『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P142-P157

 老人はその目の光にびくっとした。しかし、その時、ほんの一瞬間ではあったけれども、きわめて奇怪な錯誤が生じたのである。その際老人の頭から、アリョーシャの母はすなわちイヴァンの母である、という想念が脱け出してしまったらしい。
「お前の母親がどうだと?」と彼は何か何やらわからずに呟いた。「何でお前はそんなことを言うのだ? どんな母親のことを言うのだな……一たいあれが……やっ、こん畜生! そうだとも、あれはお前の母親さな! ちぇっ、畜生! いや、ちょっと頭がぼうとしたもんだから……こんなことは今までないことだよ、こらえてくれ。わしはちょっとその……へへへ!」
 彼はふいと口をつぐんだ。なかば意味のない、引き伸ばしたような、生酔いらしい薄笑いがその顔の相好をくずした。が、突然この瞬間、玄関で恐ろしい物音がとどろき渡って、獰猛な叫び声が聞えたと思うと、戸がさっと開いて、広間の中ヘドミートリイが飛び込んだのである。老人は慴えあがって、イヴァンのそばへ駆け寄った。
「殺される、殺される! わしを見殺しにしてくれるな、見殺しに!」イヴァンのフロックの裾にしがみつきながら、彼はこう叫ぶのであった。

[#3字下げ]第九 淫蕩なる人々[#「第九 淫蕩なる人々」は中見出し]

 ドミートリイのすぐ後からグリゴーリイも、スメルジャコフとともに広間へ駆け込んだ。その前、二人は玄関でも彼を通すまいとして争った(それはもう三四日前から授けられている、フョードルの内命によったのである)。ドミートリイが部屋の中へ飛び込んで、ちょっとのま立ちどまったのにつけこんで、グリゴーリイはテーブルを迂回して、奥の方へ通ずる観音開きになった扉をはたと閉めた。そして、最後の血の一滴までこの入口を防いで見せるぞといった身構えで、両足を踏みひろげながら、閉めきった戸の前に立ちふさがった。これを見たドミートリイは叫ぶというよりも、むしろ妙に甲走った声をたてて、グリゴーリイに跳びかかった。
「じゃ、あれはそこにいるんだ! あれをそこへ隠してるんだ! どけ、こん畜生!」
 と、彼はグリゴーリイを引き退けようとしたが、こちらは彼を突き飛ばした。忿怒のあまりわれを忘れた彼は、高く手をふり上げて、力まかせに老僕を殴りつけた。と、老僕は足をすくわれたようにどっと倒れた。彼はそれを飛び越して戸の中へ駆け込んだ。スメルジャコフは広間の向うの隅に立っていたが、真っ蒼になって慄えながら、一生懸命にフョードルの方へ摺り寄っていた。
「あれはここにいるんだ!」とドミートリイは叫んだ。「この家の方へ曲ったのを、おれは自分でちゃんと見た、ただ追っつくことができなかっただけなんだ。あれはどこにいる? あれはどこにいる?」
 この『あれはここにいる!』という叫びは、フョードルに非常な印象を与えた。あれほどの恐怖もどこへやらけし飛んでしまった。
「捕まえろ、あいつを捕まえろ!」と呶鳴って、彼はドミートリイの後から駆け出した。
 老僕はその間に床から起きあがったが、まだ人心地がつかないふうであった。イヴァンとアリョーシャは父のあとを追ってる音がした。それは大理石の台にのったガラスの大花瓶(大して高価なものではない)であった。ドミートリイがそばを駆け抜ける時、ちょっと触ったのである。
「おーい!」とフョードルは金切り声を立てた。「誰か来てくれい!」
 イヴァンとアリョーシャは、やっと老人に追いついて、無理やりに広間へ引き戻した。
「何だって兄貴の後を追っかけるんです! 本当に殺されるじゃありませんか!」と、イヴァンは腹立たしげに父を呶鳴りつけた。
「ヴァーネチカ・リョーシェチカ、あれはここにおるぞ。グルーシェンカはここにおるぞ。あいつが自分で見たと言うた。」
 彼は息がつまってものが言えなかった。今日グルーシェンカが来ようとは思っていなかったので、あれがここにいるという意外な報知は、一時に彼を気ちがいのようにしてしまったのである。彼は腑抜けになったようにぶるぶる慄えていた。
「だって、あれが来なかったのは、ご自分でも見て知ってらっしゃるじゃありませんか!」とイヴァンが叫んだ。
「しかし、こっちの口から入ったかもしれん。」
「こっちの口は閉っていますよ、現にあなたが鍵を持ってらっしゃるくせに……」
 ドミートリイは突然、ふたたび広間に現われた。もちろん、彼は裏のほうの入口が閉っているのを見いだした。そして実際、鍵はフョードルのかくしに入っているのであった。部屋部屋の窓もやはりすっかり閉め切ってある。つまり、どこからもグルーシェンカが入って来るはずもなければ、どこからも逃げ出すところはなかった。
「あいつを捕まえろ!」ふたたびドミートリイの姿を見るが早いか、フョードルは金切り声を立て始めた。「あいつはわしの寝室で金を盗んだ!」
 と言うなり、イヴァンの手をもぎ放して、彼はまたしてもドミートリイに飛びかかった。こちらは両手を振り上げると、いきなり老人の鬢に残っているまばらな毛をひっ掴んで、轟然たる物音とともに床《ゆか》へ引き倒した。そして、倒れている父親の顔をなおも二つ三つ、靴の踵ですばやく蹴飛ばしたのである。老人は帛《きぬ》を裂くような声で悲鳴を上げた。イヴァンは兄ほど腕力はないけれど、両手で彼を抱え込んで無理やりに父親からもぎ放した。アリョーシャもおぼつかない力を絞って、前から兄に抱きつきながら、同じように加勢をするのであった。
「気がちがったんですか、殺してしまうじゃありませんか!」とイヴァンは呶鳴った。
「それがこんなやつには相当してらあ!」せいせい息を切らしながらドミートリイは叫んだ。「もし死ななかったら、また殺しに来てやる。のがれっこないんだ。」
「兄さん! 今すぐここを出てって下さい!」とアリョーシャは威をおびた声で叫んだ。
「アリョーシャ! お前どうか教えてくれ、お前一人だけを信用するから。今あの女がここへ来たか来なかったか? 今あの女が横町から出て編垣のそばを通り抜けて、この方角へすべり込んだのを、おれが自分でちゃんと見たんだ。おれが声をかけたら、逃げ出しちゃったんだ……」
「誓って言いますよ。あのひとはここへ来やしません。それに、誰一人あのひとが来ようなどとは思っていなかったのです!」
