『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P234-P257

「そりゃ、アレクセイさん、そのとおりですよ、その一年半の間に、あなたとリーズは幾千度となく喧嘩したり、別れたりなさることでしょうよ。けれど、わたしは喩えようもないほど不仕合せでございます。それはみんなばかばかしいことには相違ありませんが、それにしても仰天してしまいました。今わたしはちょうど大詰の幕のファームソフ([#割り注]グリボエードフ『知恵の悲しみ』の人物、ソフィヤの父親[#割り注終わり])のようでございます。そして、あなたがチャーツキイ、あの子がソフィヤの役割でございます。それに、まあどうでしょう、わたしはあなたをお待ち受けしようと思って、わざとこの階段のとこへ駆け込んだのですが、あの芝居でも大きな出来事はみんな階段の上で起るじゃありませんか。わたしはすっかり聞いてしまいましたが、本当にじっとその場に立っていられないくらいでした。なるほど、昨夜の恐ろしい熱病もさっきのヒステリイも、もとはみんなここにあるんですもの! 娘の恋は母親の死です。本当にもう棺にでも入ってしまいそうですよ。ああ、もう一つ用事がありました、これが一番大切なことなんですの。あの子がさし上げたとかいう手紙は、一たいどんなものですか、いま見せて下さい、いますぐ見せて下さい!」
「いいえ、そんな必要はありません、それよりカチェリーナさんの容体はどうです、僕それが聞きたくてたまらないのです。」
「やっぱりうなされながら寝てらっしゃいます。まだお気がつかないんですよ。伯母さんたちはここにいても、ただ吐息をついてばかりいるくせに、わたしに向って威張りちらしてるんですの。ヘルツェンシュトゥベも来るには来ましたけれど、もうすっかり仰天するばかりですから、わたしあの医者にどういう手当てをして上げたらいいのか、どうして助けて上げたらいいのかわからないんです。別な医者でも迎えにやろうかと思ったくらいですもの。とうとううちの馬車に乗せて帰しました。そんなことが重なり重なった上に、突然あの手紙の一件でしょう。もっとも、そんなことは、一年半たってからのことでしょうけれど、すべて偉大で神聖なもののみ名をもって誓いますから、今おかくれになろうとしている長老さまのお名をもって誓いますから、どうかその手紙をわたしに見せて下さい、母親に見せて下さい! もし何なら、指でしっかりつまんでて下さい、わたし自分の手に取らないで読みますから。」
「いいえ、見せません。あのひとが許しても僕は見せません。僕あすまた来ますから、もしお望みなら、そのときいろんなことをご相談しましょう。しかし、今日はこれで失礼します!」
 アリョーシャは階段から往来へ駆け出した。

[#3字下げ]第二 ギタアを持てるスメルジャコフ[#「第二 ギタアを持てるスメルジャコフ」は中見出し]

 実際かれは暇がなかったのである。それに、まだリーズに暇を告げているころから、彼の頭には一つの想念がひらめいた。それはほかでもない、どうか一つ工夫をこらして、明らかに自分を避けている兄ドミートリイを、ぜひ今すぐ捜し出したいという願いであった。もう時刻も早くない。午後の二時を過ぎている。アリョーシャは自分の全存在を傾けて、いま僧院でこの世を去ろうとしている『偉人』のもとへ駆けつけようとあせっていたが、しかし、兄ドミートリイに逢いたいという要求が、一切のものを征服したのである。なぜなら彼の心の中では、何かしら恐ろしいカタストロフが避けがたい力をもって、まさに突発せんとしているに相違ないという信念が、一刻ごとに大きくなって行くからであった。しかし、そのカタストロフとはどんなことか、またこれから兄を捜し出して何を言おうとするのか、おそらく自分でもはっきりわからなかったであろう。『よしや恩師が自分のいない開に死なれても、自分の力で救い得るものを救わないで、見て見ぬふりをして家へ帰ることを急いだ悔悟のために、一生自分を苦しめないですむだろう。こうするのは、つまりあのお方のお言葉に従うことになるのだ……」
 彼の計画は兄ドミートリイのふいを襲う、つまり昨日のように例の垣根を越して庭へ入り込み、昨日の四阿《あずまや》に落ちつこうというのであった。『もしあそこにもいなかったら、家主のお婆さんにもフォマーにも言わないで、じっと隠れたまま、晩まででも四阿で待っているのだ。兄さんが以前どおりグルーシェンカのやって来るのを見張ってるとしたら、おそかれ早かれあの四阿へ姿を現わすというのは、きわめてあり得べきことだ……』とはいえ、アリョーシャはあまり詳しく自分の計画を考慮しないで、さっそく実行に着手しようと決心した。たとえ今日じゅうに僧院へ帰れないようなことになってもかまわない……くらいの意気込みであった。
 万事故障なしに都合よく運んだ。彼は昨日とほとんど同じ場所で垣根を越して、そっと四阿までたどりついた。彼が誰の目にもかかりたくないと思ったわけは、家主の老婆にしろフォマーにしろ(もしこの男が居合せたなら)、あるいは兄の味方をしてその言いつけをきくかもしれない。そうすれば自分を庭へ入れてくれないか、でなければ、自分が兄を訊ねて捜していることを、いち早く兄に知らせるおそれがあるからであった。四阿には誰もいなかった。アリョーシャは昨日と同じ席に腰をおろして待ち始めた。彼はあらためて四阿を見廻したが、なぜか昨日よりずっと古ぼけて、しようのないぼろ家のように思われた。もっとも、天気は昨日と同じくはればれしていた。緑いろのテーブルの上には、きのう杯の縁をあふれたコニヤクの跡らしいのが、丸く型をつけていた。いつも待ちくたびれた時に経験する、何の役にもたたぬつまらない考えが、もそろと彼の頭へ忍び込むのであった。例えば、ここへ入って来たとき、どういうわけでほかの場所へ坐らないで、昨日と一分一厘ちがわぬ席へ腰をおろしたか、などというようなたぐいであった。とうとう彼は佗しい気持になってきた。それは不安な未知ともいうべきものからくる佗しさである。
 しかし、十五分とたたないうちに、突然どこか近いところで、ギタアを弾く音が聞えてきた。前から坐っていたか、それともたったいま坐ったばかりか、とにかくどこか二十歩以上へだてていない、灌木の陰に誰か人がいるのだ。アリョーシャはふいと思い出した――きのう兄と別れて四阿を出るとき、左手の前方にあたって低い緑色の古ベンチが、灌木の間からちらりと目に入った。きっとそのベンチに坐ったものに相違ない。しかし、誰だろう? と、急に一人の男らしい声が、自分でギタアの伴奏をしながら、甘ったるい作り声で対句《クプレット》を歌い始めた。

[#ここから2字下げ]
打ち克ちがたき力もて
われはいとしき君が方《へ》に
曳かれ来にけり、ああ神よ
あわれみたまえ
君とわれとを!
君とわれとを!
君とわれとを!
[#ここで字下げ終わり]

 声はやんだが、テノールも下卑たものなら、歌の節廻しも下卑ていた。と、急にいま一人女らしい声が、いくぶん気どってはいるけれど、何となく臆病な調子で甘えるようにこう言った。
「パーヴェルさん、どうしてあなたは長い間うちへ来てくれなかったの? 大方、わたしたちを馬鹿にしてらっしゃるんでしょう。」
「どういたしまして」と男の声は丁寧ではあるが、どこまでも自分の尊厳を保とうとするような調子で答えた。
 察するところ、男のほうが上手《うわて》を占めて、女のほうから機嫌をとっているらしい。
『男のほうはどうもスメルジャコフらしい』とアリョーシャは考えた。『少くとも声がよく似てる、ところで、女のほうはきっとこの家の娘に相違ない。例のモスクワから帰って来て、長い尻っぽのついた着物なんか引き摺ってるくせに、マルファのとこヘスープをもらいに来る娘らしい……』
「わたし詩ならどんなのでも大好きよ、もしうまく作ってあれば……」と女の声が言葉をつづけた。「どうしてあなたつづきを歌わないの?」
 男の声がまた歌い始めた。

[#ここから2字下げ]
王の冠《かむり》にたぐうべき
わが恋人をすこやかに
過させたまえ、ああ神よ
あわれみたまえ
君とわれとを!
君とわれとを!
君とわれとを!
