『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P212-P233

わたくしのことを道化よばわりをしたのも、実際もっとも千万なのでございます。さあ、カラマーゾフさん、お伴いたしましょう、そして用件を片づけることといたしましょう……」
 彼はアリョーシャの手を取って、部屋の中からすぐ往来へ引っ張り出した。

[#3字下げ]第七 清らかな外気の中で[#「第七 清らかな外気の中で」は中見出し]

「清らかな空気でございますな。わたくしの館の中はどうもあまりせいせいといたしませんがね……これはあらゆる意味において申すことなので。そろりそろりと歩きましょう。わたくしは一つ面白いことをお聞かせしたいと思いまして。」 
「僕も非常な用事があるんですけれど……」とアリョーシャは答えた。「どういうふうに切り出していいか、わからないんです。」
「あなたがわたくしにお話のあることを、どうして知らずにいられましょう? 用がなかったら、あなたはわたくしのところなど、覗いてごらんになることもなかったはずですものね。それとも本当に、子供のことを言いつけにいらしっただけでございましょうか? それはどうも、本当らしゅうございませんでな。ところで、言葉ついでに子供のことをちょっとお話しいたしましょう。先刻あちらですっかりお話しするわけにまいりませんでしたから、今ここであの時の様子を、詳しく申し上げましょう。ごらん下さい、この糸瓜もつい一週間前は、も少し厚かったのでございますよ、――わたくしは自分の髯のことを申していますので。実際、わたくしの髯は糸瓜という綽名を取っておるのですが、これはおもに小学校の生徒のいうことなのでございます。ところでその、あなたのお兄さん、――ドミートリイさまが、あの時わたくしの髯を掴まれたのでございます。何というわけもない、ただ兄さんが暴れだしたところへ、運わるくわたくしが行き合せたのでございます。料理屋から広場へ引き摺り出されたとき、ちょうどそこへ、生徒たちが学校から出て来ました。その中にイリューシャも居合したのでございます。わたくしがそんなざまになっているのを見ると、あの子はいきなり飛びかかって『お父つぁん! お父つぁん!』と喚くではございませんか! そして、わたくしを掴えて抱きしめながら、一生懸命にもぎ放そうとしたり、おあにいさんに向いて『放してちょうだい、放してちょうだい、これは僕のお父つぁんだから、ねえ、僕のお父つぁんだから、勘忍して上げてちょうだい』まったくそうなのでございます、「勘忍して上げてちょうだい」と喚きましたので。それから、小さな手を伸ばしておあにいさんの手を、接吻するじゃありませんか……わたくしは、その時あの子がどんな顔をしたか覚えています。忘れられないのでございます。決して忘れはいたしません……」
「僕、誓ってもいいです」とアリョーシャは叫んだ。「兄は十分にこの上ない誠意をもって、あなたに悔悟の念を表します。あの広場で膝をつくことだっていといません……僕が無理にそうさせます。でなかったら、もう兄とは言わしません!」
「ははあ、それではまだご計画中なんですね。つまり、あの人から直接に出たことではなく、あなたの高潔な、情に脆いお心から出たことなんでございますね。そんならそうとおっしゃればよろしいのに。いや、そういうわけなら、わたくしにもおあにいさんの古武士のような、本当に将校らしい高潔なお心を証明さして下さいませんか。おあにいさんはあの時、その高潔なお心を立派にお示しになったのでございますよ。この髯を掴んで引き摺り廻すのがすんで、おあにいさんがわたくしを放して下すった時、『貴様も将校ならおれも将校だ、もし相当な介添人が見つかったら、決闘を申し込め。そうしたら穢らわしいやつではあるが、得心のゆくように相手になってやる!』とこう申されました。いや、まったく古武士的な精神でございますよ! わたくしはその時イリューシャと一緒に帰りましたが、家の系図の飾りともなる今の光景は、永久にあの子の心に刻みつけられたのでございます。いいえ、どういたしまして、わたくしたちが士族気どりでいるなんて、どうしてそんなことができましょうぞ。ご自分でも考えてみて下さいまし。あなたは今、わたくしの館で何をごらんになりました? 貴婦人が三人坐っておりますが、一人は足なえの気ちがい、いま一人は足なえのせむし、もう一人は足も達者で利口すぎるくらいでございますが、女学生ですから、もう一度ペテルブルグへ行くと申して承知しません。何でもネヴァ河の岸で、ロシヤ婦人の権利を求めるとか申しましてね。イリューシャのことは何も申しません。当年たった九つ、指一本にもあたらないような子供でございます。もしわたくしが死にましたら、こういう家族のものはどうなるでございましょう。わたくしはこのこと一つだけあなたにお訊ねしたいので。こういうわけですから、もしわたくしがおあにいさんに決闘を申し込んで、さっそく息の根をとめられたとすれば、その時はまあ、どうなるとお思いでございます? 家内のものどもはどうなるとお思いでございます? それよりなお悪いのは、おあにいさんがわたくしを殺してしまわないで、片輪者にするくらいで赦して下すった時でございます。働くわけにはまいりませんが、それでも口だけはやはり残っています。その時一たい誰がこの口を養ってくれます、女房子を誰が養ってくれます? それとも、イリューシャを学校へやる代りに、毎日袖乞いに歩かせろとおっしゃるのでございますか? おあにいさんに決闘を申し込むということは、わたくしにとってこれだけの意味がありますので、ばかばかしいことだというより仕方がございません。」
「兄はあなたにお詫びします。広場の真ん中であなたの足もとにお辞儀します」とふたたびアリョーシャは目を輝かせながら叫んだ。
「またあの人を裁判所へ訴えようかとも思いました」と二等大尉は語をついだ。「けれども、ロシヤの法典を開けてごらんなさいまし、わたくしの受けた侮辱に対して、相手のものから大した満足が得られますか? それに、ちょうどその時アグラフェーナさまがわたくしを呼びつけて、いきなりこう呶鳴られるじゃありませんか。『そんなことは考えるだけでも生意気だよ! もしあの人を訴えでもしたら、わたしが脇から手を廻して、あの人がお前をぶったのは、お前のいかさまな仕業のためだってことを、みんなに知らせてやる。そしたら、お前があべこべに、裁判所へ引っ張って行かれるんだから』と言われるのでございます。しかし、このいかさまが誰の手から出たことか、そして誰の言いつけでわたくしが卑怯な真似をしたか、神様ばかりはご存じでございます。つまり、あの方ご自身とフョードルさまのお指し金なので。それからつけたりにこうおっしゃいました。『それに、わたしは一生お前を追っ払って、わたしのとこで何も儲けさしてやるもんじゃない。わたしの商人《あきんど》にもそう言って(あの方はサムソノフ老人をつかまえて『わたしの商人』と申されますので)、お前を寄せつけないようにしてもらうから。』そこで、わたくしも考えました。もしあの老人がわたくしを寄せつけなかったら、誰も儲けさしてくれる人はありゃしない、――実際、わたくしに儲けさしてくれるのは、あのお二人きりでございますからね。なぜと申して、あなたのお父さんはある別な事情のために、わたくしを信用して下さらないようになったばかりでなく、わたくしの受取りを楯にとって、裁判所へ引っ張り出そうとしておいでなのでございます。このために、わたくしも我を折った次第なので。そうして、あなたも、わたくしの家庭をごらんになることができたので。さあ、今あらためて伺いますが、あの子は先刻ひどくあなたのお指を咬んだのでございますか? 館の中では、あの子のいる前では、何となく詳細にわたるのが憚られたものですから。」
「ええ、ずいぶんひどくやられました。それにあのお子さんも大へん気が立っていたようです。あのお子さんは僕をカラマーゾフの一族として、お父さんの仇を取ったのです、それが今となってよくわかりました。しかし、学校友達と石を投げ合っているところを、あなたがごらんになったらどうでしたろう? 本当に危いことですよ。子供なんて、考えのないものですから、みなであのお子さんを殺してしまうかもしれませんよ。石が飛んで来て、頭の鉢を割ってしまうかもしれないですからねえ。」
「いや、もう当りましたよ、頭じゃありませんが胸でございます。心臓のちょっと上のほうへ石が当ったとかで、紫色の打身ができております。きょう泣いたり唸ったりしながら帰って来るなり、あのとおり病みついたのでございます。」
「ところで、ご承知ですか、あのお子さんは自分からさきに立って、みんなに食ってかかるんですよ。あなたのために癇が起ったんでしょう。子供らの話によると、さっきクラソートキンという子供の横腹を、ナイフで突いたとかいうことですよ。」