「でも、おれはあの女をちゃんと見たんだがなあ……してみると、あれは……よし、すぐにあれがどこにいるか探り出してやる……あばよ、アリョーシャ! もうこうなったら、このイソップ爺《じじい》に金のことなんか一ことも言っちゃならんぞ。しかし、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへは、これからすぐに行って、ぜひとも『よろしく申しました』と言ってくれ! いいか、よろしくよろしくと言うんだぞ! そして、今日あったことを詳しくあのひとに話してくれ。」
 その間に、イヴァンとグリゴーリイは老人を助け起して、肘椅子へ坐らした。その顔は血みどろになっていたが、気分はしっかりしたもので、貪るようにドミートリイの叫び声に耳を傾けていた。彼は本当にグルーシェンカが、どこか家の中にいるような気がしてならなかったのである。ドミートリイは出しなに、さもにくにくしげな目つきをして彼を睨んだ。
「おれは貴様の血を流したからって、決して後悔しないぞ!」と彼は叫んだ。「用心しろ、じじい、せいぜい自分の空想を大切にするがいい、おれだってやはり空想を持ってるんだからな! 貴様なんかおれの方から呪ってやる、すっかり縁を切ってしまうんだ……」
 彼は部屋を駆け出した。
「あれはここにおる、確かにここにある! スメルジャコフ、スメルジャコフ」と老人は指で下男をさし招きながら、しゃがれた声で聞えないくらいにこう言った。
「あれがここにいるもんですか、ばかばかしい、わけのわからない爺さんだなあ」とイヴァンは毒々しく呶鳴りつけた。「やっ、気絶した! 早く水を、タオルを! 早くしろ、スメルジャコフ!」
 下男は水を取りに駆け出した。とうとう老人は寝室へ運ばれ、寝台の上に臥かされた。人々は濡れ手拭で頭を巻いてやった。コニヤクの酔いと、心の激動と、打撲の痛みのために弱りはてた老人は、頭が枕にふれるが早いか、すぐさま目をつり上げて人事不省に落ちてしまった。イヴァンとアリョーシャは広間へ帰った。スメルジャコフはこわれた花瓶のかけらを運び出していた。グリコーリイは沈んだ様子で目を伏せながら、じっとテーブルのそばに立っていた。
「お前も頭を冷やしたほうがいいのじゃないか、やはり寝床へ入ってふせったらどうだね」と、アリョーシャは老僕に向って言った。「僕ら二人ここにいて、お父さんの看護《みとり》をするから。兄さんがずいぶんひどくお前をぶったものねえ……おまけに頭を……」
「あの人はわしに向って失敬なことをしただ!」とグリゴーリイは一こと一こと区切りながら、沈んだ調子で言った。
「あの人はお父さんにも『失敬なことをした』のだ、お前どころのさわぎじゃないよ!」と、イヴァンは口を歪めながら言った。
「わしはあの人に湯までつかわして上げたに……あの人はわしに失敬なことをしただ!」とこちらは繰り返し言うのであった。
「ええ、勝手にしろ、もしおれが兄さんを引き放さなかったら、本当に殺してしまったかもしれやしない。あんなイソップ爺《じじい》に大して手間がかかるものかね!」とイヴァンは弟に囁いた。
「とんでもない!」とアリョーシャは叫んだ。
「どうしてとんでもないのだ。」依然として小さな声で、イヴァンは毒々しく顔を歪めながら囁いた。「毒虫が毒虫を咬み殺すのだ、結局、両方ともそこへいくんだよ!」
 アリョーシャはびくりとした。
「しかし、もちろん、僕は決して人殺しなんかさせやしないよ、たった今もさせなかったくらいだからね。アリョーシャ、お前ここへ残っておいで、僕は庭を少し歩いて来るから。何だか頭が痛くなった。」
 アリョーシャは父の寝室へ赴き、枕もとの衝立の陰に一時間ばかり坐っていた。と、ふいに老人は目を見開いて、何やら思い出そうとするかのように、長いこと無言のままじっとアリョーシャを見つめていた。突然はげしい興奮の色がその顔に浮んだ。
「アリョーシャ」と彼は心配そうに囁いた。「イヴァンはここにおる?」
「庭です、頭が痛いんですって。あの人が僕らの番をしてくれてるんです。」
「鏡を貸してくれ、そら、そこに立ててある。」
 アリョーシャは箪笥の上に立ててある、小さな丸い組み合せ鏡を父に渡した。老人は一心にその中を見入った。鼻がかなりひどく腫れあがって、額には左の眉のあたりに紫色の打ち身が目立って見えた。
「イヴァンは何と言うておる? アリョーシャ(お前はわしのたった一人の子供だ)、わしはイヴァンが怖い、わしはあいつよりイヴァンのほうがもっと怖い。わしの怖くないのはお前一人きりだ……」
「イヴァン兄さんだって恐れることはありません、あの人は腹こそ立てていますけれど、僕らを守ってくれますよ。」
「アリョーシャ、ところで、あいつのほうは? グルーシェンカのところへ飛んで行ったのか? おい、いい子だから本当のことを教えてくれ。さっきグルーシェンカがここへ来たか来なんだか?」
「誰も見たものがないんですもの。あれは嘘です、来やしません。」
「それでも、ミーチカはあれと結婚する気でおるのだ、結婚する気で!」
「あのひとは兄さんと一緒になりゃしませんよ。」
「ならんとも、ならんとも、ならんとも、決してなりゃせん!……」今の場合、これより嬉しい言葉を聞くことはできないかのように、老人は躍りあがらないばかりに悦んだ。彼は歓喜のあまり、アリョーシャの手を取って、自分の心臓へ強く押しつけるのであった。そればかりか、涙さえ目に輝きだしたほどである。「さっきわしが話した聖母マリヤの像も、お前にやるから持って行くがよい。お寺へ帰るのも許してやるわ……さっきのはほんの冗談だから、腹を立てんでくれ。ああ、頭が痛い。アリョーシャ……アリョーシャ、どうかわしの得心がゆくように、一つ本当のことを言うてくれんか!」
「また例の、あの女が来たか来ないか、ですか?」とこちらは悲しそうに言った。
「いいや、いいや、いいや。あれはお前の言葉を信用する。今度のはな、お前自身でグルーシェンカのとこへ行くか、それともほかに何とかしてあれに会うて、あれがどっちを取る気でおるか、――わしかあいつか、どっちにする気でおるか、訊いてほしいのだ、早く、少しも早くな。つまり、お前が自分の目で見て察しるのだ。うん? どうだ? できるかできんか?」
「もし会ったら訊いてみましょう」とアリョーシャは当惑したように呟いた。
