『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P126-P141

で、甘いものと一緒にコニヤクを飲むのが好きであった。イヴァンも同じく食卓に向ってコーヒーを啜っていた。二人の下男、グリゴーリイとスメルジャコフとがテーブルのそばに立っていた。見受けたところ、主従とも並みはずれて愉快に元気づいているらしい。フョードルは大きな声でからからと笑っている。アリョーシャはやっと玄関へ入ったばかりだのに、もう以前からずいぶん耳に馴染んでいる父の甲高い笑い声によって、父がまだ酔っ払ってるどころか、ほんの一杯機嫌でいるにすぎない、ということをすぐに推察してしまった。
「やあ、来たぞ、来たぞ!」フョードルは、アリョーシャが来たのを無性に悦んでこう叫んだ。「さあ、仲間へ入れ、そして坐ってコーヒーでも飲めよ、――なに、コーヒーはお精進だからいい、熱い素敵なやつだぜ! コニヤクは勧めない、お前は坊さんだからな、しかし飲むかな、飲むかな? いや、それより、お前にはリキュールのほうがいいわ、素晴しいもんだぜ! スメルジャコフ、戸棚へ行ってみい、二番目の棚の右側にある。ほら、鍵だ、早く早く!」
 アリョーシャはリキュールも断わろうとしたが、
「なあに、どうせ出るもんだ。お前がいやなら、わしらがやるよ」と、フョードルはほくほくもので、「ところでお前、食事はすんだのかどうだな?」
「すみました」とアリョーシャは答えたが、実際は僧院長の台所でパンを一切れと、クワスを一杯飲んだばかりであった。「私はこの熱いコーヒーのほうが結構です。」
「感心だ! えらいぞ! おい、この子はコーヒーを飲むと言うぞ。温めんでいいか? いや、今でもまだ煮立ってるわ。素敵なコーヒーだぞ、スメルジャコフ式なんだ。この男はコーヒーと魚饅頭《フィッシュ・パイ》にかけたら芸術家だ、ああ、それから魚汁《ウハー》にかけてもな、実際、いつか魚汁を食べに来んか。その時は前もって知らせるんだぞ……いや、待ったり待ったり、わしはさっきお前に、今日さっそく蒲団と枕を持って帰って来いと言いつけたが、本当に蒲団をかついで来たかな? へへへ!」
「いいえ、持って来ませんでした」とアリョーシャも薄笑いをした。
「びっくりしたろう、さっきは本当にびっくりしたろう? なあ、おい、アリョーシャ、お前を侮辱するなんてことが一たいわしにできると思うかい? ところでな、イヴァン、わしはこの子がこんなふうにわしの顔を見て笑うと、どうもたまらんよ、実に可愛くてなあ! アリョーシカ、一つわしが父としての祝福を授けてやろう。」
 アリョーシャは立ちあがった。しかし、フョードルはもうその間に思案を変えてしまった。
「まあ、いい。まあ、いい、今はただ十字を切るだけにしとこう、さあよし、腰をかけろ。ところで、お前の悦ぶ話があるんだ、しかもお前の畑なんだぜ。うんと笑えるような話だ。家のヴァラームの驢馬([#割り注]ヴァラームの不幸を人間の言葉で警告した聖書伝説中の驢馬[#割り注終わり])が喋りだしたのさ。しかも、その話のうまいこと、うまいこと!」
 ヴァラームの驢馬というのは、召使のスメルジャコフのことであった。彼はまだやっと二十四歳の若者であったが、恐ろしく人づきが悪くて口数が少かった。それも、野育ちの恥しがりというわけではなかった。それどころか、かえって生来高慢で、すべての人を軽蔑しているようなふうであった。ここで筆者《わたし》はこの男のことを、せめて一言でも述べておかなければならなくなった。しかも、ぜひ居間でなくてはならないのである。
 彼はグリゴーリイとマルファの手で育てられたが、グリゴーリイの言葉を借りて言うと、『ちっとも恩を知る様子がなく』小さな野獣みたいに、隅っこのほうからすべての人を窺うようにして大きくなった。幼いころ彼は猫の首を吊って、その後で埋葬の式をするのが大好きであった。この式のために敷布をひっかけて袈裟の代りとし、何か提げ香炉の代りになるものを猫の死骸の上で振り廻しながら、葬式の歌を歌うのであった。これは非常な秘密のうちにこっそりと行われたのである。あるとき一度こんな勉強をしているところを、グリゴーリイに見つかって、鞭でこっぴどく折檻されたことがある。少年は片隅に引っ込んでしまって、一週間ばかりそこから白い目を光らしていた。『この餓鬼はわしら二人を好いていねえだよ』とグリゴーリイは妻のマルファに言い言いした。『それに誰ひとり好いていねえ。一たいおめえは人間か?』彼はだしぬけに当のスメルジャコフに向ってこう言うことがあった。『うんにゃ、おめえは人間でねえ、湯殿の湿気から湧いて出たんだ、それだけのやつだよ……』これはあとでわかったことだが、少年はグリゴーリイのこの言葉を、深く怨みに思っていた。グリゴーリイは彼に読み書きを教えていたが、少年が十三になったとき神代史の講義を始めた。しかし、この試みはすぐ駄目になった。まだやっと二度目か三度目の授業の時、少年は突然にたりと笑った。
「何だ?」とグリゴーリイは眼鏡ごしに、恐ろしい目つきをして睨みながら訊ねた。
「何でもありませんよ。神様が世界をおつくりになったのは初めての日でしょう、それにお日様やお月様やお星様ができたのは四日目じゃありませんか。一たいはじめての日には、どこから光が射したんだろう?」
 グリゴーリイは棒のように立ちすくんでしまった。少年は嘲るように『先生』を見やっていたが、その目の中には何か高慢ちきなところさえあった。グリゴーリイはこらえきれなくなって、『ここからだ!』と呶鳴るやいなや、猛烈な勢いで少年の頬っぺたを引っぱたいた。こっちは黙ってその折檻をこらえていたが、またしても幾日かのあいだ隅っこに引っ込んでしまった。ところが、一週間の後、初めて彼の一生の持病である癲癇の徴候が現われた。このことを聞いた時、フョードルはとつぜん少年に対する態度を一変した。それまで彼は出会うたびに、一コペイカずつくれてやったり、また機嫌のいい時は、折ふし食事のテーブルから甘い物を届けてやったりして、決して叱るようなことはなかったけれども、何だか無関心な目で彼を眺めていた。ところが、そのとき病気の話を聞くやいなや、急にこの少年のことを心配しはじめ、医師を迎えて治療にかかった。けれどすぐに、治療の見込みのないことがわかった。発作は一月にならし一度ずつおそってきたが、その時期はさまざまであった。また発作の程度もまちまちで、時には軽く時にはきわめて激烈であった。フョードルはグリゴーリイに向って、少年に体刑を加えることを厳重に禁じたうえ、自分の部屋へ出入りすることを許した。何にもせよ物を教えることは当分さしとめたが、あるとき少年がもはや十五になった時、フョードルは書籍戸棚の辺をうろつき廻って、ガラス戸ごしに本の標題を読んでいる少年の姿を見つけた。フョードルのところにはかなりたくさんな、百冊あまりの書物があったけれど、当人が書物に向っているところを見たものは一人もない。彼はさっそく戸棚の鍵をスメルジャコフに渡して、
