ返したのは、みんなで二百六十ルーブリくらいのものだったらしい。よくは覚えていない。しかし、ほんの金だけで、手紙もなければ一言の説明もない。おれは包みの中に、何かちょっと鉛筆でしるしでもしてないか、と思って捜してみたが、――なあんにもない! 仕方がないから、おれは残った金で、当分耽溺してばかりいたので、とうとう新任の少佐も、余儀なくおれに譴責をくわしたくらいだ。まあ、こうして、中佐は無事に官金を引き渡したので、みんなびっくりしてしまったのさ。だって、その金が纒って中佐の手もとにあろうとは、誰ひとり想像しなかったからなあ。しかし、引き渡すと同時に病みついて、三週間ばかり床についていたが、とつぜん、脳血栓を起して、五日のうちに亡くなってしまった。まだ予備の辞令を受ける暇がなかったので、軍葬ということになった。カチェリーナは姉や伯母とともに、父の葬いをすますやいなや、十日ばかりたつと、モスクワへ向けて出発した。ところが、その出立の前(といっても、それと同じ日なんだ。おれはその後会いもしなければ、見送りにも行かなかった)、おれは小さな封筒を受け取った。青いすかし入りの紙に、鉛筆でたった一行、『そのうちに手紙をさしあげます、お待ち下さい。K』と、これだけ書いてあった。
 もうこれからは簡単に説明するよ。一切の事情が、モスクワで稲妻のような速度と、アラビヤ夜話のような意外さをもって、がらりと一変してしまったのだ。あのひとのおもな親戚にあたる将軍夫人が、突然一ばん近い相続者を一時に二人まで亡くしてしまった。その二人は将軍夫人の姪なんだが、両方とも同じ週に天然痘で死んだのだ。取り乱して前後を失った夫人は、親身の娘かなんぞのように、カーチャの上京を喜んで、まるで救いの星でも見つけたように、飛びかかったのさ。そして、さっそくあのひとのために遺言状を書き換えちゃった。が、それは先になってからの話で、当分の手当として八万ルーブリだけ手渡して、さあ、これがお前の持参金だから、どうとも好きなようにおしと言ったそうだ。実際、ヒステリイ質の婦人だよ、おれはその後モスクワへ行って、自分で観察したがね。で、おれはだしぬけに四千五百ルーブリの金を為替で受け取った。もちろん、不思議でたまらないから、びっくりして唖のようになっていたよ。三日たってから約束の手紙も着いた。その手紙は今でもおれのところにある。いつもおれの肌身についてるのだ、死ぬる時も一緒だ、――お望みなら見せてもいいよ。いや、ぜひ読んでくれ。結婚を申し込んだんだ、自分で自分の体を提供したんだ。
『わたしは気ちがいのように恋しています。あなたがわたしを愛して下さらなくてもかまいません。どうぞわたしの夫になって下さい。しかし、お恐れになることはありません。わたしはどんなことがあっても、あなたを束縛はいたしません。わたしはあなたの道具です、あなたの足に踏まれる絨毯でございます……わたしは永久にあなたを愛しとうございます、あなたをあなたご自身から救って上げたいのでございます……』
 アリョーシャ、おれはこの手紙を、自分の陋劣な言葉や、陋劣な調子で伝える資格がない。おれのもちまえの陋劣な調子はどうしても直すことができないのだ! この手紙は今日にいたるまでおれの胸を刺すのだ。一たいお前は、今おれが気楽だと思うかい、今日おれが気楽でいると思うかい? その時おれはすぐ返事を書いた(どうしても自分でモスクワへ出向くわけにいかなかったのだ)。おれは涙ながらにその返事を書いた。ただ一つ、いつまでも恥しいと思うことがある。ほかでもない、その手紙に、あなたはいま金持で持参金つきの花嫁さんなのに、私は一介の貧乏士官だと書いたのだ、金のことなんか言ったのだ。そんなことは胸一つにおさめておくべきだったのに、つい筆がすべっちゃったんだ。それと同時にモスクワにいるイヴァンヘ手紙を送って、できるだけ詳しく一切の事情を説明してやった。何でも書簡箋六枚からあったよ。こうしてイヴァンをあのひとのところへやったのだ。お前、何だってそんな目をして見てるんだい? そりゃイヴァンは本当にあのひとに惚れ込んじまったさ。そして今でもまだ惚れてるよ。なるほど世間の目から見て、おれのしたことが馬鹿げているのは、自分でも承知している。しかし、今となってはこの馬鹿げたこと一つだけが、われわれ一同を救ってくれるのかもしれないよ! あああ! 一たいお前はあのひとがどんなにイヴァンを崇拝し、尊敬しているかわからないのか? それに、あのひとがわれわれ二人をくらべてみて、おれのような人間を愛することができるものかね。おまけに、ここであんなことがあった挙句にさ。」
「あのひとは兄さんのような人を愛します、決してイヴァンのような人じゃありません、それは僕、かたく信じていますよ。」
「あのひとは自分の善行を愛してるので、おれを愛してるんじゃない。」突然ドミートリイはわれともなく、ほとんど毒々しい調子でこう口をすべらした。彼は声高に笑いだしたが、一瞬の後その目がぎらぎらと輝きだした。彼は真っ赤になり、拳を固めて力まかせにテーブルを打った。
「おれは誓って言うぞ、アリョーシャ」と彼は自分自身に対するもの凄い、真剣な憤怒を現わしながら叫んだ。「お前が本当にしようとしまいと勝手だが、神聖なる神にかけて、主キリストにかけて誓う、おれは今、あのひとの高潔な感情を冷笑したが、おれの魂があのひとのにくらべて百万倍もやくざだってことは、自分でもちゃんと承知してる。あのひとのそうした立派な感情は、天使の心と同じように真実なものだ! おれはそれをちゃんと知っている。そして、この中に悲劇がふくまれてるのだ。しかし、人間が少しばかり朗読めいた口のきき方をしたって、一たいどこが悪いのだ? 実際おれは朗読しただろう? しかし、おれは真剣なのだ、まったく真剣なのだ。ところで、イヴァンのことになると、あれが今、自然に対してあんな呪いをいだくのも無理はないと思う。それに、あれだけの頭があるんだからなおさらだ! 実際、選まれたのは誰だと思う、何ものだと思う? 選まれたのはこのやくざ者なんだ、もう許婚の夫ときまっていながら、ここでみんなの見ている前で、もちまえの淫蕩を抑制することのできないやくざ者なんだ、――しかも、それを許嫁の目の前でやるんだからなあ! こういうやくざ者が選まれて、イヴァンが斥けられたんだ。ところで、それは一たい何のためだと思う? ほかでもない、立派な令嬢が感謝のあまりに、自分で自分の一生を手籠めにしようと思ってるからなんだ! 実に愚かな話だ! おれはこんな意味のことを一度もイヴァンに話したことがないし、イヴァンのほうだってもちろんおれに向って、一言半句も、そんなことを匂わしたことはない。しかし、そのうちに運命の摂理で、価値あるものは相当の席に直って、価値なきものは永久に人生の露地へ隠れるのだ、――自分の気に入った、自分に相当した汚い露地の中へ隠れて、泥濘と悪臭の中で、満足と悦びを感じながら亡びてゆくのだ。おれは何だかわけのわからないことを、考えもなしに喋ってしまった。おれの言葉はどれもこれも、みんな使い古されてしまってる。しかし、いま断言したことは必ず実現されるよ。おれは露地へ隠れてしまって、あのひとはイヴァンと結婚するんだ。」
「兄さん、ちょっと待って下さい」とアリョーシャは一方ならぬ不安の面もちで遮った。「兄さんが今まではっきり説明してくれなかったことが一つありますよ。ほかじゃありませんが、兄さんは婚約の夫でしょう、何と言ってもそれに違いないのでしょう? もしそうだとすると、相手の婦人が望んでもいないのに、縁を切ってしまうなんてことがどうしてできますか?」
「そうだ、おれは立派に祝福を受けた正式の許婚だ。これはおれがモスクワへ行ったとき、正式に堂々と聖像の前で行われたのだ。将軍夫人が祝福してくれたのさ、――そしてどうだろう、カーチャにお祝いまで言ったよ、お前はよい婿を選んだ、わたしにはこの人の腹の底まで見すかせるってね。そして、奇妙な話だが、イヴァンは夫人の気に入らないで、お祝いも言ってもらえなかったのだよ。おれはモスクワでいろいろカーチャと話し合って、公明正大に、自分の全人格を偽ることなく正確に説明してやった。あのひとはじっと聞いていたが、

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その顔に優しき惑い
その口に愛しき言葉……
[#ここで字下げ終わり]

いや、言葉は厳かなものだったよ。あのひとは、その時おれに、ぜひ身持ちを改めるという大誓言を立てさせた。で、おれは誓ったのだ。ところが……」
「どうしました?」
「ところが、おれは今日お前を呼んで、ここへ引っ張り込んだ(今日という日を覚えていてくれ!)しかも、それは今日、やはり今日だぞ、お前をカーチャのところへやって、そして……」
「どうするんです?」
「あのひとにそう言ってもらうためなんだ、おれはもう決して行かないから、どうかよろしくって。」
「えっ、一たいそんなことがあっていいものですか?」
「あってよくないからこそ、お前を代りにやるのだ。どうしておれ自身あの人にそんなことが言えるものかね?」
「そして、兄さんはどこへ行くんです?」
「露地へさ。」
「それはグルーシェンカのことですか?」アリョーシャは手を拍ちながら、悲しげに叫んだ。「じゃ、ラキーチンの言ったことは本当なのかしら? 僕、兄さんはちょっと行ってみただけで、もうおしまいになったんだろう、と思っていました。」
