『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P282-P309

き始めた。こうした憎悪の念が、かくまで険悪な経過をとってきたのは、最初イヴァンの帰省当時、ぜんぜん反対な事実が生じたためかもしれぬ。当時、イヴァンは急にスメルジャコフに対して、一種特別な同情を示すようになったばかりでなく、彼を非常に風変りな人間だとまで考え始めた。この下男が自分と話をするように仕向けたのは、彼自身であったが、いつも妙にわけのわからない話しぶり、というより、むしろ彼の考えが妙に不安な影をおびているのに、一驚を喫するのであった。そして、一たい何かこの『瞑想者』をこうたえまなく執拗にさわがしているのか、合点がいかなかった。
 彼らは哲学的な問題も語り合ったし、また創世のとき太陽や月や星は、やっと四日目に創られたばかりだのに、どうして最初の日に光がさしていたのだろうか、この事実を何と解釈すべきだろうか、などという問題をも話し合ったことがある。しかし、イヴァンは間もなく、問題は決して太陽や、月や、星でないことを悟った。実際、太陽や、月や、星は、興味のある問題に相違ないが、スメルジャコフにとってはぜんぜん第三義的のもので、必要なのはまるっきり別なものらしかった。そうして、そのときどきによって工合は違うけれど、とにかくどんな場合でも底の知れない自尊心、おまけに侮辱されたる自尊心が、ありありと顔をのぞけ始めるのであった。イヴァンはそれがひどく気にくわなかった。これから彼の嫌悪の念がきざし始めたのである。
 その後、家庭に内訌が生じて、グルーシェンカが現われたり、兄ドミートリイの騒ぎがもちあがったりして、いろいろ面倒なことがつづいた時、二人はこのことについても語り合った。もっとも、スメルジャコフはこの話をする時でも、非常に興奮した様子を示しながらも、やはり彼自身どんなことが望ましいのか、どうしても正確に突きとめることができなかった。それどころか、不用意のうちに顔をのぞけるいつも決って茫漠とした彼の希望が、ひどく非論理的で秩序が立ってないのに、むしろ一驚を喫するくらいであった。彼は絶えず何か訊き出そうとするかのように、前から考えていたらしい遠廻しな質問を持ちかけるのであったが、何のためか説明はしなかった。しかも、非常に熱中して何か訊ねている最中に、ふいにぴたりと口をつぐんで、まるで別なほうへ話を移すのであった。
 しかし、ついにイヴァンを極端までいらだたせて、その心に激烈な嫌悪の情を植えつけたのは、このごろ彼がイヴァンに対してまざまざと示すようになった一種特別ないまわしいなれなれしさである。しかも、これが日をふるにしたがって、ますます目立ってくるのであった。しかし、それかといって、イヴァンに対して失礼な態度をあえて見せる、というわけではさらさらない。それどころか、いつも非常にうやうやしい調子で口をきいたが、なぜかしら、彼は自分とイヴァンとがあることについて、共同な関係でも持っているように思い込んでるらしい。そして、いつか二人の間に言い交わした秘密の約束でもあって、自分たち二人にだけはわかっているけれど、まわりにうようよしている人間どもにはとうていわかりっこない、とでもいうような調子でいつも話をする、これが定式のようになってしまったのである。もっとも、イヴァンはその時にもこの真因を――次第につのってゆく嫌悪の原因を、長いあいだ悟ることができなかったが、この頃になってようやく事の真相がわかってきた。
 腹立たしい、いらいらした感触をいだきながら、彼はいま無言のまま、スメルジャコフのほうを見ないで、すっとくぐりの中へ通り抜けようと思った。と、その瞬間、スメルジャコフはっとベンチを立ちあがった。その身振りを見ただけで、イヴァンはすぐさま、彼が何か特別な相談を持ちかけようと思っていることを、察してしまったのである。イヴァンはちらとそのほうを見て立ちどまった。つい一分間まえに決心したように、そのまますっと通り過ぎないで、立ちどまったことを意識すると、彼は身うちの顫えるほど腹が立ってきた。憤怒と嫌悪の念をもって、彼はスメルジャコフの去勢僧のように痩せこけた顔や、櫛で綺麗に掻き上げた両鬢や、小さな鶏冠《とさか》のように盛り上げた前髪をじっと睨んだ。心もち細めた左の目は、ちょうど、『いかがです、通り過ぎておしまいにならないところを見れば、やはりわたくしどものような利口な人間には、何か話すことがあると見えますな』とでも言いたそうに、笑みをふくんでしばしばと瞬いている。イヴァンはぶるっと身を顫わした。『どけろ、馬鹿野郎、おれは貴様なんぞの仲間じゃないぞ。こん畜生!』と呶鳴りつけようと思ったが、自分ながら意外にも、ぜんぜん別な言葉が口をすべり出たのである。
「どうだ、お父さんは寝てらっしゃるかい、それともお目ざめかい?」自分でも思いがけないほど静かに、おとなしくこう言った。そして、やはり思いがけなく、ひょいとベンチへ坐り込んでしまった。その刹那、彼はほとんど恐ろしくなった(このことは後に思い出したのである)。スメルジャコフは手を背中で組みながらその前に立って、自信ありげな、ほとんどいかついくらいな目つきで彼を見つめていた。
「まだお休みでございます」と彼は悠々として言った。この調子は『さきに口を切ったのはあなたご自身で、私じゃありませんよ』というようであった。「若旦那、あなたには驚いてしまいますよ。」ややしばらく無言の後、わざとらしく目を落しながら、彼はこう言い添え、右の足を一歩前へ踏み出して、漆塗りの靴の爪先をひょいひょいと動かすのであった。
「どうして僕に驚いてしまうんだろう?」イヴァンは一生懸命に自分を抑制しながら、ぶっきらぼうな素気ない調子でこう言ったが、突然、自分がなみなみならぬ好奇心をいだいていて、それを満足させないうちは、どんなことがあってもこの場を立ち去りそうにもないのを感じて、われながら嫌悪の情を禁じ得なかった。
「若旦那。なぜあなたはチェルマーシニャヘいらっしゃいません?」ふいにスメルジャコフは視線を上げて、なれなれしくにたりと笑った。『私がどうして笑ったか、あなたご自身でおわかりのはずです、もしあなたがお賢い方でしたならばね……」と、細めた左の目が言うように思われた。
「何のために僕がチェルマーシニャヘ行くんだ?」イヴァンは面くらった。
 スメルジャコフはまたちょっと無言でいた。
「旦那さまご自身でさえ、あなたにこのことをお頼みになったではございませんか。」とうとう彼はゆっくりとこう言ったが、自分でもこの返答を大して重要なものとは思っていないらしい。『これはただ何か言わないわけにゆかないから、つまらない理由を持ち出してごまかすんでさあ』とでもいうようなふうつきであった。
「ええ、こん畜生、もっとはっきり言わないか、貴様どうしようというんだ?」ついにイヴァンは温良な態度から、一転して粗暴な態度に移りながら、腹立たしげに一喝した。
 スメルジャコフは、踏み出していた右足を引いて、左足へ当てながら、ちょっと体をまっすぐに伸ばしたが、しかし、依然たる落ちつきと薄笑いをもって、相手の顔を見つめるのであった。
「べつに大したことはございません……ただちょいと話のついでに……」
 ふたたび沈黙がつづいた。二人は一分間ばかりも黙り込んでいた。イヴァンは、もう今こそ立ちあがって叱りつけるべき時だと思ったが、スメルジャコフはその前に突っ立ったまま、何が待ちもうけているようなふうつきであった。『お前さんが怒るか怒らないか、一つ拝見いたしましょうかな。』少くともイヴァンにはそう感じられた。ついに彼は立ちあがろうと身を動かした。と、下男は待ち構えていたように、その一瞬を捉えた。
「若旦那、わたくしの境涯は実に恐ろしゅうございます、どうしたらいいか、それさえわかりません。」突然、彼はしっかりと一語一語区切るようにこう言って、最後の一句とともに、溜息をつくのであった。イヴァンはまたすぐに腰をおろした。
「お二人ともすっかり逆上《のぼ》せあがってしまって、まるっきり赤ん坊同然になっていらっしゃいます」とスメルジャコフは語をついだ。「わたくしはあなたのお父さまと、お兄さまのドミートリイ・フョードルイチのことを申すのでございます。今にもお目ざめになりましたら(つまり、その、お父さまのことなので)、すぐさまわたくしを掴まえて、しつこくのべつにお訊ねになりまず。『どうだ、あれは来なかったか? どういうわけで来なかった?』と、これが夜の十二時頃まで、いや、十二時すぎまでつづくのでございます。ところが、もしアグラフェーナさまがおいでにならなかったら(もしかしたら、あの方はまるっきり、そんな考えを持っていらっしゃらないかもしれませんよ)、翌朝また早速わたくしに飛びかかって、『なぜ来なかった? どういうわけで来なかった? 一たいいつ来るのだ?』と、まるでわたくしの知ったことかなんぞのようでございます。ところが、また一方では、そろそろ暗くなりかかるやいなや、――いえ、それよりもっと早いこともございます、――お兄さまが刃物を持って隣りへお見えになりまして、『いいか、悪党、下司男、もし貴様があの女を見のがして、ここへ来たことをおれに知らせなかったら、誰よりもまっさきに貴様を殺してやるから』とおっしゃいます。それから、夜が明けて朝になると、またしても旦那さまが同じように、こっぴどくわたくしをおいじめになるのでございます。『どうして来なかった。もうすぐやって来るだろうか?』と、ここでもまたあのご婦人がお見えにならなかったのを、まるで私が知ったことのようにおっしゃいます。こうして、お二人のお腹立ちが一日ごとに、いえ、一時間ごとに烈しくなってゆきますので、わたくしはときどき恐ろしさのあまりに、いっそ自殺してしまおうかと思うことがございます。若旦那、わたくしはあのお二人には愛想がつきはてました。」
「じゃ、何だってかかり合いになったのだ? 何だってドミートリイに内通を始めたんだ?」とイヴァンはいらだたしげに言った。
「どうしてかかり合わずにいられましょう? それに、すっかりありのままを申しますと、決してわたくしがかかり合ったのではございません。わたくしは初めから一口も言葉を返す元気もなく、始終だまっていたのでございます。ただあの人が勝手にわたくしを自分の召使に、リチャルドに決めておしまいになったので。その頃からドミートリイさまは、『悪党め、もしあの女を見のがしたら、貴様の命はないぞ!』としか、言うことをご存じないのでございます。若旦那、明日はたしかに長い発作が起るに相違ないと思います。」
「何が長い発作なのだ?」