[#ここで字下げ終わり]

「この前のほうがもっとよくできたわ」と女の声が言った。
「この前あなたは『王の冠』のところを『いとしき人を』と歌ったでしょう。あのほうが優しく聞えやしなくって。あなたはきっと今日忘れたんでしょう。」
「詩なんてばかばかしいもんでさあ」とスメルジャコフは吐き出すように言った。
「あら、そんなことないわ。わたし詩が大好きなのよ。」
「それはただ詩というまでの話で、実はまったく馬鹿げきったこってすよ。まあ、考えてもごらんなさい、一たい脚韻を押して話をする人が世の中にありますか? それにたとえ政府の言いつけであろうとも、われわれが脚韻を押して話をするようになったら、思う存分のことが言えるものですか。詩なんて大事なことじゃありませんよ。マリヤさん。」
「どうしてあなたは何事につけても、そんなに賢くていらっしゃるんでしょう? どうしてあなたは何でもそんなによく知ってらっしゃるのでしょう?」女の声はいよいよ甘ったれた調子になってきた。
「もし僕が小さい時分からあんな貧乏籤をひかなかったら、まだまだいろんなことができたんです、まだまだいろんなことを知ってたはずなんですよ! 僕のことを、|悪臭ある女《スメルジャーシチャヤ》の腹から生れた父《てて》なし子だから根性のねじくれた悪党だ、なんていうやつに決闘を申し込んで、ピストルでずどん、とやっつけてやりたいですよ。僕はモスクワでも面と向ってあてこすられました。それはグリゴーリイさんのおかげで、この町から出て行った噂なんですよ。グリゴーリイさんは僕が自分の誕生を呪うと言って、『お前はあの婦人の胎《たい》を開いたのだ』などと叱るけれど、しかし胎なら胎でよろしい。ただ僕はこの世の中へ出て来ないために、まだ腹の中にいる時に自殺したかったくらいですよ。よく市場などで、あの女は頭を鳥の巣のようにして歩いていただの、背は二アルシンとすこうし[#「すこうし」に傍点]しきゃなかった、なんて噂をしていまさあね。あなたのおっ母さんなぞは不躾け千万にも、僕に面と向って話されるじゃありませんか。一たい何のためにすこうし[#「すこうし」に傍点]なんて言うのです? 普通に話すとおりすこし[#「すこし」に傍点]と言ったらよさそうなもんじゃありませんか。大方、哀れっぽく言いたいからでしょうが、それは、いわば百姓の涙です、百姓の感情です。ロシヤの百姓が教育のある人間に対して何か感情を持つことができますか。あんな無教育な連中に感情があってたまるもんですか。僕はまだほんの子供の時分から『すこうし』を聞くと、壁に頭でもぶっつけたいような気がしましたよ。僕はロシヤの全体を憎みますよ、マリヤさん。」
「でも、あなたが陸軍の見習士官か、若い軽騎兵ででもあってごらんなさい、そんな言い方をなさりゃしないから。きっとサーベルを抜いてロシヤをお守りなさるわ。」
「僕はね、マリヤさん、陸軍の軽騎兵になりたいどころじゃない、かえって兵隊なんてものが、みんななくなればいいと思ってますよ。」
「じゃ、敵がやって来たときに、誰が国を防ぐの?」
「そんな必要はてんでありゃしませんよ。十二年の年にフランス皇帝ナポレオン一世が(今の陛下のお父さんですよ)、ロシヤヘ大軍を率いて侵入して来たが、あのときフランス人がすっかりこの国を征服してしまうとよかったんですよ。利口な国民が、この上ないのろまな国民を征服して合併してしまったら、国の様子がすっかり別になったでしょうがねえ。」
「じゃ、一たい外国の人はロシヤ人よりえらいんでしょうか? わたしはロシヤの若い人の中には、一番ハイカラなイギリス人を三人くらい束にして来ても、取っ替えたくないと思うような人があるわ」とマリヤは優しい声で言ったが、この時とろけるような目で男を眺めたに相違ない。
「そりゃめいめいの好きずきがありますよ。」
「それに、あなたご自身がまるで外国人みたいだわ、生れのいい外国人にそっくりよ。わたし恥しいのをこらえて白状しますわ。」
「お望みなら申しますがね。淫乱なところはロシヤ人も外国人も似たりよったりでさあ。みんなしようのない極道ですよ。ただ外国のやつはぴかぴか光る靴をはいてるのに、ロシヤの極道者は乞食のような境涯で、臭い匂いを立てながら、自分でそれを一向わるいと思わないところが違うだけです。ロシヤの人間はぶん殴ってやらなきゃ駄目だ、昨日フョードル・パーヴルイチのおっしゃったとおりですよ。もっとも、あの人も三人の息子たちもみんな気ちがいですがね。」
「だって、あなたイヴァン・フョードルイチは尊敬するっておっしゃったじゃないの。」
「けれど、あの人は僕を汚らしい下男同然に扱うのです。あの人は僕を謀叛でも起しかねない人間だと思っているが、それはあの人の考え違いです。僕は懐ろに相当の金さえあれば、もうとっくにこんなとこにいやしない。ドミートリイなんか、身持から言っても、知恵から言っても、貧乏なことから言っても、下男より劣った人間で、何一つしでかし得ないくせに、みなの者から敬われている。僕なんかよしんばただのコックにもせよ、運さえよければモスクワのペトローフカで立派なカフェー兼レストランを開業することができますよ。なぜって、僕は特別な料理法を心得ているけれど、モスクワじゃ外国人をのけたら、誰ひとりできないんだからね。ところが、ドミートリイは貧乏士族だけれど、もしあの男が立派な伯爵家の息子に決闘を申し込んだとなれば、その若殿さまはのこのこ出て行くに相違ない、一たいあの男のどこが僕よりえらいんでしょう? ほかじゃない、僕よりくらべものにならんほど馬鹿だからです。本当に何の役にも立たないことに、どれだけ金を使ったかわかりゃしない。」
「決闘てものは本当に面白そうだわね」と急にマリヤがこう言った。
「なぜですかね?」
「恐ろしくってそして勇ましいからよ。それに、若い将校がどこかの女のために、ピストルを手に持って射ち合うなんて、なおさらたまらないわ。まるで絵のようでしょう。ああ、もし娘でも入れてもらえるものだったら、わたしどんなに見たいでしょう。」
「そりゃ自分のほうが狙う時にはいいだろうが、もし自分の顔のまん中を狙われたら、それこそつまらない話でさあ。逃げ出したほうがいいですよ、マリヤさん。」
「じゃ、あなたも逃げるの?」
 しかし、スメルジャコフは、返事をする価値がないというように、しばらく黙っていたが、やがてまたギタアが響きだして、例の作り声が最後の一連を歌い始めた。

[#ここから2字下げ]
いかに止めたもうとも
われは遙けく去りゆかん
いざや命《いのち》を楽しまん
花の都に住みなさん!
思い悩まん心なし!
さらさらに思い悩まん心なし、
さらさらに思い悩まん心さえなし!
[#ここで字下げ終わり]

 このとき思いがけない出来事が生じた。アリョーシャが突然くさめをしたのである。ベンチのほうの人声はぴたりとやんでしまった。アリョーシャは立ちあがってそのほうへ歩み寄った。男ははたしてスメルジャコフであった。洒落たみなりをして、頭にはポマードをつけ、髪にはカールをかけないばかりの有様で、ぴかぴか光る靴をはいていた。ギタアはベンチの上に転がっている。女はやはりこの家の娘マリヤで、二アルシンばかりの尻っぽのついた、うすい水色の着物を着ていた。まだ若いかなり綺麗な娘であるが、惜しいことには顔があまり丸すぎる上に、恐ろしいそばかすであった。
「ドミートリイ兄さんはもう帰るの?」とアリョーシャはできるだけ落ちついてこう訊いた。
 スメルジャコフは静かにベンチから立ちあがった。つづいてマリヤも席を立った。
「私がドミートリイさまのことを知っているはずがないじゃありませんか。もし私があの方の番人でもしてるのなら、お話は別でございますがね!」静かな投げ出したような調子で、一こと一こと別々に発音しながら、スメルジャコフは答えた。
「いや、僕はただ知ってるかどうか、ちょっと訊いてみただけなんだよ」とアリョーシャは言いわけした。
「私はあの人のありかなんぞ一向に知りませんし、また知ろうとも思いません。」
「しかし、兄さんが僕に話したところでは、お前うちの中の出来事をすっかり兄さんに知らせている上に、アグラフェーナさんが来たら知らせるって、約束したそうじゃないか。」
 スメルジャコフは静かに目を上げて、ずうずうしく相手を眺めた。
「しかし、あなたは今どうしてここへ入っておいでになりました。だって、門の戸は一時間ばかり前に、ちゃんと掛金をかけておいたんですものね。」穴のあくほどアリョーシャを見つめながら、彼はこう訊いた。
「僕は横町から編垣を越して、いきなり四阿《あずまや》のほうへ行ったのだ。たぶんあなたは僕をお咎めにならないでしょうね」と彼はマリヤのほうへふり向いた。「僕、少しも早く兄さんを捕まえたかったものですから。」
「あら、わたしなんぞが、あなたに腹を立てていいものですか。」アリョーシャの謝罪にすっかり嬉しくなって、マリヤは言葉じりを引きながら言った。「それに、ドミートリイさまもよくそんなふうにして四阿へいらっしゃいますの。わたしたちがちっとも知らないでいますと、もうちゃんと四阿に坐ってらっしゃるんですもの。」
「僕はいま一生懸命に兄を捜してるんです。ぜひ自分で会いたいんですが、兄が今どこにいるのか教えていただけないでしょうか。まったく兄自身にとって、重大な用件があるんですよ。」
「あの方はわたしたちに何もおっしゃいませんの」とマリヤが舌たるい調子で言った。
「私はただほんの知合いとしてここへ遊びに来たんですが」とスメルジャコフが新たに口をきった。「あの方はいつでも旦那さまのことをしつこく訊ねて、なさけ容赦もなしに私をお虐めなさるのです。やれ、お父さんのところはどんな様子だとか、やれ誰が来たとか、やれ誰が帰ったとか、何かほかに知らしてもらうことはないかとか何とかおっしゃいましてね、二度ばかり、殺すと言って脅かしなすったこともあります。」
「どうして殺すなんて?」