「許嫁のある男が、あんな女のところへ行っていいものかい? そんなことができるかい、しかも、許嫁のいるところで? みんなの見ているところで? おれにだって廉恥心はあるからなあ。つまり、グルーシェンカのところへ行き始めるとすぐ、おれはもう許嫁の夫でもなければ、潔白な人間でもなくなっちまったんだ。それは自分でもわかってるよ。何だってお前そんな目をするんだい? 全体おれは最初ただあの女をぶん殴りに行ったのだ。なぜって、親父の代理人をしているあの二等大尉のやつが、おれの名義になっている手形をグルーシェンカに渡して、おれが閉口して手を引くように告訴してくれと頼んだと、こういう噂がおれの耳に入ったからなんだ。これが確かな話だってことは、今でもわかってるのだ。みなでおれを脅かそうと思ったのさ。で、おれはグルーシェンカをぶん殴りに出かけた。その前におれはちらりとあの女を見たことがある。けれど、べつに心にもとまらなかった。例の老ぼれ商人のことも知っていた。こいつはいま病気のため弱り込んで寝ているが、とにかく大分の金をあの女に残してるそうだ。それからまた、あの女が金儲けが好きで、すごい利息で金を貸しては、どんどんふやしていることも、慈悲も情けもない悪党の詐欺師だって話も聞いていた。で、おれはぶん殴りに出かけたが、そのまま女の家にみ輿をおろしてしまった。つまり、雷に打たれたんだ。ペストにかかったんだ、そのとき一度感染したきり、もう落ちっこはありゃしない。で、おれも悟っちまった、このさき決してどうにも変りようはない、時の循環が成就したのだ。まあ、こういった事情さ。ところがちょうどその時、おれのような乞食のかくしに、誂えたように三千ルーブリの金があった。おれは女と一緒に、ここから二十五露里([#割り注]わが七里[#割り注終わり])離れたモークロエ村に押し出して、ジプシイの連中を集めるやらシャンパンを取り寄せるやらして、村の百姓にも女房にも娘にも、みんなにシャンパンを振舞って、何千という金を撒いたのだ。三日たつと、もう丸裸になったが、しかし気分は鷹のようだったよ。ところで、お前はその鷹が、何か目的を達したと思うかい? どうしてどうして、遠方から拝ましてももらえないのだ。ただ曲線美とでも言うかな。グルーシェンカの悪党には、一つ何とも言えない肉体の曲線美があるんだ。それが足にも、左足の小指の先にも現われている。そいつが目について接吻した。それっきりだ、――本当の話だよ! あの女が言うには、『お望みならお嫁にも行きましょうが、だって、あんたは乞食同様の身分じゃなくって。もしあんたが決してわたしをぶちもしなければ、またわたしのしたいことを何でもさせてくれたら、そのときはお嫁に行くかも知れないわ』と言って笑ってるのさ。そして、今でもやはり笑ってるんだ!」
 ドミートリイは猛然として座を立った。彼は、とつぜん酔っ払いみたいになって、両眼は急に血走ってきた。
「兄さんは本当にそのひとと結婚する気なんですか?」
「向うでその気になれば、すぐにもするし、いやだと言えばそのまま居残っててやる。あの女の家の門番にでもなるさ。お前……お前……アリョーシャ」と、彼はとつぜん弟の前に立ちどまって、その肩に両手をかけ、力を籠めてゆすぶり始めた。「お前のような無垢の少年には、わからないかもしれんが、これは悪夢だ、意味のない悪夢だ。そして、この中に悲劇があるのだ。なあ、アリョーシャ、おれは卑しい人間かもしれないが、しかし、ドミートリイ・カラマーゾフは、決して泥棒や、掏摸や、掻っ払いになり下るはずがないだろう。ところが、今こそぶちまけてしまうけれど、おれは泥棒なんだ、掏摸なんだ、掻っ払いなんだ! ちょうどグルーシャをぶん殴りに出かける前、その日の朝カチェリーナがおれを呼んで、当分だれにも知らさないように秘密にしてくれ、と言って(何のためかしらないが、そうする必要があったんだろうよ)、これから県庁所在地の町へ行って、モスクワにいる姉さんのアガーフィヤヘ、為替で三千ルーブリ送ってくれとの頼みだった。県庁所在地まで行ってくれというのは、ここの人に知られたくないからだ。この三千ルーブリを懐中して、おれはその時グルーシェンカのところへ出かけた。そして、この金でモークロエヘ押し出したのだ。その後おれはさっそく市へ飛んで行ったようなふりをしたけれど、為替の受取りを出しもしないで、金は送ったから受取りもすぐ持って来ると言いながら、いまだに持って行かないでいる。忘れましたってわけでね。そこでお前、何と思う、これからお前があのひとのところへ出かけて、『よろしくと申しました』と言ったら、あの人は『で、お金は?』と訊くだろう。そうしたら、お前はこんなに言ってもかまわないよ、『兄は陋劣な好色漢です、欲情を抑えることのできない卑しい動物です。兄はあのとき金を送らないで、下等動物の常として、衝動にひかれて、すっかり使ってしまったのです。』が、それにしても、こう言い添えてもさしつかえないよ。『その代り兄は泥棒じゃありませんから、そらこのとおり三千ルーブリ耳を揃えてお返しします。どうぞご自分でアガーフィヤさんにお送り下さい。それから当人の兄はよろしくと申しておりました。』するとあのひとは、『どこにお金があるんです?』と訊くだろうな。」
「ミーチャ、あなたは不仕合せな人ですね、本当に! しかしそれでも、兄さんが自分で考えてるほどではありませんよ、――あまり絶望して自分を苦しめないがいいです!」
「一たいお前は、三千ルーブリの金が手に入らなかったら、おれがピストル自殺でもすると思うのかい? そこなんだよ、おれは決して自殺なんかしない、今はとてもできない。そのうちにあるいはやるかもしれんが……しかし今はグルーシェンカのところへ行くんだ……おれの一生はどうなろうとかまわない!」
「あのひとのところへ行ってどうするんです?」
「あの女の亭主になるんだ、つれあいにしていただくんだ、もし色男が来たら次の間へはずしてやる。そして、女の知り人の上靴も磨いてやろうし、サモワールの火も吹こうし、使い走りもいとやしない……」
「カチェリーナさんは何もかも察してくれますよ。」ふいにアリョーシャは勝ち誇ったように言いだした。「この悲しい事件の深刻な点をすっかり察して、折れて出るに相違ありません。あのひとには優れた叡知があります。だって、兄さんより以上に不幸な人があり得ないってことは、あのひとにだってわかりますもの。」
「あのひとは決して折れてなんか出ないよ」とミーチャは作り笑いをした。「この事件のなかには、どんな女でも折れることのできないような、あるものがあるのだ。お前はどうしたら一番いいか知ってるかい?」
「何です?」
「あのひとに三千ルーブリ返しちゃうのだ。」
「でも、どこでその金を拵えるんです? ああ、そうだ、僕んとこに二千ルーブリあるでしょう、それからイヴァン兄さんもやはり千ルーブリくらい出してくれるから、それで三千ルーブリになるでしょう、それを持って行ってお返しなさい。」
「しかし、それがいつ手に入るだろう、お前の三千ルーブリがさ。おまけに、お前はまだ丁年になってないじゃないか。いや、どうしてもぜひ今日、あのひとのところへ行って、よろしくと言ってもらわなけりゃならん。金を持ってか、それとも持たずにか、とにかく、もうこのうえ延ばすことはできない、とまあ、こういうところまでさし追ってしまったのだ。明日ではもう遅い、実際遅いよ、おれはお前に親父のところへ行ってもらいたいんだ。」
「お父さんのところへ?」
「うむ、あのひとのところより先に親父のところへ行って、その三千ルーブリもらってくれないか。」
「でも兄さん、お父さんはくれやしませんよ。」
「むろん、くれるはずはない、くれないのは承知だよ、しかし、アリョーシャ、絶望ってどんなものかわかるかい?」
「わかります。」
「いいかい、親父は法律から言ったら、ちっともおれに負債はない。おれがすっかり引き出してしまったんだからな。これはおれも自分で知ってる。しかし、精神的に見て、親父はおれに義務がある、なあ、そうじゃないか。親父は母の二万八千ルーブリをもとでにして、十万の財産を拵えたんだものなあ。もし親父がその二万八千ルーブリのうち、僅か三千ルーブリをおれによこしたら、おれの魂を地獄から引き出して、親父自身もたくさんな罪障の償いをするというものだ。おれはお前に誓っておくが、その三千ルーブリで綺麗さっぱりと片をつけて、今後おれの噂を親父の耳に入れるようなことは決してしない。つまりこれを最後に、もう一度父となるべき機会を、あの親父に提供するのだ。どうか親父にそう言ってくれ、この機会は神様ご自身が授けて下さるのだって。」
「ミーチャ、お父さんはどんなことがあっても出しゃしませんよ。」
「知ってる、決して出しゃせん、それはようく知ってるよ。しかも、今はなおさらなんだ。さっき話したほかに、おれはまだこんなことを知ってるのだ。この頃、やっと二三日前、いや、ことによったら、つい昨日のことかも知れない、親父はグルーシェンカが本当に冗談を抜きにして、おれと結婚するかも知れないってことを、初めて正確に(『正確に[#「正確に」に傍点]』というのに気をつけてくれ)嗅ぎつけたのさ。親父もあの牝猫の性質を承知してるからな。こういうわけだから、自分でもあの女にうつつを抜かしている親父が、この危機を助けるために、わざわざおれに金をくれるわけはないのだ。しかし、こればかりじゃない、まだ大変なことを聞かしてやることができるよ。ほかでもない、五日ばかり前に、親父は三千ルーブリの金を抜き出して百ルーブリ札《さつ》にくずし、大きな封筒に包んで封印を五つも捺した上に、赤い紐で十字にからげたものだ。おい、実に詳しく知ってるだろう! 包みの上にはこういう文句が書いてある。『わが天使グルーシェンカヘ――もしわれに来らば。』これは夜中しんとした時、内証で自分で書いたのだ。こんな金が隠してあるってことは、下男のスメルジャコフのほか誰ひとり知ってるものはありゃしない。親父はこの男の正直なことを、自分自身と同じくらい、信じきっているからな。ところで、親父は今日でもう三日か四日ばかり、グルーシェンカが包みをもらいに来るのを頼みにして、待ち焦れているんだ。包みのことを知らせてやったら、あの女のほうからも、『もしかしたら行くかも知れない』と返事したそうだ。もしあの女が親父のところへやって来たら、おれはあの女と一緒になることはできやしない。どういうわけでおれがこんなところへ内証で坐ってるか、そして何を見張ってるか、これでお前にも合点がいったろう?」
「あのひとを見張ってるんでしょう?」
「そうだ。ところで、この家のお引き摺りのちっぽけな部屋を、フォマーという男が借りてるんだ。このフォマーは土地の人間で、もとおれの隊へ兵隊で入ってたのさ。こいつがここで夜番に使われてるけれど、昼間は山鳥など撃って口すぎをしている。おれはこの男のところへ入り込んでるんだが、この男もうちの母娘《おやこ》も、おれの秘密は知らないでいる。つまり、何を見張ってるか知りゃしないのさ。」
「スメルジャコフが一人知ってるだけなんですね?」
「あいつ一人きりだ。女が親父のところへ来たら、その時あいつが知らせることになってるんだ。」
「包みのことを兄さんに教えたのもあれですか?」
「あれなのだ。しかし、これは大秘密だよ。イヴァンでさえ金のことも何にも知らないんだから。ところで、親父はイヴァンを二三日の間、チェルマーシニャヘやりたがってるのさ。それは森の買い手がついたからなんだ、八千ルーブリで木を伐り出させるんだよ。で、親父は『助けると思って、二三日の予定で出かけてくれんか』と言って、イヴァンを口説いてるところだ。つまり、イヴァンの留守にグルーシェンカを来させたいからよ。」