「いや、そのことも聞きましたですが、どうも危ないことでございます。そのクラソートキンというのはここの官吏ですから、また面倒がもちあがるかもしれません……」
「僕はあなたにご忠告しますが」とアリョーシャは熱心に言葉をつづけた。「しばらくの間あのお子さんの気が静まるまで、ぜんぜん学校へやらないほうがいいですよ……そのうちにあの怒りも静まるでしょうから……」
「怒り!」と二等大尉は引き取った。「まったく怒りでございますな! ちっぽけな子供の中にも、偉大なる怒りがありますで。あなたはこのことをみなまでご存じないでしょうから、一つ詳しく説明さしていただきましょう。ほかでもありませんが、あの出来事のあとで、学校の子供らが、あれを糸瓜と言ってからかいだしたのでございます。学校の子供らは残酷なものでしてな、一人一人のときは天使のようでも、一緒になると、ことさら学校で一緒になると、残酷な場合が多うございますよ。みながからかいだすと、イリューシャの心の中に健気な精神がむらむらと、頭を持ちあげたのでございます。大ていの子供なら、――意気地のない息子なら、いい加減に我を折って、自分の父親を恥に思うでございましょうが、あれは父親のために一人でみなを向うに廻しましたので。父親のために、真理のために、真実のために蹶起しましたので。まったくあの時、おあにいさんの手に接吻しながら、『お父つぁんを堪忍して上げてちょうだい。お父つぁんを堪忍して上げてちょうだい』と喚いた時、あの子がどんな辛い思いをしましたか、まあ、神様お一人と、それからわたくしのほか、知るものはございませんからなあ。まったくわたくしどもの子供は、――いえ、あなた方のじゃなくって、わたくしどもの子供でございますよ、――つまり、人から蔑まれていても潔白な貧乏人の子供は、もう九つくらいの年から地上の真理を知りますよ。金持なんか、どうしてどうして、一生涯かかってもそんな深いところまで研究できやいたしません、はい。ところで、わたくしのイリューシャは、例の広場でおあにいさんの手を接吻した瞬間、その瞬間に真理を悟りつくしたのでございます。この真理があれの心を永久に打ちひしいだのでございます。」
 二等大尉はまたしても、興奮のため前後を忘れたかのように、熱した調子でこう言ったが、そのとき『真理』がイリューシャの心を打ちひしいだ工合を、まざまざと現わそうと思ったらしく、右手を固めて自分の左の掌をぽんと打った。
「その日あの子は熱を出して、一晩じゅう譫言ばかり言い通しましたので。その日いちん日、あまりわたくしに口をききませんでした。というより、まるっきり口をきかなかったのでございます。ただ隅っこのほうから、一生懸命にわたくしを見つめていましたが、だんだんと窓のほうへ凭れかかって、学校のおさらえでもしてるようなふりをしていましたけれど、おさらえなどまるで念頭にないことは、わたくしにもわかりました。つぎの日わたくしは少々|飲《や》りましたので、大ていのことは覚えがございません。罪の深い男でございますが、ただ悲しさをまぎらすためなので、はい。『お母さん』と泣きだしたくらいでございます、――わたくしは『お母さん』を非常に愛しております、――がまあ、悲しさをまぎらすために、財布の底をはたいて飲んだのでございます。あなた、どうかわたくしを馬鹿にしないで下さいまし。ロシヤの酒飲みは一ばん人のいい手合いで、一ばん人のいい手合いはまた一ばんの酒飲みなのでございます。こうしてわたくしは寝ていましたので、イリューシャのことはその日よく覚えていませんでしたが、ちょうどその日の朝から子供たちが学校で、あれをからかいだしたのでございますよ。『やい、糸瓜野郎、お前の親父は糸瓜に手をかけられて、料理屋から引っ張り出されたじゃないか。そうして、お前はそのそばを走り廻って、ごめんなさいって言ったじゃないか』と申しましてね。三日目の日にあれが学校から帰ってまいりましたが、真っ蒼になってしまって、その顔色ったらございません。一たいどうしたのだ、と訊いても黙っております。それに、わたくしの館では、何一つ話ができやしません、すぐに『お母さん』やお嬢さんたちが口を出しますのでね。その上、お嬢さんたちはもう事のあった当時に、すっかり聞きつけてしまったのでございます。ヴァルヴァーラのほうなぞはもう、『道化、ピエロ、一たいお父さんのすることに何かわけのわかったところがあるかしら』などと言うようになりました。『なるほど、そのとおりだ、ヴァルヴァーラさん、わしのすることにわけのわかったところなんかあるはずがないよ』と言って、その時はごまかしてしまいましたが、その日の夕方、わたくしは子供を連れて散歩に出かけました。ちょっとお断わりしておきますが、わたくしはそれまで毎晩あの子を連れて、今あなたとこうして歩いていると同じ道を散歩につれ出しておりました。家の木戸口から、あの滅法界大きな石のあるところまででございます。それ、この通りの繝垣のそばに、たった一つ淋しそうに立っていましょう。あそこから牧場になるのでございますが、閑静ないいところでございます。いつものとおり、わたくしはイリューシャの手を取って歩いておりました。あれの手は、まことに小さな手で、指なぞ細くって冷とうございます、――あれは、胸の病いにかかっておりますので。ところが、ふいとあの子が、『お父つぁん、お父つぁん』と言いだします。『何だい?』と言いながら見ると、あれの目がぎらぎら光っております。『お父つぁん、あの時ねえ、お父つぁん!』『仕方がないよ、イリューシャ。』『あいつと仲直りしちゃいけないよ、お父つぁん、だって、学校でみながそういうんだもの、――お父つぁんが仲直りのためにあいつから十ルーブリもらったなんて。』『嘘だよ、イリューシャ、もうこうなったら、どんなことがあっても、あいつから金なんかもらやしないから。』すると、あの子はぶるぶるっと身ぶるいして、いきなり両手でわたくしの手を掴まえて接吻しながら、『お父つぁん、あいつに決闘を申し込んでちょうだい。だって、学校でみんながね、お父つぁんは臆病者だから決闘を申し込めないんだ。そうして、あいつから十ルーブリもらったんだ、なんて僕をからかうんだもの。』『イリューシャ、あいつに決闘を申し込むわけにいかないんだよ』と答えて、わたくしはたった今あなたにお話ししたことを、かいつまんで聞かしてやりました。あの子はじっと聞いておりましたが、『お父つぁん、それでもやっぱり仲直りをしちゃいけないよ。僕が大きくなったら決闘を申し込んで、あいつを殺してやるから!』と言うあの子の目はぎらぎら光って燃えています。しかしそれでも、わたくしは親でございますから、一こと真実を教えてやらなければなりません。で、たとい決闘でも人を殺すのは罪なことだ、と言い聞かせますと、『お父つぁん、僕は大きくなったら、あいつを引っ転がしてやるんだ。僕、自分の刀であいつの刀を叩き落して、あいつに飛びかかって引っ転がしてやるんだ。そしてね、あいつの頭の上に刀を振り上げて、今すぐ殺せるんだけれど赦してやる、有難く思えって言ってやるんだ。』ごらんなさい、あなた、ごらんなさい、この二日の間にこんな段取りが、あの小さな頭にちゃんとできてるじゃございませんか。あの子は昼も夜もこのことばかり考え通して、譫言にまで言ったことでございましょう。ただ、学校からひどい目にあって帰って来るってことは、つい一昨日知ったばかりでございます。まったくあなたのおっしゃるとおり、あの子を学校へはもう決してやりますまい。あれが組じゅうのものを向うへ廻して、自分から腹を立ててみんなに喧嘩を売ると聞いた時、わたくしはあれの体が心配でたまらなかったのでございます。つまり、あの子の心に火がついたようなものでございますな。それから、また二人で散歩に出た時、イリューシャがこんなことを訊くじゃありませんか。『お父つぁん、金持が世界じゅうで一等強いの?』『そうだよ、イリューシャ、金持より強いものは世界じゅうにないよ。』『お父つぁん、僕うんと金持になるよ。僕、軍人になってみんなを負かしてやるんだ。そうすると、天子さまが僕にご褒美を下さるから、そうしたら帰って来るんだ。そうしたら、誰だって生意気な真似をしやしないから……』それからしばらく黙っていましたが、『お父つぁん』とまた言いだしました、唇はやはり前のようにふるえているままで。『ここの町は本当に厭なところねえ!』『そうだなあ、イリューシャ、この町はどうもあまり感心しないところだよ。』『お父つぁん、ほかの町へ、ほかのいい町へ行きましょう。誰も僕らのことを知らない町へ行きましょう。』『行こう、行こう。しかしな、イリューシャ、お金を少し蓄めなけりゃならんよ』と言ってわたくしは、あの子の暗い思いをまぎらすおりが来たのをいいことにして、どんなふうにしてほかの町へ行こうかだの、馬と馬車を買おうじゃないかだの、いろんな空想を始めたのでございます。