「そりゃあ、あなた、あの方のご気性として、それしきのことが何でございましょう。あなたもご自分で昨日ごらんなすったじゃありませんか。もし私がアグラフェーナさんをお通しして、あのご婦人がここで泊ってゆかれるようなことがあったら、『第一に貴様を生かしちゃおかんぞ』とおっしゃるのです。私はあの方が恐ろしくてたまりません。もうこれより恐ろしい思いをしないためには、警察へでも訴えるよりほか仕方がないじゃありませんか。本当に何をしでかしなさるかもしれやしませんからね。」
「この間もパーヴェルさんに、『臼へ入れて搗き殺すぞ』っておっしゃいましたわ」とマリヤが言い添えた。
「もし臼へ入れてなどと言ったとしても、それはほんの口さきばかりかもしれませんよ」とアリョーシャが言った。「もし僕がいま兄さんに逢うことができたら、そのこともちょっと言っておくんですがねえ……」
「私があなたにお知らせのできるのは、まあ、これくらいなものでございますよ。」何やら考えついたように、スメルジャコフは突然こう言いだした。「私がここへ出入りするのは隣同士の心安だてからです。それに、出入りして悪いってことはありませんからね。ところで、私は今日夜の明けないうちにイヴァンさまのお使いで湖水街《オーゼルナヤ》にあるあの方のお住いへまいりましたが、手紙はなくて、ただ口上だけで、一緒に食事がしたいから、広場の料理屋までぜひ来てくれということでした。私がまいりましたのは八時頃でしたが、ドミートリイさまは家にいらっしゃいませんでした。『ええ、いらしったのですが、つい今しがたお出かけになりました』と宿の人たちがこのとおりの文句で教えてくれましたが、どうも何か打ち合せでもしてあるような口ぶりでした。ひょっとしたら、今頃その料理屋で、イヴァンさまとさし向いで話しておいでかもしれません。なぜって、イヴァンさまが昼飯にお帰りにならなかったもんですから、旦那さまは一時間ほど前ひとりで食事をすまして、いや横になって休んでいらっしゃいますものね。しかし、折り入ってのお願いは、私のことも私の話したことも、必ずあの方に言わないで下さいまし。でないと、もう私は殺されてしまいます。」
「イヴァン兄さんが、今日ドミートリイを料理屋へ呼んだって?」アリョーシャは早口に問い返した。
「そのとおりでございます。」
「広場の『都』かね?」
「そうなので。」
「それはまったくありそうなことだ!」とアリョーシャは恐ろしくわくわくしながら叫んだ。
「有難う、スメルジャコフ、それは重大な報知だ。今すぐ行ってみよう。」
「私のことをおっしゃらないで下さいまし」とスメルジャコフが後から喚いた。
「おお、決してそんなことはない。僕は偶然ゆき合したような顔をするから、安心しておいで。」
「あら、あなたどこへいらっしゃいますの? わたし今くぐりを開けてさし上げますわ」とマリヤが叫んだ。
「いや、このほうが近いですよ、僕また垣を越しましょう。」
 この報知はアリョーシャの心を烈しく震撼した。彼は一目散に料理屋をさして駆け出した。しかし、こんな服装《なり》をして料理屋へ入るのも異《い》なものであったが、廊下で訊き合して、呼び出してもらう分にはさしつかえなかった。しかし、彼が料理屋のそばへ近寄ったばかりの時、突然一つの窓が開いて、兄のイヴァンが顔を覗けながら、大きな声で呼ぶのであった。
「アリョーシャ、お前いますぐここへ入るわけにゆかないかい? そうしてくれると非常に有難いんだが。」
「ええ、いいですとも、しかし、こんな服装《なり》をしてるから、どうして入っていいやらわからないんです。」
「ところが、僕はちょうどいいあんばいに別室に陣取ってるから、かまわず玄関へ入っておいで。僕がいま駆け出して迎えに行くよ……」
 一分間の後、アリョーシャは兄と並んで坐っていた。イヴァンは一人きりで食事をしていたのである。

[#3字下げ]第三 兄弟の接近[#「第三 兄弟の接近」は中見出し]

 しかし、イヴァンが陣取っているのは別室でなく、ただ窓のそばの一隅を衝立てで仕切ったばかりであるが、それでもやはり中に坐っていると、はたの人からは見えなかった。この部屋は入口から取っつきの部屋で、横のほうの壁ぎわには酒の壜などを並べた棚がしつらえてあった。給仕たちはあちこち動き廻っていたが、お客といっては、退職の軍人らしい老人がたった一人、隅っこのほうでお茶を飲んでいるきりであった。その代り、ほかの部屋部屋では普通の料理屋につきものの騒々しい音――給仕人を呼ぶ呶鳴り声、ビールの口を抜く音、玉突きの響き、オルガンの呻きなどが聞えていた。イヴァンがこの料理屋へほとんど一度も来たことがないということも、彼が全体として料理屋を好まないということも、アリョーシャはよく知っているので、彼がここにいるわけは、ただ約束によってドミートリイと逢うためだろうと、心の中で考えた。しかしドミートリイはいなかった。
「魚汁《ウハー》か何か誂えようかね。まさか茶ばかりで生きてるわけでもあるまいから」とイヴァンは弟を捕まえたので、大いに満足したらしい様子でこう言った。彼自身はもうとっくに食事をすまして、茶を飲んでいたのである。
「魚汁《ウハー》を下さいな、その後でお茶もちょうだいしましょう、僕、すっかり腹が空いちゃったのです」とアリョーシャは愉快そうに答えた。
「ところで、桜のジャムは? ここにあるんだよ。覚えてるかい、お前が小さな時分ポレーノフさんの家で、桜のジャムを悦んで食べてたじゃないか?」
「兄さんよくそんなことを覚えていますね? 桜のジャムをいただきましょう。僕は今でも好きなんです。」
 イヴァンは給仕を呼んで、魚汁《ウハー》と茶と桜のジャムを注文した。
「僕すっかり覚えてるよ。僕はお前を、十一の年まで覚えてる。そのとき僕は十五だったね。十一と十五という年は、兄弟がどうしても友達になれない時分なんだね。僕はお前が好きだったかどうか、それさえ覚えがないくらいだよ。モスクワへ出てから初め何年かの間、お前のことはまるっきり思い出さなかったっけ。それから、お前が自分でモスクワへやって来た時だって、たった一度どこかで会っただけだね。またここへ来てからもう四月《よつき》になるけれど、今まで一度もしんみり話したことがないんだ。僕は明日発とうと思うんだが、今ここへ坐ってるうちにふいと、どうかしてあれ[#「あれ」に傍点]に会えないかしら、しんみり別れがしたいもんだなあ、と考えてるところへ、お前がそばを通りかかるじゃないか。」
「兄さんはそんなに僕に会いたかったのですか?」
「会いたかったよ。僕は一度しっかり、お前と近づきになって、お前に僕という人間を知らせたい、それを土産にして別れたいのだ。僕の考えでは、別れの前に近づきになるのが一番いいようだ。僕はこの三カ月の間お前がどんなふうに僕を眺めていたか、ちゃんと見てとったよ、お前の目の中には何かたえまなき期待、とでもいうようなものがあった。これがどうにも我慢できないので、そのために僕はお前に近寄らなかったのさ。しかし、終り頃になって、僕もお前を尊敬する気になった。つまり、『あの小僧しっかりした足つきで立ってるな』というような気持なんだ。いいかい、いま僕は笑ってるけれど、言うことは真面目なんだよ。だって、お前はしっかりした足つきで立ってるじゃないか、ね? 僕はそんなしっかりした人が好きなんだ。よしその立場が何であろうと、またその当人がお前のような小僧っ子であってもさ……で、しまい頃には何やら期待するようなお前の目つきも、そう厭でなくなった。それどころか、その期待するような目つきが好きになったのさ。お前もどういうわけか、僕を好いてくれるようだね、アリョーシャ?」
「好きですよ。ドミートリイ兄さんはあなたのことを、イヴァンは墓だって言いますが、僕はイヴァンは謎だと言うのです。兄さんは今でも依然として謎ですが、しかし、僕はいま何か兄さんのあるものを掴んだような気がします。それもつい今朝からの話ですよ。」
「それは一たい何だね?」とイヴァンは笑った。
「怒りゃしないでしょうね?」とアリョーシャも笑いだした。
「うん。」
「つまり、兄さんもやはりほかの二十四くらいの青年と同じような青年だ、ということなんです。つまり、同じように若々しく生き生きした、可愛い坊ちゃんなのです。もしかしたら、まだ嘴の黄いろい青二才かもしれませんよ! どうです、大して気にさわりゃしないでしょう?」
「どうして、どうして、かえって暗合に驚かされたくらいだよ!」イヴァンは熱をおびた調子で愉快そうに叫んだ。「お前は本当にしないだろうが、今朝あのひとのとこで別れたあとで、僕はそのことばかり心の中で考えてたんだ。つまり、僕が二十四歳の嘴の黄いろい青二才だってことさ。ところが、今お前は僕の腹の中を見抜いたかなんぞのように、いきなりそのことから話の口をきるじゃないか。僕がここへ坐ってる間、どんなことを考えてたかお前にわかるかい、――よしんば僕が人生に信を失い、愛する女に失望し、ものの秩序というのを本当にすることができなくなった挙句、一切のものは混沌として呪われたる悪魔の世界だと確信して、人間の幻滅の恐ろしさをことごとく味わいつくしたとしても、――それでも、僕は生きてゆきたい。一たんこの杯に口をあてた以上、それを征服しつくしたあとでなければ、決して口を放しゃしない! しかし、三十くらいになったら、まだ飲み干してしまわなくっても、必ず杯を棄てて行ってしまう……しかし、どこへ行くかわからない。だが、三十までは僕の青春が、一切のものを征服しつくすに相違ない、生に対する嫌悪の念も一切の幻滅もね。僕はよく心の中で、自分の持っている狂暴な、ほとんど無作法といっていいくらいな生活欲を征服し得る絶望が世の中にあるかしらん、とこう自問自答するのだ。そしてとうとう、そんな絶望はなさそうだと決めてしまったが、しかしこれもやはり三十までで、それからあとは、もう自分でも生活が厭になるだろうと思われるよ。肺病やみのような生気のない道学先生は、この生活欲を目してよく下劣なもののように言うね。詩人なんて連中はことにそうだ。この生活欲はいくぶんカラマーゾフ的特質なんだね。それは事実だ。