『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟上』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P048-P095

今はあの人のことなぞちっとも思いはいたしません。もう家を出て三月になりますが、わたくしはすっかり忘れてしまいました。何もかも忘れてしもうて、思い出すのもいやでござります。それに、今あの人と一緒になったところで何としましょう。わたくしはもうあの人と縁を切ってしまいました。誰もかれもすっかり縁を切ってしまいました。自分の家や道具なんぞ見とうござりませぬ、何にも見とうござりませぬ!」
「なあ、おかみさん」と長老は言いだした。「ある昔のえらい聖人《しょうにん》さまが、お前と同じように寺へ来て泣いておる母親に目をおつけなされた。それはやっぱり神様のお召しになった一人子のことを思うて泣いていたのじゃ。聖人《しょうにん》さまの言わるるには、『一たいお前は神様の前へ出た幼い子供が、わがまま者じゃということを知らぬのか? 幼い子供ほど神様の王国《みくに》でわがままなのはないくらいじゃ。子供らは神様に向いて、あなたはわたしたちに命を恵んで下されたけれど、ちらと世の中を覗いたばかりで、もう取り上げておしまいなされました、などと駄々をこねて、すぐに天使の位を授けて下されとねだるのじゃ。それゆえ、お前も泣かずに悦ぶがよい。お前の子供はいま神様のおそばで、天使の中に入っているのじゃぞ』と、こう昔の聖人さまが泣いておる母親に諭された。その方はえらい聖人じゃによって、間違うたことなぞ言われるはずがない。お前の子供も今きっと神様のご座所の前に立って、悦んでうかれながらお前のことを神様に祈っておるじゃろう。よいかな、それじゃによって、お前も泣かずに悦ばねばならんのじゃ。」
 女は片手に頬をもたせながら、伏目になって聞いていたが、やがて深い溜息をついた。
「それと同じことを言うて、ニキートカもわたくしを慰めてくれました。お前さまの申されたとそっくりそのままでござります。『お前は馬鹿なやつじゃ、何を泣くことがあるか、うちの子も今きっと神様のところで、天使たちと一緒に歌を歌うておるに相違ない』とつれあいは申しまするが、そのくせ、自分でも泣いておるのでござります。見るとやっぱりわたくしと同じように、泣いておるのでござります。わたくしはそう申しました、『ニキートカ、それはわしも知っている、あの子は神様のところでのうて、ほかにおるはずがない。けれど今ここに、わしらのそばに一緒におらん、前のようにここに坐っておらんではないか!」とそう言うてやりました。わたくしはほんの一遍きりでも、あれが見とうござります。ほんの一遍あれが見たいのでござります。そばへ寄って声をかけないでもかまいませぬ。以前のように、あれがおもてで遊び疲れて帰って来て、あの可愛い声で、『母ちゃん、どこ?』と呼ぶところを、どこか隅のほうに隠れておって、せめてちらりとでも見たり聞いたりしとうござります。あの小さな足で部屋を歩くのが聞きとうござります。あの小さな足でことことと歩くのが、たった一遍……以前、ようわたくしのところへ駆けて来て、おらんだり笑うたりしましたが、わたくしはたった一度あの子の足音が聞きたい、どうしても聞きたいのでござります! けれども方丈さま、もうあれはおりませぬ、あれの声を聞く時はもうござりませぬ! これ、ここにあれの帯がござりますが、あれはもうおりませぬ。もうあれを見ることはできませぬ、あれの声を聞くことは……」
 女はふところから緑飾りをした小さなわが子の帯を取り出したが、それを一目見るやいなや、両手で蔽うて、身を顫わせながら慟哭し始めた。ふいに滝のようにほとばしり出る涙は、指の間から流れるのであった。
「ああそれは」と長老が言った。「それは昔の『ラケルわが子らを思い嘆きて慰むことを得ず、何となれば子らは有らざればなり』とあるのと同じことじゃ。これがお前たち母親のためにおかれた地上の隔てなのじゃ。ああ、慰められぬがよい、慰められることはいらぬ、慰められずに泣くがよい。ただな、泣くたびごとに怠りなく、お前の子供は神様のお使わしめの一人となって、天国からお前を見おろしながら、お前の涙を見て悦んで、それをば神様に指さしておるということを、忘れぬように思い出すのじゃぞ。お前の母親としての大きな嘆きはまだまだつづくが、しまいにはそれが静かな悦びとなって、その苦い涙も静かな感動の涙、罪障を払い心を浄める涙となるであろう。お前の子供に回向をしてやろうが、名前は何というのじゃな?」
「アレクセイでござります、方丈さま。」
「可愛い名前じゃ。神の使いアレクセイ([#割り注]三五〇―四一一年、ローマの人、結婚の日父母の家を出て隠遁生活をし、十七年の後、他人の様を粧って生家に帰り善行を積んだ人[#割り注終わり])にあやかったのじゃな?」
「神の使いでござります、方丈さま、神の使いでござります、神の使いアレクセイでござります!」
「何という聖《とうと》い子じゃ! 回向をしてやる、回向をしてやる! それからお前の悲しみも祈祷の中で告げてやろうし、つれあいの息災も祈ってやろう。しかしな、かみさん、お前つれあいを捨てておくのは罪なことじゃ、これから帰って面倒を見てやりなさい。お前がてて親を捨てたのを子供が天国から見たならば、二人のことをつらがって泣くじゃろう。どうしてお前は子供の仕合せに傷をつけるのじゃ? なぜというて、子供は生きておる、おお、生きておるとも、魂は永久に生きるものじゃ。家にこそおらね、見え隠れにお前がた夫婦のそばについておるのじゃ。それに、お前が自分の家を憎む、なぞと言うたら、どうしてその家の中へ入って来られるものか! お前がた二人が、父と母が一つところにおらぬとしたら、子供は一たいどっちへ行ったらよいと思う? 今お前は子供の夢を見て苦しんでおるが、つれあいと一緒になったら、子供がお前に穏かな夢を送ってくれるじゃろう。さあ、かみさん、帰りなさい、今日の日にも帰りなさい。」
「帰りまする、方丈さま、お前さまのお言葉に従うて帰りまする。お前さまはわたくしの心を見抜いて下されました。ああ、ニキートカ、お前はわしを待ちかねていさっしゃろうなあ、ニキートカ、さぞ待ちかねていさっしゃろうなあ」と女房はまたお経でも唱えるように言いだした。
 けれど、長老はもう別な老婆の方へ向いていた。彼女は巡礼風でなく町の人らしい身なりをしていたが、何か用事があって相談に来たということは、その目つきから知られるのであった。彼女は遠方から来たのでなく、この町に住んでいる下士のやもめであると名のった。息子のヴァーゼンカというのが、どこかの陸軍被服廠に勤務していたが、その後シベリヤのイルクーツクへ行って、二度そこから手紙をよこしたきり、もうまる一年たよりをしない。老婆は訊き合せもしてみたが、正直なところ、どこで訊き合せたらいいかわからないのであった。
「ところが、先だって、スチェパニーダ・ベドリャーギナという金持の店屋のおかみさんが、ねえ、ブローホロヴナ、いっそ息子さんの名前を過去帳へ書き込んで、お寺さまへ持って行ってお経を上げておもらい、そうしたら息子さんの魂が悩みだして、手紙をよこすようになります、これは確かなことで、何遍も試したことがあるんだによって。こうスチェパニーダさんがおっしゃるけれど、わたくしはどんなものだろうかと存じましてねえ……一たい本当でございましょうか、そんなことをしてよろしいものでございましょうか、一つお教えなすって下さいまし。」
「そのようなことは考えることもなりませぬぞ。訊くのも恥しいことじゃ。生きておる魂を、しかも現在の母親が供養するというようなことが、どうしてできると思いなさる? これは大きな罪じゃ、妖法にもひとしいことじゃ、しかし、お前の無知に免じて赦して下さるであろう。それよりお前、すぐ誰にでも味方をして助けて下さる聖母さまにお祈りして、息子の息災でおりますように、また間違ったことを考えた罪をお赦し下さりますようにと、お願いしたがよろしいぞ。それからな、ブローホロヴナ、わしはお前にこれだけのことを言うておこう、――息子さんは近いうちに自分で帰って来るか、それとも手紙をよこすか、どっちか一つに相違ない。お前もそのつもりでおるがよい。さあ、もう安心して帰りなさい。わしが言うておくが、お前の息子はまめでいる。」
「有難い長老さま、どうか神様のお恵みのありますように! ほんにあなたさまはわたくしどもの恩人でございます。わたくしども一同のために、またわたくしどもの罪障のために、代って祈って下さるお方でございます!」
 が、長老はもう自分のほうへ向けられた二つの熱した瞳を、群衆の中に見分けていた。それは痩せ衰えた肺病やみらしい、とはいえまだ若い農婦であった。じっと無言に見つめている目は、何やら希うようであったが、そばへ近づくのを恐れているふうであった。
「お前は何の用で来たのじゃな?」
「わたくしの魂を赦して下さいまし。」低い声で静かにこう言いながら、彼女は膝を突いて、長老の足もとにひれ伏した。「長老さま、わたくしは罪を犯しました、自分の罪が恐ろしゅうございます。」
 長老は一番下の段に腰をおろした。女は膝を起さないで、そのそばへにじり寄った。
「わたくしがやもめになってから、もう三年目でございます。」
 女はびくびく身を顫わすようなふうで、小声にこう囁いた。「わたくしは嫁に行った先が、いやでいやでたまりませんでした。つれあいが年寄りで、ひどくわたくしをぶつのでございます。それが病気で寝ましたとき、わたくしはその顔を見い見い、もしこの人が快《よ》うなって床あげしたらどうしよう、と考えました。その時わたくしは、あの恐ろしい心を起したのでございます!」
「ちょっとお待ち!」と言って長老は、いきなり自分の耳を女の口のそばへ近寄せた。女はほとんど何一つ聞き取ることができないくらい小さな声でつづけて、やがて間もなく話し終った。
「三年目になるのじゃな?」
「三年目でございます。初めのうちは何とも思いませんでした が、この頃では病気までするほど、気がふさいでまいりました。」
「遠方かな?」
「ここから五百露里でございます。」
「懺悔の時に話したかな?」
「話しましてございます、二度も話しました。」
「聖餐をいただいたかな?」
「いただきました。長老さま、恐ろしゅうございます、死ぬのが恐ろしゅうございます。」
「何も恐れることはない、決して恐れることはない、くよくよすることもいらぬ。ただ懺悔の心が衰えぬようにしたならば、神様が何もかも赦して下さるのじゃ。それにな、本当に後悔しながら、神様から赦していただけぬような罪業は、決してこの世にありはせぬ、またあるべきはずもないのじゃ。また第一、限りない神様の愛を失うてしもうた者に、そのような大きな罪が犯せるものでない。それとも神様の愛でさえ追っつかぬような罪があるじゃろうか! そのようなことがあるべきでない。ただ怠りなく懺悔のみを心がけて、恐ろしいという気を追いのけてしまうがよい。神様は人間の考えに及びもつかぬような愛を持っていらっしゃる、たとえ人間に罪があろうとも、その罪のままに愛して下さるということを、一心に信ずるがよい。十人の正しきものより、一人の悔い改むるもののために、天国において悦びは増すべけれと、昔から言うてある。さあ、帰りなさい、恐れることはない。人の言うことを気にして、腹を立てたりしてはならぬぞ。死んだつれあいがお前を辱しめたことは、一切ゆるしてやって、心底から仲直りをするのじゃぞ。もし後悔しておるとすれば、つまり、愛しておる証拠じゃ。もし愛しているとすれば、お前はもう神の子じゃ……愛はすべてのものを贖《あがな》い、すべてのものを救う、現にわしのようにお前と同様罪ふかい人間が、お前の身の上に心を動かして、お前をあわれんでおるくらいじゃによって、神様はなおさらのことではないか。愛はまことにこの上ない貴いもので、それがあれば世界じゅうを買うことでもできる。自分の罪は言うまでもない、人の罪でさえ贖うことができるくらいじゃ。さあ、恐れずに行きなさい。」
 彼は女に三度まで十字を切ってやって、自分の首から聖像をはずし、それをば女の首にかけてやった。女は無言のまま、地に額をつけて礼拝した。長老は立ちあがって、乳呑み子を抱いた丈夫らしい一人の女房を、にこにこしながら見つめるのであった。
「|上山《ヴィシェゴーリエ》から参じやしたよ。」
「それでも六露里からあるところを、子供を抱いてはくたびれたろう。お前は何用じゃな?」
「お前さまを一目おがみに参じやした。わしはもう常住お前さまのところへまいりやすに、お忘れなさりやしたかね? もしお前さまわしを忘れなされたら、あまりもの覚えのええほうでもないとみえる。村のほうでお前さまがわずろうていなさるちゅう話を聞いたもんだで、ちょっとお顔を拝もうと思って出向きやしてね。ところが、こうして見れば、なんの病気どころか、まだ二十年くらいも生きなさりやすよ、本当に。どうか息災でいて下さりやし! それにお前さまのことを祈ってる者も大勢ありやすから、お前さまが病気などしなさるはずがござりやせんよ。」
「いや、いろいろと有難う。」
「ついでに一つちょっくらお願いがござりやす。ここに六十コペイカござりやすで、これをわしよりも貧乏な女子衆にくれてやって下さりやし。ここまで来てから考えてみると、長老さまに頼んで渡したほうがええ、あのお方は誰にやったらええかようご存じじゃ、と思いやしてな。」
「有難う、かみさん、有難う、よい心がけじゃ。わしはお前が気に入った。必ずそのとおりにして進ぜよう。抱いておるのは娘かな?」
「娘でござります。長老さま、リザヴェータと申しやす。」
「神様がお前がた二人、お前と子供のリザヴェータを祝福して下されようぞ。ああ、かみさん、お前のおかげで気がうきうきしてきた。では、さようなら、皆の衆、さようなら、大切な可愛い皆の衆!」
 彼は一同を祝福し、丁寧に会釈した。

[#3字下げ]第四 信仰薄き貴婦人[#「第四 信仰薄き貴婦人」は中見出し]

 地主の貴婦人は、下層民との会話やその祝福の光景を、初めからしまいまでじっと見て、静かな涙を流しながらそれをハンカチで拭いていた。それは多くの点で真に善良な資質を持った、感じやすい上流の貴婦人であった。最後に長老が自分のほうへ近づいた時、彼女は歓喜に溢れた声で迎えた。
「わたくし、ただ今の美しい光景をすっかり拝見しまして、本当に切ない思いをいたしました……」彼女は興奮のために、しまいまで言いきることができなかった。「おお、わたくしはよくわかります、民衆はあなたを愛しています。わたくしは自分でも民衆を愛します、いえ、愛そうと思っています、あの偉大な中に美しい単純なところのあるロシヤの民衆を、どうして愛さないでいられましょう!」
「お嬢さんのご健康はいかがですな? あなたはまた、わしと話がしたいと言われるそうじゃが?」
「ええ、無理やりにたってお願いしたのでございます。わたくしはあなたのお許しの出る間、お窓の外でこの膝を地べたに突いたまま、二日でも三日でもじっとしている覚悟でございました。わたくしどもはこの歓びに充ちた感謝の心を、すっかり拡げてお目にかけるためにまいったのでございます。長老さま、あなたは家のリーザを癒して下さいました、すっかり癒して下さいました。しかも、あなたのなさいましたことといったら、ただ木曜日にこの子のお祈りをして、お手をつむりへ載せて下すっただけではございませんか。わたくしどもはそのお手を接吻して、わたくしどもの心持を、敬虔の情を汲んでいただくために、あわてて伺った次第でございます!」
「癒したとはどういうわけでござりますな? お嬢さんはやはり椅子の中に寝ておられるではござりませぬか?」
「それでも、毎夜毎夜の発熱は、あの木曜の日からすっかりなくなって、これでもう二昼夜少しも起らないのでございます」と夫人は神経的に急き込みながら言った。「そればかりか、足までしっかりいたしました。昨夜ぐっすり寝みましたので、けさ起きました時はぴんぴんしていました。この血色を見て下さいまし、このいきいきした目つきをごらん下さいまし。今まではいつも泣いてばかりいましたものが、今ではさも愉快そうに、嬉しそうに笑ってばかりいます。今日はぜひとも立たしてくれ、と申して聞きません。そして、まる一分間、それこそ自分一人で、少しもよっかかりなしに立っていました。この子はもう二週間したらカドリールを踊ると申しまして、わたくしと賭けをしたのでございます。わたくしが土地の医者のヘルツェンシュトゥベを呼びましたところ、肩をすくめながら、驚いた、奇妙だ、とばかり申しているのでございます。それですのに、あなたはわたくしどもが邪魔をしなければいいが、こちらへ飛んで来て礼など言わなければいいが、と思っていらしったのでございますか? |Lise《リーズ》、お礼を申し上げないかえ、お礼を!」
 今まで笑っていた |Lise《リーズ》の愛くるしい顔は、急に真面目になった。彼女はできるだけ肘椅子の上に体を浮せて、長老を見つめながら手を合した。が、こらえきれなくなっていきなり笑いだした。
「わたし、あの人のことを笑ったのよ、あの人のことを!」こらえきれなくなって笑いだした自分に対して、子供らしいいまいましさを浮べながら、彼女はこう言ってアリョーシャを指さした。誰にもせよ、このとき長老の一歩うしろに立っているアリョーシャを眺めたものは、一瞬にして彼の双頬を染めたくれないに気づいたであろう。彼の目は急に輝きをおびて伏せられた。
「アレクセイさん、この子はあなたに宛てた手紙をことずかっていますのよ……ご機嫌はいかが?」とつぜん母夫人はアリョーシャのほうを向いて、美しい手袋をはめた手を差し伸べつつ語をついだ。長老はちょっと振り返ったが、ふいにじいっとアリョーシャを見つめるのであった。こちらはリーザに近寄って、何となく妙な間のわるそうな薄笑いを浮べながら、自分の手を差し出した。リーザはものものしい顔をした。
「カチェリーナ・イヴァーノヴナが、あたしの手からこの手紙をあなたに渡してくれって」と彼女は小さな手紙を差し出した。「そしてね、ぜひとも至急寄っていただきたいとおっしゃったわ。どうか瞞さないでぜひとも来ていただきたいって。」
「あのひとが僕に来てくれって? あのひとが……僕に……どういうわけだろう?」とアリョーシャは深い驚きの色を浮べながら呟いた。その顔は急に心配らしくなってきた。
「それは、やはりドミートリイさんのことや……それから近頃起ったいろんなことでご相談があるのでしょう」と母夫人は大急ぎで説明した。「カチェリーナさんは今ある決心をしていらっしゃいますの……けれど、そのためには、ぜひあなたとお目にかからなければならないんだそうですの……なぜですって? それはむろんわかりませんが、何でも至急にというお頼みでしたよ。あなたもそうしてお上げになるでしょう、きっと、してお上げになるでしょう。だって、それはキリスト教徒的感情の命令ですもの。」
「僕はあのひとを、たった一度見たっきりですよ。」アリョーシャは依然として合点のいかぬふうで、言葉をつづけた。
「あの方は本当に高尚な、まったく真似もできないような人格を持っていらっしゃいます!………あの方の苦しみだけから言ってもねえ……まあ考えてもごらんなさい、あの方がどんな苦労をしていらしったか、またどんな苦労をしていらっしゃるか、そしてこの先どんなことがあの方を待ち受けているか……何もかも恐ろしい、恐ろしい!」
「よろしい、では、僕まいりましょう」とアリョーシャは決めた。短い謎のような手紙にざっと目を通して見たが、ぜひとも来てくれという依頼のほか、まるで説明がなかった。