「では、今日お父さんはあの人の来るのを待ってるわけですね?」
「いや、今日は来ないよ。ちゃんと徴候があるんだ。きっと来やしない!」突然ミーチャは叫んだ。「スメルジャコフもそう思ってるよ。親父は今イヴァンと一緒にテーブルに向いて酒を飲みくらってるから、これから出かけてあの三千ルーブリを頼んでくれんか……」
「ミーチャ、兄さん一たいどうしたのです!」アリョーシャは床几から飛びあがって、激昂したミーチャの顔を見つめながら、こう叫んだ。ちょっとの間、彼は兄の気が狂ったのではないかと思った。
「お前こそどうしたんだい? おれは気なんか狂ってやしないぞ。」妙に勝ち誇ったような色さえ浮べながら、弟の顔をじっと眺めつつ、ミーチャはこう言った。「なるほど、おれはお前を親父のところへ使いにやろうとしているが、自分の言ってることはちゃんとわかっている。おれは奇蹟を信じるのだ。」
「奇蹟を?」
「ああ、神の摂理の奇蹟を信じる。神様にはおれの心がおわかりだ。神様は絶望をすっかり見ていて下さる。この絵巻物をみんな見とおしていらっしゃるのだ。一たい神様が何か恐ろしい事件の爆発を、みすみすうっちゃっておおきになるだろうか? アリョーシャ、おれは奇蹟を信じる、さあ、行って来い!」
「では、行って来ます。それで、兄さんはここで待ってくれますか?」
「待つとも、そう早く運ばないのは承知してるよ。実際、入るといきなり切り出すなんてわけにいかないからなあ! それに、いま酔っ払ってもいるしさ。待つよ、三時間でも、四時間でも、五時間でも、六時間でも、七時間でも。ただし今日じゅうに。たとえ真夜中になろうとも、金を持ってか[#「金を持ってか」に傍点]、さもなくば金なしで[#「さもなくば金なしで」に傍点]、カチェリーナさんのところへ行って、『兄がよろしく申しました』と言ってくれ、いいか。おれはぜひこの『よろしく申しました』って句を言ってほしいのだ。」
「ミーチャ! もし突然グルーシェンカが今日やって来たら……今日でなければ、明日か明後日か?」
「グルーシェンカが? 見つけしだい、踏み込んで邪魔をしてやる……」
「でも、ひょっと……」
「ひょっとなんてことがあったら、殺しちゃうさ。おめおめ見ていられるものか。」
「誰を殺すんです?」
「親父さ。あの女は殺さない。」
「兄さん、まあ何を言うのです!」
「いや、おれにもわからない、自分でもわからない……もしかしたら殺さないかもしれんし、またもしかしたら、殺すかもしれん。ただな、いざという瞬間に親父の顔が、急に憎らしくてたまらなくなりはしないか、と思って心配してるんだ。おれはあの喉団子や、あの鼻や、あの目や、あの厚かましい皮肉が憎らしくてたまらない。あの人物に対して、嫌悪の念を感じるのだ。おれはこいつを恐れている、こればかりは抑えることができないからなあ……」
「じゃ、僕、行って来ますよ。僕は神様がそんな恐ろしいことのないように、うまく納めて下さると信じています。」
「おれはここに坐って、奇蹟を待つとしよう。もし奇蹟が出現しなかったら、その時は……」
 アリョーシャはもの思いに沈みながら、父のもとへ赴いた。
 
[#3字下げ]第六 スメルジャコフ[#「第六 スメルジャコフ」は中見出し]

 彼が入った時、父は本当に食卓に向っていた。食卓はいつものしきたりで、広間に据えられてあった。そのくせ、家の中には本当の食堂があったのである。これは家じゅうで一番大きな部屋で、見せかけだけ古代ものの家具が飾ってあった。椅子類は思いきって古びたもので、白い骨に古くなった赤い半絹が張ってある。窓と窓の間の壁には鏡が嵌め込んであったが、その縁は同様に白い木に金をちりばめ、古めかしい彫刻を施したけばけばしいものである。もうところどころ壁紙の裂けた白い壁の上には、二つの大きな額がところえ顔にかかっている、――一つは、三十年ばかり前この地方の総督をしていたさる公爵で、いま一つは、同じくだいぶ前にこの世を去った僧正であった。部屋の手前の隅には幾つかの聖像が安置されて、夜になるとその前に燈明がつくことになっていたが、それは信心のためというよりも、夜、部屋の中を明るくするためであった。
 フョードルは毎晩非常に遅く、夜明けの三時か四時に就寝して、それまで部屋の中を歩き廻ったり、肘椅子に腰をかけて考えごとをする。これがもう癖になってしまったのである。彼はよく召使を離れへさげてしまって、まったくの一人きりで母家へ寝ることがあったけれども、大抵は下男のスメルジャコフが夜々彼のそばに居残って、控え室の台の上で寝るのであった。
 アリョーシャが入った時、食事はすでに終って、ジャムとコーヒーが出ているところであった。フョードルは食事のあとで、甘いものと一緒にコニヤクを飲むのが好きであった。イヴァンも同じく食卓に向ってコーヒーを啜っていた。二人の下男、グリゴーリイとスメルジャコフとがテーブルのそばに立っていた。見受けたところ、主従とも並みはずれて愉快に元気づいているらしい。フョードルは大きな声でからからと笑っている。アリョーシャはやっと玄関へ入ったばかりだのに、もう以前からずいぶん耳に馴染んでいる父の甲高い笑い声によって、父がまだ酔っ払ってるどころか、ほんの一杯機嫌でいるにすぎない、ということをすぐに推察してしまった。
「やあ、来たぞ、来たぞ!」フョードルは、アリョーシャが来たのを無性に悦んでこう叫んだ。「さあ、仲間へ入れ、そして坐ってコーヒーでも飲めよ、――なに、コーヒーはお精進だからいい、熱い素敵なやつだぜ! コニヤクは勧めない、お前は坊さんだからな、しかし飲むかな、飲むかな? いや、それより、お前にはリキュールのほうがいいわ、素晴しいもんだぜ! スメルジャコフ、戸棚へ行ってみい、二番目の棚の右側にある。ほら、鍵だ、早く早く!」
 アリョーシャはリキュールも断わろうとしたが、
「なあに、どうせ出るもんだ。お前がいやなら、わしらがやるよ」と、フョードルはほくほくもので、「ところでお前、食事はすんだのかどうだな?」
「すみました」とアリョーシャは答えたが、実際は僧院長の台所でパンを一切れと、クワスを一杯飲んだばかりであった。「私はこの熱いコーヒーのほうが結構です。」
「感心だ! えらいぞ! おい、この子はコーヒーを飲むと言うぞ。温めんでいいか? いや、今でもまだ煮立ってるわ。素敵なコーヒーだぞ、スメルジャコフ式なんだ。この男はコーヒーと魚饅頭《フィッシュ・パイ》にかけたら芸術家だ、ああ、それから魚汁《ウハー》にかけてもな、実際、いつか魚汁を食べに来んか。その時は前もって知らせるんだぞ……いや、待ったり待ったり、わしはさっきお前に、今日さっそく蒲団と枕を持って帰って来いと言いつけたが、本当に蒲団をかついで来たかな? へへへ!」
「いいえ、持って来ませんでした」とアリョーシャも薄笑いをした。
「びっくりしたろう、さっきは本当にびっくりしたろう? なあ、おい、アリョーシャ、お前を侮辱するなんてことが一たいわしにできると思うかい? ところでな、イヴァン、わしはこの子がこんなふうにわしの顔を見て笑うと、どうもたまらんよ、実に可愛くてなあ! アリョーシカ、一つわしが父としての祝福を授けてやろう。」
 アリョーシャは立ちあがった。しかし、フョードルはもうその間に思案を変えてしまった。
「まあ、いい、まあ、いい、今はただ十字を切るだけにしとこう、さあよし、腰をかけろ。ところで、お前の悦ぶ話があるんだ、しかもお前の畑なんだぜ。うんと笑えるような話だ。家のヴァラームの驢馬([#割り注]ヴァラームの不幸を人間の言葉で警告した聖書伝説中の驢馬[#割り注終わり])が喋りだしたのさ。しかも、その話のうまいこと、うまいこと!」
 ヴァラームの驢馬というのは、召使のスメルジャコフのことであった。彼はまだやっと二十四歳の若者であったが、恐ろしく人づきが悪くて口数が少かった。それも、野育ちの恥しがりというわけではなかった。それどころか、かえって生来高慢で、すべての人を軽蔑しているようなふうであった。ここで筆者《わたし》はこの男のことを、せめて一言でも述べておかなければならなくなった。しかも、ぜひ今でなくてはならないのである。
 彼はグリゴーリイとマルファの手で育てられたが、グリゴーリイの言葉を借りて言うと、『ちっとも恩を知る様子がなく』小さな野獣みたいに、隅っこのほうからすべての人を窺うようにして大きくなった。幼いころ彼は猫の首を吊って、その後で埋葬の式をするのが大好きであった。この式のために敷布をひっかけて袈裟の代りとし、何か提げ香炉の代りになるものを猫の死骸の上で振り廻しながら、葬式の歌を歌うのであった。これは非常な秘密のうちにこっそりと行われたのである。あるとき一度こんな勉強をしているところを、グリゴーリイに見つかって、鞭でこっぴどく折檻されたことがある。少年は片隅に引っ込んでしまって、一週間ばかりそこから白い目を光らしていた。『この餓鬼はわしら二人を好いていねえだよ』とグリゴーリイは妻のマルファに言い言いした。『それに誰ひとり好いていねえ。一たいおめえは人間か?』彼はだしぬけに当のスメルジャコフに向ってこう言うことがあった。『うんにゃ、おめえは人間でねえ、湯殿の湿気から湧いて出たんだ、それだけのやつだよ……』これはあとでわかったことだが、少年はグリゴーリイのこの言葉を、深く怨みに思っていた。グリゴーリイは彼に読み書きを教えていたが、少年が十三になったとき神代史の講義を始めた。しかし、この試みはすぐ駄目になった。まだやっと二度目か三度目の授業の時、少年は突然にたりと笑った。
「何だ?」とグリゴーリイは眼鏡ごしに、恐ろしい目つきをして睨みながら訊ねた。
「何でもありませんよ。神様が世界をおつくりになったのは初めての日でしょう、それにお日様やお月様やお星様ができたのは四日目じゃありませんか。一たいはじめての日には、どこから光が射したんだろう?」