「さあ、読め読め、庭をうろつき廻るよりか、図書がかりにでもなったほうがよかろう、坐って読むがいい。まずこれを読んでみい」とフョードルは『ジカニカ近郊夜話』を拭き出してやった。
 少年は読みにかかったが、大いに不満らしい様子で、まるきりにこりともしないのみか、かえって読み終った時には眉をしかめていた。
「どうだ? おかしゅうないか?」とフョードルが訊いた。
 スメルジャコフは押し黙っていた。
「返事せんか、馬鹿。」
「でたらめばかり書いてあるんですもの。」スメルジャコフは苦笑しながら答えた。
「ちょっ、勝手にどこへなと行っちまえ、本当に下司根性だなあ、まあ、待て、これを貸してやろう、スマラーグドフの万国史だ。これはもう本当のことばかり書いてあるから読んでみい。」
 が、スメルジャコフは十ページと読まなかった。さっぱり面白くなかったのである。こうして、書物戸棚はまた閉じられてしまった。間もなくマルファとグリゴーリイは、だんだんスメルジャコフが何かしら馬鹿げて気むずかしくなったことを、主人フョードルに報告した。ほかでもない、スープを食べにかかっても、匙をもって一生懸命にスープの中を掻き廻したり、屈み込んで覗いたり、一匙すくって明りにすかしてみたりするのであった。
油虫でもいるのか?」とグリゴーリイが訊く。
「きっと蠅でしょう」とマルファが口をいれる。
 潔癖な青年は一度も返事をしたことがないけれど、パンであろうと肉であろうと、すべての食物について同じようなことが繰り返された。よくパンの切れをフォークにさして明りのほうへ持って行き、まるで顕微鏡にでもかけるように検査して、長いあいだ決しかねているが、とうとう思いきって口へ入れるというふうであった。『ふん、まるで華族さまのお坊ちゃんだあね』とグリゴーリイはそれを見てこう呟いた。フョードルは彼の新しい性質を聞くと、さっそく料理人に仕立てることにして、モスクワへ修業にやった。
 彼は幾年かのあいだ修業に行っていたが、帰って来た時にはすっかり面変りがしていた。まるで年につり合わないほど恐ろしく老《ふ》け込んで、皺がよって黄色くなったところは、ちょうど去勢僧のようだった。性質はモスクワへ行く前とほとんど変りなかった。やはり人づきが悪く、相手が誰であろうと他人と交わるなどということに、てんから必要を認めないのであった。あとで人の話したところによると、モスクワでも始終だまりこんでいたそうである。モスクワそのものもほとんど彼の興味を引かなかったので、市中のこともほんの僅かばかりしか知っていない、その余《よ》のことには何の注意をもはらわなかったのである。芝居にも一度行ったことがあるけれども、ぶすっとして不満らしい様子で帰って来た。その代り、モスクワからこの町へ帰って来た時は、なかなか凝《こ》った服装《なり》をしていた。きれいなフロックにシャツを着込み、日に二度は必ず自分で念入りに着物にブラッシをかけ、気どった牛皮の靴を特製のイギリス墨で、鏡のように磨き上げるのが好きであった。
 料理人としての腕は立派なものであった。フョードルは一定の俸給を与えていたが、彼はその俸給を全部、着物やポマードや香水などに使ってしまう。しかし、女性を軽蔑することは、男性に対するのと変りがなさそうで、女に対する時はいかにもしかつめらしく、ほとんど近寄ることができないくらいに振舞った。フョードルはまた少々別な見地から彼を眺めるようになった。ほかでもない、癲癇の発作がだんだん強くなってきて、そういう日には、食物がマルファの手で料理されるので、それがどうもフョードルにはたまらなかったのである。
「どういうわけで、お前の発作はだんだんひどくなるんだろう?」と彼は新しい料理人の顔を横目に見ながら言った。「お前、誰かと結婚したらどうだ、望みなら世話をするぜ。」
 しかし、スメルジャコフはこの言葉を聞いても、ただいまいましさに顔を真っ蒼にするばかりで、一口も返事をしなかった。で、フョードルも手を振って、向うへ行ってしまうのであった。
 しかし、何より重大なのは、彼がこの青年の正直な心を信じきっていることであった。しかも、それは一つの事情のため、永久に固められた信念である。ある時フョードルが酔っ払ったまぎれに、自宅の庭のぬかるみに、受け取ったばかりの虹([#割り注]百ルーブリ紙幣、虹の模様がある[#割り注終わり])を三枚落したことがある。翌日になって初めて気づき、あわててかくしの中を探しにかかったが、ふと見ると、虹は三枚ともちゃんとテーブルにのっている。どこから出て来たのかと思ったら、スメルジャコフが拾って、もう昨日から持って来ておいたのである。『いや、どうもお前のような男は見たことがないわい。』フョードルはその時こう言って、彼に十ルーブリくれてやった。しかし、断わっておかねばならぬのは、フョードルは単に彼の正直なことを信じていたのみならず、なぜかこの青年が好きなのであった。そのくせ、若い料理人は彼に対してもほかの者と同様に、不気味な横目づかいばかりして、始終むっつりしていた。口をきくなどということは、ごくたまにしかなかった。もしこんなとき誰か彼の顔を見ているうちに、一たいこの若者は何に興味をいだいているのか、また最も多く彼の頭にやどる想念はどんなものか、ということが知りたくなったとしても、彼の様子を見たばかりでは、その疑問を解決することは、しょせん不可能であったろう。ところで、彼はどうかすると、家の中でも庭の上でも、または往来の真ん中でも、ふいと立ちどまって、何やら考え込みながら、十分くらいも立ちすくんでいることがよくあった。もし人相学者が彼の顔をじっと観察したならば、今この男の心中には想念もなければ思想もなく、ただ何か一種の瞑想ともいうべきものがあるばかりだ、とこう言うに相違ない。