「ああ、それはあなたとして、ほんとうに美しい立派なことよ」とふいに |Lise《リーズ》は活気づいてこう叫んだ。「だって、あたし、お母さんにそう言ってたのよ、あの人はどんなことがあっても行きゃしない、あの人はお寺で行《ぎょう》をしてるんですものって。まあ、本当に、あなたはなんて立派な人なんでしょう! あたしね、いつでもあなたを立派な人だと思ってたのよ。だから、今そのことを言っちまっていい気持だわ!」
「|Lise《リーズ》!」と母夫人はたしなめるように言ったが、すぐにっこり笑った。
「あなたはわたしたちを忘れておしまいなすったのね、アレクセイさん、あなたは家へちっとも来ようとなさらないじゃありませんか。ところが、|Lise《リーズ》はもう二度もわたしに、あなたと一緒にいる時だけ気分がいいって申しましたよ。」
 アリョーシャは伏せていた目をちょっと上げたが、また急に真っ赤になって、それからまたとつぜん、自分でもなぜだかわからない微笑を浮べた。けれど、長老はもう彼を見まもっていなかった。彼は前に述べたとおり、リーズの椅子のそばで自分を待っていた遠来の僧と話を始めたのである。それは見たところ、きわめて普通な僧らしかった。つまり大して位の高くない、単純ではあるが確乎不抜の人生観と、一種独自の執拗な信仰を持っているような僧の一人である。その言葉によると、彼はずっと北によったオブドールスクにある、僅か九人しか僧侶の住んでいない、貧しい聖シリヴェストル寺院から来たとのことであった。長老はこの僧を祝福して、いつでも都合のいい時に庵室を訪ねてくれと言った。
「あなたはどうして、あんなことを思いきってなさるのですか?」とつぜん僧はたしなめるようなものものしい態度で、|Lise《リーズ》を指しつつこう訊いた。これは彼女の『治療』のことをほのめかしたのである。
「このことはもちろん、今語るべき時でありませんじゃ。少しくらい軽くなったのは、すっかり治ってしまったのと違うし、それにまたほかの原因から起ることもありますでな。しかし、もし何かあったとすれば、それは誰の力でもない、神様の思し召しじゃ。一切のことは神様から出ているのじゃ。ときに、どうか本当にお訪ね下されえ」と彼は、僧に向ってつけたした。「でないと、いつでもというわけにまいりませぬでな。病身のことゆえ、もう命数もかぞえ尽されておる、それはわしも承知しておりますじゃ。」
「いえ、いえ、いえ、神様は決してわたくしどもからあなたを奪いはなさりませぬ。あなたはまだ長く長くお暮しなさいますとも」と母夫人は叫んだ。「それにどこがお悪いのでございましょう? お見受けしたところ、大変お丈夫そうで、楽しそうな、仕合せらしいお顔つきをしていらっしゃるではございませんか。」
「わしは今日珍しく気分がよいが、しかしそれはほんのちょっとの間じゃ、それはわしにもようわかっておりますじゃ。今わしは自分の病気を間違いなしに見抜いておりますでな。あなたはわしが大へん楽しそうな様子をしておると言われたが、そのように言うて下さるほど、わしにとって嬉しいことはありませんわい。なぜといって、人は仕合せのために作られたものですからな、じゃによって、本当に仕合せな人は、『わしはこの世で神の掟をはたした』と言う資格がある。すべての正直な人、すべての聖徒、すべての殉教者は、みなことごとく幸福であったのですじゃ。」
「ああ、何というお言葉でしょう、何という勇ましい高遠なお言葉でございましょう!」と母夫人は叫んだ。「あなたのおっしゃることは、一々わたくしの心を突き通すようでございます。ですが、仕合せ……仕合せ……それは一たいどこにあるのでしょう? ああ、もし長老さま、今日わたくしどもに二度目の対面を許して下さるほど、ご親切なお方でございますなら、このまえ申し上げなかったことを、――思いきって申し上げられなかったことをお聞き下さいまし。わたくしの苦しみのいわれをお聞き下さいまし。これはもうずっとずっと前からでございます! わたくしの苦しみは、失礼でございますが、わたくしの苦しみは……」こう言いながら、夫人は熱した感情の発作に駆られて、長老の前に両手を合せた。
「つまり何ですかな?」
「わたくしの苦しみは……不信でございます……」
「神様を信じなさらぬかな?」
「ああ、違います、違います、そんなことはわたくし考える勇気もございません。けれど、来世――これが謎なのでございます! この謎に対しては誰ひとり、本当に誰ひとり答えてくれるものがありません! どうぞお聞き下さいまし、あなたは人の心を癒すもの識りでいらっしゃいます。わたくしはもちろん、自分の申すことをすっかり信じていただこう、などという大それた望みは持っておりませんけれども、決して軽はずみな考えで、ただ今こんなことを申し上げるのでないということは、立派に誓ってもよろしゅうございます……まったく、この来世という考えが、苦しいほどわたくしの心を掻き乱すのでございます……ほんとうに恐ろしいほどでございます……それでも、わたくしは誰に相談したらいいかわかりません、どうしてもそんなことはできませんでした……ところがただ今、わたくしは思いきってあなたに申し上げるのでございます……ああ、どうしましょう、今あなたは、わたくしをどんな女だとお思いあそばすでしょう!」と夫人は思わず手を拍った。
「わしの思わくなぞ憚ることはありませんじゃ」と長老は答えた。「わしはあなたの悩みの真実なことをまったく信じきっておりますでな。」
「ああ、まことに有難うございます! ねえ、わたくしは目をつぶって、こんなことを考えるのでございます、もしすべての人が信仰を持っているとしたら、どこからそれを得たのでしょう? ある人の説によりますと、すべてこういうことは、はじめ自然界の恐ろしい現象に対する恐怖の念から起ったもので、神だの来世だのというものはないのだそうでございます。ところで、わたくしの考えますに、こうして一生涯信じ通しても、死んでしまえば急に何もなくなってしまって、ある文士の言っているように、『ただ墓の上に山牛蒡が生えるばかり』であったら、まあ、どうでございましょう。恐ろしいではありませんか! 一たいどうしたら信仰を呼び戻すことができましょうかしら? もっとも、わたくしが信じていましたのは、ほんの小さい子供のときばかりで、それも何の考えなしに機械的に信じていたのでございます……どうしたら、本当にどうしたらこのことが証明できましょうか、今日わたくしはあなたの前にひれ伏して、このことをお訊ねしようと存じまして、お邪魔にあがったのでございます。だって、もしこのおりをのがしましたら、もう一生わたくしの問いに答えてくれる人がございませんもの。どうしたら証明ができましょうか、どうしたら信念が得られましょうか? わたくしはまったく不仕合せなのでございます。じっと立ってまわりを眺めましても、みんな大抵どうでもいいような顔をしています、今の世の中に誰一人、そんなことを気にかける人はありません。それなのに、わたくし一人だけ、それがたまらないのでございます。本当に死ぬほど辛うございます!」
「それは疑いもなく死ぬほど辛いことですじゃ! しかし、このことについて証明ということはしょせんできぬが、信念を得ることはできますぞ。」
「どうして? どういう方法なのでございます?」
「それは実行の愛ですじゃ、努めて自分の同胞を実行的に怠りなく愛するようにしてごらんなされ。その愛の努力が成功するにつれて、神の存在も自分の霊魂の不死も確信されるようになりますじゃ。もし同胞に対する愛が完全な自己否定に到達したら、その時こそもはや疑いもなく信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も、あなたの心に忍び入ることはできません。これはもう実験をへた正確な方法じゃでな。」
「実行の愛? それがまた問題でございます。しかも、恐ろしい問題なのでございます! ねえ長老さま、わたくしはときどき一切のものを抛って、――自分の持っている物をすっかり投げ出した上に、リーザまで見棄てて、看護婦にでもなろうかと空想するくらい、人類というものを愛しているのでございます。じっとこう目をつぶって空想しているとき、わたくしは自分の中に抑えつけることのできない力を感じます。どんな傷も、どんな膿も、わたくしを愕かすことができないような気がいたします。わたくしは自分の手で傷所を繃帯したり洗ったりして、苦しめる人たちの看護人になれそうな心持がいたします。膿だらけの傷口を接吻するほどの意気込みになります。」
「ほかならぬそういうことを空想されるとすれば、それだけでもたくさんですじゃ、結構なことじゃ。そのうちにひょっと何か本当によいことをされる時もありましょう。」
「けれど、そういう生活に長く辛抱できるでございましょうか?」と夫人は熱心にほとんど激昂したような調子で言葉をつづけた。「これが一ばん大切な問題なのでございます。これがわたくしにとって一ばん苦しい、問題中の問題でございます。わたくしは目をつぶって、本当にこういう道を長く歩みつづけられるかしら、と自分で自分に訊いてみます。もしわたくしに傷口を洗ってもらっている病人が、即座に感謝の言葉をもって酬いないばかりか、かえってわたくしの博愛的な行為を認めも尊重もしないで、いろんな気まぐれで、人を苦しめたり、呶鳴りつけたり、わがままな要求をしたり、誰か上役の人に告げ口をしたりなんかしたら(これはひどく苦しんでいる人によくあることでございます)、――その時はまあどうでしょう? わたくしの愛はつづくでしょうか、つづかないでしょうか、ところで、何とお考えあそばすかわかりませんが、――わたくしは胸をわななかせながら、この疑問を解決したのでございます、――もしわたくしの人類に対する『実行的な』愛を、その場かぎり冷ましてしまうものが何かあるとすれば、それはつまり恩知らずの行為でございます。手短かに申しますと、わたくしは報酬を当てにする労働者でございます。わたくしは猶予なく報酬を、つまり愛に対する愛と賞讃を要求いたします。それでなくては、どんな人をも愛することができません!」彼女は誠実無比な自己呵責の発作に襲われているのであった。語り終えると、決然と挑むような態度で長老を眺めた。
「それは、ある一人の医者がわしに話したこととそっくりそのままじゃ、もっともだいぶ以前の話ですがな」と長老は言った。「それはもうかなりな年輩の、まぎれもなく賢い人であったが、その人があなたと同じようなことを、露骨に打ち明けたことがあります。もっとも、それは冗談半分ではあったが、痛ましい冗談でしたじゃ。その人が言うには、『私は人類を愛するけれども、自分で自分に驚くようなことがある。ほかでもない、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少のうなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、むしろ奇怪なくらいの想念に到達し、もし何かの機会で必要が生じたならば、まったく人類のため十宇架をも背負いかねないほどの勢いであるが、そのくせ誰とでも一つ部屋に二日と一緒に暮すことができぬ。それは経験で承知しておる。誰かちょっとでも自分のそばへ寄って来ると、すぐその個性が自分の自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、私は僅か一昼夜のうちに、優れた人格者すら憎みおおせることができる。ある者は食事が長いからというて、またある者は鼻風邪を引いて、ひっきりなしに鼻をかむからというて憎らしがる。つまり、私は人がちょっとでも自分に接触すると、たちまちその人の敵となるのだ。その代り個々の人間に対する憎悪が深くなるにつれて、人類ぜんたいに対する愛はいよいよ熱烈になってくる』とこういう話ですじゃ。」
「けれど、どうしたらよろしいのでしょう? そんな場合どうしたらよろしいのでしょう? それでは絶望のほかないのでございましょうか?」
「そのようなことはありませんじゃ。なぜというて、あなたがこのことについてそのように苦しみなさる……それ一つだけでもたくさんじゃでな。できうるだけのことをされれば、それだけの酬いがあります。あなたがそれほど深う真剣に自分を知ることができた以上、あなたはもう、多くのことを行ったわけになりますじゃ! が、もし今あのように誠実に話されたのも、その誠実さをわしに褒めてもらいたいがためとすれば、もちろん、あなたは実行的愛の方面で、何ものにも到達される時はありませんぞ。すべては空想の中にとどまって、一生は幻のごとく閃き過ぎるばかりじゃ、そのうちには来世のことも忘れて、ついには自分で何とかして安閑として納まってしまわれる、それはわかりきっておりますわい。」
「あなたはわたくしを粉微塵にしておしまいなさいました! わたくしはたった今あなたに言われて、はじめて気がつきました。本当にわたくしは、恩知らずの行為を忍ぶことができないという自白をいたしました時、自分の誠実さを褒めていただくことばかり当てにしておりました。あなたはわたくしの正体を取って押えて、わたくしに見せて下さいました、わたくしにわたくしを説明して下さいました!」
「あなたの言われるのは本当かな? そういう告白をされた以上、わしも今あなたが誠実な人で、善良な心を持っておいでのことと信じますじゃ。よしや幸福にまで至らぬとしても、いつでも自分はよい道に立っておるということを覚えておって、その道から踏みはずさぬようにされたがよい。何より大切なのは偽りを避けることじゃ、あらゆる種類の偽りを避けることじゃ、あらゆる種類の偽り、ことに自分自身に対する偽りを避けねばならぬ。自分の偽りを観察して、一時間ごと、いや一分間ごとにそれを見つめなされ。それから他人に対するものにせよ、自分に対するものにせよ、気むずかしさというものは慎しむべきことですぞ、あなたの心中にあって汚く思われるものは、あなたがそれに気づいたということ一つで、すでに浄化されておりますでな。恐怖もやはりそのとおり避けねばなりませんぞ、もっとも恐怖はすべて偽りの結果じゃが。また愛の獲得について、決して自分の狭量を恐れなさるな。それからまたその際に生じた自分のよからぬ行為をも、同様恐れることはありません。どうもこれ以上愉快なことを言うことができんで気の毒じゃが、なんにせ実行の愛は空想の愛にくらべると、恐ろしい気を起させるほど困難なものじゃでな。空想の愛はすみやかに功の成ることを渇望し、人に見られることを欲する。実際、中でも極端なのは、一刻の猶予もなくそれが成就して、舞台の上で行われることのように、皆に感心して見てもらいたい、それがためには命を投げ出しても惜しゅうない、というほどになってしまう。しかるに、実行の愛に至っては、何のことはない労働と忍耐じゃ。ある種の人にとっては一つの立派な学問かもしれぬ。しかし、あらかじめ言うておきますがな、どのように努力しても目的に達せぬばかりか、かえって遠のいて行くような気がしてぞっとする時、そういう時あなたは忽然と目的に到達せられる。そして絶えずひそかにあなたを導きあなたを愛された神様の奇蹟的な力を、自己の上にはっきりと認められますじゃ。ご免なされ、もうこれ以上あなたとお話はできませぬ、待っておる人がありますでな、さようなら。」
 夫人は泣いていた。
「|Lise《リーズ》を、|Lise《リーズ》を祝福して下さいまし、祝福して!」とふいに夫人は慌てだした。
「お嬢さんは愛を受ける値うちがありませんじゃ。お嬢さんが初めからしまいまでふざけておったのを、わしはちゃんと知っておりますぞ」と長老は冗談まじりに言った。「あんたはどういうわけで、さっきからアレクセイをからかいなさった?」
 まったく |Lise《リーズ》は初めからしまいまでこのいたずらに一生懸命だったのである。彼女はずっと前から、――この前の時から、アリョーシャが自分を見ると妙に鼻白んで、なるべく自分のほうを見まいとしているのに気がついた。これが彼女には面白くてたまらなかったのである。彼女は一心に待ちかまえながら、相手の視線を捕えようとした。と、こちらは執念《しゅうね》く自分のほうへ注がれた視線にたえきれないで、打ち勝ちがたい力に牽かれてふいと自分から娘を見やる、すると彼女はすぐさまひたと相手の顔を見つめながら、得々たる微笑を浮べる。アリョーシャは一そう鼻白んで口惜しがるのであった。ついに彼はすっかり顔をそむけて、長老のうしろへ隠れてしまった。幾分かの後、彼はまた同じ打ち勝ちがたい力に牽かれて、自分を見てるかどうかと、娘のほうを振り向いて見た。すると |Lise《リーズ》はほとんど安楽椅子から身を乗り出してしまって、横のほうから彼を見つめながら、自分のほうを振り向くのを一生懸命に待っていた。いよいよ彼の視線を捕らえると、長老さえ我慢できないような笑い声を立てたのである。
「どうしてあんたはこの人に、そう恥しい思いをさせなさるのじゃな、おはねさん?」
 |Lise《リーズ》は突然思いがけなく、真っ赤になって目を輝かした。その顔は恐ろしく真面目になった。彼女は熱した不平満々たる調子で、早口に神経的に言いだした。
「じゃ、あの人はどうして何もかも忘れてしまったの? あの人はあたしが小さな時分、あたしを抱いて歩いたり、一緒に遊んだりしたくせに。それから家へ通って、あたしに読み書きを教えてくれたのよ、あなたそれをご存じ? 二年前に別れる時も、あたしのことは決して忘れない、二人は永久に、永久に、永久に親友だって言ったのよ! それだのに、いまになって急にあたしを怖がりだしたんですもの。一たいあたしがあの人を、取って食うとでも思ってるのかしら? どうしてあの人はあたしのそばへ寄って、お話をしようとしないんでしょう! なぜあの人は家へ来ようとしないんでしょう? あなたがお出しなさらないの? だって、あの人がどこへでも行くってことは、あたしたちよく知っててよ。あたしのほうからあの人を呼ぶのはぶしつけだから、あの人から先に思い出してくれるのが本当だわ、もしあのことを忘れてないのなら……いいえ、駄目だわ、あの人は行《ぎょう》をしてるんですもの! だけど、何だってあなたはあの人にあんな裾の長い法衣《ころも》を着せたの?……駈け出したら転ぶじゃないの……」
 彼女は急にこらえきれなくなって、片手で顔を蔽いながら、もちまえの神経的な、体じゅうを揺り動かすような声を立てぬ笑い方で、さもたまらないように、いつまでもいつまでも笑いつづけるのであった。長老は微笑を含みながら彼女の言葉を聞き終り、優しく祝福してやった。リーザは長老の手を接吻しながら、突然その手を自分の目に押し当てて泣きだした。
「あなた、あたしのことを怒らないで頂戴、あたしは馬鹿だから何をしていただく値うちもないのよ……アリョーシャがこんなおかしな娘のところへ来たがらないのも、もっともかもしれないわ、本当にもっともなんだわ。」
「いや、わしがぜひとも行かせますじゃ」と長老は決めてしまった。

[#3字下げ]第五 アーメン、アーメン[#「第五 アーメン、アーメン」は中見出し]

 長老が庵室を出ていたのは約二十五分間であった。もう十二時半過ぎているのに、この集りの主因であるドミートリイはまだ姿を見せなかった。しかし、一同はほとんど彼のことを忘れてしまった形で、長老がふたたび庵室へ入ったときは、客ぜんたいの間に恐ろしく活気づいた会話が交されていた。その会話の牛耳をとっていたのは、第一にイヴァン、それから二人の僧であった。見受けたところ、ミウーソフも熱心に口を入れようとしていたが、またこの時も彼は運が悪かった。どうやら彼は二流どころの位置に立っているらしく、あまり彼の言葉に答えるものさえなかった。この新しい状態は、次第に募ってゆく彼の癇癪を、さらに烈しくするばかりであった。ほかでもない、彼は以前からイヴァンと知識の張りあいをしていたが、相手の示す気のない態度を冷静に我慢することができなかったのである。『少くとも、今までわれわれはヨーロッパにおける一切の進歩の頂上に立っていたのに、この若き世代は思いきってわれわれを軽蔑してやがる』と彼は肚の中で考えた。