 グリゴーリイは棒のように立ちすくんでしまった。少年は嘲るように『先生』を見やっていたが、その目の中には何か高慢ちきなところさえあった。グリゴーリイはこらえきれなくなって、『ここからだ!』と呶鳴るやいなや、猛烈な勢いで少年の頬っぺたを引っぱたいた。こっちは黙ってその折檻をこらえていたが、またしても幾日かのあいだ隅っこに引っ込んでしまった。ところが、一週間の後、初めて彼の一生の持病である癲癇の徴候が現われた。このことを聞いた時、フョードルはとつぜん少年に対する態度を一変した。それまで彼は出会うたびに、一コペイカずつくれてやったり、また機嫌のいい時は、折ふし食事のテーブルから甘い物を届けてやったりして、決して叱るようなことはなかったけれども、何だか無関心な目で彼を眺めていた。ところが、そのとき病気の話を聞くやいなや、急にこの少年のことを心配しはじめ、医師を迎えて治療にかかった。けれどすぐに、治療の見込みのないことがわかった。発作は一月にならし一度ずつおそってきたが、その時期はさまざまであった。また発作の程度もまちまちで、時には軽く時にはきわめて激烈であった。フョードルはグリゴーリイに向って、少年に体刑を加えることを厳重に禁じたうえ、自分の部屋へ出入りすることを許した。何にもせよ物を教えることは当分さしとめたが、あるとき少年がもはや十五になった時、フョードルは書籍戸棚の辺をうろつき廻って、ガラス戸ごしに本の標題を読んでいる少年の姿を見つけた。フョードルのところにはかなりたくさんな、百冊あまりの書物があったけれど、当人が書物に向っているところを見たものは一人もない。彼はさっそく戸棚の鍵をスメルジャコフに渡して、
「さあ、読め読め、庭をうろつき廻るよりか、図書がかりにでもなったほうがよかろう、坐って読むがいい。まずこれを読んでみい」とフョードルは『ジカニカ近郊夜話』を拭き出してやった。
 少年は読みにかかったが、大いに不満らしい様子で、まるきりにこりともしないのみか、かえって読み終った時には眉をしかめていた。
「どうだ? おかしゅうないか?」とフョードルが訊いた。
 スメルジャコフは押し黙っていた。
「返事せんか、馬鹿。」
「でたらめばかり書いてあるんですもの。」スメルジャコフは苦笑しながら答えた。
「ちょっ、勝手にどこへなと行っちまえ、本当に下司根性だなあ、まあ、待て、これを貸してやろう、スマラーグドフの万国史だ。これはもう本当のことばかり書いてあるから読んでみい。」
 が、スメルジャコフは十ページと読まなかった。さっぱり面白くなかったのである。こうして、書物戸棚はまた閉じられてしまった。間もなくマルファとグリゴーリイは、だんだんスメルジャコフが何かしら馬鹿げて気むずかしくなったことを、主人フョードルに報告した。ほかでもない、スープを食べにかかっても、匙をもって一生懸命にスープの中を掻き廻したり、屈み込んで覗いたり、一匙すくって明りにすかしてみたりするのであった。
油虫でもいるのか?」とグリゴーリイが訊く。
「きっと蠅でしょう」とマルファが口をいれる。
 潔癖な青年は一度も返事をしたことがないけれど、パンであろうと肉であろうと、すべての食物について同じようなことが繰り返された。よくパンの切れをフォークにさして明りのほうへ持って行き、まるで顕微鏡にでもかけるように検査して、長いあいだ決しかねているが、とうとう思いきって口へ入れるというふうであった。『ふん、まるで華族さまのお坊ちゃんだあね』とグリゴーリイはそれを見てこう呟いた。フョードルは彼の新しい性質を聞くと、さっそく料理人に仕立てることにして、モスクワへ修業にやった。
 彼は幾年かのあいだ修業に行っていたが、帰って来た時にはすっかり面変りがしていた。まるで年につり合わないほど恐ろしく老《ふ》け込んで、皺がよって黄色くなったところは、ちょうど去勢僧のようだった。性質はモスクワへ行く前とほとんど変りなかった。やはり人づきが悪く、相手が誰であろうと他人と交わるなどということに、てんから必要を認めないのであった。あとで人の話したところによると、モスクワでも始終だまりこんでいたそうである。モスクワそのものもほとんど彼の興味を引かなかったので、市中のこともほんの僅かばかりしか知っていない、その余《よ》のことには何の注意をもはらわなかったのである。芝居にも一度行ったことがあるけれども、ぶすっとして不満らしい様子で帰って来た。その代り、モスクワからこの町へ帰って来た時は、なかなか凝《こ》った服装《なり》をしていた。きれいなフロックにシャツを着込み、日に二度は必ず自分で念入りに着物にブラッシをかけ、気どった子牛皮の靴を特製のイギリス墨で、鏡のように磨き上げるのが好きであった。
 料理人としての腕は立派なものであった。フョードルは一定の俸給を与えていたが、彼はその俸給を全部、着物やポマードや香水などに使ってしまう。しかし、女性を軽蔑することは、男性に対するのと変りがなさそうで、女に対する時はいかにもしかつめらしく、ほとんど近寄ることができないくらいに振舞った。フョードルはまた少々別な見地から彼を眺めるようになった。ほかでもない、癲癇の発作がだんだん強くなってきて、そういう日には、食物がマルファの手で料理されるので、それがどうもフョードルにはたまらなかったのである。
「どういうわけで、お前の発作はだんだんひどくなるんだろう?」と彼は新しい料理人の顔を横目に見ながら言った。「お前、誰かと結婚したらどうだ、望みなら世話をするぜ。」
 しかし、スメルジャコフはこの言葉を聞いても、ただいまいましさに顔を真っ蒼にするばかりで、一口も返事をしなかった。で、フョードルも手を振って、向うへ行ってしまうのであった。
 しかし、何より重大なのは、彼がこの青年の正直な心を信じきっていることであった。しかも、それは一つの事情のため、永久に固められた信念である。ある時フョードルが酔っ払ったまぎれに、自宅の庭のぬかるみに、受け取ったばかりの虹([#割り注]百ルーブリ紙幣、虹色の模様がある[#割り注終わり])を三枚落したことがある。翌日になって初めて気づき、あわててかくしの中を探しにかかったが、ふと見ると、虹は三枚ともちゃんとテーブルにのっている。どこから出て来たのかと思ったら、スメルジャコフが拾って、もう昨日から持って来ておいたのである。『いや、どうもお前のような男は見たことがないわい。』フョードルはその時こう言って、彼に十ルーブリくれてやった。しかし、断わっておかねばならぬのは、フョードルは単に彼の正直なことを信じていたのみならず、なぜかこの青年が好きなのであった。そのくせ、若い料理人は彼に対してもほかの者と同様に、不気味な横目づかいばかりして、始終むっつりしていた。口をきくなどということは、ごくたまにしかなかった。もしこんなとき誰か彼の顔を見ているうちに、一たいこの若者は何に興味をいだいているのか、また最も多く彼の頭にやどる想念はどんなものか、ということが知りたくなったとしても、彼の様子を見たばかりでは、その疑問を解決することは、しょせん不可能であったろう。ところで、彼はどうかすると、家の中でも庭の上でも、または往来の真ん中でも、ふいと立ちどまって、何やら考え込みながら、十分くらいも立ちすくんでいることがよくあった。もし人相学者が彼の顔をじっと観察したならば、今この男の心中には想念もなければ思想もなく、ただ何か一種の瞑想ともいうべきものがあるばかりだ、とこう言うに相違ない。
 クラムスコイの作品中に『瞑想する人』と題する優れた画がある。それは冬の森の描写で、その森の路には、何のあてもなくさまよい込んだ一人の百姓が、ぼろぼろの上衣に木の皮靴の姿で、ただ一人深い瞑想の中に立っている、彼はじっと突っ立って、何かもの思いに沈んでいるようなふうであるけれども、決して考えているのではなく、ただ何やら『瞑想』しているのである。もしこの男をうしろからとんと突いたら、彼はきっとびくりとして、まるで目がさめたように、その人の顔をぼんやり見まもるだろうが、何が何やら少しもわけはわからないのである。事実、すぐわれに返るに相違ないけれど、何をぼんやり立って考えていたのかと訊かれても、きっと何の覚えもないに違いない。しかし、その代り、自分の瞑想の間に受けた印象は、深く心の底に秘めているのである。こうした印象は当人にとって非常に大切なもので、彼は自分でもそれと意識しないで、いつとはなしに一つずつ積み重ねてゆくが、何のためかは、自分ながらむろんわからないのである。しかし、あるいは長年の間こういう印象を積み重ねた挙句、突然すべてのものを抛《なげう》って、放浪の苦行のために、エルサレムをさして出て行くかもしれないが、またあるいはふいに自分の生れ故郷の村を、焼きはらってしまうかもしれない。ことによったら、両方とも一時に起るかもはかられぬ。とにかく、瞑想の人は民間にかなりたくさんある。スメルジャコフもこうした瞑想者の一人であって、やはり同じように自分でも何のためとも知らずに、こうした印象を貪るように積み重ねていたに相違ない。

[#3字下げ]第七 論争[#「第七 論争」は中見出し]

 ところで、このヴァラームの驢馬がとつぜん口をきいたのである。しかし、その話題は奇妙なものであった。今朝ルキヤーノフの店へ買物に行ったグリゴーリイが、この商人からある一人のロシヤ兵の話を聞いた。ほかでもない、この兵士はどこか遠いアジアの国境辺で敵の擒となったが、猶予なく残酷な死刑に処してしまうという威嚇のもとに、キリスト教を捨ててフイフイ教へ転じるように強制されたにもかかわらず、自分の信仰に裏切ることを肯じないで苦痛を選び、キリストを讃美しながら、従容として生き皮を剥がれて死んでしまった、というのである。この美談は、ちょうどその日着いた新聞にも、掲載されていた。いま食事の間に、この話をグリゴーリイが持ち出したのである。
 フョードルは以前から食後のデザートの間に、よし相手がグリゴーリイであろうとも、愉快な話をして一笑いするのが好きであった。ところが今日は余計に軽い、愉快な、浮き浮きした気分になっていたので、コニヤクを飲みながらこの話を聞き終ると、そういう兵隊はすぐにも聖徒の中へ祭り込まなければならぬ、そして剥がれた皮はどこかのお寺へ送ったがよい。『それこそ大変な参詣人で、さぞお賽銭が集ることだろうよ』と言った。グリゴーリイは、主人がいささかも感激しないで、いつもの癖として、罰あたりなことを言いだしたのを見て顔をしかめた。その時、戸口に立っていたスメルジャコフがふいににやりと笑った。スメルジャコフは以前もかなりたびたび、食事の終り頃にテーブルに侍することを許されていたが、イヴァンがこの町へ来てからというものは、ほとんど食事のたびごとに顔を出すようになった。
「お前はどうしたんだ?」その薄笑いを目ざとく見つけると同時に、これはグリゴーリイに向けられたものだなと悟って、フョードルはこう訊いてみた。
「私が思いますには」とスメルジャコフは、とつぜん思いがけなく大きな声で言いだした。「よしその感心な兵隊のしたことが偉大なものだとしましても、その際この兵隊がキリストのみ名と自分の洗礼を否定したからといって、何も罪なことはなかろうと思います。そうすれば、このさきいろんないい仕事をするために、自分の命を助けることができるし、またそのいい仕事でもって長年の間に、自分の浅はかな行いを償うこともできます。」