 クラムスコイの作品中に『瞑想する人』と題する優れた画がある。それは冬の森の描写で、その森の路には、何のあてもなくさまよい込んだ一人の百姓が、ぼろぼろの上衣に木の皮靴の姿で、ただ一人深い瞑想の中に立っている、彼はじっと突っ立って、何かもの思いに沈んでいるようなふうであるけれども、決して考えているのではなく、ただ何やら『瞑想』しているのである。もしこの男をうしろからとんと突いたら、彼はきっとびくりとして、まるで目がさめたように、その人の顔をぼんやり見まもるだろうが、何か何やら少しもわけはわからないのである。事実、すぐわれに返るに相違ないけれど、何をぼんやり立って考えていたのかと訊かれても、きっと何の覚えもないに違いない。しかし、その代り、自分の瞑想の間に受けた印象は、深く心の底に秘めているのである。こうした印象は当人にとって非常に大切なもので、彼は自分でもそれと意識しないで、いつとはなしに一つずつ積み重ねてゆくが、何のためかは、自分ながらむろんわからないのである。しかし、あるいは長年の間こういう印象を積み重ねた挙句、突然すべてのものを抛《なげう》って、放浪の苦行のために、エルサレムをさして出て行くかもしれないが、またあるいはふいに自分の生れ故郷の村を、焼きはらってしまうかもしれない。ことによったら、両方とも一時に起るかもはかられぬ。とにかく、瞑想の人は民間にかなりたくさんある。スメルジャコフもこうした瞑想者の一人であって、やはり同じように自分でも何のためとも知らずに、こうした印象を貪るように積み重ねていたに相違ない。

[#3字下げ]第七 論争[#「第七 論争」は中見出し]

 ところで、このヴァラームの驢馬がとつぜん口をきいたのである。しかし、その話題は奇妙なものであった。今朝ルキヤーノフの店へ買物に行ったグリゴーリイが、この商人からある一人のロシヤ兵の話を聞いた。ほかでもない、この兵士はどこか遠いアジアの国境辺で敵の擒となったが、猶予なく残酷な死刑に処してしまうという威嚇のもとに、キリスト教を捨ててフイフイ教へ転じるように強制されたにもかかわらず、自分の信仰に裏切ることを肯じないで苦痛を選び、キリストを讃美しながら、従容として生き皮を剥がれて死んでしまった、というのである。この美談は、ちょうどその日着いた新聞にも、掲載されていた。いま食事の間に、この話をグリゴーリイが持ち出したのである。
 フョードルは以前から食後のデザートの間に、よし相手がグリゴーリイであろうとも、愉快な話をして一笑いするのが好きであった。ところが今日は余計に軽い、愉快な、浮き浮きした気分になっていたので、コニヤクを飲みながらこの話を聞き終ると、そういう兵隊はすぐにも聖徒の中へ祭り込まなければならぬ、そして剥がれた皮はどこかのお寺へ送ったがよい。『それこそ大変な参詣人で、さぞお賽銭が集ることだろうよ』と言った。グリゴーリイは、主人がいささかも感激しないで、いつもの癖として、罰あたりなことを言いだしたのを見て顔をしかめた。その時、戸口に立っていたスメルジャコフがふいににやりと笑った。スメルジャコフは以前もかなりたびたび、食事の終り頃にテーブルに侍することを許されていたが、イヴァンがこの町へ来てからというものは、ほとんど食事のたびごとに顔を出すようになった。
「お前はどうしたんだ?」その薄笑いを目ざとく見つけると同時に、これはグリゴーリイに向けられたものだなと悟って、フョードルはこう訊いてみた。
「私が思いますには」とスメルジャコフは、とつぜん思いがけなく大きな声で言いだした。「よしその感心な兵隊のしたことが偉大なものだとしましても、その際この兵隊がキリストのみ名と自分の洗礼を否定したからといって、何も罪なことはなかろうと思います。そうすれば、このさきいろ先ないい仕事をするために、自分の命を助けることができるし、またそのいい仕事でもって長年の間に、自分の浅はかな行いを償うこともできます。」
「それがどうして罪にならんか? 馬鹿を言え、そんなことを言うと、いきなり地獄へ落されて、羊肉のように焙られるんだぞ!」とフョードルが押えた。
 ちょうどこの時アリョーシャが入って来たのである。フョードルは前に述べたごとく無性に喜んで、「お前の畑だ、お前の畑だ!」とアリョーシャを席に着かせながら、嬉しそうにひひひと笑ったのである。
「羊肉のことにつきましては、決してそんなはずがありません。それに。ああ言ったからって、そのようなことはありゃしません、またあるべきはずがございませんです、公平に申しましてね」とスメルジャコフはものものしい調子でこう注意した。
「公平に申しましてとは何のことだ?」膝でアリョーシャを突っつきながら、フョードルは一そう面白そうに叫んだ。
「畜生だ、それだけのやつだ!」とグリゴーリイはだしぬけにこらえかねてこう言った。彼は忿怒に燃える目で、ひたとスメルジャコフの顔を見据えていた。
「畜生などとおっしゃるのは少々お待ち下さい、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ」とスメルジャコフは、落ちついた控え目な調子で言葉を返した。「それよりか、ご自分でよく考えてごらんなさい。もし私がキリスト教の迫害者の手に落ちて、キリストのみ名を呪い自分の洗礼を否定せよとしいられたら、私はこのことについて、自分の理性で行動する権利を持っているのですから、罪などというものは少しもありゃしません。」
「そのことはもう前に言うたじゃないか。だらだら飾り立てるのはやめて証明しろよ!」とフョードルが叫んだ。
下司!」とグリゴーリイは吐き出すように呟いた。
下司なんておっしゃるのもやはり少々お待ち下さい。そんな汚い口をきかないで、よく考えてごらんなさい。なぜって、私が迫害者に向って、『いいや、私はキリスト教徒じゃありません、私は自分の神様を呪います』というが早いか、さっそく私は神の裁きによって呪われたる破門者《アナテマ》となり、異教徒と全然おなじように、神聖な教会から切り放されてしまいます。ですから、私が口をきるその一瞬間というよりか、むしろ口をきろうと思った瞬間に(このあいだ四分の一秒間もかかりません)、私はもう破門されておるんです、――そうじゃありませんか、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ?」
 彼はいかにも満足げにグリゴーリイに向ってこう言った。しかしその実、ただフョードルの質問に答えているにすぎないのは自分でもよく承知しているくせに、わざとこうした質問をグリゴーリイが発しているようなふりをして見せるのであった。
「イヴァン、」突然フョードルがこう叫んだ。「ちょっと耳を貸してくれ。あれはみなお前のためにやっておるんだぞ。お前に褒めてもらいたいからだ。褒めてやれよ。」