 さっき椅子にじっと腰をかけて、口を緘していると誓ったフョードルは、本当にしばらくのあいだ口をきかなかったが、しじゅう人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮べながら、隣りに坐っているミウーソフの動作に注意して、そのいらいらした顔色を見て悦んでいる様子であった。彼はずっと前から何か敵《かたき》を取ってやろうと心構えしていたが、今の機会を見のがす気になれなかった。とうとう我慢ができなくなって、ミウーソフの肩に屈みかかりながら、小さな声でもう一度からかった。
「あんたがさっき『いとしげに口づけしぬ』の後で帰らないで、こうした無作法な仲間へ踏みとどまる気になったのはどういうわけか、一つ教えて上げましょうかな? ほかじゃない、あんたは自分が卑下されて侮辱されたような気がするので、その意趣ばらしに一つ利口なところを見せてやろう、と思って踏みとどまったんですよ。もうこうなった以上、利口なところを見せないうちは、決して帰りっこなしでさあ。」
「あなたはまた? なんの、今すぐにも帰りますよ。」
「どうして、どうして、一ばん後からお帰りですよ!」フョードルはいま一度ちくりと刺した。それはちょうど長老の帰って来た瞬間である。
 論争はその瞬間ひたとやんだ。が、長老はもとの席に着いてから、さあつづけて下さい、と勧めるように愛想よく一同を見廻すのであった。この人の顔のありとあらゆる表情をほとんど研究しつくしたアリョーシャは、このとき彼が恐ろしく疲れはてて、しいてみずから支えているのを明らかに見てとった。近頃彼は力の消耗のため、ときどき卒倒することがあった。その卒倒の前と同じような蒼白い色が、いま彼の顔に拡がっている。唇も白けていた。しかし、明らかに彼はこの集りを解散させたくない様子であった。その上に何かまだ目的があるらしい――が、どんな目的であろう? アリョーシャは一心に彼に注目していた。
「この人の至極めずらしい論文の話をしておるところでございます。」図書がかりの僧ヨシフがイヴァンを指しながら、長老に向ってこう言った。「いろいろ新しい説が述べてありますが、根本の思想は曖昧なものでございます。この人は教会的社会裁判とその権利範囲の問題について、一冊の書物を著わしたある桑門の人に答えて、論文を雑誌に発表されたので……」
「残念ながら、わしはその論文を読んでおりませんじゃ。しかし、話はかねがね聞いておりましたよ」と長老は鋭い目つきでじっとイヴァンを見つめながら答えた。
「この人の立脚地はなかなか面白いのでございます」と図書がかりの僧は語をついだ。「つまり、教会的社会裁判の問題について、教会と国家の区別をぜんぜん否定しておられるらしゅうございます。」
「それはめずらしい、しかしどのような意味ですかな?」と長老はイヴァンに訊ねた。
 イヴァンはとうとうそれに返事をした。が、その調子は前夜アリョーシャの心配したように、上から見下したような悪丁寧さではなく、つつましく控え目な用心ぶかいところがあった。底意らしいものは少しもなかった。
「僕はこの二つの分子の混同、すなわち教会と国家という別々な二つのものの混同は、むろん、永久につづくだろうという仮定から出発したのです。もっともこれはあり得べからざることで、ノーマルな状態どころじゃない、幾分たりとも調和した状態に導くことすらできないのであります。何となれば、その根本に虚偽が横たわっているからです。裁判のような問題における国家と教会との妥協は、純粋な本質から言って不可能なのであります。僕が論駁を試みた僧侶の方の断定によれば、教会は、国家の中に正確な、一定した地歩を占めているというのですが、僕は反対に、教会こそ自己の中に国家全体を含むべきであって、国家の中に僅かな一隅を占めるべきではない。たとえ現代において、それが何かの理由によって不可能であろうとも、将来、キリスト教社会の発達の直接かつ重大な目的とならねばならぬ、とこう論駁したのです。」
「それはまったくそのとおりです」と無口で博学な僧パイーシイは、しっかりした神経的な声で言った。
「純粋の法王集権論《ウルトラモンタニズム》([#割り注]ラテン語、山の彼方の意、けだしイタリアは中央ヨーロッパに対して山の彼方に当るからである[#割り注終わり])です。」じれったそうに、かわるがわる両方の足を組み変えながら、ミウーソフはこう叫んだ。
「なんの! それにロシヤには、山なぞないではありませんか!」と図書がかりの僧ヨシフは叫んで、さらに長老の方を向きながら語をつづけた。「この人はいろいろな議論の中に、論敵たる僧侶の(これは注目すべき事実でございます)『根本的かつ本質的命題』を弁駁していられます。その命題は第一に、『いかなる社会的団体といえども、自己の団体員の民法的、ならびに政治的権利を支配するの権力を所有する能わず、かつまた所有すべからず。』第二に、『刑法的および民法的権力は教会に属すべからず。教会は神の制定したるものとして、また宗教的目的を有する人々の団体として、性質上かかる権利と両立することを得ず。』最後の第三は、『教会はこの世の王国にあらず』というのでございます……」
「桑門の人にあるまじき言語の遊戯でございます!」とパイーシイは我慢しきれないでまた口を出した。「わたくしはあなたの論駁されたあの本を読んで」とイヴァンの方を向いた。「あの『教会はこの世の王国にあらず』という言葉に一驚を喫しました。もしこの世のものでないとすれば、この地上にぜんぜん存在するはずがないではありませんか。聖書の中にある『この世のものならず』という言葉は、そのような意味で用いられてはおりません。このような言葉をもてあそぶのはあるまじきことです。主イエス・キリストはとりもなおさず、この地上に教会を立てるためにおいでなされたのです。天の王国はむろんこの世のものでなく、天上にあるに相違ありませんが、それに入って行くには、地上に立てられた教会を通るよりほかに道がありません。それゆえこの意味における俗世間的|地口《じぐち》は不可能で、かつあるまじきことです。教会は真に王国であります、君臨すべき使命を有しているのであります。それゆえ、最後は独立せる王国として、地上全体に出現しなければなりません――これはもう神の誓約のあることです……」
 彼は急におのれを制したかのように口をつぐんだ。イヴァンは経緯と注意を表しながら、その言葉を聞き終ると、さらに長老のほうへ向いて、少しも大儀そうなところのない、人のいい調子で、落ちつきすまして言いだした。
「つまり、僕の論文の要旨はこうなのです。古代、すなわちキリスト教発生後二三世紀の間、キリスト教は単に教会として地上に出現していました。そして、実際、教会にすぎなかったのです。ところが、ローマという異教国がキリスト教国となる望みを起した時、必然の結果として次のような事実が生じました。ほかでもない、ローマ帝国キリスト教国となりはしたものの、単に国家の中へ教会を編入したのみで、多くの施政に顕われたその本質は、依然たる異教帝国として存在をつづけたのです。実際、本質上から言っても、ぜひこうなるべきだったのです。しかし、帝国としてのローマには、異教的文明や知識の遺物がたくさん残っていました。例えば、国家の目的とか基礎とかいうものすらがそうです。しかるにキリスト教会は国家の組織に入ったとしても、自分の立ってる土台石、すなわち根本の基礎の中から一物をも譲歩し得なかった、というのは疑いもない事実であります。つまり、教祖自身によって示され、かつ固く定められた究極の目的を追うよりほか仕方がなかったに相違ありません。つまり、全世界を、――古い異教帝国をも含む全世界を、一つの教会に化してしまうのであります。それゆえ、教会は僕の論敵たる著者の言葉を借りると、『社会的団体』としても、『宗教的目的を有する人間の団体』としても、本来の目的において、国家の中に一定の位置を求むべきではなく、かえって、あらゆる地上の帝国こそ、結局教会にぜんぜん同化して、――単なる教会というものになりきって、教会の目的と両立しない目的を排除すべきであります。とはいえ、これはその国家の大帝国たる名誉も、その君主の光栄をも奪わずして、かえって誤れる異教的な虚偽の道から、永遠の目的に達する唯一の正しき道へ導くことになるのです。こういうわけで、もし『教会的社会裁判の基礎』の著者がこれらの基礎を発見し提唱するにあたって、これを現今の罪障多き不完全な時代に避けることのできない一時的妥協にすぎないと観たならば、その議論も正しいものとなったでしょう。ところが、もし著者が、ただ今ヨシフ主教の数え上げられた数カ条を目して、永久不変の原則であるなぞと、かりにも口はばったいことを広言するならば、それはつまり教会そのものに反対し、その永久不変な使命に反対することになるのであります。これが僕の論文です。その要旨の全体です。」
「つまり、簡単に言うとこうなのです」とパイーシイは一語一語力を入れながら、ふたたび口をきった。「わが十九世紀に入って、とくに明瞭になってきたある種の論法に従えば、教会は下級のものが上級のものに形を変えるような工合に、国家の中へ同化されなければなりません。そして、結局科学だの、時代精神だの、文明だのというものに打ち負かされて、亡びてしまわなければならんのです。もしそれをいとって抵抗すれば、国家は教会のためにほんのわずかな一隅を分けてくれて、しかも一定の監視をつけるでありましょう。これは現今、ヨーロッパ各国いたるところに行われておる現象であります。ところが、ロシヤ人の考量や希望によると、教会が下級から上級へと変形するように国家へ同化するのでなくして、反対に国家がついに教会と一つになる、――ほかのものでなく、ぜひ教会と一つになるべきであります。神よ、まことにかくあらせたまえ、アーメン、アーメン!」
「いや、そのお説を伺って、実のところ僕も少々元気が出て来ました」とミウーソフはまた足をかわるがわる組み直しながら、にたりと笑った。「僕の解釈するところでは、どうやらそれはキリスト再生の時に実現せられる、やたらに先のほうにある理想のようですね。まあ何とでも名はつけられますが、美しいユトピックな空想ですよ。戦争や外交官や銀行や、そんなものの根絶を予想するようなところは、むしろ社会主義に似ていますがね。僕はすんでのことでうっかり真面目にとって、教会はこれから[#「これから」に傍点]刑法の罪人を裁判して、笞刑や、流刑や、悪くしたら死刑さえ宣告するのじゃないか、と考えるところでしたよ。」
「もし今でも裁判が教会社会的なものしかないとしたら、今でも教会は流刑や、死刑を宣告するようなことはしないでしょう。そして、犯罪もそれに対する見解も、間違いなく一変すべきはずです。もちろん、それは今すぐ急にというわけじゃありません、次第次第にそうなるのですが、しかし、その時期はかなり早くやって来るでしょう……」イヴァンは落ちつきはらって、目をぱちりともさせないでこう言った。
「あなた真面目なんですか?」ミウーソフはじっと彼を見据えながら反問した。
「もし一切が教会となってしまったら、教会は犯罪人や抵抗者を破門するだけにとどめて、決して首なんか切らないでしょうよ」とイヴァンは語りつづけた。「ところで、一つあなたに伺いますが、破門された人間はどこへ行ったらいいのでしょうか? そのとき破門された人間は今日のように、単に人間社会を離れるばかりでなく、キリストをも去ってしまわなくちゃならないでしょう。つまり、その人間は自分の犯罪によって、単に世間ばかりでなく、教会に対しても叛旗を翻すことになるじゃありませんか。これはもちろん、今日でも厳格な意味において妥協することができます。『おれはなるほど盗みをした。けれども教会に叛くわけではない、キリストの敵になったわけではない。』今の犯人はほとんどすべてこんなふうに理屈をつけます。しかし、教会が国家に代って立った場合には、地上における教会の全部を否定してしまわないかぎり、こんなことを言うわけにゆきません。『誰も彼もみんな間違っている、みんなわき道にそれている、すべてのものが偽りの教会だ。ただ人殺しで泥棒の自分一人だけが、正統なキリストの教会だ』とは、ちょっと言いにくいことですからね。これを言うためには、そうざらにないようなえらい状況を必要とします。また一方、犯罪に対する教会そのものの見解を考えてみるのに、はたして教会は、目下社会保安のために行われている方法、すなわち腐敗せる人間を仲間から切り離してしまう異教的、機械的方法を改めずにいられるでしょうか? いな、今度こそは一時を糊塗するようなやり口でなく、人間の更生と復活と救済の理想にむかって、徹底的に変改してしまわなければなりません……」
「と言うと、つまりどういうことになるのです? 僕はまたわからなくなってしまいました」とミウーソフは遮った。「また何かの空想ですね。何だか形のないようなもので、まるでわけがわかりませんよ。破門とはどういうことです、何の破門です? 僕は何だか、慰み半分に言っていられるような気がしてなりませんよ。」
「ところで、事実それは今でも同じことですじゃ。」突然、長老がこう言いだしたので、人々は一せいにそのほうを振り向いた。「実際、今でもキリストの教会がなかったら、犯罪人の悪行《あくぎょう》に少しも抑制がなくなって、その悪行に対して後に加えられる罰すらも、まったく路を絶ったに違いない。しかし、罰というても、今あの人の言われたように、多くの場合、単に人の心をいらだたせるにすぎぬ機械的なものでなしに、本当の意味の罰なのじゃ。つまり真に効果のある、真に人をおののかせかつ柔らげるような、自分の良心の中に納められた本当の罰じゃ。」
「それはどういうわけでしょう? 失礼ですが、伺います」とミウーソフは烈しい好奇心に駆られて訊ねた。
「それはこういうわけですじゃ」と長老は説き始めた。「すべて、今のように流刑に処して懲役につかせる(以前はそれに笞刑まで加わっていたのじゃが)、そういうやり方は決して何人をも匡正することはできませんじゃ。何よりもっとも悪いのは、ほとんどいかなる罪人にも恐怖を起させないばかりか、決して犯罪の数を減少させることがない。それどころか、犯罪は年を追うてますます増加する一方じゃ。これはあなたも同意せられるはずですじゃ。で、つまり、このような方法では社会は少しも保護せられぬということになる。そのわけは、有害な人間が機械的に社会から切り離されて、目に触れぬように遠いところへ追放されるとしても、すぐその代りに別な犯罪者が、一人もしくは二人現われるからじゃ。もし現代において社会を保護するのみならず、犯人を匡正して別人のようにするものが何かあるとすれば、それはやはり自己の良心に含まれたキリストの掟にほかならぬ。ただキリストの社会、すなわち教会の子として自分の罪を自覚した時、犯人ははじめて社会に対して(すなわち教会に対して)自分の罪を悟ることができる。かようなわけで、ただ教会に対してのみ、現代の犯人は自分の罪を自覚するのであって、決して国家に対して自覚するのではない。で、もし裁判権が教会としての社会に属していたならば、どんな人間を追放から呼び戻してふたたび団体の中へ入れたらよいかということが、ちゃんとわかっているはずですじゃ。現今、教会は単なる精神的呵責のほか、なんら実際的な裁判権を持っておらぬから、犯人の実際的な処罰からは自分のほうで遠ざかっておる。つまり決して犯人を破門するようなことはなく、ただ父としての監視の目を放さぬというまでじゃ。その上、犯人に対しても、キリスト教的な交わりを絶やさずにおいて、教会の勤行にも聖餐にも列せさせるし、施物も頒けてやる。そして、罪人というよりはむしろ俘虜に近い待遇をするのじゃ。もしキリスト教の社会、すなわち教会が俗世間の法律と同じように、罪人を排斥し放逐したら、その罪人はどうなるであろう? おお、考えるのも恐ろしい話じゃ! もし教会が俗世間の法律の轍を踏んで、犯罪の起るたびにすぐさま破門の罰を下したらどうであろう? 少くとも、ロシヤの罪人にとって、これより上の絶望はあるまい。なぜというて、ロシヤの犯人はまだ信仰をもっているからじゃ。実際その時はどんな恐ろしいことがもちあがるかも知れぬ、――犯人の自暴自棄な心に信仰の失墜が生じんともかぎらぬ。その時はどうするつもりじゃ? しかし、教会は優しい愛情に充ちた母親のように、実行の罰を自分のほうから避けておる。まったく罪人はそれでなくても、国法によって恐ろしい罰を受けておるのじゃから、せめて誰か一人でもそのような人を憐れむ者がのうてはならぬ。しかし教会が処罰を避けるおもな原因は、教会の裁判は真理を包蔵する唯一無二のものであって、その他の裁判と一時的な妥協をすることさえ、本質的に精神的に不可能であるからじゃ。この場合、いい加減なごまかしはとうてい許されぬ。人の話によると、外国の犯人はあまり後悔するものがないとのことじゃ。つまりそれは現代の教えが、犯罪はその実、犯罪でのうて、ただ不正な圧制力に対する反抗である、という思想を裏書きしているからじゃ。社会は絶対の力をもって、まったく機械的にこういう犯人を自分から切り離してしまう。そして、この追放には憎悪が伴なう(とまあ、少くともヨーロッパの人が自分で言うておる)、憎悪ばかりでなく、自分の同胞たる犯人の将来に関する極度の無関心と忘却が伴なうのじゃ。こういう有様で、一切は教会側からいささかの憐愍をも現わすことなしに行われる。それというのも多くの場合、外国には教会というものが全然なくなって、職業的な僧侶と輪奐の美をきわめた教会の建物が残っておるにすぎぬからじゃ。もう教会はとうの昔に教会という下級の形から、国家という上級の形へ移ろうと努めておる。つまり国家というものの中ですっかり姿を消してしまおうとあせっておるようなものじゃ。少くともルーテル派の国ではそのように思われる。ローマにいたっては、もはや千年このかた、教会に代って国家が高唱されておるではないか。それゆえ、犯人自身も社会の一員という自覚がないから、追放に処せられると、絶望の底に投げ込まれてしまう。よしや社会へ復帰することがあっても非常な憎悪を抱いて帰るものが少くないので、社会が自分で自分を追放するような工合になってしまうのじゃ。これが結局どうなるかは、ご自分でも想像がつきましょう。わが国においても大抵それと同じ有様じゃ、とまあ一見して考えられるが、そこがすなわち問題なのですじゃ、わが国には、国法で定められた裁判のほかに教会があって、何といってもやはり可愛い大切な息子じゃ、というようなふうに犯人を眺めながら、いかなる場合にも交わりを断たぬようにしておる。まだその上に実際的なものではないが、未来のために、空想の中に生きる教会裁判が保存されておって、これが疑いもなく、犯人によって本能的に認められておるのじゃ。たった今あの人が言われたことは本当ですじゃ。すなわち、もし教会裁判が実現されて、完全な力を行使する時がきたら――つまり、全社会がすべて教会に帰一してしもうたら、単に教会が罪人の匡正にかつてその比を見ぬほどの影響を与えるばかりでなく、事実、犯罪そのものの数も異常な割合をもって減少するかもしれぬ。疑いもなく教会は未来の犯人および未来の犯罪をば、多くの場合、今とはまるで別な目をもって見るようになるに相違ない。そうして追放されたものを呼び戻し、悪い企みをいだくものを未然に警め、堕落したものを蘇生さすことができるに相違ない。実のところ」と長老は微笑を浮べた。「いまキリスト教の社会はまだすっかり準備が整うておらぬので、ただ七人の義人を基礎として立っておるばかりじゃが、しかしその義人の力は、まだ衰えておらぬから、異教的な団体から全世界へ君臨する教会に姿を変えようとして、いまだにその期待の道をしっかりと踏みしめておる。これは必ず実現せらるべき約束のものゆえ、よし永劫の後なりともこの願いの叶いますように、アーメン、アーメン! ところで、時間や期限のために心を惑わすことはありませんじゃ、なぜと言うて、時間や期限の秘密は、神の知恵と、神の先見と、神の愛の中に納められておるからじゃ。それに人間の考えでまだまだ遠いように思われることも、神の定めによればもう実現の間際にあって、つい戸の外に控えておるかもしれませんじゃ、おお、これこそ、まことにしかあらせたまえ、アーメン、アーメン!」 