「長い癲癇の発作なのでございます、おそろしい発作なので……何時間も何時間も、ひょっとしたら一日も二日もつづくかもしれません。一度なんか、三日間もつづいたことがございます。その時は屋根部屋から落ちましたので、やんだかと思うとまたぶり返して、三日間どうしても人心地に返ることができませんでしたよ。そのとき旦那さまが、ヘルツェンシュトゥベという、この町のお医者さまを呼んで下さいまして、頭を氷で冷やしていただきました。ああ、それからま一つ何かの薬をいただきましたっけ……本当に危なく死んでしまうところでございました。」
「しかし、癲癇という病気は、いつごろ起るかってことを、前もって知るわけにゆかないというじゃないか。どうしてお前は明日発作が起るなんて言うのだ?」一種特別ないらいらした好奇心をいだきながら、イヴァンはこう訊ねた。
「それはそのとおりでございます、前もって知るわけにはまいりません。」
「それに、その時お前は屋根部屋から落ちたんじゃないか。」
「屋根部屋へは毎日あがりますから、明日もまた屋根部屋から落ちるかもわかりません。もし屋根部屋でなければ、穴蔵へ落ちるかもしれません。穴蔵へも毎日、用事がございますから、しょっちゅう往き来いたします。」
 イヴァンは長いこと、じいっと彼を見つめていた。
「何かでたらめを言ってるな、見えすいてるぞ。それにお前の言うことはどうもよくわからない。」低い声ではあるが、何となく脅しつけるような調子で彼は言いだした。「一たいお前は明日から三日の間、癲癇の真似をするつもりじゃないのか? おい?」
 スメルジャコフは地べたを見つめながら、またしても右足の爪先をひょいひょいと動かしていたが、このとき右足をもとのところへ引っ込め、その代りに左足を前へ出して顔を上げ、薄笑いを浮べながら言った。
「もしわたくしがそうするとしても、つまり真似をするとしても(それは経験のある人間にとって決してむずかしいことじゃありませんからね)、わたくしはそれに対して十分な権利を持っているのでございます。なぜと申して、自分の命を助ける方法なんですものね。わたくしが病気で臥てさえいれば、たとえアグラフェーナさんが旦那さまのところへお見えになっても、病人を掴まえて、『なぜ知らせなかった』と責めるわけにまいりません。お兄さまご自身でも恥しいことだとお思いになりますからね。」
「ええ、こん畜生!」イヴァンは憤怒のために顔を歪めながら、いきなり飛びあがった。「何だって貴様は自分の命ばかり心配してるんだ! そんな脅かしはただ腹立ちまぎれの言葉だ、それっきりのことだよ。兄貴はお前なんか殺しゃしない。もし殺すとしてもお前じゃないよ!」
「蠅のように叩き殺しておしまいなさいます。そして、わたくしが第一番にやられるのでございます。しかし、何より恐ろしいのは別のことなので、――つまり、お兄さまが旦那さまのお身の上に、何か馬鹿なことをしでかしなすった時、あの方とぐるのように思われるのが、恐ろしいのでございます。」
「なぜお前がぐるのように思われるんだ?」
「わたくしがぐるのように思われるわけは、例の合図をごく内《うち》でお知らせしたからで。」
「合図って何だ? 誰に知らせたのだ? 本当にこいつどうしてくれよう、はっきり言わんか?」
「もうすっかり白状いたさねばなりません。」ペダントじみた落ちつきをもってスメルジャコフは、言葉じりを引きながらこう言った。「実はわたくしと旦那さまとの間に、一つ秘密があるのでございます。ご承知でもございましょうが(たぶんご承知でございましょうね)、旦那さまはこの三四日、夜になると、いえ、早い時には晩になるとすぐ、部屋の内側から戸に鍵をかけておしまいになります! もっとも、あなたはこの頃いつも早く二階の居間へ引っ込んでおしまいになりますし、昨日はまるでどこへもおいでになりませんでしたから、もしかしたらご存じないかもしれませんね。ところが、旦那さまはこのごろ夜になると、大へん念入りに戸締りをなさるのでございます。そして、グリゴーリイさんが行っても、声でもって確かにそうだとわからないうちは、決して戸をお開けになりません。ところで、グリゴーリイさんもあまり行かないから、今のところお居間のお世話をするのは、わたくし一人でございます、――これはアグラフェーナさんの騒ぎが始まって以来、旦那さまがご自身でお決めになったことなので……しかし、夜になりますと、わたくしは旦那さまのお申しつけで、離れのほうへさかって休みますが、それでも夜なか頃までは寝ずの番をしなけりゃなりません。ときどき起きて邸内を一廻りして、アグラフェーナさまのおいでを待ち受けていなくちゃなりません。なぜと申して、旦那さまはこの二三日まるで気ちがいみたいになって、あの方を待っていらっしゃいますので。旦那さまのお考えでは、あの方はお兄さまを、ドミートリイ・フョードルイチを(旦那さまはいつも、ミーチカとおっしゃいますが)恐れていらっしゃるから、夜もだいぶ遅くなってから、裏道を通ってお見えになるに相違ない。『だから、貴様ちょうど十二時まで、いや、もっと遅くまで見張りをしろ。もしあれがやって来たら、居間の戸口へ走って来て叩いてもよし、庭から窓を叩いてもいい。しかし、初めの二つはこんなふうにゆっくり叩いて、それからすぐ早目に三つ、とんとんとんと叩くのだ。そうすれば、わしはすぐ、あれが来たのだと思って、そっと戸を開けてやる』とこうおっしゃるのでございます。それから、もし何か変ったことが起った時の用心に、もう一つの合図を教えて下さいました。それは初め二つ早目にとんとんと打って、それから少したってから、もう一つずっときつく、どんと叩くのでございます。すると、旦那さまは何か変《へん》があったので、わたくしがぜひ旦那さまのお目にかからなくちゃならない、ということをお察しになって、やはりすぐ戸を開けて下さいます。そこでわたくしは入って行って、お知らせするのでございます。それは、アグラフェーナさんがご自分でお見えにならないで、使いでもって何かお知らせになる場合の用心でございます。そのほか、ドミートリイさまもやはりおいでになるかもしれませんから、あの方が近くまで来ていらっしゃることを、旦那さまへお知らせしなければなりません。旦那さまは大へんお兄さまを怖がっていらっしゃいますから、たとえアグラフェーナさまがお見えになって旦那さまと一緒に部屋の中へ閉じ籠っていらっしゃる時でも、お兄さまが近くに姿をお見せになりましたら、わたくしはすぐに戸を三つ叩いて、ぜひそのことをお知らせしなければなりません。こういうわけで、五へん叩く方の合図は、『アグラフェーナさまがおいでになりました』ということで、も一つの三べん叩く方の合図は、『ぜひお話ししなければならぬことがあります』というわけなのでございます。これは旦那さまがご自分で幾度も真似をして、よく説明しながら教えて下すったので。こういうわけで、広い世界にこの合図を知っておるのは、わたくしと旦那さまと二人きりでございますから、旦那さまは少しも疑いなしに声を出さないで(旦那さまは声を出すのを、大へん恐れていらっしゃいます)、すっと戸を開けて下さいます。この合図が今お兄さまに知れているのでございます。」 
「なぜ知れてるんだ? 貴様が告げ口したのか? どうしてそんな大胆なことをしたのだ?」
「つまり、恐ろしいからでございます。どうしてあの方に隠しおおせることができましょう? お兄さまは毎日のように、『貴様はおれを騙してるんじゃないか? 何かおれに隠してるんじゃないか? そんなことをしたら、貴様の両足を叩き折ってやるから!』と脅しなさるじゃありませんか。そこで、わたくしはあの方に、この秘密の合図をお知らせしました。つまり、それでもって、こちらの奴隷のような服従を見ていただいて、わたくしが決して騙すどころじゃない、かえって何でもかでもお知らせしてる、ということを信じていただくためなので。」
「もし兄貴がその合図を利用して入りそうだと思ったら、貴様が入れないようにしたらいいじゃないか。」
「そりゃわたくしだって、お兄さまの乱暴なことを承知の上で、生意気にお通しすまいと考えたにしろ、もしわたくしが発作で倒れていましたら、何ともしようがないではございませんか。」
「ええ、こん畜生! どうして貴様は発作が起ることに決めてやがるんだ、本当にどうしてくれよう? 一たい貴様は僕をからかってるのか、どうだ?」
「どうしてあなたをからかうなんて、そんな生意気なことができましょう。それに、こんな恐ろしいことを目の前に控えているのに、冗談どころの話ですか? 何だか癲癇が起りそうな気がいたします、そんな気がするのでございます。ただ恐ろしいと思うばかりでも起ります。」
「こん畜生! 明日お前が臥れば、グリゴーリイが見張りをするよ。前からあれにそう言っといたら、あれは決して兄貴を入れやしない。」
「あの合図は、旦那さまのお許しなしにグリゴーリイさんに知らせるわけには、どんなことがあってもまいりません。ところで、グリゴーリイさんがお兄さまのおいでを聞きつけて、入れないようにするだろうとおっしゃいますが、あの人はちょうど、きのうから患いだしまして、明日マルファさんが療治をすることになっております。さきほどそんな相談ができましたので。ところで、あの人の療治はずいぶん面白いことをするのでございます。マルファさんはある水薬を知っていて、いつも絶やさないようにしまっておりますが、何かの草をウォートカの中に浸けたきつい薬でございます。あのひとはその秘伝を知っておりますので。グリゴーリイさんは一年に三べんほど中風かなんぞのように、腰が抜けてしまいそうなほど痛いので、そんな時この薬で療治をします。何でも年に三べんくらいでございます。その時マルファさんは、この草の汁をしませた酒で手拭を濡らして、三十分ばかりつれあいの背中を一面にこすって、からからになって赤く腫れあがるまでつづけた後、何かおまじないを言いながら、壜に残っている薬をつれあいに飲ませます。もっとも、みなすっかりではございません。こんな時いつも少少残しておいて、自分でも飲むのでございます。すると、二人とも酒のいけない人なので、そのままそこへ倒れてしまって、ずいぶん長い間ぐっすりと寝込むのでございます。グリゴーリイさんは目をさました後、いつも病気がよくなりますが、マルファさんは目をさました後、いつも頭痛がするのでございます。こういうわけでして、もしマルファさんがあす本当に療治をすれば、あの夫婦の人が何か物音を聞きつけて、ドミートリイさまを入れないようにするなどということは、どうもおぼつかない話でございます。きっと寝入ってしまいますから。」
「何というばかばかしい話だ! 何もかもわざと拵えたように一緒になるじゃないか……貴様は癲癇を起すし、グリゴーリイ夫婦は前後不覚に寝てしまうなんて!」とイヴァンは叫んだ。「もしや貴様がわざとそんなふうに仕組むつもりじゃないか?」ふいに彼はこう口をすべらして、もの凄く眉をしかめた。