 イヴァンは父の得々たる言葉を、真面目くさった様子で聞いていた。
「待て、スメルジャコフ、ちょっとのま黙っておれ」とまたしてもフョードルが叫んだ。「イヴァン、もう一ペん耳を貸してくれ。」
 イヴァンはまた思いきり真面目くさった様子をして身を屈めた。
「わしはお前もアリョーシャと同じように好きなんだぞ。わしはお前を嫌うとるなぞと思わんでくれ。コニヤクをやろうか?」
「下さい。」『しかし、ご自分でもいい加減つぎ込んでるじゃないか』と思って、イヴァンはじっと父の顔を見つめた。が、同時に異常な好奇の念をいだきながら、スメルジャコフを観察していたのである。
「貴様は今でも『呪われたる破門者《アナテマ》』だあ」とだしぬけにグリゴーリイが破裂したように呶鳴った。「それだのに、どうして貴様はそんな理屈が言えるだか、もし……」
「悪口をつくな、グリゴーリイ、悪口を!」とフョードルが遮った。
「グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、ほんのちょっとの間でいいから待って下さい。まだすっかり言ってしまったわけでないのですから、もっと先まで聞いて下さいよ。ところで、私がすぐ神様から呪われた瞬間に、本当に間一髪をいれないその一瞬間に、私はもう異教徒と同様になって、洗礼も私の体から取り除けられてしまうのですから、したがって私は何の責任もなくなるわけです、――これだけは本当のことでしょう?」
「おいおい、早くけりをつけんか、けりを。」いい気持そうに杯をぐいと呷りながら、フョードルはせき立てるのであった。
「で、もし私がキリスト教徒でないとしたら、フイフイ教のやつらに『貴様はキリスト教徒か、どうだ?』と訊かれた時、嘘を言ったことにはなりません。なぜって、まだ私が迫害者に一言も口をきかぬさきから、ただ言おうと思っただけで、神様からキリスト教徒の資格を奪われるからです。で、こんなふうに資格を奪われたとすれば、私があの世へ行った時、キリストを否定したからという理由で、私をキリスト教徒扱いにして、かれこれ咎め立てする権利がどこにあります? だって、私はただ否定しようと考えただけで、もう否定するまでにちゃんと洗礼を剥ぎ取られてるんですからね。もし私がキリスト教徒でないとすれば、キリストを拒絶することはできません。なぜって、何もないものを拒絶するわけにゆかないじゃありませんか。穢れた韃靼人が天国へ行った時だって、なぜお前はキリスト教徒に生れなかったといって、咎め立てするものはありませんからね、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ。誰だって、一匹の牛から二枚の革が取れないくらいは知っていますから、そんな人間に罰をあてたりなんかしませんよ。宇宙の支配者の神様も、その韃靼人が死んだとき、ほんの申しわけばかりの罰をおあてになるだけですよ(だって、まるきり罰をあてないわけにもゆきませんからね)。たとえ穢れた両親から穢れた韃靼人としてこの世へ生れて来たからって、当人に何の責任もないということは、神様だってお考えになりますよ。また神様も無理に韃靼人を掴まえて、お前はキリスト教徒であったろう、などというわけにもいかないでしょう? そんなことを言ったら、神様が真っ赤な嘘をおつきなすったことになりますからね。一たい宇宙の支配者たる神様が、たとえ一言でも嘘をおつきになることがありますかねえ?」
 グリゴーリイは棒のように立ちすくんだまま、目を皿にして弁者を見つめていた。彼はいま言われたことがよくわからなかったけれど、それでもこの奇怪な言葉の中から何かあるものを掴んだので、まるでふいに額を壁へぶっつけた人よろしくの顔をして、じっとその場に突っ立っていた。フョードルは杯をぐいと飲み干し、甲高い声をたてて笑いだした。
「アリョーシャ、アリョーシャ、まあ、どうだ? おい、驢馬、お前はなかなか理屈やだな! あいつ、大方どこかのジェスイット派のところにいたんだぜ、なあ、イヴァン。おい、悪ぐさいジェスイット、一たいお前はどこでそんなことを習うたんだ? しかし、お前の屁理屈は嘘だ、嘘だ、真っ赤な嘘だよ。こら、グリゴーリイ、泣くな、泣くな、今わしらがあいつの屁理屈を影も形もないように吹っ飛ばしてやるから。おい、理屈やの驢馬君、ひとつ返答してみい。まあ、かりにお前が迫害者に対して公明正大だとしたところで、何というても、自分の心の中では自分の信仰を否定したに相違ない。第一、お前は自分でも、それと同時に破門者《アナテマ》となると言うておるじゃないか。もし破門者《アナテマ》だとすれば、地獄へ行った時に、おお、よく破門者《アナテマ》になったと言うて、お前の頭を撫でてはくれんぞ。このことをお前は何と思う、偉い異教徒君?」
「私が自分で否定したというのは、まったく疑いの余地がありません。が、なんていっても、それは何の罪にもあたりません。よし罪になるとしてもごくごく普通なものですよ。」
「どうしてごくごく普通なものです、だ?」
「馬鹿ぬかせ、こん畜生!」とグリゴーリイが喚いた。
「まあ、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、ご自分でよく考えてごらんなさい。」自分の勝利を自覚しながら、ただ寛大な心から敗れた敵を憐れむといったような調子で、スメルジャコフは落ちつきはらって、しかつめらしく言葉をつづけた。「ねえ、聖書の中にこう言ってあるじゃありませんか。もし人間か、ほんのこれっぱかりでも信仰を持っていたら、山に向って海の中へ入れと言うと、山は最初の命令と同時に少しも躊躇しないで海に入って行くだろうってね。どうです、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、もし私が不信心もので、あなたがいつも私を呶鳴りつけることのできるほど、立派な信仰を持ってらっしゃるとしたら、一つご自分であの山に向って、海へ入れと言ってごらんになりませんか。いや、海とは言いません(ここから海まではだいぶ遠いから)、せめてつい庭の裏を流れている、あの汚い溝川でもいいですよ、どんなにあなたが呶鳴ってみても、何ひとつ動こうとしないで、そっくりもとのままでいまさあ。それはすぐご自分でもおわかりになりますよ。これはつまり、あなたが本当に信仰を持っていないくせに、間がな隙がな他人を悪口なさるってことを証明してるんですよ。これはただあなたばかりじゃありません、今の世の中では立派な偉い方々をはじめとして、一番くずの百姓にいたるまで誰一人として、山を海の中へ突き飛ばせるものはないのです。例外といっては、世界じゅう探しても一人、多くて二人ぐらいのもんでしょうよ。それもどこかエジプトあたりの砂漠の中で、人知れず隠遁していることでしょうから、結局そんな人はみつかりゃしません。もしそうとしたら、もしそのほかの人がみんな不信心者だとしたら、あれほど万人に知れ渡った情け深い心を持っていらっしゃる神様が、その砂漠の中に住んでいる二人の隠者をのけたほかの人を、みんな一人残さず呪いつくして、少しも容赦なさらないでしょうか? こういうわけですから、一たん神様を疑うようなことをしたところで、後悔の涙さえこぼしたら赦していただけるものと、私は信じているのでございますよ。」