『お母さんと姉さんは馬車へ乗せて、上から屋根をして上げよう。そしてお前とお父さんはそのそばを歩いて行くんだよ。けれど、お前だけはときどき乗せてやるよ。お父さんはやはりそばについて歩いて行くのだ、だって、うちの馬だから大事にしなくちゃならんから、みんなで乗るわけにいかないんだよ。こんなふうにして出かけようなあ。』こう言うと、あの子は夢中になって悦びました。何より嬉しいのは、自分の家に馬があって、自分がそれに乗って行くということなので。ご承知のとおり、ロシヤの子供は、馬と一緒に生れるようなものでございますからね。まあ、こんなことを二人で長いあいだ喋りました。わたくしは、まあいいあんばいにあれの気をまぎらして慰めてやった、と思って安心したのでございます。これは一昨日の夕方でしたが、昨日の晩にはもう様子が違っていました。その朝、あれはまた例の学校へ出かけましたが、帰って来た時には沈んだ顔つきをしておりました。そりゃ恐ろしく沈み込んでおりましたので、夕方、わたくしはあの子の手を取って散歩に出ましたが、黙り込んで、ものを言いません。ちょうど風がそよそよと吹く上に、夕日はかげって、秋らしい景色になりました。あたりはだんだん薄暗くなって、ぶらぶら歩いておりましても、二人とも何だか気がめいってくるようでございました。『なあ、イリューシャ、どんなふうにして、旅立ちの用意をしたものかなあ』とわたくしは申しました。また昨日の一件に話を持ってゆこうと思いましたのでね。ところが、やはりだんまりでございます。ただあれの指が、わたくしの手の中で顫えているのが感じられるのです。『おや、こいつはいかんぞ、何か別な考えが湧いてきたぞ』と思いました。そのうち、ちょうど今と同じようにこの大岩までやって来て、わたくしはその上に腰をおろしました。ところが、頭の上には紙鳶《たこ》が一杯あがって、ぶんぶん唸ったり、ばらばら音を立てたりしています。今ちょうど紙鳶の季節なので。『おい、イリューシャ、おれたちも一つ、去年の紙鳶を揚げようじゃないか。お父さんが繕ってやるが、一たいお前どこへ隠したんだい?』と言いましたが、あの子はやはり黙ってそっぽを見ながら、わたくしに横のほうを向けて立っているのでございます。そのとき風がごうっと鳴って、砂を飛ばしました……と、あの子はいきなりわたくしに飛びかかって、小さな両手でわたくしの首をかかえながら、じっと締めつけるじゃありませんか。ねえ、あなた、無口でいても見識のある子供は、長いあいだ腹の中で涙を押しこらえていますが、あまり悲しさが積り積って堰が切れると、もうその時は涙が流れるのでなくって、まるで小川がほとばしるようでございます。その暖い飛ばっちりで、わたくしの顔は一時にずぶ濡れになってしまいました。あれはまるでひきつけたように、しゃくり上げて泣きながら、ぶるぶると身を顛わして、一生懸命にわたくしを抱きしめるじゃありませんか。わたくしは、じっと岩の上に坐っておりました。『お父つぁん』とあの子が喚くのでございます。『お父つぁん、あいつはお父つぁんになんて恥をかかしたんだろうね!』そこで、わたくしもおいおい泣きだしましたよ。二人は岩の上に坐って、抱き合ったまま顫えておりました。『お父つぁん、お父つぁん!』とあれが言えば、わたくしも『イリューシャ、イリューシカ』と申します。そのとき誰も二人を見たものはございませんが、まあ、神様お一人だけはごらん下すって、勤務表につけて下すったろうと存じます。どうぞアレクセイさま、おあにいさまによろしくお礼をおっしゃって下さいまし、真っ平ごめん蒙ります。あなたのご得心がいくようにあの子を折檻するなんて、厭なことでございますよ、はい!」
 彼がこの長物語を終えたときには、もうさきほどと同じような毒々しい、ひねくれた語調になっていた。しかしアリョーシャは、もう彼が自分を信用しているのを悟った。自分の位置に誰かほかの人が代って立ったとしても、決してこの男は自分に話したようなことを話しもすまいし、第一、用談以外の口をきかないだろうと思った。アリョーシャはこの考えに励まされたが、胸は涙に顫えるような心持がした。
「ああ、どうかしてあのお子さんと仲直りがしたいもんですね!」と彼は叫んだ。「もしあなたがそんなふうに計って下されば……」
「いや、まったくでございますよ」と二等大尉は呟いた。
「けれど、今お話ししようと思うのは別なことです、まるっきり別なことです。ようござんすか、」アリョーシャは叫ぶように語をついだ。
「ようござんすか! 僕はあなたにことづけを頼まれたのです。あの兄のドミートリイは許婚の妻をも辱しめたのです。それは高潔この上ない令嬢なんですが、あなたもきっと話をお聞きになったでしょう。僕はあのひとの受けた侮辱を、あなたに打ち明ける権利を持っています。いや、打ち明ける義務があるくらいです。なぜって、あのひとはあなたの侮辱を聞いて、――あなたの不幸な境遇を知って、たった今……いや、さきほど……この扶助金をあのひとの名であなたにお届けするよう、僕に依頼せられたからです……しかし、まったくあのひとひとりの名で、あのひとを捨てたドミートリイの名ではありません。決してそんなことはありません。また弟たる僕の名でもありません。ほかの誰の名でもありません。ただただあのひとひとりの名です! あのひとは、ぜひ受納していただきたいと、拝まぬばかりに頼みました……だって、あなた方は二人ながら、同じ人間から侮辱を受けた人じゃありませんか……ですから、あのひとがあなたのことを思い出したのも、自分であなたと同じような侮辱を受けた時でした(つまり侮辱の程度が同じようなのです)。それですから、これは妹が兄を助けようとしているのにすぎません……あのひとは、あなたがお困りなのを承知していますから、自分を妹だと思ってこの二百ルーブリの金を納めていただくように、ぜひあなたを説き伏せてくれと僕に頼んだのです。このことは誰ひとり知るものがありませんから、間違った噂の立つような恐れは少しもありません。これが二百ルーブリです。僕、誓って申しますが、あなたは当然これを納めるべきです……でなければ……でなければ、世界じゅうの人はみんな仇同士にならなくちゃならない、という理屈になってきますものね! いいえ、世の中には兄弟もなくちゃなりません……あなたは高尚な心を持ったお方ですから……どうしても納めなければならないのです、そうですとも!」
 アリョーシャは真新しい虹色のルーブリ札を二枚さし出した。二人はその時ちょうど例の編垣に近い、大岩のそばに立っていたので、あたりには人影もなかった。二枚の紙幣は二等大尉に恐ろしい印象を与えたようである。彼はぴくりと身を顫わしたが、それは今のところただ驚愕のためばかりらしかった。なぜなら、彼はこんなふうなことを考えもしなければ、こんな結果を想像してもみなかったからである。誰からにもせよ義捐金、しかもこんな莫大な義捐金があろうとは、夢にも空想したことがなかったのである。彼は紙幣を手にしながら、ちょっとのま返事もできなかった。何かぜんぜん別種な表情が顔をかすめた。
「これをわたくしに、わたくしに! わたくしに! こんなたくさんなお金を、二百ルーブリというお金を、へえ! わたくしはもう四年ばかり、こんな大金を見たことがございませんよ、――まあ、何ということだ! そして『妹から』とおっしゃるのでございますって……それは一たい本当なので、本当なので?」
「僕、神様に誓います、いま僕の言ったことはみんな本当ですよ!」とアリョーシャは叫んだ。二等大尉はちょっと赧くなった。
「ところで、一つ伺いますが、あなたに一つ伺いますが、もしわたくしがこの金を受け取りましたら、卑屈な人間にならないでございましょうか? つまり、あなたの目からごらんになって、わたくしが卑屈な人間にならないでございましょうか?」彼は両手を伸ばしてアリョーシャの体に触りながら、一こと一ことせき込んでいった。「あなたは『妹の贈物』だからといって、わたくしに説教なさいましたが、心の中では、腹の底では、わたくしをお見下げなさるのじゃございませんか、もしわたくしがこれを受け取りましたら、え!」
「いいえ、そんなことはないと言ったらないです! 僕は自分の命をかけて誓います、そんなことは決してありません! それに、決して誰も知るものはないんですよ。知ってるのは僕たちばかりです。僕とあなたとあのひと、それに、あのひとが非常に親しくしている奧さまがもう一人……」