「どうしてわたくしがそんなことを仕組みましょう……そして、何のためにそんなことを仕組みましょう。何もかもお兄さまのお考え次第で、どうともなるのではございませんか……あの方が何かしでかそうとお思いになれば、そのとおりしでかしなさるでしょうよ。本当にめっそうもない、わたくしがあの方の手引きをして、旦那さまのとこへ踏み込ませるなんて、そのようなことがあってよいものですか。」
「じゃ、何のために兄貴がお父さんのところへやって来るのだ、しかも内証に来る必要がどこにある? アグラフェーナさんは決してここへ来やしないと、貴様自分で言ってるじゃないか。」イヴァンは憤怒のため顔を真っ蒼にしながら言葉をつづけた。「貴様自分でもそう言ってるし、僕もここで暮しているうちにちゃんと見抜いてしまった。親父はただ夢を見ているだけで、あの淫売女《じごく》は決してやって来やしない。あの女が来もしないのに、どうして兄貴が親父のところへ暴れ込むんだ。言ってみろ! 僕は貴様の肚ん中が知りたいのだ。」
「なぜいらっしゃるか、ご自分でご承知でございます。わたくしの肚の中などを詮索する必要はございません。お兄さまはただ腹立ちまぎれにもいらっしゃいましょうし、もしわたくしが病気でもしましたら、あの疑り深い性分のために、もしやという気をお起しになって、昨日のように我慢しきれなくなって、部屋の中まで捜しにいらっしゃいます、――もしやあの女が自分に隠れて入りゃしないかしらん、とお思いになるのでございます。その上お兄さまは旦那さまのところに、三千ルーブリのお金を封じ込んだ大きな封筒が、ちゃんと用意してあることも、やはりご存じでございます。その封筒は三重に封をした上に紐でゆわえて、『わが天使グルーシェンカヘ、もしわれに来るならば』とご自分の手でお書きになりましたが、それから三日たってまた『雛鳥へ』と書き添えられました。これがそもそも怪しいのでございます。」
「くだらんことを!」イヴァンはほとんどわれを忘れて呶鳴った。「兄貴は金を盗むような男じゃない、おまけに、そのついでに親を殺すなんてはずがない。昨日のような場合には、癇癪持ちの馬鹿が夢中になったことだから、グルーシェンカのために親父を殺すかもしれないが、強盗なぞに出かけてたまるものか!」
「しかし、お兄さまはとてもお金をほしがっておいでになりますよ、若旦那、そりゃあもう大変なお困りようでございます。あなたはお兄さまがどれほど困っていらっしゃるか、ご承知ないのでございましょう。」スメルジャコフはどこまでも落ちつきはらって、恐ろしくはきはきした調子で説明にかかった。「その上お兄さまはこの三千ルーブリの金を、まるで自分のものかなんぞのように思っていらっしゃいます。『親父はまだちょうど三千ルーブリだけ、おれに支払う義務があるのだ』と、ご自分でわたくしにおっしゃいました。それに若旦那、もう一つ間違いのない真実がございます。よくご自分で判断してごらんなさいまし。遠慮なく申しますと、アグラフェーナさんは、自分でその気にさえなられましたら、わけなくあの方を、つまり、旦那さまをあやつって、結婚させておしまいになります。それはほとんど確かな話でございます。わたくしは、あの婦人がその気になられたらと申しましたが、案外その気になられるかもしれません。わたくしはあの婦人は決して来られないと申しましたが、もしかしたら、そんなことよりも、ただ奥さまになりたいという気を起されるかもしれません。わたくしの聞きましたところでは、あの婦人の旦那でサムソノフという商人が、あの方に向って無遠慮に、それはなかなか気のきいた話だと言って、笑ったそうでございます。それに、ご当人も利口な人でございますから、お兄さまのような裸一貫の男と結婚されるはずはありません。これだけのことを頭へ入れて考えてごらんなさいまし、若旦那。そうなればお兄さまも、あなたも、弟ごのアレクセイさまも、旦那さまがおかくれになったら、もう一ルーブリだってもらえることじゃございません。なぜと申して、アグラフェーナさまが旦那さまと結婚なさるのは、何もかも一さい自分の名義に書き換えて、財産という財産をみんな自分のものにするためではありませんか。ところで、まだこんなことのないうちに、お父さまがおかくれなすったら、さっそくあなた方にはめいめい四万ルーブリずつのお金が渡ります。旦那さまのあれほど憎んでいらっしゃるドミートリイさまでさえ、遺言状が拵えてありませんから、分け前が手に入るわけなので……それはお兄さまにもよくわかっております。」
 イヴァンの顔面筋肉が妙に歪んで、ぴくりと慄えたように思われた。彼は急に真っ赤になった。
「じゃあ、貴様はどういうわけで」と彼は突然スメルジャコフを遮った。「そんな事情があるのに、チェルマーシニャヘ行けなどと僕に勧めたんだ? どういうつもりであんなことを言ったのだ? 僕が行ってしまったら、その留守に大変なことが起るじゃないか。」
 イヴァンはやっとの思いで息をついでいた。
「まったくそのとおりでございます。」スメルジャコフは静かに分別くさい調子で言った。とはいえ、一心にイヴァンの顔色を窺いながら。
「何がまったくそのとおりなんだ?」辛うじて自分で自分を抑えながら、もの凄く目を輝かしつつ、イヴァンはこう問い返した。
「わたくしはあなたがお気の毒で、ああ申したのでございます。わたくしがあなたのような位置におりましたら、こんなことにかかり合おうより……いっそ何もかも捨てて行っちまいます……」ぎらぎら光るイヴァンの目を思いきって露骨な表情で見つめながら、スメルジャコフは答えた。
 二人ともしばらく無言でいた。
「貴様はどうも大馬鹿らしい。そして、もちろん……恐ろしい悪党だ!」突然イヴァンはベンチを立ってこう言った。
 それからすぐに、くぐりの中へ入ってしまおうと思ったが、ふいに立ちどまって、下男のほうを振り返った。何かしら奇怪なことが生じた。イヴァンは思いがけなく痙攣でも起したように、唇を噛みしめて拳を固めた、――もう一瞬の後には、スメルジャコフに跳りかかりそうな勢いであった。こちらは咄嗟の間にその様子を見てとったので、思わずぎくりとして体をうしろへ引いた。しかし、その一瞬間はスメルジャコフにとって無事に通過した。イヴァンは何やら思い惑った様子で、無言のままくぐりのほうへ踵を転じた。
「僕はあすモスクワへ発つよ。もし望みなら教えてやるが、明日の朝早く立つんだ……わかったかい!」と彼は憎悪の色を浮べて、一こと一こと分けるように大きな声で言った。彼は後になって、どんな必要があってこんなことをスメルジャコフに言ったのか、われながら不思議でたまらなかったのである。
「それが一番よろしゅうございますよ」とこちらは、待ちかまえていたように受けた。「ただひょっと何か変ったことがあった場合に、ここから電報でお呼びするようなことがあるかもしれませんが。」
 イヴァンはまたもや立ちどまって、急にくるりと下男のほうを振り向いた。と、スメルジャコフに何か変化が生じたように思われた。例のなれなれしい気のない表情が束の間に消え失せて、その顔ぜんたいが極度の注意と期待を現わしていたが、しかし、それはもう臆病な卑屈らしいものであった。『まだ何かおっしゃることはございませんか、もう何も言いたしなさることはございませんか?』じっと穴のあくほどイヴァンを見つめている目の中には、こんな意味が読まれるのであった。
「チェルマーシニャだったら、呼んではくれないのか……その、何かことがあった場合に?」何のためとも知れず急に声を張り上げて、イヴァンはいきなり呶鳴りつけた。
「チェルマーシニャでございましても……やはりお知らせ申しますで……」とスメルジャコフは慌てたように、ほとんど囁くような声で呟いたが、しかし依然として、穴のあくほどイヴァンの目をひたと見つめていた。
「しかし、貴様がチェルマーシニャ行きを勧めるところをみると、モスクワは遠くってチェルマーシニャは近いから、旅費が惜しいとでも言うのかい。それとも、僕が無駄な大廻りをするのが気の毒だとでも言うのかい?」
「まったくそのとおりでございます……」またしてもいやらしく、にたにた笑いながら、ひっちぎれたような声でスメルジャコフはこう呟いた。そして痙攣的な身振りで、すばやくうしろへ飛びのく用意をするのであった。
 しかし、イヴァンはだしぬけにからからと笑いだして、スメルジャコフを驚かした。そして、いつまでも笑いやまないで、急ぎ足にくぐりの中へ入ってしまった。このとき誰でも彼の顔を一目見たならば、彼が笑いだしだのは決して愉快なためではないということを、間違いなく推察したにちがいない。また彼自身もこの瞬間、何事が心に生じたのか、とうてい説明することができなかったであろう。彼の身振りも足どりも、さながら痙攣にかかったようであった。

[#3字下げ]第七 『賢い人とはちょっと話しても面白い』[#「第七 『賢い人とはちょっと話しても面白い』」は中見出し]

 ものの言い方もやはりそんなふうであった。広間へ入りしなにフョードルと出会った時、彼はいきなり手を振りながら父に向って、『僕は二階の居間へ帰るんです、あなたのところへ行くのじゃありません、さよなら!』と喚いて、父の顔を見ないようにしながら、そばを通り過ぎてしまった。この瞬間、老人が憎らしくてたまらないというのは、大いにあり得べきことながら、これほどまでに露骨な憎悪の表情は、フョードルにとっても実に思いがけないことであった。しかも、老人は大急ぎで彼に話したいことがあって、わざわざ広間まで迎えに出たのである。こういう無愛想な言葉を聞いたとき、老人は無言のまま立ちどまって、中二階さして段々を昇って行くわが子の姿を、あざ笑うような顔つきで見えなくなるまで目送した。
「一たい、あいつどうしたんだ?」と彼は、イヴァンの後から入って来たスメルジャコフにこう訊いた。
「何やら腹を立てていらっしゃいますが、若旦那のなさることはさっぱりわけがわかりません」と、こちらは逃げをうつような調子で呟いた。
「ええ、勝手にしろ! 怒るなら怒らしとけ。お前もサモワールを出しといて、早く出て行くがいい、さあ、急いで。ときに、何か変った話はないかな?」
 こうして、たった今スメルジャコフがイヴァンに訴えたような、しつこい質問が始まった。つまり、彼が待ちもうけている例の女のことばかりであるから、筆者《わたし》は、この質問をくだくだしくここで繰り返すのをよそう。三十分の後、家はすっかり戸締りができた、そうして心の狂った老人は、ただひとり部屋の申を歩き廻って、今にも例の五つのノックの合図が聞えはせぬかと、胸を躍らして待ちかまえながら、ときどき暗い窓外を覗いて見るのであったが、『夜』のほかには何一つ目に入るものはなかった。