「待てよ、」フョードルはすっかり夢中になって、黄色い声で叫んだ。「じゃ、何だな、とにかく、山を動かすことのできる人間が、二人だけはいるものと考えるんだな? イヴァンよく覚えて、書き留めといてくれ。ロシヤ人の面目躍如たりだ!」
「ええ、まったくおっしゃるとおりです、これは宗教上の国民的な一面ですよ。」わが意を得たりというような微笑を浮べながら、イヴァンは同意した。
「同意かね? お前が同意する以上それに相違なしだ! アリョーシカ、そうだろう? まったくロシヤ人の宗教観だろう?」
「いいえ、スメルジャコフの宗教観は、まるっきりロシヤ的じゃありません。」真面目な確固たる調子でアリョーシャはこう言った。
「わしが言うのは宗教観のことじゃない、あの二人の隠者という点なのだ、あの一つの点なのだ。ロシヤ式だろう、まったくロシヤ式だろう。」
「ええ、その点はぜんぜんロシヤ式です」とアリョーシャはほお笑んだ。
「驢馬君、お前の一ことは金貨一つだけの値うちがあるよ、そして、本当に今日お前にくれてやるわ。しかし、そのほかのことは嘘だ、みんな嘘だ、真っ赤な嘘だ。よいか、こら、われわれ一同がこの世で信仰を持たないのは心が浅いからだ。つまり、暇がないからだよ。第一、いろんな用事にかまけてしまう、第二に、神様が時間を十分授けて下さらなかったので、一日に二十四時間やそこらのきまりでは、悔い改めるはさておき、十分に寝る暇もないでなあ。ところが、お前が迫害者の前で神様を否定したのは、信仰のことよりほか考えられないような場合じゃないか。ぜひ自分の信仰を示さなきゃならん場合じゃないか。おいどうだ、一理あるだろう?」
「一理あるにはありますが、まあ、よく考えてごらんなさい、グリゴーリイ・ヴァシーリエヴィッチ、一理あればこそ、なおのこと私にとって有利になってくるのです。もし私が正真正銘、間違いなしに信仰を持っているとしたら、自分の信仰のために苦しみを受けないで穢わしいフイフイ教へ乗りかえるのは、もちろん、罪深いことに相違ありますまい。しかし、それにしても、苦しみなどというところまでゆかないですむはずですよ。なぜって、そのとき目の前の山に向って、『早く動いて来て敵を潰してくれ』と言いさえすれば、山は即時に動きだして、油虫かなんぞのように、敵を押し潰してくれるはずじゃありませんか。で、私はけろりとして、神の光栄をたたえながら引き上げて行きますよ。ところが、もしその時この方法を応用して、このフイフイ教徒どもを押し潰してくれと、わざと大きな声をして山に呶鳴ってみても、山はじっとしていて敵を潰してくれないとしたら、私だってそんな恐ろしい命がけの場合に、疑いを起さずにいられるものですか? それでなくてさえ天国ってものは、完全に得られるものじゃないということを承知しているのに(だって、山が動いて来なかったところをみると、天国でも私の信仰を本当にしてくれないでしょうから、あの世でも大したご褒美が待っていないことがわかりますからね)、何のとくにもならないことに、自分の生き皮を剥がれる必要がどこにありますか? 実際、もう半分背中の皮を剥がれた時だって、私が呶鳴ったり喚いたりしてみても、山はやっぱり動きゃしませんからね。こんな時には疑いが起るくらいでなく、恐ろしさのあまりに分別さえなくなるかもしれません。いや、分別をめぐらすなんてことはまったく不可能です。してみると、この世でもあの世でも、かくべつ自分のとくになることもなければ大したご褒美ももらえないとわかったら、せめて自分の皮でも大切にしまっておこうと思うのが、一たいどうして悪いのでしょう? ですから、私は神様のお慈悲をあてにして、綺麗さっぱり赦していただけるものと思っていますので……」

[#3字下げ]第八 コニヤクを傾けつつ[#「第八 コニヤクを傾けつつ」は中見出し]

 争論は終った。しかし、不思議なことに、あれほど浮き立っていたフョードルが、しまい頃には、急に顔をしかめだした。顔をしかめてぐいとコニヤクを呷ったが、これはもうまるで余分な杯であった。
「おい、もう貴様らはいい加減にして出て行かんか」と彼は二人の下男に呶鳴りつけた。「もう出て行け、スメルジャコフ。約束の金貨はあす持たしてやるから、お前はもう帰ってよいわ。グリゴーリイ、泣かずにマルファのところへ行け、あれが慰めていいあんばいに寝かしてくれらあ。」
「悪党めら、食事のあとで、静かに坐っておることもさしやせん。」命に従って二人の下男が立ち去った後、彼はいきなりいまいましげに打ち切るように言った。「この頃スメルジャコフは食事のたびに出しゃばりだしたが、よっぽどお前が珍しいと彼はイヴァンに向って言いたした。
「決して何も」とこちらは答えた。「急に僕を尊敬する気になったんですよ。なに、あれはただの下司ですよ。しかし、時が来たら、一流の人間になるでしょうよ。」
「一流の?」
「まだほかにもっと立派な人も出てくるでしょうが、あんなのも出て来ますね。まず初めにあんなのが出て、それからもっとましなのが現われるんです。」
「で、その『時』はいつ来るんだな?」
「狼火《のろし》が上ったら……しかし、ことによったら、燃えきらないかもしれませんよ。今のところ、民衆はあんな下司の言うことをあまり好きませんね。」
「なるほどな。ところでお前、あのヴァラームの驢馬はいつも考えてばかりいるが、本当にどんなところまで考えつくか知れやせんぜ。」
「思想をため込んでるんでしょうよ」とイヴァンは薄笑いをもらした。
「ところでな、わしにはちゃんとわかっておるのだ。あいつは、ほかの者もそうだけれど、わしという人間に我慢ができんのだ。お前だって同じことだぞ、お前は『急に僕を尊敬する気になった』などと言うておるけれどな。アリョーシカはなおのことだ、あいつはアリョーシカを馬鹿にしておるよ。しかし、あいつは盗みをせん、そこが感心だ。それにいつも黙り込んで告げ口をせんし、内輪のあくぞもくぞを外へ出て言わんし、魚饅頭《フィッシュ・パイ》も上手に焼く。しかし、あんなやつなぞ、本当にどうだってかまやせん。あんなやつの話をする値うちはないよ。」