この性質はお前の体の中にもひそんでいるのだ。外観上どうあろうとも、必ずひそんでいるに相違ない。しかし、どうしてそれが下劣なんだろう? 求心力というやつは、わが遊星上にまだまだたくさんあるからなあ、アリョーシャ。僕は生活したい、だから、論理に逆っても生活するだけの話だ。たとえものの秩序を信じないとしても、僕にとっては春芽を出したばかりの、粘っこい若葉が尊いのだ。瑠璃色の空が尊いのだ。ときどき何のためともわからないで好きになる誰彼の人間が尊いのだ。そうして、今ではとうから意義を失っているけれど、古い習慣のため感情のみで尊重しているような、ある種の功名が尊いのだ。さあ、お前の魚汁《ウハー》が来た。しっかりやってくれ。なかなかいい魚汁《ウハー》だよ、うまく食べさせるよ。僕はね、アリョーシャ、ヨーロッパへ行きたいのだ、ここからすぐ出かけるつもりだ。しかし、僕の行くところが、ただの墓場にすぎないってことは、自分でもよく承知している。しかし、その墓場は何よりも、何よりも一ばん貴い墓場なんだ、いいかい! そこには貴い人たちが眠っている。その一人一人の上に立っている墓石は、過ぎし日の熱烈火のごとき生活を語っている。自己の功名、自己の真理、自己の戦い、自己の科学などに対する燃ゆるがごとき信仰を語っている。僕はきっといきなり地べたに倒れて、その墓石を接吻し、その上に涙を流すに相違ない。これは今からちゃんと承知している、が同時に、『これはずっと前からただの墓場に化している、それ以上のものでない』ということも心底から確信しているのだ。そして、僕が涙を流すのは、絶望のためじゃない、ただ自分の流した涙で幸福を感ずるためにすぎない。つまり、自分で自分の感動に酔おうと言うのだ。僕は粘っこい春の若葉や瑠璃色の空を愛するのだ、それだけのことなんだ! ここには、知識も論理もない、ただ内発的な愛があるばかりだ、自分の若々しい力に対する愛があるばかりだ……おい、アリョーシカ、今のわけのわからない話が少しは理解できたかい、え!」とイヴァンは急に笑いだした。
「できすぎるくらいですよ、兄さん。内発的な愛というのはいい言葉でしたね。僕は、兄さんが生活したいと言われるのを、非常に嬉しく思っています」とアリョーシャは叫んだ。「地上に住むすべての人は、まず第一に生を愛さなければならないと思いますよ。」
「生の意義以上に生そのものを愛するんだね?」
「むろん、そうなくちゃなりません。あなたのおっしゃるように論理以前にまず愛するんです。ぜひとも論理以前にですよ。そこでこそ初めて意義もわかってゆきます。こんなことがよく以前から頭に浮んでたのですよ。兄さん、あなたの事業の前半はもう成就し獲得されました。今度はその後半のために努力したらいいのです。そうすれば兄さんは救われます。」
「もうお前は救済にかかったんだね。――ところが、僕は案外滅亡に瀕していないかもしれないよ。ところで、それは一たい何だね、――お前のいわゆる後半は?」
「ほかではありません、あなたの死人たちを蘇生させる必要があるのです。実際、彼らは決して死にゃしなかったかもしれませんよ。さあ、お茶をいただきましょう。僕はこうして二人で話すのが、嬉しくてたまらないんですよ、イヴァン。」
「見たところ、お前は何か霊感でも感じてるようだね。僕はお前のような……聴法者から、そんな professions de foi([#割り注]信条吐露[#割り注終わり])を聞くのが大好きさ。お前はしっかりした人間だね、アレクセイ、お前が僧院を出るってのは本当かい?」
「本当です。長老さまが僕を世の中へお送りになるのです。」
「じゃ、また世の中で会えるね。僕が三十前になって、そろそろ杯から口を放そうとする時分に、どこかで落ち合うことがあるだろう。ところで、親父は自分の杯から、七十になるまでも離れようとしないらしい、いや、あるいは八十までもと空想してるかもしれない。自分でもこれは非常に真面目なことだと言ってたっけ。もっとも、ただの道化にすぎないがね。親父は自分の肉欲の上に立って、大盤石でも踏まえたような気でいるんだ……しかし、三十以後になったら、それよりほかに何も足場がないだろうからね、まったく……それにしても、七十までは醜悪だ、三十までのほうがいい。なぜって、自分を欺きながらも『高潔の影』を保存することができるからね。今日ドミートリイに会わなかったか?」
「いいえ、会いません、しかし、スメルジャコフに遇いました。」
 と、アリョーシャは下男との邂逅を、早口にくわしく兄に話した。イヴァンは突然、非常に気がかりらしく耳を傾けはじめ、ときどき何やかや問い返すことさえあった。
「ただね、自分の話したことを、ドミートリイに言わないでくれと頼みました」とアリョーシャは言いたした。
 イヴァンは顔をしかめて考えこんだ。
「兄さんは、スメルジャコフのことで顔をしかめたんですか?」とアリョーシャは訊いた。
「ああ、そうだ。しかし、あんなやつのことはどうでもいい。僕ドミートリイには実際会いたかったが、今はもう必要がない……」とイヴァンは進まぬ調子で言った。
「兄さんは本当にそう急に発つんですか?」
「ああ。」
「じゃ、ドミートリイやお父さんはどうなるんです? あの騒ぎは、どう片がつくんでしょう?」アリョーシャは不安げに言いだした。
「またお前のきまり文句だ! あのことについて僕がどうしたというのだ? 一たい僕がドミートリイの番人だとでも言うのかい?」とイヴァンはいらいらした声で断ち切るように言ったが、急に何となく苦味をおびた笑みを浮べた。「弟殺しについてカインが神様に答えた言葉を、今お前は考えてるんじゃないか? しかし、どうとも勝手にしろだ、僕はまったくあの人たちの番人をしてるわけにゆかないよ。仕事が片づいたから出かけようというのさ。ところで、僕がドミートリイを妬《や》いてるだの、三カ月のあいだ兄貴の美しい許嫁を横取りしようと思ってたなどと、まさかお前は考えやしなかったろうなあ。ええ、真っ平ごめんだよ、僕には僕の仕事があったんだ。その仕事が片づいたから出かけるのさ。さっき僕が仕事を片づけたのは、お前も現に見て知ってるだろう。」
「それは、あのカチェリーナさんとの……」
「そうだ、あのことだ。一ぺんで綺麗に身をひいてしまったよ。それが一たいどうしたというんだろう? 僕はドミートリイなんかと何の関係もありゃしない。ドミートリイはぜんぜん無関係なんだ! 僕はただ自分でカチェリーナさんに用事があっただけなんだよ。お前も知ってるとおり、ドミートリイが自分勝手に、何か僕と申し合せでもしたような行動をとったのさ。僕から兄貴に頼んだことは少しもないのだけれど、兄貴のほうで勝手にあのひとを大威張りで僕に渡して、祝福したまでの話じゃないか、まるでお笑い草だあね。ああ、アリョーシャ、まったくだよ。お前にはわかるまいが、僕はいま本当にかるがるした気持なんだよ! 今こうしてここへ坐っているうちに、自由の第一時間を祝うため、すんでのことでシャンパンを注文しようかと思ったくらいだよ。やれやれ、ほとんど半年もずるずる引き摺られていたが、急に一ぺんで、本当に一ぺんですっかり叩き落してやった。いやまったく、その気にさえなれば、こうもやすやすと片づけられようとは、自分でさえ昨日まで夢にも考えなかったからね!」
「それは、兄さんご自分の恋を話してらっしゃるんですか?」
「そう、お望みなら恋と言ってもいいよ。まったく僕はあのお嬢さんに、あの女学生に惚れ込んでたのさ。あのひとと二人でずいぶん苦しんだものだ、そしてあのひともずいぶん僕を苦しめたよ。もうすっかりあのひとにかまけて夢中になっていたが……急に何もかもけし飛んでしまった。さっき僕は感激してしゃべったが、外へ出るとからからと笑っちゃったよ、――こう言ってもお前は本当にすまいね。本当だよ。僕は字義どおりに言ってるんだよ。」
「今でも何だか愉快そうに話していますね。」実際、急に愉快そうになってきた兄の顔に見入りながら、アリョーシャは口を挟んだ。
「それに、僕があの人をもうとう愛していないなんてことが僕にわかるはずはないじゃないか、へへ! ところが、はたしてそうでないってことがわかったよ。それにしても、あのひとは恐ろしく僕の気に入ってたもんさ! さっき僕が演説めいたことをしゃべってた時でも、やはり非常に気に入ってたんだ。そして、実はね、今でも恐ろしく気に入ってるのさ。しかし、あのひとのそばを去るのが、かるがるとしていい気持なんだよ。お前は僕がから威張りを言うと思ってるだろう?」
「いいえ。だけど、もしかしたら、それは恋でないかもしれませんよ。」
「アリョーシャ」とイヴァンは笑いだした。「恋の講釈なんか、しないほうがいいぜ! お前としては不似合いだよ、さっきも、さっきも飛びだして口を入れたね、恐れ入るよ! ああ、忘れてた……あのお礼にお前を接吻しようと思ってたんだ。しかし、あのひとはずいぶん僕をひどい目にあわしたよ! 本当にひねこじれた発作のお守をしてたようなもんだ。おお、僕があのひとを愛してるってことは、あのひとも自分で承知しているのさ! そして、自分でも僕を愛していたので、決してドミートリイじゃない」とイヴァンは愉快そうに言い張るのであった。「ドミートリイはひねこじれた発作で愛していたのだ。僕がさっきあのひとに言ったことは、みんな正真正銘の真理なんだ。しかし、あのひとがドミートリイを少しも愛していないで、むしろ自分であんなに苦しめた僕を愛している、ということを自身で悟るためには、十五年二十年の歳月を要する、それが肝心な点なんだよ。しかし、ことによったら、あのひとは今日のような経験を嘗めても、永久にこれを悟らないかもしれないよ。が、まあ、そのほうがいい。立ちあがって、そのまま永久に去ってしまえばいいんだ。話のついでだが、あのひとは今どうしてるね? 僕が帰ったあとでどうなったい?」
 アリョーシャはヒステリイの話をして、彼女は今もまだ人事不省におちいって、譫言を言っていることだろうとつけたした。
「ホフラコーヴァが嘘をついたんじゃないか?」