 もうずいぶん遅かったけれども、イヴァンはまだ眠らないでもの思いに耽っていた。この夜、彼はかなり遅く、二時ごろに床についた。しかし、今かれの思想の流れをくわしく伝えることはやめておこう。それに、今はこの霊魂に立ち入るべき時でないのだ。この霊魂については、やがて語るべき順番がくる。のみならず、たとえ今何か読者に伝えようとしてみたところで、それは非常に困難な試みとなるに相違ない。なぜなら、彼の頭の中にあるのは思想というべきものでなく、何かしらとりとめのない、しかも恐ろしく入り乱れたものだからである。彼自身も、自分の心がすっかりこんぐらかってしまったような気がした。その上に、奇妙な、まるで思いがけないさまざまな欲望が湧き起って、彼を苦しめるのであった。例えば、もう十二時過ぎた時分に、突然、矢も楯もたまらないほど、下へおりて、戸を開けて、離れへ押し入り、スメルジャコフをぶちのめしてやりたくなる、と言ったような類であった。しかし、もし誰かにどういうわけかと訊かれても、あの下男が憎くてたまらない、この世にまたとないほどの重い侮辱を自分に加えた人間のような気がする、と言うよりほか、何一つ正確な理由を示すことができなかったであろう。
 いま一方から見ると、彼はこの晩、一種説明することのできない、いまいましい臆した心持に魂を掴まれて、そのためにとつぜん肉体的の力まで失ったような感じがした。頭がずきずき痛んで、目まいがする。何だかまるで誰かに復讐でも企てているように、にくにくしい毒念が彼の胸を刺すのであった。彼はさきほどの会話を思い出して、アリョーシャさえも憎んだ。ときおり自分自身さえ憎くてたまらなかった。カチェリーナのことはほとんど考えようともしなかった。彼はけさ彼女に向って、『明朝はモスクワへ行きます』と立派に広言した時でさえ、腹の中では『なに、でたらめだ、何で行けるものか、お前はいま、から威張りをしているが、そうやすやすと別れることができるものか』と自分で自分に囁いたのを、はっきりと覚えているので、このとき彼女のことを忘れてしまったのが、なおさら奇怪に感じられる。彼は後になって、深くこの事実に驚嘆したのである。
 大分たって、この夜のことを思い出した時、イヴァンの心に烈しい嫌悪の念を呼びさました事実が一つある、ほかでもない、彼はときどきふいと長椅子を立って、ちょうど自分の様子を隙見されるのが恐ろしく気になるように、そうっと戸を開けて階段の上まで出て、下の方へじっと耳を傾けながら、父が下の部屋で動いたり、歩いたりするのを、一心に聞きすますのであった。しかも、一種奇怪な好奇心をいだきながら、息をひそめて烈しく動悸を打たせつつ、長いこと、五分間ばかりも耳をすますのであった。しかし、何のためにこんなことをするのか、何のために耳をすますのか、むろん、彼自身にもわからなかった。その後、彼は一生の間これを「卑劣な」行為と呼んでいた。深い深い心の奥底で、生涯を通じての最も卑劣な行為だと考えたのである。当のフョードルに対しては、その時いささかも憎悪を感じなかったが、ただどうしたわけか、なみなみならぬ好奇の念を覚えたのである。いま父は下の部屋をどんな恰好で歩いてるだろうか。いま一人きりでどんなことをしてるだろうか、などと考えてみたり、今頃は定めし、暗い窓を覗いているかと思うと、またふいに部屋の真ん中に立ちどまって、誰か戸を叩きはしないかと、じりじりしながら待ち焦れているに相違ない、などと想像してみるのであった。こんなことをするために、イヴァンは二度までも階段の上り口へ出たのである。二時ごろにあたりがしんと静まって、もはやフョードルも眠りについたとき、イヴァンは体がへとへとに疲れたように感じられたので、少しも早く寝つきたいものだという強い希望をいだきながら、床に入った。
 はたせるかな、彼はたちまちにして眠りに落ち、ぐっすりと夢もなく寝込んでしまった。しかし、目をさましたのはかなり早く、まだ夜が明けて間もない七時頃であった。われながら驚いたことには、目をあけると、すぐ彼は自分の体内に異常なエネルギーが潮のごとく押し寄せるのを感じて、すばしこく跳ね起きて着替えをすませ、それから鞄を引き出して、猶予なく荷造りに取りかかった。肌着類はちょうどきのうの朝、すっかり洗濯屋から受け取ったばかりであった。イヴァンは一切が都合よく運んで、この急な出発を妨げるものが、少しもないことを考えると、思わず微笑をもらしたほどである。実際、この出発は急なものであった。なぜなら、イヴァンは昨日カチェリーナとアリョーシャと、それから少し遅れてスメルジャコフに、今日の出発を話しはしたものの、しかしゆうべ床へつく時には、出発のことなどてんで考えていなかったからである。少くとも朝、目をさましたとき、第一着手として鞄の荷造りに取りかかろうなどとは、夢にも考えなかったことをよく覚えている。
 ついに鞄とサックの荷造りはできあがった。九時頃にマルファが彼のところへ入って来て、『お茶はどこでおあがりになり、ます。お居間になさいますか、下へお降りになりますか?』と、いつもの問いを持ち出した。イヴァンは下へおりた。彼の言葉にも身振りにも、何となくそわそわした、忙しそうなところがあったが、それでも全体の様子がいかにも楽しそうであった。愛想よく父に挨拶して、体の加減まで訊いた後、彼は父の返事も待たないで、一時間後にはモスクワへ向けて行ってしまうから、馬車を呼びにやってくれと、ずばりと言いきった。が、老人は息子の出発を悲しむという礼儀上の要求さえ忘れて、微塵も驚いた様子を見せずに、この知らせを聞き終った。そして、出発を悲しむ代りに、ちょうどいいあんばいに自身の大切な用事を思い出し、急にひどく慌てだした。
「えっ、お前は! 何という男だ! きのう黙ってるなんて……しかし、まあ、どっちでも同じことだ、今すぐでも話はつくだろう。なあ、おい、イヴァン、お願いだから、お慈悲にチェルマーシニャヘ行ってくれ、ヴォローヴィヤ駅からちょっと左へ曲ったらいいのじゃないか、わずか十二露里ばかり行けば、もうそれチェルマーシニャだあね。」
「とんでもない、駄目ですよ。鉄道まで八十露里もあるのに、汽車は晩の七時に発つんですから、やっと間に合うくらいな勘定なんですよ。」
「なに、明日の間には十分あうよ、でなきゃ、明後日な。しかし、今日はぜひチェルマーシニャヘ寄ってくれ。ほんのちょっとの手間で親を安心させるというものだ! もしここに仕事がなかったら、もうとっくにわしが自分で飛んで行ってるところなんだよ。なにしろ急を要する大事な用だからな。しかし、こっちの仕事の都合で……そうしちゃいられないんだ……いいかい、あの森はベギーチェフとジャーチキンの二区にわたって、淋しい場所にあるんだ。ところで、商人のマースロフ親子が木を伐らしてくれと言うんだが、たった八千ルーブリしか出さんのだ。去年ついた買い手は、破談になったけれど、一万二千ルーブリ出すと言ったよ。それはここの者でないんだ、――こいつに曰くがあるのさ。なぜと言って、ここの人間じゃ今とても捌け口がないからさ、このマースロフというのが親子とも十万長者だが、いつもたちの悪い買占めをやって、自分が値をつけたら、ぜひ取らなくちゃ承知せんというふうなのだ。しかも、ここの商人で、この親子と競争しようというやつが一人もない。ところが、こないだの木曜日に、とつぜん坊主のイリンスキイが手紙をよこして、ゴルストキンがやって来たと知らせてくれた。これもやはりちょっとした商人で、わしは前から知っとるのだ。ただ有難いのは、この男がよその人間だということなんだ。ポグレボフから来たのさ。つまり、マースロフを怖れないってことなんだ。なぜと言うて、この町のものでないからな。そこで、あの森を一万一千ルーブリで買うと言うのだ、いいか? 爺さんの手紙では、もう一週間しか逗留しないそうだから、一つお前出かけて、その男と話してみてくれんか……」
「じゃ、あなた坊さんに手紙をお出しなさい、あの男が談判してくれますよ。」
「やつにゃできん、そこが問題なんだ。あの爺さんは見るというすべを知らんからなあ。人はいいやつで、わしはあの男なら今でも二万ルーブリの金を、受取りなしに平気で預けてみせるがな。しかし、見るというすべをまるっきり知らないんだ。人間どころか、鴉にでも瞞されそうな男だよ。しかも、それで学者だから驚くじゃないか。そのゴルストキンは、見かけは青い袖無外套なんか着て、いかにも百姓よろしくだけれども、性根がまるで悪党なんだから、これがお互いの不仕合せさ。つまり、途方もない嘘つきなんだ、これが問題なのさ。どうかすると、何のために嘘をつくのかと、不思議になるほど嘘をつくんだ。一昨年なんかも女房が死んだので、いま二度目のをもらっておるなどと言ったが、そんなことは少しもないのだから呆れるじゃないか。女房は死ぬどころか、今でもぴんぴんしておって、三日に一ぺんは必ずあいつを擲ってるんだ。こんなふうだから、今度も一万一千ルーブリ出して買うというのは、本当か嘘か突きとめることが必要なのさ。」
「じゃ、僕なんか何の役にもたちません、僕には目がないんだから。」
「いや、待て、そうでないて、お前でも役にたつよ。今わしがあの男の、つまりゴルストキンの癖を、すっかり教えてやる。わしはもうだいぶ前からあの男と取引きをしとるからな。いいか、あの男はまず鬚を見なくちゃいかんのだ。あいつの鬚は赤っ毛で、汚れてしょぼしょぼしとるが、その鬚を願わしながら、腹を立ててものを言う時は、つまり何も言うことはない、あいつの話は本当で、真面目に取引きをする気があるのだ。ところが、もし左の手で鬚を撫でながら笑ってたら、つまり瞞そうと思って悪企みをしてるのだ。あの男の目は決して見るもんじゃない。目では何もわかりゃせん、『淵は暗し』だ、悪党だからな、――つまり、鬚を見ればいいのさ。わしがあの男にあてた手紙をことづけるから、お前そいつを見せてくれ。あの男はゴルストキンだが、本当はゴルストキンでなくて、猟犬なんだ。しかし、お前あいつに向ってレガーヴィなんて言っちゃいかんぞ。怒るからな。もしあいつと話して大丈夫だと思ったら、すぐわしに手紙をよこしてくれ。ただ『嘘ではない』と書きさえすりゃいいんだ。はじめ一万一千ルーブリで踏ん張ってみた上で、千ルーブリぐらいは負けてやってもいい。しかし、それより負けちゃいかんぞ。まあ、考えてみろ、八千ルーブリと一万一千ルーブリ、――三千ルーブリの違いじゃないか。この三千ルーブリは本当に見つけものなんだよ。それに、またといって容易に買い手はつきゃせんし、今さしずめ金に困っとるんだからなあ。もし真面目だという知らせがあったら、その時こそわしがここから飛んで行って片をつける。時間分ところは何とか都合するさ。しかし、今のところ、ただ坊さんの思い違いかもしれないのだから、今わしが行ってもしようがない。」
「ちょっ、暇がないんですよ、堪忍して下さい。」