「むろん、値うちはありません。」
「ところで、あいつがひとり腹の中で何を考え込んでおるかというと……つまり、ロシヤの百姓は一般に言うて、うんとぶん殴ってやらにゃならんのだ。わしはいつもそう言っておるんだよ。百姓なんてやつは詐欺師だから、可哀そうだなどと思ってやるにはあたらん。今でもときどき、ぶん殴るものがおるから、まだしも結構なんだ。ロシヤの土地は、白樺のおかげで保《も》ってるんだから、もし林を伐り倒したら、ロシヤの土地もくずれてしまうのだ。わしは利口な人の味方をするなあ。われわれはあんまり利口すぎて、百姓を殴ることをやめたけれど、百姓らは相変らず、自分で自分をぶっておる。それでよいのさ。人を呪わば穴二つ……いや、何と言うたらよいかな……つまり、その、穴二つだ。実際、ロシヤは豚小屋だよ。お前は知るまいが、わしはロシヤが憎うてたまらんのだ……いや、ロシヤじゃない、その悪行を憎むのだ、しかし、あるいは、ロシヤそのものかもしれんな。Tout cela c'est de la cochonnerie.([#割り注]それはみんな腐敗から出るのだ[#割り注終わり])一たいわしの好きなのは何か知っとるか? わしは頓知が好きなのだ。」
「また一杯、よけいに飲んでしまいましたね。もうたくさんですよ。」
「まあ待て、わしはもう一杯と、それからまたもう一杯飲んで、それで切り上げるんだ。どうもいかん、お前が途中で口を出すもんだから。わしは一度よそへ行く途中モークロエ村を通ったとき、一人の老爺にものを訊ねたことがある。すると、老爺の答えるには、「わしらあ旦那、言いつけで娘《あま》っ子をひっぱたくのが何よりもいっち面白えだ。そのひっぱたく役目は、いつでも若えもんにやらせますだ。ところが、今日ひっぱたいた娘《あま》っ子を、もうその翌《あけ》の日、若えもんが嫁にもらうと思いなさろ。せえじゃけに、あまっ子らもそれをあたりめえのように思うとりますだあ』ときた。何という侯爵《マルキー》ド・サード([#割り注]一七四〇―一八一四、仏の淫蕩文学者、精神病院にて死す、サディズムの起源となる[#割り注終わり])だろう。もし何ならうがった皮肉と言うてもよいくらいだ。一つみんなで出かけて見物したらどうだな、うん? アリョーシャ、お前赧い顔をするのか、いい子だ、何も恥しがることはないよ。さっき僧院長の食事の席に坐って、坊さんたちにモークロエ村の娘の話をして聞かせなかったのが残念だよ。アリョーシカ、わしはさっきお前んとこの僧院長にうんと悪態を言うたが、まあ腹を立てんでくれ。わしはどうもついむらむらっとなっていかんよ。もし神様があるものなら、存在するものなら、その時はもちろんわしが悪いのだからして、何でも責任を引き受けるがな、もし神様がまるっきりないとしたら、あんな連中をまだまだあれくらいのことですましておけるものじゃない、お前んとこの坊主どもをさ。その時は、あいつらの首を刎ねるくらいじゃたりゃせんよ。なぜというて、あいつらは進歩を妨げるんだからなあ。イヴァン、お前は信じてくれるかい、この考えがわしの心を悩ましとるんだ。駄目駄目、お前は信じてくれん。その目つきでちゃんとわかるわ、お前は世間のやつらの言うことを信じて、わしをただの道化だと思うとるんだ。アリョーシカ、お前もわしをただの道化だと思うかい?」
「いいえ、ただの道化だとは思いません。」
「本当だろう、お前がしんからそう思うとるということは、わしとにかく、お前の寺はすっかり片をつけてしまいたいもんだなあ。本当に、ロシヤじゅうの神秘主義の巣窟を一ペんに引っ掴んで、世間の馬鹿者どもの目をさますために、影もないように吹っ飛ばすとよいのだ。そうしたら、金や銀がどのくらい造幣局へ入るかしれやせん!」
「何のために吹っ飛ばすんです?」とイヴァンが言った。
「それは少しも早く真理が輝きだすためだ、そうなんだよ。」
「もしその真理が輝きだすとしたら、第一にあなたをまる裸にした上で……それから吹っ飛ばすでしょうよ。」
「おやおや! いや、あるいはお前の言うとおりかもしれんぞ。いや、わしも馬鹿だった」とフョードルはちょいと額を叩いて急に身を反らした。「そういうことなら、アリョーシカ、お前の寺もそのままにしておこう。まあ、われわれ利口な人間は暖かい部屋の中に坐って、コニヤクでもきこしめすとするさ。なあ、イヴァン、ことによったら神様が、ぜひこうあるように造って下さったのかもしれんて。ところで、お前、神はあるかないか言うてみい。よいか、しっかり言うんだぞ、真面目に言うんだぞ! 何をまた笑うておるのだ?」
「僕が笑ったのは、さっきあなたが、スメルジャコフの宗教観、例の山を動かすことのできる二人の隠者が、どこかにいるってやつですな、あれについて気のきいた批評をされたからです。」
「では、今のがあれに似ておったかな?」
「非常に。」
「してみると、わしもロシヤの人間で、どこかロシヤ的な一面があると見えるな。しかし、お前のような哲学者にもこんなふうの一面があるのを、掴まえてみせることができそうだぞ。何なら押えてみしょうか。わしが受け合っておく、明日にでもさっそく押えてみせるよ。とにかく、神があるかないか言うてみい。ただし真面目に! わしは今まじめになりたくなったのだ。」
「ありません、神はありません。」
「アリョーシカ、神はあるか?」
「神はあります。」
「イヴァン、不死はあるか、いや、まあ、どんなのでもよい、ほんの少しばかりでも、これから先ほどでもよい。」
「不死もありません。」
「どんなのも?」
「ええ、どんなのも。」
「つまり、まったくの無か、それとも何かあるのか? ことによったら、何かあるかも知れんぞ。何というても、まるっきり何もないはずはないからなあ!」
「まったく無です。」
「アリョーシカ、不死はあるか?」
「あります。」
「神も不死も?」
「神も不死もあります。[#「「神も不死もあります。」はママ]
「ふむ! どうもイヴァンの方が本当らしいわ。ああ、考えてみるばかりでも恐ろしい、人間がどれだけの信仰をいだいたか、どれだけの精力をこんな空想に費したか、そうして、これが何千年の間くり返されてきたか、考えても恐ろしいくらいだ! イヴァン、誰が一たい人間をこんなに愚弄するんだろう? もう一ペん最後にはっきり言うてくれ、神はあるのかないのか? これが最後だ!」