「奥さまなんかかまやいたしません! ねえ、アレクセイさま、どうぞ聞いて下さいまし。まったくもう何もかも聞いていただかなくてはならん時がきたのでございます。なぜと申して、今この二百ルーブリがわたくしにとってどんな意味を持っているか、あなたはとてもおわかりにならないからでございます。」二等大尉は次第次第に取り乱しながら、ほとんど奇態なくらい有頂天になって、語をつづけるのであった。彼は頭脳の統一を失ったような工合で、むしょうに慌てて、せき込んでいた。それはちょうど、言いたいことをすっかり言わしてもらえなかったらと、そればかり心配している人のようであった。「この金が非常に尊敬すべき神聖な『妹』から、潔白な理由のもとに贈られたということはさておいて、今わたくしはこの金でもって、『お母さん』とニイノチカ、――あのせむしの天使、つまりわたくしの娘を療治してやることができます。いつかお医者のヘルツェンシュトゥベさまが、ご親切なお心からわたくしどもへおいで下さいまして、まる一時間ばかりも可哀そうな親子のものを診察して下さいましたが、『わからん、少しもわからん』とおっしゃいます。が、とにかく、ここの薬屋で売っておる鉱泉を、お母さんの処方に書いて下さいましたが、これは確かにききめがあるそうでございます。それから、腰湯の薬もやはり処方をして下さいました。鉱泉は三十コペイカいたしますが、どうしても四十壜ぐらいは飲まなければなりません。わたくしはその処方を聖像《おぞう》の下の棚へのせたまま、いまだにうっちゃらかしてございますので。ところで、ニイノチカのほうは何かの薬を熱く沸して、お湯を使わせろ、と言われました、しかも、毎日朝晩二度ずつなのでございます。あなた、まあ、どうしてわたくしどもでそんな療治ができるものですか。あの小屋で、下女も手伝いもなく、道具も水もなしに何かできましょうぞ? ところが、ニイノチカはひどいレウマチなんでございます。わたくしはこのことをお話しするのを忘れておりましたか、毎晩毎晩右半身が全体にずきずき痛んで、非常に苦しむのでございますが、あなたまあ、どうでございましょう。あの神様のお使いはわたくしどもに心配をかけまいと、一生懸命に我慢して、わたくしどもを起すまいがために、呻き声も立てないのでございます。わたくしどもは食べ物も、手に入るものを何でもかまわず口に入れるのでございますが、その中でもあれは一番わるい、犬にしかやれないようなところを取るじゃありませんか。『わたくしはこんなよいところをいただく値うちはありません。それではみんなのものを横取りするようになります。わたくしはみんなの足手まといなのですから』とまあ、こんなふうのことをあれの静かな目つきが、話しているように思われます。わたくしどもがあれの世話をしてやるのも、あれにとっては辛いようなふうでございます。『わたくしはそんなことをしていただく値うちはありません、わたくしは何の役にも立たない、つまらない片輪じゃありませんか。』ところがどうして役に立たないどころじゃございません。あれは天使のような優しい心で、わたくしどものことを神様に祈ってくれるのでございます。あれがいなかったら、あれの優しい言葉がなかったら、わたくしどもの家は地獄も同然なのでございますよ。あれはヴァルヴァーラの心まで柔らげてくれました。しかし、ヴァルヴァーラのこともやはり悪く思わないで下さいまし。あれもやはり天使ですけれど、ただ辱しめられたる天使なのでございます。あれがここへまいりましたのは、夏のことでしたが、その時は十六ルーブリの金を持っておりました、それは子供に出稽古などしてやって儲けた金なので、九月、といって、つまり今頃は、ペテルブルグへ帰るつもりで、それを旅費にのけておいたのでございます。ところが、わたくしどもがその金を取って費ってしまいましたから、あれはもう帰ろうにも金がない、というような始末なのでございます。それにまだ帰ることができぬと申すわけは、わたくしどものために懲役人のような働きをしているからでございます、なにしろやくざ馬に馬具や鞍をつけて、こき使うような有様なんでございますからね。みなのものの世話をやく、洗濯をする、雑巾がけをする、床《ゆか》を掃く、お母さんを牀《とこ》の上に寝かしてやる、――ところが、そのお母さんは気ちがいなんでございます、涙っぽい女でございます、気ちがいなんでございます!………こういうわけですから、この二百ルーブリで下女を傭うこともでぎます、ねえ、アレクセイさま、可愛いものどもの療治にかかることもできます、女学生をペテルブルグヘやることもできます。牛肉も買えます、全体に食物の工合も改良することができます。ああ、しかし、それは空想だ!」
 アリョーシャは彼にこうした幸福を与えることができ、また彼がこの幸福を受けることを承諾したので、悦びを禁ずることができなかった。
「待って下さい、アレクセイさん、待って下さい。」二等大尉はまた忽然として脳裡に浮んできた空想に跳りかかって、興奮したらしい早口で喋り始めた。「ねえ、あなた、わたくしとイリューシャとの空想は今すぐ実現できるかもしれませんよ。小さな馬と小馬車《キピートカ》を買って(馬は黒色《あお》でございます、あの子が、ぜひ黒色《あお》にしてくれと申しましたので)、おととい計画したように、ここを発つのでございます。K県にはわたくしの知合いの弁護士、子供の時からの友達がいますが、ある確かな仁にことづけしまして、もしわたくしがそちらへ行ったら、自分の事務所で書記に使ってくれるとか申しました、まったくあの人のことだから、使ってくれないともかぎりゃしません。そうすれば、わたくしは『お母さん』とニイノチカをのせて……イリューシャを馭者台に坐らして、自分はてくてく歩きながら、みんなを引っ張ってまいります……ああ、もしここで倒された貸金を一つ手に入れることができたら、これだけの間に合うんだがなあ!」
「間に合いますとも、間に合いますとも!」とアリョーシャは叫んだ。「それは、カチェリーナさんはまだいくらでも、お入り用なだけ送って下さいます。それにあなた、ぼくも自分の金を持っていますから、兄弟だと思って、親友だと思って、お入り用なだけ取って下さい。それはあとで返して下さればいいのですから……(いいえ、あなたは金持になります。金持になります!)その上、あなたがほかの県へ行こうと考えつかれたのは、実にこの上ないよい思案でした! その中にあなた方の救いがあります、いや、誰より一番あのお子さんのためになることです――ねえ、なるべく早く、冬にならないうちに、寒さの来ないうちにいらっしゃい。そして、あちらへ行っても、僕らに手紙を下さいな。僕らはいつまでも親友でいようじゃありませんか……いいえ、これは断じて空想じゃありません!」
 アリョーシャは相手を抱きしめようとした、それほど彼は満足しきっていたのである。しかし、一目相手の様子を見ると、彼は急にそのまま立ちすくんだ。二等大尉は頸を伸ばして唇を突き出し、興奮した青い顔をして突っ立っている。そして、何やら言いだしたそうなふうで、唇をもぐもぐさせるのであった。声は少しも聞えなかったが、絶えず唇を動かしている様子が、何だか奇妙に感じられた。
「あなた、どうしたんです!」なぜかアリョーシャは突然ぴくりと身を慄わした。
「アレクセイさま……わたくしは……あなた……」崖の上から飛びおりようと決心した人のような顔つきで、じっと穴のあくように怪しく見つめながら、同時に唇には微笑を浮べつつ、二等大尉はちぎれちぎれに呟いた。「わたくしは……あなたは……ときに、いかがでございましょう、わたくしは一つ今すぐ手品をお目にかけようと思いますが!」突然、早口にしっかりした声でこう囁いた。もう言葉は少しも途切れなかった。
「手品ですって?」
「ええ、手品、ちょっとした手品なんで」と言う二等大尉の声は、依然として囁くようであった。彼は口を左のほうへねじ曲げ、左の目を細めながら、まるで吸いつけられたようにアリョーシャを見つめるのであった。
「あなた一たいどうしたのです、手品って何です?」とこちらはほとんど慴えたように叫んだ。
「これです、ごらんなさい!」と二等大尉はだしぬけに黄いろい声を上げて言った。
 彼は今まで話のあいだ、右手の親指と人差指で、角のほうをそっと抓んでいた二枚の紙幣を、相手のほうへさし出して見せたかと思うと、急に猛然と引っ掴んで揉みくたにしながら、右手の拳へ固く握りしめるのであった。
「見ましたか、見ましたか!」興奮のあまり真っ蒼な顔をしながら、彼はアリョーシャに向って叫んだ。が、突然その拳を振り上げると、揉みくたになった紙幣を力一ぱい、砂の上へ叩きつけた。「見ましたか!」紙幣を指さして見せながら、彼はまた黄いろい声で叫んだ。「このとおり!」
 と、急に彼は右の足を挙げて、野獣のような憎悪を浮べながら、靴の踵で紙幣を踏みにじりはじめた。そして、はあはあ息を切らして、一にじりごとにこう叫ぶのであった。
「これがあなたの金です! これがあなたの金です! これがあなたの金です! これがあなたの金です!」