「いいや、あれはお前に言やあせん」と老人は遮った。「あれはずいぶんあまのじゃくだから、いきなりお前を掴まえて接吻して、お前さんのお嫁になりたいわ、と言うだろうよ。あれは嘘つきだ。恥知らずだ。そうだ、お前はあれのところへ行っちゃならん、断じてならん!」
「それに、またよくないことですよ、お父さん、まったくよくないことですよ。」
「あいつはお前を、どこへ使いにやろうとしておるのかな。さっき逃げて行く時に『行って来い』と喚いたじゃないか?」
「カチェリーナさんのとこです。」
「金の用だろう! 金の無心だろう?」
「いいえ、金の無心じゃありません。」
「あいつは金がないのだ、びた一文もないのだ。おいアリョーシャ、わしは一晩寝てゆっくり考えるから、お前はもう行ってもよいぞ。ことによったら、あれにも会うかもしれんて……しかし、明日の朝、ぜひわしのとこへ来てくれ、きっとだぞ。わしはその時、お前に一つ言いたいことがある。来るかな?」
「来ます。」
「もし来てくれるなら、自分で見舞いに寄ったような顔をしてくれ。わしが呼んだってことは、誰にも言うのじゃないぞ。イヴァンには一口も言うちゃならんぞ。」
「承知しました。」
「そんなら、さよなら、さっきお前はわしの味方をしてくれたな、あのことは死んでも忘れやせん。明日はぜひお前に言わにゃならんことがあるが……今はまだ、も少し考えておきたいから。」
「いま気分はどんなですか?」
「明日は起きるよ、明日は。もうすっかり癒った、もうすっかり癒った!……」
 アリョーシャは庭を横切ろうとして、門のそばのベンチに坐っているイヴァンに出会った。彼は鉛筆で何やら手帳に書き込んでいた。アリョーシャは兄に向って、老人が目をさまして意識を取り戻したこと、それから自分が僧院へ帰っていいという許しをもらったこと、などを話して聞かせた。
「アリョーシャ、僕は明日の朝お前に会えたら、大へん好都合だがね」とイヴァンは立ちあがって、愛想よく言いだした。こうした愛想のいい調子は、アリョーシャにとってまったく思いがけないものであった。
「僕は明日ホフラコーヴァ夫人のところへ行きますし」とアリョーシャは答えた。「それに、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへも、もしきょう留守だったら、明日また行ってみるかもしれないのです……」
「じゃ、今やはりカチェリーナさんのところへ行くんだね? 例の『よろしく、よろしく』かね!」突然、イヴァンはにたりと笑った。アリョーシャは妙に間が悪くなってしまった。
「僕はさっき兄貴の呶鳴ったこともすっかりわかったし、以前のことも幾分読めたような気がする。兄さんがお前に使いを頼んだわけは、きっと自分が……その……何だ……つまり手っ取り早く言うと、『よろしく言って』ほしいからさ。」
「兄さん! あのお父さんとミーチャとの恐ろしい事件は、一たい、どんなふうに落着するんでしょうねえ?」とアリョーシャは叫んだ。
「確かなことは何とも想像がつかないが、大したことはなく、自然に縺れが解けるかもしれない。あの女は獣だね。とにかく爺さんを家の中に抑えておいて、ミーチャを家へ入れないようにしなくちゃ。」
「兄さん、失礼ですが、一つ訊きたいことがあります。一たいどんな人間でもほかの者に対して、誰それは生きる資格があって、誰それはその資格がない、などと決める権利を持ってるものでしょうか?」
「何だってお前は、この問題に資格の決定など持ち込むんだい! この問題は資格などを基礎とすべきではなく、もっと自然なほかの理由によって、人間の心の中で決しられるのが一ばん普通だね。しかし、権利という点になると、誰だって希望の権利を持ってないものはないさ。」
「しかし、他人の死を希望することじゃないでしょう?」
「他人の死だって仕方がないさ。それに、すべての人がそんなふうにして生きてる、というよりむしろ、そのほかの生き方ができないんだからね、自分で自分に嘘をつく必要なんか、どこにもないじゃないか。ところで、お前がそんなことを言いだしたのは、さっきの『毒虫が二匹咬み合ってる』という、僕の言葉を目やすにおいてるのかね? そういうわけなら、僕のほうからも一つ訊ねたいことがある。お前は僕もミーチャと同じように、あのイソップ爺《じじい》の血を流しかねない、――つまり、――殺しかねない人間だと思ってるのかい?」
「まあ、何を言うのです、兄さん! そんなことは夢にも考えたことがありませんよ! それに、大きい兄さんだってそんなこと……」
「いや、それだけでも有難い!」とイヴァンは苦笑した。「実際、僕はいつでも親父を守ってやるよ。しかし、自分の希望の中にはこの場合、十分な余地を残しておくからね。じゃ、さようなら、また明日ね。どうか僕を責めないで、そして悪者扱いにしないでくれ」と彼は微笑を浮べながら言った。
 二人はかつてこれまでなかったように、強く握手をした。アリョーシャは、兄が自分のほうから先にこちらへ一歩近づいて来たが、これには必ず何かの心算があるに相違ないと直覚した。

[#3字下げ]第十 二人の女[#「第十 二人の女」は中見出し]

 父の家を出たときのアリョーシャは、さきほどここへ入った時よりも、なお一そう打ち砕かれ、へし潰されたような心持になっていた。彼の理性も同様、微塵になって散乱したようであったが、同時に彼はそのばらばらになったものを継ぎ合せて、きょう一日のうちに経験したすべての矛盾の中から、一つの普遍的な意味を抽き出すのが恐ろしいように感じられた。何だかほとんど絶望と境を接しているようなあるものがあった。こんなことは今までかつて、アリョーシャの心に生じたことがなかった。こうした一切の上に、山のごとく聳えているのは、あの恐ろしい女に関する父と兄との事件が、一たいいつ終るだろうという、解決することのできない運命的な疑問であった。もう今日こそ彼は自分の目で見た、自分でその現場に居合わして、相対せる二人を見たのだ。とはいえ、不幸な人、本当に不幸な人と感じられるのは、ただ兄ドミートリイ一人でなければならない。疑いもなく、恐ろしい災厄が彼を待ち伏せしている。その上、以前アリョーシャが考えていたよりも、ずっと事件に関係の深い人がまたほかにもあるらしい。兄のイヴァンは彼が久しい以前から望んでいたように、自分のほうへ一歩踏み出して来た。しかし、彼はなぜかこの接近の第一歩が、薄気味わるく感じられるのであった。