「いくら最後でも、ないものはないのです。」
「じゃ、誰が人間を愚弄しておるのだ、イヴァン?」
「きっと悪魔でしょうよ」とイヴァンはにやりと笑った。
「そんなら悪魔はおるのか?」
「いえ、悪魔もいませんよ。」
「そりゃ残念だ。ちょっくそ、じゃ、わしは神を考え出したやつを、どうしたらよいというのだ? 白楊《はこやなぎ》の木でしばり首にしてやっても飽きたらん。」
「もし神を考え出さなかったら、文明というものもてんでないでしょう。」
「ない? それは神がなかったら、かな?」
「ええ、それにコニヤクもないでしょう。が、それにしても、そろそろコニヤクを取り上げなくちゃなりませんね。」
「ま、ま、待ってくれ、もう一杯。わしはアリョーシャを侮辱したが、お前怒りゃせんだろうな、アレクセイ? わしの可愛いアレクセイチック!」
「いいえ、怒ってやしませんよ。僕にはお父さんの腹の中がわかりますもの。お父さんは頭より心のほうがいいのです。」
「わしの頭より心のほうがよい? ああ、しかもそう言うてくれる人間がこの子だもんなあ! イヴァン、お前アリョーシカが好きかな?」
「好きです。」
「好いてやれ(フョードルは、もうひどく酔いが廻ってきたので)。よいか、アリョーシャ、わしはお前の長老に無作法なことをした。が、わしは気が立っておったのだ。ところで、あの長老には頓知があるなあ、お前どう思う、イヴァン?」
「あるかもしれませんね。」
「あるよ、あるよ、〔Il y a du Piron la'-dedans.〕([#割り注]あいつの中にはピロンの面影があるよ[#割り注終わり])あれはジェスイット派だ、ただしロシヤ式のものだがな。高尚な人間というものは誰でもそうだが、あの男も聖人《しょうにん》さまの真似なんかして、心にもない芝居を打たにゃならんので、人知れずばかばかしくてたまらんのだよ。」
「でも、長老は神を信じていられます。」
「なんの、爪の垢ほども信じちゃおらん。一たいお前は知らなんだのかい。あの男はみんなにそう言うておるじゃないか。いや、みなというても、あの男のところへやって来る利口な人間にだけだよ。県知事のシュルツにはもう剥き出しに、『credo([#割り注]信じてはおる[#割り注終わり])が、何を信じておるか、わからん』とやっつけたものだ。」
「まさか?」
「まったくそのとおりだよ。しかし、わしはあの男を尊敬する。あの男には何となくメフィストフェレス式なところ……というよりむしろ『現代の英雄』([#割り注]レールモントフの散文小説[#割り注終わり])に出て来る……アルベーニン([#割り注]同じ作者の戯曲『仮面舞踏会』の主人公[#割り注終わり])だったかな……まあそんなふうのところがあるよ。つまりその、あいつは助平爺なんだ。あいつの助平なことというたら、もしわしの娘か女房があいつのところへ懺悔に行ったら、心配でたまらんだろうと思われるくらいひどいのだ。全体あいつがどんな話を始めると思うかい……昨年あの男がわしらをリキュールつきの茶話会へ呼んだことがある(リキュールは奥さんたちが持って行ってやるんだ)。その皮をよってしまった……とりわけ面白かったのは、あの男が一人の衰弱した女を癒した話だ。『もし足が痛うなかったら、わたしは一つ、お前さんに踊りをやって見せるんだがなあ』と言うたのさ。え、どうだね? 『わしも昔はずいぶんいんちきをしてきたものさ』などとすましたものだよ。あいつはまたジェミードフという商人から、六万ルーブリ捲き上げたことがある。」
「え、盗んだのですか?」
「その商人があいつを親切な人と見込んで、『どうかこれを預って下さいまし、明日うちで家宅捜索がありますから』と言うので、あいつが預ることになった。ところで、あとになって、『あれはお前さん、お寺へ寄進しなさったのじゃないか』とやったものだ。わしがあいつのことを悪党と言うてやったら、『わしは悪党じゃない、複雑な心を持っておるのだ』ときた……いや、待てよ、これはあの男の話じゃないぞ……ああ、別な男のことだ、わしはつい思い違いをして、気づかずにおったんだ。さあ、もう一杯もろうて、それでやめにしよう、イヴァン、罎を片づけてくれ。ところで、わしがあんなでたらめを言うたのに、どうしてお前はとめてくれなんだ……そしてそれは嘘だと、なぜ言うてくれなんだ? イヴァン?」
「ご自分でおやめになるだろう、と思ったもんですから。」
「嘘をつけ、お前はわしが憎いからとめなんだのだ。ただ憎いためなんだ。お前はわしを馬鹿にしておる。お前はわしのところへやって来て、わしの家でわしを馬鹿にするのだ。」
「だから、僕はもう発ちますよ。あなたはコニヤクに呑まれてるんです。」
「わしはお前にチェルマーシニャヘ……一日か二日でよいから行ってくれと、一生懸命に頼んでるのに、お前は行ってくれんじゃないか。」
「そんなにおっしゃるなら、明日にでも行きましょうよ。」
「なんの行くもんか。お前はここにおって、わしの見張りがしたいのだ、そうだとも、だから行こうとせんのだ、意地わるめ!」
 老人はなかなかおとなしくしていなかった。彼はもうすっかり酔っ払ってしまって、これまでおとなしかった酒飲みでさえ、急にふてくされて威張りださなければ承知しなくなる、そういう程度にまで達したのである。
「何でお前はわしを睨むのだ? お前の目は何という目だ? お前の目はわしを睨みながら、『みっともない酔っ払い面《づら》だなあ』と言うておる。お前の目はうさんくさい目だ、お前の目は人を馬鹿にした目だ。お前は胸に一物あってやって来たんだろう。そら、アリョーシャの目つきなぞははればれしておるじゃないか。アリョーシカはわしを馬鹿にしておらん。おい、アリョーシカ、イヴァンを好かんでもよいぞ。」
「そんなに兄さんのことを怒らないで下さい! 兄さんを侮辱するのはやめて下さい」とアリョーシャは力を籠めて言った。
「いや、なに、わしもただちょっと……ああ、頭が痛い。イヴァン、罎をしもうてくれ、もうこれで三度も言うておるんだぜ。」彼はちょっと考え込んだが、急に引き伸ばしたようなずるそうな笑みをもらしながら、「イヴァン、この老いぼれたやくざ者に腹を立てんでくれ。わしはお前に嫌われとるのはよう知っている。けれど、まあ腹を立てんでくれ。まったくわしは人に好かれる柄じゃないのだからなあ。しかし、どうかチェルマーシニャヘ行ってくれ。わしもあとから、お土産を持って行くわ。そして、あっちでよい娘っ子を見せてやるよ、もう前から目をつけておいたんだ。今でもまだ跣で飛び廻っておるだろう。跣というたからって、びっくりすることはない、軽蔑することはない――実に素敵な玉だよ。」