「アーメン、アーメン!」とパイーシイはうやうやしくおごそかに調子を合せた。
「奇妙だ、実に奇妙だ!」とミウーソフが言ったが、その声は熱しているというよりも、むしろ腹の底で何か不平を隠しているというふうであった。
「何がそのように奇妙に思われますかな?」用心ぶかい調子でヨシフが訊ねた。
「本当にこれは一たい何事です!」ミウーソフは、突然堰でも切れたように叫んだ。「地上の国家を排斥して、教会が国家の位置に登るなんて! それは法王権論《ウルトラモンタニズム》どころじゃなくて、超法王権論《アルキウルトラモンタニズム》だ! こんなことは法王グリゴーリイ七世だって夢にも見なかったでしょうよ!」
「あなたはまるで反対に解釈しておいでです!」とパイーシイはいかつい声で言った。「教会が国家になるのではありません、このことをご合点下さい。それはローマとその空想です、それは悪魔の第三の誘惑です! それとは正反対に、国家がかえって教会に同化するのです。国家が教会の高さにまで昇って行って、地球の表面いたるところ教会となってしまうのであります。これは法王権論《ウルトラモンタニズム》ともローマとも、あなたの解釈とも正反対です。そして、これこそ地上におけるロシヤ正教の偉大なる使命なのです。東のかたよりこの国が輝き渡るのであります。」
 ミウーソフはしかつめらしく押し黙っていた。その姿には、なみなみならぬ威厳が現われていた。高いところから見おろすような、へり下った微笑がその口辺に浮んだ。アリョーシャは烈しく胸をおどらしながら、始終の様子に注意していた。この会話が極度に彼を興奮さしたのである。ふとラキーチンのほうを見やると、彼は依然として戸のそばにじっと立ったまま、目こそ伏せているけれど、注意ぶかく耳をすましながら観察している。しかしその頬におどっているくれないによって、彼もアリョーシャに劣らず興奮していることが察しられた。アリョーシャはそのわけを知っていた。
「失礼ですが、一つ、ちょっとした逸話をお話しさせていただきます。」突然、ミウーソフが格別もったいぶった様子で意味ありげに言いだした。「あれは十二月革命のすぐあとでしたから、もう幾年か前のことです。僕は当時パリである一人の非常に権勢のある政治家のところへ、交際上の礼儀のために訪問をしましたが、そこできわめて興味ある人物に出会いました。この人物はただの探偵というより、大勢の探偵隊を指揮している人でした。ですから、やはり一種の権勢家なんですね。ちょっとした機会を掴まえて、僕は好奇心に駆られるままにこの人と話を始めました。ところで、この人はべつに知己として面会を許されたわけでなく、ある報告を持って来た属官という資格でしたから、その長官の僕に対する応接ぶりを見て、いくぶん打ち明けた態度をとってくれました。しかし、それもむろんある程度までで、打ち明けたというよりむしろ慇懃な態度だったのです。実際、フランス人は慇懃な態度をとるすべを知っていますからね。それに、僕が外国人だったからでもありましょう。けれど、僕はその人のいうことがよくわかりました。いろんな話の中に、当時官憲から追究されていた社会主義の革命家のことが話題に上ったのです。その話の主要な点は抜きにして、ただこの人が何の気なしに口をすべらした、非常に興味のある警句をご紹介しましょう。この人の言うことに、『われわれはすべて無政府主義者だの、無神論者だの、革命家だのというような社会主義めいた連中は、あまり大して恐ろしくないです。われわれはこの連中に注目していますから、やり口もわかりきっていますよ。ところが、その中にごく少数ではありますが、若干毛色の変ったやつがいます。これは神を信ずるキリスト教徒で、それと同時に社会主義なのです。こういう連中をわれわれは何よりも恐れます。実際これは恐ろしい連中なんですよ! 社会主義キリスト教徒は、社会主義無神論者よりも恐ろしいのです。』この言葉はすでに当時の僕を驚かしましたが、今こうしてお話を聞いてるうちに、なぜかふいとこれを思い出しましたよ……」
「で、つまり、それをわたくしたちに適用されるのですな、わたくしたちを社会主義者だとおっしゃるのですな?」とパイーシー[#「パイーシー」はママ]はいきなり単刀直入に訊いた。
 しかし、ミウーソフが何と答えようかと考えている間に、とつぜん戸が開いて、だいぶ遅刻したドミートリイが入って来た。実のところ、一同はいつの間にか彼を待たなくなっていたので、このふいの出現は最初の瞬間、驚愕の念すら惹起したものである。

[#3字下げ]第六 どうしてこんな男が生きてるんだ![#「第六 どうしてこんな男が生きてるんだ!」は中見出し]

 ドミートリイは今年二十八、気持のいい顔だちをした、中背の青年であったが、年よりはずっと老けて見える。筋肉の発達した体つきで、異常な腕力を持っていることが察しられたが、それでも顔には何となく病的なところがうかがわれた。痩せた顔は頬がこけて、何かしら不健康らしい黄がかった色つやをしている。少し飛び出した大きな暗色《あんしょく》の目は、一見したところ、何やらじっと執拗に見つめているようであるが、よく見ると、そわそわして落ちつきがない。興奮していらだたしげに話している時でさえ、その目は内部の気持に従わないで、何かまるで別な、時とすると、その場の状況に全然そぐわない表情を呈することがあった。
『あの男は一たい何を考えてるのか、わけがわからない』とは彼と話をした人の批評である。またある人は彼が何かもの思わしげな、気むずかしそうな目つきをしているなと思ううちに、突然思いがけなく笑いだされて、面くらうことがあった。つまり、そんな気むずかしそうな目つきをしていると同時に、陽気なふざけた考えが彼の心中にひそんでいることが、証明されるわけである。もっとも、彼の顔つきがいくぶん病的に見えるのは、今のところ無理からぬ話である。彼がこのごろ恐ろしく不安な遊蕩生活に耽溺していることも、また曖昧な金のことで父親と喧嘩をして、非常にいらいらした気分になっていることも、一同の者はよく知り抜いているからであった。このことについては町じゅうでいろいろな噂が立っていた。もっとも、彼は生れつきの癇癪持ちで、『常軌を逸した突発的な性情』を持っていた。これは、町の判事セミョーン・カチャーリニコフが、ある集会で彼を評した言葉である。
 彼はフロックコートのボタンをきちんとかけ、黒の手袋をはめ、シルクハットを手に持って、申し分のない洒落たいでたちで入って来た。つい近頃退職した軍人のよくするように鼻髭だけ蓄えて、頤鬚は今のところ剃り落している。暗色の髪は短く刈り込んで、ちょっと前の方へまつわらしてあった。彼は軍隊式に勢いよく大股に歩いた。一瞬間、彼は閾の上に立ちどまって、一わたり一同を見廻すと、いきなりつかつかと長老を目ざして進んだ、この人がここのあるじだと見分けをつけたのである。彼は長老に向って、深く腰を屈め祝福を乞うた。長老は立ちあがって祝福してやった。ドミートリイはうやうやしくその手を接吻すると、恐ろしく興奮した、というよりいらいらした調子で口をきった。
「どうも長らくお待たせして相すみません、ご寛容をねがいます。父の使いでまいりました下男のスメルジャコフに、時間のことを念を押して訊ねましたところ、きっぱりした調子で、一時だと、二度まで答えましたので……ところが今はじめて……」
「心配なさることはありません」と長老は遮った。「かまいません、ちょっと遅刻されただけで、大したことはありませんじゃ……」
「実に恐縮のいたりです。あなたのお優しいお心として、そうあろうとは存じていましたが。」
 こうぶち切るように言って、ドミートリイはいま一ど会釈をした。それから急に父のほうを向いて、同じようなうやうやしい低い会釈をした。思うに、彼は前からこの会釈のことをいろいろと考えた挙句、この方法で自分の敬意と善良な意志を示すのが義務だと決したのであろう。フョードルはふいを打たれてちょっとまでついたが、すぐに自己一流の逃げ路を案出した。ドミートリイの会釈に対して、彼は椅子から立ちあがりさま、同じような低い会釈をもって報いた。その顔は急にものものしくしかつめらしくなったが、それがまた、かえって非常にどくどくしい陰を添えるのであった。それからドミートリイは無言のまま、部屋の中の一同に会釈を一つして、例の勢いのいい歩き振りで大股に窓のほうへ近寄り、パイーシイの傍にたった一つ残っていた椅子に腰をおろし、すっかり体を乗り出すようにして、自分が遮った会話のつづきを聞く身構えをした。
 ドミートリイの出席は僅かに二分かそこいらしかかからなかったので、会話はすぐにつづけられねばならぬはずであった。ところが、パイーシイの執拗な、ほとんどいらいらした質問に対して、ミウーソフはもはや返事をする必要を認めなかった。
「どうかこの話はやめにさしていただきたいもんですね」と彼は世間馴れた無造作な調子で言った。「それになかなか厄介な問題ですからね。ご覧なさい。イヴァン君があなたを見てにやにやしておられるから、きっとこの問題に関しても何か面白い説があるんでしょう。この人に訊いてご覧なさい。」
「なに、ちょっとした感想のほか何も変ったことはないですよ」とイヴァンはすぐ答えた。「一般にヨーロッパの自由主義、――ばかりでなく、ロシヤの自由主義ディレッタンティズムまでが、ずいぶん以前から、社会主義の結果とキリスト教の結果とをしばしば混同しています。こうした奇怪千万な論断は、もちろん、彼らの特性を暴露するものでありますが、しかしお話によると、社会主義キリスト教を混同するのは、単に自由主義者ディレッタントばかりでなく、多くの場合、憲兵もその仲間に入るようです。もっとも外国の憲兵にかぎることはもちろんですが……ミウーソフさん、あなたのパリの逸話は非常に興味がありますよ。」
「全体として、この問題はもうやめていただきたいですね」とミウーソフは言った。「その代り、僕は当《とう》のイヴァン君に関するきわめて興味に富んだ特性的な逸話を、もう一つお話ししましょう。つい五日ばかり前のことでした。当地の婦人が集ったある席で、イヴァン君は堂々たる態度で次のような議論を吐かれたのです。すなわち、地球上には人間同士の愛をしいるようなものは決してない。人類を愛すべしという法則は、ぜんぜん存在していない。もしこれまで地上に愛があったとすれば、それは人が自分の不死を信じていたからだ、というのであります。その際、イヴァン君はちょっと括弧の中に挟んだような形で、こういうことをつけたされました。つまり、この中に自然の法則が全部ふくまれているので、人類から不死の信仰を滅したならば、人類の愛がただちに枯死してしまうのみならず、この世の生活をつづけて行くために必要な、あらゆる生命力をなくしてしまう。そればかりか、その時は非道徳的なものは少しもなくなって、すべてのことが許される、人肉嗜食《アンスロポファジイ》さえ許されるようになるとのことです。おまけに、そればかりでなく、今日のわれわれのように、神も不死も信じない各個人にとって、自然の道徳律が宗教的なものとぜんぜん正反対になり、悪行と言い得るほどの利己主義が許されるのみならず、かえってそういう状態において避けることのできない、最も合理的な、高尚な行為として認められざるを得ない、という断定をもって論を結ばれたのであります。皆さん、この愛すべき奇矯な逆説家イヴァン君の唱道され、かつ唱道せんとしていられるその他のすべての議論は、かようなパラドックスから推して想像するにかたくないではありませんか。」
「失礼ですが」と突然ドミートリイが叫んだ。「聞き違えのないように伺っておきましょう。『無神論者の立場から見ると、悪行は単に許されるばかりでなく、かえって最も必要な、最も賢い行為と認められる!』とこういうのですか?」
「確かにそうです」とパイーシイが言った。
「覚えておきましょう。」
 こう言うとすぐ、ドミートリイは黙り込んでしまった。それは話に口を入れた時と同じように突然であった。一同は好奇のまなこを彼に注いだ。
「あなたは本当に人間が霊魂不滅の信仰を失ったら、そのような結果が生じるものと確信しておいでかな?」だしぬけに長老がイヴァンに問いかけた。
「ええ、僕はそう断言しました。もし不死がなければ善行もありません。」
「もしそう信じておられるなら、あなたは仕合せな人か、それともまた恐ろしく不仕合せな人かどっちかじゃ!」
「なぜ不仕合せなのです?」イヴァンは薄笑いをした。
「なぜというに、あなたはどうやら自分の霊魂の不滅も、自分で教会や教会問題について書かれたことも、どちらも信じていられぬらしいからな。」
「あるいはおっしゃるとおりかもしれません!………しかしそれでも、僕はまるっきりふざけたわけじゃないので……」とイヴァンはふいに奇妙な調子で白状したが、その顔はさっと赧くなった。
「まるきりふざけたのではない、それは本当じゃ。この思想はまだあなたの心内で決しられてないので、あなたを悩まし通しておるのじゃ。しかし、悩めるものも時には絶望のあまり、自分の絶望を慰みとすることがある。あなたも今のところ、絶望のあまりに雑誌へ論文を載せたり、社交界で議論をしたりして慰んでおられる。しかし、自分で自分の弁証を少しも信じないで、胸の痛みを感じながら、心の中でその弁証を冷笑しておられる……実際あなたの心中でこの問題はまだ決しておらぬ。この点にあなたの大きな悲しみがある。なぜというに、それはどこまでも解決を強要するからじゃ……」
「この問題が、僕の心中で解決せられることがありましょうか? 肯定のほうへ解決せられることが?」依然としてえたいの知れぬ薄笑いを浮べたまま、長老の顔を見つめながら、イヴァンはまた奇妙な質問をつづけるのであった。
「もし肯定のほうへ解決することができなければ、否定のほうへも決して解決せられる時はない。こういうあなたの心の特性は、ご自分でも知っておられるじゃろう。これがすなわちあなたの苦しみなのじゃ。しかし、こういう苦しみを悩むことのできる高邁なる心をお授け下された創世主に、感謝せられたがよい。『高きものに思いをめぐらし高きものを求めよ。何となればわれらのすみかは天国にあればなり。』どうか神様のお恵みで、まだこの世におられるうちに、この解決があなたの心を訪れますように、そうしてあなたの歩む道が祝福せられますように。」
 長老は手を挙げて、その場に坐ったままイヴァンに十字を切ってやろうとした。しかし、こちらはとつぜん椅子を立って長老に近寄り、その祝福を受けて手を接吻すると、無言に自分の席へ返った。彼の顔つきはしっかりして、真面目であった。この振舞いと、またイヴァンとしては思いがけない長老との会話は、その不可解な点において、また厳粛な点において一同を驚かした。人々はしばらく声をひそめ、アリョーシャの顔にはほとんど慴えたような表情が浮んだほどである。しかし、突然ミウーソフがひょいと肩をすくめると、それをきっかけにフョードルは椅子を飛びあがった。
「神のごとく聖なる長老さま!」と彼はイヴァンを指さしながら叫んだ。「これはわたくしの息子、わたくしの肉から出た肉、わたくしの最愛の肉でございます! これはわたくしの、さよう……尊敬すべきカルル・モールでして。これは、――たった今はいって来ましたドミートリイ、つまり、こうしてお裁きをお願いするようになった相手方でございますが、――これは尊敬すべからざるフランツ・モールでございます(この二人はどっちもシルレルの『群盗』の人物なので)。ところで、わたくしはさしずめ |Regierender《レギーレンター》 |Graf《グラフ》 |von《フォン》 |Moor《モール》の役廻りでございます! どうかご判断の上、お助けを願います! わたくしどもはあなたのお祈りばかりでなく、予言さえも聞かしていただきたいのでございます。」
「そのような気ちがいめいたものの言い方をされぬがよい。そして家の者を辱しめるような言葉で口をきるものではありませんじゃ」と長老は衰えた、よわよわしい声で答えた。見たところ、彼は疲れが烈しくなるにつれて、だんだん気力を失ってゆく様子であった。
「愚にもつかない茶番です。僕はここへ来る前から感づいていました!」とドミートリイは憤懣のあまり、同じく席を飛びあがってこう叫んだ。「お許し下さい、長老さま」と彼はゾシマのほうを向いて、「僕は無教育な男ですから、何と言ってあなたをお呼び申したらいいか知らないくらいですが、あなたは騙されていらっしゃるのです。わたしどもにここへ集ることを許して下すったのは、あまりお心が優しすぎたのです。親爺に必要なのは不体裁な馬鹿さわぎだけなんです。何のためか、それは親爺の胸一つにあることです。親爺にはいつでも自己一流の目算があるのですから。しかし、今になってみると、どうやらその目的がわかるような気がしますよ……」
「みんなが、みんながわたくし一人を悪しざまに申します!」と、フョードルも負けず劣らず叫んだ。「現にミウーソフさんもわたくしを責めます。いいや、ミウーソフさん、責めましたよ、責めました!」ふいに彼はミウーソフのほうを向いてこう言った。そのくせ、べつに彼が口を出したわけでもないのである。「つまり、わたくしが子供の金を靴の中に隠して、口の端を拭っている、と言うて責めるんですが、しかし裁判所というものがありますからね、ドミートリイさん、そこへ出たら、お前さんの書いた受取りや手紙や証文を基として、お前さんのところに幾らあったか、お前さんが幾ら使ったか、そして今幾ら残ってるか、すっかり勘定してくれまさあね! ミウーソフさんが裁判を嫌うわけは、ドミートリイさんがこの人にとってまんざらの他人でないからですよ。それで皆がわたしに食ってかかるんです。ドミートリイさんはかえってわしに借りがあるくらいですよ。しかも少々のはした金じゃなくて、何千というたかですからな。それにはちゃんと証拠があります! なにしろこの人の放蕩の噂で、いま町じゅうが、煮えくり返るほどですからな! それから、以前勤務しておった町では、良家の処女を誘惑するために、千の二千のという金をつかったもんでさあ。なあ、ドミートリイさん、よっく承知しとりますよ、人の知らん秘密まで詳しく知っとりますよ、わしが立派に証明しますよ……神聖なる長老さま、あなたは本当になさるまいけれど、この人は高潔無比な良家の令嬢を迷わしたのでございます。お父さんは自分の元の長官で、アンナ利剣章を首にかけた、勲功ある勇敢な大佐なので。こういう令嬢に結婚を申し込んで迷惑をかけたために、当の令嬢はいま両親のないみなし子としてこの町に暮しております。もう許婚《いいなずけ》の約束ができておるくせに、ドミートリイさんはその人を目の前において、この町の淫売のところへ通っておるのでございます。もっとも、以前は淫売でしたが、今はさる立派な仁《じん》と民法結婚([#割り注]法律で認められたばかりで教会の祝福を受けないもの[#割り注終わり])をして、それになかなか気性のしっかりした女ですから、誰に言わしても難攻不落の要塞、まあ正妻も同じこってさあ。なにしろ淑徳の高い女ですからなあ、まったく! ねえ、和尚さん方、本当に淑徳の高い女でございます! ところでドミートリイは、この要塞を黄金の鍵で開けようとしておるもんだから、今わたくしを相手に威張り返っておりますので。つまり、わたくしから金をもぎ取りたいのでございます。もう今までにも、この淫売のために、何千という金をちりあくた同然に使うておるんですからなあ。だから、のべつ借金ばかりしてるんでさあ。しかし、誰から借りるんだとお思いになります? おい、ミーチャ、言おうか言うまいか?」