 ところで、あの二人の女はどうだろう? 奇妙な話ではあるが、さきほどカチェリーナのもとをさして赴く時、非常な当惑を感じたにもかかわらず、今は少しもそんなことがなかった。それどころか、まるでこの婦人の助言でもあてにしているように、自分のほうから彼女のもとをさして急ぐのであった。とはいえ、彼女にことづけを伝えるのは、先刻より余計くるしいように思われた。三千ルーブリの問題がきっぱりと決せられたから、兄ドミートリイはもはや自分を不正直者ときめてしまって、絶望のあまりいかなる堕落の前にも躊躇しないに相違ない。その上彼はたった今起った出来事を、カチェリーナに伝えてくれと言いつけている……
 アリョーシャがカチェリーナの家へ入った時は、もう七時で、黄昏の色がかなり濃くなっていた。彼女は大通りにある恐ろしく広い、便利な家を一軒借りていた。彼女が二人の伯母と一緒に暮していることも、アリョーシャは承知していた。その中の一人は、姉のアガーフィヤだけの伯母にあたっていた。これは、彼女が専門学校から父の家へ帰って来た時、姉と一緒に世話を焼いてくれた、例の無口な婦人であった。いま一人の伯母は権式の高い、そのくせ貧乏なモスクワの貴婦人である。噂によると、伯母たちは二人とも万事につけて、カチェリーナの言うがままになって、ただ世間体のために姪のそばについているだけなのであった。カチェリーナが言うことを聞くのは、いま病気のためモスクワに残っている恩人の将軍夫人ばかりであった。この人には毎週手紙を二通ずつ送って、自分のことを詳しく知らしてやらねばならなかった。
 アリョーシャが控え室に入って、戸を開けてくれた小間使に自分の来訪を取り次ぐように頼んだ時、広間のほうでは早くも彼の来訪を知ったらしかった(ひょっとしたら、窓から見たのかもしれない)。と、急に、何かがたがた騒々しい物音がして、たれか[#「たれか」はママ]女の駆け出す足音や、さらさらという衣摺れの音などが聞えた。何だか二三人の女が駆け出したような気配である。アリョーシャは、自分の来訪がこんな騒ぎをひき起すはずはないのにと奇妙に思った。しかし、彼はすぐ広間へ案内された。
 それは田舎式とまるで違って、優美な道具類を豊かに並べた大きな部屋であった。長椅子や|円榻《クシェートカ》や大小のテーブルがおびただしく配置され、四方の壁にはさまざまな画がかかり、テーブルの上にはいくつかの花瓶やランプが置かれて、花卉類もたくさんにあった。そればかりか、窓のそばには魚を入れたガラスの箱さえ据えてあった。黄昏時のこととて部屋の中は幾分うす暗かった。つい今しがたまで人の坐っていたらしい長椅子の上には、絹の婦人外套《マンチリヤ》が投げ出され、長椅子の前のテーブルの上には、飲み残されチョコレートの茶碗が二つと、ビスケットと、青い乾葡萄のはいったガラスの皿と、菓子を盛ったいま一つの皿、――などがうっちゃってあるのに、アリョーシャは気がついた。どうも誰かを饗応していたらしい様子なので、アリョーシャは来客の席へぶつかったのだな、と思って眉をひそめた。
 しかし、その瞬間とばりが上って、カチェリーナが忙しそうな、せかせかした足どりで入って来た。そして、歓喜の溢れた微笑を浮べながら、両手をアリョーシャのほうへさし伸べた。それと同時に、女中が火をともした蝋燭を二本持って来て、テーブルの上へおいた。
「まあよかった。とうとうあなたも来て下さいましたわね! わたし今日いちん日《ち》あなたのことばかり、神様にお祈りしていましたの! どうぞお坐り下さいまし。」
 カチェリーナの美貌は、このまえ会った時も、アリョーシャに烈しいショックを与えた。それは三週間ばかり前ドミートリイが、彼女自身の熱心な希望によって、はじめて弟を連れて行って紹介した時のことである。その会見の時は二人の間に、どうもうまく話がつづかなかった。カチェリーナは、彼が恐ろしくどぎまぎしているらしいのを見て、世馴れぬ少年を容赦するといった様子で、初めからしまいまでドミートリイとばかり話していた。アリョーシャはじっと黙り込んでいたけれども、いろいろなことをはっきりと見分けたのである。
 そのとき彼を驚かしたのは、思いあがった令嬢の権高い様子と、高慢らしく打ち解けた態度と、自己に対する深い信念であった。これは断じて疑いの余地がなかった。アリョーシャは自分が誇張におちいっていないことを信じていた。彼は、その誇りに充ちた大きな黒い目の美しいこと、それが彼女の蒼白い、むしろ蒼黄ろいような長めな顔にことのほかよく似合うこと、などを発見したのである。この目の中にも、また美しい唇の輪郭の中にも、いかにも兄が夢中になって打ち込みそうではあるけれど、長く愛していられないような何ものかがあった。ドミートリイがその訪問のあとで、自分の許嫁を見てどんな印象を受けたかとしつこく弟に訊ねたとき、アリョーシャはこの感想をむきつけに言ってしまった。
「兄さんはあのひとと一緒に、幸福に暮すでしょうが……しかし、それは穏かな幸福ではないかもしれませんよ。」
「そこなんだよ。ああいうふうの女は、いつまでもああいうふうでいるんだよ。ああいうふうの女は、決して諦めて運を天に任せるということをしない。で、何だな、お前はおれが永久にあの女を愛さないと思うんだな?」
「いいえ、もしかしたら、永久に愛するかもしれませんけれど、あのひとと一緒になっても、しじゅう幸福でいられないかもしれませんよ……」
 アリョーシャはそのとき真っ赤になって、自分の意見を述べた。そして、つい兄の乞いにつり込まれてこんな『愚かな』考えを吐いたのを、自分ながらいまいましく思った。なぜなら、彼がこの意見を口に出すと同時に、自分にも恐ろしくばかばかしく感じられたからである。それに、自分のようなものが婦人に対する考えを、あんな偉そうな調子で言ったのが恥しくもあった。
 こういうことがあっただけに、いま自分のほうへ駆け出して来たカチェリーナを一目見た時、彼の驚きはなおさら強かった。もしかしたら、あの時の考えがまるで誤っていたかもしれない、と感じたくらいである。いま彼女の顔はわざとならぬ善良な心持と、一本気な、熱しやすい真心に輝いていた。あの時あれほどまでにアリョーシャを驚かした、思いあがった傲慢な態度の中から、いまはただ勇敢で潔白なエネルギーと、はればれした力強い自信が窺われるばかりであった。愛する男との関係から生じた自分の位置の悲劇性《トラギズム》は、彼女にとって毫も秘密でないばかりか、彼女はもはや一切のことを、――何から何まで一切のことを承知しているのかもしれない。アリョーシャは彼女の顔を一目見、その声を一こと聞いたばかりで、こう直覚した。が、それにもかかわらず、彼女の顔には未来に対する信仰と光明とがみちみちていた。