 が突然、彼はうしろへ飛びすさって、傲然とアリョーシャの前に身をそらした。その全体の様子が何とも言いようのない誇りを示していた。
「あなたをよこした人にそう言って下さい! 糸瓜は自分の名誉を金で売りません、て!」
 彼は両手を空《くう》へさし上げながらこう叫ぶと、いきなりくるりと向きをかえて飛びだした。が、まだ五足と走らないうちに、突然また振り返って、アリョーシャに手を振って見せた。けれど、またもや五足と走らないうちにもう一度ふり返った。この時はもはや、ひん曲ったような笑いの痕も消え失せ、顔は涙に濡れて、ぴくぴく引っ吊っていた。とぎれがちな咽せ返るような泣き声で、彼は早口にこう言った。
「あんな恥をかかされて、その代りにお金なんかもらったら、うちの子に何と言いわけができます!」こう言うなり、彼はまっしぐらに駆け出して、今度こそもう振り返ろうとしなかった。アリョーシャは言葉に現わすことのできない憂愁をいだきつつ、じっとそのうしろ姿を見送っていた。二等大尉も最後の一瞬間まで、自分が紙幣を揉みくたにして地べたに抛り投げようとは、ゆめにも考えなかったのであろう。アリョーシャにはそれがよくわかっていた。彼は走っているうちに、一度も振り返らなかった。彼が決して振り返らないだろうということは、アリョーシャも承知していた。彼は二等大尉のあとを追って、声をかけようという気にならなかった。そのわけも自分にはちゃんとわかっている。
 二等大尉の姿が見えなくなった時、アリョーシャは紙幣を拾い上げたが、ただくたくたになって砂の中へおし込まれているだけで、いささかも破損した個所はなく、アリョーシャがひろげて皺をのしたときは、まるで新しいもののようにぱりぱりしていた。すっかり皺のしをすると、畳んでかくしへ入れ、依頼の結果を報ずるために、カチェリーナのもとをさして歩きだした。

[#1字下げ]第五篇 Pro et Contra[#「第五篇 Pro et Contra]



[#3字下げ]第一 誓い[#「第一 誓い」は中見出し]

 アリョーシャを第一番に出迎えたのは、やはりホフラコーヴァ夫人であった。夫人はやたらにそわそわしている。留守の間にかなり大変な騒ぎが起ったのである。カチェリーナのヒステリイは卒倒で終って、そのあとから、『何ともいえない、恐ろしい衰弱が来ましてね、あのひとは床について目をつり上げて、譫言を言ってらっしゃいますの。いま熱が出ましたのでね、ヘルツェンシュトゥベも呼びにやりましたし、二人の伯母さんも呼びにやりましたの。伯母さんたちはもう見えていますけれど、医者のほうはまだまいりません。みんなあのひとの部屋に控えていますが、何か変なことになりゃしないかと思って、心配しておりますの、だけど、あのひとはまるで覚えがないんですからねえ。ひどい熱病にでもなったらどうしましょう!』
 こう言う間にも、夫人はひどく慴えたような顔つきであった。そして、『これはもう大変なことです、大変なことです!』と一こと一ことにつけ加えて、まるで今まであったことは大変でなかったような口ぶりであった。アリョーシャは、愁わしげに夫人の言葉を聞き終った。彼が自分のほうに起った出来事を話しにかかった時、夫人は暇がないからと言って、二ことと聞かないうちに遮ってしまった。そして、どうかリーズのところへ行って、そのそばで自分が来るのを待ってくれと頼んだ。
「アレクセイさん、リーズはね」と夫人は彼の耳もとに囁いた。「リーズは今わたしをびっくりさせましたの、ですけど、悦ばしてもくれました。ですから、わたしあれのことなら何でも赦してやりますわ。まあ、どうでございましょう、あなたが出ていらっしゃるとすぐ、あの子は昨日から今日へかけて、あなたをからかったのを、ひどく後悔しだしたじゃありませんか。もっとも、あの子はからかったのじゃありません、ただ、ふざけたのでございます。けれども、涙のこぼれるほど心から後悔するものですから、わたしびっくりしてしまいましたの。これまであの子がわたしをからかったって、一度も真面目に後悔したことなんかありません。いつも冗談なんでございます。ところでね、あなた、あの子はひっきりなしにわたしをからかってばかりいますの。それが今日はどうしたものか真面目なんです、それこそ大真面目なんですの。あの子はね、アレクセイさん、大変あなたのご意見を尊重しております。ですから、もしできることなら、あの子に腹を立てないで下さいな、そして悪く思わないでね。わたしはいつでもあの子を大目に見ていますの、だって、そりゃ本当に利口な子なんですもの、――そうお思いになりません? 今もこんなことを申しますの。『あの人はあたしの幼馴染みよ、おまけに一番まじめなお友達よ。ところで、あたしは?………』あの子はこういうことにかけては、大変まじめな感情とそれから追憶をもっています。しかし、何より感心なのは、あの言葉なんですの。まことに思いがけないことを、ひょいひょいと言いだすじゃありませんか。たとえて申しますと、ついこの間も梅の木のことで、面白い話がございます。あの子のごく小さい時分、家の庭に一本の梅の木がありました。しかし、今でもやはりあるでしょう、してみると、何も過去の動詞なんか使うことはありませんでしたね。アレクセイさん、梅の木は人間と違いますから、長いあいだ変らないでいますわねえ。あの子の申しますに、『お母さん、あたしあの梅を夢のように覚えてるわ』つまり『うめ[#「うめ」に傍点]をゆめ[#「ゆめ」に傍点]のよう』にと言うのですけれど、あの子の言い方は少し違っていました。だって、何だかごちゃごちゃしていたもんですから。むろん、梅なんてばかばかしい言葉ですけれど、あの子はこのことで何か大へん奇抜なことを言って聞かせましたので。わたしどうしてもうまくお話ができませんの、それにもう忘れてしまいました。じゃ、さようなら、わたしもうすっかり頭がごちゃごちゃになって、気がちがいそうですの。ねえ、アレクセイさん、わたし今まで二度も気がちがいかかって、療治してもらったことがありますよ。それじゃ、リーズのところへ行って、あの子に元気をつけてやって下さいまし。あなたはいつも上手にして下さいますからね。リーズ」と夫人は戸口に近寄りながら叫んだ。「さあ、お前があんな失礼なことを申し上げたアレクセイさんを、わたしがお連れ申して来ましたよ。けれど、ちっとも怒ってはいらっしゃらないから安心おし。それどころか、かえってお前がそんなことを気にするのを、不思議がっていらっしゃるよ。」
「Merci, maman.([#割り注]有難う、お母さん[#割り注終わり])おはいんなさい、アレクセイ・フョードロヴィッチ。」
 アリョーシャは入って行った。リーズはどうやら間の悪そうな目つきをしていたが、急にぱっと真っ赤になった。彼女は何か恥じているようなふうであったが、いつもこんな時の癖として、やたらに早口で、何の緑もないよそごとを言いだした。それはちょうど、今のところ、このよそごとのみに興味をいだいているかなんぞのようであった。
「お母さんがね、いま何を思い出したのか、あの二百ルーブリのことと……あなたがあの貧乏な将校のとこへお使いにいらしったことを、あたしにすっかり聞かしてくれましたの、それから、その将校が侮辱を受けたっていう恐ろしい話も、すっかり聞いてしまいましたわ。でね、お母さんの話は恐ろしくごたごたしてだけど……だって、お母さんは先ばかり急いでるんですもの……それでも、あたし聞いてるうちに泣いちゃったわ。どうだったの、あなたその金をお渡しなすって、そして今その気の毒な将校はどんなにしてて?………」
「そこなんですよ、金が渡されなかったのです、それには長い話があるんですが。」同様にアリョーシャのほうでも、金を渡さなかったのが何よりも気にかかる、というようなふうつきでこう答えた。そのくせ、彼がそっぽのほうばかり見ながら、やはり直接興味のない世間話をしようと努めているのは、リーズの目にもよくわかった。
 アリョーシャはテーブルに向って、座を占めながら、話にかかった。しかし、話し始めるやいなや、間の悪そうな様子がなくなったばかりか、リーズさえ真面目に耳を傾けさせたほどである。彼はまださきほどの強烈な感動と、異常な印象に支配されているので、上手に詳しく伝えることができた。
 彼は以前モスクワにいる頃から、まだ幼いリーズのところへやって来て、新しく自分の身に起ったことや、本で読んだことを話したり、少年の昔を追憶したりするのが、好きであった。時とすると、二人で一緒に空想を逞しゅうして、いろんな小説を作ることもあったが、それは主として陽気で滑稽なものであった。で、いま二人は、二年前のモスクワ時代へ飛んで行ったような気持になった。リーズはひどく彼の物語に動かされた。アリョーシャが熱い同情をもって、彼女の眼前にイリューシャの姿を、描き出してみせたのである。不幸な二等大尉が金を踏みにじった一場を、詳細に物語り終った時、リーズは自分の感情を抑えかねたように、両手を拍って叫んだ。