「それがどうして罪にならんか? 馬鹿を言え、そんなことを言うと、いきなり地獄へ落されて、羊肉のように焙られるんだぞ!」とフョードルが押えた。
 ちょうどこの時アリョーシャが入って来たのである。フョードルは前に述べたごとく無性に喜んで、「お前の畑だ、お前の畑だ!」とアリョーシャを席に着かせながら、嬉しそうにひひひと笑ったのである。
「羊肉のことにつきましては、決してそんなはずがありません。それに、ああ言ったからって、そのようなことはありゃしません、またあるべきはずがございませんです、公平に申しましてね」とスメルジャコフはものものしい調子でこう注意した。
「公平に申しましてとは何のことだ?」膝でアリョーシャを突っつきながら、フョードルは一そう面白そうに叫んだ。
「畜生だ、それだけのやつだ!」とグリゴーリイはだしぬけにこらえかねてこう言った。彼は忿怒に燃える目で、ひたとスメルジャコフの顔を見据えていた。
「畜生などとおっしゃるのは少々お待ち下さい、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ」とスメルジャコフは、落ちついた控え目な調子で言葉を返した。「それよりか、ご自分でよく考えてごらんなさい。もし私がキリスト教の迫害者の手に落ちて、キリストのみ名を呪い自分の洗礼を否定せよとしいられたら、私はこのことについて、自分の理性で行動する権利を持っているのですから、罪などというものは少しもありゃしません。」
「そのことはもう前に言うたじゃないか。だらだら飾り立てるのはやめて証明しろよ!」とフョードルが叫んだ。
下司!」とグリゴーリイは吐き出すように呟いた。
下司なんておっしゃるのもやはり少々お待ち下さい。そんな汚い口をきかないで、よく考えてごらんなさい。なぜって、私が迫害者に向って、『いいや、私はキリスト教徒じゃありません、私は自分の神様を呪います』というが早いか、さっそく私は神の裁きによって呪われたる破門者《アナテマ》となり、異教徒と全然おなじように、神聖な教会から切り放されてしまいます。ですから、私が口をきるその一瞬間というよりか、むしろ口をきろうと思った瞬間に(このあいだ四分の一秒間もかかりません)、私はもう破門されておるんです、――そうじゃありませんか、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ?」
 彼はいかにも満足げにグリゴーリイに向ってこう言った。しかしその実、ただフョードルの質問に答えているにすぎないのは自分でもよく承知しているくせに、わざとこうした質問をグリゴーリイが発しているようなふりをして見せるのであった。
「イヴァン、」突然フョードルがこう叫んだ。「ちょっと耳を貸してくれ。あれはみなお前のためにやっておるんだぞ。お前に褒めてもらいたいからだ。褒めてやれよ。」
 イヴァンは父の得々たる言葉を、真面目くさった様子で聞いていた。
「待て、スメルジャコフ、ちょっとのま黙っておれ」とまたしてもフョードルが叫んだ。「イヴァン、もう一ペん耳を貸してくれ。」
 イヴァンはまた思いきり真面目くさった様子をして身を屈めた。
「わしはお前もアリョーシャと同じように好きなんだぞ。わしはお前を嫌うとるなぞと思わんでくれ。コニヤクをやろうか?」
「下さい。」『しかし、ご自分でもいい加減つぎ込んでるじゃないか』と思って、イヴァンはじっと父の顔を見つめた。が、同時に異常な好奇の念をいだきながら、スメルジャコフを観察していたのである。
「貴様は今でも『呪われたる破門者《アナテマ》』だあ」とだしぬけにグリゴーリイが破裂したように呶鳴った。「それだのに、どうして貴様はそんな理屈が言えるだか、もし……」
「悪口をつくな、グリゴーリイ、悪口を!」とフョードルが遮った。
「グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、ほんのちょっとの間でいいから待って下さい。まだすっかり言ってしまったわけでないのですから、もっと先まで聞いて下さいよ。ところで、私がすぐ神様から呪われた瞬間に、本当に間一髪をいれないその一瞬間に、私はもう異教徒と同様になって、洗礼も私の体から取り除けられてしまうのですから、したがって私は何の責任もなくなるわけです、――これだけは本当のことでしょう?」
「おいおい、早くけりをつけんか、けりを。」いい気持そうに杯をぐいと呷りながら、フョードルはせき立てるのであった。
「で、もし私がキリスト教徒でないとしたら、フイフイ教のやつらに『貴様はキリスト教徒か、どうだ?』と訊かれた時、嘘を言ったことにはなりません。なぜって、まだ私が迫害者に一言も口をきかぬさきから、ただ言おうと思っただけで、神様からキリスト教徒の資格を奪われるからです。で、こんなふうに資格を奪われたとすれば、私があの世へ行った時、キリストを否定したからという理由で、私をキリスト教徒扱いにして、かれこれ咎め立てする権利がどこにあります? だって、私はただ否定しようと考えただけで、もう否定するまでにちゃんと洗礼を剥ぎ取られてるんですからね。もし私がキリスト教徒でないとすれば、キリストを拒絶することはできません。なぜって、何もないものを拒絶するわけにゆかないじゃありませんか。穢れた韃靼人が天国へ行った時だって、なぜお前はキリスト教徒に生れなかったといって、咎め立てするものはありませんからね、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ。誰だって、一匹の牛から二枚の革が取れないくらいは知っていますから、そんな人間に罰をあてたりなんかしませんよ。宇宙の支配者の神様も、その韃靼人が死んだとき、ほんの申しわけばかりの罰をおあてになるだけですよ(だって、まるきり罰をあてないわけにもゆきませんからね)。たとえ穢れた両親から穢れた韃靼人としてこの世へ生れて来たからって、当人に何の責任もないということは、神様だってお考えになりますよ。また神様も無理に韃靼人を掴まえて、お前はキリスト教徒であったろう、などというわけにもいかないでしょう? そんなことを言ったら、神様が真っ赤な嘘をおつきなすったことになりますからね。一たい宇宙の支配者たる神様が、たとえ一言でも嘘をおつきになることがありますかねえ?」
 グリゴーリイは棒のように立ちすくんだまま、目を皿にして弁者を見つめていた。彼はいま言われたことがよくわからなかったけれど、それでもこの奇怪な言葉の中から何かあるものを掴んだので、まるでふいに額を壁へぶっつけた人よろしくの顔をして、じっとその場に突っ立っていた。フョードルは杯をぐいと飲み干し、甲高い声をたてて笑いだした。
「アリョーシャ、アリョーシャ、まあ、どうだ? おい、驢馬、お前はなかなか理屈やだな! あいつ、大方どこかのジェスイット派のところにいたんだぜ、なあ、イヴァン。おい、悪ぐさいジェスイット、一たいお前はどこでそんなことを習うたんだ? しかし、お前の屁理屈は嘘だ、嘘だ、真っ赤な嘘だよ。こら、グリゴーリイ、泣くな、泣くな、今わしらがあいつの屁理屈を影も形もないように吹っ飛ばしてやるから。おい、理屈やの驢馬君、ひとつ返答してみい。まあ、かりにお前が迫害者に対して公明正大だとしたところで、何というても、自分の心の中では自分の信仰を否定したに相違ない。第一、お前は自分でも、それと同時に破門者《アナテマ》となると言うておるじゃないか。もし破門者《アナテマ》だとすれば、地獄へ行った時に、おお、よく破門者《アナテマ》になったと言うて、お前の頭を撫でてはくれんぞ。このことをお前は何と思う、偉い異教徒君?」
「私が自分で否定したというのは、まったく疑いの余地がありません。が、なんていっても、それは何の罪にもあたりません。よし罪になるとしてもごくごく普通なものですよ。」
「どうしてごくごく普通なものです、だ?」
「馬鹿ぬかせ、こん畜生!」とグリゴーリイが喚いた。
「まあ、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、ご自分でよく考えてごらんなさい。」自分の勝利を自覚しながら、ただ寛大な心から敗れた敵を憐れむといったような調子で、スメルジャコフは落ちつきはらって、しかつめらしく言葉をつづけた。「ねえ、聖書の中にこう言ってあるじゃありませんか。もし人間が、ほんのこれっぱかりでも信仰を持っていたら、山に向って海の中へ入れと言うと、山は最初の命令と同時に少しも躊躇しないで海に入って行くだろうってね。どうです、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、もし私が不信心もので、あなたがいつも私を呶鳴りつけることのできるほど、立派な信仰を持ってらっしゃるとしたら、一つご自分であの山に向って、海へ入れと言ってごらんになりませんか。いや、海とは言いません(ここから海まではだいぶ遠いから)、せめてつい庭の裏を流れている、あの汚い溝川でもいいですよ、どんなにあなたが呶鳴ってみても、何ひとつ動こうとしないで、そっくりもとのままでいまさあ。それはすぐご自分でもおわかりになりますよ。これはつまり、あなたが本当に信仰を持っていないくせに、間がな隙がな他人を悪口なさるってことを証明してるんですよ。これはただあなたばかりじゃありません、今の世の中では立派な偉い方々をはじめとして、一番くずの百姓にいたるまで誰一人として、山を海の中へ突き飛ばせるものはないのです。例外といっては、世界じゅう探しても一人、多くて二人ぐらいのもんでしょうよ。それもどこかエジプトあたりの砂漠の中で、人知れず隠遁していることでしょうから、結局そんな人はみつかりゃしません。もしそうとしたら、もしそのほかの人がみんな不信心者だとしたら、あれほど万人に知れ渡った情け深い心を持っていらっしゃる神様が、その砂漠の中に住んでいる二人の隠者をのけたほかの人を、みんな一人残さず呪いつくして、少しも容赦なさらないでしょうか? こういうわけですから、一たん神様を疑うようなことをしたところで、後悔の涙さえこぼしたら赦していただけるものと、私は信じているのでございますよ。」
「待てよ、」フョードルはすっかり夢中になって、黄色い声で叫んだ。「じゃ、何だな、とにかく、山を動かすことのできる人間が、二人だけはいるものと考えるんだな? イヴァンよく覚えて、書き留めといてくれ。ロシヤ人の面目躍如たりだ!」