 アリョーシャは急に自分が彼女に、意識して重大な罪を犯しているように思われだした。彼は一瞬の間に征服せられ、牽きつけられてしまったのである。そのほか、彼はカチェリーナの最初の言葉を聞いたばかりで、彼女が何かしら異常な興奮、ほとんど歓喜ともいうべき興奮の状態にあることを見てとった。
「わたしがそんなにあなたをお待ちしていたわけはね、いま本当のことを聞かして下さるのはあなただけだからですの。ほかにそんな人は一人もありません!」
「僕が来たのは……」アリョーシャは、まごつきながら言い出した。「僕……兄さんの使いで来たのです……」
「ああ、兄さんがよこしなすったんですって? わたしもそうだろうと思ってましたわ。今はもう、何でもわかってますのよ、すっかり!」とカチェリーナは急に目を輝かしながら叫んだ。「あのね、アレクセイさん、わたしどういうわけで、そんなにあなたをお待ちしたかってことを、前もってお話しておきますわ。もしかしたら、わたしはあなたよりずっとたくさん、いろんなことを知ってるかもしれませんのよ。わたしがあなたから伺いたいのは、事実の報告じゃありません。あなたがご自身でお受けなすったあの人の最近の印象が知りたいんでございますの。どうか遠慮も飾り気もなく、あの人の近状を話して聞かして下さいませんか。無作法な話でもかまいません(えええ、いくら無作法な話でもようござんすわ!) 一たいあなたは今の兄さんを何とごらんになります? そして今日あなたと会ってから後の兄さんの状態を、何とごらんになりまして? これはわたしが自分であの人に話すよか、きっといいに相違ないと思いますわ。あの人はもうわたしのところへ来ないつもりでいるんです。わたしが何をあなたから望んでいるか、これでおわかりになりましたでしょう? さあ、今度はあの人が何用であなたを使いによこしなすったか(わたし必ずよこしなさるだろうと思ってましたわ!)どうぞ手短かに、一ばん肝心なところを聞かして下さいません!………」
「兄さんはあなたに……よろしく言ってくれ、もう今後決して足踏みしないから、……あなたによろしく言ってくれ……って申しました。」
「よろしく? あの人がそう言ったんですの、そのとおりの言い廻しをしたんですの?」
「ええ」
「もしかしたら、ひょいと何の気なしに言ったのかもしれませんね。間違って妙な言葉が、口に出たのかもしれませんわね。」
「いいえ、兄さんはこの『よろしく』という言葉を、ぜひ伝えてくれって言いつけたのです。忘れないように伝えてくれって、三度も念を押したのです。」
 カチェリーナはかっと赧くなった。
「アレクセイさん、どうぞわたしに一つ力添えをして下さいな。今こそ本当にあなたのご助力が必要なんですの、わたし自分の考えを言ってみますから、あなたはそれについて、わたしの考えが正しいかどうか、おっしゃって下さいませんか。ようござんすか、もしあの人が何の気なしによろしく言ってくれって、あなたに言いつけたのでしたら、――つまり、特別この言葉に力を入れて、この言葉をぜひ伝えるように念を押さなかったのですと、それがもうすべてなのです……それで万事おしまいなのです! けれど、もしあの人が特別この言葉に念を押して、特別この『よろしく』を忘れないでわたしに伝えるように言いつけたのですと、あの人はつまり、興奮していたということになります。ひょっとしたら、前後を忘れていたのかもしれませんね。決心はしながらも、自分で自分の決心を恐れているのです! 確かな足どりでわたしのそばを離れたのでなく、急な坂を走って下りたのです。この言葉に力を入れたのは、ただのから威張りだという証拠じゃないでしょうか……」
「そうです、そうです!」とアリョーシャは熱心に叫んだ。
「僕にも今そう思われます。」
「もしそうでしたら、あの人はまだ駄目じゃありません! ただ自暴になってるだけですから、わたしはあの人を救うことができます。それはそうと、あの人は何かお金のことを、三千ルーブリのことをあなたに話しませんでしたか?」
「話したばかりじゃありません。これが一ばん烈しく兄さんを苦しめているらしいのです。兄さんはもうこうなっては、身の潔白まで奪われたのだから、どうなったって同じことだと言ってました」とアリョーシャは熱くなって叫んだ。彼は、自分の心にむらむらと希望が湧き起って来るのを感じ、本当に兄のために救済の道が開けたのかもしれない、というような気持がした。「しかし、あなたは一たい……あの金のことをご存じなんですか?」と言いたしたが、急に言葉を切ってしまった。
「とうから知ってますわ。正確に知ってますわ、わたしモスクワへ電報で問い合せて、お金が着いてないってことを、とうに知りました。あの人はお金を送らなかったのです、けれど、わたしは黙ってましたの。先週になって初めてあの人にお金のいったこと、そして今でもいることを知りました……わたしはこのことについて、ただ一つの目的を定めましたの。つまりあの人が、自分は結局誰の手へ帰ったらいいか、そして誰が自分の一ばん忠実な親友かってことを、悟ってくれるように仕向けたいのでございます。ところがあの人は、わたしがその一ばん忠実な友達だってことを、信じてくれないんですの。わたしの心を見抜こうとしないで、ただ女としてわたしを見ているのでございます。わたしはまる一週間、おそろしい心配に苦しめられました、――あの人が例の三千ルーブリの使い込みを恥と思わないようにするには、一たいまあどうしたらいいだろうと思いましてねえ。それはもう、世間の人や、自分自身に恥じるのはかまいませんけれど、わたしに恥じることだけはさせたくありませんの。だって、あの人も神様には少しも恥じないで、一切を打ち明けてるじゃありませんか。それだのに、わたしがあの人のためにどんな辛抱でもできるってことを、なぜ今まで知ってくれないんでしょう? なぜ、なぜあの人にはわたしの心がわからないんでしょう? ああいうことがあった後だのに、どうしてわたしの心を知らずにいられるのでしょう? わたしはどこまでもあの人を助けとうございます。あの人が許嫁としてのわたしを忘れたってかまいません! それだのに、あの人はわたしに対して、身の潔白なんか心配してるんですもの! だってねえ、アレクセイさん、あなたには何の恐れもなしに打ち明けたじゃありませんか。一たいわたしはどうして今まで、それだけのこともしてもらえないんでしょう?」