「まあ、親を助けると思って行ってくれ、恩に着るよ! お前らはみんな人情のないやつらだなあ、本当に! 一たい一日や二日が何だというのだ? お前はこれからどこへ行くんだ、ヴェニスかい? 大丈夫だ、お前のヴェニスは二日の間に崩れやせんから。わしはアリョーシャをやってもいいのだが、こんなことにかけたら、アリョーシャはしようのない人間だからなあ。わしが頼むのは、つまりお前が賢い人間だからよ、それがわしにわからんと思うのか? 森の売り買いこそしまいが、目を持ってるからなあ。実際あの男が本当を言うとるかどうか、ただ見さえすりゃいいんだよ。いま言ったとおり鬚を見ろ、鬚が顫えてたら本当なんだ。」
「あなたは自分からいまいましいチェルマーシニャヘ、僕を追い立てるんですね? え?」とイヴァンはにくにくしげに薄笑いをふくみながら呶鳴った。
 フョードルは憎悪のほうは見分けないで(あるいは見分けようとしなかったのかもしれない)、ただ笑いのほうだけを取って抑えたのである。
「じゃ、行くんだな、行くんだな! 今すぐ一筆手紙を書くから。」
「わかりませんよ、行くかどうかわかりませんよ、途中で決めます。」
「途中とは何だ。今きめるがいい。いい子だから、決めてくれ! 話がついたら一筆手紙を書いて、爺さんに渡してくれ。あいつがすぐにまた自分で手紙をわしにくれるから。それからはもうお前の邪魔をせんから、ヴェニスへでもどこへでも行くがよい。爺さんが自分の馬をつけて、お前をヴォローヴィヤ駅まで送ってくれるよ……』
 老人はもう何のことはない夢中になって、手紙を書き、馬車を呼びにやり、肴やコニヤクをすすめるのであった。彼は嬉しい時には口数の多くなるのが常であったが、今度は何となく慎しんでいる様子で、ドミートリイのことなどおくびにも出さなかった。しかし、別れが惜しいといった様子は少しもなく、かえって、何と言っていいかわからないようにさえ見受けられた。イヴァンもこれに気がついた。
『親父も、しかしいい加減おれには飽きたろうよ。』彼は肚の中でそう思った。
 もう玄関までわが子を送り出した時、フョードルも少々騒ぎだして、接吻するつもりでそばへ寄って来た。しかし、イヴァンは接吻を避けるつもりらしく、急いで握手のために手をさし伸べた。老人もすぐにそれを悟って、たちまちおとなしくなった。
「じゃ、ご機嫌よう、ご機嫌よう!」と彼は玄関口から繰り返した。「いつかまたやって来るだろうな? 本当に来てくれよ、わしはいつでも歓迎する。じゃ、無事に行くがいい!」
 イヴァンは旅行馬車の中へ入った。
「さよなら、あんまり悪く言わんでくれ!」父は最後にこう叫んだ。
 家内の者一同、――スメルジャコフに、マルファとグリゴーリイが見送りに出た。イヴァンはめいめいに十ルーブリずつやった。彼がすっかり馬車の中に落ちついた時、スメルジャコフが駆け寄って絨毯を直しにかかった。
「見ろ……とうとうチェルマーシニャヘ行くよ……」なぜかふいにイヴァンはこう口をすべらした。ちょうど昨日と同じように、自然と言葉が飛び出したのである。しかも、神経的に小刻みな笑いまでついて出た。
 彼は長い間このことを覚えていた。
「では、『賢い人とはちょっと話しても面白い』と申しますのは、本当のことでございますね。」じっとしみ入るようにイヴァンを見つめながら、スメルジャコフはしっかりした調子で答えた。
 馬車は動きだして、やがて疾駆し始めた。旅人の心は濁っていたけれど、彼はあたりの光景を――野や、丘や、木立や、晴れ渡った空を高く飛び過ぎる雁の群などを、貪るように眺めるのであった。と、急にひどくいい気持になってきたので、馭者に話をしかけてみた。すると、この百姓の答えが無性に面白いように思われたが、一二分たってから考えてみると、すべてはただ耳のそばを通り過ぎたばかりで、実際のところ、彼は百姓の答えをてんで聞いていなかったのである。彼は口をつぐんでしまったが、それでもなかなかいい気持であった。空気は清く爽やかにひんやりとして、空は美しく晴れ渡っていた。ふとアリョーシャとカチェリーナの姿が頭をかすめたが、彼はただ静かにほお笑んで、静かにその懐しい幻影を吹き消してしまった。
『あの人たちの時代はまたそのうちにやって来るだろうよ』と彼は考えた。
 駅はただ馬を換えるだけで素早く通り過ぎて、ひたすらヴォローヴィヤ駅へと急いだ。
『なぜ、賢い人とはちょっと話しても面白いのだ? やつ、何のつもりであんなことを言ったんだろう?』ふいにこんなことを考えた時、彼は息のつまるような思いがした。『しかも、おれはどういうわけでチェルマーシニャヘ行くなんて、わざわざやつに報告したんだろう?』
 やがてヴォローヴィヤ駅へついた。イヴァンは旅行馬車からおりると、たちまち馭者の群に包囲された。で、十二露里の村道を私設駅遞の馬車に乗って、チェルマーシニャヘ発つことに決めた。彼は馬をつけるように命じた。彼は駅舎へ入ったが、ちょっとあたりを見廻して、駅長の細君の顔を見ると、急にひっ返して玄関へ出た。
「もうチェルマーシニャ行きはやめだ。おい、七時の汽車に間に合うだろうか?」
「ちょうど間に合います。馬をつけましょうかね?」
「大急ぎでつけてくれ。ところで、お前たちのうち、誰かあす町へ行くものはないかな?」
「なんの、ないことがありますかね、現にこのミートリイが行きますよ。」
「おい、ミートリイ、一つお前に頼みがあるんだがなあ。お前、おれの親父のフョードル・カラマーゾフの家へ寄って、おれがチェルマーシニャヘ行かなかったことを言ってくれないか。寄ってもらえるだろうか?」
「なんの、寄れないことがございましょう、お寄りいたしますよ。フョードルさまはずっと前から存じております。」
「じゃ、これが祝儀だ。たぶん親父はよこさないだろうからなあ……」とイヴァンは面白そうに笑いだした。
「へえ、決して下さりゃしませんよ」とミートリイも笑いだした。「どうも、旦那、有難うございます。ぜひお寄り申しますで……」
 午後七時、イヴァンは汽車に投じてモスクワへ向った。
『以前のことはすっかり忘れてしまうのだ、もちろん、以前の世界も永久に葬ってしまって、音も沙汰も聞えないようにしなければならん。新しい世界へ行くんだ、新しい土地へ行くんだ。後なんか振り返っても見るこっちゃない!』
 にもかかわらず、彼の魂は歓喜の情の代りに、今までかつて経験したこともないような闇に封じられ、心は深い悲しみにうずき悩むのであった。彼は一晩じゅうもの思いに沈んでいたが、汽車は遠慮なく駛って行った。ようやく夜明けごろ、汽車がモスクワの市街へかかったとき、彼は突然われに返った。
「おれは卑劣漢だ!」と彼は心に囁いた。
 フョードルはわが子を見送った後、非常な満足を感じた。まる二時間のあいだ、自分は仕合せ者だというような気がして、ちびりちびりコニヤクを傾けたほどである。ところが突然、すべての者にとってこの上もなくいまいましい、この上もなく不愉快な出来事が家内に生じて、たちまちフョードルの心をめちゃめちゃに混乱さしてしまった。ほかでもない、スメルジャコフが何のためか穴蔵へ出かけて、一番上の段から下まで転げ落ちたのである。それでもいいあんばいに、マルファが庭に居合して、手遅れにならないうちに聞きつけたので、まだしも仕合せだったのである。彼女は落ちるところこそ見なかったが、その代り叫び声を聞きつけた。それは一種とくべつ奇妙な、しかしずっと前から聞き覚えのある叫び声、発作を起して卒倒する癲癇持ちの叫び声であった。彼は階段をおりている途中、発作を起したのだろうか?(そうだとすれば、もちろんそのまま気を失って、下まで転げ落ちるのがあたりまえである。)またその反対に、墜落と震盪の結果として、生来癲癇持ちであるスメルジャコフに発作が起ったのか、それは知る由もなかったけれど、とにかく彼が穴蔵の底で全身をびくびく痙攣させながら、口の端に泡を吹いて身もがきしているところを発見したのである。はじめ一同はきっと手か足かを挫いて、体じゅう打身だらけになっているだろうと思ったが、『神様のおかげで』(これはマルファの言ったことなので)、そのようなことは少しもなくてすんだ。ただ彼を穴蔵から『娑婆の世界』へかつぎ出すのがむずかしかったので、近所の人に手伝いを頼んで、やっと運び出した。この騒ぎのときフョードルも現場に居合せ、恐ろしくびっくりして途方にくれた様子で、自分で手まで添えたのである。
 しかし、病人はなかなか意識を回復しなかった。発作はときどきやひこともあったけれど、すぐにまた盛り返してきた。で、去年やはり誤って屋根部屋から落ちた時と、同じようなことが、また繰り返されるのだろうということに衆議一決した。去年、氷で頭を冷やしたことを思い出して、まだ穴蔵に氷が残っていたのを幸い、マルファがその世話をみることになった。フョードルは夕方、医者のヘルツェンシュトゥベを迎いにやった。彼は早速やって来て、丁寧に病人を診察した後(この人は県内でも一ばん丁寧な注意ぶかい医者で、かなり年輩の上品な老人であった)、これはなかなか激烈な発作だから、『心配な結果にならないともかぎらぬ』、しかし、今のところ、まだはっきりしたことはわからないが、もし今日の薬がきかなかったら、明日また別なのを盛ってみると述べた。病人はグリゴーリイ夫婦の部屋と並んだ離れの一室に寝かされた。
 フョードルはその後ひきつづいて、いちんちいろんな災難にあい通した。第一、食事はマルファの手で整えられたが、スープなどはスメルジャコフの料理にくらべると、『まるでどぶ汁のよう』だし、鶏肉はあまりからからになりすぎて、とても噛みこなせるものでなかった。マルファは主人の手きびしい、とはいえ道理のある小言に対して、鶏はそれでなくても、もともと非常に年とっていたのだし、またわたしだって料理の稽古をしたことがないから、と抗議をとなえた。それから夕方になって、また一つ心配がもちあがった。もう一昨日あたりからぶらぶらしていたグリゴーリイが、折も折、とうとう腰が立たなくなって、寝込んでしまったという知らせを受け取ったのである。
 フョードルはできるだけ早く茶をすまして、ただひとり母家へ閉し籠った。彼は恐ろしい不安な期待の念に胸を躍らしていた。そのわけは、ちょうどこの夜グルーシェンカの来訪を、ほとんど確実に待ちもうけていたからである。今朝ほどスメルジャコフから、『あの方が今日ぜひ来ると約束なさいました』と言う、ほとんど言づけといってもいいくらいの情報を受け取ったのである。強情我慢な老人の心臓は早鐘のごとく打ちつづけた。彼はがらんとした部屋部屋を歩き廻って、ときおり耳を傾けるのであった。どこかでドミートリイが彼女を見張っているかもしれないから、耳をさとくすましていなければならぬ。そして、彼女が戸を叩いたら(スメルジャコフは例の合図を彼女に教えたと、一昨日、フョードルに報告した)、できるだけ早く戸を開けてやって、一秒間も無駄に入口で待たさないようにするのが肝要である。彼女が何かに驚いて逃げ出すようなことがあったら大変だ。フョードルはずいぶん気がもめはしたものの、彼の心がこんな甘い希望に浸ったことも、今までついぞなかった。今度こそ彼女が間違いなしにやって来る、と確実に言うことができるのではないか!