「お黙んなさい!」とミーチャが叫んだ。「僕の出て行くまで待って下さい、僕のいるところで、純潔な処女を穢すようなことは言わせない……あなたがあの人のことを口にしたということだけでも、あの人の身の穢れです……僕は許しません!」
 彼は息をはずましていた。
「ミーチャ! ミーチャ!」とフョードルはよわよわしい調子で、涙を絞り出しながら叫んだ。「一たい生みの親の祝福は何のためなんだ。もしわしがお前を呪うたら、その時はどうするつもりだ?」
「恥知らずの面かぶり!」とドミートリイは獰猛に呶鳴りつけた。
「あれが父親に、現在の父親に向って言う言葉ですもの、ほかの人にどんなことをするかわかったもんじゃありません! 皆さん、ここに一人の退職大尉がおります。貧乏だが名誉ある仁《じん》でございます。とんでもない災難のために退職を命じられましたが、公けに軍法会議に付せられたわけではなく、名誉は立派に保持されて退職になったのでございます。いま大勢の家族のために難儀しておりますが、三週間ばかり前、ミーチャがある酒屋で、この仁の髯を掴んで往来へ引っ張り出し、多くの人の目の前でうち打擲したのでございます。それというのも、この仁がちょっとした事件について、内証でわたくしの代理人を勤めたからなので。」
「それはみんな嘘です! 外見は事実だが、裏面から見るとみな嘘の皮です!」ドミートリイは憤怒に全身を慄わせた。「お父さん、僕は自分の行為を弁護するわけじゃありません。いや立派に皆さんの前で白状します。僕はその大尉に対して獣同然の振舞いをしました。今でもあの獣のような行為を悔んで、われとわが身に愛想をつかしています。しかし、あなたの代理人とかいうあの大尉は、たった今お父さんが淫売と言われた婦人のところへ行って、もしミーチャがあまりうるさく財産の清算を迫ったら、あなたのところにあるミーチャの手形を引き受けて訴訟を起し、あいつを監獄へぶち込んでくれと、あなたの名で申し込まれたのです。お父さんは、僕がこの婦人に弱みを持っていると言われたが、その実あなたがこの婦人をそそのかして、僕を誘惑さしたのじゃありませんか! ええ、あの女が僕に面と向って話して聞かせましたよ。自分で僕にぶちまけて、あなたのことを笑っていましたよ! ところで、あなたが僕を監獄へ入れたがるわけは、あの婦人のことで僕に嫉妬しているからです。そうです、あなたは自分からあの婦人に言い寄ったのです。これもやはりあの女が笑いながら話して聞かせたから、僕ちゃんと承知しています、――いいですか、あなたのことを笑いながら、僕に話して聞かせたんですよ。皆さん、このとおりです、放蕩息子を咎める父親がこのとおりの人間なんです! 皆さん、どうか僕の怒りっぽい性分を赦して下さい。しかし、僕は初めからこの狸じじいが、ただ不体裁な空騒ぎのために、皆さんをここへ呼んだってことは、ちゃんと感づいていました。僕はもし親爺が折れて出たら、こっちから赦しもし、また赦しも乞おうと思ってやって来たのです。しかし、親父は僕一人でなく、僕が尊敬のあまりいたずらに名前を口にすることさえ憚っている純潔な処女まで辱しめましたから、こっちもこの男のからくりを、皆さんの前で、すっかり暴露してやる気になったのです。実際、僕にとっては親身の父なんですけれど……」
 彼はもはや言葉をつづけることができなかった。目はぎらぎら光って、息づかいも苦しそうであった。庵室の中はざわめいてきた。長老を除く一同の者は不安に駆られて席を立った。二人の主教は厳めしい目つきをして睨んでいたが、それでもまだ長老の意見を待っていた。当の長老は真蒼な顔をしていたが、それは興奮のためでなく病的な衰弱のせいであった。祈るような微笑がその唇にほのかに光っていた。彼は怒り狂う人々を押し鎮めようとするかのごとく、ときどき手を挙げるのであった。もちろんこの身振り一つで、この騒ぎを鎮めるのに十分なはずであったが、彼はまだ何かはっきりせぬことがあって、それをよく呑み込んでおこうとするように、じっと一座の光景に見入りながら控えていた。ついにミウーソフは、自分がまったく辱しめられ、穢されたような心持がした。
「この不体裁の責任はわれわれ一同にあるのです!」と彼は熱した調子で言いだした。「僕はここへ来る前に、まさかこうまでとは思いもよらなかったのです。もっとも、相手が誰だかってことは承知していましたが……これは即刻、始末をつけなきゃなりません! 長老さま、どうぞ信じて下さい、僕は今ここで暴露された事実の詳細を知らなかったのです。そんなことは本当にしたくなかったのです。まったくいま聞き初めなのです……現在の父親が卑しい稼業の女のために息子を嫉妬して、その売女《じごく》とぐるになって息子を牢へ入れようとするなんて……僕はこんな連中の中へ交わるように仕向けられたのです……欺かれたのです、皆さんの前で明言します、僕は皆さんに劣らぬくらい欺かれたのです……」
「ドミートリイさん!」突然フョードルが、何かまるで借物のような声を振り絞った、「もしお前さんがわしの息子でなかったら、わしはすぐにも、お前さんに決闘を申し込むところなんだ……武器はピストル、距離は三歩……ハンカチを、ハンカチを上から被せてな!」と彼は、地団太を踏みながら言葉を結んだ。
 こうして、一生涯役者の真似をし通した嘘つき老人でも、興奮のあまり本当に身ぶるいしながら泣きだすほど、真に迫った心持になる瞬間がよくあるものである。もっとも、その瞬間(もしくは一秒ほどたった後)『やい、恥知らずの老いぼれ、貴様がどんなに「神聖な」怒りだの、「神聖な」怒りの瞬間を感じたって、やはり貴様は嘘をついてるのだ、今でも役者の真似をしてるのだ』と自分で自分に囁くのだ。
 ドミートリイは恐ろしく眉を顰めて、何とも言えない侮蔑の色を浮べながら父を見つめた。
「僕は……僕は、」彼は妙に静かな抑えつけたような調子で言いだした。「僕は故郷《くに》へ帰ったら、自分の心の天使ともいうべき未来の妻とともに、父の老後をいたわろうと思っていたのです。ところが来てみると、父は放埒無慙の色情狂で、しかも卑劣この上ない茶番師なんです!」
「決闘だ!」と老人は息を切らして、一語一語に唾を飛ばしながら泣き声を上げた。「ところで、ミウーソフさん、今あんたが失礼にも『じごく』呼ばわりをしたあの女ほど、高尚で潔白な(いいですか、潔白なと言うておるんですよ)婦人は、あんたのご一門に一人もありませんよ! それから、ドミートリイさん、お前さんが自分の許嫁をあの『じごく』に見かえたところを見ると、つまり許嫁の令嬢でさえあの『じごく』の靴の裏ほどの値うちもないと考えたわけでしょう。あの『じごく』はこういうえらい女ですよ!」
「恥しいことだ!」と、突然ヨシフが口をすべらした。
「恥しい、そして穢わしいことだ!」しじゅう無言でいたカルガーノフが突然真っ赤になって、子供らしい声を顫わせながら、興奮のあまりこう叫んだ。
「どうしてこんな男が生きてるんだ!」背中が丸くなるほど無性に肩を聳かしながら、ドミートリイは憤怒の情に前後を忘れて、低い声で唸るように言った。「もう駄目だ、まだこのうえ神聖なる土をけがすようなことを、赦しておくわけにいかんです。」片手で長老を指し示しつつ、彼は一同を見廻した。彼の言葉は静かで規則ただしかった。
「聞きましたか、坊さん方、親殺しの言うことを聞きましたか?」とフョードルはだしぬけにヨシフに食ってかかった。「あれがあなたの『恥しいことだ』に対する返答ですよ! 一たい恥しいとは何のことです? あの『じごく』は、あの『卑しい稼業の女』は、ここで行《ぎょう》をしているあなた方より、ずっと神聖かもしれませんよ! 若い時分には周囲の感化を受けて堕落したかもしれないが、その代りあの女は『多くのものを愛し』ましたよ。多く愛したるものは、キリストさえもお赦しになりましたからな……」
「キリストがお赦しになったのは、そのような愛のためではありません……」温順なヨシフもこらえきれないで、思わずこう言った。
「いいや、お坊さん方、そのような愛のためです、そうですよ、そうですよ! あなた方はここでキャベツの行をして、それでもう神様のみ心にかなうものだと思うていなさる! 川ぎすを食べて、――一日に一匹ずつ川ぎすを食べて、川ぎすで神様が買えると思うていなさる!」
「もうあんまりだ。あんまりだ!」という声が庵室の四方から起った。
 しかし極端にまで達したこの醜い場面は、実に思いがけない出来事によって破られた。ふいに長老が席を立ったのである。師を思い一同を思う恐怖のために、ほとんど途方にくれきっていたアリョーシャは、ようやっとその手を支えることができた。長老はドミートリイのほうをさして歩きだした。そして、ぴったりそばへ寄り添うた時、彼はその前に跪いたのである。アリョーシャは長老が力つきて倒れたのかと思ったが、そうではなかった。長老は膝をつくと、そのままドミートリイの足もとへ、額が地につくほど丁寧な、きっぱりした、意識的な礼拝をするのであった。アリョーシャはすっかりびっくりしてしまって、長老が立ちあがろうとした時も、たすけ起すのを忘れていたほどである。よわよわしい微笑がようやく口のほとりに薄く光っていた。
「ご免下され、皆さん、ご免下され!」彼は四方を向いて、客一同に会釈しながらこう言った。ドミートリイは一、二分の間、雷にでも打たれたように棒立ちになっていた。『自分の足もとに辞儀をするとは、一たい何としたわけだろう?』が、とうとうふいに「ああ、なんてこった!」と叫んで、両手で顔を蔽いながら、部屋の外へ駆け出してしまった。それにつづいて一同は、慌てて主人に挨拶も会釈もしないで、どやどやと出て行った。ただ二人の主教のみは、ふたたび祝福を受けるために長老のそばへ寄った。
「あの長老が足にお辞儀をしたのは一たい何事でしょう、何かのシンボルでしょうかな?」なぜか急におとなしくなったフョードルが、また会話の糸口を見つけようと試みた。しかし、とくべつ誰に向って話しかけようという勇気もなかった。一行はこのとき庵室の囲いそとへ出ようとするところであった。
「僕は精神病院や気ちがいに対して、何の責任もないですよ」とミウーソフがすぐさま腹立たしげに答えた。「しかし、その代り、あなたと同座は真っ平ごめん蒙ります、しかも永久にですよ、いいですか、フョードルさん。さっきの坊主はどこへ行ったんだろう?」
 しかし、さきほど僧院長のもとへ食事に招待したこの『坊主』は、あまり長く探させはしなかった。一行が庵室の階段をおりるとすぐ、彼はまるで始終ずっと待ち通していたように、さっそく出迎えたのである。
「あなた、まことに恐れ入りますが、わたくしの深い尊敬を僧院長にお伝え下すった上で、急に思いがけない事情が起ったために、どうしてもお食事《とき》をいただくわけにまいりませんから、あなたからよろしくお詫びして下さいませんか、まったく心から頂戴したいとは存じているのですけれど。」ミウーソフは僧に向っていらいらした調子で言った。
「その思いがけない事情というのはわしのことでしょう!」とすぐにフョードルは押えた。「もしあなた、ミウーソフさんはわたしと一緒にいたくないから、ああ言われるんです。でなければ、すぐに出かけなさるはずなんですよ。だから、おいでなさい、ミウーソフさん、僧院長のところへ顔をお出しなさい、そして、――機嫌よう召し上れ! いいですか、あんたよりわたしがごめん蒙りましょう。帰ります、帰ります。帰って家で食べましょうよ。ここではとてもそんな元気がありません、なあ、うちの大事な親類のミウーソフさん。」
「僕はあなたの親類でもないし、今まで親類だったこともありませんよ。本当にあなたは下司な人だ!」
「わしはあんたを怒らせるために、わざと言ったんです。なぜというて、あんたは親類と言われるのを馬鹿に嫌うておいでですからな。しかし、あんたが何とごまかしても、やはり親類に相違ありません。それは教会の暦を繰っても証明できまさあ。ところで、イヴァン、お前も残っていたかったら、わしがいい時刻に馬車をよこしてやるよ。なあ、ミウーソフさん、あんたは礼儀から言うても、僧院長のところへ顔を出して、わしと二人が長老のところで騒いだことを、お詫びしなくちゃなりませんて……」
「あなた、本当に帰るんですか? 嘘じゃありませんか?」
ミウーソフさん、ああいうことのあった後で、どうしてそんな真似ができるものですか! つい夢中になったのです、本当に皆さん失礼しました、夢中になってしまったのです! おまけに腹の底までゆすられたもんですからな! 実に恥しい。なあ、皆さん、人によっては、マケドニヤ王アレクサンドルのような心を持っておるかと思えば、また人によっては、フィデルコの犬みたいな心を持ったものもあります。わしの心はフィデルコの犬のほうでしてな、すっかり気おくれがしてしまいましたよ! あんな乱暴をしたあとで、どの面さげてお食事《とき》に出られるもんですか、どうしてお寺のソースを平らげたりなんかできますか! 恥しくてできませんよ、失礼します!」
『わけのわからん男だ、あるいは一杯くわすかもしれないて!』次第に遠ざかり行く道化者を不審そうに見送りながら、ミウーソフは思案顔に佇んだ。フョードルは振り返って見て、彼が自分を見送っているのに気がつくと、手で接吻を送るのであった。
「君は僧院長のところへ行きますか?」ぶっきら棒な調子でミウーソフはイヴァンに訊ねた。
「どうして行かずにいられますか? それに僕は昨日から、僧院長の特別な招待をもらってるんですからね。」
「残念ながら、僕も同様、あのいまいましいお食事《とき》にぜひ出席しなければならないように思いますよ。」ミウーソフは僧が聞いているのもおかまいなしで、例の苦々しそうないらいらした調子で語をついだ。「それにわれわれがしでかしたことを謝った上で、あれは僕らのせいでないということを明らかにするためから言ってもね……君は何とお思いです?」
「そう、あれが僕らのせいでないってことを、明らかにする必要がありますね。それに、親父もいないことですから」と、イヴァンが答えた。
「あたりまえですよ、お父さんが一緒でたまるもんですか! 本当にいまいましい『おとき』だ!」
 が、それでも一同は先へ進んで行った。小柄な僧は押し黙って聞いていた。木立を越して行く道すがら、僧院長はずっと前から一行を待っていて、もう三十分以上おくれてしまったと、たった一度注意したばかりである。誰一人それに答えるものはなかった。ミウーソフは、にくにくしげにイヴァンを見やりながら、
『まるで何事もなかったような顔をして、しゃあしゃあとお食事《とき》へ出ようとしている!』と腹の中で考えた。『鉄面皮|即《そく》カラマーゾフの良心だ!』

[#3字下げ]第七 野心家の神学生[#「第七 野心家の神学生」は中見出し]

 アリョーシャは長老を寝室へ導いて、寝台の上へたすけのせた。それはほんのなくてならぬ道具を並べただけの、ささやかな部屋であった。寝台は鉄で造った幅の狭いもので、その上には蒲団の代りに毛氈が敷いてあるばかりだった。聖像を安置した片隅には読書づくえがすわっていて、十字架と福音書とが載せてある。長老は力なげに、寝台の上に身を横たえたが、その目はぎらぎら光って、息づかいも苦しそうであった。すっかり体を落ちつけたとき、彼は何か思いめぐらすように、じっとアリョーシャを見つめるのであった。
「行って来い、行って来い、わしのところにはポルフィリイが一人おったらたくさんじゃで、お前は急いで行くがよい。お前はあちらで入り用な人じゃ、僧院長のお食事《とき》へ行って給仕するがよい。」
「どうぞお慈悲に、ここにおれと言って下さいまし」とアリョーシャは祈るような声で言った。
「いや、お前はあちらのほうで余計いり用なのじゃ、あちらには平和というものがないからなあ。給仕をしておったら、何かの役に立とうもしれぬ。騒動が始まったらお祈りをするがよい。それにな、倅(長老は好んで彼をこう呼んだ)、今後ここはお前のいるべき場所でないぞ。よいか、このことを覚えておってくれ。神様がわしをお召し寄せになったら、すぐにこの僧院を去るのじゃぞ。すっかり去ってしまうのじゃぞ。」。
 アリョーシャはぎっくりした。
「お前は何としたことじゃ? ここは当分お前のおるべき場所でない。お前が娑婆世界で偉大な忍従をするように、今わしが祝福してやる。お前はまだまだ長く放浪すべき運命なのじゃ。それに、妻も持たねばならぬ。きっと持たねばならぬ。そして、ふたたびここへ来るまでは、まだまだ多くのことを堪え忍ばねばなりませんぞ。そうして、仕事もたくさんあるじゃろう。しかし、お前という者を信じて疑わぬから、それでわしはお前を娑婆世界へ送るのじゃ。お前にはキリストがついておられる。気をつけてキリストを守りなさい、そうすればキリストもお前を守って下さるであろう! 世間へ出たら、大きな悲しみを見るであろうが、その悲しみの中にも、幸福でおるじゃろう。これがわしの遺言じゃ、悲しみの中に幸福を求めるがよい。働け、たゆみなく働け。よいか、今からこの言葉を覚えておくのじゃぞ。なぜというに、お前とはまだこの先も話をするけれど、わしは残りの日数ばかりでなく、時刻さえもう数えられておるからじゃ。」
 アリョーシャの顔にはふたたび烈しい動揺が現われた。唇の両隅がぴりりと慄えた。
「またしても何としたことじゃ?」と長老は静かにほお笑んだ、「俗世の人々は涙をもって亡き人を送ろうとも、われわれ僧族はここにあって、去り行く父を悦ばねばならぬのじゃ。悦んでその人の冥福を祈ればよいのじゃ。さ、わしを一人でおいてくれ、お祈りをせねばならぬでな、急いで行って来い。兄のそばにおるのじゃぞ。それも一人きりでのうて、両方の兄のそばにおるのじゃぞ。[#「じゃぞ。」はママ]
 長老は祝福の手を上げた。アリョーシャは無性にここへ残りたくてたまらなかったが、もはや、言葉を返す余地はなかった。まだそのうえ長老が兄ドミートリイに、地に額のつくほど拝をしたのは何の意味か、それをも訊いてみたくてたまらなかった。危くこの問が口をすべるところであったが、やはり問いかける勇気がなかった。それができるくらいなら、長老が問われない先に自分から説明してくれるはずだ。つまり、そうする意志がないからである。しかし、あの行為は恐ろしくアリョーシャを驚かした。彼はあの中に神秘的な意味の存することを、盲目的に信じていた。神秘的というより、あるいは恐ろしい意味かもしれない。