「じゃ、あなたお金を渡さなかったのね、そうして、そのまま逃がしてしまったのね! ああ、どうしたらいいのでしょう、せめてその人のあとから駆け出して、追っかけてごらんになるとよかったのにねえ……」
「いいえ、リーズ、追っかけなかったほうがいいのですよ」と言ってアリョーシャはテーブルのそばを離れ、何か気にかかるようなふうつきで部屋を一廻りした。
「どうしていいの、何がいいの? だって、今その人たちは食べる物もなくって、死んでしまうじゃないの!」
「死んでしまやしません。なぜって、この二百ルーブリは、何といってもあの人たちのものですからね。あの人はどうせ明日になれば受け取ってくれますよ。明日は必ず受け取ってくれますよ。」アリョーシャは考え深そうに歩みを運びつつこう言った。「ねえ、リーズ」と彼はふいに相手の前に立ちどまって言葉をつづけた。「僕はあのとき一つ失策をやりました。けれどもこの失策のおかげで、かえって都合がよくなったのです。」
「失策ってなあに? そして、なぜ都合がよくなったのでしょう?」
「ほかでもありませんが、あの人は非常に臆病で弱い性質なのです。もうすっかりいじめ抜かれた、しかも善良な人なんです。僕は今どういうわけであの人が急に憤慨して、金を踏みにじったのかしらんと、いろいろ考えてみましたが、それはつまり最後の一瞬まで、金を踏みにじったりしようとは自分でさえ夢にも考えていなかったからです。今になってわかりましたが、あの人はその時いろんなことに腹を立てたのです……あの人の立場にあっては、それよりほか仕方がないですからね……第一に、あの人は僕の目の前で、あまり金のことを悦んで見せた上に、それを隠そうとしなかったので、そのために腹を立てたのです。もし悦んだにしても、ああまで極端でなく、しかもそんなそぶりを見せないで、ほかの者と同じように気どった真似をして、顔をしかめながら受け取ったとすれば、それなら我慢して納めてくれたに相違ありません。ところが、実際はあまり正直すぎるほど悦んだものだから、それがいまいましかったのです。ああ、リーズ、あの人は本当に正直ないい人ですよ。こんな場合、腹が立つのはただこのこと一つなんです! あの人は話してる間じゅう、よわよわしい力のない声をして、おまけに恐ろしい早口なんです。そして、しじゅう小刻みにひひひと笑うかと思えば、またふいに泣きだすじゃありませんか……ええ、本当に泣きました、それほど有頂天になっていたのです……娘たちのことも話しました……ほかの町で周旋してもらえるとかいう勤め口のことも話しました……そうして、ほとんどすっかり胸の中を僕にひろげて見せてしまうと、さあ今度はその胸の中をひろげて見せたのが、急に恥しくなってきたのです。そのために、僕が憎らしくてたまらなくなったのです。つまり、あの人はむしょうに恥しがりな貧乏人の一人なんです。しかし、何よりおもな理由は、あの人があまり早く僕を親友あつかいにして、あまり早く僕に兜を脱いだからです。はじめしきりに僕に食ってかかって、脅し文句を並べていたものが、金を見るやいなや、僕を抱きしめようとするじゃありませんか。ええ、まったくです、あの人はしじゅう両手を伸ばして僕の体に触っていました。こんな工合だったものだから、必ず自分の屈辱を痛感したに違いありません。ところへ、ちょうどそのとき僕が失策をやったのです、非常に大きな失策をやったのです。僕だしぬけにこう言ったのです。もしほかの町へ行く旅費がたりなかったら、まだその上にもらうこともできるし、僕も自分の金の中からいくらでも上げます……すると、この言葉が突然あの人の胸にこたえたのです。なぜお前までがおれを助けに飛び出すのだ、というような気がしたのでしょう。ねえ、リーズ、貧乏な人というものは、あまり皆から恩人顔をされると、たまらなく厭なもんだそうですよ……それは僕も聞いたことがあります、長老さまがお話し下すったのです。僕どんなふうに言っていいかわからないけれど、自分でもよく見うけました。それに、自分でもそのとおりな感じがしますものね。しかし、何より一ばん大切なのはほかでもありません、あの人は最後の瞬間まで、紙幣を踏みにじろうなどとは夢にも思ってなかったのですが、それでも何となく予感していたに相違ありません、それはもう確かな話です。なぜって、あの人の悦び方があまり烈しいから、それを予感せずにはいられないほどでした……実際、いやなことになったように思われますが、それでもやはり、非常に都合よくいったのです。僕の考えでは、むしろこの上なく都合よくいったのです……」
「なぜ、なぜこの上なく都合よくいったんでしょう?」呆れかえったようにアリョーシャを見つめながら、リーズは叫んだ。
「それはこういうわけですよ、リーズ、もしあの人が金を踏みにじらないで持って帰ったら、家へ帰って一時間ばかりたった頃、自分の屈辱を思って泣くでしょう、そりゃ必ずそうあるべきです。そうして泣いた挙句、明日にも早速やって来て、――夜の明けないうちに僕のとこへ来て、さっきと同じようにあの紙幣を投げつけて、踏みにじったかもしれません。しかし、今あの人は『自分で自分を殺した』ってことを自覚してはいましょうが、とにかく非常に勝ち誇った気持で、揚々と引き上げたのです。だから、明日にもこの二百ルーブリを持って行って、無理に受け取らせるのは本当に楽なもんですよ。だって、もうあの人は金を投げつけて、踏みにじって、立派に自分の潔白を証明したんですもの……それに、あの人も金を踏みにじる時、まさか僕が明日もう一ど持って行こうなどとは、夢にも考えなかったでしょう。ところが、この金はあの人にとってはそれこそ本当に必要なんです。もちろん、今こそ非常な誇りを感じているでしょうが、それにしても、自分がどれだけの助力を失ったかってことを、今日にも考えずにはいられますまい。夜なぞはいよいよ一途にそのことを考えて、夢にまで見るに相違ありません。そして、明日の朝になったら、さっそく僕のところへ駆けつけて、詫び言でもしかねない気持になるでしょう。そこを徂って僕が入って行くのです。そして、『あなたは誇りの高い人です、あなたはもうご自分の潔白なことを証明なさいました。さあ、もう取っていただけましょう。私たちの悪かったことはお赦し下さい』と言ったふうに持ちかけたら、必ず取ってくれるに相違ありません!」
 アリョーシャは『必ず取ってくれるに相違ありません!』と言う時、まるで夢中になっているようであった。リーズは思わず手を鳴らした。
「ええ、まったくだわ、あたしいま急にすっかりわかってよ! 本当にアリョーシャ、どうしてあなたはそんなに何でも知ってらっしゃるんでしょうねえ? 年はお若くっても、人の心の中が何でもおわかりになるのねえ……あたしなんか、とてもそんなこと思いつけないわ……」
「いま何より肝心なのは、あの人はよし僕たちから金をもらっても、僕たちと対等の位置に立っているという自信を、あの人に吹き込むことなんです。」依然として夢中になったような調子で、アリョーシャは言葉をつづけた。「いや、対等どころじゃありません。一だん高いところにいると思わせるのです……」
「『一だん高いところ』ですって、うまいわねえ、アレクセイさん。だけど、かまわず話してちょうだい、話してちょうだい!」
「いや、一だん高いところ……というのは、少し僕の言い方がまずかったけど……しかし、そんなことは何でもありません、なぜって……」
「ええ、何でもありませんわ、むろん、何でもありませんわ! ごめんなさいよ、アリョーシャ、後生だから……あのね、あたし今まであなたを尊敬してなかったのよ……いいえ、尊敬してはいたんだけど、対等に尊敬してたのよ。だけど、だけど、今は一だん高く尊敬するわ……あら、怒らないでちょうだい、あたしちょっと警句を言っただけよ」と彼女はすぐに烈しい情《じょう》をこめて、自分で自分の言葉を抑えた。「あたしはこんなおかしな小娘なんですからね。だけど、あなたは、本当にあなたは!……ねえ、アレクセイさん、あたしたちの考えの中に、いえ、つまりあなたの考えの中に、いいわ、もういっそあたしたちのにしましょう……あの不仕合せな人を見下げたようなところはないかしら……だって、あの人の心をまるで高いところから見おろすような工合にして、いろいろ解剖したじゃなくって、え? 今あの人がきっとお金を受け取るに相違ないと、決めてしまったじゃないの、え?」