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[#1字下げ]第六篇 ロシヤの僧侶[#「第六篇 ロシヤの僧侶」は大見出し]

[#3字下げ]第一 ゾシマ長老とその客[#「第一 ゾシマ長老とその客」は中見出し]

 アリョーシャは胸の不安と痛みをいだきつつ、長老の庵室へ入った時、驚きのためにほとんどそのまま入口で立ちすくんだ。もう意識を失って死になんなんとしているに相違ないと恐れ危ぶんでいた長老が、思いもよらず肘椅子に腰かけているではないか。病苦のために衰えはててはいながらも、やはり元気のいい愉快そうな顔をして、まわりを取り囲む客人たちを相手に、静かな輝かしい談話を交換しているところであった。とはいえ、彼が床を起き出したのは、アリョーシャの帰って来るようやく十五分前のことであった。客人たちはすでにその前から庵室へ集って、長老が目をさますのを待っていた。それはパイーシイ主教が、『長老はいま一度、ご自分の心に親しい人たちと物語をするために、必ずお目ざめになるにちがいない。ご自分でも今朝がたそう言って約束なされました』と固く予言したからである。パイーシイはこの約束を、長老のすべての言葉と同様に、どこまでも信じて疑わなかったので、たとえ長老の意識ばかりか呼吸までとまってしまったのを、自分の目で見ても、もう一ど目をさまして別れを告げるという約束を聞いた以上、彼は死そのものさえ信じようとせず、死にゆく人がわれに返って約束をはたすのを、いつまででも待っているに相違ない。実際、今朝ほど長老ゾシマは眠りに落ちるまえ彼に向って、『わしの心に親しいあなた方と、もう一ど得心のゆくだけお話をして、あなた方のなつかしい顔を眺め、もう一度わしの心をすっかりひろげてお目にかけぬうちは、決して死にはしませんじゃ』とはっきりした調子で言ったのである。
 この最後の(と思われる)長老の談話を聞きに集ったものは、ずっと昔から彼に信服しきっている同宿である。その数は四人あった。ヨシフ、パイーシイ両主教のほか、一人はミハイル主教という、まださほど年をとっていない庵室ぜんたいの取締役で、大して学問があるわけでもなく、僧位も中どこにすぎないけれど、毅然たる精神を持って、朴直で不抜の信仰をいだいており、見かけは気むずかしそうな顔をしているが、心の中では深い法悦に浸っている人である。彼は少女のような羞恥をもってその法悦を隠していた。四人目の客は貧しい農夫の階級から出で、アンフィームという小作りな平《ひら》の老僧で、ほとんど文盲といっていいくらいであった。静かな寡黙の性質で、ろくろく人と口をきくこともないが、謙抑な人たちの中でもとくに謙抑な人物で、何かとうてい自分の知恵におよばないほど偉大な恐ろしいもののために、永久に慴かされたようなふうつきをしていた。長老ゾシマは、常に慄えおののいているようなこの老僧を非常に寵愛して、一生のあいだ、なみなみならぬ尊敬をもって彼に対した。もっとも、ほかの誰に対するよりも、この老僧に対しては口をきくことが少かった。そのくせ、以前は長年の間この老僧とともに聖なるロシヤ全土の遍歴をしたこともあるのだ。それは四十年ばかり前、あまり人に知られていない貧しいコストロマの僧院で、ゾシマが初めて僧侶として苦行の道に入った頃のことである。それから間もなく、貧しいコストロマの寺院に報謝を乞うため諸国を行脚するアンフィームの同行《どうぎょう》となったのである。
 一同は、主人も客も、長老の寝台の据えてある第二の部屋に座を占めた。これは前にも述べたとおり、きわめて手狭な構えであるから、四人の客はやっと長老の肘椅子をとり巻いて、第一の部屋から持って来た椅子に腰をおろすことができた(ただし、聴法者のポルフィーリイはしじゅう立ったままであった)。早くも夕影になりそめた。部屋は聖像の前なる燈明と蝋燭の光に照らし出された。アリョーシャが入口に立ってもじもじしているのを見て、長老は悦ばしげにほお笑みながら、その方へ手をさし伸べた。
「よう帰った、倅、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰って来たな、わしも、今に帰って来るじゃろうと思うておった。」
 アリョーシャはそのそばに近寄って、額が地につくほどうやうやしく会釈したが、急にさめざめと泣きだした。何かしら心臓が引きちぎれて、魂が震えだすように思われた。彼は慟哭したいような気持になってきた。
「お前は何としたことじゃ、泣くのはもう少し待つがよい。」長老は右の手をアリョーシャの頭にのせて、にっこり笑った。「わしはこのとおり腰をかけて話をしている。この分なら、本当にまだ二十年くらい生きられるかもしれんて、昨日|上山《ヴィシェゴーリエ》からリザヴェータという娘を抱いて来た、あの親切な優しい女房の言うたとおりかもしれんて。神様、どうぞあの母親と娘のリザヴェータをお守り下さりますように!(と彼は十字を切った。)ポルフィーリイ、あの女の施物をわしの言うたところへ持って行ったか?」
 これは昨日、元気のいい信心ぶかい女一男が、『わしより貧乏な女にやって下さりやし』と言って寄進した、例の六十コペイカのことを思い出したのである。この種の寄進は、われから好んでおのれに課した一種の難行といった形で行われるのだが、その金はぜひとも自分の労働で得たものでなければならなかった。長老はもはや昨晩のうちにポルフィーリイを使いとして、ついこのあいだ火事で丸焼けになった町人の後家にその施物を贈った。この女は火事にあった後、幾たりかの子供をつれて袖乞いに歩いているのであった。ポルフィーリイはもう用件をはたして、金は言いつけられたとおり、『無名の慈善家』という名義で贈ったことを急いで報告した。
「さあ、倅、起きなさい」と長老はアリョーシャに向って語をついだ。「一つお前の顔を見せてもらおう。お前、うちの人たちを訪ねて行ったか、そして兄に会うたか?」
 長老がこんなに正確な断乎たる調子で、兄たちと言わずにただ兄と訊いたのが、アリョーシャには不思議なことに思われた。しかし、どっちのことだろう? どっちにしても、長老が昨日か今日も自分を町へ送ったのは、その一人の兄のために相違ない。
「二人のうち一人のほうだけに会いました」とアリョーシャは答えた。
「わしが言うのはな、昨日わしが額を地につけて拝《はい》をした、あの上の兄のことじゃ。」
「あの兄さんとは昨日会ったばかりで、今日はどうしても見つかりませんでした」とアリョーシャは答えた。
「急いで見つけるがよい。明日はまた、急いで出かけるのだぞ。何もかも棄てて急ぐのだぞ。まだ今のうちなら何か恐ろしい変を未然に防ぐことができようもしれぬ、わしは昨日あの人の偉大なる未来の苦患《くげん》に頭を下げたのじゃ。」
 彼は急に言葉をきって、何やら思い沈むかのようであった。それは不思議な言葉であった。昨日の礼拝を目撃したヨシフ主教は、パイーシイ主教と目くばせした。アリョーシャはたまりかねて、
「長老さま、お師匠さま」となみなみならぬ興奮の体で言った。「あなたのお言葉はあまり漠然としております……一たいどのような苦患が兄を待ち伏せしているのでございましょう?」
「もの珍しそうに訊くものでない、昨日わしは何か恐ろしいことが感じられたのじゃ……ちょうどあの人の目つきが、自分の運命をすっかり言い現わしておるようであった。あの人の目つきが一種特別なものであったので……わしは一瞬の間に、あの人が自分で自分に加えようとしている災厄を見てとって、思わずぞっとしたのじゃ。わしは一生のうちに一度か二度、自分の運命を残りなく現わしているような目つきを、幾たりかの人に見受けたが、その人たちの運命は、――悲しいかな、――わしの予想に違わなんだ。わしがお前を町へ送ったわけはな、アレクセイ、兄弟としてのお前の顔が、あの人の助けになることもあろうと思うたからじゃ。しかし、何もかも神様の思し召し次第じゃ。われわれの運命とてもその数にもれぬ。『一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし。』これをよう覚えておくがよい。ところでな、アレクセイ、わしはこれまで幾度となく心の中で、そういう顔を持っているお前を祝福したものじゃ、今こそ打ち明けて言うてしまう。」長老は静かな微笑を浮べながらこう言った。「わしはお前のことをこんなふうに考えておる、――お前はこの僧院の壁を出て行っても、やはり僧侶として世の中に暮すのじゃぞ。いろいろ多くの敵を作るであろうが、その敵さえもお前を愛するようになる。また人生はお前にかずかずの不幸をもたらすけれど、その不幸によってお前は幸福になることもできれば、人生を祝福することもできるし、またほかの者にも祝福させることができるであろう、――それが何より大切なのじゃ。よいか、お前はこういったふうな人間なのじゃ。皆さん」と彼は悦ばしげにほお笑みつつ、客人たちのほうを向いた。「この若者の顔がわしの心にとって、なぜこれほど懐しいものになったかというわけを、今まで当人のアレクセイにさえ一度も言うたことがない。今はじめてこれを打ち明けますじゃ。この少年の顔はわしにとって、まるで追憶と予言のように思われる。わしの生涯の曙に、わしがまだ小さな子供のとき、一人の兄があったが、花の盛りの十八やそこらの年に、わしの目の前で死んでしまいましたじゃ。その後、自分の生涯を送って行くうちに、わしはだんだんこういうことを信じるようになった、――この兄はわしの運命にとって、神の指標とも予定とも言うべき役割を勤めた、とな。もしこの兄がわしの生活の中に現われなんだら、もしこの兄という人がまるっきりなかったら、わしは決してこんなことを考えるようにならなかったのみか、僧侶の位を授かって、この尊い道へ踏み入ることもなかったに相違ない。その出現はまだわしの幼い頃のことであったが、今わしの旅路も下り坂となった時に、その再来とも言うべきものが、まざまざと現われたのじゃ。皆さん、不思議なことに、アレクセイは顔から言えばさほどでもないが、精神的になみなみならず似通うておるように思われて、わしは幾度この若者を、あの年若い肉親の兄と信じようとしたかしれぬほどですじゃ。わしの旅路の終りになって、追憶と接心のためにひそかにわしを訪れたのではないか、というような気がしてなりませぬ。まったく、われとわが奇怪な空想に驚かるるばかりですじゃ。ポルフィーリイ、今の話を聴いたか?」彼は傍らにはんべる聴法者に問いかけた。「わしがお前よりもアレクセイのほうをよけい愛するために、お前の顔に悲しみの影が現われるのを、わしは幾度となく見受けたが、今こそどういうわけかわかったであろうな。わしはお前をもやはり愛しておるのじゃ。それは承知しておってくれい。わしもお前が悲しむのを見て、ずいぶんつらい思いをしたわい。そこで皆さん、わしは今、この若者のことを、――わしの兄のことをお話ししようと思います。なぜと言うに、わしの一生涯のうちであれ以上に尊い予言的な、感動的な出来事はないからですじゃ。わしの心は歓喜の情に顫えました。今この瞬間、わしは自分の生涯を、まるでもう一度あらたに経験しておるかのように、まざまざと思い起すことができますじゃ……」