 僧院長の昼餐の始まりに間に合うよう(もちろん、それはただ食卓に侍するのみであった)、僧院をさして庵室を出たとき、急に彼は心臓を烈しく引きしめられるような思いがしてそのまま立ちすくんでしまった。自分の近い死を予言した長老の言葉が、ふたたび耳もとで響くような思いであった。長老が予言したこと、しかもあれほど正確に予言したことは、必ず間違いなしに実現する。それはアリョーシャの信じて疑わぬところであった。しかし、あの人が亡くなったら、自分はどうなるだろう、どうしてあの人を見ず、あの人の声を聴かずにいられよう? それにどこへ行ったらいいのだろう? 長老は泣かないで僧院を出て行けと命じている、ああ、何としよう! アリョーシャはもう長い間こんな悩みを経験したことがなかった。彼は僧院と庵室を隔てている木立を急ぎ足に歩みながら、自分の想念を押しこたえることができなかった。それほど自分で自分の思いに心をひしがれたのである。彼は径の両側につらなる、幾百年かへた松の並木をじっと見つめた。その径は大して長いものでなく、僅か五百歩ばかりにすぎなかった。この時刻に誰とも出くわすはずがないと思っていたのに、突然はじめての曲り角にラキーチンの姿が見えた。彼は誰やら待ち受けていたのである。
「僕を待ってるんじゃないの?」アリョーシャはそばへ寄ってこう訊いた。
「図星だ。君なのさ。」ラキーチンはにやりと笑った。「僧院長のところへ急いでるんだろう、知ってるよ。饗応があるんだからね。大主教がパハートフ将軍と一緒にお見えになったとき以来、あれほどのご馳走は今までなかったくらいだ。僕はあんなところへ行かないが、君は一つ出かけて、ソースでも配りたまえ。ただ一つ聞きたいことがあるんだ。一たいあの寝言は何のこったね? 僕こいつが訊きたくってさ。」
「寝言って何?」
「あの君の兄さんに向って、地べたに頭がつくほどお辞儀をしたやつさ。しかも、額がこつんといったじゃないか!」
「それはゾシマ長老のことなの?」
「ああ、ゾシマ長老のことだよ。」
「額がこつんだって?」
「ははは、言い方がぞんざいだって言うのかい! まあ、ぞんざいだっていいやね。で、一たいあの寝言は何のことだろう?」
「知らないよ、ミーシャ、何のことだかねえ。」
「じゃ、長老は君に話して聞かせなかったんだね、そうだろうと思ったよ。もちろん、何も不思議なことはないさ。いつもおきまりの有難いノンセンスにすぎないらしい。しかし、あの手品はわざと拵えたものなんだよ。今に見たまえ、町じゅうの有難や連が騒ぎだして、県下一円に持ち廻るから。『一たいあの寝言は何のことだろう?』ってんでね。僕の考えでは、お爺さん本当に洞察力があるよ。犯罪めいたものを嗅ぎ出したんだね。まったく君の家庭は少々臭いぜ。」
「一たいどんな犯罪を?」
 ラキーチンは、何やら言いたいことがあるらしいふうであった。
「君の家庭で起るよ、その犯罪めいたものがさ。それは君の二人の兄さんと、福々の親父さんの間に起るんだよ。それでゾシマ長老も万一をおもんばかって、額でこつんをやったのさ、あとで何か起った時に、『ああ、なるほど、あの聖人が予言したとおりだ』と言わせるためなんだ。もっとも、あのお爺さんが額でこつんとやったのは、予言でも何でもありゃしないよ。ところが、世間のやつらは、いやあれはシンボルだ、いやアレゴリイでござるとか、いろんなくだらもないことを言って語り伝えるのさ。犯罪を未然に察したとか、犯人を嗅ぎ出したとかってね。宗教的畸人《ユロージヴァイ》なんてものはみんなそうなんだ。酒屋に向いて十字を切って、お寺へ石を投げつける、――君の長老殿もそのとおりで、正直なものは棒で追いたくりながら、人殺しの足もとにはお辞儀をする……」
「どんな犯罪なの? 人殺しって誰のことなの?」アリョーシャは釘づけにされたように突立った。ラキーチンも立ちどまった。
「どんなって? 妙に白を切るね! 僕、賭けでもするよ、君はもうこのことを考えてたに相違ない。しかし、こいつあちょっと面白い問題だ。ねえ、アリョーシャ、君はいつも二股膏薬だけれど、とにかく本当のことを言うから、一つ訊こうじゃないか、――一たい君はこのことを考えてたのかい?」
「考えてたよ」アリョーシャが低い声で答えたので、当のラキーチンさえ少々面くらった。
「何だって? 本当に君はもう考えてたのかい?」と彼は叫んだ。
「僕……僕はべつに考えてたってわけじゃないけれども」とアリョーシャはあやふやした調子で、「いま君があんな妙なことを言いだしたので、僕自身もそんなことを考えていたような気がしたのさ。」
「ほらね? ほらね? (いや、まったく君は上手に言い廻したよ)。今日おやじさんと兄さんのミーチャを見てるうちに、犯罪ということを考えたんだろう? してみると、僕の推察は誤らないだろう?」
「まあ、待ちたまえ、待ちたまえ」とアリョーシャは不安そうに遮った。「君はどういうところから、そんなことを感づいたの?……何だってそんなことばかり気にするの、これが第一の問題だ。」
「その二つの質問はまるで別々なのだが、しかし自然なものだあね。おのおの別々に答えよう。まずどういうところから感づいたかってのは、きょう君の兄さんのドミートリイの正体を突然、一瞬の間にすっかり見抜いてしまったからだ。でなけりゃ、そんなことを感づくはずじゃなかったのさ。つまり、何かしらちょっとしたところから、すっかりあの人の全貌を掴んでしまったのさ、ああいう正直一方の、しかし情欲の熾んな人には、決して踏み越してならない一線がある。まったくあの人はいつどんなことで、親父さんを刀でぷすりとやらないともかぎらないよ。ところが、親父さんは酔っ払いの放埒な道楽者で、何事につけても決して度というものがわからない。そこで両方とも譲り合おうとしないから、一緒にどぶの中へ真っ逆さまに……」
「違うよ、ミーシャ、違うよ。もしそれだけのことなら僕も安心した。そんなところまで行きゃしないから。」
「何だって君、そんなにぶるぶる慄えてるんだい? 一たい君にこういうことがわかるかい? よしやあの人が、ミーチャが正直な人だとしても(あの人は馬鹿だけれど、正直だよ)、しかし、あの人は好きものだからね。これがあの人に対する完全な評語だ、あの人の勘どころだ。それは親父さんがあの人に下劣な肉欲を譲ったからだよ。僕はただ君だけには驚いてるよ、ねえ、アリョーシャ、君はどうしてそんなに純潔なんだろう? だって、君もやはりカラマーゾフじゃないか? 君の家庭では肉欲が炎症とも言うべき程度に達してるんだものね。ところで、今あの三人の好きものが互いに追っかけあっている……ナイフを長靴の胴に隠してね。こうして、三人が鉢合せをしたんだから、あるいは君も第四の好きものかもしれないぜ。」
「しかし、君もあの女のことは思い違いをしてるよ。ミーチャはあの女を……軽蔑している。」何だか妙に身ぶるいしながらアリョーシャはこう言った。
「グルーシェンカを? いいや、君、軽蔑しちゃいないよ。現在自分の花嫁を公然とあの女に見かえた以上、決して軽蔑してるとは言えない。その間《かん》には……その間には今の君に理解できないようなことがあるのだ。もしある男が一種の美、つまり女の肉体、もしくは肉体のある一部分に迷い込んだら(これはああした好きものでなければわからないが)そのためには、自分の子供でも渡してしまう、父母もロシヤも売ってしまうのだ。正直でありながら盗みをやる、温良でありながら人殺しをする、誠実でありながら謀叛をする。女の足の讃美者プーシュキンは、自分の詩([#割り注]オネーギン[#割り注終わり])のなかで女の足を歌ってる。ほかの連中は歌いこそしないが、戦慄を感じずに女の足を見ることができないのだ。しかし、もちろん、足ばかりにかぎらないがね……で、よしんばミーチャがあの女を軽蔑してるにしてからが、この際、軽蔑なぞ何の役にも立ちゃしない。軽蔑してるくせに目を放すことができないのだ。」
「それは僕にもわかる。」アリョーシャはだしぬけにわれ知らず言い放った。
「へえ? 君がそんなにいきなり不注意に言ってのけたところを見ると、君はこのことが本当にわかるんだね」とラキーチンは意地わるい悦びを浮べつつ叫んだ。「君は今なんの気なしに口をすべらしたんだが、それだけ君の自白がなおさら尊いものになるよ。つまり、このテーマはもう君にお馴染みなんだね。この肉欲ということをもう考えてたんだね! ようよう童貞の少年よ! と言いたくなるね。ねえ、アリョーシャ、君がおとなしい神聖な人間だってことは僕も異存なしだが、神聖であると同時に、まあ大変なことを考えてるんだね、本当に大変なことを承知してるんだね! 童貞の少年であると同時に、もうそんな深刻な道を通ってるんだ。僕も前からそれを観取していたよ。君自身もやはりカラマーゾフだ、徹頭徹尾カラマーゾフだよ、――してみると、血統というやつは争えんものだなあ。親父の方からは好きもの、母親の方からは宗教的畸人《ユロージヴァイ》の性を受けたんだ。何だってぶるぶる慄えるんだい? それとも図星をさされたのかね。ときにね、君、グルーシェンカが僕に頼んだぜ、『あの人を(つまり君のことさ)つれて来てちょうだい、わたしあの人の法衣を脱がしちゃうから』ってね、まったく一生懸命に頼んだぜ、連れて来い、連れて来いって。一たい何だってあの女が、ああまで君に興味を持つのかと、僕は不思議に思ったよ。君、あれもやはり非凡な女だよ!」
「よろしく言ってくれたまえ、行きゃしないから」と、アリョーシャは苦笑いをした。「それよりか、ミーシャ、言いさしたことをしまいまで話したまえ。僕はあとから自分の考えを言うから。」
「この際、しまいまで話すも何もありゃしない。何もかも明白だあね。こんなことは古臭い話だあね。もし君の体の中に好きものが隠れているとすれば同腹の兄さんのイヴァンにいたってはどうだろう? あの人もやはりカラマーゾフだからね。この中に君たちカラマーゾフの問題がふくまれてるのさ、――好きものと、欲張りと、宗教的畸人《ユロージヴァイ》か! 今イヴァン君は無神論者のくせに、何かわけのわからない恐ろしい馬鹿げた目算のために、神学的な論文を冗談半分に雑誌に載せてる。そして、自分のやり方の卑劣なことを自分で承知しているのだ、――君の兄貴のイヴァン君がさ。おまけに兄のミーチャからお嫁さんを横取りしようとしてるが、この魂胆はおそらく成就するだろう。しかも、どんなふうにやっているかというと、当のミーチャの承諾を得たうえなんだから驚くよ。なぜって、ミーチャは、ただただ許嫁の絆を逃れて、あのグルーシェンカのところへ走りたいばっかりに、みずから進んで未来の妻を譲ろうとしているんだからね。しかも、それが公明潔白な性質から生じるのだから、注目の価値があるよ。まったく揃いも揃って恐ろしい連中だ! こうなってくると、何が何やらわかったもんじゃない。自分で自分の卑劣を自覚しながら、その卑劣の中へ入って行くのだ! それから、まあ、先を聞きたまえ。今ミーチャの道をせいているのはあの老いぼれ親父だ。親父さんはこのごろ急にグルーシェンカに血道を上げて、あの女の顔を見たばかりで、涎をたらたら流してるじゃないか。親父さんがいま庵室で大乱痴気をしでかしたのは、ただミウーソフが無遠慮にあの女のことを、じごくだなんぞと言ったからさ。まるでさかりのついた猫より劣ってる。以前あの女は何か酒場に関係したうしろ暗い仕事で、親父さんの手助けをしていたが、いまごろ急にその器量に気がついて、気ちがいのようになって申し込みを始めたんだ、もっとも、その申し込みもむろん、正々堂々たるものじゃないがね。だから二人は、――親父さんと兄さんは、どうしてもこの道で衝突しずにいられないよ。ところで、グルーシェンカのほうは、どっちともつかない曖昧なことを言って、両方をからかってる。そして、どっちがとくだか日和見しているのさ。なぜって、親父さんのほうからは金が引き出せるけれど、その代り結婚はしてくれない。そして、しまいにはすっかりユダヤ式になっちまって、財布の口をしめて放さないかもしれない。こうなると、ミーチャにも別種の価値が生じてくる。金はないけれど、その代り結婚する。うん、結婚するよ! 自分の許嫁を捨てて、――金持で、貴族で、大佐令嬢のカチェリーナ・イヴァーノヴナという、比較にならぬほどの美人を棄てて、町長のサムソノフに、百姓爺のような道楽者の商人に囲われていた、グルーシェンカと結婚するに相違ない。こういうすべての事情を総合すると、本当に何か犯罪めいたものが起るかもしれないよ。ところが、兄さんのイヴァンはそれを待ち受けてるんだ。それこそ有卦に入るというものさ。自分がいま身も細るほど思ってるカチェリーナさんも手に入るし、六万ルーブリというあの人の持参金も手繰り込めようという算段だ。イヴァン君のような裸一貫の男にとっては、この金高は手はじめとしてなかなか悪くないよ。それからまだ注意すべきは、それがミーチャを侮辱しないばかりか、かえって死ぬまで恩に着られるということさ。僕たしかに知ってる。つい先週ミーチャがある料理屋でジプシイ女などと一緒に酔いつぶれた挙句、自分はカーチャを妻とする値うちがない。ところが、弟のイヴァンなら、本当にあの女の愛に相当する、と自分で大きな声をして呶鳴ったんだもの。当のカチェリーナさんは、もちろんイヴァン君のような誘惑者を、最後まで退ける勇気はない。今でも現に二人の間に立って迷ってるんだからね。しかし、一たいイヴァン君はどうして君らをみんな丸め込んじまったのかしら? 君らはみなあの人を三拝九拝してるじゃないか。そのくせ、あの人は君らをみんな馬鹿にしてるんだよ。わたし一人がまる儲け、わたしは皆さんの褌で相撲を取りますってね。」
「だが、どうして君はそんなことを知ってるの? どうしてそうはっきりと言いきるの?」アリョーシャは眉をひそめながら、突然つっけんどんにこう言った。
「じゃ、なぜ君は今そういって訊きながら、僕の返事を恐れてるんだい? つまり、僕の言ったことが本当だってことを承認してるようなもんじゃないか。」
「君はイヴァンを嫌ってるんだね。イヴァンは金なんかで迷わされやしないよ。」
「そうかい? しかしカチェリーナさんの美貌はどうだね? 問題は金のみにあるんじゃないよ、もっとも、六万ルーブリといったら、まんざら憎くないもんだがね。」
「イヴァンはもっと高いところを見てるよ。イヴァンは何万あろうとも、金なんかに迷わされやしない。イヴァンは金や平安を求めてはいない。たぶん苦痛を求めてるんだろう。」
「これはまた何という夢だ? 本当に君らは……お殿さまだねえ!」
「何を言うの、ミーシャ、兄さんは荒れやすい心を持ってるんだよ。兄さんの頭は囚われている。イヴァンのいだいている思想は偉大だけれど、まだ解決がついてないのだ。イヴァンは幾百万の金よりも、思想の解決を望むような大物の一人だよ。」
「それは、アリョーシャ、文学的剽窃だよ、君は長老の言葉を焼き直したね。本当にイヴァンは君たちに大変な謎を投げたもんだよ!」と、ラキーチンは毒念を隠そうともせずにこう言った。彼は顔色まで変えて、唇は妙にひん曲っていた。「ところが、その謎は馬鹿げたもので、解くほどの価値なんかありゃしない。ちょっと頭を働かしたらすぐわからあな。あの人の論文は滑稽な、ばかばかしいものさ。さっきあの馬鹿げた理論を聞いたが、『霊魂の不滅がなければ、したがって善行というものはない。つまり、何をしてもかまわないわけになる』ってなことだったね(ところで、兄さんのミーチャが、ほら、君も聞いただろう、『覚えておきましょう』と言ったじゃないか)。この理論はやくざ者にとって……僕の言い方は少々喧嘩じみてきたね、こりゃいかん……やくざ者じゃない、『解決できないほど深い思想』をいだいた小学生式の威張り屋さんにとって、すこぶる魅力があるからね。から威張り屋さんだ。ところで、その要点をかいつまんでみると、『一方から言えば、承認しないわけにゆかないが、また一方から言っても、やっぱり是認しないわけにゆかない!』でつきている。あの人の理論は陋劣の塊りだ! 人類は、たとえ霊魂の不滅を信じなくっても、善行のために生きるだけの力を、自分自身のなかに発見するに相違ない! 自由、平等、四海同胞主義に対する愛のなかに、発見するに相違ない……」
 ラキーチンは熱くなってしまい、ほとんどわれを制することができなかった。が、急に何か思い出したように口をつぐんだ。
「まあ、いいよ。」前より一倍口をひん曲げながら、彼は笑った。「君、何を笑ってるんだい? 僕を卑劣漢だとでも思ってるのかい?」
「どうして、君が卑劣漢だなんて、僕考えもしなかったよ。君は賢い人だが、しかし……まあよそう、僕はただぼんやり何の気なしに笑ったんだ。僕は君がそう熱するのも無理はないと思う。君の夢中になって話す様子で、僕も見当がついたよ。ミーシャ――君自身もカチェリーナさんに気があるんだろう。僕は前からそうじゃないかと思っていたよ。それだからこそ、君はイヴァン兄さんを好かないんだ。君は兄さんに嫉妬してるだろう?」
「そして、あの人の金についてもやはり嫉妬してる、とでも言うつもりなのかね?」
「なんの、僕は金のことなぞさらさら言うつもりはないよ。君を侮辱なんかしたくないもの。」
「君の言ったことだから信じるさ。しかし何て言っても、君たちや兄貴のイヴァンなんかどうなったってかまやしない! あの男はカチェリーナさんのことがなくたって大いに虫の好かない男だよ。それが君らにゃどうしてもわからないのだ。何のために僕があの男を好くんだ。くそっ面白くもない! 向うだってわざわざご苦労にも僕の悪口を言うんだもの、僕だってあの男の悪口を言う権利がなくってさ!」
「兄さんが君のことを、いいことにしろ悪いことにしろ、何か言ったって話を聞かないよ。兄さんは君のことなんかてんで言やしないよ。」
「ところが、あの男は一昨日カチェリーナさんの家で、僕のことをさんざんにこきおろしたって話を聞いたんだ、――それくらいあの男は『この忠実なるしもべ』に興味を持ってるんだよ。こうなってくると、誰が誰に嫉妬してるんだかわかりゃしない! 何でもこんな説をお吐きあそばしたそうだ。もし僕が近き将来において僧院内の栄達を拒み、剃髪をがえんじなかったら、必ずペテルブルグへ去って、どこかの大きな雑誌にこびりつき、必ず批評欄に入って十年ばかりせっせと書きつづけたすえ、結局その雑誌を自分のものにしてしまう。それからずっと発行をつづけるが、必ず自由主義無神論的方向をとって、社会主義的気分、というより、むしろいくぶん社会主義のつやをつける。が、しかし、耳だけは一生懸命に引っ立てて(といっても、実際は、敵の声にも、味方の声にも耳をすますんだそうだ)、衆愚の目をくらますように努める。僕の社会游泳の終りは、君の兄貴の解釈によると、こうなんだとさ。社会主義的色彩にもかかわらずだ、僕は予約の前金を流動資本に取っておいて、必要な場合にはどしどし融通する。その際、誰かジュウを顧問に頼むんだそうだ。そうして、ついにはペテルブルグに大きな家を建てて、そこへ編集局を移し、その後の残った部屋を貸家に当てる、と言うのだ。しかも、その家の場所まで、ちゃんと指定するじゃないか。いまペテルブルグで計画中だとかいう、リテイナヤ街からヴイボルグスカヤ街へかけて、ネヴァ河を渡る、新しい石橋のそばなんだそうだ……」
「いや、それはミーシャ、すっかりそのとおり寸分たがわず的中するかもしれないよ!」我慢しきれないで面白そうに笑いながら、いきなりアリョーシャはこう叫んだ。
「君まで皮肉を始めるんだね、アレクセイ君。」
「いや、いや、僕冗談に言ったんだ、勘弁してくれたまえ。僕まるで別なことを考えてたもんだから。ところで、失敬だが、一たい誰がそんな詳しいことを教えたの、一たい誰から聞いたの? 兄さんがその話をした時に、君自身カチェリーナさんのところにいるはずもないからねえ。」
「僕はいなかったが、その代り、ドミートリイ君がいた。僕は同君から自分の耳で親しく聞いたんだ。がしかし、実際をいうと、あの人が僕に向って話したわけじゃない。僕が立ち聞きしたのさ、とは言っても、もちろんひとりでに耳に入ったんだ。そのわけは僕がグルーシェンカの寝室にいたとき、ドミートリイ君が来たもんだから、出ることができなかったのさ。」