「いいえ、リーズ、ちっとも見下げたようなところはありません。」もうこの質問に対して準備があるようなしっかりした調子で、アリョーシャは答えた。「僕はここへ来る途中、もうそのことを考えました。まあ、思ってもごらんなさい、この場合、どうして見下げたようなところなんかあり得るでしょう。僕ら自身あの人と同じような人間じゃありませんか。世間の人はみんなあの人と同じような人間じゃありませんか。ええ、僕らだってあの人と同じことです、決して優れたところはありません。よしかりに優れたところがあるとしても、あの人の境遇に立ったら、あの人と同じようになってしまいます。僕はあなたのことはわかりませんが、僕自身はいろんな点で、浅薄な心をもっていると思います。ところが、あの人の心は決して浅薄などころじゃない、かえってとても優しいところがあります……いいえ、リーズ、あの人を見下げるなんてことは少しもありません! 実はね、リーズ、長老さまが一度こうおっしゃったことがあります、人間てものは子供のように、しじゅう気をつけて世話をしてやらなければならない。またあるものにいたっては、病院に寝ている患者のように看護してやる必要があるって……」
「まあ、アレクセイさん、偉いわね、一緒に病人の世話をするように人間の世話をしましょうよ!」
「ええ、しましょうね、リーズ、僕はいつでも悦んで。しかし、僕自身はどうも本当に準備ができてないような気がします。時とすると恐ろしく気が短いし、時とするとものを見る目がないんですからね、けれどあなたは別です。」
「あら、そんなこと本当にしなくってよ! アレクセイさん、あたしなんて幸福なんでしょう!」
「あなたがそう言って下さるので、僕まったく嬉しいですよ、リーズ。」
「アレクセイさん、あなたは何ともいえない立派な方ね。だけど、どうかするとまるで衒学者《ペダント》みたいだわ……それでもよく見てると、決してペダントじゃないのね。ちょっと行って戸口を見てちょうだい……そっと開けてみてちょうだい、お母さんが立ち聞きしてやしなくって?」妙に神経的なせかせかした調子で、ふいにリーズはこう囁いた。
 アリョーシャは立って戸を開けてみた。そして、誰も立ち聞きしていないと報告した。
「こっちいいらっしゃいな、アレクセイさん。」次第に顔を赧らめながらリーズは語をついだ。
「お手を貸してちょうだい、ええ、そうよ、あのね、あたしあなたに大変なことを白状しなくちゃならないのよ。昨日の手紙は冗談じゃなくって、あたし真面目に書いたのよ……」
 と、彼女は片手で目を隠した。見受けたところ、これを白状するのが、恥しくてたまらなかったらしい。と、だしぬけに、彼女はアリョーシャの手を取って、慌しく三たび接吻した。
「ああ、リーズ、よくしてくれました」と彼は嬉しそうに叫んだ。「僕もあれが真面目だったことは、よく知ってたんです。」
「よく知ってたんですって、まあ、どうでしょう!」と彼女は自分の口から男の手を離したが、それでも握った手から放してしまおうともせず、恐ろしく赧い顔をしながら、小刻みな仕合せらしい笑い声を立てるのであった。「あたしが手を接吻して上げれば、『よくした』なんて。」
 しかし、彼女の咎めだては不公平であった。なぜなら、アリョーシャもやはり、非常にどぎまぎしていたからである。
「僕はいつでも、あなたのお気に入りたいと思ってるんですけど、どんなにしていいかわからないんですもの。」同じように顔を赧らめながら、彼はへどもどした調子で呟いた。
「アリョーシャ、あなたは冷淡な失礼な人よ、そうじゃなくって! 勝手にあたしを自分のお嫁さんに決めて、それで安心してるんですもの! あなたはあたしがあの手紙を真面目に書いたものと、信じきってらっしゃるじゃありませんか、まあ、どうでしょう! それは失礼というものよ、ええ、そうよ!」
「一たい僕が信じてたのは悪いことなんでしょうか!」と急にアリョーシャは笑いだした。
「嘘よ、アリョーシャ、それどころか、ほんとにいいことだわ」とリーズは仕合せらしい目つきで、優しく相手を眺めた。
 アリョーシャは相変らず自分の手の中に、彼女の手をとったままじっと立っていたが、とつぜん屈みかかってその唇の真ん中へ接吻した。
「これはまたどうしたの? 一たいあなたどうなすったの?」とリーズは叫んだ。
 アリョーシャはすっかりまごついてしまった。
「もし間違ったことだったらごめんなさい……僕はもしかしたら、ひどく馬鹿げたことをしたかもしれません……あなたが僕を冷淡だなんておっしゃるもんだから、僕つい接吻してしまったんです……しかし、本当にやってみると、妙な工合になったようですね……」
 リーズはいきなり噴きだして、両手で顔を隠してしまった。
「おまけに、そんな着物で……」という声が笑いの間から洩れて聞えた。
 が、急に彼女は笑いやめて、すっかり真面目な、というよりむしろ、いかつい顔つきになった。
「ねえ、アリョーシャ、あたしたち接吻はまだまだ控えなくちゃならないわ。だって、あたしたちまだそんなことできないんですもの。あたしたちはまだまだ長いこと待たなくちゃなりませんわ」と彼女は急にこう言って括りをつけた。
「それよか、あたしの訊きたいのはね、どういうわけであなたはこんな馬鹿を、病身なばか娘をお選みなすったの? あなたみたいな賢い、考え深い、何でも気のつく方が、どうしてわたしなんかを……ああ、アリョーシャ、あたし本当に嬉しいわ。だって、あたしあなたに愛していただく値うちなんか一つもないんですもの!」
「ところが、ありますよ、リーズ。僕は二三日のうちに断然お寺を出てしまいます。一たん世の中へ出た以上、結婚しなくちゃなりません、それは自分でよくわかっています。それに長老さまもそうしろとお言いつけになったのです。ところで、あなたより以上の妻を娶ることもできなければ、またあなたよりほかに僕を選んでくれる人もありません。僕はもうこのことをよく考えたのです。第一に、あなたは僕を小さい時分から知っています。また第二に、あなたは僕の持っていない多くの能力を持っています。あなたの心は僕の心より快活です。第一、あなたは僕よりはるかに無垢です。僕はもういろんなものに触れました、いろんなものに……だって、僕もやはりカラマーゾフですもの、あなたにはそれがわかりませんか! あなたが笑ったりふざけたりするくらい何でしょう……僕のことにしてもね……それどころか、かえって笑って下さい、ふざけて下さい。僕はそのほうが嬉しいくらいです……あなたは、うわべこそ小さな女の子のように笑っているけれども、心のなかでは殉教者のような考え方をしているんですもの……」
「殉教者のようですって? それはどういうわけ?」
「そりゃね、リーズ、さっきあなたはこんなことを訊いたでしょう、――僕らがあの不仕合せな人の心をあんなふうに解剖するのは、つまりあの人を見下げることになりはしないか、って。この質問が殉教者的なのです……僕はどうもうまく言い現わせないけど、こんな質問の浮んでくるような人は、みずから苦しむことのできる人です。あなたは安楽椅子に坐っているうちに、いろんなことを考え抜いたにちがいありません……」
「アリョーシャ、手を貸してちょうだい、どうしてそんなに引っ込めるの?」嬉しさのあまり力抜けのしたようなよわよわしい声で、リーズはこう言った。「それはそうと、アリョーシャ、あなたはお寺を出た時どんなものを着るつもり、どんな着物を? 笑っちゃいや、怒らないでちょうだい、これはあたしにとって、それはそれは大事なことなんですもの。」
「僕、着物のことまで考えなかったけれど、あなたの好きなのを着ますよ。」
「あたしはね、鼠がかった青いビロードの背広に、白いピケのチョッキを着て、鼠色をした柔かい毛の帽子を被ってほしいの……それはそうと、さっきあたしがあなたは嫌いだ、昨日の手紙は嘘だって言った時、あなたはあたしの言ったことを本当にして?」
「いいえ、本当にしなかった。」
「ああ、なんてたまらない厭な人だろう、どうしても癖がなおらないのねえ!」
「実はね、あなたが僕を……その……愛してらっしゃるようだ……と思ったけれど、あなたが嫌いだとおっしゃるのを、本当にしたようなふりをしてたんです。だって、そのほうがあなたに……都合がいいから………」
「あら、なお悪いわ! 悪くってそして一等いいのよ、アリョーシャ。あたしあなたが好きでたまらないわ。さっきあなたがいらっしゃる時、判じ物をしたのよ。あたしが昨日の手紙を返して下さいと言って、もしあなたが平気でそれを出して渡したら(それはあなたとして、まったくありそうなことなんですもの)、つまり、あなたはわたしを愛してもいなければ、何とも思っていないことになる。つまり、あなたは馬鹿なつまらない小僧っ子で……そしてあたしの一生は滅びてしまうと思ったの、――ところが、あなたは手紙を庵室へおいてらしたので、あたし、すっかり元気がついたのよ、だって、あなたは返してくれと言われるのを感づいて、あたしに渡さないように、庵室へおいてらしたんでしょう? そうでしょう?」
「おお、ところが、そうでないんですよ、リーズ。だって、手紙は今もちゃんと持ってるんです、さっきもやはり持ってたのです。ほら、このかくしに、ね。」