 ここで断わっておかねばならぬのは、長老が生涯の終りの日に客人たちと試みた談話は、一部分、覚書となって保存されていることである。これはアレクセイ・カラマーゾフが、長老の死後しばらくたってから、記念のために書きとどめたのである。しかし、これがその時の談話そのままであるか、それともアレクセイが以前の談話の中からも何か抽出してこの覚書につけ加えたか、そこは何とも決しかねる。のみならず、長老の談話はこの覚書で見るときわめて流暢にできあがっていて、さながら長老が友達に向って、自分の一生を小説体に述べたかなんぞのように思われるが、事実つぎの物語は幾分ちがったふうに述べられたのである。なぜならば、この晩の談話は一座の全体にわたっていたから、客人たちもあまり主人の言葉を遮ろうとはしなかったが、それでも自分たちのほうからも談話に口を入れたばかりか、何かの報告や物語さえ試みたほどである。その上、この物語がああ流暢な形をとり得るはずはない。なぜと言えば、長老はときどき息がつまって声が出なくなるので、休息のため床についたことさえあった。もっとも、長老のほうでも、すっかり寝つきはしなかったし、客人たちも自分の席を捨てて、立ち去るようなことはなかった……一度か二度、福音書の朗読のために、談話の途切れたこともある、読み手はパイーシイ主教であった。なお注目すべきは、客人たちのうちの誰ひとりとして、長老がこの夜死んでしまおうとは、夢にも思わなかったことである。昼間ふかい眠りにおちいったこととて、彼はこの生涯の終りの夜、友達を相手の長物語の間じゅう、自分の体をささえるにたるほどの新しい力を獲得したかのように思われた。それは彼の体内に、ほとんど信ずることができないほどの活力を維持してくれた最後の法悦であった。しかし、それも長い間のことではなかった。なぜと言うに、彼の命の綱はふいにぶつりと切れてしまったからである……が、このことはまた後に語るべき時がくる。今は談話の始終の顛末をくだくだしく述べないで、ただアレクセイ・カラマーゾフの覚書によって、長老の物語を伝えるにとどめておこう。これだけは読者に知っておいてもらいたい。そのほうが比較的簡潔で、読むにも骨が折れまいと思われる。もっとも、いま一ど断わっておくが、アリョーシャが以前の談話の中からも多くのものを取ってきて、打って一丸としたのはもちろんである。

[#3字下げ]第二 故大主教ゾシマ長老の生涯[#「第二 故大主教ゾシマ長老の生涯」は中見出し]

[#ここから9字下げ]
長老みずからの言葉をもといとして、
アレクセイ・カラマーゾフこれを編む
[#ここで字下げ終わり]

[#4字下げ](A) ゾシマ長老の年若き兄[#「(A) ゾシマ長老の年若き兄」は太字]

 愛すべき諸師よ、余は遠き北方の某県下なるV市に生れた。父は貴族であったが、さして名門の生れでもなければ、高い官位も持っていなかった。彼は余がようやく三歳の時にこの世を去ったから、余は少しも父のことを覚えていない。彼が余の母に遺したものは、ささやかな木造の家と、そこばくの財産であった。それはさして大きなものでなかっだけれど、母が子供らをつれて格別不自由なく暮してゆくには十分であった。われわれ兄弟はたった二人きりであった。すなわち余ジノーヴィイと兄マルケールである。彼は余よりも八つの年かさで、熱しやすい癇癖の強い性質であったが、人を馬鹿にしたようなところはもうとうなく、不思議なほど無口な人であった。うちにいて、母や、余や、召使などに対する時はそれが一そうはなはだしかった。中学校の成績はいいほうであったが、友達とは喧嘩こそせぬ、一向に親しむふうがなかった。少くとも、母の記憶するところではそうであった。
 なくなる半年ばかり前、もはや十八の春を迎えた時、兄は余らの町へ押し籠められた一人の政治犯の流刑囚のもとへ、しきりに出入りしはじめた。これは自由思想のためにモスクワから余らの町へ流された人で、大学でも有数の学者であり、かつ優れた哲学者であった。彼はなぜかマルケールを愛し、出入りを許すようになったのである。青年は、この人の家に毎晩毎晩入りびたりの有様で、その冬を過したが、やがてこの流刑囚は彼自身の願いによって、官へ奉職のためペテルブルグへ呼び戻された。というのは、彼が幾人かの保護者を持っていたからである。そのうちに四旬斎が始まったが、マルケールは精進をしようとせず、口汚く罵って、冷笑するのであった。『そんなことはみんな寝言だ、神なんてものは決してありゃしない』などと言って、母や召使のものばかりか、年少の余までも気死させた。余も十やそこらの少年ではあったけれども、こういう言葉を聞いて、いたく驚いたものである。余の家の召使は四人いたが、みな農奴ばかりであった。彼らはことごとく知合いの地主の名義で買われたのである。今でも覚えているが、母はこの四人のうち、下働きのアフィーミヤという跛の老婆を六十ルーブリで売り払って、その代りに普通の女中を傭ったことがある。
 ところが、六週間目に、とつぜん兄が病気になった。もっとも、兄は普段から健康ではなかった。きゃしゃでよわよわしく、肺病にかかりやすそうな体格であった。背は決して低くなかったが、痩せてひょろひょろしていた。しかし、顔立ちはととのって上品であった。はじめは風でも引いたのだろうくらいに思っていたが、医師は来て見るとすぐに母に耳打ちし、急性の肺病だからこの春一ぱいもたないかもしれぬ、と囁いた。母は泣きだした。そして、兄に向って用心ぶかい調子で(それは要するに、兄をびっくりさせないためであった)、どうかお精進をして聖餐をいただくようにと頼んだ。そのころ兄はまだ床についていなかったので、これを聞いたとき、非常に怒って教会を罵倒したが、それでも妙に考えこむようなふうであった。つまり自分の病気が重いので、母はまだ自分の気力があるうちに精進をさしたり、聖餐を受けさせたりしようと思っているのだ、と察したのである。もっとも、自分でもとうから健康の勝れないことを知っていた。もう一年も前のことであるが、一ど食事の時、余や母に向って落ちつきはらった調子で、『僕はこの世に住むべき人じゃないですよ。たぶん、一年とあなた方の間で暮すことができないでしょう』と言ったことがあるが、それが予言のような工合になってしまった。三日ばかりたって、神聖週間がやってきた。その火曜日の朝から兄は精進するために、教会へ赴くようになった。
『これはね、お母さん、ただ、あなたのためにするんですよ。あなたを悦ばして安心させるためなんですよ』と兄は母にこう言った。すると、母は悦びと悲しみのあまりに泣きだした。
『あの子が急にあんなに変ったところを見ると、もうこのさき長いことはないだろう。』
 しかし、兄は長く教会へ通う暇もなく床についてしまったので、懺悔の式も聖餐の式も、家でしてもらわなければならなかった。その頃は毎日、あかるい晴れ晴れした、薫りに充ちたような天気がつづいた。その年の復活祭《パスハ》は、例年より遅かった。余の覚えているところでは、兄は夜っぴて咳をし通して、ろくろく眠れない様子であったが、朝になると、いつもきちんと着替えをして、柔かい肘椅子に坐ってみようと言いだした。今でもその姿を覚えているが、兄は静かにつつましく腰をかけて、病人とはいいながら楽しく悦ばしげな顔をしていた。彼は精神的にもすっかり変ってしまった、――思いがけなく彼の心中に霊妙な変化が生じたのである! 例えば、年とった乳母が兄の部屋へ入って、『ごめん下さいまし、若旦那、お部屋のお像へ燈明を上げようと思いますが』と言うと、前には、そんなことを許すどころか、吹き消してまでいた兄が、『ああ、お上げ、ばあや、お上げ、僕はせんにお前たちのすることをとめたりして、本当に罰当りな人間だったねえ。お前がお燈明を上げながらお祈りすれば、僕はお前を見て悦びながらお祈りをするよ、つまり、二人とも同じ神様を祈ることになるんだ。』
 こんな言葉は余らにとって、不思議なものに感じられた。母は居間に閉じ籠って泣いてばかりいた。そして、兄の部屋へ入る時にやっと涙を拭いて、面白そうな顔をして見せるのであった。
『お母さん、泣くのはおよしなさいね』と彼はよくこんなことを言った。『僕はまだまだ長く生きていられます。まだまだ長くみんなと楽しむことができます。ねえ、人生というものは、本当に人生というものは、楽しい愉快なものじゃありませんか?』
『まあ、お前なにを言うの、毎晩毎晩熱と咳で苦しめられて、胸が裂けはしないかと思われるくらいだのに、何の楽しいことなんかあるものですか?』『お母さん』と兄は答えた。『泣くのはおやめなさい。人生は楽園です。僕たちはみんな楽園にいるのです。ただ僕たちがそれを知ろうとしないだけなんです。もしそれを知る気にさえなったら、明日にもこの地上に楽園が現出するのです。』
 一同はこの言葉に深く驚いた。それは兄の言い方がいかにも奇妙で、きっぱりしていたからである。余らは感激して泣きだした。知り人が訪ねて来ると、
『あなた方は優しい親切なお方です。一たい僕はどんな値うちがあって、あなた方に愛していただけるのでしょう。何のためにあなた方は僕みたいな人間を愛して下さるのでしょう? そして、僕はなぜ今までそれに気がつかなかったのでしょう? なぜ有難いと思わなかったのでしょう?」
 部屋へ入って来る召使に向っては、ひっきりなしに、
『お前がたは優しい親切な人たちだ。何のためにお前がたは僕に仕えてくれるのだ? 一たい僕はそんなに仕えてもらう価値があるのかしらん? もし神様のお恵みで生きながらえることができたら、僕は自分でお前たちに仕えるよ。なぜって、人はみなお互いに仕えあわなければならないからね。』
 母はこれを聞きながら頭をひねっていたが、
『これ、マルケール、お前は病気のためにそんなことを言うんですよ!』
『お母さん』と兄は答えた。『そりゃ主人と下僕《しもべ》の区別がまるっきりなくなるはずはありませんが、しかし、僕が家の召使の下僕《しもべ》となったっていいじゃありませんか、ちょうど召使たちが僕のためにつくしてくれると同じようにね。お母さん、僕はさらに進んでこう言います、――僕たちは誰でもすべての人に対して、すべてのことについて罪があるのです。そのうちでも僕が一ばん罪が深いのです。』
 母はそのとき薄笑いすらもらした、泣きながら笑ったのである。
『お前どういうわけで、自分が誰よりも一ばん罪が深いなんて、そんなことをお言いなんだえ? 世間には人殺しだの強盗だのだくさんあるのに、一たいお前はどんな悪いことをして、そんなに誰よりも一ばんに自分を責めるんだえ?』
『お母さん、あなたは僕の大事な懐かしい血潮です(兄は当時、こういうふうな思いがけない、愛情のこもった言葉を使いはじめた)。ねえ、お母さん、まったくどんな人でもすべての人に対して、すべてのことについて罪があるのです。僕は何と説明したらいいかわかりませんが、それが本当にそのとおりだってことは、苦しいくらい心に感じているのです。まったく僕たちは今までこの世に暮していながら、どうしてこれに気がつかないで、腹を立てたりなんかしたのでしょう?』
 こういうふうに、彼は次第に強く感激と、歓喜の情を味わいつつ、愛のために胸を躍らしながら、毎日、眠りからさめて起き出すのであった。よく医者が見にくると(ドイツ人のアイゼンシュミットというのが来ていた)、
『ねえ、先生、まだ一日くらいこの世に生きていられるでしょうか?』と冗談を言うことがあった。
『一日どころか、まだ幾日も幾日も生きていられます』と医者は答える。『まだまだ幾月も、幾年も生きていられますよ。』
『一たい年が何です、月が何です?』と兄は叫ぶ。『何も日にちなぞ数えることはないじゃありませんか。人間が幸福を知りつくすためには、一日だけでもたくさんですよ。ねえ、皆さん、僕たちは喧嘩をしたり、互いに自慢しあったり、人から受けた侮辱をいつまでも憶えていたりしていますが、それよりか、いっそ庭へ出て散歩したりふざけたりして、互いに愛しあい讃《ほ》めあって、接吻したらいいじゃありませんか。自分らの生活を祝福したらいいじゃありませんか。』
『あの人は、お宅の息子さんは、この世に住むべき人じゃありませんよ。』母が玄関まで見送りに出たとき、医師はそう言った。『あれは病気のため精神錯乱におちいられたのです。』
 兄の部屋の窓は庭に向っていたが、庭には古木が立ち並んで欝蒼たる陰をなし、その枝にはもう春の若芽がふくらんでいた。小鳥は早くも渡って来て、窓さきで歌ったり囀ったりしていた。彼はこれらの小鳥を眺めて楽しんでいるうちに、突然、小鳥に向って赦しを乞い始めるのであった。
『神の小鳥、悦びの小鳥、どうぞ私を赦してくれ。私はお前らにも罪を犯しているのだ。』この言葉にいたっては、余らのうち誰ひとり了解し得るものがなかった。ところが、兄は嬉しさのあまり泣きだしながら、『ああ、私の周囲には、こうした神の栄光が充ち満ちていたのだ。小鳥、木立、草場、青空、――それだのに、私一人だけは汚辱の中に住んで、すべてのものを穢していた。そして、美も栄光もまるで気がつかないでいたのだ。』