「ああ、そうそう、僕わすれていたが、あのひとは君の親類だってねえ……」
「親類だって? グルーシェンカが僕の親類だって?」と、急にラキーチンは真っ赤になって叫んだ。「君は一たい気でも違ったのかい? 頭がどうかしてるんじゃないか。」
「どうして? じゃ、親類でないの? そんな話を聞いたけど……」
「一たい君はどこでそんなことを聞いたんだい? よしたまえ、君たちカラマーゾフ一統はしきりに何かえらい家柄の貴族を気どっているが、君の親父は道化役者の真似をしながら、他人の家の居候をして廻って、お情けで台所の隅においてもらったんじゃないか。よしんば僕が坊主の息子で、君らのような貴族から見れば蛆虫にひとしいにしても、そんな、面白半分な厚かましい態度で、ひとを侮辱してもらうまいかね。僕だって名誉心があるからね、アレクセイ君。僕がグルーシェンカの親類なんかでたまるものかね、あんな淫売の! どうぞご承知を願いますよ!」
 ラキーチンは恐ろしく癇癪を起していた。
「後生だから勘弁してくれたまえ。僕は君がそんなに憤慨しようとは思わなかったもの。それに、どうしてあの人が淫売なの? 一たいあの人が……そんなことをしてるの?」とアリョーシャはふいに赧くなった。「しつこいようだが、僕は本当に親類だって話を聞いたんだよ。君はよくあのひとのところへ行くけれど、恋愛関係はないって自分で言ってたじゃないの……僕は君までがあの人をそんなに軽蔑しようとは思わなかったよ! 一たいあの人はそうされても仕方のないような人かねえ?」
「僕があの女のところへ行くのは、ほかに原因があるかもしれないさ。もう君とのお話はたくさんだ。ところで、親類という話が出たが、それはむしろ君の兄さんか親父さんかが、君をあの女と親類にしてくれるだろう。僕の知ったこっちゃないよ。さあ、とうとう着いたぜ。君は台所のほうから入ったほうがいいだろう。おや! あれは何だろう、どうしたんだ? 僕らの来ようが遅かったのかしら? しかし、こんなに早く食事のすむはずがないね。それともカラマーゾフ一統がここでもまた、何か馬鹿さわぎをおっ始めたのかしらんて? 確かにそうだ。ほら、君の親父さんだ、そしてイヴァン氏も後から出て来た。あれは僧院長のところから、無理無体に飛び出したんだよ。そら、イシードル主教が上り段に立って、二人のあとから声をかけてるぜ。それに、君の親父さんも大きな声をして手を振ってる、確かに悪態をついてるんだ。おやあ、ミウーソフ氏までが、馬車で出かけるところだ、ね、行ってるだろう。地主のマクシーモフも駆け出した、――きっと醜態を演じたんだ。してみると、食事はなかったんだな! ひょっとしたら、僧院長をひっぱたいたんじゃなかろうか? それとも、あの連中がひっぱたかれたのかな? それならいい気味なんだがなあ!………」
 ラキーチンが騒ぐのも無理ではなかった。本当に類のない意想外な醜事件が起ったのである。一切はインスピレーションから生じたのである。

[#3字下げ]第八 醜事件[#「第八 醜事件」は中見出し]

 ミウーソフはイヴァンなどとともに僧院長のところへ入った時、しんじつ身分のある上品な紳士として、急に一種微妙な心境の変化が生じ、腹を立てるのが恥しくなってきた。彼は心のなかでこう思った、――フョードルはもうどこまでも軽侮すべきやくざな人間であるから、さきほど長老の庵室でしたように、冷静を失って、自分まで一緒に騒ぎだすほどの値うちがない。『少くとも、これについて坊さんたちには何の罪もないのだ』と彼は僧院長の住居の上り口で、急にこう考えついた。『もしここの坊さんたちがれっきとした人だったら(あのニコライ僧院長は、やはり貴族出の人だとかいう話だ)、その人たちに対して優しく愛嬌よく、丁寧につき合われないわけがない……』『議論なんかしないで、かえって一々相槌を打って、愛嬌で引きつけてやろう、そして……そしておれがあのイソップ([#割り注]毒舌家の意[#割り注終わり])の、あの道化の、あのピエローの仲間でなく、かえって、皆と同じようにあいつのために迷惑してるってことを、証明しなくちゃならん……』
 争いの種となっている森林伐採も漁猟も(こんなものがどこにあるか、彼は自分でも知らなかった)、ごく僅かなことであるから、今日すぐにもきっぱり譲歩してしまおう、あんな訴訟事件も中止してしまおう、と決心したのである。
 こうした殊勝な決心は僧院長の食堂へ入ったとき、さらに強まったのである。しかし、正確に言うと、僧院長のところには、間数が二つしかなかったので、食堂というものはなかった。もっとも、長老の庵室よりはずっと手広くて、便利であったが、部屋の飾りは長老のところと同様に、かくべつ贅沢らしいところもなかった。家具類は二十年代([#割り注]一八二〇年[#割り注終わり])の流行おくれのもので、マホガニイの革張りであった。そればかりか、床さえもペンキが塗ってないほどであった。その代り、部屋ぜんたいが光るほど磨き上げられて、窓の上には高価な草花もたくさんおいてある。しかし、この部屋のおもなる贅沢品は、当然な話だが、見事な器を並べた食卓であった。が、それも比較的の話である。とにかくテーブル・クロースは清潔で、器はぴかぴか光っているし、上手に焼かれたパンも三いろある。そのほか葡萄酒が二壜に、僧院でできる素敵な蜂蜜が二壜、それに近在でも有名な僧院製のクワス([#割り注]ロシヤ特産のサイダーのごときもの[#割り注終わり])を入れた大きなフラスコなどがあった。ウォートカは少しもなかった。
 後で、ラキーチンの話したところによれば、この時の食事は五皿であった。蝶鮫《ちょうざめ》のスープに魚肉饅頭、何か特別な素晴しい料理法を応用した煮魚、それから赤魚のカツレツにアイスクリームと果物の甘煮とを取り合せたもので、最後がプラマンジェに似たジェリーであった。ラキーチンは我慢しきれないで、かねて近づきになっている僧院長の勝手口をわざわざ覗きに行って、こういうことをみんな嗅ぎ出したのである。彼はどこにでも近づきの人を拵えて、いろんなことを聞き噛って来るような人間であった。彼はきわめて落ちつきのない、羨しがりで、人並みすぐれた才能を自覚していたが、それを神経的に誇張して考えるのであった。彼は自分が一種の敏腕家になることを確信していた。もっとも、ラキーチンは破廉恥な男のくせに、自分ではその欠点を自覚しないばかりか、かえってテーブルの上に置いてある金を盗まないという理由のもとに、自分はこの上もない正直な人間である、と固く信じて疑わない、これが彼に友情をよせているアリョーシャを悩ませたものである。しかし、これはアリョーシャばかりでなく、誰一人として仕方のないことであった。
 ラキーチンは軽い身分であるから、食事に招待されるわけにはいかなかったが、その代りヨシフとパイーシイのほか、いま一名の主教が招かれた。ミウーソフとカルガーノフとイヴァンが入って来たとき、これらの人々はすでに僧院長の食堂で待ちかねていた。地主のマクシーモフも脇のほうへよって控えている。僧院長は一行を迎えるため、部屋の真ん中へ進み出た。彼は面《おも》長な、禁欲者らしいものものしい顔をして、黒い毛にだいぶ胡麻塩の交った、痩せて背の高い、しかしまだ壮健らしい老人であったが、無言のまま客人に会釈をした。一行も今度こそは祝福を受けるためにそのそばへよった。ミウーソフは危く手を接吻しようとさえしかけたが、僧院長がどうしたのか急にその手を引っ込めてしまったので、とうとう接吻は成り立たなかった。その代り、イヴァンとカルガーノフは完全に祝福を受けた。つまり人のいい平民らしい大きな音を立てて、僧院長の手を接吻したのである。
「わたくしどもは方丈さまに、深くお詫び申さなければなりません」とミウーソフは愛想よく白い歯を見せながら言いだした。しかし、その調子はうやうやしく、四角張っていた。「ほかでもありませんが、わたくしどもはあなたからご招待を受けたつれの一人、フョードル・カラマーゾフ氏を同道しないでまいりました。同氏はあなたのご饗応を辞退しなければならなくなりました。それもちょっとした事情がございますので。実はさきほどゾシマ長老の庵室で、あの人は息子さんとの諍いに夢中になって、つい二こと三こと場所柄をわきまえない……つまり、大へん失礼な言葉を吐いたのでございます……このことはたぶん(と彼は二人の主教を尻目にかけて)、もう、方丈さまのお耳に入ったことと存じます。かようなわけで、カラマーゾフ氏も深く自分の罪をさとって、しんから後悔いたしまして、恥じ入った次第でございます。それで、とうとう羞恥の情を征服することができないで、わたくし並びに子息のイヴァン君にことづけして、心から後悔の念に苦しめられていることを、方丈さまの前に披露して欲しいと申しました。つまるところ、あの人は万事あとで償いをするつもりでおりますけれど、今さし向きあなたの祝福を乞うと同時に、さきほどの出来事を忘れていただきたいと申しているのでございます……」
 ミウーソフは言葉を休めた。この長々しい挨拶のしまい頃には、彼もすっかり自分で自分に満足してしまい、さきほどまでの癇癪は跡かたもなくなった。彼は今ふたたび心底から人間に対する愛を感じ始めたのである。僧院長はものものしい様子でこの言葉を聞き終ると、軽く首を傾けて応答した。
「立ち去られた人のことはまことに残念に存じます。この食事の間に、あの人はわたくしどもを、またわたくしどもはあの人を、愛するようになったかもしれないのに。それでは皆さん、どうぞ召し上って下さりますよう。」
 彼は聖像の前に立って、声を出しながら祈祷を始めた。一同はうやうやしくこうべを垂れた。地主のマクシーモフは格別ありがたそうに合掌しながら、前のほうへしゃしゃり出た。
 ちょうどこのとき、フョードルが最後のつぶてを投げたのである。ちょっと注意しておくが、彼は本当に帰って行くつもりなのであった。長老の庵室でああいう不体裁なことをした挙句、そしらぬ顔をして僧院長のお食事《とき》へのこのこ出かけるのは、とうていできない相談だと感じたのは事実である。しかし、べつに自分の行為を恥じ入って、自分で自分を責めたというわけではない。あるいは、かえって正反対であったかもしれぬ。が、何といっても、食事に列するのは無作法だと感じたのである。ところが、旅宿の玄関先へ例のがたがた馬車が廻されて、もうほとんどその中へ乗り込もうとした時、急に彼は足を止めた。さきほど長老のところで言った自分の言葉が、ふいと心に浮んだのである。『わたくしはいつも人の中へ入って行く時、自分は誰よりも下劣な人間で、人はみんな自分を道化扱いにする、というような気がいたします。そこでわたくしは、じゃ一つ本当に道化の役廻りを演じてやろう、なあに、みんな揃いも揃って自分より馬鹿で下劣なんだ、という気になるのでございます。』
 彼は自分自身の卑しい行為に対して、人に仇を討とうという気になったのである。このとき彼はいつかだいぶ前に、『あなたはどうして誰それをそんなに憎むんです?』と訊かれたことを偶然思い出した。そのとき彼は道化た破廉恥心の込み上げるままにこう答えた。『それはこういうわけですよ、あの男は実際わしに何にもしやしませんがね、その代り、わしのほうであの男に一つ汚い、厚かましいことをしたんです。それと同時にわしはあの男が憎らしくなりましたよ。』今これを思い出すと、彼はちょっとのあいだ考え込みながら、静かな毒々しい薄笑いを浮べた。その目はぎらぎら光って、唇まで微かに顫えるのであった。『よし、一たんはじめたものなら、ついでにしまいまでやっちまえ。』急に彼はこう決心した。この瞬間、彼の心のどん底にひそんでいた感じは、次のような言葉で現わすことができたであろう。『もう今となっては信用回復も覚束ない、ええ、ままよ、もう一度あいつらの顔に唾をひっかけてやれ。なんの、あんなやつらに遠慮なぞいるものか、それだけの話よ!』
 で、彼は馭者に待っておれと言いつけて、急ぎ足に僧院へ引っ返し、まっすぐに僧院長のもとへ赴いた。そこへ行って何をするつもりか、まだ自分でもよくわからなかったが、もうこうなったら、自分を抑制することができない。何かちょっとした衝動があったら、すぐ極端に陋劣な行為をあえてするに相違ない、とは自分でも承知していた。しかし、それは本当に陋劣な行為にとどまって、決して裁判沙汰になるような悪ふざけや、犯罪などというようなものではない。この点になると、彼はいつもきわどいところで手綱を引きしめることができた。時としては、自分でも感心するほどうまくいくのであった。彼が僧院長の食堂へ姿を現わしたのは、ちょうど祈祷がすんで、一同がテーブルに近づいた瞬間であった。彼は閾の上に突っ立って、ずうずうしく一同の顔を見廻しながら、高慢な、意地の悪い、引き伸ばしたような声を立てて笑いだした。
「みんなわしが帰ったものと思うておるが、わしはほらこのとおり!」と彼は広間一ぱいに響くような声で叫んだ。
 一瞬にして人々は、穴のあくほど彼の顔を見つめながら、押し黙っていた。今にも、何かばかばかしい、いまわしい事件がもちあがって、結局、無作法な騒ぎとなるに相違ない、こう一同は直覚したのである。ミウーソフはこの上なくおめでたい気分から、たちまち獰猛無比な気分に変ってしまった。彼の心の中で消えつくし鎮まりはてたすべてのものが、一瞬間に盛り返して頭をもたげたのである。
「駄目だ、僕はもう我慢ができない!」と彼は叫んだ。「どうしてもできない……断じてできない!」
 彼は逆上して言句につまったが、もう今は言句などを気にしている暇もなかった。彼はいきなり帽子を掴んだ。
「一たいあの人は何ができないんだろう?」とフョードルは喚いた。「何か『どうしてもできない、断じてできない』んだろう? 方丈さま、はいってもよろしゅうございましょうか? ご招待にあずかった仲間の一人を入れて下さいますか?」
「しんからお願い申します」と僧院長は答えた。「皆さま、まことに差し出がましい申し分でござりますが、心の底からのお願いでござります。一時の争いを捨てて、この平和な食事の間に神様にお祈りをしながら、血縁の和楽と愛の中に一致和合して下さりませ……」
「いいや、いいや、できない相談です!」とミウーソフは前後を忘れたかのように叫んだ。
ミウーソフさんが駄目なら、わしも駄目です。わしも帰ります。わしは、そのつもりで来たんですよ。もう今日はミウーソフさんと一緒にどこへでも行きます。ミウーソフさんが帰ればわしも帰るし、残りなさればわしも残ります。もし、僧院長さま、あなたが血縁の和楽とおっしゃったのが、一番ミウーソフさんの胸にこたえたのです。あの人はわしを親類と認めておらんのですからな。そうだろう、フォン・ゾン? そら、あそこに立っておるのがフォン・ゾンでさあ。ご機嫌よう、フォン・ゾン!」
「それは……わたくしのことなので?」地主のマクシーモフはびっくりして言った。
「むろん、お前だよ」とフョードルは呶鳴った。「お前でなくて誰だい? まさか僧院長さまがフォン・ゾンになるはずもなかろうよ。」
「それでも、わたくしはフォン・ゾンではござりません。マクシーモフで……」
「いいや、お前はフォン・ゾンだ。方丈さま、フォン・ゾンというのが何者かご存じでございますか? これはある犯罪事件に関係したことでございますよ。この男は『迷いの家』で殺されたのです(お寺のほうではああいう場所を『迷いの家』と言うそうですな)。殺された上に所持金を取られてしまいました。おまけに、いい年をしておりながら、箱の中へ密封されて、貨物列車でペテルブルグからモスクワへ送られたんですよ、しかも番号をつけられましてな。ところで箱の中に密封されるとき、ばいたどもが歌をうたったり、グースリイ([#割り注]針金を絃に張った楽器、琴にやや似たところがある[#割り注終わり])を弾いたりしたそうですよ。これが今申したフォン・ゾンの正体でございますよ。一たい墓場から生き返ってでも来たのかな、え、フォン・ゾン?」
「一たいこれは何たることだ? どうしてあのようなことができるのであろう?」という声が主教の群から聞えた。
「行こう!」とミウーソフはカルガーノフに向って叫んだ。
「いいや、まあ、お待ちなさい!」また一足部屋の中へ踏み込みながら、フョードルは甲高い声で遮った。「まあ、わしにも言うだけのことを言わしてもらいましょう。あちらの庵室では皆がわしに無作法者という汚名を着せられましたが、それというのも、ただわしが、川ぎすのことを口に出したからなんですよ。ミウーソフさんのお好みでは、言葉の中に 〔Plus de nolbesse que de since'rite'〕([#割り注]真摯の気より品位の勝ったほうがいい[#割り注終わり])そうですがな、わしの好みはその反対で 〔Plus de since'rite' que de noblesse〕([#割り注]品位よりも真摯の気の勝ったほうがいい[#割り注終わり])のですよ。品位なんか糞をくらえだ! なあ、そうじゃないか、フォン・ゾン? 僧院長さまへ申し上げます、わたくしは道化者で、道化た真似ばかりいたしますが、しかしそれでも、名誉を重んずる騎士でございますから、忌憚なく、所信を申し上げとう存じます。さよう、わたくしは名誉を重んずる騎士でございます。ところが、ミウーソフさんの腹のなかには、傷つけられた自尊心のほか、何にもありゃしません。わたくしがここへ来ましたのも、あるいは自分で親しく一見して、所信を吐くためであったかもしれません。わたくしの倅のアレクセイがここにお籠りしておりますでな。父親としてあれの身の上が心配でございます。また心配するのがあたりまえでございますよ。わたくしは始終お芝居をしながら、そっと様子を見たり聞いたりしておりましたが、今こそあなた方の前で、最後の一幕をお目にかけるつもりでございます。一たいいまロシヤはどんな有様でしょうか? 倒れかかっておるものは、すっかり倒れてしまいます。また一ど倒れたものは、もう永久にごろりと転がったままでおります。そうですとも、そうでないはずがありませんよ。そこで、わたくしは、起きあがりたいのでございます。善知識の方丈さま方、わたくしはあなた方が憤慨にたえんのでございます。一たい懺悔というものは偉大な秘密でございます。これは、わたくしも有難いものと思うて、その前に倒れ伏してもよいくらいの覚悟でおります。ところが、あの庵室ではみんな膝を突いたまま、大きな声で懺悔しておるじゃありませんか。全体、声を出して懺悔することが許されておりますか? 昔の聖人さまたちが、懺悔は口から耳へ伝えろと、ちゃんと掟を定められました。こうあってこそ、人間の懺悔が神秘となるのであります。しかも、それは昔からのしきたりですよ。ところが、その反対にみんなの前で、『わたくしはこうこういうことをいたしました』(よろしゅうございますか、『こうこういうこと』なんですよ)……とまあ、こんなことが言われるもんですか? 時には、口に出して言うのも、無作法なことがありますからなあ。そんなのはまったく不体裁ですよ! 方丈さま方、あなたたちと一緒におったら、フルイスト([#割り注]分裂宗派の一、人が禁欲の道によってみずからキリストたり得べしと説くもの[#割り注終わり])の仲間へ引きずり込まれますよ。……わしはよい折があったらさっそく宗務省へ上申書を送ります、そして倅のアレクセイは家へ連れて帰るんですよ。」