 終りのほうの言葉は涙の中から聞えてきた。涙が彼女の目からはふり落ちるのであった。
「僕はたったいま兄さんと父との間に起ったことを、あなたにお話しなきゃなりません」とアリョーシャも同様に顫える声で言った。彼はさきほどの一場をすっかり話した。金の使いで父のもとへ行ったこと、そこへ兄が闖入して、父を殴打したこと、そのあとで兄がとくにもう一度彼に向って、『よろしく』のことづけに念を押したこと、などを物語ったのである。
「兄さんはそれからあの女のところへ行きました……」と彼は低い声でつけたした。
「まあ、あなたはわたしがあのひとを嫌ってるとでも思ってらっしゃるの? 兄さんもそう思ってるのでしょうか、わたしあのひとが厭でたまらないなんて? けれど、兄さんはあのひとと結婚しませんよ。」ふいに彼女は神経的に笑いだした。「一たいカラマーゾフの人が、いつまでもあんな情欲に燃えることができるでしょうか! ええ、あれは情欲ですわ、愛じゃありませんとも。兄さんは、結婚なんかしませんよ、だってあのひとが承知しませんもの……」突然またカチェリーナは奇妙な薄笑いをもらした。
「しかし、兄さんは結婚するかも知れませんよ」とアリョーシャは目を伏せながら、悲しげな調子でこう言った。
「いいえ、結婚しません、わたし受け合いますわ! あの娘さんはまるで天使のような人ですよ、あなたそれをご存じ? あなたそれをご存じ?」突然カチェリーナは異常な熱をおびた声で叫んだ。「あの娘さんはまったくほかに類のないくらい、ロマンティックな人なんですよ! わたし、あのひとがずいぶん誘惑の力を持っているのも知ってますが、またあのひとが親切でしっかりしていて、しかも高尚な娘さんだってことも承知しています。何だってあなたそんな目をして、わたしをごらんなさるんですの? 大方わたしの言うことにびっくりなすったのでしょう、たぶんわたしの言うことを本当になさらないんでしょう? アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ!([#割り注]グルーシャの正確な呼び方[#割り注終わり])」とふいに彼女は次の間に向って、こう誰かを呼びかけた。「こっちへいらっしゃいな、ここにいらっしゃるのはアリョーシャですよ。もうわたしたちのことはすっかり知ってらっしゃるんですから、こちらへ出て挨拶をなさいな!」
「わたしカーテンの陰で、あなたが呼んで下さるのを、今か今かと待ってましたのよ」という幾分あまったるいくらい優しい女の声が聞えた。
 と、とばりがもちあがって……当のグルーシェンカが嬉しそうに笑いながらテーブルに近づいた。アリョーシャは腹の中がひっくり返ったような気がした。彼の目は女の方へ吸いつけられて、引き放すことができなかった。ああ、これがあの女なのだ。兄イヴァンが三十分まえに口をすべらして、『獣』と言ったあの恐ろしい女なのだ。そのくせ、いま彼の前に立っているのは、ちょっと見たところきわめてありふれた単純な女、人の好さそうな愛くるしい女であった。かりに美人であるとしても、美しいけれど『ありふれた』世間一般の女に似たり寄ったりの美人であった。しかし、何といっても美しいには相違ない、非常にと言ってもいいくらいである……つまり、多くの人から夢中になるくらい愛される、ロシヤ式の美しさであった。彼女はかなり背の高い女であったが、しかし、カチェリーナよりはちょっと低かった(カチェリーナはずぬけて背の高いほうであった)。肉つきはいい方で、体の運動などは、ほとんど音を立てないほど柔かであったが、やはり声と同じように、甘ったるい感じがするくらい、わざとらしくしなしなしていた。
 彼女は、カチェリーナみたいに力の籠った大胆な足どりでなく、反対に音の立たないようにして近づいたのである。その足は床に触れてもまるで音が聞えなかった。彼女は洒落た黒い絹の着物を柔かに鳴らしながら、柔かに肘椅子に腰をおろし、高価な黒い毛織の襟巻で、泡のように白いむっちりした頸と、幅のある肩を、しなしなした手つきでくるんだ。
 彼女は二十二であったが、その顔はきっちりこの年齢に相応していた。上品な薄ばら色がほんのりとさして、抜けるほど白い顔の輪郭は、どっちかと言えば帽広なほうで、下頤は心もちそり加減なくらいである。上唇はごく薄かったが、やや突き出た下唇は二層倍も厚くて、脹れぼったかった。しかし、類のないふさふさした暗色《あんしょく》の髪と、黒貂《こくてん》のように黒い眉と、睫の長い灰色がかった空色をした美しい目とは、どんなに雑沓した人込みの中を散歩している気のないそわそわした男でも、思わず視線を向けて、長くその印象を畳み込まずにいられないほどであった。この顔の中で最も強くアリョーシャを打ったのは、子供らしい開けっ放しの表情であった。彼女は子供のような目つきをして、何か知らないが、子供のように悦んでいる様子であった。事実、彼女はさも嬉しそうにテーブルへ近づいたが、その様子はちょうど、今にも何か変ったことがあるだろうと信じきって、子供らしい好奇心をいだきながら、じりじりして待ち受けているというようなふうであった。彼女の目つきにも、人の心を浮き立たせるようなところがあった、――アリョーシャもこれを直覚した。
 まだその上に彼女の中には、何とも説明することができないけれど、しかし無意識にそれとなく感じられるあるものがあった。それは例の肉体の運動が、柔かくしなやかで猫のように静かなことである。そのくせ、彼女は力の充ち溢れた体をしていた。ショールの下には、幅のある肥えた肩や、むっちり高い、まるでまだ処女のような乳房が感じられた。ことによったら、この体は将来ミロのヴィーナス([#割り注]ルーヴル所蔵のギリシャ彫刻[#割り注終わり])の形をとるかもしれない。もっとも、それはもう今でも、その誇張されたプロポーションの中に予想されるのであった。ロシヤ女性美の研究家はグルーシェンカを見て、間違いなしにこういうことを予言し得るであろう、ほかではない、このいきいきしたまだ処女のような美しさも、三十近くなったら調和を失ってぶくぶく肥りだし、顔まで皮がたるんでしまって、目のふちや額には早くも小皺がよりはじめ、顔の色は海老色になるかも知れない、――つまり、ロシヤ婦人の間によくある束の間の美、流星の美だというのである。