『それじゃ、お前、あんまり自分に罪をきすぎるじゃないかね』とよく母は泣きながら言った。
『お母さん、大事なお母さん、僕が泣くのは嬉しいからです、決して悲しいからじゃありません。僕がすべてのものに対して罪人《つみびと》となるのは自分の好きですよ。ただ腑に落ちるように説明ができないだけなんです。だって、みなの者を愛するにはどうしたらいいか、それさえわからないんですもの。僕はすべての人に罪があったってかまやしません、その代り、みんなが僕を赦してくれます。それでもう天国が出現するのです。一たい僕はいま天国にいるのじゃないでしょうか?』
 まだたくさんいろいろのことがあったけれど、いちいち思い出すこともできないし、また書き入れることもできない。ただ一つ、こんなことを憶えている。ある時、余はただひとり兄の部屋へ入って行った。ちょうど兄のほかには、誰ひとりいなかった。それは晴れ晴れした夕方のことで、日はまさに没せんとして、部屋ぜんたいを斜かいに横切って光線を投げている。兄は余を見つけると、手を上げてさし招くので、余はそのそばへ近寄った。すると、兄は両手を余の肩にかけ、さも感激したような懐かしげなまなざしで、じっと余を見つめるのであった。何もものを言わないで、一分間ばかりこうしてじっと見つめていたが、
『さ、もうあっちい行ってお遊び、僕の代りに生きでおくれ!』と言った。
 で、余はそのとき部屋を出て外へ遊びに行った。その後、一生涯の間に幾度となく、兄が余に向って、自分の代りに生きよと言いつけたことを、涙とともに思い起すのであった。こういうふうに、当時の余らにとっては、不可解であったけれども、美しい驚嘆すべき言葉を、まだまだ数多く残していった。彼は復活祭《パスハ》から三週間目に、意識を保ったままで生を終えた。むろん、口こそきけなくなったが、最後の一瞬間まで、いささかも変るところがなかった。顔つきは依然として、悦ばしそうで、目には愉悦の色をたたえ、視線をめぐらして余らの姿を見いだすと、ほお笑みながらさし招くのであった。町の人でさえも、兄の死をさまざまに語り伝えたほどである。これらすべての出来事は、当時の余の心を震撼したが、しかし大したことはなかった。もっとも、兄を葬った時には、余もむしょうに泣いたものである。実際、余は幼い子供であったけれども、心の奥には一切が拭うことのできない痕を残し、感動を秘めていたので、時いたれば自然と頭を持ちあげて、反響を起すのは当然である。はたせるかな、事実それに相違なかった。

[#4字下げ](B) ゾシマ長老の生涯における聖書の意義[#「(B) ゾシマ長老の生涯における聖書の意義」は太字]

 そのとき余は母と二人きり取り残された。間もなく、親切な知人の誰かれが母に勧めて言うのに、これであなたのところでは、息子さんがたった一人になったわけだが、家が貧しいというわけでなく、小金も持っていることゆえ、よその人の例に倣って、息子さんをペテルブルグへやったらいいではないか。こんなところにうかうかしていたら、息子さんの立身出世を妨げるようなものだ、――こう言って、人々は、余をペテルブルグの陸軍幼年学校へ送り、後に近衛師団へ入れるように、母を説いたのである。母は、たったひとり残った子供をどうして手放すことができようかと、長いあいださまざまに迷っていたが、少からぬ涙を流した後、ついに余のためを思って肚をきめた。母は余を携えてペテルブルグへ赴き、入学の手続きをしてくれた。そのとき以来、余はついに母を見ずに終った。彼女は三年の間、ふたりの子供を思って嘆き悲しんだ末に、とうとうこの世を辞したのである。
 父母の家から余が取り得たものは、ただ貴い記憶ばかりであった。なぜならば、人間の貯えている記憶のうちで、もの心のついた頃に父母の家で獲得した記憶ほど貴いものはないからである。もし家庭内に僅かばかりでも愛情と融合があったなら、これは常にそうなのである。いや、最もみだれた家庭においてすら、その人の心が貴いものを捜しだす力さえ持っているなら、貴重な記憶を残すことができるのである。余は家庭の記憶の中へ、聖書物語に関する追憶をも数え入れようと思う。余は父母の家にいる間に、まだほんの子供ではあったけれども、この物語を知ることに非常な興味を感じた。当時、余は『新旧聖書より取りたる百四つの物語』という標題で、美しい挿絵のたくさん入った一冊の本を持っていた。この本によって余は読書を学んだのである。今でもこの本は、余の居間の棚の上にのっている。貴い記念として保存しているのである。
 しかし、まだ読書ということを学ばないうちに、ようやく生れてから九つにしかならない時分、初めて精神的直覚ともいうべきものが余の心を訪れたことを憶えている。それは神聖週間の月曜日であった。母は余ひとりだけを連れて(そのとき兄がどこにいたか覚えていない)、教会の祈祷式へ赴いた。余はいま追想しているうちにも、目の前にまざまざと見えるような思いがするが、晴れ渡った美しい日で、香炉からは香の煙が立ち昇って、ゆるゆる上のほうへ舞い昇ると、上のほうからは円天井の小さな窓を洩れて、神の光が教会の中なる余らの上に降りそそぐ。香の煙は波のように揺れながら、そこまで昇って行くと、いつともなく日光の中に溶け込むのであった。それをば感激のまなこをもって見ているうちに、余は生れてはじめて、神の言葉の最初の種子を、意識的に自分の魂へ取り入れた。一人の小さな少年が大きな本をかかえて、――その時やっとの思いでさげて歩いているように思われたくらい、大きな本をかかえて、会堂の真ん中へ進み出た。そうして、それを教壇の上にのせて、ページをめくって読み始めた。余はその時はじめて、何とも言えぬあるものを感じた。教会で読むのはどんなものかということを、生れてはじめて悟ったのである。
 ウズの地にヨブという正直で潔白な人が住んでいた。彼は莫大な富を有し、無数の駱駝と羊と驢馬とを飼っていた。子供らも楽しげに戯れ遊び、彼もその子供らを愛でいつくしんで、常に彼らのことを神に祈っていた。ことによったら、彼らも嬉遊のあいだに何か罪を犯したかもしれぬ。ところが、ここに悪魔は神の子らとともに神のみ前へ登って、地上地下を隈なくへめぐった由を言上した。
『わしの下僕《しもべ》のヨブに会ったか?』と神はこう訊いて、偉大にして神聖なる自分の下僕ヨブのことを、悪魔に自慢せられた。神の言葉を聞いて、悪魔はにたりと笑いながら、
『あの男を、わたくしにおまかせ下さいませんか。そうすれば、あなたの神聖なる下僕が不平を訴えて、あなたのみ名を呪うところをごらんに入れますから。』
 そこで神は自分の愛する下僕を悪魔の手に渡した。すると、悪魔は彼の子供らと家畜の群をことごとく亡ぼしつくした上、神の雷《いかずち》のわざのように、莫大の富を須臾の間に蕩尽させたのである。ヨブはわれとわが着物を裂き捨てて、大地にがばと身を投じながら、
『母の胎内から裸のままで飛び出したのだから、裸のままで大地に帰ればいいのだ。神様が授けて下すったものを、神様がお取り上げになったまでだ。どうか、主のみ名が今より永久に祝福されますように!』と叫んだ。
 親愛なる諸師よ、今の余の涙を許したまえ、――何となれば、余の幼時がふたたび眼前に髣髴して、当時八歳の小さな胸で呼吸したと同じ呼吸を、今も余はこの胸に感じ、あの当時と同じ驚異と惑乱の喜悦とを、現にまざまざと感じているからである。実際そのとき駱駝の群と、神に話をしかけた悪魔と、自分の下僕を滅亡に追いやった神と、『ああ、神様、あなたはわたくしに罰をお下しなさいましたが、それでもあなたのみ名が祝福されますように』と叫んだ下僕とが、余の想像を一ぱいに充してしまったのである、――それから『わが祈りは聞かるべし』という静かな甘い唱歌の声が堂内に響き渡って、煙はふたたび僧の持っている香炉から立ち昇った。やがて人々は跪いてお祈りをはじめた。
 その時からというもの、余は涙なしにこの神聖なる物語を読むことができない、――現につい昨日もこの本を手に取ったほどである。まったくこの物語の中には、想像もできないほど偉大で神秘なものが、いかに多く含まれていることであろう! 余はその後、嘲笑者、誹譏者の言葉を聞いたが、それは傲慢な言葉であった。
『主はどういうわけで、自分の聖者中もっとも愛する寵児を悪魔の慰みにゆだねてしまって、彼の手から子供らを奪い取った上、彼自身をもさまざまな業病の餌食となし、壺のかけらをもって自分の傷口から膿を汲み取らねばならぬような、そんな恐ろしい目にあわすことができたのだろう? しかも、それが何のためかというと、ただ悪魔に自慢したいがためにすぎない。「それみろ、わしの聖徒はわしのために、こういう辛苦をも忍ぶことができるではないか!」と言いたいがためにすぎないのだ。』
 しかし、そこに神秘がある、そこでは蜉蝣《かげろう》のごとき地上の姿が、永久の真理と相接触している、――それが偉大なのである。そこでは、創世主が創造の最初の幾日かの間、『わが創りたるものはよし』という讃美をもって、おのおのの日を完成せられたと同じように、神はヨブを見てふたたびおのれの創造を誇られたのである。またヨブが神を讃美した時、彼は単に神一人に仕えたのみならず、神の創造、しかも代々永久の創造にまで奉仕することとなった。それは、初めからそういう使命を授けられていたからである。ああ、実に何という書物であろう、実に何という教訓であろう! この聖書は何という書物であろう、何という奇蹟であろう! そして、この書物によって、何という力が人間に与えられたことであろう! 世界と人間と、そして人間の性質とが、さながら浮彫りにされているようである。一切のものが永久に名ざされている。そうして、いかに多くの秘密が解決され、かつ啓示されていることであろう!
 ほかでもない、神はふたたびヨブを奮起せしめて、ふたたび彼に富を与えたのである。こうして、さらに夥多の歳月が流れて、もう彼は新しい別な子供らの親となり、その子供らを愛することとなった。ところが、人は『ああ、何たることだ! 以前の子供らがいなくなったのに、以前の子供らが永久に奪い去られたのに、どうして彼はこの新しい子供らを愛することができたのか? どんなに新しい子供らが可愛く思われるにもせよ、以前の子供らのことを思いだして、前と同じように十分な幸福を味わい得るだろうか?』ところが、それが可能なのである。大いに可能なのである。昔の悲しみは人生の偉大な神秘によって、次第次第に静かな感激に充ちた悦びと変ってゆく。若い時の湧き立つような血潮の代りに、つつましく晴れ晴れとした老年が訪れるのである。余は日々《にちにち》の日の出を祝福し、余の心は依然として朝暾に向って歌を歌うけれども、しかしどちらかというと、むしろ入日のほうを愛する。斜めにさす夕日の長い光線を愛する。それを眺めているうちに、静かな、つつましい感激に充ちた追憶や、なつかしい人の面影などが、長い祝福すべき生涯の中から甦ってくる、――そうしたすべてのものの上に、人を感激せしめ和解せしめ、かつ一切を許す神の真理がさし昇るのである! 余の生涯はまさに終らんとしている。それは自分でもわかっている。しかし、僅かに残れる日の訪れごとに、余の地上の生活がすでに新しい、限りない、まだ知られない、とはいえ近く訪れるべき生活と、相触れんとしているのが感じられる。その生活を予感すると、余の魂は歓喜に顫え、知性は明らかに輝き、感情は喜悦に咽び泣くのである……
 親しき友なる諸師よ、余は一度ならず次のようなことを聞いた。ことに今、――最近にいたって、なお一そう耳に入ることが多くなった。ほかではない、わが国の僧侶が到るところで(といっても、地方の僧侶においてことに著しい)、収入の少いことと地位の低いことを、涙っぽい調子で訴えるばかりか、さらに進んで新聞雑誌で、――余は自分で読んだことがある、――われわれはあまり収入が少いから、もはや人民に福音書