 ここでちょっと断わっておくが、フョードルは世間の噂には耳の早いほうであった。かつてこの僧院ばかりでなく、長老制度の採用されている他の僧院に関しても、意地わるい讒誣が拡まって、大主教の耳にすら入ったことがある。それは長老があまり尊敬されすぎて、僧院長の威厳さえ損うほどにいたったのみならず、とくに長老は懺悔の神秘を濫用する、というのであった。この非難はばかばかしいものであったから、この町ばかりでなく全体にわたって、自然いつの間にか消滅してしまった。しかし、フョードルを掴んでその神経の上にいだき乗せ、いずこともしれぬ穢れの深みへ、次第に遠く運んで行く愚かな悪魔は、この古い非難を彼の耳に吹き込んだのである。しかし、フョードル自身はこの非難の意味がのっけからわからなかったので、満足にそれを言い現わすこともできなかった。おまけに、目下長老の庵室では誰ひとり膝を突くものもなければ、大きな声で懺悔するものもなかった。こういうわけで、フョードル自身そんなことを目撃するはずもないので、ただ、うろ覚えの古い風説や讒誣を種として言いだしただけである。しかし、この愚かな言葉を口に出すと同時に、自分でも馬鹿なことを言ったなという気がしたので、彼はすぐさま、自分の言ったのは決して馬鹿なことではないということを聴き手に(というよりまず自分自身に)証拠だてようと思った。彼は自分でもこのさき一語を加えるごとに、もう口をすべらしてしまった愚かな言葉に一そう愚かしさが加わって行くばかりだ、ということをよく承知していたけれど、もうまるで急な坂でも駆けおりるように、自分で自分を止めることができなかったのである。
「なんて穢らわしいことだ!」とミウーソフは叫んだ。
「お赦し下さい」と、とつぜん僧院長が言いだした。「昔からの言葉に『人々われにさまざまなる言葉を浴びせて、ついには聞くにたえざる穢らわしきことすらも口にす。われかかる言葉をも忍びて聞く。これキリストの鞭にして、わが傲れるこころを矯めんがために、送られたるものなればなり』とあります。それゆえわれわれも、つつしんであなたの尊いご教訓に対してお礼を申します」と彼は腰を深く折ってフョードルに会釈をした。
「ちぇっ、ちぇっ! 偽善だ! 紋切り型だ! 紋切り型の文句と所作だ! その頭を地べたにくっつけるお辞儀も、古臭い偽りの形式だ! そのお辞儀がどんなものだか、われわれは先刻承知しておりますよ!『口に接吻、胸に匕首』とはシルレルの『群盗』にも言うてありまさあ。なあ、方丈さま方、わしはごまかしは嫌いです。わしは真実が欲しい! しかし、真実は川ぎすにはありませんぜ、これはもうわしが言明したとおりですよ! 方丈さま方、どうしてあなた方は精進をしておいでなさる? どういうわけであなた方はそれに対する報いを天国で待っておいでなさる? 本当にそんな報いがもらえるようなら、わしだって精進をしますよ! なあ、お坊さん方、お寺に籠って人の金でパンを食べながら、天上の報いを待つよりか、人生へ乗り出して徳を行うて、社会に貢献せられたらどうですな、――しかし、このほうはだいぶ骨が折れますでなあ。僧院長さま、わしだってなかなかうまいことを言いましょうがな。一たいここにはどんなご馳走があるんだろう!」と彼は食卓へ近寄った。「ファクトリイの古いポートワインに、エリセエフ兄弟商会の蜂蜜酒か……これはどうもお坊さん方としたことが! こいつは川ぎすどこの騒ぎじゃない。酒の壜をしこたま並べましたな、へへへ! 一たいこんなものを誰がここへ持って来たのです! これはロシヤの百姓が、貧しい労働者が一生懸命に稼いだ一コペイカ二コペイカの金を、家族や国家の要求からもぎ放して、まめだらけの手でここへ持って来たんです! 本当に方丈さま方、あなたたちは人民の生血を吸うておるんですぞ!」
「それはもうあまりな言い草だ」とヨシフは言った。パイーシイは、しゅうねく押し黙っていた。ミウーソフは部屋を駆け出した。と、カルガーノフもその跡を追うのであった。
「じゃ、方丈さま方、わしもミウーソフさんについて行きますよ! もう決してここへ来やしません、膝をついて頼まれたって来るこっちゃありません。わしが千ルーブリ寄進したもんだから、それであんたたちはまた頸を長くして待ってなすったが、へへへ、何の、もう決して上げやしませんよ。わしは自分の過ぎ去った青年時代や、わしの受けたすべての侮辱のために仇うちをするんです!」と彼は人工的な憤怒の発作に駆られて、拳でテーブルをどんと叩いた。「このちっぽけな寺も、わしの生涯にとって意味の深いところなのだ。この寺のためにわしは無量の苦い涙を流した! 女房の『|憑かれた女《クリクーシカ》』がわしに謀叛を起すようになったのも、あんた方のせいですぞ。七つの会議でわしを呪うて、近在を触れ廻したのもあんた方ですぞ! もうたくさんだ、今は自由主義の時代だ、汽船と鉄道の時代だ。千ルーブリはおろか、百ルーブリも、百コペイカも、何にもあんた方に上げるわけにはゆかんから、そう思いなさい!」
 またついでに断わっておくが、この僧院が彼の生涯に特別な意味をおびたこともなければ、そのために苦しい涙を流したことも決してありはしない。しかし、彼は自分の技巧的な涙にすっかり感動してしまい、ちょっと一瞬、自分の偽りを信じないばかりの気持になった。そればかりか、本当に感激のあまり泣きだしたほどである。がそれと同時に、もうそろそろ引き上げていい時分だと感じた。僧院長はその意地わるなでたらめを首を垂れて聞いていたが、またもや諭すように言いだした。
「こういう教えもあります。『なんじの上におそいかかる凌辱をば努めてたえ忍び、かつなんじを穢す者を憎むことなく、みずからの心を迷わすなかれ。』われわれもこの言葉のとおりにいたします。」
「ちぇっ、ちぇっ、ちんぷんかんぷん何だかわけがわかりゃしない! お坊さん方、まあせいぜいちんぷんかんぷんとやりなさい、わしはごめん蒙りますよ。ところで、倅のアレクセイは親父の権利で永久に引き取ってしまいます。イヴァン・フョードロヴィッチ、いやさ、尊敬すべきわしの倅や、わしの跡からついて来い、と言いつけてもよかろうな! フォン・ゾン、お前は何だってそんなところにぐずぐずしてるんだ! すぐにわしの町の家へ来いよ、なかなか愉快だぜ! 僅か一露里そこそこしかありゃしない。精進バタの代りに粥《カーシャ》をつけた豚の子を食わしてやらあ。一緒に食おうじゃないか。コニヤクも出すし、あとからリキュールも出る。上等の木苺ジャムもあるぜ……おい、フォン・ゾン、幸運を取り逃さんようにしろよ!」
 彼は大きな声で喚きたてながら、身ぶり手真似をしいしい駆けだした。ちょうどこの瞬間、ラキーチンは堂を出て来る彼の姿を認めて、アリョーシャに指さして見せたのである。
「アリョーシャ!」彼はわが子の姿が目に入ると、遠くのほうから声をかけた。「今日すぐわしのところへすっかり引っ越して来い、枕も蒲団も担いで来るんだぞ。ここにお前の匂いがしても承知せんから。」
 アリョーシャは針づけにされたように突っ立ったまま、黙ってじいっとこの光景を眺めていた。フョードルはその間にもう幌馬車へ上っていた。それにつづいてイヴァンが無言のまま、気むずかしげな顔つきで、別れのためにアリョーシャのほうを振り向きもせず、馬車に入ろうとしていた。しかし、ここでも今日のエピソードの不足を補うような、想像も及ばない滑稽な一幕が演じられた。ほかでもない、とつぜん馬車の階段のそばへ地主のマクシーモフが現われた。彼は一行に遅れまいと、息を切らせながら駆けつけたのである。ラキーチンとアリョーシャは、彼が走って来る様子を目撃した。彼は恐ろしく気をいらって、まだイヴァンの左足がのっかっている踏段へ、もう我慢しきれないで片足かけた。そして、車台へ手をかけながら、馬車の中へ飛び込もうとした。
「わたくしも、わたくしもあなたとご一緒に!」小きざみに嬉しそうな笑い声をたて、恐悦らしい色を顔に浮べ、どんなことでも平気でやってのけそうな気色《けしき》で、ひょいひょいと飛びあがりながら、彼は叫んだ。「わたくしもお連れなすって。」
「そら見ろ、わしの言わんこっちゃない」とフョードルは得々として叫んだ。「こいつはフォン・ゾンだよ! 墓場から生き返って来た正真正銘のフォン・ゾンだ! しかし、お前どうしてあそこを脱け出したい? どんなふうにフォン・ゾン式を発揮して、お食事《とき》をすっぽかして来たい? ずいぶん面の皮が厚くなくっちゃできん仕事だよ! わしの面の皮も厚いが、お前の面の皮にも驚いてしまうなあ! 飛べ、飛べ、早く飛べ! ヴァーニャ、入らしてやろうよ、賑やかでいいぞ。こいつはどこか足もとへ坐らしてやろう。いいだろう、フォン・ゾン? それとも、馭者と一緒に馭者台へおこうかな?……フォン・ゾン、馭者台へ飛びあがれ。」
 しかし、もう座に落ちついたイヴァンは、突然だまって力まかせに、マクシーモフの胸を突き飛ばした。こっちは一間ばかりうしろへけし飛んだ。彼が倒れなかったのは、ほんの偶然である。
「やれっ!」とイヴァンはにくにくしげに馭者に向って叫んだ。
「おい、お前、何だって? 何だってお前? どうしてあいつをあんな目に?」とフョードルは跳びあがったが、馬車はもう動きだした。イヴァンは答えなかった。
「本当にお前は何という男だ!」二分ばかり黙っていたが、やがてフョードルはわが子を尻目にかけながら、また言いだした。「お前は自分でこの僧院の会合をもくろんで、自分でおだてあげて賛成したくせに、何だって今そんなにぶりぶりしてるんだい?」
「もう馬鹿な真似をするのはたくさんです、もう少し休んだらいいでしょう。」イヴァンは厳しい声で断ち切るように言った。
 フョードルはまた二分ばかり無言でいた。
「今コニヤクでも飲んだらよかろうなあ」と彼はものものしい調子で言った。が、イヴァンは返事しなかった。
「家へ帰ったらお前も飲むだろう。」
 イヴァンは依然として押し黙っている。
 フョードルはまた二分ばかり待ったのち、
「アリョーシャは何といっても寺から引き戻すよ、お前さんにとってはさぞ不快だろうがね、尊敬すべきカルル・フォン・モール。」
 イヴァンは馬鹿にしたようにひょいと肩をすくめ、そっぽを向いて、街道を眺めにかかった。それから家へ着くまで言葉を交えなかった。
[#改ページ]

[#1字下げ]第三篇 淫蕩なる人々[#「第三篇 淫蕩なる人々」は大見出し]



[#3字下げ]第一 下男部屋にて[#「第一 下男部屋にて」は中見出し]

 フョードル・カラマーゾフの家は決して町の中心ではないが、さりとてまるきり町はずれというでもない。それはずいぶん古い家であったが、見てくれはなかなか気持よくできている。中二階のついた平屋建で、鼠色に塗り上げられ、赤い鉄板葺の屋根がついていた。まだ当分容易に倒れそうな様子もなかった。家は全体に手広で居心地よく作ってある。いろいろな物置部屋だの隠れ場所だの、それから思いがけないところに設けられた階段などがたくさんあった。鼠もかなりはびこっていたが、フョードルはそれをあまり苦に病まなかった。『まあ、何というても、夜一人の時にさびしくなくっていいわ。』実際、彼は夜になると召使を離れへ下げてやり、一晩じゅう母家にただ一人閉じこもる習慣があった。離れは庭に立っていて、広々したがんじょうな作りであった。フョードルはこの中に台所をおくことに決めていた。もっとも、台所は母家のほうにもあるのだが、彼は台所の臭いが嫌いなので、夏も冬も食物は庭を横切って運ばせていた。全体として、この家は大家族のために建てられているので、主人側の人も召他の者も、今の五倍くらい容れることができた。しかし、今のところ、この家の中にはフョードルと息子のイヴァン、そして離れのほうには僅か三人のグリゴーリイ、老婆マルファ(その妻)、それにスメルジャコフという若い下男であった。
 筆者《わたし》はどうしてもこの三人の召使のことを、少し詳しく説明せねばならぬ。老僕グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ・クトゥゾフのことは、もうだいぶ話しておいた。これは頑固一徹な人間で、もし一たん何かの原因で(それは大抵おそろしく非論理的なものだが)、間違いのない真理だと思い込むと、執拗に一直線に、ある一点を目ざして進んで行く。概して正直で、抱き込むことなどできない男である。妻のマルファは夫の意志の前に一生涯、否応なしに服従していたけれど、よくいろんなことを言ってうるさく夫を口説くことがあった。例えば農奴解放後まもなく、フョードルの許を去って、モスクワへ赴き、そこでちょっとした商売を始めようと勧めたことがある(二人の間には幾らか小金が溜っていたので)。しかし、グリゴーリイは即座に、きっぱりと、女は馬鹿ばかりこく、『女ちゅうものは誰でも、不正直なもんだからな。』なにしろ以前のご主人のところを出るという法はない、たとえその人がどんな人物であるとしても、『それが今日われわれの義務というもんだ』と言い渡した。
「お前、義務ちゅうが何だか知っとるか?」彼はマルファに向ってこう言った。
「義務ちゅうことは、わたしも知ってますよ、あんた。だけんど、どういうわけでわたしらがここに残ってなきゃならんのやら、それがわたしにゃ皆目わかりませんよ」とマルファはきっぱりと答えた。
「わからにゃわからんでええ。しかし、それはそうに違えねえだ。もうこのさき口いきくなよ。」
 そして、本当に二人はこの家を去らなかった。フョードルは夫婦の者に僅かな給金を定めて、ちびりちびりと支払うのであった。しかし、グリゴーリイは疑いもなく主人に対して、一種の勢力をもっていた。これは彼自身も承知している。そして彼がこう感じたのは、決して思い違いではなかった。狡猾で執拗な道化者のフョードルは、『世の中のある種の事物については』(これは彼自身の言い草である)なかなかしっかりした気性を持っているけれど、『世の中の別種な事物については』自分でもびっくりするほど、恐ろしく意気地がなかったのである。それがどんな事物であるかは、彼も自分で承知していたので、さまざまなことに恐れをいだいていた。世の中のある種の事物については、ずいぶん警戒しなければならぬ場合が多かったので、誰か忠実な人間がなくては心細かったのである。ところで、グリゴーリイは忠実無比な人間であった。フョードルはあれだけの富を積む間に、幾度となくぶたれそうな、しかもこっぴどくぶたれそうな場合もしょっちゅうあったが、そういう時には、いつもグリゴーリイが彼を救い出した。もっとも、あとで必ずお説教をして聞かせるのがきまりであった……とはいえ、フョードルもぶたれるだけなら、さして恐ろしくもなかったろうが、まだまだそれより一そう高級な、複雑微妙な場合がたびたびあって、フョードルはなぜかわからないけれど、とつぜん瞬間的に、誰か忠実な人間を自分のそばに置きたいという、なみなみならぬ要求を心に感じるのであった。しかも彼自身でさえ、その理由を明らかにすることができなかった。それはほとんど病的といってもいいくらいな場合である。放埒無比であり、しかもその放埒のためにしばしば残忍なことをあえてする、まるで意地わるい虫けらのようなフョードルが、酔っ払った時などふいと心の中に精神的の震駭感と、恐怖とを感じるのであった。この震駭感はほとんど生理的に彼の魂に反応した。
『こんな時、わしはな、魂が咽喉の辺で慄えておるような気持だ』と彼はときどきこんなことを言った。こういう瞬間に、彼は自分に信服した、しっかりした男が自分の身辺に、同じ部屋の中でなくてもよいが、せめて離れのほうにでもいてほしかった。その男は自分のような道楽者とはまるで別人であるけれども、目前に行われるこれらの悪行《あくぎょう》を見、秘密という秘密を知りつくしていながら、信服の念のために一切のことを許して反抗しない。それに、何より大切な点は、いささかも非難めいたことを言わないで、この世でも先の世でも決して脅かしめいたことをしない。しかも、すわという時には自分を防いでくれる――しかし誰から? 誰からかわからないが、とにかく危険な恐ろしい人間から庇ってくれる。要するに、昔なじみの親しい自分以外[#「自分以外」に傍点]の人間が、ぜひなくてはならないのである。心の痛むような時にこの男を呼び寄せる。それもただじっとその顔を見つめて、気が向いたら何か一つ二つ無駄口を叩き合うくらいのことで、もし相手が平気な顔をしてかくべつ腹も立てなければ、それで心が安まるし、もし腹を立てれば、よけい気が鬱しようというものである。ごく時たまではあるけれど、こんなこともあった。フョードルは夜中に離れへ行って、グリゴーリイを叩き起し、ちょっとでいいから来てくれと言う。こっちは起きて行ってみると、思いきって下らない話をしてすぐにさがらしてしまう。どうかすると、別れぎわに冷かしや冗談を言うこともある。そして、ご当人はぺっと唾を吐いて横になると、もう天使のような眠りに落ちてしまうのであった。
 アリョーシャが帰って来た時も、ちょっとこれに似寄ったことがフョードルの心中に生じた。アリョーシャは『一緒に暮して、何もかも見ておりながら、少しも咎め立てをしない』というところで、彼の『心を刺し通した』のである。そればかりか、アリョーシャは彼にとって未曾有のものをもたらした。ほかでもない、この老人に対して少しも軽蔑の色を見せないばかりか、それほどの値うちもないこの老人にいつも愛想がよくて、しかもきわめて自然で素直な愛慕の情を寄せるのであった。今までただ『穢れ』のみを愛していた、家庭というもののない、年とった好色漢にとって、こういうことはすべて思いがけない賜物であった。アリョーシャが寺へ去った後、彼は今まで理解することを欲しなかったあるものを理解した、と心中ひそかに自認したのである。
 グリゴーリイがフョードルの先妻、すなわち長男ドミートリイの母アデライーダを憎み、その反対に、後妻のソフィヤ、『|憑かれた女《クリクーシカ》』を当の主人に楯ついてまで庇いだてし、彼女について軽はずみな悪口を言うものをことごとく相手どって争ったということは、もう物語の初めに述べておいた。この不幸な婦人に対する彼の同情は、一種神聖なものかなんぞのようになって、二十年もたった今日でも、誰の口から出たにせよ、彼女を悪く言うようなあてこすりに我慢できないで、すぐさまその人をやりこめるのであった。
 外貌から言うと、グリゴーリイは冷やかな、しかつめらしい男で、口数はきわめて少く、軽はずみなところの少しもない、おもおもしい言葉を一つずつ押し出すような話しぶりであった。彼がおとなしい無口な妻を愛しているかどうか、ちょっと見ただけでははっきりしたことが言えなかった。しかし、むろん、愛していたに相違ないので、妻もそれを承知していた。このマルファ・イグナーチエヴナは決して馬鹿な女でなかったばかりか、かえって亭主より利口なくらいであった。少くとも実生活のこまごました事柄にかけては、ずっと分別があった。が、それでも彼女は一緒になったそもそもから、いささかも不平など言わないでグリゴーリイに服従し、その精神的にすぐれた点を絶対に尊敬するのであった。なお一風変っているのは、この夫婦がごくごく必要な目前の事柄を除いて、あまり口をきき合わないということであった。グリゴーリイはいつもしかつめらしい、ものものしい様子をして、一切の仕事や心配を自分一人で考えるのであった。それゆえマルファも、彼が自分の忠言などてんで求めていない、夫は自分の無口なのを尊んで、そのために自分を賢いものと見てくれるのだ、と悟ったのである。グリゴーリイは決して妻を折檻したことがない。けれど、例外としてたった一度、それもほんの少しばかりぶったことがある。フョードルがアデライーダと結婚した最初の年、あるとき村の娘や女房どもが(当時まだ農奴であった)、地主邸へ呼び集められて、歌ったり踊ったりしたことがある。『草原で』の踊りが始まった時、当時まだ若かったマルファが突然コーラスの前へ跳り出して、一種とくべつな身振りで『ロシヤ踊り』を踊った。それは女房どものような田舎臭いものと違って、彼女が物