 アリョーシャは笑いながら手紙を取り出して、遠くのほうから彼女に見せた。
「ただし、あなたに渡さないから、そこからごらん。」
「え? じゃ、あなたさっき嘘ついたのね。あなたは坊さんのくせに嘘ついたのね!」
「あるいはそうかもしれません」とアリョーシャも笑って、「あなたに手紙を渡すまいと思って、嘘をついたのです。これは僕にとって、非常に大切なものですからね。」突然つよい情をこめてこう言いたすと、彼はまた赧くなった。
「これは一生涯だれにも渡しゃしません!」
 リーズは有頂天になって彼を見つめていた。
「アリョーシャ」と彼女はふたたび囁いた。「ちょっと戸口を覗いてみてちょうだい、お母さんが立ち聞きしてやしなくって?」
「よろしい、見て上げましょう。しかし、見ないほうがよくないでしょうか、え? なぜそんな卑しいことでお母さんを疑うのです!」
「なぜ卑しいことなの? どんな卑しいこと? お母さんが娘のことを心配して立ち聞きするのは、お母さんの権利だわ、ちっとも卑しいことじゃなくってよ」とリーズは真っ赤になった。
「前もってお断わりしておきますがね、アレクセイさん、あたしが自分でお母さんになって、あたしみたいな娘を持ったら、あたしぜひ娘の話を立ち聞きするわ。」
「本当ですか、リーズ? そりゃいけませんよ。」
「まあ、どうしましょう! 何も卑しいことなんかありゃしないわ! これが世間なみのお話を立ち聞きするんだったら、そりゃ卑しいことに相違ないでしょうが、現在生みの娘が若い男と一間に閉じ籠るなんて……ねえ、アリョーシャ、よござんすか、あたしは結婚したらすぐ、こっそりあなたを監督してよ。そればかりか、あなたの手紙をみんな開封して、すっかり読んでしまうわ……それは前もってご承知を願います……」
「それはむろんです、もしそういうことなら……」とアリョーシャは口の中で呟くように言った。「けれど、よくないようだがなあ……」
「まあ、なんて見下げようでしょう! アリョーシャ、後生だから、のっけから喧嘩するのはよしましょうよ、――あたしいっそ本当のことを言っちまうわ、そりゃもちろん、立ち聞きするなんてよくないことだわ、そりゃもちろんあたしが悪くって、あなたのおっしゃることが本当よ。だけど、あたしそれでもやっぱり立ち聞きするわ。」
「なさいとも。しかし、僕には何もそんなうしろ暗いことがありませんからね」とアリョーシャは笑いだした。
「アリョーシャ、あなたわたしに従うつもりなの? これも前にちゃんと決めとかなくちゃ。」
「ええ、悦んで、ぜひともね。だけど、根本の問題は別ですよ。根本の問題については、もしあなたが僕に一致しなくっても、僕は義務の命ずるとおりに行うから。」
「それはそうなくちゃならないわ。ところでね、あたしはその反対に根本の問題についても、あなたに服従するのは言うまでもなく、万事につけてあなたに譲歩するつもりなのよ。このことは今あなたに誓ってもいいわ、――ええ、万事につけて、一生涯」とリーズは熱情をこめて叫んだ。「あたしそれを幸福に思うわ! 幸福に思うわ! そればかりでなく、あたし誓って言うけど、決してあなたの話を立ち聞きなんかしません、一度だってそんなことをしません。そして、あなたの手紙を一通だって読みゃしません。だって、あなたはどこまでも正しい人だ。のに、あたしはそうでないんですもの。もっとも、あたしは恐ろしく立ち聞きがしたいんだけど(それは自分にわかっています)、それでもやはりしませんわ。だって、あなたが卑しいことだっておっしゃるんですもの。あなたは今、いわばあたしの神様みたいな人よ……それはそうと、アリョーシャ、どうしてあなたはこの二三日、――昨日も今日も浮かない顔をしてらっしゃるの。あなたにいろんな心配があるのは知ってるけど、そのほかに何か、特別な悲しみがあるように見えてよ、――ひょっとしたら、秘密な悲しみかもしれないわ、ね?」
「そうです、リーズ、秘密な悲しみです」とアリョーシャは沈んだ調子で言った。「あなたがそれに気がついたところを見ると、やはり僕を愛してるんですね。」
「一たいどんな悲しみなの? 何を案じてるの? 話してもよくって?」とリーズは臆病な哀願の色を浮べながら言った。
「あとで言いましょう、リーズ――あとで……」とアリョーシャは当惑した。「それに、今はよくわからないでしょう。僕自身もうまく話せないだろうと思います。」
「あたしわかってよ、そのほかに兄さんや、お父さんがあなたを苦しめるんでしょう?」
「ええ、兄さんたちもね」とアリョーシャはもの思わしげに言った。
「あたしあなたの兄さんのイヴァン・フョードルイチが嫌いよ」とだしぬけにリーズが言った。アリョーシャは多少の驚きをもってこの言葉に注意した。けれども、何の意味やらわからなかった。
「兄さんたちは自分で自分を滅ぼしているのです」と彼は言葉をついだ。「お父さんもそうです。そして、ほかの人までも、自分と一緒に巻き添えにしてるのです。先だってパイーシイ主教も言われたことですが、その中には大地のようなカラマーゾフ的の力が働いているのです、――それは大地のように兇暴な、生地のままの力です……この力の上に神の精霊が働いてるかどうか、それさえもわからないくらいです。わかっているのは、僕もカラマーゾフだ、ということばかりです……僕は坊さんかしら、坊さんだろうか? リーズ、僕は坊さんでしょうか! あなたは今さきそう言ったでしょう、僕が坊さんだって?」
「ええ、言ったわ。」
「ところが、僕は神を信じてないかもしれないんですよ。」
「あなたが信じてないんですって? まあ、あなた何をおっしゃるの?」リーズは低い声で用心深そうにこう言った。しかし、アリョーシャはそれに答えなかった。このあまりに思いがけない彼の言葉には、何か神秘的な、あまり主観的なあるものがあった。これは彼自身にもはっきりわからないながらも、すでに前から彼を苦しめていることは疑う余地もなかった。
「ところが、今その上に、僕の大切な友達が行ってしまおうとしているのです。世界の第一人者がこの土を見捨てようとしているのです。僕がどんなにこの人と精神的に結び合されてるか、それがあなたにわかったらなあ! それがあなたにわかったらなあ! それだのに、いま僕はたったひとり取り残されようとしているのです……僕はあなたのとこへ来ますよ、リーズ。これからさき一緒にいましょうね……」
「ええ、一緒にね、一緒にね! これからは一生涯いつも一緒にいましょうね。ちょっと、あたしを接吻してちょうだい、あたし許すわ。」
 アリョーシャは彼女を接吻した。
「さあ、もういらっしゃい、ご機嫌よう! (と彼女は十字を切った。)早く生きてるうちにあの人[#「あの人」に傍点]のところへいらっしゃい。あたしすっかりあなたを引き止めてしまったわね、あたし今日あの人とあなたのためにお祈りするわ。アリョーシャ、あたしたちは幸福でいましょうね? ね、幸福になれるでしょうね?」
「なれるでしょう、リーズ。」
 リーズの部屋を出たアリョーシャは、母夫人のもとへ寄るのを得策と思わなかったので、夫人に別れを告げないで家を出ようとした。しかし、戸を開けて階段口へ出るやいなや、どこから来たのか当のホフラコーヴァ夫人が、目の前に控えていた。最初の一言を聞くと同時に、アリョーシャは彼女がわざとここで待ち受けていたのだと悟った。
「アレクセイさん、なんて恐ろしいことでしょう。あれは子供らしい馬鹿げたことです、無意味なことです、あなたはつまらないことを空想なさらないだろうと思って、わたしそれを当てにしていますの……馬鹿げたことです、馬鹿げたことです、まったく馬鹿げたことです!」と夫人は彼に食ってかかった。
「ただね、お願いですから、あのひとにそんなことを言わないで下さい」とアリョーシャは言った。「でないと、またあのひとが興奮するでしょう。ところで、今あのひとの体には、それが何より悪いのですから。」
「分別のある若いお方の分別のあるご意見、確かに承知しました。あなたが今あの子の言葉に同意なすったのも、たぶん、あの子の病的な体の工合に同情して下すったため、さからいだてしてあの子をいらいらさせまい、とお思いになったからでしょうね、そう解釈してよろしゅうございますね?」
「いいえ、違います、まるっきり違います。僕は全然まじめにあのひとと話したのです」とアリョーシャはきっぱり言い切った。
「こんな場合、まじめな話なんてあり得ないことです、考え得られないことです。第一に、わたしはこれから決してあなたを家へ入れませんし、第二に、わたしはあの子を連れてこの町を発ってしまいますから、それをご承知ねがいます。」
「なぜですか、一たい」とアリョーシャは言った。「だって、あの話はまだ先のことですよ、まだ一年半から待たなくちゃならないんですもの。」