「ええ、まったくおっしゃるとおりです、これは宗教上の国民的な一面ですよ。」わが意を得たりというような微笑を浮べながら、イヴァンは同意した。
「同意かね? お前が同意する以上それに相違なしだ! アリョーシカ、そうだろう? まったくロシヤ人の宗教観だろう?」
「いいえ、スメルジャコフの宗教観は、まるっきりロシヤ的じゃありません。」真面目な確固たる調子でアリョーシャはこう言った。
「わしが言うのは宗教観のことじゃない、あの二人の隠者という点なのだ、あの一つの点なのだ。ロシヤ式だろう、まったくロシヤ式だろう。」
「ええ、その点はぜんぜんロシヤ式です」とアリョーシャはほお笑んだ。
「驢馬君、お前の一ことは金貨一つだけの値うちがあるよ、そして、本当に今日お前にくれてやるわ。しかし、そのほかのことは嘘だ、みんな嘘だ、真っ赤な嘘だ。よいか、こら、われわれ一同がこの世で信仰を持たないのは心が浅いからだ。つまり、暇がないからだよ。第一、いろんな用事にかまけてしまう、第二に、神様が時間を十分授けて下さらなかったので、一日に二十四時間やそこらのきまりでは、悔い改めるはさておき、十分に寝る暇もないでなあ。ところが、お前が迫害者の前で神様を否定したのは、信仰のことよりほか考えられないような場合じゃないか。ぜひ自分の信仰を示さなきゃならん場合じゃないか。おいどうだ、一理あるだろう?」
「一理あるにはありますが、まあ、よく考えてごらんなさい、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、一理あればこそ、なおのこと私にとって有利になってくるのです。もし私が正真正銘、間違いなしに信仰を持っているとしたら、自分の信仰のために苦しみを受けないで穢わしいフイフイ教へ乗りかえるのは、もちろん、罪深いことに相違ありますまい。しかし、それにしても、苦しみなどというところまでゆかないですむはずですよ。なぜって、そのとき目の前の山に向って、『早く動いて来て敵を潰してくれ』と言いさえすれば、山は即時に動きだして、油虫かなんぞのように、敵を押し潰してくれるはずじゃありませんか。で、私はけろりとして、神の光栄をたたえながら引き上げて行きますよ。ところが、もしその時この方法を応用して、このフイフイ教徒どもを押し潰してくれと、わざと大きな声をして山に呶鳴ってみても、山はじっとしていて敵を潰してくれないとしたら、私だってそんな恐ろしい命がけの場合に、疑いを起さずにいられるものですか? それでなくてさえ天国ってものは、完全に得られるものじゃないということを承知しているのに(だって、山が動いて来なかったところをみると、天国でも私の信仰を本当にしてくれないでしょうから、あの世でも大したご褒美が待っていないことがわかりますからね)、何のとくにもならないことに、自分の生き皮を剥がれる必要がどこにありますか? 実際、もう半分背中の皮を剥がれた時だって、私が呶鳴ったり喚いたりしてみても、山はやっぱり動きゃしませんからね。こんな時には疑いが起るくらいでなく、恐ろしさのあまりに分別さえなくなるかもしれません。いや、分別をめぐらすなんてことはまったく不可能です。してみると、この世でもあの世でも、かくべつ自分のとくになることもなければ大したご褒美ももらえないとわかったら、せめて自分の皮でも大切にしまっておこうと思うのが、一たいどうして悪いのでしょう? ですから、私は神様のお慈悲をあてにして、綺麗さっぱり赦していただけるものと思っていますので……」

[#3字下げ]第八 コニヤクを傾けつつ[#「第八 コニヤクを傾けつつ」は中見出し]

 争論は終った。しかし、不思議なことに、あれほど浮き立っていたフョードルが、しまい頃には、急に顔をしかめだした。顔をしかめてぐいとコニヤクを呷ったが、これはもうまるで余分な杯であった。
「おい、もう貴様らはいい加減にして出て行かんか」と彼は二人の下男に呶鳴りつけた。「もう出て行け、スメルジャコフ。約束の金貨はあす持たしてやるから、お前はもう帰ってよいわ。グリゴーリイ、泣かずにマルファのところへ行け、あれが慰めていいあんばいに寝かしてくれらあ。」
「悪党めら、食事のあとで、静かに坐っておることもさしやせん。」命に従って二人の下男が立ち去った後、彼はいきなりいまいましげに打ち切るように言った。「この頃スメルジャコフは食事のたびに出しゃばりだしたが、よっぽどお前が珍しいと見えるよ。一たいお前はどうしてあれを手なずけたんだ?」と彼はイヴァンに向って言いたした。
「決して何も」とこちらは答えた。「急に僕を尊敬する気になったんですよ。なに、あれはただの下司ですよ。しかし、時が来たら、一流の人間になるでしょうよ。」
「一流の?」
「まだほかにもっと立派な人も出てくるでしょうが、あんなのも出て来ますね。まず初めにあんなのが出て、それからもっとましなのが現われるんです。」
「で、その『時』はいつ来るんだな?」
「狼火《のろし》が上ったら……しかし、ことによったら、燃えきらないかもしれませんよ。今のところ、民衆はあんな下司の言うことをあまり好きませんね。」
「なるほどな。ところでお前、あのヴァラームの驢馬はいつも考えてばかりいるが、本当にどんなところまで考えつくか知れやせんぜ。」
「思想をため込んでるんでしょうよ」とイヴァンは薄笑いをもらした。
「ところでな、わしにはちゃんとわかっておるのだ。あいつは、ほかの者もそうだけれど、わしという人間に我慢ができんのだ。お前だって同じことだぞ、お前は『急に僕を尊敬する気になった』などと言うておるけれどな。アリョーシカはなおのことだ、あいつはアリョーシカを馬鹿にしておるよ。しかし、あいつは盗みをせん、そこが感心だ。それにいつも黙り込んで告げ口をせんし、内輪のあくぞもくぞを外へ出て言わんし、魚饅頭《フィッシュ・パイ》も上手に焼く。しかし、あんなやつなぞ、本当にどうだってかまやせん。あんなやつの話をする値うちはないよ。」
「むろん、値うちはありません。」
「ところで、あいつがひとり腹の中で何を考え込んでおるかというと……つまり、ロシヤの百姓は一般に言うて、うんとぶん殴ってやらにゃならんのだ。わしはいつもそう言っておるんだよ。百姓なんてやつは詐欺師だから、可哀そうだなどと思ってやるにはあたらん。今でもときどき、ぶん殴るものがおるから、まだしも結構なんだ。ロシヤの土地は、白樺のおかげで保《も》ってるんだから、もし林を伐り倒したら、ロシヤの土地もくずれてしまうのだ。わしは利口な人の味方をするなあ。われわれはあんまり利口すぎて、百姓を殴ることをやめたけれど、百姓らは相変らず、自分で自分をぶっておる。それでよいのさ。人を呪わば穴二つ……いや、何と言うたらよいかな……つまり、その、穴二つだ。実際、ロシヤは豚小屋だよ。お前は知るまいが、わしはロシヤが憎うてたまらんのだ……いや、ロシヤじゃない、その悪行を憎むのだ、しかし、あるいは、ロシヤそのものかもしれんな。Tout cela c'est de la cochonnerie.([#割り注]それはみんな腐敗から出るのだ[#割り注終わり])一たいわしの好きなのは何か知っとるか? わしは頓知が好きなのだ。」
「また一杯、よけいに飲んでしまいましたね。もうたくさんですよ。」
「まあ待て、わしはもう一杯と、それからまたもう一杯飲んで、それで切り上げるんだ。どうもいかん、お前が途中で口を出すもんだから。わしは一度よそへ行く途中モークロエ村を通ったとき、一人の老爺にものを訊ねたことがある。すると、老爺の答えるには、「わしらあ旦那、言いつけで娘《あま》っ子をひっぱたくのが何よりもいっち面白えだ。そのひっぱたく役目は、いつでも若えもんにやらせますだ。ところが、今日ひっぱたいた娘《あま》っ子を、もうその翌《あけ》の日、若えもんが嫁にもらうと思いなさろ。せえじゃけに、あまっ子らもそれをあたりめえのように思うとりますだあ』ときた。何という侯爵《マルキー》ド・サード([#割り注]一七四〇―一八一四、仏の淫蕩文学者、精神病院にて死す、サディズムの起源となる[#割り注終わり])だろう。もし何ならうがった皮肉と言うてもよいくらいだ。一つみんなで出かけて見物したらどうだな、うん? アリョーシャ、お前赧い顔をするのか、いい子だ、何も恥しがることはないよ。さっき僧院長の食事の席に坐って、坊さんたちにモークロエ村の娘の話をして聞かせなかったのが残念だよ。アリョーシカ、わしはさっきお前んとこの僧院長にうんと悪態を言うたが、まあ腹を立てんでくれ。わしはどうもついむらむらっとなっていかんよ。もし神様があるものなら、存在するものなら、その時はもちろんわしが悪いのだからして、何でも責任を引き受けるがな、もし神様がまるっきりないとしたら、あんな連中をまだまだあれくらいのことですましておけるものじゃない、お前んとこの坊主どもをさ。その時は、あいつらの首を刎ねるくらいじゃたりゃせんよ。なぜというて、あいつらは進歩を妨げるんだからなあ。イヴァン、お前は信じてくれるかい、この考えがわしの心を悩ましとるんだ。駄目駄目、お前は信じてくれん。その目つきでちゃんとわかるわ、お前は世間のやつらの言うことを信じて、わしをただの道化だと思うとるんだ。アリョーシカ、お前もわしをただの道化だと思うかい?」
「いいえ、ただの道化だとは思いません。」
「本当だろう、お前がしんからそう思うとるということは、わしも信じるぞ。誠実な目つきをして、誠実なものの言い方をしとる。ところが、イヴァンは違う。イヴァンは高慢だ……しかしとにかく、お前の寺はすっかり片をつけてしまいたいもんだなあ。本当に、ロシヤじゅうの神秘主義の巣窟を一ペんに引っ掴んで、世間の馬鹿者どもの目をさますために、影もないように吹っ飛ばすとよいのだ。そうしたら、金や銀がどのくらい造幣局へ入るかしれやせん!」
「何のために吹っ飛ばすんです?」とイヴァンが言った。
「それは少しも早く真理が輝きだすためだ、そうなんだよ。」
「もしその真理が輝きだすとしたら、第一にあなたをまる裸にした上で……それから吹っ飛ばすでしょうよ。」
「おやおや! いや、あるいはお前の言うとおりかもしれんぞ。いや、わしも馬鹿だった」とフョードルはちょいと額を叩いて急に身を反らした。「そういうことなら、アリョーシカ、お前の寺もそのままにしておこう。まあ、われわれ利口な人間は暖かい部屋の中に坐って、コニヤクでもきこしめすとするさ。なあ、イヴァン、ことによったら神様が、ぜひこうあるように造って下さったのかもしれんて。ところで、お前、神はあるかないか言うてみい。よいか、しっかり言うんだぞ、真面目に言うんだぞ! 何をまた笑うておるのだ?」