 彼は自分の手をちゅうっと吸った。
「わしにとってはな」と彼は自分の好きな話に移ると同時に、まるで一時に酔いがさめてしまったように、恐ろしく元気づいてきた。「わしはな……こんなことを言うても、お前らのような仔豚同然な青二才にはわかるまいけれど、わしはな……一生涯の間、みっともない女には一度も出くわさなかったよ。これがわしの原則なんだ! 一たいお前らにこれがわかるかな? なんの、お前らにわかってたまるものか! お前らの体の中には血の代りに乳が流れておるのだ、まだ殼がすっかり落ちきらんのだ! わしの規則によるとな、どんな女からでも、ほかの女には決してないような、すこぶる、その、面白いところが見つけ出せるのだ、――しかし、自分で見つけ出す目がなけりゃならん、そこが肝腎なのさ! 実際それには腕がいるのだ! わしにとって不器量《モーウェートン》な女というものは存在せんのだ。女だということが、すでに興味の一半をなしておるのさ。いや、これはお前らにわかるはずがないて! オールドミス、――こんな連中の中からでも、『どうして世間の馬鹿者どもは、これに気がつかずに、むざむざ年をよらしてしもうたのか?」[#「『どうして世間の馬鹿者どもは、これに気がつかずに、むざむざ年をよらしてしもうたのか?」」はママ]とびっくりするようなところを探し出すことが、ときどきみるよ。跣女や不器量なやつは、まず第一番にびっくりさせにゃならんよ、――これがこういう手合いに取りかかる秘訣だ。お前は知らんだろう? こういう手合いは、『まあ、わたしのような身分の卑しい女を、こんな旦那さまが見そめて下さった』と思うて、はっとして嬉しいやら恥しいやら、というような気持にしてしまわにゃいかん。いつでも召使に主人があるように、いつでもこんな下司女にはちゃんと旦那さまがついておる。実にうまくできとるじゃないか。人生の幸福に必要なのはまったくこれなんだ! ああ、そうだ! おい、アリョーシャ、わしは亡くなったお前の母親をいつもびっくりさせてやったものだ。もっとも、だいぶ工合が違うておったがな。ふだんは決して優しい言葉をかけんようにしながら、ちょうど潮時を見はかろうて、だしぬけに、ちやほやと愛嬌を振りまくのだ。膝を突いて這い廻ったり、あれの足を接吻したりして、しまいにはいつでもいつでも(ああ、わしはまるでつい今しがたあったことのように覚えておる)、いつも笑わしてしまうのだ。その笑い声が一種特別でな、細くて神経的で鈴のように透き通っておった。あれはそんな笑い声しか出さなんだよ。しかし、そういう時いつも病気が頭を持ちあげて、翌日はもうすっかり『|憑かれた女《クリクーシカ》』になって喚きだす。だから、この細い笑い声も、決して嬉しいというしるしではないのだ。いや、人を一杯くわすのだけれど、しかし、嬉しいには相違ないからなあ。どんなものの中にでも特色を見つけるというのは、つまりこういうことなのさ! ある時ベリャーフスキイが、――その時分そういう金持の好男子がおったのさ、――これがお前の母親の尻を追っかけ廻して、しきりにわしの家へ出入りしておったが、ある時どうかした拍子でわしの頬げたを、しかもあれの目の前で、こっびとくひん曲げたと思え。すると、ふだんまるで牝羊のような女が、この頬げた一件のために、わしをぶん殴るのじゃないかと思われるほど、恐ろしい権幕でくってかかってきた。『あなたは今ぶたれましたね、ぶたれましたね、あんな男のために頬打ちの恥辱なんか受けて! あなたはわたしをあの男に売ろうとしてらっしゃるんです……あの男、本当によくもわたしの目の前で、あなたをぶてたものだ! もうもう決してわたしのそばへ来て下さいますな! さあ、すぐ走って行って、あの男に決闘を申し込んで下さい。』そこでわしは乱れた心を鎮めるためにお寺へ連れて行って、方丈さまに有難いお経を上げてもろうたよ。しかし、アリョーシャ、わしは誓うてお前の『|憑かれた女《クリクーシカ》』を侮辱したことはないよ! したが一度、たった一度ある。それはまだ結婚した初めての年だったが、その時分恐ろしくお祈りに凝り固まって、聖母マリヤの祭日なぞはことにやかましゅう言うてな、わしまで自分のそばから書斎へ追い返してしまうじゃないか。で、わしは一つあれの迷信をぶちこわしてやろうと思うて、『見い、見い、ここにお前の聖像がある、よいか、わしが今こうしてはずすぞ。な、お前はこいつをあらたかなものだというて有難がっとるが、わしはそらこのとおり、お前の目の前で唾を吐きかけるが、決して何の罰もあたりゃせんから!』ところが、あれがわしのほうを見た時、や、大変、今にもわしを殺すのじゃないかと思うたよ。しかし、あれはただ飛びあがって手を叩いたばかりで、ふいに両手で顔を隠したと思うと、ぶるぶるっと身ぶるいして床の上へぶっ倒れたが……そのまま気絶してしまった……アリョーシャ、アリョーシャ! どうしたのだ、どうしたのだ?」
 老人はびっくりして跳りあがった。アリョーシャは彼が母親の話を始めた時から、次第次第に顔色を変え始めたのである。顔はくれないを潮し、目は輝き、唇はぴくぴく顫えだした……酔っ払った老人は何にも気がつかないで、しきりに口から泡を飛ばしていたが、突然アリョーシャの体にはなはだ奇怪なことが生じた。ほかでもない、たった今フョードルが話した『|憑かれた女《クリクーシカ》』と同じことが、思いがけなく始まったのである。アリョーシャはテーブルの前から飛びあがって、今の話の母親と寸分たがわず手を拍つと、そのまま両手で顔を蔽うて、さながら足でも払われたように、椅子の上に倒れかかった。そうして声に出ぬえぐるような涙が、思いがけなくせぐり上げるままに、突然ヒステリイのように全身をわなわな顫わせはじめるのであった。こうした恐ろしい母親との類似は、ことのほか老人を驚かしたのである。
「イヴァン、イヴァン! 早う水を持って来てくれ、まるであれのようだ、寸分たがわずあれと同じだ。あの時のこの子の母親と同じだ! お前、口から水を吹きかけてやれ、わしもあれにそうしてやったんだ。つまり、この子は自分の母親のために、自分の母親のために……」と彼はイヴァンに向って、しどろもどろな調子でこう言った。
「しかし、僕のお母さんは、つまりアリョーシャのお母さんだと思うんですが、あなたはどうお考えです?」突然イヴァンは恐ろしい軽侮の念をこらえかねたように、思わず口をすべらした。