 アリョーシャは、もちろん、そんなことを考えなかったばかりか、ほとんど魅了されていたくらいであるが、しかし、どうしてこのひとはあんなに言葉を引き伸ばして、自然なものの言い方ができないのだろうと、何となく不愉快な感触をいだきながら、妙に残念な心持で、自分で自分に問いかけるのであった。見受けたところ、彼女がこんなことをするのは、こういうふうに言葉や音を引き伸ばして、いやに甘ったるい調子をつけるのを、美しい話しぶりだと思っているらしい。もちろん、これはただの悪い習慣であって、彼女の教育程度の低いことと、子供の時分から礼儀というものについて俗な観念を叩き込まれているのを証明するのみであった。が、それにしても、この発音と語調とは、子供らしい単純な顔の表情や、赤ん坊にのみ見られる穏かな幸福らしい目の輝きに対して、ほとんどあり得べからざる矛盾を形作っているように、アリョーシャには感じられた。
 カチェリーナはさっそく、彼女をアリョーシャの真向いにある肘椅子にかけさして、その笑みをふくんだ唇を夢中になって幾度も接吻した。彼女はさながら恋せる人のようであった。
「アレクセイさん、わたしたちは初めて会ったんですの」と彼女は有頂天になって叫んだ。「わたしこのひとに会って、このひとの性質《ひととなり》が知りたくて、自分のほうから先に出かけようかと思っていたところ、このひとがわたしの招きに応じて、一度で自分から来て下すったんですの。このひとと一緒だったら、何もかもすっかり、本当にすっかり解決ができるに違いないと思いました。わたしの胸はそれを予感していました……わたしこう決心した時、みんなにとめられましたけど、それでもちゃんと結果を予感していました。そして、案の定、間違っていませんでしたわ。グルーシェンカは何もかも打ち明けてくれました。自分の考えをすっかり聞かしてくれました。このひとは、ちょうど天使のように、ここへ飛んで来て、慰めと悦びをもたらしてくれたんですの……」
「あなたはわたしのようなものでも、おさげすみになりませんでした、本当に優しいお嬢さまでいらっしゃいますわねえ。」やはり例の愛嬌のいい嬉しそうな笑みを浮べたまま、グルーシェンカは歌でも歌うように言葉じりを引いた。
「まあ、あなた、かりにもそんなことをわたしにおっしゃんなよ! あなたのような美しい魅力のある人をさげすむなんて! よくって、わたしあなたの下唇を接吻するわ。あなたの下唇はまるで脹れたようになってるから、もっと脹れぼったくなるように接吻して上げてよ、も一度……も一度……ねえ、アレクセイさん、あの笑顔をごらんなさい。ほんとうにこのエンゼルの顔を見てると、心がうきうきしてきますわ……」
 アリョーシャは顔を赧らめて、目に見えぬほど小刻みに顫えていた。
「あなたはそんなにわたしを可愛がって下さいますが、もしかしたら、わたしはまるでそんなことをしていただく値うちのない女かもしれませんよ。」
「値うちがないんですって? このひとにそれだけの値うちがないんですって!」とカチェリーナはまたしても以前と同じ熱中した調子で叫んだ。「ねえ、アレクセイさん、このひとはずいぶんとっぴなことを考えだす人ですけれど、その代りごくごく誇りに充ちた、自由な心を持ってらっしゃるんですよ! アレクセイさん、このひとが高尚な、そして度量の広い方だってことをご存じ? ただこのひとは不仕合せだったのです。このひとはつまらない軽薄な男のために、あらゆる犠牲をはらうのを急ぎすぎたのです。ずっと以前、五年ばかり前のことです、一人の男がありました。やはりこれも士官でしたが、このひとはその男を愛して、一切のものをその士官に捧げたのです。ところが、男はこのひとのことを忘れて、結婚してしまいました。この頃になって、その男は奥さんに死なれて、ここへ来るという手紙をよこしたのです、――ところが、どうでしょう、このひとは今でもその男一人を、天にも地にもその男一人を愛しているのです、今までずっと愛し通していたんですの。その男が帰って来たら、このひともまた幸福になるんですの。けれど、この五年間というもの、このひとは不幸な身の上だったんですわ。でも、このひとを咎めるのは誰でしょう、この立派な心がけを褒めてくれるのは誰でしょう? あの、足の立たないお爺さん、商人のサムソノフ一人きりじゃありませんか、――それもどっちかと言えば、まあこのひとのお父さんか友達か、でなければ保護者といったほうが近いくらいなんですもの。このお爺さんは、そのとき恋人に捨てられて絶望と苦痛の申に沈んでいるグルーシェンカに出くわしたんですの……まったくこのひとはその時、身投げしようとまで思いつめてたんですからね……そういうわけで、あのお爺さんはこのひとにとって命の親ですわ、命の親ですわ!」
「お嬢さま、あなたは大変わたしをかばって下さいますのねえ、あなたは万事につけてあまり気がお早すぎますわ」とまたグルーシェンカは言葉じりを引いた。
「かばうですって? まあ、あなたをかばったりなんかできますか、そんな生意気なことがわたしにできますか? グルーシェンカ、エンゼル、あなたのお手を貸してちょうだい。ねえ、アレクセイさん、わたしこのふっくらした小さな美しい手を接吻しますわ。あなたこの手をごらんなすったでしょう、この手はわたしに幸福をもたらして、わたしを復活さしてくれたんですの。よござんすか、わたし今この手を接吻しますよ、甲のほうも、掌のほうも、ほらね、もう一度……もう一度!」
 彼女は有頂天になったようなふうで、あまり脹れぼったすぎるくらいなグルーシェンカの手を、本当に三度まで接吻するのであった。こちらはその小さな手をさし伸べて、神経的な、響きのいい美しい笑い声をたてながら、『お嬢さま』のすることをじっと見まもっていた。見たところ、彼女はこんなふうに自分の手を接吻してもらうのが、いかにも気持よさそうであった。
『あまり有頂天になりすぎているかもしれない』という考えが、ちらとアリョーシャの頭をかすめた。彼は急に顔を赧くした。あやしい胸騒ぎが初めからずっとやまないのであった。