「じゃないらしいです。」
「しかし、調べてみなくちゃならないよ。だが、ヒステリイで死んだものは一人もないからね、ヒステリイというやつはあってもいいだろう。神様は愛の心をもって女にヒステリイをお授けなすったのだ。僕はもう二度とあそこへ行かない。何も今さらのこのこ、つらを出す必要はないからね。」
「ときに、兄さんはさっきこう言ったでしょう、あのひとは少しも兄さんを愛していなかったって。」
「あれはわざと言ったことだ。アリョーシャ、シャンパンを言いつけようかね。僕の自由のために飲もうじゃないか。いや、お前にはとてもわかるまい、僕が今どんなに嬉しいか!」
「兄さん、飲まないほうがいいでしょう」とふいにアリョーシャは言った。「それに、僕は何だか気がふさいでならないのです。」
「ああ、お前はずっと前から気がふさいでるようだね、僕もずっと前から気がついてたよ。」
「じゃ、明日の朝はぜひ出立するんですか?」
「朝? 僕は何も朝と言ったわけじゃないよ……しかし、あるいは本当に朝になるかもしれない。ところでね、僕が今日ここで食事をしたのはね、ただ親父と一緒に食事をしたくなかったからだ。それほど僕はあの親父が厭でたまらなくなったんだ。僕はそのためばかりでも、とうに出立してたはずなんだよ。だが、僕が出立するからって、どうしてお前はそんなに心配するんだい! 僕たち二人のためには、出発までにまだいくら時間があるかわかりゃしない。永劫だ、不死だ!」
「兄さんは明日出立するというのに、どうして永劫だなんて言うんです?」
「僕やお前は、あんなことに何の関係もないじゃないか?」とイヴァンは笑いだした。「だって、何といったって、自分のことは話しあう暇があるからなあ、自分のことは……一たい僕らは何のためにわざわざここへやって来たんだろう? 何だってお前はそんなにびっくりしたような目つきをするんだ? さあ、言ってみろ、僕らは何のためにここへやって来たんだい? まさかカチェリーナさんに対する恋や、親父のことや、ドミートリイのことを話しに来たんじゃなかろう? 外国の話でもないだろう? 危機に瀕したロシヤの国情でもないだろう? 皇帝ナポレオンのことでもないだろう? え、こんなもののためじゃなかろう?」
「いいえ、そんなもののためじゃありません。」
「じゃ、自分でも何のためかわかってるだろう。ほかの人たちにはそれぞれ違ったものが必要だろうが、われわれみたいな嘴の黄いろい連中には、それとはすっかり別なものが必要なんだ。われわれはまず第一に、永遠の問題を解決しなければならない。これが最もわれわれの気にかかるところなんだ。いま若きロシヤは、ただ永遠の問題の解釈にばかり夢中になっている。しかもそれがだ、ちょうど老人たちが急に実際問題で騒ぎだした現代だからなあ。お前にしたって、一たい何のためにこの三カ月間、あんな期待するような目つきで、一生懸命に僕を眺めていたのだ? つまり、『お前はどんなふうに信仰してるか、それともぜんぜん信仰を持っていないか?』ということを、僕に白状させたかったのだろう、――なあ、アレクセイさん、あなたの三カ月間の凝視は、結局こんな意味につづまってしまうでしょう、ね?」
「あるいはそうかもしれません」とアリョーシャは微笑した。「だけど、兄さんはいま、僕をからかってるんじゃないでしょう、ね?」
「僕がからかうって! 僕は三カ月の間もあんな期待の情をもって、一心に僕を見つめていた可愛い弟を、悲観させるようなことをしやしないよ。アリョーシャ、まっすぐに見てごらん、僕もやはりお前と寸分ちがわない、ちっぽけな小僧っ子だろう。ただ違うのは聴法者でないばかりだ。ところで、ロシヤの小僧っ子は、今までどんなことをしていると思う。小僧っ子といってもある種のものにかぎるがね……手近な例がこの小汚い料理屋さ。ここへいろんな連中が集って、めいめい隅のほうに陣取るだろう。この連中は今まで一度も出会ったこともなければ、これからさきだって一たんここを出てしまえば、四十年たってもお互いに知合いになることはありゃしない。ところがどうだろう、旗亭の一分間を偸んで、どんな議論を始めると思う? 宇宙の問題さ、つまり、神はありやとか、不死はありやとかいう問題なのさ。神を信じない者は、社会主義とか無政府主義とか、全人類を新しい組織に変えようとか、そういう話を持ち出す。しかし、つまるところは、同じような問題になっちまうんだあね、ただ、別な一端から出発するだけの相違さ? こうして、数知れぬほど多くの才能ある現代のロシヤ少年は、ただ永久の問題を談じることにのみ没頭しているのだ。ねえ、そうじゃないか?」
「ええ、神はありや不死はありやという問題と、それから、いま兄さんのおっしゃったように、別な一端から出発した問題は、本当のロシヤ人にとって第一の問題です。そして、それはむろん当然の話です。」依然としてもの静かな試みるような微笑を浮べながら、アリョーシャはこう言った。
「ねえ、アリョーシャ、時とすると、ロシヤに生れるのもあまり感心しないことがあるけれど、それでもいまロシヤの少年たちがやっていることより以上、ばかばかしいことは想像するのさえ不可能だよ。しかし、アリョーシャというロシヤの少年ひとりだけは、僕恐ろしく好きなんだ。」
「兄さんはうまいところへ持って行きまりだね。」アリョーシャは急に笑いだした。
「さあ、どっちから始めよう、お前一つ命令してくれ、神から始めようか? 神はありやから始めようか! 言ってみてくれ。」
「どちらからでも好きなほうから始めて下さい、『別な一端』からでもいいですよ、しかし、兄さんはきのうお父さんのとこで、神はないと宣言したじゃありませんか」とアリョーシャは試すように兄を眺めた。
「僕がきのう親父の家で、食事の時にあんなことを言ったのは、わざとお前をからかうためなんだよ。するとはたしてお前の目が燃えだした。しかし、今は決してお前と快談するのを辞さない。僕は大真面目に言ってるんだよ。僕はお前と互いに理解しあいたいのだ。なぜって、僕には友達がないから、どんなものか試してみたいのさ。それどころか、アリョーシャ、もしかしたら神を認めるかもしれないよ」とイヴァンは笑いだした。「お前、意外に思うだろう、ねえ?」
「ええ、もちろん、もしいま兄さんが冗談を言ってるのでなければ……」
「冗談を言うって? そりゃ昨日長老のところでは、冗談を言うって咎められたがね。お前も知ってるだろうが、十八世紀の頃にある年とった無神論者が、S'il n'existait pas Dieu, il faudrait l'inventer([#割り注]もし神がなかったら創り出す必要がある[#割り注終わり])といったね。ところが、はたして人間は神というものを考え出した。しかし、神が本当に存在するということが不思議なのじゃなくって、そんな考えが、――神は必要なりという考えが、人間みたいな野蛮で意地わるな動物の頭に浮んだ、ということが驚嘆に値するのだ。それくらいこの考えは神聖で、殊勝で、賢明で、人間の誉れとなるべきものなんだ。僕一個に関しては、人間が神を創ったのか、神が人間を創ったのかということはもう考えまいと、だいぶ前から決心しているのさ。だから、この問題に関するロシヤの小僧っ子どもの原理も、やはり詮索しないことに決めている。こんな原理はみんなヨーロッパ人の仮説から引き出したものなんだ。なぜって、西欧で仮説となっているものは、ロシヤの小僧っ子にすぐ原理化されてしまうんだものね。それは単に小僧っ子ばかりでなく、大学教授の中にさえそんなのがあるよ。ロシヤの大学教授は、多くの場合、小僧っ子だからね。だから、一切の仮説はぬきにしてしまおう。ところで、僕たちはどんな問題を論じたらいいと思う! ほかでもない、少しも早く僕の本質を明らかにすることだ。つまり、僕がどんな人間で、何を信じ何を望んでいるかを明らかにすればいいのだ、ね、そうじゃないか? だから、こう明言しておく、――僕は直接に簡単に神を認容する。しかし、ここに注意すべきことがあるんだ。ほかではないが、もし本当に神があって、地球を創造したものとすれば、神がユウクリッドの幾何学によって地球を創造し、人間の知恵にただ空間三次元の観念のみを賦与したということは、一般に知れ渡っているとおりだ。ところが、幾何学者や哲学者の中には、こんな疑いをいだいているものが昔もあったし、今でも現にあるのだ。つまり全宇宙(というよりもっと広く見て、全存在というかな)は、単にユウクリッドの幾何学ばかりで作られたものではなかろう、というのだ。最も卓越した学者の中にさえ、こういう疑いをいだく人があるんだよ。中には一歩進んで、ユウクリッドの法則によるとこの地上では決して一致することのできない二条の平行線も、ことによったら、どこか無限の中で一致するかもしれない、などという大胆な空想を逞しゅうする者さえある。そこで僕は諦めちゃった。これくらいのことさえ理解できないとすれば、どうして僕なんかに神のことなど理解できるはずがあろう。僕はおとなしく自白するが、僕にはこんな問題を解釈する能力が一つもない、僕の知性はユウクリッド式のものだ、地上的のものだ、それだのに、現世以外の事物を解釈するなんてことが、どうして僕らにできるものかね。アリョーシャ、お前に忠告するが、決してそんなことを考えないがいいよ。何よりいけないのは神のことだ。神はありやなしや? なんてことは決して考えないがいいよ。こんなことはすべて、三次元の観念しか持たない人間にはとうてい歯の立たない問題だよ。で、僕は神を承認する、単に悦んで承認するばかりでなく、その叡知をも目的をも承認する(もっとも、われわれには皆目わからないがね)。それから、人生の秩序も意義も信じるし、われわれをいつか結合してくれるとかいう永久の調和をも信じる。それから、宇宙の努力の目標であり、かつ神とともにあるところの道《ことば》、また同時に神自身であるところの道《ことば》を信じるよ。つまり、まあ、永遠というやつを信じるよ。このことについては何だのかだのと、いろんな言葉が際限なく拵えてあるよ。