「僕が笑ったのは、さっきあなたが、スメルジャコフの宗教観、例の山を動かすことのできる二人の隠者が、どこかにいるってやつですな、あれについて気のきいた批評をされたからです。」
「では、今のがあれに似ておったかな?」
「非常に。」
「してみると、わしもロシヤの人間で、どこかロシヤ的な一面があると見えるな。しかし、お前のような哲学者にもこんなふうの一面があるのを、掴まえてみせることができそうだぞ。何なら押えてみしょうか。わしが受け合っておく、明日にでもさっそく押えてみせるよ。とにかく、神があるかないか言うてみい。ただし真面目に! わしは今まじめになりたくなったのだ。」
「ありません、神はありません。」
「アリョーシカ、神はあるか?」
「神はあります。」
「イヴァン、不死はあるか、いや、まあ、どんなのでもよい、ほんの少しばかりでも、これから先ほどでもよい。」
「不死もありません。」
「どんなのも?」
「ええ、どんなのも。」
「つまり、まったくの無か、それとも何かあるのか? ことによったら、何かあるかも知れんぞ。何というても、まるっきり何もないはずはないからなあ!」
「まったく無です。」
「アリョーシカ、不死はあるか?」
「あります。」
「神も不死も?」
「神も不死もあります。[#「「神も不死もあります。」はママ]
「ふむ! どうもイヴァンの方が本当らしいわ。ああ、考えてみるばかりでも恐ろしい、人間がどれだけの信仰をいだいたか、どれだけの精力をこんな空想に費したか、そうして、これが何千年の間くり返されてきたか、考えても恐ろしいくらいだ! イヴァン、誰が一たい人間をこんなに愚弄するんだろう? もう一ペん最後にはっきり言うてくれ、神はあるのかないのか? これが最後だ!」
「いくら最後でも、ないものはないのです。」
「じゃ、誰が人間を愚弄しておるのだ、イヴァン?」
「きっと悪魔でしょうよ」とイヴァンはにやりと笑った。
「そんなら悪魔はおるのか?」
「いえ、悪魔もいませんよ。」
「そりゃ残念だ。ちょっくそ、じゃ、わしは神を考え出したやつを、どうしたらよいというのだ? 白楊《はこやなぎ》の木でしばり首にしてやっても飽きたらん。」
「もし神を考え出さなかったら、文明というものもてんでないでしょう。」
「ない? それは神がなかったら、かな?」
「ええ、それにコニヤクもないでしょう。が、それにしても、そろそろコニヤクを取り上げなくちゃなりませんね。」
「ま、ま、待ってくれ、もう一杯。わしはアリョーシャを侮辱したが、お前怒りゃせんだろうな、アレクセイ? わしの可愛いアレクセイチック!」
「いいえ、怒ってやしませんよ。僕にはお父さんの腹の中がわかりますもの。お父さんは頭より心のほうがいいのです。」
「わしの頭より心のほうがよい? ああ、しかもそう言うてくれる人間がこの子だもんなあ! イヴァン、お前アリョーシカが好きかな?」
「好きです。」
「好いてやれ(フョードルは、もうひどく酔いが廻ってきたので)。よいか、アリョーシャ、わしはお前の長老に無作法なことをした。が、わしは気が立っておったのだ。ところで、あの長老には頓知があるなあ、お前どう思う、イヴァン?」
「あるかもしれませんね。」
「あるよ、あるよ、〔Il y a du Piron la'-dedans.〕([#割り注]あいつの中にはピロンの面影があるよ[#割り注終わり])あれはジェスイット派だ、ただしロシヤ式のものだがな。高尚な人間というものは誰でもそうだが、あの男も聖人《しょうにん》さまの真似なんかして、心にもない芝居を打たにゃならんので、人知れずばかばかしくてたまらんのだよ。」
「でも、長老は神を信じていられます。」
「なんの、爪の垢ほども信じちゃおらん。一たいお前は知らなんだのかい。あの男はみんなにそう言うておるじゃないか。いや、みなというても、あの男のところへやって来る利口な人間にだけだよ。県知事のシュルツにはもう剥き出しに、『credo([#割り注]信じてはおる[#割り注終わり])が、何を信じておるか、わからん』とやっつけたものだ。」
「まさか?」
「まったくそのとおりだよ。しかし、わしはあの男を尊敬する。あの男には何となくメフィストフェレス式なところ……というよりむしろ『現代の英雄』([#割り注]レールモントフの散文小説[#割り注終わり])に出て来る……アルベーニン([#割り注]同じ作者の戯曲『仮面舞踏会』の主人公[#割り注終わり])だったかな……まあそんなふうのところがあるよ。つまりその、あいつは助平爺なんだ。あいつの助平なことというたら、もしわしの娘か女房があいつのところへ懺悔に行ったら、心配でたまらんだろうと思われるくらいひどいのだ。全体あいつがどんな話を始めると思うかい……昨年あの男がわしらをリキュールつきの茶話会へ呼んだことがある(リキュールは奥さんたちが持って行ってやるんだ)。そのとき思いがけない昔話をしだしたので、わしらはすっかり腹の皮をよってしまった……とりわけ面白かったのは、あの男が一人の衰弱した女を癒した話だ。『もし足が痛うなかったら、わたしは一つ、お前さんに踊りをやって見せるんだがなあ』と言うたのさ。え、どうだね? 『わしも昔はずいぶんいんちきをしてきたものさ』などとすましたものだよ。あいつはまたジェミードフという商人から、六万ルーブリ捲き上げたことがある。」
「え、盗んだのですか?」
「その商人があいつを親切な人と見込んで、『どうかこれを預って下さいまし、明日うちで家宅捜索がありますから』と言うので、あいつが預ることになった。ところで、あとになって、『あれはお前さん、お寺へ寄進しなさったのじゃないか』とやったものだ。わしがあいつのことを悪党と言うてやったら、『わしは悪党じゃない、複雑な心を持っておるのだ』ときた……いや、待てよ、これはあの男の話じゃないぞ……ああ、別な男のことだ、わしはつい思い違いをして、気づかずにおったんだ。さあ、もう一杯もろうて、それでやめにしよう、イヴァン、罎を片づけてくれ。ところで、わしがあんなでたらめを言うたのに、どうしてお前はとめてくれなんだ……そしてそれは嘘だと、なぜ言うてくれなんだ? イヴァン?」
「ご自分でおやめになるだろう、と思ったもんですから。」
「嘘をつけ、お前はわしが憎いからとめなんだのだ。ただ憎いためなんだ。お前はわしを馬鹿にしておる。お前はわしのところへやって来て、わしの家でわしを馬鹿にするのだ。」
「だから、僕はもう発ちますよ。あなたはコニヤクに呑まれてるんです。」
「わしはお前にチェルマーシニャヘ……一日か二日でよいから行ってくれと、一生懸命に頼んでるのに、お前は行ってくれんじゃないか。」
「そんなにおっしゃるなら、明日にでも行きましょうよ。」
「なんの行くもんか。お前はここにおって、わしの見張りがしたいのだ、そうだとも、だから行こうとせんのだ、意地わるめ!」
 老人はなかなかおとなしくしていなかった。彼はもうすっかり酔っ払ってしまって、これまでおとなしかった酒飲みでさえ、急にふてくされて威張りださなければ承知しなくなる、そういう程度にまで達したのである。
「何でお前はわしを睨むのだ? お前の目は何という目だ? お前の目はわしを睨みながら、『みっともない酔っ払い面《づら》だなあ』と言うておる。お前の目はうさんくさい目だ、お前の目は人を馬鹿にした目だ。お前は胸に一物あってやって来たんだろう。そら、アリョーシャの目つきなぞははればれしておるじゃないか。アリョーシカはわしを馬鹿にしておらん。おい、アリョーシカ、イヴァンを好かんでもよいぞ。」
「そんなに兄さんのことを怒らないで下さい! 兄さんを侮辱するのはやめて下さい」とアリョーシャは力を籠めて言った。
「いや、なに、わしもただちょっと……ああ、頭が痛い。イヴァン、罎をしもうてくれ、もうこれで三度も言うておるんだぜ。」彼はちょっと考え込んだが、急に引き伸ばしたようなずるそうな笑みをもらしながら、「イヴァン、この老いぼれたやくざ者に腹を立てんでくれ。わしはお前に嫌われとるのはよう知っている。けれど、まあ腹を立てんでくれ。まったくわしは人に好かれる柄じゃないのだからなあ。しかし、どうかチェルマーシニャヘ行ってくれ。わしもあとから、お土産を持って行くわ。そして、あっちでよい娘っ子を見せてやるよ、もう前から目をつけておいたんだ。今でもまだ跣で飛び廻っておるだろう。跣というたからって、びっくりすることはない、軽蔑することはない――実に素敵な玉だよ。」
 彼は自分の手をちゅうっと吸った。
「わしにとってはな」と彼は自分の好きな話に移ると同時に、まるで一時に酔いがさめてしまったように、恐ろしく元気づいてきた。「わしはな……こんなことを言うても、お前らのような仔豚同然な青二才にはわかるまいけれど、わしはな……一生涯の間、みっともない女には一度も出くわさなかったよ。これがわしの原則なんだ! 一たいお前らにこれがわかるかな? なんの、お前らにわかってたまるものか! お前らの体の中には血の代りに乳が流れておるのだ、まだ殼がすっかり落ちきらんのだ! わしの規則によるとな、どんな女からでも、ほかの女には決してないような、すこぶる、その、面白いところが見つけ出せるのだ、――しかし、自分で見つけ出す目がなけりゃならん、そこが肝腎なのさ! 実際それには腕がいるのだ! わしにとって不器量《モーウェートン》な女というものは存在せんのだ。女だということが、すでに興味の一半をなしておるのさ。いや、これはお前らにわかるはずがないて! オールドミス、――こんな連中の中からでも、『どうして世間の馬鹿者どもは、これに気がつかずに、むざむざ年をよらしてしもうたのか?」[#「『どうして世間の馬鹿者どもは、これに気がつかずに、むざむざ年をよらしてしもうたのか?」」はママ]とびっくりするようなところを探し出すことが、ときどきみるよ。跣女や不器量なやつは、まず第一番にびっくりさせにゃならんよ、――これがこういう手合いに取りかかる秘訣だ。お前は知らんだろう? こういう手合いは、『まあ、わたしのような身分の卑しい女を、こんな旦那さまが見そめて下さった』と思うて、はっとして嬉しいやら恥しいやら、というような気持にしてしまわにゃいかん。いつでも召使に主人があるように、いつでもこんな下司女にはちゃんと旦那さまがついておる。実にうまくできとるじゃないか。