「お嬢さま、アレクセイさんの前であんなふうに接吻なんかして、わたしに恥をかかせないで下さいましな。」
「わたしがあんなことをしたからって、あなたに恥をかかすことになるんでしょうか」とカチェリーナはいくぶん驚いたように言った。「あなたにはわたしの心持がおわかりにならないのねえ!」
「いいえ、あなたこそわたしの心持が、本当におわかりにならないのかもしれませんわ、お嬢さま。わたしあなたのお目に映るよりか、ずっと悪い女かもしれませんもの。わたしは心の悪いわがままな女ですからね。ドミートリイさんだって、ただちょっとからかってやろうというつもりで、あの時とりこ[#「とりこ」に傍点]にしてしまったくらいですもの。」
「でも、今ではそのあなたが、あの人を救おうとしてらっしゃるじゃありませんか。あなた、そう約束なすったでしょう、――あなたがもうとうからほかの人を愛していて、しかもその人が今あなたに結婚を申し込んでるってことを、あの人に知らせて目をさまして上げますって……」
「まあ、違いますわ、わたしそんな約束をしたことはありませんよ。それはあなたが一人でお話しになったばかりで、わたし約束も何もしやしませんわ。」
「じゃ、わたし思い違いをしたんですね。」カチェリーナは心もち青くなって、小さな声でこう言った。「あなたお約束なすったじゃありませんか……」
「いいえ、お嬢さま、わたし何にも約束なんかしませんわ。」依然として楽しそうな罪のない表情をしたままで、静かに落ちつきはらってグルーシェンカは遮った。「ねえ、これでおわかりになったでしょう、お嬢さま、わたしはあなたにくらべると、こんなに厭な、気ままな女なんですからね。わたし、気が向きさえしたら、すぐそのとおりにしてしまう性分なんですの。さっきは、本当に何かお約束したかもしれませんけど、今またふいと考えてみると、また急にあの人が好きになるかもしれませんもの、あのミーチャがね、――もう以前だって、あの人が好きになったことがあるんですよ、まる一時間ぐらい、ずうっと気に入ってたわ。ですから、今すぐにも帰って行って、今日からさっそく、うちに落ちついておしまいなさいって、あの人に言わないともかぎりませんわ……わたし、こんなに気の変りやすい女ですの……」
「さっきあなたがおっしゃったのは……まるで違ってましたわ……」カチェリーナはやっとのことで、これだけ呟いた。
「ああ、さっきはねえ! わたし気の脆い馬鹿な女ですから、あの人がわたしのために、どんな苦労をしたか考えてみただけでもねえ! 本当に家へ帰ってみて、急にあの人が可哀そうになったら、その時どうしましょう?」
「わたしまったく思いがけませんでしたわ……」
「まあ、お嬢さま、あなたはわたしにくらべると、なんて立派な気高いお方でしょう! もう今となったら、こういう気性を知っただけで、わたしみたいな馬鹿には愛想をおつかしなすったでしょう。お嬢さま、その優しいお手を貸して下さいまし。」彼女はしとやかな調子でこう言って、うやうやしくカチェリーナの手を取った。「ねえ、お嬢さま、わたしはあなたのお手を取って、さっきわたしにして下すったのと同じように接吻します。あなたはわたしに三度接吻して下さいましたが、わたしは三百ぺんも接吻しなければ勘定がすみませんわ。それだけのことはしなくちゃなりません。そのあとは神様の思召し次第で、もしかしたら、わたしはすっかりあなたの奴隷になりきって、万事あなたのお気に召すようにするかもしれませんわ。わたしたちの間で相談や約束をしなくっても、神様がきめて下すったとおりになって行くんですからねえ。まあ、このお手、なんて可愛いお手でしょう! 美しいお嬢さま、ほかにまたと類のないお嬢さま!」
 彼女は接吻の勘定をすますという奇妙な目的をもって、この『お手』をそろっと自分の唇へ持って行った。カチェリーナはその手を引かなかった。彼女は臆病な希望をいだきつつ、『奴隷のように』あなたのお気に召すようにするという、グルーシェンカの最後の約束(もっとも、奇妙な言い廻しではあるけれど)を聞いたのである。彼女は張りきった様子で相手の目を見つめた。その目の中には依然として、かの信頼の念に充ちた単純な表情と、はればれとした楽しげな色が窺われた。
『この女はあまり無邪気すぎるのかもしれない』という希望が、カチェリーナの心をかすめた。グルーシェンカはその間に、『可愛いお手』で夢中になったようなふうつきで、そろそろとその手を唇へ持っていった。が、唇のすぐそばまで持っていった時、とつぜん何やら思いめぐらすかのさまで、二三秒の間じっとその手をとめてしまった。
「ねえ、お嬢さま、」彼女は恐ろしくしなしなした甘ったれた声で、言葉じりを引きながらだしぬけにこう言った。「ねえ、わたしあなたのお手を取りましたけど、接吻はやめておきますわ。」
「どうなとご勝手に……一たいあなたどうなすったの?」とカチェリーナはふいに身ぶるいした。
「ですから、よく覚えておいて下さいまし、あなたはわたしの手を接吻なすったけれども、わたしはしなかったってね。」突然、彼女の目に何やらひらめいた。彼女は穴のあくほど相手の顔を見つめるのであった。
「生意気な!」ふいに何ものかを悟ったように、カチェリーナは口走って、かっと赧くなって椅子を跳びあがった。グルーシェンカも悠然と立ちあがった。
「わたしミーチャにもさっそく話して聞かせてやりましょう、――あなたはわたしの手を接吻なすったけれど、わたしはこれっから先もしなかったって。さぞあの人が笑うことでしょうよ!」
「穢らわしい、出て行け!」
「まあ、恥しい、お嬢さま、なんて恥しいことでしょう、あなたのお身分で、そんなはしたないことをおっしゃるなんて。」
「出て行け、売女《ばいた》!」とカチェリーナは甲走った声で叫んだ、――すっかり歪んでしまったその顔の筋肉が一本一本慄えるのであった。
「売女なら売女でよござんすが、あなたご自身だって生娘のくせに、夕方わかい男のところへお金ほしさにいらしったじゃありませんか、その美しい顔を売りにいらしったじゃありませんか、わたしちゃんと知ってますよ。」
 カチェリーナは一声たかく叫んで、相手に飛びかかろうとしたが、アリョーシャが一生懸命に抱きとめた。
「ひと足も出ちゃいけません! 一ことも言っちゃいけません! 何もおっしゃんな、あのひとはすぐに帰ります、今すぐ帰ります!」
 この瞬間カチェリーナの伯母が二人と、それに小間使が、叫