どうだい、とにかく、僕はいい傾向に向ってるようだね、――おい? ところが、どうだい、ぎりぎり結着のところ、僕はこの神の世界を承認しないのだ。この世界が存在するということは知ってるけれど、それでも断じて認容することができないのだ。僕は何も神を承認しないと言ってるんじゃないよ、いいかい。僕は神の創った世界、神の世界を承認しないのだ。どうしても甘んじて承認するわけにゆかないのだ。ちょっと断わっておくが、僕はちっぽけな赤ん坊のように、こういうことを信じてるんだ、――いつかずっと先になったら、苦痛も癒され償われ、人生の矛盾のいまいましい喜劇も哀れな蜃気楼として、弱く小さいものの厭わしい造りごととして、人間のユウクリッド的知性の一分子として消えてしまい、世界の終極においては、永遠な調和の瞬間に、一種たとえようのない高貴な現象が出現して、それがすべての人々の胸に充ち渡り、すべての人の不平を満たし、すべての人の悪行や、彼らが互いに流し合った血潮を贖い、人間界に生じた一切のことを単に赦すばかりでなく、進んで弁護するにたるほど十分であるというのだ、――まあ、まあ、すべでこのとおりになるとしておこう。しかし、僕はこれを許容することができないのだ。許容することを欲しないのだ! たとえ平行線が一致して、僕がそれを自分で見たとしても、自分の目で見て『一致した』と言うにしても、やはり許容しないのだ。これが僕の本質だ、アリョーシャ、これが僕のテーゼなんだ。これだけはもう真面目でお前に打ち明けたんだよ。僕はわざとこの話を馬鹿なことこの上なしというふうに始めたけれど、結局、告白というところまで持って行ってしまった。なぜと言って、お前に必要なのはただそればかりなんだからね。お前にとっては神様のことなんかどうでもいい、ただお前の愛する兄貴が何によって生きているか、ということだけ知ればいいんだからね。」
 イヴァンは突然思いがけなく、一種特別の情をこめて、この長い告白を終ったのである。
「なぜ『馬鹿なことこの上なしというふうに』始めたんです?」とアリョーシャはもの思わしげに兄を眺めながら訊いた。
「第一としては、ロシヤ式にのっとるためさ。ロシヤ人は誰でもこの種の会話を、馬鹿なことこの上なしというふうにやるからね。第二としては、ばかばかしければばかばかしいだけ、問題に近づくことになるからさ。愚というやつは単純で正直だが、知はどうもごまかしたり隠れたりしたがるよ。知は卑劣漢だが、愚は一本気な正直者だ。僕は自暴自棄というところまで事を運んでしまったから、ばかばかしく見せれば見せるだけ、僕にとってますます好都合になってくるのさ。」
「兄さん、何のために『世界を許容しない』か、わけを聞かして下さるでしょうね?」とアリョーシャが言いだした。
「そりゃもちろん、説明するよ、何も秘密じゃないからね。そういうふうに話を持ってきたんだよ。ねえ、アリョーシャ、僕は決してお前を堕落さして、その足場から引きおろそうとは思わない。それどころか、かえってお前に治療してもらうつもりかもしれないんだよ。」とイヴァンは突然まるでちっちゃな、おとなしい子供のようにほお笑んだ。アリョーシャは今まで、彼がこんな笑い方をするのを見たことがなかった。

[#3字下げ]第四 叛逆[#「第四 叛逆」は中見出し]

「僕はお前に一つ白状しなけりゃならないことがある」とイヴァンは語り始めた。「一たいどうして『近きもの』を愛することができるんだろう? 僕は、何としても合点がゆかないよ。僕の考えでは『近きもの』だからこそ愛することができないので、『遠きもの』こそ初めて愛され得るんだと思う。僕はいつやら何かの本で『恵み深きヨアン』(ある一人の聖人なのさ)の伝記を読んだことがあるが、一人の旅人が飢えて凍えてやって来て、暖めてくれと頼んだとき、この聖人は旅人を自分の寝所へ入れて抱きしめながら、何か恐ろしい病気で腐れかかって、何ともいえない匂いのする口へ、息を吹きかけてやったというのだ。しかし、聖人がこんなことをしたのは無理な発作のためだ、偽りの感激のためだ、義務観念に命令された愛のためだ、自分で自分に課した難行の義務遂行のためだ。誰かある一人の人間を愛するためには、その当人に隠れてもらわなけりゃならない。もしちょっとでも顔を覗けたら、愛もそれなりおじゃんになってしまうのだ。」
「そのことはゾシマ長老が、たびたび話していらっしゃいました」とアリョーシャが口を入れた。「長老さまもやはり、人間の顔は愛に経験の浅い多くの人にとって、しばしば愛の障害になると言っておいでになりました。しかし、実際人類の中には多くの愛がふくまれています。ほとんどキリストの愛に近いようなものさえあります。これは僕自身でも知っていますよ、兄さん……」
「ところが、僕は今のところまだそんな例を知らないし、また理解することもできないよ、そして、数えきれないほど多数の人間も僕と同じことなのだ。つまり問題は、人間の悪い性質のためにこんなことが起るのか、それとも人間の本質がこんな工合にできているのか、という点に存するのだ。僕に言わせれば、キリストの愛はこの地上にあり得べからざる一種の奇蹟だよ。もっともキリストは神だったが、われわれは神じゃないんだからね。かりに僕が深い苦悶を味わうことができるとしても、いかなる程度まで苦悶しているのか、他人は決して知ることができない。なぜなら、それが他人であって僕でないからさ。おまけに、人間はあまり他人を苦悶者として認めるのを(まるで何か位でも授けてやるように思ってさ)、悦ばない傾向を持ってるんだからね。なぜ認めたがらないと思う? ほかではない、例えば、僕の体から変な匂いがするとか、僕が馬鹿らしい顔をしてるとか、でなければ、いつか僕がその男の足を踏んだとか、そんな簡単な理由によるのさ。それに苦悶にもいろいろあるよ。卑屈な苦悶、僕の人格を下劣にするような苦悶、例えば空腹の類のようなものは、慈善家も認容してくれるけれど、少し高尚な苦悶、例えば理想のための苦悶なんてものは、きわめて少数の場合を除くほか、決して認容してくれない。なぜかと訊くと、僕の顔がその慈善家の空想していた理想のための受難者の顔と、全然ちがってるからと言うのだ。これだけの理由で、僕はその人の恩恵を取り逃してしまう。しかし、決してその人が冷酷なためではない。乞食、ことに嗜みのある乞食は、断じて人前へ顔をさらすようなことをしないで、新聞紙上で報謝を乞うべきだ。隣人を愛し得るのは抽象的な場合にかざる。どうかすると、遠方から愛し得る場合もある。しかし、そばへ寄ってはほとんど不可能だ。もしバレーのように、乞食がぼろぼろの絹の着物を着、破れたレースをつけて出て来て、優雅な踊りをしながら、報謝を乞うのだったら、まあまあ見物していられるさ。しかし、要するに見物するまでで、決して愛するわけにはゆかない。しかし、こんなことはもうたくさんだ。ただね、お前を僕の見地へ立たしさえすればよかったのだ。僕は一般人類の苦悶ということを話すつもりだったが、それよりむしろ、子供の苦悶だけにとどめておこう。これは僕の議論の効果を十分の一くらいに弱めてしまうのだが、しかし子供のことばかり話そう。これはもちろん、僕にとって不利益なんだけれど、第一、子供はそばへ寄っても愛することができる、汚いものでも、器量の悪いのでも愛することができる(もっとも、器量の悪い子供というのはかつてないようだね)。第二に、僕が大人のことを話したくないというわけは、彼らが醜悪で愛に相当しないのみならず、彼らに対しては天罰ということがあるからだ。大人は知恵の実を食べて善悪を知り、『神々のごとく』なってしまった。そして、今でもやはりつづけてその実を食べている。ところが、子供はまだ何も食べないから、今のところまったく無垢なものだ。お前は子供が好きかい、アリョーシャ? わかってる、好きなのさ。だから、いま僕がどういうわけで子供のことばかり話そうとするか、お前にはちゃんと察しられるだろう。で、もし子供までが同じように地上で恐ろしい苦しみを受けるとすれば、それはもちろん、自分の父親の身代りだ、知恵の実を食べた父親の代りに罰せられるのだ。が、これはあの世[#「あの世」に傍点]の人の考え方であって、この地上に住む人間の心には不可解だ。罪なき者が他人の代りに苦しむなんて法がないじゃないか、ことにその罪なき者が子供であってみれば、なおさらのことだ! こう言えば驚くかもしれないがね、アリョーシャ、僕もやはりひどく子供が好きなんだよ。それに注意すべきことは、残酷で、肉欲の熾んな、猛獣のようなカラマーゾフ的人間が、どうかすると非常に子供を好くものなんだよ。子供が本当に子供でいる間、つまり七つくらいまでの子供は、恐ろしく人間離れがしていて、まるで別な性質を持った別な生物みたいな気がするくらいだ。僕は監獄に入っている一人の強盗を知ってるが、この男はそういう商売を始めてから、夜な夜な多くの家へ強盗に忍び込んで、一家みなごろしにすることもしょっちゅうあった。時には、一時に幾たりかの子供を斬り殺すような場合もあった。ところが、監獄へ入ってるうちに、奇妙なほど子供が好きになって、庭に遊んでる子供を獄窓から眺めるのを、自分の仕事のようにしていた。しまいには、その中のちっちゃな子供を手なずけて、自分の窓の下へ来させ、とても仲よしになったくらいだ……何のために僕がこんな話をするか、お前はわからないだろう? ああ、何だか頭が痛い、そして妙に気がめいってきた。」
「兄さんは奇妙な顔つきをして話していますね」とアリョーシャは不安げに注意した。「何だか気でもちがったようですよ。」