人生の幸福に必要なのはまったくこれなんだ! ああ、そうだ! おい、アリョーシャ、わしは亡くなったお前の母親をいつもびっくりさせてやったものだ。もっとも、だいぶ工合が違うておったがな。ふだんは決して優しい言葉をかけんようにしながら、ちょうど潮時を見はかろうて、だしぬけに、ちやほやと愛嬌を振りまくのだ。膝を突いて這い廻ったり、あれの足を接吻したりして、しまいにはいつでもいつでも(ああ、わしはまるでつい今しがたあったことのように覚えておる)、いつも笑わしてしまうのだ。その笑い声が一種特別でな、細くて神経的で鈴のように透き通っておった。あれはそんな笑い声しか出さなんだよ。しかし、そういう時いつも病気が頭を持ちあげて、翌日はもうすっかり『|憑かれた女《クリクーシカ》』になって喚きだす。だから、この細い笑い声も、決して嬉しいというしるしではないのだ。いや、人を一杯くわすのだけれど、しかし、嬉しいには相違ないからなあ。どんなものの中にでも特色を見つけるというのは、つまりこういうことなのさ! ある時ベリャーフスキイが、――その時分そういう金持の好男子がおったのさ、――これがお前の母親の尻を追っかけ廻して、しきりにわしの家へ出入りしておったが、ある時どうかした拍子でわしの頬げたを、しかもあれの目の前で、こっぴどくひん曲げたと思え。すると、ふだんまるで牝羊のような女が、この頬げた一件のために、わしをぶん殴るのじゃないかと思われるほど、恐ろしい権幕でくってかかってきた。『あなたは今ぶたれましたね、ぶたれましたね、あんな男のために頬打ちの恥辱なんか受けて! あなたはわたしをあの男に売ろうとしてらっしゃるんです……あの男、本当によくもわたしの目の前で、あなたをぶてたものだ! もうもう決してわたしのそばへ来て下さいますな! さあ、すぐ走って行って、あの男に決闘を申し込んで下さい。』そこでわしは乱れた心を鎮めるためにお寺へ連れて行って、方丈さまに有難いお経を上げてもろうたよ。しかし、アリョーシャ、わしは誓うてお前の『|憑かれた女《クリクーシカ》』を侮辱したことはないよ! したが一度、たった一度ある。それはまだ結婚した初めての年だったが、その時分恐ろしくお祈りに凝り固まって、聖母マリヤの祭日なぞはことにやかましゅう言うてな、わしまで自分のそばから書斎へ追い返してしまうじゃないか。で、わしは一つあれの迷信をぶちこわしてやろうと思うて、『見い、見い、ここにお前の聖像がある、よいか、わしが今こうしてはずすぞ。な、お前はこいつをあらたかなものだというて有難がっとるが、わしはそらこのとおり、お前の目の前で唾を吐きかけるが、決して何の罰もあたりゃせんから!』ところが、あれがわしのほうを見た時、や、大変、今にもわしを殺すのじゃないかと思うたよ。しかし、あれはただ飛びあがって手を叩いたばかりで、ふいに両手で顔を隠したと思うと、ぶるぶるっと身ぶるいして床の上へぶっ倒れたが……そのまま気絶してしまった……アリョーシャ、アリョーシャ! どうしたのだ、どうしたのだ?」
 老人はびっくりして跳りあがった。アリョーシャは彼が母親の話を始めた時から、次第次第に顔色を変え始めたのである。顔はくれないを潮し、目は輝き、唇はぴくぴく顫えだした……酔っ払った老人は何にも気がつかないで、しきりに口から泡を飛ばしていたが、突然アリョーシャの体にはなはだ奇怪なことが生じた。ほかでもない、たった今フョードルが話した『|憑かれた女《クリクーシカ》』と同じことが、思いがけなく始まったのである。アリョーシャはテーブルの前から飛びあがって、今の話の母親と寸分たがわず手を拍つと、そのまま両手で顔を蔽うて、さながら足でも払われたように、椅子の上に倒れかかった。そうして声に出ぬえぐるような涙が、思いがけなくせぐり上げるままに、突然ヒステリイのように全身をわなわな顫わせはじめるのであった。こうした恐ろしい母親との類似は、ことのほか老人を驚かしたのである。
「イヴァン、イヴァン! 早う水を持って来てくれ、まるであれのようだ、寸分たがわずあれと同じだ。あの時のこの子の母親と同じだ! お前、口から水を吹きかけてやれ、わしもあれにそうしてやったんだ。つまり、この子は自分の母親のために、自分の母親のために……」と彼はイヴァンに向って、しどろもどろな調子でこう言った。
「しかし、僕のお母さんは、つまりアリョーシャのお母さんだと思うんですが、あなたはどうお考えです?」突然イヴァンは恐ろしい軽侮の念をこらえかねたように、思わず口をすべらした。
 老人はその目の光にびくっとした。しかし、その時、ほんの一瞬間ではあったけれども、きわめて奇怪な錯誤が生じたのである。その際老人の頭から、アリョーシャの母はすなわちイヴァンの母である、という想念が脱け出してしまったらしい。
「お前の母親がどうだと?」と彼は何が何やらわからずに呟いた。「何でお前はそんなことを言うのだ? どんな母親のことを言うのだな……一たいあれが……やっ、こん畜生! そうだとも、あれはお前の母親さな! ちぇっ、畜生! いや、ちょっと頭がぼうとしたもんだから……こんなことは今までないことだよ、こらえてくれ。わしはちょっとその……へへへ!」
 彼はふいと口をつぐんだ。なかば意味のない、引き伸ばしたような、生酔いらしい薄笑いがその顔の相好をくずした。が、突然この瞬間、玄関で恐ろしい物音がとどろき渡って、獰猛な叫び声が聞えたと思うと、戸がさっと開いて、広間の中ヘドミートリイが飛び込んだのである。老人は慴えあがって、イヴァンのそばへ駆け寄った。
「殺される、殺される! わしを見殺しにしてくれるな、見殺しに!」イヴァンのフロックの裾にしがみつきながら、彼はこう叫ぶのであった。

[#3字下げ]第九 淫蕩なる人々[#「第九 淫蕩なる人々」は中見出し]

 ドミートリイのすぐ後からグリゴーリイも、スメルジャコフとともに広間へ駆け込んだ。その前、二人は玄関でも彼を通すまいとして争った(それはもう三四日前から授けられている、フョードルの内命によったのである)。ドミートリイが部屋の中へ飛び込んで、ちょっとのま立ちどまったのにつけこんで、グリゴーリイはテーブルを迂回して、奥の方へ通ずる観音開きになった扉をはたと閉めた。そして、最後の血の一滴までこの入口を防いで見せるぞといった身構えで、両足を踏みひろげながら、閉めきった戸の前に立ちふさがった。これを見たドミートリイは叫ぶというよりも、むしろ妙に甲走った声をたてて、グリゴーリイに跳びかかった。
「じゃ、あれはそこにいるんだ! あれをそこへ隠してるんだ! どけ、こん畜生!」
 と、彼はグリゴーリイを引き退けようとしたが、こちらは彼を突き飛ばした。忿怒のあまりわれを忘れた彼は、高く手をふり上げて、力まかせに老僕を殴りつけた。と、老僕は足をすくわれたようにどっと倒れた。彼はそれを飛び越して戸の中へ駆け込んだ。スメルジャコフは広間の向うの隅に立っていたが、真っ蒼になって慄えながら、一生懸命にフョードルの方へ摺り寄っていた。
「あれはここにいるんだ!」とドミートリイは叫んだ。「この家の方へ曲ったのを、おれは自分でちゃんと見た、ただ追っつくことができなかっただけなんだ。あれはどこにいる? あれはどこにいる?」
 この『あれはここにいる!』という叫びは、フョードルに非常な印象を与えた。あれほどの恐怖もどこへやらけし飛んでしまった。
「捕まえろ、あいつを捕まえろ!」と呶鳴って、彼はドミートリイの後から駆け出した。
 老僕はその間に床から起きあがったが、まだ人心地がつかないふうであった。イヴァンとアリョーシャは父のあとを追ってる音がした。それは大理石の台にのったガラスの大花瓶(大して高価なものではない)であった。ドミートリイがそばを駆け抜ける時、ちょっと触ったのである。
「おーい!」とフョードルは金切り声を立てた。「誰か来てくれい!」
 イヴァンとアリョーシャは、やっと老人に追いついて、無理やりに広間へ引き戻した。
「何だって兄貴の後を追っかけるんです! 本当に殺されるじゃありませんか!」と、イヴァンは腹立たしげに父を呶鳴りつけた。
「ヴァーネチカ・リョーシェチカ、あれはここにおるぞ。グルーシェンカはここにおるぞ。あいつが自分で見たと言うた。」
 彼は息がつまってものが言えなかった。今日グルーシェンカが来ようとは思っていなかったので、あれがここにいるという意外な報知は、一時に彼を気ちがいのようにしてしまったのである。彼は腑抜けになったようにぶるぶる慄えていた。
「だって、あれが来なかったのは、ご自分でも見て知ってらっしゃるじゃありませんか!」とイヴァンが叫んだ。
「しかし、こっちの口から入ったかもしれん。」
「こっちの口は閉っていますよ、現にあなたが鍵を持ってらっしゃるくせに……」
 ドミートリイは突然、ふたたび広間に現われた。もちろん、彼は裏のほうの入口が閉っているのを見いだした。そして実際、鍵はフョードルのかくしに入っているのであった。部屋部屋の窓もやはりすっかり閉め切ってある。つまり、どこからもグルーシェンカが入って来るはずもなければ、どこからも逃げ出すところはなかった。
「あいつを捕まえろ!」ふたたびドミートリイの姿を見るが早いか、フョードルは金切り声を立て始めた。「あいつはわしの寝室で金を盗んだ!」
 と言うなり、イヴァンの手をもぎ放して、彼はまたしてもドミートリイに飛びかかった。こちらは両手を振り上げると、いきなり老人の鬢に残っているまばらな毛をひっ掴んで、轟然たる物音とともに床《ゆか》へ引き倒した。そして、倒れている父親の顔をなおも二つ三つ、靴の踵ですばやく蹴飛ばしたのである。老人は帛《きぬ》を裂くような声で悲鳴を上げた。イヴァンは兄ほど腕力はないけれど、両手で彼を抱え込んで無理やりに父親からもぎ放した。アリョーシャもおぼつかない力を絞って、前から兄に抱きつきながら、同じように加勢をするのであった。
「気がちがったんですか、殺してしまうじゃありませんか!」とイヴァンは呶鳴った。
「それがこんなやつには相当してらあ!」せいせい息を切らしながらドミートリイは叫んだ。「もし死ななかったら、また殺しに来てやる。のがれっこないんだ。」
「兄さん! 今すぐここを出てって下さい!」とアリョーシャは威をおびた声で叫んだ。
「アリョーシャ! お前どうか教えてくれ、お前一人だけを信用するから。今あの女がここへ来たか来なかったか? 今あの女が横町から出て編垣のそばを通り抜けて、この方角へすべり込んだのを、おれが自分でちゃんと見たんだ。おれが声をかけたら、逃げ出しちゃったんだ……」