「話のついでに言うが、僕はモスクワであるブルガリヤ人からこんなこと冷聞いたよ。」弟の言葉が耳に天らないかのさまで、イヴァンはこう語りつづけた。「あの国ではトルコ人やチェルケス人が、スラヴ族の一揆を恐れて、到るところで暴行を働くそうだ。つまり家を焼く、天を斬る、女や子供を手籠めにする、囚人の耳を塀へ釘づけにしたまま、一晩じゅううっちゃらかしといて、朝になると頸を絞めてしまう、などと言ったふうで、とうてい想像にもおよばないくらいだ。実際よく人間の残忍な行為を『野獣のようだ』と言うが、それは野獣にとって不公平でもあり、かつ侮辱でもあるのだ。なぜって、野獣は決して人間のように残忍なことはできやしない。あんなに技巧的に、芸術的に残酷なことはできやしない。虎はただ噛むとか引き裂くとか、そんなことしかできないのだ。人間の耳を一晩じゅう釘づけにしておくなんて、よし虎にそんなことができるとしても、思いつけるもんじゃない。とりわけこのトルコ人は一種の情欲をもって、子供をさいなむんだそうだ、まずお手柔かなのは母親の胎内から、匕首をもって子供を抉り出すという辺から始まって、ひどいのになると乳呑児を空《くう》へ抛り上げ、母親の目の前でそれを銃剣で受けて見せるやつさえある。母親の目前でやるというのが、おもなる快感を構成してるんだね。ところが、もう一つ非常に僕の興味をそそる画面があるのさ。まず、一人の乳呑児がわなわな慄える母親の手に抱かれていると、そのあたりには闖入して来たトルコ人の群がいる、こういう光景を想像してごらん。この連中は一つ愉快なことを考えついたので、一生懸命に頭を撫でたり笑わせたりして、当の赤ん坊を笑わせようとしていたが、とうとううまくいって赤ん坊が笑いだしたのさ。この時一人のトルコ人がピストルを取り出して、その顔から一尺と隔てていないところで狙いを定めた。すると、赤ん坊は嬉しそうにきゃっきゃっと笑いながら、ピストルを取ろうと思って小さな両手を伸ばす、と、いきなり芸術家はこの顔を狙って引き金をおろして、小さな頭をめちゃめちゃにしてしまったのだ……いかにも芸術的じゃないか? ついでに言っとくが、トルコ人はすこぶる甘いもの好きだってね。」
「兄さん、何のためにそんな話を持ち出したんです?」とアリョーシャが訊ねた。
「僕が考えてみるのに、もし悪魔が存在しないとすれば、つまり人間が創り出したものということになるね。そうすれば人間は自分の姿や心に似せて、悪魔を作ったんだろうじゃないか。」
「そんなことを言えば、神様だって同じことです。」
「お前は『ハムレット』のポローニアスのいわゆる、言葉をそらすのになかなかえらい才能を持ってるね」とイヴァンが笑いだした。「お前はちゃんと僕の言葉じりを抑えてしまった。いや、結構、大いに愉快だよ。しかし、人間が自分の姿や心に似せて創り出したものなら、お前の神様はさぞかし立派なもんだろうよ。ところで、いまお前は、何のためにあんな話を持ち出したかと訊いたんだね? 実はね、僕はある種の事実の愛好家でかつ蒐集家なので、新聞から手あたり次第に、そうした種類の物語とか逸話とかを、手帳へ書き込んで集めているのだ。もうかなり立派なコレクションができたよ。トルコ人ももちろん集の中に入ってるが、こんなのはみんな外国種だろう。ところが、僕はロシヤ種もだいぶ集めた。そしてその中には、トルコ人よりも一段すぐれたやつさえあるよ。知ってのとおり、ロシヤでは比較的よく擲る。比較的笞や棒が多い、しかもこれが国民的なのだ。わが国では耳を釘づけにするなんて夢想だもできない。われわれは何といってもヨーロッパ人だけれど、しかし笞とか棒とかいうやつは妙にロシヤ的なものになって、われわれから奪い去ることができないくらいだ。外国では今あまり擲ったりなんかしないようだね。人情が美しくなったからか、それとも、人間をぶつことはならぬという法律ができたからか、そこいらはよくわからないが、その代り外国の人は別なもので、――ロシヤ人と同じように純国民的なもので埋め合せをしている。それはロシヤではしょせん行われないほど国民的なものなんだ。もっともロシヤでも、ことに上流社会で宗教運動が始まった頃から、そろそろ移植されかけたようだがね。僕はフランス語から訳した面白いパンフレットを持ってる。これはついこの間、僅か五年ばかり前にスイスのジュネーヴで、ある殺人犯の悪党を死刑にした話が書いてあるのだ。それはリシャールという二十三になる青年で、死刑の間ぎわに悔悟して、キリスト教に入ったんだそうだ。このリシャールは誰かの私生児で、まだ六つばかりの子供の時、両親が山の上に住んでいる羊飼にくれてやったのだ。羊飼は仕事に使おうと思って、その子を大きくしたわけさ。子供は羊飼の間にあって野獣のように成長した。彼らは子供に何一つ教えなかったばかりか、かえって七つばかりの年にはもう羊飼に出したくらいだ。しかも、雨が降ろうが寒かろうが、ろくろく着物も着せなければ、食べ物さえほとんどくれてやらなかったのだ。羊飼の仲間はこんなことをしながらも、誰ひとり悪かったと後悔する者なんかありゃしない。それどころか、かえってそんな権利を持ってるように考えてたのさ。なぜって、リシャールは品物かなんぞのようにもらい受けたものだから、養ってやる必要さえないと思ってたんだからね。リシャール自身の証明によると、その時分この少年は、まるで聖書の中の放蕩息子のように、売り物にするために肥される豚の餌でもいい、何か食べたくてたまらなかったが、それさえ食べさせてもらえなかった。あるとき、豚の食べている餌を盗んだと言って、折檻されたくらいなんだ。こんなふうにして、彼は少年時代、青年時代を過したが、そのうちにすっかり成人して体力も固まったので、自分から進んで泥棒に出かけた。この野蛮人はジュネーブの町で日傭稼ぎをして金を儲け、儲けた金は酒にしてしまって、ならず者のような生活をしていたが、とうとうある老人を殺して持ち物を剥いだのさ。リシャールは早速つかまって裁判を受け、死刑を宣告された。向うのやつはセンチメンタルな同情なんかしないからなあ。ところが、牢へ入るとさっそく、牧師だとか、各キリスト教組合の会員だとか、慈善家の貴婦人だとか、いろんな連中がこの男を取り巻いて、監獄の中で読み書きを教えた挙句、とうとう聖書の講義を始めたのさ。そうして、説いたり、諭したり、嚇したり、賺したりして、ついには当人が荘厳に自分の罪を自覚するにいたった。リシャールはみずから裁判所へ手紙を書いて、自分はしようのないならず者であったが、とうとうおかげをもって神様が自分の心をお照らし下すって、至福を授けて下さりました、とやったわけさ。すると、ジュネーヴじゅうが騒ぎだした。ジュネーヴじゅうの慈善家や道徳家が大騒ぎを始めた。上流の人、教養あるものはことごとく監獄へ押しかけて、リシャールを抱いて接吻するのだ。
『お前はわしの兄弟だ、お前には至福が授かったのだ!』すると、当のリシャールは感きわまって泣くばかりさ。
『そうです、私は至福を授かりました! 私は少年時代から青年時代へかけて、豚の餌を悦んでいましたが、今こそ私にも神様から至福を授かりまして、主のお胸に死ぬることができます。』
『そうだ、リシャール、主のお胸に死ぬがいい、お前は血を流したのだから、主のお胸に死ななければならぬ。お前が豚の餌食を羨んだり、豚の口から餌食を盗んでぶたれたりした時(これはまったくよくないことだ。盗むということは、どうしたって赦されていないからな)、少しも神様を知らなかったのはお前の罪でないとしても、お前は血を流したのだから、どうしても死ななければならない。』やがて最後の日が来た。衰えはてたリシャールは泣き泣きひっきりなしに、
『これは私の最もよき日です。なぜと言って、私は主のおそばへ行くからです』と口癖のように言うと、牧師や裁判官や慈善家の貴婦人たちは、
『そうだ、これはお前の一ばん幸福な日だ、なぜと言って、お前は主のおそばへ行くからだ!』こんな連中がぞろぞろと、リシャールの乗っている囚人馬車の後から、徒歩《かち》や車で刑場さしてついて行くのだ。やがて刑場へついた。
『さあ、死になさい、兄弟』とリシャールに向って喚く。『主のお胸に死になさい、なぜと言って、お前にも神の至福が授かったからだ。』こうして、人々は兄弟のリシャールに、一ぱいべたべたと兄弟の接吻をした後、刑場へ曳き入れてギロチンヘのせ、ただこの男に至福が授かったからというだけの理由で、いともやさしく首を刎ね落した。まったくこの話は外国人の特性を立派に現わしてるよ。このパンフレットは、ロシヤの上流社会に属するルーテル派の慈善家の手で露語に翻訳されて、ロシヤ人民教化のために、新聞雑誌類の無代付録として分配された。リシャールの一件の面白いところは、国民的な点にある。ロシヤでは、ある人間がわれわれの兄弟になったからといって、――その人間がお恵みを授かったからといって首を斬り落すなんて、ばかばかしく思われる。しかし、繰り返して言うが、ロシヤにもやはり自己独得のものがある、ほとんどこの話に負けないくらいだよ。
 ロシヤでは、人を擲っていじめるのが、歴史的、先天的、直接的快楽となっている。ネクラーソフの詩に、百姓が馬の目を――『すなおな目』――を鞭で打つところを歌ったのがある。あんなのは誰の目にでも触れることで、ルッシズムと言っていいくらいだ。この詩人の描写によると、力にあまる重荷をつけたよわよわしい馬は、ぬかるみに車輪を取られて引き出すことができないのだ。百姓はそれをぶつ、獰猛にぶつ、しまいには、自分でも何をしてるかわからず、ぶつという動作に酔うて、力まかせに数知れぬ笞の雨を降らすのだ。『よしんばお前の手に合わなくっても、曳け、死んでも曳け!』馬が身をもがくと、百姓は可哀そうに泣いているような、とはいえ『すなおな目』の上を、ぴしぴしと容赦なくぶち始める。こっちは夢中になって身をもがいて、やっと曳き出す。そして、体じゅうぶるぶる慄わせながら、息もしないで身を斜めに向けるようにして、妙に不自然な見苦しい足どりで、ひょいひょい飛びあがりながら曳いて行く、――この光景がネクラーソフの詩の中に恐ろしいほどよく現われている。しかし、これはたかが馬の話だ。馬はぶつために神様から授かったものだ、とこう韃靼人がわれわれに説明して、それを忘れぬように鞭を授けてくれたんだよ。
 しかし、人間でもやはりぶつことができるからね。現に、知識階級に属する立派な紳士とその細君が、やっと七つになったばかりの生みの娘を笞で折檻している、――このことは僕の手帳に詳しく書き込んであるよ。親父さんは棒切れに節瘤があるのを悦んで、『このほうがよくきくだろう』なんかって言うじゃないか。そうして、現在肉親の娘を『やっつけ』にかかるのだ。僕は正確に知ってるが、中には一打ちごとに情欲と言っていいくらい、字義どおりに情欲と言っていいくらい熱してゆく人がある。これが笞の数を重ねるたびに次第に烈しくなって、幾何級数的に募ってゆくのだ。一分間ぶち、五分間ぶち、やがて十分間とぶつうちに、だんだんと『ききめ』が現われて愉快になってくる。子供は一生懸命に『お父さん、お父さん、お父さん!』と泣き叫んでいるが、しまいにはそれもできないで、ぜいぜい言うようになる。ある時、まるで鬼のように残酷な所業のために、事件は裁判沙汰にまでおよんだのさ。そこで弁護士《アドポカード》が雇われる、――ロシヤ人はだいぶ前から弁護士のことを、『アブラカート([#割り注]弁護士の俗語[#割り注終わり])はお雇いの良心だ』などと言うようになったが、この弁護士が自分の依頼者を弁護しようと思って、『これは通常ありがちの簡単な家庭的事件です。父親が自分の娘を折檻したまでの話じゃありませんか。こんなことが裁判沙汰になるというのは、現代の恥辱であります』と呶鳴る。陪審員はこれに動かされて別室へしりぞき、無罪の宣告を与なる。世間の人たちは、その冷酷漢が無罪になったというので、夢中になって悦ぶという段取りさ。いや、僕がその場に居合せなかったのは残念だよ! そうしたら、僕はその冷酷漢の名を表彰するために、奨励金支出の議案でも提出してやったんだがなあ……実にもうポンチ絵だよ。しかし、子供のことなら、僕のコレクションの中にもっと面白い話がある。僕はロシヤの子供の話をうんと集めてるんだよ。アリョーシャ。
 五つになるちっちゃな女の子が、両親に憎まれた話もある。この両親は『名誉ある官吏で、教養ある紳士淑女』なんだ。僕はいま一度はっきりと断言するが、多くの人間には一種特別な性質がある。それは子供の虐待だ、もっとも、子供にかぎるのだ。ほかの有象無象に対する時は、最も冷酷な虐待者も、博愛心に充ちた教養あるヨーロッパ人でございと言うような顔をして、慇懃謙遜な態度を示すが、そのくせ子供をいじめることが好きで、この意味において子供そのものまでが好きなのだ。つまり、子供のたよりなさがこの種の虐待者の心をそそるのだ。どこといって行くところのない、誰といって頼るもののない小さい子供の、天使のような信じやすい心、――これが虐待者のいまわしい血潮を沸すのだ。もちろん、あらゆる人間の中には野獣がひそんでいる。それは怒りっぽい野獣、責めさいなまれる犠牲の叫び声に情欲的な血潮を沸す野獣、鎖を放たれて抑制を知らぬ野獣、淫蕩のために痛風だの肝臓病だのいろいろな病気にとっつかれた野獣なのだ。で、その五つになる女の子を、教養ある両親は、ありとあらゆる拷問にかけるんだ。自分でも何のためやらわからないで、ただ無性にぶつ、叩く、蹴る、しまいには、いたいけな子供の体が一めん紫脹れになってしまった。が、とうとうそれにも飽きて、巧妙な技巧を弄するようになった。ほかでもない、寒い寒い極寒の時節に、その子を一晩じゅう便所の中へ閉じ籠めるのだ。それもただその子が夜中にうんこを知らせなかったから、というだけなんだ(一たい天使のようにすやすやと寝入っている五つやそこいらの子供が、そんなことを知らせるような知恵があると思ってるのかしら)。そうして洩らしたうんこをその子の顔に塗りつけたり、無理やりに食べさしたりするのだ。しかも、これが現在の母親の仕事なんだからね! この母親は、よる夜なか汚いところへ閉じ籠められた哀れな子供の呻き声を聞きながら、平気で寝ていられるというじゃないか! お前にはわかるかい、まだ自分の身に生じていることを完全に理解することのできないちっちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけな拳を固めながら、痙攣に引きむしられたような胸を叩いたり、悪げのない素直な涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ、――え、アリョーシャ、お前はこの不合理な話が、説明できるかい、お前は僕の親友だ、神の聴法者だ、一たい何の必要があってこんな不合理が創り出されたのか! 一つ説明してくれないか! この不合理がなくては、人間は地上に生活してゆかれない、何となれば、善悪を認識することができないから、などと人は言うけれども、こんな価を払ってまで、くだらない善悪なんか認識する必要がどこにある? もしそうなら、認識の世界ぜんたいを挙げても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないのだ。僕は大人の苦痛のことは言わない。大人は禁制の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。みんな悪魔の餌食になったってかまやしない。僕が言うのは、ただ子供だ、子供だけだ! アリョーシャ、僕はお前を苦しめてるようだね。まるで人心地もなさそうだね。もし何ならやめてもいいよ。」
「かまいません、僕もやはり苦しみたいんですから」とアリョーシャは呟いた。
「も一つ、もうほんの一つだけ話さしてくれ。それもべつに意味はない、ただ好奇心のためなんだ。非常に特殊な話だが、ついこのあいだ、ロシヤの古い話を集めた本で読んだばかりなのだ。『記録《アルヒーフ》』だったか『古代《スタリーナ》』だったか、よく調べてみなければ、何で読んだか忘れてしまった。それは現世紀の初葉、農奴制の最も暗黒な時代のことなんだ。まったくわれわれは農民の解放者([#割り注]アレクサンドル二世[#割り注終わり])に感謝を捧げなくちゃならないのだよ! その現世紀の初め頃に一人の将軍がいた。立派な縁者知人をたくさんもった素封家の地主であったが、職をひいてのん気な生活に入ると同時に、ほとんど自分の家来の生殺与奪の権利を獲得したもののように信じかねない連中の一人であった、(もっとも、こんな連中はその当時でも、あまりたくさんいなかったらしいがね)。しかし、時にはそんなのもいたんだよ。さて、この将軍は二千人から百姓のいる自分の領地で暮しているので、近所のごみごみした地主などは、自分の居候か道化のように扱って、威張りかえっていたものだ。この家の犬小屋には何百匹という犬がいて、それに百人近い犬飼がついていたが、みんな制服を着て馬に乗ってるのさ。ところが、あるとき召使の息子で、やっと九つになる小さい男の子が、石を抛って遊んでるうちに、誤って将軍の愛犬の足を挫いたんだ。『どういうわけで、おれの愛犬は跛をひいておるのか?』とのお訊ねで、これこれの子供が石を投げて愛犬の足を挫いたのです、と申し上げると、
『ははあ、これは貴様の仕業か』と将軍は子供を振り返って、『あれを捕まえい!』で、人々はその子を母の手から奪って、一晩じゅう牢の中へ押し籠めた。翌朝、夜の明けきらぬうちに、将軍は馬に跨って、正式の出猟のこしらえでお出ましになる。そのまわりには居候どもや、犬や、犬飼や、勢子などが居並んでいるが、みんな馬上姿だ。ぐるりには召使どもが、見せしめのために呼び集められている。その一ばん前には、悪いことをした子供の母親がいるのだ。やがて、子供が牢から引き出されて来た。それは霧の深い、どんよりした、うそ寒い秋の日で、猟にはうってつけの日和だ。将軍は子供の着物を剥げと命じた。子供はすっかり丸裸にされて、ぶるぶる慄えながら、恐ろしさにぼうっとなって、うんともすんとも言えないのだ……『それ、追えい!』と、将軍が下知あそばす。『走れ、走れ!』と勢子どもが呶鳴るので、子供は駆け出した……と、将軍は『しいっ!』と叫んで、猟犬をすっかり放してしまったのだ。こうして母親の目の前で、獣かなんぞのように狩り立てたので、犬は見る間に子供をずたずたに引き裂いてしまった!………その将軍は何でも禁治産か何かになったらしい。そこで……どうだい? この将軍は死刑にでも処すべきかね? 道徳的感情を満足さすために、死刑にでも処すべきかね? 言ってごらん、アリョーシャ!」
「死刑に処すべきです!」蒼白い歪んだような微笑を浮べて兄を見上げながら、アリョーシャは小さな声でこう言った。
「ブラーヴォ!」とイヴァンは有頂天になったような声で呶鳴った。「お前がそう言う以上、つまり……いや、どうも大変な隠遁者だ! そらね、お前の胸の中にも、そんな悪魔の卵がひそんでるじゃないか、え、アリョーシカ・カラマーゾフ君!」
「僕は馬鹿なことを言いました、しかし……」
「つまり、その『しかし』さ……」とイヴァンは叫んだ。「ねえ、隠遁者君、この地上においては、馬鹿なことが必要すぎるくらいなんだ。世界は馬鹿なことを足場にして立ってるので、それがなかったら、世の中には何事も起りゃしなかったろうよ。われわれは知ってるだけのことしか知らないんだ!」
「兄さんは何を知っています?」
「僕は何にも理解することができない。」譫言でも言っているように、イヴァンは語をついだ。「今となって僕は、何一つ理解しようとも思わない。僕は事実にとどまるつもりだ。僕はずっと前から理解すまいと決心したのだ。何か理解しようと思うと、すぐに事実を曲げたくなるから、それで僕は事実にとどまろうと決心したのだ。」
「何のために兄さんは僕を試みるのです?」アリョーシャは引っちぎったような調子で、悲しげに叫んだ。「もういい加減にして言ってくれませんか?」
「むろん、言うとも。言おうと思って話を持ってきてるんだもの。お前は僕にとって大切な人だから、僕はお前を逃したくないのだ。あのゾシマなんかに譲りゃしない。」
 イヴァンは、ちょっと口をつぐんだが、その顔は急に沈んできた。
「いいかい、僕は鮮明を期するために子供ばかりを例にとった。この地球を表皮から核心まで浸している一般人間の涙につ